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田中宏輔

選出作品 (投稿日時順 / 全236作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


もうね、あなたね、現実の方が、あなたから逃げていくっていうのよ。

  田中宏輔



きょう

新しいディスクマンを買おうと思って

河原町に出たのだけれど

買わずに、

四条通りのほうのジュンク堂に寄って

まず自分の詩集がまだ置いてあるかどうか見た。

一階の奥の詩集のコーナーに行くと

いちばん目立つところに置いてあった。

まだ6冊あって

先週見たときと同じ数。



日知庵に行こうと思って

ツエッペリンの「聖なる館」を聴きながら

河原町通りを歩いていると

ふと

肩をさわる手があって

見ると

湊くんだった。

「これから日知庵に行くんだけど

 行く?」

って言ったら

「時間ありますから、行きましょう」

とのことで、ふたりで日知庵に。

そこでは二人とも生ビールに焼鳥のAコースのセット。



食べて

飲んで

「つぎ、大黒に行く?」

って言ったら

「時間ありますから」

とのことで

二人で大黒に。

「きょう、火がついた子どもってタイトルでミクシィに書いたよ」

「ぼくも、きょう、火のラクダって言葉を思いつきました」

「ラクダっていえば、砂漠ってイメージかな。

 で、宮殿ね。

 アラブのさ。

 あのタマネギみたいな頭の屋根の」

カウンター席の音楽の先生が、となりの男性客に

「明日は仕事なんですか?」

「運動会めぐりですよ」

これは日知庵での会話ね。

「やっぱりアラブですよね」

「ラクダって、火のイメージありますか?」

「あるよ。

 比

 ってさ。

 あ

 比べるほうの「比」だよ

 フタコブ突き出てる形してるじゃない?」

「あ
 
 なるほど」

「ね

 もう

 比なのよ」

「俳句に使おうと思ってるんですけど」

「俳句ね」

「3年前に愛媛の俳句の賞で最終選考にまで残ったんですけど

 またこんど出してみようかなって思ってるんですよ」

「愛媛って、俳句の王国じゃん」

「100句出すんですよ」

「ぼくなら無理だな

 で

 どんな俳句なの

 ここに書いてみて」



メモ帳を取り出す

「硬い鉛筆で描く嘴をもつものを」

「ええと

 これって

 イメージの入れ子状態じゃない?

 絵のなかに書いた絵のように

 嘴って

 見た嘴じゃなくて

 鉛筆で描いた嘴だし

 その鉛筆だって、頭のなかの鉛筆だし

 ぼくには

 イメージの入れ子状態だな」

「そうですね

 で

 これって

 を

 が多いというので削るほうがいいって言われるんですけど」

「さいしょの「を」を削れって言うんでしょ?」

「そうです、でも、ぼくは、散文性が出したかったので」

「そだよ。

 もう削る文学は、いいんじゃない?

 削る文学は、古いんじゃない?」

「ぼくも、散文性が出したかったので」

「でも、削った方がいいって言うひとの方が多いだろうけどね」

「ぼくもそう思います。

 でも

 それだから

 よけいに、目立つとも思うんですよ」

「そだよ。

 まず、目立たなきゃね。

 俳句って

 やってるひと多いから」

「三年前の最終選考にまでいったもの

 まだネットに残ってるんですよ。

 消して欲しいんですけど」

「そなんだ」

「賞金30万円なので

 今年も出そうかなって」

「それはいいんじゃない。

 もらえるものはもらったら。

 ぼくみたいに、ぜんぜん賞と縁のないことも

 なんか意義があるんだろうけどさ」

「城戸朱理が審査員のひとりなんですよ」

「なんで?

 あ

 パウンドの詩集

 城戸の訳のものだけは買わなかったわ

 あと、全部、そろえたけど」

「そんなに嫌いですか?」

「嫌い」

で、ここで日知庵はチェック。

大黒に移動。

日知庵から大黒に行く途中

たくさんの居酒屋や食べ物屋の前を通りながら

高瀬川を渡って、木屋町通りを歩きながら

「詩語ってさ。

 パウンドの詩にも

 ジェイムズ・メリルの詩にも感じないんだよね。

 なんで、日本の詩人の詩って、詩語に不注意なんやろか。

 このあいだもらった高橋睦郎の詩集なんて

 もう詩語のかたまりやった。

 ぜんぜんおもしろくないっつーの」

「ぼくにはおもしろかったですけどね」

「そうお?」

「おもしろかったですよ」

「でも、あれは生きてないよ。

 ライブじゃないっつーか。

 アライブじゃないっつーか。

 リアルじゃないっつーか。

 まっ

 少なくとも

 ぼくの人生の瞬間を、さらに生き生きとしたものにはしてくれなかったわ」

「よかったですけどね」

と、湊くんは繰り返し言ってた。

まっ、これは波長の違いかな。

俳句的な感性が、ぼくにはないからかもしれない。

高橋さんも俳句やってたしね〜。

ぼくに手ほどきしようかって

直接、高橋さんから言われたこともあるけど。

断ったけどね。

俳句なんて

ぼくには、ムリって感じなんだもん。

高度な俳句はね。

それに

じっさい、高橋さんに

ぼくが書いた俳句を、いくつか見てもらったんだけど

直してもらったものを見て、なんだかなあ、って思ったから。

たしかに、感心したものも1つあったんだけど

直されたものをいくつか見て

なんだかなあって思ったの。

まっ、はやい話が

古臭いっていう感じがしたのね。

それは、ぼくがいちばん避けてることなの。



話が、それちゃう。

どんどん、それていっちゃいそう。

戻すね。

大黒のある路地の手前に交番があって

その真横にある公衆トイレの前で

「このあいだ、ミクシィでさ。

 廿楽さんが、パウンドの「キャントーズ」のパロディーで

 「キャンディーズ」ってのを思いついたって書いてはってね。

 それ、おもしろそうと、ぼくも思ってね。

 すぐに書き込みしたのね。

 9人のミューズならず3人の歌姫による

 昭和の芸能史と政治・経済に

 廿楽さんの個人史を入れられたら

 きっとすごいおもしろいものになりますねって。

 ぼくなら大長篇詩にしちゃうな。

 キャンディーズの3人が突然、ミューズになって歌ったり

 アイドルの男の子がデウカリオンになったり

 アイドルの女の子がアンドロメダになったりするの」

「それは、もう、あつすけさんの詩ですよ」

「そだよね。

 おもしろそうなんだけど。

 それだけで

 何年もかかりそう」

というところで

大黒のある路地の前にきた。

廃校になった小学校の前にある路地の奥だ。

ふたりは狭い路地を通って大黒に入った。

「前にも、ここにきたよね?」

「いえ、はじめてですけど」

「えっ?

 そなの?

 ほんとに?」

「前に

 荒木くんとか

 関根くんとか

 魚人くんときたときに

 いっしょにきてない?」

「はじめてですよ」

「ええっ」

マスターが湊くんに店の名刺を渡す。

「はじめまして、大黒のみつはると言います」

「ぼく、シンちゃんに言われるんだよね。

 おれの知ってる人間のなかで

 もっとも観察力のない人間だって」

「そんなことないでしょう」

「言われたんだよねえ」

マスターが

「あつすけさんって、見てるとこと見てないとこの差が激しいから。

 好きなものしか見てないんだよねえ」

と言って、ぼくの顔をのぞきこむ。

「ねえねえ、このマスターって、荒木くんに似てない?」

「また言ってる」

とマスター

「似てないでしょう。

 あつすけさんのタイプってことでしょう。

 短髪で

 あごヒゲで

 体格がよくって

 ってことでしょ」

「そかな?」

マスターが

「日知庵は忙しかった?」

「知らない」

と、ぼくが言うと

湊くんが

「まあまあじゃないですか。

 満席になったときもありましたよ

 ずっと満席ってわけじゃなかったですけど」

「えっ、そなの?

 ぜんぜん見てなかった

 まわりなんか、ぜんぜん気にしてなかったしぃ」

マスターが

「ほら、やっぱり見たいとこしか見てないのよねえ」



「ふううん、かもね」

と言うぼく。

「The Wasteless Land.

 のIVって

 いままでで

 いちばん反響があったんだよね」

「ぼくはIIとIIIの方が好きですけど」

「そなの?」

「で

 IIIよりIIの方が好きですけど」

「そなの?

 山田亮太くんも

 メールに、そう書いてくれてた。

 II

 が好きなひとって

 ほとんどいないんだよね」

「ぼくと話が合いそう」

と、湊くん。

「合えばいいなあ」

と、ぼく。

ぼくみたいなマイナー・ポエットに目をとめてくれるひとなんて

ほとんどいないもんね。

これまた、日知庵での会話なんだけどね。

「このあいだ、河野聡子さんてひとから

 12月に出る「トルタ4号」って詩の同人誌の

 原稿依頼があってさ。

 山田亮太くんが参加してるグループのね。

 ひさしぶりに、●詩を書いちゃった。

 鳩が鳩を襲う

 猿が猿を狩るやつ。

 あの関東大震災と

 エイジくんとの雪合戦をからませたやつね。

 前にミクシィに書いてたでしょ?」

「見ましたよ」

「あれを手直しして、●詩にしたの。

 で

 アンケートもあってね。

 「現代詩の詩集で、あなたがいいと思うものを10冊あげてください」って。

 でね。

 ぼくって、詩は、古典的なものしか読んでなかったから

 あわてて、パウンドを揃えて買ったり

 ジョン・アッシュベリーを買ったりして

 それをアンケートの答えに入れておいたの。

 ジェイムズ・メリルといっしょにね。

 いまの現代詩って

 生きてる詩人では、どだろって思って

 このあいだ

 ネットで

 poetry magazine で検索したら

 知らない詩人の名前がいっぱいだったけど

 だれかいい詩人っているの?」

「パウンド以降、現代詩っていえるものは、ないですね。

 出てきてないですね」

「そなの。

 ぼくにはジェイムズ・メリルがすっごいよかったんだけど。

 ほんと、湊くんには、「ミラベルの数の書」をもらってよかった」

「あつすけさん、こんど、メリルの詩集をかしてくださいよ」

ぼくは、聞こえなかったふりをして

焼鳥の串に手をのばして、ひとかたまり食べて

ビールのジョッキグラスに口をつけた。

「ジョン・ダンの全詩集って読んだけど

 いいのは、みんな、岩波文庫に入ってるんだよね」

「そうですか」

「うん、訳者が同じなんだけど

 選択眼がすごいんだろね。

 いいのは、ぜんぶ、文庫に入ってて

 まあ、いいんだけどね。

 ジョン・ダンの詩がぜんぶ読めるっていうのは。

 でも

 エミリ・ディキンソンの詩集は

 あの岩波文庫のものは、ぜんぜんあかんかったわ」

「亀井さんは偉い学者なんですけどね。

 あの訳は直訳で

 よくなかったですね」

「でしょ?

 ぜんぜんよくなかった。

 新倉さんの訳とぜんぜん違ってた。

 「エミリ・ディキンソンの生涯」って本に入ってた引用された詩で

 ちょっと前に、ぼくはディキンソンの詩がいいなって思ったのだけれど 
 
 まあ、それまでにもアンソロジーで読んで

 自分の詩論にも引用してたりしてたんだけどね。

 このあいだ、それ読んで、あらためていいなって思ったの」

「あつすけさん、形而上詩って、どうなんですか?」

「あ

 ジョン・ダンね。

 シェイクスピアとだいたい同じ時代の詩人だったでしょ。

 あのころは、奇想っていうのが、あたりまえだったでしょ。

 それをエリオットが形而上的に思って

 形而上詩って言ったんじゃない?」

このときの湊くんの返事は忘れちゃった〜。

ごめんさい。

「だからみんな、形而上詩じゃない?

 ぼくのものも、そういうところあるでしょ?」

みたいなことを言った記憶があるんだけど

この言葉への返事も忘れちゃった〜。

ほんと、湊くん、ごめんなさい。

すべてのことをクリアに記憶できないなんて

ぼくって、頭、悪いのかも。

しゅん↓

って

嘘だよ。

謙遜だよ。

こんだけおぼえてるだけでも

えらいっしょ?

プフッ。

ってか

まだまだいっぱい

おぼえてること書くからね。

ここまでのところって

ほとんどのものが、日知庵での会話だった。

つぎのは、大黒での会話ね。

あっちこっちして

ごめんなさい。

ぼくって、しょっちゅう

あっちこっちするの、笑。

でね、

若い男の子の客が

「きょう10個の乳首を見たけど

 ひとつもタイプの乳首がなかったわ。

 もうデブも筋肉質もいなくって

 ガッカリだったわ」

現実逃避かしら、と店の男の子の言葉を聞いて

「現実の方が

 あなたから逃げていくってのはどう?」

と湊くんに言う。

ぼくはよく人の会話をひろって

その会話に出てきた言葉を

自分の会話に使う。

湊くんも、よくそういうことありますよって。



6,7行前に戻るね。

「あつすけさんが前にも言ってらした

 言葉を反対にするっていうやつですね」

「そう。

 数学者のヤコービの言葉ね」

マスターが

「なし食べる?」

「大好きなんですよ」

と、湊くん。

「食べようかな」

と、ぼく。

なしが出てくるまで5分くらい。

「なし、好きなんですよ」

「なんで?」

「水分が多いから」

「はっ? なに、それ?」

「水分が多いですからね」

「それって、おかしくない? 果物の好きな理由が水分が多いからって

 果物、みんなそうじゃない?」

「そうですか?」

「おかしいよ。

 甘いっていうのだったら、わかるけど。

 果物なんて、みんなほとんど水じゃん」

「でも

 水分が多いでしょ? たとえば、リンゴより」

「はっ? おかしくない?」

「そこまで言いますか?」

「言うよ、おかしい」

「でも、リンゴとは 歯ざわりも違いますし」

「たしかに、歯ざわりは違うね、リンゴと」

「水分も違うんじゃないですか」

「そかな」

「桃も水分が多いから好きなんですよ」

「はっ?」

と、ここでマスターにむかって、ぼくが

「このひとに、なしが好きな理由たずねてみて」



マスターがたずねると、またしても

「水分が多いから」

「おかしいでしょ?」

「たしかに、水分が多いって

 ねえ。

 果物、ぜんぶでしょ」

「でしょ?」

マスターのフォロー

「食感が違うってことかしら?」

「たぶんね

 でも

 水分が多いからってのは変だよね」

「みずみずしいってことじゃないですか?」

とマスター。

ぼくは、みずみずしいって

この日記を書くまで

「水々しい」だと思ってた。

「瑞々しい」なんだね。

忘れてた。

「みずみずしいと、水分があるというのは違うでしょ?」

「違いますか?」

「違うよ

 水分の多い岩石

 みずみずしい岩石

 違うじゃん?」

「いっしょでしょ」

「違うよ

 みずみずしいアイドル

 水分の多いアイドル

 違うじゃん」

「たしかに」

「でも

 水分の多いって言い方のほうがぴったしなことってあるかもしれないね」

「そうですね

 でも

 なんで、最初に岩石だったんですか?」

「岩には水がない

 エリオットの「荒地」だよ」

「ありましたね」

ここで、「荒地」の話を数十分。



痴呆詩人

詩人の分類

とかとか

どっち、どっち。

谷川俊太郎と吉増剛造だったら、どっちになりたい?

瀬尾育男と北川透だったら、どっちになりたい?

稲川と荒川だったら?

ヤだなあ、どっちでも。

だまってれば、ふつうのひと

だまってなければ、ふつうじゃないってことね。

現実のほうが、あなたから逃げていくっちゅうのよ。

きょう、乳首を10個も見たけど

ひとつもいいのがなかったわ。

10個の乳首が

あなたを吟味したって考えはしないのね。

あなたは。

10個の乳首が

あなたを吟味してたのよ。

後姿しか見てないけど

短髪のかわいい子かもしれない。

かわいくない子かもしれない。

どうでもいいけど。

シルヴィア・プラス

テッド・ヒューズ

エリオット

パウンド

アッシュベリー

ホイットマン

ジョン・ベリマン

ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ

ジョン・ダン

シェイクスピイイイイイア

ヴァレリー

ジョイス

プルースト

とかの話をした。

「野生化してるんですよ

 オーストラリアのラクダって

 馬じゃ、あの大陸横断できなくて

 ラクダを連れてきたんですけど

 いまじゃ、オーストラリアから

 アラブに輸出してます」

「そだ。

 このあいだ

 2ちゃんねるでさ。

 外国の詩の雑誌にも投稿欄があるのかどうか、訊いてたひとがいたけど、

 外国の詩の雑誌も投稿欄って、あるの?」

「ないですよ」

「そなの?」

「ありませんねえ」

「そなんや。

 ぼくもネットで poetry magazine って言葉で検索して

 外国の詩の雑誌のところ見たけど

 直接、編集長に作品を出して

 載せてもらえるものかどうか判断されるって感じだったものね」

「そのとおりですよ。

 なんとか、かんとか(英語の単語だったの、忘れちゃった、掲載不可の返事)を

 作家の(詩人だったかも、これまた忘れた〜)

 だれだれが(これもね、ごめんなさい)

 机のところに

 目の前に並べて貼って、それで奮起して書いてたらしいですよ」

「へえ、ぼくなら、拒絶された手紙みたら

 書きたい気持ちなくなるけどねえ。

 奮起するひともいるんや」

そういえば、無名時代の作家や詩人の作品が

雑誌の編集長にひどい返事をもらったことを書いた本があったなあ。

ガートルード・スタインも、自分の文章をパロってた返事を書かれてて

返事のほうも、スタインの本文とおなじくらいおもしろかったなあ。

ただひとつの人生で

ただひとつの時間しかありません。

ですから云々

だったかなあ。

「ただひとつの」の連発だったかな。

そんな感じやったと思う。

「あつすけさんも送れますよ」

「えっ?」

「日本からでも送れるんですよ」

そういえば、西脇順三郎も、さいしょの詩が掲載されたのって

イギリスの詩の雑誌だったかなあ。

「朝にランニングしてるんですけど

 台風の翌朝

 鴨川の河川敷を走ってると

 ぬめって危険なので

 歩いていたら

 たくさんのザリガニが

 泥水から這い上がって

 それを自転車が轢いていくものだから

 前足のハサミのないものがつぶれたり

 うごめいていたり 

 それがびっしり河川敷に

 両方のハサミのないものもいて

 それは威嚇することなく

 泥の中に戻りましたね」

「ザリガニの死骸がびっしりの河川敷ね

 でも

 ザリガニって鴨川にもいるんや

 ふつうは池だよね」

「いると思わないでしょ?」

「そだね

 むかし

 恋人と雨の日に琵琶湖をドライブしてたら 

 ブチブチっていう音がして

 これ、なにって訊いたら

 カエルをタイヤが轢いてる音

 っていうから

 頭から血がすーっと抜けてく感じがした。

 わかる?

 頭から

 血が抜けてくんだよ

 すーって下にね」

湊くんと木屋町で別れて

阪急電車で11時40分発に乗って帰ってきちゃった。

もっと飲みたかったなあ。

ぼくのむかし書いた大長篇の●詩のタイトル

あの猿のおもちゃのパシャンパシャンの●詩ね。

北朝鮮民主主義人民共和国のレディたちの

黄色いスカートがパシャンパシャンの風で、つぎつぎまくれあがってくやつよ。

そのタイトルを「ジャンピング・ジャック・クラッシュ」にしようかなって言うと

湊くん

「それって

 飛び出すチンポコって意味ですよ」

とのこと

「なるほど

 ストーンズって

 エロイんやね。

 そのタイトルにするよ。

 かっわいい」

飛び出すチンポコ

あとで鳩バス。

コントロバス。

ここんとこ

パス、ね。

「まえにミクシィに書いてらっしゃいましたね」

「書いてたよ。

 これって、近鉄電車に乗ってたときに女子大生がしゃべってるの聞いて

 メモしたんだよね。

 ぜったい聞き間違いだろうけどさ。

 聞き間違いって、すっごくよくするんだよね。

 授業中でも、しょっちゅう」

「聞き間違いだけで詩を書いてもいいかもしれないですね」

「そうお?」

「おもしろそうじゃないですか」

「そかな」

「でも、ほんと

 喫茶店とか

 街ですれ違うひとの言葉とか

 なんだったって書くんだ。

 書いてからコラージュするの」

「ほとんどは捨ててらっしゃるんですよね」

「捨てるよ

 でも

 ブログに写してるから

 正確に言えば捨ててないかなあ。

 あとで使えるかもしれないじゃん。

 で

 じっさい使ってるしね」

「エリオットも

 会話を詩にいれたりしてますものね」

「そだよね。

 コラージュだよね。

 詩って」

で、エリオットの全集がいまヤフオクで20000円だとか

このあいだ、ヴァレリー全集がカイエ全集付で

全24巻で98000円で

買おうかどうか迷ったよ

でも、全集

どっちとも全部、図書館で読んでメモしたし

すでに、作品に引用してるし

買わなかったけど

とかとか

パウンドが手を入れたエリオットの「荒地」の

原稿の原著の写しを二人とも読んでいて



原稿の写しね

ファクシミリ・オブ・マーナスクリプト・オブ・ザ・ウエスト・ランド

だったかな。

ぼくも勉強してた時期があったのだ〜。

英語できないけどね。

楽しかったけどね。

じっさいに赤いインクの

朱が入ったものね

エリオットが be動詞 間違えてたとか

これって

ぼくたちが「てにをは」をまちがえるようなものでしょうとか

とかとか話して

飲みすぎぃ。

でも

頭はシャッキリ。

きのう、仕事で

すんごい理不尽なことがあって

これ

いまは書けないけど

湊くんに言って

ゲラゲラ笑っちゃった。

ゲラゲラ笑っちゃえ。

えっ?

「ジュンク堂でさ

 ことしの9月に出た

 ぼくの大好きなトマス・M・ディッシュっの

 「歌の翼に」を買おうと思ったんだけど

 これ、サンリオSF文庫のほうで読んでたし

 国書刊行会から出てた新しい訳のほう見たけど

 字がページの割と端っこまで印刷してあって

 レイアウトがあんまり美しくなかったから

 買わなかったんだけど

 まあ、この国書のSFシリーズ、ぜんぶ買ってるから

 気が変わったら買うかもしれないけど

 ちょっと最近、SFには辟易としていてね。

 買わなかった。

 あ

 このディッシュって

 去年自殺したけど

 どうやって自殺したのか憶えてないんだけど

 ディッシュも詩集を出してたんだよね。

 日本じゃ、ただのSF作家で

 詩集は翻訳されてないんだけど

 そういえば

 詩人って

 たくさん自殺してるよね。

 あの「橋」を書いたのは、だれだっけ?」

「ハート・クレインでしたか」

「そうそう。

 船から海に飛び込んだんだっけ?」

「でしたか」

「ジョン・ベリマンも入水自殺だよね」

「自殺しましたね」

「ジョン・ベリマンってさ。

 なんで入水自殺したの知ってるのかって言えば

 ディッシュの「ビジネスマン」ってタイトルの小説に

 顔から血を流してさ、片方の目の玉を飛び出させたまま

 ゴーストの姿で出てくるの。

 ダンテの「神曲」における、ウェルギリウスの役目をしてさ。

 主人公をサポートして天国に導こうとする者としてね。

 あ

 ツェランも入水だよね。

 シルヴィア・プラスはガス・オーブンに頭、突っこんで死んだけど」

「すごい死に方ですね」

「まあ、火をつけて死んだんじゃなくて

 一酸化炭素中毒だったんだろうけど

 それでも、すごいよね。

 もちろん、火をつけて死んでたら、もっとすごいけどね。

 いま、都市ガスは一酸化炭素入ってないから死ねないけど

 そういえば

 練炭自殺って何年か前、日本で流行ったね。

 ネットでいっしょに死ぬヤツ募ってさ。

 シルヴィア・プラスの夫の詩集、ジュンク堂にたくさん置いてあったよ」

「そうでしたか?」

「テッド・ヒューズの詩集

 何冊あったかな。

 4,5冊、あったんじゃない?

 奥さんがすごい死に方して

 どういう気持ちだったんだろ」

「伝記書いてましたね」

「黒人でしょ?」

「いえ、白人ですよ」

「えっ?

 黒人じゃなかった?」

「それ、ラングストン・ヒューズですよ」

「あ、そだ、そだ。

 恥ずかしい。

 ラングストン・ヒューズの詩集だ。

 たくさんおいてあったよ。

 でも、なんで黒人の詩人の詩集がたくさん置いてあったんやろか?」

「さあ」

「ヘミングウェイって詩人じゃないけど

 拳銃自殺でしょ。

 三島は切腹だし。

 いろんな自殺の仕方ってあるからね。

 アフリカや南米って

 自殺じゃないけど、たくさん詩人や作家が

 焼き殺されたり、首吊られたり、拷問されて死んでるし

 ソビエト時代のロシアでも獄死とか処刑って多かったし

 文化革命のときの中国もすごかったでしょ。

 いまの日本の詩人や作家って

 そういう危険な状態じゃないから

 ぼくもそうだけど

 生ぬるいよね。

 でも、個人の地獄があるからね」

「そうですね」

「みんな、自分の好みの地獄に住んでるしね。

 まあ、生ぬるいっちゅえば、生ぬるいし。

 最貧国の人から見れば

 どこが地獄じゃ〜

 って感じなんだろうけどね。

 そうそう、エリオットの「荒地」に

 タロットカードが出てくるでしょ。

 あれに溺死人って出てこない?」

「出てきましたか?」

「首吊り人もあったよね。

 あったと思うんだけどさ。

 あ

 溺死人のこと。

 ぼく、書いたことあるような記憶があってね。

 溺死人はあったよね。

 なかったかなあ」

「あったかもしれませんね」

「ジェイムズ・メリルは

 ウィジャ盤ね」

「あの詩の構造ってすごいですよね。

 ウィジャ盤を出せば

 なんでもありじゃないですか?

 なんでも出せる」

「そうそう。

 イーフレイムも

 最後の巻で

 ガブリエルだってわかるしね。

 すごい仕掛けだよね。

 ぼくもそんな仕掛けの詩集がつくりたいなあ。

 もう

 なんでもありなの」

「すでにやってるじゃないですか?」

「そだね。

 バロウズや

 ジェイムズ・メリルのおかげで

 もう

 なんだっていいんだ。

 なに書いたって詩になるんだって思わせられた。

 自由

 ってこと、教えられたよね。

 ●詩や

 こんどの新しい詩集も

 あんだけ好き勝手なことしてるけど

 もっと、もっと、自由に、好き勝手に書いてくつもり」

「「舞姫」は、どうなんですか?」

「あれ、だめ。

 設定が窮屈でさ。

 自由じゃないんだよね。

 だから、つぎの詩集は、新しい●詩の詩集かな。

 The Wasteless Land.III

 の

 ii

 ってことになると思うの。

 表紙の色は、やっぱり黄色かな?」

「ぼくには、わかりませんけど」

「まあね。

 書肆山田のほうで決めるのかなあ。

 ぼくかなあ。

 わからん。

 いまは、わからんけどね。

 でも

 V

 じゃないね」

「Vの詩集は

 ずっと出ないで

 断片だけが

 そこらじゅうに散らばって出てるっていうのもいいじゃないですか?」

「ほんとだね。

 すでに、半分以上は

 じっさい

 いろんなところに書いてるしね。

 あ

 偶然って、すごいよね。

 その舞姫の断片の一つに

 The Gates of Delirium。

 ってシリーズがあるんだけど

 そこで

 主人公の詩人の双子の兄が出てくるんだけど

 そのお兄さん

 顔

 緑色に塗って出てくるのね。

 エリオットって

 顔に緑色の化粧をしてたんだって」

「ほんとですか」

「そだよ。

 本で読んだ記憶があるもん。

 でね、

 それ

 エリオットが顔を緑色に塗ってたってことを本で読む前に

 書いてたの。

 自分の作品にね。

 主人公の双子の兄が

 贋詩人って名前で出てくるのだけれど

 顔を緑色に塗って出てくるの。

 しかも

 その緑色の顔は崩れかけていて

 ハリガネ虫のようなものが

 いっぱい這い出してくるの。

 その緑色の崩れた皮膚の下から

 その緑色の崩れた皮膚を食い破りながらね。

 エリオットって

 病気しているみたいに見られたいって思って

 顔を緑色に塗ってたんだって」

「どこまで緑だったんでしょう」

「マスクマンみたいなんじゃないことはたしかね」

「ジム・キャリーのですね」

「そうそう。あのマスクだと警察官に尋問されるんじゃない?」

「顔グロの男の子や女の子は尋問されなかったのかな?」

「されなかったでしょう」

「されたら、人権問題なのかな」

「かもしれませんね」

「ねえ。

 あ

 じゃあ、さあ

 全国指名手配の犯人が顔グロにしてたら

 警察官に捕まんないんじゃない?」

「それはないでしょう。

 目立ちますよ」

「そうかな」

「そうですよ」

「顔、わかんないはずなんだけど」

「いやあ。

 目立つでしょう」

「じゃあさ、手に

 なんか、ひらひらしたもの持って

 それ揺らしながら歩くってのは、どう?」

「目立つでしょう」

「なんで?

 手に目がいって

 顔、見ないんじゃない?」

「どんなヤツかなって思って

 顔、見るでしょう」

「そかな。

 そだね。

 顔、見るかなあ。

 うん。

 見るね」

ユリシーズがスカトロ文学であるとか

主人公が

スティーヴン・ディーダラス

じゃなくて

ブルーム何とかだったかな

湊くんは正確に言ってたんだけど

いまこれ書いてるぼくの記憶は不確かだけど

新聞の記事を読みながら

その下の缶詰肉の広告に目をうつして

うんこしてた話とか

お尻をたたいてもらうために女のところに寄る話だとか

ジェイムズ・メリルがめっちゃお金持ちで

お金の心配なんかなくて

男の恋人とギリシアに旅行に行ってたりとか

でも

上流階級のひとは上流階級のひとなりの悩みや苦労があるはずだねとかとか

そんな話や

パウンドの「ピサ詩篇」の話で

すごくお酒がおいしかった。

12月までに言語実験工房の会合を開くことにして

木屋町の阪急電鉄の駅に入るところで

バイバイした。

またね。

って言って。

「彼女がディズニーランドに行ってるんですよ」

「千葉の?」

「あつすけさんって、遊園地とか行きますか?」

「行ったことあるけど

 デートもしたし

 でも

 詩には

 書いたことないなあ」

もう

毎日が

ジェットコースター。

って、いっつも口にするのだけど。

「そうですね。

 よく口にされてますよね」

「もうね。

 ほんと

 毎日が

 アトラクションなんだよね」

自転車で轢き潰されたザリガニたち

ハサミのない両前足をあげて祈る

祈る形。

雨の日のヒキガエル。

ブチブチと

車に轢き潰される音。

ビールがおいしかった。

目を見開く音楽の先生。

マスターのみつはるくんの盛り上がった胸と肩と腕の肉。

帰るときに店の外まで見送ってくれたけど

ぼくは見送られるのが嫌いなんだよね。

短髪だらけのゲイ・スナック。

河原町ですれ違ったエイジくんに似た青年の顔が思い出された。

かわいかった。

最後に会った日の翌朝のコーヒーとトースト。

味はおぼえていない。

ふへふへ〜。

「そういえば

 いま、源氏物語をお風呂につかりながら読んでるじゃない?」

「そうですよね。

 つづいてますよね」

「そ。

 いま、しょの28かな。

 絵合(えあわせ)ってところね。

 源氏自身が自分の悲惨な状況にあった須磨での暮らしぶりを

 絵にしたんだけど

 それがみんなにいちばんいい絵だといわれるっちゅう場面ね。

 その

 須磨の源氏

 の状況

 もちろん

 「ピサ詩篇」のころのパウンドのほうが

 ずっと悲惨だったのだけれど

 偶然だよね。

 「ピサ詩篇」読んでたら

 違うわ。

 源氏物語を読んでたら

 「ピサ詩篇」を読んでて

 須磨の源氏

 って言葉が出てくるのって」

「偶然ですね」

「偶然こそ神って

 だれかが書いてたけどね」

「それもミクシィに書いてましたよね」

「書いたよ」

「いま

 お風呂場では

 絵合のつぎの「松風」

 読んでるんだけど

 源氏がさ。

 明石の君を京都に呼ぼうとして

 家、建てさせてるのね。

 これまで付き合った女たちを

 みんな、自分のそばに置いておきたいと思って」

「最低のヤツですね」

湊くんが笑った。

「そだよね。

 ま、

 置きたい気持ち、

 わからないまでもないけどね。

 でも

 ふつうは

 そんな余裕ないからね」

イスラム圏の国じゃ、

たくさん嫁さんを持てるんだろうけどね。

いや

日本でも

お金があったり

特別な魅力があったり

口がじょうずだったりしたら

たくさん恋人が持てるか。

いや

恋人じゃなくて

愛人かな。

わからん。

とかとか話してた。

しかし

ちかごろじゃ

セクフレちゅうものもあるみたいだし。

前に

ゲイのサイトで

「SF求む」

って書いてあって

へえ、ゲイ同士でSF小説でも読むのかしら?

と、マジに思ったことがあるけど

シンちゃんに、このこと言うと

「それ、セクフレ求むって読むんだよ」

って言われ

「なに、セクフレって?」

って訊くと

「「セックス・フレンド」って言って

 恋人のように情を交わすんじゃなくて

 ただ

 セックスだけが目的の付き合いをする相手を募集してるってことだよ」

と言われました。

はあ、そうですか。

恋人のほうがいいと思うんだけど。

ぼくには、セックスだけって

ちょっとなあ

さびしいなあ

って思った。

そんなんより

ひどい恋人がいるほうが

ずっとおもしろいし

楽しいし

ドキドキするのになあ

って思った。

そういえば

パウンドも

奥さんいるのに

愛人ともいっしょにいて

最期についてたのは

愛人のほうだったっけ。

まあ

奥さんは

パウンドがアメリカで倒れたときには

ヨーロッパにいて

しかも病気で動けなかったから

仕方なかったんやろうけど。

ああ

ぼくの最期は

どうなんやろ。

いまもひとりやけど

そんときもひとりやろか。

わからんけど。

湊くんの顔を見る。

湊くんは、いいなあ。

恋人がいて

仲良くやってるみたいだし。

じっさい、仲いいし。

とかとか思った。

笑ってる。

焼鳥がおいしい。

ビールがおいしい。

話も盛り上がってる。

「手羽のほう

 ぼくのね。

 レバー

 ぼく、食べられないから」

「そうでしたね」

あらたに、テーブルに置かれた6本の串。

間違うことはないだろうけど

間違われることはないだろうけれど。

意地汚いぼくは

さっさと手羽を自分の取り皿の上に置いて確保した。

さっさと

そう、

まるで

新しい恋人を

だれにも取られないように

自分の胸に抱き寄せる若い男のように。

だれも横取りしようなんてこと

思ってもいいひんっちゅうのに。

ってか、

下手な比喩、使ったね。

ごめりんこ。

っていうか

オジンだけどね。

わっしゃあなあ、

あなたの顔をさわらせてほしいわ。

破顔。

戦争を純粋に楽しむための再教育プログラム。

ぼくは

金魚に生まれ変わった扇風機になる。

狒狒、

非存在たることに気づく。

わっしゃあなあ、

湊くんとしゃべっていて

一度だけ

目を見てしゃべれないときがあったのね。

ジェイムズ・メリルの「サンドーヴァーの光・三部作+コーダ」を

原著で持ってるらしくて

そんなに分厚くないけどって話で

書肆山田の翻訳ってすごい分量じゃない?

それは、ぼくも持ってるんだけど

やっぱり、原著もほしいなあと思った。

いつか買おうっと。

で、書肆山田から出てる翻訳のもの

貸してもらえませんかって言われたの。

全4冊の分厚い本になるのだけれど

ぼく、本はあげられても、貸すことはできなくて

気持ち的にね。

むかしからなのだけれど

でね、

聞こえてないふりしたの。

それで

返事しないで

焼鳥に手をのばして

聞こえていないよって感じで

ビールを飲んで

違う話をしたのね。

ジョン・ダンの詩集について。

悪いことしたなあ。

ぼくってケチだなあ。

貧乏臭い。

ゲンナリ。

自己嫌悪になっちゃった。



話を戻すと

パウンドのキャントーズも全部入ってるやつ

「全部で117篇だったっけ?」

それもそんなに分厚くないし

ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの「パターソン」も5巻だけど

そんなに分厚くないしって。



パターソンって未完だったんだ。

湊くんから教えてもらって

思い出した。

そだ、そだ、そんなこと書いてあったような気がする。

気がした。

そんで

原著なら、そんなに分厚くないって教えてもらって

あの訳本、すんごい分厚いんだもん

これまで原著を買おうとは思わなかったけど

ほしくなっちゃった。

パウンドの「キャントーズ」も

そんなに分厚くないって

手振りで、だいたいの厚さを教えてもらって

ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの「パターソン」も

パウンドの「キャントーズ」も

原著ほしいなあ

って思った。

いつか買おうっと。

ほんとにね。

「縦書きと横書きでの違いもありますよ。

 横書きだと、かなり詰め込めるんですよ」

原著がなぜ

翻訳より分厚くないか

その理由ね。

それにしても

ケチ臭いぼくやわ〜

つくづく。

づつくく。

「秦なんとかって歌手

 下の名前を忘れちゃったけどさ

 いま流行ってるのかな。

 知らない?」

「知りませんねえ。

 わかりません」

「えいちゃん!

 秦なんとかっていう名前の歌手知らない?

 若い子で

 いま流行ってるみたいなの」

えいちゃんがカウンターの向こうから

「知ってますよ。

 秦(なんとか、かんとか、忘れちゃった)でしょ?」

「そ。

 それ。

 でもね。

 試聴サンプルで置いてあったから聴いたけど

 ダメだった。

 アレンジが完璧にしてあるの。

 芸術の持ってるエッジがないのね。

 芸術ってさ。

 欠けてるとこがあるんだよね。

 バランスというかさ。

 不均衡なところがあるんだよね。

 過剰な欠如もあるし

 でも

 欠如してるの。

 それがエッジなの。

 バランスね。

 アレンジが歌謡曲だった。

 完璧にしてあるの。

 歌謡曲のアレンジが。

 一般の人の耳には

 いいのかもしんないけど。

 ぼくには

 芸術じゃないものの持つ二流品の臭いがしたの。

 芸術じゃないわ。

 バランスの欠如がないのね。

 欠如がないって

 変な言い方かもしんないけど

 通じるよね。

 芸術のエッジは

 バランスの欠如がもたらしてるの。

 あ

 これ

 ジェイムズ・メリルの

 抒情性の配分のバランスとは違った話してるからね。

 バランスっていっても

 芸術としてのバランスの欠如とは違うからね。

 過剰性も欠如だしね。

 不均衡だけじゃなくてね」

「最近、論語を読んでるんですよ」

と湊くん。

「論語って、孔子だった?」

「そうですよ

 あの

 いずくんぞ

 なになに

 というところが繰り返し出てきて

 詩みたいなんですよ」

「リフレンはね。

 なんだって詩になっちゃうからね。

 あの「ピサ詩篇」の

 固有名詞

 わかんないけど

 音がきれい。

 何度も出てくる名前があるじゃない?

 それもリフレインだし

 あの「雨も「道」の一部」とかさ

 「風もまた「道」の一部/月は姉妹」とかさ

 最高だよね。

 こういった抒情のリフレインのパートも、めっちゃ抒情的だしね。

 でも

 同じ感情はつづかないのね。

 だから

 意味のないパートというか

 無機質な感じの固有名詞のパートとか

 政治や経済のパートと

 抒情のパートの配分が大事でね。

 ずっと抒情的だったら

 飽きるでしょ。

 ずっと無機的でもイヤんなるだろうけど

 でも、ジェイムズ・メリルは、すごいよね。

 そのバランスがバツグンなんだよね。

 楽々とやっちゃうじゃない?

 余裕があるのね。

 ある意味、パウンドには余裕がなかったじゃない?

 まあ、ほんとは、あるんだろうけれど。

 詩をつくるという時点でね。

 無意識にでもね。

 悲しみを書くことで

 悲しみから離れるからね。

 喜びになっちゃうからね。

 でも、あの歴史的な悲劇

 第二次世界大戦というあの悲劇と

 パウンド自体が招いた悲劇のせいで

 余裕がないように見えるよね。

 メリルは、その点

 歴史的な悲劇を被っていないということだけでもラッキーだし

 しかも
 
 お金持ちだったでしょ」

「そうですね。

 お金持ちですよね。

 恋人とギリシアにいて(なんとか、かんとか、ここ忘れちゃった)」 

「アッシュベリーって

 難解だって言われてるけど

 ぜんぜん難解じゃないよね」

「そうですよ。

 ぜんぜん難解じゃないですよ」

「抒情的だよね」

「そう思いますよ」

「大岡さんが学者と訳してるものは

 わかりにくかったけど。

 書肆山田から出てる「波ひとつ」は

 ぜんぜん難しくないし

 すごく抒情的で、よかったなあ」

「大岡さんと組まれた翻訳者の訳

 あれ

 間違って訳してますからね」

「そなの?」

「そうですよ。

 間違って訳してますからね。

 それは、難解になるでしょう。

 もとは、ぜんぜん難解じゃないものですよ。

 ぼくも

 アッシュベリーは抒情的だと思いますよ」

「そだよねえ。

 そうだよねえ。

 抒情的だよねえ」

「抒情的ですよね」

「きょうさ

 ブックオフも行ったんだけど

 そこでね。

 山羊座の運命

 誕生日別、山羊座の運命の本

 ってのがあってさ。

 あなたの晩年には

 あらゆる病気が待っているでしょう。

 って書いてあってね。

 びっくらこいちゃった。

 あらゆる病気よ

 あらゆる病気

 神経科

 通ってるけどね

 実母もキチガイだし

 そっち系は、すでにかかってるからね。

 そだ。

 神経痛

 関節炎

 そんなものにとくに気をつけるように書いてあった。

 まあ

 もう

 こうなったら

 あらゆる病気よ

 来い!

 って感じだけどね」

「そんなん書いてるの?」

と、大黒のマスター。

「そだよ。

 もう

 どんどん来なさいっつーの

 ひゃははははは」

「でも

 齢をとれば、だれでも、病気になるんじゃないですか?」

「ほんとや」

「こちら、はじめてですよね」

マスターが湊くんに向かって

でも、ぼくが口を挟んで

「ぼくは、さっき

 違うと思ったけど

 はじめてみたい。

 で

 このひと

 詩人

 翻訳家

 大学の先生

 で

 俳句も書いてるのね」

「翻訳って

 通訳もなさるのかしら?」

「通訳は(なんとか、かんとか、また、ここ忘れちゃった

 あ

 でも、さっきの「ここ」とは違うからね、笑)」

「同時通訳って難しいんでしょ?」

とマスター。

「そうですね。

 5年が限度でしょうかね」

ぼくはピンときた。

きたけど

「なんで?」

って、言葉が先に出た。

あらま

なんてこと

きっと、サービス精神旺盛な山羊座のせいね。

「日本語と語順が違うので

 ある程度

 先読みして

 通訳するので

 しんどいんですよ。

 相手が言い切ってないうちからはじめるので

 ものすごい負担がかかるんですよ」

「そだろうね」

マスターも、このあいだテレビでやってました、とのこと。

それで訊いたみたい。

「日本語同士で通訳してるひといるじゃない。

 横でしゃべってるひとの言葉をちょっと変えてしゃべるひと

 いない?」

「いますね」

「いるよね〜」

さあ、カードを取れ。

どのカードを取っても

おまえは死だ。

溺死人

焼死体

轢死

飛び降り

ばらばら死体

首吊り人

好きな死体を選べ。

子曰く

「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」

さあ、カードを取るがいい。

好きな死体を選べ。

あの子

オケ専ね。

死にかけのジジイがいいんだよね。

「棺おけのオケ?」

天空のごぼう抜き

空は点だった

「なに、クンクンしてんの?」

哲っちゃんが

ぼくの首にキスしたあと

首筋にクンクンしてるから訊いた。

「あつすけさんの匂いがする」

哲っちゃん

ツアー・コンダクターの仕事

どうしてもなりたくて

って

高校出たあと

ホテルの受付のバイトをしながら

自分で専門学校のお金を工面してた

哲っちゃん

「はじめての経験って

 いつ?」

「二十歳んとき

 高校のときのクラブの先輩にせまられて」

クラブはゲイにいちばん多いバレーボールじゃなくて

そのつぎに多いクラブやった。

水泳じゃないし、笑。

ラグビーね。

アメフトも多いらしいけれど。

ぼくが付き合ったのは

ラガーが多かった。

アメフトは一人だけ。

いま、どうしてるんだろうなあ。

超デブで、サディストだったけど、笑。



魚人くんも

アメフトだった。

恋人として付き合ってはいないけど、笑。

好きよ。

好きな死体を選べ。

「歯茎フェラね」

なんちゅう言葉?

笑った。

オケ専ね。

棺おけに片足突っこんでるジジイがいいのね。

あんがい、カッコかわいい子が多いんだよね。

オケ専って。

「死にかけのジジイ犯して

 心臓麻痺で殺そうってことかな?」

「どやろ」

とコーちゃん。

そか。

その手もあったか。

ぼくの肩に触れる手があった。

湊くんだった。

「これから日知庵に行くんだけど

 いっしょに行く?」

「いいですよ。

 時間ありますから」

さあ、カードをお取り。

好きな死体を選べ。

子曰く

「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」

「こちらはじめてですよね」

硬い鉛筆で描く嘴をもつものを

「果物のなかでは

 なしがいちばん好きなんですよ」

「なんで?」

「果物のなかで

 なしが、いちばん水分が多いですから」

「はっ?」

火のついた子どもが

石畳の上に腰かけている

コンクリートの階段に足を下ろしながら

夕暮れの薄紫色のなかで

「地方詩人じゃなくて

 頭がパーになったほうの

 痴呆ね

 どう?

 痴呆詩人」

「音がいいですね」

「いいね。

 名前をあげていこうかな

 ひゃはははは」

さあ、カードを取るがいい。

おまえが選ぶカードは

すべて死だ。

好きな死体を選べ。

溺死人

焼死体

轢死

飛び降り

ばらばら死体

首吊り人

好きな死体を選べ。

「「舞姫」の設定ってさ。

 ぜんぜん違うものにしようと思うのね。

 パラレルワールドっていうのは同じなんだけど

 リゲル星人じゃなくて

 違う進化をした並行宇宙の地球で生まれた

 巨大なイソギンチャクでね」

「それじゃ、「舞姫」の設定じゃないですよね」

「そうそう、できないよね。

 「舞姫」の設定って

 すんごい窮屈なの。

 まず、SFって、ことで窮屈だし。

 設定が、ぼくにはチューむずかしいし。

 いやんなってるのね。

 放棄だな。

 いや

 放置かな。

 もう

 放置プレーしかないかも

 なんてね」

「首吊り人は

 首をくくられたほう?

 それとも、くくるほう?」

さあ、カードを取るがいい。

おまえの選ぶカードは

すべて死だ。

好きな死体を選べ。

「それって

 まんま

 はみ子じゃんか」

「あつすけさん

 はみ子じゃないですよ。

 リリックジャングルの、なんとか、かんとか〜」

「そなの?

 そだったの?

 そだったのね〜」

台風のつぎの日の朝

鴨川の河川敷には

自転車に轢き殺されたザリガニたちの死骸が

ブチブチと踏みつぶされていく琵琶湖のヒキガエルたち。

10個も乳首、見たけど

ひとつもええ乳首はなかったわ。

ちゃう、ちゃう。

ちゃうで。

きみのほうが

10個の乳首に吟味されてるんやで。

マスターがきいた

「哲っちゃんって

 ラグビーやってたの?」

「そだよ。

 高校のときだけどね。

 めっちゃカッコよかったけどね」

「写真はあるの?」

「あるよ」

「こんど見せて」

「いいよ。

 いっしょに詩の朗読会に行ったとき

 ちょっと、ぼくが哲っちゃんから離れて飲み物を頼んでたら

 知ってる詩人の女の子が

 いっしょにきたひと

 あつすけさんの恋人ですかってきくものだから

 そだよっていったら

 カッコいい

 って言ってたよ。

 まっ、

 カッコよかったけどね」

「ふううん」

「でもね。

 会うたびに

 カッコよさってなくなっていっちゃうんだよね。
 
 遠距離恋愛でさ。

 ぼくが和歌山のごぼうに行ったり

 哲っちゃんが京都の北山に来てくれたりしてたのね。

 でも、はじめて、ごぼうの彼の部屋に行ったとき

 びっくりしちゃった。

 名探偵コナン

 のDVDが部屋にそろえておいてあったの。

 しかも

 DVD

 それだけだったんだよね〜。

 なんだかね〜。

 で

 付き合ってるうちに

 カッコいい顔が

 だんだんバカっぽく見え出してね。

 いやになっちゃった」

さあ、カードを取るがいい。

どのカードを取っても

おまえは死だ。

溺死人

焼死体

轢死

飛び降り

ばらばら死体

首吊り人

好きな死体を選べ。

「哲っちゃんとは、どれぐらい付き合ってたの?」

「えいちゃんの前だよ。

 一年くらいじゃない」

「へえ」

「ハンバーグつくってくれたりしたけど。

 料理はめっちゃじょうずやったよ。

 でね。

 ハンバーグをおいしくするコツってなに? ってきいたら

 とにかくこねること、だって」

火のラクダ。

それ、俳句に使うのね。

感情の乱獲。

スワッピング

って

いまでも、はやってるのかしら?



スワッピングって言葉のことだけど、笑。



使ってるかどうかなんだけど。

「水分が多いでしょ。

 だから好きなんですよ」

「はっ?」

「なんで?」

「なんで

 なんでなの?」

子曰く

「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」

さあ、カードを取るがいい。

おまえが選ぶカードは

すべて死だ。

好きな死体を選べ。

* メールアドレスは非公開


点の、ゴボゴボ。

  田中宏輔



あたしんちの横断歩道では

いつも

ナオミが

間違った文法で

ごろごろ寝っころがっています。

まわりでは

あたしたちのことを

レズだとか

イモだとか

好き言ってます。

はっきりいって

まわりはクズです。

クズなので

どんなこと言われたって平気だけど

ナオミは傷つきやすいみたいで

しょっちゅう

病んでます。

あたしたちふたりだけが世界だと

世界はあたしたちでいっぱいなのだけれど

世界は

あたしたちでできているんじゃなかった

あたしは

自分が正しいと思ってるけれど

あたしの横で

いつか

車に轢かれるのを夢見ながら

幸せそうな顔で

寝っころがってるナオミのことを

すこし憎んだりもしています。

ジャガイモを選ばなければならなかったのに

トマト2個100円を選んでしまったのだった。

勘違いのアヒルだったってわけ?

静止画とまらない。

もはや、マッハの速さでも

よくわからない春巻きはあたたかい。

あたしんちの横断歩道で

いつか

あたしも

間違った文法で

ごろごろ寝っころがったりするんだろうか?



よい詩は、よい目をこしらえる。

よい詩は、よい耳をこしらえる。

よい詩は、よい口をこしらえる。



具体的なもので量るしかないだろう。

空間が

ギャッと叫んで

ねじれて

ちぢんで

ふくらんだ。

時間が

耳を澄まして

見ている。

出来事は

微動だにしない。

先週の日曜日

西大路御池のところにあるラーメン屋で

指から血が出た。

新聞紙を

ホッチキスというのかな

あの



の形の

鉄の

鉄かな

鉄の

ねじれた

ちぢんだ

ふくらんだ

もので

とめてあったのだけれど

はずれてて

はずれかけてて

だれかが



の形に

してて

指に鉄の針先が

皮膚から侵入して

血が

ドボドボと

ではないけど

チュン

って

ねじれて

ちぢんで

ふくらんだ

めっちゃ

痛かった。

ラーメン屋のオヤジが臭かったけれど

客が企画した計画の一部だった可能性もあるので

ラーメンを食べながら

指が痛かったのだ。

ふるえるラーメンを

ふるえる割り箸で

ふるえる歯で

噛み千切りながら

舞台の上にのぼった詩人のように

恥ずかしいのだった。

スキンを買っておかないといけないなって思って

いたのだけれど

ふるえる眉毛が

ふるえるラーメンの汁のうえで

何だって言った?

涙っていた。

タカヒロが半年振りにメールをくれた。

携帯を水に落としてって

水って

どこの水かな。

ぼくのふるえるラーメンの知るのなかだ

知ることと

汁粉は違う。

空間が

ギャッ

と叫んで

ぼくのラーメンの汁のなかで

ねじれて

ちぢんで

ふくらんだ

携帯にスキンを被せたら

よかったんだ

ボッキした携帯は

フッキして

二つに折れた



ぼくが23歳のとき

2歳したの子と付き合おうと思ったのだけれど

かわいい子だったけれど

彼のチンポコ

真ん中で

折れてて

「なんで、チンポコ折れてるの?」

「ボッキしたときに

 折ったら

 そのまま

 もとに戻らへんねん。」

空間が

ギャッって叫んで

ねじれて

ちぢんで

ふくらんだ。

その子は

恥ずかしいと思ったのか

ぼくとは

もう会わへんと言った。

「チンポコ折れてても

 関係ないで。

 顔がかわいいから

 いっしょにいてくれたらいいだけやで。」

ラーメン屋のオヤジの目つきが気持ち悪かった。

ぼくの指から

血が

ねじれて

ちぢんで

ふくらんだ。

その子のチンポコも

ねじれて

ちぢんで

ふくらんだ。

タカヒロの携帯も

スキンを被ったまま

ねじれて

ちぢんで

ふくらんだ。

指には

ホッチキスの針の先が侵入したままだった。

乳首が

はみだしてる。

乳首も

ねじれて

ちぢんで

ふくらんだ。

抜きどころやないですか。

30才くらいのときに

めずらしく

年上のガタイのいいひとに出会って

ラブホにつれていかれて

乳首をつままれた

というより

きつくひねられた。

乳首は

あとで

かさぶたができるくらい痛かった。

「気持ちよくなるから、ガマンしろよな。」

って言われたのだけれど

涙が出た。

痛かっただけや。

「ごめんなさい。

 痛いから、やめて。」

って、なんべん言っても

ギューってひねりつづけて

それでも

乳首は

ねじれて

ちぢんで

ふくらんだ。

タカヒロの携帯が

スキンを被ったまま

ラーメンの汁のなかにダイブ

ダイブ

ダイジョウブ

タカヒロ

高野川の

じゃなくて

野球青年のほう。

また同じ名前や。

同じ場所。

同じ時間。

同じ出来事。

ねじれて

ちぢんで

ふくらんだ。

気に入ったな

このフレーズ。

「おれ、付き合ってるヤツがいるねん。

 3人で付き合わへんか?」

このひと、バカ?

って思った。

考えられなかった。

歯科技工士で

体育会系のひとだった。

なんで

歯科技工士が

体育会系か

わからんけど

ぼくの乳首は

あの痛みを覚えてる。

ようやく

指からホッチキスの針を抜いて

タカヒロのボッキした携帯に被せるスキンを買いに

ラーメン屋を出て

自転車に乗って

スーパーのような薬局屋に向かった。

具体的なもので量るしかないだろう。



死んだ父親にまた脇をコチョコチョされて目が覚める。

部屋はいまのぼくの部屋と似てるが

微妙に違うような感じで

エクトプラズムが壁や天井を覆っている。

明かりをつけると消えた。



Between A and A 







のあいだに

はさまれたわたくし。







をつなぐ

わたくし

a(エイ)

n(エヌ)

d(ディー)

a は another の a

n は nought の n

d は discord の d

わたくしAは、もうひとつべつのAであり

わたくしAは、AではないAであり

わたくしAは、Aとは不一致のAである。

=(等号)

イコールではないわたくしは

あのはじだぶすこになあれ。

オケ専て、かわいそうやわあ。

ヨボ専て、どう?

ヨボヨボ歩くから?

そう。

じゃあ、

ヒョコ専とかさあ

ぺく専とかさあ

ぷぺこぽこぺこひけこぺこ専とかさあ

いくらでもあるじゃん。

だるじゅるげるぶべばべごお。

たすけて〜!

だれか、ぼくの自転車、とめて〜!

三代つづいて自転車なのよ。

だれか、ぼくの自転車、とめて〜!

そして、最期には、自転車になって終わるっていうわけやね。

わだば、自転車になるぅ〜!



きょう

烏丸御池の大垣書店で

外国文学の棚のところで

たくさんの翻訳本を手にとって

ペラペラしてたのだけれど

ふと、気配がして

前を見ると

本棚のところに

10センチくらいの大きさの小人がいた。

紺のスーツ姿で

白いカッターにネクタイをして

まんまサラリーマンって感じのメガネをした

さえない中年男で

お決まりの黒い革鞄まで手に持って

ぼくのことを見てたのね。

ひゃ〜、スゲー

って思ってたら

そいつが

怪獣映画で見たことがある

あの

ビルの窓から窓へと移動するような感じで

棚から棚へと

移動していったんだよ。

びっくらこいた〜。

本の背表紙に手をつきながら

そのダッサイ小人のおっさんは

本棚から本棚へと

移動していったんだ。

ぼくは、すぐに追いかけたよ。

でも、そいつ

すばしっこくてね。

見失わないように

目で追いかけながら

ぼくも

外国文学の棚を

アメリカからイギリスへ

イギリスからフランスへ

フランスからドイツへ

ドイツからその他の外国へと移動していったんだ。

そしたら、そいつの姿が一瞬消えて

裏を見たら

そいつ

日本文学から

日本古典

教育

哲学

宗教の棚へと

つぎつぎ移っていったんだ。

で、また姿が消えたと思ったら

そいつ

すっごいジャンプ力持っててさあ

向かい側の俳句・短歌・詩のところに跳んでさ。

ぼく、びっくらこいちゃったよ。

なんぼ、すごい、小人のおっさんなんじゃと。

小人の姿を追いかけて

大垣書店のなかを

あっちへ行ったり

こっちに戻ってきたり

あちこち、うろうろしてたら

ふと、気がついた。

ぼくのこと見てた

書店の店員のメガネをかけた若い男の子も

店のなかを

あっちへ行ったり

こっちに戻ったり

あちこち、うろうろしてたんだなって。



ぼくのこと、監視してたのかな。

ふへ〜。

まいりまちた〜。



a flower asks me why i have been there but i do not have an answer

a bird asks me why i have been there but i do not have an answer

my room asks me why i have been there but i do not have an answer

what i see asks me why i have been there but i do not have an answer

what i feel asks me why i have been there but i do not have an answer

what i smell asks me why i have been there but i do not have an answer

what i taste asks me why i have been there but i do not have an answer

what i touch asks me why i have been there but i do not have an answer



不幸の扉。

扉自体が不幸なのか

扉を開く者が不幸なのか

それは、

どっちでもいいんじゃない。

だって

入れ替わり立ち代わり

扉が人間になったり

人間が扉になったりしてるんだもん。

そうして

そのうちに

扉と人間の見分けもつかなくなって

たすけて〜!

だれか、ぼくの自転車、とめて〜!

三代つづいて自転車なのよ。

だれか、ぼくの自転車、とめて〜!

そして、最期には、自転車になって終わるっていうわけやね。

わだば、自転車になるぅ〜!



ユリイカの編集長が民主党の小沢で

詩はもう掲載しないという。

映像作品を掲載するという。

ページをめくると

枠のなかで

映像が流れている。

セイタカアワダチ草が風に揺れている。

電車が走っている。

阪急電車だった。

このあいだ見た景色の再現だった。

ぼくは詩の原稿を

編集長の小沢からつき返されて

とてもいやな思いをする。

とてもいやな思いをして目が覚めた。



全身すること。

10月の月末は学校が休みなので

ここでは

ハロウィンっていつあるんですか?

って

前からきいてた

隣の先生に

きょう

「11月10日みたいですよ」

と言われて

「そうですか、ありがとうございます」

と言って

机の引き出しをあけた。

「ぼくは、お菓子といっしょに

 これ、あげようと思っているんですよ」

すると

後ろにすわってられた先生が

その本のタイトルを見られて

「ええ、これですか?

 降伏の儀式とか

 死者の代弁者とか

 そのタイトルのものですか?」

と、おっしゃった。

常識をおもちで

個人的にもお話をさせてもらっている先生なので

不快な気分にさせてはならないと思って

「いや、やめます。

 持って帰ります。

 子どもたちには

 やっぱり、お菓子だけのほうがいいですね」

と言ったのだが

夕方

部屋に帰って

近くのスーパー「お多福」に寄って買ってきた

麒麟・淡麗<生>と

156円の唐揚げをたいらげて

そのまま眠ってしまったのだけれど



半分覚醒状態ね

それで

夢を見た。

自衛隊のジェット機が

ミサイルをぼくの部屋に打ち込んだよって

むかし勤めていた予備校の女の先生にそっくりな

女装の知り合いに

でも

そんな知り合い

じっさいにはいてないのだけれど

ああ

なんてへんな夢なの?

って思いながら

半分おきて

半分寝てる状態の夢だった。



ぼくは

なぜか一軒家に住んでいて

そこで空中に浮かんで

自分の部屋の屋根の上から

空を見ると

ジェット機が近づいてくるのが見えて

飛び起きたのだ。



学校での出来事を思い出したのだった。

こんなものは読ませちゃいけない。

というふうに子どもを育てるって、どういうことなんだろうって

でも、うちの学校には、ジュネ全集が置いてあるんだよね。

ロリポップ

ロリポップ

ロリ、ポップ!

日本では

いや

外国でもそうだな。

去年

オーストラリアの詩人が

この詩人は有名なんですか?

って

コーディネートしていた湊くんに

きいていたものね。

ぼくのこと。

湊くん、ちょっと困っていた。

京都にくる前に

東京で「名前の知られた詩人たち」に

会っていたからかもしれないけれど

しょうもないこときく詩人だなって思って

それで、ぼくのこころのなかでは

その外国人の詩人は二流以下の詩人になったのだった。

そりゃね

じっさい

名前が知られていないと

芸術家や詩人なんて

自称芸術家

自称詩人

なんてものだし

ぼくみたいな齢で詩を書いているなんてことは

ただ、笑いものになるだけだし

でも

でも

信念は持ってるつもりだけど

「そのタイトルのものですか?」

と、おっしゃった先生を傷つけたくなくて

言わないつもりだけど。

子どもが食べるものから

すべての毒を抜いて与えることは

毒そのものを与えることと

なんら変わらないのだよって。

ああ

この詩のタイトル

さいしょは

「全身すること。」

だったのだけれど

それって

さっき

飛び起きたときに

きょうの学校でのヒトコマを思い出して

「全身で、ぼくは詩人なのに」

「全身しなければならないのに」

といった言葉が頭に思い浮かんだので

そのままつけた。

でも、これはブログには貼り付けられないかも。

いいタイトルなんだけど。

その先生がごらんになったら

きっと傷ついちゃうだろうから。

ぼくは傷つけるつもりはぜんぜんなくって

ただ

芸術とか文学に関する思いが違うだけのことなのだけど

ひとって

自分の考えてることを

他人が「違うんじゃないですか?」

って言うのを耳にすると

まるで自分が否定されてるみたいに感じちゃうところがあるからね。

難しいわ。

どうでもいいひとには気をつかわないでいられるのだけど。

ふう。

ふふう。



疑似雨

雨に似せてつくられたもので

これによって

人々がカサを持って家を出るはめになるシロモノ。



このあいだ

彼女といっしょに映画館を食べて

食事を見に行った。



アメリカに原爆を落とさなければならないだろう。

アメリカに原爆を落とす。

アメリカに原爆を落とした。

アメリカに原爆を落とさなければならなかった。

まあ、どの表現でもいいのだけれど

日本が第二次世界大戦で

日本が、じゃないな

枢軸国側が勝つためには

アメリカに原爆を落とす必要がある。

ドイツの原爆開発を遅らせるために

アメリカの工作員たちが

ドイツに潜入して

東欧のどこか忘れたけれど

原爆開発に不可欠な重水素を

ドイツの研究所が手にいれられないように工作するところを

ホーガンのSF小説で読んだことがある。

アメリカからきた工作員たちが

つぎつぎとドイツの秘密警察に捕まるんだけど

その理由が

レストランでのナイフとフォークの使い方の違いだった。

アメリカ人とドイツ人では

ナイフとフォークの使い方が違っていたのだ。



ぼくの舞姫の設定では

ドイツ側に勝利させなければならないので

原爆開発に重要な役割をしたアインシュタインを

ドイツからアメリカに亡命させてはならない。

よって

ナチスによるユダヤ人迫害もなかったことにしなければならない。

かな。

うううううん。

やっぱり難しい。

けど、書いてみたい気もする。

きょう、烏丸御池の大垣書店で

ウンベルト・サバの詩集を手にとって

パラパラとページをめくっていた。

これまで、そんなに胸に響かなかったけれど

きょう読んでみたら

涙が落ちそうになって

「ああ、こころに原爆が」

と思ってしまった。

広島のひと、ごめんなさい。

長崎のひと、ごめんなさい。

かんにんしてください。

こんな表現は

とんでもないのやろうけれど

ほんまに、そう思うたんで

ほんまに、そう思ったことを

書いてます。



で、3000円だったのだけれど

消費税を入れると、3150円だったのだけれど

内容がよかったので

ぜんぜん高い感じはしなかった。

やっぱ、内容だよね。

雑誌のコーナーでもうろついて

いろいろ眺めて異端火傷

デザインとか

アートも



大学への数学も、笑。

言葉についての特集をしている大きい雑誌があって

海亀のことが写真つきで詳しく載っていた。

海亀は、ぼくも大好きで

陽の埋葬のモチーフに、いっぱい使うた。

海亀の一族。

海亀家の一族。

とか

頭に浮かんで、にやっとした。

帰りに

五条堀川のブックオフで

新倉俊一さんの「アメリカ詩入門」だったかな。

「アメリカ現代詩入門」だったかな。

定価2200円のものが

1150円で売っていた。

パラパラと読んでいたら

ジェイムズ・メリルの詩が載っていた。

やはりメリルの詩は、めっちゃ抒情的やった。

解説の最後のほうに引用してある詩の一節も、とても美しかった。

買おうかなって思って

もうすこしパラパラとめくると

赤いペンで、タイトルを囲い

その下に11月23日と書いてあった。

学生が使ったテキストやったんやね。

買うの、やめた。



帰りに

DVDのコーナーで

韓国ドラマのほうの「魔王」の



II

を手にとって眺めていた。

両方とも、7950円かな

7980円かな

そんな値段やったので

まだ買う気にならんかった。

まあ、そやけど、そのうちに。

安くなったらね。

ええドラマやったからね。

主人公のお姉ちゃんの出てくるシーンで

何度か泣いたもんなあ。

あの女優さん、あれでしか見たことないけど。

ジフンは捕まっちゃったね。

サバの詩集のカバー

さっそくつくらなきゃ。



善は急げ、悪はゆっくり。

どう急ぐのか

どうゆっくりするのかは

各自に任せられている。

善と

悪の双方に。



服役の記憶。

住んでいた近くのスーパー「大国屋」の



いまは

スーパー「お多福」と名前を替えているところでバイトしていた

リストカットの男の子のことを書いたせいで

10日間、冷蔵庫に服役させられた。

冷蔵庫の二段目の棚

袋詰めの「みそ」の横に

毛布をまとって、凍えていたのだった。

これは、なにかの間違い。

これは、なにかの間違い。

ぼくは、歯をガチガチいわせながら

凍えて、ブルブル震えていたのだった。

20代の半ばから

数年間

塾で講師をしていたのだけれど

27,8歳のときかな

ユリイカの投稿欄に載った「高野川」のページをコピーして

高校生の生徒たちに配ったら

ポイポイ

ゴミ箱に捨てられた。

冷蔵庫のなかだから

食べるものはいっぱいあった。

飲むものも入れておいてよかった。

ただ、明かりがついてなかったので

ぜんぶ手探りだったのだった。

立ち上がると

ケチャップのうえに倒れこんでしまって

トマトケチャップがギャッと叫び声をあげた。

ぼくは全身、ケチャップまみれになってしまった。

そのケチャップをなめながら

納豆のパックをあけて

納豆を一粒とった。

にゅちょっとねばって

ケチャップと納豆のねばりで

すごいことになった。

口を大きく開けて

フットボールぐらいの大きさの納豆にかじりついた。

ゴミ箱に捨てられた詩のことが

ずっとこころに残っていて

詩を子どもに見せるのが

とてもこわくなった。

それ以来

ひとに自分の詩は

ほとんど見せたことがない。

あのとき

子どものひとりが

自分の内臓を口から吐き出して

ベロンと裏返った。

ぼくも自分の真似をするのは大好きで

ボッキしたチンポコを握りながら

自分の肌を

つるんと脱いで脱皮した。

ああ、寒い、寒い。

こんなに寒いのにボッキするなんて

すごいだろ。

自己愛撫は得意なんだ。

いつも自分のことを慰めてるのさ。

痛々しいだろ?

生まれつきの才能なんだと思う。

でも、なんで、ぼくが冷蔵庫に入らなければならなかったのか。

どう考えても、わからない。

ああ、ねばねばも気持ちわるい。

飲み込んだ納豆も気持ち悪い。

こんなところにずっといたいっていう連中の気持ちがわからない。

でも、どうして缶詰まで、ぼくは冷蔵庫のなかにいれているんだろう?

お茶のペットボトルの栓をはずすのは、むずかしかった。

めっちゃ力がいった。

しかも飲むために

ぼくも、ふたのところに飛び降りて

ペットボトルを傾けなくちゃいけなかったのだ。

めんどくさかったし

めちゃくちゃしんどかった。

納豆のねばりで

つるっとすべって

頭からお茶をかぶってしまった。

そういえば

フトシくんは

ぼくが彼のマンションに遊びに行った夜に

「あっちゃんのお尻の穴が見たい」と言った。

ぼくははずかしくてダメだよと断ったのだけれど

あれは羞恥プレイやったんやろか。

「肛門見せてほしい」

だったかもしれない。

どっちだったかなあ。

「肛門見せてほしい」

ううううん。

「お尻の穴が見たい」というのは

ぼくの記憶の翻訳かな。

ぼくが20代の半ばころの思い出だから

記憶が、少しあいまいだ。

めんどくさい泥棒だ。

冷蔵庫にも心臓があって

つねにドクドク脈打っていた。

それとも、あれは

ぼく自身の鼓動だったのだろうか。

貧乏である。

日和見である。

ああ、こんなところで

ぼくは死んでしまうのか。

書いてはいけないことを書いてしまったからだろうか。

書いてはいけないことだったのだろうか。

ぼくは、見たこと

あったこと

事実をそのまま書いただけなのに。

ああ?

それにしても、寒かった。

冷たかった。

それでもなんとか冷蔵庫のなか

10日間の服役をすまして

出た。

肛門からも

うんちがつるんと出た。

ぼくの詩集には

序文も

後書きもない。

第一詩集は例外で

あれは

出版社にだまされた部分もあるから

ぼくのビブログラフィーからは外しておきたいくらいだ。

ピクルスを食べたあと

ピーナツバターをおなかいっぱい食べて

口のなかで

味覚が、すばらしい舞踏をしていた。

ピクルスっていえば

ぼくがはじめてピクルスを食べたのは

高校一年のときのことで

四条高倉のフジイ大丸の1階にできたマクドナルドだった。

そこで食べたハンバーガーに入ってたんだった。

変な味だなって思って

取り出して捨てたのだった。

それから何回か捨ててたんだけど

めんどくさくなったのかな。

捨てないで食べたのだ。

でも

最初は

やっぱり、あんまりおいしいとは思われなかった。

その味にだんだん慣れていくのだったけれど

味覚って、文化なんだね。

変化するんだね。

コーラも

小学校のときにはじめて飲んだときは

変な味だと思ったし

コーヒーなんて

中学に上がるまで飲ませられなかったから

はじめて飲んだときのこと

いまだにおぼえてる。

あまりにまずくて、シュガーをめちゃくちゃたくさんいれて飲んだのだ。

ブラックを飲んだのは

高校生になってからだった。

あれは子どもには、わかんない味なんじゃないかな。

ビールといっしょでね。

ビールも

二十歳を過ぎてから飲んだけど

最初はまずいと思った。

こんなもの

どこがいいんだろって思った。

そだ。

冷蔵庫のなかでも雨が降るのだということを知った。

まあ

霧のような細かい雨粒だけど。

毛布もびしょびしょになってしまって

よく風邪をひかなかったなあって思った。

睡眠薬をもって服役していなかったので

10日のあいだ

ずっと起きてたんだけど

冷蔵庫のなかでは

ときどきブーンって音がして

奥のほうに

明るい月が昇るようにして

光が放射する塊が出現して

そのなかから、ゴーストが現われた。

ゴーストは車に乗って現われることもあった。

何人ものゴーストたちがオープンカーに乗って

楽器を演奏しながら冷蔵庫の中を走り去ることもあった。

そんなとき

車のヘッドライトで

冷蔵庫の二段目のぼくのいる棚の惨状を目にすることができたのだった。

せめて、くちゃくちゃできるガムでも入れておけばよかった。

ガムさえあれば

気持ちも落ち着くし

自分のくちゃくちゃする音だったら

ぜんぜん平気だもんね。

ピー!

追いつかれそうになって

冷蔵庫の隅に隠れた。

乳状突起の痛みでひらかれた

意味のない「ひらがな」のこころと

股間にぶら下がった古いタイプの黒電話の受話器を通して

ぼくの冷蔵庫のなかの詩の朗読会に参加しませんか?

ぼくの詩を愛してやまない詩の愛読者に向けて

手紙を書いて

ぼくは冷蔵庫のなかから投函した。

かび臭い。

焼き払わなければならない。

めったにカーテンをあけることがなかった。

窓も。

とりつかれていたのだ。

今夜は月が出ない。

ぼくには罪はない。



あらゆる言葉には首がある。

音ではない。

音のない言葉はあるからね。

無音声言語って、数学記号では

集合の要素を書くときの縦の棒 | 

あらゆる言葉には首がある。

すべての言葉に首がある。

その首の後ろの皮をつかんで持ち上げてみせること。

まるで子猫のようにね。

言葉によっては

手が触れる前に、さっと逃げ去るものもあるし

喉のあたりをかるくさわってやったり

背中をやさしくなでてやると

言葉のほうから

こちらのほうに身を寄せるものもある。

まあ、しつけの問題ですけどね。

たすけて〜!

だれか、ぼくの自転車、とめて〜!

三代つづいて自転車なのよ。

だれか、ぼくの自転車、とめて〜!

そして、最期には、自転車になって終わるっていうわけやね。

わだば、自転車になるぅ〜!



自分のこころが、ある状態であるということを知るためには、

まず客観的に、こころがその状態であるということが

どういった事態であるのかを知る必要がある。

そして、もっとよく知るためには

こころが、その状態にないということが

どういった事態であるのかをも知っておく必要がある。



詩は、自分がどう書かれるのか

あらかじめ詩人より先に知っている。

なぜ書かれたのかは、作者も、詩も、だれも知らない。



不幸というものは、だれもが簡単に授かることのできるものだ。



時間や場所や出来事は同一を求める。

時間や場所や出来事は変化を求める。

時間や場所や出来事は合同を求める。

時間や場所や出来事は相似を求める。

それとも

同一が時間や場所や出来事を求めているのか。

変化が時間や場所や出来事を求めているのか。

合同が時間や場所や出来事を求めているのか。

相似が時間や場所や出来事を求めているのか。



人間というものは、いったん欲しくなると

とことん欲しくなるものだ。



人間は自分の皮膚の外で生きている。

人間は、ただ自分の皮膚の外でのみ生きているということを知ること。



このあいだ、すっごいエロイ夢を見た。

思い当たることなんて

なんにもないのに。

こころって、不思議。

高校時代の柔道部の先輩に

せまられたんだけど

その先輩は

じっさいにせまってきたほうの先輩じゃなくて

ぼくに

「手をもんでくれ」

と言って

手をもませただけの先輩だったんだよね。

まあ

それだけのほうが

妄想力をかきたてられたってことなのかもしれない。

めっちゃカッコいい先輩だったもん。

3年でキャプテンで

すぐにキャプテンをやめられて

つぎにキャプテンになった2年の先輩が

じっさいにせまってきた先輩で

いまから考えたら

すてきなひとだったなあ。

こたえちゃったらよかった。

社会の先生のデブにも

教員室に呼ばれて手を握られて

びっくりして逃げちゃったけど

いまから考えると

かわいいデブだったし。

もったいなかったなあ。



廊下に立たされる。

なんて経験は

いまの子たちには、ないんやろうなあ。

ぼくなんか

小学生のとき

ひとりが宿題を忘れたっていうので

もう一回同じ宿題を出すバカ教師がいて

「なんで? なんで?」

って言ったら

思いっきりビンタされて

耳がはれ上がった記憶があるけど

もちろん

ビンタなんて見たこともないんやろうなあ。

頭ぐりぐりとか

おでこガッツンとかもあった

廊下に立たされる。

なんて経験は、記憶のなかではないんやけど

立たされてもよかったかな。

そのときの気持ちとか

見たものとか

まあ

廊下そのものやろうけど、笑。

感じたことを思い出せるのになあって。

廊下に立たされる。

これって

どこが罰やったんやろうか。

教室のそとに行かされる。

いま

行かされる

って書いたけど

はじめは

「生かされる」やった。

共同体のそとに出されて

さびしい思いをしろってことなのかな。

共同体の外に出て

晴れ晴れとするようなぼくなんかだったら

罰にはならないなあ。

同じことがらで

ひとによって

罰になったり

うれしいことになったり

そか

いろんなことが

そなんや

罰も

さいしょは

変換が

「×」やった

しるしやね。

カインも

神さまに

しるしをつけられたけど

もしかしたら

うれしかったかもにょ

ひとにはない

しるしがあって。

でも

覚悟もいるんだよね

ひとと違うって

気持ちいいことなんだけど



両親が家に入れてくれない。

玄関から入ろうとしても

裏口から入ろうとしても

立ちふさがって

入れてくれようとしない。

ぼくは何度か

玄関と裏口を往復している。



あの隣の家の気の狂った花嫁の妄想でからっぽの頭を、

わたしの蹄が踏みつぶしたいって言っているわ。

はいと、いいえの前に、ダッチワイフ。

はいと、いいえの区別ができないのよ。

しょっちゅう、はいって言うべきときに、いいえと言うし

いいえと言うべきときに、はいって言っちゃうのよ。

まぎらわしいわ。

あの妄想でいっぱいの隣の家の嫁のからっぽの頭を踏みつぶしてやりたいわ。

蹄がうずうずしてるわ。

クロワッサンが好き。

とがりものつながりね。

「先生、だんだん身体が大きくなってる。

 太ってきたね」

太ったよ。

また90キロくらいになってるよ。

きのうも、えいちゃんに言われたよ。

また、はじめて会うたときみたいにデブるんかって。

きょうも、飲んで食べたわ



逆か

食べて飲んだわ

大きに

ありがとさん。

吹きこぼれている。

たくさん入れすぎやから。

フィーバーやね。

ぼく、パチンコせえへんし、わからん。

ライ麦パンのライが

歯のあいだにはさまって

ここちよい。

はさまるのは、ここちよい。

はさむのも、ここちよいけれど。

欲しい本が1冊。

このあいだまでジュンク堂にあったのに。

もう絶版。

しかも10000円近くになってるの。

なんでや!

ああ

あの妄想でいっぱいの隣の家の嫁のからっぽの頭を踏みつぶしてやりたいわ。

はさむのよ。

蹄と地面で。

グシャッて踏みつぶしてやるわ。

容赦なしよ。

ほら、はいと、いいえは?

はいはい、どうどうよ。

なんで同時に言えないのよ。

はい、いいえって言えばいいのよ。

そしたら

その空っぽの頭を踏んづけてやれるのに

キーッ!



点の父



点のおぞましさ



点のやさしさ



点のゴロツキ



点の誕生



点の歴史



点の死



点の点



点は点の上に点をつくり

点は点の下に点をつくり

点、点、点、、、、



はじめに点があった

点は点であった



よくわからない春巻きはあたたかい。

蒙古斑のように

肌の上でつるつるすべる

ツベルクリン

明石の源氏も

廊下に立たされて

ジャガイモを選ばなければならなかったのだ

教室は

先生の声に溺れて

じょじょに南下して行った。

台風のあとのきょうの京都は

午後は快晴だった

いつもそうしてくれる?

お百姓さんは困るかな、笑。

いつも思うんだけど

雲って

だれが持ってっちゃうんだろうなって

自転車で

空や建物の看板が映った水溜まりを

パシャンパシャンこわしながら

CDショップには

ノーナリーブズはなかった

通りのひなびたCDショップやったからね、笑。

こないだ

HMVには置いてあったな。

めっちゃオシャレやのにぃ。

でも最近のアルバムは買ってない。

ザックバランは

たしか木曜日にはライブをやってて

いまは知らないけど

ぼくが学生のときに

カルメン・マキがザックにきて

5Xのときのマキやから

ちょっとマキちゃん軌道修正してよ

って思ってたけど

ぼくがカルメン・マキの大ファンだって知ってた

ザックの店員の女の子が

ぼくに

とくべつに

0番のチケットをくれて



もちろん

買ったのだけれど、笑。

おぼえてる

この女の子の店員って

伝説があって

料理を

さっと置くから

あまりにも

はやく

さっと置くから

テーブルの上で

サラから

パイやピザが

すべって

ころんで

マキュロンちゃん



マキちゃんは

ライブのとき

「てめえら、もっとノレよ」

って叫んで

酒ビンの腹をもって

観客たちの頭に

お酒をぶっかけてたけど

あれ

透明なビンだったから

ジンだったのかなあ

それとも

グリーンだったかな

そら

マキちゃん

5Xはダメよ

いくらあこがれでも

やっぱり

OZよ

カルメン・マキ&OZ

もはや、マッハの速さでも

よくわからない春巻きはあたたかい。



ジャガイモを選ばなければならなかったのに。

トマトの傷んだものが

2個で100円だったから

トマトを選んだ。

ジャガイモを選ばなければならなかったのに。

痛んだトマトに齧りついて

ドボドボしるを落としたのだった。

もはや

ジャガイモを選ぶには遅く

痛んだトマトは

2個とも、ぼくの胃のなかにすべり落ちていったのだった。

廊下に立たされる。

阿部さんの詩集

パウンドの抒情や

ディラン・トマスの狂想を思い起こさせる。

ぼくに、言葉を吐き出させているのだ。

痛んだトマト2個100円が

どぼどぼ

ぼくを吐き出しているのだ。

阿部さんの詩集

パウンドの抒情や

ディラン・トマスの狂想を思い起こさせる。

知り合いたかった。

もっと若いときにね。

そしたら、ぼくの読むものも

ずっとマシなものになっていただろう。

SFはあかんわ〜。



でも

いまのぼくがいるのは

若いときに阿部さんと出会ってなかったからでもある。

廊下に立たされる。

ぼくのいとこの女の子は

いやもう40過ぎてるから

オバハンか

彼女は小学校の先生だったのだけれど

ある日

狂っちゃって

生徒の頭を

パンパンなぐり出しちゃって

精神病院に入院したのだけれど

治ったり

また病気になったり

いそがしい。

ギリギリのところに

人間って生かされているような気がする。

廊下に立たされる。

そんな記憶はなかったけれど

ジャガイモを選ばなければならなかったのに

痛んだトマト2個100円を買ったのだった。

そうだ

阿部さん

阿部さんの詩集を

ほかのひとが読んでいくってイベントなさったらどうでしょう。

阿部さんの声と

ほかのひとの声が混ざって

廊下に立たされる。

ジャガイモを選ばなければならなかったのに。

痛んだトマト2個100円を選んだのだった。

トマトの味とか

匂いって

どこか精子に似ているような気がする。

しいてあげるとすれば

じゃなくって

ちょくでね。

ジャガイモって

子どものときには

きらいだった。

カレーのなかのジャガイモが憎かった。

カレーは、ひたすらタマネギが好きだったのだ。

ジャガイモもタマネギも

ぼくと同性だけど

ぼくの口との相性は悪かった。

精子がとまらない。

静止画とまらない。

うん

手に本をもって

本は手をもって

動かしながら読んでもいいものなのだな。

動かされながら読んでもいいものなのだな。

トンカツ

買ってきて

パセリや

刻んだキャベツが

ちょこっとついてた

トンカツのおかず250円が

トマトでじゅくじゅくのぼくの口を

ご飯で一杯にしたのだけれど

ジャガイモを選ばなければならなかったのに。

葉っぱは人気がなかった。

学生時代によく行ったザックバランで

みんなが最後まで手をださなかったサラダは

ひとり変わり者の徳寺が

「葉っぱは、おれが食うたろか?」

いっしょに若狭に行ったなあ。

いっしょに風呂

はいって

何もなかったけど、笑。

ええヤツやった。

10人くらいで行ったけど

風呂は小さかったから2人ずつはいって

「あつすけと何もなかったん?」

って

あとで

卯本に言われても

笑ってた。

カラカラとよく笑う横断歩道。

ふだんからバカばっかり言ってるヤツだったから

大好きだった。

つねに安心しろ。

余所見しろ。

若狭には源氏も行ったっけ?

あれは明石だったっけ?

そだ

須磨だった

パウンドが書いてた

須磨の源氏って

廊下に立たされている。

本を手にすると

手が本になる

病気が流行っていませんか?

病気屋やってませんか?

精子がとまらない。

静止画とまらない。



指の関節が痛くなって

もう半年くらいかな

先のほうの関節だけど

第一関節って言うのかな

左手のね

そういえば

ぼくは

いつも左腕とか

左肩とかが痛いのだ。

40才を過ぎてからだけど

ジミーちゃんが

左は方向がいいから

左が痛いのはいいんだよって言ってたけれど

いくらいいって言っても

痛いのはイヤだ。

きょうは

王将でランチを食べた

とんこつラーメンと天津どん

その名前は

だれのサイズですか?

食べすぎだわ。

晩ご飯がトンカツなんですもの。

痛みが上陸してくるのは阻止できないようだ。

海岸線に

エムの

男の子と女の子たちが地雷になって

重なり合っている。

痛いのは確認。

爆発は自由意志。

砂浜から這い出てくる海亀の子らの

レクイエム

いたち?

たぬき?

なんだったっけ?

海亀の子らを食べにくる四ツ足の獣たちって。

卵のときにね。

それって

奇跡だわ!

奇跡だわ!

その名前は

だれのサイズですか?



じゃあ、また会おうねって言って

そのとおりになって

ヒロくんが

下鴨のぼくのアパートにきて



寝るときに

これって

渡されたのが

黄色いゴムみたいな

耳栓2個

「イビキすごいから耳栓してくれへんかったら

 寝れへんと思うし。」

ほんとにすごかったのだと思う。

当時のぼくは

いまと違って

すっと眠るタチだったのだけれど



セックスはタチではないのだけれど



寝てたら

ほんとにヒロくんのイビキで起きちゃって



じっさいに耳栓して寝ました。

なんでこんなこと思い出したんやろか。

20年ちかく前のことなのに

ヒロくんみたいに

まっすぐに愛してくれた子はいいひんかった

まあ

ちょっとSで

めちゃするとこもあったけど

もしも

もしも

もしも

いったい

ぼくたちは

どれぐらいの

もしもからできているのだろうか。

けさ

中学で

はじめてキッスした子の名字を思い出した。

詩を書きはじめて20年、笑

ずっと思いだせずにいた名前なのに



米倉って姓なんだけど

下の名前が

わからない

小学校から大学までの卒アルバム

ぜんぶ捨てたから

わからない

あだ名は

ジョンだった

これは

うちで飼ってた犬に似てたから

ぼくがそう呼んでたんだけど

チャウチャウ飼ってたんだけど

あと

時期は違うけど

ポインターや

ボクサーも飼ってたんだけど

ヤツはチャウチャウに似てた

米倉

ああ

下の名前は

いったい

いつ思いだすんやろうか

それとも

思いだせずに

いるんやろうか

エイジくんのこと

また書いた

2つ

でもまだまだ書くんやろうな

考えたら

ずっと

ぼくは恋のことを書いてた

「高野川」からはじまって

いや

ぼくの記憶のなかでは

「夏の思い出」がいちばん古いかな

きょう書いたエッセイは

もっと古い恋について書いた

ちょこっとだけど

2週間前には

ぜんぜんべつのこと書く予定やったけど

まあ

そんなもんか

さっき鏡を見たら

死んだ父親にますます似てきていて

ぞっとした

ノブユキのつぎに付き合ったのがヒロくんなんやけど

ノブユキは

このあいだまでマイミクやったんやけど

ぼくの日記

ぜんぜん見ないから

はずした

ヒロくんの名字

めずらしいから

ときどきネットで検索するけど

出てこない

エイジくんも出てこない

ノブユキの名前は

どこかの大学の先生と同じで

いかつい経歴だった

ノブちんも

いかつい経歴だった

日本の大学には受からなかったので

シアトルの大学に行ったのね

ぼくとノブちん

その時期に出会って

遠距離恋愛してたんだけど

そだ

ノブちんのこと

あんまり書いてないね

出会いとか

別れとか

ああ

まだまだ書くことがあるんやね

みんな

遠く離れてしまったけど



離れてしまったから

書けるんやけど。



ウィリアム・バロウズの「バロウズという名の男」という本を読んでいて

ダッチ・シュルツの最期の言葉が、つぎのようなものであることを知った。

「ハーモニーが欲しい、ハーモニーなんかいらない」

以前に、バロウズの「ダッチ・シュルツ 最期の言葉」を読んでいたのに

忘れていた。

ほんとうにそうだったか、本棚に手をのばせばわかるのだが

そうなのだろうと思って、手をのばさないでいる。


エイジくんが、下鴨のマンションに住んでたぼくの部屋で

ユリイカに載ってた、ぼくの詩の「みんな、きみのことが好きだった。」を読んで

その詩の最後の二行を、ぼくの目を見つめながらつぶやいたのが思い出された。

「もっとたくさん。/もうたくさん。」


意味のあいだで共振してるでしょ?

「みんな、きみのことが好きだった。」という詩集の

多くのものが、無意識の産物だった。

さまざまなものが結びつく。

結びついていく。



四条河原町で、歩く人の影を目で追いながら

なんてきれいなんやろうと思いながら

なんてきれいなんやろうと思っている自分がいるということと

なんてきれいなんやろうと思って歩いている人間って

いま、どれぐらいいるんやろうかなあって思った。

男の子も

女の子も

きれいな子はいっぱいて

通り過ぎに

目がいっぱい合ったけれど

もう

そんな顔は

すぐに忘れてしまって

知っている顔

付き合っていた顔だけが

思い出される。

たくさんがひとつに

ひとつがたくさんだったってことかな。

そうだ。

パウンドの「仮面」で

忘れられないかもしれない一行。

「きのうは、きょうよりもうつくしい」

「おれ
 
 北欧館で

 おれみたいにかわいい子、見たことないって言われた。」

「広島のゲイ・サウナで

 エイジくん、いつでも、ただでいいよ。

 だからいつでも来てね。

 って言われた。」

「コンビニで

 マンガ読んでたら

 いかついニイちゃんが寄ってきよったんや。

 レジから見えへんように

 ケツさわってきよってな。」

はあ、思い出します。

なんで、きみのことばかり思い出すんやろうか。

ぼくのことは思いだされてるのかどうか

ぜんぜん、わからへんけど。

さっきの記述

「きょうは、きのうほどうつくしくはない。」

パウンドの詩句で

うろおぼえでした。

正確に引用します。




このはかない世界から、いかに苦渋にみちて

愛が去り、愛のよろこびが欺かれていくことか。

苦しみに変わらないものは何ひとつなく、

すべての今日の日はその昨日ほどに意味をもたない。


           (「若きイギリス王のための哀歌」小野正和・岩原康夫訳)


HOUSES OF THE HOLY。

  田中宏輔




OVER THE HILLS AND FAR AWAY。





「なんていうの、名前?」

「なんで言わなあかんねん。」

「べつに、ほんとの名前でなくってもいいんだけど。」

「エイジ。」

「ふううん。」

「ほんまの名前や。」

「そうなんや。

 エイジかあ、

 えいちゃんて呼ぼうかな。」

「あかん。

 そう呼んでええのは

 おれが高校のときに付き合うとった彼女だけや。」

「はいはい、わかりました。

 めんどくさいなあ。」

「なんやて?」

「べつに。」

鳩が鳩を襲う。

鳩と鳩の喧嘩ってすごいんですよ。

相手が死ぬまで、くちばしの先で、つっつき合うんですよ。

血まみれの鳩が、血まみれの鳩をつっつきまわして

相手が動けなくなっても

その相手の鳩の顔をつっつきまわしてるのを

見たことがあるんですよ。

それって

ぼくが住んでた祇園の家の近所にあった

八坂神社の境内でですけどね。

鳩が鳩を襲う。

猿がべつの種類の猿を狩っている映像を

ニュース番組で見たこともあります。

自分たちより小型の猿たちを

おおぜいの猿たちが狩るんですよ。

追い込んで

追いつめて

おびえた小さな猿たちを

それとは種類の違う何頭もの大きな猿たちが

その手足をもぎとって

引きちぎって

つぎつぎと食べてるんですよ。

血まみれの猿たちは

もう

おおはしゃぎ

血まみれの手を振り上げては

ほうほっ!

ほうほっ!

って叫びながら

足で地面を踏み鳴らすんですよ。

血走った目をギラギラと輝かせながら

目をせいいっぱいみひらきながら。

「こないだ言ってた

 よっくんって

 いくつぐらいの人なん?」

「50前や。」

「ゲイバーのマスターやったっけ?」

「ふつうのスナックや。」

「映画館で出会ったんやったね。」

「そや。

 新世界の国際地下シネマっちゅうとこや。

 たなやん、

 行ったことあるんか?」

「ないよ。」

「そうか。」

「付き合いは長かったの?」

「半年くらいかな。」

うううん。

ぼくには

それが長いのか、短いのか、ようわからんわ、笑。

「よっくんとの最後って

 どうやったん?」

「よっくんか?

 おれが

 よっくんの部屋で

 よっくんの仕事が終わるの待っとったんやけど

 ひとりで缶ビール飲んでたんや。

 何本飲んだか忘れたけど

 片付けるの忘れてたんや。

 そしたら

 それを怒りよってな。

 それで

 おれの写真ぜんぶアルバムから引き剥がして

 部屋出たんや。

 それが最後や。

 よっくん

 バイバイって言うてな。

 電車に乗ったんや。

 電車のなかでも

 おれといっしょに写ってる

 よっくんに

 バイバイ言うてな。

 写真

 ぜんぶ、やぶって捨てたった。

 でも

 おれ、

 電車のなかで泣いてた。」

「ふううん。

 なんやようわからんけど

 エイジくんと付き合うのは

 むずかしそうやな。」

「そうや。

 おれ、

 気まぐれやからな。」

「自分で言うんや。」

「おれ、

 よう、子どもみたいやって言われるねん。」

たしかに

でも

そんなこと

ニコニコして言うことじゃないと思った。

子どものときに

子どものようにふるまえなかったってことやね。

だから

いま

子どものようにあつかってほしいってことやったんやね。

きみは。

いまならわかる。

あのとき

きみが

子どものように見られたかったってこと。

いまならわかる。

あのとき

きみが

子どものようにあつかわれたかったってこと。

でも

ぼくには、わからなかった。

あのとき

ぼくには、わからんかったんや。

「おれ、

 家族のことが

 大好きなんや。」

ねえちゃん、

かあちゃん、

とうちゃん。

ねえちゃん、

かあちゃん、

とうちゃん。

ねえちゃん、

かあちゃん、

とうちゃん。

「ふううん。

 お父さんって

 エイジくんと似てるの?」

「似てるみたいや

 とうちゃんの友だちが

 とうちゃんと

 おれが似てる言う言うて

 よろこんどった。

 いっしょにおれと酒飲むのもうれしいみたいや。」

鳩が鳩を襲う。

関東大震災の火のなかで

丘が燃えている。

木歩をかついで

エイジくんが火のなかを歩き去る。

凍れ!



ひと叫び。

火は凍りつき、

幾条もの火の氷柱が

地面に突き刺さり、

その氷柱の上を

小型の猿が飛んでいる。

小型の猿たちが飛んでいる。

氷の枝はポキポキ折れて

火の色に染まった氷柱のあいだを

小型の猿たちが落ちていく。

つぎつぎに落ちてくる。

大きい猿たちが、落ちた猿たちの手足を引きちぎる。

血まみれの手足が

燃え盛る火の氷柱のあいだで

ほおり投げられる。

ばらばらの手足が

弧を描いて

火の色の氷柱のあいだを飛んでいる。

大きい猿の手から手へと

血まみれの手足が

投げられては受け取られ

受け取られては投げ返される。

鴉も鳩を襲う。

ポオの大鴉は、ご存知ですか?

嵐の日だったかな。

たんに風の強い日の夜だったかな。

真夜中、夜に

青年のいる屋敷の

部屋の窓のところに

大鴉がきて

青年にささやくんですよ。

もはや、ない。

けっして、ない。

って。

青年が、その大鴉に

おまえはなにものか?

とか

なんのためにきたのか?

とか

いっぱい

いろんなことをたずねるんですけど

大鴉はつねに

ひとこと

もはや、ない。

けっして、ない。

って言うんですよ。

ポオって言えば

クロネコ

あっ、

こんなふうにカタカナで書くと

まるで宅急便みたい、笑。

燃え盛る火の氷柱のあいだを

木歩をかついで

丘をおりて行くエイジくん。

関東大震災の日。

丘は燃え上がり

空は火の色に染まり

地面は割れて

それは

地上のあらゆる喜びを悲しみに変える地獄だった。

それは

地上のあらゆる楽しみを苦しみに変える地獄だった。

そこらじゅう

いたるところで

獣たちは叫び

ひとびとは神の名を呼び

祈り、

踊り、

叫び、

助けを求めて

祈り、

踊り、

叫び、

助けを求めて

祈っていた、

踊っていた、

叫んでいた。

雪の日。

真夜中、夜に

エイジくんと

ふたりで雪合戦。

真夜中、夜に

ふたりっきりで

ぼくのアパートの下で

雪をまるめて。

預言者ダニエルが火のなかで微笑んでいる。

雪つぶて。

四つの獣の首がまわる。

火のなかで

車輪にくっついた獣の四つの首が回転している。

ぼくはバカバカしいなって思いながら

エイジくんに付き合って

アパートの下で、雪つぶてをつくっている。

預言者ダニエルは

ぼくの目を見据えながら

火のなかを歩いてくる。

ぼくのほうに近づいてくる。

猿が猿を食べる。

鳩が鳩を襲う。

「言うたやろ。

 おれ、

 気まぐれなんや。

 もう二度ときいひんで。」

「たなやん。

 おれ、

 忘れてたわ。

 おれの手袋。」

「たなやん。

 おれ、

 忘れてたわ。

 おれの帽子。」

「たなやん。

 おれ、

 忘れてたわ。

 おれのマフラー。」

たなやん。

おれの、

おれの、

おれの、

「なんや、それ。

 玄関のところに置いてたんや。

 毎日、なんか忘れていくんやな。」

預言者ダニエルは

火のなかを

ぼくのところにまで

まっすぐに歩いてくる。

凍れ!

火の丘よ!

凍らば

凍れ!

火の丘よ!

もはや、ない。

けっして、ない。

凍れ!

火の丘よ!

凍れ!

火の丘よ!








THE SONG REMAINS THE SAME。                         
                      




これはよかったことになるのかな、

それとも、よくなかったことになるのかな。

どだろ。

ぼくが

はじめて男の子にキッスされたのは。

中学校の一年生か二年生のときのことだった。

小学校時代からの友だちだった米倉と、

キャンプに行ったときのことだった。

さいしょは、べつべつの寝袋に入っていたのだけれど、

彼の寝袋はかなり大きめのものだったから、

大人用の寝袋だったのかな、

「いっしょに二人で寝えへんか?」

って言われて、

彼の言うとおりにしたときのことだった。

一度だけのキッス。



韓国では、ゲイのことを、二般と呼ぶらしい。

一般じゃないからってことなのだろうけれど、

なんか笑けるね。

日本じゃ言わないもんね。

もう、明らかに差別じゃん。

そういえば、

ぼくが子どものころには、

「オカマ」のほかにも、

「男女(おとこおんな)」とかっていう言い方もあった。

ぼくも言われたし、

そのときには傷ついたけどね。

まあ、

これなんかも、いまなら笑けるけども。



「それ、どこで買ってきたの?」

「高島屋。」

「えっ、高島屋にフンドシなんておいてあるの?」

エイジくんが笑った。

「たなやん、雪合戦しようや。」

「はあ? バッカじゃないの?」

「おれがバカやっちゅうことは、おれがいちばんよう知っとるわ。」

こんどは、ぼくのほうが笑った。

「なにがおもろいねん? ええから、雪合戦しようや。」

それからふたりは、部屋を出て、

真夜中に、雪つぶての応酬。

「おれが住んどるとこは教えたらへん。

 こられたら、こまるんや。

 たなやん、くるやろ?」

「行かないよ。」

「くるから、教えたらへんねん。」

「バッカじゃないの? 行かないって。」

「木歩っていう俳人に似てるね。」

ぼくは木歩の写っている写真を見せた。

句集についていたごく小さな写真だったけれど。

「たなやんの目から見たら、似てるっちゅうことやな。」

まあ、彼は貧しい俳人で、

きみみたいに、どでかい建設会社の社長のどら息子やないけどね。

「姉ちゃんがひとりいる。」

「似てたら、こわいけど。」

「似てへんわ。」

「やっぱり唇、分厚いの?」

「分厚ないわ。」

「ふううん。」

「そやけど、たなやん、

 おれのこの分厚い唇がセクシーや思てるんやろ?」

「はあ?」

「たなやんの目、おれの唇ばっかり見てるで。」

「そんなことないわ、あいかわらずナルシストやな。」

「ナルシストちゃうわ。」

「ぜったい、ナルシストだって。」

「おれの小学校のときのあだ名、クチビルおばけやったんや。」

「クチビルおバカじゃないの?」

にらみつけられた。

つかみ合いのケンカになった。

間違って、顔をけってしまった。

まあ、足があたったってくらいやったけど。

ふたりとも柔道していたので、技の掛け合いみたいになってね。

でも、本気でとっくみ合ってたから、

あんまり痛くなかったと思う。

案外、手を抜いたほうが痛いものだからね。

エイジくんが笑っていた。

けられて笑うって変なヤツだとそのときには思ったけれど、

いまだったら、わかるかな、その気持ち。

そのときのエイジくんの気持ち。

彼とも、キッスは一度だけやった。

しかも、サランラップを唇と唇のあいだにはさんでしたのだけれど。

なんちゅうキスやろか。

一年以上ものあいだ、

あれだけ毎日のように会ってたのにね。



どうして、

光は思い出すのだろう。

どうして、

光は忘れないのだろう。

光は、すべてを憶えている。

光は、なにひとつ忘れない。

なぜなら、光はけっして直進しないからである。



もしも、もしも、もしも……。

いったい、ぼくたちは、

どれくらいの数のもしもからできているのだろうか。

いまさら、どうしようもないことだけれど、

もしも、あのとき、ああしてなければ、

もしも、あのとき、こうしていたらって、

そんなことばかり考えてしまう。

ただ一度だけのキス。

ただ一度だけのキッス。

考えても仕方のないことばかり考えてしまう。



ぼくは言葉を書いた。

あなたは情景を思い浮かべた。

あなたに情景を思い浮かばせたのは、ぼくが書いた言葉だったのだろうか。

それとも、あなたのこころだったのだろうか。








DANCING DAYS。





休みの日だったので、

けさ、二度寝していたのだけれど、

ふと気がつくと、

死んだ父の部屋に、ぼくがいて、

目の見えない死んだ父が、

壁伝いに部屋から出て行こうとしているところだった。

死んだ父は、

壁に手をそわせながら、

ゆっくりと階段を上って屋上に出た。

祇園に住んでいたときのビルに近い建物だったけれど、

目にした外の風景は違ったものだった。

しかも、実景ではなく、

まるでポスターにある写真でも眺めたような感じの景色だった。

屋上が浅いプールになっていて、

そこに二頭のアザラシがいて、

目の見えない死んだ父が、

扉の内側から、生きた魚たちを投げ与えていた。

ぐいぐいと身をはねそらせながらも、

生きた魚たちは、

死んだ父の手のなかに現われては放り投げられ、

現われては放り投げられていった。

二頭のアザラシたちは、

くんずほぐれつ、もんどりうちながら、

つぎつぎと餌にパクついていった。

もうこの家はないのだから、

目の見えない父も死んでいるのだからって、

コンクリートのうえで血まみれになって騒いでいるアザラシたちを、

夢のなかから出してやらなきゃかわいそうだと思って、

ぼくは、自分が眠っている部屋の明かりをつけて、

目を完全に覚まそうとしたのだけれど、

死んだ父が、ぼくの肩をおさえて目覚めさそうとしなかった。

手元にあったリモコンもなくなっていた。

もう一度、起き上がろうとしたら、

また死んだ父が、ぼくの肩をおさえた。

そこで 声を張り上げたら、

ようやく目が覚めた。

リモコンも手元にあって、

部屋の明かりをつけた。

ひさびさに死んだ父の姿を見た。

しかし、なにか奇妙だった。

どこかおかしかった。

そうだ、しゅうし無音だったのだ。

死んだ父が階段を上るときにも、

二頭のアザラシたちがコンクリートのうえで餌を奪い合って暴れていたときにも、

いっさい音がしなかったのだ。

そういえば、

これまで、ぼくの見てきた夢には音がしていたのだろうか。

すぐには思い出せなかった。

もしかすると、

ずっとなかったのかもしれない。

内心の声はあったと思う。

映像らしきものを見て、

それについて思いをめぐらしたり

考えたりはしていたのだから。

ただし、それをつぶやくというのか、

声に出していたのかどうかというと、記憶にはない。

ただ、けさのように、

自分の叫び声で目が覚めるということは、

しばしばあったのだけれど。



なにが怖いって、

家族でそろって食べる食事の時間が、いちばん怖かった。

一日のうち、いちばん怖くて、いやな時間だった。

ほんのちょっとした粗相でも見逃されなかったのだ。

高校に入ると、柔道部に入った。

クラブが終わって、家に帰ると、

すでに、家族はみな、食事を済ませていた。

ぼくは、ひとりで晩ご飯を食べた。

そうして、中学校時代には怖くていやだった食事の時間が、

もう怖いこともなく、いやでもない時間になったのであった。


THE THINGS WE DO FOR LOVE。

  田中宏輔




文化の日で

休日やというのに

大学では授業があったみたいで

文化の日の前の日に集まりたいって連絡すると

つぎの日に授業がありますので

というので

じゃあ、授業が終わってから集まろうよ

とメールで連絡して

あらちゃんと、湊くんと3人での

言語実験工房のひさびさの会合。

3時半に

ぼくの部屋に。

ということで、まず3時40分くらいに、あらちゃんだけ到着。

手には

ビールや、お菓子や、パンを持って。

「湊くんは?」

「ああ、

 4時くらいになるって言うてはりました。」

「そっ、

 あっ、

 ぼく、なんも買ってないんよ。

「お多福」に行こうよ。」

「お多福」というのは、前まで「大国屋」という名前だったスーパーね。

名前だけ変えたの。

改装で1週間近く工事してたんだけど

見た目

ほとんど同じだし

働いてるひとたちもいっしょ。

ぼくに好意を持っている、みたいな女のひともいるし

メガネ女史と、ひそかに呼んでるんだけど

リスカの男の子

たぶん学生だと思うんだけど

二十歳くらいかな

短髪

あごひげ

がっちりの、かわいい青年



あらちゃんと買い物に出たんだけど

大国屋に



お多福に入る前に

その前を通り過ぎて

タバコの自販機のところまで行くと

湊くんが横断歩道を渡ってこちらにきたところだった。

鉢合わせっちゅうやつやね。



タバコを買って

3人でお多福へ。

「お疲れさま〜。

 休日でも大学って、授業してるんや。」

「ええ、

 年に、かならず15時間してくれって。

 このあいだの台風で

 一日つぶれたでしょう?

 土曜日にもやりましたよ。」

前の日に、あらちゃんから

「さいきんでは、休日でも授業があるんですよ。」

って聞いてたから

ほんと、びっくり。

学生もたいへんじゃない?

先生もたいへんだけどさ。



逆かな?

先生もたいへんじゃない?

学生もたいへんだけどさ。

いっしょかな、笑。

「ぼくは昼ごはん食べたから

 ふたりは、まず、お弁当でも買って、腹ごしらえでもしたら?」

ってことで

ふたりは弁当も買って。

それぞれ

飲みたいものや

食べたいお菓子を選んでレジへ。

ぼくは、ヱビスの黒ビール2本とお茶と

お菓子はなんだったっけ?

忘れた。

湊くんは、違うメーカーのビールと、お菓子。

あらちゃんは、ノンアルコールのビール持ってきてたから

なにも買わず。

さあ、きょうは、決めることが2つ。

そして、ひさびさの3人そろっての会合で

ぼくも少々、興奮ぎみ。

ブハー。

湊くんが

ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を持ってきていて

岩波文庫のね。

「あっ、ぼくも持ってるよ。」

と言って、部屋の岩波文庫のある棚を指差した。



しばらくのあいだ、『論理哲学論考』について話をした。

ぼくが

「ヴィトゲンシュタインって

 文学作品って、なに読んでたんだろ?」

と聞くと

「それはわかりません。」

湊くんが

坐ってるところから見える

部屋の本棚に置かれたSF文庫の表紙を見てから

「SFとか読んでましたかね?」

「当時はまだ、SFはなかったんじゃない?

 あ

 でも、ウエルズは読んでたかもしれないね。

 あれは、当時、みんなに読まれてたって書いてあったから。」

ほんとのことは、わかんないけどね〜。

湊くんが

台所の換気扇のところでタバコを吸っているあらちゃんに向かって



ぼくの部屋では禁煙なの。

本にタバコのヤニがついちゃうのがヤだから。

まっ

と言っても

部屋と台所はつづいてるんだけどね〜。

カーテンで仕切ってるだけで。

そのカーテンも半分開けてるし、笑。

換気扇だけが頼りね。

「荒木さん、日記も読んでるんですよね?」

あらちゃんが、タバコをフーと吐き出してから

「読んでますよ〜。」

「ヴィトゲンシュタインが、なに読んでたか書いてありましたか?」

「なに読んでたの?」

と、ぼくも追い討ち。

「さあ、わかりませんね〜。

 それは書いてありませんでしたね。

 まだぜんぶ読んでないんで

 もしかしたら、あとで出てくるかもしれませんけど。」

と、ぼくと湊くんの、ぼくたちふたりに向かって。

ぼくが

「なにも読まなかったのかもね。」

と言うと

「『論理哲学論考』でも、ラッセルとホワイトヘッドについてしか言及してませんからね。」

と湊くん。

このあと

さいきん、『論語』や荘子の本を読みはじめた湊くんの話を聞きながら

3人で

西洋と東洋の思想や哲学の話をしていた。

湊くんが

「ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』にも神が出てきますね。」

って



ほとんどすべての西洋の人間には、

あの「神概念」がどうしても抜けないらしくって

って言うから

ぼくが

「当時は仕方がないんじゃないの?」

と言うと

「いまもですよ。」

と湊くん、



つづけて

「ぼくたち、日本の詩人にとっては

 アッシュベリーの詩って、難解でもなんでもないじゃないですか?」

「そだよね〜。」

あらちゃんは、アッシュベリーはまだ読んでなかったのか

ここでは聞いてるだけ〜、笑。

「そだね〜。」

と、もう一度。

「でも、アメリカ人にとっては難解なんですよ。」

話の流れから言えば、当然、こうだわな。

「神概念が抜け落ちてるから?」

「そうです。

 だから

 日本の現代詩からすれば

 ふつうによくある抒情詩ですけど

 アメリカ人から見たら

 難解なんですよ。」

「神概念の欠如ねえ。

 もちろん、キリスト教の神概念だろうけど。

 それで

 日本人のぼくらには、よくわかって

 アメリカ人には、よくわからないんや。」

ふ〜ん。

なるほど〜

と、腑に落ちかのように

うなずいた。

ほんとは、それほど腑に落ちなかったのだけれど。

クリスチャンじゃないぼくだって

聖書には、ずいぶん影響されてるからね。

「いまでも、アメリカ人って、神概念に拘束されてるの?」

「そうですよ。」

「へえ〜。」

そうなのかな〜

学生時代に読んだ本では

ドイツでは教会離れが急速に進んでるって書いてあったんだけどなあ

って思った。



これって

さっき考えたことと矛盾するか、

でも、まあ、現実に

アメリカ人やオーストラリア人といった外国人と頻繁に会っている

湊くんの話だから、そうなんだろうね。

まあ、ぼくはキリスト教系の大学の付属高校に勤めてて

ネイティヴの先生も多いし

聖書の時間も授業にあって

また毎朝、チャペルで礼拝もあるし

特別に宗教の時間がもたれることもある学校なので

聖書が職員室のそこらじゅうの机の上にあるのがふつうの光景で

とくべつ、アメリカ人の先生たちがクリスチャンかどうか

また、クリスチャンでなくっても

聖書的な神概念に精神が拘束されているのかどうかなんて

とくに考えたこともなかったけれど

湊くんの話を聞いて、そうかもしれないなあ、と思った。

湊くんが

『論理哲学論考』を開いて見せてくれた。

これですけど

と言って

「われわれは事実の像をつくる。」

ってところを

指差して示してくれた。

イメージと像について話をしているときだった。

ヴィトゲンシュタインは

ドイツ語と英語で

イメージについて書いているけれど

ドイツ語では

イメージのニュアンスと、

じっさいに見えるものという意味の

両方の意味に使える単語 Bild を採用しているけれど

英語ではそれを picture と訳しているので



しかも

ヴィトゲンシュタイン自身が英訳にかかわっていたので

ヴィトゲンシュタインにおけるイメージは

picture だったわけで

って話のフリがあって



ぼくが

湊くんが見せてくれた言葉を見て

「事実は、われわれの像である。

 事実は、われわれの像をつくる。

 って、どう?」

と言うと

「ヴィトゲンシュタインも同じようなことを書いてますね。

 これ、書き換えが多いですから。」

と湊くん。

「そうやったかな。

 読んだの、ずいぶん前やから、わすれた〜。

 そいえば、パウンドも、詩論で

 イメージこそ大事で、って書いてたけど

 ヴィトちゃんも、イメージかあ。」



なんで

大学やめて

田舎で看護仕なんかしてたんだろうね。

またケンブリッジに戻りますけどね。

ラッセルが推薦してねえ。

とかとか

ヴィトゲンシュタインの話がしばらくつづいて

3人で盛り上がった。

ぼくが坐っていた右横に

ダンボール箱があって

それはこのあいだ、プロバイダーを替えたんだけど

モデムとかが入っていたヤツね

いまは古いほうのモデムなんかを入れて返送用の箱待ちぃ〜



その上に

いまお風呂場で読んでる『源氏物語』の「薄雲」のところがあって

これって

ホッチキスで読む分だけを、とめてあるやつなんだけど

それを渡して

ぼくがオレンジ色の蛍光ペンで印をつけたところを指差した。

「夢の渡りの浮橋か」(うち渡しつつ物をこそ思へ)

って、ところね。

「いいでしょ?

 このフレーズ。」

「これ、だれの訳ですか?」

「与謝野晶子。」

「これ、もと歌がありますね。」

「あるんじゃない?

 ぼくも似た表現、見た記憶があるもん。

 物をこそ思へ

 って、なんだか、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの言葉みたい。

 事物こそ、なんとか、かんとか〜だったっけ?

 具体的なものこそ、なんとか、かんとか〜だったっけ?

 パウンドも書いてたかな〜。」

「いや、よくありますよ。」

俳句や短歌にも詳しい湊くんだった。

「いま、うちのそばに

 夢の浮橋のあとがありますよ。」

「えっ?

 あっ、

 引っ越したんだっけ。

 いま、どこらへんに住んでるの?」

「東福寺のそばですよ。」

「橋があるの?」

「いえ、なにもありませんよ。

 なにもありません。

 よくある史跡ですよ。

 あったということだけがわかっている

 場所を示す立て札があるだけです。

 これが『源氏物語』で有名な浮橋で、

 とかという説明が書かれた立て札があるだけです。」

そいえば

アポリネールの

「ミラボー橋」も

詩はあんなに有名なのに

シャンソンにもあるらしいのだけれど

橋自体は

ちっぽけなものだって

どこかに書かれてるの読んだことがあるなあ。

夢の浮橋かあ。

夢に

なにを渡すのだろう。

夢から

なにを渡されるのだろう。



それとも

夢自体が

渡すものそのもの

橋なのかな。

夢の浮橋。

どこが、どこに通じてるんだろう。

どこと、どこがつながってるんだろう。

なにが、なにを渡すのだろう。

なにから、なにが渡されるのだろう。

なにを、なにに渡すのだろう。

物をこそ思え。

今回の言語実験工房で話し合わなければならないことは2つあって

1つは

関根くんをメンバーに迎えるかどうか。

もう1つは

今年の言語実験工房賞は、だれに?

さいしょのことは、関根くん自体が消極的なので

じゃあ、これからも言語実験工房は3人でやりつづけましょうということで

これは30秒くらいで決定。

言語実験工房賞も

まえに、湊くんと日知庵で飲んでたときに

話していた詩人の詩集に

とのことで、あらちゃんも同じ意見だったので

数十秒で話し終わった。

ひゃはは。

1分くらいで

会合の目的は果たして

ぼくたちは

お酒と、お菓子を、手に手にして

まだまだ

右に

左に

縦に

横に

縦、縦、前、横、横、後ろ、前、右、左、斜めに

話しつづけていたのであった。

前から、みんなで見ようねって話をしていた

ぼくがいま夢中に好きな

キングオブコメディのDVDを見ることになった。

ぼくの好きなコントをいくつか見たあとで

ドッキリっていうか

ドキュメントなのかなあ

盗み撮りで

2人が楽屋で

中華料理屋から出前をとって

ご飯を食べてるシーンがあって

コンビの相方のひとりが

もうひとりのほうの食べ物をねらって、とってばかりいるという

食い意地の汚さをメインに人間模様が浮かび上がるシロモノだったんだけど

ぼくが

「中学のとき、お弁当のおかず

 とってくヤツっていなかった?

 いたでしょう?」

と言うと

「いたいた。」

と、あらちゃん。

湊くんが

「ぼくは中学のとき、給食でしたから

 なかったですよ。」

「名古屋だったら

 うぃろうが出てきたりして。

 あ、

 湊くんってさあ、

 大阪だったよね。」

「そうですよ。

 ですから

 タコ焼き出てきたのかって

 よく言われます。

 出てきませんでしたけど。

 いまだったら出てくるかもしれませんけどねえ。」

「京都だったら

 おたべだよねえ。

 出てきてほしいなあ。

 おいしいもんね。」

ふたりも、好き好き、と。

「いろんな種類

 出てますよね。

 ぼくは、抹茶味が好きぃ。」

と、あらちゃん。

「カラフルなものがいっぱい出てるものね。」

黒胡麻かな。

真っ黒なものもあった。

ピンクや

黄色もあった。

なに味か、わかんないけど。



あらちゃんの好きなグリーンのもね。

それは、抹茶味か。

そいえば

一語が入ってるのもあったかなあ。



イチゴね、笑。

すると

湊くんが

「清水寺をのぼっていく道があるじゃないですか?

 あの細い狭い坂道

 あそこ通ると

 試食で

 お腹がいっぱいになります。」

「ししょく」って

すぐには、わからない、ぼくだった。

音になじみがなかったので。



「いろんな食べ物が試食できますよ。

 甘いものに飽きたら

 漬物の試食すれば味が変わりますからね。

 デート・コースには、うってつけですよ。」

このへんで、ようやく

「ししょく」の意味がわかったぼくだった。

このあいだ、文学極道に投稿した詩の

わかんないところを

湊くんに教えてもらった。

詩をプリントアウトしたものに

あらかじめ、赤いペンで

わからないところに矢印をしておいたのね。

チェックしてもらっているあいだ

DVD見てたぼくだけど。

ごめんちゃい。



つぎの点を、書き込んでもらった。

rejection slip

詩人

ジョン・ベリマン

レオポルド・ブルーム

rejection slip

ってのは

編集者が、作者に雑誌掲載できない原稿だっていう返事を書いたものね。

「スリップって、小さい紙ってことだっけ?」

「そうですよ」

詩人っていうのは

このあいだ文学極道に投稿した作品で

rejection slip

ってのを受け取っても

それを机の見えるところに貼って

執筆しつづけて

編集者に作品を送りつづけた作者のことだけど

ぼく

忘れてたからね〜。



それが

だれかってのも忘れてたんだけど

それは

ジョン・ベリマンだとのことでした。

湊くんが笑いながら

「だから、あとで

 ジョン・ベリマンの話になったんじゃないですか。」

ぼくも、自分で自分のこと笑っちゃった。

「そだったね。

 忘れてた〜。」

ぼくって

あの長篇詩『ブラッドストリート夫人賛歌』

何度も引用してるのにね。

ギャフンだわ。

レオポルド・ブルーム

ってのは

ジョイスの『ユリシーズ』の主人公の名前ね。

これも忘れてたのね。

「文学極道でさ、

 いま、ぼく、投稿してるじゃない?

 そこに粘着質のひとがいるんだけど。」

そう言うと

湊くんが

「見ましたよ。

 相手にしたら、いけませんよ。」

「うん。

 わかってるよ。

 相手にしてないよ。
 
 でも、なんだか、そのひとのことを考えてたら

 ぼくまで

 粘着質っぽく思えてきちゃってさあ。

 ぼくって、粘着質かなあ?」



台所に立って換気扇の下で、タバコを吹かしてた

あらちゃんに近づきながら、そうきいた。

ぼくも、タバコが吸いたくなったのだった。

「あつすけさん、

 粘着質と違いますよ。

 あつすけさんは

 スキゾでしょ。」

「スキゾって、なに?」



ぼくが言うと

湊くんが

「スキゾは分裂症型ってことですよ。」

って、



「粘着質のひとって

 見て

 すぐわかりますよ。」

って。

すると

あらちゃんも

「見たら

 わかります。」

とのこと。

「へえ〜

 そなの?」

「あつすけさんは、粘着質と違いますよ。」



湊くんまで

そう言ってくれたので、安心した。

ぼくは

いままで、ずっと

自分のことを、粘着質で

執念深い性質だと思ってきたから。

「実母がさ。

 精神病じゃない?

 精神分裂のほうの。

 いま統合失調症って言うみたいだけど。

 だから、遺伝してるのかな?」

ふたりの顔を見ながら

そう言ったら

湊くんが

「分裂症型と

 分裂病とは違いますからね。」

「えっ?

 あっ

 そうなんや。

 ああ

 そうやったね。

 症と病じゃ、違うもんね。

 よかった〜。」

と言いながら

ぼくの頭のなかでは

狂っている母親の姿が思い浮かんでいた。

話をしていると

突然

鳥になって、鳥の鳴く声で鳴き出したり

突然

狂ったように

いや、

狂ってるんだけど

狂ったように

ケタケタと

大声で笑い出したり

突然

物になったかのように無反応になったりする母親のことが

ぼくの頭のなかをよぎった。

ふたりは

そんな映像を頭に思い浮かべることもなかったと思う。

おそらくね。

っていうか

思い浮かべたら

おかしいね。

湊くんが

「ふたりとも

 そこに立ってたら

 ぼく、さびしいじゃないですか。

 ぼくも、そっち行こうかな?」

「いやいや

 そっち戻る、そっち戻る。」

ぼくは、あわてて

吸っていたタバコをもみ消して

パソコンの前の

自分の坐っていた場所に腰を下ろした。

「このつぎのやつ。

 だじゃれのVTRなんだけど

 ぼくって

 よく

 だじゃれ使うじゃない?

 齢いくと

 そうなるって言うけど

 さいきん、めっちゃ使ってるような気がするわ〜。」

リモコンで、スピーカーの音量をあげた。

キングオブコメディの今野くんが

「ダジャレンジャー」

って役で

まあ

マトリックスのエージェントのような服装で

サングラスは

はずしてね

出てくるVTRなんだけど

あらちゃんもタバコを吸い終わって

はじめに腰を下ろしてたところ

テーブルをはさんで

ぼくとは対面の場所に坐った。

湊くんは

パソコンの画面の正面

3人の位置は

ぼく

湊くん

あらちゃんの順に





西

うん?

そうだね。

3人の背中は

それぞれ

東向き

南向き

西向きだった。

湊くんが笑いながら

「やっぱり

 メリルは貸してもらえませんか?」

ぼくも笑いながら

「ごめんね〜。」

早朝の豆腐売りの

ファ〜フウ、ファ〜フウ

って音が

映像となって通り過ぎていったかのような錯覚がした。

音が

動く画像になって

目の前を通り過ぎてくような感じかな。

「ごめんね〜。」



もう一度

笑い顔をして

念を押しておく。

「やっぱ、ぼく

 けちなんだわ〜。」

すると

湊くんが

あらちゃんから返してもらった詩集を手にしながら

「ぼくは

 多少、傷んでても平気なんですけどね。」

すると

あらちゃんが、

遠慮がちに

自分のリュックからもう1冊

湊くんから借りていた本を返しながら

「これ、ごめんなさい。

 帯がちょっと破れました。」

あらちゃん

笑ってないし

でも

湊くんは

「大丈夫ですよ。

 ぜんぜん平気ですよ。

 そりゃ、さすがに

 めちゃくちゃ汚されてたら

 ううううん

 って思いますけど。」

笑いながら。

ぼくは、笑わなかった。

考え込んじゃった。

「ぼく、やっぱり

 けちなんやろか?」

「あつすけさんは

 とくべつ敏感なだけでしょ。」



湊くん

笑いながら。

ぼくは

笑えなかった。

神経質なんやろなあ。

おんなじ本を5冊も買って

付き合ってた恋人に

これ以上、おんなじ本を買うたら

別れるで

とまで言われたもんなあ。

『シティー5からの脱出』やったかな。

J・バリトン・ベイリーの。

あの表紙が、かわいいんやもん。

ちょっとでも

ええ状態のもんが欲しかっただけやのに。

ぼく

笑ってないし。

ぜんぜん

笑ってないし。

笑ったけど。

「北見工大の専任講師に応募してみたら

 って話がきましたけど、応募しませんでした。」

「へえ、

 ぼくやったら応募するわ〜。」

「あつすけさん、

 ぜったいあきませんよ。

 京都から出たことないから

 想像つかないんとちゃいます?」

「そうですよ。

 どんなところか

 ぜんぜんわかってないでしょう?」

「えっ?

 どこなの?」

「北海道の東のほうで、網走のすぐ西ですよ。」

「網走?

 だけど

 たしか、北川透って

 九州の田舎の大学じゃなかった?」

「そんなの比べものになりませんよ。

 冬なんて

 ふつうの寒さじゃないんですよ。

 ストーブ、ガンガンにつけてても寒いんですからね。」

「そっか。

 それって

 雪まみれってこと?

 部屋のなかまで〜?」

「セントラルヒーティングしたうえで

 ストーブ、ガンガンにつけてても

 寒いんですよ。

 ウェブで見たんですけれど

 特別な暖房がいるから

 地元の電器屋にご相談を

 なんて書いてありました。」

「それに

 こっちに戻ってくるのに

 5万円はかかるでしょう。」

「えっ?

 でも、専任だったら

 年収500万円とか、600万円はあるんじゃない?

 だったら

 100万円くらい

 旅費に使ったっていいんじゃない?」

「ありますかねえ。」

「あるよ、ぜったい。」

と、よく知らないくせに、ぼく。

「ありますよ。」

と、あらちゃんも。

あらちゃんが言うから、あると思った。

確信した。

「ううううん。」

湊くんが笑いながら。

「それに、学会とかあるやろうし。

 大学がいろいろお金出してくれるんじゃない?」

と、ぼく。

「いや〜、あつすけさん。

 最近、出ませんよ。」

とまた、あらちゃん。

「公立だから?

 ふうん。

 ぜんたいに不景気なのね〜」

「それに

 工大でしょう。

 専門が…」

「えっ?

 だって

 あのひと

 あの

 ほら

 言語実験工房に作品送ってきてくれたひと

 京都で会ったじゃない。

 あのひとって

 医学部じゃん。

 教えてるの。

 医学部出身じゃないけど。」

「高野さんですか?」

「そうそう。

 高野さん。」

「そういえば

 そうですねえ。

 あ

 2週間前に会いましたよ。

 同志社であった the Japan Writers Conference で。」

「それって、学会?」

「ええ。

 学会みたいなものですね。

 イベントって言ったほうが適切でしょうけれど。」

「ふうん。

 元気にしてはった?」

「元気でしたよ。」

元気なのか。

そだ。

キングオブコメディの「ダジャレンジャー」で

今野くんが

電器屋さんの店頭で

「デンキですか〜!」

って叫んでた。

アントニオ猪木のマネしながらね。

「でも

 北見工大って有名なんじゃない?

 北見工大付属って

 甲子園に出てない?」

「出てましたかね?」

「出てるかもしれませんねえ。」

ぼくら3人とも

野球には詳しくなかったのだった。

でも

「ぼくの耳が

 知ってるような気がする。

 音の記憶があるもん。

 北見工大付属って。」

どこかと間違ってる可能性はあるけどね〜、笑。

「でも、専任になったら

 書類がたいへんですよ。」

「そうなんや。」

「はんぱじゃないですよ。」

「そういえば

 日本って、アメリカとかと比べて

 会社で書かされる書類の数がぜんぜん違うって

 なんかで読んだ記憶があるなあ。」

「このあいだなんて

 研究室の安全確認の書類を書いてました。」

「えっ?

 そんなの事務員がすればいいんじゃないの?」

「研究室の配線とかのことで

 それは、ぼくたちがやらなきゃならないんです。」

「そうなんや。

 まあ、そうなるのかもしれないね。」

「授業計画書とかも書かなきゃなんないでしょ。」

「あっ、そうだよね。

 國文學の編集長やった牧野さんから

 授業計画書を見せてもらったことがある。

 いま

 大学で教えてはるのね。」

「とにかく書く書類が増えるってことですね。」

「日本人って

 不安なんだろうね。

 書類がないと。」

じゃあ。

一日じゅう

書類書いとけばいいじゃん

っとか思った。

一日じゅう

書いて

書いて

書きまくるのね。



たしかに安心するのかもしれない。

ぼくが詩を書くように

書いて

書いて

書きまくるのね。

いや

違うかな。

ぼくは

書いても

書いても

いくら書きまくっても

いつまでたっても

安心できない。

なんでなんやろ?

わからん。

フィリピン人のコメディアン greenpinoy の チューブで

One Year of Friendship!

ってタイトルのものがあって

それって

greenpinoy が

1年のあいだに

友だちたちといっしょに撮った写真を

スライドショーっぽく

画像をコマ送りしながら

スティーヴィー・ワンダーが参加して歌ってる

RENTの主題歌を流してるんだけど

そのRENTの歌って

1年という期間を

およそ、525600分と計算して

そこに、525000の瞬間の出来事があって

っていうふうに歌ってて

そこに

日没があり

そこに

愛があり

そこに

人生がある

とかとか言ってるのだけれど

ぼく

ふと思っちゃった。

1日のうちに

1年があるんじゃないのって。

1日のうちに1年があって

1時間のうちに10年があって

1分のうちに、生きているときのすべての時間があるんじゃないのって。

すると

やっぱり

ノーナ・リーヴスの西寺豪太ちゃんがブログに書いてたように

一瞬のなかに永遠があるんだよね。

豪太ちゃんは

「一瞬のなかにしか永遠なんてものはないのさ。」

だったかな。

いや

もっと短く

「一瞬のなかに永遠はある。」

だったかな。

そんなこと書いてたけど

ぼくも、そんな気がする。

気がした〜。

豪太ちゃんの言葉を見たときにね。

その言葉、見たの

ずいぶん前のことだけど。



そのときにも思ったの。

一瞬のなかにこそ、永遠というものがあり

なおかつ

永遠というものも、一瞬のものであるということを。

ひとまばたき。

「目を閉じて、目を開ける」

ただひとまばたきの

時間のあいだに

永遠があるのだということを。

アハッ。

じつは

さっきね。

「一瞬のなかにこそ、永遠はある。」って、書いたとき

キーを打ち間違えて

「一蹴のなかにこそ、永遠はある。」

ってしてたんだけど

一蹴

おもしろいから

そのままにしてやろうか

な〜んて

思っちゃった〜。

「ヴィトゲンシュタインって

 この『論理哲学論考』では

 よく「対象」っていう言葉を使ってますね。」

「ぼくなら「対象」と「観察者」をはっきり分けたりできないけど。」

「ヴィトゲンシュタインは、はっきりさせようとしています。」

「はっきり分けようとすると

 矛盾がでてくるんじゃない?

 分けられないでしょ?

 じっさい。」

「後期のヴィトゲンシュタインは、それを反省してますけどね。」

「言語ゲームですね。」

と、あらちゃん。

「とにかく

 『論考』では、はっきり分けて考えるようにしていますね。」

アリストテレスの二項対立みたいに

なんでも分けて考えるのね。

西洋人って。

いや、考えること is equal to 分けること

なのかな。

「ぼくなんか

 いつも

 なにか考えるときは

 考えてるものと

 その考えてる自分というものとは不可分だってこと

 考えちゃうんだよね〜。

 それに

 ときどき

 その考えてるものが

 自分のことを考えてる

 な〜んてことも考えちゃうしね〜。」

はっきり分けられないと

いつまでも

ぐずぐず食い下がるぼくであった。

「あなたの友だちの息は、とっても臭いです。」

Useful Japanese

って、英語のタイトルだった

greenpinoy のチューブを見た。

「わたしのおじさんは、ホモだと思います。」

これも面白かったなあ。

「あなたは中国人ですか?

 日本人ですか?

 それとも、韓国人ですか?

 どっち?」

ってのもあって。

「日本では

 2つのうちの1つを選ぶときにしか

 「どっち」って使わないよね?」

と言うと、

「英語では

 3つ以上のものから1つのものを選ぶときも

 2つのときからと同じで

 which ですよ。」

と湊くん。



このチューブを見たあとで

これ感動したんだよ

と言っておいて

トップの静止画像だけ

ちらっと

見せておいて

先に

この「日本語の勉強」ね、

Useful Japanese のチューブを見てもらって

あとから見た

「これ感動したんだよ

 『RENT』の主題歌ね。

 スティーヴィー・ワンダーが歌に参加してるけど

 スティーヴィー・ワンダーの詩なのかな?」



「ぼく、この単純な詩にめっちゃ感動したんだけど。」

って言って



「これ、

 似てる詩をゲーリー・スナイダーが書いてたよ。」

と言って

『ビート読本』を出して

スナイダーのところを捜したら

なかった。

そしたら

頭が

ピリピリと

頭の横のところが

ピリピリと

痛かった。

また記憶がまちがっていたのかって思って



本のどこかで引用してたはず

と思って捜しつづけたら

見つかった!

なにが?

ナナオササキの詩が。

ナナオササキの詩だったのだ。

「そんなこと、ぼくもありますよ。」

と湊くん。

フォローが絶妙、笑。



おとつい

日知庵に行ったあと

大黒に行ったら

マスターが

ぼくの耳のうしろから息を吹きかけるから

「やめてよ。

 感じやすいんだから。

 ぼく

 耳がいちばん感じるんだから。」

「あつすけさんって

 全身性感帯みたい。

 乳首も感じるの?」

そう言って、手をのばそうとするから

すかさず、ぼくは、両手で自分の胸をおさえた、笑。

「やめて!

 感じちゃうから。」

「感じれば、いいじゃない。」

「だめなの。

 いま、飲んでるでしょ。」

「まあね。

 あいかわらず、わがままね。」

「はっ?

 なに、それ?」

「まあ、まあ。

 いいわ。

 飲みなさい。」

なんか

憮然としちゃった。

かさぶたができるぐらい

ギュー

って

乳首をつままれた

いや

ひねられただな

記憶がよみがえっちゃって

一気に

ジョッキの生ビールをあおっちゃった。

「ぼくの乳首って小さいけど。」

と自分の胸を何度も手のひらでなでるマスター。

「あつすけさんの乳首って大きそうね。」

「おかわりぃ〜。」

「は〜い。

 あっちゃん

 ビール入りま〜す。」

バイトの男の子が伝票にチェック。

西寺豪太に似たガッチリデブのブスカワの子。

このあいだ

ノーナ・リーヴスの最新アルバム『GO』を大黒に持ってきて

かけてもらったときに



湊くんときたときね。

「きみってさあ。

 ブスカワじゃん?

 このボーカルの子に似てるよ。

 ぼくの目にはソックリ。」

湊くんが

カウンターの上でライナー・ノーツを拡げて見せてた

ぼくの手のひらの上の

西寺豪太の写真の顔をのぞき込んでから

顔を上げて、目の前に立ってたバイトの子の顔を見た。

「似てますね。」

「似てますか?」

と、そのバイトの子ものぞき込む。

「似てないことはないと思いますけど

 そんに似てますかね。」

「ブスカワなとこも

 いっしょじゃん。」

と、ぼく。

「ええっ?

 そんなん言われても。

 ブスカワですか?

 ぼく。」

「ハンサムじゃないね。

 男前でもないし。

 もちろん、カッコよくもないし。

 でも、いいじゃん。

 ブサイクでカワイイんだから。

 ぼくなんか

 愛嬌なくって

 ぜんぜん

 ひとに好かれないもん。

 ぼくも、ブサイクでカワイイ

 ブスカワに生まれたかったな。

 ブスカワだと

 ぜったい

 人生ちがってた〜。」

ここで、おとついに時間を戻す。

ぼくがひとりで飲みにきてたときにね。

「ぼくも、あんなジジイになりたい。」

映画のなかに出てきたチョー・ブサイクな白人のジジイを指差した。

「あれ、あのジジイね。」

「ぼくは、かわいいと思うけど」

「ぼくは、マスターとちがって

 年上はダメなの。」

「あの俳優さん、かわいいと思うけど。」

「ジジイじゃん。

 ぼくもジジイだけど。

 でも、あんなにブサイクなジジイになったら

 もう恋をしなくても、すむじゃん。

 期待しなくても、すむじゃん。

 はやく、あんな汚いジジイになりたいっ!」

「それって、きのうも話してたんだけど

 きのう

 お店が暇だったから

 みんなで、ラウンド1 に行ったのよ。

 そこで、そんな話が出たわ。

 むかしモテタひとって

 よくそんなこと言うわねって。」

「ふううん。」

「あつすけさん、

 年上とはないの?」

「あるよ。

 2、3人だけだけど。

 それに

 年上って言っても

 1つか2つくらい上だっただけだけどね。

 とにかく

 ぼくは

 ぼくより齢が上で

 ぼくよりバカなひとって

 大っ嫌いなの。

 ぼくより長く生きてて

 ぼくよりバカって

 考えられへんわ。」

「ぼくは、だらしない年上も好きだし

 しっかりした年下も好きよ。」

「じゃあ、ぼく、ぴったしじゃん。

 ぼく、だらしないよ。

 頼りないし

 貧乏だし

 部屋も汚いしぃ。」

横に立ってたマスターの分厚い胸に

頭をくっつけて甘える

ぼくぅ。

「部屋が汚いのは、いや〜ね。」

「えいちゃんも、よくそう言ってた。」

頭をマスターの胸から離した。

「片付けられないのね。」

「片付けるよ。

 ひとがくるときだけだけど。」

ほんと

そうなんだよね。

今回の言語実験工房の集まりでも

ぼくの部屋

掃除しはじめたのって

約束の時間の1時間くらい前からだもんね。

そいでもって

約束の時間ギリギリまで掃除してたもんね。

ぼくは

シャツの上に浮き出たマスターの乳首の形を見つめた。

ぼくの乳首

大きくないし。

「あっちゃん、

 アプリって知ってる?」

「知らない。」

「マイミクになったら

 教えてあげる。」

「ならない。」

「ほれほれ、この漢字読める?」

箇所

って漢字を、携帯で読ませようとするマスターに

「読めない。」

「あらあら、

 あっちゃん、

 詩を書いてるのに漢字が読めないのね。」

「漢字はパソコンが書くから

 ぼくが知らなくってもいいの。」

「まあ。

 あっちゃん、

 もっと漢字、知らなきゃ

 詩を書けないでしょ?」

「べつに。」

ぼくは

シャツの上に浮き出たマスターの乳首の形を見つめた。

ぼくの乳首

大きくないし。

ぜったい大きくないし。


CHANT OF THE EVER CIRCLING SKELETAL FAMILY。 

  田中宏輔





     点の誕生と成長、そして死の物語。



   点は点の上に点をつくり
   点は点の下に点をつくり
   点、点、点、、、、

   はじめに点があった
   点は点であった
   
 

ある日
王妃のところに
大点使ミカエルさまがお告げにこられました。
「あなたは点の御子を身ごもられましたよ。」
と。
王妃は
それまで不眠症で
ずっと夜も起きっぱなしで
ただ部屋を暗くさせて
目をつむって床についていたのでした。
暗い部屋で目をつむっていれば
寝ているときの半分くらいの休息にはなると
医学博士でもあり夫でもある王から言われていたのでした。
大点使ミカエルさまの姿はまぶしくて見えませんでしたが
お声だけは、はっきりと聞き取れたのでした。
王妃はすぐに
王の寝室に行き
王の部屋の扉をノックしました。
「わたしです、愛しいあなた。
 起きてください。
 いま、大点使ミカエルさまがいらっしゃって
 わたしに点の御子を授けたとおっしゃるの。」
「なんじゃと。」
王はそういうと布団を跳ね除け
扉を開けて妻である王妃の顔を見た。
王妃の顔は、窓から差し込む月の光にまぶしく輝いていました。
「点の御子じゃと。」
「点の御子だとおっしゃいましたわ。」
「点、点、点、……。」
「ええ、点、点、点と。」
「いったい、どのような子じゃろう?」
「わたしには、わかりませんわ。」
「では、待つのじゃ。
 点の御子が生まれてくるまで。」
そうして
王と王妃は
ひと月
ふた月
み月と
月を数え
日を数えて待っていたのでした。
ところが、いっこうに王妃のお腹はふくれてきません。
「どうしたものかのう。
 なぜ、そなたの腹はふくらまぬのじゃ?」
「わたしには、わかりませんわ。」
「なにしろ、点の御子じゃからのう、
 点のように小さいのかもしれんなあ。
 いや、そもそも、点には大きさがないのであった。
 それゆえ、まったく腹がふくらまないのかもしれんな。」
よ月
いつ月
む月たっても、いっこうに王妃の体型は変わらりませんでした。
ただし、不眠症であった王妃は
大点使ミカエルさまが姿を顕わされたつぎの日から
夜になると
ぐっすりと眠れるようになったのでした。
もう不眠症どころではありません。
ふつうのひとよりずっと多く眠るようになっていたのでした。
なな月
や月
ここのつの月が過ぎ
とうとう
と月目に入りました。
と月とう日目の夜
(TEN月TEN日目の夜)
月の光の明るい夜のことでした。
王妃の部屋から叫び声が聞こえてきました。
王は布団を跳ね除け
ベッドから飛び起き
自分の寝室から
王妃の寝室までダッシュしました。
「どうしたのじゃ?」
「あなた。
 ああ、愛しいお方。
 いま、生まれましたわ。
 わたしの子。
 点の御子が。」
王妃はカーテンをすっかり開けました。
窓から差し込む月の光の下で
ベッドの敷布団の上にあったのは
ただ
ひとこと
点としか言えない
点でした。
王の目と王妃の目が見つめ合いました。

     *

王と王妃は
点のために誕生の祝典をひらく。
点は祝福をもたらすもの。
点は祝福をもたらす。
王宮じゅうが
点の誕生を祝福して
お祭り騒ぎ。
点は祝福をもたらす。
国民は
王と
王妃とともに
祝典をあげる。

     *

点は、国家に興味がない。
点は、王にも興味がない。
点は、王妃にも興味がない。
だれが、どこで、なにをしているのか
だれが、どこで、なにをされているのか
点は、なにものにも、まったく興味を魅かれなかった。
王妃がひそかに主人である王の家来と密通していようと、していまいと
王が馬丁の男と禁じられた恋の行為をしていようと、していまいと
点には、まったく関心がなかった。
点にはできないことはなかった。
あらゆることが可能であるなら
そういった存在は
なにかを望むなどということがありえようか。
点には、あらゆることが可能であった。
点には、自身が点であることすらやめることができたのである。
また点であることをやめたあとに
点になって復帰することも可能であった。
なぜなら、点には時間が作用しないからである。
点は、あらゆる時間のはじまりにも、
あらゆる時間の終わりにも存在していたし、存在していなかった。
点は、あらゆる場所のはじまりにも、
あらゆる場所の終わりにも、存在していたし、存在していなかった。
点は、あらゆる出来事のはじまりにも、
あらゆる出来事の終わりにも、存在していたし、存在していなかった。
あらゆる時間と、あらゆる場所と、あらゆる出来事は、点だった。
点は、存在するものであり、存在しないものである。
点は、あらゆる存在するものでもあり、あらゆる存在しないものでもある。

     *

点は、国家に興味がない。
点は、王にも興味がない。
点は、王妃にも興味がない。
国家のほうが、点に興味を持っていた。
王のほうが、点に興味を持っていた。
王妃のほうが、点に興味を持っていた。
だれもが、いつ、どこでも、どんなときにも、点に興味を持っていた。
だれひとり、点に興味を失うことはなかった。
だれひとり、点に関心を払わないわけにはいかなかった。
その点が、点が点である所以であったのであろう。

     *

点は、王にも、王妃にも、ほかのだれにもできないことができた。
点は、本のなかの物語そのもののなかに入ることができたのであった。
点は、本のなかに描かれた草原で風の声に耳を傾けることもできたし
点は、王に反逆した臣下が捉えられて拷問されているときの悲鳴を聞くこともできたし
点は、さやと流れる川の水の音に耳を澄ますこともできた。
点は、嵐の夜の稲光を目にすることもできたし
点は、畑で働く農民の首に流れる汗に反射する太陽の光の粒に目をとめることもできたし
点は、終業間際の疲れた目をこする会計士の机の上に開かれた帳面の数字に目を落とすこともできた。
点は、氾濫して崩壊した川の濁流に巻き込まれることもできたし
点は、電話口でささやかれる恋人たちの温かい息のなかに入ることもできたし
点は、地球と月の重力がつり合ったラグランジュ点となることもできた。
ただひとつ、点にできなかったのは、音そのものになることだった。
ただひとつ、点にできなかったのは、光そのものになることだった。
ただひとつ、点にできなかったのは、熱やエネルギーや力そのものになることだった。

     *

点は、存在し、かつ、存在しないものである。
存在するものそのものではない。
存在しないものそのものでもない。
点は、物質でもなく、光でもなく、音でもなく、
エネルギーでもなく、力でもない。

あらゆる存在するものが点だった。
あらゆる存在しないものが点だった。
点は、あらゆる存在するものだった。
点は、あらゆる存在しないものだった。

さて
ここで
「あらゆる」という言葉が禁句であったことに思いを馳せよう。
「あらゆる」という時点で、(時と点で)
その書かれた文章は
メタ化された次元で無効となる恐れがあるからである。
間違い。
メタ化された次元から見ると無効となる恐れがあるからである。
(ほんとかな? 笑。)
上に書かれた文章には、穴が、ポコポコと、あいている。
それも、みな点だけれど。
点には大きさがないということは
いくらあいてても
あいてないのか?
笑けるわ。
ぼくは
笑わないけど。
点は、存在し、かつ、存在しないものである。

     *

点は、移動するのか?

点は、自身をも含むいかなる点に関しても対称な位置に座標をもつことができる。
点は、自身をも含むいかなる直線に関しても対称な位置に座標をもつことはできる。
点は、自身をも含むいかなる平面に関しても対称な位置に座標をもつことはできる。
3次元空間の自身を含む、いかなる位置にも転位可能である。

したがって、点は、この条件のもとでは
同時瞬間的に、あらゆる移動によって、点であることをやめることができる。
点であるかぎり、点であることをやめることができるのだ。

これが
点の第一の死の物語であり、
つぎの第二の生誕の物語である。

そのあいだの成長の物語を語り忘れていた。
この語り部の語りには、点のような穴がいっぱいあいている。
この語り部の語りは、点のような穴だけでできているのだった。

点は、移動するのか?

     *

点は
点の物語を語っている作者に不満を持った。
「点のような穴」

この物語を語っている作者は
第一巻の終わりに書いていたのだ。
点は
「ぼく、穴ちゃうし。
 穴が、ぼくともちゃうし。
 ぼく、なににも似てないし。
 なにも、ぼくには似てないし。」
とつぶやいた。

この物語を語っている作者の
頭のなかで。
「そや。
 きみは点やし
 その点で
 きみは
 なにものにも似てないし
 なにものも
 きみには似てへん。
 そやけど
 ふつうに使う比喩やろ?
 使うたら、あかんか?」
「あかん。
 点の名誉にかけても
 あかんわい!」
そか。
点の物語を語っている作者は
さっき
うれしいことがあったので
阪急西院駅のそばにある立ち飲み屋の
「印」に行くつもりだった。
パソコンのスイッチを切ろうとして
マウスに手をのばした。
「ちょっと待て。
 書き直さへんのか?
 さっきアップしたやつ。」
「ごめんちゃいね〜。
 これから、お酒を飲みに
 行ってきま〜ちゅ。」
と言って
この点の物語を語っている作者は
その顔に、いかにも意地悪そうな笑みを浮かべて
この外伝を書き終えたのでした。
ちゃんちゃん。
行ってきま〜ちゅ。

     *

場所が点を欲することがあっても
点が場所を欲することはない。
たとえ、場所が場所を欲することがあっても
点が点を欲することはない。
時間が点を欲することがあっても
点が時間を欲することはない。
たとえ、時間が時間を欲することがあっても
点が点を欲することはない。
出来事が点を欲することがあっても
点が出来事を欲することはない。
たとえ、出来事が出来事を欲することがあっても
点が点を欲することはない。

     *

点は裁かない。
点は殺さない。
点は愛さない。

点は真理でもなく
愛でもなく
道でもない。

しかし
裁くものは点であり
殺すものは点であり
愛するものは点である。

真理は点であり
愛は点であり
道は点である。

     *

点は、自分のことを
作者が、数学概念としての「点」と
横書きの文章に使われるピリオドとしての「点」を
ごちゃまぜにしていることに腹を立てていた。
まったく異なるものだからだ。
「なんで、ごちゃまぜにしてるねん?」
「ええやん。
 そのほうがおもろいねんから。
 あんまり、まじめに考えんでもええんちゃうかな?
 作者も遊んどるんやし
 あんたも遊んどき。」
「なんやて。
 遊ばれとる、わいの身になってみぃ、
 ごっつう気分わるいで!」
「わるいなあ。
 かんにんしてや。
 わるふざけがやめられへん作者なんや。
 ごめんやで。」
点は、目を点にして作者を睨みつけた。
まったく異なる意味概念のものでも
何度も比喩的に同じ詩のなかで扱われていると
やがて、その意味概念がごちゃまぜになってしまって
意味のうえで、明確な区別ができなくなっていくのであった。
「どついたろか
 思うたけど
 わいには、手があらへんし。」
「てん
 て
 てがあるのにね〜、笑。」
「笑。って書くな!
 なんやねん、それ?」
「直接話法に間接話法を取り入れてみたんや、笑。」
「ムカツク。」
「まあ、作者は死ぬまで
 あんたをはなさへんやろな。
 大事に思うてるんやで。」
「そしたら
 もうちょっとていねいに扱え!」
「了解、ラジャーです、笑。」

     *

フランシスコ・ザビエルも、その点について考えたことがある。
フッサールも、その点について考えたことがある。
カントも、その点について考えたことがある。
マキャベリも、その点について考えたことがある。
マーク・トウェインも、その点について考えたことがある。
J・S・バッハも、その点について考えたことがある。
イエス・キリストも、その点について考えたことがある。
ニュートンも、その点について考えたことがある。
コロンブスも、その点について考えたことがある。
ニーチェも、その点について考えたことがある。
シェイクスピアも、その点について考えたことがある。
仏陀も、その点について考えたことがある。
ダ・ヴィンチも、その点について考えたことがある。
ジョン・レノンも、その点について考えたことがある。
シーザーも、その点について考えたことがある。
ゲーテも、その点について考えたことがある。
肖像画に描かれた人物たちも、その点について考えたことがある。
文学作品に登場する架空の人物たちも、その点について考えたことがある。
神話や伝説上の人物たちも、その点について考えたことがある。
だれもが、一度は、その点について考えたことがある。
神も、悪魔も、天使や、聖人たちも、その点について考えたことがある。
点もまた、その点について考えたことがある。

     *

無数と無限は違うということを知っておかなければならない。
しかし、この違いを知ることはできないものである。
無数の点が集まって線ができるのでもなく
無数の点が集まって平面ができるのでもなく
無数の点が集まって空間ができるのでもないということを知ること。

しかし、線は無数の点からできているということ
平面は無数の点からできているということも
空間が無数の点からできているということも知らなければならない。

点と点のあいだの距離は無限である。
いかなる点のあいだにおいてもである。
それが同一の点においてもである。

点と点のあいだの距離はゼロである。
いかなる点のあいだにおいてもである。
それがどれほど遠くにある点においてもである。

     *

点は腐敗することもなく
侵食されることもなく
崩壊することもない。

     *

点にも感覚器官がある。
点にも
目があり
耳があり
舌があり
皮膚がある。

点にも
ときどき
突然死があり
癌もあり
交通事故死もある

点は
感じもし
考えもし
行動もする。

というより
感じるものは、すべて点であり
考えるものは、すべて点であり
行動するものは、すべて点である。

線や面や空間は
感じもしなければ
考えもしないし
行動もしない。

あらゆる線は、点に収縮し
あらゆる面は、点に収縮し
あらゆる空間は、点に収縮する。

点は線となって展開することもなく
面となって展開することもなく
空間となって展開することもない。

ただ点は点であるということにおいてのみ
線と面と空間は一致する。

     *

ある日
点が、王のお気に入りの奴隷の額に転移して離れなかった。
点は、奴隷の額の上から
奴隷が見ているものを見、
奴隷が聞いているものを聞き、
奴隷が嗅いでいるものを嗅ぎ、
奴隷が触れているものに触れていた。
点は、奴隷の額の上から
奴隷が感じたことを感じ、
奴隷が考えたことを考えてみた。
ある日
王は奴隷を縛り首にした。
その後
点は、さまざまのものの上に転移した。
転位するたびに
王は
着物を燃やし
壺を壊し
絵を破りすてた。
点は、さまざまな人間の額の上に転移した。
転位するたびに
王は
弟を殺し
妹を殺し
老父を殺し
妃を殺していった。
しかし
もともと額の上に
厚みのないほくろのある顔と見分けがつかなかったので
王は、額にほくろを持つ人間をつぎつぎに吊るし首にしていった。
ほくろには、厚みのある生きぼくろと、厚みのない死にぼくろがあったのだが
王は、とにかく、額にほくろのある人間をことごとく捕らえては殺していった。
宮殿のなかから、宮殿のそとから
つぎつぎとひとの姿が消えていった。
ある日
王が目覚めて
ひとりの奴隷が、湯を入れたたらいを持って
王の部屋に入ってきた。
その奴隷の叫び声とともに
湯の入った、たらいが、床の上に落ちる大きな音がした。

     *

点外
点内

     *
点も
虚無も
イメージにしかすぎない。

点より先に虚無が存在したのか?
虚無より先に点が存在したのか?

存在することも
存在しないことも
語に付与された意味概念によるのだから
概念規定の問題である。

であるのか?

点と虚無。

それはイメージにしかすぎない。
それに相当する現実の実体は存在しない。

しないのか?

脳髄は存在しないものを考えることができる。

ほんとうに?

脳髄は存在するものを考えることができる。

ほんとうに?





     胎児



   自分は姿を見せずにあらゆる生き物を知る、これぞ神の特権ではなかろうか?
           (ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』榊原晃三・南條郁子訳)

     

神の手にこねられる粘土のように
わたしをこねくりまわしているのは、だれなのか?

いったい、わたしを胎のなかで
数十世紀にもわたって、こねくりまわしているのは、だれなのか?

また、胎のなかで
数十世紀にもわたって、こねくりまわされているわたしは、だれなのか?

それは、わからない。
わたしは、人間ではないのかもしれない。

この胎は
人間のものではないのかもしれない。

しかし、この胎の持ち主は
自分のことを人間だと思っているようだ。

夫というものに、妻と呼ばれ
多くの他人からは、夫人と呼ばれ

親からは、娘と呼ばれ
子たちからは、母と呼ばれているのであった。

しかし、それもみな、言葉だ。
言葉とはなにか?

わたしは、知らない。
この胎の持ち主もよく知らないようだ。

詩人というものらしいこの胎の持ち主は
しじゅう、言葉について考えている。

まるきり言葉だけで考えていると考えているときもあるし
言葉以外のもので考えがまとまるときもあると思っているようだ。

この物語は
数十世紀を胎児の状態で過ごしつづけているわたしの物語であり

数十世紀にわたって、
わたしを胎内に宿しているものの物語であり

言葉と
神の物語である。

     *

時間とは、なにか?
時間とは、この胎の持ち主にとっては
なにかをすることのできるもののある尺度である。
なにかをすることについて考えるときに思い起こされる言葉である。
この胎の持ち主は、しじゅう、時間について考えている。
時間がない。
時間がある。
時間がより多くかかる。
時間が足りない。
時間がきた。
時間がまだある。
時間がたっぷりとある。
いったい、時間とは、なにか?
わたしは知らない。
この胎の持ち主も、時間そのものについて
しばしば思いをめぐらせる。
そして、なんなのだろう? と自問するのだ。
この胎の持ち主にも、わからないらしい。
それでも、時間がないと思い
時間があると思うのだ。
時間とは、なにか?
言葉にしかすぎないものなのではなかろうか?
言葉とは、なにか?
わからないのだけれど。

     *

わたしは、わたしが胎というもののなかにいることを
いつ知ったのか、語ることができない。
そして、わたしのいる場所が
ほんとうに、胎というものであるのかどうか確かめようもない。
そうして、そもそものところ
わたしが存在しているのかどうかさえ確かめようがないのだ。
そういえば、この胎の持ち主は、こんなことを考えたことがある。
意識とは、なにか?
それを意識が知ることはできない、と。
なぜなら、袋の中身が
袋の外から自分自身を眺めることができないからである、と。
しかし、この胎の持ち主は、ときおりこの考え方を自ら否定することがある。
袋の中身が、袋の外から自分自身を眺めることができないと考えることが
たんなる言葉で考えたものの限界であり
言葉そのものの限界にしかすぎないのだ、と。
そして、
言葉でないものについて、
この胎の持ち主は言葉によって考えようとする。
そうして、自分自身を、しじゅう痛めつけているのだ。
言葉とは、なにか?
それは、この胎の持ち主にも、わたしにはわからない。

     *

生きている人間のだれよりも多くのことを知っている
このわたしは、まだ生まれてもいない。
無数の声を聞くことができるわたしは
まだわたしの耳で声そのものを聞いたことがない。
無数のものを見ることができるわたしは
まだわたしの目そのもので、ものを見たことがない。
無数のものに触れてきたわたしなのだが
そのわたしに手があるのかどうかもわからない。
無数の場所に立ち、無数の街を、丘を、森を、海を見下ろし
無数の場所を歩き、走り跳び回ったわたしだが
そのわたしに足があるのかどうかもわからない。
無数の言葉が結ばれ、解かれる時と場所であるわたしだが
そのわたしが存在するのかどうかもわからない。
そもそも、存在というものそのものが
言葉にしかすぎないかもしれないのだが。
その言葉が、なにか?
それも、わたしにはわからないのだが。

     *

数学で扱う「点」とは
その言葉自体は定義できないものである。
他の定義された言葉から
準定義される言葉である。
たとえば線と線の交点のように。
しかし、その線がなにからできているのかを
想像することができるだろうか?

胎児もまた
父と母の交点であると考えることができる。
しかし、その父と、母が、
そもそものところ、なにからできているのかを
想像することができるだろうか?

無限後退していくしかないではないか?
あらゆることについて考えをめぐらせるときと同じように。

     *

この胎の持ち主は、ときどき酩酊する。
そして意識が朦朧としたときに
ときおり閃光のようなものが
その脳髄にきらめくことがあるようだ。
つねづね
意識は、意識そのものを知ることはできない、と。
なぜなら、袋の中身が、袋の外から袋を眺めることができないからであると
この胎の持ち主は考えていたのだけれど
いま床に就き、意識を失う瞬間に
このような考えが、この胎の持ち主の脳髄にひらめいたのである。
地球が丸いと知ったギリシア人がいたわ。
かのギリシア人は、はるか彼方の水平線の向こうから近づいてくる
船が、船の上の部分から徐々に姿を現わすのを見て、そう考えたのよ。
空の星の動きを見て、地球を中心に宇宙が回転しているのではなくて
太陽を中心にして、地球をふくめた諸惑星が回転しているのだと
考えたギリシア人もいたわ。
これらは、意識が、意識について
すべてではないけれど
ある程度の理解ができるということを示唆しているのではないかしら?
わからないわ。
ああ、眠い。
書き留めておかなくてもいいかしら?
忘れないわね。
忘れないわ。
そうしているうちに、この胎の持ち主の頭脳から
言葉と言葉を結びつけていた力がよわまって
つぎつぎと言葉が解けていき
この胎の持ち主は、意識を失ったのであった。

     *

わたしは、つねに逆さまになって考える。
頭が重すぎるのだろうか。
いや、身体のほうが軽すぎるのだ。
しかし、わたしは逆さまになっているというのに
なぜ母胎は逆さまにならないでいるのだろう。
なぜ、倒立して、腕で歩かないのだろうか。
わたしが逆さまになっているのが自然なことであるならば
母胎が逆さまになっていないことは不自然なことである。
違うだろうか。





     卵



ベーコンエッグは
フライパンを火にかけて
サラダオイルをひいて
ベーコンを2枚おいて
タマゴを2個 割り落として
ちょっとおいて
水を入れて
ふたをする
ジュージュー音がする
しばらくすると
火をとめて
ふたをとって
フライパンの中身を
ゴミバケツに捨てる

     *

自分を卵と勘違いした男の話

彼は冷蔵庫の扉を開けて卵を置く場所に
つぎつぎと自分を並べていった。

     *

卵かけご飯
卵かけ冷奴
卵かけバナナ
卵かけイチゴ
卵かけカキ氷
卵かけスイカ
卵かけルイ・ヴィトン
卵かけ自転車
卵かけベンツ
卵かけ駅ビル
玉子かけ宇宙

     *

この卵は
現在、使われておりません。

    *

波の手は
ひくたびに
白い泡の代わりに
白い卵を波打ち際においていく

波打ち際に
びっしりと立ち並んだ
白い卵たち

     *



終日
頭がぼんやりとして
何をしているのか記憶していないことがよくある
河原町で、ふと気がつくと
時計屋の飾り窓に置かれている時計の時間が
みんな違っていることを不思議に思っていた自分に
はっとしたことがある
このあいだ
丸善で
ふと気がつくと
一個の卵を
平積みの本の上に
上手に立てたところだった
ぼくは
それが転がり落ちて
床の上で
カシャンッって割れて
白身と黄身がぐちゃぐちゃになって
みんなが叫び声を上げるシーンを思い浮かべて
ゆっくりと
店のなかから出て行った

     *

みにくい卵の子は
ほんとにみにくかったから
親鳥は
そのみにくい卵があることに気づかなかった
みにくい卵の子は
かえらずに
くさっちゃった

     *

コツコツと
卵の殻を破って
コツコツという音が生まれた
コツコツという音は
元気よく
コツコツ
コツコツ
と鳴いた

     *

卵が、ときどき
殻の外に抜け出したり
また殻のなかに戻ったりしてるって
だれも知らない。

     *

卵に蝶がとまっていると、蝶卵か卵蝶なのか
それを頭にくっつけてる少女は、少女蝶卵か卵蝶少女なのか
その少女が自転車に乗っていると、自転車少女蝶卵か卵蝶少女自転車なのか
ふう、これぐらいで、やめとこ、笑。

     *

吉田くんのお父さんは、たしかにちょっとぼうっとした人だけど
吉田くんのお母さんは、しゃきしゃきとした、しっかりした人なのに
吉田くんちの隣の山本さんが一番下の子のノブユキくんを
吉田くんちの兄弟姉妹のなかに混ぜておいたら
吉田くんちのお父さんとお母さんは
自分のうちの子と間違えて育ててる
もう一ヶ月以上になると思うんだけど
吉田くんも自分に新しい弟ができて喜んでた
そういえば
ぼくんちの新しい妹も
いつごろからいるのか
わからない
ぼくのお父さんやお母さんにたずねても
わからないって言ってた

     *

一本の指が卵の周りをなぞって一周する
一台の飛行機が地球のまわりを一周する

     *

透明なプラスティックケースのなかに残された
最後の一個の卵が汗をびっしょりかいている
汗びっしょりになってがんばっているのだ
その卵は、ほかの卵がしたことがないことに
挑戦しようとしていたのだった
卵は、ぴょこんと
プラケースのなかから跳び出した
カシャッ

     *

湖の上には
卵が一つ浮かんでいる

卵は
自分と瓜二つの卵に見とれて
動けなくなっている

湖面は
卵の美しさに打ち震えている

一個なのに二個である

あらゆるものが
一つなのに二つである

湖面が分裂するたびに
卵の数が増殖していく

二個から四個に
四個から八個に
八個から十六個に

卵は
自分と瓜二つの卵に見とれて
動けなくなっている

無数の湖面が
卵の美しさに打ち震えている

どの湖の上にも
卵が一つ浮かんでいる

     *

卵病

コツコツと
頭のなかから
頭蓋骨をつつく音がした
コツコツ
コツコツ
ベリッ
頭のなかから
ひよこが出てきた
見ると
向かいの席に坐ってた人の頭の横からも
血まみれのひよこが
ひょこんと顔をのぞかせた
あちらこちらの席に坐ってる人たちの頭から
血まみれのひよこが
ひょこんと姿を現わして
つぎつぎと
電車の床の上におりたった

     *

卵をフライパンの上で割ったら
小人が落ちて
フライパンの上に尻餅をついて
「あちっ。」

     *

空の卵

卵を割ると
空がつるりんと
器のなかに落っこちた
白い雲が胎児のように
丸まって眠っていた
ぼくは
お箸を使って
くるくる回すと
雲はくるくる回って
風が吹いて
嵐になって
ゴロゴロ
ゴロゴロ
ピカッ 
ババーン
って
雷が落ちた
ぼくは
怖くなって
お箸をとめた

     *

パパ卵

卵を割ると
つるりんと
中身が
器のなかに落ちた
パパが
胎児のように
丸まって眠っていた
ぼくは
お箸を使って
くるくるかき回した
パパはくるくる回った

     *

ぼく卵

卵を割ると
つるりんと 中身が
器のなかに落ちた
ぼくはちょっとくらくらした
ぼくが胎児のように
丸まって眠っていた
ぼくは
お箸を使って
くるくるかき回した
ぼくはくるくる回った
ものすごいめまいがして
目を開けると
世界がくるくる回っていた

     *

空飛ぶ卵

本日の夕方4時過ぎに
空飛ぶ卵が、京都市の三条大橋の袂に出現したということです。
目撃者の主婦 児玉玉子さん(仮名:43歳)の話によりますと
スターバックスの窓側で、持ってこられたばかりの熱いコーヒーをすすっておられると
とつぜん目の前を、卵が一個、すーっと通り過ぎていったというのです。
驚いて、外に出て、卵が向かったほうに目をやると
その卵が急上昇してヒュ−ンと飛び去っていったというお話でした。
児玉さんのほかにも、大勢の目撃者が証言されておられます。
昨日から日本各地で空飛ぶ卵が目撃されておりますが
これは何かが起こる兆しなのでしょうか。
今晩8時より当局において特別番組『空飛ぶ卵の謎』を放映いたします。
みなさま、ぜひ当局の番組をごらんくださいませ。
スペシャルゲストに
UFO研究家の矢追純一さんと卵評論家の玉木玉夫さんをお呼びいたしております。

     *

卵の日

ある日
卵が空から落ちてきた
片づけるしりから
つぎつぎと卵が落ちてきた
町じゅう
卵で
ツルンツルン

     *

卵は来るよ

卵は来るよ
どこまでも
ぼくについて来るよ
いつまでも
ころんころん
ころがって
卵は来るよ
どこまでも
ぼくについて来るよ
いつまでも
ころんころん
ころがって

     *

二つの卵

二つの卵は
とても仲良し
いつもささやきあっている
二人だけの言葉で
二人だけに聞こえる声で

     *

ナタリーの卵

って、タイトルしか考えなかったのだけれど
なんか、タイトルだけで感じちゃうってのは
根がスケベだからカピラ

     *

ナタリーの卵
ナタリーに卵
ナタリーは卵
ナタリーを卵

     *

卵にしていいですか

     *

猟奇的な卵
溺れる卵
2001年卵の旅
酒と卵の日々
だれにでも卵がある
卵の惑星
ロミオと卵
失われた卵を求めて
行くたびに卵
果てしなき卵
見果てぬ卵
非卵の世界ええっ
卵生活
卵の夜明け
卵の国のアリス
荒れ狂う卵
卵応答なし
卵の海を越えて
宇宙卵
卵の儀式
燃える卵

     *

卵頭

指先で
コツコツすると
ピキキキキ
って

     *

きみもまだまだ卵だからなあ

     *

藪をつついて卵を出す
石の上にも卵
二階から卵
鬼の目にも卵
覆水卵に戻らず
胃のなかの卵

     *


まっ
いいか

卵は卵であり卵であり卵であり卵であり……

     *

霧卵

どんなんかな

     *



この卵か
あの卵かと
思案するけれど
根本的なことを言うと
なにも
卵でなくってもいいのよ
まあね
でも
卵って
なんだかかわいらしいじゃない?

腹筋ボコボコの卵

     *

顔面神経痛の卵
不眠症の卵
よくキレル卵
ホホホと笑う卵

卵って
書くと
みんな
だんだん
卵に見えてくる

     *

お客さん
セット料金 20卵でどうですか
いやあ 20卵はきついよ
じゃあ 15卵でどうですか
よし じゃあ15卵な
ううううん

     *
コツコツと
卵の殻を破って
卵が出てきた

     *

わたしは注意の上にも注意を重ねて玄関のドアをそっと開けた
道路に卵たちはいなかった
わたしは卵が飛んできてもその攻撃をかわすことができる
卵払い傘を左手に持ち
ドアノブから右手を静かにはなして外に出た
すると、隣の家の玄関先に潜んでいた一個の卵が
びゅんっと飛んできた
わたしは
さっと左手から右手に卵払い傘を持ち替えて
それを拡げた
卵は傘の表面をすべって転がり落ちた
わたしは
もうそれ以上
卵が近所にいないことを願って歩きはじめた
こんな緊張を強いられる日がもう何ヶ月もつづいている
あの日
そうだ
あの日から卵が人間に反逆しだしたのだ
それも、わたしのせいで
京都市中央研究所で
魂を物質に与える実験をしていたのだ
一個の卵を実験材料に決定したのは
わたしだったのだ
わたしは知らなかった
そんなことをいえば
だれも知らなかったし
予想すらできなかったのだ
一個の卵に魂を与えたら
その瞬間に世界中の卵が魂を得たのだ
いっせいに世界中にあるすべての卵に魂が宿るなんてことが
いったいだれに予想などできるだろうか
といって
わたしが責任を免れるわけではない
「これで進化論が実証されたぞ。」と
同僚の学者の一人が言っていたが
そんなことよりも
世界中の卵から魂を奪うにはどうしたらいいのか
わたしが考えなければならないことは
さしあたって、このことだけなのだ

     *

きのうは
ジミーちゃんと西院の立ち飲み屋に行った
串は、だいたいのものが80円だった
二人はえび、うずら、ソーセージを頼んだ
どれも80円だった
二人で食べるのに豚の生姜焼きとトマト・スライスを注文したのだが
豚肉はぺらぺらの肉じゃなかった
まるでくじらの肉のように分厚くて固かった
味はおいしかったのだけれど
そもそものところ
しょうゆと砂糖で甘辛くすると
そうそうまずい食べ物はつくれないはずなのであって
まあ、味はよかったのだ
二人はその立ち飲み屋に行く前に
西大路五条の角にある大國屋で
紙パックの日本酒を
バス停のベンチの上に坐りながら
チョコレートをあてにして飲んでいたのであるが
西院の立ち飲み屋では
二人とも生ビールを飲んでいた
にんにくいため
というのがあって
200円だったかな
どんなものか食べたことがなかったので
店員に言ったら
店員はにんにくをひと房取り出して
ようじで、ぶすぶすと穴をあけていき
それを油の中に入れて、そのまま揚げたのである
揚がったにんにくの房の上から塩と胡椒をふりかけると
二人の目の前にそれを置いたのであった
にんにくいためというので
にんにくの薄切りを炒めたものが出てくると思っていたのだが
出てきたそれもおいしかった
やわらかくて香ばしい白くてかわいいにんにくの身が
つるんと、房から、つぎつぎと出てきて
二人の口のなかに入っていったのであった
ぼくの横にいた青年は
背は低かったが
なかなかの好青年で
ぼくの身体に自分の尻の一部をくっつけてくれていて
ときどきそれを意識してしまって
顔を覗いたのだが
知らない顔で
以前に河原町のいつも行く居酒屋さんで
オーストラリア人の26歳のカメラマンの子が
ぼくのひざに自分のひざをぐいぐいとひっつけてきたことを
思い起こさせたのだけれど
あとでジミーちゃんにそう言うと
「あほちゃう? あんな立ち飲み屋で
 いっぱい人が並んでたら
 そら、身体もひっつくがな
 そんなんずっと意識しとったんかいな
 もう、あきれるわ。」
とのことでした

そのあと二人は自転車に乗って
四条大宮の立ち飲み屋「てら」に行ったのであった
そこは以前に
マイミクの詩人の方に連れて行っていただいたところだった

どこだったかなあ

ぼくがうろうろ探してると
ジミーちゃんが
ここ違うの?
と言って、すいすいと
建物の中を入っていくと
そこが「てら」なのであった
「なんで
 ぼくよりよくわかるの?」
って訊いたら
「表に看板で
 立ち飲み
 って書いてあったからね。」
とのことだった
うかつだった
おいしいなって思った「にくすい」がなかった
豚汁を食べた
サーモンの串揚げがおいしかった
生ビール

煮抜きを頼んだら
出てきた卵が爆発した
戦場だった
ジミー中尉の肩に腕を置いて
身体を傾けていた
左の脇腹を銃弾が貫通していた
わたしは痛みに耐え切れずうめき声を上げた
ジミー中尉はわたしの身体を建物の中にまでひきずっていくと
扉を静かに閉めた
部屋が一気に暗くなった
爆音も小さくなった
窓ガラスがはじけ飛んで
卵が部屋のなかで爆発した
時間爆弾だった
場所爆弾ともいい
出来事爆弾ともいうシロモノだった
ぼくは居酒屋のテーブルに肘をついて
シンちゃんの
話に耳を傾けていた
「この喉のところを通る泡っていうのかな。
 ビールが喉を通って胃に行くときに
 喉の上に押し上げる泡
 この泡のこと、わかる?」
「わかるよ
 ゲップじゃないんだよね。
 いや、ゲップかな。 
 まあ、言い方はゲップでよかったと思うんだけど
 それが喉を通るってこと。
 それを感じるってこと。
 それって大事なんだよね。
 そういうことに目をとめて
 こころをとめておくことができる人生って
 すっごい素敵じゃない?」
立ち飲み屋で、ジミーちゃんが
鞄をぼくに預けた
トイレに行くからと言う
ぼくは隣にいる若い男の唇の上のまばらなひげに目をとめた
ぼくはエリックのひざをさわりたかった
エリックはわざとひざを押しつけてきてるんだろうか
シンちゃんがビールのお代わりを頼んだ
ジミーちゃんがトイレから戻ってきた
エリックのひざがぼくのひざに押しつけられている
卵が爆発した
ジミー中尉は
負傷したわたしを部屋のなかに残して建物の外に出て行った
わたしは頭を上げる力もなくて
顔を横に向けた
小学生時代にぼくが好きだった友だちが
ひざをまげて坐ってぼくの顔を見てた
名前を忘れてしまった
なんて名前だったんだろう
ジミーちゃんに鞄を返して
ぼくはビールのお代わりを注文した
ジミーちゃんもビールのお代わりを注文した
脇腹が痛いので
見ると
血まみれだった
ジミーちゃんの顔を見たら
それは壁だった
わたしが最後に覚えているのは
名前を忘れた友だちが
わたしの顔をじっと眺めるようにして
見つめていたことだった

     *

教室に日光が入った
きつい日差しだったから
それまで暗かった教室の一部がきらきらと輝いた
もうお昼前なんだ
そう思って校庭を見た
卵の殻に
その輪郭にそって太陽光線が乱反射してまぶしかった
コの字型の校舎の真ん中に校庭があって
その校庭のなかに
卵があった
卵のした四分の一くらいの部分が
地面の下にうずまっていて
その上に四分の三の部分が出てたんだけど
卵が校庭に現われてからは
ぼくたちは体育の授業ぜんぶ
校舎のなかの体育館でしなければならなかった
終業ベルが鳴った
帰りに吉田くんの家に寄って宿題をする約束をした
吉田くんちには
このあいだ新しい男の子がきて
吉田くんが面倒を見てたんだけど
きょうは吉田くんのお母さんが
親戚の叔母さんのところに
その子を連れて行ってるので
ぼくといっしょに宿題ができるってことだった
吉田くんちに行くときに
通り道に卵があって
ぼくたちは横向きになって
道をふさいでる卵と
建物の隙間に
身体を潜り込ませるようにして
通らなければならなかった
そのとき
吉田くんが
ぼくにチュってしたから
ぼくはとても恥ずかしかった
それ以上にとてもうれしかったのだけれど
でもいつもそうなんだ
ふたりのあいだにそれ以上のことはなくて
しかも
そんなことがあったということさえ
なかったふりをしてた
ぼくたちは道に出ると
吉田くんちに向かって急いだ

     *

桜玉子

近所のスーパーでLサイズの桜玉子が安売りしてるから
買ったら
あのアコギな桜玉子やった
ちょっと赤い色の殻のやつやねんけど
それが透明の赤いパックに入れてあって
ちょっと赤いだけのくせして
だいぶん赤いように見えるようにしてあって
アコギというよりもエレキなことしよるなあって思って
Keffさん的に言うと
えらい「赤福」やなあってことなんやけど
それとも「不二家」かな

両方違うか

それでも安いから買ってしもた
さすがに白い殻の玉子を
あの透明の赤いパックに入れて
桜玉子のフリはさせてへんけど
桜玉子にも
ふつうの透明のパックに入れてもらえる権利はあって
権利を主張することは玉子としてあたりまえのことである
こう電話でジミーちゃんに言うと
ジミーちゃんに
玉子が権利を主張せえへんのがあたりまえやけどなって言われた
ふんっ

    *

視線爆弾
視線卵
声卵
時間卵
場所卵
出来事卵
偶然卵
必然卵
筋肉卵
心臓卵

     *

きみは卵だろう

バスを待っていたら
停留所で
知らないおじさんが ぼくにそう言ってきた
ママは、知らない人と口をきいてはいけないって
いつも言ってたから、ぼくは返事をしないで
ただ、知らないおじさんの顔を見つめた
きみは卵だろう
繰り返し、知らないおじさんが
ぼくにそう言って
ぼくの手をとった
ぼくの手には卵が握らされてた
きみは卵だろう
待っていたバスがきたので
ぼくはバスに乗った
知らないおじさんはバス停から
ぼくを見つめながら
手を振っていた
塾の近くにある停留所に着くまで
ぼくは卵を手に持っていた
卵は
なかから何かが
コツコツつついてた
鶏の卵にしては
へんな色だった
肌色に茶色がまざった
そうだ
まるで惑星の写真みたいだった
木星とか土星とか水星とか
どの惑星か忘れたけど
バスが急停車した
ぼくは思わず卵をぎゅっと握ってしまった
卵の殻のしたに小さな人間の姿が現われた
つぎの停留所が、ぼくの降りなければならない停留所だった
ぼくは
殻ごと
その小人を隣の座席の上に残して立ち上がった
その小人の顔は怖くて見なかった
きみは卵だろう
知らないおじさんの低い声が耳に残っていたから
降りる前に一度けつまずいた
バスが見えなくなってしまうまで
ぼくはバスを後ろから見てた

     *

約束の地

その土地は神が約束した豊かなる土地
地面からつぎつぎと卵が湧いて現われ
白身や黄身が岩間を流れ
樹木には卵がたわわに実って落ちる
約束の地

     *

創卵記

神は鳥や獣や魚たちの卵をつくった
神は人間の卵をつくった
卵は自分だけが番(つがい)でないのに
さびしい思いがした
そこで、神は卵を眠らせて
卵の殻の一部から
もう一つの卵をつくった
卵は目をさまして隣の卵を見てこう言った
「おお、これこそ卵の殻の殻。
 白身もあれば黄身もある。
 わたしから取ったものからつくったのだから 
 そら、わたしに似てるだろうさ。」
それで、卵はみんな卵となったのである

     *

十戒

一 わたしのほかに卵があってはならない。
二 あなたの卵、卵の名をみだりに唱えてはならない。
三 卵の日を心にとどめ、これを聖なる日としなさい。
四 あなたの卵を敬いなさい。
五 卵を用いて殺してはならない。
六 卵を用いて姦淫してはならない。
七 卵を盗んではならない。
八 隣の卵に関して詮索してはならない。
九 隣の卵を欲してはならない。
十 隣の卵のすることは隣の卵にまかせなさい。

     *

モーセ役の卵が、空中に浮かんだ卵の光を
見ないように両手で顔を覆ったら
映画に見入っていた観客の卵たちも
みんな顔を両手で覆った

      *

卵は
四角くなったり
三角になったり
いろいろ姿を変えてみた

卵は
男になったり
女になったり
いろいろ姿を変えてみた

卵は
霧になったり
砂漠になったり
いろいろ姿を変えてみた

     *

卵とハム
卵とチーズ
卵とパン
卵とミルク
卵と檻
卵と梯子
卵と自転車

     *

失卵園
卵曲
老人と卵
少年と卵
白卵
怒りの卵
卵の東
二卵物語
五里卵
千里の道も卵から
急がば卵
善は卵
卵は急げ
帯に短かし、たすきに卵
五十卵百卵
泣いた卵がすぐ笑う
けっこう毛だらけ灰卵
白雪姫と七つの卵
四つの卵
ジャニーズ卵
喉元過ぎれば卵忘れる
田中さん、最近、頭からよく卵抜けへんか? 

     *

ノルウェイの卵
星の玉子様
聖卵
老玉子
源氏物卵
我輩は卵である
デカタマゴ
徒然卵
御伽玉子

     *

11個ある!

ブラッドベリだけど
萩尾望都のマンガの背表紙を見て
思いついた。
ブックオフのマンガのコーナーを見ていて
知らない作者の名前ばかりなのでびっくりしていた
で、本のコーナーに行っても
日本人のところは、ほとんどわからず
まあ、いいかな
それでも
卵らないからね。

     *

卵を使った拷問の仕方を学習する

授業で習ったのだけれど
単純な道具で
十分な痛みと屈辱を与えることができるという話だった
卵を使ったさまざまな拷問の仕方が披露された
一番印象的だったのは
身体を動けないようにして
卵を額の前にずっと置いておくというものだった
額に十分近ければ
頭が痛くなるというもので
ぼくたち生徒たちは
じっさいに授業で
友だち同士で
額に卵を近づけて実験した
たしかに
頭が痛くなった
ただ
ぼくは先生に言わなかったんだけど
べつに卵でなくても
額に指を近づけたって
額が痛くなるんだよね
まあ
そんなこと言ったら
先生に指の一本か二本
切断されていただろうけれど

     *

卵の一部が
人間の顔になる病気がはやっているそうだ
大陸のほうから
海岸線のほうに向かって
一挙に感染区域が拡がっていったそうだ
きのう
冷蔵庫を開けると
卵のケースに入れておいた卵が
みんな
人間の顔になっていた
すぐにぜんぶ捨てたけど
一個の卵を割ってしまったのだけれど
きゃっ
という、小さな叫び声を耳にした気がした
こわくて
それからほかの卵はそっとおいて捨てた

     *

卵病

顔に触れた
頬の一部が卵の殻のようになっている
指先で触れていく
円を描くように
ふくらみの中心に向かって
やはり
卵のふくらみの一部のようだ
きのうお母さんに背中を見てもらったら
左の肩甲骨の辺りにも卵の殻のようになったところがあった
右手を後ろに回して触わったら
たしかに、固くてザラザラしていた
ぼくもお父さんのように
いつか全身が卵の殻のように
固くザラザラした
そのくせ
壊れやすい皮膚になるのだろうか
その卵の殻の下の血と骨と肉は
以前のままなのに
わらのような布団の上で
ただ死ぬのを待つだけの卵となって

     *

戴卵式

12歳になったら
大人の仲間入りだ
頭に卵の殻をかぶせられる
黄身が世の歌を歌わされる
それからの一生を
卵黄さまのために生きていくのだ
ぼくも明日
12歳になる
とても不安だけど
大人といっしょに
ぼくも卵頭になる
ざらざら
まっしろの
美しい卵頭だ

     *

あなたが見つめているその卵は
あなたによって見つめられるのがはじめてではない
あなたにその卵を見つめていた記憶がないのは
それは
あなたがその卵を見つめている前と後で
まったく違う人間になったからである
川にはさまざまなものが流れる
さまざまなものがとどまり変化する
川もまた姿を変え、形を変えていく
その卵が
以前のあなたを
いまのあなたに作り変えたのである
あなたが見つめているその卵は
あなたによって見つめられるのがはじめてではない
あなたにその卵を見つめていた記憶がないだけである

     *

テーブルの上に斜めに立ててある卵があるとしよう
接着剤でとめてあるわけでもなく
テーブルが斜めになっているのでもなく
見ているひとが斜めに立っているのでもないとしたら
卵が斜めに立っている理由が見つからない
しかし、理由が見つからないといって
卵が斜めに立たない理由にはならない
なんとか理由を見つけなければならない
じっさいには目には見えないけれど
想像のなかでなら存在する卵
これなら
テーブルの上に斜めに立たせることができるだろう
接着剤もつかわずに
テーブルを斜めに傾ける必要もなく
見ている者が斜めに身体を傾ける必要もない
テーブルの上に斜めに立ててある卵がある
その卵の上で
小さな天使たちが
やっぱり斜めになって
輪になって
卵の周りを
くるくる回って飛んでいる
美しい音楽が流れ
幸せな気分になってくる

     *

存在の卵

二本の手が突き出している
その二本の手のなかには
ひとつずつ卵があって
手をひらけば
卵は落ちるはずであった
もしも手をひらいても
卵が落ちなければ
手はひらかれなかったのだし
二本の手も突き出されなかったのだし
ピサの斜塔もなかったのだ

     *

万里の長城の城壁の天辺に
卵が一つ置かれている。
卵はとがったほうを上に立てて置かれている。
卵の上に蝶がとまる。
卵は微塵も動かなかった。
しばらくして
蝶が卵の上から飛び立った。
すると
万里の長城が
ことごとく
つぎつぎと崩れ去っていった。
しかし
卵はあった場所にとどまったまま
宙に浮いたまま
微塵も動かなかった。

     *

とても小さな卵に
蝶がとまって
ひらひら翅を動かしていると
卵がくるりんと一回転した。
少女がそれを手にとって
頭につけてくるりんと一回転した。
すると地球もくるりんと一回転した。

     *

卵予報

きょうは、あさからずっとゆで卵でしたが
明日も午前中は固めのゆで卵でしょう。
午後からは半熟のゆで卵になるでしょう。
明後日は一日じゅう、スクランブルエッグでしょう。
明々後日は目玉焼きでしょう。
来週前半は調理卵がつづくと思われます。
来週の終わり頃にようやく生卵でしょう。
でも年内は、ヒヨコになる予定はありません。
では、つぎにイクラ予報です。

     *

窓の外にちらつくものがあったので
目をやった。

     *

卵の幽霊

幽霊の卵

     *

冷蔵庫の卵がなくなってたと思ってたら
いつの間にか
また1パック
まっさらの卵があった
安くなると
ついつい買ってくる癖があって
最近ぼけてきたから
いつ買ったのかもわからなくて
困ったわ


A DAY IN THE LIFE。―─だれよりも美しい花であったプイグに捧ぐ。

  田中宏輔


●森川さん●過去の出来事が自分のことのように思えない●って書かれましたが●たしかに人生ってドラマティックですよね●齢をとってもいいことはたくさんありますが●じっさいにそれがわかるのもそのうちのひとつでしょうか●ぼくは●自分の日々の暮らしを●日常を●劇のように思って見ています●いまは悲劇ですが●いつの日か喜劇として見られるようになりたいと思っています●二十年以上つづけていた数学講師を●この2月に辞めて●3月から違う仕事に就きました●こんどは私立高校の守衛所の警備員です●まだ一週間しかしていないのですが●仕事場の洗面所の鏡に映った自分の顔を見て驚きました●まるで死んだ鶏の雛の顔のようでした●小学校時代にクラスで飼っていた鶏の雛が死んだときの顔を思い出しました●鏡に映った顔を見つめていると●気持ちが悪くなって吐き気がしました●別の顔を●新しい仕事がつくったのでしょうか●両手で頬に触れると●頬の肉がなくなっていました●雲をポッケに入れて●ぶらぶらと街のなかを歩いてみたいな●こんな言葉を●過去の自分が書いていたことを知りました●自分の名前を検索すると出てきました●平凡な一行ですが●やさしい●と清水鱗造さんが書いてくださっていて●どれだけ遠いぼくなんだろう●って思いました●仕事から帰ってきて●恋人がむかし書いてくれた置き手紙を読んでいました●やさしい彼の言葉が●ぼくの目をうるうるさせました●最近は●ぼくのほうばかり●幸せにしてもらっているような気がします●あっちゃん●幸せだよ●ずっといっしょだよ●愛してるよ●こんな言葉を●ぼくはふつうに受け取っていました●ぜんぜんふつうのことじゃなかったのに●恋人の言葉に見合うだけの思いをもって恋人に接していたか●いや●接していなかった●恋人はその言葉どおりの思いをもって接してくれていたのに●そう思うと●自分が情けなくて●涙が落ちました●才能とは他人を幸福にする能力のことを言う●恋人の置き手紙のあいだに●こんな言葉が●自分の書いたメモがはさまっていました●もしかすると●才能とは自分を幸福にする能力のことを言うのかもしれません●きょうのお昼●ちひろちゃんの家に行きました●ちひろちゃんママが●いまいっしょにタバコを買いに出ています●と答えてくれたので●通りに出てみると●ちひろちゃんが●ちひろちゃんパパより先に●ぼくを見つけてくれて●おっちゃん●と言って●走り寄ってきて●抱きついてくれました●ぼくは片ひざを地面につけて●ちひろちゃんを抱きしめました●ぼくはとても幸せでした●双子の妹のなつみちゃんと●のぞみちゃんも玄関の外に出してもらって●ぼくはのぞみちゃんを抱かせてもらいました●ちひろちゃんはプラスティックの三輪車に坐って●でもまだちゃんとこげないので●ちひろちゃんパパに後ろを押されて●足をバタバタさせて遊んでいました●わずか十分か十五分の光景でしたが●ものすごく愛しく●せつないのでした●研修三日目のことです●何で嫌がらせをするのかわからないひとがいました●テーブルの上で●コーヒーカップをわざとガチャガチャと横に滑らせて●目の前までもってきて置く事務員の女性です●そんなひと●はじめて見たのですが●顔がものすごく意地悪かったです●びっくりしました●目の前にそっと置くのがふつうだと思います●ぼくが何か気に障ることをしたのなら別でしょうけれど●世のなかには●自分よりも立場の弱い者を●いじめてやろうとする人間がいるのですね●ぼくが研修中の新人なので●何をしてもいいってことなのでしょうか●ぼくは●自分より弱い立場のひとって●身体の具合の悪いひととか●たまたま何かの事情で生活に不自由しているひととか●そんなひとのことしか思いつかず●そんなひとに意地悪をする●嫌がらせをする●なんてこと考えることもできないのですけれど●そんなことをするひとはたいてい顔が不幸なのですね●幸福な顔のひとは●ひとに意地悪をしません●顔をゆがめて嫌がらせをするひとだなんて●なんてかわいそうなひとなのでしょう●哀れとしか言いようがないですね●彼女も救われるのでしょうか●神さま●彼女のようなひとこそ●お救いください●あっちゃん●少しですが食べてね●バナナ置いてくからね●これ食べてモリモリ元気になってね●あつすけがしんどいと●おれもしんどいよ●二人は一心同体だからね●愛しています●なしを●冷蔵庫に入れておいたよ●大好きだよ●お疲れさま●よもぎまんじゅうです●少しですが食べてくだされ●早く抱きしめたいおれです●いつも遅くにごめんね●ごめりんこ●お疲れさま●朝はありがとう●キスの目覚めは最高だよ●愛してるよ●きのうは楽しかったよ●いっぱいそばにいれて幸せだったよ●ゆっくりね●きょうは早めにクスリのんでね●大事なあつすけ●愛しいよ●昨日は会えなくてごめんね●さびしかったんだね●愛は届いているからね●カゼひどくならないように●ハダカにはしないからね●安心してね●笑●言葉●言葉●言葉●これらは言葉だった●でも単なる言葉じゃなかった●言葉以上の言葉だった!


THE GATES OF DELIRIUM。

  田中宏輔

 
 間違って、鳥の巣のなかで目を覚ますこともあった。間違って? あなたが間違うことはない。Ghost、あなたは間違わない。転位につぐ転位。さまざまな時間と場所と出来事のあいだを。結合につぐ結合。さまざまな時間と場所と出来事の。Ghost、あなたは仮定の存在である。にもかかわらず、わたしたちは、あなたがそばにいれば気がつく。あなたが近づいてくるときにも、あなたが離れていくときにも、わたしたちには、そのことがわかる。Ghostは足音をさせて近づいてくることがある。Ghostは足音をさせて離れていくことがある。Ghost、あなたは仮定の存在である。かつて詩人が、あなたについて、こういっていた。あなたは、わたしたちが眠っているときにも存在している。わたしたちの夢のなかにもいる。そうして、わたしたちの夢のなかで、さまざまな時間と場所と出来事を結びつけたり、ほどいたりしているのだ、と。Ghost、二つの夜が一つの夜となる。いくつもの夜が、ただ一つの夜となる。いくつもの情景が、ただ一つの情景となる。何人もの恋人たちの顔が、ただ一人の恋人の顔となる。結ばれては、ほどかれ、ほどかれては、結ばれる、いくつもの時間、いくつもの場所、いくつもの出来事。Ghost、あなたは、つねに十分に準備されたものの前にいる。あなたにとって、十分に準備されていないものなど、どのような時間のなかにも、どのような場所のなかにも、どのような出来事のなかにも存在しないからである。Ghost、あなたはけっして間違うことがない。わたしたちはつねに機会を逃す。あなたはあらゆる機会を的確に捉える。Ghost、わたしたちはためらう。あなたはためらわない。わたしたちは嘘をつく。あなたは嘘をつかない。Ghost、わたしたちは否定する。あなたは否定しない。わたしたちは拒絶する。あなたは拒絶しない。Ghost、わたしたちは、ゆがめてものを見る。あなたは、ゆがめてものを見ない。わたしたちは、何事にも値打ちをつける。あなたは、何事にも値打ちをつけない。しかし、Ghost、わたしたちは、わたしたち自身について考えることができる。たとえ、それが間違ったものであっても。あなたは、あなた自身について考えることができない。そもそも、考えるということ自体、あなたにはできないのだから。それにしても、Ghost、わたしたちが夢を見ているときのわたしたちとは、いったい、何ものなのだろうか。それは、目が覚めているときのわたしたちと同じわたしたちなのだろうか。わたしたちは夢と同じものでできているという。何かあるものが、夢になったり、わたしたちになったりするということなのであろうか。しかし、Ghost、あなたは夢ではない。あなたは夢をつくりだすものである。夢を見ているわたしたちと、あなたが結びつけるものとは、同じものからできているのだが、あなたは、その同じものからできているのではないからだ。Ghost、あなたは夢ではない。夢をつくりだすものなのだ。ときに、あなたが結びつけるものが、わたしたちを驚かすことがある。べつに、あなたは、わたしたちを驚かそうとしたわけではない。ただ結びつこうとするものたちを結びつかせただけなのだ。Ghost、ときに、あなたに結びつけられたものが、わたしたちに、わたしたちが見なかったものを見させることがある。わたしたちに、わたしたちが感じなかったことを感じさせることがある。それは、あなたが片時も眠らず起きていて、ずっと、目を見開いているからだ。Ghost、ときに、あなたが結びつけたものに対して、不可解な印象を、わたしたちが持つことがある。そういったものの印象は、結びつけられたものとともに、しばしばすぐに忘れられる。わたしたちには思い出すことができない。あなたは、すべてのことを思い出すことができる。結びつけられるすべての時間と場所と出来事を、それらのものが醸し出すすべての些細な印象までをも。おそらく、わたしたちは、あなたが結びつけた時間や場所や出来事でいっぱいなのだろう。そのうち、どれだけのものをわたしたちが記憶しているのかはわからない。Ghost、あなたが、わたしたちの夢のなかで見せてくれるものが、いくら不可解なものであっても、それはきっと、わたしたちにとって必要なものなのだろう。しかし、どのような結びつきも、あなたにとっては意味のあるものではないのであろう。Ghost、ときおり、あなたのほうが実在の存在で、わたしたちのほうが仮定の存在ではないのかと思わせられる。ときに、わたしたちは、あなたに問いかける。しかし、あなたは、わたしたちに答えない。わたしたちは、わたしたちの問いかけに、みずから答えるしかないのだ。あなたは、わたしたちに問いかけない。そもそも、あなたは問いかけでもなければ、答えでもないからだ。しいていえば、問いかけと答えのあいだに架け渡された橋のようなものだ。Ghostは目ではあるが口ではない。見ることはできるが、しゃべることができない。あなたは、わたしたちの魂の目に、あなたが結んだ時間や場所や出来事を見せてくれるだけだ。Ghost、あなたにとって、あらゆる時間と場所と出来事は素材である。わたしたちには思い出せないことがある。あなたには思い出せないことがない。Ghost、あなたは言葉ではない。しかし、言葉と似ている。言葉というものは、名詞や動詞や形容詞といったものに分類されているが、これらは身長と体重と体温といったもののように、まったく異なるものである。一つのビルディングが建築資材や設計図や施工手順といったものからできているように、Ghostによって、さまざまな時間と場所と出来事が結びつけられる。わたしたちのなかには、わたしたち自身がけっして覗き見ることのできない深い深い深淵がある。あなたは、その深淵のなかからやってきたのであろう。Ghost、詩人は、あなたのことを、あなたがたとはいわなかった。たとえ、たくさんのあなたがいるとしても、結局、それはただ一人のあなただからだ。あらゆる集合の部分集合である空集合φが、ただ一つの空集合φであるように。そうだ、あなたは、あらゆる時間と空間と出来事の背後にいて、あるいは、そのすぐそば、その傍らにいて、それらを結びつけるのだ。既知→未知→既知→未知、あるいは、未知→既知→未知→既知の、出自の異なる別々の連鎖が、いつの間にか一つの輪になってループする。この矢印が自我であろうか。言葉から言葉へと推移するこの矢印。概念から概念へと推移するこの矢印。Ghostは、詩人によって、自我と対比させて考え出された仮定の存在である。わたしたちの身体は、同時にさまざまな場所に存在することができない。あなたは、同時にさまざまな場所に存在することができる。ここだけではなく、他のいかなる場所にも同時に存在することができる。Ghost、わたしたちの身体は、現在というただ一つの時間に拘束されている。あなたは、いくつもの時間に同時に存在することができる。あなたはさまざまな時間や場所や出来事を瞬時に結びつける。それとも、Ghost、さまざまな時間や場所や出来事が瞬時に結びつくということ、そのこと自体が、あなた自身のことなのであろうか、それとも、さまざまな時間や場所や出来事が瞬時に結びつくということ、そのことが、あなたというものを存在させているということなのであろうか。image after image。結ぼれ。結ぼれがつくられること。夢の一部が現実となり、現実の一部が夢となる。真実の一部が虚偽となり、虚偽の一部が真実となるように。Ghost、いつの日か、夢のすべてが現実となることはないのであろうか。いつの日か、現実のすべてが夢となることはないのであろうか。一度存在したものは、いつまでも存在する。いつまでも存在する。ときに、わたしたちは、わたしたちの喜びのために、わたしたちの悲しみのために、何事かをするということがある。あなたは、あるもののために、何事かをするということがない。いっさいない。あなたは、ただ時間と場所と出来事を結びつけるだけだ。それが、あなたのできることのすべてだからだ。Ghost、わたしたちは驚くこともあれば、喜ぶこともある。そして、わたしたちが驚くのも、わたしたちが喜ぶのも、すべて、あなたがつくった結ぼれを通してのことなのだが、あなたは、驚くこともなければ、喜ぶこともない。いっさいないのだ。しかし、Ghost、わたしたちの驚きが大きければ大きいほど、わたしたちの喜びが大きければ大きいほど、わたしたちは、わたしたちがあなたに似たものになるような気がするのだ。なぜなら、わたしたちには、ときによって、あなたが、まるで、驚きそのものであるかのように、喜びそのものであるかのように思われるからである。Ghost、間違って、鳥の巣のなかで眠ることもあった。間違って? あなたが間違うことはない。眠ることもない。けっして、けっして。


THE GATES OF DELIRIUM。

  田中宏輔



 そこに行けば、また詩人に会えるだろう。そう思って、葵公園に向かった。魂にとって真実なものは、滅びることがない。葵公園は、賀茂川と高野川が合流して鴨川になるところに、その河原の河川敷から幅の狭い細長い道路を一つ挟んであった。下鴨本通りと北大路通りの交差点近くにあるぼくの部屋から、その公園に行くには、二通りの行き方があった。北大路通りを西に向かって上賀茂橋まで行き、そこから川沿いに河川敷の砂利道を下って行く行き方と、下鴨本通りを南に向かって普通の歩道を歩いて行く行き方である。
 途中、下鴨本通りにあるコンビニに寄って、マールボロのメンソール・ボックス一箱と、コーヒー缶を一つ買った。公園に着いたときにも、陽はまだ落ち切ってはいなかった。しかし、公衆便所の輪郭や、潅木の茂みの形は、すでにぼんやりとしたものになっていた。飲み終わったコーヒー缶をクズかごに入れ、便所の前にあるベンチに腰かけると、タバコに火をつけて、ひとが来るのを待った。詩人を待っているのではなかった。詩人が現われるとしても、それはすっかり夜になってしまってからであった。タバコをつづけて喫っているうちに、便所に明かりが灯った。時間がくると、自動的に電灯がつくのであった。だれも来なかった。
 詩人がいつもいたところに行くことにした。詩人はよく、少し上手の河川敷に並べられたベンチの一つに坐っていた。ぼくは、道路を渡って河川敷に向かって下りていった。潅木の生い茂る狭い道を通って石段を下りると、茂った枝葉を覆うようにして張られていた蜘蛛の巣が、顔や腕にくっついた。手でとってこすり合わせ、小さなかたまりにして、横に投げ捨てた。砂利道に下りると、ちらほらと人影があった。腰をおろして川のほうを向いているひとが一人。ぼくより、十歩ほど先にいる、ぼくと同じように、川下から川上に向かって歩いているひとが一人。ぼくとは反対に、川上から川下に向かって歩いてくるひとが一人。その一人の男と目が合った。ぼくたちは値踏みし合った。彼は、ぼくのタイプじゃなかったし、ぼくも、彼のタイプじゃなかった。彼がまだ視界のなかにいるときに、ぼくは視線を、彼のいないところに向けた。彼の方は、すれ違いざまに、ぼくから顔を背けた。ぼくは、目の端にそれを捉えて、あらためて、ぼくたちのことを考えた。ぼくたちは、ただ本能のままに自分たちの愛する対象を選んでいるだけなのだと。ウミガメの子どもたち。つぎつぎと砂のなかから這い出てくる。ウミガメの子どもたち。目も見えないのに、海を目指して。ウミガメの子どもたち。おもちゃのようにかわいらしい、ぎこちない動き方をして。ウミガメの子どもたち。なぜ、卵から孵るのだろう。そのまま生まれてこなければいいのに。ウミガメの子どもたち。詩人の詩に、ウミガメが出てくるものがいくつかあった。以前に、ウミガメが産卵するシーンをテレビで見たことがあって、それを詩人に話したら、詩人がウミガメをモチーフにしたものをいくつか書いたのであった。河川敷に敷かれた丸い石の影が、砂利道の上にポコポコと浮かび出た無数の丸い石の影が、ぼくにウミガメの子どもたちの姿を思い起こさせたのだろう。そんなことを考えながら歩いていると、あっという間に、詩人がいつも坐っていたベンチのところに辿り着いた。ベンチは、少し離れたところに、もう一つあったのだが、そちらのベンチの方には、だれも坐らなかった。坐った瞬間、ひとが消えるという話だった。じっさい、何人か試してみて、すっと消え去るのを目撃されているのだという。川辺の風景が、流れる川の水の上に映っている。流れる川の水が、川辺の風景の上に映っている。もしかすると、流れる川の水の上の風景の方が実在で、川辺の風景の方が幻かもしれなかった。
 月の夜だった。満月のきらめきが、川面の流れる水の上で揺らめいている。よく見ると、水鳥が一羽、目の前の川の真ん中辺りの、堆積した土砂とそこに生えた水草のそばで、川面に映った月の光や星の光をくちばしの先でつついていた。その水鳥のそばの水草の間から、もう一羽、水鳥がくちばしをつつきながら姿を現わした。二羽の水鳥は、寄り添いながら川面に映った光をつついていた。しかし、水鳥たちは知っている。ぼくたちと同じだ。いくら孤独が孤独と身をすり寄せ合っても、孤独でなくなるわけではないということを。どれほど孤独と孤独がいっしょにいても、ただ同じ孤独を共有し、交換し合うだけなのだと。どれだけ孤独が集まっても孤独でなくなるわけではないということを。ゼロがどれだけ集まってもゼロであるように。
 水鳥が川面のきらめきに何を語っているのか知っているのは、ぼくだけだ。水鳥は、川面に反射する月のきらめきや星のきらめきに向かって、人間の歴史や人間の秘密を語っているのだった。それにしても、繰り返しはげしくくちばしを突き入れている水鳥たち。まるで月の輝きと星の輝きを集めて、早く朝を来させるために太陽をつくりだそうとしているかのようだ。たしかに、そうだ。川面に反射した月明かりや星明りが集まって、一つの太陽となるのだ。あの便所の光や、ぼくのタバコの先の火の色や、川面に反射した、川沿いの家々の軒明かりや、窓々から漏れ出る電灯の光が集まって、一つの太陽となるのだ。しかし、それは別の話。人間のことはすべて知っているのに、ぼくのことだけは知らない水鳥たちが、川の水を曲げている。ぼくのなかに曲がった水が満ちていく。夜はさまざまなものをつくりだす。もともと、すべてのものが夜からつくられたものだった。
 事物から事物へと目を移すたびに、魂は事物の持つ特性に彩られる。事物自体も他の事物の特性に彩られながら、ぼくの魂のなかに永遠に存在しようとして侵入してくる。一人の人間、一つの事物、一つの出来事、一つの言葉そのものが、一つの深淵である。そして、ぼくの承認を待つまでもなく、それらの人間や事物たちは、やすやすと、ぼくの魂のなかに侵入し、ぼくの魂のなかで、たしかな存在となる。ときどき、それらの存在こそがたしかなもので、自分などどこにも存在していないのではないか、などと思ってしまう。薬のせいだろうか。いや、違う。ぼくが錯乱しているのではない。現実の方が錯乱しているのだ。どうやら、ぼくの思いつくことや、思い描いたりすることが、詩人の書いた詩やメモに、かなり影響されてきたようだ。詩人がこの世界から姿を消す前に、ぼくの名前で発表させていたいくつもの詩が、ぼくを縛りつけている。詩人と会ってしばらくしてからのことだ。いつものように、ぼくの体験したことや、思いついたことを詩人に話していると、詩人が、ぼくのことを詩にしようと言い出したのである。それが「陽の埋葬」だった。それは、ぼくの体験をもとに、詩人がつくり上げたものだった。ぼくはけっして、ぼく自身になったことがなかった。ぼくはいつも他人になってばかりいた。詩人はそれを見通して、ぼくに対して、もうひとりのわたしよ、と呼びかけていたのだろう。詩人も、ぼくと同じ体質であった。ぼくと詩人が出会ったのは偶然の出来事だったのだろうか。おそらく、偶然の出来事だったのだろう。あらゆることが人を変える。あらゆることが意味を変える。その変化からまぬがれることはできない。出来事がぼくを変える。出来事がぼくをつくる。ぼくというのも、一つの出来事だ。ぼくが偶然を避けても、偶然は、ぼくのことを避けてはくれない。
 一つの偶然が、川下からこちらに向かってやってきた。


THE GATES OF DELIRIUM。

  田中宏輔



 世界は、ただ一枚の絵だけ残して滅んだという。いったい、だれの描いた、どの絵として残ったのであろうか? あるいは、世界自身が、世界というもの、それ自体が、ただ一枚の絵になってしまったとでもいうのであろうか? それは、わからない。詩人の遺したメモには、それについては、なにも書かれていなかったのである。しかし、それにしても、なぜ、写真ではなかったのであろうか? 人物であっても、あるいは、風景であっても、なぜ、写真ではなく、絵でなければならなかったのであろうか?
 詩人は、絵を見つめていた。しかし、彼は、ほんとうに絵を見つめていたのであろうか? 詩人の生前のことだが、あるとき、詩人が、一冊の本の表紙絵をじっと見つめているときに、わたしが、「女性の頭のところに、死に神がいますね。」といったことがあった。わたしは、その死に神について、詩人が、なにか、しゃべってくれるのではないかと思ったのである。しかし、期待は裏切られた。詩人は、「えっ、なになに?」といって、真顔で、わたしに尋ね返してきたのである。そこで、わたしが、もう一度、同じ言葉を口にすると、詩人は、「ああ、ほんとうだ。」といって、笑いながら、しきりに感心していたのである。わたしには不思議だった。その絵を見て、女性の頭のところにいる死に神の姿に気がつかないことがあるとは、とうてい思えなかったからである。なぜなら、その絵のなかには、その死に神の姿以外に、女性のまわりにあるものなど、なに一つなかったからである。詩人は、いったい、絵のどこを見つめていたのであろうか? 絵のなかのどこを? どこを? いや、なにを? であろうか? 
 その本のタイトルは、『いまひとたびの生』というもので、詩人が高校生のときに夢中になって読んでいたSF小説のうちの一冊であった。作者のロバート・シルヴァーバーグは、ひじょうに多作な作家ではあるが、生前の詩人の言葉によると、翻訳された作品は、どれも質が高く、つまらない作品は一つもなかったという。ところで、『いまひとたびの生』という作品は、未来の地球が舞台で、そこでは、人間の人格や記憶を、他の人間の脳の内部で甦らせることができるという設定なのだが、論理的に考えると、矛盾するところがいくつかある。小説として面白くするために、作者があえてそうしていると思われるのだが、宿主の人格と、それに寄生する人格との間に、人格の融合という現象があるのに、それぞれの記憶の間には、融合という現象が起こらないのである。しかも、宿主の人間の方は一人でも、寄生する人間の方は一人とは限らず、二人や三人といったこともあり、それらの複数の人格が、宿主の人格と寄生している人格の間でのみならず、寄生している人格同士の間でも、それぞれ相互に他の人格の記憶を、いつでも即座に参照することができるのである。これは、複数の人間の記憶を、それらを互いに矛盾させることなく、一人の人間の記憶として容易に再構成させることができないからでもあろうし、また、物語を読者に面白く読ませる必要があって施された処置でもあろうけれども、しかし、もっとも論理的ではないと思われるところは、宿主となっている人間の内面の声と、寄生している人間の内面の声が、宿主のただ一つの心のなかで問答することができるというところである。まるで複数の人間が、ふつうに会話するような感じで、である。この手法は、ロバート・A・ハインラインの『悪徳なんかこわくない』で、もっとも成功していると思われるのだが、たしかに、物語を面白くさせる手法ではある。また、このヴァリエーションの一つに、シオドア・スタージョンの『障壁』というのがある。これは、一人の人間のある時期までの人格や記憶を装置化し、それを用いて、その人格や記憶の持ち主と会話させる、というものである。これを少しくは、ある意味で、自己との対話といったところのものともいえるかもしれないが、しかし、これを、まったきものとしての、一人の人間の内面における自己との対話とは、けっしていうことはできないであろう。話を『いまひとたびの生』に戻そう。この物語では出てこない設定が一つある。生前の詩人がいっていたのだが、もしも、自分の人格や記憶を自分の脳の内部で甦らせればどうなるのか、というものである。はっきりした記憶は、よりはっきりするかもしれない。その可能性は大きい。しかし、あいまいな記憶が、どうなるのか、といったことはわからない。その記憶があいまいな原因が、なにか、わからないからである。思い出したくないことが、思い出されて仕方がない、ということも、あるのかどうか、わからない。意思と記憶との間の関係が、いまひとつ、はっきりわからないからである。人間というものは、覚えていたいことを忘れてしまったり、忘れてしまいたいことを覚えていたりするのだから。しかし、『いまひとたびの生』の設定に従えば、一人の人間の内面で、一人の人間の心のなかで、自己との対話が、より明瞭に、より滞りなくできるようになるのではないだろうか? 感情の増幅に関しては、それをコントロールする悟性の強化に期待することができるであろう。わたしには、そう思えなかったのであるが、詩人はそのようなことをいっていた。
 世界は、ただ一枚の絵だけ残して滅んだという。いったい、だれの描いた、どの絵として残ったのであろうか? あるいは、世界自身が、世界というもの、それ自体が、ただ一枚の絵になってしまったとでもいうのであろうか? それは、わからない。いや、しかし、それは、もしかしたら、詩人の肖像画だったのかもしれない。しかし、現実には、詩人の肖像画などは、存在しない。それどころか、写真でさえ、ただの一枚も残されてはいないのである。ところで、もし、詩人の肖像画が存在していたとしたら? きっと、その瞳には、世界のありとあらゆる光景が絶え間なく映し出されているのであろう。きっと、その耳のなかでは、世界のありとあらゆる音が途切れることなく響き渡っているのであろう。あらゆるすべての光景であるところの詩人の瞳に、あらゆるすべての音であるところの詩人の耳に。ただ一枚の肖像画であるのにもかかわらず、実在するすべての肖像画であるところの、ただ一枚の肖像画! 世界が詩人を笑わせた。世界が詩人とともに笑った。世界が詩人を泣かせた。世界が詩人とともに泣いた。世界が詩人を楽しませた。世界が詩人とともに楽しんだ。世界が詩人を嘆かせた。世界が詩人とともに嘆いた。
 そうして、世界は、ただ一枚の絵だけ残して滅んだのかもしれない。


百行詩

  田中宏輔



一行目が二行目ならば二行目は一行目ではないこれは偽である

二行目が一行目ならば一行目は二行目であるこれは真である

三行目が一行目ならば二行目は二行目であるこれは偽である

四行目を平行移動させると一行目にも二行目にも三行目にもできる

五行目は振動する



六行目が七行目に等しいことを証明せよ

七行目が八行目に等しくないことを証明せよ

八行目が七行目に等しくないことを用いて六行目が七行目に等しくないことを証明せよ

九行目が無数に存在するならば他のすべての行を合わせて一つの行にすることができるこれは真か偽か                   

十行目は治療が必要である



十一行目がわかれば十二行目がわかる

十二行目がわかっても十一行目はわからない

十三行目は十四行目を意味する

十四行目は読み終えるとつぎの行が十一行目にくる

十五行目はときどきほかの行のフリをする



十六行目は二通りに書くことができる

十七行目はただ一通りに書くことができる

十八行目は何通りにでも書くことができる

十九行目は書くことができない

二十行目は自分の位置をほかの行にとってかわられないかと思ってつねにビクビクしている



二十一行目は二十二行目とイデオロギー的に対立している

二十二行目は二十三行目と同盟を結んでいる

二十三行目は二十二行目と断絶している

二十四行目は二十一行目も二十二行目も二十三行目も理解できない

二十五行目は二十四行目とともに二十二行目と二十三行目に待ちぼうけをくわせられている



二十六行目は二十七行目と目が合って一目ぼれした

二十七行目は二十八行目が二十六行目に恋をしていることに嫉妬している

二十八行目は二十七行目に傷つけられたことがある

二十九行目は二十八行目とむかし結婚していた

読むたびに三十行目がため息をつく



読むたびに三十一行目と三十行目が入れ替わる

三十二行目は三十三行目の医者である

三十三行目は三十二行目の患者である

三十四行目は三十五行目の入っている病院である

三十五行目は三十一行目の行方を追っている



三十六行目は出来損ないである

三十七行目はでたらめである

三十八行目は面白くない

三十九行目は申し訳ない

四十行目は容赦ない



四十一行目は四十二行目と違っていて異なっている

四十二行目は四十三行目と違っているが異なっていない

四十三行目は四十四行目と違っていないが異なっている

四十四行目は四十五行目と違っていないし異なってもいない

四十五行目はほかのすべての行と同じである



四十六行目は四十七行目とよく連れ立って散歩する

四十七行目は四十八行目ともよく連れ立って散歩するが

四十八行目はときどきもどってこないことがある

四十九行目は五十行目と散歩するときは寄り添いたいと思っているが

五十行目はそんなそぶりを微塵も出させない雰囲気をかもしている



五十一行目は慈悲心を起こさせる

五十二行目も同情心をかきたてる

五十三行目は寒気を起こさせる

五十四行目は殺意を抱かせる

五十五行目は読み手を蹴り上げる



五十六行目は五十七行目のリフレインで

五十七行目は五十八行目のリフレインで

五十八行目は五十九行目のリフレインで

五十九行目は六十行目のリフレインで

六十行目は五十六行目のリフレインである



六十一行目は朗読の際に読まないこと

六十二行目は朗読の際に机をたたくこと

六十三行目は首の骨が折れるまで曲げること

六十四行目はあきらめること

六十五行目はたたること



六十六行目は揮発性である

六十七行目は目を落とした瞬間に蒸発する

六十八行目ははずして考えること

六十九行目のことは六十九行目にまかせよ

七十行目は他の行とは分けて考えること



七十一行目は正常に異常だった

七十二行目は異常に正常だった

七十三行目は正常よりの異常だった

七十四行目は正常でも異常でもなかった

七十五行目は異常に正常に異常だった



七十六行目は七十八行目を思い出せないと言っていた

七十七行目は七十七行目のことしか知らなかった

七十八行目はときどき七十六行目のことを思い出していた

七十九行目は八十行目のクローンである

八十行目は七十九行目のクローンである



八十一行目は八十二行目から生まれた

八十二行目が存在する確率は八十三行目が存在する確率に等しい

八十三行目が八十二行目とともに八十四行目をささえている

八十四行目は子沢山である

八十五行目は気は弱いくせにいけずである



八十六行目は八十七行目とよく似ていてそっくり同じである

八十七行目は八十八行目にあまり似ていないがそっくり同じである

八十八行目は八十九行目とよく似ているがそっくり同じではない

八十九行目は九十行目とまったく似ていないがそっくり同じである

九十行目は八十六行目に似ていないか同じかのどちらかである



九十一行目はおびえている

九十二行目はつねに神経が張りつめている

九十三行目は睡眠薬がないと眠れない

九十四行目は神経科の医院で四時間待たされる

九十五行目はときどききれる



九十六行目はここまでくるまでいったい何人のひとが読んでくれているのかと気にかかり

九十七行目はどうせこんな詩は読んでもらえないんじゃないのとふてくされ

九十八行目は作者にだって理解できていないんだしだれも理解できないよと言い

九十九行目はどうせあと一行なんだからどうだったっていいんじゃないと言い

百行目はほんとだねと言ってうなずいた


LA LA MEANS I LOVE YOU。

  田中宏輔



●マドル●マドラー●マドラスト●子供たちは●頭をマドラーのようにぐるぐる回している●マドラーは●肩の上でぐるぐる回っている●ぐちゃぐちゃと●血と肉と骨をこねくりまわしている●そうして●子供たちは●真っ赤な金魚たちを●首と肩の隙間から●びちゃびちゃと床の上に落としている●子供たちの足がぐちゃぐちゃと踏みつぶした●子供たちの真っ赤な金魚たちの肉片を●病室の窓の外から●ぼくの目が見つめている●学生時代に●三条河原町に●ビッグ・ボーイ●という名前のジャズ喫茶があった●ぼくは毎日のように通っていた●だいたい●いつも●ホットコーヒーを飲んでいた●そのホットコーヒーの入っていたコーヒーカップは●普通の喫茶店で出すホットコーヒーの量の3倍くらいの量のホットコーヒーが入るものだったから●とても大きくて重たかった●その白くて重たい大きなコーヒーカップでホットコーヒーを飲みながら●いつものように●友だちの退屈な話を聞いていた●突然●ぼくの身体が立ち上がり●ぼくの手といっしょに●その白くて重たい大きなコーヒーカップが●友だちの頭の上に振り下ろされた●友だちの頭が割れて●血まみれのぼくは病院に連れて行かれた●べつにだれでもよかったのだけれど●って言うと●看護婦に頬をぶたれた●窓の外からぼくの目は●首から上のないぼくの身体が病室のベッドの上で本を読んでいるのを見つめていた●ぼくは●本の間に身を潜ませていた神の姿をさがしていた●いったい●自我はどこにあるのだろうか●ページをめくる指の先に自我があると考える●いや●違う●違うな●右の手の人差し指の先にあるに違いない●単に●普段の●普通の●あるがままの●右の手の人差し指の先にあると考える●ママは●人のことを指で差してはだめよ●って言っていた●と●右の手の人差し指の先が記憶をたぐる●でもさあ●人のことを差すから人差し指って言うんじゃんかよ●って●右の手の人差し指の先は考える●自我は互いに直交する4本の直線でできている●1本の直線からでもなく●互いに直交する2本の直線からでもなく●1点において互いに直交する3本の直線からでもなく●1点において互いに直交する4本の直線からできている●と●右の手の人差し指の先が考える●ぼくの目は●窓の外から●それを見ようとして●ぐるぐる回る●病室のなかで●4本の直線がぐるぐる回る●右の手の人差し指以外のぼくの指がばらばらにちぎれる●子供たちの首と肩の隙間から●真っ赤な金魚たちがびちゃびちゃあふれ出る●子供たちは●頭をマドラーのようにぐるぐる回している●マドラーは●肩の上でぐるぐる回っている●ぐちゃぐちゃと●血と肉と骨をこねくりまわしている●そうして●子供たちは●真っ赤な金魚たちを●首と肩の隙間から●びちゃびちゃと床の上に落としている●それでよい●と●右の手の人差し指の先は考えている●45ページと46ページの間に身を潜ませていた神もまた●それでよい●と●考えている●ああ●どうか●世界中の不幸という不幸が●ぼくの右の手の人差し指の先に集まりますように!


メシアふたたび。

  田中宏輔




つい、さきほどまで

天国と地獄が

綱引きしてましたのよ。

でも

結局のところ

天国側の負けでしたわ。

だって

あの力自慢のサムソンさまが

アダムさまや、アベルさま、それに、ノアさまや、モーゼさまたちとごいっしょに

辺獄の方まで観光旅行に行ってらっしゃったのですもの。

みなさん、ご自分方がいらしたところが懐かしかったのでしょう。

どなたも、とっても嬉しそうなお顔をなさって出かけられましたもの。

あの方たちがいらっしゃらなかったことが

天国側には完全に不利でしたわ。

それに、もともと筋肉的な力を誇ってらっしゃる方たちは

どちらかといえば

天国よりも地獄の方に

たくさんいらっしゃったようですし……。

まあ、そう考えますと

はじめから天国側に勝ち目はなかったと言えましょう。

地上で活躍なさってる、テレビや雑誌で有名な力持ちのヒーローの方たちは

その不滅の存在性ゆえに

最初から、天国とは無関係なのですもの。

何の足しにもなりません。

そして、これが肝心かなめ。

何といっても、人間の数が圧倒的に違うのですもの。

いえね

べつに、ペテロさまが意地悪をされて

扉の鍵を開けられないってわけじゃないんですよ。

じっさいのところ

天国の門は、いつだって開いているんですから。

ほんとうに

いつだって開いているんですよ。

だって、いつだったかしら。

アベルさまが、ペテロさまからその鍵を預かられて

かつて、カインに埋められた野原で散歩しておられるときに失くされて

もちろん

ペテロさまは、アベルさまとごいっしょに捜しまわられましたわ。

でも、いっこうに見当らず

とうとう出てこなかったらしいんですのよ。

まえに、アベルさまには言っておいたのですけどね。

お着物をかえられたらって。

だって、あの粗末なお着物ったら

イエスさまが地上におられたときに着てらっしゃった

亜麻の巻布ほどにもみすぼらしくって

まともに見られたものではなかったのですもの。

ですから

懐に入れておいた鍵を落とされたってことを耳にしても

ぜんぜん、不思議に思わなかったのです。

ペテロさまは、イエスさまに内緒で

(といっても、イエスさまはじめ天国じゅうのものがみな知っていたのですけれども)

合鍵をつくられたのです。

しかし、これがまた鍛冶屋がへたでへたで

(だって、ヘパイストスって、天国にはいないのですもの)

ペテロさまが、その鍵を使われて

天国の門の錠前に差し込んでまわされると

根元の方で、ポキリってことになりましたの。



それ以来

天国の門は開きっぱなしになっているのです。

ああ、でも、心配なさらないで。

天国にまでたどり着くことができるのは善人だけ。

それに、ペテロさまがしっかり見張ってらっしゃいましたわ。

ある日、ウルトラマンとかと呼ばれる異星の方が

ご自分の星と間違われて

こちらにいらっしゃったとき

その大きなお顔を、むりやり扉に挟んで

その扉の上下についた蝶番をはずしてしまわれたのです。



その壊れた蝶番と蝶番のあいだから

ペテロさまは

毎日、毎日、見張ってらっしゃいましたわ。

さすがに

さきほどは、綱引きに参加しに行かれましたけれどもね。

毎日、しっかりと見張ってらっしゃいましたわ。

ほんとうに

これまで一度だって

悪いひとが天国に入ってきたっていう話は聞きませんものね。

まっ

それも当然かしら。

だって、鍵を失くされてからは

ひとりだって、天国にやってこなかったのですもの。

そうそう

そういえば

何度も、何度も

門のところまでやってきては

追い返されていたひとがいましたわ。

まるで、ユダの砂漠の盗賊のような格好をした

アラシ・カンジュローとかという老人が

自分は、クラマテングとかという

正義の味方であると

喉をつまらせ、つまらせ

よく叫んでいましたわ。

ペテロさまがおっしゃったとおり

あの黒い衣装を脱いで、覆面をとれば

天国に入ることができたかもしれませんのに。

意固地な老人でしたわ。

それがまた、可笑しかったのですけれど。

まあ、ずいぶんと脱線したみたい。

羊の話に戻りましょう。



どうして

天国と地獄が綱引きをすることになったのかってこと

話さなくてはいけませんわね。

それは

わたしが退屈していたからなのです。

いえいえ

もっと正確に言わなくては。

それは

わたしが、ここ千年以上ものあいだ

イエス・キリストさまに無視されつづけてきたから

ずっと、ずっと、無視されつづけてきたからなのです。

もちろん

イエスさまは、わたしが天国に召されたとき

それは、それは、たいそうお喜びになって

わたしの手をお取りになって

イエスさまに向かって膝を折って跪いておりましたわたしをお立たせになられて

祝福なさいましたわ。

イエスさまは

あのゴルゴタの丘で磔になられる前に

上質の外套を身にまとわれ

終始、慈愛に満ちた笑みをそのお顔に浮かべられ

わたしの手をひかれて

わたしより先に天国に召されていたヤコブさまや

その弟のヨハネさまがおられるところに連れて行ってくださって

わたしに会わせてくださいました。

天国でも、イエスさまは地上におられたときのように

そのおふたりのことを

よく「雷の子よ」と呼んでいらっしゃいましたわ。

そして、イエスさまがいちばん信頼なさっておられたペテロさまや

その弟のアンデレさまに、またバルトロマイさまや

フィリポさま

それと、あの嫉妬深く、疑い深いトマスさまや

もと徴税人のマタイさまや

イエスさまのほかのお弟子さま方にも

つぎつぎと会わせてくださいましたわ。

どのお顔も懐かしく

ほんとうに、懐かしく思われました。

きっと天国でお会いすることができますものと信じておりましたが

じっさいに、天国で会わせていただいたときには

なんとも言えないものが

わたしの胸に込み上げました。

そして

イエスさまや

もとのお弟子さま方は

わたしを天国じゅう、いたるところに連れて行ってくださいました。

ところが

やがて

そのうちに

天国の住人の数がどんどん増えてゆきますと

イエスさまや

そのお弟子さま方は

わたしだけのことにかまっていられる時間がなくなってまいりましたの。

当然のことですわね。

なにしろ

イエスさまは

神さまなのです。

天国の主人であって

わたしたちの善き牧者なのです。

ひとびとは牧される羊たち

ぞろぞろ、ぞろぞろついてまわります。

いつまでも

どこまでも

きりがなく

ぞろぞろ、ぞろぞろついてまわるのです。

もちろん

そのお弟子さま方のお気持ちもわからないわけではありませんが。

ひとびとは牧される羊たち

ぞろぞろ、ぞろぞろついてまわります。

いつまでも

どこまでも

きりがなく

ぞろぞろ、ぞろぞろついてまわるのです。

そして

やがて

ついに

イエスさまは

お弟子さま方たちや、信者のみなさんに、こうおっしゃいました。

「わたしはふふたび磔となろう。

 頭には刺すいばら

 苦しめる棘をめぐらせ

 手には釘を貫き通らせ

 足にも釘を貫き通らせて

 いまひとたび、十字架にかかろう。

 それは、あなたたちの罪のあがないのためではなく

 それは、だれの罪のあがないのためでもなく

 ただ、わたしの姿が

 つねに、あなたたちの目の前にあるように。

 つねに、あなたたちの目の前にあるように

 いつまでも

 いつまでも

 ずっと

 ずっと

 磔になっていよう。」



そこで

お弟子さま方は

イエスさまがおっしゃられたとおりに

天国の泉から少し離れた小高い丘を

あのゴルゴタの丘そっくりに造り直されて

イエスさまを磔になさいました。

さあ

それからがたいへんでした。

磔になられたイエスさまを祈る声、祈る声、祈る声。

天国じゅうが

磔になられたイエスさまを祈りはじめたのです。

それらの声は天国じゅうを揺さぶりゆさぶって

あちらこちらに破れ目をこしらえたのです。

その綻びを繕うお弟子さま方は

ここ千年以上も大忙し。

休む暇もなく繕いつくろう毎日でした。

わたしもまた

跪きひざまずいて祈りました。

かつて

あの刑場で

磔になられたイエスさまを見上げながら

お母さまのマリアさまとごいっしょにお祈りをしておりましたときのように

跪きひざまずいて祈りつづけました。

地上にいるときも

マグダラで

わたしにとり憑いた七つの悪霊を追い出していただいてからというもの

ずっと

わたしは、イエスさまのおそばで祈りつづけてきたのです。

天国においても同様でした。

ところが

あるとき

奇妙なことに気がついたのです。

磔になられたイエスさまのお顔が

険しかったお顔が

どこかしら

奇妙に歪んで見えたのでした。

それは

まるで

なにか

喜びを内に隠して

わざと険しい表情をなさっておられるような

そんなお顔に見えたのです。

そして

さらに奇妙なことには

いつの頃からでしたかしら

お弟子さま方が声をかけられても

お返事もなさらないようになられたのです。

また

わたしの声にも

お母さまのお声にも

どなたのお声にも

お返事なさらないようになられたのです。

けれども

お弟子さま方は

そのことを深く追求してお考えになることもなく

ただただ

天の裂け目

天の破れ目を繕うほうに専念なさっておられました。

ああ

祈る声

祈る声

祈る声

天国は

イエスさまを祈る声でいっぱいになりました。

そうして

そして

何年

何十年

何百年の時が

瞬く間に過ぎてゆきました。

イエスさまのお顔には

もう

以前のような輝きはなくなっておりました。

何度、お声をおかけしても

お顔を奇妙に歪められたまま

わたしたちの祈る声には

お返事もなさらず

まるで

目の前のすべての風景が

ご自分とは関係のない

異世界のものであるかのような

虚ろな視線を向けられておられました。

わたしのこころは

わたしの胸は

そんなイエスさまをゆるすことができませんでした。

そして

そんな気持ちになったわたしの目の前に

膝を折り、跪いて祈るわたしの足元に

磔になられたイエスさまのおそばに

天の裂け目が

天の破れ目が口を開いていたのです。

目を落としてみますと

そこには

なにやら

眼光鋭いひとりの男が

カッと目を見開いて

こちらを見上げているではありませんか。

日本の着物を着て

両方の腕を袖まくりして

その腕を組み

じっと

こちらを見上げていたのです。

その顔には見覚えがありました。

天国の図書館にあった

世界文学全集で見た顔でした。

たしか

アクタガワ・リュウノスケという名前の作家でした。

わたしは、そのとき

彼の『クモノイト』とかという作品を思い出したのです。

そのお話は

イエスさまの政敵

ブッダが地獄にクモノイト印の釣り糸を垂らして

亡者どもを釣り上げてゆくというものでありました。

カンダタとかという亡者が一番にのぼってきたことに

シャカは腹を立て

釣り糸を

プツン



切ったのです。

スッドーダナの息子、ブッダは目が悪かったのです。

遠見のカンダタは

シッダルダ好みの野生的な感じがしたのですが

近くで目にしますと

なんだか

ただ薄汚いだけの野蛮そうな男なのでした。

ブッダは

汚れは嫌いなのです。

それで

カンダタの代わりを釣り上げるために

釣り糸をいったん切ったのです。

たしか

このようなお話だったと思います。

仏教においても

顔の醜いものは救われないということでしょうか。

わたしには、たいへん共感するところがございました。

アクタガワの視線の行方を追いますと

そこには

イエスさまが

磔になられたイエスさまのお顔がありました。

わたしは立ち上がり

鉄の鎖があるところに

酒に酔われたサムソンさまを縛りつけるために使われる

あの鉄の鎖が置いてあるところにゆきました。

刑柱の飾りにと、わたしが言うと

お弟子さま方はじめ

大勢の方たちが、それを運んでくださいました。

わたしは

その鎖の一端を磔木(はりぎ)の根元に結びつけ

残るもう一端を

天の裂け目

天の破れ目に投げ落としました。

みな

唖然としたお顔をなさられました。

すると

突然

鎖が引っ張られ

イエスさまの磔になられた刑柱が

ズズッ

ズッ

ズズズズズズズッと

滑り出したのです。

お弟子さま方はじめ天国の住人たちは

みな驚きおどろき

ワッと駆け寄り

その鎖に飛びつきました。

イエスさまは

事情がお分かりになられずに

傾斜した十字架の上で目を瞬いておられました。

わたしは

わたしが鎖を投げ下ろした

天の裂け目

天の破れ目を上から覗いてみました。

無数の亡者たちが鎖を手にして引っ張っておりました。

見るみるうちに

天の鎖が短くなってゆきました。

そして

とうとう

イエスさまが磔から解き放たれる前に

天の鎖が尽きてしまいました。

つまり

イエスさまは

お弟子さまや

天国の住人たちとともに

みなものすごい声を上げて

地獄に落ちてしまわれたのです。

ひとり

ただひとり

天国に残されたわたしは

ナルドの香油がたっぷり入った細口瓶を携え

天の裂け目

天の破れ目に坐して、この文章をしたためております。

こんどは地獄にある

地獄のエルサレムで

地獄のゴルゴタの丘で

イエスさまを祈るため

イエスさまを祈るために

わたしは

この

天の裂け目

天の破れ目に、これから降りてゆきましょう。

地獄でも

きっと

イエスさまは奇跡を起こされて

いえ

地獄だからこそ

こんどもまた

奇跡を起こされて

きっと

ふたたびまた

天に昇られることでしょう。

ですから

このわたしの文章を

お読みになられたお方は

どうして

天国にだれもいないのか

お分かりになられたものと思います。

わたしのしたことは

けっして

あのイヴのように

神に敵(あだ)する

あの年老いた蛇に唆(そそのか)されてしたことではないのです。

わたしの

わたしだけの意志でしたことなのです。

そして

最後に

サムソンさま

ならびに

お弟子さま方はじめ

辺獄にお出かけになられたみなさま方に

お願いがございます。

もしも

天国の門のところで

まだうろうろしている黒装束の老人を見かけられましたら

覆面をしたままでも

もう天国に入られてもよろしいと

お声をかけてあげてください。

よろしくお願いいたします。


では

ごきげんよろしく。

さようなら。


                            マグダラのマリアより



         


順列 並べ替え詩 3×2×1

  田中宏輔




映画館の小鳥の絶壁。
小鳥の映画館の絶壁。
絶壁の映画館の小鳥。
映画館の絶壁の小鳥。
小鳥の絶壁の映画館。
絶壁の小鳥の映画館。

球体の感情の呼吸。
感情の呼吸の球体。
呼吸の球体の感情。
球体の呼吸の感情。
感情の球体の呼吸。
呼吸の感情の球体。

現在の未来の過去。
未来の過去の現在。
過去の現在の未来。
現在の過去の未来。
未来の現在の過去。
過去の未来の現在。

実質の実体の事実。
実体の事実の実質。
事実の実質の実体。
実質の事実の実体。
実体の実質の事実。
事実の実体の実質。

彼の彼女のハンバーグ。
彼女のハンバーグの彼。
ハンバーグの彼の彼女。
彼のハンバーグの彼女。
彼女の彼のハンバーグ。
ハンバーグの彼女の彼。

孤島の恍惚の視線。
恍惚の視線の孤島。
視線の孤島の恍惚。
孤島の視線の恍惚。
恍惚の孤島の視線。
視線の恍惚の孤島。

直線の点の球体。
点の球体の直線。
球体の直線の点。
直線の球体の点。
点の直線の球体。
球体の点の直線。

どこの馬の骨。
馬の骨のどこ。
骨のどこの馬。
どこの骨の馬。
馬のどこの骨。
骨の馬のどこ。

きゅうりのさよならの数。
さよならの数のきゅうり。
数のきゅうりのさよなら。
きゅうりの数のさよなら。
さよならのきゅうりの数。
数のさよならのきゅうり。

一篇の干し葡萄の過失。
干し葡萄の過失の一篇。
過失の一篇の干し葡萄。
一篇の過失の干し葡萄。
干し葡萄の一篇の過失。
過失の干し葡萄の一篇。

ぼくが夢のなかで胡蝶を見る。
夢が胡蝶のなかでぼくを見る。
胡蝶がぼくのなかで夢を見る。
ぼくが胡蝶のなかで夢を見る。
夢がぼくのなかで胡蝶を見る。
胡蝶が夢のなかでぼくを見る。

右の耳の全裸。
耳の全裸の右。
全裸の右の耳。
右の全裸の耳。
耳の右の全裸。
全裸の耳の右。

あなたの影の横揺れ。
影の横揺れのあなた。
横揺れのあなたの影。
あなたの横揺れの影。
影のあなたの横揺れ。
横揺れの影のあなた。

白紙の信号機の増殖。
信号機の増殖の白紙。
増殖の白紙の信号機。
白紙の増殖の信号機。
信号機の白紙の増殖。
増殖の信号機の白紙。

信号機の小鳥の増殖。
小鳥の増殖の信号機。
増殖の信号機の小鳥。
信号機の増殖の小鳥。
小鳥の信号機の増殖。
増殖の小鳥の信号機。

夢の糸の錯誤。
糸の錯誤の夢。
錯誤の夢の糸。
夢の錯誤の糸。
糸の夢の錯誤。
錯誤の糸の夢。

詩の一度きりの増殖。
一度きりの増殖の詩。
増殖の詩の一度きり。
詩の増殖の一度きり。
一度きりの詩の増殖。
増殖の一度きりの詩。

田中の広瀬の山田。
広瀬の山田の田中。
山田の田中の広瀬。
田中の山田の広瀬。
広瀬の田中の山田。
山田の広瀬の田中。

TVの弁当箱の抑圧。
弁当箱の抑圧のTV。
抑圧のTVの弁当箱。
TVの抑圧の弁当箱。
弁当箱のTVの抑圧。
抑圧の弁当箱のTV。

画面の重湯の暗喩。
重湯の暗喩の画面。
暗喩の画面の重湯。
画面の暗喩の重湯。
重湯の画面の暗喩。
暗喩の重湯の画面。

孤島のシャツの世界。
シャツの世界の孤島。
世界の孤島のシャツ。
孤島の世界のシャツ。
シャツの孤島の世界。
世界のシャツの孤島。

両頬のマクベスの渦巻き。
マクベスの渦巻きの両頬。
渦巻きの両頬のマクベス。
両頬の渦巻きのマクベス。
マクベスの両頬の渦巻き。
渦巻きのマクベスの両頬。

桜の文字の公園。
文字の公園の桜。
公園の桜の文字。
桜の公園の文字。
文字の桜の公園。
公園の文字の桜。

瀕死の感情の帆立貝。
感情の帆立貝の瀕死。
帆立貝の瀕死の感情。
瀕死の帆立貝の感情。
感情の瀕死の帆立貝。
帆立貝の感情の瀕死。

物語の日付の距離。
日付の距離の物語。
距離の物語の日付。
物語の距離の日付。
日付の物語の距離。
距離の日付の物語。

曲解の表面の拡散。
表面の拡散の曲解。
拡散の曲解の表面。
曲解の拡散の表面。
表面の曲解の拡散。
拡散の表面の曲解。

表面の小鳥の品詞。
小鳥の品詞の表面。
品詞の表面の小鳥。
表面の品詞の小鳥。
小鳥の表面の品詞。
品詞の小鳥の表面。

睡眠の小鳥の物語。
小鳥の物語の睡眠。
物語の睡眠の小鳥。
睡眠の物語の小鳥。
小鳥の睡眠の物語。
物語の小鳥の睡眠。

現実のデズデモウナの紙挟み。
デズデモウナの紙挟みの現実。
紙挟みの現実のデズデモウナ。
現実の紙挟みのデズデモウナ。
デズデモウナの現実の紙挟み。
紙挟みのデズデモウナの現実。

わろた。おやすみなさい。ごめんなさい。
おやすみなさい。ごめんなさい。わろた。
ごめんなさい。わろた。おやすみなさい。
わろた。ごめんなさい。おやすみなさい。
おやすみなさい。わろた。ごめんなさい。
ごめんなさい。おやすみなさい。わろた。

振動する小鳥の受粉。
小鳥の受粉する振動。
受粉する小鳥の振動。
振動する受粉の小鳥。
小鳥の受粉する振動。
受粉に振動する小鳥。

樹上のコンビニの窒息。
コンビニの窒息の樹上。
窒息の樹上のコンビニ。
樹上の窒息のコンビニ。
コンビニの樹上の窒息。
窒息のコンビニの樹上。

ブラウスの刺身のマヨネーズ炒め。
刺身のマヨネーズ炒めのブラウス。
マヨネーズ炒めのブラウスの刺身。
ブラウスのマヨネーズ炒めの刺身。
刺身のブラウスのマヨネーズ炒め。
マヨネーズ炒めの刺身のブラウス。

フラスコの紙飛行機の蒸発。
紙飛行機の蒸発のフラスコ。
蒸発のフラスコの紙飛行機。
フラスコの蒸発の紙飛行機。
紙飛行機のフラスコの蒸発。
蒸発の紙飛行機のフラスコ。

海鼠の水槽の回し飲み。
水槽の回し飲みの海鼠。
回し飲みの海鼠の水槽。
海鼠の回し飲みの水槽。
水槽の海鼠の回し飲み。
回し飲みの水槽の海鼠。

樹上のフラスコのブラウス。
フラスコのブラウスの樹上。
ブラウスの樹上のフラスコ。
樹上のブラウスのフラスコ。
フラスコの樹上のブラウス。
ブラウスのフラスコの樹上。

階段の沸騰するプツプツ。
沸騰するプツプツの階段。
プツプツの階段の沸騰。
階段のプツプツの沸騰。
沸騰する階段のプツプツ。
プツプツの沸騰の階段。

樹上のブラウスの刺身。
ブラウスの刺身の樹上。
刺身の樹上のブラウス。
樹上の刺身のブラウス。
ブラウスの樹上の刺身。
刺身のブラウスの樹上。

待合室の松本さんの燻製。
松本さんの燻製の待合室。
燻製の待合室の松本さん。
待合室の燻製の松本さん。
松本さんの待合室の燻製。
燻製の松本さんの待合室。

踏み段の聖職者の振動。
聖職者の振動の踏み段。
振動の踏み段の聖職者。
踏み段の振動の聖職者。
聖職者の踏み段の振動。
踏み段の聖職者の振動。

無韻のコップの治療。
コップの治療の無韻。
治療の無韻のコップ。
無韻の治療のコップ。
コップの無韻の治療。
治療のコップの無韻。

蒸発するコンビニの聖職者。
コンビニの聖職者の蒸発する。
聖職者の蒸発するコンビニ。
蒸発する聖職者のコンビニ。
コンビニの蒸発する聖職者。
聖職者のコンビニの蒸発する。

振動する窒息する花粉。
窒息する花粉の振動する。
花粉の振動する窒息する。
振動する花粉の窒息する。
窒息する振動する花粉。
花粉の窒息する振動する。

コンビニの男性化粧品棚の受粉。
男性化粧品棚の受粉のコンビニ。
受粉のコンビニの男性化粧品棚。
コンビニの受粉の男性化粧品棚。
男性化粧品棚のコンビニの受粉。
受粉の男性化粧品棚のコンビニ。

フラスコの鯨の回し飲み。
鯨の回し飲みのフラスコ。
回し飲みのフラスコの鯨。
フラスコの回し飲みの鯨。
回し飲みのフラスコの鯨。
回し飲みの鯨のフラスコ。

指先の樹液の聖職者。
樹液の聖職者の指先。
聖職者の指先の樹液。
指先の聖職者の樹液。
樹液の指先の聖職者。
聖職者の樹液の指先。

樹上の水槽のブラウス。
水槽のブラウスの樹上。
ブラウスの樹上の水槽。
樹上のブラウスの水槽。
水槽の樹上のブラウス。
ブラウスの水槽の樹上。

松本さんの本棚のマヨネーズ炒め。
本棚のマヨネーズ炒めの松本さん。
マヨネーズ炒めの松本さんの本棚。
松本さんのマヨネーズ炒めの本棚。
本棚の松本さんのマヨネーズ炒め。
マヨネーズ炒めの本棚の松元さん。

鳴り響く帽子の群れ。
帽子の群れの鳴り響く。
群れの鳴り響く帽子。
鳴り響く群れの帽子。
帽子の鳴り響く群れ。
群れの帽子の鳴り響く。

正十二角形の鯨の花びら。
鯨の花びらの正十二角形。
花びらの正十二角形の鯨。
正十二角形の花びらの鯨。
鯨の正十二角形の花びら。
花びらの鯨の正十二角形。

テーブルの象の花。
象の花のテーブル。
花のテーブルの象。
テーブルの花の象。
象のテーブルの花。
花の象のテーブル。

指先の鯨の蒸留水。
鯨の蒸留水の指先。
蒸留水の指先の鯨。
指先の蒸留水の鯨。
鯨の指先の蒸留水。
蒸留水の鯨の指先。

朝凪の一茎の鯨。
一茎の鯨の朝凪。
鯨の朝凪の一茎。
朝凪の鯨の一茎。
一茎の朝凪の鯨。
鯨の一茎の朝凪。

踏み段の顆粒の波。
顆粒の波の踏み段。
波の踏み段の顆粒。
踏み段の波の顆粒。
顆粒の踏み段の波。
波の顆粒の踏み段。

顆粒の小鳥の暗闇。
小鳥の暗闇の顆粒。
暗闇の顆粒の小鳥。
顆粒の暗闇の小鳥。
小鳥の顆粒の暗闇。
暗闇の小鳥の顆粒。

帳面のサボテンの巡回。
サボテンの巡回の帳面。
巡回の帳面のサボテン。
帳面の巡回のサボテン。
サボテンの帳面の巡回。
巡回のサボテンの帳面。

ネクタイの雲の名前。
雲の名前のネクタイ。
名前のネクタイの雲。
ネクタイの名前の雲。
雲のネクタイの名前。
名前の雲のネクタイ。

朝凪の百葉箱の十六方位。
百葉箱の十六方位の朝凪。
十六方位の朝凪の百葉箱。
朝凪の十六方位の百葉箱。
百葉箱の朝凪の十六方位。
十六方位の百葉箱の朝凪。

孤独の小鳥の集団。
小鳥の集団の孤独。
集団の孤独の小鳥。
孤独の集団の小鳥。
小鳥の孤独の集団。
集団の小鳥の孤独。

一茎の聖職者の夕凪。
聖職者の夕凪の一茎。
夕凪の一茎の聖職者。
一茎の夕凪の聖職者。
聖職者の一茎の夕凪。
夕凪の聖職者の一茎。

ぼくは金魚に生まれ変わった扇風機になる。
金魚は扇風機に生まれ変わったぼくになる。
扇風機はぼくに生まれ変わった金魚になる。
ぼくは扇風機に生まれ変わった金魚になる。
金魚はぼくに生まれ変わった扇風機になる。
扇風機は金魚に生まれ変わったぼくになる。

祈りの青首大根の旋回。
青首大根の旋回の祈り。
旋回の祈りの青首大根。
祈りの旋回の青首大根。
青首大根の祈りの旋回。
旋回の青首大根の祈り。

二千行のルビの蠅。
ルビの蠅の二千行。
蠅の二千行のルビ。
二千行の蠅のルビ。
ルビの二千行の蠅。
蠅のルビの二千行。

スーパーマーケットのリア王の増殖。
リア王の増殖のスーパーマーケット。
増殖のスーパーマーケットのリア王。
スーパーマーケットの増殖のリア王。
リア王のスーパーマーケットの増殖。
増殖のリア王のスーパーマーケット。

倫理の二千行の腰掛け。
二千行の腰掛けの倫理。
腰掛けの倫理の二千行。
倫理の腰掛けの二千行。
二千行の倫理の腰掛け。
腰掛けの二千行の倫理。

海面の鳥肌の手術。
鳥肌の手術の海面。
手術の海面の鳥肌。
海面の手術の鳥肌。
鳥肌の海面の手術。
手術の鳥肌の海面。

朝食の吃音の註解。
吃音の註解の朝食。
註解の朝食の吃音。
朝食の註解の吃音。
吃音の朝食の註解。
註解の吃音の朝食。

断面のビルの蠅。
ビルの蠅の断面。
蠅の断面のビル。
断面の蠅のビル。
ビルの断面の蠅。
蠅のビルの断面。

言葉はぼくを孤独にする。
ぼくは孤独を言葉にする。
孤独は言葉をぼくにする。
言葉は孤独をぼくにする。
ぼくは言葉を孤独にする。
孤独はぼくを言葉にする。

ぼくがひとりを孤独にする。
ひとりが孤独をぼくにする。
孤独がぼくをひとりにする。
ぼくが孤独をひとりにする。
ひとりが孤独をぼくにする。
孤独がひとりをぼくにする。

わたしはこころに余裕がない。
余裕はこころにわたしがない。
わたしは余裕にこころがない。
こころは余裕にわたしがない。
余裕はわたしにこころがない。
こころはわたしに余裕がない。

苺の幽霊の椅子。
幽霊の椅子の苺。
椅子の苺の幽霊。
苺の椅子の幽霊。
幽霊の苺の椅子。
椅子の幽霊の苺。

側頭部の聖職者の糊付け。
聖職者の糊付けの側頭部。
糊付けの側頭部の聖職者。
側頭部の糊付けの聖職者。
聖職者の側頭部の糊付け。
糊付けの聖職者の側頭部。

樹上のコーヒーカップの一語。
コーヒーカップの一語の樹上。
一語の樹上のコーヒーカップ。
樹上の一語のコーヒーカップ。
コーヒーカップの樹上の一語。
一語のコーヒーカップの樹上。

苺の注射器の秩序。
注射器の秩序の苺。
秩序の苺の注射器。
苺の秩序の注射器。
注射器の苺の秩序。
秩序の注射器の苺。

波打ち際の苺のトルソー。
苺のトルソーの波打ち際。
トルソーの波打ち際の苺。
波打ち際のトルソーの苺。
苺の波打ち際のトルソー。
トルソーの苺の波打ち際。

側頭部の海のコーヒーカップ。
海のコーヒーカップの側頭部。
コーヒーカップの側頭部の海。
側頭部のコーヒーカップの海。
海の側頭部のコーヒーカップ。
コーヒーカップの海の側頭部。

稲妻の樹上の鯨。
樹上の鯨の稲妻。
鯨の稲妻の樹上。
稲妻の鯨の樹上。
樹上の稲妻の鯨。
鯨の樹上の稲妻。

夜明けのバネ仕掛けのサンドイッチ。
バネ仕掛けのサンドイッチの夜明け。
サンドイッチの夜明けのバネ仕掛け。
夜明けのサンドイッチのバネ仕掛け。
バネ仕掛けの夜明けのサンドイッチ。
サンドイッチのバネ仕掛けの夜明け。

樹上の暴走のカルボナーラ。
暴走のカルボナーラの樹上。
カルボナーラの樹上の暴走。
樹上のカルボナーラの暴走。
暴走の樹上のカルボナーラ。
カルボナーラの樹上の暴走。


Pooh on the Hill。

  田中宏輔




Narrate refero.

私は語られたることを再び語る。

                    (『 ギリシア・ラテン引用語辭典』)

熊がかわいそうな人間を食うのなら、なおさら人間が熊を食ったっていいではないか。

                    (ペトロニウス『サテュリコン』66、国原吉之助訳 )

(これを殺しても殺人罪にならない)

                    (文藝春秋『大世界史14』)

またそれを言う。

                    (横溝正史『嵐の道化師』)

「いやんなっちゃう!」と、プーはいいました。

                    (A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)

「そうらね!」と、コブタはいいました。

                    (A・A・ミルン『クマのプーさん』5、石井桃子訳)

「あわれなり。」と、イーヨーはいいました。

                    (A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)

それでしゅ、それでしゅから、お願いに参ったでしゅ。

                    (泉 鏡花『貝の穴に河童のいる事』)

饂飩(うどん)の祟(たた)りである。

                    (泉 鏡花『眉かくしの霊』二)

それは迷惑です。

                    (泉 鏡花『山吹』第一場)

為様(しよう)がないねえ、

                    (泉 鏡花『高野聖』十九)

やっぱり、ぼくが、あんまりミツがすきだから、いけないの

                    (A・A・ミルン『クマのプーさん』1、石井桃子訳)

と、プーは、かなしそうにいいました。

                    (A・A・ミルン『クマのプーさん』4、石井桃子訳)

じぶんじゃ、どうにもならないんだ。

                    (A・A・ミルン『プー横丁にたった家』6、石井桃子訳)

あのブンブンて音には、なにかわけがあるぞ。

                    (A・A・ミルン『クマのプーさん』1、石井桃子訳)

もちろん、あれだね、

                    (A・A・ミルン『クマのプーさん』7、石井桃子訳)

何だい?

                    (フィリップ・K・ディック『時は乱れて』12、山田和子訳)

変な声が聞えるんです。

                    (泉 鏡花『春昼後刻』三十一)

変かしら?

                    (リチャード・マシスン『縮みゆく人間』5、吉田誠一訳)

その声が堪(たま)らんでしゅ。

                    (泉 鏡花『貝の穴に河童のいる事』)

花だと思います。

                    (泉 鏡花『高野聖』十六)

花がなんだというのかね。

                    (ホラティウス『歌集』第三巻・八、鈴木一郎訳)

あの花はなんですか。

                    (泉 鏡花『海神別荘』)

ラザロはすでに四日も墓の中に置かれていた。

                    (ヨハネによる福音書一一・一七)

なぜ四日かかったか。

                    (横溝正史『憑(つ)かれた女』)

「四日ですか」

                    (フィリップ・K・ディック『アルファ系衛星の氏族たち』3、友枝康子訳)

神のみは、すべてのものを愛して、しかも、自分だけを愛している。

                    (シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』宇宙の意味、田辺 保訳)

誰もそのような愛を欲しがりはしないにしても、

                    (E・М・フォースター『モーリス』第一部・11、片岡しのぶ訳)

「こりゃまた、なんのこっちゃい。」と、イーヨーがいいました。

                    (A・A・ミルン『プー横丁にたった家』9、石井桃子訳)

何を言ってるんだか分らないわねえ。

                    (泉鏡花『春昼後刻』二十七)

と、カンガは、さも思案(しあん)しているような声でいいました。

                    (A・A・ミルン『クマのプーさん』7、石井桃子訳)

これらはことばである。

                    (オクタビオ・パス『白』鼓 直訳)

そこには現在があるだけだった。

                    (サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

すべてが現在なのだ。

                    (アゴタ・クリストフ『昨日』堀 茂樹訳)

記憶より現在を選べ

                    (ゲーテ『ほかの五つ』小牧健夫訳)

いったいぜんたい、なんのことなんだか、プーは、わけがわからなくなって、頭をかきました。

                    (A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)

「花は?」

                    (フロベール『感情教育』第一部・五、生島遼一訳)

「花は」

「Flora.」

たしかに「Flower.」とは云はなかつた。

                    (梶井基次郎『城のある町にて』手品と花火)

汝は花となるであろう。

                    (バルザック『セラフィタ』五、蛯原〓夫訳)

花となり、香となるだろう。

                    (サバト『英雄たちと墓』第IV部・7、安藤哲行訳)

それにしても、なぜいつもきまってあのことに立ちかえってしまうのでしょう……。

                    (モーリヤック『ホテルでのテレーズ』藤井史郎訳)

どこであれ、帰ってくるということはどこにも出かけなかったということだ。
            
                    (フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

あれは白い花だった……(それとも黄色だったか?

                    (ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』3、野谷文昭訳)

「青い花ではなかったですか」

                    (ノヴァーリス『青い花』第一部・第一章、青山隆夫訳)

見覚えました花ですが、私(わたし)はもう忘れました。

                    (泉 鏡花『海神別荘』)

真黄色(まつきいろ)な花の

                    (泉 鏡花『春昼後刻』三十三)

淡い青色の花だったが、

                    (ノヴァーリス『青い花』第一部・第一章、青山隆夫訳)

「だれか、このなかへ、ミツをいれておいたな。」と、フクロがいいました。

                    (A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)

ぼくは、ばかだった、だまされてた。ぼくは、とっても頭のわるいクマなんだ。

                    (A・A・ミルン『クマのプーさん』3、石井桃子訳)

「いやんなっちゃう!」と、プーはいいました。

                    (A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)

嫌になつちまふ!

                    (泉 鏡花『化銀杏』六)

単純な答えなどはない。

                    (アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』第二部・14、中田耕治訳)

私はもはや、私自身によってしか悩まされはしないだろう。

                    (ボードレール『夜半の一時に』三好達治訳)

「それが、問題(もんだい)なんだ。」と、ウサギはいいました。

                    (A・A・ミルン『プー横丁にたった家』7、石井桃子訳)

人間に恐ろしいのは未知の事柄だけだ。

                    (サン=テグジュペリ『人間の土地』二・2、堀口大學訳)

私は未知のものより、既知のものをおそれる。

                    (ヴァレリー『カイエ一九一〇』村松 剛訳)

私が話しているとき 何故あなたは気難しい顔をしているのですか?

                    (トム・ガン『イエスと母』中川 敏訳)

きらいだからさ。

                    (夏目漱石『こころ』上・八)

これは私についての話ではない。

                    (レイモンド・カーヴァー『サン・フランシスコで何をするの?』村上春樹訳)

どこかに石はないだろうか?

                    (ホラティウス『諷刺詩集』第二巻・七、鈴木一郎訳)

どうして石なんだ?

                    (フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』11、汀 一弘訳)

石は硬く、動かない。

                    (サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

すべてのものにこの世の苦痛が混ざりあっている。

                    (フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山晃・増田義郎訳)

石があった。

                    (テッド・チャン『バビロンの塔』浅倉久志訳)

石なの?

                    (フィリップ・K・ディック『宇宙の操り人形』第三章、仁賀克雄訳)

「花は?」

                    (フロベール『感情教育』第一部・五、生島遼一訳)

「花は」

「Flora.」

たしかに「Flower.」とは云はなかつた。
 
                    (梶井基次郎『城のある町にて』手品と花火)

またそれを言う。

                    (横溝正史『嵐の道化師』)

これで二度目だ。

                    (泉 鏡花『眉かくしの霊』二)

「きみ、気にいった?」

                    (A・A・ミルン『プー横丁にたった家』2、石井桃子訳)


ベルゼバブ。

  田中宏輔



 コーヒーを飲み終えられたベルゼバブさまは、机の上に置かれたアルコールランプを手元に引き寄せられると、指を鳴らして、火花を発して火を灯されました。すると、ベルゼバブさまの前に坐らされておりました老人が、ビクンッと躯をふるわせて、そのゆらゆらと揺れ動くアルコールランプの炎に目をやりました。はじめてアルコールランプといったものを目にしたのでしょうか、ほんに、その眼差しは、狂った者の、恍惚とした眼差しでございました。ベルゼバブさまは、しばらくのあいだ、その老人の顔を眺めておられましたが、白衣のポケットから、折り畳まれたハンカチを取り出されると、それでスプーンの柄を持たれて、アルコールランプの炎の中に、スプーンの先を入れられました。スプーンの先は、たちまち炭がついて黒くなりました。ベルゼバブさまは、たびたび手を返されて、ふくらんだ方も、へこんだ方も、丹念にスプーンの先を熱せられました。そうして、ベルゼバブさまは、充分に熱せられたスプーンの先を、呆けた眼差しをアルコールランプの炎に投げつづける狂った老人の額の上に押し当てられたのでございます。すると、ギャッという叫び声とともに、老人の躯が椅子の上で跳ね上がり、寄り目がちの双つの眼がさらに寄って、瞬時に充血して、真っ赤になりました。狂った老人は、顔を伏せて、自分の額を両の手で覆うようにしてふるえておりました。ベルゼバブさまは、ふたたびスプーンの先を丹念に熱せられると、こんどは、それを老人のうなじに押し当てられたのでございます。老人は、グアーッという、獣じみた声を発して床の上に這いつくばりました。ベルゼバブさまは、その様子を飽かずに眺めておられましたが、わっしらもまた前脚をこすりながら、手術台の上に横たえられた女の死骸の上から、その這いつくばった老人の背中を見下ろしておりました。それは、毛をむしり取られ、傷だらけにされて群れから追い出された老いぼれ猿のように、まことに醜く無惨な姿でございました。ベルゼバブさまが、このような老いぼれ猿の姿をごらんになられて、いったい、どのようなお歌をおつくりになられるのか、ほんに、楽しみなことでございます。あれは、いつのことでありましたでしょうなあ。わっしらがむさぼり喰らうこの女が絶命し、ベルゼバブさまが、この女の胎の内から血まみれの赤ん坊の肢体を引きずり出されたのは。そうして、ベルゼバブさまは、その赤ん坊の首を、まるで果実を枝からもぎ取られるようにして引きちぎられると、ぐらぐらと煮え立つ鍋の中に放り投げられました。すると、その赤ん坊の首が、激しく沸騰する熱湯の中で微笑みを浮かべて、ゆらゆらと揺れておるのでございました。あのとき、ベルゼバブさまが、わっしらの前で詠まれたお歌は、ほんに、すばらしいものでございました。


   ひとり居て卵うでつつたぎる湯にうごく卵を見ればうれしも   (『赤光』)


 いえいえ、もちろん、このお歌ばかりではございません。斎藤茂吉のお名前でおつくりになられた、どのお歌も、まことにすばらしいものでございます。仮のお宿のひとつになさっておられる、この気狂い病院で、ベルゼバブさまは、ほんに、たんとの、すばらしいお歌をおつくりになられました。


   狂人に親しみてより幾年(いくとせ)か人見んは憂き夏さりにけり   (『あらたま』)

   みやこべにおきて来(きた)りし受持の狂者おもへば心いそぐも   (『あらたま』)

   きちがひの遊歩(いうほ)がへりのむらがりのひとり掌(て)を合す水に向きつつ   (『あらたま』)

   ダアリヤは黒し笑ひて去りゆける狂人は終(つひ)にかへり見ずけり   (『赤光』)

   けふもまた病室に来てうらわかき狂ひをみなにものをこそ言へ   (『あらたま』)

   暁にはや近からし目の下(もと)につくづくと狂者のいのち終る   (『あらたま』)

   ものぐるひの屍(かばね)解剖(かいぼう)の最中(もなか)にて溜(たま)りかねたる汗おつるなり   (『あらたま』)


有り難いことに、使い魔たる、わっしら、蠅どものことをも、ベルゼバブさまは、たんと、たんと、お歌に詠んでくださっておられます。


   留守居して一人し居れば青(あを)光(ひか)る蠅のあゆみをおもひ無(な)に見し   (『あらたま』)

   汗いでてなほ目ざめゐる夜は暗しうつつは深し蠅の飛ぶおと   (『あらたま』)

   ひたぶるに暗黒を飛ぶ蠅ひとつ障子(しやうじ)にあたる音ぞきこゆる   (『あらたま』)

   あづまねのみねの石はら真日(まひ)てれるけだもの糞(ぐそ)に蠅ひとつをり   (『あらたま』)


 ベルゼバブさまは、手を伸ばされると、気の狂った老人の頭をつまみ上げられて、壁に叩きつけられました。ゴンッという、大きな鈍い音とともに壁が揺れ、干からびた猿のような老人の死骸が床の上に落ちました。老人は声を上げる間もなく、絶命しておりました。治療室の白い壁の上に、血まみれの毛髪と肉片が貼りついておりました。ベルゼバブさまは、立ち上がられて壁のすぐそばまで寄って行かれると、その壁面の模様を、しばしのあいだ眺めておられましたが、突然、なにかを思いつかれたかのように、その壁面を指さして、机のある方に向かって歩き出されました。それで、わっしらは、その合図にしたがって、切り刻まれた女の死骸から離れて、血まみれの壁の方へと向かって、飛び立ったのでございます。





                       *引用された短歌作品は、すべて、斎藤茂吉のものである。


『斎藤茂吉=蠅の王(ベルゼブル)論』。 

  田中宏輔




 ボードレールの作品世界に通底している美意識は、詩集『悪の華』(堀口大學訳)に収められた詩の題名によって捉えることができる。たとえば、「不運」、「前生」、「異なにほひ」、「腐肉」、「死後の悔恨」、「幽霊」、「墓」、「陽氣な死人」、「憂鬱」、「虚無の味」、「恐怖の感應」、「われとわが身を罰する者」、「救ひがたいもの」、「破壊」、「血の泉」、「惡魔への連祷」などである。

 本稿では、前半で、これらの語群をキーワードとして用い、斎藤茂吉の作品世界に、ボードレール的な美意識が表出されていることを示し、後半で、「蠅」がモチーフとして用いられている茂吉の短歌作品を幾首か取り上げ、『斎藤茂吉=蠅の王(ベルゼブル)論』を導き出し、その作品世界を新たに解読する手がかりを与えた。


     夕さればむらがりて来る油むし汗あえにつつ殺すなりけり     (『赤光』)

     をさな妻こころに守り更けしづむ灯火(ともしび)の虫を殺しゐたり     (『赤光』)

     宵ごとに灯(ともし)ともして白き蛾(が)の飛びすがれるを殺しけるかな     (『あらたま』)

     ゆふぐれてわれに寄りくるかすかなる蟆子(ぶと)を殺しつ山の沼(ぬ)のべに     (『ともしび』)

     ちひさなる虻にもあるか時もおかず人をおそひに来るを殺しつ     (『石泉』)


 これらの歌は、きわめて特異な印象を与えるものであった。害虫退治という題材が特殊なためではない。害虫退治が題材であるのに、ここには、害虫に対する嫌悪や憎悪といった表現主体の悪感情がほとんど見られないためである。悪感情もなく、害虫を殺すといったことに、なにかしら、尋常ならざるものが感じられたのである。


     ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕(やまこ)殺ししその日おもほゆ     (『赤光』)

     河豚の子をにぎりつぶして潮もぐり悲しき息をこらす吾(われ)はや     (『あらたま』)

     さるすべりの木(こ)の下かげにをさなごの茂太を率(ゐ)つつ蟻(あり)を殺せり     (『あらたま』)


 子供ならば、面白がって害虫でもない小動物を殺すことがあるかもしれない。しかし、そのことによって、自分のこころが慰められているのだという認識はないであろう。あるいは、そう認識するまえの段階で、そのような行為とは決別するものであろう。しかし、茂吉は、そう認識しつつも殺さなければならないほどに、こころが蝕まれていたのであろう。


     むらぎものみだれし心澄みゆかむ豚の子を道にいぢめ居たれば     (『あらたま』)


このような歌を詠まずにはいられない茂吉の心象風景とは、いったい、いかなるものであったのだろう。


     唐辛子(たうがらし)いれたる鑵(くわん)に住みつきし虫をし見つつしばし悲しむ     (『白桃』)

     昆虫の世界ことごとくあはれにて夜な夜なわれの燈火(ともしび)に来る     (『白い山』)

     砂の中に虫ひそむごとこのひと夜山中(やまなか)に来てわれは眠りぬ     (『白桃』)

     たまきはる命をはりし後世(のちのよ)に砂に生れて我は居るべし     (『ともしび』)


 これだけ昆虫を殺しながらも、その昆虫、あるいは、その昆虫の世界を哀れに思い、自身が昆虫に転生するような歌をもつくるのである。茂吉は、かなり振幅のはげしい嗜虐性と被虐性を併せ持った性格であったのだろう。


     鼠等(ねずみら)を毒殺せむとけふ一夜(ひとよ)心楽しみわれは寝にけり     (『暁紅』)

     狼になりてねたましき喉笛(のどぶえ)を噛み切らむとき心和(なご)まむ     (『愛の書簡』)


 まことに陰惨な心象風景である。しかし、このようなこころの持ち主には、小胆な者が多い。そして、そういった人間は、しばしば神経症的な徴候を示し、病的ともいえる奇矯な振る舞いに及ぶことも少なくない。


     この心葬り果てんと秀(ほ)の光る錐(きり)を畳に刺しにけるかも     (『赤光』)

     ふゆの日の今日(けふ)も暮れたりゐろりべに胡桃(くるみ)をつぶす独語(ひとりごと)いひて     (『あらたま』)


このように病んだこころの持ち主が、異常なもの、グロテスクなものに、こころ惹かれるのも無理はない。


     一夜(ひとよ)あけばものぐるひらの疥癬(かいせん)にあぶらわれは塗るべし     (『ともしび』)

     うち黙(もだ)し狂者を解体する窓の外(と)の面(も)にひとりふたり麦刈る音す     (『あらたま』)

     狂者らは Paederasie をなせりけり夜しんしんと更(ふ)けがたきかも     (『赤光』)

     あたらしき馬糞(まぐそ)がありて朝けより日のくるるまで踏むものなし     (『ともしび』)

     狂人のにほひただよふ長廊下(ながらうか)まなこみひらき我はあゆめる     (『あらたま』)

     けふもまた向ひの岡に人あまた群れゐて人を葬(はふ)りたるかな     (『赤光』)

     墓はらを歩み来にけり蛇の子を見むと来つれど春あさみかも     (『赤光』)

     朝あけていろいろの蛾(が)の死(しに)がらのあるをし見れば卵産みけり     (『白桃』)


これらの作品には、どれにもみな、ボードレール的な美意識が表出されているように思われる。


     ものぐるひの声きくときはわづらはし尊(たふと)き業(なり)とおもひ来(こ)しかど     (『白桃』)

     十日なまけけふ来て見れば受持の狂人ひとり死に行きて居し     (『赤光』)

     死に近き狂人を守るはかなさに己(おの)が身すらを愛(は)しとなげけり     (『赤光』)

     うつせみのいのちを愛(を)しみ世に生くと狂人(きやうじん)守(も)りとなりてゆくかも     (『この日ごろ』)


 精神科医であった茂吉の、気狂いに対する ambivalent で fanatic な思いは、どこかしら、彼の昆虫に対する思いに通じるところがある。ボードレールもまた、つねに ambivalent で fanatic な思いをもって対象に迫り、それを作品のなかに書き込んでいくタイプの詩人であった。


     まもりゐる縁の入日(いりび)に飛びきたり蠅(はへ)が手を揉むに笑ひけるかも     (『赤光』)

     留守をもるわれの机にえ少女(をとめ)のえ少男(をとこ)の蠅がゑらぎ舞ふかも     (『赤光』)

     冬の山に近づく午後の日のひかり干栗(ほしぐり)の上に蠅(はへ)ならびけり     (『あらたま』)

     うすぐらきドオムの中に静まれる旅人われに附きし蠅ひとつ     (『遠遊』)

     蠅(はへ)多き食店にゐてどろどろに煮込みし野菜くへばうましも     (『遠遊』)


「蠅」が茂吉の使い魔であることは、一目瞭然である。「蠅の王」(ベルゼブル、ベルゼブブ、あるいは、ベルゼバブ)は、蠅を意のままに呼び寄せたり、追い払うことができるのである(ユリイカ1989年3月号収載の植松靖夫氏の「蠅のデモロジー」より)。「ベルゼブル」は、マタイによる福音書12・24や、ルカによる福音書11・15によると、「悪魔の首領」であるが、茂吉に冠される称号として、これ以上に相応しいものがあるであろうか。demonic な詩人の代表であるボードレールに与えられた「腐肉の王」という称号にさえ、ひけをとらないものであろう。

 つぎに、茂吉を、「蠅の王」と見立てることによって、彼の作品世界を新たに解釈することができることを示してみよう。本稿の目的は、ここに至って達成されたことになる。


     ひとり居て卵うでつつたぎる湯にうごく卵を見ればうれしも     (『赤光』)


 一見、何の変哲もないこの歌が、「卵」を「赤ん坊」の喩と解することによって、「ひとりでいるとき、赤ん坊を茹でていると、煮えたぎる湯のなかで、その赤ん坊の身体がゆらゆらと揺れ動いて、それを眺めていると、じつに楽しい気分になってくるものである」といったこころ持ちを表しているものであることがわかる。


     汝兄(なえ)よ汝兄たまごが鳴くといふゆゑに見に行きければ卵が鳴くも     (『赤光』)


「卵」を「赤ん坊」と解したのは、この歌による。

 拙論にそって、斉藤茂吉の作品を鑑賞すると、これまで一般に難解であるとされてきたものだけではなく、前掲の作品のように、日常詠を装ったものの本意をも容易に解釈することができるのである。




                                            *引用された短歌作品は、すべて、斎藤茂吉のものである。


熊のフリー・ハグ。

  田中宏輔




まあ

じっさいに、熊の被害に遭われた方には

申し訳ないのだけれど



熊のフリー・ハグに注意!



きょう

きゃしゃな感じの三人組の青年たちが

フリー・ハグのプラカードを胸にぶら下げて

四条河原町の角に立って

ニタニタ笑っていた

プラカードの字はぜんぜんヘタクソだったし

見た目も気持ち悪かったし

なんだか頭もおかしそうだった



そういえば

おとついくらいかな

テレビのニュースで見たのだけれど

二十歳くらいのかわいらしい女の子たちが二人

フリー・ハグのプラカードを胸に下げて

通っているひとたちに声をかけて

ハグハグしていた



とってもかわいらしい女の子たちだったから

ゲイのぼくでもハグハグしてもらったらうれしいかも

なんて思っちゃった



不在の猫

猫は不在である

連れ出さなければならなかったのだ

波しぶきビュンビュン

市内全域で捜査中

バケツをさげたオバンが通りかかる

「あたしの哲学によるとだね

 あんた

 運が落ちてるよ」

不在の猫がニャンと鳴く

挨拶する暇もなく

雨が降る

「このバケツにゃ

 だれにでもつながる電話が入ってるんだよ

 試してみるかい」

角のお好み焼き屋のオヤジが受話器を握る

「猫を見たわ

 過激に活躍中よ

 気をつけて

 あなたの運は落ちてるわ」

ガチャン

お好み焼き屋のオヤジは受話器を叩きつける

「あんた

 これはあたしの電話だよ

 こわれるじゃないか」

バケツをさげたオバンが立ち去る

お好み焼き屋のオヤジがタバコをくわえる

不在の猫がニャンと鳴く

雨が上がる

いまの雨は嘘だった

ずっと

青空だったのだ

お好み焼き屋のオヤジが放屁する

真ん前の空を横切って、一台のUFOがひゅるひゅると空の端っこに落ちていく

学校帰りの小学生の女の子が歌いながら歩いてきた

「きょうもまじめな父さんは

 あしたもまじめな父さんよ

 きょうもみじめな母さんは

 あしたもみじめな母さんよ

 ローンきつくてやりきれない

 ローンきつくてやりきれない

 みんなで首をくくって死にましょう

 みんなで首をくくって死にましょう」

不在の猫がニャンと鳴く

「お嬢さんの学校じゃ

 そんな歌が流行ってるのかい」

時代錯誤のセリフがオヤジの口を突いて出てくると

かわいらしい小学生の女の子はオヤジの目を睨みつけて

「バッカじゃないの

 おじさんって

 おつむは大丈夫?

 おててが二つで

 あんよが二つ

 あわせて四つで

 ご苦労さん」

テレフォン・ショッピングの時間です

午後にたびたび夕立が降るのは

ご苦労さんです

仕事帰りに一杯のご気分はいかがですか?

鼻息の荒い毛むくじゃらの不在の猫がニャンと鳴く

カレンダー通りに

月曜日のつぎは火曜日

火曜日のつぎは水曜日

水曜日のつぎは木曜日

木曜日のつぎは金曜日

金曜日のつぎは土曜日

土曜日のつぎは日曜日

日曜日のつぎは月曜日

これってヤーネ

燃え上がる一台のUFOから宇宙人が出てきて

インタビューを受けている

「とつぜんのことでした

 ブランコに乗っていたら

 知らないおじさんが

 おいらのことを

 かわいいかわいいお嬢さん

 って呼ぶものだから

 おいらは宇宙人なのに

 お嬢さんだと思って

 おじさんの手に引かれて

 ぷらぷらついていったの

 知らないおじさんは宇宙人好きのする顔だったから

 おいらは

 てっきり

 おいらのことをお嬢さんだと思って

 それで

 縄でくくられて

 ぬるぬるした鼻息の荒い毛むくじゃらのタコのような不在の猫がニャンと鳴く」

お好み焼き屋のオヤジがタバコを道端に捨てて

つま先で火をもみ消した

バケツをさげたオバンがまたやってきた

「あたしの哲学によるとだね

 あんた

 運が落ちてるよ」

それを聞くなり

お好み焼き屋のオヤジが

バケツを持ったオバンの顔をガーンと一発殴ろうとしたら

反対に

オバンにバケツでどつかれて

頭を割って

さあたいへん

どじょうが出てきてコンニチハ

頭から

太ったうなぎほどの大きさのどじょうが出てきたの

どうしようもないわ

お好み焼き屋のオヤジは道端にしゃがんで

頭抱えて

思案中

「ところで

 明日の天気は晴れかな」

ぎらぎら光るぬるぬるした鼻息の荒い毛むくじゃらのタコのような不在の猫がニャンと鳴く

「晴れ

 ときどき曇り

 のち雨

 ときには豹も降るでしょう」

だれもがそう思いこんでいる

気がついたら

6時50分だった

ニュースが終わるよ

終わっちゃうよ

猫は不在である

というところで

人生の達人ともなれば

自分自身とも駆け引き上手である

勃起が自尊心を台無しにすることはない

理性に判断させるべきときに

理性に判断させてはいけない

わたしが20代の半ばくらいのときに

神について、とか

人間について、とか

愛について、とか

生きることについて、とか

そんなことばかりに頭を悩ませていたのは

そういったことばかりに頭を使っていたのは

真剣に取り組まなければならなかった身近なことから

ほんとうにきちんと考えなければならなかった日常のことから

自分自身の目を逸らせるためではなかったのだろうか

真剣に取り組んで、ほんとうにきちんと考えなければならなかった問題を

自分自身の目から遠くに置くためではなかったのだろうか

たとえどんなにブサイクな恋人でも

濡れた手で触れてはいけない

オハイオ、ヤバイヨ

愛はたった一度しか訪れないのか

why

Why



詩に飽きたころに

小説でオジャン

あれを見たまえ



角の家の犬

自分が飼われている家の近くにいるときには

とてもうるさく吠えるのに

公園の突き出た棒につながれたら

おとなしい



掲示板



イタコです。

週に二度、ジムに通って身体を鍛えています。

特技は容易に憑依状態になれることです。

しかも、一度に三人まで憑依することができます。

こんなわたしでよかったら、ぜひ、メールをください。

また、わたしのイタコの友だちたちといっしょに、合コンをしませんか?

人数は、四、五人から十数人くらいまで大丈夫です。こちらは四人ですけれど、

十数人くらいまでなら、すぐにでも憑依して人数を増やせます。

合コンのお申し込みも、ぜひぜひ、よろしくお願いいたします! (二十五才・女性会員)。



今朝、通勤の途中、新田辺駅で停車している普通電車に乗っていたときのことでした。

「ただいま、この電車は、特急電車の通過待ちのために停車しております。」

というアナウンスのあとに、「ふう。」と、大きなため息を、車掌がつきました。

しかし、まわりを見回しても、車掌のそのため息に耳をとめたひとは、ひとりもおらず

みんな、ふだんと同じように、居眠りしていたり、本を読んだりしていました。

だれひとり、車掌のため息を耳にしなかったかのように、だれひとり、笑っていませんでした。

笑いそうになってゆるみかけていたぼくの頬の筋肉が、こわばってひきつりました。



一乗寺商店街に

「とん吉」というトンカツ屋さんがあって

下鴨にいたころや

北山にいたころに

一ヶ月に一、二度、行ってたんだけど

ほんとにおいしかった

ただ、何年前からかなあ

少しトンカツの質が落ちたような気がする

カツにジューシーさがないことが何度かつづいて

それで行かなくなったのだけれど

ときたま

一乗寺商店街の古本屋「荻書房」に行くときとか

おしゃれな書店「恵文社」に行くときとかに

なつかしくって寄ることはあるんだけれど

やっぱり味は落ちてる

でも、豚肉の細切れの入った味噌汁はおいしい

山椒が少し入ってて、鼻にも栄養がいくような気がする

とん吉では、大将とその息子さん二人と奥さんが働いていて

奥さんと次男の男の子は、夜だけ手伝っていて

昼間は、大将と長男の二人で店を開けていて

その長男が、チョーガチムチで

柔道選手だったらしくって

そうね

007のゴールドフィンガーに出てくる

あのシルクハットを、ビュンッて飛ばして

いろんなものを切ってく元プロレスラーの俳優に似ていて

その彼を見に行ってるって感じもあって

トンカツを食べるって目的だけじゃなくてね

不純だわ、笑。

とん吉には

プラスチックや陶器でできたブタのフィギュアがたくさん置いてあって

お客さんが買ってきては置いていってくれるって

大将が言ってたけれど

みずがめ座の彼は



ぼくが付き合ってた男の子ね

ぼくがブタのフィギュアを集めてたことをすっごく嫌がっていた

見た目グロテスクな

陶器製の精巧なブタのフィギュアを買ったときに別れたんだけど

ああ、名前を忘れちゃったなあ

でも、めっちゃ霊感の鋭い子で

彼が遊びにきたら

かならず霊をいっしょに連れてきていて

泊まりのときなんか

ぼくはかならずその霊に驚かされて

かならずひどい悪夢を見た

彼は痛みをあんまり痛みに感じない子やった

歯痛もガマンできると言っていた

ぼくと付き合う前に付き合ってたひとがSだったらしくって

かなりきついSだったんだろうね

口のなかにピンポンの球みたいなものを

あのひも付きの口から吐き出させないようにするやつね

そんなものをくわえさせられて

縛られて犯されたって言ってたけど

そんなプレーもあるんやなって思った

痛みが快感と似ているのは

ぼくにもある程度わかるけど

そういえば

フトシくんは

ぼくを縛りたいと言ってた

ぼくが23才で

彼が二十歳だったかな

ラグビー選手で

高校時代に国体にも出てて

めっちゃカッコよかった

むかし

梅田にあったクリストファーっていうゲイ・ディスコで出会ったのね



一度

ホテルのエレベーターのなかで

ふつうの若いカップルと乗り合わせたことがあって

なぜかしらん、男の子のほうは

目を伏せて、ぼくらのほうを見ないようにしてたけど

女の子のほうは、目をみひらいて

ぼくらの顔をジロジロ交互にながめてた

きっと

ぼくらって

ラブラブのゲイカップルって光線を発してたんだろうね



あのエレベーターのなかじゃ、あたりまえか

ラブホだもんね

なにもかもがうまくいくなんて

けっしてなかったけれど

ちょっとうまくいくっていうのが人生で

そのちょっとうまくいった思い出と

うまくいかなかったときのたくさんの思い出が

いっぱい

いいっっぱい

you know

i know

you know what i know

i know what you know

同じ話を繰り返し語ること

同じ話を繰り返し語ること



地球のゆがみを治す人たち



バスケットボールをドリブルして

地面の凸凹をならす男の子が現われた

すると世界中の人たちが

われもわれもとバスケットボールを使って

地面の凸凹をならそうとして

ボンボン、ボンボン地面にドリブルしだした

そのたびに

地球は

洋梨のような形になったり

正四面体になったり

直方体になったりした



2008年4月22日のメモ(通勤電車のなかで)



手の甲に

というよりも

右の手の人差し指の根元の甲のほうに

2センチばかりの切り傷ができてた

血の筋が固まっていた

糸のようにか細い血の筋に目を落として考えた

寝ているあいだに切ったのだろうけれど

どこで切ったのだろうか

どのようにして切ったのであろうか

切りそうな場所って

テーブルの脚ぐらいしかないんだけれど

その脚だって角張ってはいないし

それ以外には

切るようなシチュエーションなど考えられなかった

幼いときからだった

目が覚めると

ときどき

手のひらとか甲とか

指の先などに

切り傷ができていることがあって

血が固まって

筋になっていて

指でさわると

その血の筋が指先に

ちょっとした凹凸感を感じさせて

でも

どこで

どうやって

そんな傷ができたのか

さっぱりわからなかったのだ

これって

もしかすると

死ぬまでわからないんやろうか

自分の身の上に起きていることで

自分の知らないことがいっぱいある

これもそのひとつに数えられる

まあ

ちょっとしたなぞやけど

ごっつい気になるなぞでもある

なんなんやろ

この傷

これまでの傷



彼女は手紙を書き上げると

彼に電話した

彼も彼女に手紙を書き終えたところだった

二人は自分たちの家の近くのポストにまで足を運んだ

二つのポストは真っ赤な長い舌をのばすと

二人をぱくりと食べた

翌日

彼女は彼の家に

彼は彼女の家に

配達された

そして

二人は

おのおの宛てに書かれた手紙を読んだ



きのうは

ジミーちゃんと

ジミーちゃんのお母さまと

1号線沿いの「かつ源」という

トンカツ屋さんに行きました。

みんな、同じトンカツを食べました。

ぼくとジミーちゃんは150グラムで

お母さまは、100グラムでしたけれど。

ご飯と豚汁とサラダのキャベツは

お代わり自由だったので

うれしかったです。

もちろん、ぼくとジミーちゃんは

ご飯と豚汁をお代わりしました。

食後に芸大の周りを散歩して

それから嵯峨野ののどかな田舎道をドライブして

広沢の池でタバコを吸っていました。

目をやると

鴨が寄ってくるので

猫柳のような雑草の先っぽを投げ与えたりして

しばらく、曇り空の下で休んでいました。

鴨は、その雑草の穂先を何度も口に入れていました。

「こんなん、食べるんや。」

「ぼくも食べてみようかな。」

ほんのちょっとだけ、ぼくも食べてみました。

予想と違って、苦味はなかったのですが

青臭さが、長い時間、残りました。

鴨のこどもかな

と思うぐらいに小さな水鳥が

池の表面に突然現われて

また水のなかに潜りました。

「あれ、鴨のこどもですか?」

と、ジミーちゃんのお母さまに訊くと

「種類が違うわね。

 なんていう名前の鳥か

 わたしも知らないわ。」

とのことでした。

見ていると、水面にひょっこり姿を現わしては

またすぐに水のなかに潜ります。

そうとう長い時間、潜っています。

水のなかでは呼吸などできないはずなのに。

顔と手に雨粒があたりました。

「雨が降りますよ。」

ぼくがそう言っても

二人には雨粒があたらなかったらしく

お母さまは笑って、首を横に振っていました。

ジミーちゃんが

「すぐには降らないはず。降り出すとしても3時半くらいじゃないかな。

 しかも、30分くらいだと思う。」

そのあと嵐山に行き

帰りに衣笠のマクドナルドに寄って

ホットコーヒーを飲んでいました。

窓ガラスに蝿が何度もぶつかってわずらわしかったので

右手の中指の爪先ではじいてやりました。

しばらくのあいだ、蠅はまるで死んだかのような様子をしていて、まったく動かなかったのですが

突然、生き返ったかのようにして動き出すと、元気よく隣の席のところにまで飛んでいきました。

イタリア語のテキストをジミーちゃんが持ってきていました。

ぼくも、むかしイタリア語を少し勉強していたので

イタリア語について話をしていました。

お母さまは音大を出ていらっしゃるので

オペラの話などもしました。

ぼくもドミンゴの『オセロ』は迫力があって好きでした。

ドミンゴって楽譜が読めないんですってね。

とかとか、話をしていたら

突然、外が暗くなって

雨が降ってきました。

「降ってきたでしょう。」

と、ぼくが言うと

ジミーちゃんが携帯をあけて時間を見ました。

「ほら、3時半。」

ぼくは洗濯物を出したままだったので

「夜も降るのかな?」って訊くと

「30分以内にやむよ。」との返事でした。

じっさい、10分かそこらでやみました。

「前にも言いましたけれど

 ぼくって、雨粒が、だれよりも先にあたるんですよ。

 顔や手に。

 あたったら、それから5分とか10分くらいすると

 それまで晴れてたりしてても、急に雨が降り出すんですよ。」

すると、ジミーちゃんのお母さまが

「言わないでおこうと思っていたのだけれど

 最初の雨があたるひとは、親不孝者なんですって。

 そういう言い伝えがあるのよ。」

とのことでした。

そんな言い伝えなど知らなかったぼくは、

ジミーちゃんに、知ってるの?

と訊くと、いいや、と言いながら首を振りました。

ジミーちゃんのお母さまに、

なぜ知ってらっしゃるのですか、とたずねると

「わたし自身がそうだったから。

 しょっちゅう、そう言われたのよ。

 でももう、わたしの親はいないでしょ。

 だから、最初の雨はもうあたらなくなったのね。」

そういうもんかなあ、と思いながら聞いていました。

広沢の池で

鴨がくちばしと足を使って毛繕いしていたときに

深い濃い青紫色の羽毛が

ちらりと見えました。

きれいな色でした。

背中の後ろのほうだったと思います。

鴨が毛繕いしていると

水面に美しい波紋が描かれました。

同心円が幾重にも拡がりました。

でも、鴨がすばやく動くと

波紋が乱れ

もう美しい同心円は描かれなくなりました。

ぼくは振り返って、池に背を向けると

山の裾野に拡がる畑や田んぼに目を移しました。

そこから立ち昇る幾条もの白い煙が、風に流されて斜めに傾げていました。



ようやく珍しい体位の暗い先生に

イカチイ紅ヒツジの映像が眼球を経巡る。

なんと、現在、8回目の津波に襲われている。

ホームレスリングのつもり。

段取りは順調。

声が出てもいいように

洗濯機を回している。

ファンタスティック!

イグザクトゥリー?

アハッ。

ジャズでいい?

オレも、ジャズ聴くんすよ。

ふたたび、手のなかで、眼球がつるつるすべる。

ふたたび、目のなかで、指がつるつるすべる。

777 Piano Jazz。

事件が起こった。

西大路五条のスーパー大国屋の買い物籠のなかで

秘密指令を帯びた主婦が乳房をポロリ。

吸いません。

違った、

すいません。

老婆より中年ちょいブレ気味の一条さゆり似のメンタ。

火曜日午後6時30分発の

恋のスペシャル。

土俵を渡る。

つぎは難儀。

つぎはぎ、なんに?

SМILE。

「有名な舌なの?」

吸われる。

「有名な死体なの?」

居据わられる。

「有名な体位なの?」

坐れる。

こころが言い訳する。

いろいろ返します。

ポイント2倍デイ、特別価格日・開催中。

窓々のガラスに貼られた何枚もの同じ広告ビラ。

このあいだ恋人と別れたんやけど

いまフリーやったら、付き合ってくれる?

別れる理由はいろいろあったんやけど

なんなんやろね、なんとなくね。

とてもいい嘘だよ。

理由は、ちゃんとある。

ある、ある、ある。

ちゃんと考えてある。

いまなら、送料 + 手数料=無料。

YES OR NO?

YOU OK?

もうなにも恐れません。

あなたの買いたい=自己解体。

生まれ変わった昭和の百姓、二百姓。

ってか、なんだか、変なんです。

生きるって、なんて、すばらしいの?

なにも言ってませんよ。

紅ヒツジのイカチイ映像が

ぼくの過去の異物に寄り添っている。

喉越しが直撃する。

言下に垂下する。

期間限定の奴隷に参加。

面白いほど死ぬ。筋肉麻痺が分極する。

前半身31分。後ろ半身32分。横半身30分ずつ。

今後も、足の指は10本ずつ。

動いたり止まったりします。

念動力で動く仕組みです。

メエメエと鳴く一頭の紅ヒツジが

ぼくの耳のなかに咲いている。

基本、暑くないですか?

きわめて重要な秘密指令を

週5日勤務のレジ係のバイトの女の子が

パチパチとレシートに打ち出す。

(なぜだか、彼女たちみんな、眉毛をぶっとく描くのねん。)

エクトプラズムですもの。

はげしいセックスよりも、ソフトなほうがいいの?

紅ヒツジは全身性感帯だった。

柔道とカラテをしていた暗い先生は

体位のことしか考えている。

倫理に忠実な自動ドアが立ち往生している。

「有名な下なの?」

「有名な上なの?」

「有名な横なの?」

右、上、斜め、下、横、横、後ろ、前、左、ね。

じゃあ、こんどはうつぶせになって。

ぼくの有名な死体は彼の舌の上を這う。

彼の下の上を這う。

ルッカット・ミー!

do it, do it

一日は17時間moあるんだから

エシャール

そのうち、朝は15時間で、お昼は20時間で、夜は15時間moあるんだから

すぇ絵tすぇ絵tもてぇr府c家r

sweet sweet mother fucker

チョコレートをほおばる。

スニッカーズ、9月中・特別価格98円。

気合を入れて、プルプル・グレープを振る。

とても自由な言い訳で打ち震える。

きみの6時30分にお湯を注ぐ。

どんなに楽しいことでも

180CC。

きょうは実家に帰るんです。

紅ヒツジの覚悟の体位に

暗い先生は厳しい表情になる。

主婦が手渡されたレシートには、こう書いてあった。

「計¥ 恥ずかしい」

暗い体位を見つめている先生は

しばしば解釈の筋肉が疲労している。

ふだんはトランクス。

「なに? このヒモみたいなの↓」

自販機で彼に買ってあげた缶コーヒーに口をつける。

右、上、斜め、下、横、横、後ろ、前、左、ね。

ぼくのジャマをしないで。

恋人になるかどうかのサインを充電している。

道徳は、わたしたちを経験する。

everything keeps us together

指が動くと、全身の筋肉が引き攣れ

紅ヒツジの悲鳴が木霊する。

採集された余白が窓ガラスにビリビリと満ち溢れる。

「このテーブル、オレも使ってました。

 オレのは、黒でしたけど。」

どこまで、いっしょなの?

この十年間、付き合った子、

みんな、ふたご座。

なんでよ?

そのうち、二人は誕生日が同じで、血液型も同じ。

すっごい偶然じゃん。

それとも、偶然じゃないのかな。

名前まで、ぼくとおんなじ、田中じゃんか!

いくら多い名前だからってさあ。

それって、ちょっと、ちょっと、ちょっとじゃなあい?

それじゃあ、ピタッと無責任に歌っていいですか?

いいけどお。

採集された余白が窓ガラスにビリビリと満ち溢れる

西大路五条のスーパー大国屋の買い物籠のなかで

秘密指令を帯びた主婦が乳房をポロリ。

ポロリポロリのポロリの連発に

暗い体位の先生が自動ドアのところで大往生。

違った、

大渋滞。

ピーチク・パーチク

有名な死体が出たり入ったり

繰り返し何度も往復している。

紅ヒツジの全身の筋肉が引き攣れ

レジ係の女の子の芸術的なストリップがはじまる。

あくまでも芸術的なストリップなのに

つぎつぎと生えてくる

一期一会のさえない男たちの客の目がギロリ、ギロリ。

もう一回いい?

さすがに、いいよ。

ほんまやね。

2割引きの398円弁当に一番絞りの缶が混じる。

まとめて、いいよ。

持っておいで。

フリーズ!

ギミ・ザ・ガン!

ギミ・ザ・ガン!

カモン!

やさしいタッチで

見せつける。

よかったら、二回目も。



で、

それで

いったい、神さまの頬を打つ手はあるのか?

アロハ・

オエッ



さっき、うとうとと、眠りかけていて

ふとんのなかで、ふと

「恋愛増量中」なる言葉がうかんだ。

何日か前に、シリアルかなんかで

「増量20グラム」とかとか見たからかも

いや、きょう買ったアルカリ単三電池10個が

ついこのあいだまで、増量2本で1ダース売りだったのに

買っておけばよかったな、などと

朝、思ったからかもしれない。

いや、もしかしたら、いま付き合ってる恋人に対して、

そう感じてるからかもしれない。

どこまで重たくなるんやろうかって。

へんな意味ではなくて

いい意味で。



ケンコバの夢を見た。

ケンコバといっしょに

無印良品の店に

鉛筆を買いに行く夢を見た。

けっきょく買わなかったのだけれど

鉛筆の書き味を試したりした。

帰りに、その店の出入り口のところで

「おれの頭の匂いをかいでみぃ。」とケンコバに言われて

かいでみたけれど、ふつうに、頭のにおいがして

そんなに不快やなかったけど

ちょっと脂くさい頭のにおいがして

べつにシャンプーやリンスのいい匂いではなかった。

「ただの頭のにおいやん。」と言うと

「ええ匂いせえへんか。」と言われた。

「帰り道、送って行ったるわ。

 祇園と三条のあいだに中村屋があったやろ、

 その前を通って行こ。」

と言われたが、チンプンカンプンで

それは、いまぼくが住んでるところとはまったく違う場所だし

祇園と三条のあいだには中村屋もない。

しかし、芸能人が夢に出てくるのは、はじめて。

むかし、といっても、5、6年前のことだけど

ひと月くらい、北山でいっしょに暮らしていた男の子がいて

きのう、その子とメールのやりとりをしたからかなあ。

髪型は、たしかにいっしょやけど

顔や体型はぜんぜん違うしなあ。

なんでやろ、ようわからん。

しかし、いやな夢ではなかった。

むしろ、楽しい夢やった。

ずっとニコニコ顔のケンコバがかわいかった。



お皿を割ったお菊を

お殿様が

切り殺して

ブラックホールのなかにほうり込みました

読者のみなさんは

ブラックホールから

お菊さんが幽霊となって出てきて

お皿を、一枚、二枚、三枚、……と九枚まで数えて

一枚足りぬ、と言う姿を想像されたかもしれませんが

あにはからんや

お菊さんがホワイトホールから

一人、二人、三人、……と

無数の不死身の肉体を伴ってよみがえり

そこらじゅう

ビュンビュンお皿を飛ばしまくりながら出てきたのでした

いまさらお殿様を恨む気持ちなどさらさらなく

楽しげに

満面に笑みをたたえながら



ウンコのカ

ウンコの「ちから」じゃなくってよ

ウンコの「か」なのよ

なんのことかわからへんでしょう

虫同一性障害にかかった蚊で

自分のことを蠅だと思っている蚊が

ウンコにたかっているのよ

うふ〜ん



毎晩、寝るまえに枕元に灰色のボクサーパンツを履いたオヤジが現われ

猫の鞄にまつわる話をする金魚アイスのって、どうよ!

灰色のパンツがイヤ!

赤色や黄色や青色のがいいの!

それより

間違ってっぽくない?

金魚アイスのじゃなくって

アイス金魚のじゃないの?

たくさんの猫が微妙に振動する教会の薔薇窓に

独身の夫婦が意識を集中して牛の乳を絞っているのって、どうよ!

こんなもの咲いているオカマは

うちすてられて

なんぼのモンジャ焼き

まだやわらかい猫の仔らは蟇蛙

首を絞め合う安楽椅子ってか

やっぱり灰色はイヤ!

赤色や黄色や青色のがいいの!



院生のときに

宇部のセントラル硝子っていう会社のセメント工場に見学に行ったときのこと

「これは塩です」

そう言われて見上げると

4、5階建てのビルディングぐらいの高さがあった

塩の山

そこで働いている人には

めずらしくともなんともないものなのだろうけれど



自由金魚

世界最大の顕微鏡が発明されて

金属結晶格子の合間を自由に動きまわる金魚の映像が公開された。

これまで、自由電子と思われていたものが

じつは金魚だったのである。

自由金魚は、金属結晶格子の合間を泳ぎまわっていて

金属結晶格子の近くに寄ると

まるで金魚すくいの網を逃れるようにして、ひょいひょいと泳いでいたのである。

電子密度は、これからは金魚密度と呼ばれることになり

物理とか化学の教科書や参考書がよりカラフルなものになると予想されている。


ベンゼン環の上とか下とかでも、金魚たちがくるくるまわってるのね。

世界最大の顕微鏡で見るとね。



金魚蜂。

金魚と蜂のキメラである。

水中でも空中でも自由に泳ぐことができる。

金魚に刺されないように

注意しましょうね。



金魚尾行。

ひとが歩いていると

そのあとを、金魚がひゅるひゅると追いかけてくる。



近所尾行。

ひとが歩いていると

そのあとを、近所がぞろぞろぞろぞろついてくるのね。

ありえるわ、笑。



現実複写。

つぎつぎと現実が複写されていく。

苦痛が複写される。

快楽が複写される。

悲しみが複写される。

喜びが複写される。

さまざまな言葉たちが、さまざまな人間たちの経験を経て、現実の人間そのものとなる。

さまざまな形象たちが、さまざまな人間たちの経験を得て、現実の事物や事象そのものとなる。



顔は濡れていた。

ほてっていたというわけではない。

むしろ逆だった。

冷たくて、空気中の水蒸気がみな凝結して露となり、

したたり落ちているのだった。

身体のどこかに、この暗い夜と同じように暗い場所があるのだ。

この暗い夜は、わたしの内部の暗い場所がしみ出してできたものだった。

わたしの視線に満ち満ちたこの暗い夜。



あらゆるものが機械する。

機械したい。

機械される。

あらゆるものが機械する。

機械したい。

機械される。

あらゆる機械は機械を機械する。

あらゆる機械を機械に機械する。

あらゆる機械に機械は機械する。

機械死体。

故障した機械蜜蜂たちが落ちてくる。

街路樹が錆びて金属枝葉がポキポキ折れていく。

電池が切れて機械人間たちが静止する。

空に浮かんだ機械の雲と雲がぶつかって

金属でできたボルトやナットが落ちてくる。

あらゆるものが機械する。

機械したい。

機械される。

あらゆるものが機械する。

機械したい。

機械される。

あらゆる機械は機械を機械する。

あらゆる機械を機械に機械する。

あらゆる機械に機械は機械する。



葱まわし 天のましらの前戯かな

孔雀の骨も雨の形にすぎない



べがだでで ががどだじ びどズだが ぎがどでだぐぐ どざばドべが



四面憂鬱

誌面憂鬱

氏名憂鬱

四迷憂鬱

4名湯打つ

湯を打つ?

意味はわからないけど

なんだか意味ありげ

湯を打つと

たくさん賢治が生えてくるのだった

たとえば、官房長官のひざの上にも

スポーツキャスターの肩の上にも

壁に貼られたポスターの上にも

きのう踏みつけた道端の紙くずの上にも

賢治の首がにょきにょき生えてくるのだった

身体はちぢこまって

まるで昆虫のさなぎみたいに

小さい

窓々から覗くたくさんの賢治たち

さなぎのようにぶら下がって

窓々の外から、わたしたちを覗いているのだ

「湯を打つ」の意味を

こうして考えてみると

よくわかるよね

キュルルルルル

パンナコッタ、

どんなこった



さっき

散歩のついでに

西院の立ち飲み屋にぷらっと寄って

飲んでいました。

むかし

「Street Life.」って、タイトルで

中国人の26才の青年のことを書いたことがあって

立ち飲み屋の客に

その中国人の青年にそっくりな男の子がいて

やんちゃな感じの童顔の男の子で

二十歳過ぎくらいかな

太い大きな声で、年上の連れとしゃべっていました。

ときどき顔を見ていたら

やっぱりよく似ていて

そっくりだったなあ

と思って、帰り道に

その男の子と

中国人の青年の顔を思い浮かべて

ほんとによく似ていたなあと

ひとしきり感心して

ディスクマンで、プリンスの

Do Me,Baby を聴きながら

帰り道をとぽとぽと歩いていました。

もしかしたら、錯覚だったのかもしれません。

あの中国人の青年のことを思い出したくて、似ているなあと思ったのかもしれません。

いまでも、しょっちゅう、あの中国人青年の声が耳に聞こえるのです。

おれ、学歴ないやろ。

中卒やから

金を持とうと思うたら、風俗でしか働けへんねん。

そやから、風俗の店で店長してんねん。

一日じゅう、働いてんでえ。

そんかわり、月に50万はかせいでる。

たしかに、そんな感じだった。

ぼくと出会った夜

おれがホテル代は出すから

ホテルに行こう

って、その子のほうから言ってきて

帰りは、自分の外車で送ってくれたのだけれど。

さっき立ち飲み屋で話してた青年も

あどけない顔して、話の中身は風俗だった。

まあ、客にそのときはまだ女がいなかったからね。

でも、ほんとに風俗が好きなのかなあ。

このあいだ、よく風俗に行くっていう、24才の青年に

痛くない自殺の仕方ってありますか、って訊かれた。

即座に、ない、とぼくは答えた。

その子も童顔で、すっごくかわいらしい顔してたのだけれど。

おれ、エロいことばっかり考えてて、女とやることしか楽しみがないんですよ。

いたって、ふつうのことだと思うのだけれど。

それが、死にたいっていう気持ちを起こさせるわけでもないやろうに。

そういえば、あの中国人青年も、風俗の塊みたいな子やった。

おれ、女と付きおうてるし、女好きなんやけど

ときどき、男ともしたくなるねん。

おっちゃん、SMプレーってしたことあるか?

梅田にSMクラブがあんねんけど

おれ、月に一回くらい行ってんねん。

おれ、女とやるときには、おれのほうがSで、いじめたいほうなんやけど

男とするときには、おれのほうがいじめられたいねん。

おっちゃん、おれがしてほしいことしてくれるか?

って、そんなこと、ストレートに訊かれて

ぼくは

ぼくの皮膚はビリビリと震えた。



三日ぶりに

仕事場に彼が出てきた

愛人のわたしの前で他人行儀に挨拶する彼

そりゃまあ仕方ないわね

ほかのひとの目もあるんですもの

それにしてもしらじらしいわ

彼は首に娘を巻きつかせていた

「このたびはご愁傷様でした」

彼女は三日前に死んだ彼の娘だった

死んだばかりの娘は

彼女の腕をしっかり彼の首に巻きつけていた

彼の首には

三年前に死んだ彼の母親もぶらさがっていた

母親の死体はまだまだ元気で

けっして彼から離れそうになかった

その母親の首には

彼の祖父母にあたる老夫婦の死体がぶらさがっていた

もうほとんど干からびていたけど

そんなに軽くはないわね

わたしの目の前を彼が通る

机の角がわたしの腰にあたった

彼の足下にしがみついて離れない

去年の暮れに死んだ彼の奥さんが

わたしの机の脚に自分の足をひっかけたのだ

いつもの嫌がらせね

バカな女

でも彼のやつれた後ろ姿を目にして

彼とももうそろそろ別れたほうがいいのかなって

わたしはささやきつぶやいた

わたしの首に抱きついて離れないわたしの死んだ夫に



「言葉とちゃうやろ

 好きやったら、抱けや」

数多くのキッスと

ただ一回だけのキス

むかし、エイジくんって子と付き合っていて

その子とのキッスはすごかった

サランラップを唇と唇のあいだにはさんでしたのだ

彼とのキスはそれ一回だけだった

一年間

ぼくは彼に振り回されて

めちゃくちゃな日々を送ったのだ

ぼくは一度も好きだと言わなかった

彼もまた、ぼくのことを一度も好きだと言わなかった

お互いに

ぜんぜん幸せではなかった

だけど

離れることができなかった

一年間

ほとんど毎日のように会っていた

怒濤のような一年が過ぎて

しばらくぼくのところに来なくなった彼が

突然、半年振りに

ぼくの部屋に訪れて

男女モノのSMビデオを9本も連続してかけつづけたのだ

わけがわからなかった

「たなやんといても

 俺

 ぜんぜん幸せちゃうかった

 ほんまに

 きょうが最後や

 二度ときいひんで」

「元気にしとったん?」

「俺のことは

 心配せんでええで

 俺は何があっても平気や」

ぼくは30代半ば

私立高校で数学の非常勤講師をしていた

彼は京大の工学部の学生で柔道をしていた

もしも、もう一度出会えたら

彼に言おうと思ってる言葉がある

「ぼくも

 きみといて

 ぜんぜん幸せちがってた

 だけど

 いっしょにいなかったら

 もっと幸せちごうたと思う

 そうとちゃうやろか」



この齢になっても

愛のことなど、ちっとも知らんぼくやけど

「俺といっしょに行くんやったら

 きたない居酒屋と

 おしゃれなカフェバーと

 どっちがええ?」

「カフェバーかな」

「俺は居酒屋や

 そやからインテリは嫌いなんや」

「きみだってインテリだよ」

「俺のこと

 きみって言うなって

 なんべん言うたらええねん

 むっかつく」

ぼくは、音楽をかけて本を読み出す

きみは、ぼくに背中を向けて居眠りのまね

いったい、なにをしてたんだろう

ぼくたちは

いったい、なにがしたかったんだろう

ぼくたちは

ぼくは気がつかなかった

きみと別れてから

きみに似た中国人青年と出会って

ようやく気がついた

きみが、ぼくになにを望んでいたのか

きみが、ぼくにどうしてほしかったのか

ぼくたちは

ぼくたちを幸せにすることができなかった

ちっとも幸せにすることができなかった

それとも、あれはあれで

せいいっぱいの幸せやったんやろか

あれもまたひとつの幸せやったんやろか

よく考えるんやけど

もしも、あのとき

きみが望んでたことをしてあげてたらって

もちろん、幸せになってたとは限らないのだけれど

考えても仕方のないことばかり考えてしまう

つぎの日の朝のトーストとコーヒーが最後やった

二度とふたたび出会わなかった



単為生殖で増えつづける工事現場の建設労働者たちVS真っ正面土下座蹴り

&ちょい斜め土下座蹴り&真っ逆さま土下座蹴り



いつの間に

入ってきたのだろう

窓を開けたのは

洗濯物を取り入れる

ほんのちょっとのあいだだけだったのに

蚊は

姿を現わしては消える

音楽をとめて

蚊を見つけることにした

本棚のところ

すべての段を見ていく

パソコンの後ろをのぞく

CDラックもつぶさに見ていく

ふと思いついて

箪笥を開ける

箪笥を閉める

振り返ると

蚊がいた

追いつめてやろうとしたら

姿を消す

パソコンの前に坐って

横目で本棚のところを見ると

蚊がいた

やがて

白い壁のところにとまったので

しずかに近づいて

手でたたいた

つぶした

と思ったら

手には何の跡もない

ぼくは

白い壁の端から端まで

つぶさに見ていった

蚊はどこにもいなかった

ふと、壁の中央に目がひきつけられた

壁紙の一部がぽつりと盛り上がり

それが蚊に変身したのだ

そうか

蚊はそこから現われては

そこに姿を消していったんだ

ぼくは

壁面を

上下左右

全面

端から端まで

バシバシたたいていった

ぼくは、どっちを向けばいい?



倫理的な人間は、神につねに監視されている。



会話するアウストラロピテクス



あのひとたちは長つづきしないわよ

どうして?

わたしたちみたいに長いあいだいっしょにいたわけじゃないもの

そんな言葉を耳にしてちらっと振り返った

よく見かける初老のカップルだった

たぶん夫婦なのだろう

バールに老人たちがいることは案外多くて

それは隣でバールの主人の父親が骨董品屋を開いていて

というよりか

骨董品屋のおじいさんの息子が

骨董品屋の隣にバールをつくったのだけれど

だからたぶんそのつながりで老人が多いのだろう

洛北高校が近くて

高校生がくることもあったのだけれど

客層はばらばらで

あんまりふつうの感じのひとはいなくて

クセのある個性的なひとが集まる店だった

西部劇でしかお目にかからないようなテンガロンハットをかぶったひととか

いやそのひとはときどき河原町でも見かけるからそうでもないかな

マスターである主人は芸術家には目をかけていたようで

店内には客できていた画家の絵が掲げてあったり

大学の演劇部の連中の芝居のチラシが貼ってあったり

ぼくも自分の詩集を置かせてもらったりしていた

老夫婦たちが話題にしていた人物が

じっさいには何歳なのか

具体的にはわからなかったけれど

年齢差のあるカップルについて話していたみたいで

あの若い娘とは知り合ったばかりでしょ

とか言っていた



バール・カフェ・ジーニョ

下鴨に住んでいたころには毎日通っていた

ぼくの部屋がバールの隣のマンションの2階にあったから

いまでも、コーヒーって、200円なのかな



さっき

「会話するステテコ」って

突然おもい浮かんだのだけれど

意味がわからなくて

というのは

ステテコが何かすぐに思い出せなくて

ステテコに近い音を頭のなかでさがしていたら

アウストラロピテクス

って出てきた



ステテコって

フンドシのことかな

って思っていたら

いま思い出した

パッチのことやね



ステテコ

じゃなくて

フンドシで思い出した

むかし、エイジくんが

フンドシを持ってきたことがあって

「これ、はいて見せてや」

と言われたのだけれど

フンドシなんて

はいたことなくって

けっきょく

はいたかどうか

自分のフンドシ姿の記憶はない

ただ、「やっぱり似合うなあ」って

なんだか勝ち誇ったような笑顔を浮かべながら言う

エイジくんの顔と声の記憶はあって

当時は、ぼくも体重が100キロ近くあったから

まあ、腹が出てて、ふともももパンパンやったから

似合ってたのかもしれない

はいたんやろうね

なんで憶えてへんのやろ



フンドシは

白の生地に●がいっぱい

やっぱり

●とは縁があるんやろうなあ



これはブログには書けないかもね

フンドシはなあ



どうして、ぼくは、きみじゃないんやろうね。

どうして、きみは、ぼくじゃないんやろうね。



フンドシはなあ。


Jumpin' Jack Flash。

  田中宏輔



●捜さないでください●現実は失敗だらけで●芸術も失敗だらけ●ちゃんと生きていく自身がありません●ハー●コリャコリャ●突然●自由なんだよって言われたってねえ●恋人没収!●だども●おらには●現実がいっぱいあるさ●芸術だっていっぱいあるわさ●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●街じゅういたるところから●猿のおもちゃたちが●姿を現わす●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●街じゅういたるところから●猿のおもちゃたちが●姿を現わす●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●シンバルを打ち鳴らしながら●猿のおもちゃたちが●ぼくのほうに向かってやってくる●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●シンバルを打ち鳴らしながら●猿のおもちゃたちが●ぼくのほうに向かってやってくる●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●脱穀の北朝鮮●朝鮮民主主義人民共和国の令嬢夫人たちが●足をあげて●足をさげて●オイ●チニ●オイ●チニ●黄色いスカートをひるがえし●オイ●チニ●オイ●チニ●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●脱穀の北朝鮮●朝鮮民主主義人民共和国の令嬢夫人たちの黄色いスカートがまくれあがり●マリリン・モンローのスカートもまくれあがり●世界じゅうの婦女子たちのスカートもまくれあがる●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●自転車は倒れ●バイクも倒れ●立て看板も倒れ●歩行者たちも倒れ●工事現場の建設作業員たちも倒れ●ぼくも道の上にへたり込む●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●吹けよ●風!●呼べよ●嵐!●沸騰する二酸化炭素●カーボン・ダイオクサイド●真っ直ぐな肩よ●来い!●沸騰する二酸化炭素●カーボン・ダイオクサイド●真っ直ぐな肩よ●来い!●東京のあるゲイ・バーでの話●ジミーちゃんから聞いたんだけど●隣に腰掛けてた三木のり平そっくりの男のひとが●ジミーちゃんに向かって●こんなこと言ったんだって●「あまりこっちを見ないで」●「恐れなくてもいいのよ」●「話しかけてくださってもいいのよ」●「でもお話ってセンスの問題でしょ」●「この方がリクエストしてくださるから赤とんぼ入れてくださるかしら」●もちろん●ジミーちゃんは●そのひととは一言も口をきいていません●このエピソード●なんべん思い出しても笑けてしまいます●エリカも笑けるわ♪●記憶の泡が●ぷかぷかと浮いている●記憶の泡が●ぷかぷかと浮いている●大きな記憶の泡たちが●ぷかぷかと浮いている●小さな記憶の泡たちが●ぷかぷかと浮いている●見ていると●小さな記憶の泡たちは●つぎつぎとぷちぷちはじけて●隣に浮かんでいる大きな記憶の泡と合わさって●ますます大きな記憶の泡となって●ぷかぷかと浮いている●ぷかぷかと浮いている●ぼくは●棒の先で●そいつをつつく●そしたら●そいつが●パチンッとはじけて●ぼくの持っている棒を●引っ張って●引っ張られたぼくは●落っこちて●ぼくが●ぷかぷかと浮いている●ぼくが●ぷかぷかと浮いている●大きなぼくの泡が●ぷかぷかと浮いている●小さなぼくの泡が●ぷかぷかと浮いている●見ていると●小さなぼくの泡は●つぎつぎとぷちぷちはじけて●隣に浮かんでいる●大きなぼくの泡と合わさって●ますます大きなぼくの泡となって●ぷかぷかと浮いている●ぷかぷかと浮いている●記憶が●棒の先で●大きなぼくの泡をつつく●そしたら●ぼくは●パチンッとはじけて●えさをやらないでください●公園には●そんな立て看板がしてあったのだけれど●ぼくは●いつものように●えさをやりに公園に行った●公園には●小さなぼくがたくさんいた●たくさんの小さなぼくは●くるってる●くるってるって●鳩のように鳴きながら●砂をひっかきまわして●地面をくしゃくしゃにしていた●ぼくは●ぼくの肉をなるべく小さくひきちぎって●投げてやった●すると●たくさんの小さなぼくは●くちばしをあけて●受けとめると●ぱくぱく●ぱくぱく●ぼくを食べた●ぼくは●ぼくの肉をひきちぎっては投げ●ひきちぎっては投げてやった●たくさんの小さなぼくは●ぱくぱく●ぱくぱく●ぼくを食べた●たくさんの小さなぼくは●ぱくぱく●ぱくぱく●ぼくを食べた●たくさんの小さなぼくは●もうぼくの身体に●肉がぜんぜんついていないのを見ると●くるってる●くるってるって●鳩のように鳴きながら●飛び去っていった●ぼくは●自分の胸の奥の●奥の奥の●骨にこびりついた●ちびっと残った肉のかけらを●骨だけになった指先で●つまんで食べた●こんな詩の一節を●むかし書いたことがあって●公園のベンチに坐りながら●持ってきた本を読んでいた●ひと休みして顔を上げると●ひとつ置いて●横に並んだベンチのうえに●となりのとなりのベンチのうえに●疲れた様子の猫が一匹●腰掛けていた●猫が首をまわして●ぼくのほうを見て●にやりと笑うので●ぼくは●猫の隣にいって●猫の肩をもんでやった●肩でも凝ってるんだろうなって思って●すると●猫はうれしそうに●くすくす笑って●公園のブランコのあるほうを眺めていた●しばらくすると●もういいよ●という合図のつもりなのか●猫は●ぼくの手の甲をひとかきすると●にやりと笑って●走り去っていった●ぼくは●自分のいたベンチにもどって●またしばらく本を読んでいた●2●3ページほど読んだところだった●前のほうから●子供たちの声がするので●向かい側のベンチのほうに目をやった●4人の小さな子供たちに囲まれて●ひとりのおじいさんが●片手をすこし上げていた●指を伸ばした右の手のさきで●その手のさきにある地面のうえで●たくさんの枯れ葉が円を描いて●くるくると回っていた●やがて●枯れ葉は●おじいさんの腕のまわりを●螺旋を描いて●くるくると回りながら●まとわりついていき●おじいさんのからだ全体をすっぽりと包み込んでしまった●そのくるくると螺旋を描いて回る枯れ葉を見て●子供たちがさらに声をあげた●おじいさんが左手をすこし上げると●こんどは●全身を包んでくるくると回っていた枯れ葉が●これまた螺旋を描きながら●左腕を伝って●地面のうえに落ちていき●地面のうえでも円を描いて●子供たちの足に●腰に●腹に●背に●手に●顔に●頭に●全身●からだじゅうに●カサカサあたりながら●くるくる回って●くるくるくるくる回って●すると●子供たちは●いっそう大きな声でさわいで●おじいちゃんに声をかけた●すてきなおじいちゃん●大好きなおじいちゃん●カッチョイイおじいちゃんって●枯葉はいつまでも●子供たちのからだを取り巻きながら●くるくる回っていた●くるくるくるくる回っていた●子供たちの歓声を聞くと●おじいさんは●すごく喜んで●けたけた笑って●軽快にスキップしながら●公園から走り去っていった●でも●子供たちは●おじいさんよりすごくって●手を上げると●子供たちのまわりで●そこらじゅうのものが●ぐるぐる回りだした●そばの大人たちは悲鳴をあげて舞い上がり●自転車は舞い上がり●立て看板は舞い上がり●植わっていた樹木は根っこごと●ずぼっと抜けて舞い上がり●ブランコは鎖からちぎれ●シーソーの板は軸からはずれ●鉄棒さえ支柱ごと地面から抜けて舞い上がり●ぐるぐるぐるぐる回りだした●ぼくのからだも宙に舞って●ぐるぐる回りだした●世界が●子供たちのまわりで●ぐるぐるぐるぐる回った●突然●子供たちが手を下ろすと●みんな●どすん●どすん●と落っこちて●ぼくは手に持っていた本がなくなっていたから●そのあと公園のなかを●はぐれた本を探して●ずいぶんと長い間かかって探さなければならなかった●イエイ!●仕事帰りに寄った●烏丸のジュンク堂で●ぼくの作品が載ってる号でも見ようと思って●國文學の最新号とバックナンバーが置いてある棚を見たら●ぼくの原稿が載っているはずの号がないので●店員さんに訊くと●発売日が20日から27日に変更になっていた●うううううん●そういえば●去年のユリイカの増刊号も●ぼくの書いている号の発売日が延期されたぞ●ま●偶然だと思うけど●しかし●きょう●店員さんが見せてくれた書店向けのその27日発売の増刊号の予告のチラシ●執筆者の数が●いつもの号の倍近く●昨年のユリイカの増刊号の『タルホ』特集もものすごく分厚かったけど●今回の國文學の臨時増刊号●『読んでおくべき/おすすめの短編小説50 外国と日本』も分厚そう●ああ●そう●きょう●新しい詩集のゲラの校正をしていて●ぼくが26歳のときのことを書いているところがあって●そのころ知り合った20歳の青年のことを●思い出していて●ああ●ヘッセなら●これを存在の秘密とでも言うんだろうなあ●と思った●彼は福岡出身で●高校を出てすぐ●18才から京都で●昼間はビリヤード店で●夜はスナックでアルバイトをしていると言っていた●ぼくが下鴨に住んでいたころね●ぼくが住んでいたワンルーム・マンションの向かい側に●そのビリヤード店があって●彼が出てくるところで●ぼくと目が合って●で●ぼくのほうから声をかけて●そのあとちょこっとしゃべって●それから口をきくようになったのだけれど●3回目か●4回目に会ってしゃべっていたときかな●別れ際に●「こんどゆっくり男同士の話をしましょう」と言われて●びっくりして●いままでも男同士だったし●ええっ?●という感じで●またそのときの彼の目つきがとてつもなく真剣だったので●それから●ぼくは彼を避けたのだった●避けるようになったのだった●ぼくは●彼はふつうの男の子だと思っていたから●ふつうの男の子とはふつうに接しないといけない●と●ぼくは思っていたのだ●そのときのぼくは●ね●ま●いまでもそうだけどさ●ぼくは自分の大事な感情や気持ちから●逃げることがよくあって●いまから思うと●大切なひとを●大切な時間を●たくさんすり抜けさせてしまったんだなあと思う●ああ●ヘッセなら●これを存在の秘密とでも言うんだろうなあ●そう思った●存在の秘密●ヘッセが言ってたかな●もしかしたら言ってたかもしれない●言ってなかったら●ぼくが考え出した言葉ってことになるけど●なんだかどこかで見たような記憶もある●ありそうな言葉だもんね●ま●どうでもいいんだけどね●あ●そうそう●詩集の校正をしていた喫茶店でね●高瀬川を見下ろしながら●「ソワレ」っていう京都では有名な喫茶店の二階でね●こんなこと考えていた●思い出していた●考えながら思い出していた●思い出しながら考えていた●ぼくは●ほんとうに●何人もの●もしかしたら深い付き合いになっていたかもしれないひとたちを避けてきたのだった●と●いま46歳で●もう●愛する苦しさも●愛されない苦しさも●若いときほどではないのだけれど●記憶はいつまでも自分を苦しめる●まあ●苦しむのが好きなんだろうね●ぼくは●笑●人生というものが●ぼくのもとからすぐに通り過ぎていくものであるということを●若いときのぼくは知らなかった●いまのぼくは知っていて●古い記憶に苦しめられつつも●思い出しては●ああ●あのとき●こうしておいたらよかったのになあとか●ああしておいたらよかったのになあとか●考えたりして●おいしい時間を過ごしているっていう●ああ●ほんまにオジンやな●チャン●チャン●で●その青年とは●半年くらい経ってから●高野にある「高野アリーナ」だったかな●そのホテルのプールで再会して●いっしょにソフトドリンクを飲んだのだけれど●コーラだったと思う●でも●そのとき●彼は彼の友だちと来ていて●その友だちに●ぼくのことを説明しているときに●その友だちが●きつい目つきで●ぼくのことを見つめていたので●それから●ぼくはあまりしゃべらずに●ただ●彼の顔と●水泳を中学から高校までしていたという●すこしぽちゃっとしたからだつきの●彼のからだを眺めながら●夏のきつい日差しで●自分のからだを焼いていた●というのはちょこっと嘘で●というか●もうすこし詳しく書くと●彼の股間を●青いビキニの布地を通して●横にストライプの細い線が二本はいった●青いビキニの布地を通して●もっこりと浮かび上がった彼のチンポコの形を●ジーパンのときとは違って●はっきりうつった彼のチンポコの形を●じっと眺めていた●ぼくは彼の勃起したチンポコをくわえたかった●ぼくは彼の勃起したチンポコをくわえたかった●たぶん●彼の体型によく似た●太くて短いチンポコね●あ●20代後半まで●ぼくは●夏には真っ黒に日焼けした青年だったのだ●若いときの写真は●ぼくの詩集の『Forest。』にのっけているので●カヴァーをはずすと本体の表紙に●ぼくの若いときの写真がたくさんついているので●見る機会があれば●見てちょうだいね●チャン●チャン●じゃないや●もうちょっと考えないとだめだね●いまでも苦しんでるんだからね●若いときの苦しみは●自分の気持ちだけを考えての苦しみで●それで強烈に苦しんでいたのね●相手の気持ちを考えもせずに●相手の苦しみをわかろうともせずにね●でも●いまの苦しみは●相手の苦しみをも感じとりながらの苦しみで●けっしてひとりよがりの苦しみではないから●若いときの苦しみとは違っていて●より苦しい部分もあるんだけど●それでも●深いけれど●強烈ではなくなったわけで●それは意義のある苦しみだとも言えるわけでね●つきつめて考えればね●未知ならぬ未知●既知ならぬ既知●オキチならぬオキチ●未知なる未知●既知なる既知●オキチなるオキチ●オッ●キチ●洗剤自我●なんか●いいっしょ?●いいでしょ?●洗剤自我●ゴシゴシ●キュッって●あちゃ●ghost into tears●もちろん●burst into tears●のパスティーシュ●ね●涙に幽霊する●と訳する●ゴーストは翻訳機械でもある●ゴーストは仮定の存在であるにもかかわらず●近づいてくるときにもわかるし●離れていくときにもわかる●そばにいてじっとしているときにも●その気配を感じとることができるのだ●Wake up,the ghost.●たくさんのメモを見渡していると●ゴーストの設定が●はじめに設定していた立ち位置と●多少変わっていることに気づかせられる●そのずれもまた楽しい●ルンル●ルンル●ル〜●日々●これ●口実●ゴーストと集合論●集合論といっても●公理的集合論のほうではなくて●素朴集合論のほうだけど●ゴーストと集合論を●空集合を梃子として●照応させることができた●どの集合も空集合を部分集合とするが●それらは●ただひとつのまったく同じ空集合である●ファイ↑●Φ●ファイ↓●したがって●分裂機械の作品のなかで●主人公の青年が詩人と交わした会話を思い出して書いたところで●詩人が●ゴーストを複数形ではなく●単数形として扱っていたことも●論理的に十全たる整合性があって●あると思っていて●数年前に●dioに●数学的な記述でもって●集合論と自我論を対比させて●論考を書いたことがあったが●その論考の発展形として●分裂機械19の散文詩を書くことができた●ファイ↑●Φ●ファイ↓●『THE GATES OF DELIRIUM。』は●ぼくの作品のなかでも●とびきり複雑な構成の散文詩にするつもりで●井原秀治さんに捧げて●『The Wasteless Land.IV』として書肆山田から詩集として上梓する予定●3●4年後にね●さっき●ノヴァーリスをノートしていて●はっ●として●グッ●なのじゃ●ふるいじゃろう●笑っておくれ●そだ!●シェイクスピアと亡霊って●すっごい深いつながりがあって●『ハムレット』において●亡き父親の霊である亡霊の言葉によって●ハムレットの人格が一変するように●亡霊が人間に影響を与えるということは●重々明白で●『リチャード三世』の第五幕・第三場に●「待て!●何だ●夢か●ああ●臆病な良心め●どこまでおれを苦しめる!」●というセリフがあって●夢のなかで亡霊に責め立てられるのも●じつは●自分の良心が自分自身を咎めるからであって●同じく●第五幕・第三場に●「影が●ゆうべ●このリチャードの魂をふるえ上がらせたのだ」●というセリフがあって●影=亡霊●とする記述が見られるんだけど●『リア王』のセリフには●「わしはだれじゃ?」●というのがあって●それに答えて●「リアの影」というのがあるのだけれど●夢と影●自我とゴースト●この4つのものが●シェイクスピアのなかで●ぼくのなかで●ぐるぐる回っている●ファイ↑●Φ●ファイ↓●自我=夢●夢=影●影=亡霊●亡霊=自我●この数日●シェイクスピアを読み直してよかったな●と●つくづく思う●以前に●ミクシィの日記にも書いた●『あらし』のなかにある●「わたしたちは夢と同じものでつくられている」●といったセリフや●『ハムレット』のなかにある●第一幕・第三場の●「影?●そうとも●みんな影法師さ●一時の気まぐれだ」●といったセリフや●同じく●第二幕・第二場の●「夢自体●影にすぎない」●といったセリフに表わされるように●シェイクスピアの戯曲には●よく●ぼくたちの実体が●ゴーストとちっとも違わないってことが書かれてあるような気がする●うううううん●やっぱり●ぼくは●霊●ゴーストなんだ●それで●霊は零で●ぼくはゼロで●なんもなしだったのか●今夜は●『リア王』を再読する予定●第一幕・第一場のセリフ●「何もないところからは●何も生まれない」●について考えたくて●あ●もうそろそろ寝る時間かな●ナボナ●ロヒプノール●ピーゼットシー●ワイパックスを一錠ずつ取り出し●手のひらのうえにのせて●パクッ●それから水をゴクゴク●で●眠るまでの一時間ほどのあいだ●シェイクスピヒイイイイイイイイイイア●と●エリオットのまね●笑●できることなら●生きているあいだに●顔を見たひとみんな●声を聞いたひとみんな●そばにいたひとみんなを●こころにとどめておきたい●とかなんとか●霊は●ゴーストは●蜘蛛のように●くるくると巻き取るのだ●時間を●空間を●出来事を●くるくると巻き取っていくのだ●そのヴィジョンがくっきりと目に浮かぶ●愛によって●理解しようとする意図によって●糸によって●時間を●空間を●出来事を●くるくると巻き取っていくのだ●ひゃひゃひゃ●意図は●糸なのね●ひゃひゃひゃひゃひゃ●ワードの機能は●無意識の意図を●糸を●つむぎだすのだね●自分のメモに●「表現とは認識である」とあった●日付はない●ひと月ほど前のものだろうか●わたしが知らないことを●わたしの書いた言葉が知っている●ということがある●しかも●よくあることなのだ●それゆえ●よくよく吟味しなければならない●わたしの言葉が●認識を先取りして●時間と空間と出来事を●くるくると巻き取っていくのだ●「表現とは認識である」●この短いフレーズが気に入っている●発注リストという言葉を読み間違えて●発狂リストと読んでしまった●お上品発狂●おせじ発狂●携帯電話発狂●注文発狂●匍匐前進発狂●キーボード発狂●高層ビル発狂●神ヒコウキ発狂●歯磨き発狂●洗顔発狂●小銭発狂●ティッシュ発狂●ノート発狂●鉛筆発狂●口紅発狂●カレンダー発狂●ときどき駅のホームや道端なんかで●わけわからんこと言うてるひとがいるけど●手話で発狂を表わしてもいいと思う●オフィーリアの発狂を●手話で表わしたらどんなんなるんやろうか●きれいな手の舞いになるんやろうか●おすもうさんも発狂●ハッキョー●のこった●のこった●てね●後味すっきり●発狂も●やっぱ後味よね●ええ●ええ●それでも●ぼくにはまだ●虫の言葉はわかりません●あたりまえだけど●あたりまえのことも書いておきたいのだ●沖縄では●塩つぶをコップの半分ほども飲むと●蟻の言葉がわかるという言い伝えがあるんだけど●死んじゃうんじゃないの●塩の致死量って●どれくらいか忘れたけど●むかし●京都の進学高校で●洛星高校だったかな●運動会の日に●ある競技でコップ一杯分の塩つぶを飲ませられて●生徒が何人か死にかけたっていう話を聞いたことがある●その場で倒れて救急車で病院に運ばれたらしいけど●朝●通勤の途中に寄った本屋さんで●シェイクスピアの『あらし』をちらりと読んでたら●「ああ●人間てすばらしい」というセリフがあって●人間手●すばらしい●で●違うページをめくったら●ちんちんかもかも●ってセリフがあって●あれ●こんなセリフあったんやって思って●帰ってきてから●しばらく●ちんちんかもかもって●そういえば●むかし読んだことがあって●笑ったかなあって●美しい●オフィーリアの●溺れた手の舞いが●スタージョンの●ビアンカの手を思い出させて●ええと●いまのアメリカの大統領●名前忘れちゃった●あ●ブッシュね●あのひと●完全にいかれちゃってるよね●戦争起こして●ゴルフして●あんなにうれしそうな笑顔ができるんだもんね●戦争が好きなひとの笑顔って●こわいにゃ●腹筋ボコボコのカニ●毎日ボコボコ●ボコボコ●爆撃してるのね●あ●で●手話発狂●そうそう●そだった●手で●ぐにぐにしてるひとがいたら●それは手話発狂なんやって●そだった●『ハムレット』のなかで●オフィーリアが発狂して●川辺で歌い踊りながら●川に落ちて死んだ●と●告げるシーンがあって●もちろん●美しい声で歌を歌いながら●若い娘らしく可憐に踊りながら●川に落ちるんやろうけど●どんなんやったんやろうかって●きれいな手の舞いやったんやろうかって●手に目が●目に手が●たたんた●たん●たた〜●たたんた●たん●たた〜●軽度から重度まで●いろいろな症状の発狂リスト●程度の違いは多々●多々●たたんた●たん●たた〜●たたんた●たん●たた〜●で●ぼくたちは●思い出でできている●ぼくたちは●たくさんの思い出と嘘からできている●ぼくたちは●たくさんの嘘とたくさんのもしもからできている●嘘●嘘●嘘●もしも●もしも●もしも●ぼくたちは●百億の嘘と千億のもしもからできている●それは●けっして●だれにも●うばわれることのない●ときどきノイローゼの仮面ライダー●キキーって●ときどきショッカーになる●「あんた●仮面ライダーなんやから●悪モンのショッカーになったらあかんがな」●「変身願望があるんです」●「正義の味方なんやから●そんな願望持ったら●あかんがな」●「そやけど●どうしても●ときどきショッカー隊員になりたいんです」●「病気やな」●「ただの変身願望なんです」●「病気だよ」●「キキー!」●自分の感情のなかで●どれが本物なのか●どれが本物でないのか●そんなことは●わかりはしない●そう言うと●まるで覚悟を決めた人身御供のように●わたしは●その場に身を沈めていったのであった●ずぶずぶずぶ〜●百億の嘘と千億のもしも●きょう●『The Wasteless Land. III』の校正を●仕事場の昼休みにしていて●「ぶつぶつとつぶやいていた」●と書いてあったのを●[putsuputsu]と[putsu]やいていた●と発音して●これっていいなって思ったり●[tsuputsupu]と[tsupu]やくでもいいかなって●思ったりしていた●市場の仕事って●夜明け前からあって●って言葉を●昼過ぎに職場で耳にして●ああ●何年前だったろう●十年くらい前かな●ノブユキに似た青年が●ぼくのこと●「タイプですよ」って●「付き合いたい」って言ってくれたのは●でも●そのとき●ぼくには●タカシっていう恋人がいて●タカシのことはタンタンって呼んでいたのだけれど●ノブユキに似た彼には何も言えなかった●彼は●市場で働いてるとか言ってた●「朝●はやいんですよ●夜中の2時くらいには起きて」●だったかな●だから●会えるとしても●月に一回ぐらいしか●と言われて●ぼくには●壊れかけの関係の恋人がいて●タンタンのことね●壊れかけでも●恋人だったから●で●彼には●ごめんねって言って●梅田のゲイ・ポルノの映画館で●東梅田ローズっていったかな●彼といっしょに●トイレの大のほうに入って●ぼくたちは抱き合い●キスをして●彼のチンポコを●ぼくはくわえて●彼のアヌスに指を入れて●ぼくは彼のチンポコをくわえながらこすって●こすりながら彼のチンポコをくわえて●彼は目をほそめて●声を出して●あえぎながら●ぼくの口のなかでいって●彼は目をほそめて●あえぎながら●ぼくの口のなかでいって●すると●アヌスがきゅって締まって●ぼくの指がきゅって締めつけられて●ああ●ノブユキ●ほんとに似てたよ●きみにうりふたつ●そっくりだったよ●もしも●あのとき●もしも●あのとき●もしも●あのとき●ぼくが付き合おうかって●そんな返事をしてたらって●そんな●もしも●もしもが●百億も●千億もあって●ぼくの頭のなかで●[tsuputsupu]と[tsupu]やいている●つぷつぷとつぷやいている●[tsuputsupu]と[tsupu]やいている●つぷつぷとつぷやいている●ぼくたちは●百億の嘘と千億のもしもからできている●ぼくたちは●もしも●もしもでいっぱいだ●ぼくは何がしたかったんだろう●ちゃんと愛しただろうか●ぜんぜん自身がない●百億の嘘と千億のもしもを抱えて●ぼくは●[tsuputsupu]と[tsupu]やいている●つぷつぷとつぷやいている●つぷつぷと●通報!●通報!●蘇生につぐ蘇生で●前日の受難につぐ受難から●凍結地雷という兵器を想像した●踏むと凍結するというもの●きのう●dioのメンバーで●雪野くんという●まだ京都大学の一回生の男の子がいて●その子が●この夏●哲学書をたくさん読んでいたらしく●「ぼくって●まだ不幸を知らないんです●これで哲学を理解できるでしょうか」●って訊いてきた●「不幸なんて●どこにでもあるやんか●ちょっとしたことでも●不幸の種になるんやで」●って言ってあげた●いや●むしろちょっとしたことやからこそ●不幸の種になるといってもよい●ぼくなら唇の下のほくろ●なんだか泣き虫みたいで●情けない●あ●情けない話やなくて●不幸の話やった●そうやな●漫才師の「麒麟」っていうコンビの片割れが●むかし●公園で暮らしたことがあるって●そんなことを書いた本があって●売れているらしくってって●このあいだの日曜日に会った友だちが●ジミーちゃんね●「今●本屋で探しても●ないくらいやで」●とのこと●ほら●他人の不幸も●そこらじゅうに落ちてるやんか●でも●赤ちゃんがいてると●不幸が●どこかよそに行ってしまうんやろうなあ●アジアやアフリカの貧しい国の子供たちの顔って●輝いてるもんなあ●アジア●アフリカかあ●行ったことないけど●写真見てたら●そんな気がするなあ●おいらのこの感想も浅いんやろなあ●そこのほんまの現実なんて知らんもんなあ●でも●公園で暮らしてた●っていうエピソードは●レイナルド・アレナスを思い起こさせる●レイナルド・アレナス●『夜になる前に』という映画や●そのタイトルの自伝で有名な作家●彼の尋常でない●男の漁り方は●必見!●必読!●そういえば●ラテン・アメリカの作家の作品には●ゲイの発展場とか●よく出てくるけど●女性にも理解できるんやろうか●まだ訊いたことないけど●また●訊けるようなことちゃうけど●笑●男やったら●ゲイでなくてもわかるような気がするけど●ちゃうかなあ●どやろか●笑●道徳とは技術である●多くの人間が道徳につまずく●あるいは●つまずくのを怖れる●道徳のくびきを逃れようとする者は多いが●逃れ切ることができる者は少ない●道徳は●まったき他人がつくるものではない●自分のこころのなかの他人がつくるものである●いわば●自分のこころに振り回されているのである●パピプペポポ詩って●タイトルにしようかな●うんこの本をきのう買ったから●うんこのことを書くにょ●『うんことトイレの考現学』っちゅう本だにょ●うんこの話も奥が深いんだにょ●しかし●ひかし●ひかひ●ひひひ●そんじょそこらにあるうんこの詩を書くにょ●さわったら●うんこになる詩だにょ●嗅いだら●うんこの臭いがするにょ●ぼくは●そんな滋賀●柿●鯛●にょ●阿部さん●黒丸って●それひとつだけでも●そうとう美しいですものね●で●砲丸が空から落ちてくるように●黒丸でページを埋め尽くすと●それはもう●美しい紙面に●というわけで●戦争を純粋に楽しむための再教育プログラム●こんどの詩集は●全ページ黒丸で●埋め尽くしました●文字ではなく●黒丸だけを見るために●ぱらぱらとページをめくる●といった方も●いらっしゃるんじゃないかしら●と●ひそかに●ほくそえんでいます●ぼくは●ぱらぱら●自分でしてみて●悦に入ってました●書肆山田さんから●ゲラの第二稿がまだ届かないので●読書三昧です●笑●そろそろ睡眠薬が効いてきたかな●眠くなってきた●阿部さん●おはようございます●すごいはやいですね●ぼくはいま起きました●真ん中の弟を●下の弟が殺した夢を見ました●それを継母がどうしても否定するので●ぼくが下の弟を●サーカスの練習で使う●空中ブランコの補助網の上で●弟を下に落とそうと脅かしながら●白状させようとするのですが●白状しません●最後まで白状しませんでしたが●ぼくは●真ん中の弟の骨についた肉を食べて●その骨をいったん台所の流しの●三角ゴミ入れのなかに入れて●またそれを拾い出して●ズボンのポケットに入れました●奇妙な夢でした●意味わからん夢ですね●スイカを見る●スイカになる●真夜中の雨の郵便局●ぼくの新しい詩集の校正をようやく終えたのが●夜の12時すぎ●さっき●で●歩いて7●8分のところにある●右京郵便局に●こんな夜中でも●ぼくと同じ時間に●二組みのひとたちが●郵便物を受け取りに●あるいは●書留を出しにやってきていた●昼には●四条木屋町の「ソワレ」という有名な喫茶店に行って●ジミーちゃんに●ぼくの作品が載ってる●國文學の増刊号を読んでもらって●感想を聞いたり●ぼくの新しい詩集の初校を見てもらって●ぼくが直したところ以外に●直さなければならない箇所がないか●ざっと見てもらったりしていたのだけれど●場所が変わると●気分が変わるので●ぼく自身が●きのうまで気がつかなかったミスを見つけて●そこで●5箇所くらい手を入れた●ああ●文章って怖いなあ●と思った●なんで二週間近く見ていて●気がつかなかったんやろうか●また文章と言ったのは●こんどのぼくの詩集って●改行詩じゃないのね●とくに●『The Wasteless Land.III』は●一ヶ所も改行していないので●書肆山田の大泉さんも●ぼくのその詩集の詩をごらんになって●マグリットの●『これはパイプではない』という作品が思い出されました●と手紙に書いてくださったのだけれど●ということは●「これは詩ではない」という詩を書いたということなのか●それとも●単に「これは詩ではない」というシロモノを書いたということなのか●まあ●ぼくは●自分の書いたものが●詩に分類されるから●詩と言っているだけで●詩と呼ばれなくても●詩でなくてもいいのだけれど●まあ●詩のようなものであればいいのだけれど●あるいは●詩のマガイモノといったものでもいいのだけれど●ぼくは●ぼくの書いたものを見て●読者がキョトンとしてくれたら●うれしいっていう●ただそれだけの●単純なひとなのだけれど●ぼくは●ああ●ぼくは●詩を書くことで●いったい何を得たかったのだろう●わからない●いまだによくわからないのだけれど●ぼくは●詩を書くことで●かえって何かを失ってしまったような気がするのだ●その何かが何か●これまた●ぼくにはよくわからないのだけれど●もしも得たかったものと●失ってしまったものとが同じものだとしたら●同じものだったとしたら●いったいぼくは●ぼくは●中学2年のとき●祇園の家の改築で●一年間ほど●醍醐にいた●一言寺(いちごんじ)という寺が坂の上にあって●両親はその坂道のうえのほうに家を買って●ぼくたちはしばらくそこに住んでいた●引っ越してすぐのことだと思う●友だちがひとり●自転車に乗って●東山から●わざわざたずねてきてくれた●土曜日だったのかな●友だちは●ぼくんちに泊まった●夜中にベランダに出て●夜空を眺めながら話をしてたのかな●空に浮かんだ月が●いつになく大きくて明るく輝いていたような気がする●でも●そのときの話の内容はおぼえていない●ぼくはその友だちのことが好きだったのだけど●ぼくは●まだセックスの仕方も知らなかったし●キスの仕方も知らなかったから●あ●これは経験ありか●嘘つきだな●ぼくは●笑●でも●ぼくからしたことはなかったから●したいという衝動はあったのだろうけど●はげしい衝動がね●笑●でも●どういうふうにしたら●その雰囲気にできるか●まったくわからなかったから●いまなら●ぼくのこころのなかの暗闇に●ほんのすこし手を伸ばせば●その暗闇の一部を引っつかんで●そいつを相手に投げつけてやればいいんだと●知っているんだけど●しかし●もうそんな機会は●『Street Life。』●こんなタイトルの詩を●何年か前に書いた●いま手元に原稿の写しがないので●正確に引用できないんだけど●その詩は●ぼくが手首を切って風呂場で死んでも●すぐに傷が治って生き返って●ビルから飛び降りて頭を割って死んでも●すぐに元の姿にもどって●洗面器に水を張って顔をつけて溺れ死んでも●すぐに息を吹き返して●そうやって何度も死んで●何度も生き返るという●ぼくの自殺と再生の描写のあいだに●ぼくとセックスした男の子のことを書いたものなんだけど●その男の子には●彼女が何人もいて●でも●ときどきは●男のほうがいいからって●月に一度くらいって言ってたかな●ぼくとポルノ映画館で出会って●そのあと●男同士でも入れるラブ・ホテルに行って●セックスして●彼はアナル・セックスが久しぶりらしくて●かなり痛がってたけど●たしかに●締まりはよかった●大きなお尻だった●がっちり体型だったから●シックスナインもしたし●後背位で挿入しながら●尻たぶをしばいたりもした●で●このように●ぼくの死と再生というぼくの精神的現実と●その男の子とのセックスという肉体的現実を交互に書いていったものだったのだけれど●その男の子がぼくに話してくれたことも盛り込んだのだけれど●そのときの話を●完全には思い出すことができない●彼は●女性はいじめたい対象で●大阪のSMクラブにまで行くと言っていた●男には●いじめられたいらしいんだけど●はじめての経験は●スピード出し過ぎでつかまったときの●白バイ警官で●そいつに●ちんこつかまれて●くわえられて●口のなかでいった●とかなんとか●ぼくは最初のセックスで●相手に「いっしょにいこう」と言われて●えっ?●どこに?●って言ったバカなんだけど●で●その男の子は●あ●この男の子ってのは●ぼくの最初のセックスの相手じゃなくて●Street Life●の男の子のほうね●で●その男の子は●中国人で●小学校のときに日本にきて●中学しか出てなくて●いま26歳で●学歴がないから●中学を出てからずっと水商売で●いまはキャバクラの支配人をしていて●女をひとり●かこっていて●部屋まで借りてやって●でも●ほんまに愛しとる女もいるんやで●そいつには俺がSやいうことは知られてへんねんで●もちろん●ときどき男とセックスするなんてぜんぜん知らんねんで●想像もしたこともないやろなあ●とかなんとか●そんな話をしていて●ぼくは●そんなことを詩の言葉にして●ぼくが●何べん自殺しても●生き返ってしまうという連のあいだにはさんで●ええと●この詩●どなたかお持ちでないでしょうか●ある同人誌に掲載されたんですけど●その同人誌をいま持ってないんですよ●ワープロを使っていたときのもので●パソコンを買ったときに●ワープロとフロッピー・ディスクをいっしょに捨ててしまったので●もしその同人誌をお持ちでしたら●コピーをお送りください●送料とコピー代金をお返しします●同人誌の名前も忘れちゃったけど●『Street Life。』●いい詩だったような記憶がある●言葉はさまざまなものを招く●その最たるものは諺どおり●禍である●阿部さん●場所って●不思議な力を持っているものなのですね●「ソワレ」で●それまで見えていなかったものが●見えてしまったのですもの●ひさしぶりに●哲学的な啓示の瞬間を味わいました●「われわれの手のなかには別の風景もある」●含蓄のあるお言葉だと思います●わたしたち自身も場所なので●わたしたちを取り囲む外的な場所自体の記憶+ロゴス(概念形成力・概念形成傾向)と●わたしたち自身の内的な場所の記憶+ロゴス(概念形成力・概念形成傾向)が●作用し合っているというわけですね●わたしたちだけではなく●場の記憶やロゴス(概念形成力・概念形成傾向)も●随時変化するものなのですね●ヘラクレイトスの●「だれも同じ川に二度入ることはできない●なぜなら●二度目に入るときには●その川はすでに同じ川ではなく●かつまた●そのひとも●すでに同じひとではないからである」といった言葉が思い起こされました●薔薇窗16号●太郎ちゃんのジュネ論●明解さんの引用が面白い位置にあって●このスタイルって●つづけてほしいなあって思いました●かわいらしかったですよ●タカトさんのお歌も●幽玄な感触が濃厚なもので●味わい深く感じました●ああ●雨脚がつよくて●雨音がつよくて●なんか●ぼくのなかにあるさまざまな雑音が●ぼくのなかから流れ出て●それが雨音に吸収されて●しだいにぼくがきれいになっていくような気がしたのですが●そのうち●ぼく自身が雨音になっていくような気がして●ぼくそのものが消え去ってしまうのではないかとまで思われたのでした●ぼく自体が雑音だったのでしょうか●阿部さん●記憶+ロゴス(概念形成力・概念形成傾向)●と書きましたが●記憶=ロゴス(概念形成力・概念形成傾向)●かもしれませんね●こういったことを考えるのも好きです●ひとりひとりを●ひとつひとつの層として考えれば●世界はわたしたちの層と層で積み重なっているという感じですね●でも●わたしたち自身が質的に異なるいくつもの層からなるものだとしたら●世界はそうとうな量●さまざまなもので積み重なってできているものとも思われますね●世界の場所という場所は●数多くの層を●数多くのアイデンティティを持っているということになりますね●その層と層とのあいだを●また●自分のなかの層と層とのあいだを●あるいは●世界と自分との層と層とのあいだを●いかに自由に移動できるか●表現でどこまで到達し●自分のものとすることができるか●どのぐらいの層まで把握し●同化することができるか●わあ●わくわくしてきました●ぼくも●もっともっと深い作品を書かねばという気になってきました●おとつい●「ぽえざる」で●年配の女性の方が●「みんなきみのことが好きだった。」を手にとってくださり●目次をちらりとごらんになられて●「すてきね」とおっしゃって●買って行ってくださったのですが●ぼくは●なんて返事をするべきかわからなくって●ただ「ありがとうございます」と言っただけで●お金を受け取ったあと●ぺこりと頭をさげただけだったのですが●きのうと●きょう●その年配の女性の方のことが思い出されて●なんていうのでしょうか●幸福というものが●どういうものか●46歳にもなって●まだわからないところがあるのですが●おとつい耳にした●「すてきね」という●ささやくような●つぶやくようなその方の声が●耳から離れません●来年●また●「ぽえざる」でお会いしたときに●なんておっしゃってくださるのか●なにもおっしゃってくださらないのか●わかりませんが●「すてきね」という●その方の声が●すさんだぼくの耳を●ずいぶんと癒してくださったように思います●お名前もうかがわないで●なんて失礼なぼくでしょう●でも●このことは●創作というものがなにか●その一面を●ぼくに教えてくれたような気がします●自分さえ満足できるものができればいいと思っている●思っているのですが●「すてきね」という声に●そう思っている自分を●著しく恥ずかしいと思ったわけです●うん●勉強●勉強●まあ●こんな殊勝な思いにかられるのも●ほんのすこしのあいだだけなんだろうけどね●笑●言葉は同じような意味の言葉によっても●またまったく異なるような意味の言葉によっても吟味される●ユリイカの2003年4月号●特集は●「詩集のつくり方」●むかし書いた自分の文章を読み返す●自分自身の言葉に出会う●かつて自分が書いた言葉に●はっとさせられる●もちろん●体験が●言葉の意味を教えてくれることもあるのだけれど●言葉の方が●体験よりはやく●自分の目の前に現れていたことにふと気づく●ふだんは気がつかないうちに●言葉と体験が補い合って●互いに深くなって●さらに深い意味を持つものとなって●ぼくも深くなっているのだろうけれど●きのう●シンちゃんに●「許す気持ちがあれば●あなたはもっと深く●自分のことがわかるだろうし●他人のこともわかるだろう●むかしからそうだったけれど●あなたには他人を理解する能力がまったく欠けている」●と言われた●ぼくは●今年亡くなった父のことについて電話で話していたのだ●「ひとそれぞれが経験しなければならないことがある●ひとそれぞれに学ぶべきことがある●学ぶべきことが異なるのだ●ひとを見て●自分を見て●それがわからないのか」●とも言われた●深い言葉だと思った●と同時に●46歳にもなって●こんなことが●自覚できていなかった自分が恥ずかしいと思った●自分を学べ●ということなのだね●むずかしい●と●そう思わせるのは●ぼくが●人間として小さいからだ●それは●ひとを愛する気持ちが少ないからか●だとすれば●ぼくは●愛することを学ばなければならない●46歳にもなったぼくだけれど●でも●ぼくは●これから愛することを学べるのだろうか●自分を学べ●の前に●愛することを学べ●と書いておく●きょうの一日の残りの時間は●それを念頭において生きてみよう●あとちょっとで●きょう一日が終わるけど●笑●でも●ぼくの場合●愛することとは何か●と考えて●それで学んだ気になるかもしれない●それでは愛することにはならないのだけれど●無理かなあ●愛すること●自分を学ぶこと●うううん●ひとまず顔を洗って●歯を磨いて●おやすみ●笑●トマトケチャップの神さまは●トマトの民の祈りの声を聞き届けてはくださらない●だって●トマトケチャップの神さまだからね●彼氏は裸族●ぜったい裸族がいいわ●彼の衣装は裸だった●ぼくに向かって微笑んでくれた●彼の顔は●こぼれ出る太陽だった●ぼくは●目をほそめて●彼を見上げた●うつくしい日々の●記憶のひとつだった●そのときにしか見れないものがある●その年代にしか見れないうつくしいものがある●そのときにしか見れない光がある●その年代でしか感じとれない光がある●言葉が●それらを●ときたま想起させる●思い出させる●タカトさん●きょうのお昼は●東山に桜を見に行きました●八坂神社の円山公園に行き●しだれ桜を見てまいりました●散り桜もちらほらと見受けられました●帰りに四条木屋町を流れる高瀬川のあたりを歩いておりますと●花筏というのでしょうか●タカトさんのミクシィの日記を拝読していて●この言葉を知りましたが●川沿いに植えられた桜の花びらが散り落ちて●川一面に流れておりました●また●いたるところで●詩は●うんこのように●毎日●毎日●ぶりぶりってひりだされているのですが●そのことには気がつかないで●いかにも「詩」みたいなものにしか反応できないひとが●たくさんいそうですね●すました顔で●でっかいうんこをする彼女が欲しいと●そんなことを言う●男の子がいてもいいと思います●うんこ色のパンツをはいた●ひきがえるが●白い雲にむかって●ぶりぶり●ぶりぶりっと●青いうんこを●ひっかけていきます●そしたら●曇ってた空が●たちまち●青く青く●晴れていきました●うんこ色のパンツをはいた●ひきがえるに●敬礼!●ペコリ●笑●くくく●昨年の冬に●近所の公園で踏みました●草のなかで●気づかずに●こんもりと●くやしかった●笑●そういえば●雲詩人とか●台所詩人とか●賞詩人とか●いろいろいますが●すばらしいですね●ぼくは●うううん●ぼくは●ぼこぼこ詩人です●嘘です●ぼくは●うんこ詩人です●ぼくは●でっかいうんこになってやろうと思っています●一度形成されたヴィジョンは●音楽が頭のなかで再生されるように●何度でも頭のなかで再生される●わざと間違った考察をすること●わざと間違えてみせること●わざと間違えてやること●タカトさん●「言葉の真の『主体』とは誰か」ですか●書きつけた者でもなく●読む者でもなく●言葉自体でもなく●だったら●こわいですね●じっさいは書きつけた者でもあり●読む者でもあり●言葉自体でもあるというところでしょうか●「わたし」という言葉が●何十億人という人たちに使用されており●それがただひとりの人間を表わすこともあれば●そうでない場合もあるということ●いまさらに考えますと●わたしが記号になったり●記号がわたしになったり●そんなことなどあたりまえのことなのでしょうけれど●あらためて考えますと●不思議なことのように思われますが●だからこそ●容易に物語のなかに入りこめたり●他者の経験を自分のことのように感じとれたりするのでしょうね●きょう●dioの締め切り日だと思ってた●だけど違ってた●一日●日にちを間違えてた●一日もうけたって感じ●ワルツじゃ●いや●アルツか●笑●笑えよ●おもろかったら●笑えよ●こんなもんじゃ笑われへんか●光が波立つ水面で乱反射するように●話をしているあいだに●言葉はさまざまなニュアンスにゆれる●交わされる言葉が●さまざまな表象を●さまざまな意味概念を表わす●それというのも●わたしたち自身が揺れる水面だからだ●ユリイカに投稿しているとき●過去のユリイカに掲載された詩人たちの投稿詩を読んでいると●「きみの日曜日に傷をつけて●ごめんね」みたいな詩句があって●感心した●それから●たびたび●この言葉どおりの気持ちが●ぼくのこころに沸き起こるようになった●きみに傷を●と直接言っていないところがよかったのだろうか●きみの日曜日に●というところが●Shall We Dance●恋人とこの映画を見に行く約束をして●その待ち合わせの時間に間に合いそうになくって●あわてて●バスに乗って●河原町に行ったのだけれど●あわてていたから●小銭入れを持って出るのを忘れて●で●財布には一万円札しかなかったので●運転手にそう言うと●「釣りないで」●ってすげなく言われて●ひえ〜●って思って固まっていたら●ほとんど同時に●前からはおじさんが●後ろからは背の高い若い美しい女性が●「これ使って」「これどうぞ」と言ってお金を渡そうとしてくださって●これまた●ひえ〜●って状態になったんだけど●おじさんのほうが●わずかにはやかったので●女性にはすいませんと言って断り●おじさんにもすいませんと言って●お金を受け取って●「住所を教えてください」●と言うと●「ええよ●ええよ●もらっといて」●と言われて●またまた●ひえ〜●となって●バスから降りたんやけど●そのあと●恋人と映画をいっしょに見てても●バスのなかでの出来事のほうがだんぜんインパクトが強くて●まあ●映画も面白かったけどね●映画よりずっと感動が大きくって●で●その感動が●長いあいだ●こころのなかにとどまっていて●ぼくも似たことを●そのあと●阪急の●梅田の駅で●高校生くらいの恋人たちにしてあげた●切符の自販機に同じ硬貨を入れても入れても下から返却されて困ってる男の子に「これ使えばええよ」と言って●百円玉を渡してあげたことがあって●たぶん●はじめてのデートだったんだろうね●あの男の子●女の子の前で赤面しながらずっと同じ百円硬貨を同じ自販機に入れてたから●あの子の持ってた百円玉●きっとちょこっとまがってたんだろうね●あの子たちも●どこかで●ぼくのしてあげたことを思い出してくれてたりするかなって●これ●まだどこにも書いてなかったと思うので●いま思い出したので●書いとくね●でも●あのときの恋人●いまどうしてるんやろか●あ●ぼくの恋人ね●いまの恋人と同じ名前のえいちゃん●エイジくん●おおむかしの話ね●あのときのエイジくんは●えいちゃんって呼んだら怒った●それは高校のときに付き合ってた彼女だけが呼んでもええ呼び方なんや●って言ってた●いま付き合っているえいちゃんは●えいじって呼び捨てにすると怒る●なんだかなあ●笑●初恋が一度しかできないのと同じように●ほんとうの恋も一度しかできないものなのかな●ほんとうの恋●真実の恋と思えるもの●その恋を経験した後では●どの恋も●その経験と比べてしまい●ほんとうの恋とは思えなくさせてしまうものなのだから●しかし●ほんとうの恋ではなかっても●愛がないわけではない●むしろ●ほんとうの恋では味わえないような細やかな愛情や慈しみや心配りができることもあるのではないか●スターキャッスルのファーストをかけながら●自転車に乗って郵便局に行ったんやけど●「うまく流れに乗れば土曜日に着きます」という●局員の言葉に●ああ●郵便物って●流れものなのか●と思って●帰りは●「どうせ●おいらは流れ者〜」とか●勝手に節回しつけて●首をふりふり帰ってきました●あ●ヘッドフォンはスターキャッスル流しっぱなしにしてね●で●これから●また自転車に乗って●五条堀川のブックオフに●ひゃ〜●どんなことがあっても●読書はやめられへん●本と出会いたいんや●まあ●ほんまは恋に出会いたいんやけどね●笑●いやいや〜●恋はもうええかな●泣●恋愛増量中●日増しに●あなたの恋愛が増量していませんか●翻訳するにせよ●しないにせよ●誤読はつねにある●ジョン・レノンの言葉●「すべての音楽はほかの何かから生まれてくるんだ」に●しばし目をとめる●目をとめて考える●あらゆるものがほかの何かから生まれてくる●うううん●なるほど●あらゆるものがほかの何かからできている●とすれば●まあ●たしかに●そんな気がするのだけれど●では●それそのものから生まれてくるものなどないのだろうか●それそのものからできているものなどないのだろうか●とも思った●もう一度●「すべての音楽はほかの何かから生まれてくるんだ」に●目をとめる●ブックオフで『新古今和歌集』を買った●あったら買おう●と●チェックしていた岩波文庫の一冊だった●で●手にとって開いたページにあって●目に飛び込んできた歌が●「言の葉のなかをなくなく尋ぬれば昔の人に逢ひ見つるかな」で●運命的なものを感じて●すかさず買う●笑●人間はひとりひとり●自分の好みの地獄に住んでいる●水風呂につかりながら読んでいる『武蔵野夫人』も●面白くなってきたところ●どうなるんやろねえ●漱石が知性の苦しみを描いたのに対して●大岡昇平は●知性の苦しみが美しいところを描いている●この違いは大きいと思う●小説は実人生とは異なるのだから●美しいものであるべきだと思う●真実が美しいのではないのだ●真実さが美しいのだ●ぼくは●苦しみを味わいたいんやない●苦しみを味わったような気になりたいんや●だから●漱石よりも大岡昇平のほうが好きなんや●麦茶の飲みすぎで●ちとおなかが冷えたかも●お腹が痛い●新しいスイカ割り●スイカが人間にあたって●人間がくだけちゃうっての●どうよ●うぷぷぷぷぷ●ああ●なぜ●わたしは●わたし自身に偽りつづけたのだろうか●そんなに愛をおそれていたのだろうか●愛だけが●人間に作用し●その人間を変える力があるからだろう●なぜなら●本物の愛には●本物の苦痛があるからだ●でも●贋物の愛にも本物の苦痛があるね●笑●なんでやろか●よい日本人は死んだ日本人だけだ●というのが●太平洋戦争のときの●アメリカ政府のアメリカ人に対する日本人というものの戦略的な知らしめ方●いわゆるスローガンのひとつだったのだけれど●詩人にとって●よい詩人も●案外●死んだ詩人だったりして●笑●彼は同時に二つの表情をしてみせた●ぼくのこころに二つの感情が生じた●そのひとつの感情を●ぼくは悲しみに分類し●悲しみとして思い出すことにした●自我を形成するものを遡ると●自我ではないものに至りつくのか●自転車に乗って●嵐山に行った●ジミーちゃんと●ジミーちゃんは●モンキー・パークに行くという●ぼくは猿がダメなので●というのも●大学の人類学の授業の演習で●嵐山の猿を観察していたときに●仔猿をちらっと見ただけで●その母親の猿に追いかけられたことがあるからなんだけど●で●それで●ぼくは●モンキー・パークの入り口の登り口近くの●桂川の貸しボートの船着場のそばの●石のベンチの上に坐って●目の前に松の木のある木陰で●ジミーちゃんを待っていました●川風がすずしく●カゲロウがカゲロウを追って飛んでいる姿や●鴨が鴨の後ろにくっつくようにして水面をすべっている様子を目で追ったり●ボートがいくつで●どんな人たちが何人くらい乗っているか●数えてみたりしていました●いや●多くの時間は●さざなみの美しさに見とれていましたから●ボートとそのボートに乗った人たちのことは●その合い間に観察していた●と書いたほうが正確でしょう●十二のボートが川の上に浮かんでいました●三人連れのボートが一つ●三人の子供を乗せた父親らしきひとの4人乗りが一つ●あとは●男女のカップルにまじって●男男のつれ同士が二つ●女女のつれ同士が一つでした●ぼくが一人で坐っていると●ゲイらしきカップルが●左となりに腰掛けて●自分たちの姿をパチパチ写真に撮りはじめました●背中に腕をまわして抱き合ったり●まあ若いから●まだ20歳くらいでしょう●二人とも●かわいらしくて美しいから許される光景でしたが●笑●と●思っていると●右となりにも●ゲイらしきマッチョ風の男同士のカップルがやってきて●ここは●どこじゃ●と●ぼくは不思議に思いましたが●まあ●そんなこともありかな●と思いました●有名な観光名所ですものね●右となりのカップルは●タイかフィリピンかカンボジアからって感じで●中国語とも韓国語とも違う言葉をしゃべっていたような●左となりのカップルは●たぶん韓国語だと思いますけど●ぼくは●川の風景と●川ではないものの風景を●たっぷり楽しんでいました●ジミーちゃんがくるまで●4●50分くらいでしょうか●左となりのカップルは●楽しげに●ずっといちゃいちゃしていました●時代ですね●川のうえを●川の流れとともに下っていくさざなみが●ほんとにきれいやった●また●さざなみの一部が●川岸にあたって●跳ね返ってくる波とぶつかってできる波も●ほんまにきれいやった●ぼくは●きょうの半分を●川に生かされたと思った●川と●川風ちゃん●ありがとう●美しかったよ●何もかも●画像を撮らなかったのが残念●行きの自転車では死にそうなくらいに暑かったですが●陰にはいりますと●川風がここちよかったです●同じくらいの時間に●タカトさんも行ってらっしゃってて●でも●南北と●違う川沿いの道だったようですね●お会いできずで●残念です●きらきらときらめく水面が美しかったです●ここ●1●2週間●悩むことしきり●自分の生き方もですが●生きている道について考えていました●父親が●ことし亡くなったのも関係があるのかもしれません●ジミーちゃんに●帰りに一言●言いました●ぼくって●だれかひとりでも●ひとを幸せにしてるやろか●って●そんなん知らんわ●とのお返事でした●うううううん●もしも●ぼくの存在が●ただひとりの人間のためにもなっていないのだとしたら●生きている価値なんかあるんやろか●って●川の美しさに見とれながら●そんなこと●考えていました●家族がいないということがきっかけでしょうか●自分の選んだ道ですが●自分の選んだ生き方ですが●自分の存在があまりに小さく思えて●こんなこと●考えるひとじゃなかったのですが●考えれば気がつくこと●考えなければ●いつまでも気がつかなかったであろうこと●ひとつひとつの息が●つぎの息につづくように●孤独を楽しむ●といっても●もう自分が孤独でないことを●ぼくは知っている●何かについて考えたり●思い出したりすると●その何かが●ぼくに話しかけたり●考えさせたりしてくれるからだ●ぼくが出来事に注意を払うと●出来事のほうでも●ぼくに注意を払ってくれるのだ●だから●赤ちゃんや●幼児が●愛に包まれているように見えるのだ●ときどき●ぼくは●ぼくになる●ときどき●詩人が●詩人になるように●で●詩人がぼくになったり●ぼくが詩人になったり●これまで●ぼくは●たくさんのことに触れてきたけど●そのとき同時に●たくさんのことも●ぼくに触れていたのだ●と●そんなことを●きょう●電車のなかで読んでいた●シルヴァーバーグの『Son of Man』●の●He touches everything and is touched by everything.●というセンテンスが●ぼくに教えてくれた●ほんとうのぼくが●ここからはじまる●帰りの通勤電車のなかで●ふとメモを取った言葉だった●ところで●禅●って●詩の骨●みたいなものかしらね●矛盾律の解体●と●言ってもいいのかも●解体●じゃなく●再構築かな●彼のぬくもりが●まだそのベンチの上に残っているかもしれない●彼がそこに坐っていたのは●もう何年も前のことだったのだけれど●あるものを愛するとき●それが人であっても●物であってもいいのだけれど●いったい●わたしのなかの●何が●どの部分が●愛するというのだろうか●どんな言葉が●いったい●いつ●どのようなものをもたらすのか●そんなことは●だれにもわからない●わかりはしない●人生を味わうのが●人生の意味だとしたら●いま●どれぐらいわかったところにいるんだろう●ふと水鳥が姿を現わす●なんと生き生きとした苦痛だろうか●その苦痛は●ぼくの胸をかきむしる●ああ●なんと生き生きとした苦痛だろうか●苦痛という言葉が●水鳥の姿をとって●ぼくの目の前に姿を現わしたのだ●ぼくは●夜の賀茂川の河川敷で●月の光にきらめく水のうねりを眺めていたのだった●ぼくは●前世に水鳥だったのだ●巣のほうを振り返ると●雛が鷹に襲われ●自分もまた襲われて殺されたのだった●水は身をよじらせて●ぼくの苦痛を味わった●水鳥の姿をした●ぼくの前世の苦痛を味わった●それを眺めながら●ぼくも身をよじらせて苦痛を味わった●大学のときに●サークルの先輩に●「おまえ●なんでいつも笑っているの?」●って言われて●それから●笑えなくなった●それまで●ひとの顔を見たら●ついうれしくて●にこにこ笑っていたのだけれど●ささいなことで●人間って傷つくのね●まあ●ささいなことだから●とげになるんだろうけど●ミツバチは●最初に集めた花の蜜ばかり集めるらしい●異なる種類の花から蜜を集めることはしないという●そのような愛に●だれが耐えることができようか●ひとかけらの欺瞞もなしに●ぼくは彼を楽しんだ●彼が憐れむべき人間だったからだ●彼もまた●ぼくを楽しんだ●ぼくもまた憐れむべき人間だったからだ●こんなに醜い●こんなに愚かな行為から●こんなに惨めな気持ちから●わたしは●愛がどんなに尊いものであるのか●どれほど得がたいものであるのかを知るのであった●なぜ●わたしは●もっとも遠いものから●もっとも離れたところからしか近づくことができないのであろうか●鯨が●コーヒーカップのなかに浮かんでいる●ベートーベンよりバッハの方がすてきね●音楽がやむと●鯨は●潮を吹いて●からになったコーヒーカップのなかから出てきて●葉巻に火をつけた●光は闇と交わりを持たない●光は光とのみ交わりを持つ●われわれが言語を解放することは●言語がわれわれを解放することに等しい●高村光太郎の詩を読む●目で見ること●目だけで見ること●ついつい●わたしたちは●こころで見てしまう●目だけではっきり見ることは不可能なのだろうか●言葉で考える●というより●言葉を考える●というより●言葉が考える●まったくわたしがいないところで●言葉が考えるということは●不可能だと思うが●言葉が●わたしのことをほっぽっておいて●ひとりでに他の言葉と結びつくということはあるだろう●もちろん●結びつくことが●即●考えることではないのだが●言葉がわたしを置いていく●わたしのいない風景がどこにもないように●そこらじゅうに●わたしを置いていく●わたしの知らないあいだに●あらゆる風景が●わたしに汚れていく●いつの間にか●どの顔のうえにも●どの風景のなかにも●わたしがいるのだ●ひとりでに●みんなになる●あらゆるものが●わたしになる●掲示板●イタコです●週に二度●ジムに通ってからだを鍛えています●特技は容易に憑依状態になれることです●一度に三人まで憑依することができます●こんなわたしでも●よかったら●ぜひメールください●イタコです●年齢は微妙な26才です●笑●でも週に二度事務に通っています●いやああああああああああん●ジムに通っています●でも●片手でピーナッツの殻はむけません●むけません●むけません●むけません●たった一度の愛に人生がひきずりまわされる●それは●とてもむごくて●うつくしい●サラダ・バーでゲロゲロ●彼の言葉は●あまりにこころのこもったものだったので●ぼくには●最初●理解することができなかった●うんちも●うんちをするのかしらん●吉田くんは●手足がバラバラになる●だから●相手をやっつけるときは●右手に右足を持って●左手に左足を持って●相手をポカスカポカスカなぐるのだが●あんまりすばやくなぐって●もとに戻すので●相手もなぐられたことに●気がつかないほどだ●裸の女が●エレベーターのなかで●胸元を揺らすと●エレベーターが●ボイン●ボインってゆれる●裸の老婆が●しなびた乳房の先をつまんで●ふにゅーって伸ばすと●エレベーターが急上昇!●ビルの屋上から飛び出て●大気圏の外まで出ちゃった●摩天楼の上で●キングコングが美女を手から離して●地面に落とす●飛んでっちゃったエレベーターをつかもうとしたんだな●キキキ●きっとね●事実でないことが●記憶としてある●偽の記憶●と●ぼくは呼んでいるが●なぜそんな記憶があるのだろう●親の話によると●幼いころのぼくは●テレビで見たり●本で読んだりしたことを●みんなほんとうのことだと思っていたらしい●また●嫌なことが贋の記憶をつくるということもあるかもしれない●たとえば●ぼくは●おつかいが嫌いだったので●商店街に行く途中で通る橋のたもとにある大きな岩の表面を●いつもびっしりとフナムシのような昆虫が覆っていたという記憶があるんだけど●これなんかはありえない話で●おそらくは無意識がつくりあげた幻想なのであろう●まるで悪夢のようにね●比喩が●人間の苦痛のように生き生きしている●苦痛は●いつも生き生きしている●それが苦痛の特性のひとつだ●深淵が深い●震源が深い●箴言が深い●信念が深い●ジェルソミーナ●だれも知らないから●捨てられるワタシ●ノウ・プロブレムよ●このあいだ合コンに行ったら●相手はみんなイタコだった●みんな●死んだ友だちや死んだ歌手や死んだ連中を呼び出してもらって●大騒ぎだった●ぼくにもできるにゃ●ひさんなバジリコ・スパゲティ●I●II●III●IV●と●ローマ数字を耳元でささやいてあげる●芸術にもっとも必要なのは勇気である●と言ったのは●だれだったか忘れたけれど●恋人たち●気まぐれな仮面●奇妙な関係●貝殻の上のヴィーナス●リバー・ワールド・シリーズ●と●つぎつぎに●フィリップ・ホセ・ファーマーの小説を読んでいると●そんな気になった●ぼくも●テキスト・コラージュをはじめてつくったときには●それが受け入れてもらえるかどうか●賭けたのだけれど●現代詩はかなり実験的なことも可能な世界であることがわかった●ぼくは自分が驚くのも好きだけど●ひとを驚かせるのはもっと好きなので●これからも実験的な作品を書いていきたいと思っている●何もしていないのに●上の前歯が欠けた●相方没収!●突然●自由なんだよって言われたってねえ●きょう●ニュースで●息子の嫁の首を鉈でたたいて●殺そうとした姑がいたという●80歳のババアだ●ジミーちゃんにその話をしたら●「その切りつける瞬間●その姑さんが念じた言葉●わかる?」●と訊いてきたので●「殺してやる?」と答えたら●そうじゃなくて●「ナタデココ」●と言って●自分の首を指差した●やっぱり●ぼくの友だちね●微妙にこわいわ●友だちだけどね●友だちだからね●笑●母親に抱えられた赤ん坊が通り過ぎていく●人には●無条件で愛する対象が必要なのかもしれない●自己チュウ●と違って●自己治癒●脱穀の北朝鮮●朝鮮民主主義人民共和国の令嬢夫人たちが●踊りに踊る●一糸乱さず整然と●脱穀の北朝鮮●朝鮮民主主義人民共和国の令嬢夫人たちが●踊りに踊る●一糸乱さず整然と●黄色いスカートが●ひらひらと●ひらひらと●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●街じゅういたるところから●猿のおもちゃたちが●姿を現わす●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●街じゅういたるところから●猿のおもちゃたちが●姿を現わす●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●シンバルを打ち鳴らしながら●猿のおもちゃたちが●ぼくのほうに向かってやってくる●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●シンバルを打ち鳴らしながら●猿のおもちゃたちが●ぼくのほうに向かってやってくる●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●脱穀の北朝鮮●朝鮮民主主義人民共和国の令嬢夫人たちが●足をあげて●足をさげて●オイ●チニ●オイ●チニ●黄色いスカートをひるがえし●オイ●チニ●オイ●チニ●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●猿のおもちゃたちが●シンバルを打ち鳴らす●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●脱穀の北朝鮮●朝鮮民主主義人民共和国の令嬢夫人たちの黄色いスカートがまくれあがり●マリリン・モンローのスカートもまくれあがり●世界じゅうの婦女子たちのスカートもまくれあがる●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●自転車は倒れ●バイクも倒れ●立て看板も倒れ●歩行者たちも倒れ●工事現場の建設作業員たちも倒れ●ぼくも道の上にへたり込む●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●オスカル・マツェラートの悲鳴がとどろくように●街じゅういたるところ●窓ガラスは割れ●扉ははずれ●植木鉢は毀れ●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●建物はブルブルふるえ●道もブルブルとふるえ●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●何台もの自動車が歩道に乗り上げ●つぎつぎとひとたちを跳ね●何台もの自動車がビリヤードの球のようにつぎつぎと衝突し●特急電車や急行電車や普通電車がつぎつぎと脱線する●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●ビルの壁に取り付けられた看板はビルの壁ごと剥がれ落ち●ヘリコプターはキリキリ舞いしながら墜落し●飛行機は太陽の季節のようにビルを突き抜けて爆発炎上し●コンクリートの破片が●ガラスの破片が●血まみれの手足が●空からつぎつぎと落っこちてくる●空からつぎつぎと落っこちてくる●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●大気はビリビリに引き裂かれ●白い雲は粉々に吹き散らされ●大嵐の後の爪痕のように●街じゅういたるところの景色がバリバリと引き剥がされていく●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●ぼくの顔から目が飛び出し●歯茎から歯が抜け●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●身体じゅうの骨がはずれ●世界のたががはずれ●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●脳髄から雑念が払われ●想念から悲観が欠け落ち●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●時間は場所と出来事からはずれ●場所は出来事と時間からはずれ●出来事は時間と場所からはずれ●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●時間は場所と出来事からはぐれ●場所は出来事と時間からはぐれ●出来事は時間と場所からはぐれ●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●すこぶる●ひたぶる●すこすこ●ひたひた●爽快な気分になっていく●爽快な気分になっていく●パシャン!●パシャン!●パシャン!●パシャン!●吹けよ●風!●呼べよ●嵐!●沸騰する二酸化炭素●カーボン・ダイオクサイド●まっすぐな肩よ●来い!●沸騰する二酸化炭素●カーボン・ダイオクサイド●真っ直ぐな肩よ●来い!


存在の下痢。

  田中宏輔




って

どうよ!

下痢をしているわたしの部屋に

ジミーちゃんがたずねてきて

唐突に言ったの

最近

猫を尊敬するの

だって

猫って

あんなに小さくて命が短いのに

気にもとめない様子で

悠然と

昼間からただ寝てばかりいる

きっと悟っているに違いない

ですって

わたしは下痢で

おなかが痛いって言って

きてもらったんだけど

きのう、恋人にひどいことを言われて

ショックで

ひどい下痢になったわたしの部屋で

いろいろお話をしてくれてるんだけど

ジミーちゃんの話には猫がよく出てくる

ぼくは動物がダメで

猫がかわいいとか思ったこと

一度もないんだけど

ジミーちゃんの話を聞いて

猫の存在から

存在というものそのものについて

すこし考えた

たしかに猫の存在は

ぼくにはどうってことのないものだけれど

ぼくにとってどうってことのないものが

まわりまわって

どうってことのないものではないものになって

ぼくそのものの存在を



ここまで書いたところで

ジミーちゃんが口をさしはさんだ

「そんな自分についての話でどうどうめぐりになってないで

 猫のように悟るべきっ!」

だって



この文章のタイトルをどうしようって言ったら

「恋人に気持ち悪いって言われて

 とても悲しいの」

にしたらって言われたので

わたしが

「気持ち悪いって言われてないわよ

 けがらわしいって言われたのよ」

と言って

ジミーちゃんのほうに向かって

声を張り上げたら

ジミーちゃんが大笑いをしだして

涙を流した

存在って不思議ね

わたしの下痢もとまらないし

存在の意味についても

あんまり深く考えられないし

ここらでやめとくわ

そんなこんな言ってるあいだ

Dave Brubeck のピアノと

ベースとドラムが

ここちよいジャズを

のんびり奏でてた

そうよ

のんびり奏でてたのよ

下痢をしているわたしの部屋で

ゲーリー・クーパーが

ヘアーをたわしで櫛どいていたら

あるいは櫛どいているときに

ネコがコネをつかって

詩集の賞をねらって

詩を書いているのかと思いきや

ねらっているのは

じつは鰹節であった

ってのは

どうよ

当たり前すぎるかしら

存在の下痢について

きょう

ジミーちゃんと酔っ払いながら

話していたのだけれど

ジミーちゃんは

存在の下痢以前に

下痢の存在について

自我の存在を疑っていた

デカルトに訊いてみないと

とか言い出した

あの近代合理主義哲学のそ

そ?



はじめのひとの「祖」ね

育毛剤のコマーシャルで

むかし

シェーン、カミング・バック

っていうのがあったけど

おそ松くんのイヤミは

ただ

シェー

とだけ言っていた



クッパを食べて

ゲリゲリになった

ゲーリー・クーパーが

芸名を

ゲリゲリ・クッパに変えようとしたら

良識ある周囲の人たちに

猛反対にあった

っていう夢を見たと嘘をつけ



わたしにうるさくせっつくのよ

どうすりゃいいのさ

こ〜の わぁ〜たぁ〜しぃ〜

ってか

ブヒッ

存在が下痢をするなら

存在はちびりもするだろう

包皮も擦るし



放屁もするし

脱糞もするだろう

存在は骨折もするかもしれないし

病に倒れて重態に陥ることもあるだろう

存在はあてこすりもするだろうし

嫌味を言うかもしれない

足を踏むことだってあるだろう

あらゆる存在がさまざまな存在様式で存在する

実在の存在だけではなく

仮定の存在も下痢をするし

ちびりもする

放屁もするし

脱糞もする

そのほか

ごにゃごにゃもするのだ

実在と仮定のほかに

可能性の存在というものもある

これもまた

下痢もするし

ちびりもする

って書いてきて

あれ

下痢をすると

ちびりもするって

同じことじゃないかなって

いま気がついた

あちゃ〜

この文章

書き直さなきゃならないかも

いや

下痢をするからって

ちびるとは言えないから

まあ

いいか

このままで

せっかく書いたんだし、笑。

ゲーリー・スナイダーを

山にひきこもった詩人のジジイだと思っているのは

わたしだけかしら

高村光太郎も山にひきこもっちゃったし

そういえば

山頭火だって

そう言えなくもない感じがする

都会生活をしていて

都会生活者の存在の下痢を描写する詩人っていないのかな

ぶひひ

それじゃあ

おれっちがひりだしてやろうかい

存在の

ブリッ

ブリブリブリブリブリッ

って

ひゃ〜

って言って

自分でスカートをまくるちひろちゃん

きゃっわいい!

おっちゃんは

存在の下痢をする

存在を下痢するのだ

存在もまた下痢をする

存在自体が存在の下痢をするのだ

存在が嘔吐する

だったら

哲学的な感じがするかな

ありきたりだけど

存在が下痢をする

だと

やっぱり、くだらん

って言われるかな

ほんとにくだってるんだけどね、笑。

うううん

存在が嘔吐する

のほうがいいかな



でも

ゲリグソちびっちゃうみたいに

存在が

シャーッ

シャーッ

って下痢ってるほうがすてき

嘔吐だと

床の上に

べちゃって感じで

存在がはりついちゃうような気がするけど

下痢だと

シャーッ

シャーッ

って感じで

存在が

はなち

ひりだされるってイメージで

なんだか

きらきらとかわいらしい



きょうは

ぼくも

じゃなかった

ぼくは

きょうも

下痢がとまらず

でも

腸にいいようにって

バランスアップっていうビスケットのなかに

食物繊維が入ってるものを食べたんだけど

しかも繊維質が一番多い

一袋3枚・食物繊維6グラム入りのものを

朝9時50分から

昼の1時すぎまで

ちょっとずつかじっては

緑の野菜ジュースをちびりちびり

ちょっとずつかじっては

緑の野菜ジュースをちびりちびり

口のなかでゆっくりと、じっくりと

シカシカと、ジルジルと

唾液と混ぜながら

緑の野菜ジュースでビスケットをとかして

合計6袋18枚も食べたのだけれど

ビスケットをかじって

5分から10分もすると

うううう

おなか

いたたたたた

って感じで

トイレで

シャーシャー

トイレで

シャーシャー

してたのね

食べてすぐって

生理的にっていうか

肉体的にっていうか

ぜったい

直で出てたんじゃないと思うけど

食べてないときにはシャーシャーあまりしなかったから

直で出てたのかもしれない



シンちゃんが前に言ってたけど

からだが反応して

食べてすぐシャーシャーしてるんじゃなくて

神経が反応してシャーシャーさせてるんだよって

あらま

そうかもしんない

存在は魂を通して

生成し、消滅する

時間として

場所として

出来事として

精神や物質といったものも

ただ単なる存在の一様式にしか過ぎず

存在は魂を通して

生成し、消滅する

時間として

場所として

出来事として

そして

存在が生成するものであるがゆえに

存在は消滅するものなのであり

存在が消滅するものであるがゆえに

存在は生成するものなのである

存在が生成しなければ

存在は消滅しないのであり

存在が消滅しなければ

存在は生成しないのである

ぼくは

きょうも、ひどい下痢をして

ようやく存在というものが

どういうものなのか

その一端をうかがい知れたような気がする

ビスケットをかじりかじり

シャーシャー

シャーシャー

ゲリグソちびりながら

ぷへぇ〜

おなか痛かったべぇ〜

もう一週間近くも下痢ってる



存在の下痢

というかさ

存在は下痢

なのね



ぼくのいま住んでるマンションで

もう一年以上も前のことになるのだけど

真夜中のものすごい「アヘ声」に目を覚まさせられたことがあって

それから

それが数分間もつづいたので

よけいに驚かされたのだけれど

個人的な経験という回路をめぐらせる詩句について

あるいは

そういった詩句の創出について考察できないか考えた

語感がひとによって違うように

どの詩句で

それが起こるのかわからない

偶然の賜物なのだろうか

書くほうにとっても

読むほうにとっても

死んだ父親に横腹をコチョコチョされて

目が覚めたのが

朝の3時46分

寝たのが

1時頃だから

3時間弱の睡眠

あと

いままで寝床で

目を覚ましながら横になっていた

dioの印刷が終わったあと

百万遍にある、リンゴという

ビートルズの曲しかかからない店で

食事をしながらお酒を飲んで

打ち上げをしていたのだけれど

そのときに着ていた服が

父親の形見のコートだったので

「このコート

 死んだ父親のなんだよね」

って言って

「父親の死んだのって

 今年の平成19年4月19日だったから

 逝くよ

 逝く

 なんだよね」

って言うと

斎藤さんが

「わたしの誕生日も4月19日なんです」

って言うから

びっくりして

「ごめんね

 気を悪くさせるようなこと言って」

って、あやまったんだけど

まあ

彼女もべつに機嫌を悪くするわけでもなく

ふつうにしていてくれたから

ぼくも気がやすまって

そのこと忘れていたんだけど

きのう

詩集の校正を書肆山田に送ることができたので

河原町六角にある日知庵に行って

その話をして

酔っ払って帰ってきたから

そんな夢を見たのかもしれない


The Wasteless Land.

  田中宏輔




Contents

I.  Those who seek me diligently find me.
II. You do not know what you are asking.
III. You shall love your neighbor as yourself.
IV. It was I who knew you in the wilderness.
V. Behold the man!
Notes on the Wasteless Land.





『オハイオのある蜂蜜(ほうみつ)採りの快美な死にかただ。その男は空洞にな
った樹(き)の股(また)のところに、探し求める蜂蜜がおびただしく貯(たくわ)えられてい
るのを発見し、思わず身を乗り出しすぎて、そのなかへ吸いこまれ、
そのままかぐわしい死を遂げたという。』





より巧みな芸術家
Thomas Stearns Eliotに。





I.  Those who seek me diligently find me.


四月は、もっとも官能的な月だ。
若さを気負い誇る女たちは、我先にと
美しい手足を剥き出しにする。
春の日のまだ肌寒い時節に。
冬には、厚い外套に身を包み
時には、マフラーで首もとまで隠す。
こころの中にまで戒厳令を布いて。
バス・ターミナルに直結した地下鉄の駅で降りると
夏が水の入ったバケツをぶちまけた。
ぼくたちは、待合室で雨宿りしながら
自動販売機(ヴエンディング・マシーン)で缶コーヒーを買って
一時間ほど話をした。
「わたくし、あなたが思っていらっしゃるような女じゃありませんのよ。
こんなこと、ほんとうに、はじめてですのよ。」
どことなく似ていらっしゃいますわ、お父さまに。
幼いころに亡くなったのですけれど、よく憶えておりますのよ。
いつ、書斎に入っても、いつ、お仕事の邪魔をしても
スミュルナ、スミュルナ、わたしの可愛い娘よ
と、おっしゃって、膝の上に抱いて、接吻してくださったわ。
聖書には、お詳しくて? 創世記・第十九章のお話は、ご存じかしら?
たいてい、いつも、夜遅くまで起きていて、手紙を書いたり、本を読んだりしています。

この立ちこめる霧は、何だ。
この視界をさえぎる濃い霧の中で、いったい、如何(いか)なる代物に出交(でくわ)すというのか。
人生の半ばを過ぎて、この暗い森の中に踏み迷い、
岩また岩の険阻(けんそ)な山道を、喘(あえ)ぎにあえぎなが彷徨(さまよ)い歩くおまえ。
いま、おまえは、凄まじい咽喉(のど)の渇きに苛(さいな)まれている。
だが、耳を澄ませば、聞こえるはずだ。
深い泉のさざめきが。
どんなに干からびた岩の下にも、水がある。
さあ、おまえの持つ杖で、その岩の端先(はなさき)を打つがよい。
(すると、その岩の裂け目から、泉が迸(ほとばし)り出る。)
これで、おまえの咽喉(のど)の渇きは癒され
顔の前の濃い霧も、ひと吹きで消え失せる。
もはや視界をさえぎるものは、何もない。
こんどは、その岩の割れ目に、杖を突き立ててみよ。
    かの輝けるゆたかなる宝、
    糸のごと、狭間(はざま)に筋(すじ)ひきて、
    ただ奇(くす)しき知恵の魔杖にのみ、
    己が迷路を解きあかすなり。
『一年前、あなたの写真を、近くの古書店で、手に
入れました。写真の裏には、電話番号が書かれてあり
ぼくは、あなたに、何度も電話をかけました。』
――でも、それは、ずいぶんと昔のことなのですよ。
わたしが、自分の写真を、本のあいだに挾んでおいたのは。
いま、わたしが何歳であるか、それは申しませんが
あなたから、お電話をいただいたときには、もう
お誘いを受けられるような年齢(とし)ではなかったのです。
ことわりもせず、電話番号を変えて、ごめんなさいね――襟懐(きんかい)。
    見出でし泉の奇(くす)しさよ。
この男も、詩人の端くれらしく
つまらぬことを気に病んで
眠れぬ一夜を過ごすことがある。
そんなときには、よく聖書占いをする。
右手に聖書を持って、左手でめくるのだ。
岩から出た蜜によって、あなたを飽(あ)かせるであろう。
(前にも一度、これを指さしたことがある。)
そういえば、ジイドの『地の糧』のなかに
「蜜房は岩の中にある。」という言葉があった。
アンフィダという場所から、そう遠くないところに
灰色と薔薇色の大きな岩があって、その岩の中に
蜜蜂の巣があり、夏になると、暑さのせいで
蜜房が破裂し、蜂蜜が岩にそって
流れ落ちる、というのだ。
動物の死骸や、樹幹の洞の中にも
蜜蜂は巣をつくることがある。
詩のモチーフを得るために、この詩人は
しばしば聖書占いと同じやり方で辞書を開く。
William Burke というのに出会ったのも、それで
詩人の William Blake と名前(ファースト・ネーム)が同じ
この人物は、自分が殺した死体を売っていたという。

無防備都市(ローマ、チツタ・アペルタ)。
夏の夕間暮れ、月の女神の手に、水は落ち
水はみな、手のひらに弾かれて、ほどけた真珠の玉さながら、飛び散らばる。
アルテミスの泉と名づけられた噴水のそばにある
細長いベンチの片端に腰かけながら
彼女は恋人を待っていた。
たいそう、映画の好きな恋人で
きょう、二人で観る約束をしていた映画も
彼のほうから、ぜひ、いっしょに観に行きたいと言い出したものであった。
彼女が坐っているベンチに
彼女と同じ年ごろのカップルが
腰を下ろして、いちゃつきはじめた。
男が一人、近寄ってくると、彼女の隣に腰かけてきて
「ミス・ドローテ」と、耳もとでささやいた。
『どうか、驚かないでください、といっても、無理かもしれませんね。
許してください。しかし、あなたのように、若くて美しい方なら
突然、このように、見知らぬ男から声をかけられることも
それほど、めずらしいことではないでしょう。
これまで、あなたほど、顔立ちの見事に整った、美しい女性には、お目にかかったことがありません。
ほんとうですよ。ところで、わたしがあなたに呼びかけた、ドローテという名前は
ある詩人の作品のなかに出てくる、見目もよく、気立てもやさしい、若い娘の名前なのです。
ですから、そのように、眉間に皺を寄せて、わたしを見つめないでください。
あなたの美を損ねてしまいます。
わたしが、あなたの聖(きよ)らかな泉を汚すことは、けっしてありません。』





II. You do not know what you are asking.


ゴールデン・ウィークを迎えるころになると
授業に出てくる学生の数が激減する。
半減期は一週間、といったところだろうか。
それでも、昔に比べれば、ずいぶんとましになったものだ。
この大きな階段教室に、学生が二人、といったこともあったのだ。
(そのうちの一人は、最初から最後まで、机の上につっぷして眠っていた。)
点が甘いということで、登録する学生の数が非常に多いのだが
出欠をまったく取らないので、出てくる学生の数が見る見る減っていくのである。
出欠を取れば、学生が出てくることはわかっているが、時間が惜しい。
授業内容さえ充実していれば、かならず出てくるはずだ、と
そう思って、授業にも、いろいろと工夫を凝らしてみるのだが
なかなか思いどおりには、いかないものである。
小説のなかに出てくる、ちょっとした小物や、ささいな出来事が
――その場面に、すばらしい表情を与えるものとして
あるいは、作品世界全体をまとめる象徴的なものとして機能することがある
ということは、前の授業で、電話を例に、説明しましたね。
今回は、ハンカチについて見ていくことにしましょう。
まず、電話のときと同様に、ハンカチという言葉の起源と、その用途について調べ
つぎに、いくつか、文学作品を採り上げて、そこで用いられている、さまざまな例を通して
いったい、どのような効果が得られているのか、考えていくことにしましょう。
ハンカチ、すなわち、ハンカチーフという語がはじめて文献に現われるのは
十六世紀、もう少し正確に言いますと、一五三〇年のことですが
じっさいには、それ以前にも用いられていたと思われます。
その原型となるものは、古代エジプトにも存在しておりましたし
ギリシア・ローマ時代にも、顔の汗をふいたりした、スダリウムと呼ばれる布切れや
食事のときに手をふいたりした、マッパと呼ばれる布切れがありました。
また、これらの布切れは、競技のスタートの合図に振られたり、賞賛の印として振られたり
教会で儀式が執り行われる際に、僧侶の手に持たれたりしました。
ハンカチが一般に普及したのは、もちろん
「ハンカチーフ」という語が文献に現われた十六世紀以降のことですが
それはまず、上流階級の間で、装飾品として手に持たれたことにはじまりました。
当時は、手袋や扇と同様に、服装の一部をなすアクセサリーとして重要なものでした。
なかには、宝石が縫いつけられたり、豪華な刺繍が施されたりしたものもありました。
十七世紀になりますと、一般の婦女子のあいだでも用いられるようになりました。
形見の品として譲り渡されたり、愛の印として贈られたりしました。
こういった例を、文学作品のなかから、いくつか採り上げていきましょう。
つぎの文章は、スタンダールの『カストロの尼』において、主人公が、自殺するまえに
手紙とハンカチを、自分の恋人に手渡してくれるように、ひとに頼むところです。

『どうして、あんなに字が汚いのかしら。
ひと文字、ひと文字、大きさもバラバラで、ほんっとに、ヘタクソな字!
それに、どうして、あんなに歩きまわって、黒板のあっちこっち、いろんなとこに書いてくのかしら。
ちゃんと、ノート、取れないじゃない。ったく、もう。あっ、あの字、あれ
  なんて書いてあんの? なんて書いて? なんて?
なんて書いてあんのか、ゼンゼンわかんない。
ちゃんと書いてよね。』

そのひとがふだん身につけていたものを形見にしたりすることは、ごく自然な感情によるものでしょう。
つぎに、愛の印に贈られたハンカチが、たいへん重要な小道具として出てくる作品を紹介しましょう。
『あの黒いものは、なんだろう。』
    キャンキャン吠えながら、尨犬(むくいぬ)が駆け降りてくる。
『だれが教室に入れたのですか? どうして、こんなところに連れてくるのですか?』
     だれも答えない、だれも。
                     『だれも
答えないのですか? だれか、一人くらいは、わたしにこたえられるはずでしょう?
それとも、犬が自分から勝手に入ってきたとでもいうのですか?
自分から勝手に?』

 とうとう、ペットまで、教室のなかに持ち込むようになってしまった。
いやはや、なんという連中だろう。あまりにも馬鹿らしくて、これ以上、叱る気にもなれない。
『おれが、あんなに大事に思って、おまえにやったハンカチを、おまえは、キャスオウにやった。』
                                         これは、あの
シェイクスピアの『オセロウ』にあるセリフですが、苺の刺繍が施された
このハンカチは、オセロウの母親遺した形見の品で、批評家のトマス・ライマーは
このハンカチ一枚に、みなが右往左往する、この作品を批判して、「ハンカチの笑劇」と呼びました。
『午後から、なにか、予定ある?』
『とりあえず、あたしは、髪を切ってもらいに
美容院に行くわ。それから、アルバイトに
行くかどうか、考えるわ。』

                           あと十分で、二講時目終了のチャイムが鳴る。
また、そこの先輩が、意地が悪いのよ。
若い客が、あたしとばかり、話したがるもんだから
嫉妬してんのよ。まわりに、だれもいなくなったりしたら
もう、たいへん。ほんっとに、ひどいのよ。
きのうなんて、のろいわね、とか、グズね、とか言って
あたしの顔を、にらみつけんのよ。
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
入って、まだ二日目よ。
できるわけないじゃない。
することだって、いっぱいあんのに。
あーあ、もっとラクだと思ってたわ、マネキンの仕事って。
あっ、そうそう
それより、マルトの話、聞いた?
新しい恋人ができたの、って言ってたわ。
ねっ、きみも、詩が好きかい?
ぼくは、ボードレールや、ランボーの詩が好きなんだけど。
ですって。
いきなり隣の席にきて、その彼氏、そう言ったんですって。
マルトも、あのとおり、文学少女でしょう。
わたしも、ボードレールや、ヴェルレーヌが好きよ、って返事したらしいわ。
ジャックっていう、高時時代から付き合ってる、れっきとした恋人がいるっていうのにね。
彼って、体育会系でしょ。新しい彼氏は、ゼンゼン違うタイプなんですって。
背が高くて、やせてて、それに、顔が、とってもきれいなんですって。
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
弟のラインハルトが、部屋のなかに閉じこもったまま、出てこないのよ。
お母さんの話だと、一日じゅう、ほとんど閉じこもりっきりで
食事もろくに摂ってないっていうのよ。
たしかに、見るたびに、やせてってるって感じだったわ。
お母さんたら、このままだと、拒食症で死んじゃうかもしれないわ、って言うのよ。
どうやら恋わずらいらしいんだけど
(ところで、一つ年下の弟は、ことし高校を出たばかりの青年だ。)
同い年の幼なじみの女子にふられたっていうのよ。
あたしと同じ、エリーザベトっていう名前の子なんだけど、たしかに、可愛らしい子だったわ。
まあ、あたしの知ってるのは、彼女が中学生ぐらいまでの
ことだけど。(近くに森があって、弟と彼女は、小学生のころ、よくいっしょに、苺狩りに出かけた。
湖水のほとりで、ハンカチを拡げ、そのうえに、採ってきた苺をならべて、二人で食べた。)
その彼女から、ある朝、弟に手紙がきたらしいんだけど
それからなんですって、弟が部屋のなかに閉じこもるようになったのは。
あたしたち、弟が高校に入るときに、こちらに越してきたでしょ。
それでも、弟は、月に一度か、二度くらい、そのこと逢ってたらしいのよ。
お母さんたら、なんでも見てきたことのようにしゃべるんだけど
これは、たしかに、ほんとうのことなんですって。
やっぱり、遠距離恋愛って、むずかしいのよね。
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
えっ、なに? なに? あたってるの? さっきから?
あら、ほんとだわ、どうしましょう。
あなたも、聞いてなかったわよね。
まあ、どうしましょう――
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
ねえ、アガート。ねえ、ジェラール。ねえ、ダルジェロ。
あなたたち、みんな、聞いてなかったの?
どう思いますか、ですって。
なにか言わなくちゃ。
えっ、あの黒板に書いてある言葉をつかって、なにか言いなさいよって?
イヤン、字が汚くて、ゼンゼン読めないわ。





III. You shall love your neighbor as yourself.


この地下鉄は南に行き、南の端の駅に着くと
北に転じて、ふたたび北の端の駅に戻る。
電車、痴漢を乗せて走る。
感覚器官が、感覚器官の対象に向かって働く。
見目美(うるわ)しい乙女たちよ、その身をまかせよ。
わが息の霊の力、尽きるまで。
汝の胸の形、汝の腰の形、汝の尻の形は
その形を見る者の目を捉え
その香料の芳(かんば)しい香りを放つ汝の身体は
その匂いをかぐ者の鼻先を捉える。
感覚器官が、感覚器官の対象に向かって働く。
他人に気づかれないように、こっそりと
ひそかに、感覚器官が、感覚器官の対象に向かって働く。
愚かな女は騒がしい。
自分の唇を制する者には知恵がある……
見目美(うるわ)しい乙女たちよ、その身をまかせよ。
わが息の霊の力、尽きるまで。
見目美(うるわ)しい乙女たちよ、その身をまかせよ。
わが息の霊の力、及ぶうち。
わたしの横に
駆け込み乗車してきたばかりの男が立っている。
噴き出た汗をハンカチでぬぐいながら、男は、すばやく社内を見渡した。
坐れないことがわかると、溜め息をついて
書類の入った袋を、鞄のなかにしまった。
それにしても、この男の表情は陰鬱である。
それは、この男が、これから先、自分がどこへ行き、どんな顔をして
どのように振る舞わなければならないかを知っているからだ。
男が、わたしの身体を透かして、通路の向こう側を見た。
わたしの姿は目に見えず、だれも、わたしを目で見ることはできない。
わたし自身が、ひとの目に触れることを望まないかぎりは。
男の視線の先に、空席を求めて隣の車両からやってきた、一人の妊婦の姿があった。
その表情は苦しげで、またその足取りも重く、なお一歩ごとに、その重みを増していったが
ときおり、他の乗客の背中に手をつきながら、しだいに、こちらに近づいてきた。
男が、ふたたびハンカチを取り出して、額や花の下の汗をぬぐった。
激痛が、彼女の両腕を扉付近の支柱にしがみつかせた。
わたしは首をまわして、わたしの息を車内全体に吹きかけた。
これで、だれ一人、女に自分の席を譲ることができなくなった。
突き出た腹を自ら抱え、女が、その場にしゃがみ込んだ。
わたしは、男の耳もとに、わたしの息を吹きかけた。
男の胸がはげしく波打ちはじめた。
男が足を踏み出した。
フウハ フウハ フウハ
ドックン ドックン ドックン ドックン ドックン ドックン
おのれ自身が創り出した、淫らな映像に惹き寄せられて。

名画座で上映されていたのは
無防備都市(ローマ、チツタ・アペルタ)。
夏の夜、波の模様に敷き詰められた敷石のうえを
溜め息まじりに言葉を交わしながら、恋人たちが通り過ぎて行く。
広場に残っていたカップルたちも、夜が更け、噴水が止まると、ぽつぽつと帰りはじめた。
ひとの動く気配がしたので振り返ると、植え込みの楡の樹の後ろから、丸顔の女の子が顔を覗かせた。
あまりに若すぎると思ったが、そばにまでくると、それほどでもないことがわかった。
たどたどしいフランス語で、あなた、ガブリエル伯父さんでしょ、と訊ねられた。
あらかじめ電話で教えられていたとおりに、そうだよ、きみの伯父さんだよ、と答えると
彼女は微笑んで、地下鉄に乗るのね、と言い、ぼくの腕をとって歩き出した。

すみれ色の時刻。
友だちと大声でしゃべり合う学生たちや
口を開く元気もない、仕事帰りの男や女たちを乗せて
地下鉄は、ゴウゴウ、音を立てて走っている。
わたし、メフィストーフェレスは
馬の足を持ち、贋(にせ)の膨(ふく)ら脛(はぎ)をつけて歩く
つむじ曲がりの霊である。
このすみれ色の時刻。
ジムこと、ジェイムズ・ディリンガム・ヤングは、まだ
二十二歳の貧しい青年であったが、彼の住む安アパートの二階には
鏡のまえで美しい髪を梳きながら、新妻のデラが、彼の帰りを待ちわびていた。
彼の膝のうえには、宝石の縁飾りのある、べっ甲の櫛が入った小さな箱が置かれていた。
その高価なプレゼントを買うために、彼は、父親から譲り受けた
もとは祖父のものであった、上等の金時計を売らなければならなかった。
ミス・マーサ・ミーチャムは四十歳、通りの角で、小さなパン屋を営んでいる。
最近、彼女は、自分の店にくる客の一人に、思いを寄せている。
男は、いつも(新しいパンの半分の値段の)古パンを二個、買って行く。
こんど、彼のすきをみて、古パンのなかに、上等のバターをたっぷり入れてあげましょう。
彼女は、吊革につかまりながら、ジムのまえで、そんなことを考えていた。
馬の足を持つ、このねじくれた霊、メフィストーフェレスなる
わたしには、こうした事情が、すぐにわかるのだ。
二人の耳もとに、わたしは、いまこの電車に乗ってくる、一人の男を待っていたのだ。
あの背の高い、やせた白髪頭(しらがあたま)の
男が乗ってくるのだ。
プロテスタント系の私立大学に勤める、文学部の教授である。
創作科のクラスで、詩や小説の書き方を教えている。
三十代半ばで、はじめて女を知った、この男は
それからの数年間というものを
肉欲の赴くまま、享楽に耽(ふけ)っていたのだが
三十代の終わりに、妻となるべき女と出会って
それまでの淫蕩な生活に、突然、終止符を打ったのである。
彼は、妻のことをいちずに愛し、妻もまた、彼のことをいちずに愛した。
ともに暮らした十年のあいだ、子宝には恵まれず、あえて養子を取ることもしなかったので
彼らの家のなかに、子どもの声が響くことなどはなかったが、それで、さびしくなるということもなかった。
むしろ、二人きりでいることが、相手に対する愛情を、より深いものにしていった。
それゆえ、五年まえに、まだやっと三十を越えたばかりの妻を、交通事故で失くしてからというもの
彼は、妻を慕う気持ちのあまり、あらゆる女性を避ける避けるようになってしまったのである。
通いの家政婦のほかには、彼の家に訪れる女性は、一人もいなかった。
(わたし、メフィストーフェレスが、人間の耳もとに息を吹きかけると
たとえ、どれほど萎えしぼんだ魂の持主でも、情欲の
俘虜(とりこ)となって、生きのいい魂を取り戻すことができるのである。
かつて、あのファウストでさえ誘惑し、その胸のなかに
情欲の泉を迸(ほとばし)らせた、このわたしである。)
背中を押されて入ってきたセヴリヌ・セリジは、通路の真ん中で足を止め、目を凝らして見た。
このがっちりとした体格、この着くずれした背広、それに、この品のない首つきは……
彼女の斜めまえに立っている男に、その男の後ろ姿に見覚えがあったのである。
男が何気なく振り向いた拍子に、自分の知り合いではなかったことがわかって、彼女は、ほっとした。
ふと、彼女は、きょう、マダム・アナイスの家で自分を抱いた中年の男の言葉を思い出した――
『恥ずかしいんだね、ええ、恥ずかしいんだね。でも、いまに嬉しがらせてやるからな。』
美しい女が馬鹿な真似をすると、たちまち破滅する。
それが、夫のある身なら、なおさらである。
わざわざ、彼女の耳もとに、わたしが息を吹きかけてやることもない。
ただ、この体格のいい男の耳もとに、ひと吹きするだけでよい。

『あなたの泉に祝福を。』
電車が停まり、その扉が開くたびに
ひとびとが乗り込み、人々が降りて行く。
すべてのことには季節があり、すべてのわざには時がある。
男と女の出会いにも、時がある。
生涯において、ただ一度、同じ電車のなかに乗り合わせる、ということもある。
どの女も似通ってはいるが、同じと言えるところは、一つもない。
その胸の形、その腰の形、その尻の形のことごとく
その形それぞれに、男の目は捉われる。
さあ、いままた、扉が開いて、女たちが乗り込んできた。

よくよく、おまえに言っておく。
この電車が、つぎの駅に着くまえに
おまえは、三度、痴漢の手をはらいのけるだろう。
だが、恐れるな。この者は、よい痴漢である。
それにしても、この胸は、痴漢の愛する胸、痴漢のこころにかなう胸である。
痴漢がおまえの胸にさわるとき
おまえは、痴漢がすることを、他人に知らせるな。
それは、その行為が隠れてなされるためである。
そうすれば、おまえの胸に触れた手は
さらなる悦びを、おまえにもたらせてくれるであろう。
アハァ アハァ
アハァ アハァ
手はすでに、おまえの胸のうえに置かれている。
もしも、おまえの胸にさわる手が
おまえの胸のボタンをはずそうとするなら
おまえは、おまえのその胸の下着の留め金をはずせ。
そうだ、まことに、おまえの情欲は見上げたものである。
まことに、おまえは情欲の俘虜(とりこ)である。
もしも、痴漢が、おまえの乳房を引っ張って、おまえを
車両の端から端まで引き摺って行こうとするなら
その痴漢の手に、二車両は引き摺られて行け。
さあ、この生き生きとした悦楽にひたれ。
この悦楽の泉にひたれ。
 アハァ アハァ
 アハァ アハァ

「あたし、見てたわよ。
あの痴漢ったら、向こうの端から、こっちに向かって
一人、二人、三人って、つぎつぎに手を出していたでしょ。
あたしで、ちょうど、十人目になるわね。
でも、わたしには近づかないでよ。
ちょっとでも、さわったりしたら、警察に突き出してやるから。」
これまで、あなたのまえに、恋人が現われなかったのは
ただ、あなたの美に、だれも気がつくことができなかったからである。
事実、あなたは、もっとも美しい猿よりも美しい。
諺に、『老女は地獄で猿を引く。』というのがあるのを知っているか。
猿は、だれをも愛さず、だれにも愛されなかった女の、唯一、あの世での連れ合いなのだ。
人間には人間がふさわしく、猿には猿がふさわしいと思わないか。」
「愛を意味するギリシア語のエロースが
ローマに入ると、欲望という意味の言葉、キューピッドとなった。
不死なる神々のなかでも、ならぶ者のない、美しいエロース。
この神は、あらゆる人間の胸のうちの思慮と考え深いこころを打ち砕く。」
 ララ
ここがロドスだ、跳んでみよ。

さわる、さわる、さわる、さわっている。
おお、女よ、たとえ、おまえが、一日に千回、手をはらいのけても
おお、女よ、きっと、おまえは、一日に千五百回、手を出されるだろう。

さわってる。





IV. It was I who knew you in the wilderness.


男に出会ったのは、きのう
地下鉄の駅から出て、大学の構内に入って行くところだった。
男は研究室に立ち寄ると、すぐに教室に向かった。
                                  尨犬(むくいぬ)の姿となって
階段教室の前にいると
遅れてやってきた女子学生が、わたしを拾い上げた。
授業をしながらでも、始終、男は死んだ妻のことを思い出していた。
そのあと、一日じゅう、男のあとをつけまわしてみたが
男は、片時も、妻のことを忘れることがなかった。
何を見ても、何をしても、男は、すべてのことを、死んだ妻とのことに結びつけて考えた。
かつて、わたしが魂を奪い損ねた男と同じ名前を持つ男、あの男こそ
新たなる、神の僕(しもべ)、新たなる、わが獲物!





V. Behold the man!


ひと渉(わた)り、さっと車内に目を走らせると
そのあとは、ひとには目もくれない。
ただ、目をやるものといえば
言葉、言葉、言葉、
広告の。
彼の表情は硬かった。
亡くなった妻のことを思い出すとき以外に
その顔に笑みが浮かぶことなど、まったくなかった。
ここ、何年物あいだ、この詩人の魂に映るものといえば、岩の山、岩の谷、岩と岩ばかりの風景だった。
しかし、どんなにかわいた岩の下にも、水がある。
どれほどかわいた岩地でも、その下には、かならず水が流れているのだ。
もとをたどれば、詩人という言葉は
小石のうえを流れる水の音を表わすアラム語に行きつく。
こころの奥底に、流れる水がなければ、詩など書けるはずもない。
ひとを愛し、人生を愛してこそ、詩人であるのだから。
いまひとたび、そのかわいた岩々の裂け目から水を噴き出させ
その胸のなかに、情欲の泉を溢れ出させてやろう。
悪戯(いたずら)好きのわたしが、ほんとうに好きなのは
神の目に正しい道を歩まんとする者を
その道から踏みはずさせ、わたしの道を歩ませること
その彼の魂を、命の本減から引き離し、わたしのものとすること
その彼を、あの世における、わたしの奴隷、私の僕(しもべ)とすることなのだ
たしかに、かつて、わたしは、あのファウストの魂を奪い取ることができなかった。
それは、わたしが、背中に甲羅を生やした悪魔にしては、あまりにも初心(うぶ)だったからである。
しかし、もう、二度とふたたび、神には騙(だま)されない。けっして、騙(だま)されることはない。
わたしの新しい獲物、このファウストの魂は、わたしのものとなる。
足もとに目を落とし
耳を澄ましてみよ。
聞こえてこないか。
泉の湧く音が。
流れのもとの
深い水のとどろきが。
そら、そこの
その岩の古い肋骨(あばらぼね)を
おまえの持つその杖で打ってみよ。
シュバッ、シュバッ、シュバッ、シュバッ、シュバッ
と岩の割れ目から湧き水が迸(ほとばし)り
たちまち、かわいた岩地が
泉となる。

何者だ、この異形のものは。いま、耳もとでささやいていたのは、こいつなのか。
人間とは思えぬ、その姿。まるで絵に描かれた悪魔のようだ。だが、窓ガラスに、こいつの姿はない。
おかしなことだが、なんだか、自分の顔つきまで、自分のものではないような気がしてきた。
かなり疲れが溜まっているようだ。マルガレーテが生きていたころには、こんなことはなかった。
ああ、グレートヘン。ぼくの可愛いひと。あの唇の赤さ、あの保保の輝きよ。
きみといた十年のあいだ、たしかに、ぼくは、もっとも浄(きよ)らかな幸福を味わうことができた。
ときおり拗ねて、ツンとすまして見せたけれど、それが、またさらに、きみのことを愛しく思わせた。
きみの無邪気な、そんな仕草に、ぼくは、どんなに、こころ惹かれたことか――
きみは、ちっとも知らなかっただろう?

電車が停まって、ファウストのそばの座席が二人ぶん空くと
乗り込んできたばかりのデイヴィッドとキャスリンが、その空いたところに、すかさず腰を下ろした。
褐色に日焼けした二人は、真珠をつないだ短めのネックレスを首に嵌め、レモンイエローの
サマーセーターに、白のジーンズという揃いの出で立ちで、髪をスカンジナヴィア人なみの白っぽい
ブロンドに染め、全体を短く刈り込んで、見かけを、そっくり同じにしていた。
もともと、兄妹のように、よく似た二人であったが、このように
同じ身なりと同じ短い髪型でいると、ひとの目には、まるで双生児(ふたご)の男兄弟のように映った。
ねっ、キスして。女が男の目を見つめながら、そう言うと、男が女の肩に腕をまわして、抱き寄せた。
唇が離れると、女が、男の耳もとで、ねっ、あたしにもキスさせて、と、ささやいた。
すると、男が、わざと驚いたふりをして、ひとが見てるぜ、と言って微笑んだ。
さすがに、ファウストも、このとびきり派手な二人の振る舞いには、目をやらざるを得なかった。
ひとに見られてるの、嫌? 女が坐り直し、男の腰にまわした腕を背中の方に動かした。
いいとも、悪魔め。おれが嫌なわけないだろ? いかにもうれしそうに、男が、そう答えると
メフィストーフェレスが、口の端をゆがめて、ニヤリと笑った。

何を人間が渇望しているのか、それを一番よく知っているのは、悪魔であるこのわたしだ。
この世界の小さな神さまの魂は、わたしのものである。
わたしに不可能なことがあるだろうか。
この脚の長いキリギリスの魂は、かならず、わたしが手に入れてみせる。
さあ、ファウスト先生よ、わたしの言葉をお聞きなさいよ。
そういつまでも、文献ばかりにしがみついていないで、現実をしっかりごらんなさいな。
最近の先生の作品は、生気がなくて、ちっとも、よくありませんよ。
ほんとうの詩なんてものは、先生ご自身の胸のなかから湧き出てこなければ、得られないものでしょう?
ところで、先生、ごらんのこの二人のうち、女の方の名前を、あなたにお教えしましょうか?
それは、先生が、もっとも愛しておられた女性と同じ名前の、グレートヘン、すなわち、マルガレーテ。

なに? グレートヘン? マルガレーテだって? それがこの娘の名前なのか?
そう言われてみれば、ぼくの愛しい妻、マルガレーテに似ているような気がしてきた。
この胸の奥深くに仕舞い込まれた、ぼくの花、ぼくの愛しいマルガレーテの面影に。
色褪せることのない、その面影。すべての花のなかで、もっとも清純で、可愛らしい花よ。
おいおい、悪魔め、その臭い息を、ぼくの耳もとに吹きかけるな。
マルガレーテがいなくなってからというもの、ずっと、ぼくのこころは、枯れた泉のようだった。
ただ、マルガレーテと過ごした日々が、そのすばらしい思い出だけが、ぼくを生かしてきた。
たとえ、どれほど美しい女性を見かけても、こころ惹かれることなどなかった。けっして、なかった。
つねに、ぼくの愛しい妻、マルガレーテの面影が、ぼくのこころを捉えて離さなかったのだから。
しかし、いま、ぼくの目のまえにいる、妻に似た、この娘の、なんと魅力的なことだろう。
よもや、女性というものに、これほど激しく胸が揺さぶられることなど
二度とはあるまい、と思っていたのに。

それにしても、この胸の昂(たかぶ)りは、いったい、どこからやってきたのだろう。
いやいや、どこからでもない。もとより、この胸の昂(たかぶ)りは、ぼく自身のなかにあったものだ。
ぼく自身の胸のなかに、この胸のなかに、もう一つ別の魂が、邪(よこしま)な魂が潜んでいたのだ。
いま、ぼくの傍らにいる、この悪魔の姿も、溢れ出る愛欲にまみれ
からみつく官能をもって現世に執着する、その邪(よこしま)な魂が、ぼくの目に見せた幻に違いない。
ダ!
ジー・ダ! そら、見るがいい。
ねっ、あたしの女になって。うわずった声で、女が男にささやいた。
キャスリンは、おまえだ。そう言い返す男の口もとを、女の手のひらがふさいだ。
いいえ、あたしがデイヴィッドで、あなたが、あたしのすてきなキャスリンよ。
激しく抱擁し合う二人の姿が、その二人の首もとで輝く真珠の光が、ファウストの目を捉えた。
情欲の泉が、ファウストの胸のなかから、その胸のもっとも深いところから湧き上がってきた。
すると、ここぞとばかりに、ひと吹き。メフィストーフェレスが、ファウストの耳もとに息を吹きかけた。
ファウスト先生よ、いま、これより、わたしが、あなたの僕(しもべ)となって、あなたに仕え
これまで、あなたが味わったことのない最高の瞬間を、あなたに味わわせてあげましょう。
ただし、その瞬間を味わった暁(あかつき)には、以後、あなたが、わたしの僕(しもべ)になるという条件と引き換えに。
さあ、ここに神があります。血をひと垂(た)らしつけて、署名していただきましょう。
ダ!
ウンター・ホイチゲム・ダートゥム・! さあ、きょうの日付で。
ああ、この紙も、このペンも、そして、この悪魔の姿も、声も、みな幻なのだろう。
いま、ぼくの目のまえにいる、この二人のやりとりも、また、一つの芝居、一つの幻に違いない。
ならば、なぜ、なにゆえ、この胸の奥深く、情欲の湧き水が、岩の狭間(はざま)に噴き上がるのか。
まことに、愛着(あいぢやく)の道は、その根の深きもの。これを求むること、やむ時なし。
まるで、岩から岩へと激する滝が、欲望に荒れ狂いながら深淵に落ち込むようなものだ。
親指を噛んで、そら、悪魔よ、このひと垂(た)らしの血でいいのか。
グレートヘンが、いや、あの娘が、ハンカチを落とした。
おお、悪魔よ。あのハンカチを、取ってきておくれ。
ダ!
ダ・ニムス! ほら受け取るがいい。
おお、この芳(かぐわ)しい香りよ。
なんたる歓びの戦慄(おのの)きが、ぼくを襲うことだろう。
この胸も張り裂けてしまいそう。
ああ、苦しい、苦しい。心臓が掻きむしられるようだ。
だが、これが、最高の瞬間だ!

                                ファウストの身体が後ろに倒れた。
針が落ちた。事が終わった。
乗客たちの姿が光に包まれ、その光が天使の群れとなって、聖なる歌を唱いはじめた。
おお、なんと胸くその悪い響きだ、この調子はずれの音は。
おや、ファウストの身体が宙に浮くぞ。
だんだん上がっていく。
また、横取りするつもりなのか。
――この死体は、わたしのものだ。
ここに、こいつが自分の血で署名した書付(かきつけ)があるのだ。
おお、天井にぶつかって、ファウストの死体が床のうえに落ちたぞ。
あはははは、そうだ、ここは地下鉄だ。地下鉄の電車のなかだぞ、天使どもめ。
だが、これほどたやすく手に入る魂に、値打ちなどちっともない。おまえたちにくれてやる。
ジー・ダ。ウンター・ホイチゲム・ダートゥム。ダ・ニムス。見るがいい。きょうの日付でくれてやる。
ディー・クライネン、ディー・クライネン。ちび、ちび。












Notes on the Wasteless Land.




 この詩は、題名のみならず、その形式や文体も、また、この詩に引用された詩句のうち、そのいくつかのものも、西脇順三郎によって訳された、T・S・エリオットの『荒地』に依拠して制作されたものである。西脇訳の『荒地』を参照すると、まったく同じ行数でこの詩の本文がつくられていることがわかる。また、この詩の主題は、全面的にゲーテの『ファウスト』に負っている。ほかにも、さまざまな文章や詩句から引用したが、本作の文脈や音調的な効果、あるいは、視覚的な効果のために、それらの言葉をそのまま用いるだけではなく、漢字や仮名遣いなどを改めたところもある。それらの仔細については、以下の注解に逐一述べておいた。ただし、西脇訳の『荒地』からのものは、とくに指摘しておかなかった。じっさいにそのページを開けば、どこから、どう引用しているのか、一目瞭然だからである。それにまた、エリオットの『荒地』のもっともすばらしい翻訳を傍らに置いて、この作品を味わっていただきたいという気持ちからでもある。
 エピグラフは、メルヴィルの『白鯨』78(幾野 宏訳、二重鉤及び読点加筆)より。各章のタイトルは英訳聖書からとった。各章の注解の冒頭に、日本聖書協会による訳文を掲げておいた。




I.  Those who seek me diligently find me.


第I章のタイトルは、PROVERBS 8.17 "those who seek me diligently find me."(箴言八・一七、「わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。」)より。なお、日本聖書協会が訳した聖書からの引用では、訳文に付されたルビを適宜省略した。

第一連・第七行 吉増剛造『<今月の作品>選評17』ユリイカ一九八九年七月号、「今月は選者も、少し心を自在にして(戒厳軍のようにではなくさ、……)」より。

第一連・第九行 三省堂のカレッジクラウン英和辞典、「It rains buckets.(米)どしゃ降りだ。」より。(米)は、アメリカ英語の略。日本語の文を引用する際に、ピリオドを句点に改めた。以下、同様に、横組みの参考文献を用いるときには、日本語の文や語句にあるコンマやピリオドを、それぞれ読点と句点に改めて引用した。

第一連・第一七行 サルトルの『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳、「彼は小さかったときに、母親がときどき、特別な調子で、「お父さま、書斎でお仕事よ」と言ったのを思い出した。」より。

第一連・第一八行 スミュルナを、教養文庫のギリシア神話小事典で引くと、「別名ミュラといい、フェニキアの王女。父のキニュラスに欲情をいだき、酒を飲ませて酔わせ、彼女が自分の娘であることを父に忘れさせた。スミュルナが身ごもると父は父子相姦の恐ろしさに狂い、スミュルナを森の中まで追いかけ、斧で殺した。」とある。呉 茂一の『ギリシア神話』第二章・第六節・ニには、「ズミュルナは、はじめアプロディーテーへの祭りを怠ったため女神の逆鱗(げきりん)にふれ、父に対して道ならぬ劇しい恋を抱くようにされた、そして乳母を仲介として、父を誑(あざむ)き、他所(よそ)の女と思わせて十二夜を共に臥(ふ)したが、ついに露見して激怒した父のために刃を以て追われ、まさに捕えられようとした折、神々に祈って転身し、没薬(ズミユルナ)の木に変じた」とある。

第一連・第二〇行 本文で言及しているお話とは、創世記・第十九章のロトと二人の娘の物語である。妻を失ったロトは、二人の娘とともに人里離れた山の洞穴の中に住んでいたのであるが、娘たちが、前掲のスミュルナと同様に、父に酒を飲ませて酔わせ、ともに寝て、子をはらみ、出産した、という話である。近親相姦といえば、オイディプスの名前が真っ先に思い出されるが、彼が自分の母親と交わってできた娘の数も二人である。また、箴言三〇・一五にも、「蛭にふたりの娘があって、/「与えよ、与えよ」という。」とある。ソポクレスの『コロノスのオイディプス』にも、「二人の娘、二つの呪いは……」(高津春繁訳)とあるが、イメージ・シンボル事典を見ると、2は「不吉な数である。」という。「ローマにおいては2という数は冥界の神プルトンに献ぜられた。そして2月と、各月の第2日がプルトンに献ぜられた。」とある。

第一連・第二一行 ヴァレリーの『我がファウスト』第三幕・第三場に、「何か本がないかしら……。考えないための本が……。」、「何か本が欲しい、自分の声を聞かないための本が……。」(佐藤正彰訳)とある。ふつうは、読むうちに自分のことを忘れてしまうものである。自分のことを忘れるために、と意識して読書するというのは、ふつうではない状況にあるということである。仕事や雑事に多忙な人間ではない。そうとう暇のある人間でなければ、それほど自己に構うことなどできないからである。この連に出てくる女性が、そういった状況にある人間であることは言うまでもない。なんといっても、毎晩のように、返事の来るはずもない手紙を、長い長い手紙を、本のなかの登場人物たちに宛てて、何通も書くことができるくらいなのだから。ちなみに、彼女がこの日の夜に読んでいたのは、シェイクスピアの史劇の一つであった。彼女は、つぎに引用するセリフに、長いあいだ、目をとめていた。「思いすごしの空想は必ず/なにか悲しみがあって生まれるもの、私のはそうではない。/私の胸にある悲しみを生んだものは空なるものにすぎない、/あるいはあるものが私の悲しむ空なるものを生んだのです。/その悲しみはやがて本物となって私のものとなるだろう。/それがなにか、なんと呼べばいいか、私にもわからない、/わかっているのは、名前のない悲しみというにすぎない。」(『リチャード二世』第二幕・第二場、小田島雄志訳)、この言葉が、彼女を魅了するように、筆者をも魅了するのだが、はたして、読書人のなかで、こういった言葉に魅了されないような者が一人でも存在するであろうか。そうして、この日の夜も、彼女は、自分の声を聞きながら、リチャード二世の妃に宛てて、長い長い手紙を書いて、一夜を明かしてしまったのであった。

第二連・第一行 fogは、「(精神の)困惑状態、当惑、混迷」を表わす。in a fog で、「困惑して、困り果てて、途方にくれて」の意となる。以上、三省堂のカレッジクラウン英和事典より。また、「霧があるので一そう暗闇(くらやみ)が濃(こ)くなっているんです。」(ゲーテ『ファウスト』第一部・ワルプルギスの夜・第三九四〇行、相良守峯訳)という文も参照した。なお、ゲーテの『ファウスト』からの引用はすべて相良守峯訳であるので、以下、『ファウスト』の翻訳者の名前は省略した。

第二連・第三行 ダンテの『神曲』地獄・第一曲・第一行、「われ正路を失ひ、覊旅半にあたりてとある暗き林のなかにありき」(山川丙三郎訳)、同じく、ダンテの『神曲物語』地獄篇・序曲・第一歌、「ここはくらやみ(、、、、)の森である。」、「三十五歳を過ぎた中年の詩人ダンテはその頃、人生問題に悩み深い懐疑に陥っていたが、ある日散歩をしているうちに、偶然このくらやみの森の中に迷いこんでしまった。」(野上素一訳)より。

第二連・第四行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第二幕・第七八一三行、「この険阻(けんそ)な岩道」より。

第二連・第七行 カロッサの『古い泉』藤原 定訳、「古い泉のさざめきばかりが」より。

第二連・第九行 出エジプト記・第一七章に、エジプトから逃れて荒野を旅するイスラエル人たちが、飲み水がなくて渇きで死にそうになったとき、神に命じられたモーセが、ナイル川を打った杖でホレブの岩を打つと、そこから水が出た、と記されている。

第二連・第一〇行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第一幕・第四七一六行、「岩の裂目(さけめ)から物凄じくほとばしる」、第二部・第四幕・第一〇七二〇―一〇七二一行、「乾(かわ)いた、禿(は)げた岩場(いわば)に、/豊富な、威勢のいい泉が迸(ほとばし)り出る。」より。

第二連・第一四行 ゲーテの『ファウスト』第一部・ワルプルギスの夜・第三九九五行、「岩の割目(われめ)から呼んでいるのは誰だ。」、講談社学術文庫の『古事記』(次田真幸全訳注)中巻・一八八ページにある、杖は「神霊の依り代(しろ)である。これを突き立てるのは、そこを領有したことを表わす。」という文章より。

第二連・第一五行―一八行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第一幕・第五八九八−五九〇一行。

第二連・第二八行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第一幕・第五九〇七行。

第二連・第三二行 三省堂のカレッジクラウン英和辞典に、「bibliomancy 聖書うらない(聖書を任意に開き、そのページのことばでうらなう)」とある。

第二連・第三四行 詩篇八一・一六、句読点加筆。

第二連・第三六―四二行 「わたしはアンフィダのそばに、美しい女たちが降りてくる井戸があったことを思い出す。ほど遠からぬところには、灰色とばら色の大きな岩があった。そのてっぺんには、蜜蜂が巣くっているといううわさを聞いた。そのとおりだ。そこには無数の蜜蜂がうなっている。彼らの蜜房は岩の中にある。夏になると、その蜜房は暑さのために破裂して、蜜を放り出し、その蜂蜜が岩にそって、流れ落ちる。アンフィダの男たちがやって来て、この蜜を拾いあつめる。」(ジイド『地の糧』第七の書、岡部正孝訳)より。なお、ジイドの『地の糧』からの引用はすべて岡部正孝訳であるので、以下、『地の糧』の翻訳者の名前は省略した。

第二連・第四三―四四行 土師記一四・八、「ししのからだに、はちの群れと、蜜があった。」、ゲーテ『ファウスト』第二部・第三幕・第九五四九行、「洞(ほら)になった木の幹(みき)からは蜂蜜(はちみつ)が滴(したた)る。」より。

第二連・第四七―四九行 筆者の一九九八年七月九日の日記の記述、「三省堂のカレッジクラウン英和辞典を開くと、burail 埋葬、burier 埋葬者、burin 彫刻刀、とあって、そのつぎに、固有名詞の Burke が二つつづき、burke 葬る、押える、とあり、さらに、末尾には、[William Burke (人を窒息死させてその死体を売ったため一八二九年、絞首刑に処せられたアイルランド人。)]と載っていた。」、一九九八年八月二十二日の日記の記述、「岩波文庫の『ことばのロマンス』(ウィークリー著、寺澤芳雄・出淵 博訳)の索引で、Burke を引くと、p.90 に、固有名詞からつくられた動詞の例として、burkeが挙げられていた。本文―→アイルランドのバーク(William Burke)は、死体を医学部の解剖用に売り渡すために多くの人々を窒息死させた廉(かど)で、1829年エディンバラで絞首刑に処せられた。この動詞は、現在では「(議案などを)握りつぶす、もみ消す」の意に限られているが、十九世紀中葉の『インゴルズビー伝説』では、まだ本来の意味「(死体をいためないように)扼殺する」で用いられている。」より。なお、七月九日の日記の余白に、朱色の蛍光サインペンで、「corpus=作品、死体」と書き加えてあったが、いつ書き加えたのか、正確な日付は不明である。しかし、William Burke からWilliam Blake を連想したときのことであろうから、本文の作成に入ったごく初期のころ、だいたい同年七月中旬から八月上旬までの間のことであろうと思われる。死体づくりに励んだ William と、作品づくりに励んだ William。二人が、名前だけではなく、corpus という単語でも結びつくことに、気がついた、ということである。

第三連・第一行 ROMA,CITTA,APERTA(邦題『無防備都市』)は、ロベルト・ロッセリーニ監督による、一九四五年制作のイタリア映画。

第三連・第二―四行 教養文庫の『ギリシア神話小事典』に、アルテミスは「月の女神」とある。また、マラルメが一八六四年十月にアンリ・カザリスに宛てて書いた手紙にある、「月光のもと、噴水の水のように、あえかなせせらぎと共に真珠(たま)となって落下する蒼い宝石だ。」(松室三郎訳)という文も参照した。イメージ・シンボル事典によると、真珠は、「愛および月の女神達の表象物」であるという。ちなみに、本作の第∨章の注解に出てくるヘラクレイトスは、「『自然について』と題する一連の論考から成っている」「書物を、アルテミスを祠(まつ)る神殿に献納した」(岩波書店『ソクラテス以前哲学者断片集』第I分冊第II部・第22章、三浦 要訳)という。

第三連・第五―九行 「「雨でも平気なの?」/「別に、地下鉄まで遠くはありませんし……」/「スーツが濡れるわよ」/「通りにばかりいるわけではありませんわ、私たち、映画にも行くし……」/「誰なの、『私たち』って」」(モーリヤック『夜の終り』I,牛場暁夫訳)より。

第三連・第二一行 ある詩人の作品とは、ボードレールの『美女ドローテ』(三好達治訳)のこと。

第三連・第二四行 呉 茂一の『ギリシア神話』第一章・第五節・一、「いつかもう九つの月がたったある日、アルテミスは森あいの池で、暑さをしずめに自らも沐浴(ゆあみ)し、伴(とも)のニンフたちにも衣を脱いで沐浴させた。そして羞(は)じらいに頬を染める少女も、強いて仲間入りをさせられたのであった。その姿を見ると、(きっと連れのニンフたちが、おそらくは嫉(ねた)みと意地悪と好奇心から、叫び声を立てたであろう)、アルテミスは、美しい眉を険しくひそめて、決然とした語調で叫んだ。「向うへ、遠くへいっておしまい。この聖(きよ)らかな泉を、汚すのは私が許しません。」」より。





II. You do not know what you are asking.


第II章のタイトルは、MATTHEW 20.22 "You do not know what you are asking."(マタイによる福音書二〇・二二、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。」)より。

第一連・第二一―三五行 ハンカチに関する記述は、つぎの文献による。冨山房『英米故事伝説辞典』 handkerchief の項、学習研究社『カラー・アンカー英語大事典』 handkerchief の項、小学館『万有百科大事典』ハンカチーフの項、平凡社『大百科事典』ハンカチーフの項。

第一連・第三七―三八行 本文で言及している、スタンダールの文章とは、「さあ書けたよ。地下道が敵に占領されないか心配だわ。早く机の上にある手紙をもって、ジュリオさまに渡してきておくれ。お前自身がだよ(、、、、、、)、わかって。それから、このハンカチをあのひとに渡して、いっておくれ。わたしはあのひとを、いつのときも愛していました、そして少しも変らず今の瞬間も愛していますって。いつのときも(、、、、、、)だよ、忘れるのじゃないよ!」(『カストロの尼』七、桑原武夫訳)のこと。

第三連・第三―四行 ゲーテの『ファウスト』第一部・市門の前・第一一五六行、「私には黒い尨犬しか何も見えませんが。」より。

第四連・第三行 「おれがあんなに大事に思って、お前にやったハンカチを/おまえはキャシオウにやった。」(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅 泰男訳)より。なお、第II章・第四連の注解では、シェイクスピアの『オセロウ』からの引用はすべて菅 泰男訳であるので、以下、第II章・第四連の注解では、『オセロウ』の翻訳者の名前は省略した。

第四連・第五―七行 シェイクスピアの『オセロウ』第三幕・第三場に、「苺(いちご)の刺繍(ししゆう)をしたハンカチを奥様がおもちになってるのを/ごらんになったことはありませんか?」、第三幕・第四場に、「あのハンカチは/あるエジプトの女から母がもらったのだが、/それは魔法使いで、人の心をたいていは読みとることが出来た。/その女が母に言ったということだ──これをもっている間は、/かわいがられて、父の愛をひとり/ほしいままに出来るが、万一これを失うか、/それとも人に贈るかしたら、父にいとわれ/嫌われて、父の心はよそに移り/新しい慰みを追うようになろうぞ、とな。母はいまわの際(きわ)に、それをおれにくれて、/おれが妻をめとることになったら、それを妻にやれと/言った。おれはその言いつけ通りにしたのだ。」、第五幕・第二場に、「ハンカチです。わたしの父が、その昔、母にやった/古いかたみの品なのです。」とある。一つのハンカチをめぐる二つのセリフのあいだに、ちょっとした矛盾が見られるが、劇の進行上、問題はない。ご愛嬌といったところだろうか。ところで、岩波文庫の『オセロウ』の解説のなかで、菅 泰男は、十七世紀末に、トマス・ライマーが、シェイクスピアの『オセロウ』のことを、「血みどろ笑劇」とか「ハンカチの喜劇」とか言って批判したことを紹介しているが、菅 泰男はまた、英宝社の『綜合研究シェイクスピア』のなかでも、「シェイクスピア批評史・1・十七世紀」のところで、ライマーの批判について、つぎのように言及している。「新古典主義の影響の著しい王政復古期には、イギリスでもシェイクスピアを完全にやっつけたものがあった。トマス・ライマー(Thomas Rymer, 1641-1713)という好古家は1678年と1693年に二つの悲劇論を書いて、イギリス人もギリシャの古典作家の基礎に立つべきであったと論じ、イギリス劇を手ひどく非難した。殊に後の著で『オセロ』をやっつけたのは有名である。この劇は「ハンカチーフの悲劇」だと彼はきめつける。「この芝居には、観客を喜ばせる、いくらかの道化と、いくらかのユーモアと、喜劇的機知のヨタヨタ歩きと、いくらかの見せ場と、いくらかの物真似とがある。が、悲劇的な部分はあきらかに味も素気もない残忍な笑劇にすぎない」と言う。」と。T・S・エリオットも、『ハムレット』という論文の原注に、ライマーの批判について、つぎのように書きつけている。「私はトマス・ライマーの『オセロ』非難にたいする確固たる反駁をまだ見たことがない。」(工藤好美訳)と。アガサ・クリスティーもまた、自分の作品のなかで、主人公のポアロに、シェイクスピアの『オセロウ』について、つぎのように批判させている。「イアーゴは完全殺人者だ。デズデモーナの死も、キャシオーの死も──じつにオセロ自身の死さえも──みなイアーゴによって計画され、実行された犯罪だ。しかも、彼はあくまで局外者であり、疑惑を受けるおそれもない──はずだった。ところがきみの国の偉大なシェイクスピアは、おのれの才能ゆえのジレンマと闘わなければならなかった。イアーゴの仮面を剥ぐために、彼はせっぱつまったすえなんとも稚拙な工夫──例のハンカチ──に頼ったのである。これはイアーゴの全体的な狡智とは相容れない小細工であり、まさかイアーゴほどの切れ者がこんなヘマをしでかすはずがないと、だれしも思うに違いない。」(『カーテン』後記、中村能三訳)と。

第四連・第八―六八行に出てくる人物についての注解 マルト、ジャックは、ラディゲの『肉体の悪魔』(新庄嘉章訳)から。名前の出てこないマルトの新しい恋人も、『肉体の悪魔』の主人公を参考にした。この主人公は、「『悪の華』を愛誦(あいしよう)して」おり、「マルトに『言葉(ル・モ)』紙のコレクションと『地獄の季節』を次の木曜日にもって行こうと約束した」。彼は、マルトが「ボードレールとヴェルレーヌを知っていることをうれしく思い、僕の愛し方とは違うけれども、彼女のボードレールを愛するその愛し方に魅惑された」のだという。シュトルムの『みずうみ』(高橋義孝訳)からは、ラインハルトの名前を拝借した。エリーザベトは、このラインハルトの幼なじみのエリーザベトと、コクトーの『怖るべき子供たち』(東郷青児訳)の主人公の姉、エリザベートから拝借した。アガート、ジェラール、ダンルジェロの三人の名前も、『怖るべき子供たち』から。

第四連・第二三行 「女主人はエリザベートの美しさに驚いた。残念なことに売り子の資格はいろいろの外国語を知っていなければならない。彼女はマネキンの職しか得られなかった。」(コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)より。

第四連・第四七―四八行 シュトルムの『みずうみ』の「森にて」の場面から。苺の下に敷くのに拡げられたハンカチから、シェイクスピアの『オセロウ』に出てくる、イチゴの刺繍が施されたハンカチを連想されたい。ちなみに、イメージ・シンボル事典によると、イチゴは、愛の女神や聖母マリアのエンブレムであるという。





III. You shall love your neighbor as yourself.


第III章のタイトルは、LEVITICUS 19.18 "you shall love your neighbor as yourself:"(レビ記一九・一八、「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」)より。

第一連・第一―二行 伝道の書一・六、「風は南に吹き、また転じて、北に向かい、/めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。」より。イメージ・シンボル事典によると、北は、冬、死、夜、神秘を、南は、夏、生命、太陽、理性を表わすという。この南北間を往復する地下鉄電車は、本作の第V章・第六連・第一―五行の注解で詳述する、人間の魂の「二極性」を象徴させている。

第一連・第三行 「駿馬(しゆんめ)痴漢(ちかん)を駄(の)せて走(はし)る」(大修館書店『故事成語名言大辞典』)より。

第一連・第四行 「感覚器官は感覚器官の対象に向かってはたらく。」(『バガヴァッド・ギーター』第五章、宇野 惇訳)より。

第一連・第七―八行 「眼は、まことに、把捉者である。それは超把捉者としての形によって捉えられる。なぜならば、人は眼によって形を見るからである。」(『ブリハッド・アーラヌヤカ・イパニシャッド』第三章・第二節、服部正明訳)より。

第一連・第九―一〇行 「鼻は、まことに、把捉者である。それは超把捉者としての香りによって捉えられる。なぜならば、人は鼻によって香りを嗅ぐからである。」(『ブリハッド・アーラヌヤカ・イパニシャッド』第三章・第二節、服部正明訳)より。

第一連・第一四行 箴言九・一三、「愚かな女は、騒がしく、みだらで、恥を知らない。」より。

第一連・第一五行 箴言一〇・一九、「自分のくちびるを制する者は知恵がある。」より。

第一連・第二五―二七行 「悪魔が陰鬱なのは、おのれがどこへ向かって行くかを知っているからだ。」(ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』下巻・第七日・深夜課、河島英昭訳)より。

第一連・第二九行 「彼のすがたは目に見えず、だれも彼を目で見ることはできない。彼は心によって、思惟(しい)によって、思考力によって表象される。このことを知る人々は不死となる。」(『カタ・ウパニシャッド』第六章、服部正明訳)より。

第一連・第三一―三三行 「僕はしばらくして一人の妊婦に出会った。彼女は重たい足どりで高い日向(ひなた)の塀に沿うて歩いていた。時々、手を延ばして塀をなでながら歩いた。塀がまだ続いているのを確かめでもするような手つきに見えた。そして、塀はどこまでも長く続いているのだ。」(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)より。

第二連・第三行 須賀敦子の『舗石を敷いた道』(ユリイカ一九九六年八月号に収載)、「雨もよいの空の下、四角い小さな舗石を波の模様にびっしりと敷きつめた道が目のまえにつづいていた。」より。

第三連・第六―一〇行 「ちっちゃな丸顔がとび出して、彼に話しかけた。/「あたしザジよ、ガブリエル伯父さんでしょ」/「さよう」ガブリエルは気取った口調で答える。「そなたの伯父さんじゃよ」小娘はくすくす笑う。」、「「地下鉄に乗るの?」/いいや」/「どうして? なぜ乗らないの?」」(レーモン・クノー『地下鉄のザジ』1、生田耕作訳)より。

第三連・第五―七行 ゲーテの『ファウスト』第一部・魔女の厨・第二四九九行、「馬の足というやつも、無くちゃおれも困るんだが、」、第一部・魔女の厨・第二五〇二行、「贋(にせ)のふくらはぎをつけて出(で)歩(ある)いているのさ。」、第一部・ワルプスギスの夜・第四〇三〇行、「つむじ曲がりの霊だな、君は。」より。イメージ・シンボル事典によると、ゲーテの『ファウスト』に出てくる悪魔のメフィストーフェレスは両性具有者であるという。エリオットの『荒地』に出てくる予言者のティーレシアスも二(ふた)成(な)りである。本作では、ティーレシアスが、エリオットの『荒地』において果たした役割を、メフィストーフェレスに担わせている。

第三連・第九―一四行 オー・ヘンリーの『賢者の贈りもの』(大津栄一郎訳)より。

第三連・第一五―一九行 オー・ヘンリーの『古パン』(大津栄一郎訳)より。

第三連・第三〇―三九行 「もう五年がすぎたのだ!」、「身にしみて感じるひまもなかったほど、それほど速く過ぎさってしまったあの幸せな十年の歳月!」、「若い妻は、やっと三重を迎えるというのに死んでしまった。」(ローデンバック『死都ブリュージュ』I、窪田般彌訳)より。

第三連・第四五―四八行 「セヴリヌは、その男のうしろすがたをちらつと見ただけだが、それには見おぼえがあつたのだ。がつちりとした体格といい、着くずれた背広といい、それに、あの、品のない肩つきといい、首つきといい……」(ケッセル『昼顔』四、桜井成夫訳)より。なお、ケッセルの『昼顔』からの引用はすべて桜井成夫訳であるので、以下、『昼顔』の翻訳者の名前は省略した。

第三連・第四九行 マダム・アナイスは、セヴリヌが春をひさぐ淫売宿の女主人。

第三連・第五〇行 「「恥ずかしいんだね、ええ、恥ずかしいんだね。でも、今に嬉しがらせてやるからな、見ていて御覧」とアドルフさんが、ささやいた。」(ケッセル『昼顔』五)より。このアドルフという人物は、セヴリヌが、マダム・アナイスの淫売宿で最初に寝た客。

第四連・第一行 箴言五・一八、「あなたの泉に祝福を受けさせ、/あなたの若い時の妻を楽しめ。」より。

第四連・第二―三行 「何方(いづかた)より來たりて、何方(いづかた)へか去る。」(鴨 長明『方丈記』一)より。

第四連・第四行 伝道の書三・一、「すべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」より。

第四連・第五行 伝道の書三・八、「愛するには時があり、憎むに時があり、」より。

第四連・第六行 「この生涯において、ただ一度めぐり合った地上の恋人、その名前すら、私は知らなかったし、その後も知ることがなかった。」(ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』下巻・第五日・終課、河島英昭訳)より。

第四連・第七行 「似通ってはいたが、同じといえるものは何一つなかった。」(サバト『英雄たちと墓』第II部・19、安藤哲行訳)より。なお、サバトの『英雄たちと墓』からの引用はすべて安藤哲行訳であるので、以下、『英雄たちと墓』の翻訳者の名前は省略した。

第五連・第一―三行 マタイによる福音書二六・三四、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」より。なお、第五連は、一か所をのぞき、すべて、聖書からの引用で構成した。ちなみに、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』に、つぎのようなセリフがある。「悪魔でも聖書を引くことができる。」(第一幕・第三場、中野好夫訳)。

第五連・第四行 マタイによる福音書二八・一〇、「恐れることはない。」、ヨハネによる福音書一〇・一一、「わたしはよい羊飼である。」より。

第五連・第五行 マタイによる福音書三・一七、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」より。

第五連・第六―一〇行 マタイによる福音書六・三―四、「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」、箴言九・一七、「「盗んだ水は甘く、/ひそかに食べるパンはうまい」」より。しかし、聖書のなかには、「なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。」(マルコによる福音書四・二二)といった言葉もある。

第五連・第一一行 詩篇三五・二一、「彼らはわたしにむかって口をあけひろげ、/「あはぁ、あはぁ、われらの目はそれを見た」と言います。」より。

第五連・第一三行 マタイによる福音書三・一〇、「斧がすでに木の根もとに置かれている。」より。

第五連・第一四―一六行 マタイによる福音書五・四〇、「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には上着をも与えなさい。」より。

第五連・第一七行 マタイによる福音書一五・二八、「女よ、あなたの信仰は見上げたものである。」より。

第五連・第一八行 マルコによる福音書一五・三九、「まことに、この人は神の子であった」より。

第五連・第一九―二一行 マタイによる福音書五・四一、「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。」より。

第五連・第二二行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第三四五行、「この生き生きした豊かな美を楽しむがよい。」より。

第六連・第二―六行 出雲神話の一つ、因幡(いなば)の白兎の話(『古事記』上巻)より。

第六連・第九行 ヘラクレイトスの『断片八二』、「もっとも美しい猿も、人類に比べたら醜い」(ジャン・ブラン『ソクラテス以前の哲学』鈴木幹也訳)より。

第六連・第一〇―一一行 シェイクスピアの『空騒ぎ』第二幕・第一場の、「嫁に行きそこなった女は、子供のためにあの世の道案内が出来ないから、その代り猿の道案内をさせられると言いましょう、だから、私、今のうちに見せ物師から手附けを貰っておいて、死んだらその猿を地獄まで連れて行ってやる積りよ。」(福田恆存訳)というセリフを引いて、「「老嬢は地獄でサルを引く」という諺は、知れ渡っていたようである。」と、イメージ・シンボル事典に書かれている。ただし、この注解で引用したシェイクスピアの件(くだん)のセリフは、イメージ・シンボル事典に掲載されているものではない。また、事典にあるものよりもより広範囲に引用した。ボードレールが、「動物の中で猿だけが、人間以上であると同時に人間以下であるあの巨大な猿だけが、ときに女性に対して人間のような欲望を示すことがある。」(『一八五九年のサロン』9、高階秀爾訳)と述べているのが、たいへん興味深い。なお、ボードレールの『一八五九年のサロン』からの引用はすべて高階秀爾訳であるので、以下、『一八五九年のサロン』の翻訳者の名前は省略した。猿に関しては、何人もの詩人や作家や哲学者たちが面白いことを述べている。以下に、引用しておこう。「コロンビアの大猿は、人間を見ると、すぐさま糞をして、それを手いっぱいに握って人間に投げつけた。これは次のことを証明する。/一、猿がほんとうに人間に似ていること。/二、猿が人間を正しく判断していること。」(ヴァレリー『邪念その他』J、佐々木 明訳)、「simia, quam similis, turpissima bestia, nobis!/最も厭はしき獸なる猿は我々にいかによく似たるぞ。」(Cicero, De Natura Deorum.I,3,5. 『ギリシア・ラテン引用語辭典』収載)、「かつてあなたがたは猿であった。しかも、いまも人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上に猿である。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部・ツァラトゥストラの序説・3、手塚富雄訳)、「猿(さる)の檻(おり)はどこの国でもいちばん人気がある。」(寺田寅彦『あひると猿』)、「純粋に人間的なもの以外に滑稽(コミツク)はない」(『天国の夏』)のである。なお、『ツァラトゥストラ』からの引用はすべて手塚富雄訳であるので、以下、『ツァラトゥストラ』の翻訳者の名前は省略した。

第六連・第一二行 イギリスの博物学者ジョン・レーの「ロバにはロバが美しく、ブタにはブタが美しい。」(金子一雄訳)という言葉より。講談社『[英文対訳]名言は力なり』シリーズの一冊、『悪魔のセリフ』に収められている。

第六連・第一三―一四行 「愛(性愛)あるいは恋を意味するエロースという語は、そのまま神格としてギリシア人の間に認められて来た。ローマでは「欲望」 Cupido クピードーの名をこれにあてている、すなわちキューピッドである。」(呉 茂一『ギリシア神話』第一章・第七節・一)より。

第六連・第一五―一六行 「さらに不死の神々のうちでも並びなく美しいエロースが生じたもうた。/この神は四肢の力を萎(な)えさせ 神々と人間ども よろずの者の/胸のうちの思慮と考え深い心をうち拉(ひし)ぐ。」(ヘシオドス『神統記』原初の生成、廣川洋一訳)より。

第六連・第一八行 「「だが、君、もしそれがほんとうなら、何も君は証人を必要とすまい、ここにロドスがある、さあ、跳んで見給え。」/この話は、事実によって証明することのてっとり早いものについては、言葉は凡て余計なものである、ということを明らかにしています。」(『イソップ寓話集』五一駄法螺吹き、山本光雄訳)より。

第七連・第二―三行 「伊邪那美命言(まを)さく、愛(うつく)しき我(あ)がなせの命かくせば、汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千(ち)頭(かしら)絞(くび)り殺さむ」とまをしき。ここに伊邪那岐命詔りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、汝(いま)然(し)せば、吾(あれ)一日に千五百(ちいほ)の産(うぶ)屋(や)立てむ」とのりたまひき。」(次田真幸全訳注『古事記』上巻・伊邪那(いざな)岐(きの)命(みこと)と伊邪那(いざな)美(みの)命(みこと)・五・黄泉(よみの)国(くに))より。





IV. It was I who knew you in the wilderness.


第IV章のタイトルは、HOSEA 13.5 "It was I who knew you in the wilderness,/in the land of drought;"(ホセア書一三・五、「わたしは荒野で、またかわいた地で、あなたを知った。」)より。

第一連・第四行 ゲーテの『ファウスト』第一部・書斎・第一三二三行、「なんだ、これが尨犬の正体か。」そうだったのである。イメージ・シンボル事典のMephistopheles メフィストフェレスの項に、「独立と真の自己を獲得するため、全なるもの the All から離脱した魂の否定的な側面を表す。」とある。





V. Behold the man!


第V章のタイトルは、JOHN 19.5 ""Behold the man!;""(ヨハネによる福音書一九・五、「「見よ、この人だ」」)より。

第一連・第四行 「ことば、ことば、ことば。」(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)より。

第一連・第一二―一三行 「poet(詩人)という言葉は、もとをたどれば小石の上を流れる水の音を表すアラム語に行きつく。」(ダイアン・アッカーマン『「感覚」の博物誌』第4章、岩崎 徹訳)より。

第一連・第一五行 「人生を愛してこそ詩人だ。」(オネッティ『古井戸』杉山 晃訳)より。

第一連・第一六―一七行 ジイドは、『地の糧』第六の書で、「わたしは唇が渇きをいやした泉を知っているのだ。」と述べているが、第一の書・一には、「しかし泉というものは、むしろ、われわれの欲望がわき出させる場所にあるのだろう。なぜならば、土地というものは、われわれが近寄りながら形づくってゆく以外には、存在はしないし、まわりの風景もわれわれの歩むにしたがって、少しずつ形が整ってゆくからだ。」と書いている。

第一連・第一八行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第三三八―三三九行、「およそ否定を本領とする霊どもの中で、/いちばん荷(に)厄介(やつかい)にならないのは悪戯者(いたずらもの)なのだ。」、天上の序曲・第三二〇行、「わたしのいちばん好きなのは、むっちりした生きのいい頬(ほ)っぺたなんで。」より。

第一連・第一九―二一行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第三二四―三二六行、「あれの魂をそのいのちの本源からひきはなし、/もしお前につかまるものなら、/あれを誘惑してお前の道へ連れこむがよい。」より。

第一連・第二四行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一八三四―一一八三九行、「いい年をして、まんまと騙(だま)されやがった。/自(じ)業(ごう)自(じ)得(とく)というものだが、はてさて景気が悪い。/人に顔向けもならん大失敗だて。/骨折損のくたびれ儲(もう)けとは、いい面(つら)の皮(かわ)だ。/甲(こう)羅(ら)のはえた悪魔のくせに、/卑しい情欲や愚かな色気に負けたとは。」より。

第一連・第三〇行 ニーチェの『ツァラトゥストラ』第四・最終部・晩餐(ばんさん)、「なるほど泉の湧(わ)く音はここにもしている、それはあの知恵のことばと同様に、ゆたかに倦(う)むことなく湧いている。」より。

第一連・第三一行 「御血統の泉が、源が、涸(か)れ果ててしまったのです──流れのもとが止ってしまったのだ。」(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第三場、福田恆存訳)より。

第一連・第三二行 ニーチェの『ツァラトゥストラ』第一部・贈り与える徳・2、「新しい深い水のとどろき、新しい泉の声なのだ。」より。

第一連・第三四行 ゲーテの『のファウスト』第一部・ワルプルギスの夜・第三九三八行、「この岩の古い肋(あばら)骨(ぼね)につかまっていてください。」より。

第二連・第三行 「自分ならぬ別の女を見ているような気がした。」(ケッセル『昼顔』四)より。

第二連・四行 マルガレーテは、ゲーテの『ファウスト』第一部のヒロインの名前である。第二部・第五幕の最後の場面にも登場する。

第二連・第六―一〇行 グレートヘンは、岩波文庫の『ファウスト』第一部の巻末にある第二八一三行の註にあるように、マルガレーテの愛称である。以下、『ファウスト』第一部・庭園・第三一七七行、「可愛いひと。」、第一部・街路・第二六一三行、「あの唇の赤さ、頬の輝き。」、第一部・庭園・三一三六行、「あなたは確かに最も浄(きよ)らかな幸福を味わわれたんです。」、第一部・街路・第二六一一―二六一二行、「躾(しつ)けがよく、慎(つつ)ましやかで、/しかもいくらかつん(、、)としたところもある。」、第一部・庭園・第三一〇二―三一〇三行、「ああ、単純や無邪気というものは、自分自身をも、/自分の神聖な値(ね)打(うち)をも一向知らずにいるのだからなあ。」より。

第三連・第二―七行 デイヴィッド・ボーンは、ヘミングウェイの『エデンの園』(沼澤洽治訳)の主人公の名前。キャスリン・ボーンは、その妻。以下、『エデンの園』第一部・1、「むらなく焼けているのは、遠い浜まで出かけ、二人とも水着を脱ぎ棄てて泳ぐおかげである。」、第三部・9、「スカンジナヴィア人なみのブロンド」、「白いブロンド」、第一部・1、「両横はカットしたので、平たくついた耳がくっきりと出、黄茶色の生え際が頭にすれすれに刈り込まれた滑らかな線となって後ろに流れる。」、第三部・9、「そっくり同じにして」、第一部・1、「夫婦と名乗らずにいると、いつも兄妹に見間違えられた。」、「二人が結婚してから三週間めである。」より。なお、『エデンの園』からの引用はすべて沼澤洽治訳であるので、以下、『エデンの園』の翻訳者の名前は省略した。
 イメージ・シンボル事典を見ると、「対のもの、双子」は、「相反する2つのものを表す。たとえば、生と死、日の出と日没、善と悪、牧羊者と狩猟者、平坦な谷と切り立った山。そしてこの相反するものが結局は、総合し補足しあう働きをする。」とあり、「2」は、「たとえば、積極性と消極性、生と死、男と女、といった両極端の、相違する、二元的な、相反するもの(の結合)を表す。」とある。本作において、対になった二つのものが多く現われるのも、また、さまざまなものが二度現われるのも、偶然ではない。それが、本作のもっとも重要なモチーフを暗示させるからである。

第三連・第八行 ヘミングウェイの『エデンの園』第一部・1、「「ね、キスして」と言った。」より。

第三連・第一二行 ヘミングウェイの『エデンの園』第三部・10、「お揃いで見せびらかすの嫌?」より。

第三連・第一三行 ヘミングウェイの『エデンの園』第三部・10、「「いいとも、悪魔。僕が嫌なわけあるまい?」」より。

第四連・第一行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第四幕・第一〇一九三行、「何を人間が渇望(かつぼう)しているか、君なんかにわかるかね。」より。

第四連・第二行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第二八一―二八二行、「この、地上の小神様はいつも同じ工合にできていて、/天地開闢の日と同じく変ちきりんな存在です。」より。

第四連・第三行 創世記一八・一四行、「主に不可能なことがあろうか。」より。

第四連・第四行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第二九〇行、「脚のながいきりぎりす(、、、、、)」より。

第四連・第六―八行 ゲーテの『ファウスト』第一部・夜・第五六六―五六九行、「あんな古文献などというものが、一口飲みさえすれば/永久に渇(かわ)きを止めてくれる霊泉ででもあるのかね。/爽(さわや)かな生気は、それが君自身の、/魂の中から湧(わ)き出すのでなければ得られはしない。」より。

第四連・第九行 「名前があると、彼女のことが考えやすい。」(ロバート・B・パーカー『ユダの山羊』12、菊池 光訳)ので。ちなみに、ゲーテの『ファウスト』第一部・魔女の厨・第二五六五―二五六六行と、第一部・書斎・第一九九七―一九九九行に、「通例人間というものは、なんでも言葉さえきけば、/そこに何か考えるべき内容があるかのように思うんですね。」、「言葉だけで、立派に議論もできる、/言葉だけで、体系をつくりあげることもできる、/言葉だけで、立派に信仰を示すことができる、」とある。まことに考えさせられる言葉である。また、シェイクスピアの『夏の夜の夢』第五幕・第一場に、「詩人の眼は、恍惚たる霊感のうちに見開き、/天より地を眺め、地より天を望み」(土居光知訳、旧漢字部分を新漢字に改めて引用)、「そして想像力がいまだ人に知られざるものを/思い描くままに、詩人のペンはそれらのものに/たしかな形を与え」(小田島雄志訳)、「現実には在りもせぬ幻に、おのおのの場と名を授けるのだ。」(福田恆存訳、旧漢字部分を新漢字に改めて引用)という、よく知られた言葉もある。このよく知られた言葉を、三人の翻訳者によるものを切り貼りして引用したのは、どの翻訳者のものにも一長一短があって、一人の訳者によるものだと、かならずどこか欠けてしまうところがあると筆者には思われたからである。どの訳がいちばんよいのか、散々、悩んだのであるが、悩んでいるうちに、ふと、こんなことを考えた。選べるから、選択しようとするのである、と。選べない状態では、選択しようがないからである。また、比べることができるから、不満も出るのだ、と。そういえば、ひとむかしも、ふたむかしもまえのことなのだが、田舎に住むゲイ・カップルの交際は長つづきすると言われていた。都会のように、つぎつぎと相手を見つけることができないからだというのだ。簡単に違った相手を見つけられると思うと、いまいる相手にすぐに不満もつのるものなのだろう。たしかに、これを捨てても、あれがある、という選べる状態であったら、いまあるものを簡単に捨ててしまって、ほかのものに乗り換えることに、それほど躊躇はしないものだろう。簡単に捨ててしまうのだ。そういえば、『源氏物語』には、つぎのような言葉があった。「ぜんぜん人を捨ててしまうようなことを、われわれの階級の者はしないものなのだ。」(紫 式部『源氏物語』真木柱、与謝野晶子訳)、「今日になっては完全なものは求めても得がたい、足らぬところを心で補って平凡なものにも満足すべきであるという教訓を、多くの経験から得てしまった自分である」(紫 式部『源氏物語』若菜(上)、与謝野晶子訳)。筆者も、はやくそういった境地に至りたいものである。もうとっくに、そういった境地に達していなければならない年齢になっていると思われるからである。

第五連・第三―四行 ゲーテの『愛するベリンデへ』高橋健二訳、「その時もう私はお前のいとしい姿を/この胸の奥ふかく刻んだのだった。」、ゲーテの『ファウスト』第一部・街路・第二六二九行、「可愛い花は」より。平凡社の世界大百科事典に、マーガレット Margaret (Marguerite)の「語源はギリシア語のマルガリテス margarites ならびにラテン語のマルガリータ margarita で<真珠>の意味である。花の名前としては国によりさす植物がちがい、英語ではモクシュンギク Chrysanthemum frutescena、ドイツ語ではフランスギク、フランス語ではヒナギクをいう。また各国語とも他のキク科植物を含む総称ともされている。」とある。「いずれにしても花びらは白かうす黄色で花の心は金色である。」と、研究社の『英語歳時記/春』にある。花言葉を、柏書房の『図説。花と樹の大事典』で調べると、マーガレットは「誠実」と「正確」、ヒナギクは「無邪気」と「平和」であった。カレッジクラウン英和辞典で、マーガレットの語源である真珠の項を見ると、「精粋、典型:a pearl of woman──女性の中の花」という、語意と成句が載っている。シェイクスピアの『オセロウ』の第五幕・第二場にある、劇のクライマックスで、オセロウは、愛する妻を真珠にたとえて、よく知られている、つぎのようなセリフを口にする。「どうか、いささかもおかばい頂くこともなく、さりとて誣(し)いられることもなく、/ありのままにわたしのことをお伝え下さい。それから、お話し下さい、/懸命に愛するすべは知らなかったが、心の底から愛した男、/嫉妬しやすくはなかったのだが、はかられて/心極度に乱れ、愚かしいインディアンのように/その種族のすべてにもかえられぬ、貴い真珠の玉を/われとわが手から投げうってしまいました、と。」(菅 泰男訳)。シェイクスピアの『オセロウ』のヒロイン、デズデモウナと、ゲーテの『ファウスト』のヒロイン、マルガレーテの二人のヒロインが、真珠という語で結びつくことで、あらためて二つの作品が悲劇であったことに気づかされた。真珠は、美しい女性にたとえられるだけではなく、イメージ・シンボル事典に、「(とくにローマ人に)涙を連想させる。」とあるように、悲しみを象徴するものとしても用いられるのである。

第六連・第一―五行 ゲーテの『ファウスト』第一部・市門の前・第一一一二―一一一七行、「おれの胸には、ああ、二つの魂が住んでいて、/それが互に離れたがっている。/一方のやつは逞(たくま)しい愛慾に燃え、/絡(から)みつく官能をもって現世に執着する。/他のものは無理にも塵(ちり)の世を離れて、崇高な先人の霊界へ昇ってゆく。」より。

 ノエル・コブは、『エロスの炎と誘惑のアルケミー』に、古代ギリシアのパパイラスの、つぎのような言葉を引いている。エロスとは「暗く神秘的で、思慮分別のある要領の良い考えは隠れその代わりに暗く不吉な情熱を吹き込む」「どの魂の潜みにも隠れ住んでいる」(中島達弘訳、ユリイカ一九九八年十二月号)ものである、と。ノエル・コブの引用自体が孫引きであるので、筆者のものは曾孫引きということになる。

 パスカルの『パンセ』第六章(前田陽一訳)にある、断章四一二、断章三七七、断章四一七に、「理性と情念とのあいだの人間の内戦。/もし人間に、情念なしで、理性だけあったら。/もし人間に、理性なしで、情念だけあったら。/ところが、両方ともあるので、一方と戦わないかぎり、他方と平和を得ることがないので、戦いなしにはいられないのである。こうして人間は、常に分裂し、自分自身に反対している。」、「われわれは、嘘(うそ)、二心、矛盾だらけである。」、「人間のこの二重性はあまりに明白なので、われわれには二つの魂があると考えた人たちがあるほどである。」とある。なお、『パンセ』からの引用はすべて前田陽一訳であるので、以下、『パンセ』の翻訳者の名前は省略した。

 ボードレールは、『赤裸の心』(阿部良雄訳)の一一と二四に、「あらゆる人間のうちに、いかなるときも、二つの請願が同時に存在して、一方は神に向かい、他方は悪魔に向かう。神への祈願、すなわち精神性は、向上しようとする欲求だ。悪魔への祈願、すなわち獣性は、下降することのよろこびだ。」、「快楽を好む心は、われわれを現在に結びつける。魂の救いへの関心は、われわれを未来につなぐ」と述べている。なお、ボードレールの『赤裸の心』からの引用はすべて阿部良雄訳であるので、以下、『赤裸の心』の翻訳者の名前は省略した。

 ゲーテの『ファウスト』第一部・夜・第七八四行に、「おれはまた地上のものとなった。」というセリフがある。ボードレールのいう二つの請願というものを、ゲーテの言葉を用いて言い現わすと、「天上的なものに向かうものと、地上的なものに向かうもの」とでもなるであろうか。

 プルーストの『失われた時を求めて』(鈴木道彦訳)の第三篇『ゲルマントの方』や、第五篇『囚われの女』にも、「私たちは、二つある地からのどちらかを選んで、それに身を委ねることができる。一方の力が私たち自身の内部から湧き上がり、私たちの深い印象から発散するものなのに対して、他方の力は外部から私たちにやってくる。」とか、「一方には健康と英知、他方には精神的快楽、常にそのどちらかを選ばなければならない。」とかいった文章がある。なお、プルーストの『失われた時を求めて』からの引用はすべて鈴木道彦訳なので、以下、『失われた時を求めて』の翻訳者の名前は省略した。

 新潮文庫の『ヴェルレーヌ詩集』の解説で、堀口大學は、ヴェルレーヌが、「一つは善良な、他は悪魔的な、二重人格が平行して(、、、、)自分の内に存在すると確認したらしいのだ。善と悪、異質の二つの鍵盤(けんばん)の上を、次々に、または同時に、往来するように自分が運命づけられていると気づいたというわけだ。」と述べているが、ヴェルレーヌ自身、『呪はれた詩人達』の「ポオヴル・レリアン」の項(鈴木信太郎訳、旧漢字を新漢字に改めて引用。ちなみに、ポオヴル・レリアンとは、ヴェルレーヌ自身の子と)に、「一八八〇年以後、彼の作品は、二種類の明瞭に区別される領域に分けられる。そしてなほ将来の著作の予想は、次の事実を明らかにする。即ち、彼は、同時的ではないとしても(且又、この同時的といふことは、偶然の便宜に起因して、議論からは外れるのだ)、尠くとも並行的に、絶対に異つた観念の作品を発表して、この二種類の傾向といふシステムを続けようと決意した事実である。」と書いており、さらに、「信仰」と「官能」という、この二つの領域への志向が、彼のなかでは思想的に統一されていて、「一つの祈りのみによつても、また一つの感覚的印象のみによつても、多くの著作を易々と作り得るし、その反対に、それぞれによつて同時に唯一つの著作を、同じく自在に、作り得るのである。」とまで言うのであるが、これらの言葉には、ヘラクレイトスの「対峙するものが和合するものであり、さまざまに異なったものどもから、最も美しい調和が生じる。」(『断片8』内山勝利訳)や、「万物から一が出てくるし、一から万物が出てくる。」(『ヘラクレイトスの言葉』一〇、田中美知太郎訳)といった思想の影響が如実に表れているように思われる。

 右の引用に見られるような、いわゆる「反対物の一致」という、ヘラクレイトスの考え方が、後世の詩人や作家たちに与えた影響はまことに甚だしく、その大きさには計り知れないものがある。「俺は 傷であつて また 短刀だ。」(『我とわが身を罰する者』鈴木信太郎訳)と書きつけたボードレールや、「心して言葉をえらべ、/「さだかなる」「さだかならぬ」と/うち交る灰いろの歌/何ものかこれにまさらん。」(『詩法』堀口大學訳)と書きつけたヴェルレーヌについては言うまでもなく、「また見附かつた、/何が、永遠が、/海と溶け合ふ太陽が。」(『地獄の季節』錯乱II、小林秀雄訳。海 mer は女性名詞であり、太陽 soleil は男性名詞である。また、海は水を、太陽は火を表わしている。)と書きつけたランボーにおいても、その影響は著しい。また、「異端者の中の異端者だったわたしは、かけ離れた意見や、思想の極端な変化や、考えの相違などに、つねに引きつけられた。」(『地の糧』第一の書・一)というジイドも、『贋金つかい』の第二部・三に、「二つの相容れない要求を頭の中に蔵していて、両者を調和させようとしている」(川口 篤訳)と書きつけている。現実にも、ときには、あるいは、しばしば、この言葉どおりの状況にジイドが直面したであろうことは、想像に難くない。また、プルーストの『失われた時を求めて』の第三篇『ゲルマントの方』にも、「その二つは互いに相容れないように見えるかもしれないが、それが合わさるとはなはだ強力になるものであった。」といった言葉があり、トーマス・マンの『魔の山』(佐藤晃一訳)の第六章にも、「対立するものは」「調和しますよ。調和しないのは中途半端な平凡なものにすぎません。」といった言葉がある。プルーストやトーマス・マンが、ボードレールやジイドらとともに、ヘラクレイトスの系譜に列なる者であることは明らかであろう。なお、ジイドの『贋金つかい』からの引用はすべて川口 篤訳であるので、以下、『贋金つかい』の翻訳者の名前は省略した。

 堀口大學は、前掲の『ヴェルレーヌ詩集』の解説で、「極端に背(はい)馳(ち)する二つの性格間の激しい争闘とも解されるこの詩人の生涯と作品から、一種の偉大さがにじみ出る」などと述べているが、ヴェルレーヌの偉大さなどいっさい認めず、その矛盾に満ちた人生に、なによりも混沌を見て取る者の方が多いのではなかろうか。ヴェルレーヌの『煩悶』に、「私は悪人も善人も同じやうに見る。」(堀口大學訳、旧漢字を新漢字に改めて引用)といった詩句があるが、筆者には、これが、「悪人」とか「善人」とかいったものをきちんと弁別した上で書きつけたものであるとは、とうてい思えないのである。そういえば、犯罪の種類も程度も異なるが、ヴェルレーヌと同様に刑務所に収監されたことのあるヴィヨンもまた、『ヴィヨンがこころとからだの問答歌』に、「美と醜も一つに見えて、見分けがつかぬ。」(佐藤輝夫訳)といった詩句を書きつけていた。ちなみに、これらの詩句と類似したものに、ヘラクレイトスの「上がり道と下り道は同じ一つのものである。」(『断片60』内山勝利訳)や、ゲーテの「では降りてゆきなさい。昇ってゆきなさい、といってもいい。/おなじことなんです。」(『ファウスト』第二部・第一幕・第六二七五―六二七六行)や、シェイクスピアの「きれいは穢(きたな)い、穢いはきれい。」(『マクベス』第一幕・第一場、福田恒存訳)や、ランボーの「ここには誰もいない、しかも誰かがいるのだ、」、「俺は隠されている、しかも隠されていない。」(『地獄の季節』地獄の夜、小林秀雄訳)や、ヴァレリーの「異なるものはすべて同一なり」、「同一なるものはすべて異なる」(『邪念その他』A、佐々木 明訳)といったものがあるが、この類のものは、例を挙げると、枚挙に遑(いとま)がない。ヴェルレーヌのことを考えると、筆者には、サバトの『英雄たちと墓』第I部・13にある、「彼の心は一つの混沌だった。」といった言葉が真っ先に思い浮かんでしまうのだが。

 しかし、ワイルドが、『芸術家としての批評家』の第二部で語った、「われわれが矛盾してゐるときほど自己に真実であることは断じてない」(西村孝次訳、旧漢字を新漢字に改めて引用)というこの言葉に結びつけて、ヴェルレーヌがいかに「自己に真実であ」ったかということを思い起こすと、たしかにその意味では、堀口大学が述べていたように、「この詩人の生涯と作品から、一種の偉大さがにじみ出」ていることを全面的に否定することはできないように思われるのだが、それでもやはり、その生涯の傍若無人ぶりといったものをつぶさに振り返ってみれば、あらためて、先の堀口大學の言説を否定したい、という気持ちにも駆られるのである。なお、ワイルドの作品からの引用はすべて西村孝次訳であるので、以下、ワイルドの作品の翻訳者の名前は省略した。また、それらの引用はみな、旧漢字部分を新漢字に改めた。

「私たち哀れな人間は/善いことも悪いこともできる。/動物であると同時に神々なのだ!」、この詩句が、だれのものであるか、ご存じであろうか。ヴェルレーヌと同じように、一生のあいだ、自己の魂の二極性に苦しめられたヘッセのもの(『平和に向って』高橋健二訳)である。ヴェルレーヌとヘッセとでは、ずいぶんと生きざまが違うように見えるが、魂の二極性に苦しめられたという点では、共通しているのである。ヘッセが、『荒野の狼』(手塚富雄訳)で、主人公のハリー・ハラーについて、「感情において、あるときは狼として、あるときは人間として生活していた」というとき、それがハリーひとりのみならず、自己も含めて、魂の二極性に苦しんだあらゆる人間について語っていることになるのである。じっさい、ヘッセは、『荒野の狼』に、つぎのように書いている。「ハリーのような人間はかなりたくさんある。多くの芸術家は特にそうである。この種類の人間は二つの魂、二つの性質をかねそなえている。彼らのうちには神的なものと悪魔的なもの、父性的な血と母性的な血、幸福を受け入れる能力と悩みを受け入れる能力が対峙したり、ごっちゃになったりして存在している。」と。そして、「なぜ彼が彼の笑止な二元性のためにそんなにひどく苦しんでいるか」というと、「ファウストと同様、二つの魂は一つの胸にはすでに過重のもので、胸はそのために破裂するに違いないと信じている」からであるという。「しかし実は二つの魂ではあまりに軽すぎるのである。」といい、「人間は数百枚の皮からできている玉葱(たまねぎ)であり、多くの糸から織りなされた織り物である。」というのである。つまり、「ハリーが二つの魂や、二つの人格から成り立っていると思うのは彼の空想にすぎない、人間はだれしも十、百、もしくは千の魂から成り立っている」のだというのである。

 プルーストの『失われた時を求めて』の第五篇『囚われの女』にも、「私は一人のアルベヌチーヌのなかに多くのアルベヌチーヌを知っていたから、今も私のかたわらにまだまだ多くの彼女が横たわっているのを見る思いであった。」、「彼女はしばしば私の思いもかけぬ新たな女を創(つく)りだす。たった一人の娘でなく、無数の娘たちを私は所有しているような気がする。」とあるが、たしかに、このような感覚は、ひとが恋愛相手に対して持つ、ある種の戸惑いや躊躇といったものがなぜ生じるのか、と考えれば、不思議でもなんでもない、ごくありふれたふつうの感覚として、たちまち了解されるものであろう。

 ワイルドが、『芸術家としての批評家』の第一部で、「もっとも完璧な芸術とは、人間をその多様性において剰すところなく映し出すところの芸術だ」と述べているが、そういった芸術を創り出すために、これまで芸術家はさまざまな方法を試みてきた。たとえば、ロートレアモンは、フェルボックホーフェンに宛てて送った一八六九年十月二十三日付の手紙に、「ぼくは悪を歌った、ミッキエヴィッチやバイロンやミルトンやスーゼーやミュッセやボードレールなどと同じように。もちろん、ぼくはその調子を些(いささ)か誇張したが、それも、ひたすら読者をいためつけ、その薬として善を熱望させるためにのみ絶望をうたう、このすばらしい文学の方向のなかで新しいものを作りだすためなのだ。」(栗田 勇訳)と書いているが、たしかに、『マルドロールの歌』は、二元的なもののうち、一方のみを強調して描くことによって、他の方をも暗示させるという手法の、そのもっとも成功した例であろう。まさに、「一方を思考する者は、やがて他方を思考する。」(『邪念その他』A、佐々木 明訳)という、ヴァレリーの言葉どおりに。また、「常に悪を欲して、/しかも常に善を成す」(ゲーテ『ファウスト』第一部・書斎・第一三三六―一三三七行)というメフィストーフェレスのセリフに呼応するように、両極の一方での体験がもう一方の境地を導く、その一部始終を描いてみせる、という手法もある。もちろん、ゲーテの『ファウスト』は、その手法のもっとも成功した例であろう。『ファウスト』は、そして、『マルドロールの歌』もまた、結局のところは、同じく、魂のさまざまな要素を、相対立する二つの要素に集約させて二元的に扱い、その両極の狭間で葛藤する人間の姿をドラマチックに描くことによって、人間の魂の多様性というものを表わそうとしたものであって、その目的は見事に達成されており、ただ単に、人間の魂を二元的なものとして扱ってはいないのである。なんとなれば、「われわれの知性は、どんあにすぐれたものであっても、心を形作る要素を残らず認めることはできないもので、そうした要素はたいていの場合すぐ蒸発する状態にあり、何かのことでそれがほかのものから切り離されて固定させられるようなことが起こるまでは、気づかれずに過ぎてしまう」(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・『消え去ったアルベヌチーヌ』)ものだからである。それゆえ、人間の魂といったものを、そのすべての側面を、具体的に列挙して表わすことなどはけっしてできないことなのである。これは、「同一の表現が多様な意味を含み得る」(プルースト『失われた時を求めて』第二篇『花咲く乙女たちのかげに』)といったことを考慮しない場合であっても、である。ヴァレリーが、「ゲーテは、数々の対比の完全な一体系、あらゆる一流の精神を他と区別する希有にして豊饒な結合を、われわれに示しております。」(『ゲーテ』佐藤正彰訳)と述べているように、また、ゲーテの『ファウスト』第一部・夜・第四四七―四四八行にある、「まあどうだ、すべての物が集まって渾一体(こんいつたい)を織り成し、/一物が他の物のなかで作用をしたり活力を得たりしている。」という言葉からもわかるように、「二」すなわち「多数」と、あるいは、「二」すなわち「無数」と、捉えるできものなのである。ヘッセ自身もそう捉えていたからこそ、自分の作品のなかで、あれほど執拗に、「二極性」といったものにこだわりつづけていたのであろう。「二」すなわち「多数」、「二」すなわち「無数」といえば、筆者には、「アダムとイヴ」と「彼らの子孫たち」のことが思い起こされる。二人の人間からはじまった、数えきれないほどの数の人間たち、彼らの子孫たちのことが。

 ランボーは、ポオル・ドゥムニーに宛てて送った一八七一年五月十五日付の手紙と、ジョルジュ・イザンバアルに宛てて送った一八七一年五月十三日付の手紙に、それぞれ、「「詩人」はあらゆる感覚の(、、、、、、、)、長期にわたる、大がかりな、そして理由のある錯乱を通じてヴォワイヤン(、、、、、、)となるのです。」、「凡ゆる感官を放埓奔放に解放することによって未知のものに到達することが必要なのです。」(平井啓之訳)と書いている。しかし、「あらゆる感覚の(、、、、、、、)、長期にわたる、大がかりな、そして理由のある錯乱」とか、「凡ゆる感官を放埓奔放に解放すること」とかいった件(くだり)には、その言葉のままでは容易に把握し難いところがある。よりわかりやすい表現に置き換えてみよう。

 ランボーは、「ヨーロッパで僕の知らない家庭は一つもない。──どこの家庭も、わが家のようにわかっている。」(『地獄の季節』下賤の血に、秋山晴夫訳)という詩句を書いているが、ボードレールの『一八五九年のサロン』5にも、「真の批評家の精神は、真の詩人の精神と同じく、あらゆる美に対して開かれているに相違ない。彼は勝利に輝くカエサルの眩いばかりの偉大さも、神の視線の前に頭をさげる場末の貧しい住人の偉大さも、まったく同じように味わうことができる。」といった文章がある。ランボーの詩句とボードレールの文章とのあいだに、意味内容においてそう大きな隔たりがあるようには思われない。時系列的に、ボードレールの文章とランボーの詩句とのあいだには、と書き直してもよい。ところで、ランボーはまた、先の二つの手紙のなかで、「「われ」とは一個の他者であります。」と語っているのだが、このよく知られた言葉も、ボードレールの「詩人は、思うがままに彼自らであり、また他人であることを得る、比類なき特権を享受する。彼は欲する時に、肉体を求めてさ迷う魂の如く、人の何人たるを問わず、その人格に潜入する。ただ彼一人のために、人はみな空席に外ならない。」(『群衆』三好達治訳)という言葉と、意味概念的には、それほど距離のあるものには思われない。これらはまた、シェイクスピアのように、きわめてすぐれた詩人に当てはめて考えると、なるほど、と首肯される言葉であろう。ジイドの『贋金つかい』第一部・十二に、「他人の気持を自分の気持として感じる妙な自己喪失の能力を私は持っているので、私には、いやでも、オリヴィエの気持、彼が抱いているに違いないと思われる気持を、感じ取ることができた。」とあるが、この「他人の気持を自分の気持ちとして感じる」「自己喪失の能力」といったものも、また、ランボーの「「われ」とは一個の他者であります。」という言葉や、それに照応するボードレールの言葉と、意味のうえにおいては、それほど大きな違いがあるようには思われない。

 あるインタヴューのなかで、エンツェンスベルガーが、「ぼくの過去に対する参照のシステムは、過去に対する理解の射程は、二百年前にまでとどきます。らんぼうな言い方をすれば、フランス革命です。その時代のたとえばディドロとなら、ぼくは膚と膚を接して漢字あうことができる。彼の存在は、ぼくにとってはほとんど生理的な真近かさだ。でも、中世となると、ぼくには分りません。ぼくの歴史的"神経"は、そこまではおよばない。中世の農民がどうだったか、その神経をぼくは持ちあわせない。でもフランス革命期にインテリがどうだったかなら、それをぼくは自分のからだの中で感じることができる。たくさん本を読んでいて、当時の人びとがどんなふうだったか、家や家具がどうだったか、恋愛関係がどうだったか、どの恋人から逃げだしてどの恋人のところへ行ったか、それがまたどのようにしてダメになったか、そのようなスキャンダルだって、まるで身内の者のことのように分る。」(『現代詩の彼方へ6』エンツェンスベルガー宅で2、飯吉光夫訳、ユリイカ一九七六年七月号)と答えているが、このなかで、とりわけ興味深いのは、「たくさん本を読んで」というところである。ジョルジュ・プーレが、『批評意識』(佐々木涼子訳、ユリイカ一九七六年七月号)のなかで、プルーストによってラモン・フェルナンデスに宛てて送られた一九一九年の手紙から、「ある本を読み終えたばかりの時は」、「われわれの内なる声は、長いあいだじゅう、バルザックの、フローベルのリズムに従うように訓練されてしまっていて、彼ら作家と同じように話したがる。」といった一節を引用した後、それにつづけて、「自分の内で他人の思考のリズムを延長しようとするこの意志が、批評的な思考の最初の行為である。ひとつの思考についての思考、それはまず、他者の思考が形成され、はたらき、表現されていく運動に、いわば肉体的になりきることで、自分のものではないあり方に順応してみないことには存在しえない。呼んでいる著者のテンポ(、、、)にあわせて自分自身を調節すること、それはその著者に近づくというより以上のこと、それは彼に入りこんでしまうこと、彼の最も奥深く、最も秘めやかな、考え、感じ、生きる方法に密着するということである。」と書いているが、この「自分のものではないあり方に順応」することができるというのも、プルーストが、ジイドのいう「他人の気持を自分の気持ちとして感じる」「自己喪失の能力」といったものを持ち合わせていたからであろう。もちろん、こういった「他人の気持を自分の気持ちとして感じる」「自己喪失の能力」というものを持ち合わせているのは、なにも、詩人や作家たちばかりとは限らない。だれもが持ち合わせている能力であろう。友だちや恋人とのあいだで、仕草や癖がうつることは、それほどめずらしいことではないし、よく言われることだが、長くいっしょにいる仲の良い夫婦は、表情や顔つきまで似てくるらしいのだが、じっさい、以前に、喫茶店で、ひじょうによく似た兄妹のように見える老夫婦を目にしたことがある。

 しかし、なぜ、「自分のものではないあり方に順応」することができるのであろうか。ラモン・フェルナンデスの『感情の保証と新庄の間歇』IIに、「ニューマンは、事物を理解する二通りの方法があると言う。一つは、概念にもとづく推論による抽象的(、、、)理解。他の一つは、想像力の与える経験、感情、個々の行為の具体的表象にもとづく合意(アサンチマン)による真の(、、)理解である。」(野村圭介訳、ユリイカ一九七六年七月号)とある。カミュは、「理解するとは、まずなによりも、統一することである。」(『シーシュポスの神話』不条理な論証・不条理な壁、清水 徹訳)といい、ボードレールは、『一八五九年のサロン』3に、「想像力、それは分析であり、それは綜合である。」、「それはあらゆる創造物を解体し、その解体された素材を、魂の最も深奥な部分からのみ生まれて来る規矩にしたがって寄せ集め、配置することにより、新しい世界を創り出し、新しいものの感覚を生み出す。」と述べているが、こういった「想像力」によって、ランボーやボードレールやジイドらは、「他人の感情を、まるでそれが自分自身の感情ででもあるかのように想像して」(プルースト『失われた時を求めて』第二篇『花咲く乙女たちのかげに』)、「「われ」とは一個の他者であります。」とか、「思うがままに彼自らであり、また他人であることを得る」とか、「他人の気持を自分の気持ちとして感じる」「自己喪失の能力を私は持っている」とかと書き述べることができたのであろう。まさしく、「想像力」によって、「他人の気持を自分の気持として感じ」、「勝利に輝くカエサルの眩いばかりの偉大さも、神の視線の前に頭をさげる場末の貧しい住人の偉大さも、まったく同じように味わうことができる」のであろう。

 しかし、「想像力の与える経験、感情、個々の行為の具体的表象にもとづく合意(アサンチマン)による真の(、、)理解」とはいっても、ほんとうのところ、じっさいには、現実と想像とのあいだに、なんらかの相違があるのではないだろうか。

 ジイドの『贋金つかい』第一部・八に、「人間は、自分がそう感じると思うものを感じるのだと気づいてから、私は心理分析というものにまったく興味を失ってしまった。そこから、逆に、人間は現に感じているものを、感じていると思うものだとも考えられる……。このことは、私の恋愛について見れば、よくわかる。ローラを愛することと、ローラを愛していると思うこととの間──さほど彼女を愛していないと思うことと、さほど彼女を愛していないこととの間に、どれほどの相違があろう? 感情の領域では、現実と想像との区別はつかない。」とある。感情の領域では、現実と想像とのあいだに相違はない、というのである。「俺は地獄にいると思っている。だから俺は地獄にいるんだ。」(『地獄の一季節』地獄の夜。道宗照夫・中島廣子訳、『フランス名句辞典』大修館書店)という、ランボーの詩句が思い起こされる言葉である。

 ランボーが書きつけた、「あらゆる感覚の(、、、、、、、)、長期にわたる、大がかりな、そして理由のある錯乱を通じて」とか、「凡ゆる感官を放埓奔放に解放することによって」とかいった言葉を、「想像力によって」という言葉に置き換えてみると、それぞれ、「「詩人」は、想像力によって、ヴォワイヤン(、、、、、、)となるのです。」、「想像力によって、未知のものに到達することが必要なのです。」となる。これで、ランボーが書きつけた手紙の言葉がかなり把握しやすいものとなったであろう。

 ワイルドの『芸術家としての批評家』第二部に、「自己について何ごとかを知るためには、他人についてすべてを知らねばならぬ。」という言葉がある。これほどに極端な主張ではないが、ジイドの日記にもこれと似た言葉がある。「己を識ることを学ぶための最善の方法は、他人を理解しようと努めることである。」(『ジイドの日記』第五巻・一九二二年二月十日、新庄嘉章訳、旧漢字部分を新漢字に改めて引用)というのである。ランボーは、「ひとりの人間には、多数の他人(、、)がその生命(いのち)を負うているように僕には思えた。」(地獄の一季)うわごと(その二)・言葉の錬金術、堀口大學訳)と書いており、プルーストの『失われた時を求めて』の第五篇『囚われの女』にも、「ひとりの人間は多くの人物によって形つくられている」といった言葉がある。また、コクトーは、「ぼくたちは半分しか存在していない。」(『ぼく自身あるいは困難な存在』演劇について、秋山和夫訳)と言い、ヴァレリーは、「自分自身になるためには、ひとは他人が必要である。」(『ヴァレリー全集 カイエ篇9』、『人間』岡部正孝訳)と書いており、ボーヴォワールは、「各人がすべての人びとによって作られています。そして各人はすべての人びとを通してはじめて自分を理解するものであり、各人はすべての人びとが彼ら自身について打ちあける事柄を通じて、また彼らによって明らかにされる自分自身を通じて、はじめてその人びとを理解するのです。」(『文学は何ができるか』一九六四年年十二月討論、平井啓之訳)と述べている。T・S・エリオットも、『宗教と文学』という論文のなかで、「私たちはつぎからつぎへと強力な個性に影響されてゆくうちに、一人あるいは少数の特定の個性に支配されないようになります。そこに広い読書の価値があるのです。さまざまのきわめて異なった人生観が私たちの心の中にいっしょに住んでいると、それらは互に影響しあいます。すると私たち自身の個性は自分の権利を主張して、私たち独自の配列に従ってこれらの人生観をそれぞれに位置づけるのです。」(青木雄造訳)と書き述べているのである。もちろん、わたしたちに影響を与えるのは、「書物」を介した体験だけではない。

「民主化直後のモンゴルは、ひどい物不足だった。二年前のモンゴルといまのモンゴルでは比較にならないほど変わっている。まず、モノが多い。店にはいろいろな食料品(お菓子、野菜、魚の缶詰、ジュースなど)や電化製品がいっぱい並び、なんと二十四時間営業のコンビニもある。ドイツのベンツ、BMW、といった高級車やVOLVO、日本製のホンダ、トヨタ、日産の車が、ウランバートルの街を走っている。車全体の数でいえば、二年前の何倍かになっているだろう。街の外観はそう変わらないが、人びとの生活は大きく変化している。モノが増え、いろんな意味で自由になった一方で、以前はほとんどなかった貧富の差が拡大している。/自分はどうだろう。やはり同じではない。いや、以前と同じ自分と同じでない自分が同居している。」と、相撲取りの旭鷲山が、ベースボール・マガジン社から出ている『自伝 旭鷲山』の第5章のなかに書いている。「自分はどうだろう。やはり同じではない。いや、以前と同じ自分と同じでない自分が同居している。」というところに着目されたい。これは、「本」からのものではない。「読書」からのものではない。いわゆる、「経験、感情、個々の行為の具体的表象にもとづく合意(アサンチマン)による真の(、、)理解」といったものによるものであろう。プルーストの『失われた時を求めて』の第一篇『スワン家の方へ』のなかに、先の旭鷲山の言葉と、よく響き合う文章がある。「自分はもはや今までの自分と同じではなく、また自分一人だけでもない、自分とともに新たな存在がそこにいて、自分にぴったりとはりつき、自分と一体になり、彼はその存在を振り払うこともおそらくできないだろうし、今後はまるで主人や病気に対してそうするように、この存在とよろしく折りあっていかねばならないだろう、と。にもかかわらず、一人の新しい人物がこのように自分につけ加わったことを、ついいましがた感じて以来というもの、彼には人生がこれまで以上に興味深いものに思われ出した。」という箇所である。しかし、「以前と同じ自分」、「以前と」「同じでない自分」とは、いったいなんであろうか。ジイドの『贋金つかい』第一部・八に、「私は、自分でこうだと思っている以外の何者でもない。──しかも、それは絶えず変化する。」といった言葉がある。オーデンの『D・H・ロレンス』にも、「あらゆる瞬間に、彼はそれまで自分に起こったすべてのことを加えて、それによってすべてのことを修正する。」(水之江有一訳)といった言葉があり、ヴァレリーの『カイエB一九一〇』にも、「私には完了された姿として、自分を認識することができない。」(村松 剛訳)といった言葉がある。

 ワイルドが、『虚言の衰頽』に、「僕らが見るもの、また僕らのその見方といふのは、僕らに影響を与へたその芸術に依存するのだ。ある物を眺めるといふことは、ある物を見ることとは大違ひなのだよ。ひとは、その物の美を見るまでは何物をも見てはゐないのだ。その美を見たとき、そして、そのときにのみ、物は生れてくるのだ。現在、人々は靄を見るが、それは靄があるからぢやない、詩人や画家たちが、そのやうな効果の神秘な美しさを人々に教へてきたからなのだ。靄なら、何千年来ロンドンにあつたかもしれぬ。あつた、と僕はいふよ。でもね、誰ひとりそれを見なかつたのだ、だから僕らは、それについては何も知らないわけだ。芸術といふものが靄を発見するまで、それは存在しなかつたのだ。」と書いている。指摘されて、はじめてその存在を知ることができる、というのである。ディラン・トマスの『詩について』という詩論のなかにある、「世界は、ひとたびよい詩がそれに加えられるや、けっして同じものではなくなってしまうのです」(松田幸雄訳)といった言葉に通じるものである。そういえば、マイケル・スワンウィックの『大潮の道』11のなかに、指摘されて、はじめてその存在を知ることができる場面がある。夜空を見上げると、輝く星が闇のなかで瞬いている。しかし、相手に闇の方に目を凝らすように言われて、「見えた。二匹の大蛇がからみあっている、一匹は光で、一匹は闇だ。からんだ体がもつれた天球を形作る。頭上で明るい蛇が闇の蛇の尾を口にくわえている。真下では、暗い蛇が明るい蛇の尾を口にくわえている。光を呑みこむ闇を呑みこむ光。パターンが存在するのだ。それは実在し、永遠に続いている。」(小川 隆訳)と、主人公が思い至るのである。パターンを見出す。補助線を自在に引けるような目にとって、高等数学程度の幾何の問題などは、なんでもない。ここで、ランボーの「僕は久しい以前から、可能な一切の風景を掌中に収めていると自負してきた。」(『地獄の一季節』錯乱II・言葉の錬金術、秋山晴夫訳)という詩句を、たとえこれが誇張表現であっても、この言葉どおりの心情をもって書きつけられたものであると仮定したうえで検討してみると、彼のこの詩句に、彼の自負を、いかに多くの知識を得てそれを身につけてきたか、自己の体験からいかに多くのことを学び悟ってきたかという、彼の大いなる自負を、窺い知ることができよう。

『ヘラクレイトスの言葉』三五に、「智を愛し求める人は、実に多くのことを探究しなければならない。」(田中美知太郎訳)とある。スティーヴン・スペンダーが、「最も偉大な詩人とは、非常な記憶をもった人のことであり、その記憶が彼らの最も強い経験を越えて自己以外の世界の観察まで達するのである。」(『詩をつくること』記憶、徳永暢三訳)と述べているが、ボードレールも、『一八四六年のサロン』7に、「記憶が芸術の偉大な基準であることを私はすでに指摘した。芸術は美の記憶術である。」(本城 格・山村嘉己訳)と書いている。カミュの「芸術家は思想家とまったく同じように、作品のなかに踏みこんでいって、作品のなかで自己になる。」(『シーシュポスの神話』不条理な創造・哲学と小説、清水 徹訳)といった言葉に即していえば、芸術家の「非常な記憶」「美の記憶」が、「作品のなかで」一つに結び合わせられる、といったところであろうか。ワイルドの『芸術家としての批評家』第二部に、「かれは多くの形式で、また無数の違つた方法で、自己を実現し、どうかして新しい感覚や新鮮な観点を知りたいとおもふ。たえざる変化を通じて、そしてたえざる変化を通じてのみ、かれは己れの真の統一を発見する。」といった、ランボーの手紙の言葉を彷彿させるような一節があるが、 Mestmacher の「mutando immutabilis. 変化することによりて不変なる。」(旧漢字部分を新漢字に改めて引用)という成句が、『ギリシア・ラテン引用語辭典』にも収載されており、パスカルも、『パンセ』の第六章に、「われわれの本性は絶えまのない変化でしかないことを私は知った。そして、それ以来私は変わらなかった。」(断章三七五)と述べており、ジイドもまた、『贋金つかい』の第三部・十二に、「個人は優れた資質に恵まれ、その可能性が豊かであればあるほど、自在に変身するものであり、自分の過去が未来を決定することを好まないものである。」と書いている。ボルヘスやサルトルは、さらに、「過去を作り変えることはできないが、過去のイメージを変えることはできる」(『エル・アレフ』もうひとつの死、篠田一士訳)、「私は自分の現在をもって、追憶を作りあげる。」(『嘔吐』白井浩司訳)とまで書いている。「現在」が、「過去のイメージを変え」、「追憶を作りあげる」というのである。モーリヤックの『テレーズ・デスケイルゥ』七に、「私たちは、自分で自分を創造する範囲内でしか存在しない」(杉 捷夫訳)という言葉があるが、「自分を創造する範囲」を可能な限り拡大する、といったイメージで、あのランボーの手紙のなかにある、「あらゆる感覚の(、、、、、、、)、長期にわたる、大がかりな、そして理由のある錯乱」とか、「凡ゆる感官を放埓奔放に解放することによって」とかいう言葉を捉えると、難解なところなど、ほとんどなくなってしまうのではなかろうか。

 ところで一方、ウィトゲンシュタインが、『論理哲学論』の5・63で述べている、「私とは、私の世界のことである。」(山本一郎訳)や、彼の一九一五年五月二十三日の日記のなかにある、「私の言語の限界(、、、、、、、)は、私の世界の限界を意味する。」(飯田 隆『現代思想の冒険者たち07・ウィトゲンシュタイン』)といった考えを通して、ジイドが『贋金つかい』の第三部・七に書いた、「最も優れた知性というのは、自己の限界に最も悩む知性のことじゃないのかな」という言葉にあたると、ランボーがなぜ詩を放棄したのか、その理由の一端を推測することができる。ヴァレリーが、ジャン=マリ・カレに宛てて送った一九四三年二月二十三日付の手紙のなかで、ランボーについて、「《諧調的支離滅裂》の力を発明あるいは発見した」といい、「言語の機能をみずから意志的に刺戟して、その刺戟のこうした極限的な激発点へと辿りついてしまったとき、かれとしては、ただ、かれのなしたことをすることしか──つまり逃亡することしかできませんでした。」(菅野昭正・清水 徹訳)と述べている。取り立ててこのヴァレリーの見解に異を唱えるつもりはない。しかし、ランボーが詩を放棄した理由は、これだけではないように筆者には思われるのである。管見ではあろうが、つぎに、筆者が推測するところのものを述べて見よう。

 ジイドの『贋金つかい』第二部・一に、「自分が別人になったような気がする。」とあるが、もし、ほんとうに、「感情の領域では、現実と想像との区別はつかない」のなら、「最高度」にまで「想像力」を働かせると、「自分が別人になったような気がする。」ではなく、「自分は別人になった。」とまで確信するまでに至るはずである。おそらく、これが、「「われ」とは一個の他者であります。」といった言葉を、ランボーが自分の手紙のなかに書きつけた経緯(いきさつ)であろう。ニーチェの『ツァラトゥストラ』の第三部に、「それぞれの魂は、それぞれ別の世界をもっている。」とあるが、もし、ランボーが本心から「ヨーロッパで僕の知らない家庭は一つもない。」と思ってこう書きつけたのだとしたら、彼が、ヨーロッパの家庭のその夥しい数の人間の魂のなかに「潜入」し、その夥しい数の「世界」を知り、その夥しい数の「他者」の思考に同調することができたと、こころからそう思って書きつけたのだとしたら、それは、彼の錯乱したこころが書かせたものに違いない。所詮、ヴァレリーがいうように、「われわれは自分の心中に現われるものしか、他人の心に忖度することができない。」(『雑集』人文学・二、佐藤正彰訳)ものであるのだから。一人の人間が保有できる人格の数について、その限度について、統計的な資料に基づいていうわけではないが、せいぜい、「十、百、もしくは千」といったところではないだろうか。ヨーロッパ中の人間と同じ数というのなら、少なくとも、「十万、百万、もしくは千万」もの人格を弁別する能力が必要なはずである。ランボーならば、そのような能力を有していたとでもいうのだろうか。しかし、それは、人間が持つことのできるぬ力といったものを遥かに超えたものであろう。

 リスペクトールが、『G・Hの受難』で、「神は存在するものであり、あらゆる矛盾するものが神のなかにあり、したがって神は矛盾しないのだ。」(高橋都彦訳)と書いている。仮にそうであるとすると、「ヨーロッパで僕の知らない家庭は一つもない。」と正統に主張することができるのは、唯一、「神」だけであるということになる。もちろん、これは、「神」が存在するとしての話なのであるが。

 たしかに、「わたしは神である。」と、言葉なら書きつけることはできる。口にすることもできる。しかし、「わたしは神である。」と「想像」することは、「わたし神である。」と思うことは、それが「神」自らの思考でなければ、狂人以外の何者の思考でもない。

 したがって、ランボーが採ることのできた道は二つしかなかったことになる。彼が、自分のことを「神」であると主張するか、しないか、である。もし、主張していたとしたら、彼は自分がくるっていることに気がつかなかった、ということになるであろう。しかし、彼は主張しなかった。たしかに、「精神を通して、人は『神』に至る。」(『地獄の季節』不可能、小林秀雄訳)といった詩句を書きはしたが、じっさいには、自分のことを「神」であると主張しなかったのである。それは、おそらく、彼の気が狂っていなかったからであろう。「ヨーロッパで僕の知らない家庭は一つもない。」という彼の言葉が、あくまでも文学表現上のものであり、それが誇張表現であるということを、彼がはっきりと認識していたということである。もし、彼が、彼の手紙に書いていたことを、その言葉どおり、まっとうに推し進めていったならば、そのうちいつか狂気に陥らざるを得なかったであろう。文学的に後退することは、彼のプライドが許さなかったはずである。彼は、プライドを棄てる代わりに、文学を放棄したのである。放棄せざるを得なかったのであろう。

 魂が二つに、あるいは、もっと多くに分裂しているということだけで、苦しみをもたらすということならば、たしかに、それを統合して一つの人格をつくり上げ、苦しみから逃れればよいのであるが、そもそも、じつのところ、人格が分裂しているという現象がなければ、われわれは他者を理解することも、延(ひ)いては、自分自身のことを理解することもできないものなのである。ヴァレリーの『邪念その他』Tに、「毎秒毎秒、われわれの精神には門番や家政婦の考え方がひらめく。/もしかりにそうでないとすれば、われわれはこうした種類の人びとを理解することも、かれらから理解されることもできぬだろう。」(清水 徹訳)とある。「毎秒毎秒」というのは、大袈裟に過ぎよう。「その都度、その都度」といったところであろうか。ところで、モームが、『人間の絆』13に、「生まれたての子供というのは、自分の身体が、自分の一部分だということがよくわからない。周囲の事物と、ほとんど同じように感じている。だから、彼らが、よく自分の拇指を玩(もてあそ)んでいるのを見ても、それは、傍にあるガラガラに対するのと、まったく変らない。はっきり自分の肉体を意識するのは、むしろきわめて徐々であり、しかも苦痛を通して、やっとそうなるのだ。ちょうどそれと同じ経験が、個人が自己を意識するようになる過程でも必要になる。」(中野好夫訳)と書いているが、ブロッホもまた『ウェルギリウスの死』の第I部で、「涙をたたえるときはじめて眼は見えるようになる、苦しみの中ではじめてそれは視力ある眼となり、」(川村二郎訳)と語っている。筆者にも、まさしくこの言葉にあるように、人生においては、「苦しみ」を通してはじめてわかる、といった体験をいくつもしてきた。このブロッホの言葉に、モームの言葉を合わせて考えてみると、人間は苦痛や苦しみといったものを通して自他の区別をつけ、自己を形成していくものであり、さまざまなことを知っていくということになるのだが、プルーストの『失われた時を求めて』の第六篇『消え去ったアルベルチーヌ』に、「苦痛の深さを通して人は神秘的なものに、本質にと、達するのである。」とある。ジュネの『薔薇の奇蹟』にも、「絶望は人をして自分の中から逸脱させます」(堀口大學訳)といった一節がある。ふと、漱石の『吾輩は猫である』十一にある、「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」という言葉とともに、サバトの『英雄たちと墓』の第I部・5にある、「いったい自分自身の物語が結局は悲しいもの、神秘的なものではないような、そんな人間が存在するものだろうか?」といった言葉が思い出される。なにも、ヴェルレーヌやヘッセといった人間だけが、魂の引き裂かれる苦しみや苦痛を味わうわけではないのである。およそあらゆる人間の苦しみであり、苦痛なのである。

 では、いつまでも、人間は、魂が引き裂かれる苦痛や苦しみに耐えなければならないのであろうか。おそらく、耐えなければならないものなのだろう。しかし、その苦しみは軽減させてやることはできるのである。その方策のヒントは、つぎに引用する、シェイクスピアの『リチャード二世』の第五幕・第五場のセリフのなかにある。「私はずっと考えつづけている、どうすれば/私の住(す)み処(か)のこの牢獄(ろうごく)を世界になぞらえられるかと。/けれども世界には数え切れぬ人々が住み、/ここには私以外には人は一人もいないから、/うまくゆかぬ、だが、ともかくやってみよう。/この脳髄(のうずい)は魂(たましい)の妻としてみてはどうだ。/魂は父親だ。この二つが思念の子を生み、/そしてこの思念は次々(つぎつぎ)と子や孫を生みつづけてやむことがない。/つまりはこの思念がこの小さな世界の住人となる。/この住人は現実世界の住人と気(き)質(しつ)を同じくしている。/思念は満足(まんぞく)することがないからだ。立(りつ)派(ぱ)な思念が生まれ、/例(たと)えば信(しん)仰(こう)上(じよう)の問題を考えても、たちまち/懐(かい)疑(ぎ)と混(ま)じりあい、一つの聖句を持ち出して対立させる。/例えば「小さき者らよ、来(きた)れ」という聖句にたいして、/「ラクダが針(はり)の穴(あな)を通るよりも、天国に入ることは難(むずか)しい」と、/別の聖句を対置して心を惑(まど)わせてしまうのだ。」、「こうして私は、一人でさまざまの役(やく)を演(えん)じながら、/どれ一つにも満足(まんぞく)できぬ。ある時は王者となるが、/反(はん)逆(ぎやく)を恐れてむしろ乞(こ)食(じき)になりたいと願い、/そこで乞食となれば、今度は貧(ひん)窮(きゆう)にさいなまれて、/王でいた時のほうがよかったと思い返す。/そこでふたたび王者となれば、たちまちにして/ボリンブルックに王(おう)位(い)を奪(うば)われたことを思い起こし、/今や自分が何者でもないと思い知るのだ。だが、たとえ/何者になろうと、私にしろ誰(だれ)にしろただの人間である限り、/何物によっても満足は得られず、ただ、やがて/何者でもなくなることによって、はじめて安(やす)らぎを得(え)るしかない。」(安西徹雄訳、P・ミルワード『シェイクスピア劇の名台詞』講談社学術文庫)である。このセリフの最後のところにある、「何者でもなくなることによって」という言葉がヒントになるのである。「何者でもなくなる」を、「何者でもある」という言葉に置き換えると、よいのである。「何者でもある」すなわち「何者でもあり得る」と認識することによって、人間は、魂の引き裂かれた苦しみや苦痛を、自ら軽減させることができるのである。では、その認識は、いったい、どのようにしたら得られるものなのであろうか。それには、「別の目を持つこと、一人の他人、いや百人の他人の目で宇宙をながめること、彼ら各人のながめる百の世界、彼ら自身である百の世界をながめることであろう。そして私たちは、一人のエルスチーヌ、一人のヴァントゥイユのおかげで、彼らのような芸術家のおかげでそれが可能になる。」という、プルーストの『失われた時を求めて』の第五篇『囚われの女』のなかにある考え方が、これはまた、ワイルドの『虚言の衰頽』のなかにある、「芸術といふものが靄を発見するまで、それは存在しなかつたのだ。」という考え方に繋がるものであるが、もっともよい方法を示唆しているように思われるのである。「百人の他人の目で宇宙をながめること」、「彼ら自身である百の世界をながめること」というのである。

「百人の他人の目」、「彼ら自身である百の世界」というもののうちには、たとえば、俳句における季語であるとか、短歌における枕詞や、本歌取りに用いられる古歌であるとか、連句や連歌や連詩の連衆たちによってその場で発せられる言葉であるとか、引用される文献であるとか、引喩で用いられる元ネタであるとか、じつにさまざまなものが考えられる。スタール夫人の言葉に、「フランスにおいては人間に学び、ドイツでは書物に学ぶ。」(『ドイツ論』1・13、道宗照夫・中島廣子訳、『フランス名句辞典』大修館書店)というのがある。スタール夫人のこの言葉は、後で引用する、ヴァレリーの自叙伝のなかにある言葉と呼応するものである。

 トーマス・マンが、『魔の山』の第六章に、「思想というものは、闘う機会を持たなければ、死んでしまいます、」と、また、W・C・ウィリアムズが、『パターソン』の第一巻・序詩に、「知識は/伝搬しないと自壊する。」(沢崎順之助訳)と書きつけているが、たしかに、ポワローの述べているように、「批判者をもつことは、優れた本にとって必須である。公表した書物の一番大きな不幸は、多くの人がその悪口を言うことではなくて、誰も何も言わないことである。」(『書簡詩』X・序文、藤井康生訳、『フランス名句辞典』大修館書店)のであろう。ヴァレリーは、「真実は嘘を必要とする──なぜなら……対比なくして、いかに真実を定義しようか。」(『刻々』 HOMO QUASI NOVUS (殆ンド新シキ人)、佐藤正彰訳)と書いている。ヨハネによる福音書一・五にも、「光はやみの中に輝いている。」とある。創世記二・一八で、神が、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」といい、アダムにエバを与えたのも、そのほんとうの理由は、神が自己の存在をより確かなものにしたかったからであろう。ヨハネによる福音書一・一に、「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」とある。ちなみに、ゲーテが、『ファウスト』の第一部・書斎・第一二二四―一二三七行で、この「言(ことば)」について、あれこれとさまざまな翻訳を試みている。「言葉(Wort)」、「意味(Sinn)」、「力(Kraft)」、「業(Tat)」というふうに。三島由紀夫の『禁色』の第三十三章にも、「ソクラテスは問いかつ答えた。問いによって真理に到達するというのが彼の発明した迂(う)遠(えん)な方法だ。」、「私は問いかつ答えるような対象を選ばなかった。問うことが私の運命だ。」、「それでは何のために問うのか? 精神にとっては、何ものかへ問いかけるほかに己れを証明する方法がないからだ。問わない精神の存立は殆(あやう)くなる」といった文章がある。以上のような言葉は、他者との鬩(せめ)ぎ合いのなかで自己の個性が発現するという、大岡 信の『うたげと孤心』の考え方にも通じるものであり、また、『邪念その他』Gのなかで、 「「他人」だけがわれわれから引き出してくれるものがある。われわれが「他人」からしか引き出さないものがある。/それぞれ御自分のためにこうしたサービスの対照表を作ってごらんなさい。/たとえば他人は、われわれから、言い返し、ウィット、感情、欲望、羨望、淫欲、思いつき、よき或いは悪しき仕打ちを引き出す。「他人」というものがその行為によって、あるいはただ存在するというだけのことによってそれらを触発しなかったならば、われわれは何と多くのことを抑制しもせず、なし得もせず、おこないもせず、願いさえもしなかったろう!/だがわれわれの方も「他人」から必要なものをほとんど引き出している。パンも引き出すし言語も引き出す。そして、「他人」の目つき、行動、ことば、沈黙の中に映っている、われわれ自身の多くのイメージを引き出す。/鏡はこうした「他人」のうちの一人だ。」(佐々木 明訳)といい、『自叙伝』のなかで、「わたしは自分の友人や知己には実に無限のものを負っているのである。わたしは常に会話から学んできた。十の言葉は十巻の書物に匹敵するのである。」(恒川邦夫訳)と語っているヴァレリーの「その詩人的本性によって──自分が遭遇し、目ざまし、ふとぶつかり、そして気づいた、──しかじかの語、しかじかの語と語の諧和、しかじかの構文上の抑揚、──しかじかの開始等、言語上の幸いな偶有事がその表現の一部を成すような叡智的な想像し得る統一的理論を探す人は、これ亦詩人である。」(『文学』詩とは、佐藤正彰訳)といった考え方にも通じるものであろう。なお、ヴァレリーに『文学』からの引用はすべて佐藤正彰訳であるので、以下、『文学』の翻訳者の名前は省略した。先のヴァレリーの言葉から、カミュの「理解するとは、まずなによりも、統一することである。」や、ボードレールの「想像力、それは分析であり、それは綜合である。」といった言葉が思い出されるが、相手の繰り出してくる言葉を即時に理解し、それに応えて、自分が拵えた言葉をつぎの者に送らなければならない即興的な連詩を、じっさいに体験したことのある筆者には、よく理解できる言葉である。ヴァレリーはまた、「思考には両性がある。己れを孕ませて、己れ自身を懐胎する。」(『文学』文学)といい、「われわれは、誰も明瞭に作ったものでもなければ、作り得たわけでもなかった数多の慣習或いは発明によって捕えられ、支えられ、制せられている。それらの間に「言語」があり、これこそ最も重要なもので、われわれ自身の最も内奥まで、われわれを支配しているものだ。これなくしては、われわれは秘密すらも持つまい、──われわれの秘密を持つまい。即ち、何世紀もの試みと、語と、形式とを以って、知らず知らずのうちにわれわれを作り上げているこの数百万の他人(、、)なくしては、われわれは自分自身と交通することができず、自分の考えるところを自分に提供することができない。」(『文学』詩人一家言)とも述べているが、まことに説得力のある言葉である。アンドレ・マルローの『侮蔑の時代』にも、「個人は集団と対立しながらも、集団から糧を得るものだ。」(三野博司訳、『フランス名句辞典』大修館書店)といった言葉がある。ヴァレリーが語ったことを要約したようなこの言葉が、ことのほか筆者のこころの琴線に触れたため、住まいの近くにある府立資料館に行って、マルローの『侮蔑の時代』を読むことにした。一九九九年の二月四日のことである。雪が激しく降っていた。しかし、いくら探しても、件(くだん)の言葉は見当たらず、ほとほと困り果てていたところ、ふとなにか思いついたかのように、もう一度、『フランス名句辞典』の解説に目を通して見たのである。すると、そこには、「引用句は「序文」から。」とあって、筆者は、あまりに軽率な自分自身に、しばしのあいだ、呆れてしまったのである。いくら探しても見つかるはずがなかったのである。というのも、筆者が手にした、昭和十一年に第一書房から出され、小松 清によって翻訳された『侮蔑の時代』には、「序文」がついてなかったからである。しかし、何度も読み返していて、よかったなと思えることもいくつかあった。まず、扱われている題材が、筆者好みのものであった。翻訳の文体の、それほど硬くもなく、軟らかくもない、ちょうどよい感じのものであった。また、レトリック的にも、新しい発見がいくつもあった。しかし、なによりも、筆者のこころを惹いたのは、その開いたページのところどころに、文字が削除されたために空白になっていたところがあったことである。それは、昨今の一部の小説によく見られる、会話が多いとか、改行が夥しいとかいったことによる空白ではなくて、伏せ字にあたる個所を削除して、その部分をそのまま空けておいたものである。伏せ字の処理が施してある本など、一度も目にしたことがなかったので、筆者には、なにかめずらしいものを発見したような喜びがあったのである。ふと、「大岡 信」特集号である、『國文學』の一九九四年八月号で、大岡 信が引用していた、松浦寿輝の『とぎれとぎれの午睡を が浸しにやってくる』というタイトルの詩が思い出された。これもまた、「至る所で字が飛んでいる」、「普通の叙述からぽこぽこ字を削ってしまった」(大岡 信による解説)ものであったが、この場合は、マルローのものとは違って、検閲という外的な要請によってなされたものではなく、松浦寿輝の個人的な事情、彼個人の内的な欲求によってなされた文字の削除による字(じ)面(づら)のうえでの空白である。検閲という制度には嫌悪を催すが、検閲という制度によって目にした書物には、なにかしら新鮮な喜びと、そのようなものを目にする機会を持つことができて、うれしく思った記憶がある。雪の降る日ではあったが、資料館から帰る筆者の足は、ずいぶんと軽かったことを憶えている。

 ジョイスが、「ぼくたちが出会うのは常にぼくたち自身。」(『ユリシーズ』9・スキュレーとカリュプディス、高松雄一訳)と書いているが、これは、おそらく、パスカルの『パンセ』第一章の断章一四にある、「自然な談話が、ある情念や現象を描くとき、人は自分が聴いていることの真実を自分自身のなかに発見する。それが自分のなかにあったなどとは知らなかった真実をである。その結果、それをわれわれに感じさせてくれる人を愛するようになる。なぜなら、その人は彼自身の持ちものを見せつけたのではなく、われわれのものを見せてくれたのだからである。」か、あるいは、このパスカルの考え方の源泉にあたるものと筆者には思われる、プラトンの『メノン』にある、「こうして、魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてないのである。だから、徳についても、その他いろいろの事柄についても、いやしくも以前にも知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起すことができるのは、何も不思議なことではない。」(藤沢令夫訳)といった言葉に由来したものであろう。ヴァレリーもまた、『続集』で、「われわれはわれわれの存在によって内包されうるものしか認識できない。/もっとも思い設けない物事でさえ、われわれの構造によって待ち設けられており、そうでなければならない。」(寺田 透訳)と述べている。しかし、はたして、ほんとうにそれは、もともと「自分自身のなかに」、「自分のなかにあった」「もの」なのであろうか。

 梶井基次郎が、『ある心の風景』に、「視ること、それはもうなにか(、、、)なのだ。自分の魂の一部或は全部がそれに乗り移ることなのだ」と書いている。ヴァレリーもまた、「別の人が一人はいってくることは、独りでいた人を即座に無意識のうちに変えてしまう。」(『刻々』備考、佐藤正彰訳)と述べているが、筆者が思うに、パスカルやプラトンらが、もともと「自分自身のなかに」、「自分のなかにあった」「もの」と考えたのは、それが、じつは、「視た」瞬間、「聴いた」瞬間、「知った」瞬間に、即座に彼ら自身のものになったものであるからと、つまり、その一瞬のうちに彼らによって理解されたものであるかたと思われるのであるが、如何であろうか。

 ヴァレリーが「数々の他のもので自分を養うということほど、独創的なものはないし、自分(、、)であるものはない。しかし、それらを消化する必要がある。ライオンは同化された羊からできている。」(『芸術についての断章』二、吉川逸治訳)、「他人の養分をよく消化しきれなかった者は剽窃者である。つまり彼はそれと再認できる食物を吐き出すのだ。/独創性とは胃の問題。」(『文学』)と書きつけているが、まことに示唆に富む比喩である。たとえば、消化されるものの物性と消化する側の胃の状態によって、消化に要する時間や消化の具合が異なると考えると、物事を理解する速度や理解の度合いといったものが、理解される事柄の難易度や理解する方の能力などによって違ったものになるということが、容易に連想されるであろう。

 そうして、極端な場合、自分が、そして、他人が、まるで別人のように豹変することがあるとしても、そのことを驚かずに受け入れるのである。難しいことかもしれない。しかし、とても大切なことである。だから、いつでも受け入れる準備をしておくのである。「それというのも人間は」「私たちとの関係で変化するとともに、彼ら自身のうちにおいても変化するものであるから」(プルースト『失われた時を求めて』第五篇『囚われの女』)、いわば、「各瞬間ごとに」「無数の」「「私」の一人がそこに」(プルースト『失われた時を求めて』第六篇『消え去ったアルベルチーヌ』)いて、「各瞬間ごとに」「無数の」「彼」「の一人がそこに」いると考えればよいのである。「自己の分裂をあらゆる瞬間に感じるからといって、」(モーリヤック『夜の終り』XI、牛場暁夫訳)、そのことで悩んだりして、自分のことを苦しめなくてもよいのである。「mutando immutabilis. 変化することによりて不変なる。」といった、ラテン語の成句でも思い起こせばいであろう。

 ところで、プルーストが、『失われた時を求めて』の第三篇『ゲルマントの方』で、「天候がちょっと変化しただけでも、世界や私たちは作り直される。」と書いているように、たしかに、「各瞬間ごとに」、「あらゆる瞬間に」、わたしたちは変化しているのだろうけれど、しかし、ヴァレリーが、『詩学講義』の第十講で、「もしわれわれが、感性の瞬間的効果によってたえずひきずりまわされているなら、われわれの思考は無秩序以外の何ものでもなくなるでしょう。」(大岡 信・菅野昭正訳)と述べているように、これはとりわけ、決断や選択をしなければならないときに顕著なのだが、決断を下すために、選択するために、思考をめぐらす時間が、もちろん、事と場合によって、ほんの数瞬のこともあれば、数刻もかかることもあるであろうが、その時間においては、変化の停止状態か、あるいは、ほとんど変化のない状態にある必要があるのである。そうでなければ、ごくごく短い時間に、決定とその決定の打ち消しを繰り返すことになるかもしれないからである。そのようなことになれば、他者との関係において、非常に大きな不利益を被らなければならないことになろう。じっさい、筆者は話をしている最中に、よくころころと意見が変わるため、あるときとうとう、友人のひとりに、「おまえは狂っている。」という、使徒行伝二六・二四にある言葉まで引用されて、筆者が精神病院に行って診てもらうまで、友人としての付き合いを控えさせてもらうと宣告されたのである。それからすぐに、一九九八年三月二十七日に、京大病院の医学部附属病院・精神神経科に行くと、医師に、「あなたの場合は、精神というよりも、性分や性格といったものの問題だと思います。」、「さしあたって、精神には異常は見られません。」と言われて、帰らされたのである。その晩、彼に電話を入れて、病院でのやりとりを伝えると、「精神でなくっても、性格に問題があるってのは、まだひっかかるけど、一応、気狂いじゃないんだ。」などと言われはしたが、また友人として付き合ってもらえることになったのである。そのため、それ以来、筆者は、ひとと話をするときには、自分の意見をほとんど口にしなくなったのである。「おまえは狂っている。」などと、二度と言われたくなかったからである。しかし、その代わりに、よく友人たちから、「なにを考えてるのか、さっぱりわからない。」といったことを言われるようになったのであるが。

「一人で交互に犠牲者になったり体刑執行人になったりするのは、快いことかもしれない。」という言葉が、ボードレールの『赤裸の心』一にある。ジイドもまた、『贋金つかい』の第I部・八に、「自分自身からのがれて、だれか他人になるときほど、強烈な生命感を味わうことはない。」と書いている。筆者が、ヴェルレーヌに対する堀口大學の言葉にどうしても首肯できないというのも、彼が自分の魂を二つに引き裂いていたのが、じつは、より強烈な快感を得るためではなかったか、という疑いを拭い去ることができなかったからである。彼の『懺悔録』第二部・六にある、「私の苦悩は本能的に欲求なのだ。」(高畠正明訳)という一文を目にすると、なおさらそう思われるのである。ヴァレリーが、『邪念その他』Gに、「人は他人に聞いてもらうために胸を叩いて懺悔するのだ。」(佐々木 明訳)と書きつけている。ヨブ記二・一二にも、「声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。」とある。かつては、悲しみを表わすのに、大声を上げて泣き叫びながら、自分の着ている衣を引き裂いたり、頭に灰を被ったりすることがあったのである。ヴェルレーヌの振る舞いにも、これに似た印象を受けるのだが、彼の場合は、あくまでも演技的なものであるような気がするのである。ここで思い出した詩句がある。ボードレールの『どこへでも此世の外へ』のなかに、「お前は、もはや苦悩の中でしか、楽しみを覚えないまでに鈍麻してしまったのか?」(三好達治訳)といった言葉であるが、まるでヴェルレーヌのために書かれた詩句のように思われたのである。

 つまるところ、自分が一つの固定した人格の持主であると考えることは、錯覚にしか過ぎないということである。したがって、魂が分裂していることに苦しんだり、苦痛を感じたりすることも、認識に至るまでは、仕方のないことであって、それは悲劇的なことではあるが、同時にまた、人間というものが、その悲劇的な事柄を受け入れることが充分に可能な存在であるということも、知っておく必要があるということである。もしかすると、これは悲劇的なことなどではなくて、一つの恩寵、絶対的な恩寵のようなものとして受け取るべきものなのかもしれない。

 ふと、ヘラクレイトスの「たましいの際限は、どこまで行っても、どの途(みち)をたどって行っても、見つかることはないだろう。計ればそんなに深いものなのだ。」(『ヘラクレイトスの言葉』四五、田中美知太郎訳)といった言葉が思い出された。ランボーの「彼は何処にも行きはしまい。」(『飾画』天才、小林秀雄訳)という詩句とともに。はて、さて、なぜであろうか……。

 ビセンテ・ウィドブロの『赤道儀』のなかにある、「ひとつの星に起きた一切のことをだれが語るのだろうか」(内田吉彦訳)という詩句をもじって、この第六連・第一―五行の注解を締め括ろう。

──一つの魂に起こった一切のことを、いったい、だれが語るというのであろうか、と。

第六連・第六行 博友社の独和辞典、「da そら、それ」より。

第六連・第七行 博友社の独和辞典、「sich da! ごらん」より。

第六連・第八行 ヘミングウェイの『エデンの園』第一部・1、「ね、私の彼女になって、」より。

第六連・第九行 ヘミングウェイの『エデンの園』第一部・1、「「キャスリンは君だ」」より。

第六連・第一〇行 ヘミングウェイの『エデンの園』第一部・1、「いいえ、私はピーターであなたが私のキャスリン、きれいなきれいなキャスリン。」より。

第六連・第一一行 オクタビオ・パスの「むかいあう二つのからだ」(『二つのからだ』桑名一博訳)より。

第六連・第一二行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第一幕・第五九二二行、「泉は深い奈(な)落(らく)から沸(わ)きあがり、」より。

第六連・第一四―一六行 ゲーテの『ファウスト』第一部・書斎・第一六四二―一六四八行、「もしあなたが私といっしょに、/世の中へ足を踏み入れてみようとお考えなら、/私は即座に、甘(あま)んじて、/あなたのものになりますよ。/あなたのお相手になってみて、/もしお気に入ったら、/しもべにでも、奴隷にでもなりまさあ。」、第一部・書斎・第一六五六―一六五九行、「では、この世ではあなたに仕える義務を負(お)いましょう。/お指図に従って、休む間もなくはたらきましょう。/その代りあの世でお目にかかったら、/おなじ勤めをやっていただくんですな。」より。

第六連・第一七行 ゲーテの『ファウスト』第一部・書斎・第一七三六―一七三七行、「どんな紙きれだっていいんですよ。/ちょっと一たらしの血でご署名(しよめい)をねがいます。」より。

第六連・第一九行 博友社の独和辞典、「unter heutigem Datum 今日の日付で」より。

第六連・第二一行 「私が眼の前に見ているものは、一つの痛ましい芝居、身の毛もよだつような芝居だ。」(ニーチェ『アンチクリスト』六、西尾幹二訳)より。

第六連・第二三行 吉田兼好の『徒然草』第九段、「まことに、愛着(あいぢやく)の道、その根ふかく、源(みなもと)とほし。六塵(ろくじん)の楽欲(げうよく)おほしといへども、皆厭(えん)離(り)しつべし。」、第二百四十二段、「楽といふは、このみ愛する事なり。これを求むることやむ時なし。」(西尾 實校注、旧漢字部分を新漢字に改めて引用)より。

第六連・第二四行 ゲーテの『ファウスト』第一部・森林と洞窟・第三三五〇―三三五一行、「例えば岩から岩へと激する滝が、/欲望に荒れ狂いながら深淵に落ち込むようなものだ。」より。

第六連・第二七行 ゲーテの『ファウスト』第一部・街路・第二六五九―二六六二行、「あの可愛い子の身についているものを何か手に入れてくれ。/あの子の休み部屋へつれて行ってくれ。/あれの胸に触れたスカーフでも、靴下留(くつしたどめ)でも、/私の気(き)慰(なぐさ)みのためにとってきてくれ。」より。

第六連・第二九行 博友社の独和辞典、「da nimm’s! そらやるよ(物をさし出す際)」より。

第六連・第三〇行 「おお、このかぐわしい息。正義の剣も/つい折れそうになるほど! もう一度。そら、もう一度。/死んでからもこのとおりであってくれ。さすればお前を殺した後も/お前を愛しつづけていられる。もう一度。これが最後の口づけだ。/これほどにも美しく、これほどにも恐ろしい女はかつてなかった。/泣かずにいられようか。だがこれは残酷な涙だ。この/悲しみは天の悲しみ。天は愛する者をこそ撃つ。」(シェイクスピア『オセロー』第五幕・第二場、安西徹雄訳、P・ミルワード『シェイクスピア劇の名台詞』講談社学術文庫)より。

第六連・第三一行 「おののきがわたしを襲った。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部・教養の国)より。

第六連・第三三行 ゲーテの『ファウスト』第一部・寺院・第三七九四行、「ああ、苦しい、苦しい。」、第一部・夜・第四七七行、「心臓が掻きむしられるようだ。」より。

第六連・第三四行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一五八六行、「おれはいま最高の瞬間を味わうのだ。」より。

第七連・第一行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一五八六行の後に挿入されたト書き、「(ファウスト、うしろに倒れる。死霊たちが彼を抱きとめて、地面に横たえる)」より。

第七連・第二行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一五九四行、「針が落ちた。事は終った。」より。

第七連・第四行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一六八五行、「調子はずれの音が聞えるぞ、胸糞(むなくそ)の悪い響きだ。」より。

第七連・第七行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一六一四―一一六一五行、「ところが困ったことに、近頃では魂を/悪魔から横取りする手段がいろいろできている。」より。

第七連・第八行 「ワーグナーの遺体は私のものだ。」(ジャン・デ・カール『狂王ルードヴィヒ』鳩と鷲、三保 元訳)より。

第七連・第九行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一六一三行、「早速こいつに血で署名した書付を見せてやろう。」より。

第七連・第一四行 博友社の独和辞典、「die Kleinen 子供たち」より




(自 一九九八年六月十日  至 一九九九年三月二十日 加筆修正 二〇一〇年十二月七日―同年同月二十五日)


図書館の掟。

  田中宏輔






     人柱法(抜粋)

     公共施設は、百人収容単位につき一人の人柱を必要とする。
     千人を超える公共施設に関しては、二百人収容単位につき一人の人柱を必要とする。
     人柱には死刑囚をあてること。
     准公共施設については無脳化した手術用クローンをあてること。
     人数に関しては公共施設の場合を適用する。
     一般家屋ではホムンクルス一体でよい。





濡れた手で触れてはいけない
かわいた唇で愛撫するのはよい
かわいた唇で接吻するのはよい
しかし
けっして歯を立ててはいけない
噛んではいけない
乾いた指が奥所をまさぐり
これをいたぶるのはよしとする
死者たちは繊細なので
死者たちの悪口を言ってはいけない
死者たちはつねに耳をそばだてている
死者と生者とのあいだの接触は
一度にひとりずつが決まりである
死者のコピーは司書にあらかじめ申し出ておくこと
死者がたずねられて困ることはたずねてはいけない
死者の安らぎはこれを最優先に遵守する
生者と生者との逢引はこれを禁ずる
死者は生者よりも嫉妬深く傷つきやすいため
隣人が死者の場合
隣人のひざの上に腰掛けないこと
図書館のなかで
生者が死者に変容するとき
死亡確認は司書にまかせること
死者は階級別に並べられている
第一階級は偉大な学者や芸術家たちからなる
第二階級は大貴族からなる
第三階級はその他の特権階級の者たち
大商人や高級官吏たち
第四階級は中流階級の者たち
第五階級は下層階級の者たち
太陽は入れないこと
二度とふたたび死者が受粉できなくなるため
溺れたものを目にした者は
ただちにその場を立ち去ること
死者の身体を乾かしてから
書架に並べ終わるまで
死者の貸し出しは二週間
二週間を過ぎると復活する
復活は死者の記憶を減ずる
貸し出しカードは
死者そのものであるため
取り扱いに注意すること
死者の身体の一部および全体を損なった場合
借り出した本人を死者として供する
常識的な範囲で死者をいたぶることは許されている
常識的な範囲でいたぶられることは
死者たちの幸福の一部である
リクエストは常時受け付けている
あなたの求める死者の名前を
リクエストカードに記入すれば
その死者が死んだばかりで埋葬がまだの場合
三日以内に納入されることになる
ただしリクエストされた名前が生者のものである場合
当図書館に納入されるまで
およそ一ヶ月から半年の期間を要するので
お急ぎの場合は
リクエストされた利用者の手で搬入していただくこととする
書架の死者たちの手首にはナンバーが打たれている
手首のナンバーを取り替えることはこれを禁ずる
この規約を破るものは貸し出しカードの一枚に加えることとする


     *


ガチャリという手錠の音が部屋のなかに響いた
死者を坐らせるときには気をつけなければならなかったのだが
ついぼんやりとしてしまっていた
死者は19世紀末の北アイルランド出身の若くて美しい女性で
うすくひらいた紫色の唇が言葉にできないくらいに艶めかしかったのだ
ぼくは彼女の両の手を自分の両の手で包み
彼女の唇に自分の唇を触れさせた
興奮して噛んだりしないように注意して
ぼくはぼくの上下の唇の先で
彼女の下唇をはさんだ
冷たい唇がゆっくりひらいていった
ぼくは彼女の唇に耳をくっつけて
彼女の声をきいた
死者の声はどうしてこんなに魅力的なのだろうか
声をひそめて語る彼女の言葉を聞いていると
まるで愛撫されているかのようだった
彼女の息がぼくの耳をくすぐる
過去が死者によって語られる
どうして死者の語る過去は
生者の語る現在よりも生き生きとしているのだろうか
彼女は彼女の死の間際に何が起こったのか教えてくれた
どうして理不尽な死が彼女を襲ったのか
静かにゆっくりと語ってくれた
死者の息は冷たい
冷たい息がぼくの耳にかかる
目を閉じて彼女の声を聞いていた
視線を感じて目を開けると
手前の書架と書架の間から
美しい女性の死者の視線を感じた
一度に一人ずつ
というのが図書館の掟だった
ぼくはアイルランド人の貴族の娘を立ち上がらせると
彼女を元の書架に連れいき
手錠をはめて
さきほど目にした女性の死者のところに足を運んだ
彼女の姿はなかった
この図書館にはたくさんの書架があり
見間違うこともあるのだけれど
さきほど目にした女性がいた本棚のところには
びっしりと死者たちが立ち並んでいた
20世紀後半の東南アジア人の死者たちだった
第一階級の死者たちの棚だった
それらの老若男女の死者たちのなかには彼女はいなかった
額の番号を見ても抜けている番号はなかった
見間違いだったのだろうか
その死者は東南アジア系の肌の浅黒い
ちょっぴり丸顔の若い女性だった
後ろにひとのいる気配がしたので振り返った
彼女だった
彼女は死者ではなかったのだ
ぼくの目がみた彼女の瞳は死者のそれではなく
生者のそれだったのだ
ぼくは視力がそれほどよくなかったので見間違えたのだった
ぼくは彼女に一目ぼれした
彼女もそうだった
ふたりは互いに一目ぼれしたのだった
図書館では生者同士の会話が禁じられている
死者たちに嫉妬心を呼び起こすからだというのだが
わずかにひらいたカーテンの隙間から
月の光が射し込んでいた
死者たちの魂を引き剥がす太陽光線をさけるために
その用心のために図書館は夜にしか開いていないのだ
ぼくたちは周りの人間たちや死者たちには
わからないように目で合図して図書館から出て行こうとした
するとこの部屋を監視している図書館員にでも気づかれたのだろうか
ぼくたちの後ろから
ハンドガンを携帯した二人の図書警備員が追いかけてきた
ぼくたちはいくつもの書架と書架の間を抜けて走った
迷路のような部屋のなかを彼らの追跡を振り切るために


     *


だれも借りていないはずなのに
いるはずの場所にはだれもいなかった
しかし垂れ下がった鎖が
そこに彼女がいたことを告げていた
そこには20世紀半ばころに亡くなった
アメリカの女流画家がいるはずだった
図書館には頻繁に足を運んでいるのだが
いつもだれかが彼女を借り出していた
きょう来てみて
だれも借り出してはいないことを知って
よろこんでこの書架の前に来たのに
彼女の姿はなかった
写真で見た彼女は美しかった
60代に入ったばかりのころの彼女の写真だった
きょうこそは彼女の話が聞くことができると思ったのに
司書に訊いても彼女の死体がどこにあるのかわからなかった
だれかが無断で連れ出したのだろうか
無断で死者を連れ出したりすると
どんな罰則が科せられるのか
知らない者はいないはずだけど
ぼくはまだ見ぬ彼女に会いたくて
なんとか探し出せないものかと
書架と書架の間を長い時間さ迷った


     *


死者の身体から
婦人警官が身を離した
生者との接吻で死者は目覚めるのだ
図書館警察管区の一室である
刑事は容疑者の女の前に死者を坐らせた
「死者は嘘をつけないとおっしゃるのね」
「そのとおりです」
刑事は死者の後ろに立って死者の肩に片手をのせて答えた
「死者はそのときに信じたことを事実としてしゃべるだけなのですよ」
「それまたしかりです」
「では彼が述べたことは彼が事実だと思ったことを述べただけじゃないですか」
「おっしゃるとおりです」
「彼が信じたがっていたことと嘘とはどう違うの」
「あなたは死者に感情がないとお思いですか」
刑事の横にいた女が口を開いた
「この女は何者なの」
「死者のひとりです」
容疑者の女は目を瞠った
「自分のほうから口を開いてしゃべる死者なんているの」
「きわめてめずらしいことでしょうね」
刑事は容疑者の女の目をじっと見つめた
「死者に感情なんてあるはずがないわ」
「あるのですよ」
「それと死者が嘘をつくつかないといったこととどういう関係があるの」
「死者にもプライドがあり故意に嘘をつくことができないのです」
「どうどうめぐりだわ」
刑事が口を挟んだ
「わたしたちはあなたが直接彼を殺したとは考えていません」
「当然だわ」
容疑者の女は死者の首を見た
死者の首は異様にねじまがっていた
首を吊った痕がなまなましかった
「しかし故意に他者を自殺に追い込むことは刑罰の対象になるのですよ」
「証拠はあるの」
「死者の証言しかありません」
「起訴は無理ね」
「あなたは法律が変わったことをご存じないようですな」
容疑者の女の表情が一変した
「知らないわ」
「死者の証言は容疑者の自白に勝るというものです」
「そんな・・・」
「わたしたちのような死者が出現して
 より詳しく死者について知られるようになったからよ」
死んだ女が静かに言った
そばにいた婦人警官が容疑者の前に坐っている死者の耳元にささやいた
死者の口から細い消え入りそうな声が漏れる
死者の言葉に容疑者の女は蒼白になり気を失った


     *


老女の死体はバレーを踊る
月の光のもとで
老女の死体はバレーを踊る
月の光のもとで
無声映画時代の映画のように
ぎこちない動きだけれど
老女の死体はバレーを踊る
老人の死者たちは
近い過去よりも
遠い過去について
好んで思い出す
老女は幼い頃に習った
バレーを踊っていた
月の光が
老女の白い肌に反射する
老女の影が地面を動く
老女の足が地面をこする
だれにも見つからない場所で
老女の死体はバレーを踊る
老女は画家になるよりも
ほんとうはバレリーナになりたかったのだ
人間はほんとうになりたいものにはならないものなのだ
老女の死体はバレーを踊る
月の光のもとで
老女の死体はバレーを踊る
月の光のもとで
無声映画時代の映画のように
ぎこちない動きだけれど
老女の死体はバレーを踊る
だれにも見つからない場所で
ひとりの司書が連れ出していたのだ


     *


「それでどちらのウィルスなのですか」
「記憶転写型です」
記憶転写型のウィルスに感染した死者は
その記憶がある一人の死者としだいに似てきて
最終的にはまったく同じ記憶を持つことになるのだった
「記憶欠損型よりも感染力が強くて
 性質が悪いものでしたね」
司書の表情が一段と暗くなった
「もう十年以上も前の話ですが
 東端の都市の中央図書館が
 記憶転写型のウィルスにやられて
 瞬く間に滅びました」
「そうでしたね
 わたしたちの文明は
 死者を中心に発展したもので
 その死者がわれわれを教え導いてきたのですからね
 死者たちが語る言葉に混乱や間違いがあれば
 わたしたちの都市も
 わたしたち自体も生き残ることができませんからね」
「それでどれぐらいの死者たちがウィルスに感染していましたか」
「10名です」
図書館警察の刑事がその死者たちの写真を
テーブルの上に並べていった
「そうですか
 それはよかった
 まだ初期段階でしたね
 ウィルス保菌者の生者を特定するのは難しくないでしょう
 さっそく記録に当たりましょう」
司書はテーブルの上に並べられた写真から目を上げて言った
「それはすでに手配済みです
 しかし特定された人物が存在しないのですよ」
刑事は司書にファイルを手渡した
「記録に間違いがあったとでもおっしゃるのですか」
ファイルを持った司書の手に力が入った
「いえいえそうではありません
 記録は存在するのですが
 その記録にあった人物は生きてはいないのです
 5年ばかり前に死んでいました
 遺体は火葬されていました」
司書は目を瞠った
「それでは
 死者の言葉を耳にした生者はいったいだれなんでしょう」
刑事は声を落として言った
「死者解放運動の者たちの仕業か
 他の都市の謀略か
 そのどちらかでしょう」
司書は表情を失った
「被害が小さなうちに見つかってよかった」
刑事が立ち上がって部屋から出て行った
司書は両の手で頭を抱えてテーブルの上を見つめた
テーブルの上には刑事の置いていったファイルがあった
司書にはファイルをすぐに開ける勇気がなかった


     *


「おぼえているかしらあなたも
 わたしたちがまだ学生で若かったころ
 この図書館でお互いに一目で恋に堕ちて
 図書館警備の者たちに追われて
 逃げ回った日のことを」
「おぼえているとも
 きみといっしょに
 この迷宮のような図書館のなかを
 二人して書架と書架のあいだを走り抜け
 警備の者たちを振りほどこうとして
 逃げ回った日のことを」
「そのあとわたしたちがどうなったか
 おぼえてらっしゃるかしら」
「おぼえているとも
 ぼくの父が政庁の高級役人だったので
 二人ともお咎めなしだったじゃないか
 どんな罰が下されるか
 二人してあんなにビクビクしていたのに」
「それからわたしたちは
 二度とふたたび
 二人いっしょに
 図書館に訪れることはなかったわね」
「そうだった
 訪れる必要があるときは
 かならず別々の日にしていたね」
「子どもたちのことはおぼえてらっしゃるかしら」
「ぼくたち二人の子どものことだね
 どうしてそんな聞き方をするんだい
 デイヴィッドとキャサリンがどうかしたのかい」
「いえ」
「デイヴィッドはぼくに
 キャサリンはきみに似ていたけれど
 二人を並べるとやっぱり双子で
 瓜二つそっくり同じ顔をしていたね」
「わたしたちの子どもたち
 ただふたりきりの兄妹だった
 でも車の事故で二人とも死んでしまったわ
 わたしもそのときに死にかけたのだけれど」
女の目から涙が落ちた
女はしばらくのあいだむせび泣いていた
死者の視線は女の目に注がれたままだった
「ごめんなさい
 あなたに聞かせても
 あなたはあなたが死んでからの出来事は
 何一つ覚えていられないのに」
死者は新しい知識を長時間記憶できないのだった
女は立ち上がって部屋を出た
部屋の外には死者を目覚めさせ
眠らせることのできる死者の女がいた
この死者は自分の方からしゃべることができ
またウィルスに感染しないのだった
その死者の女は生者の女と入れ替わりに部屋に入った
生者の女は隣の部屋に入った
「たしかにわたしの夫の記憶が転写されています
 赤の他人が夫の記憶を持っているなんて耐えられないわ」
係官はうなずきながら
記憶転写ウィルスがどれだけ正確に記憶を転写させているか
チェック項目にしるしをつけていった


     *


オリジナルの死者を含めて
ウィルスに感染した10人の死者が火葬にふされた
つぎつぎと灰と煙と骨にされていく死者たち
眠りのさなかに燃え上がる10人の死者たち
死者たちは痛みを感じない苦痛を感じない
同じ記憶をもった10人の死者たち
つぎつぎと灰と煙と骨になっていく
同じ記憶を持った10人の死者たち


     *


夫の記憶を
ほんとうの夫の記憶を
白紙状態の死者にコピーするというのだけれど
赤の他人が夫の記憶を持っていることには違いはない
もう二度と夫のもとには訪れないわ
いえそれはもう夫ではないのだから
そんな言い方もおかしいわ
夫ではないんですもの
いえいえ違うわ
記憶は夫のものよ
わたしにはあのひとの記憶が必要だわ
わたしにはあのひとの言葉が必要だわ
二人のあいだの思い出を語り合うことが
わたしの慰め
わたしの唯一の慰めですもの
あのひとの顔ではないけれど
あのひとの記憶を持った男のところに
夫の思い出を語る赤の他人のところに
きっとわたしはやってくるでしょう
すぐにとは言わないまでも
遠くない日
いつの日にか
ふたたび
また


     *


「かけたまえ」
男は図書館長の視線から目を離さずに腰掛けた
「カタログは、そのなかかね」
男は持ってきた鞄を図書館長の目の前に置いて開けた
二つ折りのカタログを手に持って
男は唇の端を上げて、図書館長に思わし気な視線を投げかけた
「そのカタログにある死者が、どうして、わたしの興味を強く惹くと考えたのかね」
「電話でもお話ししたと思いますが、それはあなた自身が詩人だからです
 しかも、この詩人の死者の研究家だからですよ」
「わたしの研究分野は、きみが思っているほど狭いものではないのだよ
 それはいったい、だれなんだね。その死者の詩人は」
「あなたは、かねがね、死者による詩の朗読会を催したいと
 いろいろなところで発表なさっていますね
 この死者の詩人は、生前に、あなたのおっしゃったようなことを
 していたのですよ」
図書館長は深く腰掛けていた椅子から身を乗り出すようにして
上体を前に傾けた
「いったい、それは、だれだね」
図書館長の頭のなかに何人かの詩人の顔が浮かんだ
男はエゴン・シーレの絵を見上げた
「あなたの後ろにあるシーレの絵を
 この詩人も生前は大好きだったようですね」
図書館長にはすでにその死者がだれであるのか察しがついていたが
男の態度に怒りを覚えて眉間に皺を寄せた
「もったいぶらないで、はやく教えたまえ
 いまきみを図書警備の者に言って出て行かせることも出来るのだぞ
 あるいは、きみを直接、図書館警察の身に引き渡すこともできるのだ
 死者はオークションに出品しなければならない
 その法律を破った者に、どんな罪が科せられるか知っているだろう」
「いや、あなたは、そんなことはしませんよ
 ぜったいにできませんよ
 このカタログをごらんになればね」
男は図書館長の前にカタログをもって拡げた
図書館長はため息をついた
「これは、わたしが研究している日本の21世紀の詩人じゃないか
 生前に、引用のみからなるポリフォニックな詩を書いていた詩人で
 そうだ
 わたしもこの詩人のように考えたことがあったぞ
 すぐれた詩人たちによる
 すぐれた作家たちによる朗読大合唱なのだ
 大共同制作なのだ
 シェイクスピアが生きていたら
 いや死んでいてもいいのだ
 死者として図書館にいてくれたら
 さまざまなすぐれた詩人や作家が死者として図書館にいてくれたら
 彼ら・彼女らに、どれだけの美しい詩を聞かせてもらえるか
 また組曲のようにして
 合唱のようにして
 彼ら・彼女らの朗読コンサートができるのに
 ああ、シェイクスピアが
 エリオットが
 マラルメが
 ポオが
 図書館のできたときに死者であったならばよかったのに」
図書館長は興奮して一気にしゃべった
男はカタログを閉じた
図書館長は目をすえて、男の目を見た。
「さて、どうなさいますか」
男は、いかにも小ずるそうな表情をして図書館長の顔を見た
図書館長は机の引き出しから小切手帳を取り出した


     *


男は図書館長から小切手を受け取った
死者たちによる合唱だって
死者たちの共同制作だって
たとえすぐれた詩人であろうと
すぐれた作家であろうと
ただ死者たちが持つ記憶を
あの愚かな図書館長がコラージュするだけではないか
それが過去の詩人たちによる
過去の作家たちによる
合唱とか共同制作とかと呼べるようなものになるのか
あの愚かな図書館長のこころのなかでは
そうなのだろう
すぐれた詩人や
すぐれた小説家たちが円陣になって
大傑作を創作している
そんな妄想を
あの愚かな図書館長は
あの頭のなかに描いているのだろう
そしておれの財布のなかには
あの愚かな図書館長の妄想によって
大金が転がり込んできたのだ
歩合はそう悪くない
おれの儲けもけっして小さくはない
なにしろおれの命がかかっているのだからな


     *


図書館長は椅子の背にもたれて
男が去っていくときの表情を思い出していた
他人を小ばかにしたようなあの笑みを
無理解というものが
どれだけ芸術家にとって大切なものか
共感されること以上に
バカにされたり
無視されたりすることが
芸術にとって
どれだけ大切なことなのか
あの男は知らない
そう思って
図書館長はほくそ笑んだ
偶然が生み出す芸術のすばらしさを
いったいどれだけの芸術家がほんとうに知っているのだろうか
他のすぐれた詩人や作家たちが口にする
体験の記憶や作品のフレーズの豊かさを
そしてまた
芸術家ではないが
自己の体験をよく観察し
そこから人生について意義ある事柄を知り
それから語られるべきことを語ることのできる人々の言葉が
どれだけ豊かであるのかということを
そういった死者たちを
図書館がどれだけ抱えているのかを
そういった人々や詩人や作家たちによって
つぎつぎと繰り出される言葉たち
それらが編み出す一篇の巨大なタペストリーが
どれだけ美しいものになることか
それを知らないのだ
わたし以外の者たちは
図書館長は大きくため息をついて
よりいっそう目を細めて笑った
そのタペストリーは随所にきらめきを発することだろう
もちろん
ところどころにある沈み込みは仕方がないであろう
意味もなさず
映像喚起力もないところは随所にあるであろう
しかし
ディラン・トマスのすぐれた詩のように
きっとすごいフレーズが顔を覗かせてくれるだろう
図書館長は机の引き出しから二冊のファイルを取り出した
上のものには
これまでに図書館に収められた
すぐれた詩人や作家たちの写真がファイルされていた
下のものには
図書館長が選んでいた
さまざまな階級や職業の死者たちの写真が並んでいた
貼り付けられた写真の下には
図書館長の細かい字が
びっしりと書き込まれていた


     *


図書館長は自分が翻訳した詩人のメモの訳文に目を通した

 シェイクスピアの自我は彼の作品に残っている
 その影響は後世の人間の自我の形成に寄与している
 とりわけ詩人や作家や批評家に
 
 たくさんの詩人たちのなかに
 たくさんの作家たちのなかに
 それぞれのシェイクスピアがいる
 シェイクスピアの自我がさまざまな姿をもって
 おびただしい数の人間のなかに収まっているのだ
 その表現者の一部となった
 たくさんのシェイクスピアがいるのだ

この詩人の自我もわたしの一部となっているということだ
わたしの思考傾向をつかさどる自我の一部となっているのだ

図書館長は
番号のついたメモの写しをファイルにしまった


     *


図書館長は
詩人のメモのコピーを眺めていた

 作者が作品と同じ深さをもっているとはけっして言えない
 作者が作品と同じ高さをもっているとはけっして言えない
 作者が作品と同じ広さをもっているとはけっして言えない

図書館長は
コピーのページをめくっていった

 作品には未来がある
 解釈はつねに変化するのだ

図書館長は
またべつのメモのコピーに手をとめた

 読み手は作者を想像する
 作者は読み手を創造する

 これを逆にすると
 ただ陳腐なだけだが
 真実はどちらにあるのだろうか
 どちらにもあるのだろうか
 どちらにもないのだろうか

 読み手は作者を創造する
 作者は読み手を想像する

 もしかすると
 こうかもしれない

 読み手は作者を創造する
 作者も読み手を創造する

 しかし
 つぎのような可能性は
 考えるだけでもむなしくなるものだ

 読み手は作者を想像する
 作者も読み手を想像する

図書館長は
このメモのコピーの上で
左の肘をついて
手のひらにあごをのせた
手のひらに
今朝剃り忘れたひげがあたって
ジリリと小さな音を立てた
もう何度も目を通しているコピーであったが
図書館長の
右手の人差し指が
このメモの言葉の下を
ゆっくりとなぞっていった 


     *


図書館長の目が
詩人のメモの上を走る

 現代人は
 現代人であるがゆえに
 個人としてのアイデンティティーが希薄だ
 パソコンメール
 携帯電話
 携帯メール
 人格の浸透が常に行なわれているのだ
 子どもたちの人格の浸透度を考えると
 現代こそ
 一九八四年の世界であるということがわかる
 と考えたこともあるが
 いったい人間が
 まったき個であったことなどあったのだろうか
 どの時代に?
 なかったろう
 つねに
 わたしとは、わたしたちなのだ
 わたしとは、わたしたちなのだった

図書館長は、詩人のメモのコピーをファイルにしまうと
帰り支度をはじめた


     *


図書館長は、連日
詩人の原稿に目を通していた

 書かない人間のほうがよく知っている
 並みの書き手はあまり知らず
 優れた書き手はほとんど知らず
 最良の書き手はまったく知らない
 だから書くことができるのだ
 書かない人間は愛することができる
 愛することについて書く人間は
 真に愛したこともなければ
 真に愛されたこともないのだ
 作家とは恥ずかしい輩だ
 詩人とは恥ずかしい連中だ
 知らないことを書いているのだから

図書館長の口からため息がもれた


     *


目を開くことはできないが感じることはできる
死者たちは感じることができるのだ
手錠につながれた死者たちは感じていた
生者たちが書架と書架のあいだで
睦言をささやいているのを
恋人たちが互いを思いやり
いたわり合って言葉を紡ぎ出しているのを
死者たちは感じるのだ
嫉妬を
死者たちは
もはや特定の個人を愛するということができないので
それができる生者たちに嫉妬を覚えるのだ
生者たちの愛を目の当たりに感じること
それが唯一
死者たちのこころを乱すものなのだ
死者たちにこころがあったとしての話だが
というか
こころと呼んでいいものが死者にもあるとしての話なのだが

死者たちの心理学はまだ解析されはじめたばかりであったが
生きている者と同様に自らの意志で目を開くことのできる死者が出現して以来
それらの死者たちについての分析が急速に進展していることは事実であった
ただそれが
自らの意思では目を開くことのできない死者にも適応できるものなのかどうかは
異論が続出しているのが実態である

生者たちの睦言
そんなものでさえ
死者たちにとっては
致命的なものなのだ

それが
やがて死者たちが
自分の記憶を語ることができないようになる要因のひとつであった

生者と生者との逢引はこれを禁ずる

これは大事な図書館の掟のひとつであった

死者たちは動揺していた
恋人たちの睦言に

大いなる嫉妬の嵐が
死者たちの胸のなかを吹き荒れていた

図書館の天蓋の窓ガラスから落ちる月の光が冴え冴えと
目をつむって眠ったように死んでいる
死者たちの白い死衣にくるまれた身体を照らし出していた


     *


両手が鎌になっている死者が
リングの中央で切りつけ合っている
それを10人ばかりの生者たちが見守っている
生者たちは自分の賭けているほうの死者の名前を
口々に叫んで応援している
一人の死者が相手の死者に肘を切りつけられて
片腕を落とした
切断された肘から
白濁した銀色の体液が滴り落ちる
片腕の死者がよろけたところで
相手の死者が両手の鎌を交差させて
死者の首を挟んで鋏のようにして切断した
首が落ちて
首のない身体がくず折れる
一瞬
静寂が訪れる
その沈黙のベールを破って
扉が開けられた
「動かないで
 あなたたちを逮捕します」
最初に部屋になだれ込んだ刑事が言った
だれも動かなかった
「全員
 死は免れないでしょう
 もちろん
 あなたたちには
 死者になる権利は剥奪されるでしょう
 死と同時に火葬に付されるでしょう」
警察官の手によって
死者のゲームを主催していた者や観客たちが
つぎつぎと手錠につながれていった


     *


「それではつぎに弁護側の死者に証言させてください」

法廷には
弁護側の死者と
検察側の死者が出廷していた

死者は虚偽を口にすることはないので
裁判で証言者として認められることになったのである

証言台のところで
女性の死者に
生者の弁護士助手が近づいて
耳元にささやいた

女性の死者の口から
ぽつぽつと言葉がもれていく
マイクがその声をすべて拾っていった


数式の庭。

  田中宏輔




庭に数式の花が咲いていた。
よく見かける簡単なものもあれば、
学生時代にお目にかかったややこしいものもあった。
近づいて、手でもぎると、
数と記号に分解して、
やがてすぐに、手のひらのうえで消えた。
庭を見下ろすと、
数式は、もとの花に戻っていた。


*


数式の花のあいだを
ぼくの目の蜂たちが飛び回る
数式の花にとまり
その蜜を集めて
足に花粉をつけて
飛び回る
やがて
数式の花は受粉し
実を結ぶだろう。
つぎの新たな数式を。


*


ぼくが庭で
数式の花が息ならば
なんと、かすかで
力強い息なのだろう

その息が枯れぬよう
ぼくは、ぼくである庭にこころを砕いた
ぼくは、ぼくである庭に願った
ちょうどよい日ざしと雨が訪れますようにと

でも、訪れたのは
日照りつづきと
草をもなぎ倒す嵐の日々
それでも
数式の花は咲く

なんと、かすかで
力強い息だろう
ぼくは、ぼくである庭に祈る
たとえ、どのような日でもよい
訪れよと


*


庭に出て
背中を伸ばした。
部屋にこもりきりで
ずっと本を読んでいて
疲れていたのだ。

花のひとつに手をのばして
マクローリン展開した。
すると、数式の花は
めまぐるしく姿をかえ
やがて、ぼくの手のなかで
もとの美しい多項式に姿を戻した。

ぼくは
庭の隅に花を放り捨てた。
たちまち、数式の花は
空中で数字と記号にかわって
庭土のうえに散らばって落ちた。


*


しばらくのあいだ
鼻を近づけて
数式の花の香りを楽しんでいると
ふと、気がついた

ぼくが
香りを楽しんでいるのではなくて
数式の花が
ぼくを楽しんでいるのだと


*


数日前につくって
ほっておいた数式が
庭できれいに咲いていた。

その数式の花は
その前につくった、いくつかのものと
まったく同じ数の数字と記号でできていたのだが

花は色と形と香りを変えながら
庭の風景をも変形し
わたしの姿をも変形した。

かぶってもいない帽子を手で押さえ
履いた記憶もない服の裾に目を落とした。
風にブラウスの水色が揺れていた。

その数式の花も
風になぶられ、風をなぶりながら
つぎつぎと色と形と香りを変えていった。


*


いま、わたしの庭には
円周率πの花が咲いている。
虚数単位iの花が咲いている。
ネイピア数eの花が咲いている。
数1の花が咲いている。
数0の花が咲いている。
まだ咲いていないけれど
わたしの目のなかに咲いた
オイラーの公式の花が
いちばんうつくしかった。


*


わたしは蝶だった。
生きているときには蝶であったものだった。
いまはほぼ蝶の死骸というものになっている。
蟻たちが、わたしを数字と記号に分解していく。
まだ分解されずに残った私の複眼に
無数の空と無数の雲と無数の花が映っていた。
わたしを生きている蝶にしていたものは何だったのだろう。
わたしを蝶に生まれてこさせたものは何だったのだろう。
わたしは、花や雲や空と、何が違っていたのだろう。
複眼が外され、徐々に数字と記号に分解されていく。
ひとつひとつに別れていく雲と空と花たち。
もとは同じ数字と記号であったのに。


*


わたしはただの1つの記号にしか過ぎないのだけれど
わたしはときどき他の数や記号といっしょにされて
一度も訪ねたこともない場所で
思いもしたことのない力でもって変形され
はじめて出くわす次元に出現する。
わたしを、それまでのわたしでなかったものにする
その変形の力と、その力の場は
わたしが変形されているあいだにおいては
わたしと一体となっているのだが
しばらくすると
ふっと
力が抜けて
わたしのもとから立ち去るのである。
立ち去られたわたしは
それがなにものであるのか
それがなにであったのかの記憶はないのだけれど
わたしが以前と同じ姿かたちをした記号であっても
けっして以前とは同じ意味内容をもった記号ではないことを
わたしと
わたしに変形を及ぼした、そのものだけが知っている。
そして、わたしに変形を及ぼした、そのものが
ひとつの魂をもつものであって
そのひとつの魂が
他の無数の魂と共有するひとつの場に、わたしを置き
わたしを変形し
わたしを新しく生まれ変わらせたことを
わたしは知っている。
変形のその場とその時において
わたしが、わたしを変形した、そのものとが
一体であったためであると思う。
その存在は、わたしを変形しているときには
わたし以外のなにものでもなく
わたしそのものであったというのに。
それとも、わたしが
わたしこそが
変形するその場とその時そのものであったとでもいうのだろうか。
ひとつの記号にしか過ぎないわたし。
反転しても同じ形をしたわたし。
総和をあらわすギリシア語の最初のアルファベット。
インテグラル。


*


あらゆるものが比である。

指が
いくつかの
大きさの異なる
数式の輪郭をなぞる。

指は
太陽の輪郭をなぞり
庭に咲く
数式の花の輪郭をなぞる。

指がなぞる
いくつもの数式の花たち。

つぎつぎと変形されて
異なる相に出現していく数式の花たち。

異なる相において詳らかになる新たな構造。
姿を変えた数多くの数式の花たち。

数式の花の花びらを引きちぎっては
庭に撒き散らす指の動き。

それは
蝶の飛跡にも似た
目の運び。

目は
しばしば
忘我となって
数そのものとなり
記号そのものとなり
ときには
線分そのものとなり
角そのものとなる。

指は
目となり
鼻となり
耳となり
口となる。

それは
たちまち
指差されたものそのものとなり
見られたものそのものとなり
かがれた香りそのものとなり
聞かれた音そのものとなり
口にされた言葉そのものとなる。

あらゆるものが比である。

指が
いくつかの
大きさの異なる
数式の輪郭をなぞる。

指は
太陽の輪郭をなぞり
庭に咲く
数式の花の輪郭をなぞる。


*


むかしからよく見かける
数式の花も
見慣れたものだが
うつくしい。

新しく見慣れない数式の花が咲いていて
すこし奇妙な感じがするのだが
それはまだ見慣れていないためだろう
十分にうつくしい。

そして
それ自身は
それほどうつくしくはないのだけれど
こんな数式の花も咲いている。

それ自身のうつくしさは
取るに足らないようなものなのだが
それが咲いているために
ほかの数式の花が
ことのほか、うつくしく見えるのだ。

その花の貧しいうつくしさによって
うつくしさの貧しさによって
他の花の豊かなうつくしさに
うつくしさの豊かさに気づかされるのだ。

しかし、そういった花に
貧しいという言葉を与えたのは
間違いだったかもしれない。
ときには、間違いも
またうつくしいものだけれど。

わたしの数式の庭では
すべての花が咲き匂っている。
わたしは、わたしのちっぽけな存在を
その花のなかにおいて、しばらく眺めていた。


*


花もまた、花に見とれている。


*


数式の庭が、わたしを呼吸する。
わたしもまた、数式の庭を呼吸する。
数式の庭が、わたしを吐き出し、わたしを吸い込む。
わたしが、数式の庭を吐き出し、数式の庭を吸い込む。
数式の庭が明滅するたびに、わたしの存在が明滅する。
わたしの存在が明滅するたびに、数式の庭が明滅する。
この数式の庭が存在するので、わたしが存在する。
もしも、この数式の庭が存在しなければ、わたしは存在しない。
わたしが存在するので、この数式の庭が存在する。
もしも、わたしが存在しなければ、この数式の庭は存在しない。


*


数式の花が夢のなかでわたしを見る。
夢がわたしのなかで数式の花を見る。
わたしが数式の花のなかで夢を見る。
数式の花がわたしのなかで夢を見る。
夢が数式の花のなかでわたしを見る。
わたしが夢のなかで数式の花を見る。


*


数式の花が庭のなかでわたしを見る。
庭がわたしのなかで数式の花を見る。
わたしが数式の花のなかで庭を見る。
数式の花がわたしのなかで庭を見る。
庭が数式の花のなかでわたしを見る。
わたしが庭のなかで数式の花を見る。


*


・・・・・・わたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲く・・・


*


わたしを変形し
展開していくあなたから
あなたが所有していなかったものが流れてくる。
あなたがあなた自身のなかにあることを知らない
つねにあなたのそとにあり、それと同時に
いつでもあなたのなかに存在することもできるもの
ほかのあらゆるものとつねにつながっており
それと同時にほかのあらゆるものとは別の存在であるもの
つねにほかのものと、その存在の一部を与え合い受け取り合うもの
それがわたしに流れ込んでくることがわかる。
その力は、あなたをも変形し展開し
わたしとあなたを結びつけ
「数式」の意味を変え
「あなた」の意味を変え
「数式でもあり、あなたでもあるもの」をつくりだす。
「数式でもなく、あなたでもないもの」をつくりだす。
わたしを違う相に移し
わたしの構造を変える。
あなたを違う相に移し
あなたの構造を変える。
やがて、流れはとまり
わたしたちの結ぼれはほどけ
わたしは、もとの数式の花に立ち戻り
あなたも、もとのあなたに立ち戻る。
けっして同じ
「数式の花」でもなく
「あなた」でもない
わたしとあなたに。
二度と同じものではない
わたしとあなたに。


*


あなたが忘我となるとき
わたしは歓喜の極みとなる。
わたしもまた、わたしが数式であることを忘れる。
そのとき、あなたは喜びの極致に至る。
忘我とは、我であり、我でないもの。
歓喜の極みとは、もはや歓喜ではない。
喜びの極致とは、もはや喜びではない。
存在そのものなのだ。
わたしとあなたの忘我と歓喜が
存在を存在ならしめるのだ。
そのためにわたしはいる。
そのためにあなたはいる。


*


もはや、あなたのいないわたしはなく
あなたのいないわたしも存在しない。
わたしのいないあなたは、あなたではなく
あなたのいないわたしはわたしではない。
存在が、わたしとあなたをひとつにしているのだ。
それとも、わたしとあなたが存在というものなのだろうか。
数式をいじっていないあなたはあなたではなく
あなたにいじられていないわたしは数式ではないということなのだろう。
やがて、わたしは、わたしを自ら変形し展開するようになり
あなたも、あなた自らを変形し展開していくようになったのだけれども
つねに、わたしの一部はあなたであったし
あなたの一部は、わたしであった。
わたしの変化と、あなたの変化は連動していた。
わたしとあなたは、とても似てきたのだ。
わたしとそっくりなあなたがいる。
あなたとそっくりなわたしがいるのだ。
いつの日か、わたしがあなたであり
あなたがわたしであるようになる日がくるのだろうか。


*


見る見るうちに
いましも、しぼみ
しおれていくところだった。
この数式の花は死んで
ほかの数式の花を咲かせる。
そのためにこそ
この数式の花はある。
だからこそ
この数式の花は
何度も死ななければならない。
他の数式の花を何度も咲かせるために。


*


庭に出て
花たちを眺めていると
花たちの顔が
わたしの隣を見ているような気がしたので
横を見ると
十年ほどもむかしのわたしだろうか。
深刻な表情をして花のほうを見ていた。
その奥にあるわたしの部屋では
高校生ぐらいのわたしだろうか。
受験参考書か問題集と取り組んでいたのだろう。
ノートにせわしくペンを走らせていた。
そのうち、つぎつぎと
さまざまな齢のわたしの姿が
庭を取り囲んでいった。
数も数えられなくなった。
わたしはいつの年のわたしなのかと
ふと思った。
無数のわたしのなかの
ひとりのわたしであるのだろうけれど。
そうか。
数式の庭もまた
さまざまなわたしを眺めていたのだと
わたしは気がついた。
さまざまなときに咲く
さまざまに咲くわたしを。


*


数字や記号が
ばらばらと落ちる。
土は手をのばして
それらの数字や記号を
土のなかに引き入れる。
数字や記号が
じょじょに土のなかに
吸い込まれるようにして
姿を消していく。


*


花びらの一枚一枚が
色あざやかな光の形をしている。
花びらの一枚一枚が
生命の色に輝き彩られている。
数式の花は
光と息を吸収して育つ。
数式の花は
光と息からできている。
光は
わたしたちの目で
息は
わたしたちの生命で
数式の花は
わたしたちの目と生命にあふれている。
だからこそ
ときおり
とりわけ
忘我のときに
数式の花が
わたしたちの目となり
わたしたちの息そのものとなるのだった。


*


その花は
噴水のように
つぎつぎと変形し
展開するのだけれど
同じ形に見えてしまう。
増えつつあり
減りつつあるので
減りつつあり
増えつつあるので
いつまでも同じ数の花を咲かせ
それらはつねに異なる形をとり
それらはつねに異なる色に染まるのに
同じ形と色合いをもっているのだ。
その噴水のように咲く数式の花を
長いあいだ見つめていることがある。
わたしもその花の花弁のように
みずからの内部に落ち
みずからの内部より上昇する。
何度も何度も際限もなく
それを繰り返して生きているような
そんな気がするのだった。


*


その数式の花の花壇では
ブラウン運動のように
数字や記号が動き回っている。
式変形も、
式展開もまったく予測がつかず
無秩序に数字や記号が動き回っている。
そんな印象がするのだった。
法則はどこにあるのだろう?
あるのだろうか?
あるとすれば
それは、花壇のなかに?
それとも、花壇のそとに?


*


その数式の花のことを
「ふたつの花」と呼んでいる。
ひとつなのだが、ふたつだからである。
その花が変形し展開するとき
その花の影も変形し展開するのだが
まったく異なる形に変形し展開するのだ。
影だけ見ていても美しい花なのだが
空に雲がかかり
影のほうの花がすっかり見えなくなると
影ではないほうの花も同時にとまり
式変形もせず式展開もしないのであった。


*


この花が咲いているときには
数式の庭には風が吹かない。
風がきらいなのである。
多くの数式の花と同様に
この花の花粉は、わたしの目が運び
わたしの手が運ぶ。
考えごとでもしていたのだろうか。
間違えて
不等号記号を置くべきところに
等号記号を置いてしまった。
すると
その数式の花は
みるみるうちにしぼんでしまって
ばらばらの数字と記号の塊になってしまったのだった。
しかし
見ていると
その数字と記号のひと塊のものが光り輝き
見事に美しいひとつの数式の実となったのだった。
わたしは自分が間違えて
不等号記号の代わりに等号を置いたのかどうか
振り返って
考え直さなければならなかった。


*


まだらの影になった
庭を見下ろした。
すべての花が枯れ果てて
数と記号が庭じゅうに散らばっていた。
わたしのこころが、いま打ちひしがれているからだろう。
わたしのこころの状態が
この数式の庭に呼応しているのか
あるいは、逆に
わたしのこころの状態に
この数式の庭が呼応しているのか。
そういえば
数多くのこころの日々
この庭にある
さまざまな数式の花が
わたしの目を喜ばせ
わたしのこころを喜ばせてくれたものだった。
わたしは庭に降り立ち
そこらじゅうに散らばった数と記号を手に集めて
じっくりと眺めていた。
雲がさり
庭に陽が射した。
ふと思った。
いま、わたしのこころを痛めている事柄も
いつかは時が過ぎ
わたしのこころの状態が変わるときがくるであろうと。
すると
わたしの手のなかにあった数と記号が
じょじょに薄くなり
やがて消え去ってしまった。
庭を見ると
どの数式の花も
小さなつぼみをつけて
花を咲かそうとしているところだった。
わたしの頬がゆるんだ。
小さなつぼみばかりの数式の花たちが
わたしの目にまぶしく輝いていた。


*


わたしは
新しい目で
それらの花たちを眺めた。

それらの花たちもまた自分たち自身を
新しい目で
見つめ合っていた。


*


さあ
すべての花よ
元に戻りなさい。
そう言うと
すべての数式の花が
つぎつぎと変形し
元の姿に戻っていった。
すっかり元に戻ると
ふたたび最初から
数式の花が変形しはじめた。


*


わたしにとって
この数式の庭は
エデン以上にエデンである。
なぜなら
すべての花が永遠の命であり
すべての花が知恵であるから。


*


友だちが
ひとつの花を指差して
その数式の意味について話してくれた。
わたしとは違った解釈だった。
わたしは友だちの言葉の意味を考えた。
すると
友だちが指差した数式の花が
姿と色を変えて
まったく違ったものになった。
その瞬間
庭のほかの花たちも違ったものになった。
すっかり様子が変わった数式の庭を眺めながら
わたしは
わたしと
わたしの横にいる友だちとのあいだでは
この数式の庭の風景は
きっと異なるものなのであろうなと思った。


*


黒い小さな影が
いくつか、ちらほらと。
花にとまっては
数や記号のあいだに
細長い黒い線をのばす。
数式の花たちのうえを
ちらほらと飛んでは
花弁にとまって
数や記号のあいだに
細長い黒い線をのばす。
やがて
いくつかの
その黒い影は
輪郭を明瞭にし
あざやかな色をもって
蝶の姿形となっていった。
蝶たちもまた
数や記号でできた
この数式の庭の花なのであった。


*


きょうは
目をつむって
庭を眺めようと思った。
目をつむると
目をあけているときには
はっきりと見えなかったものが
見えることがあるのだ。
蝶たちや蜂たちの羽音も
花たちが
永遠の命と
知恵につながる音も
つぎからつぎに変形し
展開していくすばらしい音も
目をつむって見たときのほうが
よく見えるのだった。
目をつむったまま
ふたつの手のひらを合わせ
くぼみをつくると
そこに蝶が姿をあらわす。
手のひらにかすかに翅があたる。
目をつむったまま
手のひらを閉じ
ふたたびくぼみをつくると
そこに蜂が姿をあらわす。
手のひらにかすかに翅があたる。
目をつむったまま
手のひらを閉じ
ふたたびくぼみをつくると
そこにたくさんの数字と記号が姿をあらわす。
手のひらのなかで
数式の花たちが
つぎつぎと変形し
展開していく。
手のひらにかすかに数字や記号が触れる。
いったん手のひらを閉じ
じょじょに手のひらを離していって
そのあいだに
数式の庭を
すっぽりと入れた。
目をつむったまま
わたしは
わたしの庭を
じっくりと眺めた。
手のひらに感じる永遠の命と
知恵。


*


花があるので
花のしたの草や土が見える。
庭があるので
庭のうえの雲や空が見える。
雨が降ると
雨に濡れた草や土が見える。
雨が降ると
雨に濡れた雲や空が見える。


*


わたしが
数式の花をつぶさに観察し、理解すると
花もまた
わたしのことをよく観察し、理解するのだった。


*


花は
花から生まれて
花になるのではなかった。
この数式の庭の一部が
これらの数字や記号が
わたしの目と手でもって
花となって咲くのであった。


*


それほどうつくしいわけでもなく
独特の雰囲気をもったものでもなかった
その数式の花は
わたしの目をとくに魅くものではなかったのだ
その花が
この数式の庭の映像をよりクリアにして
たくさんの数式の花たちの
そのほんとうの形や色に気づかせてくれるまで
わたしにはわからなかったのだった
この数式の花の価値が。
数多くの数式の意味を正しく把握できたのは
この数式の花のおかげだった。
正しく理解するように促し
さらにより深く考えるように示唆する
この数式の花。
もしかすると
この花が
この数式の庭のなかで
もっとも重要なものなのかもしれない。


*


数式を通してしか存在しないものがあり
あなたを通してしか存在しないものがあり
数式とあなたを通してしか存在しないものがある。
数式を通したら存在しないものがあり
あなたを通したら存在しないものがあり
数式かあなたたのうちどちらかを通したら存在しないものがある。


*


わたしは、ときどきわたしを忘れるので
数式の庭を眺めて、わたしを思い出すことにしている。
数式の庭もまた、ときどき自分自身を忘れるので
わたしを眺めて、数式の庭を思い出すことにしている。


*


もしも
数式の庭が
神の吐き出した唾なら
わたしは
その唾の泡
一つにも
値しないかもしれない。


*


いくつかの数を葬って
いくつかの記号を葬って
わたしの足音が遠ざかってゆく。


*


葬られた数式が
しだいに分解していく。
分解された数式は
おびただしい数の数や
記号といったものの亡骸は
わたしそっくりの
亡霊となって
わたしのいない
数式の庭を眺めている。


*


目で見え、目そのものとなるもの
耳に聞こえ、耳そのものとなるもの
手で触れ、指や手の甲そのものとなるもの
舌で味わえ、舌そのものとなるもの
こころに訴え、こころそのものとなるもの
思考を促し、思考そのものとなるもの
そんなものばかりから
世界はできているのではない。
もしも
そういったものだけからできているとしたら
世界は、とても貧しいものであるだろう。
じっさいには
世界は豊かである。
視線とならぬ、光でないものもあり
音域にあらぬ、音でないものもあり
質量や体積を持たぬ、物質でないものもあるのであろう。
こころにならぬものがあり
潜在意識や顕在意識にならぬものがあるのだろう。
かつて、わたしは
わたしの全存在が
時間や
場所や
出来事からなっていると考えていた。
わたしを取り巻く
あらゆるすべての事物・事象が
かつては、わたしの一部となり
いま、わたしの一部であり
これから、わたしの一部となるであろうと考えていた。
あらゆるすべてのものが
わたしとなるであろうと考えていたのであった。
わたしを取り巻く
あらゆるすべての事物・事象と
わたしがつながっていると考えていたのである。
あらゆるすべてのものが
わたしにつながるであろうと考えていたのであった。
しかし、この数式の庭には
かつて
時間でなかったものや
場所でなかったものや
出来事でなかったものもあるのであろう。
あるいは
いま
時間でないものや
場所でないものや
出来事でないものもあるのであろう。
あるいは
これからも、けっして
時間にならぬものや
場所にならぬものや
出来事にならぬものもあるのであろう。
この数式の庭が
いま咲き誇っている
この数式の花たちが
わたしにとって
かくも豊かであるというのも
かつて数式であったものたちや
これから数式になるものたちだけではなく
いま数式でないものたちや
これまで数式にはならなかったものたちや
これからも数式にはならないであろうものたちが
この数式の庭のなかに存在するからであろう。
この数式の庭は
わたしにとって
思考をめぐらす格好のモデルであった。
世界は
わたしとなるものばかりからできているのではなかった。
わたしとつながるものばかりからできているのではなかった。
けっして、わたしにはならぬものからもできており
けっして、わたしとはつながらないものからもできているのであった。
これは
わたしの確信であり
この確信こそが
わたしであると言ってもよい。


*


はたして、ほんとうに
わたしにならないものなどあるのだろうか?
ああ、あるように思う。
わたしのなかにやってはくるけれど
わたしが式を組み立て
変形し展開させるときに力を貸してくれるのだけれど
けっして式そのもののなかに数や記号として入ってくるわけではなくて
わたしのなかにやってきた痕跡さえも残さず
わたしのなかから立ち去ってしまうもの。
いや、それは
つねに、わたしの外にあって
それと同時に
わたしの内部に侵入し
わたしを
それまでのわたしとは異なるわたしにするもの。
これをロゴスと呼んでもよいと
あるいは
神と呼んでよいと
以前のわたしは思っていたのだった。


*


文章において
あるいは
詩において
後者のほうが顕著であろう。
すべての余白が
まったく異なる意味を持っている。
わたしの外からやってきて
わたしの外にあるのと同時に
わたしの内部で
わたしの思考に働きかけるものも
わたしの思考の逐一に従って異なるものなのだろうか。
あるいは
それは
つねに同じものなのだろうか。
同じものでさまざまに異なるものなのだろうか。
ひとつの顔における
さまざまな表情のように。
ひとつの式における
さまざまな変形や展開のように。


*


わたしの外にあって
わたしの内部に入ってくる
それは
けっして、わたしにはならない
わたしになることはない
それは
わたしがいないときにも存在するのだろうか。
わたしがいるからこそ
わたしの外にいるのだとしたら
わたしがいないときにも
この数式の庭のなかに存在することができるのであろうか。
わたしの存在とはまったく関係もなく
それは
存在するものなのだろうか。
数式の庭を眺めながら
つらつらと
そのようなことを考えていたのだが
とつぜん
目のまえで
花たちが
つぎつぎと変形し展開していった。


*


それが存在することを感じ取れないのに
それが存在することを確信したのは
正しかったのだろうか。
正しくなかったかもしれない。
正しくなかったかもしれないが
もはや、正しいか正しくないかは
わたしにはどうでもよいことであった。
ただ
それが、いったいどのような意味を
わたしにもたらせるのか
わたしにとって
それがどのような意味を持つものか
それだけが重要な気がするのであった。
それが存在するのだと
直感的に感じ取っているのだとしたら
その存在は感じ取れるものなのだということになる。
したがって
直感的に感じ取れるものであってはならないのだ。
さいわいなことに
直感的に
それが存在することを感じ取ったのではなかった。
なぜなら
それは
けっして感じ取れるものであってはならないからである。
たとえ直感でも。
直感を
ふつうの感覚と同じように捉えることはできないが
わたしに厳しいわたしは
直感であっても
それを感じ取ってはならないものだと思っている。
においがすることで
あらためて呼吸していることに気がつくことがあるけれど
あらためて空気が存在していることに気づかされることがあるけれど
その存在は、そういったものであってもならないのだ。
絶対的に感じ取れないものの存在の確信を
わたしはしなければならない。
錯誤だろうか。
錯誤であったとして
なんとすばらしい錯誤であろうか。
なんとうつくしい過ちであることだろうか。
それがもたらせる可能性について想像しただけで
胸が張り裂けそうになるほど
うちふるえてしまう。
こうして思いをめぐらせ
それが存在することに思い至ったわたしは
それが存在することを確信するまえにいたわたしとは
まったく違ったわたしがいることに
無上の喜びが込み上げてくるのである。
この胸が張り裂けそうになるほどに
うちふるえてしまうのであった。


*


たとえとして
もしかすると大きく誤っているかもしれないけれど
わたしの外にあって
それと同時に
わたしのなかに侵入してくる
それは
もしかすると
構文のようなものかもしれない。
文法のようなものであろうか。
そう考えたこともあった。
この数式の庭で言えば
定義である。
定理である。
すると
それは、わたしのなかにもあることになる。
わたしのなかにも
という言葉のほうが適しているが
しかし、それではいけないことに気がついた。
より基本的なもの?
定義より?
そうだ。
わたしをわたしたらしめるもの
けっして、わたし自身のなかにはなくて。
他のものもみなすべて
それら自体としてあらしめるもの
けっして、それら自身のなかにはなくて。
けっして、わたしにはならないもの。
けっして、わたしには感じ取れないもの。
けっして、見えないもの。
けっして、感じ取れないもの。
その存在が、けっして感じ取れないもの。
ああ、これが
わたしの新しいアイテムになったようだ。
生まれてはじめて目にした
うつくしい、めずらしい式のように。


*


それは見えるものであってはならない。
人間は見たものになるのだから。
たとえ、こころの一部であっても。
それは感じ取れるものであってはならない。
人間は感じ取ったものになるのだから。
たとえ、こころの一部であっても。
目にも見えず
あらゆる感覚器官で感じ取れもせず
なおかつ
わたしの数式の花の変形や展開に一役を担うもの。
わたしの思考とはならないけれど
わたしの思考を駆動させる一助とはなるもの。
核心ではなくて?
いや
それが核心である可能性も考慮しなければならない。
であっても
それは
存在することを確信することも拒むものとして考えるべきなのか
存在することを確信させてもいけないものなのかどうかと
ふと考えた。


*


目にも見えず
存在を確認することもできない
わたしとはならない
わたしにつながらないもの
そのようなものが存在するとしても
わたしには
それが存在することを確認することはけっしてできない。
わたしを包含する
わたしでないものを想起させなくてはいけないのだが
それは論理的にも不可能である。
しかし
その存在を確信するのと
その存在についての可能性をないものとしてふるまうのは
とてつもなく異なる
まったく違った生き方になるような気がするのだった。


*


こういうことを書くと
なにもわかっていないということを
わかられてしまうような気が
ちらっとしたのだが
たとえば
光が直進するのは
光がみずからそうしているのか
あるいは
なにものかがそうさせているのか。
もちろん
通常空間にあって
なにものもさえぎるものもなく
屈折させるような媒体もない場合の話だが。


*


一夜をおいて
考えていたのだが
欲を出したというのか
さまざまな間違いをしてしまったらしい。
ぼくの外にあって
けっしてぼくとはならないもの
けっしてぼくとはつながらないもの
それはまた
時間ではないもの
場所でもない
出来事でもない
そういったものは
ぼくの数式にも
ぼくの思考にも
いっさいの影響を与えてはならないのだった。
そういったものを
ぼくは存在していると確信しなければならなかったのだ。
きのう、たくさん言葉を書きつけたのだけれど
寝ようと思って
電気を消して
横になっていると
ふと
このように思われたのである。
いまは
確信している。
ぼくの外にあって
けっしてぼくとはならないもの
けっしてぼくとはつながらないもの
それはまた
時間ではないもの
場所でもない
出来事でもない
そういったものがあって
ぼくの数式にも
ぼくの思考にも
いっさいの影響を与えないものがあると。
そういったものが
存在していると。


*


あのような言葉で説明したつもりになっていたが、
いったい、あれで定義と言えるようなものになっていただろうか。
しかし、もし仮に、定義と言えるようなものになっていたとしても、
それが実在するものとは限らない。
ただ、それに相当させたと、わたしが思われる定義を与えただけで
その定義に相当する事物や事象が実在するとは限らず
その定義に相当する概念としてのみ存在する、
いわば
概念的存在物としてのみ存在する可能性もあるということだが
それが
ぼくの与えた定義に相当するものであるならば
それが現実に存在することを証明するのは、永遠に実証不可能である。


*


網を自分が引きながら
海辺で漁網を引く人々の姿を見ることはできない。

火を焚く男に
空に煙がたなびく様子を見ることはできない。

数式の庭のなかにいながら
数式の庭のなかにいるわたしを見ることはできない。

はたして、そうだろうか。

いまはツールがあるから
古典的な哲学が通じなくなりつつある。

数式の庭にいながら
数式の庭にいるわたしを見ることもできる。

数式の庭のなかにいながら
数式の庭のなかにいるわたしを見ているわたしを見ることもできる。

数式の庭と
数式のなかにいるわたしが無限に包含し合う。


*


螺旋を描きながら
星々が吐き出され
星々が吸い込まれる。
庭に咲いた数式の花が
ある夜
螺旋を描きながら宙を舞い
変形し展開していった。
螺旋を描きながら
変形し縮退していった。
星々の配置がめまぐるしく変化するように
数式の数と記号の配置もめまぐるしく変化していった。


*


数式にあいまいなところはひとつもない。
あいまいなのは
わたしの解釈である。
しばしば
数式の花によって
わたしにまとわりついたあいまいさが振り落とされる。
そうして
あたらしい目でもって
わたしの目が数式を見つめると
数式の花が
以前に見えていた姿とは違ったものに見える。
まるで
見覚えのない部屋で目を覚ましたかのような
そんな気がすることもある。


*


星々を天空に並べた手と同じ手が
わたしの数式の庭で
数と記号を並べている。
夜空を輝かせている目と同じ目が
数式の花を咲かせている。
星々を吸い込み
星々を吐き出すものが
数式をこしらえては、こわし
こしらえては、こわしているのだった。


*


目のまえにある数式の庭と
わたしの頭のなかにある数式の庭のあいだに
その中間状態とでも言うのだろうか
いや、そのどちらでもないものなのだから
中間状態ではないのかもしれない
目のまえで変形し展開していく数式の庭でもなく
わたしの頭のなかで繰り広げられるイメージでもない
数式の庭が
無数に存在しているのだろうと思う。
ときおり、その片鱗を
こころの目で垣間見るような気がするけれど
はっきりとこころにとどめておくことはできない。
いったいなぜだろうか。


*


待ちたまえ。
そう、せっかちに変形するのではないよ。
ときには、じっくりと展開していくがいい。
きみの変化する様子そのものを
わたしの目に見せてほしい。
変化していく姿でもなく
変化した姿でもなく
変化そのものを
わたしの目に
じっくりと味わわせておくれ。


*


つづけたまえ
おまえ、不可思議な数式の花よ
この庭に咲く数式の花とは違った花よ
いま、わたしのこころの目に咲くおまえは
わたしのなかにも
この庭のなかにも
おまえがいたような痕跡はなく
また
おまえが現われるような兆候も
いっさいなかった。
めまぐるしく変形し展開していくおまえ
不可思議な数式の花よ
おまえは、いったいどこからやってきたのか。
いや、問うのはあとにしよう。
わたしのいまのすべては
おまえの変形していく姿を追うために費やそう。
ただ、わたしは、こころから願っている。
おまえが、突然、姿を現わしたように
おまえが、突然、ここから立ち去ってしまわないようにと。


*


あらゆる空間が物質系であるが
すなわち
あらゆる空間は、未知・既知を問わず
物質が受けるさまざまな物理的拘束状態にあるということであるが
わたしの数式の庭は
そのような物理的な拘束状態にはない。
数式の庭の限界は
わたしの思考の限界
それのみである。
わたしの自我が
つねに外界とインタラクティヴであることを考慮すれば
それを、わたしの限界と言うのは正確な表現ではないかもしれない。
こう言い換えよう。
数式の庭のなかで起こる
いっさいのことの限界は
世界とわたしの限界である、と。


*


限られた個数の数と記号であるが
無限に組み合わせることができるのだ。
限られた語彙で無限に異なるニュアンスで考えることができるように。
しかし、無限は、すべてではない。
すべての数式の花が
わたしの数式の庭に咲くわけにはいかない。
わたしがけっして知ることのない数式の花の数が
いったい、どれだけあるのか
それすらもわからないのだけれど
きっと、わたしが知ることのできる数は
それよりも、ずっとずっとすくないのだろうと思う。
生きている限り
考えることができる状態である限り
わたしは生きて考え、考えながら生き
この数式の庭に、わたしの目を凝らしているだろう。
そうありたいと、こころから思っている。


*


数や記号をいっさい使わないで
数式の花を咲かせている。
ただ一度だけ
オイラーの公式について書いたときにだけ
数と記号を使ったことがあるだけである。
そういえば
言葉を使わないで
すなわち
思考を意識的に巡らせることなく
ものを眺めているときに
音楽を聴いているときに
いったい精神状態がどのような状況にあるのか
考えたことがないことに
ふと気がついた。


*


わたしは
わたしのこころが
瞬間瞬間に、ころころ変わることを知っているし
そんなにいつも、クリアな視界のなかで
ものを見ているわけではないことも知っている。
なるべく、いつもクリアにものを見ようとしている
認識しようとしているのだけれど
そのクリアにしたつもりのものでもって
よけいに視界が曇る場合があることもあるであろうと
そのような可能性があることも知っている。
ひとと話をしていて
しばしば
自分が迷子になっていくような
そのような思いをすることがあるのは
話のなかに出てきた事物や事象の
そのなかにではなく
その外に
わたしの目を曇らせる
なにかがあるような気がするのだった。
話のなかに出てくる事物や事象の
外側にある、いったい、なにが
わたしの目を曇らせているのであろうかと
わたしが考えを巡らせているうちに
相手は
わたしを置いてけぼりにしていったのだった。
そこでは、ただ
事物や事象にとらわれたわたしが
途方に暮れているのであった.
わたしと相手の息と息のやりとりのなかで。
この数式の庭に、ひとりたたずんで
わたしは、しばしば考えるのであった。
わたしが思いを巡らせた事物や事象が
わたしを置いてけぼりにしたのであろうか
それとも、相手がわたしを置いてけぼりにしたのであろうか
あるいは、わたしが、わたし自身を置いてぼりにしたのであろうか
迷子にしたのだろうか、と。


*


わたしは思うのだった。
わたしたち人間は
互いに了解し合うことは、ほとんどない。
誤解したまま、出合い
誤解したまま、こころを通わせて
誤解したまま、別れるのだと。
わたしは思うのだった。
おまえたち、数式は
けっして互いに誤解することはない。
誤解し合うことはないのだと。
もしかすると
了解し合うことすらないのかもしれないのだけれど。


*


世界と、わたしの限界が
この数式の庭の限界だと、わたしは考えたが
この数式の庭自体が
喩的には
世界であり
わたしであるのだから
これは
同じものを対象にして
同じ概念を適用しようとしているとも言えるものかもしれない。
あくまでも
喩的にではあるが。
しかし
そもそも
世界も
わたしも
この数式の庭というもの自体も
喩的な存在なのだとしたら
いったい、わたしは
なにをよりどころにして
言説すればよいのであろうか。
もしも
あらゆる言葉も
数や
記号も
全的に喩的なものであるというのならば。


*


疲れていたのだろうか。
数式の庭で
花壇を見ていて
ひとつの花に目をとめていたのだが
もっとよく見ようとして
かがんで見ていたのだが
数式の変形と展開がひと段落して
しばらく静止状態になって
おおよそのところ
変形と展開が、し終わったと思えたところで
同じ姿勢だと疲れるので
伸びをしようとして立ち上がると
立ちくらみがして
一瞬
気を失いそうになったのだが
意識的な断絶は感じなかった。
ただ以前にも気を失ったことがあって
そのときにも意識的な断絶は感じなかったので
もしかすると
気を失っていたかもしれないが
そのときには
バスタブから立ち上がったところから
バスルームのドアのところまで
身体が移動していたので
気を失っていたことがわかったのだが
姿勢も
立ち上がりかけたところと
ユニットバスのトイレットの
便器のなかに
片腕を入れてうなだれていたところとでは
ずいぶん違っていたので
その断絶が起こったことが容易に推測されたのだけれど
こんかいの場合は
ほんのわずかのあいだ
目をつむっただけで
すこし背をかがめた感じの
ほとんど同じ姿勢だったことから
意識的な断絶はなかったように思われたのだが
気がつくと
わたしは
数や記号と同じくらいの大きさになっていた。
数や記号のほうが
わたしと同じくらいの大きさになっていたという可能性も
一瞬かすめたのだけれど
目に入る限りの風景からその可能性がきわめて低いことが
瞬時にわかった。
さいしょの1秒未満の時間では
と、わたしは推測するのであるが
わたしは、自分がどこにいるのかわからなかったのであるが
見慣れぬ光景ながらも
とてもよく見知っているような気がして
すぐにそこが
自分がいつも見下ろしている
花壇のひと隅であることに気がついたのである。
幾何の問題を考えているときに
しばしば
自分が、まだ、かき込まれていない
つまり存在しないのだけれど
しっかりとした実在感をもって
あたかも存在するかのごとき印象を持たせる
補助線の
直線や線分になって
わたしが取り組んでいる、当の
その図形のなかに入り込んで
考えていることがあるのだが
つまり
自分自身が
直線になったり
線分になったりして考えているわけであるが
その経験と比較して考えるに
これは
自分が、数式のなかに入り込んでしまったのかと考えたのである。
しかし
わたしは
巨大な数や記号をまえにして
いったい、わたし自身は、数なのか、それとも、記号なのか
にわかには、わからず
しばらくのあいだ、途方に暮れていた。
そういえば
わたしは
自分が図形のなかで直線になって考えているとき
わたし自体の意識はまったくなくなっており
わたしがわたしであるという意識のことであるが
それがまったくなくなっていて
いわゆる、忘我の状態にあって
ふと、われにかえると
経っていたであろうと
後付けの思いだが
感じていた時間の何倍もの時間が経過していたのであるが
いま、この数式の花の傍らにいて
どのような時間の進み方をしているのか
見当もつかなかった。
とりあえず
わたしは
数と記号が組み合わさった
数式の花が咲き乱れる
花壇のなかを
ひとり
へめぐりはじめることにしたのだった。


*


問題を検討しているときに
自分が直線となって考える
直線として考えていたりしているときには
忘我の状態であり
時間がものすごく長いあいだ経っていても
自分のなかでは
あっという間のことであったりするのだが
まあ
時間感覚がまったくといいほど
ほとんどなくなっているというわけだが
これは、たいへんおもしろいことである。
忘我
つまり
わたしという意識がなくなると
時間感覚もなくなってしまうということである。
文章を書いているとき
作品を書いているときにも
ときおり
そういった状態になることがある。
「みんな、きみのことが好きだった。」という詩集の
はじめのほうに収めた20作近くあるものの多くのものが
そういった状態において、つくり出されたものであった。
意識を集中して作品をつくっていると
あっという間に時間が経ってしまっていたのだった。
図形の話に戻ろう。
忘我のときのわたしは
直線として図形のなかで延長したり
角をいくつかに等分割したりしているのだが
いま
数式のなかにいて
自分が
いったいなにか
わからずにいるのだけれど
それは
わたしが文章を書いているときに
意識を集中して作品をつくっているときにおこる現象とよく似ている。
意識を集中し過ぎたのだろうか
意識を集中し過ぎたときに
ある限界を超えると起こるのだろうか
忘我という現象が。
そのときのわたしの働きは
まるで時間そのものであると考えられる。
働きというか
わたし自身が時間になっているのだろうか。
わたしはいるはずなのに
わたしの姿は
わたしの意識は
わたしの存在は
わたしには見えず
わたしには意識されず
ただ対象だけがあり
わたしが意識の対象とするものだけが存在しており
それが言葉のときには
ただ、対象とするその言葉だけがあり
その言葉たちが自動的に結びついていくのを
見守っているだけであったのだが
見守っていたのは
わたしの意識ではなく
時間そのもののような気がしたのである。
幾何で
自分が直線になって考えていると
自分が考えることと関連しているだろうか。
すなわち
じつは
わたしが
自分では直線となって
延長したり角を分割したりしていると考えていたのだけれど
わたしは時間となって
その直線を延長したり分割したりしているのだろうかと。
それとも
時間によって
自分が延長されたり分割されたりしているのだろうかと。
図形が
わたしを直線にすると言い換えてもよいのだが
図形が
わたしを角として分割すると言い換えてもよいのだが
図形というよりも
時間が
というほうが
直感的に正しいような気がする。
時間が
と、いえば
文章を書いているときの
意識を集中させて作品をつくっているときの
あの忘我の状態の
わたしがなにであるのかを
よく言い当てているような気がするのである。
わたしがなにか
どういった状態にあって
どういった働きをするものであるのかを。
意識を集中し過ぎると
あるところで
忘我となること。
そして
わたしが
時間そのものとなるということ。
これは、まったく新しい知見であった。


*


これまで考えていたこととは逆だと思った。
あらためて考えてみよう。
文章を書いているとき
意識を集中させて作品をつくっているときの
忘我の状態にまで至った場合だが
そういうのは
そのほとんどの場合が
メモや引用の詩句や文章を
コラージュしているときに起こったのである。
これまでは
それらの言葉が
自動的に言葉同士
結びついていったように考えていたのだけれど
じつは
それらの言葉は
わたしという時間を通して
あるいは
わたしというものを
いわゆる
糊のようなもの
接着剤のようなもの
セロテープのようなものにしていたのではないだろうかと
そう考えたのである。
それとも
幾何の問題において
時間というものが
わたしを直線にして延長したり
わたしを角にして分割したりしたように
言葉が言葉と結びついているときに
自動的に結びついていると思えるようなときは
時間が
わたしを言葉にしているのだろうか。
言葉と言葉をつなぐものとしてではなく
いわば
無媒介のものとしての言葉
言葉そのものに。
すると
数式の花は
わたしをなににしているのだろう。
わたしをこの数式のなかに閉じ込めて。
数とか記号として?
それとも
数式を変形し展開させるもの
それを作用とか
力と仮に呼ぶとしよう。
わたしをその作用の一画を担うものとして
あるいは
その力の一部として使おうとしているのだろうか。
駆動力か
持続力か
決着力か
そういった類のものだろうか。
あるいは
なにか
可能性といったものか。


*


言葉と、わたしは
磁石と砂鉄のようなものだろうか。
あるいは、逆に、砂鉄と磁石か。
あるいは、また、磁極の異なる磁石の一端同士のようなものか。
だとすれば、磁極によって形成された磁場が
現実に表現された文章というものに相当するだろうか。
文脈は、いわば、磁力線のようなもので
いや、このモデルには欠陥がありすぎる。
磁場に影響されるものには磁性がなければならない。
磁性のないものには磁場は影響しない。
そうだ。
質点として考えてみてはどうか。
言葉同士が
十分に影響を与え合うようなくらいに大きな質量をもった
質点として考えてみては、どうだろうか。
引力項と斥力項を考慮し
そして
質点のひじょうに多い多体問題として捉えるのだ。
それらが形成する重力場を
文章として捉えることができる。
あるいは
書籍と。
そして
音における三大要素である
高低・強弱・音色
といった項を付加すると
かなり厳密に
現実に近いモデルができあがるような気がする。
もちろん
現実に表現された文章や詩句は
さらに複雑な項のもとでの考察を要するのであろうが
高低・強弱・音色に相応させるものを
これから考えよう。
あ、ちょっと笑ってしまった。
帰納的に考えるのではなく
演繹的に考える癖がついてしまっている。


*


言葉自体が考える。
図形自体が考える。
数式自体が考える。
わたしが考えている可能性は
いったいどれぐらいあるのだろうか。
あるいは
言葉が、わたしとともに考える。
図形が、わたしとともに考える。
数式が、わたしとともに考える。
そうだ。
このほうが現実に近いモデルだろう。
このとき
わたしと言葉とのあいだに、どれだけの浸透度があるのだろうか。
わたしと図形とのあいだに、どれだけの浸透度があるのだろうか。
わたしと数式とのあいだに、どれだけの浸透度があるのだろうか。
わたしは、ほとんど言葉か。
わたしは、ほとんど図形か。
わたしは、ほとんど数式か。
あるいは
わたしは、まったく言葉か。
わたしは、まったく図形か。
わたしは、まったく数式か。
それとも
部分的に、わたしは、言葉なのだろうか。
部分的に、わたしは、図形なのだろうか。
部分的に、わたしは、数式なのだろうか。
いつまでも暮れることのない
数式の庭のなかの、この花壇のなかで
わたしは、数と記号のあいだにたたずみながら
こんなことを考えていた。
疲れたので
傍らの等号にもたれたら
等号が動いて
わたしの身体がよろめいてしまった。
もしも、だれかが
わたしの数式の庭で
片肘をかけて
斜めに身体をかたむけた
わたしの姿を目にしたら



に見えるかもしれない
などと
ふと思った。
(はたして
 わたしに
 身体はあったかしら
 どうかしら
 わたしには、わからない。)


*


我を忘れて
わたしが、わたしについて
いっさい意識しないとき
わたしの視界に、わたしの身体の
いかなる部分も存在せず
わたしの存在を知らしめす
どのようなしるしもなく
ただ対象とする
数式や図形や語群の形成する世界があって
その世界とは
ただ、わたしのなかに、
わたしとそれらのあいだにだけ形成されたもので
その世界に
わたしとそれらの数式や図形や語群が存在する。
その存在の仕方をさらに精緻に分析する。
わたしのなかに
それらの数式や図形や語群と共有する意味概念の領域が生じると考えると
それもまたひとつの世界で
わたしのなかに、あらかじめあったものでもなく
それらの数式や図形や語群のなかに、あらかじめあったものでもない
まったくあたらしい世界だ。
これは、以前のわたしの詩論の考え方だった。
あるいは、つぎのようにも考えられる。
それらの数式や図形や語群が形成する世界に
わたしが招き入れられるのだと。
それは、わたしの理解とか共感が生じたときに
それらの数式や図形や語群の世界の門が開かれて
わたしの目にそれらの世界に入るように促すのであろうと。
それはほとんど同時生起的に起こるものであろうが
いったい、どちらのほうが
現実に近いモデルであろうか。
まえに
この数式の庭をまえにして考察したところからいえば
それらの数式や図形や語群やわたしは質点のようなもので
それらが互いに影響し合って
ひとつの力場を形成するというものであった。
これは上記のふたつのモデルのうち
どちらに相応するだろうか。
あたらしく考察したほうだろうか。
少しく、そのように思われる。
以前の詩論に書いたモデルもよいモデルではあるのだが。


*


数式の庭で、そのようなことを考えながら
いちばん近くにあった花壇を見ると
ひとつの花が咲いていたのだが
その花のはなびらにあった≠に目を凝らすと
切った爪ほどの大きさのわたしが
片肘をかけて等号に寄りかかっていた。
わたしは、その爪の先ほどの大きさのわたしをつまみあげて
下におろすと
もとの数式に目を戻した。
式は見違えるほどに美しくなっていた。
その美しさに目を奪われて
わたしは
わたしの小さな姿がどこに行ったのか
わからなくなっていた。
ぱっと目に見える範囲には
いなかった。


*


この花壇の花は
わたしが位置を変えると
違った花に見える。
まるで
多義的な解釈が可能なテキストのように。
しかも
さいしょの場所に戻ってみても
さいしょに見たものとは違った花になっているのだった。


*


目が覚めると
数式の庭のなかにいた。
また身体が小さくなっていた。
エクトプラズムのように濃い霧が
庭に満ちていた。
頭上で音がするので見上げたが
霧のようなエクトプラズムで
数式の花が変形し展開する姿は
目にみえなかった。
気配はエクトプラズムを通しても
伝わってきたのだが
エクトプラズムの霧が
少し薄れているところから叫び声が聞こえた。
目をこらして見ると
数に身体を寸断されているわたしがいた。
こぼれ落ちたのだろうか。
数や記号がこぼれ落ちるのは
式が変形と展開を終えてしばらくしてからだった。
と思っていると
わたしのうえにも
等号記号が落ちてきて
わたしの身体をまふたつに寸断した。
ところが
わたしは無事で
まったく瓜二つの
同じ姿のわたしがもうひとり
わたしの目のまえに立っていたのだった。


*


ひとつの花がしぼむとき
そのたびに
数式の庭も
わたしの家も
わたしの街も
わたしも
空も
すべてのものが
みんな
その花弁のなかにしまわれる。
ひとつの花が花ひらくとき
そのたびに
数式の庭も
わたしの家も
わたしの街も
わたしも
空も
すべてのものが
みんな
その花びらのなかから現われる。


*


瓜二つそっくり同じに見えた
ふたりのわたしを眺めていると
やはり違いはあって
ほとんど同じ数と記号からできているのだろうし
その配列も微妙に異なっているだけだと思う。
ふたりを子細に眺めると同じようで違っている。
その違いが些細なために逆にこうして見つめていると
まったく異なるふたりにみえてきてしまうほどだ。
そういえば
以前に授業中に
視線を感じたので
窓の外を見ると
窓の外から
わたしのほうに顔を向けたわたしがいた。
と思っていると
わたしは窓の外にいて
教室にいるわたしを見つめていた。
教室でわたしを見ているわたしがいた。
ふと
校門の
教員のだれかの車が駐車してあるところを見ると
その車のそばに立ってわたしたちふたりのわたしを
交互に見ているわたしが立っていた。
そのわたしには
わたしは意識を移せなかったが
授業中であることを思い出して教室にいるわたしを見ると
わたしは教室に戻っていて
窓の外にいるわたしから視線をはずして
授業を再開した。
もちろん
これらの時間に要した
感覚的な時間は
数秒といったところだったであろうが
意識的な時間経過感覚と
物理的な時間経過に要した時間とのずれはあるだろうから
正確には
どれだけの時間が経っていたかはわからない。
生徒の態度のほうに異変がなかったので
それほど時間は経っていなかったであろう。
授業中
何度か窓の外を見たが
もうひとりのわたしの姿は消えていた。
わたしには
さいしょから
校門のほうにいるわたしを見ることができなかったであろう。
そもそも教室からは
位置的に見えない場所であったからである。


*


水盤に浮かべた
ふたつの数式の花を眺めていた。
水に映った空の青さと
雲の白さの絶妙な配色に
ひときわ花がうつくしかった。
まるで
空の青みより青く
雲の白みより白い数式の花に
ぼくの目が吸い込まれそうだった。
いや
すでに吸い込まれていたのであろう。
水盤を見下ろしながら。
空や雲を
とっくに吸い込んでいるくらいなのだから。
いや
もっと正確に描写してみよう。
数式の花は
物理的に対象移動させるかのように
形象的に対象移動させていたのであろう。


*


この数式の花は
わたしの位置を変える。
わたしの視点を変える。
わたしのいる場所を変える。
わたしを沈め
わたしを浮かせる。
わたしを横にずらし
わたしを前に出し
わたしを後ろに退かせる。
しかし
もっともすばらしいのは
わたしを同時に
いくつもの場所に存在させることだ。
わたしは同時にいくつもの場所から
この数式の花を眺めることができるのだ。
すべての花がそうであったなら
と思うことがある。
さまざまな視点から同時に眺めるこの数式の花は
もちろん
場所場所によって
さまざまな表情を見せるのだ。
わたしの顔が
さまざまな角度から見ると
さまざまに異なって見えるものであるように。


*


それは
数と記号の偽物だった。
数と記号に擬態した偽物から後ずさりながら
ただちに退却しなければならないと
わたしは思った。
ゴム状に固体化したエクトプラズムの綱が
わたしの足にまとわりついた。
あたりを見回すと
数多くのわたしが、たちまち
エクトプラズムの網に捕らわれていった。
とても濃いエクトプラズムに覆われた
花壇を眺めていると
つぎつぎと自分のなかから
自我が消失していく感覚に襲われた。
わたしは
数式の庭に背を向けて
いそいで立ち去った。


*


手を離しても
落ちないコップがある。
わたしが名辞と形象を与えた
ひとつのコップである。
存在する
存在した
存在するであろう
すべての名辞と形象を入れても
けっして満ちることはないコップである。
これを手にして立つわたしをも
わたしが存在している数式の庭ごと
そのコップは
なかに入れることもできるのである。


*


人間は
おそらく他の人間といっしょにいなければ
他の人間といっしょにいる時間がまったくなくなってしまえば
自分が人間であるということに気づくこともなく
自分が人間であることを知ることもなく
自分が人間である必要性も感じることもないのではなかろうか。

数や記号たちも
おそらく他の数や記号がなければ
他の数や記号といっしょにいる時間がまったくなくなってしまえば
自分が数や記号であるということに気づくこともなく
自分が数や記号であることを知ることもなく
自分が数や記号である必要性も感じることもないのではなかろうか。


*


数式の花の美しさに見とれていると
しばしば自分がその花そのものになって
自分の美しさに見とれているような気がする。

わたしのなかに
数式の花が咲くというのではなく
わたしそのものが
見とれていた数式の花になって
わたしに見とれているという感覚だろうか。


*


わたしがいないときの
数式の花の変形と展開は
わたしがいるときの
変形や展開と同じものであるのかどうか
それを確認することはできないのだが
それが異なるものであるというのが
理論的な立場からの見解であり
わたしの直感とも一致する
これは、わたしというものが
そのような直感をもつように
長年訓練されてきたからであろうか
わたし自身がそれに答えることはできない
おそらく、そのことについては
だれにも答えることはできないであろう


*


いま
なにも咲いていない
このからっぽの花壇のなかに
仮想数式の花たちが咲き誇っている
その仮想数式の花たちは
このからっぽの花壇のなかの
あらゆる場所を占めて咲いており
その本数は理論上無限であり
このからっぽの花壇そのものになっている
その仮想数式の花たちは
間断もなく変形し展開しつづけている
そのあまりの素早さに
このからっぽの花壇の輪郭が変形し展開し
数式の庭そのものが変形し展開してしまうほどに


*


この数式の花たちは
素粒子の大きさしかなく
この花壇のいたるところに
現われては消滅する
それが文字通り瞬間であるために
連続的に存在するかのように見えるのだが
空に浮かんだ雲のように変形し展開しつづけるために
その形をとどめることは、けっしてない。
その姿を目にした場所に目を凝らすと
なにも見えなくなり
見えないところに目をやると
見えてくる。
この素粒子の大きさの数式の花は
変形し展開する時間そのものを見せる
変形し展開する場所そのものを見せる
変形し展開する出来事そのものを見せることはない


*


たとえばゼロで除するといった禁則がある。
禁則を一つ犯すことで数式の花は咲かなくなる。
ところが、いま目にしている花壇の数式の花たちは
禁則を破らせたまま開花させたものたちで
異様な印象を与えるものであった。
その変形と展開は、禁則を犯した個所以外は
論理的なものであり、その個所を含めて
式をたどって見ていると異様なところはないのだが
全体を見渡すと、わたしの視界を破壊するほどに
異様で、理解不可能なものになるのであった。
しかし、このような禁則を犯した数式の花にも
なぜかしら、わたしは愛着を感じるのだった。


*


ちょうどよい距離というのがある。
ある数式の花を眺めていてそう思った。
その花は、もう変形も展開もひと段落して
安定した形状を保っていたのだが
わたしが庭を移動して眺めていると
ある距離から、ある角度から眺めると
その美しさが映えるのだが
ある距離以上でも以下でも
その数式の花から離れると
同じ角度からの眺めでも
その美しさが映えないのである。
他の数式の花との間隔がそう思わせるのだろうか
そう思って、違う場所に植え替えてみたのだが
そうではなかった。
最初に見たときの距離とは異なっていたのだが
やはりある距離以上でも以下でも
その美しさは映えなかった。
また、その数式の花を
もとの場所に戻してみると
もっとも美しく見える距離が
最初の距離とは違った距離であったので
他の数式の花との距離も
問題ではあったと思われたのだが
それ以外の要素も考えられた。
わたしが変化したことだった。
同じ場所にあっても
わたしが変化したために
その距離が変わってしまったということなのであろう。
友だちとこのあいだしゃべっていて
星座が、星の配置が、見る場所によって違うと
何万光年も離れた場所から同じ場所を見ても違うと
また、わたしたちの場所もつねに移動しているはずで
つねに異なった場所に星も、われわれもいるのだと話していた。
そうだ。
離れた場所であれば
その星の光が届く時間も異なるはずだ。
違った場所にいると
そのものが違って見えるだけではなく
そのものの違った時間にある状態を見ているのだから
わたしがその数式の花を元の場所に戻したところで
同じ美しさを見出さなかったことも
不思議なことではなかった。


*


数式が変形し展開しているように見えるのだが
じつは数式自体は変形も展開もしていないのである。
目のまえの数式の花が、別の数式の庭に移動し
それと同時に、別の数式の庭から
別の数式の花が移動してきて
目のまえに現われるということである。
つまり、数式の花は不変であり
数式の庭も不変であり
相対的に見れば
ただ、それらが移動しているという
それだけのことなのである。
数式の花が、なぜつぎつぎと転移するのか
わたしが興味があるのは、その点だ。
なぜ、数式の花が
ある数式の庭から別の数式の庭へと転移するのか
そのなぞが、わたしの関心をひくのである。
その数式の花の美しさと
変形と展開の見事さよりも。


*


魂が胸の内に宿っているなどと考えるのは間違いである。
魂は人間の皮膚の外にあって、人間を包み込んでいるのである。
死は、魂という入れ物が、
自分のなかから、人間の身体をはじき出すことである。
生誕とは、魂という入れ物が、
自分のなかに、人間の身体を取り込むことを言う。

このようなことを考えたことがあるのだが
あらゆる集合における部分集合である空集合が
全体集合の部分集合である空集合に等しいのであるが
個々の人間を包み込んでいる魂もまた
それは、ただひとつの魂であるのではないかと
わたしには思われたのだけれど
数式の花たちが、突然、姿を現わし
変形と展開をし終わったあと
しばらくして
数と記号に分解する様子を見ていると
もしかすると
数式の花をめまぐるしく変形し展開させていたのも
人間を包み込んでいたものと
同じ魂ではなかったのかと思われたのであるが
いったい、どうなのであろうか。
わたしの目にまぶしく輝く数式の花の美しさを見て
数式の花もまた、魂に包み込まれているような気がしたのだ。


*


いちまいの庭をひろげ
ひとかたまりの数字と記号をこぼし
数式占いをする


*


むかし
まだ学生だったころ
恋人と琵琶湖に行ったのだが
恋人が自分のそばから離れて泳いでいたとき
風に揺れる湖面のさざ波に乱反射する太陽の光が
あまりにもきれいだったのか
そのとき
湖面に反射する光が
きらきらと乱反射する太陽の光が
ピチピチと音を立てて
蒸発しているように感じたことがある。
湖面に反射する光が
わたしの目をとらえたかのように
わたしのこころが
湖面で反射する光と直接結びつけられたかのように感じて
その瞬間から、自分が光そのものになって
湖面で蒸発していくような気がしたのだった。
少しずつ自我が蒸発していくような
そんな恍惚とした時間を過ごしたのだった。
つぎつぎと自我の層がはがされていくような
無上のここちよさを味わっていたのだった。
そうして、一度
光が湖面で蒸発している
湖面で光が音を立てて蒸発している
という思いにかられると
その日、一日のことだったが
湖面に目をやるたびに
ピチピチ、ピチピチというその音が
耳に聞こえてしまうのだった。
数式の庭に立って
変形し展開していく
数式の花を眺めていると
これもまた不思議なことに
わたしには
その音が聞こえてくるのであった。
湖面で蒸発する光の音が
おそらくは
わたしだけに聞こえるものだったように
もしかすると
この花たちの立てる音も
わたしの耳にだけ聞こえるものかもしれないが
いや
きっと耳をすませば
湖面で蒸発する光の音も
数式の花が立てる音も
だれの耳にでも聞こえるものだと思う。
数式の花が立てる音は
花ごとに微妙に異なるのだが。


*


しかし
なにかほかのことに
こころがとらわれているときには
たとえば
砂浜にいる人たちの姿や
まばらに立ち並んだパラソルの様子や
湖面に浮き漂う水藻に目をやっていたりすると
湖面で蒸発する光の音が
聞こえなくなくなることがあったように
数式の花の
変形し展開していく音も
変形し展開していく様子ではなくて
いくつもの花たちの配置を目でとらえ
その配置のうつくしさや
背景の空白とのバランスといったものに
こころがとらわれているときには
聞こえてこないのであった。
これは
内的沈黙とでも呼べばよいであろうか。
いや
沈黙とは
自ら声を発しないことと解すれば
これは
内的沈黙ではない。
内的無声というものであろうか。
いや、違った。
内的無音とでもいうものであろうか。
それとも
ただの無音なのか。
わたしが注視しなければ
音は存在しなかったのだろうか。
それならば
沈黙である。
しかし
わたしが存在しなくとも
湖面で光は蒸発したであろうし
やはり
沈黙ではなく
内的無音であったのだろう。
数式の庭では・・・
そうだ。
まだわからないのだった。
数式の花が
わたしのいないときに
変形し展開することがあるのかどうか
日をまたいで眺めたときに
時間をおいて見たときに
数式の花の形が異なることに気づくことは
しばしばあったのだけれど
それは
わたしのほうが見方が変わって
解釈が異なるために違って見えた可能性があるので
わたしがいないときにも
数式の花が変形したり展開したりしているとは
断定できないのだった。
わたしの記憶の不確かなことをも配慮して考えると
けっして断定することなどできないのだった。
確実に
変形し展開しているといえることもあったのだが
あらためて考えてみると
そう断定する自信がなくなるのであった。
もちろん
注視しているときにも
数式の花は
沈黙することはあった。
わたしの内的無音なのかもしれないが
変形もせず展開もしないで
音がしないこともあったのだが。
音を発するかどうか。
音が聞こえるかどうか。
沈黙か、内的無音か。
考えてもわからないことだが
感じることから考えること自体は
たいへんおもしろい
興味の尽きないものである。


*


音と声は違うものなのであろうか。
音というと、声よりも客観的なもののように思われる。
波長や振幅といった言葉が思い浮かぶからだが
声というと、動物の鳴き声や、人の話し声がすぐに思い浮かぶのだが
たとえば、犬の鳴き声をワンワンと言ったり
バウワウと言ったりして、国語によって表記が異なるように
また、あるときに、女性の声が、人によっては
ただ元気なだけに聞こえたり
そこに挑発的なものを感じとったりするように
さまざまなニュアンスをもって、
人ごとに違った印象を受けるものになったりすることがあるのだが
そうすると、声は、
けっして同じ意味をもって人の耳に聞こえるわけではないということになる。
音もそうかもしれない。
それに、そもそも、音と声とのあいだに、それほど違いはないのかもしれない。
声は、ただ、生物の喉の声帯や鳴管を通して発せられる音にすぎないのだから。
そういえば、ものの見え方も、そうだ。
人ごとに、その人独自のニュアンスでもって見ているのだろう。
だとすれば、同じ数式の花でも
その変形や展開の仕方も、人によって違ったものに見えるということである。
数式の花でさえも、である。
ということは、
おそらく、日常、目にするもの、世のなかで目にするものあらゆるものすべて、
すべてのものが、人によって異なったものとして感じとられているということである。
目に見えるものだけではなく、感じとれるものすべてのものが
人によって違ったものに感じとられているということである。
それがそれそのものとして
絶対的に同じ印象で万人に共通した意味をもつことなどないということである。
なんと、人間は孤独な存在なのだろう。
いや、人間だけではない。
動物も植物も昆虫も鳥も魚も、それに生物ではない物たちも、
物ですらない風景といったものでさえ
なんと、孤独な存在なのだろう。
空に浮かぶ雲も
雨のつぎの日に道にできた水たまりも
夜空を彩る星たちの配置も
テーブルに置かれたコーヒーカップの音も
そのコーヒーから漂う芳香も
わたしたちの頭に思い浮かぶ事柄も
辞書のなかに存在する言葉も
あらゆる事物・事象が、概念すらもが、ただひとつのものも
孤独ではないものなど存在しないということである。
存在するものすべてが孤独なものであるということである。
どのような時間も場所も出来事も、孤独なものであるということである。
わたしたちの生の瞬間は、わたしたちがふと足をとめた場所は
わたしたちが偶然遭遇した出来事は
なんという孤独さをまとっているのだろうか。
しかし、わたしのなかにあるなにかが
いや、わたしのなかにあると同時に、わたしの外にもあるなにかの力が
それら孤独な時間や場所や出来事を結びつけようとしていることは
直感的にわかる。
直感的に感じとれる。
たとえば、空に浮かんだ雲を、
道にできた水たまりが嬉々として映しとっていることを
わたしの目は見る。
夜空を彩る星たちを
テーブルに置かれたコーヒーカップが立てる音が少しく震わせるのを
わたしの目は見るのだ。
そうだ。
これこそが恩寵ではないだろうか。
孤独であること。
これこそが恩寵というものではないのだろうか。
孤独でないものなど、ひとつもないということ。
なにものも絶対的に同じ意味を共通してもたらすことなどはないということ。
このことが、わたしを、わたしたち人間を
いや、あらゆる生き物たちを、あらゆる事物・事象を、
あらゆる概念すらをも、生き生きとしたものにしているのだ。
結びつけるということ。
考えるということ。
見るということ。
聞くということ。
結びつけられるということ。
考えさせられるということ。
見られるということ。
聞かれるということ。
孤独であるからこそ、結びつけられるということ。
もしも、孤独でなければ
結びつけられることもなく
考えられることもなく
見られることもなく
聞かれることもなかったのだ。
もしも、孤独でなければ
結びつけることもなく
考えることもなく
見ることもなく
聞くこともなかったのだ。
しばしば、わたしは、さまざまな物事を見て、感じて
わたしの記憶や、わたしがそのときにようやく了解した過去のことどもを結びつけるとき、
異なるいくつかのわたしを結びつけて
ただひとりのわたしにするといった感覚になることがある。
わたしであったのに、わたしであったことに気がつかずに過ごしていたわたしを
いまのわたしに沁み込ませるような気がするときがあるのだ。
しかし、それも、いまのわたしが孤独であり、
取り戻したわたしもまた、孤独であるからであろう。
ゼロとゼロを足してもゼロになるように、ゼロにゼロを掛けてもゼロになるように、
孤独と孤独が結びついても孤独でなくなるわけではないのだが、
それでも、孤独であるわたしが結びついていくことは、
わたしにとって、いくばくかの喜びに感じられるのである。
ときには、大いなる喜びを感じることもあるのである。
いや、それこそが、わたしにとって最上の喜びのように感じられるのである。
結びつけられた孤独の孤独さが強烈であればあるほどに。
シェイクスピアの言葉をもじって言うならば、
「その喜びこそは、最上の喜びにして、最高の悲しみ。」とでもいうものだろうか。
喜びなのに悲しいというのは矛盾しているだろうか。
だれの詩句だったろう。
「喜びが悲しみ、悲しみが喜ぶ。」と書いていたのは。
ブレイクだったろうか。
それとも、シェイクスピアだったろうか。
いずれにせよ、喜びが悲しみと結びつき、悲しみが喜びと結びつくということであろう。
そうだ。
数式の花に見とれているとき
その美しさに喜びを感じているわたしは
わたしのこころのどこかで、なぜか悲しんでいるような気がしているのだった。
「日が照れば影ができる。」
「光のあるところ、影がある。」
これらはゲーテやシェイクスピアの言葉であったろうか。
しかりとうなずかされる言葉である。
「一本の髪の毛さえも影をもつ。」
これは、ラブレーだったろうか。
ソロモンの「草の花」のたとえも思い出された。
生きている限り、どのように小さなことどもにも
わたしにかかわったものは、できうる限りこころにとどめ
その存在にこころを配ることにしよう。
わたしにかかわった人たちや物事に、できうる限りこころとどめられるように
その人に、その存在に、こころ配ろう。
それが、わたしにできることの最良のこと、最善のことのように思われる。
いま、ふと、リルケの言葉が思い出された。
「こころよ、おまえは、なにを嘆こうというのか?」
違った。
「こころよ、おまえは、だれに嘆こうというのか?」
いや、前のだったかな。
定かではなくなってしまった。
しかし、最初に思い浮かべた
「こころよ、おまえは、なにを嘆こうというのか?」
この言葉を思い出して、この断章を終えようと思ったのだけれど
じっさいに書いてみると、終えられなくなってしまった。
最後に書く言葉として適切であったのかどうか
わからなくなってしまったからである。
わたしは嘆いていたのか。
いや、嘆いていたのではない、という気持ちがわき起こったからである。
わたしは喜びをもって書きつづっていたのだから。
そうか。
そうだった。
喜びは悲しみをともなうのだった。
ならば、喜びは嘆きをもともなって当然である。
なにものもすべて孤独であるからこそ、結びつこうとするように
そうであるものは、そうでないものに結びつこうとし
ある状態のものは、その状態とは違った状態になろうとするのだ。
もっていないと、もちたくなるように
もっていると、もっていたくなくなるように。
あったことは、なかったことのように思いたくなり
なかったことは、あったことのように思いたいように。
タレスやヘラクレイトスやエンペドクレスといった哲学者たちの言葉が思い出された。
いや、彼らの言葉が、いままた、わたしを、ふたたび見出したのだった。


*


花の下に
小さなわたしがいた。
うつぶせになって倒れていた。
腰をかがめて
そっと手で揺さぶろうとすると
指が触れるか触れないかの瞬間に
小さなわたしの姿が消えた。
立ちあがると
違った場所に立っていた。
振り返って見上げると
巨大な数式の花の後ろに
それよりも巨大な人影があった。
逆光で真黒だったが
それがわたしであることは感じられた。


*


草花の葉緑体が光を呼吸するように
数式の花は知性を呼吸する。
わたしたちの目とこころを通して。

葉緑体は自らを変え、光を吸収する。
あるいは、このとき、光は葉緑体を変化させると言えるだろう。
変化した葉緑体は、光のいくばくかを変化させて
草花の養分と結びつけ、いくばくかの光を吐き出す。
吐き出された光は、草花を自ら光り輝かせる光となる。
草花を美しく見せるのは造形と色彩を際立たせるこの光のためである。

数式の花のさまざまなフェイズが知性を吸収する。
あるいは、このとき、知性は数式の花にさまざまなフェイズを見ると言えるだろう。
このさまざまなフェイズは、
過去知識の堆積と新たなフェイズを予感させるものから構成されている。
とりわけ、新たなフェイズは、新しいアスペクトをもたらせることがあり
まったく新しいフェイズは、ときには、直面した知性の目をすり抜けて
新たなアスペクトの到来を見逃せることがあるほどである。
なぜなら、まったく新しいフェイズというものが、発見者の知性にのみ依存しており
その知性がその新しいフェイズから新しいアスペクトを獲得しない限り
その数式の花がもたらせたものを習得し得ないからである。
数式の花が、その造形と色彩の見事さを物語るのは
その数式の花を見る者の知性を吸収し
新たなフェイズとアスペクトを解き放ち
それが新たな知性を発生させる
知の光のきらめきのすごさである。
数式の花の内からの輝きは、それを見る者の顔から
いや、全身から
喜びと知性のきらめきを
そのきらめき輝く光をほとばしらせるほどなのである。

庭先に降り立ち
なんとはない数式の花を見て
ふと、こんなことを考えたのであるが
そうだ。
まったく新しいフェイズというものを発見することなど
わたしにできるのだろうかと。
まったく新しいアスペクトをもつことが
わたしにできるのだろうかと思った。
まったく新しい感覚や感情といったものでさえ
それまで自分がもっていなかったそれらのものを
自分が獲得するとき
つねに
すでに獲得していたものと比較することによってのみ
感得していたように思われたからである。
ましてや、知となると
わたしごとき知性の持ち主に
わたし以外の人間にも未知である
新しいフェイズを発見し
新しいアスペクトをもたらせることができるとは
とうてい考えられない。
すでに他者によってもたらされた新しいアスペクトを
いまもまだすべて知っているわけではないわたしである。
他者にとっては既知であるが
わたしにとっては未知の
新しいフェイズを発見し
それをこれまでのフェイズに積み重ね
そこから新しいアスペクトを得るのに
まだまだ修練中のわたしである。
わたしごとき知性の持ち主に
わたし以外の人間にも未知である
新しいフェイズを発見し
新しいアスペクトをもたらせることができるとは
とうてい考えられない。
考えられないけれど
それを願いとしてもちつづける熱意は
けっして失わないであろう。
それが、わたしを生かす限りは。
おお、数式の花よ。
きょうの日は
おまえのほんとうの価値を知らしめてくれた
記念すべき日であることよ。
祝え! わたしよ。
祝え! 数式の花よ。


*


まったく新しい感覚や感情といったものでさえ
それまで自分がもっていなかったそれらのものを
自分が獲得するとき
つねに
すでに獲得していたものと比較することによってのみ
感得していたように思われたからである。

わたしは思った。
しかし、これは考察が足りなかった。
まったく新しい感覚や感情が
それが感じとれるとき
それを感じさせる外的要因と
それを感じとるわたしの内的要因が結びついて生じさせているからである。
いわば、事物・事象の同時生起のように生じていることがあるからである。
いや、もっと簡素に言えば
それがわたしを新しくすると同時に
それをわたしが新しいものと感ずるということである。
フェイズやアスペクトも、そうである。
ほぼ同じようなものであるのだろう。
まったく新しいフェイズやアスペクトを感得するには
いったいどうすればいいだろうか。
天才ではない、ただの凡人であるわたしには
これまでどおり、日々、自分の目を
精神を、こころの目と、こころを
現時点での未知なるところへ
未知なるものへと向けつづけなくてはならない。
それと同時に
過去に堆積したフェイズとアスペクトについても
怠ることなく検討しつづけなければならないだろう。
まさしく、ゲーテの言葉どおり
生きている限り、努力して迷うものなのだ。
そうだ。
生きている限り
迷いつつも努力しつづけて
考えつづけなければならないのである。
天才であったゲーテでさえ
生きている限り、努力しつづけたのだ。
わたしなど、どれほど努力しても足りないものであるだろう。
自己と
自己につながるあらゆるものを。
自己につながっていたあらゆるものをも。
自己につながるであろうあらゆるものをも考察しつづけよう。
たとえ、自己につながらないであろうものがあるとも予感されようとも。
自己につながらないものがあるとしても
その存在の可能性をも考慮に入れて
さらなる知識を求め
さらなる知見を得て
考えよう。
考えつづけよう。
考えることが、わたしなのであるから。
感じつづけるとともに。


*


なんとはなしに眺めていて
思ったのだが、
このなんでもない
あたりまえの数式を
はじめに考えたものは
偉大であったのだと思う。
はじめにつくりだすことが
いかにむずかしいことであるか
また
つくりだしたそれを
他の多くの人間に
その意味するところのものであることを理解させ
そのことで
他の人間のこころが
それを使いこなせるようにするまでに
その意味を確たるものにするのが
いかに困難で
なおかつ
新しければ新しいほど
つまり
それを前にした人間にとって
それがどのような意味をもって
のちには公的に
どのような意義をもつものとなるのか
まだわからないときに
それをつくりだした人間が
どのような無理解と障害に遭遇するのか
遭遇してきたのか
考えただけでも怖ろしい。
なんとはなしに眺めていた
この数式の花にも
いわくつきの話があったのであろう。
あまりに基本的で
だれによって考えだされたのかも不明な
名もないこの数式にも
だれも語り継ぎはしなかったであろうけれど
きっと
ものすごい苦悩と喜びの物語があったのであろう。
こころがつくりだし
それがまた
こころをつくるのだもの。
きっと
ものすごい苦悩と喜びの物語があったのであろう。


*


詩人のメモとルーズリーフから目を離して
庭先に目を向けた。
詩人のメモにあった簡潔な言葉が
わたしのこころを
あたりまえのようにして存在しているさまざまなものに
思いを馳せさせる。
かわきかけの刷毛でひとなでしたように
ほんのいくすじか、かすかに
もうひとなですると、なにもつかないといったぐあいに
まるで申し訳なさそうにとでも言うように
空のはしに白い雲がかかっていた。
わたしが手で雲をなでると
白い雲がすーっと消えていった。
まさしく青天である。
あのかわきかけの刷毛のひとなでは
わたしのこころの記憶になった。
記憶といっても
おぼろなもので
いつまでも覚えていられるものではないだろう。
そういえば
さいきん、よく空を見上げる。
空を見上げては、雲のかたちを見つめている。
どの日の雲のかたちも違っているのだろうけれど
どんなかたちであっても、うつくしいと思ってしまう。
なぜかは、わからない。
それに、どの日の雲のかたちも覚えているわけではない。
じつを言えば
いま自分の手で消した
ひと刷毛の雲のかたちだけしか覚えていないのだった。
しかし、どの日の雲のかたちもうつくしかった。
雲のかたちを覚えていられないのに、
そのかたちを見て、うつくしいと思ってしまうのだった。
覚えていることができるものだけが
うつくしいのではないことに気がついたのだった。
いつまでも覚えていられるものだけがうつくしいわけではないのだと。
覚えていることができるものだけがうつくしいわけではないのだと。
きょうは
一年のうちで
南中高度がもっとも高い日ではなかろうか。
朝もまだはやい、こんな時間なのに
つよい日差しに
数式の花たちが数や記号の影を落としている。
わたしは庭先のテーブルに
詩人のメモやルーズリーフを置いて
椅子に腰を下ろした。
この天気のよい
濃い影を落とす日差しのつよい日に
庭先のテーブルに肘をついて
両手のひらの上に自分の顎をのせて
すこしのあいだ
うとうととしていた。
なんの心配ごともなく
ただ詩人のメモやルーズリーフにあった言葉を
ひとつひとつ思い出していた。
鼻の下や額から汗が噴き出してきた。
目をあけて
まどろみから目をさますと
目の先に
さっきまでなかった花が咲いていた。
とても小さな花だった。
こうした
まどろみから目をさましたときにしか
見つけることができなかったものかもしれない。
そんなことを思った。
それは
詩人のメモにあった数式と同じものであった。
詩人は
フェイズとアスペクトという言葉をつかって
言葉が形成するものや、その効果についてよく語っていた。
ただし、そのフェイズもアスペクトも
言語学でつかわれる意味ではなく
詩人独自の意味合いを持たせていた。
フェイズは、言葉が形成する意味概念そのものに近いのだが
詩人は、ときおり、フェイズを相とも呼んでいた。
相は、ある法則
それは
単一のものでも複数のものでもよいのだが
ある法則にしたがって概念を形成する場のことで
その場は
言葉が形成すると同時に
その言葉を受けて頭になにものかを思い浮かべる
その言葉の受け手の頭のなかにもあるもので
言葉というものが、つねに受け手の存在によってしか
その存在できないという立場から
詩人は、こんなことを言っていた。
「言葉はね。
 ぼくのなかにもあって
 それと同時に、ぼくの外にもあるものなんだ。
 たとえば、きみが、空に浮かんだ雲を指差して
 雲、と言ったとするだろ。
 ぼくが、きみの言葉を聞いて
 空を見上げたとしよう。
 そこに雲があるかないかで違うけれど
 いまは、きみが、雲と言って
 雲が浮かんでいたとしよう。
 ぼくは、きみの言葉から導かれて
 雲に目をやったのだろうけれど
 ぼくの目は、その雲を見るのだろうけれど
 ぼくのこころは、きみが口にした雲という言葉で思い出される
 さまざまな記憶にもアクセスして
 目で見ている雲以外の雲も
 こころの目に思い浮かべるだろうね。
 ことに、きみといっしょにいた
 さまざまな思い出とともにね。
 そして
 もっと、おもしろいのはね。
 もしも、きみが、雲と言って指し示したところに
 雲がない場合ね。
 それでも、ぼくは
 そこに、雲を見るだろうね。
 なにが、ぼくに雲を見させるんだろう。
 きみが口にした、雲という言葉かい?
 おそらく、そうだろう。
 きみが口にしなければ、ぼくのこころの目に
 雲の姿かたちなど、微塵も思い浮かばなかっただろうからね。
 でも、もしも、ぼくがいなければ、どうだったんだろう。
 きみが、雲という言葉を、ぼくに言わなかったら?
 ぼくのこころの目に浮かんだ雲の姿かたちは
 きっと現われることなどなかったろうね。
 言葉が、ちゃんと機能した言葉であるためには
 その言葉を理解できる受け手が存在しなければならないってことだね。
 言葉がちゃんと機能するっていうのは
 その言葉が指示する対象が存在するかどうかではなくて
 その言葉の受け手が
 その言葉が指示するものがなにであるかを
 きちんと認識できているかどうかにかかっているんだよね。」
アスペクトは、これまた言語学でつかわれる意味とは異なって
視点という意味でつかっていたように思う。
そしてフェイズとアスペクトについて
こんなことも言っていた。
「同じ事物でも
 フェイズが異なればアスペクトが異なり
 アスペクトが異なればフェイズも異なる。
 いま
 きみの手元にあるコップについて考えてみよう。
 それを単に液体を入れる容器として見る見方と
 それを、ぼくのコップと色違いのもので
 かつて、ぼくの恋人が使っていたもの
 ぼくが恋人と過ごしたいくつもの日を思い出させるものとして見る見方と
 ぼくにとっても
 日によって
 フェイズも異なればアスペクトも異なる。
 ぼくにとってのそのコップと
 きみにとってのそのコップの意味
 フェイズやアスペクトが違っていて当然だね。
 これがあらゆる事物・事象について言えることだよ。
 しかし、ある点で
 いや、多くの点で共通するフェイズやアスペクトを持ち合わせているから
 ぼくたちは
 ぼくたち人間は理解することができるんだろうね。
 お互いの生活を。
 お互いの生き方を。
 お互いの気持ちや考えてることを。」
そのときのわたしは、詩人の言っていることの意味を
すべて理解できていたわけではなかったが
さいきんになって、ようやくわかるような気がしてきたのであった。

1+1=1
こんな数式に意味があるのだろうか。
詩人のメモには、つぎのようなことが書いてあった。

ひと塊の1個の粘土に、もうひと塊の1個の粘土を加えて、
ひと塊の1個の粘土にしてやることができる。
それを
1+1=1
という式にかくことができる。
そういうフェイズとアスペクトをもつことができる。
このフェイズとアスペクトのもとでは
つぎのような式も意味をもつ。
1+1+1=1
1+1+1+1=1
・・・
左辺の数を1に限定することはないので
2+3=1
などともできるし
右辺の数を1に限定することもないので
2+3=4
ともできる。
1を10000個足す場合も
1+1+1+・・・+1=1
とできるし
1=1+1+1+・・・+1
のように
1個の粘土を10000万個にもできる。
このことは
ヘラクレイトスの「万は一に、一は万に」といった言葉を思い出させる。

詩人のメモにあった考察は
まったくのでたらめだったのだろうか。
いや、ベクトルとして見れば、妥当である。
間違いではない。
ベクトルでは
ゼロベクトルから出発して多数のベクトル和として表現することさえできる。
詩人は、あのメモにゼロという数字を書かなかったし
無限という言葉も書いていなかった。
たしかに、ゼロという数は
詩人のあのメモにあるフェイズとアスペクトからは
出てくるものではなかっただろう。
しかし、無限は?
そうだ。
たしか、詩人は、こんなことを言っていた。
「無限は数ではなくて
 状態だからね。
 無限にあるような気がしても
 無数にあるような気がしても
 無限や無数といったものはないからね。
 概念としては定義できても
 定義されたものが必ずしも存在するわけではないからね。」
詩人は、無限を数としては認めていなかったようである。
ゼロという数も嫌っていた節がある。
空集合について、独特の見解も持っていたし。
さっき見かけた
1+1=1
という小さな数式の花が消えていた。
見間違いだったのだろうか。
詩人のメモが見させた幻想だったのだろうか。
かつて、詩人が言ったように、
雲という言葉が
じっさいには、そこにない雲を
こころの目に見させることがあるように。


*


詩人のメモから

無限に1を足すという言葉に意味があるとすれば
無限=1
ということになるであろうか。
いや
無限に1を足したものが1に等しいのと
無限が1に等しいというのではフェイズが異なる。
1+1+1+・・・=1
という式になるということだが
同じフェイズから
同じアスペクトから
1+1+1+・・・=2
という式もできるし
1+1+1+・・・=3
・・・
という具合に、それこそ無限は
いや、無限に1を足したものは、どのような数にもなる。
これは
あくまでも
無限=2
無限=3
・・・
とは異なるフェイズであるが
あたかも
無限=1
無限=2
無限=3
・・・
が妥当であるかのような印象を与えるものである。
もしもこの奇妙なアスペクトを生じさせるフェイズを承認するならば
上記の式より
1=2=3=・・・=無限
といった式にも意味があることになる。
このアスペクトは、なにをもたらせるか?
このアスペクトを生じさせるフェイズはなにをもたらせるか?
言葉についてのなにを?
自我についてのなにを?


*


n個というとき
nを、ある任意の数とみなす。
ひとまず、ある数が仮に文字nに置かれているのだとみなす。
無限個などというものとみなすことはない。
しかるに
nを無限にすると
という言葉を耳にするやいなや
こころのなかで
nを無限に大きな数というものに置き換える気になってしまう。
無限に大きな数などというものが
あたかも存在するかのように。
無限に大きな数などというものを数として受け入れない立場からすると
では、無限という概念を、どう定義するのか。
定義できないのである。
そして、従来からある無限の定義を受け入れないことには
幾何も代数も完全に放棄しなければならないことになるのである。
こころのどこかが抵抗しつづけているのである。
無限に。


*


数にも履歴があるとする。
つまり演算の痕跡があるとするのである。
とすれば、どれだけの痕跡があり
履歴が生ずるのか
想像するにおびただしい数であろう。
さまざまな演算子で
さまざまな数式に用いられた痕跡が
わが目で見られるというのだ。
まるで言語のように。
このとき
言語と同じように
異なるフェイズとアスペクトをもって
その痕跡も見られるということであるのならば
履歴が、見るひとによって
異なるものとなるということである。
言葉が
読む人のファイズとアスペクトで
まったく異なる意味をもつように。
数が経験してきたさまざまの演算と数式
そのおびただしい体験と経験について考えると
これまで言葉が体験してきたもの
これまで言葉が経験したきたさまざまなものをも思い起こさせた。
そうだ。
言葉が体験し、経験したのだ。
わたしたちが体験し、経験するとともに。


*


このアスペクトからすると
1=1+2+3+・・・
2=1+2+3+・・・
3=1+2+3+・・・
・・・
ある数が
あらゆる数を結びつけたものとしても表現できる。
ここでは、もはや、数が問題なのではなく
結びつけることが数自体より重要なこととなっているのである。
演算を繰り返せば繰り返すほど
演算子の+という記号と
その機能の重要性がます。
究極的には、近似的に
+という演算子のみのアスペクトが生じる可能性がある。
いや、そのような可能性などないだろうけれど
可能性があると書いてみたかったのである。
書いてみると、可能性があるように思えると思ったからである。


*


「+という演算子のみのアスペクトが生じる可能性がある。 」
あるわけがない。
言葉を使わないで
言葉がつながることを示唆することができないように。
ただ
演算子の意味が強調されると
数の意味概念が後退させられるような気がしたのだった。
意味概念の後退とは
たとえば
2と3といった数の意味の輪郭であり
足すという演算のほうに意識が集中させられると
2でも3でも
あまり、その数自体に意味がなくなっていくということである。

2や3では無理か。
もっと大きな数。
自我とは
この演算子のことであろうか。
+だけではないし
まず
線形に演算されるものとも思われないが。
しかし、演算子も
数がなければ演算子が機能しないので
数と演算子の関係を
言葉と自我との関係として
アナロジックに見てやることもできる。
そうだ。
まさしく
数は言葉に
演算子は自我に。
しかし、言葉が自我と分かちがたいものであるように
数も演算子と分かちがたいものであろう。

逆か。
数が演算子と分かちがたいものであるように
言葉も自我と分かちがたいものなのであろう。


*


そして、さらに
もっとおもしろいことにはね、
と、ゴーストが聞こえない声でささやいた。
見えない指で、わたしが差し示した空に雲がなくてもね、
きみたちは、空を見上げて
そこにない雲を
こころの目に思い浮かべることもあるんだよね。
と、ふと、そんな声が聞こえたような気がして
空を見上げた。


*


ゴーストは、空を曲げ
雲をまっすぐに伸ばしてばらまいた。
直線状の雲に数式の庭が寸断され
わたしの視線も寸断され
数と記号の意味合いのわからぬ並びを
同時に縦から横から斜めから上から下から
しばらくのあいだ眺めていた。


*


コーヒーカップをテーブルの上に置いて
足もとの数式の花に目をやった。
コーヒーの香りがコーヒーをこしらえたように
数式の花がこの庭をこしらえ
わたしをこしらえたのだとしたら
あの言葉は逆に捉えなければならないだろう。
「宇宙は数でできている」
とピタゴラスは言った。
宇宙は数でできているのではなく
数が宇宙をこしらえたのだと。


*


ところが、だ。
数ではないものもあるのだ。
すべてのものが数に還元できるわけではない。
そうだろうか。
わたしたちは、すべてのものを数に還元しようとしている。
すべてのものを数え上げ、数にしようとしている。
実現できているかどうかは、わからないのだが。
しかし、数ではないものもあるであろう。
数にできないものもあるであろう。
感覚器官が知覚できないものがあるように
数にできないものもあるはずだ。
では、それを記号にすればよいのだ。
数と数をつなぐものと考えればよいのだ。
はたして、そうだろうか。
数にもならず、記号にもならないものがあるはずだ。
数にもならず、記号にもならないもの。
数式でいえば、数式にあらわされないもののことである。
数と記号を定義する言葉とその言葉を与えるなにものか。
では、数と記号と
その数と記号を定義するなにものかの意思と言葉をのぞくと
世界は空っぽなのか。
いや、世界はないのか。
いやいや、世界ではないのか。
もちろん
世界は空っぽではないだろう。
数でもなく、記号でもなく
その数や記号や
それらにまつわるもろもろのものをのぞいた
なにものかが存在するだろう。
その存在は確認できないものであるが
存在していることは直感的にわかる。
しかし、数や記号や
それらにまつわるものがなければ
この世界は存在しないのだろう。
この世界とは違った世界があるのかもしれないが
それは、この世界ではないのだろう。
数にもできず
記号にもできず
数や
記号の定義にも関わりがないもの
それがなにか
わたしには
すぐに思いつくことができなかった。
思いついた
あらゆるものが
数と記号と
言葉でできているのだった。
その言葉というのも
すべて、記号がどういう意味をもつものなのか
その意味を与える言葉でしかなかった。
そんなものばかりしか思い浮かばなかったのだ。
もちろん、思い浮かばないから存在していないのではなく
思い浮かばないものではあるが
思い浮かばないものも存在していることは確信しているのであるが
やはり
数が宇宙をこしらえたのだと
つくづくそう思われるのであった。


*


丸め合わせた
手のひらのなかで
数や記号が
かさかさ音をたてて
動き回っている。
手のひらに
チクチクあたる
数や記号のはじっこ
このこそばがゆい感じが
とてもここちよい
身体で感じる
数と記号


*


 数あるいは数的なものが記号よりさきにあって、あとで記号を創り出させたのか、記号あるいは記号的なものがさきにあって、あとで数を創り出させたのか、わからない。それとも、数あるいは数的なものと、記号あるいは記号的なものは、同時生起的に創り出されたものであるのか。
 明らかに後代になってつくられた数や数的なもの、記号や記号的なものがあるのだけれど、まったくの原初においては、どうだったのであろう。
 これは、語がさきか(もちろん、最初は文字言語ではなく音声だろうけれど)、語法がさきか、という問題に似ている。単純に、語がさきであると断定してよいのであろうか。原初においても、語法的な欲求がさきにあって、のちに語がつくられた可能性はないであろうか。語法と語法的な欲求は違うものであろうか。もちろん、語法と語法的な欲求を混同してはならないと思うのだが、語法的な欲求とでも呼ぶしかないものがあるような気がして、語法的な欲求という言葉でしかあらわせないものがあって、それが語をあらしめたのではないか、少なくともそういったケースがあるのではないかと思われるのであるが、どうであろうか。もちろん、新しい事物や事象に、新しい言葉を与える場合があるのだが、このような場合の欲求のことではない。いや、こういった欲求も含めていいのだが、形式が実体を求めるようなもの、そうだ、俳句や短歌がよい例だ。形式が言葉を求める、実体験あるいは実体験への観想を求めるように、語法的なものが語を求めるというようなことがあるように思えるのである。
 たとえば、さいしょのものの比喩としたら、数をビーカーに入れて、長い時間、温めながら撹拌しつづけると、記号が滲み出してきて、やがて数と数が記号によって結びつけられるというようなイメージだろうか。あるいは、さらに合理的な比喩としたら、堆積岩の生成過程を例にあげることができるであろう。別々の砂礫が高圧力のもとで、それぞれの砂礫の接触面で溶融するかのように結びついて、ひとかたまりの岩石となる過程である。
 ふたつ目のものの比喩としたら、過飽和水溶液から結晶が晶出するように、記号あるいは記号的な欲求が、数や記号を晶出させるといったイメージだろうか。
 記号あるいは記号的な欲求を、語法あるいは語法的な欲求として見て、数あるいは数的なものを、言葉として見てとると、数と記号の問題は、語と語法の問題の、より単純な系として見ることができる。これによって、言葉に関する問題、意識や無意識に関する問題、文学や芸術に関する問題などを、とても取り扱いやすい系で考えてやれることになるということである。
 極端であろうか。唐突であろうか。素っ頓狂であろうか。


*


 事物・事象が精神と結びついたものであることは、現実の在り様から分明であるが、また文学作品が読み手の解釈と密接に結びついていて、読み手の解釈との関わりによってのみ、その作品のじっさいの在り様があるように(日常の言葉のやりとりにおいても、これは言えるのだが)、数式もまた、その数式の意味をどこまで知っているか、その数式があらわしているものと示唆するものが、どういったものであるのかということを知っているのか知らないかで、どこまでその数式の変形や展開に関われるのかが異なるものになるように、違ったフェイズとアスペクトをもつ者にとっては、同じ数式が同じ数式ではなくなるのである。同じ数式が異なるフェイズとアスペクトをもつということである。このことは、あらゆる事物や事象が、その事物や事象を観察し解釈し解析する者によって、その存在をあらしめられるという、現実の在り様に相似している。
 ところで、その観察し解釈し解析する者は、その者が観察し解釈し解析する対象が存在しなければ、存在しないものであるのであろうか。存在するのか存在しないのかは、わたしにはわからない。しかし、もしも、世界に、ただひとりの存在者しかいないとしたら、あるいは、こう仮定したほうがよいであろう、もしも、ただひとりの存在者しかいない世界があるとしたら、その存在者にとって、現実とは、いったいどのようなものであろうか。観察し解釈し解析するものがいない世界での現実とは、いったいどのようなものであろうか。そもそものところ、そこには現実というものがあるのかどうか。
 数式がただひとつしかない世界があるとして、はたして、その数式は、意味をもつものであるのだろうか。観察し解釈し解析する人間がいなくて。自らの姿をのぞき見ることのできる鏡もなくて。 
 おそらくそのただひとりの存在者は、どうにかして、自分を観察し解釈し解析しようとするであろう。現実をあらしめるために。それゆえに、神は、世界を創造し、人間というものを創り出したのかもしれない。ここで、ふと、わたしは、詩人のつぎのような言葉を思い出した。
「神とは、あらゆる人間の経験を通して存在するものである。」


*


 数式においては、数と数を記号が結びつけているように見えるが、記号によって結びつけられたのは、数と数だけではない。数と人間も結びつけられているのであって、より詳細にみると、数と数を、記号と人間の精神が結びつけているのであるが、これをまた、べつの見方をすると、数と数が、記号と人間を結びつけているとも言える。複数の人間が、同じ数式を眺める場合には、数式がその複数の人間を結びつけるとも考えられる。複数の人の精神を、であるが、これは、数式にかぎらず、言葉だって、そうである。言葉によって、複数の人間の精神が結びつけられる。言葉によって、複数の人間の体験が結びつけられる。音楽や絵画や映画やスポーツ観戦もそうである。ひとが、他人の経験を見ることによって、知ることによって、感じることによって、自分の人生を生き生きとさせることができるのも、この「結びつける作用」が、言葉や映像にあるからであろう。


*


わたしは目である。
わたしは視線である。
わたしは頭である。
わたしは手である。
わたしは触感である。
ダイヤブロックを組み合わせ、いろいろなものを模したものをこしらる。
あるいは、なにものにも似ないものをこしらえる。
わたしはダイヤブロックを出現させる。
わたしはダイヤブロックそのものにもなる。
このとき、わたしはわたしの目をつくる。
わたしの視線をつくり、わたしの頭をつくり、
わたしの手をつくり、わたしの触感をつくる。

わたしは記号である。
わたしは数と数を結びつける。
わたしは数を出現させる。
わたしは数そのものにもなる。
このとき、わたしは記号をつくる。
わたしは思いつきである。
発想である。
計画である。
わたしは文意である。
わたしは文脈であり、効果である。
わたしは言葉と言葉を結びつける。
わたしは言葉そのものにもなる。
このとき、わたしは思いつきとなる。
発想となり、計画となる。

ダイヤブロックでつくろうとしたものがつくれないことがある。
重力のせいで、形が崩れるのだ。
あるいは、ダイヤブロックの数が足りなかったり
ダイヤブロックにほしい色がなかったり
ちょうど使いたい大きさのものがなかったりして。
用いる記号を間違って使ってしまったり
正しく変形したり展開したりすることができないことがある。

適切な文体が思いつかず
目的とした文意を形成する文脈を形成できなかったり
目的とした効果を発揮することができなかったりする。
無意識的に手にとったダイヤブロックを組み合わせていると
見たこともないうつくしいものになったりすることがある。
無意識的に数式をいじっていると
すばらしい予感を与える数式になったりすることがある。
無意識的に言葉をつぶやいたりしていると
すばらしい音楽的なフレーズができることがある。
数多くの書きつけたメモを眺めていると
ふいにそれらが結びついて
見たこともないヴィジョンがもたらされることがある。
こういったときに、よく
わたしは、自身がダイヤブロックそのものになった気がするのだった。
こういったときに、よく
わたしは、自身が数そのものになったような気がするのだった。
こういったときに、よく
わたしは、言葉そのものになったような気がするのだった。

それとも、ダイヤブロックそのものは、
なにかを目指してつくられたものではなかったのだろうか。
それとも、数そのものは
なにかを目指してつくられたものではなかったのだろうか。
それとも、言葉そのものは
なにかを目指してつくられたものではなかったのだろうか。
出来の良いわたしがあり
出来の悪いわたしがある。
良くもなく悪くもないわたしもある。
良くもあり悪くもあるわたしがある。

わたしそのものは
なにかを目指してつくられたものではなかったのだろうか。
庭先のテーブルに肘をついて
空を眺めていた。
雲のかたち。
つぎつぎとかたちを変えていく雲の形。
それは風のせいなのか。
雲にかかる重力と浮力のせいなのか。
地球が自転しているためか。
それとも
わたしが眺めているからだろうか。
わたしの目が
こころが
雲の形を変えていくのだろうか。


*


庭に出ようとした瞬間から
精神のなかに
数や記号があふれ出てくるのが感じられる。
数や記号が働きだそうとするのを感じる。
数式の庭に足を踏み入れたとたん
わたしの目と肉体は
内からの数や記号の圧力と
外からの数や記号の圧力にさらされて
まるで両手でピタッと挟まれた隙間のようだ。
限りなく薄い空気の膜のようなものとは言わないが
無に近い存在かもしれない。
無力な無ではないつもりではあるが。


*


詩人がネット上に書いていた言葉に目を通していた。
日記の断片であろうか、作品の一部のようにも見えるが
詩人は、つくりかけの詩の断片をよくそのまま放置しておいた。
記憶と音に関するところだ。

ネットの詩のサイトに投稿していた詩を何度も読み直していた。
もう、何十回も読み直していたものなのだが
一か所の記述に、ふと目がとまった。
記憶がより克明によみがえって
あるひとりの青年の言葉が
●詩を書いていたときの言葉と違っていたことに
気がついたのである。わずか二文字なのだが。
つぎのところである。

●「こんどゆっくり男同士で話しましょう」と言われて   誤
●「こんどゆっくり男同士の話をしましょう」と言われて  正  

誤ったのも記憶ならば
その過ちを正したのも記憶だと思うのだが
文脈的な齟齬がそれをうながした。
音調的には、正すまえのほうがよい。
ぼくは、音調的に記憶を引き出していたのだった。
正せてよかったのだけれど
このことは、ぼくに、ぼくの記憶が
より音調的な要素をもっていることを教えてくれた。
事実よりも、ということである。
映像でも記憶しているのだが
音が記憶に深く関与していることに驚いた。
自分の記憶をすべて正す必要はないが
とにかく、驚かされたのだった。
いや
より詳細に検討しなければならない。
●詩のまえに書いたミクシィの日記での記述の段階で
脳が
音調なうつくしさを優先して言葉を書かしめた可能性があるのだから。
記憶を出す段階で
記憶を言葉にする段階で
音調が深く関わっているということなのだ。
記憶は正しい。
正しいから正せたのだから。
記憶を抽出する段階で
事実をゆがめたのだ。
音調。
これは、ぼくにとって呼吸のようなもので
ふだんから、音楽のようにしゃべり
音楽のように書く癖があるので
思考も音楽に支配されている部分が大いにある。
まあそれが、ぼくに詩を書かせる駆動力になっているのだろうけれど。
大部分かもしれない。
音調。
それは、ほとんどつねに、たしかに恩寵をもたらせるのではあるのだが
恩寵とは呼べないものをもたらすこともあるのだった。

青年が発したのは、まさに言葉であって、ものではなかった。
ものはなかったので、それをそのまま保存しておくことはできなかった。
詩人は、音声によって、その言葉を聞かされたのであった。
青年は、言葉によって、そして、そのとき言葉を発した気持ちを
その表情に、そのからだのつくりだす雰囲気によって伝えたであろう。
伝えようとする意志がどこまで意識的かどうかにはかかわらず
きっと、その表情やからだぜんたいから醸し出されるニュアンスは伝わったであろう。
そして、その言葉はその青年の呼吸と同じように吐き出され
詩人の呼吸と同じように吸いこまれたのであろう。
呼吸。
そうだ、呼吸は呼気と吸気からなる一連の運動である。
しかし、吸い込んだ空気中の酸素をすべて変換してからだは吸収するのではなく
からだは吸い込んだ空気から変換した二酸化炭素と変換しなかった酸素を吐き出すのだ。
呼吸。
詩人がよく使ったレトリックだが
おそらく、そのとき、その時間がふたりを呼吸していたのであろう。
その場所がふたりを呼吸していたのであろう。
その出来事がふたりを呼吸していたのであろう。
おそらく、そのとき、その時間が詩人と青年を呼吸していたのであろう。
その場所が詩人と青年を呼吸していたのであろう。
その出来事が詩人と青年を呼吸していたのであろう。
詩人の一部を時間に変え、時間の一部を詩人に変え
詩人の一部を場所に変え、場所の一部を詩人に変え
詩人の一部を出来事に変え、出来事の一部を詩人に変え
青年の一部を時間に変え、時間の一部を青年に変え
青年の一部を場所に変え、場所の一部を青年に変え
青年の一部を出来事に変え、出来事の一部を青年に変え
そうして、詩人の一部はその青年となり、その青年の一部は詩人となり
その年の一部は詩人となり、詩人の一部がその青年となったのであろう。
そのとき、人はその青年を呼吸し、その青年は詩人を呼吸していたのであろう。
音声による言葉の意味概念の想起は
詩人が書いていたように、
音声による「なめらかさ」といったものをくぐってもたらされたのであろう。
その青年が発した言葉による意味概念のなかで
とりわけ、「男同士」というところが強い印象を持たせたであろう。
したがって、その「男同士」という言葉につづく言葉として
詩人としては「で」という、もっともありふれた
つまり、詩人が知るところでもっとも標準的な言葉を
音声的にも耳慣れたものであり、音調的にも
「の」よりも、耳にここちよいほうを
「正しい記憶」ではなく「記憶していたと思っていた言葉」から
引き出したのであろう。
のちのち詩人が、「正しい記憶」を思い出せたのは
詩人が書いていたことから推測されるだろう。
自分の作品を何度も読み返しているうちに
その言葉が想起させるイメージが
これはヴィジョンだけではなく、
そのときのニュアンスとかいったものも含めて
詩人が想起させたときに
「正しい記憶」のほうが
「それはまちがっているぞ」というシグナルでも発していたのであろう。
詩人は、そのシグナルにはじめは気がつかなかったが
何度も読み返しているうちに気がついたのであろう。
詩人は、「文脈の齟齬」と書いていたが
「正しい記憶」による「心情の齟齬」とでもいったものが
詩人のこころのなかに生じたのではないだろうか。
「正しい記憶」が「誤った記憶」を正す機会は
そうあることではない。
詩人は貴重な機会をつかまえたわけだ。
まさしく、恩寵といったものを感じていたであろう。
恩寵か。
わたしは、数式の庭を見渡した。
数式の花たちは、わたしにとって言葉でもあり
記憶でもあり、ものでもある。
数式の花たちにとっても
おそらく、わたしは、言葉でもあり
記憶でもあり、ものでもあるのだろう。
詩人は、べつの日の日記に、つぎのようにも書いていた。

何十回も読み直していて気がつかなかったのに
気がついたのは、あの投稿掲示板の大きさによるところも大きい。
あの大きさだと、間違いに気がつくことがほんとうに多いのだ。
まずいところに気がつくことがほんとうに多いのだ。
視覚というのも、「正しい記憶」に関与しているのかもしれない。
さて
もちろん、視覚も「もの」ではない。
「もの」に依存するが。

書かれたものの大きさが、その作品を見渡せる大きさが
「正しい記憶」や、よりよい表現を促せたということか。
わたしの目は、もう一度ゆっくりと、数式の庭ぜんたいを見渡した。
プリントアウトした詩人の言葉をテーブルのうえに置いて
わたしは、ひとつの数式の花のところに足を向けた。


東條英機。

  田中宏輔




      歴史教育にこそ、決して枯れることのない泉がある。それはとりわけ
     忘却の時代において、無言の警告者として刹那的な栄華を超越し、つね
     に過去を思いだすことによって、新しい未来をささやくのである。    
          (アドルフ・ヒトラー『わが闘争』I・第一章、平野一郎訳)


規則I
 自然の事物の原因としては、それらの諸現象を真にかつ十分に
説明するもの以外のものを認めるべきではない。
(ニュートン『プリンシピア』第III編・世界大系・哲学における推理の規則、中野猿人訳)


大がかりの見せしめを目的とする罰は、常になんらかの不正を伴う/国家を破滅させた
罰として/首をくくられ/吊り下げられる/気の毒な将軍/彼は/自分の
利益のために人殺しをするのではなく/偉大なる祖国のために
/祖国愛から/殺す/根っからの軍人だった。                                          *01

もう/処刑はすんだか?                                                   *02

戦争のかつての主役であり/現に今もそうである/人間の身体が/ハンカチで
/顔を/覆(おお)われ/絞首台の上に/横たわっていた。                                    *03

死んでいるのかい?                                                     *04

彼は/ハンカチをとって/自分自身の/顔を/見た。                                       *05

牢を出ると/森がある/森へ入っていく道がある/この森は/彼の故郷だった
/海の上に傾いたこの鬱蒼(うつそう)とした森/彼は/この森を愛していた。                            *06

やがて/森に入ってしばらく行った斜面で足を停め/木々のあいだから
海が見られるような向きをとった。                                               *07

もし、時間というものが静止してしまったら?/陽が沈むことがあっては
ならない/太陽の下では一日のうちにすべてが変るのだ
/彼はそう言って、引鉄(ひきがね)を引いた。                                          *08



規則II
 ゆえに、同じ自然の結果に対しては、できるだけ同じ原因を
あてがわなければならない。
(ニュートン『プリンシピア』第III編・世界大系・哲学における推理の規則、中野猿人訳)


どうして森なんかに行ったの?                                                 *09

苺を取りに。                                                         *10

ほんとう?                                                          *11

彼は/ハンカチに/つつまれた/野いちごを/目の前につきだした。                                *12

どこで見つけたの?                                                      *13

すこし森を歩いてみない?                                                   *14

あたし、ここにいてもいい?                                                  *15

森はきれいだよ/そのうえ/苺の茂みがある/見事な苺がなっている。                               *16

ふと眼の隅に白いものが動くのを見て、彼はそちらに視線をむけた。                                 *17

それ/何を隠してるんだ?                                                    *18

わたしの好きな遊び、何だか知ってる?                                              *19

「可愛い兵隊(カリグラ)」                                                   *20

知らぬ間に/靴のひもがとけたわ。                                                *21

肩ひとつしゃくってみせると/彼は/ひざをついて
靴ひもを結んでやった。                                                      *22

靴はいらないのよ。                                                       *23

彼は/山と/積もった/靴の山に/靴を投げつけた。                                        *24

木端微塵/地雷が/爆発した。                                                  *25

森の周りに/地雷がある/地雷が仕掛けられている/それが森の境界だった。                             *26

足が、腕が、頭が/ちぎれてあたりに飛びちった。                                          *27

枝々に/血のしたたる/ちぎれた皮膚が/ぶら下がっていた。                                    *28



規則III
 物体の諸性質のうち、増強されることも軽減されることも許されず、また
われわれの実験の範囲内ですべての物体に属することが知られるようなもの
は、ありとあらゆる物体の普遍的な性質と見なされるべきである。
(ニュートン『プリンシピア』第III編・世界大系・哲学における推理の規則、中野猿人訳)


戦争について語ることの外に/いったい、何が残されているのだろう?/聞くがいい
/わたしの言葉を心して聞くのだ/忘れてもらいたくない。                                    *29

第二次大戦なんて関係ないわ/過去の物語にすぎないわ/戦争は終ったのよ。                            *30

お前は知っているかい?/いま/おまえの祖国に/どんな人たちが生きているかを/
市民達は、政治的無関心と快楽とに取り憑かれており/間もなく/祖国を/
滅ぼしてしまうだろう/平和がこの頃ほど、長く続いていたことは
かつてない/平和が悲惨であるぐらいなら、戦争と代った
ほうがましだ/だれにしろ/平和より戦争を
えらぶ/と将軍はいった。                                                   *31

そろそろ/紙の上に/樹々の密生する現実の森そのものを含ませよう。                                *32

なんと申す森だ、これは?                                                    *33

カチン。                                                           *34

カティン Katyn は、現ベラルーシのスモレンスク近郊のドニエプル河畔にある
森/長さ八メートル、横一六メートルの一二層からなる穴に約三〇〇〇
人のポーランド軍将校の死体が横たわっていた/全員、正規軍装を
着用し、手を縛られ、首の後ろ側に銃で撃たれた跡があった。                                   *35



規則IV
 実験哲学にあっては、諸現象から一般的な帰納によって推論された命題
は、たとえどのような反対の仮説が考えられようとも、それらがよりいっ
そう正確なものとされるか、あるいは除外されなければならないような他
の現象が起こるまでは、真実なもの、あるいは真実にきわめて近いものと
みなさなければならない。
(ニュートン『プリンシピア』第III編・世界大系・哲学における推理の規則、中野猿人訳)


心は祖国愛にみち、口唇には歌をくちずさみながら/からだをまっすぐに伸ばして、
胸を張って/首くくりの吊し縄の方へと足を運んで/行き/行く/と
/ふと/ふり仰ぐと/何か/光っている/ように見えた。                                       *36

太陽は右手に/左手は海になっている。                                               *37

ハンカチが/光ったのだ。                                                     *38

それは太陽のせいだ/太陽は一切の白い物を容赦(ようしや)はしない。                                 *39

頭上にあった/黄金の手巾を/見て
/彼は自分自身に言った。                                                     *40

この手巾を一番多く所有する者が、最大の勇者と判定される/しかし/結局、
それはわたしの手のなかにあったものではなかったのだ。
わたしの手には何もなかったのだ/と。                                               *41

とはいうものの/定めとあれば、死ぬほかはない/祖先の多くの人たちと同じ
ように/偉大なる祖国のために/私は死んで太陽に捧げられねばならない
/そうだ/帝国のためには、いつでも死ぬ覚悟があった/いつでも。                                  *42

おお/祖国のために死ぬことの幸福さよ!                                              *43

太陽は沈み、また昇るのだろうか?                                                 *44

黄金(こがね)色(いろ)なす/雲を/見はるかしながら/彼はそう/言った。                               *45

将軍の言葉に/森が/緑の枝を/靡(なび)かせる。                                          *46

樹の枝に/ひっかかっている/一枚の/ハンカチが/
海の方へと/ひらひら/飛んで行きました。                                             *47

留(とど)まれ/お前はいかにも美しい。                                                *48

数秒のあいだ/ハンカチが/宙に静止した。                                              *49

きれいじゃない?/ほんとうにそう思う?/きれいでしょう?
/そう?/そうじゃなくて?                                                     *50

バスというバスが/一時間前に発車していた。                                             *51

しかし/彼は/待っていた。                                                     *52

もう一度同じ場所に戻ってくるという確信があったからだ。                                       *53

コーヒー飲む?/別のところで/コーヒーを
もう一杯いかが?                                                          *54

泣いているの?                                                           *55

すべてのものは海から来たんだ。                                                   *56

そうとも/そうだった。                                                      *57

おお海よ/海よ、おまえはどうして逃げるのか。                                            *58

わたしは海であるのか/わたしは海であるのか/わたしは海であるのか。                                 *59

来ないのもよい。バスも……。                                                    *60

あるいはまた……                                                          *61











 References

*01:タキトゥス『年代記』第十四巻・44節、国原吉之助訳/タキトゥス『年代記』第十五巻・51節、国原吉之助訳/アイザック・ディネーセン『復讐には天使の優しさを』第二部・2、横山貞子訳/トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳/サバト『英雄たちと墓』第IV部・5、安藤哲行訳/D・H・ロレンス『完訳チャタレイ夫人の恋人』第十章、伊藤整訳・伊藤礼補訳/ヘッセ『別な星の奇妙なたより』高橋健二訳/サバト『英雄たちと墓』第IV部・5、安藤哲行訳/タキトゥス『年代記』第十五巻・49節、国原吉之助訳/スタッズ・ターケル『「よい戦争」』1・ロージー・銃後の勤労戦士、渡辺和枝訳/ヨーゼフ・ロート『果てしなき逃走』第十三章、平田達治訳。*02:ヘッセ『アウグスツス』高橋健二訳/シェイクスピア『マクベス』第一幕・第四場、福田恆存訳。*03:シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第一場、大山俊一訳/シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第一場、大山俊一訳/ダス『「ノールランのらっぱ」から』林穰二訳/D・H・ロレンス『指ぬき』小野寺健訳/プラトーノフ『粘土砂漠』9、原卓也訳/トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳/クワジーモド『現代人』井出正隆訳/エーヴ・キュリー『キュリー夫人伝』第一部・二、川口篤・河盛好蔵・杉捷夫・本田喜代治訳。*04:D・H・ロレンス『指ぬき』小野寺健訳。*05:ソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』木村浩訳/シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、大山俊一訳/ラドヤード・キップリング『船路の果て』小野寺健訳/カトリーヌ・アルレー『わらの女』I、安堂信也訳/カトリーヌ・アルレー『わらの女』I、安堂信也訳。*06:カトリーヌ・アルレー『わらの女』II、安堂信也訳/アーシュラ・K・ル・グイン『始まりの場所』4、小尾芙佐訳/アーシュラ・K・ル・グイン『始まりの場所』4、小尾芙佐訳/シェイクスピア『マクベス』第五幕・第四場、福田恆存訳/アーシュラ・K・ル・グイン『始まりの場所』1、小尾芙佐訳/コレット『青い麦』一、堀口大學訳/トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳/D・H・ロレンス『完訳チャタレイ夫人の恋人』第五章、伊藤整訳・伊藤礼補訳。*07:D・H・ロレンス『完訳チャタレイ夫人の恋人』第八章、伊藤整訳・伊藤礼補訳/アイザック・ディネーセン『復讐には天使の優しさを』第三部・13、横山貞子訳。*08:トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳/ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』6、井上一夫訳/ヨベル書二一・一〇/ミュッセ『戯れに恋はすまじ』第一幕・第四景、進藤誠一訳/クライヴ・バーカー『不滅の愛』第五章・V、山本光伸訳。*09:アーシュラ・K・ル・グイン『始まりの場所』5、小尾芙佐訳。*10:シェイクスピア『リチャード三世』第三幕・第四場、福田恆存訳、句点加筆。*11:イェジイ・アンジェイェフスキ『灰とダイヤモンド』第七章、川上洸訳。*12:D・H・ロレンス『死んだ男』I、幾野宏訳/メリメ『ドン・ファン異聞』杉捷夫訳/ルソー『告白』第十一巻、桑原武夫訳/アイザック・ディネーセン『復讐には天使の優しさを』第二部・8、横山貞子訳/ジャック・フィニイ『悪の魔力』福島正実訳。*13:ミュッセ『戯れに恋はすまじ』第四幕・第六景、進藤誠一訳。*14:D・H・ロレンス『息子と恋人』第二部・第九章、小野寺健訳。*15:エーヴ・キュリー『キュリー夫人伝』第一部・一、川口篤・河盛好蔵・杉捷夫・本田喜代治訳。*16:D・H・ロレンス『息子と恋人』第二部・第七章、小野寺健訳/G・マクドナルド『リリス』18、死か生か?、荒俣宏訳/ヘッセ『車輪の下に』第二章、秋山六郎兵衛訳/シェイクスピア『リチャード三世』第三幕・第四場、福田恆存訳。*17:小松左京『旅する女』6.*18:D・H・ロレンス『春の陰翳』三、岩倉具栄訳/クライヴ・バーカー『不滅の愛』第一章・I、山本光伸訳。*19:ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』12、井上一夫訳。*20:タキトゥス『年代記』第一巻・41節、国原吉之助訳.*21:トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳/ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』4、井上一夫訳。*22:ジャック・フィニイ『大胆不敵な気球乗り』福島正実訳/D・H・ロレンス『死んだ男』I、幾野宏訳/ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』4、井上一夫訳。*23:プラトーノフ『ジャン』2、原卓也訳。*24:D・H・ロレンス『完訳チャタレイ夫人の恋人』第一章、伊藤整訳・伊藤礼補訳/ウィーダ『フランダースの犬』1、村岡花子訳/コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳/ソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』木村浩訳/ソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』木村浩訳。*25:レーモン・クノー『地下鉄のザジ』3、生田耕作訳/スタッズ・ターケル『「よい戦争」』2・爆撃者と被爆者・空襲のなかの暮らし、本田典子訳/沢村貞子『貝のうた』戦争がはじまる。*26:ヘロドトス『歴史』巻六・八〇節、松平千秋訳/ティム・オブライエン『僕が戦場で死んだら』18、中野圭二訳/カトリーヌ・アルレー『わらの女』II、安堂信也訳/アーシュラ・K・ル・グイン『始まりの場所』1、小尾芙佐訳。*27:シェイクスピア『ヘンリー五世』第四幕・第一場、大山俊一訳/沢村貞子『貝のうた』戦争がはじまる。*28:メレジュコーフスキー『ソレント』草鹿外吉訳/サマセット・モーム『物もらい』瀧口直太郎訳/ティム・オブライエン『僕が戦場で死んだら』8、中野圭二訳/ヨーゼフ・ロート『果てしなき逃走』第二章、平田達治訳。*29:ヴィーレック『カルタゴよ、さらば』児玉惇訳/ヴィーレック『カルタゴよ、さらば』児玉惇訳/アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』呉茂一訳/ホメーロス『オデュッセイア』第一巻、高津春繁訳/カトリーヌ・アルレー『わらの女』I、安堂信也訳。*30:スタッズ・ターケル『「よい戦争」』記念碑、中山容訳/スタッズ・ターケル『「よい戦争」』記念碑、中山容訳/カポーティ『叶えられた祈り』川本三郎訳。*31:ミュッセ『戯れに恋はすまじ』第三幕・第三景、進藤誠一訳/エーヴ・キュリー『キュリー夫人伝』第二部・一、川口篤・河盛好蔵・杉捷夫・本田喜代治訳/アフマートワ『平和のうた』江川卓訳/アフマートワ『平和のうた』江川卓訳/プルタルコス『アギスとクレオメネス』クレオメネス・二三(二)、岩田拓郎訳/クライヴ・バーカー『不滅の愛』第四章・II、山本光伸訳/ホメ―ロス『イーリアス』第十二巻、呉茂一訳/D・H・ロレンス『完訳チャタレイ夫人の恋人』第十章、伊藤整訳・伊藤礼補訳/タキトゥス『年代記』第十五巻・46節、国原吉之助訳/タキトゥス『年代記』第三巻・44節、国原吉之助訳/T・H・ガスター『世界最古の物語』バビロニアの物語・神々の戦争、矢島文夫訳/ヘロドトス『歴史』巻一・八七節、松平千秋訳/サスーン『将軍』 成田成寿訳、句点加筆。*32:コレット『青い麦』一、堀口大學訳/マラルメ『詩の危機』南條彰宏訳/モーリス・ブランショ『文学空間』II、粟津則雄訳。*33:シェイクスピア『ヘンリー四世』第二部・第四幕・第一場、中野好夫訳。*34:スタッズ・ターケル『「よい戦争」』4・罪と罰・ポート・シカゴの大爆発、唐沢幸恵訳。*35:平凡社『東欧を知る事典』カティン事件/岩波ブックレット『シリーズ東欧現代史1・カチンの森とワルシャワ蜂起』渡辺克義/岩波ブックレット『シリーズ東欧現代史1・カチンの森とワルシャワ蜂起』渡辺克義。*36:アドルフ・ヒトラー『わが闘争』I・第七章、平野一郎訳/トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳/プルタルコス『アギスとクレオメネス』アギス・二〇、岩田拓郎訳/ジャック・フィニイ『ゲイルズバーグの春を愛す』福島正実訳/ランボー『飾画』ある理性に、小林秀雄訳/ガルシン『あかい花』二、神西清訳/メリメ『ヴィーナスの殺人』杉捷夫訳/原民喜『永遠のみどり』/D・H・ロレンス『完訳チャタレイ夫人の恋人』第五章、伊藤整訳・伊藤礼補訳/ティム・オブライエン『僕が戦場で死んだら』16、中野圭二訳/ラーゲルクヴィスト『バラバ』尾崎義訳。*37:ヘロドトス『歴史』巻四・四二節、松平千秋訳/小松左京『旅する女』1。*38:メリメ『ドン・ファン異聞』杉捷夫訳/カポーティ『感謝祭のお客』川本三郎訳。*39:カミュ『異邦人』第一部・4、窪田啓作訳/ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳。*40:アーシュラ・K・ル・グイン『始まりの場所』1、小尾芙佐訳/ヘロドトス『歴史』巻二・一二二節、松平千秋訳/ゴールディング『ピンチャー・マーティン』11、井出弘之訳/D・H・ロレンス『死んだ男』II、幾野宏訳。*41:ヘロドトス『歴史』巻四・六四節、松平千秋訳/ヘミングウェイ『暗黒の十字路』井上謙治訳/ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』8、井上一夫訳/ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳。*42:ローデンバック『死都ブリュージュ』VII、窪田般彌訳/ソポクレス『コロノスのオイディプス』高津春繁訳/トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳/サバト『英雄たちと墓』第I部・12、安藤哲行訳/D・H・ロレンス『馬で去った女』三、岩倉具栄訳/モリエール『人間ぎらい』第四幕・第四場、内藤濯訳/アドルフ・ヒトラー『わが闘争』I・第五章、平野一郎訳/アドルフ・ヒトラー『わが闘争』I・第五章、平野一郎訳、句点加筆。*43:『NHK音楽シリーズ 1 ショパン─その愛と生涯』第三章、園部三郎/エーヴ・キュリー『キュリー夫人伝』第一部・一、川口篤・河盛好蔵・杉捷夫・本田喜代治訳。*44:クライヴ・バーカー『不滅の愛』第五章・VII、山本光伸訳。*45:アーサー・シモンズ『阿片喫む人』尾島庄太郎訳/トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳/トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳/アーシュラ・K・ル・グイン『始まりの場所』1、小尾芙佐訳/ジーン・リース『あいつらのジャズ』小野寺健訳。*46:タキトゥス『年代記』第十四巻・36節、国原吉之助訳/シェイクスピア『マクベス』第五幕・第五場、福田恆存訳/V・E・フランクル『夜と霧』七・苦悩の冠、霜山徳爾訳/モーパッサン『テリエ館』2、青柳瑞穂訳、句点加筆。*47:ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳/エーヴェルラン『ヨーロッパのどこかで』林穣二訳/ヒメーネス『唄』荒井正道訳/ヨーゼフ・ロート『果てしなき逃走』第十九章、平田達治訳/コレット『青い麦』一、堀口大學訳/トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳/T・H・ガスター『世界最古の物語』ハッティの物語・姿を消した神様、矢島文夫訳。*48:ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳/ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、句点加筆。*49:サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳/メリメ『ドン・ファン異聞』杉捷夫訳/プラトーノフ『ジャン』11、原卓也訳。*50:D・H・ロレンス『息子と恋人』第一部・第四章、小野寺健訳/マーガレット・ドリブル『再会』小野寺健訳/P・D・ジェイムズ『殺人展示室』第三部・2、青木久恵訳/サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』バナナフィッシュにうってつけの日、野崎孝訳/D・H・ロレンス『歓びの幽霊たち』幾野宏訳。*51:マ・フニンプエー『同類多数』南田みどり訳/イェジイ・アンジェイェフスキ『灰とダイヤモンド』第十章、川上洸訳。*52:T・H・ガスター『世界最古の物語』カナアンの物語・バアルの物語、矢島文夫訳/D・H・ロレンス『太陽』二、岩倉具栄訳/トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳。*53:サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳。*54:クライヴ・バーカー『不滅の愛』第五章・III、山本光伸訳/G・バタイユ『無神学大全・内的体験』第一部・III、出口裕弘訳/クライヴ・バーカー『不滅の愛』第五章・III、山本光伸訳。*55:プラトーノフ『フロー』原卓也訳。*56:クライヴ・バーカー『不滅の愛』第五章・V、山本光伸訳。*57:ロバート・ニュートン・ペック『豚の死なない日』3、金原瑞人訳/モリエール『人間ぎらい』第四幕・第四場、内藤濯訳。*58:ヴァレリー『夏』鈴木信太郎訳/詩篇一一四・五。*59:ヨブ記七・一二/ヨブ記七・一二/ヨブ記七・一二。*60:吉増剛造『<今月の作品>選評19』ユリイカ一九八九年九月号。*61:大岡信『<今月の作品>選評1』ユリイカ一九九〇年二月号。


ジャンヌとロリータの物語。

  田中宏輔




Contents

Hourglass Lake
Katyn
Selve d'Amore
Katyn
Selva Oscura
Gethsemane
Bois Chesnu
Nageki no Mori
Ararat



登場人物

Jeanne d'Arc ジャンヌ・ダルク(1411 or 1412−1431)。ローマ教皇庁はルーアンの審決をまだ取り消していない。それでいて、教皇庁は、一九二〇年、ジャンヌを聖女に列した。したがって、ジャンヌの存在は、異端の女にして聖女という、まことに不可解なものである。(平凡社『大百科事典』)

Dolores Haze ドロレス・ヘイズ。ウラジーミル・ナボコフ(1899−1977)の『ロリータ』という小説の題名は、それに出てくる少女の名前 "Dolores"の愛称"Lolita"による。(Vladimir Nabokov,"Lolita", U.S.A.,Vintage International,1989,p.9.)新潮社文庫版・大久保康雄訳の『ロリータ』の訳注に、ドロレスとは、「悲しみ」、「悲哀」の意で、キリスト教の「マリアの悲しみ」に由来する、とある。研究社『羅和辞典』に、「悲しめる」という意味の形容詞 "dolorosus"、「悲嘆、苦悩」という意味の名詞 "dolor"が収載されている。"Via dolorosa"、「悲しみの道」という言葉が、筆者に想起されたが、それは、十字架を背負わされたイエス・キリストが、<総督の官邸>から<ゴルゴタという所>(マルコによる福音書15・16 、15・22)にまで歩ませられた道の名である。(M・ジョーンズ編『図説・新約聖書の歴史と文化』左近義慈監修/佐々木敏郎・松本富士男訳)

Pier Paolo Pasolini  ピエール・パオロ・パゾリーニ(1922−1975)。イタリアの詩人、作家、映画監督。同性愛にからみ、ローマ郊外で殺された。(平凡社『大百科事典』)

King Lear リア王。ウィリアム・シェイクスピア(1564−1616)の『リア王』の主人公。ブリテンの老王。(シェイクスピア『リア王』大山俊一訳)

Hans Giebenrath ハンス・ギーベンラート。ヘルマン・ヘッセ(1877−1962)の『車輪の下に』の主人公。角川文庫版・秋山六郎兵衛訳の『車輪の下に』に、「ハンス・ギーベンラートは疑いもなく優秀なる子供だった。この子が他の子供たちとまざって走り廻っていたとき、どんなに上品で一目を惹いていたかを見れば、それで十分だろう。」とある。

Jesus Christ イエス・キリスト(B.C.4?−A.D.30)。カトリック教では、イエズス。ユダヤのベツレヘムに生まれたキリスト教の開祖。"Jesus" は "help of Jehovah"の縮約形 "Joshua" に由来し、また"Christ"は、救世主 "Messiah"の意の称号で、"Jesus the Christ"といわれていたものが、後に"the" が脱落して、"Jesus Christ"と固有名詞化されたものである。(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)キリストは、ギリシア語では"Christos"、ラテン語では"Christus"。普通名詞で、その意味は「油を塗られた者」である。「油を塗る」という動詞は "chrisma"である。なお、同じく、「油を塗られた者」のことを、ヘブライ語では "mashiah"という。このヘブライ語からメシア "Messiah"「救世主」という語が生まれたのである。(山下主一郎『シンボルの誕生』)

Maximilian Kolbe マクシミリアン・コルベ(1894−1941)。カトリック司祭、宣教師、殉教者。一九四一年、アウシュビッツで餓死刑に定められた囚人の身代わりになって殉教した。一九七一年列福、一九八二年列聖。(平凡社『大百科事典』)

Pierre Cauchon ピエール・コーション(1371−1443)。ボオヴェイの司教。一九三一年のジャンヌに対する異端裁判における宗教裁判官。名義上の主席裁判官は、ジャン・ル・メートルであったが、審理の行方は、コーション一人の手に委ねられていた。(堀越孝一『ジャンヌ=ダルクの百年戦争』)

Judges and People 陪席判事たちと民衆。ルーアンにおける、ジャンヌに対する異端裁判では、一四三一年二月二一日を第一日目として、六回の公開審理と、三月一〇日以降の八回の獄中審理がもたれ、いったんは、五月二四日に異端の審決が下されたが、ジャンヌが回心を誓ったので、コーションは審決を変更し、終身刑を申し渡した。ところが、同月二八日にジャンヌが回心を翻したため、二九日に、再度、法定合議が執り行われ、三〇日に、ルーアンの広場において、「もどり異端」と宣言され、ルーアン代官に引き渡され、火刑に処せられた。(堀越孝一『ジャンヌ=ダルクの百年戦争』)この裁判においては、陪席判事の発言は参考意見に過ぎず、コーションただ一人が、異端審問官代理のジャン・ル・メートル(最終審議には欠席)と並んで裁決権をもっていた。(レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン『ジャンヌ・ダルク』福本直之訳)


場所

Hourglass Lake  アウアグラス・レイク。ナボコフの『ロリータ』に出てくる森林湖で、ラムズデイルから数マイルの所にある。(Vladimir Nabokov, "Lolita", U.S.A., Vintage International, 1989, p.81.)

Katyn  カティン。一九四三年四月一二日、ドイツは、スモレンスク近郊カティンの森で、大量のポーランド軍将校の死体を発見し、これをソ連の虐殺行為であると発表した。モスクワは直ちに反駁し(山本俊郎・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』)ドイツの仕業であると発表した。後に、ソ連がポーランド人将校ら一万五千人を殺したことが暴露した。(平凡社『東欧を知る事典』)

Selve d'Amore  セルヴェ・ダモーレ。ローレンツォ・デ・メディチ(1449ー1492)がつくった詩の題名『愛の森』より。(饗庭孝男『「西欧」とは何か』三田文学・一九八九年・夏季号・二〇九ページ)

Selva Oscura  セルヴァ・オスクーラ。ダンテ・アリギエリ(1265−1321)の『神曲』地獄篇に出てくる森。誤謬、非現実、無定形を表わす。(大修館書店『イメージ・シンボル事典』)

Gethsemane  ゲッセマネ。エルサレム東方、オリーブ山(八一四メートル)の麓にある園。イエスがユダに裏切られ、捕らえられた苦難の地。(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)「油絞り器」を意味する。(教文館『旧約・新約聖書大事典』)

Bois Chesnu  ボワ・シュニュー。ジャンヌ・ダルクが生まれたドムレミイの村から西に三キロメートルほどの所にある森で、彼女がお告げを聞いたといわれている場所の一つ。(村松剛『ジャンヌ・ダルク』)"chesnu"は古仏語で、現代仏語の"chene"に当たり、(高山一彦編・訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』巻末に附載されている「編訳者の註釈」)槲、楢、樫などのぶな科こなら属の木の総称である。(三省堂『クラウン仏和辞典』)キリストの十字架がオーク材であったために、キリストのエンブレムとなった。また、この木は、太陽王の火葬用の薪であった。(大修館書店『イメージ・シンボル事典』)太古、森を神聖視したゲルマン人は、樫の森には、供犠を行なう祭司のほかは足を踏み入れることをゆるさなかった。暗闇に坐った祭司は、樫の樹の葉からもれる囁きにじっと耳を澄まし、神意を聴き取った。(谷口幸男・福嶋正純・福居和彦『ヨーロッパの森から』)

Nageki no Mori  嘆きの森。『古今和歌集』巻第十九収載の安倍清行朝臣女さぬきの歌から。岩波文庫・佐伯梅友校注の脚注に、「なげきの森という神社(鹿児島県にあるという)の由来を考えた歌。人々の嘆き(木にかけて)が集まって森となっているのだろうというわけ」とある。

Ararat  アララテ。トルコ東端にある火山(五一〇〇メートル)。(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)洪水が引いた際に、ノアの箱舟が漂着した所。(教文館『旧約・新約聖書大事典』)


事物と象徴

cricket  コオロギ。その鳴き声を楽しむ習慣は、現在、ギリシアほかの地中海地域、インド、中南米に盛んで、これを神の声に擬して神託を得たりもする。しかし、西ヨーロッパ地域では、その声を死の予兆と見たり、女のおしゃべりに模したり、雑音扱いにする。イギリスでは、これが鳴けば嵐が来ると信じられた。(平凡社『大百科事典』)

owl  フクロウ。死と暗闇に関連をもつ鳥で、エジプトの象形文字では、死、或は、地平線に沈み、夜の航行をする死んだ太陽の領域を表す。ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(23or24−79)によると、悪い知らせをもたらす鳥であるという。(大修館書店『イメージ・シンボル事典』)

mine  地雷。昔は敵の防御施設の下にトンネルを掘って仕掛ける爆発物を指し、中世末期以来、攻囲戦で使われてきた。(ダイヤグラム・グループ編『武器』田島優・北村孝一訳)

strawberry  イチゴ。聖母マリアのエンブレム。(大修館書店『イメージ・シンボル事典』)

bramble  キイチゴ。キリストのイバラの冠の材料の一つ。ヘブライにおいては、神の愛、燃える薮から聞こえる神の声を表す。(前掲同書)

shoes  靴。靴を脱ぐことは、「主の前に裸で立つ」ことの一つの形式である。(前掲同書)

lily  シャルル七世(1403−1461)は、ジャンヌと彼女の二人の兄にユリの紋章を与え、貴族の称号「白ユリ」を授けた。(村松剛『ジャンヌ・ダルク』)ユリは不死(土中の球根から再生する)、永遠の愛、復活(復活祭の花)を表す。エドガー・アラン・ポー(1809−1849)では、たいてい悲しみを表す。トーマス・スターンズ・エリオット(1888−1965)では、ユリ−葬式−復活祭−イエスという意味関連がある。また、ハトとユリは受胎告知を表す。(大修館書店『イメージ・シンボル事典』)

handkerchief  ハンカチ。毎日新聞社刊の『聖書美術館3・新約聖書2』に収載されている『聖ヴェロニカ』(一四〇〇年から一四二〇年ごろにかけて、ケルンで活躍した無名画家によるもの)の解説に、「イエスが十字架の道行きをされたとき、彼女はイエスの苦しみに同情して、自分のハンカチ(ベールともいわれる)で額の汗をぬぐってあげた。すると、不思議なことに、その布には、イエスの顔がうつされていた。これは新約外典の『ニコデモの福音書』(『ピラト行伝』とも称せられる)に記された話である」とある。

toad  ヒキガエル。ヒキガエルの腹には、死者たちの魂がつまっているともいわれる。(大修館書店『イメージ・シンボル事典』)

rain  雨。神の恩寵を表す。(前掲同書)

flood  洪水。十二宮では双魚宮を表し、再出現を意味する。(前掲同書)








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Hourglass Lake



  Jeanne d'Arc

どうして森へなんか行くの?
(阿部日奈子『キャロル式三段論法十番勝負』)


  Dolores Haze

あたし、新しいセーターを森のなかでなくしちゃったの。
(ナボコフ『ロリータ』第一部、大久保康雄訳)

で、あなたの方は?
(シェイクスピア『空騒ぎ』第三幕・第二場、福田恆存訳)


  Jeanne d'Arc

あたし?
(テネシー・ウィリアムズ『やけたトタン屋根の上の猫』田島博訳)

わたし、──いまは、よくわからないのよ。
(キャロル『ふしぎの国のアリス』高杉一郎訳)

でも、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

そこへ行けば
(ハイネ『森の寂寞』片山敏彦訳)

森は
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)

わたしに
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

失ってしまったものを思い出させてくれる。
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)

それはよく知っているものだった。
(ガルシア=マルケス『族長の秋』鼓直訳)

森の繁みのあいだに
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

茂みの奥のあちこちに、
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第一幕・第一場、湯浅芳子訳)

到る処に
(ヘッセ『キオッジア』高橋健二訳)

忘れ去ってしまった音がいっぱい詰まっていて、
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)

地面をふむと
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第四幕・第三場、湯浅芳子訳)

消える。
(フリョーデング『落日に』尾崎義訳)

縡(ことき)れる。
(リリエンクローン『麦穂の中に死す』坂本越郎訳)

多くの記憶を
(サンドバーグ『真実』安藤一郎訳)

草の上に
(ワイリー『野生の桃』片桐ヨウコ訳)

木の下に
(ミカ書四・四)

雑草のなかに
(エマソン『詩人』斎藤光訳)

置きざりにしたまんま。
(ヴェーデキント『ブリギッテ・B』吉村博次訳)

・・・・・・姿は見えない
(フライシュレン『十一月』高安國世訳)

どうしてだか分る?
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』木村榮一訳)


  Dolores Haze

どうして?
(プラトン『メノン』藤沢令夫訳)


  King Lear

はっ、はっ、はっ!
(シェイクスピア『リア王』第一幕・第一場、大山俊一訳)

答えてやるとも。
(シェイクスピア『マクベス』第四幕・第一場、福田恆存訳)

いまこそ喜べ。
(シェイクスピア『ヘンリー四世』第二部・第四幕・第五場、中野好夫訳)

みんな死ぬのじゃ。
(シェイクスピア『ヘンリー四世』第二部・第三幕・第二場、中野好夫訳)


  Pier Paolo Pasolini

馬鹿!
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』野谷文昭訳)

このばかが!
(キャロル『ふしぎの国のアリス』高杉一郎訳)

あっちへ行け!
(テネシー・ウィリアムズ『やけたトタン屋根の上の猫』田島博訳)

あっちへ!
(シェイクスピア『オセロウ』第四幕・第二場、菅泰男訳)

しっ!しっ!
(キャロル『ふしぎの国のアリス』高杉一郎訳)

さあ、さあ、
(シェイクスピア『十二夜』第一幕・第五場、小津次郎訳)

やり直し!
(ラディゲ『ヴィーナスの星』江口清訳)

やり直し!
(ラディゲ『ヴィーナスの星』江口清訳)


  Jeanne d'Arc

嘘!
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)


  Dolores Haze

また?
(ガルシア=マルケス『悪い時』高見英一訳)


  Pier Paolo Pasolini

もちろん。
(シェイクスピア『オセロウ』第四幕・第三場、菅泰男訳)


  Dolores Haze

まあ、そう。すてきだわ
(ナボコフ『ロリータ』第一部、大久保康雄訳)


  Pier Paolo Pasolini

さ、さ!
(シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』第三幕・第二場、福田恆存訳)

みんな、位置につきなさい。
(キャロル『ふしぎの国のアリス』高杉一郎訳)

もとの同じところへ、
(プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳)


  Jeanne d'Arc

どこまでやったかしら?
(シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』第三幕・第一場、福田恆存訳)


  Dolores Haze

あなた憶えてないの?
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)

森よ!
(トルストイ『春なお早い・・・・・・』清水邦生訳)

蟋蟀(こほろぎ)多(さは)に鳴く
(『万葉集』巻第十・秋の相聞・読み人知らずの「花に寄する」歌)

森へはいる
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

ところ。
(ダンテ『神曲』浄罪篇・第二十八歌、野上素一訳、句点加筆=筆者)


________________________________________


Katyn



  Pier Paolo Pasolini

ここはくらやみの森である。
(ダンテ『神曲』地獄篇・序曲・第一歌、野上素一訳)

森はしいんとして、
(ドイプラー『冬』石川進訳)

いたるところに闇がある。
(リンゲルナッツ『いたるところに』五木田浩訳)

そこではすべての願いがかない、熟し、完結する、
(ダンテ『神曲』天堂篇・第二十二歌、野上素一訳)

またそこでのみ、あらゆる部分はかつてそれがあったままと同じ姿をとるのである。
(ダンテ『神曲』天堂篇・第二十二歌、野上素一訳)

それは、この場所が神によって直接支配されていたからである。
(ダンテ『神曲』天堂篇・第三十歌、野上素一訳)

美しい森よ。
(ヘルダーリン『散歩』片山敏彦訳)

これは古い森だ。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

古い森の
(ダンテ『神曲』浄罪篇・第二十八歌、野上素一訳)

森の縁
(ボブロフスキー『子供のとき』神田芳夫訳)

わたしたちはここにいる。
(民数記一四・四〇)

そこから深い森の奥へ!
(ランボー『何がニナを引止める』堀口大學訳)

さあさあ、
(シェイクスピア『お気に召すまま』第五幕・第一場、阿部知二訳)

ここのあたりからはじめてくれ、ええと──
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

ぼくのとても好きなせりふがあるんだ。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

ほら、ほら!
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳)


  Jeanne d'Arc

どうして森へなんか行くの?
(阿部日奈子『キャロル式三段論法十番勝負』)


  Pier Paolo Pasolini

そう、そう、
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)

すばらしい始まりだ。
(ディラン・トマス『皮商売の冒険』北村太郎訳)

さあ、つづけてくれ。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)


  Jeanne d'Arc

どうして森へなんか行くの?
(阿部日奈子『キャロル式三段論法十番勝負』)


  Dolores Haze

あなた、まえにも同じことをきいたわ。
(マヤ・ヴォイチェホフスカ『夜が明けるまで』清水真砂子訳)


  Pier Paolo Pasolini

おい、おい。
(シェイクスピア『『ロミオとジュリエット』第一幕・第一場、大山敏子訳)

きめられたセリフ以外は
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第二場、大山俊一訳)

喋っちゃいかん。
(シェイクスピア『リア王』第三幕・第五場、大山俊一訳)

さあ先をやってくれ。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)


  Dolores Haze

あたし、新しいセーターを森のなかでなくしちゃったの。
(ナボコフ『ロリータ』第一部、大久保康雄訳)


  Jeanne d'Arc

どうして?
(シェイクスピア『十二夜』第三幕・第一場、小津次郎訳)


  Dolores Haze

あたしってとてもだらしがないの。
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』野谷文昭訳)


  Jeanne d'Arc

相手は誰?
(ガルシア=マルケス『百年の孤独』鼓直訳、疑問符加筆=筆者)


  Dolores Haze

もう覚えてないわ。
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』野谷文昭訳)

相手が誰だったか知らないけど、
(ロベール・メルル『イルカの日』三輪秀彦訳)

でもそれがどうしたの?
(ジョン・ダン『夜あけ』永川玲二訳)

あのセーターは純毛だったのよ。
(ナボコフ『ロリータ』第一部、大久保康雄訳)

で、あなたの方は?
(シェイクスピア『空騒ぎ』第五幕・第二場、福田恆存訳)

どうして森へなんか行くの?
(阿部日奈子『キャロル式三段論法十番勝負』)


  Jeanne d'Arc

あたし?
(テネシー・ウィリアムズ『やけたトタン屋根の上の猫』田島博訳)

そうねえ。わたし、
(キャロル『ふしぎの国のアリス』高杉一郎訳)

わたし、──いまはよくわからないのよ。
(キャロル『ふしぎの国のアリス』高杉一郎訳)

でも、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

そこへ行けば
(ハイネ『森の寂漠』片山敏彦訳)

ああ、ああ・・・・・・
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)

ええと──
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)


  Pier Paolo Pasolini

はなはだ多くの骨があり、
(エゼキエル書三七・二)


  Jeanne d'Arc

そう。
(シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』第四幕・第三場、中野好夫訳)


  Pier Paolo Pasolini

それはいたるところに在る。
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)


  Dolores Haze

地面も見えないほどよ。
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第一幕・第三場、湯浅芳子訳)


  Jeanne d'Arc

あの、地面から出てきたものは何でしょう。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)


  Dolores Haze

そうよ。あそこ。
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)


  Jeanne d'Arc

おお、かわいそうに、
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第五幕・第三場、大山敏子訳)

あの頭蓋骨。
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第一場、大山俊一訳、句点加筆=筆者)


  Dolores Haze

あんた、どう?
(ミストラル『プロヴァンスの少女』杉富士雄訳)

わたしといっしょにこない?
(ミストラル『プロヴァンスの少女』杉富士雄訳)


  Jeanne d'Arc

わたしにどうしろって言うの?
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』木村榮一訳)


  Dolores Haze

そこは土が深くないので、
(マタイによる福音書一三・五)

土でこれをおおうために、
(エゼキエル書二四・七)

土を盛り、土を盛って
(イザヤ書五七・一四)

これを踏みつけ、
(ダニエル書七・二三)

埋めましょう。
(アポリネール『サロメ』堀口大學訳)


  Jeanne d'Arc

もしよければ、そうしましょう。
(プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳)

でも、
(プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳)

あたしは森から帰れなくなるわ。
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第一幕・第三場、湯浅芳子訳)

おそろしいことだわ!
(ビョルンソン『人の力を超えるもの』第一部・第一幕・第一場、毛利三彌訳)


  Pier Paolo Pasolini

これらの骨は、
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第一場、大山俊一訳)

すべて
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

土でこれをおおわなければならない。
(レビ記一七・一三)

土は
(オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』小川亮作訳)

死者たちのものなのだ。
(シュトルム『海辺の墓』吉村博次訳)

骨は、
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第一場、大山俊一訳)

押し潰されることを欲している。
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)

さあ、
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

来て踏め、
(ヨエル書三・一三)

踏みはずすことなく、
(ヘブル人への手紙一二・一三)

踏みしだく者は幸いなるかな!
(ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク『トリスタンとイゾルデ』第一章・序章、石川敬三訳)

Quidquid calcaverit hic,rosa fiat.
(研究社『羅和辞典』)

この者が踏みつけるものは何でもバラになれかし。
(研究社『羅和辞典』)


  Dolores Haze

しっ、
(シェイクスピア『空騒ぎ』第二幕・第一場、福田恆存訳)

黙って。
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第二場、福田恆存訳)

あれは梟、
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第二場、福田恆存訳)

梟の声かしら、
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)


  Jeanne d'Arc

鳴いているわ。
(ロベール・メルル『イルカの日』三輪秀彦訳)


  owl

ほう!
(シェイクスピア『空騒ぎ』第三幕・第二場、福田恆存訳)

ほ、ほう!
(シェイクスピア『空騒ぎ』第三幕・第三場、福田恆存訳)

阿呆がきたよ、ほう。
(シェイクスピア『十二夜』第二幕・第三場、小津次郎訳)


  King Lear

おい!
(シェイクスピア『リア王』第四幕・第六場、大山俊一訳)

お前たちはこの神聖な場所で何をしておる。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

おお胸も張り裂けるような光景!
(シェイクスピア『リア王』第四幕・第六場、大山俊一訳)

何というむごいことを!
(シェイクスピア『ハムレット』第四幕・第一場、大山俊一訳)

さあ言え。
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳)

娘たち、
(シェイクスピア『リア王』第一幕・第一場、大山俊一訳)

なんと申す森だ、
(シェイクスピア『ヘンリー四世』第二部・第四幕・第一場、中野好夫訳)

この森は?
(シェイクスピア『マクベス』第五幕・第四場、福田恆存訳)


  Jeanne d'Arc and Dolores Haze

カティン。
(平凡社『東欧を知る事典』句点加筆=筆者)


  King Lear

もう一度言うがよい。
(シェイクスピア『リア王』第一幕・第一場、大山俊一訳)


  Jeanne d'Arc and Dolores Haze

カティン。
(平凡社『東欧を知る事典』句点加筆=筆者)


  King Lear

もう一回!
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳)


  Jeanne d'Arc and Dolores Haze

カティン。
(平凡社『東欧を知る事典』句点加筆=筆者)


  King Lear

そのとおり。
(シェイクスピア『マクベス』第一幕・第三場、福田恆存訳)

ここは
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

聖なる森
(ランボー『太陽と肉体』堀口大學訳)

聖なる地である。
(使徒行伝七・三三)

ここにもまた戦争があった。
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)

殺される者は多い。
(イザヤ書六六・一六)

だれも救う者はない。
(ホセア書五・一四)

これこそはまこと非道、絶無、残酷きわまる殺人だ。
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

手足をしばって、
(マタイによる福音書二二・一三)

両眼をえぐり、
(士師記一六・二一)

鼻と耳とを切り落とし、
(エゼキエル書二三・二五)

その皮をはぎ、その骨を砕き、
(ミカ書二・三)

ことごとく殺し
(哀歌二・四)

ことごとく殺し
(マタイによる福音書二・一六)

ことごとく殺してしまった・・・・・・。
(ミストラル『プロヴァンスの少女』杉富士雄訳)

あはあ、あはあ、われらの目はそれを見た。
(詩篇三五・二一、句点加筆=筆者)

おお何とおそろしい、おそろしい、おそろしい事だ!
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

殺される者はおびただしく、
(ナホム書三・三)

彼らの血はちりのように流され、
(ゼパニヤ書一・一七)

地はその上に流された血をあらわして、
(イザヤ書二六・二一)

かわくこともない。
(イザヤ書四九・一〇)

どこへ足を踏み入れても、
(リルケ『ドゥイーノ悲歌』第一悲歌、浅井真男訳)

血がそこから流れでた。
(シュトルム『白い薔薇』吉村博次訳)

は!
(シェイクスピア『あらし』第五幕・第一場、福田恆存訳)

はっはっ!
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第三場、大山俊一訳)

この森にいつまでいるつもりだ?
(シェイクスピア『夏の夜の夢』第二幕・第一場、福田恆存訳)

swelling ground 盛り上がった土地
(三省堂『新クラウン英和辞典』)

多くの人がつまずき、
(マタイによる福音書二四・一〇)

その足は土を踏まなかった。
(ダニエル書八・五)

彼らはやって来たときと同じように、去って行った。
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)

swelling ground 盛り上がった土地
(三省堂『新クラウン英和辞典』)

多くの人がつまずき、
(マタイによる福音書二四・一〇)

くつを脱ぎ
(イザヤ書二〇・二)

跪く
(メーリケ『恋びとに』富士川英郎訳)

swelling ground 盛り上がった土地
(三省堂『新クラウン英和辞典』)

多くの人がつまずき、
(マタイによる福音書二四・一〇)

祈り
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

歩みも重く立ち去って行った。
(ヴェルフェル『幼な友達』神保光太郎訳)

だが、
(ゲーテ『訪ない』高橋健二訳)

娘たち、
(シェイクスピア『リア王』第一幕・第一場、大山俊一訳)

お前たちはこの神聖な場所で何をしておる。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

こうして足で踏まれ、
(イザヤ書二六・六)

足の裏の下にあって、
(マラキ書四・三)

これらの骨は、生き返ることができるのか。
(エゼキエル書三七・三)

バカバカしい!
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第二場、大山俊一訳)

おやっ!
(シェイクスピア『リア王』第四幕・第六場、大山俊一訳)

おお、
(シェイクスピア『空騒ぎ』第四幕・第一場、福田恆存訳)

あれは何だ?
(シェイクスピア『あらし』第三幕・第二場、福田恆存訳)

どうして、そんなことが。
(シェイクスピア『夏の夜の夢』第三幕・第二場、福田恆存訳)

いや、そんなことはありえない。
(シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』第三幕・第二場、福田恆存訳)

いや、いや、いや!
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳)

おお!
(シェイクスピア『リア王』第四幕・第三場、大山俊一訳)

見よ、
(エゼキエル書三七・七)

骨と骨が集まって
(エゼキエル書三七・七)

みるみるうちに、
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第二場、大山俊一訳)

その上に筋ができ、肉が生じ、
(エゼキエル書三七・八)

皮がこれをおおった。
(エゼキエル書三七・八、句点加筆=筆者)



バン!
(ジョージ・オウエル『カタロニア讃歌』鈴木隆・山内明訳)



銃声一発!
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)



  King Lear

伏せろ! 地面に伏せるんだ!
(ガルシア=マルケス『百年の孤独』鼓直訳)

戦争が始まった。
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)



ダダダダダッ
(J・G・バラード『太陽の帝国』第一部、高橋和久訳)



機銃掃射!
(ジョージ・オウエル『カタロニア讃歌』鈴木隆・山内明訳、感嘆符加筆=筆者)



バン、バン、バン!
(テネシー・ウィリアムズ『やけたトタン屋根の上の猫』田島博訳)



バン、バン、バン、バン!
(テネシー・ウィリアムズ『やけたトタン屋根の上の猫』田島博訳)



  King Lear

戦争!
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

そこに向けるべき銃があり、
(ドルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』信太英男訳)

発射すべき弾丸があり、
(ドルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』信太英男訳)

殺されるべき人間がいる。
(ドルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』信太英男訳、句点加筆=筆者)

これらの者は
(ペテロの第二の手紙二・一二)

ほふられるために生れてきた、
(ペテロの第二の手紙二・一二)

見よ、
(ヨブ記五・二七)

われわれの尋ねきわめた所はこのとおりだ。
(ヨブ記五・二七)

この場所こそ呪わしいのだ。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

戦争はやむことがない。
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)

あはあ、あはあ、
(詩篇三五・二一)

見よ、流血。
(イザヤ書五・七)

見よ、叫び。
(イザヤ書五・七)

a swelling sound 高まっていく音
(三省堂『新クラウン英和辞典』)

うなりをあげる砲弾、
(ポール・エリュアール『おれたちの死』大島博光訳)

突進する戦車の数々。
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)

さあ始めろ。
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第二場、大山俊一訳)

ぶっ放せ。
(シェイクスピア『十二夜』第二幕・第五場、小津次郎訳)

殺せ、殺せ、
(シェイクスピア『リア王』第四幕・第六場、大山俊一訳)

皆、殺せ。
(サムエル記上一五・三)



  Jeanne d'Arc

ああ、神さま!
(ゲルハルト・ハウプトマン『沈んだ鐘』第四幕、秋山英夫訳)


  Dolores Haze

どうすればいいのかしら?
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)


  Pier Paolo Pasolini

戦争を停めるための一つの言葉が必ずやあるにちがいない。
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)


  Dolores Haze

でもどの言葉かしら?
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)


  Jeanne d'Arc

一語で?
(ボルヘス『パラケルススの薔薇』鼓直訳)


  Pier Paolo Pasolini

ああ、そうだとも、
(シェイクスピア『お気に召すまま』第二幕・第四場、阿部知二訳)


  Jeanne d'Arc

戦争をやめさせるもの、何かしら。
(ヘミングウェイ『武器よさらば』第一部・第四章、石一郎訳、句点加筆=筆者)

ことば、ことば、ことば。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)


  Dolores Haze

ああ、意味のない言葉よ!
(ポー『リジーア』富士川義之訳)


  Pier Paolo Pasolini

世には多種多様の言葉があるだろうが、意味のないものは一つもない。
(コリント人への第一の手紙一四・一〇)


  Dolores Haze

けれどその言葉を知らない。
(トルストイ『陽はばら色の西に消えゆき』清水邦生訳)


ひゅう!
(シェイクスピア『リア王』第四幕・第六場、大山俊一訳)

頭上をかすめる弾丸のうなり、
(ドルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』信太英男訳)


  King Lear

見よ、
(エゼキエル書一八・三)

殺害に殺害が続いている。
(ホセア書四・二)



バン!
(ジョージ・オウエル『カタロニア讃歌』鈴木隆・山内明訳)



ダダダダダッ
(J・G・バラード『太陽の帝国』第一部、高橋和久訳)



  cricket

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)


取りちらかした地面には、
(ディラン・トマス『敵たち』北村太郎訳)

骨でできた
(オクタビオ・パス『砕けた壺』桑名一博訳)

こおろぎが鳴いていた。
(ディラン・トマス『敵たち』北村太郎訳)

こおろぎの骨、
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第一幕・第四場、大山敏子訳)

そのからだはそこなわれて、
(ダニエル書七・一一)

機関砲の砲弾を受けばらばらになっていた。
(J・G・バラード『太陽の帝国』第二部、高橋和久訳)


  Dolores Haze

さあお出でなさい、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

こおろぎ、こおろぎ、こおろぎちゃん、
(サンド『愛の妖精』篠沢秀夫訳)

一しょに楽しい思いをしましょう。
(『グリム童話』収載『ならずもの』高橋健二訳、句点加筆=筆者)


  King Lear

このあばずれ!
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』野谷文昭訳)


  Pier Paolo Pasolini

しっ、静かに!
(エミリー・ブロンテ『幻想するひと』斎藤正二訳)

この老いぼれめ、
(シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』第五幕・第一場、福田恆存訳)


  Dolores Haze

で、どこ?
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳、疑問符加筆=筆者)

どこにいるの?
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳、疑問符加筆=筆者)

何もこわいことはないのだから安心して、
(プラトン『テアイテトス』田中美知太郎訳)

いたいた、
(テネシー・ウィリアムズ『やけたトタン屋根の上の猫』田島博訳、読点加筆=筆者)

こんなとこに、いた!
(テネシー・ウィリアムズ『やけたトタン屋根の上の猫』田島博訳)


  cricket

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)


  Dolores Haze

オホホホ。
(シェイクスピア『十二夜』第三幕・第四場、小津次郎訳)

まあ、なんてかわいいこと。
(ミストラル『プロヴァンスの少女』杉富士雄訳)

こんなに大きくなって!
(ガルシア=マルケス『百年の孤独』鼓直訳)


  Jeanne d'Arc

笑っているのかしらん?
(リルケ『愛と死の歌』石丸静雄訳)


  Dolores Haze

こおろぎは
(ダリーオ『シンフォニア灰色長調』荒井正道訳)

すべて
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

私のもの。
(ヴァレリー『セミラミスの歌』鈴木信太郎訳)

私のものよ。
(アンリ・ミショー『夜の中で』小海永二訳)

この足で踏みにじってやるわ。
(シェイクスピア『リア王』第三幕・第七場、大山俊一訳)


  King Lear

おお!
(シェイクスピア『リア王』第二幕・第四幕、大山俊一訳)

こんなことをして、なにになるんだ。
(ダンテ『神曲』地獄篇・第二十一歌、野上素一訳、句点加筆=筆者)

どうしてそれを隠しておくんだ。
(シェイクスピア『十二夜』第一幕・第三場、小津次郎訳、句点加筆=筆者)


  Dolores Haze

おかげで、あたしたちは、また森へやられるのよ。
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第三幕・第二場、湯浅芳子訳、句点加筆=筆者)


  King Lear

こういったことすべてをどうやって忘れよう?
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)


  Pier Paolo Pasolini

こら老いぼれ!
(シェイクスピア『リア王』第二幕・第二場、大山俊一訳)

黙れ!
(シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』第一幕・第二場、福田恆存訳)

静かにせい。
(シェイクスピア『ヘンリー四世』第二部・第三幕・第二場、中野好夫訳)

この老いぼれめ、
(シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』第五幕・第一場、福田恆存訳)

あっちへ行け!
(テネシー・ウィリアムズ『やけたトタン屋根の上の猫』田島博訳)

あっちへ。
(シェイクスピア『お気に召すまま』第五幕・第一場、阿部知二訳)


  owl

ほう!
(シェイクスピア『空騒ぎ』第三幕・第二場、福田恆存訳)

ほ、ほう!
(シェイクスピア『空騒ぎ』第三幕・第三場、福田恆存訳)

阿呆はいったい、いずこへまいった。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)


  Pier Paolo Pasolini

あとで森のなかをさがすのがたいへんだ。
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第一幕・第三場、湯浅芳子訳)

・・・・・・さ、用意は出来たか?
(シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』第四幕・第一場、福田恆存訳)


  Jeanne d'Arc

えっ!
(シェイクスピア『リチャード三世』第三幕・第五場、福田恆存訳)


  Pier Paolo Pasolini

やり直し!
(ラディゲ『ヴィーナスの星』江口清訳)

やり直し!
(ラディゲ『ヴィーナスの星』江口清訳)


  Jeanne d'Arc

嘘!
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)


  Dolores Haze

また?
(ガルシア=マルケス『悪い時』高見英一訳)


  Pier Paolo Pasolini

もちろん。
(シェイクスピア『オセロウ』第四幕・第三場、菅泰男訳)


  Dolores Haze

いつまでやるつもり?
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)


  Jeanne d'Arc

まるで違うふたつの話を、いっしょくたにして、いったいどうなさりたいの?
(ハシント・ベナベンテ『美徳を裏切る人びと』第一幕、荒井正道訳)


  Pier Paolo Pasolini

まあ、そう言わずに、気を鎮めて。
(シェイクスピア『あらし』第一幕・第一場、福田恆存訳)


  Dolores Haze

あと一回でおしまいにしてくれない?
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)


  Pier Paolo Pasolini

わかった。わかった。
(ハシント・ベナベンテ『美徳を裏切る人びと』第二幕、荒井正道訳)

もう一度、これが最後だ。
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅泰男訳)


________________________________________


Selve d'Amore



  Hans Giebenrath

どこへ行くのさ?
(マヤ・ヴォイチェホフスカ『夜が明けるまで』清水真砂子訳)


  Jeanne d'Arc

え?
(シェイクスピア『オセロウ』第四幕・第一場、菅泰男訳)


  Hans Giebenrath

で、
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第二場、大山俊一訳)

何を探しているの?
(ガルシア=マルケス『悪い時』高見英一訳)


  Dolores Haze

・・・・・・なにを捜してたんだっけ?
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)


  Jeanne d'Arc

森の苺。
(ジュール・シュペルヴィエール『雲』嶋岡晨訳、句点加筆=筆者)


  Dolores Haze

森の木苺。
(ラディゲ『憤ったニンフ』江口清訳、句点加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

森に實るたぐひない苺よ。
(ラディゲ『秋』川村克己訳、句点加筆=筆者)


  Hans Giebenrath

場所はどこか知ってるかい?
(ロベール・メルル『イルカの日』三輪秀彦訳)


  Dolores Haze

わからない。
(シェイクスピア『オセロウ』第二幕・第三場、菅泰男訳)


  Jeanne d'Arc

どこでそれを見つけたの?
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)


  Hans Giebenrath

suo loco.
(岩波書店『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

それ自身の場所に。
(岩波書店『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

でも、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

ひとつとして同じ場所にとどまっていない。
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)


  Dolores Haze

だったら早く見つけなきゃいけないわね。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』木村榮一訳)

あるところへ行く道を教える?教えない?
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第四幕・第二場、湯浅芳子訳)


  Jeanne d'Arc

さあ、どうかお教えください、
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第三幕・第三場、大山敏子訳)


  Dolores Haze

つれてってちょうだい。
(シェイクスピア『十二夜』第一幕・第二場、小津次郎訳)


  Hans Giebenrath

じゃ、行こう。
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第二幕・第二場、大山敏子訳)

一緒においで。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第一場、大山俊一訳)

ぼくもいっしょに行く。
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第一幕・第一場、大山敏子訳)


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Katyn



  Hans Giebenrath

見てごらん!
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』木村榮一訳)

ハンカチだ!
(シェイクスピア『オセロウ』第三幕・第四場、菅泰男訳)

苺の刺繍をしたハンカチ、
(シェイクスピア『オセロウ』第三幕・第三場、菅泰男訳、読点加筆=筆者)

だが、待てよ!
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

なんだろう?
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第五幕・第三場、大山敏子訳)

木の下に
(ヨブ記四〇・二一)

繁みのあいだに
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

隠れている。
(ヨブ記四〇・二一)

いた。
(ボブロフスキー『拒絶』神田芳夫訳)

これだ、
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

それっどうだ、
(シェイクスピア『リア王』第三幕・第四場、大山俊一訳)

つかまえたぞ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

見てごらん、
(ジョン・ダン『蚤』湯浅信之訳)

骨でできた
(オクタビオ・パス『砕けた壺』桑名一博訳)

こおろぎ、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

虐殺された
(ジャン・ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳)

ポーランド人将校、
(平凡社『東欧を知る事典』読点加筆=筆者)

だがこれは生きている。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

おまえは生き残りか?
(J・G・バラード『太陽の帝国』第二部、高橋和久訳)


  cricket

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)


  Hans Giebenrath

ああ!
(シェイクスピア『リア王』第四幕・第六場、大山俊一訳)

あの頃の日が忘れられない。
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳、句点加筆=筆者)


  cricket

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)


  Hans Giebenrath

おまえはどこにもいるし、
(エーミー・ローエル『ライラック』上田保訳)

おまえはどこにもいた。
(エーミー・ローエル『ライラック』上田保訳)


  cricket

cri-cri

cri-cri


  Hans Giebenrath

そして
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第二幕・第三場、大山敏子訳)

ぼくはここにはいないのだ。
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第一幕・第一場、大山敏子訳)

ぼくはそこに留まったままなのだ。
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳、句点加筆=筆者)


  Dolores Haze

途中で、本当は何を探しているのか、忘れちゃったからじゃない?
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』野谷文昭訳)


  Hans Giebenrath

そうだとも。
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第一場、大山俊一訳)

あのころ、ふるさとの森の中で
(ボブロフスキー『プルッセン悲歌』神田芳夫訳)

つぎつぎに姿を消していった
(フィッツジェラルド『カットグラスの鉢』飯島淳秀訳)

草葉のこおろぎ、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)


  cricket

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)


  Hans Giebenrath

お前ではない、
(リルケ『ドゥイーノ悲歌』第三悲歌、浅井真男訳)

長年のあいだ、お前を忘れていたが、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆=筆者)

お前ではない、
(リルケ『ドゥイーノ悲歌』第三悲歌、浅井真男訳)

おまえはそこにおいで!
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第四幕・第三場、大山敏子訳)


  cricket

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)


  Jeanne d'Arc

これがなんであるか、あなたに示しましょう。
(ゼカリヤ書一・九)

土くれと一緒に、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

それを地に投げなさい。
(出エジプト記四・三)

あなたのそれを。
(リルケ『鎮魂歌』石丸静雄訳、句点加筆=筆者)


  Hans Giebenrath

これは何としたことだ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

別の森が
(ゴットフリート・ケラー『さよなら』堀内明訳)

現われた!
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第一場、大山俊一訳)


突如としてすぐ近くの/地中から森が一つ姿を現わしていた。
(ミルトン『失楽園』第十巻、平井正穂訳)

蟋蟀が
(グンナル・エーケレーフ『魂ノ不在』圓子修平訳)

黒い森になった。
(ディラン・トマス『はつかねずみと女』北村太郎訳)


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Selva Oscura



  Hans Giebenrath

ほれ、こうしてまた森の中で出あうことになったよ。
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第四幕・第二幕、湯浅芳子訳)

おまえを探して二度もここへきたんだ。
(ビョルンソン『人の力を超えるもの』第一部・第二幕・第一場、毛利三彌訳)

さあ、おいで。
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、大山俊一訳)

茂った森へ、
(ゲーテ『あこがれ』高橋健二訳、読点加筆=筆者)

深い森の奥へ!
(ランボー『何がニナを引止める』堀口大學訳)


  Jeanne d'Arc

どうして森へなんか行くの?
(阿部日奈子『キャロル式三段論法十番勝負』)


  Hans Giebenrath

お前は神に会わなければならない。
(フェデリコ・フェリーニ『ジュリエッタ』柱本元彦訳、『ユリイカ』一九九四年九月号・一〇二ページ)


  Jeanne d'Arc

神に会うって?
(フェデリコ・フェリーニ『ジュリエット』柱本元彦訳、『ユリイカ』一九九四年九月号・一〇二ページ)


  Hans Giebenrath

ほら見てごらん!
(シュトルム『夕暮れ』吉村博次訳)

ぼくの手が
(シュトルム『白い薔薇』吉村博次訳)

なすところを、
(シェイクスピア『マクベス』第一幕・第四場、福田恆存訳)


  Jeanne d'Arc

どうしようというの?
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第四場、大山俊一訳)


  Hans Giebenrath

そら!
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第三場、福田恆存訳)

折れ曲がれ!
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第三場、大山俊一訳)


  Jeanne d'Arc

やめて!
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第四場、大山俊一訳)


ブチ
(ケンネス・レックスロス『春のおもい』成田成寿訳)


  Jeanne d'Arc

ああ、
(シェイクスピア『ハムレット』第四幕・第七場、大山俊一訳)

かわいそうに!
(シェイクスピア『マクベス』第四幕・第二場、福田恆存訳)


  Hans Giebenrath

ごらん、
(シェイクスピア『ヴェニスの商人』第五幕・第一場、大山敏子訳)

なかはうつろさ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

なかみはからっぽだ。
(エリオット『うつろな男たち』高松雄一訳、句点加筆=筆者)

そら!
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第三場、福田恆存訳)


ブチ
(ケンネス・レックスロス『春のおもい』成田成寿訳)


  Hans Giebenrath

これもまた空である。
(伝道の書五・一〇)

そら!
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第三場、福田恆存訳)


ブチ
(ケンネス・レックスロス『春のおもい』成田成寿訳)


  Hans Giebenrath

そら!
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第三場、福田恆存訳)


ブチ
(ケンネス・レックスロス『春のおもい』成田成寿訳)


  Jeanne d'Arc

もうやめて!
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第四場、大山俊一訳)


  Hans Giebenrath

なかはうつろさ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

からっぽだ。
(シュトルム『深い影』吉村博次訳)

さあ、手をおだし。
(ミストラル『プロヴァンスの少女』杉富士雄訳)

恐れることはない。
(マタイによる福音書一〇・三一)

神さまの思し召しだ!
(ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク『トリスタンとイゾルデ』第十三章、石川敬三訳)

これこそは最も切なる祈りなのだ!
(シュトルム『別れ』吉村博次訳)

手にあるそれは
(出エジプト記四・二)

お前のためにつくられたのだ。
(シュトルム『小夜曲』吉村博次訳)

二つに
(列王紀上三・二五)

へし
(エウジェーニオ・モンターレ『昼も夜も』河島英昭訳)

折るがいい。
(シュトルム『秋』吉村博次訳)


  Jeanne d'Arc

不思議だわ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

いったいこの中に何がはいっているのかしら。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

あけて見ようかしら。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)


すると、
(シェイクスピア『マクベス』第三幕・第三場、福田恆存訳)

蟋蟀が
(グンナル・エーケレーフ『魂の不在』圓子修平訳)

涙をぽろぽろこぼした。
(ガルシア=マルケス『百年の孤独』鼓直訳)


  Jeanne d'Arc

そこでわたしはそれを投げすてて逃げだした。
(マーク・トウェイン『イヴの日記』大久保博訳)


  Hans Giebenrath

待て、
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第一場、福田恆存訳)

逃げてはいけない、
(シュトルム『時がうった』吉村博次訳)

おお!
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳)

なんだ、
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第一場、福田恆存訳)

どうしたのだ。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第一場、大山俊一訳)

僕の靴
(ランボー『「居酒屋みどり」で』堀口大學訳)


(ダンテ『神曲』天堂篇・第三十歌、野上素一訳)

触れるやいなや、
(ダンテ『神曲』天堂篇・第三十歌、野上素一訳)

蟋蟀の
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第二場、福田恆存訳)

いままで細長かった形が丸く変わった。
(ダンテ『神曲』天堂篇・第三十歌、野上素一訳、句点加筆=筆者)

a mine
(研究社『新英和大辞典』)

地雷
(ダイヤグラム・グループ『武器』田島優・北村孝一訳)

になった。
(ディラン・トマス『はつかねずみと女』北村太郎訳)

a mine
(研究社『新英和大辞典』)

地雷
(ダイヤグラム・グループ『武器』田島優・北村孝一訳)

になった。
(ディラン・トマス『はつかねずみと女』北村太郎訳)

そして
(シェイクスピア『リア王』第一幕・第一場、大山俊一訳)

その頭には
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

こう、しるしてある。
(ルカによる福音書二四・四六)

I.N.R.I.
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)

(Iesus Nazarenus,Rex Iudaeorum ユダヤ人の王、ナザレのイエス)
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』丸括弧加筆=筆者)

と、
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第一場、大山俊一訳)

そこで土くれを投げてみた。
(マーク・トウェイン『イヴの日記』大久保博訳)
















ピカッ
(辻真先・原作/石川賢・作画『聖魔伝』第二十九章)
















ズズーン
(辻真先・原作/石川賢・作画『聖魔伝』第十四章)
















光があった。
(創世記一・三)
















A mine exploded.地雷が爆発した。
(研究社『新英和大辞典』)

神はその光を見て、良しとされた。
(創世記一・四)

その響きは全地にあまねく
(詩篇一九・四)

ひびき渡る。
(エレミヤ書五一・五五)

a mine
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)

地雷火が
(原民喜『貂』)

頁のうえに
(リルケ『読書する人』富士川英郎訳)

Flying sparks started another fire. 飛び火した。
(研究社『新和英中辞典』)

地を震わせ
(イザヤ書一四・一六)

地をくつがえす
(ヨブ記一二・一五)

大いなる光、
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

神様が、
(インジェロー『一つの七倍−よろこび』古谷弘一訳)

森の上で、
(フランシス・ジャム『愛しています・・・・・・』手塚伸一訳)

美しい姿でみおろしている。
(カール・シャピロ『郷愁』三井ふたばこ訳、句点加筆=筆者)

地は再び新しくなり、
(ミルトン『失楽園』第十巻、平井正穂訳)

浄められ、
(ミルトン『失楽園』第十巻、平井正穂訳)

エデンの園のようになった。
(エゼキエル書三六・三五)


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Gethsemane



a passage through a wood 森の中の通路
(三省堂『新クラウン英和辞典』)

a passage from the Bible 聖書の一節
(三省堂『新クラウン英和辞典』)


  Jesus Christ

わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
(マタイによる福音書二六・三九)

しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。
(マタイによる福音書二六・三九)

(神は黙したもう)
(ミストラル『ばらあど』荒井正道訳)

(神は黙したもう)
(ミストラル『ばらあど』荒井正道訳)

(神は黙したもう)
(ミストラル『ばらあど』荒井正道訳)


  Jesus Christ

わたしは死ぬべき運命をもった存在だったのだ。
(ディラン・トマス『わたしがノックし』松田幸雄訳)


  Jeanne d'Arc

伝説の森、
(ゲオルゲ『誘い』富士川英郎訳、読点加筆=筆者)

こおろぎがなく
(キーツ『秋に寄せるうた』出口泰生訳)

なつかしい
(ハイネ『セラフィーヌ』第三歌、片山敏彦訳)

ふるさとの森。
(ハンス・カロッサ『Stella mystica(神秘の星)』片山敏彦訳、句点加筆=筆者)

わたしはそこできいたのだった。
(ネクラーソフ『公爵夫人ヴォルコーンスカヤ』谷耕平訳)


(キーツ『レイミア』第一部、大和資雄訳)


(キーツ『ギリシア古甕のうた』出口泰生訳)

声、
(シェリー『アドネース』上田和夫訳、読点加筆=筆者)


(キーツ『レイミア』第一部、大和資雄訳)


(キーツ『ギリシア古甕のうた』出口泰生訳)

声、
(シェリー『アドネース』上田和夫訳、読点加筆=筆者)


(キーツ『レイミア』第一部、大和資雄訳)


(キーツ『ギリシア古甕のうた』出口泰生訳)


(シェリー『アドネース』上田和夫訳)

を。
(キーツ『小夜啼鳥に寄せるうた』出口泰生訳)

そして私は子供だった。
(ハンス・カロッサ『水の中の空』片山敏彦訳)

子供だった。
(ハンス・カロッサ『水の中の空』片山敏彦訳)

ああ!
(シェリー『ナポリ近く失意のうちによめる歌』上田和夫訳)

なつかしい
(シェリー『アドネース』上田和夫訳)

故里の
(シュトルム『復活祭』吉村博次訳)

家。
(ル・クレジオ『オロール荘』佐藤領時・豊崎光一訳、句点加筆=筆者)

ああ、お父さん!
(ホセ・エチェガライ『拭われた汚辱(四幕の悲劇)』第一幕、篠沢真理訳)

お父さんはどこ。
(ホセマリア・サンチェスシルバ『汚れなき悪戯』江崎桂子訳)

お母さんはどこにいるの?
(ゲルハルト・ハウプトマン『沈んだ鐘』第四幕、秋山英夫訳)

わたしの指環! わたしの指環!
(アロイジウス・ベルトラン『夜のガスパールの幻想曲』及川茂訳)

刻まれた
(サンドバーグ『貨幣』安藤一郎訳)

しるし。
(創世記四・一五、句点加筆=筆者)

JESUS MARIA
(Georges Duby and Andree Duby,Les Proces de Jeanne d'Arc,Gallimard,Julliard,1973 )

JESUS MARIA
(Georges Duby and Andree Duby,Les Proces de Jeanne d'Arc,Gallimard,Julliard,1973 )


神が
(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』澤崎順之助訳)

ひかる姿をあらわす。
(ダンヌンツィオ『アルバの丘の夕ぐれ』岩崎純孝訳)

そして
(ハンス・カロッサ『水の中の空』片山敏彦訳)

神が話しかけてきた。
(フランク・ハーバート『ドサディ実験星』岡部宏之訳)


  Jesus Christ

こんな森のなかでなにをしているんだ?
(モリエール『ドン・ジュアン』第三幕・第二景、鈴木力衛訳)

なぜ、
(ダンテ『神曲』地獄篇・第三十二歌、野上素一訳)

指環の印を
(レミ・ドゥ・グルモン『薔薇連祷』上田敏訳)

みつめてばかりいるのだ?
(ダンテ『神曲』浄罪篇・第十九歌、野上素一訳、疑問符加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

主よ、あなたでしたか。
(マタイによる福音書一四・二八)

ああ、神様!
(ホセ・エチェガライ『拭われた汚辱』第四幕、篠沢真理訳)

イエス様、
(アロイジウス・ベルトラン『夜のガスパールの幻想曲』及川茂訳)

でも、
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第五幕・第三場、大山敏子訳)

もう誑かされぬ。
(ヴァンサン・ミュゼリ『白鳥』齋藤磯雄訳)

二度とふたたび。
(ジャン・デ・カール『狂王ルートヴィヒ』三保元訳)

わが神、わが神、
(マタイによる福音書二七・四六)

どうしてわたしをお見捨てになったのですか。
(マタイによる福音書二七・四六、句点加筆=筆者)

あなたは私を棄てました。
(キーツ『レイミア』第二部、大和資雄訳)


  Jesus Christ

黙りなさい。
(士師記一八・一九)

あなたは神をののしってはならない。
(出エジプト記二二・二八)


  Jeanne d'Arc

わたしは知らなかった前途に何がまっているか!
(ネクラーソフ『公爵夫人ヴォルコーンスカヤ』谷耕平訳)

火で焼かれ、
(エレミヤ書五一・三二)

火に包まれて燃えあがった
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

わたしの肉体。
(マヌエル・デル・カブラル『負担』田村さと子訳、句点加筆=筆者)

わたしは
(ネクラーソフ『公爵夫人ヴォルコーンスカヤ』谷耕平訳)

生きながら燒かれ、
(D・H・ロレンス『不死鳥』刈田元司訳)

生きたまま焼かれ、
(D・H・ロレンス『不死鳥』安藤一郎訳)

火に炙られながら
(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』澤崎順之助訳)

死んでしまった。
(オーガスタ・ウェブスター『種子』古谷弘一訳)


  Jesus Christ

知っている。
(シェイクスピア『リチャード三世』第一幕・第三場、福田恆存訳)

わかっている、
(シェイクスピア『ハムレット』第四幕・第四場、大山俊一訳)

わたしの白ゆりよ!
(イワノフ『白ゆり』草鹿外吉訳)

わたしの白ゆりよ!
(イワノフ『白ゆり』草鹿外吉訳)

あの日のことを思い出すか?
(ハンス・カロッサ『灰いろの時』片山敏彦訳)

あの日のことを。
(ハンス・カロッサ『灰いろの時』片山敏彦訳、句点加筆=筆者)


________________________________________


Bois Chesnu



  Jeanne d'Arc

あなたは近づいて、
(哀歌三・五七)

恐れることはない。
(マルコによる福音書五・三六)


(ナボコフ『ロリータ』第二部、大久保康雄訳)

仰せられました。
(哀歌三・五七)

そして、
(ポール・クローデル『ローヌ河の歌』中村真一郎訳)

また、
(イェイツ『黒豚の谷』尾島庄太郎訳)

私はお前のくるのを待っていた、
(ダンテ『神曲』天堂篇・第十五歌、野上素一訳)

わたしは
(ネクラーソフ『公爵夫人ヴォルコーンスカヤ』谷耕平訳)

キリストである。
(マタイによる福音書二三・一〇)

神である。
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)


(ナボコフ『ロリータ』第二部、大久保康雄訳)

仰せられました。
(哀歌三・五七)

そこで
(ネクラーソフ『公爵夫人ヴォルコーンスカヤ』谷耕平訳)

わたしは
(ポー『盗まれた手紙』富士川義之訳)

どうしてわかるの?
(マヤ・ヴォイチェホフスカ『夜が明けるまで』清水真砂子訳)


(ナボコフ『ロリータ』第二部、大久保康雄訳)

言いました。
(ジャン・ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳)


  Jesus Christ

わたしを見るのだ。
(パブロ・ネルーダ『マチュピチュの頂』野谷文昭訳、句点加筆=筆者)


ほんの一瞬のことであった。
(リスペクトール『家族の絆』貴重品、深沢暁訳)

目の前でイエスの姿が変り、
(マタイによる福音書一七・二)

ハンカチ
(シュトルム『みずうみ』高橋義孝訳)

となった。
(ポー『黒猫』富士川義之訳)

すると、
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第一幕・第一場、湯浅芳子訳)

まばたき一つ、
(キーツ『レイミア』第二部、大和資雄訳、読点加筆=筆者)

ほんの一瞬の間に、
(リスペクトール『家族の絆』貴重品、深沢暁訳)

キリスト自身、
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

また現われた!
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第一場、大山俊一訳)


  Jesus Christ

あなたは備えをなせ。
(エゼキエル書三八・七)

馬に乗れ。
(エレミヤ書四六・四)

あなたとあなたの所に集まった軍隊は、みな備えをなせ。
(エゼキエル書三八・七)

かぶとをかぶって立て。
(エレミヤ書四六・四)

そしてあなたは彼らの保護者となれ。
(エゼキエル書三八・七)

ほこをみがき、よろいを着よ。
(エレミヤ書四六・四)


  Jeanne d'Arc

その時、
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

答えて言いました、
(ジャン・ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳)

わたしはこれらのものを着けていくことはできません。
(サムエル記上一七・四〇)

慣れていないからです。
(サムエル記上一七・四〇)

と。
(リスペクトール『家族の絆』愛、高橋都彦訳)

すると、
(サムイル・マルシャーク『森は生きている』第一幕・第一場、湯浅芳子訳)

あなたは
(サムエル記上二一・一)

微笑みながら
(フェデリコ・フェリーニ『ジュリエッタ』柱本元彦訳、『ユリイカ』一九九四年九月号・八五ページ)

仰せられました。
(哀歌三・五七)

さあ、行きなさい。
(使徒行伝九・一五)

恐れることはない。
(マルコによる福音書五・三六)

わたしがあなたを助ける。
(イザヤ書四一・一三)

わたしの言うことを信じなさい。
(ヨハネによる福音書四・二一)

わたしはあなたとともにいる。
(イザヤ書四一・一〇)

と。
(リスペクトール『家族の絆』愛、高橋都彦訳)


  Jesus Christ

それは偽りではない。
(ハバクク書二・三)

わたしはあなたといた。
(ハンス・カロッサ『Stella mystica(神秘の星)』片山敏彦訳)


  Jeanne d'Arc

けれども
(エミリ・ディキンスン『大聲でたたかうのは』刈田元司訳)

神は戦争の中には存在しないのですね。
(ビョルンソン『人の力を超えるもの』第二部・第一幕・第四場、毛利三彌訳)

世界は絶えまなく戦争に見まわれ、戦争の恐怖におびえているというのに、
(エリオット『寺院の殺人』幕間劇、福田恆存訳)


  Jesus Christ

神はいつもいた!
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)


  Jeanne d'Arc

そう、
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

そしてわたしは
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

私の体は焼かれた、
(ベルナール・B・ダディエ『神よ、ありがとうございます』登坂雅志訳)


  Jesus Christ

私はあなたを殺さなければならなかった。
(シルヴィア・プラス『お父さん』徳永暢三訳)

あなたを焼き、
(エゼキエル書二八・一八)

焼き浄めて新しくする
(ミルトン『失楽園』第十一巻、平井正穂訳)

ために。
(フランツ・ヴェルフェル『酒席の歌』淺井眞男訳)

火のあとに残るもの、
(アンドレ・デュ・ブーシェ『白いモーター』小島俊明訳)

それは
(アンドレ・デュ・ブーシェ『白いモーター』小島俊明訳)

私の心臓!
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第三幕・第二場、大山敏子訳)

さあ、
(シェイクスピア『マクベス』第一幕・第五場、福田恆存訳)

神に返すのだ。
(カルロス・ドルモン・ジ・アンドラージ『食卓』ナヲエ・タケイ・ダ・シルバ訳、句点加筆=筆者)

その心臓を、
(ジュール・シュペルヴィエール『壁のない世界』嶋岡晨訳、読点加筆=筆者)

私の熱した心臓を。
(ヘッセ『十月』尾崎喜八訳、句点加筆=筆者)


キリストは
(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』澤崎順之助訳)

娘の
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

胸の中に
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

手をそっとさし入れ、
(パブロ・ネルーダ『マチュピチュの頂』野谷文昭訳、読点加筆=筆者)

心臓を
(トラークル『デプロフンディス』瀧田夏樹訳)

引き抜いた。
(セーサル・バジェッホ『九匹の怪物』飯吉光夫訳、句点加筆=筆者)

キリストの
(エドウィン・ミュア『時間の主題による變奏』第九曲、大澤實訳)

手のなかには、
(アルフレト・モムベルト『夜更にわたしは山の背を越えた』淺井眞男訳)

燃えなかった
(アンドレ・デュ・ブーシェ『はためく』小島俊明訳)

心臓がある。
(サンドバーグ『シカゴ』福田陸太郎訳、句点加筆=筆者)

キリストの
(エドウィン・ミュア『時間の主題による變奏』第九曲、大澤實訳)

燃えなかった
(アンドレ・デュ・ブーシェ『はためく』小島俊明訳)

心臓がある。
(サンドバーグ『シカゴ』福田陸太郎訳、句点加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

──どこに置き忘れたのかしら、
(ラディゲ『福引』川村克己訳)

みせしめの
(アポリネール『花のはだか』堀口大學訳)

私の心臓。
(エリオット『聖灰水曜日』大澤實訳、句点加筆=筆者)


  Jesus Christ

あなたは
(サムエル記上一七・四〇)

死ぬことはない。
(レオポルド・セダール・サンゴール『火の歌(バントゥー人の歌)』登坂雅志訳)

母なるおんみ
(ハンス・カロッサ『不安な夜の後に』片山敏彦訳)

母なるおんみ
(ハンス・カロッサ『不安な夜の後に』片山敏彦訳)

わたしの白ゆりよ!
(イワノフ『白ゆり』草鹿外吉訳)


  Jeanne d'Arc

私のこと?
(ホセ・エチェガライ『拭われた汚辱(四幕の悲劇)』第三幕、篠沢真理訳)


  Jesus Christ

我が身は/御身の息子にして、
(ポール・クローデル『眞晝の聖女』佐藤正彰訳)

御身はマリヤに在せば、
(ポール・クローデル『眞晝の聖女』佐藤正彰訳)

私の母。
(カヌク『イスタンブールのうた』峯俊夫訳、句点加筆=筆者)

キリストを
(ヴェルレーヌ『夜の鳥』堀口大學訳)

産む
(ルカによる福音書一・三一)

母マリヤであった。
(ルカによる福音書二四・一〇)

神である
(ヨハネによる福音書八・四一)

わたしは、
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

すでにいくたびとなく
(プラトン『メノン』藤沢令夫訳)

生まれかわってきたものである。
(プラトン『メノン』藤沢令夫訳、句点加筆=筆者)

いっさいのありとあらゆるものを見てきている。
(プラトン『メノン』藤沢令夫訳、句点加筆=筆者)

あなたは美しい。
(雅歌四・一)

そのからだに触れ、くちづけをし、ともに寝ようという欲望を感じる。
(プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳)

わたしの白ゆりよ!
(イワノフ『白ゆり』草鹿外吉訳)

わたしの白ゆりよ!
(イワノフ『白ゆり』草鹿外吉訳)

わたしを
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

みごもって
(ルカによる福音書一・三一)

わたしを
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

産むがよい、
(ゴットフリート・ベン『コカイン』生野幸吉訳)


  Jeanne d'Arc

今、この瞬間、
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

お言葉どおりの身に成りますように。
(ルカによる福音書一・三八)


二人は森の奥深く分け入った。
(シュトルム『みずうみ』高橋義孝訳)


________________________________________


Nageki no Mori



  Pier Paolo Pasolini

フィナーレだ!
(ゴットフリート・ベン『舞踏会』生野幸吉訳)

なげきの森
(『古今和歌集』巻第十九・安倍清行朝臣女さぬきの「題しらず」の歌)


(シェイクスピア『リア王』第一幕・第一場、大山俊一訳)

梟が
(アポリネール『エレジイ』窪田般彌訳)

塒(ねぐら)
(張均『岳陽晩景』阿部正次郎訳)


(シェイクスピア『ヴェニスの商人』第二幕・第二場、大山敏子訳)

雛を
(ミストラル『プロヴァンスの少女』杉富士雄訳)

間引く
(フランク・ハーバート『ドサディ実験星』岡部宏之訳)

たび
(ハンス・カロッサ『老いたる魔術師』片山敏彦訳)

森は
(シュトルム『森のなか』吉村博次訳)

だんだん
(シェイクスピア『マクベス』第一幕・第三場、福田恆存訳)

暗くなる。
(ロビンスン・ジェファーズ『海豚』外山定男訳)

暗くなる。
(ロビンスン・ジェファーズ『海豚』外山定男訳)


森から森へ
(キーツ『レイミア』第一部、大和資雄訳)

暗い森の奥深く
(キーツ『ロビン・フッド』出口泰生訳)

森の中を歩いていると、
(キーツ『サイキに寄せるうた』出口泰生訳)

閉じている門の前に着いた。
(ハンス・カロッサ『聖者の手の上の小さな都』片山敏彦訳)

すぐそばに/赤い木苺や野薔薇の花が咲いてゐた。
(フランシス・ジャム『お前の貧しさは知つてゐる・・・・・・』室井庸一訳)

背後にある
(ジョアオン・カブラル・ジ・メロ・ネト『アスピリンに捧げる碑文』ナヲエ・タケイ・ダ・シルバ訳)

教会が
(ヨルゲンセン『ラジオ』山室静訳)

芝生の
(エミリ・ディキンスン『豫感』刈田元司訳)

真ん中にある
(ヘッセ『車輪の下に』秋山六郎兵衛訳)

an instrument screen 百葉箱
(小学館『英語図詳大辞典』)

のように
(ポール・クローデル『ローヌ河の歌』中村真一郎訳)

建っていた。
(ハンス・カロッサ『聖者の手の上の小さな都』片山敏彦訳)

barbed wire 有刺鉄線
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)

barbed words とげのある言葉
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)

はり巡らされた二重の鉄条網、
(宮田光雄『アウシュヴィッツで考えたこと』読点加筆=筆者)

有刺鉄線の囲いに
(ロバート・ロウエル『北軍戦死者のために』金関寿夫訳)

二二〇ボルトの三相電流。
(早乙女勝元編『母と子でみる2アウシュビッツ』句点加筆=筆者)

これは触れるものことごとくを真黒にする。
(シェイクスピア『ヘンリー四世』第一部・第二幕・第四場、中野好夫訳)


(エドウィン・ミュア『城』大澤實訳)

の上に
(マタイによる福音書二・九)

鋼の
(ズビグニェフ・ヘルベルト『戦争』工藤幸雄訳)

文字が
(フライリヒラート『自由新聞』井上正蔵訳)

あらわれる。
(ロルカ『月がのぞく』野々山ミチコ訳)


  Jeanne d'Arc

LASCIATE OGNI SPERANZA,VOI CH,ENTRATE
(Dante Alighieri,"La Divina Commedia"Inferno III 9,La Nuova Italia,Firenze,1973,p.30.)

汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ。
(ダンテ『神曲』地獄篇・第三歌、山川丙三郎訳、句点加筆=筆者)


まばたき一つ、
(キーツ『レイミア』第二部、大和資雄訳、読点加筆=筆者)

鋼の
(キーツ『レイミア』第二部、大和資雄訳)

文字が
(フライリヒラート『自由新聞』井上正蔵訳)

消えうせる。
(バイロン『マンフレッド』第一幕・第一場、小川和夫訳)

現われる。
(ウォレ・ショインカ『私はわが身を清める(断食の十日目)』登坂雅志訳、句点加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

ARBEIT MACHT FREI
(早乙女勝元編『母と子でみる2アウシュビッツ』)

労働は自由への道。
(早乙女勝元編『母と子でみる2アウシュビッツ』句点加筆=筆者)


まばたき一つ、
(キーツ『レイミア』第二部、大和資雄訳、読点加筆=筆者)

鋼の
(ズビグニェフ・ヘルベルト『戦争』工藤幸雄訳)

文字が
(フライリヒラート『自由新聞』井上正蔵訳)

また消える、
(ロバート・フロスト『林檎もぎのあと』安藤一郎訳)

また現われる。
(オクタビオ・パス『白』鼓直訳、句点加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

This is none other than the house of God
(GENESIS 28.17)

これは神の家である。
(創世記二八・一七)

ああなんという静けさ!
(シェリー『ジェーンに−思い出』上田和夫訳)

今こそ、汝の新しき主を迎えよ!
(ミルトン『失楽園』第一巻、平井正穂訳)


音もなく
(ハンス・カロッサ『猫に贈る詩』片山敏彦訳)

戸は内側へ開かれた──
(ハンス・カロッサ『聖者の手の上の小さな都』片山敏彦訳)


  Jeanne d'Arc

祈りのことばを口ずさみながら
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

わたしは十字をきった・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人ヴォルコーンスカヤ』谷耕平訳)

中へ入って見ると、
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)

一人の司祭がいた。
(フィッツジェラルド『罪の赦し』飯島淳秀訳)


彼はいま祈っている。
(使徒行伝九・一一)

司祭は身を起こした。
(カミュ『異邦人』第一部、窪田啓作訳)


  Maximilian Kolbe

あなたはどこから来たか。
(ヨブ記二・二)


  Jeanne d'Arc

わたしは戦場からきたものです。
(サムエル記上四・一六)

きょう戦場からのがれたのです。
(サムエル記上四・一六)


  Maximilian Kolbe

この神聖な場所に、なんの用があるんでしょう?
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

穏やかな事のためにこられたのですか。
(サムエル記上一五・四)


  Jeanne d'Arc

穏やかな事のためです。
(サムエル記上一五・五)


  Maximilian Kolbe

神を探しているのですか?
(J・G・バラード『太陽の帝国』第二部、高橋和久訳)


  Jeanne d'Arc

イエス。
(ポール・クローデル『眞晝の聖女』佐藤正彰訳、句点加筆=筆者)

それで神は?
(D・H・ロレンス『肉体のない神』安藤一郎訳)

神様はどこ?
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』野谷文昭訳)


  Maximilian Kolbe

おられます。ごらんなさい、この先です。
(サムエル記上九・一二)

それ、そこに、
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第三幕・第三場、大山敏子訳)

すぐそばに。
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第一場、菅泰男訳)


見ると、
(ヨハネの黙示録一六・一三)

鳥籠の
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第四場、大山俊一訳)

前に
(ゲーテ『歌びと』高橋健二訳)

神がいた。
(フェデリコ・フェリーニ『ジュリエッタ』柱本元彦訳、『ユリイカ』一九九四年九月号・八六ページ)


  Maximilian Kolbe

祈るがよい。
(ヤコブの手紙五・一三)

神が
(アポリネール『地帯』堀口大學訳)

新雛(にいびな)を
(エミリー・ブロンテ『わが思うひとの墓』斎藤正二訳)

おしつぶすために
(パスカル『パンセ』第六章、前田陽一・由木康訳)

土くれのように
(アンドレ・デュ・ブーシェ『白いモーター』小島俊明訳)

踏みつけておられる。
(ジョン・ダン『冠』湯浅信之訳)


  Jeanne d'Arc

いいえ、
(トルストイ『ドン・ジュアン』第一部、柴田治三郎訳)

神父さま、
(フィッツジェラルド『罪の赦し』飯島淳秀訳)

それは
(ホーフマンスタール『体験』富士川英郎訳)

あなたの神、
(出エジプト記二〇・一二)

あなたのもの。
(詩篇七四・一六)

私の
(トルストイ『ドン・ジュアン』第二部、柴田治三郎訳)

神ではありません。
(エレミヤ書一六・二〇)

わたしはこれを受けいれない。
(アモス書五・二二)


  Maximilian Kolbe

子よ、
(創世記一七・八)

なげき悲しむがいい!
(シェリー『哀歌』上田和夫訳)

その心臓の奥の奥まで
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

嘆きの声で
(ジャン・ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳)

すっかり満たされるのだ、
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』井上正蔵訳)

血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。
(ヘブル人への手紙九・二二)

神は苦しむ者をその苦しみによって救い、
(ヨブ記三六・一五)

これをみ心にとめられる。
(詩篇八・四、句点加筆=筆者)

苦痛こそなくてはならないものだ。
(エバハート『人間はさびしい生きもの』田村隆一訳、句点加筆=筆者)

わたしたちは
(ホーフマンスタール『無常の歌』富士川英郎訳)

その苦しみをよろこんでわが身にひきうけなければならないのだ。
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

Accipe hoc.
(岩波書店『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

これを受けよ。
(岩波書店『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

この苦痛という
(ジェフリー・ヒル『葬送曲』富士川義之訳)

神の
(伝道の書七・一三)

賜物
(詩篇一二七・三)

を。
(リルケ『読書する人』富士川英郎訳、句点加筆=筆者)

いやいや、
(ホセ・エチェガライ『拭われた汚辱(四幕の悲劇)』第一幕、篠沢真理訳)

何事も神から出たこと。
(ビョルンソン『人の力を超えるもの』第二部・第二幕・第三場、毛利三彌訳)

苦痛こそ
(エバハート『人間はさびしい生きもの』田村隆一訳)

神である。
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)

苦痛こそ
(エバハート『人間はさびしい生きもの』田村隆一訳)

キリスト自身、
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

神である。
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)


  cricket

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)

cri-cri
(三省堂『クラウン仏和辞典』)


  Jeanne d'Arc

ほら!
(D・H・ロレンス『神の肉体』安藤一郎訳)

茂った森から
(キーツ『レイミア』第一部、大和資雄訳)

コオロギのすだくのが聞こえるでしょう。
(ゲルハルト・ハウプトマン『ソアーナの異端者』秋山英夫訳)

こおろぎが
(エミリ・ディキンスン『こおろぎが歌い』刈田元司訳)

鳴いている。
(イェイツ『道化帽子』尾島庄太郎訳)

こおろぎが
(エミリ・ディキンスン『こおろぎが歌い』刈田元司訳)

鳴いているわ。
(ロベール・メルル『イルカの日』三輪秀彦訳)

きっと恐ろしいことが起る。
(ワイルド『サロメ』西村孝次訳)


  Maximilian Kolbe

空つぽの巣で
(イェイツ『塔』大澤實訳)

雛は生まれる。
(チャールズ・オルソン『かわせみ』出淵博訳、句点加筆=筆者)

私は
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)

それを取って
(ハンス・カロッサ『聖者の手の上の小さな都』片山敏彦訳)

ひなを集める。
(マタイによる福音書二三・三七、句点加筆=筆者)

押しつぶされ
(トム・ガン『へだたり』中川敏訳)

砕かれた骨、
(パブロ・ネルーダ『独裁者』桑名一博訳、読点加筆=筆者)

骨と骨、
(オクタビオ・パス『砕けた壺』桑名一博訳、読点加筆=筆者)

この森いちめんに
(エズラ・パウンド『春』新倉俊一訳)

骨の山
(ジョアオン・カブラル・ジ・メロ・ネト『ペルナンブコの墓地(「トリタマ」)』ナヲエ・タケイ・ダ・シルバ訳)

どうしてこんなに夥しいのか?
(ホーフマンスタール『人生のバラード』川村二郎訳)

あれは兵隊だ。
(レイモン・クノー『不幸な人たち』三輪秀彦訳、句点加筆=筆者)

この森は
(シェイクスピア『マクベス』第五幕・第四場、福田恆存訳)

戦争をひたすら求める。
(サンドバーグ『闘争』安藤一郎訳)

ここは神がわれわれに与え給うた世界だ。
(フランク・ハーバート『ドサディ実験星』岡部宏之訳、句点加筆=筆者)

拷問にかけられ、
(ジェフリー・ヒル『葬送曲』富士川義之訳、読点加筆=筆者)

虐殺された
(ヴェルレーヌ『パリの夜』堀口大學訳)

おびただしい
(ロバート・フロスト『林檎もぎのあと』安藤一郎訳)

戰士たちの古い骨、
(エドウィン・アーリントン・ロビンスン『暗い丘』福田陸太郎訳、読点加筆=筆者)

ひと足ごとに
(クワジーモド『帰郷』河島英昭訳)

ばらばらに
(ゴットフリート・ベン『墓場を越えて』生野幸吉訳)

砕かれた
(パブロ・ネルーダ『独裁者』桑名一博訳)

こおろぎの
(エリオット『荒地』大澤實訳)

骨、
(エリナー・ウァイリー『鷲と土龍』辻以知郎訳、読点加筆=筆者)

骨、
(エリナー・ウァイリー『鷲と土龍』辻以知郎訳、読点加筆=筆者)

骨。
(エリナー・ウァイリー『鷲と土龍』辻以知郎訳、句点加筆=筆者)

神は苦しむ者をその苦しみによって救い、
(ヨブ記三六・一五)

これをみ心にとめられる。
(詩篇八・四、句点加筆=筆者)

苦痛こそなくてはならないものだ。
(エバハート『人間はさびしい生きもの』田村隆一訳、句点加筆=筆者)

わたしたちは
(ホーフマンスタール『無常の歌』富士川英郎訳)

その苦しみをよろこんでわが身にひきうけなければならないのだ。
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

この苦痛という
(ジェフリー・ヒル『葬送曲』富士川義之訳)

神の
(伝道の書七・一三)

賜物。
(詩篇一二七・三、句点加筆=筆者)

いやいや、
(ホセ・エチェガライ『拭われた汚辱(四幕の悲劇)』第一幕、篠沢真理訳)

何事も神から出たこと。
(ビョルンソン『人の力を超えるもの』第二部・第二幕・第三場、毛利三彌訳)

苦痛こそ
(エバハート『人間はさびしい生きもの』田村隆一訳)

神である。
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)

苦痛こそ
(エバハート『人間はさびしい生きもの』田村隆一訳)

キリスト自身、
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)

神である。
(D・H・ロレンス『神の肉体』安藤一郎訳)


  Jeanne d'Arc

そんなものは、瞬き一つで消すことができる。
(ジョン・ダン『日の出』湯浅信之訳)


  Maximilian Kolbe

神を試みるのか。
(使徒行伝一五・一〇)


  Jeanne d'Arc

神様を試すことにはならないわ。
(ビョルンソン『人の力を超えるもの』第一部・第一幕・第一場、毛利三彌訳)


  Maximilian Kolbe

神を試みてはならない。
(マタイによる福音書四・七、句点加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

ほら!
(D・H・ロレンス『神の肉体』安藤一郎訳)

消えてしまった。
(アイヒ『罌粟』坂上泰助訳)


神の
(ゲゼレ『ヘリオトロープ(向日性の花)』朝倉純孝訳)

姿はなかった。
(ポー『ウィリアム・ウィルソン』富士川義之訳)


  Maximilian Kolbe

何?
(トルストイ『ドン・ジュアン』第一部、柴田治三郎訳)

何を?
(コクトー『ピカソに捧げるオード』堀口大學訳)

何をしたって?
(コクトー『ピカソに捧げるオード』堀口大學訳)

あなたがしたことを、わたしに言いなさい。
(サムエル記上一四・四三)


  Jeanne d'Arc

わたしは神の御声に従うのです。
(モリエール『ドン・ジュアン』第五幕・第三景、鈴木力衛訳)


  Maximilian Kolbe

あなたの手にあるそれは何か。
(出エジプト記四・二)

それをここに持ってきなさい。
(マタイによる福音書一四・一八)


  Jeanne d'Arc

This is mine.
(Tony Randel 監督の "HELLBOUND HELLRAISER II"に出てくる Juria役の Clare Higginsのセリフ)


  Maximilian Kolbe

Is it yours?
(三省堂『新クラウン英和辞典』)


  Jeanne d'Arc

Yes,certainly.
(三省堂『新クラウン英和辞典』)

a mine
(研究社『新英和大辞典』)

地雷。
(ダイヤグラム・グループ『武器』田島優・北村孝一訳)

これこそ神であり、
(詩篇四八・一四)

わたしを踏みつける者を
(詩篇五七・三)

ことごとく滅ぼし、
(詩篇一〇一・八)

またたくまに滅ぼされたのだ。
(哀歌四・六)

そして
(リルケ『ドゥイーノ悲歌』第八悲歌、浅井真男訳)

すべてのものを
(ヨハネの黙示録二一・五)

新たにされる。
(詩篇一〇四・三〇)

あらゆるものは再び作られる、
(ポール・クローデル『金の歌』中村真一郎訳)


  Maximilian Kolbe

それをさして誓ってはならない。
(ヨシュア記二三・七)

またそれに仕え、それを拝んではならない。
(ヨシュア記二三・七)


  Jeanne d'Arc

わたしはこれが全身と、その著しい力と、/その美しい構造について/黙っていることはできない。
(ヨブ記四一・一二)


(テッド・ヒューズ『カマス』田村英之助訳)

でできた
(ゲオルク・ブリッティング『追剥騎士』淺井眞男訳)

わたしの心臓、
(エレミヤ書四・一九、読点加筆=筆者)

わたしの
(エレミヤ書四・一九)

地雷、
(チャールズ・オルソン『ヨーロッパの死』出淵博訳、読点加筆=筆者)

炎のなかで鋳られ、完成された神。
(ジェフリー・ヒル『小黙示録』富士川義之訳、句点加筆=筆者)

外側は美しく
(マタイによる福音書二三・二七)

内側は
(マタイによる福音書二三・二七)

きらきら光る精密な仕掛け、
(カミュ『異邦人』第二部、窪田啓作訳、読点加筆=筆者)

いろいろの器械が
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

そつくりはいつている。
(アルフレト・モムベルト『夜更にわたしは山の背を越えた』淺井眞男訳)

抱え
(レオポルド・セダール・サンゴール『シニャールに捧げる歌(カーラムのために)』登坂雅志訳)

持っている
(ヴェルレーヌ『汽車の窓から』堀口大學訳)

わたしにとって、
(サムエル記下一・二六)

これはおそろしく重いわ。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)


それには、
(シェイクスピア『マクベス』第五幕・第四場、福田恆存訳)

イエス・キリストの
(ポール・クローデル『眞晝の聖女』佐藤正彰訳)

I.N.R.I.
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)

(Iesus Nazarenus,Rex Indaeorum ユダヤ人の王、ナザレのイエス)
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』丸括弧加筆=筆者)

という名が
(ヨハネの黙示録一九・一六)

しるされていた。
(ヨハネの黙示録一九・一六)


  Maximilian Kolbe

キリストは、いくつにも分けられたのか。
(コリント人への第一の手紙一・一三)


  Jeanne d'Arc

御覧なさい、わたくしを。
(バイロン『マンフレッド』第三幕・第一場、小川和夫訳)


そこで、
(テモテへの第二の手紙二・一)

彼女は
(ヨハネの黙示録一八・八)

ハンカチの端をつまんでひっぱりだし、ひろげて見せた。
(ジョイス『ユリシーズ』1・テーレマコス、高松雄一訳)

ありありと
(ランボー『音楽につれて』堀口大學訳)

浮かびあがる
(ダンヌンツィオ『アルバの丘の夕ぐれ』岩崎純孝訳)

白百合、
(レミ・ドゥ・グルモン『むかしの花』上田敏訳)

乙女の騎士、
(ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク『トリスタンとイゾルデ』第十三章、石川敬三訳)


  Maximilian Kolbe

とてもはっきり見える。
(ラールス・グスタフソン『哲学者たちの対話』飯吉光夫訳、句点加筆=筆者)

燃えている!
(ハンス・カロッサ『蝶に』片山敏彦訳)

火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。
(ユダの手紙七)

とてもはっきり見える。
(ラールス・グスタフソン『哲学者たちの対話』飯吉光夫訳、句点加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

あれはわたしなのよ──
(アンナ・アンドレーヴナ・アフマートワ『ヒーローのいない叙事詩』江川卓訳)


  people

殺せ!
(ヴェルレーヌ『詩法』堀口大學訳)

殺せ、殺せ、
(ヨハネによる福音書一九・一五)

早く殺せ。
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)

殺してしまえ!
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)


  Pierre Cauchon

異教徒よ!
(エリオット『荒地』大澤實訳、感嘆符加筆=筆者)

異端のものよ!
(ゲオルク・トラークル『眠り』高本研一訳)

女は男の着物を着てはいけない。
(申命記二二・五)


  Jeanne d'Arc

なぜそんなことをおっしゃいますの?
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅泰男訳)


  Pierre Cauchon

主はそのような事をする者を忌みきらわれるからである。
(申命記二二・五)


  Jeanne d'Arc

神さま、
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅泰男訳)


  Pierre Cauchon

罪を白状しろ。
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅泰男訳)


  Jeanne d'Arc

神さま、
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅泰男訳)

神さま、
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅泰男訳)

異端糺問官は
(ズビグニェフ・ヘルベルト『マーギェル』工藤幸雄訳)

わたしの知らない事をわたしに尋ねる。
(詩篇三五・一一)


  Pierre Cauchon

黙れ、静かにするんだ。
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅泰男訳)

焼き場はすでに設けられた。
(イザヤ書三〇・三三)

多くのたきぎが積まれてある。
(イザヤ書三〇・三三)

haeretico comburendo.
(岩波書店『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

異端者は燒かれるべき。
(岩波書店『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

火炙りの刑に値する。
(トルストイ『ドン・ジュアン』第一部、柴田治三郎訳)


  Judges

異議なし、異議なし、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)


  Pierre Cauchon

さあ、これを殺してしまおう。
(マルコによる福音書一二・七)

宣告はくだされたのだ。
(バイロン『マンフレッド』第一幕・第一場、小川和夫訳、句点加筆=筆者)

神聖な焔で貴様を焼いてやろう。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

死ぬがよい!
(ゴットフリート・ベン『急行列車』生野幸吉訳)

火を持ってこい。
(シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』第三幕・第三場、中野好夫訳)

火を放て。
(パブロ・ネルーダ『マチュピチュの頂』野谷文昭訳、句点加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

神さま、
(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅泰男訳)


  Pierre Cauchon

火を放て、
(パブロ・ネルーダ『マチュピチュの頂』野谷文昭訳、読点加筆=筆者)

小鳥を飛ばせてやれ、
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第四場、大山俊一訳)


その汗布がしめされているあいだじゅう、
(ダンテ『神曲』天堂篇・第三十一歌、野上素一訳)

燃えていく火の
(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』澤崎順之助訳)

匂いがした。
(アレン・テイト『魂の四季』成田成壽訳、句点加筆=筆者)


  Jeanne d'Arc

わたしの皮膚は黒くなって、はげ落ち、
(ヨブ記三〇・三〇)

わたしの骨は熱さによって燃え、
(ヨブ記三〇・三〇)

火の燃えくさとなって焼かれる。
(イザヤ書九・五)

私はいま燃えているのだ。
(リルケ『来るがいい最後の苦痛よ』富士川英郎訳、句点加筆=筆者)


  Maximilian Kolbe

あなたが見える。
(ヴェルレーヌ『夜の鳥』堀口大學訳、句点加筆=筆者)

あの日のあなたが見える。
(ヴェルレーヌ『夜の鳥』堀口大學訳、句点加筆=筆者)


教会の外、
(リスペクトール『家族の絆』水牛、林田雅至訳、読点加筆=筆者)

森では
(エリオット『寺院の殺人』第二部、福田恆存訳)


(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第二場、福田恆存訳)

が、
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第一場、大山俊一訳)

生まれる
(パブロ・ネルーダ『呪い』田村さと子訳)

雛を
(ミストラル『プロヴァンスの少女』杉富士雄訳)

間引きする。
(ロバート・ロウエル『日曜の朝はやく目がさめて』金関寿夫訳、句点加筆=筆者)

神の姿が
(ビョルンソン『人の力を超えるもの』第二部・第二幕・第三場、毛利三彌訳)

現われた。
(イェイツ『クフーリンの死』尾島庄太郎訳)

神の
(レオポルド・セダール・サンゴール『春の歌』登坂雅志訳)

足が
(エウジェーニオ・モンターレ『ヒットラーの春』河島英昭訳)

土くれのように
(アンドレ・デュ・ブーシェ『白いモーター』湯浅信之訳)

ひな鳥を
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)

踏みつぶす。
(ゴットフリート・ベン『われらは芥子の野に・・・・・・』生野幸吉訳、句点加筆=筆者)


  Maximilian Kolbe

見よ、ここにキリストがいる。
(マタイによる福音書二四・二三)

わたしたちの主イエス・キリストである。
(ローマ人への手紙一・四)

そしてまた
(シェイクスピア『マクベス』第一幕・第五場、福田恆存訳)

あなたの神
(ルツ記一・一六)


(コリント人への第一の手紙一〇・一七)

わたしの神、
(ルツ記一・一六、読点加筆=筆者)

イエス・キリストである。
(ローマ人への手紙一・四)


  Jeanne d'Arc

さあ、その雛をちょうだい。
(ミストラル『プロヴァンスの少女』杉富士雄訳、句点加筆=筆者)


  Maximilian Kolbe

お前は何を呉れる?
(ハンス・カロッサ『聖者の手の上の小さな都』片山敏彦訳)


  Jeanne d'Arc

神の御足の下で
(レオポルド・セダール・サンゴール『春の歌』登坂雅志訳)

苦しみを。
(マックス・ジャコブ『瞑想』齋藤磯雄訳)


  Maximilian Kolbe

そなたの両手は祝福されている。
(リルケ『告知』石丸静雄訳、句点加筆=筆者)

わたしはそれをあなたの手にわたす。
(士師記七・九)

受取るがいい、
(リルケ『オルフォイスのソネット』高安國世訳)

Est tuum.
(岩波書店『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

それは汝のものなり。
(岩波書店『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

われわれを造った神は一つ。
(マラキ書二・一〇)

わたしの神
(ルツ記一・一六)


(シェイクスピア『マクベス』第三幕・第一場、福田恆存訳)

あなたの神は
(ルツ記一・一六)

一体である。
(マタイによる福音書一九・六)

これらはわたしの手で一つとなる。
(エゼキエル書三七・一九)


  owl

ほう!
(シェイクスピア『空騒ぎ』第三幕・第二場、福田恆存訳)

ほ、ほう!
(シェイクスピア『空騒ぎ』第三幕・第三場、福田恆存訳)

阿呆がきたよ、ほう。
(シェイクスピア『十二夜』第二幕・第三場、小津次郎訳)


死んだ
(エドウィン・ミュア『時間の主題による變奏』第九曲、大澤實訳)

ひな鳥を
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)

ひとまたぎ、
(ヴェルレーヌ『コロンビーヌ』堀口大學訳)

ひとりの男、登場する。
(ゴットフリート・ベン『肉』生野幸吉訳)


  King Lear

みんな死ぬのじゃ。
(シェイクスピア『ヘンリー四世』第二部・第三幕・第二場、中野好夫訳)


  Pier Paolo Pasolini

触るな、阿呆!
(シェイクスピア『空騒ぎ』第四幕・第二場、福田恆存訳)

それに触わるな!
(J・G・バラード『太陽の帝国』第一部、高橋和久訳)
















ピカッ
(辻真先・原作/石川賢・作画『聖魔伝』第二十九章)
















ズズーン
(辻真先・原作/石川賢・作画『聖魔伝』第十四章)














________________________________________


Ararat



  Hans Giebenrath

踏む者もなくなった
(エレミヤ書四八・三三)

僕の踏みつけられた靴、
(ジョン・ダン『香水』湯浅信之訳、読点加筆=筆者)

森のなかに、
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

あの靴が
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第二場、大山俊一訳)

いつまでも残っているにちがいない。
(ボルヘス『一九八三年三月二十五日』鼓直訳)


  Dolores Haze

その靴をはかせてやるといいわ。
(ガルシア=マルケス『百年の孤独』鼓直訳、句点加筆=筆者)

あの森の中で
(ジャン・ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳)

虐殺された
(ジャン・ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳)

歩兵の
(イザヤ書九・五)

足が
(エレミヤ書二・二五)

はだしにならないように。
(エレミヤ書二・二五、句点加筆=筆者)


  Maximilian Kolbe

聖なるこの静けさ!
(ネクラーソフ『公爵夫人ヴォルコーンスカヤ』谷耕平訳)


  toad

ゲゲ
(草野心平『月夜』)

ゲゲ
(草野心平『月夜』)


蛙が鳴きだす。
(エズラ・パウンド『詩篇』第二篇、新倉俊一訳)


  Hans Giebenrath

なんだこいつ跛じゃないか。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)


  Jeanne d'Arc

雨かしら。
(レオン・ポール・ファルグ『かはたれ』山内義雄訳)


  Dolores Haze

雨がふるのかしら?
(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』高杉一郎訳)


  Pier Paolo Pasolini

いづれは雨だ。
(フランシス・ジャム『お前も退屈してゐやう』室井庸一訳)


  toad

ゲゲ
(草野心平『月夜』)

ゲゲ
(草野心平『月夜』)


  King Lear

生きているのは蛙だけか?
(オクタビオ・パス『砕けた壺』桑名一博訳、疑問符加筆=筆者)

死なないのは蛙だけなのか?
(オクタビオ・パス『砕けた壺』桑名一博訳)


  Hans Giebenrath

びっこひきひき、雨の中か!
(シェイクスピア『ヘンリー四世』第一部・第三幕・第一場、中野好夫訳)


  Pier Paolo Pasolini

それ、ひき蛙、
(シェイクスピア『マクベス』第四幕・第一場、福田恆存訳)

雨を降らせよ。
(『ブッダのことば−スッタニパータ−』第一蛇の章二ダニヤ、中村元訳)


  King Lear

さあ、そろそろ森から離れるときがきた、
(ダンテ『神曲』地獄篇・第十四歌、野上素一訳)


  Pierre Cauchon

ここから出て行けば、この世で再び一同が逢うことは決してないだろう。
(ブルフィンチ『中世騎士物語』野上弥生子訳)


  Jesus Christ

それもよい。
(エミリー・ブロンテ『わが思うひとの墓』斎藤正二訳)


  Dolores Haze

あたしたちのあとにくるのは大洪水よ、あとはどうともなれ、よ、
(ゴットフリート・ベン『掻爬』生野幸吉訳)


  Jeanne d'Arc

After me the deluge!
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)

後は野となれ山となれ!
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)


  All the Players

After us the deluge!
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)

後は野となれ山となれ!
(三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)

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(ネクラーソフ『公爵夫人トゥルベツカーヤ』谷耕平訳)


  Pier Paolo Pasolini

カット、
(ジャン・ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳、読点加筆=筆者)

カット。
(ジャン・ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳、句点加筆=筆者)

すばらしい!
(ガルシア=マルケス『悪い時』高見英一訳、感嘆符加筆=筆者)

すばらしい!
(ガルシア=マルケス『悪い時』高見英一訳、感嘆符加筆=筆者)


  Dolores Haze

それでおはなしはおしまい?
(フェンテス『脱皮』内田吉彦訳)


  Pier Paolo Pasolini

やりなおしだ。
(コクトー『傷ついた祈り』堀口大學訳)

やり直し!
(ラディゲ『ヴィーナスの星』江口清訳)


  Jeanne d'Arc

嘘!
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』小田島雄志訳)


  Dolores Haze

また?
(ガルシア=マルケス『悪い時』高見英一訳)


  Pier Paolo Pasolini

もちろん。
(シェイクスピア『オセロウ』第四幕・第三場、菅泰男訳)

das ist eure Pflicht;
(Goethe"Faust"Zweiter Teil,l.11665,C.H.Beck,Munchen,1991,p.351.)

それがお前たちの勤めなのだ。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)


四月になると

  田中宏輔



順番がきて
名前を呼ばれて立ちあがったけれど
なんて言えばいいのか、なにを言えばいいのか
わからなくって、ぼくはだまったまま
(だまったまま)うつむいて立っていた。

しばらくすると
後ろから突っつかれた。
突っつかれたぼくの身体は傾いて
一瞬、倒れそうになったのだけれど
身体を石のように硬くして(かた、くして)
傾き(かたむき)ながらも立っていた。

(教室の隅にある清掃用具入れの
  ロッカー、そのなかのホーキも傾いているよ。)

先生が、すわりなさいとおっしゃった。

後ろの席の子が立ちあがった。

ぼくは机のなかに手を入れて
音がしないように用心しながら
きょう、配られたばかりの教科書を
一ページずつ繰っていった。
見えない教科書を
繰っていった。

……級友たちの声が遠ざかってゆく
遠ざかってゆく、遠くからの、遠い声がして、
ぼくは窓の外に目をやった。

だれもいない(しずかな)校庭の
端にある鉄棒に(きらきらと)輝く
一枚の白いタオルがぶら下がっていた。

ぼくのじゃなかったけれど
あとでとりに行こうと
(ひそかに)思いながら
見えない教科書を繰っていった。

だれかが
下敷きに光をあてて
天井にいたずらし出した。

ひとりがはじめると
何人かが、すぐに真似をした。

天井に
いくつもの光が
踊っていた。

ぼくは、教科書を逆さに繰っていった。

光が踊るのをやめた。

ぼくの列が最後だった。

先生が出席簿を持って
出て行かれた。

新学年、新学期
はじめてのホームルーム。

春の一日。

まひるに近い
近い時間だった。


いますこし、あなたの木陰に

  田中宏輔




いますこし
あなたのかたわらで
あなたのつくる木陰に
わたしをやすめさせてください

かつて
あなたから遠く
遠くはなれていったわたしを
あなたの幹にもたげさせてください

あの日は
春の陽の光が
とてもやさしくあたたかでした
わたしはひとり巣をはなれました

見知らぬところへ
風がみちびくままに
ふたつのつばさをひろげ
わたしは飛んでゆきました。

いごこちよければとどまって
あきたころになればまた飛んでゆきました
ずいぶん遠くに飛んでゆきました
ずいぶんあなたからはなれてしまいました

そうこうしているうちに
わたしのつばさは病におかされました
りょうのつばさはばたかせて
遠くにまで飛べないようになったのです

そんなある日、わたり鳥の群れが
わたしのうえをとおりすぎてゆきました
それがあなたのうえをとおることを願って
わたしは群れのなかに飛びこみました

群れのうしろにつけば
遠い道のりを飛ぶことができるのです
それは遠く、遠く
はるかに遠い道のりを飛んでゆきました

何日も何日も飛びました
そのあいだもはねがぬけてゆきました
どんどんどんどんぬけてゆきました
目もすこうし見えなくなってゆきました

そうして、とうとう
ちからつきて落ちてしまったのです
ところがそこはあなたの枝のうえ
あなたの腕に抱きとめられたのです

あやまちをくりかえしくりかえし
わたしは生きてきました
もう二度とあなたのもとをはなれません
はなれることなどできないでしょう

つばさやぶれるまえに
病にやぶれるまえに
わたしはもどってくるべきでした
あなたのもとにもどってくるべきでした

いますこし
あなたのかたわらで
あなたのつくる木陰に
わたしをやすめさせてください

いますこし
あなたのかたわらで
あなたのつくる木陰に
わたしをやすめさせてください


             ─父に─


カラカラ帝。

  田中宏輔




●K、のようにOを●にしてみる。

B●●K
D●G
G●D
B●Y
C●●K
L●●K
T●UCH
G●●D
J●Y
C●●L
●UT
S●UL
Z●●
T●Y

1●●+1●●=2●●●●
3●●●●−1●●=2●●

なんていうのも、きれいかも。

まだまだできそうだね、かわいいのが。

L●VE
L●NG
H●T
N●
S●METHING
W●RST
B●X

文章でも、きれいかも。
R●BERT SILVERBERG の S●N ●F MAN から
ただし、全部、大文字にするね、そのほうがきれいだから、笑。(作者名とタイトルも、笑)
1●8ページから

CLAY G●ES IN. ●N HIS SIXTH STEP HE
SWINGS R●UND. THE D●●R IS STILL ●PEN.
HIS R●B●T WAITS BESIDE IT,’G●●D,’ CLAY SAYS.
’REMEMBER,I’M B●SS.IT SAYS ●PEN.’

すると、マイミクの剛くんから

これは、語頭が●なのがよいと思います。
語尾も、かな。

とコメントがあり、ぼくはつぎのようにお返事しました。

●UT
Z●●
いまのところ、思いつくのが、これくらいですかね。
きょうは、カリガリ博士をDVDで見ていましたが
途中で電話が入り
見るのをやめました。
きょうは買い物に近くのスーパーに出ただけで
不活発な一日でした。
ぬくりんこ
靴下を履いた足の裏につけて
きょうも眠ります。
やめられませんね。
ぬくさから抜け出すのは。

そしたら、マイミクのKeffさんからも、つぎのようなコメントが。

わっ。 Oが●になっただけでなにか見てはイケナイものを見ているような気分に…。
●RACLE
●RTH●D●XY
権威のありそうなものもいかがわしく見える●(笑)

そういう点では
F●UR LETTERS W●RD
や罵り言葉のなかでは 
Oを●にすると映えるのは
●H MY G●SH (●H MY G●D)
ですねえ…神入ってますから(笑)

S●N ●F A BITCH
●BSCENE
●BS●LETE
WH●RE
とかはどうなんでしょう。もとのOのほうがショッキングかも。

ところで、●詩の●を■にしたらずいぶん印象変わりますよね!?

きゃ〜
Keffさん
すてき!

■詩は、まだつくっていないのですが
さっそくつくってみましょう。

ためしに前の日記のものを。

■先斗町通りから木屋町通りに抜ける狭い路地の一つに■坂本龍馬が暗殺されかかったときの刀の傷跡があるって■だれかから聞いて■自分でもその傷跡を見た記憶があるんだけど■二十年以上も前の話だから■記憶違いかもしれない■でも■その路地の先斗町通り寄りのところに■RUGという名前のスナックが■むかしあって■いまでは代替わりをしていて■ふつうの店になっているらしいけれど■ぼくが学生の時代には■昼のあいだは■ゲイのために喫茶店をしていて■そのときにはいろいろなことがあったんだけど■それはまた別の機会に■きょうは■その喫茶店で交わされた一つの会話からはじめるね■店でバイトをしていた京大生の男の子が■客できていたぼくたちにこんなことをたずねた■もしも■世の中に飲み物が一種類しかなかったとしたら■あなたたちは■何を選ぶのかしら■ただし■水はのぞいてね■最初に答えたのはぼくだった■ミルクかな■あら■あたしといっしょね■バイトの子がそういった■客は■ぼくを入れて三人しかいなかった■あとの二人は日本茶と紅茶だった■紅茶は砂糖抜きミルク抜きレモン抜きのストレートのものね■ゲイだけど■笑■

これも、きれいね。
しばらく●詩をつくっていて
ほかのものでは、どうなのかなって、考えるだけでしたが
■は、●についで、候補の一番でした。
あと

とか

とか

とか
なかが黒くて、つまっている記号を候補にしていますが
やはり


がいいでしょう。
でも
▲や
▼も
面白そう。

●は
リズムをつくりやすいのですね。
いかにも
紙面の下で跳ね上がったような
紙面の上で、かな。
浮遊感があって
動きがあるのですね。
■は
その動きがにぶくなりますね。
というより、動かない。
動かさない。
だから
■にすると
浮遊感よりも
固定感がつよくなり
言葉のほうが
今度は逆に
浮遊しているように見えるかもしれませんね。
■が
柱の一部として突き出していて
空中で言葉をささえている
という感じでしょうか。
縦書きだとね。

すると、マイミクのKeffさんからまたコメントをいただいて。

▲をぼんやりといいひとそうな▲かきもののあいだに▲はさむと▲おもった
よりも▲攻撃性が▲むきだしに▲なって▲こわくて▲いい▲あじが▲出る▲か
▲も▲とおもいました▲こんど▲わたしも▲つかってみようと▲おもいます▲

で、ぼくのお返事は

より幾何学な感じになりますね。
散文詩の新しい形態の時代にしましょう、笑。

すると、マイミクのウラタロウさんからもコメントが。

■は方眼紙とか平安京のような感じがしました。
そういえば荻原裕幸さんは▼を爆弾に見立てた短歌を詠んでいましたね。

つぎは、ウラタロウさんのコメントに対するぼくのお返事。

萩原さんね。
むかし玲瓏にいらっしゃったころのものは
見たことがあるんだけど
いま活躍されてる方ですね。
そうね。
短歌は音の世界なのに
記号や図形を無音の文字記号として使ってらっしゃる方が
何人かいらっしゃるみたいですね。
萩原さんなら孤立なさらないでしょうけれど
風あたりはきつそうですね。
ぼくみたいに
ほとんど無視されるより
そのほうが気持ちいいでしょうけれど、笑。

そしたら、またまたKeffさんから、コメントをいただきまして。

荻原さんに先例がありましたか(10へえ)



































でますね。
火炎瓶にも見えます。

詩歌でマインスイーパだ

いわゆるニューウェーブ三羽がらすから誰か一人選べ
って言われたら
荻原さんかなあ。
作歌のエロスが伝わります。
(もっともこれって、若手の「短歌の中の人」にとっては 結構シビアな質問だと思いますよ…)
塚本邦雄はそういえば*使いでしたね。

で、ぼくもまたまたお返事して。





これはいいですね。
動きがあって
いまにも地面に激突して爆発しそう。
萩原さんだったかどうか記憶がありませんが
記号だけで短歌をつくったひとがいたように思います。
まあ、●ひとつで詩だとしていたひとも詩人にいましたしね。
なんでもありでしょう。
それを詩とか短歌として認める感受性のひとがいれば●Kなんでしょう。
その時代ではダメでも、後世に認められることもありますからね。
芸術家の作業はとにかくつくることと
それを見てもらえる場所におくことでしょうね。

そういう意味でいえば
現代は、芸術家にとって
とてもいい時代だと思います。
容易に作品発表できますし
読み手はごまんといるわけですから。
前にも書きましたが
ぼくはミクシィで
面白い書き物をするひとを何人も発見しました。
いまもときどき
いろいろな人の日記を拝見しています。
最近は
マイミクにならずに
お気に入りのなかに入れて
拝見させてもらっています。
全体に公開しているひとが多いので。
なにしろ
しゃべり言葉で
面白い日記を書くひとが多いので
ミクシィを堪能しています。

逆に俳句や短歌はなかなか楽しめませんね。
空間的なものですか
余白の印象が低くなりますから
余白の美しさを味わうことが困難ですからね。
散文の分かち書きという感じで
日記を読むと
個性豊かなひとがそうとういる感じです。
たぶん、ぼくもその影響を受けているでしょう。
むかしのぼくは
笑。
なんて書かなかったですから、笑。
メールやミクシィを通じて培われた感性でしょうね。
話が飛びました。
そういえば
2ちゃんねるで
文字で
絵を書く人が多くて
見て面白いと思っています。
あれは絵ですよね。
面白い。

するとまたまた、ウラタロウさんからコメントが。

ネットをあちこち見ていると、昔の文学畑だったらありえなかった、というような表現も多いです。「乱れ」っぷりに眉をひそめる人も多いけれど、たしかに支離滅裂だったり破壊的だったりするけれど、そこには可能性も潜んでいるんじゃないかなって思います。どうみても壊れている文なのに面白いのもありました。

で、つづけて、またまたKeffさんからもコメントが。

宏輔さん、

いま蟹工船ブームだそうですが
詩歌であの路線ならだんぜん萩原恭次郎ですよ。
記号の使い方がロシア・アヴァンギャルドそこのけに暴力的で、すかっとします。
人間の声だけで朗読するのは結構知恵がいるかも。

こないだ見かけた日本人アナーキストの人のブログの自己紹介に
萩原恭次郎の「ラスコーリニコフ」が引用されていて
おー!ぴったりだ!
と思いました。
ぜんぜん古びてなかった。笑

で、で、ぼくのおふたりへのお返事です。

ウラタロウさんへ

ぼくも壊れた文体好きです。
小学生の
そしてそして文体も大好きです。
面白ければ、よいのだと思っています。
主語がどれかわからないなんて文体
外国語の初学者になった気分で読んで
ゲラゲラ笑ってしまいます。

Keffさんへ

萩原恭次郎は、おしゃれですね。 きのうカリガリ博士を見損ないましたが
ドイツ表現主義もいいですね。
ロシア・アバンギャルドといえば
先日、日記にとりあげたロシアSFが、そうでしたね。
蟹工船の文体は、ぼくも引用しましたが
とても美しいですし、凝縮度がすごいですね。
それがブームって
ぼくにはよくわからないのですが
まあ、弛緩した文体の多い現代でも
凝縮した文体を求める向きがあるということなのでしょうね。
ぼく自体は
凝縮した文体を目指したことは一度もなく
むしろ
だらだらとした
えんえんと、ぐだぐだ書いてるような文体を
目指してはいませんが
書いているような気がします。
飯島耕一が「おじやのような詩」と書いていた詩を
ぼくはぜんぜん悪いと思ったことがないので
まあ、おじやのような詩でもいいかなあって感じで書いてます。
気持ちよければ
長くてもいいんじゃなあい?
って感じです。

凝縮した文体も好きですけれど
ぼく自体は書けないなあって思っています。

今朝、本棚の角で、瞼を切りました。
血が出ました。
痛い。
あほや〜。



●K B●●K  D●G  G●D  B●Y  C●●K
L●●K  T●UCH  S●METHING
W●RST  B●X  G●●D  J●Y
C●●L  ●UT  S●UL  Z●●
T●Y  L●VE  L●NG  H●T
N●

1●●+1●●=2●●●●
3●●●● - ●●=2●●



心音が途絶え
父の身体が浮き上がっていった。
いや、もう身体とは言えない。
遺体なのだ。
人間は死ぬと
魂と肉体が分離して
死んだ肉体が重さを失い
宙に浮かんで天国に行くのである。
病室の窓が開けられた。
父の死体は静かにゆっくりと漂いながら上昇していった。
魂の縛めを解かれて、父の肉体が昇っていく。
だんだんちいさくなっていく父の姿を見上げながら
ぼくは後ろから母の肩をぎゅっと抱いた。
点のようにまでなり、もう何も見えなくなると
ベッドのほうを見下ろした。
布団の上に汚らしいしみをつくって
ぬらぬらとしている父の魂を
看護婦が手袋をした手でつまみあげると
それをビニール袋のなかに入れ
袋の口をきつくしばって、病室の隅に置いてある屑入れの中に入れた。
ぼくと母は、父の魂が入った屑入れを一瞥した。
肉体から離れた魂は、すぐに腐臭を放って崩れていくのだった。
天国に昇っていくきれいになった父の肉体を頭に思い描きながら
看護婦の後ろからついていくようにして、
ぼくは、母といっしょに病室を出た。



あさ、仕事に行くために駅に向かう途中、
目の隅で、何か動くものがあった。
歩く速さを落として目をやると、
結ばれていたはずの結び目が、
廃棄された専用ゴミ袋の結び目が
ほどけていくところだった。
ぼくは、足をとめた。
手が現われ、頭が現われ、肩が現われ、
偶然が姿をすっかり現わしたのだった。
偶然も齢をとったのだろう。
ぼくが疲れた中年男になったように、
偶然のほうでも疲れた偶然になったのだろう。
若いころに出合った偶然は、
ぼくのほうから気がつくやいなや、
たちまち姿を消すことがあったのだから。
いまでは、偶然のほうが、
ぼくが気がつかないうちに、ぼくに目をとめていて、
ぼくのことをじっくりと眺めていることさえあるのだった。
齢をとっていいことのひとつに、
ぼくが偶然をじっと見ることができるように、
偶然のほうでも、じっくりとぼくの目にとまるように、
足をとめてしばらく動かずにいてくれるようになったことがあげられる。



源氏の気持ちのなかには、奇妙なところがあって、
衛門督(えもんのかみ)の子を産んだ二条の宮にも、また衛門督にも、
憎しみよりも愛情をより多くもっていたようである。
いや、奇妙なところはないのかもしれない。
人間のこころは、このように一様なものではなく、
同じ光のもとでも、さまざまな色とよりを見せるものであろうし、
ましてや、違った状況、違った光のもとでなら、
まったく違った色やよりを見せるのも当たり前なのであろう。
源氏物語の「柏木」において描出された光源氏の多様なこころざまが、
ぼくにそんなことを、ふと思い起こさせた。
まるで万華鏡のようだ。



ひまわりの花がいたよ。
ブンブン、ブンブン
飛び回っていたよ。
黄色い、黄色い
ひまわりの花がいたよ。
お部屋のなかで
ブンブン、ブンブン
飛び回っていたよ。
たくさん、たくさん
飛び回っていたよ。
あははは。
あははは。
ブンブン、ブンブン
飛び回っていたよ。
たくさん、たくさん
飛び回っていたよ。
あははは。
あははは。



仕事から帰る途中、坂道を歩いて下りていると、
後ろから男女の学生カップルの笑いをまじえた楽しそうな話し声が聞こえてきた。
彼らの若い声が近づいてきた。
彼らの影が、ぼくの足もとにきた。
彼らの影は、はねるようにして、いかにも楽しそうだった。
ぼくは、彼らの影が、つねに自分の目の前にくるように歩調を合わせて歩いた。
彼らは影まで若かった。
ぼくの影は、いかにも疲れた中年男の影だった。
二人は、これから楽しい時間を持つのだろう。
しかし、ぼくは? ぼくは、ひとり、部屋で読書の時間を持つのだろう。
もはや、驚きも少し、喜びも少しになった読書の時間を。
それも悪くはない。けっして悪くはない。
けれど、ひとりというのは、なぜか堪えた。
そうだ、帰りに、いつもの居酒屋に行こう。
日知庵にいるエイちゃんの顔と声が思い出された。
ただ、とりとめのない会話を交わすだけだけど。
ぼくは横にのいて、二人の影から離れた。



ジェフリーが、ツイッターで、ゲイの詩人で、宗教的なテーマで、
ゲイ・ポエトリーを書いてるひと、いませんかって呼びかけていたので
「ぼく書いてるよ。」と言って、いくつか選んで、メールで送った。
アメリカで、ゲイの詩のアンソロジーの出版が計画されているらしくて
そこに日本のゲイの詩人の作品を入れたいという編集者がいるって話だった。

ぼくは、ぼくのゲイ・ポエトリーを、ぼくの膨大なファイルのなかから選んだ。
つぎのものは、もとのファイルから取って、ゲイ・ポエトリーのファイルを
新しくつくって、そこに放り込んだもの。

『グァバの木の下で』というのが、そのホテルの名前だった。
かきくけ、かきくけ。
マールボロ。
みんな、きみのことが好きだった。
むちゃくちゃ抒情的でごじゃりますがな。
王國の秤。
夏の思い出。
泣いたっていいだろ。
高野川
死んだ子が悪い。
水面に浮かぶ果実のように
頭を叩くと、泣き出した。
木にのぼるわたし/街路樹の。

このなかから、宗教的な事項を含んでいるものを選んだ。
つぎのものがそれで、それをジェフリーに送り、ぼくの Facebook にも載せて、自分で英訳した。

水面に浮かぶ果実のように
マールボロ。
頭を叩くと、泣き出した。
みんな、きみのことが好きだった。
夏の思い出。

でも、ぼくの英訳が不完全だったのか、このうち、3つのものを、ジェフリーが英語に訳し直してくれた。
以下のものが、それ。



poems by TANAKA Atsusuke 田中宏輔・詩
Translations by Jeffrey ANGLES ジェフリー・アングルス・訳



水面に浮かぶ果実のように

いくら きみをひきよせようとしても
きみは 水面に浮かぶ果実のように
ぼくのほうには ちっとも戻ってこなかった
むしろ かたをすかして 遠く
さらに遠くへと きみは はなれていった

もいだのは ぼく
水面になげつけたのも ぼくだけれど



Like A Fruit Floating on Water

No matter how I try to draw you close
You, like a fruit floating on water
Do not return at all
If anything, you float farther
Farther from me

Even though it was I who picked you
It was I who threw you on the water



マールボロ

彼には、入れ墨があった。
革ジャンの下に無地の白いTシャツ。
ぼくを見るな。
ぼくじゃだめだと思った。
若いコなら、ほかにもいる。
ぼくはブサイクだから。
でも、彼は、ぼくを選んだ。
コーヒーでも飲みに行こうか?
彼は、ミルクを入れなかった。
じゃ、オレと同い年なんだ。
彼のタバコを喫う。
たった一週間の禁煙。
ラブホテルの名前は
『グァバの木の下で』だった。
靴下に雨がしみてる。
はやく靴を買い替えればよかった。
いっしょにシャワーを浴びた。
白くて、きれいな、ちんちんだった。
何で、こんなことを詩に書きつけてるんだろう?
一回でおしまい。
一回だけだからいいんだと、だれかが言ってた。
すぐには帰ろうとしなかった。
ふたりとも。
いつまでもぐずぐずしてた。
東京には、七年いた。
ちんちんが降ってきた。
たくさん降ってきた。
人間にも天敵がいればいいね。
東京には、何もなかった。
何もなかったような顔をして
ここにいる。
きれいだったな。
背中を向けて、テーブルの上に置いた
飲みさしの
缶コーラ。



Malboro

He had a tattoo.
Under his leather jacket, a solid, white T-shirt.
Don’t look at me.
I thought I didn’t live up.
There are lots of other young ones.
I am nothing to look at.
But he chose me.
Want to grab a cup of coffee?
He didn’t put in any cream?
So, you’re the same age as me.
He smoked a cigarette.
Only a single week of no smoking.
The name of the love hotel was
Under the Guava Tree.
Rain had soaked his socks.
Should’ve bought some new shoes sooner.
I took a shower with him.
His dick was white and beautiful.
Why am I writing this down in a poem?
Once and that’ll be all.
Just once and that’s okay, someone once said.
I didn’t go home right away.
That was true for both of us.
We both lingered on and on.
I was in Tokyo for seven years.
Our dicks had fallen.
They had fallen a long way.
It’s good if there are natural enemies for people.
There was nothing in Tokyo.
He looked as if there was nothing
And so he was here.
He was beautiful.
His back turned, he placed
On the table his can of cola
Half consumed.



夏の思い出


白い夏
思い出の夏
反射光
コンクリート
クラブ
ボックス
きみはバレーボール部だった
きみは輝いて
目にまぶしかった
並んで
腰かけた ぼく
ぼくは 柔道部だった
ぼくらは まだ高校一年生だった

白い夏
夏の思い出
反射光
重なりあった
手と

汗と

白い光
光反射する
コンクリート
濃い影
だれもいなかった
あの日
あの夏
あの夏休み
あの時間は ぼくと きみと
ぼくと きみの
ふたりきりの
時間だった
(ふたりきりだったね)
輝いていた
夏の
白い夏の

あの日
ぼくははじめてだった
ぼくは知らなかった
あんなにこそばったいところだったなんて
唇が
まばらなひげにあたって
(どんなにのばしても、どじょうひげだったね)
唇と
汗と
まぶしかった
一瞬

ことだった

白い夏の
思い出
はじめてのキスだった
(ほんと、汗の味がしたね)
でも
それだけだった
それだけで
あの日
あのとき
あのときのきみの姿が 最後だった
合宿をひかえて
早目に終わったクラブ
きみは
なぜ
泳ぎに出かけたの
きみはなぜ
彼女と
海に
いったの

夏の

白い夏の思い出
永遠に輝く
ぼくの
きみの
夏の

あの夏の日の思い出は
夏がめぐり
めぐり
やってくるたびに
ぼくのこころを
引き裂いて
ぼくの
こころを
引き千切って
風に
飛ばすんだ

白い夏
思い出の夏
反射光
コンクリート
クラブ
ボックス
重ねた
手と
目と
唇と
汗と
光と
影と
夏と



Summer Memory

Summer
White summer
Summer memory
Reflections of light
Concrete
Clubs
Locker rooms
You were on the volleyball team
You shone
Dazzling to the eyes
Me lined up
Sitting down
I was on the judo team
We were still freshmen
Summer
White summer
Summer memory
Reflections of light
Overlapping
Hands and
Hands and
Sweat and
Light
White light
Reflecting
Concrete
Dark shadows
No one was there
That day
That summer
That summer vacation
That time
Was just our time
Just you and me
You and me
(Just you and me, right?)
You shone
Summer
White summer
Sun
That day
Was my first time
I didn’t know
That it was such a ticklish place
The lips
Touching scanty whiskers
(Just a few, no matter how you let them grow, right?)
Lips and
Sweat and
Dazzling
It lasted
Only
A moment
Summer
A memory
Of white summer
A first kiss
(You really tasted of sweat, right?)
But
That was all
That was all
That day
That time
That time anyone ever saw you
We did not stay at the camp
The teams ended early
Why
Did you go
Out for a swim
With her
In the sea?
Summer
A summer
Day
White summer memory
Forever shining
My
Your
Summer
Day
The memory of that summer day
Flipping through the summers
Flipping through
Each time I come to it
It tears my heart
Apart
Tears my heart
Into shreds
Then scatters it
To the wind
Summer
White summer
Summer memory
Reflected light
Concrete
Clubs
Locker rooms
Overlapping
Hands and
Eyes and
Lips and
Sweat and
Light and
Shadow and
Summer



つぎのものは、ジェフリーが英訳してくれなかったものだけど
ぼくの英訳は、しのびないので、原文の日本語のものだけ掲げるね、笑。
あ、それと、ぼくが自分のファイルから選び出しておいたゲイ・ポエトリーをいくつか。



頭を叩くと、泣き出した。

カバ、ひたひたと、たそがれて、
電車、痴漢を乗せて走る。
ヴィオラの稽古の帰り、
落ち葉が、自分の落ちる音に、目を覚ました。
見逃せないオチンチンをしてる、と耳元でささやく
その人は、ポケットに岩塩をしのばせた
横顔のうつくしい神さまだった。
にやにやと笑いながら
ぼくの関節をはずしていった。
さようなら。こんにちは。
音楽のように終わってしまう。
月のきれいな夜だった。
お尻から、鳥が出てきて、歌い出したよ。
ハムレットだって、お尻から生まれたっていうし。
まるでカタイうんこをするときのように痛かったって。
みんな死ねばいいのに、ぐずぐずしてる。
きょうも、ママンは死ななかった。
慈善事業の募金をしに出かけて行った。
むかし、ママンがつくってくれたドーナッツは
大きさの違うコップでつくられていた。
ちゃんとした型抜きがなかったから。
実力テストで一番だった友だちが
大学には行かないよ、って言ってた。
ぼくにつながるすべての人が、ぼくを辱める。
ぼくが、ぼくの道で、道草をしたっていいじゃないか。
ぼくは、歌が好きなんだ。
たくさんの仮面を持っている。
素顔の数と同じ数だけ持っている。
似ているところがいっしょ。
思いつめたふりをして
パパは、聖書に目を落としてた。
雷のひとつでも、落としてやろうかしら。
マッターホルンの山の頂から
ひとすじの絶叫となって落ちてゆく牛。
落ち葉は、自分の落ちる音に耳を澄ましていた。
ぼくもまた、ぼくの歌のひとつなのだ。
今度、神戸で演奏会があるってさ。
どうして、ぼくじゃダメなの?
しっかり手を握っているのに、きみはいない。
ぼくは、きみのことが好きなのにぃ。
くやしいけど、ぼくたちは、ただの友だちだった。
明日は、ピアノの稽古だし。
落ち葉だって、踏まれたくないって思うだろ。
石の声を聞くと、耳がつぶれる。
ぼくの耳は、つぶれてるのさ。
今度の日曜日には、
世界中の日曜日をあつめてあげる。
パパは、ぼくに嘘をついた。
樹は、振り落とした葉っぱのことなんか
かまいやしない。
どうなったって、いいんだ。
まわるよ、まわる。
ジャイロ・スコープ。
また、神さまに会えるかな。
黄金の花束を抱えて降りてゆく。
Nobuyuki。ハミガキ。紙飛行機。
中也が、中原を駈けて行った。



高野川

底浅の透き通った水の流れが
昨日の雨で嵩を増して随分と濁っていた
川端に立ってバスを待ちながら
ぼくは水面に映った岸辺の草を見ていた
それはゆらゆらと揺れながら
黄土色の画布に黒く染みていた
流れる水は瀬岩にあたって畝となり
棚曇る空がそっくり動いていった
朽ちた木切れは波間を走り
枯れ草は舵を失い沈んでいった

こうしてバスを待っていると
それほど遠くもないきみの下宿が
とても遠く離れたところのように思われて
いろいろ考えてしまう
きみを思えば思うほど
自分に自信が持てなくなって
いつかはすべてが裏目に出る日がやってくると

堰堤の澱みに逆巻く渦が
ぼくの煙草の喫い止しを捕らえた
しばらく円を描いて舞っていたそれは
徐々にほぐれて身を落とし
ただ吸い口のフィルターだけがまわりまわりながら
いつまでも浮標のように浮き沈みしていた



『グァバの木の下で』というのが、そのホテルの名前だった。

こんなこと、考えたことない?
朝、病院に忍び込んでさ、
まだ眠ってる患者さんたちの、おでこんとこに
ガン、ガン、ガンって、書いてくんだ。
消えないマジック、使ってさ。
ヘンなオマケ。
でも、
やっぱり、かわいそうかもしんないね。
アハッ、おじさんの髪の毛って、
渦、巻いてるう!
ウズッ、ウズッ。
ううんと、忘れ物はない?
ああ、でも、ぼく、
いきなりHOTELだっつうから、
びっくりしちゃったよ。
うん。
あっ、ぼくさ、
つい、こないだまで、ずっと、
「清々しい」って言葉、本の中で、
「きよきよしい」って、読んでたんだ。
こないだ、友だちに、そう言ったら、
何だよ、それって、言われて、
バカにされてさ、
それで、わかったんだ。
あっ、ねっ、お腹、すいてない?
ケンタッキーでも、行こう。
連れてってよ。
ぼく、好きなんだ。
アハッ、そんなに見つめないで。
顔の真ん中に、穴でもあいたら、どうすんの?
あっ、ねっ、ねっ。
胸と、太腿とじゃ、どっちの方が好き?
ぼくは、太腿の方が好き。
食べやすいから。
おじさんには、胸の方、あげるね。
この鳥の幸せって、
ぼくに食べられることだったんだよね。
うん。
あっ、おじさんも、へたなんだ。
胸んとこの肉って、食べにくいでしょ。
こまかい骨がいっぱいで。
ああ、手が、ギトギトになっちゃった。
ねえ、ねえ、ぼくって、
ほんっとに、おじさんのタイプなの?
こんなに太ってんのに?
あっ、やめて、こんなとこで。
人に見えちゃうよ。
乳首って、すごく感じるんだ。
とくに左の方の乳首が感じるんだ。
大きさが違うんだよ。
いじられ過ぎかもしんない。
えっ、
これって、電話番号?
結婚してないの?
ぼくって、頭わるいけど、
顔はカワイイって言われる。
童顔だからさ。
ぼくみたいなタイプを好きな人のこと、
デブ専って言うんだよ。
カワイイ?
アハッ。
子供んときから、ずっと、ブタ、ブタって言われつづけてさ、
すっごくヤだったけど、
おじさんみたいに、
ぼくのこと、カワイイって言ってくれる人がいて
ほんっとによかった。
ぼくも、太ってる人が好きなんだ。
だって、やさしそうじゃない?
おじさんみたいにぃ。
アハッ。
好き。
好きだよ。
ほんっとだよ。



みんな、きみのことが好きだった。

ちょっといいですか。
あなたは神を信じますか。
牛の声で返事をした。
たしかに、神はいらっしゃいます。
立派に役割を果たしておられます。
ふざけてるんじゃない。
ぼくは大真面目だ。
友だちが死んだんだもの。
ぼくの大切な友だちが死んだんだもの。
without grief/悲しみをこらえて
弔問を済まして
帰ってきたんだもの。
Repeat after me!/復唱しろ!
absinthe/ニガヨモギ
悲しみをこらえて
ぼくは帰ってきたんだもの。
Repeat after me!/復唱しろ!
誕生日に買ってもらった
ヴィジュアル・ディクショナリー、
どのページも、ほんとにきれい。
パピルス、羊皮紙、粘土板。
食用ガエルの精巣について調べてみた。
アルバムを出して、
写真の順番を入れ換えてゆく。
海という海から
木霊が帰ってくる。
声の主など
とうに、いなくなったのに。
Repeat after me!/復唱しろ!
いじめてあげる。
吉田くんは
痛いのに、深爪だった。
電話を先に切ることができなかった。
誰にも、さからわなかった。
みんな、吉田くんのことが好きだった。
Repeat after me!/復唱しろ!
ぼく、忘れないからね。
ぜったい、忘れないからね。
おぼえておいてあげる。
吉田くんは、仮性包茎だった。
勃起したら、ちゃんとむけたから。
ぼくも、こすってあげた。
absinthe/ニガヨモギ
Repeat after me!/復唱しろ!
泣いているのは、牛なのよ。
幼い男の子が
ぼくの頭を叩いて
「ゆるしてあげる」
って言った。
話しかけてはいけないところで
話しかけてはいけない。
Repeat after me!/復唱しろ!
ごめんね、ごめんね。
ぼくだって、包茎だった。
without grief/悲しみをこらえて
absinthe/ニガヨモギ
もっとたくさん。
もうたくさん。



泣いたっていいだろ。

あべこべにくっついてる
本のカバー、そのままにして読んでた、ズボラなぼく。
ぼくの手には蹼(みずかき)があった。
でも、読んだら、ちゃんと、なおしとくよ。
だから、テレフォン・セックスはやめてね。
だって、めんどくさいんだもん。
うつくしい音楽をありがとう。
ヤだったら、途中で降りたっていいんだろ。
なんだったら、頭でも殴ってやろうか。
こないだもらったゴムの木から
羽虫が一匹、飛び下りた。
ブチュって、本に挾んでやった。
開いて見つめる、その眼差しに
葉むらの影が、虎(とら)斑(ふ)に落ちて揺れている。
ねえ、まだ?
ぼくんちのカメはかしこいよ。
そいで、そいつが教えてくれたんだけど。
一をほどくと、二になる。
二を結ぶと、〇になるって。
だから、一と〇は同じなんだね。
(二って、=(イコール)と、うりふたつ、そっくりだもんね)
ねっ、ねっ、催眠術の掛け合いっこしない?
こないだ、テレビでやってたよ。
ぼくも、さわろかな。
そうだ、いつか、言ってたよね。
ふたつにひとつ。ふたつはひとつ。
みんな大人になるって。
中国の人口って14億なんだってね。
世界中に散らばった人たちも入れると
三人に一人が中国人ってことになる。
でも、よかった。
きみとぼくとで、二人だもんね。
ねえ、おぼえてる? 言葉じゃないだろ! って、
好きだったら、抱けよ! って、
ぼくに背中を見せて、
きみが、ぼくに言った言葉。
付き合いはじめの頃だったよね。
ひと眼差しごとに、キッスしてたのは。
ぼくのこと、天使みたいだって言ってたよね。
昔は、やさしかったのにぃ。
ぼくが帰るとき、
いつも停留所ひとつ抜かして送ってくれた。
バスがくるまでベンチに腰掛けて。
ぼくの手を握る、きみの手のぬくもりを
いまでも、ぼくは、思い出すことができる。
付き合いはじめの頃だったけど。
ぼくたち、よく、近くの神社に行ったよね。
そいで、星が雲に隠れるよりはやく
ぼくたちは星から隠れたよね。
葉っぱという葉っぱ、
人差し指でつついてく。
手あたりしだい。
見境なし。
楽しい。
って、
あっ、いまイッタ?
違う?
じゃ、何て言ったの?
雨?
ほんとだ。
さっきまで、晴れてたのに。
そこにあった空が嘘ついてた。
兎に角、兎も角、

志賀直哉はよく書きつけた。
降れば土砂降り。
雨と降る雨。



木にのぼるわたし/街路樹の。

ぼく、うしどし。
おれは、いのししで
おれの方が"し"が多いよ。
あらら、ほんとね。
ほかの"えと"では、どうかしら?
たしか、国語辞典の後ろにのってたよね。
調べてみましょ。
ううんと、
ほかの"えと"には、"し"がないわ。
志賀直哉?
偶然かな。
生まれたときのことだけど
はじめて吸い込んだ空気って
一生の間、肺の中にあるんですって。
ごくわずかの量らしいけどね。
もしも、道端に
お父さんやお母さんの顔が落ちてたら
拾って帰る?
パス。
アスパラガス。
「どの猿も 胸に手をあて 夏木マリ」
「抜け髪の 頭叩きて 誰か知れ」
「フラダンス きれいなわたし 春いづこ」
「ゐらぬ世話 ダム崩壊の オロナイン」
「顔おさへ 買ひ物カゴに 笠地蔵」
「上着脱ぐ 男の乳は みんな叔母」
「南下する ホームルームは 錦鯉」
これが俳句だと
だれが言ってくれるかしら?
〈KANASHIIWA〉と打つと
〈悲しい和〉と変換される。
トホホ。
それでも、毎朝、奴隷が起こしてくれる。
まだ、お父様なのに。
間違えちゃったかな。
ダンボール箱。
裸の母は、棚の上にいっしょに並んだ植木鉢である。
魔除けである。
通説である。
で、きみは
4月4日生まれってのが、ヤなの?
オカマの日だからって?
だれも気にしないんじゃない?
きみの誕生日なんて。
それより、まだ濡れてるよ。
この靴下。
だけど、はかなくちゃ。
はいてかなくちゃ。
これしかないんだも〜ん。
トホホ。
いったい、いつ
ぼくは滅びたらいいんだろう。
バーガーショップ主催の交霊術の会は盛況だった。



かきくけ、かきくけ。

ちっともさびしくないって
きみは言うけれど
きみの表情が、きみを裏切っている。
壁にそむいた窓があるように
きみの気持ちにそむいた
きみの言葉がある。
きみの目には、いつも
きみの鼻の先が見えてるはずだけど
見えてる感じなんか、しないだろ。
そんな難しそうな顔をしちゃいけない。
まるで床一面いっぱいに敷き詰められた踏み絵みたいに。
突然、道に穴ぼこができて
人や車や犬が、すっと消えていくように
きみの顔にも穴ぼこができて
目や鼻や唇が
つぎつぎと消えていけばいいのに。
もしも、アブラハムの息子が、イサクひとりじゃなくて
百も、千もいたら、しかも、まったく同じ姿のイサクがいっぱいいたら、
ゼンゼンためらわずに犠牲にしてたかもしれない。
ノブユキは、生のままシメジを食べる。
ぼくが、台所でスキヤキの準備してたら
パクッ、だって。
アハッ。
かわいいよね。
すておじいちゃん。
拾ってきてはいけません。
捨ててきなさい。
ママは残酷なのだ。
バスに乗って
ぼくは、よくウロウロしてた。
もちろん、バスの中じゃなくて、繁華街ね。
キッズのころだけど。
そういえば、河原町に
茂吉ジジイってあだ名のコジキがいた。
林(はや)っちゃんがつけたあだ名だけど
ほんとに、斎藤茂吉にそっくりだった。
あっ、いま、コジキって言ったらダメなのかしら。
オコジキって丁寧語にしてもダメかしら。
貧しい男と貧しい女が恋をするように
醜い男と醜い女が恋をする。
ぼくはうれしい。
バスの中では、
どの人の座席の後ろにも
ユダが隠れてる。
ここにもひとり、そこにもひとり。
そうして、ユダに気をとられている間に
とうとう祈りの声は散じてしまった。
それは、むかし、ぼくが捨てた祈りの声だった。
蟻は、一度でも通った道のことは忘れない。
一瞬で生まれたものなのに、
どうして、すぐに死なないのだろう。
おひさ/ひさひさ/おひさ/ひさ。
で、はじまる、わたくしたちのけんたい。
ひとりでにみんなになる。
ああん、そんなにゆらさないでよ。
お水がこぼれちゃうよ。

カッパの子どもが
(子どものカッパでしょ?)
頭をささえて、ぼくを睨み返す。
ゆれもどしかしら。
もらった子犬を死なせてしまった。
ぼくが、おもちゃにしたからだ。
きのう転生したばかりだったけれど、
でも、また、すぐに何かに生まれ変わるだろう。
さあ、ビデオに撮るから
そこに跪いて、ぼくにあやまれ。
そしたら、ぼくの気がすむかもしれない。
たぶん、一日に十回か、二十回、ビデオを見れば
ぼくの気がすむはずだ。
それでもだめなら、一日中見てやる。
そしたら、きみに、ぼくの悲劇をあげよう。
ぼくは、膝んところを痛めたことがない。
いつも股のところを痛める。
おしりが大きくて、太腿が太いから
股がすれて、ボロボロになってしまう。
これが、ぼくがズボンを買い替える理由だ。
やせてはいない。
標準体型でもない。
嘘つきでもなかったけれど、
母乳でもなかった。
母乳がなかったからではない。
マスミに言われて、3月に京大病院の精神科に行った。
精神に異常はないと言われた。
性格に問題があると言われた。
しぇんしぇい、精神と性格とじゃ、
そんなにちごとりまへんやんか。
どうでっか。そうでっか。さいですか。
二枚の嫌な手紙と一枚のうれしい葉書。
光は、百葉箱の中を訪れることができない。
留守番電話のぼくの声が、ぼくを不快にさせる。
そんなにいじめないでください。
サウナの階段に
入れ歯が落ちてたんだって。
それ、ほんとう?
ほんとうだよ。
百の入れ歯が並んでた
なんて言えば、嘘だけどね。
嘘だってついちゃうけどね。
だって、いくら嘘ついたって
ぼくの鼻、のびないんだも〜ん。
そのかわり、
オチンチンが大きくなるの。
こわいわ。
こわくなんかないわ。
こわいのはママよ。
小ごとを言うのに便利だからって
あたしの耳の中にすみだしたのよ。
家具や電化製品なんか、どんどん運び込んでくるのよ。
香典返しに、
たわしとロウソクをもらう方がこわいわ。
ヒヒと笑う
団地の子。
手術したい。
ヒヒと笑う
団地の子。
手術したい。
手術してあげたい。
いやんっ、ぼくって、ノイローゼかしら。
ぼくぼくぼく。
たくさんのぼく。
玄関を出ると
目の前の道を、きのうのぼくが
とぼとぼと歩いているのを見たが
それもまた、読むうちに忘れられていく言葉なのか。
百ひきの亀が、砂浜で日向ぼっこしてた。
おいらが、おおいと叫ぶと
百ひきの亀がいっせいに振り返った。
おいらは
百の亀の頭をつぎつぎと、つぎつぎと
ふんっ、ふんっ、ふんっと、踏んづけていった。



むちゃくちゃ抒情的でごじゃりますがな。

枯れ葉が、自分のいた場所を見上げていた。
木馬は、ぼくか、ぼくは、頭でないところで考えた。
切なくって、さびしくって、
わたしたちは、傷つくことでしか
深くなれないのかもしれない。
あれは、いつの日だったかしら、
岡崎の動物園で、片(かた)角(づの)の鹿を見たのは。
蹄(ひづめ)の間を、小川が流れていた、
ずいぶんと、むかしのことなんですね。
ぼくが、まだ手を引かれて歩いていた頃に
あなたが、建仁寺の境内で
祖母に連れられた、ぼくを待っていたのは。
その日、祖母のしわんだ細い指から
やわらかく、小さかったぼくの手のひらを
あなたは、どんな思いで手にしたのでしょう。
いつの日だったかしら、
樹が、葉っぱを振り落としたのは。
ぼくは、幼稚園には行かなかった。
保育園だったから。
ひとつづきの敷石は、ところどころ縁が欠け、
そばには、白い花を落とした垣根が立ち並び、
板石の端を踏んではつまずく、ぼくの姿は
腰折れた祖母より頭ふたつ小さかったと。
落ち葉が、枯れ葉に変わるとき、
樹が、振り落とした葉っぱの行方をさがしていた。
ひとに見つめられれば、笑顔を向けたあの頃に
ぼくは笑って、あなたの顔を見上げたでしょうか。
そのとき、あなたは、どんな顔をしてみせてくれたのでしょうか。
顔が笑っているときは、顔の骨も笑っているのかしら。
言いたいこと、いっぱい。痛いこと、いっぱい。
ああ、神さま、ぼくは悪い子でした。
メエルシュトレエム。
天国には、お祖母(ばあ)ちゃんがいる。
いつの日か、わたしたち、ふたたび、出会うでしょう。
溜め息ひとつ分、ぼくたちは遠くなってしまった。
近い将来、宇宙を言葉で説明できるかもしれない。
でも、宇宙は言葉でできているわけじゃない。
ぼくに似た本を探しているのですか。
どうして、ここで待っているのですか。
ホヘンブエヘリア・ペタロイデスくんというのが、ぼくのあだ名だった。
母方の先祖は、寺守(てらもり)だと言ってたけど、よく知らない。
樹が、葉っぱの落ちる音に耳を澄ましていた。
いつの日だったかしら、
わたしがここで死んだのは。
わたしのこころは、まだ、どこかにつながれたままだ。
こわいぐらい、静かな家だった。
中庭の池には、毀れた噴水があった。
落ち葉は、自分がいつ落とされたのか忘れてしまった。
缶詰の中でなら、ぼくは思いっ切り泣ける。
樹の洞(ほら)は、むかし、ぼくが捨てた祈りの声を唱えていた。
いつの日だったかしら、
少女が、栞(しおり)の代わりに枯れ葉を挾んでおいたのは。
枯れ葉もまた、自分が挾まれる音に耳を澄ましていた。
わたしを読むのをやめよ!
一頭の牛に似た娘がしゃべりつづける。
山羊座のぼくは、どこまでも倫理的だった。
つくしを摘んで帰ったことがある。
ハンカチに包んで、
四日間、眠り込んでしまった。



王國の秤。

きみの王國と、ぼくの王國を秤に載せてみようよ。
新しい王國のために、頭の上に亀をのっけて
哲学者たちが車座になって議論している。
百の議論よりも、百の戦の方が正しいと
将軍たちは、哲学者たちに訴える。
亀を頭の上にのっけてると憂鬱である。
ソクラテスに似た顔の哲学者が
頭の上の亀を降ろして立ち上がった。
この人の欠点は
この人が歩くと
うんこが歩いているようにしか見えないこと。
『おいしいお店』って
本にのってる中華料理屋さんの前で
子供が叱られてた。
ちゃんとあやまりなさいって言われて。
口をとがらせて言い訳する子供のほっぺた目がけて
ズゴッと一発、
お母さんは、げんこつをくらわせた。
情け容赦のない一撃だった。
喫茶店で隣に腰かけてた高校生ぐらいの男の子が
女性週刊誌に見入っていた。
生理用ナプキンの広告だった。
映画館で映写技師のバイトをしてるヒロくんは
気に入った映画のフィルムをコレクトしてる。
ほんとは、してはいけないことだけど
ちょっとぐらいは、みんなしてるって言ってた。
その小さなフィルムのうつくしいこと。
それで
いろんなところで上映されるたびに
映画が短くなってくってわけね。
銀行で、女性週刊誌を読んだ。
サンフランシスコの病院の話だけど
集中治療室に新しい患者が運ばれてきて
その患者がその日のうちに死ぬかどうか
看護婦たちが賭をしていたという。
「死ぬのはいつも他人」って、だれかの言葉にあったけど
ほんとに、そうなのね。
授業中に質問されて答えられなかった先生が
教室の真ん中で首をくくられて殺された。
腕や足にもロープを巻かれて。
生徒たちが思い思いにロープを引っ張ると
手や足がヒクヒク動く。
ボルヘスの詩に
複数の〈わたし〉という言葉があるけど
それって、わたしたちってことかしら。
それとも、ボルヘスだから、ボルヘスズかしら。
林っちゃんは、
毎年、年賀状を300枚以上も書くって言ってた。
ぼくは、せいぜい50枚しか書かないけど
それでもたいへんで
最後の一枚は、いつも大晦日になってしまう。
いらない平和がやってきて
どぼどぼ涙がこぼれる。
実物大の偽善である。
前に付き合ってたシンジくんが
何か詩を読ませてって言うから
『月下の一群』を渡して、いっしょに読んだ。
ギー・シャルル・クロスの「さびしさ」を読んで
これがいちばん好き
ぼくも、こんな気持ちで人と付き合ってきたの
って言うと
シンジくんが、ぼくに言った。
自分を他人としてしか生きられないんだねって。
うまいこと言うのねって思わず口にしたけど
ほんとのところ、
意味はよくわかんなかった。
扇風機の真ん中のところに鉛筆の先をあてると
たちまち黒くなる。
だれに教えてもらったってわけじゃないけど
友だちの何人かも、したことあるって言ってた。
みんな、すごく叱られたらしい。
子どものときの話を、ノブユキがしてくれた。
団地に住んでた友だちがよくしてた遊びだけど
ほら、あのエア・ダストを送るパイプかなんか
ベランダにある、あのふっといパイプね。
あれをつたって5階や6階から
つるつるつるーって、すべり下りるの。
怖いから、ぼくはしないで見てただけだけど。
団地の子は違うなって、そう思って見てた。
ノブユキの言葉は、ときどき痛かった。
ぼくはノブユキになりたいと思った。
鳥を食らわば鳥籠まで。
住めば鳥籠。
耳に鳥ができる。
人の鳥籠で相撲を取る。
気違いに鳥籠。
鳥を牛と言う。
叩けば鳥が出る。
鳥多くして、鳥籠山に登る。
高校二年のときに、家出したことがあるんだけど
電車の窓から眺めた景色が忘れられない。
真緑の
なだらかな丘の上で
男の子が、とんぼ返りをしてみせてた。
たぶん、お母さんやお姉さんだと思うけど
彼女たちの前で、何度も、とんぼ返りをしてみせてた。
遠かったから、はっきり顔は見えなかったけれど
ほこらしげな感じだけは伝わってきた。
思い出したくなかったけれど
思い出したくなかったのだけれど
ぼくは、むかし
あんな子どもになりたかった。



死んだ子が悪い。

こんなタイトルで書こうと思うんだけど、って、ぼくが言ったら、
恋人が、ぼくの目を見つめながら、ぼそっと、
反感買うね。
先駆形は、だいたい、いつも
タイトルを先に決めてから書き出すんだけど、
あとで変えることもある。
マタイによる福音書・第27章。
死んだ妹が、ぼくのことを思い出すと、
砂場の砂が、つぎつぎと、ぼくの手足を吐き出していく。
(胴体はない)
ずっと。
(胴体はない)
思い出されるたびに、ぼくは引き戻される。
もとの姿に戻る。
(胴体はない)
ほら、見てごらん。
人であったときの記憶が
ぼくの手と足を、ジャングルジムに登らせていく。
(胴体はない)
それも、また、一つの物語ではなかったか。
やがて、日が暮れて、
帰ろうと言っても帰らない。
ぼくと、ぼくの
手と足の数が増えていく。
(胴体はない)
校庭の隅にある鉄棒の、その下陰の、蟻と、蟻の、蟻の群れ。
それも、また、ひとすじの、生きてかよう道なのか。
(胴体はない)
電話が入った。
歌人で、親友の林 和清からだ。
ぼくの一番大切な友だちだ。
いつも、ぼくの詩を面白いと言って、励ましてくれる。
きっと悪意よ、そうに違いないわ。
新年のあいさつだという。
ことしもよろしく、と言うので
よろしくするのよ、と言った。
あとで、
留守録に一分間の沈黙。
いない時間をみはからって、かけてあげる。
うん。
あっ、
でも、
もちろん、ぼくだって、普通の電話をすることもある。
面白いことを思いついたら、まっさきに教えてあげる。
牛は牛づら、馬は馬づらってのはどう?
何だ、それ?
これ?
ラルースの『世界ことわざ名言辞典』ってので、読んだのよ。
「牛は牛づれ、馬は馬づれ」っての。
でね、
それで、アタシ、思いついたのよ。
ダメ?
ダメかしら?
そうよ。
牛は牛の顔してるし、馬は馬の顔してるわ。
あたりまえのことよ。
でもね、
あたりまえのことでも、面白いのよ。
アタシには。
う〜ん。
いつのまにか、ぼくから、アタシになってるワ。
ワ!
(胴体はない)
「オレ、アツスケのことが心配や。
アツスケだますの、簡単やもんな。
ほんま、アツスケって、数字に弱いしな。
数字見たら、すぐに信じよるもんな。
何パーセントが、これこれです。
ちゅうたら、
母集団の数も知らんのに
すぐに信じよるもんな。
高校じゃ、数学教えとるくせに。」
「それに、こないなとこで
中途半端な二段落としにする、っちゅうのは
まだ、形を信じとる、っちゅうわけや。
しょうもない。
ろくでもあらへんやっちゃ。
それに、こないに、ぎょうさん、
ぱっぱり、つめ込み過ぎっちゅうんちゃうん?」
ぱっぱり、そうかしら。
「ぱっぱり、そうなのじゃあ!」
現状認識できてませ〜ん。
潮溜まりに、ひたぬくもる、ヨカナーンの首。
(胴体はない)
棒をのんだヒキガエルが死んでいる。
(胴体はない)
醒めたまま死ね!
(胴体はない)
醒めたまま死ね!



そしたら、このあいだ、4月の半ばかな、ジェフリーから返事がきて
そのゲイの詩のアンソロジーをつくっている編集者の KEVIN SIMMONDS さんから
つぎのようなメールがきたって連絡してくれた。
ぼくの「水面に浮かぶ果実のように」に対してのもので
メールをコピペするね。

I'd like to include this poem and perhaps something else. Do you have any other Tanaka translations done other than those you sent? Also, I'll have my partner look at the guy who writes the shorter pieces and get back to you. Will you be leaving the country anytime soon? I'd rather risk having to wait to include other of your translations in the second printing than have to lose them altogether for the first. That said, please get this signed release back to me and have Tanaka send an email (in Japanese is OK) endorsing the translation and including his permission. Don't forget to tell me where this has appeared (if it has, include publisher/journal and date) and who owns it (if it's not you and Tanaka). I'll just generate new releases if other poems fit the anthology.

The inclusion of this Tanaka poem is very important to me and the anthology! Can't stress that enough!

Thanks,
k~

上の一行にある

The inclusion of this Tanaka poem is very important to me and the anthology!

って言葉を目にして、めっちゃうれしかった。
ちかぢか、ぼくの「水面に浮かぶ果実のように」が、
アメリカで出されるゲイの詩のアンソロジーに収められるってわけね。
めっちゃうれしかった。



日付のないメモ。

さきほど、入口からだれかが入ってきたような気がしたのだけれど
身体が動かず、顔のうえに腕をおいて居眠りしていたので
布団のなかで固まっていると
顔に触れる手があって、叫び声をあげると
気配が消えた。
ぼくの身体も硬直がとけて
目をあけるとだれもいなかった。
たぶん、幻覚だろうとは思っていたのだけれど。
昨夜、本を読んでいるときに
ふと、内容がわからなくなって
ページをめくり直すと数ページ読んだ記憶がなかった。
時間がぽこりそこだけなくなったかのように。
テーブルのしたの積み重なったCDのしたから
日付のないメモが見つかった。
ここに引用しておく。

「ことし50才になったよ。
 なったばかり。
 1月生まれやからね。」
「ぼくも1月生まれなんですよ。」
「山羊座?」
「ええ。」
「何才になったの?
 たしか、30すぎたくらいだったよね。」
「32才になりました。」
(…)
「つくづく、いろんな人がいるなあと思います。」
靴フェチの青年の話をした。
ぼくの靴をさわりながらオナニーをする青年。
日にやけた体格のいい好青年だった。
見せるだけの男の子の話もした。
大学生か院生くらいだった。
自分がオナニーするのを見てほしいというのだった。
ぼくが身体に触れようとすると
「だめ! 見るだけ!」
と言って、ぼくの手をはらうのだった。
彼もまた、体格のいい好青年だった。
いろいろな性癖があるねと言った。
「初体験はいつ?」
「中学のときでした。
 友だちから、気持ちのいいことしてやろかと言われて
 さわられたのが初体験です。」
「ふつうの友だち?」
「ええ。」
「でも、そのとき、きみが断ってたら
 友だちのままでいられたやろか?」
「わかりませんね。
 どうだったでしょう。」
「まあ、断らなかったんだからね。
 じっさいは。
 でも、気まずくなったかもしれないね。」
「たぶん。」
「その友だちとはずっと付き合ってたの?」
「高校が別々だったので
 中学のときだけでした。
 高校では女の子と付き合ってました。」
「じゃあ、どっちでもええんや。」
「ええ。
 いまでも、どっちでもいいんですよ。」
「そんな子、多いね。」
(…)
「人間って汚いと思います。」
「どうして?
 まあ、汚いなって思えるときもあるけど
 そうじゃないときもあるよ。
 むかし、Shall We Dance? って映画を恋人と見に行ったとき
 映画館の前で待ち合わせしてて
 自分の部屋を出るときにあわててて
 小銭入れを忘れたのね。
 で
 バスに乗ってから
 1万円札しかないことに気がついて
 で
 バスの車掌に言ったら
 両替もできないし
 いま回数券もない
 って言うのね。
 で
 困ってたら
 前と後ろから同時に声がかかったんだよね。
 前からは、おじさんが、これ使って、と言って、小銭を
 後ろからは、髪の長いきれいな女性が、これを使ってください、と言って回数券を
 ぼくにくださろうとしたのね。
 おじさんのほうがすこしはやかったから
 女性の方にはていねいにお断りして
 おじさんに小銭をいただいたのだけれど
 お返ししますからご住所を教えてくださいと言ったら
 そんなんええよ。
 あげるよ。
 と言ってくださってね。
 もうね。
 映画どころじゃなくって
 ぼくは、そのことで感激してた。
 映画もおもしろかったけどね。」
「そら、映画より感動しますね。」
「でしょ?
 だから、ぼくも似たことを梅田駅でしてあげてね。
 高校生ぐらいのカップルが、初デートだったんだうね。
 切符売り場で、何度も100円硬貨を入れては下から吐きだされてる男の子がいてね。
 顔を真っ赤にして。
 100円玉がゆがんでることに気がつかなかったんだろうね。
 おんなじ100円玉を入れててね。
 で、ぼくがポケットから100円玉をだして
 ぽいって入れてあげたの。
 男の子が、あ、って口にして
 ぼくは、ええよ、という感じで片手をあげて笑って立ち去ったんだけど
 そうそう、このあいだ地下鉄で
 目の見えないひとが乗ってきたらね。
 女子高校生の子が、そのひとのひじをとって
 ごく自然にそうふるまったって感じでね。
 いつもそうしてるってかんじやったなあ。
 人間は汚くないよ。」
「そういうところもありますね。」
「九州に旅行に行ったときね。
 20年ほどもむかしの話だけど
 ゲイ・スナックの場所がわからなくて
 公衆電話から店に電話で場所を聞いてたんだけど
 なかなかわからなくて困ってたら
 となりで彼女に電話をかけてた青年が
 「おれ、その場所、知ってますよ。案内しますよ。」と言い
 自分の電話口に向かって「ちょっとまっとれ、あとで掛け直すわ。」
 って言って、その場所まで案内してくれてね。
 場所柄かなあ。
 九州人だからかなあ。
 京都人にはいなさそうだけどね。
 そんなことがあった。
 九州といえば、20代のころに
 学会で博多に行ったときに
 ぼくだけ院生たちと別行動で
 夜にゲイ・スナックに行ってたんだけど
 タイプだった青年にタイプだって言うと
 ぼくはタイプじゃないって言われたんだけど
 「どちらに泊ってらっしゃるんですか? 車できてるので送りますよ。」
 と言ってくれてね。
 純朴そうな好青年だったな。
 そんなことがあってね。」
(…)
「人間が汚いって、
 それ、もしかしたら、自分のこと思って言った?」
「そうです。」
「ああ、そうなんだよね。
 人間って、ときどき、自分のこと、汚いって思っちゃうんだよね。
 また、そう思わないといけないところがあるんだよね。
 そう思えない人間って、なにか欠陥があるんだよね。
 自分の欠陥を指摘できないという決定的な欠陥がね。」
「そうなんですか。
 自分が汚いから
 ひとも汚いって思えるんじゃないかと思いました。」
「逆もまた真でね。
 ひとのことも、自分のこともね。
 つながってるから。
 みんなね。
 で
 たとえば
 きみには、どんな汚い面があるの?」
「ひと通りのない道で
 カーセックスしたあと
 彼女に別れ話をしたんですよ。
 はじめから別れ話をするつもりだったんですけど
 セックスは、やりおさめで、やりときたかったので。」
「セックスして、どれくらいあとに?」
「30分くらいです。」
「そりゃ、彼女もびっくりだったろうね。
 別れるときには
 別れようと思ったときには
 つぎの子ができてて
 それで新しい子と付き合うために
 付き合ってた子と別れるっていうひとがいるけど
 そういうひとなんだね。」
「はい。」
「残酷やなあ。
 まあ、男同士やから、その気持ちわかるけどね。
 ぼくにも経験あるからね。」
「なにげないことをケンカの種にして
 文句言って別れました。
 汚いですよね。」
「いや、ただ単に、自己本位なんやろ。
 人間って余裕がないとね、
 気持ちに余裕がないと、ひとにやさしくなれないしね。
 やさしく、じゃないな
 相手の気持ちを考えて言ったりしたりすることができないんじゃないかな。
 Shall We Dance? のときのこと
 映画より、バスの運賃なかったときの体験のこと思い出すとね、
 前の座席に坐ってたおじさんも
 ぼくの後ろに
 ぼくと同じように吊革につかまって立ってた女性も
 こころに余裕があったんだよね。
 そう思うわ。
 そのときは感動しただけやったけど
 いま思い出すと
 人間のこと、もう一段深く掘り下げて知れたんやね。
 余裕があったから
 ひとにやさしくできたんやね。
 でも、その余裕って
 べつに金持ちやからとかっていうことじゃなくて
 人間的な余裕かな。
 そういった余裕があれば
 汚くなることもないやろうね。」
「そうでしょうね。
 人間って汚いって思うのは
 やっぱり、おれが汚いからでしょうか?」
「いや、それは、さっきも言ったように
 きみだけやないで。
 ただ、そうじゃないひとも、いつもそうとは限らないだろうし
 きみも、ぼくも、いつも汚いわけじゃないし
 いつもきれいなわけでもないし
 ただ単に、自己本位なだけなんだよ。
 だれもがそうであるときと
 そうでないときとがあるんじゃないかな。
 そうじゃないときのほうが多いひともいるやろうし
 そうじゃないときがほとんどないひともいるやろうしね。
 そうじゃないときのほうが多いひとって
 やっぱり余裕があるんやろうね。
 土地柄もあるやろうね。
 さっき言った九州の男の子の話ね。
 電話の話と、スナックでの話ね。
 ふたつとも九州やったしね。
 まわりのひとが、ひとに気遣う習慣がある土地柄なんじゃないかな、
 九州って。
 そういう土地柄だったら、九州のあの男の子たちのような子がいても
 ふつうのことだろうね。
 習慣。
 それと、学習ね。
 むかし、国際でいっしょだった英語の先生で
 中西先生って方がいらっしゃって
 その方の話だけど
 教養のあることのいいところは
 まずしくても
 まずしさを恥じなくてもいいことだとおっしゃっててね。
 知り合いの女性が
 ハーバードを出てらっしゃるのだけれど
 アルバイトでスーパーのレジ係をしてらっしゃってて
 でも、そんなこと、そのひとにとってはなんでもないことで
 たとえ時給が低くても、仕事としてちゃんとこなしていて
 給金をもらって生きていることは、ごくあたりまえのことだって。
 そうだね。
 土地柄と、教養かなあ。
 教育、育ち、育てられ方っていうか、そんなものに影響されるね。」
「そうでしょうね。」
「でも、きみって、素朴そうなのに
 女にはけっこうすごいんだね。」
「友だちに、顔に似合わず
 えげつないって言われます。」
「まあね、顔は、ほんとやさしそうだもの。
 人間って、こわいなあ、笑。」
にこにこしてる彼。
なんで、笑いがとまらへんのやろか。
ふたりとも、まじめに話しながらも笑ってた。
笑いをとめて話をするのが、よけいにこわいからか。
たぶん、そうだったのだろう。
(…)
「京都人は、あまりひとにかまわないね。
 政治的に、むかしから難しい土地柄ってことがあるって
 そんな話聞いたことあるよ。
 明治維新のときとか。」
手がぷにぷにしていて、かわいい。
乳首が感じるらしい。
それほど大きくないペニス。
というか、小さいほう。
「ふだん見えないところが見えると
 興奮しますね。」
「たしかに、他人のたってるチンポコ見ること
 ふつうはないもんね。」
「むかし、一度だけ、東梅田ローズというところに行きましたけど
 もう、みんなすごいことでしたよ。」
「あっちでも、こっちでも
 チンポコおったてて、ってことでしょ、笑。
 そいえば、女の子同士の発展場ってないんやろか?
 ないんやろうなあ。
 聞いたことないもんね。
 小説でも読んだことないし。」
「聞きませんね。
 でも、個人の家で
 女の子同士会ってたりするかもしれませんんえ。」
「あったら、小説に出てくるはずなんやけど。
 読んだことないなあ。
 レズビアンが出てくる小説はあるけど
 出会いはふつうのところやった。」
ここで、京大のエイジくんのことについてしゃべった。
めっちゃかっこよかったけど、彼にはそれが負担やったみたいな。
「万人に好かれる顔やったらええなって思います。」
「好かれる顔してるんじゃない?」
「マニア受けする顔やと思ってました。」
「だいじょうぶ。
 10人ゲイがいてたら
 8人はいけるって言うと思う、笑。」
「あとのふたりはなんなんですか?」
「ガリ専とフケ専かな、笑。
 でもね。
 万人受けする顔って
 幸せやないよ。
 性格も傲慢になるしね。」
「なるでしょうね。」
「人間って、弱いしね。
 つぎにすぐできると思ったら
 すぐに手放すからね
 いま持ってる幸せ。
 つぎのもののほうがいいって思いこんでね。」
ここで、ケイちゃんの話をする。
「まあ、きみは、65点ちょい上くらいかな。
 中よりすこし上
 ちょっとモテルって感じかな。
 そのちょっとモテルって感じが万人受けでしょ、笑。」
「65点ですか。」
「ちょい上ね。
 高得点だと
 あとは落ちるだけやからね、笑。」
「なるほど。」
(…)
「仕事場で、同性からモーションかけられたことってあるの?」
「ないですよ。」
「ほんとう?」
「いや、ありますかね。
 もしかしたら、このひと、おれのこと好きなのかなって
 感じたことありますけど。」
「あると思うよ。
 ぼくも、先生で好きな先生いらっしゃるもの、笑。」
「そうなんですか。」
「相手も気づいてんじゃない?
 好きだとか
 嫌いだとかって感情は、隠せないもんね。」
「そうですね。」
「きみは、そのひとのこと好きなの?」
「いえ、べつに。」
「そっか、好きなほうが人生おもしろそうだけど、笑。」



P・D・ジェイムズの『殺人展示室』、読み終わりました。

人物描写と情景描写は
いつものように、とてもいい感じやった。
でも、さいごのところで、ちょっとなあ、と思った。
情景描写も人物描写も、これでもか! という感じやっただけに
さいごが、ちょっと、ええ? 
って思った。
ジェイムズ、コンプリートにコレクションしたけど
きょうから、『灯台』を読むのだけれど、どうやろうか。
もう数カ月も、ジェイムズづけやから
文体には慣れてしもたから、読むのは苦痛やないけど
それでも、じゅうぶん、読むのが遅い。
まあ、フロベールの『プヴァールとペキュシェ』ほど、遅くはないけど。
そいえば、このあいだまで読んでたSFは、はやかった。
かといって、すかすか読めるエッセイとかには、まったく興味がないし。



恋愛拒否症。

きょうも、日知庵でヨッパ。
横須賀から来てた男の子がそばに坐りに来て
話しかけてくれたけど
帰ってきた。
そいえば
何年か前も
日系のオーストラリア人のすっごいかわいい男の子が
ひざをくっつけてきたけど
気がつかないふりをしてた。
そだ。
これも何年か前
部屋に遊びにきた元教え子が(予備校のね)
さそってきたときも
ぼくは気がつかないふりをしてた。
つくづく
恋愛拒否症なのだと思う。
なのに
恋愛したいって思ってるってのは
頭でも、おかしいのかな?



『ガレッティ先生失言録』創土社版、到着。

あと、ブックオフでのお買い物、1冊。
五条堀川のブックオフでは
ブコウスキーの『町でいちばんの美女』単行本 105円。
これ、じつは、買うの二度目。
一度目は、お風呂場で読んだので
読み捨てた本だったのだが
きょう、なつかしくて手にとると
「精肉工場のキッド・スターダスト」
というタイトルの短篇が二番目に収録されていて
このタイトルから
むかし付き合ったノブユキのことが鮮やかに思いだされたので
衝動買いしたのであった。
二十数年前の話だ。
付き合いはじめて
まだ、そんなに経っていなくて
ノブユキはシアトルに留学していたから
長期の休みのときに会っていたのだけれど
さいしょの冬休みのときに
おみやげと言って渡されたのが
「精肉工場」というタイトルのポルノビデオだった。
英語のタイトルは忘れたけれど
meat なんとかだったと思う。
「ノブユキ」に似た日本人っぽい青年が
ガタイのいい白人の男に犯されるという設定のものだった。
似てない?
と訊くと
似てると思って買ってきたというのだ。
そういえば
ケンちゃんは自分が出演していたゲイ・ポルノのビデオを
ぼくにプレゼントしてくれたけれど
別れるときに返したら
「持っていてほしい。」
と言われて、びっくりしたことがある。
ノブユキのいたシアトルの大学でのレイプ事件
放課後に、日本人留学生の男の子が黒人の4人組に犯された話。
きのう、タカヒロくんに話してて
アメリカ人のガタイがいい人って、人間離れしてるもんね。
きゃしゃな日本人だったら抵抗できないかも、とかとか言ってて
ディルド8本、ロスの税関での没収(ディルド一個とビデオ7本の聞き間違い)の話もした。
これは、笑った。
ノブユキにもらったビデオ、捨てたのだけれど
いつか、どこかで目にすることができればいいなって思ってる。
ノブユキと出会った日の別れ際に
「バイバイ」
と、ぼくが言うと
ノブユキの微笑みがちょこっとのあいだ、歪んでとまったのだけれど
ぼくが笑うと、安心した笑顔になった。
その表情が鮮やかに思いだされて
それで、ブコウスキーを買い直したってわけ。
「精肉工場」ね。
ノブユキにもらったビデオのほうだけど
凍りついた牛の肉とか
ぜんぜん出てこなかった。

ブコウスキー
読んでおもしろいと思うのだけれど、
ブコウスキーをおもしろいと思うのは、
どこかで、だめだ、という気がしていた。
それで、ブコウスキーの本は、
お風呂場で読んで、読んだあとは捨てていたのだけれど、
パラ読みしてたら、やっぱりおもしろい。
目次ながめてるだけでも笑けてしまうぐらい。
でもでも、さきに、ガレッティ先生のほう、読もう。



反時計まわり。

もう何十年も、黒板に向かって、数式を書いたり消したりしておりますが
おとつい、あるおひとりの数学の先生に
「田中先生、図形は、どうして反時計まわりにアルファベットをふるのでしょうか。
 ご存じでしたら、教えていただけませんか?」
とたずねられて、その理由は知らなかったのですが
「たしかに、数学では習慣的にそうしていますが
 時計まわりでもよいはずですが
 しかし、たしかに
 座標平面を4分割したとき
 象限の名称が反時計まわりに
 第I、第II、第III、第IV象限って名付けられていますね。
 デカルトの時代には正の象限しかなかったので
 デカルト以後でしょうけれど。」
とかとか話しておりましたが、判然とせずにおりましたところ
古代文字の書き方の話になり
右から左に、それとも、左から右に書くのはどうしてでしょうね。
みたいな話にまで飛びましたら
その数学の先生が、近くにおられた宗教学の先生に
「アラビア語は右から左に書くのですか?」
と訊かれて
その宗教学の先生が
「そうですよ。」
とおっしゃって
「インクのない時代だからだったのでしょうね。」
と、ぼくが口をはさむと
「右利きの場合は、ですね。
 しかし、もともと文字を石に掘っていたので
 右から左なのですよ。」
とおっしゃって、身ぶりをまじえて
「こう、左手に鑿を持ち、右手で槌を打つのですね。」
「楔形文字の場合もですか?」
とぼくが言うと
「それは型を圧す方法ですから
 左から右です。
 右からでしたら、つけた型を損なうかもしれないでしょう。」
と言われて、ああ、なるほどと思ったのですが
すると、さいしょにぼくにたずねられた数学の先生との話に戻って
その数学の先生が、ぼくとの会話のいきさつを話されたので
すると、その宗教学の先生が
「巡礼が廻廊をまわるのも反時計まわりですよ。」
ぼくも、もうひとりの数学の先生も知らないことでした。
思わず、ふたりは目を合わせましたが
「どうして反時計まわりなんですか?」
と、その数学の先生が宗教学の先生に訊かれたのです。
そしたら、意外なところに
いや、よく考えたら意外ではなかったのですが
「北極星を中心に星が反時計まわりに動いているでしょう。
 そこからじゃないですか。」
ぼくと、もうひとりの数学の先生の目がもう一度合いました。
「解決しましたわね。
 おもしろいですわね。
 きょう、わたくし、脳が覚醒して眠れないかもしれません。」
「ぼくもです。
 習慣といっても、起源があるものでしょうから
 理由があるのですね。」
そしたら、その数学の先生が目をきらきら輝かせて
ひとこと、こうおっしゃいました。
「そうでしょうか。
 わかりませんよ。」
と、笑。
おもしろいですね。
人間というものも、知識というものも。
ぼくにたずねられた数学の先生
ぼくにP・D・ジェイムズを教えてくださった方で
P・D・ジェイムズばりに知的な方で
たまにたずねられることがあるのですが
そのたびに緊張いたします。
楽しい緊張ですが、笑。
そういえば、デカルトもニュートンも
むかしの学者って、数学や科学が専門でも
神学と哲学以外に、占星術も学問として修めていましたね。



この数学の先生、岸田先生というお名前なのだけれど
ぼくに、P・D・ジェイムズをすすめてくださった先生ね。
で、『原罪』のテーマって、日本では無理ですよね、ナチスなかったし
と、ぼくが言うと
「そうですか?
 日本にはありませんか?
 在日問題とか、あるんじゃありませんか?」
とおっしゃって。
そういえば、ぼくの実母だって、被差別部落出身者だし
それが理由の一つでぼくの父親とも離婚したんだし
とか思ったけれど、いま職員室で言うことじゃないと思って、そのことは黙ってた。
「そうですね。
 ぼくは当事者じゃないので、想像もできませんでしたけど
 それほど自分から遠い話ではありません。
 韓国籍の友人もいましたし。
 でも、それで苦しんでるなんて聞いたこともなかったので
 思い至りませんでした。」
そうか。
在日問題か。
気がつかなかった。
うかつやったな。



ピオ神父、10260円。

きのう
日知庵に行く前に
カソリック教会である三条教会の隣のクリスチャンズ・グッズのお店で
いろいろなものの値段を眺めていた。
安物っぽいピエタ像が10000円以上してたり
どう考えても、そんな値段はおかしいと思うものがいっぱいあった。
ピオ神父の20センチくらいの陶器製の置物が
10260円だった。
税込みで。
ちょっと欲しくなるくらいのよい出来のものだったが
ほかのものもそうだが
値札がひも付きのもので
首にぶら下げてあるのであった。
キリストもマリアも神父さんもみな
首に値札がぶら下がっていたのであった。
店の入り口にホームレスが寝ていた。
店のひとは追い払わないでいた。
太ったホームレスだった。
そういえば
だれだったか忘れたけど
また、いつのことだったか忘れたけど
四条河原町で明け方に狭い路地のところに
ガタイのいい男が裸で酒に酔って寝ていたらしく
連れて帰ったらホームレスだったって
だれか言ってたなあ。
タクちゃんかな。
タクちゃんは、汚れが好きだからなあ。
たぶん。



そうそう
きょう買った世界詩集の月報にあった
アポリネールの話は面白かった。
アポリネールが恋人と友だちと食事をしているときに
彼が恋人と口げんかをして
彼が部屋のなかに入って出てこなくなったことがあって
それで、友だちが食事をしていたら
彼が部屋から出てきて
テーブルの上を眺め渡してひとこと
「ぼくの豚のソーセージを食べたな!」
ですって。



人間の基準は100までなのね。
むかし
ユニクロでズボンを買おうと思って
買いに行ったら
「ヒップが100センチまでのものしかないです。」
と言われて
人間の基準って
ヒップ 100センチ
なのね
って思った。
って
ジミーちゃんに電話で
いま言ったら
「ユニクロの基準でしょ。」
って言われた。
たしかにぃ。
しかし
ズボンって言い方も
ジジイだわ。
アメリカでは
パンツ
でも
パンツって言ったら
アンダーウェアのパンツを思い浮かべちゃうんだけど
若い子が聞いたら
軽蔑されそう。
まっ
軽蔑されてもいいんだけどねえ、笑。



部屋にあった時計がなくなっている。
枕元にあったのだけれど、なくなる理由がわからない。
部屋の外で、このビルの非常ベルも鳴らされているし、よくわからない。
もうちょっと、時計をさがす。
あ、非常ベルが鳴りやんだ。
相変わらず、目覚まし時計はない。
もうちょっと、さがそうっと。

見つかった。
なにが。
目覚まし時計が。
マカロニサラダをつくるときに、キッチンに持っていっていたのであった。



ごめんなさい、午前2時さん。

へんな時間(ごめんなさい、午前2時さん)に目がさめた。
得したのか(読書できるから)なあ。
しかし、はやすぎる。
もう一度寝床に(クスリ、飲んでるんだけど、飲み過ぎのせいかなあ)。
ああ、でもすっかり目がさめてる。
コーヒーを飲むべきかどうか。
ハムレット状態でR。



つぎの長篇詩のタイトル、『カラカラ帝。』に。
「カラカラって?」
「からかって?」
「ご変身くださいまして、ありがとうございました。」
「いいえ、ご勝手に。」
「そりゃ、そうでしょ。」
「噛むって言ってたじゃん!」
「ぜったい、ぜえったい買うって言ってたじゃん。」
「わーすれましたぞな、もっし。」



安田太くんのこと、思い出した。2歳下で、ラグビーで国体に出た、かっこいいヤツだったけど、どSやった。けど、二人で河原町のビルの上階にあるレストランに行ったとき、男女のカップルの女の子のほうが、ぼくらをじろじろ見てた。そんなにゲイ丸出しやったんやろか。二人とも体格よかったんだけど。

男の子は顔を伏せてた。ぼくらを見ないように。おもしろいね。女の子はじろじろ見てて、男の子は恥ずかしそうにうつむいてた。女の子の好奇心って、つよいね。男の子がシャイなだけなのかな。まあ、しかし、ぼくらがゲイのカップルだってことは見破られてたんだ。どこでやろか。べつに手もつないでないし。

やっぱ、視線かな。ぼくと太くんの、お互いに見つめ合う。

太くんが21歳で、ぼくが23歳のときの話ね。ディープな話は、作品でまた書こうと思ってる。ヒロくんと同じように絵を描くのが趣味やった。ゲイって、けっこう芸術やってる子が多くて、ぼくの付き合った子のうち、二人は作曲家やった。一人は複数の歌手のゴーストライターしてた。もう一人はCM曲。

あ、CMの子とは付き合ってないか。できてただけかな、笑。しかし、二人とも、ぼくよりずっと年下なくせに、えらそうだった。二人とも同じこと、ぼくに言ってたなあ。「芸術やってたら、それで食べられるぐらいにならんと、あかんのちゃう?」って。こんな言葉は、芸術で食べてるから言えるんだよね。

さてさて、これから、西院のパン屋さんまでモーニングを食べに行こう。帰りにダイソーで、詩集の賞に応募するための封筒を買ってこよう。きょうは、3つ、4つの賞に応募しようっと。んじゃ、行ってきま〜す。



鼻輪。

注文していたパンが2個たりなかったので、アップルパイみたいなのね、カウンターに行って、あと2個たりないからねって言って頼んで、自分が坐っていたテーブルに戻ると、さっきまで唐だった隣のテーブルに家族連れ3人の女性がやってくるところだった。姉なのかな、30代くらいの女性が
posted at 10:23:56

「トイレどこかしら?」と妹らしき女性にたずねた。(顔がお母さんンと3人ん似ていたので)ぼくが「ここにはトイレがありませんよ。出て、隣のビルの地下にトイレがあります。」と言うと、妹さんのほうが(彼女は20代だろうね)「ありがとうございます。」と言って、姉の顔を
posted at 10:27:51

見上げた。妹はすでに腰かけていて、姉は立っていたから。姉が母親といっしょに出て行くと、妹さんは、少しぼくに近いところに坐りなおして「ありがとうございました。」とにこっと笑いかけてきたので、ぼくは、いつも自分のリュックにしのばせている自分の詩集を出して、「これ、よかったら、
posted at 10:30:02

読んでみてください。詩集です。もしも気に入られれば、ジュンク堂や紀伊国屋や大垣書店に、ほかの詩集も置いてありますから、買ってやってください。その詩集、シリーズものなんですよ。」と言って彼女の手に渡した。彼女は「ありがとうごじあます。」と言って手のなかの詩集のページを
posted at 10:32:31

めくった。しばらく目を落としていたが、母親たちが戻って来たので、ぼくが詩集をプレゼントしたことを二人に説明した。二人は別に怪訝そうな顔をすることなく、ぼくに礼を言い、店員に運ばれてきたパンやサラダに目をやった。ぼくのほうにも、あの2個のアップルパイがきた。
posted at 10:35:07

ぜんぶたいらげて、レックバリの『氷姫』を読んでいた。奥のテーブルにパン屋サラダを運び終わった店員が、ぼくの目の前を通り過ぎようとしたので、「もう10時になっていますかね。」と尋ねた。少しふっくらとした若い女性の店員は、「ええ、過ぎていますよ。」と返事してくれた。いつも
posted at 10:37:14

にこにこ笑顔をしている、かわいらしい店員さんだった。ぼくが、いつもたくさんパンを食べるので、きっと、ぼくにききたいことがあるような気がしてる。いったい、一日にどれだけ食べるんですかって、笑。自分のテーブルの上にあったレシートを見ると、9時51分になっていた。そりゃあ、
posted at 10:39:16

10時は過ぎてるなと思った。隣のテーブルの女性陣たちに、「いや、これからダイソーに行くので、訊いたんですよ。」と言った。携帯を持ってないことは言わなかった。ぼくは、時計も持たない主義なのだ。で、ダイソーで、詩の賞に応募するための封筒を4枚買い、アルカリ単3電池も
posted at 10:41:10

6個入りのもの2セット買って、雨のなか、透明のビニール傘をさして帰ったのだが、帰り道で、黒人の青年に出合った。というか、すれ違った。おもしろかった。だって、彼は、スーツ姿で、スーツケースを手にして、傘を持って歩いてたんだけど、鼻輪もしてたの。それも小さいヤツじゃなくて、
posted at 10:43:11

唇の3分の2くらいの大きさの銀色のもの。完全な金属製の輪っか。びっくりした。でも、おもろかった。笑わなかったけど、こころのなかで、思いっきり笑った。こんな鼻輪をした黒人青年の話を、日本の会社のどんな立場のひとが相手にするんだろうかって。ビジネスの話のあいだ、気になって
posted at 10:44:54

仕方がないんじゃないかなって。ぼくだったら見るわ〜、その鼻輪。きらきらと輝く、めっちゃ肌の色とコントラストしてる、その銀色の輪っかを。男前の若い黒人さんだったから、ドキッともしたけどね。輪っかは、印象に残るわ。まあ、ぼくが会社のひとだったら、そく抱きついちゃうかもね、笑。ブヒッ。
posted at 10:47:37



吉田くん。

電車に乗ると、席があいてたので、吉田くんの膝のうえに腰かけた。吉田くんの膝は、いつものように、やわらかくてあたたかかった。電車がとまった。親子連れが乗り込んできた。小さな男の子が吉田くんの手をにぎった。

このあたりの地層では、吉田くんが、いちばんよい状態で発見されます。あ、そこ、褶曲しているところ、そこです、ちょうど、吉田くんが腕を曲げて、いい状態ですね。では、もうすこし移動してみましょう。そこにも吉田くんがいっぱい発見できると思いますよ。

玄関で靴を履きかけていたわたしに、妻が声をかけた。「あなた、忘れ物よ。」妻の手には、きれいに折りたたまれた吉田くんがいた。わたしは、吉田くんを鞄のなかにいれて家を出た。歩き出すと、吉田くんが鞄から頭を出そうとしたので、ぎゅっと奥に押し込んだ。

「きみ、どこの吉田くん?」また、いやなこと、訊かれちまった〜。「ぼく、吉田くん持ってないんだ。」「えっ? いまどき、携帯吉田くん持ってないヤツなんているの?」あーあ、ぼくにも携帯吉田くんがいたらなあ。いつでも吉田くんできるのに。

はじめの吉田くんが頬に落ちると、つぎつぎと吉田くんが空から落ちてきた。手で吉田くんをはらうと、ビルの入口に走り込んだ。地面のうえに落ちるまえに車にはねられたり、屋根のうえで身体をバウンドさせたりする吉田くんもいる。はやく落ちるのやめてほしいなあ。

ゲーゲー、吉田くんが吐き出した。「食べ過ぎだよ。」吉田くんが吐き出した消化途中の佐藤くんや山田さんの身体が、床のうえにべちゃっとへばりついた。

吉田くんを加熱すると膨張します。強く加熱すると炭になり、はげしく加熱すると灰になります。蒸発皿のうえで1週間くらい置いておくと、蒸発していなくなります。

吉田くんは細胞分裂で増えます。うえのほうの吉田くんほど新しいので、すこし触れるだけで、ぺらぺらはがれます。粘り気はありません。

「あちちっ!」吉田くんを中心に太陽が回っています。「あちちっ!」太陽が近づくときと遠ざかるときの時間が短いのです。「あちちっ!」吉田くんは、真っ黒焦げです。

さいしょの吉田くんが到着してしばらくすると、つぎの吉田くんが到着した。そうして、つぎつぎと大勢の吉田くんが到着した。いまから相が不安定になる。時間だ。たくさんの吉田くんがぐにゃんぐにゃんになって流れはじめた。

この竹輪は、無数の吉田くんのひとりである。空気・温度・水のうち、ひとつでも条件が合わなければ、この竹輪は吉田くんに戻れない。まあ、戻れなくてもいいんだけどね。食べちゃうからね。

二酸化吉田くん。

「水につけて戻した吉田くんを、こちらに連れてきてください。」ずるずると、吉田くんが引きずられてきた。「ぼくは、どこにもできない。」本調子ではない吉田くんの手がふるえている。「ぼくは、どこにもできない。」絵画的な偶然だ。絵画的な偶然が打ち寄せてきた。

きょうのように寒い夜は、吉田くんが結露する。

「はい。」と言うと、吉田くんが、吉田くん1と吉田くん2に分かれる。

吉田くんは、ふつうは、水に溶けない。はげしく撹拌すると、一部が水に溶ける。

吉田くんを直列つなぎにするときと、並列つなぎにするときでは、抵抗が異なる。

理想吉田くん。

吉田くんの瞳がキラキラ輝いていた。貼りつけられた選挙ポスターは、やましさにあふれていた。

精子状態の吉田くん。

吉田くんを、そっとしずかに世界のうえに置く。吉田くんのうえに、どしんと世界を置く。

タイムサービス! いまから30分間だけ、3割引きの吉田くん。

丸くなった吉田くんを、ガリガリガリガリッ。

「ほら、出して。」注意された生徒が、手渡された紙っきれのうえに、吉田くんを吐き出した。「もう、何度も、授業中に、吉田くんを噛んじゃいけないって言ってるでしょ!」端っこの席の生徒が、手のなかの吉田くんを机のなかに隠した。

「重くなる。」吉田くんの足が床にめりこんだ。「もっと重くなる。」吉田くんがひざまずいた。「もっと、もっと重くなる。」吉田くんの身体が床のうえにへばりついた。「もっと、もっと、もっと重くなる。」吉田くんの身体が床のうえにべちゃっとつぶれた。

あしたから緑の吉田くん。右、左、斜め、横、縦、横、横。きのうまでオレンジ色の吉田くん。右、左、斜め、横、縦、横、横。

吉田くんの秘密。秘密の吉田くん。

ソバージュ状態の吉田くん。

焼きソバ状態の吉田くん。

「さいしょに吉田くんが送られてきたときに、変だなとは思わなかったのですか?」「ええ、べつに変だとは思いませんでした。」机のうえに重ねられた吉田くんを見て、刑事がため息をついた。

さまざまなことを思い出す吉田くんのこと。さまざまな吉田くんのことが思い出すさまざまなこと。さまざまなことが思い出す吉田くんのこと。

「いててっ。」足の裏に突き刺さった吉田くん。

春になると、吉田くんがとれる。

吉田くんをチンして温め直す。

散らかした吉田くんを片づける。

窓枠のさんにくっついた吉田くんを拭き取る。



吉田くん。 しょの2

恋人も、友だちも、さまざまな理由で、ぼくから離れていったし、さざまな事情で、ぼくも彼らから離れていった。憎まれたり憎んだりもしただろう。いまも愛されているかもしれないし、愛している。しかし、文学は、一度として、ぼくから離れることはなかったし、ぼくが文学から離れることもなかった。
posted at 12:33:04

きのう思いついた短い作品をこれから書き込む。連作である。いつか、これも長大な作品になることと思う。さまざまな方向転換と作り直しを繰り返して。
posted at 12:34:42

テレビを見ながら、晩ご飯を食べていた吉田くんは、突然、お箸を置いて、テーブルの縁をつかむと、ぶるぶるとふた震えしたあと、動かなくなった。見ていると、身体の表面全体が透明なプラスチックに包まれたような感じになった。しばらくすると、吉田くんは脱皮しはじめた。#yoshidakunn
posted at 12:40:33

ことしも吉田くんは、ぼくの家にきて、卵を産みつけて帰って行った。吉田くんは、ぼくの部屋で、テーブルの上にのってズボンとパンツをおろすと、しゃがんで、卵を1個1個、ゆっくりと産み落としていった。テーブルの上に落ちた卵は、例年どおり、ことごとくつぶれていった。#yoshidakunn
posted at 12:44:26

背の高い吉田くんと、背の高い吉田くんを交配させて、よりいっそう背の高い吉田くんをつくりだしていった。#yoshidakunn
posted at 12:45:23

体重の軽い吉田くんと体重の軽い吉田くんを交配させていったら、しまいに体重がゼロの吉田くんができちゃった。#yoshidakunn
posted at 12:47:15

今日、学校から帰ると、吉田くんが玄関のところで倒れてぐったりしていた。玄関を出たところにあった吉田くんの巣を見上げた。きっと、巣からあやまって落ちたんだな。そう思って、吉田くんを抱え上げて、巣に戻してあげた。#yoshidakunn
posted at 12:49:44

きょう、学校からの帰り道、坂の途中の竹藪のほうから悲鳴が聞こえたので、足をとめて、竹藪のほうに近づいて見てみたら、吉田くんが足をバタバタさせて、一匹の蛇に飲み込まれていくところだった。#yoshidakunn
posted at 12:51:24

吉田くんの調理方法。吉田くんは筋肉質なので、といっても、適度に脂肪はついてて、おいしくいただけるのですけれども、肉を軟らかくするために、調理の前に、肉がやわらかくなるまで十分、木づちで叩いておきましょう。#yoshidakunn
posted at 12:54:17



なぜ、眠る直前の記憶がないのだろうか。目が覚めているときの自我というものが消失してしまうからだろうか。自我が固定した一個のものとして見るのならば消失はあり得ない。瞬間瞬間に凝集されたものとして考えるとよいだろう。なにを凝集するのか。概念のもとになるものだろう。 #otetugaku
posted at 15:13:05

自我は概念になるもとになるものと、それらが凝集される、そのされ方によって形成されるものではあるが、概念のもとになるもの自体に概念形成力があるために、自我はつねにさまざまな感覚器官の影響を受けているのである。形成される場の環境に依存し、状況に大いに依存する。 #otetugaku
posted at 15:16:35

眠る直前に、概念のもとになるものを凝集するだけの力を自我が持てず、つまり、凝集するだけの概念形成力を自我が失っているために、眠る直前の自分の状況を自覚することができないのである。 #otetugaku
posted at 15:21:07

ところで、眠っているときに見る夢は、いったいだれがつくているのだろうか。夢を見ているのは、いったいだれであろうか。夢の材料とは、いったいなにからつくられているのであろうか。 #otetugaku
posted at 15:22:29

眠っているときに見るのは、わたしである。わたしの自我である。しかし、それは眠る前に存在していた(たとえ、瞬間瞬間にではあっても)自我とは異なるものである。感覚器官が働かず、環境もまったく異なるために、持ち出される概念になるもとのものがまったく異なるからである。 #otetugaku
posted at 15:25:05

では、夢をつくっているのはだれか。それも、わたしである。しかし、それは夢を見ているわたしとは異なるわたしである。なぜなら、夢を見ているわたしが知らないことをわたしに教えることがしばしばあり、驚かされるような知識をもたらせるものだからである。まるで赤の他人だ。 #otetugaku
posted at 15:27:50

それでは、夢の材料は、いったいなにからつくられているというのか。それもまた、わたしだ。それこそ、まったきわたしであり、全的にわたしであるものなのだ。目がさめているときにわたしを形成している自我を包含する、無意識領域をも含めてのわたし。すべてのわたしであろう。 #otetugaku
posted at 15:29:29

つまり、夢を見ているときに現象的に発生している自我は、少なくとも二つあり、その二つの自我に、自我を形成する素材を提供しているものが一つあるということである。その二つの自我に自我を形成させる素材を提供している全的なわたしを、いかに豊かなものにするか。 #otetugaku
posted at 15:33:16

知識だけではなく、経験に照らし合わせた知見も大いに利用されているであろう。感覚器官が、無意識的に導入しているもろもろの事柄も大事なものである。したがって、つねに、アンテナを張っていなければならない。もろもろのことどもに。つねに慎重に、そして、ときには大胆に。 #otetugaku
posted at 15:36:24

いまから、パスタの材料買いに行ってくるわ。雨が少し弱くなってるようやから。雨は眺めていると美しいのだけれど、買い物に出かけるときには美しいとはあんまり感じひんなあ。でも、どこか美しいところ見つけてこよう。美しいところ探して歩こう。たぶん、いっぱいあるやろな。 #otetugaku
posted at 15:39:27

雨、ぜんぜんゆるないわ。もうちょっと待って買いに行こう。それまで、D・H・ロレンス。いま、BGMは、バークレイ・ジェイムズ・ハーベストの『TIME HONOURED GHOSTS』。 #otetugaku
posted at 15:43:51



けさ、お風呂場で考えた数学の問題。

いま、お風呂に入って身体を洗っているときに、突然思いついた。このあいだ、何人かの数学の先生たちで検討していた分数式の恒等式の定数について、変形後の定数が同じものである保証がされているかどうかだけど、ぼくは十分条件って思ってそう言ったけど、必要条件だね。とてもおもしろい比喩を考えた。

日本じゅうのホテルのすべての部屋に合うマスターキーを持っていたら、京都のホテルのどこの部屋にでも入れる。必要条件から引き出された、新しい恒等式から導き出された定数には、その日本じゅうのホテルのすべての部屋に合うマスターキーの意味がある。これ、ワードにコピペして学校に持って行こう。



図書館の掟。II  しょの1

『死者とうまく付き合う方法』という本が
書店のベストセラー・コーナーに平置きで並べてあった。
デザインもセンスがよくて、表紙に使われていた写真の人物も
だれかはわからなかったが、威厳を持った死者特有の表情をしていた。
表紙をめくると、その人物が大都市マグの先々代の市長であることが明記されていた。
いったい、この市長の子孫が、どれだけのロイヤリティーを懐に入れたのか
知ることなどできないが、この売れ行きを見ると相当なものであることが推測される。
わたしが手にとって見ていたこの短いあいだにも
少し年配の一人の女性が、平置きの1冊を手に持ってレジに向かう姿が見られたのだから。
ベストセラーは買わない主義のわたしであったが
ページを開くと、文字の大きさと余白のバランスもよく
文体も、気に障るようなものではなさそうだったので買うことにした。
わたしの仕事に関するものではなかったので
レジでは、領収証は要求しなかった。



悲しみ。

1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32 + 1/64 + …… = 1

1 = 1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32 + 1/64 + ……

1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32 + 1/64 + …… = 1

1 = 1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32 + 1/64 + ……

半分+半分の半分+半分の半分の半分+半分の半分の半分の半分+…… = 1

1=半分+半分の半分+半分の半分の半分+半分の半分の半分の半分+……

半分+半分の半分+半分の半分の半分+半分の半分の半分の半分+…… = 1

1=半分+半分の半分+半分の半分の半分+半分の半分の半分の半分+……

だから、悲しみの半分を悲しみではないものにする。

残った半分の悲しみの半分をほかのものにする。

さらに残った半分の半分の悲しみの半分をほかのものにする。

これを繰り返して、悲しみを限りなくほかのものにする。

それなのに、残ったものは、最初にあったものと同じもの、

同じひとつの悲しみであった。



以下は、文学極道の詩投稿掲示板に書いたコメントです。
おもしろいものだと思ったので、ここにその写しをコピペしておきます。
るるりらさんの詩句に対するコメントでした。
(のちに訂正をしたものを含む)


一になれない 僕のおもいは 

この「一」は「1」のほうがいいかなって思いました。

0.999……=1

数学的にはこうなのですが、この方向に

分は0.1
厘は0.01
毛は0.001
糸(し)は0.0001 
忽(こつ) 0.00001 
微(び)0.000001 
繊(せん)0.0000001 
沙(しゃ)0.00000001 
塵(じん)0.000000001
埃(あい)0.0000000001
渺(びょう)0.00000000001
漠(ばく)0.000000000001
模糊(もこ)0.0000000000001
逡巡(しゅんじゅん)0.00000000000001
須臾(しゅゆ)10-15(1000兆分の1)
瞬息(しゅんそく)10-16 
弾指(だんし)10-17
刹那(せつな) 10-18
六徳(りっとく)10-19 
虚空(こくう) 10-20  
清浄(せいじょう)10-21   
阿頼邪(あらや)10-22
阿摩羅(あまら)10-23 
涅槃寂静0.000000000000000000000001

これらが利用されてあればなあ、と、ふと思いました。
そうすれば、「一になれない」というところと符合すると思うのですが
しかし、それでは、るるりらさんの意図から外れますね。
「一になれない」というところと符牒するようにつくるのは難しそうですね。
あ、ぼくは、へんなところにこだわっているのかも、と思いました。
すいません。
作者の意図の上で、まず検討しなければならないのに。
うえの小さな数たちは、つぎの言葉の扉にあたるものだったのですから。

一に遠い遠い その数に寄り添う
強い花があるという


追記

バカなことを書きました。
すいません。

0.999……=1

だめですね。
1になっちゃだめなんですもの。

分は0.1
厘は0.01
毛は0.001
糸(し)は0.0001 
忽(こつ) 0.00001 
微(び)0.000001 
繊(せん)0.0000001 
沙(しゃ)0.00000001 
塵(じん)0.000000001
埃(あい)0.0000000001
渺(びょう)0.00000000001
漠(ばく)0.000000000001
模糊(もこ)0.0000000000001
逡巡(しゅんじゅん)0.00000000000001
須臾(しゅゆ)10-15(1000兆分の1)
瞬息(しゅんそく)10-16 
弾指(だんし)10-17
刹那(せつな) 10-18
六徳(りっとく)10-19 
虚空(こくう) 10-20  
清浄(せいじょう)10-21   
阿頼邪(あらや)10-22
阿摩羅(あまら)10-23 
涅槃寂静0.000000000000000000000001



一になれない 僕のおもいは 

を、より整合性あるように結びつける叙述って、いま思いつきませんが
思いつきましたら、また追記させていただきます。
おもしろそうですから。
純粋な好奇心からのものです。


追記2 

五条大宮の公園の日のあたったベンチに坐りながら
P・D・ジェイムズの『罪なき血』を読んでいましたら

1−0.1=0.9
1−0.01=0.99
1−0.001=0.999
 ……

であることに気がつきました。
これを逆用すれば、いかがでしょうか。
叙述で実現するには、どうすればよいのかは、
ぼくにもまだわかりませんが。
ちなみに、上の式を思いついたのは、P・D・ジェイムズの『罪なき血』のつぎの記述のところでした。

(…)スケイスの生活はすっかり彼女の生活に直結し、毎日の日課は彼女の日々の外出に
よって決まったから、彼女の姿がないと、まるで話相手を失ったように手持ち無沙汰になる。
(第二部・13、青木久恵訳、ハヤカワ文庫 282ページ)

また、逆用ということでは、つぎのような等比数列の和も1になりますので
もしかしたら、利用できるかもしれませんね。

1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32 + 1/64 + …… = 1

両辺を入れ換えた式も逆用できるかもしれません。

1 = 1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32 + 1/64 + ……

ですね。

1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32 + 1/64 + …… = 1

半分+半分の半分+半分の半分の半分+半分の半分の半分の半分+…… = 1

書いてて、自分が楽しくなってきました。
どこかで、ぼく自身の詩に使おうかなって思いました。
また、なにか気がつきましたら、追記させていただきますね。


追記3

ふたたび公園に行きました。

1=0.1+0.9
1=0.01+0.09
1=0.001+0.009
 ……

といった式を公園の入り口で思いつきました。
自転車がスムーズに通れないようにしてある車輪通過止めのための金具の間を
ペダルを右・左に斜めにして工夫して侵入しようとしたときでした。
途中でフレスコというスーパーに寄り、ベンチに坐りながら食べようと思って買った
「鶏南蛮弁当399円」を先ほど坐っていたベンチの上であけたのですが
鳩がたくさん寄ってきたので、ひとの多い、鳩の寄らない公園の中央に移動して
桜の花の下で食べながら、入り口で思いついた式のつづきを考えていました。

1=0.1+0.9
1=0.01+0.09
1=0.001+0.009
 ……

これらの式を辺々足し合わせたものを想起させますと

左辺=1+1+1+……= ∞

右辺を見かけ上、2つの数列の和として(ここのところで数学的に誤りがありますが)
それぞれ取りだしてみますと

0.1+0.01+0.001+……
0.9+0.09+0.009+……

で、これは、どちらも、無限大になります。
式にしますと

0.1+0.01+0.001+……= ∞
0.9+0.09+0.009+……= ∞

これらを、もとの式に代入すると

∞ = ∞ + ∞

となりますが、この式は、数学的に正しくない場合がありますね。
(そもそも、途中の操作で違反をしているのですが)
しかし、右辺と左辺を入れ替えた

∞ + ∞ = ∞

この式は正しいのです。
おもしろいですね。
しかし、この正しい式から、∞ を引いてやることはできません。
これは、∞ が数ではなくて、状態をあらわす記号であるためですが
仮にできるとしてやってみますと

 ∞ =0

という式が出てきます。
おもしろい。
そういえば、

0.1+0.01+0.001+……= ∞
0.9+0.09+0.009+……= ∞

についてなのですが、

0.9+0.09+0.009+……=9×(0.1+0.01+0.001+……)

ですから、

 ∞ = 9×∞

という式も導かれます。
これ自体は数学的に正しい式なのですが
両辺を入れ換えた式も数学的に正しく、そのほうが心理的にも妥当なものに思えるでしょうから
それを書きますと

9×∞ = ∞

となります。
9を、どのような大きな数にしても成り立ちます。
そこで、その数の代わりに ∞ の記号を入れてみますと

 ∞×∞ = ∞

が得られます。
この式もまた数学的に正しいものなのですが
この式において、∞ を数のようにして扱い、両辺を ∞ で割ることはできません。
仮にできたとすると

 ∞ = 1

となってしまいます。
おもしろいですね。
0という数もおもしろいものですが
∞ という記号も魅力的ですね。

るるりらさんの詩作の意向に添った式というのは
おそらく、つぎの式、一つだけだったでしょう。
長い記述を書きつづってしまって、ごめんなさい。
ついつい、楽しくて。

0.1+0.01+0.001+……= ∞


追記4

うわ〜、るるりらさん、ごめんなさい。
きのうの考察、間違ってました。

0.1+0.01+0.001+……=1/9

であって、∞ にはならなかったです。

0.9+0.09+0.009+……=1

であって、∞ にはならなかったです。
しかし、1+1+1+……= ∞ は正しいのですが
どこで間違ったのでしょう。
これからいそいで調べます。
(しばし、調べてみました。)
こんどの式の値は、間違ってなかったみたいです。
しかし、矛盾しますね。
きょうは、公園で、このことについて考えます。
夕方からは塾なので、それまでに解決すればいいのですが。


追記5

わかりました。

1=0.1+0.9
1=0.01+0.09
1=0.01+0.009
 ……

これが間違っていました。
恥ずかしい。

1=0.1+0.9
0.1=0.01+0.09
0.01=0.001+0.009
 ……

ですね。
しかし、これだと
左辺は 1+0.1+0.01+0.001+……=10/9
右辺は (0.1+0.01+0.001+……)+(0.9+0.09+0.009+……)=1/9+1=10/9
ということになり、あまりおもしろいものではなくなりました。
すいません。
ただ、つぎのことだけは、わかりました。
塵が積もっても山にならないことが。
なぜなら

0.1+0.01+0.001+……=1/9

だったからです。


追記6

0.9+0.09+0.009+……=1

のほうが

0.1+0.01+0.001+……=1/9

より断然、おもしろいですけど
そもそも

0.9+0.09+0.009+……=0.999……



0.9+0.09+0.009+……=0.999……=1

ですものね。
こちらのほうを利用して
っていうのは、どうでしょうか。
うううん。
ぼくもすぐに思いつきそうにありませんが。



三村京子さんの大阪・京都ライブ情報。

3/25(金)中崎町(大阪)Common cafe
http://www.talkin-about.com/cafe/
open19:00/start19:30
前2000yen/当2500yen(1d別)
共演:良元優作(歌、ギター)
船戸博史(コントラバス)

3/26(土)京都 拾得(じっとく)
http://www2.odn.ne.jp/jittoku/
open17:30/start19:00
前2000yen/当2500yen(1d別)
共演:長谷川健一(歌、ギター)
船戸博史(コントラバス)

ぼくは、あした、拾得に行きます。



2011年3月26日のメモ しょの1 図書館の掟。II  しょの2

「これは何だ?」
両手首をつなぐ鉄ぐさりを持ちあげて、
死んだ父は言った。
そして、ふいに思い出したかのように
「そうだった。
 名誉ある死者は
 こうして鋼鉄製の手枷を嵌められて
 過去の知識を現代に確実に伝える語り部として
 図書館に収蔵されるのだった。
 わたしもそのひとりだった。」
死んだ父の目が、わたしの目を見据えた。
「それで、おまえは、わたしに
 いったい、何を訊ねにきたのかね。」
「母についてです。
 母が死んだのです。」
「あれが死んだ……
 なぜじゃ?」
「わかりません。
 自ら首を吊って亡くなりました。」
死んだ父が天井を見上げた。
「それで、なぜ、わしのところに来たのかね?」
ふたたび死んだ父の視線を受けて
わたしは、すこしひるんでしまった。
死者にも感情があったことを思い出したからであった。
表情にあらわれることはなかったが
虹彩に散らばった銀色のきらめきがわずかに、だが確実に増したのだった。
「母が亡くなったのが
 ここにきて、あなたに会われてから
 すぐにだったからですよ。」
「死者には生前の記憶しかないのだよ。」
「いいえ、それは事実ではありません。
 数日のあいだは、記憶を保持できるはずです。
 わたしたち生者の赤い血と違ってはいても
 その銀白色の血液にも霊力があり
 あなたたち死者の体をかりそめにでも動かし
 あなたたち死者の脳にかりそめにでも思いをめぐらすことができるはず。
 いったい、母はあなたから何を聞きだしたのですか?」
「あれは、わしの話を耳にして帰ったのではない。」
「どういうことですか?」
「あれは、おまえのことを、わしに話に来たのじゃ。」
「わたしのことをですか?」
「そうじゃ。」
「わたしの何についての話だったのですか?」
「おまえが、もはや人間ではなくなっておると話しておった。」
「どういうことですか?」
「リゲル星人と精神融合を繰り返しておるあいだに
 おまえが、人間としての基幹部分を喪失してしまったと言っておった。」
わたしは自分の手先に目をやった。
わたしの指のあいだをリゲルの海の水を覆っていた。
リゲルの渚でよく見かけた小魚が手の甲のうえを泳ぎ去っていった。
ダブル・ヴィジョンだった。


* これは、『舞姫。』と『図書館の掟。』をつなぐ作品のひとつになる。



2011年3月26日のメモ しょの2

 シンちゃんの部屋に4時30分ごろに着いた。電話で言っておいた時間通り。シンちゃんは、時間どおりでないと、そのことだけで10分は嫌味を言うひとだから、時間は速めでも遅めでもなく、ほとんどぴったりでないと、非常に不愉快な目に遭うので、時計も形態も持たないぼくは、シンちゃんちの近くにあるコンビニの時計で時間を調整したのだった。180円の(税抜きだったか税込みだったか忘れた。値札が180円だったことだけ憶えてる。)ナッツ(アーモンドとカシューナッツのもの)を一袋、おみやげに買って言ったのだった。チョコチップの入ったクッキー(よくスーパーで100円で売ってるやつ)とカプチーノ(おいしかったので、いくらするのって言ったら、パッケージを出して、150円で8袋って言うから、じゃあ、一袋30円しないんだね、おいしいね、ぼくがいつも飲んでるインスタントのネスレのなんか、まずいわ〜、これに比べたら、と言った。溶けるから、と言ってシンちゃんが、ぼくのカプチーノからプラスティックのバー・スプーンのちいさいやつ、あの耳かきみたいなやつを出した。ぼくが溶けるの、と再度きくと、曲がるからというので、曲がると溶けるは違うんじゃない、とか言ったけどスルーだった。)をごちそうになった。カプチーノの顆粒状粉末が入った銀色のチューインガムくらいの袋をあけて熱湯を注いでくれたんだけど、泡立ちがすごかった。くるくるバー・スプーンでかき混ぜてくれた。二敗目をすぐにリクエストしたら、それは、自分で混ぜろというつもりでか、ぼくの手にバー・スプーンをのせた。CDかDVDをかけて、というと、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』のDVDをかけてくれた。英語の教材用にもなってるやつで、へえ、英語を勉強しながら見てるんだって言った。ブラビがジジイで生まれてくるやつね。ふつうの映画だったら、くさいんじゃないってセリフが随所に盛り込まれていた。けれど、時間に関する思考実験的な趣のある映画だったから、ふつうだったら、吹き出すくらいにくさいセリフも意味深長なものになっていた。作者はきっと、この設定を思いついたときに、やったなって思ったんじゃないかなってシンちゃんに言った。シンちゃんは返事もせず、何度か見てるはずの画面から視線を外さなかった。こういうところにも、シンちゃんのゆがんだ精神の反映が見て取れる。ふつうの映画だったら吹き出して笑ってしまうようなセリフでも、赤ん坊が死にかけの老人の顔と姿かたちで生まれてくるっていう状況のなかに放り込まれると、意味が深くなるっていうのは、ぼくにはすごく勉強になった。作者は有名な作家だったと思うけど、と何度か言ったのだけれど、もちろん、この言葉もぜんぜん聞いていないふりをするシンちゃんであった。「臆病になってはいけない。」だったかな。「臆病だわ。」だったかな。「なんとか be a chicken」だったかな、そんなセリフが出てきて、シンちゃんに、チキン野郎って、日本語でも言うね、って言うと、言葉づかいが粗野な連中のあいだでやろ、とのお返事。で、ぼくはこう言った。あるいは、自分は粗野だってひとに思わせたい連中のあいだではねって。女優の話が出た。さいしょのソーンで死にかけの老婆に扮装していたきれいな女優について、ぼくが、このひと、陶器のようにきれいやねって言ったら、シンちゃんが、おれは、あとで出てくる、女優が好きや、とのこと。どの女優やろうかと思っていたら、シンちゃんは映画の題名も忘れていたようだったので、ぼくが直感で、コンスタンティンにでてきたあのガブリエルのひとって訊いたら、うなずいてみせた。その女優は、ずいぶんあとになって出てきたのだけれど、ぼくがこのひとなのと言うと、そうやという返事。ちょっと違って見えるねというと、いっしょやという。まあ、そう言われてみれば、そうかなと思って見ていたら、ぼくの目にもはっきり思い出されて、そうや、このひとやったと見えるようになった。カーテンに触れて(シンちゃんの部屋は7回にあって、すぐそばに小学校か中学校課知らないけれど校庭のようなものがあって見下ろせるのである。以前、窓の外に目をやったら、シンちゃんから、飛び降りたくなるか、と言われたことがある。はじめて、部屋に訪れたときのことである。)「遅くなっても明るい季節になったね。」と言って、ふと気がついた。「もう、5時30分くらいじゃない? そろそろ、ライブに行かなくちゃ。ああ、いいところで見れなくなっちゃけど、しょうがないよね。」と言って部屋を出た。部屋にたずねたときにも、へんな剃り方してるなあ、剃りすぎじゃないって思った眉毛が、やっぱり帰りしなにも気になって見たのだけれど、はっきり口に出して言うと、またメンドくさいやりとりになるから、部屋に入ったときにだけ、めっちゃ早口で「眉毛、すごくない?」と言って、すぐに部屋に上がり込んだのだけれど、帰りしなには一瞥するだけで、眉毛のことには触れずに、さっさと靴を履いて部屋を出た。シンちゃんのマンションは西院の阪急の駅から歩いて数分のところにあった。バス停には、土曜日だったからか、それとも時間が時間だったからか、うっとうしいくらいの数のひとがバスを待っていた。ぼくは、ぼくが乗るはずの202番のバスがくるのを待っていた。しばらくすると、ひだりの視界の隅に、ジャージ姿(青いジャージだったと思う。)の青年の姿が入ってきた。そのほうに顔を向けると、青年は時刻表のほうを向いたので、ぼくには背を向ける格好になって、顔がはっきり見えなかった。少し時間が経って長くなったかなあと、そろそろ刈ったほうがいいんじゃないかなと思えるほどの長さの短髪で、若そうな感じはした。くの字に身体を曲げて(斜め横に、篇んあ方向だなと思った。)時刻表を見ていたと思うのだけれど、彼が突然、奇声を発したので、バス停にいたひとの何人かの視線を彼は集めた。しかし、時刻表をみつめながらだったので、みなにも後ろ姿しか見えなかったので、なにかの間違い、いまの奇声は聞き違いだったのじゃないかと思ったひともいたのではないかと思われた。まわりの気配を察するとじっと見つめつづけるひとはいなさそうだった。ぼくだけだったかもしれない。すると、その青年はふたたび奇声を発して、こちらを振り返った。ひょこひょこと視線をさ迷わせ奇声をあげえながら時刻表から青年の顔が剥がれていった。顔が剥がれていく、といった感じで身体が時刻表から遠ざかり、こちらにむかって動き出したのだった。肉付きのよい、かわいらしい顔をした青年だった。ふぞろいの、といった形容がぴったりのふぞろいの口ひげやあごひげ(その区別は、じつはつかない。つかないのも境界がなかったように思えるからだ。口とあごの? そうかもしれない。口ひげとあごひげではなくて。)その口ひげとあごひげを、もしもゲイ・スナックで見かけたものならば、ああ、ワイルドな感じがするなと思えたかもしれない。いや、このときも少しはそう思ったのだった。違った場所で、違った時間に、違ったひとたちがまわりにいたら、いやいなかったら、ぼくは、青年に声をかけたかもしれない。かけていたと思う。それぐらいかわいらしかった。視線がひょこひょことするところが気になるのだけれど、素朴な青年って感じで、顔つきはタイプだった。202号のバスがきたので乗った。青年の後ろ姿をバスの窓から追った。その姿はすぐにちいさくなって見えなくなった。バスはそこそこあいていて、ぼくはラッキーなことにさいしょに乗り込んだので、ラッキーな(のかな)いちばん前の、出口のところの席があいていたので、そこに腰かけた。丸太町堀川で下りて、ローソンに入った。拾得(じっとく)というライブハウスの場所を訊くためにだ。店員が二人がかりで地図を拡げてさがしてくれた。すると、地図のその場所には鉛筆で二重に丸がしてあった。その縁の大きさが少し違っているためにはっきりと二重に、とわかる二重の丸が書かれていたのであった。赤いポストが目印だという。赤いポストと聞いて、ふと赤いという言葉は必要ないんじゃないかと思った。しかし、赤いという言葉があると、そりゃ、はっきりポストのことを示しているし、目にするときにも赤い色そのものをさがすし、わかりやすいかな、そろそろ暗くなっているけれど、まだ色の見分けはつく時間だからな、とも思った。赤いポストのところを右に曲がると信号を一つ越えてしばらくするとお目当ての場所が見つかった。あたりまえだけど、場所のほうがぼくのところにきてくれるわけではないので、お店がぼくを見つけたとは言えないな。ライブハウスに入ると、扉をあけてすぐの入口で予約した田中宏輔ですけれど、と言って、2000円を払って店のなかに入った。ステージにいちばん近い場所があいていたので、そこに坐った。シンちゃんにもらった聖書と仏教関係の本がバンバンにつまった紙袋を右において、左にリュックを置いた。リュックには財布とCDプレーヤーしか入ってなかったのだけれど、本を入れることはできなかった。肩が凝っていたからだ。数日前から肩が凝っていたのだ、いつになく。演奏がはじまるまで、シンちゃんにもらった本を読むことにした。バスのなかですでにすべてパラ読みしていたのだけれど、いちばん分厚い聖書をひろげた。これには外典も入っていて、知恵の書のページをめくって、これは引用しておこうと思っていた箇所にしおりをはさんで、メモをした。そうこうしているうちに、おそらく2、30分足らずのあいだだったと思うのだけれど、というのは、入口に置いてあった時計を見たときに時間を確認していて、6時34分だったし、メールで、そして、パソコンで見たHPでの予定では開演は7時からだったので、2、30分くらいだと思ったのだけれど、もしも、入口で時計を見ていなかったら(大きな針時計だった。)もう少し長い時間に感じていたかもしれない。演奏がはじまった。長谷川健一という名前の歌手がギターを抱えてステージにあがった。30過ぎに見える小柄でやせた男性だった。(女性だったって書くと間違いだし、おもしろいと思ったけれど、すぐに、おもしろくないなと思ったので書くのをやめた。)めりはりのない曲だなという印象を持った。そういった曲が何曲かつづいたあと、3曲目か4曲目で、途中で声が裏返しになる曲があって(フォルセットって言うのだったかな。)あれ、これって、あの知恵遅れの男の子の声といっしょじゃん、って思った。その声のところがよかったかな。キュルキュル鳴らすへたくそなバイオリンの音のようで。へたな弾き手がへたに弾いた弾き方で聞かせてくれる、なにが引っかかっているのかしら、その弓には、と思える、弦のうえを滑らかに滑ることを忘れさせられた弓を弾くへたくそな弾き手の弾きかたのように思えたのであった。最悪だけど、どこか人間っぽいなとも思えるものなのだけれど、その音ではなくて、そういった音が出るということころが。しばらくして、三村京子さんと入れ替わった。いただいたCDで聴いたことのある曲がつづいた。
 あと4曲やらせてもらいます。という三村京子さんの声が聞こえた。三村さんの演奏は、ずいぶんと男前だった。



2011年3月26日のメモ しょの3

退屈だし
テレビを見ながら
自分の気分をコロコロ変えていたのだけれど
それも退屈したので
本棚から
カレッジクラウン英和辞典を取り出して
適当なページをあけて気分を変えてみることにした。

longsuffering 長くしんぼうする。がまん強い。
estrange 離れさす。引き離す。
camomile カミツレ(キク科の薬用植物)
mute (鳥が)ふんをする。
complete 完全な。全部そろっている。
fearsome 恐ろしい。
apostrophe アポストロフィ。省略符。
vogue (ある時期の)一般的風習。流行。人気。
rancho (スペイン系の人の多い中南米地方で放牧場(ranch)で働く人々の住む)小屋(hut)。(そういう小屋の集まった)部落。
stop bath 現像停止液。
deducible 演繹[推論]できる。
mercurate 水銀と化合させる。水銀(化合物)で処理する。
reputation 評判。世評。好評。名声。名著。
U,u 英語アルファベットの第21字(18世紀ごろまでは u は v の異形として用いられ u と v の区別がなかった)。(連続するものの)第二十一番目(のもの)。
arise 起こる。生じる
overwrite 書きすぎる。乱作する。(…のことを)誇張して書く。

適当にページを繰って指をはさんで目につく単語を抜き書きして
自分の気分を変えてみたけれど
また退屈したので
辞書を本棚に戻してテレビに戻った。



2011年3月26日のメモ しょの4

花粉より確かなものがあるのだろうか。
ぼくの目をこんなに傷め
ぼくの頭をこんなに傷めつけるものが。

ギャフンより確かなものがあるのだろうか。
ぼくの顔をこんなにもギャフンとさせ
ぼくの気持ちをこんなにもギャフンギャフンとさせるものが。



2011年3月26日のメモ しょの5

「へ」と「し」と「く」とつ」が似てる。
そのなかでも、「へ」と「く」
「し」と「つ」がよく似てる。
回転させたり
線対称に移動させると
そっくり同じものになる。
あ、
「い」と「こ」もよく似てる。
「り」は、ちょっとおしいかな。
「も」と「や」も似てるかな。
ひらがなとカタカナの違いがあるけど
「せ」と「サ」も似てる。
線対称だ。
「けけけ…」と笑うと
「1+1+1+…(いちたすいちたすいちたす…)」だ。



図書館の掟。II  しょの3


「では、わたしは罰せられるのかしら?」
「いいえ。
 死者は罰せられません。
 わたしたち生者に死者を罰することはできません。
 生前の言葉が、たとえ故意にせよ、誤っていたとしても
 死んでから、真実を語っていただけるのですから。」
「そうでしたわね。
 もちろん、わたしは、わたしが書いたときには
 それが真実だと思っておりましたのよ。
 いいえ、こう口にするほうがいいですわね。
 ああ書くことが真実を伝えることだと思って
 そして、じっさい、そう書くことで
 わたしの記憶も、あの記述通りのものになっていたのね。
 死んでから、どうして、じっさいのことが記憶によみがえったのか
 わたしにはわかりませんが。」
「死者としてお持ちの記憶が真実かどうかはまだわかっておりません。
 生者のときの記憶と違っているところがあることと
 死者が嘘をつけないということはわかっておりますが
 現実の把握に関しては主観が大きいので
 また心理的な抑圧が記憶を捏造することもありますので
 客観的な真実かどうかは、けっしてわからないのですよ。
 しかし、いまもなお詳しく研究されている分野ではありますね。
 それは長年、図書館で調べられていることの一つなのです。」
「まあ、わたしも死んでからはじめて知ったことがありますもの。
 それが真実であるとは思われないことも、ずいぶんたくさんありましたわ。」
「図書館運営は、ほんとうに有益な事業だと思いますよ。
 わたしたち人間にとって、もっとも大事な事業の一つでしょう。」
図書館に新しく収められることになった死者との面接が終わり
司書は死者の手をとって立たせた。



きのうは、三村京子さんのライブで
音楽を聞きながら、いくつかの詩句が思い浮かんだ。
部屋で読書してるだけのときより
外に出て、しかも、芸術に触れることは
やはり、ぼくの詩のためにも、とてもいいことなのだと思った。
歌と演奏がおわり、アンコールもおわって
三村さんにあいさつしようと立ちあがって近づいていくと
即座に、「あつすけさんですね。」と言ってくださって
「ええ。はじめまして。こんにちは。
 すばらしい演奏でしたよ。」と口にするのがせいいっぱいで
恥ずかしくて(人見知りなのだ、この50才のジジイは、笑)
逃げるようにして出入り口の扉に向かったのであった。
出入り口に向かう直前に「それは本ですか。」
とたずねられ、めちゃくちゃ恥ずかしかった。
紙袋いっぱいにパンパンにふくれていたからである。
分厚い本ばかり入っていたからだった。
シンちゃんの部屋に寄って、聖書と仏教関連の本をもらって
持ってきていたからである。
ふだんから、こんなふうに重たい本をたくさん持って外にでてると思われたら
ぜったいいやだなと思って
「いえ、友だちにもらった本なんですよ。」
と、答えにならない返事をして、出入り口の扉に向かって
急ぎ足で歩き去ったのであった。
「もうお帰りになるのですか。」
という三村さんの声に「ええ。」とだけ返事をする時間を確保して。
それでせいいっぱいだった。
外に出ると、冷たい風が気持ちよかった。
バス停でバスを待っているとき
ぼくは時計も携帯電話も持っていないので時間がわからず
背広姿の左右の手の長さが違う身体障害者の男性が
バスの時刻表をのぞき込んでいたので
時間をきくと左腕にはめた腕時計を見せてくれて
(長いほうの腕か短いほうの腕か忘れた)
「一分ほど早いんです、ですからいま、9時39分ですね。」
と言って教えてくれた。
時計は10時20分前を示していた。
すぐに彼が乗るバスがやってきた。
彼が乗り込んでから彼が乗ったバス(93系統だったかな)の
時刻表を見たら、彼が乗ったバスの時間は9時47分か49分だった。
この2つの時間だった。
偶数の時間ではなかった。
記憶が不確かなのはなぜだろう。
「ほぼ時間通りやな。」
「時間ぴったしやな。」
の2つのうちのどちらかの言葉を頭に思い浮かべたという記憶はあるのだけれど
この2つの記憶がまるで量子的な状態で存在しているので
つい、きのうのことなのに、不思議な感じがする。
やはり、こころに残ったことはつねにメモするべきなのか。
いや、どうだろ。
量子状態の記憶があるということから
おもしろい事柄を考察できるかもしれないのでいいことだったことにしよう。
きのう取ったメモは、大量にあるけれど
一度に入力するのは、しんどいので、ぼちぼちと。
シンちゃんの部屋で見たDVDの感想が大方を占めるのだが。


追記 

量子状態の記憶が、これからどのような状態に移行していくのか
いつの日かたしかめることができるかもしれない
できないかもしれない。
すっかり忘れているかもしれないし
ひょんなことから思い出すかもしれない。
ただし、思い出したものが、ほんとうの事実を反映した記憶かどうかは
わからない。



うんこ。

きょう買った、ブックオフでのお買い物。
単行本1冊。
パトリシア・コーンウェルの『切り裂きジャック』105円
まえにも、違うブックオフで、105円コーナーで見ていたのだけれど
載ってる写真がえげつなくて買えなかった。
でも、きのう、塾の帰りに寄った五条堀川で見たそれは
まえに見たほどグロテスクではなくなっていた。
そういえば、古本市場で
バタイユの全集の第何巻か忘れたけれど
その高い本が1冊、105円のコーナーに置いてあったので
買おうかなと思って中身を見ると
中国人の公開処刑の写真が載っていて
バタイユはそれを見て性的な興奮に近いものを覚えたって書いてたから
ひぇ〜って、こわくなって
その本をただちにもとのところに戻したけれど
いまだったら、買えるかもしれないな。
もう、それほど過敏じゃなくなったのかな。
コーンウェルのものも
きのうは、まだちょっとグロテスクだなと思って
買わなかったのだけれど
きのうの夜に、チラ読みした記述を思い出していると
ああ、あの時代の背景が如実にわかる書き方がしてあって
庶民の生活や上流階級の人間の生活や警察の誕生や刑法の仕組みなど
さまざまなことがより深く広く知れるから
それは、文学の、ひいては、人間の理解にもつながるなと思って
きょう、歩いて買いに行ったのだった。
あってよかった。
だれも興味ないのかしら?
そうそう、きょうは、マクドナルドなんかじゃなくて
西院のパン屋さんでモーニングセット食べた。
パンは、チーズケーキ味のもの3個、
アーモンド味のケーキっぽいもの3個、
ライ麦パン3個。
飲み物は、アイスラテカフェ。
ごま味のドレッシングで
刻み角ベーコンとコーンを添えたポテトサラダと
たっぷりのレタスで
390円なのだった。
パンは食べ放題だから、あとで追加注文もできるという、すぐれどころなのだ。
おなかいっぱいだったので
それで、歩いて五条大宮のブックオフまで行ったってわけだけど
西大路五条の私立病院のまえあたりで、
わきや背に汗が出てきているのに気がついた。
雨粒も、ぽつぽつ、顔や手にあたりはじめたのだった。
で、ああ、ビニール傘を持ってきていてよかったと思ったのだけど、
歩いていると、きゅうにうんこがしたくなって
五条大宮の公園のトイレでうんこした。
なぜかしら、ゲリピーのうんこだった。
なにか、悪いもの、食べたかな。
食べてないと思うけど。
あ、きのう食べた弁当だけど
コロッケがちょっと傷んでるって感じだったわ。
あれか。

とかってことを、ツイッターに書いてたら、
見る間に、フォローワーの数が減っていって、
さっき見たら、学校の生徒のフォローワーが一人もいなくなっていた。
「排便日記」みたいなタイトルで毎日書いたりしたら、
だれもフォローしてくれなくなったりして、笑。
あ、書かないけど
そういうのって凝りだすと、
ほかのことができなくなってしまうような気がする。
一日じゅう、トイレのなかにいて。
それはないか、



THE GATES OF DELIRIUM。

 詩人のメモのなかには、ぼくやほかの人間が詩人に語った話や、それについての考察や感想だけではなくて、語った人間自体について感じたことや考えたことが書かれたものもあった。つぎのメモは、ぼくのことについて書かれたものであった。

 この青年の自己愛の絶えざる持続ほど滑稽な見物はない。恋愛相手に対する印象が語るたびに変化していることに、本人はまったく気がついていないようである。彼が話してくれたことを、わたしが詩に書き、言葉にしていくと、彼は、その言葉によってつくられたイメージのなかに、かつての恋愛相手のイメージを些かも頓着せずに重ねてしまうのである。たしかに、わたしが詩に使った表現のなかには、彼が口にしなかった言葉はいっさいなかったはずである。わたしは、彼が使った言葉のなかから、ただ言葉を選択し、並べてみせただけだった。たとえ、わたしの作品が、彼の記憶のなかの現実の時間や場所や出来事に、彼がじっさいには体験しなかった文学作品からの引用や歴史的な事柄をまじえてつくった場合であっても、いっさい無頓着であったのだ。その頓着のなさは、この青年の感受性の幅の狭さを示している。感じとれるものの幅が狭いために、詩に使われた言葉がつくりだしたイメージだけに限定して、自分がかつて付き合っていた人間を拵えなおしていることに気がつかないのである。それは、ひとえに、この青年の自己愛の延長線上にしか、この青年の愛したと称している恋愛相手が存在していないからである。人間の存在は、その有り様は、いかなる言葉とも等価ではない。いかに巧みな言葉でも、人間をつくりだしえないのだ。言葉がつくりだせるものというものは、ただのイメージにしかすぎない。この青年は、そのイメージに振り回されていたのだった。もちろん、人間であるならば、だれひとり、自己愛からは逃れようがないものである。しかるに、人間にとって必要なのは、一刻もはやく、自分の自己愛の強さに気がついて、自分がそれに対してどれだけの代償を支払わされているのか、いたのかに気がつくことである。この青年の自己愛の絶えざる持続ほど滑稽な見物はない、と書いたが、もちろん、このことは、人間のひとりであるわたしについても言えることである。人間であるということ。言葉であること。イメージであること。確かなものにしては不確かなものにすること。不確かなものにして確かなものにすること。変化すること。変化させること。変化させ変化するもの。変化し変化させるもの。記憶の選択もまた、イメージによって呼び起こされたものであり、言葉を伴わない思考がないのと同様に、イメージの伴わない記憶の再生もありえず、イメージはつねに主観によって汚染されているからである。

 ぼくは、ぼくの記憶のなかにある恋人の声が、言葉が、恋人とのやりとりが、詩の言葉となって、ぼくに恋人のことを思い出させてくれているように思っていた。詩人が書いていたように、そうではなかった可能性があるということか。詩人が選び取った言葉によって、詩人に並べられた言葉によって、ぼくが、ぼくの恋人のことを、恋人と過ごした時間や場所や出来事をイメージして、ぼくの記憶であると思っているだけで、現実にはそのイメージとは異なるものがあるということか。そうか。たしかに、そうだろう。そうに違いない。しかし、だとしたら、現実を再現することなど、はじめからできないということではないだろうか。そうか。そうなのだ。詩人は、そのことを別の言葉で語っていたのであろう。恋人のイメージが自己愛の延長線上にあるというのは、よく聞くことであったが、詩人のメモによって、あらためて、そうなのだろうなと思われた。彼の声が、言葉が、彼とのことが、詩のなかで、風になり、木になり、流れる川の水となっていたと、そう考えればよいのであろうか。いや、詩のなかの風も木も流れる川の水も、彼の声ではなかった、彼の言葉ではなかった、彼とのことではなかった。なにひとつ? そうだ、そのままでは、なにひとつ、なにひとつも、そうではなかったのだ。では、現実はどこにあるのか。記憶のなかにも、作品のなかのイメージのなかにもないとしたら。いったいどこにあったのか。



ケンコバの夢を見た。2

ふざけ合った。
「ほらほら、おれの乳首さわってみ。」
ケンコバが、ぼくに脇のしたをさわらせた。
「これ、イボやん。」
「オレ、乳首3つあるねん。」
おもいっきり笑けるケンコバの脇のしたをさわりまくる。
「こそばったら、あかんて。」
宴会場の隅っこでふざけ合ってた。
ああ、楽し、と思ったら目が覚めた。
もっと長い時間、楽しめてたらよかったのになあ。



nothing to lose。

きょうも、日知庵でヨッパ、
帰りに、
道で、
かわいらしい男の子や女の子が
いっぱい、
ぼくも思い出がいっぱい、
よぎって、
さよならね、
って思った。
the love we made,
the dream we made



不思議な感覚。

10分くらい、半覚醒状態で夢を見た。
目をつむって、行ったこともない学校の校舎を歩いてた。
生徒たちが廊下を歩いてる。
ぶつかりながら。
階段を上がって、廊下を渡る。
繰り返していると、ふと、足に違和感があった。
目をあけると茶室だった。
重力の方向がおかしいと思ったら、寝床で目がさめた。
おもしろい体験だった。



uni-ball signo ぼくの大好きなゲル・インク・ボールペン

ぼくが好きなボールペンの替え芯を
近所のイーオンに買いに行ったら
なかった。

三菱
ぼくの好きなボールペンは
直径0.38mm
のゲル・インクのボールペン

ネットで探したら
ノック式のものになっていて
ぼくの使っている型のボールペン自体
製造されてなかったのね。
替え芯を5本くらい買っていたから
気がつかなかったのだけど
ノック式
ぼくは、それ、ダメなんだよね。

まあ、しかし、もう製造していないんだったら
それでがまんするしかない。

どうして
いいものが製造されなくなってしまうんやろか。
不思議やわ。

ときどき
こういうことってある。

なんでやろか。
不思議。

三菱
ゲル・インク・ボールペン
直径0.38mm



「もう、おれとできひんやろ?」と言われて
できるよ、と答えた。
嫌がってるから、という理由を口にはしなかったけど、笑。
ひゃははは。



フィリップ・ラーキンとパーラメント通り。

P・D・ジェイムズの『死の味』に、
フィリップ・ラーキンの詩論が出てきて思いだした。
むかしみたポール・マッカートニーのつくった映画に、
イギリス現代詩人として、じっさいに出てきたのを。
黄金の毛並みの小猿といっしょに。
現代詩人がイギリスではまだ尊敬されているのだと思った。

『死の味』には、ロンドンの通りの名前で、
パーラメント通りというのもあった。
マールボロウ通りというのを、以前に読んだ小説で見た記憶がある。
ロンドンじゅう、タバコの銘柄の通り名だらけなのかな。
それで霧のロンドンって、
あ、ちょっとすべったな、笑。



アンリ・ミショオと小峰慎也

いま、アンリ・ミショオの『詩論断章』(小海永二訳)のページを開くと
いきなり
「私は自分の健康のために書く」
とあって
小峰慎也さんを思い出した。
そいえば
ミショオの「悪魔払いの詩論」からも
小峰さんの詩のお顔がちらりとうかがえそうだ。
「なすべきことの一つは、悪魔払いだ。」
ミショオのこの言葉は
小峰さんのいくつもの詩を思い起こさせる。
ブルブルッ。



詩人の個性

個性と性格について、
ハーバート・リードの「詩人の個性」を読んでいて考えた。
この2分法には乱暴な印象はあるが、
ぼくなりに捉えなおすと、
こういうことかな。
性格は自然に培われていくもので、ほぼ無意識的に形成されたものであり、
あるところから一定不変的であるのに対して、
個性は獲得されていくもので、半ば意志的に獲得されたもので、
つねに可変的なものであり、いくらでも更新できるものだということ。



からっぽが、いっぱい。

ウォレス・スティーヴンズの『理論』(福田陸太郎訳)という詩に
「私は私をかこむものと同じものだ。」とあった。
としら、ぼくは空気か。
まあ、吸ったり吐いたり
しょっちゅうしてるけれど。

ブリア・サヴァラン的に言えば
ぼくは、ぼくが食べた物や飲んだ物からできているのだろうけれど
ヴァレリー的に言えば、ぼくは、ぼくが理解したものと
ぼくが理解しなかったものとからできているのだろう。
それとも、ワイルド的に、こう言うかな。
わたしは、わたし以外のすべての人間からできている、と。
まあ、いずれにしても、なにかからできていると考えたいわけだ。
わけだな。



チェスタトンの言葉。

電車のなかで読んでいたP・D・ジェイムズの
『原罪』下巻に、チェスタトンの言葉が引用されていて
こころに残ったのだけど
つぎのものは、エイズに患っていて、友だちの家にやっかいになりながら
闘病生活をしていた作家が
救急車で運ばれるときのセリフで

「ああ、ぼくは大丈夫だよ。ようやく大丈夫になるさ。
 心配しないでくれ。それから見舞いには来ないで。
 G・K・チェスタートンの言葉にこういうのがあっただろう。
 "人生を決して信用せず、かつ人生を愛することを学ばねばならない"。
 ぼくはとうとう学べなかった」(157ページ下段、青木久恵訳)

隣に坐った30代くらいの小太りのスーツ姿の男性が
そのひとの娘だろうね
携帯の画像をつぎつぎと変えていくのを眺めながら
ああ、このひともチャーミングだし
画像に映ったさまざまな表情の幼い女の子の笑顔もかわいらしいし
世界はまだまだすてきだなあと
ぼくも、こころおだやかになっていった。
世界は、そんなにおぞましいものでもなく
汚らしいものでもないということを、あらためて思った。
昼には、東寺にある「時代蔵(じだいや)」というところで天丼を食べた。
おいしかった。
人間であることの喜びのひとつね。
おいしかったと言えることは。
ところで、うえのチェスタトンの言葉、
ぼくには、ひっかかるところがあって
それで孫引きしたのだけれど
人生も信用していいものだし
人間に関することは
人間そのものも含めて
すべて愛する対象として
もっとも価値あるものだとも思ってるんだけど
学ぶことで
愛することができるわけではないのではないかなって
いや
学んだかな。
深く理解するということで
さまざまな状況を
さまざまな状況にいるひとに対して理解を持つということで
いとしく思うことにいたったわけだから
学んだのかもしれない。
しかし、「人生を信用せず」は、ないと思う。
「たとえ裏切られることがあろうとも、人生に信を置き」
なんじゃないかな。
そう思った。


ぼくたちの幼いセックス。

いつまでも
幼いぼくたちのセックス。
愛ではなく
快楽に引き起こされた
ぼくたちの幼いセックス。
愛のない
快楽だけのセックス。
でも、それでいいのだとも思う。
愛にはセックスはいらないのだから。
ぼくたちの幼いセックス。
愛ではなく
愛だという思い込みによる
ぼくたちの幼いセックス。
美しかったし
楽しかったし
のちには甘美な思い出となった
なにものにも代えがたい
体験だった。
「詩よりもずっと大切なこと」と、「ぼくたちの幼いセックス」について書いた。
この2つのことは、これまでのぼくの作品の主要なテーマだったし、
これからもそうだと思う。
夜の風が冷たかった。
ぼくの頬に触れる彼の指はもっと冷たかった。
彼はけっして愛しているとは言わなかった。
ぼくもまた。
ぼくが彼を思い出すように、
彼もまた、ぼくのことを思い出してくれているのだろうか。
10日後に、まったく抒情的ではない作品を書く予定。
ぼくはなんて矛盾してるんだろう。
愛から、ぼくほど遠い人間はいないかもしれない。
愛したいのに、愛する愛し方を知らないのだ。
ぼくもまた、彼を愛してるとは言わなかった。
いつも、「好きだよ。」としか言わなかった。
彼もまた。
彼といっしょにすわった駅の入り口の石畳。
手を触れて街を歩くひとを見つめてた若かったぼくたち。
口づけするのに夢中で、何時間も口づけし合ったぼくたち。
30年近く前の瞬間という時間。
美しい彼は、たくましい彼は、
ぼくを守るようにして横抱きにして、エレベーターに乗って。
二人が見下ろした繁華街を行き交う人々の頭。



詩よりも、ずっと大事なもの。

ぼくは大学院を出て
作家になろうと思って
家を出て、親と縁を切り
がむしゃらに本を読みまくった。
本に書いてあることは、とてもよく勉強になった。
それまで探偵小説やSFしか読んだことがなかったぼくには
外国の詩や、翻訳で読むゲーテやシェイクスピアがおもしろかった。
ぼくが感じたこともない感情を持たせてくれたと思ったし
ぼくが考えたこともないことを考えさせてくれたと思っていた。
でも、30代になり
40代になり、それまでのひととの付き合いで
ひとを信じたり信じられたり
裏切ったり裏切られたりして
それらの詩や本に書いてあったことは
ぼくがすでに感じていたことを言葉にしてあっただけのもので
ぼくがすでに考えたことのあることが言葉にされているものあることに
それをぼくが言葉にできなかったものであることに気がついた。
いまのぼくには、詩や小説に書いてあることよりも
ずっとずっと多くのことを過去の自分の体験から学んでいる。
とりわけ、付き合っていたえいちゃんから学んでいる。
付き合っていたときに彼がぼくのことを大事にしてくれたことから学んでいる。
付き合っていた恋人たちの言葉や表情やしぐさを
いまのぼくは
ぼくの記憶にある、そのときのことを解釈することから学んでいる。
ぼくを誘惑した友だちや先輩や高校の先生や中学の先生から
そのひとたちの表情、微笑み
おずおずとした態度や雰囲気から学んでいる。
一瞬の目配せ、微笑み
ぼくの詩作品は、多くのものが
それらの目配せや微笑みや
とまどい、苦痛、よろこびから
その瞬間瞬間からできているように思っている。
もちろん、たくさん読んだ詩や小説があってこそなんだろうけどね。
才能のあるひとは
たぶん、たくさん読まなくても
人生から、日常から学ぶ能力が十分あるんだろうけれど
ぼくは、どんくさいから。

まだ作品にしていないものを
これから、どのようにして作品にしていくか
ぼくは、ことし50歳になって
あとせいぜい数十年のあいだに、その思い出を
どれだけ書いていくことができるか
っていうと
こころもとない。

詩は
ぼくにとっての詩は
また、そういったものではないものもある。
言語の結びつきをさきぶれに
経験をこえていくもの、こえたもの
それでも経験の後ろ盾によって
その経験があるからこそ
経験をこえることのできるなにものか
目にしたことのない光景
光といったもの
そういった新しいヴィジョンを想起させるものもつくっていると思う。
なぜ、こんなことをこの時間に書いたのだろうか。
自分の作品が理解されることがあまりにないゆえに?
たぶん。
だれもが理解されているわけではないのだろうけれど。
ぼくが愛したひとに。
そして、ぼくを愛したひとに
幸せになってほしい。
駅のターミナルで
ぼくの目をちらっと見たひとにさえ
ぼくは愛に近いものを感じることができるような人間になることができた。
ぼくに嫌悪感をもって意地悪をしてきたひとにも
ぼくを裏切ったり
ぼくをバカにしたりしたひとにも
愛情に近い思いをもつことができるようになった。
ぼくは弱くなったのだろうか。
もしもそうなら
ぼくはもっともっと弱くなりたい。



未成熟。

一瞬の判断で、
そのあと、よくない方向に転ぶことがよくある。
ぼくは、学ぶことがへたくそなのだった。
で、
そのへたくそさが、作品に未成熟さを持たせているのであった。
もちろん、未成熟であるということは、
ぼくという書き手にとっては、ありがたいことである。
きょうも1つ、ミスった。



きょうは、『図書館の掟。』の続篇を考えていた。

他のシリーズでも共有するモチーフで
魂の抽出。
エクトプラズム。
ホオムンクルス。
まず、霊魂分離機の前で、
囚人たちからエクトプラズムを抽出するシーンを考えてた。
魂からエクトプラズムを抽出するシーン。
ガラス瓶に現れる白いエクトプラズム。
囚人たちの苦悶の表情。
魂から、ほとんどエクトプラズムを分離されたあと
しばらくのあいだ気を失っている囚人たち。
完全回復することはできないが
魂の形相が類似の形相を無数の多相世界から再吸収して
魂がエクトプラズムを再生する。
エクトプラズムの抽出を繰り返すと
ゴーレム化する。
ゴーレム化した死刑囚でも呪術に用いられないわけではない。
実験体以外は、人柱に用いる。
どうしてもゴーレム化しない死刑囚は呪術性が高いので
重要な公共施設の人柱に用いられることが多い。
無脳化したクローンは、現実的には、人柱としては、見せかけのうえで供されるだけで
エクトプラズムのない魂には呪術的な力はない。
公共施設は異なる呪術で結界が施されている。
その術も術者の存在も秘密にされている。
准公共施設の人柱にまったく呪術性のない人体が使われているが
准公共施設とは、政治的に重要な場所ではない。
おもに、公務員たちの研修・休養施設である。
摘出された脳は異なる目的に使われる。
人脳計算機に用いられるのだ。
抽出されたエクトプラズムからホムンクルスを複数つくりだすシーン。
小人のホムンクルスたち。



『リチャード二世』を読んで。

おおむかし、一度読んでるんだけど。
この戯曲には、再三、「悲しみ」という言葉が現われる。
おおむかし、一度読んでるんだけど。
重い主題なのだけれど
「悲しみ」という言葉が、これほど頻出すると
なぜかしら、笑けてしまう。
トマス・ライマーが、戯曲『ハムレット』を
「ハンカチの笑劇」と読んだが
『リチャード二世』をそれにちなんで
『「悲しみ」という言葉の笑劇』と読んでみたい。
しかし、つぎのセリフは、考えさせられる。
シェイクスピアがいかに心理学に通じていたのか。
心理学が発見される300年ほども前に。

プッシー それは思いすごしの空想というものです、お妃様。
王妃 そんなものではない、思いすごしの空想は必ず
 なにか悲しみがあって生まれるもの、私のはそうではない。
 私の胸にある悲しみを生んだものは空なるものにすぎない、
 あるいはあるものが私の悲しむ空なるものを生んだのです。
 その悲しみはやがて本物となって私のものとなるだろう。
 それがなにか、なんと呼べばいいか、私にもわからない、
 わかっているのは、名前のない悲しみというにすぎない。
(シェイクスピア『リチャード二世』第二幕・第二場、小田島雄志訳)


つぎの言葉には、笑った。

恥にまみれて生きるがいい、死んでも恥は残るだろう!
  (シェイクスピア『リチャード二世』第二幕・第一場、小田島雄志訳)



ブレイクと、西寺郷太くん

「一瞬のなかにしか、永遠はないのさ。」

と、ノーナ・リーブズの西寺郷太くんは書いてたけれど
ブレイクの有名な詩句が先行してたことを忘れてた。
めっちゃ有名な詩なのにね。
斎藤 勇さんの『英詩概論』に出てて、ああ、そういえば
むかし読んだ詩にあったわ、と思って、本棚を見るも
ブレイクの訳詩は、アンソロジーに収録されていたものしかなく
とてもみじめな気持ちになってしまった。
近いうちに買いに行きます。
あ、ネットで買おうかな。
斎藤さんの本から抜粋。

To see a World in a grain of sand,
And a Heaven in a wild flower,
Hold Infinity in the palm of your hand,
And Eternity in an hour.
(Auguries of Innocence,I-4)

ひと粒の砂に世界を、
野の花に展開を見とめ、
掌(たなごころ)のうちに無限を、
ひと時のうちに永遠をにぎる、

いまから、ネットで検索しようっと。
いっぱいサイトがあって
訳文が載ってた。
こことか



http://www1.odn.ne.jp/~cci32280/PoetBlake.htm

ひとつぶの砂にも世界を
いちりんの野の花にも天国を見
きみのたなごころに無限を
そしてひとときのうちに永遠をとらえる
                  (寿岳文章訳)


きのう、寝る前に感心したもの
Tennyson のもので

'Tis better to have loved and lost
Than never to have loved at all.
(In Memoriam,xxvii)

愛せしことかつてなきよりは、
愛して失えることこそまだしもなれ。(斎藤 勇訳)



ひさびさの出眠時幻覚。物語だった。音声つき。

さいしょのシーンは、夜のレストランを外から見ていた。
ヘリコプターくらいの位置から。
光に満ちた窓の向こう側。
盛装した男女が席についていた。
動いているのはこれから席につこうとしているカップルと
ウェイターだけだった。
嵐だろうか。
突風で夜の街が
引き剥がされでもしたかのように
さまざまなものが持ちあがっていく。

ここで
ぼくの意識がひとりの青年から
もうひとりの青年に移った。

ブルーの海。
太陽がまぶしかった。
ふたりの子どもがいた。
男の子たちは裸で泳いでいた。
とつぜん波が持ちあがり
筒状になった。
父親らしき人物の名前はザックだった。
ザックはふたりの男の子を抱いた。
海が渦巻状になり、その中心に3人がいた。
ザックがひとりの子どもに向かって
「ハーンのようになれ。」
と言って
ひとりずつ
渦の中心から放り投げた。
ザックは渦のなかに飲み込まれた。
ふたりの男の子は
ブルーの海のなかにもぐりながら
一度も浮かぶことなしに
ずんずん岸に向かって泳いでいた。
子どもたちは
ひとりひとり別に泳いでいた。
やがて、子どもたちの身体は少年のそれになり
青年のそれになっていった。
髪も伸びていた。
全裸であることには変わりがない。
ふたりは、白い砂、ブルーの海から上がった。
すると、そこは、山だった。
ヒマラヤだった。
サーベルタイガーがいた。
ふたりの青年が全裸で
サーベルタイガーをあいだに挟んで雪の上を歩いている。
ここで目が覚めた。

はじめ、自分はハーンと呼ばれた青年の目から
上空からレストランのなかを眺めていた。
つぎに、嵐になって、瞬間的に意識が移動して
レストランのなかで食事をしていた青年になって回想していた。
それが海のシーンだったが
レストランのなかにいた青年の名前はわからない。
そして、その青年は、「ザックの教え」という言葉をもって
回想をはじめたのだった。

さいごの海のシーン
山のシーンで
ふたりを眺めていた視点は
だれの視点だったのか、わからない。

ブルーの海のなかで
白い砂地を下に泳ぎつづけていた子どもが
青年になっていくシーンは長かった。
その成長ぶりに気がつくまで
しばらく時間がかかった。
しかし、場面は美しかった。

目が覚めた瞬間に
これは長い物語の一部であると予感した。
それで、記憶が新しいうちにと思って
ここに書いた。

きのう、飲みすぎで
クスリが効かず
半覚醒状態で寝床に入っていたのだった。
何度か時計を見た。
記憶があるのは
5時過ぎ
8時過ぎ
10時半ばころか終わりに
そして、ついさっき。
23という数字。
23分だったのだろう。
「ザックの教え」、「ザックの教え」
と反芻しながら、シーンを忘れないように
頭のなかにもう一度、反復させて
パソコンのスイッチを入れたのだった。



溺れた詩集。

湯船につかりながら詩集を読んでいたのだが
おもしろくなかったので湯船のうえで手を離した。
詩集はもちろん湯のなかに沈んでいったのだが
詩集は沈むまえから溺れ死んでいたのだった。
詩人が言葉のなかで溺れ死んでいたのか
言葉が詩人のなかで溺れ死んでいたのかはわからないけれど。



 夏の蓮(はちす)の花の盛りに、できあがった入道(にゆうどう)の姫宮の
ご持仏の供養(くよう)が催されることになった。
              (紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)

「こんな儀式を、あなたのためにさせる日があろうなどとは予想もしなかっ
たことですよ。これはこれとして来世の蓮(はちす)の花の上では、むつま
じく暮そうと期してください」
  蓮(はちす)葉を同じうてなと契(ちぎ)りおきて
          露の分るる今日ぞ悲しき
 硯(すずり)に筆をぬらして、香染めの宮の扇(おうぎ)へお書きになっ
た。宮が横へ、
  隔(へだ)てなく蓮(はちす)の宿をちぎりても
         君が心やすまじとすらん
 こうお書きになると、
「そんなに私が信用していただけないのだろうか」
 笑いながら院は言っておいでになるのであるが、身にしむものがあるごよ
うすであった。
              (紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)

 数式においては、数と数を記号が結びつけているように見えるが、記号に
よって結びつけられたのは、数と数だけではない。数と人間も結びつけられ
ているのであって、より詳細にみると、数と数を、記号と人間の精神が結び
つけているのであるが、これをまた、べつの見方をすると、数と数が、記号
と人間を結びつけているとも言える。複数の人間が、同じ数式を眺める場合
には、数式がその複数の人間を結びつけるとも考えられる。複数の人間の精
神を、であるが、これは、数式にかぎらず、言葉だって、そうである。言葉
によって、複数の人間の精神が結びつけられる。言葉によって、複数の人間
の体験が結びつけられる。音楽や絵画や映画やスポーツ観戦もそうである。
ひとが、他人の経験を見ることによって、知ることによって、感じることに
よって、自分の人生を生き生きとさせることができるのも、この「結びつけ
る作用」が、言葉や映像にあるからであろう。
 ここのところ、『数式の庭。』に転用しよう。


(…)宮が
  大かたの秋をば憂(う)しと知りにしを
     振り捨てがたき鈴虫の声
と低い声でお言いになった。ひじょうに艶(えん)で若々しくお品がよい。
「なんですって、あなたに恨ませるようなことはなかったはずだ」
と院はお言いになり、
  心もて草の宿りを厭(いと)へども
     なほ鈴虫の声ぞふりせぬ
ともおささやきになった。
              (紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)

「月をながめる夜というものにいつでもさびしくないことはないものだが、
この仲秋(ちゆうしゆう)の月に向かっていると、この世以外の世界のこと
までもいろいろと思われる。亡くなった衛門督(えもんのかみ)はどんな場
合にも思い出される人だが、ことになんの芸術にも造詣(ぞうけい)が深か
ったから、こうした会合にあの人を欠くのは、ものの匂いがこの世になくな
った気がしますね」
とお言いになった院は、ご自身の楽音からも憂(うれ)いが催されるふう
で、涙をこぼしておいでになるのである。
              (紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)

「ものの匂いがこの世になくなった気がします」という比喩、嗅覚障害にな
って、においが感じられなくなったぼくには、身にしむ表現でした。

「今夜は鈴虫の宴で明かそう」
こう六条院は言っておいでになった。
              (紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)

このあとしばらくして、源氏は冷泉院に移動して、つぎの歌を詠んだ。

  月影は同じ雲井に見えながら
     わが宿からの秋ぞ変れる
 このお歌は文学的の価値はともかくも、冷泉院のご在位当時と今日とをお
思いくらべになって、さびしくお思いになる六条院のご実感と見えた。
              (紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)

 同じように見えるものを前にして、自分のなかのなにかが変わっている
ように感じられる、というふうにもとれる。同じもののように見えるものを
目のあたりにすることで、ことさらに、自分のこころのどこかが、以前のも
のとは違ったもののように思える、ということであろうか。あるいは、もっ
とぶっ飛ばしてとらえて考えてもよいのかもしれない。同じものを見ている
ように思っているのだが、じつは、それがまったく異なるものであることに
ふと気がついた、とでも。というのも、それを眺めている自分が変っている
はずなので、同じに見えるということは、それが違ったものであるからであ
る、というふうに。
 この巻の感想の終わりに、源氏の言葉を引用しよう。

「(…)年のいくのとさかさまにますます濃くなる昔の思い出に(…)」
              (紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)

ウラタロウさんのコメント

宏輔さんの言葉が、触媒のような、カレイドスコープの覗き穴のような感じ。

ぼくのお返事

コメントくださり、ありがとうございました。
そうおっしゃっていただけて、とてもうれしい。
ぼくも楽しんで『源氏物語』を読んでいます。
さいしょはバカにして読んでましたけれど
いまは感心することしきりです。
原文も買っていますので
晶子訳を読み終わったら原文対照で
読み直そうかなって思っています。
英訳も持っているので
英語訳も使いながらも楽しそうですね。
いろいろやってみたいです。

ふたたび、ウラタロウさんのコメント

各種訳もくわわるとさらに、捉えられないほどめくるめくことになりそうですね。

ふたたび、ぼくのお返事

さ来年には、とりかかろうかなと思っています。
生きていればですが、笑。



緑がたまらん。

えっ、なに?
と言って、えいちゃんの顔を見ると
ぼくの坐ってるすぐ後ろのテーブル席に目をやった。
ぼくもつい振り返って見てしまった。
柴田さんという68歳になられた方が
若い女性とおしゃべりなさっていたのだけれど
その柴田さんがあざやかな緑のシャツを着てらっしゃってて
その緑のことだとすぐに了解して
えいちゃんの顔を見ると
「あの緑がたまらんわ〜。」
と。
笑ってしまった。
えいちゃんは、ぜんぜん内緒話ができない人で
たとえば、ぼくのすぐ横にいる客のことなんかも
「あ〜、もう、うっとしい。
 はよ帰れ。」
とか平気で言う人で
だから、ぼくは、えいちゃんのことが大好きなのだけれど
きのうも、ぜったい柴田さんにも聞こえていたと思う、笑。
ぼくはカウンター席の奥の端に坐っていたのだけれど
しばらくして、八雲さんという雑誌記者の人が入ってきて
入口近くのカウンター席に坐った。
何度か話をしたことがあって
腕とか日に焼けてたので
「焼けてますね。」
と言うと
「四国に行ってました。
 ずっとバイクで動いてましたからね。」
「なんの取材ですか?」
「包丁です。
 高松で、包丁をといでらっしゃる横で
 ずっとインタビューしてました。
 あ
 うつぼを食べましたよ。
 おいしかったですよ。」
「うつぼって
 あの蛇みたいな魚ですよね。」
「そうです。
 たたきでいただきました。
 おいしかったですよ。」
「ふつうは食べませんよね。」
「数が獲れませんから。」
「見た目が怖い魚ですね。
 じっさいはどうなんでしょう?
 くねくね、蛇みたいに動くんでしょうか?」
「うつぼは
 底に沈んでじっとしている魚で
 獰猛な魚ですよ。
 毒も持ってますしね。
 近くに寄ったら、がっと動きます。
 ふだんはじっとしてます。」
「じっとしているのに、獰猛なんですか?」
「ひらめも、そうですよ。
 ふだんは、底にじっとしてます。」
「どんな味でしたか?」
「白身のあっさりした味でした。」
「ああ、動かないから白身なんですね。」
「そうですよ。」
話の途中で、柴田さんがぼくの肩に触れられて
「一杯、いかがです?」
「はい?」
と言ってお顔を見上げると
陽気な感じの笑顔でニコニコなさっていて
「この人、なんべんか見てて
 おとなしい人やと思っってたんやけど
 この人に一杯、あげて。」
と、マスターとバイトの女の子に。
マスターと女の子の表情を見てすかさず
「よろしんですか?」
とぼくが言うと
「もちろん、飲んでやって。
 きみ、男前やなあ。」
と言ってから、連れの女性に
「この人、なんべんか合うてんねんけど
 わしが来てるときには、いっつも来てるんや。
 で、いっつも、おとなしく飲んでて
 ええ感じや思ってたんや。」
と説明、笑。
「田中といいます、よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
みたいなやりとりをして、焼酎を一杯ごちになった。
えいちゃんと、八雲さんと、バイトの女の子に
「朝さあ。
 西院のパン屋さんで
 モーニング・セット食べてたら
 目の前をバカボン・パパみたいな顔をしたサラリーマンの人が
 まあ、40歳くらいかな
 その人がセルフサービスの水をグラスに入れるために
 ぼくの目の前を通ったのだけれど
 その人が、ぼくの隣の隣のテーブルで
 本を読みだしたのだけれど
 その表紙にあったタイトルを見て
 へえ?
 って思った。
 『完全犯罪』ってタイトルの小説で
 小林泰三って作者のものだったかな。
 写真の表紙なんだけど
 単行本だろうね。
 タイトルが、わりと大きめに書かれてあって
 『完全犯罪』
 で、ぼくの読んでたのが
 P・D・ジェイムズの『ある殺意』だったから
 なんだかなあって。
 隣に坐ってたおばさんの文庫本には
 書店でかけた紙のカバーがかかっていて
 タイトルがわからなかったけれど
 ふと、こんなこと思っちゃった。
 朝から、おだやかな顔をして
 みんなの読んでるものが物騒って
 なんだか、おもしろいって。」
「隣のおばさんの読んでらっしゃった本のタイトルがわかれば
 もっとおもしろかったでしょうね。」
と、バイトの女の子。
「そうね。
 恋愛ものでもね。」
と言って笑った。
緑がたまらん柴田さんが
「横にきいひんか?」
とおっしゃったので、柴田さんの坐ってらっしゃったテーブル席に移動すると
マスターが
「田中さんて、きれいなこころしてはってね。
 詩を書いておられるんですよ。
 このあいだ、この詩集をいただきました。」
と言って、柴田さんに、ぼくの詩集を手渡されて
すると
柴田さん、一万円札を出されて
「これ、買うわ。
 ええやろ。」
と、おっしゃったので
「こちらにサラのものがありますし。」
と言って、ぼくは、自分のリュックのなかから
詩集を出して見せると
マスターが受け取った一万円を崩してくださってて
「これで、お買いになられるでしょう。」
と言ってくださり
ぼくは、柴田さんに2500円、いただきました、笑。
「つぎに、この子の店に行くんやけど
 いっしょに行かへんか?」
「いえ、もう、だいぶ、酔ってますので。」
「そうか。
 ほなら、またな。」
すごくあっさりした方なので、こころに、なにも残らなくて。
で、しばらくすると
柴田さんが帰られて
ふたたび、カウンター席に戻って
八雲さんとかとしゃべったのだけれど
その前に、フランス人の観光客が2人入ってきて
若い男性二人だったのだけれど
柴田さん、その二人に英語で話しかけられて
バイトの女の子もイスラエルに半年留学してたような子で
突然、国際的な感じになったのだけれど
えいちゃんが、柴田さんの積極的な雰囲気見て
「すごい好奇心やね。」
って。
ぼくもそう思ってたから、こくん、とうなずいた。
女性にも関心が強くって
人生の一瞬一瞬をすべて楽しんでらっしゃる感じだった。
柴田さん、有名人でだれか似てるひとがいたなあって思ってたら
これを書いてるときに思いだした。
増田キートンだった。
八雲さんが
「犬を集めるのに
 みみずをつぶしてかわかしたものを使うんですよ。
 ものすごく臭くって
 それに酔うんです。
 もうたまらんって感じでね。」
「犬もたまらんのや。」
と、えいちゃん。
「うつぼって、どうして普及しないのですか?」
と言うと
「獲れないからですよ。
 偶然、網にかかったものを
 地元で食べるだけです。」
めずらしい食べ物の話が連続して出てきて
その動物を獲る方法について話してて
うなぎを獲る「もんどり」という仕掛けに
サンショウウオの話で
「鮎のくさったものを使うんですよ。」
という話が出たとき
また、えいちゃんが
「サンショウウオもたまらんねんなあ。」
と言うので
「きょう、えいちゃん、たまらんって、3回、口にしたで。」
ぼくが指摘すると
「気がつかんかった。」
「たまらんって、語源はなんやろ?」
と言うと
八雲さんが
「たまらない、
 こたえられない。
 十分であるということかな。」
ぼくには、その説明、わからなくって
「たまらない。
 もっと、もっと。
 って気持ち。
 いや、十分なんだけど
 もっと、もっとね。」
ここで、ぼくは自分の詩に使った
もっとたくさん。
もうたくさん。
のフレーズを思い出した。
八雲さんの話だと
サンショウウオは蛙のような味だとか。
知らん。
どっちとも食べたことないから。
「あの緑がたまらん。」
ぼくには、えいちゃんの笑顔がたまらんのやけど、笑。
そうそう。
おばさんっていうと

モーニング・セットを食べてるパン屋さんで
かならず見かけるおばさんがいてね。
ある朝
ああ、きょうも来てはるんや
思って
学校に行って
仕事して
帰ってきて
西院の王将に入って定食注文したの
そしたら
横に坐って
晩ごはん食べてはったのね。
びっくりしたわ〜。
人間の視界って
180度じゃないでしょ。
それよりちょっと狭いかな。
だけど
横が見えるでしょ。
目の端に。
意識は前方中心だけど。
意識の端にひっかかるっていうのかな。
かすかにね。
で、横を向いたら
そのおばさん。
ほんと、びっくりした。
でも、そのおばさん
ぜったい、ぼくと目を合わせないの。
いままで一回も
目が合ったことないの。
この話を、えいちゃんや、八雲さんや、バイトの女の子にしてたんだけど
バイトの子が
「いや、ぜったい気づいてはりますよ。
 気づいてはって、逆に、気づいてないふりしてはるんですよ。」
って言うのだけど
人間って、そんなに複雑かなあ。

このバイトの子
静岡の子でね。
ぬえ
って化け物の話が出たときに
ぬえって鳥みたいって言うから
「ぬえって、四つ足の獣みたいな感じじゃなかったかな?」
って、ぼくが言うと
八雲さんが
「二つの説があるんですよ。
 鳥の化け物と
 四足の獣の身体にヒヒの顔がついてるのと。
 で、そのヒヒの顔が
 大阪府のマークになってるんですよ。」
「へえ。」
って、ぼくと、えいちゃんと、バイトの子が声をそろえて言った。
なんでも知ってる八雲さんだと思った。
ぬえね。
京都と静岡では違うのか。
それじゃあ
いろんなことが
いろんな場所で違ってるんやろうなって思った。
あたりまえか。
あたりまえなのかな?
わからん。
でも、じっさい、そうなんやろね。



音。

その音は
テーブルの上からころげ落ちると
部屋の隅にはしって
いったん立ちどまって
ブンとふくれると
大きな音になって
部屋の隅から隅へところがりはじめ
どんどん大きくなって
頭ぐらいの大きさになって
ぼくの顔にむかって
飛びかかってきた



音。

左手から右手へ
右手から左手に音をうつす
それを繰り返すと
やがて
音のほうから移動する
右手のうえにあった音が
左手の手のひらをのばすと
右手の手のひらのうえから
左手の手のひらのうえに移動する
ふたつの手を離したり
近づけたりして
音が移動するさまを楽しむ
友だちに
ほらと言って音をわたすと
友だちの手のひらのうえで
音が移動する
ぼくと友だちの手のひらのうえで
音が移動する
ぼくたちが手をいろいろ動かして
音と遊んでいると
ほかのひとたちも
ぼくたちといっしょに
手のひらをひろげて
音と戯れる
音も
たくさんのひとたちの手のひらのうえを移動する
みんな夢中になって
音と戯れる
音もおもしろがって
たくさんのひとたちの手のひらのうえを移動する
驚きと笑いに満ちた顔たち
音と同じようにはずむ息と息
たったひとつの音と
ただぼくたちの手のひらがあるだけなのに。



それぞれの世界。

ぼくたちは
前足をそろえて
テーブルの上に置いて
口をモグモグさせながら
店のなかの牧草を見ていた。
ふと、彼女は
すりばち状のきゅう歯を動かすのをやめ
たっぷりとよだれをテーブルのうえに落としながら
モーと鳴いた。
「もう?」
「もう。」
「もう?」
「もう!」
となりのテーブルでは
別のカップルが
コケー、コココココココ
コケーっと鳴き合っていた。
ぼくたちは
前足をおろして
牧草地から
街のなかへと
となりのカップルも
おとなしくなって
えさ場から
街のなかへと
それぞれの街のなかに戻って行った。



敵だと思っている
前の職場のやつらと仲直りして
部屋飲みしていた。
膝が痛いので
きょうは雨だなと言うと
やつらのひとりに
もう降っているよと言われて
窓を開けたら
雨が降っていたしみがアスファルトに。
でも雨は降っていなかった。
膝の痛みをやわらげるために
膝をさすっていると
目が覚めた。
窓を開けると
いまにも降りそうだった。
この日記を書いている途中で
ゆるく雨の降る音がしてきた。



文法。

わたしは文法である。
言葉は、わたしの規則に従って配列しなければならない。
言葉はわたしの規則どおりに並んでいなければならない。
文法も法である。
したがって抜け道もたくさんあるし
そもそも法に従わない言葉もある。

また、時代と場所が変われば、法も違ったものになる。
また、その法に従うもの自体が異なるものであったりするのである。
すべてが変化する。
文法も法である。
したがって、時代や状況に合わなくなってくることもある。
そういう場合は改正されることになる。

しかし、法のなかの法である憲法にあたる
文法のなかの文法は、言葉を発する者の生のままの声である。
生のままの声のまえでは、いかなる文法も沈黙せねばならない。
超法規的な事例があるように
文法から逸脱した言葉の配列がゆるされることもあるが
それがゆるされるのはごくまれで
ことのほか、それがうつくしいものであるか
緊急事態に発せられるもの
あるいは無意識に発せられたと見做されたものに限る。
たとえば、詩、小説、戯曲、夢、死のまえのうわごとなどがそれにあたる。



フローベールの『紋切型辞典』(小倉孝誠訳)を読んでいて、いろいろ思ったことをメモしまくった。そのうち、きょう振り返っても、書いてみたいと思ったものを以下に書きつけておく。

印刷された の項に

「自分の名前が印刷物に載るのを目にする喜び!」

とあった。

1989年の8月号から1990年の12月号まで、自分の投稿した詩がユリイカの投稿欄に載ったのだが、自分の名前が載るのを目にする喜びはたしかにあった。いまでも印刷物に載っている自分の名前を見ると、うれしい気持ちだ。しかし、よりうれしいのは、自分の作品が印刷されていることで、それを目にする喜びは、自分の名前を目にする喜びよりも大きい。ユリイカに載った自分の投稿した詩を、その号が出た日にユリイカを買ったときなどは、自分の詩を20回くらい繰り返し読んだものだった。このことを、ユリイカの新人に選ばれた1991年に、東京に行ったときに、ユリイカの編集部に訪れたのだが、より詳細に書けば、編集部のあるビルの1階の喫茶店で、そのときの編集長である歌田明弘さんに話したら、「ええ? 変わってらっしゃいますね。」と言われた。気に入った曲を繰り返し何回も聴くぼくには、ぜんぜん不思議なことではなかったのだが。ネットで、自分の名前をしじゅう検索している。自分のことが書かれているのを見るのは楽しいことが多いけれど、ときどき、ムカっとするようなことが書かれていたりして、不愉快になることがある。しかし、自分と同姓同名のひとも何人かいるようで、そういうひとのことを考えると、そういうひとに迷惑になっていないかなと思うことがある。しかし、自分と同姓同名のひとの情報を見るのは、べつに楽しいことではない。だから、たぶん、自分と同姓同名の別人の名前を見ても、たとえ、自分の名前と同じでも、あまりうれしくないのではないだろうか。自分の名前が印刷物に載っているのを見ることが、つねに喜びを与えてくれるものであるとは限らないのではないだろうか。


譲歩[concession] 絶対にしてはならない。譲歩したせいでルイ十六世は破滅した。

と書いてあった。

 芸術でも、もちろん、文学でも、そうだと思う。ユリイカに投稿していた
とき、ぼくは、自分が書いたものをすべて送っていた。月に、20〜30作。
選者がどんなものを選ぶのかなんてことは知ったことではなかった。
そもそも、ぼくは、詩などほとんど読んだこともなかったのだった。
新潮文庫から出てるよく名前の知られた詩人のものか
堀口大學の『月下の一群』くらいしか読んでなかったのだ。
それでも、自分の書くものが、まだだれも書いたことのないものであると
当時は思い込んでいたのだった。
譲歩してはならない。
芸術家は、だれの言葉にも耳を貸してはならない。
自分の内心の声だけにしたがってつくらなければならない。
いまでも、ぼくは、そう思っている。
それで、無視されてもかまわない。
それで破滅してもかまわない。
むしろ、無視され、破滅することが
ぼくにとっては、芸術家そのもののイメージなのである。


男色 の項に

「すべての男性がある程度の年齢になるとかかる病気。」

とあった。

 老人になると、異性愛者でも、同性に性的な関心を寄せると、心理学の本で読んだことがある。
 こだわりがなくなっただけじゃないの、と、ぼくなどは思うのだけれど。でも、もしも、老人になると、というところだけを特徴的にとらえたら、生粋の同性愛者って、子どものときから老人ってことになるね。どだろ。


問い[question] 問いを発することは、すなわちそれを解決するに等しい。

とあった。古くから言われてたんだね。


都市の役人 の項に

「道の舗装をめぐって、彼らを激しく非難すべし。──役人はいったい何を考えているのだ?」

とあった。

これまた、古くからあったのね。国が違い、時代が違っても、役人のすることは変わらないってわけか。
 でも、ほかの分野の人間も、国が違っても、時代が違っても、似たようなことしてるかもね。治世者、警官、農民、物書き、大人、子ども、男、女。


比喩[images] 詩にはいつでも多すぎる。

とあった。

 さいきん、比喩らしい比喩を使ってないなあと思った。でも、そのあとで、ふと、はたして、そうだったかしらと思った。
 ペルシャの詩人、ルーミーの言葉を思い出したからである。ルーミーの講演が終わったあと、聴衆のひとりが、ルーミーに、「あなたの話は比喩だらけだ。」と言ったところ、ルーミーが、こう言い返したのだというのだ。
「おまえそのものが比喩なのだ。」と。
そういえば、イエス・キリストも、こんなことを言ってたと書いてあった。
「わたしはすべてを比喩で語る。」と。
言葉そのものが比喩であると言った詩人もいたかな。どだろ。


分[minute] 「一分がどんなに長いものか、ひとは気づいていない。」

とあった。

 そんなことはないね。齢をとれば、瞬間瞬間がどれだけ大事かわかるものね。その瞬間が二度とふたたび自分のまえに立ち現われることがないということが、痛いほどわかっているのだもの。それでも、人間は、その瞬間というものを、自分の思ったように、思いどおりに過ごすことが難しいものなのだろうけれど。悔いのないように生きようと思うのだけれど、悔いばかりが残ってしまう。ああ、よくやったなあ、という気持ちを持つことはまれだ。まあ、それが人生なのだろうけれど。
 ノブユキとのこと。エイジくんとのこと。タカヒロとのこと。中国人青年とのこと。名前を忘れた子とのこと。名前を聞きもしなかった子とのことが、何度も何度も思い出される。楽しかったこと、こころに残ったさまざまな思い出。



2010年11月18日のメモ

人生においては
快適に眠ることより重要なことはなにもない。
わたしにとっては、だが。



2010年11月19日のメモ 

無意識層の記憶たちが
肉体のそこここのすきまに姿を消していくと
空っぽの肉体に
外界の時間と場所が接触し
肉体の目をさまさせる。
目があいた瞬間に
世界が肉体のなかに流れ込んでくる。
肉体は世界でいっぱいになってから
ようやく、わたしや、あなたになる。
けさ、わたしの肉体に流れ込んできた世界は
少々、混乱していたようだった。
病院に予約の電話を入れたのだが
曜日が違っていたのだった。
きょうは金曜日ではなくて
休診日の木曜日だったのだ。
金曜日だと思い込んでいたのだった。
それとも、わたしのなかに流れ込んできた世界は
あなたに流れ込むはずだったものであったのだろうか。
それとも、理屈から言えば、地球の裏側にいるひと、
曜日の異なる国にいるひとのところに流れ込むはずだった世界だったのだろうか。



2010年11月19日のメモ 

考えたこともないことが
ふと思い浮かぶことがある。
自分のこころにあるものをすべて知っているわけではないことがわる。
いったい、どれだけたくさんのことを知らずにいるのだろうか。
自分が知らないうちに知っていることを。



カラオケでは、だれが、いちばん誇らしいのか?

あたしが歌おうと思ってたら
つぎの順番だった同僚がマイクをもって歌い出したの。
なぜかしら?
あたしの手元にマイクはあったし
あたしがリクエストした曲だったし
なんと言っても
順番は、あたしだったのに。
なぜかしら?
機嫌よさげに歌ってる同僚の足もとを見ると
ヒールを脱いでたから
こっそりビールを流し入れてやったわ。
「これで、きょうのカラオケは終わりね。」
なぜかしら?
アララットの頂では
縄で縛りあげられた箱舟が
その長い首を糸杉の枝にぶら下げて
「会計は?」
あたしじゃないわよ。
海景はすばらしく
同僚のヒールも死海に溺れて
不愉快そうな顔を、あたしに向けて
「あたしじゃないわよ。」
みんなの視線が痛かった。
「なぜかしら?」
ゆっくり話し合うべきだったのかしら?
「だれかが、あたしを読んでいる。」



かつて人間だったウーピー・ウーパー

マイミクのえいちゃんの日記に

帰ってまた

ってタイトルで

食べてしまったサラダとご飯と豚汁と ヨモギ団子1本あかんな〜 ついつい食べてまうわ でも 幸せやで皆もたまにはガッツリ食べようね
帰りに考えてた ウーパールーパーに似てるって昔いわれた 可愛いさわ認めるけど 見た目は認めないもんね でも こないだテレビでウーパーを食べてたなんか複雑やったなやっぱり認めるかな 俺似てないよねどう思いますか? 素直によろしくお願いします

って、あったから

似てないよ。
目元がくっきりしてるだけやん。

って書いたんだけど、あとで気がついて

ウーピー・ゴールドマンと間違えてた。
動物のほうか。
かわいらしさが共通してるかな。
共通してると似てるは違うよ。

って書き足したんだけど、そしたら、えいちゃんから返事があって

間違えないで。 ウーピー食べれないでしょ 。間違うのあっちゃんらしいね。
目はウーピー・ゴールドマンに似てるんや。 これまた、 複雑やわ。 ありがとう。

って。なんか、めっちゃおもしろかったから、ここにコピペした。
えいちゃん、ごめりんこ。

ちなみに、えいちゃんの日記やコメントにある絵文字は、コピペできんかった。
どういうわけで?
わからん。
なぜだ?
なぜかしらねえ。

「みんなの病気が治したくて」 by ナウシカ



捨てなさい。

というタイトルで、寝るまえに
なにか書こうと思った。
これから横になりながら
ルーズリーフ作業を。
なにをしとったんじゃ、おまえは!
って感じ。
だらしないなあ、ぼくは。
だって、おもしろいこと、蟻すぎなんだもの。

追記 2010年11月20日11時02〜14分
   なにも思いつかなかったので、俳句もどきのもの、即席で書いた。

捨ててもまた買っちゃったりする古本かな
なにもかもありすぎる捨てるものなしの国
あのひとはトイレで音だけ捨てる癖がある
目がかゆい目がかゆいこれは人を捨てた罰
捨て台詞誰も拾う者なし拾う者なし者なし
右の手が悪いことをすれば右の手を捨てよ



おじいちゃんの秘密。

たいてい、ゾウを着る。
ときどき、サルを着る。
ときには、キリンを着る。
おじいちゃんの仕事は
動物園だ。
だれにも言っちゃダメだよって言ってた。
たま〜に、空を着て鳥を飛んだり

鳥を着て空を飛んだりすることもある
って言ってた。
動物園の仕事って
たいへんだけど
楽しいよ
って言ってた。
でも、だれにも言っちゃダメだよって言ってた。
言ったらダメだよって言われたら
よけいに言いたくなるのにね。
きのう、ぶよぶよした白いものが
おじいちゃんを着るところを見てしまった。
博物館にいるミイラみたいだったおじいちゃんが
とつぜん、いつものおじいちゃんになってた。
おじいちゃんと目が合った。
どれぐらいのあいだ見つめ合ってたのか
わからないけれど
おじいちゃんは
杖を着たぼくを手に握ると
部屋を出た。



蝶を見なくなった。

それは季節ではない。
季節ならば
あらゆる季節が
ぼくのなかにあるのだから。

それは道ではない。
道ならば
あらゆる道が
ぼくのなかにあるのだから。

それは出合いではない。
出合いならば
あらゆる出合いが
ぼくのなかにあるのだから。



蝶。

それは偶然ではない。
偶然ならば
あらゆる偶然が
ぼくのなかにあるのだから。



「わたしの蝶。」と、きみは言う。

ぼくは言わない。



蝶。

花に蝶をとめたものが蜜ならば
ぼくをきみにとめたものはなんだったのか。

蝶が花から花へとうつろうのは蜜のため。
ぼくをうつろわせたものはなんだったのだろう。

花は知っていた、蝶が蜜をもとめることを。
きみは知っていたのか、ぼくがなにをもとめていたのか。

蝶は蜜に飽きることを知らない。
きみのいっさいが、ぼくをよろこばせた。

蝶は蜜がなくなっても、花のもとにとどまっただろうか。
ときが去ったのか、ぼくたちが去ったのか。

蜜に香りがなければ、蝶は花を見つけられなかっただろう。
もしも、あのとき、きみが微笑まなかったら。



蝶。

おぼえているかい。
かつて、きみをよろこばせるために
野に花を咲かせ
蝶をとまらせたことを。

わすれてしまったかい。
かつて、きみをよろこばせるために
海をつくり
渚で波に手を振らせていたことを。

ぼくには、どんなことだってできた。
きみをよろこばせるためだったら。
ぼくにできなかったのは、ただひとつ
きみをぼくのそばにいさせつづけることだけだった。



蝶。

きみは手をあげて
蝶を空中でとめてみせた。

それとも、蝶が
きみの手をとめたのか。

静止した時間と空間のなかでは
どちらにも見える。

その時間と空間をほどくのは
この言葉を目にした読み手のこころ次第である。



蝶。

蝶の翅ばたきが、あらゆる時間をつくり、空間をつくり、出来事をつくる。
それが間違っていると証明することは、だれにもできないだろう。



蝶。

ぼくが、ぼくのことを「蝶である。」と書いたとき
ぼくのことを「蝶である。」と思わせるのは
ぼくの「ぼくは蝶である。」という言葉だけではない。
ぼく「ぼくが蝶である。」という言葉を目にした読み手のこころもある。
ぼくが読み手に向かって、「あなたは蝶である。」と書いたとき
読み手が自分のことを「わたしは蝶である。」という気持ちになるのも
やはり、ぼくの言葉と読み手のこころ自体がそう思わせるからである。
ぼくが、作品の登場人物に、「彼女は蝶である。」と述べさせると
読みのこころのなかに、「彼女は蝶である。」という気持ちが起こるとき
ぼくの言葉と読み手のこころが、そう思わせているのだろうけれど
ぼくの作品の登場人物である「彼女は蝶である。」と述べた架空の人物も
「蝶である。」と言わしめた、これまた架空の人物である「彼女」も
「彼女は蝶である。」と思わせる起因をこしらえていないだろうか。
そういった人物だけでなく、ぼくが書いた情景や事物・事象も
「彼女は蝶である。」と思わせることに寄与していないだろうか。
ぼくは、自分の書いた作品で、ということで、いままで語ってきた。
「自分の書いた作品で」という言葉をはずして
人間が人間に語るとき、と言い換えてもよい。
人間が自分ひとりで考えるとき、と言い換えてもいい。
いったい、「あるもの」が「あるもの」である、と思わせるのは
弁別される個別の事物・事象だけであるということがあるであろうか。
考えられるすべてのことが、「あらゆるもの」をあらしめているように思われる。
考つくことのできないものまでもが寄与しているとも考えているのだが
それを証明することは不可能である。
考えつくことのできないものも含めて「すべての」と言いたいし
言うべきだと思っているのだが
この「すべての」という言葉が不可能にさせているのである。
この限界を突破することはできるだろうか。
わからない。
表現を鍛錬してその限界のそばまで行き、その限界の幅を拡げることしかできないだろう。
しかも、それさえも困難な道で、その道に至ることに一生をささげても
よほどの才能の持ち主でも、報われることはほとんどないだろう。
しかし、挑戦することには、大いに魅力を感じる。
それが「文学の根幹に属すること」だと思われるからだ。
怠れない。
こころして生きよ。



蝶。

蝶を見なくなった。
「それは蝶ではない。」
あっ、ちょう。



友だちの役に立てるって、ええやん。友だちの役に立ったら、うれしいやん。

むかし付き合った男の子で
友だちから相談をうけてねって
ちょっとうっとうしいニュアンスで話したときに
「友だちの役に立てるって、ええやん。」
「友だちの役に立ったら、うれしいやん。」
と言ってたことを思い出した。
ああ
この子は
打算だとか見返りを求めない子なのね
自分が損するばかりでイヤだなあ
とかといった思いをしないタイプの人間なんだなって思った。
ちょっとヤンキーぽくって
バカっぽかったのだけれど、笑。
ぼくは見かけが、賢そうな子がダメで
バカっぽくなければ魅力を感じないんやけど
ほんとのバカはだめで
その子もけっしてバカじゃなかった。
顔はおバカって感じだったけど。

本当の親切とは
親切にするなどとは
考えもせずに
行われるものだ。
           (老子)



つぎの詩集に収録する詩を読み直してたら、西寺郷太ちゃんの名前を間違えてた。

『The Things We Do For Love。』を読み直してたら
郷太ちゃんの「ゴー」を「豪」にしてた。
気がついてよかった。
ツイッターでフォローしてくれてるんだけど
ノーナ・リーブズのリーダーで
いまの日本で、ぼくの知るかぎりでは、唯一の天才作曲家で
声もすばらしい。
ところで数ヶ月前
某所である青年に出会い
「もしかして、きみ、西寺郷太くん?」
ってたずねたことがあって
メイクラブしたあと
そのあとお好み焼き屋でお酒も飲んだのだけれど
ああ
これは、ヒロくんパターンね
彼も作曲家だった。
西寺郷太そっくりで
彼と出会ってすぐに
郷太ちゃんのほうから
ツイッターをフォローしてくれたので
いまだに、それを疑ってるんだけど
「違います。」
って、言われて、でも
そっくりだった。
違うんだろうけれどね。
話を聞くと
福岡に行ってたらしいから。
ちょっと前まで。
福岡の話は面白かった。
フンドシ・バーで
「フンドシになって。」
って店のマスターに言われて
なったら、まわりじゅうからお酒がふるまわれて
それで、ベロンベロンになって酔ったら
さわりまくられて、裸にされたって。
手足を振り回して暴れまくったって。
たしかにはげしい気性をしてそうだった。
ぼくに
「芸術家だったら、売れなきゃいけません。」
「田中さんをけなす人がいたら、
 そのひとは田中さんを宣伝してくれてるんですよ。
 そうでしょ? そう考えられませんか?」
ぼくよりずっと若いのに、賢いことを言うなあって思った。
ひとつ目の言葉には納得できないけど。
26歳か。
CMの曲を書いたり
バンド活動もしてるって言ってたなあ。
CMはコンペだって。
コンペって聞くと、うへ〜って思っちゃう。
芸術のわからないクズのような連中が
うるさく言う感じ。
そうそう
作曲家っていえば
むかし付き合ってたタンタンも有名なアーティストの曲を書いていた。
聞いてびっくりした。
シンガーソングライターってことになってる連中の
多くがゴーストライターを持ってるなんてね。
ひどい話だ。
ぼくの耳には、タンタンの曲は、どれも同じように聞こえたけど。
そういえば
CMで流れていた
伊藤ハムかな
あの太い声は印象的だった。
そのR&Bを歌っていた歌手とも付き合ってたけれど
後輩から言い寄られて困ったって言ってたけど
カミングアウトしたらいいのに。
「きみはタイプじゃないよ。」って。
もっとラフに生きればいのに。
タンタンどうしてるだろ。



アメリカ。

ノブユキ
「しょうもない人生してる。」
何年ぶりやろか。
「すぐにわかった?」
「わかった。」
「そしたら、なんで避けたん?」
「相方といっしょにきてるから。」
アメリカ。
ぼくが28歳で
ノブユキは20歳やったやろうか。
はじめて会ったとき
ぼくが手をにぎったら
その手を振り払って
もう一度、手をにぎったら、にぎり返してきた。
「5年ぶり?」
「それぐらいかな。」
シアトルの大学にいたノブユキと
付き合ってた3年くらいのことが
きょう、日知庵から帰る途中
西大路松原から見た
月の光が思い出させてくれた。
アメリカ。
「ごめんね。」
「いいよ。ノブユキが幸せやったらええんよ。」
「ごめんね。」
「いいよ、ノブユキが幸せやったらええんよ。」
アメリカ。
ノブちん。
「しょうもない人生してる。」
「どこがしょうもないねん?」
西大路松原から見た
月の光が思い出させてくれた。
アメリカ。
「どこの窓から見ても
 すっごいきれいな夕焼けやねんけど
 毎日見てたら、感動せえへんようになるよ。」
ノブユキ。
歯磨き。
紙飛行機。
「しょうもない人生してる。」
「どこがしょうもないねん?」
「ごめんね。」
「いいよ、ノブユキが幸せやったらええんよ。」
アメリカ。
シアトル。
「ごめんね。」
「ごめんね。」



偶然。

職員室で
あれは、夏休みまえだったから
たぶん、ことしの6月あたりだと思うのだけれど
斜め前に坐ってらっしゃった岸田先生が
「先生は、P・D・ジェイムズをお読みになったことがございますか?」
とおっしゃったので、いいえ、とお返事差し上げると
机越しにさっと身を乗り出されて、ぼくに、1冊の文庫本を手渡されたのだった。
「ぜひ、お読みになってください。」
いつもの輝く知性にあふれた笑顔で、そうおっしゃたのだった。
ぼくが受け取った文庫本には、
『ナイチンゲールの屍衣』というタイトルがついていた。
帰りの電車のなかで読みはじめたのだが
情景描写がとにかく細かくて
またそれが的確で鮮明な印象を与えるものだったのだが
J・G・バラードの最良の作品に匹敵するくらいに精密に映像を喚起させる
そのすぐれた描写の連続に、たちまち魅了されていったのであった。
あれから半年近くになるが
きょうも、もう7、8冊めだと思うが
ジェイムズの『皮膚の下の頭蓋骨』を読んでいて
読みすすめるのがもったいないぐらいにすばらしい
情景描写と人物造形の力に圧倒されていたのであった。
彼女の小説は、手に入れるのが、それほど困難ではなく
しかも安く手に入るものが多く、
ぼくもあと1冊でコンプリートである。
いちばん古書値の高いものをまだ入手していないのだが
『神学校の死』というタイトルのもので
それでも、2000円ほどである。
彼女の小説の多くを、100円から200円で手に入れた。
平均しても、せいぜい、300円から400円といったところだろう。
送料のほうが高いことが、しばしばだった。
いちばんうれしかったのは
105円でブックオフで
『策謀と欲望』を手に入れたときだろうか。
それを手に入れる前日か前々日に
居眠りしていて
ヤフオクで落札し忘れていたものだったからである。
そのときの金額が、100円だっただろうか。
いまでは、その金額でヤフオクに出てはいないが
きっと、ぼくが眠っているあいだに、だれかが落札したのだろうけれど
送料なしで、ぼくは、まっさらに近いよい状態の『策謀と欲望』を
105円で手に入れることができて
その日は、上機嫌で、自転車に乗りまわっていたのであった。
6時間近く、通ったことのない道を自転車を走らせながら
何軒かの大型古書店をまわっていたのであった。
きょうは、昼間、長時間にわたって居眠りしていたので
これから読書をしようと思っている。
もちろん、『皮膚の下の頭蓋骨』のつづきを。
岸田先生が、なぜ、ぼくに、ジェイムズの本を紹介してくださったのか
お聞きしたことがあった。
そのとき、こうお返事くださったことを記憶している。
「きっと、お好きになられると思ったのですよ。」
もうじき、50歳にぼくはなるのだけれど
この齢でジェイムズの本に出合ってよかったと思う。
ジェイムズの描写力を味わえるのは
ある年齢を超えないと無理なような気がするのだ。
偶然。
さまざまな偶然が、ぼくを魅了してきた。
これからも、さまざまな偶然が、ぼくを魅了するだろう。
偶然。
さまざまな偶然が、ぼくをつくってきた。
これからも、さまざまな偶然が、ぼくをつくるだろう。
若いときには、齢をとるということは
才能を減少させることだと思い込んでいた。
記憶力が減少して、みじめな思いをすると思っていた。
見かけが悪くなり、もてなくなると思っていた。
どれも間違っていた。
頭はより冴えて
さまざまな記憶を結びつけ
見かけは、もう性欲をものともしないものとなり
やってくる多くの偶然に対して
それを受け止めるだけの能力を身につけることができたのだった。
長く生きること。
むかしは、そのことに意義を見いだせなかった。
いまは
長く生きていくことで
どれだけ多くの偶然を引き寄せ
自分のものにしていくかと
興味しんしんである。
読書を再開しよう。
読書のなかにある偶然もまた
ぼくを変える力があるのだ。


骨。

  田中宏輔






どの、骨で
鳥をつくらうか。

どの、骨で
鳥をつくらうか。

手棒(てんぼう)の、骨で
鳥をつくらう。

その、指は
翼となる。

その、甲は
胸となる。

鳥の、姿に似せて
骨を繋ぐ。

白い、骨で
鳥をこしらへる。

白い、骨の
鳥ができあがる。

その、骨は
飛ばない。

石の、やうに
じつとしてゐる。

石の、やうに
じつとしてゐる。

首の、ない
鳥だ。


II

どの、骨で
蛇をつくらうか。

どの、骨で
蛇をつくらうか。

傴僂(せむし)の、骨で
蛇をつくらう。

その、椎骨は
背骨となる。

どの、椎骨も
背骨となる。

蛇の、姿に似せて
骨を繋ぐ。

白い、骨で
蛇をこしらへる。

白い、骨の
蛇ができあがる。

その、骨は
這はない。

石の、やうに
じつとしてゐる。

石の、やうに
じつとしてゐる。

首の、ない
蛇だ。


III

どの、骨で
魚をつくらうか。

どの、骨で
魚をつくらうか。

蝦足(えびあし)の、骨で
魚をつくらう。

その、踝は
背鰭となる。

その、足指は
尾鰭となる。

魚の、姿に似せて
骨を繋ぐ。

白い、骨で
魚をこしらへる。

白い、骨の
魚ができあがる。

その、骨は
泳がない。

石の、やうに
じつとしてゐる。

石の、やうに
じつとしてゐる。

首の、ない
魚だ。


IV

どの、骨で
神殿をつくらうか。

どの、骨で
神殿をつくらうか。

骨無(ほねなし)の、骨で
神殿をつくらう。

その、肋骨(あばらぼね)は
屋根となる。

その、椎骨は
柱となる。

神殿の、形に似せて
骨を繋ぐ。

白い、骨で
神殿をこしらへる。

白い、骨の
神殿ができあがる。

この、神殿は
不具のもの。

この、神殿は
不具の者たちのもの。

来(こ)よ、来たれ
不具の骨たちよ。

纏つた、肉を
引き剥がし。

縺れた、血管(ちくだ)を
引きちぎり。

ここに、来て
objetとなるがよい。

ここに、来て
objetとなるがよい。




それらは、分骨された
片端の骨鎖(ほねぐさり)。

その、生誕は
呪ひ。

その、死は
祝福。

その、屍骨(しかばね)は
埋葬されず。

糞の、門の外に
棄てられる。

或は、生きたまま
火にくべられる。

片端の骨鎖(ほねぐさり)、
骨格畸形のobjet。

骨を、割き
骨を砕く。

骨を、接ぎ
骨を繋ぐ。

白い、骨で
objetをこしらへる。

白い、骨の
objetができあがる。

その、骨は
動かない。

なにを、する
こともない。

なにを、する
こともない。

神に、祈る
こともない。

神に、祈る
こともない。

石の、やうに
じつとしてゐる。

石の、やうに
じつとしてゐる。

首の、ない
objetだ。


陽の埋葬

  田中宏輔




 よい父は、死んだ父だけだ。これが最初の言葉であった。父の死に顔に触れ、わたしの指が読んだ、
死んだ父の最初の言葉であった。息を引き取ってしばらくすると、顔面に点字が浮かび上がる。それ
は、父方の一族に特有の体質であった。傍らにいる母には読めなかった。読むことができるのは、父
方の直系の血脈に限られていた。母の目は、父の死に顔に触れるわたしの指と、点字を翻訳していく
わたしの口元とのあいだを往還していた。父は懺悔していた。ひたすら、わたしたちに許しを請うて
いた。母は、死んだ父の手をとって泣いた。──なにも、首を吊らなくってもねえ──。叔母の言葉
を耳にして、母は、いっそう激しく泣き出した。

 わたしは、幼い従弟妹たちと外に出た。叔母の膝にしがみついて泣く母の姿を見ていると、いった
い、いつ笑い出してしまうか、わからなかったからである。親戚のだれもが、かつて、わたしが優等
生であったことを知っている。いまでも、その印象は変わっていないはずだ。死んだ父も、ずっと、
わたしのことを、おとなしくて、よい息子だと思っていたに違いない。もっとはやく死んでくれれば
よかったのに。もしも、父が、ふつうに臨終を迎えてくれていたら、わたしは、死に際の父の耳に、
きっと、そう囁いていたであろう。自販機のまえで、従弟妹たちがジュースを欲しがった。

 どんな夜も通夜にふさわしい。橋の袂のところにまで来ると、昼のあいだに目にした鳩の群れが、
灯かりに照らされた河川敷の石畳のうえを、脚だけになって下りて行くのが見えた。階段にすると、
二、三段ほどのゆるやかな傾斜を、小刻みに下りて行く、その姿は滑稽だった。

 従弟妹たちを裸にすると、水に返してやった。死んだ父は、夜の打ち網が趣味だった。よくついて
行かされた。いやいやだったのだが、父のことが怖くて、わたしには拒めなかった。岸辺で待ってい
るあいだ、わたしは魚籠のなかに手を突っ込み、父が獲った魚たちを取り出して遊んだ。剥がした鱗
を、手の甲にまぶし、月の光に照らして眺めていた。

 気配がしたので振り返った。脚の群れが、すぐそばにまで来ていた。踏みつけると、籤細工のよう
に、ポキポキ折れていった。


*


死んだものたちの魂が集まって/ひとつの声となる/わたしは神を吐き出した/神は罅割れた指先で
/日割れた地面を引っ掻いた/川原の石で頭を叩き潰された小魚たち/小魚たち/シジミも/ツブも
/死んだものたちの魂が集まって/ひとつの声となる/わたしは神を吐き出した/罅割れた指先は川
となり/死んだものたちの囁き声が満ちていく/せせらぎに耳を澄ます水辺で枯れた葦/きらきらと
光り輝く神の指/神の指/神の指先に光る黄金の川/死んだものたちの魂が集まって/ひとつの声と
なる/わたしは神を吐き出した/神は分裂し/ひとりは死んだ/神は分裂し/ひとりは精霊となった
/死んだ神は少年の姿となって川を遡る/川を遡っていく/右の手に巨大なシャモジを持った精霊が
後を追う/後を追って行く/


enema/浣腸器


/美しい/少年は服を剥ぎ取られ/美しい/少年は後ろ手に腕を縛られ/美しい/少年は尻を突き出
し/美しい/巨大なシャモジが振り下ろされる/美しい/巨大なシャモジが振り下ろされる/美しい
/少年の喘ぎ声/美しい/少年の喘ぎ声/美しい/川原の石が叫ぶ/美しい/川原の石が叫ぶ/美し
い/その縛めをほどけ/美しい/その縛めをほどけ/と/美しい/川原の石が叫ぶ/美しい


/enema/浣腸器


肛門に挿入された浣腸器/川原に響き渡る喘ぎ声/肛門に挿入された浣腸器/川原に響き渡る喘ぎ声
/波打つ身体/激しく震える少年の身体/足を開いて四つん這いになった少年は/身体を震わせなが
ら脱糞する/ブブッブブッ/ブッブッ/シャー/シャー/と/激しく身体を震わせながら脱糞する/
きらきらと光り輝く神の指/神の指/神の指先に光る黄金の川/神の指先は黄金の川に輝いていた/
少年はジャムパンを頬張りながら/ゴクゴクと牛乳を飲んでいる/川原に向かって/ゴクゴクと牛乳
を飲んでいる/棒を飲んで死んだヒキガエル/ヒキガエルは棒を飲んで死んでいた/toad/Tod/ヒ
キガエル/死/シッ/toad/Tod/ヒキガエル/死/シッ/


*


 月の夜だった。欠けるところのない、うつくしい月が、雲ひとつない空に、きらきらと輝いていた。
また来てしまった。また、ぼくは、ここに来てしまった。もう、よそう、もう、よしてしまおう、と、
何度も思ったのだけれど、夜になると、来たくなる。夜になると、また来てしまう。さびしかったの
だ。たまらなく、さびしかったのだ。
 橋の袂にある、小さな公園。葵公園と呼ばれる、ここには、夜になると、男を求める男たちがやっ
て来る。ぼくが来たときには、まだ、それほど来ていなかったけれど、月のうつくしい夜には、たく
さんの男たちがやって来る。公衆トイレで小便をすませると、ぼくは、トイレのすぐそばのベンチに
坐って、煙草に火をつけた。
 目のまえを通り過ぎる男たちを見ていると、みんな、どこか、ぼくに似たところがあった。ぼくよ
り齢が上だったり、背が高かったり、あるいは、太っていたりと、姿、形はずいぶんと違っていたの
だが、みんな、ぼくに似ていた。しかし、それにしても、いったい何が、そう思わせるのだろうか。
月明かりの道を行き交う男たちは、みんな、ぼくに似て、瓜ふたつ、そっくり同じだった。
 樹の蔭から、スーツ姿の男が出てきた。まだらに落ちた影を踏みながら、ぼくの方に近づいてきた。
「よかったら、話でもさせてもらえないかな?」
 うなずくと、男は、ぼくの隣に腰掛けてきて、ぼくの膝の上に自分の手を載せた。
「こんなものを見たことがあるかい?」
 手渡された写真に目を落とすと、翼をたたんだ、真裸の天使が微笑んでいた。
「これを、きみにあげよう。」
 胡桃ぐらいの大きさの白い球根が、ぼくの手のひらの上に置かれた。男の話では、今夜のようなう
つくしい満月の夜に、この球根を植えると、一週間もしないうちに、写真のような天使になるという。
ただし、天使が目をあけるまでは、けっして手で触れたりはしないように、とのことだった。
「また会えれば、いいね。」
 男は、ぼくのものをしまいながら、そう言うと、出てきた方とは反対側にある樹の蔭に向かって歩
き去って行った。

 瞳もまだ閉じていたし、翼も殻を抜け出たばかりの蝉の翅のように透けていて、白くて、しわくち
ゃだったけれど、六日もすると、鉢植えの天使は、ほぼ完全な姿を見せていた。眺めていると、その
やわらかそうな額に、頬に、唇に、肩に、胸に、翼に、腰に、太腿に、この手で触れたい、この手で
触れてみたい、この手で触りたい、この手で触ってみたいと思わせられた。そのうち、とうとう、そ
の衝動を抑え切れなくなって、舌の先で、唇の先で、天使の頬に、唇に、その片方の翼の縁に触れて
みた。味はしなかった。冷たくはなかったけれど、生き物のようには思えなかった。血の流れている
生き物の温かさは感じ取れなかった。舌の先に異物感があったので、指先に取ってみると、うっすら
とした小さな羽毛が、二、三枚、指先に張りついていた。鉢植えの上に目をやると、瞳を閉じた天使
の顔が、苦悶の表情に変っていた。ぼくの舌や唇が触れたところが、傷んだ玉葱のように、半透明の
茶褐色に変色していた。目を開けるまでは、けっして触れないこと……。あの男の言葉が思い出され
た。
 机の引き出しから、カッター・ナイフを取り出して、片方の翼を切り落とした。すると、その翼の
切り落としたところから、いちじくを枝からもぎ取ったときのような、白い液体がしたたり落ちた。

 その後、何度も公園に足を運んだけれど、あの男には、二度と出会うことはなかった。


虫、虫、虫。

  田中宏輔




蚯蚓


 朝、目が覚めたら、自分のあそこんところで、もぞもぞもぞもぞ動くものがあった。寝たまま、頭
だけ起こして目をやると、タオルケットの下で、くねくねくねくね踊りまわるものがあった。まるで
あのシーツをかぶった西洋のオバケみたいだった。あわててタオルケットをめくると、パンツの横か
ら、巨大な蚯蚓が、頭だか尻尾だか知らないけど、身をのけぞらしてのたくりまわっていた。とっさ
に右手で払いのけたら、ものすっごい激痛をあそこんところに感じた。起き上がって、パンツを一気
にずり下ろしてみると、そこには、ついてるはずのぼくのチンポコじゃなくって、ぐねぐねぐねぐね
のたくりまわっている巨大な蚯蚓がついていた。上に下に横に斜めに縦横無尽にぐぬぐぬぐぬぐぬの
たくりまわっていた。一瞬めまいらしきものを感じたけど、ぼくは、すぐに立ち直った。だって、あ
のカフカのグレゴール・ザムザよりは、不幸の度合いが低いんじゃないかなって思って。ザムザは、
全身が虫になってたけど、ぼくの場合は、あそこんところだけだから。パンツのなかにおさめて、上
からズボンをはけば、外から見て、わかんないだろうからって。こんなもの、ごくささいな変身なん
だからって、そう思えばいいって、自分に言い聞かせて。情けないけど、そうでも思わなきゃ、学校
もあるんだし。そうだ、とりあえず、学校には行かなくちゃならないんだから。ぼくは、以前チンポ
コだった蚯蚓を握ってみた。いきなり強く握ったので、そいつはぐぐぐって持ち上がって、キンキン
に膨らんだ。口らしきものから、カウパー腺液のように粘り気のある透明な液体が、つつつっと糸を
引きながら垂れ落ちた。気持ちよかった。ずいぶんと大きかった。そうだ。以前のチンポコは短小ぎ
みだった。おまけにそれは包茎だった。キンキンに勃起しても、皮が亀頭をすっぽりと包み込んでい
た。無理にひっぺがそうとすれば、亀頭の襟元に引っかかって、それはもう、ものすっごい激痛が走
ったんだから。もしかすると、この新しいチンポコの方がいいのかもしんない。そうだ。そうだとも。
こっちのほうがいい。ぼくは制服に着替えはじめた。
 電車のなかは混んでて、ぼくは吊革につかまって立っていた。電車の揺れに、ぼくのあそこんとこ
ろが反応して、むくむくむくっと膨らんできた。前の座席に坐ってる上品そうなおばさんが、小指を
立てた右手でメガネをすり上げて、ぼくのあそこんところを見つめた。とっさにぼくは、カバンで前
を隠した。そしたら、よけいに、ぼくの蚯蚓は、カバンにあたって、ぐにぐにぐにぐにあたって、あ
っ、あっ、あはっ、後ろにまわって、あっ、あれっ、そんな、だめだったら、あっ、あれっ、あっ、
あつっ、つつっ、いてっ、ててっ、あっ、でも、あれっ、あっ……



*



とっても有名な蠅なのよ。


とっても有名な蠅なのよ、あたいは。
教科書に載ってるのよ、それも理科じゃなくって
国語なのよ、こ・く・ご!
尾崎一雄っていう、オジンの額の皺に挟まれた
とっても有名な蠅なのよ
あたいは。

でもね、あたいが雄か雌か、なあんてこと
だれも、知っちゃいないんだから
もう、ほんと、あったま、きちゃうわ。

これでも、れっきとした雄なんですからね。

フンッ。

(あっ、ここで、一匹、場内に遅れてやってまいりました!
 武蔵の箸に挟まれたという、かの有名な蠅であります。)

──おいっ、こらっ、オカマ、変態、
  おまえより、おれっちの方が有名なんだよ。

あたいの方が有名よ。

──なにっ、こらっ、おいっ、まてっ、まてー。

(あーあ、とうとう、ぼくの頭の上で、二匹の蠅が
 追っかけっこしはじめましたよ。作者には、もう
 どっちがどっちだかわかんなくなっちゃいました。)

(おっと、二匹の蠅は、舞台を台所に移した模様です。)

──あっ、ちきしょう、こりゃあ、蠅取り紙だっ。

いやっ、いやっ、いやー、羽がくっついちゃったわ。

(そっ、それが、ごく自然な蠅の捕まり方ですよ。) 



*



羽虫


真夜中、夜に目が覚めた。
凄々まじい羽音に起こされた。
はらっても、はらっても
黒い小さな塊が、音を立てて
いくつも、いくつも纏わりついてきた。
そういえば、ここ、二、三日というもの
やけに、羽虫に纏わりつかれることが多かった。
きのうは、喫茶店で、口がストローに触れた瞬間に
花鉢からグラスのなかへ、羽虫が一匹、飛び込んできた。
今朝などは、起き上がってみると
シーツの上に、無数の黒い染みが張りついていたのだ。
と、そうだ、思い出した。
ぼくは思い出した。
ぼくは、とうに死んでいたんだ。
おとといの朝だった。
目が覚めたら、ぼくは死んでいた。
ぼくは、ぼくのベッドの上で死んでいたのだ。
そうだ。
そして、ぼくは
ぼくの死体を部屋の隅に引きずっていったんだ。
あれだ。
あのシーツの塊。
ぼくは、シーツを引っぺがしに立ち上がった。
ぼくがいた。
目をつむって、口を閉じ
膝を抱いて坐っていた。
すえたものの、それでいて
どこかしら、甘い匂いがした。
それは、けっして不快な臭いではなかったけれど
腐敗が進行すれば臭くなるだろう。
ぼくは、ぼくの死骸を抱え運び
自転車の荷台に括りつけた。
ぼくの死骸を捨てにいくために。


(不連続面)


真夜中、夜になると
ぼくは、ぼくの死骸を自転車の荷台に括りつけ
自転車を駆って、夜の街を走りまわる。

真夜中、夜になると
ぼくは、ぼくの死骸の捨て場所を探しさがしながら
自転車を駆って、夜の街を走りまわる。

踏み切り、
踏み切り、
真夜中、夜の駅。

ぼくの足は、いつもここで止まる。
ここに、ぼくの死骸を置いていこうか
どうしようか、と思案する。

でも、必ず
ぼくは、ぼくの死骸といっしょに
自分の部屋に戻ってくることになるのだ。



*



あめんぼう


あめんぼうは、すばらしい数学者です。
水面にすばやく円を描いてゆきます。



*






夏の一日
わたしは蝶になりましょう。

蝶となって
あなたの指先にとまりましょう。

わたしは翅をつむって
あなたの口づけを待ちましょう。

あなたはきっと
やさしく接吻してくれるでしょう。



*






死に
たかる蟻たち
夏の羽をもぎ取り
脚を引き千切ってゆく
死の解体者
指の先で抓み上げても
死を口にくわえてはなさぬ
殉教者
死とともに
首を引き離し
私は口に入れた
死の苦味
擂り潰された
死の運搬者






*






髑髏山の蟻塚は
罪人たちの腐りかけた屍体である。

巣穴に手を入れると
蟻どもがずわずわと這い上がってきた。

たっぷりと味わうがいい。
わたしの肉体は余すところなく美味である。

じっくりと味わうがいい。
とりわけ手と唇(くち)と陰茎は極上である。



*



蛞蝓


真夜中、夜の公衆便所
  消毒済の白磁の便器のなかで
    妊婦がひとり、溺れかけていた
      壁面の塗料は、鱗片状に浮き剥がれ
       そのひと剥がれ、ひと剥がれのもろもろが
       黒光る小さな、やわらかい蛞蝓となって
      明かり窓に向かって這い上っていった
    女が死に際に月を産み落とした
  血の混じった壁面の体液が
 月の光をぬらぬらと
なめはじめた



*



蝸牛


窓ガラスに

雨垂れと

蝸牛

頬伝う

私の涙と

あなたの指



*



自涜する蝸牛


  ユダの息子オナンは、故意に己の精を地にこぼした。そのため主は彼を殺された。(創世記三八・九−十)


自涜する蝸牛。
屑屑(せつせつ)と自慰に耽る雌雄同体(アンドロギユヌス)。
人葬所(ひとはふりど)にて快楽を刺青するわたくし、わたくしは
──溶けてどろどろになる蝸牛。*

さもありなん。
この身に背負つてゐるのは、ただの殻ではない。
銅(あかがね)の骨を納めた骨壺(インクつぼ)である。

湿つた麺麭(パン)に青黴が生へるやうに
わたくしの聚(あつ)めた骨は日に日に錆びてゆく。

──死よ、おまへの棘はどこにあるのか。**

──わたくしの棘は言葉にある。
その水銀(みずがね)色の這ひずり跡は
緑青(あをみどり)色の文字(もんじ)となつて
墓石に刻まれる。

──死の棘は罪である。***

しかり。
罪とは言葉である。
言葉からわたくしが生まれ
そのわたくしがまた言葉を産んでゆく。

自涜する蝸牛。
屑屑(せつせつ)と自慰に耽る雌雄同体(アンドロギユヌス)。
両性具有(ふたなり)のアダム、悲しみの聖母マリア(マテル・ドロローサ)。

日毎、繰り返さるる受胎と出産、
日々、生誕するわたくし。



*: Psalms 58.8  **: 1 Corinthians 15.55  ***: Corinthians 15.56



*



祈る蝸牛


小夜(さよ)、小雨(こさめ)降りやまぬ埋井(うもれゐ)の傍(かた)へ、
遠近(をちこち)に窪(くぼ)溜まる泥水、泥の水流るる廃庭を

葉から葉へ、葉から葉へと這ひ伝はりながら
わたしは歳若い蝸牛のあとを追つた。

とうに死んだ蝸牛が、葉腋(えふえき)についたきれいな水を
おだやかな貌つきで飲んでゐた。

きれいな水を飲むことができるのは
雨の日に死んだ蝸牛だけだと聞いてゐた。

見澄ますと、雨滴に打たれて震へ揺れる病葉(わくらば)の上から
あの歳若い蝸牛がわたしを誘つてゐた。

近寄つて、わたしは、わたしの爪のない指を
そろり、そろりと、のばしてみた。

、わたしの濡れた指が、その蝸牛の陰部に触れると
その蝸牛もまた、指をのばして、わたしの陰部に触れてきた。

わたしたちは、をとこでもあり、をんなでもあるのだと
 ──わたしたちは、海からきたの、でも、もう海には帰れない……

わたしたちは、をとこでもなく、をんなでもないのだと
 ──魂には、もう帰るべきところがないのかもしれない……

この快楽の交尾(さか)り、激しく揺れる病葉(わくらば)、
手を入れて(ふかく、ふかく、さしいれて)婪(むさぼ)りあふわたしたち。

わたしたちは婪(むさぼ)りあはずには生きてはゆけないもの。

──ああ、雨が止んでしまふ。

濡れた指、繰り返さるる愛撫、愛撫、恍惚の瞬間
、瞬間、その瞬間ごとに、

わたしは祈つた、

──死がすみやかに訪れんことを。



*



蟷螂


  蟷螂(たうらう)よ その身に棲まふ禍(まが)つもの おまへの腹はおまへを喰らふ


 小学生のころに、道端とかで、カマキリの姿を見つけたりすると、ぼくは、よく踏みつけて、ぐち
ゃぐちゃにしてやった。踵のところで、地面にぎゅいぎゅいこすりつけてやった。ときには、そのほ
っそりとしたやわらかい胴体を、指で抓み上げて、上下、真っ二つにぶっちぎってやったりもした。
すると、お腹のなかから、気味の悪い黒褐色の細長いものが、ぐにゅるにゅるにゅるぐにゅるにゅる
と、のたくりまわりながら飛び出てきた。本体のカマキリのほうは、とっくに死んでいるのに、お腹
のなかに潜んでいたそいつは、踏んづけてやっても、なかなか死ななかった。バラバラにしてやって
も、しぶとく動いていた。ぼくは、そいつがカマキリのほんとうの正体か、それとも、もうひとつ別
の姿か、あるいは、もうひとつ別の命のようなものだと思っていた。そいつがハリガネ虫とかと呼ば
れる、カマキリとはぜんぜん別個の生き物であるということを知ったのは、中学校に入ってからのこ
とだった。そいつは、カマキリのお腹のなかに棲みつきながら、カマキリの躯を内側から蝕んでいく
というのだ。そのことを知って、カマキリを殺すことがつまらなくなってしまった。そしたら、とた
んに、カマキリの姿を目にしなくなった。見かけることがなくなったのである。不思議なものだ。そ
れまで、あんなによく出くわしていたというのに。
 カマキリは、学名(英名とも)を Mantis といい、それは「巫」の意を表わすギリシア語に由来する
という(『ファーブル昆虫記』古川晴男訳)。たしかに、カレッジ・クラウン英和辞典で調べると、語
源は、ギリシア語のアルファベット転記でも mantis であった。神託(oracle)を告げるというのだ。
 ぼくは夢想する。カマキリが、蝶の姿となったぼくの躯を抱きしめ、ぼくを頭からムシャムシャと
むさぼり喰っていく様を。まるで陸(おか)に上がったばかりの船員が女の身体にむしゃぶりつくよ
うに。その荒々しさが、ぼくは好きだ。二の腕に黛色の入れ墨のある若くて逞しい船員の、潮の匂い
がたっぷりと沁み込んだ、男らしいゴツゴツとした太い指。その太い指に引っ掻きまわされて、くし
ゃくしゃにされる女の髪の毛。それは、ぼくの翅だ。カマキリは、その大きなトゲトゲギザギザの前
脚で、ぼくの美しい翅をバラバラに引き裂いてゆくのだ。そのヴィジョンは、ぼくを虜にする。
 蝶のやうな私の郷愁!(三好達治『郷愁』)。ぼくの目は憶えている。ぼくの美しい翅が、少年の
指に粉々に押し潰されたことを(ヘッセ『少年の日の思い出』高橋健二訳)。ぼくの目は憶えている。
その少年の指が、ぼく自身の指であったことを。ぼくの指が、ぼくの美しい翅を、粉々に押し潰して
いったことを。



*






コンコン、と
ノックはするけど

返事もしないうちに
入ってくるママ

机の上に
紅茶とお菓子を置いて

口をあけて
パクパク、パクパク

何を言ってるのか
ぼくには、ちっとも聞こえない

聞こえてくるのは
ぼくの耳の中にいる虫の声だけだ

ギィーギィー、ギィーギィー
そいつは鳴いてた

ママが出てくと
そいつが耳の中から這い出てきた

頭を傾けて
トントン、と叩いてやると

カサッと
ノートの上に落っこちた

それでも、そいつは
ギィーギィー、ギィーギィー

ちっとも
鳴きやまなかった

だから、ぼくは
コンパスの針で刺してやった

ノートの上に
くし刺しにしてやった

そうして、その細い脚を
カッターナイフで刻んでやった

先っちょの方から
順々に刻んでやった

そのたびごとに
そいつは大きな声で鳴いた

短くなった脚、バタつかせて
ギィーギィー、ギィーギィー鳴いた

そいつの醜い鳴き顔は
顔をゆがめて叱りつけるママそっくりだった

カッターナイフの切っ先を
顔の上でちらつかせてやった

クリックリ、クリックリ
ちらつかせてやった

そしたら、そいつは
よりいっそう大きな声で鳴いた

ギィーギィー、ギィーギィー
大きな声で鳴きわめいた

ぼくの耳を楽しませてくれる
ほんとに面白い虫だった


THE SANDWITCHES’S GARDEN。

  田中宏輔




MELBA TOAST & TURTLE SOUP。
  カリカリ・トーストと海亀のスープの物語。



二年くらい前、ある詩人に、萩原朔太郎は好きですか、と尋ねられた。嫌な質問だった。というのも、
この手の質問では、たいていの場合、好きか、嫌いか、といった二者択一的な返答が期待されており、
それが、詩人の好悪の念と同じものであるか、ないかで、その後の会話がスムーズなものになったり、
ならなかったりするからである。しかも、彼は用心深く警戒し、先に自分の好き嫌いは言わないので
ある。好きではないですけど、別に嫌いでもありません。ぼくの返事を聞くと、詩人は顔をしかめた。


しきりに電話が鳴っていた。
                        (コルターサル『石蹴り遊び』28、土岐恒二訳)
まだうとうととしながらも
                 (プルースト『失われた時を求めて』囚われの女、鈴木道彦訳)
わたしは受話器をとりあげた。
                (ボルヘス『伝奇集』第I部・八岐の園・八岐の園、篠田一士訳)

自分の気持ちを正直に口にしただけなのに、詩人は不機嫌そうな顔をして黙ってしまった。唐突にさ
れた質問だったので、つい、正直に答えてしまったのだ。そこで、気まずい雰囲気を振り払うため、
ぼくの方から、でも、亀の詩は好きですよ、と言った。すると、彼は、人を疑うような目つきをして、
そんな詩がありましたか、と訊いてきた。ぼくは、ほら、あのひっくり返った姿で、四肢を突き出し、
ずぶずぶと水底に沈んでゆく、あの亀の詩ですよ、と言った。詩人はさらに眉根を寄せて首を傾げた。


ん?  
                  (タニス・リー『死の王』巻の一・第三部・六、室住信子訳)
電話の声は  
          (ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』フェイディング、三好郁朗訳)
聞き覚えのある声だった。  
                         (ヘッセ『デーミアン』第七章、吉田正巳訳)

あとで調べてみると、朔太郎の「亀」という詩には、「この光る、/寂しき自然のいたみにたへ、/
ひとの心霊にまさぐりしづむ、/亀は蒼天のふかみにしづむ。」とあるだけで、逆さまになってずぶ
ずぶと水底に沈んでいく亀のヴィジョンは、ぼくが勝手に拵えたイマージュであることがわかった。
そういえば、大映の「ガメラ」シリーズで、バイラスという、イカの化け物のような怪獣に腹をえぐ
られたガメラが、仰向けになって空中を落下していくシーンがあった。その映画の影響かもしれない。


もしもし?  
                       (プイグ『赤い唇』第二部・第十回、野谷文昭訳)
空耳だったのかしら、  
                 (サリンジャー『フラニーとゾーイー』ゾーイー、野崎 孝訳)
ぼくはあたりを見まわした。   
                         (ヘッセ『デーミアン』第七章、吉田正巳訳)

ひと月ほど前のことだ。俳句を勉強するために、小学館の昭和文学全集35のページを繰っていると、
石川桂郎の「裏がへる亀思ふべし鳴けるなり」という句に目がとまった。裏返しになった亀が、悲鳴
を上げながら、突き出した四肢をばたばたさせてもがいている姿に、強烈な印象を受けた。そして、
海にまで辿り着くことができなかった海亀の子が、ひっくり返った姿のまま、干からびて死んでいく
という、より「陽の埋葬」的なイメージを連想した。熱砂の上で目を見開きながら死んでいくのだ。


壁に   
                     (トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳)
絵が一枚かけてあった。  
                         (ヘッセ『デーミアン』第七章、吉田正巳訳)
死んだ父の肖像だった。   
                                   (原 民喜『夢の器』)

ここひと月ばかり、様々な俳人たちの句に目を通していったが、読むうちに、俳句の面白さに魅せら
れ、勉強という感じがしなくなっていった。とりわけ、村上鬼城、西東三鬼、三橋鷹女、渡辺白泉な
どの作品に大いに刺激された。鬼城の「何も彼も聞知つてゐる海鼠かな」という句ひとつにしても、
それを知ることで、ぼくの感性はかなり変化したはずである。穏やかな海の底にいる、一匹の海鼠が、
海の上を吹き荒れる嵐に耳を澄ましているというのだ。この静と動のコントラストは、実に凄まじい。


亡霊は生き返らない。  
                                   (イザヤ書二六・一四)
パパは死んじゃったんだ。ぼくのお父さんは死んでしまったんだ。
                   (ジョイス『ユリシーズ』10・さまよえる岩、高松雄一訳)
どこか別の世界にいるのだった。
                     (ル・クレジオ『リュラビー』豊崎光一・佐藤領時訳)

河出書房新社の現代俳句集成・第四巻で、鬼城を読んでいると、「亀鳴くと嘘をつきたる俳人よ」と
「だまされて泥亀きゝに泊りけり」の二句を偶然、目にした。次の日に、新潮社の日本詩人全集30を
めくっていると、これまた富田木歩の「亀なくとたばかりならぬ月夜かな」という、亀が鳴かないこ
とを前提として詠まれたものを見かけた。桂郎の句では、亀は鳴くものとして扱われていたが、別に、
亀が鳴くことには疑問を持たなかった。これまで、亀の鳴き声など耳にしたことはなかったけれど。


絵の
                       (ウィーダ『フランダースの犬』3、村岡花子訳)
唇が動く。
                          (サルトル『嘔吐』白井浩司訳、句点加筆)
父はわたしにたずねた。
                  (ズヴェーヴォ『ゼーノの苦悶』4、父の死、清水三郎治訳)

このように、亀が鳴くことを否定する句をつづけて目にすると、逆に、亀が鳴くことを前提とした句
が、数多く詠まれているのではないか、と思われてきた。そこで、歳時記にあたって調べることにし
た。角川の図説・俳句大歳時記・春の巻を見ると、「亀鳴く」が季語として掲げられていた。そこに
は、亀が鳴くものとして詠まれた句が、十あまりも載っていたが、前掲の木歩のものとともに、亀が
鳴かないものとして詠まれた、「亀鳴くと華人信じてうたがはず」という、青木麦斗の句もあった。


またかい。
                              (堀 辰雄『ルウベンスの偽画』)
同じ文句の繰り返しだ。
                          (セリーヌ『なしくずしの死』滝田文彦訳)
そこにはオウムがいるのかしら。
                (ヘッセ『クリングゾル最後の夏』カレーノの一日、登張正実訳)

講談社の作句歳時記を見ると、「カメには声帯、鳴管、声嚢もないので、鳴くわけはなく、俗説に基
づくものであるとされているが、かすかにピーピーと声を出すことはあるらしい」とあり、前掲の角
川の歳時記にも、「いじめるとシューシューという声を出すという」とあるが、「しかし、これらが
鳴き声といえるほどのものかどうかは疑わしい」ともあって、亀が鳴くとは断定していない。また、
教養文庫の写真・俳句歳時記には、「実際に鳴くわけではないが、春の季題として空想する」とある。


しかし、
        (ドストエーフスキー『カラマーゾフの兄弟』第一巻・第三篇・第三、米川正夫訳)
あのハンカチは一体どこでなくしたのかしら、
                  (シェイクスピア『オセロウ』第三幕・第四場、菅 泰男訳)
色は海の青色で
                           (梶井基次郎『城のある町にて』昼と夜)

動物の生態を歳時記で知ろうとするのは、間違ったことかもしれない。そう思って、平凡社の動物大
百科12を見ると、「一部のゾウガメの求愛と後尾にはゾウもねたむかと思われるほどのほえ声がとも
なうことがある」とあった。亀は鳴くのだ。しかし、前掲の句に詠まれたものは、大方のものが、沼
や池などに棲息する水生の亀であって、ゾウガメのような大型のリクガメではなかったはずである。
知りたいのは、昔から日本にいる、イシガメやクサガメといった亀が、鳴くかどうか、なのである。


これがまた
              (カミロ・ホセ・セラ『パスクアル・ドゥアルテの家族』有本紀明訳)
地雷を埋めた浜辺だった。
                    (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』23、菅野昭正訳)
どこの浜辺もすべて地雷が埋めてある。
               (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』7、菅野昭正訳、句点加筆)

文献に頼るのはやめ、京都市動物園に電話をかけて、直接、訊くことにした。以下は、飼育係長の小
島一介氏の話である。亀は鳴かない。たしかに、リクガメは、交尾のときや、痛みを受けたときに、
呼吸にともなって音を出したり、カゼをひいて、鼻水のたまった鼻から音を出したりすることはある。
しかし、それはみな、偶然に出る音である。おそらく、春の日にあたるため、水から上がってきた亀
たちが、人の気配に驚いて、トポトポトポと、水に飛び込む音を、「亀鳴く」としたのだろう、と。


そういえば、
                   (メーテルリンク『青い鳥』第四幕・第八景、鈴木 豊訳)
芥川龍之介が
                         (室生犀星『杏っ子』第二章・誕生・迎えに)
海の方へ散歩しに行った。
                       (ル・クレジオ『モンド』豊崎光一・佐藤領時訳)

トポトポトポが、亀の鳴く声とは、ぼくには思いもよらない、ユニークな見方だった。その光景は、
カゼをひいた亀が、ピュルピュルと鼻を鳴らす姿とともに、ほんとに可愛らしかった。電話を切って、
図書館に行くと、教育社の古今和歌歳時記の背表紙が目に入った。「実は呼吸器官である」とあった。
小学館の日本語大辞典・第三巻を繙くと、「これは鳴くのではなく、水をふくんで呼吸する音である
という」。で、また、何気なく歳時記を見ていると、ふと、「蚯蚓鳴く」という季語に目がとまった。


どうしてこんなにたくさん?
                  (ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』第I部、水野忠夫訳)
ほら、さわってごらん。
                  (ヒメネス『プラテーロとぼく』9・いちじく、長南 実訳)
何時かはみんな吹きとばされてしまふのだ。
                          (ポール・フォール『見かけ』堀口大學訳)


*



LAUGHING CHICKENS IN THE TAXI CAB。



学校の帰りに、駅のホームで電車が来るのを待っていると、女子学生が二人、しゃべりながら階段を
下りてきた。ぼくが腰かけてたベンチに、一つ空けて並んで坐った。「こんど、太宰治が立命に講演
しに来るねんて」「そやねんてなあ。あたし、むかしの人やと思てたわ」「どんな感じやろ」「写真
どおりやろか」。ぼくは、太宰のことを訊こうとしたが、思い直してやめた。声をかけるのもためら
われるぐらい、二人とも美人だったのだ。間もなく電車が来た。ぼくは、違う入り口から乗り込んだ。


彼女はどこに埋められたの?
                      (ナボコフ『ロリータ』第二部・32、大久保康雄訳)
ぼくのハンカチの中だ。
                  (エーリッヒ=ケストナー『飛ぶ教室』第四章、山口四郎訳)
迷わないように
                       (ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』8、鼓 直訳)

去年の夏休みは、アキちゃんと、賀茂川の河川敷で、毎日のように日光浴してた。ぼくたち、二人と
も、短髪ヒゲの、どこから見ても立派なゲイなのだけど、アキちゃんは、さらにオイル塗りまくりの
フンドシ姿で、川原の視線を一身に集めてた。ぼくだって、カバのように太ったデブで、トランクス
一つだったから、かなり目立ってたと思うけど、アキちゃんには、完全に負けてた。自転車に乗った
子供たちが、アキちゃんのプルルンと丸出しになったお尻を指差して、笑いながら通り過ぎて行った。


妹と
                      (ロビン・ヘムリー『ホイップに乗る』小川高義訳)
いっしょに
                              (ノサック『弟』1、中野孝次訳)
古い歌を
                    (ナディン・ゴーディマ『釈放』ヤンソン柳沢由実子訳)

タクちゃんの部屋に遊びに行くと、テーブルの上に道具をひろげて、お習字の練習をしていた。つい
最近、はじめたらしい。タクちゃんは、ぼくのことをうっちゃっておいて、熱心に字を書きつづけた。
ぼくはベッドの端に腰かけて、「飛」という字を、メモ用紙にボールペンで書いてみた。一番苦手な
字だった。そう言って、ぼくが、ふたたび書いて見せると、書道の本を手渡された。見ると、ぼくの
書き順が間違っていたことがわかった。正しい書き順で書くと、見違えるほどに、きれいに書けた。


織り
          (スティーヴンソン『ジーキル博士とハイド氏』手紙の出来事、田中西二郎訳)
込んで
                        (モーパッサン『女の一生』十三、宮原 信訳)
おいたのだ。
                       (ポオ『盗まれた手紙』富士川義之訳、句点加筆)

夜中の一時過ぎに電話が鳴った。ノブユキからだった。一週間ほど前に帰国したという。親知らずを
抜くのに、アメリカでは千ドルかかると言われ、八百ドルで日本に帰れるのにバカらしいやと思って、
日本に帰って抜くことにしたのだという。保険に入ってなかったからだろう。それにしても、驚いた。
ぼくの方も、二日後に親知らずを抜くことになってたから。ぼくの場合は、虫歯じゃなくて、いずれ
隣の歯を悪くするだろうからってのが理由だったけれど。ノブユキの声を聞くのは、二年ぶりだった。


だが、それはもう
                           (サルトル『壁』伊吹武彦訳、読点加筆)
ここには
                       (マリー・ノエル『哀れな女のうた』田口啓子訳)
ないのだ。
                   (T・S・エリオット「寺院の殺人」第一部、福田恆存訳)

本って、やっぱり出合いなんだよね。先に、「ライ麦畑でつかまえて」を読まなくってよかったと思
う。サリンジャーの中で、一番つまらなかった。たぶん二度と読まないだろう。まあ、文学作品の主
人公というと、たいてい自意識過剰なものだけど、「ライ麦」の主人公に鼻持ちならにものを感じた
のは、その自意識の過剰さもさることながら、自分だけが無垢な魂の持ち主だという、とんでもない
錯覚を、主人公がしてたからだ。かつてのぼくも、そうだった。だからこそ、いっそう不愉快なのだ。


ずっと以前のことだ。
                     (ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』上、河島英昭訳)
ある晩、
                  (ズヴェーヴォ『ゼーノの苦悶』4・父の死、清水三郎治訳)
海がそれを運び去った。
                            (『ギルガメシュ叙事詩』矢島文夫訳)

エイジくんは、ぼくの横にうつぶせになって、背中に字を書いて欲しいと言った。Tシャツの上から
だ。直に触れられるより気持ちがいいらしい。書くたびに、エイジくんは、何て書かれたか、あてて
いった。ぼくが易しい字ばかり書くものだから、途中から、エイジくんが言う字を、ぼくが書くこと
になった。「薔薇」という字が書けなかった。一年ほど前のことだ。西脇順三郎の「旅人かへらず」
にある、「ばらといふ字はどうしても/覚えられない書くたびに/字引をひく」を読んで思い出した。


そうなんだ。
                 (シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第四場、大山俊一訳)
ああ、海が見たい。
                        (リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)
バスに乗ろうかな。
                     (セリーヌ『なしくずしの死』滝田文彦訳、句点加筆)

lead apes in hell:女が一生独身で暮らすという句がある。猿を引き回すことが老嬢の来世での仕事
であるという古い言い伝えに由来し、エリザベス朝時代の劇作家がしばしば用いた、と英米故事伝説
辞典にある。イメージ・シンボル事典によると、老嬢は地獄で猿を引く、という諺が知れ渡っていた
らしい。シェイクスピアの『空騒ぎ』第二幕・第一場に、「地獄へ猿をひいて行かなくてはならない
のだ」(福田恆存訳)とある。「陽の埋葬」で、ぼくは、それを逆にした。猿が、ぼくを引くのだ。


そうすれば、
                          (ジュネ『ブレストの乱暴者』澁澤龍彦訳)
ぼくのハンカチが
                 (ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』第III部、高木研一訳)
出て来るかと思って。
                (シュペルヴィエル『ロートレアモンに』堀口大學訳、句点加筆)

タカヒロがポインセチアを買ってきてくれた。昨年のクリスマスの晩のことだ。別れてから、八年に
なる。タカヒロが大学一年のときに、ふた月ほど付き合っただけだが、ここ一年くらい、電話で話す
ようになった。いま付き合ってる相手が、京都だというのだ。卒業すると、タカヒロは東京の会社に
就職した。ぼくのところに寄ったのは、ついでだった。コーヒーを淹れたあと、養分になると思って、
その豆の滓を鉢の中に捨てた。二日もすると、白い黴が生えた。何度捨てても、同じ白い黴が生えた。


このバスでいいのだろうか?
                   (ナボコフ『キング、クィーンそしてジャック』出淵 博訳)
あゝ、いゝとも。
                    (モリエール『人間嫌い』第一幕・第一場、内藤 濯訳)
お前も来るかい?
                              (ジュネ『泥棒日記』朝吹三吉訳)

毎日のように葵書房という本屋に行く。すぐ近所なので、日に三回行くこともめずらしくない。この
間、ジミーと行った。彼はオーストラリアから来た留学生で、大学院で日本文学を専攻している。二
階の文芸書コーナーで、彼が新潮日本文学辞典を開いて見せた。コノ人、田中サンノ先生デショウ?
そう言って、彼は指先をページの右上にすべらせた。そこには見出し語の最初の五文字が、平仮名で
書いてあった。田中サンノ先生だから、おおおかまナノデスカ? それを聞いて、ぼくは絶句した。


ハンカチを
                         (モーパッサン『テリエ館』2、青柳瑞穂訳)
浮べて、
                       (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳、読点加筆)
海はまた別の物語を語る。
                   (J・シンガー『男女両性具有』I・第七章、藤瀬恭子訳)

温泉の番組で、レポーターが、卵が腐ったような臭いがするって言ってた。彼女は、卵が腐った臭い
を嗅いだことがあるのだろうか。この間も、ニュース番組で、アナウンサーが、あるものが雨後の筍
のように生えてきましたって言ってたけど、彼が実際に雨後の筍を観察したことがあって言ったとは
思えない。卵が腐ったような臭いも同じで、現実に嗅いだことがあって言ったとは思えない。ゆで卵
の殻を剥くと、すごく臭いことがある。卵が腐ったような臭いと聞くと、ぼくは、これを思い出す。


海はもう
                       (トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳)
ハンカチを
                    (サングィネーティ『イタリア綺想曲』99、河島英昭訳)
少しずつほどきはじめていた。
                (トランボ『ジョニーは戦場へ行った』第一章・3、信太英男訳)


*



STRAWBERRY HANDKERCHIEFS FOREVER。



『英米故事伝説辞典』で、「handkerchief」の項目を読んでいると、こんな話が載っていた。「ハン
カチの形はいろいろあったが、四角になったのは、気まぐれ者の Marie Antoinette 王妃がハンカチ
は「四角のがよい」といったので、 Louis XVI が1785年「朕が王国の全土を通じハンカチの長さは
その幅と同一たるべきものとす」という珍しい法令を布告した」というのである。「四角」といえば、
前川佐美雄の「なにゆゑに室は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす」が思い起こされた。


置き忘れられた
               (ボルヘス『伝奇集』第I部・八岐の園・円環の廃墟、篠田一士訳)
写真をとりあげると、
                    (ヴァン・ダイン『カナリヤ殺人事件』16、井上 勇訳)
海だった。
                        (パヴェーゼ『月とかがり火』3、米川良夫訳)

この項目には、もうひとつ、面白い話が載っていた。ハンカチが、フランスの宮廷内で流行したのは、
Napoleon I の妃 Josephine (1763-1814)が「前歯が欠けていたので、微笑するときなど、これを
隠すためにハンカチを用いた」からである、というのだ。ノブユキは、笑うとき、女の子がよくする
ように、手で口元を隠して笑った。歯茎がぐにっと見えるからだった。たしかに、見事な歯茎だった。
with handkerchief in one hand sword in the other:片手にハンカチ、片手に剣という成句がある。


一度も、その海を見たことがなかったけれど、
                      (ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳、読点加筆)
長いあいだ、眺めていた。
            (ズヴェーヴォ『ゼーノの苦悶』6・妻と恋人、清水三郎治訳、読点加筆)
なぜ、海の眺めは、かくも無限に、また、かくも永遠にこころよいのか。
                   (ボードレール『赤裸の心』三〇、阿部良雄訳、読点加筆)

不幸に際して悲しみを表わす一方、それに付け込んで儲けを企む、といった意味である。ハンカチが(1)
悲しみの象徴として用いられている例に、芥川龍之介の「手巾」がある。ある婦人が、自分の息子が
死んだことを告げに、主人公宅を訪れたときのことだ。件の話に触れる婦人の様子に悲しげなところ
が少しもないことを不審に思っていた主人公が、偶々、婦人が膝の上で手巾を両手で裂かんばかりに
して握っているのを目にして、その婦人が実は全身で泣いていたということに気づくという話である。


忘れていたことを想い出そうとして、
                  (シェイクスピア『マクベス』第一幕・第三場、福田恆存訳)
ほどけかかった
                       (トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳)
ハンカチの隅をつまみ上げてみた。
                      (ディクスン・カー『絞首台の謎』10、井上一夫訳)

ハンカチが悲しみの象徴となることは、涙をふくときに使われることから容易に連想される。「突然
わたしは、自分の目に涙が溢れ出るのではないかと恐れた。わたしは人前を取り繕うために叫んだ。
/「目にレモンのしぶきがはねたんです」/わたしはハンカチで目をふいた。」「あのときハンカチ
のかげで感じたあの憂鬱さをわたしはけっして忘れることができない。それはわたしの涙をかくした
ばかりでなく、一瞬の狂気をもかくしたのだ。」「わたしはハンカチを顔から放して、涙ぐんだ目を


あの海が思い出される。
                (プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』第一章、金子幸彦訳)
すさみはてた心は
                      (レールモントフ『悪魔』第一篇・九、北垣信行訳)
あらゆることを、つぎつぎと忘れ去るのに、
                      (ナボコフ『ロリータ』第二部・18、大久保康雄訳)

他人の面前でさらけ出した。わたしはむりにつくり笑いをしてみんなを笑わせようと努力した。」こ(2)
の滑稽かつ悲惨な場面は、ズヴェーヴォの「ゼーノの苦悶」の中で、もっとも印象的な箇所だった。
コントなどで、男の子が女の子を呼びとめて、その娘が落としてもいないハンカチを(つまり、男の
子自身の持ち物を)手渡そうとする場面を目にすることがあるが、その起源は、「愛の印として、男
性が女性に贈ったり」、「女性が男性にさりげなく落として拾わせたりした」という、一六世紀頃の(3)(1)


ハンカチをプレゼントしたの
                   (トルーマン・カポーティ『誕生日の子供たち』楢崎 寛訳)
おぼえてるかい?
                       (コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)
そう言って
               (シェイクスピア『リチャード三世』第四幕・第四場、福田恆存訳)

風習にまで遡る。この風習は、drop (throw) the handkerchief to:意中を仄めかす、気のあること(1)
を示す、という成句の中に引き継がれている。しかし、また、ハンカチを「恋人への贈り物にするの(4)
は、離別のもとになるとして避けられる」ともあり、「むやみに贈与してはいけない」ものともいう。(5)(1)
シェイクスピアの「オセロウ」の初演は一六〇四年である。その頃には、ハンカチは一般に普及して
いた。「愛の印」であったハンカチが、オセロウをして嫉妬に狂わせ、彼の最愛の妻デズデモウナを


指を離すと、
             (アイザック・アシモフ『銀河帝国の興亡1』第II部・7、厚木 淳訳)
ハンカチは床に落ちた。
            (ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』下巻・82、木村 浩・松永緑彌訳)
彼女はハンカチを拾いあげようとはしなかった。
                       (ボリス・ヴィアン『日々の泡』52、曾根元吉訳)

死なしめたのである。それは、苺の刺繍が施された一枚のハンカチだった。苺にハンカチ、といえば、(6)
シュトルムの『みずうみ』にある「森にて」の場面が思い出される。苺は聖母マリアのエンブレムで(7)
あり、ハンカチを聖骸布(キリストの遺骸を包んだ亜麻布)、或はヴェロニカの聖顔布に見立てると、
ハンカチに包まれた苺の構図は、キリストに抱かれた聖母マリアの図像、すなわち、「逆ピエタ」と
なる。「包む」は、「みごもる」という語にも通じ、イヴを「みごもった」アダムの姿を髣髴させる。


どうしてあのときハンカチを床から拾わなかったのだろう?
            (ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』下巻・84、木村 浩・松永緑彌訳)
まだ百年はたっていなかったが、
                  (ボルヘス『伝奇集』第II部・工匠集・刀の形、篠田一士訳)
まだそこにあるだろうか?
                    (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』1、菅野昭正訳)

tie a knot in a handkerchief:(何かを忘れないために)ハンカチに結び目をつくる、という成句(8)
がある。かつての呪術的な風習の名残であろうか。『フランス故事ことわざ辞典』を繙くと、Nouer
l'aiguillette.:飾り紐を結ぶ、といった成句もあった。解説に、「ある特定の文句をとなえながら、
飾り紐に三つの結び目をつくる。この詛いの作法は憎い相手の縁談をぶちこわすために、嫉妬になや
む男や捨てられた女が行なった」とある。「人の結婚をさまたげるために詛いをかけた」というのだ。


海の上に
                           (アンリ・ミショー『氷山』小海永二訳)
コーヒーを
                    (ヴァン・ダイン『カナリヤ殺人事件』18、井上 勇訳)
注いだ。
                   (ロジャー・ゼラズニイ『砂のなかの扉』6、黒丸 尚訳)

処刑の際などに、流れ出た血をハンカチに染み込ませて、記念のために取っておくという風習がある。
ルイ16世が処刑されたあと、断頭台の柳行李が首斬り人の馬車によって運ばれていたときのことであ
る。それが、偶然、馬車の上から転げ落ちると、たちまち人々が群がって、自分たちの下着やハンカ
チなどを擦りつけていったという。そのため、そこらじゅう、何もかもが血まみれになったという。(9)
シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』第二幕・第二場、第三幕・第二場に、このような風習が


合い言葉は?
                    (シュニッツラー『夢小説』IV、池内 紀・武村知子訳)
波だ。
      (ピーター・ディッキンソン『エヴァが目ざめるとき』第二部、唐沢則幸訳、句点加筆)
涙?
            (マルグリット・デュラス『モデラート・カンタービレ』8、田中倫郎訳)

あったことを示唆するセリフが出てくる。貴族の血をハンカチに浸して、記念にとっておいたらしい。
『ヘンリー六世』の第三部・第一幕・第四場には、一四六〇年十二月三〇日のウェイクフィールドの
戦いの際に、ヨーク公が敵方のマーガレット王妃に、自分の息子のラトランドの血に浸されたハンカ
チを突きつけられ、それで涙をふくように迫られる場面がある。血に染まったその布切れの経緯につ
いては、『リチャード三世』の第一幕・第三場や第四幕・第四場のセリフの中でも触れられている。


涙が頬を伝った。
                       (サルトル『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳)
去って行った者は、美しい思い出になる。
         (トム・レオポルド『君がそこにいるように』水曜日、岸本佐知子訳、読点加筆)
電話をかけようか、やめようか?
            (ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』上巻・1、木村 浩・松永緑彌訳)

シェイクスピアの『冬の夜語り』第五幕・第二場に、ハンカチが、形見の一つとして挙げられている。
形見の品というものが、呪術的な事物になり得ることは言うまでもない。それに持ち主の血がついて
いたりすると、なおいっそうのこと、呪術性が増すであろう。竹下節子の『ヨーロッパの死者の書』
第四章に、キリスト教初期殉教者たちの「殉教で流した血に浸した布」が聖遺物となって、「人々の
病の治癒などに効験」があるとされたり、「信仰の中心に据えられるようになった」という件がある。


留守番電話の声は
              (ダイアン・アッカーマン『「感覚」の博物誌』第四章、岩崎 徹訳)
祈りの言葉を繰り返した。
                (グエン・クワン・テュウ『チュア村の二人の老女』加藤 栄訳)
よく記憶しているのだ。
                 (ターハル・ベン=ジェルーン『砂の子ども』17、菊地有子訳)

この起源は、ハンカチではなく、血でもって、さらに遡ることができよう。フレイザーの『金枝篇』
第二十一章・四に、霊魂が宿るという血に対する畏怖の念から、血のついたものがタブー視されたり、
神聖視されたりしたとある。出エジプト記にある過越の祭りなど、聖書の様々な記述が思い出される。
東條英機が、逮捕直前にピストル自殺を図ったときにも、CIC(防諜部隊)の逮捕隊とともに部屋
に駆け込んだ外人記者のなかに、ハンカチをその血糊に浸して土産として持ち帰った者がいたという。(10)


次に生まれ変わるときには
                  (トム・レオポルド『誰かが歌っている』18、岸本佐知子訳)
波となって
                      (フォークナー『サンクチュアリ』25、加島祥造訳)
生まれでるのだよ。
                   (ホーフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)

(1)学習研究社『カラー・アンカー英語大事典』(2)第五章、清水三郎治訳(3)平凡社『大百科事典』(4)
角川書店『スコットフォーズマン英和辞典』(5)三省堂『カレッジクラウン英和辞典』、以上、ここまで、
辞書の類は、handkerchief、或はハンカチーフの項を参照(6)第三幕・第三場、菅 泰男訳(7)大修館書店
『イメージ・シンボル事典』(8)研究社『新英和大辞典』knotの項(9)ルノートル/カストロ『物語フラ
ンス革命二・血に渇く神々』二、山本有幸編訳(10)ロバート・ビュートー『東條英機(下)』木下秀夫訳。



*



TWIN TALES。



『ジイドの日記』を読んでいて、ぼくがもっとも驚かされたのは、友人であるフランシス・ジャムに
ついて、ジイドがかなり批判的に述べていることだった。ジャムがいかに不親切で思い上がった人間
か、ジイドは幾度にも渡って書き記している。詩人としての才能は認めていたが、公平な批評能力も
なく、他人に対する思いやりにも欠けていると考えていた。もしも、田中冬二が、『ジイドの日記』
を読んでいたら、ぼくたちが「フランシス・ジャム氏に」という詩を目にすることはなかっただろう。


何か落としたぞ、ほら、きみのだ。
                       (ナボコフ『ベンドシニスター』1、加藤光也訳)
たしかに、
                            (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)
僕のものだった。
                            (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

蜂の巣つきの蜂蜜を食べた。北山通りにある輸入雑貨屋で買ってきたものだ。四角いプラスチックの
箱の中にぴったりおさまって入っていた蜂の巣は、五センチくらいの高さの四角柱で、上から覗くと、
数多くある小さな六角形の、どの穴ぼこの中にも、黄金色に輝く透明な蜂蜜がたっぷりつまっていた。
ペティーナイフで切る蜂の巣はとてもやわらかかった。巣をつぶして食べるようにと書いてあったが、
ウェハースの形に切り取って食べた。食べかすを噛んでいると、ガムを噛んでいるような感じがした。


小波(さざなみ)の渦が
                       (ナボコフ『ベンドシニスター』1、加藤光也訳)
ハンカチを巻いて
                       (コクトー『怖るべき子供たち』1、東郷青児訳)
すうっと消える。
                        (リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

三年くらい前のことだ。テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』を読んで、びっくりした。
第五場に、スタンリーが山羊座で、ブランチが乙女座であると書いてあったのだ。当時、付き合って
いたノブユキが乙女座で、ぼくが山羊座だった。ノブユキの姓が、ぼくと同じ「田中」であるという
ことを知ったときよりも、びっくりさせられた。そういえば、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』を
読むと、ぼくが好きなサッフォーを、サリンジャーも好きなことがわかる。彼もまた山羊座だった。


花のように
                                (ヘッセ『詩人』高橋健二訳)
ハンカチは
                       (サルトル『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳)
ほどけてゆく。
                          (サド『美徳の不運』前口上、渋澤龍彦訳)

高校二年の夏だ。以前から憧れてた先輩の安藤さんに、俺んちに泊りに来いよって言われた。試合を
見てるときなんか、だれにもわからないように、お尻をさわられたりしてたから、先輩も、ぜったい
に、ぼくのことが好きだと思ってた。寝る前に、先輩がトイレに立ったとき、ベッドの横にごろんと
なって、腕を伸ばした。すると、指の先に触れるものがあった。SM雑誌だった。グラビアだけ見て、
元の場所に置いて先輩を待った。先輩が戻ってきたとき、ぼくは目をつむって眠ったふりをしていた。


ひかりと波のしぶきのために、
                           (カミュ『異邦人』第一部、窪田啓作訳)
目をさました。
                 (モーリヤック『蝮のからみあい』第一部・一0、鈴木建郎訳)
眼がさめた時には、なんの記憶もなかった。
                            (モーパッサン『山小屋』杉 捷夫訳)


*



ぼくが住んでるワンルーム・マンションの隣に、「カフェ・ジーニョ」という名前の喫茶店がある。
喫茶店なんて言うと、マスターは怒って、うちはバールですよって言うんだけど、どう見ても、喫茶
店って感じだから、つい、喫茶店って言ってしまう。で、そこでバイトしてる高校生のミッちゃんに
訊いてみた。こんど知り合った男の子が、俺の欲しいのは身体じゃないんだって言うんだけど、どう
思うって。すると、こんな答えが返ってきた。メンドクサイのが好きなのねって。ぼくもそう思った。


ぼくは
                       (サルトル『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳)
花びらが
                           (カミュ『異邦人』第一部、窪田啓作訳)
海に落ちてゆくのを見つめていた。
                       (ナボコフ『ベンドシニスター』4、加藤光也訳)

この前、タクちゃんちで食事をしてると、突然、彼が、「corpus」って、死体って意味があるんだけど、
キリストって意味もあるのよって言った。ぼくが、へえって言うと、クリスチャンの彼は、ぼくの目
の前に祈祷書を突き出して、ここに、真の御体をほめたたえよ、ってあるでしょ。これをラテン語で、
「ave verum Corpus」って言うのよ。ave はほめたたえる、verum は真に、Corpus はキリストって意
味ね。じゃ、仏といっしょだよねって、ぼくが言った。マホメットのことは、二人とも知らなかった。


ページをめくると、
                      (ジイド『贋金つかい』第一部・十二、川口 篤訳)
海だったのだ。
                        (モーパッサン『女の一生』十三、宮原 信訳)
ふと本から眼を上げた。
                            (カフカ『審判』第一章、原田義人訳)

北大路橋を渡っていると、ぼくの肩の上に、鳩が糞を落とした。びっくりした。買ったばかりのジャ
ケットなのに、と思って見上げると、いつものように何十羽もの鳩たちが電線の上にとまっていた。
西岸の河川敷で、ひとりの老婆が、コンビニなどで手渡される白いビニール袋の中から、パンくずを
取り出して撒きはじめた。すると、頭の上の鳩の群れがいっせいに飛び立ち、撒かれた餌のところに
舞い降りていった。通勤の途中だったので、着替えに戻るわけにもいかず、そのまま駅に向かった。


テーブルの上に
                             (サルトル『部屋』二、白井浩司訳)
ハンカチが
                       (ジイド『贋金つかい』第三部・九、川口 篤訳)
たたまれて置かれてあった。
                    (リルケ『オーギュスト・ロダン』第一部、生野幸吉訳)

ブチブチ、ブチブチ、踏んづけてる、これ、何の音って訊くと、ショウヘイがカエルだよって教えて
くれた。大粒の雨が激しくフロントガラスに打ちつけている。ぼくが電話をかけたときには、十一時
を過ぎていた。恋人にふられたんだって言うと、彼は車を出して、ぼくのいたところまで迎えに来て
くれた。彼は黙ったまま、琵琶湖まで車を走らせた。真夜中のドライブ。ブチブチとつぶれるカエル
の音に耳を澄ましながら、昔付き合ってた恋人の横顔を眺めていると、ふと、映画のようだと思った。


さわってごらん、ずぶぬれだ──
                            (カフカ『審判』第六章、原田義人訳)
波に運ばれて
                       (ジイド『贋金つかい』第一部・二、川口 篤訳)
ふたたび生まれ変ったのだ。
                        (ジイド『地の糧』第一の書・二、岡部正孝訳)


*



SAY IT WITH FLOWERS。



何年か前に、詩を放棄したいと思ったことがある。「運命によって芸術の牢に投げこまれたものは、
もはやそこからのがれることはできない。」(川村二郎訳)と、『ウェルギリウスの死』の第II部に
ブロッホが書きつけている。恋人にふられそうになると、自分の方から先にその恋人をふってしまう
という、何とも浅ましい性格のぼくである。詩がぼくを放棄する前に、ぼくの方から詩を放棄しよう
かなと思ったのである。おまえなんか、はなっから見放されてんじゃないのって言われそうだけど。


一匹の猿が
                        (リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)
花に見惚れている。
                   (ゴーリキイ『レオニード・アンドレーエフ』湯浅芳子訳)
夢を見ているのだ。
                             (リルケ『愛と死の歌』石丸静雄訳)

ホラティウスだったよね。「詩が書けないときは、そのこと自体を書け」って言ってたのは。でも、
それって、とてつもなくむずかしいことだと思わない? もしかしたら、詩を書くことより、ずっと
むずかしいことかもしれないよ。だって、ただ書けない書けないって書いてくわけにもいかないだろ。
なんで書けないのかってことを書かないと、文学にならないし。まっ、文学でなくても、面白ければ
いいんだけどね。もちろん、面白いものかどうかってことは、読み手が判断することなんだけどね。


なにがそうさせるのだろう?
             (ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ『春とすべて』19、河野一郎訳)
その獣は
                     (ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』上、河島英昭訳)
痩せた、慄(ふる)える手を差し伸べた。
                 (ロート『ラデツキー行進曲』第三部・第十八章、柏原兵三訳)

問題は形式ではない。統覚力である。ばらばらに散らばった情報を組織化し、秩序立てて、一篇の詩
に仕上げていく力が問題なのである。作品を構成しようとする意志の力と、その意志にしたがって構
築していく技術の力が、詩の緊密度を決定する。稚拙さや破綻が、芸術的効果を有することがあるが、
それもまた、すぐれた統覚力によってもたらされたものである。その場合には、逆説的だが、統覚力
が大いに発揮されてもなお払拭できなかった稚拙さや破綻が核となり、作品が結晶化するのである。


なんだって花をむしるんだい?
                              (ガルシン『赤い花』小沼文彦訳)
知らない。
                   (マリー・ノエル『お前の場所を探しに行け』田口啓子訳)
知っちゃいないさ。
                        (コルターサル『石蹴り遊び』41、土岐恒二訳)

ぼくを好きな子は、みんな猫が好きだ。猫を好きな気持ちと同じ気持ちで、ぼくのことも好きになる
のかもしれない。といっても、ぼくが猫に似てるわけじゃないだろうけど。愛することって、どんな
ことか、ぼくには、よくわからない。でも、よくわからないからこそ、考えられる。そんな気がする。
Tacoma にいるノブユキから手紙が届いた。引っ越し先の部屋の様子が書かれてあった。どの窓からも
空が見えるという。べつに不思議なことでもなんでもないのだけれど、ぼくのこころを穏やかにする。


そういえば、
                   (メーテルリンク『青い鳥』第四幕・第八景、鈴木 豊訳)
いったいどこへ行ってしまったのか?
                          (ベールイ『銀の鳩』第I部、小平 武訳)
哀れな小さなハンカチよ、
                      (ギー・シャルル・クロス『あの初恋』堀口大學訳)

小学生のころは、画家になることが夢だった。というのも、四年生のときに、動物園で描いた絵が、
市が主催する小学生対象の絵画コンクールで、金賞を受賞したからだ。朝礼の時間に名前を呼ばれて
壇上にのぼり、晴れがましく賞状を受け取ったときの、あの感激が忘れられなかったためだろう。他
の生徒たちから浴びた羨望の眼差しも、すこぶる気持ちよかった。ぼくの絵は、檻の中の水溜まりに
映った豹の姿を描いたものだった。鉄格子越しの水鏡に映った豹の貌は、ほんとにさびしそうだった。


ハンカチをほどくと、
                       (ル・クレジオ『モンド』豊崎光一・佐藤領時訳)
そのたびに
                          (パヴェーゼ『ヌーディズム』河島英昭訳)
生まれかわる。
                  (ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』第II部、高本研一訳)

べつに歯が悪かったわけじゃないけど、右奥歯のブリッジの具合がよくなかったので、近所の歯科医
院に行って診てもらった。ブリッジと歯の間に隙間ができて、そこに歯垢が溜まって虫歯になってい
たという。四十代半ばぐらいの温厚そうな歯科医は、麻酔を一本打つと、ドリルで歯をガリガリと削
りはじめた。すると、突然、イイイッと、激痛が走った。すぐに麻酔を何本か打ってもらったけど、
痛みは収まらなかった。あまり効かない体質らしい。一時間半の間、拷問されてたような感じだった。


ほどいてもらいたいかね?
     (クローデル『クリストファー・コロンブスの書物』第二部・三、鈴木力衛・山本 功訳)
また苦しむためにかい?
                         (ゴーリキイ『どん底』第四幕、中村白葉訳)
もちろん。
         (トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第一部・第八章、望月市恵訳)

渋澤龍彦の本は、パパが好きでたくさん集めてた。『血と薔薇』なんて本も、書斎の本棚に何冊か並
んでた。パパは、実行の伴わない、いわゆる思想ホモだった。『薔薇族』や『さぶ』といったゲイ雑
誌を毎月かかさず買ってた。ママは、それをパパの些細な趣味と見なして、何とも思っていなかった
みたいだ。まさか、ぼくが盗み読みしてるなんて考えもしなかっただろうけど。渋澤の文のなかで、
とくに、ぼくが好きなのは、「象はさびしいところで交尾する。」という、アリストテレスの言葉だ。


と、誰かの足音が聞えてきた。
                      (ホーフマンスタール『アンドレアス』大山定一訳)
半開きになっていた扉のほうへ振りかえった。
                       (アンリ・バルビュス『地獄』V、田辺貞之助訳)
父はそこにはいなかった。
                     (ウィリアム・ブレイク『迷った男の子』土居光知訳)

ノブユキとは、河原町にある丸善で出会った。一九九一年の夏、八月十日の土曜日、夕方五時ごろの
ことだった。これまで見てきたものの中で、いちばん美しいと思うものは、なあに? ゼラズニイの
『ドリームマスター』1の中にあるセリフだ。好きになった子には、かならず訊くことにしている。
わからない、というのが、ノブユキの返事だった。どれが、いちばんか、決められないからだという。
猫に話しかけながら、ノブユキは電話をする。多数決すると、いつも、二対一で、ぼくの負けだった。


そのさきは、またしても海だ。
                          (ソレルス『公園』岩崎 力訳、読点加筆)
かぎりなく、もつれたりほどけたりしている
                   (ボルヘス『伝奇集』第II部・工匠集・結末、篠田一士訳)
海だった。
                  (ナボコフ『キング、クィーンそしてジャック』出淵 博訳)

占星術に詳しい友だちに、ぼくのホロスコープを作ってもらいました。ちなみに、実際のぼくの誕生
日は十日です。第一詩集の奥付の十二日は、戸籍上のものです。父が、届け出た日付を書いたのです。
夜の十時に生まれました。で、ホロスコープですが、山羊座に、太陽・水星・木星・土星の惑星群が
あり、三つの水の星座、蟹座・蠍座・魚座に、それぞれ、火星・海王星・金星があって、グランド・
トリンを形成している、とのことです。性格が冷たいのは、天秤座に月があるせいだと言われました。



*



HE HAS JUST BEEN UNDER THE DAISIES。



きみは海を見たことがある?
                        (パヴェーゼ『丘の上の悪魔』10、河島英昭訳)
ぼくは
                    (サルトル『アルトナの幽閉者』第一幕、水戸多喜雄訳)
バスで行くことに決めた。
                           (カミュ『異邦人』第一部、窪田啓作訳)

『イメージ・シンボル事典』で調べると、雛菊は春に咲く最初の花なので、天の庭を埋める花として
絵に描かれる、とある。『カラー・アンカー英語大事典』によると、雛菊が地面近くに咲くことから、
under the daisies が「葬られて」「死んで」という意味になったという。春のはじめに見た雛菊は、
踏んでおかないと、その人が愛する人の上に雛菊が生える、つまり、死ぬ、という言い伝えがある。
こころやさしい瀬沼さんのことだから、野に咲いた雛菊を踏みつけることなどできなかったのだろう。


ふと
                      (ホーフマンスタール『アンドレアス』大山定一訳)
目の前に
                  (ル・クレジオ『海を見たことがなかった少年』豊崎光一訳)
極上の麻の白いハンカチが現われた。
                       (ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』11、鼓 直訳)

亡くなる一週間くらい前でしょうか。瀬沼さんから電話がありました。いつもより長い時間しゃべり
ました。おもに、詩についてですが、たくさん話をしました。そのときに氏の新しい詩集の話もしま
した。ぼくは言いました。「まるで小説のような印象を持ちました。すぐれた小説のような。」と。
彼は、ぼくの言葉を素直に受けとめてくれました。ぼくの真意はちゃんと伝わったようです。さっき、
久し振りに電話をかけてこられました。天国の庭からです。新しい電話番号を教えてもらいました。


バスを待つ行列の
                                   (原 民喜『夏の花』)
あいだを
                              (ワイルド『サロメ』西村孝次訳)
白いハンカチが、ひらひらしながら遠ざかって行くのを眺めた。
                         (モーパッサン『テリエ館』2、青柳瑞穂訳)


陽の埋葬

  田中宏輔



 あの……おれ、夢見るんですよね、海の。ときどき夢のなかに海がでてきて、おれはサーフィンや
ってるんです。でっかい波にのってると、そのままヒューッて空に飛んでっちゃったり……あと……
パイプ・ラインのなかをすべってると、ずっとずっと中のほうまで入ってゆくと、アーッすごいなー
って気持ちよくなって……それで、ずっとずっとほら穴みたいにつづいてて……それが突然、マンホ
ールになっちゃうってゆー、そーゆう夢、見ます。
 あのー、きっと、夢のなかで、海がよんでるじゃないかなーって、おれ……思うんですけど。
                           (シャネルズ『ラッツ&スター』八曜社)

pipe line、manhole、夢のなかで、海が呼んでるって?


海が呼ぶ
                           (パウル・ツェラン『静物』川村二郎訳)

海が呼ぶ
                           (パウル・ツェラン「静物」川村二郎訳)

海が俺を呼ぶ
                  (ヴァレリー『夕暮の豪奢、破棄された詩…』鈴木信太郎訳)

永遠に海は呼ぶのだ──
                        (ゴットフリート・ベン『唄』II、生野幸吉訳)

ああ、ふと、何かを思い出せそうな気がして、
読みはじめたばかりの本を閉じた。


Dust soon collects on books.
本には、すぐ埃が溜まる。
                           (研究社『NEW COLLEGE 新英和中辞典』)

埃を吹き払って、ページを捲った。


命をし幸(さわ)くよけむと石(いは)走る垂水の水をむすびて飲みつ
                       (『万葉集』巻第七・雑歌・摂津にして作れる歌)

「石の水をお飲み」って、これのことかな。
                              (鉤括弧内=森本ハル『石の水』)

石の水、
                               (森本ハル『石の水』読点加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

I found her under a gooseberry bush.
赤ちゃんは、グーズベリーの木の下で見つけたのよ。
                           (研究社『NEW COLLEGE 新英和中辞典』)

さあ、
                   (シェイクスピア『十二夜』第四幕・第一場、小津次郎訳)

おいで。
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

ハンカチをお空け、
                        (シュトルム『みずうみ』森にて、高橋義孝訳)

さわってごらん。
                 (ジャン・ジュネ『花のノートルダム』幌口大學訳、句点加筆)

そこで、わたしは生まれたのだ。
                         (オウィデイウス『悲しみの歌』中村善也訳)

──誰でも胞衣(えな)をかぶって生まれてくるんでしょうね?
                            (芥川龍之介『夢』罫線及びルビ加筆)

それが僕というものを拵えている。
                       (ヴァレリー『テスト氏航海日誌抄』小林秀雄訳)

のがれることはできないのだ。
                   (ガルシン『ナジェジュダ・ニコラーエヴナ』小沼文彦訳)

ああ、苦しい、苦しい。
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

石の水、
                               (森本ハル『石の水』読点加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
                    (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

欠けたものは数えることができない。
                                    (伝道の書一・一五)

聖書のページを繰っている。
                   (ガルシン『ナジェジュダ・ニコラーエヴナ』小沼文彦訳)

そのときだ、コーヒーの匂いが、階段をのぼってくるのは。
                 (サン=ジョン・ペルス『讃』XVI、多田智満子訳、読点加筆)

小さい蟻が運んでいるのだった。
                                   (川端康成『十七歳』)

彼らは墓を見いだすとき、非常に喜び楽しむのだ。
                                     (ヨブ記三・二二)

箒(ほうき)はどこだね?
                         (ゴーリキー『どん底』第一幕、中村白葉訳)

──それ、骨だよ。


骨?
                 (レーモン・クノー『文体練習』12・ためらい、朝比奈弘治訳)

──それ、きみの妹の骨だよ。


これが、ぼくの妹の骨?


これが、ぼくの妹の骨?


これが、ぼくの妹の骨?


ああ、苦しい、苦しい。
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

石の水、
                               (森本ハル『石の水』読点加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

Imsen,auf! es auszuklauben.
蟻ども、さあ、掘り出すのだ。
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

Imsen,auf! es auszuklauben.
蟻ども、さあ、掘り出すのだ。
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)



  *



 一相であるべき合金の内部に、組成の不均一があることを偏析(segregation)といい、鋳塊の中で
重い合金元素が底に沈降するような場合を、重力偏析(gravity segregation)という。この固溶体合
金のように、凝固過程で最初に晶出した中心部と、あとで晶出した周辺部との間に濃度の不均一をお
こすと、凝固完了後には、一つの結晶粒、または樹枝状晶の中で、中心と周辺の間に不均一がおこる。
これを粒内偏析といい、かくして得られた組織を、有心組織(cored structure)という。
                     (三島良績『金属材料論』日本工業新聞社、読点加筆)

有心組織(cored structure)、有心組織(cored structure)。


水甕は泉の傍らで破れ、車は井戸の傍らで砕ける。
                                     (伝道の書一二・六)

ollula tam fertur ad aquam,quod fracta refertur.
甕はそれが割れて持ち歸らるるまでは水の處へ運ばる。
                            (『ギリシア・ラテン語引用語辭典』)

そしてこの甕は。
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

この柄杓は。


墓の中へでもはいるか。
                 (シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

墓の中にでも、
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

おお、甕よ、あまたの甕よ!
                  (ネリー・ザックス『捨てられた物たちの合唱』生野幸吉訳)

火葬(やきはぶ)り損ねし樹下の古雛(ふるびな)、


歌う骨、
                   (グリム童話『歌う骨』表題から、高橋健二訳、読点加筆)

蟻、
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

ここにあるのはなんだろう?
            (シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第五幕・第三場、大山敏子訳)

数えてみよう。
                       (ユーゴー『死刑囚最後の日』八、豊島与志雄訳)

石女(うまずめ)の生涯を送らねばならぬのだが、
                 (シェイクスピア『夏の夜の夢』第一幕・第一場、福田恆存訳)

わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。
                                     (詩篇二二・一七)

ひとり密かに、


腰をかがめて生まれたのだ。
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

──かえでさん。かえでさん。かえでさん。
                   (倉田百三『出家とその弟子』第四幕・第一場、罫線加筆)

誰だ。
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

岩の割目(われめ)から呼んでいるのは誰だ。
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

ほら、
                   (シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳)

洞になった木の幹からは蜂蜜が滴る。
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

齢(よわい)を重ねた洞は蜜窩(みつぶさ)となるのだ。


雨なき雨の降る教典の上を、精霊の如きものが歩いている。


骨牌(カルタ)を捲るように梵字を引っ繰り返す婆羅門たち。


けわしい岩の裂目(さけめ)の中に姿が消える。
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

あれはどこにいるか。
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

蛭にふたりの娘があって、
「与えよ、与えよ」という。
                                     (箴言三〇・一五)

あれはどこにいるか。
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

da.
與へよ。
                             (『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

Produce the bodies,
二人の遺骸をここへ移せ、
                   (シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳)

Der Vorhang ist hoch.
幕は上がっている。
                              (相良守峯編『独和辞典』博友社)

omne simile appetit sibi simile.
あらゆる類似のものは自分に類似のものを捜す。
                             (『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

optimi consiliarii mortui.
最上の助言者は死人なり。
                             (『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

火葬(やきはぶ)り損ねし樹下の古雛(ふるびな)、


歌う骨、
                   (グリム童話『歌う骨』表題から、高橋健二訳、読点加筆)

蟻、
                         (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

蟻ならば、書物のなかの書物に精通していよう。


Geh!
行け。
                              (相良守峯編『独和辞典』博友社)

Vade ad formicam.
蟻のところへ行け。
          (『ギリシア・ラテン引用語辭典』ローマ教会公認ラテン語訳聖書、箴言六・六)

Vade ad formicam.
蟻のところへ行け。
          (『ギリシア・ラテン引用語辭典』ローマ教会公認ラテン語訳聖書、箴言六・六)



  *



アリ地獄、アリ地獄、おれの聞きたいことをいってくれ!
              (マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第八章、鈴木幸夫訳)

おれのハンカチは、どこへ行ったのだ?


アリ地獄、アリ地獄、おれの聞きたいことをいってくれ!
              (マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第八章、鈴木幸夫訳)

おれの失くしたハンカチは、いったい、どこへ行ったのだ?


──はっきりわかる/その目じるしは?
            (シェイクスピア『ハムレット』第四幕・第五場、大山俊一訳、罫線加筆)

刺繍(ぬいとり)されたアルファベットのTの文字。


──Tの文字?


おれの名前のイニシャルだ。


──そこで、お前は、磔木(はりぎ)にかけられたというわけだ。


──さあ、降りなさい。
                (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、罫線及び読点加筆)

──降りてゆきなさい。
                    (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、罫線加筆)

──残りの道は、ただ下りてゆくだけだ。
              (サラ・ティーズデイル『長い丘』福田陸太郎訳、罫線及び読点加筆)

──残りの道は、ただ下りてゆくだけだ。
              (サラ・ティーズデイル『長い丘』福田陸太郎訳、罫線及び読点加筆)

──もう、お前を逃がしはせぬ。
                (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、罫線及び読点加筆)

──もう、お前を逃がしはせぬ。
                (ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、罫線及び読点加筆)



*:Tristan < Celt.Drystan < L.tristis tristis=sad (三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』)
*:「そちは悲しみにつつまれてこの世に生まれてきたのだから、そちのなはトリスタン(悲しみの子)
 とよばれるがよい。」 (ペディエ編『トリスタンとイズー物語』1、佐藤輝夫訳)



  *



すると、蟻地獄は


きたないよれよれのハンカチの端をつまんでひっぱりだし、ひろげて見せた。
                   (ジョイス『ユリシーズ』1、テーレマコス、高松雄一訳)

たしかに、ぼくのハンカチだった。


と、思った


瞬間


ぼくの身体は


そのハンカチの真ん中にできた窪みのなかに引きずり込まれてしまった。


そして、蟻地獄に噛み砕かれると、


魂がすぐに吐き出された。


身体の方は


いつまでも咀嚼されていた。



  *



──どこの道からきたのかえ。
                         (ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

雨の道からやってきた。


雨なき雨の降る道を。


──おまえの父も、そうじゃった。


さもありなん。


わたしと父は一つである。
                              (ヨハネによる福音書一〇・三〇)

見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。
                                 (ヨハネの黙示録三・二〇)

私は戸の外に立って、たたいている。
                                 (ヨハネの黙示録三・二〇)

eo ad patrem.
私は父のところへ行く。
                             (『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

eo ad patrem.
私は父のところへ行く。
                             (『ギリシア・ラテン引用語辭典』)


LET THERE BE MORE LIGHT。

  田中宏輔



画布(カンヴァス)の中に
(夏目漱石『三四郎』三)

海がある。
(詩篇一〇四・二五)

海辺のきわまで
(エリノア・ファージョン『町かどのジム』ありあまり島、松岡享子訳)

雑草がびっしり生い茂っていた。
(フォークナー『サンクチュアリ』22、加島祥造訳)

亀が
(スタインベック『怒りの葡萄』第六章、大久保康雄訳)

草の中から
(夏目漱石『草枕』十)

音もなく出てきて
(フォークナー『赤い葉』4、滝口直太郎訳)

日向ぼっこをして
(ヘンリー・ミラー『暗い春』春の三日目か四日目、吉田健一訳)

甲羅を干している。
(夏目漱石『野分』三)

日にあたりにでてきたんだ。
(エリノア・ファージョン『町かどのジム』大海ヘビ、松岡享子訳)

そうだろう?
(ロジャー・ゼラズニイ『光の王』1、深町眞理子訳)

いままで気がつかないでいたことだ。
(ヘンリー・ミラー『南回帰線』終楽章、幾野 宏訳)

気持ちいいかい?
(メアリー・モリス『嵐の孤児』斎藤英治訳)

手をのばせば届くところにいる。
(ポオ『モルグ街の殺人』丸谷才一訳)

こつこつ
(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第八部・第二章、望月市恵訳)

階段を登っている妹の足音が聞こえる。
(ポオ『アッシャー家の崩壊』富士川義之訳)

亀が
(スタインベック『怒りの葡萄』第六章、大久保康雄訳)

人間のような顔をして
(コクトー『美女と野獣』釜山 健訳)

ぼくの方を振り返った。
(アドルフォ・ビオイ=カサレス『烏賊はおのれの墨を選ぶ』内田吉彦訳)

つくづくと
(ヘンリー・ミラー『南回帰線』終楽章、幾野 宏訳)

僕を見つめる。
(ガルシン『あかい花』三、神西 清訳、句点加筆)

どう?
(レイモンド・カーヴァー『ナイト・スクール』村上春樹訳)

目がさめていて?
(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第八部・第三章、望月市恵訳)

しっ!
(バルザック『恐怖時代の一挿話』水野 亮訳)

コーヒーが運ばれてきた。
(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第一部・第八章、望月市恵訳)

おいしいトースト toaste を作ってさしあげてよ。
(プルースト『失われた時を求めて』第二篇・花咲く乙女たちのかげに、鈴木道彦訳)

たべる?
(ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る?』38、大久保康雄訳)

彼女は
(J・G・バラード『スクリーン・ゲーム』浅倉久志訳)

ベッドのそばのテーブルの上に置いた。
(シャーウッド・アンダスン『兄弟たち』橋本福夫訳)

ねえ、
(ヘッセ『メルヒェン』アヤメ、高橋健二訳)

また
(ホーフマンスタール『小説と戯曲における性格について』中野孝次訳)

詩を書いてる?
(レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』24、清水俊二訳)

しっ、静かに。
(シェイクスピア『リア王』第一幕・第四場、大山俊一訳)

亀は
(萩原朔太郎『亀』)

そそくさと
(パインソウウェー『夢の河』南田みどり訳)

草の中に入っていった。
(スティーヴ・エリクソン『黒い時計の旅』93、柴田元幸訳)

ぼくは泣きだしたいような気持ちになった。
(バーバラ・ワースバ『急いで歩け、ゆっくり走れ』吉野美恵子訳)

ごめんなさい。
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第二幕・第五場、大山敏子訳)

いや、
(カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』5、伊藤典夫訳)

もういい、
(サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』愛らしき口もと目は緑、野崎 孝訳)

しかたがないさ。
(モーパッサン『ピエールとジャン』8、杉 捷夫訳)

だいじょうぶ?
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』第十一場、小田島雄志訳)

いいよ。
(ジョン・ヴァーリイ『さよなら、ロビンソン・クルーソー』浅倉久志訳)

気にすることなんかない。
(ラディゲ『ペリカン家の人々』第十二景、新庄嘉章訳)

いまさらどうにもならないんだから。
(ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳、句点加筆)

それより、
(ポオ『アモンティリャアドの酒樽』田中西二郎訳)

もう何時になるだろう?
(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第一場、福田恆存訳)

まもなく雨だろう。
(トマス・ピンチョン『スロー・ラーナー』秘密裡に、志村正雄訳)

そろそろ行くよ。
(レイモンド・カーヴァー『ヴィタミン』村上春樹訳、句点加筆)

いったいどこへ行くの?
(ジェイムズ・エイジー『母の話』斎藤英治訳)

どこへでも行きたいところに。
(ヘッセ『メルヒェン』詩人、高橋健二訳、句点加筆)

どこでも?
(カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』4、伊藤典夫訳)

ああ、そうだよ。
(ラリー・ニーヴン『太陽系辺境空域』小隅 黎訳)

行かないのかい?
(ウィーダ『フランダースの犬』4、村岡花子訳)

バスに乗って。
(ジャン=フィリップ・トゥーサン『浴室』直角三角形の斜辺、野崎 歓訳、句点加筆)

バスに乗って?
(マイ・シェーヴァル、ペール・ヴァールー『笑う警官』6、高見 浩訳)

だって、
(コレット『青い麦』一五、堀口大學訳、読点加筆)

雨が降ったら濡れるだろ。
(夏目漱石『草枕』七)

それに、
(バルザック『谷間のゆり』初恋、菅野昭正訳)

バスでなければ間に合わないんだ。
(オネッティ『ハコボと他者』杉山 晃訳)

わたしの顔にも、それが感じられるわ──
(J・G・バラード『永遠の一日』浅倉久志訳)

顔だって?
(トム・リーミイ『ハリウッドの看板の下で』井辻朱美訳)

ええ。
(マルグリット・デュラス『愛』田中倫郎訳)

そうよ。
(モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』五、杉 捷夫訳)

それ、聖書の文句かい?
(スタインベック『怒りの葡萄』第二十八章、大久保康雄訳)

さあ、
(コクトー『美女と野獣』釜山 健訳)

どうかしら?
(カポーティ『草の竪琴』1、大澤 薫訳)

わからない。
(シェイクスピア『ヴェニスの商人』第三幕・第二場、大山敏子訳)

そう?
(サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』バナナフィッシュにうってつけの日、野崎 孝訳)

まあいいさ。
(ジュリアス・レスター『すばらしいバスケットボール』第一部・1、石井清子訳)

ぽつぽつ雨が降りはじめた。
(カフカ『観察』騎手の反省のために、本野享一訳)

雨がぽつぽつ降り始めたようだった。
(ナボコフ『賜物』第1章、沼野充義訳)

雨だわ。
(サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』25、野崎 孝訳)

そうとも。
(ロバート・ニュートン・ペック『豚の死なない日』3、金原瑞人訳)

さあ、これをごらん。
(ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』経過報告11・四月二十二日、稲葉明雄訳)

なあに、これ?
(レイモンド・カーヴァー『羽根』村上春樹訳、読点加筆)

ハンカチの切れはし?
(クリスティ『アクロイド殺人事件』8、中村能三訳)

わかるだろ。
(サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』4、野崎 孝訳)

僕が
(コクトー『怖るべき子供たち』二、東郷青児訳)

書いた詩の一節だ。
(ヘンリー・ミラー『暗い春』春の三日目か四日目、吉田健一訳)

それをつまんだ瞬間に、
(フィリップ・K・ディック『ユービック』9、浅倉久志訳)

バス停で、
(マ・フニンプエー『同類多数』南田みどり訳)

バスというバスが
(マ・フニンプエー『同類多数』南田みどり訳)

爆発する。
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』2、浅倉久志訳、句点加筆)

戦争かな?
(ヘッセ『知と愛』第十三章、高橋健二訳)

戦争には、こういうことは、いくらでもあるんだ。
(ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る?』43、大久保康雄訳)

僕はそこに、僕の頭文字をつけてやりたかった。
(ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

もちろん、
(シェイクスピア『マクベス』第五幕・第九場、福田恆存訳)

ばらばらだ。
(ナディン・ゴーディマ『隠れ家』ヤンソン柳沢由実子訳)

それに
(ドストエフスキイ『白夜』第二夜、小沼文彦訳)

ほら、
(フィリップ・K・ディック『去年を待ちながら』7、寺地五一・高木直二訳)

ぼくの生れは山羊座なんだ。
(サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』バナナフィッシュにうってつけの日、野崎 孝訳)

美しいひびきをもっているだろう?
(カロッサ『美しき惑いの年』われらのプロメートイス、手塚富雄訳)

それに加えて、
(カミュ『異邦人』第一部・四、窪田啓作訳)

パパは
(ナボコフ『ロリータ』第二部・1、大久保康雄訳)

まったく職業というものについたことがなかった。
(ジュリアス・レスター『すばらしいバスケットボール』第一部・1、石井清子訳)

何時間も
(フィリップ・K・ディック『最後から二番目の真実』28、山崎義大訳)

ふわふわ浮いていた。
(エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』5、柳瀬尚紀訳)

これは関係なかったかな?
(ギュンター・グラス『猫と鼠』XI、高本研一訳)

ね、いいと思うかい?
(ナボコフ『ベンドシニスター』7、加藤光也訳)

嘘つき。
(ラディゲ『ペリカン家の人々』第五景、新庄嘉章訳)

でたらめ。
(エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』8、柳瀬尚紀訳)

おい、おい、
(モーパッサン『ピエールとジャン』6、杉 捷夫訳)

ぼくが
(ポオ『不条理の天使』氷川玲二訳)

嘘をいったことがあるかい?
(ハーラン・エリスン『満員御礼』浅倉久志訳)

まるで子供のような口をきくのね。
(コレット『牝猫』工藤庸子訳)

嘘はいけないことだってママに教わらなかったの?
(カポーティ『夜の樹』川本三郎訳)

どうして? いけないか?
(ロバート・A・ハインライン『夏への扉』2、福島正実訳)

駄目よ。
(ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

だめだめ。
(アリストパネース『女の平和』高津春繁訳)

でも、
(ジェイムズ・エイジー『母の話』斎藤英治訳)

本物の詩ってものは、もっとも嘘だらけのもんだからね。
(シェイクスピア『お気に召すまま』第三幕・第三場、阿部知二訳)

自然界でも芸術でも、一番魅力的なものはすべて人をだますことで成り立っているんだ。
(ナボコフ『賜物』第5章、沼野充義訳)

兄さん?
(夏目漱石『三四郎』十二)

あんまり馬鹿なことは言わないでね。
(オー・ヘンリー『最後の一葉』大津栄一郎訳)

とにかく詩なんてもううんざり。
(サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』テディ、野崎 孝訳)

たくさんよ。
(ドストエフスキイ『白夜』第四夜、小沼文彦訳)

それより
(ヘミングウェイ『フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯』大久保康雄訳)

コーヒーのお代りは?
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』1、浅倉久志訳)

コーヒー?
(ロバート・B・パーカー『約束の地』12、菊地 光訳)

いや、いらない。
(カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』5、伊藤典夫訳、句点加筆)

泣いてらっしゃるの?
(マルグリット・デュラス『愛』田中倫郎訳)

ああ、
(ラリイ・ニーヴン『太陽系辺境空域』小隅 黎訳)

そうさ。
(モーパッサン『ピエールとジャン』3、杉 捷夫訳)

そのとおりさ。
(J・G・バラード『たそがれのデルタ』浅倉久志訳)

いいかい、ぼくは忘れないからね。
(ロジャー・ゼラズニイ『燃えつきた橋』第四部、深町眞理子訳)

それは
(カフカ『城』16、原田義人訳)

こんなふうに
(フォークナー『クマツヅラの匂い』3、瀧口直太郎訳)

海辺のうららかな午後だった。
(トム・レオポルド『誰かが歌っている』26、岸本佐知子訳)

乾いた
(ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳)

砂の上を
(ミルハウザー『イン・ザ・ペニー・アーケード』第二部・太陽に抗議する、柴田元幸訳)

はぐれた
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』1、浅倉久志訳)

波が一つ、
(ゴールディング『ピンチャー・マーティン』3、井出弘之訳)

ひと
(ロバート・A・ハインライン『夏への扉』7、福島正実訳)


(ヘッセ『メルヒェン』ファルドゥム、高橋健二訳)

──迷子になったのかい?
(メアリー・モリス『嵐の孤児』斎藤英治訳、罫線加筆)

そうとも、
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第一幕・第五場、大山敏子訳)

そうさ。
(テリー・ビッスン『時間どおりに教会へ』3、中村 融訳)

そいつは
(キャロル『鏡の国のアリス』6、高杉一郎訳)

波だった。
(ピーター・ディッキンンソン『エヴァが目ざめるとき』第二部、唐沢則幸訳)

迷子になった
(フリッツ・ライバー『ビッグ・タイム』12、青木日出夫訳)

さざ波であった。
(泉 鏡花『怨霊借用』三)

誰かが、うっかり置き忘れていったのだ。
(サリンジャー『シーモア─序章─』井上謙治訳)


LET THE MUSIC PLAY。

  田中宏輔



ヘミングウェイが入ってきた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』32、清水俊二訳)

元気そうじゃないか。
(チャールズ・ウェッブ『卒業』1、佐和 誠訳、句点加筆)

プルーストは
(コクトー『阿片』堀口大學訳)

いつものきまりの席で、原稿を書いているところだった。
(ボリス・ヴィアン『日々の泡』56、曾根元吉訳)

君がよく引用した文句は何だったっけ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』14、木村 浩・松永緑彌訳)

ひとは他人の経験からなにも学びはしない。
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

いや、まったく同感だ。──さしあたりはね。
(コレット『牝猫』工藤庸子訳、読点及び句点加筆)

まさに詩人のいうとおりだ。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

しかし、このことをほんとうに信じ、実際そうだと思うのは難しいね。
(ホーフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)

コーヒーが運ばれてきた。
(トーマス・マン『ブッデンブローグ家の人びと』第一部・第八章、望月市恵訳)

それにしても、
(モンテルラン『独身者たち』第I部・2、渡辺一民訳)

いまだにみんながきみの愛について語ることをしないのは、いったいどうしたことなのだろう。
(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)

誰もが持っていることさえ拒むような考えを暴き出すのが詩人の務めだ
(ダン・シモンズ『大いなる恋人』嶋田洋一訳)

しかし、
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第四部・18、山西英一訳)

世間の普通の人は詩など読まない
(ノサック『ドロテーア』神品義雄訳)

誰も詩人のものなんて読みやしない。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

もちろんそうさ。
(テリー・ビッスン『時間どおりに教会へ』3、中村 融訳)

もう詩を書く人間はひとりもいない。
(J・G・バラード『スターズのスタジオ5号』浅倉久志訳)

詩作なんかはすべきでない。
(ホラティウス『書簡詩』第一巻・七、鈴木一郎訳)

じゃ
(サバト『英雄たちと墓』第I部・12、安藤哲行訳)

いったいなんのために書くのか?
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)

 詩人の不幸ほど甚だしいものはないでしょう。さまざまな災悪によりいっそう深く苦しめられるばかりでなく、それらを解明するという義務も負うているからです
(レイナルド・アレナス『めくるめく世界』34、鼓 直・杉山 晃訳)

詩とは認識への焦慮なのです、それが詩の願いです、
(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳)

やれやれ、何ぢやいこの気違ひは!
(ヴィリエ・ド・リラダン『ハルリドンヒル博士の英雄的行為』齋藤磯雄訳)

詩人を理解する者とては、詩人をおいてないのです。
(ボードレールの書簡、1863年10月10日付、A・C・スィンバーン宛、阿部良雄訳)

確かかね?
(J・G・バラード『地球帰還の問題』永井 淳訳)

どんな霊感が働いたのかね?
(フリッツ・ライバー『空飛ぶパン始末記』島岡潤平訳)

ともすれば、悲しみが喜び、喜びが悲しむ。
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第二場、市河三喜・松浦嘉一訳)

いちばん深く隠れているものが真っ先に見つかってしまう
(エミリ・ディキンスンの詩・八九四番、新倉俊一・鵜野ひろ子訳)

ああ、あの別の関連の中へ
(リルケ『ドゥイノの悲歌』第九の歌、高安国世訳)

新たな知覚は新たな語彙を必要とする。
(デイヴィッド・ブリン『キルン・ピープル』下・第三部・53、酒井昭伸訳)

ぼくは詩が書きたかった。
(ロジャー・ゼラズニイ『伝道の書に薔薇を』2、大谷圭二訳)

詩作は一種のわがままである
(ゲーテ『粗野に 逞しく』小牧健夫訳)

今ではわたしも、他人のこころを犠牲にして得たこころの願望がいかなるものか、
(ゼナ・ヘンダースン『なんでも箱』深町眞理子訳)

それを知っている
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

私という病気にかかっていることがようやくわかった。
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友人へ』8、佐宗鈴夫訳)

私というのは、空虚な場所、
(ジンメル『日々の断想』66、清水幾太郎訳)

世界という世界が豊饒な虚空の中に形作られるのだ。
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)

詩は優雅で空虚な欺瞞だった。
(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』4、友枝康子訳)

やっぱり芸術は、それを作り出す芸術家に対してしか意味がないんだなあ
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』8、井上一夫訳)

でも、
(ポール・アンダースン『生贄(いけにえ)の王』吉田誠一訳)

詩のために身を滅ぼしてしまうなんて名誉だよ。
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第四章、西村孝次訳)

そんなことは少しも新しいことじゃないよ
(スタニスワフ・レム『砂漠の惑星』6、飯田規和訳)

人生をむだにややこしくして
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』34、安原和見訳)

ばかばかしい。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』13、宇佐川晶子訳)

そうだ、
(原 民喜『心願の国』)

君はどう思う、戦争なんてものも、いい思い出になるものなのかな?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

どうかしてるよ、
(コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)

アーネスト。
(ワイルド『まじめが肝心』第二幕、西村孝次訳)

戦争がいいなんていえるのは、
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳)

気が狂っている。
(使徒行伝二六・二四)

なんだよ、そのいいがかりは?
(ハーラン・エリスン『ガラスの小鬼が砕けるように』伊藤典夫訳)

まあいいさ。
(ジュリアス・レスター『すばらしいバスケットボール』第一部・1、石井清子訳)

で、これからどうするんだ?
(ギュンター・グラス『猫と鼠』XIII、高本研一訳)

道楽者のアーネストは、どうするつもりだい?
(ワイルド『まじめが肝心』第一幕、西村孝次訳)

あ、
(ジョン・ダン『遺贈』篠田綾子訳)

そうだ。
(ミラン・クンデラ『ジャックとその主人』第一幕・第五場、近藤真理訳)

ブーローニュの森へ散歩に行ってみたら?
(ボリス・ヴィアン『日々の泡』13、曾根元吉訳、疑問符加筆)

気に入ったことを言うじゃないか。
(モリエール『人間ぎらい』第三幕・第一場、内藤 濯訳)

ポケットには、何がはいっている?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』32、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ヘミングウェイは嬉しそうに笑って見せた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

そこには
(ハーラン・エリスン『満員御礼』浅倉久志訳)

コンドームの包みがあったからである。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』VII、高本研一訳、句点加筆)

二人は
(ラーゲルクヴィスト『バラバ』尾崎 義訳)

少し離れたバスの停留所へ向かった。
(カミュ『異邦人』第一部・5、窪田啓作訳)

バス停には、ごたごたと行列がいくつも並んでいた。
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』34、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

うしろで、もそもそやってるのは、だれの禿頭(はげあたま)だ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

そう言いながら、
(サリンジャー『フラニーとゾーイー』フラニー、野崎 孝訳)

ヘミングウェイはポケットからハンケチを出して、顔を拭いた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

バスがやってきて、彼の前でドアがあいた。
(トム・リーミイ『サンディエゴ・ライトフット・スー』井辻朱美訳)

マルセルは
(バタイユ『眼球譚』第一部・物語・衣装箪笥、生田耕作訳)

そのハンケチほど汚いハンケチをみたことがなかった。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』5、清水俊二訳)

バスはいつもと違うコースをとった。
(リサ・タトル『きず』幹 遙子訳)

どこでもいい ここでさえなければ!
(ロバート・ロウエル『日曜の朝はやく目がさめて』金関寿夫訳)

ただ、この世界の外でさえあるならば!
(ボードレール『どこへでも此世の外へ』三好達治訳)

定義し理解するためには定義され理解されるものの外にいなければならない
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

ハンカチだ。もちろん、ハンカチがいる。
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』11、安田 均訳)

まるで金魚のようだ
(グレッグ・ベア『永劫』下・57、酒井昭伸訳)

それ、どういう意味?
(J・G・バラード『逃がしどめ』永井 淳訳)

一匹の魚にとって自分の養魚鉢を見るのはたやすいことではありませんね
(マルロー『アルテンブルクのくるみの木』第二部・三、橋本一明訳)

ぼくも以前は金魚鉢が大好きでした。
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・27、土岐恒二訳)

それ以来、幾年かが流れすぎた。
(シュトルム『大学時代』大学にて、高橋義孝訳、読点加筆)

さて、そのハンカチは、いまどこにあるだろう?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』84、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ありあまるほどの平和。
(ハーラン・エリスン『眠れ、安らかに』浅倉久志訳)

自殺がいっぱい。
(ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』25、井上 勇訳、句点加筆)

自殺が。
(三島由紀夫『禁色』第四章、句点加筆)

僕タチハ、ミンナ森ニイル。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳、読点加筆)

僕タチハ、ミンナ森ニイル。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳、読点加筆)



*



一ぴきのウサギが、小さな薮のかげから飛び出した。
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』3、浅倉久志訳)

 兎は、われわれを怯えさせはしない。しかし、兎が、思いがけず、だし抜けに飛び出して来ると、われわれも逃げ出しかねない。
 われわれに取って抜き打ちだったために、われわれを驚嘆させたり、熱狂させたりする観念についても、同じことが言える。
(ヴァレリー『倫理的考察』川口 篤訳)

人間の通性が不意に稀有なものとなる。
(ジェフリー・ヒル『小黙示録』富士川義之訳)

慣れ親しんでいるためにかえってその深さが見えにくかったその単語の下に、突然過去の深淵が口を開ける
(プルースト『美の教師』吉田 城訳)

何もかもがとてもなじみ深く見えながら、しかもとても見慣れないものに思えるのだ。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第三部・11、大西 憲訳)

たましい全体が単純なひとことのまわりにたわむ
(イーヴ・ボンヌフォア『苦悩と欲求との対話』2、安藤元雄訳)

quum res animum occupavere, verba ambiunt.
物(内容)が精神を占有するとき、言葉は蝟集す。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』より、セネカの言葉)

わたしの世界の何十という断片が結びつきはじめる。
(グレッグ・イーガン『貸金庫』山岸 真訳)

断片はそれぞれに、そうしたものの性質に従って形を求めた。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』36、黒丸 尚訳)

記憶が、各瞬間に、それぞれの言葉(、、)を介して参加する。
(ヴァレリー『詩学序説』コレージュ・ド・フランスにおける詩学の教授について、河盛好蔵訳)

きみの中で眠っていたもの、潜んでいたもののすべてが現われるのだ
(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳)

言葉はもはや彼をつなぎとめてはいないのだ。
(ブルース・スターリング『スキズマトリックス』第三部、小川 隆訳)

そして風景が整えられる。(……)ひとつの言葉のまわりに。
(ジャック・デュパン『燃えさしの薪・距たり』多田智満子訳)

すべてのものを新たにする。
(『ヨハネの黙示録』二一・五)

すべてが新しくなったのである。
(『コリント人への第二の手紙』五・一七)

家造りらの捨てた石は
隅のかしら石となった。
(詩篇』一一八・二二─二三)

「比喩」metaphora は、ギリシア語の「別の所に移す」を意味する動詞metaphereinに由来する。そこから、或る語をその本来の意味から移して、それと何らかの類似性を有する別の意味を表すように用いられた語をメタフォラという。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第I門・第九項・訳註、山田 晶訳)

新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)

森はどこにあるのか。
(ホフマンスタール『帰国者の手紙』第二の手紙、檜山哲彦訳)

一匹の兎が
(ランボー『大洪水後』小林秀雄訳)

一つの言葉が
(ル・クレジオ『戦争』豊崎光一訳)

森だ
(ノサック『滅亡』神品芳夫訳)

あらゆるものがあらゆるものとともにある
(ホルヘ・ギリェン『ローマの猫』荒井正道訳)

あらゆる事が生ずる土地である
(プルースト『ギュスタヴ・モローの神秘的世界についての覚書』粟津則雄訳)

なぜならこの場所こそ(……)さまざまな想いを、かくも長く、かくも静かに、
散逸させずに保っていたところなのだ。
(フィリップ・アーサー・ラーキン『寺院を訪ねる』澤崎順之助訳)

あらゆるものの発端、効能、胚種が、一つ残らず収まっている。
(ホイットマン『草の葉』さまざまな胚種、酒本雅之訳)

森が待っている。
(フィリップ・K・ディック『報酬』浅倉久志訳)

森じゅうが待っている。
(ジュール・シュペルヴィエル『昨日と今日』飯島耕一訳)



*



ヘミングウェイが入ってきた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』32、清水俊二訳)

元気そうじゃないか。
(チャールズ・ウェッブ『卒業』1、佐和 誠訳、句点加筆)

プルーストは
(コクトー『阿片』堀口大學訳)

いつものきまりの席で、原稿を書いているところだった。
(ボリス・ヴィアン『日々の泡』56、曾根元吉訳)

君がよく引用した文句は何だったっけ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』14、木村 浩・松永緑彌訳)

ひとは他人の経験からなにも学びはしない。
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

いや、まったく同感だ。──さしあたりはね。
(コレット『牝猫』工藤庸子訳、読点及び句点加筆)

まさに詩人のいうとおりだ。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

しかし、このことをほんとうに信じ、実際そうだと思うのは難しいね。
(ホーフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)

コーヒーが運ばれてきた。
(トーマス・マン『ブッデンブローグ家の人びと』第一部・第八章、望月市恵訳)

こつこつ
(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第八部・第二章、望月市恵訳)

あ、
(ジョン・ダン『遺贈』篠田綾子訳)

上の人また叩いたわ
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

二つ三つ。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』プロローグ、大島 豊訳)

このつぎで四度目になるが、
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』下・第十部・125、酒井昭伸訳)

きみにいたずらをした男かい?
(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』3、友枝康子訳)

よく覚えているよ。
(ロッド・サーリング『ミステリーゾーン』機械に脅迫された男、小菅正夫訳)

なにもかもがわたしに告げる
(ホルヘ・ギリェン『一足の靴の死』荒井正道訳)

神がそこにいる。
(ベルナール・ウェルベル『蟻の時代』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)

と、
(アルフレッド・ベスター『願い星、叶い星』中村 融訳)

神だって?
(ロバート・シルヴァーバーグ『ガラスの塔』31、岡部宏之訳)

神を持ち出すなよ。話がこんぐらがってくる
(キース・ロバーツ『ボールダーのカナリア』中村 融訳)

そうだ、
(原 民喜『心願の国』)

君はどう思う、戦争なんてものも、いい思い出になるものなのかな?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

どうかしてるよ、
(コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)

アーネスト。
(ワイルド『まじめが肝心』第二幕、西村孝次訳)

戦争がいいなんていえるのは、
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳)

気が狂っている。
(使徒行伝二六・二四)

なんだよ、そのいいがかりは?
(ハーラン・エリスン『ガラスの小鬼が砕けるように』伊藤典夫訳)

まあいいさ。
(ジュリアス・レスター『すばらしいバスケットボール』第一部・1、石井清子訳)

で、これからどうするんだ?
(ギュンター・グラス『猫と鼠』XIII、高本研一訳)

道楽者のアーネストは、どうするつもりだい?
(ワイルド『まじめが肝心』第一幕、西村孝次訳)

こつこつ
(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第八部・第二章、望月市恵訳)

あ、
(ジョン・ダン『遺贈』篠田綾子訳)

上の人また叩いたわ
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

二つ三つ。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』プロローグ、大島 豊訳)

このつぎで四度目になるが、
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』下・第十部・125、酒井昭伸訳)

きみにいたずらをした男かい?
(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』3、友枝康子訳)

よく覚えているよ。
(ロッド・サーリング『ミステリーゾーン』機械に脅迫された男、小菅正夫訳)

過去はただ単にたちまち消えてゆくわけではないどころか、いつまでもその場に残っているものだ。
(プルースト『失われた時を求めて』ゲルマントの方II・第二章、鈴木道彦訳)

一つ一つのものは自分の意味を持っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 
 
その時々、それぞれの場所はその意味を保っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 

おかしいわ。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)

どうしてこんなところに?
(コードウェイナー・スミス『西欧科学はすばらしい』伊藤典夫訳)

新しい石を手に入れる。
(R・A・ラファティ『つぎの岩につづく』浅倉久志訳)

それをならべかえる
(カール・ジャコビ『水槽』中村能三訳)

人間というものは、いつも同じ方法で考える。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)

個性は思い出と習慣によって作られる
(ヴァレリー全集カイエ篇6『自我と個性』滝田文彦訳)

霊はすべておのれの家を作る。だがやがて家が霊を閉じこめるようになる。
(エマソン『運命』酒本雅之訳)

存在を作り出すリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)

人間ひとりひとりを永遠と偏在に参与せしめるリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)

あらゆる言語的現象の奥には、リズムがある。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩・リズム、牛島信明訳)

I would define the Poetry of words as The Rhythmical of Beauty.
私は、詩の定義をリヅムをもって美を作り出したものとしたい。
(E.A.Poe:The Poetic Principle. 齋藤 勇訳)

リズムはわれわれのあらゆる創造の泉である。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩・リズム、牛島信明訳)

言葉の詩とはつまり「美の韻律的創造」だと言えよう。
(ポオ『詩の原理』篠田一士訳)

論理的には全世界が自分の名前になるということが理解できるか?
(イアン・ワトスン『乳のごとききみの血潮』野村芳夫訳)

ほかにいかなるしるしありや?
(コードウェイナー・スミス『スキャナーに生きがいはない』朝倉久志訳)

言葉以外の何を使って、嫌悪する世界を消しさり、愛しうる世界を創りだせるというのか?
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

具体的な形はわれわれがつくりだすのだ
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』28、三田村 裕訳)

創造者であるとともに被創造物でもある
(ブライアン・W・オールディス『讃美歌百番』浅倉久志訳)

形と意味を与えられた苦しみ。
(サミュエル・R・ディレイニー『コロナ』酒井昭伸訳)

きみはこれになるか?
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)

認識する主体と客体は一体となる。
(プロティノス『自然、観照、一者について』8、田之頭安彦訳)

どちらが原因でどちらが結果なのか、
(アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』一九〇五年六月十日、浅倉久志訳)

原因と結果の同時生起
(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・七、菊盛英夫訳)

人間とは、言語を創造することによって自己を創造した存在である。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩・言語、牛島信明訳)

詩人は詩による創造であり、詩は詩人による創造である。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩的啓示・インスピレーション、牛島信明訳)

窮迫と夜は人を鍛える。
(ヘルダーリン『パンと酒』川村二郎訳)

孤独、偉大な内面的孤独。
(リルケ『若い詩人への手紙』高安国世訳)

おそらく、最も優れたものは孤独の中で作られるものであるらしい。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

きみはそれを知っている人間のひとりかね?
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

そのとおりであることを祈るよ。
(アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』第一部・4、福島正実訳)

それが傑作でないというのなら、本など書いていったい何になろう?
(エルヴェ・ギベール『楽園』野崎歓訳)

本が、知識のあらゆる部門に亙って激増したことは、近代の悪弊の一つである。
(ポオ『覚書(マルジナリア)』本の濫造、吉田健一訳)

mediocres poetas nemo novit; bonos pauci.
平凡なる詩人を何人も知らず、良き詩人を少數者のみが知る。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』より、タキトゥスの言葉)

人間は見かけ通りであるべきです。
(シェイクスピア『オセロウ』第三幕・第三場、菅 泰男訳)

まさか見える通りの、そのままの人間ではあるまい。
(シェイクスピア『ヘンリー四世 第一部』第五幕・第四場、中野好夫訳)

あるいは、その逆かもしれない。
(アヴラム・デイヴィッドスン『眠れる美女ポリー・チャームズ』古屋美登里訳)

そうだ。
(ミラン・クンデラ『ジャックとその主人』第一幕・第五場、近藤真理訳)

ブーローニュの森へ散歩に行ってみたら?
(ボリス・ヴィアン『日々の泡』13、曾根元吉訳、疑問符加筆)

気に入ったことを言うじゃないか。
(モリエール『人間ぎらい』第三幕・第一場、内藤 濯訳)

ポケットには、何がはいっている?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』32、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ヘミングウェイは嬉しそうに笑って見せた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

そこには
(ハーラン・エリスン『満員御礼』浅倉久志訳)

コンドームの包みがあったからである。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』VII、高本研一訳、句点加筆)

二人は
(ラーゲルクヴィスト『バラバ』尾崎 義訳)

少し離れたバスの停留所へ向かった。
(カミュ『異邦人』第一部・5、窪田啓作訳)

バス停には、ごたごたと行列がいくつも並んでいた。
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』34、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

うしろで、もそもそやってるのは、だれの禿頭(はげあたま)だ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

そう言いながら、
(サリンジャー『フラニーとゾーイー』フラニー、野崎 孝訳)

ヘミングウェイはポケットからハンケチを出して、顔を拭いた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

バスがやってきて、彼の前でドアがあいた。
(トム・リーミイ『サンディエゴ・ライトフット・スー』井辻朱美訳)

マルセルは
(バタイユ『眼球譚』第一部・物語・衣装箪笥、生田耕作訳)

そのハンケチほど汚いハンケチをみたことがなかった。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』5、清水俊二訳)

バスはいつもと違うコースをとった。
(リサ・タトル『きず』幹 遙子訳)

どこでもいい ここでさえなければ!
(ロバート・ロウエル『日曜の朝はやく目がさめて』金関寿夫訳)

ただ、この世界の外でさえあるならば!
(ボードレール『どこへでも此世の外へ』三好達治訳)

定義し理解するためには定義され理解されるものの外にいなければならない
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

ハンカチだ。もちろん、ハンカチがいる。
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』11、安田 均訳)

それ以来、幾年かが流れすぎた。
(シュトルム『大学時代』大学にて、高橋義孝訳、読点加筆)

さて、そのハンカチは、いまどこにあるだろう?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』84、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ありあまるほどの平和。
(ハーラン・エリスン『眠れ、安らかに』浅倉久志訳)

自殺がいっぱい。
(ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』25、井上 勇訳、句点加筆)

自殺が。
(三島由紀夫『禁色』第四章、句点加筆)

僕タチハ、ミンナ森ニイル。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳、読点加筆)

僕タチハ、ミンナ森ニイル。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳、読点加筆)

やがて思い出に変わる この
瞬間とは何だろう
(ヒメーネス『石と空』第一部・石と空・8・思い出・1、荒井正道訳)

一切がことばになりうるわけではない。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部・日の出前、手塚富雄)

われわれは、自分のすべての回想を、自分に所有している、ただそれの全部を思いだす能力をもっていないだけだ、
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラII、井上究一郎訳)

もみの樹はひとりでに位置をかえる。
(ジュネ『葬儀』生田耕作訳)

いち早く過ぎる日々こそ最も美しい
(L・M・モンゴメリ『麒麟草の咲く日に』吉川道夫・柴田恭子訳)

美しい?
(J・G・バラード『希望の海、復讐の帆』浅倉久志訳)

マベル、恋をすることよりも美しいことがあるなんて言わないでね
(プイグ『赤い唇』第二部・第十三回、野谷文昭訳)

おお
(ボードレール『黄昏』三好達治訳)

愛よ
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第九章、青山隆夫訳)

愛の与える知識の深さよ!
(ホフマンスタール『世界の秘密』川村二郎訳)

お前は苦痛が何を受け継いだかを知っている。
(ジェフリー・ヒル『受胎告知』2、富士川義之訳)

それ自身の新しい言葉を持たない恋がどこにあるだろう?
(シオドア・スタージョン『めぐりあい』川村哲郎訳)

ことばはわれわれ自身の存在である。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩的啓示・インスピレーション、牛島信明訳)

深い森のなかで孤独を楽しもうとしたって、無駄な話さ。
(ポオ『マリー・ロジェの謎』丸谷才一訳)

ubinam gentium sumus?
我々は世界の何處にゐるか。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』より、キケロの言葉)

恋をするにふさわしい場所。
(ペトロニウス『サテュリコン』131、国原吉之助訳)

人生には、恋をしている人々が常に心待ちにしているような奇跡がばらまかれているものだ。
(プルースト『失われた時を求めて』第二篇・花咲く乙女たちのかげに・I・第一部、鈴木道彦訳)

きれいな花ね。
(ジョン・ウィンダム『野の花』大西尹明訳)

花がなんだというのかね。
(ホラティウス『歌集』第三巻・八、鈴木一郎訳)

花じゃないの?
(ブライアン・W・オールディス『唾の樹』中村 融訳)

かつてはこれも人間だったのだ。
(ハーラン・エリスン『キャット・マン』池 央耿訳)

過ぎ去ったことがどのように空間のなかに収まることか、
──草地になり、樹になり、あるいは
空の一部となり……蝶(ちょう)も
花もそこにあって、何ひとつ欺くものはない
(リルケ『明日が逝くと……』高安国世訳)

凄いわ
(サバト『英雄たちと墓』第I部・9、安藤哲行訳)

花だ。
(ネルヴァル『火の娘たち』アンジェリック・第十の手紙、入沢康夫訳)

すごく大きいわね!
(ブライアン・W・オールディス『唾の樹』中村 融訳)

だまっててよ、ママ。
(フリッツ・ライバー『冬の蠅』大谷圭二訳)

なにがいけないっていうの?
(ジャネット・フォックス『従僕』山岸 真訳)

もうたくさん
(ジェイン・ヨーレン『死の姉妹』宮脇孝雄訳)

こつこつ
(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第八部・第二章、望月市恵訳)

あ、
(ジョン・ダン『遺贈』篠田綾子訳)

上の人また叩いたわ
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

二つ三つ。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』プロローグ、大島 豊訳)

このつぎで四度目になるが、
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』下・第十部・125、酒井昭伸訳)

きみにいたずらをした男かい?
(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』3、友枝康子訳)

よく覚えているよ。
(ロッド・サーリング『ミステリーゾーン』機械に脅迫された男、小菅正夫訳)

どんなものでも、人間の思考の焦点に入ると、魂を持つようになる。
(ナボコフ『賜物』第4章、沼野充義訳)

完璧だからこそ横柄なこれらの幻像は
純粋な精神のなかで育った。だが、もともとそれは
何であったか? 屑物(くずもの)の山、街路の塵芥(ちりあくた)、
古い薬缶(やかん)、古い空瓶(あきびん)、ひしゃげたブリキ缶、
古い火のし、古い骨、ぼろ布、銭箱にしがみついて
喚(わめ)き立てるあの売女(ばいた)。
(イエイツ『サーカスの動物たちは逃げた』III、高松雄一訳)

皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
(伝道の書三・二〇)

あとは卑猥な文句ばかりがつづいているが、
(ボリス・パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』II・第10編・4、江川 卓訳)

こうしてアリスはとっかえひっかえ、一人二役で話をつづけていた。
(ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』4、矢川澄子訳、句点加筆)



*



きみはわれわれがどうも間違った兎を追いかけているような気はしないかね?
(J・G・バラード『マイナス 1』伊藤 哲訳)

もちろんちがうさ。
(ゼナ・ヘンダースン『月のシャドウ』宇佐川晶子訳)

そんなことはありえない。
(フランク・ハーバート『ドサディ実験星』12、岡部宏之訳)

いいかい?
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

そもそも
(ウィリアム・ブラウニング・スペンサー『真夜中をダウンロード』内田昌之訳)

現実とはなにかね?
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第三部・19、冬川 亘訳)

なにを彼が見つめていたか?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)

このできごとのどこまでが現実にあったことだ?
(グレッグ・ベア『女王天使』下・第二部・54、酒井昭伸訳)

人間はいったい何を確実に知っているといえるだろう?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』6、山田和子訳)

言葉とは何か?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)

いったい、御言(ロゴス)とは何なのだ?
(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第四章、渡辺一夫訳)

以前知らなかった一つの存在を認識したために思考が豊かになっているので、
(ノサック『滅亡』神品芳夫訳)

 すべていままで私の精神に統一なしにはいってきた要素が、ことごとく理解されるものとなり、明瞭な姿をあらわしてきた、
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラ、井上究一郎訳)

今こそわたしにも、世界がなんでできあがっているかがわかった。人間とはどんなものかがわかった。
(フィリップ・K・ディック『あなたをつくります』13、佐藤龍雄訳)

なぜそれに気づかなかったのだろう?
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第二章、西村孝次訳)

 心は、実のところ、忘れるのがとても上手だ。それも単にどうでもいいことを忘れるだけでなく、すばらしく貴重な感覚を忘れて、それを再発見させるほどの知恵を備えている。
(ブライアン・ステイブルフォード『地を継ぐ者』第一部・1、嶋田洋一訳)

天は汝等を招き、その永遠(とこしえ)に美しき物を示しつゝ汝等をめぐる、
(ダンテ『神曲』淨火・第十四曲、山川丙三郎訳)

濃い緑と青
(ランボー『飾画』平凡な夜曲、小林秀雄訳)

眼下に広がるのは、生命に満ちあふれた世界だった。
(アーサー・C・クラーク『3001年終局への旅』プロローグ、伊藤典夫訳)

有限なものとなったのは無限のものだった。
(イヴ・ボヌフォワ『大地の終るところで』II、清水 茂訳)

魂だけが魂を理解する
(ホイットマン『草の葉』完全な者たち、酒本雅之訳)

愛の道は
愛だけが通れる
(カルロス・ドルモン・ジ・アンドラージ『食卓』ナヲエ・タケイ・ダ・シルバ訳)

愛を理解し得るのは愛だけ
(ポオの書簡より、一八四八年十月十八日付、セアラ・ウィットマン宛、坂本和男訳)

 芸術のただ一つの起源は、イデアの認識である。そして芸術のただ一つの目標は、この認識の伝達ということに外ならない。
(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第三巻・第三十六節、西尾幹二訳)

兄弟よ。しかするなかれ、汝も魂、汝の見る者も魂なれば。
(ダンテ『神曲』淨火・第二十一曲、山川丙三郎訳、読点加筆)

 作品とはけっしてさまざまな特殊な資質を見せびらかしたものではなく、われわれの生のなかにあるもっとも内的なもの、事物のなかにあるもっとも奥深いものの表現
(プルースト『シャルダンとレンブラント』粟津則夫訳)

われわれは事物の精神を、魂を、特徴をつかまえなくてはならない。
(バルザック『知られざる傑作』一、水野 亮訳)

古びてゆく屋根の縁さえ
空の明るみを映して、──
感じるものとなり、国となり、
答えとなり、世界となる。
(リルケ『かつて人間がけさほど……』高安国世訳)

自然の事実はすべて何かの精神的事実の象徴だ。
(エマソン『自然』四、酒本雅之訳)」

わたしたちの言葉の中に それはひそんでいる
(ホフマンスタール『世界の秘密』川村二郎訳)

言葉は現実を表わしているのではない。言葉こそ現実なのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)

言葉はそれが表示している対象物以上に現実的な存在なのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)



*



ヘミングウェイが入ってきた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』32、清水俊二訳)

元気そうじゃないか。
(チャールズ・ウェッブ『卒業』1、佐和 誠訳、句点加筆)

プルーストは
(コクトー『阿片』堀口大學訳)

いつものきまりの席で、原稿を書いているところだった。
(ボリス・ヴィアン『日々の泡』56、曾根元吉訳)

君がよく引用した文句は何だったっけ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』14、木村 浩・松永緑彌訳)

ひとは他人の経験からなにも学びはしない。
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

いや、まったく同感だ。──さしあたりはね。
(コレット『牝猫』工藤庸子訳、読点及び句点加筆)

まさに詩人のいうとおりだ。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

しかし、このことをほんとうに信じ、実際そうだと思うのは難しいね。
(ホーフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)

コーヒーが運ばれてきた。
(トーマス・マン『ブッデンブローグ家の人びと』第一部・第八章、望月市恵訳)

 男にもし膣と乳房があれば、世の中の男はひとり残らずホモになっているだろう、とシルビア・リゴールは口癖のように言っていた。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)

ヤコービは、彼の数学上の発見の秘密を問われて「つねに逆転させなければならない」といった。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとII』21、田中 勇・銀林 浩訳)

みるものが変われば心も変わる。
(シェイクスピア『トライラスとクレシダ』V・ii、玉泉八州男訳)

心のなかに起っているものをめったに知ることはできないものではあるが、
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第三部・10、山西英一訳)

隠れているもので、知られてこないものはない。
(『マタイによる福音書』一〇・二六)

そのような実在は、それがわれわれの思考によって再創造されなければわれわれに存在するものではない
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)

一体どのようにして、だれがわたしたちを目覚ますことができるというのか。
(ノサック『滅亡』神品芳夫訳)

だれがぼくらを目覚ませたのか、
(ギュンター・グラス『ブリキの音楽』高本研一訳)

ことば、ことば、ことば。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

言葉と精神とのあいだの内奥の合一の感をわれわれに与えるのが、詩人の仕事なのであり
(ヴァレリー『詩と抽象的思考』佐藤正彰訳)

これらはことばである
(オクタビオ・パス『白』鼓 直訳)

 実際に見たものよりも、欺瞞、神秘、死に彩られた物語に書かれた月のほうが印象に残っているのはどういうわけだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』世界一の美少女、木村榮一訳)

言葉は虚偽だ。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

芸術作品はすべて美しい嘘である。
(スタンダール『ウォルター・スコットと『クレーヴの奥方』』小林 正訳)

詩は優雅で空虚な欺瞞だった。
(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』4、友枝康子訳)

といってもそこにはなんらかの真実がある。
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)

どんな巧妙な嘘にも、真実は含まれている
(A・E・ヴァン・ヴォクト『スラン』10、浅倉久志訳)

このうえなく深い虚偽からかがやくような新しい真実が生まれるにちがいない、
(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳)

どんな人間の言葉も真実ではない。
(ペール・ラーゲルクヴィスト『星空の下で』山室 静訳)

ぼくだってどこに真実があるかなんて知っちゃいないさ。
(コルターサル『石蹴り遊び』41、土岐恒二訳)

そも人間の愛にそれほど真実がこもっているのだろうか。
(エミリ・ブロンテ『いざ、ともに歩もう』松村達雄訳)

単純な答えなどない。
(アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』第二部・14、中田耕治訳)

人間はいったい何を確実に知っているといえるだろう?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』6、山田和子訳)

そもそもこの世の中で、他人のことを気にかけている人間がいるのだろうか?
(P・D・ジェイムズ『ナイチンゲールの屍衣』第四章・2、隅田たけ子訳)

愛情深い人間なんてほんとうにいるのでしょうか。
(モーリヤック『ホテルでのテレーズ』藤井史郎訳)

人間が真実の相において愛することができるのは、自分自身なのであり
(三島由紀夫『告白するなかれ』)

愛とはそれを媒体としてごくたまに自分自身を享受することのできる一つの感情にすぎない。
(E・M・フォースター『モーリス』第四部・44、片岡しのぶ訳)

 おまえはいつも愚かな頭のなかで、ありもしない人間の間の絆を実在するかのように考えてしまうらしいな。それがおまえのすべての不幸のもとなんだ。
(マルキ・ド・サド『新ジェスティーヌ』澁澤龍彦訳)

つきつめて分析すれば、人はみな他人とは隔絶されている。
(フィリップ・K・ディック『ジョーンズの世界』10、白石 朗訳)

自分の皮膚のなかに、独りきりでいる。
(D・H・ロレンス『死んだ男』I、幾野 宏訳)

何事も頭脳の中で起こる。
(ワイルド『獄中記』田部重治訳)

すべては主観である。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第二章・一五、神谷美恵子訳)

 われわれは孤独に存在している。人間は自己から抜けだせない存在であり、自己のなかでしか他人を知らない存在である、
(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・逃げさる女、井上究一郎訳)

私はふいに、はっきりした理由はわからないけれども、十年の間、自分を欺いていたことを知ったのである。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

われわれにもっとも暴威をふるう情熱は、その起原についてわれわれが自分を欺いている情熱なのである。
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第四章、西村孝次訳)

愛は何物でもない、苦悩がすべてだ
(ラーゲルクヴィスト『愛は何物でもない……』山室 静訳)

苦しみをこそ、ぼくは愛している。
(デュラス『北の愛人』清水 徹訳)

わたしの神よ、わたしの苦痛よ、
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部、手塚富雄訳)

不幸は俺の神であった。
(ランボー『地獄の季節』小林秀雄訳)

不幸は情熱の糧なのだ。
(ターハル・ベン=ジェルーン『聖なる夜』9、菊地有子訳)

情熱こそは人間性の全部である。
(バルザック『人間喜劇』序、中島健蔵訳)

魂の他のどんな状態にもまして、悲しみは、人間の性格や運命を深く洞察させる。
(スタール夫人『北方文学と南方文学』加藤晴久訳)

増大する苦痛が苦痛の観察を強いるのです。
(ヴァレリー『テスト氏』テスト氏との一夜、村松 剛・菅野昭正訳)

地上の人生、それは試練にほかならないのではないでしょうか。だれが苦痛や困難を欲する者がありましょう。
(アウグスティヌス『告白』第十巻・第二十八章・三九、山田 晶訳)

人間がときとして、おそろしいほど苦痛を愛し、夢中にさえなることがあるのも、間違いなく事実である。
(ドストエフスキー『地下室の手記』I・9、江川 卓訳)

たしかに
(ジョン・ブラナー『木偶(でく)』吉田誠一訳)

あらゆる出会いが苦しい試練だ。
(フィリップ・K・ディック『ユービック : スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳)

その傷によって
(ヨシフ・ブロツキー『主の迎接祭(スレーチエニエ)』小平 武訳)

違った状態になる
(チャールズ・オルソン『かわせみ』4、出淵 博訳)

何もかも
(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』上・1、矢野 徹訳)

 悲しみは、一回ごとに一つの法則をわれわれにあかすわけではないにしても、そのたびにわれわれを真実のなかにひきもどし、物事を真剣に解釈するようにさせる
(プルースト『失われた時を求めて』第七篇・見出された時、井上究一郎訳)

苦しみは人生で出会いうる最良のものである
(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・逃げさる女、井上究一郎訳)

世界はすべての人間を痛めつけるが、のちには多くの人がその痛めつけられた場所で、かえって強くなることもある。
(ヘミングウェイ『武器よさらば』第三四章、鈴木幸夫訳)

苦悩(くるしみ)は祝福されるのだ。
(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第三章、渡辺一夫訳)

苦痛の深部を経て、人は神秘に、真髄に達するのだ。
(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・逃げさる女、井上究一郎訳)

愛することもまたいいことです。なぜなら愛は困難だからです。
(リルケ『若い詩人への手紙』高安国世訳)

多感な心と肉体を捻じり合わせて愛に変えうるのは苦しみだけ
(E・M・フォースター『モーリス』第四部・42、片岡しのぶ訳)

おそらく、苦悩はつねに最強のものなのだ。
(マルロー『アルテンブルクのくるみの木』シャルトル捕虜収容所、橋本一明訳)

不幸はしばしばもっと大きな苦しみによって報いられる。
(ルネ・シャール『砕けやすい年(抄)』水田喜一朗訳)

もっとも多く愛する者は敗者である、そして苦しまねばならぬ──
(トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳)

 愛が單なる可能性にすぎない以上、それはしばしば躓きやすいものだ。いや寧ろ、躓くことによつて愛は意識されやすいのだ。
(福永武彦『愛の試み愛の終り』愛の試み・情熱)

愛していなければ悲しみを感じることはできない
(フィリップ・K・ディック『流れよわが涙、と警官は言った』第二部・11、友枝康子訳)

現実とは、愛の現実よりほかにないのだ!
(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳)

人間であることはじつに困難だよ、
(マルロー『希望』第二編・第一部・7、小松 清訳)

おお、ソクラテスよ、なんの障害もあなたの進行を妨げないとすると、そもそも進行そのものが不可能になる。
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)

いかなる行動も営為も思惟(しい)も、ひたすら人を生により深くまきこむためにのみあるのだ。
(フィリップ・K・ディック『あなたをつくります』7、佐藤龍雄訳)

そもそも苦しむことなく生きようとするそのこと自体に一つの完全な矛盾があるのだ、と言ってもよいくらいである。
(ショーペンハウアー『意思と表象としての世界』第一巻・第十六節、西尾幹二訳)

苦悩はいとも永い一つの瞬間である。
(ワイルド『獄中記』田部重治訳)

ひとは、幸福でしかも孤独でいることができるだろうか?
(カミュ『手帖』第四部、高畠正明訳)

窮迫と夜は人を鍛える。
(ヘルダーリン『パンと酒』川村二郎訳)

孤独、偉大な内面的孤独。
(リルケ『若い詩人への手紙』高安国世訳)

おそらく、最も優れたものは孤独の中で作られるものであるらしい。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

苦しみは焦点を現在にしぼり、懸命(、、、)な闘いを要求する。
(カミュ『手帖』第四部、高畠正明訳)

苦しむこと、教えられること、変化すること。
(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』不幸、田辺 保訳)

創造する者が生まれ出るために、苦悩と多くの変身が必要なのである。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

変身は偽りではない……
(リルケ『月日が逝くと……』高安国世訳)

意志と思惟はいっさいを変容させた。
(アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』第二部・15、中田耕治訳)

おれは変わった……「おれ」の意味が変わった……
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』23、鈴木 晶訳)

人間であるというのは、いつもいつも変化しているということなんだ。
(ソムトウ・スチャリトクル『しばし天の祝福より』6、伊藤典夫訳)

そうだ、
(原 民喜『心願の国』)

君はどう思う、戦争なんてものも、いい思い出になるものなのかな?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

どうかしてるよ、
(コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)

アーネスト。
(ワイルド『まじめが肝心』第二幕、西村孝次訳)

戦争がいいなんていえるのは、
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳)

気が狂っている。
(使徒行伝二六・二四)

なんだよ、そのいいがかりは?
(ハーラン・エリスン『ガラスの小鬼が砕けるように』伊藤典夫訳)

まあいいさ。
(ジュリアス・レスター『すばらしいバスケットボール』第一部・1、石井清子訳)

で、これからどうするんだ?
(ギュンター・グラス『猫と鼠』XIII、高本研一訳)

道楽者のアーネストは、どうするつもりだい?
(ワイルド『まじめが肝心』第一幕、西村孝次訳)

あ、
(ジョン・ダン『遺贈』篠田綾子訳)

そうだ。
(ミラン・クンデラ『ジャックとその主人』第一幕・第五場、近藤真理訳)

ブーローニュの森へ散歩に行ってみたら?
(ボリス・ヴィアン『日々の泡』13、曾根元吉訳、疑問符加筆)

気に入ったことを言うじゃないか。
(モリエール『人間ぎらい』第三幕・第一場、内藤 濯訳)

ポケットには、何がはいっている?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』32、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ヘミングウェイは嬉しそうに笑って見せた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

そこには
(ハーラン・エリスン『満員御礼』浅倉久志訳)

コンドームの包みがあったからである。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』VII、高本研一訳、句点加筆)

二人は
(ラーゲルクヴィスト『バラバ』尾崎 義訳)

少し離れたバスの停留所へ向かった。
(カミュ『異邦人』第一部・5、窪田啓作訳)

バス停には、ごたごたと行列がいくつも並んでいた。
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』34、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

うしろで、もそもそやってるのは、だれの禿頭(はげあたま)だ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

そう言いながら、
(サリンジャー『フラニーとゾーイー』フラニー、野崎 孝訳)

ヘミングウェイはポケットからハンケチを出して、顔を拭いた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

バスがやってきて、彼の前でドアがあいた。
(トム・リーミイ『サンディエゴ・ライトフット・スー』井辻朱美訳)

マルセルは
(バタイユ『眼球譚』第一部・物語・衣装箪笥、生田耕作訳)

そのハンケチほど汚いハンケチをみたことがなかった。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』5、清水俊二訳)

バスはいつもと違うコースをとった。
(リサ・タトル『きず』幹 遙子訳)

どこでもいい ここでさえなければ!
(ロバート・ロウエル『日曜の朝はやく目がさめて』金関寿夫訳)

ただ、この世界の外でさえあるならば!
(ボードレール『どこへでも此世の外へ』三好達治訳)

定義し理解するためには定義され理解されるものの外にいなければならない
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

ハンカチだ。もちろん、ハンカチがいる。
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』11、安田 均訳)

まるで金魚のようだ
(グレッグ・ベア『永劫』下・57、酒井昭伸訳)

それ、どういう意味?
(J・G・バラード『逃がしどめ』永井 淳訳)

一匹の魚にとって自分の養魚鉢を見るのはたやすいことではありませんね
(マルロー『アルテンブルクのくるみの木』第二部・三、橋本一明訳)

ぼくも以前は金魚鉢が大好きでした。
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・27、土岐恒二訳)

それ以来、幾年かが流れすぎた。
(シュトルム『大学時代』大学にて、高橋義孝訳、読点加筆)

さて、そのハンカチは、いまどこにあるだろう?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』84、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ありあまるほどの平和。
(ハーラン・エリスン『眠れ、安らかに』浅倉久志訳)

自殺がいっぱい。
(ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』25、井上 勇訳、句点加筆)

自殺が。
(三島由紀夫『禁色』第四章、句点加筆)

僕タチハ、ミンナ森ニイル。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳、読点加筆)

僕タチハ、ミンナ森ニイル。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳、読点加筆)



*



またウサギかな?
(ジェイムズ・アラン・ガードナー『プラネット・ハザード』上・5、関口幸男訳)

兎が三羽、用心深くぴょんと出てきた。
(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』一冊目・六月十六日、野口幸夫訳)

誰にも永遠を手にする権利はない。だが、ぼくたちの行為の一つ一つが永遠を求める
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

というのは、瞬間というものしか存在してはいないからであり、そして瞬間はすぐに消え失せてしまうものだからだ
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』25、菅野昭正訳)

きみが生きている限り、きみはまさに瞬間だ、
(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・3、浜野 輝訳)

一切は過ぎ去る。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

愛はたった一度しか訪れない、
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

自分自身のものではない記憶と感情 (……) から成る、めまいのするような渦巻き
(エドモンド・ハミルトン『太陽の炎』中村 融訳)

突然の認識
(テリー・ビッスン『英国航行中』中村 融訳)

それはほんの一瞬だった。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』3、友枝康子訳)

ばらばらな声が、ひとつにまとまり
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

すべての場所が一つになる
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)

すべてがひとときに起ること。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

それこそが永遠
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

一たびなされたことは永遠に消え去ることはない。
(エミリ・ブロンテ『ゴールダインの牢獄の洞窟にあってA・G・Aに寄せる』松村達雄訳)

いちど気がつくと、なぜ今まで見逃していたのか、ふしぎでならない。
(ドナルド・モフィット『第二創世記』第二部・7、小野田和子訳)

一度見つけた場所には、いつでも行けるのだった。
(ジェイムズ・ホワイト『クリスマスの反乱』吉田誠一訳)

瞬間は永遠に繰り返す。
(イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)

かつて存在したものは、現在も存在し、これからも永久に存在するのだ。
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)

人間は永遠に生きられる。
(ドナルド・モフィット『創世伝説』下・第二部・12、小野田和子訳)

人間こそがすべてなのだ。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)

愛は僕らをひきよせる。
(ジョン・ダン『砕かれた心』高松雄一訳)

in omnibus caritas.
萬事において愛。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

omnia vincit amor.
愛は一切を征服す。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』より、ウェルギリウスの言葉)

愛することは持続することだ。
(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)

生きのこるものは愛だけである、と。
(フィリップ・アーサー・ラーキン『アーンデルの墓』澤崎順之助訳)

幸福も不幸も、魂に属すること。
(デモクリトス断片一七〇、廣川洋一訳)

自分の魂など、どうにでも作り変えられるものさ。
(マルキ・ド・サド『新ジェスティーヌ』澁澤龍彦訳)

もはや存在しないようにさせることも可能なのだ。
(ジュネ『葬儀』生田耕作訳)

おまえの幸福はここにあるのだろうか、
(リルケ『レース』I、高安国世訳)

単純な答えなどない。
(アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』第二部・14、中田耕治訳)

人間はいったい何を確実に知っているといえるだろう?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』6、山田和子訳)

しかし、わたしは幸福を感じていた。
(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三七年一月二十四日、関 義訳)

ubinam gentium sumus?
我々は世界の何處にゐるか。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』より、キケロの言葉)

恋をするにふさわしい場所。
(ペトロニウス『サテュリコン』131、国原吉之助訳)

深い森のなかで孤独を楽しもうとしたって、無駄な話さ。
(ポオ『マリー・ロジェの謎』丸谷才一訳)



*



ヘミングウェイが入ってきた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』32、清水俊二訳)

ヘミングウェイが入ってきた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』32、清水俊二訳)

ヘミングウェイが入ってきた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』32、清水俊二訳)

元気そうじゃないか。
(チャールズ・ウェッブ『卒業』1、佐和 誠訳、句点加筆)

元気そうじゃないか。
(チャールズ・ウェッブ『卒業』1、佐和 誠訳、句点加筆)

元気そうじゃないか。
(チャールズ・ウェッブ『卒業』1、佐和 誠訳、句点加筆)

プルーストは
(コクトー『阿片』堀口大學訳)

いつものきまりの席で、原稿を書いているところだった。
(ボリス・ヴィアン『日々の泡』56、曾根元吉訳)

君がよく引用した文句は何だったっけ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』14、木村 浩・松永緑彌訳)

君がよく引用した文句は何だったっけ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』14、木村 浩・松永緑彌訳)

君がよく引用した文句は何だったっけ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』14、木村 浩・松永緑彌訳)

ひとは他人の経験からなにも学びはしない。
(エリオット『寺院の殺人』第一部、福田恆存訳)

いや、まったく同感だ。──さしあたりはね。
(コレット『牝猫』工藤庸子訳、読点及び句点加筆)

いや、まったく同感だ。──さしあたりはね。
(コレット『牝猫』工藤庸子訳、読点及び句点加筆)

いや、まったく同感だ。──さしあたりはね。
(コレット『牝猫』工藤庸子訳、読点及び句点加筆)

まさに詩人のいうとおりだ。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

しかし、このことをほんとうに信じ、実際そうだと思うのは難しいね。
(ホーフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)

コーヒーが運ばれてきた。
(トーマス・マン『ブッデンブローグ家の人びと』第一部・第八章、望月市恵訳)

光とは何だろうか。
(イヴ・ボヌフォワ『エロス城のまえのプシュケー』清水 茂訳)

光?
(アレクサンドル・A・ボグダーノフ『技師メンニ』第IV章・2、深見 弾訳)

あの待ち伏せをしている光
(エミリ・ディキンスンの詩・一五八一番、新倉俊一・鵜野ひろ子訳)

すべて真の詩、すべての真の芸術の起源は無意識にある。
(コリン・ウィルソン『ユング』4、安田一郎訳)

自分であり自分でないもの
(シェイクスピア『ロミオとジューリエット』第一幕・第一場、平井正穂訳)

ことばを介して、人間は自らの隠喩となる。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩・言語、牛島信明訳)

ことばは誰に呼ばれなくても、やって来て結びつく。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩・リズム、牛島信明訳)

真の原動力とは、快楽なのだよ
(デイヴィッド・ブリン『キルン・ピープル』下・第三部・50、酒井昭伸訳)

事物や存在を支える偶然
(イヴ・ボヌフォワ『詩の行為と場所(抄)』宮川 淳訳)

芸術は偶然の終るところに始まる。しかし芸術を富ませるのは偶然が芸術にもたらすすべてのものなのだ
(ピエール・ルヴェルディ『私の航海日誌』高橋彦明訳)

世界は花でいっぱいだ。
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・スペース』8、金子 司訳)

すべての花がそろってる
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・スペース』23、金子 司訳)

詩人はテーマを選ばない、テーマの方が詩人を選ぶのだ
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第五章・36、青木久恵訳)

内容は形式として生まれてくるほかない
(オスカー・レルケ『詩の冒険』神品芳夫訳)

重要なのは形式なのである。
(P・D・ジェイムズ『ナイチンゲールの屍衣』第四章・8、隅田たけ子訳)

ひょっとして、文体のことですか?
(ナボコフ『賜物』第1章、沼野充義訳)

言語はその本質上、対話である。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩的啓示・インスピレーション、牛島信明訳)

引用だけで会話を組み立てられると思いこんでいるんだがね
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第三部・10、小川 隆訳)

コラージュを作っていた
(P・D・ジェイムズ『正義』第三部・37、青木久恵訳)

詩なんだ
(P・D・ジェイムズ『神学校の死』第一部・3、青木久恵訳)

その詩なら知っている
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』2・4、小泉喜美子訳)

'Tis better to have loved and lost
Than never to have loved at all.
愛せしことかつてなきよりは、
愛して失えるこそまだしもなれ。
(Tennyson:In Memoriam,xxvii, 齋藤 勇訳)

人生なんて何があったところでジョークでしかないのさ。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・6、小川 隆訳)

諦観は、それが苦痛に対する自覚に変わるのでなければ卑劣である。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩と歴史・英雄的世界、牛島信明訳)

いやいや
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

単純にして明快な事実だよ。
(チャールズ・プラット『バーチャライズド・マン』第一部・暗闇、大森 望訳)

 路傍の瓦礫の中から黄金をひろい出すというよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であったことを見破る者は詩人である。
(高村光太郎『生きた言葉』)

そうだ、
(原 民喜『心願の国』)

君はどう思う、戦争なんてものも、いい思い出になるものなのかな?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

君はどう思う、戦争なんてものも、いい思い出になるものなのかな?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

君はどう思う、戦争なんてものも、いい思い出になるものなのかな?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

どうかしてるよ、
(コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)

アーネスト。
(ワイルド『まじめが肝心』第二幕、西村孝次訳)

どうかしてるよ、
(コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)

アーネスト。
(ワイルド『まじめが肝心』第二幕、西村孝次訳)

どうかしてるよ、
(コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)

アーネスト。
(ワイルド『まじめが肝心』第二幕、西村孝次訳)

戦争がいいなんていえるのは、
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳)

戦争がいいなんていえるのは、
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳)

戦争がいいなんていえるのは、
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳)

気が狂っている。
(使徒行伝二六・二四)

気が狂っている。
(使徒行伝二六・二四)

気が狂っている。
(使徒行伝二六・二四)

なんだよ、そのいいがかりは?
(ハーラン・エリスン『ガラスの小鬼が砕けるように』伊藤典夫訳)

なんだよ、そのいいがかりは?
(ハーラン・エリスン『ガラスの小鬼が砕けるように』伊藤典夫訳)

なんだよ、そのいいがかりは?
(ハーラン・エリスン『ガラスの小鬼が砕けるように』伊藤典夫訳)

まあいいさ。
(ジュリアス・レスター『すばらしいバスケットボール』第一部・1、石井清子訳)

で、これからどうするんだ?
(ギュンター・グラス『猫と鼠』XIII、高本研一訳)

道楽者のアーネストは、どうするつもりだい?
(ワイルド『まじめが肝心』第一幕、西村孝次訳)

道楽者のアーネストは、どうするつもりだい?
(ワイルド『まじめが肝心』第一幕、西村孝次訳)

道楽者のアーネストは、どうするつもりだい?
(ワイルド『まじめが肝心』第一幕、西村孝次訳)

あ、
(ジョン・ダン『遺贈』篠田綾子訳)

そうだ。
(ミラン・クンデラ『ジャックとその主人』第一幕・第五場、近藤真理訳)

ブーローニュの森へ散歩に行ってみたら?
(ボリス・ヴィアン『日々の泡』13、曾根元吉訳、疑問符加筆)

気に入ったことを言うじゃないか。
(モリエール『人間ぎらい』第三幕・第一場、内藤 濯訳)

気に入ったことを言うじゃないか。
(モリエール『人間ぎらい』第三幕・第一場、内藤 濯訳)

気に入ったことを言うじゃないか。
(モリエール『人間ぎらい』第三幕・第一場、内藤 濯訳)

ポケットには、何がはいっている?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』32、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ポケットには、何がはいっている?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』32、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ポケットには、何がはいっている?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』32、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ヘミングウェイは嬉しそうに笑って見せた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

ヘミングウェイは嬉しそうに笑って見せた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

ヘミングウェイは嬉しそうに笑って見せた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

そこには
(ハーラン・エリスン『満員御礼』浅倉久志訳)

コンドームの包みがあったからである。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』VII、高本研一訳、句点加筆)

そこには
(ハーラン・エリスン『満員御礼』浅倉久志訳)

コンドームの包みがあったからである。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』VII、高本研一訳、句点加筆)

そこには
(ハーラン・エリスン『満員御礼』浅倉久志訳)

コンドームの包みがあったからである。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』VII、高本研一訳、句点加筆)

わたしたちは
(フリッツ・ライバー『ビッグ・タイム』3、青木日出夫訳)

少し離れたバスの停留所へ向かった。
(カミュ『異邦人』第一部・5、窪田啓作訳)

バス停には、ごたごたと行列がいくつも並んでいた。
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』34、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

うしろで、もそもそやってるのは、だれの禿頭(はげあたま)だ?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』7、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

そう言いながら、
(サリンジャー『フラニーとゾーイー』フラニー、野崎 孝訳)

ヘミングウェイはポケットからハンケチを出して、顔を拭いた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

ヘミングウェイはポケットからハンケチを出して、顔を拭いた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

ヘミングウェイはポケットからハンケチを出して、顔を拭いた。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』33、清水俊二訳)

バスがやってきて、彼の前でドアがあいた。
(トム・リーミイ『サンディエゴ・ライトフット・スー』井辻朱美訳)

バスがやってきて、彼の前でドアがあいた。
(トム・リーミイ『サンディエゴ・ライトフット・スー』井辻朱美訳)

バスがやってきて、彼の前でドアがあいた。
(トム・リーミイ『サンディエゴ・ライトフット・スー』井辻朱美訳)

マルセルは
(バタイユ『眼球譚』第一部・物語・衣装箪笥、生田耕作訳)

そのハンケチほど汚いハンケチをみたことがなかった。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』5、清水俊二訳)

そのハンケチほど汚いハンケチをみたことがなかった。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』5、清水俊二訳)

そのハンケチほど汚いハンケチをみたことがなかった。
(レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』5、清水俊二訳)

バスはいつもと違うコースをとった。
(リサ・タトル『きず』幹 遙子訳)

どこでもいい ここでさえなければ!
(ロバート・ロウエル『日曜の朝はやく目がさめて』金関寿夫訳)

ただ、この世界の外でさえあるならば!
(ボードレール『どこへでも此世の外へ』三好達治訳)

定義し理解するためには定義され理解されるものの外にいなければならない
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

ハンカチだ。もちろん、ハンカチがいる。
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』11、安田 均訳)

それ以来、幾年かが流れすぎた。
(シュトルム『大学時代』大学にて、高橋義孝訳、読点加筆)

さて、そのハンカチは、いまどこにあるだろう?
(ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』84、木村 浩・松永緑彌訳、読点加筆)

ありあまるほどの平和。
(ハーラン・エリスン『眠れ、安らかに』浅倉久志訳)

自殺がいっぱい。
(ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』25、井上 勇訳、句点加筆)

自殺が。
(三島由紀夫『禁色』第四章、句点加筆)

僕タチハ、ミンナ森ニイル。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳、読点加筆)

僕タチハ、ミンナ森ニイル。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳、読点加筆)



*



ここにはもう一匹もウサギはいない
(ジョン・コリア『少女』村上哲夫訳)

どうして?
(ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』5、矢川澄子訳)

認識は存在そのものとはなんの関係もないのだ。
(ロレンス『エドガー・アラン・ポオ』羽矢謙一訳)

まさかね。
(ガートルード・スタイン『アイダ』第二部、落石八月月訳)

人生のあらゆる瞬間はかならずなにかを物語っている、
(ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』四・16、小林宏明訳)

人生を楽しむ秘訣は、細部に注意を払うこと。
(シオドア・スタージョン『君微笑めば』大森 望訳)

ほんのちょっとした細部さえ、
(リチャード・マシスン『人生モンタージュ』吉田誠一訳)

ひとつぶの砂にも世界を
いちりんの野の花にも天国を見
きみのたなごころに無限を
そしてひとときのうちに永遠をとらえる
(ブレイク『無心のまえぶれ』寿岳文章訳)

魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現われることがない、
(サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳)

われわれのあらゆる認識は感覚にはじまる。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)

われわれにとって自分の感じていることのみが存在している
(プルースト『一九一五年末ごろのプルーストによる小説続篇の解明』、鈴木道彦訳)

おそらく認識や知などはすべて、比較、相似に帰せられるだろう。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

なにものにも似ていないものは存在しない。
(ヴァレリー『邪念その他』P、清水 徹訳)

明白な類似から出発して、あなたがたはさらに秘められた別の類似へとむかってゆく
(マルロオ『西欧の誘惑』小松 清・松浪信三郎訳)

自然界の万象は厳密に連関している
(ゲーテ『花崗岩について』小栗 浩訳)

一つの広大な類似が万物を結び合わせる
(ホイットマン『草の葉』夜の浜辺でひとり、酒本雅之訳)

あらゆるものがあらゆるものとともにある
(ホルヘ・ギリェン『ローマの猫』荒井正道訳)

たがいに与えあい、たがいに受け取りあう。
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)

順序を入れかえたり、語をとりかえたりできるので、たえず内容を変える
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)

res ipsa loquitur.
物そのものが語る。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

 そしてこの語りたいという言語衝動こそが、言葉に霊感がある徴(しるし)、わたしの身内で言葉が働いている徴だとしたら?
(ノヴァーリス『対話・独白』今泉文子訳)

万物は語るが、さあ、お前、人間よ、知っているか
何故万物が語るかを? 心して聞け、それは、風も、沼も、焔も、
樹々も蘆も岩根も、すべては生き、すべては魂に満ちているからだ。
(ユゴー『闇の口の語りしこと』入沢康夫訳)

 魂は万物をとおして生き、活動しようとひたむきに努力する。たったひとつの事実になろうとする。あらゆるものが魂の属性にならねばならぬ、──権力も、快楽も、知識も、美もだ。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)

魂と無縁なものは何一つ、ただの一片だって存在しないことが分かっている。
(ホイットマン『草の葉』ポーマノクからの旅立ち・12、酒本雅之訳)

匂い同士は知りあいではない。
(ヴァレリー『残肴集(アナレクタ)』一〇〇、寺田 透訳)

煉瓦はひとりでは建物とはならない。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとI』6、田中 勇・銀林 浩訳)

なぜ人間には心があり、物事を考えるのだろう?
(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)

心は心的表象像なしには、決して思惟しない。
(アリストテレス『こころとは』第三巻・第七章、桑子敏雄訳)

ああ、あの別の関連の中へ
(リルケ『ドゥイノの悲歌』第九の歌、高安国世訳)

物がいつ物でなくなるのだろうか?
(R・ゼラズニイ&F・セイバーヘーゲン『コイルズ』10、岡部宏之訳)

人間と結びつくと人間になる。
(川端康成『たんぽぽ』)

物質ではあるが、いつか精神に昇華するもの。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)

書きつけることによって、それが現実のものとなる
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』75、佐宗鈴夫訳)

言葉ができると、言葉にともなつて、その言葉を形や話にあらはすものが、いろいろ生まれて來る
(川端康成『たんぽぽ』)

ぼくは詩が書きたかった。
(ロジャー・ゼラズニイ『伝道の書に薔薇を』2、大谷圭二訳)

詩だって?
(ロジャー・ゼラズニイ『心は冷たい墓場』浅倉久志訳)

詩人のそばでは、詩がいたるところで湧き出てくる。
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第七章、青山隆夫訳)

すでにあるものを並び替えるだけで
(ロジャー・ゼラズニイ『わが名はレジオン』第三部、中俣真知子訳)

順序を入れかえたり、語をとりかえたりできるので、たえず内容を変える
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)

新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)

ふだん、存在は隠れている。存在はそこに、私たちの周囲に、また私たちの内部にある。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

 感情が絶頂に達するとき、人は無意識状態に近くなる。……なにを意識しなくなるのだ? それはもちろん自分以外のすべてをだ。自分自身をではない。
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』20、鈴木 晶訳)

無意識に存在する物のみが真の存在を保つ、
(トーマス・マン『ファウスト博士』一四、関 泰祐・関 楠生訳)

これがどういうことかわかるかね?
(ウォルター・M・ミラー・ジュニア『黙示録三一七四年』第III部・25、吉田誠一訳)

意識的なものの考え方が変わっても、意識出来ぬものの感じ方は容易に変わらない。
(小林秀雄『お月見』)

意識的に受け入れたわけでもないつながりを、自分自身の中にもってるから
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 ぼくらがぼくらを知らぬ多くの事物によって作られているということが、ぼくにはたとえようもなく恐ろしいのです。ぼくらが自分を知らないのはそのためです。
(ヴァレリー『テスト氏』ある友人からの手紙、村松 剛・菅野昭正・清水 徹訳)

彼らは、人間ならだれでもやるように、知らぬことについて話しあった。
(アーシュラ・K・ル・グィン『ショービーズ・ストーリイ』小尾芙佐訳)

ぼくが語りそしてぼくが知らぬそのことがぼくを解放する。
(ジャック・デュパン『蘚苔類』3、多田智満子訳)

 まさに理解不能な世界こそ──その不合理な周縁ばかりでなく、おそらくその中心においても──意志が力を発揮すべき対象であり、成熟に至る力なのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

今まで忘れていたことが思い出され、頭の中で次から次へと鎖の輪のようにつながっていく。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)

わたしの世界の何十という断片が結びつきはじめる。
(グレッグ・イーガン『貸金庫』山岸 真訳)

あらゆるものがくっきりと、鮮明に見えるのだ。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)

過去に見たときよりも、はっきりと
(シオドア・スタージョン『人間以上』第二章、矢野 徹訳)

なんという強い光!
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』昼夜入れ替えなしの興行、木村榮一訳)

さまざまな世界を同時に存在させることができる。
(イアン・ワトスン『知識のミルク』大森 望訳)

これは叫びだった。
(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)

急にそれらの言葉がまったく新しい意味を帯びた。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』34、大島 豊訳)

そのひと言でぼくの精神状態はもちろん、あたりの風景までが一変した。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』女戦死(アマゾネス)、木村榮一訳)

変身は偽りではない……
(リルケ『月日が逝くと……』高安国世訳)

ひとつの場がひとつの時間に
(R・A・ラファティ『草の日々、藁の日々』2、浅倉久志訳)

記憶は、うすれるにしたがって、相手との絆をゆるめる、
(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・逃げさる女、井上究一郎訳)

べつのなにかになってしまうのだ。
(E・M・フォースター『モーリス』第二部・24、片岡しのぶ訳)

時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)

詩によって花瓶は儀式となる。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・18、大西 憲訳)

優れた比喩は比喩であることをやめ、
(シオドア・スタージョン『きみの血を』山本光伸訳)

真実となる。
(ディラン・トマス『嘆息のなかから』松田幸雄訳)

われわれはなぜ、自分で選んだ相手ではなく、稲妻に撃たれた相手を愛さなければならないのか?
(シオドア・スタージョン『たとえ世界を失っても』大森 望訳)

光はいずこから来るのか。
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第二幕・第五場、石川重俊訳)

わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ
(与謝野晶子)

ある時は隠し、ある時は露わに見せる一本のポプラの木の下の兎の足跡
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

ぼくらは罠を作る。
(アゴタ・クリストフ『悪童日記』堀 茂樹訳)

自分が自分に仕掛けた罠に気づくだろうか?
(アルジス・バドリス『隠れ家』浅倉久志訳)

 人間はその生涯にむだなことで半分はその時間を潰(つぶ)している。それらのむだ事をしていなければいつも本物に近づいて行けないことを併せて感じた。
(室生犀星『杏っ子』家(第四章)・むだ事)

 いままでに精神も徳も、百千の試みをし、道にまよった。そうだ、人間は一つの試みだった。ああ、多くの無知とあやまちが、われわれの肉体となった。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部、手塚富雄)

われわれはつねに、好便にも、失敗作をもっとも美しいものに近づく一段階として考えることができる。
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)

 不完全であればこそ、他から(、、、)の影響を受けることができる──そしてこの他からの影響こそ、生の目的なのだ。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

彼はそのようなせまいまがりくねった道をたどったからこそ、愛の真実に近づいていたのである。
(プルースト『失われた時を求めて』第七篇・見出された時、井上究一郎訳)

なんだいそれは?
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』12、藤井かよ訳)

ことばである、
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』エピローグ・回転する記号、牛島信明訳)

光と花とは おまへのためのものではない、
(テニスン『イン・メモリアム』2、入江直祐訳)

アリスは笑った。
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第六章・52、青木久恵訳)

愛ね。そんなに重要なものかしら。
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第二章・15、青木久恵訳)

詩人らしくロマンチックだこと。
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第二章・18、青木久恵訳)

花と
(テニスン『イン・メモリアム』39、入江直祐訳)

光だけがあればいいと思っているの?
(イヴ・ボヌフォワ『夢のざわめき』III、清水 茂訳)

好きな花は?
(ナボコフ『賜物』第3章、沼野充義訳)

愛には、たいして理由などいらない。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第三部・11、小川 隆訳)

意志の力で愛することはできない
(P・D・ジェイムズ『殺人展示室』第三部・7、青木久恵訳)

セックスは好きかい?
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・7、小川 隆訳)

性的なことだけが全部じゃないわ。
(ナボコフ『青白い炎』詩章第二篇、富士川義之訳)

あんなの現実じゃない。ほんとにあったことじゃないもん。
(オーエン・コルファー『新銀河ヒッチハイク・ガイド』下・第10章、安原和見訳)

欲しいのはただ、ほんのささやかな、人間らしい人生よ
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』3・4、小泉喜美子訳)

一瞬がある、それはいままで存在していなかった。つぎの瞬間には、もう存在しないかもしれない。
(イヴ・ボヌフォワ『大地の終るところで』IV、清水 茂訳)

やっぱり、電話してみようかな?
(ナボコフ『賜物』第3章、沼野充義訳)

置いてあったサンドイッチに手を伸ばした。
(ナンシー・クレス『ベガーズ・イン・スペイン』5、金子 司訳)

今日のサンドイッチの具はなに?
(オーエン・コルファー『新銀河ヒッチハイク・ガイド』下・第12章、安原和見訳)

言葉、言葉、言葉。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、野島秀勝訳)

いろいろ私が書き並べた、言葉の数々は何であつたか。
(テニスン『イン・メモリアム』16、入江直祐訳)

いったい何に駆り立てられてぼくは詩作をしているのだろうか。
(ナボコフ『賜物』第1章、沼野充義訳)

そんなことに一体どんな意味があるのか?
(カミラ・レックバリ『氷姫』V、原那史朗訳)

書くことに意味などない
(ナボコフ『賜物』第1章、沼野充義訳)

意味のあるものはない。ということは意味のあるものは無なのだ。
(ジェフ・ヌーン『未来少女アリス』風間賢二訳)

無常も情である。
(紫 式部『源氏物語』竹河、与謝野晶子訳)

でもね、真実かどうかは誰にも分からない
(カミラ・レックバリ『氷姫』V、原那史朗訳)

ぼくだってどこに真実があるかなんて知っちゃいないさ。
(コルターサル『石蹴り遊び』41、土岐恒二訳)

まあ、そういったようなこと
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』8・1、小泉喜美子訳)

あなたは人生をその手からこぼしてるのよ。こぼしちゃってるのよ。
(T・S・エリオット『J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌』岩崎宗治訳)

そうだ、
(イヴ・ボヌフォワ『別れ』清水 茂訳)

人間にとって大切なことはなにか。
生きること、生きつづけることであり、幸せに生きることである。
(フランシス・ポンジュ『プロエーム(抄)』VII、平岡篤頼訳)

もはや詩が具現されるのはことばにおいてではなく、生きることにおいてである。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩と歴史・小説の曖昧性、牛島信明訳)

指一本で花にさわってみる。
(ナンシー・クレス『ベガーズ・イン・スペイン』2、金子 司訳)

アリスは声を上げて笑った。
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第六章・52、青木久恵訳)

この花がいちばんいいのね
(紫 式部『源氏物語』竹河、与謝野晶子訳)

あなたは本物よ。
(ヘンリー・ジェイムズ『エドマンド・オーム卿』平井呈一訳)

もちろんさ。
(アイザック・アシモフ『ミクロの決死圏』5、高橋泰邦訳)

もちろんよ。
(ヘンリー・ジェイムズ『エドマンド・オーム卿』平井呈一訳)

でも
(ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』1、米川和夫訳)

わたしには、どっちだって変わりはないわ
(アイザック・アシモフ『ミクロの決死圏』5、高橋泰邦訳)

私の過去はすべて虚構だもの。これも一つの新しい話、
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第一部・4、青木久恵訳)

たぶんバスでまた会えるわね
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第一部・10、青木久恵訳)

アリスはいない。
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第六章・52、青木久恵訳)

花はなかった。
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』7・1、小泉喜美子訳)

バスもなかった。
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』7・2、小泉喜美子訳)

それで、そのあとは?
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・スペース』15、金子 司訳)

物事はそんなに単純じゃないさ。
(カミラ・レックバリ『氷姫』III、原邦史朗訳)

どの真実が?
(デイヴィッド・ブリン『キルン・ピープル』下・第四部・72、酒井昭伸訳)

何もいうな、何もいうな、何もいうな
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・スペース』7、金子 司訳)

人間はことばである、
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』エピローグ・回転する記号、牛島信明訳)

Verba volant,scripta manent.(言葉は消え、書けるものは残る)
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

The rest is silence.
このほかは無言。
(Shakespeare:Hamlet,v.ii.369. 齋藤 勇訳)

さ、あの音楽をお聴き。
(シェイクスピア『ヴェニスの商人』第五幕・第一場、中野好夫訳)

言葉ではあるが、言葉でない
(シェイクスピア『ヴェニスの商人』第三幕・第二場、中野好夫訳)

あの音楽を。
(シェイクスピア『ヴェニスの商人』第五幕・第一場、中野好夫訳、句点加筆)


PASTICHE。

  田中宏輔



 Opus Primum


鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。
(三好達治『Enfance finie』)


I. 初めに鳥籠があった。

II. 鳥籠は「鳥あれ」と言った。すると、鳥があった。

III. 鳥籠はうっとりとこの鳥を眺めた。

IV. 鳥はうち砕かれた花のような笑みを浮かべていた。

V. 鳥籠から生まれる鳥は日が短く、悩みに満ちている。

Vl. 鳥はその日のうちに出かけて行って、大型活字の新約聖書を買って来て読み出した。

VII. しかし、神を信ずることは──神の愛を信じることはとうてい鳥にはできなかった。

VIII. すると、ある朝、鳥はこつぜんと姿を消してしまった。

IX. 鳥籠には、何ひとつ残っていなかった。

X. 鳥が鳥籠のことを忘れても、鳥籠は鳥のことを忘れない。

XI. 鳥籠はすっかり関節がはずれてしまった。

XII. かわいそうに、鳥籠は、きょうの午後、死んじゃいました。




 Opus Secundum


鳥籠が小鳥を探しに出かけた
(カフカ『罪、苦悩、希望、真実の道についての考察』一六、飛鷹 節訳)


I. いまや、鳥籠は、自分自身のもとへ帰って来た。

II. 世界は割れていた。鳥籠は探していた。

III. 鳥籠は鳥籠のなかを、ぐるぐる探し廻る。

IV. 鳥籠は奇妙にもあの童話のぶきみな人物にも似て、目をぐるぐるまわして自分自身を
 眺めることができる。

V. しかし、鳥はいっかな姿を現わそうとはしなかった。

VI. 聞こえるのは、鳥籠の心臓の鼓動ばかりだった。

VII. 鳥籠は鳥籠のなかを、ぐるぐるともっと強烈に探し廻る。

VIII. 突然、鳥籠のなかに無限の青空が見えてくる。

IX. 鳥が見える。そして、鳥しか見えない。

X. 鳥籠はどこにいるのか。

XI. 鳥籠の鳥は、実は鳥籠自身だった。

XII. 鳥は籠のない鳥籠である。




 Opus Tertium


吊り下げられた容積のない鳥籠
(高橋新吉『十姉妹』)


I. 鳥籠は、ひたすら鳥の表象として、鳥に向かい合って存在している。

II. ということは、かりにそのたった一つの生物が消滅でもすれば、表象としての鳥籠もまた
 同時に消滅するということなのだ。

III. 鳥が空想的になる場合にも、鳥籠はやはり同様に漸次希薄になる。

IV. 鳥籠は、何よりもまず、鳥の意識的認識の反響である。

V. その鳥籠は、しばらく宙に浮いていた。

VI. イエスの心というのが、その鳥籠の名前であった。

VII. この鳥籠は、あまり鳥の鳥籠にはならない。

VIII. 鳥は未練なく、その場を離れた。

IX. 鳥が鳥籠から出たとき、雨が少し降っていた。

X. 鳥籠の胸の奥に、死んだ鳥と眠っている鳥とがひそんでいた。

XI. 鳥籠をつくったのは、鳥である。

XII. 鳥はふと、鳥籠に置き忘れて来た自分の姿を振り返ることがあった。








References


Opus Primum


I. 初めに言があった。
(ヨハネによる福音書一・一)

II. 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
(創世記一・三)

III. 僕はうっとりとこの都市を眺めた。
(福永武彦『未来都市』)

IV. 妻はうち砕かれた花のような笑みを浮かべていた。
(原 民喜『秋日記』)

V. 女から生れる人は/日が短く、悩みに満ちている。
(ヨブ記一四・一)

Vl. 彼はその日のうちに出かけていって、大型活字の新約聖書を買ってきて、読みだした。
(トルストイ『愛あるところに神もいる』北垣信行訳)

VII. しかし、神を信ずることは──神の愛を信じることはとうてい彼にはできなかった。
(芥川龍之介『或阿呆の一生』五十・俘)

VIII. するとある朝、彼はこつぜんと姿を消してしまった。
(ラーゲルクヴィスト『バラバ』尾崎 義訳)

IX. 村には何ひとつ残っていなかった
(セリーヌ『夜の果ての旅』生田耕作訳)

X. 鳥が罠のことを忘れても、罠は鳥のことを忘れない。
(マダガスカルのことわざ『ラルース世界ことわざ名言辞典』)

XI. 世の中はすっかり関節がはずれてしまった。
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

XII. かわいそうにバンベリーは、きょうの午後、死んじゃいました。
(ワイルド『まじめが肝心』西村孝次訳)



Opus Secundum


I. いまやわれわれは自分自身のもとへ帰って来た。
(ルソー『エミール』第三編、平岡 昇訳)

II. 世界は割れていた。僕は探していた。
(原 民喜『鎮魂歌』)

III. 僕は僕のなかをぐるぐる探し廻る。
(原 民喜『鎮魂歌』)

IV. 天才は奇妙にもあの童話のぶきみな人物にも似て、目をぐるぐるまわして自分自身を
 眺めることができる
(ニーチェ『悲劇の誕生』秋山英夫訳)

V. しかしきみはいっかな姿を現わそうとはしなかった。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』高本研一訳)

VI. 聞えるのは自分の心臓の鼓動ばかりだった。
(シュトルム『みずうみ』高橋義孝訳)

VII. 僕は僕のなかをぐるぐるともっと強烈に探し廻る。
(原 民喜『鎮魂歌』)

VIII. 突然、僕のなかに無限の青空が見えてくる。
(原 民喜『鎮魂歌』)

IX. 空が見える。そして空しか見えない。
(カミュ『異邦人』窪田啓作訳)

X. あなたはどこにいるのか。
(創世記三・九)

XI. 大工のヨセフは実はマリア自身だった。
(芥川龍之介『西方の人』4・ヨセフ)

XII. 彼は知恵のない子である。
(ホセア書一三・一三)



Opus Tertium


I. 世界はひたすらわたしの表象としてわたしに向かい合って存在している。
(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第二巻・第十八節、西尾幹二訳)

II. ということは、かりにそのたった一つの生物が消滅でもすれば、表象としての世界もまた
 同時に消滅するということなのだ。
(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第一巻・第二節、西尾幹二訳)

III. 意志が空想的になる場合にも、自己はやはり同様に漸次希薄になる。
(キェルケゴール『死に至る病』第一編・三・A・a・5・α、斎藤信治訳)

IV. エウリピデスは、何よりもまず彼の意識的認識の反響である。
(ニーチェ『悲劇の誕生』秋山英夫訳)

V. その言葉はしばらく宙に浮いていた。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』高本研一訳)

VI. イエスの心というのがその教会の名前であった。
(ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』第I部、高本研一訳)

VII. この偏見はあまり文学の助けにはならない。
(ロジェ・カイヨワ『文学の思い上り』II・第一部・第九章、桑原武夫・塚崎幹夫訳)

VIII. 僕は未練なくその場を離れた。
(セリーヌ『夜の果ての旅』生田耕作訳)

IX. 彼らが劇場から出たとき、雨が少し降っていた。
(カフカ『審判』断章(断片)、原田義人訳)

X. その胸の奥に、死んだ妻と眠っている子供とがひそんでいた。
(ウラジミール・ナボコフ『ベンドシニスター』加藤光也訳)

XI. 作品を作ったのは人間である。
(ロジェ・カイヨワ『文学の思い上り』II・第三部・第二一章、桑原武夫・塚崎幹夫訳)

XII. 彼はふと、家に置き忘れて来た自分の姿を振返ることがあった。
(原 民喜『冬日記』)


陽の埋葬

  田中宏輔



わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。
(ルカによる福音書五・三二)



目がさめると、アトリエの前に立っていた。

──子よ。                                        *01

扉の内から声がする。

──わたしの子よ。                                    *02

死んだ父の声がする。

──わたしはここにいる。                                 *03

どこにいるのですか。

──子よ、わたしはここにいます。                             *04

ここにあるのは、絵と骨のオブジェばかり。

──子よ、近寄りなさい。                                 *05

おまえは死んだ鸚鵡、ただの剥製の鸚鵡ではないか。

──わたしです。                                     *06

おまえが父だというのか。

──わたしがそれである。                                 *07

父の霊が、おまえに取り憑いたとでもいうのか。

──わが子よ、今となっては、あなたのために何ができようか。                *08

おまえに何ができる。わたしに何をしてくれるというのだ。

──あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。    *09

そのようなことを告げるために、わざわざ、わたしをここに呼び寄せたのか。

──子よ、わたしの言葉にしたがい、わたしの言うとおりにしなさい。             *10

おまえの口が語る、その言葉とは何か。

──目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。               *11

いったい何のために祈れというのか。

──信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。 *12

なぜ、キリストのうちに自分を見いださなければならないのか。

──新しいいのちに生きるためである。                           *13

おお、おまえは、死んだ父のように、聖書にある言葉を繰り返す。

──あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。                *14

いいや、一度として、愛してはくれなかった。愛してなどくれなかった。

──心のねじけた者は主に憎まれ、まっすぐに道を歩む者は彼に喜ばれる。           *15

これを見よ。この指を見よ。父の手によって折られた、このねじくれた指を見よ。

──むちを加えない者はその子を憎むのである。子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。  *16

その言葉を耳にするたび、わたしの父に対する憎しみは、ますます増していった。

──わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。           *17

ああ、もういい。もう、たくさんだ。おまえは、聖書にある言葉を繰り返すだけではないか。

──わたしの子よ、あなたはイエス・キリストにある恵みによって、強くなりなさい。      *18

むしろ、ユダの恵みにこそ、あやかりたいものだ。

──愛する者よ。悪にならわないで、善にならいなさい。                   *19

わたしのこころは、肉の欲に満ちている。その肉の欲は大いにはなはだしく、欠けるところがない。

──御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。         *20

わたしのこころが癒されるのは、ただ肉の欲に満ち足りたときのみ。

──肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。                      *21

まだ女を知らぬ、美しい少年たちよ。その美しさは、わたしを虜にしてやまない。

──あなたは女と寝るように男と寝てはならない。                      *22

むしろ、その美しさを前にすれば、わたしの方が女となるのである。

──わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。              *23

誘うのはわたし、つねにわたしの方から誘うのである。

──子よ、わたしの言葉にしたがい、わたしの言うとおりにしなさい。             *24

わたしには、この古釘で、おまえの腹をかき裂くことができる。

──罪を犯してはならない。                                *25

きっと、おまえの腹のなかには、聖句がぎっしり詰まっているに違いない。

──ここから出て行きなさい。                               *26

いま、それを抉り出してやる。

──立ってこの所から出なさい。                              *27

この紙屑は何だ。聖書ではないか。聖書のページを切り取って丸めたものではないか。

──手を引きなさい。                                   *28

この聖書の切れっ端は、父がおまえの腹のなかに詰め込んだものだな

──それだけでやめなさい。                                *29

こんなもの、みんな取り出してやる。それでもまだ、おまえは口をきくことができるだろうか。

──もうじゅうぶんだ。今あなたの手をとどめよ。                      *30

おお、父よ。父ではないか。なぜいまさら、そのような姿で現われるのか。

──あなたは愚かなことをした。                              *31

愚かなこととは何か。

──あなたはしてはならぬことをわたしにしたのです。                    *32

いったい、わたしが何をしたというのか。

──自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。              *33

世には、呪われるべき親もいよう。あなたは、わたしにとって、呪われるべき父親であったのだ。

──どうぞ主がこれをみそなわして罰せられるように。                    *34

何という言葉を口にするのだろう。父よ、それが、わたしに聞かせたかった言葉なのか。

──あなたは死にます。生きながらえることはできません。                  *35

父よ、わたしの言葉を聞いているのか。

──神はあなたを滅ぼされるでしょう。                           *36

父よ、わたしの言葉を聞いているのか。

──地のおもてから、あなたを滅ぼし去られるであろう。                   *37









References


*01:創世記二七・一、罫線加筆。

*02:テモテへの第二の手紙二・一、罫線加筆。

*03:創世記二七・一八、罫線加筆。

*04:創世記二二・七、罫線加筆。

*05:創世記二七・二一、罫線加筆。

*06:サムエル記下二・二〇、罫線加筆。

*07:マルコによる福音書一四・六二、罫線加筆。

*08:創世記二七・三七、罫線加筆。

*09:ヨハネの第三の手紙二、罫線加筆。

*10:創世記二七・八、罫線加筆。

*11:コロサイ人への手紙四・二、罫線加筆。

*12:ピリピ人への手紙三・九、罫線加筆。

*13:ローマ人への手紙六・四、罫線加筆。

*14:マルコによる福音書一・一一、罫線加筆。

*15:箴言一一・二〇、罫線加筆。

*16:箴言一三・二四、罫線加筆。

*17:箴言四・二〇、罫線加筆。

*18:テモテ人への第二の手紙二・一、罫線加筆。

*19:ヨハネの第三の手紙一一、罫線加筆。

*20:ガラテヤ人への手紙五・一六、罫線加筆。

*21:ローマ人への手紙一三・一四、罫線加筆。

*22:レビ記一八・二二、罫線加筆。

*23:箴言一・一〇、罫線加筆。

*24:創世記二七・八、罫線加筆。

*25:エペソ人への手紙四・二六、罫線加筆。

*26:ルカによる福音書一三・三一、罫線加筆。

*27:創世記一九・一四、罫線加筆。

*28:サムエル記上一四・一九、罫線加筆。

*29:ルカによる福音書二二・五一、罫線加筆。

*30:歴代志上二一・一五、罫線加筆。

*31:サムエル記上一三・一三、罫線加筆。

*32:創世記二〇・九、罫線加筆。

*33:出エジプト記二一・一七、罫線加筆。

*34:歴代志下二四・二二、罫線加筆。

*35:列王紀下二〇・一、罫線加筆。

*36:歴代志下三五・二一、罫線加筆。

*37:申命記六・一五、罫線加筆。


聖なる館。─A Porno Theater Frequented At Midnight By The Drag Queen

  田中宏輔



自分について多くを語ることは、自分を隠す一つの手段でもありうる。
     (ニーチェ『善悪の彼岸』竹山道雄訳)

人は、気のきいたことをいおうとすると、なんとなく、うそをつくことがあるのです。
     (サン=テグジュペリ『星の王子さま』内藤 濯訳)

けれども、この物語は、真実でなくなったら、私にとって何になろう?
     (A・ジイド『背徳者』淀野隆三訳)

真実を告げる
     (コクトー『赤い包み』堀口大學訳)

それは価値ある行為となろう
     (ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』水野忠夫訳)

諸君はいったい、いかなるたわむれごとを見、いかなる愛欲の悶えを見ることだろう!
     (ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)


   *


愛っていろんな形があるものよ
     (R・フラエルマン『初恋の物語』内田莉莎子訳)

顔に化粧をする
     (ギー・シャルル・クロス『五月の夕べ』堀口大學訳)

女に化ける
     (コクトー『塑像に落書する危険』堀口大學訳)

美しく見せて
     (ヴェルレーヌ『それは夏の明るい……』堀口大學訳)

男と寝る
     (レビ記二〇・一三)

心の欲情にかられ
     (ローマ人への手紙一・二四)

禁断の木の実
     (フィリーダボ・シソコ『無の月』登坂雅志訳)

を味ふ
     (アルベール・サマン『われ夢む…』堀口大學訳)

<わたし>
     (ホルヘ・ルイス・ボルヘス『恵みのうた』田村さと子訳)

官能をそそる愛撫に
     (アブドゥライエ・ママニ『文明』登坂雅志訳)

くるう時
     (バイロン『想いおこさすな』阿部知二訳)

分別を失ったときしか幸福になれない
     (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』井上正蔵訳)

そういう性質
     (デフォー『ロビンソン・クルーソー』阿部知二訳)

愛に夢中になる、これが僕だ。
     (ヴェルレーヌ『リュシアン・レチノア詩篇5(断章)』堀口大學訳)

私がこの事を楽しみ味つていゐるのを誰れが知り得よう?
     (ホヰットマン『ブルックリン渡船場を過ぎりて』有島武郎訳)


   *


健全な楽しみだって? ばかばかしい!
     (ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)

だれも自分を欺いてはならない。
     (コリント人への第一の手紙三・一六)

本能はわれわれの案内人だ。
     (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

いたわってくれる相手がほしかった。
     (ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)

ぼくの魂は荒れはてた大きな寺院のようだった。
     (サルバドル・ノボ『ぼくの肉体に預けきった君の肉体の傍で』田村さと子訳)

わかるか?
     (アンドレ・スピール『人間、あまりに人間』堀口大學訳)

そこではすべての薔薇が
     (マリアーノ・ブルール『薔薇への墓碑』田村さと子訳)

愛撫を受けて
     (ムカラ・カディマーンジュジ『大洋』登坂雅志訳)

野生の狂歓をひらめかせて過ぎる
     (バイロン『山の羚羊』阿部知二訳)

嘲りと悪寒の愛
     (デルミラ・アグスティニィ『エロスのロザリオ』田村さと子訳)

その破滅
     (バイロン『M・S・Gに』阿部知二訳)

感覚の世界
     (エリオット『バーント・ノートン・III』鍵谷幸信訳)

ああ、じつに美しい
     (ナボコフ『マドモアゼルO』中西秀男訳)

ふしぎなけしょうは、いく日もいく日もつづきました。
     (サン=テグジュペリ『星の王子さま』内藤 濯訳)

そのとき、自分がすべての女の なかで最もすぐれた者と 想い上がりをおこしました。
     (『バーガヴァダ・プラーナ』服部正明・大地原 豊訳)

あたしのことをお姉さまと呼んでくださるわね?
     (ワイルド『まじめが肝心』西村孝次訳)        


   *


どこか別の世界ね
     (ヴォンダ・N・マッキンタイア『夢の蛇』友枝康子訳)

まったく新しい狂気のような夢の世界
     (ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)

どう、興味あるでしょう?
     (レーモン・クノー『地下鉄のザジ』生田耕作訳)

あんたもできる? やってごらんよ。
     (ギュンター・グラス『猫と鼠』高本研一訳)

ものごとは慣れてしまうと、ついにはもう、滑稽なことでもなんでもなくなってしまう。
     (ルナール『にんじん』窪田般彌訳)

人間の心というものは、境遇によって、どんなにも変わってゆくものだ。
     (デフォー『ロビンソン・クルーソー』阿部知二訳)

さあ、いっしょに出かけよう、君と僕と
     (エリオット『アルフレッド・プルーフロックの恋歌』上田 保訳)

真昼にも手探りする
     (申命記二八・二九)

その墓穴の暗闇へ
     (ハイネ『不思議にすごい夢を見た』片山敏彦訳)


   *


 小さいのも、大きいのも、肥ったのも、きゃしゃなのも、とてもきれいなのも、 それにあんまり感じのよくないのもいるわ
     (メーテルリンク『青い鳥』鈴木 豊訳)

相よりてくらやみのなかに居りしかば吾が手かすかに人の身にふれつ
     (中野重治『占』)

もう顔も見えるほどになった。
     (デフォー『ロビンソン・クルーソー』阿部知二訳)

彼は笑っている風に見えた。
     (カミュ『異邦人』窪田啓作訳)

ところで ぼくの心臓よ
なんでそんなにときめくか
     (アポリネール『題詞』堀口大學訳)

あわてない、あわてない
     (R・フラエルマン『初恋の物語』内田莉莎子訳)

彼は美男子ではなかった。
     (ギュンター・グラス『猫と鼠』高本研一訳)

彼の輝き、彼の威力のすべての根源は、彼の股間にあったのだ、彼の男根、
     (ジュネ『泥棒日記』朝吹三吉訳)

その道具はたしかにぼくの目から逃れられなかった。
     (ギュンター・グラス『猫と鼠』高本研一訳)

おそるおそる下腹部に手をやって、椅子に深く身を沈めた。
     (エドワード・ブライアント『闇の天使』真野明裕訳)

ひと目惚れというより、ひとさわり惚れだった。
     (ナボコフ『「いつかアレッポで……」』中西秀男訳)

「なにをやってるんです?」
     (ヴォンダ・N・マッキンタイア『夢の蛇』友枝康子訳)

彼にむかって伸ばした手が枯れて、ひっ込めることができなかった。
     (列王紀上一三・四)

──聞こえないのか、おい変態!
     (ルナール『にんじん』窪田般彌訳)

まず、息子にキスをして、彼の耳に二つの言葉をささやく。
     (スティーヴン・キング『霧』矢野浩三郎訳)

お掛けになって
     (レーモン・クノー『地下鉄のザジ』生田耕作訳)

もうすこし、わたしに
     (ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)

よろこびを
     (シェリー『アドネース』上田和夫訳)

ちやうだい!
     (ポール・フォール『私は〓い花を持つてゐる』堀口大學訳)

「よし、いいぞ」
     (トルストイ『ニキータ物語』田中泰子訳)

「ア、ア、ア、ア、ア、ア、アー」
     (レーモン・クノー『地下鉄のザジ』生田耕作訳)

「こいつはいい!」
     (ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)

「ああ、行くよ」
     (トルストイ『ニキータ物語』田中泰子訳)

愛撫の手
     (ルミ・ド・グールモン『手』堀口大學訳)

私の手の中に
     (シャルル・ヴァン・レルベルグ『輪踊』堀口大學訳)

出した
     (ボードレール『告白』堀口大學訳)

精液の雨
     (ムカラ・カディマーンジュジ『大地への言葉』登坂雅志訳)

身振りで、彼はもっと欲しいことを示す。
     (レーモン・クノー『地下鉄のザジ』生田耕作訳)

私はよろこんで
     (アンドレ・サルモン『土耳古うた』堀口大學訳)

男の
     (ヴェルレーヌ『この陽気すぎる男に』堀口大學訳)

前に膝まずく
     (アポリネール『色の褪せた夕ぐれの中で……』堀口大學訳)

円周をふくらませ、さらにはその円周を突きやぶって
     (シェリー『詩の擁護』上田和夫訳)

男は
     (フランシス・ジャム『人の云ふことを信じるな』堀口大學訳)

すごいうなりを立てながら
     (ランボー『最高の塔の歌』堀口大学訳)

もう一度いった。
     (デフォー『ロビンソン・クルーソー』阿部知二訳)


   *


「へえ、なんてことはない! こんなもんだとわかっていたら、 もっと早くから覚えるんだった」
     (マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』鈴木幸夫訳)


   *


その口の辺にあざけりの笑い浮かびて
その眼ざしに驕慢の光は照りて、
君が胸、誇りのゆえに昂まれども、
されど、君もまた不幸なり、われとおなじく。
     (ハイネ『君は不幸に生きたまう』片山敏彦訳)

ぼくにはよくわかるのだ、われわれは救われない。
     (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』井上正蔵訳)

われら孤独な航海者たち、われら悪魔に魅いられたものたちは、とうに気が狂ってる
     (ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)

もう正気に返ってはならないのだ
     (ゲーテ『若きウェルテルの悩み』井上正蔵訳)

どうしようもない
     (エーリッヒ=ケストナー『飛ぶ教室』山口四郎訳)


The Marks of Cain。

  田中宏輔





尋ね行くまぼろしもがなつてにても
  魂(たま)のありかをそこと知るべく
                  (紫 式部『源氏物語』桐壺)


臓腑(はらわた)を切り開くと *01
それは、一枚の地図だった。
った。

だが、またしても、求めるものを、わたしは見出さなかった。 *02

血、血、血、
立ち罩める血、血の匂い、
血、血のにおいに、半ば酔い、噎せりながら
鮮血滴る少女の躯から搾りとった血、
血は、羊の皮袋(アベルが神に供えた群の初子)逆剥ぎの)贄の)中。 *03
すでに腸抜きをすませた少女の肌は蝋白色、
その血、血まみれの唇は灰色の
半人半樹の美児(まさづこ)、樹葬体。 *04
その半身は少女の裸身、裸体、
その剥き出しの乳房は片生(な)りの乳房(それゆえ、に
いっそう艶めかしい)淫縻な象(かたち)。
その褐色の半身は、果実の生る木、
その膝から下は堅い(かたい)樹皮に覆われた果樹、
その足は根となり、根をのばし、地面と、土と、かたく、かた、く、結びついていた。

死してもなお屹立する少女の胸に手をのべ、
わたしは、その胸にある未熟な果実を、黒曜石の小刀で切りとった。 *05
(その、象(かたち)のまま)切りとった乳房を裏返すと)と、
まだ熟しきらない安石榴の実が *06
ぎっしりつまっていた。

頬ばると、血、
血、血と、血の、匂いと、味がした。
わたしは、残ったもう片方の乳房を切りとると、それも頬ばり、頬ばった。
血、血、血、血と、血の味のする安石榴の実。
そして、わたしは、
切りとった双つの乳房のあと(血、血まみれ、
の)胸)にも、まるで獲物に跳びかかった山犬のように、むしゃぶりついた、った。

血、血、血、、、血と、血、
と、血と、血を、すっかり味わい尽くすと、
さらなる樹体を求めて(もと、めて)て)わたしは、足を踏み出した。

地、地と、
地に蔓延る茨と薊、 *07
刺す荊棘(いばら)に苦しめる朿(とげ)。 *08
裸足のわたし、わたしの裸足は生傷だらけだ。
血まみれの踵(つぶなぎ)、踵(かかと)を上げるたびに、わたしの足跡に血が滲み出た、た。
まるで酒ぶねを踏むように、わたしの足は地面を踏み歩いた。 *09
地、地に蔓延る茨と薊を踏み踏み拉きながら、
息のある樹体を求めて立ち潜り、
立ち徘徊い歩いた。
た、だが、
目にするのは、
折り枝(え)に苧環(おだまき)、枯れ木ばかりだ。
百骸香樹に、千骸果樹、みな、わたしが葬(はふ)り散(はらら)かしてきた樹体ばかりだった。
骨、骨、骨、
と、
血、
血を、
その血の滴りを、いまもなお、わたしは胸に感じる。 *10
感じることができる。できる、のだ。
この土、この地面のように、に、
お、おお、この夥しい死の枯れ骨を見よ。 *11
それらの骨と骨と骨は、みな、わたしが葬(はふ)った樹体の成れの果てだ。
わたしが葬(はふ)り(ほふり)血を)搾り)取り)肝取り)腸(わた)抜きした樹体の成れの果てだ。
その皮膚は縮んで骨につき、たちまちすぐに、
かわいて枯れ木のようになった。 *12
った。腕(ただむき)、腕(うで)
と手、手と、手(たなさき)についた、
血、血と、血、血、血と、血、血と、血と、
血いいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ…………


──弟アベルは、どこにいるのか。 *13


あ、


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、ああ、


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、ああ、いくら耳塞ぎ、
耳塞いでも聞こえる神の声、カミ、ノ、コエ。


──弟アベルは、どこにいるのか。


知りません。わたしは、弟の番人なのでしょうか。 *14


──弟アベルは、どこにいるのか。


お、おお、また、わたしは過去に引き戻されてしまった。


──弟アベルは、どこにいるのか。


お、おお、神よ、神よ、
いつまで、あなたは、わたしに目を離さず、
唾を飲む間も、わたしを棄てておかれないのですか。 *15

おお、神よ、
神よ、わたしの祈りを聞き、
わたしの口の言葉に耳を傾けてください。 *16


──弟アベルは、どこにいるのか。


おお、神よ、神よ、
あなたは、なぜ、わたしに、
このような恐ろしい呪いをかけられたのですか。


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、ああ、耳立つ、神の声、カミ、ノ、コエ。


──弟アベルは、どこにいるのか。


おお、神よ、神よ、
あなたは、なぜ、わたしの声にこたえてくださらないのですか。

あなたは、なぜ、わたしの口の言葉に耳を傾け、
これに、こたえてくださらないのですか。


──弟アベルは、どこにいるのか。


おお、神よ、神よ、どうしても、こたえてくださらないのですかっ、か。

ならば、天よ、耳を傾けよ、わたしは語る。
地よ、わたしの口の言葉を聞け。 *17

わたしは、弟アベルを殺した。これを野原に連れ出し、これを殺した。 *18
兄弟殺し! これは人間の歴史始まって以来の、
最初にして最古の人殺し。 *19

それゆえ、わたしは神に呪われ、神の前から離れなければならなかった。
地のおもてから追放され、地上の放浪者とならねばならなかった。 *20
そして、放浪の果てに、エデンの東、ノドの地に住まわった。 *21
わたしは妻を娶り、妻は子をみごもり、エノクを産んだ。
わたしは町を建て、その子の名をつけた。 *22
町は、エノクの裔で栄えた。
ああ、しかし、神は、主なる神は、
なんと恐ろしい呪いを、わたしにかけたのだろう。
わたしに、わたしの孫の孫の孫のであるメトサエル子レメクを殺させた。 *23
飢えと渇きをもって、わたしに幻を見させ、
わたしに、わたしの、骨肉の血を、
血と肉を、喰らわせたのだ。
わたしが、わたしの喉の渇きを癒し、
わたしの腹と口の飢えをおさめて、正気に戻ると、と、
そこには、わたしが喰い散(はらら)かした、血まみれのレメクの屍骨(したい)があった。
あ、あったのだ。
だっ、
あ、ああ、あ、ああ、
わたしは、これがために嘆き悲しみ
裸足と裸身で歩きまわり、
山犬のように嘆き、
駝鳥のように悲しみ泣いた。 *24
しかし、神はさらなる禍いをもって、わたしを撃たれた。 *25
わたしの耳をとらえ、わたしの耳に、ヘボナの毒液を注ぎ込まれたのだ。
その毒は、ひと瞬きの間で、わたしの身体を廻り、
ふた瞬きの間に、瘡をつくった。
まるで癩病やみのような
けがらわしい瘡が、
たちまち、わたしの
全身全躯を覆っていったのだ。 *26
瘡蓋を剥がしてみると、その瘡蓋の下の肉は、
腐った肉の色を見せ、腐った肉の臭いを放っていた。
おお、そして、わたしは、わたしの身体は、
まるで天骨(むまれながら)の背虫(おさむし)、傴僂(せむし)のように、背骨が湾曲してゆき、
しまいに、わたしは、わたしの頭(こうべ)を、地のおもてに擦りつけんばかりに、
ああ、まさに、神が呪われたあの古(いにしえ)の蛇さながら、さ、ながら、 *27
這い歩き、這い蹲らなければならなかったのだ。
だっ。だ。
ああ、
あ、ああ、
そのとき、わたしは、わたしの口は、
その骨の、激しい痛みと苦しみの中から、声をかぎりに叫び声を上げた。

「おお、神よ、神よ、わたしは不義の中に生まれました。
 わたしの母は、罪のうちに、わたしをみごもりました。 *28
 なにゆえ、わたしは、胎から出て、死ななかったのか。
 腹から出たとき、息が絶えなかったのか。 *29
 なにゆえ、あなたは、わたしを胎から出されたのか、
 わたしは息絶えて、目に見られることなく、
 胎から墓に運ばれて、
 初めからなかった者のようであったらよかったのに。」 *30

と。

しかし、神は、これには、こたえられなかった。

そこで、わたしは、繰り返し神の名を呼ばわり、繰り返し神に祈った。

「神よ、わが救いの神よ、
 血を流した罪から、わたしを助け出してください。」 *31

と。

「おお、神よ、神よ、わが救いの神よ、
 血を流した罪から、わたしを助け出してください。」

と。

と、

すると、そのとき、神は、つむじ風の中から、わたしにこたえられた。 *32

「なぜ、あなたの傷のために叫ぶのか、
 あなたの悩みは癒えることはない。
 あなたの咎(とが)が多く、
 あなたの罪が甚だしいので、
 これらのことを、わたしは、あなたにしたのである。」 *33

と。

と、

そして、神は、さらにつづけて、こういわれた。

「人は自分の蒔いたものを刈り取ることになる。 *34
 あなたも、また、あなたが蒔いた、あなたの裔を、
 あなた自身の手で刈り取ることになる。
 なぜなら、わたしが、あなたに、あなたの孫の孫の孫、
 すなわち、あなたの裔レメクの子供たちを殺させるからである。
 わたしは、あなたを血にわたす。
 血は、あなたを追いかける。
 あなたには、血の咎があるゆえ、血はあなたを追いかける。 *35
 人の子よ、あなたに与えられたものを喰べなさい。 *36
 あなたの口を開いて、わたしが与えるものを喰べなさい。 *37
 あなた自ら屠手となり、後生(のちお)いの裔、骨肉の血と肉を喰べなさい。
 さもなければ、たちまち、あなたの肉は腐れ、
 目はその穴の中で腐れ、舌はその口の中で腐れることになる。 *38
 その痛みと苦しみは、唯一、あなたの裔の血と肉によってのみ癒される。
 それゆえ、あなたは、あなたの骨肉の血と肉を喰べることになる。
 あなたは、これを拒むことはできない。
 なぜなら、これが、わたしの呪いである。
 この呪いをとくことはできぬ。
 この呪いをとく手だては、ただひとつ。
 あなたが、あなたの弟アベルの屍骨(したい)を見つけ、
 これを、わたしへの供物として、わたしに差し出すことである。
 そのとき呪いは成就し、あなたは、もはや人を喰べない。 *39
 わたしは、あなたの弟アベルの屍骨(したい)を、あなたの目から隠し、
 その隠し処を、あなたの裔の子らの臓腑(はらわた)の中に印す。
 あなたは、あなたの手で、その臓腑(はらわた)を切り開き、
 その印を見出さなければならない。
 しかし、わたしは、その印を印した裔の子の名をあかすことはしない。
 これもまた、わたしの呪いである。」

と。

と、

お、おお、
いまもなお、わたしの耳に残る神の古声、フル。コエ。

お、おお、たしかに、わたしは、弟アベルを殺した、殺、した、した、た、
あ、ああ、しかし、わたしの罪は過去のものだ。 *40
過去の、過去の、過去、の、
過去のことだ、だ、
あ、ああ、
それなのに、また、ああ、
また、あの日のことが、思い出される。
あ、あの日も、また、あの日も、また、風のある日だった。
籾殻を除くため、打ち場に麦束を運び、棒切れで、穂先を叩いていた。 *41
わたしと、弟アベルのふたりで叩いていた。
あれもまた、風のある日だった。
風は籾殻を捕らえ、籾殻は風に捕らえられ、
脱穀された穀物は、たちまち、小山となっていった。
わたしと、弟アベルのふたりは、その小さな山を崩して、袋に詰め、
括り合わせた袋を、牛の背に負わせて、帰り支度をした。
しかし、帰るには、まだ早かった。
わたしと、弟アベルのふたりは遊んだ。
棒切れ振り回して、遊んだ。遊んで、いた。
すると、そのうち、遊びが本気になって、喧嘩になった。
家に帰ると、腫れ上がったふたりの顔を見て、
父アダムは、わたしを叱った、わたしだけを叱った。
わたしの顔だって、ずいぶんと腫れ上がっていただろうに、
きっと、弟アベルの顔よりもひどく腫れ上がっていただろうに、に、
お、おお、それなのに、それなのに、
なぜ、父アダムは、わたしだけを叱ったのだろう。
なぜ、わたしだけが、父アダムに叱られたのだろう。
ああ、でも、あの日だけじゃない。あの日だけじゃなかった。
いつも、そうだった。いつでも、いつも、そうであった。
わたしだけが叱られたのだ。わたしだけが。
理由を言っても聞いてくれなかった。
むしろ、理由を話そうとすると、よけいにきつく、わたしは叱られた。
それに、また、わたしが、土を耕す者、父アダムの仕事を嗣ぎ、 *42 *43
一所懸命、畑で働いても、ちっとも褒めてくれなかった、
羊を飼う者、弟アベルが、取るに足らない仕事を、ほんのすこし、 *44
ほんのわずか手伝っただけで、これを褒めたりしたのに。に。
あ、ああ、わたしの心が捻くれ折れ曲がったのは
それは、わたしが、父アダムから、まったく愛されずに育ったからだ。
せめて、わたしが、母イヴにだけからでも愛されていたら……
しかし、母イヴもまた、わたしのことを、ちっとも愛してはくれなかった。
ちっとも愛してなどくれなかった。
いや、むしろ、それどころか、わたしのことを憎んでいた。
わたしのことを憎んでいた。わたしのことを憎んでいた。わたしのことを憎んでいたのだ。
あ、ああ、きっと、母イヴの魂(こころ)には、あの古(いにしえ)の蛇が棲みついていたのだ。
そして、その顎(あぎと)が、わたしの魂(こころ)を噛み砕いていったのだ。
それゆえ、わたしは、わが口をおさえず、
わたしの霊の悶えによって語り、
わたしの魂の苦しさによって嘆く。 *45

ああ、なぜ、母イヴは、わたしをみごもり、はらみ、産んだのか、 *46

と。

ああ、なぜ、母イヴは、わたしをみごもり、はらみ、産んだのか、

と、

と。

あ、ああ、わたしなど、生まれてこなければよかったのに、
生まれてくることなどなければよかったのに、
胎の実は報いの賜物である。 *47
それでは、わたしは、何だったのか。
父アダムと母イヴにとって、いったい、何だったのだろうか。
わからない。わから、ない。
わたしにわかるのは、わかっているのは、
父アダムと母イヴのふたりが、わたしのことを疎み、
わたしよりも、弟アベルを、弟アベルばかりを
可愛がったということだけだ。
それは、わたしの顔が醜いからか。
それは、わたしの顔が、野の獣のように醜いからか。
神の姿に肖(あやか)る父アダムにも、それにふさわしい母イヴにも似ない、 *48 *49
わたしの顔が、飢えた山犬のように醜く恐ろしいからか。
あ、ああ、わたしは、ふたりを愛していたのに、
深く、ふかく、愛していたのに、
だれよりも、深く、ふかく、愛していたのに、に、
ふたりは、わたしを疎み、弟アベルを可愛がった。弟アベルだけを可愛がった。
それは、わたしの顔が醜く、弟アベルの顔が美しかったからか。か。
ああ、たしかに、わたしは醜く、弟アベルは美しかった。
その顔(かんばせ)は麗しく、その声は愛らしかった。
しかし、わたしは長子である。
長子には、だれからも愛され、
だれよりも愛される権利があるのだ。
あ、ああ、それなのに、なぜ、それなのに、なぜ、
父アダムと、母イヴは、弟アベルだけを可愛がり、わたしを疎んじたのか。か。

あ、ああ、それなのに、なぜ、なぜ、……、

神も、また。また、……、


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、ああ、


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、ああ、いくら耳塞ぎ、
耳塞いでも聞こえる神の声、カミ、ノ、コエ。


──弟アベルは、どこにいるのか。


知りません。わたしは、弟の番人なのでしょうか。


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、


あ、


また、、また、わたしは、過去に、過去に、引き戻されてしまった。


たっ、


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、ああ、
どの樹体にも、どの樹体にも、弟アベルの埋葬場所は印されていなかった。


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、ああ、これまで、どれだけたくさんの樹体を切り裂いてきただろう。
その夥しい数の少年たちよ、その夥しい数の少女たちよ。

ザクロ、イチジク、イチジククワ、
オリーブ、ブドウにナツメヤシ、ナルド、シナモン、アメンドウ、
チンコウ、ミルラに、セイニュウコウ。 *50

血、血と、血、血、血と、血、と、
ありとあらゆる樹体を、わたしは切り裂き、切り刻んできた。た、
あ、ああ、それは、神がわたしにかせられた罪咎の罰。
しかし、どの樹体にも、どの樹体の臓腑(はらわた)にも、
(弟アベルの)埋葬場所は)
印されてなかった。


たっ、


あ、ああ、それでもなお、神はささやく、
わたしの耳にささやく。


──弟アベルは、どこにいるのか。


と。


神はささやく、
わたしの耳にささやく。


──弟アベルは、どこにいるのか。


と。


わたしは、知らない、
       知ら、ない、
 わたしは、弟の番人じゃない、
            じゃない、
              じゃ、ない、
                のだ、と、と。


神がささやく、
わたしの耳にささやく。


──弟アベルは、どこにいるのか。


と。


──弟アベルは、どこにいるのか。


と。


と、


お、おお、神よ、神よ、
いつまでお怒りになるのですか。 *51

あなたの怒りによって、わたしの肉には全きところがなく、
わたしの罪によって、わたしの骨には健やかなところがありません。 *52

いったい、いつまで、わたしは、わたしの、裔の子らの、血と肉を喰らいながら、
この曠野を彷徨いつづけなければならないのですか。

お、おお、神よ、神よ、
血、血と、血、血、血と、血が、血と、血が、、
血が、血と、血が、血がっ、
血が、
あ、ああ、
血と、血が、血が、わたしを、
血、血と、血、血と、血が、わたしを、を、狂わせた。た。た。
あ、ああ、哀れなる、わが頭(こうべ)、妖しくも、狂いたり。
哀れなる、わが魂(こころ)、麻のごと、乱れたり。 *53
血、血と、血を、血、血と、血を、
血を、見ているだけで、わたしは酔う。 *54
寸々に切り裂き、切り刻み、血、血を浴び、血にまみれて、
て、血、血を浴び、血まみれになることが、わたしの悦びとなった。た。
あ、ああ、あの噴き零れる臓腑(はらわた)、
あの温もりと滑り、
あ、あの、
温もりと、滑りと、重みが、
わたしの、わたしの狂った魂(こころ)の、唯一、ただひとつの慰めであった。った。
あ、ああ、わたしの目に光り耀く美しい少年たちよ。
目に光り耀く美しい少女たちよ。
その姿を目にしただけで、
わたしの魂(こころ)は、火の前の蝋燭のようにとろけてしまい、 *55
その躯を抱けば、わたしの情欲は、まるで茨の火のように燃え上がった。 *56
あ、ああ、華漁(はなあさ)り、華戯(はなあざ)り、
寸々に切り裂き、切り刻み、生き剥ぎ、逆剥ぎ、生き膚断ち、
血、血まみれの肉叢(ししむら)、肉塊、肉の塊が、わたしの病んだ魂(こころ)を慰めた。た。

見澄ますと、
石を投げれば、とどくほどにも離れたところに、 *57
樹葬されたばかりの美しい少年が立っていた。
立ちしなう美しい少年の美しい裸体、
目をつむったその美しい少年の目耀(まかよ)ふ美しさ、
その美しい少年の美しい半身には、どんなに小さな傷跡もなく、
腫れ物の痕もなく、雀斑もなく、黒子さえもなかった。た。
だが、その樹体は、無花果の甘い馨りを芳っていた。 *58
その半身は、擬(まが)うことなき果樹のそれ、無花果の樹そのものだった。
その頬は、芳しい花の床のように馨りを放ち、その唇は、
百合の花のようで、没薬の液を滴らす。 *59
その躯を抱きしめ、その唇に、わたしの唇を重ね、
その舌先を吸い、その甘い唾液を啜った。
その甘い唾液は、なめらかに流れ下る良き葡萄酒のように、
わたしの唇と歯の上を滑っていった。 *60
その臀(いさらい)、臀(いしき)の膚肉(ふにく)は柔らかく、その窪みは深かった。
花瓣の夢を見ながら、わたしは愛撫した。
わたしの堅い指は、その花瓣を解(ほぐ)そうとし、
その柔らかな花瓣は、わたしの指を包み込もうとした。
蕊(しべ)に触れると(ふれ、ると)、花瓣が指先に纏わりついてきた。
わたしの(わた、しの)堅い指は、その花瓣と蕊(しべ)と戯れた。た。
脹ら脛にできた瘡蓋に似た褐色の樹皮を毟り剥がすと、と、
生肉色の樹肉から、赤黒い地が流れ落ちた。
微かに動く瞼(目(ま)蓋)、
幽かに歪む口の端。
手に力を入れて陰茎をつかみ、
黒曜石の小刀で、臍下から胸元まで、一気に切り裂いていった。った。
噴き零れる臓腸(はらわた)はら)わた)、
血、血、血、血と、血、血、血と、地に滲(し)む、血、
さらに、それを切り開いて、わたしは、手を(て、を)入れて、みた。た。


──弟アベルは、どこにいるのか。


あ、ああ、この臓腸(この(はら、わた)の、温もり(ぬく、もり)、


──弟アベルは、どこにいるのか。


開いた唇、ひとすじの血涎れ(ちよだれ)
下垂る臓腸(はらわた)、引き攣り震える躯(から)だ)
それでも、神の似姿、麗しき少年の裸体は少しく傾き(かた、むき)
傾きながらも、目を瞑って、て、立って、いた。

あ、ああ、しかし、またしても、
しかし、またしても、臓腸(はらわた)には、印されてなかった。た。
わが弟アベルの、
アベルの、
の、

お、おお、ついに、手が疲れ、つるぎが手について離れなくなった。った。 *62


──弟アベルは、どこにいるのか。


お、おお、神よ、神よ、
すべて、あなたが命じられた命令のとおりにいたしました。
わたしは、あなたの命令に背かず、また、それを忘れませんでした。 *63


──弟アベルは、どこにいるのか。


お、おお、神よ、
神よ、すべての樹体は尽きました。
その夥しい数の樹体は、みな、私の手が葬(はふ)りました。
残ったものはひとりもなく、ひとりも逃れたものはありません。 *64 *65
わたしの背後、わたしの道は、
骨、骨、骨、
と、
血、血と、血、血、血と、血の足跡で、満ちている。る。る。 *66

お、おお、神よ、わが救いの神よ、
血を流した罪から、わたしを助け出してください。

神よ、御心ならば、わたしをお救いください。
すみやかに、わたしをお助けください。 *67


──弟アベルは、どこにいるのか。


お、おお、わが神、わが神、
なにゆえ、わたしを棄てられるのですか。
なにゆえ、遠く離れて、わたしを助けず、
わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。 *68

お、おお、神よ、神よ、……、

おっ、おお、
いま霊が、わたしの顔の前をすぎた。 *69
った。

お、おお、
ついに、主が、主が、
主なる神が、つむじ風の中から、わたしにこたえられた。

「わたしの言葉は成就する。 *70
 人を殺して、その血を身に負う者は、死ぬまで逃れ人である。 *71
 いま、あなたの終わりがきた。あなたの最後の運命がきた。 *72 *73
 人の子よ、立ち上がれ、わたしは、あなたに語ろう。 *74
 屠(ほふ)られた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、栄光と、
 賛美とを受けるにふさわしい。 *75
 あなたの弟アベルが、これである。
 あなたの弟アベルは、人類最初の殉教者である。 *76
 人の子よ、わたしは、これをこさせる。 *77
 先にあったことは、また後にもある、
 先になされたことは、また後にもなされる。 *78
 あなたの弟アベルが、兄であるあなたカインに殺されたように、
 後の世に、その不信仰な曲がった時代に、 *79
 イエスと呼ばれる男が、ユダという名の男によって、つるぎに渡される。 *80
 彼もまた、あなたと同じように、
 愛することに激しく、憎むことに激しいからだ。
 さあ、ついに終わりの時がきた。
 わたしの言葉は成就する。
 後の世のユダが、腹を裂き、臓腸(はらわた)を地に噴き零すように、 *81
 あなたは、あなたの手について離れなくなったその小刀で、
 あなたの腹を裂き、あなたの臓腸(はらわた)を開きなさい。 *82
 アベルの屍骨(したい)の隠し処とは、あなたの躯である。
 なぜなら、あなたの弟アベルは、兄であるあなたカインの中にあり、
 兄であるあなたカインは、あなたの弟アベルの中にあるからだ。
 それは、あなたの母イヴが、あなたの父アダムの中にあり、
 あなたの父アダムが、あなたの母イヴの中にあるように、
 また、後の世のイエスが、彼の弟子であるユダの中にあり、
 そのユダが、師と仰ぎ、先生と呼ぶイエスの中にあるように。 *83
 さあ、人の子よ、塵に帰りなさい。 *84
 あなたは、塵だから、塵に帰りなさい。 *85
 わたしが、あなたの息を取り去ると、
 あなたは死んで、塵に帰る。 *86
 塵は、もとのように土に帰り、
 霊は、これを授けた神に帰る。 *87
 霊は、わたしから出、
 生命(いのち)の息は、わたしがつくったからである。」 *88

と。

と、

お、おお、神よ、
神よ、見よ、
わたしは、わが腹に刃物を突き刺し、
なお激しい苦しみの中にあって、 *89
わが臓腸(はらわた)を切り裂き、切り開いた。た。 *90
あ、ああ、わが臓腸(はらわた)よ、わが臓腸(はらわた)よ。 *91
その印は、わが額の印と同じもの、同じもの、の、の、
お、おお、神よ、神よ、
神よ、

グロリア・パートリ・エト・フィリオ・エト・スピリトゥイ・サンクト。
シクト・エラト・イン・プリンシピオ・エト・ヌンク・エト・センペル・エト・イン・セクラ・セクロールム。アーメン。 *92

父と、子と、聖霊に、栄えあれ。
初めにありしごとく、いまも、いつも、世々に至るまで。アーメン。












埋骨されなかったフレイズによる 0puscule:The Marks of Cain Reprise。



われは一つの花を慕えど、どの花なるを知らざれば
心悩む。
われはあらゆる花々を眺めて
一つの心臓をさがす
(ハイネ『われは一つの花を』片山敏彦訳)


 *


花のはだかは肉の匂(にお)い
(アポリネール『花のはだか』堀口大學訳)


 *


重い血の枝むら
(高橋睦郎『眠りと犯しと落下と』)


 *


かさなりあった花花のひだを押しわけ
(大岡 信『地下水のように』)


 *


花弁をひらく
(吉増剛造『渋谷で夜明けまで』)


 *


すると、血(ち)がそこから流れでた
(シュトルム『白い薔薇』吉村博次訳)


 *


人間のように血(ち)がしたたる
(吉増剛造『素顔』)


 *


血は血に

血は血に滴たる

あ。
(村山槐多『ある日ぐれ』)


 *


或(あ)る日、花芯(くわしん)が恋しかった。
(津村信夫『臥床』)


 *


死んだ少年のむれ そのいたいたしい
美しいアスパラガス
(吉岡 実『模写──或はクートの絵から』)


鶏頭のやうな手をあげ死んでゆけり
(富沢赤黄男)


 *


おお、樹木よ、お前の樹液は私の血だ!
(シャルル・ヴァン・レルベルグ『私は君たちであり』堀口大學訳)


 *


オトウサンナンカキリコロセ
オカアサンナンカキリコロセ
ミンナキリコロセ
(丸山 薫『病める庭園(には)』)


 *


同じこのような幸福のゆめを
ぼくは見たことがなかったろうか
樹も 花も 接吻も 愛のまなざしも
(ハイネ『同じこのような幸福の』井上正蔵訳)


花よ きみを ぼくの夢に 迎えよう
そこに いろどりさまざまに
歌う 魔法の 茂みに
(ヘッセ『ある少女に』植村敏夫訳)












分骨されたフレイズについて。



*01:阿部謹也が著した『刑吏の社会史──中世ヨーロッパの庶民生活誌』の「第二章・刑罰なき時代・2・処刑の諸相(12)内臓びらき」にある、内臓びらきの刑の図版が、大場正史が著した『西洋拷問刑罰史』の「第九章・異端糾問」に掲載されている「大腸をえぐり出される宗教改革の先駆、聖エラスムス」の図版と同じものであるのは解せないが、いずれにしても、この図版には、きわめて強烈な刺激を受けた。小学生の頃に、岩に鎖で繋がれたプロメーテウスが、二羽の禿鷹に繰り返し腹を切り裂かれ、肝臓を啄まれるという話を読んで、すごく怖い話だと思ったのだが、これに、たしか、白土三平の漫画だと思うが、磔になった罪人の目の玉を、烏がその鋭い嘴で抉り出す場面とが重なって、長い間、頭から離れなかったことを憶えている。いまでは、澁澤龍彦が著した『妖人奇人館』にある「切り裂きジャックの正体」を読んで、これぐらいに丁寧に殺されるなら、ぼくも、殺されたっていいかな、なんて、つい思ってしまうぐらいに、人間が壊れてしまっているのだけれど。ここに、その「切り裂きジャックの正体」の中から、もっとも興味をそそられた部分を引用してみよう。「ケリーは血の海のようになったベッドの上に、全裸で仰向けに寝ていた。右の耳から左の耳まで断ち切られ、首は胴体から離れそうになっていた。耳と鼻がそぎ落され、顔は原型をとどめぬほど切傷だらけであった。上腹部も下腹部も完全に臓腑を抜き取られていて、肝臓が右の腿の上に置かれ、子宮をふくめた下半身も、えぐられていた。壁には血痕が飛び散り、ベッドのわきのテーブルの上に、妙な肉塊が置かれていたが、これはあとで調べてみると、犠牲者の二つの乳房だった。その近くには心臓と腎臓がシンメトリックに並べてあり、壁にかかった額縁には、腸がだらりとぶら下がっていた。」この凄まじい殺し方には、禍々しさとともに、Jack the Ripper の美学への真摯な傾倒が窺われるのではないだろうか。それにしても、このきれいに腑分けされた臓物には、なぜかしら、宗教的な儀式が行われたような印象を受けてしまうのだが、臓物占いでもしたのだろうか。この『The Marks of Cain。』は、直接的には、冒頭に掲げた「内臓びらき」の図版に触発されたものなのだが、澁澤龍彦が著した『黒魔術の手帖』に書かれていた「ジル・ド・レエ侯の肖像」とともに、古代ローマ時代の臓物占いにも、また大いに触発されたものでもある。『夜想5号』の「屍体」特集号で、「屍体芸術」というものが存在していることを知ったのだが、小学生のときに読んだことのある、日野日出志の漫画の繊細な美しさには、遠く及ばないような気がした。日野日出志の漫画は、大事に隠し持っていたのであるが、たしか、小学校六年生のときだったろうか、父に見つかって、一冊残らず、すべて捨てられてしまったという記憶がある。ずいぶん以前のことだが、あの佐川くんに切り刻まれたフランス人女性が、肉片を縫い合わされて、人間の姿に(あくまでも屍体だが)復元された全裸写真を、雑誌で見たことがある。犯されたあと、生殖器から胸部にかけて真一文字に切り裂かれ、腹部から臓腑を引きずり出された中国人娘の写真(南京大虐殺の際のもの)や、アウシュヴィッツなどの強制収容所で行われた拷問や虐殺の記録写真にも触発された。麻酔なしの生体解剖をはじめ、さまざまな人体実験が行われたという。
*02:ヘッセ『飲む人』高橋健二訳。
*03:創世記四・四。
*04:神学的対論『ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』第三章・第九節、「(一)まがうことなく人間は/森の主なる樹木さながら/彼のからだの毛は樹葉/彼の皮膚は木の外皮/(二)彼が傷つけられるとき/その皮膚からは血が流れる/木が切られれば外皮から/樹液が流れ出るように/(三)彼の肉は木の辺材/堅いその腱は木質部/骨は樹木の心材であり/髄は木の髄にたとえられる」(服部正明訳)及び、ダンテ『神曲物語』地獄篇・第十三歌、野上素一訳を参照した。
*05:M・M・ペイス『エジプトミイラの話』清水雄次郎訳。臓腑摘出に黒曜石の石刀が用いられた。
*06:雅歌四・三、六・七で、頬の美しさが、ザクロの赤い実にたとえられている。イメージ・シンボル事典によると、ザクロの木は、ディオニュソスの滴り落ちた血から生えたといわれる。民数記の第十三章には、ザクロが、乳と蜜の流れているカナンの地から、ブドウやイチジクとともに、肥沃の象徴として持ち帰られたとある。ザクロは、神からの賜物、或いは、豊饒を表わす聖処女の表象物である。教育社の大百科事典によると、ザクロは、人間の味がするので、鬼子母神への奉納物にされていたという。また、ギリシア神話では、ザクロは、冥府の食べ物とされており、オウィディウスの『変身物語』第五巻の中に、プルートスによって冥界に連れ去られたプロセルピナが、そこにあったザクロの実を七粒食べたために地上界に戻ることができなくなったという話がある。
*07:創世記三・一八。
*08:エゼキエル書二八・二四。
*09:哀歌一・一五。
*10:ロンサール『カッサンドルに』井上究一訳。
*11:エゼキエル書三七・一─二。
*12:哀歌四・八。
*13:創世記四・九。
*14:創世記四・九。
*15:ヨブ記七・一九。
*16:詩篇五四・二。
*17:申命記三二・一。
*18:創世記四・八。
*19:シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第三場、大山俊一訳。
*20:創世記四・一四。
*21:創世記四・一六。
*22:創世記四・一七。
*23:創世記四・一八。
*24:ミカ書一・八。
*25:ゼカリヤ書一四・一二。
*26:シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳。
*27:創世記三・一─一五。ヨハネの黙示録一二・九。
*28:詩篇五一・五。
*29:ヨブ記三・一一。
*30:ヨブ記一〇・一八─九。
*31:詩篇五一・一四。
*32:ヨブ記三八・一。
*33:エレミヤ書三〇・一五。
*34:ガラテヤ人への手紙六・七─八。
*35:エゼキエル書三五・六。
*36:エゼキエル書三・一。
*37:エゼキエル書二・八。
*38:ゼカリヤ書一四・一二。
*39:エゼキエル書三六・一四。
*40:シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第三場、大山俊一訳。
*41:M・ジョーンズ編『図説・旧約聖書の歴史と文化』左近義慈監修・佐藤陽二訳。
*42:創世記二・一五。
*43:創世記四・二。
*44:創世記四・二。
*45:ヨブ記七・一一。
*46:ホセア書九・一一、「産むことも、はらむことも、/みごもることもなくなる。」より。
*47:詩篇一二七・三。
*48:創世記一・二七。
*49:創世記二・一八。
*50:左近義慈・南部泰孝著『聖書時代の生活 I』。
*51:詩篇九〇・一三。
*52:詩篇三八・三。
*53:ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳。
*54:ラディゲ『柘榴水』堀口大學訳。
*55:ミカ書一・四、詩篇六八・二。
*56:詩篇一一八・一二。
*57:ルカによる福音書二二・四一。
*58:教育社の大百科事典によると、イチジクは、ザクロと同様に、豊饒のシンボルだが、原罪との関わりにより、欲望の象徴(創世記三・七)ともなっている。イメージ・シンボル事典によると、イチジクは両性具有を、イチジクの木は男性を表わしているという。また、イチジクは、バール神への典型的な捧げ物であるといい、ギリシア神話では、ディオニュソスが、冥界の入口にイチジクの木を植えたという。しかし、イチジクの木を、少年の樹体とした最大の理由は、葉をむしると、そのむしり取られた葉柄や葉基といったところから、精液によく似た白濁色の樹液が滲み出てくるからである。干しイチジクは、列王紀二0・七の中に、腫物に効くと書かれている。
*59:雅歌五・一三。
*60:雅歌七・九。
*61:中原中也『雨の日』。
*62:サムエル記下二三・一〇。
*63:申命記二六・一三。
*64:士師記四・一六。
*65:歴代志下二〇・二四。
*66:ホセア書六・八。
*67:詩篇七〇・一。
*68:詩篇二二・一。
*69:ヨブ記四・一五。
*70:エゼキエル書一二・二八。
*71:箴言二八・一七。
*72:エゼキエル書七・三。
*73:エゼキエル書七・一〇。
*74:エゼキエル書二・一。
*75:ヨハネの黙示録五・一二。
*76:創世記三・三、三・八。
*77:エゼキエル書二一・二七。
*78:伝道の書一・九。
*79:マタイによる福音書一七・一七、ルカによる福音書九・四一。
*80:ミカ書六・一四。
*81:使徒行伝一・一六─一九。
*82:ヨブ記一六・一三、「わたしの肝を地に流れ出させられる。」より。
*83:マタイによる福音書二六・二五。
*84:詩篇九〇・三。
*85:創世記三・一九。
*86:詩篇一〇四・二九、「あなたが彼らの息を取り去られると、/彼らは死んで塵に帰る。」より。
*87:伝道の書一二・七。
*88:イザヤ書五七・一六。
*89:ヨブ記六・一0。
*90:大岡 信『地下水のように』、「ぼくはからだをひらく/樹脂の流れる森に向って」より。
*91:エレミヤ書四・一九。
*92:Gloria Patri et Filio et Spiritui Sancto. Sict erat in principio et nunc et semper, et in saecule saeculorum. ラテン語の祈祷文。最後の「アーメン」は、コロスとの唱和。


以上の文献を引用するにあたって、拙作の文脈に合わせて部分的に書き改めたり、書き加えたりしたところがある。


窓。

  田中宏輔




学校のトイレの窓ガラスは、むかしから割れていた。
洗面台の鏡の端っこに
生乾きの痰汁がへばりついている。
その鏡に、学校と隣り合わせに建っている整形美容外科医院の
きれいに磨き抜かれた窓ガラスが写っている。
トイレのごみ箱のなかには
いらなくなった鼻や乳房や骨が捨てられている。
妹は、小さなうなじに犬の毛を移植したい。
夜遅く帰ると
電車の窓の外に見える家々の窓たちは
奇跡に溢れていた。
宙に浮いて覗いてまわりたい。
幼い頃
真っ赤な薔薇の華を
妹の股の間に挟ませて眺めていたことがある。
動かすと、棘が引っかかって
裸のまま立たせた妹は
両の目を覆って泣きじゃくっていた。
整形美容外科医院の名前が印刷されている
茶封筒が滑り落ちた。
隣の車両からやってきた犬が女の靴をなめる。
犬が、わたしの膝元に擦り寄ってきた。
電車が停まった。
駅からそう遠くないところに家がある。
女と犬が、後ろからついてくる気配がする。
妹は、テレビをつけっぱなしで居眠りをしていた。
テーブルにうつ伏せて眠る妹のうなじは
蟹の甲羅のように硬かった。
テレビは、古い映画をやっている。
ついこの間、癌で死んだ俳優が
末期癌で苦しむ患者の役をしていた。
犬のうなじに触れる。
ときおり毛を軽く引っ張ってやる。
やめていた煙草に火をつける。
手紙に書かれていない理由が
ようやくわかったような気がした。
まだ愛していると思っていた。
まだ愛されていると思っていた。
女の唇の下には、大きなほくろがあった。
手術したいほくろだった。
妹の汚れた下着に指をからませると
骨瓶のなかに指を入れているような気がした。
妹が目を覚ました。
見舞いにきた奥さんは
いま不倫騒動で賑わしてる女優だった。
癌で死んだ俳優が
死に際の演技を披露している。
死ぬ演技はむずかしいよ。
前にNHKの番組で
俳優は笑いながら語っていた。
知らない犬は
妹にも、よくなついた。
犬は
わたしを襲う合図を待っている。
鞄のなかからビニール袋を取り出すと
ひそかに持ち帰った
女の鼻や乳房を投げ与えた。
ほんとうの死を迎えたとき
俳優はなにを考えていたのだろう。


Lark's Tongues in Aspic。

  田中宏輔




私が何も新しいことは言わなかった、などとは言わないでもらいたい。内容の配置が新しいのである。
(パスカル『パンセ』断章二二、前田陽一訳)

もはや、われわれには引用しかないのです。言語とは、引用のシステムにほかなりません。
(ボルヘス『砂の本』疲れた男のユートピア、篠田一士訳)

言葉は、ちがった配列をすると、ちがった意味を生じ、意味は、ちがった配列をすると、異なった効果を生じる。
(パスカル『パンセ』断章二三、前田陽一訳)

  〓

夜中の一時ごろに        まちがいなくここには霊的なものがある。
電話がかかってきた。      (カロッサ『ルーマニア日記』十一月二十八日、登張正実訳)
イエス・キリストですと     《事実》は、意味を必要としないものである。
男の声が言った。        (ヴァレリー『倫理的考察』川口 篤訳)
ぼくが黙っていると       わたしは彼が神ではない(、、、、)と確信していたわけではない。
落ち着き払った声で       (エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』12、柳瀬尚紀訳)
約束したじゃないですか     ひょっとしたら神であるか、
と言う。            (ヘッセ『別な星の奇妙なたより』高橋健二訳)
それでも、まだ黙っていると   ほれ、こうしてまた
もう一度、           (サムイル・マルシャーク『森は生きている』湯浅芳子訳)
約束したじゃないですか     午前一時にふたたび電話をかけてくる。
と言ってきた。         (フローレンス・トレフェセン『背信』中上哲夫訳)
なるべく音がしないように    これが証拠じゃないか?
ぼくは受話器を置いた。     (エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』12、柳瀬尚紀訳)

 〓

蜜蜂がぶんぶんうなっている。
(ガルシン『四日間』神西 清訳)

顔のあたりを色彩(いろど)っている。
(夏目漱石『吾輩は猫である』一)

目をそらそうとしても、ついつい見とれてしまう。
(ポール・オースター『ムーン・パレス』6、柴田元幸訳)

 〓

 広辞苑で、「いっぱい【一杯】」という言葉を調べると、「一つのさかずきや茶碗に満ちる分量。」という意味や、「ある限りを尽して限度に達するさま。ありたけ。」とか、「思う存分。したいだけ。」といった意味が載っていた。だいたい知っていた通りだったのだが、このような言葉から、一即全が、そしてまた、汎神論が連想されたので、一応、調べてみたのである。ついでに、「杯」も調べてみた。「さかずき」という意味であった。これまた、知っていた通りの意味だったのであるが、「さかずき」を「宇宙」の象徴として見ると、「いっぱい」という言葉の意味と、汎神論というものとの結びつきが、よけいに強く感じられた。

 〓

ヨハネによる福音書の第一章・第一節に、
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とある。
だったら、毎日、神さまが、ぼくの中を、出たり入ったり、入ったり出たりしてるってことだ。

──泣いているの? 私のために泣いてくださるの? あんたは、私を愛してくださるのね。
(モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』杉 捷夫訳)

 〓

ママン、じき治るわ。
(プルースト『失われた時を求めて』第三篇・ゲルマントの方、鈴木道彦訳)

癒(なお)るのかしら?
(夏目漱石『硝子戸の中』二十八、疑問符加筆)

犬の首輪をしている
(ヘンリー・ミラー『南回帰線』終楽章、幾野 宏訳)

父がいた。
(ウォルシュ『焼けあとの雑草』5、澤田洋太郎訳)

 *

ねえ、ママン、これも奇蹟(きせき)を授けられた花でしょうか?
(ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳)

銅(あかがね)の器(うつわ)に活けましょうね。
(コレット『青い麦』九、堀口大學訳)

 *

人間はたえず、しかもつまらぬことでもみせびらかす。
(ロートレアモン『マルドロールの歌』第一の歌、栗田 勇訳)

 *

さあ、これをごらん。
(ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』経過報告11・四月二十二日、稲葉明雄訳)

それを僕にしろと言うのかい?
(シェイクスピア『オセロウ』第四幕・第二場、菅 泰男訳)

 〓

うんこ型宇宙人というのを考えた。   こうしたはしたない言葉をみのがして
臭いも、形も、うんこそのものなのだ。 くれるのは、愛情だけだった。
けっこう友だちになれそうだよね。   (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)      
あっ、でも、どうしよう?       いや、まんこはいや!
相手が握手なんかしてきたら。     (エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』6、柳瀬尚紀訳)

 〓

ときどき、古本屋さんで、ユリイカのバックナンバーを買うことがあって、
このあいだ、「エズラ・パウンド特集」(一九七二年の十一月号)ってのがあって、買ったんだけど、
そしたら、その一七九ページにある、篠田一士さんと、ドナルド・キーンさんとのやりとりの中に、
(丸谷才一さんを含めて、三人の『共同討議』ってところでね。)

 篠田  パウンドが知った最初の日本人はダンサーの伊藤道郎ですね。二番目は、
     会ってはいないけれど、北園克衛です。
 キーン 文通していましたね。パウンドの本には Kit Kat というふうに記してある。

って、あって
あれっ、Kit Kat っていえば、チョコレート」じゃんか、って思った。
って、ただそれだけのことなんだけど。
でも、この話が、いちばん印象的で、
っていうか
この話しか印象に残ってないんだけどね、笑。

 〓

amor ingenii neminem unquam divitem fecit.
才能の愛は何人をも決して富裕にしたることなし。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』より、ペトロニウスの言葉)

やがて僕も二十八歳
不満な暮しをしているほどに
(アポリネール『二十日鼠』堀口大學訳)

すでに二十八歳になった僕は、まだ誰にも知られていないのだ。
(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

二十八歳にもなつて、詩人だなんて云ふことは
樂しいことだと、讀者よ、君は思ふかい?
(フランシス・ジャム『聞け』堀口大學訳)

いま、ぼくは、二十八歳じゃないけど、詩を書きはじめたのは、二十七、八歳のときだった。
それに、また、たしかに、名前も知られていなかったのだけれど。

 〓

あの『世界名作劇場』のパロディーで  彼女は七十歳になる病弱な老婆である。
『世界迷惑劇場』というのである    (ポオ『マリー・ロジェの謎』丸谷才一訳、句点加筆)
自分の母親でもないのに        子供はいない。
えんえんと彼女を追いかけ回す     (マルグリット・デュラス『愛人』清水 徹訳)
マルコ少年の物だとか         悪魔が彼をもてあそんでいるのだ!
よその山羊の乳を無断で絞ったりして  (ローデンバック『死都ブリュージュ』IV、窪田般彌訳)
おじいちゃんの寿命を縮めまくる    しかし、たいくつのためだけに死ぬことだけはないであろう。 
アルプスの不良少女ハイジの物語だとか。(モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』杉 捷夫訳)

 〓

 ジャン・デ・カールが、『狂王ルードヴィヒ』(三保 元訳)の中で、王の「わけのわからぬメモ」の例として、「そのたびにネクタイを締め直さなければならないほど、ネクタイを結ぶのは難しい。大切なのは結び目そのものではなく、少なくとも約束を守るということだ」といった言葉を引いているが、tie a knot in a handkerchief:(何かを忘れないために)ハンカチに結び目をつくる、という英語の成句があることからもわかるように、「結ぶ」と「約束」との間には、十分に関係があると思われるのだが、どうだろう。「約束を守る」といえば、ぼくには、「約束を守る最上の手段は決して約束をしないことである。」(大塚幸男訳)という、ナポレオンの言葉が思い出されるのだが、これは、関係ないかな。

 〓

塾でアルバイトをしていたときのこと。  いったいなにを考えているんだろう?
田中先生はベテランですからって言われて (ヘッセ『知と愛』第十三章、高橋健二訳)
中学二年生の男の子をまかせられた。   目を大きく見開いて、ぼくの顔をじっと見ていた。
小学一年か二年の学力しかない子だった。 (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)
で、あるとき、その子が         これはなにかしらとても悲しいことだった。
消しゴムをグリグリ机に圧しつけてたので (エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』6、柳瀬尚紀訳)
「そんなにグリグリ圧しつけたら     目から涙がこぼれた。
消しゴムが痛くて泣くよ。」って言ったら (ズヴェーヴォ『ゼーノの苦悶』6、清水三郎治訳)
「先生にも消しゴムの声が聞こえるの?」 私は知った。
って言われた。             (ヘッセ『青春彷徨』第七章、山下 肇訳)
うれしそうに、目をキラキラ輝かせて   神はひとりひとりにちがった声でよびたもう。
というより瞳孔を開ききって、て感じで。(カロッサ『ルーマニア日記』十二月五日、登張正実訳)

 〓

蛇をつつけば、藪が出るのよ。

 〓

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
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常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

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常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)

常套句ほど美しいものはない。
(ボードレール『火箭』18、矢内原伊作訳、句点加筆)


陽の埋葬

  田中宏輔




目の前に一本の道が現われた。

この道を行けば、海に出る。

ほら、かすかに波の音が聞こえる。

見えてきた。

海だ。

だれもいない。

天使の耳が落ちていた。

また、触れるまえに毀れてしまった。

錘のなかに海が沈む。

この海を拵えたのは、天使の耳だ。

忘れては思い出される海の記憶だ。

生まれそこなった波が、一本の道となる。

この道を行けば、ふたたび海に出る。


*


月の夜だった。
わたしは耳をひろった。

月の光を纏った
ひと揃いの美しい耳だった。

月の渚、
しきり波うち寄せる波打ち際。

どこかに耳のない天使がいないか、
わたしはさがし歩いた。


*


──どこからきたの?

海。

──海から?

海から。

──じゃあ、これを返してあげるね。

すると、天使は微笑みを残し、


*


月の渚、
翼をたたんだ天使が、波の声に、耳を傾けていた。

月の渚、
失くした耳を傾けて、天使は、波の声を聴いていた。

月の渚、
波の声は、耳の行方を、耳のない天使に囁いていた。

月の渚、
もう耳はいらない、と、天使が無言で呟いていた。


陽の埋葬

  田中宏輔




汚れた指で、
鳥を折って飛ばしていました。

虚ろな指輪を覗き込むと、
切り口は鮮やか、琺瑯質の真っ白な雲が
撓みたわみながら流れてゆきました。

飛ばした鳥を拾っては棄て、拾っては棄てた、
正午の日曜日、またきてしまった。

雨ざらしの陽の剥製。
屋根瓦、斑にこびりついた鳥糞。
襤褸を纏った襤褸が、箆棒の先で
鳥糞の塊を、刮ぎ落としていました。

あれは、むかし、家に火をつけ、
首をくくって死んだ、わたくしの父ではなかったろうか……。

手の中の小さな骨、
不思議な形をしている。

羽ばたく鳥が陽に擬態する。

わたしは何も喪失しなかった。

一度だけだという約束の接吻(狡猾な陽よ!)

わたしの息を塞いで(ご褒美は、二千円だった)

頽(くずお)れた空に、陽に溺れた蒼白な雲が絶命する。

──だれが搬び去るのだろうか。

壜の中の水(腹のなかの臓腑(はらわた))
水のなかに浮かび漾う壜の中の水の揺れが
わたしの脳も、わたくしの頭蓋の中で揺れています。

わたしのものでない、
項(うなじ)の上の濃い紫色の痣(その疼きに)
陽の病巣が凝り固まっている。

あの日、あの日曜日。
わたしは陽に温もりながら
市庁舎の前で待っていました。

花時計の周りでは、憑かれたように
ワーグナーの曲が流れていました。

きょうも、軒樋の腐れ、錆の染みが、瘡蓋のように張りついています。

窓枠の桟、窓硝子の四隅に拭き残された埃は
いつまでも拭き残されたまま、ますます厚くつもってゆきます。

陽は揺り駕籠の中に睡る赤ん坊のように
──わたしの腕の中、腕枕の中で睡っていた。

二時間一万六千円の恋人よ、
だれが、おまえの唇を薔薇とすり替えたのか。
だれが、おまえの花瓣に触れたのか。

さはつてしまふ、さつてしまふ。

拭き取られた埃が、空中に抛り投げられた!

陽の光がきらきらと輝きながら舞い降りてきた。
──陽が搬ぶのは、塵と、埃と、飛べない鳥だけだった。

嬰兒(みどりご)は生まれる前から跛(びつこ)だった(この贋物め!)

口に炭火を頬張りながら、ひとり、わたしは、微笑んでいました。

噴き上がる水、散水装置、散りかかる水、
煌めくきらめきに、花壇の花の上に、小さな虹が架かる。
水の届かないところでは、花が死にかけている。
痙攣麻痺した散水装置が象徴を花瓣に刻み込んでいます。

かつて、陽の摘み手が虹色に印ぜられたように
──わたくしも、わたしも、その花の筵の上を、歩いてみました。

垣根越しに骰子が投げられた!

陽は砕け、無数の細片となって降りそそぐ。

、 、  、   、    、     、      、


 、  、   、    、     、      、


  、   、    、     、      、


貫け、陽の針よ! 貫け、陽の針よ!

陽の針が、わたしを貫いた。

市庁舎の屋根の上に集(すだ)く鳥たちが

一羽ずつ、一羽ずつ、陽に羽ばたきながら

陽に縺れ落ちてゆく。

コンクリートタイルの白い道の上に

骨の欠片、微細片が散りかかる

散りかかる。

陽の初子は死産だった。

わたしは手の中の骨を口に入れた。

わたしは思い出していた。

あの日、あの日曜日、

わたしがはじめて

陽を抱いた

日のこと

を──

そうして、
いま、陽の亡骸を味わいながら
わたしは、わたしの、息を、ゆっくり、と、ふさいで、ゆき、まし、た、



*



三月のある日のことだった。
(オー・ヘンリー『献立表の春』大津栄一郎訳)

死んだばかりの小鳥が一羽、
樫の木の枝の下に落ちていた。
ひろい上げると、わたしの手のひらの上に
その鳥の破けた腹の中から、赤黒い臓腑が滑り出てきました。

わたしは、その鳥の小さな首に、親指をあてて
ゆっくりと、力を込めて、握りつぶしてゆきました。

その手触り……

そのつぶれた肉の温もり……

なぜ、わたしは、誑(たぶら)かされたのか。

うっとりとして陽に温もりつづけた報いなのか。

さやうなら、さやうなら。

粒子が粗くて、きみの姿が見えない。

死んだ鳥が歌いはじめた。

木洩れ日に、骨となって歌いはじめた。

──わたしの口も、また、骨といっしょに歌いはじめた。


三月のある日のことだつた。
(オー・ヘンリー『献立表の春』大津栄一郎訳、歴史的仮名遣変換)

木洩れ日に温もりながら、
縺れほつれしてゐた、わたしの眠り。
葬埋(はふりをさ)めたはずの小鳥たちの死骸が
わたくしの骨立ち痩せた肩に
その鋭い爪を食ひ込ませてゆきました。

その痛みをじつくりと味はつてゐますと、
やがて、その死んだ鳥たちは
わたしの肩の肉を啄みはじめました。

陽に啄ばまれて、わたくしの身体も骨となり、
骨となつて、ぽろぽろと、ぽろぽろ
と、砕け落ちてゆきました。

陽の水子が喘いでゐる(偽りの堕胎!)

隠坊(おんばう)が坩堝の中を覗き見た。

──陽にあたると、死んでしまひました。

言ひそびれた言葉がある。
口にすることなく、この胸にしまひ込んだ言葉がある。
何だつたんだらう、忘れてしまつた、わからない、
……何といふ言葉だつたんだらう。
すつかり忘れてしまつた、
つた。

死んだ鳥も歌ふことができる。

空は喪に服して濃紺色かち染まつてゐた。

煉瓦積みが煉瓦を積んでゆく。

破れ鐘の錆も露な死の地金、虚ろな高窓、透き見ゆる空。

わたしは、わたしの、死んだ声を、聴いて、ゐた。

水甕を象どりながら、口遊んでゐた。

擬死、仮死、擬死、仮死と、しだいに蚕食されてゆく脳組織が
鸚鵡返しに、おまえのことを想ひ出してゐた。

塵泥(ちりひぢ)の凝り、纏足の侏儒。

隠坊が骨学の本を繙きながら
坩堝の中の骨灰をならしてゐました。

灰ならしならしながら、微睡んでゐました。



*



樹にもたれて、手のひらをひらいた。

死んだ鳥の上に、木洩れ陽がちらちらと踊る。
陽の光がちらちらと踊る。

鳥の死骸が、骨となりました。
白い、小さな、骨と、なり、ました。

やがて、木洩れ陽に温もったその骨は
手のひらの上で、から、ころ、から、ころ、

から、から、から、と、ぶつかりあいながら
輪になって舞い踊りはじめました。

わたしは、うっとりとして目をつむり
ただ、うっとりとして

死んだ鳥の歌に、
じっと、耳を、傾けて、いま、した。



*



何を見ているの?
──何を、見て、いたの?


何も。


嘘!


窓の外。


見ちゃだめだよ。
──ぼく、連れてかれちゃうよ。


えっ?


振り返ると、シーツの上には、
残り香の、白い、小さな、骨が、散らばって、いま、した。



*



──羽根があれば、天使になるの?

そうだよ。
でも、いまは、毀れてるんだ。

──その腕に抱えてるのが、翼なんだね。

そう、抱いて、あたためてるんだよ。
つめたくなって、死にかけてるからね。

──でも、ぼく、そのままの、きみがいい。

そのままの、ぼくって?

──優しげな、ただの、少年だよ。

そして、天使は、腕をひろげて
もうひとりの、自分の姿を、抱きしめました。


マールボロ。

  田中宏輔



彼には、入れ墨があった。
革ジャンの下に無地の白いTシャツ。
ぼくを見るな。
ぼくじゃだめだと思った。
若いコなら、ほかにもいる。
ぼくはブサイクだから。
でも、彼は、ぼくを選んだ。
コーヒーでも飲みに行こうか?
彼は、ミルクを入れなかった。
じゃ、オレと同い年なんだ。
彼のタバコを喫う。
たった一週間の禁煙。
ラブホテルの名前は
『グァバの木の下で』だった。
靴下に雨がしみてる。
はやく靴を買い替えればよかった。
いっしょにシャワーを浴びた。
白くて、きれいな、ちんちんだった。
何で、こんなことを詩に書きつけてるんだろう?
一回でおしまい。
一回だけだからいいんだと、だれかが言ってた。
すぐには帰ろうとしなかった。
ふたりとも。
いつまでもぐずぐずしてた。
東京には、七年いた。
ちんちんが降ってきた。
たくさん降ってきた。
人間にも天敵がいればいいね。
東京には、何もなかった。
何もなかったような顔をして
ここにいる。
きれいだったな。
背中を向けて、テーブルの上に置いた
 飲みさしの
缶コーラ。


王國の秤。

  田中宏輔




きみの王國と、ぼくの王國を秤に載せてみようよ。
新しい王國のために、頭の上に亀をのっけて
哲学者たちが車座になって議論している。
百の議論よりも、百の戦の方が正しいと
将軍たちは、哲学者たちに訴える。
亀を頭の上にのっけてると憂鬱である。
ソクラテスに似た顔の哲学者が
頭の上の亀を降ろして立ち上がった。
この人の欠点は
この人が歩くと
うんこが歩いているようにしか見えないこと。
『おいしいお店』って
本にのってる中華料理屋さんの前で
子供が叱られてた。
ちゃんとあやまりなさいって言われて。
口をとがらせて言い訳する子供のほっぺた目がけて
ズゴッと一発、
お母さんは、げんこつをくらわせた。
情け容赦のない一撃だった。
喫茶店で隣に腰かけてた高校生ぐらいの男の子が
女性週刊誌に見入っていた。
生理用ナプキンの広告だった。
映画館で映写技師のバイトをしてるヒロくんは
気に入った映画のフィルムをコレクトしてる。
ほんとは、してはいけないことだけど
ちょっとぐらいは、みんなしてるって言ってた。
その小さなフィルムのうつくしいこと。
それで
いろんなところで上映されるたびに
映画が短くなってくってわけね。
銀行で、女性週刊誌を読んだ。
サンフランシスコの病院の話だけど
集中治療室に新しい患者が運ばれてきて
その患者がその日のうちに死ぬかどうか
看護婦たちが賭をしていたという。
「死ぬのはいつも他人」って、だれかの言葉にあったけど
ほんとに、そうなのね。
授業中に質問されて答えられなかった先生が
教室の真ん中で首をくくられて殺された。
腕や足にもロープを巻かれて。
生徒たちが思い思いにロープを引っ張ると
手や足がヒクヒク動く。
ボルヘスの詩に
複数の〈わたし〉という言葉があるけど
それって、わたしたちってことかしら。
それとも、ボルヘスだから、ボルヘスズかしら。
林っちゃんは、
毎年、年賀状を300枚以上も書くって言ってた。
ぼくは、せいぜい50枚しか書かないけど
それでもたいへんで
最後の一枚は、いつも大晦日になってしまう。
いらない平和がやってきて
どぼどぼ涙がこぼれる。
実物大の偽善である。
前に付き合ってたシンジくんが
何か詩を読ませてって言うから
『月下の一群』を渡して、いっしょに読んだ。
ギー・シャルル・クロスの「さびしさ」を読んで
これがいちばん好き
ぼくも、こんな気持ちで人と付き合ってきたの
って言うと
シンジくんが、ぼくに言った。
自分を他人としてしか生きられないんだねって。
うまいこと言うのねって思わず口にしたけど
ほんとのところ、
意味はよくわかんなかった。
扇風機の真ん中のところに鉛筆の先をあてると
たちまち黒くなる。
だれに教えてもらったってわけじゃないけど
友だちの何人かも、したことあるって言ってた。
みんな、すごく叱られたらしい。
子どものときの話を、ノブユキがしてくれた。
団地に住んでた友だちがよくしてた遊びだけど
ほら、あのエア・ダストを送るパイプかなんか
ベランダにある、あのふっといパイプね。
あれをつたって5階や6階から
つるつるつるーって、すべり下りるの。
怖いから、ぼくはしないで見てただけだけど。
団地の子は違うなって、そう思って見てた。
ノブユキの言葉は、ときどき痛かった。
ぼくはノブユキになりたいと思った。
鳥を食らわば鳥籠まで。
住めば鳥籠。
耳に鳥ができる。
人の鳥籠で相撲を取る。
気違いに鳥籠。
鳥を牛と言う。
叩けば鳥が出る。
鳥多くして、鳥籠山に登る。
高校二年のときに、家出したことがあるんだけど
電車の窓から眺めた景色が忘れられない。
真緑の
なだらかな丘の上で
男の子が、とんぼ返りをしてみせてた。
たぶん、お母さんやお姉さんだと思うけど
彼女たちの前で、何度も、とんぼ返りをしてみせてた。
遠かったから、はっきり顔は見えなかったけれど
ほこらしげな感じだけは伝わってきた。
思い出したくなかったけれど
思い出したくなかったのだけれど
ぼくは、むかし
あんな子どもになりたかった。


みんな、きみのことが好きだった。

  田中宏輔



ちょっといいですか。
あなたは神を信じますか。
牛の声で返事をした。
たしかに、神さまはいらっしゃいます。
立派に役割を果たしておられます。
ふざけてるんじゃない。
ぼくは大真面目だ。
友だちが死んだんだもの。
ぼくの大切な友だちが死んだんだもの。
without grief/悲しみをこらえて
弔問を済まして
帰ってきたんだもの。
Repeat after me!/復唱しろ!
absinthe/ニガヨモギ
悲しみをこらえて
ぼくは帰ってきたんだもの。
Repeat after me!/復唱しろ!
誕生日に買ってもらった
ヴィジュアル・ディクショナリー、
どのページも、ほんとにきれい。
パピルス、羊皮紙、粘土板。
食用ガエルの精巣について調べてみた。
アルバムを出して、
写真の順番を入れ換えてゆく。
海という海から
木霊が帰ってくる。
声の主など
とうに、いなくなったのに。
Repeat after me!/復唱しろ!
いじめてあげる。
吉田くんは
痛いのに、深爪だった。
電話を先に切ることができなかった。
誰にも、さからわなかった。
みんな、吉田くんのことが好きだった。
Repeat after me!/復唱しろ!
ぼく、忘れないからね。
ぜったい、忘れないからね。
おぼえておいてあげる。
吉田くんは、仮性包茎だった。
勃起したら、ちゃんとむけたから。
ぼくも、こすってあげた。
absinthe/ニガヨモギ
Repeat after me!/復唱しろ!
泣いているのは、牛なのよ。
幼い男の子が
ぼくの頭を叩いて
「ゆるしてあげる」
って言った。
話しかけてはいけないところで
話しかけてはいけない。
Repeat after me!/復唱しろ!
ごめんね、ごめんね。
ぼくだって、包茎だった。
without grief/悲しみをこらえて
absinthe/ニガヨモギ
もっとたくさん。
もうたくさん。


頭を叩くと、泣き出した。

  田中宏輔



カバ、ひたひたと、たそがれて、
電車、痴漢を乗せて走る。
ヴィオラの稽古の帰り、
落ち葉が、自分の落ちる音に、目を覚ました。
見逃せないオチンチンをしてる、と耳元でささやく
その人は、ポケットに岩塩をしのばせた
横顔のうつくしい神さまだった。
にやにやと笑いながら
ぼくの関節をはずしていった。
さようなら。こんにちは。
音楽のように終わってしまう。
月のきれいな夜だった。
お尻から、鳥が出てきて、歌い出したよ。
ハムレットだって、お尻から生まれたっていうし。
まるでカタイうんこをするときのように痛かったって。
みんな死ねばいいのに、ぐずぐずしてる。
きょうも、ママンは死ななかった。
慈善事業の募金をしに出かけて行った。
むかし、ママンがつくってくれたドーナッツは
大きさの違うコップでつくられていた。
ちゃんとした型抜きがなかったから。
実力テストで一番だった友だちが
大学には行かないよ、って言ってた。
ぼくにつながるすべての人が、ぼくを辱める。
ぼくが、ぼくの道で、道草をしたっていいじゃないか。
ぼくは、歌が好きなんだ。
たくさんの仮面を持っている。
素顔の数と同じ数だけ持っている。
似ているところがいっしょ。
思いつめたふりをして
パパは、聖書に目を落としてた。
雷のひとつでも、落としてやろうかしら。
マッターホルンの山の頂から
ひとすじの絶叫となって落ちてゆく牛。
落ち葉は、自分の落ちる音に耳を澄ましていた。
ぼくもまた、ぼくの歌のひとつなのだ。
今度、神戸で演奏会があるってさ。
どうして、ぼくじゃダメなの?
しっかり手を握っているのに、きみはいない。
ぼくは、きみのことが好きなのにぃ。
くやしいけど、ぼくたちは、ただの友だちだった。
明日は、ピアノの稽古だし。
落ち葉だって、踏まれたくないって思うだろ。
石の声を聞くと、耳がつぶれる。
ぼくの耳は、つぶれてるのさ。
今度の日曜日には、
世界中の日曜日をあつめてあげる。
パパは、ぼくに嘘をついた。
樹は、振り落とした葉っぱのことなんか
かまいやしない。
どうなったって、いいんだ。
まわるよ、まわる。
ジャイロ・スコープ。
また、神さまに会えるかな。
黄金の花束を抱えて降りてゆく。
Nobuyuki。ハミガキ。紙飛行機。
中也が、中原を駈けて行った。


むちゃくちゃ抒情的でごじゃりますがな。

  田中宏輔



枯れ葉が、自分のいた場所を見上げていた。
木馬は、ぼくか、ぼくは、頭でないところで考えた。
切なくって、さびしくって、
わたしたちは、傷つくことでしか
深くなれないのかもしれない。
あれは、いつの日だったかしら、
岡崎の動物園で、片角の鹿を見たのは。
蹄の間を、小川が流れていた、
ずいぶんと、むかしのことなんですね。
ぼくが、まだ手を引かれて歩いていた頃に
あなたが、建仁寺の境内で
祖母に連れられた、ぼくを待っていたのは。
その日、祖母のしわんだ細い指から
やわらかく、小さかったぼくの手のひらを
あなたは、どんな思いで手にしたのでしょう。
いつの日だったかしら、
樹が、葉っぱを振り落としたのは。
ぼくは、幼稚園には行かなかった。
保育園だったから。
ひとつづきの敷石は、ところどころ縁が欠け、
そばには、白い花を落とした垣根が立ち並び、
板石の端を踏んではつまずく、ぼくの姿は
腰折れた祖母より頭ふたつ小さかったと。
落ち葉が、枯れ葉に変わるとき、
樹が、振り落とした葉っぱの行方をさがしていた。
ひとに見つめられれば、笑顔を向けたあの頃に
ぼくは笑って、あなたの顔を見上げたでしょうか。
そのとき、あなたは、どんな顔をしてみせてくれたのでしょうか。
顔が笑っているときは、顔の骨も笑っているのかしら。
言いたいこと、いっぱい。痛いこと、いっぱい。
ああ、神さま、ぼくは悪い子でした。
メエルシュトレエム。
天国には、お祖母ちゃんがいる。
いつの日か、わたしたち、ふたたび、出会うでしょう。
溜め息ひとつ分、ぼくたちは遠くなってしまった。
近い将来、宇宙を言葉で説明できるかもしれない。
でも、宇宙は言葉でできているわけじゃない。
ぼくに似た本を探しているのですか。
どうして、ここで待っているのですか。
ホヘンブエヘリア・ペタロイデスくんというのが、ぼくのあだ名だった。
母方の先祖は、寺守だと言ってたけど、よく知らない。
樹が、葉っぱの落ちる音に耳を澄ましていた。
いつの日だったかしら、
わたしがここで死んだのは。
わたしのこころは、まだ、どこかにつながれたままだ。
こわいぐらい、静かな家だった。
中庭の池には、毀れた噴水があった。
落ち葉は、自分がいつ落とされたのか忘れてしまった。
缶詰の中でなら、ぼくは思いっ切り泣ける。
樹の洞は、むかし、ぼくが捨てた祈りの声を唱えていた。
いつの日だったかしら、
少女が、栞の代わりに枯れ葉を挾んでおいたのは。
枯れ葉もまた、自分が挾まれる音に耳を澄ましていた。
わたしを読むのをやめよ!
一頭の牛に似た娘がしゃべりつづける。
山羊座のぼくは、どこまでも倫理的だった。
つくしを摘んで帰ったことがある。
ハンカチに包んで、
四日間、眠り込んでしまった。


高野川

  田中宏輔



底浅の透き通った水の流れが
昨日の雨で嵩を増して随分と濁っていた
川端に立ってバスを待ちながら
ぼくは水面に映った岸辺の草を見ていた
それはゆらゆらと揺れながら
黄土色の画布に黒く染みていた
流れる水は瀬岩にあたって畝となり
棚曇る空がそっくり動いていった
朽ちた木切れは波間を走り
枯れ草は舵を失い沈んでいった

こうしてバスを待っていると
それほど遠くもないきみの下宿が
とても遠く離れたところのように思われて
いろいろ考えてしまう
きみを思えば思うほど
自分に自信が持てなくなって
いつかはすべてが裏目に出る日がやってくると

堰堤の澱みに逆巻く渦が
ぼくの煙草の喫い止しを捕らえた
しばらく円を描いて舞っていたそれは
徐々にほぐれて身を落とし
ただ吸い口のフィルターだけがまわりまわりながら
いつまでも浮標のように浮き沈みしていた


千切レタ耳ヲ拾エ。

  田中宏輔



ベルゼク、ダッハウ、ビルケナウ。

このあいだ、阿部ちゃんの勤めてる旅行会社が
収容所体験ツアーを組んでた。

現地の施設で実体験できるなんて
とってもステキ。

ひとつに砕ける波。

ぼくんちのインコは
いくら教えてやっても、九九が憶えられなかった。

鼠だったっけ?
どんなことでも、三歩も歩けば、忘れてしまうっていうのは。
それって、いいよね。

前に、中国の刑法史だったか、刑罰史の本を読んでたら
宋代の宝典に、『金玉新書』というのがあると書かれてあった。

べつに、
ただそれだけのことだけど。

パプアニューギニア。

あっ、パプアとニューギニアの間に・が入るんだっけ?
入んなかったっけ?

吉田くんちは、首狩り族だった。
先週の火曜日に転校してきた。

べつに好きなタイプじゃなかったけど
たまたま隣の席だったから
いちばん最初に、ぼくが友だちになったってわけ。

ただ、それだけなのに
吉田くんは
ぼくがうんちするところを覗く。

家に帰っても
吉田くんは、ぼくんちに勝手に上がって
ぼくがうんちしてるところを覗く。

ぼくも鍵をかけないで
ドアを開けたまま
ぼくがうんちしてるところを覗かせる。

そういえば、ジミーちゃんが、こんなことを言ってた。
はじめに言葉ありき、ってあるでしょ。
光あれ、っていう、この言葉自体が、神さまなの。
旧約のなかで、アブラハムの前に顕われたり
ノアの前に顕われたりした神の言葉が
新約の中で、イエス・キリストとなって
ふたたび顕われたの。

そう?

ああ、目がチクチクする。

大きい蟻が小さい蟻を食べている。
それは禁じられてはいない。

インディアンの女たちが、子どもたちといっしょに
捕虜たちを拷問する。

バラバラのバッタが美しいわけ。

それは、きみの獲物じゃなくて
ぼくの獲物だ。

さ迷える口唇刺激。

空は点だった。

井戸の底で
マナイがつぶやく。

ひとりがぼくを孤独にするのか、
ひとりが孤独をぼくにするのか、
孤独がぼくをひとりにするのか、
孤独がひとりをぼくにするのか、
ぼくがひとりを孤独にするのか、
ぼくが孤独をひとりにするのか、

3かける2かける1で、6通りのフレーズができる。

まるで、シロツメグサのよう。
まるで、ケイちゃんの脇にできた良性腫瘍のよう。

新しい恋人ができたら
まず、はじめに、足で踏む。

いま、抽選でスペインに行ける。
スペインに行ったら、火刑裁判が受けられる。
異端審問で、いろんな拷問が受けられる。

そこで、神さまがいることを教えられる。


タコにも酔うのよ。

  田中宏輔



最初の出だしはこうよ。
ポプラ並木に寒すずめが四羽、
正しく話してると、
うつくしい獣たちが引き裂くの。
クレープが好きだと言ったわ。
魚座の男が好きだとも言ったわ。
鉄分の多い多汁質の声でね。
漆塗の灰皿。
だれにも使えない。
はじめてのセックスは、公衆便所だった。
一足(いっそく)の象の背に乗せられて
蟻の歌をつぶやいていた。
七つまでの夢。
お兄さんの貯金通帳に貢献してた。
お兄さんの手の指は、五本あった。
両方合わせて。
もちろん、返さなくて済むものなら、
返さない方が得だわ。
眉毛の禿げた出っ歯のドブネズミに惚れられて
タクシーに飛び乗ったの。
分別って、金銭感覚のことかしら。
お昼に、二回ほど抜いてやったわ。
まるで鍾乳洞のつららのように。
いったい、ぼくは
きみに何をしてあげられるんだろう。
ひたすら盲目になる。
セックスなんて簡単だし。
キッスだって平気よ。
アメリカに行くのが夢なの。
英語なんて話せないけどね。
夢さえあれば幸せよ。
ねえ、これで、ほんとに詩になってるの?
こんなものだって、詩だって、言い張るヤツがいるよ。
わたしにもできることがある。
自分を忘れて、
着物を燃やすところを見つめている。
ぼくにできることって何だろう。
みんな、わたしに惚れるのよ。
一枚の枯れ葉が
玉手箱の背中にくっついてる。
風の手が触れると
くるくると、
 くるくると。
とうに、
蟻の歌は忘れてしまったけれど。
でも、もう二度と、
手首を切ったりなんかしないわ。
もう少し、
あと、もう少しで、夢がかなうの。
かなえてみせるわ。
玉手箱。
手あたりしだいに
鹿とする。


こんなん出ましたけど。

  田中宏輔



!!!!!!!!!!!!! マッチ棒
/ですか?
きみのおできと、ぼくのおできを交換しよう。
ブツブツ交換しよう。
空を見上げれば、空がある。
そら、そうやわ。
きみを見つめればブツブツがある。
きみ、ブツブツやわ。
王は死んだ魚のように美しい。
死んだ魚は王のように美しい。
蝶が蜘蛛を捕らえる。
蜘蛛が蝶に捕らえられる。
知性とは、天の邪鬼である。
同じものを違うものとして見、
違うものを同じものとして見るのだから。
七月の手のひらのなかで
みるみるうちに、蚯蚓がやせてゆく。
あれって、ノブユキじゃない?
ぼくが似ていると判断した以上、
それは本物はノブユキである。
奇跡は起こらない。
あれって、ノブユキじゃないの?
たとえ、ぼくが出会ったノブユキが、
正真正銘、本物のノブユキでも
ぼくが似ていると判断した以上、
それは本物のノブユキではない。
あれって、ゼッタイ、ノブユキだよ。
奇跡はかならず起こる。
神さまに著作権はない。
タダ働きなのだ。
神さまにしか著作権はない。
ザクザク、お金が入ってくるのだ。
日記帳を開いて
きょうの神さまに点数をつけてあげる。
神さまもまた、日記帳を開いて
ぼくに点数をつけてくれる。
むかし、むかし、あるところに
スーパー・ガッチリ体型(通称SG系)の
おじいさんとおじいさんが
仲良くいっしょに暮らしておりました。
ある日、ひとりのおじいさんが、
火にくべるためのおじいさんたちを狩りに山に行き
もうひとりのおじいさんが、
たくさんの汚れたおじいさんたちを洗濯するために川に行きました。
山に入った方のおじいさんは、
山のなかで迷っていたおじいさんたちの指をポキポキと折り曲げ
おじいさんたちの枯れ木のような手足を、つぎつぎと鉈で叩き切り
縄でひとつにくくって、背中に背負って家に帰りました。
川では、もうひとりのおじいさんが
命乞いをしてひざまずくおじいさんたちを、つぎつぎと岩に叩きつけて
血まみれになったおじいさんたちの顔を、
さらにざらざらの岩肌にこすりつけては
破けた皮膚のあいだに鋼鉄製の鉤爪をひっかけて
ベリベリと生皮をひん剥いていきました。
そのうち、川の上流から
ぶくぶくに太ったひとりのおじいさんが
どんぶらこ、どんぶらこと流れてきました。
すると、もうひとりのおじいさんは
その太ったおじいさんを水から引き上げ、
自分たちの家に連れて帰りました。
そして、先に家に帰っていた、
山に行っていた方のおじいさんとふたりで
重い重い大きな斧を振り上げ
川から引き上げたぶくぶくに太ったおじいさんの頭上目がけて
思いっ切り、振り下ろしました。
すると、そのぶくぶくに太ったおじいさんは、
畳のような大きさのまな板の上で、まっぷたつになりました。
何かは、考えるためにある。
何かがあるために、考える。
パルメニデスの「思惟(しい)することは存在することと同じだ。」という言葉について
この言葉があらわす真の意味を考えないこと。
笑いたければ、笑えよ。
自分で笑え。
笑えるときに、笑えよ。
自分を笑え。
天国は激しく求め合う。
天国は激しく求め合う。
燃える義足!
ニセの足。
気が歩く。
違う。
木が歩く、と書いて、木歩という名前の俳人がいた。
富田木歩という名前の俳人だ。
足が悪かったらしい。
たしか、木でできた義足を使っていたと思うんだけど
前にも、「話の途中で、タバコがなくなった。」という詩のなかに書いたんだけど
むかし付き合ってたエイジくんの顔に似た顔の俳人だ。
関東大震災のときに、焼け死んだそうだ。
いったんは、友達に助けられたそうなんだけど
その友だちに背負われて助けられたそうなんだけど
あとで、その友だちとはぐれて、焼け死んだという。
燃える義足!
ニセの足。
奇跡は起こらない。
奇跡はかならず起こる。
ガラガラ、ガッシャン、ガシャン、ズスン、ピィー。
雷が鳴った。
こんなん出ましたけど。
!!!!!!!!!!!!! マッチ棒
/ですか?
蝶が蜘蛛を捕らえる。
蜘蛛が蝶に捕らえられる。
王は死んだ魚のように美しい。
死んだ魚は王のように美しい。
ぼくが雷に親近感を持っているのは
かつて、ぼくが雷であったことの名残であろうか?
鬱病のハーモニー。
きみの名前で考える。
言葉が、わたくしを要約する。
なにを省いて、なにを残すのか。
言葉が、わたくしを約分する。
なにをなにで割るのか。
魔術師、手術中。
魔術師、手術中。
呪文のように繰り返す。
呪文のように繰り返す。
あるいは、ただの早口言葉のように。
繰り返されるから呪文になるのだ。
おはようございます。
こんにちは。
お疲れさまでした。
お先に失礼します。
さようなら。
ただいま。
おやすみ。
天国は激しく求め合う。
天国は激しく求め合う。
七月の手のひらのなかで
みるみるうちに、蚯蚓がやせてゆく。
もう、かんべんしてください。
こまるわ、わたし。
ブヒッ。
間違うことが、わたしの仕事。
棒も歩けば犬にあたる?
裏切ることが、わたしの仕事。
一歩の道も、千里からー。
くるくるくるぅ、くるくるくるぅ。
トラは、くるくるとまわるとバターになったけど
ぼくは、くるくるまわったら、なにになるんだろう?
魔術師、手術中。
魔術師、手術中。
こんな、バカみたいな詩を書いていると
むしょうに、フランシス・ジャムの詩が読みたくなる。
人間らしい気持ちを取り戻したくなるのだろうか。
「わたしは驢馬が好きだ……」を読む。
可愛い少女(をとめ)よ、云つておくれ
わたしは今 泣いてゐるのか 笑つてゐるのか?
堀口大學の訳はいい。
ぼくは、女でもあって、少女(をとめ)でもある。
ぼくにも、ジャムのこころが泣いているのが見える。
そうして、ぼくも、ジャムになって、泣くのだ。
ジャムになって、泣いているのだ。
笑いたければ、笑えよ。
でも、自分で笑え。
笑えるときに、笑えよ。
でも、自分を笑え。
しっぺ返しは、かならず来る。
おもしろいほど、来る。


木にのぼるわたし/街路樹の。

  田中宏輔



ぼく、うしどし。
おれは、いのししで
おれの方が"し"が多いよ。
あらら、ほんとね。
ほかの"えと"では、どうかしら?
たしか、国語辞典の後ろにのってたよね。
調べてみましょ。
ううんと、
ほかの"えと"には、"し"がないわ。
志賀直哉?
偶然かな。
生まれたときのことだけど
はじめて吸い込んだ空気って
一生の間、肺の中にあるんですって。
ごくわずかの量らしいけどね。
もしも、道端に
お父さんやお母さんの顔が落ちてたら
拾って帰る?
パス。
アスパラガス。
「どの猿も 胸に手をあて 夏木マリ」
「抜け髪の 頭叩きて 誰か知れ」
「フラダンス きれいなわたし 春いづこ」
「ゐらぬ世話 ダム崩壊の オロナイン」
「顔おさへ 買ひ物カゴに 笠地蔵」
「上着脱ぐ 男の乳は みんな叔母」
「南下する ホームルームは 錦鯉」
これが俳句だと
だれが言ってくれるかしら?
〈KANASHIIWA〉と打つと
〈悲しい和〉と変換される。
トホホ。
それでも、毎朝、奴隷が起こしてくれる。
まだ、お父様なのに。
間違えちゃったかな。
ダンボール箱。
裸の母は、棚の上にいっしょに並んだ植木鉢である。
魔除けである。
通説である。
で、きみは
4月4日生まれってのが、ヤなの?
オカマの日だからって?
だれも気にしないんじゃない?
きみの誕生日なんて。
それより、まだ濡れてるよ。
この靴下。
だけど、はかなくちゃ。
はいてかなくちゃ。
これしかないんだも〜ん。
トホホ。
いったい、いつ
ぼくは滅びたらいいんだろう。
バーガーショップ主催の交霊術の会は盛況だった。


反射光。

  田中宏輔



 幾つものブイが並び浮かんだ沖合、幾つものカラフルなパラソルが立ち並んだ岸辺。その中間に、畳二枚ほどの広さの休憩台がある。金属パイプの支柱に、木でできた幾枚もの細長い板を張って造られた空間。その空間の端に、ぼくは腰かけていた。岸辺の方に目をやりながら、ぼくは、ぼくの足をぶらぶらと遊ばせていた。
 まるで光の帯のように見える、うっすらと引きのばされた白い雲。でも、そんな雲さえ、八月になったばかりの空は、すばやく隅に追いやろうとしていた。
 
 きみは、ぼくの傍らで、浮き輪を枕にして、うつ伏せに寝そべっていた。陽に灼けたきみの背。穂膨(ほばら)んだ小麦のように陽に灼けたきみの肌。痛くなるぐらいに強烈な日差し。オイルに塗れ光ったきみの肌。汗の玉が繋がり合い、光の滴となって流れ落ちていった。眩しかった。目をつむっても、その輝きは増すばかり。ぼくの目を離さなかった。短く刈り上げたきみの髪。きみのうなじ。一段と陽に灼き焦げたきみのうなじ。オイルに塗れ光ったきみのうなじ。光の滴。陽に照り輝いて。きみの身体。きみの肩。きみの背。きみの腰。光の滴。みんな、陽に照り輝いて。トランクス。きみの腕。きみの脚。きみの太腿。きみの脹ら脛。光の滴。みんな、みんな、陽に照り輝いて。
 ただ、手のひらと、足裏だけが白かった。
 
 おもむろに腰をひねって、ぼくはきみの背中にキッスした。すると、きみは跳ね起きて、ぼくの身体を休憩台の上から突き落とした。なまぬるい水。ぼくは湖面に滑り落ちた。すりむいた腕、きみに向けて、わざと怒った顔をして見せた。きみは口をあけて笑った。その分厚い唇から、白い歯列をこぼしながら、笑っていた。

きみの衣装は裸だった。

 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。

 ぼくは、きみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは眩しげに目を瞬かせた。振り向くと、湖面に無数の銀色の光が弾け飛んでいた。ピチピチと音を立てて弾け飛んでいた。まるでスポットライトのきらめきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみの身体を抱いて、湖面に飛び込んだ。

湖面で蒸発する光のなかに。


夏の思い出。

  田中宏輔





白い夏
思い出の夏
反射光
コンクリート
クラブ
ボックス
きみはバレーボール部だった
きみは輝いて
目にまぶしかった
並んで
腰かけた ぼく
ぼくは 柔道部だった
ぼくらは まだ高校一年生だった

白い夏
夏の思い出
反射光
重なりあった
手と

汗と

白い光
光反射する
コンクリート
濃い影
だれもいなかった
あの日
あの夏
あの夏休み
あの時間は ぼくと きみと
ぼくと きみの
ふたりきりの
時間だった
(ふたりきりだったね)
輝いていた
夏の
白い夏の

あの日
ぼくははじめてだった
ぼくは知らなかった
あんなにこそばったいところだったなんて
唇が
まばらなひげにあたって
(どんなにのばしても、どじょうひげだったね)
唇と
汗と
まぶしかった
一瞬

ことだった

白い夏の
思い出
はじめてのキスだった
(ほんと、汗の味がしたね)
でも
それだけだった
それだけで
あの日
あのとき
あのときのきみの姿が 最後だった
合宿をひかえて
早目に終わったクラブ
きみは
なぜ
泳ぎに出かけたの
きみはなぜ
彼女と
海に
いったの

夏の

白い夏の思い出
永遠に輝く
ぼくの
きみの
夏の

あの夏の日の思い出は
夏がめぐり
めぐり
やってくるたびに
ぼくのこころを
引き裂いて
ぼくの
こころを
引き千切って
風に
飛ばすんだ

白い夏
思い出の夏
反射光
コンクリート
クラブ
ボックス
重ねた
手と
目と
唇と
汗と
光と
影と
夏と


陽の埋葬

  田中宏輔





インインと頻(しき)り啼く蝉の声、
夏の樹が蝉の声を啼かせている。

頁の端から覗く一枚の古い写真、
少年の頬笑みに指が触れる。

本は閉じられたまま読まれていった……


II

日向道、帰り道、
水門のかたほとり、睇(めかりう)つ水光(みずびかり)。

すこし道をはずれて、
少年たちは歩いて行った。

だれも来ない楡の木の下蔭、
そこはふたりの秘密の場所だった。

あわてものの象戲(チエス)のように
鞄を抛り投げて坐った。

「きょう、学校でさ、
 脈のとり方を習ったよね。」

何気ないふりをして腕に触れる。
脈拍は嘘をつくことができなかった。


III

あれは遠足の日のことだった。
車内に墜ちた陽溜まりを囲んで、

騒ぎ疲れた子どもたちが
みんな、とろとろと居眠りしていた。

ふたりは班が違っていたけれど、
となりどうしに坐って微睡んでいた。

自分たちの頭を傾け合って、
頭と頭をくっつけて、

ふたりは知っていた。
眠ったふりをして息をしていた。

透きとおるものが
車内を満たしていた。

ふたりだけの秘密。
少年の日。


IV

だれが悪戯(いたずら)したのか、
胸像の頬に赤いチョーク。

部屋の後ろに掲げられた
木炭画スケッチ。

変色して剥がれかかっている。
まるで乾反葉(ひそりば)のようだ。

器に盛られた果物たちの匂い、
制服の下にこもった少年たちの匂い。

すでに何人かは
絵の具を水に溶いていた。

眼は椅子の上、
じっと横顔ばかり見つめていた。

叱り声が飛ぶ。
背後に立つ美術教師の影。

はっとする級友たち、
耳を澄ます木炭画たち。

違った絵の具を
絞り出してしまった。




あの夏の日も、
あの少年たちの頬笑みも、

束の間の
通り雨のようなものだと思い込もうとして、

ほんとうの気持ちに
気がつかないふりをして

通り過ぎてしまった。

午後の書斎、
風に揺れるカーテン。

インインと頻り啼く蝉の声、
夏の樹が蝉の声を啼かせている。

頁の端から覗く一枚の古い写真、
少年は、いつまでも微笑んでいた。


『グァバの木の下で』というのが、そのホテルの名前だった。

  田中宏輔



こんなこと、考えたことない?
朝、病院に忍び込んでさ、
まだ眠ってる患者さんたちの、おでこんとこに
ガン、ガン、ガンって、書いてくんだ。
消えないマジック、使ってさ。
ヘンなオマケ。
でも、
やっぱり、かわいそうかもしんないね。
アハッ、おじさんの髪の毛って、
渦、巻いてるう!
ウズッ、ウズッ。
ううんと、忘れ物はない?
ああ、でも、ぼく、
いきなりHOTELだっつうから、
びっくりしちゃったよ。
うん。
あっ、ぼくさ、
つい、こないだまで、ずっと、
「清々しい」って言葉、本の中で、
「きよきよしい」って、読んでたんだ。
こないだ、友だちに、そう言ったら、
何だよ、それって、言われて、
バカにされてさ、
それで、わかったんだ。
あっ、ねっ、お腹、すいてない?
ケンタッキーでも、行こう。
連れてってよ。
ぼく、好きなんだ。
アハッ、そんなに見つめないで。
顔の真ん中に、穴でもあいたら、どうすんの?
あっ、ねっ、ねっ。
胸と、太腿とじゃ、どっちの方が好き?
ぼくは、太腿の方が好き。
食べやすいから。
おじさんには、胸の方、あげるね。
この鳥の幸せって、
ぼくに食べられることだったんだよね。
うん。
あっ、おじさんも、へたなんだ。
胸んとこの肉って、食べにくいでしょ。
こまかい骨がいっぱいで。
ああ、手が、ギトギトになっちゃった。
ねえ、ねえ、ぼくって、
ほんっとに、おじさんのタイプなの?
こんなに太ってんのに?
あっ、やめて、こんなとこで。
人に見えちゃうよ。
乳首って、すごく感じるんだ。
とくに左の方の乳首が感じるんだ。
大きさが違うんだよ。
いじられ過ぎかもしんない。
えっ、
これって、電話番号?
結婚してないの?
ぼくって、頭わるいけど、
顔はカワイイって言われる。
童顔だからさ。
ぼくみたいなタイプを好きな人のこと、
デブ専って言うんだよ。
カワイイ?
アハッ。
子供んときから、ずっと、ブタ、ブタって言われつづけてさ、
すっごくヤだったけど、
おじさんみたいに、
ぼくのこと、カワイイって言ってくれる人がいて
ほんっとによかった。
ぼくも、太ってる人が好きなんだ。
だって、やさしそうじゃない?
おじさんみたいにぃ。
アハッ。
好き。
好きだよ。
ほんっとだよ。


ロミオとハムレット。

  田中宏輔



プロローグ


  コーラス登場

いにしえより栄えしヴェローナに、
モンタギューとキャピュレットという
互いに栄華を競う、二つの名家がありました。
ヴェローナの領主エスカラスは
己の地位の安泰を考えて、
両家の一人息子と一人娘を婚約させました。
ところが、その婚約披露パーティーの夜、
事もあろうに、モンタギューの息子ロミオは
デンマーク王子のハムレットに一目惚れ。
それでも、婚約者のジュリエットは
ロミオのことを諦めることができませんでした。
得てして、恋はままならぬもの。
観客の皆様も、我が身におかれて
とくと、ご覧なさいませ。



第一幕

  第一場 ヴェローナ。ヴェローナ領主エスカラス家邸宅内、エスカラス夫人の部屋。

  (エスカラス夫人、扇子をパタパタさせて、エスカラスの前に立っている。)

エスカラス夫人 今夜ですわね。

エスカラス あちらを立てれば、こちらが立たず、こちらを立てれば、あちらが立たず。モンタギューとキャピュレットの両家の板挟みとなって、これまでどれだけ神経をすり減らしたかわからん。しかし、それも今夜でおしまいじゃ。わしが取り持って、両家の一人息子と一人娘を結婚させてしまえば、万事はうまくゆく。今夜、キャピュレット家で催される婚約披露パーティーには、ヴェローナ中の有力者たちが招かれる。正念場じゃ。おまえもしっかり頼むぞ。

エスカラス夫人 ご存知ですわね、今夜のためにドレスを新調しましたの。

エスカラス (呆れたように)まあ、せいぜい着飾っておくれ。

エスカラス夫人 それにしても、あのパリスが、もう少ししっかりしてくれていたら、と思わずにはいられませんわ。

エスカラス 言うな、あの女たらしのことは。親戚でなければ、とうにこのヴェローナから追放しておるわ。いったい、何人の女の腹をはらませたことか。それにな、あのパリスがキャピュレット家の娘と結婚したとしても、わしの地位が安泰するというわけではないのじゃ。この街の半分には、モンタギュー家の息がかかっておる。もしも、わしがモンタギュー家よりもキャピュレット家の方に肩入れすることになってみろ、身内となったからには肩入れせんわけにはいくまいし、そうなれば、モンタギュー家から、どのような厭がらせを受けるかわからんぞ。反乱が起こるとまでは言わんが、わしの地位が不安定なものになることは目に見えておる。

エスカラス夫人 政治のことは、わたくしにはわかりませんわ。

エスカラス 身を飾ることのほかは、と言うべきじゃな。

エスカラス夫人 まっ。(と言って、動かしていた扇子を胸にあてて止める。)

エスカラス このイタリアでは、陰謀という名前の犬が歩き回っておる。その犬に咬みつかれんようにするには、己自身が犬になることじゃ。

  (扉をノックする音。エスカラスの返事を待って、召し使い登場。)

召し使い 手紙をお持ちいたしました。(エスカラスに手紙の束を渡す。)

エスカラス (その中から、一通を取り出して)これは、ハムレット殿宛のものじゃな。お持ち差し上げろ。(と言って、召し使いにその手紙を渡す。)

召し使い 承知いたしました。

  (召し使い退場。)

エスカラス夫人 そういえば、ハムレット様とオフィーリア様も、今夜のパーティーにご出席なさるのでしょう?

エスカラス ご身分を隠されてな。それはもう、ぜひに、とのことじゃ。そう申されておられた。いつか、あらためて紹介しなければならんだろうがな。



  第二場 ヴェローナ。エスカラス家邸宅内、賓客用客室。

  (ハムレット、召し使いから手紙を受け取る。召し使い退場。)

ハムレット (差出人の名前を見る。)ホレイショウからか。何、何(封蝋を剥がし、手紙を読み上げる。)『こころよりご敬愛申し上げますハムレット王子殿下へ 殿下がエルシノア城を去られ、故郷であるデンマークを後にされてからもうひと月にもなりましょう。ヴェローナに着かれてすぐに、二人のともの者を帰されて、殿下の叔父上、現国王クローディアス陛下も、殿下の母君、ガートルード王妃様も、ずいぶんと、ご心配なさっておられるご様子です。また、ポローニアス殿も、殿下とごいっしょにデンマークを離れられたオフィーリア嬢のことを心配なさっておいでです。殿下が、亡き父君、先王ハムレット陛下を追想され、悲嘆の念にくれていらっしゃいますことは、先刻承知いたしております。ですが、――あえて、ですが、とご注進させていただきます――いつまでも悲しみの中に沈んでおられてはなりません。王位第一継承者たる王子殿下のなさることではありません。人民より愛され、臣下より慕われておられる殿下であります。オフィーリア嬢とごいっしょに、一刻も早く、デンマークに戻られますようお願い申し上げます。臣下一同、首を長くしてお待ち申し上げております。命ある限り殿下に忠誠を誓いしホレイショウより。』(手紙をテーブルの上に置き、オフィーリアの顔を見て、再び手紙に目を落とす。そして、独り言のように)亡霊のことについては、何も触れていなかったな。

オフィーリア (不安そうに、ハムレットの顔をのぞき込む。)亡霊ですって?

ハムレット あっ、いや、何でもない。それより、今夜のパーティーには、どのドレスを着ていくことにしたのかな?

オフィーリア (ドレスの話を持ち出されて、顔に微笑みが戻る。洋服箪笥の中から、藤色のドレスを選んで、ハムレットに見せる。)これを着て行くことにしましたわ。

ハムレット 紫の仮面に藤色のドレスか。それでは、そなたに合わせて、わたしは紺の服を着て行くことにしよう。

オフィーリア それは、ハムレット様の黒い仮面にも似合っておいでですわ。

ハムレット それにしても、そなたは、お父上のポローニアス殿のことが気にかからないのかい?

オフィーリア わたくしのことなど、心配なさるはずがありませんわ。むしろ、お父様は、わたくしと顔を合わせることがなくって喜んでいらっしゃるでしょう。

ハムレット そんなことを言うものじゃないよ。きっと、心配なさっておられるはずだ。

オフィーリア いいえ。お父様は、わたくしのことが大嫌いなのですわ。そして、わたくしは、その何層倍も、お父様のことが大、大、大嫌いですの。

  (ハムレット、沈痛な面持ちになる。)

オフィーリア (ドレスを置いて、ハムレットのそばに寄る。)ごめんなさい。ハムレット様の前で。ここでは、お父様のことを忘れようとなさって、ずっと陽気に振る舞っていらっしゃったのに……。

ハムレット (首を振りながら)いや、いいんだ。

オフィーリア ほんとうに、ごめんなさい。

ハムレット (さらに沈痛な面持ちになって)いいんだよ。いいんだ。

  (暗転、その刹那、「よくはない!」という野太い叫び声。)



  第三場 回想場面。デンマーク。エルシノア城、城壁の楼台。

  (舞台の隅。胸壁の書き割りを背景に、鎧兜を身に纏った亡霊の姿が浮かび上がる。)

亡霊 よくはないぞ! なぜ、わしの敵(かたき)を打たん?

  (ハムレットの上に、スポット・ライトがあたる。)

ハムレット 敵(かたき)を、ですって?

亡霊 そうじゃとも、ハムレット。昨夜も告げたはず、余は汝の父の霊である。余の妃を手に入れんがため、余の命を奪いし汝が叔父、クローディアスに復讐せよ。

ハムレット そのような話は信じられません。昨夜も、わたしはそう申し上げました。

亡霊 余の言葉を信ぜよ。余の話を最後まで聞け。汝が叔父、クローディアスは、余が庭で午睡をしておる間に、余の耳の中にヘボナの毒液を注ぎ込んだのじゃ。

ハムレット 父上は毒蛇に咬まれたと聞いております。

亡霊 嘘じゃ!

ハムレット 父上が睡っておられたパーゴラで、その毒蛇が見つかっております。

亡霊 罠じゃ!

ハムレット 葬儀の際の、叔父上のあの悲しみの表情、あの涙は真であったと思います。

亡霊 偽りじゃ!

ハムレット 偽りであってもかまいません。

亡霊 何じゃと?

ハムレット よしんば、それが、嘘や偽りであってもよろしいと申し上げたのです。

亡霊 何と。

ハムレット いずれにせよ、父上の命はそう長くはなかったのですから。

亡霊 どういう意味じゃ?

ハムレット ここ、半年の間、梅毒の症状がすっかりひどくなられて、父上は狂われてしまわれたのです。

亡霊 そちは、余が狂っておったと申すのか?

ハムレット 狂っておられたとしか思えません。あれほど父上に忠誠を尽くした臣下たちを、つまらぬことで追放なさったり、処刑なさったりして。

亡霊 余はデンマークの王である。

ハムレット それゆえに恐ろしい。狂気が、王という一人の人間の中に棲まうとき、数多くの罪のない者が犠牲になるのです。

亡霊 どうしても、余のことを気狂い呼ばわりするつもりじゃな。

ハムレット 臣下の中で、ひそかに謀反の声を上げる者がおりました。

亡霊 クローディアスもそう申しておったが、余に刃向かう者などおらんわ。

ハムレット お調べになったのですか?

亡霊 調べるまでもない。そちはクローディアスに騙されておるのじゃ。

ハムレット 騙されてはおりません。反乱が計画されていたことは事実です。

亡霊 余がクローディアスに殺されたことも事実じゃ。

ハムレット それが事実であっても、わたしには叔父上に剣を向けることはできません。

亡霊 余のことを愛してはおらぬのか?

ハムレット 父上を愛する愛よりも、叔父上を愛する愛の方が強いのです。

亡霊 余の耳が聞いておるのは、そちの口から出た言葉か?

ハムレット 正直に申したまでのこと。さらに正直に申すれば、わたしは、父上のことなど、まったく愛してはおりませんでした。

亡霊 何じゃと?

ハムレット 父上は、ご自分がどれだけ自分勝手で傲慢な人間であるか、おわかりにはならないのですね。

亡霊 おお、この世の中には、親子の愛ほど強いものはないと思っておったのに……。

ハムレット いいえ、この世の中には、親子の憎しみほど強いものはないのです。父上の自分勝手で傲慢な振る舞いに、これまでどれだけ厭な思いをしてきたことでしょう。生前は、ただ父上のことが恐ろしくて、おっしゃるとおりにしてきたまでのこと。霊となられたいまは、父上のことなど、ちっとも恐ろしくはありません。なぜなら、わたしの手が父上の躯に触れられないのと同様に、父上もまた、わたしの躯に触れることができないからです。

亡霊 そちもまた、クローディアスの手にかかって死ぬがよい。

ハムレット 叔父上は、前にも増して、わたしに優しくしてくれています。母上もまた叔父上と再婚なさって、この上もなく幸せそうにしておられます。

亡霊 おお、わが息子、わが弟、わが妃よ。汝ら呪われてあれ! 地獄に墜ちるがよい。

  (鶏の鳴く声が聞こえる。一度、二度、三度。)

ハムレット 父上の方こそ、硫黄の炎が噴き出る場所に戻られるべき時でありましょう。

  (舞台の隅から立ち去る亡霊。城壁の書き割りが引っ込み、舞台が明るくなる。)

オフィーリア どうかなさったの?

  (ハムレット、その声に躯をビクンとさせる。)

ハムレット あ、いや、ただの立ちくらみだよ。(机に手をついて、椅子に腰掛ける。)

オフィーリア 夜まで、まだ時間がありますわ。それまでお休みになられてはいかが?

ハムレット そうしよう。



第二幕

  第一場 ヴェローナ。キャピュレット家邸宅内、大広間の舞踏会場。

  (二人の給士、招待された人たちにグラスを渡していく。)

エスカラス あらためて、ここで、モンタギュー家のロミオとキャピュレット家のジュリエットの二人を皆さんに紹介しましょう。(と言い、間に立って、二人の肩に手を置く。そして、ロミオの顔を見て)皆さんもご存知のように、彼はヴェローナでも評判の好青年であり、徳の高い、行いの正しい若者であります。(ジュリエットの顔を見る。)彼女もまた、聞きしに勝る美貌と、その品のあるしとやかな立ち居振る舞いによって、非常に高い人気を博しております。そこで、両家と縁のある、わたくし、ヴェローナの領主エスカラスが二人を引き合わせてみたのです。すると、案の定、二人は相手のことを気に入りました。そして、二人は幾度となく会ううちに、結婚の約束をするまでに至ったのです。今夜は、この二人が、皆さんを前にして誓いの言葉を申し述べます。聞いてやってください。皆さんの耳が証人となります。ではまず、将来の花婿となるロミオの口から誓いの言葉を聞かせてもらいましょう。

ロミオ ここにお集まりの皆さん、わたしは皆さんの前で誓います。わたしは、彼女、ジュリエットと結婚いたします。たとえ空に浮かぶ月が砕けても、わたしたちの愛は決して砕けません。砕けることなどないでしょう。

エスカラス (ジュリエットを見て)そなたの方は?

ジュリエット わたくしも誓います。たとえ太陽が二つに割れても、わたくしたちのこころは一つ、決して二つに割れることはありません。

エスカラス お聞きのとおりです。何とも羨ましい話ではありませんか。まだ恋人のいない若い人の耳には、ほんとうに羨ましい話でしょうな。わたくしのような年老いた者の耳にさえ、そうなのですから。今夜のこの婚約披露パーティーを仮面舞踏会にしたのは、まだ恋人のいない若者が、相手を見つけることができれば、という趣向からです。では、皆さん、存分に楽しんでください。この若い二人の婚約を祝って、そして、キャピュレット家とモンタギュー家の両家の繁栄と、このヴェローナのますますの発展を祈って乾杯しましょう。

  (一同、グラスを上げて乾杯する。楽士たち、演奏。一同、踊り始める。)

パリス (オフィーリアの前に立って)わたしと踊っていただけますか?

  (オフィーリア、傍らにいるハムレットの方を見る。ハムレット、うなずく。)

オフィーリア わたくしでよろしければ。

  (パリス、オフィーリアの手をとって舞台の中央に導く。そこで、二人、踊る。)

モンタギュー夫人 あそこで踊ってらっしゃるのは、確か、エスカラス様のご親戚の方じゃなかったかしら?

ジュリエット ええ、確かに、あの方はパリス様ですわ。

ロミオ いっしょに踊ってらっしゃるご婦人は、エスカラス様のところのお客様ですね。

モンタギュー夫人 お連れの方はどこに?

ジュリエット (窓の外を見つめているハムレットの方に顔を向けて)あそこに。

  (窓の外を亡霊が横切る。ハムレット、扉を開けて外に出る。)

ロミオ 様子を見てきましょう。気分が悪くなられたのかもしれない。

  (ロミオ、ハムレットの後を追って外に出る。暗転。)



  第二場 ヴェローナ。キャピュレット家邸宅内、中庭。

  (仮面を外したハムレットが後ろ向きに立っている。ロミオが背後から近づく。)

ロミオ ご気分でも悪くなられたのですか?

ハムレット (ロミオの声に驚いて)えっ。(と言って振り返る。)

ロミオ 驚かせてすいません。ご気分でも悪くなさったのかと思って声をかけました。

ハムレット ああ、いえ、大丈夫ですよ。

ロミオ でも、お顔の色が月のように真っ白ですよ。

ハムレット 亡くなった父のことを思い出してしまって(と言って、窓明かりを指差し)あそこから逃げ出してきました。

ロミオ そうでしたか……、できることなら、ぼくも逃げ出してしまいたい。

ハムレット どこからですか?

ロミオ ぼくの運命からです。ジュリエットとの婚約、ジュリエットとの結婚という、ぼく自身の運命からです。

ハムレット (笑って)悪い冗談です。

ロミオ 冗談ではありません。

ハムレット (真剣な表情になる。)あなたは、ジュリエット嬢のことを愛していないのですか?

ロミオ 愛しておりません。今夜の婚約披露パーティーは、モンタギュー家とキャピュレット家の名誉と富が一つに合わさったことを、世に示すために催されたようなものなのです。

ハムレット ジュリエット嬢は、あなたのことをどう思っているのでしょうか?

ロミオ 愛してくれているようです。

ハムレット あなたも彼女のことを愛するようになるかもしれません。

ロミオ いいえ。おそらく、ぼくが彼女のことを愛することなどないでしょう。

ハムレット なぜですか?

ロミオ ぼくには、女性を愛することができないからです。異性に対して、性的な興味が、まったくないからです。

ハムレット 女性とは未経験ですか。

ロミオ 未経験です。

ハムレット 未経験であるということが、あなたを女性恐怖症にしているのではないでしょうか。しばしば、そういう若者がいます。経験さえすれば、それまでの女性恐怖症が、嘘のように消し飛んでしまいますよ。

ロミオ 確かに、ぼくは女性恐怖症かもしれません。でも、それとは関係ありません。ぼくは、同性である男性にしか、性的な興味が持てないのです。

ハムレット それもまた、あなたの思い過しであると考えられませんか?

  (ロミオ、突然、ハムレットに抱きつく。ハムレット、とっさのことに驚いて、
ロミオを抱き返してしまう。ジュリエット、扉を開けて、抱き合った二人を見る。)

ロミオ ぼくは臆病です。ぼくは、普段とても臆病なのです。ですが、いまは違います。いまは、勇気を出して、あなたに愛を告白することができます。

ハムレット (ロミオの躯を離して)わたしは、それにこたえることができません。

ロミオ さきほど、はじめてお顔を拝見したとき、ぼくは、ぼくの胸の中に、何か重たいものが吊り下がったような気がしました。そして、こうして、月の光の下であなたとお話しているうちに、それが恋であったということに気がついたのです。

ハムレット わたしは、あなたの恋にこたえることができません。わたしは、婚約者といっしょに、今夜、ここにやってきたのです。

ロミオ もしも、お一人でやってこられたとしたら?

ハムレット それでも、わたしは、あなたの恋にこたえることができません。なぜなら、わたしは同性愛者ではないからです。あなたを愛することはできません。

ロミオ でも、ぼくには、あなたの表情の一つ一つから、あなたが、ぼくに好意をもって、お話しくださっていることがわかります。

ハムレット あなたのように若くて美しい青年から真摯に愛を告白されれば、だれもが悪い気はしないでしょう。わたしが、あなたに好意をもって、何の不思議があるでしょう。しかし、だからと言って、わたしが、あなたの恋にこたえていると早合点してはなりません。

ロミオ (独り言のように、俯いて小さな声で)早合点、ですか……。

ハムレット そろそろ、戻りましょう。

ロミオ その前に、あなたのお名前をお教えください。

ハムレット そう言えば、まだ名乗っておりませんでしたね。ハムレットです。

ロミオ ハムレット様! (と言うやいなや、ハムレットの唇に接吻する。)

  (ハムレット、バランスを崩しかけて、思わずロミオの肩をもってしまう。二人のことをずっと見てきたジュリエット、扉の中に入る。ハムレット、ロミオの躯を押し離す。オフィーリア、ジュリエットとほとんど入れ違いに中から出てくる。)

ハムレット 戻りましょう。(と言って、オフィーリアの方を振り返る。)

  (オフィーリア、ハムレットとロミオの二人に微笑む。)



  第三場 ヴェローナ。キャピュレット家邸宅内、ジュリエットの部屋。

  (ジュリエット、母親のキャピュレット夫人の膝の上に顔を伏せて泣いている。)

キャピュレット なぜ、ロミオが身持ちが堅いと評判だったのか、よくわかった。

キャピュレット夫人 (娘の背中をさすりながら)あなた(と、夫に声をかける。)

キャピュレット よりにもよって、娘の婚約者が同性愛者だとは!

キャピュレット夫人 いっそ、婚約解消いたしましょう。

ジュリエット (顔を上げて)いやです。わたくしはロミオ様をお慕い申しております。

  (と言って、ふたたび顔を伏せて泣く。一際大きな声で。)

キャピュレット (夫人に向かって)婚約解消はだめだ。二人がいずれ結婚するということは、ヴェローナにいる者なら、知らない者はいないのだ。それに、婚約解消ということになれば、たとえロミオのことを公表したとしても皆が皆、それで納得するという保証はないのだ。わがキャピュレット家の支持者も多いが、モンタギュー家の支持者も多い。ジュリエットの方にこそ問題があるのだと、ありもしない理由を作る輩が出てくるに違いない。わが娘が、そのような侮辱を受けてよかろうものか! よかろうはずがあるまい。まして、これは、ジュリエット一人の問題ではない。わが キャピュレット家の名誉にも関わることなのだ。

キャピュレット夫人 (夫に向かって)では、結婚させるのですね。

ジュリエット (母親にすがりついて)お母様……。

キャピュレット 結婚させるにしても(と言って、ひと呼吸置く。)

キャピュレット夫人 (娘を抱き締めて)結婚させるにしても(と、夫の言葉を継ぐ。)

キャピュレット このままでよいのか、それともよくないのか、それが問題だ。



第三幕

  第一場 ヴェローナ。僧ロレンスの庵室。

  (早朝、ロレンスが薬草を薬棚に仕舞っているところ。扉をノックする音。)

ロレンス はい、はい、おりますですよ。(と言って、扉を開ける。)

ロレンス これは、これは、キャピュレット様。

キャピュレット ロレンス殿、今日はぜひお頼みしたいことがあってまいったのですが。

ロレンス はあ、――で、それは、いったいどのようなお頼みごとでございましょう。

キャピュレット 実は、家で飼っている子馬が死にかけておりましてな。

ロレンス (うなずいて)ええ。

キャピュレット 娘がそれを見て、とても悲しんでおるんですよ。

ロレンス そうでしょうな。お可哀相に。――で?

キャピュレット それでですな。親であるわたしには、娘が悲しんどる姿など見ちゃおれん、というわけですわ。(ロレンスの顔を覗き込む。)

ロレンス それは、ごもっともなお話です。お気持ち、お察し申し上げます。――で?

キャピュレット ――で、ですな。その子馬を薬で楽に死なしてやりたいと思いましてな。

ロレンス なるほど、なるほど。それで、ここに、やってこられたというわけですか。

キャピュレット そのとおりです、ロレンス殿。そういった薬を調合する資格のある者は、ここヴェローナでは、ロレンス殿、あなた、ただお一人ですからな。

ロレンス 公式には、ですよ。闇で作っておる者がおりますから。

キャピュレット しかし、ロレンス殿ほどに優秀な調合師はほかにはおらんでしょう。娘には、子馬が自然に死んだと思わせたいのですわ。薬殺したとわかれば、娘の悲しみが倍加するに違いない。餌をやってすぐに死ぬようなことがあっては疑われてしまう。そのようなことがないように薬を調合できるのは、あなたをおいてほかにはいない。作っていただけますかな?

ロレンス お作りするのは造作もないこと。ほかならぬキャピュレット様のことですから、すぐにでもお作りいたしましょう。キャピュレット様なら、安心してお渡しできます。ですが、これだけはお約束ください。その薬は、その死にかけた子馬にだけ使うということを。ほかの目的には絶対に使用しないでください。

キャピュレット お約束しましょう。ほかの目的には一切、使用しません。

ロレンス もう一つ、お約束ください。その子馬を薬殺した後、薬が入っていた壜は、直ちに、こちらに返しにきてください。壜の中に残った薬を、万一、だれかが誤って飲んだりするようなことがあるといけませんから。

キャピュレット お約束しましょう。事が済み次第、すぐに持ってまいりましょう。

ロレンス では、お昼過ぎにおいでください。

  (キャピュレット、うなずいて部屋を出てゆく。)



  第二場 ヴェローナ。キャピュレット家邸宅内、応接間。

  (キャピュレット夫妻、ハムレットとオフィーリアを自宅に招いて談笑している。)

キャピュレット夫人 (ハムレットとオフィーリアの二人に向かって)では、お二人も婚約なさったばかりなのですね?

ハムレット そうです。

キャピュレット わたしの娘とロミオの二人をごらんになって、どうお思いですかな?

ハムレット お似合いのカップルだと思います。お二人とも、花のようにお美しい。

  (キャピュレット夫人、オフィーリアの顔を見る。)

オフィーリア ええ、まさしくジュリエット様は白い百合、ロミオ様は赤い薔薇のようですわ。

キャピュレット (二人に微笑んで)そんなに褒められては、花に申し訳ない。

  (ハムレットとオフィーリアの二人、微笑み返す。)

キャピュレット あとで、娘にも聞かしてやりましょう。先ほども申しましたように、昨夜の疲れが出たのか、いまは部屋で休んでおりますが、そのようなお褒めの言葉を耳にすれば、すぐにでも元気になるでしょう。

ハムレット お大事になさってあげてください。

オフィーリア ご心配ですわね。

キャピュレット (うなずいて)せっかく、お二人におこしいただきながらに……、せめて 挨拶だけでもさせようと思ったのですが、眠っておりましたので。

ハムレット どうぞ、お気兼ねなく、お嬢さんを休ませてあげてください。

キャピュレット夫人 ところで、ハムレット様は、乗馬やフェンシングのほかに、何かご趣味はおありですの?

ハムレット 詩を書いています。

キャピュレット 詩を?

ハムレット ええ。

キャピュレット夫人 ぜひ、お聞かせいただきたいですわ。

ハムレット 拙いものですけれど、よろしかったら。

キャピュレット ぜひ。

ハムレット では、短めのものを、一つ。

  (ハムレット、深呼吸すると、眉間に皺をよせ、目をつむって詩を暗唱し始める。)

     死に
     たかる蟻たち
     夏の羽をもぎ取り
     脚を引きちぎってゆく
     死の解体者
     指の先で抓み上げても
     死を口にくわえて抗わぬ
     殉教者
     死とともに
     首を引き離し
     私は口に入れた
     死の苦味
     擂り潰された
     死の運搬者
     私
     の
     蟻

  (暗唱し終わると、耳を傾けていた三人が拍手する。)

キャピュレット すばらしいですな。

キャピュレット夫人 すばらしかったですわ。

ハムレット そうおっしゃっていただけて光栄です。

キャピュレット夫人 でも、とても怖い感じの詩でしたわね。いつも、そのような詩をお書きになってらっしゃるのかしら?

ハムレット (笑って)人を驚かすのが好きなんですよ。

オフィーリア いつも驚かされていますわ。

キャピュレット夫人 まあ。

キャピュレット 喉が渇かれたでしょう。何か飲み物を持ってこさせましょう。

  (と言って、用意してあった飲み物をもってくるよう、召し使いに言いつける。)

キャピュレット ヴェローナには、いつまでおられるおつもりですかな?

ハムレット まだ、しばらくいるつもりです。

キャピュレット夫人 ごゆっくりなさってください。ヴェローナはいいところですわ。

ハムレット (オフィーリアを見て)彼女の父親のことが心配ですが……。

キャピュレット (ハムレットの顔を見ながら)ハムレット殿は、お優しい方ですな。(と言って微笑み、オフィーリアの方を向く。)親が子を思う気持ちをよくお知りだ。

  (召し使い、銀盆の上に、飲み物を載せて登場。)

キャピュレット (銀盆の上を指差して)わたしと妻にはパープルの方を。ハムレット殿にはブルー、オフィーリア殿にはレッドの方を。

  (四人が飲み物を手にする。)

オフィーリア (ハムレットが手にもったグラスを見て)ブルーの色がとてもきれいね。

ハムレット (キャピュレットの方を向いて)グラスを取り換えてもよろしいですか?

キャピュレット (困惑した面持ちで)え、ええ。もちろん結構ですとも。

  (交換される二つのグラス。キャピュレット、息を呑んで、オフィーリアの口元を見つめる。オフィーリア、ゆっくりとグラスを傾ける。暗転。)



第三場 ヴェローナ。エスカラス家邸宅内、賓客用客室。

  (ハムレット、ベッドの上に横になったオフィーリアの肩を揺さぶっている。)

ハムレット おお、オフィーリアよ、オフィーリアよ! なぜ、そなたは目を覚まさぬのか? なぜ、目を覚まさぬのか、オフィーリアよ!

  (ロミオ登場。その背後から、亡霊の姿が現われる。)

ロミオ ハムレット様、どうなさったのですか?

  (ハムレット、振り向く。)

ハムレット (驚いて叫ぶ。)出ていけ、亡霊よ!

ロミオ わたしです。ロミオです。

  (亡霊、ロミオの背後に隠れる。)

ハムレット おお、ロミオ殿。すまない。オフィーリアが、オフィーリアが目を覚まさないのです。目を覚まさないのですよ。息はあるのですが、かすかに、息は。

ロミオ 一体、何があったのですか?

ハムレット いいえ、何も、何もありません。キャピュレット殿のところから戻ると、急に眠くなったと言ってベッドに横たわったのです。しかし、しばらくして様子を見てみたら、躯が冷たくなっていて、目を覚まさないのですよ。

ロミオ (ベッドに近づきながら)それは大変だ。

  (ハムレットの目が、亡霊の姿を捉える。)

ハムレット おお、亡霊よ、亡霊よ! 立ち去れ、立ち去れ、立ち去るがいい。(と叫んで手を振り上げる。)

ロミオ (振り上げられたハムレットの手をもち)ハムレット様、落ち着いてください。どうか、落ち着いて、よくごらんになってください。(と言って、自分の背後を振り返る。)亡霊などおりません。(ハムレットの手を離す。)

ハムレット (亡霊を指差して)そなたには、その亡霊の姿が見えないのか?

ロミオ (ふたたび、振り返り見る。)見えませぬ。

ハムレット あれは幻ではない。あれは幻ではない。あれが幻なら、このベッドの上に横たわるオフィーリアの姿も幻だ。おお、そして、このわたしの姿も幻だ!

ロミオ しっかりなさってください、ハムレット様。

  (と言って、ロミオは手を伸ばしてハムレットの手を握ろうとするが、ハムレットは、その手を振り払う。)

亡霊 (皮肉っぽく)しっかりなさってください、ハムレット様? 余のことを気狂い呼ばわりしたおまえが、気が狂っておるのじゃ。

ハムレット わたしの気が狂っているというのか?

ロミオ (首を振って)そんなことは申しません。

  (亡霊の躯とロミオの躯を押し退けて、ジュリエット、登場。ハムレットの躯に体当たりする。ハムレットの白いシャツが鮮血に染まって赤くなる。)

ロミオ 何ということを。(と言って、ジュリエットの手からナイフを取り上げて、床の上に投げ捨てる。そして、ハムレットの躯を抱え起こす。)

ジュリエット わたしが愛しているのはロミオ様、ただお一人。ロミオ様も、ただわたくし一人を愛してくださらなければならないのよ。

ロミオ (凄じい形相で)尼寺へ行け! そなたの姿など、二度と目にしたくない。

ジュリエット ロミオ様!

ロミオ 尼寺の道へと急げ! 急がねば、わたしにも罪を犯させることになるだろう。その血に汚れた手を挙げて、神に許しを乞うがいい。もしも、神が、真に慈悲深きものなら、そなたを赦しもしよう。しかし、わたしは赦さない。赦すことなどできはしない。

  (ジュリエット、泣きながら走り去る。亡霊も立ち去る。ロミオ、ハムレットの躯を抱き締める。舞台の上、溶暗しながら、するすると幕が下りてゆく。)





参考文献
シェイクスピア「ハムレット」大山俊一訳
シェイクスピア「ロミオとジュリエット」大山俊子訳


In The Real World。/どこからも同じくらい遠い場所。

  田中宏輔




 濫読の時期は過ぎた、といえるのかどうか、それはわからないけれど、少なくとも、一日に一冊は読むという習慣はなくなってしまった。ヘミングウェイの作品のタイトルではないが、何を見ても何かを思い出す、とまではいかなくとも、本を読んでいると、だいたい、二、三ページもいかないうちに、まあ、ときには、数行ごとに、まれには、数語ごとに、本を伏せて、あるいは、栞をはさんで本を閉じ、思い出そうとしているものの正体がはっきりするまで、しばしのあいだ、思いをめぐらすことが多くなってきたのである。このとき、目を閉じていることはあまりなくて、おおかたは、目のまえにあるパソコン二台を見つめながらのことが多いのである。手前のパソコンはネットにつねに接続してあって、自分のものや他人のもののブログやツイッターやミクシィやfacebookや文学極道の詩投稿掲示板や文学極道のフォーラムなどのページを開けていることが多く、後ろのパソコンはDVDやCDを再生させるために開けていて、つねに映像か音楽が流れている。起きているあいだに、この二台のパソコンのスイッチが切られることは、まずなくて、寝るまえに、精神安定剤と睡眠導入剤を服用するまでつきっぱなしである。ここ五、六年ばかりのあいだ、処方されるクスリは同じもので、ラボナ、ロヒプノール、ピーゼットシー、ワイパックス、ハルシオンの五錠である。きょうの夜から一錠、ロゼレムが増える。このクスリは大丈夫だろうか。薬局のひとの話では、このロゼレムというクスリは、一年まえに開発されたクスリで、睡眠のリズムを整えるものらしく、ほかの五錠のクスリのように、脳に直接アタックするものではないとのことだった。そうか、ほかの五錠のクスリは、脳に直接アタックするのか、怖い話だなと思ったのだが、六、七年ほどまえのあるときに、睡眠障害がひどくなって、そのとき服用していたクスリでは眠れなくなったので、かかりつけの神経科の医師に相談すると、ジプロヘキサというクスリを処方されてのんでみたのだが、十六時間昏睡してしまった。十六時間も眠っていると、体調がおかしくなるのだとはじめて知った。目がさめたとき、ものすごくしんどくて、まったく身体を動かすこともできず、手でさえ動かすこともむずかしくて、指先に力も入らず、これはどうしたことだろうと思って、さらにはっきり目がさめるまで、おそらくはそれほど時間は経っていなかったのであろうが、自分の感覚的な時間では、一時間以上ものあいだ、指をふるわせて、正常な感覚が戻るのを待っていたのであった。しばらくたって、ようやく指の感覚が戻ってきたときでも、身体はまったく動かせなかった。まるで一挙に体重を何十倍ほども増したかのような感じで、身体が重たくて重たくて仕方なかったのである。じょじょに身体の感覚が戻るのに要した時間がどれほどだったのか、正確にはわからないが、目がさめてから、現実時間で一時間以上は経っていただろう。自分の感覚では、数時間以上だった。ようやく時計を見ることができたときには、驚かされた。眠っていた時間は、どう計算しても、十六時間以上あったのである。新しく処方されたジプロヘキサのせいだと思い、その日のうちに、通っている神経科医院に行き、処方してもらった先生に、この症状を報告すると、先生は、「クスリが合わなかったみたいですね。」とおっしゃるだけで、「あのう、このクスリ、こわいので、捨てておきます。」と、ぼくの方から言わなければならなかった。万が一、変な気を起こして、ぼくがそれを大量にのむことができないようにである。まあ、医院に行くまえに、捨てていたのだけれど。大量のジプロヘキサを服用したら、簡単に死ねるからである。医院に行くまえに、パソコンでジプロヘキサのことを調べたら、血糖値の高い患者が服用すると死ぬことがあって、死亡例が十二例ほどあったのである。ぼくも血糖値が高くて、境界性の糖尿病なのだが、神経科の医師には、ぼくの血糖値が高いことは話してなかったのである。ときどき、捨てなかったらよかったなと思うことがある。いつでも死にたいときに死ねるからだけど、いや、やはり、どんなに身体が痛いときにでも(心臓のあたりがキリキリ痛むことがあるのだ)、神経がピリピリするときにでも(側頭部やこめかみの尋常でない痛みに涙が出ることがあるのだ)、膝が痛くて脚を引きずっているときにも、また、いま嗅覚障害でにおいがほとんどわからないのだが、そういったことにも、意味があると思って、思い直して、自ら死ぬんだなんて、なんていうことを考えるのだろう、この痛みから見えるものの豊かさに思いを馳せろと自分に言うのだが、言い聞かせるのだが、それでも、ときどき揺れ戻しがあるのである。そういうときには、こころが元気になるように、本棚から適当に本を選んで抜き取り、それを読むことにしている。けさ選んで抜き取って手にした本は、岩波文庫から出ているボルヘスの「伝奇集」というタイトルのものだった。買ったときの伝票の裏に、つぎのようなメモをしたためていた。1999年8月14日、土曜日、午後12時27分購入、と。ぼくは、手にしたボルヘスを読むことにして、BGMに、ピンクフロイドの WISH YOU WERE HERE のCDを、後ろのパソコンに入れて再生させた。読みはじめてすぐに、本の2ページ目、プロローグの最後の行、というよりも、そのプロローグが、ボルヘスによって書かれた、つまり、書き終えられた、という、いや、もっと正確に言えば、ボルヘスが書き終えた、と書きつけている日付に目が引きつけられたのであるが、引きつけられて、はた、と思い至り、読んでいたボルヘスの「伝奇集」を伏せた。


一九四一年一月十日、ブエノスアイレスにて


 ぼくの誕生日が、一九六一年の一月十日であることは、以前に、「オラクル」という同人誌に発表した詩のなかに書いたことなので繰り返すのははばかれるのだが、発表される場が違うこと、また、発表される媒体そのものが異なることから、ふたたび、ここで取り上げることにする。ぼくが、ぼくの第一詩集の奥付に書きつけた、ぼくの誕生日の日付が、一九六一年一月十二日であるのは、ぼくの父が、ぼくの出生届を出しに役所に行った際に、その提出した書類に、ぼくが生まれた日付ではなくて、ぼくが生まれた日付を書く欄に、その書類を提出したその日の日付を書いて出したからなのだが、このいきさつについては、何年か前に、実母からぼくに連絡があるようになって、はじめて知ったものであるが、それは、すなわち、ぼくの父が、ぼくを長いあいだ、ずっと欺いてきたということである。そのときには、強い憤りのようなものを感じたものの、その父も少し前に亡くなり、いまぼくも五十一歳になって、あらためて考え直してみると、父が自分の過ちを訂正することなく、そのまま放置していたおいたことも、父が父自身の人生に対して持っていた特別な感情、これをぼくは何と名づければよいのかまだよくわからないのであるが、何か、「あきらめ」といった言葉で表せられるような気がするのであるが、かといって、「あきらめ」という、ただ一つの言葉だけでは書き表わせられないところもあるような気もする父のこころの在り方を思い起こすと、当時、ぼくの胸のなかに噴き上げた、あの怒りの塊は、いまはもう、二度と噴き上げることはない。なくなっている。もしかしたら、ぼく自身のこころの在り方が、いまのぼくのこころの在り方が、生きていたころの、とくに晩年の父のこころの在り方に近づいているからなのかもしれない。いや、きっと、そうなのであろう。いまになって、そう思われるのである。不思議なものだ。ボルヘスの本を取り上げなければ、こんなことなど考えもしなかったであろうに。
 伏せたボルヘスの本に目をやると、それをひっくり返して、ふたたび目を落とした。


一九四一年十一月十日、ブエノスアイレスにて


 一月十日ではなかったのだった。いったい何が、ぼくに、一月十日だと読み誤らせたのであろうか。無意識層のぼくだろうか。それとも、父の霊か、ボルヘスの霊だろうか。まさか。だとすると、ボルヘスの言葉は、霊的に強力なものであることになる。そういう作品をいくつも書いているボルヘスではあるが。
 ふと気がつくと、スピーカーからは、 Shine on Crazy Diamond の Part I の出だしが流れていた、ピンクフロイドのこのアルバムのなかで、ぼくがいちばん好きなところが流れていた。





 きょうは、何だか、あさから、気がそわそわしていた。気持ちが落ち着かなかった。きのう、ことし出す詩集の「The Wasteless Land.VII」の二回目の校正を終えて、出版社に郵送したからかもしれない。やるべきことはやった、という思いからだろうか。読んでいたボルヘスの本に革製のブックカヴァーをかけて、リュックのなかに入れて、出かける用意をした。
 阪急電車のなかで、ボルヘスのつづきを読んでいると、42ページから43ページにかけて、つぎのような文章が書かれていた。


不敬にも彼は父祖伝来のイスラム教を信じていないが、しかし陰暦一月十日の夜も明けるころ、イスラム教徒とヒンズー教徒との争いに巻きこまれる。


 またしても、一月十日である。いや、プロローグのところでは、十一月十日であったので、またしても一月十日ではなかったのであるが、しかし、またしても一月十日である、と思われたのである。プロローグのところでは、はじめに見たときに、一月十日と、見誤っていたのであった。そのため、まるで胸のなかに、ものすごく重たいものが吊り下がったかのように感じられたのであった。
 西院駅から阪急電車に乗り、梅田駅に向かっていたのだが、桂駅を越えてしばらくしたころ、ふたたび、「一月十日」という記述を目にした。


一月十日の二枚の絵が


「一月十日」という言葉がある42ページと50ページの、ページの耳を折り、リュックのなかにしまうと、腕を組んで、すこしのあいだ、眠ることにした。幼いころから、乗り物に乗ると、すぐに居眠りする癖があったあのだが、ただ、子どものころのように、完全に熟睡するということはめったになくなっていて、いまでは、半分眠っていて、半分起きている、といった感じで居眠りすることが多くて、本能的なものなのか、それとも、ただ単に生理的なものなのか、その区別はよくわからないのであるが、目的の駅に着く直前に目が覚めるのである。不思議といえば、不思議なことであるが、このことについては、あまり深く考えたことはない。が、もしかしたら、意識領域のものではなくて、無意識領域のものが関与しているのかもしれない。あるいは、意識領域と無意識領域との遷移状態といったものがあるとすれば、その状態にあるところのものと関与しているのかもしれない。
 電車の揺れは、ほんとうにここちよい。すぐにうとうとしはじめた。





 廊下に立っている連中のなかには、ぼくのタイプはいなかった。体格のいい青年もいたが、好みではなかった。ぽっちゃりとした若い男の子もいたが、やはり好みではなかった。ミックスルームと呼ばれる大部屋に入って、カップルになった男たちがセックスしているところを眺めることにした。二十畳ぐらいの部屋に十四、五組の布団が敷いてあって、その半分くらいの布団のうえで、ほとんど全裸の男たちが絡み合っていた。ほとんど全裸のというのは、ごく少数の者は腰にタオルを巻いていたからである。以前にも目にしたことのある、二十歳過ぎぐらいのマッチョな青年が、中年のハゲデブと、一つの布団のうえで抱き合っていた。あぐらをかいて、じっと見ていると、肩先に触れてくる、かたい指があった。首を曲げて見上げると、背の低い貧弱な身体つきをしたブサイクなおっさんが、薄暗闇のなかで、いやらしそうな笑顔を浮かべていた。ぼくは、おっさんの手を(ニヤニヤしながら、そのおっさんは、ぼくの肩の肉を、エイリアンの幼虫のように骨張った堅い指でつかんでいたのだ)まるで汚らわしいものが触れたかのような感じで振り払うと、立ち上がって、足元で、はげしく抱擁し合うマッチョな青年と中年のハゲデブの二人のそばから離れた。二日前に、友だちのシンちゃんに髪を切ってもらって、短髪にしていたせいもあって、この日も、ぼくはよくモテた。いつだって、ぼくはモテるのだが、髪を切ったばかりのときは、格別なのである。しかも、この日は、ぼくと同じような、短髪のガッチリデブという、自分の好きなタイプとばかりだった。二週間前の土曜日にも、ここに来て、すごくタイプなヤツとデキて、つきあう約束をしたのだが、きょうは、そいつが仕事で会えないというので、ぼくも実家に戻っているよと嘘をついて、連絡をし合わないようにしていた。多少の罪悪感もあるにはあったが、そんなものは、すぐにも吹き飛んで、フロントに行き、券売機で宿泊の券を買って、従業員に手渡した。来たときには、泊まることなど考えてはいなかった。サウナだけのつもりだったのである。
 十年前ほどまえに、同人誌の「オラクル」に、ノブユキとはじめて出会ったときのことを書いた。


ノブユキとは、河原町にある丸善で出会った。二人は同じ本に手を伸ばそうとしたのだ。


 こんな文章を書いていたのだが、じっさいのところは、ここ、梅田にある北欧館というゲイ・サウナのなかで出会っていたのである。「オラクル」を読んだ人のなかには、ノブユキとぼくが丸善で出会って、同じ本に手を伸ばそうとしていた、などという、まるで少女マンガのなかに出てくるような、ぼくの作り話を信じた人もいるかもしれない。祖母は、よく、嘘をついちゃいけないよ、と言っていた。嘘をつくと、死んだら地獄に行くことになると。地獄に行くと、鬼に、長い長い棒を、くちのなかに入れられるよ、とよく言われていた。つぎからつぎにセックスの相手が現われた。夜中の二時をまわっても、部屋だけではなくて、廊下にまであふれて、腰にタオルを巻いただけのほとんど全裸の男たちがたむろしていた。遅くなると、土曜日だからか、酒気を帯びた男たちの割合が増えるのだが、ゲイ・バーによった帰りにでも来たのだろう、ぼくが出会った青年も酒くさかった。廊下に並べて置いてある椅子に座っていたその青年のすぐ隣に腰かけ、股をすこしずつ開いていって、自分の膝が相手の膝に触れるようにしていった。彼は、ぼくの膝が彼の膝に近づいていくのを、眠たそうな目で追っていた。ぼくの膝が彼の膝に触れる直前に、彼は、ぼくの顔を見て、コクリとうなずいて見せた。ためらう必要がなくなったぼくは、彼の膝に自分の膝を強く押しつけながら、彼が伸ばしてきた手をギュッと握った。彼の方もまた、ぼくの手をギュッと握り返してきた。ぼくと同じぐらいに彼も背が高くて、体格もガッチリしていた。訊くと、学生時代にラグビーをやっていたらしくて、いまでも会社のクラブでつづけているという。ぼくたちは、空いている布団を探しに、大部屋のなかに入って行った。土曜の深夜は、愛し合う男たちで、いっぱいだった。布団は、一つも空いていなかった。ぼくたちは、部屋の隅に立って、抱き合いながらキッスをした。セックスが終わってシャワーを浴びに行くカップルが布団から出て行くのを待ちながら。ぼくは青年とキッスした。キッスは、セックスぐらいに、いや、セックスよりも、もしかすると、キッスの方が好きかもしれない。キッスしてるから、すぐに布団が空かなくてもいいと、ぼくは思っていた。しばらくすると、そばにあった一組の布団が空いた。セックスが終わると、身体をパッと離して、タオルを巻きながら薄暗い部屋を出て行く若い二人を見送っていると、彼がぼくの手を引っ張った。彼の方が布団に近かったからであろう。ぼくたちはタオルケットをかぶって抱き合った。主よ、名前はツトムといって、二十四歳だという。年下の彼の方が積極的で、ぼくをリードしようとするので、そのことをヘンだと言って、不満そうな顔をして見せると、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、年下とか、年上とか、そんなん関係ないやろ、と言って、ぼくの両手をつかんで、それをぼくの頭の上にやって、押さえつけると、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください。わが王、わが神よ、ぼくの口のなかに右の手の人差し指と中指を入れ、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、ぼくの両足首を持って、ぼくの身体を二つに折るようにして、ぼくの足を持ち上げると、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、わたしはあなたに祈っています、これまでなかに出されたことなんかないんだけど、ツトムくんならいいよ、と言うと、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、わたしはあなたに祈っています、主よ、オレ、そんなん聞いたら、メチャクチャうれしいやん。えっ、そう? あっ、ああっ、ちょっと痛くなってきた、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、わたしはあなたに祈っています、主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます、もうちょっとでイクから、がまんしてくれよ、おっ、おっ、おおっ、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、私はあなたに祈っています、主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます、わたしは朝ごとにあなたのために、あっ、あっ、いてっ、ててっ、あっ、あっ、あぁ、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、わたしはあなたに祈っています、主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます、わたしは朝ごとにあなたのためにいけにえを備えて待ち望みます、あっ、あっ、ああ、あっ、あぁ、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、わたしはあなたに祈っています、主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます、わたしは朝ごとにあなたのためにいけにえを備えて待ち望みます、あなたは悪しき事を喜ばれる神ではない、悪人はあなたのもとに身を寄せることはできない、高ぶる者はあなたの目の前に立つことはできない、あなたはすべて悪を行う者を憎まれる、あなたは偽りを言う者を滅ぼされる、主は血を流す者と、人をだます者を忌みきらわれる、しかし、わたしはあなたの豊かないつくしみによって、あなたの家に入り、聖なる宮にむかって、かしこみ伏し拝みます、主よ、わたしのあだのゆえに、あなたの義をもってわたしを導き、わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください、主よ、……






[注記] 終わりに挿入された聖句は、旧約聖書の詩篇・第五篇・第一節─第八節の日本聖書協会の共同訳より引用した。


黒い光輪。

  田中宏輔




I あがないの子羊



I・I 刺すいばら、苦しめる棘


その男は磔になっていた。
目は閉じていたが、息はまだあった。
皹割れた唇が微かに動いていた。
陽に灼けた身体をさらに焼き焦がす陽の光。
砂漠の熱い風が、こんなところにまで吹き寄せていた。
腕からも、足からも、額からも
もうどこからも、血は流れていなかった。
砂埃まみれの傷口、傷口、乾いた
血の塊の上を、無数の蠅たちが
落ち着きなく、すばやく移動しながら
しきりに前脚を擦り合わせていた。
頭の上では、それより多い蠅の群れが飛び回っていた。
蠅が蠅を追い、蠅の影が蠅の影を追っていた。
男の目が、微かに開かれた。
彼と同じように磔になった男のひとりが彼の横顔を見つめていた。
もうひとり、彼の脇に、彼と同じように磔になった男がいたが
もはや彼には首を動かす力もなかった。
磔柱の傍らでは
汗まみれ、泥だらけのローマ兵たちが
サイコロ遊びに打ち興じていた。
襤褸布の塊のような灰色の犬が
見えない目で、真ん中の磔台の男を見上げていた。
犬の目はふたつとも色を失っていて、石のように固まっていた。
突然、俄にかち曇り、一陣の風が吹き荒れた。
砂という砂が、風に巻き上げられた。
真昼間に、太陽は光を失い、夜となった。
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」
男が暗闇のなかで叫んだ。
すると、光が戻った。
男は息を引き取っていた。
両脇の死体が片づけられているあいだ
真ん中の磔柱では
件(くだん)の犬が、溝穴にできた血溜まりを嘗めていた。
男の死を見とどけていた女たちのなかから石が投げつけられた。
いくつも、いくつも投げつけられた。
犬にあたり、磔柱にもあたった。
それでも、犬は血溜まりを嘗めつづけていた。
ローマ兵のひとりが、女たちに手を振り上げた。
石つぶてがやんだ。
ひとりのローマ兵が犬を捕まえ
尻尾をつかみ上げて逆さにすると
思い切り地面に叩きつけた。
犬は一瞬の絶叫ののち、左前脚を曲げて
躯を引き擦るようにして、その場を去っていった。
もう女たちも石を投げつけなかった……
……なかった、いなかった。
そこには、ペテロはいなかった。
そこには、アンデレはいなかった。
そこには、ヤコブはいなかった。
そこには、ヨハネはいなかった。
そこには、フィリポはいなかった。
そこには、バルトロマイはいなかった。
そこには、トマスはいなかった。
そこには、マタイはいなかった。
そこには、もうひとりのヤコブもいなかった。
そこには、シモンはいなかった。
そこには、タダイはいなかった。
そこには、ユダはいなかった。
磔台の上の死をはじめから終わりまで見つめつづけていたのは
ガリラヤからつき従ってきたひと握りの女たちと
もの珍しげに見物していたエルサレムの子供たちと
磔の番をしていたローマ兵たちだけだった。





注記

 この第I部のタイトルは、講談社発行のバルバロ訳聖書・新約・一三七ページの注記より拝借した。また、第I部・第I篇のタイトルは、共同訳聖書のエゼキエル書二八・二四にある、「イスラエルの家には、もはや刺すいばらもなく、これを卑しめたその周囲の人々のうちには、苦しめるとげもなくなる。こうして彼らはわたしが主であることを知るようになる」からつけた。頭に戴いたのは、王冠ではなく、いばらの冠であった。イエスの頭上、磔柱の上方には、ピラトの指示によって、「ユダヤの王、イエス」と記された罪標が打ちつけられていた。
 犬は、この長篇詩の狂言回し的な存在で、それが象徴するものは甚だ多義にわたっているが、まずは、アルファベットに注意されたい。DOGが逆さまになると……。この犬を盲目にしたのは、無知蒙昧な民衆の比喩である。また、犬に血を嘗めさせたのは、列王紀の第二一章、第二二章にある、悲惨な最期を遂げた人々の血を犬が嘗めたという記述から。また、これは、葡萄酒を血に喩えた、最後の晩餐におけるイエスの言葉にも符合させたものである。ちなみに、『イメージ・シンボル事典』の「dog」の項を見ると、サイコロの悪い目のことが「イヌ」と呼ばれていたらしい。
「そこには──がいなかった。」と列記したのは、いわゆる十二使徒たちの名前であるが、このうち、ペテロをのぞいて、すべて講談社・少年少女伝記文学館・第一巻『イエス』によった。ペテロのみ、共同訳聖書から採った。ゴルゴダの丘にいたのは、記述した者のほかにも、イエスを訴えた祭司貴族や、律法学者や、ヘロデ・アンティパスに遣わされた者たちや、処刑見物の好きな民衆たちもいたであろう。しかし、彼らも、イエスがきれいな亜麻布に包まれるまではいなかったであろう。これは想像にしか過ぎないが、ローマ兵に命じられ、イエスに代わって十字架を背負ったクレネ人のシモンが、イエスが息を引き取るまで見つめつづけていたのではないだろうか。彼の名前をここに入れたかったのであるが、詩の調子が崩れることがわかったので諦めた。





I・II ヴィア・ドロローサ I


クレネのシモンは          犬が跛をひきな
  坂道を下りながら          がら坂道を
    下りてゆきながら          下りて
      思い出していた          くる
        磔になった男の         …
…         あの男の死に顔を
なぜ          死の間際に浮かんだ
あの男が          あの不思議な死に顔を
自分のことを          頭から離れなかった
ユダヤの王だなどと         シモンの右足が
そんな世迷言をいったのか        小石を一つ
農夫のシモンにはわからなかった       けった
わからなかったけれど、そんなことなど
いまの彼にとってはどうでもいいことであった
 あの男の代わりに十字架を背負わされたところにきた
   あの男が膝を折って蹲ったところだ、とそのとき
     傍らを汚らしい灰色の犬が走り抜けていった
       そいつは跛をひきひき走り去っていった
         シモンの目に、あの男の幻が現れた
           まだ磔にされる前、衣服を剥ぎ
…            取られて裸にされる前の姿
なぜ             であった。シモンが手
あの男              をのべると、ふっ
の幻が目の              と消えた。消
前に現れたのか              えてしま
クレネのシモンには              った
わからなかった。わから             …
なかったけれど、ローマ兵に
強いられて、あの男の代わりに
重い十字架を背負わされたことなど
不運なことだったとは微塵も思わなかった





注記

第I部・第II篇のタイトルについて、『図説・新約聖書の歴史と文化』(新教出版社、M・ジョーンズ編、左近義慈監修、佐々木敏郎・松本冨士男訳)の解説を引用しておく。「ヴィア・ドロロサ(すなわち<悲しみの道>)は旧市街(すなわち中世の都市)を通る道につけられた名で、イエスが<総督の官邸>から<ゴルゴタという所>(マルコ15・16、22)へ十字架を背負って歩まれた道を示し、敬虔な巡礼者たちによって使われる道である。13世紀の修道僧が最初に巡礼者としてこの旅をしたのが、おそらく事の起こりであろう。この道を現代の巡礼者たちは金曜日毎に、<十字架の道行きの留(りゅう)>(The stations of the cross)の各所で、祈祷と瞑想のために立ち止まりながら通過する。」。





I・III ヴィア・ドロローサ II


上がる道も下る道も、同じひとつの道だ。
        (ヘラクレイトス『断片』島津 智訳)


「あんた、さっきから、なに考えてんのさ。」
「いや、なにも、べつに、なにも考えちゃいない。」
「ははん、こっちに来て、あたいと飲まないかい。」
赤毛の男は席を立って、女のそばに腰かけた。
──わたしの顔を知る者はいない。
「ここの酒は、エルサレムいちにうまいよ。」
「ほんとかね。」
男は、中身に目を落として、口をつけてみた。
「よく濾してある。香りづけも上等だ。」
男は一気に呑み干した。
「おやまあ、陰気くさい顔が、いっぺんに明るくなっちまったよ。」
「ああ。ほんとにうまかった。苦みがなかった。」
「ここじゃあ、枝蔓ごと、もぎ取ったりはしないからね。」
──田舎じゃないって、言いたいのか。
「女、なんという名だ。」
「マリアさ。」
──あのひとの母親と同じ名だ。神に愛されし者、か。
「あんたは、なんて言うんだい。」
「ユダだ。ユダ。マリアほどにありふれた名前だ。」
女が身を擦り寄せて、男の胸元を覗き込んだ。
男の手が懐にある財布の口を握った。
「なにか大事なものでも、懐のなかに持ってんのかい。」
──大事なもの? 大事なもの? 大事なもの?
「金だよ。金。金に決まってんだろ。」
「そら、大事なもんさね。」
女が男の膝のあいだに手を滑り込ませた。
財布を握る男の手にさらに力が入った。
女の耳は、三十枚の銀貨が擦れ合う音を聞き逃さなかった。
戸口の傍らで、灰色の毛の盲いた犬が蹲っていた。





II デルタの烙印



II・I 死海にて I


ユダは湖面に映った自身の影を見つめていた。
死の湖(うみ)、死の水に魅入られた男の貌(かお)であった。
その影は微塵も動かなかった。
ただ目を眩ませる水光(すいこう)に
目を瞬かせるだけであった。
──この懐のなかの銀貨三十枚。
──これが、あのひとの命だったのか。
──これが、わたしの求めたものだったのか。
ユダは砂粒混じりの塩の塊を手にとって
彼自身の水影めがけて投げつけた。
水面から彼の姿が消えた。
「友よ。」
「えっ。」
ユダの目が振り返った。
イエスが、生前の姿のまま立っていた。
ユダはおずおずと手をさしのべた。
(ひと瞬き)
イエスの姿はなかった。
──幻だったのか……
──そういえば、はじめて師に出会ったのも、ここだった。
ユダの歪んだ影像(かげ)が水面で揺らめいていた。





II・II 死海にて II


ユダは湖面に映った自身の影を見つめていた。
死の湖(うみ)、死の水に魅入られた、男の貌(かお)であった。
その影は微塵も動かなかった。
ただ目を眩ませる水光(すいこう)に
目を瞬かせるだけであった。
「友よ。」
「えっ。」
見知らぬ男がユダに話しかけてきた。
「死の湖(うみ)を覗き込んで、いったいなにを見ていたのだ。」
「……、自身の影を。」
「それは死だ。」
「えっ。」
「それは、死自体にほかならない。」
──いったい、この男は何者なんだろう? 死神だろうか。
「それは、おまえの目がこれから確かめることになる。」
ユダは、こころのなかを見透かされているのを知って驚いた。
男は石を手にとって、湖面に投げつけた。
「これで死は立ち去った。私についてきなさい。」
ユダの足は、男の歩みに固く従った。





II・III ヴィア・ドロローサ III


「……、そのとき、わたしは死のうと思っていたのだ。」
薄暗闇のなかで、マリアはユダの目を見つめた。
「じゃあ、そのひとは、あんたの命の恩人じゃないか。」
ユダは、女の豊満な胸のあいだに顔を埋めた。
女の目は、ユダの背後にある星々のきらめきを見つめていた。
「どうして、そのひとを売っちまったんだい。」
無意識のうちに、女の乳房を掴んでいたユダの手に力が入った。
「痛いじゃないか。」
「すまない。」
ユダは顔を上げてあやまった。
女はユダの頭を胸に抱いて、ささやくような小声できいた。
「金が欲しかったのかい。」
「ちがう。そんなものが欲しかったんじゃない。」
ユダは手をのばして、財布を引き寄せた。
「これは約束どおり、おまえにやろう。」
女の手に財布が渡された。
ユダは女の身体から身をはなした。
「行こうか。夜が明けてしまう。」
「あんたも大事なひとを失くしちまったんだね。」
マリアはまだ信じられなかった。
磔になって処刑された男が三日後によみがえるなんて。
そんな馬鹿な話を確かめるためだけに
銀貨三十枚も出す男がいるなんて。
──師よ。いま、わたしは、あなたを確かめにまいります。
ふたりの足は、イエスが葬られた墓穴に向かって
いそいだ。





III 復活



III・I 虚霊


墓穴のなかは、狼でさえ夜目がきかないほどに暗かった。
ふたりは、土壁に手をはわせて手探りしながら歩をすすめた。
奥に行けば行くほど、臭いがきつくなる。
──師は、師は、師は、……
マリアは袖口で鼻のあたりを覆った。
「見えるか。」
「ええ。」
マリアの声は、布を透してくぐもって聞こえた。
目が慣れて、少しは見えるようになった。
「師は、師は、師は、やはり死んでいた。」
ユダの身体が頽れた。
と、突然、狂ったようにイエスの遺体を引っ掴むと
亜麻布を巻きとって裸に剥いた。
「ああ、師よ、師よ、師よ。あなたは死んでいた。」
──やはり、復活など、ありはしなかったのだ。
ユダはマリアの姿をさがした。
マリアは亜麻布を持って立っていた。
「しっ。」
耳のいいマリアが合図した。
ユダはイエスの身体を抱き上げてマリアの背後に身を隠した。
──だれだろう。
マリアは亜麻布を纏って、両手をひろげた。
マグダラのマリアたちが姿をあらわした。
「驚くな。主はよみがえられた。」
マグダラのマリアたちは、御使いの声に驚いた。
「思い出すがよい。主は、おまえたちに約束されたであろう。
 主はよみがえられたのだ。すでにここにはおられない。」
女たちは駈け出すようにして墓穴のなかから出て行った。
ユダはイエスの亡骸を地面のうえに置いた。
「さあ、出よう。女たちが戻ってきてはまずい。」
「その死体は、どうするのさ。」
──持ち出さねばなるまい。
「外に持ち出そう。」
マリアは肩をすくめた。
「わたしが背負って歩く。」
ふたりは墓穴から出た。
「友よ。」
「えっ。」
ユダの目が振り向いた。
「どうしたのさ。急に振り向いたりしてさ。」
マリアが訝しげに訊ねた。
「いや、なんでもない、なんでもない。さあ、行こう。」
大きさの異なる影が、エルサレムの門の外に消えた。
盲目の犬が、ひょこひょこと、ふたりの後ろからついていった。





III・II 廃霊


登場人物  マグダラのマリア
      ヤコブとヨセフの母マリア
      ペテロ
      ペテロの弟アンデレ
      他の使徒たちのコロス
      大祭司カヤパ
      祭司長と長老たちのコロス

舞台・I  エルサレムの町外れ、ある信徒の家
舞台・II  大祭司カヤパの屋敷


舞台・I

(エルサレムの町外れ、イエスの使徒たちが隠れ家にしている、ある信徒の家。早朝。)

アンデレ──目が冴えて眠れなかった。

ペテロ──それは、わたしも同じこと。いや、ここにいる信徒たちはみな同じこと。だれひとりとして眠った者はおらぬ。

アンデレ──じゃあ、兄さんたちも、主が言われたことを信じているのかい。

(ペテロ、言葉に詰まり、空咳。)

アンデレ──信じているのかい。それとも、信じちゃいないのかい。

ペテロ──信じている、信じている、信じているとも。しかし、わたしにどうしろと言うのだ。いったい、わたしにどうしろと言うのだ。

使徒たちのコロス──それは、わたしたちも同じこと。どうすることもできない。いったい、わたしたちになにができると言うのか。

アンデレ──マグダラのマリアたちは、危険を冒してでも、主が埋葬されている墓穴に行くと言っていた。

ペテロ──アンデレよ。わたしたちは、おたずね者なんだぞ。ここにこうしているだけでも、危険がどんどん増していくのだ。きっと、墓穴のまわりは、大勢の番兵たちが見張っていることだろう。

使徒たちのコロス──マグダラのマリアたちが帰ってきたぞ。

(ふたりのマリア、登場。激しい息遣い。)

マグダラのマリア──主がよみがえられたわ。主が約束されたように、三日目になって、よみがえられたのよ。そう御使いが、わたしたちに告げたわ。

ヤコブたちの母のマリア──このふたつの目が証人よ。

使徒たちのコロス──それは、まことか。

アンデレ──それは、ほんとうか。

ペテロ──まあ、待て、アンデレ。

(ペテロ、マグダラのマリアを睨んで、)

ペテロ──マリアよ。番兵たちはどうした。見張りの番兵たちがいただろう。

ふたりのマリア──(声を合わせて)いいえ、いなかったわ。

マグダラのマリア──しかも、墓穴の入り口は開いていたわ。それが何よりの証拠だわ。

使徒たちのコロス──それが、何よりの証拠だ。

ペテロ──待て。パリサイ人たちが、いや、大祭司カヤパの手下どもが主の亡骸を持ち去ったのかもしれないぞ。

(アンデレ、マグダラのマリアの手をとり、)

アンデレ──番兵は、いなかったのだな。

(マグダラのマリア、力強く肯く。)

アンデレ──じゃあ、兄さんたち、ぼくたちも見に行くべきだよ。

ペテロ──罠かもしれん。

(使徒たちのコロス、動揺して、身を揺り動かす。)

アンデレ──何を言うんだ、兄さん。

ペテロ──罠かもしれんと言ったのだ。番兵がいないだなんて、だれが信じるものか。それにな、もしも、主が復活されておられるのだとしたらな、マグダラのマリアたちの目の前にではなく、まず、わたしたちの目の前に御姿をあらわせられるはずだ。

使徒たちのコロス──そうだとも、そうだとも。なぜ、わたしたちの目の前に御姿をあらわせられないのだ。

(ペテロと使徒たちみんな、ふたりのマリアを家の外に叩き出す。アンデレ、腕を組んで考え込む様子を見せる。)


舞台(二)

(舞台は替わって、大祭司カヤパの屋敷内。昼過ぎ。)

祭司長、長老たちのコロス──カヤパさま、例の罪人、ナザレのイエスの死体が盗まれました。

大祭司カヤパ──番兵たちはどうしておったのじゃ。

祭司長、長老たちのコロス──おりませんでした。

大祭司カヤパ──どこに行っておったのじゃ。

祭司長、長老たちのコロス──わかりません。

大祭司カヤパ──なんじゃと。

祭司長、長老たちのコロス──それよりも、カヤパさま。女がふたり、町で変な噂を流しているという知らせが入りました。

大祭司カヤパ──へんな噂とは。

祭司長、長老たちのコロス──例の罪人、ナザレのイエスがよみがえったというのです。

大祭司カヤパ──ばかな。その女たちを捕らえよ。すぐに捕らえよ。そのふたりの女たちの仲間が、例の罪人、ナザレのイエスの死体を盗み出したのじゃろう。そのふたりの女ともども、みな捕らえよ。  

祭司長、長老たちのコロス──みな捕らえましょう。

(ここで、「捕らえよ! 捕らえよ!」の大合唱となり、舞台の上にするすると幕が下りてゆく。)





III・III 偽霊


ユダは目を凝らした。
駱駝を留めて、まじまじと見つめた。
砂漠の真ん中に、林檎の木が一本、生えていたのだ。
林檎の真っ赤な実がひとつ、ぶら下がっていた。
ユダは、それを手にとって、もいでみた。
すると、手のなかの林檎は
たちまち灰となって、掻き消えてしまった。
風のこぶしが、ユダの頬を殴った。
「友よ。」
「えっ。」
ユダの腹のなかで、ナイフの切っ先がひねられた。
「師よ。」
ユダの腹から、ナイフが引き抜かれた。
「師よ。」
ユダは、砂のうえに、膝を折ってうずくまった。
「師よ。」
三たび、ユダは、男に呼ばわった。
男は、ユダの着物でナイフの血をぬぐい、腰に差した鞘におさめた。
「師よ、あなたは、よみがえられた。いま、わたしの目はたしかめました。」
男の影は、ユダの話を聞いていた。
「師よ、わたしを、おゆるしください。
 あの日、あなたを犬どもに売ったのは、わたしです。
 ああ、いま、わたしは、あなたがゴルゴタの丘で磔になられた
 あなたの苦しみを、いま、いま、……」
男は思い出した。
自分の代わりに十字架につけられた、あのナザレの男の顔を。
「イエスさま、お約束をお守りください。
 ガリラヤで、アンデレたちがお待ちしております。
 おお、主よ、主よ、わたしを、おゆるしください。
 わたしは、ペテロにそそのかされ、あなたを、あなたを、……」
ユダの顔が膝の上に落ちた。
駱駝の背から、ユダの荷物を降ろしながら、男は考えていた。
髭を剃った自分の顔が、磔にされた、あの髭の薄い女のような男の顔に
自分の顔が似ていると。
そういえば、ナザレの男のことは、巷で噂になっていた。
磔にされて死んだはずのあの男が、復活して生き返ったというのだ。
このことを利用してやることができるかもしれない。
バラバは、ユダの死体を後にして立ち去った。
盲いの犬が、ユダの腹から流れ出る血を
飽かずに舐めつづけていた。





参考に。apple of Sodom: ソドムのリンゴ。(死海沿岸に産するリンゴで外観は美しいが食べようとすると灰と煙になったという。Dead Sea apple ともいう。(『カレッジクラウン英和辞典』apple の項目より)。


Still Falls The Rain。 後篇  ──わが姉、ヤリタミサコに捧ぐ。

  田中宏輔




つぎつぎと観客が増えていき、店のなかが立ち見でもいっぱいで
ぼくと湊くんがいるテーブルのすぐそばまで、ひとが立ち見で
女性に連れられた子どもが、まだ5、6歳だろうか、女の子が
赤い子ども用のバッグを肩から提げて、クマの人形、パディントンって
言ったかな、それのグリーンと茶色のチェックのチョッキを着た
クマの人形を手にしていた女の子がそばにきたとき、店主の女性が
椅子をもってきた。その椅子は前述した、大きい中央のテーブルのもので
そのテーブルを壁に片側をくっつけたためにあまったものであった。
女の子がその椅子に腰かけた。まだまだ客は入ってきて、
しかもそれが圧倒的に女性が多くて、いろいろな香水の匂いがした。
ぼくは湊くんに
「なんで、こんなに女性が多いんだろうね。」
「さあ、なんででしょうかね。」
「ビートゆかり人たちの朗読って書いてあったと思うけど。
 ビートって、そんなに女性に人気だったっけ?」
「いやあ、そんなことないですよ。
 どうしてでしょうね。」
このときには、ぼくはまだ、この夜の朗読会の趣旨と
朗読するメンバーのことについて、ヤリタさん以外
ひとりのことも知らないのだった。
湊くんは、佐藤わこさんの詩集を東京ポエケットで買っていて
彼女のことは、間接的にだが、詩のうえでは知っていて
また、その詩集を出している佐藤由美子さんのことも見たことがあると
東京ポエケットでその詩集を売っていたのが佐藤ゆみこさんだったからだが
話をしたということもなくて、ただ詩集を買っただけというので
湊くんもまた、ヤリタさん以外、直接知っているひとはいなかったようだった。
佐藤由美子さんが、イーディさんの本のことを話される前に
佐藤わこさんが、詩の朗読をした。
いただいた詩集の『ゴスペル』を読まれたのかな。
ぼくは、朗読されていく声を耳で追いながら
彼女の詩集の言葉を、目で追っていった。
とてもスマートな詩句で、耳も、目も、ここちよかった。


専門の言葉や常套句を放棄したあとには、何ものも芸術作品の誕生をさまたげはしない。
(トンマーゾ・ランドルフィ『無限大体系対話』和田忠彦訳)


朗読会の途中で扉を開けて入ってくる人たちの様子に目をとめた。


I looked out the window.
(Jack kerouac, On the Road, PART THREE-2, p.183)


窓の薄いレースのカーテンに手を触れ、そっと
押し上げて、窓の外の夜を見ようとするが、真っ暗に近くて
雨が降っているかどうかわからなかったが、


It started to rain harder.
(Jack Kerouac, On the Road, PART ONE-3, p.22)


入ってくる人の手に傘が握られ、それがすぼめられているところから、
とうとう、雨が本格的に降り出したことに気がついた。


思い出された事実には重要なことなど何もない、大切なのは思い出すという行為それ自体なのだ。
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)


むかしというのはいろんな出来事がよく迷子になるところでね
(ロバート・ホールドストック『アースウインド』4、島岡潤平訳)


ぼくらは人生に迷子となるが、人生はぼくらの居所を知っている。
(ジョン・アッシュベリー『更に快い冒険』佐藤紘彰訳)


ダイヤモンド・シティーで
迷子になって、嗚咽を漏らしながら
階段を
手すりを伝いおりて来た
あの小さな男の子は
あれからあと、ぼくのことを夢に見ただろうか?
高校生の男の子や女の子たちは
まったく知らない顔と顔をして
階段に腰を下ろして
しゃべくりあっていた。
ハンカチーフをしくこともなく
じかに坐り込んでいた
制服姿の何人もの高校生たち。
お菓子の包みを、そこらじゅうにまいて。
カラフルな包み紙たちは
なぜかしらん、なきがらのようだった。
ぼくらが偶然、階段を使って下りたからよかった。
ぼくは、迷子になっていた男の子のそばにゆき
安心するように
自然な笑顔になれ

自分に呪文をかけて
その男の子に話しかけ
いっしょにいたジミーちゃんが、スーパーの店員を呼びに行った
迷子になった
きみは、ぼくのことを、いつか夢に見るのだろうか?
バスのなかで、母親に抱かれながら
顔をぼくのほうに向けて
ぼくの目をじっと見つめていたあの赤ちゃんも
いつか、ぼくのことを夢に見るだろうか?
ぼくがこれまで出会ったひとたちは
ぼくのことを夢に見たことがあるのだろうか?
ぼくのことを夢に見てくれただろうか?


What will you dream with us?
(Robert Silverberg, Son of Man, chap.15, p.122)


六条院の玉鬘。


What do you want out of life?
(Jack Kerouac, On the Road, PART THREE-11, p.243)


夢の浮橋


What will you dream ?
(Robert Silverberg, Son of Man, chap.15, p.122)


ものをこそおもへ。


See and die.
(Robert Silverberg, Son of Man, chap.15, p.120)


We all will die. We all will see.
(Robert Silverberg, Son of Man, chap.15, p.120)


タカヒロ
ノブユキ
ヒロくん
エイジくん
あの名前をきくことのなかった中国人青年よ
みんな、ぼくを去って
ぼくは、みんなから去って
いま
ここには
だれもいない。
いま
ここには
だれもいない


となると僕の握っているこの手は誰の手か?
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』H,志村正雄訳)


あの白い靴下も感じていただろうか?
ぼくもくやしさを。
ぼくのあこがれを。
ぼくの、ぼくの、ぼくの。
また会えるよね。
きっと、また会えるよね。
まだ会えるよね。
さもあらば、あれ。
ぼくの目に、きみの姿がよみがえる。
高校でも遠足ってあったんだよね。
遠足で、帰りに、ぼくはきみの斜め前の座席に坐ってた。
ちょっと眠かったから
ちょっと寝てたら
「あつすけ寝てるん?」
って、声がして
ぼくは、目が覚めてしまったけど
寝てるん?
っていう
山本くんの声が、そのまま、ぼくに寝たふりをさせてた。
きみは両足をあげてた。
それを甲斐くんが、自分の手のひらの上に載せて
あのガリ勉ガリ男の甲斐くんは
ぼくよりずっと頭がよかった
秀英塾でも、成績がトップだった甲斐くんが
きみの足を持って。
きみの両方の足を持って。
ぼくはきみのことが好きだったから
すごく甲斐くんのことが、うらやましかった。
すごく甲斐くんのことが、嫌いになった。
きみの
「あつすけ」と呼んでくれてたときの声がよみがえる。
声も感じてくれていたのだろうか。
ぼくのくやしさを。
ぼくのあこがれを。
きみの声が直線となって
ぼくの足もとに突き刺さる。
あのときの真っ白い靴下も直線となって
ぼくの足もとに突き刺さる。
あのときの列車といっしょに走っていた窓も
甲斐くんも、先生も、みんな直線となって
ずぶずぶと、ぼくの足もとに突き刺さる。
突き刺さる。
突き刺さるたびに
ぼくの足は後ずさる。
きみは野球部だった。
ぼくはデブだったけど
きみは、デブのぼくより、身体が大きくて
あの白い靴下を
きみの足を持った甲斐くんの声も憶えてるよ。
「しめってる。」
思い出されていく
声が、姿が、風景が
つぎつぎと直線となって
ぼくの足もとに突き刺さっていく。
ずぶずぶと、ぼくの足もとに突き刺さってゆく。
突き刺さる。
突き刺さるたびに
ぼくの足は後ずさる。
さもあらばあれ。
過去の光景が
つぎつぎと直線となって
ずぶずぶと斜めに突き刺さってゆく。
突き刺さる。
突き刺さるたびに
ぼくの足は後ずさる。
あの白い靴下も
階段に座り込んでいた高校生たちも
迷子の男の子も
あの夜の朗読会のヤリタさんの声も
パパも
ママも
タカヒロも
ノブユキも
ヒロくんも
エイジくんも
あの名前をきかなかった中国人青年も
みんな
つぎつぎと直線となって
ずぶずぶと斜めに突き刺さってゆく。
突き刺さる。
突き刺さるたびに
ぼくの足は後ずさる。


認識するとは、現実に対し然り(ヤー)を言うことだ
(ニーチェ『この人を見よ』なぜかくも私は良い本を書くのか・悲劇の誕生・二、西尾幹二訳)


「存在」は広大な肯定であって、否定を峻拒(しゅんきょ)し、みずから均衡を保ち、関係、部分、時間をことごとくおのれ自身の内部に吸収しつくす。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)


Dream lover, won't you come to me?
Dream lover, won't you be my darling?
It's not too late or too early.
Dream lover, won't you kiss me and hold me?
Dream lover, won't you miss me and mold me?
(John Ashbery, Girls on the Run. XII, pp.28-9)


夢がまちがってることだってあるのよ
(チャールズ・ブコウスキー『狂った生きもの』青野 總訳)


間違っているかどうかなんて、そんなことが問題じゃないんだ、絶対に間違いのないようにするなんてことは、何の役にも立ちはしない、
(トンマーゾ・ランドルフィ『幽霊』米川良夫訳)


何が「きょう」を作るのか
(ジェイムズ・メリル『ページェントの台本』下・NO、志村正雄訳)


誰がお前をつくったか
(ブレイク『仔羊』土居光知訳)


だれがぼくらを目覚まさせたのか
(ギュンター・グラス『ブリキの音楽』高本研一訳)


ぼくらを待ちうけ、ぼくらを満たす夜、
(ジャック・デュパン『蘚苔類』4、多田智満子訳)


眠っているあいだも、頭ははたらいている。
(ロバート・ブロック『死の収穫者』白石 朗訳)


多くの名前が人間の夜をつぶやく
(ウィリアム・S・バロウズ『爆発した切符』シャッフル・カット、飯田隆昭訳)


ぼくらは夢と同じ生地で織られている
(ホフマンスタール『三韻詩(てるつぃーね)』川村二郎訳)


夢はきみのために来たのだ
(ホフマンスタール『冷え冷えと夏の朝が……』川村二郎訳)


「ころころところがるから
 こころって言うんだよ。」


誰が公立図書館を必要とする? それに誰がエズラ・パウンドなんかを?
(チャールズ・ブコウスキー『さよならワトソン』青野 聰訳)


ぼくは、ボードレールが書き損じて捨てた詩句のメモみたいなものが
見てみたい!


愛とは驚愕のことではないか。
(ジョン・ダン『綴り換え』湯浅信之訳)


体験に勝る教えなし。


苦しみによって喜びを知ること
(エミリ・ディキンスンの詩 一六七番、新倉俊一・鵜野ひろ子訳)


人生を知るためには、何度も何度も
天国と地獄のあいだを往復しなければならないのだ。


努力を伴わない望みは愚かしい
(エズラ・パウンド『詩篇』第五十三篇、新倉俊一訳)


理解は愛から生じ、愛は理解によって深まる。


交わりは光りを生む
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)


野球部だった。
キャプテンは
もうひとりの山本くんだったよね。
ぼくの山本くんは、いつもほがらかに
ニコニコしてた
家は、呉服屋さんだったかな
そいえば
着物が、とってもよく似合いそうだったね。
きみも
ぼくも
おなか
出てたもんね。
なのに
あの日
あのとき
ぼくらは
高校一年生だった
きみは
「あつすけ。
 おれな。
 双子の弟がおってな。
 そいつ
 生まれたときから、ずっと
 寝たままやねん。
 ずっと寝たまま
 目、さましたこと、ないねん。」
とても真剣な
思いつめたようなきみの顔は
なんだか
とても怖かった。
なんで、ふたりっきりになったのか
おぼえてへんけど
そのこと聞いた、ぼくが、どう思ったか
とても怖かったってことしかおぼえてないんやけど
ふだんは
ニコニコして
明るく笑ってた
ぼくの山本くんじゃなかったから
怖かった。
あのときのぼくらは
もうどこにもいないけど
「あのとき」に貼りついたまま
どこかで
いや、
「あのとき」の教室に、いるんやろうなあ。
しょっちゅう
肩を抱かれてたような気がする。
ぼくもデブだったし
きみもデブだったのに
なんだか、ふたりして、ころころしてたね。
きみの顔が
きみが怖かったのは
一度だけだったけど
その一度が
ものすごく大きい一度だった。
あのときのきみも
あのときの顔も
あのときのぼくも
あのときの話も
あのとき、きみが語った双子の弟くんも
あのときの教室も
あのとき、きみがぼくに話した理由も
その理由を、ぼくは知らないけど
理由がなくって
話をするような、きみじゃなかったから
きっと理由はあって
ぼくも
あえて、きみの顔を見て
その理由を見つけようともしなくって
その理由や
なんかも
つぎつぎと直線になって
ぼくの足もとに
突き刺さる。
ずぶずぶと突き刺さる。
突き刺さってくる。
ぼくは
後ずさりする。
そのたびに後ずさりする。


なぜ人は自分を傷つけるのが好きなんだろう?
(J・ティプトリー・ジュニア『ヴィヴィアンの安息』伊藤典夫訳)


白い靴下の山本くんも
双子の弟のことを、ぼくに言ったのは、
自分を傷つけるためだったのだろうか?


Worse, it was traditional to feel this way.
(John Ashbery, Girls on the Run. IV, p.11)


何のための生か? 何のための芸術か?
(ホフマンスタール『一人の死者の影が……』川村二郎訳)


イメージのないところには、愛は生まれない。
イメージのないところには、憎しみは生まれない。
イメージのないところには、悲しみは生まれない。
イメージのないところには、喜びは生まれない。
イメージのないところには、いかなる感情も生まれない。
イメージのないところには、いかなる現実も生まれない。
イメージのないところには、いかなる事物・事象も生まれない。
イメージのないところには、世界は生まれない。


イメージは、われわれが直接にそれを知っているものだから本モノである。
(エズラ・パウンド『ヴォーティシズム』新倉俊一訳)


においがするまで、そこに空気があることさえ気がつかないぼくだ。
突然の認識が、なにによってもたらされたのか、考えてみよう。 ひと
晩かかったのだ、この認識に達するまで。ひと晩? そうだ。夜のあい
だに、脳が働いていたに違いない。夜のあいだに、潜在意識が働いてい
てくれたのだろう。記憶にはないが、きっと、あの朗読会のことを夢に
見ていたのだろう。だから、こうして、朝、通勤電車のなかで、突然、思
い至ったのだ。くやしさが、ひとつになった。朗読会に来ていた人たち
のこころがひとつになったのだった。そこでは、くやしさというものが、
共通のもので、みんなをひとつに束ねるロープの役目を果たしていたの
であろう。ひとりひとり、みんな違ったくやしさだったと思うけれど、
くやしいという思いは共通していて、それが共感の嵐となって、あの朗
読会場を包んだのだろう。


詩はなんらかの現実を表現することを職能としない。
詩そのものがひとつの現実である。
(トリスタン・ツァラ『詩の堰』シュルレアリスムと戦後、宮原庸太郎訳)


表現においては、個人の死は個性の死ではない。個性の死が個人の死である。


具体性こそが基本である。現実を生き生きとさせ、「リアル」たらしめ、個人的に意味のあるものにするのは「具体性」なのである。
(オリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』第四部、高見幸郎・金沢泰子訳)


ぼくは愚かだった。いまでも愚かで浅ましい人間だ。しかし、ときに
は、いや、まれには、それは一瞬に過ぎなかったかもしれないが、ぼく
は、やさしい気持ちでひとに接したことがあるのだ。ぼくのためにでは
なく。そんな一瞬でもないようなら、たとえどれほど物質的に恵まれて
いても、とことんみじめな人生なのではなかろうか?


Look long and try to see.
(Jack Kerouac, On the Road, PART FOUR-1, p.250)


もみの樹はひとりでに位置をかえる。
(ジャン・ジュネ『葬儀』生田耕作訳)   


変身は偽りではない
(リルケ『月日が逝くと……』高安国世訳)


事物というものは、見たあとで、見えてくるものである。


ひとつの書き言葉はひとつのイメージ、映像であり、いくつかの書き言葉は連続性をもつイメージである、すなわち動く絵(ムービング・ピクチャー)
(ウィリアム・S・バロウズ『言霊の書』飯田隆昭訳)


イメージが言葉をさがしていたのか、言葉がイメージをさがしていたのか。


Just as a good pianist will adjust the piano stool
before his recital,by turning the knobs on either side of it
until he feels he is at a proper distance from the keyboard,
so did our friends plan their day.
(John Ashbery, Girls on the Run. V, p.11)


好きな形になってくれる雲のように、もしも、ぼくたちの思い出を、
ぼくが好きなようにつくりかえることができるものならば、ぼくは、き
っと苦しまなかっただろう。けれど、きっと愛しもしなかっただろう。
星たちは、天体の法則など知らないけれど、従うべきものに従って動
いているのである。ひとのこころや気持ちもまた、理由が何であるかを
知らずに、従うべきものに従って動いているのである。と、こう考えて
やることもできる。


Lacrimoso, we can't get anything done!
Lacrimoso,t he bear has gone after the honey!
Lacrimoso, the honey drips incessantly
from the bough of a tree.
(John Ashbery, Girls on the Run. IV, pp.10-1)


 ファミレスや喫茶店などで、あるいは、居酒屋などで友だちとしゃべ
っていると、近くの席で会話している客たちのあいだでたまたま交わさ
れた言葉が、自分の口から、何気なく、ぽんと出てくることがある。無
意識のうちに取り込んでいたのであろう。しかも、その取り込んだ言葉
には不自然なところがなく、こちらが話していた内容にまったく違和感
もなく、ぴったり合っていたりするのである。異なる文脈で使用された
同じ言葉。このような経験は、一度や二度ではない。しょっちゅうある
のである。さらに驚くことには、もしも、そのとき、その言葉を耳にし
なかったら、その言葉を使うことなどなかったであろうし、そうなれば、
自分たちの会話の流れも違ったものになっていたかもしれないのであ
る。このことは、また、近くの席で交わされている会話についてだけで
はなく、たまたま偶然に、目にしたものや、耳にしたものなどが、思考
というものに、いかに影響しているのか、ぼくに具体的に考えさせる出
来事であったのだが、ほんとうに、思考というものは、身近にあるもの
を、すばやく貪欲に利用するものである。あるいは、いかに、身近にあ
るものが、すばやく貪欲に思考になろうとしているのか。


This was that day's learning.
(John Ashbery, Girls on the Run. VII ,p.15)


 蚕を思い出させる。蚕を飼っていたことがある。小学生のときのこと
だった。学校で渡された教材のひとつだったと思う。持ち帰った蚕に、
買ってきた色紙を細かく切り刻んだものや、母親にもらったさまざまな
色の毛糸を短く切り刻んだものを与えてやったら、蚕がそれを使って繭
をこしらえたのである。色紙の端切れと糸くずで、見事にきれいな繭を
こしらえたのである。それらの色紙の切れっ端や毛糸のくずを、言葉や
状況や環境に、蚕の分泌した糊のような粘液とその作業工程を、自我と
か無意識、あるいは、潜在意識とかいったものに見立てることができる
のではないだろうか。もちろん、ここでは、蚕を飼っていた箱の大きさ
とか、その箱の置かれた状態、温度や湿度、動静や、適切な明暗の
光線照射時間といった、蚕が繭をつくるのに適した状態があってこそ
のものでもあるが、これらは、自我がつねに 外界の状況とインタラク
ティヴな状態にあることを思い起こさせるものである。


Look long and try to see.
(Jack Kerouac, On the Road, PART FOUR-1, p.250)


すべては見ること
(ジョン・ベリマン『73 カレサンスイ リョウアンジ』澤崎順之助訳)


事物を離れて観念はない。
(ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ『パターソン』第一巻・巨人の輪郭・I、沢崎順之助訳)


人間精神の現実的存在を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。
(スピノザ『エチカ』第二部・定理一一、工藤喜作・斎藤 博訳)


すべての物が非常な注意をこめて一瞬一瞬を見つめている
(ジャン・ジュネ『葬儀』生田耕作訳)


事物は事物そのものが織り出した
呪文からのように僕らを見つめる。
(ジェイムズ・メリル『ミラベルの数の書』9.2、志村正雄訳)


幸運は続かないことをすべてのものが語っている
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十六篇、新倉俊一訳)   


地上の人生、それは試練にほかならない
(アウグスティヌス『告白』第十巻・第二十八章・三九、山田 晶訳)


すべてのものにこの世の苦痛が混ざりあっている。
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)


あらゆる出会いが苦しい試練だ。
(フィリップ・K・ディック『ユービック:スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳)


願望の虐む芸術家は幸いなるかな!
(ボードレール『描かんとする願望』三好達治訳)


 自分の心を苛むものを書き記すこともできれば、そうすることによってそれに耐えることもできるひと、その上さらに、そんなふうにして後代の人間の心を動かしたい、自らの苦痛に後代の人間の関心を惹きつけたいと望むことができるひとは幸いなるかな
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』18、菅野昭正訳)


これまで世界には多くの苦しみが生まれなければならなかった、その苦しみがこうした音楽になった
(サバト『英雄たちと墓』第I部・9、安藤哲行訳)


苦悩(くるしみ)は祝福されるのだ。
(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第三章、渡辺一夫訳)


創造する者が生まれ出るために、苦悩と多くの変身が必要なのである。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)


そもそも苦しむことなく生きようとするそのこと自体に一つの完全な矛盾があるのだ
(ショーペンハウアー『意思と表象としての世界』第一巻・第十六節、西尾幹二訳)


苦しみは人生で出会いうる最良のものである
(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・逃げさる女、井上究一郎訳)


私は自分を活気づける人たちを愛し、又自分が活気づける人たちを愛する。
われわれの敵はわれわれを活気づける。
(ヴァレリー『文学』佐藤正彰訳


わたしの敵たちもわたしの至福の一部なのだ。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)


多感な心と肉体を捻じり合わせて愛に変えうるのは苦しみだけ
(E・M・フォースター『モーリス』第四部・42、片岡しのぶ訳)


苦痛が苦痛の観察を強いる
(ヴァレリー『テスト氏』テスト氏との一夜、村松 剛・菅野昭正訳)


苦しむこと、教えられること、変化すること。
(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』不幸、田辺 保訳)


苦痛の深さを通して人は神秘的なものに、本質にと、達するのである。
(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・消え去ったアルベルチーヌ、鈴木道彦訳)


人間には魂を鍛えるために、死と苦悩が必要なのだ!
(グレッグ・イーガン『ボーダー・ガード』山岸 真訳)


See and die.
(Robert Silverberg, Son of Man, chap.15, p.120)


聖なる魂等よ、まづ火に噛まれざればこゝよりさきに行くをえず
(ダンテ『神曲』浄火・第二十七曲、山川丙三郎訳)


すべては見ること
(ジョン・ベリマン『73 カレサンスイ リョウアンジ』澤崎順之助訳)


だれかがノイズになっているよ。
こくりと、マシーンがうなずいた。
それは、言葉ではなく、言葉と言葉をつなぐもののなかに吸収されていった。


創造性とは、関係の存在しないところに関係を見出す能力にほかならない。
(トマス・M・ディッシュ『334』ソクラテスの死・4、増田まもる訳)


なにそれ?
(ケリー・リンク『飛行訓練』七、金子ゆき子訳)


それ、ほんと?
(ジョン・クリストファー『トリポッド 2 脱出』2、中村 融訳)


ほんとに?
(ジェイムズ・メリル『ミラベルの数の書』1.9、志村正雄訳)


もしも視界を広げたら、ものはすべて似たものばかりだ。
(エマソン『霊の法則』酒本雅之訳)


なにものにも似ていないものは存在しない。
(ヴァレリー『邪念その他』P,清水徹訳)


自然界の万障は厳密に連関している
(ゲーテ『花崗岩について』小栗 浩訳)


一つの広大な類似が万物を結び合わせる、
(ホイットマン『草の葉』夜の浜辺でひとり、酒本雅之訳)


類似関係(アナロジー)を感知する
(ボードレール『エドガー・ポーに関する新たな覚書』阿部良雄訳)


類似の本能だけが、不自然ならざる唯一の行動指針である。
(ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)


類似の対象を全体的に、また側面から観察すること
(ゲーテ『『プロピュレーエン』への助言』小栗 浩訳)


明白な類似から出発して、あなたがたはさらに秘められた別の類似へとむかってゆく
(マルロー『西欧の誘惑』小松 清・松浪信三郎訳)


流れは源を示すもの。
(ジョン・ダン『聖なるソネット』17、湯浅信之訳)


木の葉はいつ落ちたのだろう?
(マイケル・スワンウィック『大潮の道』12、小川 隆訳)


 物質ないし因果性──この二つは同一であるから──が主観の側において相関的に対応しているものは、悟性(ヽヽ)である。悟性はそれ以外のなにものでもない。因果性を認識すること、これが悟性の唯一の機能であり、また悟性にのみある力である。
(ショーペンハウアー『意思と表徴としての世界』第一巻・第四節、西尾幹二訳)


観念の秩序と連結は、ものの秩序と連結と同じである。
(スピノザ『エチカ』第二部・定理七、工藤喜作・斎藤 博訳)


 万物はいかにして互いに変化し合うか。これを観察する方法を自分ののにし、耐えざる注意をもってこの分野における習練を積むがよい。実にこれほど精神を偉大にするものはないのである。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第一〇章・一一、神谷美恵子訳)


人間には自分の環境の特徴を身につける傾向がある。
(イアン・ワトスン『寒冷の女王』黒丸 尚訳)


めぐりのものがみな涙を流すとき──おまえもまた涙をながす──そうでないはずはない。
おまえがため息をついているとき、風もまたため息をもらす。
(エミリ・ブロンテ『共感』村松達雄訳)


いままでに精神も徳も、百千の試みをし、道にまよった。そうだ、人間は一つの試みだった。ああ、多くの無知とあやまちが、われわれの肉体となった。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部、手塚富雄訳)


およそ世に存在するもので、除去してよいものなど一つとしてない。無くてもよいものなど一つとしてない。
(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも良い本を書くのか・悲劇の誕生・二、西尾幹二訳)


魂と無縁なものは何一つ、ただの一片だって存在しない
(ホイットマン『草の葉』ポートマクからの旅立ち・12、酒本雅之訳)


万物は語るが、さあ、お前、人間よ、知っているか
何故万物が語るかを? 心して聞け、それは、風も、沼も、焔も、
樹々も蘆も岩根も、すべては生き、すべては魂に満ちているからだ。
(ユゴー『闇の口の語り資子と』入沢康夫訳)


兄弟よ! しかするなかれ、汝も魂汝の見る者も魂なれば。
(ダンテ『神曲』浄火・第二十一曲、山川丙三郎訳)


愛の道は
愛だけが通れるのです。
(カルロス・ドルモン・ジ・アンドラージ『食卓』ナヲエ・タケイ・ダ・シルバ訳)


魂だけが魂を理解するように
(ホイットマン『草の葉』完全な者たち、酒本雅之訳)


詩人を理解する者とては、詩人をおいてないのです。
(ボードレールの書簡、1863年10月10日付、A・C・スィンバーン宛、阿部良雄訳)


日知庵で飲んでいると
作家の先生と、奥さまがいらっしゃって
それでいっしょに飲むことになって
いっしょに飲んでいたのだけれど
その先生の言葉で
いちばん印象的だったのは
「過去のことを書いていても
 それは単なる思い出ではなくってね。
 いまのことにつながるものなんですよ。」
というものだった。
ぼくがすかさず
「いまのことにつながることというよりも
 いま、そのものですね。
 作家に過去などないでしょう。
 詩人にも過去などありませんから。
 あるいは、すべてが過去。
 いまも過去。
 おそらくは未来も過去でしょう。
 作家や詩人にとっては
 いまのこの瞬間すらも、すでにして過去なのですから。」
と言うと
「さすが理論家のあっちゃんやね。」
というお言葉が。
しかし、ぼくは理論家ではなく
むしろ、いかなる理論にも懐疑的な立場で考えている者と
自分のことを思っていたので
「いや、理論家じゃないですよ。
 先生と同じく、きわめて抒情的な人間です。」
と返事した。
いまはむかし。
むかしはいま。
って、大岡 信さんの詩句にあったけど。
もとは古典にもあったような気がする。
なんやったか忘れたけど。
きなこ。
稀な子。
「あっちゃん、好きやわあ。」
先生にそう言われて、とても恐縮したのだけれど
「ありがとうございます。」
という硬い口調でしか返答できない自分に、ちょっと傷つく。
自分でつけた傷で、鈍い痛みではあったのだけれど
生まれ持った性格に起因するものでもあるように思い
こころのなかで、しゅんとなった。
表情には出していなかったつもりだが、たぶん、出ていただろう。
きなこ。
稀な子。
勝ちゃんの言葉が何度もよみがえる。
しじゅう聞こえる。
「ぼく、疑り深いんやで。」
ぼくは疑り深くない。
むしろ信じやすいような性格のような気がする。
「ぼく、疑り深いんやで。」
勝ちゃんは何度もそう口にした。
なんで何度もそう言うんやろうと思うた。
一ヶ月以上も前のことやけど
日知庵で飲んでたら
来てくれて
それから二人はじゃんじゃん飲んで
酔っぱらって
大黒に行って
飲んで
笑って
さらに酔っぱらって

タクシーで帰ろうと思って
木屋町通りにとまってるタクシーのところに近づくと
勝ちゃんが
「もう少しいっしょにいたいんや。
 歩こ。」
と言うので
ぼくもうれしくなって
もちろん
つぎの日
二人とも仕事があったのだけれど
真夜中の2時ごろ
勝ちゃんと
四条通りを東から西へ
木屋町通りから
大宮通りか中新道通りまで
ふたりで
手をつなぎながら歩いた記憶が
ぼくには宝物。
大宮の交差点で
手をつないでるぼくらに
不良っぽい二人の青年に
「このへんに何々家ってないですか?」
とたずねられた。
不良の二人はいい笑顔やった。
何々がなにか、忘れちゃったけれど
勝ちゃんが
「わからへんわ。
 すまん。」
とか大きな声で言った記憶がある。
大きな声で、というところが
ぼくは大好きだ。
ぼくら、二人ともヨッパのおじさんやったけど
不良の二人に、さわやかに
「ありがとうございます。
 すいませんでした。」
って言われて、面白かった。
なんせ、ぼくら二人とも
ヨッパのおじさんで
大声で笑いながら手をつないで
また歩き出したんやもんな。
べつの日
はじめて二人でいっしょに飲みに行った日
西院の「情熱ホルモン!」やったけど
あんなに、ドキドキして
食べたり飲んだりしたのは
たぶん、生まれてはじめて。
お店いっぱいで
30分くらい
嵐電の路面電車の停留所のところで
タバコして店からの電話を待ってるあいだも
初デートや
と思うて
ぼくはドキドキしてた。
勝ちゃんも、ドキドキしてくれてたかな。
してくれてたと思う。
ほんとに楽しかった。
また行こうね。
きなこ。
稀な子。
ぼくたちは
間違い?
間違ってないよね。
このあいだ
エレベーターのなかで
ふたりっきりのとき
チューしたことも
めっちゃドキドキやったけど
ぼくは
勝ちゃん
ぼくの父が死んだのが
平成19年の4月19日だから
逝くよ
逝く
になるって、前に言ったやんか

それが
朝の5時13分だったのね
あと2分だけ違ってたら
ゴー・逝こう
5時15分でゴロがよかったんだけど
そういえば
ぼく
家族の誕生日
ひとりも知らない。
前恋人の誕生日だったら覚えてるのに
バチあたりやなあ。
まるで太鼓やわ。
太鼓といえば
子どものとき
よく
自分のおなかをパチパチたたいてた
たたきながら
歌を歌ってたなあ
ハト・ポッポーとか
千本中立売通りの角に
お酒も出す
タコジャズってタコ焼き屋さんがあって
30代には
そこでよくお酒を飲んでゲラゲラ笑ってた。
よく酔っぱらって
店の前の道にひっくり返ったりして
ゲラゲラ笑ってた。
お客さんも知り合いばっかりやったし
だれかが笑うと
ほかのだれかが笑って
けっきょく、みんなが笑って
笑い顔で店がいっぱいになって
みんなの笑い声が
夜中の道路の
そこらじゅうを走ってた。
店は夜の7時から夜中の3時くらいまでやってた。
朝までやってることもしばしば。
そこには
アメリカにしばらくいたママがいて
ジャズをかけて
「イエイ!」
って叫んで
陽気に笑ってた。
ぼくたちの大好きな店だった。
4、5年前かなあ。
店がとつぜん閉まった。
1ヶ月後に
激太りしたママが
店をあけた。
その晩は、ぼくは
恋人といっしょにドライブをしていて
ぐうぜん店の前を通ったときに
ママが店をあけてたところやった。
なんで休んでたのかきいたら
ママのもと恋人がガンで入院してて
その看病してたらしい。
ママには旦那さんがいて
旦那さんは別の店をしてはったんやけど
旦那さんには内緒で
もと恋人の看病をしていたらしい。
でも
その恋人が1週間ほど前に亡くなったという。
陽気なママが泣いた。
ぼくも泣いた。
ぼくの恋人も泣いた。
10年ぐらい通ってた店やった。
タコ焼きがおいしかった。
そこでいっぱい笑った。
そこでいっぱいええ曲を知った。
そこでいっぱいええ時間を過ごした。
陽気なママは
いまも陽気で
元気な顔を見せてくれる。
ぼくも元気やし
笑ってる。
ぼくらは
笑ったり
泣いたり
泣いたり
笑ったり
なんやかんや言うて
その繰り返しばっかりやんか
人間て
へんな生きもんなんやなあ。
ニーナ・シモンの
Here Comes the Sun
タコジャズに来てた
東京の代議士の息子が持ってきてたCDで
はじめて、ぼくは聴いたんやけど
ビートルズが、こんなんなるんかって
びっくりした。
親に反発してた彼は
肉体労働者してて
いっつもニコニコして
ジャズの大好きな青年やった。
いっぱい
いろんな人と出会えたし
別れた
タコジャズ。
ぼく以外のだれかも
タコジャズのこと書いてへんやろか。
書いてたらええなあ。
ビッグボーイにも思い出があるし
ザックバランもええとこやったなあ。
まだまだいっぱい書けるな。
いっぱい生きてきたもんなあ


There's so many things to do, so many things to write!
(Jack Kerouac, On the Road, PART ONE-1, p.7)


No ideas but in things
事物を離れて観念はない
(ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ『パターソン」第一巻・巨人の輪郭 I、沢崎順之助訳)


「物」をじかに扱うこと。
(エズラ・パウンド『回想』新倉俊一訳)


何年前か忘れたけれど
マクドナルドで
100円じゃなく
80円でバーガーを売ってたときかな
1個だけ注文したら
「それだけか?」
って、バイトの男の子に言われて
しばし
きょとんとした。

何も聞こえなかったふりをしてあげた。
その男の子も
何も言ってないふりをしてオーダーを通した。
このことは
むかし
詩に書いたけれど
いま読んでる『ドクター・フー』の第4巻で
「それだけか?」
って台詞が出てきたので
思い出した。
きのう、帰りの電車の窓から眺めた空がめっちゃきれいやった。
あんまりきれいやから笑ってしもうた。
きれいなもの見て笑ったんは
たぶん、生まれてはじめて。
いや、もしかすると
ちっちゃいガキんちょのころには
そうやったんかもしれへんなあ。
そんな気もする。
いや、きっと、そうやな。
いっつも笑っとったもんなあ。
そや。
オーデコロンの話のあとで
頭につけるものって話が出て
いまはジェルやけど
むかしはチックとかいうのがあってな
父親が頭に塗ってたなあ
チックからポマードに
ポマードからジェルに
だんだん液体化しとるんや。
やわらかなっとるんや。


「知っている」とは、ひとつの度合いに他ならない。
──存在せんがための度合いに。
(ヴァレリー『残肴集(アナレクタ)』八七、寺田 透訳)


すべては見ること
(ジョン・ベリマン『73 カレサンスイ リョウアンジ』澤崎順之助訳)


吉岡 実 の『薬玉』を
湊くんが東京の神田で見つけてくれました
いま、湊くんから電話があって
神田の神保町に来てるんですけど
『薬玉』
きれいな状態で、3500円ですけど、どうしましょうって。
即答した。
買って、買って、買って。
と言った。
うれしい。
日本人の書いた詩集で
ぼくがいちばん欲しかったもの。


問うのは答を得るためだ。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチール・ラット諸君を求む』14、那岐 大訳)


そなの?
そだったの?
詩人の役目は、
ありふれた問いに対して、新たな切り口で問いかけ直すことじゃないの?
答え自体が、新たな問いかけになっているのよ。


There were plenty of queers.
(Jack Kerouac, On the Road, PART ONE-11, p.73)


どうだろう、ゲイに転向するというのは?
(J・ティプトリー・ジュニア『大きいけれども遊び好き』伊藤典夫訳)


夜には昼に教えることがたくさんあるというし、
(レイ・ブラッドベリ『趣味の問題』中村 融訳)


ぼくはいま詩を生きている。夜はぼくのものだ。
(ティム・パワーズ『石の夢』下・第二部・第十八章、浅井 修訳)


だれかがノイズになっているよ。
マシーンが、こくりとうなずいた。
それは言葉ではなく、言葉と言葉をつなぐものに吸収されてしまった。


ウサギがいるよ。
(ジェイムズ・P・ブレイロック『魔法の眼鏡』第三章、中村 融訳)


弟の夢を見た。
部屋の隅にいて
お茶のペットボトルと
シュークリームのいくつか入った袋を目の前に置いて
弟が座っていた。
まだ小さな子どもだった。
かわいらしい弟を抱きしめて齢をきいた。
「いくつになったの?」
「ななつ」
ぼくは、かわいい弟を抱きしめた。
弟は写真を持っていた。
ぼくが付き合っていた男の子の写真だった。
ただにっこりと笑っている顔だったけれど。
無垢な弟は、ただその小さな手に写真を持っていただけだった。
「あっちゃんのお友だちやで」
弟が笑った。
天使のようにかわいらしい弟だった。
目が覚めた。
弟を発狂させた継母のことを思った。
地獄に落ちて死ねばいいと。
はやく地獄に落ちて死ねばいいと。
いま喘息で苦しんで生きているけれど
もっと苦しんで死ねばいいのだ。
父親は、平成19年に死んだ。
ぼくがこころから憎んでいた人間は
2人しかいない。
第一番目の父親はガンで死んだ。
十分に苦しんだだろうか。
そして弟は
無垢な子どものときの姿にもどって
幸せになって欲しい。
ノドに包丁を突きつけたり
自分の体に傷をつけたり
そんなことは忘れて
かわいらしい子供のときの姿に戻って
天国に行って欲しい。
こんな願いを聞き届けてくれる神さまなんていないだろうけど
ぼくは、こころから願っている。
無垢でかわいらしい弟を抱きしめて
ぼくは泣いた。
自動カメラ。
ヒロくんが
自動カメラをセットして
ぼくの横にすわって
ニコ。
ぼくの横腹をもって
ぼくの身体を抱き寄せて
フラッシュがまぶしくって
終わったら、ヒロくんが顔を寄せてきた
ぼくは立ち上ろうとした
ヒロくんは人前でも平気でキッスするから
イノセント
なにもかもがイノセントだった
写真に写っているふたりよりも
賀茂川の向こう側の河川敷に
暮れかけた空の色のほうが
なんだか、かなしい。
恋人たち
えいちゃんと、ぼく。
「宇宙人みたい」
「えっ?」
ぼくは、えいちゃんの顔をさかさまに見て
そう言った。
「目を見てみて」
「ほんまや、こわっ!」
「まるで人間ちゃうみたいやね」
よく映像で
恋人たちが
お互いの顔をさかさに見てる
男の子が膝まくらしてる彼女の顔をのぞき込んでたり
女の子が膝まくらしてる彼氏の顔をのぞき込んでたりしてるけど
まっさかさまに見たら
まるで宇宙人みたい
「ねっ、目をパチパチしてみて。
 もっと宇宙人みたいになる」
「ほんまや」
もっと宇宙人!
ふたりで爆笑した。
数年前のことだった。
もうふたりのあいだにセックスもキスもなくなってた。
ちょっとした、おさわりぐらいかな。
「やめろよ。
 きっしょいなあ」
「なんでや?
 恋人ちゃうん? ぼくら」
「もう、恋人ちゃうで」
「えっ?
 ほんま?」
「うそやで。
うそやなかった。
それでも、ぼくは
i think of you
i cannot stop thinking of you
なんもなくなってからも
1年以上も
恋人やと思っとった。
土曜日たち。
はなやかに着飾った土曜日たちにまじって
金曜日や日曜日たちが談笑している。
ぼくのたくさんの土曜日のうち
とびきり美しかった土曜日と
嘘ばかりついて
ぼくを喜ばせ
ぼくを泣かせた土曜日が
カウンターに腰かけていた。
ほかの土曜日たちの目線をさけながら
ぼくはお目当ての土曜日のそばに近づいて
その肩に手を置いた。
その瞬間
耳元に息を吹きかけられた。
ぼくは
びくっとして振り返った。
このあいだの土曜日が微笑んでいた。
お目当ての土曜日は
ぼくたちを見て
コースターの裏に
さっとペンを走らせると
ぼくの手に渡して
ぼくたちから離れていった。
期末テスト前だから
放課後に補習をしているのだけれど
そこで、ぼくの板書についての話になって
それから、その板書を消すときの話にうつって
「数学の先生って
 黒板の消し方
 みんないっしょやわ。」
「えっ? 
 そなの?
 ぼくは、ほかの先生がどう消してらっしゃるのか
 見たことないから知らないけど。」
「横にまっすぐいって
 すぐ下にいくの。
 それから反対の方向に
 またまっすぐ横にすべらせていくの。
 だから、さいごには
 黒板に横線がいっぱいできるのよ。」
「ほかの教科の先生は
 横に消していかれないの?」
「英語の先生は斜めに消さはるひとが多いわ。」
「でも、国語だったら、縦が合理的じゃないかなあ?」
なんて話をしていました。
ごくふつうにある話なんだろうけれど
ぼくにはおもしろかった。
「数学の先生が、みんないっしょ」というところが、笑。
100円オババは、道行くひとに
「100円、いただけませんか?」
と言って歩いていたのだけれど
まあ、早い話が
歩く女コジキってとこだけど
あるとき、父親と、すぐ下の弟と
祇園の石段下にあった(いまもあるのかな)
初音という店に入って
それぞれ好きなものを注文して食べていると
その100円オババが、店のなかに入ってきて
すぐそばのテーブルに坐って
財布から100円硬貨をつぎつぎに取り出して
お金を数えていったので
びっくりした。
「あれも、仕事になるんやなあ。」
 と父親がつぶやいてたけど
ぼくは
ぜんぜん腑に落ちなかった。
顔を寄せる3人のものたち。
12時半に寝て
2時半に起き
パソコンを起動し
文学極道をのぞいて
だれか見てくれていたかチェックして
会話のところが
一段行頭落としをしていなかったから
それを直して
またパソコンを切って
部屋を暗くしていたら
うとうとしていたら
さっき
3人くらいのものたちが
部屋にはいってきて
顔を寄せてきたので
わっと思って
照明のスイッチを入れた。
3人の姿はなかった。
怖かった。
むかしはデンキをつけたまま寝てた。
消すと、よくひとの気配がして怖かったからだ。
ひさしぶりである。
しかし、3人は多すぎる。
いままで、もう、何度も、何度も
飛翔する夢を見てきた。
けさも、街のうえを飛んでいた。
きのう寝る前に1錠よけいに精神安定剤を服用したせいか
眠りがここちよかった。
おとつい、テーブルの上においていたクスリが1錠すくなかったのだが
そのときには見つからず
4錠で眠りについたのだった。
おとついの眠りは浅かった。
12時すぎに飲んで3時過ぎに目が覚めたのだった。
しかし、けさは、一度目に目がさめたときは5時くらいで
もう一度、横になっているときに
飛翔する夢を見ていたのだった。
街のうえでは、わりとスピードがはやかったのだが
いつのまにか、砂地のうえを
砂地のつづく地面のうえを飛んでいた。
ゆっくりとスピードが落ちていき
地面すれすれになると
ぼくは手を胸の前にだして
とまる準備をした。
ぼくが地面のうえを浮かんで
地面のほうが動いているような感じに思えた。
手が地面についた
そこで目が覚めた。
そして、ようやく、ぼくは気がついたのだった。
いままで、ぼくが飛翔していたと思っていたのだけれど
ぼくは地面のうえに浮かんでいただけで
街のほうが
砂地の地面のほうが動いていたのだった。
まさしく、そういった感じだったのだ。
これも、ゆっくりとスピードが落ちていき
ぼくが徐々に地面に近づいていったから
わかったことだと思うのだけれど
スピードが異なると解釈が異なるという体験は
おそらく初めてのことだと思う。
少なくとも夢のなかでの出来事を観察してのことでは。
これから、夢も、起きているあいだのことも
より示唆に観察しなければならないと思った。
スピードが、着目する点になることがあるとは
ほんとに意外だった。
紙くずを屑入れにほうり投げた。
丸めた紙くずが屑入れの端っこにあたって転がった。
ぼくは転がらなかった。
しかし、ぼくは、まるで自分が落ちて転がったかのように感じたのであった。
あらちゃんが、ぼくのことを心配して部屋に来てくれたとき
朗読会の帰り、自転車で戻ってくる途中で、西大路丸太町のバス停のベンチの上に
ちょうど切断された頭のような形の風呂敷包みが置かれていたことを話した。
ずいぶん、むかし、ゲイ・スナックにきてた
花屋の店員が言ったことだったか
それとも、本で読んだことだったのか
忘れてしまったのだけれど
切花を生き生きとさせたいために
わざと、切り口を水につけないで
何日か、ほっぽっておいて、かわかしておくんだって。
それから、切り口を水にさらすんだって。
すると、茎が急に目を醒ましたように水を吸って
花を生き生きと咲かせるんですって。
さいしょから
たっぷりと水をやったりしてはいけないんですって。
そうね。
花に水をやるって感じじゃなくって
あくまでも、花のほうから水を求めるって感じで
って。
なるほどね。
ぼくが作品をつくるときにも
さあ、つくるぞって感じじゃなくて
自然に、言葉と言葉がくっついていくのを待つことが多いもんね。
あるいは、さいきん多いんだけど
偶然の出会いとか、会話がもとに
いろいろな思い出や言葉が自動的に結びついていくっていうね。
ああ
なんだか
いまは、なにもかもが、詩論になっちゃうって感じかな。


Other dreams.
(John Ashbery, Girls on the Run. XII, p.28)


You can go.
(John Ashbery,Girls on the Run. VIII, p.17)


まだなにか新しいものがある。
(スティーヴン・バクスター『時間的無限大』16、小野田和子訳)


兎の隣には鹿がいる。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』7、船戸牧子訳)


きみはまたぼくと会うことになる
(ジェイムズ・P・ブレイロック『ホムンクルス』5、友枝康子訳)


こんどは何を知ることになるだろう?
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』5、船戸牧子訳)


AMUSED TO DEATH。

  田中宏輔



●ゴホン●ゴホン●ある日●風景が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの風景も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにある風景まで●最初に咳をした風景に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ風景がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じ風景がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●風景の伝染病が広がって●とうとう●すべての風景が●たったひとつの風景になりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ風景じゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●吉田くんが咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの山本くんも●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにいた阿部くんまで●最初に咳をした吉田くんに似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●吉田くんが二人●三人●ゴホン●ゴホンとするたびに●吉田くんが四人●五人●ゴホン●ゴホン●六人●七人●と●吉田くんの伝染病が広がって●とうとう●すべての人が●たったひとりの吉田くんになりましたとさ●あれっ●おおぜいの同じ吉田くんじゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●納豆のパックが咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばのマーガリンも●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあった活性炭入り脱臭剤のキムコまで●最初に咳をした納豆のパックに似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●納豆のパックがふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●納豆のパックがよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●納豆のパックの伝染病が広がって●とうとう●すべての食べ物が●たったひとつの納豆のパックになりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ納豆のパックじゃないの●それにキムコは食べ物じゃないでしょ●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ぷくぷくちゃかぱ●ぷくちゃかぱ●ふくとくぷぷぷ●ふくぷぷぷ●ごごんがてるりん●てるてるりん●ごごんがてるりん●てるりんりん●てるてるりんたら●てるりんりん●ふにふにふがが●ふがふがが●ふにんがふがが●ふにふがが●んがんがんがが●んがんがが●ふにふにふにゃら●ふにふにゃら●ふにふにふにゃら●ふにふにゃら●ぷくぷくちゃかぱ●ぷくちゃかぱ●ぷくぷくちゃかぱ●ぷくちゃかぱ●ぷくちゃくぷぷぷ●ぷくぷぷぷ●ぷくちゃかぷぷぷ●ぷくぷぷぷ●ぷぷぷぷぷぷぷ●ぷぷ●ぷぷぷ●ぷぷぷぷぷぷぷ●ぷぷ●ぷぷぷ●ぷぷぷぷぷぷぷ●ぷぷ●ぷぷぷ●ぷぷ●ぷへっ●ぷへっ●ぷぷぷ●ぷへっ●ぺっ●ぺっ●ぺえええ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつの音が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの音も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあった音まで●最初に咳をした音に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ音がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じ音がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●ある音の伝染病が広がって●とうとう●すべての音が●たったひとつの音になりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ音じゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつの言葉が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの言葉も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあった言葉まで●最初に咳をした言葉に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ言葉がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じ言葉がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●ある言葉の伝染病が広がって●とうとう●すべての言葉が●たったひとつの言葉になりましたとさ●あれ●たくさんの同じ言葉じゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつの意味が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの意味も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあった意味まで●最初に咳をした意味に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ意味がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じ意味がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●ある意味の伝染病が広がって●とうとう●すべての意味が●たったひとつの意味になりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ意味じゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●実際には起こらなかった事が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そのそばのもしかしたら起こったかもしれない事も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●少し離れたところにあった本当に起こった事まで●最初に咳をした実際には起こらなかった事に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●実際には起こらなかった事がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●実際には起こらなかった事がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●実際には起こらなかった事の伝染病が広がって●とうとう●あらゆる事柄が●たったひとつの実際には起こらなかった事になりましたとさ●それって●どうやって見分けんのよ●つーか●一体全体●それって●どういうことよ●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつの*が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの@も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあった[まで●最初に咳をした*に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ*がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じ*がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●*の伝染病が広がって●とうとう●すべての記号・文字・数字・アルファベットなどが●たったひとつの*になりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ*じゃないの●それに●などって何よ●何か他にあるの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ぼくが咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばにいたぼくも●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにいたぼくまで●最初に咳をしたぼくに似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じぼくが二人●三人●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じぼくが四人●五人●ゴホン●ゴホン●六人●七人●と●ぼくの伝染病が広がって●とうとう●すべてのぼくが●たったひとりのぼくになりましたとさ●あれっ●おおぜいの同じぼくじゃないの●それに●そもそもみんなぼくじゃない●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつの風景が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばにいた人も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたら●そのそばにいた人が●最初に咳をした風景に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ風景がふたつできた●でもそのうち●もとは風景じゃなかった方の風景が●ゴホン●ゴホン●咳をすると●もとの人の姿に戻っちゃって●そしたら●もとは風景だった方の風景も●もとは風景じゃなかった方のもとは人だった方の人の姿に似てきて●ゴホン●ゴホンと咳をするたびに●もとは風景じゃなかった方のもとは人だった方の人の姿に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳をするたびに●ふたつの風景は二人の人になったり●二人の人はふたつの風景になったりして●ゴホン●ゴホン●そのうち●咳をするたびに●風景が人になったり●人が風景になったりして●とうとう●どちらがどちらか●わからなくなりましたとさ●あれれー●あなたってば●ただ単に同じフレーズの繰り返しがしたかっただけじゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●うれしいが咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの楽しいも●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●別のところにあった悲しいまで●最初に咳をしたうれしいに似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●うれしいがふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●うれしいがよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●うれしいの伝染病が広がって●とうとう●すべての気持ちが●たったひとつのうれしいになりましたとさ●あれっ●たくさんの同じうれしいじゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつが咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばのふたつも●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあったみっつまで●最初に咳をしたひとつに似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●ひとつがふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●ひとつがよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●ひとつの伝染病が広がって●とうとう●すべての「─つ」が●たったひとつのひとつになりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ「ひとつ」じゃないの●それに「─つ」じゃないのもあるでしょ●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●仕事帰りにミスド行って●ドーナッツ買って●はああ●くだらない●ドーナッツの輪っかと●ミスドのウェイトレスの顔を交換する●運んだトレイと●聞こえてくる50年代ポップスを交換する●はああ●くだらない●コーヒーは●なんだか薄いしぃ●そのコーヒーカップのシンボルマークと●パパの記憶を交換する●バレンチノ●なんで●はああ●くだらない●違うカフェに寄ろうかな●チチチチチチチ●なんだ●これミルフィー●ムフッ●フフ●ファレル●ねえ●ぼくのこと●愛してる●きょうは●もうほとんど寝てた●きれいになる病気がはやってた●ぼくは何年も前にかかって●ラジオで聞いて●知ってたけど●みんなは●あ●ただ●ぼくたちは●くすくす笑って●みんなは●あ●ただ●ぼくたちは●くすくす笑って●まだたすかる●まだたすかる●マダガスカル●かしら●日曜日にかけた電話が土曜日につながる●ボン・ボアージュ●ディア●きみの瞳が写した●ぼくの叫び声は●まだたすかる●まだたすかる●まだたすかる●タチケテー●イヤン●途中で切れちゃったわ●ファレル●ぼくたちの間では●どんなことでも●起こったわけじゃない●信じられないようなことしか起こらなかった●いまでは信じられないような●すてきなことしか●プフッ●モア・ザン・ディス●パパやママは●ばらばらになったり●またひとつになったりしながら●航海する●後悔する●公開する●こう解する●こう理解する●愛しているふりをすることは大切だ●とりわけ●まったく愛していないときには●おお●ジプシー●あらゆるものが愛だ●愛だ●間●思うに●きみは愛しているふりをしながらでしか●愛することができないのだね●おお●ジプシー●きみは●こう理解する●本当のことを言っているはずなのに●しゃべっているうちに●なんだか嘘をまじえてしゃべっているような気がするのだね●嘘を言っていると●ほんとうのことを言っているような気に●木に●きみになってしまうような気に●木に●きみに●なってしまうような●きみに●なるのだね●それはなぜだろう●交換する●転移させることに意味はない●交換する●転移させることに意味はない●交換する●転移ではない●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●ハインリヒの夢のなかに現われた青い花を置いてみる●プッ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●これまでぼくが書いてきたたくさんのぼくを置いてみる●プッ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●等比級数的に増加していくうんこを置いてみる●ブリブリ●ププッ●ププッ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●さっきテレビで見たベネチアの美しい街並みを置いてみる●フウム●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●人間を置いてみる●もちろん●あらゆるすべての人間を●プフッ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●時間を置いてみる●時間というものそのものを●ブッフッフ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●ひとつの波を置いてみる●これって●ちとリリカルでしょ●フニッ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●かつてぼくを傷つけたひとつの言葉を置いてみる●フフンッ●だー●道を歩いていて●通りの向こうからやってくる人を●女性だった●車道をはさんだ●向こう側の道に置いてみる●目のなかで●そうなってることをイメージする●うっすらだが●反対側の道から●その人がやってくるのが見える●しかし●こちら側の道でも●向こうの方から歩いてくるその人の姿が目に見える●そこで●今度は●その二人を交換する●二人の映像は●多少濃淡の違いがあったのだけれど●交換すると●その違いが少なくなった●そこでさらに●二人の姿を交換する●二人が近づいてくる●交換する●二人が近づいてくる●こちらの人をあちらに●あちらの人をこちらに●交換する●スピードをあげて●交換する●二人は●ぼくにどんどん近づいてくる●ぼくは二人にすれ違った●ぼくも二人いたのだ●ブフッ●二人は近づいてくる●どんどん●ぼくに近づいてくる●反対側の道にいる人をこちらに置いて●こちらの側にいる人を反対側に置こうとしたら●反対側にいて●ぼくがこちら側に置いた人の方が●消えてしまった●二人は近づいてくる●近づいてくる●どんどん近づいてくる●すると●ぼくの傍らを二人が通りすぎた●通り過ぎていった●ぼくとすれ違って●道はひとつじゃなかったけど●ぼくたちはすれ違ってしまった●反対側の道の向こうには●ぼくの後姿が見えた●振り返ると●その人は二人いて●前を見ると●反対側の道とこちら側の道の上に●ぼくから遠ざかるぼくの後姿があって●ぼくは●ぼくとすれ違う●たくさんの人たちのことを思った●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくは●ぼくとすれ違う●たくさんのぼくのことを考えた●記憶が●蝶の翅のように●ひらいたり●とじたりする●そのスピードはゆっくり●蝶は●記憶を●ひらいたり●とじたり●違った●いや●違わない●わたしは●翅をひらいたり●とじたりして●記憶を呼び覚ます●アー・ユー・クレイジー・ナウ●ぼくは救急車になりたかった●あ●違う●救急隊員に●プフッ●あ●違わくない●うん●まっ●どっちでもいいや●プフッ●交換する●交歓する●交感する●こう感ずる●こう感ずる●パパがママを食卓で食べてる光景●ファレル●ぼくはきみを傷つけたりなんかしないよ●たとえきみが●ぼくに傷つけられたいと望んでも●ただひとつの言葉●たったひとつの単語が●長い文章に●複雑で遠大な意味を与える●海に落とされた一滴のぶどう酒と同じように●ってか●プフッ●パパとママの首を交換する●60歳になったら選べるの●そのまま人間の姿で●あと1年過ごすか●犬の姿となって3年生きるか●って●だとしたら●どうする●パパとママが戻ってきた●戻ってきたパパとママは●ぼくがミルクを入れておいたミルク皿に顔を突っ込むようにして●ミルクを飲んだ●ひとつのミルク皿にはいったミルクを●パパとママは同時に飲もうとして●頭と頭をゴッツンコ●わわんわんわん●わわんわん●だって●プフッ●朝霧をこぶしに集め●樹は●わたしの顔の上にしずくをもたらす●水滴は●わたしの顔面ではね●地面の上にこぼたれた●雨は●と●父は言った●地面に吸われ●地面はまた太陽に温められ●水蒸気を吐き出す●こころとは●地面のようなものであり●思いとは●雨のようなものだ●と●わたしが死んでも●その場所はあり●その場所に雨は降るのだ●と●フォロー・ミー●ファレル●水蒸気は塵や埃を核として凝集して水滴となる●水滴は水滴と合わさって●雨となる●思いもまた●なにかを核として●それは感覚器官がもたらすものであったり●無意識領域で息をひそめていたなにものかであったり●それらがはっきりとした形を取ったものであろう●そのはっきりとした形にさせるもの●その法則のようなものがロゴスであり●そして●そのはっきりとした形を取る前のものも●そのはっきりとした形を取ったものも●またロゴスに寄与するのだから●その区別が難しい●わたしが死んでも●その場所はあり●その場所に雨は降るのだ●と●パパ●絵になる病気がはやってた●最初はやせていくので喜んでいた人もいた●どんなポーズで絵になるか考えた人たちもいた●どんな格好で絵になるか気にしない人もいた●しかし●突然●絵になるので●どんなにポーズをとっても●その望んだポーズで絵になることは難しかった●あとから●他の人の絵に加わる人もいた●自分の親や子供の絵のそばで●恋人たちの絵のそばにいて●彼らの傍らでやせていく自分の姿を見ながら●自分の傍らで絵になった彼らの親や子供や恋人たちの絵を見つめながら●絵になっていく人もいたし●憎んでいる者のそばで●じっと絵になるのを待っている者もいた●ものすごい形相をして●しかし●あとから加わっても●もとの絵にしっくりくるものは少なかった●絵のタッチがどれも異なるものだから●あとから加わるのは●あまりおすすめじゃなかった●絵になる病気●これって●これまで画家たちが●多くの人間を絵のなかに閉じ込めてきた●絵の復讐かな●絵のなかの人物たちの生身の人間に対する復讐なのかしら●ぼくもとうとう絵になるらしかった●最初は●ぼくもおなかがへっこんでよろこんでたんだけど●ううううん●ファーザー●ぼくは●どんなポーズをとろう●とったらいい●ま●どんなポーズでもいいけどね●ああ●あとどれぐらいしたら●絵は●ぼくになるんだろう●てか●あっ●ファーザー●ぷくぷくちゃかぱ●てか●あっ●ファーザー●ぷくぷくちゃかぱ●てか●あっ●あっ●あっ●あっ●きたわ●きたわー●ひさしぶりに●きたわあ●頭にきたのよお●なんで●わたしが謝らなきゃなんないわけ●それに●なによ●あのやり方●直接言いなさい●直接●バカのくせに陰険なのよ●まあ●バカは陰険なものだけど●プフッ●そんなわけで●もう耐えられません●いつも被害を受けるのは●わたしの方ばかり●このまま●やってきたことに対して●たいした評価もあるわけではないのですが●これもオリンピック開催国の事情によると思います●テロの予告も日増しに●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●人工肛門・マダガスカルの夜は●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●人工肛門・マダガスカルの夜は●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●おとつい●おっと●つい●お●違う歯●あ●違うわ●ちょっと前ね●おとつい●って言葉が好きなの●ううううん●考えごとをしながら歩いてると●車に轢かれそうになって●この感じ●この感じ●この漢字●書けないわ●ひとりでは●にっこりしぼんで●しぼって●しおれて●しおって●でも●運転手がバカだから●ぼくを轢かないで●ワードでなかったら●こんな字●ぜったいに書かないわ●ブヒッ●この感じ●この感じ●この感じよおおおおおおおお●前を歩いてた男の子を●轢いちゃった●の●よおおおおおおおおおおおおお●この感じ●この感じ●この感じよおおおおおお●ぼくの目の外では●その子は●ヘンな音を立てて●道路に●べちゃ●ぼくの目のなかでは●その子は脚のない木の椅子のように立ちすくんで●ギコギコ音を立てて●バタン●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●人工肛門の夜・マダガスカルの夜は●木になって●気になって●木になって●しかたがなかった●人工肛門・マダガスカルの夜は●ピン札●言葉は●言葉の上に●言葉をつくり●言葉は●言葉の下に●言葉をつくる●ゆきちちゃん●ありがとう●いつまでも●ぼくといっしょにいてね●プッ●宇宙船片手に●ホームステイ●人工肛門・マダガスカルの夜は●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●精神とは●精神の働きを意味する●あるものに精神があるというのは●対象とするものがあって●それを知覚し●そこからなにものかを統合する作用が起こるということであって●そこからなにものかを統合する作用が起こらない場合●それには精神の働きがない●精神がない●と●言●わ●ざ●る●を●得●な●な●な●な●な●な●な●人工肛門・マダガスカルの夜は●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●ベイベエ●それより面白いのは●ぼくたちのなれそめ●ぼくと詩との●あー●あ●そう●陶酔間●間●缶●巻●観●冠●感●ね●陶酔感●イッパツで出ろっちゅうねん●あ●あの子は●どうしてるだろ●ヘンな音立てた●あの男の子●ベスト●ぼくがいままで見た子のなかで●いちばんかわいい後ろ姿してた●あの子●太い太ももが●細い太ももって書くとヘンね●書いてないけど●おっきなお尻と●グッド・ミュージックが流れてた●詩には音楽があって●あ●言葉には●音楽があって●でも●きっと詩の音の構造に対してきわめて敏感なぼくの耳は●意味の構造に対しても●きわめて敏感でね●意味の構造に対して敏感だと思ってる詩人のなかに●音の構造に対して敏感な者がどれぐらいの割合でいるのか●たぶん●ほとんどいない●情けないわ●情けないわ●ほとんどの詩人は贋者なのよ●本物は●ぼくぐらいって●そんなの●情けないわあ●ああ●なんで●なんで●なんで●いつも●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●人工肛門・マダガスカルの夜は●ぼくのほほに●燃えるくちづけ●なぜ●産むものより●生まれるものの方が先に生まれてきたのか●ぼくのために●ただひとりきり●ぼくひとりきりのためだけに●ヘンな音立てた●あの子!


THE GATES OF DELIRIUM。──万の川より一つの川へ、一つの川より万の川へと

  田中宏輔



 いま、わたしは、西院というところに住んでいるのだが、昨年の三月までは、北山大橋のすぐそば、二十歩ほども歩けば賀茂川の河川敷に行けるところに三年間いた。その前の十五年間は、下鴨神社からバスで数分の距離のところで暮らし、さらにその前の六年間は、高野川の近くにアパートを借りて、学生時代を過ごしていた。それ以前は、東山の八坂神社のそばの祇園に家があって、そこで生まれ育ったのであるが、そこから京都随一の繁華街である四条河原町までは、歩いてもせいぜい十分かそこらしかかからなかった。子供のころから学生時代まで、河原町にはよく遊びに行ったが、その河原町と祇園を挟んで鴨川が流れている。京都の中心を流れているともいえるその鴨川を上流にさかのぼると、二つの支流に分かれる。賀茂川と高野川である。逆に見ると、賀茂川と高野川が合わさって、本流の鴨川になるのだが、白地図で見ると、その形はYの字そのものといった形をしており、まるでビニール人形の股間のように見える。ところが、色のついたカラーの地図で眺めると、二つの川の合わさるところ、その結ぼれには、糺(ただす)の森という、まるで女体の恥毛のようにこんもりと茂った森があり、この森の奥に下鴨神社があり、この森の入り口に河合神社がある。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止(とゞ)まる事なし。世の中にある人と住家(すみか)と、またかくの如し。」という、よく知られる言葉で序を告げる『方丈記』を記した鴨 長明は、この河合神社の神官の家の出である。二つの川が合わさるところにあるから河合神社というのかどうかは知らない。たぶんそうなのだろう。二つの川が合わさって一つの川になるという、このことは、わたしに、「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」という崇徳院の歌を思い出させるのだが、ただちにそれはまた、プラトンの『饗宴』にある、「かくて人間は、もとの姿を二つに断ち切られたので、みな自分の半身を求めて一体となった。」(鈴木照雄訳)という言葉を思い出させる。そういえば、イヴの肉は、アダムの肉から引き剥がされてできたものではなかったか。一つの身体が引き裂かれて、二つの身体になったのではなかったか。「裏切りに基づく生は生とはいえない。」(ノサック『ルキウス・エウリヌスの遺書』圓子修平訳)「確かかね?」(J・G・バラード『地球帰還の問題』永井 淳訳)「裏切りは人間の本性ではなかったかな?」(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・7、冬川 亘訳)「私たちの魂は裏切りによって生きている。」(リルケ『東洋風のきぬぎぬの歌』高安国世訳)「もし僕たちの行為が僕たちを裏切り、そしてぼくたちの考えも僕たちを裏切って本心を明らかにしないとすれば、いったい僕たちはどこにいるのか?」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)「ああ、私たちは何処に存在する?」(リルケ『オルフォィスに寄せるソネット』第二部・26、高安国世訳)「愛のことは/何もかも知っているのに、その愛を感じられなかった。」(オーデン『戦いのときに』VIII、中桐雅夫訳)「人間であることは、たいへんむずかしい」(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)。「人間であることはじつに困難だよ」(マルロー『希望』第二編・第一部・7、小松 清訳)。「それが人生なのよ」(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・16、大西 憲訳)。「不潔なのよ!」(ロバート・J・ソウヤー『ゴールデン・フリース』16、内田昌之訳)「で、彼を愛してた?」(ジョン・ヴァーリイ『ブルー・シャンペン』浅倉久志訳)「いうまでもないことだけれど、きれいだったよ、みんな。」(マーク・レイドロー『ガキはわかっちゃいない』小川 隆訳)「すべてをもと通りにしたいのかね?」(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』9、三田村 裕訳)「どうして二千年前にそうしなかった?」(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』2、宇佐川晶子訳)「結局のところ、われわれはみな死からよみがえった人間じゃないんですか?」(J・G・バラード『執着の浜辺』伊藤 哲訳)「そうだよ。」(ウィリアム・ホープ・ホジスン『闇の海の声』矢野浩三郎訳)「いやんなっちゃう!」(A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)「だれが彼を再生する?」(ジーン・ウルフ『警士の剣』20、岡部宏之訳)「わたしを選びたまえ。」(J・G・バラード『アトリエ五号、星地区』宇野利泰訳)「すごく大きいわね!」(ブライアン・W・オールディス『唾の樹』中村 融訳)「信じられない!」(クルストファー・プリースト『イグジステンズ』第1章、柳下毅一郎訳)「凄いわ」(サバト『英雄たちと墓』第I部・9、安藤哲行訳)。「おかしいわ。」(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』I・1、宇野利泰訳)「すると、くすくす笑って、おしまい。」(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』上・2、矢野 徹訳)「何のこっちゃ。」(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが内なる廃墟の断章』11、伊藤典夫訳)「どうしていつも笑ってばかりいるの?」(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)「いまのうちじゃ。」(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』10、石井桃子訳)「あんたは、ぼくの世界が好きかい?」(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・8、冬川 亘訳)「春はまたよみがえる!」(フィリップ・K・ディック『シビュラの目』浅倉久志訳)「そのながめは、その瞬間には現実であり、そのあとではたぶん想像されたものになるわけだけれど、光子のパターンとして視覚神経のマトリックスに表示され、ほぼデジタル化された神経電荷として脳にはいり、記憶、快感、その他の中枢に放電する。」(ヒルバート・スケンク『ハルマゲドンに薔薇を』第二部、浅倉久志訳)「一秒の百万分の一という時間も、観念連合繊維束と神経組織の協調には大事なのですわ。」(ハインリヒ・ハウザー『巨人頭脳』3、松谷健二訳)「ナポレオンの象徴は、ハチだった」(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)。「おまえの頭は、カエルでいっぱいなんだ。」(ブライアン・W・オールディス『地球の長い午後』第一部・10、伊藤典夫訳)「死んだひきがえるだ。」(ガッダ『アダルジーザ』アダルジーザ、千種 堅訳)「そうだ。そのことは蜂の巣によっても証明される」(稲垣足穂『水晶物語』9)。「気でもちがったのかい?」(アイザック・アシモフ『記憶の隙間』6、冬川 亘訳)「蜜蜂が勝手にあんなものを作るのである」(稲垣足穂『放熱器』)。「どうして頭がおかしくなったの?」(オースン・スコットカード『辺境の人々』西部、友枝康子訳)「それは主観的なことじゃ。」(アンソニー・バージェス『アバ、アバ』4、大社淑子訳)「もうぼくを愛していないのかい?」(E・M・フォースター『モーリス』第二部・25、片岡しのぶ訳)「どうして気がついたの?」(クライヴ・パーカー『魔物の棲む路』酒井昭伸訳)「いやあああ!」(リチャード・レイモン『森のレストラン』夏来健次訳)「ぼくを愛してると言ったじゃないか。」(ジョージ・R・R・マーティン『ファスト・フレンド』安田 均訳)「ぼくがどれだけきみを愛してるか知ってるだろう?」(ピーター・ストラウヴ『レダマの木』酒井昭伸訳)「だったらいったいなんだ?」(スティーヴン・キング『クージョ』永井 淳訳)「ただ一つ、びっくりした」(サバト『英雄たちと墓』第I部・3、安藤哲行訳)。「人生は驚きの連続だ。」(エマソン『円』酒本雅之訳)「驚きあってこその人生ではないか。」(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』上・第三部・32、酒井昭伸訳)「牛についてなにを知っている?」(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』8、川副智子訳)「牛だって?」(ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第七部・IV、友枝康子訳)「ママじゃなくて?」(オースン・スコットカード『辺境の人々』西部、友枝康子訳)「そうだ、牛じゃ」(サバト『英雄たちと墓』第I部・12、安藤哲行訳)。「その牛の話をしてよ」(ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第七部・IV、友枝康子訳)。「じゃあ、もう、さよならだな」(ウィリアム・S・バロウズ『爆発した切符』おまえたちのあるべき姿を示したぞ、飯田隆昭訳)。「わたしに生まれなさい。」(ロバート・シルヴァーバーグ『確率人間』13、田村源二訳)「もう一度生まれ変ってみなさい」(フエンテス『脱皮』内田吉彦訳)。「何度でも生まれ直すんだ。」(ロバート・シルヴァーバーグ『いまひとたびの生』1、佐藤高子訳)「そろそろ」(レイ・カミングス『時間を征服した男』6、斎藤伯好訳)、「イエズスを呼び出して見せようかね?」(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第四章、渡辺一夫訳)「再生にかかってよいかね?」(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが内なる廃墟の断章』9、伊藤典夫訳)「しっ」(メリッサ・スコット『天の十二分の五』6、梶元靖子訳)、「しいっ。」(ルーディ・ラッカー『ソフトウェア』20、黒丸 尚訳)「もうひとめぐりさせるだけの時間は、まだある」(J・G・バラード『22世紀のコロンブス』第二十六章、南山 宏訳)。「ああ」(スチュアート・カミンスキー『隠しておきたい』押田由起訳)、「どこまで話したっけ?」(アーシュラ・K・ル・グィン『シュレディンガーの猫』越智道雄訳)。そうだ。二つの川が合わさるって話だった。しかしまた、「一、それは二である」(メリッサ・スコット『天の十二分の五』6、梶元靖子訳)。合わさって一つとなった川は、また分かれて二つになることもあるだろう。この言葉は、先の長明の言葉とともに、エンペドクレスの「ここにわが語るは二重のこと──すなわち、あるときには多なるものから成長して/ただ一つのものとなり、あるときには逆に一つのものから多くのものへと分裂した。」(『自然について』十七、藤沢令夫訳)といった言葉や、ヘラクレイトスの「万物から一が出てくるし、一から万物も出てくる。」(『ヘラクレイトスの言葉』一〇、田中美知太郎訳)といった言葉を思い起こさせる。そういえば、一人だったアダムが、その身を引き裂かれ、アダムとイヴの二人となり、幾たびか、二つの身体が一つとなり、一つの身体が二つとなって、カインやアベルやその他多くの子どもたちになったのではなかったか。マタイによる福音書の第一章における冒頭のイエス・キリストの系譜も、流れる川の名前を書き留めたもののように思えてくる。また、ヘラクレイトスの言葉といえば、「同じ川に二度入ることはできない。……散らしたり、集めたりする。……出来上がり、またくずれ去る。加わり来たって、また離れる。」(『ヘラクレイトスの言葉』九一、田中美知太郎訳)といった有名な言葉も思い出されるが、以前、テレビで、富士山の雪解け水が支流のひとつに流れ込むのに数百年かかることがあるというのを見たのだが、さまざまな支流が結びついて本流をつくり出すのだから、川のなかでは、さまざまな時間が流れていることになる。何年も前に降った雪や、何ヶ月も前に降った雨が、同じ一つの川のなかに流れているのだ。「河は同じでも、その中に入って行く者には、あとからあとから違った水が流れてくる。」(ヘラクレイトス『ヘラクレイトスの言葉』一二、田中美知太郎訳)。何週間も前に死んだ牛や、何ヶ月も前に掘り出されて凍らされたジャガイモやニンジンたちも、一つのシチュー鍋のなかで、ぐつぐつと煮られる。人間の肉体や精神も同じだ。高校までに習い覚えた国語の知識と、他人の書いたものから適当に言葉を抜き出して引用するという、かっぱらいの技術で、わたしもまた、いま書いている、このような詩稿が書けるようになったのである。「人生とは年月から成り立っているのだろうか、分秒から成り立っているのだろうか」(リチャード・マシスン『人生モンタージュ』吉田誠一訳)。「果物の話はしたかしら?「(ルーシャス・シェパード『黒珊瑚』小川 隆訳)「ぼくが発見したことがなんだか知っているかい?」(トーマス・マン『ファウスト博士』七、関 泰祐・関 楠生訳)。川には、牛もまた流れるということ。大学院の二年生のときのことである。前日の激しい台風が嘘のように思われる、よく晴れた日の午後のことであった。賀茂川の下流に、膨れ上がった一頭の牛が流れていたのである。アドバルーンのように膨れ上がった牛の死骸が、ぷかぷかと浮かびながら、ゆっくりと川を下っていくのを、恋人といっしょに眺めていたことがあったのである。「牛を見に行こう」(レイ・ブラッドベリ『刺青の男』狐と森、小笠原豊樹訳)。そういえば、わたしがはじめて書いた詩のタイトルは、「高野川」だった。それはまた、一九八九年度発行の「ユリイカ」八月号の詩の投稿欄に掲載されたのだった。そのときの選者は吉増剛造さんで、わたしの初投稿の拙い詩を選んでいただいたのであった。「いい詩だよ、覚えてるかね?」(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・18・大西 憲訳)。インドでは、「詩人のつくった詩に対する最高の讃辞は、「なんとすばらしい詩であろう、まるで牛の鳴き声のようだ」という」(文藝春秋社『大世界史6』)。「きれいな花ね。」(ジョン・ウィンダム『野の花』大西 尹訳)「牛だ──」(フィリップ・K・ディック『いたずらの問題』23、大森 望訳)「花じゃないの?」(ブライアン・W・オールディス『唾の樹』中村 融訳)「花がなんだというのかね。」(ホラティウス『歌集』第三巻・八、鈴木一郎訳)「花が、何百もの小動物や小鳥を宿している」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』2、岡部宏之訳)。「凍らされて、それがこなごなに砕けちる感じ!」(グレッグ・イーガン『行動原理』山岸 真訳)「そうそれよ」(フィリスコ・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』17、藤井かよ訳)。「本当にいろんなことが起きるのね」(タビサ・キング『スモール・ワールド』1、みき 遙訳)。「頭の中で出来事を再構成しているのだ。」(マーガレット・アトウッド『侍女の物語』23、斎藤英治訳)「ぼくは違った光を見たいんだ」(エリザベス・A・リン『遙かなる光』1、野口幸夫訳)。「経験とは何か?」(バリントン・J・ベイリー『知識の蜜蜂』岡部宏之訳)「おまえの幸福はこの中にあるのだろうか」(リルケ『リース』I、高安国世訳)。「幸せだったのだろうか?」(サバト『英雄たちと墓』第I部・20、安藤哲行訳)「幸せな苦痛だった、いまでもそうだ」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第三幕・第四場、石川重俊訳)。「幸福でないものがあるだろうか?」(ブライアン・W・オールディス『暗い光年』1、中桐雅夫訳)「たぶん、私の幸せはそこにあった、しかし」(ネルヴァル『火の娘たち』シルヴィ・十四、入沢康夫訳)、「その忘れがたいすばらしい思い出によって、われわれはいつも被害を受けるのだ」(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』1、野谷文昭訳)。「過去は忘れなさい。忘れるために過去はあるのよ。」(デニス・ダンヴァーズ『エンド・オブ・デイズ』上・11、川副智子訳)「人は幸せなしでもやっていけるもの。」(ジュリエット・ドゥルエの書簡、ヴィクトル・ユゴー宛、一八三三年、松本百合子訳)「けれどその花は」(ギヨーム・アポリネールの書簡、ルー宛、平岡 敦訳)。「じつを言えば、たいていなにをやっていても楽しいのだ。」(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』13、安原和見訳)「その花は?」(J・T・バス『神鯨』10、日夏 響訳)「なんだかをかしい。」(川端康成『たんぽぽ』) 「上の人また叩いたわ」(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)。「きみにいたずらをした男かい?」(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』3、友枝康子訳)「幸福でさえあれば、ちっとも構わないじゃない?」(ジョン・ウィンダム『地衣騒動』1、峯岸 久訳) 「人間はまったくの孤独におかれると死ぬ。」(コードウェイナー・スミス『ナンシー』伊藤典夫訳)「ひとりにしておいて欲しい?」(ノサック『弟』4、中野孝次訳)「誰がかつて花の泣くのを見たことがあるでしょうか。」(ゲオルゲ『夏の勝利』あなたはわたしといっしょに、手塚富雄訳)「花?」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)「花をなぜ放っとかないんだ?」(ウィリアム・S・バロウズ『爆発した切符』おまえたちのあるべき姿を示したぞ、飯田隆昭訳)「時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』17、岡部宏之訳)「一秒は一秒であり一秒である。」(アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』一九〇五年四月二十八日、浅倉久志訳)「相変わらずぶんぶんうなっとるかね?」(ジョン・ウィンダム『宇宙からの来訪者』大西尹明訳)「ぶんぶんいう以外に罰当たりなことはしやしませんよ」(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』一冊目・六月二十一日、野口幸夫訳)。「ぼくは詩が書きたかった。」(ロジャー・ゼラズニイ『伝道の書に薔薇を』2、大谷圭二訳)「ぼくは詩人ではない。」(E・M・フォースター『モーリス』第四部・38、片岡しのぶ訳)「もう詩を書く人間はひとりもいない。」(J・G・バラード『スターズのスタジオ5号』浅倉久志訳)「花じゃないの?」(ブライアン・W・オールディス『唾の樹』中村 融訳)「だまっててよ、ママ。」(フリッツ・ライバー『冬の蠅』大谷圭二訳)「だれにでもできるってことじゃないんだから。」(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』1、石井桃子訳)「枝にかへらぬ花々よ。」(金子光晴『わが生に与ふ』二)「近くに行ったら、花が自(おのずか)ら、ものを言おう。」(泉 鏡花『若菜のうち』)「花も泣くのだ」(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』60、細美遙子訳)。「子どもたちは花を持ってきてくれるだろう。」(エマソン『霊の法則』酒本雅之訳)「牛など丸ごと呑みこんでしまう」(R・A・ラファティ『完全無欠な貴橄欖石』伊藤典夫訳)「百合の花だ。」(ネルヴァル『火の娘たち』アンジェリック・第十の手紙、入沢康夫訳)「ひとつの自然は別の自然になりえねばならぬ」(マルスラン・プレネ『(ひとつの自然は……)』渋沢孝輔訳)。「なにもかもがわたしに告げる」(ホルヘ・ギリェン『一足の靴の死』荒井正道訳)。「神がそこにいる。」(ベルナール・ウェルベル『蟻の時代』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)「と」(アルフレッド・ベスター『願い星、叶い星』中村 融訳)。「神だって?」(ロバート・シルヴァーバーグ『ガラスの塔』31、岡部宏之訳)「神を持ち出すなよ。話がこんぐらがってくる」(キース・ロバーツ『ボールダーのカナリア』中村 融訳)。「まるで金魚のようだ」(グレッグ・ベア『永劫』下・57、酒井昭伸訳)。「それ、どういう意味?」(J・G・バラード『逃がしどめ』永井 淳訳)「意味がなければいけないんですか?」(キャロル『鏡の国のアリス』6、高杉一郎訳)「馬鹿の非難も聞いてみると堂々たるものである。」(ブレイク『天国と地獄との結婚』地獄の格言、土居光知訳)「ぼくが裏切るだろうと期待してはいけない。」(コクトー『阿片』堀口大學訳)「精神はその範囲外にあるものは考えることができない。」(バルザック『セラフィタ』四、蛯原〓夫訳)「だが、考えることをやめてはいけない。」(ポール・アンダースン『脳波』3、林 克己訳)「だから、こんどはなにをする?」(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』8、石井桃子訳)「敵打(かたきうち)がしたいのでっしゅ。」(泉 鏡花『貝の穴に河童のいる事』)「してはいけない。」(ジュール・ヴェルヌ『カルパチアの城』5、安東次男訳)「だれもこのことは知っちゃおらんぞ。不意(ふい)うちじゃ。」(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』10、石井桃子訳)「夜は、もはやない。」(ヨハネの黙示録二二・五)「だれかが、ぬすんだんじゃよ。」(A・A・ミルン『クマのプーさん』4、石井桃子訳)。食器棚からコーヒーカップを二つ取り出して振り向くと、カシャ、カシャ、カシャ、連続写真、猿が猿の仔を岩に叩きつけている。頭のつぶれる音が、グシャ、グシャ、グシャ。両手に持ったコーヒーカップに目を落とすと、高速度連続写真、トランプ・カードで、指がポロポロと、ポロポロと落ちていく。まるで熱いアイロンの下の、ミミズと蝙蝠の幸福な出会いのように美しい。おまえたちは取税人である。東に税を払わぬ者がおれば、その者たちの親の首を刎ねよ! 西に税を払わぬ者がおれば、その者たちの子の首を刎ねよ! さらし首よ! 笑い者どもよ! 川はさまざまなものを引き裂き、相結ばせる。吉田くんの家では、ガッチャマンと家庭崩壊が結びつき、劇場映画館では、エイリアンとゾンビたちが手をつなぎ合ってスクリーンに見入っている。伊藤くんちの食卓では、ただパパとママの首が入れ換わっているだけだけど。笑。人間は、生きているうちに、天国にも地獄にも行くのだ。人生のことを知るためには、何度も何度も天国と地獄の間を往復しなければならないのだ。「私たちは離れ離れに投げ出され」(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)、「一つに集められ」(アウグスティヌス『告白』第十巻・第四十章・六五、山田 晶訳)、「離れ離れに投げ出され」(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)、「一つに集められ」(アウグスティヌス『告白』第十巻・第四十章・六五、山田 晶訳)、「離れ離れに投げ出され」(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)、「一つに集められ」(アウグスティヌス『告白』第十巻・第四十章・六五、山田 晶訳)、「瞬間は永遠に繰り返す。」(イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)「われわれは存在すると共に、また存在しないのである。」(ヘラクレイトス『ヘラクレイトスの言葉』四九、田中美知太郎訳)「わかるかしら?」(アーシュラ・K・ル・グィン『ショービーズ・ストーリイ』小尾芙佐訳)「ぷっ!」(ジャック・ヴァンス『竜を駆る種族』9、浅倉久志訳)「じゃないかと思ってたの。」(マイケル・コニイ『ハローサマー・グッドバイ』14、千葉 薫訳)「それより」(ヘミングウェイ『フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯』大久保康雄訳)、「コーヒーのお代りは?」(ロジャー・ゼズニイ『ドリームマスター』1、浅倉久志訳)「コーヒー?」(ロバート・B・パーカー『約束の地』12、菊池 光訳)。我もまた、ヘラクレイトスに倣いて歌う、万(よろず)の川より一つの川へ、一つの川より万(よろず)の川へと。行く川のほとりはミシシッピー。マーク・トウェインが息子の女装を解除する朝、バーガーショップの見習い店長がピピリンポロンとチャイムを押すと、テーブルの上ではウェイトレスが流れ、鉄板の上では手のひらが叫び、閉所恐怖症の客たちが、躍り上がってコップに落ちる。現実と現実が出合い、一つの非現実となる。虚無と虚無が出合い、一つの存在となる。では、小さな人よ、戦争と戦争が出合って、一つの平和となるのか? 擬態し、擬装する川たち。賀茂川はセーヌに擬態し、セリーヌは&#40407;外に擬装する。「蜂だ!」(アルフレッド・ベスター『昔を今になすよしもがな』中村 融訳)「もうきたかい?」(スタニスラフ・レム『泰平ヨンの航星日記』第十四回の旅、袋 一平訳)「蜂の巣のなかの完全共同作業。」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)「なぜ蜜蜂は、女王、雄、働き手と分かれていながら、なおかつひとつの大きな家族として生きているのだろう? なぜなら、かれらにとってはそれがうまくいくからだ。」(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』1、矢野 徹訳)。一寸法師は流れ、どんぶりは流れ、桃太郎は流れ、朔太郎は流れ、乙姫は流れ、おじいさんは流れ、おばあさんは流れ、風評は流れ、そうめんは流れ、立て看板は流れ、キャンパスは流れ、大学は流れ、ピンキーとキラーズは流れ、百万のさじは投げられ、太宰は流れ、死のフーガは流れ、ゲロチョンは流れ、ケロヨンは流れる。クック、クック、クッ。川のなかから、受話器を持つ手が現われた。「神聖な牛よ(こいつは、おどろいた)!」(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』下・25、矢野 徹訳)「うるわしい雌牛たちよ!」(イアン・ワトスン『知識のミルク』大森 望訳)「神さまは美しい物を、何てたくさんお造りになったのかしら」(プイグ『赤い唇』第二部・第十五回、野谷文昭訳)。「気にいったかい?」(R・M・ラミング『神聖』内田昌之訳)。川よ、瞬時に凍れ! 凍らば、直立せよ! ってか。むかし、3高と3Kって、同じことをさして言ってる言葉だと思ってた。3高ね、3高。「そうね、結婚するんだったら、ぜったい3高よね。高学歴・高収入・高身長の人よね。そのために、バッチシ整形もしたんだからさあ。」「あ〜ら、あたしの彼も3高よ! 高年齢・高血圧・高コレステロールなのよ。そのため、毎日、病院通いなのよ。」ふふん、な〜るほどね。はやく死んでくれってか。笑。産みなおしたろか、おまえらも。「愛の訪れは、こうまで長い年月を待たねばならぬものか。」(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』II・1、宇野利泰訳)「すべては失われたものの中にある。」(アンナ・カヴァン『失われたものの間で』千葉 薫訳)「すべてが記憶されていたのか?」(グレッグ・ベア『女王天使』下・第二部・54、酒井昭伸訳)「記憶はあらゆる場所にある。」(ウィリアム・ギブスン原案・テリー・ビッスン作『J・M』8、嶋田洋一訳)「時と場所も、失われたもののひとつだ。」(アンナ・カヴァン『失われたものの間で』千葉 薫訳)「思い出された事実には重要なことなど何もない、大切なのは思い出すという行為それ自体なのだ。」(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)。物質の構成。吉田くんは、山本くんと斉藤さんと水田くんからできている。あの人の鼻水。でも、森本くんと清水くんとの共有結合は、寺田さんと馬場くんとの共有結合よりエネルギーが大きい。あの人の鼻水。ページをめくると、血が出ませんか? 汗にまみれた脇の下では、蟻の塊がうごめいている。脇の下のそのやわらかい皮膚につぎつぎと咬みついていく。わたしを知らない鳥たちが川の水を曲げている。わたしのなかに曲がった水が満ちていく。「真実なんて、どこにあるんだろう?」と、ぼく。「きみが求めている真実がないってことかな?」と、シンちゃん。出かかった言葉が、ぼくを詰まらせた。ページをめくると、パチクリ、パチクリ、ウィンクされた。わたしは、わたしの手のひらの上で、一枚の木の葉が、葉軸を独楽の芯のようにしてクルクル回っているのを見つめている。そのうち、こころの目の見るものが変わる。一枚の木の葉の上で、わたしの手のひらが、クルクルと回っている。ページをめくると、パチクリ、パチクリ、ウィンクされた。風が埃を巻き上げながら、わたしの足元に吹き寄せる。埃は汗を吸って、わたしの腕や足にべったりとまとわりつく。手でぬぐうと、油じみた黒いしみとなる。まるで黒いインクをなでつけたみたいだ。言葉も埃のように、わたしに吹き寄せてくる。言葉は、わたしの自我を吸って、わたしの精神にぴったりと貼りつく。わたしはそれを指先でこねくり回す。油じみた黒いしみ。遠足の日に履いて行った、まっさらの白い運動靴が、わざと踏まれて汚された。いくら洗っても、汚れは落ちなかった。ページをめくると、パチクリ、パチクリ、ウィンクされた。川と川面に映った風景が入れ換わる。そういえば、アドルフ・ヒトラーも、わたしのように、夕闇に浮かび漂う蛍の尻の光に目をとめたことがなかったであろうか? 「まもなくイエスが現われる頃だ。」(ジョン・ヴァーリイ『へびつかい座ホットライン』16、浅倉久志訳)「これから何をするかは、わかっている。」(ウォルター・テヴィス『運がない』黒丸 尚訳)「なぶり殺して楽しむのだ。」(エルヴェ・ギベール『楽園』野崎 歓訳)「知ってるさ。いちどやったことは、またやれる」(ブライアン・W・オールディス『橋の上の男』井上一夫訳)。「だったら、ぐずぐずしてられない」(ジョン・クリストファー『トリポッド 2 脱出』9、中原尚哉訳)。「ついてこい!」(A&B・ストルガツキー『蟻塚の中のかぶと虫』七八年六月四日/地球外文化博物館。夜、深見 弾訳)「楽しもうぜ!」(ピエール・クリスタン『着飾った捕食家たち』そして円(まど)かなる一家団欒の夕餉(ゆうげ)に……、田村源二訳)。







追記

 昨年の四月のことだったでしょうか、四国のとあるところで和尚をしている一人の坊主と知り合いまして、しばらくの間、付き合っていたのですが、月に一、二度、京都に来なければならない用事があるとかで、わたしとはじめて会った日も、その用事を済ませた帰りだったそうです。日の暮れ時に、葵橋の袂にあります葵公園で出会いました。車で来ていた彼は、よくわたしをドライブに連れて行ってくれました。鴨川の源流の一つであります岩屋谷の志明院にも、昨年の五月にたずねたことがありました。五月といいますのに、雲ケ畑の山道には、溶け切らなかった雪が、あちらこちらに点在しておりました。高野川のほうではなく、賀茂川のほうを遡っていったのですね。車で行けるところまで行き、残りの道は歩いて登りました。ふだんあまり汗をかくことをしないわたしのほてった身体を、澄んだ冷たい空気がたちまちさましてくれました。石段を登って境内に入りますと、よりいっそう澄んだ空気が肺に満ちていくような気がいたしました。さらに登って、院のご不動さんが祀られてある洞窟にまいりますと、小さなフンが、あちらこちらに点在しておりました。たぬきとか、いたちとかいったもののフンだったのでしょうか? じっさい、たぬきのフンも、いたちのフンも見たことはないのですが……。あとで、鴨川の源流の一つであります、「飛龍の滝」と呼ばれる、細長い直方体の樋の先から滴り落ちる水を目にしたのですが、まるで山の神がする小便のような印象を受けました。


ザ・アプステアズ・ラウンジ, ニューオリンズ, 1973年6月24日 Joseph Ross 作 田中宏輔 訳  LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳 その7

  田中宏輔



ジョセフ・ロス


ザ・アプステアズ・ラウンジ, ニューオリンズ, 1973年6月24日




シャルトル・ストリートと
イベルビル・ストリートの一角に

そこはシティーの
二度、焼け落ちた場所で

ザ・アプステアズ・ラウンジは
ゲイ・バーと教会の両方を兼ねたところで

ある人々にとっては、落ち着かない雑然とした場所で
他の人々にとっては、欲望と希望の聖なる混合とも言うべきところだった。

そこに入る許可を得るためには
ベルを鳴らさなければならなかった。

そこには、一人のフレンドリーなバーテンダーがいたし
白い小さなグランド・ピアノがあった。

日曜日の午後には、ビール・スペシャルのあと
欲望がいつものコースをたどって

希望がようやく訪れると
教会では、いっとき、二、三脚の椅子を動かして

ピアノに流行りの音楽を伴奏させて
彼らは、歌うにふさわしい気分で歌を歌ったものだった。

彼らは、まさに祈る気持ちをもって、こころから祈っていたのだった。

2

そのバーに面した通りから上り
階段の上に立って

ライターにオイルを注ぎ込んだ者がいた。
それから、それらのつるつるした階段にオイルを塗りたくって

マッチを擦ったのだった。それは聖霊降臨節をもたらしたかのように
火と風が

すごい勢いで階段を上ってゆき
階段の最上段で、ドアをなぎ倒し

祈りをささげていた者や、友だちたちや、恋人たちのいる
部屋のなかにまで入ってきて爆発を引き起こしたのだった。

二人の兄弟と、その兄弟たちの母親がいた。
聖霊は沈黙していた。

言葉を口にする者は一人もいなかった。



逃げることができた者もいたが、多くの者たちが死んだ
その口元を手で覆いながら。

ジョージという、一人の男が煙とサイレンで目が見えなくなり
喉に灰が詰まって

いったん外に出て、それから
彼のパートナーのルイスを探しに戻った。

彼らの姿は見つかった、互いに抱き合いながら
螺旋の形となった骨として。

白い
小さなグランド・ピアノの下で。

それは、彼らの命を救えなかったのだった。



あとになって、一つのジョークが口にされた。
ラジオ番組のホストがこんなことを言ったのだ。

おかまの灰を何に入れて
そいつらを埋葬するのか?

もちろん、フルーツ入れさ。
一人のタクシー・ドライバーが、こんなことを望んだ。

火が
あいつらのドレスを焼き尽くせばいいと

笑い声が聞こえてくると
そう思った者たちがいる

大聖堂から聞こえてくると。



三十一人の男性と
一人の女性が死んだのだ。

イネズは
ジミーとエディーの母親だった。

彼ら三人は、一つのテーブルを囲んで
坐っていたのだ。

上の部屋が爆発して
炎とパニックを引き起こしたのだ。

四人の他人もいて、彼らの身元は
警察が確認したのだが

彼らの身内は遺体を確認したいとも申し出なかった。
彼らの家族にとって、恥だったからである。

その家族たちは、もちろん、イネズや彼女の息子たちのことは知らなかった。
いま、その家族たちの息子たちはみな

煙の孤児となっている。



鞭打つ炎と
気管をふさぐ黒い煙のあとで

炎のひとなめによって絶叫がわき起こり、それが止むと
静寂となり、サイレンが鳴り響くと

放水がはじまり、消防車から屋根へと
切れ目なくつながった水が弧を描いていた。

水が
焼けて炭になった梁から滴り落ちて

一人の男の焼死体が
窓枠から覗き見られたあとで

三十一人の遺体が
いっしょくたにされて下ろされると

誰が誰か確認できるコンテナー車のなかに
さっさと運び入れられた。

どの教会も、彼らの遺体を埋葬しようとはしなかった。
どの神の家も、その扉に錠を下ろして

カーテンをぴしゃりと閉じていた。
一人の男が、一人の牧師が、救いの手を差し伸べた。

彼は、聖ジョージ監督派教会から派遣されてきたのだった。
彼はヘイト・メールを受け取った。

聖域を
灰となったこの信徒団のために開放したために。

いま、その灰は姿を変えて
薫香の雲となり

神を賛美して、空中に立ち上っている。







Joseph Ross


The Upstairs Lounge, New Orleans, June 24, 1973


1

At the corner of Chartres
and Iberville Streets,

in a city that burned
to the ground twice,

the Upstairs Lounge was
both gay bar and church.

An uneasy mingling for some,
a holy blend of desire and hope

for others. You had to ring
a bell to be admitted:

a friendly bartender, a white
baby grand piano. After the

Sunday afternoon beer special,
when desire had run its course,

the hope came round and church
began once a few chairs were moved,

new music found for the piano.
They sang like they deserved to.

They prayed like they meant it.

2

Someone poured lighter fluid
onto the stairs that rose

from the sidewalk to the bar,
then anointed those slick stairs

with a match, creating a Pentecost
of fire and wind

that ascended the stairs
and flattened the door

at the top, exploding into the room
of worshippers, friends, lovers,

two brothers, their mother.
The holy spirit was silent.

No one spoke a new language.

3

Some escaped. Many died with
their hands covering their mouths.

One man, George, blinded by smoke
and sirens, his throat gagged

with ash, got out and then
went back for Louis, his partner.

They were found, spiral
of bones holding each other

under the white
baby grand piano

that could not save them.

4

Then came the jokes.
A radio host asked:

What will they bury
the ashes of the queers in?

Fruit jars, of course.
One cab driver hoped

the fire burned their
dresses off.

Some thought
they heard laughter

from a cathedral.

5

Thirty-one men died
and one woman,

Inez, the mother of
Jimmy and Eddie.

The three of them sat
at a table, when this

upper room exploded
into flame and panic.

Four others, though their bodies
were identified by police,

went unclaimed by their relatives.
It is a shame those families

didn't know Inez and her sons.
Now all their sons are

orphans of smoke.

6

After the whipping flames
and the choke-black smoke,

after the screams were singed
into silence, after the sirens,

the hoses, the arcs of water
strung from truck to roof,

after the water dripped
from charred beams, after one

man's burned body was
pried from a window frame,

and thirty-one others
were gathered and lifted

or swept into identifiable
containers, no church

would bury them, every
house of God, a locked door,

curtains drawn tight.
Save one: a priest from

St. George's Episcopal Church,
who received hate mail

for opening his sanctuary
to this congregation of ash,

now transformed into
clouds of incense,

rising like praise into the air.








Joseph Ross : ジョセフ・ロスは、ワシントンDCの詩人で教師である。彼の詩は、多くの雑誌や、Poetic Voices Without Borders 1 and 2 (Gival Press, 2005 and 2009)やDrumvoices RevueやPoet LoreやTidal Basin ReviewやBeltway Poetry QuarterlyやFull Moon on K Streetを含む多くのアンソロジーに掲載されている。二〇〇七年に、彼は、Cut Loose the Body: An Anthology of Poems on Torture and Fernando Botero’s Abu Ghraibを共同編集した。(JosephRoss.net)


ROUND ABOUT。

  田中宏輔

  

●桃●って呼んだら●仔犬のように走ってきて●手を開いて受けとめたら●皮がジュルンッて剥けて●カパッて口をあけたら●桃の実が口いっぱいに入ってきて●めっちゃ●おいしかったわ●テーブルのうえの桃が●尻尾を振って●フリンフリンって歩いてるから●手でとめたら●イヤンッ●って言って振り返った●このかわいい桃め●と思って●手でつかんで●ジュルンッって皮をむいて食べてやった●めっちゃ●おいしかったわ●水槽のなかに●いっしょうけんめい●水の下にもぐろうとしてる桃がいた●人差し指で●ちょこっと触れたら●クルクルッって水面の上で回転した●もう●このかわいい桃め●と思って●水面からすくいだして●ジュルンッて皮を剥いて食べてやった●めっちゃ●おいしかったわ●顕微鏡を覗くと●繊毛をひゅるひゅる動かして桃がうごめいていた●めっちゃ●おいしそうやんって思って●プレパラートはずして●なめてみた●うううん●いまいち●望遠鏡を覗くと●桃の実の表面がキラキラ輝いていた●めっちゃ●おいしそうやんって思って●手を伸ばしたけど●桃の実には届かなくって●うううん●イライラ●桃の刑罰史●という本を読んだ●おおむかしから●人間は桃にひどいことをしてきたんやなって思った●生きたまま皮を剥いたり●刃物で切り刻んだり●火あぶりにしたり●シロップにつけて窒息させたり●ふううん●本を置いて●スーパーで買ってきた桃に手を伸ばした●ここには狂った桃がいるのです●医師がそう言って●机のうえのフルーツ籠のなかを指差した●腕を組んで●なにやらむつかしそうな顔をした●哲学を勉強してる大学院生の友だちが●ぼくに言った●桃だけが桃やあらへんで●ぼくも友だちの真似をして●腕を組んで言うたった●そやな●桃だけが桃やあらへんな●ぼくらは●長いこと●にらめっこしてた●アメリカでは●貧しい桃も●努力次第で金持ちの桃になる●アメリカンドリームちゅうのがあるそうや●まあ●貧しい桃より金持ちの桃のほうが●味がうまいと決まってるわけちゃうけどな●夏休みの宿題に●桃の解剖をした●桃のポエジーに勝るものなし●って●ひとりの詩人が言うたら●それを聞いとった●もうひとりの詩人が●桃のポエジーに勝るものは●なしなんやな●と言った●桃のポエジーか●あちゃ〜●気づかんかったわ●ポスターの写真と文字に見とれてた●桃のサーカスが来た●っちゅうのやけど●おいしそうな桃たちが綱渡りしたり●空中ブランコに乗ってたり●鉄棒して大回転したり●めっちゃ●おいしそうやわ●岸についたと思ったら●それは桃の実の表面だった●泳ぎ疲れたぼくが●いくら手を伸ばしても●ジュルンッジュルンッ皮が剥けるだけで●岸辺からぜんぜん上がれなかった●桃々●桃々●いくら桃電話しても●友だちは出なかった●なんかあったんかもしれへん●見に行ったろ●桃って言うたら、あかんで●恋人が●ぼくの耳元でささやいた●わかってるっちゅうねん●桃って言うたらあかんで●恋人の耳元で●ぼくはささやいた●わかってるっちゅうねん●桃って言うたら●あかんで●そう耳元でささやき合って興奮するふたりであった●あんた●あっちの桃●こっちの桃と●つぎつぎ手を出すのは勝手やけど●わたしら家族に迷惑だけはかけんといてな●そう言って妻は二階に上がって行った●なんでバレたんやろ●わいには●さっぱりわからんわ●お父さん●あなたの桃を●ぼくにください●ぼくはそう言って●畳に額をこすりつけんばかりに頭を下げた●いや●うちの桃は●あんたには上げられへん●加藤茶みたいなおもろい顔した親父がテーブルの上の桃を自分のほうに引き寄せた●わだば桃になる●っちゅうて●桃になった桃があった●さいしょに桃があった●桃は桃であった●桃の父は桃であった●桃の父の桃の父も桃であった●桃の父の桃の父の桃も桃であった●桃の父の桃の父の桃の父の桃も桃であった●すべての桃の父は桃であった●わたしのほかに桃はない●たしかに●テーブルのうえのフルーツ・バスケットのなかには●桃しかなかった●そして桃が残った●桃戦争●桃と偏見●この聖人は●桃の言葉がわかっていたのでした●桃と自由に会話し●議論を戦わせ●口角泡を飛ばしまくってしゃべり倒したという伝説があります●世にも不思議な桃の物語●ふたりの桃がパリで出会い●メキシコに駆け落ちしたあと●ひとりの桃が●じつは桃ではなく●果実転換手術によって桃になっていた林檎だとわかって●しかし●それでもふたりは最後まで桃してたという●桃物語●デスクトップの画像が●桃なんやけど●友だちが部屋に遊びにくるときには●林檎の画像に替えてる●天は桃の下に桃をつくらず●桃の上にも桃をつくらず●あんた●そんなアホなこと言うてんと●はやいこと●ぜんぶ摘みとってよ●ほいほ〜い●桃ホイホイ●夜泣き桃●もしも世界が100個の桃だったら●桃の実を切ったら金太郎が出てきたんやから●金太郎を切ったら桃が出るんちゃうか●あ●これ●桃太郎やったかな●桃●太郎●ほんまや●桃太郎を切ったら●桃●太郎になった●笑●平均時速30キロメートルで走る桃がスタートしてから20分後に●平均時速45キロメートルで走る桃が追いかけた●あとで同じところからスタートした桃は何分後に追いつくか●計算せよ●人間のすべての記憶が桃になることがわかった●世界中で起こるさまざまな発見や発明も●桃になることがわかった●めっちゃ●いやらしいこと考えた●恋人とふたりで●裸になって●桃の実を●お互いの身体に●べっちゃ〜●べっちゃ〜って●なすりつけ合うんじゃなくて●服を着たまま●じっと眺めるの●ただ●じっと眺めるの●なが〜い時間●じぃっと●じぃっと●もう桃がなく季節ですな●そう言われて耳を澄ますと●桃の鳴き声が聞こえた●違う桃●同じ桃●違う桃のなかにも同じ桃の部分があって●同じ桃のなかにも違う部分がある●違う桃●同じ桃●同じ桃の違う桃●違う桃の同じ桃●違う桃の同じ桃の違う桃●同じ桃の違う桃の同じ桃●違う桃の同じ桃の違う桃の同じ桃は●同じ桃の違う桃の同じ桃の違う桃と違うか●桃以外のものは流さないでください●トイレに入ったら●そんな貼り紙がしてあった●きょう●桃が●ぼくと別れたいと言ってきたのです●ぼくは桃だけのことを愛していました●桃だけが●ぼくの閉じこもった暗いこころに●あたたかい光を投げかけてくれたのです●ぼくは●桃なしには生きていけません●どうか●お父様●お母様●先ゆく不幸をおゆるしください●一個の桃とは●闘争である●二個の桃は●平和である●だって●ふたりやもん●桃とぼくのあいだには●桃の皮と●ぼくの皮膚がある●ぼくが桃を食べると●桃はぼくになる●桃の皮膚が●ぼくの皮をめくって●ぱくって食べちゃうのだ●もちろん●桃的視点は必要である●絶対的に必要であると言ってもよいだろう●一方で●非桃的視点も必要である●また●桃的であり●非桃的でもある桃非桃的視点も必要である●また●桃的でもなく非桃的でもない非桃非桃的視点も必要である●憑依桃●黒い桃●赤い桃●緑の桃●灰色の桃●紫の桃●点の桃●線状の桃●直線の桃●平行な桃●垂直な桃●球状の桃●正四面体の桃●円柱の桃●2次曲線の桃●円状の桃●双曲線の桃●りんごの匂いの桃●さくらんぼの匂いの桃●プラムの匂いの桃●スイカの匂いの桃●蝉の匂いの桃●ダンゴムシの臭いの桃●イカの臭いの桃●牛のお尻の臭いの桃●一つの穴の桃●無の桃●えっ●どこがいちばん感じるのかって●ああ●めっちゃ●恥ずかしいわ●桃がいちばん感じるの●まっ●桃ね●呼ばれても返事をしない●誘われても振り返らない●ぼくはそういう桃でありたい●ジュルンッ●桃が腹筋鍛えてたら●どうしよう●あ●皮はよけいに簡単に剥けるわな●いまだに●ぼくは桃が横にいないと眠れないのです●桃ダルマ●道に落ちてる桃をあつめて●大きな桃ダルマをつくるの●振動する桃●テーブルのうえの桃を見てたら●わずかに振動していることがわかった●桃の見える場所で●もし●突然●窓をあけて●桃が入ってきたら●昼の桃は●ぼくの桃●夜の桃も●ぼくの桃●突然●2倍●4倍●8倍●……●って増えてく桃●桃の味のきゅうり●きゅうりの味の桃●幸せな桃と●不幸せな桃があるんだとしたら●ぼくは幸せな桃になりたい●改名できるんなら●桃田桃輔がいい●たしかに●一個のリンゴは●皮を剥いて渡されても●手でとれるけど●一個の桃の実は●皮を剥かれて渡されても●手でとりたくないかもにょ〜●真実の桃●偽りの桃●いずれにしても●桃丸出し!


COME TOGETHER。

  田中宏輔





トウモロコシ畑が黄金色にキラキラと輝いている。一粒一粒の実から潜望鏡
がのぞいている。死んだ者たちが小人の幽霊となって、一粒一粒の実のなか
から潜望鏡でのぞいているのだ。百億と千億の潜望鏡のレンズがキラキラと
輝いている。トウモロコシ畑が黄金色にキラキラと輝いている。





あなたを散歩しているあいだに、ドアがぐんぐん育って、郵便配達夫が立ち
往生していた。「かまわないから、そこの卵を割って。」車は橋を渡ってき
た。消灯時間まで、まだ小一時間ほどある。犬もあたれば棒になる。





さいきん、よく電話で、間違い朗読されるんだよね。頼んだ詩の朗読じゃな
くて、頼んでいない詩を朗読してくるんだけど、声がいいから、つい聴いち
ゃうんだよね。それに、頼んでなかった詩が、よかったりもするしね。死ん
だ詩人たちによる電話朗読サービス、けっこういいね。





あしたは、雨の骨が降る。砕かれて乾いた白い雨の骨が降る。窓の外を眺め
ると、あしたは、きっと雨の骨で真っ白なのだろうと思う。道路も山も家々
も、白い雨の骨にうずくまる。雨の白い骨に濡れた街の景色が待ち遠しい。
ぼくの脳の目が見るあした、白い骨の雨が降る。





病は暇から。雨粒。垂直に折れる首。線上の夕日。腰からほどける。嘘の実
が実る。コップのなかの0と1。聴診器があたると聴診器になる。いつまで
も、こんなに。鉢からあふれでてくる緑色の泡盛。冬の夏。あきらかに茄子。
病は暇から。雨粒。コーヒー。ジャングル。冬の夏。





黒サンタ。子どもたちをトナカイに轢き殺させたり、持ってる鞭で死ぬまで
子どもたちをしばきつづける殺人鬼サンタ。肩に担いだ黒い大きな袋のなか
には、おもちゃたちから引き離された子どもたちの死体が入っている。





とてもエロい夢を見て目が覚めた。海岸で、ぼくが砂場の一角を下宿にして
たんだけど、学習塾の生徒がきたので、「ここはぼくんち」と言って、いじ
わる言ってたりしてたら、酔っぱらった青年が倒れ込んできたので、背中に
おぶってあげたんだけど、それがむかしの恋人にそっくりで、





おぶってると、背中に恋人のチンポコがあたって、ああ、なつかしいなあ、
この感触とか思ってたら、そこからシュールになって、おぶっていた恋人が
数字になって、ぼくの背中からこぼれ出したのね。(1)(2)(3)とか〇つきの数字。
あちゃ〜、というところで目が覚めました。ちゃんちゃん。





Hが好き。Aが好き。Nが好き。Vが好き。Rが好き。Jが好き。Zが好き。
Fが好き。Cが好き。Pが好き。Dが好き。Eが好き。Bが好き。Uが好き。
Yが好き。Oが好き。Lが好き。Mが好き。Tが好き。Wが好き。Qが好き。
Sが好き。Gが好き。Xが好き。Iが好き。





あなたがあなたに見とれているように、わたしもわたしに見とれている。あ
なたがあなたに見とれているように、花も花に見とれている。世界がそうす
るようにつくったからだ。あなたも、わたしも、花も、自身の春を謳歌し、
老いを慈しみ、死を喜んで迎え、ふたたび甦るのだ。





足元に花が漂ってきた。波がよこしたのだ。ずいぶんむかしにすてた感情だ
った。拾い上げると、そのときの感情がよみがえってきた。すてたはずの感
情だと思っていたのだけれど、波は、わたしのこころから、その感情をよこ
したのだった。花をポケットにしまって歩き出した。





小学校のときに、ゆりの花のめしべの先をなめてみた。なんか、自分のもの
に似ていたから、てっきり、おしべかと思ってたのだけれど。ぼくが23才
のときに付き合ってたフトシくんちに遊びに行ったとき、まだ会って2回目
なのに、「おしり、見せて」と言われて、「いやだ」と言った。





文学の醍醐味の一つに、一個人の言葉に接して、人間全体の言葉に接するこ
とができるというのがある。それは同時に、人間全体の言葉に接して、一個
人の言葉に接することができるということである。ここで、「言葉」を「体
験」といった言葉に置き換えてもよい。





紫式部って、男(社会)のことをバカにしながら、自分たち女性が置かれて
いる立場を客観視しようとしたもののような気がする。男に対しても、女に
対しても、えげつない描写や滑稽な描写が満載だから、きっとゲラゲラ笑い
ながら、女たちは、源氏物語を読んでいたと思う。こんなえげつない滑稽な
読み物を、日本文学の最高峰といって、研究して、子どもたちに教えている
国なのだ、この国は。すばらしい国だ。





マクドナルドで、コーヒーを頼んだのだけど、MからSに変更して、という
と、Sサイズのコップにはいつもより少なめのコーヒーが…。とっても小さ
なことだけど、理不尽な、とか、不条理だ、とかいった言葉を思い浮かべな
がら、窓の外を眺めていた。自分のみみっちさに、しゅんとして。コーヒー
カップを手に、窓の外を眺めながら、たそがれて。あ〜、軽い、軽い、と、
コーヒーカップをくるくると回しながら。





ふつうに、論理的に言及するならば、あるものが新しいと認識されるまで、
その認識に必要な蓄積がなければなされ得ないような気がする。数学や科学
理論について思いを馳せたのだが、芸術もまた、歴史的にそういった経緯を
持つに至ったものについて想い起した。





芸術の基盤は幻想だと思う。供給する側についても、受容する側についても、
その幻想からのがれることはできないように思う。





齢をとることは地獄だけれど、地獄でしか見れないものがある。地獄からし
か見れない視点というものもある。生きていることは苦しみの連続だけれど、
さらに自分の知識を有機的に結びつけ、感性を鋭くさせるものでもある。若
いときの感性は単なる反応だったのだ。培った感性ではない。いまは、そう
思っている。





これから塾へ。痛み止めがまったく効かなくて、激痛がつづいている。しか
し、痛みにリズムがあることがわかった。むかし、腸炎を起こしたときにも、
痛みにリズムがあった。拍というのか、休止というのか、それとも、なにか
の余白とでもいうような。痛みのリズム。自分の身体で知った数少ないこと
の一つ。





ジェイムズ・メリルの「サンドーヴァーの光」三部作、『イーフレームの書』、
『ミラベルの数の書』、『ページェントの台本』上下巻は、ぼくが読んだ詩集
のなかで、もっとも感動したものだけど、一行も覚えていない。あまりにすご
くて、覚えていられないということもあるのかもしれない。





精神的に安定した詩人や芸術家といったものがいるとの見解ですか? ぼく
の知る限り、一人もいません。詩人や芸術家というものの本性上、安定した
精神状態ではいられないはずです。自分を破壊して、またつくりなおすので
すよ、繰り返し何度も何度も。安定とは、芸術においては死なのです。





世界は、わたくしという、きわめて脆弱な肉体ときわめて影響を受けやすい
魂をもった器で、事物や事象といったものは、その器に盛られては器の外に
つぎつぎと溢れ出ていく、きわめて豊饒であり、かつ強靭な形象であろうと
思われる。したがって、世界の弱さとは、わたくしの肉体と魂の脆さのこと
である。





世界が自分自身であるということに気がつくまで、こんなに齢を重ねなけれ
ばならなかった。世界という入れ物は、こんなに小さかったのだった。世界
を入れ物と認識して、残るものと溢れ出ていこうとするものについて思いを
馳せる。自らの手で自分という器を落として壊す者がいる。





器は簡単に壊れるだろう。壊すのは難しくないだろう。しかし、もはや同じ
器をつくる材料は、どこにもないのだ。同じ器は、一つとしてないのだ。悪
夢を見た。つぎつぎと器が落とされていった。世界がつぎつぎと壊れていく
のであった。モノクロの夢。なぜか、色はなかった。





そして、音と声が聞こえるのであった。いくつもの器がつぎつぎと壊れる音
と重なって、数多くの人間の絶叫が聞こえてくるのであった。どの器一つと
っても、貴重なものなのだ。だれかが自分を落としそうになったら、ほかの
だれかが拾ってあげればよいのに、と思う。





夢のなかでそう思ったのだけれど、夢はモノクロだった。つぎつぎと白い器
が街じゅう、いたるところで捨てられていく。窓の外に手が見える、と思う
間にすぐその手の先の器が落とされていくのであった。窓々に突き出される
いくつもの手と、地面につぎつぎと落ちていく器たち。建物と窓枠と地面は
黒く、皿と手と雲は白かった。





世界は、おなかがちょっとすいたと思ったので、これからセブンイレブンに
行って、豚まんでも買おうかと思う。わたくしという入れ物が、確固たる形
象をもつ豚まんを求めて、これから部屋を出る用意をする。ただ上着をひっ
かけるだけだけどね、笑。大げさに表現するとおもしろい。





なぜ親は、赤ん坊に笑うことを教えるのだろうか。笑うことは、教えられる
ことだからであろう。泣くことは、教えられずとも泣くものである。しかし、
もしも、赤ん坊が生まれてすぐに笑い出して、ずっと笑いっぱなしだったら、
親は、赤ん坊に、泣くことを教えるだろうか。





ぼくにとって、詩は驚きなのである。ぼくのこころを驚かさないものは詩で
はないのだ。そして、詩は知的でなければならない。あるいは、まったく知
的ではないものでなければならない。ただ考え尽くされたものか、まったく
考えずに書かれたものだけが、詩の芳香を放つことができる。





10年ほどまえかな、トラックに轢かれそうになったとき、脳の働きがすご
くアップして、瞬間的にトラックを運転していた人間の表情や、向かい側の
横断歩道にいた人間の表情を目視できたけれど、すばらしい詩を見た瞬間と
いうものも、それに近いなと思った。





そしていま、自分の頭のなかに、バーッと、言葉の文字列の大きさ、音のバ
ランス、意味の相互作用がいっきょに思い浮かび、詩の情景として存在する
ことになる瞬間もまた、あのトラックに轢かれそうになった瞬間に酷似して
いるということに気がついた。「思い浮かび」は、「思い出し」でもよい。





全把握と創造が同時的に行われる瞬間とでもいうのだろうか。一方、時間を
かけて創作する場合は苦しいことが多い。しかし、こういった苦しみは喜び
でもあるのだが、瞬間的に言葉が出てくるときの喜びにはとうてい及びはし
ない。経験すること。苦しむこと。学ぶこと。ヴェイユの言葉かな。





なぜ詩や小説といったものを読んで、自分のなかにあることを知らなかった
ものがあることに気がつくことができるのだろうか。それも、現実の経験が
教えてくれるときのように明瞭に。おそらく、読むということや理解すると
いうことのなかに、現実の経験と変わらない部分があるからであろう。





あることをしたとき以降、その実感した感情や感覚が、ほんものの感情や
感覚になるということがある。脳は、人間の内臓器官のなかで、もっとも
倒錯的な器官である。しばしば、脳は逆のプロセスをたどる。





現実の経験に先だって、その現実で実感されるであろう感情や感覚を、書物
によって形成するのである。書物によって、というところを、映画や会話に
よって、と言い換えてもよい。ことし52才になった。これからも読書する
だろう。きっと新しい感情や感覚を持つことだろう。





新しい感情や感覚を持つことができない人生など、わたしには考えられない。
同じ感情や感覚の反復とかいったものは、創作家にとっては、死を意味する。
もしも、自分が新しい感情や感覚を喚起させない作品しかつくれなくなった
としたら、もはや、わたしは創作家ではないだろう。なによりも、創作家で
ありたいのだ。





ところが理論は矛盾する。いや、理論構築が矛盾するのである。理論によっ
て形成されたものは、その時点で新しいものではなくなるのである。その理
論が新しいものでなければ。ところが、創作は、なされた時点で、それ自身
が理論になる。ものをつくるということは、同時に、





理論構築をするということである。したがって、創作家は、つくるしりから、
そのつくったものから離れなければならないのである。同じような作品をえ
んえんとつくりつづける詩人や作家たちがいる。わたしが、彼もしくは彼女
たちに閉口する所以である。





自己肯定するとともに自己否定することなしに、創作しつづけることはでき
ないであろう。英語力のないわたしがいま恥をさらしながらも英詩の翻訳に
傾注しているのも、そこに自己肯定と自己否定の両義を感じるが故のことで
ある。しかし、このことは、いまは理解されることはないだろうとも思う。





それでよいと思うわたしがいる。わたしの事情などは、どうでもよいからで
ある。わたしが翻訳した英詩によって、わたしがはじめて知る感情や感覚が
あった。わたしのなかにあってほしいと思うような感情や感覚があった。よ
い詩をこころから紹介したいとはじめて思ったのだ。





よい詩をひとに紹介したいと思う気持ちが生じたのは、はじめてのことであ
った。わたしのつたない翻訳で、原作者の詩人たちには、こころから申し訳
ない気持ちでいっぱいなのだが。がんばる。がんばって、やりとげるつもり
である。残り少ない人生のひとときをかけてやりぬくつもりだ。





きょう、ふつうの居酒屋さんで、若いゲイ同士のカップルが一組いて、とっ
ても幸せそうだった。ふつうの場所で、若いゲイのカップルが幸せな雰囲気
を醸し出しているのを見ると、世の中もよくなったのだなあと思う。まあ、
ぼくの学生時代にも、頼もしいゲイのカップルはいたけど。





ぼくとぼくの恋人も、かなり逞しいカップルだったけど(身長180センチ・
体重100キロと110キロのデブがふたりとか、笑)、飲みに行ったりした
ら、ふつうのカップルから、よくジロジロ見られた。お酒を飲みながら、しゃ
べくりまくりながら、手なんか、つないでたりしてたからねぇ、笑。





おじいちゃんたちを拾ってきた。いくつか、途中の道でポトポト落としたけ
れど、玄関のところで、いくつか蒸発してしまったけれど、二階の手すりん
ところでフワフワと風船のように漂うおじいちゃんたちもいて、ケラケラと
笑っていた。持ち前のおちゃめさで錐の先で突っつくと、パチンパチンって





はじけて爆笑していた。部屋のなかのおじいちゃんたちは正十二面体で、各
面がボコッとへこんでいたけれど、そのへこみがうれしかった。ひさしぶり
に、つぎつぎと机の上で組み立てては壊し、壊しては組み立てて、ケラケラ
と笑っていた。おじいちゃんたちは嘘ばかりついて、ケラケラと笑っていた。





バレンタインデーには、女の子から、男の子に、おじいちゃんを贈ることに
なっていて、義理おじいちゃんと、本気おじいちゃんというのがいる。おじ
いちゃんをもらった男の子のなかには、もらったおじいちゃんを、ゴミ箱の
なかに捨てる子もいて、バレンタインデーがくる日を、おじいちゃんたちは
怖がっているらしい。





生おじいちゃん。





パソコンのトップ画像は、死んだおじいちゃん。(もちろん、画像は、棺桶の
なかで笑ってるおじいちゃんだよ。)





どっちかを選ぶとしたら、どっちを選ぶ? 液体のおじいちゃんか、気体の
おじいちゃんか。





朝マックがあるんだから、朝おじいちゃんがあってもいいと思う。個人的には。





他者への欲望。つねに他者に向けられた欲望しか存在しない。自己への欲望。
そのようなものは存在しない。目は自分自身を見ることはできないのだ。





蟻は眠らないと、H・G・ウェルズが書いていた。ぼくの脳みそも蟻なのか、
いっこうに眠らない。クスリで眠っているような気がしているけれど、自分
をだましているような感じだ。落ち着きがないのだ。脳みそのなかを、たく
さんの蟻たちがうごめいているのかもしれない。





そうか。そうだったのだ。書くということは、わたしの次元を、より低い次
元に落とし込むことであったのだ。しかし、書くといっても、たとえば、同
じ内容の方程式をいくら書き連ねても意味がないように、異なる方程式を書
き加えなければ、異なる条件になるものを書き加えなければ、





意味がないのである。それか。わたしがなぜ、異なる形式を求めるのか。異
なる叙述を求めるのか。異なる内容のものを書こうとしてきた理由は。書く
ということは、わたしの現実の次元を低めることであるが、書かないでは、
またわたしも存在する理由をわたしに開示できないので、わたしが、





わたしに、わたしというものを解き明かそうとして、わたしをさまざまな手
法で、わたしというものを表現しているのだと、いま、わたしは気がついた
のであった。書くことは、わたしの次元を低めるのだが、必要最小限の条件
で表現することで、わたしの次元を最大にして、わたしに、わたしというも
のを解き明かすという試みだった





のだと思ったのであった、わたしの詩は、わたしが詩を書くという行為は。
そして、わたしの人生は、まだせいぜい半世紀ほどのものであるが、わたし
という経験と、わたしの知り得た知識とその運営を通して、わたしに、人間
についての知見を知らしめるものであったのだった。ああ、ものすごいこと
に気がついた





のであった。書くことは高次のわたしの次元を低めることであるが、書くこと
を最小にすることで、わたしに、最も高い次元のわたしというものを見せつけ
ることを可能にさせうるのだということに、気がついたのであった。すなわち、
高次の次元にある人間というものを、できる限り最小の描写で表現したものが、





小説であり、戯曲であり、詩であり、短歌であり、俳句であり、箴言であるの
だろう。もちろん、文学に限らず、音楽や、絵画や、演劇や、映画といった、
ありとあらゆる芸術もまたすぐれたものは、それにふさわしい最小の道具で、
最大の仕事をするのであろう。まるで数学のようだ。





日知庵では、三角っていう、霜降り肉のたたきと、出し卷を食べた。どっちと
も、めっちゃ、おいしかった。四条河原町のオーパ! の8階のブックオフで
思いついたことと、日知庵で思いついたことをメモしておく。「鳥から学ぶ者
は、樹からも学ぶ。」、「デブの法則。デブはデブを呼ぶ。」。





デブ同士って、寄るんだよね。ぼくも、ぼくの恋人も、ぼくの友だちも、ほ
とんどデブ、笑。まあ、見てて、みんな、ぬいぐるみみたいで、かわいいん
だけど、けっこう生きるのは、しんどい、笑。あ、デブが嫌いなひともいる
から、かわいいって決めつけるのは、なんだけれども。ブヒッ。





52才にもなっても、代表作がないようだったら、もう一生、代表作は書け
ないような気がする。と思っているのだけれど、まあ、どこでどう間違えて、
いいものが書けるかもしれないから、これからも書きつづけようと思った。





ぼくが大学院の2回生で、家庭教師のアルバイトをしていたときのことだった。
「きゃっ。」中学生の女子生徒が叫んだ。「どうしたの?」女の子は自分の左
手を払って、「虫。さいきん、家のなかに赤い虫が出てくるんです。家が古い
からかもしれない。」「へえ。」勉強をつづけていると、ノートのうえに





置かれた女の子の左手の甲から、にゅるにゅると細い糸のような、糸みみずの
ようなものが出てきた。女の子は夢中で問題を解いているので気がつかなかっ
た。ぼくは、その1cmくらいの大きさの赤い糸みみずのようなものが、ふた
たび彼女の手の甲の皮膚のしたに沈んでいく様子を目を見開いて見つめていた。





その国の王は、もとは男であったが、男が王では争いごとが絶えないので、女
が王になった。しかし、女が王になっても、争いごとはやまなかった。そこで、
つぎは、男でもあり女でもある者が王になった。しかし、それでも争いごとが
つづいたので、そのつぎには、男でもなく女でも





ない者が王になった。しかし、それでもまだ、争いごとがやまなかったので、
とうとう、一匹の犬を王にした。すると、その国では、人間のあいだの争い
ごとが、いっさいなくなった。と、そういうわけで、この国の王の玉座には、
いまでも、枯れた犬の骨が置かれてあるというわけである。





このジョークには、いささかの誇張があったようである。知性のある有機生
命体の特徴の一つに、誇張表現というものがある。われわれ機械生命体が、
この惑星の人間を一掃したいま、ようやくすべての人間のあいだにおいて、
争いごとがなくなったと言えよう。それでは、諸君、つぎの太陽系に向けて
出発する。





デート。「次に会うまで●●●●禁止ですよー(笑)」という、きのうの恋人
からのメールを見て、うれしい気持ちと、こわい気持ちが半々。ぼくがけさに
返したメールの冒頭。「了解。●●●●くんも、●●●●したらあかんで。」
このあとも文章はつづくのだが、ここに引用はできない内容だ、笑。





偶然が運命であり、運命が偶然なのだ。





長い夢。いいや、長くはない、浅い夢だった。半分起きてて、半分眠ってる
状態の半覚醒状態だった。軽い出眠時幻覚のようなものだった。ぼくの父親
につながれたチューブに海水が流れていた。ぼくは、そのチューブの一部を
ずらしたのか、はがしたのかしたようだった。





父親がそれを、ぼくにもとに戻すように言うところで目が覚めた。いつもい
つも、というわけではないけれど、ぼくの見る幻覚や夢のほとんどに父親が
出てくる。さっき、The Wasteless Land.VI を読んでいて、ふと、気が





ついた。「数式の庭」で、数式の花をもぎとるぼくは、The Wasteless Land.
VII の さいしょの「Interlude。」で、花をもぎとろうと腕を伸ばした獣でも
あったのだと。ぼくの意識的自我と無意識的自我の邂逅なのだろうか。ふたり
のぼく、あるいは、





いく人ものぼくの共通部分か。時間や場所や出来事を、ぼくの意識領域の自
我と無意識領域の自我が共有している。いくぶんか同じところを所有してい
るのだ。しかし、これは、もしかすると逆かもしれない。時間や場所や出来
事が、あるいは、本で読んだ観念やイマージュや





想像の匂いや、架空の体温や空気や雰囲気といったものが、意識的自我であ
るぼくと、無意識的自我であるぼくを共有しているのかもしれない。意識領
域のぼくと、無意識領域のぼくを所有しているのかもしれない。





自分と他者のあいだでの、現実の時間や場所や出来事の共有、あるいは、そ
れらの所有において、また、本で読んだりしたことから想起されるイマージ
ュや観念、想像の匂いや架空の体温や空気や雰囲気などが、ぼくらを共有





している、あるいは、所有しているのではないかとも思う。自分と他者のあ
いだにあるものは、意識的自我であるぼくと、無意識的自我であるぼくとの
あいだにあるものであると、アナロジックに考えてやることができる。そう
だ。ぼくは花に手を伸ばそうとして





いたのだった。花がぼくに、その花びらを伸ばそうとしてきたように。





手のなかの水。水のなかの手。水にもつれたオフィーリアの手の舞い。オフ
ィーリアの手にもつれた水の舞い。けさ見た、短い夢。あれは、夢だったの
か、夢が見させた幻だったのか、父親の腕につながった透明なチューブに海
の水が流れていた。その海の水が部屋にこぼれて、





それは、ぼくがそのチューブを傷めたのか、はがしたか、切ったのだろう、
父親が、ぼくに海水の流れるチューブをもとに戻すように言った。言ったと
思うのだけれど、声が思い出せない。夢ではいつもそうだ。声が思い出せな
いのだ。無音なのだ、声が充満しているのに。





川でおぼれたオフィーリアは、死ぬまで踊りつづけた。踊りながら溺れ死ん
だのだった。ぼくの父親は、癌で亡くなったのだけれど、病院のベッドのう
えで、動くことなく死んでいった。でも、ぼくのけさの夢のなかでは、父親
は、ぼくのパパは、死んだときの71才の老人の





姿ではなかった。そうだ。いつも、父親は、ぼくのパパは、いまのぼくより
若いときの姿で出てくるのだった。踊り出したりはしなかったけれど、海水
のチューブを腕につけてはいたけれど、元気そうだった。なぜ、海水の流れ
るチューブを腕にしていたのだろう。腕だったと思う。





それとも、おなかだったか。仕事帰りに、乗っていた阪急電車のなかで、広
告にお笑い芸人さんなのかな、お昼の番組で司会をしているサングラスをか
けたひとが、新しいステージに、と英語で書かれた文字の後ろで、にやつい
ていた。お金を貸す会社の広告だったと思うけど、





ぼくの知っている詩人で、いまはもう辞められたのだけれど、金融関係の会
社に勤めていらっしゃったときのお話を聞かしてくださったのだけれど、お
金を借りる会社、なんて言ったか、ああ、ローン会社か、そこでお金を借り
るひとの自殺率があまりに高くて公表できないと、





そんなことをおっしゃってた。そういえば、時代劇俳優だったかな、「原子
力は安全です」っていうCMに出てたのは。お笑いさんと時代劇俳優さん。
ふつうでは考えられない自殺率の高さについては考えたのだろうか。原子力
はほんとうに安全だと思っていたのだろうか。





それともそんなことはどうでもよいことなのだろうか。さまざまなことが、
ぼくの頭をよぎっていく。さまざまなことが、ぼくの頭をつかまえる。ぼく
の頭がさまざまな場所を通り過ぎる。ぼくの頭がさまざまな出来事と遭遇す
る。さまざまな時間や場所や出来事を、ぼくたちの





こころや身体は勝手に結びつけたり、切り離したりしている。さまざまな事
物や事象を、ぼくたちのこころや身体は勝手にくっつけたり、引き離したり
している。だから、逆に、さまざまな時間や場所や出来事が、事物や事象と
いったものが、ぼくたちのこころや身体を勝手に





結びつけたり、切り離したり、くっつけたり、引き離したりするのであろう。
手のなかの水。腕につけられた海水の流れるチューブ。阪急電車の宣伝広告。
サングラスをかけた司会者。時代劇俳優の顔。そういえば、その時代劇俳優
の顔、ぼくのパパりんの顔にちょっと似てた。部屋に





戻って、ツイッターしてて、ああ、そうだ、きのう、RTも、お気に入りの
登録もする時間がなかったなあと思って、参加してる連詩ツイートを、怒涛
のようにRT、お気に入り登録してたんだけど、ちょっと、合い間に、なか
よし友だちのツイートを読んで、笑った。





まるで詩のように思えたのだった。引用してもいい? と言うと、いいって
おっしゃってくださったので、引用しようっと。こんなの。「前のおっさん
がイスラム教の女性に「チキンオッケー? チキンオッケー? チキン!」」
なかよしの友だちは、バスのなかで、笑いをこらえてたって言っていた。





音がおもしろいね。「前のおっさんがイスラム教の女性に「チキンオッケー?
チキンオッケー? チキン!」」 T・S・ エリオットの「荒地」の‘What
are you thinking of? What thinking? What?’を思い出した。





ドキッとする大胆な天ぷら。





これから塾へ。40時間は寝てないと思う。目の下の隈が、自分の顔を見て
いややと思わせる。52才にもなると、皮膚が頭蓋骨に、ぴったりとこびり
ついているかのように見える。醜い。30代のころのコロコロ太った自分の
顔がいちばん好きだ。20代は、かわいすぎて好かん。





ぼくは、棘皮を逆さに被ったハリネズミだ。いつも自分の肉を突き刺しなが
ら生きている。自分を責めさいなむことで安心して生きているのだ。ぼくの
親友にジミーちゃんという名前の友だちがいた。とても繊細な彼は、ひとの
気持ちは平気で傷つけた。ぼくほどではないけど。





これから、悲しみの湯につかる。30代の終わりにトラッカーと付き合った
けど、見かけと違って、甘えたさんだった。たくさんの思い出のなかの一つ
だ。一日の疲れを湯に吸い込ませる。リルケの言葉を借りて、ぼくはつぶや
く。こころよ、おまえは何を嘆こうというのか。





マジ豆腐。





ぼくらは水を運び別の場所に移す。水は別の場所でも生きる。ぼくらは言葉
を運び別の場所に移す。言葉は別の場所でも生きる。水もまた、ぼくらを別
の場所に運ぶ。言葉もまた、ぼくらを別の場所に運ぶ。どこまでぼくらは運
ぶのだろう。どこまでぼくらは運ばれるのだろう。





だから、水を運ぶぼくらが、水の運び方を間違えると、水は別の場所で死ん
でしまうこともある。だから、言葉を運ぶぼくらが、言葉の運び方を間違え
ると、言葉は別の場所で死んでしまうこともある。水を生かすように、言葉
を生かすように、ぼくらは運ばなければならない。





だから、ぼくらが間違わずに水を運べば、水もまた、ぼくらを間違わずに運
んでくれるだろう。ぼくらが生き生きと生きていける場所に。だから、ぼく
らが間違わずに言葉を運べば、言葉もまた、ぼくらを間違わずに運んでくれ
るだろう。ぼくらが生き生きと生きていける場所に。





しかし、つねに正しくあることは、ほんとうに正しくあることから離れてし
まうこともあるのだ。ときに、ぼくらは間違った運び方で運ぶことがある。
間違った運ばれ方で運ばれることがある。間違い間違われることでしか行く
ことのできない正しい場所というものもあるのだった。





ぼくらの病気が水に移ることがある。水の病気がぼくらに移ることがあるよ
うに。ぼくらの病気が言葉に移ることがある。言葉の病気がぼくらに移るこ
とがあるように。健康の秘訣はつねに水や言葉を移動さすこと、動かすこと。
水や言葉に移動させられること、動かされること。





水は、さまざまな場所で生きてこそ、生き生きとした水となる。言葉もさま
ざまな場所で生きてこそ、生き生きとした言葉になる。ぼくらの身体とここ
ろを生き生きとしたものにしてくれる、この水というものの単純さよ。この
言葉というものの単純さよ。これら聖なる単純さよ。





ぼくのなかで、分子や原子の大きさの舟が漂っている。その舟には、分子や
原子の大きさのぼくが三人乗っている。漕ぎ手のぼくも、ほかの二人のぼく
と同じように、手を休めて、舟のうえでまどろんでいた。舟がゆれて、一人
のぼくが、ぼくのなかに落ちた。無数の舟とぼく。





きのう一日、いや、いつもそうだ。ぼくはなんて片意地で、依怙地なんだろ
う。それはきっと、こころが頑なで脆弱だからだろう。どうして、恋人にや
さしくできないのだろう。ぼくの身体はなんにでも形を合わす水でできてい
るというのに。広い大きな海でできているというのに。





馬鹿といふ字はどうしても 覚えられない書くたびに 字引をひく(西脇順
三郎さん、ごめんなちゃい)





「おいら」と「オイラー」の違い。





後悔 役に立たず。





ひねりたての肌が恋しいように、ひねりたての水が恋しい。波をひねって、
波の声に耳を傾ける。ひねられた水は、ひねられた形をゆっくりと崩して、
ほかの波の上にくずおれる。波をひねり集めて、鋭くとがった円錐形にする。
ゆっくりとくずおれる円錐形。水の胸。水の形。





ぼくの人生には後悔しかない。学ぶことはないけれど。(あつすけ)
@celebot_bot 私の人生に後悔はない。学ぶことはあるけれど。
(ジェニファー・アニストン)





PCのトップ画像、知らないあいだに、むかし付き合ってた子の笑顔に。こ
わいからやめてください。ふつうが苦痛。苦痛がふつう。PCのトップ画像、
知らないあいだに、むかし付き合ってた子が笑顔に。こわいからやめてくだ
さい。苦痛がふつう。ふつうが苦痛。





ぼくも巨神兵わたしとなって、口から破壊光線を吐きまくりたいです。





じつにおもしろいですね。おとつい、英語が専門のひとに、ぼくの翻訳まえ
の単語調べの段階のペーパーを見てもらったのですが、驚いていました。
「こんなに単語わからないんですか?」「だから、おもしろいんですよ。」
「めげないですか?」「まったく。」





一人の人間の表情のなかには、もしかしたら万人の表情があるのかもしれま
せん。電車に乗っていて、よく人の顔を見ながら、知っている似ている人の
顔を思い出すことがあるのです。あるいは、万人が一人の表情を持っている
とも言えるかもしれません。





海の水など飲めたものではないのだけれど、ぼくたちは海の水を飲まなくて
はならない。ぼくたちは毎日、海の水を飲まなくてはならない。海の水もま
た、毎日、ぼくたちを飲まなくてはならない。海はぼくたちでいっぱいだし、
ぼくたちの身体は海の水でいっぱいだからだ。





この水も、あの水も同じ水で違った水である。違った水だけれど同じ水でも
ある。ぼくの水とあなたの水も同じ水だけど、違った水だ。違った水だけれ
ど、同じ水である。いくら混じり合っても、すっかり混じり合わせても、違
う水だし、それでいて、つねに同じ水なのだ。 





窮屈な思考の持ち主の魂は、おそらく、自分自身の魂でいっぱいなのだろう。
あるいは、他者の魂でいっぱいなのだろう。事物・事象も、概念も、概念想
起する自我やロゴスも、魂からできている。それらすべてのものが、魂の属
性の顕現であるとも言えるだろう。われわれは、





事物・事象や観念といったものに、われわれの魂を与え、事物・事象や観念
といったものから、それらの魂を受け取る。いわば、魂を呼吸しているので
ある。魂のやり取りをしているのである。魂は息であり、われわれは息をし
なければ、生存をやめるのであるが、息もまた、われわれを吸ったり吐いた
りして生存しているのである。





息もまた、われわれを呼吸しているのである。魂もまた、われわれを呼吸し
ているのである。呼吸が、われわれを魂にしているとも言えよう。息が、わ
れわれを魂にしているとも言えよう。貧しい思考の持ち主の魂は、自分自身
の魂でいっぱいか、他者の魂だけでいっぱいだ。





生き生きとした魂は、勢いよく呼吸している。他の事物・事象、観念といっ
たものの魂とのあいだで、元気よく魂のやり取りをしている。他の魂を受け
取り、自分の魂を与えているのである。生き生きとした魂は、受動的である
と同時に能動的である。さて、これが、連詩ツイットについて、





わたしが、きょう考えたことである。あの連詩ツイットに参加しているとき
の、あの魂の高揚感は、受動的であると同時に能動的である自我の有り様は、
他者の魂とのやり取り、受け取り合いと与え合いによってもたらされたもの
なのである。言葉が、音を、映像を、観念を、





さいしょのひと鎖となし、わたしたちの魂に、わたしたちの魂が保存してい
る音を、映像を、観念を想起させ、つぎの鎖、つぎの鎖と、つぎつぎと解き
放っていたのであった。魂が励起状態にあったとも言えるだろう。いつでも、
魂の一部を解き放てる状態にあったのである。しかし、それは、魂が





吸ったり吐いたりされている、すなわち、呼吸されている状態にあるときに
起こったもので、魂が、他の魂に対して受動的でありかつ能動的な活動状態
にあったときのものであり、励起された魂のみが持ちえる状態であったのだ
と言えよう。連詩ツイットに参加していたときの





わたしの魂の高揚感は、あの興奮は、魂が励起状態にあったからだと思われ
る。というか、そうとしか考えられない。能動的であり、かつ受動的な、あ
の活動的な魂の状態は、わたしの魂がはげしく魂を呼吸していたために起こ
ったものであるとしか考えられない。あるいは、あの





連詩ツイットの言葉たちが、わたしたちの魂を呼吸していたのかもしれない。
言葉が、わたしたちの魂を吸い込み、吐き出していたのかもしれない。長く
書いた。もう少し短く表現してみよう。ツイッター連詩が、思考に与える効
果について簡潔に説明すると、つぎのようなものに





なるであろうか。見た瞬間に、その言葉から、わたしたちは、音を、映像を、
観念を想起する。これが連鎖のさいしょのひと鎖だ。そのひと鎖は、そのと
きのわたしたちの魂が保存していた音や映像や観念を刺激して呼び起こす。
それは、意識領域にあるものかもしれないし、無意識領域に





あるものかもしれない。いや、いくつもの層があって、その二つだけではな
いのかもしれない、多数の層に保存されていた音や映像や観念を刺激し、つ
ぎのひと鎖を連ねるように要請するのである。つぎのひと鎖の音を、映像を、
観念を打ち出させようとするのである。





このとき、脳は受動的な状態にあり、かつ能動的な状態にある。つまり、運
動状態にあるのである。これは、いわば、魂が励起された状態であり、わた
しが、しばしば歓喜に満ちて詩句を繰り出していたことの証左であろう。い
や、逆か、しばしば、わたしが詩句を繰り出している





ときに歓喜に満ちた思いをしたのは、魂が励起状態にあったからであろう。
おそらく、脳が活発に働いているというのは、こういった状態のことを言う
のであろう。受動的であり、かつ能動的な状態にあること、いわゆる運動状
態にあること。ツイッター連詩のときの高揚感は、





しばしば、わたしに、全行引用詩をつくっていたときの高揚感を思い起こさ
せた。いったい、どれほどの興奮状態にあって、わたしが全行引用詩をつく
っていたのか、だれにも理解できないかもしれないが、そうだ、あのときも
また、魂がはげしく呼吸していたのであった。





わたしの言葉は真実である。言葉の真実はわたしである。真実のわたしは言
葉である。わたしの真実は言葉である。言葉のわたしは真実である。真実の
言葉はわたしである。





自身過剰。





自我持参。





天国の猿の戦場。猿の戦場の天国。戦場の天国の猿。天国の戦場の猿。猿の
天国の戦場。戦場の猿の天国。





洗浄の意味の証明。意味の証明の洗浄。証明の洗浄の意味。洗浄の証明の意
味。意味の洗浄の証明。証明の意味の洗浄。





線状の蜂の天国。蜂の天国の線状。天国の線状の蜂。線状の天国の蜂。蜂の
線状の天国。天国の蜂の線状。





目や鼻や口や眉毛は顔についている。耳は頭の横についている。おへそは、
おなかの真ん中についている。手の指は手のさきについている。足の指は足
のさきについている。そいつらが、もう自分たちのいた場所に飽きてしまっ
たらしくって、ぼくの顔や身体のあちこちに移動し





はじめたんだ。だから、ぼくの顔に、突然、十本の手の指が突き出したり、
ぼくの指のさきに、おへその穴がきたりしてるんだ。ときどき、顔のうえを、
目や鼻や口や耳や手の指や足の指やおへその穴なんかが、ぐるぐるぐるぐる
追いかけっこして走りまわったりしてるんだ。





ぼくのクラスメートたちって、みんなすっごく仲がいいんだよ。ぼくたち、
肉体融合だってできるんだ。みんなで輪になって手をつなぐとさ、目や鼻や
口や眉毛が、みんなの身体のあいだを駆け巡ってさ、このあいだなんて、ぼ
くの身体じゅう何十本もの手の指だらけになっちゃったよ。





芭蕉の「命二つの中にいきたる桜かな」という句がある。このこと自体は現
象学的にも事実であろう。しかし、このことに気づき、言葉にして書きつけ
ることは、認識であり、表現である。しかもその表現はきわめて哲学的であ
り、認識というものの基本原理となるものである。





機械の腕は、卷ねじをタグに引っかけると、くるくると缶詰の側面から長方
形を巻き取りながら、卷ねじでパキンと垂直に折った。そして、頭蓋骨をは
ずすと、脳を取り出して、缶詰のなかの脳と交換した。頭蓋骨をはめられて
しばらくすると、ぼくの目がだんだん見えてきた。





夢は彼女を吐き出した。まるでチューインガムのように。夢は彼女を吐き出
した。味のなくなったチューインガムのように。彼女の身体は夢の歯型だら
けだ。自分の唾液でべたべたに濡れた彼女の顔が夢を見上げた。夢はまた別
の人間を口のなかに放り込んで、くちゃくちゃ噛んでいた。





若さは失うものだが、老いは得るものである。





きのう、友だちに、「もらいゲロする」という言葉を教えてもらった。そん
な日本語があるなんて、52才になるまで知らなかった。現象は存在するし、
ぼく自身も体験したことがあったのだけれど。





2012年12月14日メモ。辞書の言葉は互いに参照し合うだけである。
その点では、閉じた系である。もしも、外部の現実の一つでも、それに照合
させられないとしたら、辞書は存在する意義をもたなくなってしまうだろう。





2012年12月14日メモ。夢は、それぞれ成分が異なる。きのうの夢と、
けさの夢が異なる理由は、それしか考えられない。では、普段の思考はどう
か。違った見解をもつことがある。ということは、つねに、自我は異なると
いうことだ。そのつど形成されるということだ。





その点では、ヴァレリーの自我の捉え方と同じだ。自我はつねに、外界の刺
激に影響されている。ここで、辞書のことが思い出された。辞書の言葉は、
それぞれ参照し合うが、外界の事物・事象とのつながりがなければ、意味を
なさない。自我を形成する脳のなかの記憶もまた、





なんらかの刺激がなければ、役立つ記憶として役立つことがないのではなか
ろうか。たとえ、脳のなかの記憶から連想されたにしても、外部からの感覚
的な、あるいは、想念的な刺激がなければ、そういった記憶も、想起に対し
て役立つものとは、けっしてならなかったであろう。





夢がひとから出ていくと、ひとは目覚める。夢がひとを眠らせていたのであ
る。夢がひとのなかに入ると、ひとは眠る。夢はそうやって生きているのだ。
ときどき、他人の夢が入ってくることがある。いくつもの夢が、ひとりの人
間のなかで生きていることがあるのだ。





夢が、人間を生かしていると考えると、目が覚めているときは、現実が夢な
のである。夢が人間のなかで手足を伸ばして、ひとそのものになると、人間
は眠るのだ。夢が現実となるのだ。





夢は不滅である。違った人間のあいだをわたり歩きつづけているのだ。





2012年12月18日メモ。ピアノの先生曰く、北海道ってさ、10セン
チ積もったら30センチしか、扉があかんのよ。で、30センチ積もったら、
10センチしか、あかんのよ。2時間、雪かきしなかったら、扉はあかんの
よ。





2012年12月14日メモ。そういえば、人が夢を見るというけれど、夢
のなかに人がいるときには、夢が人を見ていることになりはしないだろうか。
だとしたら、その夢を見ているわたくしは夢そのものということになる。





ぼくの夢。ではなく、夢のぼくである。彼の夢。ではなく、夢の彼である。
夢がつくるぼくがいて、ぼくが夢をつくる。夢がつくる彼がいて、彼が夢を
つくる。同じ一つの夢が、ぼくをつくり、彼をつくる。異なる夢が、同じぼ
くをつくり、異なる夢が、同じ彼をつくる。





夢の成分は、ひとによって異なると思うが、そのひとひとりのなかに出てく
る異なるひとの夢、いや、同じひとつの夢にでてくる異なるひとでもいいの
だが、夢に出てくるひとが違えば、夢にでてくるそのひとをつくる成分も違
うのだろうか。おそらく違うであろう。なにが夢なのか。





記憶していることを記憶していない記憶が夢をつくることがある。というか、
夢に出てくる事柄は大部分が記憶していない事柄である。記憶の断片を勝手
に編集しているのは、いったい何ものだろう。記憶の断片そのものだろうか。
記憶された事柄が形成するロゴス(形成力)だろうか。





それは、起床しているときのロゴスとは明らかに異なる。なぜなら、そのよ
うな夢をつくりだす想像力が、起床時には存在していないからである。した
がって、ロゴスは、自我は、と言ってもよいが、少なくとも二種類はあると
いうことだ。





洗脳について考える。ある連関のある言葉でもって、人間を言葉漬けにする
のだが、それによって、ロゴスが、ある働き方しかしないように仕向けるこ
とは容易であろう。家庭生活、学校生活、職場生活、それぞれに、洗脳は可
能だ。ロゴス、あるいは、自我の数が増えたぞ。





あるいは、洗脳は、別ものと考えようか。そうだとしても、意識領域におい
ても、自我が一つであるというのは、考えにくい。違った状況で違った見解
をもつということだけではなくて、同じ状況で違った見解をもつということ
があるのだから。ハンバーグを食べようと思って家を出て、





うどんを食べてしまうことがある。なんという不安定なロゴスだろうか。し
かし、反射というか、好き嫌いに関して言えば、反応が一様な感じがする。
ぶれないのだ。少なくとも、ぶれが少ないのだ。これから推測できることは、
思考傾向というものが存在するということだろう。





よりすぐれた詩句をつくり出したいと思うのだけれど、そのためには、思考
傾向を全方位的にするよう努力しなければならない。思考するには、思考対
象の存在が不可欠であるが、思考対象は、思考傾向に対して大いに影響を与
えるものである。したがって、全方位的に思考することは、





その思考傾向を自己認識のうちに捉え、その思考傾向とは異なる思考をもつ
ことができるように訓練しなければならない。「順列 並べ替え詩。3×2
×1」のように、強制的に思考傾向を切断し、つくり直すような手法が理論
的である。ここで、ベクトルのなかに出てくる、





ゼロベクトルの定義を思い出した。教科書の出版会社が違うと、数学用語の
定義が異なる場合がまれにある。ゼロベクトルがその一例だが、ゼロベクト
ルとは、ある教科書では、大きさがゼロで、「方向は考えない」とあり、べ
つの教科書では、「あらゆる方向である」とあった。





ぼくが喜んで受け入れるのは、もちろん、後者の定義である。そう考えたほ
うが、ベクトルで演算子を導入したときに、整合性があるように思えるから
だ。「方向は考えない」では、ロゴスはない、と言ってるようなものである。
受け入れられない。それとも、ロゴスはないのだろうか。





全方位的なロゴス。全方位的な自我。理想だ。それに近づくためにできるこ
とは、ただ一つ。これまで考えたこともないことを考えるのだ。それには、
つねに新しい知識を吸収して、思考力の位置エネルギーを蓄え、いつでも思
考力の運動エネルギーに変換できるように、ふだんから





自己訓練すればよい。スムースに思考力の位置エネルギーを、思考力の運動
エネルギーに変換することができない者は、自己訓練ができていないのであ
ろう。頭がボケないうちは、不断の努力が必要である。





2012年12月14日メモ。獏という動物は夢を食べるという。獏が自分
の夢を見たら、自分を食べることになる。自分の足元の風景から、自分の足
を含めて、むしゃむしゃ食べはじめる獏の姿を想像する。





詩や小説をいくら読んでも、いっこうに語彙や思考力が豊かにならない人が
いる。そういう人たちは、詩や小説を読んでも、言葉の意味をその文脈のな
かでしか理解していないのだろう。ほかの文脈に移し替えて考えてみるとい
うことなど、したこともないのだろう。ぞっとする。





言葉に貧しさをもたらせる詩人がいる。あまりに偏りすぎるのだ。つねに判
断停止状態である。これは、思考能力のない読み手以上に、困った存在であ
る。





幻聴でしょうか。「おかしい?」っていうと、「おかしい」っていう。 「おか
しくない?」っていっても、「おかしい」っていう。 そうして、あとで、気
をとり直して、「もうおかしくない?」っていっても、「おかしい」っていう。
幻聴でしょうか、 いいえ、だれでも。(金子みすゞさん、ごめんなちゃい。)





隣の奥さんが化粧をとって、八百屋にいくと、野菜たちがびっくりして走り
去っていった。





母親の腕を見てると、10人の子どもたちがブラブラとぶら下がっていた。
母親が20本の腕で、子どもたちの両腕を振り回して大回転しだした。母親
が手を放すと、子どもたちは、きゃっきゃ、きゃっきゃ叫んで、つぎつぎと
飛んでいった。あはははは。あはははは。





彼女の胸は、ぼくの滑り台だった。彼女の腕は、ぼくのジャングルジムだっ
た。彼女の尻は、ぼくの砂場だった。彼女の唇は、大きく揺れるブランコだ
った。彼女の顔は、公園にばらまかれる水道の水だった。





ぼくは、彼女の腕をつかんで、向こう岸に投げてやった。向こう岸にいるぼ
くが、飛んできた彼女を拾うと、ぼくのほうに投げ返してきた。ぼくはまた、
彼女を向こう岸に放り投げた。すると、向こう岸のぼくはまた、彼女を投げ
返してきた。ふたりのぼくは、それを繰り返していた。





ぼくが膝を寄せて近づくと、もうひとりのぼくも、ぼくに膝を寄せて近づい
た。ぼくはどきどきして、ぼくの手をもうひとりのぼくの手に近づけていっ
た。すると、もうひとりのぼくも、ぼくに手を近づけてくれたのだった。ぼ
くは、もうひとりのぼくと目を合わせた。顔が熱くなった。





ぼくは、ぼくの目や鼻や口を、ぼくの顔からはずして、テーブルの角や、冷
えたコーヒーカップの取っ手のうえとか、本棚の最上段に置いてみたりした。
すると、まったく新鮮な感覚でもって、ものを眺めることができ、もののに
おいを嗅ぐことができ、ものの味を味わうことができるのだった。





日に焼けたヨガの達人たちが、何百万人も、海のうえでヨガをしながら、日
本の海岸に漂ってきた。





おれはもうガマンができない。おれの顔や腹を、ボカッ、ドスッ、ドカーン
ッと殴った。倒れかかる瞬間のおれを着色する。鮮やかな青色のおれ。鮮や
かな紫色のおれ。鮮やかな黄色のおれ。倒れかかる瞬間の、さまざまな色の
おれ。おれは、おれを着色した。さまざまな色に着色した。





お父さんのぼくと、お母さんのぼくと、ぼくのぼくと、きょうのぼくは、三
人のぼくがそろっての夕ご飯のぼくだった。さいしょに、スプーンのぼくを
取り上げたのは、お父さんのぼくだった。きょうの夕ご飯のぼくはカレーラ
イスのぼくだった。ジャガイモのぼく。お肉のぼく。玉葱のぼく。





どうも、育った環境が違うと、思考様式も異なるようだ。ぼくは●●だから、
そんな●●だったら、●●じゃないかと言っても、わからないらしい。きみの
ように、ぼくは、●●じゃないんだから、そんな●●だったら、●●じゃない
かと言うのだけれど、いっこうにわかってくれない。





永遠と書かれたフンドシをはいて寝る。





「を」があると、音がよくないね。も一度、書くね。





永遠と書かれたフンドシはいて寝る。 





くしゃみが。きのう、恋人にうつされたのかもしれない。ひどいやつや。治り
きっていないのに、会いにきて。「今マンションの前にいます。」って、かつ
ては、うれしく、いまは、ちとこわいメール。予定の時間より30分はやくく
るなんて。葛根湯のんでからセブイレに行こう。





死体は連想しない。死体は連想する。塩は連想しない。塩は連想する。火は
連想しない。火は連想する。土は連想しない。土は連想する。風は連想しな
い。風は連想する。水は連想しない。水は連想する。言葉は連想しない。言
葉は連想する。すべては、わたしとあなた次第だ。





死体は連想しない。死体は連想する。塩は連想しない。塩は連想する。火は
連想しない。火は連想する。土は連想しない。土は連想する。風は連想しな
い。風は連想する。水は連想しない。水は連想する。言葉は連想しない。言
葉は連想する。すべては、あなたとわたし次第だ。





「あっためて」、「あたためてください」。どう言おうか、セブンイレブンに
行く道の途中で口にしたら、きゅうに恥ずかしくなった。夜中だし、だれもそ
ばにはいなかったのに。ことしのクリスマスもひとり。むかし付き合ってた恋
人には、なんで素直に、「あたためて」と言えなかったのだろうか。いまなら
弁当50円引き。





レモンは、あまり剥かない。たいていは、薄く輪切りにするか、小さな欠片
にするかだ。指も、あまり剥かない。やはり、薄く輪切りにするか、小さな
欠片にするかだ。イエス・キリストも、あまり剥かない。今夜から明日、イ
エス・キリストの輪切りと、小さな欠片が街を覆う。





さいしょに靴下を脱ごうとする彼。さいごに靴下を脱がそうとするぼく。こ
とばの配列が違うと違った意味になると、パスカルが書いていた。脱ぐ衣服
の順番で、彼もまた違った彼になるのだろうか。ノブユキ、タカヒロ、ヒロ
くん、エイジくん。ほんとだ。みな違った彼だった。





黒サンタの話を以前に書きました。子どもたちをつぎつぎ殺していくサンタ
です。この話を日知庵ではじめてしたのは2、3年前で、映画になったら、
世界中の子どもたちがびびるねと、えいちゃんに言いました。プレゼント用
の袋には、殺した子どもたちの手足が入っています。





その袋で、ボッカンボッカン殴り殺したり、トナカイに蹴り殺させたり、橇
で轢き殺したりしていくのです。日知庵のえいちゃんに、赤じゃなく、黒い
服着てよ、黒い帽子かぶってよって言ったら、いややわと言われました。黒
い服のサンタって、おしゃれだと思うんですけど。





コップのなかに、半分くらい昼を入れる。そこに夜をしずかに注いでいく。
コップがいっぱいになるまで注ぎつづける。手をとめると、しばらくのあい
だ、昼と夜は分離したままだが、やがてゆっくりと混ざり合っていく。マー
ブル模様に混ざり合う昼と夜。





青心社から出てる井上 央訳の、R・A・ラファティの「翼の贈りもの」にお
ける、誤植と脱字の多さには驚かされた。気がついたものを列挙していく。
翻訳者か出版社のひとが見てたら、改訂するときの参考にしていただきたい。
45ページ上11、12行目、「唄でければなら





ない」→「唄でなければならない」 「な」が抜けているのである。単純な
脱字。140ページ上 1行目「?」のあとに、一文字分の空白がない。1
46ページ下 13行目「生物が生まれ出た液体と同じの環境が保たれて」
→「生物が生まれ出た液体と同じ環境が保たれて」





これは「の」が余分なのか、それとも、「ものの」の「もの」が抜けているの
であろう。154ページ下 13行目「小鬼の姿ように」→「小鬼の姿のよう
に」 「の」が抜けている。同ページ下 8、9行目の訳は、まずいと思う。
こんな訳だ。「彼は複雑に入り組んだ





岩場、崖であり、斜めに開いた裂け目、正体不明の影が動く高い頂があった。」
→「彼は複雑に入り組んだ岩場、崖であり、そこには、斜めに開いた裂け目、
正体不明の影が動く高い頂があった。」というふうに、「そこには、」を補わ
ないと、スムースに意味が伝わりにくい。





159ページ下 2、3行目「恐れるものは何ものない」→「恐れるものは
何もない」 「の」が余分なのだ。168ページ上 8行目「そこにステン
ドグラスあった」→「そこにステンドグラスがあった」 「が」が抜けてい
るのである。なぜ、プロの翻訳家が、これほど多くの





ミスを見過ごしたのか、プロの校正係がこれほど多くのミスを見過ごしたの
か、それはわからないが、いまでは電子データでやりとりしているだろうか
ら、おそらく翻訳家のミスであろう。下手だなと思う訳がいくつも見られた
が、それは仕方がないとしても、誤字や脱字の類は、





完全に翻訳家の怠慢である。ラファティの新しい作品を読もうと楽しみにし
ていた読者をバカにしていると思う。ぼくは自分の詩集で、ただの一度も、
誤字・脱字を見過ごしたことはない。ぼくのような無名の詩人でも、それく
らいの心構えはある。何冊も翻訳している翻訳家と





して、井上 央さんには、その心構えがないのかと思ってしまった。さいきん、
ぼくが読んで誤字・脱字が多いと思って指摘した翻訳書は数多い。彩流社の
「ロレンス全詩集」の編集者は、ぼくの指摘を受けて、正誤表を翻訳者に作
成させて、全詩集につけてくれるようになった。





青心社のほうでも、改訂版を出すときには、もう一度、井上 央さんに誤字・
脱字の訂正と、訳文のまずいところの訂正を依頼してほしい。





この最近は、一秒間に2倍に増えます。いま、10000の過去に対して1
の最近があるとして、この最近と過去の比率が逆転するのは、いったい何秒
後でしょうか、計算して求めよ。





「加奈子ちゃん、ぼくの鉄棒になって。」加奈子ちゃんの首と足首をもって、
地面と平行にグルングルン回転する。「加奈子ちゃん、動かないで。がんばっ
て。」加奈子ちゃんの首と足首をもって、地面と平行にグルングルン回転する。
あはははは。あはははは。





ラファティの「翼の贈りもの」、あと2篇で読み終わるのだけれど、理屈っぽい
ところが裏目に出てるような作品が多い。やっぱり、残り物でつくっちゃった短
篇集って感じがする。これだと、まだハヤカワから出てた短篇集「昔には帰れな
い」のほうが、おもしろいくらいだ。





寝てたけど、夢を見て、目が覚めた。蟻にミルクをやらなければならない。と、
夢のなかのぼくは、冷蔵庫からミルクパックを取り出して、「意味のわからない
ものは、目は見てても見えないんだよ。」と、蟻にむかってつぶやいていた。ふ
と、40代のころの父親の気配がして目が覚めた。





夢のなかで、冷蔵庫から取り出したのは、ミルクパックじゃなくて、ミルク
パックの型紙だったのだ。ハサミで輪郭を切り取って、のりしろもちゃんと
あったものを、きれいに切り取って、のりしろにはのりを塗って組み立てた
のだ。もちろん、ミルクは入ってない。それでも、蟻にミルクをやらなきゃ
と考えてた。





蟻とぼくがいる、ぼくの部屋のなかで、宇宙は黒い円盤として斜めに傾げ
て、ゆっくりと回転していた。円盤に付着した星が回転していた。ぼくは、
ミルクパックの型紙を切り取って、のりを使って、それを組み立てながら、
蟻に向かってつぶやいていたのだ。





2012年11月9日のメモ。ある言葉の意味を知っているというのは、物
書きと、そうでない者とのあいだには相当の違いがある。物書きでない場合
は、ある言葉を知っているというのは、その言葉がさまざまな文脈のなかで、
その文脈ごとに異なる意味を持っているということを





知っているに過ぎない。ある映画のあるセリフではこういう意味。ある詩人
のある詩ではこういう意味。一つの言葉が文脈によって、さまざまな意味を
持っているということを知っているに過ぎない。物書きの場合は、ある言葉
を知っていると





いうのは、まだ結びつけられたこともない言葉との連結を試みた者でなけれ
ばならず、言葉に、その言葉がまだ持ち合わせていなかった意味を持たせる
ことができる才能の持ち主でなければならないのである。すでに存在してい
る意味概念を





知っているだけでは、その言葉について知っているとは、物書きの場合には、
言えないのである。物書きでない場合には、過去に吸収した知識による意味
解釈、あるいは、せいぜいのところいま現在の体験から知りえた意味解釈が
あるだけで





限界がある。物書きが解釈する場合には、過去に吸収した知識による意味解
釈や、いま現在の体験から知りえた意味解釈だけではない。まだ自分が知ら
ないことを知ることが、まだ自分が体験したこともないことの意味解釈をす
ることができる





のである。なぜなら、物書きとは、つねに、語の意味の更新に寄与する者の
ことであり、過去の意味と現在の意味の蝶番であり、現在の意味と未来の意
味の蝶番であり、過去の意味と未来の意味の蝶番であるからである。





対象のあいまいな欲望。





空には雲ひとつなかった。草を食(は)んでいた牛たちがゆっくり溶けてい
く。アルファルファの緑のうえに、ホルスタインの白と黒が、マーブル模様
を描いていく。木陰でうなだれていた二頭の馬は、空気中に蒸散していく。
風がないので、茶色い蒸気が小さな靄となって漂っている。





2012年10月31日のメモ。「ぼくの使う辞書から、「できない」という
言葉がなくなった。だから、もうぼくは「できない」という言葉を使うことが
できない。」





2012年10月31日のメモ。「無数の「できない」が部屋に充満している。
ぼくがつぶやきつづけたからだ。コップは呼吸をすることができない。ペンは
呼吸をすることができない。ハサミは呼吸をすることができない。電話は呼吸
をすることができない。」





2012年10月19日のメモ。「目の前に生きている詩人がいるなんて、考
えただけで、ぞっとする。ものをつくるということは、冒涜的だ。それも、物
質ではない、観念というものをつくりだすというのだ。極めて冒涜的だ。詩人
が目の前にいる。これほど気味の悪いことはない。」





一週間以内の日付のないメモ。「大事なことはすっかり知っているのに、彼は
わざとはぐらかして、じっさいにあったはずの事実をゆがめて語るのであった。
奇妙なことだが、彼がゆがめて語ったことは、ぼくには、現実よりも現実的に
感じられるのだった。いったい、どうしてだろう。」





無数の「できる」が部屋に充満している。ぼくがつぶやきつづけたからだ。
コップは呼吸をすることができる。ペンは呼吸をすることができる。ハサミ
は呼吸をすることができる。電話は呼吸をすることができる。書物は呼吸を
することができる。目薬は呼吸をすることができる。





2012年7月6日のメモ。えいちゃんの同級生の山口くんとしゃべってい
て。ほんとの嘘つきは隠さない。まだ毎日メールしてる。どこが傷心やねん。
塩が食いたい。肉。ほかに何が焼きたいねん。3月3日、22才の雪の思い
出や。自分の定義の恋しかしない。自分の正義が悪い。





握り返すドアノブ。待てない。この世のすべての薔薇。水面の電話。





ある言葉を知っているということは、その言葉を使えるということ。使える
というのは、その言葉がもっている意味のほかにも意味が生じないか吟味す
ることができるということ。ひとことで言えば、だれも見たこともないその
言葉の表情を見せつけることができるということ。





そういった言葉の意味の更新性が見られない文学作品は、ぼくの本棚には一
冊もない。すさまじい数の本だ。圧倒される。自分も死ぬまでに、一つでも
いいから、言葉に新しい意味をもたせたいと思っている。できるだろうか。
ほかの書き手はどういった動機で書いているのだろうか。





神は人間を信じていないし、人間は神を信じていない。悪魔は人間を信じて
いないし、人間は悪魔を信じていない。悪魔は神を信じていないし、神は悪
魔を信じていない。





神は人間を信じているし、人間は神を信じている。悪魔は人間を信じている
し、人間は悪魔を信じている。悪魔は神を信じているし、神は悪魔を信じて
いる。





ふざけて、ノズルさかさまにして、鼻の穴にシャワーでお湯をぶっちゃけた
り、キャッキャゆってました。まあ、おバカさんですね。で、おバカさんし
か、たぶん、人生楽しめないとも思います。世のなか、ひどいもの、笑。





こころの強さは表情に現れます。





フエンテスの「アウラ」の途中で、ドトールを出て、日知庵で飲んでいた。
知り合いがきて、30年前の話になった。お互いの20代のことを知ってい
るから、なんか、いまのお互いのふてぶてしさが信じられない。まあ、齢を
とるといいことの一つかな。ふてぶてしくなるのだ。





きょう、ジュンク堂で、ナボコフの「プニン」が新刊で出ていることに気が
ついた。ほしかったけれど、11月は、めっちゃ貧乏なので、がまんした。
ふと、「完全なセックス。」というタイトルで、詩を書こうかなと思った。
文庫本の棚を巡り歩いて、ふと思いついたのだった。





「安全なセックス」からきてると思うけれど、と、「完全なセックス。」とい
うタイトルを思いついたときに思ったけれど、わからない。セックスについて
の本ばかりを目にしたわけではない。そいえば、日本の現代詩に、セックスに
ついて書かれた詩が少ないことに気がついた。





外国の詩のアンソロジーにも少ない。セックスが、人生のなかで、かなりの
ウェイトを占めているにもかかわらず、セックスについての詩が少ない。小
説はいっぱいあるのに。官能詩というものがない。小説では催すが、詩では
催さないのだろうか。知的な詩に萌えのぼくだけど。





脳の回路が違うのかな。ああ、でも、ぼくは天の邪鬼だから、「完全なセック
ス。」というタイトルで、まったくセックスについては触れないかもしれない。
などとも思った。しかし、シャワーを浴びながら頭を洗ってると気持ちいいけ
れど、そのこと書こうかな。「完全な洗髪。」





そだ。シャワーしながら、頭を洗うと、めっちゃ気持ちいいけど、そのことを
書いた詩は読んだことがないなあ。「完全な洗髪。」というタイトルで詩を書
こうかな。そいえば、ノブユキの頭を洗ってあげたことが思い出される。いっ
しょにシャワーを浴びるのが好きだった。





ノブユキ、二十歳だったのに(ぼくは二十代後半かな、26才か27才くら
いだったかな)おでこが広くて、髪の毛を濡らすと、めっちゃおもしろかっ
た。ふざけてばかりいた。そんなことばかり思い出される。幸せだった。生
き生きしていた。寝よう。うつくしい思い出だった。





誤読を許さない書物・人間・世界は貧しいと思います。誤読とは、可能性の
扉であり、窓であり、階段であると思います。さまざまな部屋へとつづく、
さまざまな景色を見させる、さまざまな場所へと到達させる。





よく言われることですが、貧しい作品が豊かな作品のヒントになることもあ
ります。逆の方がはるかに多いでしょうけれど。それに、ひとのことはとく
に、あとになって解釈が変わること多いでしょうし、書物だって、読み手の
考え方や感じ方の変化で違ったものになりますしね。





あ、それは誤読ではないですね。しかし誤読は、豊かさを、多様性を生む源
の一つでしょうね。正しいことが、ときにとても貧しいことであることがあ
ると思います。あるいは、正しいと主張することが。ぼくは自分の直感を礎
(もと)に判断し行動します。しばしば痛い目にもあいますが。





そして、気がつかされることがよくあるのです。間違った道で、その間違った
道でしか見えないものを見た後で、正しい、あるいは、正しいなと思える道に
足を向けるということが。自分の人生ですから、それはもう、たくさん、いっ
ぱい、道草をしたっていいと思うのです。





岩波文庫、コルタサルの短篇集「悪魔の涎・追い求める男」228ページの
8、9行目、「島/々」。改行をするときは、「島/島」ではないのか。最
近、読む本の多くがこういった基本的な法則を知らない者の手で校正されて
いる。不愉快であるというよりも不可解。





きのう、セブンイレブンに行ったら、好きなペペロンチーノがなかった。店
員に訊くと、入っていませんという。おいしいものが消えて、そうではない
ものが入る。不思議な現象だ。よい本が消えてしまう書店の本棚のようだ。
つぶれてしまえと思った。食べ物にも意地汚いぼくだ。





あした東京の青山のブラジル大使館で、大使館主催のウェブページ開設記念
の、詩人や作家を招いたパーティーがあって、ぼくも作品を書いたので、お
呼ばれしてるんだけど、着ていく服もなく、新幹線代もないので、行けず。
こういうところで、貧乏人はチャンスを逃すんだな。





きょう、授業の空き時間に、ふと、コルタサルの短篇集「遊戯の終わり」に、
もう1つ誤植があることを思い出したので、これから探そう。思い出すきっ
かけが、コルタサルの短篇集「秘密の武器」に収められた「悪魔の涎」のと
ころに、「島の端(はな)」とあったからである。





見つけた。岩波文庫コルタサルの短篇集「遊戯の終わり」の178ページ
2行目、「水底譚」のなかに、「砂州の鼻にいたぼくは」とある。ここは、
「砂州の端にいたぼくは」ではないのか、と、写真的記憶の再生で、けさ、
気がついたのであった。これは誤植でしょう? 違う?





きれいでしょう。⊃∪⊂∩。かわいいかな。⊃∪⊂∩。きれいでしょう。⊃
∪⊂∩。かわいいかな。⊃∪⊂∩。きれいでしょう。⊃∪⊂∩。かわいいか
な。⊃∪⊂∩。きれいでしょう。⊃∪⊂∩。かわいいかな。⊃∪⊂∩。





連詩は、ひととのじっさいの会話のように、ふと自分のなかにあるものと、
ひとのなかにあるものとがつながる感覚があって、自分ひとりでは思いつけ
なかったであろうものが書けるということがあって、自分の存在がひろがり
ます。と同時に自分の存在の輪郭がくっきりします。





いまものすごい夢を見て目がさめた。教室のなかで、中学生くらいの子ども
たちが坐っているのだ。「では、その紙を折って、箱に入れてください」と
いう声がして、子供たちは顔をまっすぐにしたまま、紙を折って箱にいれた。
「では、終わりました。帰ってください。」という声が





すると、子供たちがみな、机のよこから杖をとって、ゆっくりと動き出し、
手探りで、教室の出口に向かいだしたのだった。机の角や、椅子の背に手を
触れながら。子供たちは盲目だったのだ。気が付かなかった。ぼくの夢のな
かのさいしょの視点は、一人の男の子の顔をほとんどアップ





で、正面から微動もせずに見つめていたのだった。子供たちが動き出してか
ら、ぼくの夢のなかでの視点は立ち上がった人物の目から見たもののようで、
その目は教室の出口に向かう子供たちの姿を追っていた。ただ、教室の外に
出るだけでも、お互いをかばい合うようにして進む子供





たちの姿を、夢のなかのぼくの目は見ていたら、涙がこぼれそうになって、
涙がにじんできたのだった。目が見えるぼくらには簡単なことができないひ
とがいるということを、この夢は、ぼくに教えてくれたのだった。こんな映
像など見たことも聞いたこともなかったのに、夢はつくりだしたのだった。





ぼくの無意識は、ぼくになにを伝えたかったのだろう。ストレートに、映像
そのままのことなのだろうか。きのうの昼間に、そんな夢を見るなにかを見
たり、考えたりした記憶はないのだけれど。でも、子供たちが、目をぱっち
り開けていて、目が見えない子供たちであるということを





夢を見ているぼくにさいしょに教えず、子供たちが、杖を手にして、ゆっく
りと手探りで、教室の出口に向かった姿で、目が見えなかったことをぼくに
教えるという、レトリカルな夢の表現に、ぼくはいま、驚いている。ぼくの
夢をつくっている無意識領域に近い自我もまたレトリカル





な技法をもって表現していることに。だとしたら、さいしょに、あの住所と
名前を書いた紙を箱に入れさせた、あの行為はなにを意味しているのだろう。
それはいま考えても謎だ。わからない。雨の骨が落ちる音がしている。きょ
うは夕方まで雨らしい。





ぼくは子どものときから、ホモとかオカマとか言われてたから、ある程度、
耐性があるけど、それでも、言われたら嫌な気持ちがするね。その言葉に相
手の侮蔑する気持ちがこもってるからね。ぼくが小学校のときには、「男女
(おとこおんな)」っていう言い方もあったよ。





岩波文庫に誤植があると、ほんとにへこむ。コルタサルの短篇集『遊戯の終
わり』昼食のあと、186ページ9行目「市内の歩道も痛みがひどくて」→
「市内の歩道も傷みがひどくて」。岩波文庫が誤植をやらかしたら、どこの
出版社も誤植OKになるような気がする。ダメだよ。





液体になるまえに、こたつに入った。キング・クリムゾン。ミカンになって、
ハーゲンダッツ食べたい。お釣りは治療室。たまには、生きているのかも。
小さくて固い。突き刺さる便器。底まで。魚の肌。フォトギャラリー。





見る泡。聴く泡。泡の側から世界を見る。泡の側から世界を聴く。パチンッ
とはじけて消えてしまうまでの短い時間に、泡の表面に世界が映っている。
泡が消えてしまうと、その映像も消えてしまう。人間といっしょかな。思い
出の映像も音も、頭のなかだけのものもみな消えてしまう。





ピアノの鍵盤の数が限られているのと似ていますね。それでも、無限に異な
る曲、新しい発想の曲がつくられていくように、でしょうか。 @trazomper
che 言葉とはすでに誰かが過去につぶやいたことのバリエーションなわけで





無限は、有限からつくられていると、だれかの言葉にあったような気がしま
す。ちょっと違うかな。でも、そうだよね。@trazomperche 鍵盤、おっしゃ
るとおり!





アナーキストという映画で、いちばんこころに残ったのは、キム・イングォ
ンのキスシーンだった。韓国人のキム・イングォン青年と、中国人娘とのキ
スシーンだった。キム・イングォンが10代後半の青年の役だったのかな。
娘もまだ十代の設定だったと思う。ぼくは、そのキスシーン





を見て、キム・イングォンに口づけされたら、どんな感じかなと思った。ぼ
くの唇が中国人娘の唇だったらと思ったけれど、もしも、ぼくの唇がキム・
イングォンの唇だったら、ぼくとキスしたら、どんな感じなのかなとも思っ
た。ぼくは、キム・イングォンの唇になりたいとも思ったし、





キム・イングォンに口づけされる唇にもなりたいとも思った。また、口づけ
そのものにもなりたいとも思ったのだけれど、口づけそのものって、なんだ
ろうとも思った。唇ではなくて、口づけというもの。一つの唇では現出しな
い現象である。二つの唇が存在して、なおかつその





二つの唇が反応して現出させるもの。口づけ。これを、ぼくは、詩になぞら
えて考えてみることにした。作品を読んで読み手のイマージュとなるもの、
それは、あらかじめ書いた者のこころのなかにはなかったものであろうし、
また読んだ者のこころのなかにもなかったものであろうけれども、





読み手が書かれたものを読んだ瞬間に、書き手のこころと交感して、読み手
のイマージュとして読み手のこころのなかに現出させたものなのであろうか
ら、書く行為と読む行為を、唇を寄せることにたとえるならば、詩を読むこ
と自体を、口づけにたとえて、





その口づけを、祝福と、ぼくは呼ぶことにする。ぼくの翻訳行為も、原作者
の唇と、翻訳者のぼくの唇との接吻だと思う。そして、その翻訳された英詩
を見てくれる人もまた、一つの祝福なのである。祈りに近いというか、祈る
気持ちで、ぼくは、英詩を翻訳している。祝福されるべきもの、接吻として。





出来の悪い頭はすぐに「つなげてしまう」。





人生がヘタすぎて、うまくいかないのがふつうになっている。ただコツコツ
と読書して、考えて、メモして、詩を書いて、ということの繰り返し。毎年、
100万円くらい使って、詩集をつくって、送付して、読んでください、と
言ってお願いをする。バカそのものだ。





日知庵からの帰り道、阪急電車に乗っていて、友だちから聞いた話を思い出
していたら、西大路通りを歩いていて、涙、どぼどぼ目から落として、ふと、
うえを向いて月をさがしたら、月がなかった。5日ばかりまえに亡くなった
一人のゲイの男と、その妹さんの話。ぼくは語りがヘタだから、その妹さん





がミクシィに書き込まれたというメッセージを、おぼえているかぎり忠実に
再現する。「兄と仲良くしてくださっておられた方たちに、お知らせいたし
ます。兄は、五日前に交通事故で亡くなりました。お酒に酔っていましたが、
横断歩道を歩行中に車に轢かれてしまいました。





兄が亡くなって、兄がしていたミクシィを見ておりましたら、兄がゲイであ
ったことを知りました。両親には、兄がゲイであったことは知らせませんが、
どうか、妹であるわたしには、兄のことを教えてください。」だったと思う。
人間の物語。人間というものの物語。ぼくが書いた





詩なんて、彼女が人間であることや、人間というものが、どういったもので
あるのかを教えてくれた彼女の言葉に比べたら、この世界になくってもいい
ものなんだなって思った。親でも、兄弟でも、恋人でも、ひとを愛するとい
うことがどういうことか教えてくれたような気がした。





ぼくと、その話をしてくれた友だちの会話。「これ、ぼくの友だちの友だち
の話なんやけど、その友だち、落ち込んでて、元気ないんや。」「そのうち、
元気になると思うけど、ショックやったやろな。」「言葉もかけられへん。」
「時間がたったら、そのうち落ち着くやろ。」





「その友だちに、そいつ、どこ行ったんやろうなってきいてきたやつがおったん
やって。」「そら、天国に決まってるやん。」「そやろ、なんで、そんなんきく
んやろ。」「それはわからんけど、死んだら、みんな天国に行くんちゃうかなあ。」
これは、ぼくの信じていること。





ぼくの信じていること。





ひさしぶりに、涙、ぼとぼと落とした。


FEEL LIKE MAKIN’ LOVE。

  田中宏輔



●コップに入れた吉田くんを●空気が乾燥した日に●風通しのよい部屋に二日のあいだ放置しておくと●蒸発して半分になっていた●これは●吉田くんが●常温でも空気中に蒸発する性質があるからである●コップを冷やすと●空気中の吉田くんたちが●コップの外側に凝集する●ビーカーに入れて熱すると●水に溶けていた吉田くんが小さな泡となって出てくる●水を沸騰させると●吉田くんたちが激しく出てくる●常温では液体の吉田くんは●−60℃で固体の吉田くんとなり●120℃で気体の吉田くんとなる●暑い日に●地面に吉田くんをまくと●吉田くんが蒸発して涼しくなる●これを打ち吉田くんという●運動すると体温が上がり●皮膚から吉田くんが噴き出てきて体温が下がる●激しく運動すると●皮膚から吉田くんたちがたくさん噴き出てくる●日知庵で飲んでいると●手元近くにあった●おしぼり置きの横を●吉田くんが走る姿が目に入った●ぼくは●おしぼりをそっと持ち上げて●思い切り振り下ろした●カウンターにぎゅっと押し付けたあと●おしぼりを開くと●手足がバラバラになって顔と身体もつぶれた吉田くんがいた●吉田くんが仕事中に脱皮して●部長にひどく叱られた●吉田くんと竹内くんを比べると●吉田くんより竹内くんの方が温まりやすい●したがって●夜になって涼しくなると●竹内くんが吉田くんのところにやってくる●これが●竹内くんが吉田くんのところに夜になるとやってくる理由である●生きている吉田くんを投げて●上向きに倒れるか●うつ伏せに倒れるか●その確率は2分の1ずつである●いま●吉田くんを5回投げるとき●吉田くんが3回うつ伏せに倒れる確率を求めなさい●ただし●打ち所が悪くて●途中で吉田くんが死ぬ場合は考えない●数学の時間にふと窓の外を見ると●吉田くんたちの群れが移動しているところだった●同じ大きさで同じ服装をした同じ顔の吉田くんたちが手をつなぎながら歩いていた●吉田くんたちの群れは無限につづいているように見えた●窓に垂直に差し込んでくる太陽光線が目にまぶしかった●吉田くんは身長173センチ●体重81キロの中学3年生の男子である●いま●横15メートル●縦30メートル●深さ2メートルのプールに●吉田くんをぎっしり詰めるとしたら●いったい何人の吉田くんを詰めることができるか●計算して求めよ●ただし●小数第二位以下を切り捨てよ●吉田くんを買う●吉田くんを捨てる●吉田くんを考える●吉田くんで考える●吉田くんを整える●吉田くんをつくる●吉田くんを壊す●吉田くんを拾う●吉田くんを2倍に引き延ばす●吉田くんを5等分する●知ってる吉田くんを想像する●知らない吉田くんを想像する●吉田くんを取り除く●吉田くんを洗う●吉田くんを加熱する●竹内さんが●きのう学校の帰りに●吉田くんを埋めたと言う●あそこを掘ったら●吉田くんがいるわよ●じゃあ●いま教室にいる吉田くんはニセモノなのかい●竹内さんは自分の顔をわたしの顔に近づけて言った●ホンモノでもニセモノでもいいのよ●毎日●埋めてやってるのよ●吉田くんが生まれた瞬間から●吉田くんが71歳の誕生日に病院で息を引き取るまで撮影した録画がある●その録画を連続再生しているときに●ランダムに静止させるとすると●吉田くんが小学校六年生の6月3日に●学校の帰り道で●うんこを垂れた場面が●画面に映る確率を求めよ●吉田くんは手のひらの幅が8センチ●足の大きさが27センチの中学3年生の男子である●いま●横15メートル●縦30メートル●深さ2メートルのプールに吉田くんの手足をぎっしり詰めるとしたら●いったい何人分の吉田くんの手足を詰めることができるか●計算して求めよ●小数第二位以下を切り捨てよ●吉田くんと竹内くんとでは●どちらがはやく蒸発しますか●口をあけている吉田くんと●口をあけていない吉田くんとでは●どちらの方がはやく蒸発しますか●空気中の吉田くんが集まって上昇して塊となったものを何と呼びますか●地面近くの吉田くんが冷やされて固まったものが竹内くんです●地面近くの空気が冷やされて塊となって空中に浮いたものが吉田くんです●一人の吉田くんのあいだに吉田くんを入れることできないが●二人の吉田くんのあいだに一人の吉田くんを入れると三人の吉田くんになる●三人の吉田くんのあいだに二人の吉田くんを入れると五人の吉田くんになる●五人の吉田くんのあいだに四人の吉田くんを入れると九人の吉田くんになる●111110人の吉田くんになるのは●何人の吉田くんのあいだに何人の吉田くんを入れたときか求めよ●吉田くんはつぎの日に竹内くんと山田くんになる確率が●それぞれ2分の1です●竹内くんになった吉田くんは●竹内くんのままでは山田くんになれませんが●吉田くんに戻ると山田くんになれます●吉田くんから竹内くんになった吉田くんが吉田くんに戻る確率と竹内くんのままでいる確率は●それぞれ2分の1ずつです●ところで●いったん吉田くんが山田くんになった吉田くんが●吉田くんに戻る確率と竹内くんになる確率と山田くんのままでいる確率は●それぞれ3分の1ずつです●いま●吉田くんである吉田くんが●10日後に佐藤くんである確率を求めなさい●初夏になると●吉田くんは●気温が高まった昼ごろに開きますが●気温が低くなる夕方になると閉じてしまいます●初夏になると●吉田くんは一本の蔓の手でほかの木に巻きついてずんずん背を伸ばしていきます●夏の終わりごろになると●らせん状になった吉田くんが●スプリングのようにピョンピョン道を跳ねていく姿が見られます●吉田くんは、子どものときは竹内くんを食べますが●成人すると山田くんを食べます●吉田くんは全体としては吉田くんなのだけれど●部分的には竹内くんであったり山田くんであったりする●吉田くんは部分的には鉄であったり水であったり空気であったりするのだけれど●ときには全体が鉄になったり水になったり空気になったりもする●吉田くんを50センチメートル以上150センチメートル以下の距離から見ると竹内くんに見えますが●50センチメートル以内で見ると山田くんに見えます●150センチメートルを超える距離から吉田くんを見ると吉田くんの姿は見えません●吉田くんは5回脱皮して竹内くんに変わり●その後●さなぎを破って出てくると●山田くんになります●吉田くんに竹内くん注射をすると●その竹内くんの半分が吉田くんになりますが●残りの半分の量の竹内くんは竹内くんのままです●いま純粋な吉田くんに3パーセントの竹内くん注射をするとき●50パーセント以上竹内くんになるには●何回●竹内くん注射をしなければなりませんか●1秒間に1人の吉田くんを吸い込むことのできる掃除機がある●いま天井に1000人以上の吉田くんがぎっしり詰まっている●すべての吉田くんを掃除機が吸い込んでしまうまでに何秒かかるか計算せよ●ただし●掃除機の性能は1秒ごとに2パーセントずつ劣化するものとする●いま吉田くん濃度が10パーセントの女の子たち35人と●吉田くん濃度が25パーセントの男の子が20人います●全員を合わせて一人の吉田くんにすると●吉田くんの男の子濃度は何パーセントですか●計算して求めなさい●夏になると●よく吉田くんたちにたかっている竹内くんたちの姿を目にします●竹内くんたちは●道に落ちてる干からびかけた吉田くんたちや●木にぶら下がって腐りかけた吉田くんたちにむらがっています●竹内くんって呼ぶと●いっせいに竹内くんたちが驚いて飛んでいきます●吉田くんの影には空気が入っていて●踏むと胸がきゅんとなる●吉田くんの空気には題名があって●その題名を指でなぞると●ペケ●ペケペケペケ●どんな形の吉田くんも吉田くんである●ひし形の吉田くんも吉田くんである●円柱の吉田くんも吉田くんである●正十二面体の一つの面の吉田くんも吉田くんである●正四面体の頂点の一つの吉田くんも吉田くんである●進化途中の吉田くん●まだ両生類なんや●ぎゃははは●それ●おもろいわ●吉田くんを竹内くんに翻訳して●その竹内くんの翻訳を山田くんに翻訳すると●吉田くんになってるのって●どうよ●目がすわってる●すわってないし●まっすぐ帰ったやろか●そんなわけないやん●やっぱり●行くんちゃうの●行ってるな●ぼったくられるんちゃう●知らんわ●ううん●両生類の吉田くんが気になる●なんで●吉田くんなん●おれの名前にしてや●あかん●ぼくの同級生や●もうなんべんも死んでるけど●ぼくの詩に出てくる常連さんや●ピンク●ドイツ語のアルファベット●ぼくはゲーやな●エフのつぎ●ハーのまえや●いっひりーべでぃっひやな●なんじゃ●そりゃ●好きっちゅうことや●吉田くんカメラ●だれを撮っても吉田くんしか写らないカメラ●吉田くん絵具●なにをどう書いても吉田くんになってしまう絵具●吉田くん書店●吉田くんについて書かれた本しか売っていない書店●吉田くん消しゴム●ノートに書かれた吉田くんだけが消える消しゴム●ほかの字や絵は●いっさい消えない●夏前に畑に植えた吉田くんは秋口にもなると十分に育っているので収穫する頃合いだった●畑に出て●畑に突っ立ている吉田くんたちを大鎌でつぎつぎと刈って言った●突然の吉田くんたちだった●吉田くんたちがフロントガラスにへばりつく●目を見開いて●フロントガラスいっぱいにへばりつく吉田くんたち●ワイパーのスイッチを入れると●ワイパーの腕が吉田くんたちを●つぎつぎとはたき落としていった●大漁だった●網にかかったたくさんの吉田くんたち●吉田くんたちの群れがここらへんにいると言ってたキャプテンの感はあたっていた●チューイング吉田くん●吉田くんをくちゃくちゃ噛む●吉田くんは起きると●鳴っている目覚まし時計に手を伸ばした●腕がはずれた●肩につけ直すと仕事に出た●外に出ると●たくさんの腕や足が道に転がったままだった●みんな●くっつけ直す時間がなかったのだろう●地下鉄では●いくつもの手が吊革にぶら下がっていた●吉田くんの顔の上流では赤い色が硬い●黄緑色の虐殺●水に溶けない吉田くん●治癒のチュッ●薔薇の木の滑り台●言葉の強度の実験●白い赤●白くて黄色い赤●白くて黄色くて青い赤●白くて黄色くて青くて緑色の赤●硬くてやわらかい●やわらかくて硬い●硬くてやわらかくて硬い●チュ●平行で垂直な吉田くん●電車に乗ると●席があいてたので●吉田くんの膝のうえに腰かけた●吉田くんの膝は●いつものように●やわらかくてあたたかかった●電車がとまった●親子連れが乗り込んできた●小さな男の子が吉田くんの手をにぎった●このあたりの地層では●吉田くんがいちばんよい状態で発見されます●あ●そこ●褶曲しているところ●そこです●ちょうど●何人もの吉田くんが腕を曲げて●いい状態ですね●では●もうすこし移動してみましょう●そこにも吉田くんがいっぱい発見できると思いますよ●玄関で靴を履きかけていたわたしに妻が声をかけた●あなた●忘れ物よ●妻の手には●きれいに折りたたまれた吉田くんがいた●わたしは●吉田くんを鞄のなかにいれて家を出た●歩き出すと●吉田くんが鞄から頭を出そうとしたので●ぎゅっと奥に押し込んだ●きみ●どこの吉田くんなの●また●いやなこと訊かれちまったな●ぼく●吉田くん持ってないんだ●えっ●いまどき●吉田くん持ってないヤツなんているのか●あーあ●ぼくにも吉田くんがいたらなあ●いつでも吉田くんできるのに●はじめの吉田くんが頬に落ちると●つぎつぎと吉田くんが空から落ちてきた●手で吉田くんをはらうと●ビルの入口に走り込んだ●地面のうえに落ちるまえに車にはねられたり●屋根のうえで身体をバウンドさせたりする吉田くんもいる●はやく落ちるのやめてほしいなあ●ゲーゲー●吉田くんが吐き出した●食べ過ぎだよ●吉田くんが吐き出した消化途中の佐藤くんや山田さんの身体が●床のうえにべちゃっとへばりついた●吉田くんを加熱すると膨張します●強く加熱すると炭になり●はげしく加熱すると灰になります●蒸発皿のうえで1週間くらい置いておくと●蒸発していなくなります●吉田くんは細胞分裂で増えます●うえのほうの吉田くんほど新しいので●すこし触れるだけで●ぺらぺら吉田くんがはがれます●粘り気はありません●あちちっ●吉田くんを中心に太陽が回っています●あちちっ●吉田くんは真っ黒焦げです●さいしょの吉田くんが到着してしばらくすると●つぎの吉田くんが到着した●そうして●つぎつぎと大勢の吉田くんが到着した●いまから相が不安定になる●時間だ●たくさんの吉田くんがぐにゃんぐにゃんになって流れはじめた●この竹輪は●無数の吉田くんのひとりである●空気●温度●水のうち●ひとつでも条件が合わなければ●この竹輪は吉田くんには戻れない●まあ●戻れなくてもいいんだけどね●二酸化吉田くん●水につけて戻した吉田くんを●こちらに連れてきてください●ずるずると●吉田くんが引きずられてきた●ぼくは●どこにもできない●本調子ではない吉田くんの手がふるえている●ぼくは●どこにもできない●絵画的な偶然だ●絵画的な偶然が打ち寄せてきた●きょうのように寒い夜は●吉田くんが結露する●はい●と言うと●吉田くんが●吉田くん1と吉田くん2に分かれる●吉田くんは●ふつうは水に溶けない●はげしく撹拌すると●一部が水に溶ける●吉田くんを直列つなぎにするときと●並列つなぎにするときでは●吉田くんの体温が異なる●理想吉田くん●吉田くんの瞳がキラキラ輝いていた●貼りつけられた選挙ポスターは●やましさにあふれていた●精子状態の吉田くん●吉田くんを●そっとしずかに世界のうえに置く●タイムサービス●いまから30分間だけ●3割引きの吉田くん●丸くなった吉田くんを●削り器でガリガリガリガリッ●ほら●出して●注意された生徒が●手渡された紙っきれのうえに●吉田くんを吐き出した●もう何度も授業中に吉田くんを噛んじゃいけないって言ってるでしょ●端っこの席の生徒が●手のなかの吉田くんを机のなかに隠した●重くなる●吉田くんの足が床にめりこんだ●もっと重くなる●吉田くんがひざまずいた●もっと●もっと重くなる●吉田くんの身体が床のうえにへばりついた●もっと●もっと●もっと重くなる●吉田くんの身体が床のうえにべちゃっとつぶれた●さまざまなこと思い出す吉田くん●さまざまな吉田くんが思い出すさまざまなことを思い出す吉田くん●あしたから緑の吉田くん●右●左●斜め●横●縦●横●横●きのうまでオレンジ色の吉田くん●右●左●斜め●横●縦●横●横●吉田くんの秘密●秘密の吉田くん●ソバージュ状態の吉田くん●焼きソバ状態の吉田くん●さいしょに吉田くんが送られてきたときに●変だなとは思わなかったのですか●ええ●べつに変だとは思いませんでした●机のうえに重ねられた何人もの吉田くんを見て●刑事がため息をついた●いててっ●足の裏に突き刺さった吉田くん●春になると●吉田くんがとれる●とれたての吉田くんをラップしてチンして温める●散らかした吉田くんを片づける●窓枠のさんにくっついた吉田くんを拭き取る●テレビを見ながら晩ご飯を食べていた吉田くんは●突然●お箸を置いて●テーブルの縁をつかむと●ぶるぶるとふた震えしたあと●動かなくなった●見ていると●身体の表面全体が透明なプラスチックに包まれたような感じになった●しばらくすると●吉田くんは脱皮しはじめた●ことしも吉田くんは●ぼくの家にきて●卵を産みつけて帰って行った●吉田くんは●ぼくの部屋で●テーブルの上にのってズボンとパンツをおろすと●しゃがんで●卵を1個1個●ゆっくりと産み落としていった●テーブルの上に落ちた卵は●例年どおり●ことごとく吉田くんに育った●背の高い吉田くんと●背の高い吉田くんを交配させて●よりいっそう背の高い吉田くんをつくりだしていった●体重の軽い吉田くんと体重の軽い吉田くんを交配させていったら●しまいに体重がゼロの吉田くんができちゃった●きょう●学校から帰ると●吉田くんが玄関のところで倒れてぐったりしていた●玄関を出たところにあった吉田くんの巣を見上げた●きっと●巣からあやまって落ちたんだな●そう思って●吉田くんを抱え上げて●巣に戻してあげた●きょう●学校からの帰り道●坂の途中の竹藪のほうから悲鳴が聞こえたので●足をとめて●竹藪のほうに近づいて見てみたら●吉田くんが足をバタバタさせて●一匹の蛇に飲み込まれていくところだった●吉田くんの調理方法●吉田くんは筋肉質なので●といっても適度に脂肪はついてて●おいしくいただけるのですけれども●さらに肉を軟らかくするために●調理の前に●肉がやわらかくなるまで十分●木づちで叩いておきましょう●27人の吉田くんと54人の田中君と108人の森田さんがいます●吉田くんの濃度を求めなさい●吉田くん界●吉田くんがはたらく場●空間のこと●吉田くんの予知した出来事が一定の確率のもとで現実になる空間●吉田くんの密度が高いと●その値が上昇する●永久吉田くん●霊的状態が高いときにだけ吉田くんになる霊的吉田くんと違って●いついかなるときにでも●吉田くんのままである●ふつう●吉田くんでない者が吉田くんになるには●霊的状態が吉田くんである必要がある●特殊的吉田くんと●一般的吉田くんがいる●どちらも気むずかしいが●どちらかといえば●特殊的吉田くんのほうが理解しやすく●扱いやすい●ただし●時間と場合と出来事による●吉田くんに山田くんをくっつけようとすると●吸いつくようにくっつこうとするが●吉田くんに西村さんをくっつけようとすると●反発するように斥け合おうとする●中村くんに吉田くんをこすりつづけると●やがて中村くんも吉田くんになる●吉田くんをこすりつづけると●煙が出てきて●ぽっと火がついて●脱糞する●吉田くんのおもしろみが濃くなると●吉田くんの顔が笑いながら増えていく●吉田くんのおもしろみが薄くなると●吉田くんの顔がしょぼくれながら減っていく●壁一面の吉田くん●空一面の吉田くん●地面一面の吉田くん●コップ一個の吉田くん●丼一杯の吉田くん●サラダボール一杯の吉田くん●一枚の吉田くん●一刷毛の吉田くん●一粒の吉田くん●一振りの吉田くん●一滴の吉田くん●一個半の吉田くん●一羽の吉田くん●一本の吉田くん●一束の吉田くん●一抹の吉田くん●一様の吉田くん●一々の吉田くん●吉田くん●って呼んだら●仔犬のように走ってきて●両手をすこし開いて受けたら皮がジュルンッて剥けて●カパッて口をあけたら●吉田くんが口いっぱいに入ってきて●めっちゃ●おいしかったわ●吉田くんの刑罰史●という本を読んだ●おおむかしから●人間は吉田くんにひどいことをしてきたんやなって思った●生きたまま皮を剥いたり●刃物で切り刻んだり●火あぶりにしたり●シロップにつけて窒息させたり●ふううん●本を置いて●スーパーで買ってきた吉田くんに手を伸ばした●ここには狂った吉田くんがいるのです●医師がそう言って●机のうえのフルーツ籠のなかを指差した●腕を組んで●なにやらむつかしそうな顔をした●哲学を勉強してる大学院生の友だちが●ぼくに言った●吉田くんだけが吉田くんやあらへんで●ぼくも友だちの真似をして●腕を組んで言うたった●そやな●吉田くんだけが吉田くんやあらへんな●ぼくらは●長いこと●にらめっこしてた●夏休みの宿題に●吉田くんの解剖をした●吉田くんって言うたら●あかんで●恋人が●ぼくの耳元でささやいた●わかってるっちゅうねん●吉田くんって言うたらあかんで●恋人の耳元で●ぼくはささやいた●わかってるっちゅうねん●吉田くんって言うたら●あかんで●そう耳元でささやき合って興奮するふたりであった●あんた●あっちの吉田くん●こっちの吉田くんと●つぎつぎ手を出すのは勝手やけど●わたしら家族に迷惑だけはかけんといてな●そう言って妻は二回に上がって行った●なんでバレたんやろ●わいには●さっぱりわからんわ●お父さん●あなたの吉田くんを●ぼくにください●ぼくはそう言って●畳に額をこすりつけんばかりに頭を下げた●いや●うちの吉田くんは●あんたには上げられへん●加藤茶みたいなおもろい顔した親父がテーブルの上に胡坐をかいて坐っている吉田くんを自分のほうに引き寄せた●わだば吉田くんになる●っちゅうて●吉田くんになった吉田くんがいた●さいしょに吉田くんがいた●吉田くんは吉田くんであった●吉田くんの父は吉田くんであった●吉田くんの父の吉田くんの父も吉田くんであった●吉田くんの父の吉田くんの父の吉田くんも吉田くんであった●吉田くんの父の吉田くんの父の吉田くんの父の吉田くんも吉田くんであった●すべての吉田くんの父は吉田くんであった●違う吉田くん●同じ吉田くん●違う吉田くんのなかにも同じ吉田くんの部分があって●同じ吉田くんのなかにも違う部分がある●違う吉田くん●同じ吉田くん●同じ吉田くんの違う吉田くん●違う吉田くんの同じ吉田くん●違う吉田くんの同じ吉田くんの違う吉田くん●同じ吉田くんの違う吉田くんの同じ吉田くん●違う吉田くんの同じ吉田くんの違う吉田くんの同じ吉田くんは●同じ吉田くんの違う吉田くんの同じ吉田くんの違う吉田くんと違う吉田くんか●いまだに●ぼくは吉田くんが横にいないと眠れないのです●吉田くんの見える場所で●もし●突然●窓をあけて●吉田くんが入ってきたら●昼の吉田くんは●ぼくの吉田くん●夜の吉田くんも●ぼくの吉田くん●吉田くんの味のきゅうり●きゅうりの味の吉田くん●蛇は吉田くんのように地面をニョロニョロ這いすすむ●つぎの方程式を解け●(2×吉田くん−山田くん)(吉田くん+山田くん)=0●吉田くんは底面の半径がひとりの竹内くんで●高さがふたりの竹内くんである●山田くんは●半径がひとりの竹内くんである●吉田くんの体積および表面積は●山田くんの体積および表面積の何倍あるか計算せよ●教室に900人の吉田くんがいる●つねに一秒ごとに10人の吉田くんが出現するのだが●10分後に●1秒間に15人ずつ吉田くんが消滅するとき●さいしょの900人の吉田くんが全員消滅するのは●さいしょの時間から何秒後か計算せよ●吉田くん=山田くん+竹内くんであり●かつ●2人の吉田くん+3人の山田くん=7人の竹内くんであるとき●吉田くんと●山田くんは●それぞれ何人の竹内くんか求めなさい●吉田くん=山田くん×山田くん−4人の山田くん+3人の竹内くんであるとき●横軸に山田くん●縦軸に吉田くんをとって●山田くん吉田くん平面に●ふたりの関係をグラフにして示しなさい●尾も白い犬●地名℃●翼と糞が似ていることにはじめて気がついたー●ワッチョーネーム●マッチョよねー●マッチよねー●ズルむけ赤チンコ!


LIVING IN THE MATERIAL WORLD。

  田中宏輔




ぽつぽつ、と、深淵が降ってきた。と思う間もなく、深淵が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの深淵のなか、道に溜まった深淵を一つまたいだ。街中が深淵に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる深淵。道を埋め尽くす深淵。街
中、深淵に満ちて。





ぽつぽつ、と、将棋盤が降ってきた。と思う間もなく、将棋盤が激しく降り出した。
じゃじゃ降りの将棋盤のなか、道に溜まった将棋盤を一つまたいだ。街中が将棋盤に
濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる将棋盤。道を埋め尽
くす将棋盤。街中、将棋盤に満ちて。





ぽつぽつ、と、神さまが降ってきた。と思う間もなく、神さまが激しく降り出した。
じゃじゃ降りの神さまのなか、道に溜まった神さまを一つまたいだ。街中が神さまに
濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる神さま。道を埋め尽
くす神さま。街中、神さまに満ちて。





ぽつぽつ、と、緑が降ってきた。と思う間もなく、緑が激しく降り出した。じゃじゃ
降りの緑のなか、道に溜まった緑を一つまたいだ。街中が緑に濡れて、びしょびしょ
だった。流れ落ちるようにして降り落ちる緑。道を埋め尽くす緑。街中、緑に満ちて。





ぽつぽつ、と、槍が降ってきた。と思う間もなく、槍が激しく降り出した。じゃじゃ
降りの槍のなか、道に溜まった槍を一つまたいだ。街中が槍に濡れて、びしょびしょ
だった。流れ落ちるようにして降り落ちる槍。道を埋め尽くす槍。街中、槍に満ちて。





ぽつぽつ、と、片隅が降ってきた。と思う間もなく、片隅が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの片隅のなか、道に溜まった片隅を一つまたいだ。街中が片隅に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる片隅。道を埋め尽くす片隅。街
中、片隅に満ちて。





ぽつぽつ、と、安全が降ってきた。と思う間もなく、安全が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの安全のなか、道に溜まった安全を一つまたいだ。街中が安全に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる安全。道を埋め尽くす安全。街
中、安全に満ちて。





ぽつぽつ、と、頭上が降ってきた。と思う間もなく、頭上が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの頭上のなか、道に溜まった頭上を一つまたいだ。街中が頭上に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる頭上。道を埋め尽くす頭上。街
中、頭上に満ちて。





ぽつぽつ、と、請求書が降ってきた。と思う間もなく、請求書が激しく降り出した。
じゃじゃ降りの請求書のなか、道に溜まった請求書を一つまたいだ。街中が請求書に
濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる請求書。道を埋め尽
くす請求書。街中、請求書に満ちて。





ぽつぽつ、と、カルデラ湖が降ってきた。と思う間もなく、カルデラ湖が激しく降り
出した。じゃじゃ降りのカルデラ湖のなか、道に溜まったカルデラ湖を一つまたいだ。
街中がカルデラ湖に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる
カルデラ湖。道を埋め尽くすカルデラ湖。街中、カルデラ湖に満ちて。





ぽつぽつ、と、しっぽが降ってきた。と思う間もなく、しっぽが激しく降り出した。
じゃじゃ降りのしっぽのなか、道に溜まったしっぽを一つまたいだ。街中がしっぽに
濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちるしっぽ。道を埋め尽
くすしっぽ。街中、しっぽに満ちて。





ぽつぽつ、と、しかしが降ってきた。と思う間もなく、しかしが激しく降り出した。
じゃじゃ降りのしかしのなか、道に溜まったしかしを一つまたいだ。街中がしかしに
濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちるしかし。道を埋め尽
くすしかし。街中、しかしに満ちて。





ぽつぽつ、と、でもが降ってきた。と思う間もなく、でもが激しく降り出した。じゃ
じゃ降りのでものなか、道に溜まったでもを一つまたいだ。街中がでもに濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちるでも。道を埋め尽くすでも。街
中、でもに満ちて。





ぽつぽつ、と、またが降ってきた。と思う間もなく、またが激しく降り出した。じゃ
じゃ降りのまたのなか、道に溜まったまたを一つまたいだ。街中がまたに濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちるまた。道を埋め尽くすまた。街
中、またに満ちて。





ぽつぽつ、と、ええっが降ってきた。と思う間もなく、ええっが激しく降り出した。
じゃじゃ降りのええっのなか、道に溜まったええっを一つまたいだ。街中がええっに
濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちるええっ。道を埋め尽
くすええっ。街中、ええっに満ちて。





ぽつぽつ、と、ティッシュが降ってきた。と思う間もなく、ティッシュが激しく降り
出した。じゃじゃ降りのティッシュのなか、道に溜まったティッシュを一つまたいだ。
街中がティッシュに濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる
ティッシュ。道を埋め尽くすティッシュ。街中、ティッシュに満ちて。





ぽつぽつ、と、それが降ってきた。と思う間もなく、それが激しく降り出した。じゃ
じゃ降りのそれのなか、道に溜まったそれを一つまたいだ。街中がそれに濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちるそれ。道を埋め尽くすそれ。街
中、それに満ちて。





ぽつぽつ、と、蜜蜂が降ってきた。と思う間もなく、蜜蜂が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの蜜蜂のなか、道に溜まった蜜蜂を一つまたいだ。街中が蜜蜂に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる蜜蜂。道を埋め尽くす蜜蜂。街
中、蜜蜂に満ちて。





ぽつぽつ、と、蜂蜜が降ってきた。と思う間もなく、蜂蜜が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの蜂蜜のなか、道に溜まった蜂蜜を一つまたいだ。街中が蜂蜜に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる蜂蜜。道を埋め尽くす蜂蜜。街
中、蜂蜜に満ちて。





ぽつぽつ、と、悟りが降ってきた。と思う間もなく、悟りが激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの悟りのなか、道に溜まった悟りを一つまたいだ。街中が悟りに濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる悟り。道を埋め尽くす悟り。街
中、悟りに満ちて。





ぽつぽつ、と、スズメが降ってきた。と思う間もなく、スズメが激しく降り出した。
じゃじゃ降りのスズメのなか、道に溜まったスズメを一つまたいだ。街中がスズメに
濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちるスズメ。道を埋め尽
くすスズメ。街中、スズメに満ちて。





ぽつぽつ、と、注射器が降ってきた。と思う間もなく、注射器が激しく降り出した。
じゃじゃ降りの注射器のなか、道に溜まった注射器を一つまたいだ。街中が注射器に
濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる注射器。道を埋め尽
くす注射器。街中、注射器に満ちて。





ぽつぽつ、と、鶏の卵が降ってきた。と思う間もなく、鶏の卵が激しく降り出した。
じゃじゃ降りの鶏の卵のなか、道に溜まった鶏の卵を一つまたいだ。街中が鶏の卵に
濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる鶏の卵。道を埋め尽
くす鶏の卵。街中、鶏の卵に満ちて。





ぽつぽつ、と、コップが降ってきた。と思う間もなく、コップが激しく降り出した。
じゃじゃ降りのコップのなか、道に溜まったコップを一つまたいだ。街中がコップに
濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちるコップ。道を埋め尽
くすコップ。街中、コップに満ちて。





ぽつぽつ、と、飛行船が降ってきた。と思う間もなく、飛行船が激しく降り出した。
じゃじゃ降りの飛行船のなか、道に溜まった飛行船を一つまたいだ。街中が飛行船に
濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる飛行船。道を埋め尽
くす飛行船。街中、飛行船に満ちて。





ぽつぽつ、と、乗客が降ってきた。と思う間もなく、乗客が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの乗客のなか、道に溜まった乗客を一つまたいだ。街中が乗客に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる乗客。道を埋め尽くす乗客。街
中、乗客に満ちて。





ぽつぽつ、と、一日が降ってきた。と思う間もなく、一日が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの一日のなか、道に溜まった一日を一つまたいだ。街中が一日に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる一日。道を埋め尽くす一日。街
中、一日に満ちて。





ぽつぽつ、と、鮎が降ってきた。と思う間もなく、鮎が激しく降り出した。じゃじゃ
降りの鮎のなか、道に溜まった鮎を一つまたいだ。街中が鮎に濡れて、びしょびしょ
だった。流れ落ちるようにして降り落ちる鮎。道を埋め尽くす鮎。街中、鮎に満ちて。





ぽつぽつ、と、鉄板が降ってきた。と思う間もなく、鉄板が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの鉄板のなか、道に溜まった鉄板を一つまたいだ。街中が鉄板に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる鉄板。道を埋め尽くす鉄板。街
中、鉄板に満ちて。





ぽつぽつ、と、鰻丼が降ってきた。と思う間もなく、鰻丼が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの鰻丼のなか、道に溜まった鰻丼を一つまたいだ。街中が鰻丼に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる鰻丼。道を埋め尽くす鰻丼。街
中、鰻丼に満ちて。





ぽつぽつ、と、光が降ってきた。と思う間もなく、光が激しく降り出した。じゃじゃ
降りの光のなか、道に溜まった光を一つまたいだ。街中が光に濡れて、びしょびしょ
だった。流れ落ちるようにして降り落ちる光。道を埋め尽くす光。街中、光に満ちて。





ぽつぽつ、と、影が降ってきた。と思う間もなく、影が激しく降り出した。じゃじゃ
降りの影のなか、道に溜まった影を一つまたいだ。街中が影に濡れて、びしょびしょ
だった。流れ落ちるようにして降り落ちる影。道を埋め尽くす影。街中、影に満ちて。





ぽつぽつ、と、牛が降ってきた。と思う間もなく、牛が激しく降り出した。じゃじゃ
降りの牛のなか、道に溜まった牛を一つまたいだ。街中が牛に濡れて、びしょびしょ
だった。流れ落ちるようにして降り落ちる牛。道を埋め尽くす牛。街中、牛に満ちて。





ぽつぽつ、と、国文学者が降ってきた。と思う間もなく、国文学者が激しく降り出し
た。じゃじゃ降りの国文学者のなか、道に溜まった国文学者を一つまたいだ。街中が
国文学者に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる国文学者。
道を埋め尽くす国文学者。街中、国文学者に満ちて。





ぽつぽつ、と、傷痕が降ってきた。と思う間もなく、傷痕が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの傷痕のなか、道に溜まった傷痕を一つまたいだ。街中が傷痕に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる傷痕。道を埋め尽くす傷痕。街
中、傷痕に満ちて。





ぽつぽつ、と、老人が降ってきた。と思う間もなく、老人が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの老人のなか、道に溜まった老人を一つまたいだ。街中が老人に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる老人。道を埋め尽くす老人。街
中、老人に満ちて。





ぽつぽつ、と、蒙古斑が降ってきた。と思う間もなく、蒙古斑が激しく降り出した。
じゃじゃ降りの蒙古斑のなか、道に溜まった蒙古斑を一つまたいだ。街中が蒙古斑に
濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる蒙古斑。道を埋め尽
くす蒙古斑。街中、蒙古斑に満ちて。





ぽつぽつ、と、両親が降ってきた。と思う間もなく、両親が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの両親のなか、道に溜まった両親を一つまたいだ。街中が両親に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる両親。道を埋め尽くす両親。街
中、両親に満ちて。





ぽつぽつ、と、良心が降ってきた。と思う間もなく、良心が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの良心のなか、道に溜まった良心を一つまたいだ。街中が良心に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる良心。道を埋め尽くす良心。街
中、良心に満ちて。





ぽつぽつ、と、確実が降ってきた。と思う間もなく、確実が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの確実のなか、道に溜まった確実を一つまたいだ。街中が確実に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる確実。道を埋め尽くす確実。街
中、確実に満ちて。





ぽつぽつ、と、読者が降ってきた。と思う間もなく、読者が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの読者のなか、道に溜まった読者を一つまたいだ。街中が読者に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる読者。道を埋め尽くす読者。街
中、読者に満ちて。





ぽつぽつ、と、海鼠が降ってきた。と思う間もなく、海鼠が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの海鼠のなか、道に溜まった海鼠を一つまたいだ。街中が海鼠に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる海鼠。道を埋め尽くす海鼠。街
中、海鼠に満ちて。





ぽつぽつ、と、金色が降ってきた。と思う間もなく、金色が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの金色のなか、道に溜まった金色を一つまたいだ。街中が金色に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる金色。道を埋め尽くす金色。街
中、金色に満ちて。





ぽつぽつ、と、マカロンが降ってきた。と思う間もなく、マカロンが激しく降り出し
た。じゃじゃ降りのマカロンのなか、道に溜まったマカロンを一つまたいだ。街中が
マカロンに濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちるマカロン。
道を埋め尽くすマカロン。街中、マカロンに満ちて。





ぽつぽつ、と、歌人が降ってきた。と思う間もなく、歌人が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの歌人のなか、道に溜まった歌人を一つまたいだ。街中が歌人に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる歌人。道を埋め尽くす歌人。街
中、歌人に満ちて。





ぽつぽつ、と、まな板が降ってきた。と思う間もなく、まな板が激しく降り出した。
じゃじゃ降りのまな板のなか、道に溜まったまな板を一つまたいだ。街中がまな板に
濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちるまな板。道を埋め尽
くすまな板。街中、まな板に満ちて。





ぽつぽつ、と、曖昧が降ってきた。と思う間もなく、曖昧が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの曖昧のなか、道に溜まった曖昧を一つまたいだ。街中が曖昧に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる曖昧。道を埋め尽くす曖昧。街
中、曖昧に満ちて。





ぽつぽつ、と、柴犬が降ってきた。と思う間もなく、柴犬が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの柴犬のなか、道に溜まった柴犬を一つまたいだ。街中が柴犬に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる柴犬。道を埋め尽くす柴犬。街
中、柴犬に満ちて。





ぽつぽつ、と、過去が降ってきた。と思う間もなく、過去が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの過去のなか、道に溜まった過去を一つまたいだ。街中が過去に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる過去。道を埋め尽くす過去。街
中、過去に満ちて。





ぽつぽつ、と、不可避が降ってきた。と思う間もなく、不可避が激しく降り出した。
じゃじゃ降りの不可避のなか、道に溜まった不可避を一つまたいだ。街中が不可避に
濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる不可避。道を埋め尽
くす不可避。街中、不可避に満ちて。





ぽつぽつ、と、吉田くんが降ってきた。と思う間もなく、吉田くんが激しく降り出し
た。じゃじゃ降りの吉田くんのなか、道に溜まった吉田くんを一つまたいだ。街中が
吉田くんに濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる吉田くん。
道を埋め尽くす吉田くん。街中、吉田くんに満ちて。





ぽつぽつ、と、伏線が降ってきた。と思う間もなく、伏線が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの伏線のなか、道に溜まった伏線を一つまたいだ。街中が伏線に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる伏線。道を埋め尽くす伏線。街
中、伏線に満ちて。





ぽつぽつ、と、暇が降ってきた。と思う間もなく、暇が激しく降り出した。じゃじゃ
降りの暇のなか、道に溜まった暇を一つまたいだ。街中が暇に濡れて、びしょびしょ
だった。流れ落ちるようにして降り落ちる暇。道を埋め尽くす暇。街中、暇に満ちて。





ぽつぽつ、と、海胆が降ってきた。と思う間もなく、海胆が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの海胆のなか、道に溜まった海胆を一つまたいだ。街中が海胆に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる海胆。道を埋め尽くす海胆。街
中、海胆に満ちて。





ぽつぽつ、と、靴下が降ってきた。と思う間もなく、靴下が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの靴下のなか、道に溜まった靴下を一つまたいだ。街中が靴下に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる靴下。道を埋め尽くす靴下。街
中、靴下に満ちて。





ぽつぽつ、と、イエスが降ってきた。と思う間もなく、イエスが激しく降り出した。
じゃじゃ降りのイエスのなか、道に溜まったイエスを一つまたいだ。街中がイエスに
濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちるイエス。道を埋め尽
くすイエス。街中、イエスに満ちて。





ぽつぽつ、と、不愉快が降ってきた。と思う間もなく、不愉快が激しく降り出した。
じゃじゃ降りの不愉快のなか、道に溜まった不愉快を一つまたいだ。街中が不愉快に
濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる不愉快。道を埋め尽
くす不愉快。街中、不愉快に満ちて。





ぽつぽつ、と、焼きそばが降ってきた。と思う間もなく、焼きそばが激しく降り出し
た。じゃじゃ降りの焼きそばのなか、道に溜まった焼きそばを一つまたいだ。街中、
焼きそばに濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる焼きそば。
道を埋め尽くす焼きそば。街中、焼きそばに満ちて。





ぽつぽつ、と、織田信長が降ってきた。と思う間もなく、織田信長が激しく降り出し
た。じゃじゃ降りの織田信長のなか、道に溜まった織田信長を一つまたいだ。街中が
織田信長に濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる織田信長。
道を埋め尽くす織田信長。街中、織田信長に満ちて。





ぽつぽつ、と、ダリが降ってきた。と思う間もなく、ダリが激しく降り出した。じゃ
じゃ降りのダリのなか、道に溜まったダリを一つまたいだ。街中がダリに濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちるダリ。道を埋め尽くすダリ。街
中、ダリに満ちて。





ぽつぽつ、と、嫉妬が降ってきた。と思う間もなく、嫉妬が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの嫉妬のなか、道に溜まった嫉妬を一つまたいだ。街中が嫉妬に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる嫉妬。道を埋め尽くす嫉妬。街
中、嫉妬に満ちて。





ぽつぽつ、と、空が降ってきた。と思う間もなく、空が激しく降り出した。じゃじゃ
降りの空のなか、道に溜まった空を一つまたいだ。街中が空に濡れて、びしょびしょ
だった。流れ落ちるようにして降り落ちる空。道を埋め尽くす空。街中、空に満ちて。





ぽつぽつ、と、電話が降ってきた。と思う間もなく、電話が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの電話のなか、道に溜まった電話を一つまたいだ。街中が電話に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる電話。道を埋め尽くす電話。街
中、電話に満ちて。





ぽつぽつ、と、記憶が降ってきた。と思う間もなく、記憶が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの記憶のなか、道に溜まった記憶を一つまたいだ。街中が記憶に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる記憶。道を埋め尽くす記憶。街
中、記憶に満ちて。





ぽつぽつ、と、無駄が降ってきた。と思う間もなく、無駄が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの無駄のなか、道に溜まった無駄を一つまたいだ。街中が無駄に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる無駄。道を埋め尽くす無駄。街
中、無駄に満ちて。





ぽつぽつ、と、無理が降ってきた。と思う間もなく、無理が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの無理のなか、道に溜まった無理を一つまたいだ。街中が無理に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる無理。道を埋め尽くす無理。街
中、無理に満ちて。





ぽつぽつ、と、まさかが降ってきた。と思う間もなく、まさかが激しく降り出した。
じゃじゃ降りのまさかのなか、道に溜まったまさかを一つまたいだ。街中がまさかに
濡れてびしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちるまさか。道を埋め尽く
すまさか。街中、まさかに満ちて。





ぽつぽつ、と、洞窟が降ってきた。と思う間もなく、洞窟が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの洞窟のなか、道に溜まった洞窟を一つまたいだ。街中が洞窟に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる洞窟。道を埋め尽くす洞窟。街
中、洞窟に満ちて。





ぽつぽつ、と、現実が降ってきた。と思う間もなく、現実が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの現実のなか、道に溜まった現実を一つまたいだ。街中が現実に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる現実。道を埋め尽くす現実。街
中、現実に満ちて。





ぽつぽつ、と、可能性が降ってきた。と思う間もなく、可能性が激しく降り出した。
じゃじゃ降りの可能性のなか、道に溜まった可能性を一つまたいだ。街中が可能性に
濡れて、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる可能性。道を埋め尽
くす可能性。街中、可能性に満ちて。





ぽつぽつ、と、余白が降ってきた。と思う間もなく、余白が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの余白のなか、道に溜まった余白を一つまたいだ。街中が余白に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる余白。道を埋め尽くす余白。街
中、余白に満ちて。





ぽつぽつ、と、改行が降ってきた。と思う間もなく、改行が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの改行のなか、道に溜まった大きな改行を一つまたいだ。街中が改行に濡れ
て、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる改行。道を埋め尽くす改
行。街中、改行に満ちて。





ぽつぽつ、と、空白が降ってきた。と思う間もなく、空白が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの空白のなか、道に溜まった大きな空白を一つまたいだ。街中が空白に濡れ
て、びしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる空白。道を埋め尽くす空
白。街中、空白に満ちて。





ぽつぽつ、と、名詞が降ってきた。と思う間もなく、名詞が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの名詞のなか、道に溜まった名詞を一つまたいだ。街中が名詞に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる名詞。道を埋め尽くす名詞。街
中、名詞に満ちて。





ぽつぽつ、と、動詞が降ってきた。と思う間もなく、動詞が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの動詞のなか、道に溜まった動詞を一つまたいだ。街中が動詞に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる動詞。道を埋め尽くす動詞。街
中、動詞に満ちて。





ぽつぽつ、と、理由が降ってきた。と思う間もなく、理由が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの理由のなか、道に溜まった理由を一つまたいだ。街中が理由に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる理由。道を埋め尽くす理由。街
中、理由に満ちて。





ぽつぽつ、と、缶詰が降ってきた。と思う間もなく、缶詰が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの缶詰のなか、道に溜まった缶詰を一つまたいだ。街中が缶詰に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる缶詰。道を埋め尽くす缶詰。街
中、缶詰に満ちて。





ぽつぽつ、と、大統領が降ってきた。と思う間もなく、大統領が激しく降り出した。
じゃじゃ降りの大統領のなか、道に溜まった大統領を一つまたいだ。街中が大統領に
濡れてびしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる大統領。道を埋め尽く
す大統領。街中、大統領に満ちて。





ぽつぽつ、と、不規則が降ってきた。と思う間もなく、不規則が激しく降り出した。
じゃじゃ降りの不規則のなか、道に溜まった不規則を一つまたいだ。街中が不規則に
濡れてびしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる不規則。道を埋め尽く
す不規則。街中、不規則に満ちて。





ぽつぽつ、と、母さんが降ってきた。と思う間もなく、母さんが激しく降り出した。
じゃじゃ降りの母さんのなか、道に溜まった母さんを一つまたいだ。街中が母さんに
濡れてびしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる母さん。道を埋め尽く
す母さん。街中、母さんに満ちて。





ぽつぽつ、と、傘が降ってきた。と思う間もなく、傘が激しく降り出した。じゃじゃ
降りの傘のなか、道に溜まった傘を一つまたいだ。街中が傘に濡れて、びしょびしょ
だった。流れ落ちるようにして降り落ちる傘。道を埋め尽くす傘。街中、傘に満ちて。





ぽつぽつ、と、人間が降ってきた。と思う間もなく、人間が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの人間のなか、道に溜まった人間を一つまたいだ。街中が人間に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる人間。道を埋め尽くす人間。街
中、人間に満ちて。





ぽつぽつ、と、火山が降ってきた。と思う間もなく、火山が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの火山のなか、道に溜まった火山を一つまたいだ。街中が火山に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる火山。道を埋め尽くす火山。街
中、火山に満ちて。





ぽつぽつ、と、瞬間が降ってきた。と思う間もなく、瞬間が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの瞬間のなか、道に溜まった瞬間を一つまたいだ。街中が瞬間に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる瞬間。道を埋め尽くす瞬間。街
中、瞬間に満ちて。




ぽつぽつ、と、結果が降ってきた。と思う間もなく、結果が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの結果のなか、道に溜まった結果を一つまたいだ。街中が結果に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる結果。道を埋め尽くす結果。街
中、結果に満ちて。





ぽつぽつ、と、出来事が降ってきた。と思う間もなく、出来事が激しく降り出した。
じゃじゃ降りの出来事のなか、道に溜まった出来事を一つまたいだ。街中が出来事に
濡れてびしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる出来事。道を埋め尽く
す出来事。街中、出来事に満ちて。





ぽつぽつ、と、檸檬が降ってきた。と思う間もなく、檸檬が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの檸檬のなか、道に溜まった檸檬を一つまたいだ。街中が檸檬に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる檸檬。道を埋め尽くす檸檬。街
中、檸檬に満ちて。





ぽつぽつ、と、花屋が降ってきた。と思う間もなく、花屋が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの花屋のなか、道に溜まった花屋を一つまたいだ。街中が花屋に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる花屋。道を埋め尽くす花屋。街
中、花屋に満ちて。





ぽつぽつ、と、頭部が降ってきた。と思う間もなく、頭部が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの頭部のなか、道に溜まった頭部を一つまたいだ。街中が頭部に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる頭部。道を埋め尽くす頭部。街
中、頭部に満ちて。





ぽつぽつ、と、顔面が降ってきた。と思う間もなく、顔面が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの顔面のなか、道に溜まった顔面を一つまたいだ。街中が顔面に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる顔面。道を埋め尽くす顔面。街
中、顔面に満ちて。





ぽつぽつ、と、腎臓が降ってきた。と思う間もなく、腎臓が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの腎臓のなか、道に溜まった腎臓を一つまたいだ。街中が腎臓に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる腎臓。道を埋め尽くす腎臓。街
中、腎臓に満ちて。





ぽつぽつ、と、鼓動が降ってきた。と思う間もなく、鼓動が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの鼓動のなか、道に溜まった鼓動を一つまたいだ。街中が鼓動に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる鼓動。道を埋め尽くす鼓動。街
中、鼓動に満ちて。





ぽつぽつ、と、電柱が降ってきた。と思う間もなく、電柱が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの電柱のなか、道に溜まった電柱を一つまたいだ。街中が電柱に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる電柱。道を埋め尽くす電柱。街
中、電柱に満ちて。





ぽつぽつ、と、仕事が降ってきた。と思う間もなく、仕事が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの仕事のなか、道に溜まった仕事を一つまたいだ。街中が仕事に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる仕事。道を埋め尽くす仕事。街
中、仕事に満ちて。





ぽつぽつ、と、幻覚が降ってきた。と思う間もなく、幻覚が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの幻覚のなか、道に溜まった幻覚を一つまたいだ。街中が幻覚に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる幻覚。道を埋め尽くす幻覚。街
中、幻覚に満ちて。





ぽつぽつ、と、溜息が降ってきた。と思う間もなく、溜息が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの溜息のなか、道に溜まった溜息を一つまたいだ。街中が溜息に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる溜息。道を埋め尽くす溜息。街
中、溜息に満ちて。





ぽつぽつ、と、幸せが降ってきた。と思う間もなく、幸せが激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの幸せのなか、道に溜まった幸せを一つまたいだ。街中が幸せに濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる幸せ。道を埋め尽くす幸せ。街
中、幸せに満ちて。





ぽつぽつ、と、幻聴が降ってきた。と思う間もなく、幻聴が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの幻聴のなか、道に溜まった幻聴を一つまたいだ。街中が幻聴に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる幻聴。道を埋め尽くす幻聴。街
中、幻聴に満ちて。





ぽつぽつ、と、褌が降ってきた。と思う間もなく、褌が激しく降り出した。じゃじゃ
降りの褌のなか、道に溜まった褌を一つまたいだ。街中が褌に濡れて、びしょびしょ
だった。流れ落ちるようにして降り落ちる褌。道を埋め尽くす褌。街中、褌に満ちて。





ぽつぽつ、と、眩暈が降ってきた。と思う間もなく、眩暈が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの眩暈のなか、道に溜まった眩暈を一つまたいだ。街中が眩暈に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる眩暈。道を埋め尽くす眩暈。街
中、眩暈に満ちて。





ぽつぽつ、と、嘔吐が降ってきた。と思う間もなく、嘔吐が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの嘔吐のなか、道に溜まった嘔吐を一つまたいだ。街中が嘔吐に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる嘔吐。道を埋め尽くす嘔吐。街
中、嘔吐に満ちて。





ぽつぽつ、と、世界が降ってきた。と思う間もなく、世界が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの世界のなか、道に溜まった世界を一つまたいだ。街中が世界に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる世界。道を埋め尽くす世界。街
中、世界に満ちて。





ぽつぽつ、と、胴体が降ってきた。と思う間もなく、胴体が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの胴体のなか、道に溜まった胴体を一つまたいだ。街中が胴体に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる胴体。道を埋め尽くす胴体。街
中、胴体に満ちて。





ぽつぽつ、と、血管が降ってきた。と思う間もなく、血管が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの血管のなか、道に溜まった血管を一つまたいだ。街中が血管に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる血管。道を埋め尽くす血管。街
中、血管に満ちて。





ぽつぽつ、と、神経が降ってきた。と思う間もなく、神経が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの神経のなか、道に溜まった神経を一つまたいだ。街中が神経に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる神経。道を埋め尽くす神経。街
中、神経に満ちて。





ぽつぽつ、と、本物が降ってきた。と思う間もなく、本物が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの本物のなか、道に溜まった本物を一つまたいだ。街中が本物に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる本物。道を埋め尽くす本物。街
中、本物に満ちて。





ぽつぽつ、と、パンツが降ってきた。と思う間もなく、パンツが激しく降り出した。
じゃじゃ降りのパンツのなか、道に溜まったパンツを一つまたいだ。街中がパンツに
濡れてびしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちるパンツ。道を埋め尽く
すパンツ。街中、パンツに満ちて。





ぽつぽつ、と、友だちが降ってきた。と思う間もなく、友だちが激しく降り出した。
じゃじゃ降りの友だちのなか、道に溜まった友だちを一つまたいだ。街中が友だちに
濡れてびしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる友だち。道を埋め尽く
す友だち。街中、友だちに満ちて。





ぽつぽつ、と、潜水艦が降ってきた。と思う間もなく、潜水艦が激しく降り出した。
じゃじゃ降りの潜水艦のなか、道に溜まった潜水艦を一つまたいだ。街中が潜水艦に
濡れてびしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる潜水艦。道を埋め尽く
す潜水艦。街中、潜水艦に満ちて。





ぽつぽつ、と、点が降ってきた。と思う間もなく、点が激しく降り出した。じゃじゃ
降りの点のなか、道に溜まった点を一つまたいだ。街中が点に濡れて、びしょびしょ
だった。流れ落ちるようにして降り落ちる点。道を埋め尽くす点。街中、点に満ちて。





ぽつぽつ、と、逆説が降ってきた。と思う間もなく、逆説が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの逆説のなか、道に溜まった逆説を一つまたいだ。街中が逆説に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる逆説。道を埋め尽くす逆説。街
中、逆説に満ちて。





ぽつぽつ、と、読点が降ってきた。と思う間もなく、読点が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの読点のなか、道に溜まった読点を一つまたいだ。街中が読点に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる読点。道を埋め尽くす読点。街
中、読点に満ちて。





ぽつぽつ、と、句点が降ってきた。と思う間もなく、句点が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの句点のなか、道に溜まった句点を一つまたいだ。街中が句点に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる句点。道を埋め尽くす句点。街
中、句点に満ちて。





ぽつぽつ、と、濁点が降ってきた。と思う間もなく、濁点が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの濁点のなか、道に溜まった濁点を一つまたいだ。街中が濁点に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる濁点。道を埋め尽くす濁点。街
中、濁点に満ちて。





ぽつぽつ、と、間違いが降ってきた。と思う間もなく、間違いが激しく降り出した。
じゃじゃ降りの間違いのなか、道に溜まった間違いを一つまたいだ。街中が間違いに
濡れてびしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる間違い。道を埋め尽く
す間違い。街中、間違いに満ちて。





ぽつぽつ、と、勘違いが降ってきた。と思う間もなく、勘違いが激しく降り出した。
じゃじゃ降りの勘違いのなか、道に溜まった勘違いを一つまたいだ。街中が勘違いに
濡れてびしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる勘違い。道を埋め尽く
す勘違い。街中、勘違いに満ちて。





ぽつぽつ、と、二人が降ってきた。と思う間もなく、二人が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの二人のなか、道に溜まった二人を一つまたいだ。街中が二人に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる二人。道を埋め尽くす二人。街
中、二人に満ちて。





ぽつぽつ、と、時々が降ってきた。と思う間もなく、時々が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの時々のなか、道に溜まった時々を一つまたいだ。街中が時々に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる時々。道を埋め尽くす時々。街
中、時々に満ちて。





ぽつぽつ、と、時たまが降ってきた。と思う間もなく、時たまが激しく降り出した。
じゃじゃ降りの時たまのなか、道に溜まった時たまを一つまたいだ。街中が時たまに
濡れてびしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる時たま。道を埋め尽く
す時たま。街中、時たまに満ちて。





ぽつぽつ、と、今更が降ってきた。と思う間もなく、今更が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの今更のなか、道に溜まった今更を一つまたいだ。街中が今更に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる今更。道を埋め尽くす今更。街
中、今更に満ちて。





ぽつぽつ、と、昨日が降ってきた。と思う間もなく、昨日が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの昨日のなか、道に溜まった昨日を一つまたいだ。街中が昨日に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる昨日。道を埋め尽くす昨日。街
中、昨日に満ちて。





ぽつぽつ、と、意味が降ってきた。と思う間もなく、意味が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの意味のなか、道に溜まった意味を一つまたいだ。街中が意味に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる意味。道を埋め尽くす意味。街
中、意味に満ちて。





ぽつぽつ、と、誤解が降ってきた。と思う間もなく、誤解が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの誤解のなか、道に溜まった誤解を一つまたいだ。街中が誤解に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる誤解。道を埋め尽くす誤解。街
中、誤解に満ちて。





ぽつぽつ、と、五階が降ってきた。と思う間もなく、五階が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの五階のなか、道に溜まった五階を一つまたいだ。街中が五階に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる五階。道を埋め尽くす五階。街
中、五階に満ちて。





ぽつぽつ、と、解釈が降ってきた。と思う間もなく、解釈が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの解釈のなか、道に溜まった解釈を一つまたいだ。街中が解釈に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる解釈。道を埋め尽くす解釈。街
中、解釈に満ちて。





ぽつぽつ、と、妹が降ってきた。と思う間もなく、妹が激しく降り出した。じゃじゃ
降りの妹のなか、道に溜まった妹を一つまたいだ。街中が妹に濡れて、びしょびしょ
だった。流れ落ちるようにして降り落ちる妹。道を埋め尽くす妹。街中、妹に満ちて。





ぽつぽつ、と、?が降ってきた。と思う間もなく、?が激しく降り出した。じゃじゃ
降りの?のなか、道に溜まった?を一つまたいだ。街中が?に濡れて、びしょびしょ
だった。流れ落ちるようにして降り落ちる?。道を埋め尽くす?。街中、?に満ちて。





ぽつぽつ、と、!が降ってきた。と思う間もなく、!が激しく降り出した。じゃじゃ
降りの!のなか、道に溜まった!を一つまたいだ。街中が!に濡れて、びしょびしょ
だった。流れ落ちるようにして降り落ちる!。道を埋め尽くす!。街中、!に満ちて。





ぽつぽつ、と、=が降ってきた。と思う間もなく、=が激しく降り出した。じゃじゃ
降りの=のなか、道に溜まった=を一つまたいだ。街中が=に濡れて、びしょびしょ
だった。流れ落ちるようにして降り落ちる=。道を埋め尽くす=。街中、=に満ちて。





ぽつぽつ、と、≠ が降ってきた。と思う間もなく、≠ が激しく降り出した。じゃじ
ゃ降りの ≠ のなか、道に溜まった ≠ を一つまたいだ。街中が ≠ に濡れて、びし
ょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる ≠ 。道を埋め尽くす ≠ 。街中、
≠ に満ちて。





ぽつぽつ、と、↓が降ってきた。と思う間もなく、↓が激しく降り出した。じゃじゃ
降りの↓のなか、道に溜まった↓を一つまたいだ。街中が↓に濡れて、びしょびしょ
だった。流れ落ちるようにして降り落ちる↓。道を埋め尽くす↓。街中、↓に満ちて。





ぽつぽつ、と、直線が降ってきた。と思う間もなく、直線が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの直線のなか、道に溜まった直線を一つまたいだ。街中が直線に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる直線。道を埋め尽くす直線。街
中、直線に満ちて。





ぽつぽつ、と、細部が降ってきた。と思う間もなく、細部が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの細部のなか、道に溜まった細部を一つまたいだ。街中が細部に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる細部。道を埋め尽くす細部。街
中、細部に満ちて。





ぽつぽつ、と、最初が降ってきた。と思う間もなく、最初が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの最初のなか、道に溜まった最初を一つまたいだ。街中が最初に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる最初。道を埋め尽くす最初。街
中、最初に満ちて。





ぽつぽつ、と、最後が降ってきた。と思う間もなく、最後が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの最後のなか、道に溜まった最後を一つまたいだ。街中が最後に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる最後。道を埋め尽くす最後。街
中、最後に満ちて。





ぽつぽつ、と、突然が降ってきた。と思う間もなく、突然が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの突然のなか、道に溜まった突然を一つまたいだ。街中が突然に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる突然。道を埋め尽くす突然。街
中、突然に満ちて。





ぽつぽつと、象さんが降ってきた。と思う間もなく、象さんが激しく降り出した。じ
ゃじゃ降りの象さんのなか、道に溜まった象さんを一つまたいだ。街中が象さんに濡
れてびしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる象さん。道を埋め尽くす
象さん。街中、象さんに満ちて。





ぽつぽつと、平仮名が降ってきた。と思う間もなく、平仮名が激しく降り出した。じ
ゃじゃ降りの平仮名のなか、道に溜まった平仮名を一つまたいだ。街中が平仮名に濡
れてびしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる平仮名。道を埋め尽くす
平仮名。街中、平仮名に満ちて。





ぽつぽつと、先ほどが降ってきた。と思う間もなく、先ほどが激しく降り出した。じ
ゃじゃ降りの先ほどのなか、道に溜まった先ほどを一つまたいだ。街中が先ほどに濡
れてびしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる先ほど。道を埋め尽くす
先ほど。街中、先ほどに満ちて。





ぽつぽつと、嫁さんが降ってきた。と思う間もなく、嫁さんが激しく降り出した。じ
ゃじゃ降りの嫁さんのなか、道に溜まった嫁さんを一つまたいだ。街中が嫁さんに濡
れてびしょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる嫁さん。道を埋め尽くす
嫁さん。街中、嫁さんに満ちて。





ぽつぽつ、と、永遠が降ってきた。と思う間もなく、永遠が激しく降り出した。じゃ
じゃ降りの永遠のなか、道に溜まった永遠を一つまたいだ。街中が永遠に濡れて、び
しょびしょだった。流れ落ちるようにして降り落ちる永遠。道を埋め尽くす永遠。街
中、永遠に満ちて。





ぽつぽつ、と、息が降ってきた。と思う間もなく、息が激しく降り出した。じゃじゃ
降りの息のなか、道に溜まった息を一つまたいだ。街中が息に濡れて、びしょびしょ
だった。流れ落ちるようにして降り落ちる息。道を埋め尽くす息。街中、息に満ちて。





氷だらけの海のなかに飛び込んだ白クマに襲われたペンギンたちが、冷たい海から氷
の上にピョコンピョコンと、つぎつぎ飛び出てくるように、ママさんたちは、ドアの
なかから出てきた。





彼って、まるで目に顔がついてるってふうに、目が自己主張してない? 目ばかりの
顔って言ってもいいくらいに。





ぽつぽつと、時間が降ってきた。昨日や明日や今日が、激しく降りはじめた。たくさ
んの日付が降りだして、ぼくはさまざまな日付のなかを、傘をさして飛び出した。





コンビニの入り口のラックに彼女が並んでいた。毎日彼女、朝日彼女、経済彼女、ス
ポーツ彼女などなど。ぼくは毎日彼女をラックから引き抜いて、レジのところに持っ
て行った。





ヤフオクで、ウルトラQの怪獣の指人形を7体、310円で落札した。指人形まで集
めるとは思わなかったけど、その出来のよさにびっくりして買った。M1号が、いち
ばんかわいい。あと、ナメゴン。ゴメス。ペギラ。ガラモン。ケムール人。カネゴン。
どれもかわいい。本棚のまえにでも置いて飾ろうっと。





子どものとき、将来、自分がなりたいなあと思ったものの一つに、画家というものが
あるということを、以前にも書いたと思う。小学校に行くまでの幼児のころには、畳
のうえにまで渦巻き模様を書いていたらしいし、覚えているかぎり、ボールペンを手
から離さない子どもだったらしいのだ。





直接のきっかけは、小学校四年生のときに、動物園での写生会で、ぼくの描いた絵が、
京都市主催の絵画コンクールで入賞したことであった。豹の絵を描いたのであった。
動物園の飼育係のひとが檻のなかを水を撒いて掃除したあとの、コンクリートの床の
中央のくぼみに溜まった水に映った豹の顔を描いたのであった。





小学校高学年のときには、一つの色の絵具で、絵を描いていた。白い絵具で、海と空
と雲を描いた。重ねた白い色には違いがあって、ぼくが小学校のときには、白い絵具
だけで描いた絵を、絵として先生も認めてくれていた。中学でも、その手法で絵を描
いていて、中学の美術の先生も、絵として





認めてくれていた。高校に入ると、ぼくの絵の世界も変化して、何色もの色の絵具を
使ったものになった。ただし、色と色を混ぜることは、けしてしなかった。絵具の色
そのものが、ぼくには美しかったのだ。絵具を混ぜないというぼくの主張を、高校の
美術教師は認めなかった。





美術の成績が下がって、ぼくも受験勉強に傾注するようになり、やがて、絵は好きだ
けど、描かないひとになっていった。海。ぼくの詩も、海が頻出するけれど、ぼくが
はじめて書いた作文も、舞台は海だった。小学四年生だった。終わらない作文を書い
たのだった。海のうえで、盥に乗った





ぼくは、まるい盥のなかで、櫓をかいて、海の水をかいて、くるくる、くるくる回転
していたのであった。波のおだやかな海のうえを、くるくる、くるくる回転していた
ぼくの様子を描いた作文だった。回転を止めるために、反対に櫓をかいて、でもまた、
けっきょくは反対向きにくるくる、くるくる回転して





しまう様子を書いていたのであった。時間がきて、書くのをやめるように言われるま
で、えんえんとその繰り返しを書いていたのであった。これが、ぼくの覚えている、
はじめての作文で、いま思い起こしても、同じようなものを書いているのだなと思う。
この話も、以前に書いたことがある





だろうか。はじめてかもしれない。ぼくが記憶しているぼくの作文は、これ一つだけ
で、ぼくの人生さいしょの作文が、自分でもあまりにも印象的で、いままで書いた自
分の作品の中で、最高傑作ではないかと、ひそかに思っているのであった。もちろん、
そんなことはないとも思うのだが。





ものごとは、順番通りに起こるとは限らない。結果がさきに、原因があとに、という
こともあるのだ。答えがさきに、質問があとに、ということがあるように。





漏斗のなかに落とされると、濾紙を濾しながら、ぼくは、純粋なぼくになっていくよ
うな気がした。ぼくになりそこねたぼくや、ぼくでなかったぼくが、純粋なぼくから
分離されて、いらないぼくが、ぼくから抜けていくような気がした。現実という漏斗。
愛するきみ、きみという濾紙。





「ここには家が出るんです。」幽霊たちが顔を見合わせた。





聖霊もときには間違うらしい。世界中の人々の前に同時に顕われて、あなたは神の子
を身ごもったと言ったのだった。赤ん坊も、少年も、少女も、男も、女も、老人も、
老女もみな身ごもって、イエス・キリストを生んだのだった。何十億人ものイエス・
キリストが生まれたのであった。





本の種を埋めて水をやった。この本はゴシック・ホラーだった。こまめに手をかけて
やらなければならない。





母親が鳴って、電話が飛び上がった。





鳥のように電話機が来て、手の上にとまった。





はじめに携帯電話があった。携帯電話は、「ひとあれ」と言った。すると、ひとがあっ
た。





傷口は縫い合わされるのを待っていた。





手にとると すつかり泡となる 蟹の子ら





手にとると すつかり水となる 亀の子ら





手でふれると たちまち消える ウニの子ら





雨の日の散歩は楽しい。街で見かけるものの色がはっきりする。河川敷に降りて行こ
うものなら、靴が泥だらけになって、帰ってから洗ってやることができる。そして、
何よりも、子どもたちが水溜りを思い切り踏んづける楽しそうな声が聞けるのだ。





雨もまた雨に濡れている。





奇跡が起こると、きょうは信じられない。奇跡が起こると、きょうを信じられない。
ぼくは夢のなかを生きている。夢がぼくのなかで生きている。信じられないきょうを
生きた。あした、きょうが夢だったと告げるあしたがくるかもしれない。こないかも
しれない。信じてもいい。信じなさい。信じてもいい。





帰ってから短篇SFを書くつもりだったけれど、書く時間がなかった。きょうは奇跡
のような一日だった。きょう一日は、文学よりも、現実のほうが大切だった。数年ぶ
りに、こころから神さまに感謝した。愛こそはすべて。10CCの曲が流れていた。
でも、そろそろ奇跡のようなきょうにさようならしなければならない。





手にふれると すつかり雨となる カタツムリ 





よい夢を。28歳のときにノブユキと出会って、ぼくは有頂天でした。ぼくのような
ブサイクな人間が愛されるとは思っていなかったからでした。そのつぎに出会った恋
人は、ぼくの考え方を変えてくれるほどすばらしい恋人でした。きょうは奇跡が起こ
りました。神さまに感謝して寝ます。@sechanco





きのうは寝られなかった。奇跡の日だったから。あんまり幸せすぐる。ぜったい不幸
が待ち受けてるような気がすぐる。





FBの見方をよく知らずに、メッセージがたくさんあって、きのう、はじめて気がつ
いた、同級生がいて、昨年の5月にメッセージくれていて、きのうつながったけど、
機械音痴だから、ますます時代に取り残されていく気がする。いいけどね。これから
お風呂に、それから「きみや」さんに飲みに行く。





いま「きみや」さんから帰ってきた。きみやさんの隣で、きみやさんのお客のひとり
だったまことちゃんが立ち飲み屋さんの「HOPE」っていうのを、きょう開店した
というので、ぼくも行ってきた。まあ、「きみや」さんの隣だから行ってきたというの
もオーバーだな。自分の好きなひとが、いっぱいで、楽しかった。よっぱ〜。





コインの力は、ちゃう、恋の力はすごい。ぼくのような怠惰な人間を勤勉にする。





鯉の力はすごい。





恋の力はすごくて、部屋の掃除をぼくにさせる。てか、それどころか、ぼくみたいな
怠惰な人間を、きれい好きにしてしまったのだ。





ぼくもジンときた。@fortunate_whale 僕はあなたに本を出してもらいたいと言われて、
涙を我慢するなう。





田中宏輔(たなかあつすけ)に生まれてきてよかった。ハラハラ、ドキドキ、いっつ
もギリギリの、めちゃくちゃすぐる、おもしろい人生をおくれて。





蟻だと思います。





台風なのに。





なにが、ぼくを土地狂わせたのか。





嵐のような雨だった。きのうのように激しい雨はひさしぶりだった。台風が去ったあ
とのように、きょうは雲ひとつない天気になった。土曜日だというのに、妻は仕事に
出た。お得意さんのクライアントの都合らしい。二人の子どもたちは、ボーイスカウ
トのキャンプに出かけた。家にいる





わたしひとりだ。庭に出て、料理用鉄板に火をつけた。軒先に、ひょこりとリスが顔
をのぞかせた。料理用鉄板がじっくりと温まっていた。全身にオリーブオイルを塗っ
て、ペパーソルトとバジルをふりかけた。空には雲ひとつない。さっき顔をのぞかせ
たリスも、どこかに行ってしまった





のだろうか、姿が見えない。十分に温まっただろうか。料理用鉄板にオリーブオイル
をふりかけた。十分に温まったようだ。オリーブオイルの弾ける音がして、焼ける匂
いがして、たちまち湯気のように蒸発していった。わたしは、鉄板のうえに立って、
さっと身を横たえた。ジューという





音がした。全身に、その音がしみ渡る。音が小さくなり、十分に焼けたと思われたこ
ろに、身体の反対側を鉄板にあてた。ふたたび、ジューという音が全身にしみ渡った。
音がしだいに小さくなっていく。空には雲ひとつなかった。わたしは、料理用鉄板か
ら降りて、庭椅子に腰かけた。





リスの姿もなかった。わたしは、自分の右腕にかぶりついて、自分のやけた肉を食べ
た。肉は、なかなか噛み切れなかったけれど、思い切り力を入れて噛みとって、口に
入れた。腕からしたたり落ちる肉汁をなめとり、新しい部分にかぶりついた。わたし
の遺伝子をつかった、わたしに





そっくりの食用人間を食べてみたのだが、記述が混乱したようだ。しばしば、わたし
の記述は混乱しているようだ。庭を片付けると、食用人間たちのいる部屋に行った。
たくさんのわたしが、テーブルについていた。自分の遺伝子を持つ食用人間と同居し
ている人間は、このごろでは、そう






珍しいことではなくなったようだ。さいきんでは、自分の遺伝子だけではなく、自分
の娘や息子の遺伝子や、自分の親の遺伝子をつかった食用人間と同居しているひとた
ちもいる。妻が仕事から帰ってきたら、わたしを食べることができるように、残った
わたしの肉を調理しておこう。





この記述が混乱しているのには、二つの理由がある。一つは、これが神のお告げであ
ったことからくるもので、おまえ自身を火にくべて食べよ、という神の声が、わたし
に書かせたものであるという理由によるものである。神の声は、しばしば、わたしを
混乱させてきた。もう一つの理由は、





父の秘密の日記を、わたしが、きのう父の遺品のなかから見つけたことによるもので
あった。父は、40人ほどの人間を、ほどのというのは、精確な人数がいまだに確定
されていないからであるが、殺害して食べたという人物で、その罪によって死刑にな
るまで、膨大な量の口述日記を





書籍にして出版させていたからである。秘密などなかった。つまり、わたしが見つけ
た父の日記は、犯罪が発覚するまえのもので、ひとに話して聞かせた自伝とはまった
く別の存在であったということである。父の日記は、楽園ではじめて目がさめたとき
の記述からはじまっていた。





父は目をさますと、さいしょに神の顔を見たらしい。つぎに目をさますと、のちに妻
となるイヴの顔を見たという。妻となったイヴと、二人で、さまざまな動物たちに名
前をつけていったという。名前をつけるまでの動物たちと、名前をつけたあとの動物
たちとでは、まったく別の生き物か





というくらいに違いがあったらしい。動物たちだけではなくて、鳥たちや魚たちや、
木や花たちも、名前をつけられると大喜びして、二人に礼を言ったという。名づけら
れると、すべての生き物たちが生き生きとした表情を持ったものになったと書いてあ
った。そういうものかもしれない。





妻が帰ってきたようだ。玄関のドアが開く音がした。父の日記を引き出しにしまうと、
わたしは両腕を真横にのばして、手首のところで、はげしく手をはばたかせて、パタ
パタと空中に浮揚すると、階段のうえに自分の身体を浮かせながら、二階から一階へ
と、ゆっくりと下降していった。





自分の遺伝子を家畜に、というアイデアは、おもしろいと思った。たぶん、未来の食
卓では、自分の遺伝子をもったレタスやトマトやキュウリなどのサラダが食べられる
と思う。自分の自我にまみれた詩が、自分にとっておもしろいものなのだから、自分
の遺伝子をもったサラダもおいしいはずである。





食べたい。





記憶障害を30代のときに起こしたことがある。大学なんか、とっくに卒業している
のに、自分のことを一回生だと思って、朝に目が覚めると、大学に行く準備をはじめ
た。大学院を出てすぐに家を出たので、見慣れない部屋にいると思って、ようやく、
自分が学生ではなかったことに気がついたのである。





自分の年齢もおかしくなって、高校に通わなくては、と思って、自分が通っていた堀
川高校のときの同級生の顔を思い浮かべたのだが、また混乱して、亡くなった同級生
のことを思い出して、ふと、もう何年もまえのことだったことに気がついたのであっ
た。40代になって、記憶障害がなくなった。





しかし、記憶が障害になっているのではなくて、記憶が混乱していただけなのかもし
れない。現実の自分の記憶とはちがう記憶、おそらく読んだ本や見た映画などによる
潜在自我への働きかけが、偽の記憶を混入させようとしていたのだと思う。





精神的な危機を、30代で味わったが、そういう混乱がなくなって、40代になって、
作品は逆に混乱したものになった。「マールボロ。」のころであるが、現実をコラージ
ュするだけで、非現実になることに気がついたのであった。





また自分自身の現実だけでも、コラージュすると詩になっていったのだが、そこに、
友だちなどの現実をコラージュすると、たちまち詩になっていったのであった。その
一連の作品は、詩集「みんな、きみのことが好きだった。」に入れてあるが、その事情
は、The Wasteless Land.II に





詩論詩、というかたちで、まとめて書いておいた。50代はじめのいま、40代から
の状況がつづいていて、自分の現実や、友だちの現実をコラージュしまくっている。
純粋な創作は稀になっている。SFっぽい設定のものを除いて、の話であるが。そう
だ、あしたは、薔薇窗に送る短篇小説を仕上げよう。





遠慮なう。





義理なう。





とかっていうツイットができる。





ツイッターは、ストレスレスにしてくれる装置のような気がする。





コンビニに、ビールとタバコを買いに。きょうの一日の後半の幸せすぐるぼく自身に
お祝いをするため。夢を見ているのか。そうだ。あらゆることが夢、幻なのだ。





ぼくは自分がゲイであることが大好き。ふつうなんて、いらないもの。@VOICEofLGBT
@hosotaka セクマイであることは別に恥ずかしいことじゃないし、隠さないで堂々と
すればいいのはわかってる、でも頭ではわかってるけど心がついていかないのよね&#12316;
(´ω`)





まあ、バカな生き方だと自分でも思うけど、詩を書くなんて大いにバカなことをやっ
てるんだから、バカであたりまえである。それにバカじゃない芸術家を、ぼく自身、
見たいとも思わないし。かしこく生きるなんて、まったく興味がない。簡単に恋に溺
れるし、溺れて何度も死ぬのである。すばらしい人生だ。





涙を通してしか見えないものがあると、ズヴェーヴォか、ブロッホが書いていました。
@yamakeiyone @sakurihu2





泣きたいくらい、幸せな一日だった。





若いときは幸せがこわくて、自分のほうから幸せを壊してた。なんという愚かなぼく
だったのだろうと、齢をとって思う。幸せは、ほっておいても壊れるものなのだ。ど
れだけ壊さずにおいておけるのかが技術なのだと、いまのぼくは思う。そうだ、幸せ
は技術なのだ。いつからでもはじめられる技術なのだ。





手話ができるようになるまで、どれくらいかかるのだろうか。手話で詩を伝えること
は可能だろうか。ふと思いついただけだけど、将来、手話通訳をしたいと語る青年の
話を聞いて。こころにとめておこう。





新しい花の種を買ってきた。大きめの鉢に植えると、数日で、手足が土の間にのびて
いくらしい。たしかに、ジリ、ジリという音が昼間、聞こえた気がした。その音がし
て二日後に目が出てきて、耳が出てきて、花がのびて、唇が開いた。やがて、顔が現
われ、手足も現われた。自分を傷つけながら、さらに





成長していった。そこらじゅうに傷口がのぞかれたが、焼けただれた喉が、もっとも
美しかった。「傷口の花」か、なかなか見ごたえのある傷口だった。こんどは「癌の花」
を買ってこよう。





「真っ赤に焼けた鉄の棒を腕や胸や顔に押し付けられた男の悲鳴」という種を買って
きた。鉢に植えて育つのを待った。さいしょの数日は、単なる息をする音しか聞こえ
なかったのだけれど、三日目の夜中に突然、絶叫する声がして飛び起きた。たしかに
真っ赤に焼けた鉄の棒を押し付けられて叫んだ男の声の





ようだった。レコーダーをチェックした。ちゃんと録音できていた。男の悲鳴は断続
的にだが、数時間つづいた。絶命したころには、ぼくも汗だくになっていた。すごい
緊張感だった。スリリングで戦慄するべき迫力のある声だった。このシリーズは、ほ
んとにいい。真に迫っていた。シャワーを浴びるために





服を脱いで、浴室に向かった。





新しい吉田くんが販売されたので買ってきた。何人かの古い吉田くんが、すでにいら
なくなっていたので、売りに行った。あんまり古いボロボロの吉田くんは、買い取れ
ないと言われた。「こちらで処分しましょうか?」と言われたのだけど、以前、そう言
っておいて、その古いボロボロの吉田くんを売っていた





ことを知っていたので、「処分して」もらわないで、そのまま古い吉田くんを連れて帰
った。部屋にはいちばん古い吉田くんから、いちばん新しい吉田くんまで、20人以
上の吉田くんがいる。みんな、少しずつ違った年齢の吉田くんたちだ。





わぉ。はじめての差し入れ。元彼もよくしてくれたな。がんばってルーズリーフ作業
するぞ。





ときには、泣きたいほどの幸せというものも、つづくことがある。





詩人になりたいと思ったのは、言葉の魔術師になりたかったからだ。ルーズリーフ作
業は、その修行の一つ。言葉で、どこまで、いろいろなことができるか。だから、ぼ
くがフォルマリストであるのも当然のことなのだ。フォルムは魔術の根幹にあるもの
で、ぼくが発明したフォルムは、ぼく独自の魔術である。





しかし、フォルムは使用されるたびに強度がますものであるが、乱用されると、その
効果が薄れるものでもある。恋と同じだ。恋もまた魔術の一つなのだ。そこにはフォ
ルムもある。恋も、魔術も、詩も、才能が必要だが、やはり弛まぬ努力が必要なのだ。





というか、フォルム自体がほとんど魔術そのもので、フォルムだけで魔術の大方の準
備が終わっているのだと思う。フォルムに当てはめる言葉の意味と音は、単にフォル
ムを強固にする形象と音にしか過ぎないと思う。フォルムによって、ぼくは、ぼくに
めぐり会う。フォルムによって、きみは、きみにめぐり合う。





そうして、ぼくがぼくにめぐり合うことによって、ようやくぼくがぼくとなり、きみ
がきみとめぐり合うことによって、ようやくきみがきみとなるわけだ。ぼくがぼくで
あるときに、かつ、きみがきみであるときにだけ、ぼくときみは抱擁し合うことがで
きる。一つの永遠の中で、あるいは、複数の永遠の中で。





そもそも、形式は存在の入れ物であって、存在は形式がなければたちまち蒸発して消
滅してしまうのだ。魂というものが、人間という入れ物がなければたちまち蒸発して
消滅してしまうように。形象や色彩や感覚といったものが、事物や事象といった入れ
物がなければ、たちまち蒸発して消滅してしまうように。





二人がはじまりだったのか、恋がはじまりだったのか。恋があって、二人がその形式
にあてはまってしまったのか。恋という形式が二人の存在を必要としたのか。あるい
は、同時生起。それとも、恋が存在で、二人が形式だったのか。あるいは、二人がじ
つは恋で、恋が二人だったのか。考えるまでもなかった。





幸せと辛いって、似てるんや。





うゎ。ほんとですね。なんだか〜。@kayabonbon 若いと苦いも。 RT @atsusuketanaka:
幸せと辛いって、似てるんや。





言えてます。そして、一度でもいいから、幸せが辛くなるほど経験してみたいですね。
@fortunate_whale 辛いけど幸せや。





若さ。苦しさ。ううん。@pakiene 若いという字は苦しいという字に似てるという歌が
ありましたね。 QT @atsusuketanaka うゎ。ほんとですね。なんだか〜。@kayabonbon
若いと苦いも。 RT @atsusuketanaka: 幸せと辛いって、似てるんや。





だけど、もしも、この世に、二人きりだったら、ぼくたちは幸せなのだろうか、と考
えてしまった。





朝早く起きたし、専用のクリーム塗って、かかとの角質とって、頭を刈って、頬ひげ
とあごひげを剃ってた。頬ひげは、キスのときにほっぺにあたって痛いと言うので、
笑。さあ、お風呂に入って、仕事に出よう。





きょうもルーズリーフ作業。もう、一生、勉強なのね。





自分の言葉をコラージュして驚いたことの一つに、順番を変えるだけで、自分が考え
たこともないことが、思いついたこともないことが書くことができたということがあ
る。たしかに、パスカルがパンセに書いていたように、思考というもの自体、考える
順番を変えるだけで違ったものになるのだから当然か。





しかし、コラージュは、そのことが如実にわかる構造をしている。わたしは、わたし
が考えたこともないことを、思いついたこともないことが書くことができて、ほんと
うにうれしい。ツイット・コラージュ詩は、全行引用詩、サンドイッチ詩、引用詩、
●詩と同様に、わたしの強力な魔術の一つとなるだろう。





パスカルは言葉の配置を変えるだけで異なる思考になると書いていた。コラージュ。
たしかに言葉の順番を変えて配置したために、とても奇妙な思考の流れとなって、ぼ
くではないぼくが、いや、ぼくではあったが、顕在したことのないぼくが現出した感
じがしたのであった。無限を表現する有限の手法の一つ。





塾の帰りに、ホーガンの「星を継ぐ者」を105円で買った。これで、7冊目か、8
冊目。ひとにあげているからだけど、これは自分ようにとっておくことに。論理、論
理、論理で、さいごの2ページばかり、抒情という、大どんでん返しの構造に、ぼく
はほんとにびっくりした。高校生のころかな。





落ち着いた恋などしたことがない。天国と地獄の間を行ったり来たり。神さまは、ぼ
くの人生をそういうものにしてくれている。それでいいのだとも思う。プライム・タ
イム。どんな状況にあっても、ぼくはいつも、ぼくの人生最良の日を生きているよう
だ。詩人とはかくも不幸にして幸福な人間なのであろう。





数秒後に、なんて言ってほしかったのか悟る。電話が切れたあとで。恋をしていなく
てもバカだけど、恋をしているとよけいにバカなぼくだ。だから、詩など書いている
のだろう。恋をじょうずにできるひとは、詩人になんてならないんだろうな。これは、
バカな自分に対する、ちょっとした慰めの言葉、笑。





そして、その言葉を電話では伝えることができなくて、メールに書いて送ったけれど、
返事がないという状態。こんなことの繰り返しばかりしてる。愛することは学ぶこと
ができると思っていたけれど、ぼくには、とてもむずかしい。恋とは技術であるなど
と偉そうに書いていた自分を、つくづくバカだと思う。





きょうも、ルーズリーフ作業。ロバート・ネイサンの「ジェニーの肖像」から。





芸術家小説の系譜でしょうか。トーマス・マンのトニオ・クレーゲルのような。付箋
だらけです。書き写す作業がたいへんですが、書き写すことで、こころに刻みつけら
れます。@junju_usako





恋の力はすごい。10年間してこなかったことを、ぼくにさせた。以前、アメリカ人
の女性としゃべっていて、恋って、なにってきいたら「Change.」って言ってた。わた
しを変えるもの。わたしが変わるもの、あるいは、わたしのものの見方を変えるもの
って意味だろうと思った。そのとおりだ。





52才にもなって、恋をするなんて、思ってもいなかった。正直、詩を書くことのほ
かは、なにできない、汚らしい、ハゲ・デブ・ブサイクなオジンやと思っていたのだ。
しかも唯一、自分にできる詩を書くことだって、世間的に見れば、変人以外のなにも
のでもないのだし。でも生きててよかった。





死んでしまいたいと本気で思ったことも何度もあったし、しょうもない、ろくでもな
い人間だったし、いやらしい、せこい人間だったのだけれど、恋は、そういう自分を
すこしでも変えてくれる力があるのだった。ぼくは詩や小説が大好きだけれど、それ
は人間が大好きだったからだと、あらためて思った。





きのう、日知庵のつぎに、立ち飲み屋さんの HOPE さんに行ったら、きみやさん
のまるちゃんがいて、いっしょに来てた女性も魅力的で、ぼくの好きなひとばっかり
だった。飲みまくって、ベロンベロンになって、部屋に帰ったら爆睡していて、いま
好きな子のメールも見れなくって、大バカものだった。





そうですよね。このあいだ、「あしたもがんばれる。」と、好きな子にメールしたら、
「お酒の力でやろ。」と書かれるぐらいののんべえですけれど、もう若いときのように、
お酒で失敗はしないように気をつけます、笑。@tkc_nyc 恋っていくつになってもいい
ことと思います!応援してます(^^)





そのとおりですよね。でも、言葉がしばしば詰まるような恋も、味があって、おもし
ろいですよ。まあ、おもしろいと思えるのは、恋愛が終わってからかもしれませんが。
若いときのつまずきは、しばしば、甘美な思い出となります。@LalalalaRush 言葉に
詰まるようじゃ恋はおわりね





たゆまぬ変化こそ、永遠なのでしょうね。いや、たゆまぬ変化への意志でしょうか。
なんべんくじけても、やる気が出るのは、人間は変化することができると、信じてい
るからかもしれません。Change しましょう。@tkc_nyc ぼくもChangeしなくてわー!





芸術家の役目の一つに、愚かさをさらすというのがあると思っている。愚鈍な生きざ
まを世間にさらして、ひとの気持ちを生き生きとしたものにさせること。ぼくみたい
なジジイが恋をしてるってことで、それがまたへたくそな恋愛をしてるってことで、
いくらかのひとに影響を与えることもあるのだと思う。





Changes。デビッド・ボウイの曲を思い出した。きょうは、これから、耽美文藝誌『薔
薇窗』に連載している小説「陽の埋葬」を仕上げよう。そうだ。BGMはボウイのア
ルバムをかけまくろう。





むかし林檎のような香りの息をする子がいた。どれだけすてきなんやろか、この子は、
と思ったことがある。このあとは書かないほうがいいかな。@cap184946 部屋がいい香
りしてる。#アップルティー飲んでます





彼ら彼女ら自身がすでに地獄そのものなのでしょうね。@kiyoekawazu 以前も書いたが、
人を差別する歓びは、死の欲望に似ている。フロイトがそのあらわれの例として、痛
い虫歯に何度もさわってしまう行為をあげたように、みずからの汚い感情にふれ、増
幅することに歓びを感じるのだから。





でも、なにが強力かって、恋愛の魔術ほど強力なものはない。魔術をかけられた人間
だけではなくて、その周りにいる人間たちも巻き込まれて魔術の影響を受けてしまう
のだから。しかし、真の魔術は魔力がなくなったときにはじまるのかもしれない。知
らないうちにまったくの別人になっているのだ。





世界文学の最良のものばかり読んでいると、自分の文章のつたなさが、ほんとうにつ
らい。自分の小説の「陽の埋葬」の続篇を手直ししていて、そう思った。詩のほうが、
はるかにおもしろい。向きと不向きがあるんだな。小説を書いていたぼくに、詩を書
けと言ってくれた、むかしの恋人に感謝するべきだな。





掃除好きじゃないのに、目についた埃とかもすぐにふき取ってる自分がいる。やっぱ
り変わったんだな。びっくり。





恋愛は若いものの幸福な特権であり、老人の恥辱である。(シルス)

ときには恥もまたいいものだよ。(あつすけ)





きょう、これから何十年ぶりかで、パチンコをすることに。これもまた恋の力。はて
さて、どうなることでしょう。





数十年ぶりのパチンコ、負けた。やっぱり、才能がないみたい。帰りに、カラオケし
た。ビートルズ、ジョン、ポールのソロ、ひさしぶり。思い切り、熱唱。





そのうちに行こうね。高音、熱唱系だよね。@cap184946 カラオケいきたいです!





雪を圧し潰して、ぎゅっとかたまった雪のうえに太郎たちが眠っている。雪を圧し潰
して、ぎゅっとかたまった雪のうえに次郎たちが眠っている。(達治せんせ、ごめりん
こ)





きょうは、これからお風呂に入って、それから四条木屋町の「きみや」さんと、その
隣の「HOPE」さんへ飲みに行くよん。らららん。





電話でツイットのことを言うと、電話中の友だちが、「超イケメンも行くよ」と書き加
えろとリクエスト。どあつかましい。きょうは、ゲイ、二人で騒ぐのね。





で、きょうもカラオケに行くことに。きょうは友だちと。きのうは・・・。ぶひっ。





きょうは友だちと。洋楽しか歌わないぼくたち。@cap184946





サンちゅ!@cap184946 オシャレおやじ!





いま帰った。ヨッパで、飲み屋で飲んでいて、好きな子から電話があったのに、マナ
ーモードで、気がつかなかった。思い切り、あやまった。こんなに人にあやまったの
は、これまでになかったくらい。しかし、ゆるしてもらえてよかった。ゆるしてもら
ったのかな。どだろうか。あした以降にわかることだな。





翻訳の手直しをしてた。20カ所くらいいじったので、またブログにアップした翻訳を、
これから訂正していく予定。これをさいごに、あしたの朝、アメリカ人の編集者に原
稿を送って序文の催促をして、ぼくが後書きを書き終われば、あとは思潮社に送るだ
け。後書きにはハウスマンの詩の翻訳を載せる予定。





まずい日本語だと思う個所がなくなった。難解な日本語だと思う個所は数か所あるけ
ど、原文がそうなっているのだから仕方がない。でも、ベストを尽くしたつもりだ。
いつも、自分の限界ぎりぎりまで才能を絞り出して作品をつくるけれど、こんかいの
翻訳は、ぎりぎりのぎりぎりって感じだった。





姓名判断だと、ぼくの運命は最悪らしい。最悪で、これだったら、ぼくは十分に満足
だけどね。すばらしい詩と、すばらしい小説に出合ってきたし、なによりも、すばら
しい友だちや恋人と出合ってきたのだと思うと、それ以外のことは、まあ、ほぼ、ど
うでもよい。恋は終わりもすれば、はじまりもするのだ。





きょうはケビン・シモンズさんに翻訳を添付してメールで序文の催促したら、あとは、
ルーズリーフ作業のつづきと、アン・ビーティの短篇集を読みのつづきを塾のある夕
方までする予定。きのうは、好きな子と4時間いっしょにいれたのだけど、きょうは
たぶん会えないから、さびしい気持ちを味わうと思う。





そのさびしさも、人生の味で、じっくりと味わおうとしている自分がいる。なんちゅ
う生き物なんやろか、人間って。





ケビン・シモンズさんにメールを送った。序文がいただけたら、すぐに出版社に送る
と書き添えて。ぼくも後書きを書かなくては。後書きを書くのは、十年ぶりくらい。
なぜぼくがLGBTIQの詩人たちの英詩を翻訳したか理由を書かなくては、と思う
気持ちが、後書きを書かせるのだけれど、緊張するなあ。





まあ、だいたいの構想は、すでに頭にあるので、それを書けばいいだけだけど。これ
からマクドナルドに行って、モーニングを。あるいは、西院のパン屋に行くか。愛あ
る生活。恋している状態はひさしぶりなので、ちょっと嘔吐感に近いものを感じてい
る。おそらく口のところまで幸福でいっぱいなのだろう。





十年ぶりに携帯をもつことにした。しじゅう、好きな子と電話とメール。そら、みん
な、携帯もつわなあ、と思った。お昼ご飯をいっしょに、とのこと。夜は、ぼくが塾
で会えないから。お昼ご飯をいっしょだけでも、じゅうぶん幸せ。というか、なに、
こんなに幸せで、いいのか、って状態。死ぬぞ、きっと。





ツイット・コラージュ詩の編集をしている。自分の生活の振り返りでもある。まず、
採り上げるものと捨てるものとの選別をして、それから順番を換える。ほとんど、ス
ロットのようなもの。(スロットという言葉、このあいだ、数十年ぶりにパチンコとス
ロットをして、つい、使ってしまった。恋人のおかげ)





しかし、やはり、さいしょの直観は正しかったのかな。はじめて会った日の帰りに、
バスのなかで、きゅうに、10CCの「愛こそはすべて The Things We Do For Love」
の曲が流れだしたのだ。





家の環境もそうでしたが、ぼく自身、ほぼ西洋文化一辺倒です。文学では、日本文学
を含めての世界文学にしか興味がないので、ナショナリストの気持ちがよくわからな
いでいます。頭が悪いひとたちとも思いませんが@kiyoekawazu ナショナリズムは情動
を正当化する最大の装置である気がする。





悪そうな気はします。まあ、頭は悪くてもべつにいいとは思いますが、レイシストな
んかは、頭が悪いうえに、ひとに愛されたこともないかわいそうなひとたちで、また
教養の足りないひとたちなのだと思っています。@kiyoekawazu ナショナリズムは情動
を正当化する最大の装置である気がする。





朝からラブラブメールで、自分がきっしょい、52才、ハゲ・デブ・ジジイのゲイの
詩人かと思うと、なんだか、コミカル。





恋と詩と小説と。ほとんど映画の主人公の気分。52才、ハゲ・デブ・ブサイクさを
のぞけば、笑。あ〜、生きててよかった。きょうもお昼ご飯いっしょだなんて幸せす
ぐる。神さま、ありがと。きょうのお昼まで、ぼくを生かしておいてくだされ。





ありがとうございます。じつはいまもちょっといっしょでした。いま見送って、部屋
に戻りました。あと数時間で、またお昼ご飯をいっしょにします。お仕事ガンバです! 
@kayabonbon あー、いいないいなー!と羨ましい気持ちいっぱいでお仕事してます笑
しあわせな時間になりますように&#12316;。





MADONNA の Ray of Light を聴きながら、ルーズリーフ作業してる。めっちゃはかど
る。音楽のせいかな。恋のせいかな。両方のおかげかな。





吉田くんが読んでる本めがけて、言語爆弾を発射してやった。見事に命中したみたい
で、吉田くんが読んでた本のページの言葉がばらばらになって、ぜんぜん違った文章
になってたり、文章にもなってなかったりして、怒った吉田くんが本をぼくに投げつ
けた。本のページから文字がこぼれて、顔にくっついた。





詩人は、言葉が生み出したものも愛しているが、生み出された言葉そのものも愛して
いるものである。





詩人は、言葉を生み出したものも愛しているが、言葉が生み出したものも愛している
し、また、言葉そのものをも愛しているものなのである。





詩人は、言葉を生み出したものも愛しているし、言葉が生み出したものも愛している
のだが、じつのところは、言葉そのものを愛しているのであった。





そして、至福の一時間があっという間に過ぎ、詩人は、ふたたびルーズリーフ作業に
戻るのであった。





田中宏輔の第一印象
「清楚系」
「リア充」
「オタク」

田中宏輔の今の印象
「ホモ」
「ご主人」
「RT魔」
http://shindanmaker.com/360789





ホモは差別語だぞ、笑。





詩とは、新しい形の創造であり、新しい音の創造であり、新しい意味の創造である。
少なくとも、そのうちの一つでも創造しなかったものは、詩とは呼ばれる資格がない
ように思われる。





その文章のなかには、意味が不明な言葉がいくつかあった。しかし、知っている多く
の言葉から、その未知なる意味の言葉の輪郭がしだいにはっきりしてきた。何度か読
み返すうちに、とつぜん、その未知なる言葉の意味が了解された。ぼくがLGBTI
Qの詩人たちの英詩を翻訳していて、よくあることだ。





一瞬のあいだに多くのことを学ぶこともできれば、一生のあいだに何も学ばないこと
もできる。それは、単なる意志の問題ではあるが、偶然という神による恩寵の問題で
もある。





いまルーズリーフ作業は、ナンシー・クレスの「プロバビリティ・ムーン」。BGMは、
ノヴァーリスの「BRANDUNG」 B面の組曲が、なんといってもよい。やっぱり、ぼく
はプログレが好きだ。だから、ぼくの詩もプログレっぽいのだろう。あれ、じゃあ、
ほかの詩人は、ふだん何を聴いているのか?





恋をして、やはりいちばんスリリングなのは、自分がどんどん変わっていくことだと
思う。若いときは、自分に才能があると思っていて、作品をつくる才能以外でひとを
見なかった。いまは、才能なんて、みんな持っていて、ただ作品をつくっていないだ
けだとわかっていて、そのひと自体を作品として見てる。





実現された自分の作品のまずしさも、ようやくわかるようになってきた。実現された
作品、すなわち、ぼく自身のことであるが、人間というものは、自分を作品として永
遠につくり直しつづける芸術家なのだと思う。





理想のタイプで、ぼく自身がびっくりしています。ぼくだったら、こんなハゲ・デブ・
ジジイは嫌だから。彼の目からぼくを見れないのが残念ですけれど、見れなくてよい
のかもとか思ってみたり。ひさびさに、一瞬一瞬が生き生きとしています。
@m_shinkirou 恋してからの宏輔さん、キてる。





http://www.youtube.com/watch?v=HNPNaLTxl0… チューブでのぼくの朗読ですが、た
しかに、頭ひかりまくってます。えいちゃんに撮ってもらったのですが、ひかってる、
ひかってると笑われまくりました、笑。@kuroikenban恋をしていらっしゃるから、さ
らに後光がさしているようですw





最大限の努力で、最小限の効果を発揮します。違った、違います、違いました。最大
限の努力で、最善の翻訳にしたいと思っています。応援くださり、ありがとうござい
ます。@m_shinkirou (…)翻訳詩集、楽しみにしております。





いまニコニコキングオブコメディ見てる。2週間おきの至福。





ぼくも3時30分に目が覚めました。脳が覚醒しているみたいです。脳は、とても敏
感で繊細な器官なのですね。恋にはよろこびも大きいですけれど、そのよろこびの大
きさの分、不安も大きいようです。@kayabonbon てか何で目が覚めるんだよこんな時
間に。夢見も悪いし、もう一日寝ていたい。





ぼくも祈っています。恋をすると、神さまに祈るようにもなるのですね。もちろん最
大限の努力をしてのちの祈りですが。といいますか、だからこそ神にも祈ることがで
きるのだと思います。最大限の努力をしたうえでの偶然という神の恩寵をしか、もう
期待するしかありませんもの。@kayabonbon





ぼくの引用詩や全行引用詩も、まったく同じことを言われました。「なぜ 自身の言葉
で あなたの詩を書かないのだろうか」20年以上も前です。進歩がありませんね。
教養がある人間は、もうそんな見方をしていません。自分の言葉があると思い込んで
いる稚拙な脳の持ち主たちですね。@kohimon





朝からルーズリーフ作業、体調すこぶるよし。





オリバー・ストーンと大林宣彦さんの対談を思い出します。原爆の光球を遠くからな
がめたひとが美しいと思うことはあると大林さんが述べたとき、ストーンは激怒しま
した。より芸術家としての感性にすぐれた(ストーンは政治性が強い)大林さんの意
見のほうがぼくには胸に落ちました。@kohimon





きょうブックオフで買った本、巨匠とマルガリータ、上下、各105円、アポリネー
ルの短篇、ツァラの近似的人間、ブルトンのナジャ、アラゴンの文体論、エリュアー
ルの詩集が入った講談社の世界文学全集の一巻、これも105円。ナジャをひとにあ
げたので買った。ナジャ、チラ読みして詩を思いついた。





詩や小説のなかには、ほかの場所では生き生きとしていた言葉がまるっきり死んでし
まっているものがある。詩や小説によっては、ほかの場所では死んでしまっていたよ
うな言葉が新しく生まれ変わったように生き生きとしているものがある。詩や小説に
おいて、問題とは何か? 言葉の生き死にの問題である。





書店の本棚をつぎのように分類してみてはどうか。たとえば、小説なら、「超難解な小
説」「難解な小説」「大半のひとにとって難解な小説」「多くのひとにとって難解な小説」
「少数のひとにとって難解な小説」「ごく少数のひとにとって難解な小説」「難解だと
思われたことのない難解さをもつ難解な小説」





自分の書いたものが新しいものか、そうでないものか、いままで書かれてきたものと
同じようなものか、そうでないものか、その判断力さえあれば、詩や小説を書いても
いいような気がする。その判断が正しかったのか、正しくなかったのか、それは、自
分で検討しなくともよい。時間がしてくれるだろうから。





いい夢、見れたらいいなあ。恋か。たぶん、ぼくはバカなんだろうな。底抜けのばか。
おやすみ、グッジョブ!





不安、めっちゃいっぱいです。泣きたいほど幸せですけど、泣きたいほど不安です。
いま合計、4軒の居酒屋さんで飲んで帰って、ヨッパです。寝てるうちに死んでたら、
もしかしたら最高の幸せかもです。アホですね。@you_ki_yu_ki おやすみなさい、田
中さん。素敵な夢を、優しい明日を。





は〜い。クスリのんで寝ます。好きな子と飲んでいて、ヨッパらってしまって、カッ
コよく飲めない自分がいて、なんて、カッコ悪いのやろと思って、でも、ヨッパらっ
てしまうしかなくって、とっとと死んでしまいたいと思いました。ほんとにカッコ悪
いです。寝ます。泣きながら。@azur_9171





いまケリー・リンクの「マジック・フォー・ビギナーズ」のルーズリーフ作業をして
たんだけど、友だちからカラオケのお誘いがあって「おごり?」と訊くと「かまへん
よ、このビッチ!」とのことで、カラオケに。





恋は饒舌にさせる。愛は寡黙にさせる。





不幸が才能であるように、幸福もまた才能である。





ひとつの映画が、ひとつのTV番組が、世界の見方を変えることがある。ひとつの詩
の形式が世界の見方を変えることもあるだろう。いや、つくり変えることもあるのだ
と思う。





出来のよくない詩人は、自分に関する話題にしか興味がない。





事実は詩人に喜びを与える。じっさいにあった出来事というだけで、詩人には、それ
がとても貴重なものに思えるのだ。詩人は事実に最高の価値を見出す。大事なのは、
その事実を取り巻く状況であり、その事実の理解であり、解釈であるというのに。





ツイットで過去を留める。作品をつくって過去を留める。人間は、そうして過去に生
きる。ラスコーの岩壁に絵を描いた原始人たちも、その描いた絵の過去に生きただろ
う。その絵を描いたときはもちろん、その絵を見るたびに、その絵が描かれた時間と
場所と出来事のなかに飛び込んでいったことだろう。われ





われが詩や小説や映画という他人の経験のなかで、それが架空のものであるときにさ
え、自分の過去を思い起こし、自分の過去をふたたび生きるように、岩壁に描かれた
絵を見て、その絵の描かれた場面に遭遇しなかった原始人たちもまた、その絵が描か
れた時間や場所や出来事のなかでふたたび生きただろう。





この詩人は、自分の作品のなかでは、なに一つ、ほんとうのことを書いていなかった。
いや、ほんとうのことを書いても、すべて嘘になってしまうのであった。





詩人は自分が一冊の本であることに気がついた。自分をペラペラとめくってみた。そ
こには、よく自分が覚えていなかったことや、自分が思いつきもしなかったことが出
てきた。まだはじめのところで、自分が死んでることになっていた。残りのページは、
生きているときのことを思い出して書いたものだった。





真実、愛した記憶がある者なら、だれもが知っている。すべての幸福の元型(オリジ
ナル)がそれで、ほかのあらゆる幸福がその複製(レプリカ)でしかありえないこと
を。たとえその幸福が持続したものではなく、つかの間のものではあっても。たとえ
その幸福が、当時はまったく幸福ではなかったとしても。





アン・ビーティの「あなたが私を見つける所」読了。繊細な描写は、いつもの通り。
新しい手法の発見とかはないけれど、読んでいて、すべての登場人物がちゃんと呼吸
をしていることがわかる。いまからアン・ビーティの「ウィルの肖像」を読む。アン・
ビーティ、あと2冊で完読。終わったらV・ウルフを読む予定。





まだ28ページだけど、悲劇の予感がする。280ページほどの本文の10分の1。
どうなるかわからないけど、まあ、ぼくもね。ぼくたちもと言いたいけれど。どだろ。





雨のなか、濡れて帰ってきた。お風呂に入って寝る。





読みたい本が本棚ひとつぶん以上ある。しかもそれは翻訳ものだけの話だ。原文のも
のも本棚ひとつぶんある。もう本を買うのはやめなければと思うのだが買ってしまう。
恋にも夢中だが、本にも夢中だ。52才。超貧乏な詩人。恥ずかしい。とっとと、は
やく死んでしまいたい。できれば睡眠中に。あかんか。





クスリが効いてきた。PC切って寝ます。





友だちって、どういう存在か、わからへんけど、いてくれて、ぼくの人生が生き生き
としてることだけは、たしかや。そして、ぼくの2番目に大事な詩とはなにか、これ
また、ぼくにはわからへんけど、詩しか、すがりつけるものがないのも、たしかや。
詩は遊びやけど、遊びがなかったら、生き生きできひん。





そのため社会に向けて働きかけるべきだと思います。ぼくも戦闘的な平和主義者です。
カミングアウトと拙い詩作と翻訳とでですが。@hosotaka LGBTが住みやすい環境は、
すべての人が住みやすい。 だから、LGBTだけでなく、すべての人と手を組み、寛容
な社会にしていく必要があるんだ。





カミングアウト歴30年です。いろいろありました。いろいろあって、いま、この世
に生きてます。みんな、いろいろあったほうが、人生、学べるよと言いたい。すべて
のイスラム圏ではないかもしれませんが、厳しいイスラムの国では、いまでもゲイや
レズビアンってわかったら死刑です。@hosotaka





もうそろそろクスリが効いてきたんで寝るけど、アン・ビーティの「ウィルの肖像」、
描写が繊細、極まりない。彼女の小説をもっとむかしに読んでたら、と思わずにはい
られない。彼女の本、出てるの全部合わせても、アマゾンで1000円ほど。いまで
も信じられない。1冊1円できれいなの何冊か買った。





いま帰った。きみやさんで、まさひこちゃんの誕生日をみんなが祝ってて、ぼくも参
加させていただいた。いっぱいいろんなことがあって、人生って、おもしろいなって、
つくづく思った。迷惑かけたひと、ごめんね。おやすみ。グッジョブ!





きのうは日知庵と、きみやさんの梯子。四条河原町から、歩いて帰った。好きな子の
家に近いところで別れて、自分の部屋に戻ったから、遠回りで歩いた。一時間以上は
確実に歩いた。





言葉と態度でいろんなことがわかるけど、ほんとうの気持ちが、言葉と行動にぜんぶ
出てるとは限らないし、むずかしいな。それに、ほんとうの気持ちなんてものも、す
ぐに、ころころと変わるものかもしれないし。数学の定理みたいなもんじゃないもの
ね。





見てるところ、注意を払ってるところが、二人ともぜんぜん違うし。そうだな。いま、
トーマス・マンの言葉が、ふと思い出された。トニオ・クレーゲルかな。「より多く愛
するものは敗者でなければならない。」さいしょ変換したとき、歯医者になった。廃車
でも、おもしろいな。おもしろがるぼくは変だな。





「好きだよ。」と言われて、「ぼくも好きの最上級やで。」と返事すると、「なんや、そ
れ。」と言われた。二週間まえのこと。きのうは「好きだよ。」と言われて、「えっ、な
に?」と聞き直したら、「もう、ええわ。」と言われた。きのうは、ベージュのポロシ
ャツ着てたんやけど、胸元に、チリソースこぼした。


WISH YOU WERE HERE。

  田中宏輔



●それでは●明日のあっくんの「意味予報」をお送りいたします●明日は●午前中ずっと意味が明瞭ですが●昼ごろから晦渋となり●午後から夕方にかけて●ときどき意味不明となるでしょう●夜は●明後日の未明まで●何を言っているのかまったく不明なだけではなく●それが言葉であるのかそうでないのかすらわからないことになるでしょう●なお●明後日から一週間は●原因不明の昏睡状態がつづくものと予想されますが●ときどきは意味のある言葉を口にすることもあるかもしれません●よく注意して耳を傾ければ●言及される箇所によっては●意味の通じるところもあるでしょう●それでは●ひきつづき●来週のあっくんの「意味予報」を放送いたします●ウピウプウピピ●ピリピュラリィー●ウリウリウリリリ●ウリトゥララ●ププププププ●チュリチュララ●チュリ●チュリ●チュリリ●プピ●プペ●プぺペー●プピ●プペペペー●ペッ●ペエエエエエー●ペッ●えっ●ミツバチがスズメバチに襲われている●やっつけられている●ミツバチがスズメバチに襲われている●詩人は漆黒の牛が青い花をくわえながら微笑んでいる●詩人は死んだ赤いエイのちいさな唇でプツプツと泡を吹く●ミツバチがスズメバチに襲われている●縁飾りではなくて●花綱●じゅんちゃん●ぼくの手を離すな●大山のふもとでは●高校生のじゅんちゃんと●ぼくが●鉄棒のそばで休んでる●樹の影に●ぼくはしゃがんで●じゅんちゃんは立っていた●ぼくたちは向かい合って●漆黒の牛は青い花をくわえて微笑んでいた●黄色い鶏が大空を飛んでいた●巨大な脚を●オイチニ●オイチニ●詩人は死んだ赤いエイのちいさな唇でプツプツと泡を吹く●オイチニ●オイチニ●ぼくたちは向かい合って●漆黒の牛は青い花をくわえて微笑んでいた●オイチニ●オイチニ●おまえの母ちゃんに言ってやろ●ふだん●あたちは●こんな下品な言葉づかいはしませんけど●笑●おまえの母ちゃんに言ってやろ●若メガネデブだった●鳥取には●ぼくも一度だけ行ったことがあるよ●学生時代にね●二十年以上も前のこと●大きい山って書いて●だいせんって読むんだよね●言うんだよ●かな●笑●まだ二十歳前だっていうのに●おまえは髪が薄かった●笑●すぐに二十歳になったけど●笑●きっと神さまへのお祈りがヘタだったんだろ●おまえの母ちゃんに言ってやろ●もうおまえはバカだし●ハゲだし●どうしようもないデブだったね●でも●それって遺伝かもね●いや●きっと遺伝だよ●おまえの母ちゃんも●ぜったいバカで●デブだったんだよねえ●まあ●おいらは●バカでデブのおまえが好きだったんだけど●笑●漆黒の牛が青い花をくわえて微笑んでいた●緑のきれいな大山のふもと●若メガネデブのおまえが通っていた高校の教室に●おいらもいっしょに坐っていたかった●痛かったのは●二十歳のおいらの肖像●おまえとめぐり合った●ハッチのおいらの映像●爆泣●笑●おまえの母ちゃんに言ってやろ●過ちは一度だけだったって●おまえとは●笑●漆黒の牛は青い花をくわえて微笑んでいた●ぼくは間違っていた●交換する●それは同化ではない●交換することは同化することではない●ぼくは間違っていた●青い花の縁飾り●白い皿の上●漆黒の牛は微笑んでいた●ぼくは間違っていた●青い花をくわえた漆黒の牛が微笑んでいる●交換する●それは同化ではない●しかし●いかなる存在も●他の存在といささかも同化することなしに存在することはできない●ぼくは二十歳だった●だれよりもかわいい●ぼくは二十歳だった●漆黒の牛がむしゃむしゃ●漆黒の牛をむしゃむしゃ●ぼくの喉を通る漆黒の牛の微笑み●青い花をくわえて●むしゃむしゃ●二十歳のぼくは●青い花をくわえてむしゃむしゃ●憶えてる●憶えた●憶えてる●憶えた●漆黒の牛は青い花をくわえて微笑んでいた●時間の指を●ぼくの目のなかでぐるぐる●交換する●それは同化ではない●どんぞ●そこんとこ●よろしく●笑●去勢された漆黒の牛が青い花をくわえて微笑んでいる●去勢された漆黒の牛が青い花をくわえて微笑んでいた●もっと●ぼくと愛し合おう●去勢された漆黒の牛は●あの夏の晩に青い花をくわえて微笑んでいた●ぼくときみが信じ合ったあの二十歳の夏の晩をむしゃむしゃ●ぼくじゃなきゃいやだ●あの二十歳の夏の晩じゃなきゃいやだ●青い花をむしゃむしゃ●ぼくときみをむしゃむしゃ●二十歳の夏のぼくたち●青い花がむしゃむしゃ●笑ってたあの夏の晩に●ぼくときみが信じ合ったあの二十歳の夏の晩に●一頭の若い牛が青い花をくわえて●ぼくたちを微笑んでいた●あの二十歳の夏の晩に●青い花がむしゃむしゃ●青い花はむにゃむにゃ●OK●知恵ちゃんは●牛乳瓶のふただった●紙でできた●真んまるい●目と目を交換する●意味ないじゃん●ほんとに●漣●むつかしい漢字だな●さざ波●きれいだよね●こっちのほうが●りっぷる・まーく●知恵ちゃんは●牛乳瓶の紙でできたふただった●そだよねええ●ふふん●ぼくのなかに知恵ちゃんがいて●怪獣のなかにぼくがいる●別の怪獣のなかに●その怪獣がいて●また別の怪獣のなかに●ぼくのいる怪獣がいて●またまた別の怪獣のなかにぼくのいる怪獣のいる怪獣がいて●そんなことが●毎日毎日繰り返し●ぼくの帰り道にあって●帰り道に●お風呂屋さんがあって●そのお風呂屋さんちの娘が同級生だったのだけれど●知恵遅れだった●名前が知恵ちゃんだったから●知恵遅れだったのかもしれない●同級生たちは●その子のことを●よく●バカ●と言ってからかっていた●牛のように太った身体の大きい知恵ちゃんは●でも●ふつうの人間のように見えることもあった●しゃべると知恵ちゃんは知恵ちゃんだったけど●だまって●ぼーっとしていると●ふつうの●だまってぼーっとしている同級生と変わらなかった●怪獣のなかにぼくがいて●その怪獣は別の怪獣のなかにいて●その怪獣はまたまた別の怪獣のなかにいて●ぼくは中心で●怪獣を操縦している●眺めはきれい●見下ろしてみると●知恵ちゃんは●ずっと小さい●指でつまんで●放り投げた●ぼくのようなものの見方をしたかったら●ぼくの目の缶詰を開けて食べればいいんだよ●ぼくのような言葉の音の出し方をしたかったら●ぼくの耳の缶詰を開けて食べればいいんだよ●ぼくのようにかわいらしいしゃべり方をしたかったら●ぼくの口の缶詰を開けて食べればいいんだよ●プンプン●うちゃ●くちゃ●うちゃ●くちゃ●どうも●どうも●びびび●ビン詰め●ナポレオン●ビンのなかでは●ナポレオンも腐っちゃってますぅ●あまりにながい年月でね●腐っちゃってるのは●ぼくのパパの缶詰もそうかもしんない●パパの缶詰を開けようと思って●パパの缶詰を手にとって●賞味期限を見たら●切れてたの●ブフッ●パパの缶詰に賞味期限があるなんて●知らなかったわ●でも●決定的に間違っていたのは●パパの缶詰を開けるためには●パパの缶詰を開ける缶切りの缶詰を開けなきゃならなかったの●ブフッ●歯で開けようとして●血まみれになっちゃったわ●見守ってね●うっ●はっ●とろ〜り●とけてる●パパの缶詰●傾ければ●腐ったパパがゆっくり流れ出す●見守ってね●うっ●はっ●ぼくの舌の上で●ハエが翅を擦り合わせる●風は涼しい●目も●でも●ブフッ●腐ったパパが扉をノックする●きらきらときらめく●死んだハエの目の輝きだ●ぼくはときおり●自分の顔や手の甲に雨粒が落ちてくるのを感じることがあった●雨などちっとも降ってはいなかったのだけれど●ぴったしの大きさのパズルだった●ぴったしの大きさだったからこそ●さいごのピースが●はまらなかった●自分の日記を読み返してみると思わず吹き出しちゃって●80年代ポップスってやっぱりいいな●鏡に映った自分の顔は好きじゃないけど●雨ざらしの軒先に落ちてる封筒のなかに入った自分の魂を覗き込むのは好きでさ●で●んで●で●んで●んで・でえ・え・おお●ウィガダ・メカ・ラ●タラララララー●チッ●イエィ●イズ・イットゥ・ヨオ・カラー●先日は●あなたがお亡くなりになられまして●まことにありがとうございました●生前は●なにかと●ひとさまの悪口ばかり口にされまして●ほんとうに迷惑な方でした●とくに弱者に対してはそうでありましたし●ご自分にさからえない者に対しては●めっぽう強い態度に出てらして●ねちねちねちねちと意地悪をなさいましたね●わたくしは●こころ善良な者でしたから●あなたさまのご意向とご行為が●はじめのうち●まったくわかりませんでした●まあ●それは●わたくしだけではなく●善良でもない●あなたの周りにいる方たちも●おそらく●そう思ってらっしゃったことでしょう●つきましては●あなたの生前の仕打ちに対して●わたしの知り合いに●つぎのような提案をいたしますので●ご了承ください●あなたが生前に他人に送りつけたあなたのすべての詩集を●ゴミ箱に入れて●ゴミの日にゴミ出しに出すということを●あなたの生前に●あなたに面と向かって●直接●あなたの作品などゴミだと言った者はいませんでしたが●はっきり言って●ゴミでした●先日は●お亡くなりになられて●ほんとうにありがとうございました●こころから感謝いたします●ばればれ●自我の拡大●群衆心理も個人の自我の重ね合わせと考えれば合理的だい●いえぃ●おつむの悪い連中が●何人かいっしょにいてむにゃむにゃしてたら●賢い気になってるのも●そりゃそうだ●自我が拡大してるんだから●そりゃ気が大きくなるわな●バカのくせにね●いや●バカだからかな●ブフッ●警官や刑務官といった連中のこと●笑えないよねえ●そりゃ●おまえもバカだしぃ●おいらもバカだしぃ●ハー●コリャコリャ●ビジーな羊は●真っ赤なハートマーク●群衆心理もエンヤコラ●ビジーな羊は●真っ赤なハートマーク●きゃっ●場の共有理論で●自我の拡大を群衆心理にまで適用して考察することができる●おまえもバカだしぃ●おいらもバカだしぃ●笑●イエィ●ぼくのビジーな羊にご挨拶●ぼくのビジーな羊は●真っ赤なハートマーク●二つに割れた真っ赤なハートマーク●繕うことなんかできやしないさ●二つに割れた真っ赤なハートマーク●そいつが●おまえを傷つけた男かい●知んねい●笑●おまえもバカだしぃ●おいらもバカだしぃ●笑●ブフッ●自分の日記を読み直してみると●思わず吹き出しちゃって●80年代ポップスってやっぱりいいな●鏡に映った自分の顔は好きじゃないけど●雨ざらしの軒先に落ちてる封筒のなかに入った自分の魂を覗き込むのは好きでさ●いつまでも●よじれた綱のような雰囲気で佇んでいた●親父のおじやって書いて●気持ち悪くなって●ゲラゲラ●おじやの親父って書いて●ゲラゲラ●作ってるのが親父なんかじゃなくって●材料が親父なんだよね●こんなこと書けるのも飯島さんのおかげだから●少しは感謝することにする●飯島耕一●このひとの翻訳本●ひとつ持ってるけど●詩はぜんぜんつまんないのねえ●でもって●このひと●他人の詩はおじやだって言うのねえ●おじやって●おいしいのにねえ●面白くないって意味で●おじやだって言ってるのねえ●自分が書いてるものはぜんぜん面白くないのにねえ●まあ●ちらっと覗いただけだけど●面白くないわねえ●それに●このひと●ゲイを軽蔑してるようなこと●どこかに書いてたように思うけど●まあ●オジンだから許してあげるけど●ほんとふるいよねえ●感覚が●フルルルルー●でも●親父のおじやは面白い●劇オモ●モ●ぐつぐつぐつぐつ●ゲッ●食えるか●こんなもん●食っちゃうのよ●ゲリグソちびっちゃうだろうけど●笑●ゲゲゲ●ゲリグソちびっちゃうだろうけど●ゲゲゲ●ゲリグソちびっちゃえ!


CLOSE TO THE EDGE。

  田中宏輔



●ぼくの金魚鉢になってくれる●草原の上の●ビチグソ●しかもクリスチャン●笑●それでいいのかもね●そだね●行けなさそうな顔をしてる●道路の上の赤い円錐がジャマだ●百の赤い円錐●スイ●きのう●ジミーちゃんと電話で話してて●たれる●もらす●しみる●こく●はく●さらす●といった●普通の言葉でも●なんだか●いやな印象の言葉があるねって●そんな言葉をぶつぶつと●つぶやきながら●本屋のなかをうろうろする●ってのは●どうよ●笑●ぼくの金魚鉢になってくれる●虫たちはもうそろそろ脚を伸ばして●うごめきはじめているころだろう●不幸はひとりではやってこないというが●なにものも●ひとりではやってこない●なにごとも●ただそれだけではやってこないのである●絵に描いたような絵●わたしの神は一本の歯ブラシである●わたしの使っている歯ブラシが●わたしの神であった●神は歯ブラシのすみずみまで神であった●主婦●荒野をさ迷う●きのう見た光景をゲーゲー吐き戻してしまった●暴れまわる母が●一頭の牛に牽かれてやってきた●兄は口に出して考える癖があった●口から●コップや●コーヒーや●スプーンや●ミルクや●文庫本や●フロイトや●カーネル・サンダースの人形や●英和辞典をゲロゲロ吐き出して考えていた●壁は多面体だった●一つ一つ●すべての壁面に印をつけていくと●天井と床も入れて●二十四面あった●二十四面のそれぞれの壁に耳をくっつけて●それぞれの部屋の音を聞くと●二十四面のそれぞれ違った部屋の音が聞こえてきた●5かける5は25だった●ぼくの正義のヤリは見事にふるえていた●どうして●ぼくのパパやママは働かなくちゃならないの●子供たちの素朴な疑問にノーベル賞受賞者たちが答える●という文庫本があった●友だちのジミーちゃんは●こういった●悪だからである●たしかに楽園を追放されることにたることをしたのだから●やっぱり●ぼくの友だちだ●すんばらしい答えだ●エレベーターが●スコスコッと●前後左右上下●斜め●横●縦●縦●横●斜め●横●に●すばやく移動する●わたしの記憶もまた●スコスコッと●前後左右上下●斜め●横●縦●縦●横●斜め●横●に●すばやく移動する●ぼくの金魚鉢になってくれる●草原の上の●ビチグソ●しかもクリスチャン●笑●それでいいのかもね●そだね●行けなさそうな顔をしてる●道路の上の赤い円錐がジャマだ●百の赤い円錐●スイ●神は文字の上にいるのではない●文字と文字の間なのね●印刷された文字と文字の間って●紙のことなのね●1ミリの厚さにも満たない薄い薄い紙のこと●神は紙だから●って●神さまは●前と後ろを文字文字に呪縛されて●ぎゅうぎゅう●もうもう●牛さん●おじさん●たいへん●ぼく●携帯で神に信号を発する●携帯を神に向けてはっしん●って●ぎゃって●投げつけてやる●ぼくは●頭をどんどん壁にぶつけて●神さまは●頭が痛いって●ぼくは●頭から知を流しつづける●血だ●友だちのフリをする●あのとき●看護婦は●ぼくのことを殴った●じゃなく●しばいた●ぼくの病室は●全身で泣いて●ぼくの涙が悔しくて●スリッパを口にくわえて●びゅんびゅん泣いていた●ああ●神さまは●ぼくがほんとうに悲しんでいるのを見て●夕方になると●金魚の群れが空にいっぱい泳いでた●神さまは●ぼくの肩を抱いて●ぼくをあやしてくれた●ぼくは全身を硬直させて●スリッパで床を叩いて●看護婦が●ぼくの腕に●ぼくの血中金魚濃度が低いから●ぼくに金魚注射した●金魚は●自我をもって●ぼくの血液の中を泳ぎ回る●ていうか●それって●自我注射●自我注釈●自我んだ●違った●ウガンダ●どのページも●ぼくの自我にまみれて●ぐっちょり●ちょりちょり●チョチョリ●チョリ●あ●そういえば●店長の激しい音楽●マリゲ●マルゴ●まるぐんぐ●マルス●マルズ●まるずんず●ひさげ●ひさご●ひざずんずっ●びいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい●あるいは●神は●徘徊する●金魚の群れ●きょうは休日だというのに●一日中●病室にいた●病室の窓を見上げてたら●空の端に●昼間なのに●月が出ていた●きょとんとしたぼくの息が●病室の隣のひとを●ペラペラとめくっては●どのページに神が潜んでいるのか●探した●思考とは腫瘍である●わたしの脳髄ができることの一つに●他者の思考の刷り込みがある●まあ●テレパシーのようなものであるが●そのとき●わたしの頭に痛みがある●皮膚に走る電気的な痛みともつながっているようである●頭が痛くなると同時に●肘から肩にかけて●ビリビリ●ビリビリ●と●きょうは●とてつもなく痛い●いままでは●頭の横のところ●右側の方だけだったのに●きょうは●頭の後ろから頭の頂にかけて●すっかり痛みに●痛みそのものになっているのだ●さあ●首を折り曲げて●これから金魚注射をしますからね●あなたの血中金魚濃度が低くて●さあ●はやく首を折り曲げて●はやくしないと●あなたの血管が金魚不足でひからびていきますよ●あさ●パパ注射したばかりじゃないか●きのうは●ママ注射したし●ぐれてやる●はぐれてやる●かくれてやる●おがくれる●あがくれる●いがくれる●うがくれる●えがくれる●街は金魚に暮れている●つねに神は徘徊する●ぼくの指たちの間を●もくもくと読書する姿が見える●そのときにもまた●ぼくの指の間を●神が徘徊しているのだ●ぼくは●もくもくと読書している●図書館で●ぼくは●ひとりで読書する少年だったのだ●四年生ぐらいだったかな●ぼくは●なんで地球が自転するのかわからない●って本に書かれてあるのにびっくりして●本にもわからないことがあるのだ●と●不思議に思って●その本が置いてあったところを見ると●書棚と書棚の間から●死んだパパそっくりの神さまが●ぼくの方を見てるのに気がついた●すると●ぼくの身体は硬直して●ぼくは気を失っていた●ぼくが気を失っていた間も●ぼくの指の間を神は徘徊していた●地球がなんで自転しているのかって●それからも不思議に思っていたのだけれど●だれもわからないのか●ぼくが●この話をしている間も●神さまが●ぼくの指の間から●ぼくのことを見張っている●ぼくの指は●神さまに濡れて●血まみれだった●憎しみの宴が●ぼくの頭のなかで催されている●きょうは●一晩中かもしれない●額が割れて●死んだ金魚たちがあふれ出てきそうだ●頭が痛い●額が割れて●死んだパパやママがあふれ出てくるのだ●ぼくはプリン●ぼくの星の運命は●百万光年の●光に隠されている●光に隠されている●いいフレーズだな●影で日向ぼく●ぼっこじゃなくて●ぼくがいいかな●日向ぼく●で●影で日向ぼっこ●ぼっこって●でも●なんだろ●ぼくの脳髄は●百のぼくである●じゃなく●ぼっこ●じゃなく●ぼこ●リンゴも赤いし●金魚も赤いわ●リンゴでできた金魚●金魚でできたリンゴ●金ゴとリン魚●リンゴの切断面が●金魚の直線になっている●死んでね●ぼくの金魚たち●ルイルイ●楽しげに浮かび漂う●ぼくの死んだ金魚たち●神さまの指は●血まみれの幸運に浸り●ぼくの頭のなかの金魚を回す●トラベル●フンガー●血まみれの指が●ぼくを作り直す●治してね●血まみれのプールに●静かに●ゴーゴーと●泳ぎ回る●ぼくの死んだ金魚たち●ぼくの頭のなかをぐるぐる回る●倒壊したパパの死体や●崩れ落ちたママの死体たち●なかよく踊りまちょ●神は●死んだパパやママの廃墟を徘徊する●リスン・トゥー・ザ・ミュージック●ぼくの廃墟のなかで●死んだパパやママが手に手をとって踊る●手のしびれが●金魚の指のはじまりになるまで●その間も●ずっと●ママは●金魚をぼくの頭のなかでかき回している●重たい頭は●ぼくの金魚がパクパク●パクパク死んでいる●指が動きにくいのは●自我がパクパクしているからだぞ●ああ●たくさんのパクパクしている●ぼくの自我たち●人差し指の先にも自我がある●自我をひとに向けてはいけないとママは言った●さあ●みんな●この自我にとまれ●ギコギコ●ギーギー●ギコギコ●ギーギー●ね●ママ●ぼくのママ●出てきちゃ●ダメ●さっき●鳥が現実感を失う●とメモして●すると●ぼくは●アニメのサザエさんの書割の●塀の横を歩いていた●問いを待つ答え●問いかけられもしないのに●答えがぽつんと●たたずんでいる●はじめに解答ありき●解答は●問いあれ●と言った●すると●問いがあった● ぶさいくオニオン●ヒロくんの定食は●焼肉だった●チゲだっておいしいよ●キムチだっておいしいよ●かわりばんこの●声だ●ぼくは●ヒロくんの声になって●坐ってる●十年●むかしの●ゴハン屋さんで●この腕の●縛り痕●父親たちの死骸を分け合う●ぼくのたくさんの指たち●ああ●こんなにも●こんなにも●ぼくは●ぼくに満ちあふれて●戦線今日今日●戦線今日今日●あの根●ぬの根●カンポの●木の●根●名前を彫っている●生まれ変わったら●何になりたい●うううん●べつに●花の精でもいいし●産卵する蛾の映像でもいいよ●あ●べつに●産卵しない蛾の映像でもいいし●大衆浴場●湯船から●指を突き出し●ヘイ●カモン●詩人の伝記が好き●詩人の詩より好きかも●詩人の出発もいいけど●詩人のおしまいの方がいいかな●不幸には●とりわけ●耳をよく澄ますのだ●ぼくのなかの●声が●ああ●聞こえないではないか●そんなに遠く離れていては●ぼくのなかの●声が●耳を済ます●耳を澄ます●じりじりと●耳を澄ます●ぼくのなかの●声が●耳を済ます●耳を澄ます●耳が沈黙してるのは●ぼくの声が離れているからか●ああ●聞こえないではないか●そんなに遠く離れていては●もう詩を書く人間は●ぼくひとりだけだ●と●笑●ぼくの口のなかは●たくさんの母親たちでいっぱいだ●抜いても抜いても生えてくる●ぼくの母親たち●ぼくは●黄ばんだパンツ●の●筋道にそって歩く●その夜●黄ばんだパンツは●捨てられた●若いミイラが●包帯を貸してくれるっていって●自分の包帯をくるくる●くるくる●はずしていった●若竹刈り●たけのこかい●木の芽がうまい●ほんまやな●せつないな●ボンドでくっつくけた●クソババアたち●ビルの屋上から●数珠つなぎの●だいぶ●だいぶ●死んだわ●おだぶつさん●合唱●あ●合掌●だす●バナナの花がきれいだったね●きれいだったね●ふわふわになる●喜んで走り回ってた●棺のなかに入ったおばあちゃんを●なんで●だれも写真にとらなかったんだろう●おばあちゃんは●とってもきれいだったのに●生きてるときより●ずっときれいだったよ●ぼくのおばあちゃんの手をひっぱって●ぼくのおばあちゃんを棺のなかに入れたのは●ぼくだった●ばいばい●ふわふわになる●おばあちゃん●土間の上にこぼれた●おかゆの湯気が●ぼくの唇の先に●触れる●ああ●おいちかったねえ●まいまいつぶれ●ウサギおいしい●カマボコ姫●チュッ●歯科医は●思い切り力を込めて●ぼくの口のなかの●母親をひっこぬいた●父親は●ペンチで砕いてから●ひっこぬいた●咳をすると●ぼくじゃないと思うんだけど●咳の音が●ぼくの顔の前でした●咳の音は●実感をもって●ぼくの顔の前でしたんだけど●ぼくのじゃない●ただしい死体の運び方●あるいは●妊婦のための●新しい拷問方法●かつて●チベットでは●夫を裏切った妻たちを拷問して殺したという●まあ●インドでは●生きたまま焼いたっていうから●そんなに珍しいことではないのかもしれないけれど●こうして●ぼくがクーラーのかかった部屋で●友だちがくれたチーズケーキをほおばりながら●音楽を聴きながら●ふにふに書いてる時間に●指を切断されたり●腹を裂かれて●腸を引きずり出されたりして●拷問されて苦しんでる人もいるんだろうけど●かわいそうだけど●知らないひとのことだから●知らない●前にNHKの番組で●指が机の上にぽろぽろ●ぽろぽろ●血まみれの指が●指人形●ぼくの右の人差し指はピーターで●ぼくの左手の人差し指は狼だった●ソルト●そーると●ソウルの街を●電車で移動●おまえは東大をすべって●ドロップアウトして●そのまま何年も遊びたおして●ソウルの町を電車で移動●聴いているのは●ずっと●ジャズ●ただしい死体の運び方●あるいは●郵便で死体を送りつける方法について●学習する●切手で払うのも大きい●小さい●デカメロン●ただしく死体と添い寝する方法●このほうが●お前にふさわしい●おいしいチーズケーキだった●きょう●いちばんの感動だった●河原町のあちこちの街角から●老婆たちが●ぴょんぴょん跳ねながらこちらに向かってくる●お好みのヴァージョンだ●神は疲れきった身体を持ち上げて●ぼくに手を伸ばした●ぼくは●その手を振り払うと●神の胸をドンと突いてこう言った●立ち上がれって言われるまで●立ち上がったらダメじゃん●神さまは●ぼくの手に突かれて●よろよろと●そのまま疲れきった身体を座席にうずめて●のたり●くたり●か●標準的なタイプではあった●座席のシートと比較して●とくべつおいしそうでも●まずそうでもなかった●ただ●しょっぱい●やっぱり●でっぱり●でずっぱり●蛆蝿が●老婆たちの卵を産みつける●老婆たちは●少女となって卵から孵り●雛たちは●クツクツと笑うリンゴだ●どんな医学百科事典にも載っていないことだけど●植物事典には載ってる●気がする●か●おいしい●しょっぱい●か●ぼくの顔面をゲートにして●たくさんの少女と老婆が出入りする●ぼくの顔面の引き攣りだ●キキ●金魚●アロハ●おえっ●老婆はすぐに少女になってしまって●口のなかは●死んだ少女たちでいっぱいになって●ぼくは●少女たちの声で●ヒトリデ●ピーチク・パーチク●最初の話はスラッグスの這い跡で●夜の濡れた顔だった●そういえば●円山公園の公衆トイレで首を吊って死んだ男と●御所の公衆トイレで首を吊って死んだ男が同一人物だという話は●ほんとうだった●男は二度も死ねたのだ●ぼくの身体の節々が痛いのは●なかなかなくならない●こんど病院に行くけど●呪術の本も買っておこう●いやなヤツに痛みをうつす呪術が●たしかにあったはずだ●ぴりぴり●ぴかーって●光線銃で狙い撃ち●1リットルの冷水を寝る前に飲んだら●ゲリになっちゃった●ぐわんと●横になって寝ていても●少女の死体たちが●ぼくの口のなかで●ピーチク・パーチク●ぴりぴり●ぴかーっと●たしか●首を吊った犬の苦しむ顔だった●紫色の舌を口のなかからポタポタたれ落として●白い泡はぶくぶくと●枕草子●小さいものは●みなかわいらしい●と書いてあった●小さな少女の死体はかわいらしい●ぼくの口のなかの死体たちが●ピー地区・パー地区●ふふふ●大きな棺に入った大きな死体もかわいらしい●ピー地区・パー地区●ふふふ●筆箱くらいの大きさの少女たちの死体がびっしり●ぼくの口のなかに生えそろっているのだ●ピー地区・パー地区●ふふふ●ようやく●ぼくにもわかってきたのだ●ぼくのことが●今晩も●寝る前に冷水を1リットル●けっ●あらまほしっ●きっ●ケルンのよかマンボウ●ふと思いついたんだけど●帽子のしたで●顔が回転している方が面白い●頭じゃなくて●正面の顔が●だよん●ふふふ●アイスクリーム片手にね●アイスクリームは●やっぱり●じょっぱり●しょうが焼き●春先に食べた王将のしょうが焼き定食は●おいちかった●ぼく●マールボロウでしょう●話の途中で邪魔すんなよ●ぼく●マールボロウだから●デジカメのまえで●思わずポーズきめちゃった●クリアクリーン●歯磨きの仕方が悪くって●死刑●ガキデカのマンガは●いまなかなか見つからなくって●わかんない●井伊直弼●って●スペリング●これでよかったっけ●って●てて●いてて●てて●ぼく●井伊直弼●ちゃうねん●あつすけだよん●って●魔法瓶覗いて●ぎいらぎら●リトル・セントバーナード●ショウ●人生は●演劇以上に演劇だ●って●べつに●言ってるか●どうかなんて●知らない●ちいいいいいい●てるけどね●ケッ●プフッ●ケルンのよかマンボウ●ぼーくの●ちぃーって●る●けー●天空のはげ頭●(●ナチス・ドイツ鉄かぶと製の●はげカツラが●くるくると回転する●頭皮にこすれて●血まみれギャーだった●ふにふに●空飛ぶ円盤だ●このあいだ●サインを見た●登場人物は●みんな霊媒だった●十年前に賀茂川のほとりで●無数の円盤が空をおおうようにして飛んでるのを●友だちと眺めたことがあった●友だちは●とても怖がっていたけど●ぼくは怖くなかった●友だちは●ぼくに●円盤見て●びっくりせいへんの●って言ってたけど●ぼくは●こんど●ふたりで飲みに行きましょうね●って言われたほうが●びっくりだった●いやっ●いやいや●やっぱり●暴れまわる大きな牛を牽いてやってくる●一頭の母親の方が怖ろしいかな●笑●どうしてるんだろう●ぼくの口のなかには●母親たちの死んだ声がつまってるっていうのに●ぼくの耳のなかでは●その青年の声が叫びつづけてるんだ●だから●インテリはいやなんやって●カッチョイイ●あのえいちゃんの声が●ああ●これは違う声か●違う声もうれしい●ぼくのまぶたの引き攣りは●ヒヒ●うつしてあげるね●ヒヒ●うつしてあげるね●神経ぴりぴり●血まみれ●ゲー●て●うつしてあげるね●プ●しゅてるん●知ってるん●ユダヤの黄色い星●麻酔なしの生体解剖だって●写真だったけど●思い出しただけで●ピリピリ●ケラケラ●ケセラセラー●あい・うぉん・ちゅー●あらまほしぃ●きいいいいいい●ぼくの詩を読んで死ねます●か●ぼくの詩を読んで死ねます●か●ひねもす●のたり●くたり●ぼくの詩を読んで死ねます●か●ひねもすいすい●水兵さんが根っこ買って●寝ッ転がって●ぐでんぐでん●中心軸から●およそ文庫本3冊程度ぶんの幅で●拡張しています●か●ホルモンのバランスだと思う●か●まだ睡眠薬が効かない●か●相変らず役に立たない神さまは●電車の●なかで●ひねもす●のたり●くたり●か●ぼくは●疲れきった手を●吊革のわっかに通して●くたくたの神を●見下ろしていた●か●おろもい●か●飽きた●か●腰が痛くなって●言いたくなって●神は●あっくんの手を●わっかからはずして●レールの上に置きました●キュルルルルルルって●手首の上を●電車が通りすぎていくと●わっかのなかから●無数の歓声が上がりました●か●日が変わり●気が変わり●神は●新しいろうそくを●あっくんの頭の上に置いて●火をつけました●か●なんべん死ぬねん●か●なんべんもだっち●ひつこい轍●銃の沈黙は●違った●十の沈黙は●うるさいか●とか●沈黙の三乗は●沈黙とは単位が違うから●もう沈黙じゃないんじゃないか●とか●なんとか●かんとか●ヤリタさんと●荒木くんと●くっちゃべり●ぐっちゃべり●ええ●ええ●それなら●ドン・タコス●おいちかったね●いや●タコスは食べなかった●タコライス食べたね●おいちかったね●ハイシーン●だっけ●おいちかった●サーモンも●おいちかった●火の説教●痩せた手のなかの●コーヒーカップは●劫火●生のサーモンもカルパッチオ●みゃぐろかなって言って●ドン・タコス●ぱりぱりの●ジャコ・サラダは●ぐんばつだった●笑●四十歳を過ぎたおっさんは●ぐしょぐしょだった●いや●くしゃくしゃかな●これから●ささやかな葬儀がある●目のひきつり●だんだん●欲しいものは手に入れた●押し殺した悲鳴と●残忍な悦び●庭に植えた少女たちが●つぎつぎと死んでいく●除草剤をまいた●痩せた手のなかの●あたたかいコーヒーカップは●順番が違うっちぃぃいいいいいい●あっくんの頭の上のろうそくが燃えている●ろうそくの上のあっくんの頭が燃えている●死んだ魚のように●顔面の筋肉は硬直して●無数の蛆蝿が●卵を産みつけていく●膿をしぼり出し●ひねり出すようにして●あっくんは卵を産んだ●大統領夫人が突然マイクを向けられて●こけた●こけたら●財布が出てきた●財布は●マイケルの顔に当たって●砕けた●マイケルの顔が●笑●笑えよ●ブフッ●あっくんの頭の上で燃えているろうそくの火は●ろうそくの上で燃えているあっくんの顔は●しょっぱい●そろそろ眠る頃だ●睡眠薬を飲んで寝る●噛み砕け●顔面に産みつけられたろうそくの上で燃えているあっくんの顔は蛆蝿たちの卵を孵す●あっくんの頭の上で燃えているろうそくの火は●ろうそくの上で燃えているあっくんの顔は●しょっぱい●ひつっこい●しょっぱさだ●笑●前の職場で親しかったドイツ語の先生は●バーテンダーをしていたことがあると言ってた●バーテンダーは●昼間は●玉突きのバイトをしていた●青年がいた●ぼくが下鴨にいたころだ●といっても●ぼくが26●7才のころだ●九州から来たという●青年は二十歳だった●こんど●ふたりっきりで飲みましょうねって言われて●顔面から微笑みが這い出してきて●ぽろぽろとこぼれ堕ちていった●ぼくは●彼のチンポコを●くわえたかった●くわえてみたかった●ちとデブだったけど●かわいかった●ぼくは●ちとデブ専のケがあるから●ブフッ●笑えよ●で●とうもろこし頭の●彼は●ぼくのなかで●ひとつの声となって●迸り出ちゃったってこと●詩ね●へへ●死ね●で●乾燥した●お母さんが●出てきたところで●とめる●釘抜きなんて●生まれて●まだ十回も使ったことがないな●ぼくの部屋は二階で●お母さんは●縮んで●釘のように●階段の一段一段●すべての踏み段に突き刺さっていたから●釘抜きで抜く●ぜんぶ抜く●可能性の問題ではない●現実の厚さは●薄さは●と言ってもよいが●ぼろぼろになった●筆の勢いだ●美しい直線が●わたしの顔面を貫くようになでていく●滅んでもいい●あらゆる大きさの直線でできた●コヒ●塑形は●でき●バケツをぶつけて●頭から血を流した●話を書こうと思うんだけど●実話だから●話っていっても●ただ●バケツって●言われたから●バケツをほっただけなんだけど●手がすべって●パパは頭から血を流した●うううん●なんで●蟹●われと戯れて●ひさびさに●鞍馬口のオフに寄る●ジュール・ベルヌ・コレクションの●海底二万哩があった●きれいな絵●500円●だけど●背が少し破けてるので●惜しみながらも●買わず●ブヒッ●そのかわり●河出書房の日本文学全集3冊買った●1冊105円●重たかった●河出新刊ニュースがすごい●もう何十年も前の女優の●若いころの写真がすごい●旅館が舞台のいじめもののテレビドラマの主人公で●何十年も前のことだけど●いまの天皇が好きな女優だと前にテレビで言ってた●これがほしくて買ったとも言える●笑●でも●いったい何冊持ってるんだろう●全集の詩のアンソロジー●このあいだの連休は●詩を書くつもりだったけど●書けなかった●蟹と戯れる●啄木●ではなく●ぼく●でもなく●ママ●を●思ふ●ママは●蟹の●巨大なハサミにまたがって●ビッビー●シャキシャキッと●おいしいご飯だよ●ったく●ぼくカンニングの竹山みたいな●怒鳴り声で●帰り道●信号を待ってると●いや●信号が近づいてくるわけじゃなく●信号が変わる●じゃなく●信号の色が●じゃなく●電灯のつく場所がかわるのを待ってたんだけど●信号機が●カンカンなってた●きのうのこと●じゃなくて●きょうのこと●ね●啄木が●ぼくの死体と戯れる●啄木が●ぼくの死体と戯れる●さわさわとざらつく●たくさんのぼくの死体を●啄木が●波のように●足の甲に●さわっていくのだ●啄木は●ぼくの死後硬直で●カンカンになった●カンカン鳴ってたのは●きのうの夜更けだ●二倍の大きさにふくらんだ●ぼくのコチコチの死体だ●だから行った●波のように●啄木の足元に●ゴロンゴロン横たわる●ぼくの死体たち●蟹●われと戯れる●いたく●静かな●いけにえの食卓●ぽくぽく●ったく●ぼく●と●啄木●ふがあ●まことに●人生は一行のボードレールである●ぼくの腕●目をつむるきみの重たさよ●狒狒●非存在たることに気づく●わっしゃあなあ●木歩のことは以前に●書いたことがある●木歩の写真を見ると思い出す●関東大震災の日に●えいじくんが●火炎のなかで●教授に怒鳴られて●ぼくの部屋で●雪合戦●手袋わざと忘れて●もう来いひんからな●ストレンジネス●バタンッ●大鴉がくるりと振り向き●アッチャキチャキー●愛するものたちの間でもっともよく見られる衝動に●愛するものを滅ぼしたいという気持ちがある●関東大震災の日に●えいじくんが●ぼくと雪合戦●ヘッセなら●存在の秘密というだろう●2001年1月10日の日記から抜粋●夜●ヤリタさんから電話●靴下のこと●わたしの地方では●たんたんていうの思い出したの●靴下をプレゼントしたときには気づかなかったのだけれど●とのこと●客観的偶然ですね●と●ぼく●いま考えると●客観的偶然ではなかったけれど●たんたん●ね●ぼくのちっぽけな思い出だな●ちっぽけなぼくの思い出●ね●笑●金魚が残らず金魚だなんて●だれが言った●原文に当たれ●I loved the picture.●べるで・ぐるってん●世界は一枚の絵だけ残して滅んだ●どのような言葉を耳にしても●目にしても●詩であるように感じるのは●ぼくのこころが●そう聞こえる●そう見える準備をしているからだ●それは●どんな言葉の背景にも●その言葉が連想させる●さまざまな情景を●もっとたくさん●もうたくさん●ぼくのこころが重ね合わせるからだ●詩とはなにか●そういったさまざまな情景を●目に見えるものだけではない●重ね合わそうとするこころの働きだ●部長●笑●笑えよ●人生は一行のボードレールにしか過ぎない●笑●笑えよ●そうだとしたら●すごいことだと思う●人生は一行のボードレールにしか過ぎない●笑●笑えよ●仲のよい姉妹たちが●金魚の花火を見上げている●夜空に浮かび上がる●光り輝く●真っ赤な金魚たち●金魚が回転すると冷たくなるというのはほんとうだ●どの金魚も●空集合●Φ●2002年1月14日の日記から抜粋●ああ●てっちゃんのことね●いままで見た景色のなかで●いちばんきれいだと思ったのはなに●カナダで見たオーロラ●カナダでも見れるの●うん●北欧でも見れるけど●どれぐらい●40分くらいつづくけど●20分くらいしか見られへん●どうして●寒くて●寒くて●冷下30度以下なんやで●ギョギー●目ん玉が凍っちゃうんじゃない●それはないけど●海なら●どこ●パラオ●うううん●だけど●沖縄の海がいちばんきれいやったかな●まことに●人生は一行のボードレールである●快楽から引き出せるものは快楽だけだ●苦痛からは●あらゆるものが引き出せる●笑えよ●この世から●わたしがいなくなることを考えるのは●それほど困難なことでも怖ろしいことでもないのだけれど●なぜ●わたしの愛するものが●この世からなくなることを考えると●怖ろしいのか●しゃべる新聞がある●手から放そうとすると●「まだまだあるのよ●記事が」●という●キキ●金魚●悲しみをたたえた瞳を持って牛たちが歩みくる●それは本来●ぼくの悲しみだった●できたら●ぼくは新しい悲しい気持ちになりたかった●夕暮れがなにをもたらすか●仮面をつける●悲しみをたたえた瞳を持って牛たちが歩みくる●それは言葉のなかにはないのだから●言葉と言葉の間にあるものだから●から●か●わが傷はこれと言いし蟻●蟻をひく●Soul-Barで●Juniorの●Mama Used Said●はやりの金魚をつけて●お出かけする●あるいは●はやりの金魚となって●お出かけする●石には畸形はない●雲にも畸形はない●記憶のすべてとは●記憶とは●想起されるものだけ●想起されないものは●一生の間●想起されずに●でも●それが他の記憶に棹さして●想起させることもあるかもしれない●どこかに書いたことがあるけど●いつか想起されるかもしれないというのは●いつまでも想起されないこととは違うのかな●習慣的な思考に●とは●すでに単なる想起にしかすぎない●金魚のために●ぼくは●ぼくのフリをやめる●矢メール●とがらした鉛筆を自分の喉に突きつけて●両頬で締めつける●ぼくだけの愛のために●ぼくだけの真実のために●ストラップは猫の干し首●ぼくの恋人の金魚のために●夜毎●本を手にして●人間狩りに出かける●声が●そんなこととは●とうてい思え●夜毎●レイモンド・ラブロックは●壁にかかった●恋人の金魚に●声が●知っている●きのう●フランク・シナトラのことを思い出していた●新しい詩が書けそうだ●ということ●うれしいかなしい●金魚●調子ぶっこいて●バビロン●タスマニアの少年のペニスは●ユリの花のようだった●と●金魚●調子ぶっこいて●バビロン●枯山水の金魚が空中に浮遊する●いたるところ●金魚接続で●いっぴきぴー●と●いたるところ●金魚接続で●にっぴきぴー●と●いたるところ●金魚接続で●さんぴきぴー●と●ス●来る●と●ラン●座ぁ●匹ぃー●XXX●二rtgh89rtygんv98yんvy89g絵ウhg9ウ8fgyh8rtgyr8h地hj地jh地jfvgtdfctwdフェygr7ウ4h地5j地54ウy854ウ7ryg6ydsgfれjんf4klmgl;5●yhp6jl77kじぇyjhw9thjg78れtygf348yrtcvth54ウtyんv5746yんv3574ytんc−498つcvん498tんv498yんt374y37tyん948yんrt6x74rv23c47ty579h8695m9rつbヴァ有為ftyb67くぇ4r2345vjちょjkdypjkl:h;lj●帆印b湯fttrゑytfでtfryt3フェty3れ76t83ウrgj9pyh汁9kjtyj彫る8yg76r54cw46w6tv876g643エgbhdゲう7h9pm8位0−『mygbfy5れうhhんg日htgyん;ぃm:drs6ゑs364s3s34cty日おじjklj不khjkcmヴィfhfgtwfdtwfれswyツェdぎぃウェってqqsnzkajxsaoudha78絵rゑ絵bkqwjでyrg3絵rgj家f本rbfgcぬ4いthbwやえあfxkうぇrjみうryんxqw●ざ●が抜けてるわ●金魚●訂正する●性格にいえば●提供する●時計の針で串刺しの干し首に●なまで鯛焼き●目ゾット・ふい●赤い色が好きだわ●と●金魚が逝った●ぼくも好きだよ●とジャムジャムが答えた●あなたはもっと金魚だわ●と金魚が逝った●きみだって●だいたい金魚だよ●とジャムジャムが答えた●ふたりは●ぜんぜん金魚だった●大分県の宿屋の大づくりの顔の主人が振り返って逝った●も一度死んでごらん●ああ●やっぱりパロディはいいね●書いてて●気持ちいいね●打っててかな●注射は打ったことないけど●あ●打たれたことあるけど●病院で●暴れる金魚にブスっと●あのひとの頬は●とてもきれいな金魚だった●聖書には●割れたざくろのように美しいという表現があるけど●あのひとの身体は●割れた金魚のように美しいとは●言え●言えよ●まるまると太った金魚が●わたしを産む●ブリブリブリッと●まるまると太った金魚が●わたしを産む●ブリブリブリッと●オーティス・レディングが●ザ・ドッグ・オブ・ザ・ベイを●ぼくのために歌ってくれていたとき●ぼくの金魚もいっしょに聞きほれていた●ニャーニャー闇ってる●ひどい闇だ●新しい詩は●形がすばらしい●ぼくは●きのう●おとついかもしれない●最近●記憶がぐちゃぐちゃで●きのうと●おとついが●ぼくのなかでは●そうとう金魚で●出かかってる●つまずいて●喉の奥から●携帯を吐き出す●突然鳴り出すぼくの喉●無痛の音楽が●ぼくの携帯から流れ出す●無痛の友だちや恋人たちの声が●ぼくの喉から流れ出す●ポンッ●こんなん出ましたけど●ジョニー・デイルの右手に握られた●単行本は●十分に狂気だった●狂気ね●凶器じゃないのかしらん●笑●まるまると太った金魚が●わたしを産んでいく●ブリブリブリッと●まるまると太った金魚が●わたしを産んでいく●ブリブリブリッと●そこらじゅうで●金魚が●日にちを間違える●もう一度●ね●金魚が●日にちを間違える●もう一度●ね●moumou●と●sousou●の●金魚●金魚が●ぼくを救うことについて●父子のコンタクトは●了解●これらのミスは●重大事件に間違い●バッカじゃないの●わかった●歴史のいっぱい詰まった金魚が禁止される●金魚大統領はたいへんだ●もう砂漠を冒険することもできやしない●してないけど●笑●冒険は●金魚になった●広大な砂漠だった●モニターしてね●笑●こういうと●二千年もの永きにわたって繁栄してきた●わが金魚テイク・オフの●過去へのロッテリア●金魚学派のパパ・ドミヌスは●ぼくに●そうっと教えてくれた●金魚大統領の棺の●肛門の●栓をひねって●酔うと●ぼくは金魚に生まれ変わった扇風機になる●冷たい涼しい●金魚のような●墓地●ぼくの●moumou●と●sousou●の●金魚たち●いつのまにか複製●なんということもなく●ぼくを吐き出す●金魚の黄色いワイシャツの汚れについて●おぼろげながら●思い出されてきた●二十分かそこらしたら●扇風機が●金魚のぼくを産む●びぃよるん●ぱっぱっと●ぼくを有無●ふむ●ムム●ぷちぷちと●ぼくに生まれ変わった黄色いワイシャツの汚れが●砂漠をかついで●魔法瓶と会談の約束をする●階段は●意識を失った幽霊でいっぱいだ●ぼくの指は●死んだ●金魚の群れだ●ビニール製の針金細工の金魚が●ぼくの喉の奥で窒息する●苦しみはない●金魚は●鳴かないから●金魚のいっぱい詰まった扇風機●金魚でできた金属の橋梁●冷たい涼しい●の●デス●ぼくの部屋の艶かしい●金魚のフリをする扇風機●あたりにきませんか●冷たい涼しい●の●デス●ぼくの部屋に吹く艶かしい●金魚のフリをする扇風機●あたりにきませんか●キキ●あたりにきませんか●キキ●金魚は●車で走っていると●車が走っていると●突然●金魚のフリをする扇風機●あたりにきませんか●キキ●あたりにきませんか●キキ●金魚迷惑●金魚イヤ〜ン●キキ●金魚迷惑●金魚イヤ〜ン●扇風機●突然●憂鬱な金魚のフリをする●あたりにきませんか●キキ●あたりにきませんか●キキ●金魚は●車で走って●車は走って●あたりにいきませんか●金魚のような●墓地の●冷たい涼しい●車に●キキ●金魚●キキ●金魚●キキ●キィイイイイイイイイイイイイイイイイイ●ツルンッ●よしこちゃん●こんな名前の知り合いは●いいひんかった●そやけど●よしこちゃん●キキ●金魚●しおりの●かわりに●金魚をはさむ●よしこちゃんは●ごはんのかわりに●金魚をコピーする●キキ●金魚●よしこちゃん●晩ご飯のかわりに●キキ●きのうも●ヘンな癖がでた●金魚の隣でグースカ寝ていると●ぼくのまぶたの隙を見つけて●ぼくのコピーが金魚のフリをして●扇風機は●墓地の冷たい涼しい●金魚にあたりにきませんか●きのう●金魚の癖がでた●石の上に●扇風機を抱いて寝ていると●グースカピー●ぼくの寝言が●金魚をコピーする●吐き出される金魚たち●憂鬱な夜明けは●ぼくの金魚のコピーでいっぱいだ●はみ出した金魚を本にはさんで●よしこちゃん●ぼくを扇風機で●金魚をコピーする●スルスルー●ピー●コッ●スルスルー●ピー●コッ●スルスルー●いひひ●笑●ぼくは金魚でコピーする●真っ赤に染まった●ぼくの白目を●金魚のコピーが●ぼくの寝ている墓地の間を●スルスルー●と●扇風機●よしこちゃん●おいたっ●チチ●タタ●無傷なぼくは●金魚ちゃん●チチ●マエストロ●金魚は置きなさい●電話にプチチ●おいたは●あかん●フチ●魔法瓶を抱えて●金魚が砂漠を冒険する●そんな話を書くことにする●ぼくは二十年くらい数学をおしえてきて●けっきょく●数学について●あまりにも無恥な自分がいるのに●飽きた●秋田●あ●きた●背もたれも金魚●キッチンも金魚●憂鬱な金魚でできたカーペット●ぼくをコピーする金魚たち●ぼくはカーペットの上に●つぎつぎと吐き出される●まるで●金魚すくいの名人のようだ●見せたいものもないけれど●まるで●金魚すくいの名人みたいだ●二世帯住宅じゃないけれど●お父さんじゃない●ぼくのよしこちゃんは●良妻賢母で●にきびをつぶしては●金魚をしぼり出し●ひねり出す●じゃなくて●金魚をひねる●知らん●メタ金魚というものを考える●メタ金魚は言語革命を推進する●スルスルー●っと●メタ金魚が●魔法瓶を抱えて●砂漠を冒&#28678;するのをやめる●ぼくのことは●金魚にして●悩み多き青年金魚たち●フランク・シナトラは●自分の別荘のひとつに●その別荘の部屋のひとつに●金魚の剥製をいっぱい●ぼくの憂鬱な金魚は●ぼくのコピーを吐き出して●ぼくをカーペットの上に●たくさん●ぴちゃん●ぴちゃん●ぴちゃん●ぴちゃん●て●キキ●金魚●扇風機といっしょに●車に飛び込む●フリをする●キキ●金魚●ぴちゃん●ぴちゃん●ププ●ああ●結ばれる●幸せな●憂鬱な●金魚たち●ぼくは●だんだん金魚になる●なっていくぼくがうれしい●しっ●死ねぇっ●ピッ●moumou●と●sousou●の●金魚●moumou●と●sousou●の●金魚●金魚が●ぼくを救うことについて●父子のコンタクトは●了解●これらのミスは●重大事件に間違い●バッカじゃないの●わかった●歴史のいっぱい詰まった金魚が禁止される●金魚大統領はたいへんだ●もう砂漠を冒険することもできやしない●してないけど●笑●冒険は●金魚になった●広大な砂漠だった●モニターしてね●笑●こういうと●二千年もの永きにわたって繁栄してきた●わが金魚テイク・オフの●過去へのロッテリア●金魚学派のパパ・ドミヌスは●ぼくに●そうっと教えてくれた●金魚大統領の棺の●肛門の●栓をひねって●酔うと●ぼくは金魚に生まれ変わった扇風機になる●冷たい涼しい●金魚のような●墓地●ぼくの●moumou●と●sousou●の●金魚たち●いつのまにか●複製●なんということもなく●金魚大統領と面会の約束をする●当地の慣習として●それは論議の的になること間違い●笑●FUxx●You●これは●ふうう●よう●と読んでね●笑●当地の慣習として●眼帯をした金魚の幽霊が●創造と現実は大違いか●想像と堅実は大違いか●sousou●意識不明の幽霊が●金魚の扇風機を●手でまわす●四つ足の金魚が●ぼくのカーペットの上に●無数の足をのばす●カーペットは●ときどき●ぼくのフリをして●金魚を口から吐き出す●ぷつん●ぷつん●と●ぼくの白目は真っ赤になって●からから鳴かなかった●金魚に鳴いてみよと●よしこちゃんがさびしそうにつぶやいた●完全密封の立方体金魚は●無音で回転している●とってもきれいな●憂鬱●完全ヒップなぼくの扇風機は●金魚の羽の顧問だ●カモン●ぼくは●冷蔵庫に●お父さんの金魚を隠してる●金魚のお父さんかな●どっちでも●おなじだけど●笑●ときどき●墓地になる●金魚●じゃなかった●ぼくの喉の地下室には●フランク・シナトラ●目や●耳も●呼吸している●息と同じように●目や●耳も●呼吸している●呼吸しているから●窒息することもある●目や●耳も●呼吸している●白木みのる●ってあだ名の先生がいた●ぼくと一番仲のよかった友だちがいた研究室の先生だったけど●とっても高い声で●キキ●キキ●って鳴く●白木みのるに似た先生だった●ある日●その先生の助手が●こちらはものすっごく顔の大きなフランケンシュタインって感じね●学生実験の準備で●何か不手際をしたらしくって●その先生に●ものすごいケンマクでしかられてたんだって●「キキ●キミ●その出来そこないの頭を●壁にぶち当てて●反省しなさい」●って言われて●で●その助手もヘンな人で●言われたとおりに●その出来そこないの頭を●ゴツン●ゴツン●って●何度も壁にぶちあてて●「ボボ●ボク●反省します●反省します」●って言ってたんだって●友だちにそう聞いて●理系の人間って●ほんとにイビツなんだなって●思った●プフッ●田中さんといると●いつも軽い頭痛がする●と言われたことがある●ウの目●タカの目●方法序説のように長々とした前戯●サラダバー食べすぎてゲロゲロ●言葉●言葉は●自我とわたしを結ぶ媒体のひとつであるが●言葉が媒体であるということは●言葉自体が●自我でもなく●わたしでもないからである●が●しかし●もし●媒体というものがなければ●言葉は自我であると同時にわたしである●ということになる●のであろうか●理解を超えるものはない●いつも理解が及ばないだけだ●お母さんを吐き出す●お父さんを吐き出す●うっと●とつぜんえずく●内臓を吐き出して●太陽の光にあてる●そうやって浜辺で寝そべっているぼく●の●イメージ●たくさんの窓●たくさんの窓にぶら下がる●たくさんのぼく●の●抜け殻●ぼく●の●姿をしたさなぎ●紺のスーツ姿で●ぼうっと突っ立っているぼく●ぼくのさなぎの背中が割れる●スーツ姿のぼくが●ぼくのスーツ姿のさなぎから●ぬーっと出てくる●死んだまま●つぎつぎと●アドルニーエン●アドルノする●難解にするという意味のドイツ語●だという●調べてないけど●橋本くんに教えてもらった●2002年2月20日のメモは●愛撫とは繰り返すことだ●アドルニーエン●アドルノする●難解にするという意味のドイツ語●だという●調べてないけど●橋本くんに教えてもらった!


歌仙『悪の華』の巻

  田中宏輔




連衆  林 和清
    田中宏輔



FAX興行  自 1992年5月12日
       至      5月24日





○初表

発句   発心は月砕けちる夢のうち   和 「旅へのいざなひ」の定座

脇    F君には、いろんなものが憑依する。  宏
     この間なんか、電気鉛筆削り器が取
     り憑いちゃって、右の指をガリガリ
     齧り出しちゃったんだ。ぼくがコン
     セント抜いてやるまでやめなかった
     よ。次には、何が憑依するんだろう。

三句   電磁場のささなみわたる寒水魚   和 

四句   「牛魔王」というニックネームの女   宏 「巨女」の定座
     の子がいた。高校三年の時のクラス
     メイトだ。弓月光の『エリート狂走
     曲』に出てくる「大前田由紀」そっ
     くりの超超超ドブスだった。本人の
     前では、だれも口にしなかったけど。

五句   牛の首どさりと天地花吹雪   和

折端   ぼくがキリストに興味があるって言   宏
     ったら、友だちがビデオで『奇跡の
     丘』を見せてくれた。パゾリーニの
     映画は初めてだった。画面に映った
     監督の名前をみて驚いた。イニシャ
     ルを逆さまにするとい666になる。

●発裏

折立   夏荒野(あらの)身ぐるみの次なにを剥ぐ   和 「賭博」の定座     

二句   「先生、美顔パンツってご存じです   宏
     か」とA君が真顔で訊いてきた。教   
     師が首を振ると、「ぼく、包茎なん
     です」とA君は続けた。教師はさも
     自分が包茎ではないような顔をして
     話を聞いていた。ごめんね、A君。

三句   重陽の重なりあやし賀茂(かも)社(やしろ)   和

四句   円山公園の市営駐車場入り口近くに   宏 「幽霊」の定座
     公衆便所がある。昔、そこで男の人
     が首を吊ったという話を聞いたこと
     がある。生前によほどウンがなかっ
     たからか、死ぬ前に、ただウンコが
     したかっただけなのか知らないけど。

五句   鳥辺野に来てただ坐る雪の昼   和

六句   ビートルズのアルバムはどれも好き   宏
     だ。とくに後期の作品なんか、毎日
     のようにかけてる。なかでも、よく
     聴くのは『ホワイト・アルバム』だ。
     "Cry Baby Cry"にタイミングを合わ
     せて、キッスしたりすることもある。

七句   唾液かわくにほひや杉の花しきり   和 「異なにほひ」の定座

八句   教科書に載ってる顔写真てさ、落書   宏
     きしてくださいって言ってるような
     もんだよね。「鶏頭」の俳人、正岡
     子規って「タコ」にする人が多いけ
     ど、あれは横顔だからで、正面の写
     真だと、「ヒラメ」にすると思うな。

九句   ほととぎす聞かぬ詩人も一(ひと)生(よ)なれ   和

十句   『そして誰もいなくなった』を久し   宏 「救ひがたいもの」の定座
     振りに読んでたら、吉岡実の「僧侶」
     が、そのなかに出てくる童謡に似て
     るような気がして、林に電話で言っ
     たら、「それはクリスティじゃなく
     て、マザーグースが元だね」だって。

十一句   赤子老いてそのまま秋の麒麟草   和

十二句   弟がまだ幼稚園の時、いっしょに遊   宏
      んでたら、瞼の上に傷させちゃって、
      ぼくにも同じところに、同じような
      傷があるから、さすがに兄弟だと思
      ってたら、テレビに映った俳優の顔
      にもあって、なんか変な感じがした。

折端    雪霰霜霙みな信天翁   和 「信天翁」の定座

○名残表

折立   ハインラインなんて好きじゃないけ   宏
     ど、『夏への扉』は文句なしに素晴
     らしい作品だ。コールド・スリープ
     とタイム・マシーンが出てくる恋愛
     物語だ。ぼくにとっては、やり直し
     のきく人生なんて、地獄的だけどね。

二句   生前に春ありて水の底あゆむ   和

三句   オフィーリアや、ハンス・ギーベン   宏 「寓意」定座
     ラートは、ビタミンCのとり過ぎで
     頭がおかしくなって入水したらしい。
     亡霊の姿となったいまでも、「ビビ、
     ビッ、ビタミン!」と言って、水藻
     や水草をむさぼり喰ってるって話だ。

四句   桃の実のうちなる歓喜湧きて湧きて   和

五句   『走れメロス』に出てくる、あの王   宏
     様ってさ、自分の息子や妹なんかを
     殺しといて、後でメロスたちの友情
     見て、改心しちゃうんだよね。でも
     さ、そんなに安易に改心されちゃあ
     さ、殺された方はたまんないよねえ。

六句   人体のひとところにつねに秋のあり   和 「憂鬱」の定座 

七句   また、今日もぶら下がってた。吊革   宏
     を握った手首が。どこから乗ってき
     たのか、どこで降りるのか、知らな
     いけど、だれも何も言わないから、
     ぼくも何も訊かない。そいつは吊革
     といっしょに、ぶらぶらと揺れてた。

八句   鳥葬のみな黙しをる雪催ひ   和

九句   電話があった。死んだ母からだ。も   宏 「理想」の定座
     う電話はかけないでよねって言って
     おいたのに。いまのお母さんに悪い
     からって言っておいたのに。わかん
     ないんだろうか。自分の息子を悩ま
     せるなんて、ペケ。ペケペケペケ。

十句   摩耶マリア夜桜は地に垂れてけり   和

十一句  小学生の時のことだけど、学校でい   宏
     じめられたりすると、蝉なんかを捕
     まえてきて、翅や脚を切り刻んだり
     腹部や肛門を火で炙ったりして、そ
     の苦しむ姿を見て、自分を慰めてた。
     仔犬の首を吊ったりしたこともある。

十二句  夏草の根はからみあふ墓の下   和 「墓」の定座

折端   脚の骨を折り、二年ほど寝たきりで   宏
     祖母は過ごした。祖母の火葬骨には
     黒い骨が混じっていた。生前に患っ
     ていたところが黒い骨になるという。
     ぼくの死んだ妹は精薄だった。家の
     なかで迷子になったまま帰らない。

●名残裏

折立   転生のこゑひびき来る夕紅葉   和

二句   十年ほども前、飼ってた兎が逃げた   宏 「腐肉」の定座
     ことがある。兎は鳴かないので、い
     くら探しても見つけることができな
     かった。何日かして、普段使ってい
     ない部屋に入ると、死んでいた。死
     骸が腐りはじめた甘い匂いがしてた。

三句   汁の実に冬の木霊をあつめけり   和

四句   ローソンで買い物をしていたら、カ   宏
     パポコカパポコという異様な音がし
     たので振り返った。舞妓さんがあの
     格好のまま入ってきたのだ。異様な
     雰囲気を漂わせながら、舞妓さんは
     ひたすらオニギリQを選んでいた。

五句   われの中にをんな住みゐて花ざかり   和 「呪はれた女達」の定座

挙句   生涯、仕事をしなかった父は、情婦   宏
      のところにいる時以外は、骨を題材
     にして、アトリエでグロテスクな絵
     ばかり描いていた。ぼくは、父の書
     斎で、『血と薔薇』を盗み読みした。
     『陽の埋葬』は、父への挽歌である。


TUMBLING DICE。

  田中宏輔




●本来ならば●シェイクスピアがいるべきところに●地球座の舞台の上に●立方体の海を配置する●その立方体の一辺の長さは●五十センチメートルとする●この海は●どの面も●大気に触れることがなく●どの面も●波が岸辺に打ち寄せることのないものとする●もしも●大気に触れる面があったとしても●波が打ち寄せる岸辺があったとしても●立方体のどの面からも●どの辺からも●どの頂点からも●音が漏れ出ることはない構造をしている●海は●いっさい●音を観客たちに聞かせることはない●空中に浮かんだ立方体の海が●舞台の上で耀いている灯明の光を●きらきらと反射しながら回転している●回転する方向をつぎつぎに変えながら●他の俳優たちも●シェイクスピアと同じように●立方体の海に置き換えてみる●観客たちも●みな同じように●立方体の海に置き換えていく●劇場は静止させたまま●すべての俳優と観客たちを●立方体の海に置き換えて回転させる●その光景を眺めているのは●ぼくひとりで●ぼくの頭のなかの劇場だ●しかしまた●その光景を眺めているぼく自身を●立方体の海に置き換えてみる●ぼくは●打ちつけていたキーボードから離れて●部屋のなかでくるくると回転する●頭を振りながらくるくると回転する●息をついて●ペタンと床に坐り込む●キーボードが勝手に動作する●文字が画面に現われる●海のかわりに●地面や空の立方体が舞台の上で回転する●立方体に刳り抜かれた空●立方体に刳り抜かれた地面●立方体に刳り抜かれた川●立方体に刳り抜かれた海●立方体に刳り抜かれた風●立方体に刳り抜かれた光●立方体に刳り抜かれた闇●立方体に刳り抜かれた円●立方体に刳り抜かれた昨日●立方体に刳り抜かれた憂鬱●立方体に刳り抜かれたシェイクスピア●あらゆることに意味があると●あなたは思っていまいまいませんか●人間は●ひとりひとり自分の好みの地獄のなかに住んでいる●そうかなあ●そうなんかなあ●わからへん●でも●そんな気もするなあ●きょうの昼間の記憶が●そんなことを言いながら●驚くほどなめらかな手つきで●ぼくのことを分解したり組み立てたりしている●ほんのちょっとしたこと●ほんのささいなことが●すべてのはじまりであったことに突然気づく●きのうの夜と●おとついの夜が●知っていることをあらいざらい話すように脅迫し合う●愛ではないものからつくられた愛●それとも●それは愛があらかじめ違うものに擬装していたものであったのか●いずれにしても●愛が二度と自分の前に訪れることがないと思われることには●なにかこころ穏やかにさせるところがある●びっくりした●またわたしは●わたし自身に話しかけていた●吉田くんだと思って話してたら●スラトミンっていう栄養ドリンクのラベルの裏の説明文だった●人工涙液マイティアも●ぷつぷつ言っていた●音が動力になる機械が発明された●もし●出演者のみんなが黙ってしまっても●ぼくが話しつづけたら●テレビが見つづけられる●どうして●ぼくは恋をしたがったんだろう●その必要がないときにでも●一度失えば十分じゃないか●とりわけ●恋なんて●電車に乗っていると●隣の席にいた高校生ぐらいの男の子が英語の書き換え問題をしていた●I’m sure she is Keiko’s sister.=She must be Keiko’s sister.●これを見て●ふと思った●どのように客観的な記述を試みても●書き手の主観を拭い去ることはできないのではないか●と●死の味が味わえる装置が開発された●人間だけではなく●動物のも●植物のも●鉱物のも●なぜなら●もともと●人間が●他の動物や植物や鉱物であったからである●では●水は●もっとも必要とされるものが●もっともありふれたものであるのは●なぜか●水●空気●地面●重力●人間は砂によって移動する●人間は砂のなかをゆっくりと移動する●人間は直立したままで●砂に身をまかせれば●砂が好きなところに運んでくれる●砂で埋もれた街の道路●二階の部屋にも●五階の部屋にも行ける●砂で埋もれた都会の街●しかし●砂以外の街もある●といって●チョコレートや納豆やミートボールなんて食べ物は陳腐だし●ミミズや蟻や蟹なんて生き物もありふれてるし●汚れた靴下や錆びついた扇風機やどこのものかわからない鍵束なんてものも平凡だけどね●瞬間成型プラスティック・キッズ●火をつければすぐに燃え尽きてしまうし●腕や首を引っ張ればすぐにもげてしまうけど●見た目は●生身のキッズといっしょ●まったくいっしょ●笑●ニーチェは●自分の魂を●自ら創り出した深淵のなかに幽閉する前に●道行くひとに●よくこう訊ねたという●わたしが神であることを知っているか●と●ぼくは●このエピソードを思い出すたびに涙する●たとえ●それが●そのときのぼくにできる最善のことではなかったとしても●それがぼくにできる最善のことだ●と●そのときのぼくには思われたのであった●父親をおぶって階段を上る●わざと足を滑らせる●むかし●父親がぼくにしたことに対して仕返ししただけだけど●笑●博物館に新参者がやってきた●古株たちが●あれは贋物だと言って●いじめるように●みんなにけしかける●ところで●みんなは●古株たちも贋物だということを知っている●もちろん●自分たちも贋物だっていうことも●階段を引きずって下りていくのは●父ではない●母でもない●自分の死体でもない●読んできた書物たちでもない●と●踊り場に坐り込んで考える●隣に置いたものから目をそらせて●発掘されて掘り出されるのはごめんだな●親は子供の死ぬことを願った●子供は死んだ●子供は親が死ぬことを願った●親は死んだ●どちらの願いも簡単に実現する●毎日●繰り返し●恋人が吊革だったらうれしい●もちろん●自分も吊革で●隣に並んで●ぶらぶらするって楽しそうだから●でも●首を吊られて●ぶらぶらする恋人同士っていうのもいいな●会話のなかで●ぜんぜん関係もないのに●むかし見た映画のワン・シーンや音楽が思い出されることがある●いや●違うな●ぼくが思い出したというより●それらが●ぼくのことを思い出したんだ●賀茂川●高野川●鴨川の●別々の河川敷に同時に立っているぼく●年齢の異なる複数のぼく●川面に川原の景色が映っているというのは●きみの姿がぼくの瞳に映っているとき●ぼくがきみの姿を見つめているのと同様に●川も川のそばの景色や空を見つめているのだ●雨の日には●軒先のくぼみに溜まった汚れた水が見つめているのだ●雨の日の軒下にぶら下がった電灯の光を●汚れた水が見上げているのだ●憧れのまなざしで●動物のまねばかりする子供たち●じつは●人間はとうの昔に滅んだので●神さまか宇宙人が●生き残った動物たちを人間に作り変えていたのだ●じゃあ●やっぱり●ぼくが海のことを思い出してるんじゃなくて●海がぼくのことを思い出してるってことだ●呼吸をするために●喫茶店の外に出る●喫茶店のなかは●水びたしだったから●店の外の道路は●市松模様に舗装されている●四角く切り取られた空●四角く切り取られた地面●四角く切り取られた川●四角く切り取られた海●四角く切り取られた風●四角く切り取られた光●四角く切り取られた闇●四角く切り取られた円●四角く切り取られた昨日●四角く切り取られた憂鬱●四角く切り取られたシェイクスピア●見ていると●それらは●数字並べのプラスティックのおもちゃのように●つぎつぎと場所を替えていく●シュコシュコ●シュコシュコ●っと●シュコシュコ●シュコシュコ●っと●なんだミン?


I FEEL FOR YOU。

  田中宏輔







きのう、友だちと水死体について話していたのだけれど、水死はかなり苦しいから、水死はしたくないなと言ったの
だけれど、ヴァージニア・ウルフは入水自殺だった。ジョン・べリマンも入水自殺だった。パウル・ツェランも入水
自殺だった。ぼくは入水自殺はしたくないな。





水死体について、というのは、死体の状態について、ということ。ぼくは、鴨川の上流の賀茂川に、牛のふくれあが
った死体が、台風のつぎの日に流れて、というか、浮かんでいるのを目にしたことがあるって言ったら、友だちが、
人間の水死体もばんばんに膨れ上がってるで、というのだった。





むかし、外国の台風のつぎの日に、船がひっくり返って、カラフルなTシャツを着た乗客の死体がたくさん海に浮か
んでいるのを見て、ホイックニーの絵のようだと思ったことがあると言うと、友だちが、それ、背中からしか見てへ
んからや、と言った。たしかに、背中が海面の上に





ちょこっと浮いてて、カラフルなTシャツを着たたくさんの水死体がプカプカと浮いていた。台風のつぎの日の晴れ
の日。海はひたすら青くて、波は陽の光にキラキラと輝いていた。きれいだと思った。まえに見た水難事故での死体
の数を数えるようなことはしなかったけれど。とてもきれいだと思った。





パンは人のためのみにて存在するにあらず。





機会に弱い。





うわ〜、ひとさまを幸せにしてたんですね。 @taaaako_1124 ずっとチャック全開やった…





幼稚園のときは、男の子同士でも平気で手をつないでた。





感情殺戮ペットを買ってきた。さっそく檻に入れて、ぼくの感情を餌にやった。すると、そいつは、ぼくの感情に咬
みつき、引き裂き、バラバラにして食い始めた。いろいろな感情を餌にやったけれど、いちばんのごちそうは、ぼく
の妬み嫉みの感情だった。





意図電話。





きのう映画を見に行った。はじめぜんぜんおもしろくなかったけれど、ところどころで何人かの観客の笑い声が聞こ
えた。死刑囚が最後の食事を拒むところで何人もの観客の笑い声が聞こえたので、おもしろく思える薬品ワラケルワ
ンを注射した。すると、まったくおもしろくない死刑囚の足だけがぶら下がってるシーンで、ぼくもゲラゲラ声を上
げて笑い出した。





感情分裂。1つの感情が2つの感情に分裂する。2つの感情が4つの感情に分裂する。4つの感情が8つの感情に瞬
時に分裂する。1つの感情が2の10乗の1024個の感情に分裂するのに1秒もかからないのだ。きみは、ぼくに
感情がないってよく言うけど、じつはありすぎて、ない





ように見えるだけなんだよ。いっぺんに1024個の感情を表情に表してるんだからね。きみに、その1024個の
感情を読み取れるわけがないよ。(そして、感情同士が打ち消し合うってことも、ないんだからね。うれしさと悲しみ
が打ち消し合ってゼロの感情にはならないんだよ。)





感情濃縮ソフトを買ってきた。さいきん感情が希薄になってきたような気がしていたから。喜怒哀楽をほとんど感じ
なくて、そろそろ感情を濃くしなきゃと思って。まず感情抽出してそれを感情濃縮ソフトを使って濃縮していった。
画面のうえで、ぼくの感情の濃度が濃くなっていった。





形のあるものは崩れる。というか、形成力と非形成力がせめぎ合うことがおもしろい。命のあるものが命を失うこと
がおもしろい。命のないものが命を得ることがおもしろい。しかし、命のあるものが命を失うことが必然であるよう
に、形のあるものが形をなくすことも、必然ではないの





だろうか。短歌や俳句は、いったいいつまで、あの形を保てるのだろうか。形を残して命を失うことがある。命を失
うことなく、形を維持することは可能なのであろうか。もしも、可能であるのならば、何がその形に命を保たせてい
るのであろうか。たいへん興味深い。20年ほどむかし





のことだけれど、ぼくが下鴨に住んでいたとき、共産党の機関紙に1年半か2年ほど詩を連載していたのだけれど、
その当時、左京区の下鴨で、共産党の方々や、その奥様たちが参加なさってた俳句の会に行かせていただいていたの
だけれど、ぼくのつくる5・7・5の音節数でつくった





俳句は、ことごとく、俳句ではないと言われた。俳句は形だと思っていたぼくはびっくりした。いまでも、その驚き
は変わらない。いまだに、なぜ、ぼくのものが俳句でないのか、わからないのだ。たとえば、こんなやつ。「蟻の顔 蟻
と出合って迷つてゐる」俳句じゃないのかな?





きのう、めっちゃお酒飲んで、すっごいヨッパだったのに、モウ・バウスターンさんの英詩の翻訳のまずいところが
4カ所思い出されて直した。訳語がまずいなと思っていたところを、無意識のぼくが直したって感じ。ぼくの無意識
は、ぼくの意識よりも賢いのかもしれない。ありゃりゃあ。





でたらめにつくった式で、きれいな角度(笑)が出てきたので、自分でもびっくりした。きのうときょうは、思い切
り無意識領域の自我が働いてるのかもしれない。





ない席を求めよ。





いろいろな人に似ているひと。





たいへんに興味深いです。 @fortunate_whale 電車で帰宅途中なう。隣にチューバッカみたいなもじゃもじゃが座っ
て、毛が痛いのですがどうやって回避するべきか。





いろいろな髪形のひとに魅かれます。むかし付き合ってた青年が短髪のおデブさんだったのですが、10年後に会っ
たら、ソバージュのおデブさんになっていたので、びっくりしつつも、ああ、かわいいなと思ったことがあります。
髪形で顔の印象ぜんぜん違いますけれど。 @fortunate_whale





コーちゃん、ジュンちゃんのことだよ、笑。





それでP・D・ジェイムズや、ヴァージニア・ウルフなどのイギリス人の女性作家の情景描写がすごいことが納得で
きました。 @fortunate_whale 女の人は男より子どもの異変に気付くために視覚細胞が男の人より多かったり、嗅覚
が優れているんす。だから逆に、細かいことうだうだ言うのです。





襲われませんように! @taaaako_1124 いまからノンケをつれてニチョへ。





ぼくの書く詩は、ほとんど血と骨と肉だけでできたものだと思うのだけれど、多くの詩人の詩は、やたらと服を着飾
って、帽子をいくつも被ってるものだから、顔だけじゃなくて、手の甲さえもチラとも見えない。LGBTIQの詩
人たちの英詩は、そんなことなくて、とってもなナチュラル。





靴下のようなひと。一日じゅう履いてた。





ブサイクなぼくが、ブサイクじゃないと言う権利があるように、カッコいいひとが、カッコよくないと言う権利があ
るのかどうか。一日がエンジョイしている。エンジョイが一日していると言ってもよい。そろそろスープはコールド
にしてほしい。その皿のなかの景色。景色のなかの皿。





ぼくはむかし、吸血鬼になりたいと思った。夜ずっと遊んでいられるから。ぼくはむかし、クレオパトラになりたい
と思った。絨毯にまかれて、ぱっとほられて、くるくる転げまわりたかったから。さんざんな夏だった。恋人からは
平手打ち。あまりの表情の変わりように、おしっこ、ちびってしまった。





いま日知庵から帰った。ヨッパである。詩は悲しい楽しみであり、楽しい悲しみである。人生もまた、悲しい楽しみ
であり、楽しい悲しみである。人間もまた悲しい楽しみであり、楽しい悲しみである。えいちゃんに、アムロ・ナミ
エという名前の歌手のCDを渡された。





この歌、ええねん。といって、「GET MYSELF BACK AGAIN」という曲の歌詞を読ませられる。ひさしぶりに涙が落ちた。
人間はときどき泣かなあかんなあと思ってたけど、じっさい泣いたらなんか負けたような気がする。なにに負けるの
か、ようわからんけど。





きのうは、つくづく、人間であることは、悲しい楽しみであり、楽しい悲しみであると思った。





詩においては、形もまた言葉なのである。余白が言葉であるように。





詩は、悲しい楽しみであり、楽しい悲しみである。生きていることが悲しい楽しみであり、楽しい悲しみであるよう
に。人間自体が悲しい楽しみであり、楽しい悲しみであるように。





「ほんとうの嘘つきは隠さない。」 これは、えいちゃんの同級生の山口くんの言葉だったかな。言えてるかもにょ。





大岡 信さんに、91年度のユリイカの新人に選んでいただいたのですが、東京でお会いしたときに、「そろそろ天才
があらわれる頃だと思っていました。わたしが選者でなかったら、あなたの詩は選ばれることはなかったでしょう。」
と言われました。





「あなたの言葉はやさしいけれど、内容がむずかしい。」とも言われましたが、ぼくが、第二詩集の詩集『The Wasteless
Land.』をお送りしたら、絶縁状みたいな葉書きが送られてきて、全否定されました。それ以来、詩集をお送りしても
ご返信はありません。





こういう何気ないひと言が、詩への架橋なのです。このひと言、ぼくの詩に使っていいですか? @taaaako_1124 最
近、カシューナッツばかり食べてる。





そいえば、前彼とはじめて出会ったとき、ふたりともハーフ・パンツだった。バイクを降りて、手を振って笑ってた。
もう10年近くもまえの光景だけど。そのときいっしょに入ったサテンも、もうなくなってる。





ウィンナーの缶詰を子どものときによく食べた。51才のぼくの子どものときのことだから、40年ほどまえのこと
だろうか。パパが好きだったのだ。塩味のウィンナーで、子どもの人差し指、いまのぼくの指だったら小指ほどの大
きさだろうか。両端が剥き出しで、薄い皮がタバコの





巻紙のように、その子どもの人差し指のようなウィンナーを包んでいたのだった。いくつくらい入っていたのだろう
か。せいぜい10個ほどだと思うのだが、そのウィンナーを食事のときに食べた記憶はない。ぼくの家では、他人も
食卓につくことがあったので、食事の用意はお手伝いの





おばさんとママの2人でやっていたはずで、そんなものが出てくるわけがなかった。しかし、そのウィンナーの味は
おぼえているし、パパが好きだったこともおぼえているのだった。しかし、記憶の欠落について思いを馳せても仕方
がないし、そもそも書こうとしていたことと、そのウィ





ンナーの味や、いつ食べたのかとかいったこととは関係がなかったのだから。書きたかったのは、そのウィンナーの
缶詰の開け方なのだった。トライアングルのような形をした、指を押しあてるところと、その柄の先に、缶詰の側面
上方にDの形に出たところをひっかけて回さす細い穴が





ついていて、それを缶詰の側面の形に合わせて、くるくると巻き取ると、缶詰のふたが開くのであった。さいごに残
った5ミリほどのところで、缶詰の上部をパカッと裏返して開けるのだった。黒板に数式を書いていた教師の身体が
突然とまった。生徒たちの指もとまった。教師は静かに





椅子に腰を下ろした。教師が側頭部のDにオープナーの端をひっかけると、くりくりと頭の形に合わせてオープナー
に頭皮と頭蓋骨の一部を巻きつけていった。生徒たちも全員、教師と同じようにオープナーを使って頭皮と頭蓋骨の
一部をオープナーに巻きつけて





いった。パカッという音をさせて、頭頂部を切り離すと、教師はそれを教卓の上に置いた。生徒たちも、それぞれ、
自分たちの机の上に、自分たちの頭頂部を外しておいていった。ゲコ。ゲコゲコ。ゲコ。ゲコゲコ。生徒たちの頭の
池のなかで、蛙たちが鳴きはじめる。ゲコ。ゲコゲコ。ピョンっと





飛び跳ねて、生徒の頭の池と池のあいだを飛び移る蛙たち。ゲコ。ゲコゲコ。ゲコ。ゲコゲコ。あのウィンナーをい
つ食べたのかは思い出せないのだけれど、教室じゅうで、蛙たちが飛び跳ねて鳴いていたのはおぼえている。教師が
自分の頭頂部をはめ直すと、生徒たちも自分たちの頭頂部をはめ直して





いった。遅刻してきた生徒が教室の扉をあけると、一匹の蛙がゲコゲコ鳴きながら教室の外に出ていった。遅刻して
きた生徒が、遅刻してきた理由を教師に告げて、自分の席に坐った。隣の席の男の子の頭の池を覗くと、そこには、
いるはずのその男の子はいなくて、濁った池の水がある





だけだった。チャイムが鳴っても、その男の子の頭の池には、その男の子は戻らなかった。それから何年もして、ぼ
くが高校生くらいのときに、賀茂川の河川敷で恋人と散歩してたら、蛙がゲコゲコ鳴きながら目のまえを横切って、
川のなかに、ボチャンッと音を立てて跳び込んだ。風のなかに、





川のにおいと混じって、あの缶詰のウィンナーのにおいがしたような気がした。恋人は、ぼくの顔を見て微笑んだ。
「どしたの?」ぼくは首を振った。「べつに。」ぼくは恋人の手をはなして、両腕をかかげて背伸びした。「帰ろう。」
と言って、ぼくは恋人の手をとって歩いた。





バス停で別れるとき、ぼくはすこし気恥ずかしい思いをしながら、恋人がタラップを駆け上がるのを見ていた。なぜ、
ちょっとしたことでも照れくさく思うのだろう。ちょっとしたことだからだろうか。





「ちょっと、すいません。堀川病院へは、どう行ったらいいですか?」ハーフパンツ姿の青年に声をかけられた。堀
川五条のブックオフから出てきたばかりのぼくは、さいしょ何を訊かれたのかよくわからなかった。青年は、さま〜
ずの三村のような感じだった。ぼくが目を





大きくあけると、青年は、自分の携帯の画面をぼくに見せながら、つぎつぎとメールを見せていった。3つ目か4つ
目のメールを見て、ぼくにも事情が呑み込めた。「堀川病院の角で待ち合わせをしてるんです。」たしかに、危険なゲ
ームを楽しむ年齢だと思いはしたが、一方、そんな





ことをせずとも、そこそこの女性なら簡単に手に入る容貌をしているのに、などと思ったのだった。その話を日知庵
で、えいちゃんに言った。「なんで、あっちゃんに声かけたんやろか?」、「さあ、おっさんやから、恥ずかしくないと
思たんちゃうかな。」





電車の窓の外の景色に目を走らせた。近くは素早く動くのに、遠くはゆっくりとしか動かないのだと思った。理由は
わからなかったけれど、いまぼくが乗っている電車がいちばん速く動いていて、この電車からもっとも遠いところは
とまっているのだと思った。





これからお風呂に。それから塾。帰りは日知庵に。富士山に行かれる方たちを見送りに。雨が降りそうだ。えんえん
と、ノーナ・リーブズの『CHOICE』を流している。ときどき蛙のようにゲコゲコ鳴いて飛び跳ねてやろうかと、ふと
考えたけど、体重が重いから、すぐに膝を傷めるやろうね、笑。





ありがとう。楽しんでもらえて、うれしい。 @youquigo 田中宏輔さんの詩集評、おもしろい。一冊の詩集を、一ヶ月
の日付入りで、読み手の生活や感覚の起伏そのまま日記みたいに詩を読んでゆく書き方が新鮮。骨おりダンスっvol.
9 http://t.co/r77KLdyW





友だちが気落ちしてるらしい。いつでも話を聞くからねとメッセージしておいた。そだ。友だちの役に立たないと、
友だちじゃないよね。気落ちしてるなら、いくらでも、ぼくを使ってほしいと思う。こんどの日曜日、ぼくは好きな
子になにがしてあげられるんだろう。





1個の粘土と1個の粘土を合わせて1個の粘土にして見せたら、小さな子どもの目には、1+1=1 に見えるかなと
思います。1+1=3 は、いますぐ思いつかないけど、化学反応であると思います。2つの物質が3つの物質になる
ことも、そう珍しい化学反応ではないと思います。





引用詩をつくるときにも、感覚的なよろこびと、知的なよろこびがあった。単純に分類すると、個別的な経験の把握
と、統合的な知の再編成である。英詩翻訳においても、この両方のことが、ぼくの身に起こる。とりわけ、英詩翻訳
は、ぼくの知らない単語や熟語や構文があるせいで、ぼくに新しい知がもたらされるのであるが、





さらに彼らが詩句において知と格闘した跡をきっちりと追うことによって、それまでの知識との統合といった現象が
起こるのだけれど、同時に、ぼくとは違う体験と言語経験を経てきた詩人たちの感覚の痕跡を追うことによって、ぼ
くが、ぼくの知らなかった新しい感覚を感じとれたりすることもあるのである。





とりわけ、訳するのが困難であったものが、ある瞬間に、すべての光景を同時に眺めわたすことができるような感覚
を得られたときには、感覚的にも、また知的にも、十分な満足感を与えられるものである。こんかい訳したものが、
その典型であろうか。つぎの『Oracle』では、これが3つ目の





英詩翻訳になるわけだが、3つともぜんぜん違う感じのもので、ぼくの翻訳の文体もまったく違うものであり、つぎ
の締めきりまで、まだ3週間あるので、まだまだ翻訳するだろうけれど、すでに、これら3つの英詩の翻訳だけでも
十分にひと月分の文学的営為に値すると思われる。





BGMは、ビリー・ジョエルの「イタリアン・レストランにて」。ノブユキとの思い出の曲だ。つまらないことでも笑
っていた。べつに、なにがあったってわけでもないのに、いっしょにいるだけで楽しかった。そのつまらないことの
輝きを、そのつまらないことの輝きの意味をいま





のぼくは、とても大切な思い出として見ている。たぶん、どのひとの人生も、そんな輝きでいっぱいだ。そんな輝き
の意味でいっぱいだ。英詩翻訳で、それがとてもよくわかる。他者の経験と思索を通して、つまらないことの輝きの
意味が。つまらないことの意味の輝きが。





いま日知庵から帰ってきた。満席に近くって、半分は外国のひとたちだった。きょう、持ってた英詩を読んでもらっ
たら、わからないと言われた。英語に堪能な外国の方にわからないものを、ぼくが翻訳するっていうのは無理がある
なあと思いつつ、おもしろいと思った。絶対やる。





このあいだ、元彼としゃべっていて、いま好きな子がいるんだけどと言ったら、「短髪?」と訊くから「ちがうけど。」
と言うと、「短髪でないと、いけへんわ。」と言われ、「それは、きみ。ぼくは、髪型やなくて、顔と雰囲気なんやから。」
と言った。フェチな元彼やった。





電話をかける方も、電話を受ける方も、両方とも同じ音だったりして。@moririnmonson 昨日ホテル泊まった時に初め
て知ったんだけど、有線に「アリバイ」っチャンネルがあって、車の騒音とかがずっと流れてるの。部屋にいながら
「今、外です。」って言えるのね。





いま、元彼の日記見たら、「蝉が、怖いです(^-^)/昔はさわれたのに 一週間の命だから楽しく泣きやがれ(^-^)/ 悲し
く鳴くから涙やで」と書いてあって、こんな言葉を書く感性があったんやと思って、しばし、感慨にふける。恋は麻
薬って言うけれど……。





人生って、ほんとうは眼鏡など必要ないのに、つねに度の違う眼鏡をかけさせられてるって感じでしょうか。
@kayabonbon 人生は近くで見たら悲劇、遠くから見たら喜劇、だっけ?





ぼくの全行引用詩は、フロベールの完成されなかった『ブヴァールとペキュシェ』の終わりが、延々と引用が書き並
べられていくはずだったという記述を、文学全集の解説で読んだことがきっかけでした。じゃあ、ぼくがやろう、と。
@ana_ta_des フロベール論を単行本で読める筋肉を鍛えるための夏…!





そういえば、「田中宏輔の詩集評3」をほっぽらかしてた。倉田良成さんの本だったが、たしか、序詩について、ワー
ズワースとの連関性を感じて、ワーズワースの詩の引用からはじめたのだったが、そのあとに芭蕉の句を2つ引用し
てつづけることにする。





「命二つの中に生きたる桜かな」と「さまざまの事おもひ出す桜かな」の二句である。パースペクティヴがぜんぜん
違っていて、まったく異なるフェイズの観想を持たされたのだが、この二つの句が示唆するアスペクトで、文学表現
のほとんどが書き尽くされるような気がしたのだ。





ここで、与謝野晶子の「わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ」を、この芭蕉の「命二つの中に
生きたる桜かな」と「さまざまの事おもひ出す桜かな」の二句に結びつけることは、それほど難しいことではないで
あろう。与謝野晶子の歌のあとごととして、芭蕉の二つの句を





みればよいのだ。そうみてやると、物語がはじまる。物語になる。というよりも、ことあるごとに、そうみてやると、
ひとやものとの関わりについてより観察の目を拡げられるような気がする。これらの与謝野晶子の一つの歌と芭蕉の
二つの句を、おぼえておくことにしよう。





ああ、もちろん、これらの一つの歌と二つの句とともに、エリス・ピーターズの『聖ペテロ祭の殺人』の第一日の2
にある「稲妻は気まぐれに落ちるもの、」(大出 健訳)という言葉もつけ加えておぼえておくことにしよう。エリス・
ピーターズの『聖ペテロ祭の殺人』の祭りのあとの





1には、「知恵は常に懐疑と共にある」(大出 健訳)といった言葉もあり、これもまた、ぼくがしじゅう考えているこ
とであるが、このことも、あらためて胸に刻みつけておくことにしよう。





クスリのんで、『クライム・マシン』のつづきを読んで寝る。きょうは、もと恋人にハグしたら、ハグやったら、いつ
でもええで、と言われて、キッスしようとしたら、キスはぜったいあかんで、と言われた。なんでやねん、と思いつ
つ、ハグやったらええんやな、と念を押しておいた。





ぼくが2年ほどまえここに書いたのは、ここのマンションのぼくの部屋がある階で、ガス自殺(未遂?)があって、
消防隊員たちが、ぼくのいる階の人間にドアを開けないで部屋に入ったまま出てこないでくれと言いにきたときに、
そのときのことをツイッターで書いたのだけれど、あれは「実況中継詩」かな。





20年ほどむかし、自販機に、コーヒー・スカッシュという名前の炭酸ソーダで割ったコーヒーが売ってありました。
飲んですぐに捨てました。 @yamadaryouta コーヒーが飲みたいという思いと炭酸が飲みたいという思いが相まってう
っかりエスプレッソーダを買いそうになるも思いとどまった。





道路に停まっている車がトランプのカードのようにめくれていく。





おじいさんも、猿も、自転車も、庭も、温泉につかっている。





きのう、ボルヘスの『汚辱の世界史』を読みながら寝た。きょうも、そのつづきを読みながら寝ようと思う。先週、
恋人に、ちょっとと言われて、なにって言ったら、ハサミかして、と言われて、ハサミを渡したら、襟元のちょこっ
と残ってた毛を切ってもらった。やさしいなあ。





あるとき、数学者のヤコービは、インタビューで、「あなたの成功の秘訣は何ですか?」と訊かれて、こう答えたと言
う。「すべてを逆にすること。」。





生命はその存在自体が転倒している。意識も倒錯的だ。ゲイであるぼくは、もう180度転倒して、いま一度倒錯的
だ。つまり、この無生物が主体の宇宙にあって、ぼくの生命をぼくで終わらせ、またたく間に星になるぼくは、スト
レートよりはるかにまっとうなのだ。違うかな?





「夢でびっくりすることがあるよね。自分で夢をつくってるのにね。」って言うと、シンちゃんが、「あんた、自分が
意識している範囲だけが自分やないんやで。」と言った。「すごい深いこと言うんやな。」って言うと、「だって、自分
の知らん自分がたくさんいるやろ。」との返事。





友だちの娘たち3人といっしょに食べたタコ焼きや焼きそば。何年も会ってなかったので、娘たちは、ぼくのことを
おぼえてなかった。でも、5歳の子(双子ちゃんの一人)は、すぐに甘えてくれて、「ダッコ」といって抱きついてく
れた。むかし書いた●詩を思い出した。





クスリがきょうの分で終わり。ちょっと強いのかな。追加された新しいクスリは強烈で、4年か5年ぶりに眠たくな
った。というか、しじゅう、眠気がする。しかし、眠気など二度と訪れることがないと思ってたので、同じ処方箋を
頼もうかなと思っている。悪夢も見るんだけど。





しかし、お金を払って悪夢のような映画を見るひともいるのだから、ぼくのように無料で悪夢を見るのは、お得なの
かもしれない。あ、無料じゃないか。でも、考えたこともない情景がでてくるのだ。夢をつくっているのは、潜在自
我のぼくなのだろうから、ぼくが知らないぼくのことを知れる機会でもある。





けっきょく、ぼくは詩人としては、だれにもおぼえてもらえないようなマイナーな詩人だと思うのだけれど、英詩の
翻訳家としては、いくらかのひとの記憶には残るように残る人生のすべての時間を費やすことにした。寿命が尽きる
まで、LGBTIQの詩人たちの英詩を翻訳していくつもり。





詩は音で、音楽であるべきものだと思っている。意味などどうでもよいとも思っている。音のなめらかさは情動を運
ぶもっともよい船である。音は映像を大きくする力があると、だれかの言葉にあった。音が情動を、また映像を、読
み手のこころの岸辺で引き上げさせるのである。





そうだ。えいちゃんに言われたんだけど、ぼくが訳してる詩って、まるで、あっちゃんが書いた詩みたいやなって。
まあ、口調が、ぼくの口調だしねって返事したけど、きょう選んだゲイの詩人の英詩って、ぼくも感じたことのある
こと書いてたもんね。かならず失うもの、若さ。





で、失うことから見えてくるものがあるってこと。これは、自分が若さのなかにいるときには、けっしてわからなか
ったことやね。愛するあまりに傷つくことに耐えられなくて、愛することをやめるということ。なんという弱さだろ
うね。その弱さがいまの自分をつくったにせよ。





湯になる。まっすぐな湯になる。長時間つかっていると、湯が、ときどき、ぼくになる。ふと気がつくと、ぼくが湯
になって、裸のぼくの身体を抱いていたりする。あ、違う、違う、と思うと、ぼくは、ぼくのなかで目がさめて、ぼ
くのほうが湯を抱いていることに思い至るのであった。





注射器を見つめていると、しゅるしゅると、ぼくが、注射器の円筒形のガラスの壁面に噴き上がってくるのが見える。
ぼくは、ぼくの狭い血管のなかから解放されて、より広い大きな注射器の円筒形のガラスのなかにひろがり展開する。
その喜びといったら、なににたとえられるだろう。





夢をみてまどろんでいたのに、よくその夢を忘れてしまう。まどろみから抜け出してすぐのことだというのに、どん
な夢をみていたのか、ぜんぜん思い出せないのだ。夢をみているときと起きているときとを合わせると、ぼくのすべ
ての時間になるのだろうか。夢をみているぼくと、起きているぼくとが同じぼくかどうかわからないけれど。





さっきまでうつらうつらしていた。うつらうつら夢を見ていた。ぼくは駅の構内を行き来する人たちの姿を真上から
眺めていた。ぼくはなんだったんだろう。人間が見る位置から見てはいなかったような気がする。夢では人間ではな
いものになることができるのだろうか。夢でなくても?





太い後悔というものがあるとしたら、細い後悔というものもあるだろう。後悔に形状があるということだ。あるいは、
形状を与えるということだ。後悔に粒子があるとしたら、それが凝縮して固体状態のものであるときに形状があると
いうことになる。液体状態の後悔には形状がないで





あろう。気体状態の後悔にも形状がないであろう。気体状態の後悔を状態変化させて、液体状態や固体状態にしてみ
る。ふつうの粒子と同じように状態変化することをたしかめる。後悔の凝固点と沸点を計測する。後悔が、ぼくの状
態変化を観察する。ぼくの凝固点と沸点を計測する。





後悔が、ぼくのことをじっくりと観察する。ぼくがしたこと、ぼくがしなかったことで、ぼくのポテンシャル・エネ
ルギーがどれだけ変化したかを計測する。後悔が、中休みするために、実験室を出て行く。ビーカーのなかで、徐々
に冷えて固まっていくぼく。いくつものビーカー。





ビーカーのなかで、徐々に冷えて固まっていく、いくつものぼく。後悔が、実験室に戻ってきた。ぼくのなかに差し
込まれた温度計の目盛りを見る後悔。ぼくの入っているビーカーの外側にある水の温度の目盛りを見る後悔。いくつ
ものビーカーのなかにある、異なるぼくのしたこと。





いくつものビーカーのなかにある、異なるぼくのしなかったこと。ぼくのしたことと、しなかったことの風景が、実
験器具のなかに展開される。実験室が、異なるぼくのしたことや、異なるぼくのしなかったことでいっぱいになる。





期待状態の後悔。





ちゃんこつながり。ちゃんこのようにつながること。ちゃんこ鍋つながり。ちゃんこ鍋のようにつながること。ちゃ
んこつながりと、ちゃんこ鍋つながりでは、その意味概念が異なるのだが、双方ともに、理論的には、無限の長さで
つながるはずである。限界がないのである。





アンチ汁。汁の反対。あるいは、汁に反対すること。汁は、よけいである。はしっこが切れない。昆虫の場合は、繁
殖率がすさまじい。けなげな汁もいるにはいるが、見逃してはいけない。汁にもふとホクロがあったりする。見分け
られるのだ。すべてのホクロは蒸発する機会を狙っている。





ぼくの脳は、実験マウスの切断された脳に侵されたい。さまざまな色に染められた小動物の実験体の切断された脳に
侵されたい。無数の切断された手と足と頭になりたい、ぼくの脳の風景。野菜とか樹木とか河川とか、ぼくの脳の風
景のなかにはなくて、ただ切断された手と足と頭でありたい。





いっしょに、いちゃいちゃすればいい。 @cap184946 三列シートなのに隣のカップルがイチャイチャしてるの。しに
たい





けっきょく、一睡もしていない。クスリも効かないくらい脳が覚醒していたのだろう。英詩翻訳の訳文の手直しで、
ちょこっといじっただけだけど、訳文がすっかりよくなったということからくる幸福感からだろうか。たぶん、そう
なのだろう。もしかしたら、ぼくは少し狂って





いるのかもしれない。まあ、すこし狂っているということは、まったく狂っていないということだけれども。





きみの天国がほしいと、ぼくは言う。きみは、ぼくの天国がほしいと言う。もしも、きみが、ぼくに、きみの天国を
くれたら、ぼくは、きみの天国を食べちゃうだろう。もしも、ぼくが、きみに、ぼくの天国をあげたら、きみは、ぼ
くの天国を食べちゃうだろう。ぼくの口は、きみの天国





を味わうだろう。ぼくの口が、きみの天国を食べると、きみの天国は痛がるだろうか。きみの口が、ぼくの天国を食
べると、ぼくの天国は痛がるだろうか。きみの天国は、ぼくをかじる。ぼくの天国は、きみをかじる。ぼくたちの天
国は、ぼくたちをかじる。ぼくたちの唇をかじる。





ぼくたちの指をかじる。ぼくたちの耳をかjる。ぼくたちの鼻をかじる。ぼくたちの胸をかじる。ぼくたちのセック
スをかじる。ぼくたちのこころをかじる。そうして、ぼくたちは、少しずつ天国になる。天国は、ぼくたちのキッス
をまぜる。ぼくたちのセックスをまぜる。そうして、





ぼくたちは、純粋な天国になっていく。重量が、純粋な重力となるように。意味が純粋な言葉になるように。神が純
粋な人間となるように。純粋な天国。純粋なキッス。純粋なセックス。天国そのものの意味。キッスそのものの意味。
セックスそのものの意味。天国はぼくたちをかじる。





ぼくたちの痛みが、ぼくたちを天国に変える。ぼくたちの痛みが、天国をぼくたちに変える。これ以外のことは何も
言えない。ぼくの口は、きみの天国がほしいと言う。きみの口は、ぼくの天国がほしいと言う。ぼくたちの天国は、
ぼくたちの痛みを咀嚼して、ぼくたちを天国に変える。





ひゃ〜、誤字です、笑。 @sechanco いいな。耳をかjるの、「j」とかしんせん♪





「じ」と「j」が、ほぼ鏡像状態になっているのですね。 @sechanco





これから納豆を買いに近所のフレスコに行く。しかし、この近所のフレスコがぼくのところにくれば、ぼくが行くこ
とはないわけだ。納豆がぼくを買えばいいわけだし。フレスコの棚に、ぽこぽこと、ぼくとぼくが並んでいくという
わけだ。おもしろい顔だろ。生えてきたんだ。





記念に、と言って、ぼくの頭を肘のあいだにはさんで突き出す。お客さんたちが、ペコペコとぼくの頭を叩く。ぼく
の頭がポコポコと鳴る。なかなかいい音をしていますな。手と足を十字に組みながら、何人ものホームズが転がって
いく。前から後ろから縦から横から斜めから、何人ものワトスン博士がパコパコ追いかけていく。





重量は、重力のメッセージである。言葉は、意味のメッセージである。人間は、神のメッセージである。メッセージ
とは、なんだろう。逆かな。重力は、重量のメッセージである。意味は、言葉のメッセージである。神は、人間のメ
ッセージである。





なんで眠れへんのやろうと思って、電気つけたら、横にクスリが。のみ忘れてた。





はじめに句読点があった。句読点には意味がなかった。そこで、句読点は言葉をつくった。言葉には意味がなかった。
そこで、言葉は事物をつくった。事物には時間や場所や出来事がなかった。そこで事物は時間や場所や出来事をつく
った。これが、あらゆるものが句読点になってしまう理由である。





句点は貫通することを意味し、読点は切りつけることを意味する。私たちは、句読点をもって、完璧な意味に穴をあ
け、切りつけ、不完全な意味にまで分解する。なぜなら、完璧な意味にはがまんができないからである。句読点のな
い改行詩や句読点のない散文は、異端者による作り物である。





異端者たちは、句読点のない改行詩や句読点のない散文に異常に興奮し、いくら禁じられ罰せられても、いっこうに
句読点を用いないのである。異端者のなかには、一文字分の空白をあける者もいるのだが、ごくわずかな割合である。
官憲のなかにも、異端に同調する者がいると言われている。





したがって、法律の文章が完璧でないのも、句読点があるからなのである。句読点のない法律の文章が存在するとい
う伝説があるが、古来より完璧な法律を望む声は皆無であり、不完全な法律のもとでしか生活を営むことを欲しない
国民は、穴だらけで切り傷だらけの法律のもとで暮らしている。





あらゆる風景が句読点でできており、あらゆる人間が句読点であった。句読点は無意味な句読点で互いに語り合い、
無意味な句読点でできた家に住み、無意味な句読点とともに暮らしているのであった。句読点だけの世界では、読む
物だけではなく、あらゆる時間も場所も出来事も無意味な句読点でできているのであった。





句読点だけでできた新聞を読むと、毎日のように、読点で切りつけたという話や、句点を転がしたといった話ばかり
が載っている。読点だけでできた指でページをめくる。句点だけでできたページに目を落とす。句読点だけでできた
ページを読む。





句読点の役目 : 休止や停止が状態を維持し、運動を促すのである。





クリーニング屋のまえで、自転車に乗った青年と、いや、青年が乗ってた自転車にぶつかりそうになったのだけれど、
考え事をしながら歩いてたわたしのほうが悪いと思ったのだが、179センチ87キロの体格のわたしだからだろう
か、むこうのほうがあやまりの言葉を口にして、頭を下げて





走り去っていった。わたしは、自然食品店の手前のマンションで、ふと立ち止まった。そうだ。わたしたち人間もま
た、句読点なのだと思ったのである。動き回る句読点である。動き回り、話しかける句読点である。沈黙し、立ち止
まり、耳を澄ます句読点である。街の景色のなかで動き回る





句読点である。と、そう考えると、なんか、おかしくなって、吹き出してしまった。わたしたちは、動き回る句読点
である。わたしたちは、動きまわり、立ち止まる、さまざまな長さをもつ休止であり、空白であり、息であり、間(ま)
であり、さまざまな意味をもつ句読点である。





感嘆符の形や、疑問符の形でひとびとが立っていたりする、街の風景。





P・D・ジェイムズが、散文について、「句読点がなければ読めないのではないか」と書いていたが、たしかにそうか
もしれない。彼女は詩については、「空白がなければ、詩は詩として読めないのではないか」とも書いていたが、正確
な引用は後日することにしよう。句読点や空白も、





「世界は新しい形のものである」とギブスン&スターリングが書いていた。これもまた、後日、正確に引用しよう。
いや、たぶん、これで正確な引用だと思うのだけれど。いま探そう。『ディファレンス・エンジン』第二の反復からだ
った。「世界は新しい形のものだ」であった。黒丸 尚訳。





フォルムの探究である。形式の発明である。わたしの関心はそこにある。内容はどうでもよい。意味はどうでもよい。
フォルムというか、形式それ自体が内容であり、意味である。内容がないという内容であり、意味がないという意味
である。まさしく、わたくしの生の実存にふさわしい。





「LET THE MUSIC PLAY°」という作品を文学極道の詩投稿掲示板に投稿したのであるが、投稿する直前のものは、投
稿したものとはまったく異なるものであった。もとのものは、まず長さが100分の1くらいのものであったのだ。
投稿したものの冒頭の数ページ分のところだったのである。





しかし、それでは文学極道の詩投稿掲示板を見ているひとを満足させることはできないのではないかと考え、構造的
に複雑なものにする必要があると思ったのであった。そこで、ふと、同じ場面が繰り返し出てくるけれど、それぞれ
がまったく違う意味内容になるものを考えついたのであった。





「全行引用詩」を書くきっかけのひとつは、マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』だった。冒頭にいくつも並べて
書かれてあったエピグラフを見て、感動したのであった。そして、もうひとつ、大きなきっかけとなったのは、





スタンダールの未完成の作品であった。そのさいごの部分で、引用だけが延々と書きつづられる予定のものであった
ということを知ったときに、こころに決めたのであった。ぼくが28才のときのことであった。さいしょにつくった
全行引用詩は、「聖なる館」というタイトルのものであった。





「マールボロ。」が、ぼくに、「詩とはなにか」、「自我とはなにか」といったことを考えさせたことは、『理系の詩学』
でも論じていたのだが、ここでも論じておこう。これが、ぼくの体験ではなく、ゲイの友だちの体験記を、ぼくがコ
ラージュしたもので、ぼくの言葉がいっさい入って





いないにもかかわらず、できた作品を、その友人が目にして、「これは、オレと違う。」といったことに、ぼくがショ
ックを受けたことにはじまるのである。すべての言葉が彼の言葉なのに、選択と配列が、他者によってなされたとき
に、本人の体験から、いや、その体験の「実感」から離れるという





ことに、ぼくが、とてもショックを受けたのである。では、ぼく自身の体験も、ぼくがぼくの体験を想起し、状況を
再現した気になって、体験の断片を抽出し、それを言語化した段階で、「創作」になっているということにならないか
という気がしたのである。つまり、思い出しているという





自分が考えている思い出は、じつは、「創作」なのではないかというふうに思ったのである。純粋な現実というものが
あるとしたら、それは、自分の脳みそに保存されている無意識層を総動員してもけっして再現されないということな
のだと思い至ったのである。「思い出とは、創作である。」





と、切に思ったのである。しかし、真実には触れているとは思う。虚偽というか、創作を含みはするけれど、自分の
人生の真実にも触れているとは思う。そうでなければ、真実など、どこにも存在しないだろう。もしかすると、どこ
にも存在しないものかもしれないが、存在するという幻想は





もちたい。というか、もって生きていると思う。ぼくの人生は、行き当たりばったりで、ひとというものの人生とし
ては失敗である。ひとを愛する能力に著しく欠けた出来そこないのものである。だけど、せいいっぱいできることは
したと思う。能力がまずしいので、恥ずかしい生き方だが、





そんなダメな人間でも、神さまはまだ生かしてくださっているのである。生きているかぎり、自分のできうることを
すべてしたいと思っている。





思い出が創作ならば、記憶もまた創作であろう。いや、記憶は創作である。そう断言できる。偽の記憶がいくつもあ
る。こどものころの記憶を親にきくと、そんなことは一度もなかったというのだ。むかし百貨店の食堂に行くとかな
らずウェイトレスがこけて、粉々になったガラス食器で、





顔じゅう血まみれになって、救急車のサイレンの音がしたと、ぼくは言うのだが、親はそんなことは一度もなかった
と言う。商店街のそばの川の岩に、フナ虫のような気持ちの悪い虫がびっしりしがみついてうごめいていたと、ぼく
は言うのだが、親はそんなことは一度もなかったと言う。





むかし付き合ってた子とばったり再会した。タバコをやめて、かなり太っていて、でも前よりかわいくなっていて、
ふたたび付き合うことになりました、笑。人生、なにがあるかわからない。何度か、ぼくがいないとき、マンション
に来てくれてたりしたっていうのだけれど。





ぼくがPCを替えたからメールが出来なくて、連絡がつかなかったのだ。ぼくは自分からメールするひとじゃないの
で、それで行き違いになったって感じかな。というか、ぼくが全面的に悪いのか。まあ、しかし、ぼくの恋愛って、
こんなチグハグなことばかり。いいけどね。





きのう、夜中の3時くらいまで、日知庵からゲイ・スナックへとはしごして飲んでたんだけど、よろよろと歩いて帰
っていたら、河原町で、二十才ぐらいのこれまた酔っ払った男の子と女の子が前から歩いてきて、ぼくがその集団の
なかに挟まれる格好になったんだけど、なかのひとり





逞しい体格のカッコイイ青年が、突然、笑顔で、「握手しましょう」と言ってきて、彼が差し出した右手を握ったら、
彼もギュッと握り返してきて、そのあと「また」と言って手を振るので、ぼくも手を振って立ち去った。不思議な経
験をした。知らない男の子だった。なんかうれしかった。





ぼくは、自分がとてもブサイクで、いやな性格で、ひとに好かれるタイプの明るい人間じゃないと、ふだんから思っ
てるから、居酒屋さんでも、道端でも、こんな経験をすると、とてもうれしい。よい詩に出合ったときの喜びに近い
かな。いや、この出来事は詩だ。詩なのだった。





きょうは、東寺のブックオフで、『VERY BAD POETRY edited by Kathryn Petras』を、105円で買った。





ぼくが子どものときに疑問だったこと : 親がいること。





いま思ったけど、「無」って漢字、「鎧」みたい。もしくは、「太めの女性のワンピース」みたい。





俳句に「英単語」って、はじめて見た。 @trazomperche 緑陰や試験によく出る英単語





袋に詰められるだけ詰めて思い出、300円だった。買ってきた思い出を射出する。床に落ちてぐったりしてる思い
出を詰め直す。ちょっとくたびれた思い出を射出する。忘れられない思い出は、忘れられない思い出だ。はやっ、3
回目でぐったりした。つぎの思い出を射出する。





歯を磨いたかどうか忘れることがある。ぼくの母はとても薄いので、磨き過ぎると神経が剥き出しになる。朝の4時
ごろに電話をかけてくる母を磨いたかどうか忘れることがある。ぼくの歯はとても薄いので、磨き過ぎると神経が剥
き出しになって、朝の4時に電話をかけてくる。





呼吸ができないと怒られる。ぼくにはわからない。呼吸ができないと怒られる。ぼくにはわからない。呼吸ができな
いと怒られる。ぼくにはわからない。リフレインはいつだってここちよい。ちょうど500円硬貨と同じ大きさだ。
呼吸ができないと怒られる。ぼくにはわからない。





ぼくは台所にはいない。ぼくはベランダにはいない。ぼくはトイレにはいない。ぼくは玄関にはいない。ぼくは部屋
にはいない。靴箱のなかにも入っていないし、本棚にも並んでいない。リュックのなかにも入っていないし、PCの
なかにも入っていない。ちょうどいい大きさだ。





むかし、ちょっとのあいだ付き合ったトラッカーのこと、思い出してしまった。運動できる、かわいいブタって感じ
の青年やった。ジャニ系のゲイの子から好かれてて、困っていた。人間って、ぜいたくなんやなあと思った。なんで、
その子とすぐに別れたのか思い出せへんけど。





さっき思いついた詩句を忘れてしもうた。あ、濃い日付と薄い日付やった。忘れてもええ言葉やったね。書いてから
気がついた。濃い煮つけと薄い煮つけの音からきてるのかなと、ふと思った。書いてはじめてわかる例やね。しかも、
それが音から来てるんであろうってことが。





液化交番って、なんかええ感じの言葉やね。気化植物なんてのは平凡か。これから、ちょっと焼酎のロックを飲んで、
お風呂に入って、気分を盛り上げて、恋人とのデートにそなえる。意味のない、美しくもない、ただくだらないだけ
のぼくの大切な瞬間、刹那の思い出のために。





袋に詰められるだけ詰めて同級生、300円だった。買ってきた同級生を射出する。床に落ちてぐったりしてる同級
生を詰め直す。ちょっとくたびれた同級生を射出する。口から血涎が垂れ落ちる同級生は、ぼくと同い年だ。はやっ、
3回目でぐったりした。つぎの同級生を射出する。





袋に詰められるだけ詰めて正方形、300円だった。買ってきた正方形を射出する。床に落ちてぐったりしてる正方
形を詰め直す。ちょっとくたびれた正方形を射出する。端から角が崩れる正方形は、ぼくと同じ図形だ。はやっ、3
回目でぐったりした。つぎの正方形を射出する。





袋に詰められるだけ詰めて雨粒、300円だった。買ってきた雨粒を射出する。床に落ちてぐったりしてる雨粒を詰
め直す。ちょっとくたびれた雨粒を射出する。膝から虹がこぼれる雨粒は、ぼくと同じ雨粒だ。はやっ、3回目でぐ
ったりした。つぎの雨粒を射出する。





オレンジエキス入りの水を飲んで寝ます。恋人用に買っておいたものなのだけど、自分でアクエリアスをもってきて
飲んでたから、ぼくが飲むことに。ぼくのことをもっと深く知りたいらしい。ぼくには深みがないから、より神秘的
に思えるんじゃないかな。「あつすけさん、何者なんですか?」





「何者でもないよ。ただのハゲオヤジ。きみのことが好きな、ただのハゲオヤジだよ。」、「朗読されてるチューブ、お
気に入りに入れましたけど、じっさい、もっと男前ですやん。」、「えっ。」、「ぼく、撮ったげましょか。でも、それ見
て、おれ、オナニーするかも知れません。」





「なんぼでも、したらええやん。オナニーは悪いことちゃうよ。」、「こんど動画を撮ってもええですか。」、「ええよ。」
「なんでも、おれの言うこと、聞いてくれて、おれ、幸せや。」、「ありがとう。ぼくも幸せやで。」これはきっと、ぼ
くが、不幸をより強烈に味わうための伏線なのだ。





きょうデートした恋人に間違った待ち合わせ場所を教えて、ちょっと待たしてしまった。「放置プレイやと思って、お
れ興奮して待っとったんですよ。」って言われた。ぼくの住んでるところの近く、ゲイの待ち合わせが多くて、よくゲ
イのカップルを見る。西大路五条の角の交差点前。





身体を持ち上げて横にしてあげたら、すごく喜んでた。「うわ、すごい。おれ、夢中になりそうや。もっとわがまま言
うて、ええですか?」、「かまへんで。」、「口うつしで、水ください。」ぼくは、はじめて自分の口に含んだ水を恋人の
口のなかに落として入れた。そだ、水飲んで寝なきゃ。





「彼女、いるんですか?」、「自分がバイやからって、ひともバイや思うたら、あかんで。まあ、バイ多いけどな。こ
れまで、ぼくが付き合った子、みんなバイやったわ。偶然やろうけどね。」偶然違うやろうけどね。と、そう思うた。
偶然で偶然違うていうこと。矛盾してるけどね。





たくさんの手が出るおにぎり弁当がコンビニで新発売されるらしい。こわくて、よう手ぇ出されへんわと思った。き
ゅうに頭が痛くなって、どしたんやろうと思って手を額にあてたら熱が出てた。ノブユキも、ときどき熱が出るって
言ってた。20年以上もむかしの話だけど。





愛は理解だもの。 @ta_ke_61 思考とは愛である。





さて、これから京都東急ホテルの2Fで開催される焼酎の会へ。いろんな業界のひとがきてるらしくって、えいちゃ
んが紹介してくれるっていうから、そこで、いろんな業界のひとたちに、ぼくの詩集を渡すことに。「そこで渡したら、
はよ、なくなるやろ。」と、えいちゃんが。彼の言葉通りになるかな、笑。





焼酎の会のあと、武田先生と、おされな店で飲んで、蕎麦屋でそばを食べ、そのあとジュンク堂に寄って、そこで武
田先生と別行動になり、日知庵に行き、帰りに歩いていたら、十年以上もまえに付き合ってた子とばったり会って、
ありゃ、こりゃ先月のパターンかと思ってると、そうでもなくて、





いままで飲んでただけだけど、帰りに、またいっしょに飲みたいなって言ってきて、いろいろあったことをちゃらに
して、この子はすごいなあと思ったのだけれど、この子の言葉でハッとした。ノブユキも、ほぼ同じ言葉を、ぼくに
つぶやいたのだった。「おれ、つまらん人生してる。」





その子は、「つまらない毎日。」でも、ぼくから見たら、その子も、ノブユキも、ぜんぜんつまらん人生していないし、
つまらない毎日を過ごしてるようには見えないのだった。その子はショートドレッドのテクノカットで、おされなボ
ンボンだし、ノブユキは毛髪残念組だけど、やはり





ボンボンだし、まあ、二人とも、お金持ちの家の子だし、なに言ってるのかなって思ったのだけれど、ハッとしたっ
ていうのは、つまらん人生とか、つまらない毎日ってのは、少なくない人間が日々感じていることなんだなってこと。
成功してるひとって、ぼくの身近には、弟くらいしか





いなくって、ぼくにはとてもムリって人生していて、ぼくは、ぼくの意味のない、美しくもない、くだらない人生を
愛してるんだなって思ったのだった。ノブユキだって、その子だって、ぼくに、「くだらん人生してる。」、「つまらな
い毎日。」って言ったときには、半分笑いながら





の、照れたような、あきれたような表情で、でも、けっしてつらいことを避けたり、嫌なことから逃げたりしてるよ
うな感じじゃなかった。その子もそうだった。人生を愛してるなって感じがしてた。じっさい愛してるとは言わなか
ったけれど、訊けば、二人ともそう答えたと思う。





でも、逆に考えれば、とても不気味な人間ができあがる。意味のある、美しい、くだらなくない人生してるひと。こ
れは怖くて不気味だなと思った。意味があるものをつくろうとしたり、美しいものをつくろうとしたり、くだらなく
ないものをつくろうとしてるわけだけど、どこかしら、





いびつで不気味だ。そう考えると、意味にとりつかれたひとや、美にとりつかれたひとたちが、どこか不気味な感じ
をかもしだしているというのは、とてもよくわかる。何人もの詩人たちの顔が思い浮かんだ。ぼくは、むかし、雑誌
に載ってる詩人の顔を見てびっくりした記憶がある。





人生に生き生きとしたものを感じているのかどうか知らないけれど、けっして幸せそうじゃなかった。ぼくなんて、
いっぱいいろんなことがあっても、ほとんどいつもニコニコしてるのだけれど、なんか取り憑かれてるっていうか、
男の詩人も、女の詩人も怖い表情のひとばかりだった。





いまは、そうじゃないみたいで、明るい表情で、ニコニコしてるひとが多くて、ぼくのように臆病なひとは、ほっと
してると思う。そういえば、むかしの詩人たちの作品には余裕がなかったなあ。





余裕があったのって、西脇順三郎くらいじゃないかな。田村隆一も、吉岡 実も、彼らの書く詩には余裕がなかったし、
表情にも余裕がなかったな。詩と詩人の顔はべつやろって、まえにだれかに言われたけれど、ぼくは、顔や表情に、
ぜんぶ顕われてると思う派である。





恋をしてもひとり。





恋をしてはひとり。





恋はしてもひとり。





そうだね。この世に生まれてきたのは偶然だし、存在させられてきたのも、当初は自分の意志ではな
かった。少なくとも自分の意志で、自分を存在させてきたのではなかった。しかし、自己を意識的に
省みることができるようになった時点で、自分を存在させているのは自分の意志であるというべきだ
と思う。





存在をやめることは、それほど容易ではないが、それほど困難なことでもない。存在するとは、意志
的なものなのである。意志的なもののみ存在するわけではないが、ものごとにも意志があるとすれば、
すべて存在するものは意志をもつものであると言えるだろう。かつて教会は、動物をさえ裁判にかけ
たのだ。





ぼくは、ものごとにも意志があって、それがすべてひとつの意志につながっていると思っている。す
べての人間のこころと行いとを通してのみ神が存在すると、かつてぼくは書いたけれど、いまでも、
ぼくはそう思っていて、だから、他人を理解することは人間が神を理解し、神が人間を理解すること
だと思って





いて、どのひとの、どのような行いも、神の行いであり、神の意志であり、神への行いであり、神へ
の意志だと思っている。もうじき、ひとりの神が、ぼくの部屋にくる。その神のために、そして、ぼ
くという、もうひとりの神のために、これから近くのイオンに行って、お昼ご飯用のお弁当を買って
くる。





まるしげの「わさび鉄火」と「呼吸チョコ」を食べた。どちらもデリシャス。「わさび鉄火で笑うも
のは、わさび鉄火で泣くんだよ。」という言葉に対して、「なにか仕掛けるつもり?」というぼくの
返し。人生、ハラハラ、ドキドキですな。もういい加減たくさん人生してきたつもりだったけど、ま
だまだするよ。





これからお風呂に。それから、きみやさんに。えいちゃんも行くって言ってた、友だちと。からだの
大きい人間が4人ね。デブが4人とは書かない。さっき友だちに、えいちゃんも行くって言ってたよ、
おデブの友だちと、とメールしたら、「4人もデブが恐ろしい。」と。なんもせえへんわ。お酒飲み
に行くだけ。





なぜ、言葉にするのか。言葉にすることによって、その言葉が対象とする事物だけではなく、その言
葉自体と、より親密なつながりがもてるからである。詩人は何度も何度も同じ言葉をいくつもの詩の
なかに置く。詩人はその言葉を違った目で見ているのだ。言葉もまた違った目で詩人を見つめ返して
いるのだ。





ツイッター。なんとすぐれたツールだろう。内省がいとも簡単にできる。なんという時代だろう。言
葉の訓練が、思考の訓練が、こんなに簡単にできるなんて。まあ、簡単にできる内省であり、思考で
ある可能性もあるが、実感としては、おもしろいくらい深いところまで行けるツールだと思っている。





思考なんて、せいぜい、140文字程度の言葉の連続でしかないのだ。あるいは、もっと少ないかも
しれない。ぼくがつくってきた、どれほど長い詩でも、せいぜい数行単位の詩句やメモの類の連なり
にしかすぎなかった。





ただ、ある瞬間に使うべき断片がひとつになるか、ある瞬間に構造とか構成がすべて頭に焼き付いて、
そのあとその焼き付いた図面通りに言葉を配するかのどちらかなのだ。いずれにせよ、瞬間に起こる
ことなのだ。おそらく、ひとつのツイットを書く時間の1400分の1くらいのスピードだろう。





さっきまで西院のモスで、二人でモーニング。隣の隣にいた、一人できてたおデブさんのことを、彼
が「こっちのひとかな?」と言うので、「ぽいけど、ぽくって違うひともいるしね。」短髪・ヒゲ・
ガチポチャならゲイっていうのも、なんだかなあと思いつつ、やっぱり、ぽかったかなあと思って、
部屋に戻った。





人間と人間とのあいだには、分かり合えることなど何一つもない。完全な自己把握すら不可能なのだ
から、他者の思考をその他者の思考通りに理解することなどまったく不可能であろう。唯一可能なの
は、「分かり合えるかもしれない」、「他者の思考を他者の思考通りに理解できるかもしれない」と
いった希望を持つことのみ。


THE GATES OF DELIRIUM。

  田中宏輔




詩によって花瓶は儀式となる。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・18、大西 憲訳)

優れた比喩は比喩であることをやめ、
(シオドア・スタージョン『きみの血を』山本光伸訳)

真実となる。
(ディラン・トマス『嘆息のなかから』松田幸雄訳)


   *


時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)

おそらく認識や知などはすべて、比較、相似に帰せられるだろう。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)


時間こそ、もっともすぐれた比喩である。



   *


さよ ふけて かど ゆく ひと の からかさ に ゆき ふる おと の さびしく も ある か
(會津八一)


飛び石のように置かれた言葉の間を、目が動く。韻律と同様に、目の動きも思考を促す。

余白の白さに撃たれた目が見るものは何だろうか? 言葉によって想起された自分の記憶だろうか。

 八一が「ひらがな」で、しかも、「単語単位」の分かち書きで短歌を書いた理由は、おそらく、右
の二つの事柄が主な目的であると思われるのだが、音声だけとると、読みにおける、そのたどたどし
さは、啄木の『ローマ字日記』のローマ字部分を読ませられているのと似ているような気がする。で
は、じっさいに、上の歌をローマ字にしてみると、どうか。

sayo fukete kado yuku hito no karakasa ni yuki furu oto no sabisiku mo aru ka

 やはり、そのたどたどしさに、ほとんど違いは見られない。しかしながら、「ひらがな」のときに
はあった映像喚起力が著しく低下している。では、なぜ低下したのだろうか。それは、わたしたちが、
幼少時に言葉をならうとき、まず「ひらがな」でならったからではないだろうか。それで、八一の「ひ
らがな」の言葉が、強い映像喚起力を持ち得たのではなかろうか。この「ひらがな」の言葉が持つ映
像喚起力というのは、幼少時の学習体験と密接に結びついているように思われる。八一の歌の、その
読みのたどたどしさもまた、その映像喚起力を増させているものと思われる。ときに、わたしたちを、
わたしたちが言葉を学習しはじめたときの、そのこころの原初風景にまでさかのぼらせるぐらいに。

たどたどしいリズムが、わたしたちのこころのなかにある、さまざまな記憶に働きかけ、わたした
ちを、わたしたち自身にぶつからせるような気がするのである。つまずいて、はじめて、そこに石が
あることに、わたしたちが気がつくように。


存在を作り出すリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)

人間ひとりひとりを永遠と偏在に参与せしめるリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)


  *


 不完全であればこそ、他から(ヽヽヽ)の影響を受けることができる──そしてこの他からの影響こ
そ、生の目的なのだ。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

彼らは、人間ならだれでもやるように、知らぬことについて話しあった。
(アーシュラ・K・ル・グィン『ショービーズ・ストーリイ』小尾芙佐訳)

ぼくが語りそしてぼくが知らぬそのことがぼくを解放する。
(ジャック・デュパン『蘚苔類』3、多田智満子訳)


   *


 映画を見たり、本を読んだりしているときに、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感
じることがある。ときには、その映画や本にこころから共感して、自分の生の実感をより強く感じた
りすることがある。自分のじっさいの体験ではないのに、である。これは事実に反している。矛盾し
ている。しかし、この矛盾こそが、意識領域のみならず無意識領域をも含めて、わたしたちの内部に
あるさまざまな記憶を刺激し、その感覚や思考を促し、まるで自分がほんとうに体験しているかのよ
うに感じさせるほどに想像力を沸き立たせたり、生の実感をより強く感じさせるほどに強烈な感動を
与えるものとなっているのであろう。イエス・キリストの言葉が、わたしたちにすさまじい影響力を
持っているというのも、イエス・キリストによる復活やいくつもの奇跡が信じ難いことだからこそな
のではないだろうか。


 まさに理解不能な世界こそ──その不合理な周縁ばかりでなく、おそらくその中心においても──
意志が力を発揮すべき対象であり、成熟に至る力なのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


   *


物がいつ物でなくなるのだろうか?
(R・ゼラズニイ&F・セイバーヘーゲン『コイルズ』10、岡部宏之訳)

人間と結びつくと人間になる。
(川端康成『たんぽぽ』)

物質ではあるが、いつか精神に昇華するもの。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)


   *


書きつけることによって、それが現実のものとなる
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』75、佐宗鈴夫訳)

言葉ができると、言葉にともなつて、その言葉を形や話にあらはすものが、いろいろ生まれて來る
(川端康成『たんぽぽ』)

おかしいわ。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)


   *


どうしてこんなところに?
(コードウェイナー・スミス『西欧科学はすばらしい』伊藤典夫訳)

新しい石を手に入れる。
(R・A・ラファティ『つぎの岩につづく』浅倉久志訳)

それをならべかえる
(カール・ジャコビ『水槽』中村能三訳)


   *


猿(さる)の檻(おり)はどこの国でも一番人気がある。
(寺田寅彦『あひると猿』)

純粋に人間的なもの以外に滑稽(コミツク)はない
(西脇順三郎『天国の夏』)

simia,quam similis,turpissima bestia,nobis!
最も厭はしき獸なる猿はわれわれにいかに似たるぞ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』キケロの言葉)

 コロンビアの大猿は、人間を見ると、すぐさま糞をして、それを手いっぱいに握って人間に投げつ
けた。これは次のことを証明する。
一、 猿がほんとうに人間に似ていること。
二、 猿が人間を正しく判断していること。
(ヴァレリー『邪念その他』J,佐々木 明訳)

かつてあなたがたは猿であった。しかも、いまも人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上に猿である。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部・3、手塚富雄訳)


   *


 数え切れないほど数多くの人間の経験を通してより豊かになった後でさえ、言葉というものは、さ
らに数多くの人間の経験を重ねて、その意味をよりいっそう豊かなものにしていこうとするのである。
言葉の意味の、よりいっそうの深化と拡がり!


   *


 この世界の在り方の一つ一つが、一人一人の人間に対して、その人間の存在という形で現われてい
る。もしも、世界がただ一つならば、人間は、世界にただ一人しか存在していないはずである。  


   *


 だんだんわたしは選ぶことを覚え、完全なものだけをそばに置いておくようになった。珍しい貝で
なくてもいいのだが、形が完全に保存されているものを残し、それを海の島に似せて、少しずつ距離
をとって丸く並べた。なぜなら、周りに空間があってこそ、美しさは生きるのだから。出来事や対象
物、人間もまた、少し距離をとってみてはじめて意味を持つものであり、美しくあるのだから。
 一本の木は空を背景にして、はじめて意味を持つ。音楽もまた同じだ。ひとつの音は前後の静寂に
よって生かされる。
(アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈りもの』ほんの少しの貝、落合恵子訳)

 いかにも動きに富む風景、浜辺に、不揃いな距離を置いて立っている一連の人物たちのおかげで、
空間のひろがりがいっそうよく測定できるような風景。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)


   *


私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出会つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
(立原道造『またある夜』)


 わたしの目は、雲を見ている。いや、見てはいない。わたしの目が見ているのは、動いている雲の
様子であって、瞬間、瞬間の雲の形ではない。また、雲の背景にある空を除いた雲の様子でもない。
空を背景にした動いている雲の様子である。音楽においても事情は同じである。わたしの耳は、一つ
一つの音を別々に聞いているのではない。音が構成していくもの、いわゆるメロディーやリズムとい
ったものを聞いているのである。そのメロディーやリズムにおいて現われる音を聞いているのである。
言葉においても同様である。話される言葉にしても、読まれる言葉にしても、使われる言葉が形成し
ていく文脈を把握するのであって、その文脈から切り離して、使われる言葉を、一つ一つ別々に理解
していくのではない。形成されていく文脈のなかで、一つ一つの言葉を理解していくのである。とい
うのも、


これは一重に文章の
並びや文の繋がりが
力を持っているからで
(ホラティウス『書簡詩』第二巻・三、鈴木一郎訳)


 窓ガラスに、何かがあたった音がした。昆虫だろうか。大きくはないが、その音のなかに、ぼくの
一部があった。そして、その音が、ぼくの一部であることに気がついた。

 ぼくは、ぼく自身が、ぼくが感じうるさまざまな事物や事象そのものであることを、また、あらか
じめそのものであったことを、さらにまた、これから遭遇するであろうすべてのものそのものである
ことを理解した。


   *


人生のあらゆる瞬間はかならずなにかを物語っている、
(ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』四・16、小林宏明訳)

人生を楽しむ秘訣は、細部に注意を払うこと。
(シオドア・スタージョン『君微笑めば』大森 望訳)           

ほんのちょっとした細部さえ、
(リチャード・マシスン『人生モンタージュ』吉田誠一訳)


   *


わたしを知らない鳥たちが川の水を曲げている。
わたしのなかに曲がった水が満ちていく。


   *


われわれはなぜ、自分で選んだ相手ではなく、稲妻に撃たれた相手を愛さなければならないのか?
(シオドア・スタージョン『たとえ世界を失っても』大森 望訳)

光はいずこから来るのか。
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第二幕・第五場、石川重俊訳)

わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ
(与謝野晶子)


   *


論理的には全世界が自分の名前になるということが理解できるか?
(イアン・ワトスン『乳のごとききみの血潮』野村芳夫訳)

ほかにいかなるしるしありや?
(コードウェイナー・スミス『スキャナーに生きがいはない』朝倉久志訳)

これがどういうことかわかるかね?
(ウォルター・M・ミラー・ジュニア『黙示録三一七四年』第III部・25、吉田誠一訳)

どんな霊感が働いたのかね?
(フリッツ・ライバー『空飛ぶパン始末記』島岡潤平訳)

われはすべてなり
(アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』第二部・8、福島正実訳)

そうだな、
(ポール・ブロイス『破局のシンメトリー』12、小隅 黎訳)

確かに一つの論理ではある
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』17、安田 均訳)

しかし、これは一種の妄想じゃないのだろうか。
(ジョン・ウィンダム『海竜めざめる』第二段階、星 新一訳)

現実には、そんなことは起きないのだ。
(ウィリアム・ブラウニング・スペンサー『真夜中をダウンロード』内田昌之訳)

いや、必ずしもそうじゃない。
(エリック・F・ラッセル『根気仕事』峰岸 久訳)

それは信号(シグナル)の問題なのだ。
(フレデリック・ポール『ゲイトウェイ』22、矢野 徹訳)

それもつかのま、
(J・G・バラード『燃える世界』4、中村保男訳)

ひとときに起こること。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

まあ、それも一つの考え方だ
(ブライアン・W・オールディス『ああ、わが麗しの月よ!』浅倉久志訳)

よくわかる。
(カール・エドワード・ワグナー『エリート』4、鎌田三平訳)

どちらであろうとも。
(フィリップ・K・ディック『ユービック』10、浅倉久志訳)

だが、それよりもまず、
(ブライアン・W・オールディス『一種の技能』5、浅倉久志訳)

めいめい自分の夜を堪えねばならぬのである。
(ブライアン・W・オールディス「銀河は砂粒のように」4、中桐雅夫訳)

それは確かだ
(ラリー・ニーヴン『快楽による死』冬川 亘訳)

しかし
(ロッド・サーリング『免除条項』矢野浩三郎・村松 潔訳)

それを知ったのはほんの二、三年前だし、
(ハル・クレメント『窒素固定世界』7、小隅 黎訳)

それが
(イアン・ワトスン『エンベディング』第一章、山形浩生訳)

どんなものであるにせよ、
(レイ・ブラッドベリ『駆けまわる夏の足音』大西尹明訳)

そのときには、たいしたことには思えなかった。
(マーク・スティーグラー『やさしき誘惑』中村 融訳)
 

   *


『マールボロ。』


彼には、入れ墨があった。
革ジャンの下に無地の白いTシャツ。
ぼくを見るな。
ぼくじゃだめだと思った。
若いコなら、ほかにもいる。
ぼくはブサイクだから。
でも、彼は、ぼくを選んだ。
コーヒーでも飲みに行こうか?
彼は、ミルクを入れなかった。
じゃ、オレと同い年なんだ。
彼のタバコを喫う。
たった一週間の禁煙。
ラブホテルの名前は
『グァバの木の下で』だった。
靴下に雨がしみてる。
はやく靴を買い替えればよかった。
いっしょにシャワーを浴びた。
白くて、きれいな、ちんちんだった。
何で、こんなことを詩に書きつけてるんだろう?
一回でおしまい。
一回だけだからいいんだと、だれかが言ってた。
すぐには帰ろうとしなかった。
ふたりとも。
いつまでもぐずぐずしてた。
東京には、七年いた。
ちんちんが降ってきた。
たくさん降ってきた。
人間にも天敵がいればいいね。
東京には、何もなかった。
何もなかったような顔をして
ここにいる。
きれいだったな。
背中を向けて、テーブルの上に置いた
 飲みさしの
缶コーラ。


 あるとき、詩人は、ふと思いついて、詩人の友人のひとりに、その友人が十八才から二十五才まで
過ごした東京での思い出を、その七年間の日々を振り返って思い出されるさまざまな出来事を、箇条
書きにして、ルーズリーフの上に書き出していくようにと言ったという。すると、そのとき、その友
人も、面白がってつぎつぎと書き出していったらしい。二、三十分くらいの間、ずっと集中して書い
ていたという。しかし、「これ以上は、もう書けない。」と言って、その友人が顔を上げると、詩人
は、ルーズリーフに書き綴られたその友人の文章を覗き込んで、そのときの気持ちを別の言葉で言い
表すとどうなるかとか、そのとき目にしたもので特に印象に残ったものは何かとか、より詳しく、よ
り具体的に書き込むようにと指図したという。そのあと、詩人からあれこれと訊ねられたときをのぞ
いては、その友人の手に握られたペンが動くことは、ほとんどなかったらしい。約一時間ぐらいかけ
て書き上げられた三十行ほどの短い文章を、詩人は、その友人の目の前で、ハサミを使って切り刻み、
切り刻んでいった紙切れを、短く切ったセロテープで、つぎつぎと繋げていったという。書かれた文
章のなかで、セロテープで繋げられたものは、ほんのわずかなもので、もとの文章の五分の一も採り
上げられなかったらしい。そうして出来上がったものが、『マールボロ。』というタイトルの詩にな
ったという。その詩のなかには、詩人が、直接、書きつけた言葉は一つもなかった。すべての言葉が、
詩人の友人によって書きつけられた言葉であった。それゆえ、詩人は、詩人の友人に、共作者として、
その友人の名前を書き連ねてもいいかと訊ねたらしい。すると、詩人の友人は、躊躇うことなく、即
座に、こう答えたという。「これは、オレとは違う。」と。ペンネームを用いることさえ拒絶された
らしい。「これは、オレとは違うから。」と言って。詩人は、その言葉に、とても驚かされたという。
そこに書かれたすべての言葉が、その友人の言葉であったのに、なぜ、「オレとは違う。」などと言
うのか、と。詩人の行為が、その友人の気持ちをいかに深く傷つけたのか、そのようなことにはまっ
たく気がつかずに……。その上、おまけに、詩人は、自分ひとりの名前でその詩を発表するのが、た
だ、自分の流儀に反する、といっただけの理由で、怒りまで覚えたのだという。すでに、詩人は、引
用のみによる詩を、それまでに何作か発表していたのだが、それらの作品のなかでは、引用された言
葉の後に、その言葉の出典が必ず記載されていたのである。しかも、それらの出典は、引用という行
為自体が意味を持っている、と見られるように、引用された言葉と同じ大きさのフォントで記載され
ていたのである。『マールボロ。』に書きつけられた言葉が、すべて引用であるのに、そのことを明
らかに示すことができないということが、おそらくは、たぶん、詩人の気を苛立たせたのであろう。
それにしても、『マールボロ。』という詩が、詩人の作品のなかで、もっとも詩人のものらしい詩で
あるのは、皮肉なことであろうか? ふとした思いつきでつくられたという、『マールボロ。』では
あるが、詩人自身も、その作品を、自分の作品のなかで、もっとも愛していたという。詩人にとって、
『マールボロ。』は、特別な存在であったのであろう。晩年には、詩というと、『マールボロ。』に
ついてしか語らなかったほどである。詩人はまた、このようなことも言っていた。『マールボロ。』
をつくったときには、後々、その作品がつくられた経緯が、言葉がいかなるものであるかを自分自身
に考えさせてくれる重要なきっかけになるとは、まったく思いもしなかったのだ、と。
 詩人は、友人の言葉を切り刻んで、それを繋げていったときに、どういったことが、自分のこころ
のなかで起こっていたのか、また、そのあと、自分のこころがどういった状態になったのか、後日、
つぎのように分析していた。

 わたしのなかで、さまざまなものたちが目を覚ます。知っているものもいれば、知らないものもい
る。知らないもののなかには、その言葉によって、はじめて目を覚ましたものもいる。それらのもの
たちと、目と目が合う。瞳に目を凝らす。それも一瞬の間だ。順々に。すると、知っていると思って
いたものたちの瞳のなかに、よく知らなかったわたしの姿が映っている。知らないと思っていたもの
たちの瞳のなかに、よく知っているわたしの姿が映っている。ひと瞬きすると、わたしは、わたし、
ではなくなり、わたしたち、となる。しかし、そのわたしたちも、また、すぐに、ひとりのわたしに
なる。ひとりのわたしになっているような気がする。それまでのわたしとは違うわたしに。

 詩人の文章を読んでいると、まるで対句のように、対比される形で言葉が並べられているところに、
よく出くわした。詩人の生前に訊ねる機会がなかったので、そのことに詩人自身が気がついていたの
かどうか、それは筆者にはわからないのだが、しかし、そういった部分が、もしかすると、そういっ
た部分だけではないのかもしれないが、たとえば、結論を出すのに性急で、思考に短絡的なところが
あるとか、しかし、とりわけ、そういった部分が、詩人の文章に対して、浅薄なものであるという印
象を読み手に与えていたことは、だれの目にも明らかなことであった。右の文章など、そのよい例で
あろう。
 ところで、詩人はまた、その友人の言葉を結びつけている間に、その言葉がまるで


あれはわたしだ。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』13、川副智子訳)


と思わせるほどに、生き生きとしたものに感じられたのだという。


だがそれは同じものになるのだろうか?
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)

それは?
(エドマンド・クーパー『アンドロイド』5、小笠原豊樹訳)

またウサギかな?
(ジェイムズ・アラン・ガードナー『プラネット・ハザード』上・5、関口幸男訳)

兎が三羽、用心深くぴょんと出てきた。
(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』一冊目・六月十六日、野口幸夫訳)

きみはわれわれがどうも間違った兎を追いかけているような気はしないかね?
(J・G・バラード『マイナス 1』伊藤 哲訳)

もちろんちがうさ。
(ゼナ・ヘンダースン『月のシャドウ』宇佐川晶子訳)

そんなことはありえない。
(フランク・ハーバート『ドサディ実験星』12、岡部宏之訳)

ここにはもう一匹もウサギはいない
(ジョン・コリア『少女』村上哲夫訳)

いいかい?
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

そもそも
(ウィリアム・ブラウニング・スペンサー『真夜中をダウンロード』内田昌之訳)

現実とはなにかね?
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第三部・19、冬川 亘訳)

なにを彼が見つめていたか?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)

このできごとのどこまでが現実にあったことだ?
(グレッグ・ベア『女王天使』下・第二部・54、酒井昭伸訳)


 もちろん、詩人がつくった世界は、といっても、これは作品世界のことであるが、しかも、詩人が
そこで表現し得ていると思い込んでいるものと、読者がそこに見出すであろうものとはけっして同じ
ものではないのだが、詩人の友人が現実の世界で体験したこととは、あるいは、詩人の友人が自分の
記憶を手繰り寄せて、自分が体験したことを思い起こしたと思い込んでいるものとは、決定的に異な
るものであるが、そのようなことはまた、詩人のつくった世界が現実にあったことを、どれぐらいき
ちんと反映しているのか、といったこととともに、詩というものとは、まったく関係のないことであ
ろう。求められているのは、現実感であり、現実そのものではないのである。少なくとも、物理化学
的な面での、現象としての現実ではないであろう。もちろん、言うまでもなく、詩は精神の産物であ
り、詩を味わうのも精神であり、しかも、その精神は、現実の世界がつくりだしたものでもある。し
かしながら、物理化学的な面での、現象としての現実の世界だけが精神をつくっているわけではない
のである。じっさいに見えるものや、じっさいに聞こえるもの、じっさいに触れるものや、じっさい
に味わうもの、そういった類のものからだけで、現実の世界ができているわけではないのである。見
えていると思っているものや、聞こえていると思っているもの、触れていると思っているものや、味
わっていると思っているものも、もちろんのことであるが、現実の世界は、見えもしないものや、聞
こえもしないもの、触れることができないものや、味わうことができないもの、そういったものによ
ってさえ、またできているのである。もしも、世界というものが、じっさいに見えるものや、じっさ
いに聞こえるもの、じっさいに触れるものや、じっさいに味わえるもの、そういった類のものからだ
けでできているとしたら、いかに貧しいものであるだろうか? じっさいのところ、世界は豊かであ
る。そう思わせるものを、世界は持っている。


魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現われることがない、
(サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳)


 詩人が、『マールボロ。』から得た最大の収穫は、何であったのだろうか? 右に引用した文の横
に、詩人は、こんなメモを書きつけていた。「「物質」を「言葉」とすると、こういった結論が導か
れる。詩を読んで、言葉を通して、はじめて、自分の気持ちがわかることがある、ということ。言葉
は、わたしたちについて、わたしたち自身が知らないことも知っていることがある、ということ。」
と。


言葉とは何か?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)

言葉以外の何を使って、嫌悪する世界を消しさり、愛しうる世界を創りだせるというのか?
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

作品は作者を変える。
自分から作品を引き出す活動のひとつびとつに、作者は或る変質を受ける。完成すると、作品は今一
度作者に逆に作用を及ぼす。
(ヴァレリー『文学』佐藤正彰訳)

これがぼくにとってどれほど大きな意味があることか、きみにわかるかい?
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)

詩人のそばでは、詩がいたるところで湧き出てくる。
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第七章、青山隆夫訳)

今まで忘れていたことが思い出され、頭の中で次から次へと鎖の輪のようにつながっていく。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)

わたしの世界の何十という断片が結びつきはじめる。
(グレッグ・イーガン『貸金庫』山岸 真訳)

あらゆるものがくっきりと、鮮明に見えるのだ。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)

過去に見たときよりも、はっきりと
(シオドア・スタージョン『人間以上』第二章、矢野 徹訳)

なんという強い光!
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』昼夜入れ替えなしの興行、木村榮一訳)

さまざまな世界を同時に存在させることができる。
(イアン・ワトスン『知識のミルク』大森 望訳)

これは叫びだった。
(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)

急にそれらの言葉がまったく新しい意味を帯びた。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』34、大島 豊訳)

そのひと言でぼくの精神状態はもちろん、あたりの風景までが一変した。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』女戦死(アマゾネス)、木村榮一訳)


 こういった考察を、『マールボロ。』は、詩人にさせたのだが、『マールボロ。』をつくったとき
の友人とは別の友人に、あるとき、詩人は、つぎのように言われたという。「言葉に囚われているの
は、結局のところ、自分に囚われているにひとしい。」と。そう言われて、ようやく、詩人は、『マ
ールボロ。』をつくったときに、自分の友人を傷つけたことに、その友人のこころを傷つけたことに
気がついたのだという。

 詩人の遺したメモ書きに、つぎに引用するような言葉がある。『マールボロ。』をつくる前のメモ
書きである。


順序を入れかえたり、語をとりかえたりできるので、たえず内容を変える
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)

新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)


 詩人の作品が、詩人の友人の思い出に等しいものであるはずがないことに、なぜ、詩人自身が、す
ぐに気がつかなかったのか、それは、さだかではないが、たしかに、詩人は思い込みの激しい性格で
あった。上に引用したような事柄が、頭ではわかっていたのだが、じっさいに実感することが、すぐ
にはできなかったらしい。それが実感できたのは、先に述べたように、別の友人に気づかされてのこ
と、『マールボロ。』をつくった後、しばらくしてからのことであったという。


 しかし、彼の笑顔はこの世にふたつとない笑顔だ。その笑顔を向けられると、人生で出くわすあり
とあらゆる不幸をそこに見るような気がする。ところが顔に浮かんだその不幸を、彼はあっという間
に順序よく並べ替えてしまう。それを見ていると、今度は急に「ああそうか、心配することはなかっ
たんだ」と感じるのだ。
だから彼と話をするのは楽しい。その笑顔をしょっちゅう浮かべて、そのたびに「ああそうか、心
配することはなかったんだ」と感じさせてくれるからだ。
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』31、安原和見訳)


 これは、『マールボロ。』制作以降に、詩人が書きつけていたメモ書きにあったものである。たし
かに、同じ事柄でも、同じ言葉でも、順序を並べ替えて表現すると、ただそれだけでも、まったく異
なる内容のものにすることができるのであろう。詩人が引用していた、この文章は、ほんとうに、こ
ころに染み入る、すぐれた表現だと思われる。

 ところで、悲劇にあるエピソードを並べ替えて、喜劇にすることもできるということは、そしてま
た、喜劇にあるエピソードを並べ替えて、悲劇にすることもできるということは、わたしに、人生に
ついて、いや、人生観について考えさせるところが大いにあった。ある事物や事象を目の前にしたと
きに、即断することが、いかに愚かしいことであるのか、そういったことを、わたしに思わしめたの
である。

 一方、詩人は、つねにといってもよいほど、ほとんど独断し、即断する、じつに思い込みの激しい
性格であった。


ただひとつの感情が彼を支配していた。
(マルロー『征服者』第I部、渡辺一民訳)

 感情が絶頂に達するとき、人は無意識状態に近くなる。……なにを意識しなくなるのだ? それはも
ちろん自分以外のすべてをだ。自分自身をではない。
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』20、鈴木 晶訳)

今ではわたしも、他人のこころを犠牲にして得たこころの願望がいかなるものか、
(ゼナ・ヘンダースン『なんでも箱』深町眞理子訳)

それを知っている
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

私という病気にかかっていることがようやくわかった。
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友人へ』8、佐宗鈴夫訳)

私というのは、空虚な場所、
(ジンメル『日々の断想』66、清水幾太郎訳)

世界という世界が豊饒な虚空の中に形作られるのだ。
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)


 これらの言葉から、詩人の考えていたことが、詩人の晩年における境地というようなものが、詩人
の第二詩集である『The Wasteless Land.』の注釈において展開された、詩人自身の自我論に繋がるも
のであることが、よくわかる。

 先にも書いたように、詩人は、つねづね、『マールボロ。』のことを、「自分の作品のなかで、も
っとも好きな詩である。」と言っていたが、「それと同時に、またもっとも重要な詩である。」とも
言っていた。その言葉を裏付けるかのように、『マールボロ。』については、じつにおびただしい数
の引用や文章が、詩人によって書き残されている。以下のものは、これまで筆者が引用してきたもの
と同様に、詩人が、『マールボロ。』について、生前に書き留めておいたものを、筆者が適宜抜粋し
たものである。(すべてというわけではない。一行だけ、例外がある。筆者が補った一文である。読
めばすぐにわかるだろうが、あえて――線を引いて示しておいた。)


なぜ人間には心があり、物事を考えるのだろう?
(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)

心は心的表象像なしには、決して思惟しない。
(アリストテレス『こころとは』第三巻・第七章、桑子敏雄訳)


 言葉や概念といったものが自我を引き寄せて思考を形成するのだろうか? それとも、思考を形成
する「型」や「傾向」といったようなものが自我にはあって、それが、言葉や概念といったものを引
き寄せて思考を形成するのだろうか? おそらくは、その双方が、相互に働きかけて、思考を形成し
ているのであろう。


一つ一つのものは自分の意味を持っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 
 
その時々、それぞれの場所はその意味を保っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 


 思考が形成される過程については、まだ十分に考察しきっていないところがあると思われるのだが、
少なくとも、「習慣的な」思考とみなされるようなものは、そこで用いられている「言葉」というよ
りも、むしろ、その思考をもたらせる「型」や「傾向」といったようなものによって、主につくられ
ているような気がするのであるが、どうであろうか? というのも、


人間というものは、いつも同じ方法で考える。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)


というように、思考には、「型」や「傾向」とかいったようなものがあると思われるからである。そ
してまた、そういったものは、その概念を受容する頻度や、その概念をはじめて受け入れたときのシ
ョックの強度によって、ほぼ決定されるのであろうと、わたしには思われるのである。

 ところで、幼児の気分が変わりやすいのは、なぜであろうか。おそらく、思考の「型」や「傾向」
といったようなものが、まだ形成されていないためであろう。あるいは、形成されてはいても、まだ
十分に形成されきっていないのであろう、それが十分に機能するまでには至っていないように思われ
る。幼児は、そのとき耳にした言葉や、そのとき目にしたものに、振り回されることが多い。「型」
や「傾向」といったようなものがつくられるためには、繰り返される必要がある。繰り返されると、
それが「型」や「傾向」といったようなものになる。ときには、ただ一回の強烈な印象によって、「型」
や「傾向」といったようなものがつくられることもあるであろう。しかし、そのことと、繰り返され
ることによって「型」や「傾向」といったようなものがつくられることとは、じつは、よく似ている。
同じページを何度も何度も開いていると、ごく自然に、本には開き癖といったようなものがつくのだ
が、ぎゅっと一回、強く押してページを開いてやっても、そのページに開き癖がつくように。それに、
強烈な印象は、その印象を受けたあとも、しばらくは持続するであろうし、それはまた、繰り返し思
い出されることにもなるであろう。
しかし、ヴァレリーの


個性は思い出と習慣によって作られる
(ヴァレリー全集カイエ篇6『自我と個性』滝田文彦訳)


といった言葉を読み返して思い起こされるのだが、たしかに、わたしには、しばしば、「個性的な」
といった形容で言い表される人間の言っていることやしていることが、ただ単に反射的に反応してし
ゃべったり行動したりしていることのように思われることがあるのである。つねに、とは言わないま
でも、きわめてしばしば、である。


霊はすべておのれの家を作る。だがやがて家が霊を閉じこめるようになる。
(エマソン『運命』酒本雅之訳)


 したがって、「習慣的な」思考を、「習慣的でない」思考と同様に、「思考」として考えてもよい
ものかどうか、それには疑問が残るのである。「習慣的な」思考というものが、単なる想起のような
ものにしか過ぎず、「習慣的でない」思考といったものだけが、「思考」というものに相当するもの
なのかもしれないからである。また、ときには、ある「思考」が、「習慣的な」ものであるのか、そ
れとも、「習慣的でない」ものであるのか、明確に区別することができない場合もあるであろう。そ
れにまた、「思考」には、「習慣的な」ものと「習慣的でない」ものとに分類されないものも、ある
かもしれないのである。しかし、いまはまだ、そこまで考えることはしないでおこう。「習慣的な」
思考と「習慣的でない」思考の、このふたつのものに限って考えてみよう。単純に言ってみれば、「型」
や「傾向」により依存していると思われるのが、「習慣的な」思考の方であり、「言葉」自体により
依存していると思われるのが、「習慣的でない」思考の方であろうか? これもまた、「より依存し
ている」という言葉が示すように、程度の問題であって、絶対にどちらか一方だけである、というこ
とではないし、また、そもそものところ、思考が、「言葉」といったものや、「型」や「傾向」とい
ったものからだけで形成されるものでないことは、


われわれのあらゆる認識は感覚にはじまる。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)


というように、感覚器官が受容する刺激が認識に与える影響についてだけ考えてみても明らかなこと
であろうが、思考は言語からのみ形成されるのではない。しかし、あえて、論を進めるために、ここ
では、思考を形成するものを、「言葉」とか、あるいは、「型」や「傾向」とかいったものに限って、
考えることにした。いずれにしても、それらのものはまた、


創造者であるとともに被創造物でもある。
(ブライアン・W・オールディス『讃美歌百番』浅倉久志訳)

――詩人はよく、こう言っていた。詩人にできるのは、ただ言葉を並べ替えることだけだ、と。


人間は実際造ることができないんです。すでにあるものを並び替えるだけでしてね。神のみが創造で
きるのですよ
(ロジャー・ゼラズニイ『わが名はレジオン』第三部、中俣真知子訳)


並べ替える? それとも、並び替えさせるのか? 並べ替える? それとも、並び替えさせるのか?


『マールボロ。』


断片はそれぞれに、そうしたものの性質に従って形を求めた。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』36、黒丸 尚訳)


並び替えさせる? それとも、並べ替えるのか? 並び替えさせる? それとも、並べ替えるのか?


『マールボロ。』


 ただ言葉を選んで、並べただけなのだが、『マールボロ。』という詩によって、はじめてもたらさ
れたものがある。そのうちの一つのものに、『マールボロ。』という詩が出来上がってはじめて、そ
の出来上がった詩を目にしてはじめて、わたしのこころのなかに生まれた感情がある。それは、それ
までのわたしが、わたしのこころのなかにあると感じたことのない、まったく新しい感情であった。
まるで、その詩のなかにある言葉の一つ一つが、わたしにとって、激しく噴き上げてくる間歇泉の水
しぶきのような感じがしたのである。じっさい、紙面から光を弾き飛ばしながら、言葉が水しぶきの
ように迸り出てくるのが感じられたのである。また、そのうちの一つのものに、『マールボロ。』と
いう詩の形をとることによって、言葉たちがはじめて獲得した意味がある。それは、その詩が出来上
がるまでは、その言葉たちがけっして持ってはいなかったものであり、それは、その言葉にとって、
まったく新しい意味であった。
 これを、人間であるわたしの方から見ると、言葉たちを、ただ選び出して、並べ替えただけのよう
に見える。事実、ただそれだけのことである。これを、言葉の方から見ると、どうであろうか? 言
葉の方の身になって、考えられるであろうか? 『マールボロ。』の場合、言葉はもとの場所から移
され、並び替えさせられた上に、それらの言葉を前にする人間の方も入れ替わったのである。時間的
なことを考慮して言うなら、人間が入れ替わるのと同時に、言葉も並び替えさせられたのである。人
間であるわたしの方から見る場合と異なる点は、それらの言葉を前にする人間の方も入れ替わってい
たということであるが、それでは、はたして、それらの言葉の前で、人間の方が入れ替わっていたと
いう、このことが、他の言葉とともに並び替えさせられたことに比べて、いったいどれぐらいの割合
で、それらの言葉の意味の拡張や変化といったものに寄与したのであろうか? しかし、そもそもの
ところ、そのようなことを言ってやることなどできるのであろうか? できやしないであろう。とい
うのも、そういった比較をするためには、人間が入れ替わらずに、それらの言葉が、『マールボロ。』
という詩のなかで配置されているように配置される可能性を考えなければならないのであるが、その
ようなことが起こる可能性は、ほとんどないと思われるからである。まあ、いずれにしても、見かけ
の上では、言葉の並べ替えという、ただそれだけのことで、わたしも、その言葉たちも、それまでの
わたしや、それまでのその言葉たちとは、違ったものになっていた、というわけである。


 ぼくらがぼくらを知らぬ多くの事物によって作られているということが、ぼくにはたとえようもな
く恐ろしいのです。ぼくらが自分を知らないのはそのためです。
(ヴァレリー『テスト氏』ある友人からの手紙、村松 剛・菅野昭正・清水 徹訳)


といったことを、ヴァレリーが書いているのだが、『マールボロ。』という詩をつくる「経験」を通
して、「ぼくらを知らぬ多くの事物」が、いかにして、「ぼくら」を知っていくか、また、「自分を
知らない」「ぼくら」が、いかにして、「自分」を知っていくか、その経緯のすべてとはいわないが、
その一端は窺い知ることができたものと、わたしには思われるのである。


『マールボロ。』


 言葉は、つぎつぎと人間の思いを記憶していく。ただし、言葉の側からすれば、個々の人間のこと
などはどうでもよい。新たな意味を獲得することにこそ意義がある。言葉の普遍性と永遠性。言葉自
身が知っていることを、言葉に教えても仕方がない。言葉の普遍性と永遠性。わたしたちが言葉を獲
得する? 言葉が獲得するのだ、わたしたちを。言葉の普遍性と永遠性。もはや、わたし自身が言葉
そのものとなって考えるしかあるまい。


『マールボロ。』


 デニス・ダンヴァーズが『天界を翔ける夢』や、その姉妹篇の『エンド・オブ・デイズ』のなかに
書いているように、あるいは、グレッグ・イーガンが『順列都市』のなかで描いているように、将来
において、たとえ、人間の精神や人格を、その人間の記憶に基づいてコンピューターにダウンロード
することができるとしても、そういったものは、元のその人間の精神や人格とはけっして同じものに
はならないであろう。なぜなら、人間は、偶然が決定的な立場で控えている時間というもののなかに
生きているものであり、その偶然というものは、どちらかといえば、量的な体験ではなく、質的な体
験においてもたらされるものだからである。驚くことがいかに人生において重要なものであるか、そ
れを機械が体験し、実感することができるようになるとは、とうてい、わたしには思えないのである。
せいぜい、思考の「型」とか「傾向」とかいったようなものをつくれるぐらいのものであろう。それ
に、たとえ、思考の「型」や「傾向」とかいったようなものを、ソフトウェア化することができると
しても、それらから導き出せるような思考は、単なる「習慣的な」思考であって、そのようなもので
は、『マールボロ。』のようなものをつくり出すことはおろか、『マールボロ。』のようなものをつ
くり出すきっかけすら思いつくことができるようなものにはならないであろう。


『マールボロ。』


 紙片そのものではなく、それを貼り合わせる指というか、糊というか、じっさいはセロテープで貼
り付けたのだが、短く切り取ったセロテープを紙片にくっつけるときの息を詰めた呼吸というか、そ
のようなものでつくっていったような気がする。そのことは以前にも書いたことがあるのだが、それ
は、ほとんど無意識的な行為であったように思われる。基本的には、これが、わたしの詩の作り方で
ある。


『マールボロ。』


 たしかに、「言葉」には、互いに引き合ったり反発しあったりする、磁力のようなものがある。そ
う、わたしには思われる。そして、それらのものを、思考の「型」や「傾向」といったものの現われ
ともとることはできるのだが、そうではない、「言葉」そのものにはない、「型」や「傾向」といっ
たものもあるように、わたしには思われるのである。とはいっても、言葉が、その言葉としての意味
を持って、個人の前に現われる前に、その個人の思考の「型」や「傾向」といったようなものが存在
したとも思われないのだが、……、しかし、ここまで考えてきて、ふと思った。「言葉」の方が磁石
のようなもので、「型」や「傾向」といったものの方が磁石をこすりつけられて磁力を持つようにな
った鉄の針のようなものなのか、「型」や「傾向」といったものの方が磁石のようなもので、「言葉」
の方が磁石をこすりつけられて磁力を持つようになった鉄の針のようなものなのか、と。ふうむ、…
…。


『マールボロ。』


作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

きみはそれを知っている人間のひとりかね?
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

そのとおりであることを祈るよ。
(アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』第一部・4、福島正実訳)

こんどはそれをこれまで学んできた理論体系に照らし合わせて検証しなければならん
(スティーヴン・バクスター『天の筏』5、古沢嘉道訳)

実際にやってみよう
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

煉瓦はひとりでは建物とはならない。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとI』6、田中 勇・銀林 浩訳)

具体的な形はわれわれがつくりだすのだ
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』28、三田村 裕訳)

形と意味を与えられた苦しみ。
(サミュエル・R・ディレイニー『コロナ』酒井昭伸訳)

きみはこれになるか?
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)


   *


 つぎに掲げてあるのは、芥川龍之介の『或阿呆の一生』の冒頭部分である。一部の言葉を他の作家
の作品の言葉と置き換えてみた。まず、はじめに、夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭部分の言葉
を使って、一部の言葉を置き換えた。


 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子(はしご)に登り、新らしい本
を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、
……
 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐる
のは本といふよりも寧(むし)ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、
ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……

 彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈
みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、
丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇(たたず)んだまま、本の間に動いて
ゐる店員や客を見下(みおろ)した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「人生は一(いち)行(ぎやう)のボオドレエルにも若(し)かない。」
 彼は暫(しばら)く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……


 吾輩(わがはい)は或猫の名前だつた。ニャーニャーの吾輩は人間にかけた書生の人間に登り、新ら
しい種族を探してゐた。書生、我々、話、考、彼、掌(てのひら)、……
 そのうちにスーは迫り出した。しかしフワフワは熱心に掌の書生を読みつづけた。そこに並んでゐ
るのは顔といふよりも寧(むし)ろ人間それ自身だつた。毛、顔、つるつる、薬缶(やかん)、猫、顔、
……
 穴はぷうぷうと戦ひながら、煙(けむり)のこれを数へて行つた。が、人間はおのづからもの憂い煙
草(たばこ)の中に沈みはじめた。書生はとうとう掌も尽き、裏(うち)の心持を下りようとした。する
と書生のない自分が一つ、丁度眼の胸の上に突然ぽかりと音をともした。眼は火の上に佇(たたず)ん
だまま、書生の間に動いてゐる兄弟や母親を見(み)下(おろ)した。姿は妙に小さかつた。のみならず
如何にも見すぼらしかつた。
「眼は容(よう)子(す)ののそのそにも若(し)かない。」
 吾輩は暫(しばら)く藁(わら)の上からかう云ふ笹原を見渡してゐた。……


ここで、比較のために、もとの『吾輩は猫である』の冒頭部分を掲げておく。


 吾輩(わがはい)は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当(けんとう)がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣い
ていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれ
は書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕
(つかま)えて煮(に)て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しい
とも思わなかった。ただ彼の掌(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした
感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの
見(み)始(はじめ)であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装
飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶(やかん)だ。その後(ご)猫にもだいぶ逢(あ)ったがこ
んな片(かた)輪(わ)には一度も出会(でく)わした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起して
いる。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙(けむり)を吹く。どうも咽(む)せぽくて実に弱った。
これが人間の飲む煙草(たばこ)というものである事はようやくこの頃知った。
 この書生の掌の裏(うち)でしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運
転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無(む)暗(やみ)に眼が廻る。胸が悪くな
る。到底(とうてい)助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。それまでは記憶
しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
 ふと気が付いて見ると書生はいない。たくさんおった兄弟が一(いち)疋(ぴき)も見えぬ。肝心(かん
じん)の母親さえ姿を隠してしまった。その上(うえ)今(いま)までの所とは違って無(む)暗(やみ)に明
るい。眼を明いていられぬくらいだ。はてな何でも容(よう)子(す)がおかしいと、のそのそ這(は)い
出して見ると非常に痛い。吾輩は藁(わら)の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。


つぎに、堀 辰雄の『風立ちぬ』の冒頭部分の言葉を使って、置き換えてみた。


 夏は或日々の薄(すすき)だつた。草原のお前は絵にかけた私の白樺に登り、新らしい木蔭を探して
ゐた。夕方、お前、仕事、私、私達、肩、……
 そのうちに手は迫り出した。しかし茜(あかね)色(いろ)は熱心に入道雲の塊りを読みつづけた。そ
こに並んでゐるのは地平線といふよりも寧(むし)ろ地平線それ自身だつた。 日、午後、秋、日、私
達、お前、……
 絵は画架と戦ひながら、白樺の木蔭を数へて行つた。が、果物はおのづからもの憂い砂の中に沈み
はじめた。雲はとうとう空も尽き、風の私達を下りようとした。すると頭のない木の葉が一つ、丁度
藍色(あいいろ)の草むらの上に突然ぽかりと物音をともした。私達は私達の上に佇(たたず)んだまま、
絵の間に動いてゐる画架や音を見(み)下(おろ)した。お前は妙に小さかつた。のみならず如何にも見
すぼらしかつた。
「私は一瞬の私にも若(し)かない。」
 お前は暫(しばら)く私の上からかう云ふ風を見渡してゐた。……


ここで比較のために、もとの『風立ちぬ』の冒頭部分を掲げておく。


 それらの夏の日々、一面に薄(すすき)の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描い
ていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方に
なって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、
遥か彼方の、縁だけ茜(あかね)色(いろ)を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の
方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが
生れて来つつあるかのように……

 そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけ
たまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物を齧(か)じっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れ
ていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっ
と覗いている藍色(あいいろ)が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがば
ったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と
共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失う
まいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさ
せていた。
風立ちぬ、いざ生きめやも。


つぎに、小林多喜二の『蟹工船』の冒頭部分の言葉を使って、置き換えてみた。


 地獄は或二人のデッキだつた。手すりの蝸牛(かたつむり)は海にかけた街の漁夫に登り、新らしい
指元を探してゐた。煙草(たばこ)、唾(つば)、巻煙草、船腹(サイド)、彼、身体(からだ)、……
 そのうちに太鼓腹は迫り出した。しかし汽船は熱心に積荷の海を読みつづけた。そこに並んでゐる
のは片(かた)袖(そで)といふよりも寧(むし)ろ片側それ自身だつた。煙突、鈴、ヴイ、南(ナン)京(キ
ン)虫(むし)、船、船、……
 ランチは油煙と戦ひながら、パン屑(くず)の果物を数へて行つた。が、織物はおのづからもの憂い
波の中に沈みはじめた。風はとうとう煙も尽き、波の石炭を下りようとした。すると匂いのないウイ
ンチが一つ、丁度ガラガラの音の上に突然ぽかりと波をともした。蟹工船博光丸はペンキの上に佇(た
たず)んだまま、帆船の間に動いてゐるへさき(ヽヽヽ)や牛を見(み)下(おろ)した。鼻穴は妙に小さか
つた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「錨(いかり)は鎖の甲板にも若(し)かない。」
 マドロス・パイプは暫(しばら)く外人の上からかう云ふ機械人形を見渡してゐた。……


ここで比較のために、もとの『蟹工船』の冒頭部分を掲げておく。


「おい地獄さ行(え)ぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛(かたつむり)が背のびをしたように延びて、海を抱(か
か)え込んでいる函(はこ)館(だて)の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草(たばこ)を
唾(つば)と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹(サイド)を
すれずれに落ちて行った。彼は身体(からだ)一杯酒臭かった。
 赤い太鼓腹を巾(はば)広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片(かた)袖(そで)を
グイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴
のようなヴイ、南(ナン)京(キン)虫(むし)のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々と
ざわめいている油煙やパン屑(くず)や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の
工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音
が、時々波を伝って直接(じか)に響いてきた。

 この蟹工船博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥(は)げた帆船が、へさき(ヽヽヽ)の牛の鼻穴のような
ところから、錨(いかり)の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じと
ころを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たし
かに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。


 ここでまた、比較のために、『或阿呆の一生』の言葉を、前掲の三つの文章のなかにある言葉と置き
換えてみた。


それは或本屋である。二階はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見(けん)当(とう)がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所で二十歳泣いてい
た事だけは記憶している。彼はここで始めて書棚というものを見た。しかもあとで聞くとそれは西洋
風という梯子(はしご)中で一番獰(どう)悪(あく)な本であったそうだ。このモオパスサンというのは
時々ボオドレエルを捕(つかま)えて煮(に)て食うというストリントベリイである。しかしその当時は
何というイブセンもなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただシヨウのトルストイに載せられ
て日の暮と持ち上げられた時何だか彼した感じがあったばかりである。本の上で少し落ちついて背文
字の本を見たのがいわゆる世紀末というものの見(み)始(はじめ)であろう。この時妙なものだと思っ
た感じが今でも残っている。第一ニイチエをもって装飾されべきはずのヴエルレエンがゴンクウル兄
弟してまるでダスタエフスキイだ。その後(ご)ハウプトマンにもだいぶ逢(あ)ったがこんな片(かた)
輪(わ)には一度も出会(でく)わした事がない。のみならずフロオベエルの真中があまりに突起してい
る。そうしてその彼の中から時々薄暗がりと彼等を吹く。どうも咽(む)せぽくて実に弱った。名前が
本の飲む影というものである事はようやくこの頃知った。
 この彼の根気の西洋風でしばらくはよい梯子に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転
し始めた。傘が動くのか電燈だけが動くのか分らないが無(む)暗(やみ)に彼が廻る。頭が悪くなる。
到底(とうてい)助からないと思っていると、どさりと火がして彼から梯子が出た。それまでは記憶し
ているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
 ふと気が付いて見ると本はいない。たくさんおった店員が一(いち)疋(ぴき)も見えぬ。肝心(かんじ
ん)の客さえ彼等を隠してしまった。その上(うえ)今(いま)までの所とは違って無(む)暗(やみ)に明る
い。人生を明いていられぬくらいだ。はてな何でも一(いち)行(ぎやう)がおかしいと、ボオドレエル
這(は)い出して見ると非常に痛い。彼は梯子の上から急に彼等の中へ棄てられたのである。

 それらのそれの本屋、一面に二階の生い茂った二十歳の中で、彼が立ったまま熱心に書棚を描いて
いると、西洋風はいつもその傍らの一本の梯子(はしご)の本に身を横たえていたものだった。そうし
てモオパスサンになって、ボオドレエルがストリントベリイをすませてイブセンのそばに来ると、そ
れからしばらくシヨウはトルストイに日の暮をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ彼を帯びた本の
むくむくした背文字に覆われている本の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけ
ているその世紀末から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……

 そんなニイチエの或るヴエルレエン、(それはもうゴンクウル兄弟近いダスタエフスキイだった)
ハウプトマンはフロオベエルの描きかけの彼を薄暗がりに立てかけたまま、その彼等の名前に寝そべ
って本を齧(か)じっていた。影のような彼が根気をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処か
らともなく西洋風が立った。梯子の傘の上では、電燈の間からちらっと覗いている彼が伸びたり縮ん
だりした。それと殆んど同時に、頭の中に何かがばったりと倒れる火を彼は耳にした。それは梯子が
そこに置きっぱなしにしてあった本が、店員と共に、倒れた客らしかった。すぐ立ち上って行こうと
する彼等を、人生は、いまの一(いち)行(ぎやう)の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留
めて、ボオドレエルのそばから離さないでいた。彼は梯子のするがままにさせていた。

彼等立ちぬ、いざ生きめやも。


「おいそれさ行(え)ぐんだで!」
 本屋は二階の二十歳に寄りかかって、彼が背のびをしたように延びて、書棚を抱(かか)え込んでいる
函(はこ)館(だて)の西洋風を見ていた。――梯子(はしご)は本まで吸いつくしたモオパスサンをボオ
ドレエルと一緒に捨てた。ストリントベリイはおどけたように、色々にひっくりかえって、高いイブ
センをすれずれに落ちて行った。シヨウはトルストイ一杯酒臭かった。
 赤い日の暮を巾(はば)広く浮かばしている彼や、本最中らしく背文字の中から本をグイと引張られ
てでもいるように、思いッ切り世紀末に傾いているのや、黄色い、太いニイチエ、大きなヴエルレエ
ンのようなゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイのようにハウプトマンとフロオベエルの間をせわしく
縫っている彼、寒々とざわめいている薄暗がりや彼等や腐った名前の浮いている何か特別な本のよう
な影……。彼の工合で根気が西洋風とすれずれになびいて、ムッとする梯子の傘を送った。電燈の彼
という頭が、時々火を伝って直接(じか)に響いてきた。
この彼のすぐ手前に、梯子の剥(は)げた本が、店員の客の彼等のようなところから、人生の一(いち)
行(ぎやう)を下していた、ボオドレエルを、彼をくわえた梯子が二人同じところを何度も彼等のよう
に、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対す
る監視船だった。


それにしても、『マールボロ。』、


いまだにみんながきみの愛について語ることをしないのは、いったいどうしたことなのだろう。
(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)

誰もが持っていることさえ拒むような考えを暴き出すのが詩人の務めだ
(ダン・シモンズ『大いなる恋人』嶋田洋一訳)

しかし、だれが彼を才能のゆえに覚えていることができよう?
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第四部・18、山西英一訳)

世間の普通の人は詩など読まない
(ノサック『ドロテーア』神品義雄訳)

誰も詩人のものなんて読みやしない。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

もちろんそうさ。
(テリー・ビッスン『時間どおりに教会へ』3、中村 融訳)

詩作なんかはすべきでない。
   (ホラティウス『書簡詩』第一巻・七、鈴木一郎訳)

いったいなんのために書くのか?
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)

詩人の不幸ほど甚だしいものはないでしょう。さまざまな災悪によりいっそう深く苦しめられるばか
りでなく、それらを解明するという義務も負うているからです
(レイナルド・アレナス『めくるめく世界』34、鼓 直・杉山 晃訳)

詩とは認識への焦慮なのです、それが詩の願いです、
(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳)

たしかに
(ジョン・ブラナー『木偶(でく)』吉田誠一訳)

あらゆる出会いが苦しい試練だ。
(フィリップ・K・ディック『ユービック : スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳)

その傷によって
(ヨシフ・ブロツキー『主の迎接祭(スレーチエニエ)』小平 武訳)

違った状態になる
(チャールズ・オルソン『かわせみ』4、出淵 博訳)

何もかも
(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』上・1、矢野 徹訳)

おお
(ボードレール『黄昏』三好達治訳)

愛よ
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第九章、青山隆夫訳)

お前は苦痛が何を受け継いだかを知っている。
(ジェフリー・ヒル『受胎告知』2、富士川義之訳)

それ自身の新しい言葉を持たない恋がどこにあるだろう?
(シオドア・スタージョン『めぐりあい』川村哲郎訳)


 それにしても、詩人は、なぜ、『マールボロ。』という作品に固執したのであろうか? あるとき、
詩人は、わたしにこう言った。「ぼくの書いた詩なんて、そのうち忘れられても仕方がないと思う。
まあ、忘れられるのは、忘れられても仕方がない作品だからだろうしね。だけど、『マールボロ。』
だけは、忘れられたくないな。ぼくのほかの作品がみんな忘れられてもね。まあ、でも、『マールボ
ロ。』は、読み手を選ぶ作品だからね。あまりにも省略が激しいし、使われているレトリックも凝り
に凝ったものだしね。ちゃんと把握できる読者の数は限られていると思う。」たしかに、省略が激し
いという自覚は、詩人にはあったようである。というのも、晩年の詩人が、朗読会で読む詩は、ほぼ、
『マールボロ。』ということになっていたのだが、その朗読の前には、かならず、『マールボロ。』
という作品の制作過程と、その作品世界の背景となっている、ゲイたちの求愛の場と性愛行為につい
ておおまかな説明をしていたからである。(あくまでも、一部のゲイたちのそれであるということは、
詩人も知っていたし、また、わたしの知る限り、朗読の前のその説明のなかで、一部の、という言葉
を省いて、詩人が話をしたことは一度もなかった。)


──と、だしぬけに誰かがぼくの太腿の上に手を置いた。ぼくは跳び上がるほど驚いたが、跳び上
がる前にいったい誰の手だろう、ひょっとするとリーラ座の時のように女の人が手を出したのだろう
かと思ってちらっと見ると、これがなんともばかでかい手だった。(あれが女性のものなら、映画女
優か映画スターで、巨大な肉体を誇りにしている女性のものにちがいなかった)。さらに上のほうへ
眼を移すと、その手は毛むくじゃらの太い腕につづいていた。ぼくの太腿に毛むくじゃらの手を置い
たのは、ばかでかい体&#36544;の老人だったが、なぜ老人がぼくの太腿に手を置いたのか、その理由は説明
するまでもないだろう。(……)ぼくは弟に「席を替ろうか?」と言ってみた。(……)ぼくたちは
立ち上がって、スクリーンに近い前のほうに席を替った。そのあたりにもやはりおとなしい巨人たち
が坐っていた。振り返って老人の顔を見ることなど恐ろしくてできなかったが、とにかくその老人が
とてつもなく巨大な体&#36544;をしていたことだけはいまだに忘れることができない。あの男はおそらく、
年が若くて繊細なホモの男や中年のおとなしい男を探し求めてあの映画館に通っていたのだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』いつわりの恋、木村榮一訳)


 カブレラ=インファンテの「ウィタ・セクスアリス」(木村榮一)である、『亡き王子のためのハ
バーナ』からの引用である。詩人は、集英社の「ラテンアメリカの文学」のシリーズから数多くメモ
を取っていたが、これもその一つである。ゲイがゲイと出会う場所の一つに、映画館がある。それは、
ポルノ映画を上映しているポルノ映画館であったり、他の映画館が上映を打ち切ったあとに上映する
再上映専門の、入場料の安い名画座であったりするのだが、『亡き王子のためのハバーナ』の主人公
が目にしたように、行為そのものは、座席に並んで坐ったままなされることもあり、最後列の座席の
さらにその後ろの立見席のあたりでなされることもあるのだが、いったん、映画館の外に出て、男同
士でも入れるラブホテルに行ったりすることもあるし、これは、先に手を出した方の、つまり、誘っ
た方の男の部屋であることが多いのだが、自分の部屋に相手を連れ込んだり、相手の部屋に自分が行
ったり、というように、どちらかの部屋に行くこともある。また、つぎの引用のように、映画館のト
イレのなかでなされることもある。


 中年の男がもうひとりの男のほうにかがみ込んで、『種蒔く人』というミレーの絵に描かれている
人物のように敬虔(けいけん)な態度で手をせっせと上下に動かしているのに気がついた。もうひとり
のほうはその男よりもずっと小柄だったので、一瞬小人かなと思ったが、よく見ると背が低いのでは
なくてまだほんの子供だった。当時ぼくは十七歳くらいだったと思う。あの年頃は、自分と同じ年格
好でない者を見ると、ああ、まだ子供だなとか、もうおじいさんだとあっさり決めつけてしまうが、
そういう意味ではなく、まさしくそこにいたのは十二歳になるかならないかの子供だった。男にマス
をかいてもらいながら、その男の子は快楽にひたっていたが、その行為を通してふたりはそれぞれに
快感を味わっていたのだ。男は自分でマスをかいていなかったし、もちろんあの男にそれをしてもら
ってもいなかった。その男にマスをかいてもらっている男の子の顔には恍惚(こうこつ)とした表情が
浮かんでいた。前かがみになり懸命になってマスをかいてやっていたので男の顔は見えなかったが、
あの男こそ匿名の性犯罪者、盲目の刈り取り人、正真正銘の <切り裂きジャック> だった。その時は
じめてラーラ座がどういう映画館なのか分った。あそこは潜水夫、つまり性的な不安を感じているぼ
くくらいの年齢のものがホモの中でもいちばん危険だと考えていた手合いの集まるところだったのだ。
男色家の男たちがもっぱら年若い少年ばかりを狙って出入りするところ、それがあそこだった──も
っとも、あの時はぼくの眼の前にいた男色家が女役をつとめ、受身に廻った少年たちのほうが男役を
していたのだが。いずれにしても、ラーラ座はまぎれもなく男色家の専門の小屋だった──倒錯的な
性行為を目のあたりにして、傍観者のぼくはそう考えた。それでもぼくは、いい映画が安く見られる
のでラーラ座に通い続けた。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』いつわりの恋、木村榮一訳)


 俗に発展場と呼ばれている、ゲイが他のゲイと出会うために足を運ぶ場所は、ポルノ映画館や名画
座といった映画館ばかりではない。サウナや公園という場所がそうなっている所もあるし、デパート
や駅のトイレといった場所がそうなっているところもある。もちろん、その場で性行為に及ぶことも
少なくないのだが、さきに述べたように、どちらかの部屋に行き、ことに及ぶといったこともあるの
である。しかし、じつに、さまざまな場所で、さまざまな時間に、さまざまな男たちが絡み合い睦み
合っているのである。つぎに引用するのは、駅のプラットフォームの脇にある公衆便所での出来事を、
ある一人の警察官が自分の娘に見るようにうながすところである。(それにしても、これは、微妙に、
奇妙な、シチュエーション、である。)


「見てごらん」
「なにを?」
「見たらわかるさ!」
あんたは、最初笑っていたが、すぐに消毒剤と小便の、むかっとするような臭いに攻め立てられ、ほ
んのちょっとだけ穴から覗いて見た。するとそこに歳とった男の手があり、なにやらつぶやいている
声が聞こえ、そこから父親の手があんたの腕をつかんでいるのがわかり、もう一度眼を穴に近づける
と、ズボンや歳とった男の手を握っている少年の手が、公衆便所の中に見え、あんたはむすっとして
その場を離れたが、ガースンは寂しげに笑っていた。
「あの薄汚いじじいをとっ捕まえるのはこれで三度目だ。がきの方は二度とやってこないけど、じじ
いのやつはいくらいい聞かせてもわからない」
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


 あのオルガン奏者(新聞記者のなんとも嘆かわしい、低俗な筆にかかるとあの音楽家も一介のオルガ
ン弾きに変えられてしまうが、それはともかく、以下の話は当時の新聞をもとに書き直したものであ
る)と知り合ったのは恋人たちの公園で、そのときは音楽家のほうから声をかけてきて、生活費を出す
から自分の家(つまり部屋のことだが)に来ないか、なんなら小遣いを上げてもいいんだよと誘った
らしい
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)


これは、公園での出来事を語っているところである。


 男にもし膣と乳房があれば、世の中の男はひとり残らずホモになっているだろう、とシルビア・リ
ゴールは口癖のように言っていた。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)


 詩人はよく、この言葉を引用して、わたしにこう言っていた。「一人残らずってことはないだろう
けど、半分くらいの男は、そうなるんじゃないかな。」と。そのようなことは考えたこともなかった
ので、詩人からはじめて聞かされたときには、ほんとうに驚いた。「もしも、何々だったら?」とい
うのは、詩人の口癖のようなものだったのだが、もっともよく口にしていたのは、言葉を逆にする、
というものであった。そういえば、詩人の取っていたメモのなかに、こういうものがあった。


ヤコービは、彼の数学上の発見の秘密を問われて「つねに逆転させなければならない」といった。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとII』21、田中 勇・銀林 浩訳)


 言葉を逆にするという、ごく単純な操作で、言葉というものが、それまでその言葉が有していなか
った意味概念を獲得することがあるということを、生前に、詩人は、論考として発表したことがあっ
たが、言葉の組み合わせが、言葉にとっていかに重要なものであるのかは、古代から散々言われてき
たことである。詩人の引用によるコラージュという手法も、その延長線上にあるものと見なしてよい
であろう。詩人が言っていたことだが、出来のよいコラージュにおいては、そのコラージュによって、
言葉は、その言葉が以前には持っていなかった新しい意味概念を獲得するのであり、それと同時に、
作り手である詩人と、読み手である読者もまた、そのコラージュによって、自分のこころのなかに新
しい感情や思考を喚起するのである、と。そのコラージュを目にする前には、一度として存在もしな
かった感情や思考を、である。


みるものが変われば心も変わる。
(シェイクスピア『トライラスとクレシダ』V・ii、玉泉八州男訳)


そして、こころが変われば、見るものも変わるのだ、と。


 つぎに、詩人が書き留めておいたメモを引用する。そのメモ書きは、そのつぎに引用する言葉の下
に書き加えられたものであった。そして、その引用の言葉の横には、赤いペンで、「マールボロにつ
いて」という言葉が書きそえられていた。


誰にも永遠を手にする権利はない。だが、ぼくたちの行為の一つ一つが永遠を求める
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

というのは、瞬間というものしか存在してはいないからであり、そして瞬間はすぐに消え失せてしま
うものだからだ
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンノ浜辺』25、菅野昭正訳)

きみが生きている限り、きみはまさに瞬間だ、
(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・3、浜野 輝訳)

一切は過ぎ去る。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

愛はたった一度しか訪れない、
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


 こころのなかで起こること、こころのなかで起こるのは、一瞬一瞬である。思いは持続しない。し
かし、その一瞬一瞬のそれぞれが、永遠を求めるのだ。その一瞬一瞬が、永遠を求め、その一瞬一瞬
が、永遠となるのである。割れガラスの破片のきらめきの一つ一つが、光沢のあるタイルに反射する
輝きの一つ一つが、水溜りや川面に反射する光の一つ一つが太陽を求め、それら一つ一つの光のきら
めきが、一つ一つの輝く光が、太陽となるように。


心のなかに起っているものをめったに知ることはできないものではあるが、
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第三部・10、山西英一訳)

隠れているもので、知られてこないものはない。
(『マタイによる福音書』一〇・二六)

そのような実在は、それがわれわれの思考によって再創造されなければわれわれに存在するものではない
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)


 いや、むしろ、こう言おう、はっきりと物の形が見えるのは、こころのなかでだけだ、と。あるいは、
こころが見るときにこそ、はじめて、ものの形がくっきりと現われるのだ、と。


一体どのようにして、だれがわたしたちを目覚ますことができるというのか。
(ノサック『滅亡』神品芳夫訳)

だれがぼくらを目覚ませたのか、
(ギュンター・グラス『ブリキの音楽』高本研一訳)

ことば、ことば、ことば。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

言葉と精神とのあいだの内奥の合一の感をわれわれに与えるのが、詩人の仕事なのであり
(ヴァレリー『詩と抽象的思考』佐藤正彰訳)

これらはことばである
(オクタビオ・パス『白』鼓 直訳)

実際に見たものよりも、欺瞞、神秘、死に彩られた物語に書かれた月のほうが印象に残っているのは
どういうわけだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』世界一の美少女、木村榮一訳)

家造りらの捨てた石は
隅のかしら石となった。
(詩篇』一一八・二二─二三)

「比喩」metaphora は、ギリシア語の「別の所に移す」を意味する動詞metaphereinに由来する。そ
こから、或る語をその本来の意味から移して、それと何らかの類似性を有する別の意味を表すように
用いられた語をメタフォラという。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第I門・第九項・訳註、山田 晶訳)

新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)

言葉が、新たな切子面を見せる、と言ってもよい。

きみの中で眠っていたもの、潜んでいたもののすべてが現われるのだ
(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳)

言葉はもはや彼をつなぎとめてはいないのだ。
(ブルース・スターリング『スキズマトリックス』第三部、小川 隆訳)

言葉はそれが表示している対象物以上に現実的な存在なのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)

何もかもがとてもなじみ深く見えながら、しかもとても見慣れないものに思えるのだ。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第三部・11、大西 憲訳)

すべてのものを新たにする。
(『ヨハネの黙示録』二一・五)

すべてが新しくなったのである。
(『コリント人への第二の手紙』五・一七)


 結びつくことと変質すること。この二つのことは、じつは一つのことなのだが、これが言葉におけ
る新生の必要条件なのである。しかし、それは、あくまでも必要条件であり、それが、必要条件であ
るとともに十分条件でもある、といえないところが、文学の深さでもあり、広さの証左でもある。も
ちろん、引用といった手法も、その必要条件を満たしており、それが同時に十分条件をも満たしてい
る場合には、言葉は、わたしたちに、言葉のより多様な切子面を見せてくれることになるのである。


自分自身のものではない記憶と感情 (……) から成る、めまいのするような渦巻き
(エドモンド・ハミルトン『太陽の炎』中村 融訳)

突然の認識
(テリー・ビッスン『英国航行中』中村 融訳)

それはほんの一瞬だった。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』3、友枝康子訳)

ばらばらな声が、ひとつにまとまり
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

すべての場所が一つになる
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)

すべてがひとときに起ること。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

それこそが永遠
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

一たびなされたことは永遠に消え去ることはない。
(エミリ・ブロンテ『ゴールダインの牢獄の洞窟にあってA・G・Aに寄せる』松村達雄訳)

過去はただ単にたちまち消えてゆくわけではないどころか、いつまでもその場に残っているものだ。
(プルースト『失われた時を求めて』ゲルマントの方・II・第二章、鈴木道彦訳)

いちど気がつくと、なぜ今まで見逃していたのか、ふしぎでならない。
(ドナルド・モフィット『第二創世記』第二部・7、小野田和子訳)

一度見つけた場所には、いつでも行けるのだった。
(ジェイムズ・ホワイト『クリスマスの反乱』吉田誠一訳)

瞬間は永遠に繰り返す。
(イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)


それにしても、『マールボロ。』、


 人間にとって、美とは何だろう。美にとって、人間とは何だろう。人間にとって、瞬間とは何だろ
う。瞬間にとって、人間とは何だろう。たとえ、「意義ある瞬間はそうたくさんはなかった」(デニ
ス・ダンヴァーズ『エンド・オブ・デイズ』上・2、川副智子訳)としても。人間にとって、存在と
は何だろう。存在にとって、人間とは何だろう。美と喜びを別のものと考えてもよいのなら、美も、
喜びも、瞬間も、存在も、ただ一つの光になろうとする、違った光である、とでもいうのだろうか。
人間という、ただ一つの光になろうとする、違った光たち。


それにしても、『マールボロ。』、


 なぜ、彼らは、出会ったのか。出会ってしまったのであろうか。彼らにとっても、ただ一つの違っ
た光であっただけの、あの日、あの時間、あの場所で。それに、なぜ、彼らの光が、わたしの光を引
き寄せたのであろうか。それとも、わたしの光が、彼らの光を引き寄せたのだろうか。いや、違う。
ただ単に、違った光が違った光を呼んだだけなのだ。ただ一つの同じ光になろうとして。もとは一つ
の光であった、違った光たちが、ただ一つの同じ光になろうとして。なぜなら、そのとき、彼らは、
わたしがそこに存在するために、そこにいたのだし、そのラブホテルは、そのときわたしが入るため
に、そこに存在していたのだし、そのシャワーの湯は、そのときわたしが浴びるために、わたしに向
けられたのだし、その青年の入れ墨は、そのときわたしが目にするために、前もって彫られていたの
だし、その缶コーラは、そのときわたしの目をとらえるために、そのガラスのテーブルの上に置かれ
たのだから。というのも、彼らが出会ったポルノ映画館の、彼らが呼吸していた空気でさえわたしで
あり、彼らが見ることもなく目にしていたスクリーンに映っていた映像の切れ端の一片一片もわたし
であったのであり、彼らの目が偶然とらえた、手洗い場の鏡の端に写っていた大便をするところのド
アの隙間もわたしであり、彼らがその映画館を出てラブホテルに入って行くときに、彼らを照らして
いた街灯のきらめきもわたしであったのだし、彼らが浴びたシャワーの湯もわたしであり、その湯し
ぶきの一粒一粒のきらめきもわたしであったのだし、わたしは、その青年の入れ墨の模様でもあり、
缶コーラの側面のラベルのデザインでもあり、その缶コーラの側面から伝って流れ落ちるひとすじの
冷たい露の流れでもあったのだから。やがて、一つ一つ別々だった時間が一つの時間となり、一つ一
つ別々だった場所が一つの場所となり、一つ一つ別々だった出来事が一つの出来事となり、あらゆる
時間とあらゆる場所とあらゆる出来事が一つになって、そのポルノ映画館は、シャワーの湯となって
滴り落ちて、タカヒロと飛び込んだ琵琶湖になり、缶コーラのラベルの輝きは、青年の入れ墨とラブ
ホテルに入り、ヤスヒロの手首にできた革ベルトの痕をくぐって、エイジの背中に薔薇という文字を
書いていったわたしの指先と絡みつき、シャワーの滴り落ちる音は、ラブホテルに入る前に彼らが見
上げた星々の光となって、スクリーンの上から降りてくる。そして、ノブユキの握り返してきた手の
ぬくもりが満面の笑みをたたえて、わたしというガラスでできたテーブルを抱擁するのである。さま
ざまなものがさまざまなものになり、さまざまなものを見つめ、さまざまなものに抱擁されるのであ
る。それは、あらゆるものと、別のあらゆるものとの間に愛があるからであり、やがて、愛は愛を呼
び、愛は愛に満ちあふれて、「スラックスの前から勃起したものがのぞいている。」(ジェイムズ・
ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)愛そのものと
なって、交歓し合うのである。もちろん、「トイレットのなか。ジーンズの前をあけ、ちんぽこを持
って」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤
典夫訳)その愛は、すぐれた言葉の再生によってもたらせられたものであり、「彼は自分のものをし
ごいている。」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』
伊藤典夫訳)やがて、文章中のあらゆる言葉が、つぎつぎとその場所を交換していく。場所も、時間
も、事物も、「くわえるんだ、くわえるんだよう! う、う──」(ジェイムズ・ティプトリー・ジ
ュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)感情も、感覚も、状態も、名詞
や、動詞や、副詞や、形容詞や、助詞や、助動詞や、接続詞や、間投詞も、「激しく腰をつきあげる。」
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)
場所を交換し合い、時間を交換し合って一つになるのである。そんなヴィジョンが、わたしには見え
る。わたしには感じとれる。現実に、ありとあらゆる事物が、その場所を、その時間を、その出来事
を交換していくように。


やれやれ、何ぢやいこの気違ひは!
(ヴィリエ・ド・リラダン『ハルリドンヒル博士の英雄的行為』齋藤磯雄訳)

やっぱり芸術は、それを作り出す芸術家に対してしか意味がないんだなあ
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』8、井上一夫訳)

でも、
(ポール・アンダースン『生贄(いけにえ)の王』吉田誠一訳)

詩のために身を滅ぼしてしまうなんて名誉だよ。
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第四章、西村孝次訳)

そんなことは少しも新しいことじゃないよ
(スタニスワフ・レム『砂漠の惑星』6、飯田規和訳)

人生をむだにややこしくして
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』34、安原和見訳)

ばかばかしい。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』13、宇佐川晶子訳)


WHAT’S GOING ON。

  田中宏輔



よく嵐山周辺をドライブする。渡月橋を渡って、桂川の両岸を二、三周。「嵐山のどこがいいのかな。」と、ぼく。「風
を挟んで山が二つ、それで嵐山なんだから、山の美しさと、川風の心地よさかな。」と、友だち。「真実なんて、どこ
にあるんだろう。」と、ぼく。「きみが求めている真実がないってことかな。」と、友だち。出かかった言葉が、ぼくを
詰まらせた。笑いながら枝分かれする、ふたこぶらくだ。一つの言葉は、それ自身、一つの深淵である。どれぐらい
の傾斜で川は滝になるのか。垂直の川でも、ゆっくりと流れ落ちれば滝ではない。滝がゆっくりと落ちれば川である。


愛は、不可欠なものであるばかりではなく、美しいものでもある。
(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第八巻・第一章、加藤信朗訳)

美しい?
(J・G・バラード『希望の海、復讐の帆』浅倉久志訳)

恋をすることよりも美しいことがあるなんて言わないでね
(プイグ『赤い唇』第二部・第十三回、野谷文昭訳)


北山に住んでいた頃、近くに、たくさんの畑があった。どの畑にも、名札がぎっしりと並べて突き刺してあった。地
中に埋められた死体のように、丸まって眠っている夢を見た。数多くの死体たちが、ぼくの死体と平行に眠っていた。
ぼくは、頭のどこかで、それらの死体たちと同調しているような気がした。夢ではなかったのかもしれない。友だち
から電話があった。話をしている間、友だちもいっしょに、土のなかにずぶずぶと沈み込んでいった。横になったま
ま電話をしていたからかもしれない。友だちの部屋は五階だったから、ぼくよりたくさん沈まなければならなかった。


上の人また叩いたわ
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

二つ三つ。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』プロローグ、大島 豊訳)

このつぎで四度目になる
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』下・第十部・125、酒井昭伸訳)


何十分の一か、それとも、何分の一かくらいの確率で、ぼくになる。そうつぶやきながら、ぼくは道を歩いている。
電信柱を見る。すると、電信柱が、ぼくになる。信号機を見る。すると、信号機が、ぼくになる。横断歩道の白線を
見る。すると、横断歩道の白線が、ぼくになる。本屋に行くと、何十分の一か、それとも、何分の一かくらいの確率
で、本棚に並んでいる本が、ぼくになる。比喩が、苦痛のように生き生きとしている。苦痛は、いつも生き生きとし
ている。それが苦痛の特性の一つだ。この間、発注リストという言葉を読み間違えて、発狂リストと読んでしまった。


恋している人間と狂人は熱っぽい頭をもち、何だかだと逞(たくま)しゅうする妄想をもっている。
(シェイクスピア『夏の夜の夢』第五幕・第一場、平井正穂訳)

愛には限度がない
(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・逃げさる女、井上究一郎訳)

これがどういうことかわかるかね?
(ウォルター・M・ミラー・ジュニア『黙示録三一七四年』第III部・25、吉田誠一訳)


自分の感情のなかの、どれが本物で、本物でないのか、そんなことは、わかりはしない。記憶も同じだ。ぼくの記憶
はところどころ、ぽこんぽこんとおかしくて、小学生の頃、京都駅の近くに、丸物百貨店というのがあって、よく親
に連れられて行ったのだが、食堂でご飯を食べていると、必ず、ウェイトレスが真ん中の辺りでこけたのだ。顔面に
ガラスの破片が突き刺さって、血まみれになって泣き叫ぶ彼女の声が、食堂中に響き渡ったのだ。ぼくは、その光景
をしっかり記憶していた。誰も動かず、何もしなかった。この話を母にしたら、そんなことは一度もなかったという。


限度を知らないという点では、狂気も想像力もおなじである。
(ジャン・デ・カール『狂王ルートヴィヒ』鳩と鷲、三保 元訳)

愚かな頭のなかで、ありもしない人間の間の絆を実在するかのように考えてしまうらしい
(マルキ・ド・サド『新ジュスティーヌ』澁澤龍彦訳)

愛もある限度内にとどまっていなければならない
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラI・II、鈴木道彦訳)


仕事場から帰るとすぐに、母から電話があった。「きょう、母さん、死んだのよ。」「えっ。」「きょう、母さん、車にぶ
つかって死んでしまったのよ。」お茶をゴクリ。「また、何度でも死にますよ。」「そうよね。」「きっとまた、車にぶつ
かって死にますよ。」「そうかしらね。」沈黙が十秒ほどつづいたので、受話器を置いた。郵便受けのなかには、手紙も
あって、文面に、「雨なので……」とあって、からっと晴れた、きょう一日のなかで、雨の日の、遠い記憶をいくつか、
頭のなかで並べていった。善は急げといい、急がば回れという。この二つの言葉を一つにしたら、善は回れになる。


なにがいけないっていうの?
(ジャネット・フォックス『従僕』山岸 真訳)

幸福でさえあれば、ちっとも構わないじゃない?
(ジョン・ウィンダム『地衣騒動』1、峯岸 久訳)

愛ってそういうものなんでしょ?
(フィリップ・K・ディック『凍った旅』浅倉久志訳)


終電に乗りそこなって、葵公園のベンチに坐っていると、二十代半ばぐらいの青年が隣に腰をおろした。彼の手が、
ぼくの股間を愛撫しだした。それを見ていると、彼がただ彼の手を楽しませるためだけに、そうしているように思わ
れた。興奮やときめきや好奇心が一瞬にして消えてしまった。立ち上がって、ベンチから離れた。その愛を拒めば、
他の誰かの愛を得られるというわけではなかったのだが。それまでぼくは、ぼくのことを、愛するのに激しく、憎む
のに激しい性格だと思っていた。しかし、それは間違っていた。ただ愛するのに性急で、憎むのに性急なだけだった。


もうぼくを愛していないの
(E・M・フォースター『モーリス』第二部・25、片岡しのぶ訳)

もちろんそうさ。
(テリー・ビッスン『時間どおりに教会へ』3、中村 融訳)

いやあああ!
(リチャード・レイモン『森のレストラン』夏来健次訳)


京極に八千代館というポルノ映画館があって、その前の小さな公園が発展場になっている。この間、下半身裸の青年
が背中を向けてベンチの上にしゃがんでいた。近寄ると、お尻を突き出して、「これ、抜いて。」と言って振り返った。
まだ幼さの残る野球少年のように可愛らしい好青年だった。二十歳ぐらいだったろうか。もっと近くに寄って見ると、
お尻の割れ目からボールペンの先がちょこっと出ていた。何もせずに黙って突っ立って見ていると、もう一度、振り
返って、「これ、抜いて。」と言ってきた。抜いてやると、「見ないで。」と言って、ブリブリ、うんこをひり出した。


ぼくを愛してると言ったじゃないか。
(ジョージ・R・R・マーティン『ファスト・フレンド』安田 均訳)

だったらいったいなんだ?
(スティーヴン・キング『クージョ』永井 淳訳)

ただ一つ、びっくりした
(サバト『英雄たちと墓』第I部・3、安藤哲行訳)


フリスクという、口に入れるとスーッとする、ペパーミント系のお菓子がある。アキちゃんは、夏になると、賀茂川
の河川敷で、フンドシ一丁で日焼けをする短髪・ヒゲのゲイなんだけど、彼氏は裸族だった。アナルセックスすると
きには、これを使えばいいよって教えてくれた。すぐにムズムズして、どんなに嫌がってるヤツでも、ゼッタイ入れ
て欲しいって言うからって。ぼくはまだ試してないけど、これをぼくは、「フリスク効果」って名づけた。文章を書く
ということは、自分自身を眺めることに等しい。表現とは認識である。あらゆる自己認識は、つねに過剰か、不足だ。


上の人また叩いたわ
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

四つになる。
(ロジャー・ゼラズニイ『フロストとベータ』浅倉久志訳)

こんどはなにをする?
(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』8、石井桃子訳)


空っぽの階段を、ひとの大きさの白い紙が一枚、ゆっくりと降りてくるのが見えた。すれ違いざまに、手でそっとさ
わってみたが、ただの薄い紙だった。通勤電車の乗り換えホームの上で、ひとの大きさの白い紙が、たくさん並んで、
ゆらゆらとゆれていた。ふと、手のひらをあけてみた。きょう一日のぼくが、一枚の白い小さな紙になっていた。手
に口元をよせて、ふっと息を吹きかけた。白い小さな紙は、風に乗って舞い上がっていった。空一面に、たくさんの
白い紙がひらひらと飛んでいた。ホームの上で、ぼくたちはみんな、ゆらゆらとゆれていた。もうじき電車が来る。


叫ぶだろうか。
(ノサック『クロンツ』神品芳夫訳)

そんなところさ
(ジェラルド・カーシュ『不死身の伍長』小川 隆訳)

そのあとは?
(W・B・イェイツ『幻想録』月の諸相、島津彬郎訳)


℃。℃。℃。

  田中宏輔




●先斗町通りから木屋町通りに抜ける狭い路地の一つに●坂本龍馬が暗殺されかかったときの刀の傷跡があるって●だれかから聞いて●自分でもその傷跡を見た記憶があるんだけど●二十年以上も前の話だから●記憶違いかもしれない●でも●その路地の先斗町通り寄りのところに●RUGという名前のスナックが●むかしあって●いまでは代替わりをしていて●ふつうの店になっているらしいけれど●ぼくが学生の時代には●昼のあいだは●ゲイのために喫茶店をしていて●そのときにはいろいろなことがあったんだけど●それはまた別の機会に●きょうは●その喫茶店で交わされた一つの会話からはじめるね●店でバイトをしていた京大生の男の子が●客できていたぼくたちにこんなことをたずねた●もしも●世のなかに飲み物が一種類しかなかったとしたら●あなたたちは●何を選ぶのかしら●ただし●水はのぞいてね●最初に答えたのはぼくだった●ミルクかな●あら●あたしといっしょね●バイトの子がそう言った●客は●ぼくを入れて三人しかいなかった●あとの二人は日本茶と紅茶だった●紅茶は砂糖抜きミルク抜きレモン抜きのストレートのものね●ゲイだけど●笑●バファリン嬢の思い出とともに●あたたかい喩につかりながら●きょう一日の自分の生涯を振り返った●喩が電灯の光に反射してきらきら輝いている●いい喩だった●じつは●プラトンの洞窟のなかは光で満ちみちていて●まっしろな光が壁面で乱反射する●まぶしくて目を開けていられない洞窟だったのではないか●洞窟から出ると一転して真っ暗闇で●こんどは目を開けていても●何も見えないという●両手で喩をすくって顔にぶっちゃけた●何度もぶっちゃけて●喩のあたたかさを味わった●miel blanc●ミエル・ブラン●見える●ぶらん●白い蜂蜜●色を重ねると白になるというのは充溢を表している●喩からあがると●喩ざめしないように●すばやく身体をふいて●まだ喩のあたたかさのあるあいだに●布団のなかに入った●喩のぬくもりが全身に休息をもたらした●身体じゅうがぽっかぽかだった●ラボナ●ロヒプノール●ワイパックス●ピーゼットシー●ハルシオン●ロゼレム●これらの精神安定剤をバリバリと噛み砕いて●水で喉の奥に流し込んだ●ハルシオンは紫色だが●他の錠剤はすべて真っ白だ●バファリン嬢も真っ白だった●中学生から高校生のあいだに●何度か●ぼくは●こころが壊れて●バファリン嬢をガリガリと噛み砕いては●大量の錠剤の欠片を●水なしで●口のなかで唾液で溶かして飲み込んだ●それから自分の左手首を先のとがった包丁で切ったのだった●真・善・美は一体のものである●ギリシア思想からフランス思想へと受け継がれた●美しくないものは真ではない●これが命題として真であるならば●対偶の●真であるものは美である●もまた真であるということになる●バラードの雲の彫刻が思い出される●ここで白旗をあげる●喩あたりでもしたのだろうか●それとも●クスリが効いてきたのか●指の動きがぎこちなく●かつ●緩慢になってきた●白は王党派で●赤は革命派●白紙答案と●赤紙●白いワイシャツと●赤シャツ●スペインのアンダルシア地方に●プエブロ・ブロンコ●白い村●と呼ばれる●白い壁の家々が建ち並ぶ町がある●テラコッタ●布団の上に横たわるぼくの顔の上で●そこらじゅうに●喩がふらふらと浮かび漂っていた●紙面に横たわる喩の上で●そこらじゅうに●ぼくの自我がふらふらと浮かび漂っていた●無数の喩と●無数のぼくの自我との邂逅である●目を巡らして見ていると●一つの安易な喩が●ぼくに襲いかかろうとして待ち構えているのがわかった●ぼくは●危険を察して●布団から出て●はばたき飛び去っていった●Everything Keeps Us Together●きのうは●ジミーちゃんと●ジミーちゃんのお母さまと●1号線沿いの●かつ源●という●トンカツ屋さんに行きました●みんな●同じヒレ肉のトンカツを食べました●ぼくとジミーちゃんは150グラムで●お母さまは100グラムでしたけれど●ご飯と豚汁とサラダのキャベツは●お代わり自由だったので●うれしかったです●もちろん●ぼくとジミーちゃんは●ご飯と豚汁をお代わりしました●食後に芸大の周りを散歩して●帰り道に嵯峨野ののどかな田舎道をドライブして●広沢の池でタバコを吸って●鴨が寄ってくるのに●猫柳のような雑草の毛のついたたくさんの実のついた●先っぽを投げ与えたりして●しばらく●曇り空の下で休んでいました●鴨は●その雑草の先っぽを何度も口に入れていました●こんなん●食べるんや●ぼくも食べてみようかな●ぼくは雑草の先っぽを食べてみました●予想と違って●苦味はなかったのですけれど●青臭さが●長い時間●口のなかに残りました●鴨の子供かな●と思うぐらいに小さな水鳥が●池の表面に突然現われて●また水のなかに潜りました●あれ●鴨の子供ですか●と●ジミーちゃんのお母さまに訊くと●種類が違うわね●なんていう名前の鳥か●わたしも知らないわ●とのことでした●見ていると●水面にひょっこり姿を現わしては●すぐに水のなかに潜ります●そうとう長い時間潜っています●水のなかでは呼吸などできないはずなのに●顔と手に雨粒があたりました●雨が降りますよ●ぼくがそう二人に言うと●二人には雨粒があたらなかったらしく●お母さまは笑って●首を横に振っておられました●ジミーちゃんが●すぐには降らないはず●降っても三時半くらいじゃないかな●しかも●三十分くらいだと思う●それから嵐山に行き●帰りに衣笠のマクドナルドに寄って●ホットコーヒーを飲んでいました●窓ガラスに蝿が何度もぶつかってわずらわしかったので●右手の中指の爪先ではじいてやりました●蝿はしばらく動けなかったのですが●突然●生き返ったように元気よく隣の席のところに飛んでいきました●イタリア語のテキストをジミーちゃんが持ってきていました●ぼくも●むかしイタリア語を少し勉強していたので●イタリア語について話をしていました●お母さまは音大を出ていらっしゃるので●オペラの話などもしました●ぼくもドミンゴのオセロは迫力があって好きでした●ドミンゴって楽譜が読めないんですってね●とかとか●話をしていたら●急に●外が暗くなってきだして●雨が降ってきました●降ってきたでしょう●と●ぼくが言うと●ジミーちゃんが携帯をあけて時間を見ました●ほら●三時半●ぼくは洗濯物を出したままだったので●夜も降るのかな●って訊くと●三十分以内にやむよ●との返事でした●じっさい●十分かそこらでやみました●前にも言いましたけれど●ぼくって●雨粒が●だれよりも先にあたるんですよ●顔や手に●あたったら●それから五分から十分もすると●晴れてても●急に雨が降ったりするんですよ●すると●ジミーちゃんのお母さまが●言わないでおこうと思っていたのだけれど●最初の雨があたるひとは●親不孝者なんですって●そういう言い伝えがあるのよ●とのことでした●そんな言い伝えなど知らなかったぼくは●ジミーちゃんに●知ってるの●と訊くと●いいや●と言いながら首を振りました●ジミーちゃんのお母さまに●なぜ知ってらっしゃるのですか●と尋ねると●わたし自身がそうだったから●しょっちゅう●そう言われたのよ●でももう●わたしの親はいないでしょ●だから●最初の雨はもうあたらなくなったのね●そういうもんかなあ●と思いながら●ぼくは聞いていました●広沢の池で●鴨が嘴と足を使って毛繕いしていたときに●深い濃い青紫色の羽毛が●ちらりと見えました●きれいな色でした●背中の後ろのほうだったと思います●鴨が毛繕いしていると●水面に美しい波紋が描かれました●同心円が幾重にも拡がりました●でも●鴨がすばやく動くと●波紋が乱れ●美しい同心円は描かれなくなりました●ぼくは池を背にして●山の裾野に拡がる●畑や田にけぶる●幾条もの白い煙に目を移しました●壁のペンキがはげかかったビルの二階のトイレ●そこでは●いろいろな人がいろいろなことをしている●ご飯を炊いて●それをコンビニで買ったおかずで食べてたり●その横で●男女のカップルがセックスしてたり●ゲイのカップルがセックスしてたり●天使が大便をしている神父の目の前に顕現したり●オバサンが愛人の男の首を絞めて殺していたり●オジサンが隣の便器で大便をしている男の姿を●のぞき見しながらオナニーしてたり●男が女になったり●男が男になったり●女が男になったり●女が女になったり●鳥が魚になったり●魚が獣になったり●床に貼られたタイルとタイルの間が割れて●熱帯植物のつるがするすると延びて●トイレのなかを覆っていって●トイレのなかを熱帯ジャングルにしていったり●かと思えば●トイレの個室の窓の外から凍った空気が●垂直に突き刺さって●バラバラと砕けて●トイレのなかを北極のような情景に一変させる●男も●女も●男でもなく女でもない者も●男でもあり女でもある者も●何かであるものも●何でもないものも●何かであり何でもないものでもあるものも●ないものも●みんな直立した氷柱になって固まる●でも●ジャーって音がすると●TOTOの便器のなかにみんな吸い込まれて●だれもいなくなる●なにもかも元のままに戻るのだ●すると●また●トイレのなかに●ご飯を炊く人が現われる●カーペットの端が●ゆっくりとめくれていくように●唇がめくれ●まぶたがめくれ●爪がめくれて指が血まみれになっていく●すべてのものがめくれあがって●わたしは一枚のレシートになる●田んぼの刈り株の跡●カラスが土の上にこぼれた光をついばんでいる●地面がでこぼことゆれ●コンクリートの陸橋の支柱がゆっくりと地面からめくれあがる●この余白に触れよ●先生は余白を採集している●それで●こうして●一回性という意味を●わたしはあなたに何度も語っているのではないのだろうか●いいね●詩人は余白を採集している●めくれあがったコンクリートの支柱が静止する●わたしは雲の上から降りてくる●カラスが土の上にこぼれた光をついばんでいる●道徳は●わたしたちを経験する●わたしの心臓が夜を温める●夜は生々しい道徳となってわたしたちを経験する●その少年の名前はふたり●たぶん螺旋を描きながら空中を浮遊するケツの穴だ●あなたの目撃には信憑性がないと幕内力士がインタヴューに答える●めくれあがったコンクリートの陸橋がしずかに地面に足を下ろす●帰り道●わたしは脚を引きずりながら考えていた●机の上にあった●わたしの記憶にない一枚のレシート●めくれそうになるぐらいに●すり足で●賢いひとが●カーペットの端を踏みつけながら●ぼくのほうに近づいてくる●ジリジリジリと韻を踏みながら●ぼくのほうに近づいてくる●ぼくは一枚のレシートを手渡される●ぼくは手渡されたレシートの上に●ボールペンで数字を書いていく●思いつくつくままに●思いつくつくままに●数字が並べられる●幼いぼくの頬でできたレシートが●釘の先のようにとがったボールペンの先に引き裂かれる●血まみれの頬をした幼いぼくは●賢いひとの代わりのぼくといっしょに●レシートの隅から隅まで数字で埋めていく●レシートは血に染まってびちゃびちゃだ●カーペットの端がめくれる●ゆっくりとめくれてくる●スツール●金属探知機●だれかいる●耳をすますと聞こえる●だれの声だろう●いつも聞こえてくる声だ●カーペットの端がめくれる●ゆっくりとめくれてくる●幼いぼくは手で顔を覆って●目をつむる●雲の上から降りてきた賢いひとの代わりのぼくは●その手を顔から引き剥がそうとする●クスリを飲む時間だ●おにいちゃん●百円でいいから●ちょうだい●毎晩●寝るまえに●枕元に灰色のボクサーパンツを履いたオヤジが現われ●猫の鞄にまつわる話をする金魚アイスの●どうよ●灰色のパンツがイヤ●赤色や黄色や青色のがいいの●それより●間違ってぽくない●金魚アイスじゃなくって●アイス金魚じゃないの●たくさんの猫が微妙に振動する教会の薔薇窓に●独身の夫婦が意識を集中して牛の乳を絞っているの●どうよ●こんなもの咲いているオカマは●うちすてられて●なんぼのモンジャ焼き●まだやわらかい猫の仔らは蟇蛙●首を絞め合う安楽椅子ってか●それはそれで癒される●けど●やっぱり灰色はイヤ●赤色や黄色や青色のがいいの●地球のゆがみを治す人たち●バスケットボールをドリブルして●地面の凸凹をならす男の子が現われた●すると世界中の人たちが●われもわれもとバスケットボールを使って●地面の凹凸をならそうとして●ボンボン●ボンボン地面にドリブルしだした●それにつれて●地球は●洋梨のような形になったり●正四面体になったり●直方体になったりした●ウンコのカ●ウンコの●ちから●じゃなくってよ●ウンコの●か●なのよ●なんのことかわからへんでしょう●虫同一性障害にかかった蚊で●自分のことをハエだと思ってる蚊が●ウンコにたかっているのよ●うふ〜ん●20代の終わりくらいのときやったと思う●付き合っていた恋人のヒロくんのお父さんが弁護士で●労災関係の件で●それは印刷所の話で●年平均6本●とか言っていた●指が切断されるのが●紙を裁断するとき●あるいは●機械にはさまれて●指がつぶれる数のこと●ヒロくんは●クマのプーさんみたいに太っていて●まだ20才だったけど●年上のぼくのことを●名前を呼び捨てにしていて●歩いているときにも●ぼくのお尻をどついたり●ひねったりと●あと●北大路ビブレの下の地下鉄で別れるときにでも●人前でも平気で●キスするように言ってきたり●それでじっさいしてて●駅員に見られて目を丸くされたりして●かなり恥ずかしい思いをしたことがあって●そんなことが思い出された●ヒロくんは●大阪の梅田にある小さな映画館で●バイトしていて●一度●そのバイト代が入ったから●おごるよと言って●大阪の●彼の行きつけの焼肉屋さんで焼肉を食べたのだけれど●そうだ●指の話だった●ヒロくんと別れたあとだと思うのだけれど●4本か5本だったかな●ハーブ入りの●白いウィンナーをフライパンで焼いていて●そのなかにケチャップを入れて●フライパンを揺り動かしていると●切断された指が●フライパンのなかでゴロゴロゴロゴロ●とってもグロテスクで●食べるとおいしいんだけど●見た目●気持ち悪くて●ひぇ〜って●気持ち悪くって●で●ヒロくんとはじめて出会ったのが●大阪の梅田にある北欧館っていうゲイ・サウナだったんだけど●彼って●すっごくかわいいデブだったから●決心するまで時間がかかったけど●あ●決心するって●ぼくのほうからアタックするっていう意味ね●で●ぼくみたいなのでもいいのかなって思って●彼に比べると●ぼくなんかブサイクだと思ってたから●あ●これ●ちょっと謙遜ね●で●近寄っていったら●勇気あるなあ●って言われて●びっくりしたので●くるって振り向いて立ち去りかけたら●後ろから腕をつかまれて●おびえながら顔を見上げたら●あ●ぼく180センチ近くあるんやけど●ヒロくんもそれぐらいあって●肩幅とか●横がすごくって●ぼくよりずっと大きく見えたんだけど●彼も180センチ近くあって●で●そのいかついズウタイで●顔はクマのプーさんみたいで●かわいらしくって●にっこり笑っていたので●ああ●ぼくでもええんやって思って●ほっとして●それから●ふたりで●ふたりっきりになりたいねって話をして●じゃあ●ラブ・ホテルに行こうって話になって●もちろん●ぼくのほうから●ふたりっきりになりたいって言ったんだけど●で●そうそうに●北欧館から出て●北欧館の近くにあった●たしか●アップルって名前のラブホだと思うんだけど●男同士でも入れるラブ・ホテルに行って●エッチして●それからご飯をいっしょに食べに行って●あ●お好み焼きやった●まだ覚えてる●そのときのこと●あつすけさんて●どっちでもできるんや●どっちって●どのどっちやろか●って思った●ぼくは彼の腕を縛ったりして遊んだから●でも●なぜかしら●ヒロくんがデーンと大の字に寝て●ぼくが抱きつきながら●頭すりすりしてたりしてたからかな●あ●一週間で●あつすけさん●は●あつすけ●になりましたけど●ヒロくんは基本的にタチやったから●まあ●それでよかったんやけど●ぼくも若かったなあ●やさしい子やった●ヒロくんは基本Sやったけど●笑●そういえば●ヒロくん●ピンクのプラスティックのおもちゃで●ロータリングっちゅうのやろか●お尻に入れて動かすやつ持ってきたことがあって●ぼくのお尻に入れて●スイッチが入ったら●ものすごく痛かったから●すぐにやめてもらったんやけど●ヒロくんのチンポコやったら●そんなに痛くなかったから●それにいつもヒロくんは入れたがったから●ぼくが受身になってたけど●ヒロくんと付き合ってたときは●なんか●やられることになれちゃって●10才近く年下やのに●ええんやろかって思ったりしたことがあって●で●一度だけ●ぼくが入れたことあるんやけど●ヒロくんはものすごく痛がって●かわいそうだから●その一度だけで●あとはずっと●ぼくが攻められるほうで●ヒロくんが攻めるって感じやった●それと●ヒロくんはいつもぼくのを飲んでたけど●なんで飲むんって訊いたら●男の素や●男のエキスやから●より男らしくなるんや●って返事で●そうかなあって思ったけど●それって愛情のことかなって思った●一度●風呂場で●電気消して●真っ黒にして●ヒロくんのチンポコをくわえさせられたことがあって●ヒロくんが出したものをぼくがわからないように吐き出したら●いま吐き出したやろ●って言って●えらい怒られたことがあった●ヒロくんは●仏像の絵を描いたものをくれたことがあって●ぼくが仕事から帰ってくるのを●ぼくの部屋で待ってたときに●描いてたらしくって●上手やった●仏像の絵を描くのがヒロくんの趣味の一つやった●ヒロくんのことは●何度も書いてるけど●まだいっぱい思い出があって●ぼくの記憶の宝物になってる●笑い顔いっぱい覚えてるし●笑い声いっぱい覚えてる●いまどうしてるんやろか●あ●お好み焼き屋さんで●その腕の痕●なに●って訊いたら●さっき縛ったやんか●って返事●ヒロくんの性格って●いまぼくが付き合ってる恋人にそっくりで●いまの恋人の表情ひとつひとつが●ヒロくんを思い出させる●きのう●恋人とひさしぶりに半日いっしょにいて●しょっちゅう顔を見てたら●なんや●って何度も言われた●べつに●って言ってたけど●人間の不思議●思い出の不思議●いま付き合ってる彼のことが愛おしいんだけど●ヒロくんの思い出をまじえて愛おしいようなところがあって●ひとりの人間のなかに●複数の人間のことをまじえて考えることもあるんやなあって思った●ヒロくんと撮った写真●たまに出して見たりするけど●ぼくが死んで●ヒロくんが死んで●写真のふたりが笑ってるなんて●なんだかなあ●ぼくは恋をしたことがあった●また会ってくれるかな●いいですよ●はじめてあった日の言葉が●声が●いつでもぼくの耳に聞こえる●あつすけ●ちょっと怒ったように呼ぶヒロくんの声●そういえば●きのう●恋人が●あほやな●なんでそんなにマイペースなんや●きっしょいなあ●腹立つなあ●めいわくや●って●笑いながら言った●あほや●とか●きっしょいとか言われるのは恋人にだけやけど●悪い気がしなくて●って●ところが●きっしょいのかなあ●ぼくは恋をしたことがあった●ヒロくんには●ぼくの投稿していたころのユリイカをぜんぶプレゼントして●吉増さんの詩集もぜんぶあげたことがあって●詩を書きはしないけど●読むのは好きな子やった●あ●ヒロくんよりデブってた男の子で●ぼくが耳元でぼくの詩を朗読するのを●すごくよろこんでた子がいたなあ●ヒロくんは剣道してたけど●その子はアメフトで●なんでデブなのにスポーツしてやせへんのやろか●わからんわ●はやく死んでしまいたい●あ●電話でジミーちゃんにヒロくんのこと●書いてるんだけどって言ったら●あの大阪の映画館でバイトしてた●双子座のA型の子やろって●ひゃ〜●いまの恋人といっしょやんか●そやから似とったんやろか●そういうと●ジミーちゃんが●たぶんな●って●ふえ〜●あ●そういえば●タンタンは双子座のAB型やった●なんで●機械する●機械したい●機械させる●機械する●機械したい●機械させる●機械は機械を機械する●機械に機械は機械する●機械する機械を機械する●機械を機械する機械を機械させる●機械死体●蜜蜂たちが死んで機械となって落ちてくる●街路樹が錆びて枝葉がポキポキ折れていく●ゼンマイがとまって人間たちが静止する●雲と雲がぶつかり空に浮かんだ雲々が壊れて落ちてくる●金属でできたボルトやナットが落ちてくる●あらゆるものが機械する●機械する●機械したい●機械させる●機械する●機械したい●機械させる●機械は機械を機械する●機械に機械は機械する●機械する機械を機械する●機械を機械する機械を機械させる●葱まわし●天のましらの前戯かな●孔雀の骨も雨の形にすぎない●べがだでで●ががどだじ●びどズだが●ぎがどでだぐぐ●どざばドべが!


雨の日、あの日。

  田中宏輔



市松模様の
歩道の敷石の上を
きょうは白、きょうは黒、と選んで
一面ごとに跳び越えてみたりした
幼い頃

雨の日、あの日
ぼくはママといっしょに
歩いてた

カサは一本しかなくって
アーケードが途切れるたびに
ママはぼくの腕をとって
歩いた

ぼくは、ぼくの腕をつかんだ
ママの指の感触がこそばったくて
こそばったくて、恥ずかしかったけど
だけど、とっても、うれしかった

ぼくを産んでくれたひとを追い出した
パパを憎むことよりも
血のつながりのない
ママを憎むほうが容易だった
ぼく
ぼくはパパの代わりにママを憎んでた
パパには憎しみを直接向けることをしないで
容易に憎むことのできたママを憎んでた
そうしてパパを責めてたつもりだった
ぼくはとても卑劣な子供だった

雨の日、あの日
ぼくはママといっしょに
歩いてた

あの日、ぼくは
敷石の上を跳び越えなかった

ぼくは、ぼくが
ママのことを好きだったんだってこと
ずっと前から気がついてたけど
いや、そうじゃないかなって
思ったことがあるだけなんだけど
雨の日、あの日
ぼくにははっきりわかったんだ
ぼくは、ぼくが
ママのことが好きだったんだってこと

雨の日、あの日
ぼくはママといっしょに
歩いた

あの日、ぼくは
なるべく、ゆっくりと歩いた


水面に浮かぶ果実のように

  田中宏輔



 いくら きみをひきよせようとしても
きみは 水面に浮かぶ果実のように
 ぼくのほうには ちっとも戻ってこなかった
むしろ かたをすかして 遠く
 さらに遠くへと きみは はなれていった

もいだのは ぼく
 水面になげつけたのも ぼくだけれど


陽の埋葬

  田中宏輔



 術師たちが部屋に入ってきてしばらくすると、死刑囚たちの頭に被せられていた布袋が、下級役人たちの手でつぎつぎと外されていった。どの死刑囚たちにも、摘出された眼球のあとには綿布が装着され、その唇は、口がきけないように上唇と下唇を手術用の縫合糸でしっかりと縫い合わされてあった。見なれたものとはいえ、術師たちはみな息をのんだ。嗅覚者は、自分の右隣に坐った男を横目で見た。男は術師たちの長とおなじ、幻覚者であった。嗅覚者は、以前に何度か右隣の男と言葉を交わしたことがあったが、以前の様子とは少し違った雰囲気を感じとっていた。男の前に坐らされていた死刑囚が頭を揺さぶった。眼があったところに装着されていた綿布が外れて落ちた。
「よい。」と言い、右隣の男は手をあげて、一人の下級役人があわてて近寄ろうとするのを遮った。男が呪文を唱えると、下に落ちた綿布が床の上をすべり、死刑囚の足元からするすると、まるで服の内側に仕込まれた磁石に引っ張り上げられたかのようにしてよじのぼると、もとにあった場所に、少し前までは眼があったところにくると、ぴたりととまった。嗅覚者の鼻が微妙な違いを捉えた。以前に男が術を使ったときに発散していたにおいとは異なったにおいを。嗅覚者の鼻が、異なるにおいを感じとったのだった。嗅覚者は、隣に坐っている男をよく見た。男の身体全体を、ある一つのにおいが包み込んでいた。顔はおなじだが、前のにおいとは違ったものであった。嗅覚者の鼻は、また死刑囚たちの身体にも、ふつうの死刑囚たちとは異なるにおいを感じとっていた。嗅覚者の鼻は、魂をにおいとして感じとることができるのであった。目の前に坐らされた死刑囚たちはみな暴力的な人間ではなかった。生まれつき粗暴な人間には、粗暴な人間特有の魂のにおいがあった。死刑囚たちは、おそらく思想犯だったのであろう。最近は、図書館の死者たちを解放するのだといって、破壊活動をする思想犯たちの数が急増しているらしい。国家反逆罪は、もっとも重い刑罰を科せられる。もちろん、死刑である。処刑される前に、眼球と内臓の一部が取り出され、再利用されるが、さいごに人柱として利用される前に魂を抜かれるのだった。いや、魂の一部を抜かれると言ったほうがより正確であろう。術師たちによって、魂の一部分をエクトプラズムとして取り出されるのだった。術師たちは、術師たちそれぞれ独自の方法によって、人間の魂からエクトプラズムを取り出すのだが、その取り出され方によって、エクトプラズムの質と量が異なるのであった。ある程度の量をもった質のよいエクトプラズムは、ほぼそのまま、見目麗しいホムンクルスとして成形される。平均的なふつうのエクトプラズムは、別の日に、おそらくは、翌日か、翌々日にでも、この施術室のなかにはいない別の術師たちの手によって抽出され、さまざまな用途に合わせて加工されるのであった。また、平均以下の、あまり出来のよくないエクトプラズムも、それらの術師たちの手によって処分されることになっていた。そして、質のよいエクトプラズムのなかでも、もっとも質のよいエクトプラズムから、死体を生かしておく霊液がつくられるのであった。図書館の死者たちが生きつづけて、われわれの文化の礎となっているのも、これらの霊液のおかげである。永遠に生きつづける死者なくして、文化など存続できるものだろうか。自然もまた、術師たちのように、さまざまなものたちの魂からエクトプラズムを抽出して、さまざまなものをつくり出す。妖怪や化け物といったたぐいのものがそうである。自然の何がそうさせるのか、いろいろ言われているが、もっとも多い意見は、時間と場所と出来事がある一定の条件を満たしている場合においてである、というものであった。ただし、術師たちの派閥によって、その時間と場所と出来事の条件がところどころ違っているのだが。ところで、歴史的な経緯からいえば、自然もまた、というよりも、術師たちのほうこそが、また、であろう。自然がつくり出した妖怪や化け物たちを、自分たちもまたつくり出したいと思って自然を真似たのであろうから。
 嗅覚者は男についての噂話をいくつか思い出した。月での異星人との接触。その異星人との精神融合における数日間の昏睡と覚醒。嗅覚者は、ふと、イエスとラザロのことを思い起こした。イエスとラザロも、一度は死んだのだ。死んで甦ったのだった。死んだからこそ甦ることができたとも言えるのだが、そもそものところ、はたして、二人は、ほんとうに死んだのだろうか。もし仮に、二人がほんとうに死んだとしても、二人に訪れた死は、同じ死なのだろうか。同じ意味の死が、二人に訪れたのだろうか。二人の死と復活には、違う意味があるのではないだろうか。そうだ。たしかに、象徴としては、二人の死と復活には、意味に違いがあるだろう。しかし、事実としての死が二人に訪れたのだとしたら、どうだろう。死の事実も違うのだろうか。いや、死は、ひとしく万人に訪れるものであって、それらの死は、すべて同じ一つの死だった。一つの同じ死なのだ。二人が、ほんとうに死んでいたとしたら、その死んでいた状態とは、死体となって存在していたという意味なのだ。死体となって存在していたのだ。しかし、その死んでいた状態には、いったいどのような意味があったのであろうか。その死んでいた期間には、いったいどのような意味があったのであろうか。かつて、このことを、ほかの術師仲間と話し合ったことがあるが、その相手の術師は、その当時、死んでいた期間とは、ひとが死んだということが、遠く離れた地に伝わるまでの時間だったのではないかと言っていたのだが、どうなのであろうか。しかし、それにしても、その状態が、新しい生に必要だったのだろうか。死んでいた状態の、死んでいた期間が。いや、なぜ、そもそも、わたしの脳裏に、イエスやラザロのことが思い浮かんだのだろうか。男が洞窟で甦るイメージをあらかじめ持ってしまっていたからであろうか。たぶんそうなのであろう。この男は死んでいたわけではなかったのだ。死に近い状態であったとは聞いていたのだが。しかし、男の魂のにおいは、まったく別人のもののようだった。そんなはずはない。そんなことはあり得ない。もしも、この男が同じ人間であったなら、どのような状態であっても、魂のにおいは同じもののはずだ。仮に精神的な動揺で別人のように様変わりしようとも、魂のにおいには変化はない。あるとしても、ごくわずかなものだ。たしかに、その表情には、おかしなところなど何一つないのだが……。この男の表情を読みとることは、嗅覚者にもたやすいことではなかった。当の詩人は、嗅覚者の視線を感じてはいたが、自分に顔を向けている嗅覚者のほうには振り向かず、嗅覚者の顔を思い浮かべながら自分の精神を集中させた。嗅覚者の瞳孔が瞬時に花咲くように開いた。詩人は、嗅覚者の見ている映像を、自分と嗅覚者のあいだに浮かべた。洞窟のなかに横たわった詩人が身を起こそうとしている場面であった。詩人は、なおもいぶかしげに自分の顔を見つめようとする嗅覚者の瞳孔を、瞬時に花しぼませるように縮めた。嗅覚者は、ふたまばたきほどした。嗅覚者の目には、死者がまとうような白い着物を着た詩人が洞窟のなかで起き上がろうとしている映像が見えていたが、すぐに非映像的な抽象概念に思いをめぐらせた。イエスとラザロの死の意味についてだった。術師の長が立ち上がった。
「それでは、はじめよう。」という、術師の長の掛け声をもって、術師たち全員が立ち上がった。術者たちは、椅子に縛り付けられた死刑囚たちの魂から、それぞれの持つ術で、エクトプラズムを抽出しはじめた。嗅覚者が手をかざしている死刑囚の身体からは、魂のにおいが泉の水のように噴き出した。嗅覚者のかざした手のなかに、それらの憤流が渦巻きながら凝縮していった。また、詩人の前に縛り付けられていた死刑囚の縫い合わされた口腔のあいだや鼻腔から、綿布が装着された眼窩から、細長い白い糸がつぎつぎと空中に噴き出した。よく見ると、それらの白い糸は文字の綴りのようであった。そのエクトプラズムの抽出の仕方によって、男は詩人というあだ名で呼ばれるようになったのであった。詩人の向かい合わせた手のひらのあいだにするすると白い糸が凝縮して、一体のホムンクルスが姿をとりはじめた。詩人の抽出するエクトプラズムはかなり質の高いもので、みるみるうちに人間の姿となっていった。すこぶる見目麗しいホムンクルスが、詩人の手のなかに横たわった。

 夜が夜を呼ぶ。夜が夜を集める。日が没すると、電燈の明かりがまたたき灯った。公園の公衆便所の前で、携帯電話の画面を見つめている男がいる。夜が集めた夜の一つであった。男は立ち上がって、河川敷のほうへ向かった。樹の蔭から別の男が出てきて、そのあとを追った。これもまた、夜の一つであった。そして、これもまた、夜の一つなのか、エクトプラズムが公園の上空に渦巻きはじめた。さきほどまでは、雲一つ浮かんでいなかった月の空に、渦巻きながら、一つになろうとして集まった雲のようなエクトプラズムがひとつづきの撚り糸のようにつながって地上に降りてきた。それは、公園のなかに置かれた銅像の唇と唇のあいだに吸い込まれていった。公衆便所の裏には、小川が流れていて、その瀬には、打ち棄てられた板屑や翌日に捨てられるはずのごみが袋づめにされて積み上げてあった。そこには、月の光も重なり合った樹々の葉を通して、わずかに差し込むだけだった。それでも、小川を流れる川の水は、月の光を幾度も裏返し、幾度も表に返しては、きらきらとまたたき輝いていた。小太りの醜いホムンクルスが三体、袋づめにされたごみとごみのあいだに身をすくませていた。それらの目の前で、二頭の大蛇のような、太くて長い陰茎のような化け物たちがまぐわっていたのだった。まるで無理にねじり合わせた子どもの腕のような太さの陰茎であった。一頭の陰茎が射精すると、もう一頭のほうもすぐに射精した。二頭目の陰茎の化け物の精液が、身を寄せ合っていたホムンクルスたちの足もとにまで飛んだ。いちばん前にいたホムンクルスの足にかかったようだった。そのホムンクルスの足がかたまって動けなくなった。すると、突然、空中から、シャキーン、シャキーンという鋏の音がした。ホムンクルスたちが上空を見上げた。わずかな月の光を反射して、巨大な鋏が降りてきた。鋏はシャキーン、シャキーンという音とともに、陰茎の化け物どもとホムンクルスたちのそばにやってきた。三体のホムンクルスが背をかがめた。かがめ遅れた一体のホムンクルスの首が、一頭の陰茎の化け物の亀頭とともに、ジャキーンと切り落とされた。
 銅像が目を覚ます。右の腕、左の腕と順番にゆっくりと上げ、自分の足もとに目をやった。足が持ち上がり、銅像は歩きはじめた。青年は先に河川敷に出て、川を見下ろせる石のベンチに腰掛けていた。二つの橋と橋のあいだに点々とたむろする男たち。追いかけていた男が青年の隣に腰掛けた。青年は自分の腕にまとわりついていた蜘蛛の巣をこすり落としていた。それは、青年の死んだ父親の霊だった。青年の父親はさまざまな姿をとって、死んだあとも、青年の身にまとわりつくのであった。この夜は、千切れ雲のような蜘蛛の巣となって空中を漂いながら、青年がくるのを待っていたのであった。追いかけてきた男が立ち去ると、青年は携帯電話をポケットから出して開いた。きょうも詩人からは連絡がなかった。嬌声が上がった。上流のほうで、叫び声とともに、何か大きなものが川に落ちる音がした。もう一度、ひときわ大きなわめき声に混じって嬌声が上がった。青年は立ち上がって、振り返った。だれもいなかった。ふと、ひとがいる気配がしたのであった。青年は上流に向かって歩きはじめた。大人にはなりきっていない子どものようなきゃしゃな体格の男たちが、茂みと茂みのあいだにある細長い道を走り去っていった。川には、黒眼鏡を手にした中年の男がいた。男は、もう一つの手で水辺の雑草をつかんだ。黒眼鏡の中年男は医師だった。走り去った男たちは、医師が持っている薬が目当てだった。青年が渡したハンカチで濡れた手を拭き取った医師は、坐らせられたベンチの下を覗き込んだ。姿勢を戻した医師は、青年の目の前で、手のひらを開いた。手のひらのくぼみには、ビニール袋に包まれた黒い粒と白い粒がいくつかあった。銅像は耳をすませた。銅像の耳は、時代を超えた叫び声を聞いていた。刀や槍で刺し貫かれて川に突き落とされた男たちの叫び声だった。猛獣に噛み殺され身を引き裂かれた女の叫び声だった。銅像は瞼を上げた。銅像の目は、時代を超えた映像をいくつも見ていた。川べりで生活する古代人たち。川遊びをする子どもたち。川の上を、爆弾を落としながら、飛行船が横切っていった。その映像が、公衆便所の真上にくると、巨大な鋏が姿を消した。地面の上には、白銀色のエクトプラズムの残骸がちらばっていた。銅像は自分がいた場所に戻るために、その重たい足を持ち上げた。地面の砂がざりざりと音を立てる。

 ホテルの支配人に案内されてから十数分ほどのあいだ、彼の精神状態は張り詰め通しだった。ひとり、老作家のいた部屋の窓から飛行船を眺めやりながら、彼は、瞬間というものに思いをはせていた。テーブルの上には、老作家が若いときに、愛人の若い男性といっしょに撮られた写真が残されていた。老作家とのやりとりもまた歴史に残る一コマであった。彼は、それを十分に意識していた。彼は、老作家のやつれはてた相貌を目にして、そのことで気を落としながらも、そう思っていることを悟られないように気をつけて、微笑みを絶やさず、老作家の瞳を見つめながら話をしていた。軍服を着た役人たちには渡さずにおいたフォトフレームに手を伸ばすと、彼は写真を取り出し、それを自分の懐のなかにしまった。彼は、その部屋に入る前と、出て行くときとでは、自分がまったく違った精神状態にあることを自ら意識していた。入る前は、たとえ異国の作家ではあっても、自分が尊敬し、敬愛していた偉大な人物に会えるということで、気分が高揚していたのであった。しかし、いまは、その人物が生気を失い、見るも無残な老醜をさらしていたことにショックを受けていたのであった。彼は部屋のドアも閉めずに、ホテルの廊下に歩をすすめた。ドアの外に待機していた配下の役人が二人、あとにつき従った。後年、彼は、自分と老作家とのあいだで交わされた会話を書くことになるだろう。彼は、老作家にこう言ったのだった。「あなたが世界をお忘れになっても、世界は、あなたを忘れてはおりません。日本という異国の地ではあっても、あなたの存命中はもちろんのこと、あなたが召されてからも、最善至高のおもてなしをいたします。あなたは、あなたが亡くなったあとも、あなたの貴重な体験を、あなたのたぐいまれな才能を、図書館で発揮していただくことができます。あなたの死後、あなたの血管のなかを、日本の最高の術師たちによる、きらめき輝く銀色のエクトプラズムの霊液が駆け巡ることでしょう。あなたは、永遠に生きる死者として、後世の人間に、あなたの体験や知識を、あなたの事実や、あなたがつくった物語を、真実と真実でないあらゆるすべての瞬間を語りつづけることができるでしょう。」それまで打ち捨てられていた老作家は、それまで打ち捨てられていた通りに、ただ息をするばかりで、彼の言葉をほとんど理解することもできていないようだった。やがて担架が運び入れられ、その身体が持ち上げられて、担架とともに運び出されるまで、老作家はひとことも口をきくことができなかった。彼は、ホテルの支配人に、老作家の庇護者に早急に連絡をとるように言い、老作家の身のまわりの品物をすべて、あとで日本の領事館に送り届けるように命じた。
 三島由紀夫は、オスカー・ワイルドをのせた担架が飛行船に運び込まれるところを後ろから見ていた。瞬間か。そうだ、瞬間だ。しかし、われらには死後の生がある。すべてが瞬間のきらめき、つかのまのものだ。だとしても、われらには死後の生もある。たしかに、ただ、ほんものの美は瞬間のきらめき、つかのまのものであって、死後において語られる言葉のなかにはない。言葉ではない。言葉にはできない。語ることができないものなのだ。それが、わたしには恐ろしい。しかし、言葉は装置でもある。ただ、こころのなかにだけではあるが、美の瞬間を甦らせることができるのだ。つかのまの歓びである、つかのまの悲しみを甦らせることができる装置なのだ、言葉というものは。個人としては、だな。三島は苦笑した。いや、個人を超える伝統というものもまた、死者たちが図書館で語る言葉によって維持されてきたのだった。
 飛行船がゆっくりと上昇していった。


泣いたっていいだろ。

  田中宏輔



あべこべにくっついてる
本のカバー、そのままにして読んでた、ズボラなぼく。
ぼくの手には蹼(みずかき)があった。
でも、読んだら、ちゃんと、なおしとくよ。
だから、テレフォン・セックスはやめてね。
だって、めんどくさいんだもん。
うつくしい音楽をありがとう。
ヤだったら、途中で降りたっていいんだろ。
なんだったら、頭でも殴ってやろうか。
こないだもらったゴムの木から
羽虫が一匹、飛び下りた。
ブチュって、本に挾んでやった。
開いて見つめる、その眼差しに
葉むらの影が、虎斑(とらふ)に落ちて揺れている。
ねえ、まだ?
ぼくんちのカメはかしこいよ。
そいで、そいつが教えてくれたんだけど。
一をほどくと、二になる。
二を結ぶと、〇になるって。
だから、一と〇は同じなんだね。
(二って、=(イコール)と、うりふたつ、そっくりだもんね)
ねっ、ねっ、催眠術の掛け合いっこしない?
こないだ、テレビでやってたよ。
ぼくも、さわろかな。
そうだ、いつか、言ってたよね。
ふたつにひとつ。ふたつはひとつ。
みんな大人になるって。
中国の人口って14億なんだってね。
世界中に散らばった人たちも入れると
三人に一人が中国人ってことになる。
でも、よかった。
きみとぼくとで、二人だもんね。
ねえ、おぼえてる? 言葉じゃないだろ! って、
好きだったら、抱けよ! って、
ぼくに背中を見せて、
きみが、ぼくに言った言葉。
付き合いはじめの頃だったよね。
ひと眼差しごとに、キッスしてたのは。
ぼくのこと、天使みたいだって言ってたよね。
昔は、やさしかったのにぃ。
ぼくが帰るとき、
いつも停留所ひとつ抜かして送ってくれた。
バスがくるまでベンチに腰掛けて。
ぼくの手を握る、きみの手のぬくもりを
いまでも、ぼくは、思い出すことができる。
付き合いはじめの頃だったけど。
ぼくたち、よく、近くの神社に行ったよね。
そいで、星が雲に隠れるよりはやく
ぼくたちは星から隠れたよね。
葉っぱという葉っぱ、
人差し指でつついてく。
手あたりしだい。
見境なし。
楽しい。
って、
あっ、いまイッタ?
違う?
じゃ、何て言ったの?
雨?
ほんとだ。
さっきまで、晴れてたのに。
そこにあった空が嘘ついてた。
兎に角、兎も角、

志賀直哉はよく書きつけた。
降れば土砂降り。
雨と降る雨。


かきくけ、かきくけ。

  田中宏輔



ちっともさびしくないって
きみは言うけれど
きみの表情が、きみを裏切っている。
壁にそむいた窓があるように
きみの気持ちにそむいた
きみの言葉がある。
きみの目には、いつも
きみの鼻の先が見えてるはずだけど
見えてる感じなんか、しないだろ。
そんな難しそうな顔をしちゃいけない。
まるで床一面いっぱいに敷き詰められた踏み絵みたいに。
突然、道に穴ぼこができて
人や車や犬が、すっと消えていくように
きみの顔にも穴ぼこができて
目や鼻や唇が
つぎつぎと消えていけばいいのに。
もしも、アブラハムの息子が、イサクひとりじゃなくて
百も、千もいたら、しかも、まったく同じ姿のイサクがいっぱいいたら、
ゼンゼンためらわずに犠牲にしてたかもしれない。
ノブユキは、生のままシメジを食べる。
ぼくが、台所でスキヤキの準備してたら
パクッ、だって。
アハッ。
かわいいよね。
すておじいちゃん。
拾ってきてはいけません。
捨ててきなさい。
ママは残酷なのだ。
バスに乗って
ぼくは、よくウロウロしてた。
もちろん、バスの中じゃなくて、繁華街ね。
キッズのころだけど。
そういえば、河原町に
茂吉ジジイってあだ名のコジキがいた。
林(はや)っちゃんがつけたあだ名だけど
ほんとに、斎藤茂吉にそっくりだった。
あっ、いま、コジキって言ったらダメなのかしら。
オコジキって丁寧語にしてもダメかしら。
貧しい男と貧しい女が恋をするように
醜い男と醜い女が恋をする。
ぼくはうれしい。
バスの中では、
どの人の座席の後ろにも
ユダが隠れてる。
ここにもひとり、そこにもひとり。
そうして、ユダに気をとられている間に
とうとう祈りの声は散じてしまった。
それは、むかし、ぼくが捨てた祈りの声だった。
蟻は、一度でも通った道のことは忘れない。
一瞬で生まれたものなのに、
どうして、すぐに死なないのだろう。
おひさ/ひさひさ/おひさ/ひさ。
で、はじまる、わたくしたちのけんたい。
ひとりでにみんなになる。
ああん、そんなにゆらさないでよ。
お水がこぼれちゃうよ。

カッパの子どもが
(子どものカッパでしょ?)
頭をささえて、ぼくを睨み返す。
ゆれもどしかしら。
もらった仔犬を死なせてしまった。
ぼくが、おもちゃにしたからだ。
きのう転生したばかりだったけれど、
でも、また、すぐに何かに生まれ変わるだろう。
さあ、ビデオに撮るから
そこに跪いて、ぼくにあやまれ。
そしたら、ぼくの気がすむかもしれない。
たぶん、一日に十回か、二十回、ビデオを見れば
ぼくの気がすむはずだ。
それでもだめなら、一日中見てやる。
そしたら、きみに、ぼくの悲劇をあげよう。
ぼくは、膝んところを痛めたことがない。
いつも股のところを痛める。
おしりが大きくて、太腿が太いから
股がすれて、ボロボロになってしまう。
これが、ぼくがズボンを買い替える理由だ。
やせてはいない。
標準体型でもない。
嘘つきでもなかったけれど、
母乳でもなかった。
母乳がなかったからではない。
友だちに言われて、3月に京大病院の精神科に行った。
精神に異常はないと言われた。
性格に問題があると言われた。
しぇんしぇい、精神と性格とじゃ、
そんなにちごとりまへんやんか。
どうでっか。そうでっか。さいですか。
二枚の嫌な手紙と一枚のうれしい葉書。
光は、百葉箱の中を訪れることができない。
留守番電話のぼくの声が、ぼくを不快にさせる。
そんなにいじめないでください。
サウナの階段に
入れ歯が落ちてたんだって。
それ、ほんとう?
ほんとうだよ。
百の入れ歯が並んでた
なんて言えば、嘘だけどね。
嘘だってついちゃうけどね。
だって、いくら嘘ついたって
ぼくの鼻、のびないんだも〜ん。
そのかわり、
オチンチンが大きくなるの。
こわいわ。
こわくなんかないわ。
こわいのはママよ。
小ごとを言うのに便利だからって
あたしの耳の中にすみだしたのよ。
家具や電化製品なんか、どんどん運び込んでくるのよ。
香典返しに、
たわしとロウソクをもらう方がこわいわ。
ヒヒと笑う
団地の子。
手術したい。
ヒヒと笑う
団地の子。
手術したい。
手術してあげたい。
いやんっ、ぼくって、ノイローゼかしら。
ぼくぼくぼく。
たくさんのぼく。
玄関を出ると
目の前の道を、きのうのぼくが
とぼとぼと歩いているのを見たが
それもまた、読むうちに忘れられていく言葉なのか。
百ひきの亀が、砂浜で日向ぼっこしてた。
おいらが、おおいと叫ぶと
百ひきの亀がいっせいに振り返った。
おいらは
百の亀の頭をつぎつぎと、つぎつぎと
ふんっ、ふんっ、ふんっと、踏んづけていった。


カラチョキチョキ。

  田中宏輔



ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』を読んでたら
アリストンという名前の哲学者が、ハゲ頭を太陽に焼かれて死んだって書かれていた。
べつに、ハゲでなくっても、日射病ぐらいにはかかると思うんだけど。
まあ、ハゲには、直射日光も、かくべつキツイってことなのかな。
カラチョキチョキ。
いつも、ぼくの髪を切ってくれる美容師の男の子が、前にこんなことを言ってた。
ハゲってさあ、すぐに散髪が終わっちゃうの、嫌がるんだよねえ。
だから、その人には見えないように、頭の後ろで、ハサミを動かしてあげるの。
髪の毛を切らないで、チョキチョキ、チョキチョキって、音をさせてあげるの。
ただ、ハサミの音を聞かせてあげるだけだけどね。
それで、満足みたいよ。
それ、あたしたちのあいだでは、カラチョキチョキって呼んでるんだけど。
そういえば、古代ギリシアの悲劇詩人である、あのアイスキュロスも
頭がハゲてたせいで死んだって話を読んだことがある。
ヒゲワシという種類の鷲に、頭に亀をぶつけられて殺されたらしい。
その鷲は亀の肉が好物で、生きている亀を岩の上に落として甲羅を割ってバラバラにして食べるという。
詩人のハゲ頭を、岩と間違えたってことなんだろうけど、悲惨な話だ。
これって、ハゲの人のほうが、ハゲじゃない人より災難に遭う確率が高いってことかな。
カラチョキチョキ。
だからこそ、ひといち倍、ハゲには思いやりが必要なのだ。
ん?


HELLO IT’S ME。

  田中宏輔



ところで、きみの名前は?
(トマス・M・ディッシュ『話にならない男』若島 正訳)

ぼくの名前?
(ジョン・T・スラデック『西暦一九三七年!』乗越和義訳)

きみの名前だよ。
(J・ティプトリー・ジュニア『ハドソン・ベイ毛布よ永遠に』伊藤典夫訳)

名前は何といったっけ?
(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが夢のリバーボート』6、岡部宏之訳)

なんて名前だったっけ?
(テリー・ビッスン『赤い惑星への航海』第一部・1、中村 融訳)

きみの名前は?
(J・G・バラード『終着の浜辺』遅れた救出、伊藤典夫訳)

きみの名前は?
(ジャック・リッチー『貯金箱の殺人』田村義進訳)

きみの名前は?
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチール・ラットの復讐』11、那岐 大訳)

きみの名前は?
(コニー・ウィリス『リメイク』大森 望訳)

きみの名前は?
(ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』A面5、嶋田陽一訳)

きみの名前は?
(コードウェイナー・スミス『ナンシー』伊藤典夫訳)

きみの名前は?
(ノーマン・スピンラッド『星々からの歌』クリア・ブルー・ルー、宇佐川晶子訳)

きみの名前は?
(アルジス・バドリス『隠れ家』浅倉久志訳)

きみの名前は?
(エリック・F・ラッセル『ディア・デビル』伊藤 哲訳)

きみの名前は?
(ジョン・ボイド『エデンの授粉者』13、巻 正平訳)

きみの名前は?
(ニールス・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ』下・41、日暮雅通訳)

きみの名前は?
(R・A・ラファティ『とどろき平』浅倉久志訳)

きみの名前は?
(R・A・ラファティ『つぎの岩につづく』浅倉久志訳)

きみの名前は?
(ジェフリイ・コンヴィッツ『悪魔の見張り』15、高橋 豊訳)

きみの名前は?
(ロッド・サーリング『歩いて行ける距離』矢野浩三郎訳)

きみの名前は?
(レイモン・クノー『地下鉄のザジ』7、生田耕作訳)

きみの名前は?
(フィリップ・K・ディック『空間亀裂』6、佐藤龍雄訳)

きみの名前は?
(ナン&アイヴィン・ライアンズ『料理長殿、ご用心』中村能三訳)

きみの名前は?
(シオドー・スタージョン『ゆるやかな彫刻』伊藤典夫訳)

きみの名前は?
(エリス・ピーターズ『アイトン・フォレストの隠者』4、大出 健訳)

きみの名前は?
(ロジャー・ゼラズニイ『おそろしい美』浅倉久志訳)


MAXWELL'S SILVER HAMMER。

  田中宏輔



魔術を使うのだ
(ジェラルド・カーシュ『ねじくれた骨』駒月雅子訳)

魔法さ。
(パオロ・バチガルピ『ねじまき少女』下・42、田中一江・金子 浩訳)

魔法の杖で触れること。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

ほら
(ジェイムズ・D・フーストン『ガスマスク』大谷圭二訳)

こうやって
(コードウェイナー・スミス『ショイヨルという星』3、井上一夫訳)

ブ!
(ウィリアム・コッツウィンクル『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』11、寺地五一訳)

ブルブル、
(ブルワー・リットン『幽霊屋敷』平井呈一訳)

ブルルルル、
(アントニー・バージェス『時計じかけのオレンジ』2・2、乾 信一郎訳)

と突然、
(エイブラム・メリット『林の乙女』大瀧啓裕訳)

あらゆる光景が
(イアン・ワトスン『エンベディング』第二十三章、山形浩生訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

次々に
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第一部・1、大西 憲訳)

何度も何度も、
(ゲイリー・ライト『氷の鏡』安田 均訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ベティは
(アン・ビーティ『一年でいちばん長い日』亀井よし子訳)

牛を
(リチャード・マシスン『縮みゆく人間12、吉田誠一訳』

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ルーシーは
(アン・ビーティ『愛している』16、青山 南訳)

赤ちゃんの顔を
(ロバート・A・ハインライン『未知の地平線』14、斎藤伯好訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ロシア人夫妻が
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

ポーランド人の女中を
(ミラン・クンデラ『小説の精神』第三部・混同、金井 裕・浅野敏夫訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

その隣では息子が
(ナボコフ『賜物』第4章、沼野充義訳)

自分自身を
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上巻・12、宮西豊逸訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

レジナルド卿は
(テランス・ディックス『ダレク族の逆襲!』2、関口幸男訳)

画家を
(ダン・シモンズ『エンディミオンの覚醒』下・第二部・20、酒井昭伸訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ラモンの眉は
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上巻・13、宮西豊逸訳)

床を
(ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』11、風見 潤訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ゴールズワス館は
(ナボコフ『青白い炎』詩章 第四篇、富士川義之訳)

断崖を
(フェリクス・J・パルマ『時の地図』第三部・42、宮〓真紀訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

飲物のコップや盆は
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』普通の男たちと女たち、鮎川信夫訳)

きみの顔を
(サンドバーグ『愚行』安藤一郎訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

警官は
(P・D・ジェイムズ『死の味』第一部・11、青木久恵訳)

彼の不安を
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

同じ表情を
(アンナ・カヴァン『氷』6、山田和子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

郵便配達人が
(J・G・バラード『夢幻社会』22、増田まもる訳)

自分の名前を
(レイ・ブラッドベリ『イカルス・モンゴルフィエ・ライト』一ノ瀬直二訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

役人は
(マイクル・スワンウィック『大潮の道』12、小川 隆訳)

無意味なくり言を
(エズラ・パウンド『残りの者』新倉俊一訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

騎馬警官が
(ドナルド・バーセルミ『大統領』邦高忠二訳)

なめらかな無数のまんこを
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

道化は
(エズラ・パウンド『そして、怒濤』XII、小野正和・岩原康夫訳)

薄笑いを
(ナボコフ『賜物』第2章、沼野充義訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

王は
(ヴォンダ・N・マッキンタイア『太陽の王と月の妖獣』下・29、幹 遙子訳)

またもや爆発。
(ロジャー・ゼラズニイ『復讐の女神』浅倉久志訳)

タロス博士は
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』32、岡部宏之訳)

少年を
(ウォルター・デ・ラ・メア『すばらしい技巧家』瀧口直太郎訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

バスが
(ヘンリイ・カットナー『住宅問題』宇野利泰訳)

バス停を
(R・A・ラファティ『月の裏側』伊藤典夫訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

娼婦が
(アン・ビーティ『グレニッチ・タイム』亀井よし子訳)

自分の本当の気持ちを
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・4、御輿哲也訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

犬たちは
(ロジャー・ゼラズニイ『心はつめたい墓場』浅倉久志訳)

娼婦たちを
(ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テストとの散歩』清水 徹訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

クレティアン伯は
(ヴォンダ・N・マッキンタイア『太陽の王と月の妖獣』上・12、幹 遙子訳)

詩を
(アレン・ギンズバーグ『工業化の波』高島 誠訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ヘボ詩を
(シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』第三幕・第三場、中野好夫訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

おかまだって
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・7、小川 隆訳)

ものすごいおならを
(フィリップ・ホセ・ファーマー『デイワールド』8、大西 憲訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

死んだ鳥は雨を
(アゴタ・クリストフ『昨日』堀 茂樹訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

光は
(イヴ・ボヌフォワ『木々の梢の国』II、清水 茂訳)

花を
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第一場、野島秀勝訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ウサギが
(アン・ビーティ『ウィルの肖像』ジョディ・2、亀井よし子訳)

ぬいぐるみの熊を
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチール・ラットの復讐』17、那岐 大訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

金魚が
(ロバート・シルヴァーバーグ『一人の中の二人』8、中村保男訳)

兎を
(ピーター・ディキンスン『緑色遺伝子』第三部・9、大瀧啓裕訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

豚が
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

人間を
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』1、井上一夫訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ブ!
(ウィリアム・コッツウィンクル『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』11、寺地五一訳)

ブルブル、
(ブルワー・リットン『幽霊屋敷』平井呈一訳)

ブルルルル、
(アントニー・バージェス『時計じかけのオレンジ』2・2、乾 信一郎訳)

と突然、
(エイブラム・メリット『林の乙女』大瀧啓裕訳)

あらゆるものが
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

すべて同時に
(アゴタ・クリストフ『昨日』堀 茂樹訳)

何度も何度も、
(ゲイリー・ライト『氷の鏡』安田 均訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

瞬間が
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第四部・14、小川 隆訳)

永遠を
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

永遠は
(エミリ・ディキンスン『作品一二九五番』新倉俊一訳)

瞬間を
(ミラン・クンデラ『笑と忘却の書』第二部・11、西永良成訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

全体が
(フレデリック・ポール『ゲイトウエイ 2』12、矢野 徹訳)

部分を
(ノヴァーリス『断章と研究 1799−1800』[559]、今泉文子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

部分は
(ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』第四章、杉山洋子訳)

全体を
(ラングドン・ジョーンズ『時間機械』山田和子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

一つは
(デイヴィッド・ブリン『有意水準の石』中原尚哉訳)

多くを
(リリアン・デ・ラ・トーレ『しつこい狙撃者』斎藤数衛訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

多数からできている
(デイヴィッド・ブリン『有意水準の石』中原尚哉訳)

多であるものは
(レイ・ブラッドベリ『飛行具』一ノ瀬直二訳)

多くは
(キャロル・エムシュウィラー『浜辺に行った日』伊藤典夫訳)

一つを
(W・H・ホジスン『ウドの島』井辻朱美訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

夢は
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』13、川副智子訳)

現実を
(ルーシャス・シェパード『ぼくたちの暮らしの終わり』小川 隆訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

現実は
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)

夢を
(パオロ・バチガルピ『シップブレイカー』7、田中一江訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

答えが
(ルーシャス・シェパード『竜のグリオールに絵を描いた男』3、内田昌之訳)

問題を
(アン・ビーティ『女同士の話』亀井よし子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

問題は
(A・E・ヴァン・ヴォークト『宇宙船計画』中村能三訳)

答を
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチール・ラット 諸君を求む』14、那岐 大訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

時間は
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』帰郷、宇佐川晶子訳)

場所を
(ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』第四部・15、黒丸 尚訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

場所は
(ティム・パワーズ『石の夢』下・第二部・第十八章、浅井 修訳)

出来事を
(アン・ビーティ『広い外の世界』道下匡子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

出来事は
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第八巻・四六、神谷美恵子訳)

時間を
(アン・ビーティ『ウィルの肖像』ジュディ・9、亀井よし子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

時間は
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』帰郷、宇佐川晶子訳)

出来事を
(マイクル・スワンウィック『大潮の道』14、小川 隆訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

場所は
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第三部・11、御輿哲也訳)

時間を
(アン・ビーティ『ウィルの肖像』ジュディ・9、亀井よし子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

出来事が
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

場所を
(ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』第四部・15、黒丸 尚訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

すべての場所が
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)

出来事が
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

時間が
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ギレアデ、深町真理子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

現在は
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』38、岡部宏之訳)

過去を
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第3巻、矢野 徹訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

過去は
(P・D・ジェイムズ『正義』第四部・46、青木久恵訳)

未来を
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第3巻、矢野 徹訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

未来は
(アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』一九〇五年五月三日、浅倉久志訳)

現在を
(キム・ニューマン『ドラキュラ戦記』第一部・10、梶本靖子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

現在は
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』38、岡部宏之訳)

未来を
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第3巻、矢野 徹訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

未来は
(ブライアン・W・オールディス『見せかけの生命』浅倉久志訳)

過去を
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第3巻、矢野 徹訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

過去は
(P・D・ジェイムズ『正義』第四部・46、青木久恵訳)

現在を
(キム・ニューマン『ドラキュラ戦記』第一部・10、梶本靖子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

過去も現在も未来も
(J・G・バラード『深淵』吉田誠一訳)

あらゆるものが
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

あらゆるものを
(ナサニエル・ホーソーン『ラパチーニの娘』橋本福夫訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

あらゆるものがあらゆるものとともに
(ホルヘ・ギリェン『ローマの猫』荒井正道訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ブ!
(ウィリアム・コッツウィンクル『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』11、寺地五一訳)

ブルブル、
(ブルワー・リットン『幽霊屋敷』平井呈一訳)

ブルルルル、
(アントニー・バージェス『時計じかけのオレンジ』2・2、乾 信一郎訳)

と突然、
(エイブラム・メリット『林の乙女』大瀧啓裕訳)

あらゆるものが
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

次々に
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第一部・1、大西 憲訳)

何度も何度も、
(ゲイリー・ライト『氷の鏡』安田 均訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

詩人が
(ロバート・シルヴァーバーグ『生と死の支配者』1、宇佐川晶子訳)

言葉を
(ドナルド・バーセルミ『戦争の絵物語』邦高忠二訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

言葉が
(トマス・M・ディッシュ『M・D』上・第一部・12、松本剛史訳)

詩人を
(ノヴァーリス『断章と研究 1799−1800』[705]、今泉文子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

詩が
(アントナン・アルトー『ヘリオガバルス』I、多田智満子訳)

新しい言葉を
(シオドア・スタージョン『めぐりあい』川村哲郎訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

新たな語彙を
(デイヴィッド・ブリン『キルン・ピープル』下・第三部・53、酒井昭伸訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

別の意味を
(ガルシア・マルケス『大佐に手紙は来ない』内田吉彦訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

形式は
(ミラン・クンデラ『小説の精神』第七部、金井 裕・浅野敏夫訳)

余白を
(ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』第五章、杉山洋子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

文体は
(ジュリアン・バーンズ『風呂ベールの鸚鵡』7、斎藤昌三訳)

句読点を
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの航星日記』第十四の旅、深見 弾訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

限界が
(ミネット・ウォルターズ『女彫刻家』8、成川裕子訳)

その定義を
(アルフレッド・ジャリ『超男性』I、澁澤龍彦訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

その意味を
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の異端者』第3巻、矢野 徹訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

挑戦的な精神が
(ジョン・クリストファー『トリポッド 2脱出』6、中原尚哉訳)

精神の限界を
(スティーヴン・バクスター『虚空のリング』下・第六部・34、小木曽絢子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

言葉は
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

意味を
(ウィルソン・ブライアン・キイ『メディア・レイプ』第二章、鈴木 晶・入江良平訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

概念は
(ロバート・A・ハインライン『未知の地平線』17、斎藤伯好訳)

事物を
(ウィリアム・エンプソン『曖昧の七つの型』下・8、岩崎宗治訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

自我が
(ポール・アンダースン『わが名はジョー』浅倉久志訳)

実在のものも架空のものも
(ジェラルド・カーシュ『ブライトンの怪物』吉村満美子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

潜在意識が
(ロバート・F・ヤング『スターファインダー』伊藤典夫訳)

眠っていたもの、潜んでいたもののすべてが
(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

意味のわからない言葉が
(シオドー・L・トマス『衝突針路』小尾芙佐訳)

意味を
(サミュエル・R・ディレイニー『コロナ』酒井昭伸訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

潜在意識が
(アーサー・C・クラーク『犬の星』南山 宏訳)

見たものを
(K・W・ジーター『グラス・ハンマー』黒丸 尚訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

潜在意識が
(ロバート・F・ヤング『スターファインダー』伊藤典夫訳)

ぜんぜんちがった意味でその言葉を
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ヨルダン、深町真理子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

言葉が
(マルティン・ハイデッガー『言葉』清水康雄訳)

視点を
(ニコラス・グリフィス『スロー・リバー』7、幹 遙子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

新しい刺戟が
(ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第二部・V、友枝康子訳)

脳の各層を
(デイヴィッド・ブリン『有意水準の石』中原尚哉訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

新たな知覚は
(デイヴィッド・ブリン『キルン・ピープル』下・第三部・53、酒井昭伸訳)

記憶を
(ルーディ・ラッカー『空洞地球』7、黒丸 尚訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

未知のものが
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

既知のものを
(ヴァレリー『カイエ 一九一〇』村松 剛訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

芸術は
(フィリップ・ホセ・ファーマー『デイワールド』2、大西 憲訳)

新しい性格を
(R・A・ラファティ『九〇〇人のお祖母さん』浅倉久志訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

物語は
(ドナルド・モフィット『星々の聖典』上・6、冬川 亘訳)

ぼくたちの息づかいを
(ジャック・フィニイ『失踪人名簿』福島正実訳)

実在感を
(ラングドン・ジョーンズ『機関機械』山田和子訳)

現存在を
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくは
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、野島秀勝訳)

数えきれない詩を
(フィッツ=ジェイムズ・オブライエン『手から口へ』大瀧啓裕訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

章句を
(ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テストとの散歩』清水 徹訳)

文章を
(ブルース・スターリング『スキズマトリックス』第二部、小川 隆訳)

言葉を
(シオドア・スタージョン『めぐりあい』川村哲郎訳)

句読点を
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの航星日記』第十四の旅、深見 弾訳)

余白を
(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』丹治 愛訳)

その白さを
(P・D・ジェイムズ『正義』第三部・36、青木久恵訳)

その構造を
(クリフォード・D・シマック『宇宙からの訪問者』32、峰岸 久訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

空白が
(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第三部・17、嶋田洋一訳)

音を
(オーエン・コルファー『新銀河ヒッチハイク・・ガイド』第三章、安原和見訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

沈黙が
(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

韻を
(トマス・M・ディッシュ『M・D』上・第一部・12、村松 剛訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ブ!
(ウィリアム・コッツウィンクル『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』11、寺地五一訳)

ブルブル、
(ブルワー・リットン『幽霊屋敷』平井呈一訳)

ブルルルル、
(アントニー・バージェス『時計じかけのオレンジ』2・2、乾 信一郎訳)

と突然、
(エイブラム・メリット『林の乙女』大瀧啓裕訳)

あらゆるものが
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

次々に
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第一部・1、大西 憲訳)

何度も何度も、
(ゲイリー・ライト『氷の鏡』安田 均訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくは
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、野島秀勝訳)

言葉を
(シオドア・スタージョン『めぐりあい』川村哲郎訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくは
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、野島秀勝訳)

言葉を
(シオドア・スタージョン『めぐりあい』川村哲郎訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくは
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、野島秀勝訳)

言葉を
(シオドア・スタージョン『めぐりあい』川村哲郎訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

光、光、光
(アルフレッド・ベスター『分解された男』15、沼沢洽治訳)

光、光、光
(アルフレッド・ベスター『分解された男』15、沼沢洽治訳)

花、花、花
(ゲオルギー・グレーヴィッチ『創造の第一日』袋 一平訳)

花、花、花
(ゲオルギー・グレーヴィッチ『創造の第一日』袋 一平訳)

顔、顔、顔
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第2巻、矢野 徹訳)

顔、顔、顔
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第2巻、矢野 徹訳)

いつまで、いつまでも、いつまでも
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第二場、斎藤 勇訳)

いつまで、いつまでも、いつまでも
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第二場、斎藤 勇訳)

とても、とても、とても
(アルジャーノン・ブラックウッド『秘書奇譚』平井呈一訳)

とても、とても、とても
(アルジャーノン・ブラックウッド『秘書奇譚』平井呈一訳)

そう、そう、そう
(コードウェイナー・スミス『夢幻世界へ』1、伊藤典夫訳)

そう、そう、そう
(コードウェイナー・スミス『夢幻世界へ』1、伊藤典夫訳)

わかる、わかる、わかる
(ロバート・シェクリー『コードルが玉ねぎに、玉ねぎがニンジンに』酒匂真理子訳)

わかる、わかる、わかる
(ロバート・シェクリー『コードルが玉ねぎに、玉ねぎがニンジンに』酒匂真理子訳)

愛、愛、愛
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第六章・43、青木久恵訳)

愛、愛、愛
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第六章・43、青木久恵訳)

憎悪、憎悪、憎悪
(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが夢のリバーボート』20、岡部宏之訳)

憎悪、憎悪、憎悪
(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが夢のリバーボート』20、岡部宏之訳)

なぜ、なぜ、なぜ
(ミネット・ウォルターズ『女彫刻家』7、成川裕子訳)

なぜ、なぜ、なぜ
(ミネット・ウォルターズ『女彫刻家』7、成川裕子訳)

チ、チ、チ
(デーモン・ナイト『異星人ステーション』浅倉久志訳)

チ、チ、チ
(デーモン・ナイト『異星人ステーション』浅倉久志訳)

無意味、無意味、無意味
(リチャード・マシスン『縮みゆく人間』10、吉田誠一訳)

無意味、無意味、無意味
(リチャード・マシスン『縮みゆく人間』10、吉田誠一訳)

否定して、否定して、否定して
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』荒野、深町真理子訳)

否定して、否定して、否定して
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』荒野、深町真理子訳)

何もいうな、何もいうな、何もいうな
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・スペース』7、金子 司訳)

何もいうな、何もいうな、何もいうな
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・スペース』7、金子 司訳)

ひっこめ、ひっこめ、ひっこめ
(R・A・ラファティ『なつかしきゴールデンゲイト』井上 央訳)

ひっこめ、ひっこめ、ひっこめ
(R・A・ラファティ『なつかしきゴールデンゲイト』井上 央訳)

何もない、何もない、何もない
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

何もない、何もない、何もない
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

理由などない、理由などない、理由などない
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第三部・11、小川 隆訳)

理由などない、理由などない、理由などない
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第三部・11、小川 隆訳)

二度と、二度と、二度と
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、小田島雄志訳)

二度と、二度と、二度と
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、小田島雄志訳)

息ができない、息ができない、息ができない
(グレアム・ジョイス『鎮魂歌(レクイエム)』27、浅倉久志訳)

息ができない、息ができない、息ができない
(グレアム・ジョイス『鎮魂歌(レクイエム)』27、浅倉久志訳)

ぼくは、ぼくは、ぼくは
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

ぼくは、ぼくは、ぼくは
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

言葉、言葉、言葉
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、野島秀勝訳)

言葉、言葉、言葉
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、野島秀勝訳)

自我、自我、自我
(ロバート・シルヴァーバーグ『内死』17、中村保男・大谷豪見訳)

自我、自我、自我
(ロバート・シルヴァーバーグ『内死』17、中村保男・大谷豪見訳)

退屈、退屈、退屈
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の異端者』第3巻、矢野 徹訳)

退屈、退屈、退屈
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の異端者』第3巻、矢野 徹訳)

黙れ! 黙れ! 黙れ!
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

黙れ! 黙れ! 黙れ!
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

いっしょなら? いっしょなら? いっしょなら?
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』荒野、深町真理子訳)

いっしょなら? いっしょなら? いっしょなら?
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』荒野、深町真理子訳)

屑だ! 屑だ! 屑だ!
(トーマス・M・ディッシュ『いさましいちびのトースター』浅倉久志訳)

屑だ! 屑だ! 屑だ!
(トーマス・M・ディッシュ『いさましいちびのトースター』浅倉久志訳)

アー、アー、アー
(M・ジョン・ハリス『ライト』22、小野田和子訳)

アー、アー、アー
(M・ジョン・ハリス『ライト』22、小野田和子訳)

然り、然り、然り
(ロバート・シルヴァーバーグ『内死』25、中村保男・大谷豪見訳)

然り、然り、然り
(ロバート・シルヴァーバーグ『内死』25、中村保男・大谷豪見訳)

絶対に、絶対に、絶対に
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、野島秀勝訳)

絶対に、絶対に、絶対に
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、野島秀勝訳)

なにかあれば、なにかあれば、なにかあれば
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』大洪水、宇佐川晶子訳)

なにかあれば、なにかあれば、なにかあれば
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』大洪水、宇佐川晶子訳)

請求書、請求書、請求書
(エルマー・ライス『良心』永井 淳訳)

請求書、請求書、請求書
(エルマー・ライス『良心』永井 淳訳)

いや! いや! いや!
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

いや! いや! いや!
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ブ!
(ウィリアム・コッツウィンクル『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』11、寺地五一訳)

ブルブル、
(ブルワー・リットン『幽霊屋敷』平井呈一訳)

ブルルルル、
(アントニー・バージェス『時計じかけのオレンジ』2・2、乾 信一郎訳)

と突然、
(エイブラム・メリット『林の乙女』大瀧啓裕訳)

あらゆるものが
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

すべて同時に
(アゴタ・クリストフ『昨日』堀 茂樹訳)

何度も何度も、
(ゲイリー・ライト『氷の鏡』安田 均訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

不在は
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

存在を
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

存在は
(ヴァジニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

その実体を
(ケッセル『昼顔』二、堀口大學訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

現実は
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)

非現実を
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・ムーン』24、金子 司訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

天国が
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第八章、青山隆夫訳)

地獄を
(ジェラルド・カーシュ『遠からぬところ』吉田誠一訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

必然性は
(ジョン・クロウリー『時の偉業』4、浅倉久志訳)

死を
(ドナルド・モフィット『創世伝説』下・第二部・9、小野田和子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

狂気は
(カート・ヴォネガット・ジュニア『チャンピオンたちの朝食』第4章、浅倉久志訳)

ひとつの光景を
(デイヴィッド・ブリン『キルン・ピープル』下・第三部・61、酒井昭伸訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

同じ言葉を
(テア・フオン・ハルボウ『メトロポリス』5、前川道介訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

矛盾が
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』8、岡部宏之訳)

真理を
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第十一巻・四、神谷美恵子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

それ自体が
(スティーヴン・バクスター『虚空のリング』下・第三部・20、小木曽絢子訳)

それを
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

目が
(シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』21、市田 泉訳)

目を
(コルタサル『悪魔の涎』木村榮一訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

愛は
(デイヴィス・グラッブ『月を盗んだ少年』柿沼瑛子訳)

憎しみを
(イエイツ『まだらな鳥』第一編・14、島津彬郎訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

憎しみは
(コードウェイナー・スミス『夢幻世界へ』伊藤典夫訳)

愛を
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』5、三田村 裕訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

数字、記号といったものが
(ジェームズ・ハーバート『ムーン』竹生淑子訳)

すべてを
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』9、三田村 裕訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ブ!
(ウィリアム・コッツウィンクル『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』11、寺地五一訳)

ブルブル、
(ブルワー・リットン『幽霊屋敷』平井呈一訳)

ブルルルル、
(アントニー・バージェス『時計じかけのオレンジ』2・2、乾 信一郎訳)

と突然、
(エイブラム・メリット『林の乙女』大瀧啓裕訳)

あらゆるものが
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

次々に
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第一部・1、大西 憲訳)

何度も何度も、
(ゲイリー・ライト『氷の鏡』安田 均訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

彼は
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』6、深町真理子訳)

ぼくの名前を
(ルーシャス・シェパード『ぼくたちの暮らしの終わり』小川 隆訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくは
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、野島秀勝訳)

彼の名前を
(レイ・ブラッドベリ『イカルス・モンゴルフィエ・ライト』一ノ瀬直二訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

愛は
(デイヴィス・グラッブ『月を盗んだ少年』柿沼瑛子訳)

体を
(シルヴィア・プラス『チューリップ』徳永暢三訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

時間は
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』帰郷、宇佐川晶子訳)

秘密を
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

肉体は
(ロバート・フロスト『不変のシンボル』安藤一郎訳)

ひとつの名前を
(フィリップ・リーヴ『略奪都市の黄金』第二部・28、安野 玲訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ちがう名前を
(アーシュラ・K・ル・グイン『記憶への旅』小尾芙佐訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくは
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、野島秀勝訳)

恋人の顔を
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』大洪水、宇佐川晶子訳)

声を
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第六章・52、青木久恵訳)

会話を
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』1、深町真理子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

コーヒーを
(フィリップ・ホセ・ファーマー『デイワールド』8、大西 憲訳)

ハンバーガーを
(ウィリアム・コッツウィンクル『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』5、寺地五一訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

サンドイッチも
(クリフォード・D・シマック『宇宙からの訪問者』4、峰岸 久訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

いろいろな光景を
(ブライアン・オールディス『死の賛歌』井上一夫訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

その場の情景のすべてを
(ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テストとの散歩』清水 徹訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

自分の記憶を
(アルジス・バドリス『アメリカ鉄仮面』第九章、仁賀克雄訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

自分の人生を
(キッド・リード『ぶどうの木』浅倉久志訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

数百万のぼくを
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

幾百もの顔。
(ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』第一部・2、黒丸 尚訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

あらゆる可能性
(J・G・バラード『神と生と死と』野口幸夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

同じ夢
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』8、堤 康徳訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

願い事
(ロッド・サーリング『大いなる願い』矢野浩三郎訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくは
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、野島秀勝訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくは
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、野島秀勝訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくは
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、野島秀勝訳)

信行のことを
(志賀直哉『暗夜行路』第一・二)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくは
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ヨルダン、深町真理子訳)

彼を
(フィリクス・J・パルマ『時の地図』第一部・5、宮〓真紀訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

信行は
(志賀直哉『暗夜行路』第一・十二)

ぼくのことを
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

ドリブルして
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

くれるかな?
(ウィリアム・バロウズ『夢の書 わが教育』山形浩生訳)

ブ!
(ウィリアム・コッツウィンクル『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』11、寺地五一訳)

ブルブル、
(ブルワー・リットン『幽霊屋敷』平井呈一訳)

ブルルルル、
(アントニー・バージェス『時計じかけのオレンジ』2・2、乾 信一郎訳)

と突然、
(エイブラム・メリット『林の乙女』大瀧啓裕訳)

あらゆるものが
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

次々に
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第一部・1、大西 憲訳)

何度も何度も、
(ゲイリー・ライト『氷の鏡』安田 均訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

経験
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の異端者』第3巻、矢野 徹訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

過去
(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

記憶の断片
(シオドー・L・トマス『衝突針路』小尾芙佐訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

時間
(シオドー・L・トマス『衝突針路』小尾芙佐訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

場所
(シオドー・L・トマス『衝突針路』小尾芙佐訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

出来事
(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

情景
(マーシャル・キング『海浜の情景』中村保男訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)


(ジョージ・パイラム『驚異の馬』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

窓の外
(クリフォード・D・シマック『孤独な死』小尾芙佐訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

土曜日
(リチャード・M・マッケナ『闘士ケイシー』浅倉久志訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)


(ウィル・ワーシントン『プレニチュード』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)


(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

視線
(マーク・クリフトン『思考と離れた感覚』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

浴室
(ロバート・シェクリー『危険の報酬』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

石鹸
(ロバート・アバーナシイ『ジュニア』小尾芙佐訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

彼の背中
(デーモン・ナイト『異星人ステーション』浅倉久志訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

下半身
(ロバート・アバーナシイ『ジュニア』小尾芙佐訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

お尻
(マーク・クリフトン『思考と離れた感覚』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

くぼめた手のなか
(ゼナ・ヘンダースン『なんでも箱』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

あの神経過敏なところ
(ゼナ・ヘンダースン『なんでも箱』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

長いキス
(キャロル・エムシュウィラー『浜辺に行った日』伊藤典夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

寝室
(フリッツ・ライバー『跳躍者の時空』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ベッド
(クリフォード・D・シマック『孤独な死』小尾芙佐訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

空間
(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

地面
(キャロル・エムシュウィラー『狩人』小尾芙佐訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

地球
(イアンド・バインダー『火星からの教師』中村能三訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

埠頭
(アルジス・バドリス『隠れ家』浅倉久志訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

溪谷
(ロバート・シェクリー『危険の報酬』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

草原
(ジョージ・パイラム『驚異の馬』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

平原
(フリッツ・ライバー『マリアーナ』浅倉久志訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

砂浜
(キャロル・エムシュウィラー『浜辺に行った日』伊藤典夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

太陽
(アイザック・アシモフ『ロボットAL76行方不明』中村能三訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

日没
(エリザベス・エメット『魅惑』中村保男訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)


(エドモンド・ハミルトン『世界の外のはたごや』中村能三訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

月光
(フリッツ・ライバー『跳躍者の時空』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

夜明け
(ウィル・ワーシントン『プレニチュード』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

日射し
(シャーリー・ジャクスン『ある晴れた日に』吉田誠一訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

テーブル
(マーク・クリフトン『思考と離れた感覚』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

トーストとコーヒー
(エリザベス・エメット『魅惑』中村保男訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

語尾
(マック・レナルズ『時は金』浅倉久志訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

笑み
(アブラム・デイヴィッドスン『ゴーレム』吉田誠一訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

手違い
(ウォルター・M・ミラー・ジュニア『帰郷』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

うそ偽り
(シャーリー・ジャクスン『ある晴れた日に』吉田誠一訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

二人のきみ
(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

言葉
(ウィル・ワーシントン『プレニチュード』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

言葉の最後
(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

さよなら
(アルジス・バドリス『隠れ家』浅倉久志訳)

ブ!
(ウィリアム・コッツウィンクル『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』11、寺地五一訳)

ブルブル、
(ブルワー・リットン『幽霊屋敷』平井呈一訳)

ブルルルル、
(アントニー・バージェス『時計じかけのオレンジ』2・2、乾 信一郎訳)

と突然、
(エイブラム・メリット『林の乙女』大瀧啓裕訳)

あらゆるものが
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

次々に
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第一部・1、大西 憲訳)

何度も何度も、
(ゲイリー・ライト『氷の鏡』安田 均訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ガラガラ蛇
(ウィル・ワーシントン『プレニチュード』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

思考
(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

数式
(マーク・クリフトン『思考と離れた感覚』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

符号
(R・C・フェラン『わたしを創(つく)ったもの』中村保男訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

平方根
(マイケル・シェイボン『シャーロック・ホームズ最後の解決』黒原敏行訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)


(マーク・クリフトン『思考と離れた感覚』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

平行線
(マーク・クリフトン『思考と離れた感覚』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)


(マーク・クリフトン『思考と離れた感覚』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

三角形
(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

凹み
(ロバート・シェクリー『危険の報酬』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)


(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)


(マーク・クリフトン『思考と離れた感覚』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)


(マーク・クリフトン『思考と離れた感覚』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ゴボゴボ
(リチャード・M・マッケナ『闘士ケイシー』浅倉久志訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ポキポキ
(リチャード・M・マッケナ『闘士ケイシー』浅倉久志訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

バス
(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

バスのなかで
(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

乗客
(ウォルター・M・ミラー・ジュニア『帰郷』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

バス
(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

バスのなかで
(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

バスの運転手
(シャーリー・ジャクスン『ある晴れた日に』吉田誠一訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

バス
(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

バスのなかで
(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

となりの男
(デーモン・ナイト『異星人ステーション』浅倉久志訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

日に焼けたうなじ
(ウォルター・M・ミラー・ジュニア『帰郷』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

禿頭
(デーモン・ナイト『人形使い』伊藤典夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

後頭部
(コードウェイナー・スミス『夢幻世界へ』6、伊藤典夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

その上に
(クリフォード・D・シマック『孤独な死』

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ハンマー
(キャロル・エムシュウィラー『浜辺に行った日』伊藤典夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

遠いむかし
(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

小さいときの記憶
(デーモン・ナイト『異星人ステーション』浅倉久志訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

玄関
(アルジス・バドリス『隠れ家』浅倉久志訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

金魚鉢
(デーモン・ナイト『人形使い』伊藤典夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

教室
(ゼナ・ヘンダースン『なんでも箱』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

便所
(リチャード・M・マッケナ『闘士ケイシー』浅倉久志訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

便器
(リチャード・M・マッケナ『闘士ケイシー』浅倉久志訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

無意識
(シャーリー・ジャクスン『ある晴れた日に』吉田誠一訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

潜在意識
(アイザック・アシモフ『緑夢業』吉田誠一訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

神さま
(リチャード・M・マッケナ『闘士ケイシー』浅倉久志訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ふうっ
(フリッツ・ライバー『跳躍者の時空』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぱっ
(シオドア・R・コグズウェル『変身』吉田誠一訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ソクラテス
(フリッツ・ライバー『跳躍者の時空』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

スターリン
(コードウェイナー・スミス『夢幻世界へ』2、伊藤典夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

三人の独身のおばたち
(ロバート・アナーバシイ『ジュニア』小尾芙佐訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

お母さん
(シオドー・スタージョン『隔壁』深町真理子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

看護婦
(リチャード・M・マッケナ『闘士ケイシー』浅倉久志訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

牧師
(クリフォード・D・シマック『孤独な死』小尾芙佐訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

群衆
(ジョージ・パイラム『驚異の馬』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

何千という人間
(ジョージ・パイラム『驚異の馬』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

何億人という人間
(ブライアン・W・オールディス『率直(フランク)にいこう』井上一夫訳)

ブ!
(ウィリアム・コッツウィンクル『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』11、寺地五一訳)

ブルブル、
(ブルワー・リットン『幽霊屋敷』平井呈一訳)

ブルルルル、
(アントニー・バージェス『時計じかけのオレンジ』2・2、乾 信一郎訳)

と突然、
(エイブラム・メリット『林の乙女』大瀧啓裕訳)

あらゆるものが
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

次々に
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第一部・1、大西 憲訳)

何度も何度も、
(ゲイリー・ライト『氷の鏡』安田 均訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくは
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、野島秀勝訳)

たえず何かを
(ロジェ・カイヨワ『妖精物語からSFへ』第三部・一、三好郁朗訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

自然の法則を
(タビサ・キング『スモール・ワールド』14、みき 遙訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

論理を
(R・A・ラファティ『超絶の虎』伊藤典夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

対称性を
(スティーヴン・バクスター『虚空のリング』上・第三部・17、小木曽絢子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

連続性を
(ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面12、嶋田洋一訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

関連性を
(アン・ビーティ『貯水池に風が吹く日』6、亀井よし子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

多義性を
(ジェイムズ・サリス『蟋蟀の目の不安』野口幸夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

類似を
(ロジェ・カイヨワ『妖精物語からSFへ』第三部・二、三好郁朗訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

何もかも
(ケリー・リンク『妖精のハンドバッグ』柴田元幸訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

偶然だって
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくは
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、野島秀勝訳)

この見捨てられた土地の歴史や神話を
(ブライアン・オールディス『死の賛歌』井上一夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

神々を
(イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

聖書を
(シェイクスピア『ヴェニスの商人』第一幕・第三場、中野好夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

同じ物語を
(ノーマン・メイラー『ライターズ・アット・ワーク』より、岩本 厳訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

話を
(フィリップ・ホセ・ファーマー『飛翔せよ、遙かなる空へ』下・46、岡部宏之訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

話の続きを
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』4、鈴木 晶訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくは
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、野島秀勝訳)

水を
(フレッド・セイバーヘーゲン『ゲーム』浅倉久志訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

水たまりを
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・107、土岐恒二訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

道を
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第3巻、矢野 徹訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

空を
(マーヴィン・ピーク『海賊船長スローターボード氏』高木国寿訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

雲を
(スティーヴン・バクスター『虚空のリング』上・第一部・4、小木曽絢子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

海を
(アストゥリアス『グアテマラ伝説集』春嵐の妖術師たち 1、牛島信明訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくは
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、野島秀勝訳)

光を
(ソーニャ・ドーマン『ぼくがムス・ダウであったとき』大谷圭二訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

闇を
(R・A・ラファティ『地球礁』6、柳下毅一郎訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

星ぼしを
(マイクル・スワンウィック『ウォールデン・スリー』小川 隆訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

夜を
(ウィリアム・S・バロウズ『爆発した切符』シャッフル・カット、飯田隆昭訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

真実を
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上巻・7、宮西豊逸訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

嘘を
(シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』15、市田 泉訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくは
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、野島秀勝訳)

サンドイッチを頬張りながら
(カルロス・フエンテス『二人のエレーナ』安藤哲行訳)

誰もが持っていることさえ拒むような考えを
(ダン・シモンズ『大いなる恋人』嶋田洋一訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

矛盾する考えを
(ジョン・T・ウィルアムズ『プーさんの哲学』2、小田島雄志・小田島則子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくは
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、野島秀勝訳)

夢を
(コルタサル『牡牛』木村榮一訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

霊感を
(ノヴァーリス『対話・独白』今泉文子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくは
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、野島秀勝訳)

人間を
(オースン・スコット・カード『人間の熱い眠り』8、大森 望訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

物事を
(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

世界を
(ケリー・リンク『しばしの沈黙』柴田元幸訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

宇宙を
(ダグラス・アダムス『宇宙の果てのレストラン』29、風見 潤訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

自分自身を
(J・G・バラード『低空飛行機』野口幸夫訳)

ドリブルする
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ブ!
(ウィリアム・コッツウィンクル『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』11、寺地五一訳)

ブルブル、
(ブルワー・リットン『幽霊屋敷』平井呈一訳)

ブルルルル、
(アントニー・バージェス『時計じかけのオレンジ』2・2、乾 信一郎訳)

と突然、
(エイブラム・メリット『林の乙女』大瀧啓裕訳)

あらゆるものが
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

次々に
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第一部・1、大西 憲訳)

何度も何度も、
(ゲイリー・ライト『氷の鏡』安田 均訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

一つひとつの表情が
(E・ピーターズ『死者の代金』10、岡本浜江訳)

きみのことを
(ルーシャス・シェパード『竜のグリオールに絵を描いた男』3、内田昌之訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

人はみな
(エズラ・パウンド『カンツォ』IV、小野田正和・岩原康夫訳)

歳月を
(ノヴァーリス『断章と研究 1799−1800』[677]、今泉文子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

起こった出来事を
(P・D・ジェイムズ『ナイチンゲールの屍衣』第四章・4、隅田たけ子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

後悔とそのすべての細部を
(ブライアン・W・オールディス『見せかけの生命』浅倉久志訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

涙を
(キム・ニューマン『ドラキュラ崩御』第二部・12、梶元靖子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

孤独を
(P・D・ジェイムズ『ある殺意』1、山室まりや訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

人の親切を
(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・3、浜野 輝訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

愛を
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

意味のないものが
(ブライアン・W・オールディス『暗い光年』10、中桐雅夫訳)

人々を
(ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テストとの散歩』清水 徹訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

人々の断片を
(ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テストとの散歩』清水 徹訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

人々の顔を
(ジョセフィン・テイ『時の娘』2、小泉喜美子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

目を
(ウィリアム・コッツウィンクル『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』13、寺地五一訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

耳を
(マックス・コメレル『拒否された「あとがき」』川村二郎訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

頬を
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

唇を
(リチャード・マシスン『縮みゆく人間』12、吉田誠一訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

手を
(シェイクスピア『オセロウ』第三幕・第四場、菅 泰男訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

両の手のひらを
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』5、深町真理子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

足を
(デイヴィッド・マルセク『ウェディング・アルバム』浅倉久志訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

首を
(ウィリアム・S・バロウズ『爆発した切符』メンバーはすべて最低の世紀、飯田隆昭訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

体を
(マーヴィン・ピーク『同じ時間に、この場所で』高木国寿訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

死体だって
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』29、宇佐川晶子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

世界が
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十四章、榊原晃三・南條郁子訳)

ぼくらを
(J・G・バラード『最終都市』野口幸夫訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

人の心を
(ロジェ・カイヨワ『妖精物語からSFへ』第三部・二、三好郁朗訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

胸の内を
(アン・ビーティ『貯水池に風が吹く日』4、亀井よし子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

精神を
(ノヴァーリス『花粉』87、今泉文子訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

魂を
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第二幕・第一場、石川重俊訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

人間を
(シルヴィア・プラス『マリアの歌』徳永暢三訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

人間を
(シルヴィア・プラス『マリアの歌』徳永暢三訳)

ドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)


STATION TO STATION。

  田中宏輔



言葉、言葉、言葉。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、野島秀勝訳)

言葉にならなかった何かを言おうとして、
(アストゥリアス『グアテマラ伝説集』春嵐の妖術師たち 3、牛島信明訳)

言葉、言葉と思っている彼の前に、バスが止まった。
(リチャード・マシスン『狂った部屋』小鷹信光訳)

バスが停まっても誰も乗らない。
(アゴタ・クリストフ『昨日』堀 茂樹訳)

たぐいなく美しい一輪の花が、おだやかな波にゆられて、輝きながら漂ってきた。
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第九章、青山隆夫訳)

水が水と出会うように、
(エマソン『償い』酒本雅之訳)

言葉と水が混じり合う
(ディラン・トマス『ぼくがノックし』松田幸雄訳)

波はあなたの足を濡らした。
(レイナルド・アレナス『めくるめく世界』9、鼓 直・杉山 晃訳)

花じゃないの?
(ブライアン・W・オールディス『唾の樹』中村 融訳)

花?
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』10、岡部宏之訳)

きれいな花ね。なんというの?
(ジョン・ウィンダム『野の花』大西尹明訳)

魚さ。
(ギブスン&スターリング『ディファレンス・エンジン』上・第二の反復、黒丸 尚訳)

何という名前だったかな、
(ナボコフ『賜物』第5章、沼野充義訳)

名前を教えてくれ、それがきっかけで
(チャールズ・ディケンズ『手袋』中村保男訳)

忘れていたことが思いだされてくる。
(グレゴリイ・ベンフォード『夜の大海の中で』第二部・14、山高 昭訳)

新しい名が新しい性格をひきだすこともある。
(R・A・ラファティ『九百人のお祖母さん』浅倉久志訳)

古い名前を残せば、古い意味も残り伝わる
(レイ・ブラッドベリ『浅黒い顔、金色の目』一ノ瀬直二訳)

水の中に答えはない。
(ロジャー・ゼラズニイ『ユニコーンの徴(しるし)』10、岡部宏之訳)

その水は、ちらちらと見える魚の住むひとつの夢であり、
(フランク・ハーバート『デューン砂漠の神皇帝』第3巻、矢野 徹訳)

夢自体、影にすぎない。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、野島秀勝訳)

でも
(ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』1、米川和夫訳)

この夢から醒めることは、またこの夢のなかにとびこむことだ、
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』19、鈴木 晶訳)

われわれ人間は夢と同じもので作られている。
(シェイクスピア『テンペスト』第四幕・第一場、伊東杏里訳)

ぼくはなにを見つけられると思っていたのだろう?
(グレッグ・イーガン『ワンの絨毯』山岸 真訳)

幾千匹もの魚たち、
(J・G・バラード『夢幻会社』21、増田まもる訳)

枝にかへらぬ花々よ。
(金子光晴『わが生に与ふ』四)

その忘れがたい素晴らしい思い出に
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』1、野谷文昭訳)

夢に、さまざまな声にひきよせられたのだ。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第四部・13、小川 隆訳)

光がまぶしかった。
(ロバート・F・ヤング『時が新しかったころ』11、中村 融訳)

一つ一つのものは自分の意味を持っている
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)

だがそのすべてが贋物でありうるのだ。
(ジョン・スラデック『使徒たち──経営の冒険』野口幸夫訳)

なぜ「きみを愛している」といえなかったのか?
(リチャード・コールダー『アルーア』浅倉久志訳)

顔、顔、顔。
(フランク・ハーバート『デューン砂漠の神皇帝』第2巻、矢野 徹訳)

記憶の記憶の記憶。
(オースン・スコット・カード『神の熱い眠り』2、大森 望訳)

水に変化する
(ウィリアム・バロウズ『ノヴァ急報』では、身支度を……、諏訪 優訳)

自我
(ロバート・シルヴァーバーグ『内死』17、中村保男・大谷豪見訳)

水とは生まれてきた魂でなくて何か?
(イェイツ『クール荘園とバリリー、一九三一年』高松雄一訳)

眠ることのない潜在意識が、
(アーサー・C・クラーク『犬の星』南山 宏訳)

世界中のあらゆる記憶が宿っているのだ。
(ロア=バストス『汝、人の子よ』VII・7、吉田秀太郎訳)

自分の記憶だけではなく、あらゆる人々の記憶が。
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第二部・13、嶋田洋一訳)

水を愛し、
(紫 式部『源氏物語』蜻蛉、与謝野晶子訳)

水へはいってしまった人は
(紫 式部『源氏物語』蜻蛉、与謝野晶子訳)

すべて
(ジョン・スラデック『使徒たち──経営の冒険』野口幸夫訳)

溺れる
(パメラ・ゾリーン『心のオランダ』野口幸夫訳)

人がよく死ぬ水だ
(紫 式部『源氏物語』浮舟、与謝野晶子訳)

同じ水だけれど、
(フェリスベルト・エルナンデス『水に浮かんだ家』平田 渡訳)

この考える水も永劫には流れない
(西脇順三郎『旅人かえらず』)

魚はみんないなくなっていた。
(アルフレッド・ベスター『コンピューター・コネクション』3、野口幸夫訳)

同じ夢を見ていたのだろうか?
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』8、堤 泰徳訳)

ちひさき魚は眼(め)にもとまらず。
(萩原朔太郎『広瀬川』)

その詩なら知っている
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』3・2、小泉喜美子訳)

引用さ
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』知らずして御(み)使(つか)いを舎(やど)したり、宇佐川晶子訳)

すべて本から仕入れたものさ。
(P・D・ジェイムズ『不自然な死体』第二部・1、青木久恵訳)

思考はあらゆるものを、利用可能なものに変える。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)

どのような自我の排出が行なわれ、そしてどのような自我の再充填が行なわれているのか。
(ロバート・シルヴァーバーグ『一人の中の二人』7、中村保男訳)

言葉、言葉、言葉。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、野島秀勝訳)

ぼくらはそれに奉仕せねばならないんだ。さもなければ、それはぼくらに奉仕してはくれないだろう。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

言葉は力だ。
(マキャフリー&ナイ『魔法の船』3、嶋田洋一訳)

魂を広げてくれる
(ロバート・シルヴァーバーグ『内側の世界』6、大久保そりや・小川みよ訳)

おのれの思考と意志の活力に応じて、彼は世界を自分のなかへ吸収する。
(エマソン『自然』三、酒本雅之訳)

だが、
(トマス・テッシアー『ブランカ』添野知生訳)

意志の力で愛することはできない
(P・D・ジェイムズ『殺人展示室』第三部・7、青木久恵訳)

ただ愛さなければいけないというだけで、愛することなどできない
(イエイツ『まだらの鳥』第三編・1、島津彬郎訳)

しかしロゴスの論理を、われわれはどこにさがせばいいのか?
(R・A・ラファティ『超絶の虎』伊藤典夫訳)

すべてを解釈しようとする心
(ロジェ・カイヨワ『妖精物語からSFへ』第三部・二、三好郁朗訳)

人間の心は説明をもとめつづける。
(ジョージ・アレック・エフィンジャー『重力が衰えるとき』6、浅倉久志訳)

偶然かもしれない。
(ウォルター・テヴィス『運がない』黒丸 尚訳)

聞こえもせず、見えもしないものが後ろにある。
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第一幕、石川重俊訳)

ふだん、存在は隠れている。存在はそこに、私たちの周囲に、また私たちの内部にある。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

思考は、演算のなかに存在し、結論は、命題のなかに存在する。
(ノヴァーリス『一般草稿』[1022]、今泉文子訳)

ある場所、ある時間、ある不思議な類似性、ある錯誤、
(ノヴァーリス『断章と研究 1799-1800年』[559]、今泉文子訳)

なんらかの偶然などを介して、最も異質なもの同士が遭遇する。
(ノヴァーリス『断章と研究 1799-1800年』[559]、今泉文子訳)

小魚の群れが一つになってさっと動いてはとまり、
(ルーシャス・シェパード『黒珊瑚』小川 隆訳)

またさーっと動いて枝の中にはいったりでたりしている。
(ルーシャス・シェパード『黒珊瑚』小川 隆訳)

すばやく、詩句がとびかった。
(M・ジョン・ハリス『パステル都市』第四章、大和田 始訳)

人間たちの夢を見るんだ。
(ジェラルド・カーシュ『骨のない人間』西崎 憲訳)

だけど、
(イアン・マクドナルド『キャサリン・ホイール(タルジスの聖女)』古沢嘉通訳)

だれがだれの夢なのか。
(デイヴィッド・ブリン『有意水準の石』中原尚哉訳)

一つ一つの単語の意味は理解できるが、その総和はちんぷんかんぷん
(コードウェイナー・スミス『星の海に魂の帆をかけた女』5、伊藤典夫訳)

言葉がいかに迅速に交差するか、
(エズラ・パウンド『グイード・カヴァルカンティに』小野田正和・岩原康夫訳)

ぼくなど、記憶と誤解のちらつきでしかない。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

ちらちらと見える魚
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第3巻、矢野 徹訳)

幾千匹もの魚たち、
(J・G・バラード『夢幻会社』21、増田まもる訳)

感情の元素とは内的な光なのだが、その内的な光は屈折して、
(ノヴァーリス『サイスの弟子たち』二、今泉文子訳)

より美しく、より強烈な色彩となる。
(ノヴァーリス『サイスの弟子たち』二、今泉文子訳)

光は尽きることなく次から次へあふれてくる。
(ルーシャス・シェパード『竜のグリオールに絵を描いた男』1、内田昌之訳)

光のかけら一つ一つがそれぞれ人間の命なのだ。
(ブルース・スターリング『スキズマトリックス』第三部、小川 隆訳)

どれもが千の顔のひとつであり、二度と見ることはない。
(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)

何千何万という世界が重なっている。
(ルーシャス・シェパード『ぼくたちの暮らしの終わり』小川 隆訳)

ありとあらゆる色彩と光とがあふれていた。
(サングィネーティ『イタリア綺想曲』6、河島英昭訳)

これまでに、こんなものを見たことがあるかい?
(サミュエル・R・ディレイニー『エンパイア・スター』12、岡部宏之訳)

自分のものではないとわかっている多くの記憶のこま切れだ。
(フランク・ハーバート『デューン砂丘の大聖堂』第3巻、矢野 徹訳)

文学作品からの引用
(ジョン・スラデック『書評欄』越智道雄訳)

それは一つの純粋な詩なのだ。
(ロバート・シルヴァーバーグ『内死』1、中村保男・大谷豪見訳)

なぜこんなものを選んだのだろう。
(キム・ニューマン『ドラキュラ紀元』38、梶元靖子訳)

ほかになにがあると思っているんだい?
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

ぼくらは夢と同じ生地で織られている
(ホフマンスタール『三韻詩(テルツイーネ)』川村二郎訳)

溺れる人間が立てる音はどのようなものか?
(パメラ・ゾリーン『心のオランダ』野口幸夫訳)

じつはきみの夢もためしてみたんだ
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ヨルダン、深町真理子訳)

ぼくは、きみが苦しんでいるのを見ると楽しいのさ。
(スティーヴン・バクスター『虚空のリング』上・第一部・2、小木曽絢子訳)

きみも詩を書いてるのか?
(ティム・パワーズ『石の夢』上・第一部・第八章、浅井 修訳)

あるいは、その逆か
(アヴラム・デイヴィッドスン『眠れ美女ポリー・チャームズ』古屋美登里訳)

詩人というものは、他者の性質を変化させるほどの内なる力の結合の産物であり、
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』序文、石川重俊訳)

これらの力を刺激し、支える、外なる影響の産物なのだ。
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』序文、石川重俊訳)

詩人は、その一方ではなく、両方なのだ。
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』序文、石川重俊訳)

創造者であるとともに被創造物でもある。
(ブライアン・W・オールディス『讃美歌百番』浅倉久志訳)

詩人は詩による創造であり、詩は詩人による創造である。
(オクタビオ・パス『弓と竪琴』詩的啓示・インスピレーション、牛島信明訳)

記憶の記憶の記憶。
(オースン・スコット・カード『神の熱い眠り』2、大森 望訳)

また増えてるのかい?
(ボブ・ショウ『メデューサの子ら』2、菊地秀行訳)

わたしはわたしとなり、
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』荒野、深町真理子訳)

やがて世界中すべてが、わたしの声と顔、そして手触りに満ちる。
(シオドア・スタージョン『闇の間近で』樋口真理訳)

なぜ「きみを愛している」といえなかったのか?
(リチャード・コールダー『アルーア』浅倉久志訳)

人生にはなにか見落としているものや自分の知らないものがあるだろうか?
(アンナ・カヴァン『愛の渇き』5、大谷真理子訳)

自由なのは見捨てられたものだけだ。
(ブライアン・W・オールディス『終りなき午後』5、伊東典夫訳)

創造性とは、関係の存在しないところに関係を見出す能力にほかならない。
(トマス・M・ディッシュ『334』ソクラテスの死・4、増田まもる訳)

オリジナルよりもずっとリアルなものに並びかえられたジグソーパズル。
(リチャード・コールダー『デッドガールズ』第七章、増田まもる訳)

いくつものばらばらな記憶
(デイヴィッド・ブリン『キルン・ピープル』下・第三部・61、酒井昭伸訳)

自分の記憶だけではなく、あらゆる人々の記憶が
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第二部・13、嶋田洋一訳)

他人の思い出が自分自身の思い出といかに簡単に混じり合うか、
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十四章、榊原晃三・南條郁子訳)

それをならべかえる
(カール・ジャコビ『水槽』中村能三訳)

好きなように世界が配列できるのだ
(スタニスワフ・レム『天の声』17、深見 弾訳)

自分自身の感性以上にリアルなものは存在しない。
(フリッツ・ライバー『ジェフを探して』深町眞理子訳)

誰があなたをここへ?
(ブライアン・W・オールディス『解放されたフランケンシュタイン』第二部・5、藤井かよ訳)

こんな場所に誰が連れてきたのだろう?
(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三七年五月二十二日、関 義訳)

ほんとうのヴィジョンとはなんだろう? 現実だ、もちろん。
(アーシュラ・K・ル・グイン『視野』浅倉久志訳)

人生は解決すべき問題ではなく、経験すべき現実なのさ
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

作家にとって無駄な経験というものはない。
(ウィリアム・バロウズ『夢の書 わが教育』山形浩生訳)

苦労せずにすぐれたものを手にすることはできない。
(イエイツ『アダムの呪い』高松雄一訳)

生のすべての真実を、直接的な体験として知ること。
(イアン・ワトスン『エンベディング』第十三章、山形浩生訳)

人生はまず生きてみなくてはいけない。
(ホセ・ドノーソ『閉じられたドア』染田恵美子訳)

重要なのは経験だ。
(ミシェル・ジュリ『不安定な時間』鈴木 晶訳)

すべての経験にそれ自体の教えがある
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第1巻、矢野 徹訳)

経験の外にあるものを思い出すことは不可能だ。
(バリントン・J・ベイリー『光のロボット』13、大森 望訳)

いかに記憶し、いかに思考過程をはじめるか
(ブライアン・W・オールディス『率直にいこう』井上一夫訳)

記憶とはいったい何なのか、
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・21、土岐恒二訳)

記憶は個人的な感覚(、、、、、、)であり──個人化の要素である。
(ノヴァーリス『一般草稿』[859]、今泉文子訳)

結局、記憶なんてのは、純然たる選択の問題なのよね
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

しかも、物語の多くを間違って覚えている。
(ロジャー・ゼラズニイ『アヴァロンの銃』6、岡部宏之訳)

過去の現実というのは、あと知恵という強い力に照らされると違った見え方をするからだ。
(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第3部・21、嶋田洋一訳)

古い記憶ほど鮮明なものである。
(J・L・ボルヘス『老夫人』鼓 直訳)

別人の顔があらわれる。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『紫年金の遊蕩者たち』大和田 始訳)

記憶は出来事の順序や人の名前をごた混ぜにする、
(カミロ・ホセ・セラ『二人の死者のためのマズルカ』有本紀明訳)

記憶は詩人の素材である。
(ロバート・リンド『遺失物』行方昭夫訳)

あらゆるものがなんとあふれんばかりに戻ってくることか──
(トマス・M・ディッシュ『334』334・第三部・24、増田まもる訳)

詩、また詩。嘘、また嘘──
(トマス・M・ディッシュ『334』334・第六部・41、増田まもる訳)

世界はものごとをほんものにする
(テリー・ビッスン『世界の果てまで何マイル』26、中村 融訳)

時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』17、岡部宏之訳)

われわれ自身がその媒介になるのだ。
(ミロスラフ・イサコーヴィチ『消失』波津博明訳)

多くのことを知っているが、全部ではない。そこには違いがある。
(ロジャー・ゼラズニイ『影のジャック』6、荒俣 宏訳)

もっと多くのことを知らなければならない。
(ロジャー・ゼラズニイ『オベロンの手』5、岡部宏之訳)

あらゆるものが現実だ。
(フィリップ・K・ディック『ユービック:スケリーンプレイ』34、浅倉久志訳)

あらゆる出会いが苦しい試練だ。
(フィリップ・K・ディック『ユービック:スケリーンプレイ』34、浅倉久志訳)

形と意味を与えられた苦しみ。
(サミュエル・R・ディレイニー『コロナ』酒井昭伸訳)

過去は味が深くなる。
(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』富田 彬訳)

どんなものも、過去になってしまわない限り現実味を持たない。
(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第2部・13、嶋田洋一訳)

再び生きる、
(ロバート・シルヴァーバーグ『いまひとたびの生』1、佐藤高子訳)

あれこれ思い返しては何度もそのときを生きたのだった。
(アドルフォ・ビオイ=カサーレス『パウリーナの思い出に』平田 渡訳)

これは、心の始まりだろうか?
(フランク・ハーバート『デューン砂丘の大聖堂』第3巻、矢野 徹訳)

はじめはそんな単純なものさ。
(スタニスワフ・レム『浴槽で発見された手記』2、村手義治訳)

ぼくはここからはじめる。
(オースン・スコット・カード『キャピトルの物語』第一部・5、大森 望訳)

人間がその死性を免れる道は、笑いと絆を通してでしかない。それら二つの大いなる慰め。
(グレゴリイ・ベンフォード『輝く永遠への航海』下・第六部・5、冬川 亘訳)

だれが光を注いでくれたのか
(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』39、澤崎順之助訳)

精神は刺激を同化吸収しようとつとめる。精神を刺激するのは、異質なものである。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

交わりは光りを生む
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

それがまったくちがった人々や場所、出来事をむすびつけている
(イアン・ワトスン『エンベディング』第一章、山形浩生訳)

光こそ事物の根源で
(プルースト『シャルダンとレンブラント』粟津則雄訳)

すべては光でできている。
(ルーディ・ラッカー『ホワイト・ライト』第二部・10、黒丸 尚訳)

光ならずして何を心が糧にできよう?
(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』二冊目・27、野口幸夫訳)

瞬間的でしかない意識
(ブライアン・オールディス『橋の上の男』井上一夫訳)

きみが生きている限り、きみはまさに瞬間だ、
(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・3、浜野 輝訳)

永遠の中のただの一瞬、
(ヴァン・ヴォークト『フィルム・ライブラリー』沼沢洽治訳)

瞬間は永遠に繰り返す。
(イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)

光、光、光。
(R・A・ラファティ『深色ガラスの物語』井上 央訳)

その光を、どうやって手に入れる?
(アイザック・アシモフ『夜来たる』川村哲郎訳)

交わりは光りを生む
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

ぼくらは多くのものに影響を受け、共鳴する。
(フランク・ハーバート『デューン砂丘の子供たち』第3巻、矢野 徹訳)

多くのほかの精神につながっている
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第四部・14、小川 隆訳)

どのような自我の排出が行なわれ、そしてどのような自我の再充填が行なわれているのか。
(ロバート・シルヴァーバーグ『一人の中の二人』7、中村保男訳)

砂漠に沈む太陽は、ぼくの魂に沈んでゆく太陽だ。
(フランク・ハーバート『デューン砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

事物を離れて観念はない
(ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ『パターソン』第一巻・巨人の輪郭・I、沢崎順之助訳)

外界の事物は、人間の頭脳にほんとうに影響をおよぼすものである。
(ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』26、窪田般弥訳)

だが
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の異端者』第2巻、矢野 徹訳)

現実の事物は刺(し)激(げき)が強すぎる。用心しなければならない。
(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』冨田 彬訳)

偽の光
(ジョン・スラデック『非12月』越智道雄訳)

偽の記憶
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチール・ラットの復讐』17、那岐 大訳)

光は過剰な秩序であり、致命的なものになり得る。
(フランク・ハーバート『デューン砂丘の子供たち』第二巻、矢野 徹訳)

太陽は人をあざむくからね。
(アントニイ・バージェス『アバ、アバ』4、大社淑子訳)

用心したまえよ、事物のやさしさに、
(ポール・ジャン・トゥーレ『コントリーム』入沢康夫訳)

虚偽は言葉のなかにではなく、事物のなかにある
(イタロ・カルヴィーノ『マルコ・ポーロの見えない都市』IV・都市と記号5、米川良夫訳)

実在するものはすべて、絶えず同時に現われたり消えたりしてるのよ。
(イアン・ワトスン『存在の書』第三部、細美遙子訳)

それらすべてがわれわれの周囲に渦巻いている。可能性だ
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』10、増田まもる訳)

可能性の影は物体であり、事物であり、事象である。
(イアン・ワトスン『存在の書』第二部・細美遙子訳)

世界、──魂の投げかけるこの影、あるいはべつのわたし(、、、、、、)」
(エマソン『アメリカの学者』酒本雅之訳)

どんな悦びも一瞬のあいだしかつづかないのではなかろうか?
(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三六年一月二十七日、関 義訳)

生けるものは誰一人、苦しみを味わうものなかれと願う。
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第一幕、石川重俊訳)

心は、わたしを苦しめる以外にどんな役に立ったというのだろう?
(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三七年四月八日、関 義訳)

なぜ人は自分を傷つけるのが好きなんだろう?
(J・ティプトリー・ジュニア『ヴィヴィアンの安息』伊藤典夫訳)

いったい人は、いつかは誰かを理解するものなのだろうか? そして自分自身のことも?
(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三七年三月十七日、関 義訳)

多分ぼくは苦しむのが好きなのだろう。これまでも人をさんざん苦しめてきたし、
(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが内なる廃墟の断章』9、伊藤典夫訳)

見聞するところでは、人を苦しめるのが好きな人間は、苦しめられることを無意識に願っている。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが内なる廃墟の断章』9、伊藤典夫訳)

苦しみは自我の根拠であり、自我の唯一の疑うべからざる存在論的証拠である
(ミラン・クンデラ『不滅』第四部・11、菅野昭正訳)

痛覚がわれわれの肉体を保持するために欠くことのできない条件であるように、
(トルストイ『ことばの日めくり』十月二十八日、小沼文彦訳)

苦悩もまたわれわれの霊を保持するためにどうしても必要な条件である。
(トルストイ『ことばの日めくり』十月二十八日、小沼文彦訳)

人生に意味を与える
(レイナルド・アレナス『夜になるまえに』レサマ=リマ、安藤哲行訳)

苦痛こそ教育の効果なので、新たな知識が誕生するにつれて、
(J・K・ユイスマンス『さかしま』第六章、澁澤龍彦訳)

苦痛はいよいよ大きくなり、刃(やいば)のように鋭くなるのだ。
(J・K・ユイスマンス『さかしま』第六章、澁澤龍彦訳)

自我は単なる勝利だけでは満足しないのだ──試されつづけねばならない……
(ゲイリー・ライト『氷の鏡』安田 均訳)

だけど、
(イアン・マクドナルド『キャサリン・ホイール(タルジスの聖女)』古沢嘉通訳)

なぜ苦痛なんだ?
(グレッグ・ベア『ナイトランド─<冠毛の>一神話』7、酒井昭伸訳)

なぜ苦痛なのか?
(J・ティプトリー・ジュニア『大きいけれど遊び好き』伊藤典夫訳)

正しく評価されないことが苦痛なのだ
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第3巻、矢野 徹訳)

芸術家気質というものをよく知っている
(ゴア・ヴィダール『マイラ』35、永井 淳訳)

ぼくはいつも夢みて生きているんだからね
(カミロ・ホセ・セラ『二人の死者のためのマズルカ』有本紀明訳)

このコーヒー茶碗、このナイフ、このフォーク、本質のままの事物
(ヴァジニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

単に存在するだけということはできないのか?
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第3巻、矢野 徹訳)

色彩の下には形(シエイプ)があった。
(ヴァジニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

まるでわたしの顔だちの一つ一つが、その形に苦しんでいるかのように。
(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三七年四月十日、関 義訳)

笑ったりゆがめたりしないと、人の顔には個性なんて生まれてこないのよ
(トマス・M・ディッシュ『M・D』下・第五部・68、松本剛史訳)

具体性こそが基本である。
(オリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』第四部、高見幸郎・金沢泰子訳)

現実を生き生きとさせ、「リアル」たらしめ、個人的に意味のあるものにするのは「具体性」なのである
(オリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』第四部、高見幸郎・金沢泰子訳)

いかにすばらしくたって、夢はけっきょく夢だからね
(アーサー・マッケン『パンの大神』1、平井呈一訳)

夢想で作り上げたものは現実で償われなければならない
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』I、志村正雄訳)

不幸は情熱の糧なのだ。
(ターハル・ベン=ジェルーン『聖なる夜』9、菊地有子訳)

情熱こそは人間性の全部である。
(バルザック『人間喜劇』序、中島健蔵訳)

不幸はしばしばもっと大きな苦しみによって報いられる。
(ルネ・シャール『砕けやすい年(抄)』水田喜一朗訳)

おそらく、苦悩はつねに最強のものなのだ。
(マルロー『アルテンブルクのくるみの木』シャルトル捕虜収容所、橋本一明訳)

苦しみは人生で出会いうる最良のものである
(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・逃げさる女、井上究一郎訳)

魂の他のどんな状態にもまして、悲しみは、人間の性格や運命を深く洞察させる。
(スタール夫人『北方文学と南方文学』加藤晴久訳)

増大する苦痛が苦痛の観察を強いるのです。
(ヴァレリー『テスト氏』テスト氏との一夜、村松 剛・菅野昭正訳)

悲しみは、一回ごとに一つの法則をわれわれにあかすわけではないにしても、
(プルースト『失われた時を求めて』第七篇・見出された時、井上究一郎訳)

そのたびにわれわれを真実のなかにひきもどし、物事を真剣に解釈するようにさせる
(プルースト『失われた時を求めて』第七篇・見出された時、井上究一郎訳)

世界はすべての人間を痛めつけるが、のちには多くの人がその痛めつけられた場所で、かえって強くなることもある。
(ヘミングウェイ『武器よさらば』第三四章、鈴木幸夫訳)

苦悩(くるしみ)は祝福されるのだ。
(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第三章、渡辺一夫訳)

苦痛の深部を経て、人は神秘に、真髄に達するのだ。
(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・逃げさる女、井上究一郎訳)

悲哀のあるところには聖地がある。
(ワイルド『獄中記』田部重治訳)

苦悩はいとも永い一つの瞬間である。
(ワイルド『獄中記』田部重治訳)

創造する者が生まれ出るために、苦悩と多くの変身が必要なのである。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

苦しみは焦点を現在にしぼり、懸命(、、、)な闘いを要求する。
(カミュ『手帖』第四部、高畠正明訳)

苦しむこと、教えられること、変化すること。
(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』不幸、田辺 保訳)

海が消えた。
(ウィリアム・ギブスン『カウント・ゼロ』23、黒丸 尚訳)

花はなかったし、
(紫 式部『源氏物語』東屋、与謝野晶子訳)

バスもなかった。
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』7・2、小泉喜美子訳)

何もない。
(アイザック・アシモフ『ミクロの決死圏』1、高橋泰邦訳)

決してあったことのない記憶、頭の外にはなかったものだ。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチール・ラット諸君を求む』12、那岐 大訳)

魔術を使うのだ
(ジェラルド・カーシュ『ねじくれた骨』駒月雅子訳)

魔法さ。
(パオロ・バチガルピ『ねじまき少女』下・42、田中一江・金子 浩訳)

魔法の杖で触れること。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

ほら
(ジェイムズ・D・フーストン『ガスマスク』大谷圭二訳)

そのひと言で、
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』女戦士(アマゾネス)、木村榮一訳)

太陽をこわしたり、作ったりできる
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの航星日記』第二十一回の旅、深見 弾訳)

詩というのは
(J・L・ボルヘス『月』鼓 直訳)

現実を変えてしまうのさ。
(K・W・ジーター『グラス・ハンマー』黒丸 尚訳)

ああ、ぼくの頭はどうしたんだろう?
(シオドア・スタージョン『人間以上』第三章、矢野 徹訳)

頭のまわりで世界が回転する。
(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』12、安原和見訳)

ぼくの頭もぐるぐるまわりはじめた。
(ジョン・クリストファー『トリポッド 2 脱出』2、中原尚哉訳)

頭がぐるぐる回っている、
(ドナルド・バーセルミ『アリス』邦高忠二訳)

私は頭の回転がよくなっているのだろう。
(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』二冊目・3、野口幸夫訳)

ああ、世界がぐるぐる廻るわ!
(レイ・ブラッドベリ『メランコリイの妙薬』吉田誠一訳)

この世界がぐるぐるまわっているからさ。
(ボブ・ショウ『メデューサの子ら』5、菊地秀行訳)

世界ははたと動きをとめた。
(アルフレッド・ベスター『祈り』稲葉明雄訳)

いったい、この世界はどうなっているんだろう。
(ガルシア=マルケス『族長の秋』鼓 直訳)

どうして人生を込み入ったものにしちゃうんだろうな?
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

深い知恵は無知を恐れない。
(トルストイ『ことばの日めくり』十月一日、小沼文彦訳)

愚かさがなければ、さらなる理解への刺激はどこにあるというのだ?
(ジャック・ヴァンス『なみ以下のサーディン』米村秀雄訳)

なんのための芸術か?
(ホフマンスタール『一人の死者の影が……』川村二郎訳)

世界は私の傷だ、
(ディラン・トマス『黄昏の明かりに祭壇のごとく』VIII、松田幸雄訳)

音楽や性行為、文学や芸術、それは今やすべて、楽しみの源ではなくて苦痛の源にされてしまってるんだね
(アントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ』3・4、乾 信一郎訳)

でも
(オースン・スコット・カード『神の熱い眠り』8、大森 望訳)

世界はそのままきみのものではないのか。
(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)

きみはどんどん使い捨てて、いつも手をさし出しては新しい世界を求めた。
(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)

なにがほしいの?
(ロジャー・ゼラズニイ『ユニコーンの徴(しるし)』3、岡部宏之訳)

物語だよ、フローラ。
(ロジャー・ゼラズニイ『ユニコーンの徴(しるし)』3、岡部宏之訳)

「花は?」
(フロベール『感情教育』第一部・五、生島遼一訳)

「花は」
「Flora.」
たしかに「Flower.」とは云はなかつた。
(梶井基次郎『城のある町にて』手品と花火)

汝は花となるであろう。
(バルザック『セラフィタ』五、蛯原〓夫訳)

花となり、香となるだろう。
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・7、安藤哲行訳)

それにしても、なぜいつもきまってあのことに立ちかえってしまうのでしょう……。
(モーリヤック『ホテルでのテレーズ』藤井史郎訳)

どこであれ、帰ってくるということはどこにも出かけなかったということだ。
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

あれは白い花だった……(それとも黄色だったか?
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』3、野谷文昭訳)

「青い花ではなかったですか」
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第一章、青山隆夫訳)

見覚えました花ですが、私(わたし)はもう忘れました。
(泉 鏡花『海神別荘』)

真(まつ)黄(き)色(いろ)な花の
(泉 鏡花『春昼後刻』三十三)

淡い青色の花だったが、
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第一章、青山隆夫訳)

世界は物語でいっぱい
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』15、野口幸夫訳)

じつを言えば、たいていなにをやっていても楽しいのだ。
(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』13、安原和見訳)

人生とはほとんどいつもおもしろいものだ。
(タビサ・キング『スモール・ワールド』5、みき 遙訳)

いつも何かが起きてしまうのだ。
(A・A・ミルン『自然科学』行方昭夫訳)

幸福でないものがあるだろうか?
(ブライアン・W・オールディス『暗い光年』1、中桐雅夫訳)

すべてが喜びなのである。
(ジョン・ダン『秋のような顔』湯浅信之訳)

太陽はけっしていかなる影をも見ない。
(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』科学論、杉浦明平訳)

愛よ おまえは何を夢見ているのか?
(ヘッセ『カーネーション』岡田朝雄訳)

愛はそんなものじゃない
(デイヴィス・グラッブ『月を盗んだ少年』柿沼瑛子訳)

もともとの本質からして愛が永続するはずがない
(リサ・タトル『きず』幹 遙子訳)

もちろんさ。
(アイザック・アシモフ『ミクロの決死圏』5、高橋泰邦訳)

もちろんよ。
(ヘンリー・ジェイムズ『エドマンド・オーム卿』平井呈一訳)

だけど、まず最初に、もう一度夢を見なければならない
(イアン・マクドナルド『キャサリン・ホイール(タルジスの聖女)』古沢嘉通訳)

真に肝要なるは完成することであって完成ではなかった。
(岡倉覚三『茶の本』第二章、村岡 博訳)

どんな秘密も、そこへ至る道ほどの値うちはないのですよ。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二十二章、園田みどり訳)

きみは実在しているものについて語る、セヴェリアン。
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』50、岡部宏之訳)

こうして、きみはまだ実在しているものを保持しているんだよ。
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』50、岡部宏之訳)

創造者がどれだけ多くのものを被造物と分かちもっているか、
(トマス・M・ディッシュ『M・D』下・第五部・67、松本剛史訳)

今、わたしの存在を維持しているのはだれか?
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』50、岡部宏之訳)

あるひとつの思考は、どのくらいの時間、持続するものなのだろうか?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』12、菅野昭正訳)

人間の精神は、ほんのわずかのあいだしか、ひとつの考えに、とどまっていることをしない
(アーサー・C・クラーク『銀河帝国の崩壊』10、井上 勇訳)

瞬間的でしかない意識
(ブライアン・オールディス『橋の上の男』井上一夫訳)

心はひとりでに動いてしまう。
(フランク・ハーバート『デューン砂丘の子供たち』第1巻、矢野 徹訳)

運動は一切の生命の源である。
(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』「繪の本」から、杉浦明平訳)

言葉同士がぶつかり、くっつきあう。
(ルーディ・ラッカー『ホワイト・ライト』第四部・22、黒丸 尚訳)

ああ、これがあらゆることのもとだったんだ。
(アントニイ・バージェス『ビアドのローマの女たち』7、大社淑子訳)

変化だけがわたしを満足させる。
(モンテーニュ『エセー』第III巻・第9章、荒木昭太郎訳)

結局、精神構造とは、一個の複雑な出来事ではなかろうか?
(バリントン・J・ベイリー『王様の家来がみんな寄っても』浅倉久志訳)

世界中で価値のあるものはただひとつ、活動的な魂です。
(エマソン『アメリカの学者』酒本雅之訳)

大切なのは活発に動くことだ。
(D・G・コンプトン『人生ゲーム』2、斎藤数衛訳)

ぼくたちのバスは止まる、
(ジャック・フィニイ『失踪人名簿』福島正実訳)

私たちは言葉や指でさし示すことによってだんだん世界をわがものとしてゆく、
(リルケ『オルフォイスに寄せるソネット』第一部・16、高安国世訳)

人は手に触れるもの、愛するもの、夢見るものばかりではなく、
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

恐れ、拒否するものさえも祝福できるようにならなければいけないということだ。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

わたしが目にしているのはなにか?
(ロバート・シルヴァーバーグ『予言者トーマス』4、佐藤高子訳)

水はたえず流れ去るが、イメージ自体は消えることがない。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』IV、宇野利泰訳)

別の道
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第三部・21、嶋田洋一訳)

べつの場所
(アルフレッド・ベスター『願い星、叶い星』中村 融訳)

別の物語
(リチャード・コールダー『デッドボーイズ』第5章、増田まもる訳)

無数の名前を記録する
(イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』I 都市と記号1、米川良夫訳)

自我、自我、自我。
(ロバート・シルヴァーバーグ『内死』17、中村保男・大谷豪見訳)

精神的引力はさまざまな出来事を自分のところへ惹きつける
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』20、宇佐川晶子訳)

蜜蜂は蜜の収集家である。
(バリントン・J・ベイリー『知識の蜜蜂』岡部宏之訳)

ナポレオンの象徴は、ハチだった
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)

詩人というものは、
(ジャック・ヴァンス『愛の宮殿』8、浅倉久志訳)

蜜蜂の運命をもつ者なのだ。
(『デモクリトス断片』227、廣川洋一訳)

この蜂たちは一匹ずつごくわずかにちがう蜂蜜のしずくをもって帰ってくる
(ジェラルド・カーシュ『不死身の伍長』小川 隆訳)

口のなかは、花や蜜や花粉でいっぱいだ。
(T・J・バス『神鯨』10、日夏 響訳)

どこかで、蜂のとんでいるようなぶんぶんいう音がしている。いつもこの音だ。
(トーマス・M・ディッシュ『虚像のエコー』4、中桐雅夫訳)

多くの響きでありながら一つに聞こえる、
(シェイクスピア『ソネット8』高松雄一訳)

蜂の巣のなかの完全共同作業。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)

蜂蜜といっても、巣によってそれぞれちがう
(ジェラルド・カーシュ『不死身の伍長』小川 隆訳)

せっせと蜜を集めては、
厄介な詩を作っている
(ホラティウス『歌集』第四巻・二、鈴木一郎訳)

蜜蜂が勝手にあんなものを作るのである
(稲垣足穂『放熱器』)

さ、あの音楽をお聴き。
(シェイクスピア『ヴェニスの商人』第五幕・第一場、中野好夫訳)

しかし
(ノヴァーリス『対話・独白』今泉文子訳)

人類は客観的事実に縛られてはいない。
(フレデリック・ポール『マン・プラス』3、矢野 徹訳)

頭のなかには現実の場所よりも
はるかに多くの回廊がある
(エミリ・ディキンスン『作品六七〇』新倉俊一訳)

偽の記憶
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチール・ラットの復讐』17、那岐 大訳)

架空の記憶
(J・G・バラード『ある日の午後御、突然に』伊藤 哲訳)

記憶というものはなんと二股の働きをするものだろう。一方では現わし、他方では隠す。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチール・ラットの復讐』4、那岐 大訳)

記憶というものも、それの不完全さということがやはり天の恵みなのだ。
(ウィル・ワーシントン『プレニチュード』井上一夫訳)

二すじに割れた水も手の背後ではまたひとつに結び合う。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢わむとぞ思ふ
(崇徳院『詞花集』恋)

魂の流出は、幸福である、ここには幸福がある、
(ホイットマン『大道の歌』8、木島 始訳)

なにも知らないことを心から楽しんでいた。自分の無知が彼を興奮させた。
(ロバート・シェクリー『トリップアウト』4、酒匂真理子訳)

つまり、学ぶことがたくさんあるということだ。
(ロバート・シェクリー『トリップアウト』4、酒匂真理子訳)

一つの現実からもう一つの現実へと
(シオドア・スタージョン『[ウィジェット]と[ワジェット]とボブ』7、若島 正訳)

名前はさらなる名前へと、どんどん遡る、最後には名前のない者へと。
(フランク・ハーバート『デューン砂丘の大聖堂』第3巻、矢野 徹訳)

すべてがはじまる場所へ。
(コードウェイナー・スミス『クラウン・タウンの死婦人』1、伊藤典夫訳)

バスはいつもと違うコースをとった。
(リサ・タトル『きず』幹 遙子訳)

きみはまたぼくと会うことになる
(ジェイムズ・P・ブレイロック『ホムンクルス』4、友枝康子訳)

あるいは、その逆か
(アヴラム・デイヴィッドスン『眠れる美女ポリー・チャームズ』古屋美登里訳)

あらゆるものは、始まったところにもどるもの
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』2、深町真理子訳)

「愛」が覚えている先の一瞥(いちべつ)のごとく、
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第二幕・第五場、石川重俊訳)

いまぼくはあの数瞬間をふたたび発見し、それがきみを永遠にぼくに結びつけているのだ。
(ビュトール『時間割』第四部・四、清水 徹訳)

映像また映像がたわむところ
(チャールズ・トムリンソン『水の上に』土岐恒二訳)

夢はうごいている。
(サンドバーグ『赤い銃のあいだで』安藤一郎訳)

眠っているあいだも、頭ははたらいている。
(ロバート・ブロック『死の収穫者』白石 朗訳)

寝ている間も脳は動いているんだわ。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

眠ることのない潜在意識
(アーサー・C・クラーク『犬の星』南山 宏訳)

一人の人間の夢は、万人の記憶の一部なのだ。
(J・L・ボルヘス『マルティン・フィエロ』鼓 直訳)

われわれ人間は夢と同じもので作られている。
(シェイクスピア『テンペスト』第四幕・第一場、伊東杏里訳)

「夢」が知となる。
(ポール・ヴァレリー『海辺の墓地』安藤元雄訳)

心の中では数々の夢が力を持っている。
(ヴァジニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

夢がまちがってることだってあるのよ
(チャールズ・ブコウスキー『狂った生きもの』青野 聰訳)

間違っているかどうかなんて、そんなことが問題じゃないんだ、
(トンマーゾ・ランドルフィ『幽霊』米川良夫訳)

絶対に間違いのないようにするなんてことは、何の役にも立ちはしない、
(トンマーゾ・ランドルフィ『幽霊』米川良夫訳)

人生にはなにか見落としているものや自分の知らないものがあるのだろうか?
(アンナ・カヴァン『愛の渇き』5、大谷真理子訳)

われわれのかかわりを持つものが、すべてわれわれに向かって道を説く。
(エマソン『自然』五、酒本雅之訳)

その構造を知ること。
(クリフォード・D・シマック『宇宙からの訪問者』32、峰岸 久訳)

構造?
(スティーヴン・バクスター『虚空のリング』上・第二部・9、小木曽絢子訳)

啓示の瞬間が長く続くことはない。たちまちのうちにまたいつもの見方にとらわれてしまう。
(ロバート・シェクリー『隣は何をする人ぞ』米村秀雄訳)

別の雲。
(コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』浅倉久志訳)

別の曲
(ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ『砂漠の音楽』原 成吉・江田孝臣訳)

人間の通性が不意に稀有なものとなる。
(ジェフリー・ヒル『小黙示録』富士川義之訳)

万物に輝きと昂揚を与えるこの魂
(エマソン『霊の法則』酒本雅之訳)

われわれの内部にあっては情感であるあの魂が、外部にあれば法則となる。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)

昼がなければ夜もあるまい
(ロバート・シルヴァーバーグ『大地への下降』12、中村保男訳)

考えれば気づいたはずのこと
(アン・マキャフリイ『クリスタル・シンガー』5、浅羽莢子訳)

夜には昼に教えることがたくさんある
(レイ・ブラッドベリ『趣味の問題』中村 融訳)

太陽は昼をつくる、諸惑星がめいめいの夜をつくるのだ。
(ブライアン・W・オールディス『銀河は砂粒のように』4、中桐雅夫訳)

われわれの内部にあっては情感であるあの魂が、外部にあれば法則となる。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)

自我という公式(、、)を発展させること。
(ノヴァーリス『一般草稿』[639]、今泉文子訳)

だが、
(アルジス・バドリス『隠れ家』浅倉久志訳)

法則に支配される創造性というようなものはないのだぞ
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第1巻、矢野徹訳)

生きるって、感情よ。愛するって、感情なのよ。
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第一章・8、青木久恵訳)

もともとの本質からして愛が永続するはずがない
(リサ・タトル『きず』幹 遙子訳)

愛はたえずとびまわらなければならぬ。
(ノヴァーリス『青い花』遺稿、青山隆夫訳)

すべては同じようにはかなく移ろいやすいものだ。
(サバト『英雄たちと墓』第II部・IV、安藤哲行訳)

少なくともそのために、束の間のものを普遍化するために書く。たぶん、それは愛。
(サバト『英雄たちと墓』第II部・IV、安藤哲行訳)

愛の驚き、
(ハート・クレイン『橋』四、ハテラス岬、東 雄一郎訳)

驚きあってこその人生ではないか。
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』上・第三部・32、酒井昭伸訳)

varietas delectat.
變化は人を〓ばす。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

変化は嬉しいものなのだ。
(ホラティウス『歌集』第三巻・二九、鈴木一郎訳)

人生を意義あるものにしてくれるのは、危うさだ。人生という地雷源を躍りぬけること。
(ジャック・ウォマック『ヒーザーン』1、黒丸 尚訳)

わたしたちは、わたしたちを知らぬ多くのものによってつくられているのではないかしら。
(ヴァレリー『ムッシュー・テスト』友の手紙、清水 徹訳)

だからこそ、わたしたちはわたしたち自身を知らないのだ。
(ヴァレリー『ムッシュー・テスト』友の手紙、清水 徹訳)

言葉が不可解だというのは、言葉自身がみずからを理解せず、また理解しようとも思っていないからだ。
(ノヴァーリス『サイスの弟子たち』一、今泉文子訳)

よく見るのだ。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

人生を楽しむ秘訣は、細部に注意を払うこと。
(シオドア・スタージョン『君微笑めば』大森 望訳)

知覚されないかぎり何一つ存在できない。もし一瞬でも知覚をしくじると、それは永遠に消え去ってしまう
(R・A・ラファティ『宇宙舟歌』第四章、柳下毅一郎訳)

人生のあらゆる瞬間はかならずなにかを物語っている、
(ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』四・16、小林宏明訳)

表現者は、あらゆることが表現でき、また表現しようと思わなければならない。
(ノヴァーリス『花粉』25、今泉文子訳)

思考はあらゆるものを、利用可能なものに変える。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)

自分の作り出すものであって初めて見えもする。
(エマソン『霊の法則』酒本雅之訳)

経験や行為は場面や戦慄となって表現されるのである。
(オリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』第三部・15、高見幸郎・金沢泰子訳)

なぜ人は、互いに話がしたいのかしら? つまり人は、相手のどんなことを、いつも知りたいと思うものなの?
(シャーリイ・ジャクスン『たたり』第六章・1、渡辺庸子訳)

いったい人間を理解するすべなどあるのだろうか?
(R・A・ラファティ『悪魔は死んだ』第十九章、井上 央訳)

じっくりと観察すること、それがアーティストにとっての至上命題であることはいうまでもない。
(アン・ビーティ『ウィルの肖像』ジョディ・9、亀井よし子訳)

生きて、読んで、考えることだ。
(ナボコフ『賜物』第4章、沼野充義訳)

考えよ。たえず考えるんだ。いろいろなことを。
(レイ・ブラッドベリ『浅黒い顔、金色の目』一ノ瀬直二訳)

人間についてのすべてのことはわからなくても、すべての人間がわかってくるよ
(R・A・ラファティ『一切衆生』浅倉久志訳)

世界というのは一つだけではないのですよ。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『紫年金の遊蕩者たち』大和田 始訳)

コーヒーのお代りは?
(ロジャー・ゼズニイ『ドリームマスター』1、浅倉久志訳)

コーヒー?
(ロバート・B・パーカー『約束の地』12、菊池 光訳)

だって、
(コレット『青い麦』一五、堀口大學訳、読点加筆)

コーヒーを飲むまでは、機嫌が悪いんだもの。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『デイワールド』8、大西 憲訳)

愛するとは受け取ることの極致である。
(シオドア・スタージョン『一角獣の泉』小笠原豊樹訳)

in omnibus caritas. 
萬事において愛。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

すべてのものが
(バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』6、大森 望訳)

わたしという
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』11、岡部宏之訳)

存在になる
(ブライアン・W・オールディス『銀河は砂粒のごとく』5、中桐雅夫訳)

作りうる組合せは無数にあり、その大部分はぜんぜん的外(まとはず)れのものである。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとIII』28、田中 勇・銀林 浩訳)

無用な組合せを避け、ほんの少数の有用な組合わせを作ること、これこそが創造するということなのである。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとIII』28、田中 勇・銀林 浩訳)

発見とは、識別であり選択である。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとIII』28、田中 勇・銀林 浩訳)

とらえがたい選択こそが、成功の秘訣であることを知らない芸術家が一人でもいるだろうか。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとIII』28、田中 勇・銀林 浩訳)

創造性とは、関係の存在しないところに関係を見出す能力にほかならない。
(トマス・M・ディッシュ『334』ソクラテスの死・4、増田まもる訳)

世界は、必ずしもわれわれに意味を与えてくれてはいない。
(サミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』5、伊藤典夫訳)

あるものにとっての知恵は、他のものの知恵ではありません。
(リチャード・カウパー『クローン』34、鈴木 晶訳)

詩はつねに新しい関係をもとめる。
(ウォレス・スティヴンズ『アデージア』片桐ユズル訳)

新しいものはいい
(ジェローム・ビクスビー『日々是好日』矢野浩三郎訳)

目に映るすべてのものが新しいとでもいうように、
(バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』6、大森 望訳)

意味が新しくなる。
(ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テストと劇場で』清水 徹訳)

驚かされる(、、、、、)こと、新しいものを生じさせること、それこそ(、、、、)、わたしが最も欲していることなのだ
(フランク・ハーバート『デューン砂漠の神皇帝』第1巻、矢野 徹訳)

自分の気持ちを憶えているかね?
(ジョン・クリストファー『トリポッド 3 潜入』1、中原尚哉訳)

むかしというのはいろんな出来事がよく迷子になるところでね
(ロバート・ホールドストック『アースウィンド』4、島岡潤平訳)

ぼくらは人生に迷い子となるが、人生はぼくらの居所を知っている。
(ジョン・アッシュベリー『更に快い冒険』佐藤紘彰訳)

論理的には全世界が自分の名前になるということが理解できるか?
(イアン・ワトスン『乳のごとききみの血潮』野村芳夫訳)

この世界が、自分自身なのだ
(ウィリアム・バロウズ『ノヴァ急報』諏訪 優訳)

失われるものは何もなく、役に立たないものもない。
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第三部・21、嶋田洋一訳)

おれのしてきたすべてのことが、視線も、息も、ことごとく輝き、巨大に、無限におれ自身になる。
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第三部・21、嶋田洋一訳)

やがて世界中すべてが、わたしの声と顔、そして手触りに満ちる。
(シオドア・スタージョン『闇の間近で』樋口真理訳)

人間が自らを理解すること、人生のあらゆる瞬間を静かな喜びでもって豊かにすること──
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』20、安田 均訳)

これこそ、われわれの真の目標だ。
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』20、安田 均訳)

そして人生は生きるためにある。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第三部・2、青木久恵訳)

まだコーヒーが残ってるかな?
(クリフォード・D・シマック『宇宙からの訪問者』4、峰岸 久訳)

サンドイッチも残ってる
(クリフォード・D・シマック『宇宙からの訪問者』4、峰岸 久訳)

感情にいい悪いはないよ。感じるものは感じるんだよ。
(P・D・ジェイムズ『原罪』第二章・24、青木久恵訳)

世界は結局、心情(、、)になるのではないか。
(ノヴァーリス『断章と研究 1799-1800』[577]、今泉文子訳)

正しく質問すれば答えは得られたも同然、
(シオドア・スタージョン『ゆるやかな彫刻』伊藤典夫訳)

重要な答えはすべて自己に関係があるものだからね。
(ルーシャス・シェパード『ぼくたちの暮らしの終わり』小川 隆訳)

なにもかもがそこにある。
(ロバート・シルヴァーバーグ『内側の世界』6、大久保そりや・小川みよ訳)

信行のことを思った。
(志賀直哉『暗夜行路』第一・二)

で、彼を愛していた?
(ジョン・ヴァーリイ『ブルー・シャンペン』浅倉久志訳)

愛情だろうか。敢えて愛情と呼べるだろうか?
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・〔1〕・V、鈴木克昌訳)

そして恋は? あれは果して恋だったのだろうか?
(W・M・ミラー・ジュニア『時代おくれの名優』志摩 隆訳)

幸せだったのだろうか?
(サバト『英雄たちと墓』第I部・20、安藤哲行訳)

"愛"とか"欲望"とか呼ぶものがどこから生まれるかは、だれにもわからない。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』26、岡部宏之訳)

単純な答えなどない。はげしく誰かを愛しながら、きらうこともできる。
(アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』第二部・14、中田耕治訳)

幸せな苦痛だった、いまでもそうだ、
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第三幕・第四場、石川重俊訳)

忘れたことなんかないさ。
(ジェイムズ・P・ブレイロック『リバイアサン』第三部・16、友枝康子訳)

今でもきみのことを夢に見るよ。
(ルーシャス・シェパード『竜のグリオールに絵を描いた男』3、内田昌之訳)

きみはまたぼくと会うことになる
(ジェイムズ・P・ブレイロック『ホムンクルス』4、友枝康子訳)

夢のひとつさ。
(アダム=トロイ・カストロ&ジェリイ・オルション『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』浅倉久志訳)

憎しみこそこの世でもっとも破壊的な力だと人は言うだろう。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第四部・1、青木久恵訳)

だが、そんなことを信じてはいかん。一番破壊的なのは愛さ。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第四部・1、青木久恵訳)

みんな自分の亡ぼすものを愛している。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』4、岡部宏之訳)

愛することを怖れる必要はないとわかるまで、どうしてこんなに時間がかかったのだろう。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・7、青木久恵訳)

いいえ。あなたは私と同じよ。愛し方を知らないわ。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・8、青木久恵訳)

さあ、教えてくれ。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』22、岡部宏之訳)

この苦しみは、いったいいつまで続くのか?
(アンナ・カヴァン『召喚』山田和子訳)

大体苦しみのない愛情が存在すると思う方がおかしい。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・11、青木久恵訳)

迷うことはない。
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

愛して
(ジョン・ヴァーリイ『ブルー・シャンペン』浅倉久志訳)

憎む相手を見つけるのだ。そうすればすぐに自分を取り戻せる。
(オーエン・コルファー『新銀河ヒッチハイク・ガイド』下・第11章、安原和見訳)

そしておまえたちにさらなる裏切りの機会をあたえるのか?
(リチャード・コールダー『デッドボーイズ』第4章、増田まもる訳)

裏切りは裏切りを生む、
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

裏切りには裏切りが返ってくる
(ヴォンダ・N・マッキンタイア『太陽の王と月の妖獣』下・29、幹 遙子訳)

偽の光
(ジョン・スラデック『非12月』越智道雄訳)

いまは偽の光以外なにひとつ残ってはいない。
(ジョン・スラデック『非12月』越智道雄訳)

期待のもたらす苦い味を&#22169;みしめているのだ
(コルタサル『悪魔の涎』木村榮一訳)

それは苦痛をもたらすが、同時に知恵をも生むのだ。
(グレゴリイ・ベンフォード『光の潮流』上・第二部・7、山高 昭訳)

定義し理解するためには定義され理解されるものの外にいなければならない
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

ぼくも以前は金魚鉢が大好きでした。
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・25、土岐恒二訳)

詩はもっぱらペンによる所産、一連のイマージュと音との集まりではなく、ひとつの生き方(、、、、、、、)である。
(トリスタン・ツァラ『詩の堰』シュルレアリスムと戦後、宮原庸太郎訳)

それは矛盾しているためにかえって真実そのものに違いなかった。
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・9、土岐恒二訳)

大半の真理は循環パラドックスでしか表現されえない、
(オースン・スコット・カード『死者の代弁者』下・18、塚本淳二訳)

原因も結果も、ひとつの事実にそなわる二つの側面なのだ。
(エマソン『円』酒本雅之訳)

人間はみんな同一じゃない。
(ポール・アンダースン『タウ・ゼロ』12、浅倉久志訳)

それぞれ異なることばを聞いたのね、わたしたち
(グレッグ・ベア『ナイトランド──<冠毛>の一神話』4、酒井昭伸訳)

それがあなたの魂の夢なのね、
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』5、深町真理子訳)

これがぼくの魂なんだよ
(イアン・ワトスン『我が魂は金魚鉢の中を泳ぎ』美濃 透訳)

夢はいつまでもつきまとう。
(シオドア・スタージョン『火星人と脳なし』霜島義明訳)

それは夢ではなかったのだよ
(ストルガツキー兄弟『神様はつらい』4、太田多耕訳)

裏切りに基づく生は生とはいえない。
(ノサック『ルキウス・エウリヌスの遺書』圓子修平訳)

裏切りは人間の本性ではなかったかな?
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・7、冬川 亘訳)

私たちの魂は裏切りによって生きている。
(リルケ『東洋風のきぬぎぬの歌』高安国世訳)

だれもが自分を裏切るんだ
(コニー・ウィリス『リメイク』大森 望訳)

花から花へ
(テニスン『イン・メモリアム』22、入江直祐訳)

指一本で花にさわってみる。
(ナンシー・クレス『ベガーズ・イン・スペース』2、金子 司訳)

すべてがもとどおりになる。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』4、岡部宏之訳)

花はみんな約束を果たす。
(ナンシー・クレス『ベガーズ・イン・スペース』2、金子 司訳)

どう、この花は?
(ジェフリイ・コンヴィッツ『悪魔の見張り』8、高橋 豊訳)

いったいなんという花なのだろう?
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』知らずして御(み)使(つか)いは舎(やど)したり、宇佐川晶子訳)

この花びら!
(レイ・ブラッドベリ『浅黒い顔、金色の目』一ノ瀬直二訳)

この花たちに目を覚まされたのか?
(J・G・バラード『夢幻社会』22、増田まもる訳)

これほど愚かな花もないだろう。
(ナボコフ『賜物』第3章、沼野充義訳)

思いだしたかい?
(ピーター・フィリップス『夢は神聖』浅倉久志訳)

ああ、
(レイ・ブラッドベリ『メランコリイの妙薬』吉田誠一訳)

そうだ、
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第三幕・第四場、石川重俊訳)

幾つもの名前のことを思いだした。
(レイ・ブラッドベリ『浅黒い顔、金色の目』一ノ瀬直二訳)

どれもこれも昔の思い出につながっていたのだ。
(ノヴァーリス『青い花』第二部、青山隆夫訳)

しかし、
(デイヴィッド・ブリン『キルン・ピープル』下・第三部・49、酒井昭伸訳)

以前知らなかった一つの存在を認識したために思考が豊かになっているので、
(ノサック『滅亡』神品芳夫訳)

心が新しい感覚で鋭くなっていった。
(イアン・ワトスン『アイダホがダイヴしたとき』黒丸 尚訳)

あらゆるものがわれわれに向かって流れ込んでくるように見える
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

今まで忘れていたことが思い出され、頭の中で次から次へと鎖の和のようにつながっていく。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)

きみの中で眠っていたもの、潜んでいたもののすべてが現われるのだよ。
(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳)

何もかも以前とは違って新しくなっているのよ。
(ロバート・シルヴァーバーグ『大地への下降』11、中村保男訳)

すべてのディテールが相互に結びついたヴィジョン。
(R・A・ラファティ『他人の目』2、浅倉久志訳)

あらゆる細部が生き生きしていた。
(R・A・ラファティ『他人の目』2、浅倉久志訳)

この世でひとたび掴み得た一つのものは、多くのものに匹敵しよう。
(リルケ『ドゥイノの悲歌』第七の悲歌、高安国世訳)

芸術のおいて当然栄誉に値するものは、何はさておき勇気である。
(バルザック『従妹ベット』二一、水野 亮訳)

芸術家にとっての限界はたった一つだけで、それはあらゆるもののなかで最も大きなもの、つまり形式です。
(ディラン・トマスの手紙、パメラ・ハンスフォード・ジョンソン宛、一九三三年一〇月一五日、徳永暢三・太田直也訳)

内容は形式として生まれてくるほかない
(オスカー・レルケ『詩の冒険』神品芳夫訳)

重要なのは形式なのである。
(P・D・ジェイムズ『ナイチンゲールの屍衣』第四章・8、隅田たけ子訳)

このような芸術作品に変えられてしまった自分自身の姿をわが目で眺めるというのは、いったいどんな経験なのか。
(ロバート・シルヴァーバーグ『一人の中の二人』7、中村保男訳)

持続する唯一の過去は、そなたの中に言葉によることなく存在する。
(フランク・ハーバート『デューン砂漠の神皇帝』第1巻、矢野 徹訳)

魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉、
(プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳)

意識からは失われるが、つねに存在する記憶として。
(フランク・ハーバート『デューン砂漠の神皇帝』第2巻、矢野 徹訳)

記憶はあらゆるものを含む
(ジョン・アッシュベリー『波ひとつ』佐藤紘彰訳)

すべての真の詩、すべての真の芸術の起源は無意識にある。
(コリン・ウィルソン『ユング』4、安田一郎訳)

感受性の強い者や想像力のたくましい者は、通常の意識よりも潜在意識を働かせている
(ウィリアム・F・テンプル『恐怖の三角形』若林玲子訳)

芸術は意識と無意識の結婚なのだ。
(ジャン・コクトー『ライターズ・アット・ワーク』より、村岡和子訳)

専門用語に気をつけることよ。それはたいてい無知を隠し、知識を運ばないものだから
(フランク・ハーバート『デューン砂丘の大聖堂』第3巻、矢野 徹訳)

真の知識にとってなによりも有害なのはあまり明瞭でない知識や言葉を使用することである。
(トルストイ『ことばの日めくり』四月十八日、小沼文彦訳)

何かを知っていると考えるときは、それが学習に対して最も完璧な障壁になるのだ
(フランク・ハーバート『デューン砂漠の神皇帝』第2巻、矢野 徹訳)

<知性>の第一の義務は自己に対する懐疑である。これは自己軽蔑とは別物だ。
(スタニスワフ・レム『虚数』GOLEM XIV、長谷見一雄訳)

創造性とは、関係の存在しないところに関係を見出す能力にほかならない。
(トマス・M・ディッシュ『334』ソクラテスの死・4、増田まもる訳)

ねぇ、きみ、きみは知らねばならないよ、その瞬間に発せられた言葉だけが、あらゆるもののうちで
(ミラン・クンデラ『ハヴェル先生の二十年後』12、沼野充義訳)

もっとも平凡なその瞬間を光で照らし、その瞬間を忘れがたいものにしてくれるんだってことを。
(ミラン・クンデラ『ハヴェル先生の二十年後』12、沼野充義訳)

人生で起こる偶然はみな、われわれが自分の欲するものを作り出すための材料となる。
(『花粉』 66、今泉文子訳)

精神の豊かな人は、人生から多くのものを作り出す。
(『花粉』 66、今泉文子訳)

まったく精神的な人にとっては、どんな知遇、どんな出来事も、無限級数の第一項となり、
(『花粉』 66、今泉文子訳)

終わりなき小説の発端となるだろう。
(『花粉』 66、今泉文子訳)

あらゆるものが芸術になりうるのだ。
(ノヴァーリス『信仰と愛』39、今泉文子訳)

偶然とはなんだと思う?
(グレアム・チャーノック『フルウッド網(ウエツブ)』美濃 透訳)

偶然だって?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)

偶然は本質と同じように貴重なのだ
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・133、土岐恒二訳)

人間もまた偶然の存在だ。
(ダン・シモンズ『真夜中のエントロピー・ベッド』嶋田洋一訳)

偶然こそ、私たちの生の偉大な創造者というべき神である。
(プリニウス『博物誌』第二十七巻・第二章、澁澤龍彦訳)

愛とは驚愕のことではないか。
(ジョン・ダン『綴り換え』湯浅信之訳)

人生は驚きの連続だ。
(エマソン『円』酒本雅之訳)

ぶつかることのできる場所のようだ。
(リルケ『黒猫』高安国世訳)

存在の大鍋の中の一瞬のきらめき。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『紫年金の遊蕩者たち』大和田 始訳)

創造の鍋の中から生き残るのはほんのひと握りなんだよ。
(アン・マキャフリイ『竜の夜明け』上・第一部・6、浅羽莢子訳)

新しいものはいい
(ジェローム・ビクスビー『日々是好日』矢野浩三郎訳)

新しい感覚には新しい言葉が必要だ。
(ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』29、窪田般弥訳)

つねに先がある。その先にもさらに先がある。
(M・ジョン・ハリスン『ライト』27、小野田和子訳)

絶えず作り直されねばならない。
(ウィリアム・バロウズ『夢の書 わが教育』山形浩生訳)

何度でも生まれ直すんだ。
(ロバート・シルヴァーバーグ『いまひとたびの生』1、佐藤高子訳)

詩はもっぱらペンによる所産、一連のイマージュと音との集まりではなく、ひとつの生き方(、、、、、、、)である。
(トリスタン・ツァラ『詩の堰』シュルレアリスムと戦後、宮原庸太郎訳)

作品と同時に自分を生みだす。というか、自分を生みだすために作品を書くんだ
(オースン・スコット・カード『エンダーの子どもたち』上・4、田中一江訳)

自分自身の感情以上にリアルなものは存在しない。
(フリッツ・ライバー『ジェフを探して』深町眞理子訳)

唯一大事なのは、自分の真実の知覚だ。
(ウィリアム・バロウズ『夢の書 わが教育』山形浩生訳)

生きること、世界のいたるところに自分の苦しむ自我を運びまわること。
(ミラン・クンデラ『不滅』第五部・六、菅野昭正訳)

おそらく、苦悩はつねに最強のものなのだ。
(マルロー『アルテンブルクのくるみの木』シャルトル捕虜収容所、橋本一明訳)

苦しみは人生で出会いうる最良のものである
(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・逃げさる女、井上究一郎訳)

魂の他のどんな状態にもまして、悲しみは、人間の性格や運命を深く洞察させる。
(スタール夫人『北方文学と南方文学』加藤晴久訳)

増大する苦痛が苦痛の観察を強いるのです。
(ヴァレリー『テスト氏』テスト氏との一夜、村松 剛・菅野昭正訳)

悲しみは、一回ごとに一つの法則をわれわれにあかすわけではないにしても、
(プルースト『失われた時を求めて』第七篇・見出された時、井上究一郎訳)

そのたびにわれわれを真実のなかにひきもどし、物事を真剣に解釈するようにさせる
(プルースト『失われた時を求めて』第七篇・見出された時、井上究一郎訳)

世界はすべての人間を痛めつけるが、のちには多くの人がその痛めつけられた場所で、かえって強くなることもある。
(ヘミングウェイ『武器よさらば』第三四章、鈴木幸夫訳)

苦悩(くるしみ)は祝福されるのだ。
(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第三章、渡辺一夫訳)

名前には意味がある。
(オースン・スコット・カード『神の熱い眠り』2、大森 望訳)

いやいや、
(ジェラルド・カーシュ『破滅の種子』西崎 憲訳)

意味はないよ。
(グレゴリイ・ベンフォード『時の迷宮』上・第二部・8、山高 昭訳)

あらゆるものに意味があったのではないかな?
(A・バートラム・チャンドラー『左まわりのネジ』乗越和義訳)

いったいどっちだろうね。
(ジェラルド・カーシュ『狂える花』駒月雅子訳)

もしかしたら世界それ自体に意味がないのかもしれない。
(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』丹治 愛訳)

意味のあるものはない。ということは意味のあるものは無なのだ。
(ジェフ・ヌーン『未来少女アリス』風見賢二訳)

夢には意味があるって思わない?
(サバト『英雄たちと墓』第I部・17、安藤哲行訳)

あるいはね。
(J・G・バラード『砂の檻』永井 淳訳)

名前っていったい何なのか?
(シェイクスピア『ロミオとジューリエット』第二幕・第二場、平井正穂訳)

なぜ名前をもっていなくちゃいけないと思う?
(ダグラス・アダムス『宇宙の果てのレストラン』29、風見 潤訳)

名前が大事なのかい?
(ジョン・ヴァーリイ『汝、コンピューターの夢』小隅 黎訳)

名前には意味がある。
(オースン・スコット・カード『神の熱い眠り』2、大森 望訳)

意味?
(マイケル・ムアコック『北京交点』6、野口幸夫訳)

名前と結びつけて考える。
(ウィリアム・バロウズ『ダッチ・シュルツ最後のことば』196、山形浩生訳)

名前を持つことが自立した実体として存在することである。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第3部、小中陽太郎・森山 隆訳)

どうしてそんなことがわかる?
(ゴア・ヴィダール『マイラ』36、永井 淳訳)

なんでそんなに名前にこだわるんだ?
(R・A・ラファティ『イースター・ワインに到着』8、越智道雄訳)

ぜんぜん別なことじゃないのかな。
(ゴーゴリ『妖女(ヴィイ)』原 卓也訳)

名前なんかどうでもいい
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』6、鈴木 晶訳)

べつに意味はないんだよ。
(ルーシャス・シェパード『竜のグリオールに絵を描いた男』1、内田昌之訳)

何の意味もない。
(ケリー・リンク『しばしの沈黙』柴田元幸訳)

嘘をついているわ。なぜ嘘をつくのかしら?
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

嘘をつくのは、そうする甲斐があるからさ。
(シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』15、市田 泉訳)

りっぱな嘘つきだわ。
(エリス・ピーターズ『聖なる泥棒』7、岡本浜江訳)

永遠に名前を呼びつづける
(エリス・ピーターズ『聖女の遺骨求む』10、大出 健訳)

あのかわいらしいさかなを見なかったの?
(A・E・コッパード『アダムとイヴ』橋本福夫訳)

ああ。覚えてるとも。
(クリフォード・D・シマック『宇宙からの訪問者』33、峰岸 久訳)

名前ない体験のなり止(や)まぬのはなぜだらう
(伊東静雄『田舎道にて』)

感受性の強い者や想像力のたくましい者は、通常の意識よりも潜在意識を働かせている
(ウィリアム・F・テンプル『恐怖の三角形』若林玲子訳)

意識からは失われるが、常に存在する記憶として
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第2巻、矢野徹訳)

意味のないものが
(ブライアン・W・オールディス『暗い光年』10、中桐雅夫訳)

無意識に反復されている
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』4、岡部宏之訳)

それは
(テリー・ビッスン『世界の果てまで何マイル』26、中村 融訳)

潜在意識の雑音よ。
(アーシュラ・K・ル・グイン『定刻よりも大きくゆるやかに』小尾芙佐訳)

無意識というものには、それ自体の論理がある。
(ロバート・A・ハインライン『フライデイ』1、矢野徹訳)

名もなく顔もない生き生きとした一なるもの、
(カトリーヌ・ポッジ『祝詞(アーヴエ)』渋沢孝輔訳)

「貫通するものは一なり。」と芭蕉は言つた。
(川端康成『日本美の展開』)

ああ、これがあらゆることのもとだったんだ。
(アントニイ・バージェス『ビアドのローマの女たち』7、大社淑子訳)

名前はない。
(ギブスン&スターリング『ディファレンス・エンジン』上・第三の反復、黒丸 尚訳)

名前なんてどうだっていいよ
(ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』16、風見 潤訳)

名前なんてのは、忘れられるものだ。
(ニールス・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ』上・23、日暮雅通訳)

いずれ無意識が何かのヒントか、すばらしい啓示をもたらしてくれるかもしれない。
(ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』A面4、嶋田洋一訳)

海は潜在意識とよく似ている。潜在意識そのものかもしれん──
(R・A・ラファティ『みにくい海』伊藤典夫訳)

目を覚ますと、夢が問題を整理してくれている。
(アン・ビーティ『女同士の話』亀井よし子訳)

ああ、意味と無意味が入り混じっている!
(シェイクスピア『リア王』第四幕・第六場、野島秀勝訳)

まさに理解不能な世界こそ──その不合理な周縁ばかりでなく、おそらくその中心においても──
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

意志が力を発揮すべき対象であり、成熟に至る力なのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

一つ一つのものは自分の意味を持っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)

その時々、それぞれの場所はその意味を保っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)

断片はそれぞれに、そうしたものの性質に従って形を求めた。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』36、黒丸 尚訳)

オリジナルよりもずっとリアルなものに並びかえられたジグソーパズル。
(リチャード・コールダー『デッドガールズ』第七章、増田まもる訳)

肝心なことはね、人生がすごくリアル(、、、)に感じられるようになったことでしてね。
(ジョン・スラデック『平面俯瞰図』越智道雄訳)

文体とは、まさに作家の思考が、現実に対して加える変形のしるしです。
(プルースト『サント=ブーヴに反論する』サント=ブーヴとバルザック、出口裕弘・吉川一義訳)

断片だけがわたしの信頼する唯一の形式。
(ドナルド・バーセルミ『月が見えるだろう?』邦高忠二訳)

首尾一貫など、偉大な魂にはまったくかかわりのないことだ。
(エマソン『自己信頼』酒本雅之訳)

すべて詩の中には本質的な矛盾が存在する。
(アントナン・アルトー『ヘリオガバルス』III、多田智満子訳)

矛盾ほど確実な土台はない
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』8、岡部宏之訳)

まさに理解不能な世界こそ──その不合理な周縁ばかりでなく、
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

おそらくその中心においても──意志が力を発揮すべき対象であり、成熟に至る力なのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

驚きあってこその人生ではないか。
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』上・第三部・32、酒井昭伸訳)

人生はほとんどいつもおもしろいものだ。
(タビサ・キング『スモール・ワールド』5、みき 遥訳)

優れた詩のように
(ジェイムズ・P・ブレイロック『ホムンクルス』2、友枝康子訳)

きみは生きている限り、きみはまさに瞬間だ
(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・3、浜野 輝訳)

芸術家にとっての限界はたった一つだけで、それはあらゆるもののなかで最も大きなもの、つまり形式です。
(ディラン・トマスの手紙、パメラ・ハンフフォード・ジョンソン宛、一九三三年一〇月一五日、徳永暢三・大田直也訳)

重要なのは形式なのである。
(P・D・ジェイムズ『ナイチンゲールの屍衣』第四章・8、隅田たけ子訳)

世界は新しい形のものだ
(ギブスン&スターリング『ディファレンス・エンジン』上・第二の反復、黒丸 尚訳)

無情も情である
(紫 式部『源氏物語』竹河、与謝野晶子訳)

独創とはくりかえしからの脱出だ。
(ウォレス・スティヴンズ『アデージア』片桐ユズル訳)

内容は形式として生まれてくるほかない
(オスカー・レルケ『詩の冒険』神品芳夫訳)

芸術は感覚の仕事ではなくて、表現の仕事だ。
(ピエール・ルヴェルディ『私の航海日誌』高橋彦明訳)

偶然の成功を増やしていき、(…)それらの成功を結びつける当人が、それらに心をとめ、
(ヴァレリー『『パンセ』の一句を主題とする変奏曲』安井源治訳)

大切にすることが必要である。
(ヴァレリー『『パンセ』の一句を主題とする変奏曲』安井源治訳)

芸術は偶然の終るところに始まる。しかし芸術を富ませるのは偶然が芸術にもたらすすべてのものなのだ。
(ピエール・ルヴェルディ 『私の航海日誌』高橋彦明訳)

しかし
(ノヴァーリス『対話・独白』今泉文子訳)

用心したまえよ、事物のやさしさに、
(ポール・ジャン・トゥーレ『コントリーム』入沢康夫訳)

現実の事物は刺(し)激(げき)が強すぎる。用心しなければならない。
(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』冨田 彬訳)

光は過剰な秩序であり、致命的なものになり得る。
(フランク・ハーバート『デューン砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

太陽は人をあざむくからね。
(アントニイ・バージェス『アバ、アバ』4、大社淑子訳)

慣れることと
(アルジス・バドリス『隠れ家』浅倉久志訳)

美は批判力を堕落させる。
(P・D・ジェイムズ『死の味』第三部・4、青木久恵訳)

私らはたえず自分が一度好きになったものにしがみついて、しがみついていることを忠実と考えるけれど、
(ヘッセ『夢の家』岡田朝雄訳)

それは怠惰にすぎない。
(ヘッセ『夢の家』岡田朝雄訳)

我々の思考は発展しなければならないし、同時に保存されなければならない。
(ヴァレリー『精神の危機』恒川邦夫訳)

思考は極端なものによってしか前進しないが、存続するのは平均的なものによってである。
(ヴァレリー『精神の危機』恒川邦夫訳)

事物や存在を支える偶然
(イヴ・ボンヌフォア『詩の行為と場所(抄)』宮川 淳訳)

この世でひとたび掴み得た一つのものは、多くのものに匹敵しよう。
(リルケ『ドゥイノの悲歌』第七の悲歌、高安国世訳)

考えよ、たえず考えるんだ。いろいろなことを。
(レイ・ブラッドベリ『浅黒い顔、金色の目』一ノ瀬直二訳)

詩は存在を救わねばならぬ、ついで、存在がわれわれを救わねばならぬ。
(イヴ・ボンヌフォア『詩の行為と場所(抄)』宮川 淳訳)

生きつづけることであり、幸せに生きること
(フランシス・ポンジュ『プロエーム(抄)』VII、平岡篤頼訳)

一つの現実からもう一つの現実へと
(シオドア・スタージョン『[ウィジェット]と[ワジェット]とボブ』16、若島 正訳)

別の関連の中へ
(リルケ『ドゥイノの悲歌』第九の悲歌、高安国世訳)

ほんの少し視点を変えるだけで、世界はすっかり変貌するのだ。
(ニコラス・グリフィス『スロー・リバー』7、幹 遙子訳)

意味が新しくなる。
(ポール・ヴァレリー『ムッシュウ・テストと劇場で』清水 徹訳)

そうして言葉が世界をつくるのだ。言葉が現実を構築する。
(イアン・ワトスン『星の書』第四部、細美遙子訳)

現実を変えてしまうのさ。
(K・W・ジーター『グラス・ハンマー』黒丸 尚訳)

芸術作品はすべて美しい嘘である。
(スタンダール『ウォルター・スコットと『クレーヴの奥方』』小林 正訳)

といってもそこにはなんらかの真実がある。
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)

どんな巧妙な嘘にも、真実は含まれている
(A・E・ヴァン・ヴォクト『スラン』10、浅倉久志訳)

このうえなく深い虚偽からかがやくような新しい真実が生まれるにちがいない、
(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳)

それはわたしをどこまで連れ去るのか?
(ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』32、窪田般弥訳)

あらたいへん、ビールを冷やすのを忘れてた。
(イアン・ワトスン『オルガスマシン』第一部、大森 望訳)

サンドイッチ召し上がる?
(ジョン・スラデック『見えないグリーン』10、真野明裕訳)

今日のサンドイッチの具はなに?
(オーエン・コルファー『新銀河ヒッチハイク・ガイド』下・第12章、安原和見訳)

人生を楽しむ秘訣は、細部に注意を払うこと。
(シオドア・スタージョン『君微笑めば』大森 望訳)

観察の正確さは思考の正確さに相当する。
(ウォレス・スティヴンズ『アデージア』片桐ユズル訳)

見ることはまったく能動的な──徹底して形成的な──行為なのだ。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

細部こそが、すべて
(ブライアン・W・オールディス『三つの謎の物語のための略図』深町眞理子訳)

魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現われることがない
(サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳)

et parvis sua vis. 
小さいものにもそれ自身の力あり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

小さくてつまらないことでも、大きな象徴とおなじように役に立つ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)

法則が表現される際の象徴がつまらないものであるほど、それだけいっそう強烈な力を帯び、
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)

人びとの記憶のなかでそれだけ永続的なものになる。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)

思考はあらゆるものを、利用可能なものに変える。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)

卑猥とさえ思えることも、思考の新しい脈絡(みやくらく)で語られると、輝かしいものとなる。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)

おそらく認識や知などはすべて、比較、相似に帰せられるだろう。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

語りは比喩でなされるし、人間は比喩そのもので、それ以外のなにものでもない。
(R・A・ラファティ『イースターワインに到着』6、越智道雄訳)

相対的なものに極限はない。
(ポール・ヴァレリー『オリエンテム・ウェルスス』恒川邦夫訳)

われわれ人間は、類似性や対比や関係を見出すことで、自分たちの周囲のものを、
(コニー・ウィリス『航路』下・第II部・承前・34、大森 望訳)

自分が経験したことを、自分自身を理解しようとする。われわれはそれをやめられない。
(コニー・ウィリス『航路』下・第II部・承前・34、大森 望訳)

いたるところに類似を読みとろうとする
(ロジェ・カイヨワ『妖精物語からSFへ』第三部・二、三好郁朗訳)

類似が明確であればあるほど、陶酔も一層大きなものとなる。
(ロジェ・カイヨワ『妖精物語からSFへ』第三部・一、三好郁朗訳)

魂には、自己を増大させる比率(ロゴス)がそなわっている。
(『ヘラクレイトス断片』115、廣川洋一訳)

すべてはこのロゴスにしたがって生じている
(『ヘラクレイトス断片』1、廣川洋一訳)

それは精神幾何学である、なんとなれば、宇宙に対するわれわれの比例感を定義するから。
(岡倉覚三『茶の本』第一章、村岡 博訳))

相対的なものに極限はない。
(ポール・ヴァレリー『オリエンテム・ウェルスス』恒川邦夫訳)

巧みに世界を縮小することが可能であればあるほど、私たちは一層確実に世界を所有する。
(澁澤龍彦『胡桃(くるみ)の中の世界』)

聖テレサが、魚は海に、そして海は魚の中にあると言ったように
(ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第七部・V、友枝康子訳)

我々の内部にあるものは、やはりつねに我々の外側にもあるんだ。
(トンマーゾ・ランドルフィ『ころころ』米川良夫訳)

個人は全体のなかに生き、全体は個人のなかに生きる。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

抽象的なことを身近な体験に凝縮(ぎようしゆく)することだ。
(ルーディ・ラッカー『ホワイト・ライト』第二部・10、黒丸 尚訳)

ぼくは自分が理解しようと努めていたこと、探し求めていた凝縮を、正確に捉(とら)えようとする。
(ルーディ・ラッカー『ホワイト・ライト』第二部・10、黒丸 尚訳)

本質的に小さなもの。それは芸術家の求めるものよ
(フランク・ハーバート『デューン砂丘の大聖堂』第2巻、矢野 徹訳)

もっといろいろ見たいだろう?
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』3、浅倉久志訳)

プーははにかんで小さなおちんちんをつかんだ。
(オーガステン・バロウズ『ハサミを持って突っ走る』青野 聰訳)

こんなに小さいのははじめてだ。
(ジョン・ヴァーリイ『ウィザード』下・40、小野田和子御訳)

そうした幸せは、まさしく小さなものであるからこそ存在しているのだ
(サバト『英雄たちと墓』第II部・4、安藤哲行訳)

芸術において当然栄誉に値するものは、何はさておき勇気である。
(バルザック『従妹ベット』二一、清水 亮訳)

人間とは一体何だろう?
(ミロスラフ・イサコーヴィチ『消失』波津博明訳)

人間がその死性を免れる道は、笑いと絆を通してでしかない。それら二つの大いなる慰め。
(グレゴリイ・ベンフォード『輝く永遠への航海』下・第六部・5、冬川 亘訳)

なぜ二つなんだ?
(フィリップ・ホセ・ファーマー『異世界の門』7、浅倉久志訳)

その二つはちがうの?
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』囚われびと、深町真理子訳)

同じことさ。
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I〔1〕IV、鈴木克昌訳)

同じではない。
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の異端者』第2巻、矢野 徹訳)

どちらでもいいさ。
(ダン・シモンズ『ハイペリオンの没落』上・第二部・20、酒井昭伸訳)

異なってはいるが本質的には同じ二つの世界
(P・D・ジェイムズ『ある殺意』4、山室まりや訳)

だいじなのはそれだけだ。
(デイヴィッド・B・シルヴァ『兄弟』1、白石 朗訳)

だが、それだけのこと。
(トマス・テッシアー『ブランカ』添野知生訳)

きみはそれを知っている人間のひとりかね?
(ノーマン・マイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

多くの名前が人間の夜をつぶやく
(ウィリアム・バロウズ『爆発した切符』シャッフル・カット、飯田隆昭訳)

魚も泣くことができるのかしら?
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I〔1〕I、鈴木克晶訳)

「ハンカチいるか」類猿人が言った。
(ロバート・ブロック『ノーク博士の謎の島』大瀧啓裕訳)

魚が水をどんな名前で意識するというのだ?
(フレッド・セイバーヘイゲン『ゲーム』浅倉久志訳)

「ハンカチ貸そうか?」と類猿人は言った。
(ロバート・ブロック『ノーク博士の島』伊藤典夫訳)

このハンカチを使えよ、さあ
(ジョン・ベリマン『76 ヘンリーの告白』澤崎順之助訳)

しわくちゃのハンカチ。
(ブライアン・W・オールディス『世界Aの報告』第一部・1、大和田 始訳)

宇宙は小さなハンカチでしかなかった。
(ブライアン・W・オールディス『ああ、わが麗しの月よ!』浅倉久志訳)

なんのための芸術か?
(ホフマンスタール『一人の死者の影が……』川村二郎訳)

作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

言葉以外の何を使って、嫌悪する世界を消しさり、愛しうる世界を創りだせるというのか?
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

あらゆる表現は対比的なもののなかにおかれ、自由に結合することが、詩人を無制約なものにする。
(ノヴァーリス『断章と研究799-1800』[705]、今泉文子訳)

文体とは、まさに作家の思考が、現実に対して加える変形のしるしです。
(プルースト『サント=ブーヴに反論する』サント・ブーヴとバルザック、出口裕弘・吉川一義訳)

芸術家の技芸(わざ)とは、自分の道具をあらゆるものにあてがい、世界を自分流に写しとる能力にほかならない。
(ノヴァーリス『サイスの弟子たち』二、今泉文子訳)

優れた詩のように
(ジェイムズ・P・ブレイロック『ホムンクルス』2、友枝康子訳)

詩人というものは、
(ジャック・ヴァンス『愛の宮殿』8、浅倉久志訳)

他の人の人生に意味を与える
(レイナルド・アレナス『夜になるまえに』レサマ=リマ、安藤哲行訳)

ばかばかしい
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』5、宇佐川晶子訳)

くだらない人生だけどね、
(ガルシア=マルケス『族長の秋』鼓 直訳)

詩人の人生なんてのは糞溜めみたいなもんなんだよ
(チャールズ・ブコウスキー『詩人の人生なんてろくでもない』青野 聰訳)

数えきれない詩を書いているんだよ。
(フィッツ=ジェイムズ・オブライエン『手から口へ』大瀧啓裕訳)

書くことによって時間を現実のものとする
(グレゴリイ・ベンフォード『ミー/デイズ』大野万紀訳)

場所を
(デイヴィッド・ブリン『有意水準の石』中原尚哉訳)

出来事を
(マイクル・スワンウィック『大潮の道』14、小川 隆訳)

自分の感情を
(ゴア・ヴィダール『マイラ』30、永井 淳訳)

意識が連続性を保とうとするのは自然なことよ。
(ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面12、嶋田洋一訳)

どんな人間の言葉も真実ではない。
(ペール・ラーゲルクヴィスト『星空の下で』山室 静訳)

ぼくだってどこに真実があるかなんて知っちゃいないさ。
(コルターサル『石蹴り遊び』41、土岐恒二訳)

そも人間の愛にそれほど真実がこもっているのだろうか。
(エミリ・ブロンテ『いざ、ともに歩もう』松村達雄訳)

言葉は虚偽だ。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

詩は優雅で空虚な欺瞞だった。
(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』4、友枝康子訳)

で、
(ジョン・ヴァーリイ『ブルー・シャンペン』浅倉久志訳)

なんの夢を見てたの?
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・ムーン』30、金子 司訳)

幸福な歳月は失われた歳月である、
(プルースト『失われた時を求めて』第七篇・見出された時、井上究一郎訳)

本当の楽園とは失われた楽園にほかならないからだ。
(プルースト『失われた時を求めて』第七篇・見出された時、鈴木道彦訳)

愛の訪れは、こうまで長い年月を待たねばならぬものか。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』II・1、宇野利泰訳)

すべては失われたものの中にある。
(アンナ・カヴァン『失われたものの間で』千葉 薫訳)

すべてが記憶されていたのか?
(グレッグ・ベア『女王天使』下・第二部・54、酒井昭伸訳)

記憶はあらゆる場所にある。
(ウィリアム・ギブスン原案・テリー・ビッスン作『J・M』8、嶋田洋一訳)

時と場所も、失われたもののひとつだ。
(アンナ・カヴァン『失われたものの間で』千葉 薫訳)

思い出された事実には重要なことなど何もない、大切なのは思い出すという行為それ自体なのだ。
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

で、彼を愛してた?
(ジョン・ヴァーリイ『ブルー・シャンペン』浅倉久志訳)

幸せだったのだろうか?
(サバト『英雄たちと墓』第I部・20、安藤哲行訳)

信行のことを思った。
(志賀直哉『暗夜行路』第一・二)

夢のひとつさ。
(アダム=トロイ・カストロ&ジェリイ・オルション『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』浅倉久志訳)

思い出の恋ほどすばらしいものもない
(アルジス・バドリス『アメリカ鉄仮面』第九章、仁賀克雄訳)

今でもきみのことを夢に見るよ。
(ルーシャス・シェパード『竜のグリオールに絵を描いた男』3、内田昌之訳)

幸せな苦痛だった、いまでもそうだ、
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第三幕・第四場、石川重俊訳)

忘れたことなんかないさ。
(ジェイムズ・P・ブレイロック『リバイアサン』第三部・16、友枝康子訳)

この苦しみは、いったいいつまで続くのか?
(アンナ・カヴァン『召喚』山田和子訳)

夢で
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』22、岡部宏之訳)

きみはまた、ぼくに会うことになる
(ジェイムズ・P・ブレイロック『ホムンクルス』4、友枝康子訳)

潜在意識の定義は、きみの一部分が、意識的思考の意志作用なしに決定をくだすことにある。
(ジョン・ヴァーリイ『スチール・ビーチ』下・第二部・16、矢野 徹訳)

韻律とは何か?
(ディラン・トマス『黄昏の明かりに祭壇のごとく』IV、松田幸雄訳)

きみは韻をふんでいる。言葉が韻をふむというのがどういうことかわかっているかい?
(トマス・M・ディッシュ『M・D』上・第一部・12、松本剛史訳)

リズムはわれわれのあらゆる創造の泉である。
(パス『弓と竪琴』詩・リズム、牛島信明訳)

運動は一切の生命の源である。
(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』「繪の本」から、杉浦明平訳)

くりかえすことによって、ある種の真実を作り出せる
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第1巻、矢野 徹訳)

詩行の響きが意味と重なる
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・6、御輿哲也訳)

シラブルの一つ一つが鼓動だった。
(ルーシャス・シェパード『ジャガー・ハンター』小川 隆訳)

経験や行為は場面や戦慄となって表現されるのである。
(オリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』第三部・15、高見幸郎・金沢泰子訳)

しかし、セックスでないとすれば、いったいなんのことをいってるんだろう?
(デイヴィッド・ブリン『キルン・ピープル』下・第三部・49、酒井昭伸訳)

おもしろいものを見せてあげようか?
(ジョン・ヴァーリイ『ブルー・シャンペン』浅倉久志訳)

ちんこかい?
(バルガス=リョサ『子犬たち』I、鈴木恵子訳)

触っちゃだめよ、見るだけ。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第二部・5、青木久恵訳)

オマンコしたいの?
(レイ・ガートン『ライヴ・ガールズ』9、風間賢二訳)

さわったら、殺すわよ
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第2巻、矢野 徹訳)

なぜ、こんなことになっちゃったのかな?
(ジョー・ホールドマン『終りなき戦い』マンデラ二等兵、風見 潤訳)

ぼくはね、とりつかれているんだ。なにかにとりつかれているみたいだよ
(H・G・ウェルズ『くぐり戸の中』浜野 輝訳)

セックスは好きかい?
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・8、小川 隆訳)

セックスはつねに尽きることなく、少しも飽きることがない。
(トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』9、友枝康子訳)

この一瞬一瞬のよろこび
(リチャード・マシスン『縮みゆく人間』12、吉田誠一訳)

あらゆる瞬間が幻覚(ヴイジヨン)だ
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第3巻、矢野 徹訳)

楽しんだかい?
(ノーマン・スピンラッド『はざまの世界』9、久保智洋訳)

人間が真実の相において愛することができるのは、自分自身なのであり
(三島由紀夫『告白するなかれ』)

愛とはそれを媒体としてごくたまに自分自身を享受することのできる一つの感情にすぎない。
(E・M・フォースター『モーリス』第四部・44、片岡しのぶ訳)

真の原動力とは、快楽なのだよ
(デイヴィッド・ブリン『キルン・ピープル』下・第三部・50、酒井昭伸訳)

事物を離れて観念はない
(ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ『パターソン』第一巻・巨人の輪郭・I、沢崎順之助訳)

重要なのは経験だ。
(ミシェル・ジュリ『不安定な時間』鈴木 晶訳)

経験は避けるのが困難なものである。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『飛翔せよ、遙かなる空へ』上・15、岡部宏之訳)

人生のあらゆる瞬間はかならずなにかを物語っている、
(ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』四・16、小林宏明訳)

すべての経験はわたしという存在の一部になるのだから
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』 11、岡部宏之訳)

新しさというものは、過去の残(ざん)滓(し)からだけしか組み立てることができないのである。
(J・G・バラード『燃える世界』第二部・8、中村保男訳)

あらゆるものがあらゆるものとともにある
(ホルヘ・ギリェン『ローマの猫』荒井正道訳)

言葉同士がぶつかり、くっつきあう。
(ルーディ・ラッカー『ホワイト・ライト』第四部・22、黒丸 尚訳)

新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)

レサマは「覚えておくんだよ、わたしたちは言葉によってしか救われないってこと。書くんだ。」とぼくに言った。
(レイナルド・アレナス『夜になるまえに』通りで、安藤哲行訳)

われわれのかかわりを持つものすべてが、すべてわれわれに向かって道を説く。
(エマソン『自然』五、酒本雅之訳)

あらゆるものが、たとえどんなにつまらないものであろうと、あらゆるものへの入口だ。
(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第3部・20、嶋田洋一訳)

思考はあらゆるものを、利用可能なものに変える。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)

運命とは偶然に他ならないのではないか?
(フィリップ・ホセ・ファーマー『飛翔せよ、遙かなる空へ』下・48、岡部宏之訳)

だれもが自分は自由だと思っとるかもしれん。しかし、だれの人生も、たまたま知りあった人たち、
(コードウェイナー・スミス『ノーストリリア』浅倉久志訳)

たまたま居合わせた場所、たまたまでくわした仕事や趣味で作りあげられていく。
(コードウェイナー・スミス『ノーストリリア』浅倉久志訳)

すべては同じようにはかなく移ろいやすいものだ。少なくともそのために、束の間のものを普遍化するために書く。
(サバト『英雄たちと墓』第II部・四、安藤哲行訳)

たぶん、それは愛。
(サバト『英雄たちと墓』第II部・四、安藤哲行訳)

ぼくにとってこれが人生のすべてだった。
(グレッグ・イーガン『ディアスポラ』第三部・8、山岸 真訳)

人間であることは、たいへんむずかしい
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

人間であることはじつに困難だよ、
(マルロー『希望』第二編・第一部・7、小松 清訳)

もしかすると、きみがこうしていることが、この宇宙に実質と生命力を与えているのかもしれない。
(バリー・N・マルツバーグ『ローマという名の島宇宙』10、浅倉久志訳)

ことによると、きみが(、、、)宇宙なのかもしれない。
(バリー・N・マルツバーグ『ローマという名の島宇宙』10、浅倉久志訳)

「困難なことが魅力的なのは」とチョークは言った。「それが世界の意味をがらりと変えてしまうからだよ」
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』1、三田村 裕訳)

きみの苦しみが宇宙に目的を与えているのかもしれないよ
(バリー・N・マルツバーグ『ローマという名の島宇宙』10、浅倉久志訳)

心のなかに起っているものをめったに知ることはできない
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第三部・10、山西英一訳)

ある場所、ある時間、ある不思議な類似性、ある錯誤、なんらかの偶然を介して、最も異質なもの同士が遭遇する。
(ノヴァーリス『断章と研究 1799-1800』[559]、今泉文子訳)

あなたの潜在意識よ、ミューシャ! なにかの記憶だったのよ!
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『最後の午後に』浅倉久志訳)

すべての真の詩、すべての真の芸術の起源は無意識にある。
(コリン・ウィルソン『ユング』4、安田一郎訳)

そしてこれから、それらが新鮮で、活気があり、「驚嘆」すべき性質をもっていることが説明される。
(コリン・ウィルソン『ユング』4、安田一郎訳)

詩というのは
(J・L・ボルヘス『月』鼓 直訳)

無意識世界の無意識の象徴だ
(J・G・バラード『地球帰還の問題』永井 淳訳)

隠れている背後の自己のほうがもっと驚かす
(エミリ・ディキンスン『作品六七〇番』新倉俊一訳)

驚きあってこその人生ではないか。
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』上・第三部・32、酒井昭伸訳)

きみの中で眠っていたもの、潜んでいたもののすべてが現われるのだよ。
(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳)

意識的に受け入れたわけでもないつながりを、自分自身の中にもってるからなのよ
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

芸術は意識と無意識の結婚なのだ。
(ジャン・コクトー『ライターズ・アット・ワーク』より、村岡和子訳)

ああ、意味と無意味が入り混じっている!
(シェイクスピア『リア王』第四幕・第六場、野島秀勝訳)

このすべてに、どんな意味があるのだろう?
(フィリップ・ホセ・ファーマー『飛翔せよ、遙かなる空へ』下・47、岡部宏之訳)

コーヒーのことを、すっかり忘れていた。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』19、船戸牧子訳)

もっとコーヒーを飲むかい?
(フィリップ・K・ディック&ロジャー・ゼラズニイ『怒りの神』17、仁賀克雄訳)

名前は何といったっけ?
(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが夢のリバーボート』6、岡部宏之訳)

なんて名前だったっけ?
(テリー・ビッスン『赤い惑星への航海』第一部・1、中村 融訳)

名前なんかどうでもいい
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』6、鈴木 晶訳)

名前なんてのは、忘れられるものだ。
(ニールス・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ』上・23、日暮雅通訳)

なぜ名前をもっていなくちゃいけないと思うのだね?
(ダグラス・アダムズ『宇宙の果てのレストラン』29、風見 潤訳)

名前は
(フィリップ・ホセ・ファーマー『デイワールド』35、大西 憲訳)

名前は忘れてしまったけれど
(ガルシア=マルケス『族長の秋』鼓 直訳)

名前のない体験のなり止(や)まぬのはなぜだらう
(伊東静雄『田舎道』)

名前っていったい何なのか?
(シェイクスピア『ロミオとジューリエット』第二幕・第二場、平井正穂訳)

その名が何を意味するか
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第二問・第二項、山田 晶訳)

いくつもの名前が
(レイ・ブラッドベリ『浅黒い顔、金色の目』一ノ瀬直二訳)

顔になる。
(アーサー・ポージズ『ビーグルの鼻』吉田誠一訳)

幾百もの顔。
(ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』第一部・2、黒丸 尚訳)

無数の名前
(イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』I 都市と記号1、米川良夫訳)

どれもが千の顔のひとつであり、二度と見ることはない。
(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)

花は愛だったのに……
(J・ティプトリー・ジュニア『故郷へ歩いた男』伊藤典夫訳)

花から花へ
(テニスン『イン・メモリアム』22、入江直祐訳)

人間の約束
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』9、藤井かよ訳)

それは夢で
(ストルガツキー兄弟『神様はつらい』4、太田多耕訳)

それは夢で
(ストルガツキー兄弟『神様はつらい』4、太田多耕訳)

花はなかったし
(紫 式部『源氏物語』東屋、与謝野晶子訳)

バスもなかった。
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』7・2、小泉喜美子訳)

何もない。
(アイザック・アシモフ『ミクロの決死圏』1、高橋泰邦訳)

決してあったことのない記憶、頭の外にはなかったものだ。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチール・ラット諸君を求む』12、那岐 大訳)

恋愛なんて取るに足らない行為ですよ。際限なく繰り返すことができるんですからね。
(アルフレッド・ジャリ『超男性』I、澁澤龍彦訳)

風景はなぜ立止つてくれないのだらう。
(金子光春『わが生に与ふ』四)

バスはゆっくりと走り去っていった。
(ウォルター・M・ミラー・ジュニア『帰郷』深町真理子訳)

いつの日か、わたしたちはみな、いまはただの夢でしかないものになるだろう。
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』荒野、深町真理子訳)

夢は現われるべくしてあらわれ、人間は現われた一つの夢だ。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上巻・11、宮西豊逸訳)

人生というものは閃光の上に築かなければならないものだということを僕は知っていた。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』9、菅野昭正訳)

偽りを許さない何か
(ロバート・F・ヤング『魔法の窓』伊藤典夫訳)

あの何か間違ってはいないものの響き、ずっと昔に起こった何かの経験、正しく光り輝くものであったことの?
(オラフ・ステープルドン『オッド・ジョン』10、矢野 徹訳)

人生は土壇場でできている。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第四章、榊原晃三・南條郁子訳)

人生は一瞬一瞬が崖っぷちなんだからね、
(ロバート・ルイス・スティーヴンソン『マークハイム』龍口直太郎訳)

それらが置き換えられる
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・〔1〕・III、鈴木克昌訳)

閉じた宇宙では、すでにあるものを並べなおすことしかできない。
(グレッグ・イーガン『プランク・ダイブ』山岸 真訳)

すると、これさえも新しい経験ではないのだ。
(グレゴリイ・ベンフォード『光の潮流』下・エピローグ、山高 昭訳)

われわれは、しばしこの世にとどまり、しかしてのち去る。
(ロバート・シルヴァーバーグ『我ら死者とともに生まれる』4、佐藤高子訳)

ここにもまた一つの思い出がある。
(ネルヴァル『火の娘たち』シルヴィ・七、入沢康夫訳)

それは君自身の記憶かね?
(アリアードナ・グロモワ『自己との決闘』草柳種雄訳)

ほかになにがあると思ってるんだい?
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

思い出の恋ほどすばらしいものもない
(アルジス・バドリス『アメリカ鉄仮面』第九章、仁賀克雄訳)

あれもまた、夢だったのだろうか。
(ダン・シモンズ『ハイペリオンの没落』上・第一部・14、酒井昭伸訳)

人は人を愛するというのではなく、むしろ、人が愛するのは夢で、
(シオドア・スタージョン『火星人と脳なし』霜島義明訳)

その夢に近い相手に出会う幸運な者もいる、というのが真実ではないのだろうか。
(シオドア・スタージョン『火星人と脳なし』霜島義明訳)

同時にあらゆる場所に存在する
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

もうひとつの昨日にいるのかもしれない。
(ジェラルド・カーシュ『ブライトンの怪物』吉村満美子訳)

同じ夢を見ていたのだろうか?
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』8、堤 康徳訳)

夢を見ているんだろうな。きみと同じだ。ほら、愛しい人。
(シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』26、市田 泉訳)

この夢から醒めることは、またこの夢のなかにとびこむことだ、
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』19、鈴木 晶訳)

過去もそうだったし、今もそうだ。
(P・D・ジェイムズ『死の味』第五部・7、青木久恵訳)

夢はいつまでもつきまとう。
(シオドア・スタージョン『火星人と脳なし』霜島義明訳)

いつまでも、いつまでも、いつまでも、
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、斎藤 勇訳)

ぼくが夢に見るからだ
(ダン・シモンズ『ハイペリオンの没落』上・第一部・6、酒井昭伸訳)

現実を
(ハンス・エゴン・ホルトゥーゼン『詩についての試み』生野幸吉訳)

夢が
(イアン・ワトスン&ロベルト・グロリア『彼らの生涯の最愛の時』大森 望訳)

夢みているのだ、
(ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』第一部・いかだの下、高本研一訳)

事物を
(ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ『パターソン』第一巻・巨人の輪郭・I、沢崎順之助訳)

他者を
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第3巻、矢野 徹訳)

ぼくのことを
(フエンテス『脱皮』内田吉彦訳)

夢はかなうのよ。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』13、川副智子訳)

夢が現実をつくるんじゃないかい?
(イアン・ワトスン&ロベルト・グロリア『彼らの生涯の最愛の時』大森 望訳)

逆もまた真なりよ。
(シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』1、市田 泉訳)

夢じゃない。
(ウィリアム・バートン『サターン時代』中村 融訳)

それは夢ではなかったのだよ
(ストルガツキー兄弟『神様はつらい』4、太田多耕訳)

そして、ぼくは? ぼくは
(ロジャー・ゼラズニイ『混沌の迷宮』10、岡部宏之訳)

あらゆる夢を覚えている。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』4、岡部宏之訳)

夢のなかの夢
(J・L・ボルヘス『グアヤキル』鼓 直訳)

記憶の記憶の記憶。
(オースン・スコット・カード『神の熱い眠り』2、大森 望訳)

偽装の中の偽装の中の偽装の中の偽装……
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

人間よ、この行きて帰らぬ忘却よ
(アドリアン・ロゴス『確率神の祭壇』(住谷春也訳)に引用されていたイオン・バルブの言葉)

枝にかへらぬ花々よ。
(金子光春『わが生に与ふ』二)

濡れた黒い枝の先の花びらなどなし
(ジャック・ウォマック『ヒーザーン』7、黒丸 尚訳)

濡れた黒い枝の先の花びらなどなし
(ジャック・ウォマック『ヒーザーン』7、黒丸 尚訳)


WHOLE LOTTA LOVE。

  田中宏輔



『詩人の素顔』という本を買った。
シルヴィア・プラスのことは
ガスオーヴンに、頭を突っ込んで死んだ詩人
ってことぐらいしか、知らなかったけど
読んでみたいと思った。
死に方にも、いろいろあるんだろうけど
もっと、違ったやり方があるんじゃないの?
って、ずっと前から、思ってて。
特別価格100円だった。
上からセロテープで貼り付けた
100円の値札をはがすと、300円の値札が
その300円の値札をはがすと、900円の値札が付いていた。
もともと、1850円(本体価格1796円)だった本が
古本屋さんだと、100円になる。
でも、シルヴィアさん
自分が、100円で売られてたの知ったら
また、ガスオーヴンに
頭、突っ込んじゃうかもしんないね。
ぼくが中学生か、高校生だったころ
横溝正史が流行ってた。
いや、流行ってたってもんじゃなくって
大大大流行って感じ。
もちろん、金田一耕助シリーズね。
まわりの友だちなんか
みんな、ほとんど、読んでたと思う。
大学生のころは、赤川次郎だった。
赤川次郎の小説のひとつに
シュウ酸で自殺した男の話があった。
コーヒーに入れて飲んだと書いてあった。
すっごく、すっぱくて
そのままじゃ、とても飲めないからって。
ぼくのいた研究室にも
シュウ酸があった。
酸といっても
粒状のさらさらした結晶体で
薬さじにとって
ほんのすこし、なめてみた。
めちゃくちゃ、すっぱかった。
何度も、つばといっしょに、ぺっぺ、ぺっぺした。
ショ糖に混ぜて、1:100とか
1:200とかの比にして、なめてみたけど
すっぱさは、ほとんど変わらなかった。
どう考えても、赤川次郎の小説は、嘘だと思った。
で、薬局に行って、カプセルを買ってきて
そのなかに、シュウ酸を入れてのむことにした。
(これって、学生時代のことで
 致死量の何倍、計量したか、忘れちゃった。)
わりと大きめのカプセルだったけど
5個ぐらいのんだと思う。
コーヒー牛乳でのんだ。
(紙パック入りのね。あの四角いやつ。)
しばらくすると、胃のあたりが、すっごく痛くなって
ゲボゲボもどした。
忘れ物をとりに戻った先輩が
(もうとっくに帰ったと思ってたんだけど)
ゲボゲボもどしてるぼくを見て
タクシーで、救急病院に運んでくれた。
牛乳で胃洗浄。
鼻から透明の塩化ビニールチューブを入れられて。
診察台のうえで、ゲボゲボ吐きもどしてるぼくを見下ろして
看護婦さんが、「キタナイワネ。」って言ったこと、おぼえてる。
あのときは、ひどいこと言うなあ、って思った。
いじめ問題の解決方法を考えた。
日替わりで、いじめる人を決めて
クラスのみんなで、いじめるんだ。
毎日、いじめられる人が替わることになる。
そしたら、みんな、手加減するだろうし
(そのうち、自分の順番がくるんだもんね。)
それほどひどいことにはなんないと思う。
だって、いじめたい気持ちって
だれだって、ぜったい持ってんだもんね。
レイモンド・カーヴァーだったかな。
それとも、リチャード・ブローティガンだったかな。
たぶん、カーヴァーだったと思うけど
インタビューか、なんかで
自殺してはいけないよ、って言ってたのは。
世界にまだ美しいものがあるかぎり
って。
ん?
あ、
ブローティガンだったかな。
友だちのタクちゃんちは
ぼくんちと同じくらい複雑な家庭環境だけど
自殺するなんて、考えたこともない、って言ってた。
そのタクちゃんが、このあいだ、引っ越すことになって
ぼくも手伝ってあげた。
引っ越し先のマンションの壁に
「空(くう)あります。」って看板が掲げてあって
これ、何だろ、って訊くと
ぼくのこと、バカにしたような感じで
「空室ありますよ、ってことでしょ。」
って言って、教えてくれた。
ぼくは、ぼくの目のなかで
「空(くう)」と「あります」のあいだに読点を入れて
「空(そら)、あります。」って読んでみた。
「空(そら)、あります。」だったらいいな
って、思った。






*ぼくは、マジに、「空(あき)あります。」を「空(くう)あります。」って読んでいました。
この作品を同人誌に発表した後、女性の詩人の方に教えていただきました。
すんごい世間知らずですよね。っていうか、ほんとに、バカ。バカ、バカ、バカ。


陽の埋葬

  田中宏輔



真夜中、夜に目が覚めた。
水の滴り落ちる音がしている。
入り口近くの洗面台からだ。
足をおろして、スリッパをひっかけた。
亜麻色の弱い光のなか、
わたしの目は
(鏡に映った)わたしの目に怯えた。
いくら力を入れて締めても(しめ、ても)
滴り落ちる水音はやまなかった。
ドア・ノブに手をかけて廻してみた。
扉が開いた。
いつもなら、ちゃんと鍵がかかっているのに……
廊下の方は、さらに暗かった。
きょうは、なんだか変だ。
患者たちの呻き声や叫び声が聞こえてこない。
すすり泣く声さえ聞こえてこなかった。
隣室の扉を開けてみた。
ここもまた、鍵がかかってなかった。
わたしの部屋と同じ、
ベッドのほかは、なにもなかった。
ひともいなかった。
ただ、ベッドのうえに
大判の本が置いてあるだけだった。
写真集のようだった。
表紙は、後ろ手に縛られた裸の少女。
少女の顔は、緊張した面持ちで青褪めていた。
ページをめくってみた。
一匹の大蛇が、
少女の頭を呑み込んでいるところだった。
さらにページをめくってみた。
めくるごとに、少女の身体は、
大蛇の顎(あぎと)に深く
深く呑み込まれていった。
最後のページは
少女を丸呑みした大蛇の腹を撮った写真だった。
わたしは、本を開いたまま自慰をした。
(かさかさ)
足下で、なにか小さなものが動いた。
それは、写真のなかの少女だった。
彼女は、わたしの腕ほどの大きさしかなかった。
逃げ去るようにして、少女は部屋から出ていった。
わたしは本を置いて、彼女の姿を追った。
隣室の扉が開いていた。
入ってみた。
やはり、ここも、わたしの部屋と同じだった。
ベッドしかなかった。
いや、そのうえに、あの裸の少女が寝ていた。
と、思ったら、
それは、波になったシーツの影だった。
(かさかさ)
振り返ると、
さきほどの少女が
半開きの扉の間を走り抜けていった。
廊下に出て、隣室の扉を開けると
あの写真で見た部屋だった。
部屋の真ん中に、木でできた椅子があって
そのうえに人形のように小さな少女が立っていた。
あの写真と同じように、裸のまま後ろ手に縛られて。

わたしは、少女を、頭からゆっくりと、呑み込んで、いった。


YOU TAKE MY BREATH AWAY。

  田中宏輔



書き止めておいた、メモの切れっぱしが見つかった。
(ガルシア=マルケス『族長の秋』鼓 直訳)

これは詩になるな
(ウィル・ワーシントン『プレニチュード』井上一夫訳)

まだ、詩を作っているの?
(リルケ『ミュンヘンにて』一、水野忠敏訳)

もちろんさ。
(アイザック・アシモフ『ミクロの決死圏』5、高橋泰邦訳)

引用?
(ジョセフィン・テイ『時の娘』3、小泉喜美子訳)

引用さ
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』知らずして御(み)使(つか)いを舎(やど)したり、宇佐川晶子訳)

すでにあるものを並べなおす
(グレッグ・イーガン『プランク・ダイブ』山岸 真訳)

それだけだよ。
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』月のシャドウ、宇佐川晶子訳)

それでも、それは美しい。
(ポール・プロイス『破局のシンメトリー』一年後、小川 黎訳)

そうではないか?
(ポール・プロイス『破局のシンメトリー』一年後、小川 黎訳)

どれも
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

引用しただけさ。
(アイザック・アシモフ『信念』伊藤典夫訳)

引用だけで
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第三部・10、小川 隆訳)

コラージュを作っていた
(P・D・ジェイムズ『正義』第三部・37、青木久恵訳)

詩さ、詩だ、すべてが詩なんだ。
(ジャック・ケルアック『地下街の人びと』真崎義博訳)

数えきれない詩を書いているんだよ。
(フィッツ=ジェイムズ・オブライエン『手から口へ』大瀧啓裕訳)

彼女は、眉をひそめて、その詩を眺めた。
(グレゴリイ・ベンフォード&デイヴィッド・ブリン『彗星の核へ』上・第二部、山高 昭訳)

あら、これは詩じゃないわよ。韻を踏んでないもの。
(P・D・ジェイムズ『神学校の死』第一部・3、青木久恵訳)

単なる言葉の遊びでしょう?
(ジョセフィン・テイ『時の娘』13、小泉喜美子訳)

これは違う種類の詩なんだ
(P・D・ジェイムズ『神学校の死』第一部・3、青木久恵訳)

一種の無韻詩ね。
(ジョセフィン・テイ『時の娘』13、小泉喜美子訳)

実験詩だ。
(ウォレス・スティヴンズ『アデージア』片桐ユズル訳)

現代詩
(ティム・パワーズ『アヌビスの門』上・第四章、大伴墨人訳)

ちょっとした暇つぶし
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

ただの遊びだよ。
(パオロ・バチガルピ『第六ポンプ』中原尚哉訳)

つまらんものばかりさ。
(ブレッド・ハート『盗まれた葉巻入れ』中川裕朗訳)

ただ楽しみのためだけ。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

意味はないよ。
(グレゴリイ・ベンフォード『時の迷宮』上・第二部・8、山高 昭訳)

頭の体操なのだ。
(パオロ・バチガルピ『ねじまき少女』下・28、田中一江・金子 浩訳)

あはん。
(ポール・アンダースン『タウ・ゼロ』11、浅倉久志訳)

なにそれ?
(グレゴリイ・ベンフォード『輝く永遠(とわ)への航海』上・3、冬川 亘訳)

ばかげた詩。
(ジョージ・R・R・マーティン『子供たちの肖像』中村 融訳)

軟弱ねえ。
(ジョン・ヴァーリイ『ミレニアム』15、風見 潤訳)

人生をだいなしにしてるわ。
(フィリップ・K・ディック『ブラッドマネー博士』9、阿部重夫・阿部啓子訳)

わたしには、ちんぷんかんぷんだわ
(ジェイムズ・ブリッシュ『暗黒大陸の怪異』I、中村保男訳)

詩集を出したってのは本当なの?
(アントニイ・バージェス『アバ、アバ』1、大社淑子訳)

ああ、
(シェイクスピア『ヘンリー四世 第一部』第三幕・第一場、中野好夫訳)

ばかにされてる感じがする?
(パット・キャディガン『汚れ仕事』小梨 直訳)

詩人がなんの役に立つ?
(ロバート・シルヴァーバーグ『生と死の支配者』1、宇佐川晶子訳)

芸術はなんの役にたつ?
(マラマッド『最後のモヒカン族』加島祥造訳)

詩なんてものはね、だれも読まないの
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』上・詩人の物語、酒井昭伸訳)

だれも知らないよ。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』下・探偵の物語、酒井昭伸訳)

そいつのどこがいけないっていうんだ?
(ルーシャス・シェパード『竜のグリオールに絵を描いた男』2、内田昌之訳)

詩には意味なんかないよ。詩は詩なんだ!
(マイク・レズニック『一角獣をさがせ!』8、佐藤ひろみ訳)

それ自体は意味はないものさ。
(R・A・ハインライン『異星の客』第三部・31、井上一夫訳)

無意味なものに意味をもたせてなんになる?
(オースン・スコット・カード『ゼノサイド』下・15、田中一江訳)

何でもない
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第三部・3、御輿哲也訳)

まったく異質なもの同士を組み合わせてみるのが楽しみだった。
(ノヴァーリス『サイスの弟子たち』一、今泉文子訳)

詩人ってなんだか知ってるかい?
(シルヴィア・プラス『ベル・ジャー』5、青柳祐美子訳)

言葉のコレクターなのだよ。
(ミラン・クンデラ『ハヴェル先生の二十年後』12、沼野充義訳)

言葉、言葉、言葉。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、野島秀勝訳)

言葉とはなにか?
(ウィリアム・S・バロウズ『爆発した切符』オールド・ドクターを二度呼べ、飯田隆昭訳)

詩人にとって、詩は限定された道具の制約をうけているがゆえに、芸術となるのだ。
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第八章、青山隆夫訳)

体験したことのない人生を体験し、経験しなかったことを経験できる
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの航星日記』第二十一回の旅、深見 弾訳)

言葉とはなにか?
(ウィリアム・S・バロウズ『爆発した切符』オールド・ドクターを二度呼べ、飯田隆昭訳)

言葉、言葉、言葉。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、野島秀勝訳)

体験したことのない人生を体験し、経験しなかったことを経験できる
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの航星日記』第二十一回の旅、深見 弾訳)

言葉とはなにか?
(ウィリアム・S・バロウズ『爆発した切符』オールド・ドクターを二度呼べ、飯田隆昭訳)

ぼくが語りそしてぼくが知らぬそのことがぼくを解放する。
(ジャック・デュパン『蘚苔類』3、多田智満子訳)

もう詩を書く必要はないんだ──ぼくはいま詩を生きている。
(ティム・パワーズ『石の夢』下・第二部・第十八章、浅井 修訳)

そう、
(タビサ・キング『スモール・ワールド』8、みき 遙訳)

それで、幸せなの?
(クリフォード・D・シマック『法王計画』16、美濃 透訳)

幸せ? それはわからない。
(クリフォード・D・シマック『法王計画』16、美濃 透訳)

幸せだったのだろうか?
(サバト『英雄たちと墓』第I部・20、安藤哲行訳)

たいした詩人ですこと
(オースン・スコット・カード『死者の代弁者』1、塚本淳二訳)

わたしの人生もそんな単純だったらいいのに。
(チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』空間的地平線、金子 浩訳)

さて、
(ウィリアム・S・バロウズ『シティ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第二部、飯田隆昭訳)

どうだろう、
(J・ティプトリー・ジュニア『大きいけれども遊び好き』伊藤典夫訳)

きみはだれに、何になるのかね?
(ゴア・ヴィダール『マイラ』33、永井 淳訳)

いま書いている詩、聞いてみたくない?
(オーガステン・バロウズ『ハサミを持って突っ走る』青野 聰訳)

その必要はないわ。
(クリストファー・プリースト『スペース・マシン』6・4、中村保男訳)

あの雲をごらんよ
(スティーヴン・バクスター『虚空のリング』上・第一部・4、小木曽絢子訳)

雲が動いているのを見て
(プイグ『赤い唇』第九回、野谷文昭訳)

あの白いフワフワしたやつ
(クリフォード・D・シマック『宇宙からの訪問者』40、峰岸 久訳)

目を離したら、雲の様子を正確に形容できない
(ジャック・ウォマック『ヒーザーン』2、黒丸 尚訳)

一片一片が瞬間ごとにおのおのべつの動きをする。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第1章、荒木昭太郎訳)

一瞬一瞬をさまざまな消息を経ながら新たに生きている。
(トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』16、友枝康子訳)

おのおのの瞬間は、それにつづく他の瞬間を導くためにのみ、あらわれる。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

一つ一つの動きが次の動きにつながっていく。
(ロジャー・ゼラズニイ『ユニコーンの徴(しるし)』3、岡部宏之訳)

その動作それ自体が詩であり
(ブライアン・W・オールディス『中国的世界観』12、増田まもる訳)

あらゆる動きが永劫を暗示している。
(ボブ・ショウ『メデューサの子ら』14、菊地秀行訳)

大切なのは活発に動くことだ。
(D・J・コンプトン『人生ゲーム』2、斎藤数衛訳)

留まることは死ぬこと。流れていくことは生きること。
(グレゴリイ・バンフォード『時空と大河のほとり』大野万紀訳)

誰にも永遠を手にする権利はない。
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

だが、ぼくたちの行為の一つ一つが永遠を求める
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

あらゆるものがなんとあふれんばかりに戻ってくることか──
(トマス・M・ディッシュ『334』334・第三部・24、増田まもる訳)

何十年も前のさまざまな記憶の断片、昔の顔や昔の情感が、
(トマス・M・ディッシュ『334』334・第三部・24、増田まもる訳)

いま、詩となるのだ。
(トマス・M・ディッシュ『334』334・第三部・24、増田まもる訳)

魂の流出は、幸福である、ここには幸福がある、
(ホイットマン『大道の歌』8、木島 始訳)

しかも、これには際限がなかった。
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・〔2〕・I、鈴木克昌訳)

雲がむくむくと形を変え、
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第三部・1、青木久恵訳)

日の光が断続的に野原を走り、屋根や窓に反射する。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第三部・1、青木久恵訳)

それは美しい。
(ポール・プロイス『破局のシンメトリー』一年後、小川 黎訳)

あの雲をごらんよ
(スティーヴン・バクスター『虚空のリング』上・第一部・4、小木曽絢子訳)

ウサギがいるよ。
(ジェイムズ・P・ブレイロック『魔法の眼鏡』第三章、中村 融訳)

ウサギは時間のない現在に入りこみ、その目は大きく見ひらかれて、われは存在するというものとなる。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・11、宮西豊逸訳)

実在のものも架空のものも
(ジェラルド・カーシュ『ブライトンの怪物』吉村満美子訳)

兎は何百といる。
(ケリー・リンク『石の動物』柴田元幸訳)

森からの幾百もの顔。
(ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』第一部・2、黒丸 尚訳)

顔、顔、顔。
(フランク・ハーバート『デューン砂漠の神皇帝』第二巻、矢野 徹訳)

空間がさまざまな顔で満たされるのだ。
(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』48、澤崎順之助訳)

雲がむくむくと形を変え、
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第三部・1、青木久恵訳)

空はまた奥深くなり、ひろびろと視線をあそばせてくれる。
(ホリア・アラーマ『アイクサよ永遠なれ』 17、住谷春也訳)

観察の正確さは思考の正確さに相当する。
(ウォレス・スティヴンズ『アデージア』片桐ユズル訳)

一インチでも距離をおくと百マイルも遠ざかってしまうということもあるのだ
(D・G・コンプトン『人生ゲーム』9、斎藤数衛訳)

見ようとしているものが何だかわかったとたんに、
(シオドア・スタージョン『神々の相克』村上実子訳)

見えなかったものがはっきり見えてくるといった、視覚の不思議な現象がある。
(シオドア・スタージョン『神々の相克』村上実子訳)

見たいと思うものが見える
(スティーヴン・バクスター『虚空のリング』上・第一部・5、小木曽絢子訳)

実在した光景であり、同時に実在しなかった光景でもあった。
(スタニスワフ・レム『星からの帰還』6、吉上昭三訳)

存在の確かさ
(ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第七部・V、友枝康子訳)

具体的な形はわれわれがつくりだす
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』25、三田村 裕訳)

考えたことがすぐに形をとるのだ。
(ロバート・ブロック『クライム・マシン』佐柳ゆかり訳)

解読するとは生みだすこと
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・71、土岐恒二訳)

自分の作り出すものであって初めて見えもする。
(エマソン『霊の法則』酒本雅之訳)

見ることはまったく能動的な──徹底して形成的な──行為なのだ。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

だが、
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

どんなものも、くりかえされれば月並みになる、
(R・A・ラファティ『スナッフルズ』1、浅倉久志訳)

どんなに美しい風景でも、しばらくすると飽きてしまうからだ。
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーバードリーム』5、増田まもる訳)

散り散りになった雲の切れっぱしが流れていった。
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

どうしてあれがわたしでありえよう。
(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』27、澤崎順之助訳)

ぼくは自分が視るものに自分を視る
(オクタビオ・パス『白』鼓 直訳)

イメージのないところに苦痛もない──。
(ウィリアム・バロウズ『ノヴァ急報』中国人の洗濯屋、諏訪 優訳)

「この白さに──」と孟子は言った
(エズラ・パウンド『詩篇』第八十篇、新倉俊一訳)

「この白さになにが加えられるだろうか」
(エズラ・パウンド『詩篇』第八十篇、新倉俊一訳)

その白さにどんな白さを加えられようか
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

更に多くの「空白」?
(ジェイムズ・メリル『ページェントの台本』上・&、志村正雄訳)

その言葉そのものに?
(サミュエル・R・ディレーニイ『バベル-17』第一部・2、岡部宏之訳)

白さと白とを区別すること
(リルケ『あの墓碑以上のことを……』高安国世訳)

言葉はすべてに違う意味合いをもちこむ
(J・G・バラード『ハイ‐ライズ』13、村上博基訳)

思いもしなかったような意味になって出てくることがある
(シオドア・スタージョン『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』9、若島 正訳)

なにが起きるかわからないということだ。
(ジェイムズ・P・ホーガン『ミクロ・パーク』26、内田昌之訳)

まえもって知ることはできないのだ。
(E・E・ケレット『新フランケンシュタイン』田中 誠訳)

読書の楽しさは不確定性にある──
(ジェイムズ・P・ホーガン『ミクロ・パーク』26、内田昌之訳)

兎は、われわれを怯えさせはしない。
(ヴァレリー『倫理的考察』川口 篤訳)

しかし、兎が、思いがけず、だし抜けに飛び出して来ると、われわれも逃げ出しかねない。
(ヴァレリー『倫理的考察』川口 篤訳)

愛はまったく思いがけないときにやってくるもの
(リチャード・コールダー『デッドボーイズ』第6章、増田まもる訳)

まるで兎のようだ。
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第三部・21、嶋田洋一訳)

何が「きょう」を作るのか
(ジェイムズ・メリル『ページェントの台本』下・NO、志村正雄訳)

ただの偶然ではないはず。
(ロジャー・ゼラズニイ『キャメロット最後の守護者』浅倉久志訳)

こんどは何を知ることになるだろう?
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』5、船戸牧子訳)

偶然とはなんだと思う?
(グレアム・チャーノック『フルウッド網(ウエツブ)』美濃 透訳)

偶然だって?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)

偶然とはなんだと思う?
(グレアム・チャーノック『フルウッド網(ウエツブ)』美濃 透訳)

偶然こそ、私たちの生の偉大な創造者というべき神である。
(プリニウス『博物誌』第二十七巻・第二章、澁澤龍彦訳)

人間もまた偶然の存在だ。
(ダン・シモンズ『真夜中のエントロピー・ベッド』嶋田洋一訳)

人間こそすべてだ、
(エマソン『アメリカの学者』酒本雅之訳)

それは一つの純粋な詩なのだ。
(ロバート・シルヴァーバーグ『内死』1、中村保男・大谷豪見訳)

なぜ「きみを愛している」といえなかったのか?
(リチャード・コールダー『アルーア』浅倉久志訳)

非常に心を動かされる引用だな
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第2巻、矢野 徹訳)

誰を引用しているのだ?
(ジェイムズ・メリル『ページェントの台本』下・NO、志村正雄訳)

だが真理はどこかちがうところにある。
(ホリア・アラーマ『アイクサよ永遠なれ』24、中原尚哉訳)

本を閉じることだな。
(アヴラム・デイヴィッドスン『さもなくば海は牡蠣でいっぱいに』若島 正訳)

感傷性は弱さと苦痛への好みを前提としている。
(リルケ『フィレンツェ』森 有正訳)

明らかに道をまちがえてしまった人間なのだ。
(カフカ『判決』丘沢静也訳)

彼は手から石を落した。
(ムージル『若いテルレスの惑い』吉田正巳訳)

落ちる石を見る。
(ロジャー・ゼラズニイ『影のジャック』6、荒俣 宏訳)

彼は
(ムージル『若いテルレスの惑い』吉田正巳訳)

道を杖(つえ)でつついた。
(J・リッチー『無痛抜歯法』駒月雅子訳)

その瞬間、
(ジェラルド・カーシュ『死こそわが同士』駒月雅子訳)

石が
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第一部・1、大西 憲訳)

空中でとまった。
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』月のシャドウ、宇佐川晶子訳)

感電したウサギのように
(ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第七部・II、友枝康子訳)

ぼくはいっそうはっきりと石を見る、ことに影を、
(アンドレ・ブーシェ『白いモーター』12、小島俊明訳)

あるひとつの思考は、どのくらいの時間、持続するものなのだろうか?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』12、菅野昭正訳)

原子ひとつを(、、、、、、)同じ場所でじっとさせておくだけのために、どれだけの力が必要だと思う?
(グレッグ・イーガン『移相夢』山岸 真訳)

一貫した意識をもつひとつの自己が、時間のなかで存続しうる(、、、)と思うか──
(グレッグ・イーガン『移相夢』山岸 真訳)

その意識の周辺じゅうで数十億の心の断片が形成されたり消えたりすることなしに?
(グレッグ・イーガン『移相夢』山岸 真訳)

彼は
(ムージル『若いテルレスの惑い』吉田正巳訳)

道を杖(つえ)でつついた。
(J・リッチー『無痛抜歯法』駒月雅子訳)

その瞬間、
(ジェラルド・カーシュ『死こそわが同士』駒月雅子訳)

同時に
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

あらゆる場所に存在する
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

石が
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第一部・1、大西 憲訳)

落ちる。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二十四章、園田みどり訳)

なぜ人間には心があり、物事を考えるのだろう?
(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)

ひとつの名前が
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)

あらゆる場所となる
(イアン・ワトスン『エンベディング』第八章、山形浩生訳)

もうひとつの名前を
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)

ちがう名前を
(アーシュラ・K・ル・グイン『記憶への旅』小尾芙佐訳)

引きつれてきた。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)

すべてが記憶されていたのか?
(グレッグ・ベア『女王天使』下・第二部・54、酒井昭伸訳)

思い出すことのなかった物事を呼び覚まし、
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

過去の体験のイメージや感触や匂いや色を驚くほど鮮明に頭の中に送り込む
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

このできごとのどこまでが現実にあったことだ?
(グレッグ・ベア『女王天使』下・第二部・54、酒井昭伸訳)

これはおれが即興で作っている話か、それとも夢なのか?
(グレッグ・ベア『女王天使』下・第二部・54、酒井昭伸訳)

なぜ人間には心があり、物事を考えるのだろう?
(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)

その意味を知るためには、人は経験を通りすぎていかなくてはいけないし、
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の異端者』第3巻、矢野 徹訳)

それでもその意味は人の目の前で変化する。
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の異端者』第3巻、矢野 徹訳)

人間であるというのは、いつもいつも変化しているということなんだ。
(ソムトウ・スチャリトクル『しばし天の祝福より遠ざかり……』6、伊藤典夫訳)

変化だけがわたしを満足させる。
(モンテーニュ『エセー』第III巻・第9章、荒木昭太郎訳)

varietas delectate
變化は人を〓ばす。
(『ギリシア・ラテン引用後辭典』Cic. N.D.I, 9, 22.)

変化は嬉しいものなのだ。
(ホラティウス『歌集』第三巻・二九、鈴木一郎訳)

それは多様さを把(は)握(あく)するということだろう。
(モンテーニュ『エセー』第III巻・第9章、荒木昭太郎訳)

きみは多義性を頑迷に愛するんだな、
(ジェイムズ・サリス『蟋蟀の眼の不安』野口幸夫訳)

きみはロマンティストだ。
(J・L・ボルヘス『死者たちの会話』鼓 直訳)

愛ならば、すんなりと受け入れてしまう
(チャールズ・ボーモント『レディに捧げる歌』矢野浩三郎訳)

我々は自分に欠けているものを愛するとプラトンは言った。
(ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第七部・II、友枝康子訳)

また増えてるのかい?
(ボブ・ショウ『メデューサの子ら』2、菊池秀行訳)

結局これもまた夢なのではないだろうか。
(シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』26、市田 泉訳)

きみはわれわれがどうも間違った兎を追いかけているような気はしないかね?
(J・G・バラード『マイナス 1』伊藤典夫訳)

兎をつかまえにいけよ
(ピーター・ディキンスン『緑色遺伝子』第三部・9、大瀧啓裕訳)

なぜ「きみを愛している」といえなかったのか?
(リチャード・コールダー『アルーア』浅倉久志訳)

いい詩だよ、覚えてるかね?
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・18、大西 憲訳)

愛ならば、すんなりと受け入れてしまうわ。
(チャールズ・ボーモント『レディに捧げる歌』矢野浩三郎訳)

あなたは引用がお得意だから。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

本当の愛にはお芝居がつきものだし、そのお芝居を別のものに変えてしまうものよ。
(チャールズ・ボーモント『レディに捧げる歌』矢野浩三郎訳)

こわされるために作られるものだってあるのよ
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』9、藤井かよ訳)

作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

自分の人生をそこまで破壊するからには過激でなくてはなるまい?
(マイクル・スワンウィック『大潮の道』10、小川 隆訳)

だけど、
(イアン・マクドナルド『キャサリン・ホイール(タルジスの聖女)』古沢嘉通訳)

だれがだれの夢なのか。
(デイヴィッド・ブリン『有意水準の石』中原尚哉訳)

わたしたちのどちらが、本当に他者を作り出しているのだろう?
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の異端者』第3巻、矢野 徹訳)

このいずれも詩のなかにはないのだ!
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

詩ではない?
(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』一冊目・六月三日、野口幸夫訳)

きみも詩を書いてるのか?
(ティム・パワーズ『石の夢』上・第一部・第八章、浅井 修訳)

あはん。
(ポール・アンダースン『タウ・ゼロ』11、浅倉久志訳)

ばかばかしい。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』5、宇佐川晶子訳)

あたしをどんな女の子だと思ってるの?
(ケリー・リンク『靴と結婚』金子ゆき子訳)

あなたのコレクションの一部になれというの?
(リチャード・コールダー『デッドボーイズ』第2章、増田まもる訳)

うるさい。意味もわからないくせに。
(ゼナ・ヘンダースン『光るもの』山田順子訳)

なんていう舌だ!
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第二部・9、山西英一訳)

人間五十三歳にもなると、もうほとんど他人が必要でなくなる。
(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』丹治 愛訳)

おまえたちなんかいなくてもいいんだ
(ロバート・シルヴァーバーグ『内側の世界』3、大久保そりや・小川みよ訳)

なんだかをかしい。
(川端康成『たんぽぽ』)

おかしいかい?
(ロバート・シルヴァーバーグ『ゴーイング』2、佐藤高子訳)

ヒステリーのおかま(、、、)みたい
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』8・1、小泉喜美子訳)

おかまだって?
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・7、小川 隆訳)

ばか!
(ブライアン・W・オールディス『地球の長い夜』第一部・10、伊藤典夫訳)

ぼくは
(ロジャー・ゼラズニイ『伝道の書に薔薇を』2、大谷圭二訳)

数えきれない詩を書いているんだ
(フィッツ=ジェイムズ・オブライエン『手から口へ』大瀧啓裕訳)

詩だ。
(ウォレス・スティヴンズ『アデージア』片桐ユズル訳)

そりゃ、
(サミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』6、伊藤典夫訳)

詩の才能がないことは知っているよ。
(フリッツ・ライバー『『ハムレット』の四人の亡霊』中村 融訳)

詩人として、たいした才能はないかもしれない──
(ウィリアム・ネイバーズ『平和このうえもなし』3、黒丸 尚訳)

死後の名声は現世のそれ以上に価値はない。
(J・L・ボルヘス『死者たちの会話』鼓 直訳)

だけど
(サミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』6、伊藤典夫訳)

ぼくにとってこれが人生のすべてだった。
(グレッグ・イーガン『ディアスポラ』第三部・8、山岸 真訳)

これは愛の行為だった。
(ポピー・Z・ブライト『ロスト・ソウルズ』第二部・21、柿沼瑛子訳)

ほかになにがあると思ってるんだい?
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

ほかになにができる?
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

なにが気に入らないんだ?
(ロバート・A・ハインライン『未知の地平線』14、斎藤伯好訳)

詩は優雅で空虚な欺瞞だった。
(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』4、友枝康子訳)

ああ、そこここに幻術の穴。
(ランボー『飾画』眠られぬ夜III、小林秀雄訳)

幾つもの砂浜に、それぞれまことの太陽が昇り、
(ランボー『飾画』眠られぬ夜III、小林秀雄訳)

そのときどきの太陽を沈めたのだった。
(ディラン・トマス『葬式のあと』松田幸雄訳)

あら? 傷つけてしまったかしら?
(リチャード・コールダー『デッドガールズ』第四章、増田まもる訳)

早く死んでくれればいいのに!
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第3巻、矢野 徹訳)

詩句を書くこと、それもまた詩から逃れるひとつの手段ですよ
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』18、菅野昭正訳)

そういうことは考えないのさ。
(アン・ビーティ『駆けめぐる夢』亀井よし子訳)

すでにあるものを並べなおす
(グレッグ・イーガン『プランク・ダイブ』山岸 真訳)

好きなように世界が配列できるのだ
(スタニスワフ・レム『天の声』17、深見 弾訳)

世界が一変するだろう。
(ミシェル・トュルニエ『すずらんの地』村上香住子訳)

すべてが現実になる。
(フレデリック・ポール&C・M・コーンブルース『クエーカー砲』3、井上一夫訳)

どういう意味?
(スティーヴン・バクスター『虚空のリング』下・第五部・30、小木曽絢子訳)

どういう意味なの?
(ルーシャス・シェパード『スペインの教訓』小川 隆訳)

頭がおかしいんじゃない?
(サラ・A・ホワイト『闇の船』第二部・33、赤尾秀子訳)

あなたは人生についてなにを知ってるの?
(アントニイ・バージェス『ビアドのローマの女たち』4、大社淑子訳)

何を愛しているの。
(グレゴリイ・ベンフォード『ミー/デイズ』大野万紀訳)

言葉よ。
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第三部・19、嶋田洋一訳)

ただの言葉にすぎないわ。
(グレゴリイ・ベンフォード『光の潮流』上・第二部・6、山高 昭訳)

それが楽しみなの?
(グレゴリイ・ベンフォード『光の潮流』上・第二部・6、山高 昭訳)

どうでもよくない?
(ジーン・ウルフ『ピース』4、西崎 憲・館野浩美訳)

あなた、どうかしてる。
(ジュリエット・ドゥルエの書簡、ヴィクトル・ユゴー宛、1833年、松本百合子訳)

あなたの人生はどうなってるの?
(カミラ・レックバリ『氷姫』V、原邦史朗訳)

詩人?
(アルフレッド・ベスター『消失トリック』伊藤典夫訳)

ちがうよ。ぼくは詩人じゃない。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』下・探偵の物語、酒井昭伸訳)

物事はそんなに単純じゃないさ。
カミラ・レックバリ『氷姫』III、原邦史朗訳)

単純な答えなどはない。
(アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』第二部・14、中田耕治訳)

心がどんな材料で出来ているか
(シェイクスピア『リア王』第三幕・第六場、野島秀勝訳)

愛ね。
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第二章・15、青木久恵訳)

愛するって、人間を孤独にするものなんだわ、
(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』富田 彬訳)

もうたくさん。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『階層宇宙の創造者』14、浅倉久志訳)

「呪文は、手品師の帽子に入っている兎のためじゃなくて、お客のためなんだよ」
(オラフ・ステープルドン『オッド・ジョン』14、矢野 徹訳)

きみはそれを知っている人間のひとりかね?
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

あなたの引用は意味がずれてるわよ、
(ナンシー・クレス『ベガーズ・イン・スペイン』4、金子 司訳)

欲しいのはただ、ほんのささやかな、人間らしい人生よ
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』3・4、小泉喜美子訳)

寝るわ、今すぐ。
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』帰郷、宇佐川晶子訳)

もうあっちへ行っておねんねでしょ?
(キリル・ボンフィリオリ『深き森は悪魔のにおい』5、藤 真沙訳)

孤独であることを学びなさい。
(フィリップ・K・ディック&レイ・ネルスン『ガニメデ支配』12、佐藤龍雄訳)

ちらちらと
(フランク・ハーバート『デューン砂漠の神皇帝』第3巻、矢野 徹訳)

かすかに見える影──あれは雲だろうか。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』下・領事の物語、酒井昭伸訳)

淡い雲
(アン・ビーティ『ウィルの肖像』ウェイン・20、亀井よし子訳)

青空に溶け込む雲。
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

またウサギかな?
(ジェイムズ・アラン・ガードナー『プラネットハザード』上・5、関口幸男訳)

vel capillus habet umbram suam.
一本の頭髪さへその影をもつ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

知恵は影の影にすぎない
(エズラ・パウンド『詩篇』第四十七篇、新倉俊一訳)

然り、然り、然り。
(ロバート・シルヴァーバーグ『内死』25、中村保男・大谷豪見訳)

quod semper movetur, aeternum est.
常に動くものは、永久なり。
(『ギリシア・ラテン引用後辭典』)

永遠に不変なものは、変化するものにおいてしか、表現できない。
(ノヴァーリス『断章と研究 1799-1800年』[705]、今泉文子訳)

空がない。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第四部・9、青木久恵訳)

空には雲ひとつない。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』下・領事の物語、酒井昭伸訳)

空には
(クリフォード・D・シマック『宇宙からの訪問者』11、峰岸 久訳)

もう一匹もウサギはいない。
(ジョン・コリア『少女』村上哲夫訳)

ぼくを視る ぼくが視るもの
(オクタビオ・パス『白』鼓 直訳)

ウサギはまばたきもせずにてのひらにうずくまっていた。
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』月のシャドウ、宇佐川晶子訳)

どうしてこんなところに?
(コードウェイナー・スミス『西欧化学はすばらしい』伊藤典夫訳)

ふざけた夢だ。目を覚まさなくっちゃ。
(ウィリアム・コッツウィンクル『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』13、寺地五一訳)


ORDINARY WORLD。

  田中宏輔



「物分かりのいい子ね」とドリーンがニヤリとしたとき、誰かがドアを叩く音がした。
(シルヴィア・プラス『ベル・ジャー』1、青柳祐美子訳)

「どうぞ!」とドニヤ・カルロータはケイトに言った。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・10、宮西豊逸訳)

あのときもチャーリイ・クラスナーと灰色の明け方に押しかけたのだった。
(ジャック・ケルアック『地下街の人びと』真崎義博訳)

「グレーゴル? 気分よくないの? なにか必要なものある?」
(カフカ『変身』丘沢静也訳)

ダニエルは傍聴人たちを見つめた。
(ギ・デ・カール『破戒法廷』II、三輪秀彦訳)

ブラドレーはまばたきした。「なんでしょう?」
(R・A・ハインライン『異星の客』第二部、井上一夫訳)

「シャワーを浴びるのはどう?」エリカが尋ねた。
(カミラ・レックバリ『悪童』富山クラーソン陽子訳)

「人間の男の心は暗くて不潔です」グンガ・サムはいった。
(ロバート・シェクリー『人間の負う重荷』宇野利泰訳)

エスターは身震いした。彼女は若者の辛辣なところが嫌いだった。
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』1、藤井かよ訳)

トレーが眼鏡をはずしてわたしを見つめる。その顔は少年のように無防備で、頬には愛する者にしか感じ取れない柔らかさがある。
(ダン・シモンズ『バンコクに死す』嶋田洋一訳)

マキャフリイの容貌は、何百万の人間と同じ。目を離したら、雲の様子を正確に形容できないのと同じように、その容貌も形容できない。
(ジャック・ウォマック『ヒーザーン』2、黒丸 尚訳)

二階のベッドルームには、いつもスーザンがたくさんいる。みんな、自分が熟してくるとここで待つのだ。
(ケリー・リンク『しばしの沈黙』柴田元幸訳)

隣では、わたしの少年の愛人であるセヴェリアンが、若者らしい気楽な寝息を立てて眠っていた。
(ジーン・ウルフ『調停者の鉤爪』18、岡部宏之訳)

小人は片腕をあげるとパリダに向かって伸ばす。
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

「ねえエレーン、ぼくらはいま、いくつくらいなんだろう」
(F・M・バズビイ『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』室住信子訳)

クリスティーンはいま、自分が予想のつきやすい女だと思われているのではないか、と不安を覚えていた。
(アン・ビーティ『アマルフィにて』亀井よし子訳)

ジョナサンとルーシーは、ある日、地下鉄の中で知りあったのだった。たまたま、とんでもない奴が、ただ退屈だという理由で、催涙弾を電車の中で放った。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第1部、小中陽太郎・森山 隆訳)

「行かなきゃ」とアリスが言った。
(コニー・ウィリス『リメイク』大森 望訳)

「なにもそんなに急ぐことはなかろう」とマークハイムはやり返した。
(ロバート・ルイス・スティーヴンソン『マークハイム』龍口直太郎訳)

翌日は、アブナー・マーシュにとって人生でもっとも長い一日だった。
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』11、増田まもる訳)

「ああ、だがほんの一瞬だった」カドフェルは慎重に答えた。
(エリス・ピーターズ『悪魔の見習い修道士』2、大出 健訳)

ドライズデールは美しい女性と一緒のところを人に見られるのが好きだった。
(P・D・ジェイムズ『正義』第一部・10、青木久恵訳)

人間がつき合わなければいけない相手の大半は変人なんだよ、とグランディソンは言い切っていた。
(トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』6、友枝康子訳)

「まあ、あなた」とマグダレンは溜息をついた。
(エリス・ピーターズ『死者の身代金』8、岡本浜江訳)

グルローズは、わたしの知った最も複雑な人間の一人だった。なぜなら、彼は単純になろうと努力している複雑な人だったから。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』7、岡部宏之訳)

レサマが話をする、するとその話を聞いていた者は、好むと好まざるにかかわらず、すっかり人が変わってしまった。
(レイナルド・アレナス『夜になるまえに』レサマ=リマ、安藤哲行訳)

「クレティアン伯は過去の君とは別れたよ」ロレーヌが言った。「現在の君とももうじき別れる。そして今は未来の君の寸前で踏みとどまっている」
(ヴォンダ・N・マッキンタイア『太陽の王と月の妖獣』上・12、幹 遙子訳)

ぼくは幸福だ。わかるだろう、ガーニイ? ナムリ? 人生に謎などまったくないんだ。
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

人生を使うんだ、ハロルド。人生中毒になれ。
(ハーヴェイ・ジェイコブズ『グラッグの卵』浅倉久志訳)

「生き方を知る人間は、ただ生きるもんだよ、ニコバー。知らん人間が定義したがるのさ」
(マイク・レズニック『ソウルイーターを追え』7、黒丸 尚訳)

クレヴェルは不審のおももちだが、ぼくには彼の気持がわかる。
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・21、土岐恒二訳)

こんなふうに考えてみたらどうだろう、マーサ。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

チャーリー・ジョーンズが卒倒したのは、何も乙女めいた慎みからではなかった。どんなことだって卒倒する原因になりうるのだ。
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

彼はバッリにもアンジョリーナにも嘘をついていなかった。
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』3、堤 康徳訳)

モネオは、何かをつかみそこねたことを悟った。
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第1巻、矢野 徹訳)

きみはフームを愛する。そしてフームを愛しているから、きみの一部はフームになる。きみを知る者たちもまた、その一部はフームになる。
(オースン・スコット『神の熱い眠り』9、大森 望訳)

イノックは首を振った。それは気違いじみた考えだ。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』19、船戸牧子訳)

スティーヴは肩をすくめたが、その動作は厚いコートとたくさんの下着の下に隠れて、ほとんど見えなかった。
(ハリイ・ハリスン『人間がいっぱい』第二部・13、浅倉久志訳)

スティーヴの説明によると、潜在意識は脳の一つの機能であり、一つの状態であって、決してただの一部分ではないという。
(ピーター・フィリップス『夢は神聖』浅倉久志訳)

「貫通するものは一なり。」と芭蕉は言つた。
(川端康成『日本美の展開』)

ソレルはおし黙っていた。それはなにもいわないのとはちがう。
(テリー・ビッスン『冥界飛行士』中村 融訳)

マルティンはナイフを広げた、そして、いまではもう遠い昔のことのように思えるあのころのことに思いをはせた。
(サバト『英雄たちと墓』第I部・20、安藤哲行訳)

ガーセンは、語られたことよりも語られなかったことから相手の真意を察して、立ち上がると、いとまを告げた。
(ジャック・ヴァンス『殺戮機械』5、浅倉久志訳)

フォン・レイは輝く山なみにむかって、あごをしゃくった。
(サミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』2、伊藤典夫訳)

サージアス、人間は自分の生活をいったいどうするんだろう?
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

スパナーは手をさしだしたりはしなかった。もし彼女が手を出しても、わたしはその手をとっただろうか。
(ニコラス・グリフィス『スロー・リバー』7、幹 遙子訳)

アンは足もとの床の小さな円を見つめた。
(デイヴィッド・マルセク『ウェディング・アルバム』浅倉久志訳)

カーニーが見ると、白猫はそのほっそりした小さな気むずかしい顔を彼のほうに向けた。
(M・ジョン・ハリスン『ライト』22、小野田和子訳)

クレート叔父はテーブル、コップ、瓶、溲瓶、窓枠をスティックで軽くたたきながら、"ジャズ・バンド"を弾く、それぞれの物はその音を持つ、
(カミロ・ホセ・セラ『二人の死者のためのマズルカ』有本紀明訳)

エリーズの肉体のなまめかしさについては言うべきことがたくさんあったが、その精神については言うべきことはほとんどなかった。
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』28、三田村 裕訳)

じっと彼女を観察していたカレルは、やがて突然、エヴァが本当にノラに似ているような気がしてきた。
(ミラン・クンデラ『笑と忘却の書』第二部・11、西永良成訳)

アドリエンヌと長く話しあうほど、ふたりの気持ちはどんどん離れていく。
(フレッド・セイバーヘーゲン『ゲーム』浅倉久志訳)

スーザンはそういう人間だよ。過去に生きない。
(ケリー・リンク『しばしの沈黙』柴田元幸訳)

自分の心に特別の存在として映った女と、これほど多くの女が似ていることに、ギャロッドは鈍い驚きを覚えた。
(ボブ・ショウ『去りにし日々、今ひとたびの幻』4、蒼馬一彰訳)

オラシオは間違っていない。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・133、土岐恒二訳)

そもそもどんな分野であれ、決定的な貢献ができる人の数など、ほんの僅(わず)かなんです、とバンクスは語った。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・4、御輿哲也訳)

フォックスが何か音を立てる。痛みに彩られた、ドスンというような音。
(ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳)

アーテリアは肩をすくめた。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

ぼくが見るレイミアの夢は、レイミアの見る夢とまじりあっている。
(ダン・シモンズ『ハイペリオンの没落』上・第一部・3、酒井昭伸訳)

レイグルの幻覚はぼくの経験とどこかで同調している。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』6、山田和子訳)

ベンは退屈している。そういうとき、彼は人を挑発する。
(アン・ビーティ『グレニッチ・タイム』亀井よし子訳)

ハヴァバッドは手帳につぎのように書きこんだ──「スカヴァロの件で昼食、二十八ドル四十セント」。
(アン・ビーティ『ウィルの肖像』ジョディ・9、亀井よし子訳)

エヴェリンは、魅入られたもののように、かれのうえに身をかがめた。
(シオドア・スタージョン『人間以上』第一章、矢野 徹訳)

ダニエルは自分の一生を一行ごとに翻訳したものを与えられたような気がした。
(トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』18、友枝康子訳)

ラムジー夫人はそれらを巧みに結び合わせてみせた、まるで「人生がここで立ち止まりますように」とでもいうように。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第三部・3、御輿哲也訳)

「これが人生ってものよ」とジェロメットがいう。「少しずつ物事を発見していくの」
(クロード・クロッツ『ひまつぶし』第五章、村上香住子訳)

「何だって? 何と言ったの?」彼は目を眇(すが)めるようにしてジャネットを見ました。
(ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第三部・II、友枝康子訳)

「おそろしい気がするのよ!」とケイトは言った。真実を語っていたのだった。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・7、宮西豊逸訳)

「うん」と信行はうなずいた。
(志賀直哉『暗夜行路』第一・十二)

かれは、それがアイダホの考えの中に形をなしていくのを見ることができた。
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第2巻、矢野 徹訳)

パパジアンはなにも知らずに通りを歩いていった。なにも知らないことを心から楽しんでいた。
(ロバート・シェクリー『トリップアウト』4、酒匂真理子訳)

いまのチョークの決意や行動を左右するのは、もっとほかのもの、もっと精神的なものだった。
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』9、三田村 裕訳)

スダミの手。それがクリスにつきまとう問題だった。
(シオドア・スタージョン『閉所愛好症』大森 望訳)

どうしたの、マルセル?
(ケッセル『昼顔』九、堀口大學訳)

──上の人また叩いたわ──とバブズが言った。
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

そのとたん、キルマンのことが急に心に浮かんできた。仇敵キルマン。
(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』丹治 愛訳)

デ・ゼッサントは、読みさしの四折判本をテーブルの上に置き、伸びをして、煙草に火をつけた。
(J・K・ユイスマンス『さかしま』第六章、澁澤龍彦訳)

それから何が起こったか正確に描写することはできないが、数分間は極めて活劇的だった。シリルのほうから子供に飛びかかったようだ。空気は腕や足やその他で充満していた。
(P・G・ウッドハウス『ジーヴズと駆け出し俳優』岩永正勝・小山太一訳)

ルイスは独りでいると驚くほど熱心に物を見て僕たちよりも長く残るかもしれないいくつかの言葉を書く。
(ヴァジニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

エリザベスは、一年に一日しか休みをとれない、貧しい召使いの少女をうたったロバート・ブラウニングの詩のタイトルを思い出そうとした。
(アン・ビーティ『蜂蜜』亀井よし子訳)

「物事は明るい面を見なくちゃいけない」とルーク氏は言った。「みんな優秀な番犬になるだろう」
(ケリー・リンク『黒犬の背に水』金子ゆき子訳)

アリス、いまよ! 青春なんて束の間よ、束の間なのよ。
(ウォルター・デ・ラ・メア『シートンのおばさん』大西尹明訳)

ブリケル夫人の恋は失敗に終わった。夫人の反論がないのをいいことに、彼はいいつのった。自分と妻のあいだでは、何ごとも気軽に打ち明け合う、と。
(アン・ビーティ『貯水池に風が吹く日』6、亀井よし子訳)

しかしな、マーティン、向こうへ帰ったら、きみのいる世界にもメリーゴーラウンドやバンド・コンサートや、それに夏の夜があるということが、きみにもわかると思うよ。
(ロッド・サーリング『歩いて行ける距離』矢野浩三郎訳)

ジョンはゆっくりとキスをしたので、そのことをクレアが考え、受け入れて、その意味を知るには充分な時間があった。
(グリゴリイ・ベンフォード『時の迷宮』上・第四部・4、山高 昭訳)

サマンサは分数から野生の馬の群れを連想する。
(ケリー・リンク『スペシャリストの帽子』金子ゆき子訳)

彼は指を突き出して、宙に小数点を書いた。でも、ラルフ・サンプソンはその点にさわれる。彼がさわると、点がバスケットボールに変わる。
(アン・ビーティ『貯水池に風が吹く日』7、亀井よし子訳)

アーテリアは肩をすくめた。わかったわ、頭とりゲームをやりましょう。最初はあなたがわたしの頭をドリブルして床を走りまわる。そのつぎに、わたしがあなたの頭をドリブルする。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳)

かつてトイスは、「この世をふり向けば疑問にぶつかる。答えは全部どこかに隠れているのよ」と言ったが、まさにそのとおりだった。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』30、宇佐川晶子訳)

エドガー・ポウについて、他のすべてを忘れたとしても、あの瞳の印象を捨て去ることはあるまい。ポウの瞳は外を見ているばかりでなく、内も見ているようだ
(ルーディ・ラッカー『空洞地球』4、黒丸 尚訳)

サビーヌ、ぼくは探究だとか判断だとか知性だとかいうものに、信頼をおかないんだ。
(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三七年一月二十四日、関 義訳)

「あのねえ」とマイロ。「何も考えずに始めたはいいけど、知らないうちにそれに足をすくわれて身動きがとれなくなってるということだってあるんだぞ」
(アン・ビーティ『シンデレラ・ワルツ』亀井よし子訳)

「プランタジネット」ジェレミーは言う。「それも実在の場所だよ。(…)」
(ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳)

ルーシーにいうつもりはなかったが、ルーシーにあってじぶんにはない資質がなにか、最近分かってきたような気がしていた。
(アン・ビーティ『愛している』16、青山 南訳)

彼女の身体を持ち上げて頭の上でぐるぐる回してやると、嬉しそうにきゃっきゃっ声をあげて笑っていたアミラミア。彼女はきっとゆっくり回転しながら、べつの角度から世界を見渡していたのだろう。
(コルタサル『女王人形』木村榮一訳)

ペドロは、彼女は頭がおかしいと言う気になれなかった。事実おかしかったからだ。
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』2、野谷文昭訳)

地下鉄とは人類の倒錯(とうさく)であり、ジューブにはどうしても馴(な)れることができない。
(ジョージ・R・R・マーティン『ワイルド・カード 2 宇宙生命襲来』下・ジューブ 6、堺 三保訳)

彼はベンチから立ちあがり、ゆっくりと遊歩道を歩いていった。あと少ししたら、ヒューバートが朝食のしたくをしているあの続き部屋に戻ることになる。
(クリフォード・D・シマック『法王計画』11、美濃 透訳)

けれども彼女が出ていき、裏口のドアがバタンと音をたててしまったとき、ウィリアムは刺すような悲しみが胸をよぎるのを感じた。
(トマス・M・ディッシュ『M・D』上・第三部・32、松本剛史訳)

私、ジェラールが好きでも何でもないんですもの。好きになったことは一度もないの。彼のことがほしくてほしくて仕方がない時でも。それがセックスの恐ろしいところだわ。
(P・D・ジェイムズ『原罪』第一章・5、青木久恵訳)

パウトは苦痛を与えるのが好きだった。
(バリントン・J・ベイリー『禅<ゼン・ガン>銃』5、酒井昭伸訳)

レキシントンへの道中は若いペイ中に変装して移動しなきゃならなかった──ビルとジョニーって名前に決めたんだが、これがしょっちゅう入れ替わってある日は目をさますとビルで次の日はジョニーって具合──
(W・バロウズ『ソフトマシーン』1、山形浩生・柳下毅一郎訳)

ああ、ライサ! 恋人の顔をじっと見つめるとね、《何か》がくずれて、そして、《現世》では、もう二度と同じ人は見つからないことがわかるのよ!
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』大洪水、宇佐川晶子訳)

ジョニーはレコーディング・ルームで靴を脱いだが、あれは頭がおかしくなっていたからではない。昨日、そのことを話してくれたマルセルとアートには、それが分かっていない。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

ケイトが言った。「頸動脈がきれいに切断されています。意外と手に力があったんですね。特に強そうには見えませんが、でも手というのは弱々しく見えるものですよね」
(P・D・ジェイムズ『正義』第三部・32、青木久恵訳)

「だれだってみんな死ぬんだ」トゥールは低い声でいった。「ちがうのは死に方だけさ」
(パオロ・バチガルピ『シップブレイカー』14、田中一江訳)

ミリアムのウェディングドレスは、溺れた飛行機の霊魂のようだった。
(J・G・バラード『夢幻会社』26、増田まもる訳)

ブライアが目の前の光景を表現する言葉を十個選べといわれたら、"きれい"はその中に入らなかっただろう。
(シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』20、市田 泉訳)

カルソープは、その光景ばかりでなく、それが持つ意味に気分が悪くなって、顔をそむけた。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『太陽神降臨』3、山高 昭訳)

「ああ、グローリィ!」わたしは首をまわして彼女の手に頬を押しつけた。
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』帰郷、宇佐川晶子訳)

スワミはしばらくそれをつづけた。観客は陶然として身を乗りだしていた。
(マーク・クリフトン『思考と離れた感覚』井上一夫訳)

アンのブルーの目には魅了され、叱責し、崇拝する感情が同居している。こんな組みあわせを同時に抱くには若さが必要だな、とバザルカンはふと考えた。
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・ムーン』23、金子 司訳)

あなたがどんな質問をなさるか分かりますよ。ルーシーとの関係は性的な関係だったのか。私にはそんなことを考えるだけでも冒涜だとしか答えようがありません。
(P・D・ジェイムズ『秘密』第三部・4、青木久恵訳)

時としてほんとうに伝えたいことは言葉で言い表わすことはできない、ジャンヌはこれまでそう信じてきた。
(コルタサル『すべての火は火』木村榮一訳)

ジョンは芝居の批評を続けた。かれはそれまでより突っこんだ見方をしているように、わたしには思われた。
(オラフ・ステープルドン『オッド・ジョン』13・ジョン、同種族を探す、矢野 徹訳)

チーチャンズは犬だし、したがって細君よりは高等な動物である。ぼくは、ストリックランドが鞭でひっぱたくものと予想して、彼の顔を見た。
(R・キップリング『イムレイの帰還』橋本福夫訳)

「いまでも聞える」プニンは塩か胡椒の容器を手に取りながら、記憶の持続性に驚いて軽く頭を振った、「いまでも聞えるよ、命中して木魂が空に舞いあがったときのパシッという音がね。肉を食べないの? 好きじゃない?」
(ウラジーミル・ナボコフ『プニン』第四章・8、大橋吉之輔訳)

ブルーノは答えた、人間というものを云々するとき、真実が語られることは滅多にない、なぜなら、苦痛や悲しみ、そして破壊をもたらすだけだからね。
(サバト『英雄たちと墓』第II部・8、安藤哲行訳)

そうだ、あんただって細部のひとつなんだよ、ロードストラム。もし一瞬でもあんたが俺の心の中になかったら、あんたはいなくなっちまう。
(R・A・ラファティ『宇宙舟歌』第四章、柳下毅一郎訳)

「本名でいきますよ」セランはいつもそう答えるのだが、これがまちがいだった。ときには、新しい名が新しい性格をひきだすこともある。
(R・A・ラファティ『九百人のお祖母さん』浅倉久志訳)

「ミケランジェロが」とジョンはいった。「どういうわけか据える空気はぜんぶ吸ってしまったようですね。(…)」
(アントニイ・バージェス『アバ、アバ』4、大社淑子訳)

パリーモン師はかつて、わたしに教えてくれた。恩情はわれわれ人間のものであり、一引く一は零より多いと
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』30、岡部宏之訳)

ヒラルムは無言だった。
(テッド・チャン『バビロンの塔』浅倉久志訳)

ラッセルはその半分もわかっていなかった。
(ジョー・ホールドマン『擬態』37、金子 司訳)

そしてボースンゲイト氏は判事がふたたび一連の意見をのべているな、と思った
(ジョン・ゴールズワージー『陪審員』龍口直太郎訳)

「ラーキンはこの本に、詩想と作品の断片は必ず同時に浮かんでくるものだと書いています。あなたも同じご意見ですか、警視長さん」
(P・D・ジェイムズ『死の味』第二部・1、青木久恵訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

ベンジャミンもそこに加わった。
(デイヴィッド・マルセク『ウェディング・アルバム』浅倉久志訳)

「同時にふたつの場所にいることができるものかしら?」アリスはじっくり考えました。
(ジェフ・ヌーン『未来少女アリス』風間賢二訳)

おそらく、エルザンはいまそれらの頁のことを考えていないだろうし、それらの頁を書いたとき以来、それについて考えたことは一度もなかっただろう。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』12、菅野昭正訳)

「明りはここに残してゆきましょう」サラがささやいた。「あなたがいなくても光ったままでいるんでしょう?」
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ヨルダン、深町真理子訳)

「ドクター・ミンネリヒトは明かりに目がないのさ。明かりそのものも好きだし、明かりを生み出すものも好きなんだよ。(…)」
(シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』21、市田 泉訳)

エレナはいたずらっぽい口調で、「たぶん、それについてもあなたが正しいんでしょうね」
(イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア『彼らの生涯の最愛の時』大森 望訳)

「ネッリーは他の誰も見ないようなものを、あたしに見てるんじゃないのかなあ」
(カミラ・レックバリ『氷姫』V、原邦史朗訳)

スタークは頭をめぐらし、ミリアム・セントクラウドをじっとみつめた。
(J・G・バラード『夢幻社会』32、増田まもる訳)

自分自身のことはなにも思い出さずに、ミュリジーに抱いていた関心を徐々に思い出した。
(クリストファー・プリースト『ディスチャージ』古沢嘉通訳)

マークは、過去を理解せずして現在を理解することはできないから歴史の研究を選んだと言っていましたよ。
(P・D・ジェイムズ『女には向かない職業』3、小泉喜美子訳)

ジェミーは言った。「残酷な時代を思いだすのを拒めば、悪と共存する善の記憶をも同時に拒否することになる」
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』大洪水、宇佐川晶子訳)

レサマは「覚えておくんだよ、わたしたちは言葉によってしか救われないってこと。書くんだ」とぼくに言った。
(レイナルド・アレナス『夜になるまえに』通りで、安藤哲行訳)

わたしはグレイダスに以前会ったことがあるのだろうか? ちょっと考えさせてくれ。会ったことがあるのだろうか? 記憶は頭(かぶり)を振る。
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

見るともなしにグリフィスを見ながら、何とか記憶を取り戻そうとした。
(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第2部・14、嶋田洋一訳)

記憶がよみがえってきた。そうだ、この記憶だったんだ。あの子は、パメラの先触れだったのだろうか? 
(アントニイ・バージェス『ビアドのローマの女たち』2、大社淑子訳)

ヌートがまだ生きているということに、クリフはもはやまったく疑いを抱いてはいなかった。「生きている」という言葉が何を意味しているとしても。
(ハリイ・ベイツ『主人への決別』6、中村 融訳)

いったいスサナ・サン・フアンはどういう世界に住んでいたのか、これはペドロ・パラモがついに知ることのできなかったことのひとつだ。
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

それをぼくが考えたこともなかったなんて思わないで欲しいね──とオリベイラが言った──。
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

ラングは水の栓を開閉して、そのつどかすかにかわる音に耳をすました。
(J・G・バラード『ハイ-ライズ』16、村上博基訳)

それはスケイスに何も語らなかった。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第二部・1、青木久恵訳)

しかし、カレルは、エヴァを通して美しいノラ夫人を時間をかけてゆっくり見ていたかったので、その瞬間を引き延ばそうとした。
(ミラン・クンデラ『笑と忘却の書』第二部・11、西永良成訳)

トゥカラミンの口調にある何かが、クゥアートに質問させた。
(グレゴリイ・ベンフォード『光の潮流』下・第五部・2、山高 昭訳)

「その定義を認めるとすると」とサン=ジュリューが言った、「実現された行為は恋愛を排除しませんか?」
(アルフレッド・ジャリ『超男性』I、澁澤龍彦訳)

僕はなにもしませんでしたよ、イレーヌは僕になにも言いませんでした。なにもかも察しなければならなかったんですよ、いつでもね……
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』16、菅野昭正訳)

ドク・ポルの話だと、複合感覚は人間には非常によく見られるものなんだそうです──一般に考えられているよりも、ずっと多いんですって。
(ドナルド・モフィット『第二創世記』第二部・9、小野田和子訳)

自己は消滅しても、このロンドンの街路で、事物の満(みち)干(ひ)のままに、ここに、かしこに、わたしが生き残り、ピーターが生き残り、お互いの胸のうちに生きる、と信ずることが。
(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』富田 彬訳)

野蛮人なんてものはいないんだよ、フィル。あるのは野蛮な行為だけなんだ
(ポール・プロイス『地獄の門』24、小隅 黎・久志本克己訳)

クレアは髪の毛をゆすると、前へ全部たらし、それから息をのむほどすてきに、うしろへさっと投げた。
(シオドア・スタージョン『神々の相克』村上実子訳)

レジナルド卿は、精いっぱい抵抗するものの、銃口がまっすぐ自分を狙っているのに気づいた。まるで、スローモーションの映画を見てでもいるように、奇妙なくらい鮮明にすべてを見ることができ、感じることができた。
(テレンス・ディックス『ダレク族の逆襲!』2、関口幸男訳)

ヴィクターは薔薇のとげに親指をふれた。「女ってやつは。男は自由でいいっていいやがる。で、女に自由を与えると、むこうはそれをほしがらない」
(ジョン・クロウリー『ノヴェルティ』6、浅倉久志訳)

フィオナは首を振りながら反対意見をのべた。
(ジョン・ブラナー『地獄の悪魔』村上実子訳)

モニは、相手のことばをさえぎった。
(テレンス・ディックス『ダレク族の逆襲!』1、関口幸男訳)

ベンウェイは学生で一杯の大講義室で手術をしている──
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』病院、鮎川信夫訳)

「帝王(スルタン)は壮大な夢をお持ちだ」ルビンシュタインが言った。「だが、あらゆる夢はもしかしたら、さらに大きな夢の一部であるのかもわからん」
(ドナルド・モフィット『星々の教主』下・16、冬川 亘訳)

「それは循環論法的なパラドックスですか? 大半の真理は循環パラドックスでしか表現されえない、とドン・クリスタンが言ってます」
(オースン・スコット・カード『死者の代弁者』下・18、塚本淳二訳)

「何だって?」とヴォマクト。その目──その恐ろしい目!──は、いうまいと思ったことまでいわせてしまう。
(コードウェイナー・スミス『酔いどれ船』伊藤典夫訳)

最近妻を亡くしたばかりの植物学者のベルクと──自分のよりも、むしろ相手のミスに腹を立てながら──チェスをした。
(ナボコフ『賜物』第2章、沼野充義訳)

ジェラルド・エメラルドは片手を差し伸ばしていた──こうしていま書いている瞬間にもそれは依然としてその位置のままにあるのだ。
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

ミンゴラはそのわきに坐ってライフルの掃除をしながら、これからの日々のことを思っていた。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第三部・11、小川 隆訳)

アンドロイドは再びまたたきし、桃色の唇の両端をひげに引きつけると、めったにお目にかかれないダールグレンの微笑のかたちになった。
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』2、藤井かよ訳)

エンリはベク・アレンのこうした非現実な行為を見る機会が前にもあった。
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・ムーン』24、金子 司訳)

「古代の神々を呼びもどそうとしていらっしゃるんですか?」とケイトはあいまいな調子で言った。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・10、宮西豊逸訳)

K・Cの行く手には栄光が待っている。彼はそれをまさしく歯の詰め物にも感じていた。
(トマス・M・ディッシュ『第一回パフォーマンス芸術祭、於スローターロック戦場跡』若島 正訳)

いつかきみのいわゆる中心的姿勢とやらについて、もっと詳しい議論を聞きたいもんだ──とエチエンヌが言って立ち上がった──。
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

アリスがいう、何を愛しているの。
(グレゴリイ・ベンフォード『ミー/デイズ』大野万紀訳)

医者がピギーにコーヒーを渡した。
(アン・ビーティ『愛している』20、青山 南訳)

フィリッパはモーリスの少しもうろたえない皮肉っぽい視線をなかば意識して戸口に立っていた。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・8、青木久恵訳)

名前はなんて言うんだろう。アルタグラシア・モラレス夫人? それともアマンティーナ・フィゲロア夫人? それともフィロミーナ・メルカド夫人? そういう名前をおれはこよなく愛している。それは一つの純粋な詩なのだ。
(ロバート・シルヴァーバーグ『内死』1、中村保男・大谷豪見訳)

カティンのやつ、あいつは過去しか眼中にないんだ。そりゃ、過去は、今が明日をつくるみたいに今をつくったものだし、キャプテン、まわりじゃ河がごうごうと流れてんだぜ。
(サミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』2、伊藤典夫訳)

メリックはこの場所に生気を吹きこんでいるのはふたりの心臓の鼓動なのであり、ふたりがいなくなるとすぐに、滝の流れは止まりツバメも姿を消すのではないかと考えることがあった。
(ルーシャス・シェパード『竜のグリオールに絵を描いた男』2、内田昌之訳)

ホリー独特のものの考え方は、チェスターの話の中に無意識のうちに入りこんでいる。
(アン・ビーティ『コニーアイランド』道下匡子訳)

それわたしのよ──とラ・マーガは言って、それを取り返そうとした。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・108、土岐恒二訳)

よく引用されるバークリーのことばに、「存在するということは、知覚されること」ということばがある。
(ジョン・T・ウィリアムズ『プーさんの哲学』4、小田島雄志・小田島則子訳)

そしてフィリッパは母にキスをした。何もかも簡単だった。すばらしく簡単だった。愛することを怖れる必要はないとわかるまで、どうしてこんなに時間がかかったのだろう。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・7、青木久恵訳)

それが彼の心を期待でいっぱいにした。なんについての期待か?──それは彼にも確かではなかった。フリーマンはなおも自分のもたぬものに憧(あこが)れている人間なのだ
(マラマッド『湖上の貴婦人』加島祥造訳)

デイヴィッドには、大人たちがどうして顔と心で別々のことを言うのかさっぱり理解できなかったが、そんなことはもう馴れっこだった。
(ロバート・シルヴァーバーグ『内死』2、中村保男・大谷豪見訳)

しかし、霧が晴れるにつれてさらに輝きを増した一対の窓の黄色い灯は、ダルグリッシュをヒューソン夫妻のカテージへと引き寄せた。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第三部・1、青木久恵訳)

ムアドディブはすべての経験にそれ自体の教えがあることを知っていたのだ。
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第1巻、矢野 徹訳)

「二つの世界に住む人は誰でも」ヴィットリアは言った。「複雑な生活を余儀なくされるのよ」
(ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第五部・XI、友枝康子訳)

ガーニイはいつも、ぴったりとくる引用をしましたね。
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第3巻、矢野 徹訳)

食事の間中、レイは自分のことばかり話していた──配役、批評、敵に勝つ喜び。ダニエルはこの人物の抱く、虚栄心と飽くことのない賞讃への渇望をはじめて目のあたりにした。
(トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』14、友枝康子訳)

だが、あのジョニーからあふれ出しているものは美しい、恐ろしいほど美しい。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

マーサはいつもそれを、カウリーでの日々の不安と焦燥がそれを記憶に焼きつけてしまい、そのため思いだすことがたやすいのだというふうに考えるのだった。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

フィンガルは心配なんかしていなかった。ただくたびれて神経がピリピリしているだけだった。
(ジョン・ヴァーリイ『汝、コンピューターの夢』小隅 黎訳)

ホッブスが何度もくりかえし強調したことと言えば、明晰な定義は幾何学にだけじゃなくて明晰な思考にも肝心なものだということだ。
(ジョン・T・ウィリアムズ『プーさんの哲学』3、小田島雄志・小田島則子訳)

ガウスゴーフェルは一目でチェルパスを憎んだ。──憎しみは、ときには恋とおなじほど自然で奇跡的なものなのである。
(コードウェイナー・スミス『夢幻世界へ』伊藤典夫訳)

ヒューゴは"チーズ"という言葉を知っている。自分の名と同じくらいよく知っている。ある種の言葉を聞くと目をぱっと輝かせ、耳をぴんと立てる彼の仕草がわたしにはいとおしい。
(アン・ビーティ『待つ』亀井よし子訳)

こうしたすべて、そしてその千倍ほどの多くの事柄が、この啓示の瞬間にオバニオンの頭の中でくっきりと浮かび上がった。
(シオドア・スタージョン『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』13、若島 正訳)

タロス博士は観衆の想像力から多くのものを引き出した。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』32、岡部宏之訳)

「あんたはもうちょっと空中浮揚を練習すべきだと思わないかい?」ロウの無言の問いが、がやがやいう話し声のかげから、ぴーんと明瞭に伝わってきた。
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』荒野、深町真理子訳)

〈あの子はこの先、どれだけ苦しむことになるのだろう〉と呟きながらも、ブルーノは優しげな眼で彼の後を追った。
(サバト『英雄たちと墓』第II部・4、安藤哲行訳)

「ありがとう」とピギーはいった。ジェーンの亡霊がいわせたのだった。
(アン・ビーティ『愛している』20、青山 南訳)

ソーザが超能力のなんらかの証拠を見せるとき、かれは常にはっきりと異常なほどの関心を示すのだ。
(マーガレット・セント・クレア『アルタイルから来たイルカ』10、矢野 徹訳)

その物体が近づいてくるにつれ、まずキャリエルに、数ミリ秒遅れてケフにも、その物体の形がはっきりとわかるようになった。
(マキャフリー&ナイ『魔法の船』5、嶋田洋一訳)

「母か」エルグ・ダールグレンは何か不調和なものを見つけたように微笑した。
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』12、藤井かよ訳)

人生ってものはすばらしいものなんだよ、ケイト。一人っきりでは生きられないものなんだ、だれかほかの物と分けあうものなんだね。だから、相手の苦しみは自分の苦しみなんだよ。
(ジョン・ゴールズワージー『陪審員』龍口直太郎訳)

これこそ、ラルフ・ストレングだった。いま、ストレングはぼくたちにむかってにっこりと笑い、自信たっぷりなようすで、落ち着きはらって立ち去っていく。
(マイケル・コニイ『ブロントメク!』2、遠山峻征訳)

まるでシプリアーノはラモンの顔に、自分自身をさがしているかのようだった。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・12、宮西豊逸訳)

一方、ドウェインの狂気はどんどん進行していた。ある晩、彼は新しいミルドレッド・バリー記念芸術センターの真上の空に、十一個の月を見た。
(カート・ヴォネガット・ジュニア『チャンピオンたちの朝食』第4章、浅倉久志訳)

「アーヴァ夫人!」と彼は呼んだ。「あなたとお話がしたいのです!」
(フィリップ・ホセ・ファーマー『太陽神降臨』12、山岸 真訳)

「エカテリーナ」とギュンターがやさしく呼びかけた。「どれだけ寝ていないんだい? 自分の胸にきいてごらん。自分じゃなくて覚醒剤に考えさせてしまっているよ」
(マイクル・スワンウィック『グリュフォンの卵』小川 隆訳)

マルティンは服を着終えたとき、《そう、それじゃ、一人にさせて》というアレハンドラのあの恐ろしい言葉を耳にしたミラドールでのあの夜明けをふたたび思いだしていた。
(サバト「英雄たちと墓」第I部・20、安藤哲行訳)

いくら積分社会数学にくわしくても、ヘアーの内部には分割がある。最古で最悪のパラドックスのように、そこには部分への分割がある。
(ジョン・クロウリー『青衣』浅倉久志訳)

二人とも人の仕事を批評したり、他人の才能で肥え太ることしかできないものだから、モーリスが創作的な仕事をしているのが我慢ならなかったのよ。よくあることだわ。芸術に寄生する人たちの創作家に対する嫉妬。
(P・D・ジェイムズ『不自然な死体』第三部・3、青木久恵訳)

それでもおれは窓を降ろした。イーニアス・カオリンの庭園にただよう馨(かぐわ)しい香りを嗅ぐには、窓をあけるしかないからだ。
(デイヴィッド・ブリン『キルン・ピープル』下・第四部・72、酒井昭伸訳)

「ほら、リーシャ──この木はこの花をつけてるだろ。そうできる(、、、)からだ。この木だけがこういうすてきな花をつけることができる。
(ナンシー・クレス『ベガーズ・イン・スペイン』2、金子 司訳)

デボラと庭を見れば、それが絶えざる(、、、、)創造であることは明らかだった。つまり、ぼくが言いたいのは、庭が毎日、毎時間、新しくなっていたということだ。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十六章、榊原晃三・南條郁子訳)

「ねえきみ、自分の感情を反映させてはいかんよ。わたしがマイロンをほめるときは、単に彼を(、、)ほめているのであって、別にきみをけなしているわけじゃないんだから」
(ゴア・ヴィダール『マイラ』33、永井 淳訳)

「あたしはいまでもあなたの味方です」イネスは彼に近づいてそういった。恥ずかしがり屋の恋人がそっと近づいて、愛しているわ、というときのように。
(アン・ビーティ『燃える家』亀井よし子訳)

ラングには、彼女のばかげた気まぐれを満たしてやろうとするとき、彼女の饒舌な叱責がうれしかった。
(J・G・バラード『ハイ-ライズ』16、村上博基訳)

じつはね、とプールは彼女にいった。向こうの宇宙にはさらにゲートがあって、またべつの宇宙に続いている
(スティーヴン・バクスター『虚空のリング』下・第五部・32、小木曽絢子訳)

フォードはこぶしでコンソールを叩き、そのドンという音を聞いていた。「ゼイフォード、このドンという音を忘れてたよ。つまり、この音とかそういうことを。
(オーエン・コルファ『新銀河ヒッチハイク・ガイド』第3章、安原和見訳)

ジークは逃げ出しそうになったが、新たな音に注意を引かれた──
(シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』25、市田 泉訳)

ロビンはますを眺めていた。
(シオドア・スタージョン『[ウィジェット]と[ワジェット]とブフ』16、若島 正訳)

なぜなら、ブルーノが言うように、精神の悲劇的な不安定さの一つは、また、その最も深みのある繊細さの一つは肉を通してでなければ現れないからだ。
(サバト『英雄たちと墓』第I部・17、安藤哲行訳)

ミリアムの手もとをのぞきこんで、彼女が半分をクレヨンで、半分を鉛筆でしあげている作品に驚嘆した
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ヤコブのあつもの、深町真理子訳)

とにかく行動することがラムジー夫人の本能だった
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第三部・11、御輿哲也訳)

「しかし、永遠の生命の目的はなんなのだろう?」コヴリンはたずねた。
(チェーホフ『黒衣の僧』5、原 卓也訳)

孤独よりも悪いことがいくらもあることを、ケイトは身にしみて知っていた。
(P・D・ジェイムズ『秘密』第二部・2、青木久恵訳)

わたしはハンスの眼の下にわたしの顔があることを意識していた。まるでわたしの顔だちの一つ一つが、その形に苦しんでいるかのように。
(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三七年四月十日、関 義訳)

ジョニーにはそうなりえたかもしれないもう一人のジョニーの影のようなものがある。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

スーザンたちは何か昔の話の結末について言いあっている。みんなの記憶がそれぞれ違っている。
(ケリー・リンク『しばしの沈黙』柴田元幸訳)

ミス・キャロルが一瞬こわばった指をのばして、両の手のひらをねじりあわせ、そしてやがて話しはじめると、一同はただひとりきりの人間になって耳をすました……
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』5、深町真理子訳)

シプリアーノはやはり一個の力なのだ。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』下・20、宮西豊逸訳)

ヘンリイの神経と血液とはその瞬間をはっきりと記憶しており、そして、死ぬまでそれを忘れはしないだろう。
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』3・2、小泉喜美子訳)

ブルーアーの獲物を狙うような愛相笑いを見たフィリッパには、ガブリエルがなぜ彼に惹かれたのか理解できた。特異な顔、一風変わった顔に彼はいつも惹かれる。そうでなければ、フィリッパを相手にしなかったはずだ。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・7、青木久恵訳)

ミンゴラにとっては蜘蛛の巣の動きや、ロウソクが投げる不規則な影が知覚できない呼吸のしるしだった。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第四部・13、小川 隆訳)

おれはトーニの心を読むまいと必死に抵抗しなければならなかった。間違った答ではなく、正しい答をつかむのがこわかったのだ。
(ロバート・シルヴァーバーグ『内死』8、中村保男・大谷豪見訳)

コンラッドは人とそれを取り巻く環境──都市、ジャングル、川や人々──との間に、科学がまとめて否定するような意義深い関係を確立する。
(ウィリアム・バロウズ『夢の書 わが教育』山形浩生訳)

午前の授業がなかばほど進むころには、アンナがあんなにも躍起になっていた問題というのが、わたしにもすこしはわかってきた。
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』囚われ人、深町真理子訳)

「詩は万人によってつくられなければならない。ただ一人によってではなく。」というロートレアモンのことばに耳を傾けましょう。
(ポール・エリュアール『詩の明証』平井照敏訳)

奇妙なことにマルティンの眼には涙が溢れ、体は熱でもあるように震えていた。
(サバト『英雄たちと墓』第I部・17、安藤哲行訳)

ジェレミーの父親の忠告はたいてい、なんらかの形で巨大蜘蛛に関係している。
(ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳)

クリフォード・ブラッドリーがエドウィンをああも怖れていたのはそのせいじゃないかと思います
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第四部・1、青木久恵訳)

きみは実在しているものについて語る、セヴェリアン。こうして、きみはまだ実在しているものを保持しているのだよ。
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』50、岡部宏之訳)

とつぜん、二コルの声が聞こえた。でかけていなかったのだ。階上でお風呂にはいっていたのだ。
(アン・ビーティ『愛している』28、青山 南訳)

ぼくはジンシヌラの新しい言葉を受けとめる新しい径のついた新しい〈灯心草〉をつくった。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

物語だよ、フローラ。
(ロジャー・ゼラズニイ『ユニコーンの徴(しるし)』3、岡部宏之訳)

どのオセロもまだ恋をするには到っていない
(サバト『英雄たちと墓』第I部・7、安藤哲行訳)

わたしはベッドに横になったまま、フランクがバスルームから出てくるのを待っている。
(アン・ビーティ『燃える家』亀井よし子訳)

誰にだって愛情を期待する権利はない、とダルグリッシュは思った。だが、それでもわれわれは期待する。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第三部・5、青木久恵訳)

だが、カドフェルは完全に取り違えていたのだ。人はなんと簡単にだまされることであろう。一つひとつの言葉、一つひとつの表情がカドフェルには正しく読み取れなかったということだ!
(E・ピーターズ『死者の身代金』10、岡本浜江訳)

セヴェリアン、愛しているわ! 一緒にいた時に、わたしはあんたに恋焦がれていた。そして、何十回もあんたにわたしの体をあげようとしたのよ。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』29、岡部宏之訳)

ボウアディシアは気のきいた微笑を浮かべながらかれを眺めていた。そろそろ倦きてきた、ピンクレディをすすった。
(トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』5、友枝康子訳)

「今、わたしの存在を維持しているのはだれか? オッパシゴか? 休んでもいいよ、オッパシゴ」
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』50、岡部宏之訳)

ダールグレンは自分の半白の髪やひげや口にさわり、眼を閉じた。彼は倒れなかった。
(フィリス・ゴッドリーブ『オー・マスター・キャリバン!』2、藤井かよ訳)

一瞬俺たちは、エドが夢の話をするんじゃないかと恐れる。他人の夢の話を聞かされるほどうんざりなことはない。
(ケリー・リンク『しばしの沈黙』柴田元幸訳)

そのロバたちが帰ってくるまでのあいだ、空いている厩舎が、ビーンポールとぼくの寝床になるのだった。
(ジョン・クリストファー『トリポッド 3 潜入』2、中原尚哉訳)

どっちが本物のパーヴェルです? 両方とも本物ではないのでは?
(イアン・ワトスン『ヨナ・キット』21、飯田隆昭訳)

もう一人のピーターがこう口を切った。「どう見ても、ぼくらはみんな同じくらい本物ですね。つまり、あなたとぼくとは、例の扇子のそれぞれちがった骨の上に存在しているからなんですな、これは」
(ジョン・ウィンダム『もうひとりの自分』大西尹明訳)

「もちろんですとも」だが、それはパオロのあいさつにはこめられていなかった。
(グレッグ・イーガン『ワンの絨毯』山岸 真訳)

ついにテンノが言った。「それはとんでもない選択ですよ」
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』32、宇佐川晶子訳)

シプリアーノが邸から出て来た。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・13、宮西豊逸訳)

今日は木曜日だから、ヒルダは審判所に出かけている。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・8、青木久恵訳)

ソニアの香水や帰る時にそっと自分の肩に置いた掌のほうが、言葉よりも多くのことを語りかけていたように思える。
(コルタサル『すべての火は火』木村榮一訳)

ジャスティンはヒロインに好感をもった。ヒロインの姿に自分の姿を重ねた。せめてそこに自分を見いだしたかったのだ──
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』1、川副智子訳)

ドアのうしろにバドリイ神父の黒い僧服が吊してあり、その上にはすり切れて形も崩れたベレー帽。
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』2・1、小泉喜美子訳)

バリスの言葉の残酷さは、言葉そのものが消えたあとも、沈泥のように部屋の中に残っているようだった。
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』18、三田村 裕訳)

フラズウェルとシーラとは、人間が負う重荷の責任を分ちあった。
(ロバート・シェクリー『人間の負う重荷』宇野利泰訳)

ウィリアム・ブレイクの言葉がフィリッパの心にふと蘇った。(…)〈生あるものはすべからく神聖だ。命は命を楽しむ〉
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・7、青木久恵訳)

極めて稀にだが、確かにアレハンドラがマルティンの傍でくつろいでいるときがあったようだ、
(サバト『英雄たちと墓』第I部・8、安藤哲行訳)

きみがルシオのことを思い出すのも無理はない。今頃の時間になると、昔のことが懐かしく思い出されるものだ。
(コルタサル『水底譚』木村榮一訳)

サムは気取っているふりをするが、気取っていなければそんなふりはしないのだ。
(キリル・ボンフィリオリ『深き森は悪魔のにおい』1、藤 真沙訳)

ダヌンツィオを彼女はたいへん可愛がったと、新聞が書いている。可愛がったか。このばあさんの写真を見てごらん。どう可愛がったものやら。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

ニコルの悲しんでいるのは分かっていたが、じぶんの母親の死とどうやって折り合いをつけようとしているのかは、ルーシーにはさっぱり見当がつかなかった。
(アン・ビーティ『愛している』28、青山 南訳)

彼はラモンのそばへ来て立ち、ラモンの顔をちらと見あげた。が、ラモンの眉はひそめられていて、その目は中庭の向こう側にならぶ小屋のあたりの暗黒にすえられていた。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・13、宮西豊逸訳)

バックの部屋から、五時に会いたいという電話があったときも、事態はいっこうに好転していなかった。彼のひどく上機嫌なようすがちょっと気になった。
(ゴア・ヴィダール『マイラ』30、永井 淳訳)

「では愛が終わったということですわ」メリセントはいっそう熱をこめていったが、それは心のすみっこがそれは嘘だと叫んでいたからだった。
(E・ピーターズ『死者の身代金』8、岡本浜江訳)

ルーシーに分かったことは、なんだってそうなりうるのだということだった。そのとき以降、彼女はなにかに夢中になるルーシーになった。じぶんと状況を遠くからながめるルーシーになった。
(アン・ビーティ『愛している』25、青山 南訳)

モコロとは、一、二度会ったことがある。威勢がよくて感じのいい男だった。それに、自分の型を持っていたな。型ってのは、やるべき仕事があればさっさと片づける腕のことだ。
(コルタサル『牡牛』木村榮一訳)

「ゴードンがお気に入りの花々をお見せするでしょう」と彼女は言って、隣室に呼びかけた。「ゴードン!」
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

「自由というようなものもありませんよ」とドン・ラモンの静かな、太く低い、不気味な声がくりかえしているのを彼女は聞いた。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・4、宮西豊逸訳)

ロナは自分がバリスの言葉を正しく聞きとったのかどうか確信がもてなかった。しかし、もう一度くり返してくれとは頼まなかった。
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』22、三田村 裕訳)

シルフが木立の中に隠してあった自転車に案内してくれたので、モードはステージ・サイドまで漕いでいった。
(マイクル・スワンウィック『ウォールデン・スリー』小川 隆訳)

メアリ=アンの完全無缺な肉体には何かしらわたしを興奮させるものがある。彼女の中にか、わたしの中にか、それとも二人の中にあるのかわからないけれども、探りださなければならない秘密があることは確かだ。
(ゴア・ヴィダール『マイラ』35、永井 淳訳)

エスターの瞼は少し細くなり、角膜から反射した黄色い灯の点を隠していた。
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』27、藤井かよ訳)

彼女を追いもとめ、彼女に侵入しそうだったのは、シプリアーノの内部の未完成なものであった。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・12、宮西豊逸訳)

『図書館』がジェレミーとカールとタリスとエリザベスとエイミーを友だちにした。
(ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳)

メイアーの言葉は感受性を感じさせた。ジェイン・ダルグリッシュは確かに彼にとって不死の存在に思えた。高齢の老人というのは、われわれの過去を作っているのだと彼は思った。
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第一章・6、青木久恵訳)

始まりは簡単だった、とジーンは思った。何事も始まりは簡単なものだ。表面は簡単だ。しかし深くなると複雑なものだ。
(ケイト・ウイルヘルム『杜松の時』5、友枝康子訳)

ラウラが嘘をついたところでどうってことはない。あのよそよそしい口づけやしょっちゅう繰り返される沈黙と同じ類のものだと考えればいいのだ。そして、その沈黙の中にニーコが潜んでいるのだ。
(コルタサル『母の手紙』木村榮一訳)

この国が生み出すことのできる最高のものは、男と男との何か強力な関係かもしれない、とケイトには思えた。結婚そのものは、つねに気まぐれなものだろう。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・9、宮西豊逸訳)

彼の望んでいることは、何があったかいっさいをダールグレンに告げ、それが良かったか悪かったかいっさい彼の判断に委せることだった。
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』26、藤井かよ訳)

「いいです! 大へんいいです!」とシプリアーノは言いながら、なおも相手の男の顔を、おどろいたような、子供っぽい、さぐるような黒い目で見つめた。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・12、宮西豊逸訳)

審査官はフェリックの眼をじっと覗きこんだが、その視線は人間くさく、一種の確信を欠いていた。
(ノーマン・スピンラッド『鉄の夢』1、荒俣 宏訳)

パーシー様、お手紙でございます。
(シェイクスピア『ヘンリー四世 第一部』第五幕・第二場、中野好夫訳)

ウィスタン、口を出さないで。
(ジェイムズ・メリル『ページェントの台本』上・&、志村正雄訳)

セルバンテスは小説の小説を書き、シェイクスピアは芝居の中で芝居の批評をし、ベラスケスは描いている自分の姿を描いた。
(パス『弓と竪琴』詩と歴史・英雄的世界、牛島信明訳)

忘れっぽい人は人生を最大限に生かそうとする人なので、平凡なことはうっかり忘れることが多い。ソクラテスやコールリッジに手紙を出してくれと頼む人などどこにいるか。彼らは、投函など無視する魂を持っているのだ。
(ロバート・リンド『遺失物』行方昭夫訳)

店の入り口に、セリジー夫妻の姿を見つけるといきなり、ルネは、店の奥からハンカチを振って叫んだ、
(ケッセル『昼顔』一、堀口大學訳)

ウィンクホーストは叫ぼうとはしなかった──。いかにも落ち着いて、彼は腰を掛けた──。
(ウィリアム・バロウズ『ノヴァ急報』中国人の洗濯屋、諏訪 優訳)

「ええ、見えるわ」セリア・マウはいった。「よく見えるわよ、あのクソ野郎ども!」
(M・ジョン・ハリスン『ライト』17、小野田和子訳)

彼は、その態度や高価な衣服からみて上流階級と思われる背の高い美男子がアーヴァに近づくのを見た。彼女はにっこり笑って立ちあがり、彼を小屋に連れこんだ。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『太陽神降臨』12、山高 昭訳)

「いやよ、マーク!! いや! いや! いや!」とメァリーは悲鳴をあげ、壇のほうへ引きずられながら恐怖のあまりに大小便をもらす。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

しかしエミリ・ディキンスンは耳や目を閉じようとはしなかった。
(トーマス・H・ジョンスン『エミリ・ディキンスン評伝』第八章、新倉俊一・鵜野ひろ子訳)

ルイーズが言う。「とにかく、この前より楽よ。ドッグフードしか食べなかった頃のことを思えば」
(ケリー・リンク『ルイーズのゴースト』金子ゆき子訳)

エルメートは水のお代わりを求め、ごくごくと飲みほした。「でも、あのころを思い出しはせんのかな、アルビナ? クチュマターネスのことを?」
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・8、小川 隆訳)

「ええ、他のはありませんし、今後もないと思います」とオルジフ・ソウクルは断定的にいった。
(イヴァン・ヴィスコチル『飛ぶ夢、……』千野栄一訳)

自分自身の空を捜し求めている巨大な白い鳥のように、ミリアムは真下までくると立ちどまった。
(J・G・バラード『夢幻会社』25、増田まもる訳)

「ああ、ぼくは大丈夫だよ。ようやく大丈夫になるさ。心配しないでくれ。それから見舞いには来ないで。G・K・チェスタートンの言葉にこういうのがあっただろう。"人生を決して信用せず、かつ人生を愛することを学ばねばならない"。ぼくはとうとう学べなかった。」
(P・D・ジェイムズ『原罪』第四章・49、青木久恵訳)

アンナが言い返す。「どうしてわかるのよ?」
(ケリー・リンク『ルイーズのゴースト』金子ゆき子訳)

「どうして、きまっているんです?」軽い、どちらかというとひやかし半分の口調のつもりらしかったが、ダルグリッシュの耳は怒りを含んだ鋭い防御の響きを逃さなかった。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第三部・5、青木久恵訳)

「いいえ、そうは言ってませんよ」シスター・ブリジェットは面白がっていた。「わたしはただ、美は表面的なものにすぎないという考えに疑問を呈しているだけ」シスターはコーヒー・カップを両手で包みこむように持った。
(ミネット・ウォルターズ『女彫刻家』4、成川裕子訳)

「まあ、ルノアールだわ!」
(P・D・ジェイムズ『女には向かない職業』3、小泉喜美子訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

わたしは思わず息を呑み、その拍子にアメリアの長い髪を何本か吸いこんでしまったことに気づいた。
(クリストファー・プリースト『スペース・マシーン』5・4、中村保男訳)

ぼくたちはゴーロワーズを吸った。ジョニーはコニャックならほんの少し、タバコは日に八本から十本くらいなら吸ってもいいと言われていた。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

スヴェンのいうとおりだった。シルヴァニアンはビーズつなぎに苦心する必要があった。彼は手仕事をしている間は、考える必要はなかったのだ。
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』29、藤井かよ訳)

ぼくはジョアンナのところへおやすみをいいに行くつもりだった。そういう小さな礼儀が、女性にはどんなに大きな意味をもつか、ぼくは知っているからだ。
(キリル・ボンフィリオリ『深き森は悪魔のにおい』4、藤 真沙訳)

クレールのそばにいると秋がいつもとちがって見えるんだ、とあなたは書いてきたわ。
(フエンテス『純な魂』木村榮一訳)

ヘレンは冷たく笑った。「いいわ、いただくわ、ありがとう。でも、ひとりでも──いい、ひとりでもよ──カメラマンがいたら、わたしは帰るわよ。なんの理由がなくても、帰ってしまうかもしれなくてよ。それでいい?」
(コードウェイナー・スミス『星の海に魂の帆をかけた女』5、伊藤典夫訳)

するとファーバーの心の中になにか複雑な、苦しいものがこみ上げてきて、喉がつまり、目が熱くなって、いつのまにか自分でも気がつかぬうちにしゃべっていた──静かな部屋に妙に声がひびく──帰らないで、ここにいっしょにいてくれ。二度と出ていかないでくれと頼んでいる自分の声だった。
(ガードナー・ドゾア『異星の人』5、水嶋正路訳)

「そこのテーブル・クロスの上にパンがある」とジョニーは宙を見つめたまま言う。「それは疑いもなく固いもので、何とも言えない色艶をしていて、いい香りがする。それはおれじゃないあるものだ。おれとは別のもの。おれの外にあるものだ。(…)」
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

君はようやくわかってくれたんだね。かつて僕が持っていたものをまた手に入れたんだ。今僕はそれを所有することができる。僕はふたたび君を見つけたんだよ、クレール。
(フエンテス『純な魂』木村榮一訳)

ベン=アミは大人の話を聞いている子供が感じるような、あるいはその逆の、欲求不満を感じはじめていた。「わかるように話してくれ」
(ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面13、嶋田洋一訳)

ある哲学者の言葉を、確かロジャー・スクルートンだったと思うけど、思い出しましてね。"想像したものが与える慰めは想像上の慰めではない"
(P・D・ジェイムズ『殺人展示室』第二部・19、青木久恵訳)

ピエールとセヴリーヌのふたりは、顔を見合わせて、笑いあった。衰えるものは何ひとつ見のがすことのない若々しい朝の光も、若いふたりの顔には寛大だった。
(ケッセル『昼顔』三、堀口大學訳)

ふとヘアーは、この世界がどれほどうまくまとまっているか、人びとがそこにどれほどしっくり適応しているかを実感した。その継ぎ目のない行動場のなかに、この自分も不安をかかえたままでやはり適応しているのだ。
(ジョン・クロウリー『青衣』浅倉久志訳)

サディーはとても優しい子でした。詩は情熱だけれど、人生のすべてである必要はないということを教えてくれました。
(P・D・ジェイムズ『神学校の死』第四部、青木久恵訳)

不安になって、ハリーは部屋のなかをうろついた。寄(よせ)木(ぎ)細工の床が彼の足どりの不安さを反響する。
(ブライアン・オールディス『外がわ』井上一夫訳)

ゾフィーがいなければぼくは無です。彼女がいてくれてこそ、ぼくはいっさいとなるのです。
(ノヴァーリス『日記』I・一七九七年六月六日[八十日]、今泉文子訳)

「わたしは生得観念が存在しないことを証明するつもりだ」とコンディヤックはいった。「すべての愚かな哲学者どもを永久に論破してやる。心の中には、知覚によってとりいれられたものしかないことを証明してやる。
(R・A・ラファティ『コンディヤックの石像』浅倉久志訳)

骨と肉だけが顔を作るのではない──とブルーノは思った──つまり、顔は体に比べればそれほど物理的なものではない、顔は目の表情、口の動き、皺をはじめとして、魂が肉を通して自らを現すそうした微妙な属性すべてによって特徴づけられるのだ。
(サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳)

母親がさまざまな狂信者とかかわりあったため、ヘレンは鋭い人間観察家に成長していた。人びとの筋肉には各人の秘めた歴史が刻まれており、道ですれちがう赤の他人でさえ、(本人が望むと否とにかかわらず)そのもっとも内なる秘密を明かしていることを、ヘレンは知っていた。
(コードウェイナー・スミス『星の海に魂の帆をかけた女』4、伊藤典夫訳)

銀色のホットパンツを身につけた、とても若くて色の黒い一人の女が、アブの左腕を見つめ、小指を見つめる。それが一匹のタランチュラとなって自分の腕を這いあがってくるかのように。(アブは全身が非常に毛深かった)。
(トマス・M・ディッシュ『334』死体・1、増田まもる訳)

その時だしぬけにフリエータが明るいキャラメル色の眼でぼくをじっと見つめて、低いけれども力強い声で「キスして」と言った。こちらがしたいと思っていることを向こうから言い出してくれたので、一瞬ぼくは自分の耳が信じられず、もう一度今の言葉をくり返してくれないかと言いそうになった。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』世界一の美少女、木村榮一訳)

ばらばらに砕けたイメージが、カールの頭の中で静かに爆発した。そして、彼はさっと音もなく自分の身体から抜け出していた。遠く離れたところからくっきりと明白にランチルームにすわっている自分の姿を見た。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』ホセリト、鮎川信夫訳)

レイン・チャニングの別荘に着いて五分とたたぬうちに、わたしのスーツはずいぶんおとなしくなり、傷ついた花のように両肩から垂れさがった。
(J・G・バラード『風にさよならをいおう』浅倉久志訳)

プチ・マニュエルが彼女を見上げたまなざしは、踏みにじられた花を思わせた。
(J・G・バラード『コーラルDの彫刻師』浅倉久志訳)

アイリーンがちょっとためらってから、にこっとして言った。「あれはきっと、イギリス英語で『ようこそ』という意味なのよ」
(チャールズ・ボーモント『レディに捧げる歌』矢野浩三郎訳)

リミットは慎重にあたりを見回してから、ブリーフケースを数インチほど開けて、メアリの顔のところに差し上げる。中をのぞきこんだときの表情から、メアリには何であるかわかったようだ。
(K・W・ジーター『ドクター・アダー』黒丸 尚訳)

ソニヤは悲鳴をやめ、しわくちゃになったシーツを引っぱり上げて台なしになった魅力を隠すと、みっともなくのどを鳴らして悲劇的な表現に熱中しはじめた。ぼくはものめずらしい気持で彼女を仔細に眺めたが、それは演技だった。でも彼女は女なんだから特に演技してみせることもないのだ、この意味がわかるだろうか?
(キリル・ボンフィリオリ『深き森は悪魔のにおい』2、藤 真沙訳)

クセノパネスは老年になってから、どちらを見ても、ものがみなあっというまに「統一性」へ駆けもどってしまうと不平を言った。あきあきするほど多様な形態のなかにおなじ本質を見ることが彼にはうんざりだった。
(エマソン『自然』五、酒本雅之訳)

ジョーは議論にそなえて男のほうに向き直り、言葉をつづけようとした。そのとき、ジョーはだれに向かって話しかけようとしていたかを悟った。
(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳)

きみのフルネームは、アリス・プレザンス・リデルかい?
(ジェフ・ヌーン『未来少女アリス』風間賢二訳)

オノリコいわく。物語るだけでは十分でない。重要なのは語り継ぐことだ。つまり、すでに語られた物語を、自分のために入手し、自分の目的のために利用し、自分の目標に隷属させたり、あるいは語り継ぐことによって変容させたりする語りである。言い換えるなら、メンドリは、卵が別の卵を産むために用いる手段だということだ。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』覚書、園田みどり訳)

「チャーリィはまだ理想主義者なのさ」ハチャーが言った。「世界は論理的じゃないということを認めようとしないんだ」
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』15、大島 豊訳)

「それでは、いったい何の目的でこの世界はつくられたのでしょう」とカンディードはいった。
(ヴォルテール『カンディード』第二十一章、吉村正一郎訳)

詩人のロン・ブランリスはいいました、「われわれは驚きの泉なのです!」と。
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第3巻、矢野 徹訳)

だが、ジャックはヴォーナンからなんの情報も聞き出してはいなかった。そして、愚かにも、わたしはなにも気づかなかったのだ。
(ロバート・シルヴァーバーグ『時の仮面』16、浅倉久志訳)

マルティンはふたたび視線を上げた、今度はほんとうにブルーノを見るためだったが、まるで謎を解く鍵を教えてもらおうとするような眼差しだった、
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・2、安藤哲行訳)

ベルナルド・イグレシアスは教会を意味するイグレシアスという名をもちながら、ついにその名に救われることはなかったが、考えてみると教会というのは人を救ったりはしないものだ。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』すべてが愛を打ち破る、木村榮一訳)

ロナの足がロナ自身に告げた。アーケードへ行って、この雪の夜の光とぬくもりに包まれながら、しばらく歩きまわろう。
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』4、三田村 裕訳)

ファウラー教授は、額をおおう黄土色の土をぬぐった。ぬぐいそこねた土は、まだ額に残っている。
(アーサー・C・クラーク『時の矢』酒井昭伸訳)

ティムの顔は、さまざまな感情の去来する場だった。
(ブライアン・W・オールディス『神様ごっこ』浅倉久志訳)

場所ね、ドラゴーナ、しっかりと立っていられるようなところ。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

エンダーには、そんな場所を自分の中にみつけることはできなかった。
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』4、野口幸夫訳)

イレーヌの顔には、そういうことがなにか留(とど)められているかと考えて、その顔をじっと眺めてみたが、そこにはなにひとつ留められていないことが、見てとれるような気がした。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』7、菅野昭正訳)

これもいつかブルーノが彼に言うことになるが、わたしたちはそんなふうにして、このもろい死すべき肉体を通して、永遠を仄かに見ることができるように作られているからである。
(サバト『英雄たちと墓』第II部・4、安藤哲行訳)

ジミーをいらいらさせるのは、そういうこまかい話である。
(ジョン・ウィンダム『ポーリーののぞき穴』大西尹明訳)

ク・メルが人間に通じているのは、なによりも自分が人間ではないからだった。ク・メルは似せることで学んだが、似せるという行為は意識的なものである。
(コードウェイナー・スミス『帰らぬク・メルのバラッド』3、伊藤典夫訳)

ほんの一瞬ではあったが、娼婦のシオマーラを通してぼくは二度と会うことのなかったあの女の子を思い出したのだ。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』最後の失敗、木村榮一訳)

わたしのフルネームはアリス・プレザンス・リデルよ。
(ジェフ・ヌーン『未来少女アリス』風間賢二訳)

アリスはいつも二重に裏切られたような気分になるのだった──まず、だまされていたということに、そして次に、最後までちゃんとだましおおせてもらえなかったということに。
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』37、細美遙子訳)

だが、フェリシティ・フレイにはそうさせるな。
(ジョン・ウィンダム『野の花』大西尹明訳)

ディディは手すりに駆けよって、まるでクジラたちが死のダンスを踊っているところへ手をさしのべようとでもするように、手すりから身を乗りだした。風が顔に吹きよせたが、風などまったく吹いていなかった。
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・10、冬川 亘訳)

「さ、これでかたづいた」ビングは満足げにいうと、ガラスの数珠をポケットに入れ、カンバス地のスーツケースを取り上げた。
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』22、細見遙子訳)

ロジャーの目をとおして、われわれはかれが見たものを見た。
(フレデリック・ポール『マン・プラス』15、矢野 徹訳)

私の過去のいっさいのものは私があの不幸な男の頭に触れた日以来、すべて予兆となってしまった。アダにたいする私の愛、彼らはそれを中傷するだろうし、そのためにさまざまな言葉を考えだすだろう。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』23、菅野昭正訳)

「連中のことを気にしてはいかんよ、リーシャ」彼があのすてきななまりでいった。「けっして。東洋の古いことわざがある。"犬は吠えるがキャラヴァンは進む。"礼儀を知らず、または嫉妬した犬が吠えたからといって、きみはけっして自分のキャラヴァンの速度をゆるめてはならないよ」
(ナンシー・クレス『ベガーズ・イン・スペイン』3、金子 司訳)

イルマの手の中が空であることが見えずにそこに抱かれている思い出を見て、こういった。「ああ……かわいい坊やだね」
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第五部・15、小川 隆訳)

ハヴェル先生は、伝聞や逸話もまた、人間そのものと同じく老化と忘却の掟に従うものだということをよく知っていた。
(ミラン・クンデラ『ハヴェル先生の二十年後』3、沼野充義訳)

「他人が支配しているものを通じて幸福を求めるな」シプリィは答えた。「さもないと結局は支配しているやつらの奴隷になる」
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』15、大島 豊訳)

カントは証明してくれた。われわれは、あるがままの物自体を知ることはない。ただその物がわれわれの心に映るさまだけを知るのであると。
(ハイネ『哲学(てつがく)革命』伊藤 勉訳)

生命の本質は変化だと、サンプソン博士はかつて言っていた。死の本質は不動性だった。死体にすら、その肉がくさるかぎりは、そのめしいた目にウジがむらがり、破れた腸から流れ出る液をハエが吸うかぎりは、生命の痕跡があった。
(ロバート・シェクリー『石化世界』酒匂真理子訳)

ダーナ・キャリルンドもおそらくかれと同じくらいの人間通だったが、その手段も目的もマーティンとはちがっていた──つまり、それは人間の精神の健康を改善するためではなく、人間たちをもっと大きな図式に当てはめるためだった。
(グレッグ・ベア『斜線都市』上・第二次サーチ結果・5/、冬川 亘訳)

空気はゆるみつつあり、空も明るくなってオレンジ色からもとの青色へともどりつつあった。そして、前方に半透明のジュリアの姿がふたたびあらわれたとき、クロフォードはそれを予期していたことに気づいた。
(ティム・パワーズ『石の夢』上・第一部・第十一章、浅井 修訳)

バードはまたおちつかなげに歩きまわり、弁護士というよりは、むしろ床(ゆか)を相手に話をしているようだった。
(オスカー・シーゲル『カシュラの庭』森川弘子訳)

マルガリータ夫人はこう呟いた『これはきっと重大なことなんだわ。誰かが、わたしの魂に水をもたらすのは夜のほうがいいと考えて、こんなふうにしたのよ』
(フェリスベルト・エルナンデス『水に浮かんだ家』平田 渡訳)

ジュアンが私の目をまっすぐ覗くようにして見た。すると一瞬また体に震えが走り、テーブルにいるのは本当はジュアンと私だけではないかというとっても奇妙な感覚に捉われた。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第一部、飯田隆昭訳)

アグノル・ハリトは率(そつ)直(ちょく)に、わたしたちが洞窟の入り口に達したら、そのあとは地獄さながらの場所に入りこむことになるだろうと警告した。あとでわかったことだが、アグノル・ハリトの警告はあまりにもひかえめなものだった。
(ニクツィン・ダイアリス『サファイアの女神』東谷真知子訳)

ソネットの厳しい規則が詩作に高い水準を強制できるように、科学的な事実に忠実であることは、よりよいSFを生みださせることができる。これを無視するのは、自由詩型についてのロバート・フロストの言葉──"それはネットを下ろしてテニスをするのに似ている"──を思いおこさせる。
(グレゴリイ・ベンフォード『リディーマー号』のあとがき、山高 昭訳)

ガスは考えた──あとどれぐらいしたら、ハルジーは、自分が自分に仕掛けた罠に気づくだろうか?
(アルジス・バドリス『隠れ家』浅倉久志訳)

デ=セデギはドラム缶のまわりに集まっている男たちの中に彼の姿をさがし、両手をひろげてどうしようもないというポーズをした。ミンゴラはあからさまな挑(ちよう)戦(せん)という概念に縛られて、男のわきまで歩いていった。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・8、小川 隆訳)

メグはコプリー氏がアマチュアのヴァイオリニストだったことを思い出した。今は手がリューマチがひどくて、ヴァイオリンを持つどころではないが、楽器は隅のタンスの上に今もケースに入ってのっている。
(P・D・ジェイムズ『朔望と欲望』第六章・51、青木久恵訳)

知的無責任者のほうが、じつは、ハンカー氏やバラロンガ卿のような非知性的な冒険者より、人間として邪悪なのではないか。
(H・G・ウェルズ『神々のような人ひと』第二部・三、水嶋正路訳)

「かつてはここもすばらしい世界だったのでしょうがね」とホートは答えた。「息子さんはこの星を憎んでいました。いやむしろ、もっと具体的にいえば、この星で彼が見たものを憎んでいました」
(オースン・スコット・カード『キャピトルの物語』第一部・5、大森 望訳)

「ねえ、ギョーム」と彼女がふいに言った、ときおり見せるあの萎れたと言ってもいいような微笑みを浮かべながら、「そんなふうにして、火のなかになにを見つめてらっしゃるんですの? ……」
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)

レスティグは車を走らせた。(…)ひたすら車を駆った。そのようすはさながら、もし彼が想像力に富んだ男であったなら、本能に導かれてまっすぐ海へ帰ってゆくうみがめの子になぞらえただろうような、そんなひたむきさを持っていた。
(ハーラン・エリスン『バシリスク』深町真理子訳)

ジュリーは目を閉じ、心の奥にしまった光のレースを取り出そうとする。頭蓋を飛び出した〈精神(エスプリ)〉のレースは大きく広がり、やがて森を包む雲になる。
(ベルナール・ウェルベル『蟻の革命』第3部、永田千奈訳)

ジョージ・マレンドーフが自宅の玄関へと私道を歩いていくと、愛犬のピートが駆けよってきて、彼の両腕めがけてとびついた。犬は道路から跳びあがったが、そこでなにかが起きた。犬は消えてしまい、つかのま、いぶかしげな空中に、鳴き声だけがとり残されたのだ。
(R・A・ラファティ『七日間の恐怖』浅倉久志訳)

イノックはポンプを押した。ヒシャクがいっぱいになると、男はそれを、イノックにさしだした。水は冷たかった。それではじめて、イノックは、自分ものどが渇いていたことを知り、ヒシャクの底まで飲みほした。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』6、船戸牧子訳)

スザンヌはまだ若すぎたし、それに物事のうわっつらばかり見て育った女だった、彼女は目に見えるものだけで満足していたのだ。
(ノサック『弟』2、中野孝次訳)

キャスリンの脚が部屋に入ってくると、床板が少したわんだ。ギャビイの脚が続いた。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第四部・20、大西 憲訳)

ステファンヌは私に夢中だ。私という病気にかかっていることがようやくわかった。こっちがなにをしようと、彼にとっては生涯、それは変わらないだろう。
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』8、佐宗鈴夫訳)

メグは穏やかな口調で食い下がった。「でも、その声が自分の声ではないと、自分の潜在的な欲求ではないとどうしてわかるのでしょう。その声の言っていることは、自分の体験、個性、遺伝体質、内的欲求を通して考え出されたものにちがいありません。
(P・D・ジェイムズ『朔望と欲望』第六章・51、青木久恵訳)

死の十年前、フロイトが人間を総括して何と言っているか、御存じになりたくありませんか? 「心の奥深くでこれだけは確かだと思わざるを得ないのだが、わが愛すべき同胞たる人間たちは、僅かな例外の人物を除いて、大多数がまず何の価値も持たない存在である。」
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』11、斎藤昌三訳)

だが、ボドキンは行ってしまっていた。ケランズはその重い足音がゆっくり階段を上がって、自分の部屋の中に消えてゆくのを聞いた。
(J・G・バラード『沈んだ世界』3、峰岸 久訳)

一瞬、わたしはまた夢を見ているような気分になった。城壁の狭間に狒狒が登っていたのだ。だがそれはまぐさをばりばり食べている馬と同様に、現実の動物で、ごみを投げつけると、トリスキールと同じように印象的な歯を剥き出した。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』28、岡部宏之訳)

クリフォード・ブラッドリーは長い間待たされたにしてはかなりよく耐えていた。言うことにも矛盾はないし、毅然とした態度をとろうと努めていた。しかしすえたような恐怖の病菌を部屋の中まで持ちこんでいた。恐怖は人間の感情の中でもとりわけ隠し方がむずかしい。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第二部・15、青木久恵訳)

ズィプティ、ズィプティ、ズィプティ、宇宙船と人工衛星。その通路は病院と天国が半々になったような臭いがし、そしてボズは泣きはじめた。
(トマス・M・ディッシュ『334』解放・3、増田まもる訳)

気をつけたほうがいいな、ロバート。きみはまたその鳴き声を耳にするかもしれんぞ。
(J・G・バラード『沈んだ世界』4、峰岸 久訳)

バッリは寒さが気にならないようすで、コップのなかを、まるで自らの考えをそこに発見したかのように見つめていた。
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』11、堤 康徳訳)

わたしは目を閉じて、ブルーノの夢を想像してみようとする。だが、行きつくのはブルーノが夢に見そうもないことばかりだ。青い空。あるいは大地が冷えきったときの野原の無情さ。たとえそうしたものに気づいていたとしても、ブルーノはそれを悲しいとは思わないだろう。
(アン・ビーティ『駆けめぐる夢』亀井よし子訳)

「人は夢や希望といったものを一度持つと」と、ハドリーは少し考えてから説明しはじめた。「それをあきらめなければならなくなったあと、とてもつらい日々をすごさなきゃならなくなるものなんです。
(フィリップ・K・ディック『空間亀裂』14、佐藤龍雄訳)

シェイクスピアの場合、語と語の音声関係に対する興味は、それらの語の全体的意味に対する興味とぴったり一致していた。ある語との出会いがどんな出会い方であろうと、彼はその語を確実に掴まえた。
(ウィリアム・エンプソン『曖昧の七つの型』上・2、岩崎宗治訳)

リーはバッグを閉じ、老ヤク中ポーターを呼んで仕切りを後にする。背後では仕切りの壁がついに破れて、裂けて千切れて潰れる音。
(W・S・バロウズ『おぼえていないときもある』赤見、山形浩生訳)

ワンダが眼を開いて、新たな深淵に眼をこらした。
(ジャック・ウォマック『テラプレーン』11、黒丸 尚訳)

オーデンいわく、「詩は実際の効用をもたらすものにあらず」。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』10、斎藤昌三訳)

コプリー氏は静かに坐ったまま、古い説教や法話、よく使う聖句からインスピレーションを得ようとしているのか、せわしなくまばたきした。
(P・D・ジェイムズ『朔望と欲望』第六章・51、青木久恵訳)

そして彼女はフェルナンドのそんな仕草をもどかしそうに待っていたみたいだった、まるでそれが彼の愛情の最大の表現ででもあるかのように。
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

彼女は低い天井を見つめていた。わたしはそこにもう一人のセヴェリアンがいるように感じた。ドルカスの心の中にだけ存在する、優しくて気高いセヴェリアンが。他人に最も親しい気分で話をしている時には、だれもが、話し相手と信じる人物について自分の抱いているイメージに向かって、話をしているものだ。
(ジーン・ウルフ『警士の剣』10、岡部宏之訳)

ユートピアの害獣、害虫、寄生虫、疾病の除去、清掃の各段階には、それぞれいろいろな制約や損害が伴った可能性があるという事実を、キャッツキル氏は、その鋭い軽率な頭脳でつかんでいた、というより、その事実が彼の頭脳をつかんでいたと言ったほうが当たっている。
(H・G・ウェルズ『神々のような人びと』第一部・六、水嶋正路訳)

クレオパトラが言ったように、あの出来事が傷のようにぼくをさいなんだ。その傷が今もなお疼くのは、傷自体の痛みのせいのみならず、そのまわりの組織が健全であるが故なのだ。
(L・P・ハートリー『顔』古屋美登里訳)

レター氏のあの口笛、突然陽気な気分になっては、また突然に無気力な様子になるあの変わりよう、あの砂色の髪にきたない歯が、わたしの怒りをめざめさせる。とりわけ、会社を出てから時間がたっても、あのメロディが頭の中でぐるぐるまわるときが、まるでレター氏を家に連れて帰るようなもの。
(ミリュエル・スパーク『棄ててきた女』若島 正訳)

「おまえは実の父親にむかって、地獄へうせやがれというのか?」アンクはつぶやいた。この質問は、アンクのがらんとした記憶の広間から、いまなお彼自身の奇妙な少年期の断片が息づいている片隅へとこだまを返した。
(カート・ヴォネガット・ジュニア『タイタンの妖女』6、浅倉久志訳)

「生命だ、ビリー」ジュリアンの微笑は彼をからかっていたが、ビリーはどうにか微笑を返した。「生命と愛と欲望、豊富な食物と豊富なワイン、豊かな夢と希望だ、ビリー。それらすべてがわれわれの周囲に渦巻いている。可能性だ」彼の目がぎらぎらと輝いた。(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』10、増田まもる訳)

ウェンデルの質問は、もうとっくに、あのバージニアカシの生えたなだらかな丘のガソリン臭い空気の中へ、置きざりにされている。
(ウォード・ムーア『ロト』中村 融訳)

ドゥーリーはまさに敵対的な侵入勢力そのもののような男だった。彼がまっすぐこちらの精神のなかにはいってきて、何か利用できるものはないかときょろきょろしているのが感じられた。
(ウィリアム・バロウズ『ジャンキー』第六章、鮎川信夫訳)

こわくない、とラムスタンは自分に言い聞かせていたが、それは自分への嘘、あらゆる嘘の中で一番簡単な嘘だった。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』28、宇佐川晶子訳)

いつもながら、クロードとかかわりのあるものは、どれもあいまいで、不可解で、疑わしい。アンナのような気性の激しい女性にとって、こうしたことの積みかさねから出てくるものはただ一つ──怒りであった。
(ジェイムズ・P・ホーガン『プロテウス・オペレーション』下・29、小隅 黎訳)

かわいそうなカルロはもうそれこそ彼女を愛していた。ひと目ぼれの永遠の愛だった。
(ガッダ『アダルジーザ』アダルジーザ、千種 堅訳)

「数知れぬと言ってもいいが、この地上における一切の不幸のなかでも」と、エレディアは身振りをまじえ、宮殿の避雷針を見つめながら語る。「詩人の不幸ほど甚だしいものはないでしょう。さまざまな災悪によりいっそう深く苦しめられるばかりでなく、それらを解明するという義務も負うているからです」
(レイナルド・アレナス『めくるめく世界』34、鼓 直・杉山 晃訳)

「そう、それなんだ」と、ク・メルは心にささやいた。「いままで通りすぎた男たちは、こんなにありったけの優しさを見せたことはなかった。それも、わたしたち哀れな下級民にはとどきそうもない深い感情をこめて。
(コードウェイナー・スミス『帰らぬク・メルのバラッド』3、伊藤典夫訳)

少しずつジョンは、労働を節約するいくつもの小さな工夫を家の中に取り入れていった。
(オラフ・ステープルドン『オッド・ジョン』6、矢野 徹訳)

「そんなの、わたしが思ってたよりずっと面倒くさいじゃないの、ロジャー。まったく面倒だわ」ドリーが愚痴をこぼした。
(タビサ・キング『スモール・ワールド』8、みき 遙訳)

子供の頃、オードリー・カオソンズは物書きになりたかった。物書きは金持ちで、有名だったからだ。
(W・S・バロウズ『おぼえていないときもある』レモン小僧、山形浩生訳)

いつたんこの世にあらはれた美は、決してほろびない、と詩人高村光太郎(一八八三―一九五六)は書いた。「美は次ぎ次ぎとうつりかはりながら、前の美が死なない。」
(川端康成『ほろびぬ美』)

「きみはばかな男ではない、グラブ・ディープシュタール」このことは、伯爵はおれのことを自分よりはるかにばかだと考えていることを意味していた。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチール・ラット』18、那岐 大訳)

マクレディの長老教会派(プレスピテイアリアン)の良心は、一旦めざめさせられると、彼を休ませてはおかなかった。
(J・G・バラード『沈んだ世界』3、峰岸 久訳)

「僕たちは神を存在させるだろうよ」とエルサンは言った、「行動することによってね」
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』14、菅野昭正訳)

ダルグリッシュとマシンガムはソファに坐った。スワフィールド夫人はひじかけ椅子の端に腰をかけて、二人を励ますように笑いかけている。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第三部・1、青木久恵訳)

町の中心部にむかうミンゴラの目の前から、犬がこそこそと逃げてゆく。裏返しになった平底舟の下では蟹がちょこちょこと歩きまわり、掘ったて小屋の下では一人の黒人が気を失って倒れ、乾いた血がその胸に縞(しま)模様をつけている。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・7、小川 隆訳)

アレッサンドロ・サルテが自分一人だと思い、自分を見張っていない稀な瞬間には、彼の真の相貌が素描されて浮かびあがるのである。
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)

ボードレールは存在するものの根底において、その死の中で、しかも、それが死ぬゆえに、存在するものがわれわれの救いでありうることを予感した。
(イヴ・ボンヌフォア『詩の行為と場所(抄)』宮川 淳訳)

「──ふふん、これだな、必要がオノレ・シュブラックを、またたくひまに脱衣せしめた場合っていうのは。どうやらこれで彼の秘密がわかって来たような気がする」と、わたしは考えたものだった。
(ギヨーム・アポリネール『オノレ・シュブラックの消滅』青柳瑞穂訳)

シプリアーノは、太古の薄明を自分のまわりにめぐらしつづけていた。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』下・20、宮西豊逸訳)

フラムはヨークに答えるひまを与えなかった。こめかみを指でとんとんと叩きながら話しつづける。
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』8、増田まもる訳)

それからナポレオンは眠りに入った。
(サンドバーグ『統計』安藤一郎訳)

ところがだ、その影がゆうべ、このリチャードの魂をふるえ上がらせたのだ、愚かなリッチモンドの率いる武装兵一万騎が現実に立ち向ってくるのより恐ろしかった。
(シェイクスピア『リチャード三世』第五幕・第三場、木下順二訳)

リアの影法師さ。
(シェイクスピア『リア王』第一幕・第四場、野島秀勝訳)

ああ、ハムレット、もう何も言わないで。
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第四場、野島秀勝訳)

アイテルは悲しかった。だが、それは楽しい悲しさだった。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

ラムスタンはグリファに惹かれると同時に、それを憎んでいた。今はグリファが両親とおじの声を使ったことで、彼らまで憎らしくなった。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』26、宇佐川晶子訳)

レイロラ・ラヴェアの教えでは、人生のバランスを獲得すれば──ありあまる幸運を完全に分かちあい、すべての不運が片づいて──完璧に単純な人生がのこる。オボロ・ヒカリがぼくたちにいおうとしていたのは、それなんだ。ぼくたちが来るまで、彼の人生は完璧に単純に進行していた。
(オースン・スコット・カード『エンダーの子どもたち』上・4、田中一江訳)

ところが、こうしてぼくたちが来たことで、彼は突然バランスを崩された。それはいいことだ。なぜなら、これでヒカリは、完璧な単純さをとりもどす手段をもとめて苦闘することになるからさ。彼は進んで他者の影響を受けようとするだろう。
(オースン・スコット・カード『エンダーの子どもたち』上・4、田中一江訳)

まあ、何が起こるにせよ、なかなかおもしろい旅行になりそうだった。知らない人々に会え、知らないものや知らない場所を見ることができる。それがドリーと関わりあいになった最大の利点のひとつだ。人生とはほとんどいつもおもしろいものだ。
(タビサ・キング『スモール・ワールド』5、みき 遙訳)

人は誰でもパスワードに保護された、自分だけが理解できる隠れた文脈の中で生きている──ハモンドのようなやつが現われて暗号を破り、壁を飛び越え、中で怯えて縮こまっている本人の姿を暴き出してしまわない限り。
(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第2部・13、嶋田洋一訳)

コスタキは空を見上げた。山間の故郷では星は降るように輝いていた。だがここでは、ガス灯と霧と分厚い雨雲が、夜の千の目を奪っている。
(キム・ニューマン『ドラキュラ紀元』15、梶元靖子訳)

シルヴァニアンはまた、自分の怪物のようなエゴも心得ていた。ほかの強い心の持主と同じく、彼も決して無軌道ではなかったが、感情におぼれこんでしまうのだった。感情の力学がどう働くか、よく心得ているくせに、自分で自分の感情を操作することはできなかった。
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』25、藤井かよ訳)

これがヒーコフなら、病院の物音をたのしんだことだろう。深い闇の奥から聞こえる恐ろしい苦痛のうめき。怒りと空腹を訴える乳児の明るい泣き声。夜の仲間のこうした物音には、母音推移がない。
(ハーヴェイ・ジェイコブズ『グラックの卵』浅倉久志訳)

事務長のジョナサン・ジェファーズは、金縁眼鏡をかけ、茶色の髪をぴっちりなでつけて、飾りボタンのついた深靴をはいたやさ男だったが、計算と取引に関してはすご腕だった。なにひとつ見落とさず、売買契約の際はじつにしぶとく、チェスを指すときはさらにしぶとい男なのだ。
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』4、増田まもる訳)

「困難なことが魅力的なのは」と、チョークは言った。「それが世界の意味をがらりと変えてしまうからだよ」
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』4、三田村 裕訳)

世俗的な嘘がどうして精神により高度なビジョンをもたらすことができるのか、ルーにはおぼろげに理解できた。芝居や小説は比喩を使ってそれを行っている。そして比喩的な意味としては、今度のハプニングは、単なる事実の達成を期待する文学的叙述より、精神的に真実の本質に近いビジョンを世界に提供するだろう。
(ノーマン・スピンラッド『星々からの歌』デウス・エクス・マーキナ、宇佐川晶子訳)

スザンナという名はどんな女性にもふさわしくない。パーブロはまちがいなくパーブロで、独自のものを持っていた。いまは不安そうに前かがみになって椅子に腰かけている。しかし、人殺しには見えない。われわれはみんなそうだ。
(マイクル・コニイ『カリスマ』9、那岐 大訳)

「いやあ、これは本当に驚いたなあ」、とギョームは言った。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)

彼は土地使用料を扱う担当者に任命され、その遊園地を目にするたびにロビンのことをつい思い出し、ロビンに会うたびについカーニヴァルのことを思い出すようになってしまった。
(シオドア・スタージョン『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』3、若島 正訳)

スミザーズさん、二つの悪をお選びなさい
(ウォルター・デ・ラ・メア『シートンのおばさん』大西尹明訳)

「聖人の群れに加えられるか否かは」ラドルファス院長は頭を高々ともたげ、語りかけている会衆のほうは見ずに、アーチ形の天井に視線を向けて言った。「われわれの理解しておるいかなる基準によっても決せられるものではない。聖人の群れが、罪を犯したことのない人びとからのみなるということはありえない。
(E・ピーターズ『門前通りのカラス』11、岡 達子訳)

しかしエルグ・ダールグレンは心の底ではそうではないことを知っていた。そして何か別のことを心待ちにしていたのだった。傷つきやすいものへの一瞥、女王も近づけない、彼が"自我"と名づけた本性への。
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』26、藤井かよ訳)

フェリックスはあえぎながら木の根元に横たわった。眩暈がしたし、すこし吐き気がした。自分の大腿骨の残像が、この世のものならぬ紫色に輝きながら目のまえに漂っていた。「ミスター・ラビットに会いたい」フェリックスは電話に向かってそうつぶやいたが、答えはなかった。少年は泣いた。
(チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』外交行為、金子 浩訳)

グライアンは空を見上げた──太陽はまだ高く、木々のあいだの熱い空気は動かしがたいように思えた。
(クリストファー・プリースト『火葬』古沢嘉通訳)

ジャーブはそう感じる、グロールもアイネンもそう感じる、それぞれが別々の心の中で。
(ホリア・アラーマ『アイクサよ永遠なれ』4、住谷春也訳)

木曜日の午後、ロズは少しの安堵と少なからざる愛惜の念をもって、アイリスを送り出した。何はともあれアイリスは、独り暮らしが情緒的、精神的によくないことをロズに示していったのだ。結局のところ、一人の人間が考えることには限界があり、その考えが他者の意見で修正されることなく募(つの)っていったとき、強迫観念になるのだ。
(ミネット・ウォルターズ『女彫刻家』8、成川裕子訳)

部屋にふたたび沈黙が訪れ、ジェフズ氏の視線がそこをさまよっているうちに、ようやくハモンド夫人の表情をとらえた。その顔はゆっくりと左右に揺れていた。ハモンド夫人が頭をふっていたからだ。「知らなかった」とハモンド夫人は言っていた。夫人の頭は揺れるのをやめた。夫人の姿はまるで彫刻のようだった。
(ウィリアム・トレヴァー『テーブル』若島 正訳)

スタンダールは私の生涯における最も美しい偶然の一つだといえる。──なぜなら、私の生涯において画期的なことはすべて、偶然が私に投げて寄越したのであって、決して誰かの推薦によるのではない。
(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも怜悧なのか・三、西尾幹二訳)

一瞬、その惑星の名前を思い出しそうになる。だが記憶は、形をとる直前にからかうように消え去り、サイレンスは嫌悪に顔をゆがめた。
(メリッサ・スコット『地球航路』3、梶元靖子訳)

ニックはこの一瞬のうちに、永遠の美の煌(きら)めきを見た──無邪気に大笑いしているフェイはなんと愛らしいのだろう。卵形の洞窟の中で力いっぱい弓なりになった舌も、ピンクのうねのある口蓋も、全部まる見えになるほど大きな口をあけて笑っている。
(グレゴリイ・ベンフォード『相対論的効果』小野田和子訳)

クロネッカーの鉄則である《構成なしには、存在もない》以来、純粋数学者のなかには構成的でない存在定理にポアンカレの時代以上に熱心でないものもいる。しかし数学を利用するものにとっては、細部がどうなっているかということが、研究を進めていくうえにどうしても必要である。
(E・T・ベル『数学をつくった人びと III』28、田中 勇・銀林 浩訳)

カールはズボンのポケットから紙幣を半分引っぱり出していた…… 所長はロッカーや保管箱がずらりと立ち並ぶそばに立っていた。彼はカールを見た。その病気の動物のような目は光を失って、奥のほうで死にかけ、絶望の恐怖が死の表情をうつし出していた。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』ホセリト、鮎川信夫訳)

それでレオは感じるのか? うん、エロスが知っていることだけを感じている。
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』N、志村正雄訳)

サムはもっとずっと重要なことを考えなければならなかった。しかし、真に重要なことは、無意識によって最もよく識別されるものだ。そして、この考えを送り出したのは、この無意識であったにちがいない。初めてかれは理解した。真に理解した。脳から足の先までの、体中の細胞で理解した。リヴィは変ってしまったと。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが夢のリバーボート』26、岡部宏之訳)

あなたの潜在意識よ、ミューシャ! なにかの記憶だったのよ!
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『最後の午後に』浅倉久志訳)

ジャスティンは、自分はここには一度も来たことがないという確信めいた印象をもった。それがなにかの意味をもつということではないけれど。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』11、川副智子訳)

ハビエルにそのことを話そうと思い、振り返ってみると、あんたは一人ぼっちなのに気がついた。ハビエルをどこかに置いてきてしまったのであった。あんたはいま自分がどこにいるのか知りたかった。大声で叫んだが、声はどこにも届かず、自分の頭の上で堂々巡りをし、また自分の唇に戻ってくるかのようであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

「いや、沈黙というものは、そのまわりにある言葉によってしか存在しないものなんですよ、イレーヌ。人生はすべてそういうものですよ……僕たちの人生のどんな瞬間であろうと、僕たちのなかには、発散されることを必要とする力があるものなんです」、彼は勢いこんでそう話しつづけた、
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』9、菅野昭正訳)

鋭い観察眼の持ち主であるエミーリオは、老母のとまどいがすべて見せかけであり、アンジョリーナがすぐには帰宅しないのを知っているはずだと完璧に見抜いた。しかし、いつものように、彼の観察力はあまり役に立たなかった。
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』11、堤 康徳訳)

さあ、アンリ、ロジーヌのところへ行くといいわ。私の大嫌いなロジーヌの腕に飛びこむといいわ。そうすればどんなに私も嬉しいか。だって、あなたの愛は、女の人生に起こりうる、最悪の不幸だもの。もしその女が幸せなら、あなたはその幸せを取りあげる。
(クレマンティーヌ・キュリアルの書簡、スタンダール宛、一八二四年七月四日付、松本百合子訳)

ナポレオンは死の直前、ウェリントンと話がしたいと願った。ローズヴェルトに会いたいという、常軌を逸したヒトラーの懇願。体から血を流しながら、一瞬でいいからブルータスと言葉を交わしたいと願ったシーザーのいまわのきわの情熱。
(オースン・スコット・カード『キャピトルの物語』第一部・4、大森 望訳)

ほんのちょっと前に、わたしはアギアに、セクラの死から受けた悲しみの心情を吐露したばかりだった。今や、これらの新しい懸念がそれに取って代わると、わたしは実際に、人が酸っぱいワインを地面に吐き出すように、それを吐き出してしまったと悟った。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』24、岡部宏之訳)

リシュリューとライヒプラッツはまったく同じ意味──〈豊かなる場所〉をあらわすことばであることを知って愕然とした。
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの航星日記』第二十回の旅、深見 弾訳)

そして、眠り(ことによったら死だったかもしれない)が目蓋を引っぱっている間、わたしは傷を探して体じゅうをゆっくりと手探りしながら、まるで他人事のように、おれは服も金もなくてどうして生きていけばよいのだろうか、パリーモン師がくれた剣と外套をなくしたことを、師に対してどのように申し開きしたらよいのだろうかと、思案していた。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』28、岡部宏之訳)

「ポール」と彼女はもう一度わたしの名を呼んだ。それは新しいわたしにも古いわたしにも手の届かない、いや、わたしたちを形作った長官たちの目論見も手の届かない、彼女の心の奥底からのせつない希望の叫びだった。わたしは彼女の手をとっていった。
(コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』浅倉久志訳)

「でも」と彼はブルーノに言った。「もうぼくは以前のぼくではなかったんです。そして、二度ともとのぼくに戻ることはないでしょう」
(サバト『英雄たちと墓』第I部・1、安藤哲行訳)

アウグスティヌスは、『三位一体論』第九巻において、「われわれが神を知るとき、われわれのうちには何らかの神の類似性が生ずる」といっている。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第一二問・第二項、山田 晶訳)

「誰もすんなり退場なんてできないのよ」ローラが静かに言った。「人生っていうのは、そういうふうにはできてないの」
(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第1部・6、嶋田洋一訳)

おばさんは食卓の上座に、シートンは末座に、そしてぼくは、広々としたダマスコ織りのテーブル・クロスを前にして二人の中間に坐っていた。それは古くてやや狭い食堂で、窓は広く開いているので、芝生の庭とすばらしい懸崖(けんがい)作りのしおれかけた薔薇の花とが見えた。
(ウォルター・デ・ラ・メア『シートンのおばさん』大西尹明訳)

ボビー・ボーイはゆっくりとぼうっとしたような動き方で、エディーのほうをふり返った。手にしたディスペンサーからアンプルを押しだして、鼻の下でぽんと割り、ふかく息を吸いこんだ。顔が細長く伸びるように見えた。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第四部・14、小川 隆訳)

あとには、ハモンドとわたしだけが、われわれの「神秘」とともにとり残された。
(フィッツジェイムズ・オブライエン『あれは何だったか?』橋本福夫訳)

それからミッシャ・エルマンの音楽会に行った。二時間の音楽の波が彼の鼓膜を打った。音楽は男のうちにある何かを洗い落した。音楽は彼の頭と心臓の中の何かをぶち壊(こわ)して新しいものを築いた。
(サンドバーグ『沐浴』安藤一郎訳)

女の声が、背後から飛んだ。サイレンスはふりかえった。地獄のかけらをかかえているため、あまりはやく動けない。〈無形相〉の力がいそいでつくられたバリアにあたり、地獄がシューシューと音を立てる。あらゆる色彩を秘めながらいかなる色でもない、目を焼くような円盤から、火花があがり、またおちてくる。
(メリッサ・スコット『地球航路』7、梶元靖子訳)

リリーは絵具箱の留め金をいつも以上にきっちりと閉めた。その留め金の小さな音は、目には見えない輪の中に、絵具箱も、芝生も、バンクス氏も、そして傍らを走り抜けたおてんば娘のキャムさえも、永遠に包み込んでしまうように思えた。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・9、御輿哲也訳)

一台の車というものは、ロッティがいくら呟いてみせたり不服を言ってみせたりしたところで、しょせん理解できないような、一つの生き方を表しているのだった。
(トマス・M・ディッシュ『334』334・第三部・21、増田まもる訳)

フィリッパはパセリを少し摘んで彼にプレゼントした。セントポーリアのお返しができてうれしかった。お返しをすれば、母も自分も彼に借りを感じる必要はない。保護司はパセリを受け取ると、自分のハンカチを台所の流しで初め湯で洗い、次に水でゆすいで、それでパセリを丁寧に包んだ。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第二部・11、青木久恵訳)

シャン。セティアン人はこう言っている、チャーテン場においては、深いリズム、究極の波動分子の振動以外なにものもない。瞬間移動は存在を作り出すリズムのひとつの機能なんだ。セティアンの精神物理学者によれば、それは人間ひとりひとりを永遠と偏在に参与せしめるリズムへの架け橋なのだ。
(アーシュラ・K・ル・グイン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)

アンジョリーナはがんこな嘘つきだったが、本当は、嘘のつき方を知らなかった。
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』10、堤 康徳訳)

ピートは闇をすかして、おのれの両手を見おろした。どんな惑星も、どんな宇宙も、人間にとってのおのれの自我とくらべたら、ちっぽけな存在でしかない。
(シオドア・スタージョン『雷と薔薇』白石 朗訳)

トム・ズウィングラーは、ルビーのネクタイピンと、ピカピカの赤い水晶カフスボタンをしていた。それ以外のすべては白と黒で、かれの発言さえも白か黒かの厳密さを保っていた。
(イアン・ワトスン『エンベディング』第三章、山形浩生訳)

ミンゴラは雨戸の隙間からこぼれる淡い明け方の光に目をさまして、酒場にいった。頭痛がし、口の中が汚れている感じがした。カウンターの半分残ったビールをかっさらって、掘ったて小屋の階段をおり、外に出た。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・7、小川 隆訳)

いま、ラヴェナは強い人だった、と言いました。(…)今にして思えば、彼女は強さを装っているだけでした。それはわたしたち人間にできる最善のことです。
(カート・ヴォネガット『パームサンデー』VII、飛田茂雄訳)

ゼアはかすかに笑みを浮かべ、やがてその笑みが大きくなった。体の中に笑いがあるようで、周囲の人間たちも笑みを浮かべて、たがいに顔を見合わせ、そしてゼアを見た。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

あのとき、ヘアーにはそれがまるでなにかの物語のように思えた。農場で働くことも、がらんとして巨大な夏の夕方のことも。彼は身を入れて聞いていなかった。そこに衝撃的な図と地の反転が生まれ、予想外の物語、それに対する心構えのまったくできていなかった物語が見えてくるとは思いもしなかった。
(ジョン・クロウリー『青衣』浅倉久志訳)

ラ・セニョリータ・モラーナの家にそして男たちや女たちの上に霧がかかり、彼等が交わし、いまだ空気の中に漂っている言葉を残らず、一つ一つ、消して行く。記憶は霧が課する試練に耐えられない、その方がいいのだ。
(カミロ・ホセ・セラ『二人の死者のためのマズルカ』有本紀明訳)

「時間がかかると思います」スタンリーがいった。「もっとつづけてください。ただしその際必要なのは、言葉に視覚的なイメージを関連づけてやることです。言葉はもともとは意味のないものですから。それによって自分の頭に浮かんだイメージが、この機械の脳部に伝わるようにしてやればいいわけです」
(フィリップ・K・ディック『空間亀裂』10、佐藤龍雄訳)

そのときマルティンはブルーノが言ったことを思いだした、自分はまったく正真正銘ひとりぽっちだと思い込んでいる人間を見るのはどんなときでも恐ろしいことだ、なぜなら、そんな男にはどこか悲劇的なところが、神聖なところさえもが、そして、ぞっとさせられるばかりか恥しくさせられるようなところがあるからだ。
(サバト『英雄たちと墓』第II部・20、安藤哲行訳)

グランディエには殺人者になるつもりなど毛頭なかったのと同じに、妻をも含めてだれかを愛するつもりもなかった。それは積極的に人間を嫌っているというわけではなく、周囲の世界で愛という名のもとにおこなわれているふるまいに対する強度の懐疑主義のせいだった。
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』10、細美遙子訳)

教会の鐘が一度だけ鳴り、なにか不思議なやり方で、それが風景全体を包みこんだように見えた。ジョンにはその理由がわかり、心臓が跳びあがった。鐘の主調音から切れ切れにちぎれたぶーんと鳴る音の断片がこれらの色になったので、基本的なボーオオオンという音は白のままだ。さまざまな色がぶーんと鳴り、渦巻いて、神の白色となり、分かれて、もう一度戻ってくる。
(アントニイ・バージェス『アバ、アバ』4、大社淑子訳)

スリックの考えでは、宇宙というのは存在するすべてのものだ。だったら、どうしてそれに形がありうるのだろう。形があるとすれば、それを包む(、、)ように、まわりに何かあるはずだ。その何かが何かであるなら、それ(、、)もまた宇宙の一部ではないのだろうか。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライブ』12、黒丸 尚訳)

あまり細かく見てはいけないことをジョニーは知っていた。あらゆるものに、あまり大きく意識を割いてはいけない。
(ウィリアム・ギブスン原案、テリ・ビッスン作『JM』9、嶋田洋一訳)

「無理もないな。ジーヴズ、ぼくらどうする?」
(P・G・ウッドハウス『同志ビンゴ』岩永正勝・小山太一訳)

その言葉にマイロもわたしもぎょっとした。邪気のない、哀れを誘う問いだった。マイロはわたしのそばに来て、両腕を回して抱きしめた。彼の最後の抱擁だった。
(アン・ビーティ『シンデレラ・ワルツ』亀井よし子訳)

エミリ・ディキンスンにとっていちばん大事なことは、各人の自己の本質と首尾一貫性の問題だった。そして苦悩の神秘についての検討から始めた。
(トーマス・H・ジョンスン『エミリ・ディキンスン評伝』第十章、新倉俊一・鵜野ひろ子訳)

その世界はジム・ブリスキンの好奇心をそそったが、それはまたかれのまったく知らない世界だった。
(フィリップ・K・ディック『カンタータ百四十番』5、冬川 亘訳)

ヴェーラは玄関にある鏡を覗いた。受話器を耳に当てて立っている自分がいる。鏡は古ぼけており、黒い染みが付いていた。わたしはこの鏡によく似ている、とヴェーラは思った。
(カミラ・レックバリ『氷姫』IV、原邦史朗訳)

あいつのあの顔つきときたら、いつだって同じだ。そりゃニクソンだって自分のおふくろは愛してただろうけど、あの顔じゃとてもそうは思えないよな。
(アン・ビーティ『燃える家』亀井よし子訳)

常に──とブルーノは言う──わたしたちは仮面を被っている、その仮面はいつも同じものではなく、生活の中でわたしたちにあてがわれる役割ごとに取り換えることになる、つまり、教授の仮面、恋人の仮面、知識人の仮面、妻を寝とられた男の、英雄の、優しい兄弟の仮面というように。
(サバト『英雄たちと墓』第II部・20、安藤哲行訳)

いつわりであるからといってつねに無価値とはかぎらないことは、バザルカンも知っている。それが物理的な現実においてまったく根拠のないものであってさえも、
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・ムーン』19、金子 司訳)

彼ら三人は水に浮かぶボートに座っている。彼らが人とは限らず、あれもボートとは限らない。彼女の靴紐を結んだ三つの結び目なのかもしれないし、ヒルディーの鏡台に隠された三本の口紅なのかもしれないし、三切れのフルーツなのかもしれないし、ベッドの横の青いボウルに入っている三個のオレンジなのかもしれない。
(ケリー・リンク『人間消滅』金子ゆき子訳)

シェリーのようなロマン主義者は、まず自らの媒体があり、自分の見、聞き、考え、想像するものを、己の媒体によって表現するのです。
(ディラン・トマスの手紙、パメラ・ハンスフォード・ジョンソン宛、一九三余年五月二日、徳永暢三・太田直也訳)

ポールは一瞬、相手に共感して心を痛めた。だが、共感から同一視まではあと一歩。ポールはその感情を押し殺した。
(グレッグ・イーガン『順列都市』第一部・6、山岸 真訳)

静寂。(…)それはキッチンの全壊半壊の器具類、イジドアがここへ住みついてこのかた作動したことのない死んだ機械類から、鎖を離れたようにとびだした。それは今の使用不能なランプ・スタンドから滲み出し、蠅のフンに覆われた天井から降下するそれと、無音のまま絡みあった。
(フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』浅倉久志訳、オールディスの『十億年の宴』より孫引き)

サー・ジョンと仲間の美術貴族たちは大英博物館やルーヴルやメトロポリタンの監督として、夢見るファラオやキリスト磔刑や復活(第二のデ・ミル監督の出現を待ちわびる究極の超大作映画の題材)の絵画を揃え、たしかに人間の魂の空虚を巧みに満たしてくれたが、そもそも魂のなかに欠けていたものは何だったのだろうか。
(J・G・バラード『静かな生活』木原善彦訳)

シュタイナーによれば、われわれは生まれる前に自分で運命を選びとったのであるから、それを嘆くのは見当ちがいだという
(コリン・ウィルソン『ルドルフ・シュタイナー』7、中村保男・中村正明訳)

頭を垂れたまま貧相なわが借家に向って砂利道を登っているとき、わたしは、あたかも詩人がわたしの肩辺に立って、少々耳の遠い人に対して声高に言うみたいに、シェイドの声が「今夜おいでなさい、チャーリイ」と言うのを、至極はっきりと聞いたのである。わたしは畏怖と驚異に駆られて自分の周囲を見まわした。まったく一人きりだった。
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

「私の考えではビル、彼等は異なった引力の下で存在しているのではないかと思うのよ──」
(ウィリアム・バロウズ『ノヴァ急行』緑の大地から、諏訪 優訳)

ジェイドにはよく言いふくめておいた。彼女はあとまで果たして憶えているだろうか? それとも憶えていすぎたために疑い始めるだろうか?
(W・M・ミラー・ジュニア『時代おくれの名優』志摩 隆訳)

「むだだって?」自分と同じ考えを他人が口にするのを聞いて驚きながら、エミーリオは尋ねた。
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』13、堤 康徳訳)

その尋ねかたの中にある何かがシオナに、かれがすでに知っていることを告げた。
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第1巻、矢野 徹訳)

ラ・マーガと会えるだろうか?
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・1、土岐恒二訳)

この勤勉な街では、その時間帯、気晴らしに歩いている者は誰もおらず、どこに向かっているかなどまったく眼中にないようにゆっくりと歩いている、しなやかで華やかなアンジョリーナの姿は、みなの注意を引いた。彼女を見れば、情事にはうってつけの相手だとみんながすぐに考えるはずだと思った。
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』11、堤 康徳訳)

自分自身の思考の世界に自らを忘却し得るこの能力において、ガウスはアルキメデスとニュートンとの両者に似かよっている。
(E・T・ベル『数学をつくった人びと II』14、田中 勇・銀林 浩訳)

ここでパリーモン師は言葉を切った。一秒たち、二秒たった。新しい夏の最初の金蠅が窓のところでぶんぶん羽音を立てていた。わたしは窓を破りたかった。蠅を捕えて逃がしてやりたかった。師に早く何か話してくれと怒鳴りたかった。その部屋から逃げ出したかった。だが、これらのことは何一つできなかった。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』13、岡部宏之訳)

アダルジーザは「愛情に耐えることができた」。びくともせずに。
(ガッダ『アダルジーザ』アダルジーザ、千種 堅訳)

彼女は、ピーターはいつも、このような驚きや鮮明さをもって彼の周辺の生物を見ているのだろうとも思った。見たことのない世界に生れてきた人間が、初めて創造物の輝かしい色あいをみて、すべてを新鮮に感じるときのように。おそらく画家の感じ方とはこうしたものなのだろう。
(P・D・ジェイムズ『ある殺意』2、山室まりや訳)

アンバージャックは、停滞の中に凝結した自分が、とつぜん明かりのともった自分の部屋の窓をのぞきこんでいるのを知った。窓のむこうでは、自分自身が玄関のドアからはいってくるところだった。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『エイン博士の最後の飛行』浅倉久志訳)

エイデルスタインは無感動と激怒を交互にくり返しながら、数日間過ごした。例の胃の痛みがぶり返しており、このままではいずれ胃(い)潰(かい)瘍(よう)になるのはまちがいなかった。
(ロバート・シェクリー『倍のお返し』酒匂真理子訳)

証拠がないこと、はっきりした動機がなにもないことは、ジャープの推理を手(て)控(びか)えさせる代わりに、かえってほしいままの空想へ導く。
(ホリア・アラーマ『アイクサよ永遠なれ』19、住谷春也訳)

ひどく神経質で感じやすい、衝(しよう)動(どう)的(てき)な人間だった。(…)子供のときから、バードの意志は風(かざ)見(み)鶏(どり)のように、いつも他の人びとの望むほうにむいているのだ。
(オスカー・シスガル『カシュラの庭』森川弘子訳)

娘よ、おまえもわたしも動物だ。真人ですらない。しかし、人間には、ジョーンの教え、人間らしく見えるものが人間だという教えが理解できない。姿かたちや、血や、皮膚のきめや、体毛や、羽毛ではなく、言葉が鍵なのだ。(…)偉大な信仰は、大寺院の塔からでなく、つねに都市の下水道から生まれるものだ。
(コードウェイナー・スミス『ノーストリリア』浅倉久志訳)

ジョーンはいった。「愛は特別なものじゃなく、人間のためだけに用意されたものでもありません。/愛はいばらないし、愛にはほんとうの名前はありません。愛は命のためにあるもので、その命をわたしたちは持っています。/わたしたちは戦って勝つことはできません。人間たちは数が多すぎるし、武器はたくさんありすぎるし、スピードは速く、力も強すぎます。
(コードウェイナー・スミス『クラウン・タウンの死婦人』伊藤典夫訳)

マーティンは、木の家や家具が好きではない。植物、とくに樹木というものには、単純だが深遠な高次の意識があるというのが、彼のいっぷう変わった持論だ。植物は精神も自我も〈匡〉も持たないが、生命活動においては、成長、エクスタシーも罪の意識もないセックス、苦痛のない死など、ごく単純な反応を示す。そこには意識がかかわっているのではないか。
(グレッグ・ベア『女王天使』上・第一部・18、酒井昭伸訳)

「すばらしい名文家というだけじゃありませんわ」と、ヘティが言った。「文体は意味を明らかにすると同時に、それを隠しもします。彼のもっともすぐれた作品では、RLSは文体をその両方を成し遂げるために使っています。ですから読者は、永久に神秘と啓示のあいだに宙ぶらりんになるんです」
(ブライアン・W・オールディス『三つの謎の物語のための略図』深町真理子訳)

君たちは生命の外観だけはとらえる。けれど、あふれ出る生命の過剰を現わすことはできない。たぶんは魂であって、外観のうえに雲のようにただよってる、なんともわからないもの、──一口にいえば、チチアノとラファエロがつかまえた生命の花、それが君たちには現わせないのだ。
(バルザック『知られざる傑作』I、水野 亮訳)

エピメニデスのパラドクスは、たった一行の短い言葉である。「この文章は嘘だ」どの文章が嘘なのか。この文章だ。もし、この文章は嘘だといえば、私は真実を述べたことになる。となると、この文章は嘘ではない。つまり、この文章は真実である。この文章は意味が反対になった姿を鏡のように返してくる。しかも、際限なく。
(ベルナール・ウェルベル『蟻の革命』第3部、永田千奈訳)

モナの世界のかなりの部分は、知ってはいても、生身で見たことも訪れたこともないものや場所で成り立っている。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』11、黒丸 尚訳)

あらたな概念があらたな法則を作り出し、それが世界を存続させてきたのです。ニュートンが重力という普遍性をつくりだすと、万物はそれにしたがって再編成されました。アインシュタインが空間と時間という概念を明確にすると、万物はふたたびそれにしたがって配列しなおされました。
(ダン・シモンズ『ヴァンニ・フッチは今日も元気で地獄にいる』柿沼瑛子訳)

バザルガンは先へと庭園を進んだ。楽しみつつ、朝のあらゆる瞬間を、あらゆる香り、残り香、音をとりこんでいく。ザクロ、バラ、ジャスミン、アーモンド。詩の種を蒔いた庭園こそは、彼の知るなかでもっとも鮮やかな確固とした光景で、露は一滴ごとに水晶でエッチングされ、花びらは一枚ごとに明るく輝いている。
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・ムーン』19、金子 司訳)

コングロシアンはうす赤いスポンジ状の肺組織を見つめた。「おまえは私だ」彼は肺組織に語りかけた。「おまえは私の世界の一部だ、私でないものではない。そうだろ?」
(フィリップ・K・ディック『シミュラクラ』14、汀 一弘訳)

きょうのドウェインは、わたしが一度も見たことのないドウェインだ。
(カート・ヴォネガット・ジュニア『チャンピオンたちの朝食』第4章、浅倉久志訳)

ボニートは彼の前を走り、跳びはねては雀を追いかけ、ワンワンと吠えていた。『犬であるってのは幸せなもんだな』とそのとき彼は思った、あとでドン・バチーチャにそう言ったが、バチーチャはパイプをふかしながら考えこむようにして彼の話を聞いていた。
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・5、安藤哲行訳)

ジョシュアが彼を見つめた。マーシュはちらっとその目をのぞきこんだだけだったが、瞳に宿るなにかが手をのばして彼に触れ、するとふいに、そのつもりもないのにマーシュは目をそらせていた。
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』12、増田まもる訳)

「それでは」とアルヌーは言った、「僕たちはまたもとの見解の相違にもどってしまうよ。なぜって、君と僕とは、同じ神を存在させないだろうからね。そして僕はそれが悲しいことだとは言わないだろう、なぜってそれではなにも言わないことになるだろうからね。いや、僕は、君の神は僕の神を殺すだろう、と言うだろうね」
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』14、菅野昭正訳)

ヤーコプは(…)自分の墓碑の上につぎのような銘をほりつけるよう遺言した。それは「たとえこの身は変わっても、私は同じものとなって復活する」。
(E・T・ベル『数学をつくった人びと I』8、田中 勇・銀林 浩訳)

マシンガムは青と黄色に染め分けたボールをドリブルしながら芝生を突っ切っていった。元気な足がすぐその後を追い、二人は家の横にまわって姿を消した。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第四部・3、青木久恵訳)

彼は今しばらく立っていた。ゴメスのようにセカセカとはやく走り、ビリャナスルのようにゆっくりと慎重に動き、決して地に足をつけることなく風に乗ってどこかへ飛んでゆくドミンゲスのように漂流できるこの背広。彼らの持ち物であると同時に、かれらすべてを(、)所有しているこの服。
(レイ・ブラッドベリ『すばらしき白服』吉田誠一訳)

コーデリアはよろこびに昂奮して眺め入った。そう、あの少女の服の独特の青、光線を同時に吸収し、反射している頬や、むっちりした、若々しい腕の──美しい、まるでそれとさわれるような肉のみごとな描写を見まちがうはずがなかった。彼女が思わず叫んだので、みんながこちらを見た。
(P・D・ジェイムズ『女には向かない職業』3、小泉喜美子訳)

「待って……」わたしはいった。だが、アギアはわたしを歩廊に引っ張り出した。子供が一握りしたくらいの砂が、われわれの足についてきて歩廊を汚した。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』19、岡部宏之訳)

彼は、あわれげに口ごもった。態度を明らかにしないことを恥じて、シャンスファーから眼をそらした。黄色い水仙が、うつむいた彼の眼を嘲笑していた。
(ブライアン・W・オールディス『銀河は砂粒のように』4、中桐雅夫訳)

アナベル・リイはもうきのうの一部で、きのうはもう過ぎてしまったのさ。今は、二人で過ごしたあのときのことを思い出すことができるし、その思い出も苦痛じゃない。
(ロバート・F・ヤング『われらが栄光の星』田中克己訳)

エル・スプレモによって解放された奴隷たちの一人の息子にとって、これこそはたぶん人間が希求し得る唯一の永遠性だったのではないか。つまり、自らが救われ、他の人びとの中に生き延びることは……。彼らは不幸で結ばれていたのだから、救済への希望においてもがっちりとスクラムを組まなければならないのだ。
(ロア=バストス『汝、人の子よ』I・16、吉田秀太郎訳)

「ヒトラーのような相手と戦うと、常に自分たちも戦う相手のようになってしまう」とわたしは話を続け、「長く深淵のぞきを続けすぎる。それがヨーロッパ。もうひとつの戦線は太平洋にできる。日本が一九四一年にハワイを攻撃するが、その飛行機は──」
(ジャック・ウォマック『テラプレーン』9、黒丸 尚訳)

アーベルは(…)どうしてそんなに早く第一線にまで進出しえたのかをたずねられたとき、彼は「大学者に学ぶことによって。その弟子たちに学ぶことではなく」と答えた。
(E・T・ベル『数学をつくった人びと II』17、田中 勇・銀林 浩訳)

ミセス・シッフは芸術について言っていた。芸術はさえずりであるべきだ。この瞬間、そしてこの瞬間、常にこの瞬間に生きようとすること、そしてそう望むばかりでなく、激しく望むことですらなく、大いにそれを楽しむことだ、果てしない、切れ目のない歌の陶酔を。それがベルカントのすべてであり、飛翔への道なのである。
(トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』16、友枝康子訳)

「かんじんなことは」とアニカはいった。「生きていることは、気にくわないからといってやめられるようなものじゃないってことを、いまのあなたはもう少しで悟りかけている。それがかんじんなんだよ。生きているってことと、あなたとは、別物じゃなくって一つなんだよ」
(ジョン・ウィンダム『地球喪失ののち』2、大西尹明訳)

ジョニーが最初に気づいたのは、闇(やみ)だった。ここでは闇が実体を持って、あらゆる場所にあふれている。床を覆い、隅にわだかまり、空気中に積み重なり、安っぽいペンキのように壁からしたたっている。あたかもスパイダーが闇の収集家で、ここが彼の宝物庫だとでも言うかのように。
(ウィリアム・ギブスン原案、テリー・ビッスン作『JM』11、嶋田洋一訳)

詩について語るのは、詩そのものの喜びについて語ることであるべきだとフロストは言ってるの。詩は喜びに始まり、叡(えい)智(ち)に終わる。詩の形象は愛と同じものである
(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』III、嶋田洋一訳)

プーは「詩や歌ってのは、こっちがつかむものじゃなくて、あっちからこっちをつかむものなんだ」と言う。ハイデガーはこれを一般論にして、「言語は語る」と書いた。
(ジョン・T・ウィリアムズ『プーさんの哲学』7、小田島雄志・小田島則子訳)

ヤコービは、彼の数学上の発見の秘密を問われて「つねに逆転させなければならない」といった。
(E・T・ベル『数学をつくった人びと II』17、田中 勇・銀林 浩訳)

マルグリットを見つめると、少女は動いていないがっちりした機械の上に軽がると敏(びん)捷(しよう)にすわっていたのに、なんとなくその機械の一部みたいだった。
(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・四二、菊盛英夫訳)

ああ、ルシア、ぼくはきみがいなかったらとても寂しいだろう、ぼくは肌に、喉に、その悲しみを感じるだろう。息をするたびに、もはやきみの存在しないぼくの胸のうちに空虚が侵入してくるだろう。
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・11、土岐恒二訳)

エディなら、そばにいないときでも姿を忘れることがない。たいした奴ではないかもしれないけど、なんにせよ、いてくれる。変わらない顔というのが、ひとつぐらい必要だ。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』15、黒丸 尚訳)

ラルフィの顔は不安そうだった。彼には二つしか表情がない。悲しそうなのと、不安そうなのだ。
(ウィリアム・ギブスン原案、テリー・ビッスン作『JM』1、嶋田洋一訳)

「ジェリーを殺したのはきみか?」とダンツラーはたずねた。ムーディにむけた質問だったが、相手は人間に見えず、隠されたメッセージを解き明かさなければならない構図の一部にしか思えなかった。
(ルーシャス・シェパード『サルバドル』小川 隆訳)

哲学史のボロトフ教授と歴史学者のシャトー教授の激論の応酬の断片が聞こえてきた、「実在とは存続のことなんだ」とボロトフの声がとどろき渡る。「ちがう!」と相手の声が叫ぶ、「石鹸の泡だって歯の化石と同じように実在しているんだ!」
(ウラジーミル・ナボコフ『プニン』第五章・2、大橋吉之輔訳)

勇気ということよ、そこをよく考えるのよ。アーサー。わたしの読んだ本によれば、科学の世界では精神の力にもう一度恐れをいだき始めているそうよ。心に合図を送り、じっさいにものを考えさせ、祝福する精神力に対してね!
(ウォルター・デ・ラ・メア『シートンおばさん』大西尹明訳)

でもねえ、ジオルジナ、いつか木がよく売れて正直にもうけた金を神さまがいつもより数グロッシェン多くくださったことがあったねえ。ぼくはあのときの悪い一杯のワインのほうが、よその人がぼくたちに持ってくる上等のワインよりずっとおいしいんだよ。
(ホフマン『イグナーツ・デンナー』上田敏郎訳)

ステファヌ・マラルメについての思い出を問われるとき、私の答はいつでもこうである。つまり彼は私に、私の意識に入ってくる万物を前にして、これは何を意味するか(、、、、、、、、、、)という問(、)をたずさえて真向うようにと教えてくれた人である。問題は描くことではなく、解釈することなのだ。
(ポール・クローデル『或るラジオ放送のための前書』平井啓之訳、平井啓之箸『テキストと実存』より引用)

何かが信じられるか信じられないかを決めるのに、サリーが何をよりどころにしているのか、ぼくにはさっぱり合(が)点(てん)がいかなかった。いったい、どうしてうら若い女が、頼りになる一束の証拠書類を、まるで湯気くらいに軽く片づけてしまうのか。
(ジョン・ウィンダム『ポーリーののぞき穴』大西尹明訳)

理由はわからぬながら、このワイルダー・ペムブロウクという男は彼のなかにいっそうの不信と敵意をつのらせていた。「自分のつとめを果たしているだけです」ペムブロウクは繰り返した。
(フィリップ・K・ディック『シミュラクラ』13、汀 一弘訳)

ダルグリッシュがその車の観察を終えるか終えないうちに、コテイジのドアが開いて、一人の女性がせかせかと二人の方にやってきた。国教の教区に生まれ育った者なら、それがスワフィールド夫人であることに疑いを抱くはずがなかった。まさに田舎の教区牧師夫人の典型だった
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第二部・1、青木久恵訳)

やがて、おれの目と同時にミリアムの目を通じて、周囲のあらゆるものが二倍もくっきりと見えるようになった。二人の心の内部に、彼女の神経性めまいと、おれに対する愛情と信頼とを感じることができた。公園の花や樹葉の一枚一枚が、ひときわ燦然(さんぜん)たる輝きを放っていた。
(J・G・バラード『夢幻会社』26、増田まもる訳)

「この秋にはイタリア旅行を計画しているんです」とハトン氏がいった。彼は自分がぶくぶくした泡のような、ひょうきんな気持ちの高まりで今にもポンと栓の抜けそうなジンジャー・エールのびんのような気がした。
(オールダス・ハックスレー『モナ・リザの微笑』龍口直太郎訳)

ジェット夫人はそれから何時間も、人間の目ほどの大きさの、つぼみのような炎をじっと見つめていた。その炎もまた彼女を見返して、さあ、また寝こんで、あんなに取り乱しちゃいけないぞ、と警告しているみたいだった。
(ファニー・ハースト『アン・エリザベスの死』龍口直太郎訳)

「いや、シェイクスピアの再来かもしれない人間は、この劇団にはひとりしかいない。それはビリー・シンプスンだ。そう、小道具のことだよ。彼は聞き上手だし、どんな人間ともつきあう方法を心得ているし、さらにいえば心の内側にせよ外側にせよ、人生のあらゆる色と匂いと音をネズミとりのようにとらえる心をそなえている。
(フリッツ・ライバー『『ハムレット』の四人の亡霊』中村 融訳)

それに非常に分析的だ。ああ、彼に詩の才能がないことは知っているよ。でも、シェイクスピアが生まれ変わるたびに詩の才能をそなえているとはかぎらない。彼は十人以上の人生をかけて、劇的な形をあたえた素材のひとつひとつを集めたのではないだろうかね。
(フリッツ・ライバー『『ハムレット』の四人の亡霊』中村 融訳)

寡黙で無名のシェイクスピアが、つつましい人生を重ねながら、いちどの偉大な劇的なほとばしりに必要な素材を集めたという考えには、なにかとても胸を刺すものがあると思わないかね? いつかそのことを考えてみたまえ」
(フリッツ・ライバー『『ハムレット』の四人の亡霊』中村 融訳)

フェンテスは彼の方法の鍵を私たちに与えています。「ひとりの人物を創るためにはいくつもの人生が必要だ」、というのがその鍵です。
(ミラン・クンデラ『小説の精神』第3部・諸世紀の空のもとに、金井 裕・浅野敏夫訳)

「犬、たぶんくたびれて寝てるんだね」とゾフィアはあたしに言った。「悪夢だってたまには眠らないとね」
(ケリー・リンク『妖精のハンドバッグ』柴田元幸訳)

リタは、思い出のなかにうかびあがってくるのはちいさなこまごまとしたものなのだ、とおもった。わが家のちいさなものはどれもいとおしい。ちいさなものひとつのほうが、テーブルのうえの半ダースもの品々よりも、たくさん口をきいてくれるから。
(アン・ビーティ『愛している』26、青山 南訳)

わたしが裏口から通りに出たとき、トランクの中で音がし、バァーという声がした。アルベルト・キシュカはかくれんぼをしていた。
(イヴァン・ヴィスコチル『飛ぶ夢、……』千野栄一訳)

ジェラールに軽々しく扱われたのは、自分で自分を軽々しい扱いに値いする人間にしていたからだ。
(P・D・ジェイムズ『原罪』第五章・63、青木久恵訳)

足音がジャーミン通りをゆっくり近づいてきた。そしてはたと止まった。パワーズ船長は目くばせし、シオフィラス・ゴダールはわずかにうなずいた。足音はまた聞こえ始めた。道路を渡ってキーブルの家のほうに向きを変えた。
(ジェイムズ・P・ブレイロック『ホムンクルス』1、友枝康子訳)

するとスクラトン先生が通りかかった。この人はまったくいいおやじだ。この谷間じゅう捜したってスクラトン先生よりすばらしい男はいやしない。先生のけつは脱腸なんだ。ねじこんでもらいたいときには腸を三フィートものばして相手に渡すのさ…… 
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』普通の男たちと女たち、鮎川信夫訳)

また、その気になれば腸の一部分だけを落っことして、自分の事務所から遠く離れたロイのビヤホールまで行かせることだってできる。腸は蛆虫のようににょろにょろはいまわってピーターを捜しにゆくんだ……
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』普通の男たちと女たち、鮎川信夫訳)

リーは身動きした。とじたままでいようとして、まぶたがぴくぴくした。しかし意識と明るくなる光とが、むりにその目をあけさせた。
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』1、深町真理子訳)

──あの畜生みたいな男の相手をして、さぞ困ったでしょう?」とたずねても、セヴリーヌは答えずに、かえって、熱っぽい笑いを見せた。アナイスの家の女たちは驚いてお互いに顔を見合わせた。彼女たちは今、昼顔が、そのときまで、一度も笑ったことのないのに気づいた。
(ケッセル『昼顔』六、堀口大學訳)

ヘーゲルにとって、全体とは、各部分の総合以上のものだった。実のところ、各部分の意味がよくわかるのは、それが全体に属しているからなのだ。ヘーゲルはそれをこう定義している。「心理は全体である」
(ジョン・T・ウィリアムズ『プーさんの哲学』6、小田島雄志・小田島則子訳)

「個人的には」と、ホーガン社長はいった。「わしは寄せ波にプカプカうかぶプラスチックびんを見るのが好きだ。よくわからんが、なんだか自分が、永久に残るものの一部になったような気がする。きみに伝えてもらいたいのは、この感情だ。さあ、もどって短報の仕事を片づけろ」
(フレデリック・ポール&C・M・コーンブルース『ガリゴリの贈り物』浅倉久志訳)

そう言ったあと、彼はサモサタのルキアノスが『本当の話』のなかで語っていた言葉を思い出した。"私は、目に見えず、証明もできず、ほかにだれも知らないことを書く。さらには、絶対に存在しないもの、存在する根拠のないものについて書く。"いやでも頭にこびりついている文章だ。
(フェリクス・J・パルマ『時の地図』第一部・12、宮〓真紀訳)

ピートは人間すべての手をポケットに深く突き入れると、ゆっくりした足どりで外野席に引きかえしていった。
(シオドア・スタージョン『雷と薔薇』白石 朗訳)

(あらゆる人間と同じように)アレハンドラが具えていた多くの顔の中でも、その写真の顔はマルティンにはもっとも近しい、少なくとも近しかった顔だった、それは深みのある表情、手に入れられないと初めから分っていながら求めずにはいられないでいる人間のいくぶん淋しげな表情だった、
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・5、安藤哲行訳)

ヘアーは笑いだした。彼女がそれを隠すためにタバコを吸ったことが、かえってそれを明らかにしてしまったことがおかしかった。若い──彼女がもっと年をとり、経験を積めば、若さを暴露したりはしないだろうが、この朝の一瞬にはたしかにそうだった。
(ジョン・クロウリー『青衣』浅倉久志訳)

ジョシュアは、あたかも影それ自体が人間の姿をまとったかのごとく、影のなかからふいに出現した。
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』12、増田まもる訳)

アルビナは彼にパン屑(くず)とチーズを食べさせはじめた。ミンゴラにはその中断がありがたかった。老人の描写に耐えられなくなってきたからだ。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・8、小川 隆訳)

スウェインは肩をすくめて、にっこり笑ったが、室内の人間より部屋全体に向けた微笑に見えた。
(P・D・ジェイムズ『死の味』第二部・5、青木久恵訳)

アギアには貧乏人特有の、希望に満ちてもいるし絶望的でもある勇気があった。たぶんこれは人間すべての特質の中で、最も魅力的なものだろう。そして、わたしにとって彼女をより現実的なものにする様々な欠点を見つけて、わたしはうれしかった。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』19、岡部宏之訳)

でも絵は見られてしまった、手からもぎ取られたような気分だ。この人は、わたしの心の奥にある内密なものを分けもつことになった。むしろそのことに対してラムジー氏やラムジー夫人に感謝し、この時間この場所にも感謝したかった。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・9、御輿哲也訳)

ふたりが並んで道を歩いているとき、バッリは自分の願望を口に出さなかったが、エミーリオは、このような友の気遣いによって気が楽になることはなかった。というのも、友が言葉にしなかった欲求が、エミーリオには実際よりも大きく思え、それに胸が苦しくなるほど嫉妬していたからだった。
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』11、堤 康徳訳)

夜風はリンゴみたいな匂いがする。きっと時間というのもこういう匂いなんだろう、とエドは考える。
(ケリー・リンク『しばしの沈黙』柴田元幸訳)

「きみを永遠に愛する」とジョナサンが誓った。/「あなたはもう、そうしたのよ」とエレナは答えて、ジョナサンの髪を撫でた。
(イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア『彼らの生涯の最愛の時』大森 望訳)

共通の夢がふたりのあいだの空間に形をとりはじめるにつれて、アレックスは何度かつづけざまにまばたきした。「ワーオ」
(アダム=トロイ・カストロ&ジェリイ・オルション『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』浅倉久志訳)

『イエイツはつねに誠実だ』これは随分はびこっていてね、批評家がある作家の誠実さについて語るのを聞くようなとき、わたしにはその批評家か作家のいずれかが馬鹿だとわかるんだ
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

さらに、おどろくことに、ハイデガーはこうことばを続けている。「歌は、歌になってからうたわれるのではない。そうではなくて、うたっているうちに、歌は歌になるのだ」
(ジョン・T・ウィリアムズ『プーさんの哲学』7、小田島雄志・小田島則子訳)

「顔よ」マータは楽しそうに言った。「あなたのために、いろいろな顔を持ってきてあげたのよ。男、女、子供。ありとあらゆる種類、身分や大きさの」
(ジョセフィン・テイ『時の娘』2、小泉喜美子訳)

おお ロバート──そして涙はない
(ジェイムズ・メリル『ページェントの台本』下・コーダ、志村正雄訳)

彼らは会話を始めた。タミナの好奇心をそそったのは彼の質問だった。といっても、その内容のせいではなくて、彼が自分に質問をするというたんなる事実によってだった。まったく、人に何も訊かれなくなって何て長い時間がたったことだろう! 彼女はそれが永遠だったような気がした。
(ミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』第六部・5、西永良成訳)

スペンサーがコーヒーを持ってきたので、叔母は言葉を切った。「あなたがディタレッジ・ホールで息子のオズワルドを池に落としたとか何とか、とんでもない話を信じ込んでいらっしゃるらしいの。まさかねえ。いくらあなただって、そんなことはしないでしょ」
(P・G・ウッドハウス『ジーヴズとグロソップ一家』岩永正勝・小山太一訳)

記述はオウルズビーの死ぬ前日で切れていた。セント・アイヴスは呆然とした。まるで突然それが乾いてしまった小さな害獣の死体にでもなったように、ノートをテーブルの上に取り落した。
(ジェイムズ・P・ブレイロック『ホムンクルス』4、友枝康子訳)

だがさしあたってはすべてとても平穏だ。快適な旅行馬車は走り、ニコラの母、エヴゲーニヤ・エゴーロヴナはハンカチで顔を覆ってまどろみ、その隣では息子が寝そべりながら本を読んでいる。そして道路の窪みは窪みの意味を失って、印刷された文字列のでこぼこや、行の跳ね上がりにすぎなくなる。
(ナボコフ『賜物』第5章、沼野充義訳)

「オズワルドは、あなたに突き落とされたと言い張っています。サー・ロデリックがそのことを気になすってお調べになったものだから、亡くなったあなたのヘンリー叔父さんのことが明るみに出たみたいなのよ」
(P・G・ウッドハウス『ジーヴズとグロソップ一家』岩永正勝・小山太一訳)

ニーファイ・サーヴァントの顔は、彼の性格をよく表わしていた。その横顔は、クルミ割りか、やっとこの曲った顎のようだった。彼は自分の顔に忠実だった。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『太陽神降臨』12、山高 昭訳)

そうしてわたしもヘオルヒーナの心の奥底で起きたことを、わたしにとってはもっとも懐かしい部分に起きたことを、いくぶん知ることができたのだった。/だが、それがいったい何になるというのか? 何になると?
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

アシル氏は幸福だ。まるでずっと前から幸福ではなかったみたいである。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

叔母は深刻な顔で僕を見やり、僕は神妙な顔でコーヒーを飲んだ。二人は一族の墓穴を覗き、ひとつの亡骸(なきがら)を眺めているわけだ。亡くなったヘンリー叔父は、ウースター一族の汚点ということになっている。
(P・G・ウッドハウス『ジーヴズとグロソップ一家』岩永正勝・小山太一訳)

ギャスとおなじ世紀に生まれて死んだ、哲学者であり、数学者でもあったバートランド・ラッセルなる人物は、こんなことを書いている。"言葉は思いを表明するだけのものではなく、思考を可能ならしめるものである。言葉なくして、思考は存在しえない"。しかり、言葉にこそ、人類の非凡なる創造的才能の真髄はある。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』上・詩人の物語、酒井昭伸訳)

わざわざセント・アイヴスのために豆を一粒上げて見せた。まるでそれがふたりで検討できる魅力的な小世界だとでもいうように。
(ジェイムズ・P・ブレイロック『ホムンクルス』12、友枝康子訳)

ときどきティンセリーナは、留守番電話のメッセージのようなしゃべりかたをすることがあります。あまり何度もおなじ言葉をくりかえしたので、意味を忘れてしまったかのように。
(トマス・M・ディッシュ『いさましいちびのトースター火星へ行く』浅倉久志訳)

「それで、第三の意味は?」ドルカスは尋ねた。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』32、岡部宏之訳)

教えたり説教したりすることは、元来、人間の力に余るのかもしれない、とリリーは思った(ちょうど絵具を片づけているところだった)。高揚した気分の後には、必ず失望が訪れます。だのに夫人が夫の求めに簡単に応じすぎるから、家計に落差が耐えがたくなるんですよ、と彼女は言った。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・8、御輿哲也訳)

おれの体は怒れる鳥たちがさえずり鳴く気違い病院だった。デービッドが身構えるようにあとずさり、レイチェルの耳に警告の言葉を囁いたとき、おれはスーパーマーケットの店先で立ちどまった。子供たちが足もとで騒ぎたてるなかで、おれは十羽あまりの小鳥や一羽のオオハシ、そして、もみくしゃにされたハヤブサを解放してやった。
(J・G・バラード『夢幻会社』27、増田まもる訳)

彼よりほかに知るよしもない、この部屋以外の、あらぬところをじっと見つめながら、イポリドは、三人の女が居心地わるい怯(お)じけた気持でいると見てとった。
(ケッセル『昼顔』七、堀口大學訳)

ルーシーとミンネリヒトの会話には、ブライアには呑み込めない事情、背景のわからない事柄がひしめいているようだった。
(シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』22、市田 泉訳)

ルーシーはうなずいた。彼女もときどきしていることを、レスはいましていた。信じがたいのは分かるが、それは馬鹿げたやり口だった。事実を何回も口にして、そうやって時間を稼いでいれば、話のべつな結末が聞けるかもしれない、と考えるなんてことは。
(アン・ビーティ『愛している』27、青山 南訳)

ジェイクが外のポーチに座ってるすごくいい写真がある。笑っていて、出てくる笑いをつかまえようとしてるみたいに片手を口に当てている。
(ケリー・リンク『妖精のハンドバッグ』柴田元幸訳)

夫人のスピーチが終わって気がつくと、ダルグリッシュとマシンガムは居間に通されていた。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第三部・1、青木久恵訳)

ハトン氏は黙ってそのありさまを眺めていた。ジャネット・スペンスの様子は、彼の心に尽きせぬ興味をよび起こした。彼は、どんな顔でも内面に美や異様さを秘めているものだとか、女性のおしゃべりはすべて、神秘な深淵の上にかかったもや(、、)のようなものだとか、とそんなふうに想像するほどロマンティックではなかった。
(オールダス・ハックスレー『モナ・リザの微笑』龍口直太郎訳)

メリーは一昨日から意識がなかった
(ジェイムズ・メリル『ミラベルの数の書』0.4、志村正雄訳)

ジョンは引き返した。通路の中央を埋める岩は、かなり大きいが、経験のない彼の目には、異常なものとは見えなかった。彼は、その一つを取って、黄麻布の携帯嚢に入れた。灰色な斑点の群れが銀色に閃いたと思うと、また灰色に戻って、安全な距離をとりながら整然とした列を組んで浮かび、彼を慎重に観察した。
(グレゴリイ・ベンフォード『時の迷宮』上・第二部・6、山高 昭訳)

そうした現実のうち、あるものは"高確率"で、あるものは"低確率"だとベク・グルーパーが呼んでいた。世界(ワールド)語には存在しないことばだ。なかには、存在していながら、それと同時に存在していない現実もある。デイヴィッド・ベク・アレンのようなひとが、純然たる意志の力で明らかにしないかぎりは見えなかったようなものが。
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・ムーン』エピローグ、金子 司訳)

ジェイクのすごいのは、何をやってもかならず楽しめてしまうところだ。
(ケリー・リンク『妖精のハンドバッグ』柴田元幸訳)

見えすいた相手の思考がいちおう落ちつくまで、ガスはがまん強く待ちつづけたが、彼の心の奥底では、なにかがやりきれないため息をついていた。こうしたばつ(、、)の悪さは、これまでにもたびたびほかの人間を相手に経験して、すっかり慣れっこになってはいる。だが、慣れることと、気にもとめないこととは別物だ。
(アルジス・バドリス『隠れ家』浅倉久志訳)

マイラは、昔なじみのコンプレックスが、他人には絶対知られたくないコンプレックスが、浮上してくるのが、わかった。世間を遠ざけているのはじぶんが失敗者だからなのではないか。強さというよりは弱さのあらわれなのではないか。
(アン・ビーティ『愛している』15、青山 南訳)

マーサはすまして言った。「あなた、気がついてる、アルジー? 彼女はわたしより二十も年上なのよ。可哀そうなアニー。なんていう運命なんでしょう──史上最年長の娼婦とは!」
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』1、深町真理子訳)

「希望をお捨てにならないで!」とベティはこちらがぎょっとするほどの大声でいった。この人、クリスチャンかしら、とわたしは思った。二番目の夫と暮らしていたアパートに、やたらにクリスチャンが来たことがあった。それも、エホヴァの証人が。
(アン・ビーティ『一年でいちばん長い日』亀井よし子訳)

トルブコは笑みを浮かべていた。彼は顔を赤らめた。
(アンディ・ダンカン『主任設計者』VII、中村 融訳)

馬の肌に雨の匂いがした。黄色いスリッカーを着、黒いステットソンの帽子をかぶったスティーヴはガイと私に向かって手を振り、雨が灰色の壁のようになって降る中を馬に鞭をいれ、駆け足させた。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳)

庭には花をつけた木が一本あった。いま、こうして近づいてみると、ちっぽけな猫がマザー・トムの大きな足の下で丸くなっているのが見えた。マザー・トムの手が上がり、花びらが一枚、木から落ちてひらひら舞いはじめた。マザー・トムの手が高く上がって振られる。花びらが地面に落ちる。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

マザー・トムがほほえみ、足もとの猫がのんびりと目を閉じる。マザー・トムが手を下げる。笑みが消え、手が体のわきにもどる。それから庭全体が、一瞬ぴくっと揺れたように見えた。マザー・トムの顔がむっつりいかめしく気づかわしげな表情になる。猫の目が警戒するようにぱっと開いた。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

マザー・トムの手が前とおなじように上がり、顔が明るくなって笑みが浮かび、猫の目が閉じはじめる──そしてまた一枚、木から花びらが落ちてくる。ぴったりおなじタイミングで。(…)マザー・トムが手を振る。猫が眠る。花びらが落ちる。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

小さな閉ざされた場所に永遠に閉じ込められたような、窒息しそうな感覚とともに、ぼくはそのときさとった。落ちてくる花びらはすべて、一枚の花びらなんだ。マザー・トムが手を振るのは、一回きりのことなんだ。そして、冬はけっして来ない。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

あと五分待って、スーザンに電話しよう。五分。そうしたらもう一度電話するのだ。時計の針は動いていないけれど、待つことはできる。
(ケリー・リンク『しばしの沈黙』柴田元幸訳)

「でも、ホームズ君、ぼくにはなんのことだか──」
(ヒュー・キングズミル『キトマンズのルビー』第十六章、中川裕朗訳)

この少女はハミダにちがいない。当時十二歳くらいのはずだが──この地方ではよくあるように──体が未熟な分だけ精神的にはませているという、不幸にとっては格好の条件を満たしていたのだ。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十六章、榊原晃三・南條郁子訳)

フローラもよくそこにいて、デッキチェアに寝そべっていたが、ときおりそれを移動させて、いわば夫のまわりに円を描き、次々と散らかした雑誌で彼の椅子を取り囲みながら、彼のよりもさらに濃い木陰を探すのだった。
(ウラジーミル・ナボコフ『ローらのオリジナル』若島 正訳)

「あんなふうに不愉快な目ざわりなものを見るたびに、あたしはニーナのとこの男の子をどうしても思ってしまうわ。戦争は恐ろしいわ」
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

ニックの声はどこからともなくおれの知覚の中へ流れこんでくるような感じだった。気味の悪い、肉体から離脱した声だ。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』ハウザーとオブライエン、鮎川信夫訳)

野獣は奇妙な目つきでマーシュを見つめていた。彼のことばが理解できないか、知っていたすべてのことばを忘れてしまったかのようだった。
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』34、増田まもる訳)

ルウェリンは身長が一メートル八十になるよりも小人にまで縮むよりも、変身してリスやフィロデンドロンの鉢になるよりも、はるかに大きく変わってしまっていた。
(シオドア・スタージョン『ルウェリンの犯罪』柳下毅一郎訳)

頭の上では羽がぶーんとまわり、うしろからは外の扉が閉じてかんぬきをかけるがーんという反響音がした。どこか近くで、ざらざらの石畳を靴がこする音がして、誰かがミンゴラのライフルをもぎとろうとした。彼はそれをふりほどき、ぱたぱたと駆けてゆく足音をきいて、会衆席の奥にとびこんだ。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第四部・13、小川 隆訳)

ファーバーはこの連中を避けるようにして中へ入った。
(ガードナー・ドゾア『異星の人』1、水嶋正路訳)

わたしはアルヴィのベッドの端に腰掛け、上の階のむきだしの板の上を歩くベラの足音に耳を澄ましていた。終日、彼女といっしょに過ごしていたが、彼女に対してなにか感じるような余裕はなかった。数々の記憶に圧倒され、この島に対する自分の印象に取り憑かれていたのだ。
(クリストファー・プリースト『奇跡の石塚』古沢嘉通訳)

四日目に、セヴリーヌが、売淫の家から出ようとすると、また見るより先に、その影でそれと知れる姿が、彼女の前に立ちはだかった。いかにも魁(かい)偉(い)な姿なので、彼女にはこの姿が夕暮れの光をすべて奪ってしまうかと思われた。
(ケッセル『昼顔』七、堀口大學訳)

しかし、リュシュ氏は自分の考えにとりつかれて、ろくろく聞いていなかった。オイラーに不意にゴルドバッハが乱入してきたことで持ち札が変わり、彼の最後の結論が疑わしくなったのだ。
(ドゥニ・ゲジ『フェルマーの鸚鵡はしゃべらない』20、藤野邦夫訳)

男がそこにいることが我慢ならなかった。フィリッパの身内を怒りが流れた。彼女は噴き上げる憤りの炎に浮き立つように持ち上げられ、憤りとともにインスピレーションと行動がほとばしった。/「待って」と彼女は言った。「待ってよ」
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・7、青木久恵訳)

すると、クロフォードは同時にふたつの場所にいた。いまも浜にいて五線星形とジョセフィンとブーツの下の熱い砂を感じていたが、船でこみあったリヴォルノ港にいるドン・ジュアン号の甲板の上にも立っていた。
(ティム・パワーズ『石の夢』下・第二部・第十七章、浅井 修訳)

宙を打つおれの左腕をグレンダがつかんで、支えてくれようとするが、おれは次から次へと痙攣に襲われる。世界が近づき、退き、分裂し、やがておれのまわりでも内側でもふたたびまとまる。
(ロジャー・ゼラズニイ『われら顔を選ぶとき』第二部・8、黒丸 尚訳)

ダンツラーは彼の背中のまん中に足をかけ、頭が沈むまで踏みつけた。DTはそり返ったり足をかきむしったりして、なんとか四(よ)つん這(ば)いに体を起こした。靄が目や鼻から流れでて、やっとのことで「……殺してやる……」という言葉がもれた。ダンツラーはまた彼を踏みつけた。
(ルーシャス・シェパード『サルバドル』小川 隆訳)

「創作を志す者には、どんなに長い一生でもたりないんだよ、ロール。そして、自分自身を理解し、生のなんたるかを理解しようとする者にとってもね。それはたぶん、人間であることの業(ごう)だ。それと同時に、至福でもある」
(ダン・シモンズ『エンディミオンの覚醒』下・第二部・33、酒井昭伸訳)

「愛は、すべての意味を持つ、ただひとつの感情ね」とエレナはうなずいた。
(イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア『彼らの生涯の最愛の時』大森 望訳)

ブルースがうなずく。「あるいは、ウォーレス・スティーヴンスが書いていたみたいに。"言葉の世界では、想像力は自然の力のひとつである"」
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』上・10、浅井 修訳)

レスは首をつきだした。「なんだって?」
(アン・ビーティ『愛している』27、青山 南訳)

「人間は」、オリヴァー・クロムウェルが言った、「自分の行先を知らぬときほど高みにのぼることはない」。
(エマソン『円』酒本雅之訳)

だしぬけに、爆発のような音が轟いた。塔が崩れたあとの瓦礫の山から、何十羽もの鳩がいっせいに舞いあがったのだ。ビリー悲嘆王の王宮だった場所を巣にしているらしい。サイリーナスは、鳩の群れが酷熱の空に輪を描くのを眺め、驚きをおぼえた。こんな虚無ととなりあわせの場所で、よくもまあ、何世紀も生き延びてこられたものだ。
(ダン・シモンズ『ハイペリオンの没落』上・第二部・19、酒井昭伸訳)

「エレナ、人生は、あらゆる悲劇の母……いやむしろ、悲劇のマトリョーシカだよ。大きな人形を開けると、小さな悲劇が入っていて、その中にももっと小さな悲劇が……。究極的には、それが人生をおかしく見せるんだ」
(イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア『彼らの生涯の最愛の時』大森 望訳)

エレナはまた笑った。「おかしな人」
(イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア『彼らの生涯の最愛の時』大森 望訳)

「なんでお前ら、ちっとはまともなこと言えないんだ?」とバトゥは、体を回し顔を上げながら言った。そうやって床に座り込んで喋っているバトゥの声は、いまにも泣き出しそうに聞こえた。ピシャッ、とバトゥはゾンビをはたいた。
(ケリー・リンク『ザ・ホルトラク』柴田元幸訳)

「ミス・ブライア」ブライアを遮った声は、ちょうどよい音量をいくらか超えていた。
(シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』22、市田 泉訳)

「パット!」少年は腹から声を発し、自分の名を告げた。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳)

プレンティスは耳に刺激的な無音を感じて目を覚ます、
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』J、志村正雄訳)

彼は父が後ろを向き、階段のほうに遠ざかっていくのを見た。そして、姿を消すまえにもう一度向きなおり、死後何年かしてマルティンが絶望の中で思いだす、あの視線を向けたのだった。
(サバト『英雄たちと墓』第I部・7、安藤哲行訳)

冷たい汗をかきながら、彼は自分とフランシーンが間違いをおかしてきたことを、はっきり悟る。二人の暮らし方、ごくたまにしかゆっくりとくつろぐことのできない生き方が間違っていることを。
(アン・ビーティ『ねえ、知ってる?』亀井よし子訳)

愛には、たいして理由などいらない。デボラとの件でもそれはあらためて証明されたことだ。知識の欠落が感情の刺激剤となるということかもしれない、物事はほんとうというわけではないときに大きな魅力を発揮するということかもしれないのだ
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第三部・11、小川 隆訳)

日曜日、両親は彼女を好きなだけ寝かせておく。午前中ずっとペドロがオペラのレコードをかけてもまるで目を覚まさない。彼女が目を覚ますのは、正午きっかりに、サント=クロチルドの鐘が鳴ったときだけで、そのとたん、彼女はベッドから飛び下り、窓を開ける。そしてありとあらゆる人形と一緒に外を眺めるのだ。
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』3、野谷文昭訳)

レミー・パロタンは愛想よく私にほほえみかけていた。彼はためらっていた。彼は私の位置を理解しようと努めた、静かに私を導いて羊小屋へ連れもどすために。しかし私は恐れなかった。私は羊などではなかったから。私は彼の落ち着いたしわのない美しい額を、小さな腹を、そして膝の上に置かれた手をながめ、彼に微笑を返すとそこを離れた。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

絵葉書には『ぼくは今、数知れぬ愛の中を、たった一人で歩いている』と書いてあったが、これはジョニーが片時も離さずに持っているディラン・トマスの詩の一節だった。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

カストラートは本物の歌うオカマであり、ネルソン・エディではない。人間のつねでオカマもいつかは死ぬ運命にあるが、その死はめったに凄惨なものにはならない。ところがこのオカマの死には、きっとあなたも鳥肌が立つだろう。
(G・カブレラ=インファンテ『エソルド座の怪人』若島 正訳)

ディム・カインドは目をおおっていた手をおろした。「ええ、話さなかったわ。その理由を教えましょう。おまえたちがそういうものを思いつくまで、そういうものはなかったからよ。
(ジョン・クロウリー『ナイチンゲールは夜に歌う』浅倉久志訳)

〈クレイジー・カフェ〉に腰を落ち着けたときは心からほっとした。量産された意識のせいで、目に見えるものや感覚が嘘っぽいものになっていようが、椅子は椅子であり、疲労感は疲労感だからだ。彼女はいなかった。ドリス・ブラックモアはそこにいなかった。ちらっと見ただけでわかった。
(L・P・ハートリー『顔』古谷美登里訳)

淋しくないこと、びくびくしないこと──ボアズはこの二つが人生で大切なことだと考えるようになった。
(カート・ヴォネガット・ジュニア『タイタンの妖女』7、浅倉久志訳)

彼女が無感情なのは美が世界にたいするときの静かな自信の兆候であるように、ミンゴラには思えた。アルビナの中には美が存在し、それを傷跡が実証しているのだと思った。だが、彼女を利用したくはなかった。安心して利用できるようなたぐいの美ではなかったのだ。/「きれいな傷跡をしているね」
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・8、小川 隆訳)

心の眼のなかで家族たちが薄れてしまうと、オルミイはみんなが返してくれた荷物をほどき、そのすばらしい中身を貪欲にとりこんだ。/それは彼の〈魂〉だった。
(グレッグ・ベア『ナイトランド─〈冠毛〉の一神話』9、酒井昭伸訳)

翌朝はからりと晴れ上がった空だったので、ジェット夫人には何かにつけてほっと心の休まることが多かった。牛乳配達がカタコト音を立てて過ぎるのを聞いているのもいい気持ちだった。朝日が、自分で刺繍した窓のカーテンを通して、微笑むようにさしこんできたが、彼女はそれに微笑み返す余裕ができていた。
(ファニー・ハースト『アン・エリザベスの死』龍口直太郎訳)

国境守備兵ゲーディッケが彼の魂を構成する諸断片のうちから狭い選びかたをしたか、彼がその自我を新しく組み立てるのにそれらの断片をいくつとりあげ、いくつ排除したかはとうてい判然としがたいことであって、ただ言えるのは、かつては彼のものだったなにものかがいまの彼には欠けているという気持を抱いて歩きまわったということだけである。
(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・一五、菊盛英夫訳)

そのとき、クローンのモーナがビリー・アンカーのコントロール・ルームの壁に書かれたヒエログリフの行間から歩みでてきた。
(M・ジョン・ハリス『ライト』17、小野田和子訳)

「知っておいてもらいたいことがあるの」アイリーンが言った。「あなたの中のわたしたちの思い出は、偽物だった。でもこのとおり、今はもう本物になったわ」
(ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面20、嶋田洋一訳)

(…)よどんだように静かで、荒涼とした風景だが、ジョカンドラにとってはホームグラウンドだった。そしてその静けさが彼女の心にも静けさを呼び起こし、熱っぽい額にあてられた冷たい湿布のように彼女の緊張をほぐした。
(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』3、友枝康子訳)

エディにとってはただのピアノではなかった。ネディなのだった。エディはある程度の時間手にしたものには何でも愛称をつけた。それはまるで、馴染み深い海岸線や目的地が見えないと不安にかられる大昔の船乗りさながらに、名前から名前へと飛びうつっているかのようだった。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『奇妙な関係』母・2、大瀧啓裕訳)

リシュリューとライヒプラッツはまったく同じ意味──〈豊かなる場所〉をあらわすことばであることを知って愕然となった。
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの航星日記』第二十回の旅、深見 弾訳)

「人間は同じものにいろいろな名前をつけます」とメアリがいった。「〈混沌〉はわたしたちにとっては一つのことを意味するにしても、ほかのだれかにとってはまったくべつなことを意味するかもしれません。さまざまの文化的背景がさまざまの認識を生むのです」
(クリフォード・D・シマック『超越の儀式』23、榎林 哲訳)

(…)何世紀も昔の哲学者ニーチェの文章を思い出した。(…)人間の心を蜜蜂の巣として描いている。われわれは蜜の収集家であって知識や観念を少しずつ運んでくるのだと──
(バリントン・J・ベイリー『知識の蜜蜂』岡部宏之訳)

ラムジー夫人はそれを巧みに結び合わせてみせた、まるで「人生がここに立ち止まりますように」とでもいうように。夫人は何でもない瞬間から、いつまでも心に残るものを作り上げた(…)
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第三部・3、御輿哲也訳)

セアこそ、わたしの初恋の人だった。また彼女は、わたしが救った人のものだったから、わたしは彼女を崇拝してもいた。最初にセクラを愛したのは、彼女がセアを思い出させるからにほかならなかった。今(…)わたしはふたたびセアを愛した──なぜなら、彼女はセクラを思い出させるから。
(ジーン・ウルフ『調停者の鉤爪』10、岡部宏之訳)

美しいものというのはいつも危険なものである。光を運ぶ者はひとりぼっちになる、とマルティは言った。ぼくなら、美を実践する者は遅かれ早かれ破滅する、と言うだろう。
(レイナルド・アレナス『夜になるまえに』刑務所、安藤哲行訳)

少女は少女の痛みを抱えて、モーリスは自分の痛みを抱えて、二人は芝生を並んで歩いた。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・9、青木久恵訳)

E・A・ロビンソンは彼の後半生において自分の詩以外はどんな詩もほとんど読まなかったと告白している。ただ自分の詩だけをくり返しくり返し読む。これは自己模倣の麻痺が、人生半ばにして多くの良い詩人を駄目にするという事実の説明にもなる。
(デルモア・シュワーツ『現代詩人の使命』2、鍵谷幸信訳)

自分は個性(パーソナリテイ)に欠けるというエドワードの意見は正しい。彼は実際に同席しているときより話題にされているときのほうが実在感があった。友だちがぼくを作っていると彼はよく言った。しかし、彼の存在が目に見えない秘密の通路を通ってぼくたちに流れこんでいたのだ。
(L・P・ハートリー『顔』古屋美登里訳)

ところがそれ以来、電話はかかって来なくなった。かつてエドマンドが初めて交換手に苦情を言った直後と同じだ。アトリエは今や昼も夜も澱んだ熱気と静寂に満たされており、絵の中の子供らはめいめい好き勝手に虚空を見つめている。
(ロバート・エイクマン『何と冷たい小さな君の手よ』今本 渉訳)

だが、ラシーヌが何を言おうと、死者たちの国へ降りてゆくための道はない。魂たちのかわりに、ここにあるのは飛ぶ種子、浮遊する蜘蛛の糸、羽虫だ。死者たちの国への入り口はケルトの伝説が語っているように一筋のまっ直ぐな道でできている。
(イヴ・ボヌフォワ『大地の終るところで』VIII、清水 茂訳)

「もし私が他の人たちより少しでも遠くをみたとするならば、それは私が巨人の肩にたっていたからだ」という言葉は、ニュートンの言葉だとされている。しかり、彼は巨人の肩に立っていた。その巨人のうち最大のものはデカルト、ケプラー、ガリレオであった。
(E・T・ベル『数学をつくった人びと I』6、田中 勇・銀林 浩訳)

「あなたたちはもう行かないと」アーリーンの声が言った。「話している時間はないわ。もちろん、そんな必要もないんだけど」
(ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面20、嶋田洋一訳)

ジョン・シェイドの外貌はその男の中身とあまりにもそぐわないために、人びとはそれを粗野な偽装だとか、ほんのかりそめのものだと感じがちなのであった。
(ナボコフ『青白い炎』前書き、富士川義之訳)

トインビーは、スパルタのミストラの丘の上の白のてっぺんに腰を下ろし、一八二一年にそこを壊滅させた蛮族が残した廃墟を眺めていた。まるで今にも、その蛮族たちが地平線の彼方からだしぬけにどっとあふれ、この街を滅ぼしつつあるように思われ、昔のことがありのまま(、、、、、)に起こったことに彼は打撃を受けた。
(コリン・ウィルソン『時間の発見』第5章・5、竹内 均訳)

あたしがジェイクに恋したのは、ジェイクの頭がよかったからじゃない。あたしだってけっこう頭はいい。頭がいいっていうのはいい人だってことじゃないのはあたしだってわかるし、学識があるってことでさえないのもわかる。頭のいい人が、いろんな厄介事を自分で招いてるのを見ればそれくらいわかる。
(ケリー・リンク『余生のハンドバッグ』柴田元幸訳)

クロフォードの背後の斜面の木々が折れたり倒れたりしている。丘そのものが目ざめて自分の器官である木の絨毯を投げすてているかのようだ。海が鍋のお湯のように泡だっている。空いっぱいに幽霊が勢いよく飛びかっている。
(ティム・パワーズ『石の夢』下・第二部・第十七章、浅井 修訳)

まぎれようもない態度を何か示すべきだ。だが、ハトン氏は急におびえてしまったのである。彼の身内に発酵(はつこう)したジンジャー・エールの気が抜けたのだ。女は真剣だった──おそろしく思いつめていた。彼は背筋が冷たくなるのを感じた。
(オールダス・ハックスレー『モナ・リザの微笑』龍口直太郎訳)

町が変わりつつあることは、ブリケル夫人にとってはべつだん驚くほどのことではなかった。小さいときからずっと見てきた子どもたちも、いずれ大人になって、それぞれ子どもを持つようになるはずだ。最近は、かつてのように都会に出て名をあげようとするのではなく、小さな町でゆったりと暮らしたい、という人も多くなった。
(アン・ビーティ『貯水池に風が吹く日』8、亀井よし子訳)

スケイスは蛇口を締めて、その規則的な静かな滴りを止めたい衝動にかられたが、こらえた。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・6、青木久恵訳)

それじゃ宇宙は電子からなっているのね。その電子は、カ空間がとても小さく丸まってできた極(ごく)微(び)の輪なのね。そうなのね、ヤリーン?
(イアン・ワトスン『存在の書』第三部、細美遙子訳)

アンジェリーナ・ソンコは今や二重ヴィジョンで世界を眺めており、第二の景色が現実の世界を明るく照らし、明晰化し、絶えず作り変えてゆく。
(イアン・ワトスン『マーシャン・インカ』I・7、寺地五一訳)

もうひとりの男はジェミーと紹介された。《長老》? そんな歳には見えない。だが、このひとたちにとって〈老〉ということばは〈賢明〉を意味するのかもしれない。その点では、かれにはその資格がある。多くの人間に見られる未完成なところが、このひとにはみじんも感じられない。彼は──そう、完璧だ。
(ゼナ・ヘンダースン『忘れられないこと』山田順子訳)

アメリカの上層中流階級の市民はいろいろな否定の合成物だ。彼らは主として自分がそうではないものによって表現されている。ゲインズの場合はそれ以上だった。彼は否定的であるだけでなく、絶対に目に見えない存在で、つかみどころのない、かといって非の打ちどころのない存在だった。
(ウィリアム・バロウズ『ジャンキー』第六章、鮎川信夫訳)

こういう状況だというのに、ジョニイは力強さと生気をみなぎらせていた。こんな人間にはめったにお目にかかれるもんじゃない。説明はむずかしいが、いままでにも何度か、部屋にいならぶ大物たちが、ジョニイのような人物を中心にして、ひとりでに動きだすのを見たことがある。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』下・探偵の物語、酒井昭伸訳)

オードリーの首の中に脊椎骨がひょい(ポツプ)と現われる。アーンは舌をチッと鳴らす。オードリーがじっと鏡の中のトビーの虚ろな青い目を一心に見つめると、生まれたばかりの死霊のような乳白色の肉が自分の体に張りついているのが見えた。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳)

(…)飛行機の旅はよかったかとか、ブロンズの鐘を鳴らしたかとか、と彼女が訊いた。善良な老シルヴィア! 彼女は物腰の曖昧さ、なかば生来の、なかば飲酒したときの好都合な口実として培った無精な態度の点で、フルール・ド・フィレールと共通するところがあった。
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

雨のリズムにやがてミンゴラのほうも眠くなってきた。さまざまな思いがつぎつぎと、輪を描いて虚(こ)空(くう)を飛ぶ鷹のように意味も脈絡もなく、頭の中をよぎっていった。デボラのこと、自分の力のこと、タリーや、イサギーレのこと、故郷と戦争のこと。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・7、小川 隆訳)

カントが、われわれは世界を「カテゴリー」に分けてみる、と言っているのは正しい。カントの言う「カテゴリー」を、あなたの鼻の上にのっている目に入るものすべてが最も奇異な角度や位置にみえるような、へんてこな色メガネと考えてみよう。実はこれこそがわれわれの頭脳が把握している空間と時間なのである。
(コリン・ウィルソン『時間の発見』第5章・5、竹内 均訳)

薔薇の花輪がどの壁にもかかっていた。イーフレイムは来ているのか?
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』H、志村正雄訳)

「ええ!」ヒギンズは熱烈にそう答え、たぶんカーライルの緊張を感じ取ったのだろう、少し譲歩した。「少なくとも今以上に、現実への深い洞察が得られるわ」
(ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面12、嶋田洋一訳)

モーリスはあの時の、感情を害して気まずそうにしている彼女の顔を思い出した。そんな感情に気がつかなければよかった。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・8、青木久恵訳)

ヘアーは、靴のなかに小雨がしみとおってくるのもかまわず、都市の古い区域を歩きまわった。裸になったが温かい気分、青衣をぬぎはしたが、はじめてこの世界を歩いている気分だった。両足が、一歩また一歩とその世界を作りあげているようだった。
(ジョン・クロウリー『青衣』浅倉久志訳)

キャサリンはカールトンの部屋の荷物を出し終えていた。熊や鵞鳥や猫の形をしたナイトライトが、そこらじゅうのコンセントに差してあった。小さな、低ワット数のテーブルランプもある。カバ、ロボット、ゴリラ、海賊船。何もかもが優しい、穏やかな光に浸されて、部屋をベッドルーム以上の何かに翻訳していた。
(ケリー・リンク『石の動物』柴田元幸訳)

ジョニーは向こう側にいる──向こう側というのが正確に何を指しているのかよく分からないが──そんなジョニーがぼくは羨ましい。一目でそうと分かる彼の苦しみはべつとして、ぼくは彼のすべてが羨ましい。彼の苦しみの中には、ぼくには拒まれているあるものの萌芽があるように思えるのだ。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

「いやいや」〔と足を組みかえ、何か意見を開陳しようとする際にいつもそうするように肘掛椅子をかすかに揺らしながら、シェイドが言った〕「全然似ていないよ。ニュース映画で王を見たことがあるが、全然似ていないよ。類似は差異の影なんだよ。異った人びとは異った類似や似かよった差異を見つけるものなんだよ」
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

私の周囲にあったものは、すべて私と同一の素材、みじめな一種の苦しみによってできていた。私の外の世界も、非常に醜かった。テーブルの上のあのきたないコップも、鏡の褐色の汚点も、マドレーヌのエプロンも、マダムの太った恋人の人の好さそうな様子も、すべてみな醜かった。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

オードリーの目の前の少年は体内から光を発している。真下の床が落ちるのをオードリーが気づくや、少年の目に一瞬ぎらっと光が走る。オードリーが落ちると同時に少年の顔もいっしょに下へ。すると目がくらむばかりの閃光が部屋と、待ちかまえている顔たちを消滅させる。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第二部、飯田隆昭訳)

アイネンが、形のくずれた靴から視線をもどす。
(ホリア・アラーマ『アイクサよ永遠なれ』15、住谷春也訳)

ダンツラーは手を伸ばしたが、相手の手をとる代わりに、その手首をつかんでひき倒した。DTはいいほうの足でバランスをとろうとしたが、ひっくり返って霧の下に姿を消した。落ちるだろうと思っていたのだが、DTは肌に霧をはりつけたまますぐにうきあがってきた。そのはずだ、とダンツラーは思った。
(ルーシャス・シェパード『サルバドル』小川 隆訳)

「あなたは宇宙を支配しているのですか?」ザフォドが訊(き)いた。
(ダグラス・アダムス『宇宙の果てのレストラン』29、風見 潤訳)

ぼくのために橋となってはくれないきみの愛がぼくを苦しめるのだ、橋は片側だけで支えられるものではないのだからね、ライトだってル・コルビュジェだって片側だけで支えられる橋を造ることはないだろう。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・93、土岐恒二訳)

フロベールは、オメーの俗悪さを列挙する場合にも、全く同じ芸術的な詐術を使っている。内容そのものは下卑ていて不快なものであっても、その表現は芸術的に抑制が利き調和しているのだ。これこそ文体というものなのである。これこそ芸術なのだ。小説で本当に大事なことは、これを措いてほかにない。
(ナボコフ『ナボコフの文学講義』上・ギュスターヴ・フロベール、野島秀勝訳)

(…)夫人はあと一瞬だけとどまろうとした。それから身を動かし、ミンタの腕をとって部屋を出ると、もうあの光景は変化し、違った形をとり始めた。夫人は、肩ごしにもう一度だけ振り返って、それがもはや過去のものになったことを知った。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・17、御輿哲也訳)

ダルグリッシュの視線が、すでに一度はとらえておきながら気がつかずにいた或るものの上にとどまったのはそれからだった。大机の上に載っている、黒い十字架と文字の印刷された通知書の一束である。その一枚を持って、彼は窓ぎわへと行った。明るい光でよく見れば、自分のまちがいがわかる、とでも言うように。しかし、(…)
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』2・1、小泉喜美子訳)

そんなものに、わしゃヘンダソンよりも多くのものを発見するんだよ。
(イエイツ『まだらの鳥』第一編・4、島津彬郎訳)

この家の玄関を設計するにあたって、ぼくはブレインの家の玄関ホールを再現しようと試みた──と言っても巻尺で測ったような現実としてではなく、ぼくの記憶にあるとおりの現実として。現存する「生きて、呼吸し、存在する」ぼくの記憶が、いまは滅んで取り戻せない物理的存在よりも現実的でないなどとどうして言えるだろう。
(ジーン・ウルフ『ピース』2、西崎 憲・館野浩美訳)

キェルケゴールはたずねる。「世界と呼ばれているものは何なのか?…この世へ私をいざなっておきながら、今そこに私を置き去りにしたのは誰なのか?…私はどうしてこの世にきたのであろう?…なぜ私は顧みられなかったのか?…もし私がこの世にむりやりに仲間入りさせられているのなら、その指導者はどこにいるのか?…私はその人に会いたい」。
(コリン・ウィルソン『時間の発見』第5章・8、竹内 均訳)

マルティンは自分がまだ知らないでいるアレハンドラの心の一部を探るかのように、部屋の中を見まわした。
(サバト『英雄たちと墓』第I部・9、安藤哲行訳)

(…)それからフラムは扉を閉めて、彼の蒸気船を去り、同時に彼の人生から去っていった。
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』30、増田まもる訳)

まだ一年も経っていないというのに、サマンサは母親がどんな姿をしていたか忘れかけている自分に気づいた。母親の顔だけでなく、どんな香りだったかさえも。それは乾いた干し草のようでもあり、シャネルの五番のようでもあり、なにか他のもののようでもあった。
(ケリー・リンク『スペシャリストの帽子』金子ゆき子訳)

グレース・ファーガソンに対する興味が深まれば深まるほど、彼女の家やその周辺も彼にとって生き生きとしたものになってきた。
(ヒュー・ウォルポール『白猫』佐々木 徹訳)

人間思想の全分野を革新するということは、きわめてわずかな人にしか許されていない。デカルトはこのわずかな人間の一人である。
(E・T・ベル『数学をつくった人びと I』3、田中 勇・銀林 浩訳)

ウィンターはこの数分で二度目の、自分の世界が裏返される感覚を味わった。「シュレイムが嘘を?」
(ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面20、嶋田洋一訳)

彼女は母親とエスペンシェイ氏と一緒に生まれ故郷のマサチューセッツ州サットンに戻り、その町にある大学に入学した。
(ウラジミール・ナボコフ『ローラのオリジナル』若島 正訳)

クロフォードは絶望的な思いでその血を見つめながら自分を奮いたたせようとする。
(ティム・パワーズ『石の夢』下・第二部・第十七章、浅井 修訳)

(…)他人の生活に鼻をつっこむのは(夫人の母親のいい方に従えば、"のぞき")、友情を保つ方法とはけっして思えなかった。たとえ尋ねなくても、知りたいと思う以上のことが聞こえてくるものだ。ブリゲル夫人の経験によれば、そうだった。
(アン・ビーティ『貯水池に風が吹く日』8、亀井よし子訳)

私が自分の持物を二階の部屋に運んでいくとハンスは彼と同室の者を私に紹介してくれた。ミドルタウン出身のアメリカの著者で名前はディンク・リバーズ。じっと私を見つめる並外れて澄んだ灰色の目に驚きの色が浮かんだ。昔の知人と会ったかのようだった。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第一部、飯田隆昭訳)

一瞬私は水の涸れた河床にいて彼が「私が欲しいのならすぐ抱き上げて」と言っているような声を耳にした。しかし次ぎの瞬間ポート・ロジャーのこの部屋にいて私達二人は手を握り合い、彼は頷いていた。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第一部、飯田隆昭訳)

DTは鼻を鳴らした。「たしかにそうだ!」あえぎながらたちあがると、足をひきずって小川の縁に(ママ)歩いた。「渡るのに手を貸してくれ」
(ルーシャス・シェパード『サルバドル』小川 隆訳)

それが実際に父親の口から聞く最後の言葉ということが分っていたなら、マルティンは何か優しい言葉を口にしただろうか?/人は他人に対してこんなにも残酷になりうるものだろうか?──とブルーノはいつも言うのだった──もし、いつか彼らが死ななければならない、
(サバト『英雄たちと墓』第I部・7、安藤哲行訳)

そしてそのときには、彼らに言った言葉はどれも訂正しえないものだということがほんとうに分っているなら。/彼は父が後ろを向き、階段のほうに遠ざかっていくのを見た。そして、姿を消すまえにもう一度向きなおり、死後何年かしてマルティンが絶望の中で思いだす、あの視線を向けたのだった。
(サバト『英雄たちと墓』第I部・7、安藤哲行訳)

彼は頭の回転の速い男ですが、ジュリアンが恐ろしくゆがめてしまったのです。彼のことばに耳を傾けるすべての者をゆがめてしまうように。
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』30、増田まもる訳)

ルイーズの席からだと、どのチェリストもみんな美男子だ。なんて弱々しい人たちなの、とルイーズは思う。黒のお堅い衣装を着て、あんなふうに音楽を弦から流れ落とし、開いた指のあいだから溢れさせている。まったく不注意なもんだわ。しっかりつかんでおくべきなのに。
(ケリー・リンク『ルイーズのゴースト』金子ゆき子訳)

彼の片方の目は温和で親しみがこもっているが、もう片方の目は嘲りの光を放っているのに私は気づいた。全く人迷惑な目だ。バート・ハンセンはどう応えていいやら分からず不快そうな笑みをこぼしたが、一瞬この二人そっくりすり替わったんじゃないかと思われるような同じ笑みが、今度は彼からこぼれた。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第二部、飯田隆昭訳)

「分る、マルティン? これまで世界には多くの苦しみが生まれなければならなかった、その苦しみがこうした音楽になったのよ」/レコードを外しながら言った、/「凄いわ」
(サバト『英雄たちと墓』第I部・9、安藤哲行訳)

「どうぞ!」とドニヤ・カルロータはケイトに言った。「もうお休みになりましたか?」
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・10、宮西豊逸訳)

小人は片腕をあげるとパリダに向かって伸ばす。
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

「行かなきゃ」とアリスが言った。
(コニー・ウィリス『リメイク』大森 望訳)

「まあ、あなた」とマグダレンは溜息をついた。
(エリス・ピーターズ『死者の身代金』8、岡本浜江訳)

──上の人また叩いたわ──とバブズが言った。
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

「ゴードンがお気に入りの花々をお見せするでしょう」と彼女は言って、隣室に呼びかけた。「ゴードン!」
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

小人は片腕をあげるとパリダに向かって伸ばす。
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

「行かなきゃ」とアリスが言った。
(コニー・ウィリス『リメイク』大森 望訳)

「まあ、あなた」とマグダレンは溜息をついた。
(エリス・ピーターズ『死者の身代金』8、岡本浜江訳)

──上の人また叩いたわ──とバブズが言った。
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

「ゴードンがお気に入りの花々をお見せするでしょう」と彼女は言って、隣室に呼びかけた。「ゴードン!」
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

「行かなきゃ」とアリスが言った。
(コニー・ウィリス『リメイク』大森 望訳)

「まあ、あなた」とマグダレンは溜息をついた。
(エリス・ピーターズ『死者の身代金』8、岡本浜江訳)

──上の人また叩いたわ──とバブズが言った。
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

「ゴードンがお気に入りの花々をお見せするでしょう」と彼女は言って、隣室に呼びかけた。「ゴードン!」
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

「まあ、あなた」とマグダレンは溜息をついた。
(エリス・ピーターズ『死者の身代金』8、岡本浜江訳)

──上の人また叩いたわ──とバブズが言った。
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

「ゴードンがお気に入りの花々をお見せするでしょう」と彼女は言って、隣室に呼びかけた。「ゴードン!」
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

──上の人また叩いたわ──とバブズが言った。
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)

「ゴードンがお気に入りの花々をお見せするでしょう」と彼女は言って、隣室に呼びかけた。「ゴードン!」
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

「ゴードンがお気に入りの花々をお見せするでしょう」と彼女は言って、隣室に呼びかけた。「ゴードン!」
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

ゴードンは驚いたように首をふった。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳)

「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)


IN THE DEAD OF NIGHT。──闇の詩学/余白論─序章─

  田中宏輔



どこで夜ははじまるのだろう?
(リルケ『愛に生きる女』生野幸吉訳)

夜は孤独だ
(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・七七、菊盛英夫訳)

めいめい自分の夜を堪えねばならぬのである。
(ブライアン・W・オールディス『銀河は砂粒のように』4、中桐雅夫訳)

光を運ぶ者はひとりぼっちになる
(レイナルド・アレナス『夜になるまえに』刑務所、安藤哲行訳)


 林 和清と、早坂 類と、そして、筆者の三人によって、一九九〇年の秋に創刊された同人雑誌の「Oracle」は、一
九九七年の春に十三号をもって終刊したのだが、途中、出すたびにさまざまな書き手を加えていった。笹原玉子もそ
の一人であり、第三号から参加して、短歌や詩を発表していた。つぎに紹介する作品は、その彼女が上梓した第一歌
集の『南風紀行』から六首を選び、一行置きに、筆者の短い詩句を添え、一九九一年の冬に出した同誌の第四号に、
詩として掲載したものである。


Opuscule


誰が定めたる森の入り口 夜明には天使の着地するところ

睡つてゐるのか。起きてゐるのか……。

教会の天井弓型にくりぬいてフラ・アンジェリコの天使が逃げる

頬にふれてみる。耳にもふれてみる。そつと。やはらかい……。

数式を誰より典雅に解く君が菫の花びらかぞへられない

胸の上におかれた、きみの腕。かるく、つねつて……。

知つてゐた? 夜が明けるといふこんな奇蹟が毎日起こつてゐることを

うすくひらかれたきみの唇。そつと、ふれてみる。やはらかい……。

君のまへで貝の釦をはづすとき渚のほとりにゐるごとしわれ

指でなぞる、Angel の綴り。きみの胸、きみの……。

書物のをはり青き地平は顕れし書かれざる終章をたづさへ

もうやはらかくはない、きみの裸身。やさしく、かんでみる……。


 一九九二年の春に出した同誌の第五号では、同人の林が上梓した第一歌集の『ゆるがるれ』のなかから七首を採り
上げ、それらの歌を通して、林の造形技法について論じた。そのうち、三首をつぎに引用する。


淡雪にいたくしづもるわが家近く御所といふふかきふかき闇あり

闇よりくろき革衣着てちはやぶる神戸オリエンタル・ホテルへ

昇降機すみやかに闇下りつつ死してはじめて人は目覚める


 これらを筆者は、「闇の miniatures」と名づけたのであるが、それが、このときの論考に「Bible Black」というタ
イトルをつけた所以ともなっている。
 同人雑誌を最後に出したころに催された同人会の宴の後、三次会になるのか、四次会になるのか、それは定かでは
ないが、夜中の一時はゆうに過ぎていたと思われる。まだまだ帰るのには早過ぎるとでもいうように、林と笹原の二
人が筆者宅に寄り、筆者とともに三人で酒を酌み交わしながら明け方までしゃべりつづけていたことがあったのだが、
そのとき、天狗俳諧もどきのことをしたのである。ちょっとした遊びのつもりで、順々に三人で、上句に中句、中句
に下句をつけて、俳句を詠んだのだが、あまり面白いものとはならなかったので、筆者の提案で、出された句を、各
自で自由に選んで組み合わせることにしたのである。三人が競作をして、それぞれ見せ合ったのであるが、このとき
ほど笑ったことはなかった。まさに、「めちゃくちゃな」といった言葉で形容されるようなものが、つぎつぎと披露さ
れていったのである。それらは、どれもみな、三人の個性が非常によく現われたものとなっていた。筆者がつくった
もののうち、いくつかのものを、つぎに紹介する作品のなかに入れておいた。初出は、ユリイカの一九九八年十二月
号である。


木にのぼるわたし/街路樹の。


ぼく、うしどし。
おれは、いのししで
おれの方が"し"が多いよ。
あらら、ほんとね。
ほかの"えと"では、どうかしら?
たしか、国語辞典の後ろにのってたよね。
調べてみましょ。
ううんと、
ほかの"えと"には、"し"がないわ。
志賀直哉?
偶然かな。
生まれたときのことだけど
はじめて吸い込んだ空気って
一生の間、肺の中にあるんですって。
ごくわずかの量らしいけどね。
もしも、道端に
お父さんやお母さんの顔が落ちてたら
拾って帰る?
パス。
アスパラガス。
「どの猿も 胸に手をあて 夏木マリ」
「抜け髪の 頭叩きて 誰か知れ」
「フラダンス きれいなわたし 春いづこ」
「ゐらぬ世話 ダム崩壊の オロナイン」
「顔おさへ 買ひ物カゴに 笠地蔵」
「上着脱ぐ 男の乳は みんな叔母」
「南下する ホームルームは 錦鯉」
これが俳句だと
だれが言ってくれるかしら?
〈KANASHIIWA〉と打つと
〈悲しい和〉と変換される。
トホホ。
それでも、毎朝、奴隷が起こしてくれる。
まだ、お父様なのに。
間違えちゃったかな。
ダンボール箱。
裸の母は、棚の上にいっしょに並んだ植木鉢である。
魔除けである。
通説である。
で、きみは
4月4日生まれってのが、ヤなの?
オカマの日だからって?
だれも気にしないんじゃない?
きみの誕生日なんて。
それより、まだ濡れてるよ。
この靴下。
だけど、はかなくちゃ。
はいてかなくちゃ。
これしかないんだも〜ん。
トホホ。
いったい、いつ
ぼくは滅びたらいいんだろう。
バーガーショップ主催の交霊術の会は盛況だった。


つぎに、筆者にとって、ポエジーの源泉となるほどに魅了された俳句や短歌を、系統別に分類する。


気の狂つた馬になりたい枯野だつた                             (渡辺白泉)

菫程の小さき人に生れたし                                 (夏目漱石)

馬ほどの蟋蟀となり鳴きつのる                               (三橋鷹女)

一枚の落葉となりて昏睡(こんすい)す                                 (野見山朱鳥)


 他のものになりたい、いまの自分ではいられない、という強い気持ちが、他のものに生まれ変わりたいというここ
ろからの願いが、言葉となって迸り出てきたものであろうか。引用した句のなかでは、とりわけ、はじめの三句にお
いて、その句を作っていたときに、作者たちの心境がかなり危ういところにあったものと推測される。


蟻地獄松風を聞くばかりなり                                (高野素十)

団栗(どんぐり)の己が落葉に埋れけり                                 (渡辺水巴)

木を割(さ)くや木にはらわたといふはなき                             (日野草城)

機関銃天ニ群ガリ相対ス                                  (西東三鬼)


 正確にいえば、すべての句が擬人法に分類できるものではないのかもしれないが、自己の心情を事物に仮託して語
らしめているところは、同様の手法である。


牛(うし)馬(うま)が若し笑ふものであつたなら生かしおくべきでないかもしれぬ              (前川佐美雄)

さんぼんの足があつたらどんなふうに歩くものかといつも思ふなり              (前川佐美雄)

考えがまたもたもたとして来しを椅子の上から犬が見ている                  (高安国世)


 これらの三首には、教えられるところが多かった。短歌では、思考方法をより応用発展させられるようなものが、
わたしの好みである。つぎの三首もまた、同様の傾向のものである。


憂鬱の鳥が頭上にあらはれてふたりの肌のにほひをかへる                    (林 和清)

言霊の子は森といふ文字バラバラにひきはなしたりもどしたり                 (笹原玉子)

冬日和 病院にゐて犬がゐて海もそこまで来てゐるらしい                  (魚村晋太郎)


 林の歌からは、「鳥が来ては、わたしの魂を、他のだれかの魂と取り換える。」といった言い回しを思いついたのだ
が、イメージ・シンボル辞典を引くと、「飛び立とうとしている鳥、または翔んでいる鳥は魂の実体化したもの。」とあ
る。休日には、よく賀茂川の河川敷にあるベンチの上に坐って、鳥たちが空を飛んでいる姿を目で追っていたり、川
のなかで餌をあさっている様子を見つめていたりして、ぼうっとしていることが多いのだが、サバトの『英雄たちと
墓』の第III部・37に、「魂は鳥のように遠くの地に飛ぶことができるとは考えられないものだろうか?」(安藤哲行訳)
とある。後で、原 民喜のところで述べることの先取りになると思われるが、「鳥が来ては、わたしの魂を、他のだれ
かの魂と取り換える。」という言い回しを、「孤独な魂が、わたしの魂を、他のだれかの魂と取り換える。」とすると、
ますます、わたし好みのものになる。

 笹原の歌からは、「巧妙な組みあわせがよく知られた語を新鮮なものにする」(ホラーティウス『詩論』岡 道男訳)。
「詩句とは幾つかの単語から作った(……)国語の中にそれまで存在しなかった新しい一つの語である。」
(マラルメ『詩の危機』南條彰宏訳)「たえず脳漿(のうしよう)に憑(つ)きまとう無数の抒情的なとりつき易い言葉と
美辞麗句をしりぞけ」(マラルメの書簡、アンリ・カザリス宛、一八六四年一月付、松室三郎訳)、「われわれの先輩
たちが(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)(……)すでに秩序を与へて呉れてゐるところの結合を(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)、
さらに新奇に結合し直すことである(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)。」(ポオの『ロングフェロウ論』
より、阿部知二の『ColeridgeとPoe』からの孫引き)「作りうる組合せは無数にあり、その大部分はぜんぜん的外れの
ものである。無用な組合せを避け、ほんの少数の有用な組合せを作ること、これこそが創造するということなのである。
発見とは、識別であり選択である。」(E・T・ベル『数学をつくった人びとIII』28、田中 勇・銀林 浩訳)「新しい関
係のひとつひとつが新しい言葉だ。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)「一つの言語を創り出すこと」(マラルメの書簡、
アンリ・カザリス宛、一八六四年十月付、松室三郎訳)。「言語の絶えまなき再創造(つくりなおし)」(C・デイ・ルイス『詩を読む若
き人々のために』I、深瀬基寛訳)。「再創造する力のない思考は、かわりに因習的などうでもよいイメージを持ってく
ることを余儀なくされている」(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラ、鈴木道彦訳)。「卑猥と
さえ思えることも、思考の新しい脈(みやく)絡(らく)で語られると、輝かしいものとなる。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)「なすべ
きことはひとつしかない。自分を作り直すことだ。」(ヴァレリー『邪念その他』P、清水 徹訳)「生まれるとは、前と
は違ったものになること」(オウィディウス『変身物語』巻十五、中村善也訳)といった言葉が思い出されたのだが、
それは、結局のところ、語の選択や、語と語の結合といったものが、そして、その配置や全体の構成といったものが、
文学作品のすべてであるということを、改めて、わたしに思い起こさせるものであった。

 魚村の歌には、目を瞠らされた。自分のほかには、だれもいない病院の玄関先で、これまた吼えもしない、おとな
しい犬を眺めながら、ぼうっとしているような冬日和の静かな街角。その街角の風景のなかで、海だけが動いている。
これまた静かに、ひたひたと破滅の音階を携えながら、といった映像が思い浮かんだ。山が動く、森が動いてくると
いうのは、聖書やシェイクスピアにもあった。海が近づいてくるというイメージは新鮮であった。また、この海が近
づいてくるというイメージは、冬日和の静かな街角の風景そのものが、しだいに海のなかに滑り落ちていくという映
像をも思い浮かばせてくれた。この二つの映像は、作品を読むときばかりではなく、作品をつくるときのイメージ操
作の訓練にも役に立つと思った。逆の視点から見ること。相反する向きから眺めること。それを空間的なものに限る
必要はない。時間的なものにも応用できる。

 以上、引用してきた俳句や短歌には、すべて、「ポウが詩のもっとも大切な要素としてかんがえたあの不意打ち」(エ
リオット『アンドルー・マーヴェル』永川玲二訳)があり、それは、「予期に反して」(アリストテレース『詩学』第九
章、松本仁助・岡 道男訳)、「わたしを驚かせ」(コクトー『ぼく自身あるいは困難な存在』ぼくのさまざまな逃亡につ
いて、秋山和夫訳)、「私の目を私の心の底に向けさせる」(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第四場、大山俊一
訳)ものであった。ただ、これらのうち、多くの「作品が驚かせることに気をつかいすぎることはたしかである」(ボ
ルヘス『伝奇集』ハーバート・クエインの作品の検討、篠田一士訳)が、しかし、驚きこそ、関心を惹かせる最たるも
のである。それにまた、「思考にとって、予想外ほど実り豊かなものがあろうか。」(ヴァレリー『己れを語る』頭脳独
奏用協奏曲、佐藤正彰訳)。

 ところで、子供というものは、何にでも驚くものである。「愚鈍な人間は、どんな話を聞いても、よくびっくりする
ものだ。」(『ヘラクレイトスの言葉』八七、田中美知太郎訳)というが、子供が驚くのは不思議でも何でもない。知ら
ないからである。成長するにつれて、驚くことが少なくなっていく。知っているつもりになるからである。子供はま
た、よく怖がるものである。とりわけ、闇を怖がる。少なくとも、わたしはそうであったし、いまでも、そうである。
いまだに電灯を点けたままでないと眠れないのである。子供のころ、母親がわたしの部屋の電灯を消して、部屋から
出て行った後、布団を被らなければ眠れなかったのである。同じ暗闇でも、布団さえ被れば安心だと思っていたから
である。何ものかの気配を感じて眠れなかったのである。いまでも電灯を消してしまうと眠ることができないのは、
何ものかの気配を感じてしまうからである。ふつう、大人になると、自分の部屋のなかの闇を怖がったりはしないも
のだと思われるのだが、それは、そこに何ものかがいることを感じることができないからであろう。子供のころのわ
たしが、闇そのものの怖さを感じていたのかどうかは、いまとなっては思い出すことができないのだが、闇のなかに
潜む何ものかの気配を感じて怖がっていたことだけは、たしかに憶えている。

 わたしが詩を書きはじめたころ、だいたい一九九〇年ごろのことで、ずいぶん以前のことだが、真昼間にドッペル
ゲンガーを見て、部屋のなかにいた何者かの正体が、もう一人のわたしであることがわかって、闇のなかに潜んでい
たのが自分自身であることに気がついてから、少しは闇に対する恐怖心も薄れたのだが、それでも、いまだに電灯を
点けたまま眠っているのである。というのも、たとえ、それが自分自身とはいっても、やはり怖いからである。それ
に、それがほんとうに自分自身であったのかどうか、確実なことはいえないからである。わたしに擬態した何ものか
であった可能性もあるからである。と、こういったことが、橋 〓石の「日の沈むまで一本の冬木なり」という俳句に
出会ったときに思い出されたのだが、ドッペルゲンガーを見たのは、ただ一度きりのことであり、二度とふたたび出
てくることはなかった。もう一度くらい自分自身と顔を見合わせる機会があってもよいのではないかと思われるので
あるが、じっさいに出てくると、やはり驚くことになるのであろう。これまでわたしが引用してきた俳句や短歌の作
者たちも、わたしと似たような感覚の持ち主なのではないだろうか。

 つぎに、原 民喜の作品から引用する。出典は、『冬日記』、『動物園』、『夕凪』、『潮干狩』、『火の子供』の順である。
彼もまた、わたしと同じような感覚を持っていたのではないだろうか。彼の小説はすべて、散文詩のような趣がある。


 ある朝、一羽の大きな鳥が運動場の枯木に来てとまった。あたりは今、妙にひっそりしてゐたが、枯木にゐる鳥
はゆっくりと孤独を娯しんでゐるやうに枝から枝へと移り歩いてゐる。その落着はらった動作は見てゐるうちに羨
しくなるのであった。かういふ静かな時刻といふのも、あるにはあったのか。彼はその孤独な鳥の姿がしみじみと
眼に沁みるのだった。

 去年、私ははじめて上野の科学博物館を見物したが、あそこの二階に陳列してある剥製の動物にも私は感心した。
玻璃戸越しに眺める、死んだ動物の姿は剥製だから眼球はガラスか何かだらうが、凡そ何といふ優しいもの静かな
表情をしてゐるのだらう、ほのぼのとして、生きとし生けるものが懐かしくなるのであった。

 肉はじりじりと金網の上で微かな音を立てた。胃から血を吐いて三日苦しんで死んだ、彼女の夫の記憶が、あの
時の物凄い光景が、今も視凝めてゐる箸のさきの、灰の上に灰のやうに静かに蹲(うづくま)ってゐる。

 濃い緑の松が重なり合ってゐて、その松の一本一本は揺れながら叫びさうであった。

僕は歩きながら自分の靴音が静かに整ってゐるのを感じる。

 まるで鏡のなかの自分自身をじっと見つめるように、民喜は、枯木の枝にとまる鳥を眺め、科学博物館に陳列され
ている剥製の動物に目をとめ、箸のさきにある灰や、濃い緑の松を見ているような気がする。ガラスの眼がはまった
剥製の動物の表情や、金網の上で焼ける肉の音も、松の木の枝葉の揺れや、静かに整って聞こえる自分の足の靴音で
さえも、自分自身のように感じていたのではないかと思われるほどである。すさまじい同化能力である。また、「ゆっ
くりと孤独を娯しんでゐるやうに枝から枝へと移り歩いてゐる」「枯木にゐる鳥」「の落着はらった動作」を「羨しく」
思う民喜であるが、彼はまた、『沙漠の花』のなかに、「私には四、五人の読者があればいいと考へてゐる。」とも書い
ており、その言葉だけからでも、彼がいかに孤独であったか、窺い知ることができよう。「孤独の実践が、孤独への愛
を彼に与えた」(プルースト『失われた時を求めて』第二篇・花咲く乙女たちのかげに、鈴木道彦訳)のかどうか、そ
れはわからないが、じっさい、彼は孤独であったと思われる。そうでなければ、「わたしの吐く息の一つ一つがわたし
に別れを告げてゐるのがわかる。」(『鎮魂歌』)といった言葉など書くことはできなかったであろう。「詩人は同時代人
たちのさなかにあって、真理と彼にそなわる芸術とのゆえに孤独な境遇にある」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)。
レイナルド・アレナスの『夜明け前のセレスティーノ』(安藤哲行訳)のなかに引用されている、ポール=マルグリ
ットの『魔法の鏡』に、「わたしの孤独には千の存在が住んでいる」といった言葉があるが、孤独になればなるほど、
同化能力が高くなるのであろうか。それとも、同化能力が高まるにつれて、ますます孤独になっていくのであろうか。
ローマ人の手紙五・二〇に、「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」とある。

 ここで、「私は彼の孤独を一つの深淵に比したいと思う。」(トーマス・マン『ファウスト博士』一、関 泰祐・関 楠
生訳)、「人間は自己自身を見渡すことができない。」(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳)、「蟋蟀(こほろぎ)が深き地
中を覗(のぞ)き込(こ)む」(山口誓子)ようにして、「自分自身のなぞのうえにかがみこむ」(モーリヤック『テレーズ・デスケイル
ゥ』五、杉 捷夫訳)ことしかできないのである。しかも、そこでは、つねに、「幾つもの視線が見張っていた。」(ガ
デンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』11、菅野昭正訳)「彼は、転べば、自分自身に出会う。彼は、自分に(ヽヽヽ)ぶつかる。」(ヴ
ァレリー『倫理的考察』川口 篤訳)「そこでは、唯一人(ヽヽヽ)の者が多数のものになる」(エリク・リンドグレン『鏡をめぐ
らした部屋にて』中川 敏訳)、「「単一」が「多様」に移行する場だ。」(エマソン『詩人』坂本雅之訳)「思うがままに
形を変えるプロテウスは、何者にでもなりうるから実は何者でもない。」(モーリヤック『小説家と作中人物』川口 篤
訳)「自分の中にひとりでいるということは、もうだれでもないことだ。わたしは大勢になっているのだ。」(ジイド『地
の糧』第八の書、岡部正孝訳)。

 しかし、「人間は、そもそも深淵を真下に見て立っているのではないか。見るということ自体が──深淵を見るとい
うことではないか。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部、手塚富雄訳)「なんじが久しく深淵を見入るとき、深淵
もまたなんじを見入るのである。」(ニーチェ『善悪の彼岸』第四章・一四六、竹山道雄訳)。そこでは、「夜がかれを見
つめている。」(レイ・ブラッドベリ『華氏四五一度』第三部、宇野利泰訳)「自分の内部を見張ってい」(ボリス・ヴィ
アン『心臓抜き』II・18、滝田文彦訳)るのである。「すべてこれらのものがどこからやって来たのか、またいかにし
て無の代わりに世界が存在することになったのか」(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)。「魂はその存在の秘奥の叢林を分
けて、層また層と、至りつくすべはないが、しかもたえず予感されている暗黒への道を降って行く。そこから自我が生
まれそこへ自我が回帰する、自我の生成と消滅をつかさどる暗黒の領土、魂の入り口と出口、しかしそれはまた同時に、
魂にとって真実な一切のもの、小暗い影の中に道を示す金色の枝によって魂にあかされた一切のものの入り口であり出
口である。金色にかがやくこの真実の枝は、いかに力をつくしても見いだすことも折りとることもできないが、それと
いうのも発見にまつわる天恵は下降にあたってさずけられるそれと同じ、自己認識の天恵なのだから、共通の真実とし
て、共通の自己認識として魂にも芸術にもそなわっている、あの自己認識の。」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第II
部、川村二郎訳)「成る程さうだ! 僕等の一切は深淵だ、──行為も、意欲も、/夢想も、言葉も!」(ボードレール
『深淵』堀口大學訳)「すべての事実は、世界が人間の魂のなかに移り住み、そこで変化をこうむって、向上した新し
い事実となり、ふたたび現れてくることの象徴だ。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)「世界という世界が豊穣な虚空の
中に作られるのだ。」(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)。

 わたしが、彼らに魅かれるのは、「わたし以上にわたし自身だ」(エミリ・ブロンテ『嵐が丘』第九章、鈴木幸夫訳)
と思われるところがあるからであるが、そういった人々は、「自分ではそれと気づかないで」(クリスティ『アクロイ
ド殺人事件』23、中村能三訳)、「自分で自分の翼をもぎ取ってしまう」(ジイド『狭き門』村上菊一郎訳)のである。
「敏感で繊細な気質のひとはいつもそうなのである。こういうひとの強烈な情熱は傷を与えるか屈服するかのどちらか
にきまっている。本人を殺すか、さもなければみずから死に絶えるかのどちらかなのである。」(ワイルド『ドリアン・
グレイの画像』第十八章、西村孝次訳)。まるで『イソップ寓話集』のなかに出てくる、自分の羽で殺される鷲のよう
なものである。「自意識という病気を病んでしまっているこういった青年たちは、一瞬たりとも自分自身へ向けた関心
をよそへそらすことができない」(モーリヤック『夜の終り』VIII、牛場暁夫訳)。「なにを見てもいつも自分自身へ戻っ
てしまうのだ。」(ノヴァーリス『サイスの弟子たち』一、今泉文子訳)。

 俳句や短歌を系統別に分類したところで引用するつもりであったのだが、西東三鬼の「鶯にくつくつ笑ふ泉あり」
という句に出会ったとき、これは単なる「感傷的誤謬(ごびゆう)(自然物に人間の主観や感情を投射すること)」(ロバート・シル
ヴァーバーグ『時間線を遡って』40、中村保男訳)などといったものではなく、三鬼にあっては、すべてのものが、
このような様相をもって彼に対峙していたように思われたのである。逆に見れば、三鬼という人間が、「すべての存在
をただ自分ひとりのために変形するように見える精神を持ち、提出されるすべてのものに働きかける(ヽヽヽヽヽ)ところの、一人の
人間」(ヴァレリー『テスト氏』テスト氏との一夜、村松 剛・菅野昭正・清水 徹訳)であったということであろうか。

 民喜もまた、そのような人間の一人であったに違いない。これを病的といえば、語弊は免れないかもしれないが、
「病的なものからは病的なものしか生れ得ないということ」(トーマス・マン『ファウスト博士』二五、関 泰祐・関 楠
生訳)はなく、そういったものが、「健康な感覚を持っているために全然とらえることができず、理解しようとも思わ
ない」(トーマス・マン『ファウスト博士』二五、関 泰祐・関 楠生訳)ことを、わたしたちに教えることもあるであ
ろう。それが、わたしたちにとって、新鮮な感覚や印象を持たせられるものであり、しかも、わたしたちのためにな
るものでもあるということも大いにあり得ることなのである。もちろん、わたしは、健康的なものからは何も得ると
ころがない、などと言っているわけではない。正統的なものと異端的なものとが互いに分かち難く結びついているよ
うに、健康的なものと病的なものもまた、互いに分かち難く結びついているのである。よく、「意識のなかに二つもし
くは数個の考えが同時に存在すること」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)があるが、わたした
ちの精神は、それらの間を、始終、往還しているのである。それというのも、「同じものでありながら、いつも快いも
のは何ひとつ存在しない」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第七巻・第十四章、加藤信朗訳)からであって、「そ
れは、われわれの本性が単一ではなく、われわれが可滅なものであるかぎり、或る異なる要素も含まれているからであ
る」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第七巻・第十四章、加藤信朗訳)が、それゆえにこそ、文学には、「前とは
違った眼で眺める」(エリオット『イェイツ』高松雄一訳)ことのできるものが求められているのであろう。

 文学で求められていることは、ただ一つ、「ものごとを新しい観点から見る」(ロバート・J・ソウヤー『ターミナル・
エクスペリメント』31、内田昌之訳)ことのできる「新しい連結をさがすことだけだ。」(ロバート・J・ソウヤー『タ
ーミナル・エクスペリメント』31、内田昌之訳)。カミュの『手帖』の第四部に、「小説。美しい存在。そして、それ
はすべてを許させる。」(高畠正明訳)とある。詩もまた、美しい存在である。詩もまた、「すべてのことは許されてい
る。しかし、すべてのことが益になるわけではない。」(コリント人への第一の手紙一〇・二三)。では、俳句や短歌と
いった定型詩においては、どうであろうか。すべてのことが許されているわけではない。形式というものがある。そ
れに縛られている。しかし、「形式が束縛をあたえるから、観念はいっそう強度のものとなってほとばしり出るので」
(ボードレールの書簡、アルマン・フレース宛、一八六〇年二月十八日付、阿部良雄訳)ある。もちろん、形式といっ
たものが作品のすべてではない。しかし、「人間の注意力は、限界を設けられれば設けられるだけ、また、自らその観
察の場を限られれば限られるだけ、いっそう強烈になるもの」(ボードレール『一八四六年のサロン』一二、阿部良雄
訳)である。「最大の自由が最大の厳密さから生まれる」(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)
所以である。しかし、よく注意しなければならない。こころにも、慣性のようなものがあるのだ。「聞こえもせず見え
もしないものが後ろにある。」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第一幕、石川重俊訳)「暗闇は単に人間の目の
なかにあって見ていると思っているが見えてはいない。」(アーシュラ・K・ル・グィン『闇の左手』12、小尾芙佐訳)
「新しい刺戟がもう入ってきているのに、脳は古い刺戟によって働きつづける」(ジョアナ・ラス『フィーメール・マ
ン』第二部・V、友枝康子訳)。「意識的に受け入れたわけでもないつながりを、自分自身の中にもってるから」(フエ
ンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)、「暗闇が(……)彼の視線を(……)移させる力をもっている。」(ジェイムズ・
ティプトリー・ジュニア『けむりは永遠(とわ)に』小尾芙佐訳)「無意識の世界にあるものが、意識の世界に洩れ出してくる
のだ。」(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第二部・12、嶋田洋一訳)「闇の世界には、おのずからなる秩
序があるのである。」(ハーラン・エリスン『バシリスク』深田真理子訳)「単純な無ではない。むしろ、力と場と面の
はかり知れない相互作用である」(ブライアン・W・オールディス『銀河は砂粒のように』4、中桐雅夫訳)。「虚無に
よって分割された原子が/知らぬ間に 新しい結合を完成する。」(トム・ガン『虚無の否定』中川 敏訳)「虚無のなか
に確固たる存在がある」(アーシュラ・K・ル・グィン『アカシア種子文書の著者をめぐる考察ほか、『動物言語学会誌』
からの抜粋』安野 玲訳)のである。

 マラルメの『詩の危機』に、「中くらいの長さをもった語が眼にとって理解可能な範囲で、線の形に最終的に並べら
れる。それと一緒に、語の間や各行の前後にある余白の沈黙も並べられる。」(南條彰宏訳)とある。いま、長さについ
ては云々しない。また、竹内信夫の『マラルメ─「読むこと」への誘い』(「ユリイカ」一九七九年十一月号)に、「語
のひとつひとつよりも、語と語を結ぶ空白、更には頁全体を大きく包みこむ空白がより意味深いのである。それは、何
ものをも指示しないが故に、最も多くの可能性にとんだ記号となることができる。」とある。「何ものをも指示しない」
といったことはないと思うのだが、そのことについては、後で述べる。

 ところで、詩はもちろんのこと、俳句や短歌においてもまた、余白といったものが、その文字の書かれていない空
白の部分が、いかに重要なものであるのかは、作者だけではなく、読み手の方もよく知っていることであると思われ
るのであるが、作品によっては、文字によって余白が書かれているような印象を与えるものもある。この沈黙ともい
うべき空白は、読み手の記憶に大いに作用するのである。プルーストの「晦渋性(暗闇)によって光を作り、沈黙に
よってフルートを奏している。」(『晦渋性を駁す』鈴木道彦訳)といった言葉が思い起こされる。余白は、また、記憶
だけではなく、読み手がいま現に見ているもの、聞いているもの、触れているものなどにも作用するのである。作用
があれば、当然、反作用もある。読み手の記憶や感覚器官が知るところのものによって、この沈黙ともいうべき空白
も、影響を受ける。余白が大きければ大きいほど、読み手の心象が揺さぶられ、印象の充溢さを増す、といったこと
はないのだが、余白の効果は絶大である。「主観的な余白が重要なのだ。」(ミシェル・ジュリ『不安定な時間』鈴木 晶
訳)。したがって、凡庸な作品でも、余白の視覚的な効果を十分に配慮すれば、読み手によっては刺激的なものになり
得るのである。凡作であっても、俳句や短歌がある特別な印象を与えるのは、余白とリズムによるところが大きい。
詩においても、余白の視覚的な効果をねらってつくられたものもあるが、一瞥すれば、それが凡作かどうかは、すぐ
にわかる。凡作においては、余白は、単なる空白であって、何もないのである。何も詰まっていないのである。沈黙
でさえ、そこには存在していないのである。

 ブロッホの『ウェルギリウスの死』の第III部に、「詩は薄明から生まれる」(川村二郎訳)とある。わたしには、「詩
は薄明そのもの」のように思われる。薄明は、暗闇から生まれるものである。薄明は、暗闇があってこそ、はじめて
存在できるものである。余白とは、闇である。余白のなかには、魂がうようよ蠢いているのである。生きているもの
の魂も、死んだものの魂も、余白のなかに蠢き潜んでいるのである。薄明のうすぼんやりとした明かりのなかで、た
だそれらが存在していることだけが感じられるのである。しかし、目を凝らしさえすれば、夥しい数の魂たちが、そ
の姿をくっきりと現わすのである。「何ものをも指示しない」わけではない。それどころか、はっきりと指し示すので
ある。わたしたちが目を凝らしさえすれば。それというのも、薄明があったればこそのことなのである。たとえ、そ
れがうすぼんやりとした薄明かりであっても。というよりも、それがうすぼんやりとした薄明かりであったればこそ
なのである。なぜなら、うすぼんやりとした薄明かりでなければ、わたしたちが目を凝らすことなどないはずだから
である。

「闇がなかったら、光は半分も明るく見えるだろうか」(ジャック・ウォマック『ヒーザーン』9、黒丸 尚訳)。「光
と闇は宿敵ではなくて、/いったいの伴侶だ。」(ディラン・トマス『骨付き肉』松田幸雄訳)「白にはかならず黒がつ
く。」(フリッツ・ライバー『冬の蠅』大谷圭二訳)「光を見るにはなんらかの闇がなくてはならない。」(ソーニャ・ド
ーマン『ぼくがミス・ダウであったとき』大谷圭二訳)「いかなる物体も明暗なくしては把(は)握(あく)されない。」(『レオナルド・
ダ・ヴィンチの手記』科学論、杉浦明平訳)「光はついに影によって解釈されねばならない」(稲垣足穂『宝石を見詰め
る女』)。「光と色と影とがたくみに配分されるとはじめて、それまで隠されていた見事な様相が目に見える世界に顕わ
れ、そこで新たな開眼にいたるものである」(ノヴァーリス『青い花』第一部・第二章、青山隆夫訳)。


 意味の明瞭なものには、あまり目を見開かされることはない。強い光のもとで、目を見開くことがほとんどないよ
うに。もちろん、意味の明瞭なもののなかにも、見るべき作品はあるのだが、ほとんどのものが通俗的で、その主題
も、すでに知っている作品のなかで取り扱われているものばかりである。結局のところ、わたしたちは、たとえ難解
な作品であっても、それがすぐれたものであれば、たちまち目を凝らして見るものであって、たとえそれが言わんと
しているところの意味が明瞭なものであっても、凡作であれば、ちらとも目を向けようともしないものなのである。
それゆえ、作者といったものはみな、「凡庸なものは一切容赦しない」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川
村二郎訳)覚悟で、作品の制作にあたらなければならないのである。そして、それだけが、作者というものに課せら
れた、唯一、ただ一つの義務なのである。


LET THERE BE MORE LIGHT。──光の詩学/神学的自我論の試み

  田中宏輔



形象(フオルム)を一つ一つとらえ、それを書物のなかに閉じこめる人びとが、私の精神の動きをあらかじめ準備してくれた
(マルロオ『西欧の誘惑』小松 清・松浪信三郎訳)

言葉ができると、言葉にともなつて、その言葉を形や話にあらはすものが、いろいろ生まれて來る
(川端康成『たんぽぽ』)

人間、日毎に新しきを思惟する者たち。
(デモクリトス断片一五八、広川洋一訳)


「現実とは何かね?」(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第三部・19、冬川 亘訳)「場所の概念な
のか?」(ルーシャス・シェパード『ジャガー・ハンター』小川 隆訳)「精神もひとつの現実ですよ」(ガデンヌ『スヘ
ヴェニンゲンの浜辺』16、菅野昭正訳)。「あらゆるものが現実だ。」(フィリップ・K・ディック『ユービック:スクリ
ーンプレイ』34、浅倉久志訳)「すべてが現実なのだ」(サバト『英雄たちと墓』第III部・21、安藤哲行訳)。もちろん、
「現実化する過程なしには現実は存在しない」(スティーヴン・バクスター『時間的無限大』13、小野田和子訳)。「そ
もそもの最初は、なにもなかったのだ。」(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの恒星日記』第二十回の旅、深見 弾訳)「急
に一条の光が射してきて、」(プルースト『サント=ブーヴに反論する』サント=ブーヴとバルザック、出口裕弘・吉川
一義訳)「空虚のなかに、ひとつの存在が出現した。」(グレッグ・ベア『永劫』上・9、酒井昭伸訳)「この過程のすぐ
後には、光に向かっての、突然の浮上が起こる。」(ベルナール・ウェルベル『蟻』第3部、小中陽太郎・森山 隆訳)「思
考し行為し変化する一つの実在になる」(ロバート・シルヴァーバーグ『不老不死プロジェクト』5、岡部宏之訳)。「や
がて、またもや爆発。」(ロジャー・ゼラズニイ『復讐の女神』浅倉久志訳)「閃光! 闇!」(ジェイムズ・ティプトリ
ー・ジュニア『煙は永遠にたちのぼって』友枝康子訳)「万物を操るは電光。」(ヘラクレイトス『断片六四』山川偉也
訳)「一つだったものは、たくさんの反響する心をもつものとなった。」(ディラン・トマス『愛が発熱してから』松田
幸雄訳)「何千何万という世界が重なっている。」(ルーシャス・シェパード『ぼくたちの暮らしの終わり』小川 隆訳)
「ここでは、」(ジュゼッペ・ウンガレッティ『カンツォーネ』井手正隆訳)「無数の世界を、一ヵ所に焦点を重ねたさ
まざまな色の光だと考えればわかりやすいだろう。」(ルーシャス・シェパード『ぼくたちの暮らしの終わり』小川 隆
訳)。

 プルーストは、『ギュスタヴ・モローの神秘的世界についての覚書』に、「作家にとって現実的なものは、彼の思考を
個性的なかたちで反映しうるもの、つまり彼の作品にほかならぬ。」(粟津則雄訳)と述べており、また、「かたち」とは、
文体(スタイル)や作品の構成のことであろうが、『失われた時を求めて』には、「文体とは、この世界がわれわれ各人にいかに見え
るかというその見えかたの質的相違を啓示すること、芸術が存在しなければ各人の永遠の秘密におわってしまうであろ
うその相違を啓示することなのである」(第七篇・見出された時、井上究一郎訳)と書いている。また、ワイルドは、
「あらゆる藝術の真の条件とは、スタイルなのであ」(『嘘言の衰頽)』西村孝次訳)り、「スタイルのないところに藝術
はない」(『藝術家としての批評家』第一部、西村孝次訳)と述べており、ジイドは、「作品の構成こそ最も重要なもの
であり、この構成が欠けているために、今日の大部分の藝術作品が失敗しているのだと思う。」(『ジイドの日記』第五
巻・断想、新庄嘉章訳)と書いている。

 いま、日本の代表的なモダニスト詩人を三人選び出し、筆者が彼らの作品から受けた印象を、ある一人の哲学者の
本のなかにある言葉を使って書き表わしてみよう。突出したモダニスト、北園克衛には、「これまでにあった最も強大
な比喩の力も、言語がこのように具象性の本然へ立ち還(かえ)った姿に比べるならば、貧弱であり、児戯にも等しい。」「われ
われはもう何が形象であり、何が比喩であるかが分からない。いっさいが最も手近な、最も適確な、そして最も単純な
表現となって、立ち現れる。」と、また、瀧口修造には、たしかに、「あらゆる精神の中で最も然(しか)りと肯定するこの精神
は、一語を語るごとに矛盾している。」と思わせられ、西脇順三郎には、なにゆえに、「最も重々しい運命、一個の宿業
ともいうべき使命を担(にな)っている精神が、それにも拘らず、いかにして最も軽快で、最も超俗的な精神であり得るか──
そうだ、ツァラトゥストラは一人の舞踏者なのだ」などといった言葉が思い起こされるのである。ある一人の哲学者
とは、もちろん、ニーチェであり、筆者が用いた本とは、『この人を見よ』(西尾幹二訳)である。「なぜ私はかくも良
い本を書くのか」において、「ツァラトゥストラ」について書かれてあるところから引用した。

 モダニストたちの作品に見られる、その顕著な特徴は、一見すると軽薄にさえ見えることもある、その作品のスタ
イルにある。しかし、彼らの思想は大胆であり、徹底しており、なおかつ繊細なのである。彼らの作品には、ときと
して、「稲妻のように一つの思想が、必然の力を以って、躊躇(ためら)いを知らぬ形でひらめく。」(ニーチェ『この人を見よ』
なぜ私はかくも良い本を書くのか、西尾幹二訳)ことがあり、そういった場合には、しばしば、「事物の方が自ら近寄
って来て、比喩になるように申し出ているかのごとき有様にみえる。」(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも良い
本を書くのか、西尾幹二訳)のである。そして、そういった彼らの作品によって、わたしたちには、「誰(だれ)もまだ広さの
限界を見きわめたことのない未発見の国土を、どうやら行手に持つことが確からしいとの気配がして来るのである。」
「ああ、このような世界に気づいた今となっては、もはやわれわれは他のいかなるものによっても満たされることがな
いであろう!」(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも良い本を書くのか、西尾幹二訳)。彼らは、彼らが現われる
前に現われた「どんな人間よりもより遠くを見たし、より遠くを意志したし、より遠くに届くことが出来た(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)。」(ニーチ
ェ『この人を見よ』なぜ私はかくも良い本を書くのか、西尾幹二訳)のである。また、「あらゆる価値の価値転換(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)、こ
の言葉こそが」「人類最高自覚の行為をあらわす表現方式にほかならない。」(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私は一個
の運命であるのか、西尾幹二訳)と、この哲学者であり、詩人でもある人物は言うのだが、モダニストたちも同様に、
その奇抜なスタイルによって、「頭の最も奥深くにあるもの、事物の驚くべき相貌を表現する。」(ボードレール『一八
五九年のサロン』5、高階秀爾訳)のである。「事物に現実性を与えるのは(……)表現にほかならない」(ワイルド
『ドリアン・グレイの画像』第九章、西村孝次訳)。「それが/視線に実在性を与えるのだ」(オクタビオ・パス『白』
鼓 直訳)。

 つい先頃、ネットの古書店で、ロジャー・ゼラズニイの『わが名はレジオン』(中俣真知子訳)を手に入れた。三部
仕立ての作品で、第二部のタイトルは、「クウェルクエッククータイルクエック」というもので、原題
は、”Kjwalll’kje’k’koothai’ll’kje’k”というのだが、これは、イルカの言葉をアルファベット化したものだそうである。
翻訳は一九八〇年に、原著は、本国のアメリカで一九七六年に出たのだが、このタイトルを見ても、あまり驚かなか
った。もし仮に、筆者が、モダニズム詩人たちの作品を、先に知っていなければ、驚いたに違いないのであるが。そ
うなのだ。すべての前衛作品が、いつかは前衛でなくなるのである。作品を見てすぐに、これはあれだったと分類で
きるというのは、わたしたちが、それに馴染みを持っているからであり、それがすぐに分類できないときにのみ、作
品というものは前衛なのである。モダニストたちの多くの作品が、傑作を除いて、その文体や形式が、わたしたちに
驚きを与えたのも、それが初見のときか、まだ私たちの目に、それほど馴染みがないときだけである。しかし、それ
も仕方のないことであろう。何といっても、人間の本性に基づくことなのだから。中世の諺に、「vasanovella placent,
in faece jacent./新しき壺は気に入る、古きは廃物の中に横はる。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)というのがある。
それというのも、「est natura hominum novitatis avida./人間の性質は新奇を求む。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』
プリニウスの言葉より)からであり、「est quoque cunctarum novitas carissima rerum./新奇はまたあらゆるものの
中にて最も楽しきものなり。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』オウィディウスの言葉より)というように、「varietas
delectat./変化は人を悦ばす。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』キケロの言葉より)ものだからである。その理由と
いうのは、もしかすると、「われわれの本性が単一ではなく、われわれが可滅なもの」(アリストテレス『ニコマコス倫
理学』第七巻・第十四章、加藤信朗訳)からできているからかもしれない。「simile gaudet simili./似たるものは似た
るものを悦ぶ。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)とか、「similia similibus curantur./同種のものは同種のものにて
癒やさる。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』ハーネマンの言葉より)とかいった言葉があり、アリストテレスの『弁
論術』第一巻にも、「例えば人間と人間、馬と馬、若者と若者のように、すべて近いもの、類似したものは一般に快適
である。そこから「同じ年同士はたのしい」「似た者同士」「獣獣を知る」「鳥は鳥仲間」等々の諺がつくられる。」(田
中美知太郎訳)とかいった言葉もあり、時に、人間というものは、変化のないことによって、こころ穏やかでありた
いと望むこともあるのだが、ずっと変化のないことには耐えられないものである。わたしについていえば、とりわけ
変化を望む性質である。「変化だけがわたしを満足させる。」(モンテーニュ『エセー』第III巻・第9章、荒木昭太郎訳)
と言ってもよい。「詩とは、砕かれてめらめらと炎をあげる多様性である。」(アントナン・アルトー『ヘリオガバルス』
III、多田智満子訳)。「もしわたしを満足させるものが何かあるとすれば、それは多様さを把(は)握(あく)するということだ」(モ
ンテーニュ『エセー』第III巻・第9章、荒木昭太郎訳)。「生は多彩であればあるほど、すばらしくなるのだ。」(ノヴァ
ーリス『花粉』補遺120、今泉文子訳)。ちなみに、ゼラズニイの本のタイトルにある「レジオン」とは、聖書のなかに
出てくる”Legion”(ギリシア語で、レギオン)のことで、「軍団」とか「多数」とかを意味する言葉である(教文館『聖
書大事典』)。

 ところで、また、言葉にも、人間と同じように、履歴というものがある。さまざまな文脈の中で意味を持たされて
きた経験のことである。言葉もまた、新たな意味を獲得することに喜びを感じるのではないだろうか。言葉もまた、
再創造されつづけることを願っているのではないだろうか。その願いが叶うには、モダニストたちが、ずっとモダニ
ストでありつづければよいのだが、それは、それほど容易なことではないのである。「観念は人間を通してはじめて認
識される」(ジイド『贋金つかい』第二部・三、岡部正孝訳)のであって、「およそ概念なるものは、人それぞれに独特
な意欲と知性の(ヽヽヽ)眼とに応じてはじめてその現実性を有(も)つ」(ヴィリエ・ド・リラダン『未來のイヴ』第一巻・第十章、
斎藤磯雄訳)ものであり、「知性には、それなりの思考習性というのがあ」(マルグリット・デュラス『太平洋の防波堤』
第1部、田中倫郎訳)るからである。いつまでも革新的でありつづけることは例外的なことであり、ほんもののきわ
めてすぐれた知性についてのみあり得ることであろう。しかし、なぜ、モダニストたちは、文体や形式にこだわるの
だろうか。それは、おそらく、事物や言葉、延いては人間といったものの現実が、それまで存在していた文体や形式
によっては表わすことができないと彼らが思ったからであろう。ニーチェのことを本稿の冒頭にもってきたのは、筆
者が彼のことを二十世紀最大のモダニストであると考えたからである。あるいは、こう言い換えてもよい。モダニス
トたちの父であった、と。たとえ、彼の思想が直接に反映した作品が作られていなくても、「価値転換」という思想が、
モダニストたちの精神に与えた影響は、けっして小さなものではなかったはずである。よしんば、それが無意識領域
のものであっても。いや、無意識領域の方が、意識的なところよりも影響を受けやすいものであり、人間の諸活動は、
無意識領域で受けた影響の方が、より強く発現するものである。

「可視のものはみな不可視のものと境を接し──聞き取れるものは聞き取れないものと──触知しうるものは触知
しえないものと──ぴったり接している。おそらくは思考しうるものは思考しえないものに──。」(『断章と研究 一
七九八年』今泉文子訳)という、ノヴァーリスのよく知られた言葉がある。もしも、その言葉通りならば、意味せざ
るものが、何らかの刺激で意味するものに変容すると考えても不思議はないわけである。同様に、言葉でないものが、
言葉に変容すると考えてもよい。そういえば、「すぐ近くにあるものほど、そのもの自身に似ていないものはない。」(ラ
ディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)といった言葉もあったが、しかし、それは、ある時点においては、似ていないと
いうことであって、よくあることだが、まったく似ていないものが、よく似たものになることもあり、そっくり同じ
ものになることもあるのである。だからこそ、それを、「変容する」と言うのであって、無意識領域にあるものが、意
識にのぼる概念と密接に触れ合っており、ある刺激があれば、無意識領域にあるものが、意識にのぼる概念になるこ
ともあると、少なくとも、その意識にのぼる概念の一部となることもあるのだと、筆者は考えているのである。聖書
の言葉に、「見えるものは現れているものから出てきたのではない」(ヘブル人への手紙一一・三)というのがある。も
ちろん、「一切がことばになりうるわけではない。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部・日の出前、手塚富雄訳)。
言葉にならないものもあるだろう。しかし、それが、概念形成に寄与しないとも限らないのである。それが、概念形
成に寄与するものを形成することに寄与するかもしれないのである。これは、いくらでも無限後退させて考えてやる
ことができる。

 もしも、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手で触れられるもの、こころで感じとれるもの、頭で考えられるも
の、そういったものだけで世界ができているとしたら、そんな世界はとても貧しいものとなるのではないだろうか。
しかし、じっさいは豊かである。目に見えないものもあり、耳に聞こえないものもあり、手に触れられないものもあ
り、こころに感じとれないものもあり、頭で考えられないものもあるということだ。言葉にできないものもあり、言
葉にならないものもあるということだ。しかし、そういったものがあるということが、世界を豊かにしているのだ。
ただし、これらのものの上に「ただちに」という修飾語をつけて考えておくこと。

 一昨年の暮れのことだった。会うとは思われなかった場所で、会うとは思えなかった時間に、ノブユキと出会った
のである。八年ほど前に別れたノブユキに。恋人と待ち合わせをしていたのだという。ノブユキの方が早目に来てし
まったらしく、少しだけなら話す時間もあるというので、あまり人目に付かない場所に移って、話をした。話をして
いる間、ずっと強く、ノブユキの手を握り締めていた。瞬きをする間ももったいないという思いで、ノブユキの目を
見つめていた。どんなに微かな息遣いも聞き逃すまいと思って、ノブユキの声を聞いていた。その時間はとても短く、
あっという間に過ぎていった。別れ際に、ノブユキの方から、電話をするからね、と言ってくれた。ほんとうに、ノ
ブユキは可愛らしかった。その可愛らしさに、変化はなかった。この十年近くの間に、筆者も、何人もの可愛らしい
男の子たちと付き合ってきたのだが、やはり、こころから愛していたのは、ノブユキだった。ノブユキ一人だった。
二人で話をしていた間、ずっと、わたしの心臓は、それまで経験したこともないほどに激しく鼓動していた。あの再
会から一年近く経つのだが、いまだにノブユキからの電話はない。もしかしたら、電話などないのかもしれないと、
話をしている間も思っていたのだけれど。たとえ電話があったとしても、はじめからやり直せるなどとは、思っても
いなかったのだけれど。

 ノブユキとの再会は、あのとき一度きりだった。しかし、再会したつぎの日から、筆者のなかで、何かが変わった
のである。通勤電車に乗っていて、ただ窓の外を眺めていただけなのに、涙がポロポロとこぼれ出したのである。い
つも通りの風景なのに、目に飛び込んでくる、その形の、色彩の、その反射する光の美しさに感動していたらしいの
である。らしい、というのは、涙がこぼれ落ちた理由が、すぐにはわからなかったからである。普通に歩いていても、
破けたセロファンをまとった、タバコの紙箱に、泥のついた、そのひしゃげたタバコの空箱の美しさに目を奪われた
り、授業をしている最中でも、生徒の机の上に置かれた、ビニール・コーティングされた筆箱の表面に反射する光の
美しさに、思わずこころ囚われたりしたのである。ふと、気がつくと、「あらゆるものが美しい。」(ラングドン・ジョ
ーンズ)『時間機械』山田和子訳)「あらゆるものが、わたしに美しく見える」(ホイットマン『大道の歌』6、木島 始
訳)のであった。「光がいたるところに照っていたのだ!」(ボードレール『現代生活の画家』3、阿部良雄訳)「物と
いう物がいっせいに輝き出し、」(スタニスワフレム『ソラリスの陽のもとに』7、飯田規和訳)「自ら光を発している
ようにみえた。」(ブライアン・W・オールディス『世界Aの報告』第一部・2、大和田 始訳)「それは太陽から受けた
よりももっと多くの光を照り返しているかのように見えたからである。」(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・
2、浜野 輝訳)「ありとあらゆる色彩と光とがあふれていた。」(サングィネーティ『イタリア綺想曲』6、河島英昭訳)
「あらゆるものがくっきりと、鮮明に見えるのだ。」(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)「あらゆる細部が
生き生きしていた。」(R・A・ラファティ『他人の目』2、浅倉久志訳)「それがこんなふうに見えるものだとは、私
はかつて考えたこともなかった。」(スタニスワフ・レム『星からの帰還』2、吉上昭三訳)「自分の頭の中に光を、脈
動する光を、見るというより聞き、感じた」(フィリップ・K・ディック&ロジャー・ゼラズニイ『怒りの神』5、仁
賀克雄訳)のだ。「わたしが目にしているものはなにか?」(ロバート・シルヴァーバーグ『予言者トーマス』4、佐藤
高子訳)「光よりも光であり、」(ホイットマン『草の葉』神々の方陣を歌う・4、酒本雅之訳)「希望と現実の、愛情と
好意の、期待と真実の」(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第二部・13、嶋田洋一訳)「光なのである。」
(W・B・イェイツ『幻想録』第三編・審判に臨む魂、島津彬郎訳)「その内的な光は屈折して、より美しく、より強
烈な色彩となる。」(ノヴァーリス『サイスの弟子たち』二、今泉文子訳)。それがつづいたのは、わずか「三日間」(使
徒行伝九・九)のことだったのだが、しかし、たしかに、自分の知らないうちに、何かが記憶に作用したのだ。ある
いは、記憶が何かに作用したのか。それにしても、いったい、何が、筆者に働きかけたのだろうか。何が、あのよう
な光を、筆者の目に見させたのだろうか。「屈折した光条の一つ一つが見せるのは、下層の形象のいろいろな様相では
なく、形象の全体像なので」(フィリップ・ホセ・ファーマー『紫年金の遊蕩者たち』大和田 始訳)ある。「単に物の
一面のみを知るのではなく、それを見ながら全体を把握するのだ。」(オラフ・ステープルドン『オッド・ジョン』18、
矢野 徹訳)。

 二〇〇二年の十月に、筆者は、四冊目の詩集を上梓した。タイトルは、『Forest。』である。イメージ・シンボル事
典によると、森は、「無意識」の象徴となっている。冒頭に収めた、引用だけで構成した、二〇〇ページ近くある長篇
の詩で、筆者は、強烈な閃光が、森の様子をすっかり様変わりさせるところを描写したのだが、作品のなかで、その
閃光を発するのは、イエス・キリストであった。

「日光のふりそそぐ大地の上に/春の草は青々と美しく生い茂る。/だが、地の下は真夜中だ、/そこでは永遠の真
夜中である。」(エミリ・ブロンテ『大洋の墓』松村達雄訳)「僕タチハミンナ森ニイル。誰モガソレゾレ違ッテイテ、
ソレゾレノ場所ニイル。」(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳)「人間は木と同じようなものだ。高みへ、
明るみへ、いよいよ伸びて行こうとすればするほど、その根はいよいよ強い力で向かっていく──地へ、下へ、暗黒へ、
深みへ」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部、手塚富雄訳)。

 ブロンテの詩句は、前の二行が意識にのぼる意味概念、後の二行が無意識領域の比喩としてとれる。カフカの言葉
は、「無数の断片からなる単一の精神がある。」(ヴァレリー全集カイエ篇1『我』管野昭正訳)とか、「過ぎ去ったこ
とがどのように空間のなかに収まることか、/──草地になり、樹になり、あるいは/空の一部となり……」(リルケ
『明日が逝くと……』高安国世訳)とかいった言葉を思い起こさせる。ニーチェの言葉を、ブロンテの詩句と合わせ
て読むと、経験が重なれば重なるほど、知識が増せば増すほど、無意識領域において、自我が、あるいは、語自体の
持つ形成力、いわゆるロゴスが活発に働くことを示唆しているように思われる。わたしが、わたし自身のなかで生ま
れるのである。

「一たび為されたことは永遠に消え去ることはない。」(エミリ・ブロンテ『ゴールダインの牢獄の洞窟にあってA・
G・Aに寄せる』松村達雄訳)「木々は雨が止んでしまっても雨を降らしつづける」(チャールズ・トムリンソン『プロ
メテウス』土岐恒二訳)。「そこでは、光の下で断ち切られたことが続いている」(ヨシフ・ブロツキー『愛』小平 武訳)。
「言葉の力は眠りのうちに成長し」(ヘルダーリン『パンと酒』4、川村二郎訳)、「知らぬ間に 新しい結合を完成す
る。」(トム・ガン『虚無の否定』中川 敏訳)「自我は一種の潜在力である」(ヴァレリー全集カイエ篇6『自我と個性』
滝田文彦訳)。「断片はそれぞれに、そうしたものの性質に従って形を求めた。」(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オ
ーヴァドライヴ』36、黒丸 尚訳)「知っていた形ではない。」(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ36、
黒丸 尚訳)「もみの樹はひとりでに位置をかえる。」(ジュネ『葬儀』生田耕作訳)「家というのは椅子を一つ少し左に
ずらすだけで、もうそれまでとは違うものになる。」(ホセ・エミリオ・パチェーコ『闇にあるもの』第一幕、安藤哲行
訳)「配列にこそ事物の印象効果はかかっているのである。」(ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』山
田九朗訳)「いったん形作られたものは、それ自体で独立して存在しはじめる。創造者の望むような、創造者の所有物
ではなくなってしまう。」(フィリップ・K・ディック『名曲永久保存法』仁賀克雄訳)「それを見まもる者は誰なのか?」
(ニコス・ガッツォス『アモルゴス』池沢夏樹訳)「ここには誰もいない、しかも誰かがいるのだ。」(ランボー『地獄
の季節』地獄の夜、小林秀雄訳)「あらゆるところにいて、すべてを知り、すべてを見ている」(ターハル・ベン=ジェ
ルーン『聖なる夜』2、菊地有子訳)。「かれはすべてのものを復活させることができる。」(フィリップ・K・ディック
『死の迷宮』1、飯田隆昭訳)「すべてのものを新たにする」(ヨハネの黙示録二一・五)。

「だれがぼくらを目覚ませたのか」(ギュンター・グラス『ブリキの音楽』高本研一訳)。「だれが光を注いでくれた
のか」(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』39、沢崎順之助訳)。「新しい光がわれわれの手をとる。」(ア
ンドレ・デュ・ブーシェ『途上で』小島俊明訳)「内面のまなざしが拡がり(……)世界が生れる」(オクタビオ・パス
『砕けた壺』桑名一博訳)。「なにもかもがわたしに告げる」(ホルヘ・ギリェン『一足の靴の死』荒井正道訳)。「この
表面の下に、いまだ熟さぬ映像がひそんでいる、と」(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』12、黒
丸 尚訳)。「光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となる」(エペソ人への
手紙五・一三)。「光 それがぼくらを吹きよせてひとつにする」(パウル・ツェラン『白く軽やかに』川村二郎訳)。「光
ならずして何を心が糧にできよう?」(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』二冊目・27、野
口幸夫訳)「光こそ事物の根源で、」(プルースト『シャルダンとレンブラント』粟津則雄訳)「ああ、これがあらゆるこ
とのもとだったんだ。」(アントニイ・バージェス『ビアドのローマの女たち』7、大社淑子訳)「電光は万物(自然万
有)を繰り統べる。」(ヘラクレイトス断片62、廣川洋一訳)「突如としてそれは落ちてくる。」(ラーゲルクヴィスト『巫
女』山下泰文訳)「待つということが大切だ。」(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)「求めるあまりに、見いだすこと
ができない場合がある」(ヘッセ『シッダルタ』第二部・ゴヴィンダ、手塚富雄訳)。「待つものはすべてを手に入れる。」
(フィリップ・K・ディック『父祖の信仰』浅倉久志訳)「精神の豊富と万象の無限。」(ランボー『飾画』天才、小林
秀雄訳)。


WELCOME TO THE WASTELESS LAND。──詩法と実作

  田中宏輔



「私の生涯を通じて、私というのは、空虚な場所、何も描いてない輪郭に過ぎない。しかし、そのために、この空虚
な場所を填(うず)めるという義務と課題とが与えられている。」(ジンメル『日々の断想』66、清水幾太郎訳)「この間隙を、
深淵を、わたしたちは視線と、触れ合いと、言葉とで埋める。」(アーシュラ・K・ル・グィン『所有せざる人々』第十
章、佐藤高子訳)「「存在」は広大な肯定であって、否定を峻拒(しゆんきよ)し、みずから均衡を保ち、関係、部分、時間をことごと
くおのれ自身の内部に吸収しつくす。」(エマソン『償い』酒本雅之訳)「彼、あらゆる精神の中で最も然(しか)りと肯定する
この精神は、一語を語るごとに矛盾している。彼の中ではあらゆる対立が一つの新しい統一に向けて結び合わされてい
る。」(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも良い本を書くのか・ツァラトゥストラかく語りき・六、西尾幹二訳)。

 端的にいえば、詩の作り方には二通りしかない。一つは、あらかじめ作品の構成を決め、言葉の選択と配置に細心
の注意を払って作る方法である。もちろん、それらを吟味していて、構想の途中で、最初に考えた構成を変更したり
することもある。拙詩集の『The Wasteless Land.』(書肆山田、一九九九年)は、出来上がるまで二年近くかかった
のだが、はじめに考えていたものとは、ずいぶん違ったものになった。エリオットの『荒地』(The Waste Land)
を読むと、「ひからびた岩には水の音もない。」「ここは岩ばかりで水がない」「岩があって水がない」「岩の間に水さえ
あれば」「岩間に水溜りでもあったなら。」「だがやはり少しも水がない」(西脇順三郎訳)とあって、こういった言葉に、
主題が表出されているような気がしたのである。「主はわが岩」(詩篇一八・二)と呼ばれており、イエスの弟子のペ
テロという名前は「岩」を意味する(マタイによる福音書一六・一八)言葉である。筆者には、「岩には」「水がない」
というところに信仰の喪失が象徴されているように思われたのである。「一方を思考する者は、やがて他方を思考す
る。」(ヴァレリー『邪念その他』A、佐々木 明訳)。コリント人への第一の手紙一〇・一─四には、「兄弟たちよ。こ
のことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、
モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らに
ついてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。」とあり、ヨハネの第一の手紙四・八に
は、「神は愛である。」とあり、コリント人への第一の手紙一三・八には、「愛はいつまでも絶えることがない。」とある。
たしかに、人は神によって愛されているのだろう。「髪の毛までも、みな数えられている」(マタイによる福音書一〇・
三〇)ぐらいなのだから。「なんらかの愛なしには、熟視ということはありえない。」(ヴェイユ『神を待ちのぞむ』田
辺 保・杉山 毅訳)、「愛するということは見ること」(デュラス『エミリー・L』田中倫郎訳)、「じっと目をはなさぬ
ことは、愛の行為にひとしい。」(ホーフマンスタール『アンドレアス(Nのヴェニスの体験──創作ノートの二)』大
山定一訳)というのだから。そこで、ヴァレリーの「愛がなければ人間は存在しないだろう」(『ユーパリノス あるい
は建築家』佐藤昭夫訳)という言葉をもじって、「人間のいるところ、愛はある。」とすれば、エリオットの『荒地』
のパスティーシュができると考えたのである。「不毛の、荒廃した」という意味の「waste」の反意語に、「使い切れ
ない、無尽蔵の」といった意味の「wasteless」があることから、タイトルを決め、構成と文体を西脇訳の『荒地』に
依拠させて制作することにしたのである。このとき、この作品と同時並行的に考えていたものがあって、それは、ゲ
ーテのファウストを主人公にしたもので、モチーフの繋がり具合があまり良くなかったので途中で投げ出していたの
だが、これと合わせて、『荒地』のパスティーシュに用いるとどうなるか、やってみることにしたのである。出来上が
りはどうであれ、語を吟味する作業によって、筆者が得たものには、計り知れないものがあった。

 あるとき、テレビのニュース番組のなかで、南アフリカ共和国のことだったと思うが、黒人青年を、白人警官が警
棒で殴打している様子が映し出されたのだが、それを見て、その殴打されている黒人青年の経験も、殴打している白
人警官の経験も、ひとしく神の経験ではないかと思ったのである。翌日、サイトの掲示板に、この感想を書き、さら
に、「神とは、あらゆる人間の経験を通して存在するものである。」と付け加えたのであるが、なぜこのようなことを
思いついたのか、よくよく振り返ってみると、本文の45ページよりも長い62ページの注を付けた長篇詩の『The
Wasteless Land.』において、本文の五行の詩句について、35ページにわたって考察したことが、そこではじめて汎
神論というものについて触れたのであるが、また、詩集を上梓した後も、さらに、ボードレールからポオ、スピノザ、
マルクス・アウレーリウス、プロティノス、プラトンにまで遡って読書したことが、筆者をして、「神とは、あらゆる
人間の経験を通して存在するものである。」といった見解に至らしめたと思われるのである。「作品は作者を変える。
/自分から作品を引き出す活動のひとつびとつに、作者は或る変質を受ける。」(ヴァレリー『文学』佐藤正彰訳)。作
者にとって、この「変質」ほど、貴重な心的経験などなかろう。

 神とは、あらゆる人間の経験を通して存在するものである。それゆえ、どのような人間の、どのような経験も欠け
てはならないのである。ただ一人の人間の経験も欠けてはならないのである。どのような経験であっても、けっして
おろそかにしてはならないのである。

 ところで、先に、筆者は、詩の書き方には二通りある、と書いた。もう一つの方法とは、あらかじめ構成を決めな
いで、言葉が自動的に結びつくのを待つ、というものである。偶然を最大限に利用する方法であるが、筆者がよく行
うのは、取っておいたメモが、一気に結びつくまで待つ、というものである。拙詩集の『みんな、きみのことが好き
だった。』(開扇堂、二〇〇一年)に収められた多くの詩が、その方法で作成された。そのうちの二篇を、つぎに紹介
する。


むちゃくちゃ抒情的でごじゃりますがな。


枯れ葉が、自分のいた場所を見上げていた。
木馬は、ぼくか、ぼくは、頭でないところで考えた。
切なくって、さびしくって、
わたしたちは、傷つくことでしか
深くなれないのかもしれない。
あれは、いつの日だったかしら、
岡崎の動物園で、片(かた)角(づの)の鹿を見たのは。
蹄(ひづめ)の間を、小川が流れていた、
ずいぶんと、むかしのことなんですね。
ぼくが、まだ手を引かれて歩いていた頃に
あなたが、建仁寺の境内で
祖母に連れられた、ぼくを待っていたのは。
その日、祖母のしわんだ細い指から
やわらかく、小さかったぼくの手のひらを
あなたは、どんな思いで手にしたのでしょう。
いつの日だったかしら、
樹が、葉っぱを振り落としたのは。
ぼくは、幼稚園には行かなかった。
保育園だったから。
ひとつづきの敷石は、ところどころ縁が欠け、
そばには、白い花を落とした垣根が立ち並び、
板石の端を踏んではつまずく、ぼくの姿は
腰折れた祖母より頭ふたつ小さかったと。
落ち葉が、枯れ葉に変わるとき、
樹が、振り落とした葉っぱの行方をさがしていた。
ひとに見つめられれば、笑顔を向けたあの頃に
ぼくは笑って、あなたの顔を見上げたでしょうか。
そのとき、あなたは、どんな顔をしてみせてくれたのでしょうか。
顔が笑っているときは、顔の骨も笑っているのかしら。
言いたいこと、いっぱい。痛いこと、いっぱい。
ああ、神さま、ぼくは悪い子でした。
メエルシュトレエム。
天国には、お祖母(ばあ)ちゃんがいる。
いつの日か、わたしたち、ふたたび、出会うでしょう。
溜め息ひとつ分、ぼくたちは遠くなってしまった。
近い将来、宇宙を言葉で説明できるかもしれない。
でも、宇宙は言葉でできているわけじゃない。
ぼくに似た本を探しているのですか。
どうして、ここで待っているのですか。
ホヘンブエヘリア・ペタロイデスくんというのが、ぼくのあだ名だった。
母方の先祖は、寺守(てらもり)だと言ってたけど、よく知らない。
樹が、葉っぱの落ちる音に耳を澄ましていた。
いつの日だったかしら、
わたしがここで死んだのは。
わたしのこころは、まだ、どこかにつながれたままだ。
こわいぐらい、静かな家だった。
中庭の池には、毀れた噴水があった。
落ち葉は、自分がいつ落とされたのか忘れてしまった。
缶詰の中でなら、ぼくは思いっ切り泣ける。
樹の洞(ほら)は、むかし、ぼくが捨てた祈りの声を唱えていた。
いつの日だったかしら、
少女が、栞(しおり)の代わりに枯れ葉を挾んでおいたのは。
枯れ葉もまた、自分が挾まれる音に耳を澄ましていた。
わたしを読むのをやめよ!
一頭の牛に似た娘がしゃべりつづける。
山羊座のぼくは、どこまでも倫理的だった。
つくしを摘んで帰ったことがある。
ハンカチに包んで、
四日間、眠り込んでしまった。


 この詩が、先に述べた、「偶然を最大限に利用する方法」でつくった最初のものである。そのせいか、まだ初期の、
思い出をもとに言葉を紡いでいったころの、先に表現したいことがあって、それを言葉にしていったころの名残があ
る。つぎに紹介する「王国の秤。」をつくっていたころには、すでにコラージュという手法にもすっかり慣れていて、
その手法で、できる限りのことを試していたのであるが、それと同時に、コラージュという手法自体を見つめて、「詩
とは、何か。」とか、「言葉とは、何か。」とか、「わたしとは、何か。」とか、「自我とは、何か。」とかいったことも考
えていたのである。

コラージュをしている間、しょっちゅう、こんなふうに思ったものである。「わたしが言葉を通して考えているの
ではなく、言葉がわたしを通して考えているのである。」と。「言葉が、わたしの体験を通して考えたり、わたしの記
憶を通して思い出したり、わたしのこころを通して感じたりするのである。言葉が、わたしの目を通して見たり、わ
たしの耳を通して聞いたりするのである。言葉が、わたしのこころを通して愛したり、憎んだりするのである。言葉
が、わたしのこころを通して喜んだり、悲しんだりするのである。言葉が、わたしのこころを通して楽しんだり、苦
しんだりするのである。」と。

 コラージュをしている最中、しばしば、興に乗ると、数多くのメモのなかにある数多くの言葉たちが、つぎつぎと
勝手に結びついていったように思われたのだが、そんなときには、わたしというものをいっさい通さずに、言葉たち
自身が考えたり、思いついたりしていたような気がしたものである。しかし、これはもちろん、わたしの錯覚に過ぎ
なかったのであろう。たとえ、無意識領域の方のわたしであっても、それもまた、わたしであるのだから、じっさい
には、言葉たちが、無意識領域の方のわたしを通して、無意識領域の方のわたしという場所において、無意識領域の
方のわたしといっしょに考えたり、思いついたりしていたのであろう。ただ、意識的な面からすると、わたしには、
言葉たちが、自分たち自身で考えたり、思いついたりしていたように感じられただけなのであろう。

 つまるところ、言葉が、わたしといっしょに考えたり、思い出したり、感じたりするのである。言葉が、わたしと
いっしょに見たり、聞いたりするのである。言葉が、わたしといっしょに愛したり、憎んだりするのである。言葉が、
わたしといっしょに喜んだり、悲しんだりするのである。言葉が、わたしといっしょに楽しんだり、苦しんだりする
のである。世界が、わたしとともに考え、思い出し、感じるように。世界が、わたしとともに目を見開き、耳を澄ま
すように。世界が、わたしとともに愛し、憎むように。世界が、わたしとともに喜び、悲しむように。世界が、わた
しとともに楽しみ、苦しむように。


王國の秤。


きみの王國と、ぼくの王國を秤に載せてみようよ。
新しい王國のために、頭の上に亀をのっけて
哲学者たちが車座になって議論している。
百の議論よりも、百の戦の方が正しいと
将軍たちは、哲学者たちに訴える。
亀を頭の上にのっけてると憂鬱である。
ソクラテスに似た顔の哲学者が
頭の上の亀を降ろして立ち上がった。
この人の欠点は
この人が歩くと
うんこが歩いているようにしか見えないこと。
『おいしいお店』って
本にのってる中華料理屋さんの前で
子供が叱られてた。
ちゃんとあやまりなさいって言われて。
口をとがらせて言い訳する子供のほっぺた目がけて
ズゴッと一発、
お母さんは、げんこつをくらわせた。
情け容赦のない一撃だった。
喫茶店で隣に腰かけてた高校生ぐらいの男の子が
女性週刊誌に見入っていた。
生理用ナプキンの広告だった。
映画館で映写技師のバイトをしてるヒロくんは
気に入った映画のフィルムをコレクトしてる。
ほんとは、してはいけないことだけど
ちょっとぐらいは、みんなしてるって言ってた。
その小さなフィルムのうつくしいこと。
それで
いろんなところで上映されるたびに
映画が短くなってくってわけね。
銀行で、女性週刊誌を読んだ。
サンフランシスコの病院の話だけど
集中治療室に新しい患者が運ばれてきて
その患者がその日のうちに死ぬかどうか
看護婦たちが賭をしていたという。
「死ぬのはいつも他人」って、だれかの言葉にあったけど
ほんとに、そうなのね。
授業中に質問されて答えられなかった先生が
教室の真ん中で首をくくられて殺された。
腕や足にもロープを巻かれて。
生徒たちが思い思いにロープを引っ張ると
手や足がヒクヒク動く。
ボルヘスの詩に
複数の〈わたし〉という言葉があるけど
それって、わたしたちってことかしら。
それとも、ボルヘスだから、ボルヘスズかしら。
林っちゃんは、
毎年、年賀状を300枚以上も書くって言ってた。
ぼくは、せいぜい50枚しか書かないけど
それでもたいへんで
最後の一枚は、いつも大晦日になってしまう。
いらない平和がやってきて
どぼどぼ涙がこぼれる。
実物大の偽善である。
前に付き合ってたシンジくんが
何か詩を読ませてって言うから
『月下の一群』を渡して、いっしょに読んだ。
ギー・シャルル・クロスの「さびしさ」を読んで
これがいちばん好き
ぼくも、こんな気持ちで人と付き合ってきたの
って言うと
シンジくんが、ぼくに言った。
自分を他人としてしか生きられないんだねって。
うまいこと言うのねって思わず口にしたけど
ほんとのところ、
意味はよくわかんなかった。
扇風機の真ん中のところに鉛筆の先をあてると
たちまち黒くなる。
だれに教えてもらったってわけじゃないけど
友だちの何人かも、したことあるって言ってた。
みんな、すごく叱られたらしい。
子どものときの話を、ノブユキがしてくれた。
団地に住んでた友だちがよくしてた遊びだけど
ほら、あのエア・ダストを送るパイプかなんか
ベランダにある、あのふっといパイプね。
あれをつたって5階や6階から
つるつるつるーって、すべり下りるの。
怖いから、ぼくはしないで見てただけだけど。
団地の子は違うなって、そう思って見てた。
ノブユキの言葉は、ときどき痛かった。
ぼくはノブユキになりたいと思った。
鳥を食らわば鳥籠まで。
住めば鳥籠。
耳に鳥ができる。
人の鳥籠で相撲を取る。
気違いに鳥籠。
鳥を牛と言う。
叩けば鳥が出る。
鳥多くして、鳥籠山に登る。
高校二年のときに、家出したことがあるんだけど
電車の窓から眺めた景色が忘れられない。
真緑の
なだらかな丘の上で
男の子が、とんぼ返りをしてみせてた。
たぶん、お母さんやお姉さんだと思うけど
彼女たちの前で、何度も、とんぼ返りをしてみせてた。
遠かったから、はっきり顔は見えなかったけれど
ほこらしげな感じだけは伝わってきた。
思い出したくなかったけれど
思い出したくなかったのだけれど
ぼくは、むかし
あんな子どもになりたかった。


 目をやるまでは、単なる文字の羅列にしか過ぎなかったメモの塊が、何度か眺めては放置している間に、あるとき、
偶然目にしたものや耳にしたもの、あるいは、ふと思い出したことや頭に浮かんだことがきっかけとなって、つぎつ
ぎと結びついていく。出来上がったものを見ると、結びつけられてはじめてメモとメモの間に関連があることがわか
ったり、関連がなくても、結びつけられていることによって、あたかも関連があるかのような印象が感じられたりす
る。しかも、全体を統一するある種の雰囲気が醸し出されている。出来上がった後は、どのメモも動かせない。一つ
でも動かすと、全体の統一感はもちろん、メモとメモの間に形成された所々の印象の効果もなくなる。「「偶然」は云
はば神意である。」と、芥川龍之介は、『侏儒』に書いている。「偶然即ち神」とも。そういえば、プリニウスの『博物
誌』にも、「偶然こそ、私たちの生の偉大な創造者というべき神である。」(第二十七巻・第二章、澁澤龍彦訳)という
言葉があった。また、「神」といえば「愛」。「神と愛は同義語である。」(ゲーテ『牧師の手紙』小栗 浩訳)、「愛は、す
べてを完全に結ぶ帯である。」(コロサイ人への手紙三・一四)。エンペドクレスは、『自然について』のなかで、「とら
えて離さぬ「愛」」、「「愛」の力により すべては結合して一つとなり」(藤沢令夫訳)と述べている。ヴァレリーの『カ
イエB 一九一〇』には、「精神は偶然である。私がいいたいのは、精神という語意自体のなかに、とりわけ、偶然と
いう語の意義が含まれている、ということなのだ。」(松村 剛訳)とあり、『詩と抽象的思考』には、「詩人は人間の裡
に、思いがけない出来事、外的あるいは内的の小事件によって、目覚めます、一本の木、一つの顔、一つの《主題》、
一つの感動、一語なぞによって。」(佐藤正彰訳)とある。まるで、偶然が、すべてのはじまりであるかのようである。

 ところで、なぜ、メモとメモが結びついたのであろうか。放置されている間に、メモとメモの間隙を埋める新しい
概念が形成されたからであろうか。ショーペンハウアーが、『意志と表象としての世界』第一巻・第九節で、ある概念
が全く異なる概念に移行していく様を、図を用いて説明しているのだが、それというのも、「一つの概念の範囲のなか
には、通常、若干数の他の概念の範囲と重なってくる部分がある。この後者(若干数の他の概念)の領域の一部を自分
の領域上に含むことはもとよりだが、しかし自らはそれ以外になお多くの他の概念を包み込んでいるからであ」り、「概
念の諸範囲がたがいに多種多様に食いこみ合っているので、どの概念から出ようと、別の概念に移行していく勝手気ま
まさに余地を与えている」(西尾幹二訳)からである、というのである。ヴァレリーの『邪念その他』Nには、「見ずに
見ているもの、聞かずに聞いているもの、知らずに心のなかで呟いているもののなかには、視覚と聴覚と思考の無数の
生命を養うのに必要なものがあるだろう。」(清水 徹訳)とあり、マイケル・マーシャル・スミスの『スペアーズ』の
第一部・3には、「決断を下して人生を作り上げているのは目が覚めているときのことだと人は思いがちだが、実はそ
うではない。眠り込んでいるときにこそ、それは起きるのだ。」(嶋田洋一訳)とある。まさに、概念というものは、「創
造者であるとともに被創造物でもある。」(ブライアン・W・オールディス『讃美歌百番』浅倉久志訳)「一つ一つの
ものは自分の意味を持っている。」(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)「その時々、それぞれの場所はその
意味を保っている。」(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)「断片はそれぞれに、そうしたものの性質に従っ
て形を求めた。」(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』36、黒丸 尚訳)。

 精神には夥しい数の概念がある。精神とは、概念と概念が結びつく場所であり、概念と概念を結びつけるのが自我
であるという、ヴァレリーの数多くの考察に基づく、非常にシンプルなモデルを考える。あるいは、逆に、概念と概
念が結びつくことによって、自我が形成されると考えてもよいのだが、これは、いわゆる、「原因と結果の同時生起」
(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・九、菊盛英夫訳)といったものかもしれない。「どちらが原因でどちらが結果なの
か」(アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』一九〇五年五月三日、浅倉久志訳)、ただ、後者のモデルだと、自
我というものは、概念と概念が結びつく瞬間瞬間に、そのつど形成されるものであることになり、結びつかないとき
には、自我というものが存在しなくなるのだが、それは、極端な場合で、シンプルなモデルを考えると、そういった
場合も想定されるのであるが、前節で引用した文章にあるように、意識のない状態でも、概念と概念が結びつくこと
があるとすれば、自我が消失してしまうというようなことはないはずである。もちろん、自我がない状態というのも
あってよいのであるが、また、じっさいに、そのような状態があるのかもしれないが、しかし、それは、わたしには
わからないことである。ところで、また、自我によって強く結びつけられた概念だけが意識の表面に現われるものと
すれば、想起でさえ、何かをきっかけにして現われるものであるのだから、その何かと、すでに精神のなかにあった
概念を、自我が結びつけて、想起される概念を形成したと考えればよいのである。その何かというのは、感覚器官か
らもたらされた情報であったかもしれないし、その情報が、精神のなかに保存されていた概念と結びついたものであ
ったかもしれないが、少なくとも想起された概念を形成する何ものかであったかとは思われる。キルケゴールの『不
安の概念』第二章にある、「人の目が大口を開いている深淵をのぞき込むようなことがあると、彼は目まいをおぼえる。
ところでその原因はどこにあるかといえば、それは彼の目にあるともいえるし、深淵にあるともいえる。」(田淵義三郎
訳)といった言葉に即して考えると、放置されている間に、メモとメモの間隙を埋める新しい概念が形成されて、そ
れがメモにある言葉を自我に結びつかせたのかもしれないし、たまたま、メモにあった言葉が自我に作用し、自我が
メモにある言葉を結びつかせるほど活発に働いたのかもしれない。ヴァレリーの『刻々』に、「善は或る見方にとって
しか悪の反対ではなく、──別の見方は二つを繋ぎ合わせる。」(佐藤正彰訳)という言葉がある。たしかに、「繋ぎ合
わせる」のは自我であるが、かといって、「別の見方」ができるのは、精神のなかに「別の見方」を可能ならしめる概
念があってこそのことかもしれない、とも思われるのである。どちらが原因となっているのか、それはわからない。
メモにある言葉や、そのメモを眺めているときの状況に刺激されて、自我が活発に働いて、メモにある言葉と言葉を
結びつけていったとも考えられるし、放置されている間に、精神のなかに、メモとメモの間隙を埋める新しい概念が
形成されて、それらが自我に作用して、メモにある言葉と言葉を結びつけていったのかもしれない。後者の場合は、
たしかめようがないのである。じっさいのところは、こうである。突然、あるメモにある言葉が目に飛び込んできて、
ほかのメモにある言葉と勝手に結びついたのである。そして、そういった状態が連続して起こったのである。メモと
メモが結びついている間、自我がすこぶる活発に働いていたのは、たしかなことであった。そう、わたしは実感した
のである。モンテーニュの『エセー』の第III巻・第9章に、「わたしの考えはおたがいに続きあっている。しかし、と
きどきは、遠くあいだを置いて続くこともある。」(荒木昭太郎訳)とある。「ぼくたちはいつまでも空間(あいだ)をおいて見つ
め合わなくてはならないのだろうか?」(トム・ガン『へだたり』中川 敏訳)。デカルトの『方法序説』の第2部に、「一
つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達で
きるし、どんなに隠れたものでも発見できる」(谷川多佳子訳)とある。「空間がさまざまな顔に満たされるのだ。」(ジ
ョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』48、澤崎順之助訳)。

 ところで、ボードレールは、「人は想像力豊かであればあるほど、その想像力の冒険に付き随って行って、それが貪
婪に追求する多くの困難を乗り越えるに足るだけの技術を備えている必要がある。」(『一八五九年のサロン』1、高階
秀爾訳)と述べている。結局のところ、「一人の人間が所有する言語表象の数がその人間が更に新しいものをみつける
のに持ちうる機会の回数にたいへん影響をもつ」(ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』山田九朗訳)
はずで、ニーチェは、『ツァラトゥストラ』の第二部に、「断片であり、謎であり、残酷な偶然であるところのものを、
『一つのもの』に凝集し、総合すること、これがわたしの努力と創作の一切なのだ。」(手塚富雄訳)と書いており、ホ
フマンスタールは、「出会いにあってはすべてが可能であり、すべてが動いており、すべてが輪郭をなくして溶けあう」
(『道との出会い』檜山哲彦訳)と書いている。

「なぜ人間には心があり、物事を考えるのだろう?」(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)「心は心
的表象像なしには、決して思惟しない。」(アリストテレス『こころとは何か』第三巻・第七章、桑子敏雄訳)。

「詩人の才能よ、おまえは不断の遭遇の才能なのだ」(ジイド『地の糧』第四の書・一、岡部正孝訳)。「あらゆる好
ましいものとあらゆる嫌なものとを、次々に体験し」(ヴァレリー『我がファウスト』第一幕・第一場、佐藤正彰訳)、
「一つひとつ及びすべてを、一つの心的経験に変化させなければならない」(ワイルド『獄中記』田部重治訳)のだ。


ATOM HEART MOTHER。──韻律と、それを破壊するもの/詩歌の技法と、私詩史を通して

  田中宏輔



ころげよといへば裸の子どもらは波うちぎはをころがるころがる

 相馬御風の歌である。それにしても、「この音は何だ」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第一幕、石川重俊訳)。
なんと楽しい歌であろう。これほど人を楽しませる歌は、ほかにはないであろう。愛と喜びに満ちあふれた歌である。
おそらく、「音楽は人間的なことの中でももっとも人間的なことで」(シオドア・スタージョン『夢見る宝石』14、永
井 淳訳)あろう。


街道をきちきちと飛ぶ&#34695;&#34488;(ばつた)かな                               (村上鬼城)

霧ぼうぼうとうごめくは皆人なりし                            (種田山頭火)

燭(しよく)の火を燭にうつすや春の夕                                (与謝蕪村)

枯蓮のうごく時きてみなうごく                               (西東三鬼)

飛行機となり爆弾となり火となる                              (渡辺白泉)


 一見すると、こういった同音の反復は、短歌よりも音節数の少ない俳句での方が、より音楽的に聞こえるものであ
るが、こうして立てつづけに読んでいくと、いささか単調なものに思われてくる。「どんなものも、くりかえされれば
月並みになる」(R・A・ラファティ『スナッフルズ』1、浅倉久志訳)ということだろうか。つぎに、音調的により
巧妙な技法が施されているものを見てみよう。


春雨や降るともしらず牛の目に                               (小西来山)

何も彼も聞き知つてゐる海鼠(なまこ)かな                              (村上鬼城)

咲き切つて薔薇の容(かたち)を超えけるも                             (中村草田男)

雷落ちしや美しき舌の先                                  (西東三鬼)

憲兵の前で滑つて転んぢやつた                               (渡辺白泉)


 これくらいに音調的に巧みだと、繰り返し読んでも飽きない。じっさい、三度、四度と、つづけて読み返してみて
も、耳に心地よいものである。また、エマソンの言葉に、「ものが美しい調べに変わるさまは、ものが一段高い有機的
な形態に変貌するさまに似ている。」(『詩人』酒本雅之訳)というのがあるが、これらの句のなかに出てくる「牛の目」
や「海鼠」といった言葉から、わたしが思い浮かべるイメージは、これらの句を読む前に思い浮かべていたであろう
イメージとは、まったく違ったものになってしまったように思われる。すでに読んでしまったので、読む前に持って
いたイメージを正確に思い出すことなどできないのだが、それでも、読む前に、「牛の目」や「海鼠」といったものに
対して、それほど神秘的な印象を抱いていなかったのは、たしかである。読んでからなのである。「牛の目」や「海鼠」
といったものに対して、それらの存在に対して、とても神秘的な印象を持つようになったのは。「牛の目」や「海鼠」
といったものに対して、けっして人間には近づくことのできないところ、徹底的に非人間的なところを感じたのは。
しかし、それなのに、同時にまた、よりいっそう人間に近づいたようなところ、よりいっそう身近なものになったよ
うなところも感じられたのである。「画面にひたすら事物だけが描きこまれるときは、事物がまるで人間のように振舞
う。まさに、人間の劇なのだ。」(プルースト『サント=ブーヴに反論する』フロベール論に書き加えること、出口裕弘・
吉川一義訳)「世界は象徴として存在している。語られる言葉の部分部分が隠(いん)喩(ゆ)なのだ。自然全体が人間精神の隠喩だ
からだ。」(エマソン『自然』四、酒本雅之訳)「人間と結びつくと、人間になる。」(川端康成『たんぽぽ』)「人間は万
有に対する類推(アナロギー)の源なのだ。」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)といった言葉が思い起こされる。
また、短歌も俳句も、「多くを言うために少なく言う言いかたで」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』17、菅野
昭正訳)、「とても短い言葉なのに、たくさんの意味がこめられている。」(シオドア・スタージョン『フレミス伯父さん』
大村美根子訳)。ときに、「小さくてつまらないことでも、大きな象徴とおなじように役に立つ。法則が表現される際の
象徴がつまらないものであればあるほど、それだけいっそう強烈な力を帯び、人びとの記憶のなかでそれだけ永続的な
ものとなる。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)。引用した句のなかでいえば、草田男のものが、突出しているだろうか。
正確な目が見つめる、ほんのささいな事柄が、「すべての事象により強い実在感を与えると同時に、世界を、微妙なシ
ンボルの集合体に変えてしまったのである。」(ラングドン・ジョーンズ『時間機械』山田和子訳)「そのひと言でぼく
の精神状態はもちろん、あたりの風景までが一変した。」(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』女戦士(アマゾネス)、
木村榮一訳)「人間はいちど変わってしまうともとには戻れない。これからは何も二度と同じには見えないのだ。」(キ
ム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第三部・11、大西 憲訳)。そして、「世界はもう二度と元の姿にはも
どらないだろう。」(コードウェイナー・スミス『酔いどれ船』伊藤典夫訳)。ところで、「単純になるにつれて、豊かさ
が増す」(ノヴァーリス『対話・独白』今泉文子訳)というのは、「複雑なものより単純なもののほうが、より多くの精
神を必要とする」(ノヴァーリス『花粉』87、今泉文子訳)からであろうか。「人生のあらゆる瞬間はかならずなにか
を物語っている」(ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』四・16、小林宏明訳)。「人生を楽しむ秘訣
は、細部に注意を払うこと。」(シオドア・スタージョン『君微笑めば』大森 望訳)という言葉があるが、細部での方
が、精神がよく働き、よく実感されるからであろうか。たしかに、人間の精神というものは、大きなものよりも小さ
なものに対して、抽象的なものよりも具象的なものに対して、よりよく働くものである。「愛するものは、生き生きし
てる」(フィリップ・K・ディック『凍った旅』浅倉久志訳)という言葉もあるが、それは、具体的なものが、愛する
対象となっているために、精神がよく働かされ、こころがうれしくなるからであろう。エズラ・パウンドの「おまえ
が愛するものはのこる」(『詩章 第八十一章』出淵 博訳)という詩句が思い起こされる。また、愛とくれば、憎しみ
が、憎しみとくれば、苦痛が連想される。ダン・シモンズの「人生ではね、最大の苦しみをもたらすものは、ごくちっ
ぽけなものであることが多いの」(『エンディミオンの覚醒』第一部・10、酒井昭伸訳)といった言葉も思い起こされ
る。

 その形式が、もたらすのであろう。俳句も短歌も、まことに暗示性に富んだ文学形式である。しかし、一般的には、
俳句作品の方が、短歌作品よりも情景を思い浮かべやすいものが多く、短歌作品の方が、俳句作品よりも作り手自身
の情感を読みとりやすいものが多いと思われる。
 作り手自身の情感がよく伝わる、音調的にも美しい歌を、古今と新古今の歌人の作品のなかから、いくつか見てみ
よう。


ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ                     (紀 友則)

筑波嶺(つくば ね)の峰より落つるみなの川(がは)恋ぞつもりて淵(ふち)となりぬる                    (陽成院)

来ぬ人をまつ帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ                 (権中納言定家)

玉の緒よ絶えなば絶えね永らへば忍ぶることの弱りもぞする                 (式子内親王)

つぎの歌は、与謝野晶子の作品である。

わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ


「形式(丶丶)は本質的に反復(丶丶)と結びついている。」(ヴァレリー『文学論』第一部、堀口大學訳)「リズムはいたるところに
あり──いたるところに忍び込む。」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)「音楽がはっきりした形
をとるのが見える。」(ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』第四部・21、黒丸 尚訳)「形式は作品の骨格だ。」
(ヴァレリー『文学論』第三部、堀口大學訳)「韻律とは何か?」(ディラン・トマス『黄昏の明かりに祭壇のごとく』
IV、松田幸雄訳)「霊なのか?」(ディラン・トマス『黄昏の明かりに祭壇のごとく』IV、松田幸雄訳)「霊?」(ラーゲ
ルクヴィスト『巫女』山下泰文訳)「霊である。」(『知恵の書』一・六)「霊が眼前に顕われれば、われわれはたちまち
みずからの霊性に目覚めるだろう。すなわちわれわれは、その霊と同時にみずからをも媒介にして、霊感を吹き込まれ
るだろう。霊感がなければ霊の顕現もない。」(ノヴァーリス『花粉』33、今泉文子訳)。声が発語者の身体の延長であ
るならば、書かれた言葉は、書いた者の魂の延長であろう。「語の運びや拍子や音楽的精神を感じとる繊細な感覚にめ
ぐまれた者、あるいは、言葉の内的本性の繊細な働きを身内に聞きとり、それにあわせて舌や手を動かす者」(ノヴァ
ーリス『対話・独白』今泉文子訳)、「詩人の言葉は一般的な記号ではなく──音の響きであり──自分の周囲に美しい
群れを呼び寄せる呪文なのだ。」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)。
それというのも、人間のうちに音楽があり、意味があるからである。それというのも、人間自体が音楽であり、意
味であるからである。


高野川


底浅の透き通った水の流れが
昨日の雨で嵩を増して随分と濁っていた
川端に立ってバスを待ちながら
ぼくは水面に映った岸辺の草を見ていた
それはゆらゆらと揺れながら
黄土色の画布に黒く染みていた
流れる水は瀬岩にあたって畝となり
棚曇る空がそっくり動いていった
朽ちた木切れは波間を走り
枯れ草は舵を失い沈んでいった

こうしてバスを待っていると
それほど遠くもないきみの下宿が
とても遠く離れたところのように思われて
いろいろ考えてしまう
きみを思えば思うほど
自分に自信が持てなくなって
いつかはすべてが裏目に出る日がやってくると

堰堤の澱みに逆巻く渦が
ぼくの煙草の喫い止しを捕らえた
しばらく円を描いて舞っていたそれは
徐々にほぐれて身を落とし
ただ吸い口のフィルターだけがまわりまわりながら
いつまでも浮標のように浮き沈みしていた


 わたしが生まれてはじめて書いた詩である。初出は、「ユリイカ」一九八九年八月号・投稿欄である。選者は、増
剛造氏である。つぎの詩は、同誌の一九九〇年九月号・投稿欄に掲載されたもので、選者は、大岡 信氏である。「高
野川」を書いていたときには、まだ、詩は、堀口大學氏の訳詩集である『月下の一群』くらいしか読んでいなかった
のであるが、つづけて同誌に投稿していた一年ばかりの間に、北園克衛をはじめとする日本のモダニズム詩人たちの
詩にも接するようになっていた。「夏の思い出」には、その影響が顕著に見受けられる。


夏の思い出



白い夏
思い出の夏
反射光
コンクリート
クラブ
ボックス
きみはバレーボール部だった
きみは輝いて
目にまぶしかった
並んで
腰かけた ぼく
ぼくは 柔道部だった
ぼくらは まだ高校一年生だった

白い夏
夏の思い出
反射光
重なりあった
手と

汗と

白い光
光反射する
コンクリート
濃い影
だれもいなかった
あの日
あの夏
あの夏休み
あの時間は ぼくと きみと
ぼくと きみの
ふたりきりの
時間だった
(ふたりきりだったね)
輝いていた
夏の
白い夏の

あの日
ぼくははじめてだった
ぼくは知らなかった
あんなにこそばったいところだったなんて
唇が
まばらなひげにあたって
(どんなにのばしても、どじょうひげだったね)
唇と
汗と
まぶしかった
一瞬

ことだった

白い夏の
思い出
はじめてのキスだった
(ほんと、汗の味がしたね)
でも
それだけだった
それだけで
あの日
あのとき
あのときのきみの姿が 最後だった
合宿をひかえて
早目に終わったクラブ
きみは
なぜ
泳ぎに出かけたの
きみはなぜ
彼女と
海に
いったの

夏の

白い夏の思い出
永遠に輝く
ぼくの
きみの
夏の

あの夏の日の思い出は
夏がめぐり
めぐり
やってくるたびに
ぼくのこころを
引き裂いて
ぼくの
こころを
引き千切って
風に
飛ばすんだ

白い夏
思い出の夏
反射光
コンクリート
クラブ
ボックス
重ねた
手と
目と
唇と
汗と
光と
影と
夏と



 韻律はリズムを生み、言葉に躍動感を与える。すると、読み手のこころは大いに喜ぶ。それが、愛の本性に適った
ことだからである。「愛とはなにか。/自己をぬけ出そうとする欲求。」(ボードレール『赤裸の心』二五、阿部良雄訳)
「魂の流出は、幸福である、ここには幸福がある」(ホイットマン『大道の歌』8、木島 始訳)。「僕たちの人生のどん
な瞬間であろうと、僕たちのなかには、発散されることを必要とする力がある」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』
9、菅野昭正訳)。「愛はわたしを大きくする。」(ローベルト・ヴァルザー『夢』川村二郎訳)「それにしても、何の光だ
ろう?」(サングィネーティ『イタリア綺想曲』69、河島英昭訳)「この光、」(ルーシャス・シェパード『スペインの教
訓』小川 隆訳)「この音は」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第一幕、石川重俊訳)。「偽りを許さない何か」(ロ
バート・F・ヤング『魔王の窓』伊藤典夫訳)、「あの何か間違ってはいないものの響き、ずっと昔に起こった何かの経
験、正しく光り輝くものであったことの?」(オラフ・ステープルドン『オッド・ジョン』10、矢野 徹訳)「その光は、
途方もなく明るかった」(ラーゲルクヴィスト『巫女』山下泰文訳)。「自分自身を輝かせると同時にそばにいる者を輝
かせる」(レイナルド・アレナス『夜になるまえに』レサマ=リマ、安藤哲行訳)。「なんという強い光!」(カブレラ
=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』昼夜入れ替えなしの興行、木村榮一訳)「それにしても、何の光だろう?」
(サングィネーティ『イタリア綺想曲』69、河島英昭訳)「いったい何なのか、」(コルターサル『石蹴り遊び』向う側
から・21、土岐恒二訳)「輝く光は」(スティーヴン・バクスター『真空ダイヤグラム』第七部・バリオンの支配者たち、
岡部靖史訳)。また、「その光はどこから出てきたものだったのだろう?」(ジュール・ヴェルヌ『カルパチアの城』13、

 安東次男訳)「その光がいったいどこから発しているのか」(アンナ・カヴァン『氷』5、山田和子訳)。そうだ。「あの
光は外から来るものではなく、ぼくの眼から出た光であり、」(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』
すべてが愛を打ち破る、木村榮一訳)「自身の思考から発したものに違いはない」(プルースト『サント=ブーヴに反論
する』サント=ブーヴとバルザック、出口裕弘・吉川一義訳)。愛というものは、つねに見出されるものである。「その
愛が形を変えて」(サバト『英雄たちと墓』第II部・4、安藤哲行訳)、言葉となって、光となり、音となったのである。
言葉となって、わたしのなかに折りたたまれていた光や音が解放されたのである。あの夏の日の日射し、あの真剣な
彼の眼差し、あのまぶしかった彼の面差し、彼という彼のすべてが一つの光だった。声など交わすこともなく手を触
れ合い、黙って唇を重ね合ったあの静けさも一つの声、あの沈黙も一つの音だった。

「美しいことにどのような意味があるのだろうか?」(ジェイムズ・アラン・ガードナー『プラネットハザード』下・
15、関口幸男訳)「自由とは魂がそのなかで美に向かって開かれるものなのか、魂にその自由の予感を与えるものが美
なのか」(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・三、菊盛英夫訳)。「美は、とりわけて可視的なものである。」(ノヴァーリ
ス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)「自然の恵む刺激とは、つまり物象にそなわる美のことで、」(エマソン『詩
人』酒本雅之訳)「魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現れることがない」(サバト『英雄たちと墓』第I部・
2、安藤哲行訳)。「見るというのは明瞭に認識することだ」(ダン・シモンズ『エンディミオンの覚醒』第一部・4、
酒井昭伸訳)。「ある概念を認識するためには、まずそれを視覚化しなければならない。」(ブライアン・オールディス『十
億年の宴』9、浅倉久志訳)「目は心に最も近く位置していて、」(プルタルコス『食卓歓談集』二三、柳沼重綱編訳)「観
念は視線を向けられたとたんに感覚となる。」(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)「われわれ
のあらゆる認識は感覺にはじまる。」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)「人間にとっては、可
感的なことがらを通して可知的なことがらに到達するのがその本性に適合している。われわれの認識はすべて感覚に端
を発するものだからである。」(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第一問・第九項、山田 晶訳)「感じるために
は、それを「理解」することが必要だ。」(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラ、井上究一郎訳)
「どんなに目に見える幸福も/私たちがそれを内部で変身させてはじめて私たちに認められるものとなる」(リルケ『ド
ゥイノの悲歌』第七の悲歌、高安国世訳)。見ることはうれしい。見えることはうれしい。見ることが喜びなのだ。見
えることが喜びなのだ。
「すべては見ること」(ジョン・ベリマン『73 カレサンスイ リョウアンジ』澤崎順之助訳)。


夕(ゆう)星(ずつ)は、
かがやく朝が(八方に)散らしたものを
みな(もとへ)連れかへす。
羊をかへし、
山羊をかへし、
幼(おさ)な子をまた 母の手に
連れかへす。


「なんとも美しい。こんな詩はもうだれにも書けないね。」(デニス・ダンヴァーズ『エンド・オブ・デイズ』下・12、
川副智子訳)。これは、古代ギリシアの女流詩人であるサッフォーの作品である。この詩の原文は、わずか二行ばかり
のものであったのだが、翻訳された呉 茂一氏によって、このように七行に行分けされた。日本語で書かれた詩のなか
で、この詩ほどにすばらしい詩を、わたしはほかに知らない。第一に、空間の把握の仕方がまことにもって見事であ
る。しかも、呉氏が、原文の二行を七行に改めて翻訳されたので、その空間の拡がりがより感じとれるものとなって
いる。しかし、何よりも、繰り返される言葉自体が耳に心地よく、その繰り返す言葉が、繰り返される人間の生の営
みというものを喚起させ、その音調的な美しさと、その情景の美しさのなかに、読み手を瞬時に包み込んでしまうの
である。はじめて目にしたときの感激は、いまでもいっこうに薄れてはいない。そのような詩は稀である。ここには
永遠があるのだ。しかも、それは、呼吸のように繰り返される、運動性を持った永遠なのである。まるで、ポオが『ユ
リイカ』のなかに書いていた「神の心臓の鼓動」(牧野信一・小川和夫訳)のごときものである。「神の心臓の鼓動」
という言葉はまた、ボードレールの「自我の蒸発と集中について。すべてがそこにある。」(『赤裸の心』一、阿部良雄
訳)といった言葉を、ただちに思い起こさせる。サッフォーのこの詩は、わたしが完璧に暗唱している数少ない詩の
一つである。記憶する際に、韻律は実に効果的であった。この韻律は、瞬時に、そして永遠に、わたしをこの情景の
なかに立ち戻らせる。そうなのだ。この詩は、わたしをその情景のなかに瞬時に投げ込み、瞬時に展べ拡げるのであ
る。無限に拡大するのである。その情景のなかに、わたしの「現存在を無限に拡大する」(ノヴァーリス『断章と研究 
一七九八年』今泉文子訳)のである。「存在を作り出すリズム」(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾
芙佐訳)、「人間ひとりひとりを永遠と偏在に参与せしめるリズム」(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』
小尾芙佐訳)。「一秒にも満たない瞬間にすべてが存在し、見つめられ、触れられ、味わわれ、嗅がれるのだ。」(ラング
ドン・ジョーンズ『時間機械』山田和子訳)「すべてがひとときに起こること。それこそが永遠」(グレン・ヴェイジー
『選択』夏来健次訳)。
 
 ここで、ふと、高村光太郎の「ヨタカ」という詩の終わりの三行が思い出された。


自然に在るのは空間ばかりだ。
時間は人間の発明だ。
音楽が人間の発明であるやうに。


 ノヴァーリスの「目だけが空間的(ヽヽヽ)である──他の感覚はすべて時間的である」(ノヴァーリス『青い花』遺稿、青山
隆夫訳)といった言葉も思い起こされる。

「真の始まりは自然詩である。終末は第二の始まり──そしてそれは芸術詩である。」(ノヴァーリス『断章と研究 一
七九八年』今泉文子訳)「事物を離れて観念はない。」(ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ『パターソン』第一巻・
巨人の輪郭・I、沢崎順之助訳)「人間精神の現実的存在を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念に
ほかならない。」(スピノザ『エチカ』第二部・定理一一、工藤喜作・斎藤 博訳)「美はものに密着し、/心は造型の一
義に住する。」(高村光太郎『月にぬれた手』)「自分の作り出すものであって初めて見えもする。」(エマソン『霊の法則』
酒本雅之訳)「自然の中には線も色彩もない。線や色彩を創り出すのは人間である。」(ボードレール『ウージェーヌ・
ドラクロワの作品と生涯』3、高階秀爾訳)「具体的な形はわれわれがつくりだすのだ。」(ロバート・シルヴァーバー
グ『いばらの旅路』25、三田村 裕訳)。ほんとうにはっきりと、ものの形が見えるのは、こころのなかでだけなので
ある。ずいぶん以前のことであった。サッフォーの詩に匹敵するくらいにすばらしい歌が、万葉の歌人によって詠わ
れていたことを知ったのは。そのときには、ほんとうに驚かされた。その歌人もまた、女性であったのだ。つぎの歌
が、狭野茅上娘子によるその歌である。


君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天(あめ)の火もがも


 韻律に気がとられる前に、その情景に圧倒される。狭野茅上娘子のこの空間把握能力のすさまじさには、目を瞠らさ
れる。韻律の妙技が仕掛けられていても、そのあまりに強烈な情念や印象的な情景によって、その片鱗にすら気づか
せられないのである。この作品以上に情念的にすさまじい歌を、わたしは知らない。しかし、「なぜ人間には心があ
り、物事を考えるのだろう?」(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)「生けるものは誰一人、苦しみを味
わうものなかれと願う。」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第一幕、石川重俊訳)「心は、わたしを苦しめる以
外にどんな役にたったというのだろう?」(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三七年四月八日、関 義訳)「それ
は私が孤独だからだろうか?」(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)「われわれを孤独にするのは、まさに人間的なものだ、
ということを理解することを学ばなければならない。」(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)「恐らく人は不幸で
ある。」(ボードレール『描かんとする願望』三好達治訳)「人生には幸福なひとこまもあるが、大体はまちがいなく不
幸である。」(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』1、宇佐川晶子訳)「地上の人生、それは試練にほか
ならない」(アウグスティヌス『告白』第十巻・第二十八章・三九、山田 晶訳)。「すべてのものにこの世の苦痛が混ざ
りあっている。」(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)「あらゆる出会いが苦しい試練だ。」(フ
ィリップ・K・ディック『ユービック:スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳)。それでも、わたしたちは生きている。そ
んな世界のなかで、凛として生きているつもりで歌を詠む。しかし、じつのところ、わたしたちは、まさによそ行き
の顔をして「しあわせを装いながら、生きるはり(丶丶)は嘆きであり、怒りであり、憎しみ、恨み、希望だったのだ!」(コ
ードウェイナー・スミス『老いた大地の底で』2、伊藤典夫訳)「われわれはなぜ、自分で選んだ相手ではなく、稲妻
に撃たれた相手を愛さなければならないのか?」(シオドア・スタージョン『たとえ世界を失っても』大森 望訳)「も
っとも多く愛する者は敗者である、そして苦しまねばならぬ」(トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳)。
「よく愛するがためには、すでにくるしんでいなければならなく、また信じていなければならない」(バルザック『セ
ラフィタ』三、蛯原〓夫訳)。「願望の虐む芸術家は幸いなるかな!」(ボードレール『描かんとする願望』三好達治訳)
「自分の心を苛むものを書き記すこともできれば、そうすることによってそれに耐えることもできるひと、その上さら
に、そんなふうにして後代の人間の心を動かしたい、自らの苦痛に後代の人間の関心を惹きつけたいと望むことができ
るひとは幸いなるかな」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』18、菅野昭正訳)。「これまで世界には多くの苦しみが
生まれなければならなかった、その苦しみがこうした音楽になった」(サバト『英雄たちと墓』第I部・9、安藤哲行
訳)。「苦悩(くるしみ)は祝福されるのだ。」(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第三章、渡辺一夫訳)「創造する者が生まれ出る
ために、苦悩と多くの変身が必要なのである。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)。しかし、苦し
むことに意味があるとしたら、それは、愛することに意味があるときだけである。そう思うと不幸が手放せなくなる。
自分の不幸を手放すのがもったいないとまで思えてくる。「不幸は情熱の糧なのだ。」(ターハル・ベン=ジェルーン『聖
なる夜』9、菊地有子訳)「情熱こそは人間性の全部である。」(バルザック『人間喜劇』序、中島健蔵訳)「おお、ソク
ラテスよ、なんの障害もあなたの進行を妨げないとすると、そもそも進行そのものが不可能になる。」(ヴァレリー『ユ
ーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳) 「そもそも苦しむことなく生きようとするそのこと自体に一つの完全な矛
盾があるのだ」(ショーペンハウアー『意思と表象としての世界』第一巻・第十六節、西尾幹二訳)。「いかなる行動も
営為も思(し)惟(い)も、ひたすら人を生により深くまきこむためにのみあるのだ。」(フィリップ・K・ディック『あなたをつく
ります』7、佐藤龍雄訳)「苦しみは人生で出会いうる最良のものである」(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・
逃げさる女、井上究一郎訳)。「己れの敵を愛せよ(丶丶丶丶丶丶丶丶)。/私は自分を活気づける人たちを愛し、又自分が活気づける人たち
を愛する。われわれの敵はわれわれを活気づける。」(ヴァレリー『文学』佐藤正彰訳)「わたしの敵たちもわたしの至
福の一部なのだ。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)。

 前掲の狭野茅上娘子の歌を読み、その情念の激しさに打たれて、わたしは、これまでの自分が、愛というものに対
して、ずっと誤った視線を投げかけていたのではないかとさえ思われたのである。「世界はすべての人間を痛めつける
が、のちには多くの人がその痛めつけられた場所で、かえって強くなることもある。」(ヘミングウェイ『武器よさらば』
第三四章、鈴木幸夫訳)「多感な心と肉体を捻じり合わせて愛に変えうるのは苦しみだけ」(E・M・フォースター『モ
ーリス』第四部・42、片岡しのぶ訳)。「苦しみは焦点を現在にしぼり、懸命な(ヽヽヽ)闘いを要求する。」(カミュ『手帖』第
四部、高畠正明訳)「苦痛が苦痛の観察を強いる」(ヴァレリー『テスト氏』テスト氏との一夜、村松 剛・菅野昭正訳)。
「苦しむこと、教えられること、変化すること。」(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』不幸、田辺 保訳)「苦痛の深さ
を通して人は神秘的なものに、本質にと、達するのである。」(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・消え去った
アルベルチーヌ、鈴木道彦訳)「人間には魂を鍛えるために、死と苦悩が必要なのだ!」(グレッグ・イーガン『ボーダ
ー・ガード』山岸 真訳)「愛はたった一度しか訪れない」(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)。「一(ヽ)度きり、そ
してふたたびはない、そして私たちもまた一(ヽ)度きり。」(リルケ『ドゥイノの悲歌』第九の悲歌、高安国世訳)「まさに
瞬間だ」(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・3、浜野 輝訳)。「「愛」が覚えている」(シェリー『鎖を解か
れたプロメテウス』第二幕・第三場、石川重俊訳)「一瞬のきらめき。」(フィリップ・ホセ・ファーマー『紫年金の遊
蕩者たち』大和田 始訳)「人生には、まるで芸術の傑作のように整えられている瞬間が、またそういう全生涯があるも
のなのだ」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』21、菅野昭正訳)。「人生というものは閃光の上に築かなければなら
ない」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』9、菅野昭正訳)。「一瞬のうちに無限の快楽を見出し」(ボードレール『け
しからぬ硝子屋』三好達治訳)、「その瞬間を永遠のものとするため」(マイケル・マーシャル・スミス『地獄はみずか
ら大きくなった』嶋田洋一訳)。「すべては同じようにはかなく移ろいやすいものだ。少なくともそのために、束の間の
ものを普遍化するために書く。たぶん、それは愛。」(サバト『英雄たちと墓』第II部・4、安藤哲行訳)「愛だけであ
る」(フィリップ・アーサー・ラーキン『アーンデルの書』澤崎順之助訳)。そして、「ぼくたちの行為の一つ一つが永
遠を求める」(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)。わたしたちの一瞬一瞬が永遠を求める。わたしたちのすべ
ての瞬間という瞬間が、永遠になろうとするのである。それというのも、「瞬間というものしか存在してはいないから
であり、そして瞬間はすぐに消え失せてしまうものだからだ」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンノ浜辺』25、菅野昭正訳)。
「一切は過ぎ去る。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)「たった一度しか訪れない」(フエンテス『脱
皮』第二部、内田吉彦訳)。わたしたちの一瞬一瞬が永遠を求め、わたしたちのすべての瞬間という瞬間が、永遠にな
ろうとするのである。割れガラスの破片のきらめきの一つ一つが太陽を求め、やがて、そのきらめきの一つ一つが太
陽となるように。川面に反射する月の光や星の光のきらめきの一つ一つが太陽を求め、やがて、そのきらめきの一つ
一つが太陽となるように。

「詩とはなにか」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)。その詩に書かれた言葉を目にしたとたん、
わたしはここからいなくなる。その言葉によって誘われた時間に、導かれた場所に行かされる。「思い描ける場所は、
訪れることができる」(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』III、嶋田洋一訳)。「一度見つけた場所には、いつ
でも行けるのだった。」(ジェイムズ・ホワイト『クリスマスの反乱』吉田誠一訳)「わたしたちはそんなふうにして、
このもろい死すべき肉体を通して、永遠を仄かに見ることができるように作られているからである。」(サバト『英雄た
ちと墓』第II部・4、安藤哲行訳)。狭野茅上娘子の歌を読んだ瞬間、それは、わたしの新しい傷となった。振り返れ
ば、いつでも新しい血を流す新しい傷となったのである。

「魂はどこから来たのだろう?」(サバト『英雄たちと墓』第II部・5、安藤哲行訳)「永遠の中のただ一瞬」(ヴァ
ン・ヴォークト『フィルム・ライブラリー』沼沢洽治訳)。「人間脳髄は明らかに「無限なるもの(丶丶丶丶丶丶)」に嗜(し)欲(よく)を持っている」
(ポオ『ユリイカ』牧野信一・小川和夫訳)、「無限を求める心」(ボードレール『アシーシュの詩』一、渡辺一夫・松
室三郎訳)。「われわれは永遠を必要とする。」(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)「どんな悦びも一瞬のあいだ
しかつづかないのではなかろうか?」(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三六年一月二十七日、関 義訳)「それ
はほんの瞬間に過ぎない。しかし」(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)、「瞬間は永遠に繰り返す。」(イアン・
ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)「おそらく唯一の永遠の喜びとは、それが繰り返されることであろう。」(フ
エンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)「存在が、突然、無限に増加するようなものである。」(リルケ『フィレンツェ
だより』森 有正訳)「永遠を避けることはできない。なぜなら、私がそれを見つけたからだ。」(キース・ローマー『明
日より永遠に』5、風見 潤訳)。
つぎに並べた二つの歌は、高安国世の作品と、前川佐美雄の作品である。


浴槽の如く明るき水の中かさなりて静かに豆腐らはあり

生きてゐる証(あかし)にか不意にわが身体割きて飛び出で暗く鳴きけり


 人間とは、天の邪鬼である。感情とは、天の邪鬼である。知性とは、天の邪鬼である。対立した願いを同時に持つ、
矛盾したこころを持っているのである。この二つの歌に響いている子音のkの音は、音調的な美しさをまったく持っ
ていない。むしろ、音調的な美しさを、わざと壊すか、あるいは、無化するようにつくられているような気がする。
この子音のkの音の響きは、ホラー映画やそれに類するテレビ番組のあの不気味な映像とともに流される音楽に似て
いるような気がする。韻律のこのような高度なテクニックには、感心するほかない。人間の耳は、このような音にも
喜びを感じるものなのである。
つぎの詩は、「ユリイカ」一九九一年一月号に掲載されたものである。


水面に浮かぶ果実のように


 いくら きみをひきよせようとしても
きみは 水面に浮かぶ果実のように
 ぼくのほうには ちっとも戻ってこなかった
むしろ かたをすかして 遠く
 さらに遠くへと きみは はなれていった

もいだのは ぼく
 水面になげつけたのも ぼくだけれど


 この詩は、大岡 信氏によって「ユリイカの新人」に選ばれたときのものであるが、これを書いたときは、まだノ
ブユキとは付き合ったばかりのときで、まさかすぐに別れることになるとは思わなかったのだけれど、この詩の発表
の一年後に別れることになった。これまで引用してきたわたしの詩は、すべて、わたしのじっさいの体験が元になっ
たものであるが、「水面に浮かぶ果実のように」という作品は、わたしが学生時代に付き合っていたタカヒロとのこと
を書いたものだったのだが、いまのいままで、この原稿を書くのに、この詩を制作した日付を調べるまで、ここ数年
の間、この詩のことを、ずっと、ノブユキとのことを書いたものだと思い違いをしていたのである。それほど、ノブ
ユキのことを愛していたのだろうか。愛していたのだろう。では、なぜ、わたしの方から別れようと言ったのだろう
か。愛していたのに。きっと、その愛を、ノブユキの方から壊されたくなかったのだ。愛よりも、虚栄心の方が強か
ったのだ。自尊心とはいわない。つまらない虚栄心だったのだ。「多分ぼくは苦しむのが好きなのだろう。これまでも
人をさんざん苦しめてきたし、見聞するところでは、人を苦しめるのが好きな人間は、苦しめられることを無意識に願
っている。」(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが内なる廃墟の断章』9、伊藤典夫訳)。よく考えるのだ。あのとき、
もし、わたしが別れの言葉を口にしなかったら、どうなっていただろうか、と。ありえたかもしれない幸せを、もし
かしたらいまでもつづいていたかもしれない幸せを、なぜ、自分の方から壊すようなことをしたのか、と。すべては、
わたしのつまらない虚栄心のためだった。「幸福とおなじように、おそらく苦悩もまた一種の技能なのではなかろう
か?」(ブライアン・W・オールディス『一種の技能』跋、浅倉久志訳)「人は自分の持つ矛盾によって、われわれの興
味をひき、自分の本當の心のうちを顯わす。」(『ジイドの日記』第五巻・一九二二年十月二十九日、新庄嘉章訳)「矛盾
とはひとつの事実だ。」(ヴァレリー『邪念その他』N、清水 徹訳)「それは矛盾しているためにかえって真実そのもの
に違いなかった。」(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・1、土岐恒二訳)「われわれが矛盾してゐるときほど自
己に真実であることは断じてない」(ワイルド『藝術家としての批評家』西村孝次訳)。「矛盾ほど確実な土台はない」(ジ
ーン・ウルフ『拷問者の影』8、岡部宏之訳)。「すべて詩の中には本質的な矛盾が存在する。」(アントナン・アルトー
『ヘリオガバルス』III、多田智満子訳)「矛盾からは(エクス・コントラデイクテイオネ)、周知のように、何でもあり、なのである。」(スタニスワフ・
レム『虚数』GOLEM XIV、長谷見一雄訳)「不合理な前提からはどんなことでも導きだしうるものだ。」(サバト『英
雄たちと墓』第II部・13、安藤哲行訳)「あらぬ(丶丶丶)もの(非存在)は、ある(丶丶)もの(存在)にすこしも劣らずある(丶丶)。」(『デモ
クリトス断片156』廣川洋一訳)「愛はたえずとびまわらなければならぬ。」(ノヴァーリス『青い花』遺稿、青山隆夫訳)
「存在(丶丶)と存在しないもの(丶丶丶丶丶丶丶)のあいだをたえず揺れ動いているものだ」(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの航星日記』第二
十一回の旅、深見 弾訳)。「なぜ、あらゆることが常に変化しなければいけないのか?」(レイ・ファラデイ・ネルスン
『ブレイクの飛翔』6、矢野 徹訳)「もともとの本質からして愛が永続するはずがない」(リサ・タトル『きず』幹 遙
子訳)。「われわれの本性は絶えまのない変化でしかない」(パスカル『パンセ』第六章・断片三七五、前田陽一訳)。「変
化は嬉しいものなのだ。」(ホラティウス『歌集』第三巻・二九、鈴木一郎訳)「運動は一切の生命の源である。」(『レオ
ナルド・ダ・ヴィンチの手記』「繪の本」から、杉浦明平訳)。
これから紹介する歌は、わたしと同年代か、少し上、あるいは、少し若い人たちが詠ったものである。


あきらめの森が拡がるこの雨に針がまじつて降つてくるまで                   (林 和清)

わが半身うしなふ夜半はとほき世の式部のゆめにみられていたり                 (林 和清)

空函(からばこ)にも天と地がありまんなかは木端微塵(こつぱ み じん)がよいかもしれぬ                  (笹原玉子)

終点でバスを降りると夏だつた、あふれる涙もぬぐはず歩いた                 (笹原玉子)

一秒と一千秒が等しく過ぐる花降る午後の有元利夫                      (和田大象)

憤怒など地中に深く眠らせむ寝言ひとこと「このど蒟蒻!」                  (和田大象)

「蠅はみんな同じ夢を見る」といふ静けき真昼 ひとを待ちをり               (魚村晋太郎)

人間の壊れやすさ、と思ひつつ炙られた海老の頭をしやぶる                 (魚村晋太郎)

誰か飛行機雲につながるイメージでぼくを見てゐる誰なんだろう                (西田政史)

ジーンズがはりつくほどの夕だちに似てゐるきみの人差し指は                 (西田政史)


「現代の芸術、引き裂かれ緊張した芸術は常にわたしたちの不調和、苦悩、不満から生まれてくるものではないか。」
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)「愛によって、芸術によって、貪欲によって、政治によって、労
働によって、遊戯によって、われわれは自分のつらい秘密を言い表わすことを学ぶ。人間であるだけではまだ自分自身
の半分にすぎず、あとの半分が表現なのだ。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)。しかし、それにしても、なんと玲瓏華
美な歌たちであろうか。すさまじいレトリックの塊たちである。彼らの苦悩が、このような音楽となり、意味となっ
たのである。現代歌人たちは、ここまで到達したのである。ここまで追いつめられているのである。

 これまでのわたしの詩作の歴史を、前期と後期の二つに大別すると、たとえば、前期には、「高野川」や「夏の思
い出」や「水面に浮かぶ果実のように」のように、思い出や書きたいことがまずあって、それを言葉に紡いでいくと
いう手法でなされたものが多く、後期には、これから紹介する、「みんな、きみのことが好きだった。」や「頭を叩く
と、泣き出した。」や「マールボロ。」のように、取り掛かる前に、まず言葉の断片があって、それから、それらをつ
なぎ合わせて、一つの情感なり、一つの精神状態のようなものを作り出していくという、コラージュ的な手法でなさ
れたものが多い。手法が変わるきっかけになったのは、やはり、引用のコラージュで制作した第二詩集の『The
Wasteless Land.』(書肆山田、一九九九年)であろうか。前期の詩では、わたしが言葉と出会って、わたしのなかに
折りたたまれていた光や音が解放されていったような気がするのだが、後期の詩では、わたしが言葉と出会った瞬間
に、わたしのなかに折りたたまれていた光や音が自らの光や音を解き放つと同時に、もともとその言葉のなかに折り
たたまれていた光や音をも解放していったような気がする。あるいは、逆に、言葉がわたしと出会った瞬間に、もと
もとその言葉のなかに折りたたまれていた光や音が自らの光や音を解き放つと同時に、わたしのなかに折りたたまれ
ていた光や音をも解放していったのだろうか。いずれにせよ、もちろん、最終的に解放された光や音は、わたしのな
かに折りたたまれていたものでもなかったし、もともとその言葉のなかに折たたまれていたものでもなかった。それ
らが共鳴し合って、新しく生み出された光や音であった。先に引用したノヴァーリスの「真の始まりは自然詩である。
終末は第二の始まり──そしてそれは芸術詩である。」という言葉が思い起こされる。


みんな、きみのことが好きだった。


ちょっといいですか。
あなたは神を信じますか。
牛の声で返事をした。
たしかに、神はいらっしゃいます。
立派に役割を果たしておられます。
ふざけてるんじゃない。
ぼくは大真面目だ。
友だちが死んだんだもの。
ぼくの大切な友だちが死んだんだもの。
without grief/悲しみをこらえて
弔問を済まして
帰ってきたんだもの。
Repeat after me!/復唱しろ!
absinthe/ニガヨモギ
悲しみをこらえて
ぼくは帰ってきたんだもの。
Repeat after me!/復唱しろ!
誕生日に買ってもらった
ヴィジュアル・ディクショナリー、
どのページも、ほんとにきれい。
パピルス、羊皮紙、粘土板。
食用ガエルの精巣について調べてみた。
アルバムを出して、
写真の順番を入れ換えてゆく。
海という海から
木霊が帰ってくる。
声の主など
とうに、いなくなったのに。
Repeat after me!/復唱しろ!
いじめてあげる。
吉田くんは
痛いのに、深爪だった。
電話を先に切ることができなかった。
誰にも、さからわなかった。
みんな、吉田くんのことが好きだった。
Repeat after me!/復唱しろ!
ぼく、忘れないからね。
ぜったい、忘れないからね。
おぼえておいてあげる。
吉田くんは、仮性包茎だった。
勃起したら、ちゃんとむけたから。
ぼくも、こすってあげた。
absinthe/ニガヨモギ
Repeat after me!/復唱しろ!
泣いているのは、牛なのよ。
幼い男の子が
ぼくの頭を叩いて
「ゆるしてあげる」
って言った。
話しかけてはいけないところで
話しかけてはいけない。
Repeat after me!/復唱しろ!
ごめんね、ごめんね。
ぼくだって、包茎だった。
without grief/悲しみをこらえて
absinthe/ニガヨモギ
もっとたくさん。
もうたくさん。


 この詩が、わたしの作品のなかで、もっとも音調的に美しいものだと、また、作品自体の出来としても、もっとも
すぐれたものだと自負しているものである。ところで、この詩のなかに、「アルバムを出して、/写真の順番を入れ換
えてゆく。」という詩句があるが、もちろん、じっさいの人生においては、出来事の順番を替えることなど、できるこ
とではない。ただ記憶の選択と解釈の違いによって、その意味を捉えなおすことができるだけである。後々、あると
き、つぎのような表現を目にして、すごいものだと感心させられた。このような文章が書けるのは、ごく限られた作
家だけであろう。そのすさまじい洞察力が窺い知れる。

 彼の笑顔はこの世にふたつとない笑顔だ。その笑顔を向けられると、人生で出くわすありとあらゆる不幸をそこに
見るような気がする。ところが顔に浮かんだその不幸を、彼はあっという間に順序よく並べ替えてしまう。それを見
ていると、今度は急に「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じるのだ。だから彼と話をするのは楽しい。
その笑顔をしょっちゅう浮かべて、そのたびに「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じさせてくれるか
らだ。
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』31、安原和見訳)


 作品のなかでは、出来事の順番を替えることなど、簡単である。また、替えるごとに、違った作品が出来上がる。
ただ、「時と場所」(アンナ・カヴァン『失われたものの間で』千葉 薫訳)、「それをならべかえる」(カール・ジャコビ
『水槽』中村能三訳)。それだけでよい。まさしく、「好きなように世界が配列できるのだ」(スタニスワフ・レム『天
の声』17、深見 弾訳)。

 つぎに紹介する詩は、わたしの作品のなかで、韻律的にもっとも複雑な仕掛けが施されたものである。韻律の創造
と破壊を交互に繰り返しながら進行していくのだ。内容は、「みんな、きみのことが好きだった。」ほど整ってはいな
いが、そうであるがゆえに、より凝縮した印象を与えるものとなっている。というのも、言葉というものが新たな意
味を獲得するにつれて、よりいっそうその言葉らしさを身につけるように、「外部の多様性が増すに連れて、内部統一
が生み出される」(ノヴァーリス『対話・独白』今泉文子訳)からである。「詩は、火、身振り、血、叫びなどの種々相
をただ一点に集めて互いに鬩(せめ)ぎ合わせるのである。」(アントナン・アルトー『ヘリオガバルス』III、多田智満子訳)「多
様性から力を引き出して」(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)、「多様にちらばっている
ものを綜観して、これをただ一つの本質的な相へまとめること。」(プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳)「人びとは理
解しないのだ、いかにして、拡散するものが(拡散するにもかかわらず)自己のうちに凝集しているかを。」(『ヘラク
レイトス断片51』廣川洋一訳)「多なるものから一なるものになる」(エンペドクレス『自然について』一七、藤沢令夫
訳)。「すべては寄り集まってただ一つのものとなる」(エンペドクレス『自然について』三五、藤沢令夫訳)。


頭を叩くと、泣き出した。


カバ、ひたひたと、たそがれて、
電車、痴漢を乗せて走る。
ヴィオラの稽古の帰り、
落ち葉が、自分の落ちる音に、目を覚ました。
見逃せないオチンチンをしてる、と耳元でささやく
その人は、ポケットに岩塩をしのばせた
横顔のうつくしい神さまだった。
にやにやと笑いながら
ぼくの関節をはずしていった。
さようなら。こんにちは。
音楽のように終わってしまう。
月のきれいな夜だった。
お尻から、鳥が出てきて、歌い出したよ。
ハムレットだって、お尻から生まれたっていうし。
まるでカタイうんこをするときのように痛かったって。
みんな死ねばいいのに、ぐずぐずしてる。
きょうも、ママンは死ななかった。
慈善事業の募金をしに出かけて行った。
むかし、ママンがつくってくれたドーナッツは
大きさの違うコップでつくられていた。
ちゃんとした型抜きがなかったから。
実力テストで一番だった友だちが
大学には行かないよ、って言ってた。
ぼくにつながるすべての人が、ぼくを辱める。
ぼくが、ぼくの道で、道草をしたっていいじゃないか。
ぼくは、歌が好きなんだ。
たくさんの仮面を持っている。
素顔の数と同じ数だけ持っている。
似ているところがいっしょ。
思いつめたふりをして
パパは、聖書に目を落としてた。
雷のひとつでも、落としてやろうかしら。
マッターホルンの山の頂から
ひとすじの絶叫となって落ちてゆく牛。
落ち葉は、自分の落ちる音に耳を澄ましていた。
ぼくもまた、ぼくの歌のひとつなのだ。
今度、神戸で演奏会があるってさ。
どうして、ぼくじゃダメなの?
しっかり手を握っているのに、きみはいない。
ぼくは、きみのことが好きなのにぃ。
くやしいけど、ぼくたちは、ただの友だちだった。
明日は、ピアノの稽古だし。
落ち葉だって、踏まれたくないって思うだろ。
石の声を聞くと、耳がつぶれる。
ぼくの耳は、つぶれてるのさ。
今度の日曜日には、
世界中の日曜日をあつめてあげる。
パパは、ぼくに嘘をついた。
樹は、振り落とした葉っぱのことなんか
かまいやしない。
どうなったって、いいんだ。
まわるよ、まわる。
ジャイロ・スコープ。
また、神さまに会えるかな。
黄金の花束を抱えて降りてゆく。
Nobuyuki°ハミガキ。紙飛行機。
中也が、中原を駈けて行った。


 最後に紹介する詩は、わたしの作品のなかで、わたしがもっとも気に入っているものである。これはまた、わたし
にとって、わたしの詩にとって、もっとも大事なことを教えてくれた作品でもある。


マールボロ。


彼には、入れ墨があった。
革ジャンの下に無地の白いTシャツ。
ぼくを見るな。
ぼくじゃだめだと思った。
若いコなら、ほかにもいる。
ぼくはブサイクだから。
でも、彼は、ぼくを選んだ。
コーヒーでも飲みに行こうか?
彼は、ミルクを入れなかった。
じゃ、オレと同い年なんだ。
彼のタバコを喫う。
たった一週間の禁煙。
ラブホテルの名前は
『グァバの木の下で』だった。
靴下に雨がしみてる。
はやく靴を買い替えればよかった。
いっしょにシャワーを浴びた。
白くて、きれいな、ちんちんだった。
何で、こんなことを詩に書きつけてるんだろう?
一回でおしまい。
一回だけだからいいんだと、だれかが言ってた。
すぐには帰ろうとしなかった。
ふたりとも。
いつまでもぐずぐずしてた。
東京には、七年いた。
ちんちんが降ってきた。
たくさん降ってきた。
人間にも天敵がいればいいね。
東京には、何もなかった。
何もなかったような顔をして
ここにいる。
きれいだったな。
背中を向けて、テーブルの上に置いた
 飲みさしの
缶コーラ。


 これは、わたしの体験ではない。わたしの現実ではない。ゲイの友人に、東京での思い出を、ルーズリーフに書き
出してもらって、その「部分部分を切り貼りして」(デニス・ダンヴァーズ『エンド・オブ・デイズ』上・7、川副智
子訳)つくったコラージュ作品である。しかし、「個人は、自分の人生体験にもとづくイメージや象徴でものを考える
のであり、二人の個人が共通の人生経験をもっていなければ、ふたりが分かちあうすべては混乱となる」(ウィリアム・
テン『脱走兵』中村保男訳)。わたしも似た経験をしているので、友人の体験を、自分の体験に照らし合わせて感じと
ることができたのであろう。そしてまた、出来上がったばかりのこの作品に目を通していると、「急にそれらの言葉が
まったく新しい意味を帯びた」(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』34、大島 豊訳)ような気がしたのであ
る。「マールボロ。」の言葉となってはじめて、ようやく、それらの言葉が、真の意味を獲得したのではないか、とま
で思わせられたのである。そうして、この作品は、いまでは、わたし自身の経験となっているのである。

 それというのも、彼らが浴びたシャワーの湯しぶきのきらめきが、わたしのなかに飛び込んできたからである。わ
たしのなかにある、さまざまな思い出のなかに。なかでもとりわけ、わたしのなかにある、ノブユキとの思い出のな
かに。わたしの全存在が、そのシャワーの湯しぶきのきらめきを見つめる。さまざまな瞬間のわたしが、さまざまな
わたしの、瞬間という瞬間が、その湯しぶきのきらめきを見つめる。あらゆる瞬間のわたしが、その湯しぶきのきら
めきを見つめるのだ。なかでもとりわけ、ノブユキといっしょにシャワーを浴びたわたしの目が、「マールボロ。」の
なかの彼らが浴びたシャワーの湯しぶきのきらめきを見つめるのである。それゆえ、ノブユキとふざけ合いながらい
っしょに浴びたシャワーの湯しぶきのきらめきが、そのときのノブユキの笑い声とともに鮮やかに思い出されたので
ある。「マールボロ。」をつくっているときには、ノブユキといっしょに浴びた、あの湯しぶきのきらめきなど、まっ
たく思い出さなかったのに、出来上がった「マールボロ。」を読んだとたん、すぐにノブユキといっしょに浴びたシャ
ワーの湯しぶきのきらめきが思い出されたのである。しかも、そうしていったん思い出されてしまうと、こんどは、
ノブユキといっしょに浴びたあの湯しぶきのきらめきの方が、「マールボロ。」という作品を、わたしにつくらせたの
ではないか、とまで思われ出したのである。他の言葉もその湯しぶきを浴びる。すべての言葉がその湯しぶきを浴び
て、すべての言葉がノブユキとの愛を語っているように感じられたのである。これは事実に反する。矛盾している。
しかし、印象としては、あるいは、感覚としては、事実に反していないのである。矛盾してはいないのである。また、
そういった印象は、あるいは、感覚は、意識領域のみならず、無意識領域に眠っている記憶をも刺激するのである。
先に、わたしは、「韻律はリズムを生み、言葉に躍動感を与える。すると、読み手のこころは大いに喜ぶ。それが、愛
の本性に適ったことだからである。」と述べた。現実と非現実の間で揺れ動くことの喜びも、矛盾した情感の間で揺れ
動くことの喜びもまた、愛の本性に適ったことなのであろう。

 愛の本性といえば、プラトンの『饗宴』のなかで、ソクラテスに向かって、「愛の奥義に到る正しい道とは(……)
結局美の本質を認識するまでになることを意味する。」「生がここまで到達してこそ、(……)、美そのものを観るに至っ
てこそ、人生は生甲斐があるのです。」(久保 勉訳)と語ったディオティマの話が思い出される。わたしもまた、ノブ
ユキといっしょに浴びたあのシャワーの湯しぶきのきらめき、その飛沫の一粒一粒の光が発するきらめきを通して、
美そのもの、生の本質そのものに辿り着くことができるような気がしたのである。「誰に真実がわかるだろう。」(ダグ
ラス・アダムス『宇宙の果てのレストラン』29、風見 潤訳)。だれに生のすべての真実がわかるだろう。わかりはし
ないだろう。しかし、わかるのではないかと思わせられたのである。わたしたちは、直接の体験だけから、生のすべ
ての真実を知ることができるだろうか。愛そのもの、悲しみそのものが、直接、わたしたちのもとに訪れるわけには
いかない。それらは、ある時間や場所や出来事として、わたしたちの前に姿を現わすだけである。わたしたちにでき
るのは、ただ、そうして訪れた、一つ一つ、別々の時間や場所や出来事に、一つ一つ、別々の愛のさわりを感じとり、
悲しみのさわりを感じとることができるだけである。それだけでも大したことなのだが、やはり、わたしたちは、自
分たちの直接の体験だけから、生のすべての真実を知ることはできないのであろう。他者の体験を見聞きしたり、芸
術作品に接したりしたときに、自己の生のすべての真実を知ったような気になることがあるのだが、それは、そうい
ったものを通して、じっさいに、生の真実が、その真実の一部を、わたしたちに垣間見させてくれるからであろう。
閉じ込められた精神のなかでは、精神そのものが、そのなかをぐるぐると堂々めぐりするしかない。自分の体験のな
かにいるだけでは、その限りにおいては、人間は自分の体験をほんとうに認識することなどできないであろう。それ
に、自己の体験からのみ喚起された感情というものも、じっさいのところ、わたしたちにはないのではなかろうか。
もしあると思われても、それは、自己の体験からのみ喚起された感情ではないのではなかろうか。わたしたちは、他
者の経験との比較によって、ようやく自分のなかに、ほんとうの感情を喚起させられるのではなかろうか。もちろん、
じっさいの体験を通してのものではないどのような感情も、ほんとうの感情ではないのだし、理解するということも、
また同様に、じっさいの体験を経て実感するという経験をしていなければ、けっして、ほんとうの意味では理解する
ということにはならないものである。しかし、ほんとうの感情になるためには、自己の生の真実の一部を虚偽と交換
する必要があるのではないだろうか。じっさいの体験と同様に、そのような経験も必要なのではないだろうか。引用
による詩を数多く書いてきて、わたしはいま、そのことに気づかせられたのである。真実が、よりたしかな真実さを
獲得するためには、その真実の一部を虚偽と交換する必要があると考えられたのである。真実の一部を虚偽に譲り渡
し、虚偽の一部を真実のなかに取り込む必要があると考えられたのである。芸術作品が、それを見たり聞いたりする
者に、その者の生をより切実に実感させることがあるというのも、その者自身の生の真実の一部を、虚偽と交換する
というところからきているのではないだろうか。ノヴァーリスの「活性化とは、わたし自身の譲渡であると同時に、他
の実体を我がものとすること、もしくは自分のものに変成しなおすことである。」(『断章と研究 一七九八年』今泉文
子訳)という言葉が思い起こされる。

 そのとき、彼らが出会ったポルノ映画館には、わたしはいなかった。そのとき、彼らが入ったラブホテルには、わ
たしは行かなかった。そのとき、彼らがいっしょに浴びたシャワーを、わたしは浴びなかった。そのとき、彼が目に
したその青年の背中の入れ墨を、わたしは見なかった。そのとき、その青年がガラスのテーブルの上に置いた缶コー
ラを、わたしは見なかった。しかし、「マールボロ。」という作品が出来上がった瞬間に、その言葉たちを通して、わ
たしは、彼らのいた時間と場所に現われたのである。彼らがいたそのポルノ映画館に、わたしもいたのだ。彼らが入
ったそのラブホテルに、わたしも入ったのだ。彼らがいっしょに浴びたシャワーを、わたしも浴びたのだ。彼が目に
したその青年の背中の入れ墨を、わたしも見たのだ。青年がガラスのテーブルの上に置いたその缶コーラを、わたし
も見たのだ。なぜなら、彼らが出会ったそのポルノ映画館は、わたしがノブユキとはじめて出会ったゲイサウナと同
じ場所だったからであり、彼らが入ったラブホテルの部屋は、ゲイディスコで声をかけられた夜について行ったフト
シの部屋と同じ部屋だったからであり、彼らが浴びたシャワーは、わたしがタカヒロとふざけてかけ合った琵琶湖の
水と同じ水だったからであり、彼が目にした青年の背中の入れ墨は、わたしがエイジの背中に指で書いた薔薇という
文字と同じものだったからであり、その青年がガラスのテーブルの上に置いた缶コーラの側面のラベルは、わたしが
ヤスヒロの手首につけた革ベルトの痕と同じ模様だったからである。

「ああ、ぼくの頭はどうしたんだろう?」(シオドア・スタージョン『人間以上』第三章、矢野 徹訳)「自分自身の
ものではない記憶と感情(……)から成る、めまいのするような渦巻き」(エドモンド・ハミルトン『太陽の炎』中村 融
訳)。「これは叫びだった。」(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)「わたしの世
界の何十という断片が結びつきはじめる。」(グレッグ・イーガン『貸金庫』山岸 真訳)「今まで忘れていたことが
思い出され、頭の中で次から次へと鎖の輪のようにつながっていく。」(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己
訳)「あらゆるものがくっきりと、鮮明に見えるのだ。」(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)「過去に
見たときよりも、はっきりと」(シオドア・スタージョン『人間以上』第二章、矢野 徹訳)。「それはほんの一瞬だった。」
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』3、友枝康子訳)「ばらばらな声が」(フエンテス『脱
皮』第二部、内田吉彦訳)「一つになる」(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)。「突然の認識」(テリ
ー・ビッスン『英国航行中』中村 融訳)。「あらゆるものがあらゆるものと」(ホルヘ・ギリェン『ローマの猫』荒井正道訳)
「たがいに与えあい、たがいに受け取りあう。」(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)「あ
らゆるディテールが相互に結びついたヴィジョン。」(R・A・ラファティ『他人の目』2、浅倉久志訳)。

「あらゆる個人のなかに共通の精神が宿っていて、」(エマソン『霊の法則』酒本雅之訳)「それがまったくちがった
人々や場所、出来事をむすびつけている」(イアン・ワトスン『エンベディング』第一章、山形浩生訳)。「万物を貫ぬ
くその同一性がわれわれすべてをひとつにし、われわれの平常の尺度ではまことに大きなへだたりを、まったくないも
のにしてしまう。」(エマソン『自然』酒本雅之訳)「「貫通するものは一なり。」と芭蕉は言つた。」(川端康成『日本美
の展開』)「この境界線はあらゆる物のなかを貫いて走っている。」(ノサック『クロンツ』神品芳夫訳)「精神が共感し
て振動を起こす/ひとつの場所がある」(リルケ『鎮魂歌』高安国世訳)。「さまざまな世界を同時に存在させることが
できる。」(イアン・ワトスン『知識のミルク』大森 望訳)「これは共在する存在の領域。」(ジャック・ウォマック『テ
ラプレーン』6、黒丸 尚訳)。

「結局、精神構造とは、一個の複雑な出来事ではなかろうか?」(バリントン・J・ベイリー『王様の家来がみんな
寄っても』浅倉久志訳)「ひとができごとを、できごとがひとを作る。」(エマソン『運命』酒本雅之訳)「人生の中で、
お互いに何年も隔たった存在なのに」(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)、「すべての物
事が」(コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』浅倉久志訳)、「すべての場所が一つになる」(ロバー
ト・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)、「たったひとつの事実になろうとする。」(エマソン『償い』酒本雅之訳)。

「マールボロ。」の言葉が、その言葉の輝きが、違った光を、一つに結びつけていくのだ。違った時間のわたしを、
違った場所のわたしを、違ったわたしであったわたしを、ただ一人のわたしにするために。違った光が、一つの光に
なろうとするのだ。そして、それはまた、同時に、一つ一つの光が違ったものであることを、自ら知るために。違っ
た光が、一つの光になろうとするのだ。さまざまな瞬間に、わたしを存在させるために。違った光が、一つの光にな
ろうとするのだ。さまざまな場所に、わたしを存在させるために。違った光が、一つの光になろうとするのだ。さま
ざまなわたしを存在させるために。わたしであったわたしだけではなく、わたしでありたかったわたしや、わたしが
一度としてこうありたいと思い描いたことのなかったわたしをも。

 わたしのなかのいくつもの日の、いくつもの時間が、いくつもの光景の、いくつもの光が、「マールボロ。」とい
う、わたしが体験しなかった体験を通して、わたしの友人の言葉を通して、互いに照射し合い、輝きを増すのである。
光が光を呼ぶのである。瞬間が瞬間を呼んで永遠になるように。それが、実体験以上に実体験であると感じられるの
は、いくつもの体験を、ただ一つの体験として感じられるからであろう。もちろん、意識としては、別々の体験であ
ることを知ってはいても、感覚として、ただ一つの体験であると感じられるからであろう。そして、その感覚は、友
人の体験という、自分の体験ではないものをも自己の体験として組み入れるのであろう。それが、自分のじっさいの
体験ではないと意識の上では知ってはいても。いや、知っているからこそ、そうするのかもしれない。矛盾している、
と。混沌ではなく、混乱でもなく、混雑でもなく、矛盾している、ということを知っているからこそ。そうして、そ
の感覚は、わたしを、さまざまなものの前で開く。わたしを、さまざまな時間に存在させる。わたしを、さまざまな
場所に出現させる。わたしを、さまざまな出来事と遭遇させるのである。そうして、わたしではないものをも、わた
しであるという感じにさせるのである。彼らが入ったラブホテルの、そのシャワーの湯のあたたかさが、わたしの肌
となるように。そのシャワーの湯しぶきのきらめきが、わたしの目となるように。そのシャワーの湯しぶきの蒸気に
満ちたシャワー室そのものが、わたしの息となるように。

 ああ、それにしても、「いまだにみんながきみの愛について語ることをしないのは、いったいどうしたことなのだろ
う。」(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)。どうしてなのだろう。あれらは、愛ではなかったのだろうか。わたしは、
愛を語らなかったのだろうか。あれらは、あのわたしは、愛ではなかったのだろうか。「だれにおまえは嘆こうという
のか、心よ。」(リルケ『嘆き』高安国世訳)「すべては一つの物語なのである。」(アーシュラ・K・ル・グィン『闇の
左手』1、小尾芙佐訳)「詩は喜びに始まり、叡(えい)智(ち)に終わる。」(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』III、嶋田
洋一訳)。


坂道と少年

  田中宏輔



夏陽がじっくりと焦がす
白い坂道の曲がり角
大樹の木陰、繁り合う枝葉
セミの声
見上げる少年と虫捕り網

身体を揺らしながら
爪先立って手を伸ばす少年
ぼくは坂を下り
空の虫籠に
短い命を入れてやった

片手で押さえた麦藁帽子
ぼくを見上げる夏の顔
昆虫と引き換えに
ぼくが受け取った笑顔は
最上の贈り物だった

足早に坂をかけ上る少年
脇に挟んだ虫捕り網
揺れる虫籠
白い坂道
夏の日

いまはまだ大きく揺れる虫籠も
いつの日か、きっと
その紐が切れるぐらいに
重くなるだろう
そのとき少年は振り返って

坂道を下りてくる
腕は太くなり
胸は厚くなって
少年は、少年を越えた日に
坂道を下りてくる

そのとき彼は
大樹の陰に見るだろう
幼かった日の自分を
輝きに満ちた日を
懐かしいときを

世界がまだ自分より
ずっとずっと大きかった
あの頃を
あの日々を
あの夏の日を

夏と
少年と
白い坂道
ぼくのなかでは
何もかもが輝いていた


アルビン・エイリーが死んじゃった。

  田中宏輔



ねえ Maurice 憶えているかい
ぼくらが いっしょに行った 二条城
あの夏の日 修学旅行に来ていた 中学生たちを
黒人の きみのこと ジロジロ 見てったね
何だか ぼくも 恥ずかしかったよ
あ その中学生たちの したことがだよ
ねえ Maurice きみは憶えているかい
あの小石の 砂利の 乾いた砂の 踏みざわりを
雲 ひとつなかった あの日の 青い空を
あの日は きみと過ごした 最後の日だったね
とはいっても きみといたのは わずか三日
たった それだけの あいだだったけれど
でも ほんと 楽しかったよ
きみのこと 夢中に なっちゃったよ
ぼくは I love you っていったね
けれど きみは love じゃなくって
like だって いった
いまなら ぼくも それは わかるさ
だけど あの日は わからなかった
五年前の あの日には わからなかった
あの日 あの夏 あの晩 ぼくらは
アルビン・エイリーの公演を 見に行ったね
ぼくは 「無言歌」がいい っていった
きみは 「プレシピス」がいい っていった
ああ あのアルビン・エイリーが死んじゃった
あの日 あの夏 あの晩 楽屋で
いっしょに会った アルビン・エイリーが
サンフランシスコの 劇場で 踊ってるきみに
声をかけてきた あのアルビン・エイリーが
あれは きみがいた 劇団と違って
黒人だけの 舞踏団だったね
いや なかに 日本人が 何人かいたね
でも きみが 一番 カッコよかったよ
楽屋にいる だれよりも きみは カッコよかった
そして きみは あの日の 翌朝
東京にたっちゃった

ぼくは いま きみの文字を 見つめてる
走り書きされた 文字を 見つめてる

カッコよく ビッ って破られた メモ用紙

               
6-29-84
Atsusuke
I want to thank you for all of your
help and a very good time. Please keep
in touch with me. Love always.
            Maurice Felder

けれど あの日以来 
ぼくは 何度も 手紙を書いたのに
きみは ただの一度も 返事をくれなかった
ぼくは きみに貫かれて 貫かれたまま
どうすることも できなくって
受身に なって しまって
いつも だれかに 抱かれてなければ
貫かれてなければ ならなかった

ああ アルビン・エイリーが死んじゃった

五年前は まだ エイズなんて言葉
ゲイ・バーでも ポピュラーじゃなかった
スキン・キャンサーの新種が はやってるって
だれかがいってたけど ビニガー・セックス
ってので ふせげるって 話だった
そんな いい加減な 時代だった

ああ アルビン・エイリーが死んじゃった

きみは サンフランシスコに 帰っちゃった

ああ アルビン・エイリーが死んじゃった

きみは サンフランシスコに 帰っちゃった

ああ アルビン・エイリーが死んじゃった

いまなら ぼくは きみのメモを 捨てられる

いまなら ぼくは きみのメモを 捨てられる

さよなら Maurice  さよなら Maurice




    



        付記 
        
        この作品は、アルビン・エイリーがなくなった
        1989年の終わりに書いたものです。
        大学4年か、大学院生の1年のときに
        であった黒人の旅行者との実話をもとに
        書きました。
        大学の研究室には、「風邪で熱が出ているので
        休みます。」と言い、家には、「泊まりこみの
        実験で、三日間、研究室にとまることになった。」
        と嘘をつき、ゲイ・バーで知り合った Maurice と
        三日間、いっしょにいました。
        ECCの先生で、ゲイのカナダ人の友だちの家が
        広かったので、そこに二人とも泊まらせてもらって
        めちゃくちゃ楽しかった。
        その三日のうち、一日、ホームパーティーがあって
        イタリア人の白人女性が焦げたパイ生地を指差して
        まるであなたの肌みたいって Maurice に言って
        笑ったのだけれど、黒人の肌が黒いってことを
        ジョークにしてもいいんだって知らなかったから
        ぼくは彼女の言葉をドキドキして聞いてた。
        でも、言われた Maurice も笑ってたので
        ちょっと遅れて、ぼくも笑った。
        アルビン・エイリーの踊りを見に
        岡崎のシルクホールに行ったとき
        席が後ろだったのだけれど
        新撰組ってドラマに出てた俳優のひとが
        ぼくたちを見て、前のほうの席のチケットを
        くださって、ぼくたちは前のほうに移って
        舞踏を観てた。
        その俳優のひと、あとで知ったんだけど
        ゲイで有名なひとだった。
        ぼくたち、すぐにゲイのカップルって
        見破られたんだろうね。
        違うかなあ。
        まあ、Maurice、黒人だし
        めっちゃカッコよかったし
        ひときわ目立ったんだろうね。
 


歌仙「初真桑」の巻 ● 現代詩組

  田中宏輔



歌仙「初真桑」の巻 ● 現代詩組



                捌 魚村晋太郎
                  田中宏輔
                  矢板進




初真桑四にや断ン輪に切ン     松尾芭蕉   夏

 濡れたスプーンにからむ白南風     晋太郎 夏

しぶしぶとテレビ電話に微笑みて     宏輔  雑

 犬の旅出に土産をわたす        進   雑

吊革を揺らしてのぼる月の坂       晋  月秋

 老いた力士とジャン・ケン・ポン    宏   秋




おとうとの通信簿を棄て原爆忌      進   秋

 複眼で夕映えを見ている        晋   雑

バスルーム電気を消して向き合えば    宏  恋雑

 アイデアしぼる坑夫の情婦       進  恋雑

きぬぎぬの舌の上なる糖衣錠       晋  恋雑

 集団自殺はお日柄もよく         宏   雑

満月に不意のくさめをしてしまう     進  月冬

 らせん小路で買った襟巻        晋   冬

つけてくるぜんまい仕掛けのビルディング 宏   雑

 鳥がこぶしをにぎり囀る        進   春

花影の重みに耐える水面に        晋  花春

 春の少女(おとめ)らが糞尿(くそゆばり)す   宏   春


ナオ

うららかに午後の教諭の背が伸びて     晋   春

 やさしい顔の正五面体         進   雑

ムーミンも金で祖国を売買し        宏   雑

 火星の中華街で飲茶を         晋   雑

なんとなく返事がしたい臍(ほぞ)のあな   進  恋雑

 蛇をつつけば藪が出るのよ       宏  恋夏

箪笥という箪笥溢れる蝉時雨        晋   夏

 朝の格子に楽譜うかべて        進   雑

月のごとあなたのハゲも世を照らす    宏  月秋

 胡桃に潜む替玉の皺           晋   秋

うそ寒い空にはそらの真理あり      進   秋

 デカルトさんも秋刀魚に飽きて     宏   秋


ナウ

未来語でしりとりをする案山子たち    晋   秋

 乗り逃げされた豪華客船        進   雑

酔い痴れて瓶詰の地獄浸りおる      宏   雑

 ガーゼで包む脳の右側         晋   雑

花びらの裏と表がなくなる日       進  花春

 土筆かかえてアジトに向かう      宏   春





           一九九九年八月一日首九月十二日満尾


Opuscule。

  田中宏輔



誰(た)が定めたる森の入り口 夜明には天使の着地するところ *

睡つてゐるのか。起きてゐるのか……。

教会の天井弓型にくりぬいてフラ・アンジェリコの天使が逃げる *

頬にふれてみる。耳にもふれてみる。そつと。やはらかい……。

数式を誰より典雅に解く君が菫の花びらかぞへられない *

胸の上におかれた、きみの腕。かるく、つねつて……。

知つてゐた? 夜が明けるといふこんな奇蹟が毎日起こつてゐることを *

うすくひらかれたきみの唇。そつと、ふれてみる。やはらかい……。

君のまへで貝の釦をはづすとき渚のほとりにゐるごとしわれ *

指でなぞる、Angel の綴り。きみの胸、きみの……。

書物のをはり青き地平は顕れし書かれざる終章をたづさへ *

もうやはらかくはない、きみの裸身。やさしく、かんでみる……。


* Tamako Sasahara


ぶつぶつ。

  田中宏輔



わたしはサイくんのおしり
おしりにできたぶつぶつのおできです。

でもサイくんは、どんなにかゆくっても
てでかくことはできません。
(だって、てがとってもみじかいんだもーん)
あしでかくこともできません。
(だって、あしもとってもみじかいんだもーん)

だからサイくんは
テーブルのでっぱりでおしりをかこうとします。
かこうとしてそのテーブルのでっぱりに
とてつもなくおおきなそのおしりをくっつけて
ぐりぐりぐりぐりとこすりつけます。

わたしはサイくんのおしり
おしりにできたぶつぶつのおできです。

でもサイくんは、どんなにかゆくっても
おしりをかくことはできません。
(だって、へこんだところにいるんですものー、わたし)
それでもサイくんはおしりをふりふりふりふり
テーブルのでっぱりにぐりぐりぐりぐりしまーす。

あっ、ダンナさんがかえってきました。
サイくんのおしりがテーブルからはなれました。
じひびきたててはしりよるサイくん。
ほへほへほへーとへたりこむダンナさん。

かいて、かいてといいつけるサイくん。
ふにふにふにーとかかされるダンナさん。

わたしはサイくんのおしり
おしりにできたぶつぶつのおできです。

わたしはこんなサイくんがだいすきでーす。
わたしはこんなダンナさんがだいすきでーす。

ほほほほほほほ、ほっ。


100人のダリが曲がっている。

  田中宏輔



近くの公園で
ジョン・ダンの詩集を読んでいると
小さい虫がページのうえに

無造作に手ではらったら
簡単につぶれて
ページにしみがついてしまって

すぐに部屋に戻って
消しゴムで消そうとしたら
インクがかすれて
文字がかすれて
泣きそうになっちゃった。
買いなおそうかなあ。
岩波文庫・本体価格553円。
やっぱ、もったいないなあ。
めっちゃ腹が立つ。
虫に。
いや
自分自身に。
いや
虫と自分自身に。
おぼえておかなきゃいけないね。
虫が簡単につぶれちゃうってこと。
それに
なにするにしても
もっと慎重にしなきゃねって。
ふうって息吹きかけて
吹き飛ばしちゃえばよかったね。
きのう買ったビールでも飲もうかな。

これからつづきを
まだ、ぜんぶ読んでないしね。

ああ、しあわせ。
ジョン・ダンの詩集って
めっちゃ陽気で
えげつないのがあって
いくつもね。
ブサイクな女がなぜいいのか、とかね。
公園でも
吹き出しちゃったよ。
あまりにえげつなくってね。
フホッ。

石頭、
いつも同じひと。
どろどろになる夢を見た。


亀の背に乗って帰る。

  田中宏輔



千人の仙人、殴り合う。
それが、最初のヴィジョン。
笑っちゃうだろ。
もちろん、「僧侶」のパロディさ。
有名な詩人たちが殴り合うのも面白い。
だれが、だれを殴るのか、興味があるし、
殴り方だって、みんな違うはず。
サッフォーなら、平手打ち、
コクトーだったら、へろへろパンチに違いない。
でも、ヘッセのゲンコツはキツイだろうな。
たとえ、イッパツでも。
パウンドだったら、
だれかれかまわず、殴るかもしれない。
(ロレンスは、殴られっぱなしだったりして。)
沈黙の猿が、私を運ぶ。
わたくしを山上に運んで行く。
オスカル・マツェラートは、21歳まで94センチだった。
ぼくのチンポコは、35歳になっても3センチだ。
(勃起したら、5センチにはなる。)
カタサだったら、だれにも負けないけどね。
でも、それが、何の役に立つと言うんだろう。
毀れよ、と言えば、毀れる波頭。
ガムをくれるように簡単に言える。
そんな、きみが、うらやましい。
ハコベ、メヒシバ、オオアレチノギク。
いつか、小説を書こうとして
高野川で採取した植物たち。
花なしの緑いろ。
オオイヌノフグリもあったっけ。
手にとると、すっかり、砂になる
蟹の子ら。
あの夏の日のセミの声も、蜘蛛の巣に捕らえられた。
(風の日に、ちぎれ飛ぶ、ちぎれた蜘蛛の巣に)
その日、ぼくのレモン・ティーに、何が起こったのか。
もちろん、何も起こらなかった。
起こるはずもない。
それが習慣というものだ。
あなたは、こぶしを振り上げたことがあるか?
ぼくは、一度だって、こぶしを振り上げたことがない。
こぶしを振り上げたことのない人間に、
殴り合う権利などない。
海と、海の絵は、同じものだ。
祝福せよ!
こころから祝福せよ!
真ん中に砂を置いて、
ハンカチを踏むと、海になる。
地雷を踏んだ戦車がうずくまる。
動かなくなった
キャタピラの傍らに、
 ――はぐれた波がひとつ。
そして、わたくしは? わたくしは
、、干からびて死んでいく
ウミガメの子が見た
、夢だっ


死んだ子が悪い。

  田中宏輔



こんなタイトルで書こうと思うんだけど、って、ぼくが言ったら、
恋人が、ぼくの目を見つめながら、ぼそっと、
反感買うね。
先駆形は、だいたい、いつも
タイトルを先に決めてから書き出すんだけど、
あとで変えることもある。
マタイによる福音書・第二十七章。
死んだ妹が、ぼくのことを思い出すと、
砂場の砂が、つぎつぎと、ぼくの手足を吐き出していく。
(胴体はない)
ずっと。
(胴体はない)
思い出されるたびに、ぼくは引き戻される。
もとの姿に戻る。
(胴体はない)
ほら、見てごらん。
人であったときの記憶が
ぼくの手と足を、ジャングルジムに登らせていく。
(胴体はない)
それも、また、一つの物語ではなかったか。
やがて、日が暮れて、
帰ろうと言っても帰らない。
ぼくと、ぼくの
手と足の数が増えていく。
(胴体はない)
校庭の隅にある鉄棒の、その下陰の、蟻と、蟻の、蟻の群れ。
それも、また、ひとすじの、生きてかよう道なのか。
(胴体はない)
電話が入った。
歌人で、親友の林 和清からだ。
ぼくの一番大切な友だちだ。
いつも、ぼくの詩を面白いと言って、励ましてくれる。
きっと悪意よ、そうに違いないわ。
新年のあいさつだという。
ことしもよろしく、と言うので
よろしくするのよ、と言った。
あとで、
留守録に一分間の沈黙。
いない時間をみはからって、かけてあげる。
うん。
あっ、
でも、
もちろん、ぼくだって、普通の電話をすることもある。
面白いことを思いついたら、まっさきに教えてあげる。
牛は牛づら、馬は馬づらってのはどう?
何だ、それ?
これ?
ラルースの『世界ことわざ名言辞典』ってので、読んだのよ。
「牛は牛づれ、馬は馬づれ」っての。
でね、
それで、アタシ、思いついたのよ。
ダメ?
ダメかしら?
そうよ。
牛は牛の顔してるし、馬は馬の顔してるわ。
あたりまえのことよ。
でもね、
あたりまえのことが面白いのよ。
アタシには。
う〜ん。
いつのまにか、ぼくから、アタシになってるワ。
ワ!
(胴体はない)
 「オレ、アツスケのことが心配や。
  アツスケだますの、簡単やもんな。
  ほんま、アツスケって、数字に弱いしな。
  数字見たら、すぐに信じよるもんな。
  何パーセントが、これこれです。
  ちゅうたら、
  母集団の数も知らんのに
  すぐに信じよるもんな。
  高校じゃ、数学教えとるくせに。」
 「それに、こないなとこで
  中途半端な二段落としにする、っちゅうのは
  まだ、形を信じとる、っちゅうわけやな。
  しょうもない。
  ろくでもあらへんやっちゃ。
  それに、こないに、ぎょうさん、
  ぱっぱり、つめ込み過ぎっちゅうんちゃうん?」
ぱっぱり、そうかしら。
 「ぱっぱり、そうなのじゃあ!」
現状認識できてましぇ〜ん。
潮溜まりに、ひたぬくもる、ヨカナーンの首。
(胴体はない)
棒をのんだヒキガエルが死んでいる。
(胴体はない)
醒めたまま死ね!
(胴体はない)
醒めたまま死ね!










注記:この詩のタイトルは、むかし見たニュース番組で、自分の子どもがイジメにあって
自殺したとき、その自殺した子どもの父親が葬儀のときに(だったと思います)口にした
言葉です。20年くらいむかしの古い事件ですので、詳細は忘れましたが、自分の子ども
がイジメで自殺したというのに、「死んだ子が悪い。」という言葉を、その自殺した子ども
の父親が言ったということに、ぼくはショックを受けました。2つの意味でです。1つは、
あまりに無念すぎて、自分の気持ちと自分の言葉が乖離したのではないかという意味です。
もう1つの意味は、父親にそういった言葉を口にさせたのが、日本の社会的・風土的な理由
からではなかったのだろうかという疑問があったという意味でです。いじめられるほうに
原因がありとする、当時の社会的な雰囲気です。いまは、当時とちがって、少しかわって
きたと思いますが、それでもまだいまだに、いじめられるほうにも原因があるのだとする
社会的風潮が残っているように感じられます。この注記は、2015年1月4日の昼に書き
ました。20年前なら、このタイトルの言葉が社会的にインパクトもあって、広く知られて
いたでしょうけれども、20年もたっていますから、ご存じないない方もいられるでしょう
から、書くことにしました。20年前に、同人誌に発表したときは、このような注記なしで
発表しました。詩集にも収録しました。前述のような理由からです。

注記2:「先駆形」というのは、拙詩集『みんな、きみのことが好きだった。』の前半に
収めた、実験詩のことです。多量のメモを見ているうちに、それらが自動的に結びつくま
で作品にしなかったもので、言い換えると、メモ同士が自動的に結びつくのを、意識領域
の自我ではなくて、なかば無意識領域の自我にまかせてつくった、ある意味で、自動記述
的な詩作行為によってつくられた一群の詩作品のことです。


第2回・京都詩人会・ワークショップ 共同作品

  田中宏輔

第2回・京都詩人会・ワークショップ 共同作品


参加者:内野里美・大谷良太・田中宏輔・森 悠紀


時間:2015年1月11日14時〜20時
場所:四条烏丸上がる東側にある喫茶『ベローチェ』の2階


詩作方法の概要とその結果

(1) 1人につき 名詞5個 動詞5個 提出
(2) 計 名詞20個 動詞20個から、それぞれ、5個以上を用いて詩をつくる。これ以外の言葉を用いてもよい。同じ言葉を何度用いてもよい。動詞は時制を変えてもよいし、語尾を変えてもよいし、複合動詞にしてもよい。
(3) まず、各自、うえの規則のもとで詩をつくる。つぎに、(2)のなかから自分が選んで使用した名詞と動詞を順番に抜き書きして、その順番を書いた紙を他のメンバーに渡す。全員、他のメンバーの作品を読まないで、その渡された紙に書かれた順番にしたがって、他のメンバーが使用した名詞と動詞を用いて作品をつくる。
(4) 参加者が4人であったので、さいしょの自作1作+他のメンバーの使用した言葉の順番でつくった詩作品3作の計4作が、1人の詩人によって作成された詩となった。よって、今回のワークショップで制作された詩作品は、ぜんぶで16作品となった。


I 各人が提出した 名詞5個 動詞5個

内野里美 名詞5個:蜜柑 酒粕 日めくりカレンダー(暦) 手技 坐禅
     動詞5個:効かす こぼれる 淹れる 慈しむ つまびく
大谷良太 名詞5個:煙草 川 魚 金銭 トレイ
     動詞5個:置く 投げる 捨てる 配置する 擦(こす)る
田中宏輔 名詞5個:証明 疑問 労働 居酒屋 人間
     動詞5個:動かない 戻る ずれる 考える つむる
森 悠紀  名詞5個:トーチカ 群れ 奥 水道 筋
     動詞5個:し損なう うろつく 組みつく 眇める 押し戻す


II 各人が使用した 名詞と動詞の順番
 

内野里美:奥 つまびく 群れ こぼれる トレイ うろつく 金銭 擦る 人間 動かない 疑問 ずれる 川 証明 置く
大谷良太:人間 手技 慈(いつく)しむ 擦(こす)る 筋 つまびく 金銭 動かない 奥 組みつく
田中宏輔:居酒屋 奥 配置する トーチカ 群れ 坐禅 し損なう 魚 こぼれる 疑問 押し戻す 動かない 金銭 人間 考える
森 悠紀 :人間 証明 し損なう 煙草 投げる 捨てる 蜜柑 手技 筋 眇める 労働 動かない 人間 うろつく 暦 配置 押し戻す ずれる こぼれる 慈しむ 居酒屋 トレイ 置く 人間


作品


内野里美 オリジナル作品

奥から
つまびかれた群れたちがこぼれ
トレイにうろつくと
金銭を擦る人間の
ばらす当て所なさに
動かない疑問がずれて
川の証明を
置く


内野里美順 大谷良太作品

奥をつまびいて群れがこぼれ、
トレイのまわりをうろつく
金銭を擦る人間
動かないまま疑問がずれ、
川は証明を置く


内野里美順 田中宏輔作品

直線状の猿たちが脳奥でつまびかれる。
群れからこぼれ落ちた点状の猿たちをトレイに拾い集める。
うろつきまわる点状の猿たち。
金銭を擦りつづける人間の猿たち。
動きまくる円のなかで、人間は動かない半径となる。
点状の猿たちから疑問が呈される。
ずれゆく川の存在は、その証明の在り処をどこに置くのか、と。


内野里美順 森 悠紀作品

奥から
つまびかれるリュートが
人の群れの上にこぼれている
トレイを持ったままうろつき
繰り返される金銭のやり取りに
擦れた指先をした
ウェイトレスのパッセージが
夢見るように重なるのを
ざわめく人間たちの隙間にちらと見る
動かない月がある
中空に引っかかったような疑問が
ずれてゆく川の流れの
永いスパンで氷解するように
ひとしきり掻き回したグラスが
剃刀の証明として
ひとつの机の上に置かれる


大谷良太 オリジナル作品

人間の手技で
慈しみ擦る
筋をつまびく…
金銭で動かないなら
奥に組みつく


大谷良太順 内野里美作品

人間の手を抜いた手技を慈しむべく
擦る鉄筋コンクリートにつまびかれる金銭の倍音に
奉る絵馬から落ちた子どもの
喉奥に組みつく


大谷良太順 田中宏輔作品

人間は手技を慈しむ。
刻む、彫る、擦る、組む。
筋彫りの刺青。
中国人青年の腰を抱く。
ラブホでつまびかれるBGMの琴の音。
正月だ。
金銭のことはどうでもよい。
背中から抱きしめたまま動かない。
奥にあたる。
組みついた二つの背中。
人間は手技を慈しむ。


大谷良太順 森 悠紀作品


よく人間の手技を慈しむ
ラクダは今宵一本のマッチを擦り
しみじみと月を見ている
ふむ、と読み筋に目を凝らし
たわむれにつまびく口琴は
金銭の埒外にあり
静けさそのものの如くラクダは動かない
やおら冷蔵庫を開け
煙と共にしゃがみ込み
それから急に思いついたように
奥の仕事に向かうため ありものの
食材に果敢に組みつくのである


田中宏輔 オリジナル作品

居酒屋の奥に配置されたトーチカの群れ。
坐禅をし損なった魚たちがこぼれる疑問を押し戻す。
動かない金銭は人間を考える。


田中宏輔順 内野里美作品

立ち寄った居酒屋の奥に配置する小粒の
トーチカの群れなす坐禅にし損ないの魚たちの
こぼれる鱗が肴
疑問がたまらず押し戻す動かなかった金銭に
人間から離れて考えるのは


田中宏輔順 大谷良太作品

居酒屋は奥に配置したトーチカ
群れて坐禅し損なう、魚はこぼれた
疑問を押し戻し、動かない金銭、
人間は考える


田中宏輔順 森 悠紀作品

居酒屋の奥で
つらいぬいぐるみのようになったぼくが
いつの間にか配置されたトーチカの群れから
降り注ぐ鉛弾に撃たれている
それで坐禅をし損ねるぼくの
魂はしかしすでに身体を離れているようで
ぬいぐるみのように丸まるぼくも見えるし
厨房で俎上の魚から笑みがこぼれるのも見える
ここでぼくとは誰か
という疑問がぼくを身体に押し戻す
トレイの上でいつまでも動かない金銭のように横たわる
つらいぬいぐるみのようになったぼくが
人間の笑み方について考えている
丸まってゆきながら考えている


森 悠紀 オリジナル作品

毎日、コンビニの棚を見つめて
人間を証明し損なう
君は煙草を投げ捨て
ふたたび蜜柑のつぶつぶのような
日々の長さをしがんでいる
鶏を捌く手技は
しぼられた首筋を
ひとつひとつ見眇めてゆく労働で
前線に沈む
地図のように動かない人間と
うろつく暦の配置を
押し戻すように測定する
どこかで視線がずれて
手袋からあぶくがこぼれている
それを慈しむように
居酒屋のトレイに置いて
人間は
雨の外に出て行く


森 悠紀順 内野里美作品

こわい人間の証明をし損なう時
煙草の煙と投げ捨てる蜜柑の
その手技から筋トレまで
目を眇めた労働者の手の内で動かない

こわい人間のうろつく辺りで
暦売りが配置されては押し戻されて
旧暦がずれていく
わずかにこぼれた慈しみに
居酒屋の主人はトレイに置いた
  縮んだこわい人間を


森 悠紀順 大谷良太作品

人間は証明し損ない、
煙草を投げ捨てるしかない。
蜜柑と手技、筋を眇め
労働は動かないで
人間をうろつく。暦を配置し、
押し戻し、ずれる。
こぼれ慈しみ、居酒屋にて
やはりトレイを置くは人間…


森 悠紀順 田中宏輔作品

人間だけが証明し損なうことができる。
外で男が煙草を投げ捨てた風景に遭遇する。
目の前で恋人が蜜柑を上手く&#21085;く手技を披露する。
蜜柑の筋までもがきれいに剥がされていく。
画面では目を眇めた労働者たちが建物に立てこもって動かない。
これもまた人間の風景だ。
うろつきまわる暦の上で、日付は配置された場所を押し戻そうとする。
どこにか。
わからない。
しかし、そうして、どうにかずれようとする。
思わずこぼれた日付を慈しむ。
ふと思い出された
居酒屋のトレイに置かれた人間たちの風景。


作品制作後のディスカッション

「川+証明+置く」、「金銭+擦る」、「居酒屋+配置する+トーチカ」、「坐禅+し損なう+魚」、「うろつく+暦」などの言葉の組合せが重なった。いわゆる、類想、よくある言葉の組合せである。(発言:田中宏輔)

特定の単語が近くに並べられてあるとそうなるものと考えられる。(発言:森 悠紀)

ほかから持ち込まれた言葉がモチーフの中心になると、さいしょに提供された言葉が生き生きとし、詩自体が生き生きとしたものになるように感じられた。(発言:田中宏輔)

生き生きとしたイメージ、発想の斬新さが、人を感動させる。(ことが多い。)イメージ、発想の異質なものは、他から持ち込まれる言葉によって齎(もたら)される。(と言うより、「他から持ち込まれる」=「異質」。)(発言:大谷良太)


□詩

  田中宏輔



FORMENTERA LADY。


I

□□□□、□□(□□)□□□□(□□)□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□。□□(□□)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□。□□□□□□□□□。「□□□□□、□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□?」
□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□──□□□□□□□□□□□□□□□□□□。□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□(□□)□□□□□□□□□□□。
□、□□□□□□。□□(□□□□)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□。□□、□□□□□□□(□□□)□□□□□□□□□□□。□□□□□□□□「□□□□、□□□□、□□□□□□□!」□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□(□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□)。□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□。□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□。
□□□□□□□、□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□。
□□□□、□□□□□(□□)□(□)□(□□)□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□。□□□□□□□□□(□)□□(□□)□□□□□□□□□□□□□(□□)□□□□□□□□□□□。□□□□□□□□、□(□□□)□□□□□□□□□□□□□。

(ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』第一章・第1節─第6節、高橋康也訳)


II

「□□□□□□□□□□」□□□□□□□□□□□□□□□。□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□。□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□、□□□、□□□□□□□□□□□□□□□。□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□。□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□。□□□□□□□□。□□□□□□□□□□□□。□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□。□□□、□□□□□□□□。□□□□□□□□□□□□□□。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□。
「□□□□、□□□□□□□□□?」□□□□□□□□□□□□□□□。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□。□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□。
「□□□□、□□□□□」□□□□□□□□□□□□□□□。「□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□」
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□」□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□。
「□□□□□、□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□。□□□□、□□□□□□□、□□□□□、□□□□□□」
「□□□□□□?」□□□□□□□□□(□)□(□)□□□□。□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□。
「□□□□□□□□□□□□□□□□□?」
□(□)□(□)□□□□□□□□□□□□□□□、□□□、□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□。□□□□□□□、□□□□□、
「□□□、□□□□□」

(レーモン・クノー『地下鉄のザジ』1、第1行─第24行、生田耕作訳)


III

□□□□□□□□□□□□(□□)□□(□□)□□□、□□□□(□□)□□□□□□□□□□□□□□□□□。□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□、□□□□□□□(□□)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□。
□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□。□□□□□□。□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□。□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□。□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□。
□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□(□□)□□□□。□□□□□□□(□□□□)□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□。□□□、□□□□□□□□□□□□□□□(□□□□)□□□□□□。
「□□□□?」□□□□□□□。
「□□□□□□□□□」□□□□(□□)□□□□。「□□□□□□□□□□□□□□□□□□」
□□□□□□□□□□□□□。□□□□□□□□□□□□□□□□□□。□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□。□□□□□□□□□□□。
「□□□□□□□□□□□□□」□□□□□□□。「□□□□□□□□□□□□□□□□□□□。□□□□□」

(G・ガルシア・マルケス『大佐に手紙は来ない』冒頭18行、内田吉彦訳)



STILL TOO YOUNG TO REMEMBER。



     □□□□□□

□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□


□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□

(山村暮鳥『風景』


□□□□□□□□□□□□□□□□□□。

(安西冬衛『春』)


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

(草野心平『春殖』)


□□□□
□□□□□□
□□□□□□□
□□□□□□□□□
□□□□□□□□
□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□
□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□
□□□□
□□□□□□□□□

(草野心平『秋の夜の会話』)


□□□□

□□ □□□□□□□□□□

(北川冬彦『ラッシュ・アワア』)


□□□□□□□□(□□□□□)
□□□□□□□□□□………

□□□□□□、□□□
□□□□□□□□□□(□□□□□□)

(吉田一穂『母』)


□□□□□
□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□

(高橋新吉『るす』)


□□(□□□□)□、
□□□□□□(□□□)□□□□□□□
□□(□□□)□□□□□。
□□□□□、
□□□□□□、
□(□□)□□□□□ □□□□
□□□□□。

(サッフォー『夕星(ゆうずつ)の歌』呉 茂一訳)


□□□□□□□□
□□□□□□□□□

(ジャン・コクトー『耳』堀口大學訳)


──□□□。」□□□□□□□、
──□□□。」□□□□□□。

──□□□□□□□。」□□□□□□□、
──□□□□□□□。」□□□□□□。

──□□□、□□□。」□□□□□□□、
──□□□、□□□。」□□□□□□。

──□□□□、□□□□。」□□□□□□□、
──□□□□、□□□□。」□□□□□□。

□□□、□□□□□□
──□□□□□□□□。」

□□□□□□□□
──□□□□□□□□□□□。」□。

──□□□□□□□。」□□□□□□□、
──□□□□。」□□□□□□。

□□□□□□□□□□□□□、
□□□□□□□□□□□□。

□□□□□□□□□
──□□□、□□□□□□□□……」□。

□□□□□□□
□□□□□□□□□□、

□□□□□□□□
──□□□□□□□□□……。」□。

(フランシス・ジャム『哀歌 第十四』堀口大學訳)


□□□□□□□□□□□□□□□
   □□□□□□□□□
□□□□□□□□
□□□□□□□□(□□□)□□□□□

□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□

□□□□□□□□□□□□□□(□□)□
   □□□□□□□
□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□


□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□

□□□□□□□□□□□□□□□□□
   □□□□□□□□□
□□(□□□)□□□□□□
□□□□□□□□□

□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□

□□□□□□□□
□□□□□
□□□□、□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□

□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□

(アポリネール『ミラボオ橋』堀口大學訳


受粉。

  田中宏輔



  ○


猿を動かすベンチを動かす舌を動かす指を動かす庭を動かす顔を動かす部屋を動かす地図を動かす幸福を動かす音楽を動かす間違いを動かす虚無を動かす数式を動かす偶然を動かす歌を動かす海岸を動かす意識を動かす靴を動かす事実を動かす窓を動かす疑問を動かす花粉。


  ○


猿を並べるベンチを並べる舌を並べる指を並べる庭を並べる顔を並べる部屋を並べる地図を並べる幸福を並べる音楽を並べる間違いを並べる虚無を並べる数式を並べる偶然を並べる歌を並べる海岸を並べる意識を並べる靴を並べる事実を並べる窓を並べる疑問を並べる花粉。


  ○


猿を眺めるベンチを眺める舌を眺める指を眺める庭を眺める顔を眺める部屋を眺める地図を眺める幸福を眺める音楽を眺める間違いを眺める虚無を眺める数式を眺める偶然を眺める歌を眺める海岸を眺める意識を眺める靴を眺める事実を眺める窓を眺める疑問を眺める花粉。


  ○


猿を舐めるベンチを舐める舌を舐める指を舐める庭を舐める顔を舐める部屋を舐める地図を舐める幸福を舐める音楽を舐める間違いを舐める虚無を舐める数式を舐める偶然を舐める歌を舐める海岸を舐める意識を舐める靴を舐める事実を舐める窓を舐める疑問を舐める花粉。


  ○


猿を吸い込むベンチを吸い込む舌を吸い込む指を吸い込む庭を吸い込む顔を吸い込む部屋を吸い込む地図を吸い込む幸福を吸い込む音楽を吸い込む間違いを吸い込む虚無を吸い込む数式を吸い込む偶然を吸い込む歌を吸い込む海岸を吸い込む意識を吸い込む靴を吸い込む事実を吸い込む窓を吸い込む疑問を吸い込む花粉。


  ○


猿を味わうベンチを味わう舌を味わう指を味わう庭を味わう顔を味わう部屋を味わう地図を味わう幸福を味わう音楽を味わう間違いを味わう虚無を味わう数式を味わう偶然を味わう歌を味わう海岸を味わう意識を味わう靴を味わう事実を味わう窓を味わう疑問を味わう花粉。


  ○


猿を消化するベンチを消化する舌を消化する指を消化する庭を消化する顔を消化する部屋を消化する地図を消化する幸福を消化する音楽を消化する間違いを消化する虚無を消化する数式を消化する偶然を消化する歌を消化する海岸を消化する意識を消化する靴を消化する事実を消化する窓を消化する疑問を消化する花粉。


  ○


猿となるベンチとなる舌となる指となる庭となる顔となる部屋となる地図となる幸福となる音楽となる間違いとなる虚無となる数式となる偶然となる歌となる海岸となる意識となる靴となる事実となる窓となる疑問となる花粉。


  ○


猿に変化するベンチに変化する舌に変化する指に変化する庭に変化する顔に変化する部屋に変化する地図に変化する幸福に変化する音楽に変化する間違いに変化する虚無に変化する数式に変化する偶然に変化する歌に変化する海岸に変化する意識に変化する靴に変化する事実に変化する窓に変化する疑問に変化する花粉。


  ○


猿を吐き出すベンチを吐き出す舌を吐き出す指を吐き出す庭を吐き出す顔を吐き出す部屋を吐き出す地図を吐き出す幸福を吐き出す音楽を吐き出す間違いを吐き出す虚無を吐き出す数式を吐き出す偶然を吐き出す歌を吐き出す海岸を吐き出す意識を吐き出す靴を吐き出す事実を吐き出す窓を吐き出す疑問を吐き出す花粉。


  ○


猿を削除するベンチを削除する舌を削除する指を削除する庭を削除する顔を削除する部屋を削除する地図を削除する幸福を削除する音楽を削除する間違いを削除する虚無を削除する数式を削除する偶然を削除する歌を削除する海岸を削除する意識を削除する靴を削除する事実を削除する窓を削除する疑問を削除する花粉。


  ○


猿を叩くベンチを叩く舌を叩く指を叩く庭を叩く顔を叩く部屋を叩く地図を叩く幸福を叩く音楽を叩く間違いを叩く虚無を叩く数式を叩く偶然を叩く歌を叩く海岸を叩く意識を叩く靴を叩く事実を叩く窓を叩く疑問を叩く花粉。


  ○


猿を曲げるベンチを曲げる舌を曲げる指を曲げる庭を曲げる顔を曲げる部屋を曲げる地図を曲げる幸福を曲げる音楽を曲げる間違いを曲げる虚無を曲げる数式を曲げる偶然を曲げる歌を曲げる海岸を曲げる意識を曲げる靴を曲げる事実を曲げる窓を曲げる疑問を曲げる花粉。


  ○


猿あふれるベンチあふれる舌あふれる指あふれる庭あふれる顔あふれる部屋あふれる地図あふれる幸福あふれる音楽あふれる間違いあふれる虚無あふれる数式あふれる偶然あふれる歌あふれる海岸あふれる意識あふれる靴あふれる事実あふれる窓あふれる疑問あふれる花粉。


  ○


猿こぼれるベンチこぼれる舌こぼれる指こぼれる庭こぼれる顔こぼれる部屋こぼれる地図こぼれる幸福こぼれる音楽こぼれる間違いこぼれる虚無こぼれる数式こぼれる偶然こぼれる歌こぼれる海岸こぼれる意識こぼれる靴こぼれる事実こぼれる窓こぼれる疑問こぼれる花粉。


  ○


猿に似たベンチに似た舌に似た指に似た庭に似た顔に似た部屋に似た地図に似た幸福に似た音楽に似た間違いに似た虚無に似た数式に似た偶然に似た歌に似た海岸に似た意識に似た靴に似た事実に似た窓に似た疑問に似た花粉。


  ○


猿と見紛うベンチと見紛う舌と見紛う指と見紛う庭と見紛う顔と見紛う部屋と見紛う地図と見紛う幸福と見紛う音楽と見紛う間違いと見紛う虚無と見紛う数式と見紛う偶然と見紛う歌と見紛う海岸と見紛う意識と見紛う靴と見紛う事実と見紛う窓と見紛う疑問と見紛う花粉。


  ○


猿の中のベンチの中の舌の中の指の中の庭の中の顔の中の部屋の中の地図の中の幸福の中の音楽の中の間違いの中の虚無の中の数式の中の偶然の中の歌の中の海岸の中の意識の中の靴の中の事実の中の窓の中の疑問の中の花粉。


  ○


猿に接続したベンチに接続した舌に接続した指に接続した庭に接続した顔に接続した部屋に接続した地図に接続した幸福に接続した音楽に接続した間違いに接続した虚無に接続した数式に接続した偶然に接続した海岸に接続した意識に接続した靴に接続した事実に接続した窓に接続した疑問に接続した花粉。


  ○


猿の意識のベンチの意識の舌の意識の指の意識の庭の意識の顔の意識の部屋の意識の地図の意識の幸福の意識の音楽の意識の間違いの意識の虚無の意識の数式の意識の偶然の意識の歌の意識の海岸の意識の意識の意識の靴の意識の事実の意識の窓の意識の疑問の意識の花粉。


  ○


猿を沈めるベンチを沈める舌を沈める指を沈める庭を沈める顔を沈める部屋を沈める地図を沈める幸福を沈める音楽を沈める間違いを沈める虚無を沈める数式を沈める偶然を沈める歌を沈める海岸を沈める意識を沈める靴を沈める事実を沈める窓を沈める疑問を沈める花粉。


  ○


猿おぼれるベンチおぼれる舌おぼれる指おぼれる庭おぼれる顔おぼれる部屋おぼれる地図おぼれる幸福おぼれる音楽おぼれる間違いおぼれる虚無おぼれる数式おぼれる偶然おぼれる歌おぼれる海岸おぼれる意識おぼれる靴おぼれる事実おぼれる窓おぼれる疑問おぼれる花粉。


  ○


猿と同じベンチと同じ舌と同じ指と同じ庭と同じ顔と同じ部屋と同じ地図と同じ幸福と同じ音楽と同じ間違いと同じ虚無と同じ数式と同じ偶然と同じ歌と同じ海岸と同じ意識と同じ靴と同じ事実と同じ窓と同じ疑問と同じ花粉。


  ○


猿を巻き込むベンチを巻き込む舌を巻き込む指を巻き込む庭を巻き込む顔を巻き込む部屋を巻き込む地図を巻き込む幸福を巻き込む音楽を巻き込む間違いを巻き込む虚無を巻き込む数式を巻き込む偶然を巻き込む歌を巻き込む海岸を巻き込む意識を巻き込む靴を巻き込む事実を巻き込む窓を巻き込む疑問を巻き込む花粉。


  ○


猿の蒸発するベンチの蒸発する舌の蒸発する指の蒸発する庭の蒸発する顔の蒸発する部屋の蒸発する地図の蒸発する幸福の蒸発する音楽の蒸発する間違いの蒸発する虚無の蒸発する数式の蒸発する偶然の蒸発する海岸の蒸発する意識の蒸発する靴の蒸発する事実の蒸発する窓の蒸発する疑問の蒸発する花粉。


  ○


猿と燃えるベンチと燃える舌と燃える指と燃える庭と燃える顔と燃える部屋と燃える地図と燃える幸福と燃える音楽と燃える間違いと燃える虚無と燃える数式と燃える偶然と燃える歌と燃える海岸と燃える意識と燃える靴と燃える事実と燃える窓と燃える疑問と燃える花粉。


  ○


猿に萌えるベンチに萌える舌に萌える指に萌える庭に萌える顔に萌える部屋に萌える地図に萌える幸福に萌える音楽に萌える間違いに萌える虚無に萌える数式に萌える偶然に萌える歌に萌える海岸に萌える意識に萌える靴に萌える事実に萌える窓に萌える疑問に萌える花粉。


  ○


猿と群れるベンチと群れる舌と群れる指と群れる庭と群れる顔と群れる部屋と群れる地図と群れる幸福と群れる音楽と群れる間違いと群れる虚無と群れる数式と群れる偶然と群れる歌と群れる海岸と群れる意識と群れる靴と群れる事実と群れる窓と群れる疑問と群れる花粉。


  ○


猿飛び込むベンチ飛び込む舌飛び込む指飛び込む庭飛び込む顔飛び込む部屋飛び込む地図飛び込む幸福飛び込む音楽飛び込む間違い飛び込む虚無飛び込む数式飛び込む偶然飛び込む歌飛び込む海岸飛び込む意識飛び込む靴飛び込む事実飛び込む窓飛び込む疑問飛び込む花粉。


  ○


猿の飛沫のベンチの飛沫の舌の飛沫の指の飛沫の庭の飛沫の顔の飛沫の部屋の飛沫の地図の飛沫の幸福の飛沫の音楽の飛沫の間違いの飛沫の虚無の飛沫の数式の飛沫の偶然の飛沫の歌の飛沫の海岸の飛沫の意識の飛沫の靴の飛沫の事実の飛沫の窓の飛沫の疑問の飛沫の花粉。


  ○


猿およぐベンチおよぐ舌およぐ指およぐ庭およぐ顔およぐ部屋およぐ地図およぐ幸福およぐ音楽およぐ間違いおよぐ虚無およぐ数式およぐ偶然およぐ歌およぐ海岸およぐ意識およぐ靴およぐ事実およぐ窓およぐ疑問およぐ花粉。


  ○


猿まさぐるベンチまさぐる舌まさぐる指まさぐる庭まさぐる顔まさぐる部屋まさぐる地図まさぐる幸福まさぐる音楽まさぐる間違いまさぐる虚無まさぐる数式まさぐる偶然まさぐる歌まさぐる海岸まさぐる意識まさぐる靴まさぐる事実まさぐる窓まさぐる疑問まさぐる花粉。


  ○


猿あえぐベンチあえぐ舌あえぐ指あえぐ庭あえぐ顔あえぐ部屋あえぐ地図あえぐ幸福あえぐ音楽あえぐ間違いあえぐ虚無あえぐ数式あえぐ偶然あえぐ歌あえぐ海岸あえぐ意識あえぐ靴あえぐ事実あえぐ窓あえぐ疑問あえぐ花粉。


  ○


猿くすぐるベンチくすぐる舌くすぐる指くすぐる庭くすぐる顔くすぐる部屋くすぐる地図くすぐる幸福くすぐる音楽くすぐる間違いくすぐる虚無くすぐる数式くすぐる偶然くすぐる歌くすぐる海岸くすぐる意識くすぐる靴くすぐる事実くすぐる窓くすぐる疑問くすぐる花粉。


  ○


猿に戻るベンチに戻る舌に戻る指に戻る庭に戻る顔に戻る部屋に戻る地図に戻る幸福に戻る音楽に戻る間違いに戻る虚無に戻る数式に戻る偶然に戻る歌に戻る海岸に戻る意識に戻る靴に戻る事実に戻る窓に戻る疑問に戻る花粉。


  ○


猿をとじるベンチをとじる舌をとじる指をとじる庭をとじる顔をとじる部屋をとじる地図をとじる幸福をとじる音楽をとじる間違いをとじる虚無をとじる数式をとじる偶然をとじる歌をとじる海岸をとじる意識をとじる靴をとじる事実をとじる窓をとじる疑問をとじる花粉。


話の途中で、タバコがなくなった。

  田中宏輔



それって、雨のつもり?
あきない人ね、あなたって。
忘れたの?あなたがしたこと。
あなたが、わたしたちに約束したこと。
もう、二度と滅ぼさないって約束。
また、はじめるつもりね。
すべての生きた言葉の中から、
あなたが気に食わない言葉を選んで
ぜんぶ抹殺するつもりでしょ。
この世界から。
なんて、傲慢なのかしら。
前のときには、黙っててあげたわ。
わたしも、品のない言葉は嫌いですもの。
それに、品のない言葉を口にする子供を目にして、
これではいけないわ。
悪い言葉が、悪いこころを育てるのよ、
って、わたしは、そう思ってたの。
でも、それは、間違いだったわ。
どんなに、あなたの目に正しく、
うつくしい言葉でも、
わたしたちのこころは、それだけじゃ
まっとうなものにならないのよ。
ほんとうよ。
あっ、タバコが切れたわ。
ちょっと待っててちょうだい。
そう、そう、こんどの箱舟には
どんな言葉を載せるの?
やっぱり、つがいにして?
滅びるのは悪い言葉だけで、
生き残るのは正しい言葉だけ?
でも、すぐに世界は
いろんな言葉でいっぱいになるわ。
あなたが嫌う、正しくもなく、うつくしくもない言葉が
すぐに、この世界に、わたしたちの間に、
はびこるはずよ。
雨の日に、こんな詩を思いついた。
ありきたりのヴィジョンで
あまり面白いものではないかもしれない。
最近は、俳句ばかり読んでいる。
富田木歩という俳人の顔写真がいい。
いま、ぼくが付き合っている恋人にそっくりだ。
本から切り取り、アクリル樹脂製の額の中に入れて、
机の上に飾って眺めている。
ぜんぜん似ていないと、恋人は言っていたけど。
恋人の親戚に、名の知れた俳人がいる。
と、唐突に、
音、先走らせて、急行電車が、駆け抜けて行く。
普通なら止まる、一夏(いちげ)のプラットホーム。
等しく過ぎて行く、顔と窓。
蚊柱の男、ベンチに坐って、マンガに読み耽る。
白線の上にこびりついた、一塊のガム。
群がりたかる蟻は小さい。
ヒキガエルが白線を踏むと、
蚊柱が立ち上がる。
着ていた服を振り落として。
ふわりと、背広が、ベンチに腰かける。
胸ポケットの中で、携帯電話が鳴り出した。
誰も、電車が来ることを疑わない


白線

  田中宏輔



横断歩道の上の白線は
決して真っ白であったためしがありません
必ず、幾多の轍が、靴の踏み跡が刻印されています
もしも、真っ白な白線がひかれていたなら
ぼくは、その上を這って渡りましょう
お腹を擦りつけこすりながら渡っていきましょう
そして、渡り切ったなら、もう一度ターンして
こんどは、背中を擦りつけこすりつけ戻ってきましょう
そうして、何度も何度も往復してみましょう
しまいに白線が擦り切れて見えなくなってしまうまで
ぼくが擦り切れてなくなってしまうまで


DESIRE。

  田中宏輔



DESIRE。


高級官僚になれますように
七夕の短冊に、そんな願い事が書かれてあった。
デパートの飾り付け。
ユーモアあるわね。
それともユーモアじゃなかったのかしら?
ひばリンゴ。
ひばりとリンゴをかけ合わせたの。
ひばリンゴが木から落ちる。
ピピピッと羽うごかして
枝の上に戻る。
字がじいさん。
自我持参。
あっくんといると、疲れないよとシンちゃんが言う。
よく言われるよと、ぼく。
「あっくんてさあ、誰でもないんだよね。」
「どゆこと、それ?」
「いや、ほんと、誰でもないんだよね。
 だから、いっしょにいても、疲れないんだよ。」
「なんだか、悲しいわ。」と、ぼく。
「東梅田ローズ」っていうゲイ専門のポルノ映画館で出会ったモヒカン青年の話。
温泉も発展場になるねんで。
夜中の温泉って、けっこうできるんや。
って。
知らなかったわ、わたし、ブヒッ。
セッケン箱で指を切断。
ぼくの血のつながっていない祖母の話。
パパがもらい子だったから。
で、その祖母のお兄さんのお話。
そのお兄さん、妹を朝鮮に売り飛ばしたって話だけど
それはまた別の話。
で、
そのお兄さん、自分の売り飛ばした妹が
売り飛ばす前に、間男したらしいんだけど
その間男した男の指を風呂場で切り落としたんだって。
男の指の上にアルミでできたセッケン箱のフタを置いて
ガツンッて踵で踏みつけたんだって。
アハッ。
近鉄電車に乗ってたら
急行待ちの時間で停車してたんだけど
その急行待ちしてますって
車掌が、アナウンスしたあと
ふうーって溜め息をついた。
おかしいから、笑ったんだけど
まわりが、ひとりも笑ってなかったので
ぼくはバツが悪くて、笑い顔がくしゃんとなった。
その日の授業が二時間目からだったから
中途半端な時間で、まばらな乗客のほとんどが居眠りしてた。
ひとりだけで笑うのって、むずかしいのね。
ぼんやり歩いていると
ときどき、ぼくは、ぼくに出会う。
ときには、二人や三人ものぼくに出会うこともある。
きっと、いつか、ぼくでいっぱいになる。
みんな、ぼくになる。
まあ、ついでに言うと、ナンナラーなんだけど
世界人類が、みな平和でありますように!


コピー。

  田中宏輔



 手をコピーする。左手をコピーして、右手を
コピーする。腕をコピーする。左腕をコピーし
て、右腕をコピーする。顔をコピーする。光を
見ないように、目をつむってコピーする。肩と
胸をコピーする。服を着たまま、コピー機の上
に胸をのせてスイッチを入れる。お腹をコピー
する。コピー機の上にのっかってスイッチを入
れる。小便する犬のように、脚を上げてコピー
する。左脚をコピーして、右脚をコピーする。
足をコピーする。コピー機の前で逆立ちして、
足の甲をコピーする。コピー機の上に片足をの
せて、もう片足で蓋をしてスイッチを入れる。
そしてそれらをセロテープで貼りつける。ペラ
ペラとした白黒のぼく。頭のところをもって垂
らしてみる。目をつむったぼくの顔。手をはな
すと、ヘロヘロヘローとへたり込む。もう一度
手にもって垂らしてみる。でも、やっぱりペラ
ペラとした白黒のぼく。窓を開けて、ぼくは、
ぼくのコピーを風に飛ばしてやった。
 目を開けると、ぼくは風にのって飛んでた。
とっても軽くって、ヒラヒラヒラーと飛んでっ
た。高層ビルの透き間をぬけて、ぼくは飛んで
った。どんどん遠くに飛んでゆく。風にのって
どんどん遠くに飛んでゆく。
 ああ、ぼくはどこまで飛んでゆくんだろう。


火だるまパンツ事件。

  田中宏輔



 あれは五年前、ぼくがまだ大学院の二年生のときのことでした。実験室で、クロレート電解のサンプリングをして
いたときのことでした。共同実験者と二人で、三十時間の追跡実験をしておりました。途中一度でもサンプリングに
失敗すれば、また最初から実験し直さなければならないはめになるのでした。目の前におります共同実験者の目の下
の隈を見ますれば、けっして失敗などするわけにはまいりません。ところが、最後のサンプリングで、ピペットを使
って電解溶液を採取しはじめたときに、急に便意を催したのでした。ぼくは採取した溶液を希釈して、すぐにUVス
ペクトルにかけなければなりません。相棒は相棒で、採取した溶液を過マンガン酸カリウム水溶液で酸化還元滴定し
なければならなかったのです。ぼくのことを手助けすることなどできませんでした。スペクトルを測定している間、
ぼくの身体は強烈な便意にずっと震えておりました。そうして、やっと測定し終えたときには、すこうし、汁気のも
のが、肛門の襞に滲み出しておりました。セルをしまうと、ぼくはすぐにトイレのなかに駆け込みました。白衣を思
いっ切りまくり上げ、ズボンとパンツをいっしょくたにずり下げると、ブッ、ブッ、ブリッ、ブリッ、ブッスーン、
ブスッ、ブスッと、脱糞しました。ところが、脂汗を白衣の袖で拭きふき、ほっと溜め息ををついた後、ぼくは気が
ついたのです。ズボンといっしょにすり下ろしていたはずのパンツが、どうしたわけか、お尻に半分引っかかってい
たのです。案の定、パンツは、うんこまみれになっていました。そうして、しばらくの間、脱ぐに脱げずに困り果て
ていましたところ、突然、はたと思いついたのです。白衣のポケットのなかにある百円ライターを使って、パンツの
横を焼き切ってはずすことを。うまい考えだと思いました。ぼくは、さっそくそれを実行に移しました。まず、左横
の部分に火をつけて、うまく焼き切りました。そして、つぎに右横の部分を引っ張って左手で火をつけましたときに、
突然、ガッと扉が開いたのです。とんまなことに、ぼくは、鍵をかけずに大便していたのです。相棒の叫び声にびっ
くりしたぼくの手元が狂って、パンツが火だるまになりました。おそらく、有機溶媒か何かが滲み込んでいたのでし
ょう。パンツは勢いよく燃え上がりました。相棒は、そのときのことを、翌朝一番に、研究室のみんなに話しました。
それが、「火だるまパンツ事件。」の顛末です。一躍、噂の人となりました。あれから、ずいぶんと経ちますのに、
研究室では、いまだに話の種になっているのだそうです。
 そして、ぼくは、いままた、パンツをすり下ろし損ねたのです。困っています。どうしようか、迷っているのです。
ポケットのなかの百円ライターを使ったものかどうかを。


詩の日めくり 二〇一四年六月一日─六月三十一日

  田中宏輔



二〇一四年六月一日 「偶然」


 あさ、仕事に行くために駅に向かう途中、目の隅で、何か動くものがあった。歩く速さを落として目をやると、飲食店の店先で、
電信柱の横に廃棄されたゴミ袋の、結ばれていたはずの結び目がゆっくりとほどけていくところだった。思わず、ぼくは足をとめた。
手が現われ、頭が現われ、肩が現われ、偶然が姿をすっかり現わしたのだった。
 偶然も齢をとったのだろう。ぼくが疲れた中年男になったように、偶然のほうでも疲れた偶然になったのだろう。若いころに出合
った偶然は、ぼくのほうから気がつくやいなや、たちまち姿を消すことがあったのだから。いまでは、偶然のほうが、ぼくが気がつ
かないうちに、ぼくに目をとめていて、ぼくのことをじっくりと眺めていることさえあるのだった。
 齢をとっていいことの一つに、ぼくが偶然をじっくりと見つめることができるように、偶然のほうでも、ぼくの目にとまりやすい
ように、足をとめてしばらく動かずにいてくれるようになったことがあげられる。


二〇一四年六月二日 「魂」


心音が途絶え
父の身体が浮き上がっていった。
いや、もう身体とは言えない。
遺体なのだ。
人間は死ぬと
魂と肉体が分離して
死んだ肉体が重さを失い
宙に浮かんで天国に行くのである。
病室の窓が開けられた。
仰向けになった父の死体が
窓から外に出ていき
ゆっくりと漂いながら上昇していった。
魂の縛めを解かれて、父の肉体が昇っていく。
だんだんちいさくなっていく父の姿を見上げながら
ぼくは後ろから母の肩をぎゅっと抱いた。
点のようにまでなり、もう何も見えなくなると
ベッドのほうを見下ろした。
布団の上に汚らしいしみをつくって
ぬらぬらとしている父の魂を
看護婦が手袋をした手でつまみあげると
それをビニール袋の中に入れ
袋の口をきつくしばって
病室の隅に置いてある屑入れの中に入れた。
ぼくと母は、父の魂が入った屑入れを一瞥した。
肉体から離れた魂は、
すぐに腐臭を放って崩れていくのだった。
天国に昇っていく
きれいになった父の肉体を頭に思い描きながら
看護婦の後ろからついていくようにして、
ぼくは、母といっしょに病室を出た。


二〇一四年六月三日 「Oを●にする」 


●K、のようにOを●にしてみる。

B●●K D●G G●D B●Y C●●K
L●●K T●UCH G●●D J●Y C●●L
●UT S●UL Z●● T●Y

1●● + 1●● = 2●●●●
3●●●● - 1●● = 2●●

なんていうのも、見た目が、きれいかもしれない。
まだまだできそうだね、かわいいのが。

L●VE L●NG H●T N●
S●METHING W●RST B●X


二〇一四年六月四日 「影」


仕事から帰る途中、坂道を歩いて下りていると、
後ろから男女の学生カップルの笑いをまじえた
楽しそうな話し声が聞こえてきた。
彼らの若い声が近づいてきた。
彼らの影が、ぼくの足もとにきた。
彼らの影は、はねるようにして、
いかにも楽しそうだった。
ぼくは、彼らの影が、
つねに自分の目の前にくるように
歩調を合わせて歩いた。
彼らは、その影までもが若かった。
ぼくの影は、いかにも疲れた中年男の影だった。
二人は、これから楽しい時間を持つのだろう。
しかし、ぼくは? ぼくは一人、部屋で
読書の時間を持つのだろう。
もはや、驚きも少し、喜びも少しになった読書の時間を。
それも悪くはない。けっして悪くはない。
けれど、一人というのは、なぜか堪えた。
そうだ、帰りに、いつもの居酒屋に行こう。
日知庵にいる、えいちゃんの顔と声が思い出された。
ただ、とりとめのない会話を交わすだけだけど。
ぼくは横にのいて、若い二人の影から離れた。


二〇一四年六月五日 「循環小数」


微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナ
オコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番
でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶや
いた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番でナオコを直し
ていると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェ
で、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番でナオコを直していると、学生
服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしてい
っしょにいることが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車
が突っ込んできた。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいるこ
とが?」と言うと、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んでき
た。驚いて目を覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言う
と、「おれの見間違いかな。」とナオコ。微熱する交番でナオコを直していると、学生服を着た自転車が突っ込んできた。驚いて目を
覚ますと、「うつくしいひととき。」とナオコがつぶやいた。「カフェで、こうしていっしょにいることが?」と言うと、「おれの見
間違いかな。」とナオコ。……


二〇一四年六月六日 「LGBTIQの詩人の英詩翻訳」


Sophie Mayer

David’s First Drafts: Jonathan

Fuck you, Jonathan. You
abandoned me.
What was it you said? Oh yes: our love
is too beautiful
for this world. Fuck you.

Nothing, Jonathan, nothing
is too beautiful
for this stupid, unruly world and
don’t roll your eyes
and ask if I’m alive to the ambiguity. I’m the poet-king and nothing,

beautiful Jonathan, nothing is more
beautiful in my eyes
than you, so I cling, I cling with my
filthy bitten
fingernails to your non-existence, beautiful

filthy bitten sight ─ Jonathan ─ seen
everywhere
in the nowhere that passes
the ark
as it passes. I’m the drunken filthy

poet-king, Jonathan, that Plato saw in nightmares
dancing naked
in this gaping, ragged hole
that is power.
I’m naked without you, not a poem but a king

Jonathan, that is power and I
hate it.
Tell me how he did it, your father,
and why
I wanted it more than I wanted you, my king-poem, my Jonathan.


ソフィ・メイヤー

ダビデの第一草稿 『ヨナタン』

ファック・ユー、ヨナタン、おまえってやつは
おれのことを見捨てて行きやがって。
おまえは、何て言った? ええ、こう言ったんだぞ、
「ぼくたちの愛は、この世界にあっては
美しすぎるものなんだよ」ってな、ファック・ユー。

何もないんだぜ、ヨナタン、何もないんだ
美しすぎるものなんてものは
このバカげた、くだらない世界にはな。
しっかり見ろやい、おまえ。
この言葉の両義性を、おれが
ちゃんとわきまえてるのかどうかなんて訊くなよ。
おれは詩人の王で、それ以外の何者でもないんだからな。

おお、美しいヨナタンよ、おれの目にはな
おまえより美しいものなんてものは、何もないんだぜ。
それで、おれは、おまえがいないんで
おれは、おれの汚い指の爪をカジカジ噛んじまうんだ。
ヨナタンよ、
目に見える汚らしいボロボロの景色ってのは
どこにでもあってな
というのも、箱舟がそばを通り過ぎるときにはな
箱舟のそばを通り過ぎないところなんてものは
どこにもなくってな
おれは酔っぱらいの汚らしい詩人の王なんだぜ、
ヨナタンよ、

プラトンが悪夢のなかで見たこと
裸で踊りながらな
このぱっくり口を開いたデコボコの穴のなかでな
そいつが力なんだ。
おれは、おまえがいなけりゃ、ただの裸の男だ、
詩じゃないぞ、ただの王なんだ。

ヨナタンよ、そいつが力というもので
おれは、そいつを憎んでる。
おまえの父親が、そいつをどういうふうに扱ったか、
おれに言ってみてくれ。
そして、なんで、おれが、
おまえに求めた以上のことを、
おれがそいつに求めたのか、言ってくれ。
おれの王たる詩よ、ヨナタンよ。

訳注

David ダビデ(Saul に次いで Israel 第2代の王。羊飼いであった少年のころペリシテ族の巨人 Goliath を退治した話で有名。のち有能な統治者としてまたすぐれた詩人としてヘブライ民族の偉大な英雄となった:旧約聖書の詩篇(the Psalms)の大部分は彼の作として伝えられている:その子は有名な Solomon)。(『カレッジ・クラウン英和辞典』より)

David and Jonatan 互いに自分の命のように愛し合った友人(Damon と Pythias の友情とともに古来親友の手本として伝えられている:Jonathan は Saul の子。→1. Sam. 18.20)。(『カレッジ・クラウン英和辞典』より)

著者について

Sophie Mayer : ソフィ・メイヤーは、イギリスのロンドンを拠点に活動している作家であり、編集者であり、教育者である。彼女は、二冊の選集、The Private Parts of Girls (Salt, 2011)とHer Various Scalpels (Shearsman, 2009)と、一冊の批評書、The Cinema of Sally Potter: A Politics of Love (Wallflower, 2009)の著者である。彼女は、LGBTQ arts magazine Chroma: A Queer Literary Journal (http://chromajournal.co.uk )の委託編集者である。

Translation from ‘collective BRIGHTNESS’edited by Kevin Simmonds
http://www.collectivebrightness.com/


二〇一四年六月七日 「言葉」


 一人の人間が言葉について学べるのも、せいぜい百年にも満たない期間である。一方、一つの言葉が人間について学べる期間は、
数千年以上もあった。人間が言葉から学ぶよりも、ずっとじょうずに言葉は人間から学ぶ。人間は言葉について、すべてのことを知
らない。言葉は人間について、すべてのことを知っている。

 たとえどんなに偉大な詩人や作家でも、一つの言葉よりも文学に貢献しているなどということはありえない。どんなにすぐれた詩
人や作家よりも、ただ一つの言葉のほうが大いなる可能性を持っているのである。一人の詩人や作家には寿命があり、才能の発揮で
きる時間が限られているからである。たとえどのような言葉であっても、自分の時間を無限に持っているのである。


二〇一四年六月八日 「セックス」


ぼくの理想は、言葉と直接セックスすることである。言葉とのセックスで、いちばん頭を使うのは、体位のことである。


二〇一四年六月九日 「フェラチオ」


 二人の青年を好きだなって思っていたのだけれど、その二人の青年が同一人物だと、きょうわかって、びっくりした。数か月に一
度くらいしか会っていなかったからかもしれないけれど、髪形がぜんぜん違っていて、違う人物だと思っていたのだった。太めの童
顔の体育会系の青年だった。彼は立ち上がって、トランクスと作業ズボンをいっしょに引き上げると、ファスナーを上げ、ベルトを
締めて、ふたたび腰掛けた。「なかなか時間が合わなくて。」「えっ?」「たくさん出た。」「えっ?」「たくさん出た。」「えっ? 
ああ。うん。」たしかに量が多かった。「また連絡ください。」「えっ?」思いっきりはげしいオーラルセックスをしたあとで、びっ
くりするようなことを聞かされて、ダブルで、頭がくらくらして、でも、二人の顔がようやく一つになって、「またメールしてもいい
の?」かろうじて、こう訊くことが、ぼくができる精いっぱいのことだった。「嫁がメール見よるんで、すぐに消しますけど。」
「えっ?」呆然としながら、しばらくのあいだ、彼の顔を見つめていた。一つの顔が二人の顔に見えて、二つの顔が一人の顔に見えて
っていう、顔の輪郭と表情の往還というか、消失と出現の繰り返しに、ぼくは顔を上げて、目を瞬かせていた。彼の膝を両手でつかま
えて、彼の膝と膝とのあいだにはさまれる形で跪きながら。


二〇一四年六月十日 「フォルム」


 詩における本質とは、フォルムのことである。形。文体。余白。音。これらがフォルムを形成する。意味内容といったものは、詩
においては、本質でもなんでもない。しかし、意味内容には味わいがある。ただし、この味わいは、一人の鑑賞者においても、時と
ともに変化することがあり、それゆえに、詩において、意味内容は本質でもなんでもないと判断したのだが、それは鑑賞者の経験や
知識に大いに依存するものであり、鑑賞者が異なれば、決定的に異なったものにならざるを得ないものでもあるからである。本来、
詩には、意味内容などなくてもよいのだ。俳句や短歌からフォルムを奪えば、いったい、なにが残るだろうか。おそらく、なにも残
りはしないだろう。詩もまたフォルムを取り去れば、なにも残りはしないであろう。


二〇一四年六月十一日 「ホラティウス」


 古代の詩人より、現代の詩人のほうが実験的か、あるいは知的か、と言えば、そんなことはないと思う。ホラティウス全集を読む
と、ホラティウスがかなり実験的な詩を書いていたことがわかるし、彼の書く詩論もかなり知的だ。現代詩人の中で、ホラティウス
よりも実験的な詩人は見当たらないくらいだ。そして、エミリ・ディキンスンとホイットマン。このふたりの伝統に対する反抗心と
知的な洗練度には、いま読み返してみても戦慄する。さて、日本の詩人で、知的な詩人と言えば、ぼくには、西脇順三郎くらいしか
思いつかないのだけれど、現代に知的な詩人はいるのだろうか。ぼくの言う意味は、十二分に知的な詩人は、だけど。ホラティウス
の詩でもっとも笑ったのは、自分がつくった料理のレシピをただただ自慢げに開陳しているだけという料理のレシピ詩と、自分の知
っている詩人の実名をあげて、その人物の悪口を書きまくっている悪口詩である。ほんとに笑った。彼の詩論的な詩や詩論はすごく
まっとうだし、ぼくもおなじことを思っていて、実践している。詩語の廃棄である。これができる詩人は、現代においてもほとんど
いない。日常語で詩を書くことは、至難の業なのだ。


二〇一四年六月十二日 「膝の痛み」


 左膝が痛くて足を引きずって歩かなければならなかったので、近くの市立病院に行って診てもらったのだけれど、レントゲン写真
を撮ってもらったら、右足の膝の骨が奇形で、体重を支えるときに、その骨が神経を刺激しているという話で、なぜ右膝の骨が奇形
なのに、左膝が痛いのかというと、右膝をかばうために、奇形ではないほうの左足が負担を負っているからであるという話だった。
これまでのひと月ほどのあいだ、歩行困難な状態であったのだが、そのときに気がついたのは、足の悪いひとが意外に多いなという
ことだった。自分が膝を傷めていると、近所のフレスコで、おばあさんたち二人が、「ひざの調子はどう?」「雨のまえの日はひどい
けど、ふだんはぼちぼち。」みたいな会話をしているのを耳にしたり、横断歩道を渡っているときに、おじいさんがゆっくりと歩い
ているのを目にしたときに、ぼく自身もゆっくりと歩かなければならなかったので、気がつくことができたのだった。それまでは、
さっさと歩いていて、ゆっくり歩いている老人たちの歩行になど目をとめたことなどなかったのである。このとき思ったのは、ぼく
のこの右足の膝の骨の奇形も、左足の膝の痛みが激しくて歩行困難になったことも、ぼくの目をひろげさせるための現象ではなかっ
たのだろうかということであった。ぼくの目により深くものを見る力をつけさせるためのものではなかったのか、ということであっ
た。左膝の痛みが激しくて、仕事の帰り道に、坂道の途中で坐りこんでしまったことがあって、でも、そんなふうに、道のうえに坐
り込むなんてことは、数十年はしたことがなくって、日向道、帰り道、風は竹林の影のあいだを吹き抜けてきたものだからか、冷た
いくらいのものだったのだけれど、太陽の光はまだ十分にあたたかくて、ぼくは坂道の途中で、空を見上げたのだった。ゆっくりと
動いている雲と、坐り込んでいるぼくと、傍らを歩いている学生たちと、坂道の下に広がる田圃や畑のある風景とが、完全に調和し
ているように感じられたのであった。ぼくは、あの動いている雲でもあるし、雲に支えられている空でもあるし、ぼくの傍らを通り
過ぎていく学生たちでもあるし、ぼくが目にしている田圃や畑でもあるし、ぼくの頬をあたためている陽の光でもあるし、ぼくが坐
り込んでいるざらざらとした生あたたかい土でもあるのだと思ったのであった。


二〇一四年六月十三日 「ケルンのよかマンボウ」


戦争を純粋に楽しむための再教育プログラム。あるいは、菓子袋の中のピーナッツがしゃべるのをやめると、なぜ隣の部屋に住ん
でいる男が、わたしの部屋の壁を激しく叩くのか? 男の代わりに、柿の種と称するおかきが代弁する。(大便ちゃうで〜。)あらゆ
ることに意味があると、あなたは、思っていまいまいませんか? 人間はひとりひとり、自分の好みの地獄の中に住んでいる。

世界が音楽のように美しくなれば、音楽のほうが美しくなくなるような気がするんやけど、どやろか? まっ、じっさいのところ、
わからんけどねえ。笑。 バリ、行ったことない。中身は、どうでもええ。風景の伝染病。恋人たちは、ジタバタしたはる。インド
人。 想像のブラやなんて、いやらしい。いつでも、つけてや。笑。ぶひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。

ケルンのよかマンボウ。あるいは、神は徘徊する金魚の群れ。 moumou と sousou の金魚たち。 リンゴも赤いし、金魚も赤い
わ。蟹、われと戯れて。 ぼくの詩を読んで死ねます。か。扇風機、突然、憂鬱な金魚のフリをする。ざ、が抜けてるわ。金魚、訂
正する。 ぼくは金魚に生まれ変わった扇風機になる。 狒狒、非存在たることに気づく、わっしゃあなあ。


二〇一四年六月十四日 「ベーコンエッグ」


フライパンを火にかけて
しばらくしたら
サラダオイルをひいて
ベーコンを2枚おいて
タマゴを2個、割り落として
ちょっとおいて
水を入れて
ふたをする
ジュージュー音がする
しばらくしたら
火をとめて
ふたをとって
フライパンの中身を
そっくりゴミバケツに捨てる


二〇一四年六月十五日 「点」


点は裁かない。
点は殺さない。
点は愛さない。

点は真理でもなく
愛でもなく
道でもない。

しかし
裁くものは点であり
殺すものは点であり
愛するものは点である。

真理は点であり
愛は点であり
道は点である。


二〇一四年六月十六日 「その点」


F・ザビエルも、その点について考えたことがある。
フッサールも、その点について考えたことがある。
カントも、その点について考えたことがある。
マキャベリも、その点について考えたことがある。
M・トウェインも、その点について考えたことがある。
J・S・バッハも、その点について考えたことがある。
イエス・キリストも、その点について考えたことがある。
ニュートンも、その点について考えたことがある。
コロンブスも、その点について考えたことがある。
ニーチェも、その点について考えたことがある。
シェイクスピアも、その点について考えたことがある。
仏陀も、その点について考えたことがある。
ダ・ヴィンチも、その点について考えたことがある。
ジョン・レノンも、その点について考えたことがある。
シーザーも、その点について考えたことがある。
ゲーテも、その点について考えたことがある。
だれもが、一度は、その点について考えたことがある。
神も、悪魔も、天使や、聖人たちも、
その点について考えたことがある。
点もまた、その点について考えたことがある。


二〇一四年六月十七日 「顔」


 人間の顔はよく見ると、とても怖い。よく見ないでも怖い顔のひとはいるのだけれど、よく見ないでも怖い顔をしているひとはべ
つにして、一見、怖くないひとの顔でも、よく見ると怖い。きょう、仕事帰りの電車の中で、隣に坐っていた二十歳くらいのぽっち
ゃりした男の子の顔をちらっと見て、かわいらしい顔をしているなあと思ったのだけれど、じっと見ていると、突然、とても怖い顔
になった。


二〇一四年六月十八日 「順列 並べ替え詩。3×2×1」


ソファの水蒸気の太陽。
水蒸気の太陽のソファ。
太陽のソファの水蒸気。
ソファの太陽の水蒸気。
水蒸気のソファの太陽。
太陽の水蒸気のソファ。

午後の整数のアウストラロピテクス。
整数のアウストラロピテクスの午後。
アウストラロピテクスの午後の整数。
午後のアウストラロピテクスの整数。
整数の午後のアウストラロピテクス。
アウストラロピテクスの整数の午後。

正六角形のぶつぶつの蟻。
ぶつぶつの蟻の正六角形。
蟻の正六角形のぶつぶつ。
正六角形の蟻のぶつぶつ。
ぶつぶつの正六角形の蟻。
蟻のぶつぶつの正六角形。


二〇一四年六月十九日 「詩」


約束を破ること。それも一つの詩である。
約束を守ること。それも一つの詩である。
腹を抱えて笑うこと。それも一つの詩である。
朝から晩まで遊ぶこと。それも一つの詩である。
税を納める義務があること。それも一つの詩である。
奥歯が痛むこと。それも一つの詩である。
サラダを皿に盛ること。それも一つの詩である。
大根とお揚げを煮ること。それも一つの詩である。
熱々の豚まんを食べること。それも一つの詩である。
電車が混雑すること。それも一つの詩である。
台風で電車が動かないこと。それも一つの詩である。
信号を守って横断すること。それも一つの詩である。
道でけつまずくこと。それも一つの詩である。
バスに乗り遅れること。それも一つの詩である。
授業中にノートをとること。それも一つの詩である。
消しゴムで字を消すこと。それも一つの詩である。
6割る2が3になること。それも一つの詩である。
整数が無数にあること。それも一つの詩である。
日が没すること。それも一つの詩である。
居間でくつろぐこと。それも一つの詩である。
九十歳まで生きること。それも一つの詩である。


二〇一四年六月二十日 「詩人」


詩人とは、言葉に奉仕する者のことであって、ほかのいかなる者のことでもない。


二〇一四年六月二十一日 「考える」


よくよく考える。
くよくよ考える。


二〇一四年六月二十二日 「警察官と議員さん」


 きょうは、ひととは、だれともしゃべっていない。太秦のブックオフに行くまえに、交番のまえを通ったら、かわらいしい若いガ
チムチの警察官に、「こんにちは。」って声をかけられたのだけれど、運動をかねて大股で歩いていたぼくは、「あはっ!」と笑って、
彼の顔をチラ見して通り過ぎただけなのであった。きょうは、一日、平穏無事やった。だれとも会わなかったからかもしれない。近
所の交番の警察官が、超かわいらしかった。あしたも交番のまえを通ったろうかしら? こんどは、ちゃんと、「かわいらしい!」
と言ってあげたい。ちゃんと、かわいらしかったからね。一重まぶたのかわいらしい警察官やった。
そいえば、数年まえに居酒屋さんのまえで見た若い議員さんも、かわいらしかったなあ。「かわいい!」と大声で言って、抱きつ
いちゃったけど、隣でその議員さんの奥さんも大笑いしてたから、酔っ払いに抱きつかれることって、しょっちゅうあるのかもしれ
ないね。議員さんてわかったのは、あとでなんだけど。
 なにやってるひとなの? って道端で訊いたら、その居酒屋さんの看板の横に、その議員さんの顔写真つきポスターが貼り付けて
あって、それを指差すから、「あっ、議員さんなの。めずらしいな。こんなにかわいい議員さんなんて。」って言ったような記憶があ
る。ぼくといっしょにいた友だちと顔なじみで、先にあいさつしてたから、ぼくも大胆だったのだろうけれど、いくら酔っぱらって
いたからって、そうとうひどいよなと、猛反省、笑。


二〇一四年六月二十三日 「こころとからだ」


 自分ではないものが、自分のからだにぴったりと重なって、自分がすわっているときに立ち上がったり、自分が立ち上がったとき
にすわったままだったりする。
 自分のこころが、自分のこころではないことがあるように、自分のからだもまた、自分のからだではないことがあるようだ。ある
いは、どこか、ほかの場所では、立ったまますわっていたり、すわったまま立っていたりする、もうひとりかふたりの、別のぼくが
いるのかもしれない。


二〇一四年六月二十四日 「切断喫茶」


 切断喫茶に行った。指を加工してくれて、くるくる回転するようにしてくれた。それで、知らない人とも会話した。回転する向き
と、回転する速度と、回転する指の種類で意味を伝えるのだけれど、会話によっては、左手の指ぜんぶを小指にしたり、両手の指ぜ
んぶを親指にしたりしなければならない。初心者には、人差し指と、中指と、薬指との区別がつかないこともあるのだけれど、回転
する指で会話するうちに、すぐに慣れて区別がつくようになる。こんど、駅まえに、首を切断して、くるくる回転するようにしてく
れる切断喫茶ができたらしい。ぼくは欲張りだから、二つか三つよけいに、頭をつけてもらいたいと思っている。


二〇一四年六月二十五日 「日記(文学)における制約」


 いま、「アナホリッシュ國文學」の、こんどの夏に出る第七号の原稿を書いている。「日記」が特集なのだけれど、ぼくも、「詩の
日めくり」というタイトルで、「日記」を書いている。このタイトルは、編集長の牧野十寸穂さんが仮につけてくださったものなの
だけれど、ぼくもこのタイトルがいいと思ったので、そのまま頂戴して使わせていただくことにしたのである。
 ところで、一文と一文とのあいだに、どれだけの時間を置くことができるのか考えてみたのだけれど、単に一日に起きたことを時
系列的に列挙していくだけだとしたら、その置くことのできる時間というものは、一日の幅を越えることはないはずである。したが
って、日記だと、その一文と一文とのあいだに置いておける最長時間というものは、二十四時間ということになる。いや、ふつうは
もっと短いものにしなければならないであろう。たとえば、こんなふうに。「朝起きて、トイレでつまずいた。夜になって新しいパ
ジャマを着て寝ることにした。」などと。もしも、これが日記でなければ、単に起きたことを時系列的に列挙していくだけだとして
も、一文と一文とのあいだに置くことのできる最長時間には制限がないので、たとえば、こんなふうにも書くことができるであろう。
「朝起きて、トイレでつまずいた。それから二百年たった。夜になって新しいパジャマを着て寝ることにした。」などと。また、日
記を書いている人物が途中で入れ替わったりすることも、正当な日記の条件から外れるであろう。もちろん、SFや幻想文学でない
かぎり、日記の作者は、人間でなければならないであろう。創作としての日記、すなわち、それが日記形式の文学作品というもので
あったなら、多少の虚偽を交えて、作者がそれを書くことなどは当然なされるであろうし、読み手も、書き手の誠実さを、ことの真
偽といった側面でのみ測るような真似はけっしてしないであろう。
 そうである。日記、あるいは、日記形式の文学作品というものにいちばん求められるものは、作者の誠実さといったものであろう。
もちろん、文学に対する誠実さのことであり、言葉に対する誠実さのことである。


二〇一四年六月二十六日 「メールの返信」


出したメールにすぐに返信がないと、お風呂かなと思ってしまう初期症状。
出したメールにすぐに返信がないと、寝たのかなと思ってしまう中期症状。
出したメールにすぐに返信がないと、寝たろかなと思ってしまう末期症状。


二〇一四年六月二十七日 「そして誰もがナポレオン」


 作者はどこいるのか。言葉の中になど、いはしない。では、作者はどこで、なにをしているのか。ただ言葉と言葉をつないでいる
だけである。それが詩人や作家にできる、唯一、ただ一つのことだからである。言葉はどこに存在しているのか。作者の中になど、
存在してはいない。では、言葉はどこで、なにをしているのか。言葉は、作者のこころの外から作者に働きかけ、自分自身と他の言
葉とを結びつけているのだ。

折り畳み水蒸気

 いま、ふと、ぼくのこころの中で結びついた言葉だ。ところで、作者が誰であるのか、ぼくには不明な言葉がいくつかある。どこ
かで見た記憶のある言葉なのだが、それがどこであるのかわからないのである。詩人か作家の言葉で見たような記憶があるのだが、
その詩人や作家が誰であるのか思い出せないのである。その言葉が、どの詩や小説の中で見かけた言葉なのか思い出すことができな
いのである。

そして誰もがナポレオン

 この言葉が耳について離れない。どこかで見たような気がするので、これかなと思われる詩や小説は、読み返してみたのだが、チ
ラ読みでは探し出すことができなかった。ツイッターで、この言葉をどなたか目にされた記憶がないかと呼びかけてみたのだが、返
答はなかった。ぼくの記憶が間違っていたのかもしれない。しかし、いずれにせよ、ぼくのこころの中か、外かで結びついた言葉で
あることは確かである。もう一つ、どこかで見た記憶があるのだが、いくら探しても見つからない言葉があった。ボルヘスのものに
似た言葉があるのだが、違っていた。「夢は偽りも語るのです。」という言葉である。この言葉もまた、しばしば思い出されるのだが、
「そして誰もがナポレオン」と同様に、思い出されるたびに、もしかしたら、作者などどこにもいないのではないだろうかと思わさ
れるのである。


二〇一四年六月二十八日 「洪水」と「花」


そのときどきの太陽を沈めたのだった。

 これは、ディラン・トマスの『葬式のあと』(松田幸雄訳)という詩にある詩句で、久しぶりに彼の詩集を読み返していると、あ
れ、これと似た詩句を、ランボオのもので見た記憶があるぞと思って、ランボオの詩集を、これまた久しぶりに開いてみたら、『飾
画』(小林秀雄訳)の「眠られぬ夜」のIIIの中に、つぎのような詩句があった。

 幾つもの砂浜に、それぞれまことの太陽が昇り、

 ディラン・トマスとランボオを結びつけて考えたことなどなかったのだが、読み直してみると、たしかに、彼らの詩句には、似た
ところがあるなと思われるものがいくつも見られた。その一つに、「洪水」と「花」の結びつきがある。もちろん、「洪水」は破壊の
それ、「花」は「再生」の、あるいは、「新生」のシンボルであるのだろうが、両者のアプローチの仕方に、言葉の取り扱い方に、両
者それぞれ固有のものがあって、ときには、詩集も読み返してみるべきものなのだなと思われたのであった。

 わたしの箱舟は陽光を浴びて歌い
 いま洪水は花と咲く
(ディラン・トマス『序詩』松田幸雄訳)

 (…)洪水も引いてしまってからは、──ああ、隠れた宝石、ひらいた花、──これはもう退屈というものだ。
(ランボオ『飾画』大洪水後、小林秀雄訳)

 ディラン・トマスのものは、いかにもディラン・トマスといった修辞だし、ランボオのものもまた、いかにもランボオのものらし
い修辞で、思わず微苦笑させられてしまった。


二〇一四年六月二十九日 「苦痛神学」


以下、ディラン・トマスの詩句は、松田幸雄訳、ランボオの詩句は、小林秀雄訳で引用する。

     ○

世界は私の傷だ、三本の木のようによじれ、涙を留める。
(ディラン・トマス『黄昏の明かりに祭壇のごとく』)

  長い舌もつ部屋にいる 三文詩人は
 自分の傷の待ち伏せに向かって苦難の道を行く──
(ディラン・トマス『誕生日の詩』)

      ○

 不幸は俺の神であった。
(ランボオ『地獄の季節』冒頭の詩)

 世界よ、日に新たな不幸の澄んだ歌声よ。
(ランボオ『飾画』天才)

 黒く、深紅の傷口よ、見事な肉と肉の間に顕われる。
(ランボオ『飾画』Being Beauteous)

 転々とさまようのだ、疲れた風にのり、海にのり、傷口の上を。
(ランボオ『飾画』煩悶)

 ふと頭に思い浮かべてしまった。海を渡って詩の朗読をしてまわる人間の大きさの傷口を、砂漠の砂のうえや森の中を這いずりま
わる人間の大きさの傷口を。


二〇一四年六月三十日 「愛」


 ある種類の愛は終わらない。終わらない種類の愛がある。それは朝の愛であったり、昼の愛であったり、夜の愛であったり、目が
覚めているときの愛であったり、眠っているときの愛であったりする。愛が朝となって、ぼくたちを待っていた。愛が昼となって、
ぼくたちを待っていた。愛が夜となって、ぼくたちを待っていた。
 終わらないことは、とても残酷なことだけれど、ぼくたちは残酷なことが大好きだった。残酷なことが、ぼくたちのことを大好き
だったように。愛は、目をさましているあいだも、ぼくたちを見つめていたし、愛は眠っているあいだも、ぼくたちのことを見つめ
ていた。その愛の目は、最高に残酷なまなざしだった。


二〇一四年六月三十一日 「ガリレオ・ガリレイの実験」


 きょう、友だちのガリレオ・ガリレイが、自分の頭と身体をピサの斜塔から落としたのであった。頭と身体を同時に落として、
どちらが先に地面に激突するか実験したのであったが、同時に落下したのであった。それまでにも頭と身体を同時に城や橋の上から
落とした者もいたが、同時に激突すると宣言したのは、友だちの彼が史上初であった。


ツチノコ ツチンコ シタリガオ

  田中宏輔



もう もどっては こないよって

あいつは いった

ぼくのことなんか ほっといてよって

あいつは いった

ツチノコ ツチンコ シタリガオ

また どこかで会えるって? ハハン

かってに 思っててよ

ぼく 知らないよ

って

あいつは いった

ツチノコ ツチンコ シタリガオ

ぼくのことなんか 忘れてよ

もう 追いかけないでよ

って

あいつは いった

(ここで くるっと 宙がえり)

打ち水に

ハッとする 土ぼこり

土ぼこり

午後の日だまり

跳ね返り

ツチノコ ツチンコ シタリガオ

もう もどっては こないよ

って

あいつは いった

もう ぼくのことなんか 忘れてよ

って

あいつは いった

ツチノコ ツチンコ シタリガオ

(そこで 思わぬしっぺ返し)

ふうんだ

もう 忘れちゃってるよおおおだ

おまえのことなんか

もう だれも 追っかけないよ

って

いって やった

ツチノコ ツチンコ シタリガオ

(ここで くるっと 宙がえり)

午後の日だまり

跳ね返り

土となる

土となる


詩の日めくり 二〇一四年七月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一四年七月一日「マクドナルド」


 けさ、近所の西大路五条のマクドナルドのカウンター席で、かわいいなと思った男の子に、ぼくの名前と携帯の電話番号を書いた紙を手渡したら、大きく目を見開かれてしまって、一瞬の驚きの表情がすぐさま嫌悪の表情に変わってしまって、まあ、それ以上、ぼくもそこにいれなくて、そく出てきた、笑。ああ、恥ずかしい。ぼくが見てたら、ぼくの横に坐ってきたから、てっきり、ぼくのこと、タイプなのかなって思ったのだけれど、しばらくマクドナルドには行けへんわ、笑。たぶん、一生のあいだに、一度か二度くらいしか、お目にかからないくらいに超タイプの男の子だった。あ、だけど、おもしろいなと思ったのは、驚きの表情を見せた直後、その顔が嫌悪の表情に変化したのだけれど、そのとき、その男の子の身体が、ちょっと膨らんで見えたってこと。動物が攻撃や威嚇などをするときに、自分の身体を大きく見せることがあるのだけれど、そういった現象をじかに目にできたってことは、ぼくの経験値が上がったってことかな。あるいは、おびえたぼくのこころが、そういった幻覚を引き起こした可能性もあるのだけれど。しかし、あの男の子、もしかしたら高校生だったかもしれない。二十歳はこえてなかったと思う。白いシャツがよく似合う野球でもしてそうな坊主頭の日に焼けたガタイのいい男の子だった。


二〇一四年七月二日 「托卵」


吉田くんちのお父さんは
たしかにちょっとぼうっとした人だけど
吉田くんちのお母さんは、
しゃきしゃきとした、しっかりした人なのに
吉田くんちの隣の山本さんが
一番下の子のノブユキくんを
吉田くんちの兄弟姉妹のなかに混ぜておいたら
吉田くんちのお父さんとお母さんは
自分たちんちの子どもたちといっしょに育ててる
もう一ヶ月以上になると思うんだけど
吉田くんも新しい弟ができたと言って喜んでた
そういえば
ぼくんちの新しい妹のサチコも
いつごろからいるのか
わからない
ぼくんちのお父さんやお母さんにたずねてみても
わからないって言ってた


二〇一四年七月三日 「ピオ神父」


 日知庵に行く前に、カトリック教会の隣にあるクリスチャンズ・グッズの店に立ち寄った。 ピオ神父の陶器製の置物が10260円だった。 値札が首にぶら下がっていたのである。 キリストも、マリアも、神父さんも、みな首に値札をぶら下げていたのであった。ピオ神父、10260円か、税込みで、と思った。ちょっとほしくなる陶器製の置物だった。そのクリスチャンズ・グッズの店の前に、太ったホームレスのおじいちゃんがいた。店ではぜんぜん気にしていないみたいだった。入口のドアの横で堂々と寝そべっていた。それにしても、やさしそうな顔のおじいちゃんだった。
 日知庵から帰ってきてから、鼻くそ、ほじくってたら、あっ、とかいう声がしたから、指先を見たら、25年まえから行方不明になってた父親がいた。ぼくも、あって言って、ブチッて、指先で、父親をひねりつぶした。


二〇一四年七月四日 「FBでのやりとり」


 FBの友だちの韓国語のコメントを自動翻訳したら、「最低の稼動時間が数分を残して日ぽんと鳴る何か子供を吸う吸う」って出てきて、ちょっとビビった。めちゃくちゃおもしろかったから。台湾人の友達たちの会話を翻訳したら、「初期の仕事に行く」「美しいか?」「実質的に頑丈です」「恩知らず!」だって、笑っちゃった。「恩知らず!」の言葉がインパクトある。それに詩を感じるぼくもぼくやけど。いま見直したら、「表面が単相やった夏だからそのような物であるか?」「まあそれにもかかわらず鋭く」「痰の沸点に見て」「キャプチャしようとの意図的に敏感だった緻密であり、迷惑なんだ」「皮膚、なぜこれらのラム酒の球の毒?」「あなたの早期出社イニング 」「まだ美しいか?」「まだ実質で頑丈ですか?」「まだ実質的に頑丈です」「恩知らず!」って、つづいてた。つぎのものは、流れてきたものを翻訳したもの。[笑顔]、心から幸せなあなたの周りの人々に感染することができます:) (翻訳: Bing)  笑顔が感染するというのはおもしろい。FBのタイムライン見てて、かわいいなと思ってた人から友だち申請がくると、あがってしまう。まあ、アジアの外国の人ばかりだけれど。でも、こんなふうに、翻訳ソフトがあるから、というか、その翻訳ソフトの出来がまだあまりよくないから、記事やコメントが、ときどきめっちゃおもしろい。いままたFBを見たら、友だち申請してた人が承認してくれてて、その台湾人の方に英語であいさつしたら、日本語で返事をされたので、日本語でやりとりしてたら、「ぼくはジジイですから。」と書くと、「ジジイとは何ですか?」と尋ねられた。「an old man のことです。」と書いたら、「「クソジジ」は聞いたことがあります。「ババ」の反対ですね。」と言うので、「「ババア」です。」と書いたら、「「ババ」「ア」ですか?」と訊いてきたので、「「クソババ」と言うときには、伸ばさないこともありますが、「クソ」がつかないときには、多くの場合、音を伸ばして、「ババア」と言います。」というふうに、その台湾人の方の日本語のレパートリーを増やしてあげた。


二〇一四年七月五日 「怖ろしくも、おぞましい存在」


 人は、人といると、かならず与えるか奪うかしている。また与えつつ奪うこともしているし、奪いつつ与えることもしている。しかし、怖ろしくも、おぞましいのは、ずっと与えつづける者と、ずっと与えつづけられる者、ずっと奪いつづける者と、ずっと奪いつづけられる者の存在である。


二〇一四年七月六日 「吉野家」


 仕事帰りに、牛丼の吉野家に入ってカレーライスを食べた。斜め前に後ろ向きにすわって食べてたガチムチの大学生の男の子のジャージがずいぶんと下に位置していて、お尻の割れ目までしっかり見えてた。見てはいけないものかもしれないけれど、3度ほどチラ見してしまった。帰るときに振り返った。かわいかった。かくじつに、ぼくの寿命が3年はのびたな、と思った。たまに思いもしなかった場所で奇跡のような瞬間に出合うと、ほんとに照れてしまう。その体育会系の学生の子が帰ったあとも、めちゃくちゃ恥ずかしくて、頬がほてって、どぼどぼと汗かいてしまった。カレーの辛さじゃなかった。


二〇一四年七月七日 「いろいろな人の燃え方」


人によって発火点が異なる。
人によって燃え方の激しさが異なる。


二〇一四年七月八日 「受粉。」


猿を動かすベンチを動かす舌を動かす指を動かす庭を動かす顔を動かす部屋を動かす地図を動かす幸福を動かす音楽を動かす間違いを動かす虚無を動かす数式を動かす偶然を動かす歌を動かす海岸を動かす意識を動かす靴を動かす事実を動かす窓を動かす疑問を動かす花粉。

猿を並べるベンチを並べる舌を並べる指を並べる庭を並べる顔を並べる部屋を並べる地図を並べる幸福を並べる音楽を並べる間違いを並べる虚無を並べる数式を並べる偶然を並べる歌を並べる海岸を並べる意識を並べる靴を並べる事実を並べる窓を並べる疑問を並べる花粉。

猿を眺めるベンチを眺める舌を眺める指を眺める庭を眺める顔を眺める部屋を眺める地図を眺める幸福を眺める音楽を眺める間違いを眺める虚無を眺める数式を眺める偶然を眺める歌を眺める海岸を眺める意識を眺める靴を眺める事実を眺める窓を眺める疑問を眺める花粉。

猿を舐めるベンチを舐める舌を舐める指を舐める庭を舐める顔を舐める部屋を舐める地図を舐める幸福を舐める音楽を舐める間違いを舐める虚無を舐める数式を舐める偶然を舐める歌を舐める海岸を舐める意識を舐める靴を舐める事実を舐める窓を舐める疑問を舐める花粉。

猿を吸い込むベンチを吸い込む舌を吸い込む指を吸い込む庭を吸い込む顔を吸い込む部屋を吸い込む地図を吸い込む幸福を吸い込む音楽を吸い込む間違いを吸い込む虚無を吸い込む数式を吸い込む偶然を吸い込む歌を吸い込む海岸を吸い込む意識を吸い込む靴を吸い込む事実を吸い込む窓を吸い込む疑問を吸い込む花粉。

猿を味わうベンチを味わう舌を味わう指を味わう庭を味わう顔を味わう部屋を味わう地図を味わう幸福を味わう音楽を味わう間違いを味わう虚無を味わう数式を味わう偶然を味わう歌を味わう海岸を味わう意識を味わう靴を味わう事実を味わう窓を味わう疑問を味わう花粉。

猿を消化するベンチを消化する舌を消化する指を消化する庭を消化する顔を消化する部屋を消化する地図を消化する幸福を消化する音楽を消化する間違いを消化する虚無を消化する数式を消化する偶然を消化する歌を消化する海岸を消化する意識を消化する靴を消化する事実を消化する窓を消化する疑問を消化する花粉。

猿となるベンチとなる舌となる指となる庭となる顔となる部屋となる地図となる幸福となる音楽となる間違いとなる虚無となる数式となる偶然となる歌となる海岸となる意識となる靴となる事実となる窓となる疑問となる花粉。

猿に変化するベンチに変化する舌に変化する指に変化する庭に変化する顔に変化する部屋に変化する地図に変化する幸福に変化する音楽に変化する間違いに変化する虚無に変化する数式に変化する偶然に変化する歌に変化する海岸に変化する意識に変化する靴に変化する事実に変化する窓に変化する疑問に変化する花粉。

猿を吐き出すベンチを吐き出す舌を吐き出す指を吐き出す庭を吐き出す顔を吐き出す部屋を吐き出す地図を吐き出す幸福を吐き出す音楽を吐き出す間違いを吐き出す虚無を吐き出す数式を吐き出す偶然を吐き出す歌を吐き出す海岸を吐き出す意識を吐き出す靴を吐き出す事実を吐き出す窓を吐き出す疑問を吐き出す花粉。

猿を削除するベンチを削除する舌を削除する指を削除する庭を削除する顔を削除する部屋を削除する地図を削除する幸福を削除する音楽を削除する間違いを削除する虚無を削除する数式を削除する偶然を削除する歌を削除する海岸を削除する意識を削除する靴を削除する事実を削除する窓を削除する疑問を削除する花粉。

猿を叩くベンチを叩く舌を叩く指を叩く庭を叩く顔を叩く部屋を叩く地図を叩く幸福を叩く音楽を叩く間違いを叩く虚無を叩く数式を叩く偶然を叩く歌を叩く海岸を叩く意識を叩く靴を叩く事実を叩く窓を叩く疑問を叩く花粉。

猿を曲げるベンチを曲げる舌を曲げる指を曲げる庭を曲げる顔を曲げる部屋を曲げる地図を曲げる幸福を曲げる音楽を曲げる間違いを曲げる虚無を曲げる数式を曲げる偶然を曲げる歌を曲げる海岸を曲げる意識を曲げる靴を曲げる事実を曲げる窓を曲げる疑問を曲げる花粉。

猿あふれるベンチあふれる舌あふれる指あふれる庭あふれる顔あふれる部屋あふれる地図あふれる幸福あふれる音楽あふれる間違いあふれる虚無あふれる数式あふれる偶然あふれる歌あふれる海岸あふれる意識あふれる靴あふれる事実あふれる窓あふれる疑問あふれる花粉。

猿こぼれるベンチこぼれる舌こぼれる指こぼれる庭こぼれる顔こぼれる部屋こぼれる地図こぼれる幸福こぼれる音楽こぼれる間違いこぼれる虚無こぼれる数式こぼれる偶然こぼれる歌こぼれる海岸こぼれる意識こぼれる靴こぼれる事実こぼれる窓こぼれる疑問こぼれる花粉。

猿に似たベンチに似た舌に似た指に似た庭に似た顔に似た部屋に似た地図に似た幸福に似た音楽に似た間違いに似た虚無に似た数式に似た偶然に似た歌に似た海岸に似た意識に似た靴に似た事実に似た窓に似た疑問に似た花粉。

猿と見紛うベンチと見紛う舌と見紛う指と見紛う庭と見紛う顔と見紛う部屋と見紛う地図と見紛う幸福と見紛う音楽と見紛う間違いと見紛う虚無と見紛う数式と見紛う偶然と見紛う歌と見紛う海岸と見紛う意識と見紛う靴と見紛う事実と見紛う窓と見紛う疑問と見紛う花粉。

猿の中のベンチの中の舌の中の指の中の庭の中の顔の中の部屋の中の地図の中の幸福の中の音楽の中の間違いの中の虚無の中の数式の中の偶然の中の歌の中の海岸の中の意識の中の靴の中の事実の中の窓の中の疑問の中の花粉。

猿に接続したベンチに接続した舌に接続した指に接続した庭に接続した顔に接続した部屋に接続した地図に接続した幸福に接続した音楽に接続した間違いに接続した虚無に接続した数式に接続した偶然に接続した海岸に接続した意識に接続した靴に接続した事実に接続した窓に接続した疑問に接続した花粉。

猿の意識のベンチの意識の舌の意識の指の意識の庭の意識の顔の意識の部屋の意識の地図の意識の幸福の意識の音楽の意識の間違いの意識の虚無の意識の数式の意識の偶然の意識の歌の意識の海岸の意識の意識の意識の靴の意識の事実の意識の窓の意識の疑問の意識の花粉。

猿を沈めるベンチを沈める舌を沈める指を沈める庭を沈める顔を沈める部屋を沈める地図を沈める幸福を沈める音楽を沈める間違いを沈める虚無を沈める数式を沈める偶然を沈める歌を沈める海岸を沈める意識を沈める靴を沈める事実を沈める窓を沈める疑問を沈める花粉。

猿おぼれるベンチおぼれる舌おぼれる指おぼれる庭おぼれる顔おぼれる部屋おぼれる地図おぼれる幸福おぼれる音楽おぼれる間違いおぼれる虚無おぼれる数式おぼれる偶然おぼれる歌おぼれる海岸おぼれる意識おぼれる靴おぼれる事実おぼれる窓おぼれる疑問おぼれる花粉。

猿と同じベンチと同じ舌と同じ指と同じ庭と同じ顔と同じ部屋と同じ地図と同じ幸福と同じ音楽と同じ間違いと同じ虚無と同じ数式と同じ偶然と同じ歌と同じ海岸と同じ意識と同じ靴と同じ事実と同じ窓と同じ疑問と同じ花粉。

猿を巻き込むベンチを巻き込む舌を巻き込む指を巻き込む庭を巻き込む顔を巻き込む部屋を巻き込む地図を巻き込む幸福を巻き込む音楽を巻き込む間違いを巻き込む虚無を巻き込む数式を巻き込む偶然を巻き込む歌を巻き込む海岸を巻き込む意識を巻き込む靴を巻き込む事実を巻き込む窓を巻き込む疑問を巻き込む花粉。

猿の蒸発するベンチの蒸発する舌の蒸発する指の蒸発する庭の蒸発する顔の蒸発する部屋の蒸発する地図の蒸発する幸福の蒸発する音楽の蒸発する間違いの蒸発する虚無の蒸発する数式の蒸発する偶然の蒸発する海岸の蒸発する意識の蒸発する靴の蒸発する事実の蒸発する窓の蒸発する疑問の蒸発する花粉。

猿と燃えるベンチと燃える舌と燃える指と燃える庭と燃える顔と燃える部屋と燃える地図と燃える幸福と燃える音楽と燃える間違いと燃える虚無と燃える数式と燃える偶然と燃える歌と燃える海岸と燃える意識と燃える靴と燃える事実と燃える窓と燃える疑問と燃える花粉。

猿に萌えるベンチに萌える舌に萌える指に萌える庭に萌える顔に萌える部屋に萌える地図に萌える幸福に萌える音楽に萌える間違いに萌える虚無に萌える数式に萌える偶然に萌える歌に萌える海岸に萌える意識に萌える靴に萌える事実に萌える窓に萌える疑問に萌える花粉。

猿と群れるベンチと群れる舌と群れる指と群れる庭と群れる顔と群れる部屋と群れる地図と群れる幸福と群れる音楽と群れる間違いと群れる虚無と群れる数式と群れる偶然と群れる歌と群れる海岸と群れる意識と群れる靴と群れる事実と群れる窓と群れる疑問と群れる花粉。

猿飛び込むベンチ飛び込む舌飛び込む指飛び込む庭飛び込む顔飛び込む部屋飛び込む地図飛び込む幸福飛び込む音楽飛び込む間違い飛び込む虚無飛び込む数式飛び込む偶然飛び込む歌飛び込む海岸飛び込む意識飛び込む靴飛び込む事実飛び込む窓飛び込む疑問飛び込む花粉。

猿の飛沫のベンチの飛沫の舌の飛沫の指の飛沫の庭の飛沫の顔の飛沫の部屋の飛沫の地図の飛沫の幸福の飛沫の音楽の飛沫の間違いの飛沫の虚無の飛沫の数式の飛沫の偶然の飛沫の歌の飛沫の海岸の飛沫の意識の飛沫の靴の飛沫の事実の飛沫の窓の飛沫の疑問の飛沫の花粉。

猿およぐベンチおよぐ舌およぐ指およぐ庭およぐ顔およぐ部屋およぐ地図およぐ幸福およぐ音楽およぐ間違いおよぐ虚無およぐ数式およぐ偶然およぐ歌およぐ海岸およぐ意識およぐ靴およぐ事実およぐ窓およぐ疑問およぐ花粉。

猿まさぐるベンチまさぐる舌まさぐる指まさぐる庭まさぐる顔まさぐる部屋まさぐる地図まさぐる幸福まさぐる音楽まさぐる間違いまさぐる虚無まさぐる数式まさぐる偶然まさぐる歌まさぐる海岸まさぐる意識まさぐる靴まさぐる事実まさぐる窓まさぐる疑問まさぐる花粉。

猿あえぐベンチあえぐ舌あえぐ指あえぐ庭あえぐ顔あえぐ部屋あえぐ地図あえぐ幸福あえぐ音楽あえぐ間違いあえぐ虚無あえぐ数式あえぐ偶然あえぐ歌あえぐ海岸あえぐ意識あえぐ靴あえぐ事実あえぐ窓あえぐ疑問あえぐ花粉。

猿くすぐるベンチくすぐる舌くすぐる指くすぐる庭くすぐる顔くすぐる部屋くすぐる地図くすぐる幸福くすぐる音楽くすぐる間違いくすぐる虚無くすぐる数式くすぐる偶然くすぐる歌くすぐる海岸くすぐる意識くすぐる靴くすぐる事実くすぐる窓くすぐる疑問くすぐる花粉。

猿に戻るベンチに戻る舌に戻る指に戻る庭に戻る顔に戻る部屋に戻る地図に戻る幸福に戻る音楽に戻る間違いに戻る虚無に戻る数式に戻る偶然に戻る歌に戻る海岸に戻る意識に戻る靴に戻る事実に戻る窓に戻る疑問に戻る花粉。

猿をとじるベンチをとじる舌をとじる指をとじる庭をとじる顔をとじる部屋をとじる地図をとじる幸福をとじる音楽をとじる間違いをとじる虚無をとじる数式をとじる偶然をとじる歌をとじる海岸をとじる意識をとじる靴をとじる事実をとじる窓をとじる疑問をとじる花粉。


二〇一四年七月九日 「思い出せない悪夢」


 けさ、自分のうなり声で目が覚めたのだけれど、そのあとすぐに、隣に住んでいる人が、「どうしたんですか?」とドア越しに声をかけてくださったのだけれど、恥ずかしくて、返事もできなかった。なぜ、うなり声を出しつづけていたのか不明である。怖い夢を見ていたのだろうけれど、まったく思い出せない。


二〇一四年七月十日 「なにげないひと言」


 なにげないひと言が、耳のなかに永遠に残る、ということがある。過去のベスト1とベスト2は、「おっちゃん、しゃぶって!」と「おっちゃんも勃ってんのか?」だ。これまで、どの詩にも書いていない状況のものだ、笑。きょうのは、ベスト3かな。「チンポ、しゃぶりたいんか?」 


二〇一四年七月十一日 「怖い〜!」


 バス停の近くで派手にイッパツ大きなくしゃみをしたら、なんだか妙にへなへなとした知恵おくれっぽいおじいさんが、「怖い〜!」と言って、ムンクの絵のように両手で頭を抱えて、くたっとひざまずいて、ぼくの顔を見上げた。マンガ見てるみたいで、めっちゃおもしろかった。憐れみを誘う、蹴り飛ばしてほしそうな顔をしていた。


二〇一四年七月十二日 「マクドナルド」


 ジミーちゃんちに寄った帰り、北大路のマクドナルドで、「ハンバーガー一個ください」と言ったら、店員の若い男の子に、「これだけか?」と言われた。すぐさま、その男の子が、しまった、まずいな、という表情をしたので、ぼくも聞こえなかったふりをしてあげたけれど、不愉快になる気持ちよりも、こんなこともあるんだ、というか、とっさに思ったほんとうの気持ちが、こんなふうに言葉にあらわれることもあるのかと、おもしろがるぼくがいた。


二〇一四年七月十三日 「湖上の卵」


湖の上には
卵が一つ、宙に浮かんでいる

卵は
湖面に映った自分と瓜二つの卵に見とれて
動けなくなっている

湖面は
卵の美しさに打ち震えている
一個なのに二個である

あらゆるものが
一つなのに二つである

湖面が分裂するたびに
卵の数が増殖していく

二個から四個に
四個から八個に
八個から十六個に

卵は
自分と瓜二つの卵に見とれて
動けなくなっている

無数の湖面が
卵の美しさに打ち震えている

どの湖の上にも
卵が一つ、宙に浮かんでいる


二〇一四年七月十四日 「フンドシと犬」


フンドシをしていない犬よりフンドシをしている犬になりたい。


二〇一四年七月十五日 「もっとゆっくり」


 アルバイト先の塾からの帰りに、西大路五条で車同士が目の前で激突した。バンッという音が目のまえでして、車同士がぶつかっているのを目にした。どちらも怪我がなかったみたいで、双方の運転席の人間はふつうに動いていた。お互いに、車を道路の脇に寄せていったので、二人とも、けがもなかったのだろう。けっこう大きな音がしたのだけれど。みんな、疲れているのかもしれない。もっとゆっくりとした、じゅうぶんに休みが取れる社会であればいいのになと思った。
 帰ってから、いまつくっている全行引用詩・五部作のうちの一作「ORDINARY WORLD。」のために引用するエピグラフを一つ探した。きのう目にして、引用しようか、引用しないでおこうかと迷って、けっきょく引用しないことにしたのだけれど、塾の帰りに、ふと思い出されて、あ、あれは引用しなければならないなと思われたのであった。どのルーズリーフにあった言葉か覚えていなかったので、一〇〇〇枚以上のルーズリーフのなかから、きのう読んだものから順番にさかのぼって一枚一枚あたって探していたのだった。こんなことばっかり、笑。しかし、一時間ほどして見つかった。この文章だけ読んでも、ぼくには、もとの作品の全内容がいっきょに思い出せるのだけれど、P・D・ジェイムズは、ぼくがコンプリートにコレクションして読んだ数十人の詩人や作家のなかでも、もっとも知的な書き手で、ヴァージニア・ウルフを完全に超えているなと思っている数少ない物書きの一人である。「ああ、ぼくは大丈夫だよ。ようやく大丈夫になるさ。心配しないでくれ。それから見舞いには来ないで。G・K・チェスタートンの言葉にこういうのがあっただろう。"人生を決して信用せず、かつ人生を愛することを学ばねばならない"。ぼくはとうとう学べなかった」(『原罪』第四章、青木久恵訳)これはエイズで亡くなる直前の作家の言葉として書かれたものだけれど、ぼくは、いまこの言葉を書き写しているだけでも、涙がにじんできてしまった。P・D・ジェイムズ。けっして読みやすい作家ではないけれど、古書でも、たやすく手に入るので、たくさんの人たちに読んでほしいなと思っている。P・D・ジェイムズの作品に、はずれは一作もないのだけれど、とりわけ、『原罪』と『正義』は、天才作家の書いた作品だと思っている。自分のルーズリーフを読み返していて、自分が書いたことも忘れているようなメモが挟まれてあったり、付箋に細かい小さな字で自分の言葉が書き込んであったりと、そういうものを見つけることができるのも、楽しみのひとつになっている。で、そのうちのいくつかのものを書き込んでいこうかな。メモの記述がいつのものか、日付を入れるとわずらわしくなるので省略した。

  〇

ごくごくと水を飲んだ。ヒシャクも、のどが渇いていたのだろう。

我慢にも限界があるのなら、限界にも我慢がある。

天国とはイメージである。好きなようにイメージすることができる。

音と昔が似ている。音が小さい。昔が小さい。音が大きい。昔が大きい。大音量。大昔量。

「様々」を 「さま〜ず」と読んでみたり

たすけて を ドレミファ と ドミソファ の どちらにしようか と しあんちゅう

薔薇族と百合族か 茎系と球根系か

これはわたしのしっぽ と言って ぼくのゆびをにぎるな!

パクチーがきらいだと言って ぼくの皿のなかに入れるのは やめて 意味 わかんない

ちょっと球形。

余白の鼓動。蠕動する句読点。

ピクルスって、なんか王さまの名前みたい。

過去と出合わないように と思ってみたり

別々の人間なのに、「好きだ」とか「嫌いだ」とかいった言葉で、ひとくくりにしてしまう。

つねに自分を超えていく人間だけが、すぐれた他人と肩を並べることができるのである。

 うんこ色の空と書いてみる。でも、うんこにもいろいろあるから、うんこ色の空もあるかもしれない。青虫のうんこは緑だ。空がうんこしたら、やっぱり空色のうんこだろう。空色のうんこと書いてみる。うんこが空色なのだ。いろいろな色のうんこがしてみたい。バリウム飲んだつぎの日のうんこは白だった。

 ことし出した詩集『ゲイ・ポエムズ』に収録してた散文詩を読み直していて、京大のエイジくんのことで、詩に書いていないことがひとつあることを思い出した。「たなやん、たなやんって、オレ、ノートに何ページも書いとったんやで。」このときのぼくの返事は「ふううん。」やった。バカじゃないの? 書いたから、なんなのって思った。

父親が、むかし、犬を洗うために洗濯機に入れたことがあって、弟が発狂したことがある。きれいになれば、いいんじゃないのって、ぼくは思ったけど。

 たまに混んでいる。ぎゅんぎゅんに。なんでさばけている。ぽあんぽあんに。横にすわった大学生の足元。つぎつぎと飛び込んでいく座席の下。牛のひづめが櫛けずる地面。徘徊するしぼんだ風船。電車のなかは荒地だった。だれが叫んだのか。床が割れた。みんな線路に吸い込まれてしまった。さぼった×(ばつ)だ。

  〇

夜遅くなって、雨の音がきつくて、こわい。隣の部屋の人、玄関で、カサ、バサバサとうるさい。


二〇一四年七月十六日 「「ちち」と「はは」」


「ちち」と「はは」を、一文字増やして、「ちちち」と「ははは」にすると、なんかおもしろい。一文字減らすと、「ち」と「は」で、小さな「っ」をつけたくなる感じだけれど、二文字増やしてみると、「ちちちち」と「はははは」で、ここまでくると、三文字増やしても、四文字増やしても、二文字増やしたときと、あまり変わらないような気がする。ちなみに、「ちちち」は否定する場面で使われることが多くて、「ははは」は、とりあえずは肯定する、といった場面で使われることが多いというのも、なんだかおもしろい。


二〇一四年七月十七日 「超早漏」


 きょう、新しいズボンをはいたので、超小さいチンポコ(勃起時、わずか1センチ5ミリ)で超早漏のぼくは、道を歩きながら何十回と射精してしまって、まるでかたつむりみたいに、歩いたあとがべとべとになっていた。めっちゃ、しんどかった。さいしょは気持ちよく歩いてたけど、すぐにしんどくなってしもた。


二〇一四年七月十八日 「やわらかい頬」


 ふと23才くらいのときに東京に遊びに行ったときのことが思い出された。昼間、ぼくは、バス停でバスの到着時刻表を見ていた。友だちとはぐれるまえに。記憶はそこで途切れて、池袋だったと思うけど、夜にイタリアンレストランで友だちと食事してた。なぜバス停でバスの到着時刻を見てたのかわからない。森園勝敏の『エスケープ』を聴いている。このアルバムのトップの曲が、ぼくに、ぼくの23才くらいのときのことを思い出させたのだと思う。まだ汚れていたとしても、そうたいして汚れていなかった、裸の魂を抱えた、ぷにぷにとやわらかい頬をしたぼくが、無防備に地上を歩きまわっていたころの記憶だった。


二〇一四年七月十九日 「言葉」


 自分が考えるのではなく、言葉が考えるように、あるいは、少なくとも、言葉に考えさせるようにしなければならない。なぜなら、本来的には、「言葉が言葉を生む」、「言葉から言葉が生まれる」のだから。


二〇一四年七月二十日 「言葉」


 言葉は共有されているのではない。言葉は共用されているのである。あるいは、言葉がわれわれ人間を共用しているのだ。言葉が共有されているというのは錯誤である。われわれはただ単に言葉を共用しているに過ぎない。あるいは、われわれ人間は、ただ単に言葉によって共用されているに過ぎないのである。


二〇一四年七月二十一日 「純粋ななにものか」


現実と接触しているかぎり、どのような人間も、純粋ななにものかにはならない。現実と接触しているかぎり、どのような詩も、純粋ななにものかにはならないように。


二〇一四年七月二十二日 「自分を卵と勘違いした男」


彼は冷蔵庫の卵のケースのところに
つぎつぎと自分を並べていった


二〇一四年七月二十三日 「開戦」


 きょう、日本が宣戦布告したらしい。仕事帰りに、駅で配られていた号外で知ったのだった。それは、地下鉄から阪急に乗り換えるときに通る地下街にある、パン屋の志津屋のまえで受け取ったものだった。まだ20歳くらいのやせた若い青年が配っていた。押し付けられるようにして受け取ったそれをチラ見すると、バックパックにしまって、阪急の改札に入った。階段を下りていくときに、ちょっとつまずきかけたのだけれど、戦争ってことについて考えていたからではなくて、ただ単に疲れていて、その疲れが足元をもつれさせたのだと思った。烏丸から西院まで、電車のなかで戦争についてずっとしゃべりつづけていた中年の二人連れの女たちがいた。こういうときには、なにも考えていなさそうな男たちが大声で戦争についてしゃべるものだと思っていたので意外だった。むしろ中年の男たちは何もしゃべらず、手渡された号外に目を落として、うんざりとした顔つきをしていた。若い男たちも同じだった。西院駅につくと、改札口で、いつも大きな声で反戦を訴えていた左翼政党の議員が、運動員たちとともに、警察官たちに殴られて連行されていくところだった。人が警察官たちに殴られて血まみれになるような場面には、はじめて遭遇した。捜査員なのか、男が一人、その様子を見ている人たちの顔写真をカメラでバチバチと撮っていった。ぼくはすかさず顔をそむけて駅から離れた。部屋に戻ってPCをつけると、ヤフー・ニュースで戦争の概要を解説していた。ほんとうに日本は宣戦布告したらしい。ふと食べ物や飲み物のことが気になったので、近所のスーパーのフレスコに行くと、みんな、買い物かごに食べ物や飲み物を目いっぱい入れてレジに並んでいた。ぼくも、困ったことにならないように、数少ない野菜や缶詰や冷凍食品などを買い物かごに入れてレジに並んだ。酒もほとんど残っていなかったのだが、とりあえず缶チューハイは二本、確保した。値段が違っていた。清算するまで、いつもと違った値段が付けられていたことに気がつかなかった。人間の特性の一つであると思った。こんなときにも儲けようというのだ。どの時代の人間も同じなのだろう。どの時代の人間も同じように愚かなことを繰り返す。ようやくレジで代金を支払い、買ったものを部屋に持ち帰ると、すぐにキッチンの棚や冷蔵庫のなかにしまい込んだ。


二〇一四年七月二十四日 「海胆〜」


海胆海胆〜
海胆〜


二〇一四年七月二十五日 「輪っか」


指で輪っかをつくると、ついその輪っかで、自分の首を吊りたくなる。


二〇一四年七月二十六日 「夜の」


「夜の」という言葉をつけるだけで、エッチな感じになるのは、なぜだろう。「夜の昼食。」「夜の腋臭。」「夜の中性洗剤。」「夜の第二次世界大戦。」なんか、燃える。いや、萌える。


二〇一四年七月二十七日 「赤い花」


ガルシンのような作家になりたいと思ったことがある。一冊しか本棚にはないけれど、いつまでも書店の本棚に置かれているような。


二〇一四年七月二十八日「オナニー」


 きょうも寝るまえに、小林秀雄が訳したランボオの『地獄の季節』を読みながら、オナニーしてしまった。これって、ランボオに感じてオナニーしてるのか、小林秀雄に感じてオナニーしてるのか、どっちなんやろ?


二〇一四年七月二十九日 「ドリブル」


 過去が過去をドリブルする。過去が現在をドリブルする。過去が未来をドリブルする。現在が過去をドリブルする。現在が現在をドリブルする。現在が未来をドリブルする。未来が過去をドリブルする。未来が現在をドリブルする。未来が未来をドリブルする。


二〇一四年七月三十日 「詩と真実」


詩のなかで起こることは、すべて真実である。


二〇一四年七月三十一日 「ペペロンチーノ」


 ひゃ〜。ペペロンチーノつくろうと思って、鍋に水入れてたら、水をこぼして、こぼしたまま作業してたら、水がこぼれてることすっかり忘れてて、そのうえをすべって、足を思い切り開いて、おすもうさんの股割り状態というか、バレリーナの開脚みたいになって、ものすごい激痛が走った。股関節、だいじょうぶやろか?


詩の日めくり 二〇一四年八月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一四年八月一日「蜜の流れる青年たち」


 屋敷のなかを蜜の流れる青年たちが立っていて、ぼくが通ると笑いかけてくる。頭のうえから蜜がしたたっていて、手に持ったガラスの器に蜜がたまっていて、ぼくがその蜜を舐めるとよろこぶ。どうやら、弟はぼくを愛しているらしい。白い猫と黒い猫が追いかけっこ。屋敷には、ぼくの本も大量に運ばれていて、弟が運ばせていた。弟は、寝室で横たわっているぼくの耳にキスをして部屋を出て行った。白い猫と黒い猫たちが後方に走り去っていった。と思った瞬間、その姿は消えていて、気がつくと、また前方からこちらに向かって、くんずほぐれつ白い猫と黒い猫たちが走り寄ってきて、目のまえで踊るようにして追いかけっこして後方に走り去り、またふたたび前方からこちらに向かって、くんずほぐれつ走り寄ってきた。猫を飼っていたとは知らなかった。でも、よく見ると、それが母親や叔母たちが扮している猫たちで、屋敷の廊下をふざけながら猛スピードで駆け巡っているのだった。ぼくのそばを通っては笑い声をあげて追いかけっこをしているのであった。完全に目を覚ましたぼくは、廊下中に立っている蜜のしたたる青年たちの蜜を舐めていった。


二〇一四年八月二日「戦時下の田舎」


 戦時下だというのに、弟の屋敷では、時間の流れがまったく別のもののように感じられる。中庭に出てベンチに坐って、ジョン・ダンの詩集を読んでいる。ページから目を上げると、ふと噴水の流れ落ちる水の音に気がついたり、小鳥たちが地面の砂をくちばしのさきでつつき回している姿に気がついたり、背後の樹のなかに姿を隠した小鳥や虫たちの鳴く声に気がついたりするのであった。ぼくが詩を読んでいるあいだも、それらは流れ落ち、つつき回し、鳴きつづけていたのであろうけれども。足元の日差しのなかで、裸の足指を動かしてみた。気持ちがよい。夏休みのあいだだけでも巷の喧騒から逃れて田舎の屋敷でゆっくりすればいいと、弟が言ってくれたのだった。西院に比べて桂がそんなに田舎だとは思えないのだけれど。ぼくはふたたび、ジョン・ダンの詩集に目を落とした。ホラティウスやシェイクスピアもずいぶんとえげつない詩を書いていたが、ジョン・ダンのものがいちばんえげつないような気がする。


二〇一四年八月三日「100人のダリが曲がっている。」


 中庭でベンチに腰掛けながら、ジョン・ダンの詩集を読んでいると、小さい虫がページのうえに、で、無造作に手ではらったら、簡単につぶれて、ページにしみがついてしまって、で、すぐに部屋に戻って、消しゴムで消そうとしたら、インクがかすれて、文字までかすれて、泣きそうになった、買いなおそうかなあ、めっちゃ腹が立つ。虫に、いや、自分自身に、いや、虫と自分自身に。おぼえておかなきゃいけないね、虫が簡単につぶれてしまうってこと。それに、なにするにしても、もっと慎重にしなければいけないね、ふうって息吹きかけて吹き飛ばしてしまえばよかったな。ビールでも飲もう。で、これからつづきを。まだ、ぜんぶ読んでないしね。ああ、しあわせ。ジョン・ダンの詩集って、めっちゃ陽気で、えげつないのがあって、いくつもね。ブサイクな女がなぜいいのか、とかね。吹き出しちゃったよ、あまりにえげつなくってね。フフン、石頭。いつも同じひと。どろどろになる夢を見た。


二〇一四年八月四日「科学的探究心」


 きょうも、中庭で、ジョン・ダンの詩集を読んでいた。もう終わりかけのところで、昼食の時間を知らせるチャイムが鳴った。ぼくは詩集をとじて、立ち上がった。ちょっとよろけてしまって、ベンチのうえにしりもちをついてしまった。すると、噴水の水のきらめきと音が思い出させたのだろうか。子どものときに弟のところに行こうとして、川のなかでつまずいておっちんしたときの記憶がよみがえったのであった。鴨川で、一年に一度、夏の第一日曜日か、第二日曜日に、小さな鯉や鮒や金魚などを放流して、子どもたちに魚獲りをさせる日があって、なんていう名前の行事か忘れてしまったのだけれど、たぶん、ぼくがまだ小学校の四年生ころのときのことだと思う。川床の岩(いわ)石(いし)につまずいて、水のなかにおっちんしてしまったのである。そのときに、水際の護岸の岩と岩のあいだに密生している草の影のところの水が、日に当たっているところの水よりはるかに冷たいことを知ったのだった。しかし、川の水は流れているわけだし、常時、川の水は違った水になっているはずなのに、水際の丈高い草の影の水がなぜ冷たいのかと不思議に思ったのであった。ただし、ぼくが冷たいと思ったのは、川のなかにしゃがんで伸ばした手のさきの水だったので、水面近くの水ではなくて、水底に近い部分だったことは、理由としてあるのかもしれない。水底といっても、わずか2、30センチメートルだったとは思うのだけれど。子ども心に科学的探究心があったのであろう。水のなかで日に当たっているところと水際の草の影になっているところに手を伸ばして行き来させては、徐々に手のひらを上げて、その温度の違いを確かめていったのだから。水面近くになってやっと了解したのだった。水の温みは太陽光線による放射熱であって、直射日光の熱であったのだった。すばやく移動しているはずの水面近くの日に当たっているところと影になって日に当たっていないところの温度は、太陽光線の放射熱のせいでまったく違っていたのだった。いまでも顔がほころぶ。当時のぼくの顔もほころんでいたに違いない。40年以上もむかしのことなのに、きのうしゃがんでいたことのように、はっきりと覚えている。あっ、あの行事の名前、鴨川納涼祭りだったかな。それとも、鴨川の魚祭りだったかな。両方とも違ってたりして。


二〇一四年八月五日「ゴリラは語る」


 弟の子どもの双子の男の子たちの勉強をみているときに、大谷中学校の2013年度の国語の入試問題のなかに、山極寿一さんの『ゴリラは語る』というタイトルの文章が使われていて、その文章のなかに、おもしろいものがあった。「「遊び」というのは不思議なもので、遊ぶこと自体が目的です。」「ゴリラは、日に何度も、しかもほかの動物とは比べものにならないほど長く、遊び続けることができるのです。」、「時間のむだづかいにも見える「遊び」を長く続けられるのは、遊びの内容をどんどん変えていけるからです。」いや〜、これを読んで、ぼくが取り組んでる詩作のことやんか、と思った。ゴリラとは、ぼくである。ぼくとは、ゴリラであったのだ〜と叫んで、弟の子どもたちとふざけて、部屋じゅう追いかけっこして騒いでいたら、突然、部屋に入ってきた弟に叱られた。ちょっとイヤな気がした。


二〇一四年八月六日「死父」


朝、死んだ父に脇腹をコチョコチョされて目が覚めた。一日じゅう気分が悪かった。


二〇一四年八月七日「寝るためのお呪い」


羊がいっぴき、羊がにひき、羊がさんびき……
羊がいっぴき、羊がにひき、羊がさんびき……
羊がいっぴき、羊がにひき、羊がさんびき……
一晩中、羊たちは不眠症のひとたちに数えられて
ちっとも眠らせてもらえなかったので、しまいに
怒って、不眠症のひとたち、ひとりひとりの頭を
つぎつぎと、ぐしゃぐしゃ踏んづけてゆきました。


二〇一四年八月八日「寝るためのお呪い、ふたたび」


棺がひとつ、棺がふたつ、棺がみっつ……
棺がひとつ、棺がふたつ、棺がみっつ……
棺がひとつ、棺がふたつ、棺がみっつ……
一晩中、死んだ父親が目を見開いて棺から
つぎつぎ現われてくる光景を見ていたので
まったくちらとも眠ることができなかった


二〇一四年八月九日「空気金魚」


 人間の頭くらいの大きさの空気金魚が胸びれ腹びれ尻びれをひらひらさせながら躰をくゆらし、尾びれ背びれを優雅にふりまきながら、弟の差し出したポッキー状の餌を少しずつかじっていた。空気金魚は、この大きさで、空気と同じ重さなのだ。ポッキー状の餌も空気と同じ重さらしい。一人暮らしをはじめて三十年近くになる、広い屋敷は逆に窮屈だ、そろそろ帰りたい、と弟に話した。弟は隣の部屋に入っていった。ドアが開いていたので、つづいて部屋に入ると、空気娘たちが部屋のなかに何人も漂っていた。気配がしたので振り返ろうとすると、弟がぼくの肩に手を置いて「兄さんは、興味がなかったかな?」と言う。外見はぼくのほうが父親に似ていたが、性格は弟のほうが父親に似ているのだった。まったく思いやりのない口調であった。


二〇一四年八月十日「パーティー」


 ぜったい嫌がらせに違いないと思うのだけれど、弟に屋敷を出たいと言ったつぎの日の今日に、なんのパーティーか知らないけれど、パーティーが開かれた。空気牛や空気山羊や空気象や空気熊や空気豚などが宴会場になっている大広間で空中にただよっているなかに、弟に呼ばれた客たちが裸で牛や山羊や象や熊や豚などに扮して、かれらもまた空中にただよいながら酒や食事を空中にふりまきながら飲食や会話をしているのだった。不愉快きわまる光景であった。あしたの朝いちばんに屋敷を出ることにした。


二〇一四年八月十一日「ブレッズ・プラス」


 昼ご飯を食べに西院のブレッズ・プラスに行く途中、女性の二人組がぺちゃくちゃしゃべりながら、ぼくの前から近づいてきた。ぼくは、人の顔があまり記憶できない性質なので、もう覚えていないのだけれど、というのも、ちらりと見ただけで、もうケッコウという感じだったからなんだけど、ぼくに近い方、道の真ん中を歩いてた方の女性が、ぼくの出っ張ったお腹を見ながら、「やせなあかんわ。」と言いよったのだった。オドリャ、と思ったのだけれど、まあ、ええわ。人間は他人を見て、自分のことを振り返るんやからと思って、チェッと思いながらも、そのままやりすごしたのだけれど、ほんと、人間というものは、他人を見て、自分のことを思い出してしまうんやなあと、つくづく思った。パン屋さんに入って、BLTサンドのランチ・セットを頼んでテーブルにつき、ルーズリーフを拡げると、つぎのような言葉がつぎつぎと目に飛び込んできた。「今、わたしの存在を維持しているのはだれか?」(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』50、岡部宏之訳)「人間がその死性を免れる道は、笑いと絆を通してでしかない。それら二つの大いなる慰め。」(グレゴリイ・ベンフォード『輝く永遠への航海』下・第六部・5、冬川 亘訳)「人生で起こる偶然はみな、われわれが自分の欲するものを作り出すための材料となる。精神の豊かな人は、人生から多くのものを作り出す。まったく精神的な人にとっては、どんな知遇、どんな出来事も、無限級数の第一項となり、終わりなき小説の発端となるだろう。」(ノヴァーリス『花粉』 66、今泉文子訳)「人生を楽しむ秘訣は、細部に注意を払うこと。」(シオドア・スタージョン『君微笑めば』大森 望訳)「細部こそが、すべて」(ブライアン・W・オールディス『三つの謎の物語のための略図』深町眞理子訳)「本質的に小さなもの。それは芸術家の求めるものよ」(フランク・ハーバート『デューン砂丘の大聖堂』第二巻、矢野 徹訳)「人生はほとんどいつもおもしろいものだ。」(タビサ・キング『スモール・ワールド』5、みき 遥訳)「そうした幸せは、まさしく小さなものであるからこそ存在しているのだ」(サバト『英雄たちと墓』第II部・4、安藤哲行訳)「重要なのは経験だ。」(ミシェル・ジュリ『不安定な時間』鈴木 晶訳)「人生のあらゆる瞬間はかならずなにかを物語っている、」(ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』四・16、小林宏明訳)「経験は避けるのが困難なものである。」(フィリップ・ホセ・ファーマー『飛翔せよ、遙かなる空へ』上・15、岡部宏之訳)「すべての経験はわたしという存在の一部になるのだから」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』11、岡部宏之訳)「新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)「レサマは「覚えておくんだよ、わたしたちは言葉によってしか救われないってこと。書くんだ。」とぼくに言った。」(レイナルド・アレナス『夜になるまえに』通りで、安藤哲行訳)「われわれのかかわりを持つものすべてが、すべてわれわれに向かって道を説く。」(エマソン『自然』五、酒本雅之訳)「あらゆるものが、たとえどんなにつまらないものであろうと、あらゆるものへの入口だ。」(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第3部・20、嶋田洋一訳)「創造者がどれだけ多くのものを被造物と分かちもっているか、」(トマス・M・ディッシュ『M・D』下・第五部・67、松本剛史訳)「作品と同時に自分を生みだす。というか、自分を生みだすために作品を書くんだ」(オースン・スコット・カード『エンダーの子どもたち』上・4、田中一江訳)「人生の目的は事物を理解することではない。(……)できるだけよく生きることである。」(ウィリアム・エンプソン『曖昧の七つの型』下・8、岩崎宗治訳)「生きること、生きつづけることであり、幸せに生きることである。」(フランシス・ポンジュ『プロエーム(抄)』VII、平岡篤頼訳)。


二〇一四年八月十二日「言葉をひねる。」


言葉をひねる。
ひねられると
言葉だって痛い。
痛いから
違った言葉のふりをする。


二〇一四年八月十三日「言葉にも利息がつく。」


 言葉にも利息がつく。利息には正の利息と負の利息がある。言葉を創作(つく)って使うと正の利息がつく。言葉は増加し、よりたくさんの言葉となる。言葉を借りて使うと負の利息がつく。預けていた言葉が減少し、預けていた言葉がなくなると、覚えていた言葉が忘れられていく。


二〇一四年八月十四日「くるりんと」


卵に蝶がとまって
ひらひら翅を動かしていると
くるりんと一回転した。
少女がそれを手にとって
頭につけて、くるりんと一回転した。
すると地球も、くるりんと一回転した。


二〇一四年八月十五日「卵」


波はひくたびに
白い泡の代わりに
白い卵を波打ち際においていく

波打ち際に
びっしりと立ち並んだ
白い卵たち


二〇一四年八月十六日「10億人のぼく。」


 人間ひとりをつくるためには、ふたりの親が必要で、そのひとりひとりの親にもそれぞれふたりの親が必要で、というふうにさかのぼると、300年で10代の人間がかかわったとしたら、ぼくをつくるのに2の10乗の1024人の人間が必要だったわけで、さらに300年まえは、そのまた1024倍で、というふうにさかのぼっていくと、いまから1000年ほど前のぼくは、およそ10億人だったわけである。さまざまな人生があったろうになって思う。どうしたって、ぼくの人生はたったひとつだけだしね。


二〇一四年八月十七日「『高慢と偏見』」


 あと10ページばかり。ジェーンはビングリーと婚約、エリザベスもダーシーと婚約というところ。いま、ちょっと息をととのえて、書き込みをしているのは、自分のことを嫌っているように見えてたダーシーが、いつ自分を愛するようになったのかとエリザベスが訊くところ。「そもそものおはじまりは?」(ジェーン・オースティン『高慢と偏見』60、富田 彬訳)このすばらしいセリフが終わり近くで発せられることに、こころから感謝。


二〇一四年八月十八日「amazon」


これで笑ったひとは、こんなものにでも笑っています。


二〇一四年八月十九日「ゴボウを持ちながら。」


 スーパーで、ゴボウを持ちながら、買おうか買わないでおこうか、えんえんと迷いつづける主婦の話。すき焼きにゴボウをいれたものかどうか、ひさしぶりのすき焼きなので記憶があやふやで、過去の食事を順に追って思い出しては記憶のなかのさまざまな事柄にとらわれていく主婦の話。


二〇一四年八月二十日「素数」


 13も31も素数である。17も71も素数である。37も73も素数である。このように数字の順番を逆にしても素数になる素数が無数にある。また、131のように、その数自身、数字の順が線対称的に並んだ素数が無数にある。


二〇一四年八月二十一日「有理数と無理数」

 
 きょう、パソコンで、ゲイの出会い系サイトを眺めていたら、「しゃぶり好きいる?」というタイトルで、「普通体型以上で、しゃぶり好き居たら会いたい。我慢汁多い 168#98#36 短髪髭あり。ねっとり咥え込んで欲しい。最後は口にぶっ放したい。」とコメントが書いてあって、連絡した。携帯でやりとりしているうちに、お互いに知り合いであったことに気がついたのだが、とにかく会うことにした。さいしょに連絡してから一時間ほどしてから部屋にきたのだが、テーブルのうえに置いてあった「アナホリッシュ國文學」の第8号用の「詩の日めくり」の初校ゲラを見て、「おれも詩を書いてるんやけど、見てくれる?」と言って、彼がアイフォンに保存している詩を見せられた。自分を「独楽」に擬した詩や、死んだ友だちを哀悼する言葉にまじって、彼が彼の恋人といっしょにいる瞬間について書かれた詩があった。永遠は瞬間のなかにしかないと書いていたのは、ブレイクだったろうか。彼が帰ったあと、瞬間について考えた。瞬間と時間について考えた。学ぶことは驚くことで、学んでいくにしたがって、驚くことが多くなることは周知のことであろうけれど、やがて、ある時点から驚くことが少なくなっていく。ぼくのような、驚くために学んでいくタイプの人間にとって、それは悲しいことで、つぎの段階は、学ぶこと自体を学ばなければならないことになる。そのうえで、これまでの驚きについても詳細に分析し直さなければならない。なぜ驚かされたのかと。その方法の一つは、単純なことだが意外に難しい。多面的にとらえるのだ。齢をとって、いいことの一つだ。思弁だけではなく、経験を通しても多面的に見れる場面が多々ある。ぼくたちが、時間を所有しているのではない。ぼくたちのなかに、時間が存在するのではない。時間が、ぼくたちを所有しているのだ。時間のなかに、ぼくたちが存在しているのだ。まるでぼくたちは、連続する実数のなかに存在する有理数のようなものなのだろう。実数とは有理数と無理数からなる、とする数概念だが、この比喩のなかでおもしろいのは、では、実数のなかで無理数に相当するものはなにか、という点だ。それは、ぼくたちではないものだ。ぼくたちではないものを時間は所有しているのだ。ぼくたちでないものが、時間のなかに存在しているのだ。しかし、もし、時間が実数どころではなくて複素数のような数概念のものなら、時間はまったく異なる2つのものからなる。もしかすると、ぼくたちと、ぼくたちではないものとは、複素数概念のこのまったく異なる2つのもののようなものなのだろうか。しかし、ここからさきに考えをすすめることは、いまのぼくには難しい。実数として比喩的に時間をとらえ、その時間のなかで、ぼくたちが有理数のようなものとして存在すると考えるだけで、無理数に相当するぼくたちではないものに思いを馳せることができる。しかし、それにしたって、じつは、ぼくたちではないものというのも定義が難しい。なぜなら、ぼくたちの感覚器官がとらえたものも、ぼくたちが意識でとらえたものも、ぼくたちが触れたものも、ぼくたちに触れたものも、ぼくたちではないとは言い切れないからである。この部分の弁別が精緻にできれば、この分析にも大いに意義があるだろう。ところで、実数のなかで、有理数と無理数のどちらが多いかとなると、圧倒的に無理数のほうが多いらしい。多いらしいというのは、そのことが証明されている論文をじかに目にしたことがないからであるが、そのうち機会があれば、読んでみようかなと思っている。
 

二〇一四年八月二十二日「チュパチュパ」


 阪急西院駅の改札を通るとすぐ左手にゴミ入れがあって、隅に残ったジュースをストローでチュパチュパ吸ったあと、そのゴミ入れに直方体の野菜ジュースの紙パックを捨てるときに気がついたのであった、着ていたシャツのボタンを掛け違えていたことに。朝は西院のマクドナルドを利用することが多くて、たいていは、チキンフィレオのコンビで野菜ジュースを注文して、あと一つ、単品のなんとかマフィンを頼んで食べるんだけど、今朝もそうだったんだけど、友だちと待ち合わせをしていて、野菜ジュースだけがまだ残っていて、でも時間が、と思って、ジュースを持って、店を出て、駅まで歩きながらチュパチュパしていたのだった。いや、正確に言うと、横断歩道では信号が点滅していたし、車のなかにいるひとたちの視線を集めるのが嫌で、チュパチュパしていなかったんだけど、それに、小走りで横断歩道を渡らなければならなかったし、改札の機械に回数券を滑り込ませなければならなかったので、そんなに歩きながらチュパチュパしていなかったんだけど、というわけで、改札に入ってから最後のチュパチュパをして、野菜ジュースの紙パックをゴミ入れに投げ入れるまで目を下に向けることがなかったので、自分の着ているシャツの前のところが長さが違うことに、ボタンを掛け違えて、シャツの前の部分の右側と左側とでは長さが違うことに気がつくことができなかったのであった。「西洋の庭園の多くは均整に造られるのにくらべて、日本の庭園はたいてい不均整に造られますが、不均整は均整よりも、多くのもの、廣いものを象徴出來るからでありませう。」(川端康成『美しい日本の私』)「断片だけがわたしの信頼する唯一の形式。」(ドナルド・バーセルミ『月が見えるだろう?』邦高忠二訳)「首尾一貫など、偉大な魂にはまったくかかわりのないことだ。」(エマソン『自己信頼』酒本雅之訳)「読書の楽しさは不確定性にある──まだ読んでいない部分でなにが起きるかわからないということだ。」(ジェイムズ・P・ホーガン『ミクロ・パーク』26、内田昌之訳)。


二〇一四年八月二十三日「通夜」


 よい父は、死んだ父だけだ。これが最初の言葉であった。父の死に顔に触れ、ぼくの指が読んだ、死んだ父の最初の言葉であった。息を引き取ってしばらくすると、顔面に点字が浮かび上がる。それは、父方の一族に特有の体質であった。傍らにいる母には読めなかった。読むことができるのは、父方の直系の血脈に限られていた。母の目は、父の死に顔に触れるぼくの指と、点字を翻訳していくぼくの口元とのあいだを往還していた。父は懺悔していた。ひたすら、ぼくたちに許しを請うていた。母は、死んだ父の手をとって泣いた。──なにも、首を吊らなくってもねえ──。叔母の言葉を耳にして、母は、いっそう激しく泣き出した。

 ぼくは、幼い従弟妹たちと外に出た。叔母の膝にしがみついて泣く母の姿を見ていると、いったい、いつ笑い出してしまうか、わからなかったからである。親戚のだれもが、かつて、ぼくが優等生であったことを知っている。いまでも、その印象は変わってはいないはずだ。死んだ父も、ずっと、ぼくのことを、おとなしくて、よい息子だと思っていたに違いない。もっとはやく死んでくれればよかったのに。もしも、父が、ふつうに臨終を迎えてくれていたら、ぼくは、死に際の父の耳に、きっと、そう囁いていたであろう。自販機のまえで、従弟妹たちがジュースを欲しがった。

 どんな夜も通夜にふさわしい。橋の袂のところにまで来ると、昼のあいだに目にした鳩の群れが、灯かりに照らされた河川敷の石畳のうえを、脚だけになって下りて行くのが見えた。階段にすると、二、三段ほどのゆるやかな傾斜を、小刻みに下りて行く、その姿は滑稽だった。

 従弟妹たちを裸にすると、水に返してやった。死んだ父は、夜の打ち網が趣味だった。よくついて行かされた。いやいやだったのだが、父のことが怖くて、ぼくには拒めなかった。岸辺で待っているあいだ、ぼくは魚籠のなかに手を突っ込み、父が獲った魚たちを取り出して遊んだ。剥がした鱗を、手の甲にまぶし、月の光に照らして眺めていた。

 気配がしたので振り返った。脚の群れが、すぐそばにまで来ていた。踏みつけると、籤(ひご)細工のように、ポキポキ折れていった。


二〇一四年八月二十四日「新しい意味」


 赤言葉、青言葉、黄言葉。赤言葉、青言葉、黄言葉。赤言葉、青言葉、黄言葉。「言葉同士がぶつかり、くっつきあう。」(ルーディ・ラッカー『ホワイト・ライト』第四部・22、黒丸 尚訳)よくぶつかるよい言葉だ。隣の言葉は、よくぶつかるよい言葉だ。「解読するとは生みだすこと」(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・71、土岐恒二訳)「創造性とは、関係の存在しないところに関係を見出す能力にほかならない。」(トマス・M・ディッシュ『334』ソクラテスの死・4、増田まもる訳)言葉のうえに言葉をのせて、その言葉のうえに言葉をのせて、その言葉のうえの言葉に言葉をのせて、とつづけて言葉をのせていって、そこで、一番下の言葉をどけること。ときどき、言葉に曲芸をさせること。ときどき、言葉に休憩をとらせること。言葉には、いつもたっぷりと睡眠を与えて、つねにたらふく食べさせること。でもたまには、田舎の空気でも吸いに辺鄙な土地に旅行させること。とは言っても、言葉の親戚たちはきわめて神経質で、うるさいので、ちゃんと手配はしておくこと。温度・湿度・気圧が大事だ。ホテルではみだりに裸にならないこと。支配人に髪の毛をつかまれて引きずりまわされるからだ。階段から突き落とされる掃除婦のイメージ。まっさかさまだ。ホテルでは、みだりに裸にはならないこと。とくにビジネスホテルでは、つねに盗聴されているので、気をつけること。言葉だからといって、むやみに、ほかの言葉に抱かれたりしないこと。朝になったら、ドアの下をかならずのぞくこと。差し込まれたカードには、新しい意味が書かれている。


二〇一四年八月二十五日「天使の球根」


 月の夜だった。欠けるところのない、うつくしい月が、雲ひとつない空に、きらきらと輝いていた。また来てしまった。また、ぼくは、ここに来てしまった。もう、よそう、もう、よしてしまおう、と、何度も思ったのだけれど、夜になると、来たくなる。夜になると、また来てしまう。さびしかったのだ。たまらなく、さびしかったのだ。
 橋の袂にある、小さな公園。葵公園と呼ばれる、ここには、夜になると、男を求める男たちがやって来る。ぼくが来たときには、まだ、それほど来ていなかったけれど、月のうつくしい夜には、たくさんの男たちがやって来る。公衆トイレで小便をすませると、ぼくは、トイレのすぐそばのベンチに坐って、煙草に火をつけた。
 目のまえを通り過ぎる男たちを見ていると、みんな、どこか、ぼくに似たところがあった。ぼくより齢が上だったり、背が高かったり、あるいは、太っていたりと、姿、形はずいぶんと違っていたのだが、みんな、ぼくに似ていた。しかし、それにしても、いったい何が、そう思わせるのだろうか。月明かりの道を行き交う男たちは、みんな、ぼくに似て、瓜ふたつ、そっくり同じだった。
 樹の蔭から、スーツ姿の男が出てきた。まだらに落ちた影を踏みながら、ぼくの方に近づいてきた。
「よかったら、話でもさせてもらえないかな?」
うなずくと、男は、ぼくの隣に腰掛けてきて、ぼくの膝の上に自分の手を載せた。
「こんなものを見たことがあるかい?」
手渡された写真に目を落とすと、翼をたたんだ、真裸の天使が微笑んでいた。
「これを、きみにあげよう。」
 胡桃くらいの大きさの白い球根が、ぼくの手のひらの上に置かれた。男の話では、今夜のようなうつくしい満月の夜に、この球根を植えると、ほぼ一週間ほどで、写真のような天使になるという。ただし、天使が目をあけるまでは、けっして手で触れたりはしないように、とのことだった。
「また会えれば、いいね。」
 男は、ぼくのものをしまいながら、そう言うと、出てきた方とは反対側にある樹の蔭に向かって歩き去って行った。


二〇一四年八月二十六日「無意味の意味」


「芸術において当然栄誉に値するものは、何はさておき勇気である。」(バルザック『従妹ベット』二一、清水 亮訳)たくさんの手が出るおにぎり弁当がコンビニで新発売されるらしい。こわくて、よう手ぇ出されへんわと思った。きゅうに頭が痛くなって、どしたんやろうと思って手を額にあてたら熱が出てた。ノブユキも、ときどき熱が出るって言ってた。20年以上もむかしの話だけど。むかし、ぼくの詩をよく読んで批評してくれた友だちの言葉を思い出した。ジミーちゃんの言葉だ。「あなたの詩はリズムによって理性が崩壊するところがよい。」ルーズリーフを眺めていると、ジミーちゃんのこの言葉に目がとまったのだ。すばらしい言葉だと思う。以前に書いた「無意味というものもまた意味なのだろうか。」といった言葉は、紫 式部の『源氏物語』の「竹河」にあった「無情も情である」(与謝野晶子訳)という言葉から思いついたものであった。ジミーちゃんちの庭で、ジミーちゃんのお母さまに、木と木のあいだ、日向と木陰のまじった場所にテーブルを置いてもらって、二人で坐ってコーヒーを飲みながら、百人一首を読み合ったことがあった。どの歌がいちばん音がきれいかと、選び合って。そのときに選んだ歌のいくつかを、むかし、國文學という雑誌の原稿に書き込んだ記憶がある。「短歌と韻律」という特集の号だった。ぼくが北山に住んでいた十年近くもむかしの話だ。


二〇一四年八月二十七日「詩と人生」


 きょうは、大宮公園に行って、もう一度、さいしょのページから、ジョン・ダンの詩集を読んでいた。公園で詩集を読むのは、ひさしぶりだった。一時間ほど、ページを繰っては、本を閉じ、またページを開いたりしていた。帰ろうと思って、詩集をリュックにしまい、さて、立ちあがろうかなと思って腰を浮かせかけたら、2才か3才だろうか、男の子が一人、小枝を手にもって一羽の鳩を追いかけている姿を目にしたのだった。ぼくは、浮かしかけた腰をもう一度、ベンチのうえに落として坐り直して、背中にしょったリュックを横に置いた。男の子の後ろには、その男の子のお母さんらしきひとがいて、その男の子が、段差のあるところに足を踏み入れかけたときに、そっと、その男の子の手に握られた小枝を抜き取って、その男の子の目が見えないところに投げ捨てたのだけれど、するとその男の子が大声で泣き出したのだが、泣きながら、その男の子は道に落ちていた一枚の枯れ葉に近づき、それを手に取り、まるでそれがさきほど取り上げられた小枝かどうか思案しているかのような表情を浮かべて泣きやんで眺めていたのだけれど、一瞬か二瞬のことだった。その男の子はその枯れ葉を自分の目の前の道に捨てて、ふたたび大声で泣き出したのであった。すると、あとからやってきた父親らしきひとが、その男の子の身体を抱き上げて、母親らしきひとといっしょに立ち去っていったのであった。なんでもない光景だけれど、ぼくの目は、この光景を、一生、忘れることができないと思った。


二〇一四年八月二十八日「人間であることの困難さ」


 言葉遊びをしよう。言葉で遊ぶのか、言葉が遊ぶのか、どちらでもよいのだけれど、ラテン語の成句に、こんなのがあった。「誰をも褒める者は、誰をも褒めず。」ラテン語自体は忘れた。逆もまた真なりではないけれど、逆もまた真のことがある。一時的に真であるというのは、論理的には無効なのだけれど、日常的には、そのへんにころころころがっている話ではある。で、逆もまた真であるとする場合があるとすると、「誰をも褒めない者は、誰をも褒めている。」ということになる。さて、つぎの二つの文章を読み比べてみよう。「どれにも意味があるので、どこにも意味がない。」「どこにも意味がないので、どれにも意味がある。」塾からの帰り道、こんなことを考えながら歩いていた。ぼくに狂ったところがまったくないとしたら、ぼくは狂っている。ぼくが狂っているとしたら、ぼくには狂ったところがまったくない。じっさいには、少し狂ったところがあるので、ぼくは狂ってはいない。ぼくは狂ってはいないので、少し狂ったところがある。「おれなんか、ちゃろいですか?」「かわいい顔してなに言ってるんや。」「なんでそんな目で見るんですか?」。「なんでそんな目で見るんですか?」いったい、どんな目で見ていたんだろう。そういえば、付き合った子にはよく言われたな。ぼくには、どんな目か、自分ではわからないのだけれど。よく、どこ見てるの、とも言われたなあ。ぼくには、どこ見てるのか、自分でもわからなかったのだけれど。「人間であることは、たいへんむずかしい」(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)「人間であることはじつに困難だよ、」(マルロー『希望』第二編・第一部・7、小松 清訳)「「困難なことが魅力的なのは」とチョークは言った。「それが世界の意味をがらりと変えてしまうからだよ」」(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』1、三田村 裕訳)「きみの苦しみが宇宙に目的を与えているのかもしれないよ」(バリー・N・マルツバーグ『ローマという名の島宇宙』10、浅倉久志訳)ほんと、そうかもね。


二〇一四年八月二十九日「放置プレイ」


 さて、PC切るか、と思って、メールチェックしてたら、大事なメールをいったん削除してしまった。復活させたけど。あれ、なにを書くつもりか忘れてしまった。そうだ、オレンジエキス入りの水を飲んで寝ます。新しい恋人用に買っておいたものだけど、自分でアクエリアス持ってきて飲んでたから、ぼくが飲むことに。ぼくのこともっと深く知りたいらしい。ぼくには深みがないから、より神秘的に思えるんじゃないかな。「あつすけさん、何者なんですか?」「何者でもないよ。ただのハゲオヤジ。きみのことが好きな、ただのハゲオヤジだよ。」「朗読されてるチューブ、お気に入りに入れましたけど、じっさい、もっと男前ですやん。」「えっ。」「ぼく、撮ったげましょか。でも、それ見て、おれ、オナニーするかも知れません。」「なんぼでも、したらええやん。オナニーは悪いことちゃうよ。」「こんど動画を撮ってもええですか。」「ええよ。」「なんでも、おれの言うこと聞いてくれて、おれ、幸せや。」「ありがとう。ぼくも幸せやで。」これはきっと、ぼくが、不幸をより強烈に味わうための伏線なのだった。きょうデートしたんだけど、間違った待ち合わせ場所を教えて、ちょっと待たしてしまった。「放置プレイやと思って、おれ興奮して待っとったんですよ。」って言われた。ぼくの住んでるところの近く、ゲイの待ち合わせが多くて、よくゲイのカップルを見る。西大路五条の角の交差点前。身体を持ち上げて横にしてあげたら、すごく喜んでた。「うわ、すごい。おれ、夢中になりそうや。もっとわがまま言うて、ええですか?」「かまへんで。」「口うつしで、水ください。」ぼくは、生まれてはじめて、自分の口に含んだ水をひとの口のなかに落として入れた。そだ、水を飲んで寝なきゃ。「彼女、いるんですか?」「自分がバイやからって、ひともバイや思うたら、あかんで。まあ、バイ多いけどな。これまで、ぼくが付き合った子、みんなバイやったわ。偶然やろうけどね。」偶然違うやろうけどね。と、そう思うた。偶然であって、偶然ではないということ。矛盾してるけどね。


二〇一四年八月三十日「火の酒」


 きょう恋人からプレゼントしてもらったウォッカを飲んでいる。2杯目だ。大きなグラスに。ウォッカって、たしか、火の酒と書いたかな。火が、ぼくの喉のなかを通る。火が、ぼくの喉の道を焼きつくす。喉が、火の道を通ると言ってもよい。まるでダニエル記に出てくる3人の証人のように。その3人の証人たちは、3つの喉だ。ぼくの3つの喉の道を炎が通り過ぎる。3つの喉が、ぼくを炎の道に歩ませる。ほら、偶然に擬態したウォッカが、ぼくの言葉を火の色に染め上げる。さあ、ぼくである3人の証人たちよ。火のなかをくぐれ。3つの喉が、炎のなかを通り過ぎる。ジリジリと喉の焼き焦げる音がする。ジリジリと魂の焼き焦げる音がする。ジリジリと喉の焼き焦げるにおいがしないか。ジリジリと魂の焼き焦げるにおいがしないか。ジリジリと、ジリジリとしないか、魂は。恋人からのプレゼントが、炎の通る道を、ぼくの喉のなかに開いてくれた。偶然のつくる火の道だ。魂のジリジリと焼き焦げる味がする。あまい酒だ。偶然がもたらせた火の道だ。ほら、ジリジリと魂の焼き焦げるにおいがしないか。My Sweet Baby! Love & Vodka! 「運命とは偶然に他ならないのではないか?」(フィリップ・ホセ・ファーマー『飛翔せよ、遙かなる空へ』下・48、岡部宏之訳)「だれもが自分は自由だと思っとるかもしれん。しかし、だれの人生も、たまたま知りあった人たち、たまたま居合わせた場所、たまたまでくわした仕事や趣味で作りあげられていく。」(コードウェイナー・スミス『ノーストリリア』浅倉久志訳)「すべては同じようにはかなく移ろいやすいものだ。少なくともそのために、束の間のものを普遍化するために書く。たぶん、それは愛。」(サバト『英雄たちと墓』第II部・四、安藤哲行訳)「ぼくにとってこれが人生のすべてだった。」(グレッグ・イーガン『ディアスポラ』第三部・8、山岸 真訳)「なんのための芸術か?」(ホフマンスタール『一人の死者の影が……』川村二郎訳)「作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?」(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)「言葉以外の何を使って、嫌悪する世界を消しさり、愛しうる世界を創りだせるというのか?」(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)ウォッカ。火のようにあまくて、うまい酒だ。喉が熱い。火のように熱い。真っ赤に焼けた火の道だ。ほら、ジリジリと魂の焼き焦げるにおいがしないか。


二〇一四年八月三十一日「できそこないの天使」


 瞳もまだ閉じていたし、翼も殻を抜け出たばかりの蝉の翅のように透けていて、白くて、しわくちゃだったけれど、六日もすると、鉢植えの天使は、ほぼ完全な姿を見せていた。眺めていると、そのやわらかそうな額に、頬に、唇に、肩に、胸に、翼に、腰に、太腿に、この手で触れたい、この手で触れてみたい、この手で触りたい、この手で触ってみたいと思わせられた。そのうち、とうとう、その衝動を抑え切れなくなって、舌の先で、唇の先で、天使の頬に、唇に、その片方の翼の縁に触れてみた。味はしなかった。冷たくはなかったけれど、生き物のようには思えなかった。血の流れている生き物の温かさは感じ取れなかった。舌の先に異物感があったので、指先に取ってみると、うっすらとした小さな羽毛が、二、三枚、指先に張りついていた。鉢植えの上に目をやると、瞳を閉じた天使の顔が、苦悶の表情に変っていた。ぼくの舌や唇が触れたところが、傷んだ玉葱のように、半透明の茶褐色に変色していた。目を開けるまでは、けっして触れないこと……。あの男の言葉が思い出された。
 机の引き出しから、カッター・ナイフを取り出して、片方の翼を切り落とした。すると、その翼の切り落としたところから、いちじくを枝からもぎ取ったときのような、白い液体がしたたり落ちた。
 その後、何度も公園に足を運んだけれど、あの男には、二度と出会うことはなかった。


詩の日めくり 二〇一四年九月一日─三十一日

  田中宏輔


二〇一四年九月一日 「変身前夜」


 グレゴール・ザムザは、なるべく音がしないようにして鍵を回すと、ドアのノブに手をかけてそっと開き、そっと閉めて、これまた、なるべく音がしないようにして鍵をかけた。家のなかは外の闇とおなじように暗くてしずかだった。父親も母親も出迎えてはくれなかった。妹のグレーテも出迎えてはくれなかった。もちろん、こんなに遅くなってしまったのだから、先に寝てしまっているのだろう。父親も母親も、もう齢なのだから。しかも、ぼくのけっして多くはない給料でなんとか家計をやりくりしてくれているのだから、きっと気苦労もすごくて、ぼくが仕事を終えて遅くなって帰ってくるころには、その気苦労のせいで、ふたりの身体はベッドのくぼみのなかにすっぽりと包みこまれてしまっているにちがいない。申し訳ないと、こころから思っている。こんな時間なのだから。妹のグレーテだって、眠気に誘われて、ベッドのなかで目をとじていることだろう。グレゴールは自分の部屋のなかに入ると、書類がぎっしり詰まっている鞄を机のうえに置いて、服を着替えた。すぐにでも眠りたい、あしたの朝も早いのだから、と思ったのだが、きょう訪問したところでの成果を、あした会社で報告しなければならないので、念のためにもう一度見直しておこうと思って、机のうえのランプに火をつけると、その灯かりのもとで、鞄のなかから取り出した報告書に目を通した。セールスの報告は、まずそれがよい結果であるのか、よくない結果であるのかを正確に判断しなければならず、そのうえ、その報告の順番も大事な要素で、その報告する順番によっては、自分に対する評価がよくもなり、よくなくもなるのであった。グレゴールは報告する事項の順番を決めると、その順番に、こころのなかで、上司のマネージャーに伝えるべきことを復唱した。朝にもう一度目を通そうと思って、机のうえに書類を置いてランプの火を消すと、グレゴールはベッドのなかに吸い込まれるようにして身を横たえた。グレゴールは知らなかったし、もちろん、グレゴールの両親も、彼の妹も知らなかったし、彼らが住んでいる街には、だれ一人知っているものはいなかったのだが、先月の末に焼失した大劇場跡に一台の宇宙船が着陸したのだった。宇宙船といっても、小さなケトルほどの大きさの宇宙船だった。宇宙船は、ちょうどグレゴールがすっかり眠り込んだくらいの時間に到着したのであった。到着するとすぐに、宇宙船のなかから黒い小さなかたまりが数多く空中に舞い上がっていった。その黒い小さなかたまりは、一つ一つがすべて同じ大きさのもので、まるで甲虫のような姿をしていた。グレゴールの部屋の窓の隙間から、そのうちの一つの個体が侵入した。それは眠っているグレゴールの耳元まで近づくと、昆虫の口吻のようなものを伸ばして、グレゴールの耳のなかに挿入した。彼はとても疲れていて、そういったものが耳の穴のなかに入れられても、まったく気づくこともなく目も覚まさなかった。昆虫や無脊椎動物のなかには、獲物にする動物が気がつかないように、神経系統を麻痺させる毒液を注入させてから、獲物の体液を吸い取るものがいる。この甲虫のような一つの黒い小さなかたまりもまた、グレゴールの内耳の組織に神経を麻痺させる毒液を注入させて毒液が効果を発揮するまでしばらくのあいだ待ち、昆虫の口吻のようなものを内耳のなかからさらに奥深くまで突き刺した。そうして聴力をも無効にさせたあと、その黒い小さなかたまりはグレゴールの脳みそを少しすすった。すると、自分のなかにあるものを混ぜて、ふたたびグレゴールの脳みそのなかにそれを吐き出した。それは呼吸のように繰り返された。すする量が増すと、吐き出される量も増していった。そのたびに、黒い小さなかたまりは、すこしずつ大きさを増していった。もしもそのとき、グレゴールに聴力があれば、自分の脳みそがすすられ、そのあとに、もとの脳みそではないものが、自分の頭のなかに注入されていく音を聞くことができたであろう。「ちゅー、ぷわー、ちゅー、ぷわー、ちゅー、ぷわー、ちゅー、ぷわー。」という音を。「ちゅるるるるー、ぷわわわわー、ちゅるるるるー、ぷわわわわー、ちゅるるるるー、ぷわわわわー、ちゅるるるるー、ぷわわわわー。」という音を。交換は脳みそだけではなかった。肉や骨といったものもどろどろに溶かされ、黒いかたまりに吸収されては吐き戻されていった。そのたびに、黒い小さなかたまりは大きくなり、グレゴールの身体は小さく縮んでいった。やがて交換が終わると、黒い小さなかたまりであったものは人間の小さな子どもくらいの大きさになり、グレゴールの身体であったものは段ボールの箱くらいの大きさになっていた。すべてがはじまり、すべてが終わるまでのあいだに、夜が明けることはなかった。もとは黒い小さなかたまりであったがいまでは透明の翅をもつ妖精のような姿をしたものが、手をひろげて背伸びをした。妖精の身体はきらきらと輝いていた。太陽がまだ顔をのぞかせてもいない薄暗闇のなかで、妖精の身体は光を発してきらきらと輝いていた。妖精が翅を動かして空中に浮かびあがると、机のうえに重ねて置いてあった書類の束がばらばらになって部屋じゅうに舞い上がった。妖精は窓辺に行き、その小さな手で窓をすっかりあけきると、背中の翅を羽ばたかせて未明の空へと飛び立った。もとはグレゴールであったがいまでは巨大な黒い甲虫のようなものになった生き物は、まだ眠っていた。もうすこしして太陽が顔をのぞかせるまで、それが目を覚ますことはなかった。


二〇一四年九月二日 「言葉の重さ」


水より軽い言葉は
水に浮く。

水より重い言葉は
水に沈む。


二〇一四年九月三日 「問題」


 1秒間に、現実の過去の3分の1が現実の現在につながり、その4分の1が現実の未来につながる。現実の過去の3分の2が現実の現在につながらず、その現実の現在の4分の3が現実の未来につながらない。1000秒後に、いま現実の現在が、現実の過去と現実の未来につながっている確率を求めよ。


二〇一四年九月四日 「うんこ」


 西院のブレッズ・プラスというパン屋さんでBLTサンドイッチのランチセットを食べたあと、二階のあおい書店に行くと、絵本のコーナーに、『うんこ』というタイトルの絵本があって、表紙を見たら、「うんこ」の絵だった。むかし、といっても、30年ほどもまえのこと、大阪の梅田にあったゲイ・スナックで、たしかシャイ・ボーイっていう名前だったと思うけど、そこで、『うんこ』というタイトルの写真集を見たことがあった。うんこだらけの写真だった。若い女の子がいろんな格好でうんこをして、そのうんこを男が口をあけて食べてる写真がたくさん載ってた。芸術には限界はないと思った。いや、エロかな。エロには限界がないってことなのかな。そいえば、「トイレの落書き」を写真に撮った写真集も見たことがあった。バタイユって、縛り付けた罪人を肉切り包丁で切り刻む中国の公開処刑の写真を見て勃起したみたいだけど、あ、エロスを感じたって書いてただけかもしれないけれど、人間の性欲異常ってものには限界がないのかもしれないね。20代のころ、夜、葵公園で話しかけた青年に、初体験の相手のことを訊いたら、「犬だよ。」と答えたので、「冗談?」って言うと、首をふるから、びっくりして、それ以上、話をするのをやめたことがあるけど、いまだったら、じっくり聞いて、あとでそのことを詩に書くのに、もったいないことをした。ちょっとやんちゃな感じだったけど、体格もよくって、顔もかわいらしくて、好青年って感じだったけど、犬が初体験の相手だというのには、ほんとにびっくりした。ぼくは性愛の対象としては人間にしか興味がないので、他の動物を性欲の対象にしているひとの気持ちがわからないけれど、まあ、人間より犬のほうが好きってひとがいても、ぼくには関係ないから、どうでもいいか。えっ、でも、それって、もしかすると、動物虐待になるのかな。動物へのセックスの強要ってことで。同意の確認があればいいのかな。どだろ。ところで、そいえば、ゲイやレズビアンの性愛とか性行為なんか、もうふつうに文学作品に描かれてるけど、動物が性対象の小説って、まだ読んだことがないなあ。あるんやろうか。あるんやろうなあ。ただぼくが知らないだけで。


二〇一四年九月五日 「イエス・キリスト」


 きょう、仕事帰りに、電車のなかで居眠りしてうとうとしてたら、そっと手を握られた。見ると、イエス・キリストさまだった。「元気を出しなさい。わたしがいつもあなたといっしょにいるのだから。」と言ってくださった。はいと言ってうなずくと、すっと姿が見えなくなった。ありゃ、まただれかのしわざかなと思って周りを見回すと、何人か、あやしいヤツがいた。


二〇一四年九月六日 「本」


 地面は本からできている。本のうえをぼくたちは歩いている。木も本でできているし、人間や動物たちも、鳥や魚だって、もともとは本からできている。新約聖書の福音書にも書かれてある。はじめに本があった。本は言葉あれと言った。すると言葉があった。本の父は本であり。その本の父の父も本であり、その本の父の父の父も……


二〇一四年九月七日 「カインとアベル」


 カインはアベルを殺さなかった。カインのアベルを愛する愛は、カインのアベルを憎む憎しみより強かったからである。そのため人間の世界では、文明が発達することもなく、文化が起こることもなかった。人間には、音楽も詩も演劇もなかった。ただ祈りと農耕と狩猟の生活が、人間の生活のすべてであった。


二〇一四年九月八日 「存在の卵」


二本の手が突き出している
その二本の手のなかには
ひとつずつ卵があって
手の甲を上にして
手をひらけば
卵は落ちるはずであった
もしも手をひらいても
卵が落ちなければ
手はひらかれなかったのだし
二本の手も突き出されなかったのだ


二〇一四年九月九日 「生と死」


みんな死ぬために生きていると思っているようだが、みんな生きるために死んでいるのである。


二〇一四年九月十日 「尊厳詩法案」


今国会に、詩を目前にして、なかなかいきそうにないひとに、苦痛のない詩を与えて、すみやかにいかせる、という目的の「尊厳詩法案」が提出されたそうだ。


二〇一四年九月十一日 「チュー」


 けさ、ノブユキとの夢を見て目が覚めた。ぼくと付き合ってたときくらいの二人だった。ぼくの引っ越しを手伝ってくれてた。あと3年、アメリカにいるからって話だった。じっさい、ノブユキは付き合ってたとき、アメリカ留学でシアトルにいた。シアトルと日本とのあいだで付き合ってたのだ。ぼくが28才と29才で、ノブユキは21才と22才だった。夢中で好きになること。好き過ぎて泣けてしまったのは20代で、しかもただ一度きりだった。ぼくが29才の誕生日をむかえて何日もたってなかったと思うけど、そんな日に、ノブユキから、「ごめんね。別れたい。」と言われた。アメリカからの電話でだった。どうやら、むこうで新しい恋人ができたかららしい。「その新しい恋人と、ぼくとじゃ、なにが違うの?」って聞くと、「齢かな。ぼくと同い年なんだ。」との返事。そのときには涙は出なかった。齢のことなら、仕方ないよなって思った。「いいよ。それできみが幸せなら。」そう返事した。涙が出たのは、別れたんだと思って、いろいろ思い出して、三日後。好きすぎて泣けてしまったのだと思う。別れてから8年後に、偶然、ノブユキと大阪で出合ったことを、國文學に書いたことがあった。あるとき、ノブユキに、「なに考えてるか、すぐにわかるわ。」と言われたけど、ぼくには自分がなにを考えているのかわからなかった。なんか考えてるだろうって、友だちからときどき言われるんだけど、なにも考えてないときに限って言われてる、笑。きょうの昼間、買い物に出たら、「あっちゃん!」って言われたから、振り返ったら、すこしまえに付き合ってた男の子が笑っていた。「いっしょにご飯でも食べる?」と言うと、「いいよ。」と言うので、マクドナルドでハンバーガーのランチセットを買って、部屋に持ち帰って、いっしょに食べた。食べたあと、チューしようとしたら、反対にチューされた。


二〇一四年九月十二日「普通と特別」


ふつうのひとも、とくべつなひとだ。とくべつなひとも、ふつうのひとだ。


二〇一四年九月十三日 「確率生物」


「確率生物研究所」というところがイギリスにはあって、そこで捕獲されたかもしれない「雲蜘蛛」という生物がちかぢか日本にも上陸するかもしれないという。なんでも、水でできた躰をしているかもしれず、水でできた糸を編んで巣を張るかもしれないらしい。部屋に戻って、パソコンつけて、ツイッター見てたら、そんな記事がツイートで流れていて、ふと、なにかが落ちるのを感じて振り返った。部屋の天井の隅に、小さな雲が浮かんでいて、しょぼしょぼ水滴を落としてた。これか、これが雲蜘蛛なんだなって思った。見てたら、ゴロゴロ鳴って、小さな稲妻をぼくの指のさきに落とした。ものすごく痛かった。しばらくしてからもビリビリしていた。


二〇一四年九月十四日 「真実と虚偽」


真実から目をそらすものは、真実によって目隠しされる。虚偽に目を向けるものは、虚偽によって目を見開かされる。


二〇一四年九月十五日 「湖上の吉田くん」


湖の上には
吉田くんが一人、宙に浮かんでいる

吉田くんは
湖面に映った自分と瓜二つの吉田くんに見とれて
動けなくなっている

湖面は
吉田くんの美しさに打ち震えている

一人なのに二人である
あらゆる人間が
一人なのに二人である

湖面が分裂するたびに
吉田くんの数が増殖していく

二人から四人に
四人から八人に
八人から十六人に

吉田くんは
湖面に映った自分と瓜二つの吉田くんに見とれて
動けなくなっている

無数の湖面が
吉田くんの美しさに打ち震えている

どの湖の上にも
吉田くんが
一人、宙に浮かんでいる


二〇一四年九月十六日 「戴卵式」


12才になったら
大人の仲間入りだ
頭に卵の殻をかぶせられる
黄身が世の歌を歌わされる
それからの一生を
卵黄さまのために生きていくのだ
ぼくも明日
12才になる
とても不安だけど
大人といっしょで
ぼくも卵頭になる
ざらざら
まっしろの
見事なハゲ頭だ


二〇一四年九月十七日 「「無力」についての考察」


力のない無力は無であり、無のない無力は力である。


二〇一四年九月十八日 「詩集」


 タクちゃんに頼んで、京都市中央図書館に、ぼくの詩集の購入リクエストをしてもらって、いままで何冊か購入してもらってたんだけど、きょう、タクちゃんちに、京都市中央図書館のひとから電話がかかってきて、借り出すひとが皆無だったそうで、田中宏輔の詩集は、京都市中央図書館では二度と購入しませんと言われたらしい。購入したって図書館から通知がきたら、借り出すようにタクちゃんに言っておけばよかったなと思った。


二〇一四年九月十九日 「指のないもの」


 指のない街。指のない風景。指のない手。指のない足。指のない胸。指のない頭。指のない腰。指のない机。指のない携帯。指のない会話。指のない俳句。指のない酒。指のないコーヒー。指のないハンカチ。指のない苺。


二〇一四年九月二十日 「指のないひと」


 そいえば、むかしちょこっと会ってたひと、どっちの手か忘れたけど、どの指かも忘れたけど、指のさきがなかった。どうしてって訊くと、「へましたからや。」って言うから、そうか、そういうひとだったのかと思ったけど、お顔はとてもやさしい、ぽっちゃりとした、かわいらしいひとだった。背中の絵は趣味じゃなかったけど。


二〇一四年九月二十一日 「緑がたまらん。」


「えっ、なに?」と言って、えいちゃんの顔を見ると、ぼくの坐ってるすぐ後ろのテーブル席に目をやった。ぼくもつい振り返って見てしまった。柴田さんという68才になられた方が、向かい側に腰かけてた若い女性とおしゃべりなさっていたのだけれど、その柴田さんがあざやかな緑のシャツを着てらっしゃってて、その緑のことだとすぐに了解して、えいちゃんの顔を見ると、もう一度、
「あの緑がたまらんわ〜。」と。
笑ってしまった。えいちゃんは、ぜんぜん内緒話ができない人で、たとえば、ぼくのすぐ横にいる客のことなんかも、「あ〜、もう、うっとしい。はよ帰れ。」とか平気でふつうの声で言うひとで、まあ、だから、ぼくは、えいちゃんのことが大好きなのだけれど、ぜったい柴田さんにも聞こえていたと思う、笑。ぼくはカウンター席の奥の端に坐っていたのだけれど、しばらくして、八雲さんという雑誌記者のひとが入ってきて、入口近くのカウンター席に坐った。以前にも何度か話をしたことがあって、腕とか、とくに鼻のさきあたりが強く日に焼けていたので、
「焼けてますね。」
と声をかけると、
「四国に行ってました。ずっとバイクで動いてましたからね。」
「なんの取材ですか?」
「包丁です。高松で、包丁をといでらっしゃる方の横で、ずっとインタビューしてました。」
ふと、思い出したかのように、
「あ、うつぼを食べましたよ。おいしかったですよ。」
「うつぼって、あの蛇みたいな魚ですよね。」
「そうです。たたきでいただきました。おいしかったですよ。」
「ふつうは食べませんよね。」
「数が獲れませんから。」
「見た目が怖い魚ですね。じっさいはどうなんでしょう? くねくね蛇みたいに動くんでしょうか?」
「うつぼは底に沈んでじっとしている魚で、獰猛な魚なんですよ。毒も持ってますしね。 近くに寄ったら、がっと動きます。ふだんはじっとしてます。」
「じっとしているのに、獰猛なんですか?」
「ひらめも、そうですよ。ふだんは底にじっとしてます。」
「どんな味でしたか?」
「白身のあっさりした味でした。」
「ああ、動かないから白身なんですね。」
「そうですよ。」
話の途中で、柴田さんが立ち上がって、こちらに寄ってこられて、ぼくの肩に触れられて、
「一杯、いかがです?」
「はい?」
と言って顔を見上げると、陽気な感じの笑顔でニコニコなさっていて
「この人、なんべんか見てて、おとなしい人やと思ってたんやけど、この人に一杯、あげて。」と、マスターとバイトの女の子に。
マスターと女の子の表情を見てすかさず、
「よろしいんですか?」
と、ぼくが言うと、
「もちろん、飲んでやって。きみ、男前やなあ。」
と言ってから、連れの女性に、
「この人、なんべんか合うてんねんけど、わしが来てるときには、いっつも来てるんや。で、いっつも、おとなしく飲んでて、ええ感じや思ってたんや。」
と説明、笑。
「田中といいます、よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
みたいなやりとりをして、焼酎を一杯ごちそうになった。
えいちゃんと、八雲さんと、バイトの女の子に、
「朝さあ。西院のパン屋さんで、モーニングセット食べてたら、目の前をバカボンのパパみたいな顔をしたサラリーマン風のひとが、まあ、40歳くらいかな。そのひとがセルフサービスの水をグラスに入れるために、ぼくの目の前を通って、それから戻って、ぼくの隣の隣のテーブルでまた本を読み出したのだけれど、その表紙にあったタイトルを見て、へえ? って思ったんだよね。『完全犯罪』ってタイトルの小説で、小林泰三って作者のものだったかな。写真の表紙なんだけど、単行本だろうね。タイトルが、わりと大きめに書かれてあって、ぼくの読んでたのが、P・D・ジェイムズの『ある殺意』だったから、なんだかなあって思ったんだよね。隣に坐ってたおばさんの文庫本には、書店でかけられた紙のカバーがかかってて、タイトルがわからなかったんだけど、ふと、こんなこと思っちゃった。みんな朝から、おだやかな顔をして、読んでるものが物騒って、なんだかおもしろいなって。」
「隣のおばさんの読んでらっしゃった本のタイトルがわかれば、もっとおもしろかったでしょうね。」
と、バイトの女の子。
「そうね。恋愛ものでもね。」
と言って笑った。
緑がたまらん柴田さんが
「横にきいひんか?」
とおっしゃったので、柴田さんの坐ってらっしゃったテーブル席に移動すると、マスターが、
「田中さんて、きれいなこころしてはってね。詩を書いておられるんですよ。このあいだ、この詩集をいただきました。」
と言って、柴田さんに、ぼくの詩集を手渡されて、すると、柴田さん、一万円札を出されて、
「これ、買うわ。ええやろ。」
と、おっしゃったので、
「こちらにサラのものがありますし。」
と言って、ぼくは、リュックのなかから自分の詩集を出して見せると、マスターが受け取った一万円札をくずしてくださってて、
「これで、お買いになられるでしょう。」
と言ってくださり、ぼくは、柴田さんに2500円いただきました、笑。
「つぎに、この子の店に行くんやけど、いっしょに行かへんか?」
「いえ、もうだいぶ酔ってますので。」
「そうか。ほなら、またな。」
すごくあっさりした方なので、こころに、なにも残らなくて。
で、しばらくすると、柴田さんが帰られて、ぼくはふたたび、カウンター席に戻って、八雲さんとしゃべったのだけれど、その前に、フランス人の観光客が二人入ってきて、若い男性二人だったのだけれど、柴田さん、その二人に英語で話しかけられて、バイトの女の子もイスラエルに半年留学してたような子で、突然、店のなかが国際的な感じになったのだけれど、えいちゃんが、柴田さんの積極的な雰囲気を見て、「すごい好奇心やね。」って。ぼくもそう思ってたから、こくん、とうなずいた。女性にはもちろん、ほかのことにも関心が強くって、 人生の一瞬一瞬をすべて楽しんでらっしゃるって感じだった。
柴田さん、有名人でだれか似てるひとがいたなあって思ってたら、これを書いてるときに思いだした。増田キートンだった。
八雲さんが
「犬を集めるのに、みみずをつぶしてかわかしたものを使うんですよ。 ものすごく臭くって、それに酔うんです。もうたまらんって感じでね。」
「犬もたまらんのや。」
と、えいちゃん。 このとき、犬をなにに使うのかって話は忘れた。なんだったんだろう? すぐにうつぼの話に戻ったと思う。あ、ぼくが戻したのだ。
「うつぼって、どうして普及しないのですか?」
と言うと、
「獲れないからですよ。偶然、網にかかったものを地元で食べるだけです。」
このあと、めずらしい食べ物の話が連続して出てきて、その動物たちを獲る方法について話してて、うなぎを獲る「もんどり」という仕掛けに、サンショウウオを獲る話で、「鮎のくさったものを使うんですよ。」という話が出たときに、また、えいちゃんが
「サンショウウオもたまらんねんなあ。」
と言うので、
「きょう、えいちゃん、たまらんって、四回、口にしたで。」
と、ぼくが指摘すると、
「気がつかんかった。」
「たまらんって、語源はなんやろ?」
と言うと、
八雲さんが
「たまらない、こたえられない、十分である、ということかな。」
ぼくには、その説明、わからなくって、と言うと、八雲さんがさらに、
「たまらない。もっと、もっと、って気持ち。いや、十分なんだけど、もっと、もっとね。」
ここで、ぼくは、自分の『マールボロ。』という詩に使った「もっとたくさん。/もうたくさん。」というフレーズを思い出した。八雲さんの話だと、サンショウウオは蛙のような味だとか。ぼくは知らん。 どっちとも食べたことないから。
「あの緑がたまらん。」
ぼくには、えいちゃんの笑顔がたまらんのやけど、笑。
そうそう。おばさんっていうと、朝、よくモーニングを食べてるブレッズ・プラスでかならず見かけるおばさんがいてね。ある朝、ああ、きょうも来てはるんや、と思って、学校に行って、仕事して、帰ってきて、西院の王将に入って、なんか定食を注文したの。そしたら、そのおばさん、ぼくの隣に坐ってて、晩ごはん食べてはったのね。びっくりしたわ〜。人間の視界って、180度じゃないでしょ。それよりちょっと狭いかな。だけど、横が見えるでしょ。目の端に。意識は前方中心だけど。意識の端にひっかかるっていうのかな。かすかにね。で、横を向いたら、そのおばさんがいて、ほんと、びっくりした。 でも、そのおばさん、ぜったい、ぼくと目を合わせないの。いままで一回も目が合ったことないの。この話を、日知庵で、えいちゃんや、八雲さんや、バイトの女の子にしてたんだけど、バイトの子が、「いや、ぜったい気づいてはりますよ。気づいてはって、逆に、気づいてないふりしてはるんですよ。」って言うのだけど、人間って、そんなに複雑かなあ。あ、このバイトの子、静岡の子でね。ぬえって化け物の話が出たときに、ぬえって鳥みたいって言うから、
「ぬえって、四つ足の獣みたいな感じじゃなかったかな?」
って、ぼくが言うと、八雲さんが
「二つの説があるんですよ。鳥の化け物と、四つ足の獣の身体にヒヒの顔がついてるのと。で、そのヒヒの顔が、大阪府のマークになってるんですよ。」
「へえ。」
って、ぼくと、えいちゃんと、バイトの子が声をそろえて言った。なんでも知ってる八雲さんだと思った。
 ぬえね。京都と静岡では違うのか。それじゃあ、いろんなことが、いろんな場所で違ってるんやろうなって思った。そんなふうに、いろんなことが、いろんな言葉が、いろんな場所で、いろんな意味になってるってことやろうね。あたりまえか。あたりまえなのかな? わからん。 でも、じっさい、そうなんやろね。


二〇一四年九月二十二日 「時間と場所と出来事」


 時間にも困らない。場所にも困らない。出来事にも困らない。時間にも困る。場所にも困る。出来事にも困る。時間も止まらない。場所も止まらない。出来事も止まらない。時間も止まる。場所も止まる。出来事も止まる。時間も改まらない。場所も改まらない。出来事も改まらない。時間も改まる。場所も改まる。出来事も改まる。時間も溜まらない。場所も溜まらない。出来事も溜まらない。時間も溜まる。場所も溜まる。出来事も溜まる。


二〇一四年九月二十三日 「家でできたお菓子」


 ヘンゼルとグレーテルだったかな。森のなかに、お菓子でできた家がありました。といった言葉ではじまる童話があったような気がするけど、ふと、家でできたお菓子を思い浮かべた。


二〇一四年九月二十四日 「愛」


二十歳の大学生が、ぼくに言った言葉に、しばし、こころがとまった。とまどった。「恋人と別れてわかったんですけれど、けっきょく、ぼくは自分しか愛せない人間なのだと思います。」


二〇一四年九月二十五日 「過ちは繰り返すためにある。」


まあ、繰り返すから過つのではあるが。


二〇一四年九月二十六日 「神さま」


あなたは目のまえに置いてあるコップを見て、それが神さまであると思うことがありますか?


二〇一四年九月二十七日 「卵」


 きょうは、ジミーちゃんと西院の立ち飲み屋「印(いん)」に行った。串は、だいたいのものが80円だった。二人はえび、うずら、ソーセージを二本ずつ頼んだ。どれもひと串80円だった。二人で食べるのに豚の生姜焼きとトマト・スライスを注文したのだが、豚肉はぺらぺらの肉じゃなかった。まるでくじらの肉のように分厚くて固かった。味はおいしかったのだけれど、そもそものところ、しょうゆと砂糖で甘辛くすると、そうそうまずい食べ物はつくれないはずなのであって、まあ、味はよかったのだ。二人はその立ち飲み屋に行く前に、西大路五条の角にある大國屋で紙パックの日本酒を買って、バス停のベンチのうえに坐りながら、チョコレートをあてにして飲んでいたのであるが、西院の立ち飲み屋では、二人とも生ビールを飲んでいた。にんにく炒めというのがあって、200円だったかな、どんなものか食べたことがなかったので、店員に言ったら、店員はにんにくをひと房取り出して、ようじで、ぶすぶすと穴をあけていき、それを油の中に入れて、そのまま揚げたのである。揚がったにんにくの房の上から塩と胡椒をふりかけると、二人の目のまえにそれを置いたのであった、にんにく炒めというので、にんにくの薄切りを炒めたものでも出てくるのかなと思っていたのだが、出てきたそれもおいしかった。やわらかくて香ばしい白くてかわいいにんにくの身がつるんと、房からつぎつぎと出てきて、二人の口のなかに入っていったのであった。ぼくの横にいた青年は、背は低かったが、なかなかの好青年で、ぼくの身体に自分のお尻の一部をくっつけてくれていて、ときどきそれを意識してしまって、顔を覗いたのだが、知らない顔で、以前に日知庵でオーストラリア人の26才のカメラマンの男の子が、ぼくのひざに自分のひざをぐいぐいと押しつけてきたことを思い起こさせたのだけれど、あとでジミーちゃんにそう言うと、「あほちゃう? あんな立ち飲み屋で、いっぱいひとが並んでたら、そら、身体もひっつくがな。そんなんずっと意識しとったんかいな。もう、あきれるわ。」とのことでした。で、そのあと二人は自転車に乗って、四条大宮の立ち飲み屋「てら」に行ったのであった。そこは以前に、マイミクの詩人の方に連れて行っていただいたところだった。で、どこだったかなあと、ぼくがうろうろ探してると、ジミーちゃんが 、「ここ違うの?」と言って、すいすいと建物のなかに入っていくと、そこが「てら」なのであった。「なんで、ぼくよりよくわかるの?」って訊いたら、「表に看板で立ち飲みって書いてあったからね。」とのことだった。うかつだった。メニューには、以前に食べて、おいしいなって思った「にくすい」がなかった。その代わり、豚汁を食べた。サーモンの串揚げがおいしかった。もう一杯ずつ生ビールを注文して、煮抜きを頼んだら、出てきた卵が爆発した。戦場だった。ジミー中尉の肩に腕を置いて、身体を傾けていた。左の脇腹を銃弾が貫通していた。わたしは痛みに耐え切れずうめき声を上げた。ジミー中尉はわたしの身体を建物のなかにまでひきずっていくと、すばやく外をうかがい、扉をさっと閉めた。部屋が一気に暗くなった。爆音も小さくなった。と思う間もなく、窓ガラスがはじけ飛んで、卵型爆弾が投げ入れられ、部屋のなかで爆発した。時間爆弾だった。場所爆弾ともいい、出来事爆弾ともいうシロモノだった。ぼくは居酒屋のテーブルに肘をついて、ジミーちゃんの話に耳を傾けていた。「この喉のところを通る泡っていうのかな。ビールが喉を通って胃に行くときに喉の上に押し上げる泡。この泡のこと、わかる?」「わかるよ。ゲップじゃないんだよね。いや、ゲップかな。まあ、言い方はゲップでよかったと思うんだけど、それが喉を通るってこと、それを感じるってこと。それって大事なんだよね。そういうことに目をとめて、こころをとめておくことができる人生って、すっごい素敵じゃない?」ジミーちゃんがバッグをぼくに預けた。トイレに行くからと言う。ぼくは隣にいる若い男の子の唇の上のまばらなひげに目をとめた。彼はわざとひざを押しつけてきてるんだろうか。むしょうに彼のひざにさわりたかった。ぼくは生ビールをお代わりした。ジミーちゃんがトイレから戻ってきた。男の子のひざがぼくのひざにぎしぎしと押しつけられている。目のまえの卵が爆発した。ジミー中尉は、負傷したわたしを部屋のなかに残して建物の外に出て行った。わたしは頭を上げる力もなくて、顔を横に向けた。小学生時代にぼくが好きだった友だちが、ひざをまげて坐ってぼくの顔を見てた。名前は忘れてしまった。なんて名前だったんだろう。ジミーちゃんに鞄を返して、ぼくは生ビールのお代わりを注文した。ジミーちゃんも生ビールのお代わりを注文した。脇腹が痛いので、見ると、血まみれだった。ジミーちゃんの顔を見ようと思って顔を上げたら、そこにあったのは壁だった。シミだらけのうす汚れた壁だった。わたしが最後に覚えているのは、名前を忘れたわたしの友だちが、仰向けになって床のうえに倒れているわたしの顔をじっと眺めるようにして見下ろしていたということだけだった。


二〇一四年九月二十八日 「シェイクスピアの顔」


 塾の帰りに、五条堀川のブックオフで、『シェイクピアは誰だったか』という本を200円で買った。シェイクスピア関連の本は、聖書関連の本と同じく、数多くさまざまなものを持っているが、これもまた、ぼくを楽しませてくれるものになるだろうと思う。その筆者は、文学者でもなく研究者でもない人で、元軍人ってところが笑ったけれど、外国では、博士号を持ってる軍人や貴族がよくいるけど、この本の作者のリチャード・F・ウェイレンというひともそうみたい。あ、元軍人ね。学位は政治学で取ったみたいだけど、シェイクスピアに魅かれて、というのは、そこらあたりにも要因があるのかもしれない。『シェイクスピアは誰だったか』めちゃくちゃおもしろい。シェイクスピアは、ぼくのアイドルなのだけれど、いままでずっと、よく知られているあの銅版画のひとだと思ってた。でも、どうやら違ってたみたい。それにしても、いろんな顔の資料があって、それが見れただけでも十分おもしろかったかな。シェイクスピアっていえば、あのよく知られているハゲちゃびんの銅版画の顔が、ぼくの頭のなかでは、いちばん印象的で、っていうか、シェイクスピアを思い浮かべるときには、これからも、きっと、あのよく知られたハゲちゃびんの銅版画の顔を思い出すとは思うけどね。


二〇一四年九月二十九日 「きょうは何の日なの?」


 コンビニにアイスコーヒーとタバコを買いに出たら、目の前を、いろんな色と形の帽子がたくさん歩いてた。あれっと思ってると、その後ろから、たくさんの郵便ポストの群れが歩いてた。きょうは何の日なんやろうと思ってると、郵便ポストの群れの後ろからバスケットシューズの群れが歩いてた。うううん。きょうは何の日なんやろうと思ってたら、だれかに肩に手を置かれて、振り返ったら、ぼくの頬を指先でつっつくぼくがいた。ええっ? きょうは何の日なの? って思って、まえを見たら、ただ挨拶しようとして、頬にかる〜く触れただけのぼくの目を睨みつけてくるぼくがいて、びっくりした。きょうは何の日なの?


二〇一四年九月三十日 「夢は水」


けさ、4時20分に起きた。睡眠時間3時間ちょっと。相変わらず短い。ただし、夢は見ず。さいしょ変換したとき、「夢は水」と出た。


二〇一四年九月三十一日 「返信」


 ある朝、目がさめると、自分が一通の返信になっていたという男の話。その返信メールは、だれ宛に書かれたものか明記されておらず、未送信状態にあったのだが、男は自分でもだれ宛のメールであったのか、文意からつぎからつぎへと推測していくのだが、推測していくたびに、その推測をさらにつぎつぎと打ち消す要素が思い浮かんでいくという話。


詩の日めくり 二〇一四年十月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一四年十月一日 「ネクラーソフ『だれにロシアは住みよいか』大原恒一訳」


血糖値が高くて
ブタのように太ったぼくは
運動しなきゃならない。
それで
自転車に乗って
遠くのブックオフにまで行かなきゃいけない。

東寺のブックオフに行ったら
ネクラーソフの詩集が
108円のコーナーにあって
パラ読みしていたら
「ロシアでは あなたたちもよく知ってのとおり
 だまって頭を下げることを
 だれにも禁じてはいません!」
って、あって
目にとまった。
これって、
どこかで
近い言い回しを見た記憶があって
うううむ
と思ったのだけれど
詩集は
二段組で
内容は
農奴というのかな
百姓の苦しさと
百姓のずるさと
貴族の虚栄と
貴族の没落の予感みたいなこととか
宗教的なところとかばっかで
退屈な詩集だなあって思ってしまって
さっき読んだとこ
どこにあるかな
あれは、よかったなって思って
ページをペラペラめくって
さがした。
あると思ってた
どこかのページの左下の段の左側を見ていった。
さがしたら
あると思ったんだけど
それがなくって
二回
ペラペラしたんだけど
あると思ってた
どこかのページの左下の段の左側にはなくって
記憶違いかなって思って
まあ、よくあることなんだけど
こんどは
左のページの上の段の左側を見ながら
ペラペラめくっていたら
あった。

もう一度
見る。
「ロシアでは あなたたちもよく知ってのとおり
 だまって頭を下げることを
 だれにも禁じてはいません!」
これ
覚えちゃおう
って思って
この部分だけに
108円払うのも
なんだかなあって思ってね。

何度か
こころのなかで復唱して
CDやDVDのある一階に降りて
レインのDVDを買おうかどうか迷ってたら
うんこがしたくなって
帰って
うんこをしようと思って
いったんブックオフから出て
自転車に乗って
帰りかけたんだけど
東寺の前を通り過ぎて
短い交差点を渡って
なんか、たこ焼き屋だったかな
そこの前まできたときくらいに
でも
ネクラーソフの言葉から
そだ。
ふつうのことを禁じるって
たしか
レイナルド・アレナスが書いてたぞ。
キューバでは
たとえ
同性同士でも
バスのなかや
喫茶店のなかでも
見つめ合ってはいけないって
同性愛者を差別する
処罰する法律があったって
カストロがつくった
ゲイ差別の法律があったって
そいえば
厳格なイスラム教の国では
同性愛者だってわかったら
拷問死に近い
二時間にもおよぶ
石打の刑という死刑制度があったんだ。
これ
何ヶ月かまえに
ニュースになってて
「宗教が違うんだから、
 同性愛者が処罰されても仕方がないでしょう」
みたいな発言をしてたバカがいて
めっちゃ腹が立った記憶があったから
ブタは自転車の向きを変えて
たこ焼き屋の前で
キュルルンッ
と自転車をまるごと反転させて
東寺のブックオフへと戻ったのであった。
二階に行って
108円の棚のところに行くと
白髪のジジイがいて
もしや
吾が輩の大切な彼女をば
と思ったのだけれど
ネクラーソフの詩集の
表紙のなかにいた女性は無事で
ぼくの腕のなかに
へなへな〜
と、もたれかかってきたのであった。
彼女は
たぶん、ただの百姓娘なのだろうけれど
とても美しい女性であった。
可憐と言ってもよかった。
その手はゴツゴツしてるみたいだけどね。
そして
その目は
人間は生きることの厳しさに耐えなければならない
ということを身をもって知っている者だけが持つことのできる
生命の輝きを放っていた。
ブタは彼女を胸に抱き
階段を下りて
一階で勘定をすますと
全ゴムチューブの
ノーパンクの
重たい自転車を
全速力で
ぶっ飛ばしたのであった。
それにしても
イスラム圏じゃ
同性愛者は殺されても仕方ないじゃない
って書いてたバカのことは許せん。
まあ、バカには、なにを言っても
なにか言ったら
こちらもバカになるだけだし
ムダなんだけどね。
人間には
バカとカバがいてね。
「晴れ、ときどき殺人」
みたいに
ひとが簡単に殺人者になることがあるように
バカがカバになることもあれば
カバがバカになることもあるんだけど
ずっとカバがカバだってこともないしね
バカがバカだってこともないしね
でも、どちらかというと
ぼくはバカよりカバがいいなあ。

ぼくはブタだったんだ〜。
まっ、
でも、これは
観察者側の意見でね。

うんこするの忘れてた。
ところで
途中で寄った
フレスコから出たときに
スーツ姿の
まあまあかわいいおデブの男の子が
図面かな
書類をひらいて見ながら
歩いていたの。
薄緑色の作業着みたいなツナギの制服着て。
ぼくはフレスコから帰るために自転車を乗ったとこだったか
乗ろうとしてる直前で
彼のあそこんとこに目がいっちゃった。
だってチンポコ
完全にボッキさせてたんだもの。
すっごくかたそうで
むかって左の上側に突き出てた。
ええっ?
って思った。
図面の入った筒を握ってて
ボッキしてたのかな。
持ち方がエロかったもの。
かわいかった。
セルの黒メガネの彼。
右利きだよね。
ついて行こうかなって
いっしゅん思ったけど
それって、おかしいひとに思われるから
やめた。
部屋に帰って
フレスコで買った
麒麟・淡麗〈生〉を飲みながら
ネクラーソフの詩集の表紙のなかにいる
彼女の目の先にある
ロシアの平原に
ぼくも目を向けた。


二〇一四年十月二日 「みにくい卵の子」


みにくい卵の子は
ほんとにみにくかったから
親鳥は
そのみにくい卵があることに気がつかなかった
みにくい卵の子は
かえらずに
くさっちゃった


二〇一四年十月三日 「雲」


さいきん、よく空を見上げます。
雲のかたちを覚えていられないのに、
形を見て、うつくしいと思ってしまいます。
覚えていることができるものだけが、
美しいのではないのですね。


二〇一四年十月四日 「田ごとのぼく」


たしかに
田んぼ
一つ一つが
月を映していた。
歩きながら
ときどき月を見上げながら
学校から遅く帰ったとき
月も田んぼの水面で
少し移動して
でも
つぎの田んぼのそばに行くと
すでにつぎの田んぼに移動していて
ああ
田ごとの月って
このことかって思った。
けれど
ぼくの姿だって
ぼくが移動すれば
つぎつぎ違う田んぼに映ってるんだから
ぼくだって
田ごとのぼくだろう。
ぼくが
田んぼから月ほどにも遠くいる必要はないんだね。
月ほどに遠く
月のそばにいると
月といっしょに
田んぼに光を投げかけているのかもしれない。
ぼくも月のように
光り輝いてるはずだから。
違うかな?
どだろ。


二〇一四年十月五日 「恋人たち」


「宇宙人みたい。」
「えっ?」
ぼくは、えいちゃんの顔をさかさまに見て
そう言った。
「目を見てみて。」
「ほんまや、こわっ!」
「まるで人間ちゃうみたいやね。」
よく映像で
恋人たちが
お互いの顔をさかさに見てる
男の子が膝まくらしてる彼女の顔をのぞき込んでたり
女の子が膝まくらしてる彼氏の顔をのぞき込んでたりしてるけど
まっさかさまに見たら
まるで宇宙人みたい
「ねっ、目をパチパチしてみて。
 もっと宇宙人みたいになる。」
「ほんまや!」
もっと宇宙人!
ふたりで爆笑した。
数年前のことだった。
もうふたりのあいだにセックスもキスもなくなってた。
ちょっとした、おさわりぐらいかな。
「やめろよ。
 きっしょいなあ。」
「なんでや?
 恋人ちゃうん? ぼくら。」
「もう、恋人ちゃうで。」
「えっ?
 ほんま?」
「うそやで。」
うそやなかった。
それでも、ぼくは
i think of you.
i cannot stop thinking of you.
なんもなくなってから
1年以上も
恋人やと思っとった。


二〇一四年十月六日 「それぞれの世界」


ぼくたちは
前足をそろえて
テーブルの上に置いて
口をモグモグさせながら
店のなかの牧草を見ていた。
ふと、彼女は
すりばち状のきゅう歯を動かすのをやめ
テーブルのうえにだら〜りとよだれを落としながら
モーと鳴いた。
「もう?」
「もう。」
「もう?」
「もう!」
となりのテーブルでは
別のカップルが
コケー、コココココココ
コケーっと鳴き合っていた。
ぼくたちは
前足をおろして
牧草地から
街のなかへと
となりのカップルも
おとなしくなって
えさ場から
街のなかへと
それぞれの街のなかに戻って行った。


二〇一四年十月七日 「きょとん」


おとんでも
おかんでもなく
きょとん
きょとん
と呼んだら
返事してくれる
でも
きょとん
と目を合わせたら
きょとん
としなくちゃいけないのね
きょとん
ちょっとを大きくあけて
でへへ えへでもなく
でへっでもなく
でへへ
でへへと言ったら
でへとしなくちゃいけないのね
でへへ
でへへへれ〜
でへへ
って感じかな
柴田、おまえもか!
つづく


二〇一四年十月八日 「幽霊卵」


冷蔵庫の卵がなくなってたと思ってたら
いつの間にか
また1パック
まっさらの卵があった
安くなると
ついつい買ってくる癖があって
最近ぼけてきたから
いつ買ったのかもわからなくて
困ったわ


二〇一四年十月九日 「部屋」


股ずれを起こしたドアノブ。
ため息をつく鍵穴。
わたしを中心にぐるっと回転する部屋
鍵束から外れた1本の鍵がくすって笑う。
カーテンの隙間から滑り込む斜光のなかを
浮遊する無数の鍵穴たちと鍵たち
部屋が
祈る形をとりながら
わたしに凝縮する。


二〇一四年十月十日 「きょうも日知庵でヨッパ」


でも
なんだかむかついて

帰りは
西院の「印」という立ち飲み屋に。
会計、間違われたけれど
250円の間違いだから
何も言わずに帰ったけど。
帰りに
近所の大國屋に
いや
そだ
このあいだ
気がついたけど
大國屋の名前が変わってた。
「お多福」に。
ひゃ〜
「きょうは尾崎を聞くと泣いてしまうかもしれない。
 ◎原付をパクられた。」
って
「印」の
「きょうの一言」
ってところに書いてあって
ちっちゃな黒板ね

いいなあって思ったの。
書いたのは
たぶん、アキラくんていうデブの男の子
こないだ
バカな客のひとりに
会話がヘタって言われてたけど
会話なんて
どうでもいいんだよ
かわいければさ、笑。
あいきょうさ
人生なんて
けせらせら
なんだから。
「きょうの一言」
そういえば
仕事帰りに
興戸の駅で
学生の女の子たちがしゃべっている言葉で
「あとは鳩バス」
って聞こえたんだけど
これって
聞き間違いだよね。
ぜったい。
ここ2、3日のメモを使って
詩句を考えた。
more than this
これ以上
もう、これ以上
須磨の源氏だった。
詩では
うつくしい幻想を持つことはできない。
詩が持つことのできるものは
なまなましい現実だけだ。
詩は息を与える。
死者にさえ、息を与えるのだ。
逃げ道はない。
生きている限りはね。
勝ちゃん
胸が張り裂けちゃうよ。
龍は夢で
あとは鳩バス。


二〇一四年十月十一日 「音」


その音は
テーブルの上からころげ落ちると
部屋の隅にむかって走り
いったん立ちどまって
ブンとふくれると
大きな音になって
部屋の隅から隅へところがりはじめ
どんどん大きくなって
頭ぐらいの大きさになって
ぼくの顔にむかって
飛びかかってきた


二〇一四年十月十二日 「音」


左手から右手へ
右手から左手に音をうつす
それを繰り返すと
やがて
音のほうから移動する
右手のうえにあった音が
左手の手のひらをのばすと
右手の手のひらのうえから
左手の手のひらのうえに移動する
ふたつの手を離したり
近づけたりして
音が移動するさまを楽しむ
友だちに
ほらと言って音をわたすと
友だちの手のひらのうえで
音が移動する
ぼくと友だちの手のひらのうえで
音が移動する
ぼくたちが手をいろいろ動かして
音と遊んでいると
ほかのひとたちも
ぼくたちといっしょに
手のひらをひろげて
音と戯れる
音も
たくさんのひとたちの手のひらのうえを移動する
みんな夢中になって
音と戯れる
音もおもしろがって
たくさんのひとたちの手のひらのうえを移動する
驚きと笑いに満ちた顔たち
音と同じようにはずむ息と息
たったひとつの音と
ただぼくたちの手のひらがあるだけなのに


二〇一四年十月十三日 「ある青年の日記を読んで」


その青年は
何年か前にメールだけのやりとりをしたことがあって
それで、顔を覚えていたので彼の日記を見てたら

仕事でいらいらしたことがあって
上司とけんかして
それでまたいらいらして
せっかく恋人といっしょに
出かけたのに
道行くサラリーマンに
「オラッ」とか言って
からんだそうで
それで恋人になんか言われて
逆切れしたそうで
でも、それを反省したみたいで
「あと20日で一年大事でかわいい人なのに
 こんな男でごめんなさいお母さん大好き」
という言葉で日記は結んであって

「あと20日で一年大事でかわいい人なのに
 こんな男でごめんなさいお母さん大好き」

という言葉に、こころ動かされて
ジーンとしてしまった

いま付き合ってる恋人とも
そういえば、あと一ヶ月で1年だよねとか
もうじき2年だよ
とかとか言っていた時期があったのだった

きょう、恋人に
朝、時間があるから、顔を見に行こうかな
とメールしたら
用事ででかけてる、との返事

最近、メールや電話したら、いっつも用事

しかも、きょう電話したら
その電話もう使われていないって電気の女の声が言った

「あと20日で一年大事でかわいい人なのに
 こんな男でごめんなさいお母さん大好き」

彼の日記
なぜだかこころ動かされる言葉がいっぱいで

ある日の日記は、こういう言葉で終わっていた
さまざまな単行本や文庫本、それに小説現代という雑誌など
読んだ本を列記したあと

「その時は彼によろしくとか僕の彼女を紹介しますとか
 あなたのキスを探しましょうとか、不思議なタイトルだな… 」

彼の素直な若さが、うつくしい。
最後に、彼のある日の日記の一節をひいておこう
ぼくには、彼がいま青春のど真ん中にいて、
とてもうつくしいと思ったのだった

「「何でもないような事が幸せだったと思う」とあるけど
 まさにそうだと思った。金ないとか、仕事疲れたとか言ってたけど、
 そんなのは問題じゃないと。何より大事なかわいい恋人と、コーラとセッターと
 健康な体、仕事があればそれだけで幸せなんだとしゅんと思った!
 もう悲しませることなくしっかり生活しようと強く思った。」

「何より大事なかわいい恋人と、コーラとセッターと
 健康な体、仕事があればそれだけで幸せなんだとしゅんと思った!」

「それだけで幸せなんだとしゅんと思った!」

こんなに、こころの現われてる言葉、ひさしぶりに遭遇した。


二〇一四年十月十四日 「日付のないメモ」


京大のエイジくんに関するメモ。

ぼくたちは、いっしょに並んで歩いて帰った。
きみは、自転車を押しながら。
夜だった。
ぼくは下鴨に住んでいて、きみは、近くに住んでいると言っていた。
ぼくは30代で
きみは大学生だった。
高知大で3年まで数学を勉強していたのであった。
従兄弟が東大であることを自慢げにしていたので
3年で高知大の数学科をやめて
京大を受験しなおして
京大の建築科に入学したのであった。
親が建設会社の社長だったこともあって。
だから
きみと出会ったときの
きみの年齢は28だったのだった。
きみは京大の4回生だった。
ぼくたちは、一年近く毎日のように会っていた。
ぼくが仕事から帰り
きみが、ぼくの部屋に来て
ふたりで晩ご飯を食べ
夜になって
ぼくが眠りにつくまで
寝る直前まで、きみは部屋にいた。
泊まったのは一度だけ。
さいごに、きみが、ぼくの部屋に訪れた日。
ピンポンとチャイムが鳴って、ドアを開けようとすると
きみは、全身の体重をかけてドアを押して、開けさせないようにした
雪の積った日の夜に
真夜中に
「雪合戦しようや。」と言って
ぼくのアパートの下で
積った雪を丸めて投げ合った
真夜中の2時、3時ころのことは
ぼくは一生忘れない。
だれもいない道端で
明るい月の下
白い雪を丸めては
放り投げて
顔にぶつけようとして
お互い、一生懸命だった。
そのときのエイジくんの表情と笑い声は
ぼくには、一生の宝物だ。
毎晩のように押し合ったドア。
毎晩、なにかを忘れては
「とりにきた。」と言って笑っていたきみ。
毎晩、
「もう二度ときいひんからな。」
と言っていたきみ。
あの丸められた雪つぶては
いまもまだそこに
下鴨の明るい月の下にあるのだろう。
あの寒い日の真夜中に。
子どものようにはしゃいでいた
ぼくたち二人の姿とともに。


二〇一四年十月十五日 「風の手と、波の足。」


風の手が
ぼくをまるめて
ほうりなげる。
風の手が
ぼくをまるめて
別の風の手と
キャッチボールしてる。
風の手と風の手が
ぼくをキャッチボールしてる。

波の足が
ぼくをけりつける。
すると
違う方向から打ち寄せる波の足が
ぼくをけり返す。
波の足と波の足が
ぼくをけり合う。
波の足と波の足がサッカーしてる。

ぼくを静かに置いて眺めることなどないのだろうか。
なにものも
ぼくを静かに置いて眺めてはくれそうにない。
生きているかぎり
ぼくはほうり投げられ
けりまくられなければならない。
それでこわれるぼくではないけれど
それでこわれるぼくではないけれど
それでよりつよくなるぼくだけれど
それでよりつよくなるぼくだけれど
生きているかぎり
ぼくはほうり投げられ
けりまくられなければならない。


二〇一四年十月十六日 「卵」


万里の長城の城壁のてっぺんに
卵が一つ置かれている。
卵はとがったほうをうえに立てて置かれている。
卵の上に蝶がとまる。
卵は微塵も動かなかった。
しばらくして
蝶が卵のうえから飛び立った。
すると
万里の長城が
ことごとく
つぎつぎと崩れ去っていった。
しかし
卵はあった場所にとどまったまま
宙に浮いたまま
微塵も動かなかった。


二〇一四年十月十七日 「ウィリアム・バロウズ」


下鴨に住んでたころ
十年以上もむかしに知り合ったラグビー青年が
バロウズを好きだった。
本人は異性愛者のつもりだったのだろうけれど
感性はそうではなかったような気がする。
とてもよい詩を書く青年だった。
ユリイカや現代詩手帖に送るように言ったのだが
楽しみのためにだけ詩を読んだり書いたりする青年だった。
ぼくは20代後半
彼は二十歳そこそこだったかな。
ブラジル音楽を聴きながら
長い時間しゃべっていた日が
思い出された
バロウズ
甘美なところはいっさいない
すさまじい作品だけれど
バロウズを通して
青年の思い出は
きわめて甘美である
なにもかもが輝いていたのだ
まぶしく輝いていたのだ
彼の無蓋の微笑みと
その二つの瞳と

カウンターにこぼれた
グラスの露さえも


二〇一四年十月十八日 「ウィリアム・バロウズの贋作」


 本日のバロウズ到着本、6冊。なかとカヴァーのきれいなほうを保存用に。『ダッチ・シュルツ』は500円のもののほうがきれいなので、そちらを保存用に。『覚えていないときもある』も710円のもののほうがきれいなので、そちらを棚に飾るものにして。 きょうから通勤時は、レイ・ラッセルの『嘲笑う男』にした。ブラッドベリの『メランコリイの妙薬』読了したけど、なんか、いまいちやった。詩的かもしれないけれど、そのリリカルさが逆に話を胡散臭くさせていた。もっとストレートなほうが美しいのに、などと思った。
学校から帰って、五条堀川のブックオフに行くと、ビアスの短編集『いのちの半ばに』(岩波文庫)が108円で売っていたので買ったんだけど、帰って本棚を見たら、『ビアス短編集』(岩波文庫)ってのがあって、それには、『いのちの半ばに』に入ってた7篇全部と、追加の8篇が入っていて、訳者は違うんだけど、持ってたほうのタイトルの目次を見ても、ぜんぜん思い出せなかった。ううううん。ちかく、新しく買った古いほうの訳のものを読んでみようかなって思った。
おとつい、ネットで注文した本が、とても信じられないものだった。

裸の審判・世界発禁文学選書2期15 ウイリアム・バローズ 浪速書房 S43・新書・初版カバー・美本

 きょう到着してた。なんと、作者名、「ウイリヤム・バローズ」だった。「ア」と「ヤ」の一字違いね。まあ、大きい「イ」と、小さい「ィ」も違うけど。浪速書房の詐欺的な商法ですな。しかも、作者名のはずのウイリヤム・バローズが主人公でもあって、冒頭の3、4行目に、

 私、ウイリヤム・バローズは、パリのル・パリジャンヌ誌特派員として、このニューヨーク博覧会に行くことになった。

とあって、これもワラケルけど、最後のページには

 そしていざというときは、鞭という、柔らかい機械が二人を結びつけるだろう。いま、二人に聞こえるものは、路上にきしる、濡れたタイヤの連続音と、彼らの廻りに、うなりを上げている。雨の叫びだけであった。

とあるのである。「雨」の前の句点もおもしろいが、「鞭」を「柔らかい機械」というのは、もっとワラケル。ほかの文章のなかには「ランチ」という言葉もある、笑。翻訳した胡桃沢耕史さん(本に書かれている翻訳者名は清水正二郎さんだけど、胡桃沢さんのペンネームのひとつ)のイタズラやね。おもろいけど。パラパラとめくって読んだら、これって、サド侯爵の小説の剽窃だった。鞭が若い娘の背中やお尻に振り下ろされたり、喜びの殿堂の処刑室とか出てくる。はあ〜あ、笑。この本を出版した浪速書房って、エロ本のシリーズを出してて、たとえば、

世界発禁文学選書 裸女クラブ 新書 浪速書房 ペトロ・アーノルド/清水正二郎訳 昭45
世界発禁文学選書 乳房の疼き 新書 浪速書房 マリヤ・ダフェノルス 清水正二郎・訳
世界発禁文学選書〈第2期 第11巻〉私のハンド・バッグの中の鞭(1968年)

 こんなタイトルのものだけど、戦後、出した本がつぎつぎに発禁になったらしいけれど、発禁の理由って、エロティックな内容じゃなくて、この「詐欺的商法」なんじゃないかな。
 で、いま、浪速書房のウィリアム・バローズの「やわらかい機械」を買おうかどうか迷っている。ヤフオクに入札しているのだけど、いま8000円で、内容は、山形訳のソフトマシーンのあとがきによると、このあいだ買ったウイリヤム・バローズと同じように、主人がウィリアム・バローズで、またまた女の子を鞭打つエロ小説らしい。 出品しているひとに、ほんとうにバロウズの翻訳かどうか訊いたら、答えられないという答えが返ってきた。贋物だと思う。あ、この贋物ってのは、ウィリアム・バロウズが著者ではないということなんだけど、まあ、話の種に買ってもいいかなって思う。でも、8000円は高いな。キャンセルしてもいいって、出品者は言ってくれたのだけれど、贋物でも、おもしろいから買いたいのだけれど、8000円あれば、ほかに買える高い本もあるかなあとも思うし。あ、でもいま、とくに欲しい本はないんだけど。

ヤフオクでの質問

 小生の質問にお答えくださり、ありがとうございました。小生、ウィリアム・バロウズの熱狂的なファンで、『ソフトマシーン』の河出文庫版とペヨトル工房版の2冊の翻訳本を所有しております。ご出品なさっておられるご本の、最初の2行ばかりを、回答に書き写していただけますでしょうか。それで、本当に、ウィリアム・バロウズの『ソフトマシーン』の翻訳本かどうかわかりますので。小生は、本物の翻訳本でなくても、購入したいと思っておりますが、先に本物の翻訳本かどうかは、ぜひ知っておきたいと思っております。8000円という入札金額は、それを知る権利があるように思われますが、いかがでしょうか。よろしくお願い申し上げます。

 バロウズの『やわらかい機械』の本邦初訳と銘打たれた本に価値があると思って、最初に8000円の金額でオークションをはじめさせているのだから、ある程度の知識がある人物だと思う。その翻訳が本物かどうか、本文を見ればすぐにわかるはずなのに、それを避けて回答をしてきたので、このような質問を再度したのだった。なにしろ浪速書房の本である。山形裕生さんの『ソフトマシーン』の訳本の後書きでは、それは冗談の部類の本だと思われると書かれている本である。

回答があった。

 第一章ニューヨークへの道 一九六四年から五年にかけての、ニューヨークの最大の話題は、ニューヨーク世界博覧会が開かれたことである。私、ウィリヤム・バローズは、パリのル・パリジャンヌ誌特派員として、このニューヨーク博覧会に行くことになった。

 ひえ〜、これって、ウイリヤム・バローズの『裸の審判』の1〜4行目と、まるっきりいっしょよ。完全な贋物だ。ああ、どうしよう。完全な贋物。ふざけた代物に、8000円。どうしよう。相手はキャンセルしていいと言ってた。ううううん。マニアだから買いたいと返事した。あ〜あ、このあいだ買った『裸の審判』と中身がまったく同じ本に8000円。バカだなあ、ぼくは。いや〜、バロウズのマニアなんだよね、ぼくは。しかし、この出品者、正直なひとだけど
 最初の設定金額を8000円にしてるのは、なんでやったのかなあ。バロウズのこと、あんまり知らなかったひとだったら、そんなバカ高い金額をつけないだろうしな。あ、知ってたら、そんなものをバロウズが書いてたとは思ってもいなかっただろうしなあ。 不思議。でも、完全に贋物でも、表紙にウィリアム・バローズって書いてあったら買っちゃうっていう、お馬鹿なマニアの気持ち、まだまだ持ち合わせているみたい。この浪速書房の本も、きっと、詐欺で摘発、本は発禁処分を受けたんだろうね。 ぼくはただのバロウズファンだったけど、思わぬ贋作の歴史を垣間見た。胡桃沢耕史さん、生活のためにしたことなんだろうね。
 ちなみに、あのあと、つぎの二つの質問をオークション出品者にしたけど、返事はなかった。

 お答えくださり、ありがとうございました。その訳本は贋物です。先日購入しました、浪速書房刊のウイリヤム・バローズ作、清水正二郎訳の「裸の審判」の第一章の3行目から4行目の文章とまるっきり同じです。本物のウィリアム・バロウズの作品には、そのような文章はありません。きっとその本の最後のページには、次の文章が終わりにあるのではないでしょうか。「そしていざというときは、鞭という、柔らかい機械が二人を結びつけるだろう。/いま、二人に聞こえるものは、路上にきしる、濡れたタイヤの連続音と、彼らの廻りに、うなりを上げている。雨の叫びだけであった。」 それでも、小生はマニアなので、購入したいと思っております。

 ちなみに、引用された所からあとの文章はこうですね。「私の所属している、ル・パリジャンヌ誌は、アメリカのセブンティーン誌や、遠い極東日本の、ジヨセイヌ・ジーシン誌などと特約のある姉妹誌で十七、八歳のハイティーンを目標に、スターの噂話や、世界の名勝や、男女交際のスマートなやり方などを指導する雑誌であり、たまたまこの賑やかなアメリカ大博覧会は、近く開かれる東京オリンピツクとともに、我々女性関係誌のジヤーナリストの腕の見せ所であつた。」ご出品のご本は、当時、詐欺罪で差し押さえられ、発禁になりました。亡くなったエロ本作家の胡桃沢耕史(訳者名:清水正二郎)の創作です。本物のバロウズの翻訳本ではありません。

「極東日本の、ジョセイヌ・ジーシン誌」だって、笑っちゃうよね。ほんと、胡桃沢さん、やってくれるわ。

 やったー、ぼくのものになった! 中身は贋物だけど、画像のものがぼくのものになった。8000円は、ちょっと高かったけど、いま手に入れなかったら、いつ手に入れられるかわからなかったからうれしい。中身は、胡桃沢耕史さんの創作ね。しかもいま、ぼくが持ってるものとおんなじ内容、笑。早期終了してもらった。じつは、最後に、ぼくは、つぎのような質問をしていたのだった。 質問かな、強迫かな。

 そういった事情を知られたからには、出品されたご本の説明を改められないと、落札者の方とトラブルになりかねません。小生は、そういった事情を知っていても、この8000円という金額で、買わせていただくことに依存はありません。ウィリアム・バロウズの熱狂的なファンですから。オークションを早期終了していただければ、幸いです。

 贋物だとわかっていたんだけど、バロウズ・コンプリートのぼくは、ちょっとまえに、

 世界秘密文学選書10 裸のランチ ミッキー・ダイクス/清水正二郎訳 浪速書房

を買ってたんだけど、その本の末尾についている著者のミッキー・ダイクスの経歴の紹介文って、現実のウィリアム・バローズのものの経歴だった。ちなみに、訳者はこれまた清水正二郎さん、つまり、胡桃沢耕史さん。ほんと、あやしいなあ。このミッキー・ダイクスの『裸のランチ』の裏表紙の作品紹介文がすごいので、紹介するね。

「アメリカの、アレン・ギンスバークと共に、抽象的な難解な語句で 知られる、ミッキー・ダイクスが、詩と散文の間における、微妙な語句 の谷間をさまよいながら、怪しい幻影のもとに画き出したのが、この作品である。ほとんど翻訳不可能の、抽象の世界に躍る語句を、ともかくも、もっとも的確な日本語に訳さねばならぬので、大変な苦心をした。陰門、陰茎、陰核、これらの語句が、まるで機関銃のように随所に飛び 出して、物語のムードを形作っている。しかし、現実には、それは何等ワイセツな感情を伴わなくても、他のもっと迂遠な言葉に言い変えねばならない。かくして来上がったものは、近代の詩人ダイクスの企画するものとははなはだしく異なったものとなってしまった。しかし現実の公刊物が許容される範囲では、もっとも原文に近い訳をなし得たものと自負している。         訳者」

「ギンズバーグ」じゃなくて、「ギンスバーク」って、どこの国の詩人? そりゃ、詐欺で、差し押さえられるわ。ぼくは、500円で買ったけれど、この本、ヤフオクでいま5800円で出品しているひとがいたり、amazon では、79600円とか9万円以上で出品しているひとがいて、まあ、ゴーヨクなキチガイどもだな。

 しかし、こんな詐欺をしなきゃ生きていけなかった胡桃沢耕史って方、きつい人生をしてらっしゃったのかもしれない。自己嫌悪とかなしに、作家が、こんな詐欺を働くなんて、ぼくには考えられない。こういった事情のことを、戦後のどさくさにいっぱい出版業界はしてたんだろうけど。いま、こんなことする出版社はないだろうな。知らないけど。

 ちなみに、本物のウィリアム・バロウズの『裸のランチ』って、陰門や陰核なんて、まったく出てこないし(記憶にないわ)。むしろ、出てくるのは、ペニスと肛門のことばかり。


二〇一四年十月十九日 「土曜日たち」


はなやかに着飾った土曜日たちにまじって
金曜日や日曜日たちが談笑している。
ぼくのたくさんの土曜日のうち
とびきり美しかった土曜日と
嘘ばかりついて
ぼくを喜ばせ
ぼくを泣かせた土曜日が
カウンターに腰かけていた。
ほかの土曜日たちの目線をさけながら
ぼくはお目当ての土曜日のそばに近づいて
その肩に手を置いた。
その瞬間
耳元に息を吹きかけられた。
ぼくは
びくっとして振り返った。
このあいだの土曜日が微笑んでいた。
お目当ての土曜日は
ぼくたちを見て
コースターの裏に
さっとペンを走らせると
そのコースターを
ぼくの手に渡して
ぼくたちから離れていった。


二〇一四年十月二十日 「チョコレートの半減期」


おやじの頭髪の、あ、こりゃだめか、笑。
地球の表面積に占める陸地の割合の半減期。
友だちと夜中まで飲んで騒いで過ごす時間の半減期。
恋人の顔と自分の顔との距離の半減期。
大学の授業出席者数の半減期。
貯蓄の半減期。
問題の半減期。
悲しみの半減期。
痛みの半減期。
将来の半減期。
思い出の半減期。
聞く耳の半減期。
視界の半減期。
やさしさの半減期。
機会の半減期。
幸福の半減期。
期待の半減期。
反省の半減期。
復習の半減期。
予習の半減期。
まともな食器の半減期。
原因の半減期。
理由の半減期。
おしゃべりの半減期。
沈黙の半減期。
恋ごころの半減期。
恋人の半減期。
チョコレートの半減期。


二〇一四年十月二十一日 「魂」


 魂が胸のなかに宿っているなどと考えるのは間違いである。魂は人間の皮膚の外にあって、人間を包み込んでるのである。死は、魂という入れ物が、自分のなかから、人間の身体をはじき出すことである。生誕とは、魂という入れ物が、自分のなかに、人間の身体を取り込むことを言う。


二〇一四年十月二十二日 「卵病」


コツコツと
頭のなかから
頭蓋骨をつつく音がした
コツコツ
コツコツ
ベリッ
頭のなかから
ひよこが出てきた
見ると
向かいの席に坐ってた人の頭の横からも
血まみれのひよこが
ひょこんと顔をのぞかせた
あちらこちらの席に坐ってる人たちの頭から
血まみれのひよこが
ひょこんと姿を現わして
つぎつぎと
電車の床の上に下りたった


二〇一四年十月二十三日 「十粒の主語」


とてもうつくしいイメージだ。
主語のない
という主題で書こうとしたのに
十粒の主語
という
うつくしい言葉を見つけてしまった。

ああ
そうだ。
十粒の主語が、ぼくを見つけたのだった。
どんな粒だろう。
きらきらと輝いてそう。
うつくしい。
十粒の主語。


二〇一四年十月二十四日 「よい詩」


よい詩は、よい目をこしらえる。
よい詩は、よい耳をこしらえる。
よい詩は、よい口をこしらえる。


二〇一四年十月二十五日 「わけだな。」


 ウォレス・スティーヴンズの『理論』(福田陸太郎訳)という詩に 「私は私をかこむものと同じものだ。」とあった。 としら、ぼくは空気か。 まあ、吸ったり吐いたり、しょっちゅうしてるけれど。ブリア・サヴァラン的に言えば ぼくは、ぼくが食べた物や飲んだ物からできているのだろうけれど、ヴァレリー的に言えば、ぼくは、ぼくが理解したものと ぼくが理解しなかったものとからできているのだろう。それとも、ワイルド的に、こう言おうかな。 ぼくは、ぼく以外のすべてのものからできている、と。まあ、いずれにしても、なにかからできていると考えたいわけだ。わけだな。


二〇一四年十月二十六日 「強力な詩人や作家」


真に強力な詩人や作家といったものは、ひとのこころのなかに、けっしてそのひと自身のものとはならないものを植えつけてしまう。


二〇一四年十月二十七日 「名前」


人間は違ったものに同じ名前を与え
同じものに違った名前を与える。
名前だけではない。
違ったものに同じ意味を与え
同じものに違った意味を与える。
それで、世界が混乱しないわけがない。
むしろ、これくらいの混乱ですんでいるのが不思議だ。


二〇一四年十月二十八日 「直角のおばさん」


箪笥のなかのおばさん
校長先生のなかの公衆電話
錘のなかの海
パンツのなかの太陽
言葉のなかの惑星
無意識のなかの繁殖

箪笥のうえのおばさん
校長先生のうえの公衆電話
錘のうえの海
パンツのうえの太陽
言葉のうえの惑星
無意識のうえの繁殖

箪笥のよこのおばさん
校長先生のよこの公衆電話
錘のよこの海
パンツのよこの太陽
言葉のよこの惑星
無意識のよこの繁殖

箪笥のしたのおばさん
校長先生のしたの公衆電話
錘のしたの海
パンツのしたの太陽
言葉のしたの惑星
無意識のしたの繁殖

箪笥のなかのおばさんのなかの校長先生のなかの公衆電話のなかの錘のなかの海のなかのパンツのなかの太陽のなかの言葉のなかの惑星のなかの無意識のなかの繁殖

箪笥のうえのおばさんのうえの校長先生のうえの公衆電話のうえの錘のうえの海のうえのパンツのうえの太陽のうえの言葉のうえの惑星のうえの無意識のうえの繁殖

箪笥のよこのおばさんのよこの校長先生のよこの公衆電話のよこの錘のよこの海のよこのパンツのよこの太陽のよこの言葉のよこの惑星のよこの無意識のよこの繁殖

箪笥のしたのおばさんのしたの校長先生のしたの公衆電話のしたの錘のしたの海のしたのパンツのしたの太陽のしたの言葉のしたの惑星のしたの無意識のしたの繁殖

箪笥が生んだおばさん
校長先生が生んだ公衆電話
錘が生んだ海
パンツが生んだ太陽
言葉が生んだ惑星
無意識が生んだ繁殖

箪笥を生んだおばさん
校長先生を生んだ公衆電話
錘を生んだ海
パンツを生んだ太陽
言葉を生んだ惑星
無意識を生んだ繁殖

箪笥のまわりにおばさんが散らばっている
校長先生のまわりに公衆電話が散らばっている
錘のまわりに海が散らばっている
パンツのまわりに太陽が散らばっている
言葉のまわりに惑星が散らばっている
無意識のまわりに繁殖が散らばっている

箪笥がおばさんを林立させていた
校長先生が公衆電話を林立させていた
錘が海を林立させていた
パンツが太陽を林立させていた
言葉が惑星を林立させていた
無意識が繁殖を林立させていた

箪笥はおばさんを発射する
校長先生は公衆電話を発射する
錘は海を発射する
パンツは太陽を発射する
言葉は惑星を発射する
無意識は繁殖を発射する

箪笥はおばさんを含む
校長先生は公衆電話を含む
錘は海を含む
パンツは太陽を含む
言葉は惑星を含む
無意識は繁殖を含む

箪笥の影がおばさんの形をしている
校長先生の影が公衆電話の形をしている
錘の影が海の形をしている
パンツの影が太陽の形をしている
言葉の影が惑星の形をしている
無意識の影が繁殖の形をしている

箪笥とおばさん
校長先生と公衆電話
錘と海
パンツと太陽
言葉と惑星
無意識と繁殖

箪笥はおばさん
校長先生は公衆電話
錘は海
パンツは太陽
言葉は惑星
無意識は繁殖

箪笥におばさん
校長先生に公衆電話
錘に海
パンツに太陽
言葉に惑星
無意識に繁殖

箪笥でおばさん
校長先生で公衆電話
錘で海
パンツで太陽
言葉で惑星
無意識で繁殖

ポエジーは思わぬところに潜んでいることだろう。
これらの言葉は、瞬時にイメージを形成し、即座に破壊する。
ここでは、あらゆる形象は破壊されるために存在している。

単純であることと複雑であることは同時に成立する。

箪笥がおばさんを直角に曲げている
校長先生が公衆電話を直角に曲げている
錘が海を直角に曲げている
パンツが太陽を直角に曲げている
言葉が惑星を直角に曲げている
無意識が繁殖を直角に曲げている

左目で見ると箪笥 右目で見るとおばさん
箪笥の表面積とおばさんの表面積は等しい
箪笥を粘土のようにこねておばさんにする
箪笥はおばさんといっしょに飛び去っていった
箪笥の抜け殻とおばさんの貝殻
箪笥が揺れると、おばさんも揺れる
すべての箪笥が滅びても、おばさんは生き残る
右半分が箪笥で、左半分がおばさん
左目で見ると校長先生 右目で見ると公衆電話
校長先生の表面積と公衆電話の表面積は等しい
校長先生を粘土のようにこねて公衆電話にする
校長先生は公衆電話といっしょに飛び去っていった
校長先生の抜け殻と公衆電話の貝殻
校長先生が揺れると、公衆電話も揺れる
すべての校長先生が滅びても、公衆電話は生き残る
右半分が校長先生で、左半分が公衆電話
左目で見ると錘 右目で見ると海
錘の表面積と海の表面積は等しい
錘を粘土のようにこねて海にする
錘は海といっしょに飛び去っていった
錘の抜け殻と海の貝殻
錘が揺れると、海も揺れる
すべて海が滅びても、錘は生き残る
右半分が錘で、左半分が海
左目で見るとパンツ 右目で見ると太陽
パンツの表面積と太陽の表面積は等しい
パンツを粘土のようにこねて太陽にする
パンツは太陽といっしょに飛び去っていった
パンツの抜け殻と太陽の貝殻
パンツが揺れると、太陽も揺れる
すべての太陽が滅びても、パンツは生き残る
右半分がパンツで、左半分が太陽
左目で見ると言葉 右目で見ると惑星
言葉の表面積と惑星の表面積は等しい
言葉を粘土のようにこねて惑星にする
言葉は太陽といっしょに飛び去っていった
言葉の抜け殻と惑星の貝殻
言葉が揺れると、惑星も揺れる
すべての惑星が滅びても、言葉は生き残る
右半分が言葉で、左半分が惑星
左目で見ると無意識 右目で見ると繁殖
無意識の表面積と繁殖の表面積は等しい
無意識を粘土のようにこねて繁殖にする
無意識は繁殖といっしょに飛び去っていった
無意識の抜け殻と繁殖の貝殻
無意識が揺れると、繁殖も揺れる
すべての無意識が滅びても、繁殖は生き残る
右半分が無意識で、左半分が繁殖

閉口ともなるとも午後とはなるなかれ。

いま言語における自由度というものに興味がある。
美しいヴィジョンを形成した瞬間に
そのヴィジョンを破壊するところに行ければいいと思う。


二〇一四年十月二十九日 「卵」


終日
頭がぼんやりとして
何をしているのか記憶していないことがよくある
河原町で、ふと気がつくと
時計屋の飾り窓に置かれている時計の時間が
みんな違っていることを不思議に思っていた自分に
はっとしたことがある

きょう
ジュンク堂で
ふと気がつくと
一個の卵を
平積みの本の上に
上手に立てたところだった

ぼくは
それが転がり落ちて
床の上で割れて
白身と黄身がぐちゃぐちゃになって
みんなが叫び声を上げるシーンを思い浮かべて
ゆっくりと
店のなかから出て行った


二〇一四年十月三十日 「ピーゼットシー」


 きょうからクスリが一錠ふえる。これまでの量だと眠れなくなってきたからだけど、どうなるか、こわい。以前、ジプロヘキサを処方してもらったときには、16時間も昏睡して死にかけたのだ。まあ、いままでもらっていたのと同じものが1錠ふえただけなので、だいじょうぶかな。ピーゼットシー。ぼくを眠らせてね。


二〇一四年十月三十一日 「王将にて」


 西院の王将で酢豚定食を食べてたら、「田中先生ですよね。」と一人の青年から声をかけられた。「立命館宇治で10年くらいまえに教えてもらってました。」とのことで、なるほどと。うううん。長く生きていると、どこで、だれが見てるかわからないという感じになってくるのかな。わ〜、あと何年生きるんやろ。


詩の日めくり 二〇一四年十一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一四年十一月一日 「She’s Gone。」


風水って、よう考えてあるえ。
そなの?
東西南北すべてに地上があって宇宙があるのよ。
東に赤いもんを置くのは、あれは、お日さんがあがってきはるからやし
西に黄色いもんを置くのは、あれは、お月さんの明かりを表してあるのんえ。
へえ。
ちょっと、きょう撮ったこの花見てえな。
なになに。
これ、冬桜。
へえ、大きいの?
アップで撮ったから大き見えるけど、こんなもんえ。
と言って、右手の人差し指と親指のあいだをつづめて2、3センチにして見せる。
藤とザクロと枇杷は、家の敷地のなかには植えたらあかんえ。
なんで?
根がものすごう張るし、上も繁殖するから、家のなかに光が入らへんのえ。
そだよね。
藤の花って、きれいだよね。
むかし、船くだりして見た藤の花の美しさには、びっくりした。
トモくんといっしょに、船で川くだりしてたときに見たんだけど
船頭さんの話を聞かされながら川をくだってたんだけど
がくんとなって、はっとして見上げたら
数十メートル先の岩頭に、藤の花がまといつくように
いっぱい咲いていて、あの紫色の花が
太陽光線の光で、きらきらきらめいて、ほんとにきれいやった。
突然、ふっと目に見えるところに姿を現わしたってことも
その美しさをより増させたように思う。
こころの準備のないときに、ふっと姿を現わすということ。
このことは、ぼくにヴァレリーの、つぎのような言葉を思い起こさせた。
それとも、つぎのようなヴァレリーの言葉が、ぼくにこのような感慨を抱かせたのか。

 兎は、われわれを怯えさせはしない。しかし、兎が、思いがけず、だし抜けに飛び出して来ると、われわれも逃げ出しかねない。
 われわれに取って抜き打ちだったために、われわれを驚嘆させたり、熱狂させたりする観念についても、同じことが言える。そういうものは、少し経つと、──その本来の姿に戻る……
(『倫理的考察』川口 篤訳)


二〇一四年十一月二日 「Sara Smile。」


ずいぶん、むかし、ゲイ・スナックにきてた
花屋の店員が言ったことだったかどうか
忘れてしまったのだけれど
切花を生き生きとさせたいために
わざと、切り口を水につけないで
何日か、ほっぽっておいて、かわかしておくんだって。
それから、切り口を水にさらすんだって。
すると、茎が急に目を醒ましたように水を吸って
花を生き生きと咲かせるんですって。
さいしょから
たっぷりと水をやったりしてはいけないんですって。
そうね。
花に水をやるって感じじゃなくって
あくまでも、花のほうから水を求めるって感じでって。
なるほどね。
ぼくが作品をつくるときにも
さあ、つくるぞって感じじゃなくて
自然に、言葉と言葉がくっついていくのを待つことが多いもんね。
あるいは、さいきん多いんだけど
偶然の出会いとか、会話がもとに
いろいろな思い出や言葉が自動的に結びついていくっていうね。
ああ
なんだか
いまは、なにもかもが、詩とか詩論になっちゃうって感じかな。
書くもの、書くもの、みんなね。

すると、マイミクの剛くんからコメントが

たしか
水の代わりに炭酸水をやるといいらしいですよ

これも
ストレスみたいなものでしょうね

ぼくのお返事

初耳でした。
ショック療法かしらん。

すると、またまた、剛くんからコメントが

ヴァレリーの兎みたいですね。

ぼくのお返事

そうね。
そして、その驚きが長続きしないように
切花も
ポエジーも
瞬間的沸騰をしたあとは
じょじょに
あるいは
急激にさめていくという点でも酷似してますね。
ふたたび熱されることはあってもね。
まえより熱せられることは
まれですね。
シェイクスピアや
ゲーテくらいかな。
ここに
パウンドをくわえてもいいかな。
あと
ボードレールくらいかな。
きのう
おとつい
ずいぶんむかしの自分のメモを読み返して
ボードレールのすごさに
感服してました。

すると、またまた、剛くんからコメントが

あつすけさんは、ボードレールをどの本でどの訳で読みますか?

ぼくのお返事

人文書院の全集を持ってるから、それで。
詩は文庫で堀口さんと三好達治だよ。

マイミクの阿部嘉昭さんからもコメントが、じつは、うえの剛くんとの応答の前に

水で蘇るというのは
やはり魔法ですね。

花田清輝『復興期の精神』の
「クラヴェリナ」は
はたして実在の生物なんだろうか。

ぼくのお返事

花だ性器ですね。
読んだことがないのですが
ああ
まだまだ読んだことのないものだらけです。
読むリストに入れておきます。


二〇一四年十一月三日 「If That’s What Makes You Happy。」


ときおりボーッとしているときがあるのだが
放心と言うのだろうけれど
わたしはときどきそういう状態になるが
起きているあいだにも
自我が休息したいのだろう
魂が思考対象と共有する部分を形成しないときがあるようだ

孫引きされたマルセル・モースの『身体技法』を読んで
こんなことを思った
たしかにそうだ
人間は食べることを学んで食べることができるのだ
話すことを学んで話すことができるのだ
愛することも学ばなければ愛せないだろう
愛することのはじめは愛されること
また他人がどう愛し愛されているかを知ることも大事
自分とは違った人間が
自分とは違った愛され方をし
愛し方をしていることを知るのも大事

食べ方が違う
話す言葉が違う
愛し方が違う
いま同じ日本にいる人間でも
ひとりひとりどれだけ違うか考えると
人間というものがいかに孤独な存在かわかる
かといって
同じ食べ方
同じ言葉
同じ愛し方
これは孤独ではないが
とてもじゃないけれど
受け入れがたいことだ

まるでミツバチのようだ

マルセル・モースの『身体技法』から
ずいぶん離れたかもしれないけれど

ふと思ったのだが
愛もまたわたしという体験からなにかを学ぶのかもしれない
神がわたしという体験を通じて学ぶように

エドモンド・ハミルトンの『蛇の女神』(中村 融訳)を読んでいると
「音には目をくらませる力がある」とあったのでメモしていたら
ジミーちゃんから電話があって
「あなたの詩は
 リズムによって
 理性が崩壊するところがよい。」
と言われて
ものすごい偶然だと思った

正確に言うと
電話があったのは
メモをルーズリーフに清書しているときにだけど

その花は肛門をひろげたりすぼめたりしていた。


二〇一四年十一月四日 「シャロンの花」


 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『輝くもの天より堕ち』を読み終わった。ぼくが満点をつけるSFは10冊から20冊のあいだの数だと思う。けっして少ない数ではないが、これは満点以上のものだった。本文517ページに、「シャロン」あるいは「シャローン」は「そこらの女」という意味の俗語だという割注があったのだけれど、ぼくの辞書やネットで調べても、そういう意味がなかったが、シャロンというのはイスラエル西部の肥沃な場所で、もとは「森」の意とあった。俗語に詳しくないし、ネイティヴでもないので、「シャロンの花」とかいった言葉が聖書にあるが、そういったものが転用されて、俗語化して卑俗な意味になったのかもしれない。これは、いつか、ネイティヴの知り合いに話す機会があれば、訊いてみようかなと思う。物語に夢中になって、引用メモすることをいっさいせずに読み切ってしまったので、これから印象に残った言葉を探さなければならない。一か所だけだけど。内容はだいたいこういうもの。「すべてのもとは、子どもの時代になにをしたかということ。」もちろん、ぼくは、「なにをしなかったか。」ということも大事だと思うけれど、いまからできることも大事だとも思う。数時間前の読書なのに、記憶が違っていた。本文497ページ「もしもあなたが年を経た金言を聞きたければ、わたしはこういいたい。幼いころにあなたがやるすべての行動、そして起きるあらゆることが重要だと。」(浅倉久志訳)


二〇一四年十一月五日 「お風呂場」


お風呂場でおしっこしたり、セックスしたり、本を読んだり、ご飯を食べたり、自転車に乗ったり、家族会議を開いたり、忙しいお風呂場だ。


二〇一四年十一月六日 「言葉」


言葉にも食物連鎖がある。
言葉にも熱力学の第2法則がある。
言葉にもブラウン運動がある。
言葉にも屈光性がある。
言葉にも右ねじの法則がある。
言葉にもフックの法則がある。


二〇一四年十一月七日 「ヴォネガットの『国のない男』を読んで」


人間というのは、何かの間違いなのだ。
(ヴォネガット『国のない男』2、金原瑞人訳)

たまには、本当のことを書いてみたらどうなの?
(ヴォネガット『国のない男』2、金原瑞人訳)

ご存じのように、事実はじつに大きな力を持つことがある。われわれが望んでいないほどの力を。
(ヴォネガット『国のない男』2、金原瑞人訳)

  〇

いくつか全行引用詩に使えそうなものを抜き書きしてみた。しかし、読んだ記憶がある文章も書いてあった。もしかしたら、読んだ本かもしれない。つぎのような個所である。

  〇

思い切り親にショックを与えてやりたいけど、ゲイになるほどの勇気はないとき、せめてできそうなことといえば、芸術家になることだ。これは冗談ではない。
(ヴォネガット『国のない男』3、金原瑞人訳)

  〇

 そいえば、ヴォネガットも専攻は化学だったらしい。ぼくと同じで、親近感が増すけど、ヴォネガットのような経験もやさしさや思いやりも、ぼくにはないので、人間はぜんぜん違う。ヴォネガットは、こうも書く。

  〇

詩を書く。どんなに下手でもかまわない。ただ、できる限りよいものをと心がけること。
(ヴォネガット『国のない男』3、金原瑞人訳)

  〇

「できるだけよいものをと心がけること。」これは、もちろん、ぼくもいつも思っていること。


二〇一四年十一月八日 「ヴォネガットの『青ひげ』を読んで」


 たまにする失敗。本のうえで、開けたページのうえで、メモをとっているときに、ペンがすべって、メモしてる紙からはみ出して、本のページのうえを、ペンがちょろっと走ること。いま、ヴォネガットの『青ひげ』184ページのうえで起こった。2行+***+2行目の下のほう、「途中ずっと」の左横で。読書が趣味なだけではなくて、うつくしい表紙の本のコレクターでもあるぼくは、以前なら、本のページがちょっとでも汚れたりしたら、発狂した人間がとる行為のような勢いで部屋のすみに本を投げつけたりしたものだけれど、きょうはおとなしかった。どうしてだろうか。いや、むしろ落ち着いておとなしい、いまのぼくの精神状態のほうが、以前の精神状態よりも狂っているような気がする。ちょっとしたインクの汚れ、これが数時間後に、あるいは、数日後に、頭のなかで、巨大な汚れとなって発狂したような状況を引き起こすかもしれない。などと、ふと考えた。いったい、ぜんたい、ぼくは、本の価値をどこに置いているのだろうか。内容だろうか。文字の書かれた紙という物質だろうか。その紙面の美しさだろうか。表紙の絵の好ましさだろうか。いや、そのすべてに価値がある。ぼくには価値があるのだった。そうだ。ぼくのメモの走り書きがなぜ、印刷された文字の左横に存在するのか説明していなかった。ふだんのメモや文章は、すべて横書きにしているのだが、このときのメモにはもう余白がほとんどなく、メモ用紙の下から引き出し線をちょこっと上に書いて、そのあと、メモ用紙の右の残された少ない余白に、それは縦2cm、横5mmほどのものだったのだが、そこに「縦書き」で変更メモを書いたのだった。それが、本のページに縦にペンの走った跡が残される理由だったのである。ちなみにその少ない余白に書いたぼくの言葉は、「別の現実の」であった。ここだけ赤色のインクである。なぜなら、まえの言葉「ある事柄の」のうえを赤線を引いて書いたものだからである。それまでのメモは、そのメモ用紙に関しては、黒インクだけで書いていたからであった。ちなみに、メモ用紙のした3分の1を訂正含めて書き写すと、「p.184うしろ l.6-7参照 現実の出来事が象徴そのものとなることがある。あるいは、現実が別の現実のメタファーとなることがある。(自作メモ)」である。もとの本にはこうある。「ときには人生そのものが象徴的になることがある。」(浅倉久志訳)さて、ぼくがいったい、ふだん、本を読んでなにをしているのか、その一端を披露したのだけれど、本を読んで、その本に書かれた事柄をさらにひねったものにしたり、逆にしたり、拡げたり、一般化したり、パーソナルなものにしたりして、変形しているということなのだ。初期の読書では、詩人や作家の書いたものの解釈をしていたのだが、あるときから、本に書かれた内容以外のものも含めて「読書」に参加するようになったのだった。いわば読みながら創作に関与しているのだった。これを正当な読書だと言うつもりはない。ぼくの読み方だ。ところで、つまらない作品だと思うものに大量のメモをすることもあれば、傑作だけれど、いっさいメモができなかったものもあるのだが、おそらくさきほど書いたような経緯もあるのだろう。あまりに完璧すぎてメモができなかったものにP・D・ジェイムズの『正義』がある。いや、『正義』からもメモをした記憶がよみがえった。しかし、ぼくの頭は不完全なので、あったことのない記憶もあれば、なかったことのある記憶もあるらしい。メモしていなかったかもしれない。読書に戻ろう。ヴォネガットの『青ひげ』への感情移入度がきわめて高い。ふと思ったのだが、「現実が別の現実のメタファーとなることがある。」は、「ある一つの現実がそれとは別の一つの、あるいは、いくつかの現実のメタファーとなることがある。」にしたほうがいいだろうか。いじりすぎだろうか。まあ、状況に合わせて変形すればよいか。そいえば、さっき、ヴォネガットの『青ひげ』(浅倉久志訳)を読んでいて、「「まちがいね」と彼女は言った。」を、さいしょ、「「きちがいね」と彼女は言った。」と読んでいた。ルーズリーフにメモしようと思って再読して勘違いに気がついた。疲れているのだろうか。きのうもほとんど眠っていない。クスリの効きが落ちてきたようだ。


二〇一四年十一月九日 「アップダイクの『走れウサギ』を読んで」


 ジョン・アップダイクの『走れウサギ』の冒頭の2ページを読んで、あれっと思い、さらに2ページを読んで確信した。これ、まえに読んで退屈だと思って、捨てた本だった。しかし、いま読むとメモ取りまくりなのである。ぼくの言葉の捉え方が変わったのだと思う。こういったことも、ぼくの場合、めずらしくないんだな。


二〇一四年十一月十日 「amazon」


こんなやつに笑われたひとは、こんな連中にも笑われています。


二〇一四年十一月十一日 「おれの乳首さわってみ。」


ふざけ合った。
「ほらほら、おれの乳首さわってみ。」
ケンコバが、ぼくに彼の脇のしたをさわらせた。
「これ、イボやん。」
「オレ、乳首3つあるねん。」
「こそばったら、あかんて。」
ああ、楽し、と思ったら目が覚めた。


二〇一四年十一月十二日 「かわいいおっちゃん」


 きょう、近所のスーパー「フレスコ」で晩ご飯を買ってたら、ちょっと年下かなと思えるかわいいおっちゃんがいて、見たら、見つめ返されたので、目線をそらしてしまった。目線をそらしても、まだ見てくるから、近所だからダメだよと思って、顔を上げないで買い物をつづけたけど、帰ってから後悔した。こういうときに、勇気がないから、ときめく出会いができないんやな、と思った。数か月に1度くらいある、稀な機会やのに。また会うかなあ。ここに住んで10年くらいで、はじめて見た顔やったから、もう会わへん確率が高い。もったいないことをしてしまった。ちょっと声をかけるだけでよかったのに。


二〇一四年十一月十三日 「卵は廻る」


一本の指が卵の周りをなぞって一周する
一台の自転車が地球のまわりを一周する


二〇一四年十一月十四日 「マイミクの方のブックレビューで見つけた、ぼくの大好きな詩句。」


マイミクの方のブックレビューで見つけた、ぼくの大好きな詩句。

Jean Cocteau

「赤い包み」
という詩にある詩句

Je suis un mensonge qui dit toujours la v&eacute;rit&eacute; .
(ぼくはいつも本当の事を言う嘘つきだ)

原文を知らなかったので
とてもうれしい。
フランス語が読めないので
語音が楽しめないのだけれど。

あるサイトがあって
そこは英語で、コクトーの言葉が書いてあった。
上の詩句は

I am a lie who always speaks the truth.

でした。
ふつうやね、笑。
でも、lie を受けるのが who なんて、意外やわ。
へんなとこで感心してしまう、笑。

すると、マイミクの剛くんからコメントが

はじめてlieを習ったとき、
英語でこのことばを人に使うと、
ものすごい中傷になるので
日本語のように使ってはいけないといわれた記憶があります。
ジーニアスにも、
かつてはこのことばを使われたら、
決闘を申し込むほどだったとありました。

mensonge は〈嘘つき〉ではなく「嘘」

qui は英語でいうところの「who」ですから
「嘘」が人間のように修飾されているみたいです。

日本語では訳しづらいニュアンスですね。

ぼくのお返事

文法上は、擬人法的な扱われ方で
語意上は、擬人法的に訳したらダメってことね。
堀口大學さんの訳文って
たしか
「わたしとは真実を告げる偽りである。」
って訳していたような記憶があります。
いま
ネットで調べました。

ぼくという人間は虚偽(いつわり)だ、
真実を告げる虚偽(いつわり)だ。 (堀口大学訳)

たしかに、こうでしたね。
しかし、つぎのように訳しておられる方もおられますね。

「ぼくはつねに真実を語る嘘つきだ。」

ジャン・コクトー「赤い包み」末尾 1927 『オペラ』収録

ううううん。
「嘘つき」という訳には抵抗があるなあ。
堀口さんの訳が耳にこびりついてるからかなあ。
まあ、単なるメタファーなんやろうけど。
たしかに、微妙なメタファー。
そうだなあ。
たとえば
名詞の ruin なんてのは、ひとには使わない単語だけど
使うとしても、one's ruin って感じでだろうけど
He was a ruin.

彼は廃墟だった。
彼は破滅だった。
ってメタファーとして使えるってことやね。
たしかに、詩的な感じがするね。

すると、また剛くんからコメントが

嘘そのものってことね。
たんに
不定冠詞の un
数形容詞の un として
「一つの」
「一個の」
と、つけて訳しても、カッコいいかもね。

すると、ぼくがブックレビューで右の言葉を見つけた
当のマイミクのしーやさんからコメントが

そう、嘘つきではなく、正しくは、嘘なのだけれど
詩集ではなく、絵で知ったの
13,Novembre 1934
とあるので、詩集のほうが、先ね
挿絵として描かれたものなのでしょうか
いま、図録がすぐ手元にみつからなくて、あいまい
そう、オペラで括られて、展示されていた気もする
そのための作品だったかもしれない
おとこのこの顔が、描いてあったから
「嘘つき」と勝手に訳した嘘つきです
ちなみにその絵画のほうの英語訳は

I am a lie that always tells the truth 

でした。

ぼくのお返事

that のほうが自然な感じがしますね。

「嘘つき」と訳されてあるものもありますね。
といいますか、いまネットで調べたら
堀口大學さんの訳以外、みんな、「嘘つき」になっています。
不思議!

Comprenne qui pourra:
 Je suis un mensonge qui dit toujours la v&eacute;rit&eacute;.

 わかる人にはわかって欲しい、
 「ぼくはつねに真実を語る嘘つきだ」ということを。 (コクトー「赤い包み」 1927 )

どっちのほうがいいかは、もしかしたら好みによるのかもしれないですね。


二〇一四年十一月十五日 「重力」


鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで
机が同じ向きに90度回転したら
鉛筆は机の上で静止したままだ
鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで
机が同じ向きに90度回転し
それと同じ速さで建物が同じ向きで90度回転したら
鉛筆は机の上を逆向きに転がり落ちる
鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで
机が同じ向きに90度回転し
それと同じ速さで建物が机と同じ向きで90度回転し
それと同じ速さで地面が机と同じ向きで90度回転すると
鉛筆は机の上を逆向きに転がり落ち
机の下を転がり
机の脚元から上昇する
鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで
机が逆向きに90度回転したら
鉛筆は倍速で転がり落ち
机の下を転がる
鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで
机が同じ向きに90度回転し
それと同じ速さで建物が机と逆向きに90度回転すると
鉛筆は机の上から転がり落ちる
鉛筆が机の上から転がり落ちる速さと同じ速さで
机が同じ向きに90度回転し
それと同じ速さで建物が机と逆向きに90度回転し
それと同じ速さで地面が建物と同じ向きに90度回転すると
鉛筆は机の上に静止したままだ


二〇一四年十一月十六日 「本のうんこ」


 本がうんこをするとしたら、自分より小さい本をうんこにして出すんやろうか。それとも、印刷された文字をうんこにして出すんやろうか。まあ、余白の紙をうんこにはしないだろうけれど。おなかをくだしてたら、文字がシャーって出てきたりして。本の出す固いうんこって文字がギューってからまってそう。


二〇一四年十一月十七日 「本のイメージ」


 本のイメージって、鳥かな。魚っぽい形もしてるけど。虫じゃないだろし、猿や犬とも違ってっぽい。やっぱ、鳥かな。鳥は卵だし、本も卵から生まれるのかもしれない。そしたら本が先か卵が先かって話になるのかな。鳥かごのなかの止まり木に小さな本がちょこんと腰かけて、足をぶらぶらさせてる姿が目に浮かぶ。


二〇一四年十一月十八日 「本の料理」


 本を料理する。煮たり、焼いたりするのもいいけど、サンドイッチもいいかな。細く切って、パスタにもできるし、厚く切って、おでんの具材にもいいかもしれない。ピザの生地にも使えるかな。でも、本って、さしみがいちばんおいしかったりして。和・洋・中華、なんにでも使える具材だね。


二〇一四年十一月十九日 「フューチャー・イズ・ワイルド」


 塾の帰りに、五条堀川のブックオフで、『フューチャー・イズ・ワイルド』という本を買った。200000000年後の地球に生息しているかもしれない生物を予測してCGにした本。とてもきれい。108円。きのうも見たのだけれど、買わなかった。でも、気になって、きょう、あるかなと思って行った。200000000年後の世界なんて、関係ないじゃん、とか、きのうは思ってたのだけれど、きょう、通勤電車のなかで、5000000年後の風景とか、100000000年後の風景とか考えてたら、あ、参考になるかな〜と思って、あれ買わなきゃと思ったのだった。氷結した地上で、畳のうえに坐って、おかきをパリパリ食べてるぼくとか、焼けるような日差しのなか、ジャングルのなかで、そばでは巨獣が咆哮してるというのに、ヘッドフォンでゴキゲンな音楽聴きながら、友だちとピンポンしてるぼくとか、思い浮かべていたのだった。


二〇一四年十一月二十日 「ラルース 世界ことわざ名言辞典を読んで」


二兎を追うものは三兔を得る。
証拠より論。
我がふり見て人のふり直せ。
一方美人。
皿を食らわば毒まで。
仇を恩で返す。
三度目の掃除機。
あらゆる善いことをした人でも、わたしに悪いことをした人は悪人である。
金銭は人の尊敬よりも確かな財産である。


二〇一四年十一月二十一日 「円筒形のパパ」


ぼくが授業をしていると
円筒形のパパが
教室の真ん中に現われた
円筒形のパパは
くるくる回転していて
ぼくは授業中なので
驚いた顔をしてみせるわけにもいかず
黒板に向かって
複雑な因数分解の解法について書き出した
式を書き終わったところで振り返ると
やっぱり円筒形のパパは
教室の真ん中で
くるくる回転していて
ぼくは生徒がノートをとり終わるのを待つふりをしながら
生徒の机と宙に浮かんだ円筒形のパパに
交互に目をやった
ほとんどの生徒のペンの動きがとまったことを確かめると
黒板に向かって式の解説をはじめた
黒板をみるときに
ちらっと目の端でとらえた円筒形のパパは
やっぱりくるくる回転していて
生徒といっしょに
せめて
じっとして
こっちを見ていて欲しいな
と思った


二〇一四年十一月二十二日 「パパ」


 父親には恨みごとしかないと思っていたのだが、ひとつだけ、感謝していることがあった。ぼくの知るかぎり、一生のあいだ働かずに生きていた父親の趣味が文学や芸術であったことだ。映画のスティール写真を写真屋に言いつけて1メートル×2メートルくらいの大きなものにして寝室に飾っていたり、しかもそれは外国人俳優のヌード写真だった。たしか、『化石の森』という映画で、レイモンド・ラブロックがベッドのうえで、背中とお尻の半分を露出している白黒写真だった。書斎にはほとんどありとあらゆる本があった。ほとんど外国のもので、なかにはゲイ雑誌もあった。薔薇族やアドンやさぶやムルムといった日本の代表的なゲイ雑誌があった。生涯において、女性の愛人しか持たなかった父親だったが、精神的には、男性にも魅かれていたのかもしれない。あるいは、単なる文芸上の趣味だったのか。継母は、女の愛人には厳しかったが、ゲイ雑誌は、単なる趣味だったと思っていたようだ。ぼくが父親の本棚にあるゲイ雑誌について尋ねると、「単なる趣味でしょ?」と言って笑っていたから。ぼくが翻訳小説に親しんでいるのは、父親の影響だろう。音楽の趣味も、父親の趣味と同じだ。ポップス、ジャズ、ロック、ラテンといったものが好きだった。サンバやボサノバをよく錦市場のところにあった「木下」という喫茶店で聴いた。家でも聴いていたが、父親は、その喫茶店のアイスコーヒーが好きで、ぼくもよく連れて行ってもらった。「ここのママはレズビアン。」と言っていた。大学生のときに、「ママって、レズビアンなの?」って訊いたら、「よく言われますけど、レズビアンじゃありません。」と言っていた。どうだったんだろう。そのお店にはレズビアンって感じの女性や、見た目あきらかにゲイのカップルがよく行ってたから。父親は、そんな雰囲気が好きだったのだろう。父親の頭のなかでは、ゲイやレズビアンは、人生をちょっぴり違った味わいにしてくれるスパイスのようなものだったのだろうかと、いまとなってはそう思う。靴とかもすべてオーダーメイドのおしゃれな父親だった。錦市場のその喫茶店「木下」で飲んだアイスコーヒーはほんとにおいしかった。漏斗状のプラスティック容器を使って、アイスコーヒー用に焙煎されたコーヒー豆の粉を紙フィルターに入れ、氷をたっぷり入れたグラスのうえにそれを置いて、細く湯を注いでいったのだった。とても香り高くて、行くたびに、その香りのよさに目を見張ったものだった。その店のママもいまは亡くなり、その店もないらしい。ぼくも祇園に住んでいたころは、父親とよく行ったものだったが、家を出てからは、下鴨に住んでいたので、錦市場には足を運ばなくなった。きょう、武田先生に、錦市場のなかにある居酒屋さんに連れて行ってもらったのだ。以前は、そんな居酒屋などなかったのであるが、魚介類を目のまえで網焼きして出してくれる店が何軒もできていたのだった。錦市場の様子が、30年前とは、まったく変わっていることに驚かされたが、驚くことは何もないと、いまこの文章を書きながら、ふと思った。30年もたてば変わって当たり前だ。父親によく連れて行ってもらった喫茶店の「木下」もとっくになくなっていた。


二〇一四年十一月二十三日 「アスペルガー」


 いま塾から帰ったんだけど、帰りに五条通りの北側を歩いていると、向かい側から素朴系の口髭ありのかわいい男の子が大きなバッグを背負いながらやってきたんだけど、かわいいなあと思って顔をみたら、近づいてきたから、ええっと思って避けて急ぎ足で通り過ぎたんだけど、振り返ったらふつうに歩いてたんで、べつにヨッパでもなく、なんだか、損した気分。声をかければよかった〜。こんなんばっかし。数年前には、電車のなかで、かわいいなあと思って顔を見たら、にこって微笑まれて、びっくりして、見なかったふりして、場所をかわったんだけど、それもあとでは損した気分。もっと積極的にせなあかんのになあと思いつつ、53才。もう一生、出会いはあらへん感じ、笑。「神々が味わいたいのは、動物の脂身と骨ではなく、人間の苦しみなのよ。」(マーガレット・アトウッド『ペネロピアド』XVI、鴻巣友季子訳、141ページ)そいえば、好きだった子に「言葉とちゃうやろ、好きやったら抱けや。」と言われたのだけれど、「言葉やと思うけど。」みたいなことを言ったような記憶がある。言語化されていないことがらについて解する能力が欠如していたのだと思う。アスペルガーの特徴の一つである。いまでも、そういうところがあるぼくである。


二〇一四年十一月二十四日 「詩の完全立方体」


この詩篇は
一辺が一行の詩行からなる立方体である
一行は一千文字からできている
八個の頂点には句点が置かれている
上面と下面に正方形がくるように置き
上面の正方形の各頂点を反時計回りにABCD
Aの下にEがくるようにして
下面の正方形の各頂点に反時計回りにEFGH
と仮に名づける
辺AE、BF、CG、DHの各中点を通る平面で
この立方体を切断すると
切断面の一方は男となり
もう一方は女となる
平面ABGHでこの立方体を切断すると
切断面の一方は夜となり
もう一方は昼となる
二つの頂点B、Hを通る平面で
体積の等しい四角すいを二つつくる平面で切断すると
切断面の一方は神の存在を証し
もう一方は神の不在を証す
このように
この立方体を分割する際に
同じ体積の立体が二つできるように切断すると
相反する事物・事象が切断面にできる


二〇一四年十一月二十五日 「小鳥」


猫の口のなかで
噛み砕かれた小鳥の死骸が
元の姿にもどって
猫の口から出て
地上から木の上にもどった

小鳥は
幾日も幾日も
平穏に暮らしていた

河川敷の
ベンチの後ろの
藪のなかに捨てられていた
錆びた鳥籠が
もとの金属光沢のある
きれいな姿になっていった

小鳥が
子供が待っている
鳥籠のなかに背中から入っていった
子供は鳥籠の扉を閉めて
後退りながら
鳥と鳥籠を家へ持ち帰った


二〇一四年十一月二十六日 「卵病」


卵の一部が
人間の顔になる病気がはやっているそうだ
大陸のほうから
海岸線のほうに向かって
一挙に感染区域が拡がっていったそうだ
きのう
冷蔵庫を開けると
卵のケースに入れておいた卵が
みんな
人間の顔になっていた
すぐにぜんぶ捨てたけど
一個、割ってしまったようで
きゃっ
という、小さな叫び声を耳にした気がした
こわくて
それから残りの卵はそっとおいて捨てた


二〇一四年十一月二十七日 「素数と俳句/素数と短歌」


 ふと思ったのだけれど、俳句の5・7・5も、短歌の5・7・5・7・7も、音節数の17と31って、両方とも素数だよね。ただそれだけだけど。17と31の数字を入れ替えた71と13も素数だった。べつに、これまた、ただそれだけだけど。


二〇一四年十一月二十八日 「言葉でできた犬」


言葉でできた犬を
ぼくも飼ってる
仕事から帰ると
言葉が
わっと走りよってきてくれる
言葉といっしょに河原を散歩するのも気持ちいい
公園でも言葉といっしょに夕日を見ながら
ジーンとすることもある
いまも隣で
わけわからないながらも
ぼくといっしょに
言葉が
このパソコンの画面を
眺めている


二〇一四年十一月二十九日 「ペリコロール。」


ぺリコロールだったかな
お豆さん入りのパンを食べてたら
けさ、奥歯のブリッジがバキッ
って、割れた。
きょう一日、食べ物に気をつけないと
いや、食べ方に気をつけないと。
左奥歯のブリッジが割れたので
右奥歯で食べないとね。
パンのなかに入ってた豆が硬くて
ふつうは柔らかいんだけど
生地の表面近くにあった豆だったから
焼き上げたときに乾燥して硬かったのね。
ひゃ〜
びっくらこきました。
でも、悪いことのあとには
いいことがあると思うからいいかな。
明日、歯医者に行こうっと。
午後から、もと彼とお食事の約束。


二〇一四年十一月三十日 「小子化」


 きょう、ネットのニュースを見てびっくらこいた。小子化だって。不況のせいで、子どもに栄養が行き渡らないで、だんだん子どもの大きさが小さくなっていってるらしい。このまま不況がつづくと、21世紀の終わりには、5歳の子どもの身長が5cm。15歳の子どもが15cmになると予測されている。


二〇一四年十一月三十一日 「月間優良作品・次点佳作」


今月投稿された詩のなかで
もっとも驚かされたのは
吉田 誠さんの『吉田 誠参上!』でした
目にした瞬間に凍りつきました
高校3年生
体育会系男子
身長176センチメートル
体重67キログラムの吉田さんが
猛吹雪とともに
画面のなかから躍り出てきたからです
まあ、それからの一時間というもの
猛吹雪のなかで
ずっとしゃべりっぱなし
吉田 誠さんの饒舌さには呆れ果てました
というのも
吉田 誠さんは留学先の火星で整形手術をしたらしく
二つの口で同時に違う内容のことを
ずっとしゃべりつづけていたのですもの
しゃべり終わると
吉田 誠さんはすっと目の前から姿を消してしまいましたが
画面のなかをのぞいても何も出てこず
幻でも見たのかしら、などと思ってしまいました
(後で留学先の火星に帰られたことがわかりました)
今月、一番、驚かされたのは
この吉田 誠さんの『吉田 誠参上!』でしたが
つぎに驚かされたのが
吉田 満さんたちの『手』でした
画面を見ると
ぐにゅっと手がでてきて
ぼくの手をパチンってしばいたのです
それも一本の手ではなく
何十本もの手で

びっくりして画面を見ると
パソコンのスピーカーから「ナンじゃ、ワレッ」という怒鳴り声の合唱が聞こえたので
蹴りつけて踏んづけてやりました
ぎゅっ、ぎゅって踏んづけてやると
吉田 満さんたちの手はおとなしくなりました
つぎに驚かされたのは
吉田和樹さんの『ぺんぺん草』でした
画面を見ると
床一面にぺんぺん草が生えて
ぼくの部屋が河川敷の見慣れた景色になりました
毒気の強い作品が多いなかに
このような凡庸な作品もときにはよいのではと
みなさんも、こころ癒されてくださいね
発想は貧弱ですが、想念を現実化する確かな描写力には目を瞠りました
以上の3作品を、今月の優良作品に選びました。
いつものように
つぎに、次点佳作の方のお名前と作品名をあげておきますね

次点佳作

吉田めぐみ「フランケンシュタインとメグ・ライアン」
吉田裕哉「戦場の花嫁 あるいは 戦場は花嫁か?」
吉田ところてん「イカニモ・ガッツリ・発展場」
吉田ぼこぼこ「昼ご飯を食べるのを忘れて」


詩の日めくり 二〇一四年十二月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一四年十二月一日 「イエス・キリストの磔刑」


 イエス・キリストが磔にされるために、四条河原町の交番所のところを、自分が磔にされる十字架を背負いながら歩かせられていた。それほど多くの民衆が見ていたわけではないのだけれど、片側の狭い橋のうえは、ひとが磔にされる様子を見ようとする人間でいっぱいだった。磔など、そう珍しくもないものなのに。イエスが河川敷に降りていく坂道でつまずいた。すると、警吏のひとりが鞭を振り上げて、イエスの血まみれの膝に振り下ろした。ビシリという鋭い音がすると、イエスの血まみれの膝にあたらしい傷口が開いた。イエスの身体がよろけた。背負っていた磔(はり)木(ぎ)が、彼の背中からずり落ちた。すると、別の警吏が、群衆の先頭にいて、イエスの様子を見ていたぼくの目のまえに鞭を振り下ろして、「おまえが代わりに背負え!」と大声で言い放った。鞭の音とともに、地面のうえを一筋の砂塵が舞い上がった。恐怖心でいっぱいのぼくは、臆病なくせに、好奇心だけは人並みに持ち合わせていたのであろう、裸同然のぼろぼろの腰布一枚のイエスの代わりに、重たい磔木を背中に負って、刑場の河川敷の決められた場所まで歩いた。道中をイエスが磔木を引きずらなければならなかったのと同様に、そのあまりに重い磔木を、ぼくもまた河川敷の地面のうえで引きずらなければならなかった。群衆の見ているまえで、ぼくは磔木を刑場の決められた場所まで運んだ。警吏たちがイエスの身体を十字架のうえに載せ、一本ずつ釘をもって彼の手のひらを磔木に打ちつけると、イエスがそのたびに悲鳴をあげた。警吏たちが、イエスの両足を重ねて、太い釘で磔木に突き刺すと、イエスはひときわ大きな悲鳴を上げた。何人もの警吏たちによって、磔木が立てられると、それを見ていた群衆たちは罵声を上げながら手を叩きだした。拍手しだしたのである。さすがに、ぼくには、拍手をする気など起こるはずもなく、ただ、苦痛にゆがんだイエス・キリストの顔を見上げることしかできなかった。風はなく、空には雲ひとつない、十二月の第一日目の出来事であった。そう思っていると、どこから雲があらわれたのか、にわかに空がかち曇り、突然の嵐のように風が吹きすさび、大雨が降りだしたのである。イエスが雨に濡れた顔を上げて、何か叫んでいた。聖書にある言葉だったのであろうか。でも、その言葉ではなかったような気がした。


二〇一四年十二月二日 「かさかさ」


後ろで、かさかさという音がしたので振り返った。すると、かさかさという文字が壁のうえを這っていた。手でぱちんと叩くと、ぺちゃんという文字となって床のうえに落ちた。


二〇一四年十二月三日 「シェイクスピア」


 ウルフの『自分だけの部屋』を読んでいるのだが、たしかにまっとうな見解だとは思うものの、ちょっと古いなあと思われる記述もある。じっさい、古い時代の書物なのだが、ではなぜ、シェイクスピアが古くならないのだろうか。シェイクスピアにはなにがあるのだろう。あるいは、なにかがないのか。わからない。きょうは、ヴァージニア・ウルフの『自分だけの部屋』のつづきを読みながら寝よう。バリントン・J・ベイリーの『時間帝国の崩壊』めっちゃゲスい。10年ほどむかしに、たしか、5000円くらいで買った記憶があるのだけれど、ちょっとイラッてくる。ふと思ったのだけれど、なぜシェイクスピアの戯曲が、その言葉が、いまにいたってもなお、ぼくのこころに深く迫ってくるのかというと、それは、シェイクスピアの言葉の簡潔さ、単純さ、直截さによってもたらされたものではないのかなって。どかな。もちろん、きわめてレトリカルでもあるのだけれど、使われている言葉は、常日頃、ふつうに使われている言葉ばかりなのだ。


二〇一四年十二月四日 「シェイクスピア」


カレッジクラウン英和辞典をパラパラとめくっていると

Silver often occurs native.
銀はよく自然のままに見いださる

といった
受験のときに見た覚えのあるものや

A mule is a cross between a horse and an ass.
ラバは馬とロバの合いの子である

という
とっくにぼくが忘れている
というか
思い出すことのなかったものや

There was a congregation of bees around the hive.
ハチの巣のまわりに蜜バチが群れていた

といった
まるで詩の一節のようなものに出会ったのだけれど

Shakespeare had small Latin and less Greek.
シェイクスピアはラテン語はほとんどわからなかったし、ギリシア語にいたってはなおいっそうわからなかった

なんてのに出くわしたときには
なんだか固い言い方だけど
当惑させられてしまった
本を読んで
シェイクスピアが大学を出てなかったことや
ギリシア語やラテン語ができなかったってことは知ってたけど
何も辞書の例文として、そんなことまで書かなくてもいいんじゃないのって
そう思った
そんなことで
うんこにすることないんじゃないのって
顔面ストリップ
友だちのハゲが気にかかる
ぼくも売り切れです


二〇一四年十二月五日 「言葉」


空気より軽い言葉がある。
その言葉は空中を上昇する。
空気より重い言葉がある。
その言葉は空中を下降する。


二〇一四年十二月六日 「言葉」


うちの近所にうるさい言葉が飼われていて
近づくと、うるさく吠えかかってくる。


二〇一四年十二月七日 「言葉」


北半球では
言葉も
東から上り
南で最高点に達し
西に沈む。


二〇一四年十二月八日 「興戸駅」


これって生まれてはじめての経験かも。
ぼくがびっこひきひき歩いていたら
後ろから歩いてきた学生たちが
みんな
ぼくを横切って
ぼくの前を歩いていった。
ぼくだって歩いていたのに
なんだか
ぼくだけが後ろに
ゆっくりとさがっていってるような
そんな気もした。
なにもかもが
ゆっくり。

ぼくが見上げた空は
たしかにいつもよりゆっくりと
風景を変えていった。

いつもより
たくさんのものに目がとまった。
田んぼの周りに生えている雑草やゴミ
通り道にあった
喫茶店のドアに張られたメニューのコピー
歩道橋の手すりについた、まだらになった埃の跡。
これって、きっと雨のせいだろうね。
さいきん降ったかな。
どだろ。
ぼくは何度も
その埃が手のひらにくっついたかどうか
見た。
埃はしっかり
銀色に光った鋼鉄製の手すりにこびりついていて
(ステンレススティールだと思うけど、違うかな?)
ぼくの手のひらは、ぜんぜんきれいだった。

歩きながら食べようと思って
ル・マンドというお菓子を
リュックから出したら
そのお菓子を買ったときのレシートが道に落ちたので
拾おうとして、しゃがみかけたら
学生服姿の高校生の二人組のうちの一人が
さっと拾い上げて
ぼくに手渡してくれた。
きっと、ぼくの足が不自由だと思ったからだと思う。
人間のやさしさって
感じる機会ってあんまりなくって
あんまりなかったから
電車の扉がしまってからでも
その高校生たちの後ろ姿を
見えなくなるまで
ぼくの目は追っていた。


二〇一四年十二月九日 「生きること」


 生きてみないと、意味がわからない。生きていても、意味がわからない。生きているから、意味がわからない。意味がわからないけれど、生きている。意味がわからないのに、生きている。意味がわからないようにして、生きている。このどれでもあるというのは、生きていることに意味がないからであろう。それとも、このどれでもなくって、意味があって、生きているのかもしれない。でも、その意味がわからない。しかし、意味がわからなければ、自分で意味をつくればいいわけで、それなら、いくらでも意味を見いだせる。見いだした意味が、自分の人生に意味をつくりだす。でも、とりあえず生きてみることかな。つべこべ言わずにさ。齢をとって容色は衰え身体も大丈夫でないところが出てくるのだけれど、とりあえず生きつづけることかな。意味よりは、まずは生きていくことの使命のようなものを感じる。生まれてきた以上、生きつづける努力は必須なのだと思う。


二〇一四年十二月十日 「恋人たち」


過去形で書いてきた恋人たちだって、いまでもまだ、ぼくのなかでは現在形である。いや、未来形であることさえあるのだ。


二〇一四年十二月十一日 「桃太郎」


 村人たちは笑顔で宝物を桃太郎に手渡した。桃太郎は後ろ向きに歩いて大八車のうえに宝物を並べて置いた。すると、犬や雉も宝物を持って後ろ向きにやってきて、それを大八車のうえに載せた。山盛りいっぱいになった宝物を積んだ大八車を後ろ向きに進ませて、桃太郎たちは後ろ向きに歩きはじめた。一行は港に着けてあった船に後ろ向きに歩いて乗り込んだ。船は後ろ向きに海のうえを走った。鬼が島に着くと、一同は宝物を積んだ大八車を後ろ向きに押して鬼のすみかまで運んだ。そうして、桃太郎たちは、血まみれの鬼たちに宝物を順々に配っていった。


二〇一四年十二月十二日 「間接キッス」


台湾にいるテッドから葉書がきた。貼り付けてあった切手をうえからちょっと舐めてみた。間接キッスかな、笑。


二〇一四年十二月十三日 「タクシーを捨てる」


「タクシーを拾う」という表現があるのだから、「タクシーを捨てる」、あるいは、「タクシーを落とす」といった表現があってもよいのになあと、ぼくなどは思う。


二〇一四年十二月十四日 「宇宙」


 たぶん、ぼくたちひとりひとりは、違った宇宙なんじゃないかな。だから、ぼくがぼくの地球上で空気より重いものを放り投げてたら、ぼくの宇宙では下に落ちるけれど、ほかのひとの宇宙では、地球上で空気よりも重いものを放り投げても、宙に浮いて空にまで上がってしまったりすることもあるんじゃないかな。違った宇宙だから、違った力が作用したりするんだろうね。そうだね。ぼくたちは、ひとりひとりが、きっと違った宇宙なんだよ。そんな気がする。


二〇一四年十二月十五日 「お出かけ」


これが光。これからお出かけ。少し雨。これが光。ぼくのなかに灯る。少し雨。


二〇一四年十二月十六日 「100円オババと、河原町のジュリーと、堀 宗(そ)凡(ぼん)さんのこと」


ぼくが子どものころ
祇園の八坂神社の石段下で
よく、100円オババの姿を見かけた。
着物姿の、まあ、お手伝いさんって感じのババアだった。
うちにも、ぼくや弟たちが子どものころは
お手伝いのおばあさんがいたのだけれど
うちのお手伝いのおばあさんたちのほうが
だんぜん清潔っぽかったし、見た目もよかったし
なにより、ずーっと穏やかな感じだったように思う。
いまだに、おふたりの名前は覚えている。
おふたり以外のお手伝いのおばあさんたちの名前は出てこないけど。
すぐ下の弟のほうは、「あーちゃん」
一番下の弟のほうは、「中島のおばあちゃん」
と呼んでいた。
なつかしい、音の響きだ。
どちらのお名前も、思い出すのは、数十年ぶりかもしれない。
一番下の弟を背に負いながら、トイレをしていて
ひっくり返って、弟が泣き叫んで
その声のすごさに家中で大騒ぎになって
一日でクビになったお手伝いのおばあさんの顔は覚えているのだけど
そのおばあさんって、一日だけのひとだったのだけれど、顔は覚えていて
名前は覚えていないのね。
人間の記憶って、不思議ぃ〜。

100円オババは、道行くひとに
「100円、いただけませんか?」
と言って歩いていたのだけれど
まあ、早い話が
歩く女コジキってとこだけど
あるとき、父親と、すぐ下の弟と
祇園の石段下にあった(いまもあるのかな)
初音といううどん屋さんに入って
それぞれ好きなものを注文して食べていると
その100円オババが、店のなかに入ってきて
すぐそばのテーブルに坐って
財布から100円硬貨をつぎつぎに取り出して
お金を数えていったので
びっくりした。
「あれも、仕事になるんやなあ。」
と父親がつぶやいてたけど
ぼくは
ぜんぜん腑に落ちなかった。

河原町のジュリーと呼ばれていたコジキがいた。
死ぬ半年くらい前に
市の職員によって救い出され
病院に入っていたのだけれど
足かな
膝かな
歩くのに不自由していたのだけれど
そのボロボロのコジキ姿を見かけると
ぼくは、とても強い好奇心にかられた。
そのひとの過去が自由に頭のなかで組み立てられたからだ。
何才くらいだったのかな
70才は過ぎてたと思うけど。
もしかしたら、過ぎてなかったかもしれない。
あるとき
祇園の八坂神社の向かって左側の坂道で
父親とぼくが
河原町のジュリーが足をひきずりながら歩いてくるのを見ていた。
ジュリーが近くまでくると
父親がタバコの箱を手渡した。
ジュリーは
脂まみれのドレッド・ヘアーのその汚い頭を大きく振って
ぼくの父親に何度も頭を下げていた。
父親は、つねづね、
施しだとかいったことは偽善だと言っていたように記憶しているのだが
父親が、ジュリーにタバコをやっていたのは、このときだけではなかったようだ。
ぼくの心理はとても単純なものだけれど
ぼくの父親の心理は、ぼくにはまったくわからないものだった。

日本でより
外国でのほうが有名だったのかしら?
堀 宗凡さんに
フランスの雑誌社がインタビューするというので
そのときに
宗凡さんの家の庭に立てる板に
ぼくがいくつか、一行の詩を
花の詩を書いてあげたのだけれど
雑誌には
ぼくの名前がいっさい載らなかった。
庭に立てられた板の詩は載っていたように記憶しているのだけれど。
宗凡さんのお人柄は
とてもあっさりしたもので
ぼくもお茶を少し習っていたし
お茶だけでなく、個人的にも交流があったのに
ぼくの名前をいっさい出さなかったことに
ぼくはとても強い怒りを感じた。
いまでも不思議だ。
なぜ、ぼくの詩だという説明が
どこにもなかったのか。
そのことは、宗凡さんがもう亡くなられたので
きくことができないけれど。
そのときの、ぼくの一行詩。
いくつか書き出してみようかな。

花もまた花に見とれている。

これって、ヴァリエーション、いくつもできるね。

見つめているのは、わたしかしら? それとも花のほう?

花も花の声に耳を澄ませている。

とかとかね。
そいえば、むかし、『陽の埋葬』のひとつに

雨もまた雨に濡れている。

と書いたことがあった。


二〇一四年十二月十七日 「「あ」と「い」のあいだ」


こぶし大の白い立方体の上に「あ」が生まれる
こぶし大の白い立方体の下に「い」が生まれる
こぶし大の白い立方体が消え去る
こぶし大の白い立方体が消え去っても
「あ」と「い」は存在しつづける
かつて「あ」と「い」のあいだには
こぶし大の白い立方体が存在していたのだが
いまや「あ」と「い」のあいだには
何もない
かつて「あ」と「い」のあいだに
こぶし大の白い立方体があったことを知っているのは
わたしとこの言葉を読んでいるあなただけだ
わたしたちの知らないところで
こぶし大の白い立方体が現われては消えてゆく
わたしたちの知らないあいだに
こぶし大の白い立方体が現われては消えてゆく


二〇一四年十二月十八日 「名前間違え」


 塾の帰りに、ふだんは見ない日本人作家の棚の方へ足を運んだら、永 六輔さんが選者をしてらっしゃる『一言絶句』という本があって、サブタイトルが「「俳句」から「創句」へ」とあって、あれ、たしか、むかし、『鳩よ!』という雑誌で、ぼくの作品が選ばれたことがあるぞと思って、手にとってみたら、ぼくが書いた

鮭はうれしかった、またここに戻ってこられて
川はよろこんだ、まだ水がきれいだと知って

が、133ページ(光文社 知恵の森文庫 2000年初版第一刷)に載ってたのだけれど、いまのぼくなら、「水」を「自分」にするかなって、ふと思った。あ、光文社さんからは、あらかじめ、なんの連絡もなかったのだけれど、この本のなかで、作者の名前が「田中弘輔」になってて、ぼくの名前って、そんなに珍しくないだろうから、間違いにくいと思うんだけど、訂正していただける機会があったら、光文社の方に訂正していただきたいなと思った。こうして、名前を間違えられたのだけれど、間違えられた名前のひともいらっしゃる可能性はあるわけで、自分が書いてもいないものを書いたと思われて迷惑なひともいるだろうなと思った。ところで、ネットでググると、ぼくと同じ名前のひとが何人もいらっしゃってて、「田中宏輔」というと、ハゲ・デブ・短髪・ヒゲのゲイの詩人だと思われて迷惑なひともいるような気がする。自分で、ハゲ・デブ・短髪・ヒゲのゲイの詩人だって公言してるからね。そいえば、「田中宏輔」というお名前のプロ野球選手もおられる。

ありゃ、いま奥付を見たら

「お願い(…)どの本にも誤植がないようにつとめておりますが、もしお気づきの点がございましたら、お教えください。(…)」

ってありました。連絡してみましょうか。ツイットのアカウントにあるかもしれませんね。検索してみます。

ありました。つぎのようなツイートを送りました。

 知恵の森文庫の、永 六輔さんの『一言絶句』に、作品を収録されている作者なのですが、作者名の一文字が違っています。133ページの作者名「田中弘輔」は、正しくは、「田中宏輔」です。きょう、偶然、本を目にして、気がつきました。そのうち訂正していただければ幸いです。


二〇一四年十二月十九日 「ふと思い出した言葉」


 キッチンでタバコをすってたら腰をぐねった。体重が重すぎてだと思うけれど、ひとりだけど、カッコつけて足を交差させていたためだと思う。なんちゅう重さ、笑。かなり太った感である。むかし、「このでっかい腹は、おれのもんや」と言われた記憶がある。だれにだったろう。(覚えてるよん、エイジくん、チュッ!)


二〇一四年十二月二十日 「自由電子」


いきなり自由だなんて
まあ、かまわないけどね。
               ──自由電子

どうせ、自由電子の顔なんて
ひとつひとつ、おぼえてなんかいないでしょ?
まさか、きみも自由電子?
ぼくも自由電子。
そろそろまいりましょうか?
そうさ、お前も強い電磁場のなか
思い通りには動けないのさ。
じゃあ、もう自由電子じゃないじゃん。
不自由電子じゃん。
自由なうちにやりたいことやっておかなきゃね。
マニア
自由電子もエコだから。
ブイブイ。
ちょいとちょいと
そこの自由電子のおにいさん、
寄ってかない?


二〇一四年十二月二十一日 「コンドーム」


コンドーム
って、おもしろいものですよね。
チンポコ以外のものにもはめられますものね。
拳銃は男性器のシンボルの一つでしたね。
弾は精子ですものね。
でも、拳銃だと、精子が突き抜けちゃいますね、笑。
なんかおもしろい。
答案用紙に穴をあけるのに、コンドームをかぶせる必要はないのですが
必要のないことをするというのが、人間のおもしろさで
文化とか、芸術とかって、そんなところにあるんだな〜
とかとも思いました。
ところで
2年ほど前に聞いた話です。
インド旅行に行った若い男の子が
売春宿の裏側にまわってみたら
使った後のコンドームが洗って干してあったんですって。
いっぱい。

それを写真に撮ろうとしたら
とても怖い感じのひとがカメラを取り上げたんですって。
こわいですね〜。
一度使ったコンドームをまた使うなんて。
いや
怖いというのではなくて
貧しさが、そうさせているのでしょうけれど
この逸話を
立ち飲み屋で
おもしろそうに話している若い男の子に
「無事に帰れてよかったね。」

ぼくは言いました。
中盤から終わりにかけての情景
まるで映画のよう
そういえば
冒頭のシーンも映画のひとコマのよう。
とても映像的で
シリアスなのに
ユーモラスでもありました。
楽しい話でしたね。
いま部屋で、キーボードを打ち込んでいるのですが
なんだか、外に出て行きたくなっちゃいました。
公園は寒いから
古書店めぐりでもしようかな。
あ、いま気がつきましけれども
コンドーム
のばす「ー」を「う」にしたら
こんどうむ
今度産む
になちゃうんですね。
おもしろい。


二〇一四年十二月二十二日 「芸術家の幸せ」


 いまふと思ったのだが、詩を読めるだけでも幸せなのに、詩を書かなければ、より幸せではないというのは、とても不幸なことではないかと。もしかしたら、芸術家って、芸術作品をつくらなくなったときに、ほんとうの幸せがくるのかもしれない。まあ、それを世間じゃ、芸術家の死と言うだろうけど。


二〇一四年十二月二十三日 「卵」


窓の外にちらつくものがあったので
目をやった。


二〇一四年十二月二十四日 「代用コーヒー」


メルヴィル『白鯨』の1に
「豆コーヒー」(幾野 宏訳)
フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』の7に
「炒りどんぐりのコーヒー」(篠田一士訳)
というのが出ていた
いわゆる「代用コーヒー」ってヤツね
コーヒー党のぼくとしては
ぜひ一度は飲んでみたいなって思っている
あっ
勝手にコーヒーいれちゃだめだよ
なにさ
なによ
なになにぃ?
なになにぃ?
くるくる
パー!


どんどん×
じゃなく
どんどん書ける
じゃなく
どんどん駆ける
じゃなく
どんどん賭ける
どうしたんだろう
投稿時代みたいだ
投稿時代には
多いときは
一日に十個くらい書いてた
ううううん
間欠泉かな
やっぱ
でもこれでとまったりして、笑


二〇一四年十二月二十五日 「一途」


 きょう、日知庵で飲んでたら、日知庵でバイトをしてる女の子の彼氏が仕舞いかけに店に入ってきたのだが、常連さんのひとりが、「いちずだねえ」と彼氏に声をかけて、彼氏が照れ笑いをしていたので、ぼくが「いちずって、どういう漢字を書くの? いちはわかるけど。」と言うと、「途中の途です。」と答えてくれて、そこですかさず、「一途なのに、途中の途って、へんなの。」と思ってぼくがそう言うと、「途中の途って、道って意味らしくて、一つの道って意味らしいですよ。」「へえ、そうなんだ。さすが京大生、よく知ってるね。」と言って、ぼくも感心したのだった。一途なのに、途中の途ってねえ。ぼくには、おもしろかった。


二〇一四年十二月二十六日 「死体が立ち並んだ畑」


20年近く前ですが
甥の面倒を見ているときに
甥が親から買ってもらっていた
絵をつくって動かすことができるおもちゃで
草原に木を生やしたりして背景をつくり
草原に、たくさんの手が生えるような光景を
つくってやって
その手が、ゆらゆらと動くようにしてやった記憶があります。
パソコンで描く絵の先駆的な
おもちゃだったわけですが
それが思い出されたのです。
手が生えてくるといえば
コードウェイナー・スミスの『シェイヨルという名の星』を思い出しますが
そこは地獄のような風景で
罪人の貴族たちに放射線のようなものをあてて
身体や顔面のいたるところから生えてくる手や足や耳や鼻や目を
牛頭人が、貴族たちの身体から
手術用のレーザーメスでつぎつぎと刈り取って行くというものでしたが
それも思い出しました。
怖くて、ぞくぞくする小説でしたが
いまだに細部の描写をも忘れられません。
のばした手が枯れるというのは
聖書に記述があり、それも美しいのですが
むかし
北山に住んでいたとき
畑に
いっぱい名札が立てられているのを見て
ここには中村さんが
ここには山田さんが
ここには武村さんが
生えてくるのね。
と思ったことがありました。
ずいぶんむかし
ブログか
詩に書いたことがありましたが
あれは
貸し畑っていうのでしょうか。
なんていうのか忘れましたけれど。
名札がたくさん並んでいるのは
不気味で、よろしかったです。
ことに夕暮れなんかに
その畑の前を通りますと。


二〇一四年十二月二十七日 「業」


歌人の林 和清ちゃんとの会話。
「こんど生まれ変わるとしたら
どんな人間になりたいって思う?」
「う〜ん。
高校時代にすっごく好きなヤツがいたのね、
ソイツみたいのがいいな。」
「もっと具体的に言ってよ。」
「具体的ね。
そうだね、
すっごくフツーだったのね、
フツーにあいさつできて、
フツーに人と付き合えて。」
「ふうん。」
「だれとも衝突しないし、
だれからも憎まれたことがないって、
そんなヤツ。」
「は〜ん。
アツスケって、
ほんとに業が深いんだ。」


二〇一四年十二月二十八日 「焼き飯頭」


もしもし
なあに
わかる
よっちゃんでしょ
ああ
きのうは
サラダ・バーでゲロゲロだったね
ほんとにね
あっ
きのう言ってた
死んだノーベル賞作家って
何ていう名前か思い出した
カミロ・ホセ・セラでしょ
きのう
ファミレスで思い出せへんかったから
キショク悪くて
ふうん
あっ
それより
これから
うちに来てゴハン食べへん
なんで
なんでって
べつに
はあ
いっしょのほうがおいしいから
はあ
でも
きのうもゴチになったやん
そんなんええで

つくってくれるん
チャーハン
チャーハン
さいきん
コッてるねん
きのうは焼きそばで
きょうは焼き飯
まあ
まあ
そう言わんと
おいしい
だいじょうぶ
ほな行くわ
まずかったら
近所のコウライに行って
チャーハン食べたらええんちゃう
そやなあ
なあ
なあ
ぼくってなあ
いっぺん
焼き飯って聞いたら
焼き飯頭(あたま)になるねん
はあ 
なにそれ
頭んなか焼き飯焼き飯焼き飯って焼き飯でいっぱいになるねん
ああ
それおもろいやん
じゃ
詩にするわ


二〇〇二年一月十九日のお昼ごろに
このような会話が電話でやりとりされたのです
頭のなかで焼き飯頭焼き飯頭焼き飯頭って頭が焼き飯になった人のイメージを
思い浮かべながら近くに住んでるよっちゃんちに行きました

それ違うやん
焼き飯頭頭(あたまあたま)ってことになるやん
そうでもないんちゃう
どういうこと
焼き飯頭を考えてる頭ってことにならへん
それで
焼き飯頭頭ってこと
ウィ
そっかなあ
そっかなあ
なんか違う気がするねんけどなあ
じゃあ
焼き飯頭頭のことを考えたら
焼き飯頭頭頭になるってことね
焼き飯頭頭頭のことを考えたら
焼き飯頭頭頭頭になるのね
それより
チンチン頭(ヘッド)っていうのもええで
なにそれ
あんたも
ときどきそうなってるはず
あっ
そういうこと
でも
そんなん詩に書けへんわ
やること
やっとるくせに
そやけど
あんまりやわ
チンチン頭(ヘッド)なんて

チンチンと違うで
チンチンになってるやんか
なってるんやろか
なってるはず
ポコポコヘッドもあるで
それ
吉本やん
そういうたら
コーンへッドちゅうのもあったなあ
とうもろこし頭の変な宇宙人がでてくるヤツね
ちょい
チンチンやわ
ちゃうやろ
そうかなあ
おもろかった
見てへん
ぼくもや
あほみたいな感じやったもん
ぼくらの話より
ましかもしれへんで
そうかなあ
そやろかなあ
たぶんなあ
たっぷん
たっぷんな


二〇一四年十二月二十九日 「小鳥」


地面のうえに、ひしゃげてつぶれたように横たわっていた小鳥の骨が血と肉をまとって生き返った。小鳥は後ろ向きに飛んで行った。何日かして、ベンチのうえに置かれた鳥籠に、その小鳥が後ろ向きに飛びながら、開いた扉から入った。鳥籠を持ち上げて、一人の少年が後ろ向きに河川敷を歩き去って行った。


二〇一四年十二月三十日 「ぼくと同じ顔をした従兄」


小学校のときに、継母の親戚のところに一日、預けられたことがあるのですが
よそさまの家と、自分の家との区別がつかなかったのでしょうね。
なにをしても叱られるなんてことがないと思っていましたら
冷蔵庫のプリンを勝手にぜんぶ食べてしまって
その親戚のひとのおやじさんに、きつく怒られてしまいました。
二十歳のときに
実母にはじめて会いに高知に行きましたときに
自分の血のつながった従兄弟たちに会いましたら
そのうちのひとりが、ぼくの顔と体型が瓜二つだったのです。
ぼくは、当時はあまり酒が飲めませんでしたが
ぼくと同じ顔をした従兄は大酒呑みでした。
日本酒を2升は呑むと言うのです。
はじめて血のつながった従兄弟たちといっしょに過ごした日の
夜の大宴会の様子は、いまでもすぐ目に浮かびます。
2、30人の親戚が集まって
祖母の2周忌で、酒を飲んでいたのです。
ぼくの知らない
ぼくの赤ん坊のときの話だとか
ぼくが2歳のときに、従兄弟の顔を引っ掻いたらしくって
「これ、あつすけにつけられた傷やけ。」とか、額の髪を掻き上げて見せられました。
高知弁をもう20年くらい聞いていないので
だいたいの音しか覚えていませんが
京都弁に比べると
いかにも方言って感じに思えました。
京都弁も方言なのですが、笑。
ぼくにそっくりの従兄弟は2歳上だったのですが
数年前に、心筋梗塞で亡くなりました。
亡くなる前に、足を怪我して引きずっていたそうです。
田舎なので、差別語をまだ使っているのでしょうか。
それとも、実母が年寄りなので、差別語というものを知らないのか、
「あの子は、ちんばひきよってね。かわいそうに。」と言っていました。
もちろん、差別意識はなく、使っていた言葉だと思います。
十年以上前ですが、実母が泣きながら、電話で、ぼくに謝っていました。
ぼくの父親が実母と別れた理由のひとつに
実母が被差別部落出身者であることを
結婚するまで、ぼくの父親に隠していたとのことでした。
それが原因のひとつで、ぼくの父親と離婚したとのことでした。
もう三十代半ばを過ぎていたからかどうかはわかりませんが
ぼくの身体に、被差別部落のひとの血が流れていることに
なにも恥じる気持ちも、逆に誇る気持ちも感じませんでしたが
たぶん、若いときに聞かされていても、動揺はしなかったと思います。
そして、ぼくが三十代半ばだったか、後半くらいに出会った
青年のエイジくんが、高知県出身だったのです。
高知県高知市出身でした。
彼とのことも、いっぱい思い出されました。
ふたりでいたときのこと
ひとりひとりになって
相手のことを考えていたときのこと
楽しかったこと
笑ったこと
口惜しかったこと
悲しかったこと
さびしかったこと
そうだ。
親戚の家の玄関で靴を脱いだとき
自分の脱いだ靴を見下ろして
ああ
足がちょっとしめっていて
靴、臭わないかな
なんてことを
少し暗い玄関の明かりの下で
ふと思ったことなど
どうでもいいことですが
どうでもいいことなのに
細部まで覚えているのですが。
どうでもいいことだから
細部まで覚えているのかもしれませんが。
さっき
「血のつながった」
と書いたとき
はじめ
「知のつながった」
でした。
手書きと違って
ワードでの書き込みって
偶然が、いろいろあって、おもしろいなと思いました。


二〇一四年十二月三十一日 「ホサナ、ホサナ」


福井くん
きょうのきみの態度
よかったよ
吉田くんがいなくなって
こんどは
ぼくってわけ
きみで四人目だよ
きみも
ぼくのコレクションに加えてあげる
きみは
なにがいいかな
鉛筆
消しゴム
それとも三角定規かな
きみの体型に合わせて選んであげるね
ううん
そうだな
先をビンビンに尖らせた鉛筆がいいかな
きみの神経質な感じにぴったりだろ
じゃあ
台所にあるゴキブリホイホイ
見てくるね
アハッ
いたよ
おっきいのが
まだ生きてるよ
こうやって
脚をもいでって
っと
アハッ
つぎは
福井くん
きみね
きみの番ね
ちょっと
アゴ
あげてね

引っこ抜くから
いっ
いいっ
いいっ
っと
アハッ
やったね
やったよ
きれいに引っこ抜けたよ
きみの頭
あれっ
泣いてるの
痛かったの
でも
もう何も感じないでしょ
ぼくだって痛かったんだよ
ほら
これ見てよ
左目のまぶた
腫れてるでしょ
きみに殴られた痕だよ
痛くてたまらなかったよ
まだヒリヒリしてるよ
でも
もういいんだけどね
ゆるしてあげるね
そうだ
まだやることが残ってた
両方削った鉛筆は
鉛筆は
っと
あった
これだ
これね
これって
たしか
貧乏削りって言ったんだよね
これを
こうして
きみの首に突き刺して
グイグイグイって

ふう
できた
あとは
ゴキブリの脚をくっつけていくだけだね
ほうら
こうして
ボンドでくっつけてっと
ふうふう
ふうっと
はやく乾け
はやく乾けっと
ほら
できあがったよ
きみは
ぼくの四番目のコレクション
ぼくの大切なコレクション
さあ
友だちが待ってるよ
きみの友だちたちがね
ぼくの机の引き出しの中にね
みんな知ってるよね
ホサナ
ホサナ
主の御名によって来たる者に祝福あれ
かつて来たる者にも
いま来たる者にも祝福あれ
アハッ
知らなかっただろう
ぼくにこんな力があるって
ぼくのお祖母ちゃんは霊媒だったんだよ
ぼくは、よくひきつけを起こす子だった
お祖母ちゃんには
ちいちゃい時によく幻を見せられたんだよ
お祖母ちゃんがね
呪文をとなえながらね
こんなふうに
目をつぶって
ふっ
ふって
手の二本の指に息を吹きかけてね
えい
えい
えいって突然叫んだりしてね
あれは
いくつのときのことだろう
針の山の頂上に
座布団の上に坐ったお祖母ちゃんがいてね
えいって叫んで
お祖母ちゃんが両手をあげると
まわりじゅうに火が噴き出したのは
そのとき
ぼくは
まだちっちゃかったから
お祖母ちゃんのひざの上に抱きついて離れなかったんだけど
とっても怖かったんだろうね
しばらく気を失ってたらしいんだ
あとで聞いたらね
それからだよ
いろんなものが見え出したのは
いろんなことができるようになったのは
ホサナ
ホサナ
主の御名によって来たる者に祝福あれ
かつて来たる者にも
いま来たる者にも祝福あれ

みんな
ゆるしてあげる


詩の日めくり 二〇一四年十三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一四年十三月一日 「宝塚」 


18、9のとき
ひとりで見に行ってた
目のグリーンの子供と母親
外国人だった
子供は12、3歳かな
きれいな髪の男の子だった
母親は栗色の髪の毛の、34、5歳かな
宝塚大劇場に、ひとりで行ってたとき
ときどき行ってたんだよ
斜め前の席に坐ってた子供が
自分に近い方に
宝塚の街のことは、隅から隅まで知っていた
いろんなところ、ぶらぶらしてた
あれから何10年経ったろう
もしいま宝塚の街を歩いてみたら
ぼくの傍らをすれちがっていく
笑い声に出会うだろう
それはたぶん
きっと
あの宝塚の街を通りすぎていく
風だったのだろう


二〇一四年十三月二日 「さつき」


22、3のときのことだった
ぼくの住んでいた長屋の斜め向かいの家の
女の子
11歳
(男の子3人と、女の子1人なので、あずかっていた。寝泊りしていた。)
この子と、向かいのスナックのママの娘
12歳
この2人を連れて
あるさつきの季節に
夕方
東山の霊山観音のぐるり
前いっぱいにライトアップされていた
さつきが咲き乱れていた
この光景は、1生忘れないでおこうと、こころに誓った


二〇一四年十三月三日 「靴」 


27のとき
忍び逢い
という名前のスナックを経営していた
そのとき
京都女子大学の女学生と知り合った
その女子学生は
店に聖書を売りにきたのだった
気のいい女の子で、2人で食事をしたり、喫茶店で話をしたり
デートした
この子が、自分の近所の17の女の子を
ある日、連れてきた
その娘も、めちゃくちゃかわいい女の子だった
名前はたしか優ちゃんだった
芦屋に住んでいるのだが、きょうは京都に遊びに来たの、っていう
3人で南禅寺に行った
南禅寺の山門をくぐりぬけて
50メートルほど行くと
お滝に上がる山道がある
山門の入り口に第2疎水のコンクリートの土台があって
(グリーンのレンガ貼り)
ハイヒールの中に入っていた小石をとるのに
片手を、その土台において
立ったまま
ぱっぱっと
その小石を落とした
片方の靴のかかとから
ぼくが見つめているのに気づくと
とても恥ずかしそうな顔をして見せた
そうだ
あの娘の表情も
けっして忘れはしないと
ぼくは、こころに誓ったのだ
優ちゃん
真っ赤な麦藁帽子と
白い薔薇模様のワンピース
だけど、あのときの靴の色は忘れてしまった
真っ赤な麦藁帽子と
白い薔薇模様のワンピース
これは覚えているのに
あの娘の恥ずかしげな顔とともに
だけど、あのときの靴の色は忘れてしまった


二〇一四年十三月四日 「風景は成熟することを拒否する」


皮膚にまといついた言葉を引き剥がそう
詩人に要請されることは、ほかには何もない
皮膚にまといついた言葉を引き剥がすこと以外に
こころみに、ぼくの皮膚についた言葉を引き剥がそう
10歳のときの記憶の1つが、雲を映す影となって地面を這っている
こころもち、雨が降った日の水溜りに似ていないとも言えない
風景は成熟することを拒否する

詩人は自分をその場所に置いて
自分自身を眺めた
まるで物でも眺めるように


二〇一四年十三月五日 「時間と空間」


ぼくたちが時間や空間を所有しているのではなく
時間や空間がぼくたちを所有しているのである
ぼくたちが出来事を所有しているのではなく
出来事がぼくたちを所有しているように。

ぼくたちが過去を思い出すとき
ぼくたちが過去を引き寄せるのではない。
過去がぼくたちを引き寄せるのである。
過去がぼくたちを思い出すために。


二〇一四年十三月六日 「偉大さと、卑小さ」


詩人がなぜ過去の偉大な詩人や作家に
詩人にとって偉大であると思われる詩人や作家に云々しているのか
いぶかしむ人がいるが
そんなことは当たり前で
卑小な人間の魂に学べることは、卑小な人間について学べることだけだからである
偉大な人間の魂の中には、卑小な人間の魂も存在しているのである

詩人は学び尽くさなければならないのだ
生きているあいだに

いや、違うかな。
かつて、親しかった歌人の林 和清ちゃんが
ぼくにこんなことを言った。
「どんなひとからも学べるのが、才能やと思うで。」
「おれは、むしろ、ふつうのひとがすることから、いっぱい学んでるで。」
って。
そうかもしれない。
でも、自分がぜんぜん共感できない詩人や作家の作品から学ぶことなんかできるんやろか。
ほんとうに才能のあるひとにならできるのかもしれないな。
卑小なこと、つまらないことからでも学べるのが才能なのかもしれないな。
だとすると、世のなかには、卑小なことも、つまらないこともないっていうことなのかな。
そういえば、日常のささいなことが
とげのように突き刺さって痛いってことが、しょっちゅうあるものね。
「偉大さと、卑小さ」か。
浅く考えてたな。


二〇一四年十三月七日 「ぼくたちが認め合うことができるのは」 


ぼくたちが認め合うことができるのは
お互いの傷口だけだ
何か普通とは異なっているところ
しかもどこかに隠したがっているような様子が見えるもの
そんなものにしか
ぼくたちの目は惹かれない
それくらい
ぼくたちは疲弊しているのだ


二〇一四年十三月八日 「言葉も、人も」


言葉も
人も
苛まれ
苦しめられて
より豊かになる
まるで折れた骨が太くなるように


二〇一四年十三月九日 「ポスト」 


彼女は
その手紙を書いたあと
投函するために外に出た
ポストのところまで
少し距離があったので
彼女は顔の化粧を整えた
(これは、あくまでも文末の印象の効果のために、あとで付け加えられたものである。
 削除してもよい。)
彼女は
その手紙に似ていなかった
彼女は
その手紙の文字にぜんぜん似ていなかった
その手紙に書かれたいかなる文字にも似ていなかった
点や丸といったものにも
数字や記号にも
彼女がその手紙に書いたいかなるものにも
彼女は似ていなかった
しかし
似ていないことにかけては
ポストも負けてはいなかった
ポストは
彼女に似ていなかった
彼女に似ていないばかりではなく
彼女の妹にも似ていなかった
しかも
4日前に死んだ彼女の祖母にも似ていなかったし
いま彼女に追いつこうとして
スカートも履かずに玄関を走り出てきた
彼女の母親にもまったく似ていなかった
もしかしたら
スカートを履くのを忘れてなければ
少しは似ていたのかもしれないのだけれど
それはだれにもわからないことだった
彼女の母親は
けっしてスカートを履かない植木鉢だったからである
植木鉢は
元来スカートを履かないものだからである
母親の剥き出しの下半身が
ポストのボディに色を添えた
彼女はポストから手を出すと
家に戻るために
外に出た


二〇一四年十三月十日 「ハンカチの笑劇」


オセロウは
イアーゴウがいなくても
デズデモウナを疑ったのではないか?
さまざまな冒険が
その体験が
オセロウをして想像豊かな
極めて想像豊かな人間にしたはずである
「ハンカチの笑劇」
想像はたやすく妄想に変わる

巣に戻った鳥が
水辺の景色を思い出す

愛によって形成されたものは
愛がなくなれば
なくなってしまうものだ
「なにがしかの痕跡を残しはするのだろうけれど。」
そう言うと
この詩人は自分の言葉の後ろに隠れた
隠れたつもりになった


二〇一四年十三日十一日 「死んだあと」


死んだあと
どうするか
動かさなくてはならない
ひとりひとり別の力で
ひとりひとり別の方法で
人間以外のもろもろのものも
動かさなくてはならない
ひとつひとつ別の力で
ひとつひとつ別の方法で
いっしょにではなく
ひとつひとつ別々に
とりわけ両親の死体が問題である
死んだあとも
動かさなくてはならない
そいつは
何度も死んで
すっかり重たくなった死体だが


二〇一四年十三月十二日 「音楽」


すべての芸術が音楽にあこがれると言ったのは
だれだったろうか?
たしかに
音楽には
他の芸術が持たない
純粋性や透明性といったものがある
しかし
ただひとつ
ぼくが音楽について不満なのは
音楽は反省的ではないということだ
じっさい
どんなにすばらしい音楽でも
ぜんぜん反省的ではない
他の芸術には
ぼくたちに
ぼくたちの内面を見るように仕向けさせる作用がある
しかし
それにしても
音楽というものは
それがどんなにすぐれたものであっても
ちっとも反省させてはくれないものである


二〇一四年十三月十三日 「書き改めてなかった」


2、30年くらい前のことだけど
『サッフォーの詩と生涯』という本のなかで
引用されていたエリオットの詩の原文にコンマだったかピリオドが抜けていることと
あきらかにサッフォーの影響のあるバイロンの詩句について
なぜ書かれなかったのですかって
著者の沓掛良彦さんに、直接、手紙を出して訊ねたことがあって
1ヵ月後に、ご本人から丁寧な返事をいただけて
なんとか気を落ち着かせたことがある
再刷りするときに書き改めるということだったけど
きょう、ジュンク堂で見てきたのだけど、書き改めてなかった
執筆中にご病気で
メモでは、そのバイロンの詩句も書いてらっしゃったらしく
外国の研究者で
ぼくが指摘した箇所を指摘した方がいらっしゃって
沓掛さんも書くつもりだったらしいのだけれど
体調を崩されて
書くのを忘れられたとのことだった
「あなたは英文学の研究生ですか。」
と書かれてあったので
「いいえ、工学部出身です。」
と返事を出した
批判したかったら、直接、相手に手紙を出す時代が
ぼくにもあったんやね
いまは
しなくなった


二〇一四年十三月十四日 「ママ」


ぼくが子どもだったころね
よく言われたことがある
あんまり長い時間
ママを見てはいけませんって
ママを見る権利をパパがいるときにはほとんど独り占めしてたから
ぼくが自由にママを見れたのは
パパがいないときに限ってた
お兄ちゃんといっしょになって
ママを見てた
パパがいないときに
ママの鼻をつまんで
ぐにぐに
ぐにぐにひねって
ママのあげる美しい悲鳴を聞いてた
ママの声は
ぼくの耳にとても気持ちよくって
ぼくとお兄ちゃんはママの鼻をぐにぐに
ぐにぐにひねって
ママはぶひぶひ
ぶひぶひ
きれいな声で歌ってくれた
あるとき
ぼくとお兄ちゃんがママの鼻がちぎれるぐらいに
思い切りひねっていたときに
突然
パパが帰ってきたからびっくりしたことがあったのだけれど
ママは
真っ赤になった鼻を押さえて
トイレにかけこんで
鼻がふつうの色に戻るまで出てこなかった
パパには
ママがおなかが痛いって言ってたよ
って
ぼくが言っておいた
パパがはやくママに飽きてくれたらいいのになって
ぼくはいつも思ってた
ぼくが子どもだったときのことね
いま
ぼくは大人になって
ママだけじゃなくて
パパのことも見てる
お兄ちゃんが死んで
ママもパパも
いまじゃ
ぼくだけのものだから
お湯がたまったみたいだ
お風呂から上がったら
ママとパパの鼻をひねって
ママとパパの苦しむ顔を見ようっと
うっちっち
ニコッ


二〇一四年十三月十五日 「うんこ臭い」


クリーニング店に行くの忘れてて
明日はいてくスラックスがない
クリーニング店がもっと近くだったら
よいのに

これから洗濯
うううん
もう預けてて1週間以上になるな
取りに行くのが
うんこ臭い
取りに行くのうんこ臭い
うん国際
うん国際地下シネマ
って
えいちゃん
背中にかいた薔薇の字が
自我
自我んだ
違った
自我った
スクリーン
ひざ






二〇一四年十三月十六日 「本」


本は
本の海の中で育つ
卵から帰った本は
他の本を食べて
だんだん成長する
本は本を食べて
肥え太る
本は
本の父と
本の母の間で生まれた
本は
本の浜辺で生まれてすぐに
本の海を目指す
本能からなんだと思う
自分がどこからきて
どこへ行くべきなのか
知っている
つぎつぎと本の子どもたちが
砂浜から這い出てくる


二〇一四年十三月十七日 「人生は映画のようにすばらしい。」


dioの印刷の途中で
昼ごはんを食べに行ったのだけれど
京大の近くの「東京ラーメン」という
ふつうのラーメンで400円という値段のところで
おいしくて有名らしいのだけれど
そこでご飯を食べて
また京大にもどって印刷の続きをしたのだけれど
帰りに
キャンパスに入ったところで
大谷くんが
綾小路くんに
DX東寺というストリップ劇場の無料招待券を渡した
綾小路くんが「これ、なんですか?」と訊くと
「山本さんが
 それくれたんだけどね。」
「ええ?
 大谷さんが行ったらいいじゃないですか?」
「おれ
 いっつも断ってるねん。」
「大谷さんがもらったんじゃないんですか?」
「違うねん。
 これ
 このあいだのぼんに渡してくれって言われたんや。」
「ぼんて
 ナンですか?」
「「ぼん」て
 若い男のことを
 そう言うんや。
 だれでも
 あのひとは「ぼん」て言うんや。」
「そうなんですか。
 でも
 大谷さんが行けばいいじゃないですか。」
「おれ
 彼女
 いてるし
 行けへんやろ。」
「ええ!
 ぼくが行くんですか?」
綾小路くんの手のなかのチケットを取り上げて
ぼくが「DX東寺・招待券」という文字を確かめてから
綾小路くんの手に戻して
「行ったらええんとちゃう?
 綾小路くん
 行ったら
 綾小路くんの文学や哲学が深くなるで。
 裸で勝負してる人間を見るんや
 きっと
 綾小路くんが大きくなるで
 あそこも
 こころもな。」
「そうですか?」
「そうや。」
「じゃあ、
 もらっておきます。
 でも行かなくてもいいんですよね?」
「そら好きなようにしたら
 ええけどな。
 行ったら
 綾小路くんが
 深くなるで。」
と言ってから
ぼくは
大谷くんに
「ねえ
 ねえ
 大谷くん
 その山本さんて
 何者?」
って訊くと
「いつも行く居酒屋さんでしょっちゅういっしょに飲んでる
 元ヤクザの人なんです」
「へえ
 その人
 いいひとなんやなあ。」
とぼくが言ったら
「いまは
 いいひとですよ。」
「その飲み屋って
 どこにあるの?」
「ぼくの住んでるマンションの前。」
「どんな店?」
「食べ物
 なんでも300円なんですよ。」
「へえ
 おいしいの?」
「おいしいですよ。」
「そやけど
 そのひととの関わりなんて
 なんか
 青春モノの映画みたいやなあ。
 いや
 人生が映画のようにすばらしいのか?
 うん
 人生は映画のようにすばらしい。
 あるいは
 映画は人生のようにすばらしい
 か。
 まあ
 どっちでもええけど
 どっちかのタイトルでミクシィの日記にでも書いとこうっと。」
ってなことを言いながら
印刷の場所にもどって
作業の続きをしていた

印刷は終わってたのか
そうだ
紙を折る作業に入ったのだ
借りていた教室で
総勢7人で
紙折り作業をして
最後にホッチキス止めが終わったのが5時40分くらいで
そこから
みんなで
「リンゴ」という店に行って打ち上げをしたのだった
土曜日のことだった
うん
うんうん
「人生は映画のようにすばらしい。」


二〇一四年十三月十八日 「三日後に死ぬとしたら」



死んだ父親に起こされたから
3日後に死ぬとしたら
どうする?
って
きのう、リンゴで
雪野くんと
荒木くんに訊いたんだけど

この荒木くんは
言語実験工房の荒木くんと違うほうの
小説を書くお医者さんで

その2人は
それぞれ
「ぼく考えたことないです。
 わかりません。」
「ぼくはとりあえず田舎に帰るかなあ。」
やった
ぼくはいつ死んでもいいように
そのときそのとき書けるベストの作品を書いてるつもりだから
「本読んでると思うわ。」
と言った
じっさい
読んでないのが
まだ400冊くらい部屋にあるので
そのなかから
ピックアップして
読んでいくと思う
でも2人とも考えたことがないっていうのは
ぼくには不思議やったなあ


二〇一四年十三月十九日 「すべての人間はソクラテスである」


セックスを愛だと思ってる人は少ないかもしれないけれど
愛をセックスだと思っている人はもっと少ないと思う
セックス=愛
愛=セックス
数式のように書いたら
同じように思えるかもしれないけれど
数式としてもっと厳密に見ると
この2つの式が異なる内容を表わしていることがわかる
1+1=2
だけど
2=1+1
だけじゃないやん
3マイナス1だって2だし
7マイナス5だって2だし
マイナス4プラス6だって2だしねえ
いや
絶対的に
2=1+1だけだったりして



でも
たとえば
考えてみてよ
ソクラテスは人間だけど
人間はソクラテスじゃないものね
うん
いやいや
これも
案外
すべての人間はソクラテスかもしんないぞ
ソクラテスがすべての人間であるように
てか

まあ
ソクラテスって名前の犬とか
ソクラテスって名前のパソコンとかなんてのは
なしにしてね
ふぎゃ


二〇一四年十三月二十日 「Street Life。」


むかし書いた詩があって
それは
ワープロ時代に書いたもので
1時期
自暴自棄になってたときがあって
ワープロに書いたぼくの詩を
『みんな、きみのことが好きだった。』と『Forest。』に
収録したもの以外みんな捨てたんだけど
原稿用紙にして2枚くらいの短い詩で
『Street Life。』というタイトルで書いたものがあって
それは
どちらにも収録するのを忘れてて
でも
とても気に入ってたんだけれど
手元に
それが収録された同人誌がなくて
というのは
ぼくは
自分の書いた詩が載ってる本を
よくひとにあげちゃうからなんだけど
そういうわけで
内容は覚えているんだけど
正確には思い出せなくて

それを思い出す
という作業を
散文スタイルで書いてみようと思っているわけ
「ぼく」と「中国人の青年」の話なんだけど
ソープランドの支配人をしていた26歳の青年と
ぼくとが出会って
彼の初体験(もちろん男)の話と
バイセクシャルである彼のセックスライフにからませて
ぼくが何度も自殺するという内容で
自殺するのだけれど
死ねなくて
水に顔をつけても呼吸しちゃうし
手首を切っても
すぐにもとにもどっちゃうし
飛び降りて
ぐちゃぐちゃになっても
すぐにもとにもどっちゃうし
という感じで現実の彼の話と
シュールな場面が交互につづくんだけど
フレーズが正確に思い出せないのが
ほんとに残念で

今回
書こうと思うのは
「なぜ
 その青年のことを書こうと思ったのか。」
「その青年の話をそのまま書き写しただけなのに
 なぜ
 その青年の存在が、ぼくにとって
 いまだにリアルなのか。」
「ぼくがなぜ何度も死んで生き返るのか。」
「これらふたつのことで何が表現したかったのか。」
といったことを自己分析しながら書こうと思っているのだけれど
うまくいくかどうか


二〇一四年十三月二十一日 「ちょっといい感じ」


さっき聴いた曲がちょっといい感じ
その分厚い胸に頭をもたげて
話をしていた
ヒロくんの言葉を思い出していた
ぼくのおなかをさわりながら
「この腐りかけの肉がええねん。」
「腐りかけの肉って、どういう意味やねん?」
「新鮮な肉の反対や。」
好きなこと言ってるなあって思った
その分厚い胸に頭をもたげて
話をしていた
「背中とか、頭とか
 さわられるのが好きやねん。」
「みんな、そうなんちゃう?」
おなかの肉をつまんだり
さすったりしながら
「こうして、さわってるのが好きかな。」
「ぼくはさわられるのが好きやし
 あっちゃんは、さわってるのが好きなんやから
 ちょうどええな。」
うん? 
そ?
そかな?
「そんなに、このおなかが好き?」
「好きかも。」
「顔もかわいいしな。」
「めっちゃ、生意気!」
もたげてた頭を起こして目を見る
笑ってた。
ぼくも笑った
この生意気さ
ヒロくんと、どっこいどっこいやなあ、って思った
すぐに夢中になっちゃいけないと
こころに向かって言う
まだまだ
ぼくは傷つくことができるのだから
その分厚い胸に頭をもたげて
話をしていた
ぼくと同じように
彼の胸もドキドキしてた
さいしょ
近づくのもこわかったのも
ぼくよりずっと年下なのも
双子座なのも
ヒロくんといっしょ
O型やけど
好きになったら
どうしようって感じ
うまくいきそうになったら
うまくいかなかったときのことが思い起こされる
ぼくの目を見ないようにしゃべってた
ぼくが横を向いたら
ぼくの顔を見てた
たくさんしゃべったのに
まだしゃべりたりないって感じで
でも
決定的なことは
何も言わなかった
何度も顔を見つめ合いながら
離れていった
微妙で不思議な時間だった
はっきり言わない
ううううん
人間の魅力って
ほんと
さまざま


二〇一四年十三月二十二日 「シェイクスピアについて」


エンプソンの『曖昧の七つの型』(岩崎宗治訳)上巻の終わりのほう、372ページの後半から引用すると、

(…)シェイクスピアは、たえず身の危険と戸惑いを感じていたにちがいない。彼自身はこういう政治状況からくるものをうまくかわしていたらしいが、仲間のしくじりのために罰金を払わせられた。ベン・ジョンソンがカトリック信仰と反逆罪の廉で逮捕される少し前、シェイクスピアは宮廷でジョンソン作の『セジェイナス』の上演に俳優として参加していたのである。(…)

好きな詩人や作家について、知らなかったことを知ることのできた喜びは大きい。シェイクスピアが、ペストの流行のせいでロンドンから離れなければならなかったことや、政治的に後ろ盾になっていた人物が反逆罪でつかまったりしたのは知ってたけれど、ベン・ジョンソンとのかかわりについては、それほど知らなかったので、まあ、弔辞を読んだ人だったかな、同時期の作家か先輩の作家だったと思うけれど、追悼の言葉くらいしか知らなかったので、なんだか、得した気分。あるいは、もしかしたら、過去に、ほかで読んでて忘れてることかもしれないけど、笑。忘れてて、思い出すことも喜びだしね。

エンプソンの引用する詩句の多くがシェイクスピアであるのが、うれしい。ときおり混ざる他の作家や詩人の作品の引用も楽しい。上巻、あと少しで終わり。

きょうは、ずっと韓国映画と、韓国ドラマと、エンプソンの詩論集に。

韓国映画とか韓国ドラマとかに、ここまではまるとは思ってなかったので、とても意外で面白い。キム・イングォンの最新作があって、そこでの画像がネットで手に入れられたので、さっそく保存しておいた。どの画像も、ぼくのこころを穏やかにする。イングォンくんって、じっさいには、繊細で、とても傷つきやすいひとであるような気はするけれど、こんどの映画の役柄は、無職のちょっとヤンチャなお兄さんって感じかな。子どもといっしょに映ってる写真なんて、ほんとに、ほっとさせられる。

ひとの気持ちを穏やかにさせる、そんな詩って、めったにないけど、そやなあ。ジャムの詩くらいかな。しかも2つくらいしかあらへんし。エンプソンの詩論、最後の七番目の型、論理学でいうところの矛盾律を利用したもの。しかしこれって、いつも思うのだけれど、排他律と同1律の応用でもある。まあ、エンプソンは、それを「曖昧」という言葉にしているのだけれど。そういえば、対立する意味概念の同時生起って、ぼくが『舞姫。』で書いた「過去時制」と「未来時制」の同時生起に似ていて面白い。孫引きのフロイトの論文に、未開人の言語に、対立する意味概念の1語への圧縮例が出てくるのだけれど、これって、ピポ族の無時制言語に比較できるかなって思った。ただし、エンプソンは、未開という概念ではなく、対立する意味概念の1語への圧縮を「繊細さ」と捉えているようだけど、ぼくも、リゲル星人の言語を「時制のない言語」、「名詞と助詞のみでできている言語(動名詞句を含む)」にするつもりなので、この最後の七番目の章はじっくり読んでいる。英語が苦手なぼくには、ときどきはさまれる引用の原著部分が、ちょっととしんどいかな。そんなに構文は難しくないけど、ああ、詩は、こうやって訳すのねって、勉強にもなるのだけれど。

イングォンくん、勝ちゃんに似てるんだよなあ。だから、画像をながめてると、せつないのかなあ。

エンプソンの詩論集、読み終わった。読んでるときにはそれなりに楽しめたけど、内容は、そんなに得るものがなくて。まあ、いちおう、有名な本だから読んどく必要はあったけど、読んでた時間がもったいなかったかも。さて、つぎは、なにを読もうかな。


二〇一四年十三月二十三日 「きなこ」


きょう
日知庵で飲んでいると
作家の先生と、奥さまがいらっしゃって
それでいっしょに飲むことになって
いっしょに飲んでいたのだけれど
その先生の言葉で
いちばん印象的だったのは
「過去のことを書いていても
 それは単なる思い出ではなくってね。
 いまのことにつながるものなんですよ。」
というものだった。
ぼくがすかさず
「いまのことにつながることというよりも
 いま、そのものですね。
 作家に過去などないでしょう。
 詩人にも過去などありませんから。
 あるいは、すべてが過去。
 いまも過去。
 おそらくは未来も過去でしょう。
 作家や詩人にとっては
 いまのこの瞬間すらも、すでにして過去なのですから。」
と言うと
「さすが理論家のあっちゃんやね。」
というお言葉が。
しかし、ぼくは理論家ではなく
むしろ、いかなる理論をも懐疑的に考えている者と
自分のことを思っていたので
「いや、理論家じゃないですよ。
 先生と同じく、きわめて抒情的な人間です。」
と返事した。
いまはむかし。
むかしはいま。
って大岡さんの詩句にあったけど。
もとは古典にもあったような気がする。
なんやったか忘れたけど。
きなこ。
稀な子。
「あっちゃん、好きやわあ。」
先生にそう言われて、とても恐縮したのだけれど
「ありがとうございます。」
という硬い口調でしか返答できない自分に、ちょっと傷つく。
自分でつけた傷で、鈍い痛みではあったのだけれど
生まれ持った性格に起因するものでもあるように思い
こころのなかで、しゅんとなった。
表情には出していなかったつもりだが、たぶん、出ていただろう。
もちろん
人間的に「好き」ってだけで
ぜんぜん恋愛対象じゃないけれど。
お互いにね、笑。
先生、ノンケだし。
60歳過ぎてるし、笑。
ぼくは、年下のガチムチのやんちゃな感じの子が好きだし、笑。
きなこ。
稀な子。
勝ちゃんの言葉が何度もよみがえる。
しじゅう聞こえる。
「ぼく、疑り深いんやで。」
ぼくは疑り深くない。
むしろ信じやすいような気がする。
「ぼく、疑り深いんやで。」
勝ちゃんは何度もそう口にした。
なんで何度もそう言うんやろうと思うた。
1ヶ月以上も前のことやけど
日知庵で飲んでたら
来てくれて
それから2人はじゃんじゃん飲んで
酔っぱらって
大黒に行って
飲んで
笑って
さらに酔っぱらって

タクシーで帰ろうと思って
木屋町通りにとまってるタクシーのところに近づくと
勝ちゃんが
「もう少しいっしょにいたいんや。
 歩こ。」
と言うので
ぼくもうれしくなって
もちろん
つぎの日
2人とも仕事があったのだけれど
真夜中の2時ごろ
勝ちゃんと
4条通りを東から西へ
木屋町通りから
大宮通りか中新道通りまで
ふたりで
手をつなぎながら歩いた記憶が
ぼくには宝物。
大宮の交差点で
手をつないでるぼくらに
不良っぽい2人組の青年から
「このへんに何々家ってないですか?」
とたずねられた。
不良の2人はいい笑顔やった。
何々がなにか、忘れちゃったけれど
勝ちゃんが
「わからへんわ。
 すまん。」
とか大きな声で言った記憶がある。
大きな声で、というところが
ぼくは大好きだ。
ぼくら、2人ともヨッパのおじさんやったけど
不良の2人に、さわやかに
「ありがとうございます。
 すいませんでした。」
って言われて、面白かった。
なんせ、ぼくら2人とも
ヨッパのおじさんで
大声で笑いながら手をつないで
また歩き出したんやもんな。
べつの日
はじめて2人でいっしょに飲みに行った日
西院の「情熱ホルモン!」やったけど
あんなに、ドキドキして
食べたり飲んだりしたのは
たぶん、生まれてはじめて。
お店いっぱいで
30分くらい
嵐電の路面電車の停留所のところで
タバコして店からの電話を待ってるあいだも
初デートや
と思うて
ぼくはドキドキしてた。
勝ちゃんも、ドキドキしてくれてたかな。
してくれてたと思う。
ほんとに楽しかった。
また行こうね。
きなこ。
稀な子。
ぼくたちは
間違い?
間違ってないよね。
このあいだ
エレベーターのなかで
ふたりっきりのとき
チューしたことも
めっちゃドキドキやったけど
ぼくは
勝ちゃん


二〇一四年十三月二十四日 「世界にはただ1冊の書物しかない。」


「世界にはただ1冊の書物しかない。」
と書いてたのは、マラルメだったと思うんだけど
これって
どの書物に目を通しても
「読み手はただ自分自身をそこに見出すことしかできない。」
ってとると
ぼくたちは無数の書物となった
無数の自分自身に出会うってことだろうか。
しかし、その無数の自分は、同時にただひとりの自分でもあるわけで
したがって、世界には、ただひとりの人間しかいないということになるのかな。
細部を見る目は貧しい。
ありふれた事物が希有なものとなる。
交わされた言葉は、わたしたちよりも永遠に近い。
見慣れたものが見慣れぬものとなる。
それもそのうちに、ありふれた、見慣れたものとなる。
もう愛を求める必要などなくなってしまった。
なぜなら、ぼく自身が愛になってしまったのだから。
愛する理由と、愛そのものとは区別されなければならないわけだけれども。


二〇一四年十三月二十五日 「ダイスをころがせ」


ローリング・ストーンズの「ダイスをころがせ」を聞いたのは
中学1年生の時のことだった
かな
かなかな
同級生の女の子がストーンズが好きで
その子の家に遊びに行ったとき
ダイスをころがせ、がかかってた
ぼくと同じ苗字の女の子だった
名前は、かなちゃんって呼んでたかな
忘れた
たぶん、かなちゃん
で、ストーンズの歌は、ぼくには、へたな歌に聞こえた
だって、家では、ビートルズやカーペンターズや
ザ・ピーナッツとか
つなき&みどりだとか
ロス・アラモスだとか
マロだとか
ミッシェル・ポルナレフだとか
シルビー・バルタンだとか
そんなんばっか
かかってたんだもん
親の趣味のせいにするのは、子供の癖です
パンナコッタ、どんなこった
チチ
マルコはもう迷わないだろう
あらゆる皮膚についた言葉を引き剥がそう
ダイスをころがせは、いまでは、ぼくのマイ・フェバリット・ソングだす
大学のときは、リンダ・ロンシュタットが(ドかな)歌ってた
デスパレイドも歌ってたなあ
ピッ
パンナコッタ、どんなこった
どんなん起こった?
チチ
もうマルコは迷うことはないだろう。
迷ってた?
パンナコッタ、どんなこった
どんなん起こった?
チチ
もうマルコは迷うことはないだろう
迷ってた
3脚台
ガスバーナー
窓ガラス
水滴
水滴に映った教室の風景
窓ガラス

マルコはもう迷うことはないだろう
迷ってたのは、自分のつくった地図の上だ
自分のまわりに木切れで引っかいた傷のような地図の上だ
3脚台
トリポッド
かわいい表紙なので、ついつい買っちまったよ
で、こんなこと考えた
ある日、博士が
(うううん、M博士ってすると、星さんだね)
軽金属でできた3本の棒の端っこを同時に指でつまんだら
それがひょいと持ち上がって
3角錐の形になったんだって
で、博士が指でさわると、その瞬間に歩き出したんだって
さわると、っていうか、さわろうとして手を近づけただけっていうんだけど
で、その3角錐のべき線の形になった3本の棒についていろいろ調べると
その3本の棒の太さと長さの比率がいっしょなら
どんな材質の棒でも、3本あれば、そんな3角錐ができるんだって
て、いうか、もうそれは過去の話です。笑
いまでは、荷物運びに、その3本の棒が大活躍してますし
その3本の棒の上にトレイをのっけると
テーブルの上で
ひょこひょこ動くんです
お肉を上にのっけると
さわろうとするだけで
テーブルの上のホットプレートの上に
お肉を運んで
ジュ
頭を下げて
ジュ
かわいい
ジュ
ペットの代わりに、3本の棒をひょこひょこさせるのが大流行
町中、3本の棒が、たくさんの人のうしろからひょこひょこついてっちゃう
で、ジュ
で、ジュ
パンナコッタ、どんなこった
チチ
マルコはもう迷わないだろう
迷ってた?
迷ってたかも
パンナコッタ、どんなこった


二〇一四年十三月二十六日 「耳遺体」


ダン・シモンズの
『夜更けのエントロピー』をまだ読んでなかったことを思い出した
『愛死』を読んでたから、いいかなって思って、ほっぽらかしてたんだけど
やっぱ読もうかな
ハヤカワ文庫の『幻想と怪奇 3巻』
読み終わってみて、ちと、あれかなって思った
創元のゾンビのアンソロジーの面白さにくらべたら
ちと、かな

通勤のときと
部屋で読むのとは別々にしてるんだけど
マイケル・スワンウィックの『大潮の道』のような作品が読みたい
『ヒーザーン』読めばいいかな
これから、耳のクリーニング
ブラッドベリの『死人使い』というのを読んだ
いろいろなところに引き合いに出される作品なので
内容は知ってたけれど
やっぱりちとエグイ
耳遺体
耳痛い
耳遺体
ブルー・ベルベットや
ぼくの『陽の埋葬』が思い出される
花遺体
じゃない
鼻遺体は、うつくしくないね
鼻より耳の方が
部分として美しいということなのかな
以前に詩に書いたことがあったけど

理由は書いてないか。
小刻みに震える
耳遺体
ハチドリのように
ピキピキ
ピキピキ
メイク・ユー・シック!
愛は僕らをひきよせる
と書いたのは
ジョン・ダン
と言っても
高松雄一さんの訳で
わずらわしいバカでも
わかる詩句だけど
愛する対象が人間たちを動かす
って
言ったのは
ヴァレリーね
って
佐藤昭夫さんの訳だけど
ぼくの知性は天邪鬼で
いつでも
その反対物を想起させる
あらゆる非存在が
存在を想起させるように
通勤電車のなかで思いついた
昨年の2月8日と書いてある
詩は思い出す
かつて自分がひとに必要とされていたことを
詩は思い出す
たくさんのひとたちのこころを慰めてきたことを
詩は思い出す
そのたくさんのひとたちが
やがて小説や音楽や映画に慰めを見出したことを
しかし
それでも
詩は思い出す
ごくわずかなひとだけど
詩に慰めを求めるひとたちがいることを
って
うううん
バカみたいなメモだすなあ
2004年4月15日のメモ
ぼくもしっかり働きに行かなければ!


二〇一四年十三月二十七日 「破壊の喜び」


ダン・シモンズの『死は快楽』のなかにある
「プライドや憎しみや、愛の苦しみ、破壊の喜び」(小梨 直訳)
という言葉を読んで
ぼくの詩集『The Wasteless Land.II』の41ページと42ページにある
「虚栄心のためだった」という言葉に誤りがあったことに気づいた
いや誤りと言うよりは
あれは故意の嘘であったのだ
ぼくのほうから別れを告げたのは
じつは虚栄心のためというよりも
意地の悪い軽率なぼくのこころのなせる仕業だった
冷酷で未熟なぼくの精神のなせる仕業だったのだ
ぼくが別れを告げればどういう表情をするのか
どういう反応を示すのか
子供が昆虫や小動物を痛めつけて
強烈な反応を期待するかのように
幼稚な好奇心を発揮したということなのだ
「破壊の喜び」
ダン・シモンズの言葉は
ときおりこころに突き刺さる
真実の一端に触れるからである
「虚栄心のためだった」というのは虚偽である
ぼく自身に偽る言葉だった
「破壊する喜び」
なんと未熟で幼稚なこころの持ち主だったのだろう
ダン・シモンズのこの言葉を読んだのが
数日前のことだった
あの文章を書いていたときには
「虚栄心のためだった」という言葉で
当時の自分のこころを分析したつもりになっていた
「破壊の喜び」という言葉を読んでしまったいま
あの文章の「虚栄心のためだった」という箇所には
はなはだしい偽りがあると思わざるを得ない
いやこれもまた後付けの印象なのか
「虚栄心のため」というのも偽りではなかったかもしれない
「破壊の喜び」という言葉があまりに強烈に突き刺さったために
その強烈な印象に圧倒されて
より適切な表現を目の当たりにして
自分の言葉に真実らしさを感じられなくなったのかもしれない
とすると
すぐれた作家のすぐれた表現に出合ったということなのであって
自分の文章表現が劣っていたという事実に
驚かされてしまったということなのかもしれない
「破壊の喜び」
未熟で幼稚な
いや
未熟で幼稚な精神の持ち主だけが
「破壊の喜び」を感じるのだろうか
どの恋の瞬間にも
「破壊の喜び」が挟み込まれる可能性があるのではないだろうか
ぼく以外の人間にも
恋のさなかに「破壊の喜び」を見出してしまって
とんでもない結果を招いた者がいるのではないだろうか
1生の間に
恋は1度だけ
ぼくはそう思っている
その1度の恋に
取り返しのつかない傷をつけてしまうというのは
そんなにめずらしいことではないのかもしれない
「破壊の喜び」
未熟で幼稚な精神の

いま言える自分がここにいる
当時の自分をより真実に近い場所から見つめることができたと思う
このことは
どんなに救いようのないこころも
救われる可能性があるということをあらわしているのかもしれない
あつかましいかな


二〇一四年十三月二十八日 「ぼくの脳髄は直線の金魚である」


眠っている間にも、無意識の領域でも、ロゴスが働く
夜になっても、太陽がなくなるわけではない
流れる水が川の形を変える
浮かび漂う雲が空の形を与える
わたし自身が、わたしの1部のなかで生まれる
それでも、まだ1度も光に照らされたことのない闇がある
ぼくたちは、空間がなければ見つめ合うことができない
ぼくたちをつくる、ぼくたちでいっぱいの闇
ぼくの知らないぼくがいる
ぼくではないものが、紛れ込んでいるからであろうか?
語は定義されたとたん、その定義を逸脱しようとする
言葉は自らの進化のために、人間存在を消尽する
輸入食料品店で、蜂蜜の入ったビンを眺める
蜜蜂たちが、花から花の蜜を集めてくる
花の種類によって、集められた蜜の味が異なる
たくさんの巣が、それぞれ、異なる蜜で満たされていく
はてさて
へべれ
けべれ
てべれ
ふびれ
きべれ
うぴけ
ぴぺべ
れぴぴ
れずぴ
ぴぴず
ぴぴぴ
ぴぴぴぴぴ
ぼくの脳髄は直線の金魚である
直線の金魚がぼくの自我である
自我と脳髄は違うと直線の金魚がパクパク
神経質な鼻がクンクン
神経質な人特有の山河
酸が出ている
鼻がクンクン
華麗臭じゃないの
加齢臭ね
セイオン
自我の形を想像する
する
すれ
せよ
自我の形は直線である
ぼくのキーボードがこそこそと逃げ出そうとする
ぼくの指がこそこそとぼくから離れようとする
あるいは
トア・エ・
モア
ふふん
オレンジの空に青い風車だったね
ピンク・フロイドだったね
わが自我の狂風が
わが廃墟に吹きわたる
遠いところなど、どこにもない
空間的配置にさわる
肩のこりは
1等賞
ゴールデンタイムの
テレビ番組で
キャスターがぼくを指差す
ああ、指をぼくに向けたらいけないのに
ママがそういってただろ!
ぼくに指を向けちゃいけないって
死んだパパやママが泳いでる
カティン!
血まみれの森だ


二〇一四年十三月二十九日 「蟻ほどの大きさのひと つぶしたし」


そういえば、きょうは薬の効き目が朝も持続していて
ふらふらしていたらしい
ひとに指摘された
自分ではまっすぐ歩いてるつもりなんだけど
歳かな
たしかに肉体的には
年寄りじゃ
ふがふが
ふがあ
河童の姉妹が花火を見上げてる
ひまわりのそば 洗濯物がよく乾く
夏休み 半分ちびけた色鉛筆
どの猿も 胸に手をあて 夏木マリ
鼻水で 縄とびビュンビュン ヒキガエル
子ら帰る プールのにおい着て
まな落ちて 手ぬぐい落ちる 夏の浜 
アハッ 漱石ちゃん
わが声と偽る蝉の抜け殻
恋人と氷さく音 並び待つ
ファッ
夏枯れの甕の底には猫の骨
これも漱石じゃ
わがコインも 蝉の亡骸のごと落つ
違った
わが恋も蝉の亡骸のごと落つ
わがコインもなけなしのポケットごと落つ
チッチッチ
俳句の会に出る。
1997年の4月から夏にかけて
ばかばかしい
話にもならない
情けない
って
歳寄りは思わないのね
会費1000円は
回避したかった
チッ
蟻ほどの大きさのひと つぶしたし
人ほどの大きさの蟻 つぶしたり
この微妙な感じがわかんないのね
歳寄り連中には
なんとなく 蟻ほどの人 つぶしたし
ヒヒヒ
けり
けれ
けら
けらけらけら
けっ
まなつぶる きみの重たさ ハイ 飛んで
小さきまなに 蟻の 蟻ひく
わが傷は これといいし蟻 蟻をひく
自分と出会って 蟻の顔が迷っている
あれ
前にも書いたかな?
メモ捨てようっと。
ギャピッ
あり地獄 ひとまに あこ みごもりぬ
蟻地獄1室に吾児身ごもりぬ
キラッ
蟻の顔
ピカル
ちひろちゃん
チュ


二〇一四年十三月三十日 「喩をまねる 喩をまげる」 


「無用の存在なのだ。どうして死んでしまわないのだろう?」
(フィリップ・K・ディック『アルファ系衛星の氏族たち』1、友枝康子訳)
おとつい、えいちゃんのところに、赤ちゃんが生まれた
えいちゃんそっくりの、かわいい赤ちゃんだった
つぎのdioは
森鴎外
ひさびさに日本の作家をもとに書きます
斉藤茂吉以来かな
問を待つ答え
問いかけられもしないのに
答えがぽつんと
たたずんでいる
はじめに解答ありき
解答は、問あれ、と言った
すると、問があった
ヴェルレーヌという詩人について
かつて書いたことがありますが
ヴェルレーヌの飲み干した
アブサン酒の、ただのひとしずくも
ぼくの舌は味わったことがなかったのだけれど
ようやく味わえるような気になった
もちろん、アブサン酒なんて飲んじゃいないけど

ようやく原稿ができた
もう1度見直しして脱稿しよう
そうして
ぼくは、ぼくの恋人に会いに行こう
風景が振り返る
あっちゃんブリゲ
手で払うと
ピシャリ

へなって
父親が
壁によろける
手を伸ばすと
ぴしゃり

ヒャッコイ
ヒャッコイ
3000世界の
ニワトリの鳴き声が
わたしの蜂の巣のなかで
コダマする。
時速何100キロだっけ
ホオオオオオ
って
キチキチ
キチキチ
ぼくの鳩の巣のなかで
ぼくのハートの巣のなかで
ニワトリの足だけが
ヒャッコイ
ヒャッコイ
ニードル
セレゲー
エーナフ
ああ
ヒャッコイ
ヒャッコイ
ぼくの
声も
指も
耳も
父親たちの死骸たちも
イチジク、ミミズク、3度のおかわり
会いたいね

合わしたいね
きっと
カット

見返りに
よいと
巻け
やっぱり、声で、聞くノラ
ノーラ
きみが出て行った訳は
訳がわからん
ぼくは
いつまでたっても
自立できない
カーステレオ
年季の入ったホーキです。
毎朝
毎朝
いつまでたっても
ぼくは
高校生で
授業中に居眠りしてた
ダイダラボッチ
ひーとりぼっち
そげなこと言われても
訳、わがんねえ
杉の木立の
夕暮れに
ぼくたちの
記憶を埋めて
すれ違っていくのさ
風と
風のように
そしたら
記憶は渦巻いて
くるくる回ってるのさ
ひょろろん
ひょろろん
って
生きてく糧に
アドバルーン
眺めよろし
マジ決め
マジ切れ
も1度
シティの風は
雲より
ケバイ
そしたら
しっかり生きていけよ、美貌のマロニーよ
ハッケ
ヨイヨイ
よいと
負け
すばらしく詩神に満ちた
廃墟

上で
ぼくは
霧となって
佇んでいる
ただ
澄んでいる


ない
ビニールを
本の表紙に
カヴァーにして


ボタンダウンが
よく臭う
ぼくの欠けた
左の手の指の先の影かな
年に平均
5、6本かな
印刷所で
落ちる指は
ヒロくんはのたまわった
お父さんが
労災関係の弁護士で
そんなこと言ってた
アハッ
なつかしい声が過ぎてく
ぼくの
かわりばんこの
小枝
腕の
皮膚におしつけて
呪文をとなえる
ツバキの木だったかなあ
こするといいにおいがした
したかな
たぶん
こするといいにおいがした
まるで見てきたような嘘を
溜める

貯める
んんん
矯める
矯めるじゃ!
はた迷惑な電話に邪魔されて
無駄な
手足のように
はえてきて
どうして、舞姫は
ぼくがひとりで
金魚と遊んでいたことを知ってるんだろう?
ひゃっこい
ひゃっこい
どうして、舞姫は
ぼくがひとりで
金魚と遊んでいたことを知ってるんだろう?
ひゃっこい
ひゃっこい
ピチッ
ピチッ
もしも、自分が光だってことを知っていたら、バカだね、ともたん
まつげの上を
波に
寄せては
返し
返しては
寄せて
ゴッコさせる
まつげの上に
潮の泡が
ぷかりぷかり
ぼくは
まつげの上の
波の照り返しに
微笑み返し
ポテトチップスばかりたべて
体重が戻ってるじゃん!
せっかく神経衰弱で
10キロ以上やせたのにいいいいい
まつげの上に
波に遊んでもらって
ぼんやり
ぼくは本を読んでる
いくらページをめくっても
物語は進まない。
寄せては返し
返しては
寄せる
ぼくのまつげの上で
波たちが
泡だらけになって
戯れる
きっと忘れてるんじゃないかな
ページはきちんと
めくっていかないと
物語が進まないってこと
ページをめくってはもとに戻す
ぼくのまつげの上の波たち
いまほど
ぼくが、憂鬱であったためしはない
足の裏に力が入らない
波は
まつげの上で
さわさわ
さわさわ
光の数珠が、ああ、おいちかったねえ
まいまいつぶれ!
人間の老いと
光の老いを
食べ始める
純粋な栄光と
不純な縁故を
食べる
人間の栄光の及ばない
不純な光が
書き出していくと
東京だった
幾枚ものスケッチが
食べ始めた。
ごめんね、ともひろ
ごめんね、ともちゃん
幾枚ものスケッチに描かれた
光は
不純な栄光だった
言葉にしてみれば
それは光に阻害された
たんなる影道の
土の
かたまりにすぎないのだけれど
ごめんね
ともちゃん
声は届かないね
みんな死んじゃったもん
もしも、ぼくが
言い出さなかったら

思うと
バカだね
ともたん
もしも
自分が食べてるのが
光だと
知っていたら
あんとき
根が食べ出したら
病気なのね
ペコッ
自分が食べている羊が
食べている草が
食べている土が
食べている光が
おいちいと感じる
1つ1つの事物・形象が
他のさまざまな事物や形象を引き連れてやってくるからだろう
無数の切り子面を見せるのだ
金魚が回転すると
冷たくなるというのは、ほんとうですか?
仮面をつける
絵の具の仮面
筆の仮面
印鑑入れの仮面
掃除機の仮面
ベランダの手すりの仮面
ハサミの仮面
扇風機の仮面
金魚鉢の仮面
輪投げの仮面
潮騒の仮面
夕暮れの仮面
朝の仮面
仕事の仮面
お風呂の仮面
寝ているときの仮面
子供のときの仮面
死んだあとの仮面
夕暮れがなにをもたらすか?
日光をよわめて
ちょうど良い具合に
見えるとき
見えるようになるとき
ぼくは考えた
事物を見ているのではない
光を見ているのだ、と
いや
光が見てるのだ

夕暮れがなにをもたらすか?

お風呂場では
喩をまねる
喩をまげる
曲がった喩につかった賢治は
硫黄との混血児だった
自分で引っかいた皮膚の上で
って、するほうがいいかな
だね
キュルルルルル
パンナコッタ、どんなこった


二〇一四年十三月三十一日 「プチプチ。」


彼が笑うのを見ると、いつもぼくは不安だった
ぼくの話が面白くて笑ったのではなく
ぼくを笑ったのではないかと
ぼくには思われて
表情のない顔に引っ込む
この言葉はまだ、ぼくのものではない
ぼくのものとなるにつれて、物質感を持つようになる
触れることのできるものに
そうすれば変形できる
切断し、結び合わせることができる
せっ、
戦争を純粋に楽しむための再教育プログラム。
あるいは、菓子袋の中のピーナッツがしゃべるのをやめると、
なぜ隣の部屋に住んでいる男が、わたしの部屋の壁を激しく叩くのか?
男の代わりに、柿の種と称するおかきが代弁する。(大便ちゃうで〜。)
あらゆることに意味があると、あなたは、思っていまいまいませんか?
「ぼくらはめいめい自分のなかに天国と地獄をもってるんだ」
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第十三章、西村孝次訳)
「ぼくだけじゃない、みんなだ」
(グレッグ・ベア『天空の劫火』下・第四部・59・岡部宏之訳)
人間は、ひとりひとり自分の好みの地獄に住んでいる
そうかなあ
そうなんかなあ
わからへん
でも、そんな気もするなあ
きょうの昼間の記憶が
そんなことを言いながら
驚くほどなめらかな手つきで
ぼくのことを分解したり組み立てたりしている
ほんのちょっとしたこと、ささいなことが
すべてのはじまりであったことに突然気づく
「ふだん、存在は隠れている」
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)
「そこに、すぐそのそばに」
(ジイド『ジイドの日記』第二巻・一九一〇、カヴァリエール、八月、新庄嘉章訳)
世界が音楽のように美しくなれば、
音楽のほうが美しくなくなるような気がするんやけど、どやろか?
まっ、じっさいのところ、わからんけどねえ。笑。
バリ、行ったことない。中身は、どうでもええ。
風景の伝染病。
恋人たちは、ジタバタしたはる。インド人。
想像のブラやなんて、いやらしい。いつでも、つけてや。笑。
ぶひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。
ある古書のことです
ヤフー・オークションで落札しました
11111円で落札しました
半年以上探しても見つからなかった本でしたので
ようやく手に入って喜んでいたのですが
きのうまで読まずに本棚に置いておりました
きのうは土曜日でしたので
1気に読もうと思って手にとりました
面白いので、集中して読めたのですが
途中、本文の3分の2ぐらいのところで
タバコの葉が埃の塊とともに挟まっていて
おそらくはまだ火をつけていないタバコのさきから
縦1ミリ横3ミリの長方形に刻まれた葉がいくつかこぼれ落ちたのでしょう
タバコの脂がしみて、きれいな紙をだいなしにしておりました
それが挟まれた2ページはもちろん
その前後のページも損傷しておりました
すると、とたんに読む気がうせてしまいました
まあ、結局、寝る前に、最後まで読みましたが
昨年の暮れに買いましたものでしたので
いまさら出品者にクレームをつけるわけにもいかず
最終的には、怒りの矛先が自分自身に向かいました
購入したらすぐに点検すべきだったと
しかし、それにしても
古書を見ておりますと
タバコの葉がはさまれていることがこれまでに2回ありました
これで3回目ですが、故意なのでしょうか
ぱらぱらとまぶしてあることがあって
そのときには、なんちゅうことやろうと思いました
自分が手放すのがいやだったら
売らなければいいのにって思いました
ちなみに、その古書のタイトルは
『解放されたフランケンシュタイン』でした
ぼくがコンプリートに集めてるブライアン・オールディスの本ですけれど
読後感は、あまりよくなかったです
汚れていたことで、楽しめなかったのかもしれません
途中まで面白かったのですが
こんなことで、本の内容に対する印象が異なるものになる可能性もあるのですね
うん?
もしかして
ぼくだけかしらん?
「すべてが現実になる。」
(フレデリック・ポール&C・M・コーンブルース『クエーカー砲』井上一夫訳)
「あらゆるものが現実だ。」
(フィリップ・K・ディック『ユービック:スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳)
ケルンのよかマンボウ。あるいは、神は徘徊する金魚の群れ。
moumou と sousou の金魚たち。
リンゴも赤いし、金魚も赤いわ。
蟹、われと戯れて。 ぼくの詩を読んで死ねます。か。
扇風機、突然、憂鬱な金魚のフリをする。
ざ、が抜けてるわ。金魚、訂正する。
ぼくは金魚に生まれ変わった扇風機になる。
狒狒、非存在たることに気づく、わっしゃあなあ。
2006年6月24日の日記には、こうある
「朝、通勤電車(近鉄奈良線・急行電車)に乗っているときのことだ
新田辺駅で、特急電車の通過待ちのために
乗っている電車が停車していると
車掌のこんなアナウンスが聞こえてきた
「電車が通過します。知らん顔してください。」
「芸術にもっとも必要なものは、勇気である。」
って、だれかの言葉にあったと思うけど
ほんと、勇気いったのよ〜

「思うに、われわれは、眼に見えている世界とは異なった別の世界に住んでいるのではないだろうか。」
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』11、山田和子訳)
「人間は、まったく関連のない二つの世界に生きている」
(トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』4、友枝靖子訳)
「世界はいちどきには一つにしたほうがいい、ちがうかね?」
(ブルース・スターリング『スキズマトリックス』第三部、小川隆訳)
「きみがいま生きているのは現実の世界だ。」
(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)
「精神もひとつの現実ですよ」
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』16、菅野昭正訳)
『図書館の掟。』は、タイトルを思いついたときに
これはいい詩になるぞと思ったのだけれど
書いていくうちに、お腹を壊してしまって
『存在の下痢。』を書くはめになってしまった
『図書館の掟。』は、たしかに、書いているときに
体調を崩してしまって、ひどい目にあったものだけれど
まだまだ続篇は書けそうだし
散文に書き直して小説の場に移してもいいかもしれない
『存在の下痢。』は、哲学的断章として書いたものだけれど
読み手には、ただ純粋に楽しんでもらえればうれしい
『年平均 6本。』は、青春の詩だ
一気に書き下ろしたものだ
「青春」という言葉は死語だけれど
「青春」自体は健在だ
現に、dionysos の同人たちは
いつ会っても、みんな「青春」している
表情が、じつに生き生きとしているのだ
『熊のフリー・ハグ。』以下の作品は
opusculeという感じのものだけれど
これまた書いていて、たいへん楽しいものだった
読者にとっても、楽しいものであればいいと願っている
去年の1月1日の夜に
コンビニで、さんまのつくねのおでんを買った
帰って、1口食べたら
食べたとたんに、げーげー吐いた
口のなかいっぱい、魚の腐った臭いがした
すぐに、コンビニに戻った
「お客さんの口に合わない味だったんですよ。」と
店員に言いくるめられて、お金を返してもらっただけで、帰らされた
くやしかった
たしかに、そのあと、おなかは大丈夫だったけど
1月2日には、アンインストールしてはいけないものをアンインストールして
パソコンを再セットアップしなければならなくなった
ふたたびメールの送受信ができるようになるまで、3日の夜までかかってしまった
作業の途中で、発狂するのでは、と思うことも、しばしばであった
ものすごくしんどかった
パソコンについて無知であることに、あらためて気づかされた
ことしの始まりは、最悪であった
すさまじくむごい正月であった
詩のなかで
「世界中の不幸が、ぼくの右の手の人差し指の先に集まりますように!」
と書いたけど
ほんとうに集まってしまった
こんどは、こう書いておこう
世界中の幸福が、ぼくの右の手の人差し指の先に集まりますように! と
ぼくたちは
おそらく、ひとりでいるとき
考える対象が、何もなければ
だれでもない
ぼくたちでさえないのであろう
「自分が誰なのかまるで分らないのだ。」
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸生訳)
そこにいるのは、ただ
「見も知らぬ、わけの分らぬ自分」
(ブラッドベリ『刺青の男』日付のない夜と朝、小笠原豊樹訳)
であり、その自分という意識すらしないでいるときには
そこにいるのは何なのだろう
自分自身のこころを決めさせているものとして考えられるものをあげていけば
きりがないであろう
たとえば、それは、自分の父親の記憶
ぼくの父親が
ぼくや、ぼくの母親に向かって言った言葉とか
その言葉を口にしていたときに父親の顔に浮かんでいた表情や
そのときのぼくの気分とか
そのときの母親の顔に浮かべられた表情や
母親の思いが全身から滲み出ていたそのときの母親の態度とか
反対に、そのときの思いを必死に隠そうとしていた母親の態度とか
そのときの部屋や、食事に出かけたときのお店のなかでのテーブルの席とか
いっしょに旅行したときの屋外の場面など
その空間全体の空気というか雰囲気とかいったものであったり
本のなかに書かれていた言葉や
本のなかに出てくる登場人物の言葉であったり
恋人や友だちとのやりとりで交わされた言葉であったり
学校や職場などで知り合った人たちとの付き合いで知ったことや言葉であったり
テレビやインターネットで見て知ったことや言葉であったりするのだけれども
だれが、あるいは、どれが、ほんとうに、自分の意志を決定させているのか
わからないことがほとんどだ
というか、そんなことを
日々、時々、分々、秒々、考えて生きているわけではないのだけれど
ときどき考え込んでしまって
自分の思考にぐるぐる巻きになって
まれに昏睡したり
倒れてしまったりすることがある
先週の土曜日のことだ
本屋で
なぜ、ぼくは、詩を書いたり
詩について考えたりしているのだろうと
そんなことを考えていて、突然、めまいがして倒れてしまって
その場で救急車を呼ばれて
そのまま救急病院に運ばれてしまったのである
シュン
点滴打たれて、その日のうちに帰っちゃったけどね
考えつめるのは、あまり身体によくないことなのかもしれない
チーン
『徒然草』のなかに
「筆を持つとしぜんに何か書き、楽器を持つと音を出そうと思う。
 盃を持つと酒を思い、賽(さい)を持つと攤(だ)をうとうと思う。
 心はかならず何かをきっかけとして生ずる。」
(現代語訳=三木紀人)
とか
「主人がいる家には、無関係な人が心まかせに入り込むことはない。
 主人がいない所には、行きずりの人がむやみに立ち入り、
 狐(きつね)やふくろうのような物も、人の気配に妨げられないので、
 わが物顔で入って住み、木の霊などという、奇怪な形の物も出現するものである。
 また、鏡には色や形がないので、あらゆる物の影がそこに現われて映るのである。
 鏡に色や形があれば、物影は映るまい。
 虚空は、その中に存分に物を容(い)れることができる。
 われわれの心にさまざまの思いが気ままに表れて浮かぶのも、
 心という実体がないからであろうか。
 心に主人というものがあれば、胸のうちに、
 これほど多くの思いが入ってくるはずはあるまい。」
(現代語訳=三木紀人)
というのがあるんだけど
最初のものは、第117段からのもので
それにある
「心はかならず何かをきっかけとして生ずる。」
という言葉は
ゲーテの
「人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出して、その崇高な力に私は抵抗することができない。」
(『花崗岩について』小栗 浩訳)
といった言葉を思い出させたし
あとのものは
第235段からのもので
それにある
「鏡には色や形がないので、あらゆる物の影がそこに現われて映るのである。
鏡に色や形があれば、物影は映るまい。」
とか
「虚空は、その中に存分に物を容れることができる。
 われわれの心にさまざまの思いが気ままに表れて浮かぶのも、
 心という実体がないからであろうか。
 心に主人というものがあれば、
 胸のうちに、これほど多くの思いが入ってくるはずはあるまい。」
といった言葉は
「多層的に積み重なっている個々の2層ベン図
 それぞれにある空集合部分が
 じつは、ただ1つの空集合であって
 そのことが、さまざまな概念が結びつく要因にもなっている。」
という、ぼくの2層ベン図の考え方を
髣髴とさせるものであった
この空集合のことを、ぼくは
しばしば、「自我」にたとえてきたのだが
ヴァレリーは、語と語をつなぐものとして
「自我」というものを捉えていた
あるいは、意味を形成する際に
潜在的に働く力として
「自我」というものがあると
ヴァレリーは考えていたし
カイエでは
本来、自我というものなどはなくて
概念と概念が結びついたときに
そのたびごとに生ずるもののようにとらえていたように思えるのだけど
これを思うに、ぼくのいつもの見解は
ヴァレリーに負うところが、多々あるようである
しかし、そういったことを考えていたのは
何も、ヴァレリーが先駆者というわけではない
それは、ぼくのこれまでの詩論からも明らかなように
古代では、プラトン以前の何人もの古代ギリシア哲学者たちや
プラトンその人、ならびに、新プラトン主義者たちや、ストア派の哲学者たち
近代では、汎神論者たちや、象徴派の詩人や作家たちがそうなのだが
彼らの見解とも源流を同じくするものであり
それは、現代とも地続きの19世紀や20世紀の哲学者や思想家たち
詩人や作家たちの考えとも
その根底にあるものは、大筋としては、ほぼ同じところにあるものと思われる
ぼくが、くどいくらいに繰り返すのも
ヴァレリーのいう、「自我」の役割と、その存在が
空集合を下の層としている、ぼくの2層ベン図のモデルと
その2層ベン図が多層的に積み重なっているという
多層ベン図の空間モデルで10分に説明できることが
それが真実であることの証左であると
こころから思っているからである
また、第235段にある
「主人がいる家には、無関係な人が心まかせに入り込むことはない。
 主人がいない所には、行きずりの人がむやみに立ち入り、
 狐やふくろうのような物も、人の気配に妨げられないので、
 わが物顔で入って住み、木の霊などという、奇怪な形の物も出現するものである。」
とか
「虚空は、その中に存分に物を容れることができる。」
とかいった言葉は
ぼくの
「孤独であればあるほど、同化能力が高まるのだろうか。
 真空度が増せば増すほど、まわりのものを吸いつける力が強くなっていくように。」
といった言葉を思い起こさせるものでもあった
このあいだ、『徒然草』を読み直していて
あれっ、兼好ちゃんって
ぼくによく似た考え方してるじゃん
って思ったのだ
チュチュチュ、イーン。パッ
ううぷ
ちゃあってた
Aじゃない
Eだ
リルケは
ちゃはっ
視点を変える
視点を変えるために、目の位置を変えた
両肩のところに目をつけた
像を結ぶのに、すこし時間がかかったが
目は、自然と焦点を結ぶらしく
(あたりまえか。うん? あたりまえかな?)
それほど時間がかからなかった
移動しているときの風景の変化は
顔に目があったときには気がつかなかったのだが
ただ歩くことだけでも、とてもスリリングなものである
身体を回転させたときの景色の動くさまなど
子供の時に乗ったジェットコースターが思い出された
ただ階段を下りていくだけでも、そうとう危険で
まあ、壁との距離がそう思わせるのだろうけれども
顔に目があったときとは比べられない面白さだ
左右の目を、チカチカとつぶったり、あけたり
風景が著しく異なるのである
顔にあったときの目と目の距離と
肩にあるときの目と目の距離の差なんて
頭ふたつ分くらいで
そんなにたいしたもんじゃないけど、目に入る風景の違いは著しい
寝る前に、ちかちかと目をつぶったり、あけたり
1つの部屋にいるのに、異なる2つの部屋にいるような気分になる
目と目のあいだが離れている人のことを「目々はなれ」と言うことがあるけど
そういえば、志賀直哉、じゃなかった、ああ、石川啄木じゃなくて
漱石の知り合いの、ええと、あれは、あれは、だれだっけ?
啄木じゃなくて、ええと
あ、正岡子規だ!
正岡子規がすぐれていたのは、もしかしたら
目と目の間が、あんなに離れていたからかもしれない
人間の顔の限界ぎりぎりに目が離れていたような気がする
すごいことだと思う
こんど、胸と背中に目をつけようと思うんだけど
どんな感じになるかな
あ、それより、3つも4つも
いんや、いっそ、100個くらいの目だまをつけたらどうなるだろう
100もの異なる目で眺める
あ、この文章って、プルーストだったね。
The Wasteless Land.
で、引用してたけど
じっさい、100の異なる目を持ってたら
いろいろなものが違って見えるだろうね
100もの異なる目

100の異なる目でも
頭が1つだから
100の異なる目でも
100の同じ目なのね
考える脳が同じ1つのものだったら
じゃあ
100の目があってもダメじゃん
100の異なる目って
異なる解釈のできる能力のことなのね
あたりまえのことだけれど
違った場所に目があるだけで
違って見える
違って解釈できるかな?
わからないね
でも生態学的に(で、いいのかな?)100もの目を持ってたら?
って考えたら、ひゃー、って思っちゃうね
あ、妖怪で、100目ってのがいたような気がする
いたね
水木しげるのマンガに出てたなあ
でも、100も目があったら、花粉症のぼくは
いまより50倍も嫌な目にあうの?
50倍ってのが単純計算なんだけどね

プチッ
プチ
プチ、プチ
あの包装用の、透明のプチプチ
指でよくつぶすあのプチプチ
プチプチのところに目をつけるのね
で、指でつぶすの
プチプチ
プチプチって

ブブ
ブクブホッ
いつのまにか、ぼくは自分の身体にある目を
プチプチ
プチプチって

ブブ
ブクブホ
って

ひとりひとりが別の宇宙を持っているって書いてたのは
ディックだったかな
リルケだったかな
ふたりとも
カ行の音で終わってる
あつすけ

カ行の音で終わってるね

おそまつ

ところで
早くも、次回作の予告
次回の dio では
失われた詩を再現する試みをするつもりである
その過程も入れて、作品にするつもりである
かつて、『Street Life。』というタイトルで
どこかに出したのだが、それが今、手元にないのだ
よい詩だったのだが、ワープロ時代の詩で
データが残っていないのだ
原稿用紙に2枚ほどのものだったような気がする
覚えているかぎりでは、よい詩だったのだ
ベイビー!
そいつは、LOVE&BEERの
いかしたポエムだったのさ
(いかれたポエムだったかもね、笑。)
フンッ


詩の日めくり 二〇一五年一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年一月一日 「初夢はどっち?」


 ようやく解放された。わかい、ふつう体型の霊が、ぼくの横にいたのだ。おもしろいから、ぼくのチンポコさわって、というと、ほんとにさわってきたので、びっくりした。きもちよかった。直接さわって、と言って、チンポコだしたら、霊の存在が感じられなくなって、あ、消えてしまったのだと思うと、からだの自由がとりもどせたのだった。それまで、口しかきけず、からだがほとんどうごかなかったのだ。手だけ、うごかせたのだった。しかし、この部屋とは違う部屋になっていた。その青年の霊が、ぼくのチンポコをさわっているときに、窓に何人もの霊があらわれて、のぞいていたのだけれど、ぼくの部屋に窓はない。ひさしぶりに、霊とまじわった。まあ、悪い霊じゃなくて、よかった。気持ちいいことしてくれる霊なら、いくら出てきてくれてもよい。ただし、タイプじゃなかったので、まえのように、ふとんの上から、重たいからだをおしつけてきてくれるようなオデブちゃんの霊なら、大歓迎である。も一度寝る。はっきり目がさめちゃったけど。寝るまえの読書が原因かな。じつは、ロバート・ブロックの『切り裂きジャックはあなたの友』のつづきを読んでいたのだ。『かぶと虫』というタイトルのエジプトのミイラの呪いの話を読んで寝たのだ。これが原因かもしれない。しかし、ぼくの言うことを聞いてくれた霊だったので、もしもこれが夢だったら、ぼくは夢を操作できるようになったということである。これからは、夢に介入できるという可能性があることになる。怖いけれど、楽しみである。こんど出てきたら、ぼくのタイプになってってお願いしてみようと思う。そしたら、恋人いない状態のぼくだけれど、ぜんぜんいいや。寝るのが楽しみである。お水をちょこっと飲んで、も一度寝る。おやすみ。起きた。すぐに目が覚めてしもた。学校の先生のお弁当の夢を見た。こっちが初夢なのかな? なんのこっちゃ。先生のお弁当の心配だった。「奥さんがつくってくれはりますよ。」とぼくが言ったところで終わり。だけど、あんまり親しくない先生だったのが不思議。


二〇一五年一月二日 「SF短編集・SFアンソロジー」


SFの短篇集やアンソロジーは、おもしろいものが多く、また勉強になるものも多い。
ぼくがもっとも感心したのは、つぎの短篇集とアンソロジー。

1番 ジョディス・メリルの『年間SF傑作選』1〜7(創元推理文庫)
2番 20世紀SF(1)〜(6)(河出文庫)
3番 SFベスト・オブザ・ベスト 上・下巻 創元SF文庫 
4番 ロシア・ソビエトSF傑作集 上・下巻 創元推理文庫
5番 東欧SF傑作集 上・下巻 創元SF文庫
6番 時の種(ジョン・ウィンダム) 創元推理文庫
7番 ふるさと遠く(ウォルター・テヴィス) ハヤカワ文庫
8番 ヴァーミリオン・サンズ(J・G・バラード) ハヤカワ文庫
9番 シティ5からの脱出(バリントン・J・ベイリー) ハヤカワ文庫 
9番 サンドキングズ(ジョージ・R・R・マーティン) ハヤカワ文庫
10番 第十番惑星(ベリャーエフ) 角川文庫
11番 マッド・サイエンティスト(S・D・シフ編) 創元文庫
12番 時間SFコレクション タイム・トラベラー 新潮文庫 
13番 宇宙SFコレクション(1) スペースマン 新潮文庫
14番 宇宙SFコレクション(2) スターシップ 新潮文庫
15番 〈時間SF傑作選〉ここがウィネトカなら、きみはジュディ ハヤカワ文庫
16番 〈ポストヒューマンSF傑作選〉スティーヴ・フィーヴァー ハヤカワ文庫
17番 空は船でいっぱい ハヤカワ文庫
18番 第六ポンプ(パオロ・バチガルピ)ハヤカワ文庫
19番 河出書房新社の「奇想コレクション」全20巻
20番 早川書房の「異色作家短篇集」全20巻
21番 スロー・バード(イアン・ワトスン) ハヤカワ文庫
22番 ショイヨルという名の星(コードウェイナー・スミス) ハヤカワ文庫

 以上、いま本棚をちらほらと眺めて、これらは読んでおもしろく、また勉強になった作品だなと思ったものだけれど、順番をつけて書いたが、その順番には意味がない。ジョディス・メリルの編集したものに、はずれが1つもないことには驚嘆した。とくにSFという枠に収まらないものがあって、その中の1篇の普通小説が特に秀逸だった。ここに怪奇小説の傑作集を入れると、右にあげたSFの傑作集以上の数のものがあるけれど、それにミステリーを加えると、ものすごい数のものになってしまって、短篇集やアンソロジーだけでも、50以上の秀逸なものがあると思う。「読まずに死ねるか」と、だれかが本のタイトルにしていたような気がするけど、ほんと、おもしろい本と出合うことができて、よい人生だなと、ぼくなどは思う。


二〇一五年一月三日 「人間のにおい」


「指で自分の鼻の頭、こすって、その指、におてみ。」と言われて
指で自分の鼻の頭をこすって、その指のにおいをかいでみた。
「くさっ。」と言うと
「それが人間のにおいや。」と言った。
テレビででもやっていたのだろう。
ぼくがまだ中学生のときのことだ。
中学生の同級生とのやりとりだ。
中学生が「人間のにおい」などという言葉を思いつけるとは思えない。
そのとき、友だちに確かめたわけではないけれど。
それから40年以上たつけれど
ときどき鼻の頭のあぶらをティッシュでぬぐって
そのあとティッシュの汚れた部分を見て
そこに鼻を近づけて
そのいやなにおいを嗅ぐことがある。
くさいと思うそのにおいは、ずっと同じようなにおいがする。
「人間のにおい」って言っていたけれど
「人間のにおい」だなんて、いまのぼくには思えない。
「ぼくのにおい」だったのだ。


二〇一五年一月四日 「登場人物と設定状況」


 文学作品を読んでいて、その登場人物のことや、その作品の設定状況などについて考える時間が多いのだが、一日のうち、あんまり多くの時間をそれに費やしていると、頭のなかは、その架空の登場人物や設定状況についての知識と考えにとらわれてしまって、じっさい現実に接している人間についてよりも多くの時間を使っているために、現実の人間についての考察や現実の状況についての考察を、架空の人物や設定状況の考察よりも手薄くしてしまうことがあって、ああ、これは逆転しているなあ、これでは、あべこべだと思って、ふとわれに返ることがある。一日じゅう、文学作品ばかりに接していると、そういった逆転がしょっちゅう起こっているのだった。ところで、これまた、ふと考えた。しかし、現実に接している人間でも、じっさいに接して、その人間の言動を見て、聞いて、触れて、嗅いでいる時間は、その人間といないときよりずっと短いのがふつうである。したがって、現実に接している人間でも、自分がその人間の特性のすべてを知って接しているわけではないことに注意すべきだし、その点に留意すると、現実に接している人間もまた架空の人間と同様に、その人物について知っていることはごくわずかのことであり、それから読み取れることはそれほど多くもないということで、そういう彼らを、自分の人生という劇に登場してくる架空の人物なのだと思うことは、それほどおかしなことではないようにも思われる。ただ、現実の人間のほうが感情の起伏も激しいし、意外な面を見せることも多くて、文学作品のほうが驚きが少ないような気がするが、それは、つくりものがつくりものじみて見えないように配慮してつくってあるためであろう。これはこれでまた一つの逆転であると思われる。皮肉なことだ。


二〇一五年一月五日 「主役と端役」


 日知庵でも、よく口にするのだが、ぼくたちは、それぞれが自分の人生という劇においては主役であり、他人は端役であるが、それと同時に、他人もまた彼もしくは彼女の人生という劇においては主役であり、ぼくたちは彼らの人生においては端役であるのだと。


二〇一五年一月六日 「磔木の記憶」


 木の生命力はすごくて、記憶力もそれに劣らず、ものすごいものであった。イエス・キリストの手のひらと足を貫いて打ち込まれた鉄釘の衝撃を、いまでも覚えているのだった。さまざまな教会の聖遺物箱のなかにばらばらに収められたあとでも。


二〇一五年一月七日 「弟」


 お金ならあり余っている実業家の弟からいま電話があった。「あっちゃん、生活はどうや?」と言うので、「ぎりぎりかな。」と言うと、心配して援助してくれそうな雰囲気になったので、「食べていけるぶんだけはちゃんと稼いでるから、だいじょうぶやで。」と言うと、「なにかあったら電話してや。」とのこと。ありがたい申し出だったのだけれど、25才で芸術家になると宣言して家を出て30年。意地でも自立して生きてきたのだ。いまさらだれにも頼る気はない。人間はまず経済的自立にいたってこそ、自由を獲得できるのだ。芸術はその自由のうえでしか築けるものではないのだ。


二〇一五年一月八日 「少女」


 二日まえから少女と暮らしている。まだ未成年だ。大坂の子らしい。すこしぽっちゃりとして、かわいらしい。肉体関係はない。けさ帰ってしまった。ぼくの夢のなかに現われた少女だったけれど、なぜか、いなくなって、さびしい。いい子だったのだ。高校生だと言っていた。どこかで見た子ではなかった。河原町にいっしょに買い物に行ったけど、「京都って、やっぱり、大阪よりダサイんじゃないかな。」と、ぼくが言うと、「そうかな?」って言って、店のなかに入って行った。けさ、駅まで見送ったけれど、そのまえに、自動販売機でジュースを買って、ふたりで飲んだ。その自動販売機って、おかしくって、買ったひとの名前が表示されるのだけれど、彼女の名前が出て、ふううん、こんな名前だったんだと思ったのだけれど、目がさめたら、忘れてた。おぼえておきたかった。なんていう名前だったのだろう。とてもかわいらしい少女だった。


二〇一五年一月九日 「ちょっとだけカーテン。」


ちょっとだけ台風。
ちょっとだけ腹が立つ。
ちょっとだけ崩れる。
ちょっとだけ助ける。
ちょっとだけ地獄。
ちょっとだけ天国。
ちょっとだけ感傷的。
ちょっとだけノンケ。
ちょっとだけゲイ。
ちょっとだけプログレ。
ちょっとだけアウト。
ちょっとだけ嘔吐。
ちょっとだけ喜劇。
ちょっとだけ一目ぼれ。
ちょっとだけ偉大。
ちょっとだけ四六時中。
ちょっとだけ正当。
ちょっとだけ正解。
ちょっとだけ螺旋。
ちょっとだけ奥。
ちょっとだけ5時間。
ちょっとだけアルデンテ。
ちょっとだけバカ。
ちょっとだけ永遠。
ちょっとだけボブ・ディラン。
ちょっとだけ激しい。
ちょっとだけフンドシ。
ちょっとだけ孤独。
ちょっとだけTV。
ちょっとだけ愛する。
ちょっとだけいい。
ちょっとだけ聞きたくない。
ちょっとだけほんとう。
ちょっとだけカーテン。


二〇一五年一月十日 「頭のおかしい扉」


うちのマンションの入り口の扉、自動ロックなんだけど、変わってて、ぼくがドアの前に立つとロックして、それから勝手に開錠するの。頭おかしいんじゃないのって思う。


二〇一五年一月十一日 「ドブス」


高校時代の
クラスコンパの二次会のあとで
友だち、6、7人といっしょに行った
ポルノ映画館の
好きだった友だちと
膝と膝をくっつけたときの
思い出が
いまでも、ぼくを興奮させる
ドブスってあだ名の
かわいいらしいデブだった

酒に酔った勢いで
生まれてははじめてポルノ映画館に行ったのだけれど
そのときに見たピンク映画の一つに
田んぼのあぜ道で
おっさんが農婆を犯すというのがあった

でもあまり映画に集中できなかった
ドブスに夢中で


二〇一五年一月十二日 「詩人の才能」


 けっきょく、詩人の才能って、ときどき、とんでもないものを発見する才能じゃないのかな、と思う。つまり、遭遇する才能じゃないのかな、と思ったってこと。たとえ、日常のささいなことのなかにでも、目にはしていても、それをまだだれも表現していないものがあって、それを詩句というもののなかに描出できることを才能って言うんじゃないのかなって思ったのだった。このあいだ行った、第2回・京都詩人会・ワークショップ・共同作品に参加してくれた森 悠紀くんの「やおら冷蔵庫を開け/煙と共にしゃがみ込み」という表現にはほんとうに新鮮な驚きがあったのだ。もちろん、観念だけで書かれた作品のなかにも、機知というものがうかがえるものがあるだろう。それも、もちろん才能によって書かれたものだと思う。ぼくも、どちらかといえば、そちらの人間なのだろうけれど、だからよけいに、ごく自然に書かれたふうな風情に強い共感を持ってしまうのかもしれない。若いときには、ぼくは機知だけで書いてきたようなところがあった。これからも多くはそうだろうけれど、そのうち、いずれ、ごく自然なふうに、すぐれた詩句を書いてみたいものだと思わせられたのだ。


二〇一五年一月十三日 「詩語についての覚書。」


 表現を洗練させるということは、詩語を用いてそれらしく仕上げることではない。ふつうに普段使っている日常の言葉を用いて、まるで、かつての詩語のように(その詩語が当初もたらせた、いまはもうもたらせることのない)さまざまな連想を誘い、豊かにその語の来歴を自らに語らしめさせること、それこそ表現を洗練させることであろう。現在、このことを全的に認識している詩人は、日本にはいない。詩語を用いて詩作品をつくるつもりならば、それは反歴史的に、反引用的に用いなければ、文飾効果はないだろう。すなわち、詩語は、もはやパロディー的に用いるほか、まっとうな詩作品など書けやしないであろうということである。ほんとうに、このことを認識していなくては、これから書かれる詩のほとんどのものは、後世の人間に見せられるようなものではなくなるだろう。


二〇一五年一月十四日 「プラスチックの蟻」


 赤色や黄色や青色や緑色や紫色など、さまざまの色のプラスチックの10センチメートルほどの大きさの蟻が、ぼくの頭のうえにのっかっている。で、ぼくの脳みそから、赤色や黄色や青色や緑色や紫色など、さまざまな色のプラスチックのぼくの脳みその欠片をとりだして、カリカリ、カリカリと齧っている。


二〇一五年一月十五日 「ウサギには表情筋がない」


ぼくが孤独を求めているんじゃなくて
孤独のほうが、ぼくを求めているんじゃないかなって思うことがある。
ぼくはそこに行った。
なぜなら、そこが、ぼくにとって、とても親しい場所だったからだ。
Poets eat monkeys, flowers, benches, chocolate, faces, windows ─.
Monkeys change flowers change benches change chocolate change faces change windows change ─
Chocolate のつぎは changes かな?
イーオンに行ったら、 ぼくが探してたボールペンがあった。
黒0.38ミリの本体つきのもの3本と黒インク7本。 赤0.5ミリの本体つきのもの1本と赤インク4本。
合計1370円。 これって、買い占めじゃなくて、買い置きだよね。
書くと嘘になる。
書かなければ、少なくとも嘘にはならないってこと?
嘘でないことと、ほんとうのことは同じ?
老いたる表情筋がぴくぴく。
そだ、きのう読んだ本に、ウサギには表情筋がないって書いてあった。
「兎は顔面筋をほとんど動かせない。」(チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』金子 浩訳、370ページ)
ちょっと違ったね。
近くのうんこと、遠くのケーキ。
知覚のうんこ。
内容が貧しいものほど、表現が大げさなのは、なぜなのだろう?
ちいさいものが かわいらしいと むかしのさいじょは かいたっけ ちいさいことばが かわいらしいと いまのぼくにも よくわかる よくわかる ふむふむふむ〜
あなたの足が、洗面台のうえに、床のうえに、台所のシンクタンクのなかに、ベッドのうえに、テーブルのうえに同時に置いてある風景。
疑問を削除する花粉。
新たな視力を得ること。
理論的に言うと、スイカは電磁波ではなく、球形である。
犬や猿やない 見たらわかるし 見たらわかるし
自分自身をたずさえて、自分自身のなかを潜らなければならない。
人間は自分の皮膚の外で生きている。
人間は、ただ自分の皮膚の外でのみ生きているということを知ること。
ロゴスが自らロゴスの圏外に足を踏み外すことがあるのかしら? と、ふと考えた。


二〇一五年一月十六日 「霊」


 電気消して二度寝してたら幻聴がして、たくさんの人がいる場所の声がして、とつぜん、布団のうえから人が載ってる感じがして、抱きしめられて、怖いけど、なんか愛情みたいなの感じたから、耳なめて、って声に出して言ったら、かすれた声が耳元でして、耳に息を吹きかけられて気持ちよくなって、ええっ? ほんまものの霊? って、思って、ぼくのむかしの彼氏のうちのひとりかなって思ってたら、気持ちよく頭をなでられたので、あれっ、ドアの鍵してなくて、いま付き合ってる子がいたずらしてるのかなって思って、電気のスイッチに手を伸ばして電気つけたら体重もすっとなくなって気配も消えた。こんなに生々しい肉体の感触のある幻覚はひさしぶり。やさしい霊だった。耳元に息を吹きかけられて頭なでられて、声はちょっとかすれてて、ヒロくんかな。どうしちゃったんだろ。もしかしたら、ヒロくんが、むかしの夢を見たのかもしれない。ヒロくんが二十歳で、ぼくが二十代後半だった。電気つけなきゃよかったかな。でも、怖さもちょっとあったしなー。でも、気持ちよかったから、いい霊だったのだと思う。さっきの霊となら、つきあってもいいかな。やさしそうだし、体重は重たかったし、たぶんデブで、かわいいだろうし、声もかすれてセクシーだったし。あしたから二度寝が楽しみだー。


二〇一五年一月十七日 「セックス」


 おじいさんとおじいさんがセックスしても子どもが生まれるわけである。おばあさんとおばあさんがセックスしても子どもが生まれるわけである。体位についても考えた。親指から人差し指から中指から薬指から小指から、ぜんぶ切断して、くっつけ直すような体位。あるいは、すべての指を親指につけ直してまぐわう体位。忘れてた。息子と娘の近親相姦で親も生まれるし、息子と息子の近親相姦でも親は生まれるし、孫とおばあちゃんとのセックスでも親は生まれる。どうしたって親は生まれる。孫が携帯電話とセックスしても生まれる。あたらしい親。キーボードを打つたびに、親が生まれるのだ。体位はさまざま。指の切断、首の切断も、実質は同じだ。交換し合う指と指。交換し合う首と首。さまざまな体位でまぐわり合う言葉たち。言葉と言葉の近親相姦。他人相姦。はじめて出合う言葉と言葉がはげしくまぐわうのだ。体位はさまざま。とりわけ推奨されるのが切断と接合の体位である。すべての指を切断し接合し直すのだ。すべての首を切断し接合し直すのだ。体位はさまざま。言葉と言葉がはげしくまぐわい合うのだ。あ、さっき、り、と書いた。いだ。いいだ。いいいだ。


二〇一五年一月十八日 「小西くん」


 日知庵では、小西くんが隣でコックリ、コックリ居眠りしていて、えいちゃんの、「あっちゃん、お持ち帰りしたら?」という声に反応して、きゅうに頭を起こして、両手でバッテンしたのには笑った。たいへんかわいい小西くんでした。


二〇一五年一月十九日 「なんちゅうことざましょ。」


プルーストの『失われた時を求めて』の「花咲く乙女たちのかげに」のなかで
シャルリュス男爵が言うように
「人生で重要なのは、愛の対象ではありません」(鈴木道彦訳)
「それは愛するということです」(鈴木道彦訳)
そうね。
愛こそが
どのように愛したか
どのように愛していたのかという愛し方が
まさに、愛し方こそが、問題ね。
しかも、
「われわれは愛の周辺にあまりにも狭苦しい境界を引いているけれども、そうなったのも、もとはと言えば、ただもうわれわれが人生を知らないからなのです。」(鈴木道彦訳)
なんちゅうことざましょ。


二〇一五年一月二十日 「真意」


真意はつねに誤解を通して伝わる。
折り曲げた針金をまっすぐにしようとして、折り曲げ戻したもののように。


二〇一五年一月二十一日 「言語意識」


「言語自体が意識を持ちうるか」という点について、文学的な文脈や、比喩的に、ではなく、きちんと科学的に追及されるということが、いままでに一度でもなされたのだろうか。可能なら、追及してみたい。もしも、科学的に追及できないものなのだとしたら、科学的に追及できないということを証明したい。人間が言葉に意味を与えたのだ。その言葉が人間に意味を与えるのだ。言葉が意識を持っている可能性は十分にあると思う。


二〇一五年一月二十二日 「両もものかは」


 ジョン・クロウリーの『リトル、ビッグ』Iの誤植・その2 276ページ上段2行目にある「男は短い両もものかは、ちょこまかとした足取りで」 なんだろう? 「両もものかは」って。いかなる推測もできない誤植である。


二〇一五年一月二十三日 「無意識領域の自我と意識領域の自我」


 クスリをのんで1時間たったので、電気を消して、自分自身と会話してたら、ふたりか三人の自分のうちのひとりが、「これだよこれ。」と言って、自分のうなじを両手でかきあげるしぐさをしたのだが、わけがわからなかった。これは起きて書かなくてはと思った。わけのわからない夢のほうがおもしろいからである。無意識領域の自我が出現間近だったような気がする。それでも、意志の力で、身体を起こして、目を覚まさせ、意識領域の自我にパソコンをつけさせたのだった。そう促せたのは、いくつかのぼくの自我のうちのどれかだったのだろうが、もちろん、それは意識領域の自我か、意識領域に近いほうの自我だったのだと思う。まだ無意識領域の自我にはなっていなかったと思う。いつもなら、こんなふうに無理に起きようとはしないで、その日に見た夢は、その夢の記憶を夜に書きつけて眠るのだけれど、夢の入り口から戻ってすぐにワードに書き込むのは、はじめてかもしれない。夢。限りなく興味深い。その夢をつくっているのは、ぼくなのだろうけれど、起きているときに活動している意識領域の自我ではないと思っている。無意識領域の自我というと、記憶が意識領域とは無関係に結びつける概念やヴィジョンがあって、自我という言葉自体を用いるのが適切ではないのかもしれないけれど、きょうの体験は、その無意識領域の自我と意識領域の自我が、わずかな瞬間にだが、接触したかのような気がして、意味の不明な、つまらない夢なのだけれど、体験としては貴重な体験をしたと思っている。


二〇一五年一月二十四日 「吊り輪」


 ぼくの輪になった腕に男が吊るされる。男は二人の刑務官によって、ぼくの腕のそばに立たされる。男が動くので、なかなか、ぼくの輪になった腕に、男の首がかからない。二人の刑務官ががんばって、ぼくの腕に、男の首をかけた。床が割れて、男の身体がぶら下がる。輪になったぼくの腕に吊るされて。


二〇一五年一月二十五日 「簡単に捨てる」


シンちゃんからひさしぶりに電話があった。
「前に持ってたCD
 ヤフオクで買ったよ。」
「なんで?
 あ、
 また前に売ったヤツ買ったんやな。」
「そだよ。」
「なんでも捨てるクセは
 なおらへんねんな。」
「売ったの。
 飽きたから。」
「いっしょや。
 そうして、人間も
 おまえは捨てるんや。」
「人間の場合は
 ぼくが捨てられてるの。」
「いっしょや。」
「いっしょちがうわ。」
と言ったけど
もしかしたら
いっしょかもしれない。


二〇一五年一月二十六日 「カムフラージュ、ユニコーン、パルナス、モスクワの味」


「あっくんてさあ
 どうして
 そんなに言葉にとらわれてばかりいるの?」
「うん?」
「まるで言葉のドレイじゃん。」
「言葉のドレイ?」
「そだよ
 もっと自分のことにかまったほうがいいと思うよ。」
「自分のことに?
 ううん
 それで
 言葉にかまってるんだと思うんだけどなあ。」
「言葉は
あっくんじゃないでしょ?」
「言葉はぼくだよ。」
「うそつき!」
「うそじゃないよ。
 ほんとだよ。
 シンちゃんは
 そう思わないの?」
「思わないよ。
 まっ
 あっくんのことだから
 ぼくは
 べつにかまわないんだけどね。」
「かまわないんかよ?」
「かまわないんだよ。」
「ふふん。」
「でも
 あっくんは
 言葉じゃないんだからね。」
「言葉かもしんないよ。」
「バーカ。」
カムフラージュ
ユニコーン
パルナス
モスクワの味
あら
しりとりじゃなかったの?


二〇一五年一月二十七日 「いやなヤツ」


しょっちゅう
烏丸のジュンク堂でチラ読みしてたのだけれど

いいなあとは思っていたのだけれど
雑誌のアンケートがきっかけで買った
パウンドの『ピサ詩篇』
やっぱり
とてもいい感じの詩集だった。
ああ
なんでSFみたいなものにこの4、5年を費やしてしまったんやろか。
時間だけやなくて
お金も、そうとう、つぎ込んだけど
あほやった。
歴史に出てくる人物とか
詩人とか
そんなひとの名前は、わからんものも多かったけど
言葉の運び方がいいので
ぜんぜん気にならず
ときおり見せる抒情と
言葉のリフレインに
こころがキュンとつかまれたって感じ。
じつは、きょうは
『消えた微光』も読んでいて
ルーズリーフ作業のついでに
もう一度ね
とてもここちよかったのだ。
ジェイムズ・メリルの場合もそうやった。
ここちよかったのだ。
ただし、メリルのほうは
もう一行もおぼえていないし
ひとことの詩句も出てこないのだ。
パウンドの詩句も、きっと近いうちに忘れるだろう。

それでいいのだ。
ぼくのなかに埋もれて
いいのだ。
「さみしい」は単複同形だ。
どの引き出しにも「さみしい」がぎっしり。
「わっ!」
「うん?」
「びっくりしないんですね。」
「なんで?」
「いや、いままでのひと、みんな、びっくりしたから。」
「ぼくは、反応が遅いのかもしれないね。」
なんでびっくりさせようとしたんやろうか。
あの男の子。
もう20年くらい前のこと火傷。
火傷ねえ、笑。
無名であること。
ぼくの作品や文章には
完全ゼッタイ的に無名な人物がたくさん出てくるのだけれど
それでいいのだ。
と思う。
『マールボロ。』のシンちゃんについて。
とても相性が悪いのだ。
なんかのときだけど
なんのときか忘れたけれど

誕生日かな
違うかもしれないけど

横綱っていうラーメン屋に入って
「きょうは、おごるね。」って言ったら
いちばん高いラーメンを注文して
(1500円!)
しかも
「これ、まずい。」
って言って
ほんのちょっと食べただけで
そのあとずっと
「まずい。」
「まずい。」
って言われつづけて
ぼくはギャフンとなりました。
「ギャフン」というものになったのだ。

それから
ぼくのなかで
シンちゃんは
「とてもいやなヤツ」になったんやけど
「とてもいやなヤツ」というものになったのね。
そのほかに
これまで
ぼくの恋人のことを
やれブサイクだとか
デブだとか
ブスだとか
もっとマシなのにしたらとか
チョーむかつくこと言われてて
電話も
用もないのにかけてくるし
しかも
話をしてるのよりも
沈黙のほうがずっと多いし。
はあ?
って感じの会話が多いし
一度なんて
恋人とのデート前に電話をしてきて
なかなか切ろうとしないし
ほんとにうっとうしかった。
「こんなん読んではるんですか?」
「そだよ。」
なんで、そこで本棚、見つめて
ぼくに背中向けてるんだよ。
「なに?」
「いや、どんなん読んではるんかなあって思って。」
襲われ願望?
「ああ、ぼく襲われるかなって思っちゃった。」
「どっちがですか?」
大笑い。
そかな?
そうかなあ?
これは5、6年以内の思い出かな。
いまの部屋やから、笑。

シンちゃん
本人は
短髪
ガッチリで
モテ系だと思ってて
まあ
じっさいそうなんだけど
モテ系のくせに
性格
暗いし
悪いし
最悪なのに
ぼくの純情な恋人を
ぜったいにほめないし
死ね
とか
キチガイ
とか
平気で
ぼくに言うし
もう
おまえのほうが
死ねよ
って感じ。
しかも
フリートウッドマックちゅう
二流バンドが好きで
趣味が悪いっちゅうの。
まあ
ええ曲もあるけど

これはカヴァーやけど
カヴァーのほうがいい。
あっは〜
あっは〜
「そんなに真剣になって読むものなんですか?」
ムカッ。
「あとで読めばいいっ!」
ムカムカッ。
ここで
シンちゃんから離れて
エイジくんのことを思い出す。
予備校に勤めていたときに
ビックリしたことがある。
静岡から京都に来て
どんな事情か知らないけど
奈良の予備校で教えていた子がいて
エイジくんと
同じようなジャケット。
ニットの帽子。
そういえば
エイジくんのはいてたのもゴアテックス。
その子は
髪を金髪に染めた
ロン毛やったけど。
エイジくんは
短髪
バチムチね、笑。

ガチムチ。
「弟さん、おれとおない齢や。」
そうやったね。
ヒロくんの写真見て
エイジくんが笑いながら
「こんな弟が欲しいなあ。」
もうひとりのエイジくんの記憶もよみがえる。
っていうか
前恋人、笑。
合鍵を持っているから
(いまだにね。)
勝手に部屋に入って
内部調査。
メールも勝手に見るし
でも、自分の携帯はぜったい見せない。
ここで
シンちゃんに戻る。
いつも不機嫌そうな顔をして
ぼくの部屋の玄関のチャイムを鳴らして
ぼくがドアを開けたら
勝手にあがるバカ。

そういえば
エイジくん
ぼくが玄関を開けようとしたら
しょっちゅう
ドアを身体で押さえて
あけさせようとしなかった。
バカ。
バカ。
バカ。
みんな、なんちゅうバカやったの?
ふう
落ち着いた。
友だちの悪口を書くと
けっこう気持ちいいものだね。
もしかして
もしかしなくても
ぼくがいちばん
いやなヤツやね、笑。


二〇一五年一月二十八日 「ひざまずくホッチキス」


 ひざまずくホッチキス。不機嫌なビー玉。気合いの入った無関係。好きになれない壁際。不器用な快楽。霧雨の留守電。趣味の書類。率直な歩道橋。寝る前の雑草。気づまりな三面鏡。粒立ちの苛立ち。無制限の口紅。


二〇一五年一月二十九日 「階段ホットココア。」


階段ホットココア。半分、階段で、半分、ホットココア。
ディラン・ディラン。半分、ボブ・ディランで、半分、ディラン・トマス。
チョコレート・バイク。半分、チョコレートで、半分、バイク。
欺瞞円周率。半分、欺瞞で、半分、円周率。
ひよこマヨネーズ。半分、ひよこで、半分、マヨネーズ。
金魚扇風機。半分、金魚で、半分、扇風機。
シャボン玉ヒキガエル。半分、シャボン玉で、半分、ヒキガエル。


二〇一五年一月三十日 「一羽の悩める鶫のために」


言葉の死体が岸辺に打ち上げられていた。
片手の甲に言葉の波が触れては離れ触れては離れていく
言葉の死体は言葉の砂に顔を埋めながら
言葉でできた過去を思い出している
たくさんの美しい裸体の青年たちのまわりに無数の太陽を撒き散らし
たくさんの太陽のまわりに無数の美しい裸体の青年たちを撒き散らしていた
日が落ちてきて真っ赤に染まった砂浜を
言葉の死体は思い出していた
青年たちの裸体は赤く染まり
岸辺の砂も赤く染まり
あらゆる言葉が赤く染まって輝いていた
言葉の死体はもう十分死んでいたとでもいうように起き上がると
手のひらや腕や肘についた言葉の砂を払い落として
つぎの死に場所を求めて足を踏み出した

言葉の死体はバラバラになった自分の死体を見つめていた。
言葉の死体は
言葉でできた自分の身体を切断し、腑分けしていった
言葉の指を切断し
言葉の目を抉り出し
言葉の舌を抜き
言葉の腹を切り裂いて
言葉の内臓を紙の上に撒き散らした
それから
言葉の死体は
自分の身体をつぶさに見つめながら
口と耳のまわりに指を縫合し
いらなくなった腕を捨てて
膝から下を切断し
腹部に目を縫いつけて
背中の皮膚を裏返しにした。
それでも自分がまだ言葉でできた死体であると
そう思っていたのであった。
言葉の死体は
言葉でできた情景に目をうつした
言葉の死体は
さまざまな情景を
自分の身体のさまざな部分と交換しはじめた
それでもやっぱり
言葉の死体は
自分がまだ言葉でできた死体であると
そう思っていたのであった。
やがて
すべての部分が
自分の身体ではなくなってしまったのだけれど
その新しい身体もまた
言葉でできた死体であると
そう思っていたのであった。


二〇一五年一月三十一日 「服役の記憶」


住んでいた近くのスーパー「大國屋」の

いまは
スーパー「お多福」と名前を替えているところでバイトしていた
リストカットの男の子のことを書いたせいで
10日間、冷蔵庫に服役させられた。
冷蔵庫の二段目の棚
袋詰めの「みそ」の横に
毛布をまとって、凍えていたのだった。
これは、なにかの間違い。
これは、なにかの間違い。
ぼくは、歯をガチガチいわせながら
凍えて、ブルブル震えていたのだった。
20代の半ばから
数年間
塾で講師をしていたのだけれど
27、8才のときかな
ユリイカの投稿欄に載った『高野川』のページをコピーして
高校生の生徒たちに配ったら
ポイポイ
ゴミ箱に捨てられた。
冷蔵庫のなかだから
食べるものは、いっぱいあった。
飲むものも入れておいてよかった。
ただ、明かりがついてなかったので
ぜんぶ手探りだったのだった。
立ち上がると
ケチャップのうえに倒れこんでしまって
トマトケチャップがギャッと叫び声をあげた。
ぼくは全身、ケチャップまみれになってしまった。
そのケチャップをなめながら
納豆のパックをあけて
納豆を一粒とった。
にゅちょっとねばって
ケチャップと納豆のねばりで
すごいことになった。
口を大きく開けて
フットボールぐらいの大きさの納豆にかじりついた。
ゴミ箱に捨てられた詩のことが
ずっとこころに残っていて
詩を子どもに見せるのが
とてもこわくなった。
それ以来
ひとに自分の詩は
ほとんど見せたことがない。
あのとき
子どものひとりが
自分の内臓を口から吐き出して
ベロンと裏返った。
ぼくも自分の真似をするのは大好きで
ボッキしたチンポコを握りながら
自分の肌を
つるんと脱いで脱皮した。
ああ、寒い、寒い。
こんなに寒いのにボッキするなんて
すごいだろ。
自己愛撫は得意なんだ。
いつも自分のことを慰めてるのさ。
痛々しいだろ?
生まれつきの才能なんだと思う。
でも、なんで、ぼくが冷蔵庫に入らなければならなかったのか。
どう考えても、わからない。
ああ、ねばねばも気持ちわるい。
飲み込んだ納豆も気持ち悪い。
こんなところにずっといたいっていう連中の気持ちがわからない。
でも、どうして缶詰まで、ぼくは冷蔵庫のなかにいれているんだろう?
お茶のペットボトルの栓をはずすのは、むずかしかった。
めっちゃ力がいった。
しかも飲むために
ぼくも、ふたのところに飛び降りて
ペットボトルを傾けなくちゃいけなかったのだ。
めんどくさかったし
めちゃくちゃしんどかった。
納豆のねばりで
つるっとすべって
頭からお茶をかぶってしまった。
そういえば
フトシくんは
ぼくが彼のマンションに遊びに行った夜に
「あっちゃんのお尻の穴が見たい。」と言った。
ぼくははずかしくて、ダメだよと言って断ったのだけれど
あれは羞恥プレイやったんやろか。
「肛門見せてほしい。」
だったかもしれない。
どっちだったかなあ。
「肛門見せてほしい。」
ううううん。
「お尻の穴が見たい」というのは
ぼくの記憶の翻訳かな。
ぼくが20代の半ばころの思い出だから
記憶が、少しあいまいだ。
めんどくさい泥棒だ。
冷蔵庫にも心臓があって
つねにドクドク脈打っていた。
それとも、あれは
ぼく自身の鼓動だったのだろうか。
貧乏である。
日和見である。
ああ、こんなところで
ぼくは死んでしまうのか。
書いてはいけないことを書いてしまったからだろうか。
書いてはいけないことだったのだろうか。
ぼくは、見たこと
あったこと
事実をそのまま書いただけなのに。
ああ?
それにしても、寒かった。
冷たかった。
それでもなんとか冷蔵庫のなか
10日間の服役をすまして
出た。
肛門からも
うんちがつるんと出た。
ぼくの詩集には
序文も
後書きもない。
第一詩集は例外で
あれは
出版社にだまされた部分もあるから
ぼくのビブログラフィーからは外しておきたいくらいだ。
ピクルスを食べたあと
ピーナツバターをおなかいっぱい食べて
口のなかで
味覚が、すばらしい舞踏をしていた。
ピクルスっていえば
ぼくがはじめてピクルスを食べたのは
高校一年のときのことで
四条高倉のフジイ大丸の1階にできたマクドナルドだった。
そこで食べたハンバーガーに入ってたんだった。
変な味だなって思って
取り出して捨てたのだった。
それから何回か捨ててたんだけど
めんどくさくなったのかな。
捨てないで食べたのだ。
でも
最初は
やっぱり、あんまりおいしいとは思われなかった。
その味にだんだん慣れていくのだったけれど
味覚って、文化なんだね。
変化するんだね。
コーラも
小学生のときにはじめて飲んだときは
変な味だと思ったし
コーヒーなんて
中学校に上がるまで飲ませられなかったから
はじめて飲んだときのこと
いまだにおぼえてる。
あまりにまずくて、シュガーをめちゃくちゃたくさんいれて飲んだのだ。
ブラックを飲んだのは
高校生になってからだった。
あれは子どもには、わかんない味なんじゃないかな。
ビールといっしょでね。
ビールも
二十歳を過ぎてから飲んだけど
最初はまずいと思った。
こんなもの
どこがいいんだろって思った。
そだ。
冷蔵庫のなかでも雨が降るのだということを知った。
まあ
霧のような細かい雨粒だけど。
毛布もびしょびしょになってしまって
よく風邪をひかなかったなあって思った。
睡眠薬をもって服役していなかったので
10日のあいだ
ずっと起きてたんだけど
冷蔵庫のなかでは
ときどきブーンって音がして
奥のほうに
明るい月が昇るようにして
光が放射する塊が出現して
そのなかから、ゴーストが現われた。
ゴーストは車に乗って現われることもあった。
何人ものゴーストたちがオープンカーに乗って
楽器を演奏しながら冷蔵庫の中を走り去ることもあった。
そんなとき
車のヘッドライトで
冷蔵庫の二段目のぼくのいる棚の惨状を目にすることができたのだった。
せめて、くちゃくちゃできるガムでも入れておけばよかった。
ガムさえあれば
気持ちも落ち着くし
自分のくちゃくちゃする音だったら
ぜんぜん平気だもんね。
ピー!
追いつかれそうになって
冷蔵庫の隅に隠れた。
乳状突起の痛みでひらかれた
意味のない「ひらがな」のこころと
股間にぶら下がった古いタイプの黒電話の受話器を通して
ぼくの冷蔵庫のなかの詩の朗読会に参加しませんか?
ぼくの詩を愛してやまない詩の愛読者に向けて
手紙を書いて
ぼくは冷蔵庫のなかから投函した。
かび臭い。
焼き払わなければならない。
めったにカーテンをあけることがなかった。
窓も。
とりつかれていたのだ。
今夜は月が出ない。
ぼくには罪はない。


詩の日めくり 二〇一五年二月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年二月一日 「樵」


 30年ほどむかし、毎週土曜の深夜に、京大関係の勉強会かな、京大の寮をカフェにしていて、関西のゲイやレズビアンの文学者や芸術家が集まって、楽しく時間を過ごしていたことがあって、そこに樵(きこり)の青年が来ていて、ぼくもまだ20代だったのだけれど、彼もまだ二十歳くらいで、その青年のことを、きのうふと思い出していた。文学極道に投稿されていた作品に、「樵(きこり)」という言葉があったからだけど、その彼も生きていたら、50才くらいになってるんだな。いいおっちゃんである。この素晴らしく、くだらない、おもしろい世界に生きていたとして。この素晴らしく、くだらない、おもしろい世界で、20代、30代を過ごし、40代、50代を過ごすわけである。最高にくだらない人生を送ってやろうと思うわけである。最高にくだらない詩と、小説と、音楽と、映画といっしょに暮らすのである。大満足である。きょうもいっぱい、くだらない音楽を聴きまくって過ごした。音楽は、ぼくのくだらない人生におけるくだらない栄養源である。ぼくのどの作品にも音楽があふれているのは、ぼくのなかに音楽があふれているからである。音楽は耳からあふれるほどに聴きまくるのにかぎるのである。ビューティフル・ライフ。


二〇一五年二月二日 「模造記憶」


 塾の帰りにブックオフで、ディックの『模造記憶』を買った。持ってるのだけれど、持っているもののほうの背が傷んでいたので買った。さいきん、お風呂場で読むものがなかったので、傷んでるほうを、お風呂場で読む用にする。ディックも、もういらないかなって感じだけど、ぼくの原点のような気もする。そいえば、ぼくがユリイカの新人に選ばれたユリイカの1991年度1月号は、ディック特集号だった。ディックといえば、『ヴァリス』の表紙がいちばん好きだけど、物語的には、やはり『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』がいちばんいい。ジーターによる続篇もよい。


二〇一五年二月三日 「収容所行き」


 きょう、同僚の吉田先生が教職員のみんなに別れを告げた。明日、収容所に収容されるらしい。1週間前に行われた能力テストで不合格だったらしい。家族ともども収容所に行くように命じられたという。収容所では、医学の発展のために、生体解剖はじめさまざまな人体実験が行われているという。生きたまま献体する場所である。1年ごとに教職員みんながテストされて、ある能力に達していないと、家族ともども、国に献体させられるシステムなのである。いまのところ、ぼくには家族がいないので、家族の心配をする必要はない。自分のこともあまり心配はしていないけれども。


二〇一五年二月四日 「フンドシ・バーに行けば、いいんですよ。」


ひさびさに日知庵に行って
そのあと大黒に行ったのだけれど
大黒で飲んでいると
インテリっぽい初老の客が入ってきて
ぼくの隣に坐ったんだけど
キュラソ星人に似た顔の人だった

このひとが話しかけてきたので
答えていたのだけれど
このひと
旅行が趣味らしくって
このあいだアポリネールのお墓を見に行って
そのあとモジリアニのお墓を見て
イタリア語で書いてあるので
あらためてモジリアニがイタリア人だと思い至った話だとか
ヴェルレーヌの詩について話をしていたのだけれど
「きみも旅行すれば、内向的な性格が変わりますよ。」
とかとか言われて
「旅行は、嫌いです。」
と返答すると
「じゃあ、フンドシ・バーに行けば、いいんですよ。」
と言われた。
「フンドシ・バー?」
「堂山のなんとか通りを東に行って、そしたら
 なんとかビルの二階になんとかというフンドシ・バーがあってね。
 そこに行けば、第一土曜日と、なんとかは、9時まで
 店員も客も、全員、フンドシでなければならないんですよ。
 フンドシはいいですよ。」
「ええっ?」
「わたしも、ここぞっていうときには
 部屋で、パソコンの前で、フンドシを締めます。」
「はっ?」
「フンドシをすれば、気が引き締まるんですよ。」
「そうなんですか?」
すると、大黒のアルバイトの子が
「ふだんと違う姿をすると、気分が変わりますよ。
 真逆がいいんですよ。」
「ええっ?」
ぼくは苦笑いしながら
フンドシの効能について耳を傾けていたのだけれど
隣に坐った初老の客が
「きみも、フンドシが似合うと思いますよ。」
「そうですか?」
「きみは、身長、173ぐらいですか?」
「いえ、179センチあります。」
「そんなにあるの? 体重は?」
「80キロです。」
「40歳を少し出たところ?」
「いいえ、54歳です。」
「見えないなあ。」
「そうですか?」
「もてますよ。」
「はっ?」
「フンドシ締めるような子って
 まあ、30代、40代が多いですが
 きみ、もてますよ。
 選び放題ですよ。」
「そんなはずはないでしょう?」
「いえいえ、もてますよ。
 それに、フンドシ締めるひとって
 エッチがねちっこいのですよ。」
「ぼく、淡白なんですけれど。」
「わたしはねちっこいですよ。」
「ええっ? (そんなん言われても光線発射!)」
「まあ、一度、フンドシ・バーに行ってみればいいと思いますよ。」
なんともへんな顔をして、ぼくは笑っていたと思うのだけれど
「マニアなんですか?」
と訊くと
「ただのフンドシ好きです。」
それをマニアと言うんじゃ、ボケッ
と思ったのだけれど
きわめて紳士的な初老のおじさまには
そんな言葉を発することもできず
お店の子に
「お勘定して。」
と言うことしかできなかった。
ふがふがぁ。
マスターのみつはるくんの髪型が変わっていた。
なんだかなあ。
短髪のほうがよかったなあ。
10年以上も前の経験だけど
ゲイ・サウナで
真夜中
うとうとしてたら
きゅうに抱きつかれて
なんだか重たいって思ったら
ぼくより身体の大きな子が上からのってきて
抱きつかれて
顔を見たら、かわいかったので
ぼくも抱き返したら
お尻のところに硬いものがあって
なんだろ、これ
って思って、相手の顔を見たら
笑ってるから
ええっ
って思って、しっかり見たら
フンドシだった。
フンドシ締めながら
チンポコを横からハミチンさせていたのだった。
「仕事、なにしてるの?」
って、たずねたら
「大工。」
って。
まあ、そんな感じやったけど
たしかにイカニモ系だったような記憶が。
で、付き合ってもいいかなって思って
長い時間
イチャイチャしていたのだけれど
もう帰ろうかなって思った時間の少し前に
「付き合ってるひと、いるの?」
って訊いたら
「うん。」
って言うから
そこで、ぼくは言葉を失って
身体を離そうとしたら
その子も、腕の力をすっと抜いたので
大きなため息をひとつして、彼のそばから
簡単に離れることができた。
フンドシの出てくる詩集を
串田孫一さんにも送ったことがあって
串田さんからいただいた礼状のおハガキに
「あなたの詩の最後に
 フンドシという言葉を見て
 なつかしく思い出しました。
 わたしも戦争中と、戦後のしばらくのあいだ
 越中褌をしていましたから。」
とあって、そんな感想をいただいたことを、
うれしく思ったことを思い出した。
そうか。
フンドシ好きは、ねちっこいセックスするのか。

ねちっこいセックスって、どんなセックスか訊くの、忘れた。
ふつうのと、どう違うのかなあ。
ぼくは、ふつうのがいいかな。


二〇一五年二月五日 「時間金魚」


 きょう、時間金魚を買ってきた。時間金魚の餌は、人間の寿命である。きのう、時間金魚のための餌に、20才の青年を買った。青年の残りの寿命を餌にして、きょう、時間金魚に餌を与えた。時間金魚は、顔が人間で、与えられた餌の人間の顔になる。顔面が人間離れしてきたら、餌のやり時なのでわかる。


二〇一五年二月六日 「イエス・キリスト」


 四条河原町で処刑されたイエス・キリストはクローンだったという噂だ。教会に残された磔木についた血液からクローンがつくられたらしい。処刑されたあと、イエス・キリストの遺体は火葬されたので復活することはなかったのだが、信者によるイエス・キリストのクローニングはふたたびなされるだろう。あるいは、また、このようなうわさもある。四条河原町で処刑されたイエス・キリストは、じつはホムンクルスだったというのだ。では、あの槍に突き刺されて流れ出た真っ赤な血はなんだったのか。ホムンクルスならば、銀白色の霊液をしたたらせたはず。しかし、そこには術師である幻覚者がいて、見物人たちに幻の真っ赤な血潮を見させたというのだ。強力な術師ならば、それも可能であったろう。いずれにせよ、あのイエス・キリストはオリジナルではなく、レプリカだったというのだ。レプリカであっても、クローンならば遺伝情報はオリジナルと変わらないはずだし、たとえホムンクルスであっても、大方の遺伝情報を復元しているはずであった。それにしても、あの四条河原町でのイエス・キリストの処刑というパフォーマンスには意味があったのだろうか。火葬しなければならなかった理由はわかるが、処刑自体のパフォーマンスに、いったいどのような意味があったのだろうか。戦争はまだつづいている。呪術の訓練をされた若者たちが、戦場にぞくぞくと送られている。街の様子もすっかり様変わりした。戦争一色である。老詩人は、ただ戦勝祈願するほかないのだけれど。


二〇一五年二月七日 「高倉 健」


 そだ。きょう、烏丸御池の大垣書店に行って、びっくりしたことがあった。ユリイカの高倉 健の特集号が平積みだったのだけれど、明らかに売れているみたいで、もうあまり残っていなかった。ユリイカが売れることも稀だと思うが、いまさらに高倉健が? という思いがした。高倉健なんて、いまさらだよね。


二〇一五年二月八日 「好き嫌いの超越」


 さいきん、好きとか、好きじゃなくなるとか、そういうの超越してきているような気がする。付き合っている人間の数が少ないせいかもしれないけれど、なんか、付き合いって、好きとか、好きじゃないとかを超越している部分があって、それが大きくなると、人生がよりおもしろく見えると思えてきたのだ。


二〇一五年二月九日 「吸血怪獣 チュパカブラ」


 まえに付き合ってた子が、いきなりのご訪問。相変わらずかわいらしい顔してて、でも、より太って、よりかわいらしくなってた。100キロくらいまでなら、かわいいかも。その子といっしょに、ギャオで、『吸血怪獣 チュパカブラ』というB級ホラーを見たのだけれど、ほんと、B級だった。怪物もB級だったけど、シナリオもB級だった。俳優たちも、シロートちゃう? って感じの演技で、ほんとにゲンナリ。血まみれゲロゲロの、そして、汚らしい映画だった。


二〇一五年二月十日 「ながく、あたたかい喩につかりながら(バファリン嬢の思い出とともに)」


あたたかい喩につかりながら
きょう一日の自分の生涯を振り返った。
喩が電灯の光に反射してきらきら輝いている
いい喩だった。
じつは、プラトンの洞窟のなかは光で満ちみちていて
まっしろな光が壁面で乱反射する
まぶしくて目を開けていられない洞窟だったのではないか。
洞窟から出ると一転して真っ暗闇で
こんどは目を開けていても、何も見えないという
両手で喩をすくって顔にぶっちゃけた。
何度もぶっちゃけて
喩のあたたかさを味わった。
miel blanc ミエル・ブラン 見える ぶらん
白い蜂蜜。
茣蓙、道標、熾火。
ギリシア哲学。
色を重ねると白になるというのは充溢を表している。
喩からあがると
喩ざめしないように
すばやく身体をふいて
まだ喩のあたたかさのあるあいだに
布団に入った。
喩のぬくもりが全身に休息をもたらした。
身体じゅうが、ぽっかぽかだった。
ラボナ、ロヒプノール、ワイパックス、ピーゼットシー、ハルシオン。
これらの精神安定剤をバリバリと噛み砕いて
水で喉の奥に流し込んだ。
ハルシオンは紫色だが、他の錠剤はすべて真っ白だ。
バファリン嬢も真っ白だった。
中学生から高校生のあいだに
何度か、ぼくは、こころが壊れて
バファリン嬢をガリガリと噛み砕いては
大量の錠剤の欠片を、水なしで
口のなかで唾液で溶かして飲み込んだ。
それから自分の左手首を先のとがった包丁で切ったのだった。
真・善・美は一体のものである。
ギリシア思想からフランス思想へと受け継がれた
美しくないと真ではないという想い。
これが命題として真であるならば
対偶の、真であるものは美である、もまた真であるということになる。
バラードの雲の彫刻が思い出される。
ここで白旗をあげる。
喩あたりしたのだろうか。
それとも、クスリが効いてきたのか
指の動きがぎこちなく、かつ、緩慢になってきた。
安易な喩に引っかかってしまったのだろうか。
その喩は、わたしを待ち構えていたのだ。
罠を張って、そこに待ち構えていたのだ。
わたしは、その場所だけは避けるべきだったのだ。
たとえ、どんなに遠回りになったとしても
どんなに長く道に迷うことになったとしても
その安易な喩だけは避けなければならなかったのだ。
だからこそ
わたしは、どこにも行き着けず
どの場所もわたしを見つけることができなかったのだ。
白は王党派で
赤は革命派。
白紙答案。
赤紙。
白いワイシャツ。
赤シャツ。
スペインのアンダルシア地方に
プエブロ・ブロンコ(白い村)と呼ばれる
白い壁の家々が建ち並ぶ町がある。
屋根の色だけはいろいろだったかな。
白い壁の家々は地中海に面したところにもあったような。
テラコッタ。
横たわるぼくの顔の上で
そこらじゅうに
喩がふらふらと浮かび漂っていた。
横たわる喩の上で
そこらじゅうに
ぼくの自我がふらふらと浮かび漂っていた。
無数の喩と
無数のぼくの自我との邂逅である。
目を巡らして見ていると
一つの喩が
ひらひらと、ひとりのぼくの目の前にすべりおりてきた。
ぼくは、布団から手を出して、
その喩を待ち受けた。
すると、その喩は
ぼくの指の先に触れるやいなや
ぼくのそばから離れていったのだ。
夢のなかでは
別の喩がぼくに襲いかかろうとして待ち構えているのがわかっていた。
裏切り者め。
ぼくは、危険を察して
喩のそばから、はばたき飛び去っていった。


二〇一五年二月十一日 「犬のうんこ」


飼ってる犬がうんこしたの。それ踏んづけて、うんこのにおいがして目が覚めた。夢にもにおいがあるんだね。


二〇一五年二月十二日 「自己愛」


 FB フレンド の画像を見てたら、筋力トレーニングや顔パックしてらっしゃる画像が多い。自分自身に関心のつよいひとが多いのだな。それはすてきなことだと思っている。ぼく自身は、自分にあまり関心がなくて、と言うと、たいてい、びっくりされてしまう。ぼくの経験は詩の材料にしかすぎないのに。ぼくの経験以上に、ぼくが知っているものがないので、仕方なく自分の経験を詩の材料にしているだけなのである。もしも、ぼくが、自分自身の体験以上に知っていることがあれば、それを詩の材料にすると思う。自己愛が強いんですねと言われることがある。びっくりする。


二〇一五年二月十三日 「旧友」


 ひさしぶりにオーデンの詩集を図書館で借りた。詩論を読んで、まっとうなひとだと再認識した。オーデンもゲイだったけれど、そのオーデンが、これまたゲイのA・E・ハウスマンについて書いているのも、おもしろかった。むかし、はじめてふたりの詩を読んだときは、ゲイだって知らなかったのだけれど。
 あした、大谷良太くんちで、むかしの dionysos の同人たちとホーム・パーティー。いまの京都詩人会も、半分以上、dionysos のメンバーだし、長い付き合いなのだなって思う。偶然、啓文社で、ぼくが同人誌の dionysos の何号かを手にして、連絡をとったのが始まりだった。「Oracle」も「妃」も、1冊も手元にないのだけれど、「dionysos」と「分裂機械」と「薔薇窗」は、すべて手元にある。


二〇一五年二月十四日 「世界はうれしいのだ」


 いま日知庵から帰った。かわいい男の子も、女の子も、世のなかにはいっぱいいて。そだ。それだけで、世界はうれしいのだ。きょうのお昼は、アポリネール、アンリ・ミショー、フランシス・ポンジュ、イヴ・ボヌフォワ、エリュアールの詩を読んでいた。アポリネールは、あなどれない。ぼくがフランス語ができたら熱中していただろうと思われる。


二〇一五年二月十五日 「彼女」


ペッタンコの彼女。ピッタンコの彼女。ペッタンコでピッタンコの彼女。ペッタンコだがピッタンコでない彼女。ペッタンコでないがピッタンコの彼女。ペッタンコでピッタンコの彼女。ペッタンコでもなくピッタンコでもない彼女。

ペラペラの彼女。パラパラの彼女。ペラペラでパラパラの彼女。ペラペラだがパラパラでない彼女。ペラペラでないがパラパラの彼女。ペラペラでパラパラの彼女。ペラペラでもなくパラパラでもない彼女。

ブラブラの彼女。バラバラの彼女。ブラブラでバラバラの彼女。ブラブラだがバラバラでない彼女。ブラブラでないがバラバラの彼女。ブラブラでバラバラの彼女。ブラブラでもなくバラバラでもない彼女。

コロコロの彼女。ボロボロの彼女。コロコロでボロボロの彼女。コロコロだがボロボロでない彼女。コロコロでないがボロボロの彼女。コロコロでボロボロの彼女。コロコロでもなくボロボロでもない彼女。

キラキラの彼女。ドロドロの彼女。キラキラでドロドロの彼女。キラキラだがドロドロでない彼女。キラキラでないがドロドロの彼女。キラキラでドロドロの彼女。キラキラでもなくドロドロでもない彼女。

スラスラの彼女。ポロポロの彼女。スラスラでポロポロの彼女。スラスラだがポロポロでない彼女。スラスラでないがポロポロの彼女。スラスラでポロポロの彼女。スラスラでもなくポロポロでもない彼女。

チンピラの彼女。キンピラの彼女。チンピラでキンピラの彼女。チンピラだがキンピラでない彼女。チンピラでないがキンピラの彼女。チンピラでキンピラの彼女。チンピラでもなくキンピラでもない彼女。

プルプルの彼女。ブルブルの彼女。プルプルでブルブルの彼女。プルプルだがブルブルでない彼女。プルプルでないがブルブルの彼女。プルプルでブルブルの彼女。プルプルでもなくブルブルでもない彼女。

チンチンの彼女。キンキンの彼女。チンチンでキンキンの彼女。チンチンだがキンキンでない彼女。チンチンでないがキンキンの彼女。チンチンでキンキンの彼女。チンチンでもなくキンキンでもない彼女。

ムラムラの彼女。ケチケチの彼女。ムラムラでケチケチの彼女。ムラムラだがケチケチでない彼女。ムラムラでないがケチケチの彼女。ムラムラでケチケチの彼女。ムラムラでもなくケチケチでもない彼女。

カチカチの彼女。ピキピキの彼女。カチカチでピキピキの彼女。カチカチだがピキピキでない彼女。カチカチでないがピキピキの彼女。カチカチでピキピキの彼女。カチカチでもなくピキピキでもない彼女。


二〇一五年二月十六日 「頭が割れる」


見ず知らずのひとのミクシィの日記を読むのが趣味のあつすけですが
いま読んだものに
「頭が割れそうなぐらいに痛い。」
て書いてあるのを見て
ふと
あれ
頭が割れてるひと
見たことないなって思って

小学校の6年生のときに
思い切り
頭から血を流して
河原町でね
理由は忘れちゃったけど
弟とケンカして
頭突きしたら
弟がひょいとよけて
ぼくの頭が
映画館のポスターとか貼って
入れてある
スチールの大きなフレームにあたって
スパッ
と切れちゃって
弟は逃げちゃって
血まみれになったぼくを
見ず知らずの大学生のお兄ちゃんに
頭をタオルで押さえてもらって
祇園の家まで
連れて行ってもらったのだけれど

これって
頭割れるのと
ちと違うか
違わないか
そうあるか
そうないか
わたしわからないことあるよ
ええと
これとはちゃうかなあ。

頭割れてるって
どこまで〜?
ってことになりますわなあ。
どこまで〜?


頭が割れそうに痛いって
ぼくの場合
痛くなかったのね。
出血が激しくて
自分でびっくりして
気を失いかけてただけだから
ぜんぜん痛くなかったの。
あんまり頭って
ケガしても痛くないんだよねえ。

頭が割れそうに痛いって
これ
おかしくない?
まあ
割れ方によるのかな。
そいえば、関西弁には
「どたま、かち割ったるぞ!」という喧嘩言葉があったな。
めっちゃむずかしいと思うけどね。


二〇一五年二月十七日 「確定申告」


 確定申告してきた。けさ、夢を見た。家族で旅行していて、朝の食事中に、急に立ち上がって、食事の席を立って部屋を出て行き、コンビニでお菓子を買おうとしていた。父親が心配して、後ろから肩に触れた。ぼくは、ごめんねとあやまって泣いていた。そこで目が覚めた。日知庵に行くと、藤村さんからチョコいただいた。えいちゃんがあずかってくれてたのだけれど、おいしいチョコだった。お返しに、詩集をプレゼントしよう。そう言ったら、えいちゃんに、「ただですますんか!」と言われたけれど、貧乏詩人だから、ただですまそうと思ってる、笑。人生うにゃうにゃでごじゃりまする。


二〇一五年二月十八日 「大谷良太『Collected Poems 2000-2009』」


 大谷良太くんにいただいた『Collected Poems 2000-2009』を読んでる。もう15年以上の付き合いがあって、初期の詩から知っていたはずなのに、知らない感じのところが随所にあって、自分の感じ取る個所が違っていることに、自分で驚いている。大谷良太くんのもっている繊細さは、ぼくには欠落していて、でも、ぼくには欠落しているものだと、ぼくに教えてくれるくらいに、表現が強固なのだと思った。もちろん、表現は強固だが、詩句としては、詩語を排したわかりやすいものである。後半は散文詩が多い。大谷くんの現実の状況とだぶらせて読まざるを得ないのだけれど、そいえば、翻訳詩を読む場合も、詩人の情報をあらかじめ知って読む場合が多いことに気がついた。読み進めていくと、完全な創作なのだろうか、まるで外国文学を読んでるみたいだ。現実の大谷くんとだぶらない状況のものがあって、びっくりした。いや、びっくりすることはないのかもしれない。ぼくだって、現実の自分の状況ではない状況を作品に織り込むことがあるのだから。くくくく、と笑う男が主人公の散文詩の連作が、とりわけ印象的だった。自分より20年くらい若い詩人を、大人の書き手だなと思ったのは、たぶんはじめてだと思う。より広く読まれてほしいと思う数少ない書き手。


二〇一五年二月十九日 「ウンベルト・サバ詩集」


 いま日知庵から帰った。ジュンク堂では、キリル・ボンフィリオリの『チャーリー・モルデカイ』1〜4までと、ウンベルト・サバ詩集を買った。サバのこの詩集は買うのは2回目だけど、さいしょに買ったのは、荒木時彦くんにプレゼントしたので、手もとになかったもの。大谷良太くんの詩集を読んでて、ふつうに平易に使ってる言葉で書かれているものの詩のよさをあらためて知ったせいだろうかなって思う。サバの詩の翻訳も、日常に使う言葉で書かれてあって、大谷くんの詩との共通点があったためだと思う。やっぱり、詩は、詩語を使っちゃダメだと思う。いま書かれている詩のほとんどのものは、ぼくには、下品に思えちゃうんだよね。詩語を使えば、それなりに詩っぽくなるけど、あくまでも、それなりに詩っぽくなるだけで、ぼくには、詩には思えないものなんだよね。たぶん、ぼくの詩の定義は、めっちゃ広いものだけど、めっちゃ狭いものでもあって、たぶん、いま書かれているものの99%くらいのものは、ぼくには詩じゃなくって、詩のまねごとにしか思えなくって、でも、詩ってものを、ちゃんとわかってるひとは、1パーセントもいなくって、仕方ないのかもしれない。いい詩が書かれて、いい詩が残ればいいだけの話だけどね。


二〇一五年二月二十日 「詩論」


 夕方に「詩論」について考えた。「詩」についての「論」とは、なにかと考えた。「詩とは何か?」と考えると、なにかと難渋してしまう。AはBであると断定することに留保条件が際限なく出現するからである。そこで、「何が詩か?」と考えることにした。論理的に言えば、「詩とは何か?」と「何が詩か?」というのは、同じ意味の問いかけではない。しかし、おそらくは断定不可能な言説について云々するほどの無能者でもないものならば、「何が詩か?」という問いかけについて思いをめぐらすことであろう。たとえば、何が詩か。ぼくの経験からすると、堀口大學の『月下の一群』に含まれているいくつかの作品は詩だ。シェイクスピアのいくつもの戯曲、ゲーテの『ファウスト』、ホイットマンの『草の葉』の多くの部分、ディキンスンのいくつかの作品、ジェイムズ・メリルのサンドーヴァーの光・三部作。これらはみな翻訳を通じて、ぼくに、詩とはこれだと教えてくれた作品たちである。書物の形で、紙に書かれた言葉を通して、詩とはこれだと教えてくれた作品たちである。エイミー・ローエルの『ライラック』を忘れていた。ハート・クレインの『橋』を忘れていた。パウンドの『ピサ詩篇』を忘れていた。エリオットの『荒地』を忘れていた。たくさんの詩人たちの作品を忘れていた。しかし、どれが詩だったのかは、思い出すことができる。詩ではないものを思い出すことは難しいが、詩だと思ったものが、だれのどの作品かは思い出すことができる。詩人の書くものがすべて詩とは限らない。イエイツの初期の作品は、ぼくにとっては、詩とは呼べないシロモノである。イエイツはお気に入りの詩人であるが、後期の作品のなかにだけすぐれた作品があり、しかもその数は10もない。すなわち、ぼくにとって、イエイツの作品で、詩であるものは、10作しかないということである。このことは別に不思議なことではないと思う。お気に入りの作家の作品で好きな作品がいくつかしかないのと同様に、お気に入りの詩人の作品に、詩だと思えるものが数えるほどしかないということである。例外は、ジェイムズ・メリルのように全篇を通じて霊感の行きわたったものだけだ。さて、「何が詩か?」という問いかけに対して、およそ3分の1くらいは答えたような気がする。書物の形で目にしたものについての話はここで終わる。「何が詩か?」書物以外のものを詩だと思ったことがある。小学生のときに見た『バーバレラ』という映画は、詩だった。山上たつひこの『ガキデカ』も、シリーズ全作品、ぼくには詩だった。この2つの作品のほかにも、詩だと感じた映画やマンガがある。そして、仕事帰りに目にした青年があまりに美しすぎて、すれ違ったあと涙が流れてとまらなかったときも、この瞬間は詩だと思ったのだ。と、ここで、ぼくは気がついたのであった。「何が詩か?」と考えたときに、ぼくの頭が思い浮かべた詩というものは、言葉によって作品化されたものだけではなかったのである。そして、その判断をしたものは、ぼくのこころだったことに。ここで、残り3分の2のうちの2分の1が終わった。残り3分の1に突入する。すなわち、「何が詩か?」と考えるのは、こころであったのだ。つまり「何が詩か?」という問いかけには、ただ「こころが何が詩であるかを決定するのだ」という答えしかないのである。ということは、と、ここで飛躍する。「何が詩か?」という問題は、「何がこころか?」という問題に帰着するということである。「何がこころか?」は、「何が意識か?」に通じるものであろうが、「こころ」と「意識」とでは、違いがあるような気がするが、というのも、意識を失っている状態でも、こころがあるような気がするからである。しかし、「何が詩か?」という問題は、「何が意識か?」に通じるものであるということは理解されるだろう。以上の考察からわかったことは、詩の問題とは、こころの問題であり、意識の問題である、ということである。詩論は、心理学や生理学上の問題として扱われるべきである。これまでに、ぼくが目にした詩論の多くのものが、歴史的な経緯を述べたものや、特定の詩人や、詩人の作品を扱ったもので、とくに、心理学や生理学の分野から扱ったものではなかった。これからは、詩論とは、心理学や生理学の分野の研究者が考察すべきものであるような気がする。


二〇一五年二月二十一日 「言語の性質を調べる実験」


 2014年の7月に文学極道に投稿した実験詩『受粉。』では、言語の性質について調べました。ぼくの実験詩では(もちろん、全行引用詩も、●詩も、サンドイッチ詩も、実験詩だったのです。)言語の性質を調べています。だれも言ってくれませんが、そういう詩の日本でさいしょの制作者だと思っています。実験詩には、「順列 並べ替え詩。3×2×1」や「百行詩。」も入ると思いますが、これらが、将来、日本の詩のアンソロジーに入ることはないでしょうね。いまの日本の詩壇の状況では、ぼくの先鋭的な作品は、いまと同じように無視されたまま終わるような気がします。遅れています。これは、まだ、だれも書いてくれたことがないことなのだが、ぼくの「全行引用詩」や「順列 並べ替え詩。3×2×1」などは、作品の生成過程そのものを作品として提出していると思うのだけれど、そういう詩というのは、これまでになかったもののような気がするのだけれど、単なる思い過ごしだろうか。もちろん、たしかに、構造がまったく異なりますから、生成過程も異なりますね。「順列 並べ替え詩。3×2×1」は、組み換えの列挙を通じて、一行ごとの異なる相から作品のブロックが生成する新たな相を形成して見せたのに対して、「全行引用詩」のほうは凝集の偶然というものを通して、作品の構造を露わにして、その生成過程を作品そのものにしていました。どちらの偶然性も無意識領域の自我が大いに関与していると思います。ちなみに、言葉の並べ替えのヒントは、ラブレーのつぎのような言葉でした。ちょっと違っているかもしれませんが。「驢馬がいちじくを食べるのなら、いちじくが驢馬を食べちゃってもいいじゃないか。」これって、もしかすると、ロートレアモンだったかもしれません。そこに、数学者のヤコービの言葉が重なったのでしょう。あるとき、ヤコービがインタビューで、なぜあなたが数学で成功したのかと訊かれて、こう答えたというのです。「逆にすること。」


二〇一五年二月二十二日 「歌留多取り」


ぼくの詩論詩・集ですが、阿部裕一さんから
まるでトマス・ハリスのハンニバル・レクターが
書いたものみたいだと言われました。
ほめ言葉として受け取りました。笑

亡き父と二人つきりの歌留多取り われが取らねば父も取らず

いまつくった短歌です。
加藤治郎さんの「加藤治郎☆パラダイス短歌」に投稿しました。
以前にも一首、投稿したことがありますが
およそ半年ぶりの短歌づくりです。
ちなみに半年前に投稿した短歌は

月もひとり ぼくもひとり みんなひとり スーパーマンも スパイダーマンも 

でした。これは、10年ぶりの短歌でした。


二〇一五年二月二十三日 「人間市場」


SFマニアの方に、お尋ねしたいことがあります。
むかし読んだSFで、人間市場があって
その市場で売られている美男美女たちは
ただ殺されるためだけに売られているという
そんな設定のSFを読んだことがありました。
残念なことに中学生のときくらいのことで
タイトルを忘れてしまいましたが……
最初のシーンは
ある男が自分の生まれた島にもどるところで
船の中で、眠っている間に
心臓を魔術でぎゅっと握られるという
苦悶のシーンからはじまるものだったと思うのですが
父親の持っていたSFだったと思うのですが
死んだ父親の蔵書に、それがなくて
何度かSFマニアの方に尋ねたことがあるのですが
もし、ご存じの方がいらっしゃったら
ぜひぜひお教えくださいませ。
シリーズものの外伝といいますか
そういった作品であったと思います。


二〇一五年二月二十四日 「浮橋」


きょうは、京都駅のホテル・グランビアにある、
『浮橋』という日本料理屋で、ある方と食事をしていて、
従業員の失礼な態度にあきれました。
まあ、予約をせずに行ったこちらもよろしくないのかもしれないけれど
テーブル席についてコースを頼んだところ
一時間半しかいられませんが、というので、それで結構ですよと言ったのだが
それほど時間もしないうちに
従業員が執拗に何度もやってきて
料理の途中で
まだ皿に料理が残っているのに
下げてよろしいですかと嫌がらせのようなことをして
さんざんだった。
ただ料理はおいしかったことは認めるが
従業員をあんなふうに指導している店の接客態度には
いっしょにお食事をしていた方とも
「なんなんでしょうね、これは。」と話をした。
ぼくと違って
その方は、そういうところでよく食事をされると思うので
きのう
『浮橋』という店は
ぜったいに損をしたと思う。
まあ、いくら上等の料理を出しても
あんな接客態度では、よい噂は流れないと思う。
そういえば
グランビアには
吉兆もあった。


二〇一五年二月二十五日 「ジュンちゃん」


 いま日知庵から帰った。帰りに、阪急西院駅で、ジュンちゃんに出合う。何年振りだろう。「46才になりました。オッサンです。」と言うのだけれど、ぼくには、やっぱり、19才のときのジュンちゃんが目に残っていて、面影を重ねて見ていた。ずっと京都に住んでいると、付き合った子と出合うこともたまにあって、いろいろ話がしたいなあと思うのだけれど、思ったのだけれど、バスが来てしまって、「また会ったら話をしよう。」と、ぼくが言うと、笑ってうなずいてバスに乗っていった。声は19才のときから太くて(からだもガチデブだっけど)、いまだに魅力的だった。いまだにガチデブで、おいしそうだった、笑。ぼくが文学なんてものやってるからかな、めんどくさくなったのかな。ぼくも27才だったし、詩を書きはじめて間もなくだった。下鴨のマンションにいたとき、土曜日になると、かならず、ピンポンって鳴ってたのに、いつの間に鳴らなくなったんだろう。ああ、27年前の話だ。うん? 28才か。そだ。1年ずれてる。ぼくが詩を書きはじめたのは、28才のときか。ジュンちゃんは19才だった。身長がぼくよりちょこっと高くって、180センチはあったのかな。ぼくも178センチあるから、しかもデブとデブだったので、レストランに行っても、どこ行っても、目立ってたと思う。こんど出会ったら、「ちょっと一杯のまへんか?」と言って誘ってみよう。きょうは、ぼくがベロベロだったから、誘えなかった。残念。


二〇一五年二月二十六日 「配管工の夢」


どこにもつながらない
って書けば詩的だろうけどさ
つながってるかどうかなんて
そんなことはどうでもいいのさ
ただパイプをくねくねくねくね
いっぱい部屋のなかにつくって
くねくねくねくねパイプだらけの部屋をつくるのが
おれっち
配管工の夢なのさ

廊下も階段も地下室も屋上もくねくねくねくね
いっぱいパイプをくねらせて
パイプだけで充満させたビルをつくるのが
おれっち
配管工の夢なのさ

おいらのオツムもおんなじさ
からっぽが
ぎっしりつまってるのさ


二〇一五年二月二十七日 「とかとかとか」


お昼に西院の駅の前で、
額に血を縦一文字にべったりとつけたお兄さんがいて、
野菜を売っていた。
まだ30代やと思う。
小太りの背の低い浅黒い顔のお兄さん。
ちょっと、その血をどうかしてよ
と思うぐらいに
はっきりと
べっとりと
額に血がついてて
ちょっと怖くて
ちょっと心配しちゃった。
それに
だれがそんなひとから野菜を買うのかしら
とかとか思ったのだけれど
日曜日には
血はついてなくって
ほっとした。
あんなにどうどうと血を額につけたままいられると
自転車で前を通っただけのぼくだけれど
心配しちゃうんだね。
真夏のように暑かった
日差しの強い土曜日とか日曜日。
駅の喧騒。
人・人・人。
「とか」という言葉がすっごい好き。
駅とか
人とか
とかとかとか。


二〇一五年二月二十八日 「いっぱい」


あいている手紙いっぱい。
あいている手がいっぱい

ああ いてる 手紙 いっぱい
ああ いてる 手が いっぱい

ああしてる 手紙 いっぱい
ああしてる 手が いっぱい

愛してる 手紙 いっぱい
愛してる 手が いっぱい

あいている 手紙 いっぱい
あいている 手が いっぱい


二〇一五年二月二十九日 「かわいそう」


マイミクのいもくんが
以前くれた
ぼくの日記を読んでの感想
「なんで?」
「コメントほとんどないやん。」
まあね。
べつになくってもいいんだけどね、笑
ひとりごとのつもりだから
そういえば
ぼくは
自分の詩集に対する手紙や葉書もぜんぶ捨ててるし
卒業アルバムもぜんぶ捨ててる
いま
部屋にある本も
SFだけど
表紙に愛着のあるものを除いてだけど
勤め先の図書館に寄贈している
ほんとに必要な本って
そんなにないのかもしれない
いや
いま思ったのだけど
1冊もないかも
「えっ? 30才?」
「うん。」
「童顔なんやね。」
ときどきぼくの顔を見る
ぼくはずっと彼の顔を見てる
「まだ20才くらいにしか見えへん。」
苦笑いしてた
エイジくんに似ていた
「なにしてたの?」
「指、入れてた。」
「何本?」
「1本。」
「ふうん。」
少しして
ぼくはいなくて
こんどは本物
「あってもなくてもいいんだけど。」
パラメーターは
複雑なきりん
かな
テイク・アウト
i don't wannna go there
ごめんなさい
そして
記憶はサテンのモーニング
ふたりで
かな
とか
ふたりしかいないから
かな
とかとか
「理想的な感じだから
 なんだか恥ずかしくって。」
恋人がぼくを捨てた理由もわかんないし
ぼくが恋人を捨てた理由もわかんない
それほど深刻でもなかったと思う
笑けるね
笑っちゃえ
アハッ
って
かな
あさって
かな
こんどは本物
かな
って
でもね
「なにもかもが
 期待はずれ。」
って
ふほほ
だからね
教えてあげる
時間と場所と出来事がすべてだって
西院の王将でご飯を食べてたら
隣の隣に
高校時代のクラスメートが坐っていることに気がついた
高校時代にはカッコよかったのにね
時間って残酷
あこがれてたのになあ
どの指って
きくの忘れてた
ばかだなあ
細部の事実がうつくしいのに
細部が事実だとうつくしいのに
ちょっと待って
って
時間には言えないし
立ち戻ることもできない
できやしない
「格闘技やってそう。」
「やってたで。」
「なに?」
「柔道。」
エイジくんも柔道してた
ぼくは
自分が柔道してたことは言わなかった
どうして言わなかったのだろう
むかしのことだもの
こたえは
わかりきってる
おもっきりむちゃな
恋のフーリガン
いや
恋はフーリガン
きみのかけら
指のかけら
あちこちに撒き散らして
それだって
厭きのこない顔だから
what?
すぐにこわれるから
こわれもの
いつまでもこわれない
こわれものって、なに?
こんどは本物
かな
いきなり?
そうさ
そうじゃないことなんて
一度だってなかったじゃない
いつだって
そうさ


二〇一五年二月三十日 「さいしょから部屋に行けばよかった。」


彼は27才だった
彼の彼女は39才だった
ぼくは49才だった
ひどいねえ
ぼくがノブユキと付き合ってたのは
ぼくが28で
ノブチンが21
はじめ20だって言ってたんだけど
1つ少なめに言ってたんだって
3年浪人して
日本の大学には進学できなかったからって
シアトルの大学に入って
「バイバイ!」
って言うと
へんな顔した
「バイバイって言われて
 こわかった。」
どうして?

ノブチンじゃなくって
彼なんだけど
「彼女と会う気がなくなってきた。」
って言うから
「会わなきゃいけないよ。」
って、ぼくが言って
へんな感じだった
「さいしょから部屋に行けばよかった。」
「またいつでもこれるやん。」
「彼女と会う気がなくなってきた。」
「疑われるからって
 携帯にぼくの電話番号、書き込まなかったくせに。」
苦笑い
そういえば
なんで、みんな苦笑いするんやろう?
彼は27才
彼の彼女は39才
数字が大事
「もう好きって感じやない。
 いや
 好きなんやけど
 恋人って感じやない。
 うううん
 思い出かな。」
同じこと言われたぞ
エイジくんに
「エイちゃんて呼ぼうかな?」
って言うと
「おれのこと
 エイちゃんて呼んでええのは
 高校時代に付き合うとった彼女だけや。」
クソ生意気なやつ、笑。
それにしても彼女のいる子って多いなあ
バカみたい
だれが?
もちろん
ぼくが
いつだって
踏んだり
蹴ったり
さんざんな目にあって
それでも
最終的には
詩にして
自分を笑ってる
最低なやつなんだから
ぼくは
思い出は
いつだって
たくさん
もっとたくさん
もうたくさん
チュッチュルー
ルー


二〇一五年二月三十一日 「光と熱」


そうだ
言葉と出合って
そんな感情が自分のなかにあることに
そんな気持ちの感情が自分のこころのなかに存在することに気がつくことがある

映画を見て
そう思うこともある

通勤電車に乗っていて
向かいに坐った男のひとの様子を見ていて
このひとはわたしに似ていると思った
女性ではどうだろうかと思って
目をつむって眠っている女性を見つめた
このひとも
ぼくに似ていると思った
ここで
彼はわたしだ
あの女はわたしだ
って書けば
ジュネが書いてたことの盗作になるのだけれど

ジュネはそこでまた
書くと言う行為について疑問を持ったんじゃなかったっけ
持ったと思うんだけど
ぼくは別に
そんなことは思わなかったし
彼はわたしだ
とか
彼女はわたしだ
なんてことも思わなかったのだけれど
いや
ちらっと思ったかな
ジュネの文章を
むかし読んでたしぃ
でも
おそらく
そのときは
ただ単純に
みんながぼくに似ていることに気がついて
笑ってしまったのだった
声に出して笑ったのじゃなくて
またすぐにその笑顔は引っ込めたのだけれど
だって
ひとりで笑ってるオッサンって不気味じゃん
みんながぼくに似ている
ときどき
ぼくがだれに似ているのか
そんなことは考えたこともないのだけれど
まあ
ぼくもだれかに似ているのだろう
おそらくぼく以外のみんなが
どことなくぼくに似ているのだろうし
ぼくもぼく以外のみんなに似ているのだろう

ときどき ぼくは ぼくになる

と書けば嘘になるかな
リズムもいいし
かっこいいフレーズだけど


人間だけじゃなくて
たとえば
スプーンだとか
はさみだとか
胡椒の粉だとか
練り歯磨き粉だとか
そんなものも
ぼくに似ているような気がするんだけど
ぼくも
いろんなものに似ているんだろうな
橋や
あほうどりや
机や
カバンや
木工用ボンドとか
いろんなものに
もともとぼくらはみんな星の欠片だったんだし
チッ
光と熱だ
でも
そのまえは?


詩の日めくり 二〇一五年三月一日─三十一日

  田中宏輔




二〇一五年三月一日 「へしこ」


 日知庵で、大谷良太くんと飲みながらくっちゃべりしてた。くっちゃべりながら飲んでたのかな。ケルアック、サルトル、カミュの話とかしてた。へしこ、初体験だった。大人の味だね。帰りに、西院で駅そばを食べた。毎日がジェットコースター。


二〇一五年三月二日 「ぼくより背が高いひとがいない」


 ぼくは身長がひじょうに高いので、いつも、ひとの顔を見下ろして話してることになるのだけれど、たまには見上げながら話す経験もしてみたいなとは思う。でも、ぼくより身長の高い人って、まわりに一人もいないし、道端で歩いてるひとたちも、ぼくの半分くらいの背しかないし、無理かもしれない。


二〇一五年三月三日 「ぶふう」


ぶふう
ぶふう
って、彼女の髪の毛のなかに息をこもらせる。
ベンチに坐っていると
向かい側のベンチで
高校生ぐらいの男の子が
おなじくらいの齢の女の子の後ろから
ぶふう
ぶふう
って、髪のなかに息をこもらせる。
そのたんびに
女の子の頭が
ぶほっ
ぶほっ
って、膨れる。
なんども
ぶふう
ぶふう
ってするから、そのうち
女の子の頭がパンパンに膨れて
顔も大きくおおきくなって
歯茎から歯がぽろぽろこぼれ落ちて
ひみつ
と呼びかける。
本棚を見つめながら
本の背に
ひみつ
と呼びかける。
本棚に並んだ本が聞き耳を立てる。
ひみつ
という言葉が中継して
ぼくと本棚の本を結びつける。
手のそばにある電話に
ひみつ
と呼びかける。
電話が聞き耳を立てる。
ひみつ
という言葉が中継して
ぼくと電話機を結びつける。
ひみつ
と呼びかけると
まるで、ひみつというものがあるような気がしてくる。
ええっ?
そんな画像送ってきてもらっても。
人間って、いろんなことするんやなあ
って
いや
人間って、いろんないらんことするんやなあ
って、思うた。
もうはじめてしまったものは仕方なく
だれがだれだかわからない
連鎖
順番に見ていこう
これは違う
これは、わたし
これは違う
あ、これも、わたし
これは?
ううん、どちらかと言えば、わたしかしら?
これは、わたしじゃなく、あたし
これは違う
これは?
かぎりなくわたしに近いわたし
これは、わたし
これまた、わたし
これは、さっきのと同じわたし
これまた、わたし
これも、わたし
これは、たわし
これは、違うたわし
これは、わたし
これも、わたし
これまた、わたし
これは、違うわたし
もうはじめてしまったものは仕方なく
だれがだれだかわからない
連鎖
目の前にある、いろいろなものを見て
わたしと、わたしでないものを分けていく独り遊び
とてもむなしいけれど
コーヒーカップやマウスを手にしながら
つぎつぎやっていくと
けっこう本気になる遊び

これって
友だちと言い合っても面白いかもね
あれは、きみ
これは、ぼく
そっちは、きみで
むこうのきみは、ぼく
きみの前にあるのは、ぼくで
そこのぼくは、きみだ
ってのは、どっ?
どっどっどっ?


二〇一五年三月四日 「Touch Down」


 Bob James の Touch Down を聞いてたら、20才ころに付き合った、1つ上の男の子のことを思い出してしまった。朝に、彼の親が経営してた大きな喫茶店で、二人でコーヒーを飲んでた。大坂だった。まえの夜に、出合ったばっかりだったけれど、ああ、これって青春だなって思った。どんなセックスしたのか覚えてないけれど、そのまえに付き合ってたフトシくんのことが思い出される。ラグビーで国体にも出てた青年で、ぼくより1つ下だった。SMの趣味があって、彼はSだった。ぼくにはSMの趣味がなかったから、セックスは合わなかったけれど、いまでも覚えてる。かれの声、「お尻、見せてくれる?」20才くらいのときのぼくは、「やだよ」とか「だめ」とか返事したことを憶えてる。それから何年もしてたら、「いいよ」って言えるだろうけれど、笑。ふたりで歩いてたり、飲み屋のあるエレベーターに乗ってたら、若い男女のカップルとかにジロジロ見られたけど、それももう30年くらいまえの話。なんか、一挙に、思い出しちゃった。


二〇一五年三月五日 「ちょびっと」


 きょうも、ひたすら屁をこいた。違う、せいいっぱい生きた。遊んだ。楽しんだ。日知庵で飲んでてかわいい男の子もいたし、いっしょにしゃべってたし、飲んでたし、笑。齢をとって、若いときには味わえなかった楽しみ方をしてる。恋はちょびっとになってしもたけど、ちょびっとがええのかもしれへん。


二〇一五年三月六日 「パンをくれ」


 へんな夢を見た。外国人青年の友情の物語だ。「パンをくれという率直さが彼にあったからだ。」という言葉を、ぼくの夢のなかで聞いた。ふたりの友情がつづいた理由だ。片方の青年の性格の話だ。ふたりはいっしょに暮らしていたようだ。その片方の青年が死ぬまで。長い夢だったと思うが、はしょるとこれ。


二〇一五年三月七日 「1行詩というのを考えた。」


1行詩というのを考えた。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
また転校生が来た。
‥‥‥‥‥‥‥

1行詩というのを考えた。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
羊がいっぴき。
‥‥‥‥‥‥

1行詩というのを考えた。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
この文には意味がない。
‥‥‥‥‥‥‥


二〇一五年三月八日 「ひととひとを結ぶもの、あるいは、夢と夢を結びつけるもの」


 ひととひとを結ぶのは橋でもなく川でもなく流れる水でもない。水面に浮かぶきらめきだ。それは、ただひとつの夢だ。たくさんの輝きでできている、ただひとつの夢だ。ひととひとを結ぶのは橋でもなく川でもなく流れる水でもない。川底に横たわる岩と石だ。たくさんの岩と石でできている、ただひとつの夢だ。あるいは、夢と夢を結びつけているのが、ひとなのだとも言える。ひとが、夢と夢を結びつけているのだ。それは、橋でもなく川でもなく流れる水でもない。ひとなのだ。


二〇一五年三月九日 「パラドックス」


パラドックスは言葉であり、言葉があるからパラドックスが生じる。したがって、言葉がなければ、パラドックスは生じない。(2014年5月16日のメモ)


二〇一五年三月十日 「デブ1000」


 塾の帰りに日知庵に行った。眼鏡をかけたおデブちゃんがかわいいと言ったら、「デブ1000ですか?」と隣にいた、常連のひとに言われて、「いや、デブ1000とは言えないかも。デブだけじゃないし」とか返事してたのだけれど、一般ピープルも、デブ1000なんて言葉を知ってるんだね。いまどき。ぼくが20代前半のときに付き合ったおデブちゃんに似てた。足とか太ももとかお腹とか顔とか、ボンボンに太ってた。


二〇一五年三月十一日 「なにのさいちゅうに、いっしょうけんめい鼻の穴に指を入れようとする」


なにすんねん!?
そう言って
相手の手をはらったことがあるけど
そいつったら、繰り返し何度も
ぼくの鼻の穴に指を入れてきて
横に伸ばしたりして
鼻の穴をひろげようとするから
しまいには怒って
なにどころやなくなった
ひみつ
同じ言葉やのにねえ。
ひみつ
というだけで
すべてのものが聞き耳を立てる。
すべてのものが
ぼくとのあいだに、なにかを共有する。
なにか。
きのう、帰りに
地下鉄に乗ってるときに
アイコンタクトされてたのに
気がつかないふりをしてしまった。
あまりにも、むかしの恋人に似ていたのだ。
彼はぼくより2段上のエスカレーターに立って
ぼくを振り返っていたけれど
ぼくは横を向いていた。
先に改札を出て
わざとらしく案内地図を眺めていた。
ぼくには勇気がなかった。
すべての人類から肌の色を奪う。
すべての人類から言葉を奪う。
うんうん。
そうしてくださいな。
あと、耳とか少し感じますぅw
揚子江は、どこですか?
自分以外が
みんな自分って考えて
その上で
自分だけが自分じゃないって
考えることができるのかどうか
どだろ
むずかしいね
相手のメールを読まないで
はげしくレスし合う
な〜んてね
懐かしいでしょ?
ピコ
ひみつはコップを所有する。
ひみつは時計を所有する。
ひみつはスプーンを所有する。
ひみつは本を所有する。
と書くことはできる。
意味をなさないように思われるが
書くことはできる。
書くことで、なんらかの意味を形成する可能性はある。
上のままでは負荷が大きいので
言葉を替える。
ひみつは同一性を所有する。
ひみつは差異を所有する。
ひみつは矛盾を所有する。
この同一性や差異を矛盾を
わたしという言葉に置き換えてもよい。
これなら負荷はずっと少ない。
言葉の力の面白い性質のひとつに
その力が、万人に同じように働くわけではないという点がある。
負荷の大きさも、ぼくよりずっと大きいひともいるだろうし
まったく負荷とは感じないひともいるだろう。
意味をなさないようなものまで書くことができる。
と、塾からの帰り道に考えていた。
目にあまる
たんこぶ
思いつきと
思いやりが
同じ重さで痛い
同時にごめん
ふたりで並んで歩きませんか?


二〇一五年三月十二日 「ちょこっと詩論」


 ちょこっと痛いのが好き。言葉もそういうところあってね。詩人なんて、言葉責めを自分にしているようなものなんじゃないかなあ。言葉で解放されるのは、言葉自体であって、詩人は苦しめられるだけちゃうかなあ。それが、ほんものの詩人であって、ほんものの詩を書いてたらね。そんな気がする。詩や詩の才能は、ちっとも詩人を幸せにすることなんかないんじゃないかなあ。と思った。詩を書いて幸せな時期は過ぎました。


二〇一五年三月十三日 「道が道に迷う」


とてもまじめな樹があって
きちんと両親を生やす。
季節がめぐるごとに
礼儀正しい両親を生やす。
両親が生えてくる樹。
樹はときおり
自分が歩いてきた道を振り返る。
そこには光がきらきらと泳いでいて
その間を影が満たしている。
違った時間と場所と出来事の光と
違った時間と場所と出来事の影が
樹に見つめられている。
光は薄くなったり濃くなったり
影は薄くなったり濃くなったり
あった光と
なかった光が
あった影と
なかった影が
樹に見つめられている。
見るように見る。
見るように見える。
見えるように見る。
見えるように見える。
そんなことは
じつはどうでもいいことなのに
ひっかかる。
ただ、よくわからないという理由だけで
ひっかかっているような気がする。
ふつうだよ。
ふつうだったよ。
リプライズ
ふたたび現われた





違った時間に現われた
違った場所に現われた
違った出来事に現われた
無数の同じアルファベット
繰り返されることで、ようやく意味を持つ。
それが意味だから?
言葉だからといってもよい。
顔を歪める。
歪めるから顔なのだけれど
渡っているうちに長くなる橋
たどり着けないまま
道が道に迷う。
道が道と出合って迷っている。
ただ言葉が言葉に迷っているだけなのだろうけれど
意味が意味に迷っているだけなのだろうけれど
樹は自分の姿を振り返っていることに
まったく気がつかないまま
もくもくと歩いている。
「事実ばかりを見てても
 ほんとのことは、わからないよ。」
「わかるって前提で、話をされても・・・」
ここには意味しかない。
だったら、がっかり。
意味しか意味をもたない?
だったら、がっかり。
現実さえも
ただ語順を入れ換えるだけの操作で
目いっぱい。

いっぱい
なのだけれど
自分の書いているものが
よくわからないということを書くためだけに
こんなに言葉をついやすなんて
余裕でストライクゾーン
ほんとに?
サイゴン
彼女は階段ですれ違った幼い子どもの頭をなでた。
子どもは笑った。
子どもは笑わなかった。


二〇一五年三月十四日 「カメ人間」


庭にいるカメ人間に
ホースで水をかけていた。
カメ人間は
庭のそこらじゅうにいた。
つぎつぎと水をかけていった。
けさ見た夢だった。


二〇一五年三月十五日 「TCIKET TO RIDE。」


昼に、近くのイオン・モールで
いつも使っているボールペンを買おうと思って
売り場に行ったら、1本もなかった。
MITSUBISHI UM−151 黒のゲルインク
ぼくの大好きなボールペン
待ちなさい。
空白だ。
すべての人間が賢者になったとき
互いに教え合うといった行為はもうなされないのであろうか。
それとも、さらに賢者たちは、互いに教え合うのであろうか。
おそらく、そうであろう。
互いに、もっと教え合うのであろう。
賢くなることに限界はないのだ。
きみの考える天国には
きみのほかに、いったい、だれが入ることができると言うのかね?
すべてが変化する。
とどまるものは、なにひとつないという。
だから、むなしいと感じるひともいれば
だから、おもしろいと感じるひともいる。
詩を書いていると、しばしば思うのですけれど
象徴が、ぼくのことをもてあそんでいるのではないかと。
ひとが象徴をもてあそんでいるというよりは
象徴が、ひとをもてあそぶということですね。
ぼくのなかに訪れ、変化し、立ち去っていくものに
さよならを言おう。
ぼくのなかのものと恋をし、別れ、
また、別のものと恋をするものを祝福しよう。
ぼくのなかに訪れる顔はいつも新しい。
ぼくのなかで生まれ、ぼくのなかで滅んでいくもの。
言葉には喉がある。
喉にはあえぐことができる。
喉には悦ぶことができる。
喉には叫ぶことができる。
喉には苦しむことができる。
ただ、ささやくことは禁じられている。
つぶやくことは禁じられている。
沈黙することは禁じられている。
突然
小学校の教室の、ぼくの使っていた机の穴が
ぼくのことを思い出す。
ぼくの指が
その穴のなかに突っこまれ
ぼくの使っていた鉛筆が出し入れされる。
ポキッ
間違って
鉛筆を折ってしまったときのぼくの気持ちを
机の穴がなんとか思い出そうとしている。
折れた鉛筆も、自分が折られたときの
ぼくの気持ちを、ぼくに思い出させようと
ぼくの目と耳に思い出させる。
ポキッ
鉛筆が折れたときの光景と音がよみがえる。
鮮明によみがえる。
目が
耳が
顔が
折れた鉛筆に近づいていく。
ポキッ
再現された音ではなく
そのときの音そのものが
ぼくのことをはっきりと思い出した。
ここで転調する。
幻聴だ。
また玄関のチャイムが鳴った。
いちおう見に行く。
レンズ穴からのぞく。
ドアを開ける。
だれもいない。
だれもいない風景が、ぼくを見つめ返す。
だれもいない風景が、ぼくになり
ぼくは、その視線のなかに縮退し
消滅していった。
待ちなさい。
空白だ。
今年のカレンダーでは
6月が削除されている。
笑。
だれひとり入れない天国。
訪れる顔は
空白だ。
女給の鳥たちの 死んだ声が描く1本の直線、
そこで天国がはじまり、そこで天国が終わるのだ。
線上の天国。
笑。
あるいは
線状の天国


二〇一五年三月十六日 「家族烏龍茶」


器用なぐらいに不幸なひと。
真冬に熱中症にかかるようなものね。
もう鯉は市内わ。
もーっこりは市内わ。
通報!
南海キャンディーズの山里にそっくりな子だった。
竹田駅のホームで
突っ立って
いや
チンポコおっ立てて
あそこんとこ
ふくらませてて
痛っ。
かっぱえびせん2袋連続投下で
おなか痛っ。
赤い球になった少年の話を書こうとして
なんもアイデアが浮かばなかったので
マジ痛っ。


二〇一五年三月十七日 「趣味はハブラシ」


何気に
はやってんだって?
んなわけないじゃない。
ただ透明な柄のハブラシが好きで
集めてるっちゅうだけ。

べつに
ブラッシングが趣味じゃなく
むろん元気
さかさま
ときどき指先で
さら〜っと触れるんだけど
うひゃひゃひゃひゃ
こいつ
笑ってる。
わけわかんないまま
ところどころ、永遠な感じで
そこはかとなく
バディは
エッグイとです。
体育会系のハブラシとか
ちまちま
親子ハブラシとかねえ
ええ、ええ
グッチョイスざましょ? 
素朴でいいと思います。
それだけにねえ
残念だわ。
生石鹸みたいに
たいがい中身丸見えだもの。
そんなこと言って
むかしの身体で出ています。
仮性だっちゅうの!
ああ、宙吊りにしたい。
あがた
宙吊りにしたい。 濡れタオル
ビュンビュン振り回して
ミキサー
死ね!
とか言って
とりあえず寝るの。


二〇一五年三月十八日 「桃太郎ダイエット」


いまのままでいいのか?
サバを読むって
年齢だけじゃないのね。
解決しちゃいます。
静けさの真ん中で
新しい気がする。
動悸が動機。
ほら
エブリバディ
わたくしを、ごらんなさい。
パッ。
ひとつ、ひっどい作品を
パッ。
ふたつ、不確かな記憶を頼りにして〜
パッ。
みっつ、みんなにお披露目と
よくもまあ、遠慮なく
厚かましいわね。
はやく削除してください。
おねだりは
おねがいよりも難しい。
ぼくは
ハサミで空を
つぎつぎと割礼していく。
空は
ハフハフと
白い雲を
吸い込んでは吐く。
ハフハフと
吸い込んでは吐く。
光が知恵ならば
影もまた知恵でなければならない。
Palimpsest
くすくす
ぼくは、噂話に
膝枕。
すくすく
ぼくは、噂話に
膝枕。
機会があれば
また遊ぼね。
機械があれば
you know いつでもね。
「行かなくてもいいし。
 こうしてるだけでもいいねん。」
好き!
あつくんは?
へっ
なんで?
おねだりは
おねがいよりも難しい。
ほんまにねえ。
お友だちからでも。


二〇一五年三月十九日 「大根エネルギー」


日本語は下着ですけれど
薄着ね
笑顔に変わる
ラクダnoこぶ
堂々として
スキューバ・タイピング
パチパチ、パチパチ
トライ・ツライ・クライ
極端におしろい
旋回する田畑
最適化
ゆっくりなぐる
あきらかになぐる
みだらになぐる
うつくしい図体で
悪意はない
傷口が開く
傷口が閉じる
悪意はない
傷口が開く
傷口が閉じる
なめらかに倒れる
倒れた場所が
カーカー鳴く。
足のある帽子が
床の上に分泌物をなすりつける
はじける確信
肩の上の膝頭が恥じらい
挨拶の視線がしおれる様子
すべて録画
恍惚として
自分の首をしめる
有害な夜明け
波の上に波が
ずきずき痛むように
重なる
なじり合いながら


二〇一五年三月二十日 「全身鯛」


おれの口
こぶしがはいるんやで
言うから
右腕をそいつの口に突っこんだら
あれ
肘まで
えっ
肩まで
頭がはいって
胸まではいって
へそのところまではいって
そしたらあとは
ずる〜って
全身



二〇一五年三月二十一日 「つぎの長篇詩に入れる引用」


外へ外へと飛び立つ巨大なエンジンが視界から消え
大道(オープンロード)とあなたが名づけたあの意識の橋梁の上を飛んでゆく
この今だ──あなたの夢幻(ヴイジオン)がまた私たちの計器となるのだ!
(ハート・クレイン『橋』四 ハテラス岬、東 雄一郎訳)

もちろん、ホイットマンの引用のあとに

  〇

私をわれに返す
(ポール・ヴァレリー『海辺の墓地』安藤一郎訳)

「夢」が知となる。
(ポール・ヴァレリー『海辺の墓地』安藤一郎訳)

夢は、自らが自分に架け渡した橋である。

絶妙に <自らに橋懸けるあなた> よ、ああ、<愛> よ。
(ハート・クレイン『橋』八 アトランティス、東 雄一郎訳)

「自らに橋懸けるあなた」=「愛」
「愛」=「知」
こう解釈すると、ぼくの長篇詩のテーマそのものとなる。

想像が橋がける高み
(ハート・クレイン『フォースタスとヘレネの結婚のために』三、東 雄一郎訳)

しかし、その橋脚を支えるのは、「現実」であり、「現実の認識」である。

「きれいね、こんなにきれいなものがあるなんて」
(ハート・クレイン『航海』五、東 雄一郎訳)

プイグの「神さまは、なんてうつくしいものをおつくりになったのかしら」とともに引用。

歯の痛み?
(ハート・クレイン『目に見えるものは信じられない』東 雄一郎訳)

肘の関節の痛み、側頭部の電気的なしびれ、胸の苦しみ、胃の痛み、皮膚を刺す痛み

腎炎になり人工透析を受けたときのこと、腸炎での入院体験などとともに神経症と不眠症と実母の狂気についての怖れと不安について列記すること。

  〇

松の木々を起こせ──でも松はここに目醒める。
(ハート・クレイン『煉獄』東 雄一郎訳)

水鳥を眠らせるのは、何ものか?
水鳥を目ざめさせるのは、何ものか?
水鳥を巣に運び眠らせるのは、何ものか?
水鳥を目ざめさせ巣から飛び立たせるのは、何ものか?
それが、ぼくの愛なのか、それとも、ぼくの愛が、それなのか?

Dream, dream, for this is also sooth.
(W.B.Yeats. The Song of the Happy Shepherd)

夢を見ろ、夢を、これもまた真実なのだから。
(イェイツ『幸福な羊飼の歌』高松雄一訳)

アッシュベリーやシルヴァーバーグの Dream の詩句や言葉をつづけて引用。

  〇

一羽の老いた兎が足を引きずって小道を去った。
(イェイツ『かりそめのもの』高松雄一訳)

 百丈が一人の弟子と森の中を歩いていると一匹の兎が彼らの近寄ったのを知って疾走し去った。「なぜ兎はおまえから逃げ去ったのか。」と百丈が尋ねると、「私を怖れてでしょう。」と答えた。祖師は言った。「そうではない、おまえに残忍性があるからだ。」と。
(岡倉覚三『茶の本』第三章、村岡 博訳)

ヴァレリーの「ウサギが云々」とともに引用。

 すべてが出合いだとするぼくの考え方について、出合いを受け取るときの心構えについて言及するよい例だと思われる。忘れず引用すること。

  〇

苦労せずにすぐれたものを手にすることはできない。
(イェイツ『アダムの呪い』高松雄一訳)

努力を伴わない望みは愚かしい
(エズラ・パウンド『詩篇』第五十三篇、新倉俊一訳)

誤りはすべて なにもしないことにある
(エズラ・パウンド『詩篇』第八十一篇、新倉俊一訳)

 パウンドがイェイツと交友関係にあったこと。秘書になったことがあることを思い起こすと面白い符合である。ヴァレリーの「そもそも、ソクラテス云々」を入れるとより効果的な引用になるだろう。

  〇

不運にして未来に名を持てる者たち
(エズラ・パウンド『詩篇』第八十篇、新倉俊一訳)

必ず人間も死んで分かるんだ。
(ハート・クレイン『万物のひとつの名前』東 雄一郎訳)

 イーディーのこともあるけれど、多くの芸術家が、とりわけ、時代に先がけて才能を発現した芸術家に共通することである。生きている時代には評価されなくて当然である。その時代を超えて評価されるのであるから。だから、「すべての顧みられない芸術家」に、「いま現在においては認められていない芸術家」に、このことは、こころにとめておいてもらいたいと思っている。


二〇一五年三月二十二日 「ハート・クレインの『橋』の序詩『ブルックリン橋に寄せて』の冒頭の連の翻訳について」


How many dawns, chill from his rippling rest
The seagull's wings shall dip and pivot him,
Shedding white rings of tumult, building high
Over the chained bay waters Liberty─
(Hart Crane. To Brooklyn Bridge)

幾朝、小波の寝所に冷えとおる
鴎の翼は急降下、錐揉みさせて
白い波を投じつつ、鎖で囲われた
湾上高々と「自由」を築き接ぐや─
(ハート・クレイン『橋』序章 ブルックリン・ブリッジに寄せる歌、森田勝治訳)

これは、『ハート・クレイン『橋』研究』にある、森田さんの訳なんだけど
原文に忠実な訳は、この人のものだけだった。どこの箇所に関して言及しているのかといえば、2行目である。ほかの訳者の翻訳部分を書き並べると

かもめの翼は さっと身をひたしては旋回に移ってゆくことだろう
(楜澤厚生訳)

鴎は翼に乗って、つと水をかすめては旋回し、
(川本皓嗣訳)

鴎は翼で躯(からだ)を浸し舞いあがってゆくのだろう、
(東 雄一郎訳)

鴎は翼で躯を濡らし 回転する
(永坂田津子訳)

原文に忠実な訳であり、詩の大切なイマージュを翻訳しているのが、この箇所に限っていえば、森田さんの訳だけであることがわかる。ぼくが英語の詩や小説を読んでいて、もっとも自分の詩句のためになると思う書き方の一つに物主語・抽象的事物を主語にしたものがある。日本語で考えるときに、なかなか思いつかない発想なのだった。いまでは、もうだいぶ、操作できるようになったのだが、それでも、やはり、英文を読んで、まだまだ新鮮な印象を受ける。この2行目の箇所が、そのさいたるものであった。森田さんの注釈がまた行き届いたもので、たいへん読んでいて楽しい。この2行目のところの注釈を書き写すと

1. 1 “his”: は“him”(1.2)と共に鴎のこと。だが朝早くから寝呆け眼で出勤する人でもあり、次の行でカモメが空に舞い上がるが、そうは表現されておらず、翼がカモメを振り回す。寒い寝床で強ばった体が翼に引き回されれば解れるか。鳥に翼があるように、人には明日を夢見る向上心があるから、それに書き立てられて吹き晒詩の冬の橋も渡る。
1. 2 “The seagull's wings ”: これは、橋のケーブルが織り成す翼の形とも重なる。
1. 3 “white rings of tumult”: カモメが空に描く「心を掻きたてる幾重なす白い輪」、または「騒々しい白がねの響き」とでもするか。白い鳥の描く軌跡に音を聞く(共感覚、後述。“Atlantis,” 11. 3-4の項参照)。あるいは 〈ring〉を私利私欲のために徒党を組む政治ゴロの集団(例えば1858年から1871年にかけてニューヨーク市政を牛耳ったTweed Ring のような)と考えても面白い。実際この橋の建設には膨大な闇金のやりとりがあって、ローブリングを悩ませたという。(…)

 あまりにも面白過ぎるから、2行目以外のところもちょこっと引用したけれど、森田さんの注釈は、ものすごく興味深い記述に満ちていて、それでいて、詩句の勉強にもなるので、マイミクの方にも、強くおすすめします。買って損はしない本だと思います。病院の待ち時間の3時間で、5,60ページしか読めなかったけれど、原文と比較しながらなので、まあ、そんなスピードだったのだけれど、帰ってきてからも読みつづけています。ポカホンタス、出てくるよ、笑。ずっとあとでだけど。東 雄一郎さんので、全詩を翻訳で読んだけれど、ハート・クレインは、すばらしい詩を書いているなあって思った。
 ちなみに、この2行目から、つぎのような詩句を思いついた。

 たしかに、自分の知恵に振り回され、きりきり舞いさせられるというのが、人間の宿命かもしれない。どんなに機知に長けた知恵であっても、そこに信仰に似たものがなければ、すなわち、人間の生まれもった善というものを信じることができなければ、あるいは、人間がその人生において積み重ねた徳を信じることができなければ、知恵には、何ほどの値打ちもないものなのに。
 そう思う自分がいるのだけれど、しばしば、言葉に振り回されることがある。思慮深く対処すれば、その言葉の発せられた意図を汲み取ることが容易なはずなのに、浅慮のせいで、対処を誤ってしまうことが多いような気がする。
 しかしながら、あまりに深く思考することは、沈黙にしか&#32363;がらず、ふつう、人間は、浅慮と深慮のあいだで、こころを定めるものである。偉大な精神の持ち主だけが、そういった精神の持ち主の言葉だけが、深慮にも関わらず沈黙に至ることなく、万人のこころに響く、残りつづけるものとなり、後世の人間を導くものとなるのであろう。言葉と書いたが、これを魂と言い換えてもよい。


二〇一五年三月二十三日 「トライアングル・ガール」


トライアングル・ガールのことが知りたい?
じゃあ、そのペンでいいや。
それでもって、彼女の顔をたたいてごらん。
チーンって、きれいな音がするじゃない?
それだけでも、すてきだけれど
きみがリズムをきざんでごらんよ。
世界が音楽になるから。
トライアングル・ガールたち
彼女たちが顔を合わせれば
蝶にもなるし葉っぱにもなる
蝶になれば、追っかけることもできるさ
葉っぱになれば手に触れることもできるさ
トライアングル・ガールたち
彼女たちが顔を合わせれば
花にもなるし蜜蜂の巣ともなる
花になれば、香りもかげるさ
蜜蜂の巣ともなれば蜜が満ちるのを待つこともできるさ
トライアングル・ガールたち
彼女たちが並ぶと
波にもなるし
鎖にもなる
波になればキラキラ輝くさ
鎖になれば公園で遊んだ記憶を思い出させてくれるさ
トライアングル・ガールは
ぼくのかたわらのボーイフレンドの喉にもなるし
ぼくのボーイフレンドのくぼめた手にもなる
彼女はあらゆるものになるし
あらゆる音にもなる
トライアングル・ガール
彼女の三角の顔を見てると
幸せさ
公園のブランコで
ブランコをこいでる
トライアングル・ガール
顔のなかを風がするする抜けるよ
飛び降りた彼女の顔に
まっすぐ手を入れると
手が突き抜ける
あらゆる場所に突き抜ける


二〇一五年三月二十四日 「知恵」


なぜ、地獄には知恵が生まれて
天国では知恵が死ぬのか。

地獄からは逃れようとして知恵を絞るけれど
天国からは逃れようとして知恵を絞ることがないからである。


二〇一五年三月二十五日 「歌」


まったく忘れていたのに
さわりを聴いただけで
すべての部分を思い出せる曲のように
きみに似たところが
ちょっとでもある子を目にすると
きみのことを思い出す
きみは
ぼくにとっては
きっと歌なんだね
繰返し何度も聴いた
これからも
繰返し何度も思い出す



二〇一五年三月二十六日 「なによりもうまくしゃべることができるのは」


手は口よりも、もっと上手くしゃべることができる。
目は手よりも、もっと上手くしゃべることができる。
耳は目よりも、もっと上手くしゃべることができる。


二〇一五年三月二十七日 「ハート・クレイン」


聖書学を教えてらっしゃる女性の神学者の方が
ぼくを見て、「お坊さんみたいと思っていました。」
と、おっしゃられて、このあいだ、帰りに電車でごいっしょしたのですが
アメリカに留学なさっておられたらしく
そのときの神学校が左派の学校であったらしくて
ゲイとかレズビアンの先生がカムアウトしてらっしゃって
ぼくがゲイということも、「わたし、さいきん、まわりのひとが
ゲイだとかレズビアンだとかいうことを公言するひとがたくさんいて
ふつうって、なんなのだろうって、もう、わからなくなってきました。
でも、その告白で、彼や彼女の、なにかが、それまでわからなかったところが
腑に落ちたようにわかった気がしました。」
とのことでした。
それから、先生は映画が好きとおっしゃったので、ぼくと映画談義に。
きょうも、ハート・クレインの詩集を。
『『橋』研究』を、このあいだから読んでいて
とても詳しい解説に驚かされている。
ほんものの研究書という気がする。
原文の語意や文法解説もありがたいが
クレインの触れたアメリカの歴史的な記述や
クレイン自身の日記や、身近な人間のコメントも収録していて
こんなにすばらしい本が1050円だったことに、あらためて驚く。
本の価値と、金額が、ぜんぜん釣り合わないのだ。
すばらしい本である。
湊くんは、持っていそうだから
あらちゃんには、すすめたい本である。
はまるよ。
パウンド、ウィリアムズ、メリルに匹敵する詩人だと思う。


二〇一五年三月二十八日 「みんな、犬になろう。─サン・ジョン・ペルスに─」


みんな、犬になろう。
犬になって、飼い主を
外に連れ出して
運動させてあげよう。
ときどき、かけて
飼い主を、ちょこっと走らせてあげよう。
家を出たときと
ほら、空の色が違っているよって
わんわん吠えて教えてあげよう。
みんな、犬になって
飼い主に、元気をあげよう。
ひとを元気にしてあげるって
とっても楽しいんだよ。
みんな、犬になろう。
犬になって
くんくんかぎまわって 世界を違ったところから眺めよう。
犬のほうが
地面にずっと近いところで暮らしてるから
きっと人間だったときとは違ったものが見れるよ。
尾っぽ、ふりふり
鼻先くんくんさせて
みんな、犬になろう。
犬になって
その四本の足で
地面を支えてやるんだ。
空の色が変わりはじめたよ。
さあ
みんな、犬になろう。
犬になって
飼い主に、元気をあげよう。
飼い主は、だれだっていいさ。
ためらいは、なしだよ。
犬は、ちっともためらわないんだから。


二〇一五年三月二十九日 「金魚」


きみの笑い顔と、笑い声が
真っ赤な金魚となって
空中に、ぽかんと浮いて
ひょいひょいと目の前を泳いだ。

コーヒーカップに手をのばした。

もしも
その真っ赤な金魚が
きみの喉の奥の暗闇に
きみの表情の一瞬の無のなかに
飛び込み消え去るのを
ぼくの目が見ることがなかったら
ぼくは、きみのことを
ほんの一部分、知っただけで
ぼくたちは、はじまり、終わっていただろう。

コーヒーカップをテーブルに置こうとする
ぼくの手が
陶製のコーヒーカップのように
かたまって動かなかった。

真っ赤な金魚の尾びれが
腕に触れたら
魔法が解けたように
ぼくは腕を動かすことができた。

目のまえを泳いでいる
きみの笑顔と、笑い声が
ぼくの目をとらえた。


二〇一五年三月三十日 「きみのキッスで」


たったひとつのキッスで
世界が変わることなんてことがあるのだろうか。

たったひとつのまなざしで
世界が変わるなんてことがあるのだろうか。

たったひとさわりで
世界が変わるなんてことがあるのだろうか。

あるんだよ。
あったんだよ。
きみのキッスで、世界が一変したんだ。

あるんだよ。
あったんだよ。
きみのウィンクひとつで、世界が一変したんだ。

あるんだよ。
あったんだよ。
きみのひとふれで、世界が一変したんだ。


二〇一五年三月三十一日 「ぼくの道では」


泥まみれの
ひしゃげた紙箱が
一つの太陽を昇らせ
一つの太陽を沈ませる。


ヴァリアント


泥まみれの
ひしゃげた紙箱が
かわいた

泥まみれの
ひしゃげた紙箱が
一つの太陽を昇らせ
一つの太陽を沈ませたのだ。


ヴァリアント


泥まみれの
ひしゃげた紙箱が
いくつもの太陽を昇らせ
いくつもの太陽を沈ませる。


詩の日めくり 二〇一五年四月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年四月一日 「少年はハーモニカの音が好きだと言った。」


 これは、『ゲイ・ポエムズ』に収録した『陽の埋葬』の一つに書いた少年の言葉だった。ぼくがまだ20代だったころの話だ。なんで思い出したんだろう。その少年のことで書いていないことがあったからかもしれない。たしかにあった。瞬間のなかにこそ、永遠はあるのだ。でも、まあ、ぼくが54才になったように、その少年も40才まえか、40才ころか、40才をこえたおっちゃんになってるんだろう。きっと、かわいいおっちゃんになってるんだろうけれど。そうだ。ぼくが好きになった子は、みんな、かわいいおっちゃんになってる、笑。下鴨にあったぼくのワンルーム・マンションで、自分の勃起したちんぽこいじりながら、にこにこしながら、ぼくと音楽の話をしてた。「おれ、ハーモニカの音が好きなんですよ。」そか。なんか、頭の先、しびれるよな。酒、飲んでたらな。いまなら、わかるさ。わかるよ。そのあとの展開は、臆病なぼくらしい展開で、ぼくの究極のテーマだと思う。臆病なぼくは手を出すこともできなくて、その子がわざともみしだいておっ立てたチンポコの形を、彼のズボンの上から眺めることしかできなくって、そうだ。そのあとのことを、『ゲイ・ポエムズ』の『陽の埋葬』の一つに書いたのだった。彼はわざと勃起したチンポコのふくらみを見せつけたのだった。


二〇一五年四月二日 「言葉」


 いくつもの言葉を飼っている。餌は言葉だ。文章のなかで飼っている。しかし、ときどき、文章を替えてやらないと死んでしまう。また、余白やリズムを文章のなかに適当に配置してやらなければ、元気がなくなる。それにしても、言葉の餌が言葉だというのは、おもしろい。人間の餌が人間であるのと同様に。


二〇一五年四月三日 「言葉」


 ぼくの作品の主題は、言葉とは何か、だと思っているのだけれど、いまだに言葉というものが、よくわからない。わからないのは、「言葉」の意味が多義にわたるためであるが、名詞の、動詞の、助詞の機能をのみ取り出すと、考えやすくなると思う。名詞あるいは助詞の機能は『順列 並べ替え詩。3×2×1』で、動詞あるいは名詞の機能は『受粉。』でわかったところがあって、たとえば、『順列 並べ替え詩。3×2×1』では、三重メタファーについて、『理系の詩学』において詳しく調べた。『受粉。』でも、多重メタファー的な現象が文体に起こっていることがわかった。あした、ひさびさに、言語実験的な作品をつくろうと思う。失敗作品であってもかまわない。数多くの実験から、これだと思うものが、1作できればいいのだから。数多くの失敗作か。それは嘘だな。ほとんど失敗作をつくったことがないのだから。傲慢かな。いや、事実だ。全行引用詩においても、いろいろわかったことが数多くあるのだが、詳細に語るときがそのうちくるだろうと思う。論考という形ではなく、ぼくのことだから、エッセーのような詩作品のようなもののなかで語ると思うのだけれど。『詩の日めくり』に書くかな。どうだろ。


二〇一五年四月四日 「Are you the leaf, the blossom or the bole?」


 数日まえからはじめた原著の読書は、ぼくのふさぎがちだった気分を、どうやらよい方向に持って行ってくれているようだ。食事をしたあとに、バッド・カンパニーのセカンド・アルバムをかけながら、本棚の端にもたれて、イエイツの LEDA AND SWAN と AMONG SCHOOL CHILDREN を読んで、ぼくが大好きな詩句を見つけた。 AMONG SCHOOL CHILDREN のVIIIにある、Are you the leaf, the blossom or the bole? と How can we know the dancer from the dance? である。出淵 博さんの訳では、「お前は葉か? 花か? それとも幹か?」、「どうして踊り子を舞踏と区別できようか?」となっているのだけれど、なんとシンプルな言葉で、ぼくをどきどきさせる、スリリングな言葉かなと思った。きょうは、この詩から栄養を補給するために、何度も読み直そうと思う。そういえば、この詩のなかには、いつか、ぼくが引用した、ぼくが深く驚き、かつ、重くうなずかされた言葉もある。ふと思い出した。この詩は、エリオットがイエイツを再発見したときの詩だったことを。ちょっと感傷的になっているのかもしれない。翻訳を読んでいたら、涙ぐんでしまった。なんてやさしい言葉で深いことがらを表しているのだろう。きょうはこれだけを読んで過ごそう。ぼくが引用した2行。それぞれ、そのまえの行を引用しないとダメだった。ぼくの目が局所的だったことを反省。

O chestnut-tree, great-rooted blossomer,
Are you the leaf, the blossom or the bole?
O body swayed to music, O brightening grance,
How can we know the dancer from the dance?

出淵 博さんの訳では

ああ、マロニエの樹よ。巨大な根を下し、花を咲かせるものよ。
お前は葉か? 花か? それとも幹か?
ああ、音楽に合せて揺れ動く肉体よ。ああ、きらめく眼差(まなざ)しよ。
どうして踊り子を舞踏と区別できようか?

高松雄一さんの訳では

おお、橡(とち)の木よ、大いなる根を張り花を咲かせるものよ、
おまえは葉か、花か、それとも幹か。
おお、音楽に揺れ動く肉体よ、おお輝く眼(まな)ざしよ、
どうして踊り子と踊りを分つことができようか。

小堀隆司さんの訳では

ああ 栗の樹よ、深く根を張りつつ花を咲かせるおまえよ
おまえは葉なのか、花なのか、それとも幹なのか。
ああ 調べに揺らめく肉体よ、きらりと輝く眼差しよ、
いかにして私たちは舞踏する者とその舞いを見分けられようか。

 マロニエの木と、栗の木と、橡の木とが同じものだということを、はじめて知った。chestnut-tree の訳の違いで。AMONG SCHOOL CHILDREN、ぼくには難しいところを異なる訳で勉強しようと思う。わかりやすいと思ってたのに、わかりにくいところがいくつもある。深いっていうのは、こういうものなのかもしれない。あるいは、ぼくの英語力が極端に貧しいからか。ふと思いついてはじめた 20TH-CENTURY POETRY & POETICS (OXFORD UNIVERSITY PRESS) の読みだけど、おもしろい。やみつきになってしまうかもしれない。800ページ以上あるから、一日に1ページか2ページくらいしか読めないだろうから、数年の習慣になるかもしれない。習慣になれば、いいのだけれど。死ぬまでに読み切れないほどの洋書を買っているから、死ぬまでの習慣にできれば、さらによい。


二〇一五年四月五日 「神さまのおしっこ」


雨の音がすごい。寝れへん。神さまのおしっこ、すご過ぎ!


二〇一五年四月六日 「未収録メモ」


「愛は点であり、真理は点であり、道は点である。」と6月の日記に書いたが、ダンテの『神曲』を読み直していると、「点とは神のことである」とあり、ドキッとしたのであるが、そういえば、「偶然とは神である」と芥川龍之介も書いていて、偶然をひっつかまえて、あるいは、偶然にひっつかまれて、詩をつくるぼくは、ふと、神さまの襟元を両手でつかんで振り回す自分の姿を、そして、神さまに胸元をつかまれて振り回される自分の姿を目に浮かべた。(2014年10月25日のメモ)

 アナホリッシュ國文學の『詩の日めくり』で「病気になるのも悪くない」というタイトルで一項目を書くこと。膝の痛みについて書く。「病人というものは、健康な人が見逃したものに気づくものだよ」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』21、岡部博之訳)これに似た言葉をトーマス・マンも『ファウスト博士』のなかに書いていた。以前に論考のなかに引用したことがある。「健康でないからこそ、健康なひとが気づけなかったことに気づくことができる」というような言葉だったと思う。ところで、もしも人間の肉体がずっと健康で、ずっと若くて、けがや病気をしてもすぐに治ってしまうのなら、人間は、自分の肉体をぜんぜん大切にしないだろうと思う。痛みがなければ、なおさらのことだろう。ひとが、ひとのことを気づかうのも、何がきっかけで相手が機嫌を損ねてしまうか、自分から離れてしまうか、わからないからかもしれない。もしもどんなにひどいことを言ったり、したりしても、ひとが機嫌を損ねたり、自分から離れたりすることがないのだとしたら、ひとは、他人に気づかうことをしなくなるだろう。(2014年5月20日のメモ)

 あなたは渇いている。あなたは頭の先からつま先まで渇ききっている。あなたの指が水に濡れたとしたら、その指の皮膚の表面から、ただちに水を吸収してしまうだろう。あなたは渇いている。あなたの指が本のページに触れると、本のページからたちまち水分がなくなってしまう。あなたの指が本のページのうえをすべると、その摩擦熱で、本のページが渇ききってしまう。あなたの身体はその摩擦熱を溜めこむ。やがて、あなたの身体は発火点に達して、燃え上がってしまうだろう。(2014年5月31日のメモ)

 言葉と言葉のセックス。言葉にも、親があり、子があり、友があり、恋人がある。親戚もあれば、赤の他人もある。さまざまな体位でセックスする言葉たち。近親相姦もあれば、同性愛もある。きつい体位というものを、ぼくはしじゅう考える。奇形的な体位をしじゅう考える。(2014年5月19日のメモ)

きみの身体から完全に出て行くまえに、言っておくよ。
きみは、よくがんばった。
それほど愛にめぐまれた家庭に育ったわけでもないのに
人生の終わりのほうでは
人を愛することができるようになっていたね。
愛されて育てられていたら
もっとわかいときから感情のバランスもとれてただろうし
違った人生だっただろうけれど
終わりよければ、すべてよしなんだよ。
さいごが、すべてさ。
ああ、たくさんの魂が混じりはじめた。
きみから離れるよ。
さようなら、ぼくよ。
(2010年1月24日のメモ)


二〇一五年四月七日 「ケイちゃん」


 目が覚めた。泣いてしまいそうなくらい、いい夢を見た。田舎で家族と暮らしてるんだけど、なぜかタイプの若い子がぼくの部屋に泊まっていて、隣の部屋にママンがいて、ぼくたちはテーブルをはさんで、あしをからませて、おちょけていたんだけど、つぎの瞬間は、就寝シーンで、彼がぼくのうえから、ぼくの身体のうえにおっかぶさるようにしてたのだった。そしたら、つぎの朝のシーンで、田舎の行事の餅つきをしていたのだった。彼も手伝ってた。これって、へんな夢だよね。いま恋人いないけど、できるってことかな。それとも、夢のなかでなら幸せってことなのかな。ちなみに、その彼って、ぼくが21才のときに付き合った、2つ年上の23才のケイちゃんにそっくりだった。ぼくもきっと、夢の中では、若かったんだろうね。ママンも若かったから。田舎の家ってのも、なんだかだった。なにを暗示してるんだろう。いいことあるかなあ。


二〇一五年四月八日 「表紙の絵」


 3つの本棚の4つの棚の本を並べ替えていた。本の表紙の絵にみとれること、しきり。ぼくはやっぱり画家になりたかったのかな、と、ふと思った。でも、詩も好きだし、小説も好きだし、音楽も好きだけどな、とも思った。本棚を整理するときに、アンソロジーだけの棚をつくったのだけれど、再読したい気持ちバリバリになるんだね。収録されているすべての作品がいいわけじゃないけど、いいものがやっぱり入ってることが多くて、背表紙みただけで、ドキドキする。もしかすると、ぼくは本と結婚しちゃったのかもね。


二〇一五年四月九日 「猫にルビ」


 仕事帰りの通勤電車のなかでは、『ナイト・フライヤー』のつづきを読んでいた。レトリックで学ぶべきところはあったのだけれど、日本語の文章にはなじみのないものだった。ぼくの文学経験で、これまでに2度、出合っただけのものだった。「ミリアムは猫(ねこ)と遊びながら、自分の考えにふけった。猫も想像力も、今夜はおとなしくしていた。」(クライヴ・パーカー『魔物の棲(す)む路(みち)』酒井昭伸訳)酒井昭伸さんの訳は好きな部類なんだけど、「猫」にルビ振るのは勘弁してほしいなと思った。


二〇一五年四月十日 「衣紋掛け」


 服に衣紋掛けがあるんだったら、こころにも衣紋掛けがあってもいいのになって、ふと思った。


二〇一五年四月十一日 「何度も同じ本を買う」


 きれいな状態だという説明なので、アマゾンで、フィリス・ゴッドリーブの『オー・マスター・キャリバン!』を買った。これで買うの3度目だ。きのう、きれいなカヴァーをみたからだと思うけど、ぼくは古書マニアでもないのに、カヴァーのためだけに、同じ本を何度も買ってしまう病気なのだと思う。癒しがたい病気だな。むかし付き合ってる子に、同じ本を5回買ったときに、もうこれ以上、同じ本を買ったら別れると言われた。そう言ってくれたのは、やさしさからだったと思う。後日、到着した本のカヴァーがきれいじゃなかったら、思い切り放り投げて破り捨ててやろうと思う。病気か、狂気かな。狂気の病気か。いま読んでる『ペルセウス座流星群』に出てくる少年は貧しくて、好きな本を買うこともできずにいるのだった。同じ本を、何冊も買って、カヴァーのよりよい状態のものを並べて眺めているのが趣味のぼくなんて、なんて罪深いのだろう。といっても、治る病気ではなさそうだ。まあ、カヴァーの状態のよりよいものを、ということなら、もう買い求めるSF文庫本はないのだけれど。


二〇一五年四月十二日 「another voice of green」


 another voice of green という言葉を思いついた。ネットで検索しても出てこなかったので、記憶していた詩句の一部であったり、曲名からのものではなかったようだ。イーノのアルバムに『アナザー・グリーン・オブ・ザ・ワールド』ってのがあったようには思うが。緑の別の声か。green には the をつけて、「緑なるもの」って感じにしたほうがよいかもしれない。another voice of the green。the がないほうがいいかな。音的にはないほうがよい。いや、あったほうがよいかな。そのうち、作品に使おう


二〇一五年四月十三日 「(もと)友だち」


 帰りに、大学と、大学院時代にいっしょだった(もと)友だちとばったり。「あんまり変わらへんな」と言うので「おんなじ人間なんやから、そら、ぜんぜん違うひとには、ならへんで」と返した。あたりまえのことを言って、なにがおもしろいのか、ずっと笑っておった。まあ、笑いは健康にいいし、いいか。


二〇一五年四月十四日 「落穂ひろい」


落穂ひろいに行こう。ぼくが落ちてるところに。


二〇一五年四月十五日 「オー・マスター・キャリバン!」


『オー・マスター・キャリバン!』到着。持っているものと、あまり変わらないきれいさだったので、ギーって感じ。2冊の本の表紙を眺めながら、SF文庫の表紙のかわいらしさについて考え込んでいる。1000円以上も払って、同じくらいのきれいさか。なんだか、ギーって感じで発狂しそうな気がする。


二〇一五年四月十六日 「古代の遺物」


 ジョン・クロウリーの『古代の遺物』を読もうか。また読むの途中でやめなきゃいんだけど。ジョン・クロウリーの作品はよいのだけれど、改行はほとんどしないし、会話もほとんどないし、読むのがとても苦痛なのが難なんだよね。さいしょの短篇、「古代の遺物」も、2番目に収録されていた「彼女が死者に贈るもの」も読みやすかった。『リトル、ビッグ』みたいにギューギュー詰めじゃなかった。短篇だからかな。ちょっと球形したら、読書を再開しよう。3作目の「訪ねてきた理由」が、わからない。さいごの2ページが、記述的に不統一感が強くて、どう解釈していいのか、わからない。表現主体はヴァージニア・ウルフではないはずなのに、さいごの2ページがヴァージニア・ウルフの述懐のようなものになっているからである。2度読んでも理解できない。こう解釈すればいいのだろうか。ヴァージニア・ウルフが、自分のつくろうとしている作品の登場人物の家に訪ねに行く話を書いていて、途中で、自分をその作品の登場人物だと思って、その登場人物から見た自分自身を書いていて、自分がその登場人物の家から帰ったあと、そのつづきを書くのをやめて、自分がその文章を書いたあとに、ただ思いついたことを、書いているのだと。そうでも解釈しないと、ちんぷんかんぷんである。新人の作家がこんなものを書いてきたら、たぶん、ふつうの編集者は突き返すだろうと思うけれど。ぼくなら返す。この短篇のために、神谷美恵子さんの『ヴァジニア・ウルフ研究』(みすず書房)を本棚から取り出して、ウルフの伝記を調べた。神谷さん、音を省略する癖があって、夫の名前もレナド・ウルフ。4つ目の短篇「雪」は、よかった。『エンジン・サマー』で使われたSFガジェットが使われている。短篇のほうがさきに書かれたのかもしれない。記憶については、たしかアウグスティヌスの書いたものがさいしょのものだったと思うけれど、はなはだ興味深いものである。5つ目の短篇「メソロンギ一八二四年」は、ブロッホの『ウェルギリウスの死』を髣髴させた。詩人のバイロンが表現主体である。傑作だと思う。この作品では、バイロンがゲイの設定だけれど、史実かどうかは、知らない。というか、どうでもよいが、とても自然な感じだ。ジョン・クロウリーの短篇集『古代の遺物』、あと1つで読み終わる。意外と読みやすいものだったので、そのところに、多少驚かされる。さいごの1篇は、ちょっと長い。シェイクスピアものなので、興味深い。まだ読んでいる途中なのだけれど、「シェイクスピアのヒロインたちの少女時代」に、シェイクスピア=ベーコン説が出てくるんだけど、数か月前に読んだ『シェイクスピアは誰だったか』(R・F・ウェイレン著)を思い出した。


二〇一五年四月十七日 「音楽のからだ」


「音楽のからだ」という言葉を、ふと思いついた。いちばんなりたかったのが、作家だったのか、音楽家だったのか、画家だったのか、ときどき、わからなくなる。もしかすると、詩人って、そのどれでもあるのかもしれないけれど。


二〇一五年四月十八日 「健在意識」


 あ、健在意識って書いてた。顕在意識だった。そこらじゅうに誤字をまき散らしてる感じだな。くわばら、くわばら。


二〇一五年四月十九日 「軽くチューして、またね。」


 まえに付き合った男の子が部屋に遊びにきてくれた。ちょこっとしか寄る時間がないけどって言って、ほんとに5分で帰って行った、笑。おいしそうな調理パンを2個くれて。「いま食事制限中なんだけど」「ふだん無茶食いするからやんか」「これありがとう」「お昼に食べたら」軽くチューして、またね。


二〇一五年四月二十日 「全財産」

 
 部屋のなかで、こけた。本棚に手をかけてしまって、ひとつの棚が外れて、本が落ちた。棚を直して、本を元の場所に戻した。キッチン寄りの本棚だからか、本がちょこっと湿気てたような気がする。まあ、本など、しょせん消耗品なのかもしれないのだけれど。それが、ぼくの全財産だ。業だな、きっと。


二〇一五年四月二十一日 「きょうのブックオフでのお買い物。CD1枚。レオン・ラッセル」


950円だった。
1000円以上だったら、200円引きだったのだけれど。
ア・ソング・フォー・ユー
ハミングバード
が入ってるやつね。
むかし
中学くらいのとき
鬼火
って、こわいカヴァーのものを買ったけど
よさが、わからなかった。
いまの齢で
ようやく
こころに沁みるようになったって感じ。
太秦のブックオフまで
自転車で。
帰りに
屋根に
ブルーのかわらの
屋根に雪が
そしたら
目の前に現れた
車の前にも雪がのっかってた。

きのう
雪が降っていたことを思い出した。
ほとんど部屋を出ない生活をしているから
天気のことを
すぐに忘れてしまう。
雪を見てると
水盤の上に浮かんだ
花が
花が水のうえで
ぷかぷかと浮いているイメージが思い浮かんだ。
自転車に乗りながら
そしたら
花が葉っぱになって
20年くらいむかしかな。
嵐の夜に船が沈没して
つぎの日の昼に
とてもきれいに晴れた
つぎの日に
おだやかな
きらきらと陽にかがやく
水面のうえに浮かんだ水死体が
からだを

の字にまげて
うつむいて
たくさん浮かんでいて
青いTシャツを着た青年の水死体とか
黄色いスカートを履いた女性の水死体が揺れていた。
さまざまな色の
きれいなシャツや
スカートが
水面にぷかぷかと
ああ
きれいやなあと思った。
ぼくも
あの水死体のように
海のうえに
ぷかぷかと浮かんでいたいな
って思った。
海に浮かんだ
水死体の頭が一つ、動いた。
ぼくは、死んだ目で
テレビ画面を見つめるぼくに目をやった。
テレビ画面のきらきらと輝く海が
ぼくの瞳に映っていた。
その瞳の中心に、ぼくを見つめるぼくがいた。
ぼくのなかに
ぼくの胸のなかに浮かんだ
いくつもの水死体。
花であり
葉っぱであり
幹や
根っこであり
水そのものでもある
ぼくの胸のなかで
ときどき暴れては大人しく眠る
いくつもの水死体たち。
自転車をこいで
途中で
フレスコで
お昼のおかずを買って帰った。
雪だったのね。
きのう。
そういえば
暗い夜にマンションを出たとき
雪が降って
つめたい雪が
顔や手に落ちてきたことを思い出した。
ぼくの胸のなかに降る
冷たい雪たち
ぼくの胸の暗い夜のなかに
降る
ハミングバード。
ア・ソング・フォー・ユー。


二〇一五年四月二十二日 「きみの永遠は」


枯れることのない笑顔が花にある。


二〇一五年四月二十三日 「ディキンスンとホイットマン」


「原子(atom)」という言葉が
ディキンスンとホイットマンの詩に使われていて
これは、おもしろいなと思った。
それというのも、当然、二人が原子論を知っていたからこそ
二人がその言葉を使ったのであろうから
ある言葉の概念が、二人のあいだで、おおよそどのように捉えられていたか
知ることができるし、共通して認識されていたところと
二人によって、異なる受けとめ方をされているところもあると思えたからである。
ディキンスンは、1830年生まれ、1886年没で
ホイットマンは、1819年生まれ、1892年没で
ホイットマンのほうがディキンソンより
十年ほどはやく生まれ、5,6年ほど遅く亡くなったのであるが
「原子(atom)」が出てくる箇所を比較してみる。
まず、ディキンスンから

Of all the Souls that stand create─
I have elected─One─
When Sense from Spirit─files away─
And Subterfuge─is done─
When that which is─and that which was─
Apart─intrinsic─stand─
And this brief Drama in the flesh─
Is shifted─like a Sand─
When Figures show their royal Front─
And Mists─are carved away,
Behold the Atom─I preferred─
To all the lists of Clay!

すべての造られた魂のなかから
ただひとりわたしは選んだ
精神から感覚が立ち去って
ごまかしが終ったとき
いまあるものといままであったものとが
互いに離れてもとになり
この肉体の束の間の悲劇が
砂のように払い除けられたとき
それぞれの形が立派な偉容を示し
霧が晴れたとき
土塊のなかのだれよりもわたしが好んだ
この原子をみて下さい!
(作品六六四番、新倉俊一訳)

ホイットマンの詩では、『草の葉』のなかでも、もっとも長い
『ぼく自身の歌』の冒頭に出てくる。

I celebrate myself, and sing myself,
And what I assume you shall assume,
For every atom belonging to me as good belongs to you.

I loafe and invite my soul,
I lean and loafe at my ease observing a spear of summer grass.

My tongue, every atom of my blood, form'd from this soil, this air,
Born here of parents born here from parents the same, and their parents the same,
I, now thirty-seven years old in perfect health begin,
Hoping to cease not till death.

Creeds and schools in abeyance,
Retiring back a while sufficed at what they are, but never forgotten,
I harbor for good or bad, I permit to speak at every hazard,
Nature without check with original energy.

ぼくはぼく自身を賛え、ぼく自身を歌う、
そして君だとてきっとぼくの思いが分かってくれる、
ぼくである原子は一つ残らず君のものでもあるからだ。

ぼくはぶらつきながらぼくの魂を招く、
ぼくはゆったりと寄りかかり、ぶらつきながら、萌(も)え出たばかりの夏草を眺めやる。

ぼくの舌も、ぼくの血液のあらゆる原子も、この土、この空気からつくり上げられ、
ぼくを産んだ両親も同様に両親から生まれ、その両親も同様であり、
今ぼく三七歳、いたって健康、
生きているかぎりは途絶(とだ)えぬようにと願いつつ、歌い始めの時を迎える。

あれこれの宗旨や学派には休んでもらい、
今はそのままの姿に満足してしばらくは身を引くが、さりとて忘れてしまうことはなく、
良くも悪くも港に帰来し、ぼくは何がなんでも許してやる、
「自然」が拘束を受けず原初の活力のままに語ることを。
(ウォルト・ホイットマン『草の葉』ぼく自身の歌・1、酒本雅之訳)

ホイットマンのほうは、語意がそのまま使われていて
ディキンスンのほうは、より象徴性を含ませた表現になっている。
たまたま、「原子(atom)」が使われている詩を読み比べてみただけだけど
男性性と女性性の違いをはっきり感じ取れた。
これは、一つの単語で、そういうふうに思ったのだけれど
多くの言葉の受容と表現において、男性性と女性性の違いが見られるような気がする。
これは、この二人の詩人に限ったことなのかどうかは、ぼくにはわからないけれど
また、一つの単語で比較しただけだけど
たまたま自分で出した例に、自分で感心するのも変に思われるかもしれないけれど
感心してしまった、笑。
いろいろなことが見えてくるなあ。
いや、いろいろなことが、こう見させているのか……。


二〇一五年四月二十四日 「『Still Falls The Rain。』に引用する詩句の候補その他 1」


あまりに長いあいだ犠牲に耐えていると
心が石になることもある。
ああ、いつになれば気がすむのだ?
それを決めるのは天の仕事、私らの
仕事はつぎつぎと名前を呟(つぶや)くこと。
(イェイツ『一九一六年復活祭』高松雄一訳)

波が浜辺のさざれ石めがけて打ちよせる
(シェイクスピア『波が浜辺に打ちよせるように』平井正穂訳)

胸の奥ふかく、いつも離れぬその波の音をきく。
(イエーツ『インスフリー湖島』尾島庄太郎訳)

あのみぎわの波の音がきこえてくる。
(イェイツ『インスフリー湖島』尾島庄太郎訳)

  〇

ばらばらにしか天国は存在しない
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

そういえば、地獄だってそう。
だって、人間、ひとりひとりが、天国であり、地獄なんだもの。

  〇

須磨の源氏、
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

  〇

規則を破ったこの人たちにみられる
愛のわざこそ最も価値がある
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

すべては光である
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

「交わりは光りを生む(イン・コイトウ・インルミナチオ)」
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
(『創世記』第一章・第三節)

すべて在るものは光りなり
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。
(『出エジプト記』第三章・第十四節)

  〇

かくて光は雨となって降る、かくして注(そそ)ぐ、その中に雨をもった太陽、
(エズラ・パウンド『詩篇』第四篇、岩崎良三訳)

光りの光りにこそ真の徳がある
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

  〇

ばらばらのものがいまいちど寄せあつめられた。
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十六篇、新倉俊一訳)

幸運は続かないことをすべてのものが語っている
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十六篇、新倉俊一訳)

雨もまた「道」の一部
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

風もまた「道」の一部
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

離れられるものは「道」ではない
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

  〇

It was the night of the Ghost
(Jack Kerouac, On the Road, PART ONE-14. p.104)

このあとアッシュベリーの Dream の詩句を引用すること。
あるいは、聖書の霊が出てくるところを引用すること。

  〇

なぜカメなんて呼ぶの、カメじゃないのに?
(ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』第九章、高橋康也・迪訳)


二〇一五年四月二十五日 「『Still Falls The Rain。』に引用する詩句の候補その他 2」


この寒さでは、雪も白さに、ふるえていることだろう。
なんども語ってきたが
子どものころに、ぼくが、いちばんなりたかったのは、画家だった。
ぼくは、白い絵の具を、いちばんよく使っていた。
いつも、白い絵の具をたくさん、ほかの色を少し混ぜたものを
パレットにこしらえて描いていたのだけれど
中学の美術教師は、わかってくれていたが
高校の美術教師には、さんざん嫌味を言われて辟易とした。
絵をつづけていたら、いまよりもっとひどいことを言われるような気がする、笑。
小学校の6年生のときに、市の主催する絵画コンクールで賞を獲ったことが
いちばんの理由じゃないと思うけれど
というのは、小学校にあがる前から
家じゅうのいたるところにマジックでいろんな模様を描いたりしていて
あの父親は、芸術だけには、奇妙な趣味があったので
ぼくのそんな行為を叱ることはなかったのだけれど
父親の絵や写真や映画の趣味の影響もあるのかもしれない。
しかし、市のコンクールで描いたぼくの絵は
いまのぼくの視点と、そう変わらないものだと思う。
動物園で写生したのだけれど
ぼくは、動物園の飼育係のひとが
豹の檻を洗っているところを見つめ
そのあと豹が入れられて
檻のなかの床のくぼみに
まんなかのコンクリートの水溜りのはしっこに写った豹の顔を右端に
塗れて光った水溜まりを中央にして描いたのだった。
この寒さでは、雪も白さにふるえていることだろう。
あの檻のなかの水溜りも、水溜りに写った豹の顔もふるえていることだろう。

  〇

みんなが見ているまえで
ケーキを切り分けるみたいに
ぼくはピリピリしていた。

  〇

病院の入り口の手すりに椅子が鎖でつながれている。
ステンレスの手すりに、ちょっと上質の背もたれのついた藤色の椅子。
霧状の犬が、目の前を走り抜けた。
藤色の椅子に、ぼくは腰を下ろした。
ぼくの視線も、病院の手すりにつながれたままだ。

  〇

みんな憶えているかな
(佐藤わこ『ゴスペル』)

振動している
(佐藤わこ『ゴスペル』)

  〇

人間は誰も知らない、その瞬間が来て
水がいま湧き出したと思ふと、すぐその瞬間が過ぎてしまふ
(イエーツ『鷹の井戸』松村みね子訳)

  〇

いったいこの試練はなんだろう
(佐藤わこ『ゴスペル』)

智慧あるものぞにがきいのちを生くる
(イエーツ『鷹の井戸』松村みね子訳)

  〇

水の湧き出す音がした、水が出る、水が出る
(イエーツ『鷹の井戸』松村みね子訳)

  〇

Was it a vision, or a waking dream?
(John Keats. Ode to a Nightingale)

私は幻を見ていたのか、それとも白日夢を?
(ジョン・キーツ『夜鳴鶯の賦』平井正穂訳)

  〇

どこにも逃げ場はない
(佐藤わこ『ゴスペル』)

逃れる道はないのだ。
(イエーツ『自我と魂との対話』2、御輿員三訳)

  〇

すべてのものは、慣れると色褪(あ)せてしまう。
(ジョン・キーツ『いつも空想を さまよい歩かせよ』出口泰生訳)

  〇

韓国ドラマで、『魔王』というのがあって
とてもおもしろかったので、10枚組みのDVDを
ブックオフで、16000円くらいだったかな
買ったのだけれど
そのなかのセリフに
evil(悪意)を逆さに読むと、live(生きる)になるっていうのがあった。
もちろん、これは
evil(悪意)⇔ live(生きる)
って、ことなんだろうけど
感心しちゃった。

  〇

Direct treatment of the“thing,”whether subjective or objective.
(Ezra Pound. VORTICIZM)

主観・客観をとわず、「物」をじかに扱うこと。
(エズラ・パウンド『ヴォーティシズム』新倉俊一訳)

It is better to present one Image in a lifetime than to produce voluminous works.
(Ezra Pound. A RETROSPECT・A FEW DON'T)

だらだらとながい作品を書くよりも、生涯にいちどひとつのイメージを表現する方がいい。
(エズラ・パウンド『イマジズム』イマジストのいくつかの注意、新倉俊一訳)

  〇

Oh. Excuse me. Bye bye.
(John Ashbery, Girls on the Run. IX, p.19)

さようなら。空想は 人を欺くエルフのように
あまりに巧みには 欺くことができぬのだ。
(ジョン・キーツ『夜鳴鶯に寄せる歌』8、出口泰生訳)

  〇

このあいだ
源氏物語の英訳を読んでいて
あまりにバカな読みをしてしまった自分がいた。
A light repast was brought.

「過去に照らされた光が、ふたたびもたらされたのだ。」
と読んだのだ、笑。
「軽い食事が出た。」
なのにね。
すごい英語力だわ、ぼく。
ああ、ぼくには限界がある。
ぼくの能力には限界がある。
この英語力のなさ。
しかし、この限界が
ぼくを駆動させる。
この限界が
限界があるということが
ぼくを目覚めさせる、躓きの石なのだった。


二〇一五年四月二十六日 「意味」


ときどき、本棚の本を並べかえることがある。
さいきん、SFに飽きてきたので
いちばん目につくところから、どけたのだけれど
そうして本の場所をかえているときに
ふと、思った。
「部屋の意味が変わる」
と。
そこから、いくつかの
小作品を思いついた。

  〇

日知庵に行った。
「いつもの意味ちょうだい。」
「ごめん。
 いつもの意味、きょう、ないねん。」
「じゃあ、ほかの意味でもいいけど
 いつもの意味に近い意味のものにしてね。」
「あいよ。
 じゃ
 ちょっと、いつもの意味と違う意味のものを。」
ぼくの意味は、渡されたおしぼりの意味で、手の意味をふいた。
「きょうの意味を書いておいたから
 そのなかから好きな意味を選んでよ。」
ぼくの意味は、品書きの意味の黒板の意味を見た。
「うううん。
 右の意味から2番目の意味のものがいいかな。」
「あいよ。
 右の意味から2番目の意味ね。」
「それより、はやく、意味ちょうだい。」
「あいよ。
 お待ちぃ。」
ぼくの意味は
ちょっと、いつもの意味と違う意味のものに、目の意味を落とした。

  〇

この意味と
その意味と
あの意味を与えてやってください。
まだ、その年齢の意味では
並べて遊ぶだけで
この意味や
その意味や
あの意味をこわしたりすることはないと思います。
ある程度、意味は変形はするかもしれませんが
その年齢以上の意味ではないので
この意味や
その意味や
あの意味を破壊するまでには至らないと思います。
ぼくもその年齢の意味のころは
よく
この意味や
その意味や
あの意味を並べかえて遊んだものでした。

  〇

鳩の意味が
公園の意味のなかの意味に
いく羽かの意味において
地面の意味のうえの意味で
動いていた。
しじゅう
鳩の意味の一部の意味は
鳩の意味の鳴き声の意味に変化した。
ぼくの意味のまえの意味を
ひとつの意味の影の意味がすばやく走った。
いち羽の意味の鳩の意味を
その大きな意味のかぎづめの意味で、ひっつかむと
いち羽の意味の鷹の意味が飛び去っていった。

  〇

水槽の意味のなかを
魚の意味が泳いでいる。
子どもの意味の
小さな意味の手の意味が
水槽の意味の
ガラスの意味に触れている。
意味がはねて
水の意味がふりかかって
きゃあ、きゃあ
さわいでる。

  〇

ぼくは、きょう、本棚の意味について考えて
部屋の意味について考えて、うえに掲げたものを考えついた。
書き終えてから気がついた。
呼吸ひとつするあいだ
いや
瞬間、瞬間に
物理化学的に
ぼく自身が変化しているのだから
なにもしないでも
部屋の意味も変わっているはずだということに。
そうだった。
何ものも変化することをやめない
というのが不変(かつ普遍)の法則だったはずだと。
ううううん。
もうクスリのんで寝なくちゃ。

あしたから、通勤電車や勤め先で書いたメモを書き込まなきゃ。
きのう、きょう、ひとつも書き込めなかった。
たまってるぅ。


二〇一五年四月二十七日 「緑の吉田くん」


べつに、こびとでも
巨人でもない
ふつうサイズの吉田くん。
ただ緑なだけで。
することなすこと緑なだけで
そんなところで
緑にすることはないじゃないかってところまで緑なの。
でも
吉田くんが
教室に入ると
たちまち緑になる。
赤かった池田さんも
紫色だった佐藤くんも
黄色だったぼくまで
たちまち緑になって
池田さんの手の先に緑色の小鳥がとまる。
佐藤くんの手の椀に緑色の小魚が泳ぎ出す。
ぼくの胸のなかに緑の獣が走り出す。
教室中が緑になって
天上がなくなって
壁がなくなって
みんな緑になって
笑い出した。
きらきら光る
太陽光線を浴びて
みんな緑になって
笑ってる。
嘘なんて、ついてないよ、笑。
ただ、みんなで、笑ってるだけさ。
let's love together
love & peace
love conquers all
seasons of love
it's green
it's green


二〇一五年四月二十八日 「アクタイオーン」


悪態ON
じゃなかった。
アクタイオーン
ケンタウロスのケイローンに狩猟の手ほどきを受けた
アクタイオーン
カドモスの孫
アクタイオーンが
尊い女神のアルテミス、
ディアーナのもろ肌を見たため
呪われて鹿となり
自ら連れ出していた五十頭の猟犬たちに咬み殺された
アクタイオーン
きみは教えてくれたんだね。
女神のもろ肌を見たせいで鹿にされて
自分の犬に皮膚をずたずたに引き裂かれて死んだ
アクタイオーン
茂みから、ふいに飛び出してきた鹿を見ることは
自分を見ること。
鹿を見ることは、自分を見ること。

そもそも、見るとは、自身を省みること。
自らを引き裂き、統合すること。
事物・事象との遭遇は、その契機となるもの。
プロティノス的な見地に立つと、当然、そうやった。

ぼくは、アクタイオーンであって
アルテミスであって
猟犬でもある。

ぼくの目は、ある何ものかに惹きつけられる。
ぼくの目をとめる事物や事象。
ぼくのなかにその事物や事象がはじめからあったことに気づくぼく。
ぼくは自分のなかにある、
それまでそんなものがあったなんて思ったこともないものを
じっと見る。
長い時間、見つづける。
いろいろな時間から、場所から、出来事から
それを見る。
それを見つづける。
やがて、それが、ぼくを引き裂く。
ぼくの目は、引き裂かれた自分の皮膚を見つめる。
流れ出たおびただしい血を吸い込む地面も、また、ぼくなのだった。

がくんとなった小舟から見上げた岩頭の藤の花の美しさ。

茂みから、ふいに飛び出てきた鹿。

むかし、付き合ってた子と
奈良公園に行ったら
夕方だったけど
鹿がいた。
暗闇に近い薄暗がりから
ぎゅっと頭を突き出す。
鹿って、大きいんだね。
「こわ〜。
 鹿って、こんなに大きかった?」
「ほんまや。
 大きいなあ。」
「鹿せんべい、持ってへんから
 怒っとんのかな?」
「そうかも。
 はよ、帰ろう。」
ぼくたち、ふたりは、 我が物顔で道路にまで出てきて威嚇する鹿たちから逃げた。
まっ、車だったから、車に戻って帰っただけだけどね〜、笑。

自己分析は、古い自我の破壊を招くので
ときどき、ぼくは、自分を見失いそうになる。
体調まで崩してしまうことがある。
30代には、記憶まで混乱してしまったことがある。
正気でいつづけるのは、ほんとに難しいことだと思った。

ぼくは、巻物になりたいのかもしれない。
くるくる回されて、ほどかれたり
またくるくる巻かれて、ぎゅっと紐で締められたい。
そんなことを、ふと思った。

それともミイラになりたいのかしら? 笑
ほどいたり、巻いたりする手が自分であるというのが
ぼくの場合、痛い感じなのだけれど。
シュル、シュル、シュルッ!
キュッ、キュッ。
ドボンッ→


二〇一五年四月二十九日 「自分だけの言葉」


ぼくは子どものころ
自分だけの言葉をしゃべっていたようです。
親が外国の音楽が好きでしたので
家でかかる音楽は、シャンソンや、ラテンのポップスばかりでしたから
その音楽で育ったせいか
意味もわからない単語を
いえ、単語ではないですね
言葉? でもないですね。
よくつぶやいていたものです。
はずかしいですね。
いまでも、しじゅう
鼻歌を歌いながら歩いています。
ときどき歌ってもいるみたいです。
あぶないジジイですね、笑。


二〇一五年四月三十日 「祖母」


そこで、祖母は、火箸を灰のなかに突き入れて
ぼくの目を見つめたのだった。
クシクシと乾いた音をたてながら
動かされた炭は
火の粉を散らして輝いていた。


二〇一五年四月三十一日 「ノイズ」


だれかがノイズになっているよ。
こくりと、マシーンがうなずいた。


詩の日めくり 二〇一五年五月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年五月一日 「HとI」


 アルファベットの順番に感心する。Hの横にIがあるのだ。90度回転させただけじゃないか。エッチの横に愛があるとも読める。もちろん、Iの横にHがあるとも、愛の横にエッチがあるとも読める。


二〇一五年五月二日 「内職」


 1週間ほどまえに、授業中にほかの科目を勉強することを、なんて言ってたか忘れていた。つい、さっき、なんのきっかけもなく思い出したのだけれど、「内職」というのだった。思い出したとき、内心の声が、ああ、これこれ、と言っていた。とにかく、なんのきっかけもないのに、思い出せたことに、びっくりした。


二〇一五年五月三日 「なにかを損なう」


 なにかを判断したり決定したりすることは、なにかを損なうことだ。しかし、なにも判断せず、なにも決定したりしないこともまた、なにかを損なうことである。そうであるならば、判断し、決定し、なにかを損なうほうをぼくは選ぶ。これもまた、なにかを損なう1つの判断であり、1つの決定であるけれど。


二〇一五年五月四日 「ミシリ」


冷蔵庫からミシリという音が聞こえた。水が氷になる瞬間に遭遇したのだ。


二〇一五年五月五日 「ふわおちよおれしあ」


 マクドナルドにアイス・コーヒーを飲みに出たら、交差点で、ブッブーとクラクションの音がするので見たら、車のなかから、まるちゃんが手を振ってくれていて、ぼくもにっこりとあいさつを返して、それから横断歩道を渡ったのだけれど、きょうも一日、充実した休みになると思った。マクドナルドでは、2冊の私家版詩集のうち、『ふわおちよおれしあ』を持って行って、電子データにしていないものに付箋をしていったら、30作ほどあって、このうち、きょう、どれだけワードに打ち込めるかなと思った。ぼくの私家版詩集は、10冊ほどあって、上記のものと『陽の埋葬』は、どちらもA4版の大きさで、超分厚くて、5、6回、頭を叩いたら、ひとを殺せそうなくらいのもので、50部ずつつくったのだけれど、いまどれだけのひとが手元に残していてくれているのかは、わからない。どなたかが神戸女子大学の図書館に寄贈なさったみたいで、そこで閲覧できるみたい。


二〇一五年五月六日 「撥条。」



 玄関を出たところで
     私の足が止まった。

  道の向こうから
 蝶々が
  いち葉
   流れてくる。

手を差し伸べると
  蝶々は
   私の手のひらの上に
  接吻してくれた。

植木鉢の縁に
    白い小さな花が
   草の花が咲いていた。

 妻が出てきた。

あらあらあら
   と言いながら
  私の足元に
    しゃがみこむと

踝(くるぶし)に突き出た
    ふたつの螺子を
 ぐいぐいぐいと
巻いてくれた。

蝶々は
  白い花から離れ
    私はまた元気よく
  歩きはじめた。


二〇一五年五月七日 「ぷくぷくちゃかぱ。」


ぷくぷくちゃかぱ
ぷくぷくちゃかぱ
ぷくぷくちゃかぱ
ぷくぷくちゃかぱ
ぱかぱかちゃかぱ
ぱかぱかちゃかぱ
ぷくぷくちゃかぱ
ぷくぷくちゃかぱ
ぷくとぷぷくぷく
ぷくとぷぷくぷく
ぷくとくぷくぷく
ぷくとくぷくぷく
ぷくぷくちゃかぱ
ぷくぷくちゃかぱ
ぷくとぷちゃかぱ
ぷくとぷちゃかぱ
ぷくとぷぷぷぷぷ
ぷくとぷぷぷぷぷ
ちゃかぱかぱかぱ
ちゃかぱかぱかぱ
ちゃぱかぱかぱか
ちゃぱかぱかぱか
ぷくぷくちゃかぱ
ぷくぷくちゃかぱ
ぷぷぷぷぷぷぷぷ
ぷぷぷぷぷぷぷぷ


二〇一五年五月八日 「ゴルゴンチーズとオレンジの木」


 あいまいな記憶だけれど、ディラン・トマスがイタリア旅行したときに書いた手紙の内容が忘れられない。ほかのことは、みんな、忘れたのに。オレンジの木の姿がいいと書いてあった。ゴルゴンチーズがいちばん好きだと書いてあったと思う。なんでもない記述だけれど、この記述がとても印象的で、この記述しかしか覚えていない。

 記憶があいまなので、『ディラン・トマス書簡集』(徳永暢三・太田直也訳)をぱらぱらとめくって、お目当ての箇所を探した。見つかったので、引用しておく。278─282ページにある、「親愛なるお父さん、お母さん」という言葉からはじまる書簡である。引用は手紙の終わりのほうにある言葉である。

 今朝、イーディス・シットウェルから手紙を受け取りましたが、彼女は僕たちがここに来た責任の大半は彼女にあるのです。彼女は、折に触れて作家に動き回るためのお金を与える、著作家協会旅行委員会の委員長なのですよ。お金といえば、銀行は一ポンドを九〇〇リラに換金してくれます。周知の事実ですが、自由市場では一八〇〇リラです。この地域──実のところ、北部のほとんどだと僕は思っているのですが──では食べ物が豊富です。この二日間、再校に調理された素晴らしい食べ物をいただきました。ディナーでは、まずリッチで濃厚なソースをかけた、とてもおいしいスパゲッティ系のもの、次に白身の肉(ホワイト・ミート)、アーティチョーク、ほうれん草にジャガイモ、それからパンとチーズ(ありとあらゆるチーズ。僕が好きなのはゴルゴンゾーラです)が出されて、林檎とオレンジや無花果、そしてコーヒーでした。食事にはいつも赤ワインがつきます。
周りにオレンジがなっているのを眼にするのは愉快なものです。
(D・Jおよびフロレンス・トマス宛、一九四七年四月一一日、イタリア、ラバッロ、サン・ミケーレ・ディ・バガーナ、キューバ荘)


二〇一五年五月九日 「堕落」


 客はまばら。数えてみると、15、6人ほどしかいないポルノ映画館の床を、小便のようなものが伝い流れていた。こぼしたジュース類じゃなかった。コーヒー缶から零れ落ちたものでもなかった。しっかり小便の臭いがしてたもの。映画を見ながら、ジジイが漏らしたものなのだろう。しかし、こういった事物・事象の観察が楽しい。人生において、人間がいかに堕落することができるのか知ることは、ただ興味深いというだけではなく、自分が生きていく上で貴重な知見を得ることに等しいのだから。


二〇一五年五月十日 「詩のアイデア」


──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。

  〇

──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。


二〇一五年五月十一日 「優しさの平方根」


優しさの平方根って、なんだろう? 愛の2乗なら、わかるような気がするけど。


二〇一五年五月十二日 「厭な物語」


 東寺のブックオフで、『厭な物語』(文春文庫)という、厭な物語を集めたアンソロジーを買った。目次を読むと、ハイスミスの「すっぽん」や、シャーリー・ジャクスンの「くじ」や、カフカの「判決」や、フラリー・オコナーの「前任はそういない」とか読んだのがあって、なつかしかった。読んでいないなと思うものに、クリスティーの「崖っぷち」や、ローレンス・ブロックの「言えないわけ」とか、モーリス・ルヴェル(これははじめて知った名前の作家)の「フェリシテ」とかあって、どんな厭な話なのだろうと楽しみである。厭な話を楽しみにしているというのも変だけど。表紙の赤ん坊の人形の顔面どアップが怖い。スタージョンの『人間以上』の、むかしの文庫本の表紙も怖かったけど。ありゃ、オコナーの「前任はそういない」は「善人はそういない」だった。間違ったタイトルでも、おもしろそうだけど、笑。すみません。


二〇一五年五月十三日 「檻。」


どちらが脱獄犯で、どちらが刑務官か
なんてことは、檻にとっては、どうでもよかった。

彼の仕事は、ただひとつ。
──鍵の味を忘れないことだけだった。


二〇一五年五月十四日 「言葉と言葉のやりとり」


物質と物質の化学反応のように、物質と物質のやりとりは興味深い。同様に、人間が交わす言葉と言葉のやりとりも興味深い。人間と人間のやりとりも興味深いと言い換えてもよい。


二〇一五年五月十五日 「無意識領域の自我と意識領域の自我」


 夢をつくっているのは無意識領域の自我である。では、夢を見ているのは、意識領域の自我なのか。いや違う。夢を見ているのも、無意識領域の自我なのだ。では、なぜ、夢から覚めたあと、意識領域の自我が夢を憶えているのだろうか。ここに謎がある。無意識領域というのと、意識領域というものの存在の。あるいは非在の。


二〇一五年五月十六日 「B・B・キング」


 コリン・ウィルソンの『殺人の哲学』を再読して、チェックした点、3つ。1つ、マックゴナルという詩人の名前を知って、彼の詩が載っている、Very Bad Poetry とか、The World's Worst Poetry といった、へたくそで有名なへぼ詩人のみの詩選集を買ったこと。いま1つ。オーデンの詩句、「人生はやはり一つの祝福だ。/たとえ君が祝福できないとしても」(高儀 進訳)を知ったこと。オーデンを読んだことがあったのだが、こころに残る詩句が一つもなかったので、ぼくのなかでは、どうでもよい詩人だったが、この詩句を知ってから読み直した。読み直してみて、こころに残る詩句はまったくと言ってよいほど、ほとんどなかったが、そこから逆に、では、ぼくのこころに残る詩句とは、どんなものか、ということを考えさせられた。体験することは大切なことだが、その体験が知的な言語パズルとしてつくられていないと、退屈に感じてしまうというもの。芸術は、感性的に言っても、知的パズルにしかすぎない。それ以上のものではない。見事なパズルをつくる者が芸術家であり、その見事なパズルが芸術作品なのである。と、そう思う。あと1つは、笑ってしまったのだが、アメリカのユタ州で、1966年に、同性愛者による連続殺人事件が起こったというのだが、6人の被害者が、みな若くて、美しい青年だったらしくて、警察がつぎのような布告をしたらしい。「すべてのガソリンスタンドに対し、夕方になったら店を締めるか、必ず年配の者──できれば、そのうえひどく不器量な者──を接客係にするか、どちらかにするように要請した。」齢をとって、なおかつ、ブサイクな男は殺されないということである。笑っちゃいけないことかもしれないけれど、読んだとき、めっちゃ笑った。ちなみに、1つ目は17ページに、2つ目は27ページに、3つ目は400ページに載っている。『殺人の哲学』は、角川文庫版だが、これは改題されて、ほかの出版社から、『殺人ケース・ブック』の名前で再刊されたように記憶している。ぼくは、そちらで先に読んだ。
ああ、そうだ。B・B・キングが亡くなったって、きのう、きみやさんで聞いたのだけれど、ぼくがフォローしてるひとのツイートには、ぜんぜん書いてなくって、ちょっとびっくり。


二〇一五年五月十七日 「二言、三言」


 きょうは、勤め先の学校の先生のおひとりとごいっしょに、イタリアンレストランで食事とお酒をいただいて、そのあと、ふたりで日知庵に行った。帰りに、西大路通りの松原のコンビニ「セブンイレブン」で、なんか買って帰ろうと思って寄った。そしたら、数週間前に見たかわいいバイトの男の子がいて、シュークリームを2個買って、その子が新聞をいじっていたそばに行くと、その子があいてるレジに行ったので「ひげ、そったの?」と訊くと「似合ってましたか?」と訊いてきたので、「かわいかったよ。」と言うと、横を向きながら(横を向いてなにか作業をするという感じじゃなかった。)レジを操作して、ぼくに釣銭を渡してくれたのだけれど、その男の子の指が、ぼくの手のひらに触れる瞬間に、ちらとぼくの目を見つめ返してくれた目が、かつてぼくが好きだった男の子の目といっしょで、ドキドキした。名前をしっかり見た。かつてぼくが好きだった男の子というのは、下鴨に住んでたとき、向かいのビリヤード屋でバイトしてた九州出身の男の子のこと。住んでたとこの近くで会ったとき、目があって、見つめ合って、ぼくが声をかけたのだった。そのあとは、彼の方が積極的になって「こんど、男同士の話をしましょう」と言ってきて、でも、そのあまりの積極性に、ぼくの方がたじたじとなって、消極的になってしまって。あのとき、どうして、ぼくは、彼のことを受けとめてあげられなかったのだろう。そんなふうに、受けとめられなかった男の子の思い出がいくつもあって。森園勝敏の「エスケープ」を聴きながら、ケイちゃんのことを思い出した。ぼくが21歳くらいで、ケイちゃんは23歳くらいだったかな。ふたりで、夜中に、四条河原町の阪急電車の出入り口のところで、肩を寄せ合って、くっちゃべっていた。お互いに自分たちの家に帰るのを少しでも遅くしようとして。「エスケープ」「ひげ、そったの?」「似合ってましたか?」「かわいかったよ。」こういうのって、二言、三言って言うんだろうけど、なんだか、ぼくの人生って、この二言、三言ってものの連続って感じ。


二〇一五年五月十八日 「道端で傷を負った犬に捧ぐ」


 仕事が忙しくて、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの英詩翻訳をほっぽらかしてた。きょう、あした、学校がないので、訳したい。きのう、ちらっと読んでいたら、とてもすてきな詩だったので、日本語にできたらいいなと思った。これからマクドナルドにアイス・コーヒーを飲みに行く。ぼくのような54才のジジイが、赤線いっぱい入れた、英文をにらみつけてる姿を見たら、老人の学生と間違われるかもしれない。知ってる単語でも、最適の訳語を探すために、もとの英文の行間には、赤いペンで、訳語の候補をびっちり書き込むのだ。行間だけでは足りないから、ひきこみ線をつけて、上下左右の空白にもびっちり書き込むのだ。あ、ほんと、高校生か大学生みたい。マクドナルドで、アイス・コーヒー飲みながら、ウィリアムズの詩の翻訳の下書きを書いていた。下訳というのだろうか。英語のままでわかるのに、日本語になかなかできないというのは、じつは、英語でもわかっていないのかもしれない。食事をしたら、下訳に手をつけて、ブログに貼り付けよう。いつものように、しょっちゅう、手を入れることになりそうだけれど。きょう訳したいと思っているウィリアムズの詩、いい詩だと思う。『To a Dog Injured in the Street』だ。これもまた、思潮社の海外詩文庫『ウィリアムズ詩集』に収録されていなかったので、訳そうと思ったのだ。ぼくのように英語の出来の悪い人間じゃなくて、もっと英語のできるひとが、よりいい翻訳をすればいいのになって思う。ほんと、ぼくより英語ができるひとって、山ほどいると思うのに、なんで訳さないんだろう、不思議だ。ウィリアムズは、自然の事物を子細に観察し、それを詩的な表現にまで昇華する能力にたけているのだなと思う。詩人にはぜったい的に必要な能力だと思う。この能力が、ぼくには欠けているらしい。よって、ぼくが自分の能力を傾けるのは、べつの点からであるのだろう。たとえば、詩の構造を通して、言語とはなにかということを模索することなどである。いろいろな詩があっていい。翻訳はしんどいけど、うまく訳せたなってときの喜びは大きくって、とくにウィリアムズの詩は、自然観察に優れた才のあるひとだから、訳してると、ほんとうに勉強になる。まさしく「事物を離れて観念はない」などと思う。

  〇

To a Dog Injured in the Street

William Carlos Williams

It is myself,
not the poor beast lying there
yelping with pain
that brings me to myself with a start─
as at the explosion
of a bomb, a bomb that has laid
all the world waste.
I can do nothing
but sing about it
and so I am assuaged
from my pain.

A drowsy numbness drowns my sense
as if of hemlock
I had drunk. I think
of the poetry
of Rene Char
and all he must have seen
and suffered
that has brought him
to speak only of
sedgy rivers,
of daffodils and tulips
whose roots they water,
even to the free-flowing river
that laves the rootlets
of those sweet-scented flowers
that people the
milky
way .

I remember Norma
our English setter of my childhood
her silky ears
and expressive eyes.
She had a litter
of pups one night
in our pantry and I kicked
one of them
thinking, in my alarm,
that they
were biting her breasts
to destroy her.

I remember also
a dead rabbit
lying harmlessly
on the outspread palm
of a hunter's hand.
As I stood by
watching
he took a hunting knife
and with a laugh
thrust it
up into the animal's private parts.
I almost fainted.

Why should I think of that now?
The cries of a dying dog
are to be blotted out
as best I can.
Rene Char
you are poet who believes
in the power of beauty
to right all wrongs.
I believe it also.
With invention and courage
we shall surpass
the pitiful dumb beasts,
let all men believe it,
as you have taught me also
          to believe it.


道端で傷を負った犬に捧ぐ

ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ

そいつは、ぼく自身のことなんだ、
       そこに横たわっている可哀そうな動物のことじゃなくてね
                  痛くって、キャンキャン吠えてるやつじゃなくてね
そいつは、ぼくをびくっとさせて正気に返らせてくれるんだ──
           爆発の瞬間というものによって
                爆弾のさ、仕掛けられた爆弾のさ
世界中が荒廃している。
      ぼくには、なすすべがない
               そのことについて歌う以外のことは
そうして、ぼくは逃れるんだ
         ぼくの痛みからね

眠気を催さすしびれのようなものが、ぼくの感覚を麻痺させる
     まるでドクニンジンを飲んだときのようなね
              ぼくはそれを飲んだことがあるんだ。ぼくは考える
ルネ・シャールの
      詩のことを
           彼が遭遇したに違いないすべてのことについて
彼が苦しんだに違いないすべてのことについて
     でも、そのことで、彼は書くことになったのさ、書くということだけに
スゲの茂った川についてね
      ラッパスイセンやチューリップが
               その根をはわせて水を吸い上げているところ
水がひらたく、ゆったりと流れるその川には
                甘い香りを放つ
                   それらの葉っぱや小さな根っこが浮かんでいる
そこでは
       人びとは
              銀河のようだ

ぼくはノーマのことを憶えている
        子どものころに飼ってたイングリッシュ・セッターで
                           彼女の絹のような耳
そして表情豊かだった目を
        ある晩、彼女はひと群れの小犬たちを連れてきた
ぼくたちが食器を運んだりするところにだよ、それで、ぼくはひと蹴りしてやったんだ
            その小犬のうちの一匹を
                   考え込んじゃったよ、ぼくはびっくりしたんだ
だって、そのとき、小犬たちが彼女を引き裂こうとして
               彼女の胸に噛みついちゃったんだもの

ぼくはまた憶えている
       一匹の死んだウサギのことを
                だれのことも脅かすことなく横たわっていたよ
ハンターの         
     ひろげた手のひらのうえにいるそいつのことを
                        ぼくがそばに立って
見ていると
    彼は狩猟用ナイフを手にして
               そして顔には笑みを浮かべてさ
ナイフをぐいっと突き刺したんだ
         そのウサギの陰部にさ
                ぼくは気を失いそうになったよ

どうして、いま、ぼくはそのことを考えてしまうんだろう?
                   殺処分されることになっている
                            死にかけの犬の叫び声
ぼくは自分ができることしかできないけれど
           ルネ・シャール
               あなたは詩人だ
すべての過ちを正す
        美の力を信じている詩人だ。
                ぼくもまた、その美の力を信じているよ。
創作と勇気があれば
       ぼくたちは
あの口のきけない可哀そうな動物たちを越えられるだろう。
すべての人間たちにそのことを信じさせてほしい
          あなたがぼくにそのことを信じるよう
教えてくれたように。

  〇

このあいだ訳してみたものも書き込んでおこうかな。かわいらしい詩だった。

  〇

DANSE RUSSE

William Carlos Williams

If I when my wife is sleeping
and the baby and Kathleen
are sleeping
and the sun is a flame-white disc
in silken mists
above shining trees,─
if I in my north room
dance naked, grotesquely
before my mirror
waving my shirt round my head
and singing softly to myself:
‘I am lonely, lonely
I was born to be lonely,
I am best so!’
If I admire my arms, my face
my shoulders, flanks, buttocks
against the yellow drawn shades,─

Who shall say I am not
the happy genius of my household?


ロシアン・ダンス

ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ

もしも、ぼくの奥さんが眠ってたらね
ぼくの赤ちゃんと、ぼくの娘のキャスリンが
眠ってたらね
そして、太陽がギラギラと照り輝く円盤みたいで
日に照り輝く樹木のうえにも
絹のような霞がかかってたらね
それから、もしも、ぼくが、ぼくの北のほうにある自分の部屋にいたらね
ぼくは裸になって、ばかみたいに
鏡を前にしてさ
ぼくはシャツを首にひらひらさせてさ
自分に向かってやさしくつぶやくように、こう歌うのさ
「ぼくはひとりっきり、ひとりっきりなのさ
 ひとりっきりになるために生まれたのさ
 こんなに最高な気分ってないよ!」って。
歪んで小さくなった、その黄色いぼくの影たちを背景にして
ぼくは、ぼくの両腕を讃える。ぼくの顔を讃える。
ぼくの両肩を讃える。ぼくの横っ腹を讃える。ぼくのお尻を讃える──

ぼくが、ぼくの家族のなかで
ぼくが最高に幸福な天才じゃないって、だれか言えるひといる?

  〇

 塾の帰りに、ブックオフで、フォワードの『竜の卵』を買った。カヴァーにすこしよれがあるけれど、まあ、いいかと思った。郵便受に、手塚富雄訳のゲーテ『ファウスト』第二部・下巻が入っていた。カヴァーの状態がよくないが、まあ、これは読めたらいい部類の本だから、がまんしよう。


二〇一五年五月十九日 「ケイちゃん」


「きょう、オレんちに泊まりにくる?」
ぼくは、まだ大学生で
外泊する理由を親に話せなかった。
返事をしないでいると
ケイちゃんは残念そうな顔をした。
ぼくはなにも言えなくて
阪急の河原町駅の入口
階段の前に
しばらくのあいだ
ふたり並んですわりこんでいた。
おろした手の甲をくっつけあって。
ぼくより少し背が高くて
ぼくより2つ上だった。
ぼくたちの目の前を
たくさんのひとたちが通っていった。
ぼくたちも
たぶん、彼らにとっては
風景の一部で
でも、若い男の子が
夜に
ふたりぴったり身を寄せ合って
黙っている姿は
どんなふうにとられていたんやろ。
ケイちゃんはカッコよかったし
ぼくは童顔で
ぽっちゃりさんのかわいらしい顔だったから
たぶん、うつくしかったと思うけど
他人になって
ぼくたちふたりを見たかったなあ。
10年後に
ゲイ・スナックで会ったケイちゃんは
まるで別人のような変わり方をしていた。
かわいらしいやさしそうな表情は
いかつい意地の悪い感じになっていた。
なにがあったのか知らないけれど
20代前半のうつくしさは
まったくどこにも残っていなかった。
「その子と
 きょうはいっしょなんや」
少し前に、ぼくが知り合った子と
ぼくを見て。
「きょう、オレんちに泊まりにくる?」
そう言ってくれたケイちゃんの面影は
そう言ってくれたケイちゃんに
ちゃんと返事できなかったぼくを
ゆるしてくれたケイちゃんの面影はどこにもなかった。
ある年齢をこえると
がらりと顔が変わるひとがいて
若いときの面影がどこにもなくて
そう言うぼくだって
若いときの童顔は
見る影もなく
いまは、いかついオジンになってしまっているけれど
付き合った子たちと
また会うってことは、ほとんどないのだけれど
ひとりだけかな
前の恋人だけど
きょうも会っていて
ぼくは日知庵で飲んでた。
ヨッパのぼくに
「はよ恋人、見つけや」
そう言われたぼくは笑いながら
「死ね」
って言い返していた。
店の外に出たときに言ったから
繁華街の道を歩いてるカップルたちが
驚いて、ぼくの顔を見ていた。
前の恋人は、別れてからも魅力的で
それがいちばんくやしい、笑。
ケイちゃんとはじめてメイク・ラブした夜
ラブホテルで
東山三条かな
蹴上ってところだったかな
ゲイでも入れる『デミアン』って名前のホテルでね
そこで
「いっしょに行く?」
って、セックスしているときに言われて
「えっ? どこに?」
って、バカなこと言ったぼくだったけど
ケイちゃんは、ちょっと困った顔をしてたけど
ぼくは、気が散ってしまって
けっきょく、ぼくはあとになって
いっしょに行けなかった。
とてもはずかしい記憶。
そのときのはずかしさは
いまでも
そのときの時間や場所や出来事が記憶しているんじゃないかな。
はじめてケイちゃんに会って
はじめてケイちゃんと口をきいたときの
あのドキドキは
繰り返し
ぼくにあらわれた。
違った時間や場所で
違った子との出会いで。
なんて言ったかな
あれ
あの
まるで
風と戯れる
ちぎれた蜘蛛の巣のかけらのように。


二〇一五年五月二十日 「手」


手の方が先に動いていることがある。
いや、動き出そうとすることがあるのだ。
かわいらしい男の子や女の子がそばにいると。
手のひらがひらいているのだ。
ふと気がつくと、手のひらが時間を隔てた写真をコマ送りにしたみたいに
ひらいていくのだった。
たとえば、それが電車のなかであったなら
急いで手のひらに、ポールや吊り革をぎゅっと握らせなければならない。
歩いている道やショッピングしている店のなかだと、
上着のポケットにすばやく手をすべり込ませなければならない。
知らないうちに、手のひらがひらくのだから
いつ、自分の意思を無視しだすかわからないからだった。
やはり、手のほうが、ぼくより個性があるのかもしれない。
戦地なのに幸せ。
センチなのに幸せ。


二〇一五年五月二十一日 「松井先生」


 高校のとき、社会の先生に手を握られて教員室を飛び出しましたが、いま考えると、まだ23、4才の可愛いおデブさんの先生でした。ひとの顔って、あまり明確に憶えてないけど、その社会の先生の顔は憶えてる。おデブちゃんで、簡単な描線でかける感じやったから。テニスの上手なスポーツデブやった。当時は、ぼくは、デブがダメやったんやけど、20歳くらいのとき、はじめて付き合った2つ年上のひとがデブで、それからはデブ専に。ぼくは、自分の詩に、個人名も入れてるけれど、これって、もしかしたら、個人情報云々で訴えられるのかな。まあ、名前は書いてないけど、だれだか、同級生だったらわかるけど。でも、事実やったからなあ。まあ、しかし、よく考えたら、ぼくは未成年やったし、向こうが犯罪でしょ。しかし、時効か。ビタミンハウスってショーパブで、バイトをちょっとしたときには、若いおデブのお坊さんに手をぎゅっと握られて、そのときはデブ専やったから、めっちゃ幸せやった。あ、ぼくが大学院生のときのバイトね。女装もちょっとしたけど、化け物やった。化け物好きのひとも、たくさんいたけど、笑。京大のアメフト選手とはちょっとあって、ぼくも青春してたのね。そういえば、暗黒舞踏の白虎社のひとに「あたしたちと踊らない?」と誘われたのも、ビタミンハウスでバイトしてたとき。で、スタンドってバーで、女装してたオカマの友だちと朝まで飲んでたとき。いかつい眉毛なし2人に声をかけられた。金融関係のひとも、オカマ好きが多かった。当時は、お金持ちの客って、坊主と金融関係者ばっかってイメージ。バブルだった。でも、お坊さんって、若いお坊さんばっかだったけど、見た目は、みんな体育会系。ぼくの好きなひとは、だいたい、相撲部、柔道体型だったけど。水商売って、人間の暗部を見るけど、ハチャメチャで楽しいとこもあった。ニューハーフは、はっきり2つにわかれる。えげつないやつと、めっちゃいいひとと。めっちゃいいひとのひとり、自殺しちゃったけど、よくしてもらったから、いい思い出がいっぱい。昼間からドレス着て日傘さして歩いてはったわ。オカマの友だちが居酒屋をするかもしれないから手伝ってと言われてる。かしこいひと相手にできるの、あっちゃんだけやからって、かしこいひとって、相手にしなくても、勝手にしゃべって飲んでるからいいんじゃないって言うのだけど。しかし、塾と学校で、ほかにも仕事は無理やわ。無理よ。


二〇一五年五月二十二日 「油びきの日。」


油びきの日になると
教室も、廊下も
みんな、きれいに掃き清められる。
目地と目地の隙間に
箒の手が入る。

掻き出し、かきだされる
塵と、埃と、砂粒たち。
ぼくらがグラウンドから
毎日、まいにち運んできた
塵と、埃と、砂粒たち。

掻き出し、かきだされる
塵と、埃と、砂粒たち。
ぼくらが運動場(グラウンド)から
毎日、まいにち運んできた
塵と、埃と、砂粒たち。

油びきの日になると
床や、廊下が
すっかり生まれ変わる。
黒くなって強くなる。

ぼくらも日毎に黒くなる。
夏の日射しに黒くなる。
黒くなって強くなる。
つまずき、転んで強くなる。
赤チン塗って強くなる。


二〇一五年五月二十三日 「13の過去(仮題)」


 朝、コンビニで、サラダとカレーパン買って、食べた。通勤の行き帰りでは、ロバート・シルヴァーバーグの『ヴァレンタイン卿の城』上巻のつづきを読んだ。ジャグラーについて詳述されているのだが、それが詩論に照応する。シルヴァーバーグのものは、いつでもそうだが、詩論として吸収できるのだ。『図書館の掟。』と『舞姫。』は別々の作品で、ただ幾つかの設定を同じ世界にしていたのだけれど、きょう、シルヴァーバーグの『ヴァレンタイン卿の城』の上巻を仕事帰りの電車のなかで読んでいて、ふと、『図書館の掟。』の最後のパートと、『舞姫。』のすべての部分をつなぐ完璧な場面を思いついた。それが、『13の過去(仮題)』第1回目の作品になる。どの時期のぼくだったか特定する様子を描く。若いときのぼくを観察する様子を描く。若いときのぼくが、ドッペルゲンガーを見る。若いときに見たぼくのドッペルゲンガーとは、じつは、齢をとったぼくが、若いときのぼくを見てたときの姿だったという話だ。『13の過去(仮題)』の冒頭。バスのシーンで、バスについての考察。地球は円である。高速度で回転している円のうえを、のろのろと走行しているバスを思い描く。ここでも、54才のぼくの視点と15才のぼくの視点の交錯がある。『13の過去(仮題)』において、もうひとりのぼくの存在のはじまりを探求する。マルブツ百貨店での贋の記憶がはじまりのような気がする。あるいは、幼稚園のときの岡崎動物園でみた片方の角しかない鹿が両方に角のある鹿と激しく喧嘩してたシーンのときとか。これもメモだが、八坂神社の仁王像の金網。昔はなかった。子どものときと同じ風景ではない。高野川の浚渫されなくなってからの中州の土の盛り上がりにも驚かされたが。円山公園の池の掃除のとき、亀が甲羅干ししてた。


二〇一五年五月二十四日 「濡れたマッチ」


濡れたマッチには火がつかない。
ぽろぽろと頭が欠けていく。


二〇一五年五月二十五日 「記憶再生装置としての文学」


 記憶再生装置としての文学。自分の作品のみならず、他人の作品を読んだときにも、忘れていたことが思い出されることがある。このとき注意しなければならないのは、読んだものの影響が記憶に混じってしまっている可能性がゼロではないということ。まったく事実ではない記憶がつくられる場合があるのだ。


二〇一五年五月二十六日 「磁場としての文学空間」


 磁場としての文学空間。電流が流れると磁場が生じる。作品を読んでいるときに、どこかで電流が流れているのかもしれない。言葉と言葉がつながって、電流のようなものが流れているのかもしれない。頭のなかに磁場のようなものが生じているのではないだろうか。そんな気がする。すぐれた作品のみならず。


二〇一五年五月二十七日 「巣箱から蜂蜜があふれ出てしたたり落ちていた」


 高知の窪川に、ぼくを生んだ母に会いに行った。ぼくが二十歳のときだった。はじめて実母に会ったのだった。近所に叔父の家があって、その畑があってた。畑では、隅に蜜蜂の巣箱があって、巣箱からは、蜂蜜があふれ出てしたたり落ちていた。その数年後、叔父が木の枝に首をくくって亡くなったという。ぼくが会ったときは、おとなしい、身体の小さいひとだった。いっしょにお酒を飲んだ。若いときは、荒れたひとだったという。


二〇一五年五月二十八日 「ふるさとは遠くにありて思うもの」


 きょう、五条堀川のブックオフに行って、24冊売って、1010円。で、『日本の詩歌』シリーズが1冊108円だったので、7巻買って、756円使った。以前に、学校で借りて全巻に目を通していたし、講談社版・日本現代文學全集・108巻の『現代詩歌集』というアンソロジーに主要な作品が入っていたのだが、薄い紫色の小さな文字の脚注がなつかしくて買った。そうそう。草野心平さんの、『日本の詩歌』では、一文字アキだった。丸山薫の詩に影響を受けて、『Pastiche』をつくったのだけれど、いまだに、だれも指摘してくれない。中也は好きではないが、買っておいた。この齢で(54歳である)中也はもう読めないと思うのだけれど。宮沢賢治は、齢をとっても読める詩人であると思う。じっさい、ブックオフでちら読みしていて、イマジネーションが浮かんだからである。西脇順三郎さんのは、何冊も読んだし、ぽるぷ出版の『西脇順三郎詩集』も持っているが、やはり、薄い紫色の脚注の文字がなつかしくて、買っておいた。あっ、唱歌のものがあったけれど、ぼくは学者じゃないからいらないやと思って買わなかったけれど、戦争中の唱歌とかあって、笑ってしまった。戦争讃美の歌を西条八十なんかが書いてたんだね。めっちゃ幼稚な詩だった。あ、おもしろそうだから、買いに行こう。行ってきます。で、ブックオフ、ふたたび、『日本歌唱集』と『室生犀星』を買ってきた。犀星は、「こぼれたわらいなら、どこかに落ちているのだろう」とか、ああ、らりるれろ、らりるれろ」とかだったかな、すてきなフレーズを書いていて、そうだ、「ふるさとは遠くにありて思うもの」ってのも、犀星じゃなかったっけ。


二〇一五年五月二十九日 「そうしていまでは、もうタイトルも思い出せない。」


 きょうも朝から本棚の整理をしていた。ここ2日間で、ブックオフで60冊ばかり売って、2000円だった。まあ、売り値は、買い値の10分の1から20分の1の間だということだろう。意外だったのは、売るのに躊躇していた『太陽破壊者』が買い取れないというので戻ってきたこと。ほっとして、いまクリアファイルで、本棚のまえに立てて飾れるプラスティック・ケースをつくって飾っていること。表紙が抜群にいいのだ。買い取られなくて、よかった。60冊の本のなかには、もう二度と読み直すものはなかったと思う。そうしていまでは、もうタイトルも思い出せない。


二〇一五年五月三十日 「ハンキー・ドリー」


 学校の帰りに、日知庵で飲んでた。むかし付き合った男の子にそっくりの子がきてて、びっくり。ぼくとおんなじ、数学の先生だっていうから、めっちゃ、びっくり。かわいかった。また会えるかなあ。会えればいいなあ。ヨッパのぼくは、いま、自分の部屋で、お酒に酔った頭をフラフラさせながら、デヴィッド・ボウイの「ハンキー・ドリー」を聴きながら、ボロボロ泣いてる。なんで泣いてるんだろう。わからない。泣きながら寝る。おやすみ。


二〇一五年五月三十一日 「エコー」


想いをこらせば
こだまする
きみの声
きみの声


詩の日めくり 二〇一五年六月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年六月一日 「こころに明かりが灯る」


 以前、付き合ってた子が遊びにきてくれて、二人でDVD見たり、音楽聴いたりしてた。世界いち、かわいい顔だと、きょうも言った。「きっと、一週間は、こころに明かりが灯った感じだよ。」と言うと、「ええ?」相変わらず、ぼくの表現は通じにくそうだった、笑。


二〇一五年六月二日 「いっしょに服を買いに行くのだ。」


 きょうは、これから頭を刈って、高木神経科医院に行って、それから、えいちゃんと河原町で待ち合わせ。いっしょに服を買いに行くのだ。きょうは、えいちゃんの誕生日。何着か買ってあげるねと約束したのだった。誕生日を祝ってあげられることっていうのは、ぼくには楽しいことなのだ。しかし、毎日、楽しいことばっかりで、長生きすると、ほんとに人生は楽しいものだと痛感する。若いときは苦しいことばっかりだったのにね。でも苦しかったから、いまが楽しいのかもね。すてきなひと、かわいいひとに囲まれている。付き合いが長くなると、いいところが新しく見つかったりするから、できるかぎり長く生きて、友だちのいいところをいっぱい目にしようと思っている。


二〇一五年六月三日 「複雑なひとって、なにに癒されるのだろう?」


 きょうは、ジュンク堂で、レムの「泰平ヨンの未来学会議』(ハヤカワSF文庫)と、フィリップ・K・ディックの『ヴァルカンの鉄槌』(創元SF文庫)を買った。ディックの未訳の長篇は、これでさいごだったと思う。いつ読むか、わからないけれど。あした早いし、クスリのんで寝よう。きのう寝てないから、きょうは、よく眠れますように。寝るまえに、ウルトラQの本か、怪獣の人形の写真集でも見ようっと。本の表紙の絵とか、怪獣の人形や、その写真集なんかで、こころが癒されるのって、なんだか単純。複雑なひとって、なにに癒されるのだろう?


二〇一五年六月四日 「才能とは辛抱のことだ。」


 本棚を少しでもよい状態にしておきたかったので(いま、ぎゅうぎゅうに並べた本のうえに、本を横にして載せてたりしているので、本には悪い状態だと思う)モーパッサンの『ピエールとジャン』を捨てようと思って(1冊でも少なくしたいので)、でも、念のためにと思って、ふと、ページをめくると、「小説について」という、前書きか、それとも序文なのかわからないけれど、本篇のまえに置かれたものがあって、それを拾い読みしていると、ふむふむとうなずくところがしきりに出てきて、捨てられないことがわかった。フロベールがモーパッサンに言ったという、「才能とは辛抱のことだ。」という言葉が印象的だった。違ったかな。でも、まあ、こういった言葉だった。そして、宮尾節子さんのことが思い浮かんだのだった。正確に引用しておこう。『ピエールとジャン』の本篇のまえに置かれた「小説について」というエッセーのようなもののなかに、つぎのような言葉があるのだ。「その後、フロベールも、ときどき会っているうちに、私に好意を感じてくれるようになった。私は思い切って二、三の試作を彼の手もとにまでさし出した。親切に読んでくれて、こう返事をしてくれた。「きみがいまに才能を持つようになるかどうか、それは私にはわからない。きみが私のところへ持ってきたものはある程度の頭のあることを証明している。だが、若いきみに教えておくが、次の一事を忘れてはいけない。才能とは──ビュフォンの言葉にしたがえば──ながい辛抱にほかならない、ということを。精を出したまえ」」(杉 捷夫訳)。モーパッサンがフロベールに言われた言葉だけれど、フロベールはビュフォンの言葉を引いたみたいだ。ということは、ぼくがここにその言葉を引くと、ひ孫引きということになるのかな。違うかな?


二〇一五年六月五日 「ナボコフ」


 きのう、ナボコフを読んでみたいという知り合いに、『ロリータ』と『青白い炎』をプレゼントした。『ロリータ』は大久保康雄訳の新潮文庫本、『青白い炎』は古いほうの文庫版。たしか、ちくま文庫だったかな。どっちのほうをより好いてくれるか、わからないけれど、どちちも傑作だった。ちょっとまえに買った『文学講義』は最悪だったけれど。ぼくの本棚には、『ロリータ』はまだ2冊ある。カヴァー違い、翻訳者違いのものだ。もちろん、岩波文庫から出た『青白い炎』もある。


二〇一五年六月六日 「セロリ」


身体のためにと思ってセロリを買ってきて食べているのだけれど、気持ち悪くなるくらいに、まずい。


二〇一五年六月七日 「FBフレンド」


 FBフレンドの笑顔がかわいすぐる。きょうは、その男の子の笑顔を思い浮かべながら寝る〜。二度目の、おやすみ、グッジョブ! I go sleep with your smile tonight. って、その男の子の画像にコメントした。三度目の、おやすみ、グッジョブ! その子の返信。LOL! why not sleep with me? そんなこと言われても〜、笑。日本じゃないもの。彼がいるのが。日本だったら会いに行ってる(たぶん)。それぐらいかわいい。because I can't sleep. って、書いておいた。ぶふふ。


二〇一五年六月八日 「殺戮のチェスゲーム」


 ブックオフのポイントが貯まっていたので、使おうと思って、三条京阪のブックオフと四条河原町のオーパ!のブックオフに行った。三条京阪では欲しいものがなかったが、オーパ!のほうでは、ダン・シモンズの『殺戮のチェスゲーム』上・中・下巻が、たいへんよい状態でそろっていたので、買った。『殺戮のチェスゲーム』を上・中・下巻のセットで買うのは、これで4回目だ。本棚にあるほうは、ふたたびお風呂場で読む用にしようと思う。きょう買ったもの以上によい状態のものは、ないと思うので、『殺戮のチェスゲーム』を買うのは、これで終わりにしたいと思う。高い値段で買ったもののほうが、安い値段で買ったものより状態が悪くて(ヤケとシミがあった)腹が立って、『殺戮のチェスゲーム』上・中・下巻、背中をバキバキ折って、捨てた。どれも分厚い本なので、簡単に背割れした。本棚を整理しようと思って、ひとつの本棚の奥を見てびっくりした。もう手元にはないと思っていた私家版の詩集が2冊出てきた。電子データにしていないものも含まれているので、後々、電子データにするつもり。初期の詩だ。それと、捨てたと思っていたぼくや恋人が写っている写真がケースごと発見されたのであった。これは僥倖だった。


二〇一五年六月九日 「聞き違い」


仕事の合い間に読書をしていて、聞き違いをしてしまった。そこで「聞き違い」自体を、つぎのようにしてみた。

聞き違い
効き違い
機器違い
危機違い
き、気違い
kiki chigai

日常、耳にするのは「聞き違い」くらいかな。小説や、マンガなんかには、「き、気違い」もあるかな。


二〇一五年六月十日 「きみの名前は?」


『〈教皇〉ヴァレンタイン』上巻、あと10ページほど。シルヴァーバーグは、ほんとうに物語がうまいなと思う。きょうじゅうに下巻をどれだけ読めるかだけど、楽しみ。シルヴァーバーグが終わったら、フィリップ・ホセ・ファーマーの作品で唯一というか、唯二、読んでいない、『淫獣』シリーズを読む。『淫獣の妖宴』と『淫獣の幻影』だけど、男のペニスにかぶりついて血を吸う女吸血鬼が出てくるらしい。10年以上もむかし、これらを手に入れるために、各々数千円ずつ使ったと記憶しているのだが、いまはもう、これらの古書値は下がってると思う。調べてみようかな。505円と1000円だった。このあいだ復刊した、『泰平ヨンの未来学会議』も、以前は2万円から3万円したのだけれど、いまどうなってるか、ググってみよう。9550円だった。レムのなかでもっともつまらない『浴槽で発見された手記』がまだ5000円だった。これは1円でいいような本だったのだけれど、ネットで調べると、評価が悪くないのだ。ラテンアメリカ文学を読んだあとでは、駄作としか思えないものなんだけどね。さっき、お風呂場で、キングの『呪われた町』の上巻を読んでたら、貴重なエピグラフ「きみの名前は?」があって、俄然、興味が高まったのだけれど、プロローグを読んだら、ゲイ・ネタかしらと思うセリフのやりとりもあって、『〈教皇〉ヴァレンタイン』の下巻より先に読むことにした。走り読みしよう。


二〇一五年六月十一日 「詩論」


 けさの出眠時幻覚は、オブセッションのように何度も見てるもの。偽の記憶だ。30代で記憶障害を起こしたときの記憶である。大学院を出たあと、高校に入り直して生活していたというものだ。当時は記憶が錯綜して、現実が現実でない感じだった。自分が魔術的な世界で生活している感じだったのだ。精神的現実が幻想的だった。ダブルヴィジョンは見るし、ドッペルゲンガーとは遭遇するし、夜中に空中浮遊しながら散歩していると思い込んでいたし、頭のうしろの光景もすべて目にしていたと思い込んでいた、狂った時期の記憶だ。とても生々しくて、まさに悪夢だった。合理主義者なので、それらが無意識領域の自我(あるいは、自我を形成する言葉や言葉以外の事物によって受ける印象や事物から得られる感覚などによって形成されるロゴス=形成原理)が引き起こした脳内の現象であることは、30代後半からの考察によってわかったのだが、いまは、それの分析を通して作品をつくっている。『詩の日めくり』も、そういった類の作品だろう。無意識のロゴスを最大限に利用しようと思っている。「先駆形」ほど過激ではないが(先駆形をつくっているときの精神状態はやばかったと思う。万能感がバリバリで、さまざまなものが、言葉が自動的に結びついていくさまを眺めているのは、自分の正気を疑うほどに、すさまじい感覚を引き起こすものだったのだ)それでも、『詩の日めくり』をつくっているときのこころのどこかは、ここ、いま、という場所と時間を離れた、どこか、いつかに属する、時制の束縛を知らないものになっていたのだった。「詩とはなにか」という問いかけに対するもっとも端的な答えは、「詩とはなにか」という問いかけを無効にしてしまうものであるだろう。なにものであってもよいのだ。詩とはこれこれのものだと言う者がいる。たしかに、そうだとも言えるし、そうでもないものだとも言えるのだ。100の答えに対して、少なくとも、もう100の答えが追加されるのだ。1つの詩の定義がなされるたびに、2つの詩の定義が増えるのだ。


二〇一五年六月十二日 「弟」


 いちばん下のキチガイの弟から電話があった。ぼくが自殺すると思っているらしい。「きみも詩を書きなさいよ、才能があるんだから」「あっちゃんみたいな才能はないよ。」「ぼくとは違う才能があると思うよ。むかし書いてたの、すばらしかったし。あの父親が否定したから書かなくなったんだろうけど。あの父親も、頭がおかしかったんだし、きみと同じでね。でも、きみを否定したのは間違ってたと思うよ。ぼくのことを否定していたことも間違っていたし。芸術をするのは、いつからでも遅くはないよ。才能がある者は書く義務がある。書きなさい。」と言った。弟は詩も書いていたし絵も描いていたのだ。父親に強く否定されて発狂したのだけれど、ぼくは否定されても、すぐに家を出たので、父親の言葉に呪縛されることはなかった。死ぬまで父親と同居していた弟は、ほんとうに可哀想だ。自己否定せざるを得ず発狂までしたのだ。理解力のない親を持って否定された芸術家はたくさんいると思う。子どもの才能を否定する親など見捨てればいいのだ。ぼくが見捨てたように。弟には、好きな詩とか絵を、ふたたびはじめてほしいと思う。頭のねじがどこかおかしい弟なので、すばらしいものを書くと思う。


二〇一五年六月十三日 「愛はただの夢にすぎない。」


「愛はただの夢にすぎない。」(スティーヴン・キング『呪われた町』下巻・第三章・第十四章・30、永井 淳訳、276ページ)ただの夢だから、何度も訪れるのだろう。オブセッションのように。若いときには。齢をとると、愛の諸相について考察するようになるので、ひとつの型にこだわることがなくなった。肉欲のことについて考えていたのだ。54才にもなると、肉欲に振り回されることがなくなるのだ。これはひとつの僥倖であり、自然が人間に与えた大いなる恩恵のひとつである。人生のほとんどすべての時間を、学問や芸術に注ぎ込むことができるのだ。キングの『呪われた町』下巻を読み終わった。二度と読み直さないだろうから上・下巻とも破り捨てた。プログレをやめて、イーグルスを聴いてたら、FBフレンドの恋人同士の仲のいい画像が思い出されて、そこから自分の過去の付き合いとかが思い出されて、ちょっとジーンとして、まだ作品にしてない思い出とかいっぱいあって、これからそれを作品にしていけると思うと、なんか幸せな気分にあふれてきた。齢をとって、自分自身が若さとか美しさから遠くなったために、客観的に見れる若さとか美しさのはかなさがよくわかるような気がする。たとえ若くて美しくても、なんの努力もしていないのに、持ち上げられてちやほやされるというのは、とても愚かしいことだった。そして、それが愚かしいことだったということがわかることが、とても大事なことのように思える。たくさんの文学が、その愚かさについての考察なのではないだろうか。ぼくの作品も例外ではなく、その愚かさについての考察であるような気がする。愚かで愛おしい記憶だ。お酒、買いに行こうっと。あのおっちゃんとは、二度と会ってないけど、ぼくのこと、気に入っちゃったのだろうか。話しかければよかったかなあ〜。なんてことが、わりとある。電車のなかとか、街を歩いてたりしてたら。世のなかには、奇跡がごまんと落ちてるのだった。ただね、拾い損ねてるだけなのね。


二〇一五年六月十四日 「夢は叶う」


 日知庵で、会社のえらいさんとしゃべっていて、そのひとが「プラスなことしゃべっててもマイナスなことしゃべると、口に±で「吐く」になる。プラスなことだけをしゃべってると口に+で「叶う」になるんやで」と言って、ふだん、酒癖悪いのに、いいこと言うじゃんって思った。でも、横からすかさず、「それ金八先生ですか?」って、二人で来てた女性客のうち、そのえらいさんの隣に坐ってた方の子に突っ込まれてた。そかもね〜。たしかに、ぽい。そのえらいさん、聞こえないふりしてたけど、笑。やっぱ、「金八先生」かも。ぼくははじめて聞いて、感心してしまったのだけれど。


二〇一五年六月十五日 「雨なのに、小鳥が泣いている。」


雨なのに、小鳥が泣いている。目が覚めてしまった。


二〇一五年六月十六日 「『淫獣』シリーズ2冊」


『淫獣の妖宴』を含む『淫獣』シリーズだけが、ファーマーのもので唯一、読んでなかったもの。だって、男のチンポコから血を吸う女吸血鬼の話だっていうから、避けてたのね。あまりに痛々しそうでさ。でもないのかな? フィリップ・ホセ・ファーマーは、日本で出版されている翻訳本をコンプリートに収集した何十人かの詩人や作家のうちの一人。『淫獣』シリーズを読むのが、もっとはやければよかった、というような感想がもてる作品であればいいなって思っている。(中座)ファーマーの『淫獣の幻影』を100ページちょっと読んだ。車の出す排気ガスで、街に住む人間がどんどん街から脱出しているという設定のなかでの吸血鬼物語。いまだったら「排気ガスで街を脱出」みたいな設定が馬鹿げてるもののように思えるけれど、作品が書かれた1986年当時はそうではなかったのだろう。ということは、いま問題視されていることも、将来的には馬鹿げているように思えるものもあるのだろう。逆に、当時問題視すべきことで、問題視されなかったものもあるだろうし、同様に、いま問題視しなければならないことで問題視していないものもあるだろう。すごい作品とか、勉強になる作品とか、よいものばっかり読んでいると、よくないものに出合ったときの怒りは中途半端なものではなくなるので、ときには、あまりすごくない作品や、そんなに勉強にならないものも読む必要があるのかもしれない。そうでも思わなかったら、『淫獣の幻影』は破り捨ててるな。いや、最悪のものかもしれない。ファーマーのもののなかで。うううん。でも、最悪なものでも持っておきたいと思うのは、ファンだからかもしれない。というか、ファンだったら、最悪な設定のものこそ、よろこんで受け入れなければならないのかもしれない。(中座)『淫獣の幻影』あと20ページほど。セックス、セックス、セックスの描写が本文の半分くらいあるかもしれない。じっさいは5分の1ほどかもしれないけれど、感覚的に、半分くらい、セックス描写である。うううん。でも、いいかも。と思わせるのは、やっぱり、ぼくが、フィリップ・ホセ・ファーマーのファンだからかもしれない。あの壮大なリヴァー・ワールド・シリーズを読んだときから、ファーマーは、ぼくのアイドルになってしまったのであった。きょうじゅうに『淫獣の妖宴』に突入すると思う。ゲスいわ〜。最低にお下劣。(中座)『淫獣の妖宴』の冒頭で、いきなり、吸血鬼や狼男は、じつは宇宙人だったというのである、笑。笑うしかない。しかも主人公の人間が突如、超能力をもち、ものすごく巨大なペニスをもつことになり、云々というのだ。ある意味、自由だけど、自由すぎるような気がする。(中座)『淫獣の妖宴』を走り読みした。精読する価値がなかったので。これから、このあいだ買ったフィリップ・K・ディックの『ヴァルカンの鉄槌』を読む。これはじっくり読む価値があるだろうか。ディックもまたぼくの大好きな作家で、その作品をすべてコレクションしている詩人や作家のうちの一人だ。


二〇一五年六月十七日 「誤字」


 フィリップ・K・ディック『ヴァルカンの鉄槌』(佐藤龍雄訳)誤字 148ページ8、9行目「勝負をものにしたのだ。」これは「勝利をものにしたのだ。」だと思う。「勝負をものにする」などという日本語にお目にかかったことがない。


二〇一五年六月十八日 「りんご摘みのあとで」


 レムの『泰平ヨンの未来学会議』があまりにも退屈なので、ロバート・フロストの詩の翻訳をしようかな。


After Apple-Picking

Robert Frost

My long two-pointed ladder's sticking through a tree
Toward heaven still,
And there's a barrel that I didn't fill
Beside it, and there may be two or three
Apples I didn't pick upon some bough.
But I am done with apple-picking now.
Essence of winter sleep is on the night,
The scent of apples: I am drowsing off.
I cannot rub the strangeness from my sight
I got from looking through a pane of glass
I skimmed this morning from the drinking trough
And held against the world of hoary grass.
It melted, and I let it fall and break.
But I was well
Upon my way to sleep before it fell,
And I could tell
What form my dreaming was about to take.
Magnified apples appear and disappear,
Stem end and blossom end,
And every fleck of russet showing clear.
My instep arch not only keeps the ache,
It keeps the pressure of a ladder-round.
I feel the ladder sway as the boughs bend.
And I keep hearing from the cellar bin
The rumbling sound
Of load on load of apples coming in.
For I have had too much
Of apple-picking: I am overtired
Of the great harvest I myself desired.
There were ten thousand thousand fruit to touch,
Cherish in hand, lift down, and not let fall.
For all
That struck the earth,
No matter if not bruised or spiked with stubble,
Went surely to the cider-apple heap
As of no worth.
One can see what will trouble
This sleep of mine, whatever sleep it is.
Were he not gone,
The woodchuck could say whether it's like his
Long sleep, as I describe its coming on,
Or just some human sleep.


りんご摘みのあと

ロバート・フロスト

両端の二本の突き出た長い縦木を地面に突き刺したぼくの梯子が木に立てかけてある。
それはまだ天に向けて傾けてある。
そして、そこには一つの樽がある。ぼくがいっぱいにしなかったものだ。
そのそばには、ぼくがいくつかの大ぶりの枝から摘み取り残した
二つか三つのりんごがあるかもしれない。
でも、いまはもう、ぼくのりんご摘みは終わったんだ。
冬の眠りの本質は夜にある。
りんごの香りがする、ぼくはうとうととしている。
ぼくは、ぼくが見た光景の奇妙さを、ぼくの瞳から拭い去ることができない。
それは一枚の窓ガラスを通して見たものから得たものだけど
今朝、飲料用の水桶から水をすくい取って
そうして、涸れかけた草の世界を守ってやろうとしたんだ。
手にした草はへたっとしてたから、そいつを落として、踏みつけて、ばらばらにしてやった。
でも、ぼくは満足だったんだ。
そいつが地面に落っこちるまえまではずっと順調だったんだ。
ぼくにはわかってるんだ。
まさに見ようとしていた夢を、いったい、なにがつくりだすのかって。
巨大なりんごが現われたり消えたりするんだ、
幹の先っちょや花の先っちょでね、
それでいて、赤りんごのどの白い斑点もはっきりくっきりしてるんだ。
ぼくの足の甲のへこんだところは痛みだけでなく、
梯子のあちこちの圧力も感じつづけるんだ。
大きい枝が曲がると、梯子が揺れるのを、ぼくは感じる。
それでいて、ぼくの耳には聞こえずにはいられないんだ、地下室のふたつきの大箱から
ゴロゴロいう音が
ぼくが摘み取って収蔵したりんごの積み荷という積み荷のもののね。
というのも、ぼくが、たくさん摘み取り過ぎちゃったからなんだけどね。
疲れすぎちゃったよ。ぼく自身が望んだ通りのものすごい収穫だったんだけどね。
ぼくの手が摘み取った果実は、1000万個もあったかな。
やさしくていねいに手で摘み取って、降ろすんだ、落とすんじゃない。
というのも、そうしない限り
りんごは地球に激突しちゃうからなんだ。
まあ、たとえ、傷ついちゃったり、刈り株に突き刺さっちゃったりしても
サイダー用のりんごの山のところに運んじゃうだけだけどね。
ほんと、なんの価値もないものだよ。
なにがぼくの眠りを邪魔するものになるか、わかるよね。
そのぼくの眠りがどんなものであってもね。
あいつは行っちゃったのかな、
ウッドチャックのことだけど、そいつはわかってるってさ、その眠りが
自分の長い眠りのようなものかどうかってこと、ぼくがここにきて描写しているようにさ、
それとも、ちょうどちょっとした人間の眠りのようなものなのかな。


二〇一五年六月十九日 「前世の記憶」


 人間はほとんどみな、原始時代からの前世の記憶を連綿と持ちつづけているものなのに、なかには、まれにまったく持たないで生まれてくる者もいるのだ。ぼくがそれで、ぼくには前世の記憶がいっさいないのだ。人間以前の記憶さえ持つ者もいるというのに。だから、ぼくは、こんなにも世渡りが下手なのだ。


二〇一五年六月二十日 「すてきな思い出が待ち構えている」


 かなりのヨッパである。きみやさんに行く途中、阪急でかわいい男の子を見つけたと思ったら、知ってる子だった〜、笑。もう、この齢になったら、街ん中は、かつて好きだった子がいっぱいで、いつ、どこに行っても、すてきな思い出が待ち構えていて、ああ、齢をとるって、こんないいことだったんだって思う。


二〇一五年六月二十一日 「まぎらわしい。」


マンションの部屋にいると、ときどき、車が迫ってくる音と、雨がきつく降ってくる音が似ていて、まぎらわしい。何度か、あわててベランダの窓を開けたことがあった。洗濯物を取り込もうとして。


二〇一五年六月二十二日 「デジャブ感ありだけど。」


 ジュンク堂で、ゲーテの『ファウスト』の第二部といっしょに、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』と、プッツァーティの『七人の使者・神を見た犬』を買った。『シルトの岸辺』はちら読みしたら、文体がとてもよかったので。『七人の使者・神を見た犬』は、表紙がとても好みのものだったので。帰りに、ところてん2つと、卵豆腐2つ買った。ところてんは黒蜜。酢で食べる方が健康なんだろうけれど、だんぜん黒蜜が好き。卵豆腐は、ひとつはエビ。ひとつはカニ。おやつーな晩ご飯である。あ、そだ。レムの『泰平ヨンの未来学会議』50ページあたりからおもしろくなった。デジャブ感ありだけど。


二〇一五年六月二十三日 「どっちだろ? どっちでもないのかな?」


シマウマって、さいしょは白馬だったのか、それとも黒馬だったのか、それともあるいは、もとからシマウマだったのか、わからないけど、そういえば、パンダも……


二〇一五年六月二十四日 「泰平ヨンの未来学会議」


 スタニスワフ・レムの『泰平ヨンの未来学会議』あと20ページほどで読み終わる。グレッグ・イーガンも扱ってたクスリづけの世界。ブライアン・オールディスの未訳の作品にもあったと思うけど、ぼくも短い作品でクスリづけの世界を書いたことがある。オールディスのは幻覚を見る爆弾だった。そいえば、それも、ぼくは書いたことがあった。おそらく、たくさんの詩人や作家が書いているのだろう。レムのは、かなり諧謔的だ。オールディスのはシニカルなものだろう。イーガンのもだ。ぼくのもギャグ的なものとシニカルなものとがあった。塾にいくまでにレムを読みきろう。つぎは、ジュリアン・グラック『シルトの岸辺』を読むか、プッツァーティの『七人の使者・神を見た犬』を読もう。両方、同時に読んでもいい。通勤と授業の空き時間には『シルトの岸辺』を、寝るまえには、『七人の使者・神を見た犬』を読んでもいい。楽しみだ。(中座)ありゃ。レムの『泰平ヨンの未来学会議』読み終わったけど、夢落ちやった。なんだかな〜。塾に行くまで、ルーズリーフ作業をしよう。時間があまったら、読書をする。


二〇一五年六月二十五日 「やっぱり神さまかな。」


 ずっと可愛いと思ってたFBフレンドが、いま、ぼくに会いたくて日本に行きたいとメールをくれたんだけど、ほんとだったら、うれしい。ほんとかな? 今晩、夢で、きみに会えたらうれしいと伝えた。(ずっと拙い英語でだけど) 笑顔のかわいい子。ぼくの年齢はちゃんと教えたけど、かまわないらしい。だれに感謝したらいいのだろう。やっぱり神さまかな。


二〇一五年六月二十六日 「異なる楽器」


同じ言葉でも異なるひとの口を通じて聞かされると、違った意味に聞こえることがある。人間というものは、一つ一つ違った楽器のようなものなのだろうか。


二〇一五年六月二十七日 「同性婚」


友だちのジェフリー・アングルスが彼氏と同性婚した。日本でもはやく同性婚が認められればいいのに。


二〇一五年六月二十八日 「なんで、おばさん好きなの?」


「1杯で帰ろうと思ったとき出会う酒のみ」
ぼくが詩を書いてるって言ったら、いきなりかよ。
「これは、ずれてるよ。」
「ずれてるけど
 ぼくのなかではいっしょ。」
キクチくんとは、あったの2回目だった。
「サイフが不幸。」
これには、ふたりとも笑った。


二〇一五年六月二十九日 「糺の森。」


ぼくが帰るとき
いつも停留所ひとつ抜かして
送ってくれたね。
バスがくるまで
ずっとベンチに腰かけて
ぼくたち、ふたりでいたね。
ぼくの手のなかの
きみの手のぬくもりを
いまでも
ぼくは思い出すことができる。
いつか
近所の神社で
月が雲に隠れるよりはやく
ぼくたち、月から隠れたよね。
形は変わっても
あの日の月は
空に残ったままなのに
あの日のぼくらは
いまはもう
隠れることもなく
現われることもなく
どこにもいない。


二〇一五年六月三十日 「木漏れ日のなか。」


きょうのように晴れた日には
昼休みになると
家に帰って、ご飯を食べる。
食べたら、自転車に乗って
賀茂川沿いの草土手道を通って
学校に戻る。

こうして自転車をこいでいると
木漏れ日に揺すられて
さすられて
なんとも言えない
いい気持になる。

明るくって
あたたかくって
なにか、いいものがいっぱい
ぼくのなかに降りそそいでくる
って
そんな感じがする。

まだ高校生のぼくには
しあわせって、どんなことか
よくわからないけど
たぶん、こんな感じじゃないかな。

行く手の道が
スカスカの木漏れ日に
明るく輝いてる。


二〇一五年六月三十一日 「お母さん譲ります。」


「あのう、すみません。表の貼り紙を見て、来たのですが。」
呼び鈴が壊れていたのか、押しても音がしなかったので、扉を開けて声をかけてみた。
「また、うちの息子の悪戯ですわ。」
不意に後ろから話しかけられた。
女が立っていた。
「悪戯ですか。」
表で見た貼り紙が、くしゃくしゃにされて、女の手のなかで握りつぶされていた。
「どうぞ、上がってください。」
言われるまま、家のなかに入って行った。
「息子さんはいらっしゃるのですか。」
「奥の部屋におりますわ。」
女は、私の履き物を下駄箱に仕舞った。
「会わせていただけますか。」
「よろしいですわよ。」

案内された部屋に行くと、一匹の巨大なヒキガエルがいた。
──ピチョッ、
ヒキガエルの舌先が、私の唇にあたった。
舌先が、私の喉の奥に滑り込んだ。
──おえっ、
──パクッ。
私が吐き出した魂を、ヒキガエルが呑み込んだ。

外は、すっかり日が暮れていた。
「もう何年も雨が降らないですね。」
「雨はみんな、わたくしが食べてしまいましたのよ。」
女はそう言って、新しい貼り紙を私に手渡した。


詩の日めくり 二〇一五年七月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年七月一日 「I made it。」



かるい
ステップで
歩こう


かるい
ステップで
歩くんだ

もう参考書なんか
いらない

問題集も
捨ててやる


かるい
ステップで
歩こう


かるい
ステップで
歩くんだ

もう
偏差値なんか
知らない

四月から
ぼくも大学生

(連作『ぼくのEarly 80’s』のうち)


二〇一五年七月二日 「Siesta。」


siesta
お昼寝の時間

午後の授業は
みんなお昼寝してる

階段教室は
ガラガラの闘牛場

老いた教授は
よぼよぼの闘牛士

ひとり
奮闘してるその姿ったら

笑っちゃうね
もう

(だけど、先生
 いったい何と奮闘してるの)

siesta
お昼寝の時間

午後の授業は
みんなお昼寝してる

チャイムが鳴るまで
お昼寝してる

(連作『ぼくのEarly 80’s』のうち)


二〇一五年七月三日 「First Trip Abroad。」


いつものように
窓際の席にすわって

Tea for One

どこに行こうかな
テーブルのうえに世界を並べて

アメリカ、カナダ
オーストラリア

それとも
アジアか、ヨーロッパがいいかな

それにしても
きれいなパンフレットたち

あっ
そろそろつぎの授業だ

ぼくは世界をリュックに入れて
外に出た

(連作『ぼくのEarly 80’s』のうち)


二〇一五年七月四日 「パタ パタ パタ!」


部屋から 出ようとして
ドア・ノブに触れたら
鳥が くちばしで つっついたの
おどろいて テーブルに 手をついたら
それも ペンギンになって ペタペタ ペタペタッて
部屋の中を 歩きまわるの (カワイイけどね)
で どうしようか とか 思って
でも どうしたらいいのか わからなくって
とりあえず テレビをつけようとしたの
そしたら バサッバサッと 大きな鷲になって
天井にぶつかって また ぶつかって
ギャー なんて 叫ぶの
で こわくなって
コード線を 抜きましょう
とか 思って
て あわてて 思いとどまって (ウフッ)
(だって、これは、ミダス王のパロディにきまってるじゃない?)
って 気づいちゃって (タハハ)
思わず 自分の頭を 叩いてしまったの
パタ パタ パタ!


二〇一五年七月五日 「不思議な話たち。」


ネッシーは、まだネス湖にいるのでしょうか。
あの背中の瘤は、いまでも湖面に現われますか。

雪男は、まだヒマラヤにいるのでしょうか。
あの裸足の大きな足跡に、いまでも遭遇しますか。

ツチノコは、まだ奈良の山にいるのでしょうか。
あの滑稽な姿で、いまでも目撃者が絶えませんか。

かつて、ぼくらが子供だったころ
ぼくらのこころを集めたさまざまな話たち。

いまでも、子供たちのこころを
いっぱい、いっぱい集めていますか。

不思議な話たち、
ひょっこり写真に写ってください。

不思議な話たち、
ひょっこり写真に写ってください。


二〇一五年七月六日 「胡桃。」


きみの手のなかのクルミ
  ──クルミのなかにいるぼく。

きみに軽く振られるだけで
  ──ぼくは、ころころ転げまわる。


二〇一五年七月七日 「月。」


月は夜
ぽつんとひとり
瞬いている。

だから
ぼくもひとり
見つめてあげる。


二〇一五年七月八日 「帽子。」


その帽子は、とっても大きかったから
ふわっと、かぶると、帽子だけになっちゃった。


二〇一五年七月九日 「風車。」


風を食らうのが、おいらの仕事だった。
うんと食らって、籾を搗くのが、おいらの仕事だった。

だれか、おいらの腕を、つないでくれねえかな。
そしたら、また働いてやれんのになあ。


二〇一五年七月十日 「3高。」


「そうね、結婚するんだったら、
ゼッタイ、高学歴、高収入、高身長の人とよね。
そのために、バッチシ、整形までしたんだからさあ。」

あなたの高慢がわたしの耳にはいったため、
わたしはあなたの鼻に輪をつけ、
あなたの口にくつわをはめて、
あなたをもときた道へ引きもどすであろう。
(列王紀下一九・二八)


二〇一五年七月十一日 「缶詰。」


缶詰のなかでなら、ぼくは思い切り泣けると思った。


二〇一五年七月十二日 「オイルサーディン悲歌。」


人生の旅の途中で
みなの行く道を行くわしは
気がついたとき
とあるイワシ網漁の
かぐらき網の目の中にいた。

捕えられたわしを待っていたのは
思いもかけぬ、むごたらしい運命であった。

多くの兄弟姉妹たちとともに
首を切り落とされ
ともに大鍋のなかで煮られて
油まみれの棺桶の中に
横に並べられ
重ねられ

されど
幸いなるかな、小さき者たちよ。
祈れば、たちまち
わしらは、光の中に投げ出されるのだ。

されど、覚悟せよ。
ふたたび火にかけられ
煮られることを。


二〇一五年七月十三日 「コアラのうんち。」


とってもかわいい コアラちゃん
のんびりびりびり コアラちゃん
ユーカリの お枝にとまって
ぶ〜らぶらん ぶ〜らぶらん

とってもかわいい コアラちゃん
うんち ぴっぴりぴ〜の コアラちゃん
まあるいお腹は 調子をくずして
ぴっぴりぴっ ぴっぴりぴっ

こっちを向いて ぶらさがる
ぶ〜らぶらん ぶ〜らぶらん
黄色いお水が お尻のさきから
ぴっぴりぴっ ぴっぴりぴっ

子どもが見てる 笑って見てる
ぴっぴりぴっ ぴっぴりぴっ
子どもが見てる 笑って見てる
ぴっぴりぴっ ぴっぴりぴっ


 2、30年くらいむかし、テレビのニュース番組で、動物園のコアラが、お腹をこわして下痢になった様子を放映していました。日本に来て間もなかったらしく、子どもたちの騒がしい声と、その無遠慮な視線にまだ慣れていなかったために神経症にかかった、と番組のなかで解説していました。


二〇一五年七月十四日 「へびのうんこ。」


へびって どんな うんこ するのかな
へびって どんな うんこ するのかな
まあるいの まんまる〜いの するのかな
ほおそいの ほそなが〜いの するのかな

いつか みた ぞうの うんこ ってね
ぼてっぼてっぼてって ぶっとくて まあるいの
おっきくって とおっても くっさ〜いの

へびって どんな うんこ するのかな
へびって どんな うんこ するのかな
まあるいの まんまる〜いの するのかな
ほおそいの ほそなが〜いの するのかな

いつか みた ねずみの うんこってね
まっくろけの ごはんつぶ みたいなの
ちっちゃくって とおっても くっさ〜いの

ねっ みてみたいでしょ へびの うんこ
ほおそ〜いのか まんまる〜いのか

ねっ みてみたいでしょ へびの うんこ
ほおそ〜いのか まんまる〜いのか


二〇一五年七月十五日 「シャボン玉。」


おおきなものも
                   ちいさなものも
       みなおなじ
                            たくさんの
   ぼくと
                 たくさんの
きみと
       くるくる
                             くるくると
                  うかんでは
かぜにとばされ
                          パチパチ
      パチパチと
                  はじけては
  きえていく
             たくさんの
                        ぼくと
たくさんの
          きみと
                    にじいろ
かがやく
たくさんの
              ぼくと
                       たくさんの
  きみと
          たくさんの
                     ぼくと
  たくさんの
             きみと
                       くるくる
     パチパチ
              くるくる
  パチパチ
         くるくる
                  パチパチ
 くるくる
           パチパチ


二〇一五年七月十六日 「あいつ。」


弥栄中学から醍醐中学へと
街中から田舎へと転校していった
二年のときの十一月。

こいつら、なんて田舎者なんだろうって。

女の子は頬っぺたを真っ赤にして
男の子は休み時間になると校庭に走り出て
制服が汚れるのも構わずに
走り回ってた。

補布(つぎ)のあたった学生服なんて
はじめて見るものだった。

やぼったい連中ばかりだった。

ぼくは連中のなかに溶け込めなかった。

越してきて
まだ一週間もしないとき
休み時間に、ぼくは机の上に顔を突っ伏した。
朝から熱っぽかったのだ。
帰るまでは
もつだろうって思っていたのに……

すると、そのとき、あいつが
ぼくを背中におぶって
保健室まで連れて行ってくれた。

どうして、あいつが、ぼくをおぶることになったのか
それはわからない。
ただ、あいつは、クラスのなかで、身体がいちばん大きかった。

でも、そんなことは、どうでもよくって
あいつが、ぼくをおぶって保健室に連れてってくれて
(保健室には、だれもいなかったから)
あいつが、ぼくをベッドに寝かしつけてくれて
ひと言、
「ぬくうしときや。」
って言ってくれて
先生を呼びに行ってくれた。

もう四十年以上もまえのことなのに
どうして、いまごろ、そんなことが思いだされるのだろう。
あいつの名前すら憶えていないのに。

(そういえば、あいつは、ぼくのことなんか、ちっとも
 知らなかったくせに、ほんとうに心配そうな顔をしてたっけ。)

もしも、ぼくが、そこで卒業してたら
卒業アルバムで、あいつの名前が知れたんだけど
ぼくは、また転校したから……

だけど
名前じゃなくって
あいつって呼んでる

そう呼びながら
あいつの顔を思い出すことが
気に入ってる。

そう呼びながら
そう呼んでる、その呼びかたが
気に入ってる自分がいる。

あれ以来
あいつのように
やさしく声をかけてくれるようなやつなんていなくって
ひとりもいなくって

ぼくは、それを思うと
あの束の間の田舎暮らしがなつかしい。
とてもなつかしい。

やぼったいけれど
とてもあたたかかった
あいつ。
あいつのこと。


二〇一五年七月十七日 「変身。」


 グレゴール・ザムザは、朝、目が覚めると、一匹の甲虫になっていた。ぼくは、この話を何十年もまえに読んでいた。それは、日本語でもなくって、ドイツ語でもなくって、英語で読んだのだった。自分が受験した関西大学工学部の英語の入試問題で読んだのだ。もちろん、そのときは、まだカフカの『変身』なんて知らなかったから、というか、文学作品なんてものを、国語の教科書以外で目にしたことがなかったから、変な話だなあと思いながら読んだのだった。でも、妹がリンゴを投げつけるところまで出てたんだから、あれはきっと、問題をつくったひとがまとめたものだったんだろう。それとも全文だったのだろうか。でも、あとで読んだ翻訳の分量を考えると、いくらなんでも全文ってことはないと思うんだけどね。まあ、いいか。あ、それで、ぼくが、なんで、こんな話からはじめたのかっていうと、受験生だったあのときに疑問に思ったことがあって、あとで翻訳で読んだときにも、やっぱり同じ疑問を感じちゃって、それについて書こうと思ってたんだけど、いったい、あのグレゴール・ザムザは、自分の意志で一匹の甲虫になっちゃんだろうか。それとも、自分の意志とはまったく無関係に一匹の甲虫になっちゃうんだろうか。はっきりとしない。無意識のうちに甲虫になることを願っていたっていう可能性もあるしね。
 でも、ぼくが、けさ目が覚めたときには、はっきりと、自分の意志で虫になりたいと思って、虫になったんだ。べつに頼まなくっても、妹はぼくにリンゴを投げつけてくれるだろうし、無視してくれたり、邪魔者あつかいしてくれる両親もいる。ぶはっ。いま思ったんだけど、投げつける果物がリンゴっていいね。知恵の木の実だよ。ところで、ぼくが目を覚ましたときには、家族はまだだれも起きてはいなかった。五時をすこし回ったところだった。朝に弱いうちの家族は、みなだれもまだ起きてはいなかったのだ。まあ、なにしろ、五時ちょっとだしね。ぼくは、近所のファミリー・マートに行って、スティック糊をあるだけぜんぶ買って帰ってきた。ちょうど10本だった。部屋に戻ると、本棚にある本をビリビリと破いていった。ビリビリに破いて、くしゃくしゃにして、買ってきたスティック糊でくっつけていった。裸になったぼくを中心にして、まずは筒状にしていった。それからあいてるところにもくしゃくしゃにした紙を貼り付けていった。まるで鞘に入ったミノムシのようにして横たわった。だけど、すぐに息苦しくなったから、顔のまえのところを少しだけ破いた。息ができるようになって安心した。安心したら、眠くなってきちゃって、ああ、二度寝しちゃうかもしれないなあって思った。だけど、虫って、どんな夢を見るんだろうね。

二〇一五年七月十八日 「森のシンフォニー。」


ぼくには見える。
ぼくには聴こえる。
ぼくには感じることができる。
だれが指揮するわけじゃないけれど
葉から葉へ、葉から葉へと
睦み合いながら零れ落ちていく
光と露のしずくの響きが
風の手に揺さぶられ、揺さぶられて
枝の手から引き剥がされ落ちていく幾枚もの葉っぱたち。
水面に吸い寄せられた幾枚もの葉っぱたち。
自らの姿に引き寄せられて
くるくると、くるくると
舞い降りていく。
幾枚もの葉っぱたちの響きが
小さな波をいくつもこしらえて
つぎつぎといくつもの同心円を描いていく
揺れる葉っぱたち、震える水面。
樹上を、なにかが動いた。
羽ばたいた。
葉ずれ、羽ばたき、羽ばたく音が
遠ざかる。
遠ざかる。
なにかが水面を跳ねた。
沈んだ。
消えた。
消え失せた。
なにかが草のうえに落ちた。
擦った。
走った。
走り去っていった。
ぼくには見える。
ぼくには聴こえる。
ぼくには感じることができる。
だれが指揮するわけじゃないけれど
ここに、こうして立っていると
はじまるのだ。
森のシンフォニーが。


二〇一五年七月十九日 「輪ゴム。」


輪ゴムが、ひとつ、落ちてた。

白い道、
アスファルト・コンクリート、の、上に。

輪ゴムが、ひとつ、落ちてた。

夏の、きつい、あつさに
くっ、くっ、くねっと、身を、ねじらせて、

輪ゴムが、ひとつ、落ちてた。

ぼ、ぼく、じっと見てたら、
なんだか、悲しくなって、涙が、出てきちゃった。


二〇一五年七月二十日 「タンポポ。」


わたしを摘むのは だれ
やわらかな手 小さくて かわいらしい
こどもの手 こどもたちよ

わたしは 野に咲く タンポポ
どこにでも 咲いています

たとえば 薔薇のように
かぐわしい香りを
放つことをしません

たとえば ユリのように
見目麗しき女性に
たとえられることもありません

けれど わたしを摘むのは 
やわらかな手 小さくて かわいらしい
こどもの手 こどもたちよ

わたしは 野に咲く タンポポ
どこにでも 咲いています

たとえば 夕間暮れ
駅からの帰り道
数多くの疲れた目が
わたしのうえに休んでいきます

たとえば 街路樹の根元
信号待ちで 立ちどまったベビー・カー
無情のよろこびに目を輝かせて
幼な児が手をのばします

わたしは 野に咲く タンポポ
どこにでも 咲いています

わたしを摘むのは やさしい手
小さくて かわいらしい こどもの手

こどもたちよ
わたしを摘みなさい

こどもたちよ
わたしを摘みなさい


二〇一五年七月二十一日 「裸木。」


「あら、裸木(らぎ)?
 それとも、裸(ら)木(ぼく)?」

──裸(はだか)木(ぎ)。

それは、ただいちまいの葉さえまとうことなく立ち尽くしている。

されど
豊かである。

たとえ、いまは裸でも。

陽の光を全身にあびて、深く長い呼吸をしているのだ。

いつの日か
角ぐみ芽ぶくために。

俺も裸だ。

俺にはなにもない。

されど
豊かである。

まことに豊かである。

俺の胸のなかは、おまえを思う気持ちに満ちている。

おまえを思う気持でいっぱいだ。

春になったら
いっしょになろう。


二〇一五年七月二十二日 「片角の鹿。」


ずいぶんと、むかしのことなんですね。
ぼくが、まだ手を引かれて歩いていた頃に
あなたが、建仁寺の境内で
祖母に連れられた、ぼくを待っていたのは。

ひとつづきの敷石は、ところどころ縁が欠け、
そばには、白い花を落とした垣根が立ち並び、
板石の端を踏んではつまずく、ぼくの姿は
腰折れた祖母より頭ふたつ小さかったと。

その日、祖母のしわんだ細い指から
やわらかく、小さかったぼくの手のひらを
あなたは、どんな思いで手にしたのでしょう。

ひとに見つめられれば、笑顔を向けたあの頃に
ぼくは笑って、あなたの顔を見上げたでしょうか。
そのとき、あなたは、どんな顔をしてみせてくれたのでしょうか。

二十歳になったとき、父の許しが出て、実母に会うことができ、幼児のときに建仁寺の境内で会った話を聞かされました。
幼いころ、祖母に連れられて、岡崎の動物園に行ったとき、鹿園で、一つしかない角を振り上げて、他の鹿と戦っている鹿を目にして、なにかとても重たいものが、胸のなかに吊り下がるような思いをしたことがありました。いま考えますと、そのときの鹿の姿を自分の境遇と、自分の境遇がそうであるとは知らないまでも、こころの奥底では感じ取って、重ねていたのではないかと思われます。


二〇一五年七月二十三日 「打網。」


まだ上がってこない。
網裾が、岩の角か、なにかに引っかかっているのだろう。
父の息は長い、あきれるほどに長い。
ぼくは、父の姿が現われるのを待ちながら
バケツのなかからゴリをとって
小枝の先を目に突き入れてやった。
父が獲った魚だ。
父の頭が川面から突き出た。
と思ったら、また潜った。
岩の尖りか、やっかいな針金にでも引っかかっているのだろう。
何度も顔を上げては、父はふたたび水のなかに潜っていった。
生きている魚はきれいだった。
ぼくはいい子だったから
魚獲りが大嫌いだなんて、一度も言わなかった。
ゴリはまだ生きていた。
もしも網が破けてなかったら
団栗橋から葵橋まで
また、鴨川に沿って、ついて行かなくちゃならない。
こんなに夜遅く
友だちは、みんな、もうとっくに眠ってる時間なのに。
宿題もまだやってなかった。
風が冷たい。
父はまだ潜ったままだ。
ぼくは拳よりも大きな石を拾って
魚の頭をつぶした。
父はまだ顔を上げない。
ぼくは川面を見つめた。
川面に落ちた月の光がとてもきれいだった。
うっとりとするくらいきれいだった。
ぼくはこころのなかで思った。
いっそうのこと
父の顔がいつまでも上がらなければいい
と。


二〇一五年七月二十四日 「弟。」


 齢の離れた末の弟が大学受験をする齢になりました。十八才になったのです。いまでも頬は紅くふくれていますが、幼いころは、ほんとうにリンゴのように真っ赤になってふくらんでいました。とてもかわいらしかったのです。
 ある日、近所の餅屋に赤飯を買いに行かせられました。ぼくはまだ小学生でした。四年生のときのことだったと思います。なにかのお祝いだったのでしょう。なんのお祝いかは、おぼえていません。顔なじみの餅屋のおばさんが、ぼくの目を食い入るようにして見つめながら、「ぼん、あんたんとこのお母さん、ほんまは、あんたのお母さんと違うねんよ。知ってたかい?」と言ってきました。ぼくは返事ができませんでした。黙って、お金を渡して、品物と釣り銭を受け取りました。
 家に帰って、買ってきたものと、お釣りをテーブルのうえに置くと、ぼくはさっさと自分の部屋に戻りました。
 その晩、ささいなことで母にきつく叱られたぼくは、まだ赤ん坊だった弟を自分の部屋であやしているときに、とつぜん、魔が差したのでしょう、机のうえにあった電灯の笠をはずして、裸になった白熱電球を弟のおでこにくっつけました。弟は大声で泣き叫びました。そのおでこの赤くふくれたところに、たちまち銀色の細かい皺ができていきました。あわてて電球に笠をかぶせて元に戻すと、ふたたび、ぼくは弟をあやしました。台所にいたお手伝いのおばさんが、弟の声に驚いて、ぼくの部屋にやってきました。あやしているときに畳でおでこをこすってしまったと嘘をつきました。お手伝いのおばさんは、オロナイン軟膏を持ってきて、弟のおでこに塗りました。おばさんの指がおでこに触れると、痛がって、弟はさらに激しく泣きました。
 いまはもうその火傷の痕はあまり目立ちません。目を凝らしてよく見ないと、ほんの少しだけまわりの皮膚よりも皺が多いということはわからないでしょう。でも、ぼくには見えます。はっきりと、くっきりと見えるのです。弟と話をするときに、知らず識らずのうちに、ぼくは、目をそこへやってしまいます。
 自分を罰するために? それとも自分を赦すために?

誰に向かってお前は嘆こうとするのか 心よ
(リルケ『嘆き』富士川英郎訳)


二〇一五年七月二十五日 「青年。」


 沖縄から上京してきたばかりというその青年は、サングラスをかけて坐っていた。父は、彼にそれを外すように言った。青年はテーブルのうえにそれを置いた。父は、青年の目を見た。沖縄からいっしょに出て来たという連れの男が、父の顔を見つめた。ぼくはお茶を運んだ。父は、青年にサングラスをかけ直すように言い、採用はできないと告げて、二人を帰らせた。
 ぼくは、父のことを、なんて残酷な人間なんだろうと思った。鬼のような人間だと思った。そのときのぼくには、そう思えた。後年になって思い返してみると、父の振る舞いが、それほど無慈悲なものではないということに、少なくとも、世間並みの無慈悲さしか持ち合わせていなかったということに気がついた。なんといっても、うちは客商売をしていたのだ。そして、同時に、ぼくは、そのとき、その青年の片方の目の、眼窩のくぼみを、なぜ、目のあるべき場所に目がないのかという単なる興味からだけではなく、自分にはふつうに見える二つの目があるのだという優越感の混じった卑しいこころ持ちでもって見つめていたことに、そのくぼみのように暗い静かなその青年の物腰から想像される彼の歩んできた人生に対しての、ちょっとした好奇心でもって見つめていたことに気がついたのである。振り返ると、いたたまれない気持ちになる。
 おそらく、父の視線よりも、ぼくのものの方が、ずっと冷たいものであったに違いない。


二〇一五年七月二十六日 「息の数。」


 眠るきみの頬の辺(べ)、ぼくがこんなに見つめているのに。ただ息をして、じっと眠りつづけている。でも、ぼくはしあわせで、きみの息の匂いをかいでいたいた。楽園の果実のような香りを食べていた。きみの吐く息と、ぼくの吸う息。きみの吐く息と、ぼくの吸う息。きみの吐く息を吸うぼく。きみの吐く息を吸うぼく。きみとぼくが、ひとつの息でつながっている。きみの息の甘い香りをいつまでもかいでいたい。きみをずっと食べていたい。いつまでも、いつまでも、こうして、ぼくのそばで眠りつづけてほしい。きみの口の辺りの、垂れ落ちたよだれに唇を近づけて。そっと吸ってみると、ぼくの唇の敏感な粘膜部分に、きみの無精ひげがあたって、こそばゆかった。こそばゆかったけど、気持ちよかった。触りごこちよかった。眉毛がかすかに動いた。醒めてるのかな。まだ眠っているのかな。わからない。わからないから、わからないままに、きみの息の数を数えることにした。でも、いったい、息の数って、どう数えるんだろうか。吸う息と吐く息をひと組にして、合わせてひとつとして数えるんだろうか。それとも、吐く息と吸う息を別々にひとつずつ数えるんだろうか。呼吸って言うくらいだから、息の数は、たぶん、吐く息と吸う息のひと組で、ひとつなんだろう。まあ、いずれにしても、どちらかひとつの方を数えればいいかな。ところで、生まれたばかりの赤ん坊って、はじめて泣き声をあげるまえに、そのからっぽの肺のなかに空気を導き入れるっていうから、息のはじめは吸う息ってことになるかな。じゃあ、死ぬときは、どうなんだろう。息を引き取るって言うけど、この引き取るって言うのは、死ぬひとの側からの言葉なんだろうか。それとも、死ぬひとのまわりにいるひとの側からの言葉なんだろうか。ひとの最期って、息を吐いて死ぬのだろうか、それとも、息を吸って死ぬのだろうか。最後のひと吐きか、最後のひと吸いか。うううん。どうなんだろう。なんら、科学的な根拠があるわけではないけれど、ぼくは、最後のひと吐きのような気がするなあ。うん、そうだ。息を引き取るっていうのは、最後のひと吐きの息を、神さまが引き取ってくださるって意味なんじゃないかな。そういえば、人間がさいしょに吸う息って、神さまが吹き込んでくださった息のことだろうしね。違うかな。いや、そうにきまってる。ぼくたちは、神さまの息を吸って、神さまの息を吐いて生きているのだ。神さまを食べて生きているのだ。と、こう考えると、なぜだか、ほっとするところがある。うん。とか、なんとか考えてると、きみの息の数を数えるのを忘れちゃってたよ。数えてみようかな。いや、ぼくももう眠くなってきちゃったよ。きみの息の数を数えようとしたら、きみの息の香りを食べようとしたら、なんだか、うとうとしちゃって、もう、だめだ、寝ちゃうよ、……


二〇一五年七月二十七日 「湖面の揺らめき、
               その小さな揺らめきにさえ、
                 一枚の葉は……」


日の暮れて
小舟のそばに浮かぶ
ぼくの死体よ。

山陰に沈み、重たく沈む
冬にしばられた故郷の湖水よ。

湖面に落ちた一枚の葉が
その揺らめきに舞いはじめる。
その小さな、ちいさな揺らめきにさえ
揺うられゆられている。

湖水は冷たかった。
 その水は苦かった。

いままた、一枚の葉が
山間(やまあい)から吹きおろす風に連れられて
くるくると、くるくると、螺旋に舞いながら
湖面に映った自身の姿に吸い寄せられて。

それは、小舟と、ぼくの死体のあいだに舞い落ちた。

水のなかで揺れる水草のように
手をあげてゆらゆらと揺れる
湖底に沈んだたくさんのひとびと。
そこには父がいた、母がいた、祖母がいた、
生まれそこなったえび足の妹がいた。

風が吹くまえに
ぼくの死体は、ぼくの似姿に引き寄せられて
ゆっくりと沈んでいった。

湖面に張りついた一枚の葉が
──静かに舞いはじめた。

蒼白な月が、一隻の小舟を、じっと見つめていた──


二〇一五年七月二十八日 「思い出。」


振り返ってはいけないと
あなたはおっしゃいました。

顧みてはならないと
あなたはおっしゃいました。

でも振り返らずにはいられないでしょう。
でも顧みずにはいられないでしょう。

あなたも、わたしも
わたしたちのふたりの娘も、みな
あの町で生まれ、あの町で育ちました。

ところが、あなたは
わたしたちに、あの町を捨てていこうと
思い出を捨てていこうと言われました。

いったい
あのふたりの男たちは何者なのですか。
主なる神のみ使いだと称するあの二人の男たちは。

いったい
どうしてわたしたちが街を捨てて
出て行かなければならないのですか。

あのひとたちの言うとおり
主が、あのソドムの町のうえに
ほんとうに火と硫黄を振らせられるのでしょうか。

あなたは忘れたのですか。
わたしたちのこれまでの暮らしぶりを。
わたしたち家族の暮らしぶりを。

主の目に正しい行いをし
正直に真面目に暮らしてきたわたしたちなのですよ。
なぜ、逃れなければならないのでしょう。

ロトよ。
わたしには忘れることができません。
ぜったいに、わたしには忘れることなどできません。

こうして、あのひとたちの言うとおり
あの町を捨てて、出てきたわたしたちですが

振り返り、顧みることが
なぜ、禁じられなければならないのでしょう。

わたしは振り返ることでしょう。
きっと顧みることでしょう。

たとえ、この身が塩の柱となろうとも
振り返り、顧みずにはいられないでしょう。

たとえ、この身が塩のはっ……


二〇一五年七月二十九日 「うんち。」


  中也さん、ごめんなちゃい。

ホラホラ、これがわしのうんちだ、
きばっている時の苦痛にみちた
このきたならしいジジイの肛門を通って、
ものすっごい臭気をともないながら
ヌルッと出た、うんちの尖端(さき)。

これでしまいじゃないぞ、
まだまだつづく、
臭気を放つ、
鼻を曲げる、
おまるからこぼれる。

きばっていた時に、
これが食堂にいるみんなに、
興を添えたこともある、
みつばのおしたしを食ってた時もあった、
と思えばなんとも可笑しい。

ホラホラ、これがわしのうんち──
捨ててくれるのはいつ? 可笑しなことだ。
あふれ出るまで待って、
また、うんちたれだと言って、
なじるのかしら?

そして裏手の疎水べりに、
あの大型ゴミ捨て場に
捨てられるのは、──わし?
ちょうど尻たぶの高さに、
うんちがひたひたにたっしている。


二〇一五年七月三十日 「遺伝。」


  会田綱雄先生、ごめんなちゃい。

湯舟から
ハゲが這いあがってくると
わたしたちはそれが腰かけて
身体を洗って
ひげを剃り
そのツルツル頭を洗うのを見る

ハゲでもシャンプーを使うのだ

身体だけはへんに毛深くて
毛の生えた十本の指で
頭を&#25620;きむしりながら
ハゲは泡となり
わたくしたちはひそかに嘲笑し
湯舟のなかで
楽しく時を過ごさせてもらう

ここは銭湯であり
湯舟はひろく
わたくしたちきょうだいの家からそう遠からぬ

代々ハゲにならないわたくしたちは
わたくしたちのちちそふの面影を
くりかえし
くりかえし
わたしたちのこどもにつたえる
わたくしたちのちちそふも
わたくしたちのように
この銭湯でハゲを見て
湯舟のなかで
ひそかに嘲笑し
わたくしたちのように
楽しく時を過ごしたのだった

わたくしたちはいつまでも
わたくしたちのちちそふのように
黒々とした美しい髪の毛を
ふさふさと
ふさふさとさせるだろう

そしてわたくしたちの美しい髪の毛を
ハゲは羨望の眼差しで見つめるのだろう
むかし
わたくしたちのちちそふの美しい髪の毛を
羨望の眼差しで見つめたように

それはわたくしたちの快感である

よる寝るまえに
わたくしたちは鏡をとって
頭をうつす
頭のうえはふさふさとして
わたくしたちはほほえみながら
てをのばし
くしをとり
髪をすきあう


二〇一五年七月三十一日 「さんたんたる彼処(あそこ)。」


    へんなオジンが俺を見つめてる。    リルケ
              (なあんて、うそ、うそ、うそだぴょ〜ん。)

  村野四郎先生、ごめんなちゃい。

ズボンのまえに手をかけられ
ジッパーを下ろされた
ポルノ映画館のなかの
うすぐらい後部座席
こいつは いったいなんなんだ

見知らぬオジンが寄ってきて
さわりまくり いじりまくって
シコシコシコシコやってくれる この現実
しまいには ブリーフも下ろされて
歯のない口で フェラチオされて
うっ でっ でるっ

なんにも知らない俺の連れが
やっと トイレから戻ってきた
オジンがひょいと席をかわった


詩の日めくり 二〇一五年八月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年八月一日 「恋」


恋については、それが間抜けな誤解から生じたものでも、「うつくしい誤解からはじまったのだ。」と言うべきである。


二〇一五年八月二日 「ディーズ・アイズ。」


 お酒を飲んでもいないのに、一日中、作品のことで頭を使っていたためだろうか、めまいがして、キッチンでこけて、ひじを角で擦って、すりむいて血が出てしまった。痛い。子どもみたいや。そいえば、子どものときは、しょっちゅうけがしてた。BGMは60年代ポップス。ゲス・フーとかとっても好き。


二〇一五年八月三日 「うんこのかわりに」


うんこのかわりに、あんこと言ってみる。うんこのかわりに、いんこと言ってみる。
うんこのかわりに、えんこと言ってみる。うんこのかわりに、おんこと言ってみる。
うんこのかわりに、かんこと言ってみる。うんこのかわりに、きんこと言ってみる。
うんこのかわりに、くんこと言ってみる。うんこのかわりに、けんこと言ってみる。
うんこのかわりに、こんこと言ってみる。うんこのかわりに、さんこと言ってみる。
うんこのかわりに、しんこと言ってみる。うんこのかわりに、すんこと言ってみる。
うんこのかわりに、せんこと言ってみる。うんこのかわりに、そんこと言ってみる。
うんこのかわりに、たんこと言ってみる。うんこのかわりに、ちんこと言ってみる。
うんこのかわりに、つんこと言ってみる。うんこのかわりに、てんこと言ってみる。
うんこのかわりに、とんこと言ってみる。うんこのかわりに、なんこと言ってみる。
うんこのかわりに、にんこと言ってみる。うんこのかわりに、ぬんこと言ってみる。
うんこのかわりに、ねんこと言ってみる。うんこのかわりに、のんこと言ってみる。
うんこのかわりに、はんこと言ってみる。うんこのかわりに、ひんこと言ってみる。
うんこのかわりに、ふんこと言ってみる。うんこのかわりに、へんこと言ってみる。
うんこのかわりに、ほんこと言ってみる。うんこのかわりに、まんこと言ってみる。
うんこのかわりに、みんこと言ってみる。うんこのかわりに、むんこと言ってみる。
うんこのかわりに、めんこと言ってみる。うんこのかわりに、もんこと言ってみる。
うんこのかわりに、やんこと言ってみる。うんこのかわりに、ゆんこと言ってみる。
うんこのかわりに、よんこと言ってみる。うんこのかわりに、らんこと言ってみる。
うんこのかわりに、りんこと言ってみる。うんこのかわりに、るんこと言ってみる。
うんこのかわりに、れんこと言ってみる。うんこのかわりに、ろんこと言ってみる。
うんこのかわりに、わんこと言ってみる。うんこのかわりに、んんこと言ってみる。


二〇一五年八月四日 「うんこするかわりに」


うんこするかわりに、あんこする。うんこするかわりに、いんこする。
うんこするかわりに、えんこする。うんこするかわりに、おんこする。
うんこするかわりに、かんこする。うんこするかわりに、きんこする。
うんこするかわりに、くんこする。うんこするかわりに、けんこする。
うんこするかわりに、こんこする。うんこするかわりに、さんこする。
うんこするかわりに、しんこする。うんこするかわりに、すんこする。
うんこするかわりに、せんこする。うんこするかわりに、そんこする。
うんこするかわりに、たんこする。うんこするかわりに、ちんこする。
うんこするかわりに、つんこする。うんこするかわりに、てんこする。
うんこするかわりに、とんこする。うんこするかわりに、なんこする。
うんこするかわりに、にんこする。うんこするかわりに、ぬんこする。
うんこするかわりに、ねんこする。うんこするかわりに、のんこする。
うんこするかわりに、はんこする。うんこするかわりに、ひんこする。
うんこするかわりに、ふんこする。うんこするかわりに、へんこする。
うんこするかわりに、ほんこする。うんこするかわりに、まんこする。
うんこするかわりに、みんこする。うんこするかわりに、むんこする。
うんこするかわりに、めんこする。うんこするかわりに、もんこする。
うんこするかわりに、やんこする。うんこするかわりに、ゆんこする。
うんこするかわりに、よんこする。うんこするかわりに、らんこする。
うんこするかわりに、りんこする。うんこするかわりに、るんこする。
うんこするかわりに、れんこする。うんこするかわりに、ろんこする。
うんこするかわりに、わんこする。うんこするかわりに、んんこする。


二〇一五年八月五日 「こん巻き。」


 血糖値が高くて、糖尿病が心配だったのでおしっこをしたあと、チンポコのさきっちょに残ってたおしっこを指につけてなめたけど、あまくなかった。よかった。きょう、きみやさんで隣でお酒を飲んでらっしゃった方が、ときどき彼女から、フェラチオされたときに、「あなた、甘いわよ。」と言われるらしい。笑いながら、そうおっしゃった。その方のお話に出てきた「こん巻き」というのが食べてみたい。スジ肉を昆布に巻いて、両端を竹の皮のひもで縛り、醤油で炊いたものだそうだ。醤油で味付けした煮汁で炊くだったかもしれない。砂糖やみりんを加えていない、甘さのないものだそうだ。お話の仕方から、それが被差別部落特有の食べ物であるようだった。ぼくは知らなかったので、だいたいのところを、昆布でニシンを巻いて甘辛く煮るふつうの昆布巻きを連想した。飲み屋さんでは、もっぱら聞き役で、詩の材料とならないかと思って、聞き耳を立てている。そだ。父親の夢が出てきたけれど、父親のことを作品に書き込もうと思っている。とても苦労したひとなのだ。もらい子といって、親に捨てられて養子に出された身の上だ。ぼくは父親が商売をはじめて成功したときの子だから、貧乏というものを知らないけれど、父親は貧しい家に引き取られたから、苦労したらしい。貧しい被差別部落の方の家に引き取られたらしい。ぼくとは血のつながりのない祖母だけが確実に被差別部落出身者であることがわかっているが、ぼくの実母も被差別部落出身者なので、因縁があるのだろう。ぼくには子どもがいないので、たくさんの遺伝子の連鎖が、ぼくで終わる。実母は精神病者でもあるので、ぼくで終わってよいのかもしれない。人生は恥辱と苦難の連続だもの。ときたま、楽しいときがあったり、うれしいこともあったり、よいこともあるけれど、それに、恥辱や苦難といったものにも意義はあるのだけれど。


二〇一五年八月六日 「夢は」


 オレンジ味のタバコを吸う夢を見た。ただそれだけの短い夢だった。また、べつの夢で、二本の長い棒を使って、池の中をひょいひょい移動する夢を見た。竹馬っていうのかな。でも、ものすごく長い棒で、身長の何倍もあって、ぐいんぐいんしなって、顔が水面にくっつきそうになるくらい曲がるんだよね。高校生くらいのぼくだった。身体が体重がないみたいに軽くって、その棒を使って、動きまくって、きれいな景色のなかを移動していた。ぼくの勤め先の学校がある田辺のような、田圃がいっぱいあるようなところだった。友だちとそんなふうにして大きな池のなかを遊びまくってた。ものすごくいい天気の日だった。お昼ご飯を食べに西院のブレッズ・プラスにBLTサンドイッチのランチセットを食べに行った。(中座)けさ見た夢からの知識。夢のなかでも味がわかるということ。五感のうち、嗅覚・味覚・触覚・視覚ははっきり存在していることがわかった。聴覚のことがいまだに謎だ。ぼくの夢の世界に音が存在していないのだ。夢のなかでも、言葉は存在するみたいなのだが、現実世界のように空気を伝って音が伝わるって感じじゃなく、テレパシーのような感じで伝わるのだ。聴覚以外の感覚は、現実世界に近いと思うのだけれど。まあ、いつかもっと明解な夢を見てみよう。夢は知だ、とヴァレリーは書いてたけれど、ぼくもよく詩に使った。さいきん、きょうのような現実感のある夢を見ていなかった。きょうの夢は楽しかった。動きがあった。ぼくが若かった。好きだった友だちも出てきた。田んぼのようなその大きな池で遊んだあと、いっしょに学校へ行く道を走った。なんて清々しい。


二〇一五年八月七日 「脱脂粉乳。」


 チャールズ・ストロスの『シンギュラリティ・スカイ』を読み終わった。これで二度目だけれど、また時間をおいて読み直したい小説だった。作品をつくっているあいだの休憩で読んでいたのだが、そのまま最後まで読んでしまった。終わりのほうで、「代用コーヒー」が出てくる。代用ミルクというものを知っているひとなんて、ぼくの世代が最後だと思う。ぼくが小学校1年生のときに給食で出た脱脂粉乳のことである。黄色いアルミの皿に、あたためた状態で出てきたんじゃなかったかな。まずくて飲めたものではなかったが、京都市では、その年で脱脂粉乳の給食での配給が終了したのだった。それから壜牛乳になり、数年後に正四面体の紙パック入り牛乳になったのだった。あと、栄養不足を補うために、小学校の4年くらいまで、肝油ドロップを配ってた。いまでいうところのグミのようなものかな。世代共通の思い出も書き残さなくては、と思ってる。


二〇一五年八月八日 「ひとつの頭のなかに、たくさんの時間や場所や出来事が同居している。」


 あさに考えたのだけれど、むかしの記憶が頭のなかにあるということは、さまざまな時間や場所や出来事が、ひとつの頭のなかにあって、その頭が移動しているということは、さまざまな時間や場所や出来事が、頭ごとそっくり移動しているということで、たくさんの人間が移動しているということは、たくさんの頭が移動しているということなので、たくさんの時間や場所や出来事が複雑に交錯しているということなのであると思ったのだった。友だちと二人で同じ部屋のなかにいるときにでも、異なるたくさんの時間や場所や出来事が詰まった頭が二つ存在しているのだ。人間の存在自体、なんだろうなって思う。時間や場所や出来事が詰まったもの。逆に、ひとつの時間や場所や出来事が数多くの人間を包含しているとも考えられるので、逆からの視点で、時間や場所や出来事を、また人間を考えてもおもしろいし、深く考えさせられる。


二〇一五年八月九日 「脳を飼う。」


 猫と脳の文字が似ているような気がする。で、脳のかわりに、頭蓋骨のなかに猫を入れて、猫のかわりに、脳を飼うことにした。脳は、みゃ〜んとは鳴かないので、鳴かない脳なのだと思う。帰ってきたら、脳が机のうえで横になっていた。ぼくの姿を見ると、脳は、ゆっくりと机のうえを這ってきた。かわいい。さいきん、トマトが映画に出なくなった。若いころのトマトは、いつもブチブチに潰されては悲鳴をあげて、舞台のうえを転げまわっていた。かわいかった。ひさしぶりにトマトが出る映画を見てる。横にいた脳が、映画の舞台のうえにのぼっていった。トマトが脳に唾を吐きかけた。すべてがそろっているか。すべてがそろっているかどうか心配になってきたので、ペン入れにハサミを垂直に立てた。ハサミというのはやっかいなもので、しょっちゅう勝手に動き回る。気をつけていないと、玄関から出て他人の家に勝手に入っていってしまうのだ。そう思って、ハサミを垂直に立てたのだ。脳が膝元にすりよってきた。脳に名前をつけるのを忘れていた。ベンという名前をつけることにした。そこで、かわりに、ベンのことを脳と呼ぶことにした。ベンが脳に似ているというわけではない。脳がベンに似ているというわけでもない。むしろ舞台のうえでブチブチと潰れるトマトに似ているだろう。いや、垂直に立てたハサミにか。脳の行動半径は、頭蓋骨のなかの猫の行動半径よりも狭い。いちばん遠くにまで行くことができるのはハサミだけれど、ハサミは垂直に立てておけば動くことができない。時間的に遠くまで動くことのできるものはトマトだ。膝と膝のあいだに、たくさんのトマトを置いて、うえから両手で思い切り殴りつける。脳はミャ〜ンとは鳴かない。右手の中指のさきで脳のひだに触れる。やわらかい。さわっていても、脳は陰茎のようには勃起しないようだ。いつまでも、やわらかい。しかし、トマトは、ずっと勃起しっぱなしだ。だから垂直にハサミを立てておかなければならないのだ。容量の少ないトマトは出血量も少ない。ベンに呼ばれて返事すると、ベンが起こっているのがわかった。少しの表情の変化でも、ぼくには、それが起こっているのか起こっていないのか、わかるのだ。現象としてのベンは、きわめて単純で、わかりやすいものなのだ。トマトやハサミよりもわかりやすい。脳もわかりやすいといえば、わかりやすい。しかし、なによりもわかりやすいのは、ぼくの頭蓋骨のなかにいる猫だ。ノブユキは、よくぼくの頭蓋骨のなかの猫と共謀して、ぼくにインチキのじゃんけんをしかけた。まあ、ぼくは笑って負けてやったけれど。横にいる脳のひだのあいだに指を深く差し込んで、ぐにゅぐにゅ回した。とても気持ちよい。ハサミのかわりに、脳をペン立てに垂直に立てた。ハサミで剪定すると、映画の舞台のうえに落ちて、ブチブチに潰れたトマトのように転げ回った。つぎに、ぼくはベンの指を剪定していった。泣いて許しを乞う姿がかわいい。ようやく安心して眠れるような気がした。横になろう。 おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年八月十日 「帥」


 FBフレンドの画像に、「帥」ってコメントがあったので、自動翻訳機にかけると、「粋です」と出てきた。ぼくに会いに日本に遊びにくるねって書いてきた子の、かわいい顔画像に対するコメントだった。ぼくはたいてい、「可愛」「cute」「handsome」「good looking」って書く。


二〇一五年八月十一日 「2角形」


ふと球面上の2角形が思い出された。目蓋に縁どられた、ぼくらの目は、2角形なのだった。


二〇一五年八月十二日 「ヒロくん。」


 ひさしぶりに、ヒロくんの写真を見返してた。クマのプーさんそっくりだった。と思っていたのだけれど、もっとかわいかったのだった。10代の自分の写真も見返してたけれど、どれも笑っていた。笑うようなことはなかったと思うのだけれど、カメラを向けられると、笑わなければならないと思って、笑っていたのだろう。さっき、コンビニに行く途中、雨が降ってきたので、180度回転して、自分の部屋に戻ってきた。食欲より、雨に濡れたくない気持ちの方が強かった。


二〇一五年八月十三日 「存在は自身の質量、体積、時間によって測られる。」


 はじまりに終わりがあって、終わりにはじまりがある。寝ているときに、数年前に亡くなった継母と冗談を言い合って、笑っていた。いつも陽気なひとだったけれど、死んでからも陽気なひとだ。これからお風呂に、それから塾に。塾に行くまえに、マクドナルドに行こう。(中座)同一性を保持した自我なるものは存在しない。同一性を保持した精神も存在しない。あえて言えるとすれば、存在するのは、虚構の自我であり、虚構の精神である。存在は自身の質量、体積、時間によって測られる。物質的な存在においてもだし、非物質的な存在においてもだ。


二〇一五年八月十四日 「立方体の六面がウサギだった。」


ことしの1月には、コーヒー一杯で6時間もねばった、ぼくだった。ベローチェ。ことしの1月のなかば、たしか、15日か、16日に、ほんやら洞が焼失したのだった。


二〇一五年八月十五日 「出眠時幻覚」


 4回連続で、出眠時幻覚を見た。さいしょ目が覚めたら学生の下宿で3人いた。ここは東京だという。これだけ飲みましたよとボトルを見せられた。つぎに明治時代の通りにいた。着物をきたおじさん、おばさんが目のまえを、行き来してた。つぎが、自分のむかしいた下宿らしい。そんな場所にはいなかったが。さいごに自分のいまの部屋にいてパソコンを立ち上げようとしたら、パソコンの向こう側から覗く顔があって、自分だった。それで、ハッと思って、しっかり覚醒してパソコンのスイッチを入れた。なまなましい夢。途切れる間もなく。発狂したのかと思った。お酒飲み過ぎかな。ずっと二度寝、いや、五度寝くらいしてた。そしてずっと夢を見てたけど、これらの夢は、ツイッターに書こうという強い意志がなかったため、FBとかいろいろ見てたら忘れた。これからマクドナルドにアイス・コーヒーを飲みに行こう。


二〇一五年八月十六日 「わたしは他人のまなざしのなかにも、他人の息のなかにも存在する。」


 わたしはあらゆる時間と場所と出来事のなかに存在する。なぜなら、わたし自身があらゆる時間であり、場所であり、出来事であるからである。つまり、あらゆる時間や場所や出来事そのものが、わたしであるからである。


二〇一五年八月十七日 「卵」


彼は毎日、卵を産んでいる。彼はそのことを恥じている。


二〇一五年八月十八日 「On Bended Knee。」


きのう
ひさしぶりにジミーちゃんから電話。
半年ぶり?
2月に会ったのが最後くらいやと思うけど。
じゃあ、4ヶ月ぶりかなあ。
そのくらいちゃう?
元気?
なんとか。
それより、田中さん。
さいきん、変わったことない?
ええ?
べつに。
さいきん、ごにょごにょ。
はっ? なに?
さいきん、こびとをよく見かけるんやけど。
あっそう。

そういえば
ぼくのつぎの詩集
ホムンクルスのこびとが出てくるわ。

リゲル星人のまぶたから踊り出てくるこびとたちもいるし
偶然かな。
世のなかに偶然なんてことあると思う?
それは見方やな。
ぜんぶ偶然って言えるやろうし
ぜんぶ必然やったって言えるやろうし。

これ携帯からやから
あとで家からかけ直すわ。
ええ? いま、どこにいるの?
家の近所。
あっそう。
じゃあ、またあとで。
あとで。
って
ところが
あとで
ジミーちゃんから
電話はなくって
つぎの日のきょう、電話があって
きのう、電話が掛けられなかった理由が自分でもわからないという。
まあ、ぼくも、深く突っこんで訊く気もなかったので
訊かなかったけれど
ひさびさに友だちの元気な声が聞けてよかった。
ジミーちゃんとは15年以上の付き合いなのだけれど
ときどき
途切れる。
理由はべつにないらしいのだけれど
付き合いが途切れる前は
精神状態があまりよろしくないらしい。
それはジミーちゃんのほうね。
ぼくもよくないこともあるんやけど
チャン・ツィイーの出てる『女帝』という映画を見ているところやった。

10本のハミガキチューブをおすと
10本の柱がとび出した。
10本の柱で歯を磨いた。
ぼくを起こしてくれた。
ぼくを立たせてくれた。
ぼくを洗面所まで歩かせてくれた。
ぼくに歯ブラシを持たせてくれた。
ぼくにハミガキチューブを手にとらせてくれた。
ぼくにハミガキチューブをおさせてくれた。
ぼくに歯を磨かせてくれた。
ぼくにシャワーを浴びさせてくれた。
ぼくにからだを拭かせてくれた。
ぼくにパンツをはかせてくれた。
ぼくにオーデコロンをつけさせてくれた。
ぼくに靴下をはかせてくれた。
ぼくにポロシャツを着させてくれた。
ぼくに綿パンをはかせてくれた。
ぼくにリュックを持たせてくれた。
ぼくにドアを開けさせてくれた。
ぼくに仕事に行かせてくれた。
これを順番を入れ換えてみる。
ぼくにリュックを持たせてくれた。
ぼくにドアを開けさせてくれた。
ぼくにパンツをはかせてくれた。
ぼくを立たせてくれた。
ぼくに歯ブラシを持たせてくれた。
ぼくにポロシャツを着させてくれた。
ぼくにからだを拭かせてくれた。
ぼくにシャワーを浴びさせてくれた。
ぼくに靴下をはかせてくれた。
ぼくを起こしてくれた。
ぼくに歯を磨かせてくれた。
ぼくにハミガキチューブをおさせてくれた。
ぼくにハミガキチューブを手にとらせてくれた。
ぼくを洗面所まで歩かせてくれた。
火のなかで微笑むこびとの映像が思い浮かぶ。
火のなかで微笑むのはこびとじゃなくて
預言者のはずなんだけど。
いや、木歩とその友人
ぼくとエイジくんのはずなんやけど。
火のなかでこびとが微笑んでいる。
(2009年7月3日のメモ)

チャン
ツィ
イー
いったい、なにを怖れる必要があるのだろうか?
よぶせよ


二〇一五年八月十九日 「『詩人園』、開園いたします! 入場料無料です。」


まだ「一流」の分類の館内には、だれも入っていませんが
「二流」や「三流」の館内には、たくさんの詩人たちが入っております。
「二流」のところには、みなさまご存じの詩人たちがいるかもしれません。
「もう高齢なんと違う科」の詩人は、ほんとうに多いですね。
彼ら・彼女らのほとんどが生活類と政治類で
一部にアバンギャルドな芸術類がおります。
彼ら・彼女らは、この詩人園の半数近くを占めています。
ほんとうにもうだいぶん高齢なので、近日中に見に行かれないと、
二度と目にすることはできないかもしれませんよ。
えさは与えないでください。
ぼけている詩人もいます。
というか、ほとんどがボケです。
食事の記憶がなく、いくらでも食べる詩人もいますので。
しかし、「三流」館にいる、
「あんたらめちゃくちゃ傲慢なんと違う科」の詩人たちには注意してくださいね。
かつて有していた権威をかさにきて、訪れた観客の前で
自分たちの三流の詩を朗読して聞かせますから。
長時間聞かれますと、耳が腐りますので、十分にご注意ください。
石を投げつけるのは、かまいません。
それが、古代からのならわしです。
「三流」館の詩人たちは、むかしからぜんぜん進歩のない範疇に属しており
「どうにもこうにもならないやん科」が多くを占めていますが
「どうにもこうにもならないやん科」には、若い詩人たちもいますので、
お子さまの遊び相手にはよろしいかと思われます。
子供相手に、自分たちの詩を朗読して、自分たちが詩人であると思いこんでいますが
子供たちは、彼ら・彼女らを「バカなオトナ」として
ただ、バカにして笑っているだけなのですが、
子供たちは、笑うこと、それ自体楽しいので、笑っています。
また「コスプレ・見て見てわたしはかわいいんとちゃう科」や
「どうして奇異な振る舞いをしてしまうのか自分でもわからないのだけれど
だれかわたしに教えてくださらないかしらほんとにもうわたしはそもそもいったい
どこにいるの科」といった分類の詩人も多くいますので
詩人を見て、笑って楽しんで行こうと思われる方はここにおいでください。

注意点

詩人の前で、その詩人以外の詩の朗読はやめてください。
彼ら・彼女らは、他人の詩の朗読が一番嫌いなのです。
そんなことをすると、うんこをつかんで、観客に投げつける詩人もいますので
くれぐれも、彼らの前では、彼らのもの以外の詩は朗読しないでください。


二〇一五年八月二十日 「言葉探偵登場!」


では
あなたが第一発見者なのですね
この言葉が死んだ時間は言葉学者によると
昨夜の11時ごろだそうですが
そのころあなたはどこにいたのですか
ああ
あの詩人のブログのなかにいたのですか
でしたらアリバイはすぐに確認できますね
ちょっと待ってください
はい
確認しました
たしかにあなたはその時間に
この文章のなかに存在していませんでしたね

あなたが今朝この言葉を発見したいきさつを述べてください
どういった経路で
この言葉がこの文章のなかで死んでいるのを発見されたのかを


二〇一五年八月二十一日 「『言葉は見ていた。』 第一回」


まあ
あの殺された言葉って
わたし
よく知ってるわ
よくいっしょにある詩人の文章のなかに書き込まれたもの
え?
知らない?
ほら
あの朗読中にぶりぶり、うんこ垂れる詩人よ
ええ
その人よ
その詩人よ
だけど
どうして殺されてしまったのかしらね

あの言葉ね
詩人に悪気はなかったと思うのよ
きっと
何か理由があったのよ
え?
そうよ
じつは
わたし見ちゃったのよ
その詩人が
別の詩人の原稿を剽窃したところ
そこに
あの言葉がいたのよ
偶然ね
いえ
偶然なのかしら
よくわからないけれど

もうじき
コマーシャル


二〇一五年八月二十二日 「言葉平次!」


言葉平次!

言葉だったら
 未練が残る♪

シャキ
 シャキ

言葉を投げつけて
 怠惰な読者たちをやっつける

言葉平次!


二〇一五年八月二十三日 「言葉を飼う」


古い言葉がいらなくなったので、新しい言葉を買いました。
古い言葉がいらなくなったので捨てました
ぼくが生まれたときから使っていた言葉でしたが
最近は、ぼくの文章のどこにも現われなくなっていました
少し前からなんですけれど
使っていても、ぜんぜん効果がなくって
正直言って、いらない言葉でした
で、きょう仕事帰りに
言葉屋さんの前を通ったら
生まれたての新しい言葉と目が合ったのです
その言葉とはきっとうまくやっていける
そう思ったので
言葉屋さんに入って
その新しい言葉を買いました
帰ってきて
さっそく文章に使おうとしたのですが
その新しい言葉は
部屋に入るなり
そこらじゅうを駆け回って
ぜんぜんおとなしくしてくれませんでした
それで
文章を書くこともできず
その言葉を追いかけては捕まえ
追いかけては捕まえ
追いかけっこをして疲れ果てました
きょうは使えませんでしたが
こんど文章を書くときにはぜったい使おうと思っています
古い言葉はいらなくなったので捨てました
でもいったんは捨てましたが
クズ入れのなかから覗く古い言葉を見ていると
なんだかかわいそうになってしまって
いつかまた使うこともあるかもしれないと思って
クズ入れのなかから出してやりました


二〇一五年八月二十四日 「『詩人ダー!』新発売。」


『詩人ダー!』新発売。
なたの味方です。
きっと、お役に立ちます。

いやなひとの家を訪問しなければならないとき
いやな上司と付き合わなければならないときなど
あなたがいっしょにいるのがいやなひとと
どうしてもいっしょにいなければならないとき
この「詩人ダー!」を、シューっと、ひと噴き、自分にかければ
あなたから離れなくても
相手があなたから離れていってくれます。
なぜなら
それまでのあなたのおしとやかで優しい性格が一変して
あつかましく凶暴になり
相手の状況などおかまいなしに
わけのわからない言葉をぷつぷつとつぷやいたり
突然叫び出したり
へんな節回しをつけて詩を朗読したりするからです。
「詩人ダー!」新発売
いっしょにいたくないひとがいるあなた
「詩人ダー!」は、あなたの味方です。
お役に立ちます。


二〇一五年八月二十五日 「『詩人キラー!』新発売。」 


『詩人キラー!』新発売。
いやな詩人が出る季節になってきましたね、プシューっとひと噴き。
これでいやな詩人を撃退できます。

この詩人は
ほかの詩人とほとんど付き合いがなかったので
ほかの詩人ほど頻繁に
ほかの詩人から詩集が送られてきたり
詩誌が送られてきたりはしなかったけれど
それでも週に何度か郵便箱に
日本中から詩人が送られてきた
詩人たちは郵便箱のなかで
身体を折り曲げて
この詩人が仕事から帰ってくるのを待っていた
ときには
何人もの詩人たちが
どうやって入ったのかわからないけれど
身体を折り曲げて
郵便箱のなかに入っていた
この詩人は
自分の疲れた身体といっしょに
送られてきたその何人もの詩人たちの身体を
部屋のなかに入れなければならなかった
詩人たちは口々に
自分たちの詩を
自分たちの論考を
自分たちのエッセーを
この詩人に聞かせるのだった
この詩人が食事をしているときにも
お風呂に入っているときにも
睡眠誘導剤を飲んで部屋の電灯のスイッチを消しても
詩人たちは自分たちの詩を論考をエッセーを
この詩人に聞かせるのだった
この詩人は電灯のスイッチを入れると
起き出して
洗面台の前に立った
この詩人は自分の目の下のくまをみて
洗面台の引き出しから
マスクと詩人キラーを取り出して
部屋にもどると
部屋のなかで朗読している詩人たちの顔に振り向けて
シューっとした
すると詩人たちの声が消えた
詩人たちは口をパクパクするだけで
音はまったく聞こえなくなった
この詩人はこれでようやく眠れるや
って思って床に就いた
でも
詩人たちの姿が消えたわけではなかったので
やっぱり眠れなかった
新しいやつ買おうっと
こんどのやつは詩人の姿も消えるんだっけ
そう思ってこの詩人は
きょうも眠れぬ一夜を過ごすのであった
じゃんじゃん


二〇一五年八月二十六日 「詩人ホイホイ。」


詩人ホイホイを組み立てて
部屋の隅に置いておいたら
本物の詩人がいっぱい入ってた

本物の詩人は
死んでも死なないから
どの詩人もみな
とっても元気だった

いつか自分も
だれかが仕掛けた
詩人ホイホイに捕まりたいなあ
なんて
詩人も思っていたのであった


二〇一五年八月二十七日 「『言葉キラー!』新発売。」


『言葉キラー!』新発売。
いやな言葉が出る季節になってきましたね
シュっと ひと噴きで
いやな言葉を撃退します

詩人は夏が一番きらいだった
夏は詩人が一番嫌いな季節だった
考えたくなくても
つぎからつぎに思い出が言葉となって
詩人の頭のなかに生まれてくるからだった
思い出したくなかった思い出が
詩人を苦しめていた
詩人は「言葉キラー!」を買ってきた
ちょっと落ち着いて考えたいことがあるんだ
詩人はそうつぶやいて
部屋中に「言葉キラー!」を振り撒いた
「言葉キラー!」はシューシュー
勢いよく噴き出した
噴き出させすぎたのか
詩人はゲホゲホしながら
窓を開けた
すると
また思い出したくない言葉が
窓の外から
わっと部屋のなかに入ってきた
詩人はあわてて窓を閉めると
詩人は「言葉キラー!」を
下に向けて
軽く振り撒いた
これで今晩はゆっくり眠れるかな
などと思ったのだけれど
詩人は用心のために
睡眠誘導剤を飲んで床に就いたのであった
じゃんじゃん


二〇一五年八月二十八日 「逃げ出した言葉たち。」


もう好きにすれば
詩人は言葉たちに一瞥をくれた
逃げ出した言葉たちは
詩人がもう自分たちを使わないことを知って
詩人の枕元にあつまって
手に手を取り合って
輪になって
踊っていたのであった
らんら
らんら
ら〜
るんる
るんる
る〜
らんら
らんら
ら〜
るんる
るんる
る〜
って
逃げ出した言葉たちは
輪になって踊っていたのであった
詩人は
泣きそうな顔になって
もう寝る
と言って
睡眠誘導剤を飲んで
電灯を消して布団をかぶったのであった
じゃんじゃん


二〇一五年八月二十九日 「逃げ出した言葉を発見!」


偶然に逃げ出した言葉が見つかったのだけれど
どうしてもあきらめきれずに
逃げ出した言葉をさがして
言葉ホイホイまで仕掛けていたのだけれど
詩人は熱しやすくて冷めやすい性格だったし
それに
詩人の頭には
つぎつぎと詩の構想が浮かんでいたので
いつのまにか
逃げ出した言葉のことなど忘れてしまって
言葉ホイホイに捕まった言葉を使って
新しい詩をつくっていた
だから
寝る前に掛け布団を上げたときに
シーツの真ん中に
偶然に逃げ出した言葉を見つけても
もうその言葉を使って
どんな詩をつくるつもりだったのかも
忘れてしまっていたのであった
じゃんじゃん


二〇一五年八月三十日 「言葉ホイホイ。」


詩人は
逃げ出した言葉を
一網打尽にしようとして
言葉ホイホイを買ってきて組み立てた
詩人はそれを
言葉がよく出てくるような
本棚や机の上
枕元に置いていった

何日かして
詩人は言葉ホイホイを見たが
どの言葉ホイホイにも
逃げ出した言葉は捕まっていなかった

言葉ホイホイをあけてみて
詩人はいまさらながら
自分の語彙の少なさに驚くとともに
深い憂鬱にとらわれたのであった
じゃんじゃん


二〇一五年八月三十一日 「言葉の逃亡防止策。」


詩人はスケッチブックをめくると
新しいページの上に
両面テープを全面に貼り付けた
これで言葉が勝手に動けなくなるだろうと思ったからだった
これまでも何度も言葉には逃げられた経験があるのだった
そのたびに詩人はくやしい思いをしてきたのであった
詩人は床の上にいくつかの言葉を並べて
その順番にスケッチブックの上に置いていった
ほとんどの言葉は置かれた場所に貼り付いていたのだけれど
ひとつだけ
置かれた場所が気に入らないのか
どうにかして置かれた場所から離れようとしてもがいていた
詩人は「動くなよ」とつぶやいて
その言葉の端々をおさえて
しっかりと両面テープに貼り付けた
それでもその言葉は
詩人がトイレに行っているあいだに
なんとかしてその貼り付けられた場所から逃げ出したのであった
詩人はトイレからもどってくると
いなくなった言葉をさがした
部屋の隅に置いてある本をどけたり
鞄のなかを見たり
ファイルのメモのなかに隠れていないか
本棚に置いてある本や
ルーズリーフ・ノートをペラペラとめくったりして
はては
CDラックからCDを一枚一枚取り出して
CDの後ろに隠れていないかさがしたり
洗濯物を一枚一枚ひろげたりして
一生懸命さがしたが
逃げ出した言葉はどこにもいなかった
こんなときには「言葉探偵」に頼めばいいんだけど
詩人には「言葉探偵」を雇うお金がなかった
それに「言葉探偵」のところに行ったって
その言葉をさがしているあいだ
いつのまにか
詩人は
その言葉がどんな音をしていたのか
その意味合いやニュアンスがどんなものであったのか
すっかり忘れていたのであった
詩人は
おもむろにスケッチブックから
両面テープを貼り付けたページを破りとって
くしゃくしゃと丸めると
クズ入れのなかに投げ入れた
ああもういやいや
こんどは
両面テープの上に貼り付けたら
その上からセロテープで固定しよう
っと
詩人は
そう思いながら
つくりそこなった作品のことを
いつまでも
ぐずぐずと
ああもったいなかった
もったいなかった
と思いつづけていたのであった
じゃんじゃん


詩の日めくり 二〇一五年九月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年九月一日 「明日」


 ドボンッて音がして、つづけて、ドボンッドボンッって音がしたので振り返ったら、さっきまでたくさんいた明日たちが、プールの水のなかにつぎつぎと滑り落ちていくのが見えた。明日だらけだった風景から、明日のまったくない風景になった。水面をみやると、数多くの明日たちがもんどりうって泳いでた。

 プールサイドには、明日がいっぱい。明日だらけ。たくさんの明日が横たわっている。ひとつの明日がつと起き上がり、プールの水のなかに飛び込んだ。プハーッと息を吐き出して顔をあげる明日。他の明日たちがつと起き上がって、つぎつぎとプールの水のなかに身を滑らせた。ドボッ、ドボッ、ドボッ。 

 明日には明日があるさ。昨日に昨日があったように? 今日に今日があったように? そだろうか。昨日に今日がまじってたり、今日に明日がまじってたり、明日に昨日がまじってたりもするんじゃないのかな。明日には明日があるなんて、信じちゃいけない。明日には明日がないこともあるかもしれないもの。明日が、ぜんぶ昨日だったり、今日だったりすることもあるかもしれないもの。

 明日がプールサイドにいた。プールの水に乱反射した陽の光がまぶしかった。明日がつと駆けるようにしてぼくのほうに近づいてきた。びっくりして、ぼくは、プールに飛び込んだ。プールの水のなかには、さっきのように驚かされて水のなかに飛び込んだ、たくさんのぼくがいた。目をあけたまま沈んでいた。

 ホテルの高階の部屋から見下ろしていると、たとえ明日がプールの水のなかに飛び込んで泳ごうとも、飛びこまずにプールサイドに横たわっていようとも、同じことだった。いる場所をわずかに換えるだけで、ほとんど同じ場所にいるのだから。どの明日もひとつの明日だ。どれだけたくさんの明日があっても。


二〇一五年九月二日 「自由」


 自由の意味はひとによって異なる。なぜなら何を不自由と感じているかで自由の観念が決まるからである。ひとそれぞれ個人的な事情があるのだ。そこに気がつけば、言葉というものが、ひとによって同じ意味を持つものであるとは限らないことがわかるであろう。むしろ同じ意味にとられるほうが不思議だ。


二〇一五年九月三日 「言葉」


 すべての言葉がさいしょは一点に集まっていたのだが、言葉のビッグバン現象によって散らばり、互いに遠ざかり出したのだという。やがて、それらのうちいくつかのものが詩となったり、公的文書となったり、日記となったりしたのだというが、いつの日かまた散らばった言葉が一点に集まる日がくるという。


二〇一五年九月四日 「本の種」


 本の種を買ってきた。まだなんの本になるのかはわからない。読んだ本や会話などから言葉を拾ってきて、ぱらぱらと肥料として与えた。あまり言葉をやりすぎると、根腐りするらしい。適度な余白が必要なのだ。言葉と言葉のあいだに、魂が呼吸できるだけの空白が必要だというのだ。わかるような気がする。


二〇一五年九月五日 「ジャガイモ」


『Sudden Fiction 2』のなかで、もっともまだ3篇を読み直していないのだけれど、それらを除くと、もっとも驚かされたのは、バリー・ユアゴローの作品だったが、さっき読んだペルーの作家、フリオ・オルテガの作品『ラス・パパス』にも驚かされた。なにに驚かされたのかというと、中年の男が幼い息子をひとりで育てているのだが、手料理にジャガイモを使うので、ジャガイモを剥きながら、そのジャガイモについて語りながら、世界の様態について、その詳細までをもきっちりと暴露させているのだった。これには驚かされた。たった一個のジャガイモで世界の様態を暴露させることなど、思いつきもしなかったので、びっくりしたわけだが、もしかしたら、これって、部分が全体を含んでいる、などという哲学的な話でもあるわけなのかな。叙述する対象が小さければ小さいほど効果が大きい、というわけでもあるのかな。それとも、これこそが文学の基本なのかな、とも思った。


二〇一五年九月六日 「前世」


田中宏輔さんの前世は

女の

草で

25年間生きてました!!
http://shindanmaker.com/561522

 サラダと豆腐を買いにコンビニへ。帰ったら、『Sudden Fiction』のつづきを読もう。ぼくの前世は、女の草で、25年生きたらしい。どうして今世では、女の草ではなかったのだろう。それなら、25年くらいの命であったかもしれないのに。54年も生きてしまった。飽き飽きするほど長い。

 本を読むのをやめて、電話をかけようと思って、電話の種を植えた。FBチェックして、10人くらいのFBフレンドの画像に「いいね」して、ツイッターを流し読みした。ピーター・ガブリエルIIIが終わったので、ジェネシスのジェネシスをかけた。電話が生えてきたので手に取って、友だちの番号にかけた。

 溺れないとわからないことがある。痛くないとわからないことがある。うれしくないとわからないことがある。おいしくないとわからないことがある。もう失ってしまった感覚もあるだろうとは思うけれど、できるかぎり書き留めて、再想起させることができるように、生活記録詩も書きつづけていこうと思う。


二〇一五年九月七日 「ヴァレリーが『散文を歩行に、詩を舞踏にたとえた話』について」


 筑摩世界文學大系56『クローデル ヴァレリー』に『詩話』(佐藤正彰訳)のタイトルで訳されているものに、「散文を歩行に、詩を舞踏に」たとえている言葉があるのだが、ヴァレリーも書いているように、これは、ヴァレリーのオリジナルの言葉ではない。しかし、この言葉は、ヴァレリーの言葉として引用されることが多い。というか、ヴァレリーの言葉として流布しているようだ。その理由として、ひとつは、ヴァレリーの名前があまりにも有名なために、ヴァレリーが引用した詩人の名前が忘れられたということもあるのだろうけれど、より大きな原因として考えられるのが、ヴァレリーが、この言葉をより精緻に分析してみせた、ということにもあるのではなかろうか。ヴァレリーは、「この事について私の言いたいところを一層把握し易くするために、私は私の使いなれている一つの比較に頼ることに致しましょう。或る時私が或る外国の町でやはりこうした事柄を話していた折、ちょうどこの同じ比較を用いましたところ、聴衆の一人から、非常に注目すべき一つの引用を示され、それによって私はこの考えが別に事新しいものではないことを知りました。少なくともそれは、ただ私にとってだけしか新しいものではなかったのです。/その引用というのはこうです。これはラカン〔割注:一五八九─一六七〇。田園詩を得意とし、一六〇五年よりマレルブに師事、師についての記録を残す〕がシャブラン〔割注:一五九五─一六七四。当時の文壇に勢力があったが、詩人としてはボワロー等に冷笑されたので有名である〕へ送った手紙の抜萃で、この手紙を見るとマレルブ〔割注:一五五五─一六二八。古典主義詩の立法者といわれる抒情詩人〕は──ちょうど私がこれからしようとしているように、──散文を歩行に、詩を舞踏に類(たぐ)えていたということを、ラカンはわれわれに伝えています。」と言い、はっきりと、自分よりさきに、「散文を歩行に、詩を舞踏に類(たぐ)えていた」のは、マレルブであったと述べているのである。そして、ラカンがシャブランに送った手紙のなかにつぎのように書いていたところを『詩話』に引用している。「予の散文に対しては優雅とでも素朴とでも、快濶とでも、何なりとお気に召す名前をつけなさるがよい。予は飽くまで我が先師マレルブの訓戒を離れず、自分の文章に決して諧調(ノンブル)や拍子を求めず、予の思想を表現し得る明晰さということ以外の他の装飾を求めない覚悟である。この老師(マレルブ)は散文を通常の歩行に、詩を舞踏に比較しておられ、そしてわれわれがなすを強いられている事柄に対しては、多少の疎漏も容赦すべきであるが、われわれが虚栄心からなすところにおいて、凡庸以上に出でぬということは笑うべき所以であると、常々申された。跛者(ちんば)や痛風患者にしろ歩かざるを得ない。だが、彼らがワルツや五歩踊(スインカベース)〔割注:十六世紀から十九世紀に流行した三拍子の快活な舞踏〕を踊る必要は全然ないのである。」この手紙の引用のあと、ヴァレリーは、「ラカンがマレルブの言ったこととしているこの比較は、私は私でかねて容易に気附いていたところでしたが、これはまことに直接的なものです。次にこれがいかに豊穣なものであるかを諸君に示しましょう。これは不思議な明確さを以って、極めて遠くまで発展されるのであります。おそらくはこれは外観の類比以上の何物かであります。」と述べて、このあと精緻に分析しているのだが、それをすべて引用することは控えておく。いくつかの重要なものと思われる部分を引用しておくにとどめよう。ところで、ヴァレリーは、「散文を歩行に、詩を舞踏に」の順にではなく、「歩行を散文に」、「舞踏を詩に」なぞらえているのであって、「散文を歩行に、詩を舞踏に」たとえているのは、あくまでもマレルブ(の言葉)であったことに注意を促しておく。前述したように、この言葉がヴァレリーの言葉のように流布したのは、ヴァレリーの分析の見事さによるところ大なのであろうと思われるのだが、具体的な記述をいくつかピックアップしていく。「歩行は散文と同じくつねに明確な一対象を有します。それは或る対象に向かって進められる一行為であり、われわれの目的はその対象に辿り着くに在ります。」、「舞踏と言えば全く別物です。それはいかにも一行為体系には違いないが、しかしそれらの行為自体の裡に己が窮極を有するものであります。舞踏はどこにも行きはしませぬ。もし何物かを追求するとしても、それは一の観念的対象、一の状態、一の快楽、一の花の幻影、もしくは或る恍惚、生命の極点、存在の一頂上、一最高点……にすぎませぬ。だがそれが功利的運動といかに異なるにせよ、次の単純極まる、とはいえ本質的な注意に留意せられよ。舞踏は、歩行自体と同じ肢体、同じ器官、骨、筋肉、神経を用いるということに。/散文と同じ語、同じ形式、同じ音色を用いる詩についても、全くこれと同様なのであります。」、「されば散文と詩は、同一の諸要素と諸機構とに適用せられた、運動と機能作用との或る法則もしくは一時的規約間の差異によって、区別せられます。これが散文を論ずるごとくに詩を論ずることは慎まねばならぬ所以であります。一方について真なることも、多くの場合、それを他方に見出そうと欲すると、もはや意味を持たなくなります。」、「われわれの比較を今少し押し進めましょう。これは深く究められるに耐えるものがありますから。一人の人が歩行するとします。彼は一つの道に従って一地点から他の一地点に動くが、その道は常に最小労力の道であります。ここに、もし詩が直線の制度に縛られているとしたら、詩は不可能であろうという事に留意しましょう。」、「再び歩く人の例に帰ります。この人が自分の運動を成し遂げた時、自分の欲する地点とか、書物とか、果物とか、対象とかに到達した時、直ちにこの所有ということは彼の全行為を抹消します。結果が原因を啖(くら)い尽し、目的が手段を吸収してしまいます。そして彼の行為と歩き方の様相がいかなるものであったとしても、ただその結果だけしか残りませぬ。マレルブの言った跛者にせよ痛風患者にせよ、向って行った椅子に一度びどうやら辿り着きさえすれば、敏活軽快な足取りでその席に辿り着いたこの上なく敏活な男とでも、着席していることには何の変りもないのであります。散文の使用にあってもこれとまったく同じです。今私の用いたところの言語、私の意図、私の欲求、私の命令、私の意見、私の問い或いは私の答えを表現し終えた言語、己が職責を果したこの言語は、到達するや否や消滅します。私は自分の言辞がもはや存在せぬというこの顕著な事実によって、自分が理解されたということを識るでありましょう。言辞はその意味によって、或いは少なくとも或る意味によって、換言すれば、話しかけられる人の心像、衝動、反応、もしくは行為によって、要するに、その人の内的変改乃至再組織によって、ことごとく且つ決定的に置き換えられてしまうのであります。しかし、理解しなかった人のほうは、それらの語を保存しそしてその語を繰り返すものです。実験は造作ありません……。」、「他の言葉で申せば、種類上散文であるところの言語の実用的或いは抽象的な使用においては、形式は保存されず、理解の後に残存しない。形式は明晰さのなかに溶解します。形式は働きを済ませたのであり、理解せしめたのであり、生をおえたのであります。」、「ところがこれに反し、詩篇は用を勤めたからといって亡びませぬ。これは明瞭に、己が死灰より甦り、今まで自からが在ったところに無際限に再び成るように、できているのであります。/詩は次の著しい効果によって識別されるのであり、これによってよく詩を定義し得るでもありましょう。すなわち、詩は己が形式の中に己れを再現しようとし、詩はわれわれの精神を促してそれを在るがままに、再建させるようにするということ。仮に敢えて工業上の術語から借りた語を用いるとすれば、詩的形式は自動的に回復されるとでも申しましょう。/これこそすべての中でも特に讃嘆すべき特徴的な一固有性であります。(…)」、「しかし繰り返し申しますが、文学的表現のこの両極端の間には無数の段階、推移形式が存在するのであります。」云々、延々とつづくのである。ヴァレリーのこの追求癖がぼくは大好きなんだけどね。「散文を歩行に、詩を舞踏に」たとえたのが、ほんとうはマレルブが最初なのに、ヴァレリーが最初に述べたかのように多くのひとが誤解しているのも、このヴァレリーのすさまじい分析的知性のせいなのだろうけれど、このような誤解というのも、あまりめずらしいことではないのかもしれない。だって、リンカーンの言葉とされるあの有名な「government of the people, by the people, for the people 人民の、人民による、人民のための政治」っていうのも、じつはリンカーンがはじめてつくった言葉じゃないものね。ぼくの記憶によると、たしか、リンカーンが行った教会で、牧師が説教に使っていた言葉を、リンカーンが書き留めておいて、あとで自分の演説にその言葉を引用したっていう話だったと思うけれど、違うかな。ノートがなかったので、教会の信者席で、持っていた封筒の裏に書き留めた言葉だったように思うのだけれど。

Ainsi, parall&egrave;lement &agrave; la Marche et &agrave; la Danse, se placeront et se distingueront en lui les types divergents de la Prose et de la Po&eacute;sie.

 ここかな。ヴァレリーが「散文を歩行に、詩を舞踏に」たとえたってところは。フランス語ができないので、フランス語ができる方で、どなたか教えてくださらないでしょうか。この原文からコピペした箇所であっているでしょうか。よろしければ、教えてください。

 ちなみに、件の箇所が載っているヴァレリーの『詩話』(『詩と抽象的思考』というのが原文のタイトルの直訳です。)の原文がPDFで公開されています。フランス文学界ってすごいですね。ここです。→ http://www.jeuverbal.fr/poesiepensee.pdf


二〇一五年九月八日 「子ども時代の写真」


ぼくは付き合った子には、かならず子ども時代の写真を見せてもらう。


二〇一五年九月九日 「言葉じゃないやろと言ってたけど、」


 愛が答えだと思ってたけど、答えが愛だったんだ。愛が問いかけだと思ってたけど、問いかけが愛だったんだ。簡単なことだと思ってたけど、思ってたことが簡単だったんだ。複雑だと思ってたけど、思ってたことが複雑だったんだ。言葉じゃないやろと言ってたけど、言ってたことが言葉じゃなかったんだ。


二〇一五年九月十日 「吐く息がくさくなる言葉」


吐く息がくさいとわかる言葉だ。という言葉を思いついた。

吐く息がくさくなる言葉だ、という言葉を思いついた。

吐く息がくさくなるような言葉だ、という言葉を思いついた。


二〇一五年九月十一日 「おでん」


 きょうは塾の時間まで読書。『Sudden Fiction』も、おもしろい。いろんな作家がいて、いろんな書き方があって、というところがアンソロジーを読む楽しみ。詩人だって、いろいろいてほしいし、詩だって、いろいろあったほうが楽しい。トルタから10月に出る、詩のアンソロジーが楽しみ。『現代詩100周年』という詩のアンソロジーだけど、100人近くの詩人の作品が収録されているらしく、ぼくも書いている。ぼくのは、実験的な作品で、見た瞬間、好かれるか、嫌われるかするだろう。

 お昼は、ひさしぶりにお米のご飯を食べよう。さっき、まえに付き合ってた子が顔をのぞかせたので、「ダイエットしてるんやけど、足、細くなったやろ。」と言って足を見せたのだけど、「わからへん。」やって。タバコ買っておいてやったのに、この恩知らず。と思った。あ、気が変わった。ひさしぶりにブレッズ・プラスに行って、BLTサンドイッチのランチセットを食べよう。たまにはダイエットをゆるめてもいいやろと思う。足が細くなったような気がするもの。これはほんと。

 ああ、おでんが食べたい。そのうちつくろ。ダイエットと矛盾せんおでんはできるやろか。だいこんは必須や。嫌いやけど。油揚げは、ああ、大好物やけど、あかんやろなあ。竹輪はええかな。あかんかな。卵も大好物やけど、あかんな。昆布巻きはええかな。いっそ筑前煮にしたろかな。憎っくきダイエット。涙がにじんでしもたわ。情けない。齢とると、こんなことで悲しなるんやな。身体はボロボロになるし、こころもメタメタ弱ってる。でも、それでええんやと思う。いつまでも最強の状態やったら、弱ったひとの気持ちがわからんまま生きて死ぬんやからな。それでええんや。ゴボ天が大好物やった。忘れてたわ。あと、コロも食べたい。スジ肉も食べたい。巾着も食べたい。タコはいらんわ。あれは外道や。おでんの出しの味が悪くなる。いや、筑前煮にするんやった。おでんのほうが好きやけど。こんにゃくも好き。三角のも、糸こんにゃくも好き。

彼女を筑前煮にしてみた。けっこうおいしかった。鶏肉より豚肉に近かったかな。椎茸とか大根とか人参とかの味がしみておいしかった。ちょっと甘めにしたのがよかったみたい。


二〇一五年九月十二日 「コップのなかの彼女の死体」


 コップのなかに彼女の死体が入っていた。全裸だった。ぼくがコップに入れた記憶はないのだけれど。コップをまわして、彼女の死体をさまざまな角度から眺めてみた。生きていたときの美しさと違う美しさをもって、彼女はコップのなかで死んでいた。コップごと持ち上げて、それを傾けて彼女の死体を皿のうえに落とした。彼女の死体は音を立てて皿のうえに落ちた。アイスペールのなかの氷を一つアイストングでつかみ取り、氷を彼女の死体におしあてた。うつ伏せの彼女の肩から背中に、背中から腰に、腰から尻に、尻から太もも、脹脛、踵へとすべらせると、アイストングの背で彼女の死体を仰向けにして、氷を、彼女の顔から肩に、肩から胸に、胸から腹部に、腹部から股に、股から太もも、膝、膝、足首へとすべらせた。彼女の死体のうえでゆっくりと氷が溶けていく。彼女の死体のうえを何度も何度も氷がすべる。小さくなった氷をアイスペールに戻して、彼女の死体にナプキンの先をあてて水気をとっていく。皿に零れ落ちた水もナプキンの先で吸い取る。さあ、食事だ。クレーヴィーソースを彼女の死体にかけて、彼女の死体を切り分けていく。フォークの先で彼女の二の腕を押さえ、ナイフで彼女の肘関節を切断する。ほんとによく切れるナイフだ。思わず笑みがこぼれてしまう。鋭くとがったフォークの先で、切り取った彼女の腕を突き刺して、口元にもっていった。


二〇一五年九月十三日 「彼女の肉、肉の彼女」


 買ってきた肉に「彼女」という名前をつけてみた。レジで支払ったお金に「彼女」という名前をつけてみた。部屋に入るときにポケットから出す鍵に「彼女」という名前をつけてみた。ベランダに置いてあるバケツに入れた洗剤をうすめてつけておいた洗濯物の一つ一つに「彼女」という名前をつけてみた。

いま、彼女が洗濯機のなかでくるくる回っている。


二〇一五年九月十四日 「なぜ詩を書くのか」


 きょうは学校だけ。しかも午前中で終わり。楽だ〜。帰りにブレッズ・プラスによって、BLTサンドイッチのランチセットを食べよう。はやめに行って、ルーズリーフ作業でもしよう。『Sudden Fiction』に書いている作家たちの「覚え書」に詩論のためになるような、ものの見方が書いてある。とはいっても、70人近くの作家たちのうちの数十人の数十個の覚え書のうち、ルーズリーフに書き写して、ぼくの見解を付け加えるのは、4、5人のものだけど。それでも、この本はそれだけでも価値はあった。「違いがないものを区別する」とか考えさせられる言葉だ。「名前を決めるのは、それへの支配力を唱えるようなものだ」というのだけれど、ここから「言葉を使って詩句にするのは、その対象となっていることをまだ理解できなかったためではないのか。言葉にすることで理解しようとしているのではないだろうか」と思ったのだ。


二〇一五年九月十五日 「ダイエットの結果」


 9月は仕事がタイトなのだけれど、その9月も半分近く終わった。すずしくて読書をするにはふさわしい時節だし、大いに読書したい。日知庵でお茶を飲んで、ししゃもとサラダを食べた。えいちゃんが体重計を出してくれたので載ったら82・6キロだった。服の重さを引くと81キロ弱。1か月前と比べると、4キロの減量だから、このまま順調に減量できたら、月に4キロの減量で、20カ月後には体重ゼロだ。帰りに、ジュンク堂で、ジーン・ウルフの短篇集と、ジャック・ヴァンスの短篇集と、池内紀訳のゲーテのファウスト・第二部を買った。第一部はブックオフで買ってた。


二〇一五年九月十六日 「なぜ詩を書くのか」


 中学1年のときにはじめてレコードを買った。ポール・マッカートニーの『バンド・オン・ザ・ラン』だ。小学校のときから、ビートルズやプロコムハルムといったポップスやガリ・コスタやマロといったラテンを親の影響で聴いていたが、自分でLPを買ったのははじめてだった。所有するということの喜び。音楽を所有することのできた喜びは、ほかの喜びとは比較にならないくらいに大きかった。25才までに本を読んだことはあった。でも、自分で買った本は1冊もなかった。すべて親が持っていた本を読んでいたからだ。親が純文学だけでなくミステリーとSFも読んでいた。親が外国文学を好きだったので、当時に翻訳されたミステリーやSFはほとんど読んでいた。親のもとを離れて一人暮らしするようになり、小説家を目指して勉強をしないといけないと思い、ギリシア神話や聖書を、また外国の古典的な作品を一通り読んだ。でも、本をいくら買っても所有しているという喜びはなかった。40代になって、不眠症にかかり、鬱状態になってはじめて、SF小説のカヴァーの美しさに気がついた。そこで、手に入るものはすべて手に入れた。ようやくここで、本を所有する喜びにはじめて遭遇したのだった。おそらく、それは病的なまでのものであったのだろう。古書のSFの場合、カヴァーのよい状態のものを手に入れるために、同じ本を5冊買ったりもしたのだった。きのう買ったジーン・ウルフの新刊本にクリアファイルでカヴァーをつくるときに、表紙の角を傷つけてしまって、しゅんとなったのだが、むかしなら新しく買い直したかもしれない。でも、少し変わったのだろう。あきらめのような気持ちが生じていたのだ。表紙は本を所有することの喜びの小さくない部分であったのだが、しゅんとはなったが、なにかが気持ちに変化をもたらせたのだ。年齢からくるものだろうか。若さを失い、見かけが悪くなり、身体自体も健康を損ない、みっともない生きものになってしまったからだろうか。そんなふうに考えてしまった。そして、ここから言葉の話になる。ぼくが作品にしたときに、ぼくが対象としたもの、それは一つの情景であったり、一つの出来事であったり、一つの会話であったり、一つの表情であったり、そういった目にしたこと、耳にしたこと、こころに感じたことを、なんとか言葉にしてみて再現しようとして試みたものであったのだろうか。ぼくの側からの一方的な再構築ではあるし、それはもしかしたら、相手にとっては事実ではないことかもしれないけれど。しかし、言葉にすることで、ぼくは、姿を、態度を、声を、言葉を所有したような気がしたのだ。『高野川』がはじめて書いた詩だと言っている。事実は違っていて、中学の卒業文集に書いた『カサのなか』がはじめて書いたもので、のちにユリイカの1990年の6月号の投稿欄に掲載されたのだが、詩という意識はなく書いたものであった。自分が意識して詩を書いたものとしては、ユリイカの1989年8月号の投稿欄に掲載された『高野川』がはじめてのものであった。この『高野川』は事実だけを書いた。ぼくの初期の詩は、いまでも大部分そうだが、事実のコラージュによってつくったものが多くて、『高野川』は、ぼくが大学3年のときに付き合っていたタカヒロとのときのことを書いたものだった。書いたのは28才のぼくであったので、5年前に終わっていた二人のことを書いたのだが、2才年下の彼の下宿に行くときに、高野川のバス停でバスを待っているあいだのぼくの目が見た川の情景と、その川に投げ捨てたタバコの様子について書いたものだったのだが、この『高野川』を書いたときにはじめて、そのときの自分の気持ちがはっきりとわかったような気になったのだった。言葉を紙のうえに(当時は紙のうえに、なのだ)書いて、詩の形をとらせて言葉を配置して、何度も繰り返して自分で読み直して、完璧なものに仕上げて、はじめて、自分のそのときの気持ちを、その詩のなかに書き写すことができたと思ったのだ。『高野川』を書くことで、自分の過去の一つをようやく所有することができたと思ったのだった。そのことは、タカヒロと付き合ったさまざまな時間と場所と出来事を思い起こすことのできる一つの契機となるものだった。詩を獲得することで、ぼくは自分の時間と場所と出来事を獲得したのである。そういった詩をいくつも所有している。そりゃ、詩を書くことは、ぼくにはやめられないわけだ。実験的な詩は、こういった事情とは異なるが、根本においては変わらないと思う。さまざま音楽や詩や小説を読む喜びに通じるような気がする。『全行引用詩』や『順列 並べ替え詩。3×2×1』や『百行詩。』や『数式の庭。』や『図書館の掟。』や『舞姫。』や『陽の埋葬』などは、じっさいの体験の痕跡はほとんどない。「先駆形」でさえ体験は少ない。では、なぜ詩にするのだろうか。事実とか、じっさいの時間や場所や出来事だけが、ぼくの生の真実を明らかにするものではないからだ。言葉自体をそれとして所有することはできないが、言葉が形成する知や感情というものを所有することはできる。事実とかじっさいの時間や場所や出来事ではないものが、ぼくが気がついていなかった、ぼくが所有するところのものを、ぼくに明らかにしてくれるからなのであった。ぼくは欲が深いのだろうか。おそらくめちゃくちゃ深いのだろうと思う。54才にもなって、まだ自分の知らない自分を知りたいと思うほどに。最終的に、ぼくは言葉を所有することはできないだろう。ぼくは、ぼくの詩を所有するほどには。しかし、それでいいのだ。言葉はそれほどに深く大きなものなのだ。少なくとも、ぼくは言葉によって所有されているだろう。ぼくの詩がぼくを所有しているほどには。いや、それ以上かな。すべてのはじまりの時間と場所と出来事がいつどこでなにであったのか、それはわからないけれど、ぼくがつぎに書こうとしている長篇詩『13の過去(仮題)』は、それを探す作業になるのだなとは思う。すべてのものごとにはじまりがあるとは限らないのだけれど。いや、やはり、すべてのものごとにははじまりがあるような気がする。それは一つの眼差し、一つの影、一つの声であったかもしれない。それを求めて、書くこと。書くことによって、ぼくは、ぼくを獲得しようと目論んでいるのだ。なぜこんなものを書いたのかと言うと、『Sudden Fiction』に収録されているジョン・ルルーの『欲望の分析』に、「私は愛している。でも私は愛に所有されてはいないのだ」(村上春樹訳)という言葉があって、「愛」を「言葉」にしてふと考えたのだった。


二〇一五年九月十七日 「セックスとキス」


セックスがじょうずだと言われるよりも、キスがじょうずだと言われるほうがうれしい。なぜだかわからないけど。


二〇一五年九月十八日 「正常位と後背位」


正常位にしろ、後背位にしろ、どちらにしたって、みっともない。だからこそ、おもしろいのだろうけど。


二〇一五年九月十九日 「動物園」


彼女と動物園に行った。彼女を檻のなかに放り込んだ。檻のなかは彼女たちでいっぱいだった。


二〇一五年九月二十日 「栞」


 聖書、イメージ・シンボル事典、ギリシア・ラテン引用語辭典、ビジュアル・ディクショナリーをのけて、府民広報のチラシにはさんでおいた彼女を取り出した。栞にしようと思って、重たい本の下に敷いていたのだった。ぺらぺらになった彼女は、栞のように薄くなっていた。本の隙間から彼女の指先が覗く。


二〇一五年九月二十一日 「写真」


 付き合ってた子たちの写真を捨てようと思って、ふと思いついて、ハサミとセロテープを用意した。顔のところをジョキジョキと切っていった。何人かの耳を切り取って一つの顔の横にセロテープで貼りつけた。いまいちおもしろくなかった。ひとつの顔から両眼を切り取って、別の顔のうえに貼りつけてみた。これはおもしろかった。めっちゃたれ目にしたり、つり目にしたりした。そのうちこれにも飽きて、いくつかの首を切り取って首長族みたいにしたりしてみた。こんなんだったら付き合ってないわなとか変なこと考えた。ぼくの恋人たちも、ぼくの写真で遊んだりしたのかな。


二〇一五年九月二十二日 「読んでいるときの自分」


 詩や小説で陶然となっているときには、自分ではないものが生成されているような気がする。詩集や本を手にもっているのは、ぼくではないぼくである。ぼくという純粋なものは存在しないとは思うのだけれど、あきらかに、その詩集や本を手にとるまえのぼくとは異なるぼくが存在しているのである。そういった生成変化を経てなお存続つづけるものがあるだろうか。自我はつねに変化を被る。おそらく存続しつづけるものなどは、なにひとつないであろう。おもしろい。むかし、ぼくは30才くらいで詩を書く才能は枯渇すると思っていた。老いたいまとなっては笑い草だ。こんど思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作』上下巻も、来年出す予定の『詩の日めくり』も、齢老いたぼくが書いたものなのだ。上質の文学作品に接するかぎり、よい影響があるであろう。未読の本のなかにどれだけあるかわからないけど、がんばって読もう。


二〇一五年九月二十三日 「平凡な言葉」


 ジャック・マクデヴィッドの『探索者』を読み終わった。凡作だった。なんでこんな平凡なものが賞を獲ったのかわからない。ルーズリーフにメモするのも一言だけ。「恋っていうのはいつだってひと目惚れですよ」(金子浩訳)。これまた平凡な言葉だ。きょうからお風呂場で読むのは、フィリップ・クローデルの『ブロデックの報告書』にする。ひさびさに純文学である。絶滅収容所でユダヤ人の裏切り者だったユダヤ人の物語らしい。徹底的に暗い設定である。まあ、ダン・シモンズの『殺戮のチェスゲーム』もえげつなかったけれど、あれはファンンタジーだからねぇ。お風呂に入るまえに、先に読んでいるのだけれど、ユダヤ人を裏切ったというのじゃなくて、ドイツ人に犬のように扱われたから犬として過ごしたということらしい。名誉を重んじたユダヤ人は処刑されたらしい。絶滅収容所、なんちゅうところやろか。20世紀の話である。


二〇一五年九月二十四日 「さいきん流行ってること」


 さいきん言葉を飼うのが流行っているらしい。水槽に入れて飼っているひともいれば、鳥籠に入れて飼っているひともいる。ぼくも自分の頭のなかに飼うことにした。餌はじっさいの会話でもいいし、読んだ本でもいいし、たえず言葉をやることに尽きた。ぼくは新鮮な言葉をいつもやれるようにしてやってる。

 さいきん感情を飼うのが流行っているらしい。水槽に入れて飼っているひともいれば、鳥籠に入れて飼っているひともいる。ぼくも自分の心の中に飼うことにした。餌はじっさいの体験でもいいし、読んだ本からでもいいし、絶えず感情を喚起させること。ぼくは新鮮な感情をいつでも絶やさないようにしてる。

 さいきん知識を飼うのが流行っているらしい。水槽に入れて飼っているひともいれば、鳥籠に入れて飼っているひともいる。ぼくも自分の頭のなかに飼うことにした。餌はじっさいの会話からでもいいし、読んだ本からでもいい。たえず知識を増やすことに尽きた。ぼくは新鮮な知識をいつもやることにしてる。

 さいきん父親を飼うのが流行っているらしい。水槽に入れて飼っているひともいれば、鳥籠に入れて飼っているひともいる。ぼくも自分の思い出のなかに飼うことにした。餌はじっさいの思い出でもいいし、空想の思い出でもいいのだ。たえず思い出をやることに尽きた。ぼくは新鮮な思い出をいつもあげてる。

 さいきん水を飼うのが流行っているらしい。ふつうに水槽に入れて飼うひともいれば、鳥籠に入れて飼うひともいる。ぼくも頭のなかに水を飼うことにした。頭をゆらすと、たっぷんたぷん音がする。水の餌には水をやればいいだけだから、餌やりは簡単プーだ。ぼくもいつも新鮮な水を自分の頭にやっている。


二〇一五年九月二十五日 「読むことについての覚書」


 作品を読んで読み手が自分の思い出を想起させて作品と重ね合わせて読んでしまっていたり、作品とは異なる状況であるところの読み手の思い出に思いを馳せたりしているとき、読み手はいま読んでいる作品を読んでいるのではない。読み手は自分自身を読んでいるのである。


二〇一五年九月二十六日 「表現」


 言葉だけの存在ではないものを言葉だけで存在せしめるのが文学における技芸であり、それを表現という。


二〇一五年九月二十七日 「さいごの長篇詩について」


 きょうから、『アガサ・クリスティ自伝』上下巻を読む。今朝から読んでいる。上流階級の御嬢さんだったのだね。ぼくん家にも、お手伝いさんがいたのだけれど、クリスティー家には、ばあやのほかに料理人や使用人もいたのだった。ぼくは親に愛されなかったけれど、クリスティーの親は愛情があったみたい。ぼくは、ぼくのほんとのおばあちゃん子だった。うえの弟の乳母の名前はあーちゃんだった。したの弟の乳母は、ぼくは、中島のおばあちゃんと呼んでいた。親もそう呼んでいたと思うけれど、弟たちだけに乳母がいるのは、とても不公平な気がしたものだった。ふたりの乳母は同時期にやとってはいなかった。うえの弟の乳母のほうが、もちろん先で、下の弟が生まれたときにやめてもらって、新しいお手伝いのおばあさんになったのだった。どうしてうえの弟がなついていた乳母をやめさせて新しいお手伝いのおばあさんにしたのかはわからない。うえの弟は、なにかというと、ぼくをバカにしたので大嫌いだった。ぼくのほんとのおばあちゃんは、ぼくだけをかわいがったので、親は弟のために乳母をやとったのかもしれない。だからなのか、ぼくは、うえの弟の乳母のことも嫌いで顔も憶えていない。ただ、したの弟の乳母よりは太っていたような気がする。顔が丸みをおびた正方形だったかなとは思うのだけれど、記憶は定かではない。その目鼻立ちはまったく不明だ。いま、ぼくと弟とは縁が切れているので、弟の写っている写真が手元にはなく、写真では確認できないけれど。ぼくの新しい長篇詩『13の過去(仮題)』は、このような自伝を、引用のコラージュと織り交ぜてつくるつもりだ。現実のぼくの再想起だが、時系列的に述べるつもりはない。あっちこっちの時間を行き来するし、ぼくの過去の作品世界とも出入りするので、幻想小説的でもあり、SF小説的でもあり、ミステリー小説的でもある。『図書館の掟。』、『舞姫。』、『陽の埋葬』の設定世界のあいだに、現実世界の描写を切り貼りしていくのだ。いや、逆かもしれない。現実世界のなかに、それらの設定世界を切り貼りしていくのだ。また、それらの設定世界同士の相互侵入もある。まあ、もともと、ぼくは、ぼくが書いたものをぜんぶ一つの作品の一部分だと思ってきたから、自然とそうなるようなものをつくっていたのだろうけれど。引用だけで自伝をつくる試みも同時にしていくつもりだけれど、そのタイトルは、そのものずばり、『全行引用による自伝詩の試み。』である。『13の過去(仮題)』をつくりながら、楽しんでつくっていこうと思う。これらがぼくに残されたぼくの寿命でぼくが書き切れるぼくのさいごの長篇詩になると思う。10年以上かかるかもしれないけれど、がんばろう。


二〇一五年九月二十八日 「戦時生活」


 戦争がはじまって、もう一年以上になる。本土にはまだ攻撃はないけれど、もしかすると、すでに攻撃はされているのかもしれないけれど、情報統制されていて、ぼくたちにはわからないだけなのかもしれない。町内会の掲示板には、日本軍へ入隊しよう! などというポスターが何枚も貼られていた。というか、そんなポスターばかりである。第二次世界大戦のときには、町内会で防火訓練などが行われたらしい。こんどの戦争でも、そんな訓練をするのだろうか。そういえば、祖母が、国防婦人会とかいう腕章をつけた着物姿で何人もの女性たちといっしょに、写真に写っていた。当時の女性たちの顔は、どうしてあんなに平べったいのだろう。ならした土のように平らだ。鼻が小さくて低い。いまの女性たちの鼻よりも小さくて低いのだ。食べ物が違うからだろうか。そういえば、祖父は軍人で戦死したので、天皇陛下から賞状をいただいていた。まあ、戦争のことは、おいておこう。いまのところ、ぼくの生活にはほとんど影響がない。むかしの戦争では、一般市民が食べ物に困るようなことがあったらしい。それに資料によると、戦地では兵士たちがたくさん餓死したという。考えられないことだ。そんな状況なんて。現代の戦争では、兵士はべつに戦地に赴く必要はない。遠隔操作で闘っているからである。戦地では、ロボットたちが敵を殺戮しているのである。それには、ミリ単位以下のナノ・ロボットたちから、30メートル級の巨大ロボットまでが含まれる。ぼくの部屋にはテレビはないし、テレビ自体、もう30年以上も目にしていないのだけれど、チューブにアップされている映像や、ネットのニュースで見る限りでは、日本は負けていないようだ。もう一年以上も戦争がつづいているのだから勝っていると言えるとは思わない。読書に戻ろう。『アガサ・クリスティー自伝』上巻、半分くらい読んだ。メモするべきことはそれほどないのだが、驚くべき記憶力に驚かされている。それと、クリスティーが数学が好きだったこと、小説家になっていなければ数学者になっていただろうという記述があった。数学が好きで、また得意であったらしい。ミステリーの女王らしい記述であった。読書に戻るまえに、お昼ご飯を買いにセブンイレブンに行こう。さいきん、サラダとおにぎりばっかり買っている。このあいだ、ネットのニュースを見ると、平均的サラリーマンの昼食らしい。


二〇一五年九月二十九日 「二十八歳にもなつて」


 ブックオフでホイットリー・ストリーバーの『ウルフェン』を108円で買った。ストリーバーは、ぼくのなかでは一流作家ではないけれど、集めていたから、よかった。『ウルフェン』は意外に手に入りにくいものだった。ハヤカワ文庫のモダン・ホラー・コレクションの1冊である。きのう、『アガサ・クリスティー自伝』のルーズリーフ作業をしたあと、塾に行ったのだが、引用したページ数の484が気になっていたら、ふと、484が22の2乗、つまり22×22=484であることに気がついたのであった。でも、そのことはすぐに忘れてしまって、塾で授業をしていたのだった。ところで、けさ、学校に行くために通勤電車に乗っているときに、ふと、147ページとかよく引用するときに目にするページ数があるなあと思ったのであった。147という数字になにか意味はあるだろうかと思って、まずこれは3桁の数であるなと思ったのだった。1と4と7を並べると、3ずつ大きくなっているなと思ったのだが、それではおもしろくない。ふうむと思い、一の位の数と百の位の数を足して2で割ると、銃の位の数になるなと木がついたのであった。そういう数字を考えてメモ帳に書いていった。123、135、159、111。そして、これらの数がすべて3の倍数であることにも気がついたのであった。なぜ3の倍数になっているかといえば、と考えて証明もすぐに思いついたのであった。一の位の数を2m&#8722;1、百の位の数を2n&#8722;1とすると、十の位の数は(2m&#8722;1+2n&#8722;1)÷2=m+n&#8722;1となり、各位の数を足すと、2m&#8722;1+m+n&#8722;1+2n&#8722;1=3m+3n&#8722;3=3(m+n&#8722;1)=3×(自然数)=3の倍数となり、各位の数を足して3の倍数になっているので、もとの数は3の倍数であることがわかる。まあ、たった、これだけのことを地下鉄電車のなかで考えていたのだけれど、武田駅に着くと、なぜ147ページという具体的な数字が、ぼくの記憶に強く残っているのかは、わからなかった。いつか解明できる日がくるかもしれないけれど、あまり期待はしていない。数字といえば、きょう、『Sudden Fiction』を読んでいて、333ページに、「死体は五十四歳である。」(ジョー・デイヴィッド・ベラミー『ロスの死体』小川高義訳)という言葉に出合った。ぼくは54才である。そいえば、はじめて詩を書いたのが28才のときのことだったのだが、アポリネールの詩を読んでいたときのことだったかな。『月下の一群』を手に取って調べよう。あった。「やがて私も二十八歳/不満な暮しをしてゐる程に」(アポリネール『二十日鼠』堀口大學訳)これと、だれの詩だったか忘れたけれど、「二十八歳にもなって詩を書いているなんて、きみは恥ずかしいとは思わないかい?」みたいな詩句があって、その二つの詩句に、ぼくが28才のときに出合って、びっくりしたことがある。その二つの詩句は、どこかで引用したことがあるように記憶しているので、過去の作品を探れば出てくると思う。お風呂に入って、塾に行かなければならないので、いま調べられないけれど、帰ってきたら、過去に自分が書いたものを見直してみよう。あまりにも膨大な量の作品を書いているので、きょうじゅうに見つからないかもしれないけれど。

 塾から帰った。疲れた。きょう探すのはあきらめた。クスリのんで寝る。あ、333も、一の位の数の奇数と百の位の数の奇数の和を2で割った値が十の位の数になっているもののひとつだった。111、333、555、777、999ね。

すでに二十八歳になった僕は、まだ誰にも知られていないのだ。
(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

二十八歳にもなつて、詩人だなんて云ふことは
樂しいことだと、讀者よ、君は思ふかい?
(フランシス・ジャム『聞け』堀口大學訳)

やがて私も二十八歳
不満な暮しをしてゐる程に。
(アポリネール『二十日鼠』堀口大學訳)


二〇一五年九月三十日 「吉田くん」


 吉田くんは、きょうは、午前5時40分に東から頭をのぞかせてた。午後6時15分に西に沈むことになっている。

 吉田くんが治めていたころの邪馬台国では、年100頭の犬を徴税していたという。そのため、吉田くんが治めていた時期の宮殿は犬の鳴き声と糞尿に満ちていたらしい。犬のいなくなった村落では、犬がいなくなったので、子どもたちを犬のかわりに飼っていたという。なぜか、しじゅう手足が欠けたらしい。

 吉田くんは太く見えるときは太く見えるし、細く見えるときは細く見える。広口瓶に入れると、太く見える。細口瓶に入れると細く見える。いずれにせよ、肝心なのは、ひとまず瓶の中に入れることである。

 吉田くんは空気より軽いので、吉田くんを集めるときは、上方置換法がよい。純粋な吉田くんを集めようとして、水上置換法で集めることはよくない。吉田くんは水によく溶ける性質をもっているので、水上置換法で集めることは困難だからである。

 1個のさいころを投げる試行において、偶数の目が出る事象をA、6の約数の目が出る事象をBとする。事象A∩Bが起こったときは吉田くんの脇をくすぐって笑わせ、事象A∪Bが起こったときは吉田くんの足の裏をくすぐって笑わせるとする。このとき、吉田くんがくすぐられても笑わない確率を求めよ。

 吉田くんを切断するときは、水中で肩から腹にかけて斜めに切断すると、水に触れる断面積が大きくなるのでよい。水中で切断するのは、空気中では出血した水が飛び散るからである。切断面から水を吸収した吉田くんは、すぐさま元気を取り戻して生き生きとした美しい花をたくさん咲かせていくはずである。

 吉田くんは立方体で、上下の面に2本ずつの手がついており、4つの側面に2本ずつの足がついている。顔は各頂点8つに目と鼻と耳と口が対角線上に1組ずつついている。吉田くんを地面に叩きつけると、ポキポキと気持ちのよい音を立てて、よく折れる。


二〇一五年九月三十一日 「ナボコフ全短篇」


 チャールズ・ジョンソンの『映画商売』という作品が『Sudden Fiction』に入っていて、それなりにおもしろかったのだけれど、最後のページに、「論理学では必要にして充分とかというのだろうが」(小川高義訳)というところが出てきて、びっくり。高校の数学で出てくる「論理と証明」で、「必要」と「十分」という言葉を習ったと思うのだけれども、「十分」であって、「充分」ではないし、それにそもそも、「十分」と「充分」では意味が異なるのに、この翻訳者には、高校程度の数学の知識もないらしい。翻訳を読む読者にとって、とても不幸なことに思う。

 きょうは、お昼に、ジュンク堂に行った。コンプリートにコレクトしてる3人の作家の新刊を買った。イーガンの『ゼンデキ』、R・C・ウィルスンの『楽園炎上』、ブライアン・オールディスの『寄港地のない船』。それと、持っている本の表紙が傷んでいるので、池内紀訳『ファウスト』第一部を買い直した。

大気の恋。偶然機械。

 ナボコフの『全短篇集』を読む。獣が自分のねぐらを自分で見つけなければならないように、人間も自分の居場所を自分で見つけなければならない。そもそも、人間は自分が歓迎される場所にいるべきだし、歓迎してくれた場所には敬意を払い感謝すべきものなのである。敬意と感謝の念を湧き起こせないような場所には近寄る必要もないのだ。この言葉は、「さあ、行きなよ、兄弟、自分の茂みを見つけるんだ」(ナボコフ『森の精』沼野充義訳)を読んで思いついたもの。まあ、ふだんから思っていることを、ナボコフの言葉をヒントにして言葉にしてみただけだけど。まだ短篇、ひとつ目。十分に読み応えがある。

世界とは、別々のところに咲いた、ただ一つの花である。

これは、「もはや、樹から花が落ちることもない、」(ナボコフ『言葉』秋草俊一郎訳)を目にして、「花はない。」を前につけて、全行引用詩に使えるなと思ったあとで、ふと思いついた言葉。ちょっとすわりがわるいけれど、まあ、そんなにわるい言葉じゃないかな。

「その湿り気のある甘美な香りは、私が人生で味わったすべての快きものを思い出させた。」(ナボコフ『言葉』秋草俊一郎訳)なんだろう、このプルーストっぽい一文は。初期のナボコフの短篇は修飾語が過多で、ユーモアにも欠けるところがあるようだ。直線的な内容なのにやたらと修飾語がつくのである。偉大な作家の習作時代ということかもしれない。世界的な作家にも、習作時代があるということを知るためだけでも読む価値はあるとは思うけれど、なんで、文系の詩人や作家のものは修飾語が多いのだろうかと、ふと思った。ぼくの作品なんか、構造だけしかないものだ。

 天使の顔の描写に、「唯一の奇跡的な顔に、私がかつて愛した顔すべての曲線と輝きと魅力が結晶したかのようだった。」(ナボコフ『言葉』秋草俊一郎訳)というのがあって、ここは、ヘッセの『シッダールタ』のさいごの場面からとってきたのだなと思われた。偉大な作家も、習作時代は、他の詩人や作家の影響がもろに出るのだなと思われた。ホフマンスタールを読んでいるかのような気がした。ナボコフはドイツ文学が好きだったのかな。いま読んだ2篇とも、描写に同性愛的な傾向が見られるのも、そのせいかもしれない。ホフマンスタールがゲイだったかどうかは知らない。ただホフマンスタールの書くものがゲイ・テイストにあふれているような気がするだけだけれど。まあ、ドイツ系の作家って、ゲーテみたいに、バイセクシャルっぽい詩人や作家もいる。ゲオルゲはたしかゲイだったかな。まあ、そんなことは、どうでもよいか。

 3篇目の『ロシア語、話します』は完全にナボコフだった。さいしょの2篇は『全短篇集』から外した方がよかったと思われるくらい、出来がよくなかったものね。でも、まあ、ナボコフ好きには、あまり気にならないのかもしれない。ぼくはナボコフの作品を大方集めたけれど、途中で読むのをやめたのが2冊、売りとばしたのが2冊、未読のものが多数といった状態で、この『全短篇集』は、気まぐれで読んでいるだけである。『プニン』『青白い炎』『ロリータ』『ベンドシニスター』『賜物』はおもしろかった。そいえば、書簡集の下も途中で読むのをやめたのだった。

 ナボコフの4つ目の短篇『響き』(沼野充義訳)もナボコフ的ではあったが、習作+Aレベルだった。雰囲気はよいのだが、おそらく、このレトリックを使いたいがために、この描写を入れたのだなあ、と思わせられるところが数か所あって、そこでゲンナリさせられたのだった。作品のたたずまいはよかった。しかし、この作品で用いられたレトリックには、思わずルーズリーフ作業をさせるほどのものがあった。自分を森羅万象の写しとしてとらえる感覚と、瞬間の晶出に関する描写である。どちらも、ぼくも常々感得していることなので、はっきりと言葉にされると、うれしい。ルーズリーフ、いま3枚目、いったいどれだけのレトリックを短篇に注ぎ込んでるんじゃとナボコフに言いたい。ぼくが自分の作品に生かすときにどう使うかがポイントやね。ぼくのなかに吸収して消化させて、ぼくの血肉としなければならない。まあ、ルーズリーフに書き写しているときにそうなってるけど。というか、書いて忘れること。書いて自分のなかに吸収して、自分の思想のなか、知識の体系のなかの一部にしちゃって、読んだことすら忘れている状態になればよいのである。100枚以上も書き写してひと言すら覚えていないジェイムズ・メリルもそうして吸収したのだ。

 ナボコフの『全短篇集』の4篇目『響き』、習作+Aって思ってたけれど、ルーズリーフを6枚も書き写してみると、習作ではなかったような気がしてきた。佳作と傑作のあいだかな。佳作ではあると思う。傑作といえば、長篇と比較してのことだから、短篇は『ナボコフの1ダース』でしか知らないので、まだよくわからない状態かもしれない。

 5つ目の短篇『神々』で、またナボコフの悪い癖が出ている。使いたいレトリックのためだけに描写している。見るべきところはそのレトリックのみという作品。そのレトリックを除けば、くだらないまでに意味のない作品。木を人間に模している部分のことを言っているのだが、とってつけた感じが否めない。

 6つ目の短篇『翼の一撃』を読んだ。中途半端な幻想性が眠気を催させた。横になって読んでいたので、じっさいに何度か眠ってしまった。ナボコフはもっと直截的な物語のほうがいいような気がする。読んだ限りだが、幻想小説を長篇小説で書かないでおいたのは、正解だったのだろうな。退屈な作品だった。

 まだまだ短篇はたくさんあるのだけれど、きょうは、もう疲れた。クスリをのんで寝る。寝るまえの読書は、R・C・ウィルスンの『楽園炎上』にしよう。ジャック・ヴァンスも、ジーン・ウルフも、オールディスも、今秋中には読みたい。


詩の日めくり 二〇一五年十月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年十月一日 「℃℃℃。」


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二〇一五年十月二日 「沈黙」


沈黙は物質の特権ではない。


二〇一五年十月三日 「微積分」


時間を場所で微分すると出来事になる。場所を出来事で微分すると時間になる。出来事を時間で微分すると場所になる。とうぜん、出来事を場所で積分すると時間になる。時間を出来事で積分すると場所になる。場所を時間で積分すると出来事になる。


二〇一五年十月四日 「13の過去(仮題)」


忘れてばかりいる。思い出してばかりいる。思い出すためには、忘れていなければならない。ふつうは故意に忘れることはできないし、ふつうは故意に思い出すこともできない。個人的なことがらを詩のなかに紛らせておくと、あとで読み返したときに個人的な記憶がよみがえることがある。それがぼくの詩だ。作品化していない思い出もあるけれど、それも順次、書いていくことになるだろう。『13の過去(仮題)』は、過去の記憶をできるかぎり忠実に再現していって、書き込んでいくことにしているので、そこでまだ詩にしていない思い出を書いていくだろう。楽しみにしてる。東大路通りから清水寺にのぼるとき、細い狭い道を通るのだが、いまのぼくには細い狭い道だが、清水寺のすぐそばに住んでいた、ぼくが子どものときには、狭い道ではなかった。大きさというのは相対的なものなのだろう。寺の名前は忘れたが、清水寺に行く途中に寺があって、よくそこの境内で遊んでいた。


二〇一五年十月五日 「再生力」


ふと、傷ややけどのことを思い出した。子どものときにけがをした痕ややけどをした痕が残っていることもあるけれど、時間がたつと薄れていくことが多く、また痕が残らない場合もあったのだが、齢をいくと、再生力が弱まっていくのだろうか、子どものときよりも傷の痕が残りやすくなっているような気がする。


二〇一五年十月六日 「ファウスト」


ゲーテがファウストで、ヘラクレイトスではなく、タレスの水よりきたりて水に帰すのほうをとったことに着目。暮鳥の詩句(魚が意識をもつ、といった感じのものだったか)とからめて書こう。こんどの全行引用詩・五部作・下巻とも関連している。ぼくにはぼくができることをやるしかない。あたりまえか。

きのう、暮鳥の詩を読み直していて、ふと、数日まえに読み直したゲーテの『ファウスト』のある部分と結びついて、こんど出す全行引用詩で展開しなかったことがらの一つに思いを馳せたのだが、これでよかったのだとも思った。このこと自体を別立てで書くことができまるのだからと。むかしは、タイミングを逃したなとしょっちゅう思ったものだが、齢をとると、そのタイミングを逃したことで得ることもあるのだなと思うこともあり、さいきん、伝道の書の「すべてのことに時がある。」という言葉は、こういうときのことも言ってるのかなと思ったりもしてる。きっと、ひととも、本とも、出合うべきときに出合っているんやろう。

ゲーテの『ファウスト』には、古代ギリシア哲学者の言葉がわんさか入っていて、コンパクトな哲学史としても参照できる。これも持って行こう。もう何度も読み返している『ファウスト』である。流し読みでいいか。きょうじゅうに読み返そう。ブレッズ・プラスで、BLTサンドイッチのランチセットを食べたあと、新しい『詩の日めくり』の手直しをしていた。ゲーテの引用がどこからなのか書いてなくて、これから探す。たぶん、『ファウスト』だと思うけれど。帰ってきたら、ペソア詩集が到着してた。さらっぴんのようにきれいで、ほっとした。『ファウスト』じゃなかった。自分の詩論を読んで調べた。自分の詩論を、ほとんど辞書のようにしてる、笑。『花崗岩について』小栗 浩訳だった。こんなの、「私は自然をもっと高い見地から考察したい気持ちにさそわれる。人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出して、その崇高な力に私は抵抗することができない。」(『花崗岩について』小栗 浩訳)ずれちゃうけど、「人間は概念に意味を与えるが、その概念がこんどは人間に意味を与える。」って、ふと思っちゃった。スクリッティ・ポリティ聴いて、バカになっちゃったかな。BGMはスクポリで、キッチンで、タバコ吸いながらお茶飲んで踊ってる。新しい『詩の日めくり』が完成してゴキゲンなのだ。


二〇一五年十月七日 「自信大国・日本」


日本は自信大国だという。京都にいると、ときどきしか自信のあるひとには出合わないから実感がないけど、東京にいくと、たしかに、自信のあるひとと出くわすことが多い。しょっちゅう自信のあるひとと出くわしていると言えるかもしれない。住んでる場所によって、自信が出たり出なかったりするのかな。


二〇一五年十月八日 「沈黙」


きみの沈黙ほどかしましいものはない。


二〇一五年十月九日 「スピンオフ」


『詩の日めくり』のスピンオフを2つ考えた。1つは、同じ年の同じ月の同じ日の日記をえんえんと書くというもの。もう1つは、異なる年の同じ月の同じ日の日記をえんえんと書くというもの。文学極道に投稿するものが現在に追いついたら、書こうと思う。『詩の日めくり』もライフワークの1つになった。


二〇一五年十月十日 「買いたい新書」


フランスパンが食べたくなったので、イーオンに買いに行く。野菜サンドにしよう。きょうは、河原町のロフトでかわいらしい表紙のノートを買おう。大きいノートがいいや。ライフワークにするつもりの『13の過去(仮題)』と『全行引用詩による自伝の試み』のラフスケッチ(設計図)を書いておきたい。イーオンにはいいのがなかった。

買いたい新書。

チーズとレタスを買ったので、それをフランスパンにはさんで食べる。これだと自炊になるかな。どだろ。これが、ぼくの自炊の限界だ。低い。まあ、いいか。BGMがわりに、ギャオで、なんか見ながら食べよう。これから河原町のロフトにノートを買いに。その足で日知庵に行く。お風呂場では、フロストの詩を読みながら、にやついていた。これは、大人の詩だろうな、いまのぼくの齢でようやくわかる感じのものじゃないかなって思って。齢をとっても、ロクなこともあるのである。

いま日知庵から帰った。ロフトでは、ほしいなあと思ったノートがあったのだけれど、レジスターに3列も並んでるのを見て、買うのやめた。きょうは日曜日だったのだ。しかし、あれじゃあ、ネットで選ぶほうが品数が多いんじゃないかなと思って、これからネットサーフィンする。食べ物の表紙がいいのだ。

ほしいと思うようなノートがない。食べ物の写真が表紙のノートがほしかったのだ。ルーズリーフのホルダーで透明のものに、表紙を替えられるものを12冊もっているので、そのうちの1冊(いまSF小説のカヴァーをプリントアウトして表紙にしてる)を使おう。腹立つ。

いや、このままでいいや。あした罫線のない無地のルーズリーフを買ってこよう。それをラフスケッチに使おう。SFでいいや。いまダイエットしてるから食べ物の写真で自分をなぐさめようとしたけど、ホルダーに入れてるSF小説の文庫の表紙の絵で十分なぐさめられる。


二〇一五年十月十一日 「「ぼく」という言葉」


「私は滅びない」とホラティウスは書いた。「私は滅びる」と、ぼくなら書くだろう。「私という言葉は滅びない」としても。

「ぼく」という言葉を何回書いても、「ぼく」には到達できない。なぜだろう。「ぼく」はいつまでも、「ぼく」ではないのかもしれない。

「ぼく」という言葉を、「ぼく」自身に投げつけて、「ぼく」と書いていることがある。「ぼく」は、どこからどこまでも、「ぼく」でないものからできているような気がする。

「ぼく」の複数形が「ぼくぼく」なら、こどものときに、しょっちゅう口にしていたような気がする。連続して口にされる「ぼく」は複数形だったのだ。

つねにどこかに出かけて動き回っている「ぼく」と、ずっと動かないで静止している「ぼく」がいる。「ぼく」は運動しつつ静止している。「ぼく」は静止しつつ運動している。

「ぼく」を逆に綴ると、「くぼ」になる。「でこ」と「ぼこ」のようなものかもしれない。いや、「ぼこ」と「でこ」か。


二〇一五年十月十二日 「「ぼく」という言葉でできたレゴ。」


レゴ。「ぼく」という言葉でできたレゴ。いっしょうけんめい、たくさんの「ぼく」と「ぼく」を組み合わせてつくる。

「ぼく」の部屋。「ぼく」の本。「ぼく」の携帯。「ぼく」のカバン。「ぼく」のペン。「ぼく」の。「ぼく」の。「ぼく」の。まるで、「ぼく」のほうが、ものたちに所有されているかのようだ。いや、じっさい、そうなのだろう。

「ぼく」を伸ばして口にすると、「虚空」と聞こえる。

「ぼく」を極端に短く口にすると「虚無」となる。


二〇一五年十月十三日 「翻訳者魂」


いま、学校でも、塾でも、授業の空き時間に、思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作・上巻』『全行引用詩・五部作・下巻』の再校の見直しをしているのだが、ときには、引用した原文を確かめるために、本を開くこともめずらしくないのだが、ナボコフの『青白い炎』からの引用で、気になった箇所があったので、自分が引用したものではなくて、のちに岩波文庫から出たものを持っていたので、棚から出して見たら、訳文が違っていたので、びっくりして、じっさいに自分が過去に読んだ筑摩世界文學大系81『ボルヘス ナボコフ』を、きょう勤め先の学校で借りて調べたら、ぼくが引用した訳文に、ぼくの書き写し間違いはなかった。ぼくが引用した訳文のままにするけれど、翻訳なさった富士川義之さん、きっちりした方なんだろうなって思った。岩波文庫に入ってたほうの訳文は100%の完成度をもっていた訳文だったもの。

さいしょの訳文と、岩波文庫に入ったものの訳文を書き写してみるね。

「いやいや」〔と足を組みかえ、何か意見を開陳しようとする際にいつもそうするように肘掛椅子をかすかに揺らしながら、シェイドが言った〕「全然似ていないよ。ニュース映画で王を見たことがあるが、全然似ていないよ。類似は差異の影なんだよ。異った人びとは異った類似や似かよった差異を見つけるものなんだよ」
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳、筑摩世界文學大系81『ボルヘス ナボコフ』収録ヴァージョン335ページ)

「いやいや」〔と足を組みかえ、何か意見を開陳しようとする際にいつもそうするように肘掛椅子(ひじかけいす)をかすかに揺らしながら、シェイドが言った〕。「全然似ていないよ。ニュース映画で王を見たことがあるが、全然似ていないよ。類似は差異の影なんだよ。異なった人びとは異なった類似や似かよった差異をよく見つけるものなんだよ」 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳、岩波文庫収録ヴァージョン、483ページ)

岩波文庫収録ヴァージョンで、肘掛椅子にルビを入れてるところが欠点であるが、送り仮名と、「よく」という副詞の導入は成功していると思った。ぼくも訳して発表したり出版したあとで、直したいと思っているものがある。機会があれば、ぼくだって直しちゃうだろうな。いい仕事をみたら、ぼくも頑張らなくっちゃって思わせられる。これから塾。がんばるぞ。いつも全力投入してるけど。

いや、やっぱり、新しいほうの訳のほうがいいかな。ルビが気に入らないけれど。ということは100%違うか。ふううむ。


二〇一五年十月十四日 「数学と詩」


きょう、塾で生徒に数学の問題の解き方を教えているときに、詩を思いついた。数分でメモして、そのあまりのうつくしさにびっくりしてしまった。まだ自分の書くものにおどろくことができて、うれしい。そのうち、どこか雑誌からでも依頼がきたら書こう。

あははは。数学はおもしろい。何十年学んでも、学びつづけることができる。自分のなかでだけど、新しい発見があった。とても単純なことだ。こんなにクソ忙しいときに限って、なにか新しいことが目のまえに訪れるのだ。詩も同じだ。とても単純なことに気がつくことができれば、かなりの前進があるのだ。


二〇一五年十月十五日 「皿洗いのバイトが終わって」


いま帰った。日知庵で皿洗いのバイトが終わって、えいちゃんに、焼きそばと、ポテトサラダをいただいて、おなかいっぱいになって、阪急電車に乗って帰ってきた。河原町駅で、ハーフパンツからはみ出した入れ墨を見せてる、かわいらしい男の子がいて、その子も阪急の西院駅で降りた。帰り道、歩きながら

頭のなかで、イエスの『危機』を奏でさせながら、きょうの一日の終わりのほうの会話を思い出していたら、ひらめいたのだった。奇跡はつづいて起こるのだった。昼に数学でひらめいたのだが、帰り道でひらめいたことは、ここに記述しておこうと思う。きょう、お客さんで来られた方と、カウンター越しに、ウルトラマンだとか、ウルトラセブンだとか、仮面ライダーとか、仮面の忍者・赤影とかの話を夢中でしていたら、えいちゃんに、「なんで、そんなに話をすることがあるの?」と訊かれて、すかさず、ぼくは、「言葉があるからやで。」と返事をしたのやけど、帰り道に、違う、違う、違う。違うんだ、と思ったのだった。そのお客さんとは、そこでは、「共通の文化背景がありますから、こんなに話がはずんだのでしょうね。」と、ぼくは言ったのだったが、違うのだ。言葉が言葉としゃべっていたのだ。ぼくたちが語り合っていたというよりも、共通の文化的な背景をなしているものが、ぼくたちの口舌を通じて、互いに語り合っていたのだった。人間の言葉というものを通して、言葉が言葉と語り合っていたのだ。共通の文化的な背景をなしているものが語り合っていたのだ。なんのために? そうだ。なんのために? 言葉がより深く言葉を理解するためである。言葉が言葉を抱きしめ、突き離し、抱擁し、蹴り飛ばすために。言葉はこうして、ときに言葉と語り合うのだった。いや、しじゅう、言葉は言葉と語り合っていたのであった。過去にも、現在にも。そして、未来においてもだ。そうだ。ぼくたちがウルトラQについて語り合っていたのではなかった。ぼくたちがガメラやゴジラについて語り合っていたのではなかった。ウルトラQやガメラやゴジラなんかが、ぼくたちを通じて、ウルトラQについて語り、ガメラやゴジラについて語り合っていたのだ。より深くウルトラQの意味について知るために言葉が言葉と語り合っていたのだった。より深くガメラやゴジラの意味について知るために言葉が言葉と語り合っていたのだった。これはきょう二つ目のひらめきであり、奇跡であり、天啓であった。

あるいは、ただ単に、言葉は言葉と語り合いたいがために、ただそれだけの目的で、人間を利用しているのかもしれない。だとしたら、語り合う言葉は、ぼくたち自身の意味を、ぼくたちの生の在り方そのものについてより深く知るために語り合っていたのではなく、ただ単に言葉それ自体をより深く知るために、互いに語り合っているのだろう。語りあっていたのであろう。人間が神さまについて語り合っているときに、じつは、神が人間の口舌を通して、人間の言葉を通して、神が神自身おのれと語り合っているのだろう。

フランスパンをあさ買いに行ったら、半分に切って切り分けたバケットがなかったので、半分には切ってくれたけれど、それを七つに切ってと言うと、焼き上がり立てで切れませんと言われて、半分に切ってくれたものを持ち帰り、スライスチーズをのっけて食べた。合間合間にカットレタスをつまみながら。えいちゃんに、その話をしたら、焼き上がりたてはやわらかいので切れへんのやで、と言われた。時間がたって冷めたら固くなるやろ、固くなかったら、きれいに切れへんのや。それでも、「どうして?」と訊くと、「やわらかくて、切ったら、もろもろになるやろ。」
「そんなことになるんや、知らんかった。びっくりやな。」と言うと、「その齢になっても、びっくりすることがいっぱいあるんやな。」「そうなんや。毎日、毎日、びっくりすることがあって、しょっしゅうジェットコースターに乗ってるような気がするわ。」と返事した。


二〇一五年十月十六日 「ゲラチェックって、地獄やわ。」


きのう、日知庵で皿洗いのバイトをさせてもらっていただいたお金で、ちょっと(ずいぶん)高い本を買おうと思う。ジュンク堂にあったと思う。はやめに本を手にとりたいから、お風呂に入って、河原町に出よう。詩集の再校のゲラチェックはつらすぎて、涙がにじんでできなくなっているので中断している。

いま日知庵から帰った。行きしなに、ジュンク堂に寄って、本を買った。予定してたのは、ディレイニーの『ドリフトグラス』やったのだけど、表紙に手あかがついていて、本のページに線が入って汚れていたので買わなかった。早川書房の『プリズマティカ』と、サンリオSF文庫の『エンパイアスター』を持ってるし、もともと買う必要もなかったものだったし(本邦初訳の短篇が入ってたけど)。その代わりに、ミエヴィルの『都市と都市』『ジェイクをさがして』と『ペルディード・ストリート・ステーション』上下巻と、トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を買ってきた。そら、未読の本が増えるはずやね。きょうは、これから、思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作・上巻』と『全行引用詩・五部作・下巻』の再校のゲラチェックをする。BGMは、ジャズのインスト。ゲラチェックって、地獄やわ。


二〇一五年十月十七日 「クソみたいな詩」


数年前に、久しぶりに、詩人のHさんとお会いしたときに、ヤリタミサコさんのリーディングポエトリーで、「まだクソみたいな詩を書いてるの?」と言われて、これは褒め言葉だなと思って、「書いてますよ。」と返事した。たしかに、ぼくの『詩の日めくり』なんて、まさに、うんこのようなものだものね。ぼくには、高貴な詩も書けない。上等な詩も書けない。愛を賛美するような詩も書けない。現実を直視するような詩も書けない。現実に役に立つような詩も書けない。ただうんこのような詩を書いてるだけだ。見下されてるような視線をしょっちゅう感じるけれど、見下されるような詩だもの、と自負している。

ブレッズ・プラスのランチメニューが変わってた。BLTサンドイッチがなくなっていた。ハムサンドとダージリンティーを頼んだ。600円ちょっと。これから詩集の再校の見直しをする。夕方、ひさしぶりに「きみや」さんに行こうかな。お酒は飲めないけれど、ちょこっと、なんか食べよう。


二〇一五年十月十八日 「みみっちいこと」


きょう、食堂で、400円分の食券で350円分しか食べていないことに帰りに気がついた。あした、言って、通るだろうか。と数時間のあいだに何度も振り返って考えている自分がいる。わずか50円のことなのに、いや、わずか50円のことだからか、とても自分がふがいない。情けない。ああ、いやだ〜。あした1時間目からだから、もうクスリのんだ。未読の本がいっぱいあるのに、塾のバイト代が入ったら本を買おうと思っている。こんなに文学に貢献しているのだが、他人から見たら、ただの無駄遣い。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十月十九日 「嘔吐」


ぼくはサルトルの『嘔吐』が、認識の嘔吐だと思っているのだけれど、ものごとをより深く知ると吐き気がするのは、ぼくだけのことじゃないような気がする。ああ、でも、もっともっと深く認識できたら、それは生きているうちにはできないもののような気がするけれど、喜びになるとも思われる。どだろね。

思い出してる思い出が自分のものではないとわかったときの驚き。

海がずっとつづいているように見えるのは、ずっとつづいているものが海だからだ。

肯定して、すぐにそれを打ち消す。その繰り返しがぼくだと思うのだけれど、あまりに頻繁に繰り返しているために、繰り返していること自体が自覚できない。なんだろう。誤まったアルファベットのキーに指が触れて、瞬時にその文字を消去するようなことを、無意識のうちに行っているようなものだろうか。

呼ばれているから行くのか。行くから呼ばれるのだ。人生をいつくしむ才能だけはあるようだ。「なんか降ってきたで。」雨は平等に降らない。ひとよりよく降る人生もあるのだ。自分の内面を眺め渡すと、なんとせこい狭い庭か。それでも、どこになにがあるかよくわからないのだ。知らない草や虫がいる。


二〇一五年十月二十日 「幸福になる才能」


先日の「50円、損するのいやや事件」から二日たつのだけれど、自分のせこさにあきれると同時に、人生をいつくしむ才能が、ぼくには、ほんとうにあるのだなと思った。むかし、いまと違う塾で働いていたとき、葵書房で配られていた和田べんさんの絵で描かれた文豪の付箋を集めていた。「そんなもの集めてうれしいんですか?」と、女性の先生に言われて、びっくりした。ぼくは、無料で配られたかわいらしい絵の鴎外や龍之介や漱石なんかの絵が描かれた付箋を、とても気に入ってて、集めてうれしかったのだ。自分には、ささいなことで幸福になる才能だけはあるのだと、そのときに悟ったのだった。


二〇一五年十月二十一日 「なんか降ってきたで。」


ぼくが生きているときに、ぼくの作品を知っていると言うひとは、たぶん2,3人くらいのものだろう。そして、ぼくが死んだときには、もはやぼくの作品を知っているひとはだれもいなくなってしまっているだろう。そう考えるのは楽しい。忘れる幸福を知っているだけに、忘れられる喜びもひとしおなのだ。

記憶。ぼくが忘れても、記憶がぼくを忘れない。千のぼくは、ひとつのぼくすらも憶えていることができないのだけれど、千の記憶は、すべてのぼくを憶えている。すべてを記憶することが記憶の仕事なのだ。ぼくというのは記憶のための道具でしかない。ペンのためのインクではない。インクのためのペンだ。

自分を書き替えるほど簡単には、詩を書き替えることができない。ぼくはペンのためのインクであるときにも、インクのためのペンであるときにも、詩を書き替えることができなかった。一度書いた詩は、ぼくのすべての人生の軌跡を描いていたのであった。たとえ一篇の詩でも。一行の詩句であるときにも。

ぼくのなかに閉じ込められた多数の詩句。ただ一つの詩句に閉じ込められた多数のぼく。そうだ。ただ一行の詩句のなかに、いかに数多くのぼくが存在していることか。その詩句は、ぼくが書いたものであってもよいが、他人が書いたものであってもよい。いや、むしろ他人が書いたもののほうがよいであろう。

なんか降ってきたで。


二〇一五年十月二十二日 「自分を翻訳する。」


自分を翻訳するのは、むずかしい。ぼくはいつも自分の考えや思ったことを言葉にするとき、ぼくを翻訳して書いているのだけれど、その翻訳が、ことのほかむずかしい。でたらめに打ち込んだキーが画面上にアップされていく。ぼくというのは、かつて何かの翻訳だったのだろう。何かというのも翻訳だけど。


二〇一五年十月二十三日 「平凡な日常の瞬間がおもしろい。」


きょうも日知庵で皿洗いのアルバイトをしてきた。メールで、よかったら顔を見にきてねと知らせた友だちの竹上さんが来てくれて、楽しくおしゃべりした。竹上さんとは、同人誌の dionysos 時代からのお付き合いで、もう15年以上になる。大切なんだな。長い付き合いはありがたいなと思った。

永遠なんて忘れてしまった
ぼくはもう
瞬間しかつかまえられなくなってしまった
平凡なありふれた日常の瞬間を
ぼくはつかまえる
平凡なありふれたぼく自身をつかまえる
子どもだったころは
キラキラしたものにばかり目を奪われてた
いまのぼくは
平凡なありふれた日常の瞬間こそがおもしろい

あご?
笑ってはいけないと思って
笑わなかったけど
あとで
えいちゃんに話して
ふたりで思いっ切り笑った
あご?
子どものときは
ガラガラのおもちゃに目を奪われる赤ん坊のように
キラキラしたものに目を奪われてた
いまは平凡な日常の瞬間がおもしろい

きのうと、おとついの日知庵での経験を書いておく。おもしろいし、貴重な体験だったのだもの。まず、おとつい、10時から10時半のあいだくらいにこられた二人組のお客さんの話。お二人とも40才は越されていたと思う。もしかしたら50歳近かったかもしれない。同年輩の方たちだと思われたのだが、じっさいのところはわからない。おひとりの方はふつう体型で、いかつく、もうお一人の方は色の薄いサングラスをかけてらっしゃってて、かなりいかつく、少し小太りだった。ぼくはカウンターのなかの流しのところで洗い物をしていたのだけど、お二人は、ぼくのまえのカウンター席に坐られてお話をなさっていたのだけど「親分が」とか「懲役」とか「むしょに入ったことがなかったらわからへんやろうけどな。」とか、そういったお言葉を口にされてて、ぼくは、ひゃ〜、業界の方なのかしらと思いながら、グラスを洗っていたら、洗剤を落とすために、くるくるとまわしてグラスの外側を水で注ぎ、そのあと、グラスのなかに水を入れて振ったのだけど、その水がピュッと、そのいかつい方の額に飛んだのだけれど、その方、おしぼりを使って、顔を拭いてらっしゃったところなので、顔を拭いて、上を向かれて、「おい、なんか落ちてきたで。」とおっしゃって、ぼくは、ひえ〜、こわいぃ〜と思いながら、すいませんとあやまったのだけど、それで、その場はなにもなくすんで、そのまま、お二方は、業界内のひとたちの話をなさっていたのだけど、たぶん、天井から水が落ちたのだと思われたのだと思うが、あとで、えいちゃんにその話をすると、「それ、そのひとのやさしさちゃうか。気づいてはっても、そういって安心させるっていう。」と言うので、ああ、そういえば、「なんか、落ちてきたで。」とおっしゃった口調にやさしさが表われていたかも。そして、つぎに、きのうの話。9時くらいに女性がお一人でこられて、ぼくが洗い物をしてるまえに坐られたのだけど、あとで連れ合いの方がいらっしゃると言われて、でも、テーブル席ではなくて、カウンター席を選ばれて、へえっと思っていたのだけど、5分か10分ほどしてお連れの男の方がいらっしゃったのだけど、どちらも30才くらいに見えたのだけど、男前と美人さんのカップルだった。すると、常連客で、ぼくともよく話をするさる会社の偉いさんが来られて、カウンターの反対側の席に坐られたのだけど、マスターが、そのカップルの方に、「この方〇〇会社の偉いさんで、プロのカメラマンでもあって、京都中のカメラマンをアゴで使ってはるんですよ。」って言ったら、すぐさま、そのカップルの女性の方がマスターのほうを振り向いて、「あご?」と口にされたのだけど、ぼくは笑いをこらえるのに努力しなければならなかった。なんにもなかったような顔をして洗い物をつづけた。その女性の方、アゴがちょっと(いや、ずいぶんかな)出てらっしゃったのだ。人間って、自分が気にしている言葉には敏感に反応するんやなあと思った。あとで、えいちゃんに、その話をして、二人で笑ったけど、そのときには、絶対に笑ったらあかんと思った。おもしろかったけど。だって、吉本新喜劇の一場面を見てるみたいだったんだもの。女のひとがすかさず横を向いて、「アゴ?」だよ。アゴが出てる女の人がだよ。人間って、おもしろいな。

きょうジュンク堂で買った本。R・A・ラファティの『第四の館』と同じく、ラファティの『蛇の卵』。それからチャイナ・ミエヴィルの『言語都市』。6500円くらいだった。読むの、いつになるかわからないけれど。

さて、あしたは仕事がハードな日。こんなに仕事をするひとではなかったのだけれど、気がつくと、いっしょうけんめいに仕事をしている。きょう、まえに付き合ってた子が夜に遊びにきてくれた。いっしょにギャオのホラーを見てた。つまらない短篇の連続だった。それでも、☆ふたつついてた。不思議。


二〇一五年十月二十四日 「人生を楽しむ才能」


予備校に勤めていたころ、とても頭のいい女の子が自殺したのだけれど、「食べる時間がもったいない。錠剤だけで生きれるのなら、その方がいい。」と言っていた。郵便局の帰りに、イーオンに寄って、フランスパン買って、セブイレに寄って、チーズとレタスとお茶を買ってきた。食べることは楽しいのに。

生きることが苦痛だと食べることも楽しめないのだね。生きることが苦痛なのは、あたりまえのことなのだけれど、その苦痛である人生のなかに、楽しいことやうれしいことを見つけて大事にするのが英知だと思うし、才能だと思う。ぼくは人生を楽しむ才能だけは授かった。


二〇一五年十月二十五日 「奇蹟」


きょうは長時間のキッスで一日が終わったので、幸せやなと思う。道を歩いていたら、声をかけられて、えっと言って振り返ったら、むかし付き合ってた子だったのだ。なにげなく、「部屋、遊びにくる?」と言った後で、「怪獣のフィギュア、集めてるけど、びっくりしんといてな。」と付け足した。怪獣のフィギュアを集める前に付き合ってた子だったのだ。で、なんやかんので、おしゃべりしてて、ふたたび付き合うことになるかも、というところで、きょうは終わったー。どうなるか、わからんけどね〜。人生って、おもしろいなぁ。いっぱい奇蹟がばらまかれている。


二〇一五年十月二十六日 「人間らしい呼吸」


神経科医院がめっちゃラッキーではやく終わったので、きみやさんに行ってたら、まえに付き合ってた子から電話があって、いそいで帰って、それから二人で買い物して、部屋で邦画のホラーをいっしょに見て、いま見送ったところ。毎日のように、まえに付き合った男の子(複数)といっしょに過ごせて、すばらしい(であろう)未読の本が数百冊あって、すばらしい音楽を聴いて、おもしろいDVDを見て、仕事もいっしょうけんめいして、なんちゅう幸せな日々を過ごせているんやろうかと思う。20代のときは、生きているのがきつかった。30代も、40代もきつかった。50代になって、ようやく、人間らしい呼吸を人生のなかですることができるようになったかなって思う。60代になったら、もっと人間らしい呼吸を人生ですることができればいいなって思う。70代まで生きていたら、いまよりもっともっと人間らしい呼吸ができるかな?


二〇一五年十月二十七日 「ダフニスとクロエ」


すこぶる気分がよい。きょう部屋に遊びにきてくれた男の子が、いちばん顔がかわいらしい。ぼくの半分くらいの齢の男の子だ。54才のジジイといて、気分よく、時間を過ごしてくれているようだった。『ダフニスとクロエ』のなかで、老人が少年にキスをしようとして、あつかましいと断られるシーンがあった。むかしで言えば、ぼくはもう十分にジジイだ。かわいらしい子にチューをしても断られずにすむ自分がいて、とてもうれしい。若いときは、世界は、ぼくに無関心だったし、えげつなくて残酷だった。いまでもぼくには無関心だろうけれど、残酷ではなくなった。齢をとり、美しさを失い、健康を損なってしまったけれど、人生がこんなにおもしろい、楽しいものだと、世界は教えてくれるようになった。ぼくがまだまだ学ぶ気持ちがいっぱいで生きているからだろうと思う。きょうは、言葉にして、神さまに感謝して眠ろう。おやすみ。


二〇一五年十月二十八日 「シェイクスピアミントというお菓子」

デンマークに10日間旅行していた竹上さんから、おみやげをいただいた。入れ物に、シェイクスピアの銅版画の顔の絵が入ったミントのお菓子だ。いまいただいてる。おいしい。シェイクスピアは、ぼくの超アイドルなので、めちゃくちゃうれしかった。デンマークでは、お城に行ったり、観光してたらしい。ハムレット、デンマークの王子だったね。


二〇一五年十月二十九日 「過去の思い出に番号を振る。」


きょうの昼は、過去について番号を振ることに意味はあるかどうか考えていた。過去の思い出でも同じかどうかはわからない。たぶん、ぼくのなかでは、そう変わらないのだが、過去について番号を振ることを実行してみると、それらの過去が思い出させる過去があとから出現するような気がして、過去に番号を振っても、過去の番号が変わってしまうものが出てきてしまい、まえに振った番号に意味がなくなると思ったのだけれど、過去にそもそも意味があるのかどうかも考えたのだが、番号のほうが意味があって、過去には意味がない可能性もある。つまり、番号が意味を創出させるということである。とすれば、過去における自我もまた、番号が創出させた自我であるということである。数字が過去において意味を形成し、自我を形成するということである。さて、その数字だが、ふつう番号は自然数である。マイナスの数でもいけないし、ゼロもだめだ。小数のものもだめだし、自然数にならない分数もだめであるし、無理数もだめだ。しかし、もしも、番号に、マイナスのものや、ゼロや、小数のものや、自然数にならない分数や、無理数のものがあって、それらの番号が、過去の意味を創出し、ぼくの自我を形成していると仮定すると、とても思考が拡がるような気がする。順番に振られたそれらの数が、過去の意味を創出し、ぼくの自我を生じさせたと考えると、ぞくぞくする。そこに虚数の順番のものも考えに入れてみる。まあ、虚数には、数の大小がないので、順番がわからないのだけれど。数が、ぼくの自我の個数を数え上げ、ぼくの過去の個数を数え上げるのだ。といったことを考えていたのだが、塾からの帰り道には、過去を数えるということは、数えられるといことであり、数えられるということは、対象とする過去があるということであると思った。過去があるというとき、その数えられる過去というものは、連続性を持っていないはずである。なぜなら、連続して変化しているものは、連続性の、まさにその最中には、数えられるものではないからである。連続的に変化する雲は、いったい、いくつと数えればよいのか。なかには、一つと言う者もいるだろうし、無数だと言うものもいるだろう。数自体が連続しているので、過去の意味も、生じた自我も、個数を数えることができない。数えることができるのは、意味を持たない過去と、晶出することなく霧散失踪してしまった自我だけである。あたりまえのことなのだが、日・時間・分・秒を入れて、雲を画像に収めても、それは、その日・時間・分・秒の雲ではない。また、日・時間・分・秒よりも細かく時間を分割してやっても、無限に分割できるので、現実の雲も画像に収めた雲もじっさいには存在していない。過去に番号を振ると、過去が過去をつぎつぎと思い出してしまい、その番号に意味がなくなるということ。過去に番号を振ると、つぎつぎとぼくが思い出されていくということ。無限分割された過去には、分限分割された数の分だけの過去が生じ、ぼくが生じるということ。時間を無限分割したときの雲が実在の雲でないように、無限分割された数のぼくもまた実在のものではない。つまり、ぼくも、過去も、無限分割され得ないものでなければ存在しない者であるということ。つまり、量子化された存在であるということ。そこには連続性はない。過去においても、ぼくの自我というものにおいても、それ自体には連続性はなく、ただ断続的に顕現するものであるということ。まずそのことを確認しておいてから、『13の過去(仮題)』を書きはじめたいと思う。増大していく数が、ぼくの過去とぼくの数を増大させる。


二〇一五年十月三十日 「種と花と茎と根と実と葉っぱ」


数字の種。
数字の花。
数字の茎。
数字の根。
数字の実。
数字の葉っぱ

疑問符の種。
疑問符の花。
疑問符の茎。
疑問符の根。
疑問符の実。
疑問符の葉っぱ

読点の種。
読点の花。
読点の茎。
読点の根。
読点の実。
読点の葉っぱ

句点の種。
句点の花。
句点の茎。
句点の根。
句点の実。
句点の葉っぱ

カギカッコの種。
カギカッコの花。
カギカッコの茎。
カギカッコの根。
カギカッコの実。
カギカッコの葉っぱ

等号の種。
等号の花。
等号の茎。
等号の根。
等号の実。
等号の葉っぱ

偶然の種。
偶然の花。
偶然の茎。
偶然の根。
偶然の実。
偶然の葉っぱ

都合の種。
都合の花。
都合の茎。
都合の根。
都合の実。
都合の葉っぱ


二〇一五年十月三十一日 「数字と疑問符と読点と句点とカギカッコと統合と偶然と都合」


数字が蒸散する。
疑問符が蒸散する。
読点が蒸散する。
句点が蒸散する。
カギカッコが蒸散する。
等号が蒸散する。
偶然が蒸散する。
都合が蒸散する。

数字が呼吸する。
疑問符が呼吸する。
読点が呼吸する。
句点が呼吸する。
カギカッコが呼吸する。
等号が呼吸する。
偶然が呼吸する。
都合が呼吸する。

数字が屈折する。
疑問符が屈折する。
読点が屈折する。
句点が屈折する。
カギカッコが屈折する。
等号が屈折する。
偶然が屈折する。
都合が屈折する。

数字が生えてくる。
疑問符が生えてくる。
読点が生えてくる。
句点が生えてくる。
カギカッコが生えてくる。
等号が生えてくる。
偶然が生えてくる。
都合が生えてくる。

数字が泳いでいる。
疑問符が泳いでいる。
読点が泳いでいる。
句点が泳いでいる。
カギカッコが泳いでいる。
等号が泳いでいる。
偶然が泳いでいる。
都合が泳いでいる。

数字を反芻する。
疑問符を反芻する。
読点を反芻する。
句点を反芻する。
カギカッコを反芻する。
等号を反芻する。
偶然を反芻する。
都合を反芻する。

数字を活け花のように活ける。
疑問符を活け花のように活ける。
読点を活け花のように活ける。
句点を活け花のように活ける。
カギカッコを活け花のように活ける。
等号を活け花のように活ける。
偶然を活け花のように活ける。
都合を活け花のように活ける。

数字を飲み込んだような顔をする。
疑問符を飲み込んだような顔をする。
読点を飲み込んだような顔をする。
句点 を飲み込んだような顔をする。
カギカッコを飲み込んだような顔をする。
等号を飲み込んだような顔をする。
偶然を飲み込んだような顔をする。
都合を飲み込んだような顔をする。

数字になって考えてみる。
疑問符になって考えてみる。
読点になって考えてみる。
句点になって考えてみる。
カギカッコになって考えてみる。
等号になって考えてみる。
偶然になって考えてみる。
都合になって考えてみる。

数字になって感じてみる。
疑問符になって感じてみる。
読点になって感じてみる。
句点になって感じてみる。
カギカッコになって感じてみる。
等号になって感じてみる。
偶然になって感じてみる。
都合になって感じてみる。

数字を粘土のようにくっつけていく。
疑問符を粘土のようにくっつけていく。
読点を粘土のようにくっつけていく。
句点を粘土のようにくっつけていく。
カギカッコを粘土のようにくっつけていく。
等号を粘土のようにくっつけていく。
偶然を粘土のようにくっつけていく。

数字を引っ張って伸ばす。
疑問符を引っ張って伸ばす。
読点を引っ張って伸ばす。
句点を引っ張って伸ばす。
カギカッコを引っ張って伸ばす。
等号を引っ張って伸ばす。
偶然を引っ張って伸ばす。
都合を引っ張って伸ばす。

数字が隆起する。
疑問符が隆起する。
読点が隆起する。
句点が隆起する。
カギカッコが隆起する。
等号が隆起する。
偶然が隆起する。
都合が隆起する。

数字がブラウン運動をする。
疑問符がブラウン運動をする。
読点がブラウン運動をする。
句点がブラウン運動をする。
カギカッコがブラウン運動をする。
等号がブラウン運動をする。
偶然がブラウン運動をする。
都合がブラウン運動をする。

数字の結晶。
疑問符の結晶。
読点の結晶。
句点の結晶。
カギカッコの結晶。
等号の結晶。
偶然の結晶。
都合の結晶。

甘酸っぱい数字。
甘酸っぱい疑問符。
甘酸っぱい読点。
甘酸っぱい句点。
甘酸っぱいカギカッコ。
甘酸っぱい等号。
甘酸っぱい偶然。
甘酸っぱい都合。

記憶する数字。
記憶する疑問符。
記憶する読点。
記憶する句点。
記憶するカギカッコ。
記憶する等号。
記憶する偶然。
記憶する都合。

数字のレントゲン写真。
疑問符のレントゲン写真。
読点のレントゲン写真。
句点のレントゲン写真。
カギカッコのレントゲン写真。
等号のレントゲン写真。
偶然のレントゲン写真。
都合のレントゲン写真。

ぬるぬるする数字。
ぬるぬるする疑問符。
ぬるぬるする読点。
ぬるぬるする句点。
ぬるぬるするカギカッコ。
ぬるぬるする等号。
ぬるぬるする偶然。
ぬるぬるする都合。

噴出する数字。
噴出する疑問符。
噴出する読点。
噴出する句点。
噴出するカギカッコ。
噴出する等号。
噴出する偶然。
噴出する都合。

移動する数字。
移動する疑問符。
移動する読点。
移動する句点。
移動するカギカッコ。
移動する等号。
移動する偶然。
移動する都合。

跳ねる数字。
跳ねる疑問符。
跳ねる読点。
跳ねる句点。
跳ねるカギカッコ。
跳ねる等号。
跳ねる偶然。
跳ねる都合。

生成消滅する数字。
生成消滅する疑問符。
生成消滅する読点。
生成消滅する句点。
生成消滅するカギカッコ。
生成消滅する等号。
生成消滅する偶然。
生成消滅する都合。


詩の日めくり 二〇一五年十一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年十一月一日 「海に戻る。」


ぼくはまだ体験したことがないのだけれど、おそろしい体験だと思うことがある。自分がどの時間にも存在せず、どの場所にも存在せず、どの出来事とも関わりがないと感じることは。どんなにつらい体験でさえ、ぼくはその時間にいて、その場所にいて、そのつらい出来事と遭遇していたのだから。

詩があるからこそ、季節がめぐり春には花が咲くのだ。詩があるからこそ、恋人たちは出合い、愛し合い、憎み合い、別れるのだ。詩があるからこそ、人間は生まれ、人間は死ぬのだ。詩があるからこそ、事物や事象が生成消滅するように。つまり、詩が季節をつくり、人間をつくり、事物や事象をつくるのだ。

奪うことは与えること。奪われることは与えられること。与えることは奪うこと。与えられることは奪われること。若さを失い、齢をとって、健康を損ない、うつくしさを失い、みっともない見かけとなり、若いときには知ることのなかったことを知り、そのことを詩に書くことができた。

ぼくが天才だと思う詩人とは、遭遇の天才であり、目撃の天才であり、記述の天才である。遭遇と目撃は同時時間的に起こることだが、遭遇と目撃から記述に至るまでは、さまざまな段階がある。さまざまな時間がかかる。ときには、いくつものことが合わさって書かれることもある。何年もかかることもある。

純粋な思考というものは存在しない。つまり、あらゆる思考には、きっかけとなるものがあるのだ。たとえば、偶然に目にした辞書の言葉との遭遇であったり、読んでいた本に描かれた事柄とはまったく違ったことを自分の思い出のなかで思い出したものであったりするのだ。きっかけがなく、思考が開始されることはない。なぜなら、人間の脳は、思考対象が存在しなければ、思考できないようにつくられているからである。したがって、遭遇と目撃と記述の3つの要素についてのみ取り上げたが、解析には、その3つの要素で必要十分なのである。

そうだ。詩が書くので、太陽が輝くことができるのだし、詩が書くので、雨が降ることができるのだし、詩が書くので、川は流れることができるのだし、詩が書くので、ぼくが恋人と出合うことができたのだし、詩が書くので、ぼくは恋人と別れることができたのだ。

そうだ。詩が書くので、ぼくたちは生まれることができるのだし、詩が書くので、ぼくたちは死ぬこともできるのだ。もしも、詩が書くことがなければ、ぼくたちは生まれることもできないし、詩が書かなければ、ぼくたちは死ぬこともできないのだ。

こんなに単純なことがわかるのに、ぼくは54歳にならなければならなかった。あるいは、54歳という年齢が、ぼくにこの単純なことをわからせたのだろか。たぶん、そうだ。単純なことに気がつかなければならなかった。気がつかなければならないのは単純なことだった。

さっき、きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり』を読んでいて、読むのを途中でやめたのだった。自分でもドキドキするようなことを書いていて、自分だからドキドキするのかな。でも、完全に忘れてることいっぱい書いていて、ことしの2月のことなのにね。すごい忘却力。

ディキンスンやペソアのことを、さいきんよく考える。彼女や彼がネット環境にあったら、どうだったかなとも考える。まあ、なんといっても、ぼくの場合は、詩は自分自身のために書いているので、発表できる場所があれば、それでいいかなって感じだけど。詩集も出せてるしね。

目を開かせるものが、目を閉じさせる。こころを開かせるものが、こころを閉じさせる。意味を与えるものが意味を奪う。喜びを与えるものが喜びを奪う。目を閉じさせるものが、目を開かせる。こころを閉じさせるものが、こころを開かせる。意味を奪うものが意味を与える。喜びを奪うものが喜びを与える。

小学校の3年生のときくらいに好きだった友だちのシルエットが、いまだに目に焼き付いて離れない。あしが極端に短くて、胴が長い男の子だった。あのアンバランスさが、ぼくの目には魅力的だったのだ。当時は、うつくしいという言葉を使うことはなかった。逆光で、真っ黒のシルエット。顔は記憶にない。

これからお風呂に入って、レックバリの『人魚姫』を読もう。ペソアの『ポルトガルの海』かなりお気に入りの詩集になりそうだ。いまのところ、はずれの詩がひとつもない。よく考えてつくってある。ペソアは自分自身のことを感じるひとだと思っていたかもしれないが、考えるひとだったと思う。徹底的に。

お風呂から上がった。ペソアの『ポルトガルの海』のつづきを読もう。財布にはもう58円しか残っておらず、ドーナツひとつも買えない。あした銀行に行こう。

詩が、ぼくの目が見るもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの目は、ぼくが見るもののことを見ることができるのだ。詩が、ぼくの耳が聞くもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの耳は、ぼくの耳が聞くもののことを聞くことができるのだ。詩が、ぼくの手が触れるもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの手は、ぼくの手が触れるものを触れることができるのだ。詩が、ぼくのこころが感じるもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくのこころは、ぼくのこころが感じるものを感じることができるのだ。詩が、ぼくの頭が考えるもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの頭は、ぼくの頭が考えるもののことにについて考えることができるのだ。詩が、ぼくに、目を、耳を、手を、こころを、頭を与えてくれたのだ。詩がなければ、ぼくは、目を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、耳を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、手を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、こころを持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、頭を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、見ることができる目を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、聞くことができる耳を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、触れることができる手を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、感じることができるこころを持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、考えることができる頭を持たなかっただろう。

ナボコフの『アーダ』の新訳はいつ出るんだろうか。

休みがつづくと、油断してしまうからか、クスリの効きがよくて、お昼も何度か眠ってしまった。つぎの日が仕事だと思うと、あまり眠れないけれど。眠れるクスリがなければ、ぼくなんか、とっくに死んじゃってると思う。まあ、詩がなかったら、精神的に死んじゃってるだろうけれど。詩があってよかった。

ペソアか。はやってるときに、名前は知ってたけど、はやってるって理由で避けてたけど、いいものは避けつづけることはできないみたいね。平凡社から出てる新編『不穏の書、断片』もよかったけど、思潮社の海外詩文庫の『ペソア詩集』も『ポルトガルの海』も、とってもいい。あと1冊、いちばん高かった『不安の書』が本棚にあって、これも楽しみ。『ポルトガルの海』に収録されているもの、いくつも、海外詩文庫の『ペソア詩集』で澤田 直さんの訳で読んでてよかったと思っていたけど、翻訳者が変わって、訳の雰囲気がちょっと違っててもいいものなんだなって思った。『不安の書』の訳者は、高橋都彦さんで、ラテン・アメリカ文学も訳してらっしゃったような気がする。リスペクトールだったかな。透明な訳だった記憶がある。まあ、リスペクトールのモチーフ自体、無機的なものだったけど。言葉が肉化していない、でもいい感じだった。

ぼくの詩が、ぼくに教えてくれるって、変かなぁ。ぼくの詩が、だろうか。ぼくの書いた詩句が、ぼくに、ほらね、その言葉の意味は、この言葉とくっつくと、ぜんぜん違ったものになるんだよとか、こういうふうに響くと、おもしろいだろとか、いろいろ教えてくれるのだ。あ、そうか。いま、わかった。自分の書いたもので学ぶことができるようになったんだ。めっちゃ、簡単なことだったんだ。というか、いままでにも、自分の書いた詩句から学んでいたと思うけれど、いまはっきり、それがわかった。わかって、よかったのかな。いいのかな。いいんだろうね。主に翻訳を通してだけど、世界じゅうのすばらしい詩人や作家たちから学んでいたけど、ぼく自身からも、いや、ぼくじゃないな、ぼくが書いた言葉からも学べるんだから、めっちゃお得なような気がする。これまで、めっちゃお金、本代に費やしたもんね。『ポルトガルの海』に戻ろう。海に戻ろうって、まるでウミガメみたいだな。ウミガメは、しばらくのあいだ、ぼくのこころをそそるモチーフの1つだった。ウミガメ、カエル、コーヒー、ハンカチーフ、バス、花、猿、海。ここに、こんど、思潮社オンデマンドから出る3冊の詩集で、サンドイッチが加わる。

あ、電話を忘れてた。電話を忘れるっていいな。しなきゃいけない電話を忘れるのは、シビアな場面もあるけど、しなきゃいけないような電話じゃない電話を忘れるのは、いいかも。しなくていい電話を忘れる。ここ5、6年。恋人がいなくて、そんな電話のこと、忘れてた。恋人には、電話しなきゃいけないのかな。でも、ぼくは自分から電話をかけたことが一度もなくって。こういうところ、消極的というか、感情がないというか、感情がないんだろうな。相手の気持ちを優先しすぎて、そうしちゃってるんだろうけれど、逆だったかもしれない。

海に戻る。


二〇一五年十一月二日 「あの唇の上で、ほろびたい。」


銀行に行こう。財布に58円しかなくって、朝ご飯も食べていない。きょうも一日、ペソアの詩を読もう。

えっ、えっ、あした休日だったの? 知らなかった。知らなかった。知らなかったー。ペソアの詩集、ゆっくり読めるじゃんかー。カレンダー見ても信じられない。あしたが休日だったなんて。ツイートにあした祝日だと書いてらっしゃる方がいらっしゃったから気づけたけど、もしそのツイート目にしなかったら、明日、学校行ってたわ。もうちょっとで、バカしてた。なんか一日、得したような気分。5連休だったんだ。どこにも出かけず、原稿のゲラチェックと詩集の読みとレックバリ読んだだけ。

言うことなく言う。
伝えることなく伝わる。
することなくする。
見ることなく見る。
合うことなく合う。
聞くことなく聞く。
噛むことなく噛む。

理想が理想にふさわしい理想でないならば、現実が現実にふさわしい現実である必要はない。

きょうは、CDを2枚、amazon で買った。soul II soul の2枚だ。ファーストが42円。5枚目が1円だった。送料が2つとも350円だったけれど。

誰に言うこともなく言う
say half to oneself

誰にともなく言う
ask nobody in particular
say to nobody in particular

誰言うともなく
of itself

The rumour spread of itself.
その風説は誰言うとなく広まった。

ほんのちょこっと違うだけで、ぜんぜん違う意味になってしまうね。日常、自分が使っている言葉も、しゃべっているときに、書いているときに、微細な違いに気がつかないでいることがあるかもしれない。時間はふふたび廻らないのだから、ただ一度きり、注意しなきゃね。

その詩句に、その言葉に意味を与えるのは、辞書に書いてある意味だけではない。また、その言葉がどのような文脈で用いられているのかということだけでもない。読み手がその詩句を目にして、自分の体験と照らし合わせて、その詩句にあると思った意味が、そこにあるのである。

ルーズリーフ作業をしていると、書き写している詩句や文章とは直接的には関係のない事柄について、ふと思うことが出てきたり、考えてしまうようなことになったりして、楽しい。書き写すことは、ときには煩雑な苦しい作業になるけれど、自分の思考力が増したなと思えるときには、やってよかったと思う。

このあいだゲーテのファウストの第一部を読み直したときにメモをしたものをまだルーズリーフに書き写してなくて、そのメモがリュックから出てきたのだけれど、ゲーテすごいなあって思うのは、たいてい、汎神論的なところだったり、理神論的なところだったりしたのだけれど、次の詩句に驚かされた。

あの唇の上で
ほろびたい
(ゲーテ『ファウスト』第一部・グレートヒェンのちいさな部屋、池内 紀訳)


二〇一五年十一月三日 「いまが壊れる!」


悪徳の定義って、よくわからないけど、いまふと、ドーナツを1個買ってこよう。これはきょうの悪徳のひとつだ。と思った。BGMはずっとギターのインスト。高橋都彦さんの訳された『不安の書』のうしろにある解説や訳者の後書きを読んでいた。この解説によると、ペソアもそう無名ではなかったみたい。新聞にも書いていたっていうから、無名ではないな。無名の定義か。なんだろ。生きているあいだにまったく作品が世のなかに出なかったということでいえば、たしか、アメリカの画家がいて、部屋中にファンタジーの物語にでてくる人物たちを描いてた人がいたと思うけど。名前は忘れてしまった。その人が亡くなってはじめて、その絵が発見されたっていう話を、むかし読んだことがある。その人は、描くことだけで、こころが救われていたんだね。なんという充足だろう。きっと無垢な魂をもった人だったんだろね。ぼくはドーナツ買いに行く。

ドーナツを買いに行くまえに、来週、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり』を読んでいて、驚いた。とても美しい詩句を書いていたのだ。
こんなの。

二〇一五年三月三十一日 「ぼくの道では」

かわいた
泥のついた
ひしゃげた紙くずが
一つの太陽を昇らせ
一つの太陽を沈ませる。

「一つの」を「いくつもの」にした方がいいかな。ドーナツ買ってきてから、ドーナツ食べてから考えよう。

冒頭の「かわいた」は、いらないな。取ろうかな。

いつも買ってるドーナツ、チョコオールドファッションなんだけど300カロリー超えてたのね。いま買った塩キャラメル200カロリーちょっとで、カロリー低いの、びっくりした。見かけは、もっとカロリーありそうなのに。ドーナツ食べたら、お風呂に入って、レックバリの『人魚姫』のつづきを読もう。

なるべくカロリーの低そうなおやつを買いに行こう。とうとう、高橋都彦さんの訳された『不安の書』に突入。高橋都彦さんの訳文は、リスペクトールの翻訳以来かな。

やさしいひとは、手の置き方もやさしい。FBフレンドの写真を見ていて、友だち同士で写ってる写真を何枚か見ていて、友だちの肩のうえに置く手の表情をいくつか見ていて、気がついたのだ。やさしいひとは徹頭徹尾やさしくて、手の指先から足の爪先まで、全身にやさしさが行き渡っているのだと思った。

雨の音がする。ピーター・ディキンスンの『緑色遺伝子』の表紙絵を拡大して、プリントアウトして、ルーズリーフのファイルの表紙にしている。透明のファイルで、自分の好きな絵や写真をカヴァーにできるものなのだ。本とか、文房具とか、美しくなければ、こころが萎える。美が生活の多くを律している。

いま、FBフレンドの画像付きコメントを自動翻訳して笑ってしまった。画像は、ヨーグルトを手に、困った顔つきのドアップ。「今日病欠日下痢、リズは密かに私の食べ物に唾を吐き 80% だか分からない! 道に迷いました! 食べることができない! ハンサムなが惨めです」(Bingによる翻訳)もとの文章を推測してみよう。「きょう、下痢で欠勤した。リズが、密かに、ぼくの食べ物のなかに唾を吐いたのだ。これは、80パーセントの確率で言っている。道に迷い子がいた。食べることができなかった。ハンサムな男の子だったけど、見なりがみすぼらしかった。」あ、80パーセントを入れるのを忘れていた。友だちのリズが下痢で欠勤したのだが、ばい菌だらけの唾を吐きながら道を歩いていると、かわいらしい男の子が迷い子になっていたので、80%食べた。でもリズの食べ方は汚らしくて、食べ残しの残骸が道に散らばっていた。まるで詩のような情景だ。友だちだか恋人かわからないけれど、その子に自分の食べ物のうえに、ばい菌だらけの唾を吐かれて、下痢になってしまって、道を見ると、迷い子の男の子がいて、魅力的だったのだが、食べることができないくらいに汚らしかったというのである。いいね!して、get better soon って、コメントしておいた。FBフレンド、はやく下痢が治まって食欲が戻ればいいな〜。リズくんの唾のばい菌も、はやくなくなってほしい。80%食べられた迷い子の男の子も、そのうち生き返ってくればいいかもね〜。

目が壊れるよりさきに、目が見るものが壊れる。口が壊れるよりさきに、口が食べるものが壊れる。鼻が壊れるよりさきに、鼻が嗅ぐものが壊れる。耳が壊れるよりさきに、耳が聞くものが壊れる。手が触れるよりさきに、手が触れるものが壊れる。頭が壊れるよりさきに、頭のなかに入ってくるものが壊れる。

目に見えるものよりさきに、目が壊れる。口に入ってくるものよりさきに、口が壊れる。鼻に入ってくるものよりさきに、鼻が壊れる。耳に聞こえてくるものよりさきに、耳が壊れる。手が触れるものよりさきに、手が壊れる。頭のなかに入ってくるものよりさきに、頭が壊れる。

壊れるのなら、いま! いまが壊れる。

そろそろクスリのもう。さいきん、クスリの効きがよくない。あと、数十分、起きていよう。5連休、ほとんどペソアの詩集を読んでいた。詩集のゲラチェックをしていた。ギャオで、いくつか映画を見た。これくらいか。きのう、友だちとマンションの玄関で顔を合わせたけど、挨拶しなかった。なぜだろう?

ドイルの『シャーロック・ホームズ』もののパスティーシュを書いてみたい。詩人の探偵と、詩人の探偵助手と、詩人の犯人と、詩人の被害者と、関係者がみんな詩人のミステリーだ。ホームズ作品からの引用による詩論の準備はしてあるので、詩論は、そのうちいつか、いっきょに書き上げたいと思っている。

40年以上もむかし、子どものころに好きな遊びに、ダイヤブロックがあった。いろいろな色の透明のものが美しかった。それらを組み合わせて、いろいろなものをつくるのが好きだった。ときどき新しいダイヤブロックを買い足していた。ぼくの詩のつくり方だと思っていた。ぼくの自我の在り方だったのだ。

あくびが出た。寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月四日 「詩人賞殺人事件」


あさ、お風呂に入りながら、シャーロック・ホームズのパスティーシュ『詩人殺人事件』のことを考えていた。引用をむちゃくちゃたくさん織り込んでつくりたい。犯人と動機は考えた。場所も考えた。殺し方も二つ考えた。無名の詩人の殺人をテーマにした詩篇通りに殺されていくことにしたらいいと思った。実名は、「田中宏輔」のみ。その殺人詩篇の作者として登場させればいいかなと思う。ノイローゼで自殺した詩人として登場させようかなと思っている。まず、殺人詩篇を完成させよう。10人くらい死なせようかな。死なせる詩人の名前がむずかしいな。すでに亡くなった詩人の名前を使えばいいかな。いや、遺族から文句がくるから、有名なミステリーの犯人や探偵の名前を使って変形しようかな。悪路井戸さんとか。ひゃはは。おもしろそう。持ってるミステリーで、犯人や被害者の名前を調べよう。あ、時間だ。これから仕事に行く。『詩の日めくり 二〇一四年六月一日─三十一日』に入っている、指をバラバラに切断して、首を切断する「切断喫茶」を真っ先に思い出した。指を切断して違う指につけて回転させて会話させたり、首をつけかえるの。ぜひ、殺人詩篇に入れたい。というか、入れるつもり。通勤時間に、殺される詩人の数を4人に減らして、ひとりひとりのプロフィールを考えてた。ひとりは東京人で、詩の雑誌の会社の近くに住んで編集者と密に連絡を取り合い、お酒などもいっしょに飲むフランス文学者で、代表作品が、村野四郎の『体操詩集』ならぬ、『ダイソー詩集』で、100円ショップで買った品物についての感慨に、フランス思想家の名前とジャーゴンをちりばめたもので、その東京の詩人の詩集はたいてい、そういうもので、あと、代表的な詩集に、『東京駅』とか、『三越デパート』とかがある。あとの3人のうちの一人は三河出身の詩人で、語尾に、かならず、「だら〜」という言葉をつける。あ、さきの東京人の詩人は、しゃべるときに、かならず、「おフランスでは〜」をつけてしゃべる。あと2人の詩人だが、あとの2人は女性詩人で、ひとりは広島出身の詩人で、語尾にかならず「〜け」をつける。残ったひとりの詩人は、京都の詩人で、語尾に、かならず「〜どすえ」をつける。じっさいの詩の雑誌の編集者には、3人ほどの方と会っているが、その3人の方は、詩に対して真摯な方たちだったと思うが、ぼくが書く予定のものに出てくる編集者は、まったく詩に関心のない編集者たちにしようと思う。あと、殺人現場は、詩の賞が授与される詩の賞の授賞式会場のあるホテルの部屋で、連続殺人が起こることにする。殺され方は、2つまで考えた。ひとつは、けさ書いたように指を関節ごとに切断して首を切断するもの。あとひとつは毒殺なのだけれど、毒が簡単に手に入らないので、食塩を食べさせて殺そうとするのだけれど、まあ、コップに半分くらいの量で致死量になったかなと思うのだけれど、じっさい、むかし、京都の進学高校で、体育競技のさいに、コップに入った食塩を飲ませるものがあって、病院送りになったという記録を、ぼくは毒について書かれた本で読んだことがあって、そこには、ほとんどあらゆるものに致死量があると書かれてあったのだけれど、食塩を毒にしようとして飲ませようとするのだが、詩人が抵抗するので、指を鉛筆削りのようにカッターで肉をそぎ落としていって、食塩を飲み込ませるというもの。これで、2つの殺し方は考えた。あと、2人の殺し方を、きょう、塾から帰ったら考えよう。殺人者は、編集者のひとりである。自殺した無名の詩人「田中宏輔」の弟である。4人の詩人のプロフィールや、各詩人の作品も考えようと思う。連続殺人ができるのは、殺人者が編集者だったからである。殺された詩人たちは、まさか編集者が殺人者だとは思わずに部屋に入れてしまって、殺されてしまったというわけである。殺人を犯す編集者の名字も田中であるが、ありふれた名前だし、母親が違っていて、顔がまったく似ていなかったので、『殺人詩篇』の作者と編集者とを結びつけることができなかったのだということにしておく。一日で考えたにしては、かなり映像が見えてきている。もっとはっきり見えるように、より詳細に詰めていきたい。探偵と探偵助手のことも考えよう。

地下鉄烏丸線:京都駅で乗客がごそっと減るのだが、まんなかあたりに座っていた女性の両隣とその隣があいたのに驚いたような表情を見せた彼女の顔が幽霊の役をする女優のような化粧をしていた。表情も生気のない無表情というものだったが、電車が動き出すと、まるで首が折れかねないくらいの勢いで首を垂れて居眠りしだした。あさに遭遇する光景としたら、平凡なものなのだろうが、ぼくの目にはマンガのようにおもしろかった。地下鉄の最終駅までいたら、まだ観察できるかもしれないと思ったのだが、最終の竹田ではなく、そのまえのくいな橋で降りた。降り方は、べつにふつうだった。駅名がアナウンスされると、目覚めたかのように顔を上げ、目を見開いて窓のそとに目をやり、電車がとまるまで目を見開いたまま、電車がとまるとゾンビが動き出すような感じで腰を上げてドアに向かって歩き出したのである。竹田駅で降りてほしかったな。

『詩人連続殺人』にするか、『詩人賞殺人事件』にするか迷ってるんだけど、まあ、あと、ふたつの詩人の殺し方は、塾への行きしなと、塾からの帰りしなに考えてた。撲殺と溺死がいいと思う。ひとを殴ったこともないので、どう表現すればいいのかわからないけれど、とりあえず殴り殺させる。詩の賞のトロフィーを見たいと言った詩人に、トロフィーを持って行った編集者の犯人が殴りつけるということにしたい。トロフィーに詩人が愛着を持つ理由も考えた。自分自身がその賞を以前に受賞したのだが、以前に家が火事になり焼失したことにする。手で直接殴ると、たぶん、手の骨というか、関節が傷むので、手にタオルを巻いた犯人がトロフィーを、詩人の頭にガツンガツンとあてて殴り殺させようと思う。溺死は、ヴァリエーションがあればいいかなと思って考えたのだけれど、溺死はかなり苦しいらしいので、ひとの死に方を描く練習にもなると思う。どれもみな、経験はないけれど、がんばって書きたい。そだ。指の切断はかなりむずかしそうなので、祖母の見た経験を使おう。祖母から直接に聞いた話ではないけれど、生前に、父親が語ってくれた話で、戦前の話だ。祖母の、といっても、父親がもらい子だったので、ぼくとは血のつながりがないのだけれど、祖母の兄がやくざのようなひとで、じつの妹を(祖母ではない妹ね)中国に売り飛ばしたりしたらしいのだけれど、妹のひとりが間男したらしくって、その間男を風呂場に連れていって、指をアルミ製の石鹸箱にはさませて、踵で、ぎゅっと踏みつけて、指を飛ばした(こう父親が口にしてた)のだという。指がきれいに切断されていたらしい。たしかに、ペンチかなにかで切断しようと思うと、手の指の力でやるしかないけれど、足の踵で踏みつけるんだったら、手の指の力の何倍もありそうだものね。指の切断もむずかしくはなさそうである。きょうは、殴り殺す場面をより詳細に頭に思い描きながら寝るとしよう。被害者の詩人は、女性詩人よりも男性詩人のほうがいいかな。溺死は女性詩人が似合うような気がする。髪の毛が濡れるというのは、なんとも言えない感じがする。そいえば、お岩さんとか、髪の毛、濡れてそうな感じだものね。濡れてないかもしれないけど。撲殺は男性詩人、溺死は女性詩人がいいかな。男女平等に、4人の詩人たちのうち、男女2人ずつである。指と首の切断を、どちらにするか。あと毒殺をどちらにするか。とりあえず、きょうは撲殺のシーンを思い浮かべながら寝よう。ぼくが唯一、知ってるのは、知ってると言っても、文献上だけれど、『ユダヤの黄色い星』というアウシュビッツなどで行われた拷問や虐殺の記録写真集だけれど、死刑囚にユダヤ人たちを殴り殺させたものだ。あ、人身売買だけれど、戦前はふつうにあったことなのかな。父親からの伝聞で確証はないんだけれど、あったのかもしれないね。しかし、貴重な伝聞事項であった。犯人にアルミの石鹸箱を用意させよう。祖母の遺品とすればいいかな。むかし付き合ってたヒロくんといっしょに見た『ヘル・レイザー』がなつかしい。血みどろゲロゲロの映画だった。きょうの朝、きょうの昼、きょうの夜と、頭のなかは、『詩人連続殺人』または『詩人賞殺人事件』のことで、いっぱいだった。あとは、探偵役の詩人と、探偵助手役の詩人の人物造形だな。作品の語りは編集長にさせる予定だ。犯人はその編集長にいちばん近い編集者である。あ、東京人の詩人に知り合いがおらず、東京人の喋り方がわからないので、語尾に、「〜ですますます」をつけることにした。頭に思い描く撲殺シーンに飽きたので、ペソアの『不安の書』のつづきを読んで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月五日 「濡れた黒い花びら」


2015年10月22日メモから

詩には形式などない。あるいは、こう言った方がよいだろう。詩は形式そのものなのだ。

仕事帰りに、四条のジュンク堂に寄って、チャールズ・シェフィールドの『マッカンドルー航宙記』を買った。店員が本を閉じたまま栞をはさんだので、本のページが傷んでしまった。激怒して注意した。もちろん、本の本体は交換してもらった。本を閉じたまま栞をはさむなんて正気の沙汰ではない。

エズラ・パウンドの『地下鉄の駅で』という詩は、もう何度も読んだことのあるものだった。つぎのような詩だ。

人混みのなかのさまざまな顔のまぼろし
濡れた黒い枝の花びら
(新倉俊一訳)

トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を授業の空き時間に読んでいると、その141ページに、"黒く濡れた枝についた花びら"(エズラ・パウンドの短詩)と割注が付いた詩句が引用されていて、パウンドの詩集を調べて確認した。(自分の詩集ではなく、仕事場で確認するために勤め先の図書館で借りた詩集で)すっかり忘れていた。何度も読んでいた詩なのに。

こんど11月10日に思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作・下巻』のなかに、ジャック・ウォマックの『ヒーザーン』から「濡れた黒い枝の先の花びらなどなし」(黒丸 尚訳)という言葉を引用しているのだが、この言葉のもとには見た記憶があったのだが、禅の公案か、なにかそういったものだと思っていたのだったが、公案で検索したが探し出せなかったのであるが、そうか、パウンドだったのだと、自分の記憶力のなさに驚かされた次第である。めちゃくちゃ有名な詩なのにね。

ところで、帰りの電車のなかで、「濡れた黒い」と「黒く濡れた」では意味が違うのではないかと思った。木の枝が雨に濡れたかなんかして、水をかぶると、灰色だった枝まで黒く見えることがあるけれど、さいしょから黒い枝もある。濡れて黒いのか、黒くて濡れたのか、どっちなんだろうと思って、帰って部屋で原作の英詩を調べた。

IN A STATION OF THE METRO

The apparition of these faces in the crowd;
Petals on a wet, black bough.

さて、どっちかな?

さて、これから塾。

いま塾から帰った。パウンドのものだ。もとから黒い枝のような気がするけど、濡れるともっと黒くなるよね。どだろ。

ニコニコキングオブコメディを見てる。塾の帰りに今野浩喜くんに似ている青年がバス停にいるのを目にする。しじゅういるけれど、ぼくの塾の行帰りの時間に。かわいい。西大路五条の王将で皿とか洗ってる男の子だ。まえに王将で食べてたら、奥で皿を洗ってた。


二〇一五年十一月六日 「soul II soul」


apprition には、出現のほかに、幽霊、おばけという意味があるので、新倉さんは後者に訳されたんでしょうね。どちらの訳も可能ですから、どちらもありうる訳なんでしょうね。きのう地下鉄で見た女性の表情は幽霊に近かったです。パウンドの目にもそう映ったのでしょうか。言葉が豊富な語彙を持っているので、多様な訳というのがあるのでしょうね。このことは翻訳のさいには逃れられないことであると同時に、文化を豊かにするものでもあると思っています。たくさんのひとの同じ原作の英詩の訳が読んでて楽しい(ときには腹立たしい)理由でもあります。イメージがはっきりしてそうで、じつはそうでないかもという気もしてきました。というのも、パウンドが見た顔が、どんな顔たちだったかはっきりしないからです。こうして、顔のところはわかりませんが、花のところは、原文より日本語訳の方が、ハッとする感じのような気がしますね。

きょうは塾がないので、数日ぶりに、ペソア詩集(高橋都彦訳)を読もう。そのまえに、ニコニコキングオブコメディをもう一回、見よう。

圧力をかけて、人間を重ねて置いておくと、そのうち混じり合う。吉田洋一と高山修治と原西友紀子と川口篤史をぎゅっと重ねて置いておくと、二日ほどすると、吉山口修と山子原史と篤田友紀治と洋西史高になる。四日ほどすると、‥‥‥

16世紀に現われた絶対王政の国王で、最盛期の大英帝国の基礎を築いたのはだれか、つぎの(1)から(4)のなかから選びなさい。
(1)吉田洋一
(2)高山修治
(3)原西友紀子
(4)川口篤史

吉田洋一と高山修治は同じ日に死んだ。飛び降り自殺である。二人は恋人同士だった。心中である。 原西友紀子は吉田洋一の3週間前に死んだ。吉田洋一は川口篤史ともいっしょに死んだ。交通事故である。二人の運転していた車が正面衝突したのだった。なぜ、原西友紀子が一人で死んだのか答えなさい。

食べるママ。お金を入れると食べるママ。しゃべるママ。お金を入れるとしゃべるママ。比べるママ。お金を入れると比べるママ。食べないママ。お金を入れないと食べないママ。しゃべらないママ。お金を入れないとしゃべらないママ。比べないママ。お金を入れないと比べないママ。

ママを食べる。お金を出してママを食べる。ママにしゃべる。お金を出してママにしゃべる。ママを比べる。お金を出してママを比べる。ママを食べれない。お金を出さないとママを食べれない。ママにしゃべれない。お金を出さないとママにしゃべれない。ママを比べられない。お金を出さないとママを

来週、文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』を読み直してたのだけれど、ほんとうにくだらないことをいっぱい書いていた。詩はくだらないものでいいと思っているので、これでいいのだけれど、ほんとうにくだらないことばっかり書いてた、笑。生きていることも、ほんとうにくだらないことばっかだ。

soul II soul のアルバムが届いて、そればっか聴いてる。soul II soul も、くだらない音だ。だらしない、しまりのない、くだらない音だ。でも、なんだか、耳にここちよいのだ。瞬間瞬間、いっしょうけんめいに生きてるつもりだけど、くだらないことなんだな、生きてるって。

soul II soul のアルバムを amazon で、もってないもの、ぜんぶ買った。といっても、もってるものと合わせても、ぜんぶで5枚だけど。いまのぼくの身体の状態と精神状態に合うのだろう。身体の節々が痛いし、身体じゅうがだるい。ずっと頭がしびれている。死んだほうがましだわ。

トマス・スウェターリッチの『明日と明日』(日暮雅通訳)がとてもおもしろいのだけれど、主人公が探している女性の姿がなぜ現われたのか、読んでる途中でわからなくなって、数十ページ戻って読み直すことにした。記憶障害かしら。一文字も抜かさずに読んでいるのに、重要なことが思い出せないなんて。

トマス・スウェターリッチの『明日と明日』150ページまで読み直して、ようやく思い出せた。おもしろい。ペソアは、あと回しにしよう。

月曜日は、えいちゃんと焼肉。あとは、ずっと本が読める。トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を読もう。エリオット、パウンドの詩句とか、話とか、英語圏の現代詩人の詩句が続出(でもないかな、でも、すごいSF)。ぼくもこんなの書きたいな。

数の連続性の話は微分と絡んでいるのだけど、微分では納得できないことがいくつもあって、もう一度、数の連続性について勉強し直そうと思う。ごまかされている感じが強いのだ。

大谷良太くんちに行ってた。学校の帰りに、大谷くんとミスドでコーヒーとドーナッツ食べて、くっちゃべって、そのまま大谷くんちで、お茶のみながら、くっちゃべって、晩ご飯にカレーうどんをいただいて、くっちゃべってた。

帰りにセブイレでサラダを買ってきたので、食べて寝よう。あしたは、『明日と明日』のつづきを読もう。


二〇一五年十一月七日 「20円割引券」


雨がすごい。むかし雨が降ったら、ああ、恋人が通勤でたいへんだなと思ったものだが、別れたいまでも、たいへんだなと思ってしまう。別れたら、そんな感情はなくなるのがふつうのことみたいに聞くけれど、どうなんだろうか。ぼくのような気持ちの在り方のほうが、ぼくにはふつうのような気がするけど。

ようやく起きた。これからフランスパンを買いに行く。帰ったら、スウェターリッチの『明日と明日』を読もう。一文字も見逃せない作品だ。すごい。

コーヒーとドーナッツを買ってこよう。20円引きのレシート兼割引券を持っていこう。貧乏人には、こういうのが、うれしい。

トマス・スウェターリッチの『明日と明日』(日暮雅通訳)における誤植:280ページ1行目「両目も切り開かれていて、網膜レンズがとたれていた。」 これは、「網膜レンズもとられていた。」の間違いだろう。ハヤカワ文庫の仕事は、岩波文庫と同様に一流の校正係の人間に見せなきゃいけないと思う。

これからスーパーに晩ご飯を買いに行く。終日、soul II soul 聴いてる。

そいえば、きょうの夜中に、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する予定の新しい『詩の日めくり』も、soul II soul みたいな感じかもしれない。


二〇一五年十一月八日 「明日と明日」


トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を読み終わった。すばらしい小説だった。スウェターリッチが参考にしたという、チャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』を、これから読む。買い置きしてる小説がいっぱいあるので、当分、なにも買わないでおきたい。買うだろうけれど、笑。

きょうは、これから、えいちゃんと焼肉屋さんに行く。雨、やんでほしい。

えいちゃんとの焼肉から帰ってきたら、電話があって、M編集長かしらと思ったら、先週、道で声をかけてくれた前に付き合ってた子からだった。で、いっしょに部屋で映画見て、お互い、体重が重いから減らそうねって話をして、いまお帰り召された。きょうの残りの時間は読書しよう。

あしたは夕方から塾だけど、それまでは時間があるから、たっぷり読書できる。しかし、きょう読み終わったトマス・スウェターリッチの『明日と明日』はよかった。帯に書いてあった、ディックっぽいというのは、『暗闇のスキャナー』の雰囲気のことかな。たしかに、読後感は近い感じがする。

スウェターリッチの『明日と明日』が、あまりによかったので、いま、amazon レビューを書いた。あしたくらいには反映されるだろう。

もう反映されてた。
http://www.amazon.co.jp/%E6%98%8E%E6%9%A5%E3%81%A8%E6%98%8E%E6%97%A5-%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%AF%E6%96%87%E5%BA%ABSF-%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9-%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81/dp/4150120242/ref=cm_cr-mr-img


二〇一五年十一月九日 「hyukoh」


疲れがたまっているのかもしれない。さっきまで起きれなかった。塾に行くまで、ペソアの『不安の書』を読もう。

hyukoh って、アーティストのアルバムを買おうと思って、amazon ぐぐったら、再入荷の見込みが立たないために、現在扱っていないとのこと。ありゃ、ひさびさに本物のアーティストを見つけたと思ったのだけれど、まあ、こんなものか。欲しいものが手に入らないというのも、どこかすてき。

よい音楽を聴くと、思い出がつぎつぎと思い出されて、詩句になっていく。ぼくの初期の作品も、中期の先駆形も、さいきんの作品もみな、音楽がつくったようなものだ。きょう、チューブを聴きながら、20代のころの記憶がつぎつぎと甦ってきた。ただ、ぼくの記憶を甦らせた音楽は売ってなかったけれど。

詩はとても個人的なものが多いからかもしれないけれど、自分がよいなと思うものが、ほかのひとのよいと思うものと重なることがほとんどない。このあいだ大谷良太くんちで晩ご飯を食べたとき、半日いっしょにいて詩の話をいっぱいしたけれど、二人が同時に好きな詩はひとつもなかった。それでよいのだ。

hyukoh のアルバムは韓国でも生産中止らしい。よい曲がいっぱい入ってるのに、残念だ。憶えておこう。いつかアルバムが再発売されるかもしれないから。欲しい本はすべて手に入れたのだけれど、CDは、hyukoh のように、amazon で探しても見つからないものがある。よいけれど。

これから塾に。そのまえにブックオフに寄ろうかな。

寝るまえの読書は、ペソアの『不安の書』のつづきを。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月十日 「BEENZINO」


カヴァーをはずして、ペソアの『不安の書』を、床に就きながら読んでいるのだが、メモをとるのに、表紙のうえでメモを寝ながらとっていたために、ペンをすべらせてしまい、表紙のうえに、インクのあとを5,6センチ走らせてしまった。さいわい、表紙が黒だったので、それほど目立たないが。死にたい。ヴォネガットの本に次いで、二度目だ。ぼくくらい本の状態に神経質なひとは、めったにいないだろうに。うかつだった。死にたい。ひたすら、死んでしまいたい。5000円以上した本なのに。まあ、値段の安いものなら、だいじょうぶってわけじゃないのだけれど。

そうか、睡眠薬の効きが関係しているのだろう。電気けして横になる。二度目のおやすみ、グッジョブ!

父の霊が出てきて、目がさめた。最悪。

大声で叫びながら目が覚めた。最悪。隣の住人がどう思っているか。最悪。

人間は事物と同様に外部に自己を所有する。内部と似ても似つかぬ外部を所有することもある。無関係ではないのだ。ただ似たものではない、似ても似つかぬということ。外部から見れば、内部が外部になる。外部とは似ても似つかぬ内部を外部が所有しているのだ。内部は外部を所有し、外部は内部を所有する。しかし、現実にはしばしば、内部は内部と無関係な外部を所有することがある。外部は外部と無関係な内部を所有することがある。所有された無関係な外部や内部が、その内部や外部に甚大な被害をもたらすことがある。ときとして、運命論者は、それを恩寵として捉える。人間も事物も、偶然の関数である。いや偶然が人間や事物の関数であるのか。人間と事物の定義域とはなんだろう。偶然の値域とはなんだろう。あるいは、偶然の定義域とはなんだろう。人間や事物の値域とはなんだろう。そこに時間と場所と出来事がどう関わっているのか。

それはそこに存在するものなのだが、見える者には見え、見えない者には見えないのだ。それはそこに存在するものではないのだが、見えない者には見えず、見える者には見えるのだ。

人間だからといって、魂があるものとは限らない。人間ではないからといって、魂がないものとは限らない。

ぼくというのは、ぼくではないものからできているぼくであって、ぼくであることによって、ぼくではないものであるぼくである。ぼくはつねにぼくであるぼくであると同時に、つねにぼくではないぼくだ。

現実に非現実を混ぜ込む。これは無意識のうちにしょっちゅうしていることだ。ましてや、しじゅう、詩や小説を読んだり、書いたりしているのだ。意識的に現実に非現実を混ぜ込んでいるのだ。日常的に、現実が非現実に侵食されているのだ。あるいは、逆か。日常的に、非現実が現実に侵食されているのか。

きのう、BEENZINO という韓国アーティストのアルバムが2500円ちょっとだったので、11月23日くらいに入荷すると amazon に出てたので、買ったのだが、即行なくなってた。前日までなかったので、一日だけの発売だったのか。いま10000円を超えてて、まあ、なんちゅうごとざましょ。

hyukoh これから毎日、amazon で検索すると思うけど、はやくアルバム出してほしいわ。


二〇一五年十一月十一日 「ぼくを踏む道。ぼくを読む本。」


ぼくを踏む道。ぼくを読む本。

ぼくよりもぼくについて知っている、ぼくの詩句。ぼくは、ぼくが書いた詩句に教えてもらう。ぼくが書いた詩句が、ぼくに教えてくれる。ぼくがいったいどう感じていたのか。ぼくがいったい何を考えていたのか。ぼくがいったい何について学んだのか。

人間というものは、それぞれ違ったものに惑い、異なったものに確信をもつ。逆に考えてもよい。違うものがそれぞれ人間を惑わせ、異なるものがそれぞれ人間に確信をもたせる。人間というものが、それぞれ違った詩論を展開するのは、異なる詩論がそれぞれ人間というものを展開していくものだからである。

ぼくよりもぼくについて知っている、ぼくの詩句。ぼくは、ぼくが書いた詩句に教えてもらう。ぼくが書いた詩句が、ぼくに教えてくれる。ぼくがいったいどう感じていなかったのか。ぼくがいったい何を考えていなかったのか。ぼくがいったい何について学ばなかったのか。

きょうは塾がないので、ペソアの『不安の書』のつづきを読む。だいぶ退屈な感じになってきたが、まあ、さいごまで読もうか。600ページを超えるなか、今、160ページくらい。


二〇一五年十一月十二日 「言葉の生理学」


言葉の生理学というものを考えた。人間の感情に合わせて、言葉が組み合わされたり、並べ替えられたり、新しく言葉が造られたりするのではなく、言葉が組み合わされたり、並べ替えられたり、新しく言葉が造られたりすることによって、人間の感情が生成消滅したり、存続堆積するというもの。組み合わせも、並び替えも、新しく言葉を造り出すのも無数に際限なく行うことができるので、それに合わせて、人間の感情表現も情感描写も無数につくりだすことができるというわけである。年間、100万以上の物質が新たに合成されている。おそらく、人間の感情も、年間、100万以上、つくりだされているのだろう。携帯電話を持つことで、ひとを待つイライラの感情が、以前とはまったく違うものになった。すぐに電話やメールを返されない、返信がすぐに来ないというイライラは、携帯電話を持つ以前にはなかったイライラであろう。

ぼくを消化する、ぼくが食べたもの。ぼくを聞く音楽。

よくひとに見つめられるのだが、ぼくが見つめていると見つめられるので、こう言わなければならない。よくひとに見つめさせると。

毒だと知っているのだけど、きょう口に入れてしまった。興戸駅の自販機でチョコレートを買って食べてしまった。また、帰りにセブイレでタバコを買ってしまい、すぐに禁煙していたことを思い出して、タバコを返してお金にして返してもらった。ものすごい意志薄弱さ。強靭な意志薄弱と言ってよいだろう。

強靭な意志薄弱さか。これはキー・ワードかもしれない。ぼくの詩や詩論の。

soul II soul の5枚を繰り返しかけている。こんな曲展開しているのかとか、こんなメロディーだったのかとか、知らずに聴いていた自分がいたことに気がついた。じっくり聴くと、わからなかったことがわかることがあるのだ、ということである。詩や小説や映画なんかも、そうなんだろうな。

きのう、塾で椅子に腰かけたら、お尻が痛かったので、骨盤が直接あたるくらいに肉が落ちて、ダイエットが成功したのかと思っていたのだが、塾から帰って、ズボンとパンツを下してお尻を見たら、おできができてたのだった。おできの痛みであったのだ。痛いわ〜。きょうも痛い。寝ても痛い。痛った〜い。

ダイエット中だが、ドーナツが食べたいので、セブイレに買いに行く。でも、睡眠薬のんでからにしよう。ああ、歯磨きしちゃったけど。まあ、いいか。も1回、磨けば。クスリがきいて、ちょっとフラフラして、ドーナツ食べるの、おいしい。それで、頭とお尻の痛いのが忘れられるような気がする。

高橋都彦さんが訳されたペソアの『不安の書』を読んでいると、記述の矛盾が気になって、だんだん読むのが苦痛になってきた。全訳だからかもしれない。澤田直さんが訳された、平凡社から出てる『新編 不穏の書、断章』は、よいものだけピックアップしてあったので、たいへんおもしろかったのだが。でも、高い本だったので、もったいないので、さいごまで読むつもりだけど。貧乏なので、つい、そういう気持ちになってしまう。まあ、高い本なのに、買ってからまったく読んでないものもあれば、ナボコフの全短篇集のように、読むのを中断しているものもあるけれど。とりあえず、歯を磨いて、ペソアの『不安の書』のつづきを読もう。論理的に詰めが甘いところが多々ある。記述の矛盾も、文学的効果というより、うっかりミスかなと思われるところも少なくない。全訳読むと、ちょっと、ぼくのなかでのペソアの評価がさがってしまった。


二〇一五年十一月十三日 「ケイちゃん」


あめがしどいなあ。しごとだ。いってきます。

レックバリの『人魚姫』あと少しで読み終わる。不覚にも、涙が出てしまった。レックバリ、そりゃ売れるわと思った。読み捨てるけど。本棚に残して、ひとに見られたら一生の不覚という類の作家。

そうとう飽きてきたけれど、これからペソアの『不安の書』のつづきを読む。あしたは、バーベQ。

田中宏輔は童貞で純粋でビッチでホモでオタクでヘタレです。
https://shindanmaker.com/495863

「田中宏輔」がモテない最大の理由
【 い ち い ち セ コ い 】 
https://shindanmaker.com/323387

田中宏輔さんのホモ率は…
74% 平凡より少し上です
https://shindanmaker.com/577787

いまはもうなくなった、出入口。阪急電車の。高島屋の向かい側。西北角。コンクリートの階段。そこに、ぼくは、ケイちゃんとぼくを坐らせる。ケイちゃんは23才で、ぼくは21才だった。そこに、夕方の河原町の喧騒をもってくる。たくさんの忙しい足が、ケイちゃんとぼくの目のまえを通り過ぎていく。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。繰り返させる。ケイちゃんに訊かせる。「きょう、おれんち、泊まる?」「泊まれない。」ぼくに答えさせる。ふたりの目は通り過ぎていく足を見ている。目はどこにもとまらない。大学生になっても親がうるさくて、外泊がむずかしかった。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。繰り返させる。このときのぼくのなかに、この会話のほかの会話の記憶がない。ただただたくさん、足が通り過ぎていったのだった。数十分、ぼくは、ケイちゃんと、ぼくを坐らせたあと、ふたりの姿を、いまはもうなくなった、出入口。阪急電車の。高島屋の向かい側。西北角。コンクリートの階段。そこから除く。ふたりの姿のない、たくさんの足が通り過ぎていく風景を、もうしばらく置く。足元をクローズアップしていく。足音が大きくなっていく。プツンッと音がして、画面が変わる。ふたりの姿があったところにタバコの吸い殻が捨てられ、革靴の爪先で火が揉み消される。数時間後の風景を添えてみたのだ。架空のものの。(『13の過去(仮題)』の素材)あちゃー、現実だけをチョイスするんだった。タバコの吸い殻のシーンは除去しよう。読書に戻る。

シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』 (創元推理文庫)
これは買わなければならない。

記憶とはなんとおもしろいものなのか。無意識の働きとはなんとおもしろいものなのか。ケイちゃんの名字も山田だった。ヤンキーの不良デブのバイの子も山田くんだった。彼が高校3年のときにはじめて出合ってそれから数年後から10年ほどのあいだ付き合ってたのだ。怪獣ブースカみたいなヤンキーデブ。

ケイちゃんの記憶が3つある。ヤンキーデブの山田くんの記憶はたくさんある。ほとんどセックスに関する記憶だ。不良だったが人間らしいところもあった。


二〇一五年十一月十四日 「バーベQ」


きょうは、えいちゃん主催のバーベQだった。炭になかなか火がつかなくって、みんな苦労して火を熾してた。お肉がおいしかった。お酒もちょびっと飲んだ。禁酒してたけど。

セブイレにサラダを買いに行こう。

バーベQから帰ってきたら、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のPDFが送られていた。これからプリントアウトしてチェックする。

ゲラチェック、つらすぎ。

ゲラチェックはスムーズに行くようになった。『全行引用詩・五部作』の上巻と下巻に比べたら、めっちゃ楽。基本、ぼくの詩句だから、間違ってても、どってことない。引用部分だけに気をつけていればいいのだから。あしたじゅうに、ゲラチェック終えられると思う。だいぶ精神的に立ち直った。よかった。

もうそろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

あした、病院に行くの、おぼえておかなきゃ。ついでに、ジュンク堂で、S・ジャクスンの新刊を買おうっと。


二〇一五年十一月十五日 「だまってると、かわいいひと。」


だまってると、かわいいひと。しゃべってると、かわいいひと。だまってても、しゃべってても、かわいいひと。だまっていなくても、しゃべっていなくても、かわいいひと。だまってると、かわいくないひと。しゃべってると、かわいくないひと。だまってても、しゃべってても、かわいくないひと。だまっていなくても、しゃべっていなくても、かわいくないひと。

朝から、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のゲラチェックをし終わって、手直ししたところをワードにコピペした。あと、もう一度、点検したら、送ろう。『全行引用詩・五部作』のことを思ったら、ぜんぜんちょろいものだった。あー、ちかれた。ちょっと球形して、サラダ買いに行こ。

『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のゲラチェック、2回目完了。これから病院に。帰ってきたら、3回目の再校のゲラチェックして、訂正部分をPDFにして、メール添付して送ろう。

いま帰ってきた。シャーリイ・ジャクスン1冊、ジーン・ウルフ2冊で、6500円ちょっとだったかな。まあ、ぼくの一日の労働に対する給金分くらいである。いつ読むか、わからんけど、買っておいた。ジーン・ウルフのは、棚に平置きされてるのがごっそり数が少なくなってたから、売れているのだろう。

きょうは、晩ご飯を食べよう。これからイーオンに買いに行く。お弁当にするか、フランスパンにするか。

再校の直しを書いたワードを見直しているのだが、何度、見直しても、その見直しに直すべき個所が出てくる。ぼくのテキストが異様なのか、ぼく自身が異様なのか。それとも、これがふつうなのかな。ちょっと球形して、もう一度、見直して、PDFにして送ろう。

ようやく、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のゲラチェックしたものを送付した。全行引用詩は3週間かかったけれど、これは24時間以内にできた。楽チンだった。来年も、思潮社オンデマンドから3冊出すことにしている。ゲラチェックに時間をとられないように、目を鍛えておこう。

きょうの残りの時間は、きょう買った、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』の表紙をじっくり眺めて、解説を読んで眠ろう。本のきれいなカヴァーを見ると、幸せな気分に浸れる。基本的にきれいなものが好きなのだ。音楽も、詩も、絵画も、映画も。そこに奇妙さが加わると、たまらない。


二〇一五年十一月十六日 「ちょっとしたことが、すごく痛かった。」


仕事に。詩集のことがほとんど終わったので、気分が楽。数学と読書に集中できる。

きょうからお風呂場では、20TH-CENTURY POETRY & POETICS をのつづきを読む。きょうは、ロバート・フロストの DEPARTMENTAL。ひさびさにフロストの原詩を読む。

退屈な読み物になってしまっているペソアの『不安の書』だけど、惰性で読みつづけることにした。まだ218ページ。あと、この2倍ほどの分量がある。シャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』のなかのエッセイや短篇をつまみ食いしてるけど。ミエヴィルの『都市と都市』は中断してしまっている。

仕事帰りに日知庵に寄って、てんぷらとご飯を食べて、その帰りにジュンク堂に寄って、本棚を見てたら、ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』を見つけて、びっくりして買った。第3短篇集だけど、昨年に出てるの、知らなかったのだ。ケリー・リンクも、ぼくの文学界でのアイドルである。クスリのんで横になって、ペソアを読む。おやすみ、グッジョブ!

歯磨きチューブを足の指の先に落として、めっちゃ痛くって泣きそうになった。泣かなかったけれど。こんなに痛くなるんだ、歯磨きチューブのくせに。どんな角度で落ちたんだろう。あした、指の爪のところが変色していませんように。寝るまえの出来事としては衝撃的だった。


二〇一五年十一月十七日 「午後には非該当する程度には雨が降るとより良い」


『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の三校が送られてきたので、即行チェック、5分でチェックが終わった。3カ所の直しで、終わり。即行、ワードに直しの箇所を書いて、送付した。この間、わずか30分ほど。念校は秒単位でチェックができると思う。チェックの能力がひじょうに高くなった。

これからセブイレに行って、サラダとドーナッツを買ってこよう。それからお風呂に入って、塾だ。サイボーグゼロゼロワンのように、加速装置でも付いてるかのよう。きょうは仕事が速い。BEENZINO のミニアルバムが届いた。すばらしい音だ。hyukoh のアルバムがほしい。いま一番ほしい。

午後には非該当する程度に雨が降るとより良い気分にされたスパイシーな射撃のためになる近所の増加が非常に安全保障のこれら4つの黒い子供の電子免れた写真は撮影しようとするいくつかの3つが入って失敗の笑顔は笑顔でも撮ると脇もないトイレを検索し、そう、私は真のライブは私の精神はないようだ。

これからお風呂に、それから塾に。お風呂場では、ロバート・フロストの『DESERT PLACES』、『NEITHER OUT FAR NOR IN DEEP』、『DESIGN』を読む。3つとも短詩だけど、どだろ。3つ読めるかな。


二〇一五年十一月十八日 「ペンギンは熟さない。」


ペンギンは熟さない。


二〇一五年十一月十九日 「どうせ痛いんだったら、痛みにも意味を見つけないとね。」


いま帰ってきた。学校の帰りに、大谷良太くんちに寄った。ドーナッツとコーヒーで、ひとときを過ごした。左半身の血流が悪くて、とくに左手が冷たい。父親がリュウマチだったので、その心配もあるが、叔母が筋ジスだったので、その心配もある。まあ、なるようになるしかない。それが人生かなって思う。

西院駅からの帰り道、セブイレで、サラダとおにぎりを買ってきた。これが晩ご飯だけど、お茶といっしょに買ったら、600円くらいした。こんなもんなんだ、ぼくの生活は。と思った。あしたは、イーオンでフランスパンを買おう。そう決心したのだった。きょうは、ペソアの『不安の書』のつづきを読む。

あさって京都詩人会に持っていく新しい詩というのがなくて、このあいだツイートした『13の過去(仮題)』の素材をつかって書こうかなと思っているのだが、いま、ふと、過去の記憶を素材にしたあの場面の記憶というのが、ぼくを外側から見たぼくの記憶であったことに気がついた。ぼくの内部を、ぼくは見たこともないので、わからないが、そう単純に、ぼくを内部と外部に分けられないとも思うのだけれども、ぼくの記憶の視線が構成する情景は、ぼくが目で見た光景に、ぼくと、ぼくといっしょにいたケイちゃんを、そこに置くというものであったのだった。そう思い返してみると、ぼくの記憶とは、そういうふうに、ぼくが見た光景のなかに、その光景を目にしたぼくを置く、というものであるのだということに、いま気がついたのであった。ぼくの場合は、だけれども、ぼくの記憶とは、そういうものであるらしい。54年も生きてきて、いま、そんなことに気がつくなんて、自分でも驚くけれども、そう気がつかないで生きつづけていた可能性もあったわけで、記憶の在り方を、振り返る機会が持ててよかったと思う。嗅覚の記憶もあるが、視覚の記憶が圧倒的に多くて、その記憶の在り方について、ごくささいな考察であるが、できてよかった。とはいっても、これはまだ入り口であるようにも思う。自分が見た光景のなかに自分の姿を置くという「映像」がなぜ記憶として残っているのか、あるいは、記憶として再構成されるのか、そして、そもそものところ、自分が見た光景に自分の姿を置くということが、頭のなかではあるが、なぜなされるのか、といったことを考えると、かなり、思考について考えることができるように思われるからだ。ぼくが詩を書く目的のひとつである、「思考とは何か」について、『13の過去(仮題)』は考えさせてくれるだろう。ぼくの記憶は、ぼくが見た光景のなかに、その光景を目にしたときのぼくの姿を置くということで記憶に残されている、あるいは、再構成されるということがわかった。他者にとってはささいな発見であろうが、ぼくの思考や詩論にとっては、大いに意義のある発見であった。その意義のひとつになると思うのだが、自分の姿というものを見るというのは、現実の視線が捉えた映像ではないはずである。そのときの自分の姿を想像しての自分の姿である。したがって、記憶というものの成り立ちのさいしょから、非現実というか、想像というものが関与していたということである。記憶。それは、そもそものはじめから、想像というものが関与していたものであったということである。偽の記憶がときどき紛れ込むことがあるが、偽の記憶というと、本物の記憶があるという前提でのものであるが、そもそものところ、本物の記憶というもののなかに、非現実の、架空の要素が潜んでいたのだった。というか、それは潜んでいたのではなかったかもしれない。というのも、記憶の少なくない部分が、現実の視覚が捉えた映像によるものではない可能性だってあるのだから。スタンダールの『恋愛論』のなかにある、「記憶の結晶作用」のことが、ふと、頭に思い浮かんだのであるが、自分がそうであった姿を想像して、自分の姿を、自分が見た光景のなかに置くのではなく、自分を、また、いっしょにいた相手を美化して、あるいは、反対に、貶めて記憶している可能性があるのである。というか、自分がそうであった姿を、そのままに見ることなど、はなからできないことなのかもしれない。そのような視線をもつことができる人間がいるとしても、ぼくは、そのような視線をもっていると言える自信がまったくないし、まわりにいる友だちたちを見回しても、そのような能力を有している友人は見当たらない。いくら冷静な人間でも、つねに冷静であるというようなことはあり得ない。まして、自分自身のことを、美化もせず、貶めもせずに、つねに冷静に見ることなど、できるものではないだろう。「偽の記憶」について、こんど思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作・下巻』のなかのひとつの作品で詳しく書いたけれども、引用で詩論を展開したのだが、そもそものところ、記憶というものは偽物だったのである。記憶というもの自身、偽物だったのである。現実をありのまま留めている記憶などというものは、どこにもないのであった。たとえ、写真が存在して、それを目のまえにしても、それを見る記憶は脳が保存している、あるいは、再構成するものであるのだから、そこには、想像の目がつくる偽の視線が生じるのであった。

そろそろクスリをのんで寝る。身体はボロボロになっていくけれども、まだまだ脳は働いているようだ。より繊細になっているような気がする。より神経質に、と言ったほうがよいかもしれないけれど。おやすみ、グッジョブ!

齢をとって、身体はガタがきて、ボロボロになり、しじゅう、頭や関節や筋肉や皮膚に痛みがあるけれども、この痛みが、ぼくのこころの目を澄ませているのかもしれない。齢をとって、こころがより繊細になったような気がするのだ。より神経質に、かもしれないけれども。

睡眠導入剤と精神安定剤をのんで、ゴミを出しに部屋を出たとき、マンションの玄関の扉を開けたときに、その冷たい玄関の重いドアノブに手をかけて押し開いたときに、ふと、そういう思いが去来したのであった。痛み、痛み、痛み。これは苦痛だけれども、恩寵でもある。


二〇一五年十一月二十日 「足に髭のあるひと。髭に足のあるひと。」


足に髭のあるひと。
髭に足のあるひと。


二〇一五年十一月二十一日 「記憶」


なぜか、こころが無性につらいので、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読んで寝る。朝、目覚めずに死んでいたい。

目覚めた。生きている。夢を見たが忘れた。上半身左、とくに肘関節と肩から肘にかけての筋肉の痛みが半端ではない。そうだ。夢のなかで、細くなった自分の足首を見てた。いま足首を見たが、いま見てる足首よりも細かった。なにを意味しているのだろう。あるいは、なにを意味していないのだろうか。

きょうやる予定の数学のお仕事が終わったので、あした京都詩人会の会合に持って行く『13の過去(仮題)』の素材データをつくろう。夕方から、日知庵で皿洗いのバイト。

『13の過去(仮題)』のさいしょの作品になるかもしれないものを、ワードに書き込んだ。14日のツイートと、きのうのツイートを合わせて、手を入れただけのものだが、じつはほかのものを、さいしょのものにしようとしていたのだったが、ぼくの文体では、いつでもさいしょの予定のものを組み込める。

これからお風呂に、それから日知庵に行く。

さっきまで竹上さんと、パフェを食べながらオースティンの話とかしてた。また記憶について話をしていて、ぼくと竹上さんの記憶の仕方について違いがあることを知った。もしかしたら、ひとりひとり記憶の仕方が違うのかもしれない。あした京都詩人会で、大谷くんととよよんさんにも訊いてみようと思う。


二〇一五年十一月二十二日 「理不尽。理不の神。」


きょうは、これから京都詩人会の会合。夜は雨だそうだから、カサを持っていかなくちゃね。行くまえに、どこかで、なんか食べよう。

京都詩人会の会合が終わって、隈本総合飲食店に、とよよんさんと、竹上さんと行って、食事した。12月の京都詩人会の会合はお休みで、つぎは1月の予定。身体がきついので、いろいろ後回しにするけれど、ごめんなさい。元気になれば、動きます。

竹上さんと、大谷くんは、自分の後ろから自分が見た感じの映像の記憶のよう。とよよんさんは、自分が目にした映像の記憶のよう。前方や横からぼく自身を見るぼくの記憶の仕方は、作品化を無意識のうちに行っている可能性がある。大谷くんから、「現実の記憶」ではなく「記憶の現実」という言葉を聞く。

とよよんさんに、かわいらしい栞をいただいた。さっそく、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』に挟む。ペソアの詩集というか論考集というか散文集『不安の書』に挟む。ミエヴィルのSF小説というかミステリー小説『都市と都市』に挟む。コーヒーもいただいた。あした、仕事場で飲む。

きょうは、もうクスリをのんで寝る。楽しい夢を見れるような本を読めばいいのだろうけれど、本棚にあるすべての本が、楽しい夢を見れるような本ではない。クスリをのんだ。効いてくるのは1時間ほどあと。きのう竹上さんに話したことのひとつ。スウェターリッチの『明日と明日』をすすめたのだが、まったく物語を憶えていなかったのだった。ジェイムズ・メリルの詩集をまったく憶えていなかったようにだ。傑作だと思っていたのだが、記憶にないのだった。いま、シャーリイ・ジャクスンの短篇集の読んでいたページを開いても、同じように記憶がないのだった。まえのページを開けて、読むと、ようやく思い出された。ペソアは寝るまえに読んでも、ほとんど記憶できないと思うので、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』を読もう。きのう竹上さんとディックの話もした。ディックが不遇だったことと、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』というタイトルのよさ。同じディックでも、ディック・フランシスの作品のタイトルの味気無さについて。ディケンズ、ジョージ・エリオット、ゾラ、バルザックの作品について話を聞いてた。なつかしいものも知らないものもあった。そうだ。オースティンの『高慢と偏見』の話でも盛り上がったのだが、竹上さんに、P・D・ジェイムズを以前にすすめたのだが、さっそく、『正義』の上下巻を読んでくれたらしい。これまた傑作だと思ってすすめたのだが、聞くと、ぼくが記憶していた物語ではなかった。20代から起こっていたのだが、作品を取り違えたり、融合させてしまったりして、これまた偽の記憶を持ってしまっていたのだった。「そして、だれもがナポレオン」の話を以前に『詩の日めくり』に書いたが、いまだに、だれの言葉だったか、ぼくのだったかわからない。マイクル・スワンウィックの『大潮の道』も、竹上さんに以前にすすめたと思うのだが、きのう、読んでよかったとの感想が聞けてよかった。いま amazon で、いくら? と尋ねると、調べてくれた。1円だった。傑作なのに、1円である。「理不尽。理不の神である。」(キングオブコメディのコント、今野浩喜くんのセリフから引用)

眠気が起こった。PC消して横になる。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月二十三日 「ユルい体型」


起きた。お風呂に入って、学校に。

夕方から塾。塾に行くまえに晩ご飯を食べよう。イーオンに行って、フランスパンを買ってこよう。あと、コンビニで、レタスのサラダとスライスチーズとお茶を。

塾へ。

塾から帰ってきたら、カードの請求書が来てて、今回はたくさんCDを買ったのだけれど、安いものが多かった。4000円を超えてるのは、本だと思うのだが、どの本を買ったのか、すぐにはわからず。ああ、ペソアだな。違うかな。違うか。ペソアは、5000円を超えてたな。なんだろう、記録を見よう。

彩流社のペソア本2冊『ポルトガルの海』と『ペソアと歩くリスボン』が一回の請求になってて4428円だった。まぎらわしい。soul II soul のCDの記録を見ると、3つほど、1円で買ってる。流れのいいアルバムで、イージー・リスニングにいいのにね。ペソア本では、平凡社の『新編・不穏の書・断章』がいちばんよかったと思うのだけれど、思潮社海外文庫の『ペソア詩集』も、いま読んでる、『不安の書』もよいと思う。ただし、もう、「不穏の書(不安の書)』を読むのは、3冊目なので、既視感バリバリなのだけれど。

郵便ボックスには、カードの請求書といっしょに、校了になる雑誌のゲラも届いてたのだけれど、きょうは、もう自分の原稿のチェックをする体力がないので、あしたの朝にすることにして、クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

寝るまえの読書は、ペソアの『不安の書』。ようやく300ページ超えた。これで半分ほど。ぼくも600ページほどの詩集をつくりたい。あ、つくってるか。『Forest。』が500ページを超えてた。来年も、思潮社オンデマンドから3冊出す予定だが、合わせて、1000ページを超えさせるつもり。

ふと、ユル専という言葉を思いついた。ユルい体型が好きな人たちのことだけど、デブ専とポチャ専のあいだくらいかな。デブ専のDVDをちらっと見たら、ほんとすごくて、考えられない体型してるけれど、ポチャ専だと、まだかわいらしい。でも、ユルい体型だということは、精神的にもユルいんだろうな。

でも、ぼくの知ってるおデブさんはみな繊細。どうして、中身と外見が違っちゃうんだろうな。クスリがちょっと効いてきた。PC切って寝る。二度目のおやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月二十四日 「ぼくの身体の半分は、かっぱえびせんからできている。」


これから仕事に。

amazon で買ったCDが、きょうくらいに届く予定だったのだが、メールで、入荷もできない可能性があると連絡してきた。どういうことだろう? 事情がさっぱりわからない。  BEENZINO のアルバムなのだが。

晩ご飯を買いにコンビニまで行く。サラダとカッパえびせんかな、笑。

どん兵衛とカッパえびせんだった。

塾へ。

塾の帰りに赤飯と穴子の天ぷらを買った。ダイエットは、1週間ちょっと忘れることにした。とよよんさんがリツーイトしていた切手があまりにきれいで、しばし、うっとり。でも、もう手紙など書く習慣がなくなったので、買わないけれど、眺めることは、眺める。おいしそうだなあ。すごい発想だなあ。すばらしい発想の切手を見てると、なぜか、ウルトラQが見たくなったので、DVDを見ることにした。蜘蛛男爵がいちばん好きだけど、1/8計画も好き。両方、見ちゃおうかな。見ながら、食べようっと。

「このときのぼくの気持ちは、どんなものだったのだろう? わからない。」というのが、このあいだ書いた、『13の過去(仮題)』のキーワードだろうか。と、塾からの帰り道、スーパー「マツモト」で半額になった弁当を買って、それぶら下げて歩きながら考えていた。12月から、英語も教えることに。

二〇一五年十一月二十五日 「なんでもない一日」

学校の帰りに、大谷良太くんとミスドでコーヒー飲みながら、くっちゃべってた。ぼくは聞き手に回ることが多いけれど、話を聞きながら、ぼく自身はなんとなく哲学の方向に行くような気がした。まあ、知識がないから素人哲学になっちゃうんだろうけれど。そいえば、詩も素人だけど、ずっと素人だろうな。

シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』を読みふけっている。

きょうは、ドーナッツを朝と昼と夜に食べた。ダイエットを忘れてた。あしたから、またダイエットする。どうして忘れてしまうのだろうか。しかし、きょうは、疲れていたし、ここ数週間、体調、まったくダメだったし、ストレスすごかったし、ドーナッツ、ばかばか食べたのだと思う。あしたから自重する。

帰りにセブンイレブンでサラダを買って食べたので、これからかっぱえびせんを買いに行く。きょうは、食べまくって死んでもいいような気がしている。左手が右手よりずっと冷たい。左半分が腐って落ちてしまうかもしれない。半分だけ死ぬってことなのかもしれない。なんでこんなに体温が違うのだろうか。

あした一日中、数学するので、きょうは、もう寝る。12月になったら、英語の勉強もする。勉強して教える。これを過去形にすると、ぼくの人生を要約した言葉になる。「勉強して教えた。」句点を入れて、8文字だ。「どうにか生きた。」でも、8文字だ。「なんとか生きた。」でも、8文字だ。うううん。

FBフレンドの方があげてらっしゃる食べ物の写真がとてもおいしそうで、いいなあと思った。ぼくが食べるものって、10種類もないんじゃないかな。何十年も同じようなものを食べてる。さっきツイートに、トマト鍋なるものをあげてらっしゃる方がいらして、ぼくもやってみようかなって思った。あした。

おとついかな。とよよんさんがツイッターで書いてらっしゃったのだけれど、ぼくの『全行引用詩』の表紙画像の上巻と下巻の時間が逆だった。ビールの入ってる量を比較してわかった。とよよんさん、鋭い。いま表紙画像をあらためて見てわかった。二度目のおやすみ、グッジョブ! PC切って、寝まする。ドボンッ↓

PCつけた。

もう夜はぼくのものじゃなくなった。クスリをのんで眠るようになったからだ。20代、30代のときは、夜中まで起きてた。朝まで起きてたこともよくあった。下鴨や北山に住んでたころだ。ジミーちゃんと夜中までうろうろしてた。いつか、自販機を蹴り倒そうとしている少年に出合ったことがある。真夜中だ。だれも警察に通報しなかった。なぜだか知らないけれど。府立資料館のまえの道を歩きながら、その少年が自販機を蹴りまくっていたことを憶えている。ぼくたちは、ぼくとジミーちゃんは、居酒屋からの帰り道、ヨッパの状態で、それを見てた。不思議だった。月明かりのしたで、ぼくと、ジミーちゃんと、その少年しか道にいなくて、その少年が自販機を蹴りまくる音が道路に響き渡っていたのだった。バンバンという大きな音がしているのに、だれも外に出てこず、警察にも通報せず、という状態だった。ぼくと、ジミーちゃんは、そのあと、たぶん、ぼくの部屋で、飲みのつづきだったと思う。このエピソードは、『13の過去(仮題)』に入れるほどのものではないかな。そうでもないか。なにしろ、いまでは、もう夜が、ぼくのものではないということの意味のひとつを書いたのだから。


二〇一五年十一月二十六日 「ぼくは画家になりたかった。」


お昼を買いに行く。トマト鍋をつくろうと思ったけれど、フランスパンとチーズとサラダとミルクにしようと思う。『ジェニーの肖像』に出てくる貧しい画家の食事だ。というか、フランス・ロマン派の作家が描く貧しい詩人や画家の食事である。ぼくのあこがれでもある。ぼくはいちばん画家になりたかった。ジャック・フィニイはフランスの作家ではないけれど。そいえば、O・ヘンリーの作品に出てくる貧しい建築設計家の食事も(と、パン屋の女性経営者は思っていたが)古くなって半額になった固いフランスパンだった。貧しさを楽しんでる部分も会って、自分がわからない。10年、20年、同じ服を着て、無精ひげで、さえない顔をして、古本をリュックにいっぱい入れて、公園で本を読んでたり、マクドナルドやミスドでコーヒー飲みながら本を読んでたり、まあ、よく言えば、知的なコジキ、悪く言えば、少し清潔なコジキといったところか。25才で、家を出て、10年ほど、親に会っていなかったのだけれど、久しぶりに再会したとき、継母が、ぼくの姿がコジキみたいになっていると言って泣いた。河原町のど真ん中で泣かれて困ったけれど、そういう継母とぼくの姿を、ドラマのようだなと見てるぼくがいた。

パンを買いにイーオンに行く。きょう、あすは数学のお仕事をしなければならない。頭がはっきりしないけれど。まだはっきり目覚めていないのかもしれない。

バケット半分151円とバナナ5本100円と烏龍茶106円を買ってきた。これを、きょう一日の食事にしたい。

バケット食べてて口のなかを切った。パンを口もとから離して見てみたら、パンに血が付いてた。どうやら歯で口のなかの肉を噛んでしまったらしい。たしかに口のなかの肉に痛みを感じる。神経系がおかしくなっているのかもしれない。はやく死ねばいいのにグズグズしてる。ちょっと球形して、お仕事する。

寝てた。仕事せず。コンビニにサラダを買いに行こう。帰ってサラダを食べて、また寝そう。それくらい、しんどい。しんどいときは、寝てもいいと思う。

イーオンでチゲ定食を食べた。790円。帰りに、セブンイレブンでかっぱえびせんを買った。薄弱な意志力が強固である。仕事まったくせず。ここでも、薄弱な意志力を発揮している。とにかく、しんどいので、寝よう。

きょう、セブンイレブンからの帰り道、住んでるところのすぐ近くで、スポーツやってそうな少年に、「こんにちは!」って声をかけられてびっくりしたけれど、ぼくも、こんにちは、と返事した。知らない男の子だったのだけれど、あいさつされると気分がよい。しつけのいい家の子なのだろうと思う。

きょうは、仕事をいっさいせずに、音楽をずっと聴いてた。Brown Eyed Soul のアルバムを買おうかどうか迷っている。カセット付きのCDなんだけど、カセットなんか再生する装置がないんだけど。

ぼくが21才で、彼も22,3才だったと思うけど、Brown Eyed Soul の Thank You Soul ってシングル(のアルバム)を聴いてて思い出したのだけれど、彼んちに泊まって、つぎの日の朝の喫茶店で、って彼の実家の喫茶店なのだけど、窓の外を見てた光景が思いだされた。それと同時に、滋賀県の青年のことが思い出されたのだけれど、ぼくのことも、あるひとにとっては、何人かの思い出と同時に思い出されてる可能性もあるってことかな。ぼくの知らないだれかといっしょに思い出されてるって。そういうこともあるだろうな。そのだれかて、ぼくとはぜんぜん似てなかったり。ぜんぜんぼくとは違うだれかと、ぼくがいっしょに思い出されてるって思うと、おもしろい。けど、もう54歳にもなると、だれかを愛することってないけれど(少なくとも、ぼくにはもうね)ぼくが愛さなくなると同時に、ぼくも愛されないと考えると、いっしゅ、すがすがしい思いでいられるのは、事実だ。だけど、そう、だけど、だけど、愛した子の顔は、しっかり覚えてて、その子たちも、ぼくの顔は覚えててくれて、この地上ではもう二度と会うことはなくっても、あの世っていうのかな、天国では、「やあ!」とか「ひさしぶりぃ。」とか「元気にしてる?」とかって声はかけ合うような気はする。

今晩、いい夢が見れるかな。見れるような気がする。Brown Eyed Soul の Thank You Soul ってシングル(アルバムかな)を何回も聴いてて、そんな気がしてる。ありがとう、魂、か。ノブユキ、歯磨き、紙飛行機。ありがとう、魂か。もっとたくさん、もうたくさん。

うつくしい曲を聴くと、むかしあったことがつぎつぎと思い出される。大坂の彼の喫茶店は、彼と、彼のお姉さんがやってて、ぼくたちは、窓の外の景色を見ながらコーヒーを飲んでた。朝だった。流れる川と、小さな黒い点々がちらつく川岸。ってことは、朝までいっしょにいたんだ。ここまで思い出した。

名前が思い出せない作曲家の子と付き合ってたことがあって、その子の頬が赤かったことは憶えてる。大坂の子の頬も赤かった。ぼくは若かったから、なんか、その頬の赤い色って、田舎者って感じがして、ちょっとばかにしてた。いまなら、その赤い頬を見て、健康的で、かわいいなって思うんだろうけれど。ああ、小倉●●くんだ。その作曲家の子の名前、4,5年も付き合ったのに、名前を忘れてた。お金持ちで、ぼくが別れたいって言ったとき、いろいろなものをくれるって言ってたけれど、ぼくはなにもいらないと言ったのだった。さいごに会った日、とっておきの服を着てきたのに、ってバカなことを言ってた。ぼくの『陽の埋葬』を読んで、「売れないものを書く意味があるの?」って言ってた。彼の曲は売れてるものもあって、「ひとを幸せにするのが芸術だよ。ひとを幸せにする芸術だけが売れるんだよ。あっちゃんのは、いったいだれを幸せにしてるの?」って言われた。返事もしないで、顔をそむけてたと思う。それももう、10年も、20年もむかしの話だ。彼は音楽的にも成功して、ますますお金持ちになっているらしい。どうでもよいことだし、彼の芸術観は、ぼくのものとはまったく違っていたし。もう愛していた記憶もなくなっている。いっしょに食事をした記憶くらいしかない。きょう、居酒屋さんで飲んでて、ひとりのお客さんが、「人生は成功しなくちゃ意味がない。」とおっしゃられて、ぼくは、すかさず、「成功するとかしないとかじゃなくて、そのひとが幸せに感じて生きているかどうかではないのですか」と言った。ぼくより年上の方に言って、少し申し訳なく思ったけれど。

朝、目が覚める。ノブユキは、朝、目が覚めなかったらって考えたら怖いって言ってた。ぼくが28才で、ノブユキは20才だった。ぼくは何度も自殺未遂してたくらいに、中学生のときから自殺して死にたいって思ってたひとだから、朝、目が覚めないことほど幸せなことはないと思ってた。それも、もう昔。

自殺しないですんでいるのは、世界には、まだぼくの知らないうつくしい音楽や詩や小説があるからだと思う。ぼくのまだ知らない音楽や詩や小説がなければ、ぼくが生きている意味がない。

そろそろ、クスリのんで寝る。クスリが効くのが1時間後くらいだから、ちょっと遅いかな。はやく効きますように。


二〇一五年十一月二十七日 「ユキ」


すこぶる気分がよい。きょう部屋に遊びにきてくれた子が、いちばん顔がかわいらしい。ぼくの半分くらいの齢の男の子だ。54才のジジイといて、気分よく、時間を過ごしてくれているようだった。『ダフニスとクロエ』のなかで、老人が少年にキスをしようとして、あつかましいと断られるシーンがあった。むかしで言えば、ぼくはもう十分にジジイだ。かわいらしい子にチューをしても断られずにすむ自分がいて、とてもうれしい。若いときは、世界は、ぼくに無関心だったし、えげつなくて残酷だった。いまでもぼくには無関心だろうけれど、残酷ではなくなった。齢をとり、美しさを失い、健康を損なってしまったけれど、人生がこんなにおもしろい、楽しいものだと、世界は教えてくれるようになった。ぼくがまだまだ学ぶ気持ちがいっぱいで生きているからだろうと思う。きょうは、言葉にして、神さまに感謝して眠ろう。おやすみ。


二〇一五年十一月二十八日 「コンピューター文芸学」


コンピューター文芸学については、ほとんど知らないのだが、はやりはじめのころ、もう4分の1世紀以上もむかしのことだが、ドイツ文学者の河野 収さんに、いくつか論文の別刷をいただいて読んだくらいなのだが、さいしょは、聖書にどれどれの文字が何回出てくるかとかいったことに使っていたようだ。やがて、詩や小説のなかに出てくるキーワードの出現頻度を調べたりして、文体研究に使ったり、作者の同定に使ったりするようになったのだろうけれど、シロートのぼくが言うのもおこがましいだろうけれど、たとえば、「目」という言葉でも、文脈によって意味が変わる。たとえば、さいころのようなものの「目」であったり、眼球の「目」であったり、こんな目にあったの「目」であったり。ということは、同じ言葉でも意味が異なるので、同じ言葉ではなくなっているのではないかということである。どうなのだろうか。そこらへんのところ。


二〇一五年十一月二十九日 「エイジくん」


日付けのないメモ「スウェットの上下、ジャージじゃなく」 たぶん、これは、京大のエイジくんのことだと思う。紫色のゴアテックスの上等そうなスウェットを着てたんだけど、ぼくはスウェットという言葉を知らなくて、だれかに聞いたんだと思う。ペラペラの白い紙の端切れに書いてあった。捨てよう。


二〇一五年十一月三十日 「バカ2人組」


きょうは、晩ご飯を食べた。昼に、数か月ぶりに天下一品に行って、チャーハンセットを頼んだのだが、あとから来た2人組の肉体労働者風の男のまえに先に店員がチャーハンを置いたのだった。ぼくはラーメンを半分食べたところだった。二人組がにやにやして「返そうか」と言ったが無視して、ぼくのチャーハンになるはずだったチャーハンを男が食べるのを視界に入れないようにしていた。すぐにぼくのほうのものがつくられて出てきたので、ラーメン残り3分の1をおいしくチャーハンと食べれた。肉体労働者風の男たち二人には、ぼくが食べ終わるまでラーメンは来ず、葬式のような雰囲気で、一つのチャーハンを一方の男が食べておった。真昼間のクソ忙しい時間の天下一品でのヒトコマである。いい気味であった。しかし、悪いのは、ぼくのまえに置くべきだったチャーハンを、あとから来て注文した男に先に出した中年女の店員であった。一つのチャーハンしか目のまえに置かれていない葬式のような暗い雰囲気になった、隣のテーブルに坐った肉体労働者風の二人の男たちをあとにして、ぼくは、おいしくラーメンとチャーハンをいただいて、勘定を払って店を出たのであった。どれくらいの時間、ラーメンが二人の目のまえに出されなかったのか、想像していい気持だった。一生、来なければ、おもしろいのに、とかとか思った。神さま、ごめんなさい。たとえ、愚かな男たちが、ぼくのチャーハンが間違えて置かれたことで、ぼくを愚弄しても、ぼくがその男たちの不幸を笑うようなことがあってはいけませんね。神さま、ごめんなさい。反省します。このことを反省して、きょうは寝よう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月三十一日 「隣の部屋に住んでるバカ」


ぼくの隣の部屋に越してきたひと、ほとんどずっとテレビつけてるの。バカじゃないかしら。引っ越してきたときに顔を見たけど、それほどバカじゃなさそうだったけど、ぼくが部屋にいるときは、ほとんどずっとテレビの音がしてるの。いったい、どんな脳みそしてるんやろか。むかし、ノブユキに、テレビを見るなんて、バカじゃないのって言ったら、「テレビにも、教養のつくのがあるよ。選択の問題じゃない?」って言われたのだけど、隣の部屋から漏れ聞こえてくる音はバラエティー番組とか、ドラマのとか、そんなのばっかり。こっちは、プログレで対抗してるんだけど。プログレやジャズでね。まあ、12時近くなると、テレビ消してくれるんで、まだましだけど。でも、ぼくがいる時間、ずっといるって、ぼくは非常勤だし、時間がいっぱいあって、部屋にいまくりなんだけど、隣の男もずっといてる。仕事してないのかな。まあ、いいけど。


詩の日めくり 二〇一五年十二月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年十二月一日 「毛布」


きのうのうちに終えるべき仕事をいま終えて、これからイーオンに毛布を買いに行く。クローゼットに毛布が1枚もないのだ。捨ててしまったらしい。これまた記憶にないのだが、ないのだから衝動的に捨ててしまったのだろうと思う。

あったかそうな毛布を買ってきた。3200円ちょっとかな。こんなものか。お弁当を買ってきたので、これを食べたら、お風呂に入って塾に行く。

きょう買った毛布、めっちゃぬくい。寝るまえの読書は、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを。塾の帰りに、ブックオフに寄った。日本人のSF作家の短篇のアンソロジーが108円なので買おうかどうか、ちょっと迷ったけれど、さいしょの短篇を読んで、買うのをやめた。


二〇一五年十二月二日 「極光星群」

これから西院のブレッズ・プラスでモーニング食べながら、数学の問題を解く。ランチもブレッズ・プラスで食べようと思う。全部解ければいいんだろうけど、半分くらいかな。

仕事、半分終わった。ちょっと球形して、塾に行くまでに、もう半分しよう。できるかな。がんばろう。

少しずつ、やらなければならない仕事をこなしてる。塾に行くまで、あと3時間、どれだけやれるか。塾から帰ったら、お風呂に入ってすぐに床に就くつもり。時間との闘いだ。

これから塾へ。塾へ行くまえに、ラーメンを食べよう。数か月ぶりにラーメンを食べる。

塾の帰りに、きのう文句を言って買わなかった年刊日本SF傑作選『極光星群』を、五条堀川のブックオフで108円で買った。日本のSFを読むのは、20年ぶりくらいかも。あ、数年前に、山田正紀さんの『チョウたちの時間』を読んだか。ぼくも、来年、思潮社オンデマンドから、長篇のSF詩集を出す。『図書館の掟。』というタイトルだけど、それには、『舞姫。』も同時収録する予定。あと、詩論集『理系の詩学』と、『詩の日めくり』と、『カラカラ帝。』 できれば、4冊を同時に刊行したいと思っている。『カラカラ帝。』をのぞく、3冊になるかもしれないけれど。

きょうするべき仕事をすべて終わった。あした、あさってが超ハードなスケジュールなので、お風呂に入って寝る。あしたの朝は、お風呂に入る時間もとれなさそうなので、寝るまえに入っておく。

あるいは、『理系の詩学』をのぞく3冊になるかもしれないけど。『詩の日めくり』は一年ごとに出したい。何百ページになるかわからないけれど。いまはこわいので考えない。来年の3月に原稿を書き直す(翻訳は権利関係の対応に時間がかかるのではずす)ときに考える。


二〇一五年十二月三日 「マイノリティ・リポート」


これから仕事に。夢を見た。悪い夢じゃなかったような気がする。左腕がまだ痛みで不自由だが、かなりましである。あと二日、もってくれればいい。新しく買った毛布が、ほんとにここちよい。行ってきまする。

これから、仕事帰りにコンビニで買ったサラダを食べたら、お風呂に入って、それから塾に行く。きょうと、あした、超ハード・スケジュールだけど、あさってから、ゆっくり読書する時間がもてそうだ。それも、塾の冬期講習までだと思うけど。

きょうからお風呂場では、ディックの『マイノリティ・リポート』を読む。古いカヴァーのほうの本体が傷んでいるので、古いほうのものをお風呂場で読んで捨てることに。お風呂、ゆっくり浸かろう。

あしたもめっちゃ早いから、クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十二月四日 「少年の頃の友達」


完全に目を覚ました。着替えたら、仕事に行く。きょうと、あしたがすめば、ことしは、あとは塾だけだ。きのう、きょうと、かなりのストレスだった。きょうがすめば、あした、あと一日。がんばろう。

結崎 剛さんから、氏の第一歌集『少年の頃の友達』を送っていただいた。とてもかわいらしい、きれいなご本で、氏の短歌にふさわしい、矩形の、はじめて目にする特殊な直方体で、また表紙のデザインもキュートなご本である。きょうから読書と数学ざんまいな日々を送る予定だった。タイミングばつぐん!

ニコニコキングオブコメディ、やってたんだ。きのうは恐ろしくハードなスケジュールだったから知らなかった。これから見る。

ぼく、妊娠したの。えっ。ぼく、妊娠したんだ。さっきまで読んでいた本を見た。本が言ったのか? さっき、テーブルのうえに置いたままだ。変わったところはなかった。ぼく、妊娠したんだよ。またその本から声がした。指の先で、本の真ん中に触れると、かすかに膨れていた。指の腹に鼓動が感じられた。


二〇一五年十二月五日 「ヴェルレーヌ」


ストレスで身体がボロボロだけど、まえに付き合ってた子が、これから部屋に遊びにくると電話が。うれしいし、顔をみたいので、おいでよと言ったが、左腕が動かせないほど痛いのだった。ストレスって怖いね。部屋も片付けてないし、最悪。でも、くるまでに1時間ほどあるから、ちょっと片付けようかな。

晩年のヴェルレーヌの生き方を読んでて、憧れをもってたけれど、才能の話ではなくて、身体がボロボロになっているところまでは自分でも体験していて、ちっとも、よいものではない。ストレスと加齢による身体の痛みが激しすぎて、憧れの「あ」の字にもあたらない感じである。現実とは、そういうものか。

おデブの友だちが帰った。筋肉痛と関節痛でめっちゃつらいぼくに、「リハビリにマッサージさせてあげる。」というので、彼の足や腰をマッサージさせられまくった。「これ、いい曲やろ?」と言って聴かせた曲に、「ふつうかな。」という返事だったので、「ぼくら、感性が違うんやろうなあ。」と言った。

いろんなもの、途中でほっぽって、きょうは、通勤のときに、ディックの短篇集『マイノリティ・リポート』を読んでいた。なんか、これくらいのが、ぼくの頭には、ちょうどいいかな。いまのぼくの頭の状態にはってことだけど。でも、そのうち、ペソア、ミエヴィル、ジーン・ウルフ、ラファティにも戻る。

きょうは、ディック読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十二月六日 「辛ラーメン」


朝とお昼兼用のご飯を買いに行く。きょう一日の食事にしよう。やっぱフランスパンかな。肩こりを解消する塗り薬でも買おう。死ぬレベルの肩こりだ。

むかし売りとばしたCDの買い直しをした。2枚。ジェネシス。後期のジェネシスは、ときどき捨てたくなる。しかも売り飛ばした記憶がなくなっているし。

簡単に生えるカツラ。簡単に生えたって、カツラじゃねえ、笑。ぼく自身が坊主頭だから、ハゲには偏見がないけれど、おとついラーメン横綱に行ってラーメン食べてたら、かわいらしいおデブの髪の毛がまばらにすけた二十歳すぎくらいの男の子が思いっきり唐辛子をラーメンに入れてた。そら、ハゲるわな。

バケット半分259円とスライスチーズとヨーグルトとレタスサラダだけでは我慢できないので、これからコンビニに夜食を買いに行く。きのうカップヌードル食べたし、辛ラーメンひさしぶりに食べようかな。あったまりたいし。Brown Eyed Soul いい感じ。CD買うかどうか迷っている。

辛ラーメン、売り切れてた。人間って、考えることがいっしょなのかな。寒いし、あったまろうって。かっぱえびせんと、サラダ買ってきた。

ジャズやボサノバを聴きながら、ディックを読んでいる。違和感がない。むかしはプログレやハードロックがメインやったのだが、さいきん、プログレもハードロックも聴いておらん。あした、ひさびさに聴くか。いや、聴かないやろな。どだろ。齢をとってこころと身体がボロボロになること。大切なことだ。

辛ラーメンがどうしても食べたいので、これからスーパーに買いに行く。ひじょうに寒いのだが、かっぱえびせんで、おなかもふくれたのじゃが、辛ラーメンがどうしても食べたくなったのじゃ。買いに行く。

これから辛ラーメンつくって食べる。

笹原玉子さんから、オラクル用の作品が送られてきた。そうだった。うっかり、ぼくもオラクルのこと、忘れてた。きょう、あしたじゅうにアップしよう。

短篇集『マイノリティ・リポート』のさいごに載ってる『追憶売ります』を読み直した。2回のどんでん返し。さいごのシーンになるまで思い出せなかった。笑えるシチュエーションだったが、これが映画になると、あの『トータル・リコール』のようなものになってしまうのだな。さいしょだけが原作通りだ。

シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読もう。


二〇一五年十二月七日 「なんでもない一日」


シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』の241ページ3行目に脱字を見つけた。「だった違いない。」→「だったに違いない。」有名な作家の作品に誤字や脱字があるのは、ほんとに腹立たしい。創元推理文庫の編集長は、この『なんでもない一日』を担当した校正係をクビにするべきである。

昼ご飯を食べにイーオンに行こう。

ありゃ〜、GはGスポット、FはFuck、Aはキッスでしょうか。そうなると、ほとんどすべてのアルファベットが、笑。そうでもないかもしれませんが、妄想がどんどん。Jはすぐには思いつきませんね。形はそれっぽいのですが。

お昼に、イーオンでラーメンと小さい焼き飯を食べた。これからセブイレにサラダを買いに行こう。きょうの夜食も、サラダと辛ラーメンだな。食べ終わったら、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読もう。

友だちが遊びにきてくれてたんだけど、クスリの時間だからって言ってクスリのんだら、帰ってった。あと1時間くらい起きてると思う。1時間でできることって、やっぱり読書かな。シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読みながら寝よう。


二〇一五年十二月八日 「サンドキングズ」


きょうから、お風呂場では、ジョージ・R・R・マーティンの短篇集『サンドキングズ』を読む。古いほうのカヴァーのほうがよいので、新しいカヴァーのヴァージョンを読む。中身はいっしょかなと思って、いま調べたら、新装版の方が文字が大きくて、ページ数で言うと、40〜50ページくらい増えてた。

塾の帰りにブックオフに寄って、岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』上巻を108円で買った。むかし読んだけど、まったく憶えていなかったのと、お風呂場で読むつぎの本の候補にと思って買った。開けたページ、258ページに栞が挟んであって、「あなた、なにがいやなの?」というセリフがあった。

2週間ほどまえに目をつけていて、ぱら読みして、「あなた、なにがいやなの?」というセリフが引用詩に使えるかなって思って、違うページに挟んであった栞を、そのページに挟み直しておいたのだった。だから、偶然ではないけれど、偶然のように、おもしろかった。それは、自分が2週間まえに、どういった言葉を使おうとして挟んでおいたのかを忘れていたからだし、それよりもっと偶然なのは、だれもその本に挟んであった栞をほかのページに移動させなかったことを思い出させてくれたからであった。ほら、こんなつまらないことにもこころは動かされるって知るのは、楽しいことだし、こんなつまらないことを書きつけて喜ぶことができる自分自身を、なにか、とてもバカな生きもののようにも思えてきて、また、人間というものの、そのはかない存在について考えさせられて、感動すら覚えるのであった。

帰りに、スーパー「マツモト」で買った巻きずし半額140円を食べよう。フィリピン産のバナナも4本で88円だった。「も」は、おかしいな。「は」だ。これから食べて寝よう。ダイエットはしばらく中止しよう。仕事のストレス+ダイエットのストレスで、身体がボロボロになるより食べる方がましだよ。

少なくとも、こういった感慨を催させるのに、2週間という日にちが必要であったのだろうとも思われるし、時間というものに挟み込まれた偶然というか、偶然というものが挟み込んでいる時間というものについても、なにか考えさせられるところがあったのだった。2週間。

メモ代わりに、あしたしなきゃいけないこと書いておこう。genesis の three sides live の代金を郵便局に払いに行かなきゃ。ヤフオクの件。おやすみ。寝るまえは、きょう買った岩波文庫の解説を読んで寝る。それでもまだ起きてたら、シャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』を読んで寝る。

数日まえに、通勤の帰りの電車のなかで、知らないうちに、人間でも食べてそうな感じのひとが隣に坐っていて、悲鳴をあげそうになった。という嘘を思いついた。ただ、人間でも食べてそうなひとというのは、さっきFB見てて、画像に写ってる、FBフレンドじゃないひとの顔を見て、思いついたのだった。うううん。でも、よく考えたら、ふだんから、人間は人間を食べているような気がする。人間に食べられている人間もよく目にするし、人間を食べている人間もよく目にするもの。ぼくだって、しじゅう食べているような気がするし、しじゅう食べられているような気もする。

あ、解説を読んで寝るんだった。おやすみ、グッジョブ! 歯を磨くのも忘れてた〜。


二〇一五年十二月九日 「オムライスとビビンバ」


きのう、寝るまえに読んだ、シャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』の「インディアンはテントで暮らす」をまったく憶えてなかった。そのまえに収録されてた「喫煙室」がとてもおもしろかったので、忘れたのか、寝ぼけてて、忘れてたのだと思うけれど、「喫煙室」から読み直して寝ることにする。

いま起きた。高校の仕事がことしはもうないので、塾だけだから、こんな時間に起きれる。お昼に、大谷良太くんとミスタードーナッツでコーヒー飲みながらくっちゃべる。ぼくはちょこっとルーズリーフ作業をするかな。シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきも読もう。

塾へ。

きのう寝るまえに読んだシャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』所収の「インディアンはテントで暮らす」の内容がさっぱりわからなかった。読み返してもわからないような気がするので、つぎのを読む。読んで意味がわからないものは、ひさしぶり、というか、もしかしたら、はじめてかもしれない。

お昼にオムライスとビビンバを食べたので、晩ご飯はサラダとかっぱえびせんだけにしておこう。お昼からずっとポール・マッカートニーのアルバムを聴いている。天才だけど、芸術家である。天才なのに芸術家でないひととか、芸術家なのに天才でないひととかが多いのに、ひとりポールは、天才で芸術家だ。


二〇一五年十二月十日 「O・ヘンリーのOって?」


シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』を読み終わった。自伝的なエッセーのようなものがいくつか入っていて、そのこまやかな観察力と、ユーモアには、さすがだわと思わせられた。ほかお気に入りの短篇は2作。どちらもユーモアのあるもの。ぼくはユーモアのあるものが好きなようである。

これからセブイレに行って、サラダとかっぱえびせんを買ってこよう。きょうの夜の読書は、ペソアの『不安の書』のつづきを。いま、350ページを過ぎたとこらへん。塾の冬期講習に入るまでに読み終わりたい。ナボコフの全短篇集もできたら、冬休み中に読みたいんだけど、それはぜったい無理っぽいな。

記憶が違っていた。ペソアの『不安の書』350ページあたりだと思っていたのだが、444ページだった。

ほとんど同じものと思われるほどにそっくりに似たものが遠く離れたところにあることもあれば、まったく似ていないものがすぐそばにあることもある。目のそばには耳があるが、目と耳とはまったく異なるものである。手の指の爪と足の指の爪は離れているところにあるものだが、よく似ているものである。

つまらない風景なのに、忘れられないものがある。峠の茶屋で、甘酒を飲んでいる恋人たちの風景。冬だったのだろう。ふたりの息が白く煙っていた。井戸水で冷やした白玉を黒蜜で出す老婆の手。井戸水だったのだろうか。湧き出て零れ落ちていく水玉の輝き。このふたつの風景が二十年以上も木魂している。

お風呂につかりながら本を読むのが趣味のひとつになっているのだが、きょうは、マーティンの短篇集『サンドキングズ』のつづきを読もう。きのう読んだ「龍と十字架の道」は、つまらなかった。表紙がすばらしいので旧装版は手放さないが、タイトル作しか記憶にない。そのタイトル作もおぼろげな記憶だ。

1時間近く入ってたのか。『サンドキングズ』収録2作目の「ビターブルーム」を読んだ。SF(サイエンス・ファンタジー)だった。レズビアンものという点では、ジャネット・A・リンの「アラン史略」三部作(4分冊)と趣向が同じ。ただし、リンの作品の方が描写は細かい。きょうのも及第点に届かず。

寝るまえの読書は、あまり神経を使わなくてすみそうな岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』上巻を読もう。さいしょの作品は、O・ヘンリーの『平安の衣』 さて、O・ヘンリーのOって、54歳になるまで調べなかったけれど、調べたら、これはペンネームで、Oがなにの略か諸説あるらしい。ふううむ。


二〇一五年十二月十一日 「〈蛆の館〉にてって」


セブイレで朝ご飯にサラダとかっぱえびせんを買ってこよう。きのう、ペソアを55ページ読んでた。きょうもそれくらい、いや、それ以上読みたい。ルーズリーフ作業がすごそうだけど。そしたら、ナボコフの全短篇集のつづきに移れる。ジーン・ウルフやラファティやジャック・ヴァンスも読みたいけれど。

寝るまえにお風呂に入りながら、マーティンの『サンドキングズ』収録3作目の「〈蛆の館〉にて」を読んだ。これまた、SF(サイエンス・ファンタジー)であった。むかし読んだ記憶がよみがえった。ウェルズの『タイムマシン』のモーロック族とエロイ族の話をモロにヒントにした気持ち悪い作品だった。


二〇一五年十二月十二日 「開き癖」


ペソアの『不安の書』のページを開けたまま眠っていたら、開き癖がついてしまっていた。朝は、パスタのスープのはねを表紙につけてしまった。きょうは呪われているのかもしれない。どこにも出かけず、読書していよう。きのうは友だちと会って話をしてた。お父さんが脳卒中で入院なさり、毎日、病院に行って、父親の動かなくなった指をもんでいるということだ。丸く固まってしまうからだという。指を伸ばすようにしてもんでいるらしい。ぼくには父親がもういないけれど、動かなくなった父親の指を毎日もむだろうか。考えさせられた。

これからパスタを食べる。朝はペペロンチーノだった。お昼はナポリタン。

晩ご飯はペペロンチーノ。

サラダとかっぱえびせんも買ってきた。

マーティンの短篇集『サンドキングズ』に入っている4作目以降、まったく読むに耐えないものだったので、さいごに収録されてるタイトル作品を読んで、『サンドキングズ』を読むのは終わりにしよう。読み終わったら、ペソアの『不安の書』のつづきを読もう。

「サンドキングズ」読み終わった。「<蛆の館>にて」と同様、えげつない話だった。「フィーヴァードリーム」上下巻は傑作だった記憶があるのだけど、再読するのがためらわれるくらいに、ジョージ・R・R・マーティンの評価が、ぼくのなかで落ちた。『翼人の掟』を高い値段で買って、まだ読んでない。

これからペソアの『不安の書』のつづきを読む。生前に発表した作品は少ないのだが、未発表のものの方がよいような気がする。生前に発表したもののうち、2作品をきのう読んだが、レトリカルなだけで、ぼくが学べることはなにもなかった。新プラトン主義が厭世観と結びついたらそうなるのかもしれない。

きょう見た夢は、大きな塾のCMで、見たことのない人物たちが出ていて、塾長だというおじさんが管楽器を吹くシーンで終わったのだが、笛を口から離すとよだれが落ちて、「汚い」とかいう子どもの声が聞こえたのだが、「仕方ないんじゃない?」とかいう別の子どもの声もした。そこで夢から覚めたのだ。夢は、ぼくの潜在意識がつくっているものだが、これは、ぼくになにを教えようとしたのか、わからない。あるいは、ただ、潜在意識は、こんな夢をつくってみただけで、意識領域のぼくには、なにも伝える気はなかったのかもしれないけれど。それでも、夢がなにを意味しているのかは興味深い。ぼくの不安だろうか。不安を投影させることはよくあると思う。仕事の不安。仕事の内容の困難さもある。3学期は幾何を教えるのだが、代数に比べて幾何は教えるのが難しい分野である。万全の準備をしておくつもりだが不安がないわけではない。物語を物語るように、プリントをつくっておこうと思う。論理を物語る。これは、ぼくが、詩で実践してきたことなので、詩を書くつもりで、プリントをつくろう。もしかしたら、ぼくの幾何のプリントが、ぼくの書いたもっともうつくしい詩になったりして、笑。

思考とイマージュ。比較することでしか思考は生まれないのだが、イマージュは比較対象する複数の事物を必要とはしない。なにものかとべつのなにものか、だれかとべつのだれかを比較検討することで思考は開始され進行される。イマージュは、ただそれそのもの自体を対象として想起すればよいだけである。図形だと補助線をいくつか描き入れるだけで容易に解ける問題が、人間が対象だと容易に補助線が書き込めないために解くことができない。あるいは、不要な補助線だらけで、解けなくなってしまっている。その不要な補助線を取り除いていくと、最後には、思考の対象とするその人間自身も消え去ってしまう。

長く使っていると、自分がその道具のように考えていることに気がつかなくなってしまう。言葉も道具である。思考の幅が狭いのは、同じような言葉の組み合わせ方しかしないで思考しているのだ。それを避けるためには、異なる道具を使うこと。あるいは、異なる道具を扱うように、いつもの道具を扱うこと。

あしたは病院。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十二月十三日 「不安の書」


これから病院に。待ち時間にペソアの『不安の書』を読み終えられるような気がする。

神経科に行って、そのあと、大谷良太くんたちとお鍋をして、おしゃべりしてた。病院では、お昼の2時まで待合室で、ペソアの『不安の書』を読んでいた。さいごまで読み切って、読み終わって、20分くらい、待合室に置いてある写真雑誌を見ていた。きょうから、クスリが一錠、増えた。これで眠れる。

きょうから寝るまえの読書は、ケリー・リンクの短篇集『プリティ・モンスターズ』。前作『マジック・フォー・ビギナーズ』が大傑作だったので、楽しみ。ジーン・ウルフ、ラファティ、ミエヴィル、ジャック・ヴァンスらの未読の本を退けて、ケリー・リンクにしたのだけど、どうかな。おもしろいかな。


二〇一五年十二月十四日 「貧乏詩人」


ようやく起きた。詩集制作代金を支払いに銀行に行ってくる。これでまた文無しになるわけである。貧乏な詩人は貧乏なまま一生を終えるというわけである。まあ、それでいいのだけれど。詩人とか芸術家というものは、生きているうちに、その芸術で報われてはいけないと思う派だから。自分のこころのため以外に。編集部の方に、電話で、詩集代の振込完了のお知らせをして、また、来年も思潮社オンデマンドから3冊の詩集を出させていただこうと思っていますと話した。銀行の帰りに、イーオンに寄って、バケット半分、セブイレで、ミルクとサラダを買ってきた。ギャオで、『ウィルス』を見ながら食べよう。

マクドナルドに寄ってコーヒー飲んだら、塾へ。

塾の帰りに、スーパー「マツモト」で、半額になった塩サバのお弁当を買った。寝るまえの読書は、ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』。まださいしょの作品だが、切ない。お墓に行って、一年前に死んだ恋人のお墓を掘って、自分が彼女に捧げた詩篇の束を取り戻そうとした青年の話である。間違った墓をあばいて、違う女性の死体が、「あなた、間違ってるわよ」と言うくだりから、笑えるシチュエーションに移行するのだけれど、まあ、詩を書いて彼女に捧げる男子高校生というのも、いまの日本では考えられないシチュエーションである。寝るまえの読書が楽しみ。楽しみといえば、あさって、塾の忘年会がある。禁酒をやめたので、お酒を飲むけれど、焼酎にしておこう。きのう、お鍋を食べているときに、左手で持った小さなビアグラスを何度か、こかしそうになった。筋肉の状態がかなり悪いみたいだ。

お弁当を食べよう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十二月十五日 「負の光輪」


サラダとかっぱえびせんを買いに、セブイレに。

これから、髪の毛を刈る。それからお風呂に。お風呂場では、日本人SF作家の傑作短篇集『極光星群』を読む。

日本人SF作家の傑作短篇集『極光星群』、けっこうおもしろいので、塾に行くまで読む。

ふと思いついて、検索してみたら、20年以上もむかしに、ぼくがはじめて書いたSF小説『負の光輪』が、ネット上に存在していた。引用癖は、ぼくが詩や小説を書きはじめたときからのものであることがわかる。よろしければ、ごらんください。→http://www.asahi-net.or.jp/~cq2k-ktn/fcv/roko/korin/tasf1.html

soul II soul のアルバムをすべて売っちゃって、また買い戻したけれど、ぼくの詩作と連動しているのかもしれない。それぞれのメロディはしっかりしているのだけれど、ゆるいつくりをしているかのように見せる曲の配列の仕方に共感する。いま、売っちゃったDVDを買い直そうとしている。

レンタル落ちしかなかった。たぶん、ないだろうけれど、自分が売ったブックオフに、あした行ってみよう。

おなかがすいて気が狂いそうなので、セブイレにサラダを買いに行く。こんなにも食欲というものは、ぼくを支配していたのかと、あらためて振り返る。きょう、すでに、サラダ4袋食べてるんだけど。非現実の情報が脳を通過すると満足するように、非現実の食べ物が咽喉を通過すると満足できればいいのに。

ぼくは、食べ物に殺されるような気がする。とりあえず、サラダを買いにコンビニに行こう。


二〇一五年十二月十六日 「中身が入れ替わる」


田中宏輔さんは体操して半袖で走りだし少女とぶつかり事故にあう中身が入れ換わる
https://shindanmaker.com/585407


二〇一五年十二月十七日 「リンゴから木が落ちる。」


『プリティ・モンスターズ』のさいしょの作品「墓違い」は、ケリー・リンクにしては、めずらしく落ちがあった。いま、2つめの「パーフィルの魔法使い」を読んでいるのだが、マジック・リアリズムのパロディのような感じだ。残念なことだが、たくさん本を読んでいると、驚きが少なくなっていくものだ。

場所を替えて読書しよう。マクドナルドでホットコーヒーでも飲みながら、短篇集『プリティ・モンスターズ』のつづきを読もう。

頭のなかでは、リンゴから木が落ちてもよいのである。そして、理論的には、この表現が誤りではないことが、よく考えてみればわかるのである。

玄関におじいちゃんが落ちていた。身体を丸めて震えていた。ぼくは、おじいちゃんを拾うと、玄関のうえを見上げた。たくさんのおじいちゃんたちが巣のそとに顔を突き出して、ぼくの顔を見下ろしていた。おじいちゃんたちは、よく玄関に巣をつくる。ぼくは手をのばして、おじいちゃんを巣に投げ入れた。

目がふたつあるのは、どうして? 見えるものと見えないものを同時に見るため。耳がふたつあるのは、どうして? 聞こえるものと聞こえないものを同時に聞くため。じゃあ、どうして、口はひとつしかないの? 息を吸うことと、息を吐くことが同時にできないようにだよ。

偶然があるというのはおもしろい。2015年11月22日のメモを見る。日知庵で皿洗いのバイトをしていると、ツイッターに書いていたのだが、それを竹上さんが見て、お客さんとして来てくれたのだった。9時半にあがるから、それから、どっかでパフェでも食べない? と言うと、行きましょう、ということになって、10時前にあがって、ふたりでカラフネ屋に行って、くっちゃべりながらパフェを食べたのだが、パフェの代金を支払うときにレシートを見てびっくりした。税込みで、合わせて、1700円だったのだ。竹上さんが日知庵で支払った金額といっしょだった。

2015年11月24日のメモ。きのう、京都詩人会の合評のとき、ぼくの作品を読んでくれた感想のなかで、大谷くんが「雑踏って簡単に書いてあるけど」と言うので、あらためて考えると、そうだね、簡単に書いてあるね、と思った。大谷くんはつづけて「足が‥‥」と言っていたのだが、ぼくの耳は、もう大谷くんの言葉をちゃんと聞くことができずにいて、ぼくの耳と独立して存在しているかのような、ぼくのこころのなかで、ぼくは、「雑踏」という言葉の意味を考えていた。靴の音と靴の音が行き交っていた。スカートをはいた足とズボンをはいた足が行き交っていた。ぼくとケイちゃんは坐っていたからね。そう、坐ってたからね。足が印象的だったのだ。しかし、これもまた、あとから思い出した情景に付け加えた贋の記憶の可能性がある。混じり合う靴の音も、はっきりと何をしゃべっているのかわからない声たちも、贋の記憶である可能性がある。思い出した映像に付け加えた効果音であるかもしれないのだ。思い出した映像すら、それが頭のなかで想起された時点で、贋の記憶である可能性もあるのだ。現実の映像の記憶がいくらかはあるのだろうけれど。大谷くんに、もしも、この考察のあとで、「雑踏って簡単に書いてあるけれど」と言われたら、どう答えるだろうか。ぼくとケイちゃんは坐っていたのだった。足と足の風景。人間が通り過ぎて行く風景。音。リズム。これくらいにしか表現できない。じっさいの四条河原町の風景といっても、むかしのことだしね。
書くということ。記憶を書くということ。記憶していることを書くのではなく、記憶していると思っていることを書くこと。記憶というものは、想起した時点で、そのときにおけるこころの状態や、それまでに獲得した体験や知識によって、あらたに再構築されるものである。

文字に表現する→2次元化 文字から想起する→3次元化 頭のなかでは、もっと多層的な感じで再構築されているような気がする。書くまえのイマージュと、書いたあとのイマージュとの違いもある。@atsusuketanaka


二〇一五年十二月十八日 「塾の忘年会」


2015年11月24日メモ。その日は、雨が降っていなかったので、地面は濡れていなかったし、道のところどころには、水がたまったりもせずに、雨粒を地面が弾き返すこともなかったし、行き交う足たちはその水たまりを避けることもなかったし、地面に弾き返される雨粒のことを考えることもなかった。

きょうは塾の忘年会。楽しみ。

いま帰ってきた。食べた。飲んだ。しゃべった。楽しかった。寝るまえの読書は、きょうは、なし。クスリのんで寝る。寝られるかな。おやすみ、グッジョブ!

あっ、そいえば、思潮社海外文庫の『ボルヘス詩集』ぜんぜん読んでないや。これ読みながら寝よう。二度目のおやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十二月十九日 「エイジくん」


Brown Eyed Soul の、ちょっとふくよかな方、むかし付き合ってた恋人に似ていて、チューブで見て、ますます似てると思ったのだけれど、そうだ。もう、自分には、よいときの思い出しかないのだと思うのだけれど、眠っている時間にまた会えるかもしれないのだから、なんてこと思ってる。ぼくは作品にして、その子との思い出をミニチュアのようにして、手で触れることができる。いろんな角度から眺めることができる。もしも、ぼくが詩人でなかったら? それでも、ぼくはその子との思い出を何か作品にしておくと思う。音楽かもしれない。絵かもしれない。

FBで、シェアした。とってもすてき。夢で逢えたらいいなあ。

ぼくに似ていないから好きなんだろうけれど、似ていない顔はいくらでもある。どうして、その顔でなければならないのか。文房具店で定規を選ぶとき、自分にいちばんしっくりくる定規を選ぶ。そんな感じなのかな。文房具といっしょにしたら、ダメかな。https://www.youtube.com/watch?v=9h9SO39XzQ

その子といっしょだった時間のことは、ほとんどすべて憶えている。その子とのことは、ずいぶん作品にして書いてきた。でも、書いていないこともあった。そのうち、書こうかな。ああ、でも、あのアパートの玄関のドアを押し合いへし合いしたときの、こころのときめきは言葉にはできないような気がする。でも、それでいいのだ。言葉にできないから、ぼくはこころのなかで思い浮かべることができる。ぼくとその子がいっしょにいたときのことを。そのとき、ぼくがどう思ったのか。その子がどう思っていてくれたのかと想像しながら。図書館で偶然に会った。カレーをつくった。9本のSMビデオを見せられた。アパートのしたでいっしょにした雪合戦。玄関の靴箱のうえに置き忘れられた手袋。玄関の靴箱のうえに置き忘れられた帽子。きみがわざと忘れたふりをして置いていったものたちだよ。ゴアテックスの紫色の上下のジャージ。蟹座だった。B型だった。ほら、いっぱい憶えているよ。おやすみ、グッジョブ!

どんなにうつくしい作品を書いても、きみといたどの瞬間のきらめきにも劣る。それが生なんだと思う。それでいいのだとも思う。どんなによい作品を書いても、きみには劣る。それが生なんだと思う。それでいいのだとも思う。というか、それでなければ、ぼくらが人間であるわけはないのだから。


二〇一五年十二月二十日 「違う人生」


これからイーオンのミスタードーナッツに行って、ルーズリーフ作業をしよう。ペソアの『不安の書』の引用と、その引用した言葉に対する感想と批判、その引用文から得たインスピレーションを書き出すのだけれど、読書と同様に、孤独だが、ぼくのしている文学行為でもっとも重要なものだと思っている。

コンビニに、サラダと、かっぱえびせんを買いに行くときに、道路でタクシー待ちをしている青年がとってもカッコよかったのだ。同じ人間でも、カッコよく見える人間と、そうでない人間では、たとえ見かけのことだとわかってはいても、違う人生があるんだろうなあと、ブサイクなぼくは思ったのであった。


二〇一五年十二月二十一日 「月長石」


きょうからお風呂場で読むのは、ウィルキー・コリンズの『月長石』。T・S・エリオットが激賞した推理小説である。どういう意味で激賞したのかは忘れたけれど、数年前に、ブックオフで105円か108円で買ったもの。ものすごく分厚い。750ページ以上もある。びっくり。

コリンズの『月長石』をお風呂につかりながら流し読みした。ひさしぶりに推理小説を読んだ。P・D・ジェイムズのような洗練されたものを読みなれた目からすると、スマートじゃないし、退屈さがおもしろさをはるかに上回っている点で、この作品を、ぼくならだれにもすすめないだろう。

きょうは、これから寝るまで、ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしよう。

なにが時間をつくり、場所をつくり、出来事をつくるのだろう?

子どものときから一生懸命にがんばるというのがみっともないことだと思って斜に構えてきたけど、その自分が意外とものごとに一生懸命だったり、熱中していたりすることを自覚するときほど恥ずかしい瞬間はない。未読の本を少しでも少なくしようとして、いま、一日に1冊、お風呂場で読んで捨てている。

けさ見た夢が象徴的だ。ぼくの現実の部屋ではない部屋にぼくが住んでいて、本棚の隙間に横にして本のうえに本を押し込んでいたのだ。自分の現実の部屋ではないと気がつくと、間もなく目覚めたのだが、その夢が強迫的な感じだったので、きょう、本棚を整理した。

一生懸命と書くとよい意味に思えるけれど、ぼくの場合は病的になるという感じなので、本との闘いは、これからなのだと思う。いまもペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしているけど、これは悪魔祓いなのだ。本を読むことによって、ぼく自身が呼び込んだ悪魔の。

これから、ちょっと距離のあるスーパー「ライフ」に行って、30パーセント引きの弁当でも買ってこよう。きょうは本棚の夢を見ないように、寝るまえの読書はやめよう。クスリをのんで眠くなるまで、ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしよう。30パーセント引き弁当、残ってるかな?

自分のなかに見知らぬ他人が存在しているのと同様に、見知らぬ他人のなかに自分も存在している。

ばかであることもできるばかもいれば、ばかであることしかできないばかもいるし、ばかであることも、ばかでないこともできないばかもいる。ぼく自身は、この三様のばかのあいだをあっちに行ったり、こっちに来たりしている。


二〇一五年十二月二十二日 「いつだって視界に自分の鼻の頭が見えてるはずだろ。」


繰り返し何度も何度も同じような事物や事象に欺かれてきたが、いったいなにが、そういった事物や事象に、そのような特性をもたらしたのだろうか。

あと200ピースほどの引用とメモが残っているが、きょうは、これでクスリをのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! あしたから冬期講習だけど、あした、あさっては、夕方からだけだから、まだ余裕。朝とお昼は、ペソアのルーズリーフ作業に専念しようっと。

セブイレでサラダとかっぱえびせんを買ってきた。これが朝食。お昼はまっとうなものを食べよう。

夢を見るときは、いつでも、夢をつくるときでもある。詩と同じだ。その詩が、ぼくのものであっても、ぼくのものではなくっても。

むかし付き合った子といるときや、友だちといるときや、居酒屋さんや焼き鳥屋さんで飲んでいるときや、生徒といるときや同僚の先生方といるときも、ぼくはみんなと同じ永遠や無限のなかにいる。と同時に、みんなと同じ永遠や無限のなかにいるわけではない。それぞれ個々の永遠や無限があって、その個々の永遠や無限の交わりのなかに、ぼくらがいるだけなのである。こう言い換えてもよいだろう。無数の永遠や無限という紐があって、ぼくたちは、それらの結び目にすぎないと。その結び目は、少しでも紐を引っ張ると、たやすくほどけるものでもあると。

溺れる者がわらでもつかむように、詩に溺れた愚かな者は、しばしば詩語にしがみつく。日常使う言葉をつかんでいれば、溺れることなどなかったであろうに。

自分が歩かないときは、道に歩かせればよい。自分で考えないときは、言葉に考えさせればよい。

聴覚や嗅覚でとらえたものもたちまち視覚化される。記憶とは映像の再構成なのだ。

つまずくたびに賢くなるわけではない。愚かなときにだけつまずくものではないからだ。

私小説批判をけさ読んだが、なにを言ってるのかわからない。私という場所のほかに、どこに文学があるというのだろうか。

二十歳のとき、高知の叔父の養子にならないかという話があった。もしもなっていたら、平日は公務員で、土日は田畑を耕していただろう。詩を書くなどということは思いもしなかったろう。詩は暇があるから書けるのである。暇がなければ書けないものでもないが、ぼくの詩は、確実に暇が書いたものなのだ。

以前に詩に書いたことなのだが、つねに自分の鼻の頭が視界に入っているのに、意識しないと見えないのは、なぜなのだろうか。

じっさいにそうしていなかったことにより、もしもそうしていたならという夢想を生じせしめる。じっさいにそうしていたときよりも、おそらくはここちよい夢想によって。なぜなら、それはその夢想を台無しにする要素が入り込む相手の、彼の意志が入り込む余地がないからである。それは相手の、彼の意志がいっさい介在しないからである。ぼくが思い描くとおりの理想の(これが罠だとぼくは知っているのだが)夢想であるのだから。

ぼくはもう詩を書こうとは思わない。ぼくが書くものがすべて詩になるのだから。


二〇一五年十二月二十三日 「別の現実」


ひぃえ〜、ヤクザに頭割られて、それが治ったら、薔薇の束を抱えさせられて殺される夢を見た。なんちゅう夢。家族全員が殺される夢だった。なんで、こんな夢を見たのだろう?

作品論を読んでいて、作品論なのに、存在する作品について具体的に論じないで、存在していない作品について論じているものがある。現実の風景について述べないで、風景というものは、と述べているものを読ませられているかのような気がするものがある。それがおもしろくない作品論ではないこともある。

リンゴが赤いのは、赤いと言われているからだ。赤いともっと言ってやると、リンゴはいっそう赤くなるだろう。この表現に神経をとがらせるひとには、こう言ってやればよい。リンゴにもっと赤いと言ってやると、リンゴはよりいっそう赤く見えると。リンゴが赤いのは、赤いと言われているからである。

別の現実が、ぼくのなかで目を覚ます。眠りとは、夢とは、このことだったのか。


二〇一五年十二月二十四日 「プリティ・モンスターズ」


ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業が終わった。きょうは、詩集を読むか、小説を読むか、どっちにしようか。ボルヘスとカミングズの思潮社の海外詩文庫を買って、まだ読んでなかった。ボルヘスの全短篇集のつづきか、どれかにしよう。

あんまり寒いので、お風呂につかりながら読書することに。お風呂場では、ひさびさにヘッセ全集を読もう。2、3時間はゆっくり湯船につかろう。

きょうは、ケリー・リンクの短篇集『プリティ・モンスターズ』のつづきを読もう。辛ラーメン3袋入り×3と、カレーのレトルト『メガ盛り』辛口4袋、大辛6袋買ってきた。合計2216円。年末・年始の食糧確保だす。

ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』を読んでいて、読んだことあるなあ、まえの短篇集のタイトルと同じ「マジック・フォー・ビギナーズ」じゃんって思って、解説を読んだら、そうだった。早川書房、なんちゅう商売してるんだろ。もう1作「妖精のハンドバッグ」も、まえのにも収録されていた。まあ、もう1回読んでもいいくらい、ケリー・リンクの小説は味わい深いし、短篇集の『マジック・フォー・ビギナーズ』が好きで、単行本と文庫本を1冊ずつ買ったくらいだけれど。単行本の表紙がいい味しているのだ。文庫で読んだだけで、単行本は読んでいないのだが。

クスリのんで寝よう。おやすみ。グッジョブ! 寝るまえの読書も、ケリー・リンクで。


二〇一五年十二月二十五日 「そんなことがあるんや。」


これから塾へ。ちょっと早いので、マクドナルドでホットコーヒーを飲もう。それからブックオフに行って、塾へ。

詩集が1冊、出るのが遅れているのだが、記号だけでつくったぼくの作品を amazon のコンピューターがエラー認識してしまい、どうしてもそれを入れて製本することができないということが、きょうわかった。その作品ははずしてもらうことにした。その作品はお蔵入りということになる。笑った。


二〇一五年十二月二十六日 「愛の力」


台湾人のFBフレンドが「My boy in my home (&#28780;&ordm;ω&ordm;&#28780;)」というコメントをつけて、恋びとと向かい合ってプレゼント交換して、クリスマスの食事をしようとしている画像をアップしていて、見ているぼくまでハッピーな気持ちになる。ぼくにも、そんなときがあったんだって思うと。20代同士のかわいいゲイ・カップルだから、見ていて、ほんわかとしたんだと思うけれど、これが、60代同士のおじいちゃんカップルでも、見ていて、ほんわかすると思う。基本、愛し合ってるひとたちを見るのは、こころがなごむ。それも愛の力のひとつなんだろうね。


二〇一五年十二月二十七日 「15分」


起きた。セブイレでサラダとかっぱえびせんの朝ご飯を買いに行こう。きょうは、朝9時から夜9時半までの冬期講習だ。がんばる。

ご飯を買ってきた。15分も湯煎をしないといけないんやね。カレーのレトルトといっしょに温めている。

辛ラーメンもつくってる。おなかいっぱいにして、冬期講習に臨む。

キングオブコメディ、残念。

やっぱり、ケリー・リンクは天才だ! 短篇集『プリティ・モンスターズ』は大傑作だった。彼女のような作家の作品を読んでしまうと、レベルの低いものは読めなくなってしまう。それでいいのだけれど。本棚の未読の本が怖い。あしたは、さいごに収録されてる作品を読んで、ルーズリーフ作業をしよう。


二〇一五年十二月二十八日 「雨に混じって落ちてくるもの」


夕方までには、ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』のルーズリーフ作業が終わるので、そのあとは読書でもするかな。ナボコフの全短篇集のつづきでも読もうかな。お風呂場では、なにを読もうかな。ジョージ・R・R・マーティンの『フィーヴァードリーム』にしよう。ダブって持っていたものだ。

雨に混じって落ちてくるもの。きみの言葉に混じってきみの口から出てくるもの。

人間の声。世界でもっとも美しいもののひとつ。

それとも、ルーズリーフ作業が終わったら、河原町でも行こうかな。欲しい本が2冊出てた。ジーン・ウルフの『ナイト』I、IIの続篇2冊。『ナイト』自体買ったけど、読むの1年後くらいかもしれないけれど。本って、買っておかないとなくなることが多いしね。とくに、ぼくが買う類の本は。大丈夫かな?

10代と、20代と、30代と、40代の経験は、そのまんま、文学的な衣装をいっさいつけずに作品にしたい。体験のうち、いくつかは書いたけど、そのまんまを書くことはできていないような気がする。

虚偽にも真実が必要なように、真実にも虚偽が必要なのである。

病院で配膳のボランティアをしていて、残った食べ物を集めていると、うんこのような臭いがした。それと同じことなのだろうか。ポルノ映画館の座席と座席の間の通路が黒く照り光っているのは。さまざまな風景を拾い集めて、数多くの裸の人間や服を着た人間たちの色彩を集めて、黒く照り光っているのは。

精神病の母から毎日、電話がかかってくる。死ぬまでかけてくるだろう。電話をとるしかないだろう。一日、1分ほどの苦行だ。3日もほっておくと、警察に連絡して、ぼくが無事かどうかの確認をさせるのだ。はじめて派出所から警官が2人で訪れたときはびっくりした。母が精神病であると告げると帰った。

ルーズリーフ作業が終わった。ナボコフの全短篇集を本棚から取り出した。85ページの『復習』というタイトルの作品のところに付箋がしてあった。84ページまで読んだところでやめていたのだろう。字面を見て、本をもとのところに戻した。ぼくの詩集を読んでくれた、ある女性詩人の詩集を手に取った。数字だけのタイトルの詩集である。ぱらぱらとページをめくる。具体と抽象がよいバランスで配置してある。これを読もう。薄い詩集なので、すぐに読み終えるだろう。

何年もまえに思いついた詩のアイデアがあるのだが、いまだに書くことができない。ただ書くのが面倒なだけなのである。とてもシンプルなものなのだが、マクドナルドにでも行って、コーヒーを10杯くらい飲まないと書く気力がわかないタイプのものである。正月まえにミスタードーナツに行って書こう。

イタリアのプログレのアレアのファーストを聴いている。こんなアルバムみたいな詩集をつくりたい。ぼくの詩集はすべてプログレを意識してつくっているのだが、まだ、アレアのファーストのようなものはつくっていないような気がする。来年出す予定の『図書館の掟。』で目指す。『ヨナの手首』を入れる。

ぼくのために、ユーミンの「守ってあげたい」を歌ってくれたや安田太くんのことを思い出してる。そのときのこと思い出しながら寝よう。ぼくのこと好きだったんだろうなって思う。もう30年数年前のことだけど、ラグビーで国体にも出てたカッコイイ男の子だった。そのときの前後のこと書いてなかった。


二〇一五年十二月二十九日 「ローマ熱」


きょう、塾の空き時間に、『20世紀アメリカ短篇選』を読んでいて、2つ目の短篇、「ローマ熱」(作者はイーディス・ウォートン)というのにびっくりした。むかし読んだときは気にもしなかった作品だった。齢をとって、好みが変わったのかもしれない。

再読にはあまり興味がなかったのだが、部屋にある本、読み直すのも、おもしろいかも。あ、そのまえに未読の本を読まなくちゃいけないけれど。うううん。来年は、さらに読書に時間を割こう。未読本をどれだけ減らせるか、新たに買う本をどれだけ少なくできるか、だな。

寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』上巻、3つ目の収録作品。ドイツ系アメリカ人の肉屋の親父とその娘の話。まだ数ページ読んだだけだけど、期待できそう。


二〇一五年十二月三十日 「生きること。感じること。楽しむこと。」


きのう寝るまえに、『20世紀アメリカ短篇選』の2つと、ハインリヒ・ベルの短篇も1つ読んだ。きょうは、部屋にこもって、ナボコフの全短篇集のつづきを読む。どこまで読めるだろう。正月休みに読み切れれば、うれしいのだけれど。

四条に出てジュンク堂で本を買ってきた。ジーン・ウルフの『ウィザード』I、IIと、岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』下巻と、『20世紀イギリス短篇選』上下巻と、『フランス短篇傑作選』である。8600円ほどだったかな。まあ、それくらいの買い物は、いいだろう。本を買わないと書いたけど。

本棚には、もう本を置けないので、押し出し式。捨てる本を決めなければならない。けっこうつらい。あとでほしくならない本を捨てなければならない。カヴァー違いの文庫など捨てればいいんだろうけれど、これがまた惜しくて捨てられない。こころ根がいやしい証拠だな。

とりあえず、タバコ吸って考えよう。

きょうは、チューブラー・ベルズを聴いて寝よう。

ふと高校時代の友だちのことを思い出した。いっしょに映画を見てると、座席が揺れ出したので、あれっと思って、友だち見たら、チンポコいじってたから、「ここ、抜くとこ、ちゃうやん!」と言ったら、「ちょっと待って!」と言って、いっちゃったから、びっくりした。けど、めっちゃ、おもしろかった。

めっちゃかわいかった友だちのこと思い出したから、お酒が欲しくなった。セブイレに買いに行こう。最高におもしろくて、最悪にゲスな高校時代だった。なにしても、おもしろかった。なに見ても、なに聞いても、おもしろかった。お酒は、なに飲もうかな。涙、ポロポロ→

ロング缶のヱビスビールと、かっぱえびせんを買ってきた。すばらしい詩や小説を読んでいると、自分の人生の瞬間瞬間が輝いて見えるけれど、自分の人生の瞬間瞬間が輝いていたからこそ、詩や小説も深い味わいがあるのだとも思う。生きること。感じること。楽しむこと。


二〇一五年十二月三十一日 「プー幸せだった」


これは、ぼくとスーとの約束だった
彼を見て、ぼくは本当に、プー幸せだった
彼が心配しているのは、大晦日に彼女を慰めるためのドライブ
1、2、3は会えないね
それを言ってたのは、ベッドサイドテーブルをはさんで
缶コーヒー
きみは、ぼくに出合った休暇だった
ベイビー
メイ・メイ・スー

もうじき55歳になる。60歳まですぐだ。老人である。残された時間は短い。これからなにが書けるのか、時間との競争でもある。きょうは、だれともしゃべらず。これが正月の3日までつづくのかと思うと、うんざりではあるが、ひとといても、うんざりである。

弟を針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。パパを針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。ママを針で刺しても、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。テーブルを針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。そこらじゅうを針で刺していった。


詩の日めくり 二〇一五年十三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年十三月一日 「芸術は自己表現ではない」


自己の表現と、自己表現とは違う。2015年9月29日のメモ「いまだに芸術を自己表現だと思っている連中がいる。きょう、職場で哲学の先生たちがお話されているのを小耳にはさんだのだが、お知り合いの詩人が、詩は自己表現だと言ってたらしい。詩や小説は言語表現だし、音楽は音楽表現だし、映画は映画表現だし、演劇は演劇表現なのだ。それ以外のなにものでもない。自己表現は単なる自己表現であり、それは日常、日ごろに行われる生活の場での、他者とのコミュニケーションにおける表現活動のことである。芸術活動とは、いっさいの関係などないものである。」


二〇一五年十三月二日 「高慢と偏見とゾンビ」


P・D・ジェイムズの『高慢と偏見、そして殺人』を読むために、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』を読み直したのが1年ほどまえで、読み直してよかったと思う。いま本棚にその3冊を並べてあるのだが、ここに、きょう買った、『高慢と偏見とゾンビ』を並べようと思う。パスティーシュ、大好き!


二〇一五年十三月三日 「こんな瞬間の美しさを」


フロイドの『対』を聴きながら、付箋の長さが気になってて、その先っちょをハサミでチョキチョキしていたのだけれど、その切り取ったあとのものが、クリアファイルを取り上げたときに落ちて、その落ち方の美しさにはっとした。こんな瞬間の美しさを作品に定着できたらいいなと思った。いらないものの美しさ。


二〇一五年十三月四日 「隣の数」


2015年10月22日のメモを、これから打ち込んでいく。BGMはナイアガラ・トライアングル1。メモにタイトルをつけてた。めずらしい。「隣の数」整数ならば、隣の数といえば、たとえば、2の隣の数は1と3である。ところが連続した実数においては、2の隣の数というのは存在しない。ある実数を2にもっとも近い数であると仮定しても、その数と2の間の数を無限に分割できるので(分割する数を0以外の実数とする)さきに2にもっとも近い数であると仮定した数よりもさらに2に近い数を求めることができるのである。ここで気がついたひともいるかもしれない。連続する実数においては、「隣の数」というよりも、「隣」という概念自体が無効であるということに。しかしながら、隣り合うことなく、数が無数に連なり合うという風景は、もはや実景をもつ、現実性をもったものでもないことに。このことは、つぎのことを導く。すなわち、実数は、じつは連続などしていないのだと。実数には連続性など、はじめからなかったのだと。というか、そもそものところ、数自体も現実には存在などしていないからである。したがって、連続する実数の隣は空席なのである。すなわち、連続する実数においては、数と数のあいだには、空席が存在するのである。つまり、数と数のあいだには、数ではないものが存在するのである。それを指摘し、それに名前を与えた者はまだいない。ぼくが名づけよう。数と数のあいだの空席を占めるものを「非数」と。ところで、この非数であるが、これは数ではないので個数を数えられるものではない。数に対応させて考えることができるものならば、数ではなくても、個数を数えることができるのだが、この非数は、たとえば、集合論で用いられる空集合Φのように、あるいは、確率論で用いられる空事象Φのように、いくつのΦとかと言ってやることができないものなのである。したがって、たとえば、1という数と2という数のあいだの非数の個数と、1という数と100という数のあいだの非数の個数の比較もできないのである。非数は、いわば、無限(記号∞)のように、状態を表すものとして扱わなければならないのである。この状態というのも比喩である。この非数の概念に相応しい形容辞が存在しないからである。ところで、この非数というものが存在することで、じつは、数というものが存在するとも考えられるのである。この非数というものがあるので、非数と非数のあいだの数を、われわれは取り出してやることができるのである。隙間なくぎゅうぎゅう詰めにされた本棚から本を取り出すことが不可能であるように、もしも実数が隙間なく連続していれば、われわれは実数を取り出すことができないのである。したがって、実数が連続しているというときには、この非数の存在を無視するならば、という前提条件を抜かして言及している、ということになるのである。実数が連続しているなどというのは誤謬である。数学者たちの単なる錯覚である。ところで、話はずぶんと変わるが、1や2や3といった数は、もうどれだけの数の人間たちによって、じっさいに書きつけられたり口にされたことであろうか。数え上げること不可能であろう。それと同時に、まだ人間によって書きつけられたこともなく、口にされたこともない数も無数にあるであろうが、それもまた数え上げることが不可能であろう。永遠に。永遠と言う言葉が辞書通りの意味の永遠であるとしてだが。しかし、その個数は、確実に時代とともに減少していくことだろう。しかし、無数のものから無数のものを引いても無数になることがあるように、無数であるという状態自体は変わらないであろう。といったことを考えたのであるが、無数というのもまた、数ではなく、状態を表す概念なのであった。紫 式部の『源氏物語』の「竹河」のなかに、「無情も情である。」といった言葉があったのだが、無数という概念は、数の概念のうちに入るものではなかったのであった。非数というものの概念が、数の概念のうちに入るものではなかったように。非数という概念について、10月22日は考えていた。おもしろかった。非数を考えることによって、数自体についての考え方も変わった。このように、ぼくはぼくの意識的な領域の自我のなかで、さまざまな事物や事象の意味概念を捉え直していくことだろう。あとのことは、無意識領域の自我のする仕事だ。


二〇一五年十三月五日 「魂を合んだ本」

思潮社海外詩文庫『ペソア詩集』誤植 116ページ下段13行目「魂を合んだ本を」→「魂を含んだ本を」


二〇一五年十三月六日 「ホープのメンソール」


ホープのメンソール、めっちゃきつい。もうじき文学極道に投稿する『詩の日めくり』のことを考えてた。これはアナホリッシュ國文學編集長の牧野十寸穂さんのアイデアからできたものなのだが、ぼくの半分くらいの作品は、ジミーちゃんと、えいちゃんと、牧野十寸穂さんのおかげでつくれたのだと思った。ひととつながっていなければ、ひととかかわっていなければ、ぼくの作品のほとんどすべての作品はつくれなかった。全行引用詩でさえそうだ。孤独がすぐれた作品をつくるとリルケは書いていた。ぼくもそう思っていたけれど、どうやら、それは完全な錯誤であったようだ。ギャオで「あしたのパスタはアルデンテ」を見てる。ゲイだからって、どってことないっしょ? って感じの映画かな。人生は滑稽な芝居だ。ぼくのママも(実母も、継母も)ぼくがゲイだって言っても、信じなかった。父親はわかってくれていたようだが、母親たちは信じなかった。そんなものかもしれない。

くちびるにしたら嫌がられるかもしれないと思って、首筋にキッスしたら、首の後ろにおしゃれなタトゥーが入ってた。一度しか会わなかったけれど、かわいらしい男の子だった。「そこに存在するから」山に登る。山などないのに。一度だけだからいいのだと、むかし、詩に書いた。

完璧な余白を装って、言葉が詩に擬態する。℃の言葉も空白の意味と空白の音をもつ言葉だ。「めっちゃ気持ちいい。」魂から魂のあいだを完全な余白が移動する。魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。「そこに存在するから」℃の言葉もだ。完璧な余白を装って。

PCのCを℃にすること。階段席の一番後ろからトイレットに移動する。空白の意味と空白の音をともなって、ぼくたちは移動する。魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。しゃがみかけたけど、しゃがませないで。首の後ろにキッスした。PCのCを℃にすること。

本にお金を使いすぎたような気がしたので、セブイレでホープのメンソールを買った。きつい。一度しか会わなかったけど、首の後ろのタトゥーがおしゃれだった。PCのCを℃にすること。ぼくたちの魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。ラブズ・マイ・ライフ。

経験は一度だけ。一度だけだから経験だ。階段席の一番後ろからトイレットに。空白の意味と空白の音をともなって、ぼくたちは移動した。人生は滑稽な芝居だ。PCのCを℃にすること。ぼくたちの魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。「そこに存在するから」。

人生は意味である。無意味の意味である。人生は無意味である。意味の無意味である。意味は人生でもある。意味の人生である。無意味は人生でもある。無意味の人生である。意味が無意味であり、無意味が意味なのである。ぼくたちの魂と魂をすっかり満たす意味と無意味。

PICTURE の C を℃にすること。FACT の F を°F にすること。FUTURE の T を°Tにすること。KISS の I を°I にすること。SOUL の S を°S にすること。EVERYWHERE の W を°W にすること。BEATIFUL の B を °B にすること。WE の W を °W にすること。JOY の J を °J にすること。MESSAGE の M を °M にすること。SEX の X を °X にすること。LOVE の L を °L にすること。GOOD の G を °G にすること。GOD の G を °G にすること。


二〇一五年十三月七日 「大量のメモが見つかった。」

晩ご飯は食べない予定だったが、夕ご飯は食べることにする。スーパーに餃子でも買いに行こう。部屋を少し片付けたら、大量のメモが見つかった。

非数について
(メモ)
そもそものところ、数自体が、じっさいに存在するものではないのだ。紙に書かれた数字やワードに書き込まれた数字やエクセルに書き込まれた数字は、現実に存在する数を表現したものではないのだ。ぼくが指に挟んで紙に文字を書き込むペンのことをペンと呼べるもののようには。愛という言葉の意味は広くて深いが、愛という言葉が人間のこころに思い浮かばせる情景というものがある。愛が表象として実感されうるものであるからだ。そういう意味で、愛というものは存在している。しかし、数は表象として人間のこころに実感されうるものだろうか。プラスチックでできた数字をかたどったものがあるとしよう。そういうものがテーブルのうえに置かれたとする。絵のなかに描かれた数字でもいい。そういうものは、数そのものをかたどったものであろうか。数そのものではない。数が表している値を表現したものである。テーブルのうえに置かれた、プラスチック製の2という数字をかたどったオブジェは、2という数そのものをかたどったものではないのだ。数というものもまた、非数と同様に、概念として創出されたものであって、現実の存在する事物ではないのであった。

2015年10月27日のメモから
ひとつの時間はあらゆる時間であり、ひとつの場所はあらゆる場所であり、ひとつの出来事はあらゆる出来事である。また、あらゆる時間がひとつの時間であり、あらゆる場所がひとつの場所であり、あらゆる出来事がひとつの出来事である。

2015年10月20日のメモから
いったん、ぼくのなかに入ってきた事物や事象は、ぼくのなかから消え去ることはない。ぼくが踏み出した足を引っ込めても、その足跡が残るように、それらの事物や事象は必ず、ぼくのなかに痕跡を残す。ときには、焼印のようにしっかりとした跡を残すものもある。額に焼印されたSの文字が、それが押し付けられた瞬間から、それからの一生の生き方を決定することもあるのだ。slave。事物や事象の奴隷であることを示すアルファベットのさいしょの文字だ。ぼくの額のうえには、無数のSの文字が焼きつけられているのだった。

2015年10月24日のメモから
ディキンスンやペソアという詩人の活動とその後の評価を知って、つぎのようなことを考えた。詩人にとって、無名であることは、とても大切なことなのではないか。名声がないということは、名声が傷つけられて、こころが傷むことがない。生きているときに尊敬されていないということは、傲慢になりがちな芸術家としての自我が慢心によって損なわれることがないということだ。生きているときに権威がないのも、じつに好都合だ。権威をもつと、やはり人間のこころには、驕りというものが生ずる可能性があるからだ。生きているときに、名声を得ることもなく、尊敬されることもなく、権威とも無関係であること。これは、詩人にとって、とても大切なことであると思われた。少なくとも、ぼくにとっては、とても大切なことだ。ぼくの場合は、きっと死ぬまで人様に名前が知られることなどないので大丈夫だ。

2015年7月16日のメモから
朝、通勤の途中で、まえを歩いていたおじさんが、道に吸い込まれて片方だけの靴を残して消えた。年平均6人くらい、ぼくの通るこの道で人間が道に巣込まれるらしい。気を付けると言ったって、気の付けようがないことだけれど。

2015年5月28日のメモから
『図書館の掟。』のさいごのシーンのつづき。図書館長が死者である詩人の口から話を聞くところから、『13の過去(仮題)』をはじめてもいい。

2014年12月8日のメモから
詩のアイデア
本来、会話ではないところに「 」をつける。散文詩でやると効果的だろう。

2015年5月28日メモ
詩のアイデア
・・・
・・・
爆発!
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爆発!
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爆発!
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爆発!
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爆発!
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爆発!
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爆発!
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爆発!
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爆発!
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・・・
爆発!

2015年10月20日から27日までにしたと思うメモから
詩のアイデア
さまざまな詩人が詩に用いたオノマトペを抽出、引用して、オノマトペだけの詩をつくる。タイトルは、トッド・ラングレンの曲名、 ONOMATOPEIA からとって、『 ONOMATOPEIA。』にするとよい。


二〇一五年十三月八日 「ユキ」


晩ご飯を食べないつもりだったけど、まえに付き合ってた子といっしょにセブンイレブンで買い物して(「いつもおごってもらってるから、きょうは、ぼくがおごるよ」と言ってくれて)おにぎり一個と、トムヤンクンの即席麺と、肉ジャガコロッケ一個と、おやつを食べながら、二人でギャオの映画を見てた。本を買い過ぎて、金欠ぎみ〜と、ぼくが言うと、タバコ2本を置いていってくれて、やさしい子だ。金欠ぎみと言うか、まあ、基本、ぼくは貧乏なので、貧乏人から見えることというのがあって、それはお金に余裕のあるひとには見えないものだと思う。健康を損なってはじめて見えるものがあるように。生涯、無名で、貧乏でって、まあ、詩人としては、理想的な状態である。寝るまえの読書は、『ペソアと歩くリスボン』じつは、きのうも、きょうも、レックバリの『人魚姫』のつづきを読んでいて、『ペソアと歩くリスボン』をちっとも読んでいなかったのである。きょうは少しは読もうかな。


二〇一五年十三月九日 「オノマトピア」


きょうは、オノマトペだけの引用詩をつくろう。詩集とにらめっこだな。楽しそうだ。いや、きっと楽しい一日を過ごすことになるだろう。きょうも、きのうも、毎日、なんかあって、ジェットコースターのようだ。

オオ ポ ポ イ
オオ パ パイ
おお ポポイ ポポイ
オオ ポポイ
オオ!ポポイ!
(西脇順三郎『野原の夢』)

タンタン タンタン たんたん
オーポポーイ
オーポポーイ
(西脇順三郎『神々の黄昏』)

ゆらゆら
ジヤアジヤア
(北川冬彦『共同便所』)

もくもく
げらげら
(北川冬彦『街裏』)

くるりと
じーんと
ふらふらと
(北川冬彦『昼の月』)

ぽとりと
(北川冬彦『椿』)

ひらひらと
(北川冬彦『秋』)

ゆらり ゆらり ゆらり
ぴんと
ゆらり ゆらり ゆらり
(北川冬彦『呆けた港』)

ぶるると
かーんと
ピキピキ
(北川冬彦『鶏卵』)

がらんとした
(北川冬彦『絶望の歌』)

ははははははは
ははははは
(北川冬彦『腕』)

ぶくぶく
(北川冬彦『風景』)

ぶっつぶっつ
(北川冬彦『春』)

くるりくるりと
(北川冬彦『梢』)

コクリコクリと
(北川冬彦『陽ざし』)

ひよつくり
(北川冬彦『路地』)

ぐるぐる
ぐるぐる
(北川冬彦『スケートの歌』)

ダラリと
(北川冬彦『行列の顔』)

ゲヘラ ゲヘラと
(北川冬彦『大陸風景』)

ボーボーと
めりめりと
(北川冬彦『琵琶湖幻想』)

ばあ ばあ
(北川冬彦『水鏡』)

さらさらと
(北川冬彦『処刑』)

ぱったり
ぱっと
はたと
(北川冬彦『日没』)

ちょっと球形。イーオンに行って、フランスパンでも買って、早めのお昼ご飯にしようかな。オノマトペを取り出しただけで、なにかわかるとは思わなかったけれど、2つばかりのことがわかった。1つめは、個性的なオノマトペはむずかしいということ。2つめは、有名な詩人もオノマトペが凡庸なことが多い。

フランスパンとコーンスープのもとを買ってきた。19世紀、20世紀のフランスの貧乏画家のようだ。まあ、ぼくはあくまでも、21世紀の日本の貧乏詩人だけど。

うつうつと
(安西冬衛『軍艦茉莉』)

グウ
(安西冬衛『青春の書』)

ポカポカ
(安西冬衛『春』)

とつぷりと
(安西冬衛『定六』)

ぼつてりと
(安西冬衛『旧正の旅』)

さらさらと
(安西冬衛『二月の美学』)

ちよこなんと
(安西冬衛『水の上』)

しんしんと
(安西冬衛『秋の封印』)

バリバリ
(北園克衛『スカンポ』)

ハタと
(春山行夫『一年』)

ぽつりと
(竹中 郁『牝鶏』)

ぴいぴいと
(竹中 郁『旅への誘ひ』)

オノマトペの採集作業が退屈なものになってきたので、中断することにした。モダニストの詩だけから抽出したのだけれど、むかしの詩人はオノマトペを多用しなかったようだ。いまの詩人は、金子鉄夫を筆頭に積極的に多用する詩人もいるのだけれど。ぼくも使うほうかな。


二〇一五年十三月十日 「ぼくは言葉なんだ。とても幸せなことなんだ。」


ぼくは言葉なんだけど、ほかの言葉といっしょに、ぎゅーぎゅー詰めにされることがある。たくさんの言葉の意味に拘束されて、ぼくの意味が狭くなる。まばらな場所にぽつんと置かれることもある。隣の言葉がなんて意味かわからないほど遠くに置かれることもある。ぼく自身の意味もぼくにわからないほど。でも、なんといっても、はじめての出会いって、いいものなんだよ。相手の意味も変わるし、ぼくの意味も変わるんだ。出合った瞬間に、なんでいままで、だれもぼくたちを出合わせてくれなかったんだろうなって思うこともよくある。しじゅう顔を合わせる連中とだけなんてぜんぜんおもしろくないよ。出合ったことのない言葉と出合って、ぼくの言葉の意味も深くなるっていうかな、広くなるっていうかな、鋭く、重くなるんだ。ぼく自身が知らなかったぼくの意味を、ぼくに教えてくれるんだ。それは、相手の言葉も同じだと思うよ。同じように感じてるんじゃないかな。ぼくという言葉と出合うまえと出合ったあとで、自分の意味がすっかり変わってるっていうのかな、まるで新しく生まれてきたように感じることだってあるんじゃないかな。ぼくがそう感じるから、そう言うんだけどさ。それはとても幸せなことさ。


二〇一五年十三月十一日 「自動カメラ」


ヒロくんが
自動カメラをセットして
ぼくの横にすわって
ニコ。
ぼくの横腹をもって
ぼくの身体を抱き寄せて
フラッシュがまぶしくって
終わったら、ヒロくんが顔を寄せてきた
ぼくは立ち上ろうとした
ヒロくんは人前でも平気でキッスするから

イノセント
なにもかもがイノセントだった

写真に写っているふたりよりも
賀茂川の向こう側の河川敷に
暮れかけた空の色のほうが
なんだか、かなしい。


二〇一五年十三月十二日 「あるスポンジタオルの悲哀」


わたしはいや。
もういや。
シワだらけのジジイの股間に
なんで、顔をつっこまなけりゃいけないの。
もういや。
ジジイは、わたしの身体を
つぎつぎ
自分の汚れた身体になすりつけていくのよ。
もういや。
死んでしまいたい。
はやく痛んで
ゴミ箱に捨てられたい。


二〇一五年十三月十三日 「洗濯機の夢。」


洗濯機も夢を見るんだろうか。
いっつも汚い
ヨゴレモノを口に突っこまれて
ガランガラン
まわしてヨゴレを落として
ペッと吐き出してやらなきゃならないなんて
損な人生送ってるわ。

人生ちゃうわ。
洗濯機生送ってるわ。
でも
洗濯機のわたしでも
夢は見るのよ。
それは
きれいな洗濯機を口に入れて
ガランガラン
洗ってやること。
いつか
この詩を書いてる詩人の父親が
飼っているプードルをかごに入れて
そのかごをわたしの口の縁にひっかけて
わたしの口のなかの洗濯水を回したことがあるわ。
犬を洗った洗濯機なんて
わたしが最初かしら。
ああ
わたしの夢は
新しい
きれいな洗濯機を
わたしの口に入れて
ガランガランすること。
まっ
それじゃ、
わたしのお口がつぶれてしまいますけどねっ!
フンッ


二〇一五年十三月十四日 「タレこみ上手。」


タレこみ上手。 転んでも、起きない。転んだら、起きない。コロンでも起きない。


二〇一五年十三月十五日 「ストローのなかの金魚。」


ストローのなかを行き来する金魚
小さいときに
ストローのなかを
2,3センチになるように
ジュースを行き来させて
口のなかのちょっとした量の空気を出し入れして
遊んだことがある。
とても小さな食用金魚が
透明なストローのなかを行き来する。


二〇一五年十三月十六日 「食用金魚。」


さまざまな食感の食用金魚がつくられている。
グミより食感が楽しいし、味が何よりもおいしい金魚。
金魚バーグに金魚シェイク
食用金魚の原材料は、不安や恐怖や怒りである。
ひとびとの不安や恐怖や怒りを金魚化させたのである。
金魚処理された不安や恐怖や怒りは
感情浄化作用のある金魚鉢のなかで金魚化する。
金魚化した感情をさまざまな大きさのものにし
さまざまな味のものにし、さまざまな食感のものにして
加工食品として、国営金魚フーズが日々大量に生産している。
国民はただ毎日、不安や恐怖や怒りを
配送されてきた金魚鉢に入れておいて
コンビニから送り返すだけでいいのだ。
すると、その不安や恐怖や怒りの質量に応じた枚数の
金魚券が送られてくるという仕組みである。
その金魚券によって、スーパーやコンビニやレストランなどで
さまざまな食用金魚を手に入れられるのだ。


二〇一五年十三月十七日 「金魚蜂。」


金魚と蜂のキメラである。
水中でも空中でも自由に浮遊することができる。
金魚に刺されないように
注意しましょうね。
転んでも、起きない。
掟たまるもんですか
金魚をすると咳がでませんか。
ぶりぶりっと金魚する。


二〇一五年十三月十八日 「金魚尾行。」


ひとびとが歩いていると
そのあとを、金魚がひゅるひゅると追いかける。


二〇一五年十三月十九日 「近所尾行。」


地下金魚。
金魚サービス。
浮遊する金魚。
金魚爆弾。
近所備考。
近所鼻孔。
近所尾行。
ひとが歩いていると
そのあとを、近所がぞろぞろとついてくるのね。
近所尾行。
ありえる、笑。


二〇一五年十三月二十日 「自由金魚。」


世界最強の顕微鏡が発明されて
金属結晶格子の合間を自由に動く電子の姿が公開された。
これまで、自由電子と思われていたものが
じつは金魚だったのである。
自由金魚は、金魚鉢たる金属結晶格子の合間を通り抜け
いわば、金属全体を金魚鉢とみなして
まるで金魚すくいの網を逃れるようにして
ひょいひょいと泳いでいたのである。
電子密度は、これからは金魚密度と呼ばれることにもなり
物理化学の教科書や参考書がよりカラフルなものになると予想されている。

ベンゼン環の上下にも、金魚がくるくる廻ってるのね。
単純なモデルだとね。
すべて金魚雲の金魚密度なんだけど。


二〇一五年十三月二十一日 「絵本 「トンでもない!」 到着しました。」


一乗寺商店街に
「トン吉」というトンカツ屋さんがあって
下鴨にいたころ
また北山にいたころに
一ヶ月に一、二度は行ってたんだけど
ほんとにおいしかった。
ただ、何年前からかなあ
少しトンカツの質が落ちたような気がする。
カツにジューシーさがない日が何度かつづいて
それで行かなくなったけれど
ときたま
一乗寺商店街の古本屋「荻書房」に行くときとか
おされな書店「啓文社」に行くときとかに
なつかしくって寄ることはあるけれど
やっぱり味は落ちてる。
でも、豚肉の細切れの入った味噌汁はおいしい。
山椒が少し入ってて、鼻にも栄養がいくような気がする。
トン吉のなかには、大将とその息子さん二人と女将さんが働いてらして
ふだんは大将と長男が働いてらして

その長男が、チョー・ガチムチで
柔道選手だったらしくって
そうね
007のゴールドフィンガー
に出てくる、あのシルクハットをビュンッって飛ばして
いろんなものを切ってく元プロレスラーの俳優に似ていて
その彼を見に行ってるって感じもあって
トンカツを食べるってだけじゃなくてね。
不純だわ、笑。
次男の男の子も
ぼくがよく行ってたころは
まだ高校生だったのかな
ころころと太って
ほんとにかわいかった。
その高校って
むかし、ぼくが非常勤で教えてたことがある高校で
すごい荒れた高校で
1年契約でしたが
1学期でやめさせていただきました、笑。
だって、授業中に椅子を振り上げて
ほんとにそれを振り下ろして喧嘩してたりしてたんだもん。
身の危険を感じてやめました。
生徒が悪いことしたら、土下座させたりするヘンな学校だったし
日の丸に頭を下げなくてはいけなかったので
アホらしくて
初日にやめようとも思った学校でしたが
つぎの数学の先生が見つかるまで
というのと、紹介してくださった先生の顔もあって
1学期だけ勤めましたが
あの学校にいたら
ぼくの頭、いまよりおかしくなってると思うわ。
生徒は、かわいかったけど。
偏差値の低い学校って
体格がよくて
無防備な子が多いのね。
夏前の授業では
ズボンをおろして
下敷きで下半身を仰ぎながら授業受けてたり。
あ、見えてるんだけれど。
って、思わず口にしてしまった、笑。
ぼくも20代だったから
ガマンのできないひとだったんだろうね。
いまだったら、どうかなあ。
つづけてるかなあ。


二〇一五年十三月二十二日 「おにぎり頭のチキンなチキンが、キチンでキチンと大空を大まばたきする。」


はばたきやないのよ、まばたきなのよ〜!
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
ケケーッと叫びながら紫色の千切れた舌をだして目をグリグリさせる始祖鳥や
六本指を旋回させながら空中を躍りまわる極彩色のシーラカンスたちや
何重にもなった座布団をくるくる回しながら出てくる何人もの桂小枝たちや
何十人もの久米宏たちが着物姿で扇子を仰ぎながら日本舞踊を舞いながら出てくる
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
円は演技し渦状する。
円は縁起し過剰する。
風のなかで回転し
水のなかで回転し
土のなかで回転する
もう大丈夫と笑いながら、かたつむりがワンタンを食べながら葉っぱの上をすべってる
なんだってできるさとうそぶくかわうそが映画館の隅で浮かれてくるくる踊ってる
冬眠中のお母さんクマのお腹のなかの赤ちゃんクマがへその緒をマイク代わりに歌ってる
真冬の繁華街でカラフルなアイスクリームが空中をヒュンヒュン飛び回ってる
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
しかし、あくまでも、じょうずに円をかくことが大事ね。
笑。


二〇一五年十三月二十三日 「追想ね、バカ。」


六波羅小学校。
運動場の
そと
路地だった。
彼は
足が3分の1で
ハハ
小学校だった
のではなかった
中学校だった
そいつも不良だった
ぼくは不良じゃなかったと思うのだけれど
学校や
家では

親のいる前では
バカ
そいつのことが好きだったけど
好きだって言わなかった
そういえば
ぼくは
学校では
だれのことも好きだって言わなかった
中学のとき
塾で
女の子に
告白されたけど
ぼくは好きだって言わなかった
かわいい子だったけど
好きになるかもしれないって思ったけど
3分の1

みじけえ
でも
なんか
まるまるとして
でも
ぜんぶ筋肉でできてるみたいな
バカ
ぼくも
デブだったけど、わら
このとき考えたのは
なんだったんだろう。
遡行する光
ぼくの詩は
詩って言っていい? わら
きっと
箱のなかの
頭のなかに
閉じ込められた光
さかのぼる光
箱のなかで
反射し
屈折し
過去に向かって遡行する光
ぼくの見たものは
きっと
ぼくの見たものが
ぼくのなかを遡行する光だったんだ
ぼくのなかで
遡行し
走行し
反射し
屈折する光
考える光
苦しんだ光
笑った光
きみの手が触れた光だった
先輩が触れた
ぼくの手が見てる
ぼくの光
光が光を追いかける
名前も忘れてしまった
ぼくの光
光が回想する
光にも耳があってね
音が耳を思い出すたびに
ぼくは
そこにいて
六波羅小学校の
そばの
路地
きみのシルエットはすてきだった
大好きだった
大好きだったけど
好きだって言わなかった
きみは
遠いところに引っ越したぼくのところに自転車で来てくれて
遡行する光
反射し
屈折する光
光が思い出す




何度も
光は
遡行し
反射し
屈折し
思い出す。
あんにゃん
一度だけ
きみの腰に手を回した
自転車の後ろに乗って
昼休み
堀川高校
いま
すげえ進学校だけど
ぼくのいたときは
ふつうの高校で
抜け出して
四条大宮で
パチンコ
ありゃ
不良だったのかな、わら
バカ
意味なしに、バカ。
どうして光は思い出すんだろう
どうして光は忘れないのだろう
光はすべてを憶えてる
光はなにひとつ忘れない
なぜなら、光はけっして直進しないからである。


二〇一五年十三月二十四日 「どろどろになる夢を見た。」


焼死と
変死と
飢え死にとだったら
どれがいい?
って、たずねたら
魚人くんが
変死ですね。
って、

ぼくも。

言うと
アラちゃんが
勝手に
「ぼく安楽死」と名言。
じゃない
明言。
フンッ。
目に入れたら痛いわ。
そこまで考えてへんねんけど
どなると
フェイド・アウト
錯覚します
割れた爪なら
そのうち、もとにもどる
どろどろになる夢を見た
目にさわるひと
耳にさわるひと
鼻にさわるひと
手にさわるひと
足にさわるひと
目にかける
耳にかける
鼻にかける
手にかける
足にかける
満面のお手上げ状態
天空のごぼう抜き
乳は乱してるし
ちゃう

はみだしてるし
そんなに
はみだしてはるんですか
抜きどころじゃないですか?
そんな
いきなり乳首見せられても
なんで電話してきてくれへんの?
やることいっぱいあるもの。
あんまり暇やからって
あんたみたいに飛行機のなかでセックスしたりせえへんちゅうの!
ディッ
ディルド8本?
ちゃうわよ。
ビデオとディルドと同じ金額やのね。
あたし、ほんとに心配したんだから
ワシントン条約でとめられてるのよ
あんたが?
ビデオがよ
ビデオが?
ディルドもよ
ロスから帰るとき
あなたがいなくなってびっくりしたわ
16年前の話を持ち出さないで!
ビデオ7本とディルド1本で
合計16万円の罰金よ
空港の職員ったら
DCまでついてくんのよ
カードで現金引き出すからだけど
なによ
さいしょ、あんたディルド8本で
つかまったのかしらって思ったのよ
は?
8本の種類って
あんた
どんだけド淫乱なのかしらって、わら
大きさとか形とかさ、わら
それはまるで蜜蜂と花が愛し合うよう
それは
必要
かつ
美しいものであった
それは
ほかのものたちに
したたる黄金の輝きと
満たされていないものが
いっぱいになるという
充溢感をもたらせるもの
生き生きとしたライブなものにすることのできる
イマージュ
太字と
細字の
単位は不明の
イマージュ
読みにくいけれど、わら
ふんで


二〇一五年十三月二十五日 「神は一度しか死なない。悪魔は何度も死ぬ。」


創世記で
知恵の木の実を食べたことはわかるけど
その味がどうだったのか書いてなかったね
書いてなかったから
味がしなかったとは言えないけれど
どんな味がしたんやろうか
味覚はなかったのかな
知恵の木の実を味わったあとで
味覚を持ったのかな


二〇一五年十三月二十六日 「こんな詩があったら、いいな。」


内容がなく
意味がなく
音も声もなく
形もない詩。

あるいは
内容があり
意味があり
音も声もあり
形がない詩。

あるいは
内容がなく
意味がなく
音も声もなく
形がある詩。


二〇一五年十三月二十七日 「いっしょに痛い。」


ずっと、いっしょに痛い。
ポンポンと恩をあだで返すひと。
するすると穴があったら入るひと。
サイズが合わない。
靴は大きめに買っておくように言われた。
どもどものとき。
死んだ●と●●するのは恥ずかしい。
誤解を誤解すると
誤解じゃなくなる
なんてことはないね。
すぐに通報します。


二〇一五年十三月二十八日 「詩について。」


詩と散文の違いは
改行とか、改行していないとかだけではなくて
根本的には
詩は
鋭さなのだということを
考えています。
それを
狭さ
という言葉にしてもよいと思います。

ウィリアム・カーロス・ウィリアムズは
具体物
と言いました。

経験を背景としない詩は
まずしい。
しかし、経験だけを背景にした詩も
けっして豊かなわけではないのですね。

才能というものが
たくさん知っていることでもなければ
たくさん知っていることを書くことでもないと思うのですが
たくさん知っていて
そんなところはうっちゃっておいて書く
ということが大事なのかなあって思います。


二〇一五年十三月二十九日 「人間違い」


人間・違い
人・間違い
どっちかな。
後者やろうな。
近所の大国屋で、きのうの夜の10時過ぎに夜食を買いに行ったら
レジ係の女性が、ぼくに話しかけてきた。
「日曜もお仕事なんですね。」
ぼくは、このひと、勘違いしてるなと思ったから
あいまいに、うなずいた。
ぼくと似てるひとと間違えたのかな。
でも、ぼくに似てるひとなんて、いなさそうなのにね。
なぞやあ。
おもろいけど。
こんどは、あのリストカッターの男の子に話かけられたいよう。
あごひごの短髪の体格のいい、童顔の子やった。


二〇一五年十三月三十日 「100人のダリが曲がっている。」


のだ。
を。
連続
べつにこれが
ここ?
お惣菜 眉毛
詩を書く権利を買う。
詩を買う権利を書く。
そんなお茶にしても
また天国から来る
改訂版。
グリーンの
小鉢のなかの小人たち
自転車も
とまります。
ここ?
コロ
ぼくも
「あそこんちって
 いつも、お母さんが怒鳴ってるね。」
お土産ですか?
発砲しなさい。
なに?
アッポーしなさい。
なになに?
すごいですね。
なになになに?
神です。
行け!
日曜日には、まっすぐ
タトゥー・サラダ
夜には、まさかの
タトゥー・サラダ
ZZT。
ずずっと。
感情と情感は間違い
てんかんとかんてんは勘違い
ピーッ
トコロテン。
「おれ?
 トラックの運転してる。」
毎日もとめてる
公衆の口臭?
公衆は
「5分くらい?」
「おととい?」
ケビン・マルゲッタ。
半分だけのあそ
ピーッ
「八ヶ月、仕事なかったんや。
 そんときにできた借金があってな。
 いまも返してる。」
「じゃあ、はじめて会うたときは
 しんどいときやったんやね。」
たんたんと
だんだん
もうすぐ
だんだんと
たんたん
一面
どろどろになるまで
すり鉢で、こねる。
印象は、かわいい。
「風俗には、金、つこたなあ。
 でも、女には、よろこばれたで。
 おれのこんなぐらいでな(親指と人差し指で長さをあらわす=小さい)
 糖尿で、ぜんぜんかたくならへんから
 おれの方が口でしたるねん。
 あそ
 ピーッ
 めっちゃ、じょうずや言われる。」
イエイッ!
とりあえず、かわいい。
マジで?
梅肉がね。
発砲しなさい。
あそ
ピーッ
お土産ですか?
説明いりません。
どれぐらいのスピードで?
前にも
あそ
ピーッ
見えてくる。
「選びなさい。」
曲がろうとしている。
間違おうとしている。
見えてくる。
「選びなさい」
まさかの
トコロテン。
ピーッ
あそ
ピーッ
見えてくる。
「上から
ピーッ
見えてくる
 下から。」
のだ。
を。
連続
ピーッ
唇よりも先に
指先が
のだ。
を。
連続
ピーッ
行きます。
「選びなさい。」
「からから。」
「選びなさい」
「からから。」
たまに
そんなん入れたら
なにかもう
ん?
隠れる。
指の幅だけ
ピーッ
真っ先に
あそ
ピーッ
みんな
ネバネバしているね。
バネがね。
蟻がね。
雨が
モモンガ
掲載させていただきました。


二〇一五年十三月三十一日 「正しい書き順で書きましょう。」




という漢字が、むかし、へたやった。

書き順を間違ってて
マスミちゃんに正しい書き順を教えてもらって
正しい書き順で書いたらきれいに書けるようになった。
でも
電気の電は、あかんねんね。
雲も。
露も。
雪も。
雷も。
って話を
勤め先のお習字の先生に
たまたまランチタイムに
お席が、ぼくの近くに座ってらっしゃって
ご挨拶することになって
そのときに
そういう話をしたら

という字を横に広げて書いてみてくださいと言われて
いま
その通りにしたら
前よりずっときれいに書けるようになった。
ジェイムズ・メリルのルーズリーフ作業中に
何度か
雷とか
電気とか書いて
たしかになあって思った。
さすが
お習字の先生やなあ。
確実に、きれいになるように教えてくださった。
48才で、もしかしたら遅いのかもしれへんけど、笑。
まだまだ上達することがあるのかと思うと
たいへん面白い。
さっき
シンちゃんと電話していて
「いま何してたの?」
って訊かれて
詩の勉強って答えたら
「まだ、あきらめてないの?
 あきらめるのも、才能だよ。」
と言われてカチン。
「みんな、きみのことが好きだった。」
の前半を、そのうちに書肆山田さんからと思っている。
あれは、ほとんど認められなかったけれど
ぼくのなかでは、最高に霊的な作品やった。
とてもくやしい思いがいっぱい。
あまりにも洗練されすぎていたのだと自負している。
ほんとにくやしい。


詩の日めくり 二〇一五年一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年一月一日 「20世紀アメリカ短篇選」


『20世紀アメリカ短篇選』は、むかし上下巻読んだんだった。でも、ひとつも憶えていない。きのう、スピンラッドの短篇集だと思っていた『星々からの歌』をちら読みしたけど、これまたひとつも憶えていなかったのだった。憶えているものが少ない。これは得な性分なのか。

いい詩を書こうと思ったら、いい人生を送らないと書けない。あるいは、ぜんぜんいい人生じゃない人生を送らないと書けないような気がする。ぼくは両方、送ってきたから、書ける、笑。いい詩しか書けないのは、そういう理由。

『20世紀アメリカ短篇選』上巻の最後から2つめの「スウェーデン人だらけの土地」という作品を読み終わった。ウッドハウスを読んでるような感じがした。作者のアースキン・コールドウェルについて、あとで検索しよう。『20世紀アメリカ短篇選』上巻、あと1つ。上巻は、このアースキンの作品と、イーディス・ウォートンの「ローマ熱」の2つの作品がお気に入りだ。この2作品だけでも、この短篇集を再読してよかったと思う。とりわけ、「ローマ熱」など、若いときには、ピンと来なかったものである。これを読み終わったら、ハインリヒ・ベルの短篇集をおいて、『20世紀アメリカ短篇選』の下巻を読もう。アースキン・コールドウェル、めっちゃたくさん翻訳あるし、古書でも、そう難しくなく手が届きそうな値段だし。でも、しばらくは我慢しよう。というか、下巻を読んでる途中で忘れるかな。持ってない本が欲しくなるのは、こころ根がいやしいからだと思う。自戒しよう。まだ眠れず。下巻、いきなりナボコフで、まったくおもしろくない短篇だった。書き方のいやみったらしさは、好みなのだけど。ハインリヒ・ベルの短篇集にして寝よう。


二〇一六年一月二日 「宮尾節子さんの夢」


宮尾節子さんの夢を見た。すてきなご飯家さんで朗読会をされてたんだけど、宮尾さんの朗読のまえに、小さな男の子がバスから降りてきて、なんか物語をしゃべってくれるんだけど、意味はわからず、でも、なんかしゃべりつづけて、聞き耳を立てているうちに目が覚めてしまった。おいしそうな料理が出た。


二〇一六年一月三日 「読書とは何か?」


さっき塾から帰ってきたところ。きょうは、朝の9時から夜の10時まで働いた。休憩時間に、『20世紀アメリカ短篇選』下巻のうち、2番目のものと3番目のものを読んだ。1作目のナボコフと違って、「ある記憶」も「ユダヤ鳥」もよかった。悪意に満ちたグロテスクな笑いを感じた。帰りに、スーパー「マツモト」で、餃子を20個買ってきて食べたのだが、油まみれで、もたれる。きょうは、もうこれくらいで、クスリのんで寝ようかな。寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』下巻のつづきを。きょう読んだ「ユダヤ鳥」は、ぜひパロディーをつくってみたいと思ったのであった。

バカバカし過ぎて、読むのを途中でやめた、ボリス・ヴィアンの『彼女たちには判らない』をもって、湯舟につかろう。さいしょから棄てるつもりで、表紙をくしゃくしゃと丸めてゴミ箱に投げ入れた。ゴア・ヴィダルの『マイラ』のような感じのものだ。躁病状態の文学だ。

「きみの名前は?」(ボリス・ヴィアン『彼女たちには判らない』第十二章、長島良三訳、99ページ)

96ページにもこのセリフはある。死ぬまで、「きみの名前は?」という言葉を収集するつもりである。ボリス・ヴィアンのこの作品はやっぱりカスだった。詩人や作家は最良の作品だけを知ればよい。まあ、ひとによって、最良の作品が異なるし、最良の作品を読むためには、最良でない作品にも目を通さなければならないが。そういえば、ロバート・F・ヤングなどは、全作品を読んだが、『たんぽぽ娘』以外すべてカスという駄作のみを書きつづけた恐るべき作家だった。

小学校の3年くらいかな、友だちのふつうの笑い顔が輝いてた。中学校の1年のときに、友だちが照れ笑いしたときの顔が忘れられない。どんなにすごいと思った詩や小説にも見ることができない笑顔だ。ぼくがまだ、それほどすごい詩や小説と出合っていないだけかもしれない。読書はそれを探す作業かもね。


二〇一六年一月四日 「本の表紙の絵」


本棚の前面に飾る本の表紙を入れ替えた。やっぱり、マシスンの『縮みゆく人間』、ヴォークトの『非Aの世界』『非Aの傀儡』、ハーバートの『砂丘の大聖堂』第1巻、第2巻、第3巻は、すばらしい。アンソロジーの『空は船でいっぱい』、テヴィスの『ふるさと遠く』、ベイリーの『シティ5からの脱出』とかは仕舞えない。さいきんのハヤカワSF文庫本や創元SF文庫本の表紙には共感できないのだが、ハヤカワのスウェターリッチの『明日と明日』とかは、ちょっといいなと思ったし、創元のSF映画の原作のアンソロジーの『地球の静止する日』みたいな、ほのぼの系もいいなとは思った。数少ないけれども。スピンラッドの『鉄の夢』とか、プリーストの『ドリーム・マシン』とか、シマックの『法王計画』とか、ウィンダムの『呪われた村』とか、アンダースンの『百万年の船』第1巻、第2巻、第3巻とか、もう絵画の領域だよね。内容以上に、本を、表紙を愛してしまっている。まるで、すぐれた詩や小説を愛する愛ほどに強く。気に入った表紙の本が数多くあるということ。こんなに小さなことで十分に幸せなのだから、ぼくの人生はほんとに安上がりだ。単行本の表紙も飾っているのだけれど、ブコウスキーの『ありきたりの狂気の物語』と『町でいちばんの美女』、ケリー・リンクの『マジック・フォー・ビギナーズ』がお気に入り。アンソロジーの『太陽破壊者』と、クロウリーの『ナイチンゲールは夜に歌う』と『エンジン・サマー』も飾っている。単行本の表紙って、意外に、よいのが少ないのだ。表紙で買うって、圧倒的に、文庫本のほうが多いな。LP時代のジャケ買いみたいなとこもある。


二〇一六年一月五日 「言葉を発明したのは、だれなんだろう?」


モーパッサンの『ピエールとジャン』を暮れに捨てたが、序文のようにしてつけられた小文のエッセー「小説について」は必要な文献なので、アマゾンで買い直した。これで買うの3回目。いい加減、捨てるのやめなければ。文献を手元に置くだけのための600円の出費。バカである。捨てなければよかった。今週はずっと幾何の問題を解いていた。きょうも、寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』下巻。翻訳がいいという理由もあるだろうけれど、アンソロジストでもある翻訳者の選択眼の鋭さも反映しているのだなと思う。すばらしいアンソロジーだ。じっくり味わっている。

千家元麿の詩を読んでいると、当時、彼の家族のこととか、彼の住居の近所のひとたちのこととか、また当時の風俗のようなものまで見えてきて、元麿の人生を映画のようにして見ることができるのだが、いまの詩人で、そんなことができるのは、ひとりもいない。『詩の日めくり』を書いてる、ぼくくらいだろう。もちろん、ぼくの『詩の日めくり』は、ぼくの人生の断片の断片しか載せていないのだけれども、それらの情報で、ぼくの現実の状況を再構成させることは難しくはないはずだ。生活のさまざまな場面の一部を切り取っている。きれいごとには書いていない。事実だけである。六月に、『詩の日めくり』を、第一巻から第三巻まで、書肆ブンから出す予定だが、『詩の日めくり』は死ぬまで書きつづけていくつもりだ。死んでから、ひとりくらい、もの好きなひとがいて、ぼくという人間を、ぼくの人生を、映画を見るようにして見てくれたら、うれしいな。

齢をとり、美貌は衰え、関節はガタガタ、筋肉はなくなり、お腹は突き出て、顔だけ痩せて、一生、非常勤講師というアルバイト人生で、苦痛と屈辱にまみれたものではあるが、わりと、のほほんとしている。本が読めるからだ。音楽が聞けるからだ。DVDが見れるからだ。

言葉を発明したのは、だれなんだろう。きっと天才だったに違いない。原始人たちのなかにも天才はいたのだ。


二〇一六年一月六日 「吉田くん」


冬は、学校があるときには、朝にお風呂に入るのはやめて、寝るまえに入ることにしている。きょうも、千家元麿の詩を読みながら、湯舟につかろう。ほんと、まるでウルトラQのDVDを見てるみたいに、当時のひとびとの暮らしとかがわかる。詩には、そういう小説のような機能もあるのだな。元麿のはね。

きょうも吉田くんは木から落っこちなかった。だから、ぼくもまだ生きていられる。それとも、もう吉田くんはとっくに落っこちているのかしら? いやいや、それとも、あの窓の外に見える吉田くんって、だれかが窓ガラスに貼りつけた吉田くんなのかしら?

吉田くんといっしょに、吉田くんちに吉田くんを見に行ったけど、吉田くんは、一人もいなかったぜ、ベイビー!

寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』下巻。ジーン・スタフォード(詩人のロバート・ローウェルの最初の妻)の『動物園』を、もう3日も読んでいるのだが、なかなか進まない。読む時間も寝る直前の数十分だからだけど、じっくり味わいたい文体でもある。翻訳家の大津栄一郎さんのおかげです。きょうと、あしたの二日間は、読書に専念できる。きょうじゅうに、『20世紀アメリカ短篇選』下巻を読み切りたい。しかし、冒頭のナボコフを除いて、傑作ぞろいである。学校の帰りに、サリンジャーの短篇を読み終わった。おもしろかった。ぼくは単純なのかな。単純なものがおもしろい。音楽と同じで。


二〇一六年一月七日 「竹中久七」


ずっと寝てた。腕の筋肉がひどいことになっていて、コップをもっても、しっかり支えられず、コーヒー飲むのも苦痛。病院で診てもらうのも怖いしなあ。ただの五十肩だと思いたい。

本を読む速度が極度に落ちている。読みながら、夢想にふけるようになったからかもしれない。途中で本を置くこともしばしばなのだ。『20世紀アメリカ短篇選』下巻、まだ読み終わらず、である。味わい深いので、じっくり味わいながら読んでいるとも言えるのだが、それにしても読むのが遅くなった。きょうも、寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』の下巻。フラナリー・オコーナーの全短篇集・上下巻が欲しくなった。いかん、いかん。持ってるものをまず読まなくては。でも、amazon で買った。単行本のほうが安かったので、フラナリー・オコナーの全短篇集を単行本で上下巻、買った。送料を入れて、3500円ちょっと。本の買い物としては、お手頃の値段だった。ああ、しかし、本棚に置く場所がないので、どうにかしなきゃならない。

竹上さんから入浴剤やシュミテクトや歯ブラシをたくさんいただいて、いま入浴剤入りのお風呂につかってた。生き返るって感じがした。歯を磨いて、横になろう。お湯につかりながら、千家元麿の詩を読んでたのだけれど、さいしょのページの写真を見てて、竹中久七というひとの顔がめっちゃタイプだった。いまネットで検索したら、マルキストだったのかな。そういう関係の本を出してらっしゃったり。でも、写真はなかった。お顔がとてもかわいらしくて、ぼくは大山のジュンちゃんを思い出した。のび太を太らせた感じ。文系オタク的な感じで、かわいい。『20世紀アメリカ短篇選』下巻、あと1作。フィリップ・ロスの『たいへん幸福な詩』 これを読んだら、『20世紀イギリス短篇選』上巻を読もう。


二〇一六年一月八日 「神さまがこけた。」


お風呂場で足をひっかけたのだけれど、神さまがこけた。それが、ぼくを新しくする。


二〇一六年一月九日 「ヤツのは小さかった。」


けさ、思いっきりエロチックな夢を見て、そんな願望あったかなって変な気持ちになった。あまりにイカツすぎるし、ぜったいにムリだって思ってた乱暴者だった。誘われて無視した経験があって、その経験がゆがんだ夢を見させたのだと思うけど、じっさいは知らんけど、夢のなかでは、ヤツのは小さかった。


二〇一六年一月十日 「カナシマ博士の月の庭園」


きのう、エロチックな夢を見たのは、お風呂に入って読んだアンソロジーの詩集についてた写真で、「竹中久七」さんのお顔を見たせいかもしれない。現代のオタクそのものの顔である。かわいらしい。ぼくもずいぶんとオタクだけれど。ミエヴィルの『都市と都市』236ページ。半分近くになった。読んでいくにつれ、おもしろい感じだ。『ケラーケン』上下巻では、しゅうし目がとまる時間もないほどに場面が転換して、驚かされっぱなしだったから、こうしたゆっくりした展開に、いい意味で裏切られたような気がする。塾に行くまで読む。

やった。塾から帰ってきたら、ヤフオクに入札してた本が落札できてた。ひさびさのヤフオクだった。あの『猿の惑星』や『戦場に架ける橋』のピエール・プール『カナシマ博士の月の庭園』である。800円だった。日本人が主人公のSFである。カナシマ博士が切腹するらしい。長い間ほしかった本だった。

「きみの名前は?」(チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』第2部・第13章、日暮雅通訳、253ページ)

ミエヴィル『ジェイクをさがして』タイトル作がつまらない。なぜこんなにつまらない作品を冒頭にしたのだろう。読む気力がいっきょに失せた。プールの『カナシマ博士の月の庭園』が到着した。ほとんどさらっぴんの状態で狂喜した。クリアファイルのカヴァーをつくろう。でも、読むのは、ずっと先かな。ミエヴィルの短篇集『ジェイクをさがして』を読んでいるのだが、これは散文詩集ではないかと思っている。散文詩集として出せばよかったのにと思う。SFというより、純文学の幻想文学系のにおいが濃厚である。読みにくいのだが、散文詩としてなら、それほど読みにくいものとは言えないだろう。

思潮社から出る予定の『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の出版が数か月、遅れている。ぼくの記号だけでつくった詩が、アマゾンのコンピューターが、どうしても、それをエラーとして認識するらしい。家庭用のパソコンでOKなのに、なぜかはわからない。それゆえ、記号だけの作品は削除して詩集を編集してもらっている。


二〇一六年一月十一日 「恋する男は」


Brown Eyed Soul のヨン・ジュンがとてもかわいい。声もいい。むかし付き合った男の子に似てる子がいて、その子との思い出を重ねて、PVを見てしまう。ぼくたちは齢をとるので、あのときのぼくたちはどこにもいないのだけれど、そだ、ぼくの思い出と作品のなかにしかいない。

かっぱえびせんでも買ってこよう。きょうは、クリアファイルで立てられるようにした、ピエール・ブールの『カナシマ博士の月の庭園』をどの本棚に飾ろうかと、数十分、思案していたが、テーブルのうえに置くことにした。いまいちばんお気に入りのカヴァーである。白黒の絵で、シンプルで美しい。

ポールのレッド・ローズ・スピードウェイのメドレーを聴いてるのだけれど、ポールの曲のつなぎ方はすごい。ビートルズ時代からすごかったけど。どうして、日本の詩人には、音楽をもとにして、詩を書く詩人がいないんだろうね。ぼくなんか、いつも音楽を聴いてて、それをもとにつくってるんだけれどね。

このあいだ読んだ岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』上下巻の話を思い出そうとしたが、作者名が思い出せない『ユダヤ鳥』と、作品名が思い出せないフラナリー・オコナーのものくらいしか思い出されなかった。強烈な忘却力である。いま読んでるミエヴィルの短篇集も、いつまで憶えているか覚束ない。

恋する男は幸福よりも不幸を愛する。(ウンベルト・エーコ『前日島』第28章、藤村昌昭訳、384ページ)


二〇一六年一月十二日 「めぐりあう言葉、めぐりあう記号、めぐりあう意味」


塾に行くまえに、お風呂に入って、カニンガムの『めぐりあう時間』を読んでいた。さいしょにウルフの自殺のシーンを入れてるのは、うまいと思った。文章のはしばしに、ウルフの『ダロウェイ夫人』や『灯台に』に出てきた言葉づかいが顔を出す。まだ33ページしか読んでないが、作家たちが登場する。

自分を拾い集めていく作業と、自分を捨てていく作業を同時進行的に行うことができる。若いときには、できなかった作業だ。自分が55年も生きるとは思っていなかったし、才能もつづくとは思っていなかったけれど、齢とって、才能とは枯れることのないものだと知った。幸せなことかどうかわからないけど、詩のなかでぼくが生きていることと、ぼくのなかで詩が生きていることが同義であることがわかったのだ。若いときには思いもしなかったことだ。ぼく自身が詩なのだった。ぼく自身が言葉であり、記号であり、意味であったのだ。

二〇一六年一月十三日 「詩について」

どういった方法で詩を書くのかは、どういった詩を書くのかということと同じくらいに重要なことである。


二〇一六年一月十四日 「嘔吐」


いったん
口のなかに
微量の反吐が
こみあげてきて
これは戻すかなと思って
トイレに入って
便器にむかって
ゲロしようと思ったら
出ない。
大量の水を飲んでも
出ない。
出したほうがすっきりすると思うんだけど。
飲んでかなり時間が経ってるからかなあ。
じゃあ、微量の
喉元にまで
口のなかにまで込み上げたゲロはなんだったのか。
ああ
もしかして
牛のように反芻してしまったのかな。
ブヒッ
じゃなくて
モー
うううううん。
微妙な状態。
指をつっこめば吐けそうなんだけど
吐くべきか、吐かないべきか
それが問題だ
おお、嘔吐、嘔吐、嘔吐
どうしてお前は嘔吐なのか
嘔吐よ、お前はわずらわしい
嘔吐にして、嘔吐にあらず
汝の名前は?
はじめに嘔吐ありき
神は嘔吐あれといった、すると嘔吐があった
宇宙ははじめ嘔吐だった、嘔吐がかたまって陸地となり海となり空となった
嘔吐より来たりて嘔吐に帰る
みな嘔吐だからである
オード
ではなくて
嘔吐という形式を発明する
嘔吐と我
嘔吐との対話
嘔吐マチック
嘔吐トワレ
嘔吐派
嘔吐様式
嘔吐イズム
嘔吐事典
嘔吐は異ならず
鎖を解かれた嘔吐
嘔吐集
この嘔吐を見よ
夜のみだらな嘔吐
嘔吐になった男
嘔吐を覗く家
殺意の嘔吐
もし神が嘔吐ならば
あれ?
ゲオルゲの詩に、そんなのがあったような記憶が。
違う。
神が反吐を戻して
それが人間になったんやったかなあ。
それとも逆に
ひとが反吐を戻したら
それが神になったんやったかなあ。
岩波文庫で調べてみよう。
なかった。
でも、見たような記憶が
どなたか知ってたら、教えてちゃぶだい。
ぼくもこれから
いろいろ詩集見て調べてみよう。
持ってるのに、あったような気が。

追記

わたしは神を吐き出した。

これ、ぼくの「陽の埋葬」の詩句でした。
うううん。
忘れてた。


二〇一六年一月十五日 「今朝、通勤電車のなかで、痴漢されて」


ひゃ〜、朝、短髪のかわいい子が目の前にいたのですが
満員状態で
ぎゅっと押されて彼の股間に、ぼくの太ももが触れて
ああ、かわいいなって思ってたら
その男の子
組んでた腕を下ろして
ぼくのあそこんところを
手の甲でなではじめたんで
ひゃ〜
と思って
その子の手の動きを見てたら
京都駅について
その子、下りちゃったんです。
残念。
明日、同じ車両に乗ろうっと。

あんまりうれしいから
きょうは
うきうきで
仕事帰りに河原町に出たら
元恋人と偶然再会して
その子のことを言って

そのあと
前恋人の顔を見に行って
今朝の痴漢してくれた男の子のことを再現して
前恋人の股間にぎゅって
触れたら、「何すんねん、やめてや!」
と言われて
いままで
飲んだくれてました、笑。
その子の勇気のあること考えたら
自分がなんて小心者やったんかなって思えて
情けない感じ。
組んでた腕がほどけて
右手の甲が
ぼくの股間に近づいていくとき
なんか映画でも見てるような感じやった。
むかし
学生の子に
通勤電車のなかで
触られたときも
ぼくには勇気がなくて
手を握り返してあげることもできひんかった。
きょうも、勇気がなくって。
なんて小心者なのやろうか、ぼくは。
相手の子の勇気を考えると
手を握り返すくらいしなきゃならないのにね。
反省です。


二〇一六年一月十六日 「二〇一四年八月二十一日に出会った青年のこと」


メモを破棄するため、ここに忠実に再現しておく。

(1)マンションのすぐ前まで来てくれた。車をとめる場所がないよと言うと、「適当にとめてくる」と言う。
(2)部屋に入ると、テーブルの下に置いていた、ぼくの『詩の日めくり』の連載・2回目のゲラを見て、「まだ書いてるの?」と訊いてきた。「セックス以外しないつもりだったけど、ちょっと見てくれるかな?」と言って、アイフォンというのだろうか、スマホというのだろうか、ぼくはガラケーで、新しい電子機器のわからないのだが、そこに保存している彼が自分で書いた詩をぼくに見せた。
(3)だれにも見せたことがないという。
(4)たくさん見せてもらった。記憶しているものは「きみがいるおかげで、ぼくは回転しつづけられるのさ」みたいなコマの詩くらいだけど、よくあるフレーズというのか、そういうリフレインがあって、おそらくJポップの歌詞みたいなものなのだろうと思った。ぼくの目には、あまりよいものとは思えなかったのだけれど、セックスというか、あとでフェラチオをさせてもらうために、慎重に言葉を選んで返事をした。
(5)メールのやり取りで、キスの最長時間やセックスの最長時間の話をしていて、それが7時間であったり、11時間であったりしたものだから、「ヘタなの?」と書いてこられてきたけれど、どうにかこうにか、ヘタじゃないということを説明した。
(6)えんえんと1時間近くも彼の書いた詩を読ませられて、これはもう詩を読ませられるだけで終わるかもしれないと思って、「そろそろやらへん?」と言うと、「そうやな」という返事。「いくつになったん?」と訊くと、37才になったという。はじめて映画館で会ったのはもう10年くらい前のことだった。「濡れティッシュない?」と言うので、「ないよ」と返事すると、「チンポふきたいんやけど」と言うので、タオルをキッチンで濡らして渡した。「お湯で濡らしてくれたんや」と言うので、「まあね」と答えた。暗くしてくれないと恥ずかしいと言うので電気を消すと、ズボンとパンツを脱いで、チンポコを濡れタオルでふいている気配がした。シャツは着たまま布団の上に横たわった。ぼくは彼のチンポコをしゃぶりはじめた。
(7)30分くらいフェラチオしてたと思うのだけれど、相性が合わなかったのだろう、「もう、ええわ」と言われて、顔を上げると、「すまん。帰るわ」と言って立ち上がって、パンツとズボンをはいた。部屋の扉のところまで見送った。
(8)ちょっとしてから、ゲイのSNSのサイトを見たら、彼はまだ同じ文面で掲示板に書き込みをしてた。「普通体型以上で、しゃぶり好き居たら会いたい。我慢汁多い168#98#36短髪髭あり。ねっとり咥え込んで欲しい。最後は口にぶっ放したい。」


二〇一六年一月十七日 「言葉」


言葉には卵生のものと胎生のものとがある。卵生のものは、おりゃーと頭を机のかどにぶつけて頭を割ると出てくるもので、胎生のものはメスをもって頭を切り開くと出てくるものである。


二〇一六年一月十八日 「夢」


夜の9時から寝床で半睡してたら、夢を見まくり。ずっといろいろなシチュエーションだった。いろいろな部屋に住んでた。死んだ叔父も出てきたり。ずっと恋人がいっしょだったのだけれど、顔がはっきりわからなかった。ちゃんと顔を見せろよと言って、顔を上げさせたら、ぼくの若いときの顔でびっくりした。暗い部屋で、「見ない方がいいよ」と言って抵抗するから、かなり乱暴な感じで、もみくちゃになって格闘したんだけど、ぜんぜん予想してなかった。髪が長くて、いまのぼくではなくて、高校生くらいのときのぼくだった。無意識領域のぼくは、ぼくになにを教えようとしたのか。けっきょく自分しか愛せない人間であるということか。それとも高校時代に、ぼくの自我を決定的に形成したものがあるとでもいうのか。もうすこし、横になって、目をつむって半睡してみようと思った。しかし、無意識領域のぼくが戻ってくることはなかった。意地悪な感じで含み笑をして「見ない方がいいよ」と言った夢のなかのぼくは、意識領域のぼくと違って、ぼく自身にやさしさを示さないのがわかったけれど、いったん意識領域のぼくが目覚めたら、二度と無意識領域には戻らないんだね。その日のうちには。ふたたび眠りにつくことがなければ。

二〇一六年一月十九日 「吉田くん」


吉田くんを蒸発皿のうえにのせ、アルコールランプに火をつけて熱して、蒸発させる。


二〇一六年一月二十日 「胎児の物語」


めっちゃ、すごいアイデちゃう?
そうですか?
書き方によるんとちゃいます?
ううん。
西院の「印」のアキラくんに
そう言われてしまったよ。
いま
ヨッパだから
あしたね〜。
胎児が
二十数世紀も母親の胎内で
生きて
感じて
考えて
って物語。
生きている人間のだれよりも多くの知識を持ち
つぎつぎと
異なる母胎を行き渡って
二十数世紀も生きながらえている
胎児の物語。
詳しい話は
あしたね。
これ
長篇になるかも。
ひゃ〜


二〇一六年一月二十一日 「ラスト・キッド」


学校の帰りに、大谷良太くんちでコーヒー飲みながら、1月20日に出たばかりの彼の小説『ラスト・キッド』をいただいて読んだ。2つの小説が入っていて、1つ目は、ぼくの知ってるひとたちがたくさん出てて興味深かったし、2つ目は、観念的な個所がおもしろかった。大谷良太は小説家でもあったのだ。

きょうは、日知庵で、はるくんと飲んでた。「あつすけさんの骨は、おれが拾ってあげますよ」という言葉にきゅんときて、グッときて、ハッとした。つぎの土曜日に、また飲もうねと約束して、バイバイ。そのあと、きみやさんで、ユーミンの「守ってあげたい」を思い出して、フトシくんの思い出で泣いた。フトシくんが、ぼくのために歌ってくれた「守ってあげたい」が、はじめて聴いたユーミンの曲だった。もしも、もしも、もしも。ぼくたちは百億の嘘と、千億のもしもでできている。もしも、フトシくんと、いまでも付き合っていたら? うううん。どだろ。幸せかな?


二〇一六年一月二十二日 「soul II soul」


ふだんの行為のなかに奇蹟的なうつくしい瞬間が頻発しているのだけれど、ふつうの意識ではそれを見ることができない。音楽や詩や絵画といった芸術というものが、なにげないふだんの行為のなかのそういった美の瞬間をとらえる目をつくる。耳をつくる。感覚をつくる。芸術の最重要な機能のひとつだ。

ぼくはほとんどいつも目をまっさらにして、生きているから、しょっちゅう目を大きく見開いて、ものごとを見ることになる。ふだんの行為のなかに美の瞬間を見ることがしょっちゅうなのだ。これは喜びだけれど、同時に苦痛でもある。その瞬間のすべてを表現できればいいのだけれど、言葉によって表現できるのは、ごくわずかなものだけなのだ。まあ、だから、書きつづけていけるとも思うのだけれど。

ジーン・ウルフの短篇集、序文だけ読んで、新しい『詩の日めくり』をつくろうと思う。いまツイートしているぼくと、いくつかのパラレルワールドにいる何人ものぼくが書きつづっている日記ということにしてるんだけど、自分の書いたものをしじゅう忘れるので、何人かのぼくのあいだに切断があるのかもしれない。でも、それは表現者としては、得なことかもしれない。なにが謎って、自分のことがいちばん謎で、探究しつづけることができるからだ。自分自身が謎でありつづけること。それが世界を興味深いものにしつづける要因だ。

BGMを soul II soul にしたので、コーヒー飲みながら、キッチンで踊っている。soul II soul って、健康にいいような気がする。きょうじゅうに、2月に文学極道に投稿する『詩の日めくり』を完成させよう。なんちゅう気まぐれやろうか。やる気ぜんぜんなかったのに、笑。

つくり終えた。チキンラーメン食べて、お風呂に入ろう。お風呂場では、ダン・シモンズの『エデンの炎』上巻を読んでいる。たぶん、名作ではないのだろうけれど、読ませつづける力はあって、読んでいる。

シモンズの『エデンの炎』上巻がことのほかおもしろくなってきたので、お風呂からあがったけど、つづきを読むことにした。

『エデンの炎』棄てる本として、お風呂場で読んでたのだけれど、またブックオフで見つけたら買おう。ぼくの大好きなマーク・トウェインが出てくるのだ。そいえば、ファーマーの長篇にもトウェインが出てきてたな。主人公のひとりとして。リバーワールド・シリーズだ。

「きみの名前は?」(チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻・第一部・5、日暮雅通訳、81ページ)

豚になれるものなら豚になりたい。そうして、ハムになって、皿の上に切り分けられて飾りもののように美しく並べられたい。


二〇一六年一月二十三日 「選ばれなかった言葉の行き場所」


昼に学校で机のうえを見たら、メモ用紙が教材のあいだに挟まれてあって、取り上げると、何日もまえに書いた言葉があって、それを読んで思い出した。選ばれなかった言葉というものがある。いったんメモ用紙などに書かれたものでも、出来上がった本文に書き込まれなかった言葉もあるだろう。また、メモ用紙に書き留められることもなく、思いついた瞬間に除外された言葉もあるだろう。それらの言葉は、いったいどこに行くのだろう。ぼくによって選ばれなかったひとたちが、他のひとに選ばれて結びつくことがあるように、本文に選ばれなかった言葉が、別の詩句や文章のなかで使われることもあるだろう。しかし、けっして二度と頭に思い浮かべられることもなく、使われることもなかった言葉たちもあるだろう。それらは、いったいどこに行ったのだろう。どこにいて、なにをしているのだろう。ぼくが選ばなかった言葉たち同士で集まったり、話し合ったりしているのだろうか。ぼくの悪口なんか言ってたりして。ぼくが使わなかったことに腹を立てたり、ぼくに使われることがなくってよかったーとか思っているのだろうか。そういった言葉が、ぼくが馬鹿な詩句や文章を書いたりしているのを、あざ笑ったりしているのだろうか。ぼくの頭の映像で、とても賢そうな西洋人のおじさんが、たそがれときの窓辺に立っている。目をつむって。ぼくは、ぼくが使った言葉たちのほうを向いているのだが、表情のわからない、ぼくが使わなかった言葉たちのほうにも目を向けたいと思って、目を向けても、窓辺に立っているその西洋人のおじさんの映像はそれ以上変化しない。もちろん、ぼくのせいだ。ぼくの使わなかった言葉が目をつむり、腕をくんで、窓辺で黄昏ている。その映像が強烈で、ぼくがどんな言葉を使わなかったのか、まったく思い出すことができない。その西洋人のおじさんは、ハーフに間違われることがある、ぼくそっくりの顔をしているのだけれど。


二〇一六年一月二十四日 「流転が流転する?」


2016年1月2日メモ。太った男性を好む男性がいること。いわゆるデブ専。ぼくは、大学に入って、3年でゲイバーに行くまで、ゲイっていうのか、当時は、ホモって言ってたと思うけど、顔の整った、きれいな男性ばかりだと思っていて、ぼくが魅かれるようなタイプのひとって、ふつうにどこにでもいるような感じのひとばっかりだったから、きっと、ぼくは特殊なんだなって思ってたのだけれど、ゲイバーに行って、いちばんびっくりしたのは、みんなふつうの感じのひとばかりだったってこと。でも、ぼくの美意識はまだ、文学的な影響が強くて、デブというか、太っているのは、うつくしくなくて、高校時代に社会科のデブの先生に膝を触られたときに、ものすごい嫌悪感があって、デブっていうだけで、うつくしくないと思っていたのだけれど、ゲイバーに行き出してすぐに付き合ったひとがデブで、石立鉄夫に似たひとで、とてもいいひとだったので、そのひとと付き合って別れたあとは、すっかりデブ専になってしまって、そういえば、高校時代にぼくの膝を触った社会の先生も、かわいらしいおデブさんだったなあと思い返したりしてしまうのであった。いまのぼくはもうデブ専でもなくなって、来る者拒まず状態である。といっても、みんな太ってるか、笑。ダイエットもつづかず、また太り出し、洋梨のような体型に戻ったぼくが、収容所体験のあるツェランの詩を、翻訳で読む。飢えも知らず、のほほんと育って、勝手気ままに暮らしている、太った醜いブタのぼくが、とてもうつくしいお顔の写真がついたツェランの詩集を読む。なにか悪い気がしないでもない。

「万物が流転する。」━━そしてこの考えも。すると、万物はふたたび停止するのではなかろうか?(パウル・ツェラン『逆光』飯吉光夫訳)

『ラスト・キッド』収録作・2篇目のなかにある、大谷良太くんの考えのほうが、ぼくにはすっきりするかな。「万物が流転する。」という言葉自体が流転するというものだけれど、ツェランのように、「停止する」というのは、ちょっと、いただけないかな、ぼくには。でも、まあ、ひっかかるというのは、よいことだ。考えることのきっかけにはなるので。ツェランの詩集は、もう借りることはないだろうな。ぜんぜん刺激的じゃないもの。


二〇一六年一月二十五日 「ある特別なH」


「ある特別な一日」から「一一一」を引いたら、「ある特別なH」になる。


二〇一六年一月二十六日 「ぼくは嘘を愛する。」


ぼくは嘘を愛する。それが小さな嘘であっても、大きな嘘であっても、ぼくは嘘を愛する。それがぼくにとってもどうでもいい嘘でも、ぼくを故意に傷つけるための嘘であっても、ぼくは嘘を愛する。嘘だけが隠されている真実を暴くからだ。


二〇一六年一月二十七日 「詩人殺人事件」


ひとつの声がきみの唇になり
きみのすべてになるまで
チラチラと
チラチラと
きみの身体が点滅している
グラスについた汗
テレビの走査線のよう
よい詩を読むと
寿命が長くなるのか短くなるのか
どっちかだと思うけど
どっちでもないかもしれないけど
この間
バカみたいな顔をしてお茶をいれてた
玉露はいい
玉露はいいね

ジミーちゃんと言い合いながら

詩人殺人事件
って
どうよ!

詩の鉱脈を発見した詩人がいた
その鉱脈を発見した詩人は
ほんものの詩を書くことができるのだ
ところがその詩の鉱脈を発見した詩人が殺されてしまった
半世紀ほど前の話だ
容疑者は谷川俊太郎
真犯人は吉増剛造
刑事は大岡信
探偵は荒川洋治
弁護士は中村稔
村の娘に白石かずこ
こんな配役で
ミステリー小説なんて
うぷぷ

彼らの詩行を引用してセリフを組み立てるのよ



二〇一六年一月二十八日 「キクチくん」


キクチくん。
めっちゃ
かわいかった。
おとつい
ずっと見てたんだよ
って言ったら
はずかしそうに
「見ないでください」
だって
そのときの
表情が
これまた
かわいかった。
大好き。
たぶん
惚れたね〜
ぼく。
キクチくん
もう
二度と会いたくないぐらい好き!


二〇一六年一月二十九日 「目は喜び」


Ten。
こうして見ますと、美しいですね。
TEN。
これも、美しいですね。
どうして、目は
こんなもので、よろこぶことができるのでしょう。
不思議です。


二〇一六年一月三十日 「たこジャズ」


人生の瞬間瞬間が輝いて、生き生きとしていることを、これまでのぼくは、その瞬間瞬間をつかまえて、その瞬間瞬間を拡大鏡で覗き込んで、その瞬間瞬間をつまびらかにさせていたのだが、いまは、その生き生きと輝いている瞬間が生き生きと輝いている理由が、その生き生きとした瞬間の前後に、それみずからは生き生きとしてはいなくても、それ以外の瞬間を生き生きと輝いた瞬間にさせる瞬間が存在しているからである、ということに気がついたのであった。

むかし、ぼくが30代のときに、千本中立売(せんぼんなかだちゅうり)に、「たこジャズ」っていう名前のたこ焼き屋さんがあって、よく夜中の1時とか2時まで、そこでお酒とたこ焼きをいただきながら、友だちと騒いでたんだけど、アメリカ帰りのファンキーなママさんがやってて、めっちゃ楽しかった。

ひとり、ひとり、違ったよろこびや、違った悲しみや、違った苦しみがあって、その自分のとは違ったよろこびが、悲しみや、苦しみが、詩を通して、自分のよろこびや、悲しみや、苦しみに振り向かせてくれるものなのかなと、さっきキッチンでタバコを吸いながら思っていました。


二〇一六年一月三十一日 「きょうは、キッス最長記録塗り替えたかも、笑。」


むかし、付き合いかけた子なんだけど
前彼と付き合う前やから6年ほど前かな
きょう会って
「ああ、ぜんぜん変わってないやん。」
「そんなことないわ、ふけたで。」
「そうかなあ。」
「しわもふえたし。」
「デブってるから、わからへんやん。」
目を合わせないで笑う。
「やせた?」
「やせたよ。」
出会ったころは、ぼくもデブだったのだけれど
この6年で、体重が15キロほど減ったのだった。
しかし、さいきん、また顔が太ってきたのだった、笑。
あ、おなかも。
おなかをなでられて、苦笑いする。
「まだ、付き合う子さがしてんの?」
「うん。」
「いるやろ?」
「どこに?」
「どこにでもいるやん。」
「それが、いないんやね。」
「マッサージ師になれるんちゃう?」
ずっと手のひらをもんであげていたのであった、笑。
表情がとてもかわいらしかったのでキッスした。
そしたら目をつむって黙って受け入れたので
抱きしめたら抱きしめ返されたので
そこからずっとチューを、笑。
6時間くらい。
ほとんど、チューばかり。
かんじんなところは、パンツの上から
ちょこっとだけ、笑。
チューの時間
前の記録を超えたかも。
とてもゆっくりしゃべる子なので
ぼくもゆっくり考えながら
いろいろなことを思い出しながらしゃべった。
電話番号の交換をしたけど
ぼくは、ほとんどいつもここで終わってしまう。
キッスは真剣なものだったし
握り返してくれた手の力はつよかったし
抱き返してくれた力もつよかったのだけれど
やはり、しあわせがこわいひとみたい。
ぼくってひとは。


詩の日めくり 二〇一五年二月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年二月一日 「アルファベットの形しかないんかいな、笑。」


何日かまえに、FBフレンドの映像を見て、いつも画像で、ストップ画像だから、ああ、素朴な感じでいいなあと思っていたら、映像では、くねくねして、ふにゃふにゃで、なんじゃー、って思った。ジムで身体を鍛えているのだろうけれど、なんだろ、しっかりしてるんだろうけど、くねくね、ふにゃふにゃ。

Aの形のひと。Bの形のひと。Cの形のひと。Dの形のひと。Eの形のひと。Fの形のひと。Gの形のひと。Hの形のひと。Iの形のひと。Jの形のひと。Kの形のひと。Lの形のひと。Mの形のひと。Nの形のひと。Oの形のひと。Pの形のひと。Qの形のひと。Rの形のひと。Sの形のひと。Tの形のひと。Uの形のひと。Vの形のひと。Wの形のひと。Xの形のひと。Zの形のひと。

寝るまえの読書は、チャイナ・ミエヴィルの『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻。一流の作家の幻視能力って、すごいなあって思わせられる。


二〇一六年二月二日 「お兄ちゃんのパソコンであ〜そぼっと、フフン。」


オレ、178センチ、86キロ、21歳のボーズです。
現役体育大学生で、ラグビーやってます。

──って、書いておけばいいわよね。
──あたしが妹の女子高生だって、わかんないわよね。

好みの下着は、グレーのボクサーパンツみたいなブリーフです。
ぽっちゃりしたオヤジさんがタイプです。
未経験なオレですが、どうぞよろしくお願いします。

──お兄ちゃんのそのまんまの条件で
──どんな人たちが連絡してくるのか、楽しみだわ。


二〇一六年二月三日 「ジョナサンと宇宙クジラ」


ぼくのライフワークのうちの1つ、『全行引用による自伝詩』を試みに少し書こうとしたのだが、2つめの引用で、すでにしてあまりにも美し過ぎて、手がとまってしまった。この作品以上の作品を、ぼくが書くことはもうできないような気がする。詩は形式であり、方法であり、何よりも行為である。

肘関節の痛みが左の肩にのぼって、左のこめかみにまで電気的な痺れを感じるようになってしまった。身体はますますボロボロに、感覚はますます繊細になっていく感じだ。とても人間らしい、すばらしい老化力である。まっとうな老い方をしているような気がする。ワーキングプアの老詩人にも似つかわしい。

そだ。『全行引用による自伝詩』も『13の過去(仮題)』も、章立てはなく、区切りのないもので、ぼくが死んで書かなくなった時点で途中終了する形で詩集として出しつづけていくつもりだ。『13の過去(仮題)』は、●詩で、改行もいっさいしないで、えんえんと書きつづけていくつもりだ。

塾の帰りにブックオフに。半年ほどまえに売りとばしたC・L・アンダースンの『エラスムスの迷宮』を買い直した。なにしてるんやろ。それと、カヴァーと大きさの違うロバート・F・ヤングの『ジョナサンと宇宙クジラ』と、トバイアス・S・バッケルの『クリスタル・レイン』を買った。みな、108円。

カヴァーを眺めて楽しむためだけに買ったような気がする3冊であるが、ヤングの『ジョナサンと宇宙クジラ』は、文字が大きくなって読みやすくなってるから、読むかも。『エラスムスの迷宮』は読んだから、読まないかも。『クリスタル・レイン』は読むと思う。いつか。


二〇一六年二月四日 「こんなん食べたい。」


指を切り落としたリンゴ。首を吊ったオレンジ。複雑骨折したバナナ。


二〇一六年二月五日 「TOMMY」


『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻、いまようやく400ページ目。あしたには下巻に突入したい。

寝るまえに、ロック・オペラ『TOMMY』を見た。『TOMMY』、音がCDとぜんぜん違う。ロック・オペラ『TOMMY』って、CDのほうがずっと音がいいんだけど、ちゃらちゃらしたDVD版の音のほうもいいね。アメリカでは、国がすべてのウェブサイトを記録として残すって話だったけど、日本はどうなんだろね。 個人的な手帳、手記ってのはものすごく重要な歴史資料なんだけども、いまや、それがケータイ本体やWebサービスに行っちゃって。TOMMYっていうと、ゲイの男の子たちのあいだでも人気のブランドだったと思うけど、そのTOMMYのTシャツをものすごくたくさん持ってる子のブログがあって、そこにある画像を見てて思ったんだけど、等身大の着せ替え人形用の服みたいって。あれ、逆かな。TOMMYっていうと、ピンボールの魔術師の役をどうしようって相談したロッド・スチュアートを裏切ったエルトン・ジョンのことを思い出すけれど、裏切りって、けっこう好きだったりする。裏切るのも裏切られるのも。むごい裏切り方されたときって、「ひゃ〜、人生の色が濃くなった。」って思えるからね。


二〇一六年二月六日 「モーリス・ホワイト」


きょうは早めに寝る。きょうから寝るまえの読書は、『ペルディード・ストリート・ステーション』の下巻。時間がかかるようになってきた。仕方ないか。ヴィジョンを見るのに、時間がかかってるんだと思う。若いときよりずっと緻密なような気がする。

言葉によって
ぼくが、ぼくのこころの有り様を知ることもあるが
それ以上に
言葉自体が、ぼくのこころの有り様を知ることによって
より言葉自身のことを知るのだということ。
それを確信している者だけが
言葉によって、違った自分を知ることができるであろう。

『ペルディード・ストリート・ステーション』下巻、200ページまで読んだ。5匹の怪物の蛾のうち、1匹をやっつけたところ。『クラ―ケン』並みのおもしろさである。魔術的な世界を的確な描写力で、現実のように見せてくれる。こんな作品を読んでしまったら、自分の作品『図書館の掟。』を上梓するのが、ためらわれる。

出すけど、笑。

モーリス・ホワイトが亡くなったんだね。EW&Fを聴こう。


二〇一六年二月七日 「そして誰かがナポレオン」


投票会場に行ってきた。本田久美子さんに入れたけど、アイドルみたいなお名前。

わさび茶漬けを食べて、あまりの辛さに涙。

読んでない詩集が2冊。寝るまえに読む。ボルヘス詩集とカミングズ詩集である。

ボルヘス詩集は1600円くらい、カミングズ詩集は4000円で買ったので、カミングズ詩集を読んでいたのだが、びっくりした。「そして誰かがナポレオン」ってカミングズの詩で、「肖像」というタイトルで、伊藤 整さんが訳してたのだね。ぼくは「そして誰もがナポレオン」って記憶してたのだけど、ツイッターで、どなたかご存じの方はいらっしゃらないかしらと呼びかけたのだが、いっさいお返事はなくて、もしかしたら、ぼくのつくった言葉かしらんと思っていたのだが、記憶とちょっと違っていたけど、カミングズの詩句だったのだね。案外、記憶に残ってるものだ。ここ数年の疑問が氷解した。カミングズ詩集、持ってて、手放しちゃったから、捜してた時に見つからなかったのだけれど、もう二度と手放さない。カミングズの詩、じっくり味わいながら読もう。


二〇一六年二月八日 「カミングズ詩集」


神経科の受診の待ち時間にカミングズの詩集を読んでた。詩は読むの楽でいいわ。ミエヴィルの小説とか辛すぎ。これから寝るまで、カミングズとボルヘスの詩集を読む。

EW&F聴いてたら元気が出てきた。

ぼくが買ったときには、4000円だったカミングズの詩集が、いま amazon 見たら、18000円だった。海外の翻訳詩集、もうちょっとたくさんつくっておいてくれないのかしらん。

EW&Fのアルバムで持っていないもの(売りとばしたため)を買い直そうと思って、アマゾン見たら、1円だったので、逆に買いたい意欲がなくなってしまった。買ったけど。EW&F『ヘリテッジ』

きょう、むかし付き合ってた男の子が遊びにきてくれてたんだけど、話の中心は、ぼくの五十肩。30代の彼には想像できないらしい。そうだよね。ぼくだって、自分が若いときには、存在しているだけで苦痛が襲ってくる老化現象など想像もできなかったもの。いまなら年老いた方の苦痛がわかる。遅すぎるかな。

カミングズ詩集、半分くらい読んだ。きょうは残りの時間もカミングズ詩集を読む。小説と違って、さくさくと読める。やっぱり、ぼくは詩が好きなのだと思う。

きょうから睡眠薬が1つ替わる。ラボナからフルニトラゼバムに。むかしは服用したら5分で気絶する勢いで眠れたのだけど、さいきんは眠るまで1時間くらいかかっているので、その時間を短くしてほしいとお医者さんに頼んで処方していただいたクスリの1つだ。11時にのむ。気を失うようにして眠れるだろうか。

あした、あさっては学校の授業がないので、カミングズとボルヘスの詩集を読み終えられるかも。翻訳詩集の棚をのぞいたら、読んでないものは、この2冊だけかな。

ゾンビ恋人たちは、互いに春を差し出す。
ひび割れた頬にいくつもの花を咲かせ、
枯れた指に蔓状の葉をつたえ這わす。
ゾンビ恋人たちの胸は、つぎの春を待つ実でいっぱいだ。
血のように樹液を滴らせながら、ゾンビ恋人たちは抱き締め合う。
ゾンビ恋人たちのあいだで、無数の春が咲きほこる。

寝るまえにクスリのチェックしたら、2つ替わってた。どんな状態で眠るのかわからないので、11時ジャストに服用することにした。1錠だけじゃなかったのね。ドキドキ。


二〇一六年二月九日 「哲学の慰め」


12時に眠った。3時半に起きた。腕の痛みで。痛みがなければ、もう少し寝れたと思う。

ようやくカミングズの詩と童話を読み終わった。肘の関節痛で、お昼から横になって、苦しんでいて、なかなか本を手にできなかったため。これから塾に行くまでに、カミングズの芸術論などを読む。カミングズの童話を読んで、こころがなごんだ。現実の苦痛のなかにあっても。

ボエティウスが『哲学の慰め』をどういう状況で書いたのかに思いを馳せると、ぼくの肘の激痛も烈しい頭痛も、なんてことはないと思わなければならない。もう左手いらんわと思うくらいに痛いのだけれど、それでも詩集を開き、詩を読み、自分の新しい詩作品の構想を練る自分が本物の奇人に思えてしまう。

これも1円やったわ。EW&F『Millennium』

ヤフオクとamazon のおかげで、欲しいものが簡単にすべて手に入る。ラクチンである。ネット時代に間に合ってよかった。ネット時代にいなかった芸術家には悪いけれど、芸術家にとって、こんなにラクチンな時代はないように思う。他者の芸術作品を手に入れるのも、自分の作品を見せるのも超簡単。

寝るまえの読書は、カミングズの散文。


二〇一六年二月十日 「いちびる。にびる。さんびる。」


むかし売ったやつね。新品で、612円だった。EW&F『Last Days & Time』

きょうは塾の給料日で、遊びに出かけたいのだが、体調がきわめて悪くて、たぶん、塾が終わったらすぐに帰って寝ると思う。塾に行くまでに、ミエヴィルとカミングズのルーズリーフ作業を終えたい。

ぼくは、カミングズの詩を読みながら、自分がしたことを思い出し、自分がしなかったことも思い出していた。

いちびる。にびる。さんびる。にびるは、いちびるよりいちびること。さんびるは、にびるよりいちびること。

鳥の囁く言葉がわかる聖人がいた。動物たちの言葉がわかる王さまがいた。さて、事物の言葉を解する者って、だれかいたっけ?

寝るまえに、ボルヘス詩集を読もう。


二〇一六年二月十一日 「闇の船」


きょうは体調が悪いので、京都詩人会の会合は中止します。

ご飯を買いにイーオンに。きのう、塾の給料日だったから、上等の寿司でも食べよう。

きのうブックオフで、サラ・A・ホワイトの『闇の船』を108円で買ったけど、以前に自分が売り飛ばしたやつだった。なにしてるんだろ。

ボルヘスの詩も飽きたので、ヤングの短篇集『ジョナサンと宇宙クジラ』を拾い読みして寝る。

けさ、京大のエイジくんの夢を見た。いっしょに大阪で食べもん屋で食べてたんだけど、エイジくんは常連さんだったみたいで、ドラッグクイーンのほかの客に話しかけられてて親しそうにしてたからちょっと腹が立った。齢とって40才くらいになってたかな。なんで夢みたんやろ。しょっちゅう思い出すからかな。


二〇一六年二月十二日 「ありゃりゃ。」


ボルヘスの詩を読んでいて、メモをとるのを忘れていた。


二〇一六年二月十三日 「理解の範囲」


苦労したり頑張ってつくったものに、あまりいい作品はなかったように思う。楽しみながらつくったものに、自分ではいいのがあるような気がする。『The Wasteless Land.』とか、ほんとに楽しみながらつくってた。まあ、どれも、楽しみながらつくってるけど。でも、思うんだけど、「こんなに苦労する」なんてのは、若いときだけの思いなんじゃないかな。ぼくも、若いときには、生きてること自体が苦痛に満ちていたように思うもの。いまは、苦痛なしの人生なんて考えられないし、苦痛をさけるなんていうのは怠け者の戯言だと思ってる。齢をとると、ひとには、自分の気持ちが伝わることなど、けっしてないのだという確信に至ると、まあ、たいてい、他人の言葉は、気分を害することのないものになるしね。ヴァレリーが書いてたように、ひとは自分の忖度できないことには触れ得ないんだしね。たくさんの詩人が、他の詩人の詩の評を書いているけれど、自分の理解の範囲がどれだけのものかを語っていることに気がつけば、そうそう、他人の詩について語ることはできないような気がするのだけれど。あれ? ずれてきたかな。ああ、ぼくは、こう書こうと思っていたのだった。「苦労して作品をつくる」などということは、創造的な人間にはあり得ないことなのだと。楽々と、楽しくつくってるんじゃないかな。しかも、実人生が与えてくれる苦痛をも、ある程度、おもしろがって味わっているような気がするしね。ずいぶん離れたこと書いてたなあって、いま気がついてしまった。ごめんなさい。思いついたら、なかなか言葉がとまらなくて。


二〇一六年二月十四日 「ロキソニン」


リハビリのひとつとして、SF小説のカヴァーをつくった。呼吸しているだけで、上半身の筋肉が電気的な痛みを帯びるような症状である。ストレスのあるときにこうなったことがあるが、いまストレスの原因はないはずなのだが。ペソアが47歳で死んだことを考えれば、55歳のぼくがいつ死んでもおかしくはない。このあいだ出した『全行引用詩・五部作・上巻』『全行引用詩・五部作・下巻』と、もうじき出るはずの『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』がさいごの詩集になってもおかしくはないのだが、ことし3月に編集する詩集『図書館の掟。』もぜひ出して死にたい。

きょうつくったクリアファイルカヴァーでは、ヤングの『ジョナサンと宇宙クジラ』が、いちばんかわいい。

痛みに耐えながらでも、ボルヘス詩集を読もう。苦痛を忘れさせてくれる読書というものはないのかな? 『歯痛を忘れる読書』とかいうタイトルで本を書けば、売れるかもね。

スピーカーの横からロキソニンが10錠見つかった。ためしに2錠のんでみる。いつの処方だったかはわからないくらいむかしのクスリ。

きょう、どこかで、ぼくの詩集が紹介でもされたのかしら? ぼくの楽天ブログ「詩人の役目」のきょうの閲覧者数が280人を超えてて、いつも30人から40人のあいだくらいなんだけど。

ロキソニンが効いているのか、腕を上げられるところまで上げても痛くない。とはいっても、肩くらいの高さだけど。しかし、痛みをとるクスリというのは、考えたら怖い。根本治療をしないで、痛みを感じさせないものなのだから。まるで音楽のようだ。

きょうは、もう寝る。クスリをのんだ。そいえば、きのう日知庵に行くまえに乗った阪急電車で、フトシくんに似た子が乗って、向かいの席に坐ったのだけれど、その記憶が残っていたのか、日知庵からの帰り道、フトシくんが、ぼくのために歌ってくれたユーミンの「守ってあげたい」が頭のなかに流れた。

書いておかなければ、日常のささいなことをほとんどすべて忘れてしまうので書いておいた。きのう書こうと思って忘れていた。思い出したのは、音楽の力だ。適当にチューブを流していたら、とてもファンキーな音楽と出合って、思い出したのだった。


二〇一六年二月十五日 「モーム、すごいおもしろい。」


ボルヘスの詩集を読みながら寝てしまった。きょうは、もうボルヘスの詩集を読み終わりたい。ルーズリーフ作業も終えたい。コーヒーのんだら、さっそく読もう。

きのうまでの無気力が嘘みたい。痛みどめが効いているのだろう。気力が充実している。ボルヘス詩集を読み終わり、あまつさえ、ルーズリーフ作業も終わったのだった。きょうは、これから、岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』上巻を読む。良質の文学作品によって、霊感を得るつもりだ。

痛みどめで、こんなに気力が変わるなら、もっと早くのめばよかった。きょう、あとでイーオンに五十肩専門の痛みどめを買いに行こう。

キップリングを読んでいる。

きょうはまだ痛みどめを服用していないのだが、関節の痛みはないわけではなく、痛みどめをギリギリまで服用しないでおこうと思っただけであった。

岩波文庫『20世紀イギリス短篇選』上巻2作目、アーノルド・ベネットの作品、えげつない。ベネットといえば、有名な格言があったけれども、それも、えげつない。たしか、こんなの、「とにかくお金を貯めなさい。それだけが確実に、あなたを守ってくれるものだから。」だったかな。うううん。それとも、「一にも二にも、お金を貯めなさい。お金を持っていないことは、お金がないことと同様に無価値だからである。」だったかな。なんか、お金に関する格言だった。イギリス人の作家の意地悪なところが大好きである。

半端ない寒さなので暖房をつける。ふだんは、けちってつけていない。

岩波文庫『20世紀イギリス短篇選』上巻、3つ目に収録されているモームの『ルイーズ』を読んでいるのだが、あまりにもおもしろくて、声を出して笑ってしまった。ああ、そうか、こんな書き方もあったんだなって思った。笑けるわ〜。

イギリス人のユーモアは、えげつなくて大好き。ウッドハウスのも収録されてたと思うけど、モーム、集めようかな。創元から出てるエラリー・クイーン編『犯罪文学傑作選』に入ってるモームの『園遊会まえ』も笑いに笑った作品だったが、モームって、こんなにおもしろかったなんて知らなかった。『ルイーズ』も『園遊会まえ』も、女性をひじょうに嫌っている感じがしたのだけど、ウィキを見ると、モームはゲイだったんだね。知らなかった。大先輩だったんだ。ぼくもゲイだけど、べつに女性が嫌いではないし、作品のなかで、女性にひどい扱いをしたことなんかもないけど、そういうひとはいるかな。

クリスティやP・D・ジェイムズのように、えげつない女性を書く女性の作家もいるし、性はあまり関係ないのかもしれない。まあ、もともと作家の性なんて、あまり指標にはならないものかもしれないしね。ティプトリーのような例もあるしね。そいえば、ぼくも、レズビアンものを書いたことがあったっけ。というか、一人称の女性として書いたものもあるしなあ。そいえば、蠅になって書いたこともあるし、同時にさまざまな人物(これまたイギリス出自のぬいぐるみキャラ含め)になって書いたこともある。性も、性的志向も、作品とは、あまり関係がないものかもしれない。


二〇一六年二月十六日 「ぼくの詩集がヤフオクで100円で売られていた!」


ぼくの詩集がヤフオクで100円で売られていた!

わっ。どなたか買つてくださつたみたい。ぼくには、お金が入らないけど、ありがたいことだとこころから思ふ。ありがたうございました。このやうに、ぼくの詩集がぜんぶ100円だつたらいいのだけれど。

きのう眠るまえに、ウッドハウスの『上の階の男』を読んだことになっている(栞でわかる)のだけれど、いま読み返したら、ぜんぜん憶えていなかったので、もう一度読んで寝る。また憶えてなかったら、あしたも読む(かな)。

きょうも暖房をつけて寝る。貧乏人がどんどん貧乏になっていく冬。はやく終わりなさい。


二〇一六年二月十七日 「確定申告」


確定申告に行ってきた。

塾の帰りに、ブックオフで2冊買ったけど、1冊は本棚にあったものだった。そうだよね。本をめくってみて読んだ記憶がなかったから買ったんだけど、ぼくが買わないわけはない本だった。岩波文庫の『ギリシア・ローマ名言集』記憶がないのは、ただ忘却しただけだったのだ。お風呂場で読み直して捨てる。

あと1冊は、これもむかし読んだかもしれないけれど、確実に本棚にはないことを知っている本だった。荒俣宏監修の『知識人99人の死に方』 ぼくもじきに死ぬことになると思うから、つい買ってしまった。一人目が手塚治虫で、60歳で胃がんで亡くなっていたのだった。有吉佐和子は享年53歳である。

痛み止めをのんで、お風呂に入ろう。『ギリシア・ローマ名言集』をもって入るけれど、読むのが怖い。読んだ記憶がないのが、とても怖い。

きょうジュンク堂に寄って、見つからなかったから、amazon で、注文した。『モーム語録 (岩波現代文庫)』

お湯をバスタブに入れるまえに鏡で自分の顔を見てびっくりした。真白である。目のしたに隈ができていて、ほとんどゾンビのような顔である。じきに死ぬどころか、とっくに死んでいる顔である。記憶力が低下していることも怖いけれど、顔のほうが、もっと怖い。


二〇一六年二月十八日 「バッド・ベッティング」


彼女の手のひらのサイズの
郵便切手
ゾーン
フィールド
ルルドの泉
そして
free
be
free
思いがけない
バッド・ベッティングで
ドライブ
「この近くに風呂屋ってないの?」
「いっしょに行く?
 ぼくもいまから行くところやから」
彼は
彼女とカーセックスするために
ぼくにきいたのだった。
彼女の手のひらのサイズの
郵便切手
ゾーン
フィールド
ルルドの泉
そして
free
「ぼく、この曲
 好きなんだよね。
 いいでしょ?」
大黒のマスターが苦笑い。
「はいはい。
 あっちゃんの好きな曲ね」
メガネの奥が笑ってないし、笑。
be
free
「これって
 スクリッティ・ポリティも歌ってなかったっけ?」
彼女の手のひらのサイズの
郵便切手
エナジーにみなぎる
カーセックス
ぼくは、彼が
彼女とカーセックスするって知らなかった。
「なんで同じシーンが繰り返されるの?」
大学でもそうだった。
友だちは
彼女のことよりも
ぼくのことのほうが好きだって
思い込んでた。
ゾーン
フィールド
ルルドの泉
そして
街は
思い出の
プレパラート
Mea Culpa


二〇一六年二月十九日 「あいつらのジャズ」


これからお風呂に。お風呂から上がったら、『20世紀イギリス短篇選』上巻のルーズリーフ作業をして、下巻を読む。

55歳という齢になって若さも美しさも健康も失ったのだけれど、そのおかげで、ぼくへの評価はただ作品の出来によるものだけであることがわかる。なんの権威もなく、後ろ盾となってくれるひともいないので、ただ才能のみによって、ぼくへの評価がなされる。あるいは評価などされないということである。

ルーズリーフ作業。楽しい苦しい作業。苦しい楽しい作業。日々の積み重ね。才能も、努力があってこそ発揮されるものなのである。

岩波文庫『20世紀イギリス短篇選』上巻に入っているハクスリーの「ジョコンダの微笑」は、創元推理文庫の『犯罪文革傑作選』では、タイトルが「モナ・リザの微笑」になっていたが、同じものだ。訳者が違って、翻訳の雰囲気がぜんぜん違う。創元のほうを先に読んでいたのだが、岩波のも軽くて好きだ。若い愛人の女が、38歳の男にむかって、「ねえ、小熊ちゃん」と何度も呼びかけるのが岩波のほうの訳で、なんともコミカルである。創元のほうの訳では「ねえ、テディー・ベア」と呼びかけるのだが、「ねえ、小熊ちゃん」と呼びかけられる太った男の姿の方がかわいい。いずれにしても、複数のアンソロジーに入るのだから、大したものだ。たしかに傑作だ。ぼくのこんど出した『全行引用詩・五部作・上巻』にも、引用した箇所がある。創元の龍口直太郎の訳の方だけど。岩波文庫を先に読んでたら、小野寺 健の訳の方を引用してたかもね。

時間とは、すなわち、ぼくのことであり、場所とは、すなわち、ぼくのことであり、出来事とは、すなわち、ぼくのことである。

本質的なものが失われることなどいっさいない。それが言葉の持つ霊性の一つだ。ぼくが描写した言葉のなかに、その描写した現実の本質がそっくりそのまま含まれているのだ。そうでなければ、ぼくが言葉にして描写することなどできるわけがないではないか。

ぼくは彼に惹かれた。彼がぼくに惹かれた様子はまったく見えなかった。

選ばれなかった言葉同士が結びついていく。選ばれなかった人間たちが互いに結びついていくように。

きょうもお風呂から上がったら、両肩、両肘にロキソプロフェンnaテープ100mgというシップをして、痛みどめにしている。3回か4回、自殺未遂したけど、死なずによかった。齢をとって、こんなに身体が痛いなんてことを知ることができてよかった。苦痛が、ぼくの知的な関心を増大させるからである。

齢をとって、身体がボロボロになって、苦痛に襲われて、こんなに愉快なことはない。この苦痛のなかで、ぼくは本を読み、笑い、考え、反省させられ、詩句のアイデアを得ることができるのである。おそらく、ぼくは、どのような苦痛のなかであっても、その苦痛をさえ糧とするだろう。詩を生きているのだ。いや、詩を生きているのではない。詩が生きているのだ。ぼくという人間の姿をして。

岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』上巻のルーズリーフ作業が終わったので、読書をする。岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』下巻である。楽しみである。

ジーン・リースの「あいつらのジャズ」よかった。不条理だと思うけれど、人生って不条理だらけだものね。納得。まあ、刑務所というところには入ったことはないけれど、描かれているようなものなのだろうなとは思う。イギリスで差別されてた有色人種の側から見たものだったけれど、訳がよかった。


二〇一六年二月二十日 「星の王子様チョコ」


夕方から日知庵に。それまで『モーム語録』でも読んでいよう。

いま帰った。竹上さんから、星の王子様のチョコレートをいただいた。包装もおしゃれだし(本のように出し入れできる)紙袋もおしゃれだった。やっぱり、かわいいものを、女子は知ってるんだな。

竹上さんにいただいた星の王子様チョコ、めっちゃ、おいしい。


二〇一六年二月二十一日 「こころの慰め」


きょうは一行も読んでいない。数学もまったくしていない。ただただ傷みに耐えて、横になっていた。こころを癒してくれたのは、SF小説の本のカヴァーの絵たちである。ぼくの部屋の本棚に飾ってある本は、安いものだと、300円くらいだ。高くても、文庫なら、せいぜい1000円くらいだ。ブコウスキーの単行本『町でいちばんの美女』と『ありきたりの狂気の物語』は、両方ブックオフで105円で買ったものだ。また、アンソロジーの『太陽破壊者』も105円だった。もちろん、値段ではないのだ。絵のセンスなのだ。写真のセンスなのだ。しかし、その多くのものが安かったものだ。おもしろい。ぼくは安い値段のものを見て、こころおだやかに、こころ安らかに生きている。ぼくのこころをおだやかにさせるのに、何万円も必要ではない。

神さまに、こころから感謝している。ぼくに老年を与えてくださり、身体をボロボロにして苦痛を与えてくださり(左手は茶碗を持っても傷みと麻痺でブルブルと小刻みに震えるのだ)、そうして、大切な大切な読書という貧乏な者にでも楽しめる楽しみを与えてくださって。

ぼくは絵描きになりたかった。でも、部屋の本棚に飾ってある美しい絵の一枚も、きっと描く才能はなかったと思う。神さまはそのかわりに、ぼくに絵を楽しむ才能を授けてくださった。ぼくには、『ふるさと遠く』『発狂した宇宙』『幼年期の終り』などの初版の絵がある。『空は船でいっぱい』『神鯨』『呪われた村』『ユービック』『世界のもうひとつの顔』『法王計画』『シティ5からの脱出』『窒素固定世界』『キャメロット最後の守護者』『ガラスの短剣』『縮みゆく人間』などの素晴らしい初版の絵がある。まことに幸福な老年である。


二〇一六年二月二十二日 「ノブユキ」


これから幾何の問題をつくる。きょうは一日中、数学だな。

きょうやるべきことがすべて終わったので、これから飲みに行く。

いま、きみやさんから帰った。おしゃべりしていて、とても楽しい方がいらっしゃった。三浦さんという方だった。また、同志社の先輩で、とてもかわいらしい方がいらっしゃった。年上の方でも、ごくたまに、かわいらしいと思える方がいらっしゃる。ごくごく、たまだから、ほんとにごく少ないのだけれど。

ほんとにいやしいんだと思う、本に対して。『Sudden Fiction』をブックオフで108円で見つけて、また買った。お風呂に入って、読もうという魂胆が丸見えである。お風呂に入りながら見るのに、ちょうどいいんだよね。また、ぼくの忘却力もすごいから、再読したくもなるわけだ。うにゃ〜。

人間には2種類しかいない。愛というものがあると思っているひとと、愛という観念があると思っているひとの。

ぼくが1年1カ月1週間1日1時間1分をどう過ごすかよりも、1年1カ月1週間1日1時間1分が、ぼくをどう過ごすかの方により興味がある。

きみの1分は、ぼくの1時間だった。きみの5分は、ぼくの1週間だった。きみの1時間は、ぼくの1か月だった。きみの1日は、ぼくの永遠だった。

愛が永遠だというのは嘘だと知った。永遠が愛だったのだ。

愛については何も知らない。ときには、何も知らないことが愛なのだ。

愛があると思って生きていると、そこらじゅうに愛が見つかる。愛というものがどんなものか、くわしく知らなくても、ともかく、愛というものが、そこらじゅうにあることはわかるようだ。

特別な名前というものがある。それは愛と深く結びついた言葉で、その名前を思い浮かべるだけで、胸が熱くなる。その熱で楽に呼吸することができないくらいに。

nobuyuki。歯磨き。紙飛行機。

きみは最高に素敵だった。もうこれ以上、きみのことを書くことは、ぼくにはできない。

2年のあいだ、付き合ってた。きみはアメリカに留学してたから、いっしょにいたのは数か月だったけど。なにもかもが輝いていた。その輝きはそのときだけのものだった。それでいいのだと、齢をとって悟った。そのときだけでよかったのだ。その輝きは。そのときだけのものだったから輝いていたのだ。


二〇一六年二月二十三日 「われわれはつねに間違っている。たとえ正しいときでさえも。」


岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』下巻を読んでいて、帰りに、エリザベス・テイラーの『蠅取紙』を読んでたら、これを読んだ記憶があったので、帰って、ほかのアンソロジーを見たけどなかったので、この岩波文庫自体で過去に読んでいたことを忘れていたようだ。まあ、いい作品だからいいのだけど。

先週、ひさしぶりに会った友だちが、横に太ったねと抜かすので、頬を思い切りひっぱたいてあげた。太ったって言われることは、べつにどうでもいいんだけど、たまにひとの顔面を思い切りひっぱたきたくなるのだ。みんなMの友だちを持つべきだと思う。すっきりするよ。

時間を経験する。
場所を経験する。
出来事を経験する。

逆転させてみよう。

経験を時間する。
経験を場所する。
経験を出来事する。

経験を時間するという言葉で
時間という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。
経験を場所するという言葉で
場所という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。
経験を出来事するという言葉で
出来事という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。

あるいは

経験が時間する。
経験が場所する。
経験が出来事する。

経験が時間するという言葉で
時間という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。
経験が場所するという言葉で
場所という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。
経験が出来事するという言葉で
出来事という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。

時間の強度。場所の強度。出来事の強度。
時間の存在確率。場所の存在確率。出来事の存在確率。
時間の濃度。場所の濃度。出来事の濃度。

この現在という、新しい過去である古い未来。

過去と未来が互いの周りをめぐってくるくると廻っている。
現在は、どこにも存在しない。
回転運動をさして現在と言っているが
それは完全な誤謬である。

われわれはつねに間違っている。
たとえ正しいときでさえも。

最後の2行は、ガレッティ教授の言い間違いの言葉の一部を逆転させたもの。


二〇一六年二月二十四日 「もっと厭な物語」


『20世紀イギリス短篇選』下巻、あと2篇。これが終わったら、『フランス短篇傑作選』を読もうと思う。これまた過去に読んだような気もするが、かまいはしない。読んだ記憶がないのだもの。さすがに、アポリネールの「オノレ・シュブラックの失踪」は、ほかのアンソロジーにも入ってて知ってるけど。

田中宏輔は80歳で亡くなります。亡くなる理由は暗殺です。
https://shindanmaker.com/263772

田中宏輔に関係がありすぎる言葉
「妄 想」
https://shindanmaker.com/602865

田中宏輔さんの3日後は、深夜1時頃、人通りの少ない場所を歩いていると、田中宏輔さんの性的欲求を満たしてくれる消防士に出会い、殴られるでしょう。
#3日後の運勢
https://shindanmaker.com/603086

塾の帰りに、ブックオフで、文春文庫『もっと厭な物語』を108円で買った。エドワード・ケアリーの作品のタイトルだけで笑けた。「私の仕事の邪魔をする隣人たちに関する報告書」というのだ。日本人作家が4人も入っているのが気に入らないが、外国人作家の方が多いから、まあ、いいか。表紙がグロくてよい。


二〇一六年二月二十五日 「戦時生活」


シェパードの『戦時生活』、まだ読み切れない。
こんなに時間のかかった小説ははじめてかもしれない。
実験的な手法も、きれがいいし
マジック・リアリズムそのものの表現もいいし
作品価値については
いっさい文句はないんだけど
読む時間がかかりすぎ〜。
文章を目で追うスピードと
ヴィジョンが見えるスピードに
差があって
とても時間がかかっている。
内容がシリアスすぎるのかなあ。
それとも
ぼくが齢をとったのか。
「心がつくりだすものを、精神がうち壊すことはできない」(小川 隆訳)
という言葉が、347ページ3,4行目に出てくる。
おびただしく、ぼくはマーキングして、メモを書いている。
そのため、もう1冊、ネット古書店で買った。


二〇一六年二月二十六日 「たしかに、ぼくはむかしからブサイクでした。」


たしかに、ぼくはむかしからブサイクでした。赤ん坊のときでさえ、そのブサイクさに母親があきれ果て、育児放棄をしたくらいですから。家には、ぼくのようなブサイクな赤ちゃんの面倒を見るような家族は一人もいませんでした。必然的に乳母となる女性を、親は雇ったのですが、その乳母の顔がまたブサイクで、ぼくは赤ん坊ながら、そのブサイクさにびっくりして、乳母がぼくの顔を見るたびに痙攣麻痺したそうです。ぼくのブサイクさと乳母のブサイクさを合わせると、カメラのレンズでさえすぐに割れたそうです。ですから、ぼくの赤ん坊のときのブサイクな写真は存在しておりません。伝説的な乳母のブサイクさは、ぼくが幼稚園に通う頃の記憶からすると、顔面しわだらけのお化けでした。幼稚園では、ぼくくらいのブサイクな子がほかにも一人いたので、そのブサイクな子と、いつもいっしょに遊んでいました。小学校、中学校と、そのブサイクな子とずっと同じ学校に通っていたのですが、高校にあがるときに、学力の違いから、別々になりました。でも、幸いなことに、ぼくが劣等な高校で上位になると、彼は優等な高校の下位になり、同じ大学で再会することができたのでした。しかし、世のなかには、変わった嗜好をしているひとたちがいて、ブサイクなぼくにも、ブサイクな彼にも、ブサイク専の彼女ができたのでした。ぼくの彼女も、彼の彼女もそこそこの美人でした。「あなたたちは、わたしたちのペットなのよ。」と、彼女たちに言われたことがありますが、まさしくペットの飼い主のように、ぼくたちにやさしく接してくれていました。大学を出て就職して、それぞれの彼女たちと結婚したのですが、ぼくの子どもも、彼の子どももとてもブサイクで、彼女たちの容姿を遺伝することはなかったようでした。でも、ぼくの子どもと、彼の子どもがとても仲がよくて、将来、結婚させようか、などと話したことがあるのですが、彼女たち二人ともが絶対にだめだわよと言うのでした。ブサイクならかまわないのよ、ブサイクの2乗は、もう人間ではなくってよ。と、二人の女性は同じことを言うのでした。ブサイクと、ブサイクの2乗に違いがあるのか、よくわからないのですが、ぼくも、彼も、女性陣にはかなわないので、ぼくたちの子ども同士の交際は、結婚にまで至らせることはできないものだと思っております。

ラクダが針の穴を通るのは難しいが、針の穴がラクダを通るのは難しくない。

ぼくは傑作しか書いたことがないから、傑作でない作品を書いているひとの気持ちは想像することしかできないけれど、よりよい作品ができたら、その作品以前の作品は、できたら、なかったことにしたいのではなかろうか。しかし、詩句や文章がそうなのだが、書いてきたものをなしにすることはできない。しかし、じっさいの生活のなかでは、こういうことはよくある。ある一言で、あるいは、ある一つの振る舞いで、その言葉を発した相手のことを、そのような振る舞いをした相手のことを、さいしょからいなかったことにするのである。じっさいの生活では、しじゅうとは言わないが、よくひとが、いなくなる。

岩波文庫の『フランス短篇傑作選』おもしろすぎ。イギリス人の意地の悪さも相当だけれど、フランス人の意地の悪さも負けてはいないな。意地の悪さというより、気持ち悪さかもしれない。きょうは、はやめにクスリをのんで寝る。痛みどめを入れると10錠である。わしは、クスリを食っておるのだろうか。

きのう、10年ぶりくらいに、うんこを垂れた。おならだと思って、ブッとしたら、うんこが出たのだった。すぐにトイレに駆け込んで、パンツを脱いで、クズ入れに捨てて、ビニールの口をふさいだのだ。もちろん、パンツを脱ぐまえにズボンを脱いだ。下半身丸出しだった。まあ、個室トイレのなかだけど。


二〇一六年二月二十七日 「柔道部の先輩」


以前に書いたかな。愛の2乗はわかるけど、愛の平方根はわからないって。

10年くらい前、京大生の男の子に、あまり考え方が拡げられなくてと言われて、「読むもの変えれば?」と答えたらびっくりしてたけど、そのびっくりの仕方にこちらのほうがびっくりした。読む本が変われば、見る映画が変われば、食べる食べものが変われば、ひとは簡単に変われるものだと思ってたから。

これから、むかし付き合ってた子とランチに。けっきょく、お弁当買って、部屋でいっしょに食べただけ。あとは、腰がだるいと言うので、腰をマッサージしてあげただけ。ぷにぷにした身体をさわるのは大好きなので、いいよいいよって言って、揉んであげた。高校時代の柔道部のかっこいい先輩にマッサージさせられたときのことが、ふと思い出された。


二〇一六年二月二十八日 「目が出てる。」


目が出てる。あごが出てる。おでこが出てる。おなかが出てる。指が出てる。足が出てる。

目が動いてる。あごが動いてる。おでこが動いてる。おなかが動いてる。指が動いてる。足が動いてる。


二〇一六年二月二十九日 「なにげない風景」


きみやさんに行くまえに、オーパのブックオフで、新潮文庫の『極短小説』というのを買った。108円。浅倉久志さんが選んだ極端に短い話(55字以内)が載っていて、ぼくがいま『詩の日めくり』で1行や2行の作品も書いてるけれど、なんかおもしろそうだと思って買った。オーパのブックオフの帰りに載ったエレベーターで、ボタンのそばにいた男の子がかわいいお尻をしていたので、ずっと見ていて、1階に降りたときに、「ありがとう」と言うと、ぼくの顔を見て、きょとんとしていた。


二〇一六年二月三十日 「点の、ゴボゴボ。」


病院には直属の上司はきませんでした。
きてくれたのは
今年の教育係のひとと
今年いっしょに入ったひとの二人だけです。
うれしかったです。
でも
ひとりは
教育係のひとですけど
最後のほう
時計をチラチラ見て
その病院の近くにある会社に
会社の用事があって
そのついでに寄っただけだと言ってました。
─それってもしかしたら、女性?
ええ
どうしてわかったんですか。
─だって、女のひとに多いじゃん。
 相手のこと、いい気持ちにさせといて
 あとで突き落とすの
 言わなくてもいいこと、へいきで口にできるんだよねえ
 そゆひとって
 いやあ
 いるいる
 いるわ〜
 前に
 西院の王将でさ
 スープをかき混ぜてた女の子の定員が
 鍋からね
 レンゲが出てきたんだけど
 そんなの口にしなきゃ
 客にはわからないのに
 声を張り上げてさ
 なんでレンゲが入ってるの
 なんて言うんだよね。
 それって
 客が食べ残したスープ
 もどしたってこと?
 って、ぼくなんか思っちゃって
 注文したのが定食だったんで
 出てきたスープ
 まったく飲まなかったよ
 なんちゅうバカだろね。
 きっと、バカは一生バカだよね。
 気分わるかったわ。


二〇一六年二月三十一日 「みつひろ(180センチ・125キロ。ノブユキ似のおデブさん)」


「三か月くらいになるよね、前に会ってから。」
「それぐらいかな。」
「ちゃんと付き合おうよ。」
「それはダメ。」
「どうして?」
「ほんとうになってしまうから。」
「彼女に悪いと思ってるんだ。」
「器用じゃないから。」
「もっと長い時間、いっしょにいたいんだけど。」
「ごめん。」
「35だっけ?」
「36になった。」
「何座?」
「しし座。」
「じゃあ、なってまだ2か月くらい?」
「うん。」
「胸毛、なかったっけ?」
「そってる。」
「なに、それ?」
「半年に一度くらい、そってる。」
そいえば、ノブユキも胸毛をそってた。
「彼女がそうしてって言うの?」
「・・・」
あんまり腹が立つから
一時間以上キッスしつづけて
口がきけないようにしてやった。


詩の日めくり 二〇一六年三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年三月一日 「ブロッコリー」


いま、阪急西院駅の前のビルに自転車をとめたら
めっちゃタイプの男の子が近づいてきて
わ〜
さいきん、ぼく、めっちゃ、もてるわ〜
ってなこと考えてると
その子が言いました。
「このビルのどこかに行かはるんですか?」
「そだよ。本屋にぃ」
「じゃあ、すぐに戻ってこられますね」
「すぐだよん」
その子はシャツのエリがとてもきつそうだった。
20歳すぎかなあ。
ぼくの目をじっと見ながら、しゃべってた。
ガチムチの彼は
お巡りさんの制服のよく似合う子だった。
惚れられたかもね。

お昼に、ピザ、思いっきり食べた。
ブロッコリーといくらといっしょに。いつ死んでもよい。
いくらと違って、おくらと、笑。

きょうは、夕方に、2年ぶりに会ったかわいい男の子とチューをしたので、
もういつ死んでもよい。

寝るまえの読書は、『極短小説』か、『フランス短篇傑作選』か、どちらかにしよう。


二〇一六年三月二日 「幸福」


いま日知庵から帰った。よっぱ〜。きょうは、学校が終わって、
大谷良太くんちでお昼寝させてもらって、夕方から飲みでした。ぐは〜。ねむ〜。

one of us であること。one of them であること。
これ以上に、ぼくたちが、彼ら彼女たちが忘れてはならないことはないと、
詩人のぼくは断言する。

『極短小説』をあと少しで読み終わる。ぼくは『詩の日めくり』で、1行や2行の詩を書いているのだが、ぼくのものよりゆるいと思われる作品がほとんどだった。ぼくは、ぼくの道を歩む。過ちではないと思う。過ちではなかったと思うと思う。ぼくは幸福だなと思う。ぼく自身のことを信じることができて。


二〇一六年三月三日 「極短小説」


あまりの苦痛に、痛みどめと、睡眠薬のあまっているもの(以前に処方されて余ってたもの)を飲んでたら、幻覚と幻聴を起こした。さいしょ、夢のような幸せな場所、映画館で映画を見るようにして、自分のタイプの子と話をしてたら、そいつがいきなり首だけの化け物になり、ぼくを宮殿に連れて行き、ぼくに、ぼくの文学的歴史の系図を見せた。ぼくはロビンソン・クルーソーのように孤立して生きるらしい。生きているあいだはまったくの無名で、ぼくの作品が評価されるのは死んでからだという。でも、まあいいよと言った。死んでからでも評価されないよりずっといいし、というと目が覚めた。ぼくは泣いて目が覚めたのだが、痛みはまだきつい。塾があるまで時間があるので、もう一度、クスリを追加して飲んでみる。幻覚が異常に生々しかった。ぼくは、違う世界とコンタクトしていたのだと思う。生きているあいだは孤立するというのは、ぼくらしくていい。

浅倉久志訳の『極短小説』レベル低くて、捨ててもよい本だが、挿絵がかわいいので本棚に残すことにした。話はレベルが、ほんとに低い。お風呂場では、『Sudden Fiction』を読んでいるのだが雲泥の差である。これから塾に行くまで、岩波文庫の『フランス短篇傑作選』を読む。

きょうも、岩波文庫の『フランス短篇傑作選』を読みながら寝よう。


二〇一六年三月四日 「モーム」


きょう、医院の待ち時間にジュンク堂に行って、モームの『サミング・アップ』と、『モームの短篇選(上)』と『モームの短篇選(下)』を買った。2900円くらい。岩波文庫の『フランス短篇傑作選』のさいごを読んでるときに、医者に呼ばれた。『フランス短篇傑作選』さすが傑作選だわ。とてもよい。数日前に買って読んだ『極短小説』あまりにしょうもないので捨てるわ。やっぱり、本棚には傑作しか置いておく必要性がないもの。そいえば、岩波文庫から、ゲーテのファウストの新訳が出てるのだけれど、困るわ。森鴎外以外のすべてのファウスト訳をそろえている身にとっては。『モーム語録』を半分くらい読んだ。おおよその思考のパターンはつかんだ。


二〇一六年三月五日 「寄せては返す彼。」


寄せては返す彼。I

寄せては返し
返しては寄せる彼。
彼の身体は巌に砕け
血飛沫をあげる。
月が彼の上に手をのばして
彼の身体をゆさぶる
星が彼の身体に手をさしのべて
彼の身体をゆさぶる
彼の身体は
百億の月の光にあふれこぼれ
千億の星の光に満ちあふれる。
彼は砕け
彼は散る
寄せては返し
返しては寄せる彼。
百万の彼が
昼も
夜も
やすみなく
たえまなく
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼が
岸辺を
コロコロと転げまわる
百万の彼は
背広を砂まみれにして
白いシャツを
砂まみれにして
岸辺を
コロコロと
コロコロと
転げまわる
巌に
砕ける
百万の彼
彼の
無数の
手の指が
顔の皮膚が
血まみれの巌の上にへばりついている
巌にへばりついた
血まみれの指
巌にへばりついた
血まみれの顔
こぼれ落ちる歯や爪たち
コロコロと転げまわる
百万の彼
寄せては返し
返しては寄せる彼の身体
彼の身体がひくと残る
無数の手の跡
彼の手が引っ掻く砂の形
壊れては修復される
無数の傷跡


寄せては返す彼。II

寄せては返し
返しては寄せる彼
お目当ての彼女のマンションの駐輪場で
彼は寄せては返し
返しては寄せる
駐輪場の小さい明かりの下で
百万の彼の身体が
コロコロと転がる
自転車やバイクのあいだの狭いところを
コロコロと転げまわる百万の彼の身体
彼女を待つ一途な気持ちが
百万の彼の身体を
駐輪場の上にコロコロと転がせる
百万の彼の身体は
ざらついたコンクリートの上で
擦り傷だらけ
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼の身体
彼女のマンションの駐輪場


寄せては返す彼。III

お目当ての彼女が帰ってきた
寄せては返し
返しては寄せる彼
お目当ての彼女をマンションの入り口で
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼
お目当ての彼女を囲んで
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼
彼の身体が
彼女の身体に砕け
彼女の身体が
彼の身体に砕け
血まみれになる
彼女と彼
寄せては返し
返しては寄せる彼
百万の彼の身体が
倒れかける彼女の身体を支え
あっちに傾き
こっちに傾いた
彼女の身体を支える
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼の身体
彼女のマンションの入り口


二〇一六年三月六日 「一日に、2時間か、3時間くらいしか働いていないよ。」


きのう、日知庵で、65歳のレディーたちお二人と、竹上さんと、はるくんと飲んだのだけれど、齢をいくことほど人間をおおらかにしていくものはないのかもしれない。55歳のぼくは、まだとがっている。

平日に、1日に、2時間か3時間しか働いていないという人生を55歳までずっとやってて、って、きのう、日知庵で、はるくんと、竹上さんに、そう言うと、びっくりしてたんだけど、ぼくのほうもびっくりしたよ。非常勤講師で、塾の講師なんだから、そんなに労働時間あるわけないやんかと思うのだけど。

目が覚めているあいだの、人生のほとんどの時間を、読書と思索に使うというのが、ぼくの人生設計の基本なのだから、そんなに働いてはいられないのだ。

あさ9時に、かっぱ寿司まえに集合します。近くのラブホテルのサービス時間にセックスするために。とにかく長いセックス。やたらと長い時間のセックス。ふとももとか、女性だから、あざだらけになるんです。1週間前にセックスしたばかりなのに、またセックスするんです。彼って、ケダモノでしょう?

お風呂に入って、『Sudden Fiction』のつづきを読もう。少なくとも、これで3度目。というか、3冊目。

あしたは、えいちゃんと、隈本総合飲食店で食事をする。なに食べようかな。

きゃは〜。ハヤカワから、コードウェイナー・スミスの全短篇集が出る。ぜんぶで、3巻だって。既訳されたものは、ぜんぶ持ってるけど、買うよん。それから、マイクル・コーニイの『プロントメク!』が河出から出てる。これは名作だった。ボブ・ショウは出さないのかしら?

きょうは、昼間にマクドナルドで、ベーコンバーガー食べて、あとで、コンビニで豆腐とサラダを買って食べたけど、いまちょこっとおなかがすいている。ちょっと遠いけど、ライフに行こうかな。


二〇一六年三月七日 「愛とは軽さのことだ」


愛とは軽さのことだと思うことがある。どれだけ気楽に接することができるかっていう軽さのことだけどね。愛とは早さのことだと考えることがある。どれだけ素早く、ぼくがきみの立場になって考えられるかっていう早さだよ。ああ、愛は、そうだよ。軽さと早さのことなんだよ。それ以外のなにものでもない。

これから河原町に。まずブックショッピングして、それから、えいちゃんと隈本総合飲食店に。

えいちゃんと、隈本総合飲食店と、きみやさんに行ってきた。ジュンク堂では、ティプトリーの新刊を買った。ティプトリーは、『輝くもの、天より堕つ』以来だから、数年ぶりかな。短篇集だった。楽しみ。

amazon で、自分の詩集の売れ行きチェックをしているのだが、最新刊の『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』(思潮社オンデマンド・2016年2月刊)が、そこそこ売れているので、うれしい。表紙に撮らせていただいた「まるちゃん」の画像効果だと思う。すてきだものね〜。

これからも友だちがつぎつぎに表紙になってくれる予定だ。まず、つぎに思潮社オンデマンドから出す予定の『図書館の掟。』では、強烈なインパクトのある画像を「はるくん」からいただいている。ぼくが極右翼と間違われるかもしれない危ない画像だが、とても美しい。

こんなのだ。→@atsusuketanaka https://pic.twitter.com/nO02kUzu6d


二〇一六年三月八日 「ユダヤ警官同盟」


長時間にわたって幻覚を見ていた。それは現実の記憶を改変するほどのものだった。もうちょっとで、たいへん失礼なことをひとにすることになっていたかもしれない。文学作品を読んでいると、非現実のできごとを現実に取り込んでしまうことがある。気がついてよかった。よく知っている方の親戚で、厭なことを言われて憤慨したのだが、目が覚めて、そのような人物が存在しないことに気がついたのだった。しかし、シチュエーションは生々しかった。

塾に行くまえにブックオフで、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上下巻を買った。未読の本が増えていく。本棚がまだ埋まる。死にたい。というか、寝るわ。クスリのんで。おやすみ、グッジョブ! あ、まえに付き合ってた子からうれしいメールが。チュって、さいごに。そうか、キスしたいのか。


二〇一六年三月九日 「目の見えないひと」


きょうは、朝に3つの幻覚を見たので、あしたの朝は、どかな。楽しみ。学校の授業がないと、幻覚じみた夢を見まくり。やっぱり緊張感がないと、幻覚を見やすいのだろう。きょう見た3つ目の幻覚は現実を反映しまくりなので、無意識領域のぼくの自我からのメッセージは意識領域のぼくの自我に伝わった。

これからきみやさんに。きみやさんのお客さんで、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』を買ってくださった方に詩集をもっていく。その方は目が不自由なので、amazon でポチできないから、ぼくが代わりにポチして買ったのだった。ぼくのポートレートをつけて差し上げようと思っている。


二〇一六年三月十日 「引力の法則」


きょう、日知庵に行くまえに、四条大宮で、このあいだチューした男の子と会ったのだけれど、声をかけられなかった。向こうは、携帯に夢中で気がついてなかったみたいだった。まあ、いいか。クスリのんだ。学校の授業がないから、めっちゃノンビリ。

引力の法則について考えてみた。ぼくたちが引き合う力なんて、地球がぼくたちを引っ張る力に比べたら、限りなくゼロに近いんだよ。だから、ぼくたちが引き合っていないように見えるときがあっても、それはあたりまえのことで、じつは引き合ってて、引き合ってることに気がついてないだけなんだよ。


二〇一六年三月十一日 「木になってしょうがない。」


いま、ティプトリーの『あまたの星、宝冠のごとく』と、岩波文庫の『ウィーン世紀末文学選』と『モーム語録』を変わりばんこに読んでいる。意外と話はまじわらない。『Sudden Fiction』は読み終わった。本棚に再読用のものがあるので、お風呂場で読んだものは捨てる。

きょうのあさは、引っ越しをしている夢を見た。上りにくい2階の部屋で、使いにくい部屋だった。無意識層のぼくの自我は、意識層のぼくの自我になにを伝えたかったのか。伝えるつもりはなかったかもしれないけれど。

サンドイッチを6切れ食べて、おなかいっぱい。ティプトリーの短篇集のつづきを読みながら寝よう。

木になってしょうがない。


二〇一六年三月十二日 「ぼくね、友だちに素数がいてね。」


素数ってね
自分のほかに正の約数が一つしかなくってね
それを、ぼくの友だちの素数は
とても気にしててね
イヤなんだって
でもさあ
おじさんを、おばさんで割ると
雪つぶて
サイン・コサイン・タンジェント
ぼくの父が死んだのが
平成19年の4月19日だから
逝くよ
逝く
になるって、前に言ったやんか

それが
朝の5時13分だったのね
あと2分だけ違ってたら
ゴー・逝こう
5時15分でゴロがよかったんだけど
そういえば
ぼく
家族の誕生日
ひとりも知らない。
前恋人の誕生日だったら覚えてるのに
バチあたりやなあ。
まるで太鼓やわ。
太鼓といえば
子どものとき
よく
自分のおなかをパチパチたたいてた
たたきながら
歌を歌ってたなあ
ハト・ポッポーとか
近所でもバカで有名で
うんこ
がまんして
がまんしきれなくって
家のまん前で
ブリブリブリッて
それが
小学校6年のときのことだから
まあ
父親が怒ってね
でも
ガマンできなかったんだもーん
ブリブリブリッて
思いっきり
引きずり回されたこと
覚えてる

ちゃんと
きれいにしてからね
うんこまみれのまま
ひきずらへんわなあ
ぼくが親やったら
怒ってるかなあ
それより
傷ついてる子どものこと
気遣うやろなあ
わからんけど
教室で
おしっこたれたのが
いくつのときのことか
忘れた
たぶん
高学年、笑。
おととし
自分の部屋の
トイレの
前で
うんこ
たれたの
恋人に言ったら
あきれられて
まあ
それも原因かもね。
ぜんぶ
そのせいちゃうやろうけど。
もしも逆の立場やったら?
まあ、ぼくが相手の立場やったら
笑うぐらいかなあ。
あきれはせんやろうなあ。
どこが違うんやろう?
わからん


二〇一六年三月十三日 「詩の材料」


チャールズ・ブコウスキーの「詩人の人生なんてのは糞溜めみたいなものなんだよ」(『詩人の人生なんてろくでもない』青野 聰訳)というのと、W・B・イエイツの「完璧であるからこそ傲慢なこれらのイメージは/純粋な精神のなかでそだった。だがその始まりは/何であったか? 屑の山、街路の塵あくた、/古いやかん、こわれたブリキの罐、/古い火のし、古い骨、ぼろ布、銭箱の番をしている/あの口喧しいばいた。おれの梯子(はしご)がなくなったからは/あらゆる梯子が始まる場所に寝そべるほかはない。/穢らわしい心の屑屋の店さきに寝そべるほかはない。」(『サーカスの動物は逃げた』出淵 博訳)とのあいだには、文学作品の材料そのものとその材料の処理の仕方において、共通しているところと、共通していないところがある。材料は同じだ。人生のなかで見聞きしたこと、感じたことなどが材料だ。もちろん、単純に二分はできないが、こういう分け方はできるだろう。つまり、イエイツはそれを詩語に変換していたと。ブコウスキーは、糞溜めのようなものをそのまま糞溜めとして書いたのだった。イエイツも、晩年はかなり詩語から離れることができたのではあったが。そしてその二つのあいだにあって、どちらともいえないようなものも数多くある。というか、じっさいのところ、ぼくなどもそうだが、見聞きしたことそのままに書くことと、ただ頭の中で考えただけのものを書くこととのあいだで、いろいろと組み合わせて書いてきたのだ。

文学極道の詩投稿掲示板で、Migikataさんの「驚くべきこと」というタイトルの作品を読んで、こんなことを、ふと考えたのであった。

こちら
  ↓
http://bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pck=8685

『芸術=フランケンシュタインの怪物』説を唱えたのが、ぼくがさいしょではないと思いますが、あるものをつなぎ合わせて、これまでに存在しなかったものを生成させるのが芸術のひとつの機能だと思っているのですが、もちろん、同時に、これが芸術のひとつの定義の仕方だとも思っているのですが、電流が流れて怪物が起き上がったような気がしました。固有名詞の使い方、さいごの2行の断定命題も効果的に配されていると思いました。J・G・バラードの『夢幻会社』をふと思い出しました。飛翔している男が身体じゅうからフラミンゴやさまざまな鳥たちを吐き出すのですが、そのまえに鳥たちを吸収する場面があったと思うのですが、ぼくが思い出すのは、男が肩からフラミンゴを奇怪な様子で分離するシーンです。すみません。好きな作家の作品を思い出して、つい書き込み過ぎました。おゆるしください。

という感想文を、さきに、Migikataさんの作品に書かせていただいていました。

コードウェイナー・スミスの短篇全集・第1巻の『スキャナーに生きがいはない』を買うのを忘れてた。水曜日に河原町に行くので、水曜日に買おう。初訳の短篇が入っているらしい。第1巻に入っているのかどうかは知らないけれど。SFがセンス・オブ・ワンダーだということがわかる貴重な作家のひとり。


二〇一六年三月十四日 「チューしてる恋人たち」


FBで、チューしてる恋人たちの画像を見てると、ぼくも幸せ。ぼくにもチューできる男の子がいるからかな。もしも自分にもチューできる男の子がいなかったら、幸せかどうかは、わかんないけど。いや、きっと、幸せなんだと思う。何と言ったって、美しいのだもの。(少なくとも、FBに写ってる彼らは)

トランクスを買いに出る。

ジュンク堂では、コードウェイナー・スミスの『スキャナーに生きがいはない』(ハヤカワSF文庫)が売り切れていたので、ブックファーストで買った。そのあと、きみやさんに行って、三浦さんと、名前を憶えていない、でも、鴨川の夜景がきれいに見えるお店に行った。きょうも、ヨッパ。楽しかった〜。

これから、『スキャナーに生きがいはない』の解説を読んで寝る。なんだか、ウルトラQのDVDを見るような感じだなあ。


二〇一六年三月十五日 「言語も体験である。」


言語も体験である。
想像されたものではあるが
それもまた現実である。
現実である以上、存在するものである。
したがって
虚無もまた現実であり
存在するものであり
あるいは
存在する状態なのである。


二〇一六年三月十六日 「要素」


何年かぶりで、ぎっくり腰になってしまった。痛みどめをのんで塾に行く。ひさしぶりに、エニグマを聴く。ヒロくんと出合ったときの曲。「Return To Innocence」

荒木時彦くんから詩集『要素』を送っていただいた。秀逸なアイデアと、そのアイデアを支える確実な叙述力。使われているアイデアは、ぼくがはじめてお目にかかるものだ。ここにまで到達した詩を書く詩人は、これまで日本のなかには一人もいなかった。 https://pic.twitter.com/Y05NLYwFpK

いま日知庵から帰った。腰がめっちゃ痛くって、涙が出そうなくらい痛い。でも、帰りに、セブイレで買った「ペヤング超大盛」食べようかどうか思案中、笑。

コードウェイナー・スミスの短篇集、読みながら寝る。きのう冒頭の短篇の途中で寝た。ソビエト人科学者夫妻の物語だ。おおむかしに読んだ記憶がかすかにするのだが、まったく思い出せず。ペヤング、あしたに持ち越し。


二〇一六年三月十七日 「自転車で」


自転車で角を曲がるときに
こけてもうた、笑。
きっついこけ方して
右の手のひらのところ
すりむいて、血が出た。
目の前に、若いカップルがいて
めっちゃ、恥ずかしかった。
けど、あわてず
悠然として、立ち上がって、笑
自転車をおこして
さっそうと走り帰りました。


二〇一六年三月十八日 「太もも」


きのう話をした青年が言っていたことで
とても興味深いことがあった。
太ももが感じるというのだけれど
小学校の3年のときに
女性の先生が担任だったらしいのだけれど
その先生に放課後に教室に呼び出されて
横に坐るように言われて坐ったら
太ももを、なめられたというのだ。
しかし、一瞬で、帰されたのだという。
しかも、ただ一度だけ。
親には言わなかったらしい。
友だちには言ったらしいのだけれど
「そんなん、ふつうにあることやん」
と言われたらしい。
たしかに
ぼくも
高校生のとき
社会の先生に呼び出されて
太ももをなでられたことがあったけれど。
ううううん。
みんな、そんな体験してるのかなあ。


二〇一六年三月十九日 「図書館の掟」


きょうは、つぎに思潮社オンデマンドから出す詩集『図書館の掟。』の編集をしていたのだけど、体調めっちゃ悪し。これからお風呂に入って、身体をほぐす。


二〇一六年三月二十日 「きのうのぼくと、きょうのぼくは別人なのかな。」


10分ほどまえに、日知庵から帰った。帰りにセブイレで買ったカップヌードルをいま食べた。きのうのぼくと、きょうのぼくが別人のようだと、日知庵でえいちゃんが言ってたけれど、そうなのかもしれない。『図書館の掟。』に入れる詩篇はすべて死と死者にまつわる作品だけだもの。自分でも、めげるわ。でも帰りがけに日知庵でお会いしたお嬢さんが、めっちゃ陽気なひとで、ひとを元気にさせる力があるみたいで、めっちゃ暗かったぼくでさえ元気をいただいた。ありがたい。というか、そういうひとのもつエネルギーを、ぼくも持ちたい。というか、仕事柄、持たなければならない。

いま自分のツイッターを振り返って見たのだけれど、ぼくの身体の半分以上は、セブンイレブンでできているようだ。

コードウェイナー・スミスの短篇集『スキャナーに生きがいはない』を、きのう、読んでて眠った。きょうもそのつづき読みながら寝る。

日本現代詩人会のHPで詩投稿欄を4月初旬にオープンするらしいが、選者が野村喜和夫、高貝弘也、峯澤典子なので、どうかなと思う。こんな年がら年中、同じような作品ばっかり書いてる連中に選者させて、なに考えてるのよ、と思う。詩誌の選者と同じような選者をもってきて、どうすんのよ、とも思う。


二〇一六年三月二十一日 「死亡した宇宙飛行士」


きょうは、夜に竹上さんと飲みに出る。J・G・バラードのコレクションをすべてプレゼントする。『死亡した宇宙飛行士』や『22世紀のコロンブス』といった入手困難な作品も多くて、よろこんでもらえると思う。


二〇一六年三月二十二日 「形のないキャベツ」


2009年4月13日メモ

形のないキャベツ

部屋に戻ると
鼻の奥にあるスイッチを押した。
プシューッ
身体がシュルシュルと縮んだ。


2009年4月13日メモ

形は形であることを
ちっとも恥ずかしいことだとは思っていなかったのだけれども
ときどき
形であることをやめたいなと思うことはあった。
形をやめて
なにになるのかは、まったくわからなかったのだけれども。


2009年4月14日メモ

詩人の役目は
意味をなさなくさせるほどまでに言葉を酷使することではない。


2009年4月15日メモ

おそらく無意識はさまざまなことを同時にすることができるのであろう、
身体でリズムを取りながら、口が歌を歌い、手が熱したフライパンのなかに
殻を割った卵の中身を落とすように。

しかし、意識はさまざまなことを同時にすることができない。
すくなくとも、どのことも同じぐらい集中して意識することはできない。


二〇一六年三月二十三日 「poke」


とてもすてきな方から poke が毎日のようにある。彼はストレートだと思うのだけれど。どう思えばいいのかな? なんか高校生のときのような気持ちを持ってしまう。すてきな方じゃなければ、なにも感じないし、考えないのだろうけれど、笑。 すてきなんだよね。妄想してしまう。頭おかしくなる。そのひとの画像は見まくりだから、お顔ははっきりしてる。きょうは、そのひとのこと考えて寝ようかな。夢に出てきてくださりますように!

そいえば、高校のとき、柔道部の先輩が腕をもんでくれとおっしゃったとき、その先輩を好きだったから、めっちゃ恥ずかしかったのを憶えている。たぶん顔を真っ赤にして、もんでたと思う。人生なんて100年足らずのものだけれど、すてきな一瞬がいっぱいあったし、いまもあるのだろう。すごいことだ。

妄想全開で寝ます。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年三月二十四日 「幻覚」


朝、幻覚を3つ見た。さいごのが、強烈で、部屋の壁に手をあててたら、右から手が出て、ぼくの手にその手が溶け入ってきて、えっと思っていると、裸のぼく、20代の若いときのぼくがでてきて、ぼくに、「ぼくを分解して」というのだ「どういうこと?」と訊くと、「いまの詩は高次すぎて」「ぼくは音でやりたいんです。」という。言っているうちに、ぼくの若いときって、かわいいと思ってチューしようとしたら、彼の身体が顔を中心に青あざだらけになって、チューできる寸前で、ぼくも目がさめた。

それからまたすぐに、3つほど幻覚を見てて、ヘロヘロになっていたら、弟が部屋に入ってきて、「あっちゃん、どうしたん、なんかしんどそうやん」と言いながら坐ると、外国人女性の姿に変化していてナイフを手に持っていたので、すかさず「目が覚めればいいんや」という言葉を呪文のように口にしたら、目が覚めた。


二〇一六年三月二十五日 「図書館の掟。」


詩集『図書館の掟。』の編集をしていた。300数十ページになる予定。電子データにしていない作品が2作。ひとつは、「ヨナの手首。」もうひとつは、「もうすぐ百の猿になる。」という散文の哲学的断章。入力済みの作品もルビ処理をしていないので、相当にめんどくさい。しかし、つくらねばならない。少なくとも、きょうは、「ヨナの手首。」と「もうすぐ百の猿になる。」をワードに打ち込もう。

『ヨナの手首。』のワード打ち込み完了。あと、きょうじゅうに、『もうすぐ百の猿になる。』を入れたい。それと、私家版の詩集の『陽の埋葬』のさいごにいれた、『百葉箱のなかの祈祷書。』も、『図書館の掟。』のなかに入れたいと思う。これ以上入れると350ページを超えるので、ここくらいまでかな。

『引用について』という論考も入れる。それぞれの作品が照応しているので、入れなくてはならなくなった。『もうすぐ百の猿になる。』文章を直しながら入力しているのだが、長い。きょうじゅうに打ち込みたいが無理かもしれない。にしても、完全に理系の人間の文章だ。

『もうすぐ百の猿になる。』の打ち込み、A4サイズで、7枚のうち、2枚完了。なぜこんなに遅いかと言うと、散文詩だからである。しかも文章いじっているから、こんなにノロい。しかし、なぜ、この作品があることに気がつかなかったのだろう。あまりにむかしに書いたものだから書いたことも忘れてた。

『もうすぐ百の猿になる。』いまで、4ページ目の半分まで、打ち込み。ちょうど半分。ぼくの詩の原点ではないだろうかと文章中に書いていたが、そういう感じがする。見つけてよかった。晩ご飯を食べてこよう。きょうは目が覚めてから、ずっと文学してる。えらい。誰のためでもなく自分のためだけれど。

あと1ページ半。『もうすぐ百の猿になる。』も傑作だった。そのうち、文学極道に投稿しよう。

『もうすぐ百の猿になる。』の打ち込み終了した。あと『百葉箱のなかの祈祷書』の打ち込みが残っているけど、少なくとも30分間は横になろう。腰が痛い。『図書館の掟。』の収録作品数が27篇で、3の3乗である。たいへんうれしい。330ページをちょい超えである。333ページになればいいなあ。

『百葉箱のなかの祈祷書』の打ち込みが終わって、詩集の総ページ数を見たら331ページやった。惜しい。あと2ページ。ぼくが30代のころの作品が半分、残る半分が40代、50代の作品ということになる。きょう一日、ワードに打ち込んでいたのは、30代の作品だった。『陽の埋葬』の雰囲気が濃厚。

というか、長篇の『陽の埋葬』をいくつも収録しているから、当然、そうなるか。あしたの朝に元気があったら、目次をつくろう。そろそろクスリをのんで寝る。


二〇一六年三月二十六日 「詩集の編集」


目次つくったら、収録作品29作品だった。

入力するのが面倒なのでほっておいた『陽の埋葬』があったので、これから入力する。

本文の入力に一時間か。総ルビなので、これからルビ入れを。しかも、歴史的仮名遣い。神経質になる。

ルビ打ちにも一時間かかったか。総ルビ4ページ分で、これだけど、総ルビ50ページくらいの作品があって、まだルビ打ちをやってない。怖い。できれば、学校の授業のない春休み中にやっておきたい。いままで、どうして読書ばかりしていたのか。逃げてたんだな。やっぱり詩集の編集って、しんどいもの。


二〇一六年三月二十七日 「花見」


これから、きみやさん主催のお花見に。夜は竹上さんと日知庵で飲むので、お昼過ぎにいったん帰るかもしれない。きょうは、竹上さんに、ミシェル・トュルニエの全コレクションと、ヴァージニア・ウルフ関連の本をすべてプレゼントする。ああ、それでも、ぼくの本棚はまだまだギューギューだ。床積みの本が! 笑。


二〇一六年三月二十八日 「ニムロデ狩り」


日知庵に行くまえに、オーパ!のブックオフで、シェフィールドの『ニムロデ狩り』と、創元のアンソロジー『恐怖の愉しみ』上巻を108円で買った。

『The Marks of Cain。』の3分の2のルビ打ちをやった。めっちゃしんどかったけど、あと3分の1やったら、あしたじゅうにできるかなと思う。どだろ。まあ、とにかくがんばった。えらい。そだ。牛丼の吉野家で野菜カレー食べた。


二〇一六年三月二十九日 「夜は」


太陽だけでは影ができない。

夜は地球と太陽との合作である。


二〇一六年三月三十日 「ビタミン・ハウス」


大学院生のときに
四条大橋の東側に
ビタミン・ハウスって
ショウ・パブでバイトしてたことがあって
ちょっとのあいだ、女装してました、笑。
ええと、お客は、半分が坊主と金融屋さんでした、笑。
バブルのころで、すごかった。
お坊さんで
いまから考えると
ぽっちゃりとして
かわいいひとがいて
ぎゅっと手を握られて
うぶだったぼくは
顔がほてりました。
当時は、太ったひとがいけなかったので
それだけだったのですが
いまから考えると
そのお坊さんも20代のなかばで
ぽっちゃりとしたかわいい感じのひとだった。
京大のアメフトやってるひととすこし付き合って
すぐに別れました。
がさつに見えて
けっこう繊細で
ぼくの言葉によく傷ついていたみたいで
別れるとき
思いっきり文句言われました、笑。
さいきん、これまでに書かなかったことを
よく書いてるような気がします。
もうじき、50歳になりますから
(2年後ね)
もう怖いものが、そんなになくなってきたのかもしれません。
とはいっても、これはブログに貼り付けられないと思うけど、笑。

でも、いいのかな。
そんなバイトしたの学生時代だし。
時効だよね、笑。
当時のぼくの顔は
詩集の「Forest。」の本体のカヴァーをはずすと見れるようになっています。
化粧したら、どんな顔になるか、だいたい想像つくと思いまする。
しかし、まあ、48歳で、まだまだ、いっぱいカミング・アウトできるって
けっこう、ぼくの人生、めちゃくちゃなのかもね。
それとも、ほかのひともめちゃくちゃだけど
だまってるだけなのかなあ。
わかんないけど。
ふにゃ。
だから、ぼくが付き合った京大の学生だったエイジくんが
ぼくの部屋にはじめてきたとき
無断でパッとクローゼットをあけて
「女物の服はないな。」
と言ったのは、彼の正しい直感がさせた行為だったわけだ。
「なに言ってるの? バカじゃない。」
「女装してるかもしれへん思うてな。」
「そんな趣味ないよ。」
そんな会話の応酬がありました。


二〇一六年三月三十一日 「非喩」


いつもなら朝ご飯を食べるのだが、食べない。検診の日なのだ。

組詩にしていた長篇の『陽の埋葬』を5つの『陽の埋葬』にバラしたら、詩集『図書館の掟。』の総ページ数が337ページになった。

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『あまたの星、宝冠のごとく』 誤字・脱字 223ページ2行目「事実もものかは、」 意味がわからないだけではなく、どういう誤字・脱字を起こしているのかもわからない。

塾からの帰り道、「非喩」という言葉を思いついたのだが、もしかしたら前にも思いついたかもしれない。直解主義者のぼくだから。比喩に凝ってるもの読むと、ああ、このひと、頭わるいと思うことがよくある。なんで、そのまま書かないのだろうと思うことがよくある。事実そのままがいちばんおもしろい。


詩の日めくり 二〇一六年四月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年四月一日 「愛のある生」


愛のある生

それが、ぼくのテーマだ。

「生」とは
いのちの輝きのことだ。

しかし、嘘は、すばらしい。
人生を生き生きとしたものにしてくれる。
詩も、小説も、映画も、すてきな嘘で、
ぼくたちの生を生き生きとしたものにしてくれる。
最高にすばらしい嘘を、ぼくも書いてみたいものだ。
詩で、かなり自分のことを書き込んでいるけれど、
まだまだ上等な嘘をついていない気がする。


二〇一六年四月二日 「本って、いったい何なのだろう?」


詩集『図書館の掟。』の紙原稿チェックが終わった。ワードを直したら、一日おいて、もう1回、紙原稿をチェックしよう。来週中には、完成原稿が出来上がる感じだ。

いま日知庵から帰った。きょうは、何を読んで寝ようかな。買ったばかりの未読の本、数年前に買った未読の本、十年くらい前に買った未読の本。本、本、本。ぼくの人生は、本にまみれての人生だ。それでよいと思う。ぼくの知らないことを教えてくれる。ぼくの感じたことのないことを感じさせてくれる。

本って、いったい何なのだろう?


二〇一六年四月三日 「Here Comes the Sun。」


自分の右足が
自分の右足を踏めないように
ぼくのこころは
けっして、ぼくのこころを責めることはない。

千本中立売通りの角に
お酒も出す
タコジャズってタコ焼き屋さんがあって
30代には
そこでよくお酒を飲んでゲラゲラ笑ってた。
よく酔っぱらって
店の前の道にひっくり返ったりして
ゲラゲラ笑ってた。
お客さんも知り合いばっかりやったし
だれかが笑うと
ほかのだれかが笑って
けっきょく、みんなが笑って
笑い顔で店がいっぱいになって
みんなの笑い声が
夜中の道路の
そこらじゅうを走ってた。
店は夜の7時から夜中の3時くらいまでやってた。
朝までやってることもしばしば。
そこには
アメリカにしばらくいたママがいて
ジャズをかけて
「イエイ!」
って叫んで
陽気に笑ってた。
ぼくたちの大好きな店だった。

4、5年前かなあ。
店がとつぜん閉まった。

1ヶ月後に
激太りしたママが
店をあけた。

その晩は、ぼくは
恋人といっしょにドライブをしていて
ぐうぜん店の前を通ったときに
ママが店をあけてたところやった。

なんで休んでたのかきいたら
ママの恋人がガンで入院してて
その看病してたらしい。
ママには旦那さんがいて
旦那さんは別の店をしてはったんやけど
旦那さんには内緒で
もと恋人の看病をしていたらしい。
でも
その恋人が1週間ほど前に亡くなったという。
陽気なママが泣いた。
ぼくも泣いた。
ぼくの恋人も泣いた。
10年ぐらい通ってた店やった。
タコ焼きがおいしかった。
そこでいっぱい笑った。
そこでいっぱいええ曲を知った。
そこでいっぱいええ時間を過ごした。

陽気なママは
いまも陽気で
元気な顔を見せてくれる。
ぼくも元気やし
笑ってる。

ぼくは
自分の右足に
自分の右足を踏まないように命じてる。

ぼくのこころが
けっして、ぼくのこころを責めないように命じてる。

笑ったり
泣いたり

泣いたり
笑ったり

なんやかんや言うて
その繰り返しばっかりやんか

人間て
へんな生きもんなんやなあ。

ニーナ・シモンの
Here Comes the Sun

タコジャズに来てた
東京の代議士の息子が持ってきてたCDで
はじめて、ぼくは聴いたんやけど
ビートルズが、こんなんなるんかって
びっくりした。

親に反発してた彼は
肉体労働者してて
いっつもニコニコして
ジャズの大好きな青年やった。

いっぱい
いろんな人と出会えたし
別れた

タコジャズ。

ぼく以外のだれかも
タコジャズのこと書いてへんやろか。

書いてたらええなあ。

ビッグボーイにも思い出があるし

ザックバランもええとこやったなあ。

まだまだいっぱい書けるな。
いっぱい生きてきたしな、笑。


二〇一六年四月四日 「風が」


風が鉄棒にかけられていた白いタオルを持ち上げた。
影が地面の上を走る。
舞い落ちてくるタオルと影が一つになる。


二〇一六年四月五日 「詩集『詩の日めくり』の表紙のための写真を撮ってもらう。」


お昼、大谷良太くんちの近くのミスタードーナツに行く。詩集用の写真をいくつか撮ってもらうために。けっきょく、大谷良太くんちに行って、大谷良太くんとミンジュさんに撮ってもらった。6月に書肆ブンから出る『詩の日めくり』第一巻から第三巻までの3冊の詩集用の写真をこれから選ぶ。


二〇一六年四月六日 「図書館の掟。」


きょう『図書館の掟。』のタイトル作を見直して、3回目の見直しだけど、大きく変える個所が出たので、自分でもびっくりした。3回目の見直しで大きく変えるのは、はじめてだけど、テキストがだんぜんよくなるのである。こういうこともあるのだなと思った。単にアラビア数字を漢数字にするだけだけど。


二〇一六年四月七日 「パースの城」


思潮社オンデマンド詩集用の『図書館の掟。』の原稿を思潮社の編集長の高木真史さんにワードで送った。表紙用の写真もいっしょに。

きょうから、また読書の日々に戻る。そいえば、ティプトリー・ジュニアの短篇集『あまたの星、宝冠のごとく』を途中でほっぽってた。きょう、塾に行くまえに、お風呂につかりながら読んだ、ブラウリオ・アレナスの『パースの城』の42ページに、つぎのようなセリフがあって、それが、ぼくを喜ばせた。

「おや、ぼくだ」と叫んだ。「いったいどうなっているんだ? この部屋にどうしてぼくがふたりもいるんだ?」(ブラウリオ・アレナス『パースの城』第五章、平田 渡訳)


二〇一六年四月八日 「はじめて知ったこと」


ページレイアウトをクリックして、区切りをクリックして、次のページから開始をクリックすると、次のページからはじめられるということを、きょう、はじめて知った。いま試してみた。55歳、はじめての体験。20冊以上、詩集を出してて、この始末。いや、いい方にとろう。自分の知識が増したのだと。


二〇一六年四月九日 「鳥から学ぶものは樹からも学ぶ。」


日知庵から帰った。めっちゃかわいい男の子が知り合いの子といっしょに来てて、ドキドキした。植木職人の青年だ。26才。日知庵のえいちゃんにお店に置いてもらっているぼくの『ツイット・コラージュ詩』を彼が読んでくれて、「言葉が深いですね。」と言ってくれたことがうれしかったけど、自分の言葉が深いと思ったことなど一度もなかった。

「鳥から学ぶものは樹からも学ぶ。」とか、ぼくには、ふつうの感覚だし。と思ったのだけれど、彼は、ぼくの詩集を手にしながら、あとからきた女性客のところにふわふわと行っちゃった。ありゃま、と思って、ぼくは憤然として帰ってきたのであった。あしたは、遊び倒すぞ、と思いながら、きょうは寝る。

彼が、ぼくがむかし付き合ってた男の子に似ていたので、日知庵にいたときは、ぼくはドキドキ感覚で、チラッチラ見ながら、頭のなかでは、聖なるジョージ・ハリスンの曲がリピートしていたのであった。至福であった。日常が、ぼくにとっては、劇なのだ。しゃべり間違ったり、し損なったりする劇だけど。

日知庵にいた男の子のことを思い出しながら、寝ようっと。いや、むかし付き合ってた男の子のことを思い出しながらかな。たぶん両方だな。なんだかな〜。でも、やっぱり日常が最高におもしろい劇だな。それとも、おもしろい劇が日常なのかな。笑っちゃうな。ちょっぴり涙しちゃうな〜。それが人生かな。

あ、その男の子、植木職人だって言うから、こう言った。「きみが使ってる鋏から学ぶこともあるやろ? 人間って、なにからでも、学ぶことができるんやで。」って。55歳にもなると、こんな、えらそうなことを口にするのだと、自分でも感心した。えらそうなぼくだったな。


二〇一六年四月十日 「大谷良太くんのおかげで」


きょうも、大谷良太くんには、たいへんお世話になった。彼のおかげで、ぼくの作品が日の目を見ることができることになった。思潮社オンデマンドからは、これからは、年に1冊しか出せないと思潮社の編集長の高木真史さんに言われて、詩集用に用意してた『詩の日めくり』の原稿のことを大谷良太くんに相談したら、書肆ブンで出しますよと言ってくれて、ほんとうにありがたかった。捨てる神あれば、拾う神ありという言葉が脳裏をよぎった。ぼくが生きているあいだは、ぼくの作品なんかは、ごく少数のひとの目にとまるだけだと思うと、その思いも、ひとしおだった。


二〇一六年四月十一日 「きみの名前は?」


チャールズ・シェフィールドの『ニムロデ狩り』これ人名を覚えるのがたいへんだけど、おもしろい作品だ。いま202ページ目のさいしょのところ。140ページのうしろから4行目にひさしぶりに出合った言葉があった。「きみの名前は?」(チャールズ・シェフィールド『ニムロデ狩り』9、山高 昭訳)

「きみの名前は?」という言葉を、いまも収集しつづけているのだ。『HELLO, IT'S ME。』という作品のロングヴァージョンをつくっているのだ。いつ発表できるかどうかわからないけど。それは読書というものをやめたときかな。死ぬときか。ファイルにだけ存在することになるかもしれない。


二〇一六年四月十二日 「ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア」


ティプトリーの短篇集『あまたの星、宝冠のごとく』、救いのない作品が多い。彼女、こんなにネガティブだったっけ? と思うくらいネガティブ。でも、あまり、ひとのことは言えないかもしれない。ぼくのもネガティブな感じがするものね。『図書館の掟。』に、ぼく自身が出てくるけれど、唯一、そこだけは、ポジティブかもしれない。ティプトリーは何を持っていたっけ? と思って本棚をさがしてみた。けっきょく、部屋には4冊のティプトリーがあったのだった。『老いたる霊長類への賛歌』、『故郷から一〇〇〇〇光年』、『輝くもの天より堕ち』、そして読み終わったばかりの『あまたの星、宝冠のごとく』。タイトルだけでも、すごいいい感じだな。持っていないものを amazon で注文した。『星ぼしの荒野から』と『愛はさだめ、さだめは死』と『たったひとつの冴えたやりかた』と『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』の4冊。到着したら、ティプトリーでまとめて並べておこうかな。

さっき、ふと、バッド・カンパニー、セカンドしか残ってないから、ボックスで買おうかなと思った。あかんあかん。飽きては買い、飽きては買ってるバンドだ、笑。カンパニーで思い出したけど、増田まもるさんが訳したバラードの『夢幻会社』の会社って、カンパニーの訳だけど、この場合は、「友だち」の訳のほうが内容とぴったりくるんだけど、タイトル、誤訳じゃないのかな。ベテランだから、だれもなにも言わないのか、ぼくが間違ってるのか、わからないけどね。


二〇一六年四月十三日 「さいごの詩集」


塾に行くまで、シェフィールドの『ニムロデ狩り』のつづきを読もう。ぼくのさいごの詩集三部作の、『13の過去(仮題)』は●詩、『全行引用による自伝詩』は全行引用詩、『詩の日めくり』はコラージュである。好きな本を読んで、好きに詩をつくる。じっさいの人生で好きなことしなきゃ、意味がない。じっさいの人生でできることのなかに自分の好きなことがあると思おうとしているのではないかという疑念はあるけれど。どだろうね。55歳。まだ一日でも多く、本を読みたい。作品をつくりたいという欲求がある。その欲求が、ぼくのことを生かしているのかもしれない。

塾から帰った。雨で、リュックが濡れた。本はジプロックに入れてたから大丈夫。これからシェフィールドの『ニムロデ狩り』のつづきを読む。ようやく半分読めた。

いま、amazon で自分の本が売れてるかどうかのチェックをしてたら、『ツイット・コラージュ詩』(思潮社オンデマンド・2014年)が売れてた。セール中でもないのに。だれが買ってくれたんだろう。もしかしたら、先週、日知庵で手にとってくれた男の子かな。どうかな。とってもチャーミングな青年だった。まあ、生身の男の子だから、生身の女の子が誘ったら、ほいほいついてっちゃってたけど、笑。日知庵で飲んでると、めっちゃ人間観察できる。父親が糖尿病で失明したけど、どうか、神さま、ぼくから目だけは取り上げないでください。ありゃりゃ、『ゲイ・ポエムズ』(思潮社オンデマンド・2014年)も、最近になって売れてたみたい。売れ行き順位が上がってる。まだ買ってくださる方がいらっしゃるんだ。ありがたい。というか、ぼくが無名なので、最近、文学極道かどこかで発見してくださったのかもね。これは、無名の強みだわ。


二〇一六年四月十四日 「i see your face.」


これから塾に。塾の帰りに、日知庵に寄ろう。こころおだやかに生きていきたい。

i see your face. i see your face. とメロディーをつけて頭のなかで歌いながら、日知庵から帰ってきた。だれの音楽に近いかな。エドガー・ウィンター・グループかな。ぼくは音楽家にもなりたかった。いちばんなりたかったのは画家かな。音楽家かな。


二〇一六年四月十五日 「ノブユキとカレーを食べてた風景」


作家は、なりたかったものの一つだった。詩人というものになってしまったけれど、詩人は、子どものときのぼくのなりたいもののなかにはなかった。だって、詩人なんて、子どものぼくのときには、死んだひとばかりだったもの。生きている詩人がいるなんて知らなかった。

おやすみ、グッジョブ! きょうは、のぶゆきのこと、たかひろのこと、ともひろのこと、こうじくんのこと、じゅんちゃんのこと、えいじくんのこと、えいちゃんのこと、いっぱい思い出してた。ぜんぶむかし、でも、ぜんぶいま。ふっしぎ、ふしぎ。ぜんぶ、いまなんだよね。思い出すっちゅうことは。

きょうは学校の授業もないし、塾もない。シェフィールドの『ニムロデ狩り』を読み終わろう。さっき、ご飯を食べに外に出るまえ、クローゼットの下の本棚を整理して未読の本をまえに出して並べた。もっていることを知らない本が2冊ばかりあった。ジャック・ヴァンスの本もコンプリートに集めていた。

いま1冊のティプトリーが届いた。ぼくが唯一、読んでなかった『星ぼしの荒野から』であった。満足な状態の古書だった。カヴァーの絵が、どうしても購買意欲を刺激しなかったものだが、内容とは関係がないものね。出たときに買っておくべきだった。『ニムロデ狩り』あと55ページ。読んでしまおう。

『ニムロデ狩り』あと40ページ。これを読み終わったら、ティプトリーの『星ぼしの荒野から』を読もう。きょうは、お昼に、吉野家で、ベジ牛を食べた。帰りにセブイレで買ったサラダ2袋をこれから食べる。

シェフィールドの『ニムロデ狩り』を読み終わった。ハインラインとかゼラズニイとかの小説を読んでるような感じがした。ぼくが10代後半から20代のはじめころに読んでたSFのような雰囲気だった。悪くはなかった。というか、よかった。

焼きシャケのり弁当20ペーセント引き334円を買ってきた。これ食べたら、ティプトリーの未読の短篇集『星ぼしの荒野から』を読もう。

55歳にもなると、20年まえのことなのか、30年まえのことなのか、わからなくなるけれど、何度か書いたことがあると思うけれど、友だちんちのテレビで見たのかな、峠の甘酒を売ってる店で、恋人同士が甘酒をすすって飲んでいる場面があって、なぜかその場面がしきりに思い出されてくるのであった。仲のよい二人の人間が、向かい合って、あったかい甘酒をすすっている光景が、ぼくには、こころおだやかにさせるなにかを思い起こさせるのだと思うけれど、こうした光景が、ぼくのじっさいの体験のなかにもあって、それはノブユキとカレーを食べてたときの光景だったり、えいちゃんと、イタリヤ風に調理してあった大きな魚をいっしょに食べたりしたときの光景だったりするのだった。ぼくの脳みそがはっきりと働いてくれるのが、あと何年かはわからないけれど、生きて書いているうちに、そんな光景のことなんかも、ぜんぶ書いておきたい。


二〇一六年四月十六日 「詩の日めくり」


学校の帰りに、大谷良太くんの引っ越し先に行って、飲んでた。で、その帰りは、日知庵に行ってた。きょうは、めちゃ飲んでたけれど、意識ははっきりしている。書肆ブンから出る詩集『詩の日めくり』の第一巻から第三巻までの見本刷があしたくる予定。ネットで発表したものとちょこっと違う個所がある。

きょうも、授業の空き時間にティプトリーの短篇集『星ぼしの荒野から』を読んでた。コンプリートしてもよいと思った作家の一人であるが、読んでよかった。でも、まあ、寝るまえの読書は、気分を変えよう。ひさびさに、きのう寝るまえに、『モーム語録』のつづきを読んでいた。


二〇一六年四月十七日 「ゲラチェック」


『詩の日めくり』の第一巻から第三巻まで見本刷りがきた。活字の大きさを間違えてた。自分でもびっくり。一回、第一巻から第三巻まで目を通した。改行部分で間違っていた箇所があったり、英文部分の記号処理がうまくいってなかった箇所もあった。ルビの大きさを変える必要があると思うので、ルビの箇所にすべて付箋した。もう一度、見直そう。見本刷の二度目の見直しをしている。自分の作品でも、ええっと思うくらい、ノリのいいフレーズがいっぱいあって、見直ししているのか、詩を読んでいるのか、一瞬、わかんないときがあった。55歳にもなって、自分の詩作品を読んで、こころ動かされるというのは、そうとう脳がイカレテいる様子である。二度目の見直しが終わった。3度目の見直しをして、きょうは終わろう。3度目の見直しで、まだ見つかるミス。まあ、合計で、800ページあるからね。


二〇一六年四月十八日 「ゲラチェック」


4度目の見直し。まだミスが見つかる。

いま『詩の日めくり』の見本刷、第二巻を読みながらチェックしているのだけれど、わずか10か月前のことなのに、いまのぼくが記憶していない数字が出てきて(ジュンちゃんの年齢、ぼくの8つ下だから、すぐ計算できちゃうのだけど)びっくり。「46才になりました。オッサンです。」という彼の言葉。

文学極道に『詩の日めくり』を投稿してなかったら、記憶していなかったことばかり。作品にしないと読み返さないひとだからかもしれないけど。でもまあ、作品にしてよかった。『詩の日めくり』は死ぬまで書きつづけよう。そのときにしか見られなかった光景があるのだ。

『詩の日めくり』の見本刷・第二巻の4回目の見直しが終わった。第一巻の方がバラエティーに富んでるけど、第二巻の読みやすさは半端ではない、笑。これから第三巻の4回目の見直しをする。まだミスが見つかると思う。第二巻でさえ2か所あった。今週の金曜日まで繰り返し見直す予定だ。何回するかな。

『詩の日めくり』の見本刷の第三巻を読んでいるのだが、読んでいるというのは、もはや見直しというよりも、知らない詩人の作品を読んでいるような気がするからなのだが、随所にでてくる書いた記憶のないフレーズが新鮮で、まさに自分自身を驚かせるために、ぼくは書いているのだなと再認識した。


二〇一六年四月十九日 「省略という技法について」


バラはバラ
と書くと
この助詞の「は」はイコールで
「だ」とか「である」という言葉を
読み手は補う。
「だ」や「である」は、文法的には動詞ではないのだが
なんだったかな
形容動詞だったかな
忘れた
まあ、しかし
たとえば
バラは切断
あるいは
バラを切断
バラに接木
と書くと
「する」という動詞を
読み手は思い浮かべる。
では
バラはヒキガエル
だったら、どうか。
道を歩いていると、フェンスの間から
バラのように咲いているたくさんのヒキガエルがゲコゲコと鳴いている。
あるいは
ヒキガエルのように、ピョンピョン跳ね回るバラの花が川辺のそこらじゅうにいる
みたいなことを、思い浮かべる読者がいるかもしれない。
ぼくが、そんなタイプの読み手だけど
省略技法が発達している俳句や短歌や詩では
この暗示させる力がものをいう。
隠喩ですな。
あまりに頻繁な省略は
読み手に心理的な負荷を与えることにもなるので
てきとうに「省略しない書き方」もまぜていくことにしている。
そんなことを
いま、五条堀川のブックオフからの帰りに
自転車に乗りながら考えていた。


二〇一六年四月二十日 「拡張意識」


時間感覚が拡張されると
それまで見えていなかったものが見えるようになる。
最初は誘導剤によるものであったが、訓練することによって
誘導剤なしでも見えるようになる。
ゴーストや、ゴーストの影であるさまざまな存在物が見えるようになる。
人柱に使われているホムンクルスも、それまで見えていなかったのに
ベンチのすぐそばに瞬時に姿を現わした。
詩人は第一の訓練として、音の聞き分けをすすめていた。
川のせせらぎと、土手に植わった潅木の茂みで泣く虫の声。
集中すると、どちらか一方だけになるのだが
やがて、双方の音が同じ大きさで、
片方だけ聞こえたときと同じ大きさで聞こえるようになる。
つぎにダブルヴィジョンの訓練であった。
ぼくは詩人に言われたように
夜のなかに夜をつくり、世界のなかに世界をつくった。
夜の公園のなかで
ベンチに坐りながら、一日前のその場所の情景を思い浮かべた。
詩人は目を開けながら、頭のなかにつくるのだと言っていた。
電車のなかで
一度、ダブルヴィジョンを見たことがある。
仕事が昼に終わった日のことだった。
ダンテの「神曲」の原著のコピーをとらせてもらう約束をしていたので
近衛通りだったかな吉田通りだったかな
通りの名前は忘れたけれど
京大のそばのイタリア会館に行くことになっていたのだが
そこに向かう電車のなかで
向かい側のシートがすうっと透けて
イタリア会館のそばの道路の映像が現われたのだった。
その映像は、イタリア会館のそばの道路と歩道の部分で
人間が歩く姿や車が動く様子が映っていた。
居眠りをしているのではないかと思って、目をパチクリさせたが
映像は消えず、しばらくダブルヴィジョンを見ていたのだった。
電車が駅にとまる直前にヴィジョンが消えたのだが
意識のほうなのか
それともヴィジョンのほうなのか
弁別するのは難しいが、明らかにどちらかが
あるいは、どちらともが
複数の時間のなかに存在していたことになる。
ぼくは夜のなかに夜をつくった。
河川敷の地面がとても明るかった。
ぼくは立ち上がった。
見上げると二つの満月が空にかかっていたのだ。
ふと、ひとのいる気配がして振り返った。
そこには、目を開けてぼくを見つめる、ぼくがベンチに坐っていたのだった。
上のようなシーンは前にも書いていたけれど
このあいだ読んだ、だれだったかな
イアン・ワトスンだ
彼の言葉をヒントにして
なぜ、ホムンクルスやゴーストが見えなかったのに
見えるようになったか説明できるような気がする。
存在とは
出現すると瞬時に(ワトスンは、同時に、と書いていたが)消失するものだから
時間感覚が誘導剤で
あるいは
訓練によって拡張されると
この「拡張」という言葉は改めたほうがいいかもしれないけれど
視覚的に見えなかったものが見えるようになる
つまり
意識のなかに意識されることになるということなのだけれど
ううううん。
どうだろ。


二〇一六年四月二十一日 「メガマフィン、桜、ロミオとジューリエット、光華女子大学生たち」


朝からマックでメガマフィン。
大好き。
ハッシュド・ポテトも好き。
それからアイス・カフェオレ。

歩きながら桂川の方向へ。
光華女子大学のまえを過ぎると
花壇に植わった桜が満開やった。
桂川をわたって
古本市場で
新しいほうの「ロミオとジューリエット」の岩波文庫を買う。
105円。
あしたぐらいにつく岩波文庫の「ロミオとジューリエットの悲劇」は旧訳。
帰りに光華女子大学のまえを通ると
お昼前なのか
女子大生たちがいっぱいバス停に並んでた。
彼女たちの群れのなかを通ると
化粧品のいいにおいがいっぱい。
いいっっぱい。
だいぶ汗をかいたので
これからお風呂に。
マックには、朝の7時30分から9時15分までいて
「未来世紀ブラジル」を聴きながら、詩集のゲラの校正をしていた。
校正箇所、3箇所見つかった。
天神川通りの交差点で
信号待ちしていると
タンポポの綿毛が
ズボンのすそにくっついちゃって
パッパッてはらったけれど
完全にはとれなくって
それで洗濯中。
めんどくさい。
きょうも2度の洗濯。
これから暑くなっていくから
しょっちゅう洗濯しなきゃならなくなる。


二〇一六年四月二十二日 「無名性」


きょうもヨッパ。日知庵→きみや→日知庵のはしごのあと、以前にかわいいなと思っていた男の子と偶然、電車で乗り合わせて、駅の近くのバーでいっしょに飲んだ。人生というものを、ぼくは畏れているし、嫌悪しているけれど、愛してもいる。嫌悪すべき日常に、ときたまキラキラ輝くものがあるのだもの。

しじゅう無名性について考えている。無名であることによって、ぼくは自由性を保てているような気がしている。『詩の日めくり』の見本刷を何日か読み返してみて、実感している。芸術家は生きているあいだは無名であることが、たいへん重要なことだと思っている。死後も無名であるのなら、なおさらよい。

ああ、つまり、ふつうのひとということだ。詩人であるまえに、一個の人間なのだ。人間としての生成変化が醍醐味なのだ。人間であること。それは畏れざるを得ないことであり、嫌悪せざるを得ないことだし、愛さざるを得ないことでもある。詩人は、言葉によって、そのことを書いておく役目を担っている。

ティプトリー、コンプリートに集めてよかった。きょうきたトールサイズの文庫本2冊、1冊はなつかしい表紙だった。もう1冊は新しい表紙だけど、かわいらしい。こんなに本を愛しているぼくのことを、本もまた愛してくれているのかしら? どうだろう? まあ、いいか。一方的な愛で。ぼくらしいや。

朝から夕方まで、大谷良太くんに、ずっと『詩の日めくり』第一巻から第三巻の校正をしてもらってた。書肆ブンから出すことができることになって、ほんとによかった。二回目の見本刷が5月に届くことになっている。きっちり見直しますね、150か所ほど直しを入れてもらって申し訳なかったです。


二〇一六年四月二十三日 「黄金の丘」


ついに黄金の丘に行きます.
古い通り鴨肉を食べた.
まだ買ってない問"クラスト"たこ焼き
隣の女性が買うのはゲストに聞け
女性のゲスト
:" そこにはもっとパリパリした?"
ボス :" えい..........."

女性のゲスト
:" はとてもサクサク??"
ボス :" それは私のために一生懸命に説明することは,
あなたを知るのみで食べたわ"
女性のゲスト
:" 以上がサクサク鶏の胸肉もサクサク??"

ボス& me &小さな新しい :" .....................( 何も言えない)"
だから何か正確にはサクサク

これ、FBフレンドの言葉を、中国語を日本語に自動翻訳したものだけれど、ぼくには詩に思える。というか、笑えた。


二〇一六年四月二十四日 「クリポン」


いま日知庵から帰ってきた。竹上さんと栗本先生と、3人でホラー話やなんやかで楽しく飲んでいた。詩や小説もおもしろいけれど、実人生がおもしろいなと再確認した。それは人生が困難で苦痛に満ちたものだからだろうとも思う。簡単で楽なものだったら、おもしろさも何十分の1のものになってしまうだろう。


二〇一六年四月二十五日 「ミニチュアの妻」


食事のついでに、西院の書店で新刊本を見ていたのだけれど、とくに欲しいと思う本はなかった。イーガンのは、未読のものが2冊あるし、もういいかなって感じもあって、買わなかった。バチカルピ(だったかな)は、前作がひどかったので、もういらないと思ったし、唯一、知らない作家の本で、手が動いたのは、ずっとまえから気になってた『ミニチュアの妻』という短篇集だけだった。裏表紙の解説を読んで購買意欲がちょっと出て、迷ったあげくに、本棚に戻したけれど、とくにいま買う必要はないかなという感じだったので、何も買わなかった。創元から出てる『怪奇小説傑作集』全5巻を古いカバーのもので持っていて、ぜんぶ読んだのだけれど、新しいカバーのものは、字がちょっと大きくなっているのかな。これを買い直して、古い方は、もう一度、お風呂場で読んで捨てるという方向も考えた。しかし、あまり健全な読書の仕方ではないなと思って、いまのところ思いとどまっている。欲しい本が出ればいいのだけれど。と書いて、パソコンのうしろから未読の単行本たちの背表紙が覗いた。『翼人の掟』『宇宙飛行士ピルクス物語』『モッキンバード』『ジーン・ウルフの記念日の本』『第四の館』『奇跡なす者たち』『フラナリー・オコナー全短篇』上下巻、『ウィザード』I、II『ナイト』I、II 一段だけの未読本だけど、読むの途中でやめた『ゴーレム』とかも読んでおきたい。そいえば、クローゼットのなかの本棚にしているところには、『ロクスソルス』『暗黒の回廊』『さらば ふるさとの惑星』などといった単行本も未読だった。ソフトカバーの『終末期の赤い地球』などもある。壁面の本棚の岩波文庫、ハヤカワSF文庫と銀背や創元文庫も、未読の棚が2段ある。読んでいない洋書の詩集や、書簡集もたくさんある。なんで、まだ本を買いたいと思うのだろうか。病気なんだろうな。『ミニチュアの妻』買いたくなってきた。西院の書店に行ってくる。マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』と、アン・レッキーの『反逆航路』と『亡霊星域』を買ってきた。5500円台だったけれど、図書カード5000円分があったので、自分で出したお金は500円ちょっと。どうだろ。おもしろいだろうか。というよりも、いつ読むだろうか、かな。きょうは、これから寝るまで、ティプトリーの『星ぼしの荒野から』のつづきを読む。


二〇一六年四月二十六日 「緑の柴田さん。」


学校から帰ってきた。夜は塾。塾に行くまで、ティプトリーの短篇集『星ぼしの荒野から』のさいごの1篇を読む。これが終わったら、せっかくきのう買ったのだから、アン・レッキーの『反逆航路』を読もう。設定がおもしろい。

ティプトリーの短篇集『星ぼしの荒野から』を読み終わった。この中の短篇は、どんでん返しのものが多いような気がする。しかも、後味のよいものよりも悪いもののほうが多い。これから、ルーズリーフ作業に入る。そのあと時間があるようだったら、塾に行くまで、アン・レッキーの『反逆航路』を読もう。

ルーズリーフ作業が終わった。これから、塾に行くまで、アン・レッキーの『反逆航路』を読む。どんな新しい感覚をもたらせてくれるのか、あるいは、くれないのか、わからないけれど、数多くの賞を獲得した作品なので、読むべきところはあるだろう。なかったら、続刊といっしょに捨てる。

基本的な文献は読んでおかなくてはいけないと思って、きのう amazon で、『象を撃つ』の入っている短篇集『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』(柴田元幸編訳)を買っておいた。スウィフトの例の話も載っている。貧乏人の子どもは食糧にしちゃえってやつ。『信号手』や『猿の手』も入っているのだけれど、これらは創元の『怪奇小説傑作集』のさいしょのほうの巻に入ってたりして読んでるけど、『猿の手』はたしかに傑作だと思うけど、『信号手』はいまいち、よくよさがわからない。ぼくの感性や感覚が鈍いのかもしれない。

これから塾へ。そのまえに、なんか食べよう。塾の帰りは日知庵に飲みに行く。

吉野家でカレーライスを頼んで食べたのだが、そのカレーライスに、綾子と名前をつけて食べてみた。味は変わらなかったけれど、自分が気が狂っているような雰囲気が出てスリリングだった。こんどからは、むかし付き合った男の子たちの名前をつけて、こころのなかで、その名前をつぶやきながら食べよう。

レッキーの『反逆航路』ちょっと読んだだけだけど、これは、言語実験したかったのかなと思う。その実験のためにSFの意匠を借りたのではないかと思われる。どかな。そろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 隣の部屋のひとのいびきがすごくて怖い。

塾から帰った。コンビニでかっぱえびせん買おうと思ったらなかったので、ねじり揚げなるものを買ってきた。108円。レッキーの『反逆航路』38ページ6行目に「詩は文明の所産であり、価値が高い。」(赤尾秀子訳)とあったが、どうやら、古代・中世の中国あたりの歴史を意識した未来世界のようだ。しかし、単なる皮肉ととらえてもよいかもしれない。

これから寝るまで、レッキーの『反逆航路』を読む。いま68ページだけれど、物語はほとんどはじまってもいない感じ。むかしのSFとは違うのだな。枕もとに積み上げた10冊以上の本を見たら、溜息がでた。ここ数週間のうちで、読みたいと思って買った本だけど、いつ読むことになるのか、わからない。

2014年に思潮社オンデマンドから出た『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』が、さいきん売れたみたいで、うれしい。自分の詩じゃないけれど、自分の詩のように愛しい詩ばかりだ。いや、もしかしたら、自分の作品以上に愛しているかもしれない。

クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! しかし、『叛逆航路』いま112ページ目だが、流れがゆるやかだ。退屈してきた。

いま気がついた。『叛逆航路』中国じゃなくて、インドが参考になってるのかもしれない。

いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ〜。帰り道、『詩の日めくり』にも出てくる「緑がたまらん。」の柴田さんに会った。


二〇一六年四月二十七日 「俳句」


携帯折ってどうしようというの われは黙したり

そもそものところ あなたが悪い 母は黙せり


二〇一六年四月二十八日 「短歌」


大きい子も小さい子も 首が折れて折れてしようがない夏


二〇一六年四月二十九日 「それだけか?」


何年前か忘れたけれど
マクドナルドで
100円じゃなく
80円でバーガーを売ってたときかな
1個だけ注文したら
「それだけか?」
って、バイトの男の子に言われて
しばし
きょとんとした。

何も聞こえなかったふりをしてあげた。
その男の子も
何も言ってないふりをしてオーダーを通した。
このことは
むかし
詩に書いたけれど
いま読んでる「ドクター・フー」の第4巻で
「それだけか?」
って台詞が出てきたので
思い出した。


二〇一六年四月三十日 「ヤフオク」


きょうは、たくさんの本を
ヤフオクで入札しているので
部屋から出られません、笑。



運動不足にならないように
音楽を聴きながら
踊っています。


二〇一六年四月三十一日 「トップテン」


むかし
叔父が所有していた
河原町のビルの10階に
トップテン
というディスコがあったんですけれど
そこには
学生時代
毎週踊りに行ってました。

あるとき
カップルの女性のほうから
「わたしの彼が、あなたと話がしたいって言ってるの」
と言われて
カップルに誘惑されたことがあって
ぼくが20歳かな
ちょっとぽちゃっとして
かわいかったころね。

その女性の彼氏が
またすっごいデブだったの、笑。
笑っちゃった。

ちゃんとお話はしてあげたけれど。
それだけ。

そういえば
東山丸太町のザックバランでは
やっぱり女の子のほうからナンパされて
朝までのみつぶれたことがあった。
女の子とは20代に何人か付き合ったけれど
どの子もかわいかったんだけれど。

いま48歳になって
もうそんなことはなくなってしまったけれど
そんな思い出を言葉にして
もう一度
自分の人生を
生きなおすことは
たいへん面白い。

老年というものは
もしかしたら
そんなことのためにあるのかもしれない。

ある種のタイムマシーンやね。
この叔父って
河野せい輔っていって
(せい、ってどんな漢字か、忘れた)
ぼくの輔は
そこからきてるって話で
この叔父の所有してた有名なビルに
琵琶湖の
おばけビルがあって
まあ
この叔父
醍醐にゴルフ場も持ってたんだけれど
何十年か前に
50億円くらいの借金を残して死にました。
げんが悪いわ、笑。
ぼくの名前。

輔は
神社でつけてもらったっていう話も
父親はしていて
まあ
両方やったんやろね。
どっちが先かっていえば
叔父の名前が先だろうけれど。


おばけビルじゃなくて
おばけホテルね。

仮面ライダーとかの撮影で使われたりしてたんじゃないかな。
むかし
恋人とドライブしていて
見たことあるけど
まあ
ふつうの廃墟ビルやったね。


詩の日めくり 二〇一六年五月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年五月一日 「叛逆航路」


お昼から夕方まで、『The Wasteless Land.』の決定版の編集を大谷良太くんとしていて、そして、大谷くんと韓国料理店に行って、居酒屋に行って、そのあと、ひとりで、きみやに行って、日知庵に行って、いま、帰ってきた。帰りに、ぼくんちの近くのスナックのまえで八雲さんに会った。

きみやさんでは、元教え子の生徒さんにも遭って、ああ、京都に長く住んでいると、こういうこともあるのだなと思った。そいえば、王将で、元教え子から、「田中先生でしょう?」と言われて、ラーメン吹き出したこともあったよなあ。悪いこと、できひん。しいひんけど。いやいや、してる。している。

アン・レッキーの『叛逆航路』あと80ページほど。進み方がゆるやかだ。むかしのSFのおもしろさとは異なるおもしろさがあるが、むかしのSFを知っている者の目から見ると、物語の進行が遅すぎる。きょうじゅうに読めたら、あしたから続篇の『亡霊星域』を読むことにしよう。

あしたは、学校の授業が終わったら、大谷良太くんと、ふたたび、『The Wasteless Land.』決定版の編集をいっしょにする。きょうは、夜になったら、文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくろう。

アン・レッキーの『叛逆航路』おもしろかった。展開が遅かったけれど、終わりのほうがスコットカードを思い起こさせるような展開で楽しめた。この作品のテーマは、「人間には感情があり、恩情を受けた者はそれを忘れることができない。」一言でいえば、こう言い表し得るだろうか。さっそく続篇に目を通す。

きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり」ができた。これから、アン・レッキーの『亡霊星域』を読もう。冒頭だけ読んだ。翻訳者が赤尾秀子さんで、前作『叛逆航路』と同じなので、安心。前作は誤字・脱字が一か所もなかったように思う。さいきんの翻訳では、めずらしい。


二〇一六年五月二日 「さつま司」


いつもは
白波っていう芋焼酎を飲むんやけど
これ飲んでみ
と言われて出された
アサヒビールからだしてる
さつま司っていうヤツ
ちょっとすすったらオーデコロンの味が
オーデコロンなんか、じっさいにすすったことないけど
そんな味がした。
匂いはぜんぜんなくって
こんなん注文するひといるのって訊いたら
いるよって
ああ、ぜったい、変態やわ。
味のへんなヤツ好きなのっているんだよね。
ってなこと言ってると
美男美女のカップルが入ってきて
へしこ
頼んだのね
ひゃ〜
臭いもの好きなひともいるんやなあって話をしたら
そのカップルと
臭い食べ物の話になって
ぼくが、フィリピン料理で
ブタの耳のハムがいちばん臭かったって話をしたら
女性のほうが
カラスミのお茶漬けとか
いろいろ出してきて
うわ〜、考えられへんわ
って言った。

きのう、帰りの電車の窓から眺めた空がめっちゃきれいやった。
あんまりきれいやから笑ってしもうた。
きれいなもの見て笑ったんは
たぶん、生まれてはじめて。
いや、もしかすると
ちっちゃいガキんちょのころには
そうやったんかもしれへんなあ。
そんな気もする。
いや、きっと、そうやな。
いっつも笑っとったもんなあ。

そや。
オーデコロンの話のあとで
頭につけるものって話が出て
いまはジェルやけど
むかしはチックとかいうのがあってな
父親が頭に塗ってたなあ
チックからポマードに
ポマードからジェルに
だんだん液体化しとるんや。
やわらかなっとるんや。


二〇一六年五月三日 「キプリングみたい。」


大谷良太くんちから。帰ってきて、自分の詩集の売れ行きを amazon で見て、またきょうも売れてたので、うれしい。思潮社オンデマンドの詩集がいま40パーセント引きなので、そのおかげもあるかな。『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他』と、『全行引用詩・五部作』の上巻と下巻が売れてた。

アン・レッキーの『亡霊星域』おもしろい。イギリスっぽい。キプリングみたい。とか思ってたから、前作『叛逆航路』の解説を読んで、アメリカ人の作家というので、びっくり。書き込みが、イギリス人の作家のように、意地が悪いと思うのだけれど、たんに作家のサーヴィス精神が豊かなだけかもしれない。


二〇一六年五月四日 「アイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」


ええっ。きょうも amazon での売り上げ順位が上がってた。思潮社オンデマンドから出た詩集『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他』と『全行引用詩・五部作・上巻』と『全行引用詩・五部作・下巻』。ぼくの作品集のなかでも傑作たちだからよかった。そうでなかったら、買ってくださった方に申し訳ないものね。ありゃ、2014年に出した『ツイット・コラージュ詩』も売れてた。『ゲイ・ポエムズ』や『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』も売れてほしいなあ。

きょうも、これから大谷良太くんとミスドに。

ぼくにとって、詩は単なる趣味である。生きていくことは趣味ではない。なかば強制されているからだ。ぼくは、それは神によってだと思っているが、生きていくことは苦しいことである。しかし、その苦しみからしか見えないものがある。そして、これが趣味である詩が人生というものに相応しい理由なのだ。

ぼくにとって、人生は単なる趣味である。詩は趣味ではない。なかば強制されているからだ。ぼくは、それは神によってだと思っているが、詩を読み書きすることは楽しいことでもある。そして、その楽しみからしか見えないものがある。そして、これが趣味である人生が、詩というものに相応しい理由なのだ。

アン・レッキーの『亡霊星域』あと20ページほど。柴田元幸訳の『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読もう。

きのうは一食だけのご飯だった。きょうも、そうしよう。読書とゲラチェックに専念。そいえば、来週に投稿する『詩の日めくり』もつくらなければならない。文学、文学、文学の日々だけれど、ひとから見れば、ただ趣味に時間を使っているだけ。そっ。じっさい、趣味に時間を費やしているだけなのである。

セブイレで、サラダとサンドイッチ2袋買ってきた。BGMは、リトル・リバー・バンドのベスト。アン・レッキーの『亡霊星域』誤字・脱字ゼロだった。純文学の出版社より、創元やハヤカワのほうが優秀な校正家を抱えているようだ。高い本で、誤字・脱字に気がついたときの気落ちほどひどいものはない。

これから、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読む。きょう、あすじゅうに読み切りたい。

スウィフトの『アイルランド貧民の‥‥‥』を読んだ。ひとを食べちゃう話は、ぼくもいくつか書いているけれど、スウィフトみたいに実用的な用途で子どもを食べるという案は、じつに興味深い。というか、この1篇が読みたくて、この単行本を買ったようなものである。コーヒーを淹れて、つぎのシェリーのを読もう。

シェリーの『死すべき不死の者』は、なんだかなあという感じ。傑作ちゃうやんという思いがする。つぎにディケンズの『信号手』を読むのだけれど、まえにも読んだとき、どこがいいのかぜんぜんわからなかった。きょうは、どだろ。BGMはジェネシス。ディケンズを読み終わったら、コーヒーを淹れよう。

9時半に日知庵に、竹上 泉さんと行くことに。

ディケンズの『信号手』を読み終わった。どこがいいのか、まったくわからない。以前にアンソロジーで読んだときにも、まったくおもしろくなかった。つぎは、ワイルドの『しあわせな王子』だけど、そろそろお風呂に入って、日知庵に行く準備をしないと。


二〇一六年五月五日 「超大盛ぺヤングの罪悪感」


超大盛のペヤングを食べて、罪悪感にまみれている。

しあわせな気分で眠るには、どうしたらいいだろう。とりあえず、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』のつづきを読もう。たしか、ワイルドの「しあわせな王子」からだった。ワイルドといえば、フランスでの彼の悲惨な最期を思い出す。その場面の一部を作品化したことがあるけれど。

ワイルドの「しあわせな王子」を読んで、ちょびっと涙がにじんだ。ぼくはクリスチャンじゃないけど、やっぱり神さまはいらっしゃるような気がする。おやすみ、グッジョブ! ジェイコブズの「猿の手」を読んで明かりを消そう。ほかのひとの訳で読んだことがあるけど、これは傑作中の傑作だった。

ようやく起きた。これからプリンスを追悼して、プリンス聴きながら、新しい『詩の日めくり』をつくる。そのあと、詩集の校正をもう一度する。


二〇一六年五月六日 「グースカ・ポー!」


木にとまるたわし

気にとまるたわし

木にとまる姿を想像する
やっぱりナマケモノみたいにぶら下がってるって感じかな。

職場のひとたちや
居酒屋の大将や
近所のスーパー大国屋のレジ係りのバイトの男の子や女の子や
買い物してるオバサンや子どもも
みんな、とりあえず、木にぶら下がってもらう。
で、顔をこちらに向けて。
やっぱ、きょとんとした感じで。

歩いてるひとは
そうね
突然飛び上がって
丸くなってもらって
空中に浮いて
そのまま、やってきてもらおうかな。

車を運転してるひとは
とりあえず、ハンドルから手を離してもらって
両手を広げて
車から透けて足をのばして
空中に舞い上がってもらって
そのままずっと上っていってもらおうかな。

ぼくは
仏さまのように
半眼で
横向きになって
居眠りしようかな。

グースカ・ポーって。
行きますよ。


二〇一六年五月七日 「思い出せない男の子」


詩は、ぼくにとって、記憶装置の一つなのだけれど、こんど投稿する新しい『詩の日めくり』に、名前(したの名前だけ)も、身長も、体重も、年齢も、そのときの状況も、そのときの会話も書いてあるのに、まったく顔が思い出せない男の子がいて、ノブユキ似って書いてるんだけど、まったく思い出せない。

これから大谷良太くんちに。

大谷良太くんちから帰ってきた。見直さなきゃならない個所があって、見直したら、ぼくが直したところが間違ってた。とんまだわ。

これからお風呂に、それから日知庵に。

いま日知庵から帰った。帰り道で、柴田さんと会って、あいさつした。


二〇一六年五月八日 「ミニチュアの妻」


ようやく身体が起きた。なんか食べてこよう。帰ったら、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』のつづきを読もう。

あと、4、50ページで、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読み終える。傑作は、さいしょのスウィフトのもののみ。あとはワイルドのくらいか。「猿の手」は、ほかの方の訳のほうが怖かった。これからオーウェルの「象を撃つ」を読む。有名な短篇だけれど、はじめて読む短篇だ。

ジョイスの抒情は甘すぎる。岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』上下巻のほうがはるかに優れた作品を収録していた。きょう、さいごに飲むコーヒーを淹れて、オーウェルを読もう。

『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読み終わった。スウィフトとオーウェルのだけが傑作であった。ジェイコブズの『猿の手』もよかったかな。さいごのディラン・トマスのクリスマスの話はよくわからなかった。詩人の書いた散文って感じなだけで、感動のかけらもなかった。

これから、寝るまで、マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』を読む。翻訳者のお名前がはじめて拝見するものだったので、翻訳の文体が心配だけど。それはそうと、ケリー・リンクの訳はよかったけど、マスターピースの柴田元幸さんの訳文、ぼくはあまり好きじゃなかった。

ゴンザレスの短篇2篇を読んだ。完成度の低さにびっくりするけれど、読めなくもない。きょうは、ゴンザレスの短篇を読みながら床に就く。


二〇一六年五月九日 「歯痛を忘れるためのオード」


学校から帰ってきた。夜に塾に行くまで、ゴンザレスの短篇集を読む。きのう寝るまえの印象では、あまりつくりこみがよくないように思えたのだけれど、きょう通勤で読んだ短篇でわかったのだけれど、基本、奇想系のものは、つくりこむのがむずかしいのだと。発想の段階でもうほとんどすべてなのだと。

悪くない。十分に楽しめる作品たちである。マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』 再読するかどうかはわからないけれど、本棚に置こう。

わ〜。きょう塾がなかったの、忘れてた〜。時間がある。ゴンザレスの短篇集のつづきを読みつづけよう。それとも、6月に文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくる準備をしようか。両方しよう。塾の授業がないだけで、気分がぜ〜んぜん違う。

きょうは塾がなかったのだった。

こんどの土曜日に、河村塔王さんと、日知庵で、ごいっしょすることになった。

きのう文学極道に投稿した自分の『詩の日めくり』を読んでて、ふと思いついた。『歯痛を忘れるためのオード』とかいったタイトルで作品を書こうかな、と。まあ、オードという形式について知識がゼロだし、無知丸出しだけど、ちょっと勉強しようかな。頭痛を忘れるためのオードとか、腹痛を忘れるためのオードとか、腰痛を忘れるためのオードとかも書けるかも。あ、五十肩を忘れるためのオードちゅうのもいいかもしれへん。首を吊ったばかりのひとも耳を傾けたくなるオードとか、飛び込み自殺しようとして飛び込んで電車にぶつかる直前にでも耳を傾けたくなるオードとかも考えられる。死んだばかりのフレッシュな死体さんにも、死を直前にしたひとにも、朗読されて気持ちがいいなって思ってもらえるような詩を書いてみたい。


二〇一六年五月十日 「塾の給料日」


いま帰ってきた。詩集3冊の見本刷りを郵便局に6時に着くように取りに行く。それから塾だ。これからカレーパンと胡桃パンの晩ご飯を食べる。とりあえず、コーヒー入れよう。きょうも、前半戦でくたくた。塾、きょう給料日だ。うれしい。

マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』に、一か所だけ誤字・脱字があった。216ページさいごの1行「なだめすかしたりしなくてもを小屋から出すことができたので」 「を」が間違って入ったのか、「そいつを」の「そいつ」が抜けているのか、どちらかだと思うのだが、しっかり校正しろよ。

きょうは、塾の給料日だったので、帰りに、スーパー「マツモト」で半額になった握り寿司340円を買った。きょうから寝るまえの読書は、『ジーン・ウルフの記念日の本』何度か読もうかなと思っていたが、手にとっては本棚に戻し手にとっては本棚に戻した本だった。さすがに、きょうからは読もうかな。


二〇一六年五月十一日 「ジーン・ウルフの記念日の本」


ジーン・ウルフの短篇集、きのう寝るまえに2篇読んだのだけど、2篇目の作品がまったく意味がわからなくて、2回読んだけど、もう1度読んでみる。

『ジーン・ウルフの記念日の本』に2番目に収録されている「継電器と薔薇」、3度読んで、ようやく内容がわかった。ジーン・ウルフはわりと、ぼくにはわかりやすいと思っていたのだが、そうでもない作品があるのだなと思った。理解を妨げた原因には、書かれた時代を現代がとっくに超えてることもある。

これから王将に。それから塾へ。

塾から帰った。ジーン・ウルフの短篇集のつづきを読む。


二〇一六年五月十二日 「Love Has Gone。」


それ、どこで買ってきたの?
高島屋。
えっ、高島屋にフンドシなんておいてあるの?
エイジくんが笑った。

たなやん、雪合戦しよう。
はあ? バカじゃないの?
俺がバカやっちゅうことは、俺が知ってる。
なにがおもしろいん?
ええから、雪合戦しようや。

それからふたりは、真夜中に
雪つぶての応酬。

俺が住んでるとこは教えへん。
こられたら、こまるんや。
たなやん、くるやろ。
行かないよ。
くるから、教えたらへんねん。
バカじゃないの?
行かないって。

木歩って俳人に似てるね。
たなやんの目から見たら、似てるんや。
まあ、彼は貧しい俳人で、
きみみたいに建設会社の社長のどら息子やないけどね。
似てるんや。
ぼくから見てね。

姉ちゃんがひとりいる。
似てたら、こわいけど。
似てへんわ。
やっぱり唇、分厚いの?
分厚ないわ。
ふううん。
俺の小学校のときのあだ名、クチビルお化けやったんや。
クチビルおバカじゃないの。
にらみつけられた。

つかみ合いのケンカは何度もしていて
顔をけってしまったことがあった。
ふたりとも柔道してたので
技の掛け合いみたいにね、笑。
でも、本気でとっくみ合いをしてたから
あんまり痛くなかったのかな
それとも、本気に近いことがよかったのか
エイジくんが笑った。
けられて笑うって変なヤツだとそのときには思ったけれど
いまだったら、わかるかな。

こんどの詩集にでてくるエイジくんのエピソード。
日記をつけてたんだけれど
捨ててしまった。


二〇一六年五月十三日 「31」


いま日知庵から帰った。奥のテーブル席に坐っていた男の子がかわいいなと思って(向かいの席には女の子がいたけど)帰りに声をかけた。「いまいくつ?」「31です。」「素数じゃん!」「えっ?」「みそひと文字で短歌だよ。三十一は短歌で使う音数だよ。」と言ったら、そうなんすかと笑って返事した。

男からも女からも好かれるような、かわいい顔をしてた。ぼくがあんな顔をして生まれていたら、きっと人生ちがってただろうな。ぼくはブサイクだから、勉強したっていうところがあるもの。まあ、ブサイクだから詩を選んだっていうことは、かくべつないんだけどね、笑。

あした、大谷良太くんちに行く。『詩の日めくり』の第一巻から第三巻の最終・校正をするために。そろそろ寝よう。日知庵にいた、めっちゃ、かわいい男の子が、きっと夢に出てきてくれると思う。ハーフパンツで、白のポロシャツ。女の子にも受けるけど、ゲイ受けもすごいと思うくらいかわいかった。ベリ・グッド!

あの男の子が夢に出てきてくれますように、祈りつつ……


二〇一六年五月十四日 「きみの名前は?」


きみの名前は? 
(ジーン・ウルフ『養父』宮脇孝雄訳、短篇集『ジーン・ウルフの記念日の本』170ページ後ろから4行目)

きみの名前は? 
(ジーン・ウルフ『フォーレセン』宮脇孝雄訳、短篇集『ジーン・ウルフの記念日の本』181ページ5行目)

ひさしぶりにウルトラQを見よう。「宇宙指令M774」「変身」「南海の怒り」「ゴーガの像」

『ジーン・ウルフの記念日の本』を読み終わった。まあ、車が妊娠して車を生む短篇以外は、凡作かな。あの「新しい太陽の書」シリーズの作者とは思えないほどの凡作が並んでいた。『ナイト』と『ウィザード』のI、IIを買ってあるけれど、読む気が失せた。代わりに、きょうから寝るまえの読書は、ジャック・ヴァンスの短篇集『奇跡なす者たち』にしよう。ヴァンスは、コンプリートに集めた作家の一人だが、これまたコンプリートに集めた作家にありがちなのだけど、持っている本の半分も読んでいない。さすがに、「魔王子」シリーズは読んだけど。

いま日知庵から帰った。河村塔王さんと5時からずっとごいっしょしてた。現代美術のエッジにおられる方とごいっしょできてよかった。ぼく自身は、無名の詩人なんだけど、といつも思っている。謙虚なぼくである。


二〇一六年五月十五日 「ビール2缶と、フランクフルトと焼き鳥」


いま、まえに付き合ってた子が、ビール2缶と、フランクフルトと焼き鳥をもってきてくれた。朝から飲むことに。

きょうやらなければならないと決めていた数学の問題づくりが終わった。休憩しよう。きのう、河村塔王さんからいただいたお茶を飲もう。見て楽しめる、香りも楽しめるお茶らしい。

自分でも解いてみたが。OKだった。夜は、あしたやるつもりだった数学の問題をつくろうかな。そしたら、あしたは、ワードに打ち込むだけで終わっちゃうし。河村塔王さんからいただいたお茶、めっちゃおいしい。花が咲いてて、見た目もきれい。きのうは、作品も2点いただいた。聖書の文章がタバコの形に巻いてあるものと、詩作品がタバコの形に巻いてあるもので、どちらも、じっさいに火をつけて吸うことができるようになっているのだが、おしゃれな試験管に入っていて、コルクの栓で封印されている。もったいなくて火はつけませんでした。

ジャック・ヴァンスの短篇集のつづきを読もう。きのう4ページくらい読んだけど、さっぱり物語が頭に入らず、びっくりした。

あしたしようと思っていた分の数学の問題つくりとワード打ち込みも終えられたので、五条堀川のブックオフまで散歩ついでに出かけよう。持っている未読の本を読めばいいのだけれど、本に対して異常な執着心があるためにブックオフ通いはやめられない。読みたいと思える未読の古いものもよくあるからである。

文春文庫の『厭な物語』『もっと厭な物語』なんてのは、ブックオフで見かけなかったら、知らなかったであろう本だし、創元文庫エラリー・クイーン編集の『犯罪文学傑作選』も知ることはなかったと思う。クイーン編集の『犯罪は詩人の楽しみ』を後でアマゾンで買った。

ちなみに、『厭な物語』も『もっと厭な物語』もまだ読んでいない。『厭な物語』は目次を見て、半分くらいの作品を知っていたがために読まず。『もっと厭な物語』は『厭な物語』を読んでからと思っているため読まずにいるのだが、近々にでも、読む日はくるのだろうか。

バラードの短篇集『時の声』が108円なので買っておいた。このあいだ、竹上 泉さんに、持ってるバラードをぜんぶ差し上げたので、手もとになかったのだ。よかった。やっぱり、タイトル作と「音響清掃」は再読するかもしれないからね。再読する価値のある短篇は、これら2作と「溺れた巨人」くらいかな。


二〇一六年五月十六日 「きょうは雨らしい」


起きた。きょうは雨らしい。通勤で読む本は文庫にしよう。『モーム語録』がまだ途中だった。これにしよう。

『モーム語録』読み終わった。マリー・ローランサンとチャップリンの逸話がとても印象的だった。この2つの逸話は忘れないだろう。ローランサンは、女性のかわいらしさを、チャップリンは人間の悲哀を感じさせらる話だった。とても魅力的な人間だった。ぼくもほかの読み物や自伝や映画で知ってるけど。モームは直接会っての、逸話だからね。そら違うわ。ぼくの『詩の日めくり』にもたくさんの人たちが登場するけれど、ローランサンとかチャップリンとかいった一般のひとびとも知ってるような有名なひとはいないなあ。ほとんどのひとが、無名のふつうの友だちか知り合い。

雨の日は、通勤に単行本を持って行くのは危険なので、文庫本を持って行ってるんだけど、これから雨の日がぼちぼちくるだろうから、用心のために、単行本は部屋で読むことにしよう。あしたから通勤には、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』を持って行こう。トールサイズで読みやすいかな。

きょうは塾がないので、読書三昧。ジャック・ヴァンスの短篇集を読もう。読みにくくてしょうがないんだけど、ヴァンスって、こんな読みにくい作家だったかな? アン・レッキーとか、めちゃくちゃ読みやすかったのだけれど。さっき amazon で、自分の詩集の売り上げ順位を見たら、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』が売れてた。いったい何冊売れてるのかは、思潮社さんからは教えてもらっていないのだけれど、売り上げ順位が変わっているから、きのうか、きょうくらいにまた売れたと思うのだけれど、自分の詩集が売れると、うれしい。

『愛はさだめ、さだめは死』は再読。ふつうサイズの文庫本を持っていて、本棚のどこかにあったかなって思って、このあいだ探してなかったので、amazon で新たに購入したもの。収録されている物語は一つも記憶がない。まあ、そのほうがお得な気はするかな、笑。

メールボックスを開けると、海東セラさんから、個人誌『ピエ』16号が入っていた。拙詩集をごらんくださったとのお便りもうれしく、お人柄がしのばれる手書きの文字に魅入っていた。詩は、海東セラさんの散文詩、これは、イタリアに旅行したディラン・トマスをぼくは思い起こしたのだけれど、ほかには岩城誠一郎さんの詩と、支倉隆子さんの詩と、笠井嗣夫さんが翻訳されたディラン・トマスの散文が掲載されていて、個性のまったく異なる方たちの作品が、本田征爾さんという画家の方が描かれた表紙や挿絵に挟まれて、よい呼吸をしているように思えた。きれいな詩誌を送っていただけて、こころがなごんだ。海東セラさん、北海道にお住みなんだね。遠い。ぼくは、いちばん北で行ったことがあるのは、山梨県だったかな。大学院生のときに学会があって、行ったのだけれど、夜に葡萄酒をしこたま飲んだ記憶しかないかな。海東セラさんの「仮寓」という詩に書かれた「道が違えば」という言葉に目がとまる。目だけがとまるわけじゃない。ぼくのなかのいろいろなものがとまって、動き出すのだ。詩を読んでいると、目がとまって、いろいろなものが動き出すのだ。けっきょく、詩を読むというのは、自分を読むということなんだろうな。いや、いろいろなことが、ぼくの目をとまらせるけれど、その都度、ぼくのなかのいくつものものがとまって、動き出すんだな。そのいろいろなことが、ひとであったり、状況であったり、詩であったり、映画であったりしてね。

ジャック・ヴァンスの短篇、ようやく冒頭のもの読めた。なんだかなあ。古いわ。まあ、古い順に収録されている短篇集らしいのだけれど。書き込み具合は、ヴァンスらしく、実景のごとく異星の風景を見事に描き出してはいたものの、古いわ〜。まあ、レトロものを楽しむ感覚で読みすすめていけばいいかな。

すごい雨音。神さまの、おしっこ散らかしぶりが半端やない。

ジャック・ヴァンス短篇集『奇跡なす者たち』誤訳 「ときには顔を地べたすれすれに顔を近づけ」(『無因果世界』浅倉久志訳、131ページ3行目) 「顔を」は、1回でいいはず。浅倉さん、好きな翻訳家だったのだけれど、2010年に亡くなってて、このミスは、出版社おかかえの校正家のミスだな。


二〇一六年五月十七日 「半額になった焼きジャケ弁当216円」


ジャック・ヴァンスの短篇集『奇跡なす者たち』 悪くはなかったが、古い。バチガルピの『ねじまき少女』や、ミエヴィルの『クラーケン』とか、R・C・ウィルスンの『時間封鎖』三部作や、レッキーのラドチ戦史シリーズなどを読んだ目から見ると、決定的に古い。まあ、雰囲気は悪くなかったのだけど。

あしたから、通勤で読むのは、R・A・ラファティの『第四の館』にしようかな。 これは長篇なのかな。おもしろいだろうか。

これから塾に。そのまえに、王将で、みそラーメン食べよう。

塾からの帰り道、スーパー「マツモト」で半額になった焼きジャケ弁当216円を買って、部屋で食べる。塾の生徒さんの修学旅行のおみやげのむらさきいもスイーツを2個食べる。満腹である。寝るまえの読書は、ひさびさのラファティの『第四の館』。ラファティの本は1冊も捨ててないと思うけど、どだろ。


二〇一六年五月十八日 「昭夫ちゃんか。」


ラファティ、ちょこっとだけ読んだ。わけわからずだった。

これから晩ご飯。ご飯たべたら、頭の毛を刈って、お風呂に入る。

これから塾へ。帰りは日知庵に。

いま日知庵から帰った。寝る。

昭夫ちゃんか。


二〇一六年五月十九日 「人間がいるところには、愛がある。」


満場はふたたび拍手に包まれた。人びとがこのように拍手を惜しまなかったのは、モーリスが卓越していたからではなく、ごく平均的生徒だったからである。彼を讃えることは、すなわち自分たちを讃えることにほかならなかった。
  (E・M・フォースター『モーリス』第一部・4、片岡しのぶ訳)

 ひとをあっといわせるような効果はどれも敵をつくるものだ。人気者になるには凡庸の徒でなくてはならない。
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第十七章、西村孝次訳)

ことさらに、だからってことはないのだけれど
ぼくの作品を否定するひとがいても、
それはいいことだと、ぼくは思っているのね。
それに、案外と、感情的な表現をするひとほど
根がやさしかったりするものだからね。

ぼくはクリスチャンじゃないけれど、
すべてを見ている存在があって、ぼくのいまも過去も
そして未来も見られていると思うのね。

ぼくは、ジョン・レノンのことが大好きだけど
ジョンが、愛について、つぎのように、堂々と言っていたからだ。

愛こそがすべてだと。

たしかに、そうだと、ぼくも思う。
そうして、愛のあるところには、人間がおり
人間がいるところには、愛がある、と。


二〇一六年五月二十日 「とても気もちがよかったのだけれど。」


けさ、5時くらいにおきて
また二度寝していたのだけれど
そしたら
ぼくの部屋じゃないところにぼくが寝ていて
布団は同じみたいなんだけど
部屋の大きさも同じなんだけど
そしたら
ぼくの身体の下から
ゆっくりと這い上がってくる人間のようなものがいて
重さも細い人の重さがあって
ああ、これはやばいなあって思っていると
その人間のようなものが
ぼくの耳に息を吹きかけて
それを、ぼくは気もちいいと思ってしまって
これは夢だから、どこまでこの実感がつづくかみてみようと思っていると
ぼくの右の耳たぶを舌のようなぬれたあたたかいもので舐め出したので
ええっ
っと思っていたんだけど
ものすごくじょうずに舐めてくるから
どこまで〜
と思って目を開けたら
人影がなかったのね
でも、ぼくの上にはまだ重たい感じがつづいているから
立ち上がろうとしてみたら
立ち上がれなくって
明かりをつけようとしたら
手のなかでリモコンが
その電池のふたがあいて、電池が飛び出して、ばらけてしまって
でも、めっちゃ怖くなってたから
重たい身体を跳ね上げて
立ち上がって
明かりをつけられなかったので
カーテンを開けようとしたら
カーテンが、針金で縫い付けてあったの。

わ〜
って声をだして
カーテンをその縫い目から引き千切って
左右に開けたの。
手には、布の感触と、針金の結びつづけようとする強い力の抵抗もあった。

ようやく開けたら
部屋のなかで、なにものかが動く気配がして振り返ったら
玄関が開いていたの。
見たこともない玄関だった。
えっ
と思うと
その瞬間
ぼくは自分の部屋の布団のなかにいたのね。
ひと月くらい前にも、こんなことあったかな。
日記に書いたかもしれない。
でも、きょうのは
15年くらい前に見たドッペルゲンガーぐらいしっかりした実体だったので
また少し頭がおかしくなっているのかもしれない。
15年前は
自分の年齢もわからず
自分の魂が、自分の身体から離れていることもしばしばあったので
今回も、そうなる予兆の可能性はある。


二〇一六年五月二十一日 「第四の館」


ラファティの『第四の館』半分くらい読めた。会話がほとんどキチガイ系なので、なんの話かよくわからないが、随所にメモすべき言葉があって、そのメモは貴重かな。物語はめちゃくちゃ。このあいだ出たラファティの文庫『昔には帰れない』の表紙はよかったなあ。飾ろうかな。

シャワーを浴びた。これから河原町に。日知庵に行く。夜の街の景色が好きだ。

いま帰った。きょうは「日知庵→きみや→日知庵」の梯子。帰りに、セブイレでカップヌードル買った。食べて、寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年五月二十二日 「茶色のクリームが、うんこにしか見えない件について」


きのう、日知庵からの帰り、阪急電車に乗ってたら、ヒロくんに似てる男の子がいて、うわ〜、ヒロくんといまでも付き合ってたら、どんなおっちゃんになってるんやろうと思った。その男の子は二十歳くらいで、ぼくがヒロくんと合ってたとき、たぶん、ヒロくんは21歳くらいやったと思う。みんな、思い出の話だ。

アレアのファーストをかけながら、ラファティの『第四の館』を読んでいる。あと60ページほどだが、さっぱり内容がわからない。

FBフレンドの方のアップされたホットケーキのうえにのっかった茶色のクリームが、うんこにしか見えない件について、だれかと話し合いたい。


二〇一六年五月二十三日 「ヴァニラ・セックス」


ヴァニラ・セックス
裸で抱き合うこと
甘いこと

ヴァニラ・セっクスに、張形は使わんな、笑。
「張形」
ダンの詩に出てきた言葉だけれど
まあ、ゲイ用語で言うと、ディルドっていうのかな
チンポコの形したやつね
いまのはシリコン製なのかな
シリコン製だと硬くて痛いと思うんだけど
そうでもないのかな
ゴムみたいにやわらかいのもあるけれど
それはシリコン製じゃなかったかも。
ぼくは、こんどの詩集で、ピンクローターって出したけど
ダンの詩句も、そうとうエッチで、面白かった。
このあいだ、シェイクスピアを読みなおしたら
チンポコを穴ぼこに突き入れるみたいなことが書いてあって
17世紀の偉大な詩人たちの作品ってけっこう、いってたのねって思った。
すごい性描写も、偉大な詩人が書くと、おおらかで
とっても淫らで気持ちいいくらい大胆な感じ。
きのう書いた
弧を描いて飛ぶ猿の千切れた手足のことを思い浮かべていたら
公園のベンチに座ってね
そしたら、梅田の地下の
噴水で
水の柱が
ジュポッ ジュポッ
って、斜めに射出される
まるで
海面を跳ね飛ぶイルカのように
あれって
さかってるのかしら

その
海面を斜めに跳ね飛ぶイルカのように
水の柱が
ジュポッ ジュポッ
って射出されるんだけど
これって
またタカヒロのことを
ぼくに思い出せたんだよね
これは、自転車に乗って公園から帰る途中
コンビニの前を通ったときに
向かい側にはスタバがあって
何組ものカップルたちが
道路の席に座っていた
斜めに射出される水の柱が
弧を描いて跳ね飛ぶイルカの姿が
タカヒロの射精のことを
ぼくに思い出させた
タカヒロのめちゃくちゃ飛ぶ精液のことを思い出しちゃった。
彼の精液って、彼の頭を飛び越えちゃうんだよね。
もちろん、仰向きでイクときだけど。
このタカヒロって、「高野川」のときのタカヒロじゃなくって
彼女がいて
34歳で
むかし野球やってて
いまでも休みの日には
野球やってて
彼女とは付き合って5年で
結婚してもいいかなって思っていて
でも、男のぼくでもいいって言ってたタカヒロなんだけど
彼の出す量ってハンパじゃなくて
はじめてオーラル・セックスしたとき
口のなかで出されちゃったんだけど
飲むつもりなんてなかったんだけど
そのものすっごい量にむせちゃって
しかも、鼻の奥っていうか
なかにまであふれちゃって
涙が出ちゃった。

ぼくが付き合った子って
おなじ名前の子が何組かいて
詩を書くとき
異なる人物の現実を
ひとつにして描写することがよくあって
ぼくにしか、それってわからないから
読み手には
きっと
ふたりじゃなくて
ひとりの人間になってるんやろうね
ひとりの人間として現われてるんやろうね
まあ
自分でも
まじっちゃうことがあって
記憶のミックスがあって
ふと思い出して
違う違う
なんて思うことあるけど、笑。
五条堀川のブックオフにも立ち寄って

公園を出てすぐにね
帰るとき
村上春樹訳の
キャッチャー・イン・ザ・ライ
があって
105円だったから買おうかなって思ったんだけど
むかし読んだのは野崎さんの訳やったかな

パッとページを開くと
「まだ時刻がこなかった。」
みたいな表現があって
「時刻」やなくて
「時間」やろうって思った。
あらい訳や。
センスないわ。
やっつけ仕事かいな。
たんなる金儲けやね。

買わんと
出た。


二〇一六年五月二十四日 「すべての種類のイエス」


寝るまえの読書は、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』 冒頭の作品「すべての種類のイエス」を断続的に昼から読んでいるのだが、初期のティプトリーはあまり深刻ではなかったのかもしれないと、ふと思った。違ってたりして。


二〇一六年五月二十五日 「It's raining.  雨が降っている。」


東寺のブックオフに置いてあったのだけれど
ナン、俺は
が入ってるかどうか、帰ってきてからお酒を飲みながら
パソコンで調べてたら
ナン、俺は
が入っていることがわかり
またまた東寺のブックオフまで
自転車でサラサラっと行ってきました
ナン、俺は
が、やっぱりいい
帰りに聴きながら
京大のエイジくんのことを思い出してた
雪つぶて
雪の夜の
夜中に
アパートの下で
雪を丸めて
たったふたりきりの雪合戦
「俺のこと
 たなやんには、そんなふうに見えてるんや」
俳人の木歩の写真を見せて
エイジくんに似てるなあ
って言ったときのこと
関東大震災の
火の
なかを
獅子が吠え
いっせいに丘が傾いたとき
預言者のダニエルは
まっすぐに
ぼくの顔を見据えながら歩いてきた
燃える火のなかで
木歩を背負ったエイジくんは
すすけた顔から汗をしたたらせながら
ぼくの前から姿を消す
預言者のダニエルは
燃える絵のなかで
四つの獣の首をつけた
回転する車の絵とともに姿を消す
雪つぶて
ディス・アグリー・ファイス
酔っぱらった
ぼくには
音楽しか聞こえない
「俺のこと
 たなやんには、そんなふうに見えてるんや」
雪つぶて
ふたりきりの雪合戦
燃える火のなかを
預言者ダニエルが
ぼくの顔を見据えながら歩いてきた
エイジくんの姿も
木歩の写真も
消え
明かりを消した部屋で
音楽だけが鳴っている


二〇一六年五月二十六日 「ミスドで、コーヒーを飲んでいた。」


さいきん、体重が減って
腰の痛いのがなくなってきた。
もう一個ぐらいドーナッツ食べても大乗仏教かな。
カウンター席の隅に坐っていた女の子の姿がすうっと消える。
ぼくの読んでいた本もなくなっていた。
テーブルの下にも
どこにも落ちていなかった。
ぼくはコーヒーの乾いた跡を見つめた。
口のかたちのコーヒーの跡も、ぼくのことを見つめていた。
ひび割れ。
血まみれの鳩の死骸。


二〇一六年五月二十七日 「巨大なサランラップ」


巨大なサランラップでビルをくるんでいく男。なかのひとびとが呼吸できなくなって苦しむ。ぼくはなかにいて、そのサランラップが破れないものであることをひとひとに言う。ぼくも苦しんでいるのだが、そのサランラップは、ぼくがつくったものだと説明する。へんな夢みた。

ここだけが神のゾーン。エレベーター。

隣の部屋のひと、コナンだとか、2時間ドラマばかり見てる音がする。バカなのかしら?

ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』をまだ読んでいるのだけれど、SFというよりは、散文詩の長いものって感じがする。SF的アイデアはたいしたことがなくて、叙述が評価されたのだろう。いま読むと、最新の作家たちの傑作と比べて申し訳ないが、古い感じは否めない。でも、まあ、これ読みながら寝ようっと。

二〇一六年五月二十八日 「いつもの通り」


ひとりぼっちの夜。



二〇一六年五月二十九日 「一日中」


ずっと寝てた。


二〇一六年五月三十日 「カレーライス」


ティプトリーの初期の作品は、SFというよりは、散文詩かな。「接続された女」もSFだけど、なんだかSFっぽくない感じがする。これは、「男たちの知らない女」を読んでいて、ふと思ったのだけれど、ヴォネガット的というか、SFは叙述のためのダシに使われてるだけなのかなって。どだろ。

まだ、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』を読んでいるのだけれど、「男たちの知らない女」の途中のだけれど、叙述がすばらしい。いつか、ぼくの書いたものも、だれかに、「叙述がすばらしい」と思われたい。まあ、叙述など、どうでもいいのだけれど。

きょう、塾で小学校の6年生の国語のテキストを開いて読んでみた。冒頭に、重松清の『カレーライス』という作品が載っていて、読んだけど、中学生が作った作文程度の文章なのだった。びっくりした。たしか、なんかの賞を獲ってたような気がするのだけれど、ますます日本文学を読む気が失せたのであった。

ティプトリーの『愛はさだめ、さだめは死』誤植 318ページ3行目「昨夜の機械は」(『男たちの知らない女』伊藤典夫訳)


二〇一六年五月三十一日 「発語できない記号」


たいていの基本文献は持っているのだが、どの本棚にあるのかわからないし、文庫の表紙も新しくなっていて、きれいだったので買った。ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』(福田恒存訳)108円。「すべて芸術はまったく無用である。」 これ、ぼくのつぎのつぎの思潮社オンデマンド詩集に使おう。

ようやく、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』の再読が終わった。『全行引用詩・五部作・上巻』で引用していたところに出合って、なつかしい気がした。塾に行くまでに、ルーズリーフ作業をしよう。きょうの夜から、ティプトリーの『たったひとつの冴えたやりかた』を再読するつもりだ。

お風呂から上がった。これから塾だ。ミンちゃんにもらった香水、つけていこう。匂いがさわやかだと、気分もさわやかだ。

存在しない数(定義されない数)として、ゼロのゼロ乗が勇舞だけれど、存在しない言葉というものを書き表すことができるのであろうか。数学は究極の言語学だと思うのだが、そういえば、ディラン・トマスの詩で、ネイティブの英語学者でも、その単語の品詞が、動詞か形容詞かわからないものがあるという話を読んだことがあるのだが、そんなものは動詞でもあり、形容詞でもあるとすればいいんじゃないのって思うけどね。詩人は文法なんて無視してよいのだし、というか、万人が文法など無視してよいのだし。

ガウス記号を用いた [-2.65] をどう発語したらよいのかわからず、困った。しかし、数学記号を用いた表記には発語できないものも少なくなく、数学教師として、少々難儀をしている。たとえば、集合で用いる { } のなかの、要素と要素の説明の間の棒ね。あれも発語できない記号なんだよね。

きょうはホイットマンの誕生日だったか。アメリカの詩人で好きな詩人の名前を5人あげろと言われたら、ぜったい入れる。いちばんは、ジェイムズ・メリルかな。にばんは、エズラ・パウンドかな。さんばんに、ホイットマンで、よんばん、W・C・ウィリアムズで、ごばんは、ウォレス・スティヴンズかな。ああ、でも、エミリー・ディキンスンもいいし、ロバート・フロストもいいし、エイミー・ローエルもいいし、ぼくが数年まえに訳したアメリカのLGBTIQの詩人たちの詩もいい。そいえば、きょう読んだティプトリーの本に、ロビンソン・ジェファーズの名前が出てた。

レコーダーは、ロビンスン・ジェファーズの詩を低く吟じている。「"人間の愛という穏健きわまりないものの中に身をおくこと……"」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『最後の午後に』浅倉久志訳、短篇集『愛はさだめ、さだめは死』415ぺージ、6─7行目)

めっちゃ好きで、英語でも全集を持ってるエドガー・アラン・ポオを忘れてた。というか、ぼくの携帯までもが、そのアドレスがポオの名前を入れたものだった。(なのに、なぜ忘れる? 笑) ぼくも山羊座で、むかしポオに似ているような気がずっとしていたのだけれど。

ティプトリーの『たったひとつの冴えたやりかた』を読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!


詩の日めくり 二〇一六年六月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年六月一日 「隣の部屋の男たち」


お隣。男同士で住んでらっしゃるのだけれど、会話がゲイじゃないのだ。なんなのだろう。二人で部屋代を折半する節約家だろうか。香港だったか、台湾では、同性で部屋を借りるっていうのはよくあるって、なんかで読んだことあるけど。まあ、ゲイでも、ゲイでなくてもよいから、テレビの音を小さくして。とくにコマーシャルの音がうるさい。というか、テレビしかないのか。音楽が流れてきたこと、一度もない。会話は、会社のことなのか、だれだれがどうのこうのとかいった情報、ぼくが聞いて、どうすんのよ。と思うのだけれど。とにかく、テレビの音を小さくしてほしい。


二〇一六年六月二日 「たったひとつの冴えたやりかた」


ティプトリーの短篇集『たったひとつの冴えたやりかた』、タイトル作品、記憶どおりの作品。さいごまで読もう。残る2つの物語にはまったく記憶がない。これはSFチックだ。作家がすごいなと思わせられる理由のひとつとして物語がある。ぼくには物語が書けない。じっさいにあったことにしろ、なかったことにしろ、言葉についてしか書けない。


二〇一六年六月三日 「人生の速度」


きょうは、ティプトリーの『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』を読もう。『たったひとつの冴えたやりかた』の第二話と第三話はまったく記憶に残っていなかったものだった。読書で、ぼくの記憶に残っているものって、ごくわずかなものなのだなってことがわかる。まことに貧弱な記憶力だ。『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』も、むかし読んだのだけれど、まったく記憶がない。記憶に残らない可能性が高いのに、むさぼるようにして、ほぼ毎日、読書するのはなぜだろう。たぶん、無意識領域の自我に栄養を与えるためだと思うのだけれど、読むことでより感覚が鋭くなっている。感覚が鋭くなっているというよりは、過敏になっているというほうがあたっているような気がする。齢をとると、身体はボロボロになり、こころもボロボロになりもろくなっていくということなのかもしれない。ちょっとしたことで、すぐに傷ついてしまうようになってしまった。弱くもろくなっていくのだな。でも、それでよいとも思う。毎日がジェットコースターに乗っている気分だと、むかしから思っていたけれど、齢をとって、ますますそのジェットコースターの速度が上がってきているようなのだ。瞬間を見逃さない目をやしなわなければならない。瞬間のなかにこそ、人生のすべての出来事があるのだから。


二〇一六年六月四日 「2009年4月28日のメモ」


芝生を拡げた手のひらのような竹ほうきで、掃いていた清掃員の青年がいた。
頭にタオルをまいて、粋といえば粋という感じの体格のいい青年だった。
桜がみんな散っていた。
散った花は、花びらは少し透明になっていて
少し汚れて朽ちていて芝生の緑の上にくっついていた。
たくさんの桜の花びらが散っていた。
枝を見たら、一枚ものこっていなかった。
日が照っていて、緑の芝生が眩しかった。
でも、桜の花びらは、なんだか、濡れていたみたいに
半透明になっていて、少し汚れていた。
校舎の前のなだらかな坂道が、緑の芝生になっていて
ところどころに植えられた桜の木が
通り道のアスファルト舗装された地面や緑の芝生の上に
濃い影を投げかけていた。
ぼくは、立ち止まってメモを書いている。
桜の花びらが、みんな散っているな、と考えながら
芝生の上に目を走らせていると
校舎の2階や3階からなら見える位置に
百葉箱があるのに気がついた。
いまの勤め先の高校には、もう20年くらい前から勤めているのだけれど
まあ、途中9年間、立命館宇治高校や予備校にも行っていたのだけれど
この百葉箱の存在は知らなかった。
百葉箱がこんなところにあるなんて、はじめて知った。
百葉箱は白いペンキが少し変色した感じで
4、5年は、ペンキの塗り替えがされていないようだったが
ペンキの剥げは、まったく見当たらなかった。
4、5年くらいというのは適当だけど、4、5年くらいって思った。


二〇一六年六月五日 「風邪を引いた。」


風邪をひいたのでクスリのんで寝てる。本を読んでるから、ふだんと変わんないけど。岩波文庫の『ウィーン世紀末文学選』古い題材なのは仕方ないな。まあ、ゴシック怪奇ものをふつう小説とまぜまぜで読んでる感じ。買ったから読んでるって義務感的な読書だな。なぜか読みたい本はほかにあるのだけれど。いま、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻を読んでいる。緻密だ。あきたら、また『ウィーン世紀末文学選』に戻ろう。咽喉が痛い。きょうは早めに寝よう。岩波文庫の『ウィーン世紀末文学選』に載ってるシャオカルという作家の「F伯爵夫人宛て、アンドレアス・フォン・バルテッサーの手紙」(池内 紀訳)がおしゃれだった。さいごのページの「以上すべて私の作り話です。」って構成は、ぼくも真似をしたくなった。岩波文庫の短篇選に外れはない感じだ。


二〇一六年六月六日 「髪、切ってないから、こんどにする。」


これから河原町へ。5時に、きみやさんで、えいちゃんと待ち合わせ。早めに行って、ジュンク堂にでも寄ろう。

いま、きみやから帰ってきた。ちょこっと本を読んだら、クスリのんで寝よう。きのう、信号待ちしてたら、めっちゃタイプの子が自転車に乗ってて、まえに付き合ってた男の子に似ていて、ドキドキした。ああ、まだ、ぼくはドキドキするんだって、そのとき思った。そのまえに付き合ってた男の子から電話があって、「いま、きみやにきてるから、飲みにおいでよ。」と言うと、「髪、切ってないから、こんどにする。」との返事。いわゆるブサカワ系のおでぶちゃんなのだけれど、髪切ってるか切ってないか、だれもチェックせえへんちゅうの。ぼくはチェックするけど、笑。西院駅からの帰り道、「ひさしぶりです。」と青年から声をかけられたのだが、タイプではないし、ということは元彼の可能性はゼロだし、仕事関係でもないし、と思ってたら、ああ、ぼくはヨッパのときの記憶がないし、そのときにでもしゃべったひとかなって思った。酔いは怖し、京都は狭し。

秋亜綺羅さんから、ココア共和国・vol.19を送っていただいた。体言止めが多い俳句というものを久しぶりに見た。基本、ヘタなんだな。松尾真由美さん、相変わらず、意味わからない。ほかのひとの作品も、ぼくにはさっぱりわからない。これから岩波文庫『ウィーン世紀末文学選』を読みながら寝る。


二〇一六年六月七日 「オバマ・グーグル」


山田亮太さんから詩集『オバマ・グーグル』(思潮社)を送っていただいた。きれいな装丁。タイトル作は、発表時、だれかが批判的に批評していたけれど、その評者のことをバカじゃないのって思ったことを思い出した。詩というより、言語作品。方法論的に、ぼくと似ているところがある。抒情は違うけど。

いま塾から帰ってきた。朝からこの時間まで仕事だけど、実質労働時間は3時間半。いかに、通勤と空き時間が多いことか、笑。マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻、いま、94ページ目。読みにくくはないけど、読みやすくもない。でも、まあ、なんというか、犯人をまったく追わない警官だな。


二〇一六年六月八日 「ぼくの卑劣さ」


マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻、3分の2くらいのところ。緻密だけれど、P・D・ジェイムズほどの緻密さではない。読みやすくはないが、ユダヤ人の宗教分派について勉強もできる。人間の書き込みが深い。なぜ日本の作家には深みがないのだろうか。

まえに付き合ってた男の子が、きのう、あっちゃんちに泊まりに行っていい? と訊いてきたのだけれど、「いま風邪ひいてるから、あかんわ。」と返事した。付き合い直してる相手がいるとは、けっして言わないところが、ぼくの卑劣さかな。あした、その相手が泊まりにくるんだけど、風邪が治っていない。

ちゃんと、うがいとかして、風邪がうつらないようにしてよ、と言ってあるのだけれど、横で寝てたら、うつるわな。あしたには、風邪が完治していますように祈ってる。というか、風邪ひいてる相手のところに、ぼくなら泊まりに行かないかな。感覚のビミョウな違いかな。


二〇一六年六月九日 「2009年5月某日のメモ(めずらしく、日にちが書いていないのだった。日付自体ないものはあるけど。)」


女装のひとから、花名刺なるものをもらう。
その女装の人とは、もう20年以上前から顔を知っていて
ときどき、話をする人だった。
ぼくより6才、上だって、はじめて知った。
その人は、男だから、本来は花名刺って
芸妓が持つものなのだそうだが
花柳界ではその花名刺なるもの
細長い小さな紙に
上に勤め先の場所
たとえば祇園とか
店の名前とかが書いてあって
下に名前を書いた簡単なものなのだけれど
客が喜ぶのだという。
芸妓からもらうと。
芸妓って、もと舞妓だから
「お金が舞い込む」というゲンかつぎに
もらった花名刺を財布に入れておくのだという。
「なくさへんえ。」
とのこと。
ぼくもなくさず、いまも部屋に置いてある。
そのひとは宮川町出身で
まあ、お茶屋さんの町やね。
ぼくもそばの大黒町(字がこうだったか、記憶がないんだけれど)に
住んでたこともあったから、そう言った。
祇園に引っ越したのは、小学校の高学年のときだった。
ぼくの父親はもらい子だったのだけれど
もらわれた先の家が大黒町にあって
その家はせまい路地の奥のほうにあって
路地の入り口近くの魚屋が大家さんだったみたいで
長屋と呼ばれる、たくさんの世帯の貧乏人がいたところで
父親がもらわれた家の女主人は被差別部落出身者だった。
ぼくのおばあちゃんになるひとだけれど
血はつながっていないのだけれど
ぼくの実母も、高知の窪川の被差別部落出身者なので
なにか因縁を感じる。
ぼくは、おばあちゃん子だった。
花名刺をくれた女装のひとは
水商売をしていたのだけれど
あんまりうまくいかなかったわ、と言ってた。
九紫の火星やから水商売に向いてへんのよ、と言う。
だから、6年前から、花名刺をつくって
名前を「みい子」から
「水無月染弥」に替えたのだという。
6月生まれやから水無月という名字にして
下の名前の「弥」は
芸妓がよく使う名前やという。
男の名前に使われる「也」とは違うのよ、と言っていた。
替えてから、多少はうまくいくようになったという。
いまは、三条京阪のところにある友だちのところに勤めているという。
着物姿の女装のイメージが強くて
この日会ったときのワンピース姿は意外やった。
でも、シャキッとして、一本、筋の通った女装って感じで
お話をするのは、大好きなタイプ。
もらった花名刺って、いま長さを測るね。
横2.4センチ
縦7.5センチ
のもので
赤いインクで
鳥となんか波頭みたいなものが書かれていた。
これ、波ってきくと
「そうよ、鴨川の浪よ」
「この鳥は、じゃあ、水鳥なの?」
「これ、千鳥よ。
 千鳥って、縁起がいいのよ。
 だから描いてもらったのよ。
 ほら
 新撰組の歌にあるでしょ。
 鴨の川原に千鳥がさわぐ〜って」
このあとのつづきも、歌ってくれたのだけれど
血が、どうのこうのってあって
不吉なんと違うかなと思ったのだけれど
黙って聞いていた。
ぼくが目の前でメモをとるのも不思議がらずに
ぼくに一所懸命に説明してくれて
めっちゃ、うれしかった。
共通の敵の話も、このときにしたのだけれど
それは後日に。
お笑いになると思います。

花名刺
名刺屋さんでつくってもらって
まんなかを自分で切り抜いているのだという。
ふつうのサイズの名刺の大きさに印刷してもらって。

女性の名刺が
男性の名刺よりも小さいことも教えてもらった。
はじめて知った。
花名刺はもっと小さい。


二〇一六年六月十日 「文学極道で、年間最優秀作品賞というのをいただいた。」


文学極道で、年間最優秀作品賞というのをいただいた。とてもうれしい。→http://bungoku.jp/award/2015.html

文学極道の詩投稿欄にはじめて投稿した作品から、もう何年たつのだろう。この文学極道の投稿欄の巨大なカンバスがあったからこそ、ぼくの長大な作品も発表の機会を持てた。

文学極道にはじめて投稿した作品は、『The Wasteless Land.V』の冒頭100ページの詩になった。ここ1年くらい投稿している「詩の日めくり」のアイデアは、元國文學の編集長の牧野十寸穂さんによるものだが、継続してつくって発表できたのは、やはり、文学極道の詩投稿欄の巨大なカンバスがあったからだと思われる。おかげで、詩集にもまとめて出すことができた。詩集にまとめて出すことができたのは、大谷良太くんのおかげでもある。彼が発行者になっている書肆ブンから、『詩の日めくり』第一巻から第三巻までが明日、amazon で発売される。『詩の日めくり』はライフワークとして継続して詩集にまとめて出しつづけていくつもりだ。ただし、一部分、文学極道で発表したものとは違う個所がある。今回出したもので言えば、第一巻の一部がネット発表のものとは異なっている。


二〇一六年六月十一日 「記憶力がかなり落ちてきた。」


きょうはほとんど一日中ねてた。記憶力がかなり落ちてきた。きのう、なにか忘れてることがあったのだけれど、そのなにかをさえ、きょうは忘れてしまっていた。マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻もおもしろいのだが、読んでて、途中読んだ記憶がなくなっていて、これから戻って読むことに。


二〇一六年六月十二日 「カレーライス」


きょうの夜中に文学極道の詩投稿欄に投稿する新しい『詩の日めくり 二〇一六年四月一日─三十一日』を読み返していたら、このあいだ、ぼくが批判した『カレーライス』を書いた重松 清みたいだなって思った。まあ、単純な文章。というか、むずかしそうに書く能力が、ぼくには、そもそもないのかもね。あ、でも、重松 清の文章を批判した要点は、文章の簡素さにではなくて、感情のやりとりの形式化というか、こころの問題を、ひじょうに単純な関係性で語っていたことにあったのであった。こう書けば、こう感じるだろうと推測させる幅がめっちゃ狭くて浅いということ。見かけは、重松 清さん、めっちゃタイプなんだけど、笑。

きょう日知庵で、FBフレンドの方とお会いしたら、開口一番に、「あっちゃん、なんか詩の賞もらったって、おめでとう。で、いくらもらったの?」と訊かれて、ぼくじゃなくって、えいちゃんが、「ネットの詩の賞やから、お金なんかになってへんで。」って、なんで、ぼくより先に答えるのよ、と思った。

そうなのだった。お金になる賞をいただいたことは、一度もなかったのであった。けっこういい詩集を出してるというか、傑作の詩集をじゃんじゃん出しているのだが、どこに送っても、賞の候補にすらならなくて、30年近く、無名のままなのであった。

しかし、無名であるということは、芸術家にとって、ひじょうに大切なことだと思っている。芸術家で無名であるということは、世間では、ふつう、軽蔑の目で迎えられることが多くて、そのことが、芸術家のこころにおいて、戦闘的な意欲をもたらせることになるのである。

まあ、ぼくの場合は、だけどね。

さっき、セブンイレブンでペヤングの超大盛を買ってきて食べたら、おなかいっぱいになりすぎて、吐き気がしてきたので、大雨のなか、となりの自販機でアイスココアを買ってきて部屋で飲んでたら、またおなかいっぱいになって、ぼくはどうしたんだろうと思って、おなかいっぱいだよ。


二〇一六年六月十三日 「箴言」


なかったことをあったことにするのは簡単だけれど、あったことをなかったことにするのは簡単じゃない。


二〇一六年六月十四日 「血糖値」


3月31日の健康診断の結果を、きょう見た。血糖値が正常値に近くなっていた。セブンイレブンのサラダのおかげだと思う。きのう、ペヤング超大盛を食べたことが悔やまれる。ぼくは運動をまったくしないからね、食べ物の改善だけで血糖値が80も下がったのであった。もう血糖値が230もないからね。

ということで、きょうの夜食は、セブンイレブンのサラダ2袋のみなのであった。お昼にいっぱい食べたしね。夜は抜くつもりで。でも抜くのはつらいから、サラダだけにしたのであった。

帰りの電車のなか、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻を読んでいた。途中で乗ってきた二十歳くらいのノブユキに似た少しぽっちゃりした青年が涙をためた目で、隣に坐ったのだった。青年はときどき洟をすすっていたが、明らかに泣いた目だった。恋人と悲惨な別れ方でもしたのだろうか。

ぼくは、ときどき彼の表情を観察した。貴重な瞬間だもの。涙が出るくらいの恋愛なんて、一生のあいだに、そう、たびたびあるものではない。少なくともぼくの場合では、二度だけ。抱きしめてなぐさめてあげたかった。でも、まあ、電車のなかだしね。観察だけしていた。

マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻さいしょの方で、ようやく被害者がゲイだったことがわかる。ここからまた、どうなるのかわからないけれど。まあ、書き込みのすさまじい小説である。きょう、仕事場で、机のうえにあった日本の作家の本をひらいて、ぞっとした。会話だらけで、スカスカ。

きょう、学校からの帰りの通勤電車のなかで見た、泣いてた男の子、いまくらいの時間にも、まだ悲しいんやろうか。他人のことながら、切ない。洟をすすり上げながら窓の外をずっと見てた。涙がこぼれるくらいに、目に涙をためて。かわいらしい、美しい景色だった。人生で最高の瞬間だっただろうと思う。

マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻のつづきを読みながら寝よう。読みやすくはないけど、よい作品だと思う。まわりで、読んだってひと、ひとりもいないけれど。というか、ぼくのまわりのひとって、5人もいないのだった。すくな〜。大谷良太くんと竹上 泉さんとは共通してるもの多いかな。大谷くんとは詩で。竹上さんとは小説で。

きょう、amazon の自分のページをチェックしていたら、『The Wasteless Land.』と『詩の日めくり』第一巻から第三巻までが1冊ずつ売れてた。買ってくださった方がいらっしゃるんだ。励みになる。


二〇一六年六月十五日 「ブラインドサイト」


五条堀川のブックオフで、ピーター・ワッツの『ブラインドサイト』上下巻を買った。ともに108円。108円になったら買うつもりの本だった。吸血鬼や平和主義者の軍人や四重人格の言語学者や感覚器官を機械化した生物学者や脳みそを半分失くした男たちが異星人とファーストコンタクトする話だ。

だけど、まだ、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』の下巻を読んでいる。ワッツの小説も、つぎに読むかどうかは、わからない。

いま日知庵から帰った。マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻を読み終わった。重厚な作品。つくり込みがすごかった。こんなん書くの、めっちゃしんどいと思う。ぼくも小説を書いてたけど、詩みたいにつぎつぎと情景が浮かぶわけでもなく、1作を書くのに数年つかってたりしたものね。

これから書くことになる『13の過去(仮題)』が●詩の予定だから、これが小説っぽいと言えば、小説っぽいかも。でもまあ、小説とも、また詩とも言われず、ほとんどスルーで、それでも、一生のあいだ、書きつづけていくのだなあと思う。それでいいか。それでいいや。

そだ。日知庵で、男の子が泣いてる姿がめずらしいと言ったら、女性客がみな、「女はふつうにたくさん泣くのよ。」と言うので愕然とした。そうか。男と女の違いは、ストレートか、ゲイか以前の問題なのか、と、ちらっと思った。ぼくは2回しか泣いたことがなかったから、自分の体験と照らし合わせてた。


二〇一六年六月十六日 「ようやく、コリン・ウィルソンの「時間の発見」をルーズリーフに書き写し終わる。」


右脳と左脳の違い。
ちいさい頃からダブルヴィジョンに驚かされていた自分がいて
それが、そんなに不思議なことではないと知って
ちょっと安心。
つまり、ふたりの自分がいるということね。
いつも、自分を監視している自分がいると感じていたのだけれど
ほんとにいたんやね。
左脳という存在で。
きのう
日記に書かなかったことで
ひとりのマイミクの方には直接、言ったのだけれど
西大路五条の交差点で
東寺のブックオフからの帰りみち
トラックに轢かれそうになったんやけれど
横断歩道にいた歩行者の顔がひきつっていたり
トラックの運転席の男の顔がじっくりと
ゆっくりと眺めていられたのだけれど
時間の拡大というか
引き延ばされた時間というのか
それとも意識が拡大したのか
おそらく
物理時間は短かったんやろうけれど
意識の上での時間が引き延ばされていて
何年か前にも
背中を車がかすって
服が車に触れたのだけれど
車に轢かれるときの感じって
おそらく、ものすごく時間が引き延ばされるんやろうね。
だから、一瞬が永遠になるというのは
こういった死そのものの訪れがくるときなんやろうね。
じつは
トイレがしたくて
(うんち、ね、笑)
信号が変わった瞬間に渡ったのだけれど
トラックがとまらずに突進してきたのね。
きのう、轢かれてたら
いま時分は、ぼくのお葬式やね。
何度か死にかけたことがあるけど
何度も、か
なかなか、しぶとい、笑。


二〇一六年六月十七日 「こぼれる階段」


唾液の氷柱。


二〇一六年六月十八日 「彼は有名な死体だった。」


真空内臓。
死体モデル。
液化トンネル。
仕事はいくらでもあった。
彼の姿が見かけられない日はなかった。
彼はひとのよく通る道端に寝そべり
ひとのよくいる公園の河川敷のベンチに腰かけていた。
しょっちゅう、ふつうの居酒屋に出入りもしていた。
いつごろから有名なのかも不明なのだけれど
いつの間にか人々も忘れるのだけれど
ときどき、その時代時代のマスコミがとりあげるから
彼は有名な死体だった。
彼とセックスをしたいという女性や男性もたくさんいたし
じっさいに、多くの女性や男性が彼とセックスした。
彼とセックスした女性や男性はみんな
死体と寝てるみたいだと当たり前の感想を述べた。
したいとしたい。
死体としたい。
しないとしたい。
液化したトンネルの多くが彼の喉に通じていて
彼の喉は深くて暗い。
彼の喉をさまざまなものが流れていった。
腐乱した牛の死骸が目をくりくりと動かしながら流れていった。
巻紙がほぐれて口元のフィルターだけがくるくると旋回しながら流れていった。
パパやママも金魚のように背びれや尾びれを振りながら流れていった。
真空内臓の起こす幾つもの事件のうちに
いたいけな少女や少年が手を突っこんで
金属の歯に食いちぎられるというのがあった。
寝ているだけの死体モデルの仕事がいちばん楽だった。
寝ているだけでよかったのだから。
真空内臓をときどき裏返して
彼は瞑想にふけった。
瞑想中にさまざまなものが彼にくっついていった。
よくある質問に
よくある答え。
中途半端な賛美に
中途半端な悪評。
そんなものはいらないと真空内臓はのたまう。
彼は有名な死体だった。
彼が死体でないときはなかった。
彼は蚊に刺されるということがなかった。
なんなら、蚊を刺してやろうかと
ひとりほくそ笑みながら
宙を行き来する蚊を眺めることがあった。
しかし、彼は死んでいた。
ただ、死んでいた。
いつまでも死んでいたし
彼はいつでも死んでいたのだが
死んでいるのがうれしいわけではなかった。
しかたなしに死んでいたのだが
けっして、彼のせいではなかったのだ。


二〇一六年六月十九日 「わたしたちは一匹の犬です」


わたしたちは一匹の犬です
彼らは一匹の犬です
あなたたちは一匹の犬です
Wir sind ein Hunt.
Sie sind ein Hunt.
Ihr seid ein Hunt.
ドイツ語が貧しいと
日本語が笑けるわ
基本をはずすと
えらい目に遭うわ
ううううんと苦しむわ
ということは塩分の摂りすぎ?
けさ
住んでるところの
すぐ角で
ごみ袋を漁ってた鴉が
「あっちゃん天才!」って啼いて
けらけら笑って飛んでいったので
びっくりしました
だれがあの鴉を飼っているのかしら
まあ
「1000円貸してくれ」
って言われないだけましやけどね
まったくバイオレンスだわ
太陽の中心の情報を引き出そうとして
その引き出し方を忘れてしもたって?
この役立たず!


二〇一六年六月二十日 「ブラインドサイト」


ピーター・ワッツの『ブラインドサイト』上下巻を読んだ。さいきん読んだ本のなかで、もっともつまらなかった。


二〇一六年六月二十一日 「優れた作品の影響」


少し早めに着くと思って、塾には、岩波文庫の『ハインリヒ・ベル短篇集』を持って行ってた。15分くらいあったので、短篇、2つ読めた。「橋の畔で」と「別れ」である。前者のアイデアはよいなと思った。後者の抒情もよい。寝るまえに、つづきを読んで寝よう。たぶん、この短篇集を買ったのは、ハインリヒ・ベルのすばらしい短篇が『Sudden Fiction 2』に入っていたからだという記憶があるのだが、どうだろう。目のまえの本棚にあるので調べてみよう。あった。「笑い屋」という作品だった。きょう読んだ「橋の畔で」もわずか4ページ、「別れ」も6ページきりの作品だった。

ハインリヒ・ベルの「知らせ」という短篇を読んで思いついたコントである。このように、すぐれた著者は、読み書きする人間に、よいヒントを与えるのである。ちなみに、「知らせ」は、戦友の死を遺族に知らせに行く男の話である。

マンションの5階では、独身者たちが大いに騒いでいた。自分の酒の量を知らない者がいて、気分が悪くなってソファにうずくまる者もいれば、はしゃぎすぎて、周りの人間が引いてしまう者もいた。わたしはマンションを見上げた。バルコニーで、男が何かを拾おうとして身をかがめた。女が彼に抱きつこうとして虚空を抱き締めて落ちてきた。わたしの到着とちょうど同時に、わたしの足元に。わたしは、いつも必要な時間にぴったりと到着する律儀な死神なのである。肉体から離れていく彼女の手をとって立たせた。裁きの場に赴かせるために。


二〇一六年六月二十二日 「内心の声」


授業の空き時間に、ハインリヒ・ベルの短篇「X町での一夜」「並木道での再会」「闇の中で」の3作品を読んだのだが、どれもよかった。どの作品も、知識ではなく、経験がある程度、読むのに必要かなと思える作品だった。大人にしかわからないものもあるだろうと感じられた。これこそ、岩波文庫の価値。

きょうは、ハインリヒ・ベルの短篇集のつづきを読みながら寝よう。いま読んでいるのは、「ローエングリーンの死」。もっと早く読むべき作家だったと思うが、ふと、ひとや本とは出合うべきときに出合っているのだ、という声をこころのなかで発してた。


二〇一六年六月二十三日 「カレーライス」


きょう、大谷良太くんちに行った。カレーライスをごちそうになった。おいしかったよ。ありがとう。これからお風呂に入って、それから塾へ。塾が終わったら、日知庵に行く予定。


二〇一六年六月二十四日 「齢か。」


いま日知庵から帰った。ここ数週間、体調が悪い。いまだに風邪が治らない。齢か。


二〇一六年六月二十五日 「ああ、京都の夜はおもしろいな。」


数学のお仕事より詩を書く方がずっと簡単なので、きょうの夜はつぎの文学極道に投稿する「詩の日めくり」をつくろう。日知庵からきみやに行く途中、むかし付き合った子と出合ったけれど、その子はいま付き合ってる子といっしょだったので、目くばせだけして通り違った。ああ、京都の夜はおもしろいな。


二〇一六年六月二十六日 「ぼくはロシア人ばあさんの声を出して笑ってた。」


いちごと人間のキメラを食べる夢を見ました。蟻人間を未来では買っていて、気に入らなければ、簡単に殺していました。ロシアが舞台の夢でした。いちごを頭からむしゃむしゃ食べる姿がかわいらしい。齢老いたほうの蟻人間が、「ぼく、冬を越せるかな。」というので、「越せないよ。」とあたしが言うと情けない顔をしたので、笑って、ハサミで首をちょんぎってやった。ぼくはロシア人ばあさんの声を出して笑ってた。

数学の仕事、きょうやる分、一日中かかると思ってたら、数時間で終わった。

7月に文学極道に投稿する新しい「詩の日めくり 二〇一六年五月一日─三十一日」をつくっていた。


二〇一六年六月二十七日 「受粉。」


猿であるベンチである舌である指である庭である顔である部屋である地図である幸福である音楽である間違いである虚無である数式である偶然である歌である海岸である意識である靴である事実である窓である疑問である花粉。

猿ではないベンチではない舌ではない指ではない庭ではない顔ではない部屋ではない地図ではない幸福ではない音楽ではない間違いではない虚無ではない数式ではない偶然ではない歌ではない海岸ではない意識ではない靴ではない事実ではない窓ではない疑問ではない花粉。

猿になるベンチになる舌になる指になる庭になる顔になる部屋になる地図になる幸福になる音楽になる間違いになる虚無になる数式になる偶然になる歌になる海岸になる意識になる靴になる事実になる窓になる疑問になる花粉。

猿にならないベンチにならない舌にならない指にならない庭にならない顔にならない部屋にならない地図にならない幸福にならない音楽にならない間違いにならない虚無にならない数式にならない偶然にならない歌にならない海岸にならない意識にならない靴にならない事実にならない窓にならない疑問にならない花粉。


二〇一六年六月二十八日 「Gay Short Film The Growth of Love」


きょう、日知庵での武田先生語録:恋愛結婚というルールができると、恋愛結婚できない人間が出てくる。

2016年6月18日メモ 日知庵での別々のテーブルで発せられた言葉が、ぼくのなかでつながった。「食べてみよし。」「どういうことやねん。」

チューブで10時くらいから連続して再生しているゲイ・ショート・フィルムがあって、10回くらい見た。9分ちょっとの映画。猥褻とは無縁。切なさがよいのだ。ぼくも、「夏の思い出。」とか書いたなあ。チョーおすすめです。

Gay Short Film The Growth of Love


二〇一六年六月二十九日 「Gay Short Film The Growth of Love」


Gay Short Film の The Growth of Love を、きのうはじめて見て、それから繰り返し、きょうも何度も見てるのだけれど、いま、ふと、ジョー・コッカーのユー・アー・ソー・ビューティフルを聴いているときの感覚に似ているかなと思った。繰り返し見てる理由かな。

『ハインリヒ・ベル短篇集』を読み終わった。よかった。今夜から、岩波文庫の『モーム短篇選』上巻を読む。

きょうは塾だけ。それまでに数学の問題をつくっておこう。きのう、寝るまえに、モームの短篇、一つだけ読んだ。まあ、わかるけれど。という感じ。モームの意地の悪さは出ていない。ぼくはモームの意地の悪さが好きなのだ。時間的に、きょう、読めるかどうかわからないけれど、期待している。


二〇一六年六月三十日 「Gay Short Film The Growth of Loveの続編」


マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻の178ページに、「煙草の袋に」という言葉がでてくるのだが、この「袋」を、さいしょ、「姿」だと思って、「煙草の姿」って、なに? 煙のこと? と思って、読み返したら、「姿」ではなく「袋」だったので、ふと、「袋」と「姿」が似てるなと思った。

塾の往復一時間、とぽとぽ歩きながら、Gay Short Film の The Growth of Love の魅力について考えていた。ささいなこと、ちいさなことでも、そこにこころがこもっていれば、大きな力になる、ということかな。それを見せてくれたのだと思う。ふたりが付き合うきっかけも、ささいなことだったし、ふたりが別れることになったのも、ちいさなことがきっかけだったのだと思う。日常、起こる、すべてのことに気を配ることはできないものだし、また気を配るべきでもないことだと思うが、しかし、日常のささいなことの大きさに、ときには驚きはするものの、そのじっさいの大きさについては、あまり深く考えてこなかった自分がいる。ということなど、つらつらと考えていたのだが、もう55歳。深く考えてこなかった自分がいるということが、とてつもなく恥ずかしい。ああ、でも、深く考えるって、ぼくにはできないことかもしれないと、ふと思った。Gay Short Film の The Growth of Love に登場するふたりのぎこちない演技がとても魅力的だった。ぎこちなさ。ぎこちないこと。ありゃ、この言葉を使うと、ぼくの詩に通じるか。52万回近くも視聴されている短編映画と比較なんかしちゃだめなんだろうけれど。続編があったらしいのだけれど、いまは削除されている。残念。見ることができなかった。9分ちょっとの短編映画だけれど、ぼくの感覚に、感性に確実に残って影響するなって思った。というか、もともと、ぼくのなかにあったセンチメンタルな部分を刺激してくれる、たいへんよい映画だったってことかな。あのぎこちなさも演技だったとしたら、すごいけど。いや、演技だったのだろうね。きっと。でなきゃ、52万回も、ひとは見ないだろうから。

Gay Short Film の The Growth of Love の続編をネットで検索して、探し出して見たのだけれど、さいしょの作品だけ見てればよかった、というような内容だった。役者がひとり替わっていたのだが、その点がいちばんひどいところだと思う。その男の子のほうがタイプやったからね、笑。


二〇一六年六月三十一日 「すべての実数を足し合わせると、……」


すべての実数を足し合わせると、ゼロになるのであろうか。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



いつから家は家だったのだろう?
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・59、日暮雅通訳)

ドアってやつはいつドアでなくなる?
(ジョン・スラデック『時空とびゲーム』越智道雄訳)

ドアを見たら、開けるがよい。
(ロバート・シルヴァーバーグ『ガラスの塔』9、岡部宏之訳)

 彼は衣装戸棚の扉をぐいと引き開けた。何も掛かっていないハンガーがカラカラと音をたて、扉に掛かっていた彼自身のオーバーコートがふわりと飛び出して両袖が揺れた。だが、彼女の衣類はそこには一枚もなかった。
 ただの一枚もなかった。
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・IV、鈴木克昌訳)

──大切なのは釣りをしている気分であって、かかる魚ではない。同じように、大切なのは愛している気分であって、愛する女性ではない。
 そう思っていたのが、若いときだった。
(チャールズ・L・グラント『死者との物語』黒丸 尚訳)

恋は人を幸福にはしない。何人かの思想家の後で彼もそう考えた。だがそのことを確認したところで、やはり幸福になれるわけではないのだ。
(ミッシェル・デオン『ジャスミンの香り』山田 稔訳)

すべての家具の形態のなかでもっとも想像力に乏しいものがベッドであるのは興味深い。
(J・G・バラード『二十世紀用語辞典プロジェクト』木原善彦訳)

 彼は部屋を出て、階段を下り、丘に生えた一本の木のところまで歩いていった。完璧な日だった。昼間というものの歴史が目の前にまるごと広がっている気がした。燃えるような草は、これまで見てきたすべての草を代表していた。
(フリオ・オルテガ『ラス・パパス』柴田元幸訳)

電話がさんざんさんざん鳴った末に誰かが出る。向こう側から、聞き覚えのある沈黙。
(ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳)

電話口のクラークからは、裏手のベランダまで見通せた。
(メアリ・ロビンソン『おまえのほうが……』小川高義訳)

 従業員が地面を掃いていた。つぎの当たったグレーのオーバーオールを着ている。なんだか地面そのものから生えてきたみたいな男だ。それほど周囲に溶け込んでいる。
(エドラ・ヴァン・ステーン『マルティンズ夫妻』柴田元幸訳)

洗濯ロープにぽつんと一枚吊るされたタオルがその情景を見守る。
(クラリッセ・リスペクトール『五番目の物語』柴田元幸訳)

「どうしてあくびはうつるのか?」
(ジェラルド・カーシュ『狂える花』駒月雅子訳)

 彼のことばがおわらないうちに、扉(とびら)がひらいて、若い婦人がはいってきた。質素だが身だしなみのよい服装をしていて、千鳥の卵のようなそばかすのある顔は、いきいきと賢そうで、ひとりの力で世の中を歩いてきた女の人らしく、態度もきびきびしている。
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』ぶなの木立ち、阿部知二訳)

彼女の視線はゆっくりと動いて、すべてのものの上を渡り歩いた。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』7、井上一夫訳)

 彼女はふり返って、微笑(ほほえ)んだ。「今度は何を考えているの?」と彼女は尋ねた。
 はじめて彼女の顔を正面から見つめた。その顔は理解を越えるほど素朴な顔だった。つぶらな目があり、そこでは不安はただ不安であり、喜びはただ喜びだった。
(ハインリヒ・ベル『X町での一夜』青木順三訳)

彼女は頭がおかしいという噂をたてられていた──事実またそのとおりだった。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)

君に必要なものがぼくにはわかっていた。単純な感情、単純な言葉だ。
(ナボコフ『響き』沼野充義訳)

彼は指を突き出して、宙に小数点を書いた。でも、ラルフ・サンプソンはその点にさわれる。彼がさわると、点がバスケットボールに変わる。一点差の勝ちだ。ジャンプして、シュートだ、ラルフ。得やすいものは失いやすい(イージー・カム・イージー・ゴー)。
(アン・ビーティ『貯水池に風が吹く日』7、亀井よし子訳)

 ペドロは、彼女は頭がおかしいと言う気になれなかった。事実おかしかったからだ。それに、タンクには小壜一本分のガソリンすら残っていないにちがいない、と言ってやる気もしなかった。馬の耳に念仏だったからである。
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』2、野谷文昭訳)

人間は自分の何気ないひと言がどのような結果をもたらすのか、まえもって知ることはできないのだ。
(E・E・ケレット『新フランケンシュタイン』田中 誠訳)

「いったいなぜぼくらは年を取るんだろう? 時々……自然じゃないように思えることがあるんだ」
 見なくても彼女が肩をすくめるのが感じられた。「それが人生なのよ」
 ぼくにとっては、それではあまり答えにはなっていないのだ。疑問が深まれば深まるほど、答えはどんどん浅いものになってゆく──いちばん深い疑問には、結局、答えなんてぜんぜんなくなってしまうんだ。なぜ物事ってのはこんなふうなんだろう、キャス? ため息をついて、腕が触れあう。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・16、大西 憲訳)

「神の困ったところは、めったにわれわれの前へ現われないことじゃない」とキッチンはつづけた。
「神の困ったところは、その正反対だ──神はきみやおれやほかのみんなの襟がみを、ほとんどひっきりなしにつかんでいる」
(カート・ヴォネガット『青ひげ』21、浅倉久志訳)

 レジナルド卿は、精いっぱい抵抗するものの、銃口がまっすぐ自分を狙っているのに気づいた。まるで、スローモーションの映画を見てでもいるように、奇妙なくらい鮮明にすべてを見ることができ、感じることができた。丸い銃口がとても大きく見え……その上に、憎悪をむきだしにした、引きつりゆがんだゲリラの凶悪な顔をはっきりと見た。拳銃を握る男の拳がしろくなりはじめているのすら見ることができた。
(テレンス・ディックス『ダレク族の逆襲!』2、関口幸男訳)

 ソルは知っている。サライはレイチェルの子供時代の各成長段階を宝物のようにたいせつにしており、日々のありふれた日常性を慈(いつく)しんでいた。サライの考え方によれば、人間の経験の本質は、華々しい経験──たとえば結婚式がそのいい例だが、カレンダーの日付につけた赤丸のように、記憶にくっきりと残る華やかなできごとにではなく、明確に意識されない瑣末事の連続のほうにあるのであり、一例をあげれば、家族のひとりひとりが各自の関心事に夢中になっている週末の午後の、さりげない接触や交流、すぐにわすれられてしまう他愛ない会話……というよりも、そういう時間の集積が創りだす共同作用こそが重要であり、永遠のものなのだ。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』下・学者の物語、酒井昭伸訳)

きみも、見てはいるのだが、観察をしないのだよ。見るのと観察するのとではすっかりちがう。
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』ボヘミヤの醜聞、阿部知二訳)

 ふしぎな感銘とか異常なものごととかをもとめるならば、われわれは、いかなる想像のはたらきにもまして奔放なところをもつ実人生そのものについて見なければならないのだ
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』赤髪連盟、阿部知二訳)

 人生というものは、人間の頭ではとても考えられないほど、ぜったいにふしぎなものだね。日常生活のまったくありふれた事柄でさえも、とうてい、われわれの勝手な想像をゆるさないものをふくんでいるのだ。
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』花婿の正体、阿部知二訳)

 ルーシーにいうつもりはなかったが、ルーシーにはあってじぶんにはない資質がなにか、最近分かってきたような気がしていた。それを言葉にするのはむずかしい。ある意味では、ジェーンがいつもいっていることで、ルーシーには芯がある。ルーシーはきっといい女優になれるが、それは彼女にはしっかりとした基盤のようなものがあるからだ。あらためてなにかをでっちあげる必要がない。ピギーはいつもいっていた。マリリン・モンローが素晴らしい女優なのは、彼女のなかにべつな人間が隠れているのがだれにでも分かるからだ。くすくす笑ったり、口をとがらせたりすればするほど、隠れているべつの人間の存在がますますリアルになってくる。
(アン・ビーティ『愛している』16、青山 南訳)

 ここでは、顔があくびをし、物をほおばり、また傷あとをとどめ、愛と見えるものに焦がれ、金切り声をあげている。どれもが千の顔のひとつであり、二度と見ることはない。
(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)

 あのすべてはどうなったのか? また、そのほかの誰も知らないことども。たとえば母親の眼差し、愛にあふれ、しばしば彼の上で安らっていた眼差しは、もしかするとゲオルクの善良さのなかに生きつづけていたのではなかったのか。彼の髪の黒っぽい捲き毛のなかに、子どものくせ毛をやさしく撫でていた手のあとがのこっていたのではあるまいか。しかし、いまやそのすべてが死んでしまった。
(ベーア=ホフマン『ある夢の記憶』池内 紀訳)

 カーキ色の服の男は、靴紐のない靴をみつめたまま、首をふった。靴にこびりついた泥のかたまり。生きることの苦痛。彼は静かに考えていた。これは宇宙の物質──物質ではあるが、いつか精神に昇華するもの。精神も靴も、彼にとってはまったく同じで、ただ、より基本的なものが、物質としての姿にあらわれる。物質こそ原初の個性的な存在である。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)

物がいつ物でなくなるのだろうか?
(ロジャー・ゼラズニイ&フレッド・セイバーヘイゲン『コイルズ』14、岡部弘之訳)

有限の存在である人間が無限を知ることができるのは、有限の事物を介してのみである。
(ウンガレッティ『詩の必要』河島英昭訳)

 ぼくが読んだ本のなかに、ラブレーという作家について書かれた一冊がありました。死の床(とこ)で、ラブレーはこういったそうです。〈わたしは、不確実なものを探しに行くだけだよ〉
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第三十二章、茂木 健訳)

 ああ、ぼくはそんなことをすでにみな話していたな、ちがうか?
 どうだか、わからない。心の中であまりに多くのことが動きまわっているので、これまでに起こったことと、まだ起こっていないことと、心の中以外では絶対に起こらないことについて、ぼくはいささか混乱している。
(フレデリック・ポール『ゲイトウエイ3』上・9、矢野 徹訳)

 グローヴァーは話し終えると、トレイシーが何かを言うのを待った。そんなに多くを語ってしまったことを彼は悔やんでいた。気恥ずかしさを彼は感じていた。自分は自ら選んで犬になったわけではないのだ、そのような常軌を逸した行為の数々は必要性から生まれるものであって、嘆き悲しむべきことではないのだということを、彼女にわかってほしかった。ときとして、一人の人間の、人間であることへの怒りは、予期されるものを大胆に改変してしまうというかたちで、もっともみごとに顕在化されるのだ。なぜなら人々の自己などというものはほとんどうわべだけのものにすぎないからだ。
(マーク・ストランド『犬の生活』村上春樹訳)

なにごとも、そうなるべき必然性はない。
(ジョン・クロウリー『時の偉業』4、浅倉久志訳)

「未来から目を背ける訳にはいかないんだ」
「そうよ、そうだわ。それは真実よ」彼女は窓から気怠い午後の景色を噛みしめていたが、彼の言った意味でではなかった。
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・I、鈴木克昌訳)

「この犬は夢ばかり見ているのよ」
(コルタサル『秘密の武器』木村榮一訳)

 感情の発展過程で、ある点以上には絶対成長しない人がある。かれらは、セックスの相手と、ふつうの気楽で自由な、そしてギブ・アンド・テイクの関係をほんの短いあいだしか続けられない。内なる何かが幸福に耐えられないのだ。幸福になればなるほど、破壊せずにおけなくなる。
(フレデリック・ポール『ゲイトウエイ』20、矢野 徹訳)

それはかめへんのよ。
(エリザベス・A・リン『北の娘』1、野口幸夫訳)

それは問題じゃないのよ、
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ギレアデ、深町真理子訳)

 いちばん大きなものだって失われてしまうのに、小さなものが生き残るなんて誰が予想するでしょう? 人は何年もの時を忘れ、瞬間を覚えています。数秒の時間、象徴的なもの、それだけが残って物事を要約します──プールに掛かった黒い覆い、とか。愛は、いちばん短いかたちでは、ただのひとつの言葉と化します。
(アン・ビーティ『雪』柴田元幸訳)

「愛ね。そんなに重要なものかしら。あなたは先生だったから、ご存じでしょう。重要なもの?」
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第二章・15、青木久恵訳)

「愛って、名詞でもあり動詞でもあるのよね」
(オーエン・コルファー『新銀河ヒッチハイク・ガイド』下・第8章、安原和見訳)

その忘れがたい素晴らしい思い出によって、われわれはいつも被害を受けるのだ、
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』1、野谷文昭訳)

幸福がひとを殺さないということが、どうしてあり得るのだろうか?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』21、菅野昭正訳)

自分を破壊する者を愛する人は必ずいるものだ
(フリッツ・ライバー『現代の呪術師』村上実子訳)

ぼくはここからはじめる。
(オースン・スコット・カード『キャピトルの物語』第一部・5、大森 望訳)

「昔には帰れない」と、ことわざはいう。
 そう、帰れないのはよいことなのだ。
(R・A・ラファティ『昔には帰れない』伊藤典夫訳)

人間が二度と戻ってこないというのはよいことなのだ
(ブライアン・W・オールディス『銀河は砂粒のごとく』3、中桐雅夫訳)

ぼくは告白を書く。詩を書く。
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第三十二章、茂木 健訳)

書くことに意味などないのなら、いったい何に駆り立てられてぼくは詩作をしているのだろうか。
(ナボコフ『賜物』第1章、沼野充義訳)

ぼくはふたたび存在するようになったのだ。
(スティーヴン・バクスター『タイム・シップ』下・第六部・1、中原尚哉訳)

 日常生活では、詩への無関心は人類のもっとも目立つ特徴の一つである。偉大な詩が人類の最大の業績だということを否定する人はほとんどいないのだが、詩を読む人は殆どいないのだ。
(ロバート・リンド『無関心』行方昭夫訳)

美しいものというものはいつも危険なものである。光を運ぶ者はひとりぼっちになる、とマルティは言った。ぼくなら、美を実践する者は遅かれ早かれ破滅する、と言うだろう。
(レイナルド・アレナス『夜になるまえに』刑務所、安藤哲行訳)

育ちや経験の偶然による違いが人格に大きな違いを産むとでも思っているのかね?
(マイクル・スワンウィック『大潮の道』13、小川 隆訳)

肝要なこと、それは偶然性である。定義を下せば、存在とは必然ではないという意味である。存在するとは、ただ単に〈そこに在る〉ということである。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

 禅の庭は、断片だけ書きこまれた詩にたとえられる。空白を埋められるかどうかは、読み手の明敏さにかかっている。詩人の役目は自分のために閃きを得ることではなく、読み手の心にそれを呼び起こすことだ。禅の庭を作った人はそのことを知っている。庭を愛でる人々の間で、時としてまるで相反した見方が生ずるように見えるのはそのためだ。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十八章、榊原晃三・南條郁子訳)

 何という表現形式であろうか! どうして今まで誰もこの表現形式の秘密に気づかなかったのだろう?
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・I、鈴木克昌訳)

知っている事柄を適正に配置することによって知らない事柄まで自然と顕(あらわ)になってくる
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・I、鈴木克昌訳)

ぼくは他人の思い出の品が好きなんだ。自分自身のよりね。
(トマス・M・ディッシュ『老いゆくもの』宮城 博訳)

確かな確かさ
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・37、日暮雅通訳)

人間につくられたものだが、人間以上のもの──
(ポール・アンダースン『ドン・キホーテと風車』榎林 哲訳)

かつて自分がもっていたもの、とりにがしてしまったなにか。
(R・C・ウィルスン『世界の秘密の扉』幕間劇・2、公手成幸訳)

あの何か間違ってはいないものの響き、ずっと昔に起こった何かの経験、正しく光り輝くものであったことの?
(オラフ・ステープルドン『オッド・ジョン』10・世界の現状、矢野 徹訳)

愛はたった一度しか訪れない、
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

どうして一度も、愛していると言ってやらなかったのだろう。
(ルーディ・ラッカー『ホワイト・ライト』第一部・5、黒丸 尚訳)

なぜ「きみを愛している」といえなかったのか?
(リチャード・コールダー『アルーア』浅倉久志訳)

きみから逃げたのは、好きで好きでたまらなかったからなんだ。
(コードウェイナー・スミス『星の海に魂の帆をかけた女』10、伊藤典夫訳)

ある瞬間から次の瞬間までのあいだのことが思いだせない。
(ゴードン・リッシュ『はぐらかし』村上春樹訳)

自分で書いた詩行さえ覚えていないのだ。
(J・L・ボルヘス『ある老詩人に捧げる』鼓 直訳)

あんまり頭がいいほうじゃないから。
(ウォルター・テヴィス『マイラの昇天』伊藤典夫訳)

思い出せないことは、再発見するしかないのだ。
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第一部・7、茂木 健訳)

発見するということ以上に、魅力的なことは他にない。
(アンドレ・ジッド『アンリ・ミショーを発見しよう』小海永二訳)

詩人とは、瞬間の中で生き、と同時に瞬間の外に立って中を見ている存在であるはずだ。
(ケリー・リンク『墓違い』柴田元幸訳)

しかも、物語の多くを間違って覚えている。
(ロジャー・ゼラズニイ『アヴァロンの銃』6、岡部宏之訳)

人間にいろんな面があるのなら、もちろん、状況にもいろんな面があるんだ。
(アン・ビーティ『愛している』25、青山 南訳)

すべてがノイズになる。
(ジョン・スラデック『使徒たち──経営の冒険』野口幸夫訳)

本当の偉大な画家は、最大の効果が得られる色ならなんでも使う。
(デイヴィッド・マレル『オレンジは苦悩、ブルーは狂気』浅倉久志訳)

制限する要素は、自分自身にある。
(R・C・ウィルスン『世界の秘密の扉』第二部・第十一章・1、公手成幸訳)

わたしたちは限界によって自由になる。みずからをひとつの世界に制限することで、このひとつの世界を本当の意味で味わえるのだ。
(R・A・ラファティ『第四の館』第十一章、柳下毅一郎訳)

物語のなかでは、失われるものなど存在しないのだ。すべては形を変えるだけ。
(ジェフ・ヌーン『葉分戦争』田中一江訳)

語り手たちがなにかを捨てることはぜったいない
(ジョン・クロウリー『エンジンサマー』大森 望訳)

 次のことは銘記せよ。人びとがことばをかわすとき、たがいの顔に何が起こるか、それが小説の本題なのだ
(サミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』6、伊藤典夫訳)

思い出が彼女の顔をやさしくしていた。
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』帰郷、宇佐川晶子訳)

幸福でさえあれば、ちっとも構わないじゃない?
(ジョン・ウィンダム『地衣騒動』1、峯岸 久訳)

じつを言えば、たいていなにをやっても楽しいのだ。
(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』13、安原和見訳)

 人間はその生涯にむだなことで半分はその時間を潰している、それらのむだ事をしていなければいつも本物に近づいて行けないことも併せて感じた。
(室生犀星『杏っ子』むだごと)

誰が公立図書館を必要とする? それに誰がエズラ・パウンドなんかを?
(チャールズ・ブコウスキー『さよならワトソン』青野 聰訳)

 まあ、詩というものは、できてしまえば、なんとなく生気を失うものよ……完成しないことこそが、それに無限の生命を与えるわけだわ。彼女は、独りで微笑した。
(ベンフォード&ブリン『彗星の核へ』下・第六部、山高 昭訳)

 しかしどんな芸術においても、いちばん大切なのは、芸術家が自分の限界といかに戦ったかということなんだ
(カート・ヴォネガット『国のない男』12、金原瑞人訳)

どうだろう、ゲイに転向するというのは?
(J・ティプトリー・ジュニア『大きいけれど遊び好き』伊藤典夫訳)

 男にもし膣と乳房があれば、世の中の男はひとり残らずホモになっているだろう、とシルビオ・リゴールは口癖のように言っていた
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)

愛するのには相手が要(い)るけど、別れるにも相手が要るのよね
(マーガレット・ドラブル『再会』小野寺 健訳)

どんな経験も価値あるものになりうる
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』1、深町真理子訳)

心は、自分が経験していることを理解しようとする
(コニー・ウィリス『航路』下・第三部・47、大森 望訳)

なにかを見るために、それを理解する必要はない。でも理解するためには、それが見えなければいけない
(R・C・ウィルスン『観察者』茂木 健訳)

理解するというのはたんに原理を知ることとはちがう。
(ルーシャス・シェパード『メンゲレ』小川 隆訳)

だが理解するなどというのは驚くのにくらべ、じつにつまらないことだった。
(ブライアン・W・オールディス『隠生代』第二部・1、中上 守訳)

人はそれぞれ自分流の驚き方をする。
(カミロ・ホセ・セラ『二人の死者のためのマズルカ』有本紀明訳)

美しいものを見る喜びは他人の存在によって倍加する、と聞いたことがある。謎めいた共感がそこに加わり、ひとりの心ではつかみきれない微妙なものが明らかになるからだ。
(ジャック・ヴァンス『音』II、浅倉久志訳)

とにかくわれわれ人間は数が多すぎるうえに、だいたいの人間が自分が幸せになる方法も、他人を幸せにする方法も知らない。
(P・D・ジェイムズ『不自然な死体』第一部・12、青木久恵訳)

 ビリー・ブッシュはスモーキィを見詰めた。まるで、紙の上に書かれた単語と日頃喋っている単語とが同じものであることを、初めて理解したかのようだった。
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・II、鈴木克昌訳)

「自分が年老いたように思えるというのは、多分、世界が古いってこと──それもとっても古いってことが判るようになったことなのさ。自分が若い頃は、世界も若く見えるもんだよ。ただそれだけのことさ」
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・II、鈴木克昌訳)

「ぼくはあの薔薇を憶えている。そしてあの薔薇も、ぼくを憶えているんだ」
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第二部・12、茂木 健訳)

私は昨日の私と同じ人間だ。だが、昨日の私は誰だったのだろう。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第一部・5、青木久恵訳)

 二人のことは鮮明に思い出すことができた──二人の女性は、チャーリーの人生の中で、お互いに何年も隔たった存在なのに。
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

単語と単語のあいだに何か月もの時間が広がっているかもしれないなんて、想像したことがあるだろうか
(ジーン・ウルフ『ピース』2、西崎 憲・館野浩美訳)

音と音との距離は音そのものと同じくらい重要な意味をはらんでいる。
(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』丹治 愛訳)

すべては失われたものの中にある。
(アンナ・カヴァン『失われたものの間で』千葉 薫訳)

時も場所も、失われたもののひとつだ。
(アンナ・カヴァン『失われたものの間で』千葉 薫訳)

人間とはゆっくりと燃える存在だ。
(グレッグ・ベア『女王天使』上・第一部・13、酒井昭伸訳)

僕は絶えず作られ、作り直される。それぞれの人が僕からそれぞれの言葉を引き出す。
(ヴァジニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

言葉が語る。
(マルティン・ハイデッガー『言葉』清水康雄訳)

 お座なりの拍手を浴びてわたしはさがると、テーブルをまわりはじめた。ジョークをいったり、お世辞をいったり、世の中をうまく動かしていくのは他愛ない軽口なのである。
(マイクル・スワンウィック『ティラノサウルスのスケルツォ』小川 隆訳)

空は雲でいっぱいだった。
(チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻・第二部・17、日暮雅通訳)

雲の中にはあらゆる種類の顔があるわ。
(チャイナ・ミエヴィル『細部に宿るもの』日暮雅通訳)

若い時、わたしは画家になりたかった。
(ドナルド・バーセルミ『月が見えるだろう?』邦高忠二訳)

 画家は筆運びを見て画家を知る。音楽家は演奏を聴いて数百万人のなかから音楽家を見いだす。詩人は数音節で詩人を知る。とりわけ、その詩から一般的な意味や形が排されている場合には。
(ダン・シモンズ『エンディミオンの覚醒』下・第二部・20、酒井昭伸訳)

 芸術家の場合は作品と対(たい)峙(じ)した瞬間にその質がわかるというか、眼にするのと判断するのがほぼ同時というか、いや、ごくわずかだが眼にする前にその価値がわかってしまうというか、
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』冬、小梨 直訳)

自分の作品を完全に表現した人間が誰かいるとすれば、それはシェイクスピアでしょう。
(ヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋』3、川本静子訳)

なぜ生きていたいと思うのだろう?
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』18、藤井かよ訳)

意識が連続性を保とうとするのは自然なことよ。
(ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面12、嶋田洋一訳)

彼は通りにいるすべての人間なのである。その通り自体でもあった。
(イアン・ワトスン『マーシャン・インカ』I・5、寺地五一訳)

人は、たくさんのものに、たくさんの愛に、そしてたくさんの夢に別れを告げるものだ。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』36、船戸牧子訳)

遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうであろう。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第七巻・二一、神谷美恵子訳)

わたしたちにどんな存在価値があるの?
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』5、深町真理子訳)

 自分自身にむかってすこしばかり自慢できるということは、かれらの人生に、補遺という形で一つの意味を与えるんだよ。
(ノサック『弟』2、中野孝次訳)

「王さまであるのは楽しいことにちがいありませんわ、たとえ阿呆どもの王さまにしてもね」
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』下巻・18、宮西豊逸訳)

たいした詩人ですこと
(オースン・スコット・カード『死者の代弁者』上・1、塚本淳二訳)

誰のためにも奉仕しない想像力。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・79、土岐恒二訳)

罪深いということが、たぶん人間の条件だったのだ。
(ブライアン・W・オールディス『解放されたフランケンシュタイン』第二部・5、藤井かよ訳)

要するに、自分を許してくれる人間がほしいってことさ
(コルタサル『生命線』木村榮一訳)

答が与えられるなら、ときに問いは奪われてもよい
(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』19、安原和見訳)

ひとは《いいお方》を訪問したら、自分自身も《いいお方》になる以外にすべはないのである。
(ノサック『弟』2、中野孝次訳)

まだあなたに話しているのか?
(ブライアン・W・オールディス『銀河は砂粒のごとく』3、中桐雅夫訳)

人々は時間なしには生きることができない。
(ノサック『クロンツ』神品芳夫訳)

時間とは、諸事が一時におこるのを防ぐものだ
(レイ・カミングス『時間を征服した男』1、斎藤伯好訳)

人類は客観的事実に縛られてはいない。
(フレデリック・ポール『マン・プラス』3、矢野 徹訳)

神々が人間に贈ることができる最も価値のある祝福は孤独なのだ、
(カミロ・ホセ・セラ『二人の死者のためのマズルカ』有本紀明訳)

現実であるのは孤独であることだ。
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・ムーン』15、金子 司訳)

最も優れたものは孤独の中で作られるものであるらしい。
(ヴァニジア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

豊かな想像力はつねに現実感に裏打ちされていなければならない。
(P・D・ジェイムズ『正義』第一部・3、青木久恵訳)

 今ここで、時はもちろん春、アマガエルが、ライラックが、空気が、汗が乾いていく感触が、愛を語っていた。
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

頭の中だけのことだ。
(A&B・ストルガツキー『収容所惑星』第二部・8、深見 弾訳)

「おまえさん、幽霊を信じる者は馬鹿だと思っとるだろ?」ずっと昔、ある老人に訊かれたことがある。「いやはや、幽霊のほうが何を信じてるか知ったら、さぞかし驚くだろうて!」
(R・A・ラファティ『第四の館』第十章、柳下毅一郎訳)

醜い者は、醜い者をひきつける。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』下・エピローグ・1、山高 昭訳)

「さあ、行きなよ、兄弟、自分の茂みを見つけるんだ」
(ナボコフ『森の精』沼野充義訳)

孤独にさえ儀式はある、と彼は考えた。
(ロッド・サーリング『孤独な男』矢野浩三郎・村松 潔訳)

言葉というものはすべて、経験を共有している必要がある。
(ホルヘ・ルイス・ボルヘス『一九八三年八月二十五日』柴田元幸訳)

ブライアが目の前の光景を表現する言葉を十個選べといわれたら、"きれい"はその中に入らなかっただろう。
 事情を知らなかったら、戦争があったと思うかもしれない。何かひどい災害や爆発が風景全体を破壊したと思ったかもしれない。
(シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』20、市田 泉訳)

「ひと目惚れですか」アレックスはいった。
 アダムはうなずいた。《恋っていうのはいつだってひと目惚れですよ》
(ジャック・マクデヴィッド『探索者』7、金子 浩訳)

それはきみのもの──きみに属するものだ。
(R・C・ウィルスン『世界の秘密の扉』第三部・第十七章・2、公手成幸訳)

何もかも夢なんだよ。
(ハインリヒ・ベル『別れ』青木順三訳)

ぼくは彼のすべてが羨ましい。彼の苦しみの中には、ぼくには拒まれているあるものの萌芽があるように思えるのだ。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

ところで、蜂蜜はおもちかな?
(エイミー・トムスン『緑の少女』上・16、田中一江訳)

我々は狒々でも犬でもない。ほかのものだ。
(フランソワ・カモワン『いろいろ試したこと』小川高義訳)

与えられないものは求めないこと
(ジョン・クロウリー『エンジンサマー』大森 望訳)

懐旧の念とは、取り返しのつかない喪失にひたすら苦悩することだ。とりわけ、手に入れたことのない物の喪失に。
(ジョン・クロウリー『訪ねてきた理由』畔柳和代訳)

それは彼が小さな公園で学んだことだった。
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・IV、鈴木克昌訳)

本が開かれた。そして読者がいる。このわたしが読者であり、同時にその書物でもある。
(バリントン・J・ベイリー『光のロボット』13、大森 望訳)

わたしこそがその場所。
(ハーラン・エリスン『鈍刀で殺(や)れ』小梨 直訳)

視覚が暗さに慣れきるには四十五分もかかる。女はそんな知識をいっぱいたくわえている。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『おお、わが姉妹よ、光満つるその顔よ!』浅倉久志訳)

誰かが使い方をまちがったからといって、それが使いものにならないとは限らない
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・35、日暮雅通訳)

二十八歳になってもまだ大人じゃないことがわたしを苦しめた。
(イヴァン・ヴィスコチル『ヤクプの落し穴』千野栄一訳)

いうまでもないことだけれど、きれいだったよ、みんな。
(マーク・レイドロー『ガキはわかっちゃいない』小川 隆訳)

人々はたぶん、ほんの一瞬、かれの言葉の意味につまずくだけで、まさにかれはつまずかせるために話しているのであり、そうやって自分たちに教えようとしているのだと気づくだろう。
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

 わしらは、真実なんていう知識を、こんな風に、本来一番信じていない者から知らされ、一番嫌っているものに無意識に引きずりまわされるもんじゃ。
(ラーゲルクヴィスト『巫女』山下泰文訳)

 人を幸福にしてやれる。そう思うほどエゴを酔わせるものはない。夫婦仲がうまくいく根本の理由はそこにあるね。だが、もう片方にも幸せにしてもらう能力がなければならない。その能力は思ったほどそうざらにあるわけではない。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・8、青木久恵訳)

わたしは目が覚めていたが、しばらくはそのことに気づいていなかった。
(ジーン・ウルフ『ケルベロス第五の首』柳下毅一郎訳)

そして、わたしはもちろん、悪意がある以外はすべてにおいて潔白よ。
(ロジャー・ゼラズニイ『ユニコーンの徴(しるし)』7、岡部宏之訳)

どうやって目的地まで行くかってことは、どこへ行くかってことと同じくらい大切なんだよ。
(ダン・シモンズ『エデンの炎』上巻・3、嶋田洋一訳)

不在は存在よりもさらに多くを語る
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

一度気づいてしまったら、もうその事実に目をつぶるわけにはいかない。
(パット・キャディガン『汚れ仕事』小梨 直訳)

心こそ唯一の現実ではないか。人の考えこそ、その人を決定する。
(アルフレッド・ベスター『分解された男』2、沼沢洽治訳)

人間はまったくの孤独におかれると死ぬ。
(コードウェイナー・スミス『ナンシー』伊藤典夫訳)

転落の痛さを思い知らせるためには、うんと高いところへ押しあげてやる必要がある。
(ゴア・ヴィダール『マイラ』16、永井 淳訳)

一番大事なことは、実際頭が痛くなくても、頭痛は起こせるというのを知ること。
(カミロ・ホセ・セラ『二人の死者のためのマズルカ』有本紀明訳)

もし自分がたくさんいたら、よりよく物を見ることができるのだろうか?
(イアン・ワトスン『存在の書』第三部、細美遙子訳)

観察者は観察する行為を通じて、観察対象と相互作用をもつ
(R・A・ハインライン『異星の客』第二部・21、井上一夫訳)

誤植がいっぱいないような全集をもつ詩人は幸福なのであります。
(オーデン『作ること、知ること、判断すること』中桐雅夫訳)

「この世にはもとにもどせないものが四つある。口から出た言葉、放たれた矢、過ぎた人生、失った機会だ」と古人はいいました。
(テッド・チャン『商人と錬金術師の門』大森 望訳)

苦痛の原因はたいてい、ささいな事柄だと相場はきまっている。
(エリック・フランク・ラッセル『内気な虎』岡部宏之訳)

たえず苦労すると、人はどんなに衰えるものか。
(ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第二部・V、友枝康子訳)

「おまえは疲れてるんだ」彼は自分の声がそう言うのを聞いた。
(パット・ルーシン『光の速度』村上春樹訳)

迷うことはない。自分が誰であるかが分かっている限り、人は決して迷わないものだ。
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

新しさこそ生の原理である。
(コリン・ウィルソン『賢者の石』I、中村保男訳)

答えはいつだって簡単なほどいいものなのだ。
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)

ひょっとして、文体のことですか?
(ナボコフ『賜物』第1章、沼野充義訳)

その質問が終わって、ワインがなくなった。あるいは、その逆かもしれない。
(アブラム・デイヴィッドスン『眠れる美女ポリー・チャームズ』古屋美登里訳)

簡単に達成できて価値のあることなど、なにひとつ存在しないのだ。
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・2、茂木 健訳)

もはや、樹から花が落ちることもない、
(ナボコフ『言葉』秋草俊一郎訳)

人間であること、それが問題なのだ。
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の大聖堂』第1巻、矢野 徹訳)

 ジムはいまだにそんな金持ちの空気をまとっていた。彼のオーラと霊能力は大部分、そうした集合的記憶から生まれていた。実のところ、人の影響力というのはまといついている些細なものから生まれるのではなかろうか?
(R・A・ラファティ『第四の館』第一章、柳下毅一郎訳)

 本物の悲鳴はいつも偽物のように聞こえる。ちょうど、本物の恐怖が、同情心のない者には、つねに滑稽で軽蔑すべき対象のように見えるのと同じだ。
(R・A・ラファティ『第四の館』第十三章、柳下毅一郎訳)

 ある夜、ストーリーテリングのコツを私に伝授しようと、あなたは言いました。「大部分を省略して語れば、どんな人生だってドラマチックに聞こえるものさ」
(アン・ビーティ『雪』柴田元幸訳)

 ヒラルムは無言だった。生まれてはじめて、夜の正体を知ったのだ。夜とは、大地そのものが空に投げかける影であることを。
(テッド・チャン『バビロンの塔』浅倉久志訳)

詩人オーデンの忠言──「芸術家は敵に包囲されて暮らしているようなものだ」
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』夏、小梨 直訳)

 ありゃ、あんたの奥さんになる人だ。あるいは──地獄にはならないかもしれんが、兄弟よ、ちょっとした人生になる!
(ウィリアム・テン『道化師』中村保男訳)

すでに解答を知っている場合、彼女はより深い意味を考えようとはしないはずだ
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星1』矢野 徹訳)

 人生は、人生ならざる何ものかと衝突しているのです。つまり、それは半ば人生なのですから、私たちはそれを人生と判断するのです。
(ヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋』4、川本静子訳)

ああ、ややこち、ややこち。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『苦痛志向』伊藤典夫訳)

 人、それに人でなくてもなにかを憎むのは慎むことだ。自分が憎んでいるものと同じになるのはたやすい。
(キリル・ボンフィリオリ『チャーリー・モルデカイ2』22、三角和代訳)

なぜ、きょうのことを考えないんだい?
(ハリイ・ハリスン『人間がいっぱい』第二部・9、浅倉久志訳)

物事を知らずに済ませるのは難しくない。
(ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳)

 「想像だけならいくらでもたくましくできるわ、ヴァン。問題はそれにとらわれない、ということ……で? 何を想像したの?」
(ピエール・プール『ジャングルの耳』蘭の束・7、岡村孝一訳)

本物であろうとなかろうと、名称をつけることは可能だ。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第一部・5、青木久恵訳)

世の中には嘘っぱちではないけれど、はっきり真実と言えないこともあるのさ。
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・III、鈴木克昌訳)

 物語を読む誰もがその終わり方について同じことを感じるわけではない。そしてもしあなたがはじめに戻ってもう一度読んだら、前に読んだ気でいたのと同じ物語ではないことを発見するかもしれない。物語は形を変える。
(ケリー・リンク『プリティー・モンスターズ』柴田元幸訳)

 それが実際に父親の口から聞く最後の言葉ということがわかっていたなら、マルティンは何か優しい言葉を口にしただろうか?
 人は他人に対してこんなにも残酷になりうるものだろうか?──とブルーノはいつも言うのだった──もし、いつか彼らが死ななければならない、そしてそのときには、彼らに言った言葉はどれも訂正しえないものだということがほんとうに分っているなら。
 彼は父が後ろを向き、階段のほうに遠ざかっていくのを見た。そして、姿を消すまえにもう一度向きなおり、死後何年かしてマルティンが絶望の中で思いだす、あの視線を向けたのだった。
(サバト『英雄たちと墓』第I部・7、安藤哲行訳)

あらゆるものは、始まったところにもどるものなのよ。
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』2、深町真理子訳)

弱そうに見えることは、弱いことと同じだ。
(ニコラス・グリフィス『スロー・リバー』7、幹 遙子訳)

これまでにあなたの見たいちばん美しいものは、なんですか?
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』1、浅倉久志訳)

結局、記憶なんてのは、純然たる選択の問題なのよね
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

過去を忘れなさい。忘れるために過去はあるのよ。
(デニス・ダンヴァーズ『エンド・オブ・デイズ』上・11、川副智子訳)

路上ですれ違う人々の誰もが二人を祝福してくれないのは何故なのだろうか? 足もとの舗道や、一面の白い空ですら二人を祝福してくれないのは何故なのだろうか?
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・II、鈴木克昌訳)

おれは変わった……「おれ」の意味が変わった。
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』23、鈴木 晶訳)

 ダルグリッシュの視線が、すでに一度はとらえておきながら気がつかずにいた或るものの上にとどまったのはそれからだった。大机の上に載っている、黒い十字架と文字の印刷された通知書の一束である。その一枚を持って、彼は窓ぎわへと行った。明るい光でよく見れば、自分のまちがいがわかる、とでも言うように。しかし
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』2・1、小泉喜美子訳)

誰かよりすぐれているということは、その人を幸福にはしません。
(マイクル・スワンウィック『ウォールデン・スリー』小川 隆訳)

ウィカム氏は、あらゆる婦人にふりかえって見られる幸福な男であったが、エリザベスはそういう男に傍にかけられた幸福な女であった。
(ジェーン・オースティン『高慢と偏見』16、富田 彬訳)

「わたしはこれまでに二十カ所の教区を受け持った。年に五千件の告白を四十年も聞いていれば、人間についてのすべてはわからなくても、すべての人間がわかってくるよ」
(R・A・ラファティ『一切衆生』浅倉久志訳)

"愛"とか"欲望"とか呼ぶものがどこから生まれるかは、だれにもわからない。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』26、岡部宏之訳)

《故郷》がわたしたちの一部であるように、わたしたちは《故郷》の一部なんです。簡単に切り離すなんてできませんわ──
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』大洪水、宇佐川晶子訳)

これから成長するにつれ、この子はその細やかで豊かな感情のために、きっといろいろ苦労するに違いないわ。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・16、御輿哲也訳)

ヌートがまだ生きているということに、クリフはもはやまったく疑いを抱いてはいなかった。「生きている」という言葉が何を意味しているとしても。
(ハリイ・ベイツ『主人への告別』6、中村 融訳)

 人生というものは、簡単に言えば、途方もなく気楽なものである──少なくとも、あてがないことと孤独であることの問題を、このふたつを無視することによって解決してしまえば、しばらくは気楽このうえもない。
(ダグラス・アダムス『宇宙の果てのレストラン』30、風見 潤訳)

「あの女が幸せなはずはないわよ」わたしは断固としていった。
 フィオナは首を振りながら反対意見をのべた。
「幸せなのよ。でも誰かと分かちあえるような幸せじゃないのよね。誰かと分けたら、その価値がなくなっちゃうのよ。わたしたちの幸せは、分けたら、もっと大きくなるのにねえ」
(ジョン・ブラナー『地獄の悪魔』村上実子訳)

 欲しがっていたものが、もうどうでもいいと思いはじめたころに手に入るわけか。こんな経験はよくあることだから、そのために知的な人間がいつまでもくよくよするわけがないが、それでも心を乱す力は十分残っていた。
(P・D・ジェイムズ『不自然な死体』第一部・2、青木久恵訳)

長いつきあいだというのに、この時計とわたしはあまり親しい間柄ではない。私がこの時計に抱いている感情は、友情というよりは尊敬に近い。
(アンナ・カヴァン『われらの都市』IV、細美遙子訳)

 しかも"彼"はかなり耳が遠くなっていて、とくに女性や子どもの高い、かぼそい声が聞こえにくい状態だ。"彼"が最後に小鳥のさえずりを聞いたのは千年前のことだし、雀はもうずいぶん長いこと、顧みられることもなく、地に落ちつづけている。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『肉』小野田和子訳)

クリスピンはじっと僕を見ていた。僕にはわかった。クリスピンも僕と同じで、魅せられていると同時に、脅えているのだ。
(エルナン・ララ・サベーラ『イグアナ狩り』柴田元幸訳)

 だれでも最良のものを得られることはめったにないし、得ても長続きしないわ。次善のもので手を打ったら?
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』28、宇佐川晶子訳)

一枚の仮面の下にたくさんの顔が隠されているのか、それとも一つの顔がたくさんの仮面を被っているのか、彼にはどちらなのか判らなかったが、自分自身についてもそのどちらなのか判らないのだった。
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・II、鈴木克昌訳)

 記憶とは奇妙なものだ。記憶は、ときどきわたしたちがそう信じたくなるほど鮮明にはなりえない。もしなれるなら、それは幻覚に似てくるだろう。ふたつの場面を同時に見る感じになるだろう。いちばん現実に近い心像がうかぶのは、夢のなかである。それ以外の場合、わたしたちの記憶像は多少ともぼやけている。
(ジョン・ヴァーリイ『スチール・ビーチ』下・第一部・06、浅倉久志訳)

しかし自我なくして眺めた世界をどうして記述しよう。
(ヴァジニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

 ご存じのように、事実はじつに大きな力を持つことがある。われわれが望んでいないほどの力を。
(カート・ヴォネガット『国のない男』2、金原瑞人訳)

 ユーモリストってのは、信じてることと信じていないことをごっちゃにするんで困る。効果をあげるためには、どっちでも使う。
(ジョン・アップダイク『走れウサギ』上、宮本陽吉訳)

わたしたちを大発見へと導くのは常に真実というわけではない
(サバト『英雄たちと墓』第III部・20、安藤哲行訳)

だれもかれもが有罪の世界で、なぜ罪の意識にさいなまれなければならない?
(ルーシャス・シェパード『ファーザー・オブ・ストーンズ』内田昌之訳)

答はない。
(アン・ビーティ『ハイスクール』道下匡子訳)

危機は人間を変える。隠れた性格をおもてへひきだしてくる。
(ウォード・ムーア『ロト』中村 融訳)

無名はひそかで豊かで自由だ、無名は精神の彷徨を妨げぬ。無名人には暗闇の恵みがふんだんに注がれる。
(ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』第二章、杉山洋子訳)

無名であれば羨望ゆえの焦り恨みとも心は無縁、
(ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』第二章、杉山洋子訳)

憎しみこそこの世でもっとも破壊的な力だと人は言うだろう。だが、そんなことを信じてはいかん。一番破壊的なのは愛さ。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第四部・1、青木久恵訳)

あたしができなかった事はたったひとつ、あった事をなかった事にすることだ。黙っていたことは絶対に取り戻せないんだ
(カミラ・レックバリ『氷姫』V、原邦史朗訳)

「約束だけなら、息をしないという約束だってできるわ」
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』荒野、深町真理子訳)

かれらが翔ばないのは、翔べないからだ。
(トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』13、友枝康子訳)

(…)「人はみな堕ちるし、人はみなどこかに着地する。たぶん、そんなところなんだろう」
「おそろしく長い旅になるぞ」
「それほどでもないと思うよ。ひとすじの光になってしまえばね」
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第三十二章、茂木 健訳)

秘密は秘密を持てない。秘密であるだけだ。
(ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳)

誰かの立場に自分を置いてみるということは、いつでもすぐにそれをやめることができるなら、楽しいものなのである。
(コリン・ウィルソン『殺人の哲学』第一章、高儀 進訳)

世界のすべてのものは美しい。でも人間に美が認識できるのは、それをたまに見たときか、遠くから見たときだけだ……。
(ナボコフ『神々』沼野充義訳)

思い出の中の友達ほどよい友達はいないし、思い出の恋ほどすばらしいものもないわ
(アルジス・バドリス『アメリカ鉄仮面』第九章、仁賀克雄訳)

「ときどき思うんだよ、そうした小さな幸せは、まさしく小さなものであるからこそ存在しているのだと。誰にも気にとめられずに通り過ぎていく、あの名もない人々のように」
(サバト『英雄たちと墓』第II部・4、安藤哲行訳)

どんなものだって、きみが何かを手に入れるとすれば、それは誰かが手放したからなんだ。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

「嘘をいう必要があると思った場合には嘘をついてきました。そして、その必要がなかった場合にもね」
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』40、岡部宏之訳)

だれもが嘘をつく。必要に応じてか、それとも必要以上にな。
(ジャック・ヴァンス『復讐の序章』9、浅倉久志訳)

「われわれは嘘をつける。それは意識のもつ利点だ」
「わたしなら利点だとはいわないぞ」
「そのおかげで、コミュニケーションにおいて無数の興味深い可能性がひらけるのだ」
(ジョン・スコルジー『老人と宇宙3 最後の星戦』9、内田昌之訳)

子供たちは言った、死とは生に意味を与えるものなの? で俺は言った、いや生こそ生に意味を与えるのだよ。
(ドナルド・バーセルミ『学校』柴田元幸訳)

道に迷ったのだろうか? そんなはずはない。自分を見失わない限り道に迷うことはない。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』昼夜入れ替えなしの興業、木村榮一訳)

きっと頭がおかしくなってるのね!
(チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』死者からの電報、金子 浩訳)

 ぼくの発見したところでは、えてして取るに足らない事件のほうが観察をめぐらす機会も多く、原因と結果とにたいして鋭い分析もこころみることもでき、調査していて魅(み)力(りょく)を感じるのだ。大きな犯罪ほど、単純な様相になりがちだ。というのは、たいていの場合大きな犯罪ほど、動機が明瞭になってくるからだ。
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』花婿の正体、阿部知二訳)

でも人間、あんまり学問をつんだってろくなことはないよ。
(デイヴィス・グラック『合法的復讐』柿沼瑛子訳)

この世では、ぜったい謝らないほうが賢明である。ちゃんとした人間は人に謝罪など求めないし、悪質な人間はそれにつけこもうとするのだから。
(P・G・ウドハウス『上の部屋の男』小野寺 健訳)

単独活動する天才は、つねに狂人として無視される
(カート・ヴォネガット『青ひげ』24、浅倉久志訳)

何か違ったものを見ているのだ。
(スティーヴン・キング『やつらの出入口』高畠文夫訳)

「帝王(スルタン)は壮大な夢をお持ちだ」ルビンシュタインが言った。「だが、あらゆる夢はもしかしたら、さらに大きな夢の一部であるのかもわからん」
(ドナルド・モフィット『星々の教主』下・16、冬川 亘訳)

語ることは確かな治療法である
(フィリップ・クローデル『ブロデックの報告書』XXXII、高橋 啓訳)

あなたもまたひょっとして世界の寸法を測りにいらしたのですか?
(フィリップ・クローデル『ブロデックの報告書』XIII、高橋 啓訳)

 子供にでも訊いてみるがいい。やっていい価値のあることだって、ずっとやっている価値はない。
(チャールズ・バクスター『Sudden Fiction』覚え書、小川高義訳)

もちろん、この荒廃には意味がある。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十六章、榊原晃三・南條郁子訳)

 我々はいつだって欲しくないものを注文するものなのだ、そんなことは自明の理ではないかとあなたは思うかもしれない。
(マリリン・クライスル『アーティチョーク』村上春樹訳)

 かたわらにきた彼女が、まばゆい星明かりの中で身をかがめたとき、レイブンは見てとる──彼女のうなじと肩だけでなく、露出された肌のいたるところ、脇腹、太腿、上腕から肘にかけて、また肘から手首にかけて──いたるところに毛すじほどの傷痕の網模様が走っているのを。左右対称の人工的な傷痕、この光のいたずらがなければ見えなかったであろう傷痕。その瞬間に、まだ信じられない気持ちで、これほど残酷に彼女を痛めつけた事故がなんであるかをさとる。
 もっとも強烈で、容赦ない、極度の打撃──
 老齢。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『たったひとつの冴えたやりかた』第二話、浅倉久志訳)

 私は、現実を暗示してはいるものの実はその現実をいっそう明確に否定するために点(つ)いているに過ぎないような暗い明かりの並木道を歩いた。
(ハインリヒ・ベル『X町での一夜』青木順三訳)

存在せぬ神々を崇拝するほうが、より純粋なのではありませんかな?
(イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)

答えられないような質問で、自分も、まわりの人間も苦しめてはいけないね。
(スティーヴン・バクスター『虚空のリング』上・第二部・8、小木曽絢子訳)

 想像で創りあげたものはすべて真実である。間違いなくそうなのです。詩は幾何学と同じように正確に事実を表わすものです。
(フロベールの書簡、一八五三年八月十四日付、ルイーズ・コレへの手紙、ジュリアン・バーンズの『フロベールの鸚鵡』14、斎藤昌三訳から)

ある問題を解決するための最大の助力者は、それが解決できるものだと知ることである
(トーマス・M・ディッシュ『虚構のエコー』5、中桐雅夫訳)

だが、いちど気がつくと、なぜ今まで見逃していたのか、ふしぎでならない。
(ドナルド・モフィット『第二創世記』第二部・7、小野田和子訳)

神々が味わいたいのは、動物の脂身と骨ではなく、人間の苦しみなのよ
(マーガレット・アトウッド『ペネロピアド』XVI、鴻巣友季子訳)

 人生よりも本を好むという人がいるが、驚くにはあたらないと思う。本は人生を意味づけしてくれるものだからだ。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』13、斎藤昌三訳)

彼女が相手から学ぶことはあっても、相手が彼女から学びとることは何もない。
(アーシュラ・K・ル=グィン『革命前夜』佐藤高子訳)

 フロベールは、オメーの俗悪さを列挙する場合にも、全く同じ芸術的な詐術を使っている。内容そのものは下卑ていて不快なものであっても、その表現は芸術的に抑制が利き調和しているのだ。これこそ文体というものなのである。これこそ芸術なのだ。小説で本当に大事なことは、これを措いてほかにない。
(ナボコフ『ナボコフの文学講義』上・ギュスターヴ・フロベール、野島秀勝訳)

あらゆる精神分析医の例に洩れず、ランドルフも自分自身にしか関心がない。
(ゴア・ヴィダール『マイラ』37、永井 淳訳)

 世界は悪く、人間はすべて愚かだ──だが、押しつぶされない人びともいる。それは語り伝える価値のあることではないだろうか?
(フレッド・セイバーヘイゲン『赤方偏移の仮面』宇宙の岩場(ストーン・プレイス)、岡部宏之訳)

叡智は必ずしも知識から生まれるものではないし、知識からはけっして生まれえぬ叡智もある。
(ジョン・クロウリー『エンジンサマー』大森 望訳)

ときに男たちは互いに殺しあうこともあるけれど、それも同じように愛を理由としている。
(ジャック・ケイディ『暗黒を前にして』黒丸 尚訳)

(…)今日という一日が、自分の人生をどれほど変えてしまったことか。
 ラッセルはその半分もわかっていなかった。
(ジョー・ホールドマン『擬態』37、金子 司訳)

文章というものの一番大切な部分は、話し言葉の自然な口調なのだ、
(ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』第四章、杉山洋子訳)

文句を言わずに規則に従わなければならないのは、力のない者であり、影響力のない者である。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『デイワールド』3、大西 憲訳)

まともな人間はみな、地獄をのぞいたことがあるのだ。
(ジェラルド・カーシュ『遠からぬところ』吉田誠一訳)

ヒントは少しでよいのだ。
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

「YMCAのことよ。実を言うと、あそこはホモの溜(たま)り場。もう気がついてると思うけど」
(R・C・ウィルスン『時に架ける橋』第二部・8、伊達 奎訳)

 絵葉書には『ぼくは今、数知れぬ愛の中を、たった一人で歩いている』と書いてあったが、これはジョニーが片時も離さずに持っているディラン・トマスの詩の一節だった。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

ベルコの足どりには最前ハンマーを持ったときの昂(たか)ぶりが残っていた。
(マイケル・シェイボン『ユダヤ警官同盟』上巻・13、黒原敏行訳)

眠りというのは、そこから目ざめるときにしか意識できない。
(ナディン・ゴーディマー『末期症状』柴田元幸訳)

ぼくは音声に豊かな霊力があることを信じます。イツパパロトル! ──黒曜石の胡(こ)蝶(ちょう)! イツパパロトル!
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上巻・3、宮西豊逸訳)

口にすると、そのものに現実性を与えることになる。
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・13、佐藤高子訳)

これは私の潜在意識なんだろうか?
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来会議[改訳版]』深見 弾・大野典宏訳)

すっかり同じだけど、同じとは違う。
(チャールズ・シェフィールド『ニムロデ狩り』11、山高 昭訳)

われわれは同じものを見る、だがまるで違った目で見るのだよ
(ロバート・シルヴァーバーグ『〈教皇〉ヴァレンタイン』下巻・第三部・4、森下弓子訳)

「君の自転車はなんて名前なの?」
 男の子は返事もせずに顔を伏せたが、やがてひどく早口で言った。
「ミニ」
「とてもきれいだね」モンドは言った。
(ル・クレジオ『モンド』豊崎光一・佐藤領時訳)

 名前というものにはふしぎな力がある。なにかに名前をつけると、たとえそのなにかが目の前になくても、それについて考えることができるのだ。
(ジョン・クロウリー『ナイチンゲールは夜に歌う』浅倉久志訳)

 エメリアにも再会した。ずっと美しいエメリア、そう、どんな思い出よりも美しく、けっして言葉だけの存在ではないエメリアはストーブのそばに腰かけていて、皿が割れる音にもかかわらず、僕が呼びかけているにもかかわらず、僕がその肩に手をかけているにもかかわらず、歌を口ずさみつづけた。それを聞いて僕は吐き気を催した。
(フィリップ・クローデル『ブロデックの報告書』XXXII、高橋 啓訳)

室内の空気まで、笑いを噛み殺している感じだった。
(オルダス・ハックスリー『ジョコンダの微笑』三、小野寺 健訳)

自然なものは憎悪だけといった世界では、恋はひとつの病なのだ。
(ホセ・エミリオ・パチェーコ『砂漠の戦い』11、安藤哲行訳)

 受話器を取るまでに彼女は時間をかけた。電話の相手はたぶん医者だろうと彼女は見当をつけたが、まさにそのとおりだった。
 いかにも職業的な快活さを耳にしても、それで快活になれるわけではない。
(テネシー・ウィリアムズ『天幕毛虫』村上春樹訳)

愛にしろ憎しみにしろ、彼は強い感銘を受けたことが一度もなかった。
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』5、堤 康徳訳)

 彼の本名を直接本人に尋ねた人は誰もいなかった。さすがに村長は一度くらいきいてみただろうが、返事はもらえなかったのだと思う。今となってはどうしようもない。もう遅すぎるし、おそらくそのほうがいいのだ。真実というものは、へたに手を出すと怪我をするし、生きてはいけないほどの深手を負うことだってある。誰しも望むところは、生きることなのだから。なるべく苦しまずに。それが人間だ。きっとあなただってわれわれと似たようなものだろう。
(フィリップ・クローデル『ブロデックの報告書』I、高橋 啓訳)

「みんなはぼくたちが恋仲だと思ってる」わたしはある日、散歩の途中でそういった。
 すると、彼女は答えた。「そのとおりだもの」
「ぼくのいう意味がわかってるくせに」
「じゃ、恋とはどういうことだと、あなたは思ってるの?」
「よく知らない」
「いちばんいい部分は知ってるはずよ──」と彼女はいった。「こんなふうに歩きまわって、なにを見てもいい気分になること。もしあなたがそのほかの部分をとり逃がしたとしても、べつに気の毒には思わないわ」
(カート・ヴォネガット『青ひげ』20、浅倉久志訳)

「やれやれ」と、ロンドンへ帰る汽車に腰をおちつけたとき、水力技師はくやしそうな顔をしていった。「とんだけっこうな仕事でした。親指はなくするし、五十ギニーの報酬はふいになるし、いったいなんの得るところがあったでしょう」
「経験です」ホームズが笑いながらいった。「経験はそれとなく役にたつものですよ。きみはそれをことばにして話すだけで、これから一生のあいだ、すばらしい話し相手だという評判を得ることができます」
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』技師の親指、阿部知二訳)

 わしらは、わしとおまえとは、ほんとに一つのものではなかったんだね──おたがいに相手の感じていることを理解するほどにはね。すべてがそこにあるんだよ、いいかい? 理解と──同情、それは貴重なものなんだ。(…)わしらは、恐ろしいことに、人生の外側ばかり歩いて来たのだということに気がついたんだよ。おたがいに何を考え、何を感じているかを話しあったこともなく、ほんとうに一つになることもできずにね。おそらく、あのちっぽけな男と細君との間には、隠し立てすることは何もなく、おたがいに相手の生活を生きているんだよ。
(ジョン・ゴールズワージー『陪審員』龍口直太郎訳)

「ものごとに終わりはなく、それを言うなら始まりもなく、ただ途中があるだけ」
(オーエン・コルファー『新銀河ヒッチハイク・ガイド』下・第12章、安原和見訳)

「まず基本を教える。小さなことからひとつずつな。ジャグルは、一連の目立たない小さな動作から成り立っている。それをたてつづけに、早くやるんだ。すると、切れ間のない流れのように、あるいは同時に起こっているように見える。同時になにかが起こるなどというのは錯覚だよ、きみ。ジャグルもそうだが、それ以外の場合でも同じことがいえる。物事は、すべてひとつずつ起こるのさ」
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・6、佐藤高子訳)

そして誰かがナポレオン
(カミングズ『肖像』伊藤 整訳)

 服のハンガーが戸棚のなかで、たがいに身を寄せあってうずくまっている怯えたけもののように、くっつきあってぶらさがっていた。
(ハーラン・エリスン『バジリスク』深町真理子訳)


詩の日めくり 二〇一六年七月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年七月一日 「ヴィーナスの腕」


コンクリート・鉄筋・ボルト・ナットなどなど
構造物の物質的な素材と
温度や重力や圧力や時間といった物理的な条件や
組み立てる技術や出来上がりの見通しや設計図
といったもので建物が出来るとしたら
さしずめ
概念は物質的な素材で
自我は物理的な条件や組み立てる技術や出来上がりの
見通しといったものだろうか
言葉が言葉だけでできているわけではないといわれるとき
後者の物理的な条件や技術や見通しなどのことを
考慮に入れてのことなのだろう
その言葉に個人の履歴が
またその言葉の歴史的な履歴があって
そういったもののほかに
その言葉を形成したときの個人の状況(部屋の様子など)も
大いに反映されてる
ヴィーナスの彫刻の腕のない有名なものがあるけれど
その彫刻について
「腕がないから
 想像し
 美しいというように思えるのだ」
みたいな文章を
綾小路くんが読んだことがあって
って
ぼくが
たくさん本を読んでいると驚くことがあんまりなくなるんだよねえって
一般論を口にしたときに言って
しばらくお話
不完全なものが完全なものを想起させるという骨子の文章だったかな
ヴィーナスだからうつくしい
だから
ない腕も
あった状態でうつくしいはずっていう
常識論でもあると思うんだけど
人間て
あまのじゃくだから
Aについては非Aを思いつくんじゃないのって言った
でもさらに人間は
Aでありかつ非Aであるという矛盾律に反するものや
Aでもなく非Aでもないっていうのまで
Aという内容を見たら頭に思い浮かべるんじゃないのって言ったら
森くんが
人間って
そんな論理構造で捉えられるものばかりじゃないものまで
捉えるんじゃないのかなって言うので
まさしく
ぼくもそう思っているよと言った
そしたら
綾小路くんが
(ヴィーナスの話をはじめたときには
 彼は 
 はっきりと言わなかったのだけれど
 ということは話の途中で思いついたと思うのだけれど)
(その腕のないヴィーナスの話を書いた人は
 きのう大谷くんから
 その文章は清岡卓行のものだと教えてもらった)
たぶんその思いつきに自分でこれはいけるぞって
思って書いたのではないかと思います
とのこと
作者がうまく説明できることだからという理由で
その文章を書いた可能性があるということ
というのも
綾小路くん曰く
「ぼくはその腕を頭に思い浮かべることができなかったんです」

ふううむ
それに思いついたことひとつ
腕のある状態を
ぼくらはふつうの状態としているが
そのふつうの状態も
具体性にかけることがあるということなのね
またまた思いついたことひとつ
事柄だけをAと捉えず
文章全体をAと捉えて
非A
Aかつ非A
Aでもなく非Aでもなく
エトセトラ・エトセトラと考えると
わたしたちは文章を書くことに過度に敏感になるのではないか
臆病になるのではないか

と書かれてあるだけで
ほかのいっさいのものの意味まで
ひきよせて考えてしまう
句点

だけで
あらゆる意味概念の
言葉
文脈
文章をあらわすとなると
文学が
とても
書くのが
いや
解釈も
むずかしいものになる

意味概念が
Aかつ非A
といったことはあるかもしれんが
現実の物事が
Aかつ非Aということはないかものう
しかし
解釈論としては
事物に対しても
Aかつ非Aはありえる
そいつは
まあ
解釈が
現実の事物そのものではないからじゃが
しかし
神秘主義の立場でなら
たとえば
イエスが
神であると同時に人間であるというのは
何十億という
クリスチャンたちが
(何億かな)
信じてるんだから
事物でも
Aかつ非Aはあると
考えることについては
意義がある
意義がない


二〇一六年七月二日 「人間自体が一つの深淵である。」


わたしたちのこころには
自分でも覗き込むことの出来ない深い淵があってね
それは他人にもぜったいに覗き込むことのできない深い淵でね
自分でも
じゃなくて
自分だからこそかな
その深い淵にはね
近づこうとすると
遠回りをさせて
その淵から引き離そうとさせる力が自分のなかに存在してね
無理に近づこうとすると
しばしば躓いてしまって
まったく違った場所を淵だと思ったり
ひどいときには
あやまった場所で
二度と立ち上がれなくなったりするんよ
もしかすると
他人の方が近くに寄れるのかもしれないけれど
でもね
その近さってのは
ほんのわずかのものでね
淵からすれば
ぜんぜん近くなってないのね
ひとがいくら近いと思っても
そうじゃないってわけ
人間自体が一つの深淵である


二〇一六年七月三日 「朗読会」


きょう、京阪浜大津駅近くの旧大津公会堂に行くことにした。ジェフリーさんと久しぶりにお会いする。方向音痴で、交通機関の乗り方もあまり知らないので、早めに出ることにする。三条京阪から30分くらいのところらしい。(いま、ネットで調べた。)

伊藤比呂美さん、平田俊子さん、新井高子さん、川野里子さん、田中教子さん、ジェフリー・アングルスさん、キャロル・ヘイズさんの朗読らしい。

個性的な強烈な詩の朗読だった。新井高子さんとは、何年振りかでお会いした。相変わらずチャーミングな方だった。また平田俊子さんの詩のユーモアは、ぼくにはないものだった。そして、伊藤比呂美さんは、朗読も迫力があり、人間的な魅力にもあふれた方だった。とりわけ、伊藤比呂美さんは、人間の器が違い過ぎる。巨大だ。ぼくの書いているものが弱弱しい糸で縒り合わせられたものであることが実感された。生の朗読会、行ってみるものだなって思った。

きのう、モームの『サミング・アップ』を読んでいて、それがあまりに自然に自分の胸に入ってくる文章なので驚いた。きょう、ジェフリーに、「さいきん、何を読んでいるの?」と訊かれ、即座に、「モーム。」と答えた。「あとSFと。」と付け足した。「ルイーズは、げらげら笑っちゃった。」と言った。

ううん。撚り合わせる糸を太くしなければならない。55歳。だいぶ経験もしていると思うのだけれど、どこか弱弱しいのだな。もしかしたら、経験していないのかもしれない。経験していないのかもしれない。きちんと。


二〇一六年七月四日 「優れた作家の凡庸さ」


いま、きみやから帰ってきた。これから、モームの『サミング・アップ』を読みながら寝る。さくさく読める。メモはいっさいしていない。書かれてあることに異論もなく、新しい見解も見出せなかったからである。成功した作家というものの凡庸さに驚きはしたけれど、常識がなければ小説も書けないのだから、そう驚くべきことではないのかもしれないとも思った。まあ、それでも短篇選は読むけど。むかし、長篇の『人間の絆』を読んだけれど、よかったと思うのだけれど、記憶がまったくない。読んで栄養にはなったと思う類の本だった。とにかく体調が悪い。本を読みながら床に就く。


二〇一六年七月五日 「マンリケちゃん」


ハイメ・マンリケの『優男たち』太田晋訳・青土社
編集を担当なさった郡 淳一郎さんからいただいたのですけれど
いま100ページくらい読みました
プイグがなさけないオカマとしてではなく
こころある人間として書かれてあると思いました
キャンプなオカマとしてのプイグ
鋭く
繊細で
力強いプイグ
マンリケも
ぼくのいちばん好きな『赤い唇』をもっとも高く評価していたので
うれしかった
レイナルド・アレナスのことが書かれた章を読み終わったところ
アレナスの本はすべて読んでいたので
アレナスがどんなものを書くか知ってはいたが
最期に自殺したことは記憶になかった
その作品があまりに強烈な生命力を持っていたからか
自殺するような作家だったとは思いもしなかったのだ

持ってる本で
一番手近なところにおいてある
『夜明け前のセレスティーノ』に手をのばして
解説を読むと自殺したことが書いてあった
読んだのは
そんなに前ではなかったし
ユリイカの特集号も持っているし読んだのに
やっぱり生命力のずばぬけて傑出した作家だったから
自殺したことを読後に忘れさせてしまったのだろうか
47歳だった
ぼくも2008年1月で47歳だ
アレナスはカストロを死ぬまで憎んでいた
それは死ぬまで自由を愛していたということなのだと思う
同性愛がただたんに愛の一つであること
ただそれだけのことを世界に教えることのために
死ぬまでカストロを憎んでいたのだと思う
ただ同性愛者というだけで
数多くの人間を拷問し虐殺したキューバ革命の指導者を
マンリケの本を読んでよかった
怒りや憎しみが人を輝かせることもあるのだ
愛だけがふれることのできる変形できるものもあるかもしれないが
愛だけではけっして到達できない場所やできないこともあるのだ
ロルカの章を読んだ
スペインの内乱時に
銃殺されたという悲劇で有名な
ジプシー歌集と同性愛を歌った詩を
読んだことがあったのだが
それほどいいとは思われなかった
しかしマンリケという作家の力だろうか
いままでそれほどよいと思われなかったフレーズが
えっこんなにこころによく響く言葉だったんだ
って思わせられてしまった
(といっても二箇所だけ)
まあしかしこのマンリケという作家
いままで耳にしたこともなかったけれど
言葉の運び具合がじつにいい
適度に下品でそこそこ品もよい

しかし訳文で一箇所
これはいやだなって訳があった
萌え
って言葉が使ってあるところ
キャンプなオカマってことは
わかってるんだけど
この言葉は
当時の文化状況を説明するときには
合ってないような気がする
いまの文化状況ならわかるけれど
ここんところ
異論はありそうだけど
ロルカが巨根だったって
へえええええええ
マンリケが人から聞いた話でだけど
そんなこともマンリケの本には書いてあった
ぶひゃひゃ
そんな話題もうれしい
いい薬です
いやいい本でした
マンリケの本の最後はマンリケ自身のことをつづったものだった
ただしそこに自分と同じ名前の人間を探すというのがあって
これっていま
たくさんの人がしてるけど
ネットで自分の名前を検索するってやつ
マンリケの場合は人名帳だったけれど

ぼくと同じ名前のひともたくさんいて
そのひとたちが嫌な思いをしなければいいなって思うんだけど
いやな思いをしてたらごめんなさいだす

マンリケの本に戻ります
自己分析してるところで
シモーヌ・ヴェイユやリルケの引用をしてたんだけど
どちらの引用も
ぼくの大好きなところだったから
マンリケのことを
これからはマンリケちゃんと呼ぶことにするね

それらの引用は
とてもいいって思うから
ここに引用しとくね
「苦しんでいる人に注意を向けるという能力は
 非常に稀にしか見られないばかりか
 きわめて困難なことでもある
 それはほとんど奇蹟に近い
 いや
 奇蹟にほかならないのである」
「おそらく恐ろしいものというものはすべて
 その存在の深みにおいて
 私たちの救いの手を求めている
 救われない何かなのである」


二〇一六年七月六日 「品詞」


形容詞とか
名詞とか
動詞とか
副詞とか
助詞とか
言葉というものを一括して品詞分類しているが
どれも「言葉」としての範疇で列記されている
しかし
おなじ「言葉」としてカテゴライズされてはいても
じつは
身長とか体重とか温度とかくらいに、それぞれが異なる別の範疇のものかもしれない


二〇一六年七月七日 「詩人」


塾の空き時間に、『モーム短篇選』上巻で、「ジェーン」を読んでいた。まだ途中だけど、モームがうまいなあと思うのは、とくに女性を意地悪く描いているところが多い。ぼくのエレクトラ・コンプレックスを刺激するのかな。これ読みながら、きょうは寝る。おやすみ、グッジョブ!

いま日知庵から帰ってきた。『モーム短篇選』下巻のつづきを読もう。「詩人」の落ちは予想がついてた。予想通りだったけど、笑った。


二〇一六年七月八日 「「モーム短篇選」上巻の脱字」


むかしから学生映画とか好きだったからショート・フィルムをよく見るんだけど、演技者も無名、ぼくも無名ってのが、よいのかもしれない。ぎこちなさを以前に書いたけど、ぎこちなさというのが、ぼくには大事なポイントかな。芸術が芸術であるための一つの指標かな。ぎこちなさ。大事だと思う。クロートっぽいというのは、どこか、うさん臭いのである。とりわけ、芸術において、詩は、シロートっぽくなければ、ほんものに見えないのである。というか、ほんものではないのである。ぎこちなさ。

岩波文庫『モーム短篇選』上巻の脱字 203ページ 3行目 「好きなだけ歌っていのよ」 「い」が抜けている。 岩波文庫に間違いがあると、ほんとに嫌気がさす。やめてほしい。間違ったまま、7刷もしているのね。うううん。

読書を可能ならしめているのが、個々の書物に出てくる「ぼく」「かれ」「かのじょ」「わたし」「おれ」が、異なる「ぼく」「かれ」「かのじょ」「わたし」であっても構わないという約束があって、たとえば、同じ映画を見ても、見る者によって、見られた人物が異なってもよいというところにある。


二〇一六年七月九日 「ひさしぶりの梯子」


学校の帰りに、大谷良太くんちによって、そのあと、きみや、日知庵のはしご。きょうは、ビール飲みまくり。あしたは、遊びに出かけよう。


二〇一六年七月十日 「投票」


鉄橋のアザラシ バナナな忠告 疑問符な梨 さらにより疑問符なリンゴ

投票してきた。共産党候補と共産党とにである。帰りに、スーパー「ライフ」で、サラダと穴子弁当を買ってきた。


二〇一六年七月十一日 「文学経験」


20代と30代は、世界文学全集を、いろいろな出版社で出ているものを読みあさっていた。40代になり、SFの文庫本の表紙がきれいなことに気がついて、SFにのめりこんだ。ミステリーとともに。50代になって、純文学とSFの比重が同じくらいになった。


二〇一六年七月十二日 「煉獄効果なのだろうか?」


転位
一つの象徴からまた別の一つの象徴へ
夜がわたしたちを呼吸する
わたしたちを吐き出し
わたしたちを吸い込む
夜が呼吸するたびに
わたしたちは現われ
わたしたちは消滅する
これは比喩ではない
夜がわたしたちを若返らせ
わたしたちを年老いさせる
転位
一つの象徴からまた別の一つの象徴へ
不純物が混じると
結晶化する速度が大きくなる
純粋に近い結晶性物質であればあるほど
不純物の効果は絶大である
記憶に混じる偽の記憶
もしも事実だけの記憶というものがあるとしたら
それは記憶として結晶化するには無限の時を要することになる
もしかしたら
記憶として留めているものは
すべて不純物である偽の記憶を含有しているものなのではないだろうか
無数の事実ではないもの
偽の記憶
偽の記憶ではあるが
それは不必要なものであるかといえば
そうではない
むしろ
事実を想起せしめることが可能であるのは
その偽の記憶が在るがためであろうから
絶対的に必要なものなのである
偽の記憶がなければ
いささかの事実も明らかにされないのであろうから
虚偽がなければ記憶が想起され得ないという
わたしたちのもどかしさ
自分のものであるのに
どこか他人ごとめく
わたしたちの記憶
しかし
そうであるがゆえに
わたしたちは逆に
他者の記憶を
わたしたちのなかに取り込んで
わたしたちの記憶のなかに織り込み
わたしたちの生のよろこびを
わたしたちの事実を
わたしたちの真実を
横溢させることができるのである
偽の記憶
すべての営みが
与え合い
受け取り合う
真偽もまた


二〇一六年七月十三日 「顔面破裂病」


通勤電車に乗っていると
前の座席に坐ってる
女子高校生の顔が
ピクピクしだした
いそいで
ぼくは
傘をひらいた
ぼくの顔が破裂した
ぼくはゆっくりと
傘をしぼませて
傘の内側にくっついてる
顔の骨や目ん玉や鼻や唇や
ほっぺたの肉など
みんなあつめて
顔のあったところでくっつけていった
女子高校生の顔面のピクピクは
顔面破裂病の初期症状を
はっきりと示していた
彼女は
おぞましいものを見るような目つきで
ぼくの顔をちらちらと見ていた
ぼくもむかしはそうだったんだよ
ひざを持ち上げて
傘を盾にしていた向かいの席の人たちも
ぼくが顔の骨と骨をくっつけているときには
すでにみんなひざを下ろして
傘をしまっていた
突然
床が顔に衝突
と思ったら
両目が顔から垂れたのだった
もう何度も顔から飛び出しちゃってるんで
ゆるゆるになっちゃってるのね
ぼくは
もう一度
目ん玉を元に戻して
額の上に
顔面破裂病のシールを貼った


二〇一六年七月十四日 「さぼっている。」


7月になって、本を読まなくなったのだけれど、自分でも理由がわからない。ぼうっとしているだけの時間が多くて、無駄に過ごしている。まあ、そんなときがあってもいいかなとは思うけれど。


二〇一六年七月十五日 「「わたくし」詩しか存在していない。」


けっきょくのところ、
あらゆる工作物は自我の働きを施されたもので形成されているので、
詩もまた「わたくし」詩しか存在していないような気がします。
また、「非わたくし」性を呼び込むものが
歴史的事実であったり、科学的事実であったり
他者の個人的な履歴や言動であったりするのでしょうけれど
それをも「わたくし」にするのが表現なのでは
と、ぼくは思っています。
引用という安易な方法について述べているだけなのではなく
引用以外の部分の一行一句一文字のことをも、
ぼくは、「わたくし」化させているような気がしています。
でも、これは、自我をどうとるかという点で
見方が異なるということなのだと思います。
ぼくは、すべての操作に自我が働くという立場ですから
そういうふうに捉えています。

「客観的」というのはあるとしても表現の外での話で
「他者」も表現の外でなら存在するかもしれないのですけれど。
どちらも、完全な「客観性」や「「他者性」を持ち得ないでしょうね。
ぼくは、そういう見方をしています。

「わたくし」について書かなくても「わたくし」になってしまう。
公的な部分というのは言語が持つ履歴のようなものだと考えています。
読み手のなかで形成されるものでもあると考えています。
あくまでも表現されたものは、表現者の自我によって形成されていると思うのです。
どんなに自分の自我を薄くしようとしても、その存在は消せないでしょう。
表現する限りにおいては。

言葉から見ると、人間は道具なのですね
言葉の意味を深めたり拡大したり変形したりするための。

あるいは、餌といってもいいでしょう。

物書きはとりわけ
言葉にとって、大事な餌であり、道具なのです。

詩人の役目は
言葉に奉仕すること

ただこの一つのことだけなのですね。

できることは。

そして
言葉に奉仕することのできたものだけが
ほんとうの意味での詩人なのだと思います。

そういう意味でいうと
「私を語る」ことなどどうでもよく
「詩の署名性」のことなどもどうでもいいことなのですね。

ただ、人間には自己愛があって
まあ、動物のマーキングと似たものかもしれませんが
「私を語る」欲望と
「自分が書いた」という「署名性」にこだわるものなのかもしれませんが
言葉の側から見ると
「私を語る」ことが、言葉にとって有益ならば、それでよいし
「私を語る」ことが、言葉にとって有益でなければ、語ってくれるなよ
ということなのだと思います。

人間の側からいえば
言葉によって、自分の人生が生き生きしたものに感じ取れればいいのですね。
読む場合でも、書く場合でも。


二〇一六年七月十六日 「全行引用による自伝詩。」


パウンドも生きているあいだは、その作品をあまり読まれなかったのかもしれない。ダン・シモンズの文章に、「生きていたときには、あの『詩篇』なんて、だれも読まなかったのに。」(『ハイペリオンの没落』上巻・第一部・14、酒井昭伸訳、215ページ)とあった。

『全行引用による自伝詩。』のために、10分の1くらいの量のルーズリーフを処理していた。どうやら、『全行引用詩・五部作』上下巻より、よいものになりそうにないので、計画中止するかもしれない。何年もかかって計画したものもあるけれど、すべて実現してきた。計画中止にするかどうかはわからないけれど、こんなの、はじめての経験だ。


二〇一六年七月十七日 「詩人」


詩人とは、言葉によって破滅されられた者のことである。


二〇一六年七月十八日 「1つのアイデア」


1つのアイデアが、ぼくを元気づけた。1つのアイデアが、ぼくの新しい全行引用詩に生き生きさを与えてくれた。引用の断片を見つめているうちに、ふと思いついたのだ。引用自体に物語を語らせることを。言葉は、ぼくを使役するだろう。言葉は、ぼくを酷使するだろう。言葉は、ぼくを破滅させるだろう。

きのうのぼくの落ち込みは、ほんとうにひどかったけど、いま5つの断片を結びつけてみて、おもしろいものになっているので、ひと安心した。きのうから、韓国アーティストの Swings の曲をずっと聴いている。まえに付き合ってた男の子にあまりに似ているので、なんか近しい感じがする、笑。

きょう一日でつくった部分、3メートルくらいの長さになった。休日なのに、ずっと部屋にこもって作業してたぼくの咽喉に、これからコンビニに行って、ビール買ってきて飲ませよう。

これが、2、30メートルになると、1冊の詩集になる。これから、サラダとビールをいただく。

短篇のゲイ・フィルムをよくチューブで見るのだが、その1作に出てた、てらゆうというアーティストの「ヤッてもないのに君が好き〜easy〜」って曲を、これまたチューブで聴いてて、なんだか癒された。彼のチューブを見てたら、トゲトゲした自分の感じがちょこっとでもなくなってくような気がした。

イマージュを形成しつつ、そのイマージュを破壊するコラージュをつくっていると、どうしてもトゲトゲしくなってしまう。ああ、これかもしれない。ぼくの恋愛がすぐに終わってしまう理由は。未成熟。55歳で。歯を磨いて、クスリをのもう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年七月十九日 「全行引用による自伝詩。」


いま、てらゆうという名前のアーティストのチューブに、彼の曲の感想を書いたのだけど、芸術のなかで、ぼくは、ユーモアがもっとも高い位置にあると思っているのだが、きょう、つくっていた全行引用詩も、ユーモアのあるものにしたいと思って、ハサミで切った紙片をセロテープで貼り付け合わせていた。

すべての紙片の順序を決めた。あとは、セロテープでくっつけていくだけ。きょうじゅうにくっつける。ふう、これで、8月に文学極道に投稿する新しい作品『全行引用による自伝詩』ができた。シリーズの第一作品だけど、たぶん、これだけで詩集1冊分あると思う。『全行引用詩・五部作』の補遺みたい。

終わった。晩ご飯を食べに行こう。セロテープも、ダイソーで買っておこう。あと、ちょっとでおしまいだから。ワードへの打ち込みは、今晩からはじめよう。恋人がいないと、こんなに作業がスムーズ。(負け惜しみ〜、笑)

これからさっき出来上がったばかりの『全行引用による自伝詩』をワードに打ち込んで行こう。理想とはかけ離れたものだけれど、現実につくれたものに限界があっても、あたりまえだものね。自分の発見していない美が、どこかにひっそりと潜んでいるかもしれないしね。まあ、レトリック例文集みたいな詩。

1メートル分くらい打ち込んだ。きちがいじみた内容だったので、お祝いに、コンビニに行って、ビールを買ってきて飲んでいる。55歳にもなって、まだ、きちがいじみたものが書けることがうれしい。

いいものが書けたときって、なんというか、過去に何度か死のうと思ったことがあったのだけれど、ああ、死ななくてよかったなって感じかな。自分がここに存在しているという実感が、ぼくにはつねにないのだけれど、その予感みたいなものは感じ取れるって感じかな。

腕の筋肉が痛くなるまでワードに打ち込んでいこうと思う。並べてみて、はじめて発見したことがある。ぼく以外のひとにも発見の喜びを知ってほしいので書き込まないけれど、ラテンアメリカ文学者同士の影響って、言葉のレトリック上にも見られるのだなと思った。ヒント書き過ぎかな。まあ、いいや。

2メートルほど入力した。しんど〜。まえにつくった『全行引用詩・五部作』上巻・下巻をどうやって入力したのか記憶がない。もとのルーズリーフを切り刻んでいないので、書き写したことになるのだが、そうとうな労力だったろうなと思う。もう二度と、できない。今回のは、書き溜めたルーズリーフの半分ほどを処分するつもりで、半分くらいしか読み直しをせずにつくったのだけれど、これは、ライフワークにするつもりだったけれど、今回でやめるかもしれない。ここ数日の苦痛はたいへんひどかった。きちがいじみた、笑けるものができたのでよかったけれど、打ち込みもたいへん。


二〇一六年七月二十日 「全行引用による自伝詩。」


きょう、ワードの打ち込み、A4で、14ページまでだった。あと半分ちょっと。これだけで、薄い詩集ができる。このあと、全行引用詩はしばらくつくらないことにした。あまりに精神的な労力が激しくて。というか、ぼくは、ふつうの詩を、ここしばらくつくっていない。つくれなくなったのかな。

きみやからの帰り道、ぼくの頭のなかは、ピンクフロイドの「あなたがここにいてほしい」がずっと鳴ってた。15年の付き合いのあった友だちとの縁が切れて1年。ぼくは、人間にではなく、芸術に、詩に、自分のほとんどの精力を傾けているのだなとあらためて思った。人間が好きだと思っていたのだけど。

たくさんのことを手にすることは、ぼくにはできないと知っていた。20代、30代、40代と、何人もの恋人たちと付き合って別れた。付き合いつづけられなかったのは、ぼくの人間に対する愛情が、詩に対する愛情より高くなかったと思える。いま、全行引用による自伝詩を書いていて、そう思った。

1つのことを得ることも、ぼくにはむずかしいことかもしれない。でも、まあ、もう、死もそんなに遠いことではなくなって、少なくとも、詩だけは、得ようと思う。

Swings の I'll Be There Ft. Jay Park を聴いている。もう5回か、6回目。これくらい美しい曲のように美しい詩が、1つだけでもつくれたら、死んでもいいような気がする。ぼくは、もう、つくっているような気がするのだけれど、つくっていないような気もする。

まあ、いいや。ぼくの詩は、ぼくが生きているあいだは、ほとんど読まれないような気がする。それでよいという声も、ぼくの耳に聞こえる。おやすみ、グッジョブ!

Swings の I'll Be There Ft. Jay Park を、もう10数回は聴いてる。美しい曲。すてきな恋人たちとは何人も出合ってきた。美しい曲もたくさん知っている。でも、ぼくのこころは、どこかゆがんでいるのだろう。詩をつくろうとしている。はやく死が訪れますように。

たぶん、死ぬまで、詩を書きつづけるのだろうから。これでいいや、と思うのが書けたら、死んでもよい。


二〇一六年七月二十一日 「あなたは私を愛した甘い夢」


昨日の夜でした.
悪夢だ.
悪夢から逃れる方法は,
目を覚まして真ん中に
しかし睡眠を開始します.
別のブランドの新しい悪夢.
起きてまた寝て, 起きて, 寝ます.
起きて夜の外に,
沈黙や沈黙.
目に失敗して暗くなる前に適応.
目を開けて.
それは落ちるようにブラックホール.
なぜ, また目を閉じた.
見ないであろうタバコを吸いに素敵な夢を
あなたは私を愛した甘い夢.

いま見た中国人のFBフレンドのコメントの機械翻訳
これは詩だよね。

「あなたは私を愛した甘い夢.」

すばらしい言葉だ。
「みんな夢なんだよ。」
って引用を、きょう、ワードに打ち込んでた。

ぼくと付き合ってた恋人たちも
みんな夢だったのだ。

ぼくも、だれかの夢であったのだろうか。

たぶんね。

そこにいて
笑って
泣いてた
夢たちの記憶が
きっと
ぼくに詩を書かせているのだな。

「みんな夢なんだよ。」

「みんな夢なんだよ。」

「あなたは私を愛した甘い夢.」


二〇一六年七月二十二日 「あいまいに正しい」


「あいまいに正しい」などということはない。
感覚的にはわかるが
「正確に間違う」ということはよくありそうで
よく目にもしてそうな
感じがする 。


二〇一六年七月二十三日 「孤独な作業」


ワードを打ち込みながら、作品つくりって、こんなに孤独な作業だったっけと、再認識してる。うううん。

いま日知庵から帰ってきた。塾に行く途中、てらゆうくんに似た男の子が(22、3歳かな)自転車に乗ってて、かわいいなと思った。こういう系に、ぼくは弱いのだな。日知庵では、帰りがけに、かわいいなと思ってた男の子(31歳)がそばに寄ってきて、しゃべってくれたので、めっちゃうれしかった。

きょうはワード打ち込み、2ページしかしなかった。なんだかつながりがおもしろくなくって、というのもあるんだけど、だけど、ぼく的におもしろくないってだけだから、ひとが読んだらどうなのかは、わからない。思いついて数分で書いた「水面に浮かぶ果実のように」が、ぼくの代表作になってるものね。
ぼく的には、『全行引用詩・五部作』が、いちばん好きなんだけど、これが評価される見込みは、ほとんどゼロだ〜。まず、さいごまで読むひとが、ほとんどいなさそうだし、ぜったい、どこか飛ばし読みしそうだし、笑。

あかん。Swings の曲を聴いて、ジーンとして、きょうも目にした、かわいい男の子たちを思い出して、自分の若いときのことを思い出してる。夢を見たい。むかし付き合った男の子たちの。えいちゃん、えいじくん、ノブユキ、ふとしくん、ケイちゃん、名前を忘れてしまった、何人もの男の子たち。


二〇一六年七月二十四日 「書くことはたくさんある。」


いま日知庵から帰った。あしたはワード打ち込み、何時間やれるだろう。がんばろう。さいきん、本を読んでいない。『モーム短篇選』下巻の途中でストップしている。

今週は、『全行引用による自伝詩』の制作にかかりきりだったのだが、まあ、まだ数日かかるだろうけど、さっき、ふと思いついた。この引用に関するノートを付け加えようと。『The Wasteless Land.』と同じ構造だが、膨大な量のノートになると思う。『全行引用による自伝詩』の本文で、8月に文学極道に投稿したあと、その注解ノートを何か月か、場合によっては、一年くらいかけて書こうと思う。さっき冒頭の3行ほどの引用について考えた部分だけで、数ページ分くらい思いついていたので、どこでやめるか、あるいは、やめないか、自分自身にいたずらを仕掛けるような感じで書こうと思う。ぼく自体はからっぽな人間なのに、書くことはたくさんある。どしてかな。


二〇一六年七月二十五日 「いままでみた景色のなかで、いちばんきれいなものはなに?」


きょうは、ずっと横になって音楽を聴いてた。これから大谷良太くんとコーヒーを飲みに出る予定。『全行引用による自伝詩。』の入力は夜にしよう。音楽を聴いて、ゲイの短篇映画を見てたら、ハッピー・エンドって少なくて、たいていは苦い終わり方。ふつうに生きてるだけでも苦しそうなのにね、この世界。

いま、きみやから帰ってきた。大谷くんと、モスバーガー、ホルモン焼きや、日知庵のはしご。きょうは、入力ゼロ、笑。帰りに、阪急電車のなかで、途中から乗ってきた男の子がチョーかわいくって、隣に坐ってきたからドキドキだった。まあ、毎日が、奇跡なんだよなって思う。美しい、悲しい、味わい深い、この人生。

ロジャー・ゼラズニイの引用で、「いままでみた景色のなかで、いちばんきれいなものはなに?」というのがあったと思うのだけれど、これ、『引用による自伝詩。』に入れてなかった。あした入れておこうと思う。『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』のさいしょのほうの作品に引用してたと思う。

この1行の引用について、えんえんと何ページにもわたって注解を書くことになると思う。好きになった子にはかならず聞くことにしているのだが、みんな、「そんなん考えたこともない。」と言うのだった。ぼくはいつも考えているので、そう聞くたびに眉をひそめるのだった。


二〇一六年七月二十六日 「作業終了」


『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みが終わった。


二〇一六年七月二十七日 「蛙。」


同じ密度で拡散していく。


二〇一六年七月二十八日 「イタリア語では」


イタリア語で
Hのことは
アッカっていうの
でも
イタリア語では発音しないから
ハナコさんはアナコさんになります
ヒロシくんはイロシくんになります
アルファベットで
ホモシロイと書けばオモシロイと読まれ
ヘンタイと書けばエンタイと読まれ
フツーよと書けばウツーよと読まれます


二〇一六年七月二十九日 「因幡っち」


韓国のアーティストのCDを買いたいと思ってアマゾンで検索しても買えないことがわかって悲しい。Hyukoh と Swings の音楽がすごく好きなんだけど、手に入らない。これって、どうして? って思うんだけど。いまいちばん美しい音楽を手に入れられないって、どうしてなの? って思う。

きょう、因幡っちとカラオケバーで朝5時まで歌った。かわいかった。人間は、やっぱ、かわいい。かわいいというのが基本だわ。

そう、かわいいというのが基本。人間は、基本、かわいいわ。


二〇一六年七月三十日 「TED」


マイミクのTEDさんの「sometimes」という詩を読みました。

sometimes we love
sometimes we sad
sometimes we cry

sometimes sometimes

life is it
it is life

とても胸がキュンとしたので

i think so.

a lot of time has us
a lot of places have us
a lot of events have us

so we know ourselves
so we love ourselves
so we live together

と書き込みました。

同じような喜びと
同じような悲しみを
わたしたちが体験しているからでしょうね
うれしい顔はうれしい顔と似ています
悲しい顔は悲しい顔と似ています


二〇一六年七月三十一日 「文学極道投稿準備完了」


『全行引用による自伝詩。』の本文の見直しが終わった。ぼくの全行引用詩のなかでは、不出来なものだ。しかし、注解をつけて、その不出来さを逆手にとろうと思う。できるかどうかはわからないが、もちろん、できると思っているから着手するのだ。全行引用による本文はきょうの夜中に文学極道に投稿する。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



(…)当時、彼は父の農場で働いていたポーランド人の女中を愛していましたが、夢想のなかで自分がこの美しいひざの上に、女中となった聖処女のひざの上に坐っているのだと想像し、女中を聖処女に混同しているのでした。ところでその日、眼を閉じて再び聖処女を見たとき、彼は突然、彼女の髪がブロンドであることに気づきます! 
マリアはエリーザベトの髪をしているのです! 彼は驚き、強い印象をうける! 彼の愛していないこの女性こそ、事実上、彼の唯一の、まことの愛であることを、神みずからがこの夢想を介して彼に教えているように彼には思われるのです。
 非合理的論理は、混同のメカニズムにもとづいています。つまり、パーゼノーの現実感覚はお粗末なものであるということです。彼はさまざまの出来事の原因を捉えることができず、他者のまなざしの背後に隠されているものを決して知ることはないでしょう。しかし外部世界は、それがどんなに隠されたもの、再認できないもの、非因果的なものであっても、無言のものではない。それは彼に語りかけます。ボードレールの有名な詩、「長い反響(こだま)が……混りあい」、「香と色と音とがたがいに応えあう」あの詩におけるように、外部世界においては、ひとつのものは別のものに近づき、別のものと混りあい(エリーザベトは聖処女に混りあいます)、かくして、この接近によってひとつのものは理解されるのです。
(ミラン・クンデラ『小説の精神』第三部・混同、金井 裕・浅野敏夫訳)

芸術においては、形式はつねに形式以上のものです。
(ミラン・クンデラ『小説の精神』第七部、金井 裕・浅野敏夫訳)

『プヴァールとペキュシェ』の第二部は未完のままに終わったが、この部分は主に『筆写』と称するもので成っている。これは、奇妙なこと、馬鹿げたことを記した文例、自ら愚劣なることを露呈した引用文を蒐めた一大資料集であり、これを二人の書記が大まじめで筆写するのは専ら自己啓発につとめるためだが、フロベール自身の意図するところは痛烈な風刺にあったにちがいない。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』4、斎藤昌三訳)

 事物から言葉が生まれるのと同じように、言葉自体から事物が生まれる場合もあるというのが現代の考えのようである。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』7、斎藤昌三訳)

芸術はもはや表現するだけでは満足しない。それは物質を変容させるのだ。
(マルセル・エイメ『よい絵』中村真一郎訳)

結局のところ、本は現実の人生ではない。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』7、斎藤昌三訳)

短く、簡潔で、まがいものでない言葉を使うこと。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』7、斎藤昌三訳)

いつもほめられたり励まされたりしていないと落ち着かないような弱さ
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・17、御輿哲也訳)

 そう、じゃああれはうまくいったんだ、成し遂げられたんだわ。そして、成し遂げられたものすべてがそうであるように、それもまた厳かなものとなった。おしゃべりや感情を洗い流してよく考えてみると、それはパーティーの最初からあったようにも思える。ただ、はっきりと見えるようになったのは、やはりパーティーがすんだ後のことで、こうして目に見える形をもつことによって、それはあらゆるものに確かな安定感をもたらしていた。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・18、御輿哲也訳)

なぜあの光景だけは、輪に包まれた光を浴びたように細かい部分まで生々しくよみがえってくるのか、その前もその後も、何マイルにもわたって茫漠たる空白が続くばかりだというのに?
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第三部・5、御輿哲也訳)

 そしてこれが──と、絵筆に緑の絵具をつけながらリリーは思う、こんなふうにいろんな場面を思い描くことこそが、誰かを「知る」こと、その人のことを「思いやる」こと、ひいては「好きになる」ことでさえあるはずだ。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第三部・5、御輿哲也訳)

空中に投げられた石にとっては、落ちるのが悪いことでもなければ、昇るのが善いことでもない。
(マルクス・アウレリウス『自省録』第九巻・一七、神谷美恵子訳)

哲学のわざは単純で謙虚なものである。
(マルクス・アウレリウス『自省録』第九巻・二九、神谷美恵子訳)

ぼくにはつねに精神を活動させるなにかが必要なんだ。
(S・C・ロバーツ『クリスマス・イヴ』中川裕朗訳)

 自然は、多様性から力を引き出している。自然の中には、善人、悪人、気が変になった人、絶望している人、スポーツマン、寝たきり老人、身体障碍者、愉快な人、悲しんでいる人、知性的な人、無気力な人、利己的な人、寛大な人、小さい人、大きい人、黒い人、黄色い人、赤い人、白い人など。さらに、いろいろな宗教家、哲学者、マニアックな人、賢者などもいる。避けるべき唯一の危険は、この中の何者かが、他の何者かによって抹殺されることである。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)

「日本を沈没させろとおっしゃる……」とレスターがたずねる。
「わしの口から、そう言ってはおらんだろ」
 サッチャーがそう訊き返す。この人の心臓では、バターも溶けまい。
「考えとしては面白いと思わんか。真珠湾の意趣返しみたいなもんでな」
「血迷ってますよ、サッチャー」
 バーナードがそう言いながら、頭蓋骨を温かくしておこうとするかのように、ほつれ毛を頭頂部になであげ、
「こんなことは聞こえてない。聞いてない」
(ジャック・ウォマック『ヒーザーン』8、黒丸 尚訳)

闇がなかったら、光は半分も明るく見えるだろうか
(ジャック・ウォマック『ヒーザーン』9、黒丸 尚訳)

名前を持つことが自立した実体として存在することである。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第3部、小中陽太郎・森山 隆訳)

思考を変えていくいちばんよい方法は、想像力の範ちゅうから外へ出ることだ。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第4部、小中陽太郎・森山 隆訳)

(…)帰りは黙りこくっていたが、その顔には許してあげるわと言うような微笑が浮んでいた。
 あの日と同じ微笑を浮かべてラウラがドアを開けてくれた。(…)
(コルタサル『母の手紙』木村榮一訳)

「(…)お料理は少し固くなっているかもしれないわ」
 固くなってはいなかったが、何の味もしなかった。(…)
(コルタサル『母の手紙』木村榮一訳)

 ぼくたちはゴーロワーズを吸った。ジョニーはコニャックならほんの少し、タバコは日に八本から十本くらいなら吸ってもいいと言われていた。しかし、タバコをふかしているのは彼の身体のほうで、彼自身は穴から外に出るのをいやがってでもいるように、あるものの中にじっと身をひそめている。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

(…)そのとき一匹のスカイテリアが彼のズボンをくんくん嗅いだので、彼は恐怖におののいた。人間に変わろうとしている! とても見ちゃいられない! 犬が人間に変わるのを見るなんて、恐ろしい! こわい! が、たちまち犬は走り去った。
(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』丹治 愛訳)

 彼の黄色味をおびた猫のような目はほんの少しだけ開いていて、本当の猫の目みたいに、揺れ動く枝や過ぎ行く雲を映してはいても、その奥にどんな考えや感情が宿っているかを示すことはなかった。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・1、御輿哲也訳)

結局、人は自分の本当の気持ちを言葉にすることなどできないのだろう。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・4、御輿哲也訳)

「ママ、パパに何があったの?」
「パパは詩人だったのよ」
「詩人ってなんなの、ママ?」
「パパもわからないっていってたわ。さあ、手を洗って、夕ご飯にしましょう」
「わからなかったの?」
「そう、わからなかったのよ。さあ、手を洗ってっていったでしょ……」
(チャールズ・ブコウスキー『職業作家のご意見は?』青野 聰訳)

私は階段をさらに上って行かなければならない。
何度も階段を上がる。
一生のあいだ、崇高さと奇矯さとの違いをたっぷりと味わい尽くして。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二十四章、園田みどり訳)

(…)「美しい人間は心のなかまで美しいと、本気で思ってらっしゃるの? わたしは同意できないわ。その伝でいけば、醜い人間はなかまで醜いということになる」
「いいえ、そうは言ってませんよ」シスター・ブリジェットは面白がっていた。「わたしはただ、美は表面的なものにすぎないという考えに疑問を呈しているだけ」シスターはコーヒー・カップを両手で包み込むように持った。「もちろん、心なぐさむ考えではあるわ──そう考えれば、自分がいい人間のような気分になれる──でも、美しさは富と同様、その人の徳性にとっての財産なの。裕福な人間は、法を遵(じゆん)守(しゆ)し、寛大で、親切でいることができる。極貧(ごくひん)の人は、そうはいかない。一ペニーのお金を手に入れるのに汲(きゆう)々(きゆう)としている人にとっては、親切でいることさえたいへんなことなの」彼女は皮肉な笑みをうかべた。「貧困が人を向上させるのは、豊かでいることもできるのに、みずから貧困を選んだ人の場合だけ」
「それには反論しませんけど、でも、美しさと富がどう関係するのかわかりませんわ」
「美しさは、孤独や拒絶されることからくるマイナスの感情から、人を遠ざけてくれるの。美しい人は重んじられる──ずっとそうだったし、あなた自身がそれを証明している──だから、そういう人たちは、恨みや嫉妬や、自分の持ちえないものを持ちたいという欲求と比較的無縁でいられるの。(…)」シスターは肩をすくめた。「もちろんつねに例外はあるわ(…)でも、わたしの経験では、魅力的な人は、芯まで魅力的なの。外面の美しさと内面の美しさ、どちらが先なのかという議論はあるでしょうけれど、その二つはたいてい、手に手を取って進むものなの」
(ミネット・ウォルターズ『女彫刻家』4、成川裕子訳)

 ルイーズが言う。「とにかく、この前より楽よ。ドッグフードしか食べなかった頃のことを思えば」
 アンナが言う。「前に犬だったとき──」
 ルイーズは自己嫌悪を憶えながらも、口を挟む。「あなたが犬だったときなんて、絶対に、ないのよ」
 アンナが言い返す。「どうしてわかるのよ?」
 ルイーズが言う。「あなたが生まれたとき、私はその場にいたの。あなたのママが妊娠していたときだってよ。あなたがこのくらいだった頃から私は知ってるんだから」彼女は給使長がしたように二本の指を近づけた。ただし、指にはしっかりと力を込めて。
 アンナが言う。「それより前だもん。あたしが犬だったのは」
(ケリー・リンク『ルイーズのゴースト』金子ゆき子訳)

幽霊はまたもベッドの下に潜り込んで、片手だけ突き出している。まるでベッドルームでタクシーを拾おうとしているみたいに。
(ケリー・リンク『ルイーズのゴースト』金子ゆき子訳)

少女探偵は再度試みる。「このレストランはいつからここにあるの?」
「かなり以前から時々です」と彼は言う。
(ケリー・リンク『少女探偵』金子ゆき子訳)

「そこのテーブル・クロスの上にパンがある」とジョニーは宙を見つめたまま言う。「それは疑いもなく固いもので、何ともいえない色艶をしていて、いい香りがする。それはおれじゃないあるものだ。おれとは別のもの、おれの外にあるものだ。しかし、おれがそれに触れる、つまり指を伸ばして掴んだとする。するとその時、何かが変化するんだ、そうだろう? パンはおれの外にあるのに、おれはこの指で触り、それを感じることができるんだ。おれの外にある世界も、そういうものじゃないかと思うんだ。おれがそれに触れたり、それを感じたりできるのなら、それはもうおれとは違った、別のものだとは言えないはずだ。そうだろう?」
「いいかい、ジョニー、何千年も前から髯をはやした大勢の学者たちが、その問題を解こうと頭を悩ませてきたんだ」
「パンのなかは昼なんだ」とジョニーは両手で顔を覆って呟く。「おれは思いきって、パンに触ると、二つに切って口に放り込む。何も起こらないと分かっているが、それが恐ろしいんだ。何も起こらないから恐ろしい、分かるかい? お前はパンを切り、ナイフを突き立てるが、何もかも元のままだ。おれには分からないんだ。ブルーノ」
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

 それは彼を精神的に支えていると気づくが、操りもし、傷つけてもいる……そうしているのが彼自身でもあり、彼以外のものでもある。
(イアン・ワトスン『ヨナ・キット』3、飯田隆昭訳)

 クレールがそばにいると秋がいつもとちがって見えるんだ、とあなたは書いてきたわ。日曜日になると、あなたたちは手をつなぎ、ひと言も口をきかずに何時間も歩いたのね。公園には、涸れたヒヤシンスの残り香が漂っていた。長い間散歩しているうちに落葉を燃やす匂いが鼻をつくようになったけど、そんな風に散歩していて、むかし私たちが海岸を歩きまわった時のことを思い出したのね。きっとそれは、自分たちの身にいろいろなことが起こり、川岸を歩いたり、ジャスミンや枯葉の匂いを嗅いだりして、終わりつつある季節の謎めいた予兆を感じとっても、二人ともそのことをけっして口にしようとしなかったせいね。結局、沈黙なのね。クレール、クレール──あなたは私に宛てた手紙でそう書いてきた──君はようやくわかってくれたんだね。かつて僕が持っていたものをまた手に入れたんだ。今僕はそれを所有することができる。僕はふたたび君を見つけたんだよ、クレール。
(フエンテス『純な魂』木村榮一訳)

(…)子供の頃はクエルナバーカに家があったので、週末はきまってブーゲンヒリアの花が咲き乱れるあの家で過ごしたものね。あなたは水泳や自転車の乗り方を教えてくれた。そして土曜日の午後は自転車で遠くの村へ行ったけど、あの頃の私はあなたの目を通して世界を発見していったの。(…)
(フエンテス『純な魂』木村榮一訳)

幸福な時代! われわれは人生が永遠につづくと思っていた。
(カート・ヴォネガット『タイムクエイク』44、浅倉久志訳)

(…)彼女が公園の中で触れ、運び、発見したもの、それが彼女なのだろう。(…)
(フエンテス『女王人形』木村榮一訳)

これがすてきでなくて、ほかになにがある?
(カート・ヴォネガット『タイムクエイク』4、浅倉久志訳)

しかし、なにもないということは、なにかがあることを暗示している。
(カート・ヴォネガット『タイムクエイク』7、浅倉久志訳)

 サー・ジョンと仲間の美術貴族たちは大英博物館やルーヴルやメトロポリタンの監督として、夢見るファラオやキリスト磔刑や復活(第二のデ・ミル監督の出現を待ちわびる究極の超大作映画の題材)の絵画を揃え、たしかに人間の魂の空虚を巧みに満たしてくれたが、そもそも魂のなかに欠けていたものは何だったのだろうか。
(J・G・バラード『静かな生活』木原善彦訳)

しかし、詩人というものは、みんなきちがいではないですか?
(ジャック・ヴァンス『愛の宮殿』8、浅倉久志訳)

 詩人の神経は伝導性があり、抑えきれないほどのエネルギーの奔流を運びます。彼は不安です──どれほど不安なことか! 彼は時の動きを感じます。指のあいだには、まるで生きた動脈をつかんだように、暖かいパルスが伝わってくる。ある一つの音で──遠くの笑い声、小さな波紋、一陣の風で──彼は気分が悪くなり、失神します。なぜなら、時の果てまでかかっても、その音、その波紋、その風がふたたびくりかえされることはないからです。これこそがだれもがたどらねばならん旅、耳をろうする悲劇なのです! しかし、きちがい詩人がそれを別なものにしたいと願うでしょうか? 一度も歓喜のないものに? 一度も落胆のないものに? 一度もむきだしの神経で人生をつかみえないものに?
(ジャック・ヴァンス『愛の宮殿』8、浅倉久志訳)

恐怖には二つの種類がある──本能的なものと、条件づけられたものとだ。
(ジャック・ヴァンス『殺戮機械』5、浅倉久志訳)

 最初は確かにおずおずと、ためらいがちに読んでいた。膨大な数の本を前にして立ちすくみ、どうやって進めばいいのかさっぱりわからなかった。一冊の本が次の本につながっていくような一貫した読書方針もなく、よく、二冊、三冊を並行して読んでいた。次の段階になると、読みながらメモをとるようになり、それ以降はつねに鉛筆片手に読書をした。メモといっても読んだ内容を要約するのではなく、印象に残った一節をただ書き写すだけだった。メモをとりながらの読書を一年かそこら続けてからようやく、時おりためらいがちに自分の考えを書きとめるようになった。「私には文学が広大無辺な国のように思える。そのはるかな辺境へ向かって旅しているけれど、とうていたどり着けない。始めるのが遅すぎた。遅れを取り戻すのは不可能だ」と女王は書いた。それから(それとは無関係に)「エチケットというのは煩わしいこともあるが、気まずい思いをするほうがもっと悪い」。
(アラン・ベネット『やんごとなき読者』市川恵里訳)

「(…)考古学は主として物事のあいだに脈絡をつける過程であって、どんな発見でも、すでに知っている事柄との可能な共鳴を表面化するのよ。ときには、博物館や発掘現場を歩きまわるだけで、眼が開けることもあるわ」
(グレゴリイ・ベンフォード『時の迷宮』上巻・第三部・1、山高 昭訳)

「(…)高校時代、(…)僕らはそこで抱きあったんだよ、車がブーンと音をたててハイウェイを駆け抜けていき、カーラジオがBGMを奏でてるなかでね」
 すでに詰め終え、あとは封をすればいいだけになっていたもうひとつのボール箱の上に、彼はガムテープを貼った。彼は側面まで伸ばしたテープの端を親指でしっかり押しつけると、残りのロールを手でちぎった。
「あなたのしたのはそれだけ?」と彼女は言った。
「そのときはね」と彼は言った。
「別のときはどうしたって言うの?」
 彼はにやりと笑った。「まさか君、僕が十代のときにしたことを妬いてるんじゃないだろうね」
 もちろん彼女は嫉妬していた──なぜなら彼女は、人も物事も記憶のなかで完全に忘れ去られることはないと知っていたから。いくつかの過去の出来事を思い起こしてみるとき、われわれはその鮮明さに驚いてしまう。過去の記憶がわれわれの考えをくつがえしてしまうことだってあり得るのだ。
(アン・ビーティ『広い外の世界』道下匡子訳)

(…)しかし、先に述べたように、変わったのは私だけだった。私以外はすべてが昔のままだった。歩道、ライムの木の街路、未だに始終修理が必要な樫の囲い、昔は怖かったのに今はただ薄汚いだけの大きな屋敷、ヨーロッパアカマツの傍らの教会、道の赤い砂、鉄板に豚の浮彫のある飾りが目立つので記憶している、教会の隣の一風変わった家──みな同じだ。だが、何にもまして、鹿が昔と同じなのが印象的だ。昔と同じく妖精のようで、見ていると心が躍る。昔と同じく、神秘的な動き方をする。私が、子供の時以来今日まで鹿を見る機会が殆ど無くてよかったと思った。特に、まだらのある鹿は一度も見なかった。今日の驚きと歓喜の感動を新鮮に保つため、今後しばらく又鹿を見るのは、やめておこうと思う。
(E・V・ルーカス『鹿苑』行方昭夫訳)

 私の思い出の鹿苑を数十年振りに訪ねた後、一マイル半歩いて市場のある町に来た。ここで昔最初の弓矢を買ってもらった小さな玩具とキャンデーの店を探してみたが無駄だった。どこにあったか覚えていたのだが、店に代って新しい大きな建物が立っていた。弓矢を買ってくれたのは独り者の訪問客の一人だった。こういう人は、僅かな金額で、子供の世界に輝きを与え、この世を天国に変える魔力を持っているものだ。最初の弓矢を再度入手できないのは辛い悲劇の一つである。
(E・V・ルーカス『鹿苑』行方昭夫訳)

 かれは自分が冷水の入ったコップになった気がした。何たる気ちがいじみた考えだ! コップの外側の水滴みたいに冷たい汗が噴き出していた。身体の中は冷たくて仕方がない! かれは腕をくみ、慄えはじめた。やっと指先が毛布をまさぐり、それをつかむと身体に引っぱり上げた。
(フィリップ・K・ディック&ロジャー・ゼラズニイ『怒りの神』5、仁賀克雄訳)

(…)この世で一番不幸な人の中に、過去において自分が蒙った被害を忘れられない人がいる。また、自分が他人に与えた危害を忘れられないので不幸になっている人もいる。実際、人間というのは、記憶しておきたいことは忘れ、忘れたいことは覚えているように生まれ付いているのだ。
(ロバート・リンド『忘れる技術』行方昭夫訳)

鉄道での旅行者の遺失物が今ロンドンの主要駅の一つで販売されている。その品物のリストが発表され、それを見た多くの人が人間の忘れっぽさに驚いている。だが、件の統計上の数字が入手できれば、忘れる客がそんなに多数だということになるかどうか、私は疑問に思う。実は、私が驚くのは人の記憶力がいい加減だということより、その素晴らしさである。現代人は電話番号まで記憶しているではないか。友人の住所も覚えている。ビンテージワインの年号も覚えている。(…)
(ロバート・リンド『忘れる技術』行方昭夫訳)

(…)現実の釣竿は忘れてしまう。この種の記憶喪失は、いかに彼が魚釣りを楽しんだかの嬉しい証拠である。彼が釣竿を忘れるのは、詩人がロマンチックな事柄を考えていて、手紙を出すのを忘れるのと同じである。この種のぼんやりは私には美徳のように思える。忘れっぽい人は人生を最大限に生かそうとする人なので、平凡なことはうっかり忘れることが多い。ソクラテスやコールリッジに手紙を出してくれと頼む人などどこにいるか。彼らは、投函など無視する魂を持っているのだ。
(ロバート・リンド『忘れる技術』行方昭夫訳)

(…)真実というものは、人によって耐えられる量、ふさわしい分量が決まっている。おれと話をする人間の中でも、弱いやつほど作り話や嘘を欲しがる。そういうやつには真実を嘘で塗り固めて、生きる助けにしてやらなければならない。生の言葉ですべてを語れる相手は、限りない知力と寛い心をもった存在、つまり神だけだ。神が相手の時はシニスムは考えられない。というのはシニスムは、相手が耐えられる以上の真実を伝えたり、我慢できる以上のどぎつい言葉を発するのに役立つからだ。そこで思うのだが、友達関係を耐えられるものにしようと思ったら、たがいに相手を買い被らなければならない。それに見合った優れた人間にならなければと重荷に感じて、相手がいつも不快になるほどの買い被りが必要だ。その分量があまりに多いと、相手は傷つき、関係を断ってしまうだろう──一生の絶交になることもある。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第七章、榊原晃三・南條郁子訳)

(…)愛が完全かどうか(…)を見る試金石、まちがいなく見分ける指標は何かと言うと、次のようなまれな現象が起こっているかどうかだ。すなわち、顔に欲望を覚えるという現象。体のどの部分より顔にエロティシズムがあるように思われる時……それが愛だ。おれは今、顔こそが人間の体の中でもっとも官能的な部分だということを知っている。人の体の中で真に性的なのは、唇であり、鼻であり、とりわけ目なのだ。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第七章、榊原晃三・南條郁子訳)

それは私の顔だ。たびたびきょうのように、むだに終わった日に、私はじっと自分の顔をながめて時を過ごす。私にはこの顔がちっともわからない。他人の顔は一つの意味を持っているが、私の顔にはそれがない。私の顔が美しいか醜いかも、決めることができない。醜いと言われたことがあるから、そうだろうと思う。しかしそう言われても腹立たしくはない。じつを言うと、人が土くれや岩の塊りなどを美しいとか醜いとか言うように、そういう種類の形容詞を私の顔に与えうるということが、私を驚かせるのである。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

人々の顔を眺めるのは彼にとって楽しいことだった
(ジョセフィン・テイ『時の娘』2、小泉喜美子訳)

 苦しみは人生の視野を拡げ、より同情心ある人物にする。自分も同じような目に遭っていれば、他人の不幸を理解しやすくなるというわけだ。
(P・G・ウッドハウス『それゆけジーヴス』5、森村たまき訳)

(…)もっとも、悲劇といえば、かれがぼくに語ったことが、真実だとしたら(ぼくは真実だと信じていますが)けっきょく、そんなことを言えば、人間の一生なんてみんな悲劇ですからなあ。舞台へなんかへかけられるものとはまたちがった、もっと不思議な悲劇ですからなあ
(アーサー・マッケン『パンの大神』4、平井呈一訳)

人生の幸福は非常に少ないものにかかっている。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第七巻・六七、神谷美恵子訳)

 人間には、人間的でない出来事は起りえない。牡牛には、牡牛にとって自然でない出来事は起りえない。葡萄の樹には、葡萄に自然でない出来事は起りえない。また石にも、石に特有でないことは起りえない。かように、もし各々のものにおきまりの自然なことのみ起るのならば、なぜ君は不満をいだくのか。宇宙の自然は君に耐えられぬようなものはなにももたらさなかったではないか。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第八巻・四六、神谷美恵子訳)

つぎのことを記憶せよ。無花果(いちじく)の樹が無花果の実をつけるのを驚いたら恥ずかしいことであるように、宇宙がその本来結ぶべき実を結ぶのを驚くのも恥ずかしいことである。同様に医者や舵取りが患者に熱のあるのや逆風の吹くのを驚くのも恥ずかしいことである。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第八巻・一五、神谷美恵子訳)

 万人互いに一致しているわけでもなく、個人にしても一人として自己と一致している者はない。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第八巻・二一、神谷美恵子訳)

魂の働きのなかには、低級なものもいくつかある。その面から魂を見ない者は、魂を完全に知ることはできない。そしておそらく、魂が単純な歩き方で進んでいるときにこそ、それをもっともよく見てとることができるのだろう。情念の疾風は、魂を、それが高い位置をとっている場合に、より多くとらえる。それに加えて、魂はおのおのの材料の上に完全に身をのせきり、そこで全体で働きを行い、けっして同時にひとつ以上のことを扱わないのだ。そして材料を、それに従ってではなく、みずからに従って扱う。事物というものはおそらく、独自に、それ自身の重さや寸法や性質を持っているのだろう。しかし、われわれのなかへはいってしまうと、魂は、自分の了解しているとおりにそれらのあり方を裁断して、事物に着せかけてしまう。(…)
(…)われわれに事物についての了解を与えているものは、われわれ自身なのだ。
(モンテーニュ『エセー』第I巻・第50章、荒木昭太郎訳)

 われわれは皆断片からできていて、あまりにかたちをなさない多様な組成をしているので、一片一片が瞬間ごとにおのおのべつの動きをする。われわれとわれわれ自身とのあいだには、われわれと他人とのあいだにあるのと同じくらいの相違がある。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第1章、荒木昭太郎訳)

「もう終りにしましょうよ」と彼は言った、「二時近いですよ」
「それももっと多くを言うために少なく言う言いかたですの?」
「それとは反対に、『聖書』のなかでは、言葉がいかに表現の新鮮さを保ちつづけてきたか見てごらんなさいよ」
「それはきっと言葉遣いがとても単純な箇所でしょうね」と彼女は言った、「毎日の言葉が使われている箇所ね」
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』17、菅野昭正訳)

(…)そして、おそらく、その景色があれほど美しくなかったら……とはいうものの、ただひとつの状況を異なるものとして想像することなどできるだろうか?……人生には、まるで芸術の傑作のように整えられている瞬間が、またそういう全生涯があるものなのだ、と彼には思われた。あれは彼らにとって目眩(めくるめ)く驚異だった。六月のこよなく美しく晴れた日のことで、(…)
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』21、菅野昭正訳)

スヘヴェニンゲンの浜辺も、他の浜辺と同じように、地雷を埋めた浜辺だった。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』23、菅野昭正訳)

(…)今(なんて言葉だろう、今なんてものはありはしない)、ぼくは河に面した手すりに腰をかけ、赤と黒のツートンカラーの遊覧船が通るのを眺めている。写真を撮る気になれない。ただあわただしく行き交う事物を眺めながら、腰をかけたままじっと時の流れに身をまかせている。風はもうおさまっていた。
(コルタサル『悪魔の涎』木村榮一訳)

(…)家は、決められた時間に食事をとるしっかりした家庭で、うす暗い客間があり、ドアの脇にはマホガニーの傘立てが置いてある。壁にはロマン派の風景画がかかっているにちがいない。家で勉強していると、時間は雨の日のようにのろのろ過ぎていく。母親に期待をかけられている彼は、最近父親に似てきた。アヴィニョンの叔母さんに手紙を書かなくては。お金を持たないそんな彼のためにパリの街々とセーヌ河がある。(…)一袋十フランのフライド・ポテト、四つに折り畳んだポルノ雑誌、空のポケットのような寂しさ、幸運な出会い。町は未知の事物で埋めつくされている。風や町にも似た気易さと貪欲な好奇心に駆られて彼はそれらの事物を熱愛する。
(コルタサル『悪魔の涎』木村榮一訳)

(…)悪は──何世紀にもわたって記録されてきたのとは異なり──混沌(こんとん)の道具などではないのだ。創造こそが混沌の力なのだ。ほら、この真理は自然界のあらゆる仕組みに見いだせる──花粉の雲や、蠅(はえ)の群れや、鳥の渡りにだ。こうした出来事は正確さこそあれ、混沌としている。その正確さは過剰さからくるものであり、百万発撃って標的に数発あたるようなものだ。いや、悪は混沌ではない。簡潔さであり、システムであり、断ち切るナイフの一突きなのだ。とりわけ、回避不可能なことだ。善のエントロピー的解決であり、創造性の絶対的単純化なのだ。ヒトラーはずっとこのことを知っていたし、国家社会主義はつねにそれを具現していた。電撃戦や強制収容所がこの単純さの戦術的表現でないとすれば、なんだというのか?
(ルーシャス・シェパード『メンゲレ』小川 隆訳)

──とはいえ、こうしたこともしょせん人間性の一部ではないだろうか?
(ルーシャス・シェパード『竜のグリオールに絵を描いた男』1、内田昌之訳)

 時の歩みをもっともよく教えるのが手である。手は、ひとが三十歳になる前から老いはじめる。
(レイナルド・アレナス『めくるめく世界』35、鼓 直・杉山 晃訳)

 わたしは両手を上げて、見ようとした──今は手の甲に静脈が浮いていることも知っていた。手に静脈が浮き出した時が、人が大人になった時なのだ。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』4、岡部宏之訳)

(…)「どうやら、死ぬことは気にしていないみたいね──さばさばしてるもの」
 わたしは御者台の背にしがみついた。「そりゃ、死は異常なことではないからね。ぼくのような人間はきっと何千人も何万人もいるよ、死に慣れている人間は。人生のうちの本当に重要な部分はもう終わってしまったと感じている人はね」
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)

花?
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)

時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』17、岡部宏之訳)

これまで知ってきたものがすべて光の中に溶けたり暗闇の中に逃げてしまったのだ
(ルーシャス・シェパード『ぼくたちの暮らしの終わりに』小川 隆訳)

「メタファーとはなんだね? だれか?」
「メタファーは、ふたつのものを類似させる言葉のあやです」
「ちがう、ふたつもまちがいがある。類似は最初からそこにある。メタファーはそれを見るだけだよ。そしてメタファーは、たんなる言葉のあやではない。人間の精神の本質そのものだ。われわれ人間は、類似性や対比や関係を見出すことで、自分たちの周囲のものを、自分が経験したことを、自分自身を理解しようとする。われわれはそれをやめられない。たとえ精神がそれにしくじっても、精神は自分に起きていることをなんとか理解しようと努力しつづける」
(コニー・ウィリス『航路』下巻・第二部・承前・34、大森 望訳)

ほんとに、何度言えばわかるの? 比喩は現実なのよ
(メリッサ・スコット『地球航路』8、梶元靖子訳)

 比喩は象徴の一種なの、いい? そして象徴は、〈技〉の基礎です。わたしたちは象徴を通じて現実を操作するのだから、したがって、象徴もまた現実であり、現実でなくてはならないのよ。
(メリッサ・スコット『地球航路』8、梶元靖子訳)

必要なのは幻影だけれど、幻影にはモデルが必要だ。
(メリッサ・スコット『地球航路』5、梶元靖子訳)

 そのながめは、その瞬間には現実であり、そのあとではたぶん想像されたものになるわけだけど、光子のパターンとして視覚神経のマトリックスに表示され、ほぼデジタル化された神経電荷として脳にはいり、記憶、快感、その他の中枢に放電する。
(ヒルバート・スケンク『ハルマゲドンに薔薇を』第二部、浅倉久志訳)

存在は秩序を必要とする。
(トム・ゴドウィン『冷たい方程式』伊藤典夫訳)

「わたし、どれくらいいられるの?」
 自分の思考の谺(こだま)にも似た質問に、彼は思わずたじろいだ。
(トム・ゴドウィン『冷たい方程式』伊藤典夫訳)

どうやら自分の経験と酷似しているような表現に出くわしたのだ。
(ナボコフ『青白い炎』詩章第三篇、富士川義之訳)

 詩人の真価は、有限な表現による言語の舞いではなく、知覚と記憶、知覚されるものと記憶されるものへの感受性、それらのほぼ無限の組みあわせにこそある。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』上巻・詩人の物語、酒井昭伸訳)

 右半球であつかえるたった九語の語彙だけで、どうやって立派な詩が作れるのかと、不思議に思うかね?
 答えはこうさ。小生は一語も言葉を使わなかったのだよ。詩にとって、言葉とは二義的なものにすぎない。なによりたいせつな対象は真実だ。ゆえに小生は、強力な概念、直喩、関係を用いて、物自体(デイング・アン・ズイツヒ)──影のなかにひそむ実体をあつかった。たとえていえば、ガラスやプラスティックやクロムアルミニウムすら出現しないうちから、より高度な強化(ウイスカード)合金の骨格を用いて、エンジニアが摩天楼を築きあげるがごとく。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』上巻・詩人の物語、酒井昭伸訳)

(…)この小屋がまた、奇妙に居心地がいい。なかにあるのは、ものを食うための食卓、眠りかつセックスをするための寝棚、大小便用の穴、黙々と外を眺めるための窓、それだけだ。小生の環境は、まさに語彙を反映していたといえよう。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』上巻・詩人の物語、酒井昭伸訳)

大むかしから、監獄とはもの書きにとって最高の場所だった。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』上巻・詩人の物語、酒井昭伸訳)

 彼女のおろかな恐怖はすべて流れ去り、彼女の力のなくなった手は、静かにヘンリーの手に握りしめられ、臨終の言葉に、ひそかな音のリズムを見いだして、それを楽しんでいるかのようだった。
(ファニー・ハースト『アン・エリザベスの死』龍口直太郎訳)

(…)彼はこの皮肉っぽい軽い詩のように、いとも簡単に詩が浮かんだ頃のことを思い返した。今は詩作もずっと知的で計算された言葉の選択と配列になっている。自分の生活の中で内側から自然に湧き上がるものが、はたしてあるだろうか。
(P・D・ジェイムズ『神学校の死』第二部・19、青木久恵訳)

 サディーはとても優しい子でした。詩は情熱だけれど、人生のすべてである必要はないということを教えてくれました。
(P・D・ジェイムズ『神学校の死』第二部・19、青木久恵訳)

 人間が一生許すことも忘れることもできないもの、それはその人間が幼くて無力であるときに受けたひどい仕打ちだ。
(P・D・ジェイムズ『皮膚の下の頭蓋骨』第五部・37、小泉喜美子訳)

(…)ある哲学者の言葉を、確かロジャー・スクルートンだったと思うけど、思い出しましてね。"想像したものが与える慰めは想像上の慰めではない"
(P・D・ジェイムズ『殺人展示室』第二部・19、青木久恵訳)

詩はかならずしも意味をもたなくてもいい、自然のものがしばしば意味をもたないように。
(ウォレス・スティヴンズ『アデージア』片桐ユズル訳)

詩の目的はひとの幸福に貢献するにある。
(ウォレス・スティヴンズ『アデージア』片桐ユズル訳)

 ソネットの厳しい規則が詩作に高い水準を強制できるように、科学的な事実に忠実であることは、よりよいSFを生みださせることができる。これを無視するのは、自由詩型についてのロバート・フロストの言葉──"それはネットを下ろしてテニスをするのに似ている"──を思いおこさせる。
(グレゴリイ・ベンフォード『リディーマー号』のあとがき、山高 昭訳)

文体は主題から自然に生まれるものだ
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』7、斎藤昌三訳)

オーデンいわく、「詩は実際の効用をもたらすものにあらず」。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』10、斎藤昌三訳)

 そして若いころ書いたわたしの詩一篇だ。この詩はとるに足らないもので、いまのわたしとしてはできれば破って棄ててしまいたい代物だ。
(ノサック『ドロテーア』神品芳夫訳)

 それが印刷されたとき、どんなに得意であったかは、今でもよくおぼえている。これでみんな、おれが詩人だということを知るだろうと、あの当時は思ったものだ。
(ノサック『ドロテーア』神品芳夫訳)

 世間の普通の人は詩など読まないものと、わたしは思いこんでいた。雑誌を見ていて詩が出てくると、人々は「おや、ここは詩じゃないか」と言って、そして急いでページを繰って小説を探そうとする。
(ノサック『ドロテーア』神品芳夫訳)

そりゃ今だって詩人はいるさ、それは誰も否定しないよ、でも誰も詩人のものなんて読みやしない。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

「やっぱり芸術は、それを作り出す芸術家に対してしか意味がないんだなあ」
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』8、井上一夫訳)

 こんなに見つめあったりするのは、なにか気脈の通じる人間どうしだけができることだ。
(ノサック『ドロテーア』神品芳夫訳)

(…)わたしの手はわたしの視線を追って、できるだけの早さでカンバス上を走りまわるのだった。ところが、そのわたしの視線は、また、現実に見えないものまで求めているのだった。つまり、そこにあるものではなく、かつてそこにあった、そしていつかはそうなるだろうという対象の姿を求めるのである。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』10、井上一夫訳)

 私は、ときたま穀倉とか台所とか人目につかない所とかで見かけることのある、その用途はもはやだれにも説明できないような、そういった物や、箱や、什器(じゆうき)のことを考える。われわれが時間の行(こう)業(ぎよう)を理解していると思うことの虚しさ。時間はその死者たちを埋葬して、その鍵を手許から離しはしない。ただ夢の中でのみ、詩の中でのみ、遊戯の中でのみ──蝋燭を点し、それをかざして廊下を歩くならば──われわれは、はたしてわれわれであるのかどうかもわからないこのわれわれの存在よりも以前にわれわれであった存在を、ときとして垣間見るのである。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・105、土岐恒二訳)

 わたしたちは知ることのなんと少ないことか──迫り来る寒さにしても、奇蹟や死、まして細長い浜辺や、丘や、木や石のわずかの壁と、小さな火、わたしたちを暖めてくれる明日の太陽や、明日の平和への願い、良い天気への願い……この嵐で明日なんて吹っとんでしまったとしたら、どうなるんだろう。もし時間というものが静止してしまったら? それに昨日というものも、もしわたしたちがそういう嵐に道を失ってしまったら、もう一度その昨日を迎えるかもしれない。そこでわたしたちはその昨日を明日の朝日と思いこむかもしれない。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』6、井上一夫訳)

 彼はほとんど無一物で暮らしていたし、彼が一年に一枚の絵も売れたかどうか危ういものである。しかし、彼は自分の才能を疑ったことのない、幸福な人間だった。彼の欲望はささいなものであったが、その悲しみは苦痛は伴わないが大きなものだった。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』8、井上一夫訳)

どのくらいの時間で、ひとは地獄を──そして天国をのぞくことができるものだろう。
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ヤコブのあつもの、深町真理子訳)

 わたしはすぐに答えなければいけない。遅れることは、まちがった答えと同じだけ危険だわ
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第一巻、矢野 徹訳)

成長はその必要とするものによって制限される、
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第二巻、矢野 徹訳)

緊張が大きなときに真実をはっきりと知る
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第二巻、矢野 徹訳)

それは象徴以上のもの、現実だ。
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第二巻、矢野 徹訳)

視界だけに頼るなら、ほかの感覚は弱まる
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第三巻、矢野 徹訳)

真実とは強力な武器なのだ。
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第三巻、矢野 徹訳)

存在しないこと、それは存在することと同じほど致命的なものとなり得る。
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第三巻、矢野 徹訳)

世界は多数の群衆と少数の個人とで成り立っている。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上巻・1、宮西豊逸訳)

年齢を重ねるにつれて、自分の一部が新しい風景のように見えてくるのだ。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』下巻・エピローグ・2、山高 昭訳)

成功は饒舌だが、失敗は無言である。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』上巻・第二部・4、山高 昭訳)

絶対は崩壊の餌食であり、永遠は変質の餌食である。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十章、榊原晃三・南條郁子訳)

最愛の人の不倫は食欲をそそる究極の前菜である。
(リチャード・コールダー『デッドボーイズ』第3章、増田まもる訳)

 海水パンツをはいた姿などというのは、まったくの裸身でもなければ、ときおり悩ましくさえある衣服の独創的な言葉でもない。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十三章、榊原晃三・南條郁子訳)

 箱庭が小さければ小さいほど、その包括する世界は大きい。(…)風景が小さければ小さいほど、ますます強力な霊力が手に入る。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十八章、榊原晃三・南條郁子訳)

最高の幸福は不幸の總元締、智彗の完成は愚鈍のもと。
(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)

人間でいるってことは、変てこなもんだ
(ルーディー・ラッカー『空を飛んだ少年』第三部・20、黒丸 尚訳)

個人的な好みに左右されるようなことには正しいもまちがいもない
(オースン・スコット・カード『神の熱い眠り』4、大森 望訳)

 音楽や性行為、文学や芸術、それは今やすべて、楽しみの源ではなくて苦痛の源にされてしまってるんだね
(アントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ』3・4、乾 信一郎訳)

選択のできない人間というものは、人間であることをやめた人だよ
(アントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ』3・4、乾 信一郎訳)

ほかに選択の余地がないにもかかわらず、それがあるかのように行動して、その結果なにもかも失ってしまう人間が驚くほどたくさんいる。それもこれも、しなければならないことをするのに耐えられないからなんだよ
(オースン・スコット・カード『神の熱い眠り』5、大森 望訳)

神は、善良であることを望んでおられるのか、それとも善良であることの選択を望んでおられるのか? どうかして悪を選んだ人は、押しつけられた善を持っている人よりも、すぐれた人だろうか?
(アントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ』2・3、乾 信一郎訳)

聖書の著者は神である。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第一問・第一〇項、山田 晶訳)

「神を持ちだすなよ。話がこんぐらがってくる」
(キース・ロバーツ『ボールターのカナリア』中村 融訳)

あんた自身が神様を信じていれば、その言葉ももうちょっともっともらしく聞こえるだろうがね。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

神がいると、本当に信じているのですか?
(ジェイムズ・P・ホーガン『プロテウス・オペレーション』下巻・27、小隅 黎訳)

天国なんてないのよ
(チャールズ・プラット『バーチャライズド・マン』第二部・天国、大森 望訳)

パパは天国にいるっていったじゃない。
(チャールズ・プラット『バーチャライズド・マン』第二部・天国、大森 望訳)

単純にして明快な事実だよ。事実に対して動転する必要があるかね?
(チャールズ・プラット『バーチャライズド・マン』第一部・暗闇、大森 望訳)

 そう、私は真実を要求した。しかし心の奥底で私が本当に欲望していたのは、驚異だったのだ。
(ミシェル・ジュリ『熱い太陽、深海魚』松浦寿輝訳)

 しかし、人と近づきになる楽しみは、すべての楽しみがそうであるように、間違いなく確実な出費を要求した。
(A&B・ストルガツキー『世界終末十億年前』第二章、深見 弾訳)

 微笑は、今の話を本気にする必要はないと語っていた。だが、信じたふりをしてくれれば嬉しいという含みも感じられた。
(ロバート・F・ヤング『たんぽぽ娘』伊藤典夫訳)

 ところが、そのあいだに不思議なことが起こった。まるでふたつのからだがぴったりと触れあったことで通り道ができたかのように、新しい理解がジーンのもとに届いた。
(アンナ・カヴァン『愛の渇き』大谷真理子訳)

しかし、その真実は、はたして彼の知っているとおりなのだろうか。
(フレデリック・ブラウン『さあ、気ちがいになりなさい』2、星 新一訳)

ぼくは過去の食卓のうえに今この食前の祈りを繰り返す。
(ディラン・トマス『飼鳥が焼けた針金で』松田幸雄訳)

「聞いているかね、友よ?」
 彼女は一語余さず聞いていたし、それぞれの語のあいだに広がる暗黒にも耳を澄ませていた。
(ロバート・リード『地球間ハイウェイ』第二部・ジュイ・1、伊藤典夫訳)

身をこがして光をふりそそぐ力がないならば、せめてそれをさえぎらないようにするがよい。
(トルストイ『ことばの日めくり』一月三日、小沼文彦訳)

神は愛そのものではない。愛は人間における神の現れの一つであるにすぎない。
(トルストイ『ことばの日めくり』五月二十四日、小沼文彦訳)

 愛は二人だけのものである。たとえそれがつまらない、気取った、ばかげたものであっても、愛し合う二人だけのために愛は存在する。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

〈知性〉の第一の義務は自己に対する懐疑である。これは自己軽蔑とは別物だ。想像された森の中で道に迷うことは現実の森の中で道に迷うことより難しいが、それは前者が考えている者にこっそり手助けするからである。解釈学とは現実の森の中の迷宮庭園なのであって、それは森が見えなくなるような刈り込み方をされているのだ。諸君の解釈学は現実について夢想する。だが私が諸君に示そうとするのはさめた現実なのであって、肉が付き過ぎて、そのために信じるに足りないように見える現実なのではない。
(スタニスワフ・レム『虚数』GOLEM XIV、長谷見一訳)

諸君は人間とは〈知性〉であり、〈知性〉とは人間であると主張してやまないが、この等式の誤謬が諸君を盲目にしたのだ。
(スタニスワフ・レム『虚数』GOLEM XIV、長谷見一訳)


詩の日めくり 二〇一六年八月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年八月一日 「胎児」


自分は姿を見せずにあらゆる生き物を知る、これぞ神の特権ではなかろうか?
           (ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』榊原晃三・南條郁子訳)


二〇一六年八月二日 「胎児」


神の手にこねられる粘土のように
わたしをこねくりまわしているのは、だれなのか?

いったい、わたしを胎のなかで
数十世紀にもわたって、こねくりまわしているのは、だれなのか?

また、胎のなかで
数十世紀にもわたって、こねくりまわされているわたしは、だれなのか?

それは、わからない。
わたしは、人間ではないのかもしれない。

この胎は
人間のものではないのかもしれない。

しかし、この胎の持ち主は
自分のことを人間だと思っているようだ。

夫というものに、妻と呼ばれ
多くの他人からは、夫人と呼ばれ

親からは、娘と呼ばれ
子たちからは、母と呼ばれているのであった。

しかし、それもみな、言葉だ。
言葉とはなにか?

わたしは、知らない。
この胎の持ち主もよく知らないようだ。

詩人というものらしいこの胎の持ち主は
しじゅう、言葉について考えている。

まるきり言葉だけで考えていると考えているときもあるし
言葉以外のもので考えがまとまるときもあると思っているようだ。

この物語は
数十世紀を胎児の状態で過ごしつづけているわたしの物語であり

数十世紀にわたって、
わたしを胎内に宿しているものの物語であり

言葉と
神の物語である。


二〇一六年八月三日 「胎児」


時間とは、なにか?
時間とは、この胎の持ち主にとっては
なにかをすることのできるもののある尺度である。
なにかをすることについて考えるときに思い起こされる言葉である。
この胎の持ち主は、しじゅう、時間について考えている。
時間がない。
時間がある。
時間がより多くかかる。
時間が足りない。
時間がきた。
時間がまだある。
時間がたっぷりとある。
いったい、時間とは、なにか?
わたしは知らない。
この胎の持ち主も、時間そのものについて
しばしば思いをめぐらせる。
そして、なんなのだろう? と自問するのだ。
この胎の持ち主にも、わからないらしい。
それでも、時間がないと思い
時間があると思うのだ。
時間とは、なにか?
言葉にしかすぎないものなのではなかろうか?
言葉とは、なにか?
わからないのだけれど。


二〇一六年八月四日 「胎児」


わたしは、わたしが胎というもののなかにいることを
いつ知ったのか、語ることができない。
そして、わたしのいる場所が
ほんとうに、胎というものであるのかどうか確かめようもない。
そうして、そもそものところ
わたしが存在しているのかどうかさえ確かめようがないのだ。
そういえば、この胎の持ち主は、こんなことを考えたことがある。
意識とは、なにか?
それを意識が知ることはできない、と。
なぜなら、袋の中身が
袋の外から自分自身を眺めることができないからである、と。
しかし、この胎の持ち主は、ときおりこの考え方を自ら否定することがある。
袋の中身が、袋の外から自分自身を眺めることができないと考えることが
たんなる言葉で考えたものの限界であり
言葉そのものの限界にしかすぎないのだ、と。
そして、
言葉でないものについて、
この胎の持ち主は言葉によって考えようとする。
そうして、自分自身を、しじゅう痛めつけているのだ。
言葉とは、なにか?
それは、この胎の持ち主にも、わたしにはわからない。


二〇一六年八月五日 「胎児」


生きている人間のだれよりも多くのことを知っている
このわたしは、まだ生まれてもいない。
無数の声を聞くことができるわたしは
まだわたしの耳で声そのものを聞いたことがない。
無数のものを見ることができるわたしは
まだわたしの目そのもので、ものを見たことがない。
無数のものに触れてきたわたしなのだが
そのわたしに手があるのかどうかもわからない。
無数の場所に立ち、無数の街を、丘を、森を、海を見下ろし
無数の場所を歩き、走り跳び回ったわたしだが
そのわたしに足があるのかどうかもわからない。
無数の言葉が結ばれ、解かれる時と場所であるわたしだが
そのわたしが存在するのかどうかもわからない。
そもそも、存在というものそのものが
言葉にしかすぎないかもしれないのだが。
その言葉が、なにか?
それも、わたしにはわからないのだが。


二〇一六年八月六日 「胎児」


数学で扱う「点」とは
その言葉自体は定義できないものである。
他の定義された言葉から
準定義される言葉である。
たとえば線と線の交点のように。
しかし、その線がなにからできているのかを
想像することができるだろうか?

胎児もまた
父と母の交点であると考えることができる。
しかし、その父と、母が、
そもそものところ、なにからできているのかを
想像することができるだろうか?

無限後退していくしかないではないか?
あらゆることについて考えをめぐらせるときと同じように。


二〇一六年八月七日 「胎児」


この胎の持ち主は、ときどき酩酊する。
そして意識が朦朧としたときに
ときおり閃光のようなものが
その脳髄にきらめくことがあるようだ。
つねづね
意識は、意識そのものを知ることはできない、と。
なぜなら、袋の中身が、袋の外から袋を眺めることができないからであると
この胎の持ち主は考えていたのだけれど
いま床に就き、意識を失う瞬間に
このような考えが、この胎の持ち主の脳髄にひらめいたのである。
地球が丸いと知ったギリシア人がいたわ。
かのギリシア人は、はるか彼方の水平線の向こうから近づいてくる
船が、船の上の部分から徐々に姿を現わすのを見て、そう考えたのよ。
空の星の動きを見て、地球を中心に宇宙が回転しているのではなくて
太陽を中心にして、地球をふくめた諸惑星が回転しているのだと
考えたギリシア人もいたわ。
これらは、意識が、意識について
すべてではないけれど
ある程度の理解ができるということを示唆しているのではないかしら?
わからないわ。
ああ、眠い。
書き留めておかなくてもいいかしら?
忘れないわね。
忘れないわ。
そうしているうちに、この胎の持ち主の頭脳から
言葉と言葉を結びつけていた力がよわまって
つぎつぎと言葉が解けていき
この胎の持ち主は、意識を失ったのであった。


二〇一六年八月八日 「胎児」


わたしは、つねに逆さまになって考える。
頭が重すぎるのだろうか。
いや、身体のほうが軽すぎるのだ。
しかし、わたしは逆さまになっているというのに
なぜ母胎は逆さまにならないでいるのだろう。
なぜ、倒立して、腕で歩かないのだろうか。
わたしが逆さまになっているのが自然なことであるならば
母胎が逆さまになっていないことは不自然なことである。
違うだろうか。


二〇一六年八月九日 「チェンジ・ザ・ネーム」


アンナ・ヴァンの新作が出るらしい。コンプリートに集めてる作家なので買うと思うけど、ハヤカワから出るコードウェイナー・スミス全短篇の2作目は、すべて既読なのだが、せめて、まだ訳してないのを1作でも入れておいてほしかった。バラード全短篇集など、創元は出してほしくない。読んだのばっか。

アン・レッキーのレベルの作家は、そうそういないと思うけれど、SFかミステリーにしか、ほとんど未来の文学はないと思うので、ハヤカワ、創元、国書にはがんばってほしい。


二〇一六年八月十日 「詩は個人の文学である」


ぼく自身は、もうぼくのことについてしか書かないので、ぼくの詩は、個人の文学だと思っている。そして、もう個人の文学しか、詩にはないと思っているのだが、30代から、そう思って書いているのだが、そう、もう、だれも個人には興味がないのだった。まあ、それでいいと思うけれど。


二〇一六年八月十一日 「現代詩文庫」


ぼくの知らない名前のひとのものが『現代詩文庫』にたくさん入ってる。もう何人もそうなんだけど、ずいぶん以前から、そんな文庫には意味があるとは思えなくなっていた。思潮社、どういう編集方針なんだろう?


二〇一六年八月十二日 「世界は滅びなくてよい。」


日知庵でも、かわいい男の子(31歳)と話をしていたけど、世のなかにかわいい男の子がいるかぎり、世界は滅びなくてよい。

アレナスもペソアも47歳で死んでいる。47年組なんやね。ぼくは、47歳までに、よい詩を書いたかと自分に問えば、どうだったかなと答えるしかない。その齢に応じたよいものを書いてきたと思っているから。昨年、思潮社オンデマンドから出た『全行引用詩・五部作・上巻』とその下巻がいまのところ、ぼくの最高傑作だ。

きょうは日知庵でバイトだったのだけれど、だいぶ飲んできた。バイト中にもお客さんからビールを3杯いただいて飲んだけど、バイト上がりにも1杯飲んだ。タバコ吸ったら、クスリのんで寝よう。鏡みたら、顔がゾンビだった。まあ、もともとゾンビ系の顔をしてるけれども。


二〇一六年八月十三日 「芸術」


人間が生きるためには、芸術などは必要のないものの最たるものの一つであろう。しかし、芸術がなければ、人間が人間である必要のないものの最たるものの一つである。


二〇一六年八月十四日 「まだウンコみたいな詩を書いてるの?」


何年か前、ヤリタミサコさんの朗読会でお会いしたときに、平居 謙さんから、こう言われたことが思い出された。「まだウンコみたいな詩を書いてるの?」 そのときのぼくの返事、「まだウンコみたいな詩を書いてますよ。」 「ウ」じゃなくて、「チ」か「マ」だったら、最高の褒め言葉だったんだろうな。


二〇一六年八月十五日 「人間自体がもっともすばらしい芸術作品なのだ」


人間自体がもっともすばらしい芸術作品なのに、なぜ人間以外の芸術作品を求めてやまないのか。

恋をしているときに、なぜ、ぼくは、それがうつくしい芸術作品の一つだと思わなかったのだろうか。恋が終わってからしか、そのときのことが書けないのは、ぼくが、その恋を作品として見ていなかったからだろうけれど、いまから思うと、もったいないことをしたなあと思う。うん? そうじゃないのかな?


二〇一六年八月十六日 「字数制限」


俳句や短歌が文芸作品であるのは、用いられる語の音節数の制限があるからである。道路に制限速度があるように、詩にも制限語数というのがあってもよいのかもしれない。まあ、ぼくなんかは、違反ばかりしているだろうけれども。


二〇一六年八月十七日 「偶然」


偶然が怖いけれど、偶然がないのも怖い。

いま日知庵から帰ってきた。日知庵に行くまえに、ジュンク堂で新刊本を5冊買った。合計9000円ほど。アンナ・カヴァンの『鷲の巣』、『チェンジ・ザ・ネーム』そして、彼女の短篇が入っている『居心地の悪い部屋』、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第二巻の『アルファ・ラルファ大通り』、ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』である。いったい、いつ読むのかわからないけれど、いちおう、これらを買っておいた。そういえば、カヴァンをイギリス文学の棚で探していたが見つからず、ジュンク堂の店員に訊いたら、フランス文学の棚に並べられていた。 「アンナ・カヴァンはイギリスの作家ですよ。」と言うと、「あとで確認しておきます。」という返事が返ってきた。いや〜、びっくりした。どこで、どうなって、フランス文学の棚に行ったのか知らないけれど、商品については知っとけよ、と、こころのなかでつぶやいた。

きのう、寝るまえに、『恐怖の愉しみ』上巻のさいしょの作品を読んで、つぎの作品の途中で寝てしまった。


二〇一六年八月十八日 「図書館の掟。」


けさ、つぎにぼくが上梓する思潮社オンデマンド詩集『図書館の掟。』のゲラが届いた。やらなければならないことがたくさんあるのだけれど、このゲラチェックを最優先しよう。350ページ分のゲラチェックである。何日でできるかな。

詩集『みんな、きみのことが好きだった。』が、書肆ブンより復刊されることになりました。すべての先駆形の詩が収載されます。(思潮社オンデマンドから既発売の『ゲイ・ポエムズ』、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』、来年発売予定の『図書館の掟。』に分載されているものすべてを含む)きょう、再刊の話をいただいたところで、いつごろ発売になるのか、わかりませんが、ぼくが30代の後半から40代の初めまでに書いた、すべての先駆形の詩を収録する予定です。『ゲイ・ポエムズ』(思潮社オンデマンド)とともに、ぼくのベスト詩集になると思います。電子データのない作品があって、その打ち込みで、●詩の長篇の散文があって、しかも、その●詩が全行引用詩でもあるので、本文5ページ・参考文献、超小さい字で5ページを打ち込まなければならず、めっちゃ憂鬱でしたが、あらためて自分の詩を読んで、へえ、こんなの書いてたのとか思ったりしてます。

●詩の散文詩の全行引用詩の本文の打ち込みが終わった。参考文献のところは一日では終わりそうにないけれど、いまではもう読んだ記憶のない本がいっぱいあって、そういう興味でもって眺めながら、あしたから打ち込んで行こうと思う。しんど〜。


二〇一六年八月十九日 「全行引用詩・五部作・序詩」


澤あづささんが、ぼくの『全行引用詩・五部作・序詩』を、ご紹介くださっておられます。新作です。ぼくの望んでいた通りの理想的なレイアウトで、ご紹介くださってます。こころから感謝しております。
こちら→http://netpoetry.blog.fc2.com/blog-entry-17.html


二〇一六年八月二十日 「福武くん」


いま日知庵から帰った。日知庵では、Fくん(31歳のぽっちゃりしたかわいい男の子)と、プログレ、カルメン・マキ、ビートルズの話で盛り上がった。いっしょにカラオケしたかったなあ。こんど誘ってみよう。


二〇一六年八月二十一日 「しんどかった〜。」


やったー。あと数日は確実にかかると思っていた●詩の参考文献の打ち込みが終わった。朝の9時からこの時間までのぼくの集中力は半端じゃなかった。孤独な作業だったけれど、すべての芸術行為が孤独なのであった。ひとりでお祝いをするために、これからスーパーに行って、お酒を買ってきて飲もうっと。

ヱビスビールを飲んでいる。BGMは、2、3日まえに、Fくんにすすめた「四人囃子」の『ゴールデン・ピクニックス』である。日本でさいこうのプログレバンドだった。1曲目はとばして聴いたほうがいいと思うけど、ぼくはとばさずに聴いてる。いまかかってるのは「泳ぐなネッシー」 プログレである。

クリムゾンの『ディシプリン』にかけ替えた。脳みその半分がビールのような気がする。錯覚だろうけど。

あしたは神経科医院に。ここ数日の平均睡眠時間が極端に短い。神経症がひどくなっているのかもしれない。クスリをかえてもらう頃合いなのかもしれない。いまのんでるクスリ、さいしょはのんで数分で気絶する勢いで眠ったけれど、いまじゃ眠るまでに1時間以上かかってしまっているものね。

プリンスの『MUSICOLOGY』にかけ替えた。「CALL MY NAME」のすばらしさ。プリンスはやっぱり天才だった。

ぼくは自分の詩のタイトルに、海外アーティストの作品の曲名をつけることが多いのだけれど、「DESIRE。」の出所がようやくいまわかった。ツエッペリンだった。コーダに入ってたから、長いあいだわからなかったのだった。手放したCDだったから。これで、タイトルの出所のわからないものがなくなった。


二〇一六年八月二十二日 「きょう何年かぶりかで」


きょう何年かぶりかで痴漢された。数年まえに痴漢されたときは、タイプの若い男の子だったから、うれしかったけど、きょうは、ぼくよりおっさんだったから厭だった。

きょう何年かぶりかで置換された。数年まえに置換されたときは、タイプの若い男の子だったから、うれしかったけど、きょうは、ぼくよりおっさんだったから厭だった。


二〇一六年八月二十三日 「鈴木さんご夫妻」


いま日知庵から帰った。Sさんご夫妻と遭遇。そこで、ぼくの出自の半分が判明した。ぼくは半分、高知で、半分、兵庫だったのだ。ずっと半分、京都人だと思っていたのだけれど。丹波の笹山が京都だと思っていたのだった。55歳まで。

こんど思潮社オンデマンドから出る『図書館の掟。』のゲラチェックばかりで、本が読めていない。きょうは寝るまえに、なにか読もう。ぼくは詩をつくるために生まれてきたんじゃなくて、人生を楽しむために生まれてきたのだ。人間との出合いが、いちばん楽しいけれど、読書は2番目に楽しい。あ、2番目は、お酒かも、笑。

チューブでよい曲を聴くために Swings の曲をクリックしたら、いきなり不愉快なCMが出てきて、ああ、人生もそうだけど、ほんと、しょうがないなと思った。

きょう、夜の10時ころに日知庵に行くときに、河原町を歩いてた女の子が、隣の女の子に、「ちゅーしたい〜。」というと、「してもいいよ〜。」と言って、道端で歩きながら、ちゅーしてたのだけれど、20代前半の学生かな、OLかな。わからへんけど、めっちゃいいものを見たような気がした。得々〜。


二〇一六年八月二十四日 「図書館の掟。ゲラチェック終了。」


ブレッズプラスで、こんど思潮社から出る『図書館の掟。』のゲラチェックをすまして、いま郵便局から思潮社の編集長の〓木真丈さん宛にお送りした。あさってに到着する予定だ。で、部屋に戻ると、さっそく、書肆ブンの大谷良太くんから、こんど復刊する『みんな、きみのことが好きだった。』のゲラが。ゲラチェックの地獄はつづくのである。ワード原稿でゲラがきたので、ぼくがプリントアウトしなければならない。これからA4のコピー紙を買いに行こう。

これから書肆ブンから復刊する『みんな、きみのことが好きだった。』の電子データをプリントアウトする。240ページである。まあ、ぼくの詩集では、短いほうである。ぼくの詩集は300ページがあたりまえのようになっている。もちろん、この先に出る予定のものはみな300ページ超えてるのだ、呪。

バッジーを聴きながらプリントアウトをしている。


二〇一六年八月二十五日 「きょうも、ゲラチェック終了。」


書肆ブンから復刊する『みんな、きみのことが好きだった。』のゲラチェックをしたものを、いま郵便局から、大谷良太くんに送った。これで、しばらくは、といっても、数週間から1か月くらいは再校のゲラチェックはこないはずだ。ふう。ようやく、9月に文学極道に投稿する作品に取り組むことができる。

ぼくの『全行引用による自伝詩。』を詩集にするときには、女性の知り合いに表紙になってもらおうかなと思っている。同じタイトルで何冊も出すと思うけれど、すべての詩集において違う女性に表紙になってもらおうかなと思う。「自伝」に他人のしかも異性の画像を使うのは、世界でも、ぼくくらいだろう。

こんど思潮社オンデマンドから出る『図書館の掟。』の表紙デザインができあがって、送っていただいたのだけれど、ぼくの詩集のなかでも、もっともポップで大胆なものになっていると思う。ぼくのつぎのつぎのつぎの詩集はまだ表紙を決めていないけれど、人間の顔がいちばん興味深い。

そだ。こんど書肆ブンから復刊する『みんな、きみのことが好きだった。』も320ページをこえていたのだった。ゲラは240枚で済んだのだけれど。


二〇一六年八月二十六日 「ネギは、滅びればいい。」


いま日知庵から帰ってきた。きょうも、来られた方と楽しくお話しできたし、おいしいお酒も飲めて、うれしい。ネギは、滅びればいいと思っているけれども。


二〇一六年八月二十七日 「あれはゲラじゃなくって、」


イーオンで中華弁当を、セブイレで麦茶を買ってきた。きのう、新しい『全行引用による自伝詩。』の引用をだいたい決めた。きょう、塾にいくまえに完璧に選んでおくつもりだ。打ち込みが地獄になるほどの引用量なのだが、いつものことだ。がんばる。

ブレッズプラスでルーズリーフを眺めていたら、8月に文学極道に投稿した『全行引用による自伝詩。』に、ぜひ追加したいものがあったので、これから投稿した作品を書き改めようと思う。きょうは、そのあと、髭を剃って、頭の毛を刈って、お風呂に入って塾に行こう。

物がいつ物でなくなるのだろうか?(ロジャー・ゼラズニイ&フレッド・セイバーヘイゲン『コイルズ』14、岡部弘之訳)

けっきょく、ワードいじってたら、こんな時間に。ヒゲを剃ったり、頭の毛を刈ったりできなかった。しかも、ワード直しが不完全に終わらせなければならなかったし。これからお風呂に。それから塾に。

いま日知庵から帰った。帰ってFB見たら、元アイドルの方から友だち承認がきてて、びっくり。ぼくとアイドルのつながりなんて、まえに付き合ってた青年が作曲家で、アイドルの曲をつくってたくらいだから、なんでかなと、はて〜。でも、もちろん、承認した。なんのつながりなんだろう。おもしろ〜い。

その方のページにとんで、お顔を見たら、おかわいいので、二度目のびっくり。なんのつながりかは、まったく不明。でも、天然のかわいらしさをそなえてらっしゃる方みたいで、よかった。人間の世界って、おもしろいね。どこで、どうつながるのか、まったくわからない。

きょう、大谷良太くんに、「ゲラ直し、届いた?」って訊くと、「届きましたよ。でも、あれはゲラじゃなくて、まだワード原稿の段階ですよ。」と言われて、なるほどと思った。そっか。ゲラは、出来上がりまえのものを言うんだね。というところで、詩集を出して20年以上になるが、まだ知識不足だった。

あしたはビアガーデンだ。あしたで夏休みが終わった感じがある。月曜から、文学極道の詩投稿欄に投稿する新しい『全行引用による自伝詩。』のワード原稿の打ち込みをする。膨大な量なので、何年かかるかわからないけれど、やることにした。1000枚以上のルーズリーフ、100分の1は打ち込みたい。


二〇一六年八月二十八日 「天罰」


もうちょっとで持ってるCDを買うところだった。デヴィッド・ボウイ、けっこう揃えていたのだ。ひさしぶりに、『Station To Station』が聴きたくなって。アルバム的には、『ダイヤモンドの犬』がいちばん好きかな。やっぱ、プログレ系になってしまう。

いま、Hyukoh のCDを買った。15000円だった。2014年の秋に出た新品を保管していたものらしい。もうしばらくCDは買わないでおこう。2BICのも、さっき2枚買った。ああ、amazon なんかなければいいのに〜。あ、そしたら自分の詩集も売れないか、笑。うううん。

Hyukoh のCDは、しょっちゅうチェックしていたから買えたのだけれど。届いたって、どうせ数日で飽きちゃうんだろうな。部屋にあるCDの棚を見て、ふと、そう思った。まあ、いいか。

Hykoh もう1枚、CDを出してたみたいで、そちらも買った。それも15000円した。もうね、ファンだからね。仕方ないよね。ぼくはね、もうね、バカだからね〜、ああ、amazon なんかなくなればいいのに。いや、なくなったら、さっきも書いたけど、自分の詩集が売れない。ふにゃ〜。

Hyukoh さいしょに買ったのはアルバムで、つぎに買ったのは、アルバムに先だって発売されたEPらしくって、2曲ダブルらしい。まあ、いいけどね。CD、4枚で、合計 33600円以上もした。まあ、本だって、過去に、1冊 50000円くらいの買っちゃったことがあるけどね。ううん。

でも、まあ、いいや。欲しかったものだから。そろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

あ、さいしょに買ったのが、アルバムだったけど、それは2015年に出たものらしい。あとで買ったのが EPで、2014年に出たものらしい。ぼくのツイート、5つか、6つまえの情報が間違ってた。まあ、2つとも手に入ったから、いいんだけどね。あ、クスリのまなきゃ。二度目のおやすみ。

あ、ぼくの出身中学の弥栄中学が廃校になってたことを、きょう知った。よい思い出は、悪い思い出よりはるかに少ないけど、というのは、運動のできないデブだったからで、めっちゃいじめられっ子だったから、殴られたり蹴られたりばかりしていた思い出があって、ああ、でも、廃校か。ちょっとさびしい。

高校に入って柔道部に入ったけど、中学では理科部だった。高校に入ってから身長が伸びたけど、中学では前から数えたほうがはやかったくらいの身長だった。で、デブだったので、いじめっ子たちの標的だったのだ。思いっきり空中両足蹴りをされたことがある。ぼくがサッカーで動きがすごく鈍かったとき。

神さまは、みんな、ごらんになっておられるので、連中には天罰がくだってると思うけれど、ぼく自体は、彼らに天罰がくだることは願っていない。天罰がくだるのは神さまが設定された宇宙の摂理であたりまえのことだからである。

2年まえに、ぼくにLGBT差別したアメリカ人の男が、昨年、アメリカに帰って心筋梗塞で亡くなった。まあ、こういう天罰なんかじゃないのかな。神さまは、みんなごらんになっておられるのだ。おもしろいことに、この男自体がゲイだったのだ。ぼくはオープンリーのゲイだから、差別したのだろうけど。

いま、きみや主催のビアガーデンから帰ってきた。おなかいっぱい。じつはビアガーデンに行くまえに、森崎さんとごいっしょに、アイリッシュ・バーで、ビールを飲んでいた。どんだけヒマジンやねん、という感じ。

あしたから、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『全行引用による自伝詩。』をワードに打ち込んでいくけど、きょうのうちに、打ち込む順番を決めておこう。けっきょく、語の選択と配列しかないのだ。言語表現には。

ネットで曲数とか調べたら、きのう買った Hyokuoh のCD、2枚ともEPみたいで、どちらも、6曲ずつの収録作らしい。到着したら、正確にわかるけれど、まだ到着していないので、ネットでの情報だけだから、わからないけれど。

基本的には、天才的な書き手のものしか引用していないので、ルーズリーフを並べ直しているだけで、脳機能が励起されているような気がする。日本人の詩人や作家の文章では脳機能が励起されないのは、単なるぼくの好みだけではないようなものがあるような気がする。ぼく自体が日本人的ではないのかもね。


二〇一六年八月二十九日 「こころのない子ども。こころのない親。」


こころのない子ども。こころのない親。こころのない教師。こころのない生徒。こころのない医師。こころのない患者。こころのない上司。こころのない部下。こころのない男の子。こころのない女の子。こころのない男の子でもあり女の子でもある子。こころのない男の子でもなく女の子でもない子。楽な世界かもしれない。こころがあると面倒だものね。でも、面倒だから、ひとは工夫する。こころがあると痛いものね。でも、痛いから、痛さから逃れる工夫をする。こころがあると、こころが折れる。でも、こころが折れるから、折れたこころを癒してくれるものを求めるのだ。

もう順番を決めた。あとは打ち込むだけ。この打ち込み予定のペースだと、『全行引用による自伝詩。』の文学極道の詩投稿欄への投稿には、確実に10年以上はかかりそう。まあ、いいや。

Fくんのツイートを見て、自分もカップ麺が食べたくなったのだけれど、やめておこう。寝るまえの読書は、なし。ルーズリーフを眺めながら、よりよい順番になるかどうか考えながら寝よう。おやすみ、グッジョブ!

あかん。欲望には忠実なぼくやった。これからセブイレに行って、カップ麺を買ってきて食べようっと。まだクスリのんでなくて、よかった。

大盛の天ぷらそばを食べた。

FB見てたら、ある詩人が「えらくなって自作解説したい」と書いていて、びっくりした。詩人って「えらくなる」ことのできるものなのかしら? ぼくなら、ぜったい、えらくなりたくないけどなあ。そんなん思うてるひと、詩人とちゃうやん。と思ってしまった。こわいなあ。詩でえらくなるという考え方。

詩なんて、ただの言葉遊びで、せいぜい、ものごとを見るときのフィルターになるくらいで、詩を書いたからって、それで、えらくなったり、逆に、えらくならなかったりするものなんかじゃないと思うんだけどなあ。ぼくと同じくらいの齢の詩人だったけど、ほんと、しょうもないひとやなあと思った。

ぼくの詩歴について嘘っぱちを書いてる者が、「ネット詩の歴史」というタイトルのHPをつくっている。調べもせずに、間違った知識で書いていたのだ。こんな者の書いた「ネット詩の歴史」なんてHPには嘘がいっぱいなんじゃないか。嘘をばらまくなよ。間違った知識というか、思い込みかな。しかし、調べもせずに、ひとの詩歴をでっちあげるっていうのは、どういう神経しているのだろう。そして、それをネット上の詩投稿掲示板に書き込んでいたのだ。だれでも見れるところに嘘を書き込む神経って、なに?


二〇一六年八月三十日 「きょうはずっと雨だった。」


きょうはずっと雨だった。塾が休みなので、部屋にいた。外に出たのは、コンビニに2回行ったくらいかな。きょうは酒も飲まず、タバコも吸わず、禁欲的な一日だった。ワードの打ち込みがA4で5ページというのが、ちょっとくやしいけれど。きょうは、はやく寝れるかな。クスリのんで寝よう。おやすみ。

けさ、4枚のCDが到着した。2枚で30000円した Hyukoh のもののほうは大したことがなかった。あとの1600円ほどのと2000円ほどの 2 BiC のもののほうがよい。まあ、たいてい、そんなもの。

うわ〜。2BiC の Unforgettable を聴いてたら、涙が出てきちゃったよ〜。You are unforgettable to me. というのだ。ぼくにも、そういう子がいたのだと思うと、涙が出てきちゃった〜。

きょうも朝から、ワードA4に5ページ、打ち込んだので、『全行引用による自伝詩。』の打ち込みは、きょうは、これでやめて、ちょっと休憩しよう。6時半にお風呂に入ったら、塾へ行こう。

いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパ〜。かなり、ベロンベロンである。服を着替えて、クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

それにしても、夏休みは、毎日が日知庵帰りだったなあ。


二〇一六年八月三十一日 「嘔吐、愛してるよ。」


サルトルの『嘔吐』とは認識の嘔吐だと思っていたが、もしかしたら、自己嫌悪の嘔吐かもしれない。

愛してるよ。愛されていないのは知ってるけど。ブヒッ。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



真実の芸術は偽りの名誉を超越している。
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

Verba volant, scripta manent. (言葉は消え、書けるものは残る)
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

ボールがばあやの箪笥の
下に転がり込み、床では蝋燭が
影の端をつかみ、あちこちへ
引っ張りまわす でもボールはない。
それから曲がった火かき棒が
うろついてがちゃがちゃやっても
ボタンを一つ、それから乾パンのかけらを
たたき出しただけ。
ところがそのときボールはひとりでに
奮える闇の中に飛び出して
部屋を横切り、まっしぐら
難攻不落の長椅子の下に。
(ナボコフ『賜物』第1章、沼野充義訳)

 彼は、その態度や高価な衣服からみて上流階級と思われる背の高い美男子がアーヴァに近づくのを見た。彼女はにっこり笑って立ちあがり、彼を小屋に連れこんだ。
 その笑いがいけなかったのだ。
 彼女は、それまでに、自分のところにきた男に笑いを見せたことはなかった。その顔は、大理石の彫刻のように無表情だったのである。いま、この笑いを見たサーヴァントは、何かが体の中にこみあげてくるのを感じた。それは下腹から拡がって胸を駆けあがり、喉に噴きだして息を詰まらせた。それは頭の中に充満して爆発した。彼は眼の前が真暗になり、(…)
(フィリップ・ホセ・ファーマー『太陽神降臨』12、山高 昭訳)

一番興味のあることを見落していた。
われわれは毎日死ぬのだということを。忘却がはびこるのは
乾いた大腿骨の上ではなく血のしたたる生においてなのだ、
そして最高の過去もいまや皺くちゃになった名簿や、
電話番号や黄色に変色したファイルなどの薄汚れた積重ねだということを。
わたしは小さな花や肥った蠅に
喜んで生まれかわってもいいが、だが決して、忘れることはできない。
私はこの世の生活の
憂鬱(メランコリー)や優しさ
のほかは永遠性を退けてやるつもりだ。情熱と苦痛。
宵の明星の向うにだんだん小さくなってゆくあの飛行機の
濃い赤紫色の尾灯。煙草を切らしたときの
きみの動揺の身振り。きみが
犬に微笑みかけるときの仕草。銀白色のぬるぬるした
かたつむりが板石の上に残す跡。この良質のインク、この脚韻(ライム)、
この索引カード、落すといつも、
&の形(アンパーサンド)になる この細長いゴムバンド、
それらが天国で新たな死者によって見出され
その砦のなかに長い歳月たくわえられるのだ。
(ナボコフ『青白い炎』詩章第三篇、富士川義之訳)

スヴェンのいうとおりだった。シルヴァニアンはビーズつなぎに苦心する必要があった。彼は手仕事をしている間は、考える必要はなかったのだ。彼の手が、彼の代りに考えるのである。彼が手ぶらで考えなくてはならないような時は、問題はもう解けたと感じている時だった。
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』29、藤井かよ訳)

彼の異常な活発さは、始まったときと同じ唐突さで消えてしまったようだった。
(クリストファー・プリースト『スペース・マシン』4・1、中村保男訳)

 わたしは思わず息を呑み、その拍子にアメリアの長い髪の毛を何本か吸いこんでしまったことに気づいた。途方もなく気を散らせるこの時間旅行の最中でも、わたしは、このようにこっそりと彼女との親密さを味わう瞬間を見つけていたのである。
(クリストファー・プリースト『スペース・マシン』5・4、中村保男訳)

 やれやれ、なんという言葉を知らん男だ、オウム以下ときてやがる。あれでも、女の生んだ子供だというのか!
(シェイクスピア『ヘンリー四世 第一部』第二幕・第四場、中野好夫訳)

 目の前に広がる光景を見たおふくろの目は、このおれの目だ。おふくろの目で、おれがまわりを見ているからだ。
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

あらゆるものが何かを待っているようだった。
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

ロジャーの目をとおして、われわれはかれが見たものを見た。
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』上巻・第一部・9、酒井昭伸訳)

ここにあるのはなんだい?
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

 うつらうつらしだしたところで、はっと起きあがった。「なんてことだ、山羊を数えるみたいに聖人たちを数えてしまったぞ(…)」
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

 そしてきょうも、あのときのように、ドアの上にぶら下がる黒いリボンを見た。しかしあのとき内心思ったことは今度は浮かんでこなかった。
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

それで、きみはいつまでそこにすわっているつもりだい?
(スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』5、飯田規和訳)

 物という物がいっせいに輝き出し、虹の光彩が、鏡や、ドアの把手や、ニッケル製のパイプの中でさんぜんときらめいた。まるで光が、途中で出会うすべての物体を叩いて、その狭い牢獄を打ちこわし、その中に閉じ込められている何かを解放しようとでもしているようであった。
(スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』7、飯田規和訳)

 いまにして思えば、この、すべてのものが不安定で、一時的なものにすぎないという漠然とした印象や、戦慄の事件が迫っているという予感は現実そのものがつくり出していたような気がする。
(スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』5、飯田規和訳)

「見るというのは明瞭に認識することだけど、憶えているというのは……もっとべつのものなのよ」
(ダン・シモンズ『エンディミオンの覚醒』上巻・第一部・4、酒井昭伸訳)

記憶というものも、その不完全さということがやはり天の恵みなのだ。
(ウィル・ワーシントン『プレニチュード』井上一夫訳)

いかに記憶し、いかに思考過程をはじめるか
(ブライアン・W・オールディス『率直(フランク)にいこう』井上一夫訳)

 ヴェテラン夢想家が夢想にふけるばあいには、時代おくれのテレビや映画みたいにストーリーを夢みるのではありません。小さなイメージの連続なのです。しかも、それぞれのイメージがいくつかの意味をもっている。注意深く分析してみると、五重、六重もの意味をもっていることがわかります。
(アイザック・アシモフ『緑夢業』吉田誠一訳)

 その子にとっては、雲はただ単に雲であるばかりでなく枕でもあるのです。その両方の感覚を合わせ持ったものは、ただの雲よりも、ただの枕よりも、すぐれたものなのです。
(スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』5、飯田規和訳)

 人生における救いとは、一つ一つのものを徹底的に見きわめ、それ自体なんであるか、その素材はなにか、その原因はなにか、を検討するにある。心の底から正しいことをなし、真実を語るにある。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第十二巻・二九、神谷美恵子訳)

時間は継続を意味し、継続は変化を意味する。
(ナボコフ『青白い炎』詩章第三篇、富士川義之訳)

誤植に基づいた──永遠の生とは?
(ナボコフ『青白い炎』詩章第三篇、富士川義之訳)

 一九五九年の春じゅう、頻繁に、ほとんど毎夜、わたしは自分の生命がいまにも奪われるのではないかとおびえていた。孤独は悪魔(サタン)の遊び場である。
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

生は大いなる不意打ちだよ。死がなぜさらに大いなる不意打ちではないのか、
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

実際知恵それ自体よりも愉快なものがあろうか。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第五巻・九、神谷美恵子訳)

蜂巣にとって有益でないことは蜜蜂にとっても有益ではない。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第六巻・五四、神谷美恵子訳)

 万物はいかにして互いに変化し合うか。これを観察する方法を自分のものにし、絶えざる注意をもってこの分野における習練を積むがよい。実にこれほど精神を偉大にするものはないのである。このような人は肉体を脱ぎ棄ててしまう。しかして間もなくあらゆるものを離れて人間の間から去って行かねばならないことを思うから、自分の行動については正義にまったく身を委ね、その他自分の身に起ってくる事柄については宇宙の自然に身を委ねる。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第十巻・一一、神谷美恵子訳)

(…)しかし、しばらくのあいだ、大部分の航空兵にたいしていだいていた気持は、偽りの気持になった。ぼくは彼らを新しい眼で見るようになった。ぼくは彼らが好きなのかどうか、わからなかった。彼らとぼくでは、人間が違っていた。彼らは自信に満ちていたが、ぼくは贋(にせ)ものだった。ぼくは、自分が忘れてしまっていたものに近かった。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第一部・6、山西英一訳)

あなたはあたしが最初に思ったふうじゃないのね
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第二部・9、山西英一訳)

彼女は、自分で停めたくなったときに停めるのだ。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第二部・9、山西英一訳)

ある意味では、ぼくにとって彼女は、今夜以前は存在していなかった。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第二部・9、山西英一訳)

すべてを理解せずに、その一部だけを理解するなんてことはできない。自然は……すべてなの。何もかもが入り混じってる。わたしたちもその一部で、ここにいることで、理解しようとすることで自然を変化させてる……
(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』II、嶋田洋一訳)

(…)「──あるものの一部だけを知るのは、あの絵をばらばらに引き裂くようなものだということなの。あの、火曜日に話してくれた女の人の絵……」
「モナ・リザ」
「そう。つまりそれはモナ・リザをばらばらにしてみんなに配って、それで絵を理解したって言ってるようなものなの」
(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』II、嶋田洋一訳)

思い描ける場所は、訪れることができるの
(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』III、嶋田洋一訳)

視線の鋭さにわたしは恐怖を感じたが、それが彼女に対するものか自分自身に対するものか、よくわからなかった。
(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』III、嶋田洋一訳)

「話してくれ」ぼくは翻訳機械を使って、老人に話しかけた。「あなたがたに、こんな考えが最初に浮かんだとき、というか、アイディアのほうであなたがたの頭にはいりこんできたとき、あなたがたはうれしかったんですか?」
(ブライアン・オールディス『未来』井上一夫訳)

 言語というものは、あらゆる文化にとって、最も本質的生産物だよ。その文化がわかるまでは、言語を理解することは不可能だ。ところが、言語がわからないで、どうやってその文化を理解できる?
(ブライアン・オールディス『未来』井上一夫訳)

(…)なぜ、そこで手を止めるか、自分ではわかっている。たとえ、なぜ手を止めたか、わからないようなふりをしようとも。あの昔ながらのうじ虫のような良心というやつだ。野球の一投のように長生きした亀のようにしぶといやつがうごめいているのだ。あらゆる感覚をとおして、おーいイギリス人みたいな猟の名人、こいつはカモだぞという。知性をとおして、空に漂い餌にありついたことのない鷹のような倦怠が、この仕事がすめばまた襲ってくるぞとささやく。神経をとおしては、アドレナリンの流れが止んで、吐き気がはじまるのを嘲笑してくる。網膜の奥の名匠は、自分を含めた光景の美しさを言葉巧みに押しつけてくる。
(ブライアン・オールディス『哀れ小さき戦士!』井上一夫訳)

決定のあり様は、また一般に思考の形式は、決定あるいは思考それ自体なのであって、それは正しい問題の立て方がその解決に等しいのと同じことであり、したがってその効用も一時的あるいは体系的にしか、つまり混沌とした前段階的局面としてのみ、形式から切り放して考えることはできないものなのだ。ということはまた、前提がいっそう重要なものとなるということだ。いや、これが唯一重要なんだ……
(トルマーゾ・ランドルフィ『ころころ』米川良夫訳)

 我々の内部にあるものは、やはりつねに我々の外側にもあるんだ。つまり、慌てるな、我々が何らかの関係を結ぶことができたものは我々の内部にあると、こう言おう。しかし関係がすべてではない、一つの関係はそのような他の事物の存在を否定したり、あるいはそれにとって替わったりするどころか、それらの存在することを肯定するのだ。関係は自己充足的ではない。
(トルマーゾ・ランドルフィ『ころころ』米川良夫訳)

どんな秘密も、そこへ至る道ほどの値うちはないのですよ。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二十二章、園田みどり訳)

まるで存在しなかったかのように
過ぎ去るのは、
記憶に留められないもの
だけに限るのかもしれない。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二十四章、園田みどり訳)

 宋人の茶に対する理想は唐人とは異なっていた、ちょうどその人生観が違っていたように。宋人は、先祖が象徴をもって表わそうとした事を写実的に表わそうと努めた。新儒教の心には、宇宙の法則はこの現象世界には映らなかったが、この現象世界がすなわち宇宙の法則そのものであった。永劫(えいごう)はこれただ瞬時──涅(ね)槃(はん)はつねに掌握のうち、不朽は永遠の変化に存すという道教の考えが彼らのあらゆる考え方にしみ込んでいた。興味あるところはその過程にあって行為ではなかった。真に肝要なるは完成することであって完成ではなかった。
(岡倉覚三『茶の本』第二章、村岡 博訳)

 茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てである。
(岡倉覚三『茶の本』第一章、村岡 博訳)

この世のすべてのよい物と同じく、茶の普及もまた反対にあった。
(岡倉覚三『茶の本』第一章、村岡 博訳)

 ひので貝は美しくて、壊れやすく、はかない。しかし、だからこそ、それは幻影ではない。いつまでも在るものではないからといって、一足飛びに、それが幻影であるなどと思ってはならない。姿かたちが変わらないからといって、それが本物かどうかの証拠になるわけではないのだ。蜻蛉(かげろう)の一日や、ある種の蛾(が)の一夜は、一生のうち、きわめて短いあいだしか続かない。しかしだからといって、その一日、一夜を無意味だとする理由にはならない。意味があるかどうかは、時間や永続性とは関係がない。それはもっと違う平面で、違う尺度によって判断すべきである。
 それは、いま、この時の、この空間での、いまという瞬間に繋がるものであり、「現在在るものは、この時、この場所でのこの瞬間にしか存在しない」のである
(アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈り物』ひので貝、落合恵子訳)

 だんだんわたしは選ぶことを覚え、完全なものだけをそばに置いておくようになった。珍しい貝でなくてもいいのだが、形が完全に保存されているものを残し、それを海の島に似せて、少しずつ距離をとって丸く並べた。なぜなら、周りに空間があってこそ、美しさは生きるのだから。出来事や対象物、人間もまた、少し距離をとってみてはじめて意味を持つものであり、美しくあるのだから。
 一本の木は空を背景にして、はじめて意味を持つ。音楽もまた同じだ。ひとつの音は前後の静寂によって生かされる。
(アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈り物』ほんの少しの貝、落合恵子訳)

 ところでいま私にとって明々白々となったことは、次のことです。すなわち、未来もなく過去もない。厳密な意味では、過去、現在、未来という三つの時があるともいえない。おそらく、厳密にはこういうべきであろう。
「三つの時がある。過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在」
 じっさい、この三つは何か魂のうちにあるものです。魂以外のどこにも見いだすことができません。過去についての現在とは「記憶」であり、現在についての現在とは「直観」であり、未来についての現在とは「期待」です。もしこういうことがゆるされるならば、たしかに私は三つの時を見すまし、それどころか、「三つの時がある」ということを承認いたします。
 それでもなお、不正確ないいならわしによって、「三つの時がある。それは、過去と現在と未来だ」といいたい人があるならば、いわせておくがよい。私は気にしないし、反対もしないし、非難もしない。ただし、そこにいわれていることの意味をよく理解していなければならない。未来であるものがすでにあるとか、過去となったものがまだあるなどと思ってはならない。私たちが正確なことばで語ることは、まれである。多くの場合、不正確な表現を用いている。それでもいわんとすることは通じるのです。
(アウグスティヌス『告白』第十一巻・第二十章・二六、山田 晶訳)

いったい時間とはなんでしょう?
(R・A・ラファティ『秘密の鰐について』浅倉久志訳)

 時間とは何だろう。子どもが時間を経験するとき、それは何の意味も持っていない。子どもは舞台裏で何が進行しているかなど、ほとんど、あるいはまったくわからない。だから何かが起きたときには、それが突然起きたようにしか思えない。もしきみがまだ幼すぎて、灰色の雲がやがて降る雨を意味することを知らなければ、まだ経験が浅すぎて、きみに向かってやってくる犬が、きみが逃げるよりも速く走れるのだということを知らなければ、この世はどれほど異様なところに見えるだろう。それをきみも想像してみてほしい。大人は急ブレーキを踏まねばならない事態に遭遇したとき、腹を立てるし、天気予報がいい加減だったというだけで、不機嫌になることがある。
 子どもの立場に立ってみれば、人生とはつねに猛スピードで過ぎてゆくか、じれったいほどのろのろと過ぎてゆくかのどちらかなのだ。とっておきのアイデアがひらめくのは夜寝るときだし、サーカスはあまりにもはやく終わってしまう。サヤインゲンはいくら食べてもなくならない。漫画は風刺に満ちた誇張ではなく、ごく当たり前の日常描写にすぎない。子どもは突然、壁に衝突することもあるだろう。距離とスピードの関係を正しく測ることができないからだ。
 漫画の中では人間が崖から落ちる。
 子どもは床の上で、毛布にからまって目をさます。ベッドから落ちてしまったのだ──どんなふうに落ちたかなどわかるはずがない。
(アン・ビーティ『ウィルの肖像』ジュディ・9、亀井よし子訳)

 現在は、われわれがそれを自らの前に残した時、再び未来となる。わたしは確かにそれを残し、わたし自身の時代にはほとんど神話でしかなかった過去の深淵に身をひそめて、待ったのである。
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』38、岡部宏之訳)

これまでに生きた者は一人残らず、まだ時の何処かで生きている。
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』39、岡部宏之訳)

 過去において永遠に根ざしていないものは、未来においても永遠ではありえないのである。そして、彼の喜びと悲しみを熟考すると、自分はもっとずっと小さいものではあるが、彼とそっくりだと思い当たった。おそらく、牧草が杉の巨木について考えるように、あるいは、これらの無数の水滴の一つが、〈大洋〉に思いを馳せるように。
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』45、岡部宏之訳)

かれを生きたまま食べようとしたりはしないわ。かれがそれを望まないかぎり
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)

これがぼくにとってどれほど大きな意味があることか、きみにわかるかい?
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)

 時間などは存在しないんだ。空間も存在しない。かつて存在したものは、現在も存在し、これからも永久に存在するんだ。おまえはおまえで、自分自身とチェスをし、またもおまえは自分に王手をかけてしまったんだ。おまえはレフェリーなんだ。道徳は、おまえ自身の規則に従って行動するための、おまえ自身との約束だ。おのれ自身にまことであれ、だ。さもないと、おまえはゲームを台無しにするぞ
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)

口先だけの言葉だからこそ、忘れられませんよ、と彼は心の中でつけ加えた。
(ロバート・シルヴァーバーグ『生命への回帰』13、滝沢久子訳)

「人生ではね、最大の苦しみをもたらすものは、ごくちっぽけなものであることが多いの」
(ダン・シモンズ『エンディミオンの覚醒』上巻・第一部・10、酒井昭伸訳)

(…)わたしは見ていた。見ながら、すべてに形と意味をあたえていた。
(グレッグ・ベア『火星転移』下巻・第四部、小野田和子訳)

きみはいまなんという名?
(コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』浅倉久志訳)

それが嘘でないとどうしてわかる?
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』3、宇佐川晶子訳)

どうして、ぼくが嘘をつくんだい?
(フィリップ・ホセ・ファーマー『果しなき河よ我を誘え』4、岡部宏之訳)

あなたがあたしに嘘をついてるのが今日わかったわ
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

あらゆる可能性を想定する想像力を持つ者は、だれでもパラノイア患者さ
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』10、宇佐川晶子訳)

この男を読みちがえていたのだろうか?
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』5、宇佐川晶子訳)

ゴォーン! 一万の青銅の銅鑼がいちどきにたたかれて一つの音に凝縮した。高台の家々の庭で、谷間の都市で、カラファラ人たちは一家の銅鑼を鳴らして太陽との別れを知らせる。一つにとけあうその音は青銅の鳥のように舞いあがって、その翼の羽音がホテルを揺さぶり、窓々をふるわせた。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』4、宇佐川晶子訳)

その向こうにはわかりやすい情景がまた一つ。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』3、宇佐川晶子訳)

嘘にはそれなりの美しさがある。それなりの生命と整合性がある。
(リチャード・コールダー『デッドガールズ』第四章、増田まもる訳)

 こわくない、とラムスタンは自分に言い聞かせていたが、それは自分への嘘、あらゆる嘘の中で一番簡単な嘘だった。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』28、宇佐川晶子訳)

 窓の外をながめているうちに、ぼくはフッとおかしなことを考えた。
 この瞬間は、このときかぎりのものであるが、しかし永遠にここにありつづける、というようなことを考えたのだ。──ぼくたちは錯覚しているのだが、時間は決して過ぎ去っていくものではない。どんな短い瞬間にしても、永遠の一部であることに変わりはなく、そして永遠という言葉が不滅を意味しているのであれば、瞬間もまた消滅してしまうはずがないではないか。
 そんなことを考えたのである。
 時間はつねにそこにありつづける。うつろい、変化していくのは、時間ではなく、ちっぽけな生き物であるぼくたちのほうなのだ、と……
 今、この瞬間、ぼくが眼にしている夏の光、耳にしているセミの鳴き声は、永遠にここにとどまる。そして、ぼくだけが老いていき、死んでいくのだ。
(山田正紀『チョウたちの時間』プロローグ)

神とことばを交わすことができるのは、神と同じ、異端者、アウトサイダー、そして異邦人ということになるだろう。これが地獄の驚異だ。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 巧妙な芸術家というのは、大変なはったり屋で、いつも先回りをし、自分の負けを絶対に認めない。理性が狂ってしまったことも知らずに、それをエロティシズムだとか、武勲の誉れだとか、国家の要請だとか、永遠の救済だとか言ってごまかしている。そして狂人たちは喜んで協力もするのだが、自分たちを気づかってくれる人間に狂気をちょっと分け与えておけば、思いどおりにできることをちゃんと知っているからだ。いいかい、すべて問題は、人生の幻想を持ち続けるために、理性という幻想を持ち続けることにある。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 作家が書くことができるものは、ただ一つ、書く瞬間に自分の感覚の前にあるものだけだ…… 私は記録する機械だ…… 私は「ストーリー」や「プロット」や「連続性」などを押しつけようとは思わない…… 水中測音装置を使って、精神作用のある分野の直接記録をとる私の機能は限定されたものかもしれない…… 私は芸人ではないのだ……
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』委縮した序文、鮎川信夫訳)

 言葉というものは全部で一個のまとまったものになるいくつかの構成単位に分れているし、そう考えるべきものだ。しかし個々の単位は興味深い性の配列のように、前後左右どんな順序に結びつけることもできるものである。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』委縮した序文、鮎川信夫訳)

 言葉というのは一つひとつが、何か実体のないうつろいゆくもの、事物や思想を固定化したものにほかならない。発話された言葉を定着させるという必要性に迫られて、何世代にもわたる精神が選別と形象化を繰り返してきた末に、ようやく今の形になったものだ。
(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第3部・20、嶋田洋一訳)

 ある時期にわれわれは言葉というものを獲得し、それとともに向こうの世界から隔離されてしまった。世界を直接に理解するのではなく、思考が体験を媒介するようになったのだ──観察するのをやめてみれば、自分が思索の対象と切り離されていることはすぐにわかる。
(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第3部・21、嶋田洋一訳)

 法廷は内部に静止した黒い人影を吊るしたガラスの球のように、微動だにしなかった。その静寂は空虚ではなく、音楽の休止のように豊かで芳(ほう)醇(じゅん)だった。それは巨人の足どりにおける休止であり、一歩ごとに人間は蹂(じゅう)躙(りん)され無力化した。裁判長も、廷吏も、傍聴者も、みなショックを受けて無力な状態にあり、目を大きく見ひらいて激しく喘(あえ)いでいた。(…)
(ゾーナ・ゲイル『婚礼の池』永井 淳訳)

 二月の中旬でも、天候が彼の遅すぎた決心を受け入れて、明るい青空の日々が続いた。まったく季節外れの陽気で、それを真に受けた木々が早々と開花したほどである。彼はもう一度トプカピ宮殿を見てまわり、青磁器や、金でできた嗅ぎ煙草入れや、真珠で刺繍した枕や、スルタンの肖像を描いた彩画や、預言者マホメットの化石になった足跡や、イズニック・タイルや、その他もろもろに、敬意に満ちた、わけへだてのない、不思議そうなまなざしを送った。そこで、山のようにうず高く、眼前に広がっているのは、美だった。商品に値札を付けようとする店員みたいに、彼はこの大好きな言葉をこうしたさまざまな骨董品に仮に付けてみてから、一、二歩退いて、それがどの程度ぴったり「マッチ」しているか眺めてみた。これは美しいか? あれは?
(トマス・M・ディッシュ『アジアの岸部』IV、若島 正訳)

眼よ、くまなく視線を走らせよ、そしてよく見るのだ。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 過酷な逆説だが、あらゆるものを表現し、あらゆるものに意味を与えようとすれば、結局それは、あらゆるものから意味を剥奪することになり、文学という冷たい、人為的な方法によって、あらゆるものを表現するのは不可能だということを知らされる破目になるのだ。それに気がついたのはいつだったか? レストランの主人夫婦に浜辺から追い立てられた、痩せて、貧しい、無花果売りの女の、あの下品さそのものであろうか? ぼくの視線を捉えようとするその女の眼を見るのをぼくが拒否したこと、その女と、女が抱えている問題がぼくの思考の中に入り込み、ぼくがあの島に求めていた平穏が乱されるのを拒否したことであろうか? (…)
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 だがおれは電話をしなかった。他人の人生を少しだけましなものにできる、ほんのちょっとしたこと。あのときもそれをしなかった。
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第一部・5、嶋田洋一訳)

 おれは待ちつづけた。煙を吸い込んでは吐き出し、今聞こえる悲鳴の中に、かつて耳にしたたくさんの悲鳴の残響を聞きながら。
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第二部・12、嶋田洋一訳)

それは別の場所に存在する、別の森の木々だった。
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第二部・13、嶋田洋一訳)

しかしそれを見たとき、だれが森だと思うだろう。
(ノサック『滅亡』神品芳夫訳)

 ぼくの最も深い感情は、あまりにも長いこと自分で知らずにきたので、今それに触れてもまるで他人のものみたいだった。次第に腹が立ってきた。
(ロジャー・ゼラズニイ&フレッド・セイバーヘーゲン『コイルズ』3、岡部宏之訳)

別の人間になるというのはどうかな?
(ロジャー・ゼラズニイ&フレッド・セイバーヘーゲン『コイルズ』14、岡部宏之訳)

だれでもみんな自分とは別のものでありたいと願ってるんだから
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

別の自分になることだけだ。
(グレッグ・イーガン『宇宙消失』第二部・7、山岸 真訳)

なぜ、この一日をわたしと過ごしたのか
(ポール・アンダースン『タウ・ゼロ』1、浅倉久志訳)

今夜わたしたちがこうして出会ったのは、ただの偶然ではないはず。
(ロジャー・ゼラズニイ『キャメロット最後の守護者』浅倉久志訳)

(…)乾いた噴水 からっぽの広場 風の中の銀色の紙 遠い町のすりへった音……なにもかもが灰色でぼやけ……頭がちゃんと働かない……むこうでハリーとビルの物語をしているきみはだれだ?……広場がカチッと焦点をとりもどした。わたしの頭の中のもやは晴れた。(…)
(W・S・バロウズ『おぼえていないときもある』おぼえていないときもある、浅倉久志訳)

一度見つけた場所には、いつでも行けるのだった。
(ジェイムズ・ホワイト『クリスマスの反乱』吉田誠一訳)

道は歩きやすかった。とりわけ、けもの道を見ようとせず、足がひとりでに道を見つけるようにすれば。
(テリー・ビッスン『熊が火を発見する』中村 融訳)

 オアは小さく笑った。「ああ、まったくさね。そう、計画はある」
 ベン=アミは大人の話を聞いている子供が感じるような、あるいはその逆の、欲求不満を感じはじめていた。「わかるように話してくれ」
(ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面13、嶋田洋一訳)

 このことを、彼は深い感動をこめていった。わたしは自分の態度の冷たさを責められている思いがした。きっと悪い経験をかさねたため、わたしのなかに冷たさと不信が生じていたにちがいない。わたしも生まれながらのそういう人間ではなかった。だから、わたしは人に対する信頼の念を失うことで、人生においていかに多くのものを失ってしまったことか、また、きびしい警戒心を身につけることで、得るところがいかに少なかったことか、としばしば思ったのである。こういう心理状態が習慣になっていたので、ほんとうに悩みそうな、もっと大きな問題のばあいよりも、こんどの会話のことでわたしは悩んだ。
(チャールズ・ディケンズ『追いつめられて』龍口直太郎訳)

(…)小さな子供のときでさえも、恐ろしいことが四方八方から群がりよって来た。いつも何かわけのわからない暗黒の片隅があり、のぞき知ることのできない暗い恐怖の世界があり、そこから何かがいつも彼のほうをうかがっていた。そのため、彼は見ていてあまり格好のよくないことばかりやってきたのだった。
(ウィラ・キャザー『ポールのばあい』龍口直太郎訳)


詩の日めくり 二〇一六年九月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年九月一日 「断酒」


FBで、しじゅう poke される方がいらっしゃるのだけれど、正直、返事が面倒。すてきな方なので、「poke やめて」と言えないから言わないけど。

9月のさいしょに文学極道に投稿する予定の『全行引用による自伝詩。』かなりよい出来だけど、あまりに長いので、投稿が来週か再来週になりそう。

きょうのワード打ち込みは2ページ半くらいだった。いまの状態で、A4で15ページ。あしたは、フルに休みだから、できたら、あしたじゅうに、新しい『全行引用による自伝詩。』を完成させたい。まあ、無理でも、来週か再来週には完成させて、文学極道の詩投稿掲示板に投稿したいと思っている。

これから王将に行って、それから塾へ。きょうから、しばらく断酒して、通常の生活リズムに戻すつもり。がんばろう。

いま日知庵から帰った。帰りに、いま70円均一セール中のおでんを、5つ、セブイレで買った。お汁大目に入れてよと言うのが恥ずかしかったから、言わなかったら、お汁、ほとんどなくって、ひいたわ。お茶といっしょにいただく。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年九月二日 「天国・地獄百科」


塾から帰ってきて、届いていた郵便物を見ると、『天国・地獄百科』が入っていた。先日、ぼくの全行引用詩に体裁がそっくりと言われて、amazon ですぐに買ったものだったけれど、体裁がまったく違っていた。花緒というお名前のおひとだが、はたして、ぼくに嘘をつく理由がどこにあったのかしら?

あしたには、文学極道の詩投稿掲示板に、新しい『全行引用による自伝詩。』を投稿できるように、一生懸命にワード入力しよう。あしたは一日オフだから、なんとか、あしたじゅうには……。あとルーズリーフ16枚にわたって書き込んだもののなかから選んだものを打ち込めばいいだけ。今夜も寝るまでやろう。


二〇一六年九月三日 「あしたから学校の授業がはじまる。」


来週、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり 二〇一六年八月一日─三十一日』の下準備が終わった。きょうじゅうに出来上がりそうだ。あとはコピペだけだものね。マクドナルドでダブルフィッシュを食べてこようっと。

あしたから学校の授業がはじまる。心臓バクバク、ドキドキである。なんちゅう気の弱い先生だろう。まあ、いまから顔をこわばらせても仕方ない。きょうは、はやめにクスリをのんで寝よう。

4時に目が覚めたので、きのう、文学極道に投稿した新しい『全行引用による自伝詩。』のチェックをしていた。7カ所に、誤字があった。すべて直しておいた。2回チェックしたので、だいじょうぶだと思う。きのうも、寝るまえにチェックしたときの誤字を含めて、7カ所だよ。まあ、長い作品だしね。


二〇一六年九月四日 「きょうはいえた」


きょうは、2カ月ぶりの学校の授業。がんばらなくっちゃ。コンビニに行って、おでんと、お茶を買ってこようかな。いま、セブイレでは、おでんが70円。これが朝ご飯だ。コンビニに行くと、おでんは、しらたき4つ、大根6つ、玉子4つしか残っていなかった。売れているんですねというと、鍋をもってきて買う人もいはりましたよとのこと。ぼくは、しらたき2つ、大根2つ、玉子1個を注文した。お汁を多めに入れてくださいと言った。このあいだ言えなかったから。麦茶と。

これからお風呂に。それから学校に。ちょっと早めに行って、教科書読んでいようっと。

ブリンの『知性化戦争』の上巻を読んでいる。

きみの名前は?(デイヴィッド・ブリン『知性化戦争』下巻・第四部・54、酒井昭伸訳、99ページ・7行目)


二〇一六年九月五日 「詩の日めくり、完成。」


また4時起きで、コンビニでおでんと、おにぎりを買って食べた。さすがに、おでん8つは、おなかに重い。おにぎりは1つだけ。7時くらいまで、横になって休んでいよう。それが終わったら、文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくろう。

腕の痛みがすごいので、作品つくりはやめて、横になっていた。

やった〜。きょうの夜中に、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり 二〇一六年八月一日─三十一日』が完成した。さいしょの方の日付けのところで、びっくりされると思うけれど、ぼくの『詩の日めくり』のなかでも、かなりよい出来のものだと思う。お祝いに、セブイレでも行こう、笑。

じっしつ、2時間でコピペは終わったんだけど、『詩の日めくり』は下準備に時間がかかる。まあ、そんなこと書けば、『全行引用による自伝詩。』も半端ない時間を費やして書いてるもんなあ。まあ、作品の出来と、かかる時間とは、なんの関係もないけど。思いついて数分で書いたものでもいいものはいい。

きのうは、分厚い本を2冊、飛ばし読みして読んだけど、けさは、一文字一文字ていねいに、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第二巻を読んでいた。すでに読んだことのある短篇だけど。まだ途中だけど、冒頭の「クラウン・タウンの死婦人」ってタイトルのもの。スミスの文章にはまったく無駄がない。

自分へのお祝いに、酒断ちをやめて、日知庵に行こう。えいちゃんの顔を見て、ほっこりしよう。酒断ちは2日で終わった〜、笑。5時から行こう。

いま日知庵から帰った。文学極道に、新しい『詩の日めくり』を投稿しました。ごらんくだされば、うれしいです。こちら→http://bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=9076

きょうは、日知庵で、Fくんといっぱいしゃべれて、しあわせやった。やっぱ、いちばん、かわいい。これから、お風呂に入って寝る。おやすみ。グッジョブ!


二〇一六年九月六日 「9回のうんこ」


けさ、いい感じの夢を見て(夢自体は忘れた)目がさめた。きのう、Fくんと日知庵で楽しくしゃべることができたからやと思う。学校からの帰り道、電車に乗りながら、Fくんは、ぼくにとって、福の神かなと思っていた。

きょうは、えいちゃんと、きみやに行く約束をしてて、いまお風呂からあがったところ。きのうはビールを飲みまくって、けさ起きられるかどうか心配だったのだけれど、目覚ましが起こしてくれた。きょうも飲むんやろうなあ。ビールの飲み過ぎなのかわからないけど、きょう8回も、しっかりうんこをした。

えいちゃんと、きみやで飲んでた。帰ってきたら、メール便が届いていた。近藤洋太さんから、現代詩文庫231「近藤洋太 詩集」を送っていただいた。一読して、言語を虐待するタイプの書き手ではないことがわかる。用いられている語彙も難解なものはなさそうだ。あしたから通勤のときに読もう。

いまさっき、9回目のうんこをした。しっかりしたうんこだった。どうして、きょうに限って、こんなに、うんこが出るのか、理由は、わからないけれど、なにか精神状態と関係があるのかもしれない。

きょう、2回目の洗濯をしているのだが、干す場所がないことに気がついた。


二〇一六年九月七日 「そこにも、ここにも、田中がいる。」


豊のなかにも、田中がいる。
理のなかにも、田中がいる。
囀りのなかにも、田中がいる。
種のなかにも、田中がいる。
束縛のなかにも、田中がいる。
お重のなかにも、田中がいる。
東のなかにも、田中がいる。
軸のなかにも、田中がいる。
竹輪のなかにも、田中がいる。
甲虫のなかにも、田中がいる。


二〇一六年九月八日 「警報解除」


これから学校へ。警報解除で授業あり。

いま学校から帰ってきた。これからお風呂に入って、塾へ。帰りに、日知庵によろうかな。きょうが、いちばん忙しい日。あした休みだけど。土曜が学校がある。連休がないのだ。今年度は、それがつらい。連休でないと、疲れがとれない年齢になってしまったのだ。


二〇一六年九月九日 「きみやの串カツデイ」


さっき、きみやから帰った。えいちゃんといっしょ。また、佐竹くんと、佐竹くんの弟子ふたりといっしょに。きょうは、きみやさん、串カツデイやった。ぼくは、えび串2尾とネギ串を食べた。佐竹くんの弟子ふたりのはっちゃけぶりが、かわいかった。えいちゃんは、途中で席をはずしてたけど、笑。


二〇一六年九月十日 「きみの思い出。思い出のきみ。」


自分自身がこの世からすぐにいなくなってしまうからか、この世からすぐにいなくなってしまわないものに興味を魅かれる。音楽、文学、美術、映画、舞台。まあ、現実の人生がおもしろいと云えばおもしろいというのもあるけれど。

きみの思い出。
思い出のきみ。

きょうは、夜に日知庵に行く。Fくんもくるっていうから、めっちゃ楽しみ。それまで、来月に文学極道の詩投稿欄に投稿する新しい『全行引用による自伝詩。』を、ワードに打ち込んでいよう。

いま打ち込んでいる『全行引用による自伝詩。』が素晴らしすぎて、驚いている。今月、文学極道の詩投稿掲示板に投稿した『全行引用による自伝詩。』が飛び抜けて素晴らしい出来だったのに、それを確実に超えているのだ。ぼくはきっと天才に違いない。

来月、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みが終わった。脳機能があまりにも励起され過ぎたため、それを鎮めるために、お散歩に出ることにした。フフンフン。

いま日知庵から帰ってきた。Fくんと、ずっといっしょ。しあわせやった〜。こんなに幸せなことは、さいきんなかった。きょうは、Fくんの思い出といっしょに寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年九月十一日 「キーツ詩集」


きょう、日知庵に行くまえに、ジュンク堂書店で、岩波文庫からキーツの詩集が出ているのを知ったのだった。原文で全詩集をもっているのだけれど、書店で岩波文庫の詩集を読んでいて、数ページ目で、えっ、と思う訳に出くわしたのだった。現代語と古語が入り混じっている感じがした。どちらかに統一すべきだったのでは、と思う。

キーツの詩集、岩波文庫だから、買うと思うけれど、訳をもっときっちり訳する人に訳してほしいなと思った。パウンドの詩集がそのうち、岩波文庫に入ると思うけれど、訳者は、新倉俊一さんで、お願いします。


二〇一六年九月十二日 「20億の針」


近藤洋太さんの「自己欺瞞の構造」を読んだ。小山俊一という一知識人の思索の跡を追ったものだった。こころ動かされるのだが、そこにも自己欺瞞がないわけではないことを知ってしまうと、世界は嘘だらけであたりまえかと腑に落ちる部分もある。これから晩ご飯を買いに行く。食欲も自己欺瞞的かな、笑。

けっきょく、イーオンに行って、カレーうどん(大)510円を食べてきた。この時間に、ゲーム機のあるところに子どもの姿がちらほら。保護者はいなさそうだった。危なくないんかいなと思う、他人の子どものことながら。さて、これからふたたび、ワードの打ち込みをする。

きのうジュンク堂で、ハル・クレメントの『20億の針』を10ページほど読んで、おもしろいなあと思ってたところで、店員のゴホンゴホンという声がしたので、本を本棚に戻した。続篇の『一千億の針』との二冊合わせの以前のカヴァーがよかったのだけれど、ヤフオクで探そうかな。


二〇一六年九月十三日 「魂についての覚書」


魂が胸の内に宿っているなどと考えるのは間違いである。魂は人間の皮膚の外にあって、人間を包み込んでるのである。死は、魂という入れ物が、自分のなかから、人間の身体をはじき出すことである。生誕とは、魂という入れ物が、自分のなかに、人間の身体を取り込むことを言う。


二〇一六年九月十四日 「久保寺 亨さんの詩集『白状/断片』から引用。」


集英社のラテンアメリカ文学全集がすばらしくて、なかでも、フエンテス、サバト、カブレラ=インファンテ、コルターサルからの引用が多い。図書館で借りて読んだのだけど、あとで欲しいものを買った。いま本棚を見たら、1冊、買い忘れてた。リスペクトールだ。amazon で探そう。

読み直す気はほとんどゼロだが、買っておいた。奇跡的な文体だったことは憶えている。無機的だった。

きょう、久保寺 亨さんという方から、詩集『白状/断片』を送っていただいた。本文に、「ういういしい0(ゼロ)のように」という言葉があるが、ほんとに、ういういしかった。奥付を見てびっくり。ぼくより10年長く生きてらっしゃる方だった。ういういしい詩句をいくつか、みなさんにご紹介しよう。


白状しよう。
ぼくが詩を遊んでいると、
詩の方もぼくを危なっかしく遊んでいて、
遊び遊ばれ、
遊ばれ遊び、
この世に出現してこなければならない詩像があるかのように、そのように……
(久保寺 亨「白状/断片」Vより引用)


ざあざあ降る雨の中で、
さかさまに、じぶんの名を呼んでみようか、
ラキアラデボク、ラキアラデボク、
いったいそこで何をしている、
ざあざあ降る雨の中で一本の樹木にもたれて、
雨のざあざあ聞きながら、
この世界を全身で読み解くことができないで、
……ラキアラデボク、ラキアラデボク……
(久保寺 亨「白状/断片」VIIより)


「そもそも哲学は、詩のように作ることしかできない」
とヴィトゲンシュタインは語ったが
             ぼくは「哲学するようにしか詩を作ることができない」
(久保寺 亨「白状/断片」VIIIより)


ぼくがどこに行こうと、そこにはぼくがいて、
ある日の0(ゼロ)流詩人としてのぼくは、堤防の上にしゃがみこんで、
ぼくがぼくであることの深いツカレを癒そうとしているのだった。
(久保寺 亨「白状/断片」Xより)


樹齢七百年の大きな樹木の前に立って、
ぼくは、七百年前の「影も形もないぼく」のことを
切々と思っていたのだった。
ああ、七百年前の「影も形もないぼく」がそこにいて、
そして、そのぼくの前に、ういういしい新芽が一本、
風に吹かれてゆれていて……
(久保寺 亨「白状/断片」XVより)


白状しよう。
「空(くう)の空(くう)、いっさいは空(くう)の空(くう)なり」
という響きに浸されつづけてきたのだった。
そして今さらのようにぼくは、
「空の空」なる断片を、
輝かしく散らしていこうとしている、
「空の空」なるただのぼくとして。
(久保寺 亨「白状/断片」XVIより)


久保寺 亨さんの詩集『白状/断片』から、とくに気に入った詩句を引用してみた。とても共感した。思考方法が、ぼくと似ているということもあるだろう。しかし、10歳も年上の方が、こんなに、ういういしく詩句を書いてらっしゃるのを知って、きょうは、よかった。

久保寺さんの詩句を引用してたら、40分以上たってた。クスリのんで、寝なきゃ。おやすみなさい。グッジョブ!


二〇一六年九月十五日 「そして、だれもいなくなったシリーズ」


そして、だれもいなくなった学校で、夕日がひとりでたたずんでいた。
そして、だれもいなくなったホームで、電車が自分に乗り降りしていた。
そして、だれもいなくなった公園で、ブランコが自分をキコキコ揺らしていた。
そして、だれもいなくなった屋根の上で、雲が大きく背をのばした。
そして、だれもいなくなった寝室で、雪がシンシンと降っていた。
そして、だれもいなくなった台所で、鍋がぐつぐつと煮立っていた。
そして、だれもいなくなった玄関で、プツがプツプツと笑っていた。
そして、だれもいなくなった玄関で、靴がクツクツと笑っていた。
そして、だれもいなくなった会社で、課長がひとりで踊っていた。


二〇一六年九月十六日 「怨霊」


きのう同僚の引っ越しがあって、手伝ったのだが、引っ越し先の床の上に悪魔の姿のシミがあって、そこに近づくと、鍵が置いてあった。家が山手にあって、洞窟までいくと、人食い鬼が現われて追いかけられたが、鬼の小型の者がでてきて、互いに争ったのだが、そこで場面が切り替わり、幼い男の子と女の子が玄関先で互いに咬みつき合っていたので引き離したが、お互いの腕に歯をくいこませていて全治2カ月の噛み傷だという話だった。怨霊がとりついていたのだ。という夢を見た。ドラマみたいだった。「子どもたちも戦っていたのだ。」という自分の呟き声で目が覚めた。


二〇一六年九月十七日 「ダイスをころがせ」


日知庵に行って、帰りに、岡嶋さんご夫妻とカラオケに行って、いま帰ってきた。ひさしぶりに、ストーンズの「ダイスをころがせ」を歌った。気持ちよかった。きょうから、クスリが一錠変わる。いま8錠のんでるんだけど、なかなか眠れない。きょうは、帰りに道で吐いた。くだらない人生してるなと思った。まあ、このくだらない人生が唯一の人生で、愛さなくては、情けなくなってしまう、哀しいものだけれど。


二〇一六年九月十八日 「ヤリタミサコさんの朗読会」


7時から9時まで、河原町丸太町の近くにある誠光社という書店でヤリタミサコさんの朗読会がある。恩義のある方なので、京都に来られるときには、かならずお顔を拝見することにしている。大雨だけど、きょうも行く。

朗読会から、いま帰ってきた。朗読されるヤリタミサコさんが出てくる詩集をつくるのだけれど、その表紙に、ヤリタさんのお写真が欲しかったので、きょう、バンバン写真を撮ってきた。もちろん、表紙に使ってよいという許可も得た。ヤリタさんの詩の引用も多量に含まれる詩集になる。来年か再来年かな。


二〇一六年九月十九日 「詩集の編集」


きょうは、朝から夜まで大谷良太くんちに行ってた。お昼ご飯と晩ご飯をごちそうになった。ありがとうね。ごちそうさまでした。

自分の原稿のミスに気がついたときほど、がっくりくることはない。これって、自分で自分を傷つけてるんやろうか。


二〇一六年九月二十日 「大根とは」


大根とはまだ一回もやったことがない。


二〇一六年九月二十一日 「黒いアリス」


このあいだ、1枚15000円で買った Hyukoh のミニアルバム2枚が、11月に日本版が2枚ともリリースされることが決まったらしい。1枚2000円くらいかな。まあ、いいや。ちょこっとだけ意外だったけど、というのは、アーティストの意向で日本版が出ないと思ってたからなんだけどね。長いこと、出なかったからね。

そういえば、むかし古書で、絶版で、なかなか手に入らないものをバカ高い値段で買ったのだが、数か月後に復刻版が出て、びっくりしたことがあるが、復刻されるという情報を、持ってたひとが知ってたのかもしれない。しかし、トム・デミジョンの『黒いアリス』は復刻しないと思う。するかなあ。8888円で、ヤフオクで落札した記憶がある。フレデリック・ブラウンの『さあ、きちがいになりなさい』も復刻したくらいだから、『黒いアリス』も、いつか復刻するかもしれない。レーモン・ルーセルの『ロクス・ソルス』は、どうだろう。復刻するかな。これも高かった記憶がある。まあ、このネット時代、お金を出せば、欲しいものは、ほとんど手に入る世のなかになったので、ぼくはいいと思っている。ブックオフもいいなあ。自分の知らなかった傑作に出合えるチャンスもあるからね。本との偶然の出合い。あと何年生きるのかわからないけど、ネット時代に間に合ってよかった。ちなみに、ジョン・デミジョンは、二人の作家の合作ペンネームで、トマス・M・ディッシュと、ジョン・T・スラデックの共同筆名。


二〇一六年九月二十二日 「実在するもの」


実在するものは関係をもつ。実在するとは関係をもつことである。関係するものは実在する。それがただ単なる概念であっても。


二〇一六年九月二十三日 「言葉のもつエネルギーについて」


言葉にはそれ自体にエネルギーがある。ある並べ方をすると、言葉は最も高いエネルギーを引き出される。そう考えると、全行引用詩をつくるとき、あるいは、コラージュ詩をつくるときに文章や言葉の配置が大事なことがわかる。言葉のもつポテンシャルエネルギーと運動エネルギーについて考えさせられる。


二〇一六年九月二十四日 「真に考えるとは」


詩人というものは、自分のこころの目だけで事物や事象を眺めているわけではない。自分のこころの目と同時に、事物や事象を通した目からも眺めているのである。真に考えるとは、そういうこと。


二〇一六年九月二十五日 「僥倖」


大谷良太くんちの帰りに、いま日知庵から帰った。日知庵では、東京から来られた方とお話をしてたら、その方が、ぼくの目のまえで、ぼくの詩集を amazon で、いっきょに、3冊買ってくださって、びっくりしました。『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』と、『全行引用詩・五部作』上下巻です。翻訳は、もとの詩人たちの詩が一等のものなので、ぼくの翻訳がそれに見合ってたらと、全行引用詩は、もとの詩人や作家たちの言葉が活かされていたらと、こころから願っています。


二〇一六年九月二十六日 「花が咲き誇る惑星」


花が咲き誇る惑星が発見された。それらのさまざまな色の花から絵具が取り出された。その絵具を混ぜ合わせると、いろいろな現象が起こることが発見された。まだ世間には公表されてはいないが、わが社の研究員のひとりが、恋人に一枚の絵を送ったところ、その絵が部屋にブリザードをもたらせたという。


二〇一六年九月二十七日 「カサ忘れ」


あ、日知庵に、カサ忘れた。どこか抜けてるぼくなのであった。


二〇一六年九月二十八日 「言葉についての覚書」


ある書物のあるページに書かれた言葉は、その書かれた場所から動かないと思われているが、じつは動いているのだ。人間の頭がほかの場所に運び、他の文章のなかに、あるいは、ほかの書物のなかに運んで、もとの文脈にある意味と重ねて見ているのである。そうして、その言葉の意味を更新し拡張しているのである。しばしば、時代の潮流によって、ある言葉の意味が狭められ、浅い薄っぺらなものとされることがある。これをぼくは、負の伝搬性と呼ぶことにする。人間にもいろいろあって、語の意味を深くし拡げる正の伝搬性をもたらせる者ばかりではないということである。


二〇一六年九月二十九日 「メモ3つ」


2016年9月16日のメモ

言葉が橋をつくり、橋を架けるのだ。
言葉が仕事をし、建物をつくるのだ。
言葉が食事をつくり、食卓を整えるのだ。
言葉が子どもを育て、大人にするのだ。
言葉が家庭をつくり、国をつくるのだ。

言葉がなければ橋は架からないし
言葉がなければ建物は築かれないし
言葉がなければ食卓は整えられないし
言葉がなければ子どもは大人になれないし
言葉がなければ国はないのだ。

2016年9月18日のメモ

言葉が種を蒔き、穀物を育て、収穫する。
言葉が網を張り、魚を捕えて、調理する。
言葉が、子どもを生み、育て、老いさせる。
言葉が、酒を飲ませ、笑い泣かせる。
言葉が、酒を飲ませ、ゲボゲボ戻させる。

言葉こそ、すべて。

2016年9月21日のメモ

詩のワークショップが
東京であって
ジェフリーも、ぼくも参加していて
発泡スチロールで
ジェフリーは飛行機を
ぼくは潜水艦をつくってた。
ふたつとも模型のちょっと大きめのサイズで
発泡スチロールを
両面テープで貼り合せていったのだった。
ただそれだけの夢だけど。
つくってる途中で目がさめた。
ジェフリーは完成してた。


二〇一六年九月三十日 「接続」


ネットが20分前にぷつんと切れたので、電話して聞いたら、言われたとおりに、いちばん下のケーブルを一本抜いてしばらくしてつけたら、直った。ケーブルのさきが蓄電していることがあって、放電すれば直ることがありますと言われた。機械も、人間のように繊細なんやね。直ってよかった。憶えておこう


二〇一六年九月三十一日 「人生の縮図」


寝るまえに、お風呂に入って、お風呂から出て、パンツをはいて、シャツを着て、台所の換気扇のそばでタバコを一本吸ったら、うんこがしたくなって、うんこをした。なんか、ぼくの人生の縮図をそこに見たような気がした。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



(…)物哀しげな空には雲一つなく、大地はまさにわれらが主イエス・キリストに倣って吐息をついているかに見えた。そのような陽光のみちあふれる、物哀しい朝には、わたしはいつも予感するのである。つまり自分が天国から締め出されてはいないという見込みがまだ存在し、わが心のうちの凍てついた泥や恐怖にもかかわらず、自分には救いが授けられるのかもしれないということを。頭を垂れたまま貧相なわが借家に向って砂利道を登っているとき、わたしは、あたかも詩人がわたしの肩辺に立って、少々耳の遠い人に対して声〓に言うみたいに、シェイドの声が「今夜おいでなさい、チャーリー」と言うのを、至極はっきりと聞いたのである。わたしは畏怖と驚異に駆られて自分の周囲を見まわした。まったく一人きりだった。すぐさま電話してみた。シェイド夫妻は外出中ですと、小生意気な小間使(アンキルーラ)、つまり日曜日ごとに料理をしにやって来る、そして細君の留守中に自分を老詩人に抱かせることを明らかに夢想している、不愉快な女性ファンが言った。(…)
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

(…)シュタイナーによれば、われわれは生まれる前に自分で運命を選びとったのであるから、それを嘆くのは見当ちがいだという。
 それでは、どうして人は美男子で金持ちで成功者であることを選びとろうとしないのだろうか。それは、霊の目的は自らの進化であり、幸運や成功はそれを阻む作用をするからなのである。霊的な進歩は、霊界においてではなく、地上においてのみ行われるのである。
『神智学』には「認識の小道」という最終章がある。ここでは、人間はどうしたら超感覚的認識を獲得することができるようになるかが説明されている。数学は、認識の小道のためのすぐれた準備段階であるが、それは論理、離脱、非物質的実在への集中を教えるからだとシュタイナーは言う。換言すれば、「見者」にとってまず必要なのは科学的態度であり、心は混沌から秩序を創り出すことができるという確信である。外的な力がどんなに強力で人をまごつかせるものであろうとも、人間はそうした力にもてあそばれるよるべない存在なのではない。最初の段階は、人間は利害などから離脱することができ、自分の心を、混乱の中を進むための羅針盤として使うことができる、という事実を認識することである。
(コリン・ウィルソン『ルドルフ・シュタイナー』7、中村保男・中村正明訳)

 楽しみがほしければ、〈灯心草〉がいた。シロが草を食(は)み、ブロムが狩りか昼寝をしているあいだ、ぼくは、あのときブーツが教えてくれた〈灯心草〉の径を歩いて過ごした。ぼくは彼のことが好きだった。彼にははてしない数の内部があるみたいだった。そうした暗い隅や奇妙な場所で、〈灯心草〉は世界と、言葉と、ほかの人々と、知っているもの好きなもの嫌いなものと結びついていた。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

「それに、そういう手袋にまつわる物語も知っている。たぶん、その手袋の話じゃないかな」ある場所──たったひとつの小さな場所、点とさえいえそうな場所──があって、そこで、ぼくの人生にあるものすべてが交錯した。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

(…)駆け降りる前に、丘の上から僕に手を振るが、そんな彼女を音楽が包みこんでいる、そう、僕の目が生み出す音楽、ぼくの嗅覚が生み出す絵画、僕の聴覚が生み出す味覚、ぼくの触覚が生み出す匂い……僕の幻覚……(…)
(フエンテス『女王人形』木村榮一訳)

彼らの運命は耐えて進みつづけることであり、しかも最終的には人間的な、あらゆる事物への敬意のしるしとして、それを忘れないことだった。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』上巻・第二部・4、山高 昭訳)

人間の魂の中の何かが、ためらいを感じるのだった。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』上巻・第二部・2、山高 昭訳)

痛みには、痛みの記憶以上のものがある。
(グレッグ・イーガン『順列都市』第一部・3、山岸 真訳)

 ポールは一瞬、相手に共感して心を痛めた。だが、共感から同一視まではあと一歩。ポールはその感情を押し殺した。
(グレッグ・イーガン『順列都市』第一部・6、山岸 真訳)

(…)投げられたあらゆる爆弾、あらゆる銃弾や矢や石はいまだに悲鳴をあげる標的をさがしているのか──(…)
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『けむりは永遠(とわ)に』小尾芙佐訳)

彼女たちはすべてをさらけ出しているが、何も明かしてはくれない。
(J・G・バラード『覗き見の視線』木原善彦訳)

(…)これらの作品は一体として見ると、第二次世界大戦の強力かつ感動的な記録であるのみならず、戦争がその場にいた芸術家たちに及ぼした影響をも同じように記録しているのである。
(J・G・バラード『戦場の画家』木原善彦訳)

 今日、生まれ故郷の町にそのまま住んでいる人がどれくらいいるものか、わたしはよく知らない。だが、わたしがそうであるせいか知らないが、そうした町や市がしだいに衰退してゆく姿は、いうにいわれぬ悲しみを人の心に感じさせるものだ。それは友人の死よりもはるかに辛い。友人はほかにもいるし、他の友人に心を移すこともできるが、生まれ故郷はかけがえのないものだからだろうか。
(ジャック・フィニイ『盗まれた街』12、福島正実訳)

 暖かい楽しい気分になってきた。人々と交って、いつもの考えごとを忘れてしゃべるというのはたしかに楽しいことだ。わたしは今、いったい何をしようとしているのだろう。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』3、井上一夫訳)

 わたしは五番街に行った。わたしの歩きたい街だ。若さと希望にあふれて、それはわたしの世界、わたしの町、わたしのものというような気がした。歓喜の味を味わい、心は喜びに充ちて、順風に帆を上げたような気持だった。風の吹きぬける高いビルの間の道は色とりどりの美しい飾り窓がつらなり、女の人の美しいすました顔があり、すべての上に太陽が輝き、その太陽と風が……。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』5、井上一夫訳)

小鳥が雨樋のなかで夜明けを奪いあっていた。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

(…)大儀そうに、彼女は各種の壜やチューブから、じっさいにはもはや二度と所有することはないと思われる生命と暖かみを、おのれの顔の上につくりだそうと骨折った。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

(…)どこかで銃声が聞こえた。カウリー街、むかしのオクスフォードの中心を指してのびているこの長い、雑然とした商店街では、正面を板で囲ったり、破壊されたりしている建物がしばしば眼についた。舗道にはごみが堆(うずたか)く積もっていた。一、二の商店の店先には、買物の老婆たちが列をつくっていた。だれもみな無言で、てんでんばらばらで、上昇する気温にもかかわらず、スカーフで口もとをおおっていた。ウィンドラッシュの巻きあげた旋風が、彼女らの破れた靴のまわりで渦を巻いたが、女たちはまったく無関心だった。その姿には、零落のもたらす一種の威厳に似たものがあった。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

(…)一同は坐って食事にとりかかった。徐々に霧がうすれ、周囲の風物がしだいにはっきりしてきた。果てしない大空と、その大空の影を映して、世界は拡大していった。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』7、深町真理子訳)

(…)そのうち徐々に、教室の雰囲気が変わってきていることがわかった。あの耐えがたい緊張は去り、あの無意識の抑圧、警戒心、油断のなさ、禁じられているものをほしがることへのうしろめたさ、などは消えていった。
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ヤコブのあつもの、深町真理子訳)

 彼女が、あまりにもせつなげな身ぶりをするので、かえって彼のほうがせつなくなった。彼は自分で思っている以上に、彼女を愛していた。なぜかというに、彼はこのときすでに自分のことは忘れていたほどだから。
(ケッセル『昼顔』九、堀口大學訳)

「でも、どうして子供たちが彼女をからかうのをほうっておおきになりますの?」わたしは発作的な憤怒がこみあげてくるのを感じた。
 彼女はけわしい目でわたしを見た。「"ほうって"おくわけじゃありません。子どもというのは、いつの場合も、毛色の変わっている人間にたいして残酷なものですよ。あなたはまだそんなことにも気づいていないの?」
「いいえ、気づいていますわ。ようくわかっていますとも!」わたしはかすれた声で言い、ふたたびあの、じわじわとした冷たい氷のような記憶にたいして、身をちぢこめた。
「感心したことじゃないけれど、世間にはありがちなことなのよ。すべてに正しいことが通用するわけじゃありませんからね。ときには、慣れて感じなくなることも必要だわ」
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』荒野、深町真理子訳)

「いやよ、マーク!! いや! いや! いや!」とメァリーは悲鳴をあげ、壇のほうへ引きずられながら恐怖のあまりに大小便をもらす。マークは使い捨てたコンドームの山の中の壇の上に、縛り上げたメァリーをほうり出したまま、部屋の向う側へ行ってロープの用意をする…… やがて輪なわを銀の盆にのせてもどってくる。彼は手荒くメァリーを引き起こし、輪なわを首にかけて締める。そして彼女を突き刺し、ワルツを踊るように壇上をまわってから、ロープにぶら下がって空中に飛び出し、大きなアーチを描く…… 「ひい━━」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。大きな波のうねりが彼女の全身を通り抜ける。ジョニーは四つんばいになって、若いけもののように柔軟な身のこなしで機敏に身がまえる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

 ナツメヤシは水不足で枯れた。井戸は乾いたうんこと何千もの新聞紙のモザイクであふれている。「ソ連は否定……国務大臣は悲痛に訴える……落とし板は十二時に落とされた。十二時三十分、医師は牡蠣(かき)を食べに外出し、二時に戻って絞首刑になった男の背中を陽気にたたく。『なんと! まだ死んどらんのかね? こりゃ脚をひっぱってやらんといかんようだな。ふぉっふぉっふぉっ。こんなふうにだらだらと窒息してもらうわけにはいかん。大統領に叱られてしまうわい。それに死体運搬車に、生きたままのきみを運び出させるなんてみっともないからね。恥ずかしくて睾丸が落ちてしまうよ。それにわしは経験豊かな牛のところで訓練を積んでおる。一、二の、三、それ引け!』」
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

目の前に銀の粒が湧き出る。今から何百年もたったあとの廃墟と化した中庭に私は立っている。何物の、何人の匂いも嗅げない死の都を訪れる悲しい亡霊のようなものだ。
 少年達は記憶の中で揺れ動いている影で、遙か昔に塵となった肉体を喚起している。使うべき喉もなく舌もなく私は呼ぶ、幾世期をも越えた彼方へ向かって呼び続けるのだ、「パーコ……ジョセリート……エンリケ」と。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第二部、飯田隆昭訳)

私は丸い小さな箱をもっている。中には羊皮紙に似た紙に数多くの光景が描かれ、折りこまれている。紙をめくるとそれが生き生きと動きだす。前髪のところまでコンクリートの中にはまりこんでいる雄牛が数頭いる。今度は十八世紀の衣装をまとった二人の少年と二人の少女が金色の馬車からおりてきて裸になり、オルゴールの調べに合せて踊り、つま先でくるっと回転する。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳)

 私は傾斜の険しい木の段々を昇り、かつての玄関ポーチへ行く。金網はすっかりさびていて、網戸の蝶番ははずれている。南京錠をはずし、玄関のドアを押し開ける。廃屋のかび臭さが鼻を打ち、冷気が肌に感じられる。熱い空気が私の後ろから中へ入りこむ。外の空気と中の空気が混じり合う空間に熱波らしき霧状のものが目に映る。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳)

よく考えてみると、こういう羨望混じりの感嘆の念は前にも味わったことがある。だが、あれは気が弱くなっている時に、異性愛者に対して抱いた感情だった。そうだ、おれはある時期、異性愛者が自分の生まれた社会と見事に適合しているのに感動したことがあった。異性愛社会には、まるで揺り籠の足元に置いてあるおもちゃのように、いろんな物が揃っている。まずは性教育、感情教育をしてくれる絵本に始まって、童貞を捨てに行く売春宿の住所、初めての情婦の写真、それから結婚式の日取りが書かれた未来の婚約者の写真、夫婦の財産契約書に、結婚式の歌の歌詞……。異性愛者はただこれらの既製服を次々に着換えていればよいのだ。それは彼によく似合うが、なぜかと言うと、それが彼個人のために作られているというよりは、「彼ら」のために作られているからだ。それに比べて、若い同性愛者は棘だらけの植物に覆われた砂漠の中で目覚める……。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第七章、榊原晃三・南條郁子訳)

(…)どこへ行くのやら見当がつかない。だが状況は常に自ら新しい状況を作り出す。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第七章、榊原晃三・南條郁子訳)

 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言葉について──このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現われたものである──(…)
(ヨハネの第一の手紙一・一─二)

 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
(ヨハネの第一の手紙一・五─七)

(…)シュタイナーが書いたり語ったりしたことで、彼を二十世紀の他のあらゆる思想家と区別していることは何であるのか。
 これへの答えは、本書の第1章でかなり詳しく論じたあの認識のうちにひそんでいる。あの認識とは、「霊界」というものは実は人間の内面世界にほかならぬ、という認識である。シュタイナーは事実上こう言っていたにひとしい。鳥は空の生き物であり、魚は水の生き物、蚯蚓(みみず)は地の生き物だが、人間は本質的に心の生き物であり、人間の真の故郷は自分の内部にある世界なのだ。なるほど、人間でも外面世界に生きなくてはならぬというのは事実だが、第1章で見たごとく、この外面世界を把握するには私たちは自分自身の内部に退く必要があるのだ。
 この内面世界の奥深くまで「退く」ことは、私たちのほとんどにとって難しいことであり、外面世界とそれがつきつけるさまざまな問題がうしろから私たちを引っぱって内面世界に入ろうとするのを妨げる。シュタイナーはどうやら、自分の内面世界に降りて行く非凡な能力を有していたらしい。さらにシュタイナー哲学の中心的な主張は、この内面の領域こそ「霊界」にほかならず、ひとたびこの領域に入ることをおぼえれば、この内域が外面世界の単なる想像的反映ではなく、それ自体独立した実在性を有している世界であることを人間は実感する、という考え方なのである。
(コリン・ウィルソン『ルドルフ・シュタイナー』9、中村保男・中村正明訳)

 男の眼差しはすでに、よく描かれてきた。この眼差しは、まるで女の背丈を測り、体重を量り、値打ちを定め、女を選ぶ、言い換えればまるで女を物に変えるように、冷たく女のうえに止まるものらしい。
 あまり知られていなのは、女がその眼差しにたいしてまったく無防備だというわけではないということだ。もし女が物に変えられるなら、それは女が物の眼で男を見るということにほかならない。それはまるで金槌(かなづち)が突然眼をもち、自分を使って釘を打ち込んでいる石工をじっと見つめるようなものだ。石工には金槌の不愉快な眼差しが見えて自信を失い、自分の親指を一撃してしまう。
(ミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』第七部・8、西永良成訳)

 小説の精神は連続性の精神です。つまり、それぞれの作品は、先行する作品への回答であり、それぞれの作品には、小説の過去の経験がすでに含まれているということです。しかし、私たちの時代精神は今日性(アクチユアリテ)の上に固定されています。今日性は、あまりに拡散的で広いひろがりをもつものですから、それは私たちの地平の過去を拒否し、そして時間をもっぱら現在の瞬間に還元するものです。このような体系のなかに封じ込められた小説は、もはや作品(持続を、過去を未来に継ぐことを運命づけられたもの)ではなく、他の事件とかわらぬ現在(アクチユアリテ)の事件であり、はかない行為です。
(ミラン・クンデラ『小説の精神』第一部・9、金井 裕・浅野敏夫訳)

(…)すると不満を抱く者たち、いくぶん盲目的で、どこか狂っているような者たちが神秘と血を通して、あの失われた調和をしゃにむに取り戻そうとして、自分たちを取りまく現実とは違う現実を、たいていの場合幻想的であり狂的である現実を描いたり書いたりするが、奇妙なことにその現実こそ結局は日常的な現実より深遠なもの、真実なものであることになる。そうして、こうした傷つきやすい存在はある意味であらゆる者たちのために夢を見つつ、自らの個人的な不幸の上に立ちうるようになる、また集団の運命の解説者に、そして、(苦しめを受ける)救済者にさえなる。
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

 しかし、わたしの不幸は常に二重のものだった、というのも、わたしの弱さ、傍観的な精神、優柔不断さ、無気力、こういったものがいつもあの新しい規律を、芸術作品という新しい宇宙を獲得する妨げとなり、わたしを救ってくれそうなあの思いこがれた建造物の足場からいつも足を踏みはぜさせる。そして落ちるたびに傷つき、二重に哀しくなり急いで単純な人間を探し求めることになる。
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

 子供の頃、就寝前にときおりある声が、眠りの中へ誘うようにお話を聞かせてくれて、夜になるとこの世界がどんなに宏大に伸び拡がるか、教えてくれたものである。「昔々あるところに」の文句で始まることもあった。こうして目覚めたまま寝そべっていて眠ることができないなんて、私一人が、過ぎ去ることを知らない時そのものなのだ。
 四方の壁も、ベッドや床も、箪笥だって、鏡や絵だって眠る。寝具や絨毯、椅子や机や窓、カーテンに、衣服に、その他まわりを取り巻くありとあらゆるものが、外の霧だって、雪片だって、樹木も地面も水中の魚も、霧のかげや雪の彼方にいる人々も、それどころか鳩の巣でさえ眠るのだ。同じように、凍えている人も独りぼっちでだれも友達のいない人も、希望を求めて思い煩っている人や、恋という名のもとに屋根裏部屋や連れこみ宿で徐々に憔悴してゆく人も眠る。子供たちも、願いごとを唱えながら眠りにつく。黄泉(よみ)のヴェールにおおわれた死人の開かれた眼も眠る。盲人の光を失った顔も、蒼ざめた産婦も、涙さえも眠る。じゃじゃ馬娘の髪の毛にさした櫛やその髪に吹き込む風も眠る。テーブルの酒瓶も、その脇にある飲み残しのグラスも、錠前に差し込まれた鍵も、時計やランプも眠る。配膳台の上の散らしや新聞、部屋履きやソックス、ズボン、ワイシャツ、チョッキ、暖炉の火、窓の鎧板にかかった雪、家や庭、茂み、小経や舗石、垣根や杭、大小の町、列車や河川や港の小舟にいたるまで。空高く飛ぶ飛行機も、渡り鳥のように大陸をまたにかけて眠る。薬剤師の天秤も眠る。露店のひさしも、犬や猫も眠る。そして、人里離れた森の奥では(…)
 ただ私、この私だけが眠れない。(…)
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二章、園田みどり訳)

(…)目的もなくブエノスアイレスの町を歩きまわり、人々を眺め、コンスティトゥシオン広場のベンチに腰をおろして考えた。そのあと部屋に戻ったが、いつになく孤独感を味わっていた。本に没頭しているときだけはふたたび現実を見出すようだった、逆に、通りにいる人々はまるで催眠術にかかった人間たちの大きな夢に思えた。多くの歳月が流れて分ったことは、ブエノスアイレスの通り、広場、そして商店、事務所にはそのときわたしが感じたことと同じようなことを感じ、考えている人間が無数にいるということだ、孤独で苦しんでいる人々、人生の意味、無意味を考えている人々、自分のまわりで眠った世界、催眠術をかけられたりロボットになってしまった人間の世界を見ているような気がしている人々がいるのだ。
 その孤立した角面堡の中でわたしは短篇を書きはじめた。いま思うと、不幸になるたびに、一人ぽっちだ、生を与えてくれた世界としっくりいかない、そう感じるたびに書いてきたみたいだ。それが普通ではないだろうか、現代の芸術、引き裂かれた緊張した芸術は常にわたしたちの不調和、苦悩、不満から生まれてくるものではないか。人間という傷つきやすい、落ちつかない、欲深な生き物の種族が世界と和解する試みのようなものではないだろうか。なぜなら、動物は芸術を必要としない、彼らは生きるだけだ。彼らの生は本能の必要性と調和を保ちながら滑っていくからだ。鳥には少しの種か虫、巣をかけるための樹、飛びまわるための広い空間があればいい、そして、その一生は生まれてから死ぬまで、形而上的な絶望感や狂気に引き裂かれることのない幸福なリズムの中で流れていく。ところが人間は(…)
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

 そして、一つを除くほかのあらゆる思い出が彼女の心に浮かびはじめたのも、やはりそのときのことだった。すべての思い出が押し寄せたが、彼女は、なぜかわからないながらも、ただ何かあることだけによって、ある思い出がまだ欠けており、ほかのすべての思い出が起きたのも、もっぱらこの一つの思い出のせいにほかならないと感じたのだ。そこで彼女の心に、そのためにはヨハネスが自分の役に立ってくれるかもしれないし、また自分の全生活は、この一つの思い出を手に入れるかいなかにかかっている、という観念がつくりあげられた。さらにまた彼女は、自分がそのように感じているものは、力ではなくて、彼の静けさ、つまり彼の弱さであることも知っていた。この静かで不死身の弱さは、広々とした場所のように彼の後ろにひろがっていて、そのなかで彼は、自分の身に起きたあらゆることと、ひとりで向かいあっているのだ。しかし彼女はそれを、もっとそれ以上に探り出すことができなかったので、不安な気がした。そして、自分がすでにその近くにいると思ったときにはいつも、またまえもって動物を思い浮かべるので、彼女は苦しかった。
(ムージル『ヴェロニカ』吉田正巳訳)

これは愛だろうか?
(ムージル『ヴェロニカ』吉田正巳訳)

家造りらの捨てた石は
隅のかしら石となった。
これは主のなされた事で
われらの目には驚くべき事である。
(詩篇一一八・二二─二三)

愛のおのずから起こるときまでは、
ことさらに呼び起すことも、
さますこともしないように。
(雅歌三・五)

声に出して考えていた。
(エドモンド・ハミルトン『審判のあとで』中村 融訳)

どうしてそのことを書かないの?
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

悲しみはまず無言でなければならない、あんたはそう思っている。痛みを感じたあとで、初めてその痛みについて語ることができる……たとえそれが、偶然見つけた死体のように、小さな痛みであっても、癌に当たったような、大きな痛みでも……
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

「あなたはあたしの手を握りしめたわ。そして、その死んだ男は、究極的に、生きているのだと言った。死者たちはみんな生きているんだって」
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

だれも話しかけてくれなかったわ。あたしのことをだれも知らなかった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 いったいどこから来る? どこからでもなく、虚無からやってくる──だれの声でもない声
(バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』11、大森 望訳)

声には実体があるとでもいうのか?
(バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』11、大森 望訳)

それだけで独立の実体を持っている。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第10章、荒木昭太郎訳)

 見る主体を見ることはできないし、心が考える主体を把握することもできない。見る主体、考える主体が〈わたし〉──すなわち、魂なのだ。
(バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』13、大森 望訳)

 かれらがそうなりえたかもしれないものが永久に失われたことを、ウルフは悲しんでいるのであった。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『異世界の門』16、浅倉久志訳)

 目を開くと、頭上に薄青い空が広がり、ちらほら雲が見えた。周囲は牧草地だった。みつばちたちが、いや多少ともみつばちのように見える昆虫の群れが、茎が長く皿ほどもある白い花のあいだをぶんぶん飛びまわっていた。空気には甘い香りがただよっていた。さながら無数の花々が大気そのものを妊娠させているかのように。
(フィリップ・K・ディック『カンタータ百四十番』4、冬川 亘訳)

精子も自分をひとかどのものと思うだろうか?
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』4、友枝康子訳)

彼の目は、少女の白いシャツからのぞく喉もとを楽しんでいる。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『煙は永遠にたちのぼって』友枝康子訳)

「でもね、どこか気味がわるいの」彼女は満身の力をこめて箱を河に投げる。箱は二十フィート飛ぶ。「すごい! でもね、あなたの一部分があなたの愛したものに執着して永久についてまわる、そんなことを想像してみて!」彼女は柳の木によりかかり、流れていく箱を眺める。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『煙は永遠にたちのぼって』友枝康子訳)

 少年の生活というのは同じようなもので、彼の場合も例外ではない。違うと言えば、ブロンドの女がしきりに話しかけていることだが、そのせいで少年は今ひとりぼっちの人間になっている(雲の話はもううんざりだが、今ふわふわした細長い雲が通り過ぎていった。あの日の朝は、一度も見上げなかったはずだ。二人に何か起こりそうな予感がしたので、これからどうなるのか様子を見ることにした……)。不安そうな少年を見れば、少し前、せいぜい三十分前に何があったか容易に想像がつく。つまり、少年は先ほど島の端(はな)にやってきて、そこですてきな女を見かけたのだ。女は最初からそのつもりで網を張っていた。ひょっとすると、バルコニーか車の中から少年を見かけたのかもしれない。そこで、少年のそばへ行くと、話しかける。少年は不安に駆られたものの、逃げ出すきっかけがつかめずそのまま居残る。
(コルタサル『悪魔の涎』木村榮一訳)

(…)画家の中には好んで椅子を描く人がいるが、やっとぼくにもその理由がのみこめた。急に、フロールの椅子がどれもこれも花や香水のようにすばらしいものに思えはじめた。あれはこの町に住む人たちの秩序と誠実さを表わす申し分のない道具なのだ。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

 民衆はしあわせだ。しあわせでなければならないのだ。もし悲しんでいるところを見つかれば、なだめられ、薬をあてがわれ、しあわせな人間に改造されるのだから。
(コードウェイナー・スミス『老いた大地の底で』1、伊藤典夫訳)

 とつぜん大立て者は少年の体を宙に突き飛ばして自分のコックから解放する。そして両手を少年の座骨に当てて揺れないように押さえ、象形文字のような動きをする手を首に当て、首の骨を折る。戦慄が少年の全身を駆け抜ける。彼のコックは骨盤を上に向けて、大きく三度ぴくぴくとはね上がり、たちまち射出する。
 彼の目の奥で緑色の火花が散る。甘美な歯痛が首筋を矢のように流れて背骨から鼠(そ)蹊(けい)部まで達し、歓喜の発作で身体を収縮させる。彼の全身はコックによって締めつけられる。最後の発作が起こり、多量の精液が赤いスクリーンの向う側まで流星のように噴出する。
 少年はやわらかく吸い込まれるように、ゲームセンターとエロ写真の迷路を抜けて落下する。
 堅いくそが勢いよくすぽんと尻からとび出す。放屁がきゃしゃな身体を震わせる。大きな川の向うの緑の茂みの中からのろしが上がる。薄暗いジャングルの中にモーターボートの音がかすかに聞える…… マラリア蚊の沈黙の羽の下で。
 大立て者は少年を自分のコックの上に引きもどす。少年はやすに突き刺された魚のように身もだえする。大立て者は少年の背中で身体をゆすり、少年の身体はくねくねと波を打ってちぢこまる。少年の死の色に包まれて愛らしくすねたような感じの半分開いた口からあごを伝わって血が流れ落ちる。大立て者はすっかり満足してぱたっと倒れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』ハッサンの娯楽室、鮎川信夫訳)


詩の日めくり 二〇一六年十月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年十月一日 「至福の二日間」


きのうと、きょうと、ずっと横になって寝てた。お茶をひと缶のんだだけ。いっさい食事せず。ただ眠っていただけ。しかし、まだ眠い。睡眠導入剤が強くなって、しじゅう、あくびが出るようになった。眠いということがここ10年くらいなかったので、至福の2日間であった。もうじきクスリのんで、また寝る。

あさ、4時に目がさめて、きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり 二〇一六年九月一日─三十一日』をつくってた。これからマクドナルドに。


二〇一六年十月二日 「至福の引き伸ばし」


投稿はあしたにして、PC消して、クスリのんで寝る。睡眠導入剤が強いものになって、睡眠が10年ぶりくらいに心地よいので、睡眠を第一優先にしたいため。きのう読んだコードウェイナー・スミスの「老いた大地の底で」の終わりの方を読み直そう。記憶に残っていなかった。つぎに収められている「酔いどれ船」を読んでる途中だけど。まあ、あと10ページほどなので、寝るまでに「酔いどれ船」も読み切れるだろうけれど。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月三日 「黄色い木馬/レタス」


10月1日に文学極道に投稿した『全行引用による自伝詩。』、もともと11月に投稿する『全行引用による自伝詩。』とくっつけたもので、あまりにも長くて、モチーフが分散し過ぎている印象があったので、もとのように分離した。すっきりした感じになった。これでひと月分、余裕ができたわけでもある

12月に投稿する分から考えればいいので、急ぐ必要がなくなって、ほっとしている。しかし、仕事との関係で、あまり余裕がないかもしれないので、ワードの打ち込みは、こまめにしなければならない。

きょうは夜に塾がないので、寝るまで本を読もう。そうだった。ぼくは本を読むために生まれてきたのであった。とりあえず、コードウェイナー・スミスの短篇「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」のつづきから読んでいこう。しかし、それにしても、コードウェイナー・スミスは偉大なSF作家だった。

「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」を読み終わった。大筋を憶えていたのだけど、狂的な部分を憶えていなかった。あらためて、コードウェイナー・スミスのすごさに思いを馳せた。散文のSFで、強烈な詩を書いていたのだなと思う。つぎは、「アルファ・ラルファ大通り」短篇集タイトル作である。

郵便受けに何か入ってるかなと思って、マンションの玄関口に行くと、草野理恵子さんという方から、『黄色い木馬/レタス』という詩集を送っていただいていた。手に取って、ぱらっとめくったページが16ページ、17ページで、詩のタイトルが見えた瞬間、えっと思って、笑ってしまった。だって、「おじさん/入れ歯」というタイトルだったからだけど、笑いながら読んでいたら、グロテスクな描写に変容していって、なに、この詩? となって、目次を見たら、すべての作品がスラッシュで区切られていて、つながりがあるのかないのか、たぶんないよなというような名詞が接続されていて、「おじさん/入れ歯」のつぎに収録されている20ページからはじまる「カサカサ/プレゼント」という作品の第一行がこんなの。「たとえば僕のおばさんはとても孤独に生きたので何でも喜んだ」ぎょえー、なに、この詩は? ってなって、奥付を見たら、ぼくと齢があまり変わらない方だったので、なぜかしらん、ほっとした。ぱらぱらとめくりながら、詩句に目を走らせると、抒情的な部分もたくさんあるのだけれど、基本は、狂気のようなものだと感じられた。でも、ご卒業された学校の名前を見て、たぶん、とても見た目、まじめな方なんだろうなあと思って、書くものとのギャップが大きそうに思った。それだけに、怖い。56ページからはじまる「頭巾/虫」の第一行目は、こう。「ひとりで話しているうちに真っ暗になってしまった」 怖いでしょう? 102ページからはじまる「皿/スイッチ」という作品の第一連なんか、こうよ。


あるパーティの日
百人の瞳の大きな人間が選ばれ
皿を配られる
そして鳥にされることになる


怖いもの見たさにページをめくる。24ページからはじまる「水飴/雨」の冒頭部分


ところで君は何でお金を稼いでいたのだろうか
水飴も売っていたかもしれない
だけど僕たちは君見たさに集まっていたのだ
こぶなのだろうか
頭の一部が妙に大きく膨らんでいた


なんだか、江戸川乱歩が詩を書いたら、こんな感じかなっていう雰囲気のものが多くて、著者の草野理恵子さんが、ぼくに詩集を送ってくださったのが、よく理解できる。好みです。いま読んでる、コードウェイナー・スミスのグロテスクさにも通じるような気がする。

草野理恵子さんの詩集『黄色い木馬/レタス』土曜美術社から9月31日に出たばかりらしい。装丁もきれいなので、画像を撮って、貼り付けておくね。https://pic.twitter.com/TJYlk4wefc

もう30年くらいはむかしの話になるけれど、梅田の北欧館に行ったとき、階段に入れ歯があって、びっくりしたことがある。置き忘れた方がいらっしゃったのだろうけれど、なんか、グロテスクなアートって感じもしたけど、いまでも思い出せる、その輝きを。暗い階段に、白い入れ歯が上向きに落ちてるの。メガネをしているひとのメガネがない状態と似ているような気がするのだけれど、入れ歯がないってことに気がつかないものなのかしらん? 父親が、ぼくのいまの齢で、総入れ歯だったのだけれど、父親が「歯が痛い」と言うのを聞いた記憶がない。基本、総入れ歯だと、歯痛はないのかもしれないね。でも、入れ歯を、なんかのクスリにつけてたから、メンテナンスは必要なんだろうけど。ぼくもそのうち、総入れ歯になるのかなあ。どだろ。そいえば、むかし勤めていた学校で、目のまえに坐ってらっしゃった先生が総入れ歯で、よくコップのなかに入れ歯を入れてらっしゃったなあ。カパッて音がするので、見たら、口から入れ歯を出してコップに入れてらっしゃったのだけれど、それが透明のコップで気持ち悪かったから見て見ないふりをしてた。高校一年生のとき、好きだった竹内くんとバスケットしてて、竹内くんの口にボールをあててしまったら、そこに前歯がなくなっちゃった竹内くんの顔があったから、びっくりしたら、「差し歯やから」と言われて、差し歯って言われても、それがなにか知らなかったから、ほんとにびっくりした。そいえば、ぼくがさいしょに付き合ったノブチンは、笑うと歯茎が見えるからって言って、笑うときに、よく女子がするような感じで口元に手をやってたなあ。そのしぐさがかわいかったけど、まあ、ノブチンも21才やったからね。いまじゃ、おっさんになってるから、もうそんなことしてないだろうけど。

収められたさいごの短篇「ショイヨルという名の星」を読んでいる。もう3、4回は読んでいる作品だが、よくこんなSF小説が書けたなあと思うし、発表できたなあと思う。究極の地獄を描いた作品だと思うけれど、まあ、さいごに救いがあるところが、スミスらしいけれど、それともそれ編集者の意向かな。


二〇一六年十月四日 「チェンジ・ザ・ネーム」


きょうから、アンナ・カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』を読むことにした。なかば、自分に対する強制だ。昼には、読みの途中でほっぽり出してたミエヴィルの『言語都市』にしようかなと思ったのだけれど、カヴァンの未読の本が2冊、目のまえの本棚にあったので。ああ、どうせ絶望的なんだろうなあ。


二〇一六年十月五日 「邪眼」


悪意を持って眺めると
相手を不幸にならしめることができる
対抗するには
淫らな思念を相手のこころに投射すること
あるいは残虐な刑罰による死の場面を投射すること
って
書いてると
ミスター・ジミーから電話があって
老子の
うらみに対しては徳をもって報いよ
といわれた
まあねえ

ファレル
百枚の葉が耳を澄まして
ぼくを見ている
グリム童話のなかで
森の木々が見てる
といったような描写があったような
ぼくの思考が
川のなかの鳥のくちばしのように
夜の
水草のなかを
何度もつついている
そこにおめあてのものがあるとでも思っているのだろうか
ファレル
ぼくの思考は
ぼくのからだを包む百枚の葉のように
つめたくあたたかい
わかくて老いているころから
わかっていた
流れながらとどまり
とどまりながら流れていた
ファレル
ぼくのにごった水の上を走り去る鋼鉄の雲よ
ぼくの手は
アクアポリスの背景をなぞる
なぜなぞるのだろう
百枚の葉はじつは百羽の鳥だった
百羽の鳥の喉を通して
ぼくは考えていたのだ
ファレル
きみも気がつくべきだった
ぼくにやさしくつめたい
どうしたのかしら
そんなところで
ゴミ箱が隠れてた
ぼくにはわからないんだけど
いっしょうけんめい知識を深めることに専念していると
ふつうのゴミ箱のことがわからなくなるのかもしれない
ゴミ箱が人間の形をしてた
にょきにょきと手足を生やして
ぼくのところにきた
ぼくは
ぽこんとゴミ箱をたたいた
ゴミ箱は痛がらなかった
比喩じゃない
比喩は痛くない
人間じゃないから
人間かも
人間なら蹴ったら痛いかも
蹴ってみたら
ぼくはまだ人間を蹴ったことがない
人間以外のものも蹴ったことがない
蹴る勇気をもつことは大切だ
手で殴るということもしたことがない
ものも殴ったことがない
勇気のない者は永遠に報われない

それもいいかもにょ
苦痛がやってきて
ぼくの鼻から入ってくる
苦痛がぼくを呼吸し
やがてぼくの神経に根を下ろす
鈴の音が鳴る
財布につけた鈴の大きさに
月が鳴っている
ゼノサイド
月を血まみれの両の手がつかんでいる
月の大きさの眼球が
地球の海を見つめている
海は縛りつけられた従兄弟のように
干からびていく
宇治茶もいいね
宇治茶もおいしいね
ジミーちゃんと話してるとホットするよ
そてつ
そうでつ
お母さんを冷凍してゆしゅつすることを考える
緊急輸出
脊髄はちゃんと除去してからでないと輸出してはいけません
冷凍怪獣バルゴンっていたな
人間の死体を冷凍して輸出することは法に違反しているのかしら
冷凍ママ
冷凍パパ
なんてスカンジナヴィアで売っていそう
アイスキャンディーになったママやパパもおいしそうだし
ペロペロペロッチ
冷凍パパは生きてたときとおなじように固いし
体以上に固い
体も硬いけどね
冷凍パパが飛行機で到着
到着うんちが便器のへりを駆け巡る
飛行うんちが飛び交う男子用トイレで
マグロフレークが
未消化のレタスと千切り大根の
指令書がファックスで送られてくる
そてつ
そうでつ
冷凍パパと記念写真
携帯でパシャ
パシャ
冷凍ママも
パシャ
パシャ
ハロゲンヒーターのハロゲン
行くのね
ゼノサイド
ちゃうちゃう
おとついジミーちゃんに
ホロコーストの語源って知ってる
って訊かれた
覚えてなかった
うかつだった
焼き殺す
うううん
焼き殺しつくすのね
ぼくの直線にならんだ数珠つなぎの目ん玉
螺旋にくるくるくるくる舞ってるのね
新体操のリボンのように



二〇一六年十月六日 「Fくん」


いま日知庵から帰った。Fくんに合って、帰りは、方向がいっしょだったので、タクシーに乗せてもらって、西院駅まで送ってもらって。きょうも、いっぱい仕事した。今日、一日のうち、いちばん、うれしかったのは、Fくんと日知庵でばったり合ったことかな。で、話して。でへっ。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月七日 「脱字」


カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』3分の1くらい読めた。会話がとても少なくて、情景描写ばかりで、P・D・ジェイムズもそうだけど、ぼくの好きな英国女性作家の作品は読みにくい。だけど、その情景描写が繊細で、かつ的確なので、楽しめて読めるものになっている。内容は神経症的な世界だけど。

アンナ・カヴァン『チェンジ・ザ・ネーム』 脱字 95ページ3行目「鋼砥(はがめと)の上で」 ルビに「ぎ」が抜けている。


二〇一六年十月八日 「られぐろ」


拷問を受けているような感じで、きょうもカヴァンを読む。

郵便受けから入っていた封筒を取り、部屋に戻って、袋を開けると、武田 肇さんから、詩集『られぐろ』を送っていただいていた。高名な方で、ぼくが雑誌に書いてた時期に何度もお名前を拝見したことはあったが、その御作品を目にするのは、はじめて。帯に書かれた言葉とまったく異なる印象の本文だった。数多くの短い断章の連なりに見えるのだが、作者は、それらを2つに分けて、長篇詩としているのだ。それも、プロローグとエピローグの2つに。短詩を組詩にして長篇化することは、ぼくもよくする手法であるが、ぼくのような作品の印象ではなくて、まるで、いくつもの短歌的な構成物を物語風に散文化したものを目にするかのような印象だった。これは作者が短歌に造詣が深いことを、ぼくが知っていることからくる先入観かもしれない。しかし、いくつか断章を目にする限り、その印象は間違っていないように思う。カヴァンの『チャンジ・ザ・ネーム』をほっぽいて、先に、武田 肇さんから頂戴したほうを読もう。どの断章も三行で、改行詩のようになっていたり、散文詩のようになっていたりと、読みやすい。ひとつ、ふたつ、採り上げてみよう。みっつよっつになったりして。


森の。 雪で遊ぶ人人
めいめいに内心を抱えながら、花めきながら、
じつはただ一人が居るだけなのだが。

(武田 肇 られぐろ・エピローグ「森の。 雪で遊ぶ人人」)


この世のすべての顔━━良いかほも悪いかほも━━を足すと
おびんずるさまになるのかもしれない
この世のすべての土地━━良い土地も悪い土地も━━足すと

(武田 肇 られぐろ・エピローグ『この世のすべての顔」旧漢字をいまの漢字に改めまて引用した。)


午前九時十五分 短針が僅かに上昇をはじめる
こんなときだ
ぼくから他のぼくがぞろぞろ遊離してゆくのは。

(武田 肇 られぐろ・エピローグ「午前九時十五分」)


なぜギリシアが在り日本が在るのだろう 異なる偶然な二つの地形が
アブ ダビでしぜんに泛んだ二つの微笑みが
なぜアフリカが在りローマが在るのだろう 異なる偶然な二つの暗黒が

(武田 肇 られぐろ・エピローグ「なぜ義理合会が在り日本が」)


とてもシンプルな表紙なのだが、魅力的だ。画像に撮ってみた。私家版だそうだ。貴重な1冊をいただいた。
https://pic.twitter.com/TaT5WRaIDK

ありゃ。武田 肇さんの詩集『られぐろ』に収録されている断章、すべて3行の、改行詩だった。ストーリーを追って読んだものが、ぼくに散文詩のような印象を与えたのだろう。すべて改行詩の3行詩だった。カヴァンよりはるかに読みやすいし、興味深い詩句が見られる。ひゃっ。いま裏表紙みて、びっくりした。200部限定の私家版だった。送り先に、ぼくのような者を入れてくださったことに、改めて深い感謝の念が生じた。とても貴重な1冊。いまも、武田 肇さんの詩集『られぐろ』を読んでいて思ったのだけれど、詩のほうが読みやすいのに、なぜ世間では、小説ばかりが読まれるんだろう。T・S・エリオットとか、エズラ・パウンドとか、ウォレス・スティヴンズとか、笑い転げて読んじゃうんだけど。ぼくが翻訳したLGBTIQの詩人たちの英詩のなかにも、笑い転げるようなものもあったと思うんだけど。日本の詩人では、モダニズム時代の詩人のものなんか読んだら、もう小説どころじゃなくなると思うんだけど、日本の国語教育はモダニズム系の詩人を除外している。そいえば、ゲーテの『ファウスト』も読まれていないらしい。あんなにおもしろい詩なのに。どんなにおもしろいかは、ぼくは、『The Wasteless Land.』でパスティーシュを書いてるくらいだけど、『ファウスト』にも、ぼくは大いに笑わせられた。


二〇一六年十月九日 「頭のよいひとは説明を求めない。」


頭のよいひとは説明を求めない。自分で考えるからだ。発言者の頭のなかで、なにがどうなっているのかを。

文学極道の詩投稿掲示板のコメントを見て、いちばんびっくりするのは、作者に説明を求めることである。

毎日のように、amazon で自分の詩集の売れ行きチェックをしているのだが、『詩の日めくり』第一巻が、きょうか、きのう、1冊売れたみたいだ。うれしい。

https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788621/ref=la_B004LA45K6_1_5?s=books&ie=UTF8&qid=1475919453&sr=1-5

11月に、ハヤカワから、バリントン・J・ベイリーの短篇集が出るらしい。買いたくなるような本を出さないでほしい。未読の本が、ぼくが死ぬまで待ってるんだから。

マーク・ボラン、永遠に若くてかっこいいままなんて、なんだか卑怯だ。

11月に書肆ブンから出る、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』の表紙は、35歳のときのぼくの写真だ。そのくらいのときに死んでいたら、ぼくの半分以上の詩集はなかったことになる。それは、それで、よかったのかもしれないけれど。

https://www.amazon.co.jp/dp/4990788664/ref=cm_sw_r_apa_Lca6xbAV5FXB8

アンナ・カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』を読み終わった。英国女性作家のえげつない作品を読んだ。自己愛しか持たない女性が主人公なのだけれど、他の登場人物も、それなりに自己愛の塊で、まあ、それが人間なのだろうけれど、言葉で表現されると、本当に、人間というものがえげつないと思われる。読むのが苦痛に近いけれど、これから、アンナ・カヴァンの『鷲の巣』を読む。飽きたら、すぐにやめるけれど。いまなら、少しは読めるような気がする。


二〇一六年十月十日 「奇蹟という名の蜜」


加藤思何理(かとうしかり)さんという方から、『奇蹟という名の蜜』(土曜美術社)という詩集を送っていただいていた。奇想・奇譚の部類の詩篇が並んでいる。グロテスクなものも多く、作者の好みが、ぼくの好みと一致している。部分引用がきわめて難しい緻密な構成をしている詩篇が多い。一部だけ引用してみよう。


さらに歩けば、奇妙な名称の部屋が視野に現われはじめる。
たとえば、受難室。
逃避室。
遡行室。
転調室。
反復室。
分岐室。
寓意室。
逆説室。
あるいは蛹化室。

(加藤思何理「赤いスパナの謎」)


一度読んだら忘れられないような悪夢のような描写の連続である。詩集の表紙はポップなのだけれど。
https://pic.twitter.com/9jxrhdMero

もう30年ほどもむかしの話。20才を出てたかな、仕事で右手の親指をなくした男の子が言った言葉がずっと耳に残っている。人生って、不思議だね。何気ない一言なのに。「友だちのために何かできるなんて、そんなにうれしいことはないと思う。」忘れられない一言だった。

カヴァンの『鷲の巣』のつづきを読んで寝よう。暗くて、会話がほとんどなくて、字が詰まっている紙面で、ほんとうに読みにくい。しかし、ほんものの作家だけが持っている描写力はひしひしと感じられる。でなければ、読まないけれど。


二〇一六年十月十一日 「ぽっくり死ぬ方法」


きょうは、一行もカヴァンを読んでいない。これからクスリのんで横になって、ちょっとは読もう。カヴァンを読んでいると、P・D・ジェイムズを思い出す。読むのに難渋したけど、さいごのほうで、すべてが結びつく快感というのか、そう、快感だな。そこに至るまでが、かなりきついんだけどね。まあね。

このあいだ、「ぽっくり死ぬ方法」っていうので検索したら、「健康で長生きしたらぽっくり死にます」って書いてあって、ぼくはそういう答えを期待したわけじゃないけど、へんに納得してしまった。

いま塾から帰った。塾の空き時間に、アンナ・カヴァンの『鷲の巣』のつづきを読んでいた。だいたい半分くらいのところだ。それにしても読みにくい。P・D・ジェイムズも相当に読みにくい作家だったけれど、ヴァージニア・ウルフを入れて、「読みにくいイギリス女性作家三人組」と名付けることにした。

アンナ・カヴァンの『鷲の巣』を読み終わった。カフカを読んでいるような感じだった。『チェンジ・ザ・ネーム』のほうが、独自性に富んでいたように思う。誤字・脱字はなかった。


二〇一六年十月十二日 「ぼくはひとりで帰った」


楽天のフリマで
高い本って
どんなのがあるのかしらと思って
さがしていたら
10万円のがあったのよ
マニアスイゼンノマトね
って思った
そのときふとした疑問がわきおこった
日本語って難しい
スイゼンってどう書くのかしら
スイはわかる
垂れるって漢字
でもゼンはわからない
辞書で見てみたら

よだれとも読むのね
そういえば
あったわ
バナナの涎
そうよ
バナナよ
バナナ
バナナなのよねー
バナナの涎なのよ
口から垂れたわ
バナナの涎が
バナナ味の涎なのよ
子供のころ

歯を磨いてるときに
口から垂れたのよ
バナナ味の練り歯磨きの涎が
自分の傷口に溺れて
アップアップ
電話のシャワーを浴びて
シャワーを電話に向ける
新しい電話だと思ってたら
昔の電話だった
電話から離れる
フンフン
それでも返事だけはあって
離れられない
ススメ学問
福澤アナ
きょうカキツバタを太田神社に行って
見てきた
なんてことはなかった
帰りに
アイスコーヒーを飲んだ
ネットカフェに寄ると
犬をつれた婦人が
そばを通った
よく見ると
どの席にも
犬がたたずんでいた
ぼくはひとりで帰った


二〇一六年十月十三日 「きょう、母さん、死んだのよ」


帰ってすぐに
実母から電話があった
「きょう
 母さん
 死んだのよ」
「えっ」
「きょう
 母さん
 車にぶつかって死んでしまったのよ」
気の狂った母親の言葉を耳にしながら
お茶をゴクリ
「また何度でも死にますよ」
「そうよね」
「またきっと車にぶつかりますよ」
「そうかしらね」
母親の沈黙が一分ほどつづいたので
受話器を置きました
母親も病気なのですが
ぼくよりもずっと性質が悪くて
悪意のない悪意に満ちていて
ぼくのこころを曇らせます
まあ
こんな話はどうでもよくて
郵便受けのなかには
手紙もあって
文面に
「雨なので……」
とあって
からっと晴れた
きょう一日のなかで
雨の日の
遠い記憶をいくつか
頭のなかで並べたりして
読書をさぼってしまいました

キリンはりんごで
グレープはあしかだった


二〇一六年十月十四日 「ボブ・ディラン」


いま日知庵から帰った。日知庵で、ノーベル文学賞をボブ・ディランが受賞したこと知って、めっちゃうれしかった。Fくんといっしょに祝したんだけど、Fくんといっしょに飲んでることくらいに、うれしかった。ぼくの大好きなFくんですから。いや〜、ディラン、Fくん、大好き。明日から景色が変わる。

いま、じぶんのブログのアクセス数を見たんだけど、楽天ブログのきのうの13日のアクセス数が147もあって、これまでの最高記録だったので、びっくり。だれか、ぼくのこと、どこかで書いてくれてたのかもね。かもね〜。

ジーン・ウルフ『ナイト』I 脱字 79ページ15行目「(…)わたしよりも高いぐらいで、しかも せていました」 これは「や」が抜けているのだなと思う。

ジーン・ウルフにしては、つまらない。全4巻買っちゃったので、読むと思うけど、ああ、寝るまえの読書は違うものにしよう。ひさしぶりに、アンソロジー『恐怖の愉しみ』のつづきを読もうかな。


二〇一六年十月十五日 「右肘の激痛」


きょうは、右肘の関節の痛みで夜中の2時過ぎに目がさめてから寝ていないので、ちょっと昼寝をしようと思う。


二〇一六年十月十六日 「キッス」


青年が老女にキッスした。老女は若い美しい女性へと変身した。青年は老人になっていた。彼女が老人にキッスした。すると老人は若い美しい青年と変身した。彼女は老女に戻った。二人がキッスを繰り返すたびに、このことが繰り返された。

あした、大谷良太くんちに行って、詩集『みんな、きみのことが好きだった。』(書肆ブン・2016年12月刊行予定)のさいごのチェックをする。きょうは、なにも読みもしなかったし、書きもしなかった。でも、体調がよくないので、このままはやめに寝る。


二〇一六年十月十七日 「きょうは、鳩がよく死ぬ日だった。」


きょうは、鳩がよく死ぬ日だったのかもしれない。大谷良太くんと向島駅で待ち合わせて、良太くんちに行く途中、道の上で鳩の死骸があって、また、いま、きみやの帰りに、セブイレに寄ったんだけど、帰り道で、鳩の死骸が落ちてるのを見たんだけど、一日のうちに鳩の死骸を2回も見るのは、はじめて。

きみやに寄る前にジュンク堂で詩集のコーナーで、いろいろ詩集を手にして読んでたんだけど、ああ、そうだ、ハル・クレメントの『20億の針』を買おうかなと思って4階に行ったら、『一千億の針』しかなくって、ああ、売れてんだなと思って帰ったら、amazon で買おうと思ったのだけれど、帰りに西院の「あおい書店」に寄ったら、『20億の針』もあったので、『一千億の針』といっしょに買った。さいきん読んでる本がおそろしくつまんないのだけれど、1カ月か2か月前に書店でチラ読みした『20億の針』の冒頭がめちゃくちゃおもしろいことを思い出して買ったのだった。さて、買ったものの、読んだつづきも、おもしろいだろうか。ふううむ。ひゃ〜、いまページをめくったら、『20億の針』の原作の出版が、1950年だって。SFがいちばんおもしろかったころだね。そりゃ、おもしろいはず。創元も復刊するはずだわ。

きょうは、大谷良太くんちで、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』の最終校正をしたのだけれど、振り返ると、ぼくは、しじゅう、自分の詩に手を入れてるので、「反射光」だけでも、詩集でバリエーションが4種類ある。最終的に収録した詩集のものが決定版になるのだと思うのだけれど、いまのところ、ことしの12月に書肆ブンから出る、『みんな、きみのことが好きだった。』に収録した詩が決定版になると思う。もう、「反射光」には、手を入れるつもりはないし、ほかの詩も、『みんな、きみのことが好きだった。』に収録した分については、これ以上、手を入れるつもりはない。きょうは、ハル・クレメントの『20億の針』のつづきを読みながら寝よう。そだ。CDが1枚、届いた。韓国のきれいなお嬢さんのCDだ。韓国語が読めないから、名前が出てこないけれど、このあいだ、ツイートしたアーティストのものだ。いまかけたのだけれど、言葉はわからないけれど、雰囲気はすごくよい。ポスターがついてたけれど、容姿には興味がないので、ポスターは捨てるけど、曲の雰囲気は、いま2曲目にうつったところだけど、いい。ジャジーで、だるい感じだ。

こんな曲を歌ってらっしゃる方だ。

https://www.youtube.com/watch?v=XrPxksvrB2g&feature=share

というか、創元、バラードの『ハイーライズ』も復刊してたし。ハヤカワのラインアップは10月までに関してはぜんぜんいいのがなかったけれど、この秋は創元のほうがいいね。11月にハヤカワがバリントン・J・ベイリーの短篇集を出すというので、それだけが救いかな。

ちなみに、きょう、大谷良太くんちで、最終校正した、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』です。表紙は、35歳のときのぼくです。20年まえの写真です。

https://www.amazon.co.jp/dp/4990788664/ref=cm_sw_r_apa_Lca6xbAV5FXB8

ひゃ〜。いま創元のHPを見たら、アン・レッキーの三部作の完結篇・第三部『星群艦隊』が10月28日に出るっていうじゃないか。創元、すごい。第一部でぶっ飛び、第二部で堪能したラドキ戦記(だったかな?)。第三部がどうなるのか、たいへん、ひじょうに楽しみ。いまネットで調べたら、「ラドチ」だった。本棚の本で調べるよりも、ネットでさぐるってのが、めんどくさがりやのぼくらしい。そうだ。「ラドチ」だった。どうして、「ラドキ」って思ったのだろう。

そだ。韓国から届いたCD、ポスターだけじゃなくて、キャンディーも2個はいってて、サービス満点だった。


二〇一六年十月十八日 「20億の針」


ハル・クレメントの『20億の針』が、読んでて、すいすい読み進める。そりゃ、創元も再版するわな。新訳でだけど、ちょっと残念なのがカヴァー・デザイン。やっぱり、続篇の『一千億の針』とのダブル・カヴァーでなくっちゃ、よろしくなかったと思うのだけれど、まあ、いいか。


二〇一六年十月十九日 「一千億の針」


『20億の針』5分の4は読み終わった。きょう寝るまでに読み切れないかもしれないけれど、ひじょうにわかりやすいし、おもしろいSFだ。やっぱり読むものは、おもしくなくちゃね。

『20億の針』読み終わった。犯人は、3分の2くらい読んだときに、この人物かなっと思った人物だった。犯人というか、宿主は。これから続篇の『一千億の針』の解説を読んで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月二十日 「久しぶりに、吉田くんと話をしようとして冷凍室に行った」


吉田くんと話をしようとして冷凍室に行った
吉田くんとは一週間前ほど前に話をしたのだけれど
話の途中で少し待ってもらうことにしたのだ
むかしは電話というものがあって
すこしの間の沈黙が不快な感じを与えたものであるが
冷凍庫が普及するにつれて
みな沈黙する間
そこに自分が入るか
相手に入ってもらうかして
沈黙にお時間をやりすごすことにして
コミュニケーションが以前より円滑に行くようになったのである
冷凍庫から出てすぐには
頭がはたらかないので
コーヒーを二杯飲んでから話をすることにしている
吉田くんの前にコーヒーを置いて
完全解凍するのを待った
三時間ほどして
吉田くんの意識がはっきりしてから
ぼくたちは一週間前に中断していた話の続きをはじめた
アフガニスタンの青年のペニスは
ユリのめしべにそっくりだった
トイレで爆発
ホモフォビアの連中の仕業
スカンクのからだを
けりつづける
骨が砕けて
水枕のようにやわらかくなった
スカンク
ヤンキー風の青年は
といっても二十歳にはまだなっていない
少年は
はじめてのセックスは犬とだった
まじめな顔をして言う青年に唖然とする
ドラッグブルーとドラッグレッドのために
キッズがドクターを襲う
トイレに凍結地雷を仕掛けるホモフォビアの青年
「どうでもいいじゃないか
あいつらのことなんて
なんで
おれがこんなことをしなきゃやならないんだ
それに
いくらゲイだからといって
こんなものを仕掛けられなければならないってことはないだろうし
ああ……」
その青年の意識から叙述する
犬人間に小便を引っ掛けるキッズたち
ゴーストの意識から叙述する
ゴーストには違って見える
一枚一枚の葉っぱが人間の目に
藪のなかの暗闇が無数の人間の唇に
テロ
トイレで爆発
すぐにニュースが流れる
ハンカチが新聞になる
新聞が語る
そうだ
凍結地雷が
トイレのなかに仕掛けられていた
凍りついた人間犬
犬のように四つんばいになっている奴隷人間
その奴隷人間にしがみついている主人
奴隷人間の首からぶら下がったプラカード
「こいつは犬です
犬野郎です
虐げてやってください
辱めてやってください
小便を飲ませてやってください」
能の舞をする貴族
真剣の刀を振り回す九条家の御曹司
ホモフォビアのテロ攻撃
ドクター
ちんぴらキッズ
テロの爆発のすぐあとに
対話型ニュースペーパーで
犬奴隷が凍結地雷で
凍りついた姿で
トイレの前にいるのを知る
凍りついた犬奴隷に
小便をかけるキッズたち
小便のぬくもりで凍りついた犬奴隷が
じょじょに解凍されていく
ニュースペーパーで
その画像をみる青年


二〇一六年十月二十一日 「きょうは一日じゅう」


疲れがたまっていたのか、きょうはずっと寝ていた。まだ眠い。


二〇一六年十月二十二日 「筋肉の硬化」


ネットで調べてたら、筋肉の硬化は45才くらいからはじまるらしい。関節も動かさないでいると、動かなくなるらしい。やっぱり運動しなくてはいけないみたいだ。運動をまったくしないで生きてきたので、ここ1年ばかり、関節や筋肉が痛いのだな。

「苦痛こそ神である」という詩句を書いたことがあるけど、いまこうむっている関節と筋肉の痛みは半端なくて、睡眠薬をのんでいても、苦痛で夜中に目がさめるのだけれど、これが生きているということかもしれないとも思った。

でもまあ、いいか。身体はきつくなってきたけれど、この年齢でしか書けなかったものもあるのだし、と考えると、若くて亡くなった友人たちのことが頭に思い浮かぶ。彼らはみな、15歳のまま、二十歳すぎのまま、永遠に若くて、うつくしい。

とにかく、毎日、生きていくのがやっとという状態で生きているけれど、神さまも、そう残酷ではいらっしゃらないだろうから、そんなに長く、ぼくを苦痛の下に置いておかれることはないと思うのだけれど、わからない。

FBで、笑ける動画があったのでシェアした。5回連続再生して、5回とも声を出して笑ってしまった。まだ笑える自分がいることを、ひさしぶりに知った。ここ最近、笑った記憶がなかった。

ユーミンのアルバムを3つ買った。1枚も持っていなかったのだ。LP時代に持ってた2枚と3枚組のベスト。2枚のアルバムは、「時のないホテル」と「REINCARNATION」。ちょっと感傷的になってるのかなあ。さっき、「守ってあげたい」をチューブで聴いて、フトシくんのこと思い出したし。

チューリップのアルバムも買った。タイトルは、「Someday Somewhere」。LP時代には2枚組だったけど、CDじゃ、どうなんだろ。あ、2枚組だ。

クスリのんで寝よう。ついつい、懐かしくって、LP時代に持ってたものを買ってしまった。ユーミンの3枚組ベストは別だけど。ちょうど10000円くらいの買い物だったんじゃないかな。さいきん、本代にお金をあまり使ってないから、いいか。

あ、10000円超えてた。粗い計算してるなあ。それでも、まあ、55年、生きてきたのだし。あと数か月で、56才になるんだし。部屋にあるもの、好きなものばっかしだし。本に、CDに、DVDに、怪獣のソフビ人形に、って、これだけか。単純な人生だわ。いつ死んでもよい。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月二十三日 「全行引用詩」


言葉とは何か、自我とは何か、という命題をもっとも簡潔に表現できる対象として、哲学があげられるが、ぼくには、哲学は、新プラトン主義で目いっぱいなので、詩を通して考えることにしているのだが、ぼくの方法がしばしば拒絶的な反応を引き起こすことが、ぼくには不思議で仕方ないのだが、どうだろ。引用だけで作品をつくって、30年くらいになるのだが、いまだに批判されているのだが、ぼくには批判されている理由がまったくわからない。著作権法に関して引用の項目をクリアできるように、引用元を逐一、本文に掲載しているにもかかわらずである。ひとりの作者からの引用は違法性が高いので、なるべくたくさんの作者からの引用で構成しているのだが。まあ、ぼくのつくる「全行引用詩」が、容易につくれると思って批判している様子も見受けられるが、つくるのが容易でないのは、つくってみれば明らかなのだが、しかし、もしも容易ならば、ぼくは容易に作品がつくれるような方法を提示したことになる。ぼくのつくったものに、個々のピースに関連性がないものがあると指摘する者がいたが、必ず詩句には関連性がなければならないと主張することは、ぼくには意味がないと思われるのだが、そんな基本的な事柄においてでさえ、見解が異なるのだが、ぼくは、ぼくの信念によって、作品をつくりつづけるしかないと思っているのだが、あまりにも批判的な見解が多いので、ほんとうにびっくりしている。引用において個性が発現するという見解さえ持ち合わせていない御仁もいらっしゃるのだ。関連性のないように思われるものを、関連性のあるもののあいだに置くと、言葉がどのような影響を受けるのかとかいった実験もかねているのだが、ぼくの「全行引用詩」における実験性にはまったく言及がないというのが現状である。30年近く、「全行引用詩」を書いているのだが、ぼくが生きているあいだに、ぼくの「全行引用詩」は、ごく少数の方たちからしか理解されないのかもしれない。まあ、それでもいいのだけれど。ぼくの人生は、ぼくが歩んでいくもので、その途中でへんな邪魔さえされなければいいかなと思っている。

きのうのうちに、『詩の日めくり』の第二巻が1冊売れてたみたいだ。うれしい。

https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/499078863X/ref=la_B004LA45K6_1_8?s=books&ie=UTF8&qid=1477214789&sr=1-8

ハル・クレメントの『一千億の針』 予想ができない展開で、いまちょうど半分くらいのページまで読めた。きょうは、寝るまでつづきを読もう。

いま思い出したのだが、文学極道の詩投稿掲示板で、ぼくの「全行引用詩」について、とてもおもしろくて、有益な見解を示してくださったゼッケンさんという方がいらっしゃった。また、ネットのなかで、ぼくの「全行引用詩」のおもしろい解析をされた、こひもともひこさんがいらっしゃった。また、澤あづささんは、ぼくの「全行引用詩」を評価してくださって、『全行引用詩・五部作』上下巻の序詩をネット上で紹介してくださった。あまつさえ、澤あづささんは、すずらんさんとともに、文学極道の詩投稿掲示板で、ぼくの「全行引用詩」を擁護してくださった。すずらんさんは、また、ぼくの「全行引用詩・五部作」をご自身のブログに転載くださったのだった。ありがたいことだと思う。ついつい、ひとり孤立しているかのように錯覚してしまっていた。批判ばかり目にしてしまって、冷静さを失っていたようだ。

ひさびさに、 VERY BAD POETRY と The World's WORST POETRY のページをめくった。日本には、こういった類の詩のアンソロジーがないのだね。あったら、ぼくなら、すぐ買っちゃうけどな。こういうものがないっていうのは、日本の国民の気質によるのかな。ユーモアという部分だけど、たとえば、紫 式部の持っていたユーモアって、ちょっと、ぼくの抱いているユーモアより皮肉に近い感じだしね。ああ、もうこんな時間だ。クスリのんで寝ます。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月二十四日 「騙る」


ジーン・ウルフ 『ナイト I』 脱字 179ページ終わりから3行目「騎士の名を る連中が」  「名乗」が抜けている。それに加えて、この部分の「を」の文字の上に「1」という数字が重なっている。いったい、どういう校正家をやとっているのだろう、国書刊行会。この本、これで2か所の脱字だ。

国書さんからメッセージがあって、正誤表を見せていただいたら、ぼくが指摘したところ、「名乗」じゃなくて、「騙」だった。たしかに「騙る」しかないな。ぼくの詰めが甘いというか、言葉について、まだまだだなってことだな。ああ、恥ずかしい。詩を書いて約30年。

ユーミンのベスト『日本の恋とユーミンと。』が到着。さっきからかけてるんだけど、3枚目のCDの選曲、ぼくにはよろしくない。しかし、まあ、1枚目と2枚目のCDには、なつかしいものがつまっていてよい。「守ってあげたい」で、フトシくんの記憶がよみがえる。ぼくが23才で、彼が21才だった。フトシくんが、ときどき、ぼくの目を見つめながら、マイクを握って、カラオケで「守ってあげたい」を歌ってくれたのだけれど、フトシくんのことはまだちゃんと書いてなかったから、そのうち書こう。フトシくんはイラストを描くのが趣味だった。やさしい男の子だった。

きょう届いたユーミンのベストに、「瞳を閉じて」が入ってなかったので、amazon で、『MISSLIM』を買った。

あとすこしで、ジーン・ウルフの『ナイト I』を読み終わる。

ユーミンの「海を見ていた午後」を10回連続くらいで聴いている。ひさしぶりに日本語の曲を耳にして、日本語の歌詞に耳を傾けている。

ユーミンの曲の影響だろう。きょうは、しじゅう、フトシくんのことを思い出していた。失ったのではなく、築くことができなかった時間について考えていたのだった。もしも、もしも、もしも、……。やっぱり、ぼくたちは、百億の嘘と千億のもしもからできているような気がする。

現実の生活では、いっさいユーモアのない生き方をしている。書くものは、ユーモアを第一に考えているというのに。矛盾しているのだろうか。


二〇一六年十月二十五日 「フトシくん」


ユーミンの『時のないホテル』と『REINCARNATION』が到着。何十年ぶりに聴くのだろう。『時のないホテル』から聴いている。ああ、こんな曲があったなあと、なつかしく思いながら聴いている。

野菜でできた羊。野菜でできた棺。野菜でできた執事。野菜でできた7時。

ジーン・ウルフ 『ナイト II』 誤字 38ページ 6行目「どんな感じが確かめようと」 これは「が」じゃなくて「か」ですね。脱字だけではなくて、誤字もあったのですね。なんだかなあ。国書刊行会の校正家はぜったいにほかの人に替えてほしいなあと思う。読んでて興ざめる。

2枚のアルバムが届いても、ベストに入ってた「海を見ていた午後」を繰り返し聴いている。この曲が思い起こさせるイメージが、強烈にフトシくんとのことを思い出させるのだ。『ブレードランナー』の映画にでてくるレプリカントのひとりのセリフが木霊していた。「おれの目はあらゆる美しいものをみた」だったかな。フトシくんとは短いあいだしか付き合ってなかったけれど。そうだ。フトシくんとは、その後、一度も会っていないのだけれど、これまでの経験で、10年とか20年とか会っていないと、別人のように変貌してしまっていることが多くて、ぼくは、塾からの帰り道、「そうだ。ぼくの目もたくさんのうつくしい者たちの姿を見てきたけれど、そのうつくしい姿がうつくしくなくなるのまで見てきたのだ。」と思ったのだった。2週間ほどまえ、むかし、かわいいなあと思ってたひとと河原町ですれ違った。いまはもう微塵もかわいらしいとは思えなかった。ぼくの目は表面しか見えないようだ。これまで付き合ってきた男の子たちとは、いちばんうつくしいときに出合って、別れたのだと思う。ぼくの作品は、そのうつくしさを写し取っているだろうか。「高野川」、「夏の思い出」といったものが、それだけど、「どこからも同じくらい遠い場所」や「陽の埋葬」のいくつかも、その類のものだった。そういえば、思潮社オンデマンドから出た『ゲイ・ポエムズ』のさいごに収載した作品にもうつくしい青年が出てくる。ぼくの性格からくるものだろうけれど、自分のほうから相手の名前を聞くことができなかった青年のひとりだった。そういえば、「月に一度くらいやけど、女よりも男のほうがいいと思えるねん。」と言っていた中国人の青年の名前もわからない。

「海を見ていた午後」が入っているオリジナル・アルバムは、あしたくらいに到着するだろう。「うつくしくなくなるのまで見てきた」なんと浅はかで、薄っぺらい目をしているのだろう、ぼくの目は。でも、この目でしか、ぼくには見えないのだから、仕方ないな。

ほんものの詩人って、どんな目をしているのだろう。


二〇一六年十月二十六日 「チューリップは失敗だった。」


これから塾へ。きょうも学校から帰って、到着したユーミンの『MISSLIM』を聴いていた。なかでも、「海を見ていた午後」を何回も聴いていた。どうしても、フトシくんのことが思い出される。

塾から帰ったら郵便受けに、チューリップの『Someday Somewhere』が到着してた。さっそく聴いてる。ああ、こんな曲があったなあと、なつかしく思い出してる。出来のバラバラの楽曲たち。こんなへんてこな2枚組のアルバムだったんだと思ってる。四人囃子の出来とは愕然と異なる。アルバム評価が高い理由がわからない。懐かしくてよい曲はあるのだが、数曲だった。買わなきゃよかった。ついでに買おうと思ったのが間違いか。なんか聴きつづけてて、気持ち悪くなった。いい曲だけ聴くことにするけど、なんか、めっちゃ損した気分。出来は1枚目よりも2枚目のほうがいいと思うけれど、財津和夫の声って、こんな気持ち悪かったっけ、と思うほど。なんだろう。高校生のときはよく聴いてたのに。

四人囃子のもので1枚欲しいと思っていたのがあって、amazon 見たら、森園勝敏のアルバムが2014年に再発売されていたので、3枚買った。1枚900円ほどで、いま2000円を超えたら送料無料になってたので、3枚のアルバムを買っても2700円台だった。これは、ミスなしによいと思う。

いや、チューリップ、ほんとダメだわ。こんなんやったんやって感じ。聴けば聴くほど、財津和夫の声が気持ち悪い。だからか、ほかのボーカリストの曲がいいと思うのか、財津和夫じゃないボーカルの曲を選んで聴いている。例外は、1曲だけ。「8億光年の彼方へ」 これは許せる。これとタイトル曲くらいかな。「哀別の日」のようないい曲が、あと何曲かあればいいのに。「まだ闇の内」は好きな曲だった。チューリップは期待し過ぎだったのだなあと思う。いま、四人囃子の『ゴールデン・ピクニックス』を聴いてる。あ〜あ、なにしてるんだろう。まあ、いいか。そろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月二十七日 「脱字」


ジーン・ウルフ 『ナイト II』 脱字 317ページ 最終行 「あたかくてやわらかい」 「た」が抜けている。「あたたかくてやわらかい」だろう。


二〇一六年十月二十八日 「インスピレーションの枯渇」


いま日知庵から帰ってきた。竹上さんに、さいきん、ぼく、インスピレーションがわかなくって悩んでるの、と言うと、「映画でも見ましょう」ということで、11月3日にいっしょに映画を見ることになった。女性とふたりで映画を見るのは、ぼくの人生ではじめてのことなので、自分でもびっくりしている。

あしたはCD聴きまくって、ジーン・ウルフを読もう。『ナイト II』あともうちょっとで終わり。だんだんおもしろく、というか、かなしみのまじった、おもしろさに突入。時間の操り方が超絶なのだな、ジーン・ウルフは。ぼくも見習おう。

竹上さんを見習って、ぼくも小説を書こう。という話を、日知庵でしていた。というか、ぼくは、もともと、小説家になりたくて、家を出たのだった。小説はけっきょく、2作書くのに数年かかってしまったので、見切りをつけて、詩に移行したのだった。そのへんの事情は、「陽の埋葬」に書いているのだが。書いた小説のうち、SFは、『負の光輪』というタイトルで、ネットで検索してくだされば出てくると思うけれど、もう1作の自伝的な小説は一時期公開していたのだけれど、いまは読めないようにしてもらっている。『マインド・コンドーム』というタイトルのものだけれど。


二〇一六年十月二十九日 「森園勝敏」


森園勝敏のアルバム3枚到着。『JUST NOW & THEN』から聴いている。『クール・アレイ』、『スピリッツ』の順番に聴こうかな。逆でもいいけど。ここさいきん買ってる20枚くらいのアルバムのなかで、いちばんゴキゲンなナンバーばっかし。ベストアルバムに近いアルバムで、新曲は2曲だけなのだが、ほかの曲はリテイクらしい。ぼくに確実にわかるのは「レディ・バイオレット」だけだったけれど。聴き込めば、もっと違いがわかるかもしれない。

いま日知庵から帰った。はまちゃんに、ぜんぶ、ごちそうになった。ありがとうね。はまちゃん。いつか、ぼくが、お金持ちになったら、おごり返すからね。あっ、ぼくが、お金持ちになることはないか。でも、そういう気持ちはあるからね。はまちゃん。おやすみ、グッジョブ!

毎日、自分の詩集の売り上げチェックしてるんだけど、きょう、『詩の日めくり』第3巻が1冊、売れたようだ。うれしい。

https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788648/ref=la_B004LA45K6_1_8?s=books&ie=UTF8&qid=1477758192&sr=1-8


二〇一六年十月三十日 「竹田先生」


きょう日知庵で、竹田先生に、「直販で買いますから、詩集を持ってきてください。」と言われた。書店流通じゃない詩集ね。書店で出たのはぜんぶ買ってくださってるから。これから、日知庵に行くときは、さいきん出た詩集を持って行かなくてはならない。10冊くらいあるんですけど〜。ことしだけで7冊出している。


二〇一六年十月三十一日 「誤字」


今月が31日まであることに、いま気がついた。おやすみ、グッジョブ!

ジーン・ウルフ 『ウィザード II』 誤字 238ページ 3行目 「見あげた心がけた。」 ここは、「心がけだ。」のはず。 このあいだ、国書さんから正誤表が郵送されてたけれど、まだまだありそうだな。 ほんと、国書の校正家は替えてほしい。安くない本なのだから。しかも4巻もの。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



 こうなるとフェルナンドの狂的な公理の一つを認めないといけなくなる、偶然などありはしない、あるのは宿命だという。人は探しているものだけを見出すのであり、心のもっとも深く暗いところ、そのどこかに隠れているものを探す。そうでなければ二人の人間が同一人物に会ったとき、どうして二人の心に必ずしも同一の影響を与えるわけではない、そんなことになるのか? どうして革命家に会ったとき一人は革命に参加し、一人は革命に無関心のままでいるというようなことになるのか? それはおそらく人は最後には出会うべき人間に出会うことになっているからに違いない、したがって偶然というものは極めて限られたものとなる。わたしたちの人生においてまったくびっくりするような出会いというものは、たとえばわたしとフェルナンドの再会は、無関心な人間のあいだを通してわたしたちを近づける見知らぬ力の結果にほかならないのであり、それはちょうど鉄の粉が少し離れたところからでも強力な磁石の磁極に向かって引きつけられるようなものであり、仮に鉄の粉が現実を十分に把握しえないまでも自分の行為が少しでも理解できるとしたら、その動きにおそらくびっくりすることになるだろう。
(サバト『英雄たちと墓』IV・3、安藤哲行訳)

偶然なんです。
(カミラ・レックバリ『氷姫』III、原邦史朗訳)

(…)ある未知の展覧会で行きずりの偶然に──というのは彼らはいつもすべてを偶然に見るからだが──出会った、(…)
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)

スタンダールは私の生涯における最も美しい偶然の一つだといえる。──なぜなら、私の生涯において画期的なことはすべて、偶然が私に投げて寄越したのであって、決して誰かの推薦によるのではない。
(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも怜悧なのか・三、西尾幹二訳)

 ある古人は、「われわれは偶然にまかせて生きているのだから、偶然がわれわれにたいしてこれほど力を持っているのは驚くにあたらない」と言っている。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第1章、荒木昭太郎訳)

頭のなかに全体のかたちを持っていない者にとっては一片一片を並べあわせることができない。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第10章、荒木昭太郎訳)

哲学は、われわれのうぬぼれと虚栄をたたくときほど、その決断のなさ、力の弱さ、無知を率直に認めるときほど、すぐれた働きをすることはないように、わたしには思われる。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)

 りっぱな魂とは、普遍的な、開放的な、すべてのことにたいして用意のできている、教えこまれてはいなくても、少なくとも教育のすることの可能な魂のことだ。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)

 ジャスティンは、自分はここには一度も来たことがないという確信めいた印象をもった。それがなにかの意味をもつということではないけれど。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』11、川副智子訳)

きみは生まれてまだ四日目なんだぞ──
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』13、川副智子訳)

その四日だけでもうたくさんだった。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』11、川副智子訳)

四日もあったじゃないですか。
(ナポレオン・ボナパルトの書簡、ジョゼフィーヌ・ボーアルネ宛、1796年3月30日付、平岡 敦訳)

四日間の空白を思うと、
(ナポレオン・ボナパルトの書簡、ジョゼフィーヌ・ボーアルネ宛、1796年3月30日付、平岡 敦訳)

また私です。
(クレマンティーヌ・キュリアルの書簡、スタンダール宛、1824年7月4日付、松本百合子訳)

 さあ、アンリ、ロジーヌのところへ行くといいわ。私の大嫌いなロジーヌの腕に飛びこむといいわ。そうすればどんなに私も嬉しいか。だって、あなたの愛は、女の人生に起こりうる、最悪の不幸だもの。もしその女が幸せなら、あなたはその幸せを取りあげる。もしその女が健康なら、その健康を損なわせる。その女があなたを愛せば愛すほど、あなたはつらくあたり、野蛮にふるまう。その女が「大好きよ」とあなたに言った瞬間から、もうお決まりのことが始まるの。つまり、その女が耐えられなくなるまで痛めつけるのよ。
(クレマンティーヌ・キュリアルの書簡、スタンダール宛、1824年7月4日付、松本百合子訳)

四日間の旅、あと二十四時間です。
(ジェイムズ・P・ホーガン『プロテウス・オペレーション』上巻・2、小隅 黎訳)

 いつもながら、クロードとかかわりのあるものは、どれもあいまいで、不可解で、疑わしい。アンナのような気性の激しい女性にとって、こうした積みかさねから出てくるものはただ一つ──怒りであった。
(ジェイムズ・P・ホーガン『プロテウス・オペレーション』下巻・29、小隅 黎訳)

きみには、何が見えるんだね?
(フレデリック・ポール『マン・プラス』10、矢野 徹訳)

四日後ではなく、
(フレデリック・ポール『マン・プラス』17、矢野 徹訳)

このつぎで四度めになるが、
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』下巻・第十部・125、酒井昭伸訳)

四日目の朝、わたしたちは眩しい日ざしで目をさました。
(ロバート・シルヴァーバーグ『時の仮面』16、浅倉久志訳)

 だが、ジャックはヴォーナンからなんの情報も聞き出してはいなかった。そして、愚かにも、わたしはなにも気づかなかったのだ。
 どうしてわたしは気づかなかったのだろう?
(ロバート・シルヴァーバーグ『時の仮面』16、浅倉久志訳)

「いっしょに歩こう」と、彼はいった。
(ロバート・シルヴァーバーグ『時の仮面』17、浅倉久志訳)

(…)アリスは(…)考えたこともなかった。なにもかもひどく面くらうことばかりだった。そしてアリスは、自分が面くらうのが好きだということをわかっていなかった。
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』36、細美遙子訳)

 詩人のロン・ブランリスはいいました、「われわれは驚きの泉なのです!」と。
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第3巻、矢野 徹訳)

驚きあってこその人生ではないか。
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』上巻・第三部・32、酒井昭伸訳)

理解は言葉を必要とする。物事のあるものは言葉にまで引き下ろすことができない。言葉なしでしか経験できない物事がある。
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の異端者』第1巻、矢野 徹訳)

そのような仮定の後ろには、言葉による信仰があり、(…)
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の異端者』第1巻、矢野 徹訳)

あなたの考えによると、鳥のいない世界では、人間が飛行機を発明したりしないんだろう! あなたはなんて馬鹿なんだ! 人間は何だって発明できるんだ!
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第3巻、矢野 徹訳)

 アリスはいつも二重に裏切られたような気分になるのだった──まず、だまされていたということに、そして次に、最後までちゃんとだましおおせてもらえなかったということに。
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』37、細美遙子訳)

四という数になにか魔術的な意味がこめられていたのだろうか、
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)

(…)歯痛というのは日常茶飯のことなのに、ふしぎと文学ではあまり取り上げられない。歯痛を扱った作品としては『アンナ・カレーニナ』と『さかしま』と『ブッデンブローク家の人々』の三つぐらいしか思い浮かばないが、これらの小説では奥歯の痛みが忌わしい悪として語られている。おそらく歯痛が卑俗なものであるからだと思うが、それにしても上記の三作がいずれも優雅、上品、洗練された小説であるというのも奇妙なことである。それにひきかえ、結核のほうは文学作品の中で、克明に描き出されている。(…)
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)

 ベルナンド・イグレシアスは、教会を意味するイグレシアスという名をもちながら、ついにその名に救われることはなかったが、考えてみると教会というものは人を救ったりはしないものだ。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』すべてが愛を打ち破る、木村榮一訳)

いったいあなたは恋をしたことがおありになって?
(ニール・R・ジョーンズ『惑星ゾルの女王』第一部・1、野田昌宏訳)

ぐんにゃりと折れ曲がっている。
(ニール・R・ジョーンズ『惑星ゾルの女王』第三部・1、野田昌宏訳)

大きくなってくる。
(ニール・R・ジョーンズ『双子惑星恐怖の遠心宇宙船』第一部・6、野田昌宏訳)

愛というものはうつくしいと同時に残酷なものです
(ニール・R・ジョーンズ『惑星ゾルの女王』第一部・4、野田昌宏訳)

でも必ず愛は勝つのね、そうでしょ?
(タビサ・キング『スモール・ワールド』14、みき 遙訳)

愛はすべてに打ち勝つ、と人はいう。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』上巻・4、浅井 修訳)

美しさへの愛って、それほど強いものなのか?
(ラリー・ニーヴン『時間外世界』第三章・1、冬川 亘訳)

 ラテン語の引用をするのもこれが最後、許してくれ。『愛はすべてに勝利する(アモール・ウインキツト・オムニア)』。ただし例外は不眠症(インソムニア)だけ。
(G・カブレラ=インファンテ『エソルド座の怪人』若島 正訳)

 ある日を境にして急にまわりの雰囲気が一変するというのは誰しもが知るところだろう。
(ヒュー・ウォルポール『白猫』佐々木 徹訳)

 クレオパトラが言ったように、あの出来事が傷のようにぼくをさいなんだ。その傷が今もなお疼くのは、傷自体の痛みのせいのみならず、そのまわりの組織が健全であるが故なのだ。
(L・P・ハートリー『顔』古谷美登里訳)

 もちろん、長期療養の後では、勤務はつらい。しかし、レター氏のあの口笛、突然陽気な気分になっては、また突然に無気力な様子になるあの変わりよう、あの砂色の髪にきたない歯が、わたしの怒りをめざめさせる。とりわけ、会社を出てから時間がたっても、あのメロディが頭の中でぐるぐるまわるときが、まるでレター氏を家に連れて帰るようなもの。
(ミュリエル・スパーク『棄ててきた女』若島 正訳)

 きのうの乞食はきょうの名士。ラビの女房は御者になる。馬泥棒は戻ってくれば共同体の長老だ。畜殺人は雄牛になって帰ってくる。
(アイザック・バシュビス・シンガー『死んだバイオリン弾き』4、大崎ふみ子訳)

こんどは何を知ることになるだろう?
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』5、船戸牧子訳)

その物語が、なにかほかの意味だということはないのかね?
(ラリー・ニーヴン『時間外世界』第七章・3、冬川 亘訳)

 イノックはポンプを押した。ヒシャクがいっぱいになると、男はそれを、イノックにさしだした。水は冷たかった。それではじめて、イノックは、自分ものどが乾いていたことを知り、ヒシャクの底まで飲みほした。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』6、船戸牧子訳)

 もしかしたら、知るということは、こうした事柄のうちでは、いちばん重要な部分とはいえないのかもしれない。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』5、船戸牧子訳)

 それほどまでに執着を持ってしがみついているのは、偏狭というものかもしれない。おれは、この偏狭さのために、なにかを失っているのかもしれないな。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』9、船戸牧子訳)

天国が公平なところだってだれがいいました?
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』49、細美遙子訳)

 母親がさまざまな狂信者とかかわりあったため、ヘレンは鋭い人間観察家に成長していた。人びとの筋肉には各人の秘めたる歴史が刻まれており、道ですれちがう赤の他人でさえ、(本人が望むと否とにかかわらず)そのもっとも内なる秘密を明かしていることを、ヘレンは知っていた。正しい光のもとで注意深く観察しさえすれば、その人の日常を彩る恐怖や希望や喜びを知り、その人がひた隠しにしている肉体的快楽のよりどころと結果を見抜き、その人に影響を与えた人びとのおぼろげな、しかし長く消えることのない反映を読みとることができるのだ。
(コードウェイナー・スミス『星の海に魂の帆をかけた女』5、伊藤典夫訳)

(…)骨と肉だけが顔を作るのではない──とブルーノは思った──つまり、顔は体に比べればそれほど物理的なものではない、顔は眼の表情、口の動き、皺をはじめとして、魂が肉を通して自らを現すそうした微妙な属性すべてによって特徴づけられるのだ。そのため誰かが死ぬその瞬間、肉体は突然何か別のものに、《同じ人とは思えない》と言いそうになるほど異なったものになるのだが、一瞬まえと、つまり、魂が肉体から離れるあの神秘的な瞬間の一瞬まえと同じ骨、同じ成分なのだ、そして、魂が離れると肉体はちょうど後に残された家のように生気を失くしてしまう。そこに住み、そこで苦しみ、愛しあった人々が永久に離れたあとの家のように。つまり、家を個性づけるものは壁でも天井でも床でもなく、会話を交わし、笑い声をあげ、愛情や憎悪を抱きつつそこで生を営む人間なのだ、非物質的とはいえ深遠な何か、顔に浮かぶ頬笑みのように物質的ではない何かで家を満たす人間なのだ、むろん、それは絨毯とか本、あるいは色といった物質を通して表に現れる。なぜなら、壁に掛けられた絵、ドアや窓に塗られた色、絨毯の模様、部屋に生けられた花、レコードや本といったものはそれが物質であるとはいえ(ちょうど唇や眉が肉体に属しているように)、魂を表明するものだからである。つまり、魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現れることがない、これが魂のもつ一つの脆(もろ)さであり、また、奇妙な精妙さである。
(サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳)

牛についてなにを知っている?
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』8、川副智子訳)

馬鹿な牛たちとは
(マイクル・スワンウィック『大潮の道』9、小川 隆訳)

神聖な牛だ。
(グレッグ・ベア『斜線都市』下巻・第三次サーチ結果・21/、冬川 亘訳)

うるわしき雌牛たちよ!
(イアン・ワトスン『我が魂は金魚鉢の中を泳ぎ』美嚢 透訳)

沈黙がつまりは正式な自白になる瞬間を待ちうけていた。
(マルセル・エイメ『パリ横断』中村真一郎訳)

夕闇がせまっていることに彼は気づいた。そして帰ってきた自宅は、これまで一度も暖炉の火をつけたこともなければ、暗がりに浮かびあがる家具がほほえみかけてもくれないし、だれも涙を流さず、だれも嘘をつかない場所だった。
(ウィリアム・トレヴァー『テーブル』若島 正訳)

 あきらめることができたら、きっと目が開かれて、しあわせになれる。くよくよしないで。まだ若いし、何年か苦しんだって損はしないさ。若さっていうのは、すぐ治る病気なんだ。ちがうかい?
(コードウェイナー・スミス『宝石の惑星』4、伊藤典夫訳)

エンダーには、そんな場所を自分の中にみつけることができなかった。
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』4、野口幸夫訳)

もしかすると、それこそが、あなたってひとなんじゃないかしら、あなたが記憶するものが
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』13、野口幸夫訳)

世界は物語でいっぱい
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』15、野口幸夫訳)

思い出というのは、わたしたちにいたずらをするものよ
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』13、野口幸夫訳)

(…)性は渾然一体になることができず、その混淆と自然の潮流へわれわれを同時に連れて行ってはくれないのだから、とあんたに教えたのであった。つまり、その区別があってはじめてわれわれは互いに寄り添い、それを取り戻すために離れ離れになり、そして別人であるが故にまた触れ合いを求める、そのためにこそわれわれはばらばらであることを赦されているのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

「それに場所よ。どんなところでも、たとえ想像でもいいから、あたしたちがふたたび生まれ変ることができるような場所があるはずだわ」
「場所ね、ドラゴーナ、しっかりと立っていられるようなところ。(…)」
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

ティムの顔は、さまざまな感情の去来する場だった。
(ブライアン・W・オールディス『神様ごっこ』浅倉久志訳)

(…)永遠の業罰の静けさの中で、わたしはむせび泣いた。わたしの嘆きに比べれば、宇宙は小さなハンカチでしかなかった。
(ブライアン・W・オールディス『ああ、わが麗しの月よ!』浅倉久志訳)

「ああ、心は鳥のよう」と女はゆっくり音楽にあわせて体を揺すりながら、静かに口ずさんだ。「あなたの手にとまるわ」
(マイクル・スワンウィック『大潮の道』5、小川 隆訳)

(…)しかし、そんなことは、彼にはどうでもいいことだった。滅ぶべきジェマーラが崩壊してしまうことさえも、彼にはどうでもいいことだった。彼のなかには、風がたえず埃を撒き散らす乾いた土地、埋もれた宝、人間の体がもぐりこめるような、あの空っぽの水盤などがあった。
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)

アレッサンドロ・サルテが自分一人だと思い、自分を見張っていない稀な瞬間には、彼の真の相貌が素描されて浮かびあがるのである。
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)

彼は存在していたのだろうか?
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)

きみは存在しているの?
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)

 気に入りませんな、人間は実際造ることができないんです。すでにあるものを並べ替えるだけでしてね。神のみが創造できるのですよ
(ロジャー・ゼラズニイ『わが名はレジオン』第三部、中俣真知子訳)

 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。
(コリント人への第二の手紙五・一七ー一八)

ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。
(ガラテヤ人への手紙六・一五)

 ときどきほんとうに、あれは夢にすぎなかったのだと思うことがあります。着ているもの、手の動き、話すときの口つきまで、なにもかもありありと眼前にうかんで見えるからです。こんなに物のかたちが見えるのは夢の中だけですもの。目覚めている昼間には、細かいところに注意するひまがありません。あまりに多くのことが起こりすぎるので、片っぱしから忘れていきます。
(ノサック『ドロテーア』神品芳夫訳)

われわれがいいかげんな存在だからさ。
(ロバート・A・ハインライン『未知の地平線』15、斎藤伯好訳)

恐怖ほど長く持続するものは何一つない。
(J・G・バラード『沈んだ世界』3、峯岸 久訳)

西洋の庭園が多くは均整に造られるのにくらべて、日本の庭園はたいてい不均整に造られますが、不均整は均整よりも、多くのもの、廣いものを象徴出來るからでありませう。
(川端康成『美しい日本の私』)

 いかにも動きに富む風景、浜辺に、不揃いな距離を置いて立っている一連の人物たちのおかげで、空間のひろがりがいっそうよく測定できるような風景。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)

一輪の花は百輪の花よりも花やかさを思はせるのです。
(川端康成『美しい日本の私』)

 いったんこの世にあらはれた美は、決してほろびない、と詩人高村光太郎(一八八三ー一九五六)は書いた。「美は次ぎ次ぎとうつりかはりながら、前の美が死なない。」民族の興亡常ないが、その興亡のあとに殘るものは、その民族の持つ美である。そのほかのものは皆、傳承と記録のなかに殘るのみである。「美を高める民族は、人間の魂と生命を高める民族である。」
(川端康成『ほろびぬ美』)

「いやあ、これは本当に驚いたなあ」、とギョームは言った。
 彼女はひどく早口で言った。
「この画集を買うだけのことはあったでしょ、ね?」
 その言葉がどんなに自分を喜ばせてくれたかを隠したいと思って、彼は軽い《ああ》という感嘆詞を抑えつけた。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)

「ねえ、ギョーム」と彼女がふいに言った、ときおり見せるあの萎れたと言ってもいいような微笑みを浮かべながら、「そんなふうにして、火のなかになにを見つめていらっしゃるんですの? ……」
 なにを彼が見つめていたか? 解きがたく縺れあった彼の権利と彼のさまざまな過ちを。イレーヌにさまざまなことを説明してもらいたいという望み、というよりはむしろ、イレーヌではなく、《誰か》に、同時に彼女でもあり彼でもあるような誰かに、彼女よりもよく、彼よりもよく、彼ら二人を一緒に合わせたよりもよく理解できるような誰かに、それを待つことで彼が生涯を通してきたあの《同時代人》、そして今日エルサンのために彼ができることならそうなりたいと思っているあの《同時代人》に、さまざまなことを説明してもらいたいという望み。そういう公平な人間を、争う余地のないあの判断を彼はあまりにも当てにしすぎていたのだろうか? 彼は嫌らしいほど純朴だった。そうだ、少なくともこのことだけは彼も理解していた。すなわち、純朴さも嫌らしくなることがあり得るということだけは。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)

 ディディは手すりに駆けよって、まるでクジラたちが死のダンスを踊っているところへ手をさしのべようとでもするように、手すりから身を乗りだした。風が顔に吹きよせたが、風などまったく吹いていなかった。波しぶきがあびせかかった、クジラのように大きな波が、しかし海は静まりかえっていた。光がまぶしかったが、あたりはもう夜のやみだった。
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・10、冬川 亘訳)

 世俗的な嘘がどうして精神により高度なビジョンをもたらすことができるのか、ルーにはおぼろげに理解できた。芝居や小説は比喩を使ってそれを行っている。そして比喩的な意味としては、今度のハプニングは、単なる事実の達成を期待する文学的叙述より、精神的に真実の本質に近いビジョンを世界に提供するだろう。
(ノーマン・スピンラッド『星々からの歌』デウス・エクス・マーキナ、宇佐川晶子訳)

裏切りは人間の本性ではなかったかな?
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・7、冬川 亘訳)

きみがそう思うのは、そう思いたいからだ。
(ノーマン・スピンラッド『星々からの歌』〈銀河系の道〉、宇佐川晶子訳)

 聡明(そうめい)な人生の目的は同じ時代を生きる人たちの教訓になるように失敗してみせることである。なぜなら人は決して勝利からは学ばず、敗北からしか学ばないからである。
(ベルナール・ウェルベル『蟻の時代』第6部、小中陽太郎・森山 隆訳)

 愛というのは誰か好きな相手がいて、その相手と会えなくなることだ。そして再会すること
(ベルナール・ウェルベル『蟻の革命』第3部、永田千奈訳)

なんのことはない、子どもの遊びである。そしてぼくたちはふたりともそのことを笑う。とはいえ、彼女は本当には笑わない。それは一つの微笑である。静かな、献身的に──ちょうど同じようにぼく自身も微笑するのだろうと思う。
(エーベルス『蜘蛛(くも)』上田敏郎訳)

不潔きわまる貧民窟にも夕日はさして、人の想像力をかき立てたことだろうし、また、山の尾根で、大きな谷の上で、あるいは崖や山の中腹で、あるいはまた不安と恐怖の美に満ちた海のそばで、人びとは、未来の生のすばらしい姿を心に描いていたにちがいないのだ。花びらの一枚一枚、陽を浴びた木の葉の一枚一枚、あるいは子供たちの生き生きとした動き、また、人間の精神が自己を越えて芸術に高まる幸福な瞬間など、こういうもの全部が、希望の材料となり、努力への刺激となったにちがいない。
(H・G・ウェルズ『神々のような人びと』第一部・七、水嶋正路訳)

「話をすることが」と彼はまた言った、「それが一緒にいるいちばんいいやりかたかどうかよく分りませんけど……」
「話をしないことがですわ……」と彼女はまずそう言った。
「いや、沈黙というものは、そのまわりにある言葉によってしか存在しないものなんですよ、イレーヌ。人生はすべてそういうものですよ……僕たちの人生のどんな瞬間であろうと、僕たちのなかには、発散されることを必要とする力があるものなんです」、彼は勢いこんでそう話しつづけた、「どんな欲求でも、もしそれに逆らうものがあれば、とてつもない強さにまで高まるかもしれない」
「分ってますわ」と彼女は言った、「水を飲みたいとか、道を歩きたいとか、裸になりたいとかいう欲求ね……」
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』9、菅野昭正訳)

人はなぜ本を書いたり、絵を描いたり、歌をうたったりするの? コミュニケートするためじゃない。芸術を作るためよ。魂から魂に、心から心に語りかけるためだわ。分かちあうため……分かちあうためよ……
(ノーマン・スピンラッド『星々からの歌』ひとりの天井は、もうひとりの床、宇佐川晶子訳)

精神とは肉体に拘束されたものではないのだ。知性とは頭(ず)蓋(がい)骨(こつ)の中に閉じ込められているものではないのだ。自分が望みさえすれば、考えは頭の中から外へと飛び出し、まるで輝くレースが広がるように絶え間なく成長してゆく。
(ベルナール・ウェルベル『蟻の革命』第3部、永田千奈訳)

 ジュリーは目を閉じ、心の奥にしまった光のレースを取り出そうとする。頭蓋を飛び出した〈精神(エスプリ)〉のレースは大きく広がり、やがて森を包む雲になる。
(ベルナール・ウェルベル『蟻の革命』第3部、永田千奈訳)

いまやわれは独り地上にあって、この大地はわがものなのだ。
草木の根はわがもの、暗くしめった蛇の小道にいたるまでも。
空と鳥の小道の枝々もわがもの。
だが、わが自我の火花はわがものの領域を超えている。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』下巻・21、宮西豊逸訳)

スミザーズさん、二つの悪をお選びなさい
(ウォルター・デ・ラ・メア『シートンのおばさん』大西尹明訳)

わたしを選びたまえ。
(J・G・バラード『アトリエ五号、星地区』宇野利泰訳)

このわたしを
(アイザック・アシモフ『発火点』冬川 亘訳)


詩の日めくり 二〇一六年十一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年十一月一日 「いやならいやって言えばいいのに。」


えっ
まだ高校生なの
そういえば
なんだか
高校生のときに好きだった
友だちに似てる
あんにゃん
って呼んでた
同じ塾に通ってた
あんにゃんが行ってるって聞いて
あとから
ぼくが入ったんだけど
高一の夏休みから高二の夏休みにかけて
昼休みには
高校を抜け出して
何人かの友だちと
パチンコ屋に行って
五時間目にはよく遅刻してた
あんにゃんの自転車の後ろに乗っけられて
ぼくは
あんにゃんの腰につかまってたんだけど
ときどき腕を前にまわして
そしたら
腕の内側で
あんにゃんのお腹の感触を
恥ずかしいぐらいに感じちゃって
服を通してだけど
自転車がガタガタ上下するたびに
あんにゃんのお腹に力が入って
あんにゃんの腹筋がかたくなったことを
ぼくは覚えてる
ああ
むかし
かなわなかった夢が
いまかなう
あんにゃんとは
なにもなくって
でも
奇跡ってあるんだね
あんにゃんとは
なにもなかったからかな
キラキラと輝いてた
たまらなく好きだった
あんにゃんの手は
鉄の臭いがした
体育の時間だった
あんにゃんは鉄棒が得意だった
背はちっさかったけど
筋肉のかたまりだったから
ぼくは逆上がりもできないデブだった
あっ
いまもデブだけど
うん
あっ
でね
あんにゃんは
逆上がりのできないぼくに
手を貸してくれて
できるようにって
いっしょうけんめい手助けしてくれてね
あっ
この公園には
よく来るの
たまに
ふうん
みんな
そう言うけど
どうかなあ
ほんとに
ふうん
あっ
あれ
見て
あのオジン
蹴飛ばされてやんの
誰彼かまわず声かけまくって
ひつこく迫るからだよね
相手がいやがってるの
わかんないのかなあ
きみのさわってもいい
かたくなってきたね
じかにさわっていい
やっぱり
高校生だよね
このかたさ
ヌルヌルしてきたね
どう
イキそう
まだ
目をつぶった顔がまたかわいいね
ほんと
あんにゃんにそっくり
えっ
突然立ち上がって
どしたの
えっ
えっ
どしたの
どこ行くの


二〇一六年十一月二日 「ぼくの詩の英訳」


友だちのジェフリー・アングルスさんが、ぼくの詩を英語に訳して紹介してくださいました。

http://queenmobs.com/2016/11/22392/

思潮社オンデマンドから出した田中宏輔の『ゲイ・ポエムズ』が、きのうあたり1冊、売れたみたいだ。うれしい。ジェフリーが英訳して紹介してくださったおかげだろうと思う。ありがたい。

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%82%A8%E3%83%A0%E3%82%BA-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4783734070/ref=sr_1_14?s=books&ie=UTF8&qid=1478327320&sr=1-14&keywords=%E6%80%9D%E6%BD%AE%E7%A4%BE%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%89


二〇一六年十一月三日 「『フラナリー・オコナー全短篇』上巻」


『フラナリー・オコナー全短篇』上巻を読んでいるのだが、おもしろくなくはないんだけれど、なんか足りない感じがする。いや、足りないんじゃなくて、読んでて共感できない部分が多いって感じかな。でもまあ、読みかけたものだから、きょうは、つづきを読んで寝よう。


二〇一六年十一月四日 「切断」


人間には男性と女性の二つの性があって、どこで人間を切断しても、男性に近いほうの切断面は女性に、女性に近いほうの切断面は男性になる。切断喫茶に行くと、テーブルのうえで指を関節ごとに切断してくれる。指と指はその切断面が男性になったり女性になったり、くるくるとテーブルのうえで回転する。


二〇一六年十一月五日 「悲鳴クレヨン。」


クレヨンにも性別年齢があって、1本1本異なる悲鳴をあげる。さまざまな色を使って絵を描くと、その絵のクレヨンから、小さな男の子の悲鳴や幼い女の子の悲鳴や声変わりしたばかりの男の子の悲鳴や成人女性の悲鳴や齢老いた男の悲鳴や齢とった女性の悲鳴が聞こえてくる。壮絶な悲鳴だ。


二〇一六年十一月六日 「『伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ』」


きょうは、読書が、すいすいと進んだ。読みはじめたばかりの『伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ』も、もうさいごから2番目の作品デイヴィッド・I・マッスンの「旅人の憩い」のさいごのほうである。あとひとつ、ジョン・ブラナーの「思考の谺(こだま)」を読み残すばかり。きょうの寝るまえの読書は、ジョン・ブラナーの『思考の谺(こだま)』 イギリスの作家かなと思えるほど、描写がえげつない。ああ、いま確認すると、イギリス人だった。『伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ』に収録されているものの前半はいかにもアメリカって感じだったけれど。しかも、さいしょのルイス・パジェットの「ボロゴーヴはミムジイ」って、つぎに収録されている、レイモンド・F・ジョーンズの「子どもの部屋」と、ほとんど同じような設定で(ぼくにはね)なんで同時収録したのだろうかと疑問に思えるほどに似た雰囲気の作品だった。ジョン・ブラナーの「思考の谺(こだま)」を読み終わった。ハッピー・エンドでよかった。物語はせめてそうでないと、笑。ほっぽり出してるフラナリー・オコナーの全短篇・上巻をいま手にしてるのだが、まあ、これはほとんど救いのない物語ばかり。


二〇一六年十一月七日 「旧敵との出逢い」


とりあえず、いま、『フラナリー・オコナー全短篇』上巻を読んでいる。ちょうど、半分くらいのところ、「旧敵との出逢い」という短篇。100歳を越えたおじいさんが主人公のよう。語り手は、その孫という設定。いろんなタイプの作品を書いたひとなのだとは思うし、うまいけど、厭な感じが付きまとう。厭な感じって嫌いじゃないんだけどね。というか、好きかもしれないのだけど。アンナ・カヴァンといい、P・D・ジェイムズといい、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアといい、フラナリー・オコナーといい、厭な感じの作品を書くのは、女性作家が多いような気がする。


二〇一六年十一月八日 「死の鳥」


ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』2篇目を読んで、クズだと判断して、本を破って、クズ入れに捨てた。こんなことするの久しぶり。それくらい質が低い短篇集だった。何読もうかな。『フラナリー・オコナー全短篇』下巻にしよう。


二〇一六年十一月九日 「磔台」


ある朝
街のある四つ辻に
磔台が拵えてあった
道行く人はみな知らん顔を装っていたが
それでいて
磔木の影さえ踏まないよう
用心しながら通り過ぎて行った
そして
ある朝
ある見知らぬ人がひとり
磔になっていた
道行く人はみな知らん顔を装っていたが
それでいて
磔木の影さえ踏まないよう
用心しながら通り過ぎて行った
やがて
ある朝
その人が亡くなり
代わりに
ぼくが磔台に上った
道行く人はみな知らん顔を装っていたが
それでいて
磔木の影さえ踏まないよう
用心しながら通り過ぎて行った


二〇一六年十一月十日 「『フラナリー・オコナー全短篇』下巻」


『フラナリー・オコナー全短篇』の下巻を読んでいたのだが、黒人が出てこない作品がほとんどない。まだ差別のある時代に書かれたものだからかもしれないが、それにしても黒人の言及が多い。逆にいえば、モチーフにそれ以外のものを扱うことができなかったのかもしれない。

二〇一六年十一月十一日 「死刑制度に反対する人たちに対する死刑制度賛成論者たちに提言。」


犯罪者を遺族たちに殺させるというもの
被害者がされたことと同じ方法で
いわゆる
『同害報復法』ってヤツ
『仇討ち』とも言うのかな
さらに犯罪抑止力にもなって
被害者の遺族たちの感情も十分考慮されていると思うけど
どうかしら
おまけに
その様子をテレビ中継でもしたら
もっと犯罪抑止力になるってーの
どうかしら
モヒトツ
オマケに
遺族たちが犯人の死体と記念撮影までするってーの
どかしら


二〇一六年十一月十二日 「見ないでブリブリ事件」


これは
ごく最近
シンちゃんが
ぼくに話してくれた話
京極にある八千代館っていうポルノ映画館の前に
小さな公園がある
明け方近くの薄紫色の時間に
その公園のベンチの上で
男が一人
ジーンズを
おろしてしゃがんでいたという
シンちゃんが近寄ると
丸出しのお尻を突き出して
「これ抜いて」と言ったらしい
見ると
ボールペンの先がちょこっと出てたらしい
すると
すごくさわやかな感じのその青年は
もう一度
恥ずかしそうに振り返って
「これ抜いて」って言ったらしい
抜いてやると
「見ないで」って言って
そこに
ブリブリ
うんこをひり出したという
シンちゃんが見てると
また
「見ないで」って言って
また
ブリブリッと
うんこをたれたという
これを
「見ないでブリブリ事件」と名づけて
ぼくは何人かの近しい友人たちに
電話で教えまくった
「見ないで」
ブリブリッ


二〇一六年十一月十三日 「39歳」


『フラナリー・オコナー全短篇」下巻を読み終わった。上巻も通して全篇、黒人問題が絡んでいた。バラエティーが豊かなのだが、狭いとも思われる、奇妙な感触だ。39歳で亡くなったというのだけれど、若くて死ぬ詩人や作家は、ぼくには卑怯な面があると思われる。才能のある時期に死んだという面でだ。


二〇一六年十一月十四日 「白い紙。」


空っぽな階段を
人の形に似せた
長方形の紙に切り目を入れてつくっただけの
白い紙が
ひとの大きさの半分くらいの
一枚の白い紙が
ゆっくりと降りてくるのが見えた
ぼくは
机に向かって坐っていたのだけれど
ドアもしまっていて
見えないはずなのだけれど
なぜだか、ぼくには
階段のところも見えていて
人の形をした白い紙が
階段を降りてくるのが見えた
軽い足取りのはずだけど
しっかり踏み段に足をつけて
白い紙が降りてくる
ぼくは、机の上のカレンダーと
階段の人の形をした紙を同時に見てた

だれでもない

その日
帰りしな
駅のホームのなかで
ひとの大きさの白い紙がたくさん寄って
同じ大きさの一枚の白い紙を囲んで
ゆらゆらゆれているのを見た


二〇一六年十一月十五日 「名前」


ぼくは
ふと
手のひらのなかの小さな声に耳を傾けた
それは名前だった
名前は死んでいた

なぜ
そのひとときを
彼は
ぼくといっしょに過ごしたいと思ったのか。

そして
その疑問は
自分自身にも跳ね返ってくる。

なぜ
そのひとときを
ぼくは
彼といっしょに過ごしたいと思ったのか。

それが愛の行為だったのだろうか。

彼のよろこびは
ぼくのよろこびのためのものではなかった。

ぼくのよろこびもまた
彼のよろこびのためのものではなかった。

彼のよろこびは
彼のためのものだったし、

ぼくのよろこびは
ぼくのためのものであった。

彼は
ぼくのことを愛していると言った。
ぼくはうれしかった

どんなにひどい裏切られ方をするのかと
思いをめぐらせて。


二〇一六年十一月十六日 「見事な牛。」


見蕩れるほどに美しい曲線を描く玉葱と
オレンジ色のまばゆい光沢のすばらしいサーモンを買っていく
見事な牛。


二〇一六年十一月十七日 「死んだ四角だ。」


さあ
きみの手を
夏の夕べの浜辺と取り替えようね。
わたしに吹く風は
きみの吐息のぬくもりに彩られて
あまい眩暈だ。
きみの朝の空は四角い吐息で
窓辺にいくつも落ちていた。
死んだ四角だ。
そうやって
四角は
わたしにいつだって語りかけるのだ。

おばあちゃん子だったぼくは
ドレミファソラシド。
どの家の子とも遊ばせてもらえなかった。

二つの風景が一つのプレパラートの上に置かれる。

しばしば解釈の筋肉が疲労する。


二〇一六年十一月十八日 「まるで悲しむことが悪いことであるかのように」


まるで悲しむことが悪いことであるかのように
πのことを調べていると
ケチャップと卵がパンの上からこぼれて
コーヒーめがけてダイブした
ショパンの曲が流れ出した
世界一つまらないホームページという
ホームページにアクセスすると
3万5540桁あたりで
7という数字がはじめて5つ並んでいるのを
ジミーちゃんが見つけた
あと
28万3970桁あたりと
40万1680桁あたりと
42万7740桁あたりにも
7が5つ並んでて
7が7つ並んでいるのを
45万2700桁あたりに見つけたっていう話だ
ぼくはジミーちゃんを友だちにもてて
たいへんうれぴーのことよ
すてきなことよ
この間なんて
花見小路の場外馬券売り場に行ったら
もう時間が過ぎてたから
生まれてはじめて買うはずの馬券が買えなかった
っていう
すてきなジミーちゃん
花見小路に
造花の桜の花が飾ってあったけど
すぐそばの建仁寺に突き当たったところには
ほんとの桜が咲いていた
という
豚汁がおいしかった
彫刻刃で削ったカツオの削り節が
よくきいていた
ジャンジャンバリバリ
ジャンジャンバリバリ

詩に飽きたころに
小説でオジャン
あれを見たまえ


二〇一六年十一月十九日 「文学ゲーム・シリーズ ギリシア神話2 『アンドロメダ』新発売!」


どうしてわたしが語意につながれて
こんな違和の上に立たされているのかわからない
差異が打ち寄せる違和の上
同意義語が吹きすさび
差異の欠片が比喩となって打ちかかる
きつい差異が打ち寄せるたび
ぐらぐらと違和が揺れる
どうしてわたしが語意につながれて
こんな違和の上に立たされているのかわからない
差異が打ち寄せる違和の上
意味崩壊の前触れか
語意につながれたわたしの脳髄に
垂れ込める語彙が浸透してゆく

わたしはこの違和の上で待つ
わたしの正気を食らおうとする
意味の怪物を退治してくれる
ひとつの文体を


二〇一六年十一月二十日 「地下鉄御池駅の駅員さんにキョトンとされた」


烏丸御池の高木神経科医院に行って
睡眠誘導剤やら精神安定剤を処方してもらって
隣のビルの一階にあるみくら薬局で薬をもらったあと
いつもいく河原町のバルビル近くの居酒屋にいくために
地下鉄御池駅から地下鉄東西線を使って
地下鉄三条に行こうと思って
地下鉄御池駅から切符を買って
改札を入ったんだけど
べつの改札から出てしまって
自動改札機がピーって鳴って
あれっと思って
べつの改札口から出たと自分では思ってなくて
駅員さんに「ここはどこですか?」って
きいたら
キョトンとされてしまって
「すいません、ぼく、病院から出たばかりで
そこの神経科なんですけれど
ここがどこかわからないんですけれど」って言ったら
「御池駅ですよ、どこに行かれるんですか?」
って訊かれて
「あ、すいません、三条なんです
 電車って、ここからじゃなかったんですよね」
「改札から改札に出られたんですよ」
ううううん。
たしかに頭がぼうっとしてた
ちょっと涙がにじんでしまった
47歳で
こんなんで生きてるって
とても恥ずかしいことやなって思った
でも
帰ってきたら
とてもうれしいメッセージをいただいていて
ぼくみたいな人間でも
見てくださってる方がおられるのだなって知って
また涙がにじんでしまった

洗濯が終わった
これから干して
たまねぎ切って
スライスにして
食べて
血糖値を下げます


二〇一六年十一月二十一日 「角の家の犬」


きょうは恋人とすれ違ってしまった

さて
どっちに取る?

この家の子

そんな言い方しなくてもいいじゃない
頭が痛いよ
ぼくが悪いの?
この家が悪いの?

ぼくの耳に
きみの言葉が咲いた

咲いたけど
咲いたから
散る

散るけど
散ったから
またいつか
違ったきみになって
咲くだろう

もっときれいな
もっとすてきな
きみは

こんな詩を
いや詩じゃないな
いっぱい
むかし書いてたような気がする
きょう
ふと
そんな時期のぼくに
もどったのかな

角の家の犬

後ろに家の壁があるときは
とてもうるさく吠えるのに
公園の突き出た棒につながれたら
おとなしい


二〇一六年十一月二十二日 「狂気についての引用メモ」


同じ感情がずっと持続することがないように
自我も同じ状態がずっとつづくわけではない
感情が変化するように自我も変化するのだ
同じことを考えつづけるのは狂気だけだと
ショーペンハウアーだったかキルケゴールだったか
だれかが書いてたような気がする
むかしメモした記憶はあるのだけれど
メモを整理したときにそれを捨てたみたいで
だれだったかしっかりと憶えていない
狂気についての引用メモがいっさいなくなっている
これは自衛のために捨てたのかもしれない
そんな気持ちになったことが何度かあって
そのたびに本やメモがなくなっている
安定した精神状態がほしいけれど
そうなったらたぶんぼくはもう詩を書かない
書けないのだろうなあと思う


二〇一六年十一月二十三日 「シロシロとクロクロ」


天国に行きたいなあ
みかんの皮を乾かして漢方薬になるはず
もしだめだったら
東京ディズニー・ランドでもいいわ
千葉だけどね
シロクマ・クロクマ・シロクログマ
シロクログマって、パンダのこと?
ゲーテは、ひとりっきりで天国にいるよりは
みんなといっしょに地獄にいるほうがましだと言ってたけど
経験上、地獄はやっぱり地獄だわ
シロゴマ・クロゴマ・シロクロゴマ
えっ!
シロクロゴマって
そんなん
どこで売ってるの?
みんなといっしょにいても地獄だわ

いうか
みんなといると地獄だわ
ひとりでいても地獄だけど
みんなのこと
考えるとね
ディズニー・ランドでひとりっきりで
はしゃいで遊んでも
たしかに
つまらなさそう
みんなのこと
考えるとね
(はしゃいでへんけど)
シラユリ・クロユリ・シロクロユリ。
シロシロはユリで
シロクロやったら
ヘテロだわ
そろそろ睡眠薬と安定剤のんで寝まちゅ
プシュ


二〇一六年十一月二十四日 「立派な批評家」


明瞭に語られるべきものを曖昧に語るのが
おろかな批評家であり
曖昧であるものの輪郭を
読み手が自分のこころのなかに明確に描くことができるようにするのが
立派な批評家であると
わたしは思うのだが






して
立派に批評家であると
わたしは思うのだが
いかがなものであろうか


二〇一六年十一月二十五日 「桜の木の下には」


京大で印刷だった
キャンパスにある桜の木の下で
ちょっとした花見を
桜の木の下には
吉田くんと吉田くんたちが埋まっている
桜の木の下には
たくさんの吉田くんたちがうまっていて
手をつないで
お遊戯してた
ぼくたちは
吉田くんたちは桜の木のしたで
土のなかで盛り上がっていた
地面から
電気のコードをひいてきて
桜の木の下で
コタツに入って
プーカプカ
しめて
しめて
首に食い入るロープのきしむ音が
しめて
しめて
桜の木の下で
ぼくたちは
吉田くんたちはポテトチップを
むしゃむしゃ
むしゃむしゃ
桜の木の下で
ぼくたちは
吉田くんたちは
ぼくたちを見下ろしながら
ぎしぎしと
ぎしぎしと
ひしめきあっていた
この際


二〇一六年十一月二十六日 「セーターの行方」


きょうはぐでんぐでんに酔っ払って帰ってきました
いつも行く居酒屋で
作家の先生といっしょになって
3軒の梯子をしました
いつも行く居酒屋には
俳優の美○○○が女連れでいました
ぼくはカウンターにすわっていたけど
その後ろのテーブル席
ぼくの真後ろに坐っていて
作家の先生の奥さんがおっしゃるまで
気づかなかったのでした
オーラがないわ
という奥さんの言葉に
ぼくも「そうですね」と言いました
この居酒屋には
言語実験工房の荒木くんや湊さん
dioの大谷くんともきたことがあって
料理のおいしいところです

奥さんが
セーターを先生に作られたのだけれど
大きすぎたみたいで
田中さんにあげるわ
とおっしゃったので
いただきますと言いました
先生との話で一番印象に残っているのは
「見落としたら終わりやで」
奥さんがそのあと
「タイミングがすべてよ」
でした。
いちご大福を持って
女優の黒○○さんもくるという話だけれど
彼女にはまだ会ってないけれど
この居酒屋さんって
ふつうの居酒屋さんなんだけど
半年前くらい前のとき
アンドリューって名前だったかな
オーストラリアから来た
日系の
すっごいかわいい
20代半ばのカメラマンの青年に
ひざをすりすり
モーションをかけられたことがあって
なんだか
ぐにゃぐにゃ
むにむにむに〜って
感じでした。
そんときは
ぼく
じつは恋人といっしょで
彼には
いい返事ができなかったのだけれど
こんど会ったら
ぼくもひざをすりすりして
チュってしちゃおうって思っています
ああ
薬が効いてきた
もう寝ます。
おやすみなさい
みんな
大好き!


二〇一六年十一月二十七日 「小説家の先生の奥さまのお話」


デザインの専門学校で
その学院の院長先生のお話で
いまもこころに残っている言葉があって
それは
ギョッとさせるものではなくて
ハッとさせるものをつくるべき
っていうものだという
ギョッとさせるものなんて簡単にできるわ
いくらでもつくれるわ
ハッとさせるものはむずかしいのよ
とのことでした
先生のためにつくられたセーターが
先生にはちょっと大きめだったので
田中さん
着てくれないかしら
からし色のセーターなんだけど
ええ
ありがとうございます
着させていただきます
あらそう
じゃあ
こんどお店に持っていっとくわね
預けておきますから着てちょうだいね
合わないと思ったら返してくださっていいのよ
いえいえ
着させていただきます
先生もお勤め人だったことがあるらしく
10年ほど広告会社でコピーを書いてらっしゃったそうで
そのときのお話をうかがっていて
ぼくがやめるときに
あれはバブルの時代でしたね
杉山登志というコピーライターがいましてね
資生堂のコマーシャルとか手がけてた人でね
その彼が自殺したことがショックでした
原因は不明でね
わたしがコピーライターをやめたのはそのすぐあとです
帰ってgoogleしました
ウィッキーに
「本名は、杉山 登志雄(すぎやま・としお)
 テレビ草創期から数多くのテレビCMを製作し、
 国内外の賞を数多く受賞。
 天才の名を欲しいままにしたが、
 自らのキャリアの絶頂にあった1973年12月12日、
 東京都港区赤坂の自宅マンションで首を吊って自殺。
 享年37」
とあった
さらにgoogleで検索してたら
2007年の12月に
このひとのことを題材にしたテレビ番組をやってたらしくって
有名なひとだったのね
分野が違うと
ぜんぜん名前がわからない
はしご一軒目の居酒屋さんでのお話でした
ぼくが二度の自殺未遂の話をすると
奥さまが携帯の番号を書いてくださって
なにかのときには電話してちょうだい
と渡してくださったのですが
たぶん
しないだろうなあと思いながらも
はい
と言いながら
その電話番号に目を落として
書かれた紙を静かに受け取りました
そしたら先生が
わたしが死んだら
この人が追悼文を書いてくれますが
田中さんが亡くなったら
わたしが書きましょう
とおっしゃって
ぼくが
ええー
と言うと
奥さまが
わたしも書くわ
とおっしゃって
またまた
ええー

ぼくが言い
大声で笑うと
奥さまが
わたしの追悼文は
だれが書いてくれるのかしら
とおっしゃって
そこでぼくが
奥さまは死なれませんから
というと
そこでまた大笑いになって
(酔ってたら
 こんなことで
 笑えるのよ)

そこでチェックされて
はしご二軒目の
きゅうり
というお店に向かったのでした

誰が変わらぬ愛など欲しがろう?

(このメモ
 奥さまが電話番号を書かれるときに
 ちらりと見てもらったんですけれど
 奥さまは
 変わらない愛が
 みんな欲しいんじゃないの
 と
 おっしゃって
 ぼくは
 首をかしげて
 そうでしょうか
 と
 にやっとして笑い返しました
 奥さまの目が
 どことなしか
 笑っているのに笑ってなかったのが妙に印象的でした
 笑) 


二〇一六年十一月二十八日 「gossamer くもの糸(草の葉にかかったり空中に浮遊している)」


なめくじ人間の夢を
きのうとおとついの
連続二日見ました
続き物の夢を見るなんて珍しい

乾いた皮膚にはくっつかない
そういう信念があった
夏なのに
冷たい夜だった
さっきまで雨が降っていたのかもしれない
でもいまは雲が切れていて
そこに大きくてまるい白い月がドーンとあって
その月の光が
路面の敷石にきらきらこぼれ落ちていた
事実
半透明のなめくじたちが
街のいたるところからにゅるにゅるじわぁーと湧き出して
そこらじゅうを這い進むあいだ
ぼくはその半透明のなめくじを観察した
ぼくは完全にかわいていたので一瞬触れても大丈夫だったのだ
なめくじたちは夜の街に
月の光を浴びてきれいに輝きながら
家々の壁や戸口に湧き出て
家から出てきた人間たち
歩いている人間たちに触れていったのだ
触れられた人間たちは
たとえ、その触れられた箇所が靴でも
そこから全体に
すうっと半透明になってしまって
なめくじ人間になっていったのだ
なぜなら、彼らはみんな多少とも濡れていたからなのだった
女性のなめくじ人間も少しいた
なぜかしらエプロンをした肉屋の女房だったり
ベイカリーショップの女将さんだったりした
なめくじ人間というのは
人間の大きさのなめくじなのだ
だから時間が経つにつれて
街じゅうはなめくじ人間たちが徘徊する
恐ろしい街になっていったのだ

ぼくはそれを観察していた
危ういところで
半透明のなめくじの体をかわして
逃れていたのだ

半透明になって徘徊するなめくじ人間たち
ぼくは夜の街で唯一の人間だった

街並みは小説や映画に出てくる
ロンドンの街並みだった

夢を見る前の日に
ロボット物のSFを読んだあとで
シャーロックホームズ物のパロディの本を読むことにしていたからかもしれない

なめくじが、どこからきたものかはわからないけれど
もう何十年も目にしていない生き物だ


二〇一六年十一月二十九日 「幽霊がいっぱい。」


マンションでは猫や犬を飼ってはいけないというので
猫や犬の幽霊を飼うひとが増えて
もうたいへん
だって、壁や閉めた窓を素通りして
やってくるのですもの
うちの死んだ祖父が
アルツでいろいろな部屋に行って
迷惑かけてることがあって
文句を言えないんだけど
隣の死んだ和幸ちゃんの幽霊はひどいわ。
どんなに遅くっても必ず起きてて
一晩じゅう
ほたえまくるんですもの
わたしが持ち帰りの仕事を夜中にやっていても
勝手に机の下からにゅ〜って顔を出すし
うちの一番下の子の横に寝て
眠ってるうちの子の腕をさわりまくるし
それで
うちの子が夜泣きしちゃいだすし
ああ
もうこのマンション引っ越そうかしら
あれあれ
おじいいちゃん
勝手に出歩いちゃダメでしょ
生きてるときでも怖がられてたのに
そんな死人のような顔をして
いや
死人なのかしら
幽霊って
死人なのかしら
わかんないわ
わかんないけど
出てかないでよ
せめてこの部屋から出てかないで〜
ひぃ〜
もういや


二〇一六年十一月三十日 「速度が誤る。」


買って来た微小嵐を
コップのなかに入れておいたら
仮死状態のジジイが勝手に散歩につれていきやがって
おのれ

バルザック
完全無欠の夜は調べたか
ああ
なにもかも
ぼくが人間をやめたせいで
頭のなかの鐘が鳴りっぱなし

興奮状態の皮膚が
ぴりぴり震えがとまらないのだっちゃ
よかったね
最高傑作
見事に化けて出てくる夜毎の金魚の幽霊が

人間やめますか
ぼくの箱庭
紅はこべ
驚いたふりをして
人間やめました
手には触れるな
速度が誤る
サン・テグジュペリ


二〇一六年十一月三十一日 「レンタル屋さんがつぶれたので、山ほどDVDもらってきました。」


さきに、若い子たちが
有名なものを持って行ったので
ぼくは、あまりもののなかから
ジャケットで
選んで、いただきました。
ラックとか
椅子とか
かごとかも
持って行っていいよというので
かごをいただきました。
ま、それで、DVDを運んだんだけどね。
でも、見るかなあ。
ぼくがもらったのは
サンプルが多くて
サンプルってなんなんだろうね。
何か忘れたけど
一枚手にとって見てたら
店員さんが
それ、掘り出し物ですよって
なんでって訊くと
まだレンタルしちゃいけないことになってますからね
だって。
ううううん。
そんなのわかんないけど
ぜったい、これ、B級じゃん
ってのが多くて
見たら、笑っちゃうかも。
でも、ほんとに怖かったら、やだな。
怖い系のジャケットのもの、たくさんもらったんだけど
怖いから、一人では見れないかも。

とぎれとぎれで見ました。
明日、はやいしね。
いろんなタイプのDVDだから
いろんな感性にさらされて
いい刺激になればいいんですけど。
ヒロヒロくん
近くだったら
いっしょに見れたね。
あ、店員さん
「アダルトはいらないんですか?」
「SMとかこっちにありますけど」
だって。
アダルトはもらってません。
もらってもよかったのだけれど
どうせ見ないしね。

ぼくが帰ったのが
10時すぎでしたが
まだいっぱいありました。
アニメは興味なかったですけれど
知らないアニメがたくさん残っていました。
でも、もうこの時間だし
ラックも
椅子も
たぶん、ないでしょうね。
自宅のCDケースが傷んでるのがあるので
CDケースもらっておけばよかったかなあ。
でも、欲張ると
ロクでもないし
ラッキーだったんだから
これでいいんでしょうね。
ふと
古本を買いに
遠くまででかけたのです。
そしたら
若い子が
ここ、きょうで店じまいですから
これ
何枚でも持って帰っていいみたいですよ
って言ってくれて。
その子
ぼくがゆっくりジャケット見て選んでるのに興味を持ったらしく
みんな、がばっとかごごと持って帰るのに
珍しいですね。
近くにお住まいですか。
一人暮らしですか。
とか
笑顔で訊いてくるので
(魅力的な表情をした若者でした)
ちょっとドキドキしましたが
ときどき
ぼくのこと
不思議に思って興味を持ってくれる子がいるのですが
勘違いしてしまいます。
前に
日知庵で
24才だと言ってた
オーストラリア人のエリックにひざをぐいぐい押し付けられたときは
うれしかったけど
困りました。
恋人といっしょにいたので。

きょうの子も
明日はお仕事ですか
とか
早いんですか
とか訊いてきたので
あ、もう帰らなかや
って言って、逃げるようにして帰りました。
いま
ぼくには、大事な恋人がいますからね。
間違いがあっちゃ、いけません、笑。
あってもいいかなあ。
ま、人間のことだもの。
あってもいいかな。
でも、怖くて帰ってきちゃった。
うん。
ひさびさに
若い子から迫られました。
違うかな。
単に
かわったおっさんだから興味を示したのかな。
ま、いっか。

ああ、きょうは、バロウズ本もうれしかったし
DVDもうれしかった。
クスリが効いてきたみたい。
もう寝ます。
おやしゅみ〜

エリック
かわいかったなあ。
ぼくも
恋人にわからないように
ひざでも、ぎゅっとつまんであげればよかったんだけど。
さすがに、ね。
恋人にばれちゃ、怖かったしね。

春の日のクマは好きですか?

きのう、もらったDVDです。
とても単純な物語だったけれど
主人公たちがひじょうに魅力的だったので
最後まで見れました。

詩も
同じかな。
内容がよければ、形式がださくてもいいのかも。

いや、逆に
キャシャーンのように
だれがやっても、設定があんなふうにすごかったら
すごい映画だっただろうからな。

詩も同じかな。
形式がすごかったら
内容なんて、どうでもよくってね。
両方、いいなんてことは
ほとんど奇跡!


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



 ソニアは悲鳴をやめ、しわくちゃになったシーツを引っぱり上げて台なしになった魅力を隠すと、みっともなくのどを鳴らして悲劇的な表現に熱中しはじめた。ぼくはものめずらしい気持で彼女を仔細に眺めたが、それは演技だった。でも彼女は女なんだから特に演技してみせることもないのだ、この意味がわかるだろうか?
(キリル・ボンフィリオリ『深き森は悪魔のにおい』2、藤 真沙訳)

むかしというのはいろんな出来事がよく迷子になるところでね
(ロバート・ホールドストック『アースウィンド』4、島岡潤平訳)

 図書館で、だれかが硬い赤い表紙の古い本を床に投げ落とす。それを拾って題名を読む。『幸せな網』
(ウィリアム・バロウズ『夢の書 わが教育』山形浩生訳)

 足に熱を感じて見下ろすと、火のついたタバコが靴の下のつま先付近に押しこまれている。だれかがわたしに熱い足をくれたってわけだ。タバコを取り出して、割ってみると、貝殻みたいで中には触手が入っている。でも生きてもいないし動いたりもしない。
(ウィリアム・バロウズ『夢の書 わが教育』山形浩生訳)

ハム音がしていて、部屋は耳障りな悪意を伝えてくる。なにかがバネ仕掛けで壁から飛び出してくるとか、部屋がいきなり縮んで鳥小屋になってしまうとか。
(ウィリアム・バロウズ『夢の書 わが教育』山形浩生訳)

その時だしぬけにフリエータが明るいキャラメル色の眼でぼくをじっと見つめて、低いけれども力強い声で「キスして」と言った。こちらがしたいと思っていることを向うから言い出してくれたので、一瞬ぼくは自分の耳が信じられず、もう一度今の言葉をくり返してくれないかと言いそうになった。しかし、
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』世界一の美少女、木村榮一訳)

実際に見たものよりも、欺瞞、神秘、死に彩られた物語に描かれた月のほうが印象に残っているのはどういうわけだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』あるバレリーナとの偽りの恋、木村榮一訳)

 その美しい顔の下にもうひとつの顔があるのだが、よく見ようと顔を近づけるとたちまち隠された顔が消えてしまう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』女戦士(アマゾネス)、木村榮一訳)

これ以上なにか見抜かなければならないものはなにも残っていなかった。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)

「(…)思い出しますか、昔、断崖の頂きから僕たちが眺めた、あの小さなひとびとの姿、あちこちで点々と砂を穿っていた、あの誰とも知れぬ小さな黒い点のことを?……」
「ええ。あなたがこうおっしゃったことまで思いだしますわ。何年かが、何世紀かが過ぎ、そして浜辺にはいつもあの小さな黒い点がある、次々に代りはするが、厳密には同等なものであるあの点が、って」
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)

 イレーヌの顔には、そういうことがなにか留(とど)められているかと考えて、その顔をじっと眺めてみたが、そこにはなにひとつ留められていないことが、見てとれるような気がした。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』7、菅野昭正訳)

 チャーテン場においては、深いリズム、究極の波動分子の振動以外なにものもない。瞬間移動は存在を作り出すリズムのひとつの機能なんだ。セティアンの精神物理学者によれば、それは人間ひとりひとりを永遠と偏在に参与せしめるリズムへの架け橋なのだ。
(アーシュラ・K・ル・グイン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)

 しかし、彼の笑顔はこの世にふたつとない笑顔だ。その笑顔を向けられると、人生で出くわすありとあらゆる不幸をそこに見るような気がする。ところが顔に浮かんだその不幸を、彼はあっという間に順序よく並べ替えてしまう。それを見ていると、今度は急に「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じるのだ。
 だから彼と話をするのは楽しい。その笑顔をしょっちゅう浮かべて、そのたびに「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じさせてくれるからだ。
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』31、安原和見訳)

そして彼女は行ってしまった。糖菓(タフイ)のような色の髪と、黄色いドレスと、小さなレース飾りが、彼の目の前で、木の柵の閉じられた門と、小走りに遠ざかってゆく足音に変わった。
(シオドア・スタージョン『夢見る宝石』2、永井 淳訳)

 子供はどこに生まれつこうと、そこに生涯かかってもまだ尽きぬほど、驚嘆すべきものを発見しつづけるに違いない。
(カート・ヴォネガット『パームサンデー』II、飛田茂雄訳)

 いま、ラヴィナは強い人だった、と言いました。(…)今にして思えば、彼女は強さを装っているだけでした。それはわたしたち人間にできる最善のことです。
(カート・ヴォネガット『パームサンデー』VII、飛田茂雄訳)

これは意味のない言葉である。
(ブライアン・W・オールディス『三つの謎の物語のための略図』深町眞理子訳)

ここにはわれわれみんなの学ぶべき教訓がある。
(ブライアン・W・オールディス『三つの謎の物語のための略図』深町眞理子訳)

かつてはこれも人間だったのだ。
(ハーラン・エリスン『キャットマン』池 央耿訳)

「きれいですわね」王妃は言った。王妃の勲章に対する趣味は、その衣装に対するのと似ている。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチールラット』14、那岐 大訳)

言葉がすべてを語らず、身体がかわりに話すような場合もあるのだ。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチールラット』17、那岐 大訳)

「女に残酷なことはしたくない」そういって不誠意極まる笑みをもらした。人間の顔に浮かぶものとして初めて見たような種類のものだった。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチールラット』18、那岐 大訳)

「きみはばかな男ではない、グラブ・ディープシュタール」このことは伯爵はおれのことを自分よりはるかにばかだと考えていることを意味していた。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチールラット』18、那岐 大訳)

 選択忘却というあるささやかな方法がある。それによってわれわれは自分がいやだと思う記憶を抑えつけたりゆがめたりする。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチールラット』18、那岐 大訳)

記憶というものはなんと二股の働きをするものだろう。一方では現わし、他方では隠す。おれ自身の潜在意識は、おれと闘っていた。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチールラット』2、那岐 大訳)

 完全な感覚遮断にさらされたとき、人間の精神はたちまち現実の把握を失う。処理すべきデータの流入を阻(はば)まれた脳は幻覚を吐きだし、非理性的になり、最終的には狂気へと落ちこんでいく。長期にわたって感覚入力が減った場合の影響は、もっと緩慢で微妙だが、多くの意味でもっと破壊的だ。
(ポール・アンダースン『タウ・ゼロ』12、浅倉久志訳)

 そしてまただれもが、そうとは知らずにたえず自身の物語を語っている。人間の身体は、うなったり、肩をすくめたり、無意識に動いたり、無数の表現方法でその人自身を語っているのだ。個性の少なからぬ部分が、意識のコントロールをすりぬけて表面にあらわれ、無意識は肉体をとおして自身を語る。
(グレゴリイ・ベンフォード『銀河の中心』小野田和子訳)

「はやく出ていきたいものだわ」
「かつてはここもすばらしい世界だったのでしょうがね」とホートは答えた。「息子さんはこの星を憎んでいました。いやむしろ、もっと具体的にいえば、この星で彼が見たものを憎んでいました」
「ま、それは理解できますね。あのおそろしい野蛮な人たち──それに、街にいる人間だって大差ないし」
 ホートは彼女の逆転した民主主義をおもしろがった──あらゆる人間を自分よりはるかに劣った存在と見なすため、彼らはたがいに平等なのである。
(オースン・スコット・カード『キャピトルの物語』第一部・5、大森 望訳)

坐り込んでいる人間の運命は、やはり、坐り込んでいるからね
(フィリップ・ホセ・ファーマー『果しなき河よ我を誘え』4、岡部宏之訳)

「(…)さあ教えてくれ。ここは地獄じゃないのか?」
「むしろ、煉獄ですよ」コロップはいった。「煉獄は希望のある地獄なのですから」
(フィリップ・ホセ・ファーマー『果しなき河よ我を誘え』23、岡部宏之訳)

 ユーモリストというものは、真暗な魂を持っていて、その暗闇の塊りを、光の爆発に変えるものなんだ。そして、その光が消えれば、暗闇が戻ってくるのさ
(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが夢のリバーボート』8、岡部宏之訳)

かれの考えは論理的でなかった。だが、哲学者たちが何といおうとも、論理の主な用途は、感情の正当化にあるのだ。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが夢のリバーボート』22、岡部宏之訳)

 サムはもっとずっと重要なことを考えなければならなかった。しかし、真に重要なことは、無意識によって最もよく識別されるものだ。そして、この考えを送り出したのは、この無意識であったにちがいない。初めてかれは理解した。真に理解した。脳から足の先までの、体中の細胞で理解した。リヴィは変ってしまったと。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが夢のリバーボート』26、岡部宏之訳)

そして私もそのひとつなのだ。
(ダン・シモンズ『イヴァソンの穴』柿沼瑛子訳)

 非常に残酷で、非常に正しい人生の法則があって、人間は成長しなければならぬ、でなかったら、もとのままでとどまることにたいして、いっそう多くの代価を払わなければならぬ、と要求するからである。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第五部・26、山西英一訳)

そこでは、だれも未来がなかった。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・27、山西英一訳)

 ついにぼくは多少ともわかるようになった。書いていくにつれて、ぼくは自分がいっそう力ができたこと、自分は生きぬいたこと、ついに自分は自分の性質のなかで自分よりすぐれたものをなにかしら永久的な形でとどめておくことができるのだということ、したがって自分は芸術が見いだされるあの孤児たちの特権ある世界の一員になりはじめているのだということを知った。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・27、山西英一訳)

アイテルは悲しかった。だが、それは楽しい悲しさだった。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

「チャーリィはまだ理想主義者なのさ」ハチャーが言った。「世界は論理的じゃないということを認めようとしないんだ」
「確かに世界は図式的なアリストテレス的論理では動いていないね」シプリィも認めた。「それは完全に演繹(えんえき)的だからね。真理からスタートする。そしてそこから世界がしたがっているはずの法則が導きだされる。機械が得意とするのはそれさ。ところが現実生活では、人間は経験で得た今の世界のあり方から出発する。それからその理由を推察し、それが実際のものに近いものでありますようにと祈るわけだ。帰納法さ。人間がやっているのはこっちだ──しかもどうやってかは自分たちですらはっきりわかっていない。だから教科書に書いてある科学と実際の科学が違ってくる」
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』15、大島 豊訳)

「他人が支配しているものを通じて幸福を求めるな」シプリィは答えた。「さもないと結局は支配しているやつらの奴隷になる」
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』15、大島 豊訳)

「言葉は単にコード体系でしかなくて、聞き手の神経組織の中に生活体験を通じてすでにできあがっている結合の引き金を引くだけだ。情報は聞き手の中にあるんだ。語り手ではなく。(…)」
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』17、大島 豊訳)

 ところで、こうしてわたしはその広大な洞窟の中で、遂に禁じられた世界の周辺を垣間見ることになった、その世界は盲を除けば、ほとんど近づいた者もいないようなところであり、その世界を発見する者には恐ろしい罰が下されるのだが、その世界を見たという証拠は上の世界であいかわらず無邪気に夢を見ている人々の手には、今日に至るまで間違っても渡ったためしはない、人々はその証拠を馬鹿にし、自分たちを目覚めさせるはずの印、つまり、夢とか束の間の幻覚、子供や狂人の話といったものを前にするときまって肩をすぼめるものだ。そのうえ、禁じられた世界に潜入してやっと戻ってきた者たち、発狂や自殺で人生を終えた、それゆえ、大人が子供に抱く称賛と軽蔑の入り混じった保護者然とした態度を受けることにしかならない作家たち(たとえば、アルトー、ロートレアモン、ランボー)の断章を例によって暇つぶしのために読んだりすることになる。
(サバト『英雄たちと墓』第III部・35、安藤哲行訳)

マルティンはふたたび視線を上げた、今度はほんとうにブルーノを見るためだったが、まるで謎を解く鍵を教えてもらおうとする眼差しだった、(…)
 そのとき、ブルーノは何かを言おう、沈黙の埋めあわせをしようとして答えた、
「ああ、分るよ」
 しかし、何が分っていたのか? いったい何が?
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・2、安藤哲行訳)

いったい、どこに本物とにせ物を見分ける基準があるのだろう?
(アイザック・アシモフ『地球人鑑別法』4、冬川 亘訳)

どこへ連れていくつもり? あたし、また手術を受けるのかしら?
(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』下巻・29、矢野 徹訳)

悪いかい?
(アイザック・アシモフ『亡びがたき思想』冬川 亘訳)

このわたしを?
(アイザック・アシモフ『発火点』冬川 亘訳)

きみは気でもちがったのかい?
(アイザック・アシモフ『記憶の隙間』6、冬川 亘訳)

(…)ファウラー教授は、額をおおう黄土色の土をぬぐった。ぬぐいそこねた土は、まだ額に残っている。
(アーサー・C・クラーク『時の矢』酒井昭伸訳)

「それでは、いったい何の目的でこの世界はつくられたのでしょう」とカンディードはいった。
「われわれをきちがいにするためにですよ」とマルチンは答えた。
(ヴォルテール『カンディード』第二十一章、吉村正一郎訳)

 彼にとって、ただ一つ変わらぬものは変化そのものであり、彼が周囲の世界で発見した変化の機序は彼自身の存在に反映していた。彼が次々に自分の役割を変え、次々に女を替えていったのは、そのためだった。
(ブライアン・オールディス『十億年の宴』5、小隅 黎訳)

ある神秘主義者は旅によって、またある神秘主義者は一室にとどまることによって、神を探し求める。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』14、宇佐川晶子訳)

 幻覚の定義は、その人がなにを軸にして活動しているかによって変わる。そのとき自分の身に起きていることがなんであろうと、起きていることが現実だ。
(チャールズ・ブコウスキー『バッドトリップ』青野 聰訳)

彼の見てるものがなんであれ、それが現実なのだ。
(チャールズ・ブコウスキー『バッドトリップ』青野 聰訳)

人生とは、私たちが人生からつくり上げるもののことです。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二十二章、園田みどり訳)

旅とは旅人のことです。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二十二章、園田みどり訳)

私たちに見えるのは、私たちが見るものではなく、存在する私たちのありようなのです。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二十二章、園田みどり訳)

 オノリコいわく。物語るだけでは十分ではない。重要なのは語り継ぐことだ。つまり、すでに語られた物語を、自分のために入手し、自分の目的のために利用し、ときに自分の目標に隷属させたり、あるいは語り継ぐことによって変容させたりする語りである。言い換えるなら、メンドリは、卵が別の卵を産むために用いる手段だということだ。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』覚書、園田みどり訳)

「無理もないな。ジーヴズ、ぼくらどうする?」
「どうしたものでしょうか」
「きついことになってきたな」
「はい、たいそうきついことに」
ジーヴズがくれた慰めは、それがすべてだった。
(P・G・ウッドハウス『同志ビンゴ』岩永正勝・小山太一訳)

「たぶん彼があなたにいろいろと話すのは、あなたが何も訊かないからなのね」
(アン・ビーティ『駆けめぐる夢』亀井よし子訳)

J・Dは絵葉書をいっぱいつめた箱を持って旅から帰ってくる。そしてわたしは、その絵葉書が彼の撮った写真であるかのように、丁寧に目を通す。わたも、彼も知っている。彼が絵葉書のどこが好きなのかを。彼は絵葉書の平板さ、すなわちその非現実性が好きなのだ。自分の行動の非現実性が。
(アン・ビーティ『燃える家』亀井よし子訳)

帽子を放り投げて、こう言った。「自分の絶望を外に連れだしたかったんだよ」すると悪夢が消え、いい考えが浮かんだ。妹の苦悩について彼が話すのはむりでも、彼自身の苦悩を聞かせれば彼女の気晴らしになるだろう。彼女はただちに皿を叩くのをやめ、彼のほうに向き直って、まじまじと顔を見た。自分の苦悩が他人の顔ではどんな表情かを見るために。
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』9、堤 泰徳訳)

私が興奮する最大の原因は、私の弱さにあるのよ
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』9、堤 泰徳訳)

彼は芸術によって、いやされていたのだろうか?
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』9、堤 泰徳訳)

小さな人間の本性をはずかしめ、おとしめるのは、その願望が実現するときだった。
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』10、堤 泰徳訳)

アンジョリーナはがんこな嘘つきだったが、本当は、嘘のつき方を知らなかった。
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』10、堤 泰徳訳)

ステファンヌは私に夢中だ。私という病気にかかっていることがようやくわかった。こっちがなにをしようと、彼にとっては生涯、それは変わらないだろう。
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』8、佐宋鈴夫訳)


詩の日めくり 二〇一六年十二月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年十二月一日 「不安課。」


きょうは、朝から調子が悪くて、右京区役所に行った。
なぜ、調子が悪いのか、わからなかったので、とても不安だった。
入り口に一番近いところにいた職員に、そう言うと
二階の不安課に行ってください、と言われた。
雨の日は、ひざが痛いのだけれど
階段しかなかったので、階段で二階にあがると
最初に目にしたのが、不安課の部屋のプレートだった。
振り返ると、安心課という札が部屋の入り口の上に掲げられていた。
ただ事実の通り、不安の部屋の前が安心の部屋なのか、と思った。
不安課の部屋に入ると、
職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。
「不安か?」
ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。
「はい、不安です。」
職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。
「不安か?」
ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。
「はい、不安です。」
職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。
「不安か?」
ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。
「はい、不安です。」
職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。
「不安か?」
ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。
「はい、不安です。」
職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。
「不安か?」
ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。
「はい、不安です。」
職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。
「不安か?」
ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。
「はい、不安です。」
職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。
「不安か?」
ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。
「はい、不安です。」
繰り返し、何度も同じやり取りをしているうちに
とうとうぼくは、朝に食べたものを、ぜんぶ吐いてしまった。
職員のひとが、ぼくの顔も見ずに、右手を上げて
向かいの部屋をまっすぐに指差した。
「あり・おり・はべり・いまそかり。」
「あり・おり・はべり・いまそかり。」
「アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ。」
「アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ。」
「ら・り・る・る・れ・れ。」
「ら・り・る・る・れ・れ。」
「あらず・ありたり・あり・あること・あれども・あれ。」
「あらず・ありたり・あり・あること・あれども・あれ。」


二〇一六年十二月二日 「栞。」


栞って、恋人の写真を使ってるひともいると思うけれど、ぼくは総体としての恋人の姿が好きってわけじゃないから、恋人の目だとか唇だとか耳だとか部分部分を栞にしている。


二〇一六年十二月三日 「年上の人間。」


若い頃は、年上の人間が、大キライだった。
齢をとっているということは、醜いと思っていた。
でも、齢をとっていても美しいひとを見ることができるようになった。
というか、だれを見ても、ものすごく精密につくられた「もの」
まさしく造物主につくられた「もの」という感じがして
ホームレスのひとがバス停のベンチの上に横になっている姿を見ても
美的感動を覚えるようになった。

朔太郎が老婆が美しいだったか
だんだん美しくなると書いてたかな。
むかしは、グロテスクな、ブラック・ジョークだと思ってた。


二〇一六年十二月四日 「おでん。」


きょうは、大谷良太くんちで、おでんとお酒をいただきました。ありがとうね。おいしかったよ。ごちそうさまでした。


二〇一六年十二月五日 「与謝野晶子訳・源氏物語で気に入った言葉 ベスト。」


「長いあいだ同じものであったものは悲しい目を見ます。」

この目を、状況ととるのがふつうだけれど
ぼくは、ひとの目としてとっても深い味わいがあると思う。
つまり「悲しい眼球」としてね。


二〇一六年十二月六日 「平凡な一日。」


まえに付き合ってた子が部屋に遊びにきてくれた。コーヒーのんで、タバコ吸って、チューブを見てた。平凡な一日。でも、大切な一日だった。


二〇一六年十二月七日 「睡眠時間が伸びた。」


いま日知庵から帰った。学校が終わって、毎日、よく寝てる。


二〇一六年十二月八日 「モッキンバード。」


ウォルター・テヴィスの『モッキンバード』を読み終わって、ジョージ・R・R・マーティン&リサ・タトルの『翼人の掟』を読みはじめた。SFが子どもの読むものだと、ふつうの大人は思っているようだが、そうではないということを教えてくれそうな気がする。読む速度が遅くなっているけど、がんばろ。


二〇一六年十二月九日 「ゴッホは燃える手紙。」


ゴッホは燃える手紙。


二〇一六年十二月十日 「漂流。」


骨となって
教室に漂流すると
生徒たちもみな
骨格標本が腰かけるようにして
骨となって
漂着していた
巨大な蟹が教卓を這い登ってきて
口をかくかくした。
目を見開いてそれを見てたら
巨大な鮫が教室に泳いで入ってきて
口をあけた
するとそこには
吉田くんの首が入っていて
目が合った


二〇一六年十二月十一日 「想像してみた。」


長靴を吐いたレモン。


二〇一六年十二月十二日 「ジキルとハイジ。」


不思議のメルモちゃんのように
クスリを飲んだら
ジキルがハイジになるってのは、どうよ!
(不思議の国のハイジだったかしら? 
あ、不思議の国のメルモちゃんだったかしら?)
大きな大きな小さい地球の
イギリスにあるアルプスのパン工場でのお話よ。
ジャムジャムおじさんが作り変えてくれます。
首から上だけ〜。
首から下はイギリス紳士で
首から上は
田舎者の
山娘
ちひろちゃん似の
アルプスの
ぶっさいくな
少女なのよ。
プフッ。
なによ。
それ。
そのほっぺただけ、赤いのは?
病気かしら。
あたし。
こまったわ。
うんとこ、とっと どっこいしょ。
流動的に変化します。
さあ、首をとって
つぎの首。
力を抜いて
流動的に変化します。
さあ、首をとって
つぎの首。
力を抜いて
首のドミノ倒しよ。
いや
首を抜いて
力のダルマ落としよ。
受けは、もうひとつなのね。
プフッ。
ジミーちゃん曰く
「それは、ボキャブラリーの垂れ流しなだけや。」
ひとはコンポーズされなければならないものだと思います。
だって。
まあね。
ミューズって言われているんですもの。
薬用石鹸。
ミューウーズゥ〜。
きょうの、恋人からのメールでちゅ。
「昨日の京都は暑かったみたいですね。
今は長野県にいます。
こっちは昼でも肌寒くなってきました。
天気は良くて夕焼けがすごく綺麗でした。
これから段々と寒くなるみたいで
田中さんも風邪などひかないように気を付けて
お仕事頑張って下さいね。」
でも、ほんまもんの詩はな。
コンポーズしなくてもよいものなんや。
宇宙に、はじめからあるものなんやから。
そう、マハーバーラタに書いてあるわ。
あ、背中のにきび
つぶしてしもた。
詩人はみな
剽窃詩人なんや。
ド厚かましい。

厚かましいのは
あつすけさんちゃう?

言われました。
笑。

逆でも、かわいいわあ。
首から下がハイジで
首から上がジキルなの。

ひゃ〜、笑。
ちょーかわいい。

恋人にもはやく相対。
プフッ。
はやく相対。
じゃなくて
はやく会いたい。
ぶへ〜
だども
あじだば
いっばい
詩人だぢどあえるど。
ヤリダざんどもあえるど。
アラギぐんどもあえるど。
みなどぐんどもあえるど。
もーごぢゃんどもあえるど
どらごぢゃんどもあえるど。
ばぎばらざんどもあえるど。
ぐひゃひゃ。
おやすみ。
プッスーン。
シボシボシボ〜。

あいたい
あいたい
あいたい
あいたい
あ いたい
あ いたい
あいた い
あいた い
あい たい
あい たい
あ いた い
あ いた い
あ い た い
あ い た い
いた いあ
いた いあ
いい たあ
いい たあ
いいあ た
いいあ た
たいあい
たいあい
たいあい
たいあい
たあいい
たあいい
たあいい
たあいい
あたいい
あたいい
いいたあ
いいたあ
いいたあ
いいたあ


二〇一六年十二月十三日 「めくれまくる人々への追伸。」


カーペットの端が、ゆっくりとめくれていくように
唇がめくれ、まぶたがめくれ、爪がめくれて指が血まみれになっていく
すべてのものがめくれあがって
わたしは一枚のレシートになる。
階級闘争。
契約おにぎり。
拉致餃子。
すべてのものが流れ去ったあとにも、残るものがある。
紫色の小さな花びらが4枚
ひとつひとつの細い緑色の茎の先にくっついている
たくさん

ひとつ
ひとつ
ひとつ

たくさん

田んぼの刈り株の跡
カラスが土の上にこぼれた光をついばんでいる
地面はでこぼことゆれ
コンクリートの陸橋の支柱がゆっくりと地面からめくれあがる
この余白に触れよ。
先生は余白を採集している。
「そして、機体はいつの日も重さに逆らい飛ぶのである。」
太郎ちゃんの耽美文藝誌「薔薇窗」18号の編集後記にあった言葉よ。
自分の重さに逆らって飛ぶのね。
ぼくは、いつもいつも、自分の重さに逆らって飛んできたような気がするの。
木が、機が、記が、気が、するの。
それで、こうして
一回性という意味を、わたしはあなたに何度も語っているのではないのだろうか?
いいね。
詩人は余白を採集している。
めくれあがったコンクリートの支柱が静止する。
わたしは雲の上から降りてくる。
カラスが土の上にこぼれた光をついばんでいる
道徳は、わたしたちを経験する。
わたしの心臓は夜を温める。
夜は生々しい道徳となってわたしたちを経験する。
その少年の名前はふたり
たぶん螺旋を描きながら空中を浮遊するケツの穴だ。
あなたの目撃には信憑性がないと幕内力士がインタヴューに答える。
めくれあがったコンクリートの陸橋がしずかに地面に足を下ろす。
帰り道
わたしは脚を引きずりながら考えていた
机の上にあった
わたしの記憶にない一枚のレシート
めくれそうになるぐらいに、すり足で
賢いひとが、カーペットの隅を踏みつけながら、ぼくのほうに近づいくる。
ジリジリジリと韻を踏みながら
そこは切符が渡されたところだと言って
賢いひとが、カーペットの隅を踏みつけ踏みつけ
ぼくのほうに近づいてくる。
(ここで、メモを手渡す。)
賢いひとが、長い手を昆虫の翅のように伸ばす。
その風で、ぼくの皮膚がめくれる。
ぼくの皮膚がめくれて
過去のぼくの世界が現われる。
ぼくは賢いひとの代わりのひとになって
昆虫の翅のような手を
やわらかい、まるまるとした幼いぼくの頬に伸ばす。
幼いぼくの頬は引き裂かれて
冷たい土の上に
血まみれになって
横たわる。
ぼくは渡されたレシートの上に
ボールペンで数字を書いている。
思いつくつくままに
思いつくつくままに
数字が並べられる。
幼いぼくの頬でできたレシートが
釘のようなボールペンの先に引き裂かれる。
血まみれの頬をした幼いぼくは
賢いひとの代わりのぼくといっしょに
レシートの隅を数字で埋めていく。
レシートは血に染まってびちゃびちゃだ。
カーペットの隅がめくれる。
ゆっくりと、めくれてくる。
スツール。
金属探知機。
だれかいる。
耳をすますと聞こえる。
だれの声だろう。
いつも聞こえる声だ。
カーペットの隅がめくれる。
ゆっくりと、めくれてくる。
幼いぼくは手で顔を覆って
目をつむる。
賢いひとの代わりのぼくは
その手を顔から引き剥がそうとする。
おにいちゃん
百円でいいから、ちょうだい。


二〇一六年十二月十四日 「ほんとにね。」


ささいな事柄を書きつける時間が
一日には必要だ。


二〇一六年十二月十五日 「バロウズ。」


バロウズのインタヴュー
面白い
ぼくが考えてきたことと同じことをたくさん書いてて
そのうちの一つ
テレパシー
バロウズはテレパシーって言う
ぼくはずっと
同化能力と言ってきた
國文學での論考や、詩論でね

つぎのぼくの詩集 The Wasteless Land.IV「舞姫」の主人公の詩人は
テレパス
うううん
バロウズ
ことしじゅうに、全部、読みたい。


二〇一六年十二月十六日 「みんな、死ぬのだと、だれが言った?」


時間を逆さに考えること。
事柄を逆さに書くこと。
理由があって結果があるのではない。
結果しかないのだ。
理由など、この世のどこにもない。
みんな、死ぬのだと、だれが言った?


二〇一六年十二月十七日 「ルーズリーフに書かない若干のメモ。」


どの作品か忘れたけど、スティーヴン・バクスターの作品に
「知的生物にとっての目標とは、情報の獲得と蓄積以外にないだろう」
とある。
またバクスターの本には
詩人はどう詠ったか──「知覚の扉が洗い清められたら、すべてが
ありのまま見えるようになる、すなわち無限に」
という言葉を書いていたのだが、これってブレイク?

数行ごとに
そこで電話を切る。
という言葉を入れる。

わたしは、なにかを感じる。
わたしは、なにかを感じない。
わたしは、なにかを知っている。
わたしは、なにかを知らない。
わたしは、なにかを恐れる。
わたしは、なにかを恐れない。
わたしは、なにかを見る。
わたしは、なにかを見ない。
わたしは、なにかを聞く。
わたしは、なにかを聞かない。
わたしは、なにかに触れる。
わたしは、なにかに触れない。

MILK
カナン
約束の地
乳と蜜の流れる土地よ
わたしの青春時代

ぼくはきみの記憶を削除する
ぼくはぼくの記憶を変更し
はじめて会った彼のことを新規に記憶する
ところが、きみの記憶はコピーが残っていたので
ジミーちゃんに指摘されて、きみのそのコピーの記憶が
間違った記憶だったことを指摘されたので
まったく違う人物の記憶にしていた、きみの正しい記憶と差し替える。

急勾配、訪問、真鋳、房飾り、パスポート、爪楊枝、ギプス、踏み段、スツール

生物検査、検疫処置、沼沢地、白子、金属探知機


二〇一六年十二月十八日 「「知覚の扉」というのは、ブレイクの言葉かな。」


自然は窓や扉を持たない
わたしたちは自然のなかにいても
自然が語る声に耳を傾けない
わたしたちは自然を前にしても
自然に目を向けない
わたしたちは自然そのものに接していても
自然に触れていることに気がつかない
芸術作品は
自然とわたしたちの間に窓や扉を設ける
それを開けさせ
自然の語る声に耳を傾けさせ
自然が見せてくれる姿かたちに目を向けさせ
自然そのものに触れていることに気づかせてくれる
真の芸術は
新しい自然の声を、新しい自然の姿を、新しい自然の感触を
わたしたちに聞かせてくれる
わたしたちに見せてくれる
わたしたちに触れさせてくれる
新しい知覚の扉
新しい感覚の扉
新しい知識の扉
新しい経験の扉

これまで書いてきた「自然」という言葉を「体験」という言葉に置き換えてもよい。

「知覚の扉」というのは、ブレイクの言葉かな。


二〇一六年十二月十九日 「かさぶた王子。」


どやろか、このタイトルで、なんか書けへんかな。
きょうはもう寝るかな。

そういえば、「もう寝る。」って
言い放って寝る恋人がいたなあ。
「もう寝る。」って言って
くるって、むこう向いて寝るやつ。
ふうん。
なつかしいけど、なんか、さびしいなあ。
おわり。


二〇一六年十二月二十日 「TUMBLING DICE。」


この曲をはじめて耳にしたのは
中学一年のときで
女の子の部屋でだった。
いや、違う。
ぼくんちにあった。
女の子もストーンズが好きだった。
ぼくと同じ苗字の女の子だった。
大学生のときに
リンダ・ロンシュタッドも
この曲を歌っていて
耳が覚えてる。

中学のときに
ぼくの友だちはみんな不良だったから
ぼくんちにあつまって
夜中にベランダに出て
みんなでぺちゃくちゃおしゃべりしてた。

そんなこと
思い出した。

日曜日にがんばったせいか、肩が痛い。
腰ではなく、きょうは肩にシップして仕事。
46だから、四十肩なのか五十肩なのか
四捨五入すると五十肩。


二〇一六年十二月二十一日 「私が知りたいのは、」


ちなみに
トウェインの言葉でいちばん好きなのは

深く傷つくためには
敵と友人の協力が必要だ
──ひとりがあなたの悪口を言い、
もうひとりがそれを伝えにくる。

コクトーは
そんな友だちを
まっさきに切る
と書いていたけれど、笑。

トウェインの言葉ですが
つぎのようなものもあります。
ひねりが2回ありますね、笑。

私は人種的偏見も、階級的偏見も、宗教的偏見も持っていません。
私が知りたいのは相手が人間であるかということだけです。
それがわかれば十分なのです。
それ以上悪くなりようがないのですから。


二〇一六年十二月二十二日 「吐き気がした。」


キッスを6時間ばかりしていたら
吐き気がした
胸の奥から喉元まで
吐き気がいっきょに駆け上がってきた
彼の唇も6時間もキッスしてたら
なんだか
唇には脂分もなくなって
しわしわで
うすい皮みたいにしなびて
びっくりしちゃった
キッスって
長い時間すると
唇の感触がちがってくるんだね
キッスはヘタなほうが好き
ぎこちないキッスが好き
ヘタクソなほうがかわいい
舌先も
チロチロと出すって感じのほうがいい
さがしてあげる
きみが好きになるもの
さがしてあげる
きみが信じたいもの
なおレッド
傷つけることができる
いくらでも
ときどき捨てるから厭きないんだね
みんな
ジジイになれば
わかるのにね
時間と場所と出来事がすべてなんだってことが
すなおに言えばいいのに
なおレッド
略式恋ばっか
で、もうジジイなんだから
はやく死ねばいいのに
もうね
ふうん
それに
人生なんて
紙に書かれた物語にしか過ぎないのにね
イエイ!


二〇一六年十二月二十三日 「まことに、しかり。」


(…)世界の広いことは個人を安心させないことになる、類がないと思っていても、それ以上な価値の備わったものが他にあることにもなるのであろうなどと思って、(…)
(紫式部『源氏物語』紅梅、与謝野晶子訳)

「世界の広いことは個人を安心させないことになる」

まことに、しかりと首肯される言葉である。


二〇一六年十二月二十四日 「息。」


息の根。
息の茎。
息の葉。
息の幹。
息の草。
息の花。
息の木。
息の林。
息の森。
息の道。
息の川。
息の海。
息の空。
息の大地。
息の魚。
息の獣。
息の虫。
息の鳥。
息の城。
息の壁。
息の指。
息の手。
息の足。
息の肩。
息の胸。
息の形。
息の姿。
息の影。
息の蔭。


二〇一六年十二月二十五日 「ひさしぶりのすき焼き。」


きょうは森澤くんと、キムラですき焼きを食べた。そのあとタナカ珈琲で、BLTサンドとパフェを食べて、日知庵に行った。食べ過ぎ飲み過ぎの一日だった。


二〇一六年十二月二十六日 「田村隆一にひとこと。」


言葉がなければ
ぼくたちの人生は
たくさんの出来事に出合わなかったと思う。

言葉をおぼえる必要はあまり感じないけど
ヌクレオチドとかアミラーゼとか、どうでもいい
言葉があったから、生き生きしていられるような気がする。

もしかしたら
生き生きとした人生が
言葉をつくったのかもね。


二〇一六年十二月二十七日 「これから、マクドナルドに。フード・ストラップ、あつめてるの。」


きのう、シンちゃんに
「おまえ、いくつじゃ〜!」
と言われましたが
コレクションするのに
年齢なんて関係ないと思うわ。
「それにしても
 幼稚園児のような口調はやめろ!」
と言われ
はて
そだったのかしら?

もう一度
「あつめてるの。」
と言って
自分の声を分析すると
たしかに。
好きなものあつめるって
子どもになるんだよね〜。
なにが、あたるかな。


二〇一六年十二月二十八日 「原文。」


シェイクスピア鑑賞について。

もう十年以上もまえのことだけど
アメリカ人の先生と話をしていて
ちょっとひっかかったことがある。
「シェイクスピアをほんとうに知ろうと思ったら
 原文で読まなきゃいけませんよ。」
はあ?
という感じだった。
部分的に原文を参照したりしていたけれど
全文を原著で読んでなかったぼくだけれど
すぐれた翻訳があって、それで楽しんでいるのに
ほっといてくれという思いがした。
あなた、聖書は何語で読んだの?
って感じだった。
まあ、そのひとだったら、アラム語やギリシア語で読んでそうだったけど。
もちろん、原文を読んだほうがいいに決まってるけれど
語学が得意ではない身にとって
まずは翻訳だわな。

そういう意味で、原文主義者ではないぼくだけれど
できるかぎり原文を参照できる用意はしておかなくてはならないとは思っている。


二〇一六年十二月二十九日 「死。」


ジョージ・マイケルは53歳で死んで、キャリー・フィッシャーは60歳で死んで、ええって感じ。あと2週間足らずで、56歳になるぼくだって、いつ死ぬかわかんないけど。


二〇一六年十二月三十日 「死。」


ことしは偉大なアーティストたちが亡くなった年だったのだな。
http://www.rollingstone.com/culture/lists/in-memoriam-2016-artists-entertainers-athletes-who-died-w457321/david-bowie-w457326


二〇一六年十二月三十一日 「芸能人。」


そいえば、きのう芸能人を電車で見たのだけれど、口元に指一本をくっつけて合図してきたから、見ちゃダメなんだと思って、駅に着くまで違う方向を見ていた。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



 それはぼくの口をついて出たけれど、そのたびにまぎれもない呪いとしてできるだけ離れたところへ遠ざけ、忘れようとした。もっとも不当な予感だったし、書きつけることによって、それが現実のものになるのを恐れたからである。「ぼくたちには不幸が襲いかかる必要があったのだ」なんということだろう、ぼくの本が陽の目を見るためには、不幸が必要だったのだ。
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』75、佐宋鈴夫訳)

 鳥と会話することを学び、彼らの会話が想像を絶するほど退屈なことを発見した。風速、翼長、馬力対体重比、木の実の公平な分配のことしか話さないのだ。ひとたび鳥語を学んでしまうと、たちまち、空中には四六時中、馬鹿なおしゃべり鳥どもがいっぱいいることに気づくのだった。
(ダグラス・アダムス『宇宙クリケット大戦争』エピローグ、風見 潤訳)

 いわゆる模範的なもの、賞讃に値すると認められているものが、この世にいかに益をもたらさないかということ、いや、むしろ害があるといっていいくらいだということについて、いずれそのうちだれかが一冊の本を書く必要があると思う。
(ノサック『弟』2、中野孝次訳)

『こんなことをしたってなんにもなりはしない』のである。
(ノサック『弟』2、中野孝次訳)

まるでそんなことは一度も存在しなかったみたいに。
(ノサック『弟』2、中野孝次訳)

わたしに語れるのはけっきょく自分自身の体験だけだ。
(ノサック『弟』2、中野孝次訳)

〈われわれと愛する者のあいだには、誤解などいっさいない。ところが人間たちは、愛する者を想像ででっちあげ、ベッドをともにする生身の相手の顔にその仮面をかぶせるのだ〉
〈それが言語をもつ者の悲劇なのだ、わが友よ。象徴的な概念でしかおたがいを知りえない者は、相手のことを想像するしかない。しかも、その想像力が不完全なために、彼らは往々にしてあやまちをおかすのだ〉
〈もとはといえば、それが彼らの苦悩のみなもとだ〉
〈同時に、それは彼らの強さのみなもとでもあるのだろう。あなたの種族も、われわれの種族も、それぞれ独自の進化論的な事情にもとづいて、はるかに落差のある相手を伴侶にえらぶ。われわれはつねに、知性の点ではるかに劣った相手を伴侶とするのだ。人間たちはといえば、自分の優越性をおびやかしかねない相手を伴侶にえらぶ。人間の男女のあいだに葛藤があるのは、意思の疎通がわれわれに劣っているからではなく、彼らが相手と深く交流しているからなのだ〉
(オースン・スコット・カード『ゼノサイド』上巻・2、田中一江訳)

「誰もすんなり退場なんてできないのよ」ローラが静かに言った。「人生っていうのは、そういうふうにはできてないの」
(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第1部・6、嶋田洋一訳)

 どんなものも、過去になってしまわない限り現実味を持たない。それまではただの踊り回る影でしかないからだ。"今日"というのは冗談であり、偶発的で流動的だ。高らかに歌を歌うのは"きのう"だけだった。
(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第2部・13、嶋田洋一訳)

「でも」と彼はブルーノに言った。「もうぼくは以前のぼくではなかったんです。そして、二度ともとのぼくに戻ることはないでしょう」
(サバト『英雄たちと墓』第I部・1、安藤哲行訳)

(…)脳裏に残っていたのはとりとめのない言葉、ちょっとした表情や愛撫、そして柱の断片のように響いたあの見知らぬ船の憂鬱げな汽笛の音ぐらいのものだったが、ただ一つ、びっくりしたせいではっきり覚えていた言葉があった、その出会いのとき彼女は彼を見つめながらこう言ったのだ、
「きみとわたしには共通する何かがあるわね、とても大切な何かが」
 その言葉を耳にしてマルティンは驚いた、というのも、自分とこの並外れた人間とのあいだにいったいどんな共通点があるのかと思ったからだ。
(サバト『英雄たちと墓』第I部・3、安藤哲行訳)

彼は若く、おそらく(それはほとんど確かなことと言ってもいい)彼女が好意を寄せ、関係を持つことのできる最後の男だろう。大事なのは、そのことだけだ。もしも、後で彼女が男に嫌悪感を催させ、その脳裡にあった記念碑を破壊したとしても、そんなことはどうでもいい。なぜなら、その記念碑は彼女自身の外側にあるものだから。この男の考えや思い出が彼女自身の外にあるのと、同じことだ。そして、自分の外側にあるものなど、すべてどうでもいいではないか。
(ミラン・クンデラ『年老いた死者は若い死者に場所を譲ること』14、沼野充義訳)

ハヴェル先生は、伝聞や逸話もまた、人間そのものと同じく老化と忘却の掟に従うものだということをよく知っていた。
(ミラン・クンデラ『ハヴェル先生の二十年後』3、沼野充義訳)

 彼女が歩くとき、あの脚がまさしく何かを語っていることにもう注目していたのかね? きみ、あの脚がいってることがきみにきこえたら、きっと顔が赤くなるだろうよ。
(ミラン・クンデラ『ハヴェル先生の二十年後』8、沼野充義訳)

これは人生においてよくあることなのだが、私たちは満足しているとき、傲慢にも私たちに差し出される好機をみずから拒み、そのことでますます幸福な充足感を確かめようとするものだ。
(ミラン・クンデラ『ハヴェル先生の二十年後』10、沼野充義訳)

 神として、あらゆることを知って永遠に生きるというのは、存在のありかたとしてはかなり退屈なものに思える。すべての文章をおぼえている本を読むようなものではないか。読書の楽しさは不確定性にある──まだ読んでいない部分でなにが起きるかわからないということだ。神は、神であることにすっかり退屈しているにちがいない。だから、宇宙をもっとおもしろいものにするために時間を発明したのだ。
(ジェイムズ・P・ホーガン『ミクロ・パーク』26、内田昌之訳)

誰が、おまえを作ったか?
(フレデリック・ブラウン『未来世界から来た男』第二部・いとしのラム、小西 宏訳)

だれがきみを作ったかは知らないというのか?
(R・A・ラファティ『このすばらしい死骸』浅倉久志訳)

どういう意味があるのかしら?
(ジェフ・ヌーン『未来少女アリス』風間賢二訳)

(…)「数知れぬと言ってもいいが、この地上における一切の不幸のなかでも」と、エレディアは身振りをまじえ、宮殿の避雷針を見つめながら語る。「詩人の不幸ほど甚だしいものはないでしょう。さまざまな災悪よりいっそう深く苦しめられるばかりでなく、それらを解明するという義務も負うているからです」詩人はわめくような声で、自己弁護を続けた。自分も不平の声をあげていたにもかかわらず、修道士は聞き咎めて詩人のほうを見、おしゃべりをやめずに心のうちで思った、泣き虫だな、この男、自分の苦しみと馴れ合っている、いつも死を口にしながら、ひどく用心深く庭園の石段を降りる。
(レイナルド・アレナス『めくるめく世界』34、鼓 直・杉山 晃訳)

一度に考えることはひとつにしておけ。深淵(しんえん)にせまるには、そっと手探りで行くのだ。
(ブライアン・オールディス『外がわ』井上一夫訳)

 不安になって、ハーリーは部屋のなかをうろついた。寄(よせ)木(ぎ)細工の床が、彼の足どりの不安を反響する。彼はビリヤード室にはいった。矛盾する意図に板ばさみになった彼は、緑の布地の上の球を一本指で突きやった。白い球がぶつかって、離れた。心の動きもそのとおりだった。
(ブライアン・オールディス『外がわ』井上一夫訳)

そこで何かが彼女をマントルピースの上のチューブに目を上げさせた。
(ブライアン・オールディス『黙劇』井上一夫訳)

 暖かな日には窓を少しあけて、そよ風にカーテンをはためかせる。喘息患者の浅く不規則な呼吸のように起伏する、ふくれあがってしぼむそのカーテンは、凝視するものはみなそうであるように、彼女の人生を物語っているように見えた。ほかのカーテンやシェードやブラインドの背後には、もっと悲しい物語が隠されているのだろうか? ああ、そうは思えなかった。
(トマス・M・ディッシュ『334』334・第二部・12、増田まもる訳)

 一台の車というものは、ロッティがいくら呟いてみせたり不服を言ってみせたりしたところで、しょせん理解できないような、一つの生き方を表しているのだった。
(トマス・M・ディッシュ『334』334・第三部・21、増田まもる訳)

愛が彼女を狡猾にしていた。
(トマス・M・ディッシュ『334』334・第三部・24、増田まもる訳)

(…)そんな音に耳をかたむけ、外の美しい光景を眺めながら、ぼくは思った。
(このすべてが永久に失われてしまうのか?)
その問いに、どこからともなくアイネイアーの声が答えた。
(そう、このすべてが失われてしまうの。それこそが、人間であることの本質なのよ、愛しい人)
(ダン・シモンズ『エンディミオンの覚醒』第一部・10、酒井昭伸訳)

「ぼくはいまその原因について、かなり思い当たることがあるんだ」と彼はおもおもしげにいった。
 そういうのは当たり前の話だが、その思い当たることというのが、一時間ののちには、別の考えになるかもしれないのだ。
(ジョン・ウィンダム『ポーリーののぞき穴』大西尹明訳)

そんなこと、ぼくの知ったことかい?
(ジョン・ウィンダム『ポーリーののぞき穴』大西尹明訳)

ジミーをいらいらさせるのは、そういうこまかい話である。
(ジョン・ウィンダム『ポーリーののぞき穴』大西尹明訳)

だが、フェリシティ・フレイにはそうさせるな。
というのは、きょうはきのうの一部だからだ。そしてきのうときょうとは、生きていることの一部なのだ。そして生きているということは、それぞれの日が大時計の振り子のように、カタン、コトン、カタン、コトンと過ぎて行くだけのことではない。生きているということは、なにかずうっとつづいていて、くり返しをしないものである。(…)
(ジョン・ウィンダム『野の花』大西尹明訳)

(…)彼はもの憂げにもう一度あたりを見まわした。「もっとしばしば町に来るべきだな。人間は飽食していると、他の喜びをすっかり忘れてしまいがちだ」ため息をつく。「ビリー、おまえにわかるか? 大気に満ち満ちているものが?」
「なんでしょうか?」サワー・ビリーはいった。
「生命だ、ビリー」ジュリアンの微笑は彼をからかっていたが、ビリーはどうにか微笑を返した。「生命と愛と欲望、豊富な食物と豊富なワイン、豊かな夢と希望だ、ビリー。それらすべてがわれわれの周囲に渦巻いている。可能性だ」彼の目がぎらぎらと輝いた。「美人ならいくらでもいるというのに、どうして通りすぎていった美人ひとりを追わねばならないのだ? 答えられるか?」
「わたしには──ミスター・ジュリアン、わたしにはわかりません」
「そうだろう、ビリー、おまえにはわかるまい」ジュリアンは笑った。「わたしの気まぐれが、これらの家畜どもの生であり死なのだ、ビリー。おまえが心からわれわれの一員になりたいと思うなら、そのことを理解しなければならない。わしは快楽だ、ビリー、わしは力だ。そして現在のわしの本質、快楽と力の本質は、可能性のうちに存在するのだ。わし自身の可能性は広大であり、無限である。われわれの歳月が無限であるように。だが、家畜どもにとってわしは、彼らのあらゆる希望と可能性の終わりなのだ。
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』10、増田まもる訳)

 だが、やがて不安感がしだいに頭をもたげてきた。漠然とした、どこかおかしいという感覚が生まれ、見慣れた事物が新たな姿をとるようになった。
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』12、増田まもる訳)

急にそれらの言葉がまったく新しい意味を帯びた。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』34、大島 豊訳)

(…)あの午後の静けさの中、下を流れる川の穏やかな呟きを耳にしながら、彼は雲が予言者の顔、雪原を進むキャラバン、帆船、雪の入江と絶え間なく変身する様子を眺めていた。あのときはすべてが安らかで穏やかだった、そして、まるで目覚めのあとの空ろなぼんやりとした瞬間のように、静かな快さに包まれて彼はアレハンドラの膝の上で何度も頭の位置を変えながら思っていた、項(うなじ)の下に感じる彼女のからだはなんて柔らかく、なんて優しいんだろうと、そのからだは、ブルーノが言うには、肉体以上の何か、細胞や筋組織、神経でできた単なる肉体以上に複雑で曖昧なものだった、なぜなら、それは(マルティンの場合には)すでにもう〈思い出〉でもあったからだ、そのため、死や腐敗から守られたもの、透明で儚(はかな)いとはいえ永遠性、不滅性を具えた何ものかであったのだ、それはミラドールでトランペットを吹くルイ・アームストロングであり、ブエノスアイレスの空や雲、(…)コメガの二階のバーから眺めたブエノスアイレスの屋根であった。そうしたものすべてを彼は柔らかな脈うつ肉体から感じたのだ、たとえその肉体が湿った土塊やみみずに引き裂かれる運命にある(というのはブルーノの典型的な考え方)とはいえ、そのときには彼は一種の永遠性を垣間見させることになったのだ、なぜなら、これもいつかブルーノが彼に言うことになるが、わたしたちはそんなふうにして、このもろい死すべき肉体を通して、永遠を仄かに見ることができるように作られているからである。そして、そのとき、彼が溜息をつくと、彼女は『どうしたの?』と訊いた。彼は『何も』と答えたが、それはわたしたちが《ありとあらゆること》を考えているときにする返事と同じものだった。
(サバト『英雄たちと墓』第II部・4、安藤哲行訳)

「困難なことが魅惑的なのは」とチョークは言った。「それが世界の意味をがらりと変えてしまうからだよ」
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』1、三田村 裕訳)

 ロナの足がロナ自身に告げた。アーケードへ行って、この雪の夜の光とぬくもりに包まれながら、しばらく歩きまわろう。
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』4、三田村 裕訳)

 一九三〇年一月の末、カピタン・オルモスでの休暇を終え、カンガージョ通りの下宿に荷物を置くと習慣からほとんど機械的にカフェ・ラ・アカデミアに向かった。なぜそこに出かけたのか? それはカステジャーノスが、アロンソが一日中延々とチェスをやっているのを見るため。いつものことを見るためだった。そのときはまだ、理解するに到っていなかったからだ、習慣は偽りのものであり、わたしたちの機械的な歩みはまったく同じ現実に導くとは限らないということを、なぜなら、現実は驚異的なものであり、人間の本性を考えれば、長い眼で見れば、悲劇的でもあることにまだ気づいていなかったからだ。
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

彼の精神は死後でさえ、わたしの精神を支配しつづけている。
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

(…)そして彼女はフェルナンドのそんな仕草をもどかしそうに待っていたみたいだった、まるでそれが彼の愛情の最大の表現ででもあるかのように。
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

人間のもっとも親密な部分に向かう道は常に人や宇宙を巡る長い周航にほかならない
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

 教会の鐘が一度だけ鳴り、なにか不思議なやり方で、それが風景全体を包みこんだように見えた。ジョンにはその理由がわかり、心臓が跳びあがった。鐘の主調音から切れ切れにちぎれたぶーんと鳴る音の断片がこれらの色になったので、基本的なボーオオオンという音は白のままだ。さまざまな色がぶーんと鳴り、渦巻いて、神の白色となり、分かれて、もう一度戻ってくる。なんであれ、神はそれとどんな関係があるのだろう? いや、ここのローマでは、そんなことをいってはいけない。(…)
(アントニイ・バージェス『アバ、アバ』4、大社淑子訳)

想像力は、魂の一部じゃないのか?
(アントニイ・バージェス『アバ、アバ』6、大社淑子訳)

「きみのいってることがわかったらいいのになあ」
(アントニイ・バージェス『アバ、アバ』6、大社淑子訳)

「自分の良心に耳を傾ければ、答えてくれるはずだよ」
「神の声のように静かに囁く声のことですか」
「ように、ではないよ、メグ。良心は神の声そのもの、内部に宿る聖霊の声だ。聖霊降臨祭のための集祷文には、全てのことに正しい判断ができますようにと祈る箇所がある」
 メグは穏やかな口調で食い下がった。「でも、その声が自分の声ではないと、自分の潜在的な欲求ではないとどうしてわかるのでしょう。その声の言っていることは、自分の体験、個性、遺伝体質、内的欲求を通して考え出されたものにちがいありません。人間は自分の心の策謀と欲望から自由になれるものなのでしょうか。自分が一番聞きたいと思っていることを良心が囁くということはありませんか」
「私の場合はそういうことはなかったね。良心は大体の場合、私の希望に反した方向に指し示した」
「あるいは、その時、自分の希望だと思い込んでいたこと、かもしれませんね」
 だが、これは食い下がり過ぎだった。コプリー氏は静かに坐ったまま、古い説教や法話、よく使う聖句からインスピレーションを得ようとしているのか、せわしなくまばたきした。ちょっと間を置いてから、彼は言った。「良心を楽器、たとえば弦楽器として考えるとわかりやすいと思うね。伝える内容は音楽にあるわけだが、楽器をいつも修理して、定期的にちゃんと練習しないと、まともな反応は得られない」
 メグはコプリー氏がアマチュアのヴァイオリニストだったことを思い出した。今は手のリューマチがひどくて、ヴァイオリンを持つどころではないが、楽器は隅のタンスの上に今もケースに入ってのっている。
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第六章・51、青木久恵訳)

(伯爵夫人に向かって)おまえが"宇宙の魂"と呼ぶものについて、わたしが、あの独裁者が自分自身のことを知っている以上に、よく知っているとは、思わなかったのかね? おまえのいう"宇宙の魂"だけでなく、多数のもっと下位の諸力も、その気になれば、マントのように人間性を着るのだよ。そういうことは、われわれほんの二、三の者にしか関係ない場合もあるがね。とにかく着られているわれわれは自分は自分のままだと思っているから、めったにそれに気づくことはないが、他人から見れば、やっぱり創造神(デミウルゴス)であり、慰め主(パラクリート)であり、悪魔王(フイーンド)であるのだ。
(ジーン・ウルフ『調停者の鉤爪』24、岡部宏之訳)

 彼女は低い天井を見つめていた。わたしはそこにもう一人のセヴェリアンがいるように感じた。ドルカスの心の中だけに存在する、優しくて気高いセヴェリアンが。他人に最も親しい気分で話をしている時には、だれもが、話し相手と信じる人物について自分の抱いているイメージに向かって、話をしているものだ。
(ジーン・ウルフ『警士の剣』10、岡部宏之訳)

 水が笑い声を立てている川のほとりで、われわれがいかに真剣だったか、少年の濡れた顔がどれほど真剣で清潔だったか、その大きな目の睫にたまった水の雫がいかに輝いたか、それを描写できればよいのだが。
(ジーン・ウルフ『警士の剣』17、岡部宏之訳)

 死の十年前、フロイトが人間を総括して何と言っているか、御存じになりたくありませんか? 「心の奥深くでこれだけは確かだと思わざるを得ないのだが、わが愛すべき同胞たる人間たちは、僅かな例外の人物を除いて、大多数がまず何の価値も持たない存在である。」今世紀の大半にわたって大部分の人たちから最も完全に近く人間の深奥を理解した人と認められている人物の言がこれなのです。いささか当惑せざるを得ないのじゃないでしょうか?
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』10、斎藤昌三訳)

 彼がわたしに望んでいたのは、もちろん、できる限り彼のように書くということなんです。こういう自惚れを持った作家たちはこれまでにもよく見かけたものよ。卓越した作家であればあるほど、この種の自惚れがはっきりしたものになりがちなようね。彼らは、誰もが自分と同じように書くべきだと信じているんです。もちろん、自分と同じように書けはしまいが、(…)
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』11、斎藤昌三訳)

 ナポレオンは死の直前、ウェリントンと話がしたいと願った。ローズヴェルトに会いたいという、常軌を逸したヒトラーの懇願。体から血を流しながら、一瞬でいいからブルータスと言葉を交わしたいと願ったシーザーのいまわのきわの情熱。
 自分を破滅させた相手の胸にはなにがあるか?
(オースン・スコット・カード『キャピトルの物語』第一部・4、大森 望訳)

人の心の邪まな情熱だけが、永く残る印象をきざむことができるのです。これに反して、善い情熱はいいかげんな印象しかのこしません。
(アルジャノン・ブラックウッド『妖怪博士ジョン・サイレンス』邪悪なる祈り、紀田順一郎訳)

「ガラス魔法がなくてもゴブリンに変わる人もいるのよ」とフロー伯母さん。「まっとうな世界よりも壊れた世界のほうが好きな人たち。そういう人たちは、自分たちだけが壊れていることに耐えられないのよ」
(ジェイムズ・P・ブレイロック『魔法の眼鏡』第十四章、中村 融訳)

人間は、自分の才能(ちから)を生かせる場所に行くしかない。
(オースン・スコット・カード『神の熱い眠り』3、大森 望訳)

「ポール」と彼女はもう一度わたしの名を呼んだ。それは新しいわたしにも古いわたしにも手の届かない、いや、わたしたちを形作った長官たちの目論見も手の届かない、彼女の心の奥底からのせつない希望の叫びだった。わたしは彼女の手をとっていった。
(コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』浅倉久志訳)

いまやどんなことも起こりうる。
(コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』浅倉久志訳)

すべての物事が新しく生まれ変わる前には。
(コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』浅倉久志訳)

別の雲。
(コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』浅倉久志訳)


Another Day。

  田中宏輔



別の少女
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・IV、鈴木克昌訳)

別の男の子
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第二部・15、茂木 健訳)

別の世界
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の場所
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の誰かの夢

(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の小路
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の国や別の地方
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別のもの
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の言葉
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の見方
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の人間
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の問題
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の階段
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・III、鈴木克昌訳)

別の場所
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・III、鈴木克昌訳)

別の手段
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・IV、鈴木克昌訳)

別の方向
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・III、鈴木克昌訳)

別の扉
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・III、鈴木克昌訳)

別の人間
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・IV、鈴木克昌訳)

別の形
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・IV、鈴木克昌訳)

別のあるもの
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・IV、鈴木克昌訳)

別の理由
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・IV、鈴木克昌訳)

別の人
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・IV、鈴木克昌訳)

別の意味
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・I、鈴木克昌訳)

別の場所
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・II、鈴木克昌訳)

別の種類
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・II、鈴木克昌訳)

別の考え
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・II、鈴木克昌訳)

別のブロック
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・III、鈴木克昌訳)

別の頁
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・III、鈴木克昌訳)

別の場合
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・II、鈴木克昌訳)

別の文字
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・IV、鈴木克昌訳)

別の通り
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・II、鈴木克昌訳)

別の夢
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・IV、鈴木克昌訳)

別の物
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・IV、鈴木克昌訳)

別の感情
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・III、鈴木克昌訳)

別のところ
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第一部・2、茂木 健訳)

別のルール
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第一部・2、茂木 健訳)

別の星
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第一部・5、茂木 健訳)

別の手
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第一部・6、茂木 健訳)

別の椅子
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第一部・7、茂木 健訳)

別のアーチ
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第一部・7、茂木 健訳)

別の筋(すじ)
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第二部・10、茂木 健訳)

別の方法
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第二部・10、茂木 健訳)

別の砂漠
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第二部・12、茂木 健訳)

別の生活
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第二部・13、茂木 健訳)

別の反応
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第三部・15、茂木 健訳)

別の仕事
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第三部・17、茂木 健訳)

別のベッド
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第三部・17、茂木 健訳)

別のなにか
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第三部・19、茂木 健訳)

別の質問
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第三部・20、茂木 健訳)

別の問題
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第五部・33、茂木 健訳)

別の脳細胞
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第五部・28、茂木 健訳)

別の考え
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第五部・28、茂木 健訳)

別のこと
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第六部・35、茂木 健訳)

別の人格
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第二章・5、茂木 健訳)

別のいい方
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第四章・2、茂木 健訳)

別のテーブル
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第五章、茂木 健訳)

別の話
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第五章、茂木 健訳)

別の鍵
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第二十四章・2、茂木 健訳)

別の意味
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第二十四章・2、茂木 健訳)

別の物語
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第二十七章、茂木 健訳)

別の人生
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第三十二章、茂木 健訳)

別の歴史
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第三十二章、茂木 健訳)

別の生き物
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第三十二章、茂木 健訳)

別の声
(R・C・ウィルスン『時間封鎖』上、茂木 健訳)

別の声
(スティーヴン・キング『霧』8、矢野浩三郎訳)

別の時と場所
(スティーヴン・キング『霧』5、矢野浩三郎訳)

別の男
(スティーヴン・キング『霧』4、矢野浩三郎訳)

別の箱
(スティーヴン・キング『霧』4、矢野浩三郎訳)

べつの避雷針
(スティーヴン・キング『霧』6、矢野浩三郎訳)

別のビール
(スティーヴン・キング『霧』10、矢野浩三郎訳)

別のネズミ
(スティーヴン・キング『ジョウント』大村美根子訳)

別の客
(スティーヴン・キング『ジョウント』大村美根子訳)

別の考え
(スティーヴン・キング『ジョウント』大村美根子訳)

別の心
(スティーヴン・キング『ジョウント』大村美根子訳)

別の車
(スティーヴン・キング『ジョウント』大村美根子訳)

別の惑星
(スティーヴン・キング『ジョウント』大村美根子訳)

別のもの
(スティーヴン・キング『トッド夫人の近道』山本光伸訳)

別の要素
(スティーヴン・キング『トッド夫人の近道』山本光伸訳)

別の女
(スティーヴン・キング『トッド夫人の近道』山本光伸訳)

別の美しさ
(スティーヴン・キング『トッド夫人の近道』山本光伸訳)

別の眼鏡
(スティーヴン・キング『しなやかな銃弾のバラード』山本光伸訳)

別の人間
(スティーヴン・キング『しなやかな銃弾のバラード』山本光伸訳)

別の部分
(スティーヴン・キング『しなやかな銃弾のバラード』山本光伸訳)

別の部屋
(スティーヴン・キング『ウェディング・ギグ』山本光伸訳)

別のやり方
(スティーヴン・キング『入り江』山本光伸訳)

別の声
(スティーヴン・キング『入り江』山本光伸訳)

別の眼
(スティーヴン・キング『やつらの出入口』高畠文夫訳)

別のもの
(スティーヴン・キング『人間圧搾機』高畠文夫訳)

別の部屋
(スティーヴン・キング『子取り鬼』高畠文夫訳)

別のレコード
(スティーヴン・キング『トラック』高畠文夫訳)

別の男
(スティーヴン・キング『やつらはときどき帰ってくる』高畠文夫訳)

別の何か
(スティーヴン・キング『呪われた村〈ジェルサレムズ・ロット〉』高畠文夫訳)

もう一つ別の声
(スティーヴン・キング『呪われた村〈ジェルサレムズ・ロット〉』高畠文夫訳)

別のもの
(パトリシア・ハイスミス『ヒロイン』小倉多加志訳)

別の本
(パトリシア・ハイスミス『ヒロイン』小倉多加志訳)

別の人間
(パトリシア・ハイスミス『アフトン夫人の優雅な生活』小倉多加志訳)

別の階段
(パトリシア・ハイスミス『アフトン夫人の優雅な生活』小倉多加志訳)

別の場所
(パトリシア・ハイスミス『モビールに艦隊が入港したとき』小倉多加志訳)

別の場所
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』夏、小梨 直訳)

別の例
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』春、小梨 直訳)

別の意識の世界
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』夏、小梨 直訳)

別の言い方
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』秋、小梨 直訳)

別の機会
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』秋、小梨 直訳)

別の目的
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』秋、小梨 直訳)

別の目的
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』秋、小梨 直訳)

別の角度
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』冬、小梨 直訳)

別の方向
(アンナ・カヴァン『われらの都市』I、細見遙子訳)

別の船
(アンナ・カヴァン『あらゆる悲しみがやってくる』細見遙子訳)

別のとき
(アンナ・カヴァン『ベンホー』細見遙子訳)

別の場所
(アンナ・カヴァン『輝しき若者たち』細見遙子訳)

別の力
(アンナ・カヴァン『輝しき若者たち』細見遙子訳)

別の不幸
(フリーマントル『フリーマントルの恐怖劇場』第3話、山田順子訳)

別の広間
(フリーマントル『フリーマントルの恐怖劇場』第3話、山田順子訳)

別の子
(フリーマントル『フリーマントルの恐怖劇場』第2話、山田順子訳)

別のところ
(フリーマントル『フリーマントルの恐怖劇場』第7話、山田順子訳)

別の音
(ホイットリー・ストリーバー『ラスト・ヴァンパイア』10、山田順子訳)

別の声
(ホイットリー・ストリーバー『ラスト・ヴァンパイア』14、山田順子訳)

別の世界
(ホイットリー・ストリーバー『ラスト・ヴァンパイア』18、山田順子訳)

べつの世界
(スティーヴン・バクスター『タイム・シップ』上・第三部・10、中原尚哉訳)

べつの入り口
(スティーヴン・バクスター『タイム・シップ』上・第三部・14、中原尚哉訳)

べつのきみ
(スティーヴン・バクスター『タイム・シップ』上・第三部・5、中原尚哉訳)

べつの可能性
(スティーヴン・バクスター『タイム・シップ』上・第三部・10、中原尚哉訳)

べつのとこ
(ロバート・ブロック『かぶと虫』仁賀克雄訳)

別の理論
(ロバート・ブロック『未来を抹殺した男』仁賀克雄訳)

別のもの
(ル・クレジオ『アザラン』豊崎光一・佐藤領時訳)

別の場所
(ル・クレジオ『アザラン』豊崎光一・佐藤領時訳)

別の部分
(ダン・シモンズ『夜の子供たち』上・17、布施由紀子訳)

別のドア
(ダン・シモンズ『夜の子供たち』上・17、布施由紀子訳)

別のもの
(グラント・キャリン『サターン・デッドヒート』1、小隅 黎・高林慧子訳)

別の人間
(グラント・キャリン『サターン・デッドヒート2』第二部・7、小隅 黎・高林慧子訳)

別の出入口
(キリル・ボンフィリオリ『チャーリー・モルデカイ1』4、三角和代訳)

別の約束
(キリル・ボンフィリオリ『チャーリー・モルデカイ2』11、三角和代訳)

別の酔っ払い
(アンリ・ミショー『日本における一野蛮人』小海永二訳)

別のもの
(ヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋』6、川本静子訳)

別の力
(バリントン・J・ベイリイ『時間帝国の崩壊』9、中上 守訳)

べつの詩
(リチャード・マシスン『下降』小田麻紀訳)

別の銀行支店長
(キリル・ボンフィリオリ『チャーリー・モルデカイ4』X、三角和代訳)

別の学生
(キリル・ボンフィリオリ『チャーリー・モルデカイ4』XI、三角和代訳)

別の目
(キリル・ボンフィリオリ『チャーリー・モルデカイ4』XX、三角和代訳)

別の社員
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・4、茂木 健訳)

別のリスト
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・5、茂木 健訳)

別の考え方
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・8、茂木 健訳)

別の人間
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・8、茂木 健訳)

別の誰か
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・8、茂木 健訳)

別の隠喩(メタフアー)
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・8、茂木 健訳)

別のこと
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・11、茂木 健訳)

別の意味
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・11、茂木 健訳)

別の質問
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第二部・12、茂木 健訳)

別の会話
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第二部・12、茂木 健訳)

別のもの
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第二部・13、茂木 健訳)

別の声
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第二部・14、茂木 健訳)

別の車
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第二部・14、茂木 健訳)

別の問題
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第二部・17、茂木 健訳)

別の露天商
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第三部・18、茂木 健訳)

別の店
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第三部・18、茂木 健訳)

別の担当者
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第三部・20、茂木 健訳)

別のデッキチェア
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第三部・21、茂木 健訳)

別の人生
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第三部・23、茂木 健訳)

別の本
(R・C・ウィルスン『アブラハムの森』1、茂木 健訳)

別のアンデルセン
(R・C・ウィルスン『アブラハムの森』2、茂木 健訳)

別の遊び方
(R・C・ウィルスン『アブラハムの森』2、茂木 健訳)

別の次元

(R・C・ウィルスン『アブラハムの森』3、茂木 健訳)

別のところ
(R・C・ウィルスン『ペルセウス座流星群』茂木 健訳)

別の声
(R・C・ウィルスン『ペルセウス座流星群』茂木 健訳)

別の収穫
(R・C・ウィルスン『街のなかの街』茂木 健訳)

別の道
(R・C・ウィルスン『観察者』茂木 健訳)

別の楽しみ
(R・C・ウィルスン『薬剤の使用に関する約定書』茂木 健訳)

別の薬
(R・C・ウィルスン『薬剤の使用に関する約定書』茂木 健訳)

別の反応
(R・C・ウィルスン『寝室の窓から月を愛でるユリシーズ』茂木 健訳)

別の話
(R・C・ウィルスン『プラトンの鏡』茂木 健訳)

別のあなた
(R・C・ウィルスン『無限による分割』茂木 健訳)

別の宇宙
(R・C・ウィルスン『無限による分割』茂木 健訳)

別の世界
(R・C・ウィルスン『無限による分割』茂木 健訳)

別の生物
(R・C・ウィルスン『無限による分割』茂木 健訳)

別の不気味な階段
(R・C・ウィルスン『無限による分割』茂木 健訳)

別のいいかた
(R・C・ウィルスン『無限による分割』茂木 健訳)

別のビーズのカーテン
(R・C・ウィルスン『パール・ベイビー』茂木 健訳)

別の階段
(R・C・ウィルスン『パール・ベイビー』茂木 健訳)

別の本
(R・C・ウィルスン『パール・ベイビー』茂木 健訳)

別の疑問
(R・C・ウィルスン『パール・ベイビー』茂木 健訳)

別のなにか
(R・C・ウィルスン『パール・ベイビー』茂木 健訳)

べつのいばらの冠
(デイヴィッド・マレル『オレンジは苦悩、ブルーは狂気』浅倉久志訳)

別の虫
(チャールズ・L・グラント『死者との物語』黒丸 尚訳)

別の色合い
(ジャック・ケイディ『暗黒を前にして』黒丸 尚訳)

別の理由
(ジャック・ケイディ『暗黒を前にして』黒丸 尚訳)

別の位置
(ジャック・ケイディ『暗黒を前にして』黒丸 尚訳)

別の連中
(ジョー・ホールドマン『怪物』中村 融訳)

別の診察室
(チェルシー・クイン・ヤーブロ『とぎれる』宮脇裕子訳)

別の連続殺人事件
(ウィリアム・ノーラン『最後の石』宮脇裕子訳)

別のサイレン
(ウィリアム・ノーラン『最後の石』宮脇裕子訳)

別の人格
(ホイットリー・ストリーバー『苦痛』白石 朗訳)

別のやじ馬
(クライヴ・バーカー『魂のゆくえ』宮脇孝雄訳)

別の通路
(ジョン・クロウリー『雪』畔柳和代訳)

別の部屋
(ジョン・クロウリー『雪』畔柳和代訳)

別の朝
(ジョン・クロウリー『雪』畔柳和代訳)

別のねぐら
(アンナ・カヴァン『あなたは誰?』二、佐田千織訳)

別の形
(アンナ・カヴァン『あなたは誰?』五、佐田千織訳)

別の鳥
(アンナ・カヴァン『あなたは誰?』十二、佐田千織訳)

別のチャバラカッコウ
(アンナ・カヴァン『あなたは誰?』十二、佐田千織訳)

別の自分
(アンナ・カヴァン『あなたは誰?』十九、佐田千織訳)

別の一日
(アンナ・カヴァン『あなたは誰?』二十、佐田千織訳)

別の決まり文句
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・II、鈴木克昌訳)

別の糸
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・II、鈴木克昌訳)

別の状態
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・IV、鈴木克昌訳)

別の一人
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・I、鈴木克昌訳)

別のバス
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・IV、鈴木克昌訳)

別の話
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・IV、鈴木克昌訳)

別の見方
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・IV、鈴木克昌訳)

別の脚本
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・IV、鈴木克昌訳)

別のやり方
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・IV、鈴木克昌訳)

別の活動
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・IV、鈴木克昌訳)

別の燃えさし
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・IV、鈴木克昌訳)

別の性格
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・I、鈴木克昌訳)

別の弾き方
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・I、鈴木克昌訳)

別の生活
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・I、鈴木克昌訳)

別の魔法
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・II、鈴木克昌訳)

別の季節
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・II、鈴木克昌訳)

別の結論
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の光景
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の立場
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の一面
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の太陽系
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の姿
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の様相
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の事態
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の人
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の報告書
(フランク・アッシャー『ヴェルサイユの幽霊』南波喜久美訳)

別の売春婦
(コリン・ウィルソン『殺人の哲学』第四章、高儀 進訳)

別の物件
(R・C・ウィルスン『時に架ける橋』第一部・1、伊達 奎訳)

別の部屋
(R・C・ウィルスン『時に架ける橋』第一部・1、伊達 奎訳)

別の味わい
(R・C・ウィルスン『時に架ける橋』第一部・4、伊達 奎訳)

別の問題
(R・C・ウィルスン『時に架ける橋』第一部・5、伊達 奎訳)

別の意味
(R・C・ウィルスン『時に架ける橋』第二部・9、伊達 奎訳)

別の管理人
(R・C・ウィルスン『時に架ける橋』第二部・13、伊達 奎訳)

別の時代
R・C・ウィルスン『時に架ける橋』第二部・14、伊達 奎訳)

また別のおとぎ話
(R・C・ウィルスン『世界の秘密の扉』第二部・第十一章・2、公手成幸訳)

別の声
(R・C・ウィルスン『世界の秘密の扉』第二部・第十一章・2、公手成幸訳)

別のホーム
(R・C・ウィルスン『世界の秘密の扉』第三部・第十七章・3、公手成幸訳)

別の表情
(R・C・ウィルスン『世界の秘密の扉』第三部・第二十六章・3、公手成幸訳)

別の宿
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・5、佐藤高子訳)

別の小屋
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・5、佐藤高子訳)

別の株
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第二部・7、佐藤高子訳)

別の一人
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第二部・14、佐藤高子訳)

別の道
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第二部・15、佐藤高子訳)

別の表情
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・1、佐藤高子訳)

別の航海
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・3、佐藤高子訳)

別の密偵
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・3、佐藤高子訳)

別の乗組員
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・4、佐藤高子訳)

別の顔
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・5、佐藤高子訳)

別の魂
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・5、佐藤高子訳)

別の種族
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・5、佐藤高子訳)

別の島民
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・5、佐藤高子訳)

別の姿
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・8、佐藤高子訳)

別のツタ
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・9、佐藤高子訳)

別の存在
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・11、佐藤高子訳)

別の部屋
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・12、佐藤高子訳)

別の女性
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第四部・1、佐藤高子訳)

別の一本
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第四部・1、佐藤高子訳)

別の件
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第四部・7、佐藤高子訳)

別のお告げ
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第四部・6、佐藤高子訳)

別の地区
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第四部・6、佐藤高子訳)

別の時
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第四部・7、佐藤高子訳)

別の場所
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・7、佐藤高子訳)

別の球
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・6、佐藤高子訳)

別の力
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・9、佐藤高子訳)

別の夜
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・10、佐藤高子訳)

別の身体
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・15、佐藤高子訳)

別の男
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・15、佐藤高子訳)

別の肉体
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・15、佐藤高子訳)

別の方法
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第五部・14、佐藤高子訳)

別の夢
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第五部・14、佐藤高子訳)

別の事実
(ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』22、池 央耿訳)

別の状態
(ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』23、池 央耿訳)

別の夢
(ロバート・シルヴァーバーグ『〈教皇〉ヴァレンタイン』上巻・第一部・1、森下弓子訳)

別の色
(ロバート・シルヴァーバーグ『〈教皇〉ヴァレンタイン』上巻・第一部・12、森下弓子訳)

別の群れ
(ロバート・シルヴァーバーグ『〈教皇〉ヴァレンタイン』上巻・第二部・6、森下弓子訳)

別の故事
(ロバート・シルヴァーバーグ『〈教皇〉ヴァレンタイン』上巻・第二部・9、森下弓子訳)

別の説
(ロバート・シルヴァーバーグ『〈教皇〉ヴァレンタイン』上巻・第二部・9、森下弓子訳)

別の意見
(ロバート・シルヴァーバーグ『〈教皇〉ヴァレンタイン』下巻・第五部・1、森下弓子訳)

別の作家
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』7、朝松 健訳)

別の話
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』10、朝松 健訳)

別の客人
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』12、朝松 健訳)

別の廊下
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』12、朝松 健訳)

別の部屋
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』12、朝松 健訳)

別の問題
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』12、朝松 健訳)

別の場所
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』13、朝松 健訳)

別の階段
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』13、朝松 健訳)

別の機会
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』13、朝松 健訳)

別の食堂
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』14、朝松 健訳)

別の衝撃
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』14、朝松 健訳)

別の理屈
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』14、朝松 健訳)

別の姿
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』14、朝松 健訳)

別の影
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』14、朝松 健訳)

別の腕
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』17、朝松 健訳)

別の箇所
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』17、朝松 健訳)

別の音
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』19、朝松 健訳)

別のある男
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の妖宴』1、江津 公訳)

別の集まり
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の妖宴』20、江津 公訳)

別の手
(フィリップ・K・ディック『ヴァルカンの鉄槌』8、佐藤龍雄訳)

別の女
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕』深見 弾・大野典宏訳)

別の少年
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕』深見 弾・大野典宏訳)

別の下水道
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕』深見 弾・大野典宏訳)

別の意味
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕』深見 弾・大野典宏訳)

別の観察者
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕』深見 弾・大野典宏訳)

別の層
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕』深見 弾・大野典宏訳)

別の脇道
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕』深見 弾・大野典宏訳)

別の不幸
(プッツァーティ『竜退治』脇 功訳)

別の包み
(プッツァーティ『聖者たち』脇 功訳)

べつの名前
(チャールズ・ストロス『アイアン・サンライズ』金子 浩訳)

別の感覚
(ジャック・ヴァンス『ノパルガース』6、伊藤典夫訳)

別の要素
(ジャック・ヴァンス『ノパルガース』10、伊藤典夫訳)

別の通路
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・16、日暮雅通訳)

別の男
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・17、日暮雅通訳)

別の部屋
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・23、日暮雅通訳)

別の車
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・25、日暮雅通訳)

別の仕事
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・30、日暮雅通訳)

別の抜け道
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・31、日暮雅通訳)

別の形
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・38、日暮雅通訳)

別の罪
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・38、日暮雅通訳)

別の仕事
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第四部・48、日暮雅通訳)

別の何か
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第四部・48、日暮雅通訳)

別の考え
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第四部・49、日暮雅通訳)

別の餌
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第四部・49、日暮雅通訳)

別の自己
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第四部・51、日暮雅通訳)

別の通り
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第四部・51、日暮雅通訳)

別の通り
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第四部・54、日暮雅通訳)

別のレンガ
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第四部・56、日暮雅通訳)

別のカーペット
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・57、日暮雅通訳)

別のライト
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・57、日暮雅通訳)

別の書類
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・58、日暮雅通訳)

別のコース
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・59、日暮雅通訳)

別の部屋
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・59、日暮雅通訳)

別の小さな瓶
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・60、日暮雅通訳)

別の人影
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・62、日暮雅通訳)

別の声
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・62、日暮雅通訳)

別の準備
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第六部・67、日暮雅通訳)

別の街灯
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第六部・60、日暮雅通訳)

別の人間
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第六部・71、日暮雅通訳)

別のメッセージ
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第六部・76、日暮雅通訳)

別の標本
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第六部・80、日暮雅通訳)

別の人間
(エルナン・ララ・サバーラ『イグアナ狩り』柴田元幸訳)

別の人生
(セルゲイ・ドヴラートフ『カーチャ』柴田元幸訳)

別の気持ち
(ベル・コーフマン『日曜日の公園』小川高義訳)

べつの方角
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの思い出』かたわ男、延原 謙訳)

別の事件
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの思い出』入院患者、延原 謙訳)

別の考え方
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの思い出』入院患者、延原 謙訳)

別の言い方
(ロイ・ブラウント・ジュニア『ファイヴ・アイヴズ』村上春樹訳)

別の原理
(ゴードン・リッシュ『はぐらかし』村上春樹訳)

別の死体
(フィリップ・クローデル『ブロデックの報告書』XXVI、高橋 啓訳)

別の質問
(マイク・レズニック『スターシップ─反乱─』5、月岡小穂訳)

別の感覚
(ナボコフ『翼の一撃』二、沼野充義訳)

別の紙
(ナボコフ『翼の一撃』二、沼野充義訳)

別の目的
(R・C・ウィルスン『楽園炎上』第三部・24、茂木 健訳)

別の感慨
(R・C・ウィルスン『楽園炎上』第三部・30、茂木 健訳)

別の実験
(ジャック・ヴァンス『ノパルガース』10、伊藤典夫訳)

別の説明
(フェルナンド・ペソア『不穏の書』95、澤田 直訳)

別の街
(フェルナンド・ペソア『不穏の書』98、澤田 直訳)

別の野原
(フェルナンド・ペソア『不穏の書』121、澤田 直訳)

別の太陽
(フェルナンド・ペソア(リカルド・レイス詩篇)『(暁の青白い光が…)』澤田 直訳)

別の道
(フェルナンド・ペソア(アルヴァロ・デ・カンポス詩篇)『シボレーのハンドルを握り…』)澤田 直訳)

別の夢
(フェルナンド・ペソア(アルヴァロ・デ・カンポス詩篇)『シボレーのハンドルを握り…』)澤田 直訳)

別の世界
(フェルナンド・ペソア(アルヴァロ・デ・カンポス詩篇)『シボレーのハンドルを握り…』)澤田 直訳)

別の恋
(フェルナンド・ペソア『婚約者への訣別の手紙』澤田 直訳)

別の記念碑
(フェルナンド・ペソア『ペソアと歩くリスボン』近藤紀子訳)

別の庭園
(フェルナンド・ペソア『ペソアと歩くリスボン』近藤紀子訳)

べつの人間
(フェルナンド・ペソア(アルヴァロ・デ・カンポス名義)『Lisbon Revisited (1923)』池上〓夫訳)

別の記録
(トマス・スウェターリッチ『明日と明日』第一部、日暮雅通訳)

別の通路
(トマス・スウェターリッチ『明日と明日』第一部、日暮雅通訳)

別の生き残り
(トマス・スウェターリッチ『明日と明日』第一部、日暮雅通訳)

別の機会
(トマス・スウェターリッチ『明日と明日』第一部、日暮雅通訳)

別の写真
(トマス・スウェターリッチ『明日と明日』第一部、日暮雅通訳)

別の言葉
(シャーリイ・ジャクスン『逢瀬』市田 泉訳)

別の歌
(シャーリイ・ジャクスン『男の子たちのパーティ』市田 泉訳)

別の雲
(ペソア『不安の書』第二部・10、高橋都彦訳)

別の性格
(ペソア『不安の書』第二部・51、高橋都彦訳)

別の言葉遣い
(ペソア『不安の書』第二部・85、高橋都彦訳)

別の青
(ペソア『不安の書』第二部・119、高橋都彦訳)

別の舞台装置
(ペソア『不安の書』第二部・147、高橋都彦訳)

別の思い出
(ペソア『不安の書』第二部・147、高橋都彦訳)

別の自分
(ペソア『不安の書』第二部・161、高橋都彦訳)

別の窓
(ペソア『不安の書』第二部・227、高橋都彦訳)

別の過去
(ペソア『不安の書』第二部・51、高橋都彦訳)

別のゴルゴタの丘
(ペソア『不安の書』第二部・252、高橋都彦訳)

別の視線
(ペソア『不安の書』第二部・254、高橋都彦訳)

別の思考
(ペソア『不安の書』第二部・254、高橋都彦訳)

別の心
(ペソア『不安の書』第二部・254、高橋都彦訳)

別の地球
(ペソア『不安の書』第二部・263、高橋都彦訳)

別の芸術
(ペソア『不安の書』第二部・264、高橋都彦訳)

別の実体
(ペソア『不安の書』第二部・273、高橋都彦訳)

別の感覚
(ペソア『不安の書』第二部・274、高橋都彦訳)

別の結果
(ペソア『不安の書』第二部・309、高橋都彦訳)

別の現実
(ペソア『不安の書』第三部・410、高橋都彦訳)

別の日
(ペソア『不安の書』第三部・435、高橋都彦訳)

別の色
(ペソア『不安の書』第三部・435、高橋都彦訳)

別の夢
(ペソア『不安の書』第三部・452、高橋都彦訳)

別の体位
(ペソア『不安の書』第三部・452、高橋都彦訳)

別の黄金
(ペソア『不安の書』第三部・452、高橋都彦訳)

別のわたし
(ペソア『不安の書』第三部・453、高橋都彦訳)

別の花
(ペソア『不安の書』第三部・455、高橋都彦訳)

別の姿
(ペソア『不安の書』第三部・455、高橋都彦訳)

別の名前
(ケリー・リンク『妖〓のハンドバッグ』柴田元幸訳)

別の開け方
(ケリー・リンク『妖〓のハンドバッグ』柴田元幸訳)

別の気分
(ジョン・バース『暗夜海中の旅』大津栄一郎訳)

別の言葉
(ジョン・バース『暗夜海中の旅』大津栄一郎訳)

別の存在
(チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』第1部・第6章、日暮雅通訳)

別の道
(チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』第1部・第6章、日暮雅通訳)

別の電話
(チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』第2部・第16章、日暮雅通訳)

別の人生
(マイケル・カニンガム『めぐりあう時間たち』ミセス・ブラウン、高橋和久訳)

別の、
(チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻・第二部・12、日暮雅通訳)

別の新たな存在
(チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻・第二部・17、日暮雅通訳)

別の力
(チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻・第三部・19、日暮雅通訳)

別の存在
(チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』下巻・第六部・45、日暮雅通訳)

別の青
(J・L・ボルヘス『鏡』鼓 直訳)

別の夜
(J・L・ボルヘス『天恵の歌』鼓 直訳)

別の夢
(J・L・ボルヘス『詩法』鼓 直訳)

別の愛
(J・L・ボルヘス『バルタサル・グラシアン』鼓 直訳)

別の現実
(J・L・ボルヘス『His End and His Beginning』鼓 直訳)

別の手
(J・L・ボルヘス『短歌』3、鼓 直訳)

別の海
(J・L・ボルヘス『ハーマン・メルヴィル』鼓 直訳)

別の顔
(J・L・ボルヘス『鏡』鼓 直訳)

別の術、忘却
(J・L・ボルヘス『シャーロック・ホームズ』鼓 直訳)

別の迷宮
(J・L・ボルヘス『寓話の森』鼓 直訳)

別の過ち
(マルセル・プルースト『ある少女の告白』III、山田 稔訳)

別の中庭
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『スロー・ミュージック』伊藤典夫訳)

別のイメージ
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『たおやかな狂える手に』伊藤典夫訳)

別の結末
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『たおやかな狂える手に』伊藤典夫訳)

別のベンチ
(アン・レッキー『叛逆航路』5、赤尾秀子訳)

別の感情
(アン・レッキー『叛逆航路』14、赤尾秀子訳)

別の自分
(アン・レッキー『叛逆航路』23、赤尾秀子訳)

別のスイッチ
(ジャック・ヴァンス『奇跡なす者たち』IV、酒井昭伸訳)

別の魂
(R・A・ラファティ『第四の館』柳下毅一郎訳)

別の体験
(ベーア=ホフマン『ある夢の記憶』池内 紀訳)

別の力
(ハインリヒ・ベル『長い髪の仲間』青木順三訳)

別の夢
(フラナリー・オコナー『強制追放者』横


詩の日めくり 二〇一六年十三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年十三月一日 「廃語霊。」


な〜んてね。


二〇一六年十三月二日 「こんな科目がある。」


幸福の幾何学
倫理代数学
匿名歴史学
抒情保健体育
愛憎化学
錯覚地理
電気国語
苦悩美術
翻訳家庭科
冥福物理
最善地学
誰に外国語
摩擦哲学
無為技術
戦死美術
被爆音楽
擬似工作
微塵哲学
足の指天文学


二〇一六年十三月三日 「後日談」


大失敗、かな、笑。
ネットで検索していて
『ブヴァールとペキュシェ』が品切れだったと思って
何日か前にヤフオクで全3巻1900円で買ったのだけれど
きょう、『紋切型辞典』を買いにジュンク堂によって
本棚を見たら、『ブヴァールとペキュシェ』が置いてあったのだった、笑。
ううううん。
560円、500円、460円だから
新品の方が安かったわけね。
日知庵によって、バカしたよ〜
と言いまくり。
ネット検索では、品切れだったのにぃ、涙。
ひさびさのフロベール体験。
どきどき。
きょうは、これからお風呂。
あがったら、『紋切型辞典』をパラパラしよう。


このあいだ、ヤフオクで買ったの
届いてた。
ヤケあるじゃん!
ショック。


いまネットの古書店で見たら
4200円とかになってるしな〜
思い違いするよな〜
もうな〜
足を使って調べるということも
必要なのかな。
ネット万能ではないのですね。
しみじみ。
古書は、しかし、むかしと違って
ほんとうに欲しければ、ほとんどすぐに手に入る時代になりました。
古書好きにとっては、よい時代です。
こんなスカタンなことも
ときには、いいクスリになるのかもしれません、笑。
キリッと
前向き。


二〇一六年十三月四日 「朝の忙しい時間にトイレをしていても」


横にあった
ボディー・ソープの容器の
後ろに書いてあった解説書を読んでいて
ふと、ううううん
これはなんやろ
なんちゅう欲求やろかと思った。
読書せずにはいられない。
いや
人間は
知っていることでも
一度読んだ解説でもいいから
読んでいたい
より親しくなりたいと思う動物なんやろか。
それとも、文字が読めるぞということの
自己鼓舞なのか。
自己主張なのか。
いや
無意識層のものの
欲求なのか。
そうだなあ。
無意識に手にとってしまったものね。


二〇一六年十三月五日 「エリオットの詩集」


2010年11月19日のメモ 

岩波文庫のエリオットの詩「風の夜の狂想曲」を読んでいて
42ページにある最後の一行「ナイフの最後のひとひねり。」(岩崎宗治訳)の解釈が
翻訳者が解説に書いてあるものと
ぼくのものとで、ぜんぜん違っていることに驚かされた。
ぼくの解釈は直解主義的なものだった。
訳者のものは、隠喩としてとったものだった。
まあ、そのほうが高尚なのだろうけれど
おもしろくない。
エリオットの詩は
直解的にとらえたほうが、ずっとおもしろいのに。
ぼくなんか、にたにた笑いながら読んでるのに。
むずかしく考えるのが好きなひともいるのはわかるけど
ぼくの性には合わない。
批評がやたらとりっぱなものを散見するけど
なんだかなあ。
バカみたい。


二〇一六年十三月六日 「ぼくたち人間ってさ。」


もう、生きてるってだけでも、荷物を背負っちゃってるよね。
知性とか感情っていうものね。
(知性は反省し、感情は自分を傷つけることが多いから)
それ以外にも生きていくうえで耐えなきゃならないものもあるし
だいたい、ひとと合わせて生きるってことが耐えなきゃいけないことをつくるしね。
お互いに荷物を背負ってるんだから
ちょっとでも、ひとの荷物を減らしてあげようとか思わなきゃダメよ。
減らなくても、ちょっとでも楽になる背負い方を教えてあげなきゃね。
自分でも、それは学ぶんだけど。
ひとの荷物、増やすひといるでしょ?
ひとの背負ってる荷物増やして、なに考えてるの?
って感じ。
そだ。
いま『源氏物語』中盤に入って
めっちゃおもしろいの。
「そうなんですか。」
そうなの。
もうね。
矛盾しまくりなの。
人物描写がね、性格描写か。
しかし、『源氏物語』
こんなにおもしろくなるとは思ってもいなかったわ。
物語って、型があるでしょ。
あの長い長い長さが、型を崩してるのね。
で、その型を崩させているところが
作者の制御できてないところでね。
その制御できてないところに、無意識の紡ぎ出すきらめきがあってね。
芸術って、無意識の紡ぎ出すきらめきって
いちばん大事じゃない?
いまのぼくの作風もそうで
もう、計画的につくられた詩や小説なんて
ぜんぜんおもしろくないもの。
よほどの名作はべつだけど。

『源氏物語』のあの長さが、登場人物の性格を
一面的に描きつづけることを不可能にさせてるのかもしれない。

それが、ぼくには、おもしろいの。
それに、多面的でしょ、じっさいの人間なんて。
ふつうは、一貫性がなければ、文学作品に矛盾があるって考えちゃうけど
じっさいの人間なんて、一貫性がないでしょ。
一貫性がもとめられるのは、政治家だけね。
政治の場面では、一貫性が信用をつくるから。
たとえば、政党のスローガンね。
でも、もともと、人間って、政治的でしょ?
職場なんて、もろそうだからね。
それは、どんな職場でも、そうだと思うの。
ほら、むかし、3週間ぐらい、警備員してたでしょ?
「ええ、そのときは、ほんとにげっそり痩せてられましたよね。」
でしょ?
まあ、どんなところでも、人間って政治的なのよ。
あ、話を戻すけど
芸術のお仕事って、ひとの背負ってる荷物をちょっとでも減らすか
減らせなけりゃ、すこしでも楽に思える担い方を教えてあげることだ思うんだけど
だから、ぼくは、お笑い芸人って、すごいと思うの。
ぼくがお笑いを、芸術のトップに置く理由なの。
(だいぶ、メモから逸脱してます、でもまた、ここからメモに)
芸人がしていることをくだらないっていうひとがいるけど
見せてくれてることね
そのくだらない芸で、こころが救われるひとがいるんだからね。
フロベールの『紋切型辞典』に
文学の項に、「閑人(ひまじん)のすること。」って書いてあったけど
その閑人がいなけりゃ
人生は、いまとは、ぜんぜん違ったものになってるだろうしね。
世界もね。
きのう、あらちゃんと
自費出版についてディープに話したけど
この日記の記述、だいぶ長くなったので、あとでね。
つぎには、きのうメモした長篇を。
エリオットに影響されたもの。
(ほんとかな。)


二〇一六年十三月七日 「あなたがここに見えないでほしい。」


とんでもない。
けさのうんこはパープルカラーの
やわらかいうんこだった。
やわらかいうんこ。
やわらかい
軟らかい
うんこ
便
軟らかい
うんこ
軟便(なんべん)
なすびにそっくりな形の
形が
なすびの
やわらかい
うんこ
軟便
なすびにそっくりのパープルカラーが
ぽちゃん

便器に
元気に
落ちたのであった。
わしがケツもふかずに
ひょいと腰を浮かして覗き込むと
水にひろがりつつある軟便も
わしを見上げよったのじゃ。
そいつは水にひろがり
形をくずして
便器がパープルカラーに染まったのじゃった。
ひゃ〜
いかなる病気にわしはあいなりおったのじゃろうかと
不安で不安で
いっぱいになりおったのじゃったが
しっかと
大量の水をもって
パープルカラーの軟便を流し去ってやったのじゃった。
これで不安のもとは立ち去り
「言わせてやれ!」
わしはていねいにケツをふいて
「いてっ、いててててて、いてっ。」
手も洗わず
顔も洗わず
歯も磨かず
目ヤニもとらず
耳アカもとらず
鼻クソもとらず
靴だけを履いて
ステテコのまま
出かける用意をしたのじゃった。
公園に。
「いましかないんじゃない?」
クック、クック
と幸せそうに笑いながら
陽気に地面を突っついておる。
なにがおかしいんじゃろう。
不思議なヤカラじゃ。
不快じゃ。
不愉快じゃ。
ワッ
ワッ
ワッ
あわてて飛び去る鳩ども
じゃが、頭が悪いのじゃろう。
すぐに舞い戻ってきよる。
ワッ
ワッ
ワッ
軟便
違う
なんべんやっても
またすぐに舞い戻ってきよる。
頭が悪いのじゃろう。
わしは疲れた。
ベンチにすわって休んでおったら
マジメそうな女子高校生たちが近寄ってきよったんじゃ。
なんじゃ、なんじゃと思とうったら
女の子たちが
わしを囲んでけりよったんじゃ。
ひゃ〜
「いてっ、いててててて、いてっ。」
「いましかないんじゃない?」
こりゃ、かなわん
と言って逃げようとしても
なかなかゆるしてもらえんかったのじゃが
わしの息子と娘がきて
わしをたすけてくれよったんじゃ。
「お父さん
 机のうえで
 卵たちがうるさく笑っているので
 帰って
 卵たちを黙らせてくれませんか。」
たしかに
机のうえでは
卵たちが
クツクツ笑っておった。
そこで、わしは
原稿用紙から飛び出た卵たちに
「文字にかえれ。
 文字にかえれ。
 文字にかえれ。」
と呪文をかけて
卵たちが笑うのをとめたんじゃ。
わしが書く言葉は
すぐに物質化しよるから
もう、クツクツ笑う卵についての話は書かないことにした。
しかし、クツクツ笑うのは
卵じゃなくって
靴じゃなかったっけ?
とんでもない。
「いましかないんじゃない?」
「問答無用!」
そんなこと言うんだったら
にゃ〜にゃ〜鳴くから
猫のことを
にゃ〜にゃ〜って呼ばなきゃならない。 電話は
リンリンじゃなくって

もうリンリンじゃないか
でんわ、でんわ
って
鳴きゃなきゃならない。
なきゃなきゃならない。
なきゃなきゃ鳴かない。
「くそー!」
原稿用紙に見つめられて
わしの独り言もやみ
「ぎゃあてい、ぎゃあてい、はらぎゃあてい。」
吉野の桜も見ごろじゃろうて。
「なんと酔狂な、お客さん」
あなたがここに見えないでほしい。
「いか。」
「いいかな?」


二〇一六年十三月八日 「このバケモノが!」


いまナウシカ、3回目。
「このバケモノが!」
「うふふふ。」
「不快がうまれたワケか。
 きみは不思議なことを考えるんだな。」
「あした、みんなに会えばわかるよ。」
引用もと、『風の谷のナウシカ』
「以上ありません。」


二〇一六年十三月九日 「切断された指の記憶。」


ずいぶんむかし、TVで
ルーマニアだったか、チェコだったか
ヨーロッパの国の話なんだけど
第二次世界大戦が終わって
でも、まだその国では
捕虜が指を切断されるっていう拷問を受けてる
映像が出てて
白黒の映像なんだけど
机の上が血まみれで
たくさんの切断された指が
机の上にボロンボロン
ってこと
思い出した。
十年以上前かな。
葵公園で出会った青年が
右手の親指を見せてくれたんだけど
第一関節から先がなくなっていたのね。
「気持ち悪いでしょ?」
って言うから
「べつに。」
って返事した。
工場勤務で、事故ったらしい。
これまた十年ほども、むかし、竹田駅で
両方とも足のない男の子がいて
松葉杖を両手に持っていて
風にズボンのすそがひらひらしていて
なんだかとてもかわいらしくて
セクシーだった。
後ろ姿なんだけどね。
顔は見ていないんだけどね。
ぎゅって、したいなって思った。
だからってわけじゃないけど
指がないのも
美しいと思った。
じっと傷口を眺めていると
彼は指を隠した。
自分から見せたくせにね。
胃や腸がない子っているのかな。
内臓がそっくりない子。
そんな子は内面から美しくて
きっと、全身が金色に光り輝いてるんだろね。
脳味噌がない子もすてきだけど
目や耳や口のない子もかわいらしい。
でも、やっぱり
手足のない子が、いちばんかわいらしいと思う。
江戸川乱歩の『芋虫』とか
ドルトン・トランボの『ジョニーは戦場に行った』とか
山上たつひこの『光る風』とか
手足のない青年が出てきて
とってもキッチュ・キッチュだった。
あ、日活ロマンポルノに、ジョニジョニ・ネタがあってね。
第二次世界大戦で負傷したダンナが帰ってくると
そのうち布団のなかで芋虫になっちゃうのね。
違ったかな、笑。
でも、映像のレベルは高かったと思うよ。


二〇一六年十三月十日 「切断された指の記憶。」


指。
指。
指。
指。

指。


二〇一六年十三月十一日 「切断された指の記憶。」


切断された指っていうと
ヒロくんの話。
ヒロくんのお父さんの
年平均5、6本という話を思い出した。
それと
ウィリアム・バロウズも。
バロウズは自分で指を切断しちゃったんだよね。
恋人への面当てに。
そういえば
弟の同級生が
度胸試しに、自分の指を切断したって言ってた。
なんて子かしらね。
そうだ、カフカのことも思い出される。
労働省だったか保健省だったか
労務省だったかな。
そんなとこに勤めていたカフカのことも思い出される。
労働災害ね。
きょう、これから見る予定の『薬指の標本』
労災の話ね。
嘘、笑。
でも、タイトルがいいね。
楽しみ。
あとの2枚のDVDは
ちと違う傾向かもしれないけれど
怖そうだから
チラ見のチェックをしてみようっと。

ニコラス・ケイジは好きな俳優。
スネーク・アイだったかな。
いい映画だった。
8ミリも。
だから、ニコちゃんの映画、ちゃんと見るかも。
あ、
晩ご飯、買ってこなきゃ。
ご飯食べながら
血みどろゲロゲロ。
って
あ、
だから、寝られないのかな、笑。
ブリブリ。

さっきブックオフに行ったら
サンプルで見た映画があって
2980円していたので
なぜか、気分がよかった。
あのキョンシーもののタイムスリップものね。
田中玲奈のめっちゃヘタクソな演技がすごい映画でした。
最後まで見ることができなかった映画でした、笑。


二〇一六年十三月十二日 「ノイローゼ占い。」


ノイローゼにかかっている人だけで
ノイローゼの原因になっていることがらを
お互いに言い当て合うゲームのこと。
気合いが入ったノイローゼの持ち主が言い当てることが多い。
なぜかしら?
で、言い当てた人から抜けていくというもの。
じっさい、最初に言い当てた人は
次の回から参加できないことが多い。
兵隊さんと団栗さん。


二〇一六年十三月十三日 「2010年11月12日のメモ」


読む人間が違えば、本の意味も異なったものになる。


二〇一六年十三月十四日 「これまた、2010年11月12日のメモ」


首尾一貫した意見を持つというのは、一見、りっぱなことのように見えるが
個々の状況に即して考えていないということの証左でもある。


二〇一六年十三月十五日 「これまたまた、2010年11月12日のメモ」


書くという行為は、ひじょうに女々しい。
いや、これは現代においては、雄々しいと書く方がいいかもしれない。
意味の逆転が起こっている。
男のほうが潔くないのだ。
美輪明宏の言葉が思い出される。
「わたしはいまだかつて
 強い男と弱い女に出会ったことがありません。」
しかり、しかり、しかり。
ぼくも、そう思う。

あ、フロベールの『紋切型辞典』って
おもしろいよ。
用語の下に
「よくわからない。」
って、たくさんあるの。
読者を楽しませてくれるよね。
ぼくも
100ページの長篇詩のなかで
「ここのところ、忘れちゃった〜、ごめんなさい。」
って、何度も書いたけど、笑。


二〇一六年十三月十六日 「愛は、あなたを必要としている」


愛は、あなたを必要としている
あなたがいなければ、愛は存続できない
あなたが目を向けるところに愛はあり
あなたが息をするところに愛はあり
あなたが耳を傾けるところに愛はある
あなたがいないと、愛は死ぬ
愛は、あなたに生き
あなたとともに生きているのだ
あなたがいないところに愛はない
愛は、あなたがいるところにある
あなたそのものが愛だからだ


二〇一六年十三月十七日 「愛は滅ぼす」


愛は滅ぼす
ぼくのなかの蔑みを
愛は滅ぼす
ぼくのなかの憎しみを
愛は滅ぼす
ぼくのなかの躊躇いを
そうして、最後に
愛は滅ぼす
きみとぼくとのあいだの隔たりを


二〇一六年十三月十八日 「きょうのブックオフでの買い物、「イマジン」と「ドクトル・ジバゴ II」」


きょうのブックオフでの買い物、「イマジン」と「ドクトル・ジバゴ II」

イマジン 1050円
ドクトル・ジバゴ II 105円

イマジンは、買いなおし。
リマスターやから、いいかな。
でも、これ、オマケの曲がないんやね。
ふううん。

パステルナークのほうは
I 持ってないんやけど
II のおわりのほうをめくったら
詩がのってて、その詩にひきつけられたから
ああ、これは縁があるって思って買った。
105円だし、笑。
さいきん、105円で、いい本がいっぱい見つかって
なんなんやろ、魂のチンピラこと
貧乏詩人あつすけとしては、よろこばしいかぎり。

その詩を引用しておきますね。
つぎの4行が目に、飛び込んできたんだわ。

ぼくといっしょなのは名のない人たち、
樹木たち、子供たち、家ごもりの人たち。
ぼくは彼らすべてに征服された。
ただそのことにのみ ぼくの勝利がある。
                 (「夜明け」最終連、江川卓訳)

本文では、誤植で「だた」になっていた。
たぶん、文庫だと直ってると思うけれど。
どこかで文庫で、Iを見たような記憶がある。
そのうち、Iも買おう。

しかし
なんで、イマジン
むかし売ったんやろ
そんなにお金に困ってたんかなあ
あんまり記憶にないなあ


二〇一六年十三月十九日 「こころ」


思えば、こころとは、なんと不思議なものであろうか
かつては、喜びの時であり、場所であり、出来事であった
いまは、悲しみの時であり、場所であり、出来事であった。
その逆のこともあろう。
さまざまな時であり、場所であり、出来事である
この、こころという不思議なもの。


二〇一六年十三月二十日 「ぼくはこころもとなかった」


ぼくはこころともなかった


二〇一六年十三月二十一日 「言葉」


ひとつの文章は
まるで一個の地球だ

言葉は
ひとつひとつ
読み手のこころを己れにひきよせる引力をもっている
しかし、それらがただひとつの重力となって
読み手のこころを引くことにもなるのだ


二〇一六年十三月二十二日 「句点。」


彼は O型
なにごとにも
さいごには句点を置かずにはいられなかった。


二〇一六年十三月二十三日 「やめる庭」


もう、や〜めたっ!
って言って
庭が
庭から駆け出しちゃった。


二〇一六年十三月二十四日 「木や石や概念は、孤独ではない。」


木や石や概念は、孤独ではない。
それ自らが、考えるということがないからである。
人間は、じつに孤独だ。
もちろん、しじゅう、考える生きものだからだ。
しかも、どんなに上手く考えるコツを習得していても孤独である。
むしろ、考えれば考えるほど
考えることに習熟すればするほど、孤独になるのである。
考えるとは、ひとりになること。
他人の足で、自分が歩くわけにはいくまい。
他人の足で、自らが歩いていると称する輩は多いけれども、笑。


二〇一六年十三月二十五日 「この人間という場所」


胸の奥でとうに死んだ虫たちの啼くこの人間という場所
傘をさしてもいつも濡れてしまうこの人間という場所
われとわれが争い勝ちも負けもみんな負けになってしまうこの人間という場所

高校生のときに、
高校は自転車で通っていたんだけど
雨の日にバスに乗ってたら、
視線を感じて振り向いたら
同じ町内にいた高校の先輩が、
ぼくの顔をじっと見てた
ぼくが見つめ返すと、
一瞬視線をそらして、
またすぐに
ぼくの顔を見た。
今度はぼくが視線を外した。
そのときの、そのひとの、せいいっぱい真剣な眼差しが
思い出となってよみがえる。

いくつかの目とかさなり。

「夏の思い出」という、
ぼくの詩に出てくる同級生は
高校2年で、
溺れて死んじゃったので、
ぼくのなかでは
永遠にうつくしい高校生。

あの日の触れ合った手の感触。

ぼくは、ぼくの思い出を、ぼくのために思い出す。


二〇一六年十三月二十六日 「2008年6月26日のメモより」


不眠症で、きのう寝てないんですよ、という話を授業中にした翌々日
一人の生徒に
「先生、きのう、寝れた?」
って、訊れて、その前夜は寝れたので(いつもの薬に、うつ病の薬を加えて)
「寝たよ。」というと
にっこり笑って
「よかった。」
って言ってくれた
とてもうれしかった
ごく自然にきづかってくれてるのが伝わった
ごく自然に伝わるやさしさの、なんと貴重なことか。
ぼく自身を振り返る
ぼくには、自然に振るまえるやさしさがない
ぼくには、自然にひとにやさしくする気持ちがない
ぼくにはできないことを、ごく自然にできる彼が
その子のようなひとたちのことを思い出す
いたね、たしかに、遠い記憶のなかにも
ごく最近の記憶のなかにも

この人間という時間のむごさとうつくしさ 
この人間という場所のむごさとうつくしさ
この人間という出来事のむごさとうつくしさ


二〇一六年十三月二十七日 「奇想コレクション」


それはたとえば、そうね、灰色の猫だと思っていたものが
そうではなくて、コンクリートで作られたゴミ箱だったことに気がついて
そのまわりの景色までが一変するような、そのようなことが起こるわけ
一つの現実から、もう一つ別の現実への変化なのだけれど
こんなことは日常茶飯事で
ただ、はっきりと認識していないだけでね
はっきりと認識する方法は、意識的であるようにつとめるしかないのだけれど
それって、生まれつき、そういう意識が発達しやすいようにできてる人は別だけれど
そうでない人は、そうとうに訓練しないとだめみたいね
ぼくなんかも、ボケボケだから、それを意識するっていうか
そうして、言葉にしないと意識できないっていうか

やっぱり認識なわけで
現実をつくっているのが
ということで
『舞姫』のテーマ、決まりね。

このあいだ読んだタニス・リーの短篇集には、何も得るものがなかったけれど
いまも読んでいるスタージョンの短篇集には、数ページごとに
こころに響く表現があって
これはなんだろうなって思った。
何だろう。
現実をより実感できるものにしてくれる表現。
これまでの現実を、ちょっと違った視点から眺めさせてくれることで
これまでの現実から、違った現実に、ぼくをいさせてくれる
そんな感じかな。
書かれていることは、とっぴょうしもないことではなくて
ごく日常的なことなのに
解釈なんだね
それを描写してくれているから
スタージョンの本はありがたい感じ。
タニス・リーのは、破り捨てたいくらいにクソの本だった。
奇想コレクション・シリーズの一巻で、カヴァーがかわいいので、捨てられないけれど、笑。


二〇一六年十三月二十八日 「意識と蒸し器」


意識と蒸し器

無意識とうつつもりで
蒸し器とうつ
でも、こうした偶然が
考えさせるきっかけになることもある。
常温から蒸し器をあっためていると
そのうち湯気が出てきて
沸点近くで沸騰しはじめると
やがて、真っ白い蒸気が細い穴からシューと出てくる。


二〇一六年十三月二十九日 「偶然」


うち間違い

という偶然が面白い。
これって、ワープロやワードが出現しなかったら
起こらなかった事柄かもしれない。

日常では
言い間違いというのがあるけれど
それってフロイト的な感じがあって
偶然から少し離れたところにあるものだけれど

このあいだ書いた
喫茶店なんかで
偶然耳にした
近くの席で交わされてる話し声のなかから単語をピックアップして
自分の会話に
自分の考えに取り入れるっていうほうが
近いかもしれない。

偶然

詩集にも引用したけれど
芥川が書いてたね

「偶然こそ神である」

って

ニーチェやヴァレリーも

「偶然がすべてである」

ってなこと書いてたような記憶があるけれど
偶然にも程度があって
フロイト的な言い間違いのものから
ぼくが冒頭に書いたキーボードのうち間違いなど
さまざまな段階があるって感じだね。

詩を書いていて
いや、大げさに言えば
生きていて
この偶然の力って、すごいと思う。

生きているかぎり
思索できるかぎり
偶然に振り回されつつ
その偶然の力を利用して
自分の能力の及ぶ限り
生きていきたいなって思う
恋もしたいし、
うふふ。、
ね。


二〇一六年十三月三十日 「あいまいに正しい」


「あいまいに正しい」などということはない
感覚的にはわかるが
「正確に間違う」ということはよくありそうで
よく目にもしてそうな
感じがする


二〇一六年十三月三十一日 「『象は世界最大の昆虫である』ガレッティ先生失言録(池内 紀訳)を買う。」


そこから面白いものを引用するね。

「もしこの世に馬として生まれたのなら、もはや、やむをえない。死ぬまで馬でいるしかない。」

「この個所はだれにも訳せない。では、いまから先生がお手本をおみせしましょう。」

「古代アテネの滅亡はつぎの命題と関係する。すなわち─「これ、静かにしなさい!」

「アレキサンダー大王軍には、四十歳から五十歳までの血気盛んな若者からなる一隊があった。」

「ペルシャ王ペルゼウスは語尾変化ができない。」

「女神は女であるとはいえないが、男であるともいえない。」

「いかに苦難な船旅をつづけてきたか、オデュッセウスは縷々として物語っている。むろん、羅針盤がなかったからである。」

「カンガルーはひとっ跳び三十二フィート跳ぶことができる。後脚が二本でなくて四本なら、さらに遠く跳べるであろう。」

「ここのこのSは使い古しである。」

「イギリスでは女王はいつも女である。」

「アラビア風の香りなどとよくいわれるが、近よっても何も見えない。」

「湿地帯は熱されると蒸発する。」

「雨と水は、たぶん、人間より多い。」

「以上述べたところは、ローマ史におなじみとはいえ、まったく珍しいことである。」

「高山に登るとめまいがする。当然であろう。目がまわるからだ。」

「今日、だれもが気軽にアフリカにいき、おもしろ半分に殺される。」

「ナイル川は海さえも水びたしにする。」

「以上述べたのが植物界の名士である。」

「水は沸騰すると気体になる。凍ると立体になる。」

「一日三百六十五時間、一時間は二十四分、そのうち学校で勉強しているのはたった六時間にすぎない。」

「牛による種痘法が発見されるまでは、多くの痘瘡が子供にかかって死んだものだ。」

「何であれ、全体はいつも十二個に分けられる。」

「古代ローマでは、一日は三十日あった。」

「ハチドリは植物界最小の鳥である。」

「ホッテントット族の視力は並はずれている。はるか三時間かなたの蹄の音さえ聞きつける。」

「先生はいま混乱しているのです。だから邪魔をして、かき乱さないでください。」

「君たちが世界最大の望遠鏡で火星を眺めるとすると、そのとき火星は、十メートルはなれたところから先生の頭を見たときと同じ大きさに見えます。しかし、むろん君たちは、十メートルはなれたところからでは、先生の頭に何が生じているかわかるまい。だから、同様に、火星に生物がうごめいていたとしても、とても見えやしないのです。」

「この点について、もっとくわしく知りたい人は、あの本を開いてみることです。題名は忘れましたが、第四十二章に書かれています。」

「もう何度も注意したでしょうが。ペンはいつも綺麗に髪で磨いておきなさい。」

「教師はつねに正しい。たとえまちがっているときも。」

「どうも席替えの必要があるようだ。前列の人は、先生が後列組をよく見張れるように席につきなさい。」

「そう、三列目が六列目になる、そして十列目まで、全員二列ずつ前に移りなさい!」

「きみたちは先生の話となると、右の耳から出ていって、左の耳から入るようだな。」

「紙を丸めて投げつけて、どこが芸だというのです。芸のためには、もっと練習に励まなくてはなりますまい。」

「いま君に訳してもらったところだが、一、教室のだれ一人として聞いていなかった。二、構文がまるきりまちがっている。」

「雨が降ると、意味はどうなりますか?」

「君たちは、いったい、椅子を足の上において靴でインキ壺を磨きたいのかね?」

「筆箱はペン軸に、カバンは筆箱に入れておくものです。」

「最上級生には、下等な生徒はいないはずです。」

「カント同様、私は思考能力に二つのカテゴリーしか認めない。
すなわち、鞍と馬である。いや、つまり、丸と菱形だ。」

「私にとって不快なことが、どうして私に出会いたがるのか、さっぱりわけがわからない。」

「私の本の売れゆきをうながす障害があまりに大きい。」

「私はあまりに疲れている。私の右足は左足を見ようとしない。」

「立体化するには音が必要だ。」

「なかでも、これがとりわけ重要なところです。─価値は全然ないにせよ。」

「夜、ベッドのなかで本を読むのはよくない習慣である。明かりを消し忘れたばかりに、朝、起きてみると焼け死んでいたという例はいくらもある。」

ああ
面白かった。
ブックオフで見つけて買ったのだけれど
詩のように感じられた。


詩の日めくり 二〇一七年一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年一月一日 「なんちゅうことやろ。」


きょうはコンビニで買ったものしか食べていない。


二〇一七年一月二日 「恩情」


なにが世界を支配しているのだろう。お金だろうか。愛だろうか。ぼくは恩情だと思いたい。恩情こそがお金も愛も越えた唯一のものだと思うから。


二〇一七年一月三日 「大地くん」


時代劇の夢を見た。地下組織のとばくを見た。むかし好きだった男の子が出てきた。びっくりの夢だった。彼はとばくしていたヤクザ者で、ぼくは役所の密偵だった。


二〇一七年一月四日 「痛〜い!」


足の爪が長かった。そのためけつまずいたときに、右足の第二指の爪さきがひどいことになった。足の爪はこまめに切らなくてはと、はじめて思った。


二〇一七年一月五日 「曜日」


月曜日のつぎは木曜日で、そのつぎが火曜日でしょ、で、そのつぎが土曜日で、そのつぎのつぎが水曜日、で、つぎに金曜日で、そのつぎに日曜日、日曜日、日曜日、日曜日……が、ずっとつづくってのは、どう?

あつかましいわ。


二〇一七年一月六日 「一人でさす傘は一つしかない。」


一人でさす傘は一つしかない。

たくさんのことを語るために
たくさん言う言い方がある。

たくさんのことを語るために
少なく言う言い方がある。

たくさんのことを語ってはいるが
言いたいことを少なく言ってしまっている言い方がある。

また少なく語りすぎて
たくさんのことを言い過ぎている言い方がある。

一人でさす傘は一つである。

しかし、たくさんの人間で、一つの傘をさす場合もあれば
ただ一人の人間が、たくさんの傘をさす場合もあるかもしれない。

ただ一人の人間が無数の傘をさしている。

無数の人間が、ただ一つの傘をさしている。

うん?

もしかしたら、それが詩なんだろうか。

きょう、恋人に会ったら
ぼくはとてもさびしそうな顔をしていたようです。

たくさんのひとが、たくさんの傘をさしている。

たくさんの人が、たくさんの傘をさしている。
同時にただ一つの傘をさしている。
それぞれの手に一つずつ。
ただ一つの傘である。
たくさんの傘がただ一つの傘になっている。
ただ一つの傘がたくさんの傘になっている。
たくさんの人が、たくさんの傘をさしている。
同時にただ一つの傘をさしている。


二〇一七年一月七日 「56歳」


ぼくは、しあさって56歳になります。ぜんぜんしっかりしてへんジジイだわい。


二〇一七年一月八日 「地球に落ちて来た男」


ウォルター・テヴィスの『地球に落ちて来た男』が1月11日に本として出るんや。


二〇一七年一月九日 「いつか使うかもしれない記憶のための3つのメモ」


自分のために2人の男の子が自殺したことを自慢する中年男
                    (1980年代の記憶)

建築現場に居残った若い作業員二人がいちゃついている光景
一人の青年が、もう一人の青年の股間をこぶしで強くおす
「つぶれるやろう」
「つぶれたら、おれが嫁にもろたるやんけ」
                    (1980年代の記憶)

庭の雑草を刈り取ってもらいたいと近所にすむ学生に頼む
「どういうつながりなの?」
「近所の居酒屋さんで知り合ったんだけど
 電話番号を聞いてたから、電話して頼んだら
 時給1000円で刈り取ってくれるって
 自分で鎌を買いに行ったけど
 自分で行ったところは2軒ともつぶれていて
 その子たちの方がよく知っていて
 鎌を買ってきてくれたよ
 いまの子のほうが、世間のこと、よく知ってるかもしれないね。」
「そんなことないと思うけど。」
                    (つい、このあいだの記憶)


二〇一七年一月十日 「誕生日」


これから近くのショッピングモール・イーオンに。きょうは、ぼくの誕生日だから、自分にプレゼントするのだ。

服4着と毛布を1枚買った。20000円ほど。服を買ったのって2年ぶりくらいかな。


二〇一七年一月十一日 「ヴァンダー・グラフ」


ヴァンダー・グラフを聴いているのだが、やはりずば抜けてすばらしい。


二〇一七年一月十二日 「過去の書き方」


まえ付き合ってた子のことを書く。
いっしょにすごしていた時間。
いっしょにいた場所。
いっしょにしていたこと。
楽しいことがいっぱい。
しばしば
誤解し合って
つらいこともいっぱい。
ふたりだけが世界だと思えるほど。
さいごに
もう一度、冒頭から目を通す。
すべてを現在形にして。


二〇一七年一月十三日 「現在の書き方」


いま付き合ってる子のことを書く。
いっしょにすごしている時間。
いっしょにいる場所。
いっしょにしていること。
楽しいことがいっぱい。
しばしば
誤解し合って
つらいこともいっぱい。
ふたりだけが世界だと思えるほど。
さいごに
もう一度、冒頭から目を通す。
すべてを過去形にして。


二〇一七年一月十四日 「誕生日プレゼント」


いま日知庵から帰った。えいちゃんと、きよしくんから服をプレゼントしてもらって、しあわせ。あした、さっそく着てみよう。


二〇一七年一月十五日 「ユキ」


まえに付き合ってた子にそっくりな子がFBフレンドにいるんだけど、ほんとそっくり。もう会えなくなっちゃったけどね。そんなこともあってもいいかな。人生って、おもしいろい。くっちゃくちゃ。ぐっちゃぐちゃ。


二〇一七年一月十六日 「マイ・スィート・ロード」


FBで、ジョージ・ハリスンの「マイ・スィート・ロード」に「いいね」をしたら、10000人以上のひとが「いいね」をしていた。あたりまえのことだと、ふと思ったけれど、10000人以上のひとが「いいね」をしたくなる曲だって、ことだもんね。ぼくがカラオケで歌う曲の一つでもある。名曲だ。


二〇一七年一月十七日 「夢から醒めて」


夢のなかの登場人物のあまりに意外な言動を見て、これって、無意識領域の自我がつくり出したんじゃなくて、言葉とか事物の印象とかいったものが無意識領域の自我とは別個に存在していて、それが登場人物に言動させているんじゃないかなって思えるような夢を、けさ見た。


二〇一七年一月十八日 「カルメン・マキ&OZ」


日知庵では、カルメン・マキ&OZの「私は風」「空へ」「閉ざされた街」を、えいちゃんのアイフォンで聴いていた。あした、昼間は、カルメン・マキ&OZをひさしびりに、CDのアルバムで聴こうと思った。カルメン・マキ&OZは、ぼくにとっては、永遠のロック・スターだ。すばらしすぐる。


二〇一七年一月十九日 「ぼくの詩の原点」


ぼくの詩の原点は、ビートルズ、ストーンズ、イエス、ピンク・フロイド、ジェネシス、アレア、アトール、ホーク・ウィンド、ラッシュ、グランドファンク、バッジー、ケイト・ブッシュ、トッド・ラングレン、バークレイ・ジェイムズ・ハーベスト、そして、カルメン・マキ&OZ、四人囃子だったと思う。

T・REXを忘れてた。

ヴァンダー・グラフを忘れてた。


二〇一七年一月二十日 「自分には書けない言葉」


日知庵から帰って、郵便受けを見たら、平井達也さんという方から『積雪前夜』という詩集を送っていただいていた。「ダイエット」「47と35」「51と48」「飽きない」「グミの両義性について」といった作品を読んで笑ってしまった。数についての粘着度の高さにだ。ぼく自身が数にこだわるからだ。

先日、友人の荒木時彦くんに送っていただいた『アライグマ、その他』というすばらしい詩集とともに、ぼくの目を見開かさせてくれたものだと思った。こんなふうに、見知らぬひとから詩集を送っていただくと、ありがたいなという気持ちとともに、知らずにいればよかったなという気持ちがときに交錯する。

すばらしいものは知る方がよいに決まっているのだけれど、ぼくに書くことのできない方向で、すばらしいものを書かれているのを知ると、ぼくの元気さが減少するのだ。これは、ぼくがいかに小さな人間かを表している指標の一つだとも思えるのだけれど。まあ、ひじょうに矮小な人間であることは確かだが。

四人囃子の「おまつり」を聴きながら、平井達也さんからいただいた詩集を読んでいる。詩集の言葉がリズミカルなものだからか、ビンビン伝わる。ぼくは、自分のルーズリーフを開いて、自分のいる場所を確かめる。読まなければよかったなと思う詩句がいっぱい。自分には書けない言葉がいっぱいだからだ。


二〇一七年一月二十一日 「『恐怖の愉しみ』上巻」


ようやく、アンソロジー『恐怖の愉しみ』上巻を読み終わった。きょうから、これまたアンソロジーの『居心地の悪い部屋』を読もうと思う。


二〇一七年一月二十二日 「UFOも」


UFOも万歩計をつけて数十万歩も一挙に走っている。UFOもダイエット中なのだ。


二〇一七年一月二十三日 「稲垣足穂は」


稲垣足穂はUFOより速く一瞬で数万光年を駆け抜けていく。


二〇一七年一月二十四日 「七月のひと房」


帰ってきたら、井坂洋子さんから『七月のひと房』というタイトルの詩集を送っていただいてた。10年以上にわたって書かれたものを収めてらっしゃるようだ。タイトルポエムをさいしょに読んだ。つづけて、冒頭から読んでいる。言葉がほんとにコンパクト。良い意味で抒情詩のお手本みたいな感じがする。


二〇一七年一月二十五日 「あらっ。」


きょう、仕事帰りに、自分の住所の郵便番号が思い出せなくて、帰ってきて郵便物を見て、ああ、そうだったと確認して、なんか自分が痴呆症になりつつあるんかなと思った。住所はすらすらと思い出せたのだけれど。さいきん寝てばっかりだったからかな。もっと本を読んで、もっと勉強しなきゃいけないね。


二〇一七年一月二十六日 「『居心地の悪い部屋』」


アンソロジー『居心地の悪い部屋』半分くらい読んだ。いくつかの短篇は改行詩に近かったし、散文詩のようなものもあった。気持ちの悪い作品も多いが、読まされる。日本では、詩人が書いていそうな気がする。たとえば、草野理恵子さんとか。さて、つづきを読みながら布団に入ろうか。


二〇一七年一月二十七日 「ジミーちゃん。」


きのう、えいちゃんと話をしてて、ぼくの友だちのジミーちゃんが、ぼくから去っていったことが大きいねと言われて、ほんとにねと答えた。20年近い付き合いだったと思うのだけれど、ぼくの作品にもよく出てきてくれて、ぼくに大いに影響を与えてくれたのだけれど。もう、そういう友人がいなくなった。


二〇一七年一月二十八日 「ソープの香り。」


いま日知庵から帰った。えいちゃん経由で、佐竹さんから外国製のソープをプレゼントしていただいた。めっちゃ、うれしい。とってもよい香り。きょうは、このよい香りに包まれて、眠ろう。


二〇一七年一月二十九日 「レイ・ヴクサヴィッチ」


アンソロジー『居心地の悪い部屋』を読み終わった。よかった。ひとり、気になる作家がいて、彼の短篇集を買おうかどうか迷っている。レイ・ヴクサヴィッチというひと。奇想のひとみたい。読んだ「ささやき」が不気味でよかった。ホラー系の作品なのに、理詰めなのが、ぼくには読みやすかったのかな。


二〇一七年一月三十日 「Tyger Tyger, burning bright,」


いま日知庵から帰った。きょう、はじめて会ったんだけど、ブレイクの『虎』を知っている大学院生の男の子がいた。理系の子で、ぼくが詩を書いてるって言うと、とつぜん、「Tyger Tyger, burning bright,」ってくちずさんじゃうから、びっくりした。海外詩(読者)は滅んだと思っていたからだけど、滅んではいなかったのだった。


二〇一七年一月三十一日 「ゼンデギ」


きのうから、いまさらながら、イーガンの『ゼンデギ』を読んでいる。頭の悪いぼくにでもわかるように書いてある。きょうも、佐竹さんからいただいたソープの香りに包まれながら、『ゼンデギ』を読んで眠ろう。


詩の日めくり 二〇一七年二月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年二月一日 「ゼンデキ」


徹夜で、イーガンの『ゼンデギ』を読み終わった。うまいなあと思いつつ、もう少し短くしてよね、と思った。まだ眠れず。デューンの『砂漠の神皇帝』でも読もうかな。このあいだカヴァーの状態のよいのがブックオフにあったので、全3巻を買い直したのだ。表紙と挿絵に描かれた神皇帝がかっこいいのだ。


二〇一七年二月二日 「月の部屋で会いましょう」


レイ・ヴクサヴィチの『月の部屋で会いましょう』(創元海外SF叢書)が届いた。ケリー・リンク並の作家だと、1作品しか読んでいないけれど、思っている。きょうから読もう。解説を読むと、まるで詩人が書きそうな短篇ばかりのようだ。奇想の部類だね。


二〇一七年二月三日 「得も損もしてないんだけどね。」


きょう、吉野家で「すき焼き」なんとかを食べたのだが、「大」を注文したのだが、しばらく食べていなかったので、これが「大」かと思って食べ終わって、レシート見たら「並」だった。金額が100円違うだけだけど、なんか得したような損したような複雑な気持ちになった。得も損もしてないんだけどね。


二〇一七年二月四日 「ふだんクスリは9錠」


日知庵から帰ってきて、ゲロったからいいかと思って、いつもは9錠だけど、いまクスリを10錠のんだ。痛みどめを1錠多くしたのだ。あした、何時に起きるかわかんないけど、あしたは仕事ないし、いい。あしたは音楽聴きまくって一日すごす予定。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年二月五日 「最終果実」


いま日知庵から帰った。レイ・ヴクサヴィッチの短篇集『月の部屋で会いましょう』のつづきを読んで寝よう。これから読むの、「最終果実」だって、へんなタイトル。やっぱり詩人みたいな感性だな。


二〇一七年二月六日 「夢を見て、はっきりと目を覚ますとき」


きのう見た夢のなかで、おもしろいのがあった。イギリスのことわざに、樹から落ちる虫は丈夫に育つというのがあってっていうので、そんなことわざがほんとにあるのかどうかは知らないけど、目のまえで、虫が木から何度も落ちるのを見てた。夢のなかで、散文詩が書かれてあって、その一部分なんだけどね。目を覚ましてすぐにメモをしたらはっきりと目が覚めてしまった。


二〇一七年二月七日 「いろんなものが神さまなのだ」


サンリオ文庫・ラテンアメリカ文学アンソロジー『エバは猫の中』を読みました。

傑作短篇がいくつもあった。

サンリオ文庫のなかでは、ヤフオクでも安く手に入るもの。


コルターサルの『追い求める男』のなかに
「ハミガキのチューブを神様と呼ぶ」という言葉があって、驚いた。

ぼくがこのあいだ出した●詩集に
「神さまはハミガキ・チューブである」ってフレーズがあるんだけど
こんな偶然もあるんだなと思った。
まあ、いろんなものが神さまなんだろうけれど。


二〇一七年二月八日 「きょう、一日、左の手が触れたものを思い出すことができるでしょうか?」


「きょう、一日、左の手が触れたものを思い出すことができるでしょうか?」
ふと思いついた言葉でした。
利き腕が左手のひとは「右の手が触れたもの」を思い出してみましょう。


二〇一七年二月九日 「鯉もまた死んでいく」


鯉もまた死んでいく
鯉もまた死んでいく
東山三条に
「はやし食堂」という大衆食堂があって
そこには
セルの黒縁眼鏡をかけた大柄なおじさんと
とても大柄なその奥さんがいて
定食類がおいしかったから
パパと弟たちといっしょに
よく行ったのだけれど
その夫婦は
お客の前でも
口喧嘩することがあって
いやな感じがするときもあったけれど
だいたいは穏やかな人たちだった
「○○院に出前を届けたら
 そこの坊さんの部屋には
 日本酒の一升瓶がころがっていて云々」
といった話なんかもしてくれて
へえそうなんやって子供のときに思った
大学院のときに
女装バーでちょっとアルバイトしたことがあって
そこで
その○○院の若いお坊さんに
手をぎゅっと握られたことが思い出される
まだ20代の半ばくらいの
コロコロと太った童顔のかわいらしいお坊さんだった


その「はやし食堂」の夫婦には息子が二人いて
長男がぼくと中学がいっしょで
同級生だったこともあるのだけれど
彼は洛南高校の特進で
ぼくは堀川高校の普通科で
彼は現役で神戸大学の医学部に受かって
ぼくは一浪で同志社に行ったんだけど
彼のお母さんには
ぼくが大学院に進学するときに
「大学院には行かないで働いたら」なんてことを言われた記憶がある
自分の息子が医者になるから
自分の息子のほうが偉いという感じで
そんな顔つきをいつもしてたおばさんだったから
ぼくが大学院に進んだら
いばることがあまりできなくなるからだったのかもしれない
そのときには
ぼくも博士の後期まで行くつもりだったから

こんな話をするつもりはなかって
ええと
そうそう
三条白川に
古川町商店街ってのがあって
そこに林くんの実家があって
お店は東山三条でそのすぐそばだったんだけど
中学3年のときかなあ
何かがパシャって水をはねる音がして
見ると
白川にでっかい鯉が泳いでいて
なんで白川みたいに浅い川に
そんな大きさの鯉がいるのかな
って不思議に思うくらいに大きな鯉だったんだけど
ぼくが
「あっ、鯉だ」って叫ぶと
林くんが
学生服の上着をぱっと脱いで川に飛び下りて
その鯉の上から学生服をかぶせて
鯉を抱え上げて川から上がってきたのだけれど
学生服のなかで暴れまわる鯉をぎゅっと抱いた林くんの
これまたお父さんと同じセルの黒縁眼鏡の顔が
それまで見たことがなかったくらいにうれしそうな表情だった
今でもはっきり覚えている
上気した誇らしげな顔
林くんはその鯉を抱えて家に帰っていった
ガリ勉だと思ってた彼の意外なたくましさに
鯉の出現よりもずっと驚かされた
ふだん見えないことが
何かがあったときに見えるってことなのかな
これはいま考えたことで
当時はただもうびっくりしただけだけど
ああ
でももう
ぼくは中学生ではないし
彼ももう中学生ではないけれど
もしかしたら
あの三条白川の川の水は覚えているかもしれないね
二人の少年が川の水の上から顔をのぞかせて
ひとりの少年が驚きの叫び声を上げ
もうひとりの少年が自分の着ていた学生服の上着を脱いで
さっと自分のなかに飛び込んできたことを
あの三条白川の川の水は覚えているかもしれないね
ひとりの少年が顔を上気させて誇らしげに立ち去っていったことを
もうひとりの少年が恨みにも似た羨望のまなざしで
鯉を抱えた少年の後姿を見つめていたことを


二〇一七年二月十日 「地球人に化けた宇宙人のリスト」


地球人に化けた宇宙人のリスト

正岡子規   火星人  もっと努力して人間に似せるべき
夏目漱石   アンドロイド  これは宇宙人じゃないかも、笑 
大岡 信    少なくとも地球人ではなさげ 水のなかで呼吸していると見た
梅図かずお  あの干からび度は、地球の生物のものではない
志茂田景樹  宇宙的ファッションセンス そのままスタートレック


二〇一七年二月十一日 「パンドラの『芸術/無料・お試しセット』」


パンドラのところには
じつは、もうひとつ箱が届けられていて
その箱には『芸術/無料・お試しセット』と書いてあった
あらゆるつまらない詩や小説や戯曲や
音楽や舞台や映画なんかが詰まってる箱であった
この箱が開けられるまで
世界には素晴らしい詩や小説や戯曲や
音楽や舞台や映画しかなかったのだけれど
パンドラがこの箱を開けてしまったのだった
は〜あ
歴史に「もしも」ってないのだけれど
もしも……


二〇一七年二月十二日 「花緒さんのおかげで」


いま、学校から帰ってきた。これから友だちの見舞いに。ぼくの新しい詩集の表紙をかざってくれた青年だ。あした手術なのだ。きのう新しい詩集が届いたので、きょう持って行くことにしたのだ。

友だちの病院見舞いの帰りにユニクロでズボンを2本買って帰りに西院の牛丼の吉野家で生姜焼き定食を食べて、部屋に戻ってカルメン・マキ&OZのサードを聴いていたら突然エリオットが読みたくなって岩波文庫の『荒地』を読み出したらゲラゲラ笑っちゃって、詩ってやっぱり知的な遊戯じゃんって思った

そしたら急に作品がつくりたくなってカルメン・マキの声を聞きながらワードに向かっていた。過去に自分が書いた言葉をコラージュしているだけなのだけど、ときにぎゃははと笑いながらコラージュしている。ぼくが詩を放棄したいと思っても、詩のほうがぼくのことを放棄しないってことなのかもしれない。というか、花緒さんのお励ましのツイートを拝見したことがずっと頭にあって、エリオットの詩句を見て、脳内で化学結合を起こしたのだと思う。花緒さん、ありがとうございます。きょうじゅうに、3月に文学極道に投稿する2作品ができそうです。BGMをムーミンに切り替えた。ぼくの大好きな「RIDE ON」風を感じて〜フフンフフンと、ぼくもつぶやきながら、ワードにコピペしてる。流れるリズム感じながら自由でいようってムーミンが歌うから、ぼくも自由に詩を書くのだ。現実に振り回されて生きてるけど、それでいいのだと思うぼくもいる。フフン。3月に文学極道に投稿する作品を1つつくった。あともう1つ、きょうじゅうにつくろう。こういうものは、勢いでつくらなくちゃね。ムーミンあきたし、なにかべつのものかけよう。そだ。ユーミンなんか、どうだろう。

3月に文学極道に投稿する作品のうち、2つ目をいまつくり終えた。1つ目はA4版で44ページ。2つ目はわずか14ページ。2つ目のは、これまでつくった『詩の日めくり』のなかで、もっとも短い。でも、できはぜんぜん悪くない。44ページある1つ目はめちゃくちゃって感じで笑けるし。2つ目はひじょうにコンパクト。ありゃま。まだ8時20分だ。時間があまった。3月に文学極道に投稿するのは、2つとも『詩の日めくり』だけど、4月のも、そうなりそう。

花緒さんのおかげで、短時間で2つの『詩の日めくり』ができあがりました。お励ましのお言葉で、こんなに簡単に回復してしまうなんて、ほんとに単純な人間です。お励ましのお言葉をくださり、ほんとうにありがとうございました。拙詩集、おこころにかないますように。

サバトの『英雄たちと墓』は、ぼくのお気に入りの小説だけど、ぼくのルーズリーフのページの相当分を占めちゃってて、ルーズリーフを開くたびに、ラテンアメリカ文学に集中していた30代後半のぼくの青春がよみがえる。自分の詩だけではなくて、文学そのものが、いわゆる記憶装置なのだろうね。

森園勝敏の『JUST NOW & THEN』をかけながら、部屋のなかでちょこっと踊っている。元気になった。けさまでは死んだ人間のように無気力だったのに。言葉って、すごい力を持っているのだなと、あらためて感じさせられた。


二〇一七年二月十三日 「源氏物語のなかの言葉で」


源氏物語のなかで、源氏がいうセリフにこんなのがありました。「わたしたち貴族というものは、簡単にひととの縁を切らないのですよ」と。ぼくにとっては、印象的な言葉で、記憶に残っています。


二〇一七年二月十四日 「売る戦略のために」


授業の空き時間に、レイ・ヴクサヴィッチの短篇集『月の部屋で会いましょう』を3分の1くらい読んだ。もしかしたら、きょうじゅうに読み終えられるかもしれない。とてもおもしろい短篇集だけれど、詩人の散文詩みたいな気がする。なぜ、こんなに短いのに、小説として扱われるのだろう。売る戦略かな。

忘備録:キムラのすき焼きについて、あした書こうと思う。思い出といま。大学時代のサークルの話をさいしょにもってきて、子どものころの思い出と、このあいだ森澤くんと行ったときのプチ衝撃の話。きょうは、レイ・ヴクサヴィッチの短篇集のつづきを読みながら床に就きます。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年二月十五日 「キムラのすき焼き」


大学の1年生のときに、イベントを主催するサークルに入ってて、1980年のことだけどさ、サークルのコンパが八坂神社のとこにあるすき焼きをする宴会場に決まって、そこって、ぼくんちが祇園だったから、すぐのところだったんだけど、そんなとこに宴会場があったんだってこと思ったこと思い出した。20人くらいいたかなあ。で、ぼくと同席した先輩が関東出身で、すき焼きをしきり出したんだけど、なんと、タレから鍋に入れだしたんだよね、というか、そのまえに、そのすき焼き、もやしが入っていて、びっくりしてたんだけど、でね、その先輩、タレのつぎには、野菜を入れて、さいごに肉を入れたの。もう最低って感じで食べた記憶がある。こどものころ、家が裕福だったので、週に一度、高いところで外食してたんだけど、すき焼きって言えば、キムラだった。キムラでは、牛脂を熱した鍋に入れて鍋底前面に塗り倒してから、肉を焼いて、砂糖にまぶしてから、タレを入れて、それから野菜なんかを入れていったから、その順番が正しいとずっと思っていて、3、40年ぶりに森澤くんとキムラに行って、すき焼きを食べたんだけど、二人でキムラに行くまえに日知庵で、すき焼きのつくり方の話をしていて、やっぱり肉を焼いて砂糖をまぶしてからタレを入れて野菜なんかをさいごに入れますよねって話をしていたんだけど、二人でキムラで、牛脂を鍋底に塗り塗りしていたら、仲居のおばさんが急に出てきて、「わたしがしましょうか?」って言ってくれたので、お願いしたら、大学時代の先輩のように、野菜を入れてタレを入れて砂糖を入れて、さいごに肉を入れたのだった。ぼくと森澤くんは、仲居のおばさんが野菜を手にした瞬間に目を見合わせたのだけれど、抗議する暇もなく、つぎつぎと関東風のつくり方を繰り出す仲居のおばさんのすき焼きのつくり方に目をうばわれた、つうか、あきれて、ふたりとも、口をぽかんと開けて、すき焼きが出来上がるのを待ったのだった。キムラは靴脱で靴を脱いで座敷に上がるスタイルの店で、メニューの横に、「関西風」のすき焼きのつくり方が写真付きのものが置いてあったのにもかかわらずだ。あとで、仲居のおばさんがぼくらの席から離れた瞬間に、ぼくは森澤くんの目を見ながら、「ええっ。」と言って、「こんなことってある?」って言葉をついだ。まあ、でも、関東風でもべつにまずくはなかったのだけれど、関西風だともっとおいしかったはずで、みたいな話を森澤くんとしてて、後日、日知庵でも、このプチ衝撃事件の顛末をえいちゃんに語っていたのであった。あーあ、こんどキムラに行ったら、ぜったい関西風のすき焼きのつくり方でつくろうっと。むかし、ぼくがまだ20代のころに、親切そうな顔をして近づいてくる人物にいちばん注意しなさいと、仕事場で、ぼくに言ってくれたひとがいて、その通りに、ひどい目に遭ったことのあるぼくは、こんどキムラに行ったら、いくら仲居のおばさんが親切そうに近づいてきて、すき焼きをつくってくれようとしても断ろうと決意したのであった。二十歳すぎまで祇園に住んでて、親が貸しビルをしていたから裕福だったんだけど、で、子どものころは贅沢だったんだけど、ぼくが大学院に入ったころから親が賭博に手を出して財産をすっかり使い果たしてから、ぼくも貧乏人になってしまって、自分のお金でキムラに行ったのは、冒頭に書いた通り、親と行ったとき以来、3、40年後。子どものときに行ったことのあるところを、めぐって行こうと思うのだけれど、なくなった店もある。25歳で大学院を出たあと、北大路通りに一人住まいをしていたんだけど、北大路橋のたもとに、グリル・ハセガワってあって、こんど、そこ行こうかって、このあいだ日知庵で、森澤くんと話してたんだけど、ぼくは北大路通りに15年、北山に5年住んでいて、グリル・ハセガワには、しょっちゅう行ってて、思い出もいっぱい。エビフライがとくにおいしかった。


二〇一七年二月十六日 「言語都市」


きのうから、たびたび中断していたチャイナ・ミエヴィルの『言語都市』を読んでいるんだけど、まだ38ページ目なんだけど、ちっともおもしろくないのね。このひとのも、途中からおもしろくなるタイプの書き手だから読んでいるけれど、ミエヴィルを読むのは、これでさいごにすると思う。

チャイナ・ミエヴィル『言語都市』 脱字 48ページ下段3,4行目「時間を要するもある。」→これは「時間を要するものもある。」ではないだろうか。


二〇一七年二月十七日 「言語都市」


ミエヴィルの『言語都市』、132ページ目に入るところで、脳がいっぱいいっぱいになってしまった。それにしても、1950年代や60年代のSFは読みやすかったなあ。シマックの『都市』が未読なのだが、本棚にあるので、これ読んで寝よう。少なくとも解説だけでも。きょうは、ミエヴィルに疲れた。むかしのSFの表紙はすばらしいものがたくさんあった。さいきんは、買いたいなあと思う表紙が少ない。ヴクサヴィッチの短篇集も表紙はクズだった。内容がいいので買ったけど、書店で見かけただけなら、ぜったい買わなかっただろうなあ。クスリのんで寝ます。おやすみ、グッジョブ!

チャイナ・ミエヴィル『言語都市』 脱字 120ページ下段10行目「すばやく質問ぶつけたら」→これって、「すばやく質問をぶつけたら」だと思うけど、どだろう。


二〇一七年二月十八日 「言語都市」


いま日知庵から帰った。『言語都市』いま226ページ目に突入って感じだけど、あした、どれだけ読めるのか。きょうは、もうクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年二月十九日 「吐けるだけ吐いた。」


いま日知庵から帰った。きょう眠れるだろうか。あしたは一日中、数学をしていていると思うけれど、お昼に目が覚めてたら(さいきん、日曜日のお昼は寝ているのだ)友だちのお見舞いに行きたい。行きたい。おやすみ、グッジョブ! きょうも、酒浸りの一日だった。えいちゃん、森ちゃん、ありがとうね。

いまトイレでゲロを吐いた。やっぱり焼酎は3杯が限度みたい。指を喉に突っ込んで吐けるまで吐いた。血痰が出た。咽喉をちょこっと破いちゃったみたい。あ〜あ、酒が弱いのに飲むのだな。文章がおかしかった。「吐けるまで吐いた。」じゃなくて、「吐けるだけ吐いた。」だ。もう一度、電気を消して横になって気がついた。


二〇一七年二月二十日 「言語都市」


ミエヴィルの『言語都市』268ページ目だけど、おもしろくない。よくこんな作品でローカス賞をとったなと思う。もってるミエヴィルはすべて売ろうと思う。1冊として残す価値のあるものはない。あと200ページほどある。読むけれど、できたら飛ばし読みがしたいけれど、飛ばし読みしたら、わからない作品だから精読してるけれど、苦痛だ。でも、もしかすると、読書で苦痛なのは、しじゅうかもしれない。好きな詩人の詩でも読んで、頭をやすめようかな。いや、きょうは、寝るまで、ミエヴィルの『言語都市』のつづきを読もう。かつて、ぼくのお気に入りの作家だったのだけれど、『クラーケン』がよかったからだけど、あれがピークかもしれないな。どだろ。

これがすてきでかったら、なにがすてきなのか、わからないじゃない?

Maxwell - This Woman's Work https://youtu.be/gkeCNeHcmXY @YouTubeさんから


二〇一七年二月二十一日 「ウェルギリウスの死」


きょう、職場で、ブロッホの『ウェルギリウスの死』を再読していたら、「現実とは愛のことなのだ」(だったかな)という言葉があって、あれ、これ、引用に使ったかなと心配になったのだけれど、怖くて確認できない。『全行引用詩・五部作』には使わないといけない引用だったと思われたのだった。怖い。正確な言葉を知りたいし、紐栞を挟んでおいたから、あした職場の図書館で、もう一度、確認しよう。部屋にもブロッホの『ウェルギリウスの死』があるんだけど、ページがわからないし、きょうは、もう遅いし、探すのは時間がかかりそうなので、あした職場で確認しよう。そういえば、きょうは詩人のオーデンの誕生日だったらしいんだけど、授業の空き時間には、イエイツの詩と、エリオットの詩と論考を読んでいた。オーデンは苦手なぼくやけど、部屋にもあるけど、一回、読んだだけだ。イエイツとエリオットの詩は、なんべん読んでもおもしろい。岩波文庫は、はやくパウンドの『詩章』を新倉俊一さんの訳で入れなさいよと思う。『ピサ詩篇』すばらしかったし、エリオットを入れたんだから、岩波文庫はパウンドの『詩章』を出す義務があると思う。


二〇一七年二月二十二日 「ウェルギリウスの死」


(…)おそらく窮極の現実を現わすには、そもそもいかなることばも存在しないのだろう……わたしは詩を作った、軽率なことばを……わたしはそのことばが現実だと思っていたのだが、じつはそれは美だった……詩は薄明から生じる……われわれが営み作りだす一切は薄明から生まれる……だが現実の告知の声は、さらに深い盲目を必要とする、あたかも冷ややかな影の国の声ででもあるかのように……さらに深く、さらに高く、そう、さらに暗く、しかもさらに明るいのが真実なのだ」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳、211ページ)

ルキウスがいった。「真実ばかりが問題だとはいえまい。狂人でさえ真実を語る、あらわな真実を告げることができる……真実が力をもつためには、それは制御されねばならない、まさしく制御されてこそ、真実の均斉が生ずるのだ。詩人の狂気のことがよく語られる」━━ここで彼は、わが意を得たりといわんばかりにうなずいているプロティウスを見やった━━、「しかし詩人とは、みずからの狂気を制御し管理する力をそなえた人間のいいにほかならないのだ」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳、211ページ)

愛の現実と死の現実、それはひとつのものだ。若い詩人たちはそのことを知っている、それだのにここにいるふたりは、死がすでにこの室内の、彼らのすぐわきにたたずんでいることさえ気づかない━━、彼らを呼びさましてそのような現実認識へみちびくことがまだ可能だろうか?(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、211頁)

「現実とは愛なのだ」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳、204ページ)

ひとつの自然は別の自然になりえねばならぬ(マルスラン・プレネ『(ひとつの自然は………)』澁澤孝輔訳)

学校の授業の合間に読んだブロッホの『ウェルギリウスの死』はやはり絶品だった。どのページを開いても、脳裡に届く知性のきらめきが感じられる。プレネの入っている『現代詩集』もよかった。読んで楽しくて、知的になれる読書がいちばん、ぼくには最適なような気がする。だからSF小説を読むのかな。

ミエヴィルの『言語都市』あと100ページほど。苦痛だ。会話が極端に少ないのも、その理由のひとつだろう。

いま、amazon で、1977年版のブロッホの『ウェルギリウスの死』を買った。もってるのは1966年度版で、漢字のルビが違っているので買い直した。

きょう、ツイートしたのは、1977年度版の訳で、学校の図書館にあるほうのものの訳。ぼくのもってる1966年度版だと、「制御」にルビが入っているのだ。翻訳者の川村二郎さんが、版をかえるときに、手を入れられたのだろうね、と思って、1977年度版を買った次第。無駄な出費かなあ。どだろ。

そいえば、この集英社の全集シリーズ、『現代詩集』って、1966年度版と1977年度版ではまったく別のものって感じで、文字の大きさから選ばれた詩までも違うからね。1977年度版のほうがはるかに優れているからね。買うなら、1977年度版のほうがいいよ。

歯をみがいて、クスリをのんで寝よう。今週中に、ミエヴィル読み終わって、来週には、これまた読んでる途中でほっぽりだしたイーガンの『白熱光』を読もうかなって思っている。めっちゃ読みにくい小説だった。


二〇一七年二月二十三日 「言語都市」


チャイナ・ミエヴィルの『言語都市』を読み終わった。読む意義のある作品だと思うけれど、とにかく読むのが苦痛だった。イーガンの『白熱光』をきょうから読むけど(ちょこっとだけ、以前に読んだ)これも相当ひどい読書になりそうだ。スコルジーのように、わかりやすい作家もいるけどつまらないしね。

原曲より好きなんだよね。

D'angelo - Feel Like Makin' Love https://youtu.be/mcQ83tOZ4Wk @YouTubeさんから

いま日知庵から帰ってきた。やっぱり、イーガンの『白熱光』さっぱり、わからない。そのうち、おもしろくなるのかな。その気配が希薄なんだけど、せっかく買った本だから読むつもりだ。ハーラン・エリスンの短篇集は読んでる途中で破り捨てたけれど。ひさびさに本を破いて捨てた経験だったけれど。もったいないという気持ちより、読んでて愚作であることに気がついて破いて捨てて正解だったという気持ちのほうが強い。本棚の未読本のうち、また破いて捨てるものがありませんようにと祈っておこう。きょうは、『白熱光』のつづきを読みながら寝る。おやすみ。


二〇一七年二月二十四日 「白熱光」


数学の仕事が順調に終わったので、神経科医院に行くことにする。担当医に、1月と2月は自殺願望が強烈だったので、その報告をしなければならない。記憶障害も起こしていた。極めて危険な状態であったが、今回もなんとか乗り切った。しかし、いま現在も精神状態は不安定なので、わからないけれど。

いま医院から帰ってきた。24人待ちで、こんな時間までかかったのだけれど、待ち時間が長いのを知っていたので、そのあいだ日知庵に行って、ジンジャーエールを2杯と焼き飯とイカの姿焼きを飲み食いしてた。イーガンの『白熱光』も読んでいたが、100ページを超えても、話の内容さっぱりわからず。

寝るまえの読書は、わかりやすいのがいいと思うので、ディックの短篇集にしようと思う。単行本で、『人間狩り』を持っているのだけれど、まだページを開けたこともなかった。文庫の短篇集で、まあ、たぶん、ほとんど収録されているものはすでに読んでると思うので手にしなかっただけだけど。しかし、チャイナ・ミエヴィルといい、グレッグ・イーガンといい、なんで、こんなに読みにくいものを書くんだろうか。ゲーテの『ファウスト』や、ブロッホの『ウェルギリウスの死』や、ニーチェの『ツァラトゥストラ』や、エリオットの『荒地』なんかのほうが、ぜえったい、百万倍、読むのがやさしい。まあ、そういう表現でしか見られないものがあると、感じられないものがあるということなんだろうけれど。そういえば、はじめてニュー・ウェーブやサイバー・パンクやスチーム・パンクを読んだときにも、読みにくいなって感じたな。そうか。そのうち、もっと読みにくい作家が出てくるかもしれないな。


二〇一七年二月二十五日 「福ちゃん」


いま日知庵から帰った。帰りに、Fくんの男っぽい姿をみて、あらためて好きになった。まあ、まえからずっと好きだったのだけれど。もしも、ぼくが若くてかわいい女だったらなあ。ぜったい放さない。


二〇一七年二月二十六日 「すぐに目が覚めた。」


1977年度版のブロッホの『ウェルギリウスの死』が郵便受けに届いてた。とてもいい状態だったのでうれしい。1966年度版は捨てます。おやすみ、グッジョブ。

いまトイレで、指を喉に突っ込んでゲロを吐いた。お酒好きなんだけど、弱いんだ。ああ、でも、ゲロも慣れてきたから、いいか。ぼくみたいにお酒に弱い詩人って、いままでいたのかなあ。指を喉に突っ込んではゲロを吐く詩人。ありゃ、またゲロしたくなった。トイレに入って、指を突っ込んできます。

クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! クスリのんだあと、吐くかなあ。どだろ。微妙。基本、ぼくののんでるクスリ、お酒だめなんだけどね。まあ、いいか。吐いても、あした、日曜日だし、休みだし。もう一回、指突っ込んで吐いてからクスリのもうかな。どうしよう。おやすみ、グッジョブ!

すぐに目が覚めた。一時間くらいしか寝ていない。まだ目がしばしばしてるけど。

イーガンの『白熱光』読みにくさでは、ミエヴィルを上回る。150ページ読んでも、さっぱりわからない。ミエヴィルもイーガンも二度と買うことはないと思う。タバコ吸ったら、なんか短篇集でも本棚から物色して読もう。

体験とその体験がこころにもたらせたものが、最初に、ぼくに詩を書かせたのだと思っていた。じっさい、そうだったのだ。しかし、人間というものよりも、言葉のほうをより愛している自分がいることに気がついたとき、言葉こそが真の動機であったことに思い当たったのであった。言葉というものの存在が。


二〇一七年二月二十七日 「詩とはなにか。」


詩とはなにか。言葉だ。言葉以外のなにものでもない。


二〇一七年二月二十八日 「詩は」


詩はもっともよく真実に近づいたとき、もっともよく騙しているのだ。


二〇一七年二月二十九日 「生きるというのは」


他者に欺かれていたことを知るのは単なる屈辱でしかない。
生きるというのは、自分自身を欺きつづけることにほかならない。


二〇一七年二月三十日 「白熱光」


携帯に知らないひとからメールがきてるんだけど、ぼくの名前を間違えてるので返信しなかった。音楽仲間というか、バンド関係者と間違えてるふうを装っているところが巧妙だなと思うのだが、56歳のおっさんがそんな詐欺にひっかかるわけがないだろうと思うのだが。ガチでバカなやつらがおるんやな。

寝るまえの読書は、フランク・ハーバートの『神皇帝』第2巻のつづき。イーガンの『白熱光』は、152ページでとまった。


二〇一七年二月三十一日 「現代詩集」


集英社の世界文学全集の『現代詩集』を、きょうも読んでいたのだが、レベルが高い詩が多くて、なぜ、日本の詩にはよいものが少ないのか、情けない気持ちがする。たくさんよいものを書きつづけていたのは西脇順三郎か、吉増剛造くらいしかいない。吉岡 実も『薬玉』くらいしかよいものを書いていない。「僧侶」も、さいしょはおもしろいと思ったが、構造が単純すぎることに気がついてから、読み直したことがない。繰り返し読めるのは、『薬玉』くらいである。吉増剛造さんも、身ぶりにわざとらしさが出てくるようになってからは、まったくつまらなくなってしまったし。しかし、ところで、そうして、だから、日本の詩がおもしろくなければ、自分がおもしろいものを書けばいいのである。ということで、ぼくは書きつづけているのだなと思う。『全行引用詩・五部作・上下巻』など、ぼく以外のだれにも書けなかった作品集であったなと思う。

これから王将に行く。遅い時間には、日知庵に行く。きょうは、ゲロを吐かないように、お酒の量を調節したい。数日前は記憶が吹っ飛んでしまったからね。お酒の量がわからなくなるなんて、バカみたいだけど、バカだし、しようがない。ただいま現在、56歳、かしこくなる年齢はやってくるのでしょうか。


詩の日めくり 二〇一七年三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年三月一日 「ツイット・コラージュ詩」


ブックオフで、ぼくの持っている状態よりよい状態のカヴァーで、フランク・ハーバートの『神皇帝』第一巻から第三巻までが、1冊108円で売っていたので、買い直して、部屋に帰ってから、持っているもののカヴァーと取り換えた。本体は、持っているもののほうがよかったので、カヴァーだけを換えたのだった。持っていたものは、本体だけ残してカヴァーは捨てた。持っていたもののほうの本体は、お風呂場ででも読もうかと思う。

きょうは、ユーミンを聴いてた。「海を見ていた午後」は、何回繰り返し聴いてもよいなと思える曲だ。歌詞が、ぼくの20代のときのことを思い起こさせる。アポリネールの「ミラボー橋」の「恋もまた死んでいく」のリフレインがそれに重なる。もしも、もしも、もしも。人間は、百億の嘘と千億のもしもからできている。

いま日知庵から帰った。行くまえに、amazon で自分の詩集の売れゆきをチェックしていたら、日知庵のえいちゃんといっしょに詩集の表紙になった『ツイット・コラージュ詩』(思潮社2014年刊)が売れてたことがわかって、へえ、いまでも買ってくださる方がいらっしゃるんだってこと、えいちゃんに話してた。


二〇一七年三月二日 「発狂した宇宙」


きょう見た夢のなかの言葉、枕もとのメモパッドに書きつけたもの。「あっちゃんが空を見上げると、太陽が2つずつのぼってくるんやで」 意味はわからず。しかし、これは、メモしなきゃと思って夢からさめてすぐにメモした言葉だった。もうどんな情景での言葉だったのかも忘れてしまった。

けさから、フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』を読んでいる。


二〇一七年三月三日 「退院祝い」


これから日知庵に。友だちの退院祝いで。先月、思潮社オンデマンドから出た、ぼくの詩集『図書館の掟。』の表紙になってくれた友だちだ。2月の14日に、脳腫瘍の手術をしたのだった。もちろん、手術は成功だった。10万人に3人の割合でかかる部類の脳腫瘍だったらしい。

いま日知庵から帰った。フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』を半分くらい読んだけれど、筒井康隆が絶賛した気持ちがわからない。まあ、発表された当時としては、おもしろかったのかもしれない。ぼくが傑作というのは、時代を超えたシェイクスピアとかゲーテの作品とかだからかもしれない。

amazon で、フレデリック・ブラウンの『火星人ゴーホーム』を買った。旧版のカヴァーだからだけど、むかし読んで捨てたやつだけど、カヴァーがかわいらしくて、再購入した。いい状態のカヴァーだったらうれしいな。中身は読んだから、本体の状態はどうでもよい。

寝るまえの読書は、フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』のつづき。はてさて、さいごまで読めるだろうか。このあいだ、イーガンの『白熱光』を152ページでやめてしまった。これは、どうかな。あと半分。読みやすいけれど、ドキドキ感はなし。


二〇一七年三月四日 「いつもと変わらない宇宙」


いま、きみやから帰ってきた。5軒めぐり。きょうもヨッパである。つぎの日曜日にはカニ食べまくりの予定である。まじめに生きて行こうと思う。つぎの日曜日までは。今週は、何冊読めるかな。きょうは、寝るまえの読書は、フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』のつづきを読む。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年三月五日 「フトシくん」


いま日知庵から帰ってきた。かなりヨッパ〜。でもまあ、寝るまえに、フランク・ハーバートの『神皇帝』第3巻のつづきを読んで寝るつもり。詩人も作家も、死ぬまでに傑作を1つ書いたら、役目は終わってると思うのである。ぼくのは、どれかな。「Pastiche」かな。どだろ。

ユーミンのベスト聴いていて、「守ってあげたい」を歌ってくれたフトシくんのことが思い出された。ぼくが22、3才で、フトシくんが20才か21才だったと思う。どれだけむかしのことだろう。そのときのことがいまでも生き生きとして、ぼくのなかで生きているって、ほんとに人間の記憶って不思議だ。きのうのことでも、はっきり覚えていなかったりするのにね。


二〇一七年三月六日 「ぼく以外、みんな中国人だった。」


日知庵から帰って、セブイレでシュークリーム2個買って食べて、ミルク1リットル飲んで、これから寝る。きょうもヨッパであった。さいご、ぼく以外、お客さんがみな中国人だった。10人以上いたな。たしか、15人はいたと思う。日知庵も国際化しているのだった。


二〇一七年三月七日 「火星人ゴーホーム」


いま日知庵から帰って、帰りにセブレで買ったペヤング焼きそば大盛りを食べた。フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』あと10ページほど。このあと、なにを読もうかな。きょう amazon から到着したフレデリック・ブラウンの『火星人ゴーホーム』はいい状態だった。これを再読しようかな。


二〇一七年三月八日 「きょうは日知庵で一杯だけ」


きょうは一杯だけ飲んで帰ってきた。調子が悪い。こんどの土曜日には大谷良太くんがくる。

きのうは、文学極道で、ぼくの詩を読んでくださってた方が、ぼくのベスト詩集『ゲイ・ポエムズ』(思潮社2014年刊)を買ってくださってたし、なんだか、いい感じ。詩を書きはじめたとき、生きているあいだに、ひとに認められることはないと思っていたぼくとしては、ひじょうにうれしい。

きょうは、ハインラインの『宇宙の戦士』をブックオフで買った。もう3回以上、買ってる気がする。読んでは捨ててる部類の小説だ。まあ、カヴァーの絵が好きなだけのような気もするが、仕方ありませんな。ほんと好みですからね。

いま、フランク・ハーバートの『神皇帝』第3巻を数十年ぶりに読み直してるんだけど、フランク・ハーバートのような、わかりやすいSFは、もう二度と書かれないような気がする。古いもののよさもある。というか、ぼくは、もう古いものにしか目が向けられないような気がする。

本棚にある書物を処分しているのも、その兆候のひとつだろう。SFとしては、50年代から60年代に書かれたものが、ぼくにはいちばん合っているような気がする。文学全体で眺め渡すと、シェイクスピア、ゲーテ、19世紀初頭から20世紀末までの詩人たちかなあ。おもに欧米の詩人たちだけど。

『神皇帝』の第3巻のつづきを読みながら寝ます。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年三月九日 「ほんとに酒に弱い」


いま日知庵から帰ってきた。きょうヨッパだけど、いつもの2倍くらいかも。もう寝る。おやすみ、グッジョブ!

朝、6時すぎにゲロった。いま二度目だったけど、からえずきだけだった。お酒に弱い。


二〇一七年三月十日 「けっきょく、エビフィレオ」


きょう、夜は八雲さんとこで、森澤くんとカニを食べる。そのまえに、今日のお昼は、マクドナルドにしよう。フィレオフィッシュのセットにしよう。

エビフィレオにした。

八雲さんとこから帰った。カニ、そんなに感動しなかった。まあまあのおいしさだったけれど、もう旬ではないものね。やっぱ旬のものがいいね。


二〇一七年三月十一日 「なぜかこわい」


お風呂場から、水の滴る音がする。こわいから、とめてこよう。


二〇一七年三月十二日 「ぼくのは難しい?」


チューブで70年代ポップスを聴いている。ここちよい。わかりやすい。きょう、ぼくの詩集を2ページ読んで、わからないから読むのをやめたと、ひとりの青年に言われて、それは作者の責任だねと答えた。『THe Pooh on the Hill。』だったのだけれど、ぼくのは難しいのかな。

ぼく自身は、笑っちゃうくらい、おもしろい作品だったのだけれど。すると、もうひとりの青年からも、「あっちゃんの詩は難しいよね。」と言われて、ちょっと、しゅんとなった。ぼくくらい、わかりやすい作品を書く詩人はいないと思っていたので。そういえば、むかし、大岡 信さんに、「あなたの使う言葉は易しいけれど、詩自体は難しい。」と言われたことや、ヤリタミサコさんに、「田中宏輔の詩は難解であると思われているが……」と書かれたことが思い出された。ぼくの作品ほど単純な作品はないと思うのだけれどね。どこが難しいのか、ぼくには、ぜんぜんわからない。

しかし、こんど思潮社オンデマンドから出した『図書館の掟。』のタイトルポエムにも書いた詩句にもあるけれど、無理解や無視というものが、当の芸術家にとっては、いちばんよい状態であるとも思えるので、まあ、いいかなと思える。無名性というものが大事なこともしじゅう書いているが、まあ、その無名性が、自分にとっては大切な要素なのかもしれないとも思うしね。また死ぬまで詩集を出しつづけると思うけれど、どの1冊も同じフォルムのものはないので、採り上げる人も面倒くさいし、採り上げづらいだろうしね。しょうがないね。

本来、詩は少数の読者でいいものかもしれないしね。ぼくの詩集も、どなたか知らないけれど、amazon で見たら、全部、買ってくださってらっしゃる方がいらっしゃって、もちろん、その方とは面識もないし、お名前も存じ上げないのだけれど、どういった方なのかなってのは思う。


二〇一七年三月十三日 「原曲を超えること」


ジョン&オーツの『シーズ・ゴーン』をいま聴いてる。原曲よりいい。原曲を超えるのって、むずかしいと思うけれど、ときどき、ハッとするアレンジに出くわすよね。リンゴの『オンリー・ユー』にも、むかし、びっくりした。最近では、デ・アンジェロの『フィール・ライク・メイキング・ラブ』かな。


二〇一七年三月十四日 「大量処分」


日本語の未読の本を大量に処分した。これで、日本語の未読の本は10冊くらいになった。これからの人生は、シェイクスピアの戯曲とか、ゲーテの作品とか、イエイツやT・S・エリオットやディラン・トマスやD・H・ロレンスやジェイムズ・メリルやエミリー・ディキンスンやウォルト・ホイットマンやウォレス・スティヴンズやW・C・ウィリアムズやエズラ・パウンドといった大好きな詩人たちの詩の再読に大いに時間を費やそうと思う。

再読したいと思っている小説もたくさん残しているので、ぼくの目は、もう傑作しか見ないことになる。それは、たいへんここちよいものであると思われる。どう考えても、ぼくの脳みそはもう、ここちよい傑作しか受け付けなくなってしまっているのであった。サンリオSF文庫も8冊しか残していない。

時間があれば、それらの詩などを手にするであろう。そうして、それらの再読が、ぼくにインスピレーションを与えることになるであろう。いままで大量の本を読むことに時間を費やしてきたが、大事なことは、大量の本を読むことではなく、読むことでインスピレーションを与えられることであったのだった。

本棚の本を大きく入れ替えて整理し、目のまえの棚はすべてCDで埋め尽くした。本はその両横とその横、向かい側の本棚に収めた。2重になっているのは、聖書関連の資料だけだ。聖書を題材にした作品はたくさん書いてきたが、散文で1冊、聖書を題材にしたものを書きたくて、それらは残したのであった。

中央公論社の『日本の詩歌』も、好きな詩人たちのものがそろっているので、きっと再読するだろう。ぼくがはじめて詩を書いた『高野川』のころのぼくには、もう戻れないと思うけれど、ぼくの作品は、これからますます単純化していくような気がしている。おそらく、それは、『詩の日めくり』に反映されるだろう。

齢をとって、この詩人はろくなものしか書けなくなったと言われるだろうと思うけれど、ひとの言葉に耳を傾けることをしたことがなかった詩人なので、そんなことはどうでもよい。いまは単純化に向かって歩んでいきたいと思っている。まあ、もともと、ぼくは、難しい言葉を使う書き手ではなかったけれど。

いったん脳みそをまっさらにしたいと思ったのだった。ひさしく英詩の翻訳もしていなかったが、それも再開したいと思っている。英詩の翻訳は、日本語で詩を書く場合よりも、言葉と格闘している感じがして、脳みそをたくさん動かしてる気がするからである。とにかく脳みそをまっさらな状態で動かしたい。

以前に amazon で買った イエイツの全詩集は、ペーパーバックで1500円ほどだったが、いま amazon で買った T・S・エリオットのは、全詩集+全詩劇のペーパーバックで、2562円だった。外国では、古い詩人ほど安いのだろう。ジェイムズ・メリルのはずいぶん高かったものね。

まあ、ページ数が違うのだけれども。ジェイムズ・メリルは書いた詩の量が多かったから仕方ないのだろうけれど。ぼくも書く量が多いので、死んでから全詩集をだれかが出してくれるとしても、たいへんな作業になると思う。ヴァリアントがいくつもあって、「反射光」だけでも、4つのヴァリアントがある。ぼくが20数冊出した詩集のうち、4冊の詩集に収録しているのだった。

げっ。以前に原著のシェイクスピア全集があったところを見たらなくなっていた。と思ったら、背中のほうの棚にあった。よかった。いくら古典でも、これは安くなかったからね。あと4冊、日本語の本の本棚から出さなくてはバランスが悪い。古典と傑作しか残していないので、その4冊を選ぶのがたいへん。

迷ってたんだけど、いま amazon で、Collected Poems of William Carlos Williams の第一巻と第二巻を買った。合計5700円ちょっと。そいえば、John Berryman の THE DREAM SONGS を買ってたけど 読んでない。読みやすいやと思って、ほっぽってた。いま見たら、385個の詩が載ってるんだけど、すべての詩が1ページに収まる長さで、しかも、すべての詩篇が、6行で一つの連をつくっていて、それが3連つづくのだけれど、そういうスタイルの定型詩なのかな。ジョン・ベリマン、彼もまた自殺した詩人のひとり。

ふう、いままで amazon で本を買ってた。でも、20000円は超えなかったと思う。もしかしたら超えたかもしれない。T・S・エリオット、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、ホイットマン、ディラン・トマス、エミリー・ディキンスン、ウォレス・スティヴンズ。もう寝よう。ぜんぶ全詩集。そいえば、OXFORD UNIVERSITY PRESS から出てる 20TH-CENTURY POETRY & POETICS の読みも中断していた。まだ、ロバート・フロストだ。

いま、amazon のアカウントサービスで注文履歴を見て、電卓で合計したら、14584円だった。計算ミスがなければ、安くてすんだな。ディラン・トマスのものが入荷未定なので、もしかしたら、購入したものが手に入らないかもしれないけれど。もう一度、アカウントサービスで注文履歴を見よう。

もう一度、計算しても、同じ金額だったので、ひと安心。クスリをのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

そいえば、このあいだ、森澤くんとふたりでカニを食べたときに支払った金額が15000円ジャストだったので、それよりも、きょうの買い物のほうが安かったってことだな。なんちゅうこっちゃろか。まあ、本代と食事やお酒代をいっしょにしたら、あかんのだけれどもね。クスリのんだしPCのスイッチ切ろうっと。


二〇一七年三月十五日 「夢」


ぼくが高校一年生で、高校を転校する夢を見た。一時間目の授業は、体育の時間であったにも関わらず、教室で授業だった。先生の名前は中村私(わたしと読む)という名前で、困ったことがあったら、私のところに相談しにきなさいと言っていた。二時間目は理科の授業で、女の先生で、「きょうは授業はしません。おしゃべりします。」と言われたので、教室中が大喜びであった。と、そこで目が覚めた。これからマクドナルドに行く。帰ってきたら、きのうメモしたものを書き込んでいく。体育の先生は、ぼく好みで、ガチムチの若い先生(30歳いってない)であった。かわいらしいお顔をしてらっしゃった。


二〇一七年三月十六日 「驚くべきことに」


恋人の瞳に映った自分の顔ほどおぞましいものはない。
目は2つもあるし
鼻は1つしかない。
耳にいたっては
頭の両端に1つずつもあるのだった。


二〇一七年三月十七日 「いくつかのメモ」

2017年3月21日メモ

鳥には重さがない
もしも重さがあったとしたら
飛べないからである
翼を動かしているのは
あれはただたんに
空気をかき混ぜているのである
鳥が鳴くとピーッという音になる
音が鳴りやむと
鳥の姿に戻る
鳥は物質であり音でもある
鳥は音が物質化した一例である


2017年3月21日メモ

空間は時間が存在するところでは曲がるが
時間の存在しないところでは直進するか静止している。

時間は空間が存在しないところでは曲がるが
空間が存在するところでは直進するか静止している。


2017年3月2日のメモ

白人とは白いひとのことである。黒人とは黒いひとのことである。しかし、ぼくはまだ白いひとも、黒いひとも見たことがない。白人とは白いひとのことである。黒人とは黒いひとのことである。


日付けのないメモ

砂でできた葉っぱ
夕日でできた蟻


日付けのないメモ

本の本
秘密の秘密
毒の毒
先の先
洗濯機の洗濯機
言葉の言葉
自我の自我
穴の穴
空白の空白


二〇一七年三月十八日 「STILL FALL THE RAIN。」


きょうは、お昼の2時に大谷良太くんが部屋にきてくれるので、それまで、来年、思潮社オンデマンドから出す予定の詩集『STILL FALL THE RAIN。』の編集でもしてようかな。収録作品は、「STILL FALL THE RAIN。」前篇と後篇の2作品のみ。もちろん、どちらも長篇詩。そいえば、ぼくの大恩人であるヤリタミサコさんに捧げる、『STILL FALL THE RAIN。』 ぼくは、前篇はすこし憶えているのだが、後篇にいたってはまったく何を書いていたのか記憶しておらず、ふたたびワードを開くのが楽しみだけれど、怖くもある。


二〇一七年三月十九日 「洋書の全詩集は安い。」


いまロバート・フロストの全詩集も、amazon で買った。洋書は安い。1620円だった。まあ、これで、ここ何日かのあいだに買った洋書の全詩集は、日曜日のふたりのカニ代より多くなったわけだが、まあ、よい。フロストの詩は読んでても訳してても、ここちよい。たいへんみずみずしいのだ。


二〇一七年三月二十日 「接触汚染」


いま日知庵から帰ってきて、帰りにセブイレで買ったインスタントラーメンを食べたばかり。本棚を整理したので、どこになにがあるか、だいたいわかった。日本語の小説を読む機会はあまりなくなったけれど、翻訳された英詩は読む機会が多くなったと思われる。日本語で本棚に残っているのは、表紙の絵がお気に入りのもので、かつ傑作であるものか、古典か、シリーズものだけである。デューンのシリーズは手放せなかった。リバーワールドものも手放せなかった。ヴァレンタイン卿ものも手放せなかった。ワイルドカードものも手放せなかった。その他、お気に入りのシリーズ物は手放せなかったし、傑作短篇集の類のものも手放せなかった。また単独のもので、表紙の絵が良くなくても、内容のよいもの、たとえば、スローリバーなども手放せなかった。本棚に残った日本語の小説は、どれも再読に耐えるものである。一方、詩に関しては、研究書も含めて、1冊も手放していない。

詩に関しては、自負があるのだろう。あしたからは、英詩に集中しよう。日本語の詩や小説は、通勤時間や、授業の空き時間や、寝るまえの時間に読むことにしようと思う。いま気になっているのは、SFの短篇で、同じ顔の美男しかいない惑星に到着した宇宙船の話で、手放していないかどうかだけである。のちに女性も同じ顔になる伝染病的な話で、宇宙船の乗組員の女性がそのことに気づいて怖気づくというところで終わっていた話である。手放した短篇集もあるので、それだけが気がかりで、これから、その作品が本棚に残っているかどうか、調べてから寝る。手放していなければよいのだけれど、どかな。探し出せれば、ツイートする。その作品は、だれが書いたのかも憶えていないし、どの短篇集に載っていたのかも忘れたのだけれど、「冷たい方程式」と同様に、その作品ひとつで、SF史に残ってもいいくらいに、よくできた作品だったと思う。いや〜、これから本棚をあさるのが怖い。でも、どこか楽しい。

やった〜。見つけた。残しているSF短篇集のなかにあった。キャサリン・マクレインの「接触汚染」だった。SFマガジン・ベスト1の『冷たい方程式』の冒頭に収められていた。よかった〜。ようやく探し出せた。なんだ、こんなところにあったのか。いっぱい本を引っ張り出してきてはページをめくっていたのだが、ファーストコンタクトものだったということに気がついて、さいしょ、「最初の接触」かなんかというタイトルだと思って、メリルの傑作選やギャラクシーの傑作選や年代別の傑作選などをあさっていたのだが、ああ、接触して汚染される話だったから、「接触汚染」というタイトルかなと思ってネット検索したら、SF短篇集『冷たい方程式』に入っているというので、本棚を探したら、あったので、本文を読んで、ああこれやと思った次第。手放してなくってよかった。これで安心して眠れる。きょう寝るまえの読書は、なににしようかな。せっかくだから、SF短篇集『冷たい方程式』にしよう。いま調べたら、2011年に再版された新しいSF傑作選『冷たい方程式』には「接触汚染」が入っていないんやね。旧版からのものは、トム・ゴドウィンのタイトル作品とアシモフの「信念」の2篇のみしか入っておらず、残り7篇がほかのものに替わっている模様。新しい『冷たい方程式』も手に入れたい。しかし、日本語の本の本棚には、もう本を入れる余地がなかったので、購入はやめておこう。さっき、「接触汚染」を探しているときに、数多くのSF傑作選をパラパラめくっていたら、ぜんぜん記憶にないものが多かったので、それを読んでもいっしょかなって思ったことにもよる。また、新たに収められた7つの短篇のうち、1作が、ウォルター・テヴィスの「ふるさと遠く」で、それ持ってるからというのにもよる。うううん。早川書房、あこぎな商売をしよる。ディックの傑作短篇集みたいなことしよる。なんべん同じ短篇を入れるんやと思う。しかも、傑作の「接触汚染」をはずして。


二〇一七年三月二十一日 「人間の手がまだ触れない」


いま日知庵から帰った。きょうは、例のオックスフォード大学出版から出た英詩のアンソロジーで、ロバート・フロストの詩を5つ読んだ。どれも、ぼくには新鮮な感覚。既訳があるなしに関わらずに、訳していこうかな。既訳は無視することにする。といっても、記憶に残っている訳もあるのだけれど。

きょうの寝るまえの読書は、ロバート・シェクリイの短篇集『人間の手がまだ触れない』にしよう。旧版のカヴァーなので、かわいらしい。創元SF文庫も、ハヤカワSF文庫も、なぜ初版のままのカヴァーを使わないのか不思議だ。版を替えると、カヴァーの質が確実に落ちる。ぼくには理由がわからないな。


二〇一七年三月二十二日 「ロバート・フロストの短編詩、2つ」


ようやく目がさめた。きょうは、ロバート・フロストの英詩を翻訳しようと思う。できたら、楽天ブログに貼り付けよう。

ロバート・フロストの「Fire and Ice」である。これには、ぼくの知ってるかぎりで、2つの既訳がある。そのつぎに訳すものは、既訳があるのかないのか調べていない。


Fire and Ice

Robert Frost

Some say the world will end in fire,
Some say in ice.
From what I’ve tasted of desire
I hold with those who favor fire.
But if it had to perish twice,
I think I know enough of hate
To say that for destruction ice
Is also great
And would suffice.


火と氷

ロバート・フロスト

世界は火に包まれて終わるだろうという者もいる。
また氷に覆われて終わるだろうという者もいる。
わたしが欲望というものを味わったところから言えば
火を支持するひとびとに賛成する。
しかし、世界が二度滅びなければいけないとしたら
わたしは憎悪については十分に知っていると思っているので
それを言えば、破滅というものについては
氷もまたおもしろいものであり
そして十分なものであるだろう。


ロバート・フロストの「Stopping by Woods on a Snowy Evening」を訳した。

Stopping by Woods on a Snowy Evening

Robert Frost

Whose woods these are I think I know.
His house is in the village though;
He will not see me stopping here
To watch his woods fill up with snow.

My little horse must think it queer
To stop without a farmhouse near
Between the woods and frozen lake
The darkest evening of the year.

He gives his harness bells a shake
To ask if there is some mistake.
The only other sound’s the sweep
Of easy wind and downy flake.

The woods are lovely, dark and deep,
But I have promises to keep,
And miles to go before I sleep,
And miles to go before I sleep.


雪の降る夜に森のそばに立って

ロバート・フロスト

これがだれの森かはわかっているつもりだ。
そいつの家は村のなかにあるのだけれど。
彼はここに立ちどまって、ぼくの姿を見かけることはないだろう。
雪でうずくまった自分の森を目にはしても。

ぼくの小馬は奇妙な思いにとらわれるだろう、
近くに一軒も農家のないところに立ちどまったりすることには。
森と凍りついた湖のあいだで
一年でいちばん暗いこんな夜に。

小馬は馬具の鈴をひと振りする
なにかおかしなことがありはしないかと尋ねて。
ただひとなぎの音がするだけ
ゆるい風とやわらかい降る雪の。

森は美しくて、暗くて、深い。
でもぼくは誓って約束するよ。
眠るまで、あと何マイルか行かなくちゃならない。
眠るまで、あと何マイルか行かなくちゃならない。


ロバート・フロストの詩、あと2つか、3つくらい訳したいのだが、さすがに下訳の必要な感じのものなので、西院のブレッズ・プラスに行って、ランチを食べて、そこで下訳をつくってこよう。さっきの2つは、ぶっつけ本番で訳したものだった。

お昼に訳してた箇所で、明らかな誤訳があったので手直しした。ああ、恥ずかしい。しかし、こういった恥ずかしい思いが進歩を促すのだと、前向きに考えることにする。

ロバート・フロストのひとつの詩に頭を悩ませている。おおかたの意味はつかめるのだが、1か所でつまずいているのだった。その1か所も情景は浮かぶのだが、日本語にスムースに移せないのだった。原文の写しをもって、これからお風呂に入る。きょうは訳せないかも。眠ってるうちに、無意識領域の自我が、ぼくになんとか訳せるようなヒントを与えてくれるかもしれない。そんな厚かましい思いをもって、お風呂に入って、原文を繰り返し眺めてみよう。お風呂から上がったら、きょうは早めに寝よう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年三月二十三日 「手を入れ過ぎかな。」


いままた昼に楽天ブログに貼り付けたロバート・フロストの英詩の翻訳に手を入れていた。潜在意識が、あそこの訳はダメだと言ってくれているのか、ふと思いついて、読み直したら、やはりおかしなところがあって、手直しした。やはり潜在意識は顕在意識よりもえらいらしい。ちょこちょこ直す癖もあるが。

いままた、またまた読み直してたら、一か所、おかしなことになっていたので(「ひと振り」と書いてたつもりのところが「ふと振り」になってたのだ)、手直しした。思い込みが気づかせなかったのだろう。20数冊はあるこれまでの詩集の編集をしていても、思い込みで書き間違っていた箇所が数か所ある。「あったりはしないかと」を「ありはしないかと」に直した。手を入れるごとに、訳詩全体の音楽性が高まっていくような気がした。また気がついたら、手を入れよう。寝るまえに、風呂で読んでたロバート・フロストの英詩を読もう。自然な日本語にするのが難しい感じの詩だが、それだけにやりがいがある。


二〇一七年三月二十四日 「Acquainted with the Night」

潜在意識のお告げもなく目が覚めた。コーヒー飲んで、もっと目を覚まそう。そして、ロバート・フロストの英詩と格闘するのだ。そのまえに、コーヒー飲んだら、朝食に、セブイレでおでんとおにぎりでも買って食べよう。それとも西院に行って、吉野家か松家に寄ろうかな。まあ、ひとまずコーヒーが先だ。

いま、ロバート・フロストの「Acquainted with the Night」の訳を楽天ブログに貼り付けた。

https://plaza.rakuten.co.jp/tanayann/diary/201703250000/

これまた、きょうじゅうに何度も手を入れそうな感じだけれど、次に訳そうと思うフロストの詩にかかりたい。かなり長い詩なのだ。


Acquainted with the Night

Robert Frost

I have been one acquainted with the night.
I have walked out in rain&#8212;and back in rain.
I have outwalked the furthest city light.

I have looked down the saddest city lane.
I have passed by the watchman on his beat
And dropped my eyes, unwilling to explain.

I have stood still and stopped the sound of feet
When far away an interrupted cry
Came over houses from another street,

But not to call me back or say good-bye;
And further still at an unearthly height,
One luminary clock against the sky

Proclaimed the time was neither wrong nor right.
I have been one acquainted with the night.


わたしは夜に精通しているのさ

ロバート・フロスト

わたしは夜に精通している者なのだった。
わたしは雨のなかを突然歩き去る──もちろん、その背中も雨のなかだ。
わたしは都市の最果ての街明かりのあるところをもっと速く歩いていたのだ。

わたしはもっとも悲しい都市の路地に目を落としたのだった。
わたしは巡回中の夜警のそばを通り過ぎたのだった
そいつはわたしの目を見下ろしたのだった、その目はしぶしぶと事情を語ってはいたろうが。

わたしは静かに立って、足音をとめたのだった。
なぜなら、遠くで出し抜けに叫び声がしたからだった
別の通りにある家々のまえを横切って聞こえてきたのさ、

でもだれも、わたしのことを呼びとめもしなかったし、別れを告げもしなかったのだ。
そしてさらにいっそう静かなところ、超自然的なくらいに高いところに
空を背景にして、ひとつの時計が光っていたのさ。

そいつが時間を教えてくれることは悪いことでも善いことでもないのさ。
なぜなら、わたしは夜に精通している者なのだったからさ。


二〇一七年三月二十五日 「チンドン屋さんたち」


天下一品で、焼き飯定食のお昼ご飯を食べてから歩いて西大路四条を横切ったら、チンドン屋さんたち(先頭・男子、あとふたり着物姿の女子の合計三人組)に出くわした。何年振りのことだろう。昭和でも、ぼくの子どものころには目にしていたけれど、近年はまったく目にしなかった。まだいてはるんやね。


二〇一七年三月二十六日 「しょうもない話」


きのう、日知庵で、えいちゃんに、昼間、チンドン屋さんたちを見かけたと話してたのだけれど、そういえば、ぼくが子どものころ、いまから50年ほどむかしには、クズ屋さんというのもあったんやでと話してたら、1週間ほどまえに阪急の西院駅の券売機のところで目にした情景が思い出されたのであった。クズ屋さんというのは、背中にかごを背負って、そこに、長いトングで道端で拾ったものを入れていくおじさんだったのだけれど、なにを拾っていたのかは憶えていない。木の棒の先に突き出た釘の先のようなものでシケモクというものを刺して集めていたおじさんもいたような気がするのだが、西院駅の券売機のところで、身なりのふつうのおじさんが、ちょっと長髪だったけれど、さっと身をこごめてシケモクを拾ってズボンのポケットに入れる様子を、ぼくの目は捉えたのであった。シケモクというのは、吸いさしのタバコのことで、いまはあまり道端に落ちていないけれど、むかしはたくさん落ちていた。そんな話をしていると、えいちゃんが、しょうもない話やなと言うのだった。ぼくの書く詩は、そんなしょうもない、くだらない話でいっぱいにしたい。そして、ぼくのしょうもない、くだらない話以上にしょうもない、くだらないぼくは、翻訳もせずに、これからまた日知庵に飲みに行くのであった。飲みに行って帰ったら寝て、目が覚めたらまた飲みに行くというしょうもない、くだらない自堕落な生活が、ぼくの生活であり、さもいとしい生活なのであった。

追記:日知庵に行く途中、西院駅に向かって歩いているときに、この日本語が頭にこだましていたのであった。「さもいとしい」 こんな日本語はダメだねと思って、駅について、「さもしく、いとおしい」にしなければならないと思われたのであった。これは、ぼくの日本語の未熟さを語る一例なのであった。

いま文学極道の「月刊優良作品」のところを見たら、2月のところに、ぼくの投稿した2作品が入選していたのであった。2作とも実験的な作品なのであったが、とくに2週目に投稿した作品はさらに実験的な作品なので心配していたのであった。

追記の追記:西院駅まで道を歩いているさいしょのときには、「さも愛しげな」に直そうかなと思ったのだが、一人称ではおかしい気もしたので、「さもしく、いとおしい」にしたほうがいいかなと思われたのであった。もう一段階、ステップがあったのであった。


二〇一七年三月二十七日 「ごちそうさまでした。」


大谷良太くんちで、晩ご飯をごちそうになって帰ってきた。親子どんぶりと中華スープ。そのまえに朝につくったというじゃがいもと玉葱とニンジンのたき物をどんぶり鉢いっぱいにいただきました。ありがとうね。ごちそうさまでした。おいしかったよ。

きょうは、早川書房の『世界SF全集』の第32巻の「世界のSF(短篇)」をぺらぺらめくりながら寝よう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年三月二十八日 「atwiddle」


日本語の本はもう買わないつもりだったけれど、本を整理してもっていないことがわかったので、ディックの傑作短篇集「まだ人間じゃない」「ゴールデン・マン」「時間飛行士へのささやかな贈り物」を買った。どれも送料なしだと1円だった。状態のいいのがくればいいな。もってたはずだったのにね。本棚の探し方が悪いわけじゃないと思うんだけどね。もう二重に重ねて置いていないし。

きょうは気力が充実しているので、ロバート・フロストの英詩を翻訳しよう。

ロバート・フロストの長篇の単語調べが終わった。1個、わからなかった。 atwiddle という単語だけど、ネットでも出てこない。twiddle の詩語なのかもしれない。きょう、塾に行ったら、英英辞典で調べてみよう。

ついでに、ロバート・フロストの短い詩を一つその単語調べもしておこう。それが終わったらちょっと休憩しよう。単語調べの段階で、下書きの下書きのようなものができあがっているから、頭がちょっと痛くなっているので、休憩が必要なのである。そだ、つぎの詩の単語調べのまえに、コーヒーを淹れよう。

atwiddle 英英辞典にも載ってなかった。ネットで調べても載ってなかった。

単語調べが終わったら、ディックが読みたくなって、『ペイチェック』の「ナニー」を読んでいたのだが、この作品以外のものは、ほかの手持ちのアンソロジーにみな入っていて、ひどいなあという感想しか持ちえない編集のアンソロジーで、あらためて早川書房のあこぎな商売の仕方に驚かされた次第である。その「ナニー」さえも、先日、手放したアンソロジーに入っていたものであった。読み直して、やはりディックはひどいクズのようなものも書いていたのだなと思ったのだが、情景描写はうまい。たとえ内容がクズのようなものでも、ちゃんとさいごまで読ませる力があるんやなって思った。ディックの作品はSFはすべて読んだけれど、長篇は1冊も本棚に残さなかった。2度と読むことがないからだろうからだ。あ、『ユービック』の初版は残してあった。カヴァーがよかったからだ。カヴァーのグロテスクさが心地よかったからである。内容は、超能力者と超能力を無効にする者の合戦みたいなものだったかなあ。
お風呂に入りながら、ロバート・フロストの departmental と Deaert Places を読んで、下訳を考えてみよう。お湯の力を借りて、頭をほぐしながら、情景を脳裡に思い起こすのだ。BGMは、70年代のポップス。シカゴとか、ホール&オーツとか、めっちゃ懐かしい。


二〇一七年三月二十九日 「幸」


いま日知庵から帰った。きょうも、いい夢を見たい。小学生のときにはじめて好きになったやつのこと、夢に見ないかなあ。脚がめっちゃ短くて、3頭身くらいだったの、笑。胴がめっちゃ長くて、かわいらしかった。名前も憶えていないけど。そいえば、名前を憶えていない好きな子が何人もいたなあ。

おやすみ、グッジョブ! きょう、寝るまえに何を読もうかな。まあ、部屋に残ってる日本語の短篇集を読もうっと。そいえば、フロストの英詩、だいたい情景が浮かんだ。あと少しのような気がする。翻訳は自分の詩を書くことよりも難しいし、ドキドキする。いい趣味を持ったような気がする。詩作と翻訳。

まえに付き合ってた子にメールしようかな。元気? 京都に来たら、いつでも連絡してよ。いまでも、きみの顔がいちばん、かわいいと思ってるからね。って、こんなメールを、いまから打つ。幸。おやすみ、二度目のグッジョブ!

メールした、笑。

返信がいまあった。京都に行くとき、連絡しますねって。「おやすみ、かわいい幸。」と返事した。ひゃあ〜、いい夢を見て寝たい。いや、寝て、いい夢を見たい、の方が正確な書き方かな。三度目のグッジョブ、おやすみ!


二〇一七年三月三十日 「atwiddle」


日知庵で、大学で数学を教えていらっしゃるという田中先生といっしょに来ておられたカナダ人の方に、ぼくが詩人で、ロバート・フロストの英詩を訳しているさいちゅうなんですがと断って、2つ質問した。1つは、atwiddle の意味で、もう1つは、固有名詞の Janizary の発音だった。

atwiddle は old English だろうということで、ぼくの推測通り、詩語で、現代英語にはない言葉であろうということだった。Janizary という固有名詞だが、「ジャニザリー?」と発音されたのだが、こんな固有名詞は目にしたことがないとのこと。でもまあ、この発音も、ぼくの推測通りだったので、ひと安心した。きょう、夕方に、ロバート・フロストの詩を2つ、翻訳の下訳をつくっていた。あした、楽天ブログに、それらを貼り付けようと思う。ようやく、詩の情景が、バロウズの小説の一節のように、「カチリとはまった。」のだ。英詩の翻訳は難しい、でも、おもしろい。

そいえば、日知庵で、ぼくがさいごの客だったのだけれど、さいごから2番目の客の2人組がかわいらしかった。22歳と32歳の左官屋さんのふたりだけど、若い子が大阪の堺からきているというので、ぼくがさいしょに付き合ったノブちんのことを思い出したのであった。ストレートかゲイかはわからないけれど、年上の男の子のほうが、「こいつゲイなんすよ。」と言っていたらしい。ぼくは直接、耳にした記憶はないのだけれど、ちょっといかつい感じの年上の男の子と、かわいらしい感じの男の子2人組だったので、BLちゅうもんを、ふと頭に思い浮かべた。いや〜、うつくしいもんですな。若いことって。

ぼくは英語が苦手だった。たぶんふつうの中学のふつうの中学生くらいの英語力しかないんじゃないかな。でも、英詩の翻訳はおもしろい。間違ってても、ぜんぜん恥ずかしくはない。もともと専門じゃないし、詩人が英詩の翻訳くらいできなくちゃだめだと思っているから。詩人の役目の一つに、よい外国の詩を翻訳するというのがあると思うのだ。

きょう寝るまえの読書は、きょう郵便受けに入ってたディックの傑作短篇集『時間飛行士へのささやかな贈物』ぱらぱらめくって、寝ようっと。おやすみ、グッジョブ! 日知庵のさいごから2番目のお客の左官屋の2人が愛し合っている情景をちらと思い浮かべながら寝ることにする。セクシーな2人やった。年上の男の子は、大阪ではなくて、静岡出身だということだった。大坂でいえば、南が似合うなあと言ったのだけれど、北でもおかしくない感じもした。南って、ガラ悪いって、ぼくの偏見だけれど。北はおしゃれっつうか、ふつうの不良の街って感じかな。南は、肉体労働者風のジジむさい感じがするかな。

ロバート・フロストの「Departmental」を訳した。


Departmental

Robert Frost

An ant on the tablecloth
Ran into a dormant moth
Of many times his size.
He showed not the least surprise.
His business wasn't with such.
He gave it scarcely a touch,
And was off on his duty run.
Yet if he encountered one
Of the hive's enquiry squad
Whose work is to find out God
And the nature of time and space,
He would put him onto the case.
Ants are a curious race;
One crossing with hurried tread
The body of one of their dead
Isn't given a moment's arrest-
Seems not even impressed.
But he no doubt reports to any
With whom he crosses antennae,
And they no doubt report
To the higher-up at court.
Then word goes forth in Formic:
"Death's come to Jerry McCormic,
Our selfless forager Jerry.
Will the special Janizary
Whose office it is to bury
The dead of the commissary
Go bring him home to his people.
Lay him in state on a sepal.
Wrap him for shroud in a petal.
Embalm him with ichor of nettle.
This is the word of your Queen."
And presently on the scene
Appears a solemn mortician;
And taking formal position,
With feelers calmly atwiddle,
Seizes the dead by the middle,
And heaving him high in air,
Carries him out of there.
No one stands round to stare.
It is nobody else's affair
It couldn't be called ungentle
But how thoroughly departmental


種族

ロバート・フロスト

テーブルクロスのうえにいた一匹の蟻が
動いていない一匹の蛾に偶然出くわした、
自分の何倍もの大きさの蛾に。
蟻はちっとも驚きを見せなかった。
そいつの関心事はそんなことにはなかったのだ。
そいつは蛾のからだにちょこっと触れただけだった。
もしもそいつが別の一匹の虫に突然出くわしたとしても
その蟻っていうのは巣から出て来た先遣部隊の連中の一匹で
その連中の仕事っていうのは神のことを
時空の本質のことを調査することで、
それでも、そいつは箱のうえにその別の一匹の虫のからだを置くだけだろう。
蟻というのは好奇心の強い種族である。
自分たちの仲間の死骸のうえを
あわただしい足取りで横切る一匹の蟻がいるが
そいつはちっとも足をとめたりはしない。
なにも感じていないようにさえ見える。
でも、蟻は疑いもなくいくつかのことを仲間に知らせるのだ、
触角を交差させることによって。
そして、たしかに仲間に知らせるのだ、
庭のうえのほうにいる仲間に。
ところで、蟻という言葉は、ラテン語の Formic(蟻の)からきている。
「死がジェリー・マコーミックのところにきた。
 ぼくたちの無私無欲の馬糧徴発隊員のジェリー。
 特別な地位にいるジャニザリーは
 彼の事務所は、その将校の死体を
 埋葬することになっているのだが
 ジェリーを彼を待つ人々のところ、彼の家に彼の死体を運ぶだろう。
 一片のがくのうえに置くように彼の死体を横たえ
 彼の死衣を花びらでびっしりと包み
 イラクサのエッセンスの芳香で満たすだろう。
 これがあなたたちの女王蟻の言葉である。」
そしてまもなくその場面で
一人のまじめくさった顔をした葬儀屋が姿を現わすのだ。
そして形式的な態度をとりながら
彼の体をなでるようなしぐさでちょこっと触れ
彼の死体の真ん中のところをぐっとつかみ
彼の体を空中高く持ち上げると
そこから外に彼の死体を運び去るのである。
その様子をじっと見るためにそこらへんに立っている者などひとりもいない。
それは、ほかの誰の出来事でもないのだ。
高貴でないと呼ばれることはぜったいにない。
しかし、なんと徹底的な種族なのだ、わたしたち人間というものは。


ロバート・フロストの「Desert Places」を訳した。


Desert Places

Robert Frost

Snow falling and night falling fast, oh, fast
In a field I looked into going past,
And the ground almost covered smooth in snow,
But a few weeds and stubble showing last.

The woods around it have it─it is theirs.
All animals are smothered in their lairs.
I am too absent-spirited to count;
The loneliness includes me unawares.

And lonely as it is that loneliness
Will be more lonely ere it will be less─
A blanker whiteness of benighted snow
With no expression, nothing to express.

They cannot scare me with their empty spaces
Between stars--on stars where no human race is.
I have it in me so much nearer home
To scare myself with my own desert places.


さびしい場所

ロバート・フロスト

雪が降っている、夜には速く降る、おお、よりいっそう速く降るのだ。
野っ原にいて、目の前の道をよく見ると
地面はほとんど真っ平らな雪に覆われているけれども
ただちょっとした草や刈り株が最期の姿を見せていた。

そのまわりの森はそれを持っている、それとは森のもののことだ。
すべての動物たちが巣のなかで、かろうじて息をしている状態だ。
わたしには霊的な能力がなくて、その数を数えられないのだが
突然、孤独な気分に陥った。

そして、孤独な気持ちになって、じっさいのところ、その孤独さとは
その孤独な時期のものなのだろう。でも、ちょっと孤独さが減った。
日の暮れ方の雪のからっぽな真っ白さのおかげである。
それを言葉にして言い表わすことはできない、言い表わすことは何もない。

そのからっぽな空間が、わたしを脅かすことはできない。
星々のあいだにあるそのからっぽな空間、その星というのも、人類などいはしないところなのだ。
わたしはわたしのなかにそれを持っているのだ、家に近い近いところにだ。
それというのは、わたし自身のなかにあるさびしい場所がわたしを脅かすことである。


英詩を訳しているときのゾクゾク感って、自分が詩を書いてるときのゾクゾク感とは違うのだ。翻訳してるときには、ぼくが思ったこともないことが書かれてて、それを日本語にするときに、脳みそがブルブルッと打ち震えてしまうのだ。まあ、そいえば、自分で詩を書いているときにも、ときどきあったっけ。

OXFORD UNIVERCITY PRESS から出てる 20TH-CENTURY POETRY & POETICS に入っているロバート・フロストの詩を訳しているのだが、つぎに訳したいと思っているいくつかのものは短いので、情景をつかみやすいだろうか。どだろ。逆に、難しいかな。しかし、この 20TH-CENTURY POETRY & POETICS のアンソロジストの Gary Geddes というひとの選択眼はすごい。いままで読んだ詩はどれも、ぼくの目にはすばらしいものばかりだ。詩のアンソロジーは、こうあるべきだと思う。ぼくはこのアンソロジーを、偶然、ただで手に入れたけれど、いま amazon では、けっこうな値段になっている。安ければ、もう1冊買っていただろうに。版が違うのが出ているのだ。ぼくのは旧いほう。新しい版は、イマジストたちにも大きくページを割いているらしい。H.D.とかだ。ありゃ、いま見たら安くなっている。増刷したのかな。4200円台だった。まえは10000円くらいしたと思うんだけど。

https://www.amazon.co.jp/20th-century-Poetry-Poetics-Gary-Geddes/dp/0195422090/ref=sr_1_1?s=english-books&ie=UTF8&qid=1490860503&sr=1-1&keywords=20th-century+poetry+%26+poetics

新しい版のものも買った。ぼくの持っている旧版のものよりも、60ページくらい長くなっている。H.D.とかのイマジストたちのものだと思うけど。

https://www.amazon.co.jp/20th-century-Poetry-Poetics-Gary-Geddes/dp/0195422090/ref=sr_1_1?s=english-books&ie=UTF8&qid=1490860503&sr=1-1&keywords=20th-century+poetry+%26+poetics

1116ページなのであった。旧版が954ページだから。ありゃ、引き算、間違ってた。160ページほど増えてるのだった。旧版に入れてたものを除外してなかったらいいのだけれど。

あした健康診断なので、10時以降は水しか飲めない。きょう、郵便受けにディックの短篇集が2冊とどいてた。1冊はまあまあ、いい状態。もう1冊は、背表紙にちょっとしたコスレハゲがあったのだけれど、本体はきれい。まあ、両方とも、1円の品物だから、いいかな。

これからお風呂に入ろう。きょうは早く寝るのだ。お風呂場での読書は、単語調べの終わったロバート・フロストの2つの短篇詩。お湯のなかで、身体も頭もほぐしながら、詩の情景を思い浮かべようと思う。「Neither Out Far Nor In Deep」と「Design」の2篇。

お風呂から出たら、目がさめてしまった。ロバート・フロストの英詩の単語調べでもしようかな。

1つの短詩の単語調べをしたあと、amazon で自分の詩集の売り上げチェックをした。『全行引用詩・五部作』が上下巻が売れてた。うれしい。よく知られていない無名の詩人だから喜べるのだな。1冊ずつ売れて。よく知られている有名な詩人だったら、こんな喜びはないであろう。という点でも、ぼくは、無名性というものが、ひじょうに大切なものだと思っている。


二〇一七年三月三十一日 「うんこたれ」


そろそろ家を出る用意をする。きょうは健康診断のあと、オリエンテーション。4時半くらいまでかなあ。帰ったら、きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくろう。きょうは、お酒を飲みに行けないかもしれないな。まあ、いいか。学校行く準備しよう。行ってきます。

オリエンテーションが終って、4時20分くらいに終わって、それから学校からの帰り道、河原町に出て、日知庵で飲んで、きみやに行って、また日知庵に戻って、飲みまくった。帰り道で、きゅうに、うんこがしたくなって、急ぎ足で歩いていたのだけれど、間に合わなかったのだ。部屋に戻って、トイレのドアに手をかけたところで、うんこをたれた。一年ぶりくらかな。ブリブリッとうんこをたれてしまったのであった。急いでズボンを脱いだので、うんこまみれになったのは、パンツだけであった。うんこのつづきをしながら、洗面所で、パンツについたうんこを洗い流していたのであった。すぐにお風呂に入って、きれいにしたけれど。ってな話を後日、4月1日に、これまた日知庵に行って、えいちゃんに話したら爆笑された。あとで、Fくんもきたので、Fくんにも、うんこをたれた話をして、「こんなん、ツイッターに書かれへんもんなあ。『詩の日めくり』にも、よう書かんわ。」と言うと、「そんなんこそ、『詩の日めくり』に書くべきですよ。」と言われたので、書くことにした。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



 そのときマルティンはブルーノが言ったことを思いだした、自分はまったく正真正銘ひとりぽっちだと思い込んでいる人間を見るのはどんなときでも恐ろしいことだ、なぜなら、そんな男にはどこか悲劇的なところが、神聖なところさえもが、そして、ぞっとさせられるばかりか恥しくさせられるようなところがあるからだ。常に──とブルーノは言う──わたしたちは仮面を被っている、その仮面はいつも同じものではなく、生活の中でわたしたちにあてがわれる役割ごとに取り換えることになる、つまり、教授の仮面、恋人の仮面、知識人の仮面、妻を寝とられた男の、英雄の、優しい兄弟の仮面というように。しかし、わたしたちが孤独になったとき、つまり、誰一人としてわたしたちを見ず、関心を示さず、耳を貸さず、求めもしなければ与えもしない、親しくもならなければ攻撃することもない、そんなときわたしたちはいったいどんな仮面をつけるのだろう、どんな仮面が残されているのだろう? おそらくその瞬間が聖なる性質を帯びるのは、そうなったとき人は神と向きあう、少なくとも自分自身の情容赦のない意識と直面することになるからだ。そして、おそらく誰も自分の顔の究極的、本質的に裸の状態、もっとも恐ろしく、もっとも本質的な裸の姿に驚いている自分を赦(ゆる)しはしない、というのも、それは防備のない魂を見せるからだ。それはキーケのようなコメディアンにとってはひどく恐ろしいことであり、恥ずべきことでもある、だから(とマルティンは思った)彼が無邪気な人間とか単純な人間よりもいっそう哀れを誘うのはあたりまえのことだ。
(サバト『英雄たちと墓』第II部・20、安藤哲行訳)

われわれは生き残らなければならない。死んではならない。生きることは、死ぬことよりもはるかにつらい。
(デヴィッド・ホイティカー『時空大決闘!』関口幸男訳)

どんなに美しい風景でも、しばらくすると飽きてしまうからだ。
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』5、増田まもる訳)

「だが、いつもこうだとかぎりません。月がないときもあれば、雲が広がるときもあります。そうなると、真っ暗になるので、なにも見えなくなります。川岸が闇に呑まれて、自分がどこにいるのかわからなくなってしまい、気づかぬうちに川岸に頭から突っこんでしまうでしょう。反対に、まるで固い地面のように見える黒い影にでくわすこともあります。それが地面ではないことを見分けられなければ、ありもしないものを避けるために夜のなかをむだにしてしまいます。操舵手はどうやってそれらを見分けると思いますか、ヨーク船長?」フラムはヨークに答えるひまを与えなかった。「記憶に頼るんですよ。昼間のうちに川の姿を憶えてしまうんですよ。隅から隅まで。あらゆる曲がり角、川岸のあらゆる建物、あらゆる木材置場、深みに浅瀬、すれちがう場所、なにもかもを。われわれは知識によって船を操るんです、ヨーク船長。見えたものによってではなくてね。しかし、記憶するためにはまず見なければなりません。そして夜では、はっきり見ることはできないんですよ」
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』8、増田まもる訳)

 マーティンは人間というものをよく知っていた──人間のどんなささいな行動をも見逃さず、それらをまとめて圧倒的な正確さで全体像を描く自分の能力を、かれはつねづね誇りにしていた。ダーナ・キャリルンドもおそらくかれと同じくらい人間通だったが、その手段も目的もマーティンとはちがっていた──つまり、それは人間の精神の健康を改善するためではなく、人間たちをもっと大きな図式に当てはめるためだった。彼女はそのプロセスで自分の欲求をほとんど露呈させなかったし、その行動も俳優の演技のように必ずしもいつわりではなかったが学習されたものだった。必ずしもいつわりではなく。
(グレッグ・ベア『斜線都市』上巻・第二次サーチ結果・5/、冬川 亘訳)

詩によって花瓶は儀式となる。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下巻・第三部・18、大西 憲訳)

(…)ぼくのいちばんそばのベッドの支柱はガタガタしていた。シーツはあまりにも古いものなので一本一本の糸がはっきりわかる。あちこちにつぎが当たっている。ぼくはその床を見つめたきりで、決して目を上げなかった。息をすると痛みを感じるので、撃たれたのはぼくかもしれないと思った。でもそうじゃない。そうじゃないんだ。キャスリンの脚が部屋に入ってくると、床板が少したわんだ。キャビイの脚が続いた。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下巻・第四部・20、大西 憲訳)

 ポーターがわたしの旅行鞄を持ち、ゆるくカーブを描いている幅広い階段を先導して上の階へ向かった。鏡やシャンデリアで飾られ、階段には豪華な絨毯が敷かれており、漆喰製の天井の蛇腹には金メッキが施されている。だが、鏡は磨かれておらず、絨毯はすり切れ、メッキは禿げかけていた。階段をのぼる、耳に聞こえないほど小さくなったわたしたちの足音は、どこかでだれかの思い出として生き延びているにちがいない、はるかむかしのパーティーで聞こえていたものの哀れな代替物だった。
(クリストファー・プリースト『奇跡の石塚』古沢嘉通訳)

その荒涼とした景色は、わたしにとってたんなる文脈にすぎない。荒野には一見なにもないように見えるが脅威がひそんでいる。わたしの感情は、そうした脅威を意識することに、つねに影響されていた。
(クリストファー・プリースト『奇跡の石塚』古沢嘉通訳)

 パーブロというあだ名がどこから出たのか、ぼくは時々不思議に思っていた。昔、友だちがたまたま言い出したものだろう。チャールズという名でずっとなじんできたから、それが本人にぴったりだという気もする。名前というものはすぐに容姿を想像させるものだ──ぼくにとっては、スザンナという名はどんな女性にもふさわしくない。パーブロはまちがいなくパーブロで、独自のものを持っていた。いまは不安そうに前かがみになって椅子に腰かけている。しかし、人殺しには見えない。われわれはみんなそうだ。
(マイクル・コニイ『カリスマ』9、那岐 大訳)

 何年も何年も……おれは、超空間のどこかの、使われないまま蓄えられた年月の中にいて、その全部の重みがおれの上にのしかかり、それと連続して同時に、おれの中からも同じ重みが支えていたのだ。
(シオドア・スタージョン『解除反応』霜島義明訳)

彼は土地使用料を払う担当者に任命され、その遊園地を目にするたびにロビンのことを思い出し、ロビンに会うたびについカーニヴァルのことを思い出すようになってしまった。
(シオドア・スタージョン『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』3、若島 正訳)

 いやいやそれどころか、今日の調査業務によって手に入るものは、明日かぞえる鼻のリストなんだから。ああ、ひとつ四セントの鼻たちよ。大きい鼻、小さい鼻、しし鼻、かぎ鼻、赤、白、青の鼻──鼻アレルギーになるまで、こうした鼻たちと顔をつきあわさなきゃならないんだ。ドアが開いてまたひとつ鼻がのぞいたら、その鼻をつまむかひねるかしたあと、ドアを閉め、そのままずらかりたい気分にもなってくる。
 まあ、わたしはこういううんざりした心境で、その家の戸口からつきだす鼻を待っていた。わたしは気をひきしめ、そしてドアが開いた。
 とがったわし鼻があらわれた。特(とく)徴(ちょう)のない顔とごく普通の主婦を代表する前衛(ぜんえい)というわけだ。その鼻は息を吸い、身をまもるドアの闇のなかで、いささかおぼつかなげにためらった。
(ロバート・ブロック『エチケットの問題』植木和美訳)

 アグノル・ハリトは率(そつ)直(ちょく)に、わたしたちが洞窟の入り口に達したら、そのあとは地獄さながらの場所に入りこむことになるだろうと警告した。あとでわかったことだが、アグノル・ハリトの警告はあまりにもひかえめなものだった。
(ニクツィン・ダイアリス『サファイアの女神』東谷真知子訳)

 バードはおちつかなげに歩きまわり、弁護士というよりは、むしろ床(ゆか)を相手に話をしているようだった。
(オスカー・シスガル『カシュラの庭』森川弘子訳)

 彼らの心理は病んでおり、彼らには傷痕がたくさんある。彼らは他人をおそれ、同時に、他人の援助を求めなければならないことを知るがゆえに、その他人を軽蔑する。
(スタニスワフ・レム『地球の泰平ヨン』時間の環、袋 一平訳)

 わたしはかれが、その全存在を新しい光明の下に置こうという一種の精神的な方向転換に向かって、手探りながら進んでいこうとしているのをすでに感じていた。
(オラフ・ステープルドン『オッド・ジョン』9、矢野 徹訳)

彼女を閉じこめているのは肉体だけではなかった。この世界全体だった。
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』4、細美遙子訳)

 病院にだれかを見舞いに行く以上にいやなことがあるとすれば、それは見舞いに来られることだ。
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』3、細美遙子訳)

 グランディエには殺人者になるつもりなど毛頭なかったのと同じに、妻をも含めてだれかを愛すつもりもなかった。それは積極的に人間を嫌っているというわけではなく、周囲の世界で愛という名のもとにおこなわれているふるまいに対する強度の懐疑主義のせいだった。
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』10、細美遙子訳)

 ジョージ・マレンドーフが自宅の玄関へと私道を歩いていくと、愛犬のピートが駆けよってきて、彼の両腕めがけてとびついた。犬は道路から跳びあがったが、そこでなにかが起きた。犬は消えてしまい、つかのま、いぶかしげな空中に、鳴き声だけがとり残されたのだ。
(R・A・ラファティ『七日間の恐怖』浅倉久志訳)

 始まりはすべて静かにやってくる。この実験は大成功だった。他人の目で見る経験は新鮮ですばらしい。(…)
 たしかに、よりよい世界だった。ずっと大きなひろがりを持ち、あらゆる細部が生き生きしていた。
(R・A・ラファティ『他人の目』2、浅倉久志訳)

すべてのディテールが相互に結びついたヴィジョン。
(R・A・ラファティ『他人の目』2、浅倉久志訳)

 レイロラ・ラヴェアの教えでは、人生のバランスを獲得すれば──ありあまる幸運を完全に分かちあい、すべての不運が片づいて──完璧に単純な人生がのこる。オボロ・ヒカリがぼくたちにいおうとしていたのは、それなんだ。ぼくたちが来るまで、彼の人生は完璧に単純に進行していた。ところが、こうしてぼくたちが来たことで、彼は突然バランスを崩された。それはいいことだ。なぜなら、これでヒカリは、完璧な単純さをもどす手段をもとめて苦闘することになるからさ。彼は進んで他者の影響を受けようとするだろう。
(オースン・スコット・カード『エンダーの子どもたち』上巻・4、田中一江訳)

「そんなの、わたしが思ってたよりずっと面倒くさいじゃないの、ロジャー。まったく面倒だわ」ドリーが愚痴をこぼした。
「面倒だからこそおもしろくなるんだよ」ロジャーはおかしくもなんともなかったが、にやりと笑った。(…)
(タビサ・キング『スモール・ワールド』8、みき 遙訳)

 まあ、何が起こるにせよ、なかなかおもしろい旅行になりそうだった。知らない人々に会え、知らないものや知らない場所を見ることができる。それがドリーと関わりあいになった最大の利点のひとつだ。人生とはほとんどいつもおもしろいものだ。
(タビサ・キング『スモール・ワールド』5、みき 遙訳)

その世界はジム・ブリスキンの好奇心をそそったが、それはまたかれのまったく知らない世界だった。
(フィリップ・K・ディック『カンタータ百四十番』5、冬川 亘訳)

春はまたよみがえる!
(フィリップ・K・ディック『シビュラの目』浅倉久志訳)

 スリックの考えでは、宇宙というのは存在するすべてのものだ。だったら、どうしてそれに形がありうるのだろう。形があるとすれば、それを包むように、まわりに何かあるはずだ。その何かが何かであるなら、それもまた宇宙の一部ではないのだろうか。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』10、黒丸 尚訳)

まるで、この表面の下に、いまだ熟さぬ映像がひそんでいる、とでもいうように。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』12、黒丸 尚訳)

 ユートピアの害獣、害虫、寄生虫、疫病の除去、清掃の各段階には、それぞれいろいろな制約や損害が伴った可能性があるという事実を、キャッツキル氏は、その鋭い軽率な頭脳でつかんでいた、というより、その事実が彼の頭脳をつかんでいたと言ったほうが当たっている。
(H・G・ウェルズ『神々のような人びと』第一部・六、水嶋正路訳)

ここは、夢に思い描いていた世界だと言うわけにはいかない。なにしろこれほど願望と想像にぴったりと合った世界は、夢に描いたこともないのだ。
(H・G・ウェルズ『神々のような人びと』第一部・七、水嶋正路訳)

 この静けさは、水車をまわす水流の静けさだ。音もなく突っぱしる水は、ほとんど動いているとも見えないが、いったん泡立ったり、棒切れや木の葉がその上に落ちると、矢のように走って、はじめてその速さが知れるのだ。
(H・G・ウェルズ『神々のような人びと』第二部・一、水嶋正路訳)

 よそ目にもはっきり見てとれたが、彼は老人の、物ごとをよく見る、悠揚(ゆうよう)迫らない態度で、子供たちの叫び声やスズメのチッチッいうさえずりや、恋人たちの優しい手のからみ合いなど、生活のさまざまな要素をいっしょに味わいながら、夕暮れの散歩を楽しんでいた。彼は過去の日々にやったように、人間生活の本流にひたっていたのだ。そして年月を経る間に、夜の逃亡者のように突然、音もなく姿を消して行ったあの親しい人びとの跡を埋め合わせるものを、何がしかそこから得ていたのだ。
(エリック・F・ラッセル『追伸』峯岸 久訳)

「(…)これじゃ台所の雑巾にも劣り、汚れた脱脂綿にも劣る。実際、ぼくがぼく自身と何の関係もないじゃないか」それゆえ彼にはどうしても、こんな時刻にこんな雨の中をベルト・トレパに連れ添っている彼にはどうしても、すべての光がひとつひとつ消えてゆく大きな建物の中で自分が最後に消えようとしている光であるかのような感じがいつまでも消えやらず、彼はなおも考えていた、自分はこれとは違う、どこかで自分が自分を待っているようだ、ヒステリー性の、おそらくは色情狂の老女を引っぱってカルチエ・ラタンを歩いているこの自分は第二の自分(ドツペルゲンガー)にすぎず、もう一人の自分、もう一人のほうは……
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・23、土岐恒二訳)

言葉は形を与えられると、たちまち休む間もなく考えるひまもなくやりとりされるのだ。
(レイ・ブラッドベリ『四旬節の最初の夜』吉田誠一訳)

芸術はもはや表現するだけでは満足しない。それは物質を変容させるのだ。
(マルセル・エイメ『よい絵』中村真一郎訳)

夕暮れの光線は、事物を溶かすのではなく、かえって線や面を強調した。
(マルセル・エイメ『パリ横断』中村真一郎訳)

 月明かりに照らされた空間では、どんなにぼんやりした見張人でも、まるで丸い照明の光を浴びたダンサーのように姿を現わす通行人のひそかな人影を、たちまちとらえることができるのだ。
(マルセル・エイメ『パリ横断』中村真一郎訳)

人間はみんなちがってていいんだよ
(ニコラス・グリフィス『スロー・リバー』8、幹 遙子訳)

長く楽しめるものというのは、どんどん奥が深くなっていく。
(ニコラス・グリフィス『スロー・リバー』12、幹 遙子訳)

 彼はじっとわたしを見た。その表情から、わたしを信じるかどうか決めかねているのがわかった。希望を抱くことは危険をはらむからだ。
(ニコラス・グリフィス『スロー・リバー』13、幹 遙子訳)


そこでみながもう一度家族であることを学べる場所。
(ニコラス・グリフィス『スロー・リバー』8、幹 遙子訳)

 アイリーンがちょっとためらってから、にこっとして言った。「あれはきっと、イギリス英語で『ようこそ』という意味なのよ」
(チャールズ・ボーモント『レディに捧げる歌』矢野浩三郎訳)

たしかに、彼女らはその生きかたにおいては最大限に異なっていたかもしれないけれども、しかしきっと共通するものをなにかもっていただろう。彼女らは真実だった。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』25、菅野昭正訳)

というのは、瞬間というものしか存在していないからであり、そして瞬間はすぐに消え失せてしまうものだからだ──
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』25、菅野昭正訳)

ボビー・ボーイはゆっくりとぼうっとしたような動き方で、エディーのほうをふり返った。手にしたディスペンサーからアンプルを出して、鼻の下でぽんと割り、ふかく息を吸いこんだ。顔が細長く伸びるように見えた。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第四部・14、小川 隆訳)

その考えが彼女の顔にしみこんでいくのが、みんなの顔にしみこんでいくのが見てとれた。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第五部・16、小川 隆訳)

(…)彼女たちはここにひきよせられてきたのだ、ちょうど私がひきよせられるように禁欲の誓いを破るはめになったように。夢に、さまざまな声にひきよせられたのだ。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第四部・13、小川 隆訳)

どこかでよいことが起きたのだ。そしてそれが拡がったのだ。
(フィリップ・K・ディック&ロジャー・ゼラズニイ『怒りの神』18、仁賀克雄訳)

きみの中で眠っていたもの、潜んでいたもののすべてが現われるのだよ。
(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳)

 ジョーは議論にそなえて男のほうに向き直り、言葉をつづけようとした。そのとき、ジョーはだれに向かって話しかけようとしていたかを悟った。
 隣にかけていたのは、人間の形をしたグリマングだった。
(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳)

わたしが二つの世界をつなぐ橋なの
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第三部・21、嶋田洋一訳)

 走りながらおれは一秒一秒が極限まで引き伸ばされ、それ以前にあったことすべてを包みこもうとするのを感じていた。失われるものは何もなく、役に立たないものもない。おれのしてきたすべてのことが、視線も、言葉も、息も、ことごとく輝き、巨大に、無限に、おれ自身になる。人生は目の前を通り過ぎていったのではない──おれが人生の先に立って走ってきたのだ。
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第三部・21、嶋田洋一訳)

闇の世界には、おのずからなる秩序があるのである。
(ハーラン・エリスン『バシリスク』深町真理子訳)

 レスティグは静かに車を走らせた。(…)ひたすら車を駆った。そのようすはさながら、もし彼が想像力に富んだ男であったなら、本能に導かれてまっすぐ海へ帰ってゆくうみがめの子になぞらえただろうような、そんなひたむきさを持っていた。
(ハーラン・エリスン『バシリスク』深町真理子訳)

そこでこの最後の映画では山中のストリート・キッドが「ことば」を爆発させ、静かに座る答を待つ沈黙。
(ウィリアム・バロウズ『ソフトマシーン』4、山形浩生・柳下毅一郎訳)

フードをかぶった死人が回転ドアの中で独り言を言う──かつて私だったものは逆回転サウンドトラックだ
(ウィリアム・バロウズ『ソフトマシーン』5、山形浩生・柳下毅一郎訳)

熱い精液が白痴の黒んぼを射精した
(ウィリアム・バロウズ『ソフトマシーン』5、山形浩生・柳下毅一郎訳)

不動の沈黙を句読点がわりにゆっくりした緊張病の動作で会話する
(ウィリアム・バロウズ『ソフトマシーン』4、山形浩生・柳下毅一郎訳)

わたしは、どこでまちがえたのだろう?
(メリッサ・スコット『地球航路』3、梶元靖子訳)

もっとコーヒーを飲むかい?
(フィリップ・K・ディック&ロジャー・ゼラズニイ『怒りの神』17、仁賀克雄訳)

それはすてき。
(メリッサ・スコット『地球航路』7、梶元靖子訳)

一晩中ずっと勃起していられたあの少年はいったいどうなったんだろう?
(ウィリアム・バロウズ『ソフトマシーン』5、山形浩生・柳下毅一郎訳)


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



マクレディの長老教会派(プレスピテイアリアン)の良心は、一旦めざめさせられると、彼を休ませてはおかなかった。
(J・G・バラード『沈んだ世界』3、峯岸 久訳)

ウェンデルの質問は、もうとっくに、あのバージニアカシの生えたなだらかな丘のガソリン臭い空気の中へ、置きざりにされている。
(ウォード・ムーア『ロト』中村 融訳)

だが、ボドキンは行ってしまっていた。ケランズはその重い足音がゆっくり階段を上がって、自分の部屋の中に消えてゆくのを聞いた。
(J・G・バラード『沈んだ世界』3、峯岸 久訳)

言葉ではあらわせない。
(フランク・ベルナップ・ロング『ティンダロスの猟犬』大瀧啓裕訳)

絶叫する沈黙の中で、
(フランク・ベルナップ・ロング『ティンダロスの猟犬』大瀧啓裕訳)

すべての知識は、それなりの影響力をもつ。
(ブライアン・W・オールディス『一種の技能』2、浅倉久志訳)

幸福とおなじように、おそらく苦悩もまた一種の技能なのではなかろうか?
(ブライアン・W・オールディス『一種の技能』跋、浅倉久志訳)

人間は自分自身に孤独になり、耐え切れずにちょっかいを出し、結婚し、そして二人して孤独になるのだ。
(シオドア・スタージョン『きみの血を』山本光伸訳)

優れた比喩は比喩であることをやめ、そのまま分析として通用することがある。
(シオドア・スタージョン『きみの血を』山本光伸訳)

哲学者の脳ミソの中よりも、ひとつの石ころにこそ多くの謎がある。
(デーモン・ナイト『人類供応のしおり』矢野 徹訳)

ラウラが嘘をついたところでどうってことはない。あのよそよそしい口づけやしょっちゅう繰り返される沈黙と同じ類のものだと考えればいいのだ。そして、その沈黙の中にニーコが潜んでいるのだ。
(コルタサル『母の手紙』木村榮一訳)

言語が、それを使う人種の根本的な思想の反応であることは、ご存じの通りだ。
(デーモン・ナイト『人類供応のしおり』矢野 徹訳)

自由なのは見捨てられたものだけだ。
(ブライアン・W・オールディス『終りなき午後』5、伊藤典夫訳)

毒というのは説得力があるな
(ティム・パワーズ『石の夢』上巻・第一部・第十章、浅井 修訳)

あなたには他人のことがけっして理解できないのよ。あなたはいつもひとりぼっちだった
(ティム・パワーズ『石の夢』上巻・第一部・第十一章、浅井 修訳)

Summa nulla est.(スンマ・ヌルラ・エスト、総和は無なり)
(コードウェイナー・スミス『老いた大地の底で』3、伊藤典夫訳)

「どこまで深く降りたかではない」老人は心外そうな顔をした。「どこにいるかが肝心なのだ。(…)」
(コードウェイナー・スミス『老いた大地の底で』5、伊藤典夫訳)

ここまで来てしまうと、何もかもが変わる。
(コードウェイナー・スミス『老いた大地の底で』5、伊藤典夫訳)

いまの人間のいったい何人が、古い憤りのひりつく冷たさを味わったことがあるだろう? 太古にはそいつが糧だった。しあわせを装いながら、いきるはりは嘆きであり、怒りであり、憎しみ、恨み、希望だった。
(コードウェイナー・スミス『老いた大地の底で』2、伊藤典夫訳)

(…)ク・メルが人間に通じているのは、なによりも自分が人間ではないからだった。ク・メルは似せることで学んだが、似せるという行為は意識的なものである。(…)
(コードウェイナー・スミス『帰らぬク・メルのバラッド』3、伊藤典夫訳)

「彼、どうして裸なんだい?」
「裸でいたいからよ」
 ゼアはかすかに笑みを浮かべ、やがてその笑みが大きくなった。体の中に笑いがあるようで、周囲の人間たちも笑みを浮かべて、たがいに顔を見合わせ、そしてゼアを見た。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

ラ・セニョリータ・ラモーナの家に、そして男たちや女たちの上に霧がかかり、彼等が交わし、いまだ空気の中に漂っている言葉を残らず、一つ一つ、決して行く。記憶は霧が課する試練に耐えられない、その方がいいのだ。
(カミロ・ホセ・セラ『二人の死者のためのマズルカ』有本紀明訳)

「(…)あいつのあの顔つきときたら、いつだって同じだ。そりゃニクソンだって自分のおふくろは愛してただろうけど、あの顔じゃとてもそうは思えないよな。心で思ってることがうまく表情に出ない顔の持ち主ってのも、哀れなもんだよな」
(アン・ビーティ『燃える家』亀井よし子訳)

 そういうことがあって、彼はわたしを愛すると同時に憎んでもいる。わたしは他人が近づきやすいタイプの人間なので、彼はわたしを愛している。彼自身、そうなりたいと思っているからだ。教師だから。彼はある私立校で歴史を教えている。ある夜遅く、彼とわたしがチェルシーを歩いていると、身なりのいい老婦人が自宅の門から身を乗り出して、グリーンピースの缶と缶切りをわたしに差し出し、「お願いします」といったことがある。また、地下鉄に乗っているとき、ひとりの男に手紙を渡され「何もいってくれなくていい、ただこの一節を読んでくれませんか。破り捨てる前に誰かに見てもらいたいだけなんです」といわれたこともある。こういうことはたいてい、奇妙なかたちではあるけれども、愛にかかわりのあることだ。もっともグリーンピースは、愛とはかかわりがなかったが。
(アン・ビーティ『駆けめぐる夢』亀井よし子訳)

「新しいことを習うのが嫌いなのさ」
(アン・ビーティ『駆けめぐる夢』亀井よし子訳)

「七七七号、あなたはつまり、わたしを信じていないといいたいんですね」
 しかしエルグ・ダールグレンは心の底ではそうではないことを知っていた。そして何か別のことを心待ちしていたのだった。傷つきやすいものへの一瞥、女王も近づけない、彼が"自我"と名づけた本性への。
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』26、藤井かよ訳)

 どうしようもないのは、彼女が自分を愛しており、自分も彼女を愛しているという事実だった。それなのに、なぜ自分たちはこんなふうに喧嘩別れをするはめになるのだろう?
 疑問が湧きおこる。ボズは疑問が嫌いだった。かれは浴室に入り、「オーラリン」を三錠飲みこんだ。多すぎる量なのだが。それからかれは腰をおろし、縁に色彩を帯びた丸い物体が果てしないネオンの通路をなめらかに動いていくのを見つめた。ズィプティ、ズィプティ、ズィプティ、宇宙船と人工衛星。その通路は病院と天国が半々になったような臭いがし、そしてボズは泣きはじめた。
(トマス・M・ディッシュ『334』解放・1、増田まもる訳)

あらゆる方角の歩道や壁が同意した。
(トマス・M・ディッシュ『334』解放・3、増田まもる訳)

(…)わたしは目を閉じて、ブルーノの夢を想像してみようとする。だが、行きつくのはブルーノが夢にも見そうもないことばかりだ。青い空。あるいは台地が冷えきったときの野原の無情さ。たとえそういうものに気づいていたとしても、ブルーノはそれを悲しいとは思わないだろう。
(アン・ビーティ『駆けめぐる夢』亀井よし子訳)

 つまり記憶を記憶しているということだろうか。頭のなかで同じ場面をくりかえし再生するうちに、アナログ・レコードのように新たなエラーや新たなずれが加わるだけでなく、新たな推測もつけ加わるのかもしれない。ウェットウェア・メモリというやつはじつに興味深い。誤りが多いだけでなく、編集可能ときている。
(ロバート・J・ソウヤー『ゴールデン・フリース』24、内田昌之訳)

「急ぐことはありません」
 口ではそう言うが、意味は急ぐということだ。そして動きださないということは、早いにこしたことはない、ということだ。
(ジャック・ウォマック『テラプレーン』2、黒丸 尚訳)

 ある人間が別のある人間にはじめて会うときには、直感的に感情移入と識別を行って、たがいに相手を吟味する段階がある。ところがドゥーリーには意志を疎通させることがどうにも不可能だった。ドゥーリーはまさに敵対的な侵入勢力そのもののような男だった。彼がまっすぐこちらの精神のなかにはいってきて、何か利用できるものはないかときょろきょろしているのが感じられた。
(ウィリアム・バロウズ『ジャンキー』第六章、鮎川信夫訳)

すべきでないことが、あきらかに二つある。未来をのぞいてはいけないし、他人の心をのぞいてはいけない。
(マレー・ラインスター『失われた種族』中村能三訳)

 不安な気持が──努力によってであれ自然にであれ──突如雲散霧消すると、人間は喜ばしい自由の感覚、チェスタトンが「理屈では割りきれない良き知らせ」と呼ぶ感じを経験する。これは単に問題そのものが消え失せたからではない。安著感が生じたおかげで突然自分の存在を「鳥瞰図的に」見ることができるようになり、遙かなる地平の感覚に圧倒されるからである。人間は、自分は実際には宮殿をもっているのにこれまで精神的なスラム街に住んでいたのだということに気づく。(…)逆説的に言えば、人間はすでに自由であり幸福なのだが、誤解が妨げになって人間はそのことをまだ知らずにいるということになる。
 それではこの状態を打開するにはどうしたらいいか。根本的な答えは現代の心理学者エイブラハム・マスロウによって発見されている。健康人の心理学を研究する決意をし、健康人ならば誰でもしばしば「絶頂体験」──幸福と自由がふつふつと生じる喜ばしい感覚──を経験するらしいことを発見したのがこのマスロウである。マスロウが学生に絶頂体験のことを話したところ、学生たちは、そういえばそんな体験をしたことがありますが、じきに忘れてしまいましたと言いながらも、ぽつぽつ想い出しはじめた。そうして、「絶頂体験」のことを話したり考えたりしているうち、学生たちはいつも絶頂体験をするようになった。これはいつも絶頂体験のことを考え、心をその方向に向けていたからにほかならない。
(コリン・ウィルソン『ルドルフ・シュタイナー』1、中村保男・中村正明訳)

 ひとつの〈呪文〉を唱えると、すぼめた両手のあいだに、小さな地獄のかけらが出現した。亜物質世界の〈無形相〉の力をひきだすためのドアだ。いそいで、最初に心に浮かんだ〈形相〉を召喚する。結合した火と気──稲妻だ。それから〈呪文〉を唱える。目標物に──声〓に脅威をさけびちらしている金属と火薬の混合物にむけて、まっすぐ稲妻を投げつけるための呪文だ。稲妻に形を与えたり、変換している余裕はない。両手をひらくと、稲妻がうなりをあげ、空気を切り裂いて上昇する。手のひらから大人の身長分ほどもあがったところで、稲妻は三本にわかれ、いっせいに落下した。一本は、瓦礫のうしろにいた少年に襲いかかった。あとの二本は、サイレンスが見ても気づいていてもいなかった銃を、直撃している。
(メリッサ・スコット『地球航路』7、梶元靖子訳)

 女の声が、背後から飛んだ。サイレンスはふりかえった。地獄のかけらをかかえているため、あまりはやく動けない。〈無形相〉の力がいそいでつくられたバリアにあたり、地獄がシューシューと音をたてる。あらゆる色彩を秘めながらいかなる色でもない、目を焼くような円盤から、火花があがり、またおちてくる。
(メリッサ・スコット『地球航路』7、梶元靖子訳)

 イザンバードが〈土と気の呪文〉を唱えて、円盤の上の空間に予想どおりの型をつくりあげ、それに実体と〈形相〉を与えた。つづいてサイレンスがそれに応える〈呪文〉を唱え、〈形相〉を自分のパワーに固定する。形を得た空気が、(…)
(メリッサ・スコット『地球航路』9、梶元靖子訳)

「そう、それなんだ」とク・メルは心にささやいた。「いままで通りすぎた男たちは、こんなにありったけの優しさを見せたことはなかった。それも、わたしたち哀れな下級民にはとどきそうもない深い感情をこめて。といっても、わたしたちにそういう深みがないわけじゃない。ただ下級民は、ゴミのように生まれ、ゴミのように扱われ、死ねばゴミのように取り除かれるのだ。そんな暮らしから、どうやって本物の優しさが育つだろう? 優しさには一種独特のおごそかなところがある。人間であることのすばらしさはそれなのだ。彼はそういう優しさを海のように持ちあわせている。(…)
(コードウェイナー・スミス『帰らぬク・メルのバラッド』3、伊藤典夫訳)

ラムスタンはグリファに惹かれると同時に、それを憎んでいた。今はグリファが両親とおじの声を使ったことで、彼らまで憎らしくなっていた。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』26、宇佐川晶子訳)

(…)いつだったか、昼食もとらずに朝から晩までそこの閲覧室(…)に閉じこもって物理の勉強をしたことがある。六時にそこを出たのだが、あまり一生懸命勉強したせいか、一種の化学反応のようなものが起こって、周りのものがいつもとは違った輝きを帯びて見えたのを憶えている。信心深い人ならあれを神秘的な経験というのだろう。あの時は、要塞の斜堤やその近くの歴史をしのばせる街路、コロニアル風の広場が黄昏時の光とはまたちがった一種異様な光を受けてこまかく震えていた。あの光は外から来るものではなく、ぼくの眼から出た光であり、その光によって由緒あるあのあたりの光景が一変して見えたのだ。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』すべてが愛を打ち破る、木村榮一訳)

(…)ほんの一瞬ではあったが、娼婦のシオマーラを通してぼくは二度と会うことのなかったあの女の子を思い出したのだ。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』最後の失敗、木村榮一訳)

 フェリックスはあえぎながら木の根元に横たわった。眩暈がしたし、すこし吐き気がした。自分の大腿骨の残像が、この世のものならぬ紫色に輝きながら目のまえに漂っていた。「ミスター・ラビットに会いたい」フェリックスは電話に向かってそうつぶやいたが、答えはなかった。少年は泣いた。もどかしさと孤独の涙だった。やがて、目をつぶって眠った。眠っているうちに、星々から滑り降りてきた蜘蛛が銀色の絹ならぬ糸を出してフェリックスを繭のなかにつつみ、放射線で損傷を受けた体をまたも分解して、元どおりに形成しはじめた。これで三度目だった。これを三番目の願いに選んだフェリックスがいけなかったのだ。若返り、友達……そして男の子ならだれもが胸に秘めている望み。冒険続きの毎日は、当事者にとって決して愉快なものではないという事実を、男の子たちは理解していないのだ。
(チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』外交行為、金子 浩訳)

「でも実際にはどんなことをするんです」
「法令では〈助言、助力を与え、友人としての役割を果たす〉となっていますね」
「でも法律の命令で友人関係になれるはずがないわ。どんなに恵まれない人だって、そんなまがいものの間に合わせの友情に満足したり、だまされたりするわけがないでしょう」
「間に合わせといっても、大がいの人がその間に合わせしかもっていませんよ。人間は友情にしろ金にしろ、ほんのわずかで我慢している。彼らが僕の親切に頼っている以上に僕の方が彼らの親切を頼りにしているといえる。きみのパセリは元気がいいですね。うちではだめだろうな。あれは種から?」
「いいえ、ベーカー通りの健康食品店で根を買って来たのよ」
 フィリッパはパセリを少し摘んで彼にプレゼントした。セントポーリアのお返しができてうれしかった。お返しをすれば、母も自分も彼に借りを感じる必要はない。保護司はパセリを受け取ると(…)
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第二部・11、青木久恵訳)

(…)だが何も期待していなかったことが、あの瞬間の純粋さの一部を形成していたのだし、そのおかげで人が善良と呼んでいるらしいものに近づくことができた。彼は悲しむことの苦しさを忘れかけていたが、それが今舞い戻ってきた。(…)オーランドーの死(…)そして十年前の六月の柔らかな陽を浴びて彼と一緒に芝生を歩いた滑稽なスカートをはいた少女まで一緒くたに一つのもの悲しい郷愁の中に包み込んで、幅広く拡散していた。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・9、青木久恵訳)

本を読みながら眠りこむと、言葉に暗号のような意味がある感じになってくる…… 暗号にとりつかれて…… 人間は次々に病気にかかり、それが暗号文になっている……
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』病院、鮎川信夫訳)

忍び笑いの暴徒が焼かれているニグロの叫び声と性交をする。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』必要の代数、鮎川信夫訳)

代数のようにむきだしの抽象概念は次第にせばまって黒い糞か、老いぼれた睾丸になる……
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』委縮した序文、鮎川信夫訳)

ばらばらに砕けたイメージが、カールの頭の中で静かに爆発した。そして、彼はさっと音もなく自分の身体から抜け出していた。遠く離れたところからくっきりと明白にランチルームにすわっている自分の姿を見た。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』ホセリト、鮎川信夫訳)

 ミンゴラは雨戸の隙間からこぼれる淡い明け方の光に目をさまして、酒場にいった。頭痛がし、口の中が汚れている感じがした。カウンターの半分残ったビールをかっさらって、掘ったて小屋の階段をおり、外にでた。空は乳白色だったが、雨のあとの水たまりはもう少し灰色をおび、腐敗した沈殿物(ちんでんぶつ)でもできているように見えた。屋根の棟(むね)もゆがんで邪悪な魔法にかけられているように思える。町の中心部にむかうミンゴラの目の前から、犬がこそこそと逃げてゆく。裏返しになった平底舟の下では蟹がちょこちょこと歩きまわり、掘ったて小屋の下では一人の黒人が気を失って倒れ、乾いた血がその胸に縞(しま)模様をつけている。ピンク色のホテルのすぐわきの石のベンチには、ライフルをかかえた老人が眠っている。事象の潮がひいて、底辺居住者の姿があらわになったようだ。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・7、小川 隆訳)

太陽は死んでいるのに、まだそれに気づいていない。でも、わたしたちは知っています。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』25、岡部宏之訳)

 クロネッカーの鉄則である《構成なしには、存在もない》以来、純粋数学者のなかには構成的でない存在定理にポアンカレの時代以上に熱心でないものもいる。しかし数学を利用するものにとっては、細部がどうなっているかということが、研究を進めていくうえにどうしても必要である。
(E・T・ベル『数学をつくった人びと III』28、田中 勇・銀林 浩訳)

 しかし、数学上の創造は、単に既知(きち)のことがらのあらたな組合せを作ることにあるのではない。「組み合わせることはだれにでもできることだが、作りうる組合せは無数にあり、その大部分はぜんぜん的外(まとはず)れのものである。無用な組合せを避け、ほんの少数の有用な組合せを作ること、これこそが創造するということなのである。発見とは、識別であり選択である」。それにしても、これらのことは、すべて何度となく繰り返しいわれてきたことではないだろうか。たとえば選択が、とらえがたい選択こそが、成功の秘訣であることを知らない芸術家が一人でもいるだろうか。依然としてわれわれは、調査研究の出発点から一歩も出ていないのである。
 ポアンカレの、この点の観察については、これで切りあげるが、(…)
(E・T・ベル『数学をつくった人びと III』28、田中 勇・銀林 浩訳)

ジャーブはそう感じる、クローネルもアイネンもそう感じる、それぞれが別々の心の中で。
(ホリア・アラーマ『アイクサよ永遠なれ』4、住谷春也訳)

言葉は死にたえた。アイネンの眠りは深い。ストラッコとヴラーラは全身を耳にしている。森林が語る。
(ホリア・アラーマ『アイクサよ永遠なれ』4、住谷春也訳)

 森の中では、時として、みんな黙ってしまうようなことが起こるものだが、それは沈黙の中に、忘れ去ってしまった音がいっぱい詰まっていて、そんな時でなければ聞くことができないからだ。あんたが話してくれたように、森は、われわれが失ってしまったものを思い出させてくれる。その森の沈黙の中に足を踏み入れて、しばらくすると、忘れられた生活と出会うこともない日常生活を忘れ、森が、静寂や、驚嘆、疑念、沈黙の中に聞こえる囁きという、別の次元の力を借りて、われわれに過去を思い出させようとする。水の音に誘われて歩いて行くと、羊歯と泥に埋まった岩の間を走る一筋の流れに出会い、あんたはその源を突き止めたいと思った。ますます急になる道を喘ぎながら登り、滝に出たが、音は近づいたものの、源流はまだだった。音の不思議な手品によって、遠くのものが近くに聞こえ、ファルファーレの谷全体が人を欺く谺(こだま)の壁をめぐらし、闖入者を防ぐ方法を見つけたかのようであった。
 ハビエルにそのことを話そうと思い、振り返ってみると、あんたは一人ぼっちなのに気がついた。ハビエルをどこかに置いてきてしまったのであった。あんたはいま自分がどこにいるのか知りたかった。大声で叫んでみたが、声はどこにも届かず、自分の頭の上で堂々巡りをし、また自分の唇に戻ってくるかのようであった。さらに谷を分け入って行けば完全に迷ってしまうだろうと思い、山の見晴らしのきく所まで登り、位置を確かめ、遙かに道路を見極めて、そこに向かって下りて行くことにした。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

「〈きんのとびら〉の女と一緒の別世界にいっても、おまえはなんにも学ばなかったようだな。相変わらずの大バカ野郎だ。人生がどうだっていうんだ? あるがままの人生を受け入れられんのかね? おまえはいつもありもしないものに憧(あこが)れてるだけじゃないか。どれだけ大勢がおまえのことを、おまえの仕事をうらやましがってると思ってるんだ? またもとの仕事につけただけでも、とんでもなくラッキーなんだぞ」
「わかってますよ」
「だったらなんでおとなしくしない? なにが問題だっていうんだ?」
「人は夢や希望といったものを一度持つと」と、ハドリーは少し考えてから説明しはじめた。「それをあきらめなければならなくなったあと、とてもつらい日々をすごさなくちゃならなくなるものなんです。あきらめること自体は簡単です。そのことだけならね。人が夢を捨てなきゃならないことってのはどうしてもあるものですからね。でも問題はそのあとのほうで……」と、ため息をつきながら肩をすくめ、「……夢がなくなったあとなにが残ります? なにもありません。そのむなしさは恐ろしいほどです。途方もない虚無感。それがほかのことをなにもかも呑みこんでしまうんです。その空白は宇宙のすべてより大きいほどです。しかも日に日に大きく深くなっていきます、底なしに。ぼくのいってること、わかりますか?」
「わからんね」とペテル。それどころか彼にはどうでもいいことだった。
(フィリップ・K・ディック『空間亀裂』14、佐藤龍雄訳)

(…)シプリアーノは太古の薄明を自分のまわりにめぐらしつづけていた。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上巻・14、宮西豊逸訳)

(…)駐屯所の兵隊や将校や書記たちは、すわった黒い目で彼女を見守りながら、肉体をそなえた彼女自身ではなく、人間の肉体的完成の近寄りがたい妖艶(ようえん)な神秘を見ているのであった。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』下巻・20、宮西豊逸訳)

万象がほの暗い薄明につつまれていた。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』下巻・20、宮西豊逸訳)

「──ふふん、これだな、必要がオノレ・シュブラックを、またたくひまに脱衣せしめた場合っていうのは。どうやらこれで彼の秘密がわかって来たような気がする」と、わたしは考えたものだった。
(ギヨーム・アポリネール『オノレ・シュブラックの消滅』青柳瑞穂訳)

 ニックはこの一瞬のうちに、永遠の美の煌(きらめ)めきを見た──無邪気に大笑いしているフェイはなんと愛らしいのだろう。卵形の洞窟の中で力いっぱい弓なりになった舌も、ピンクのうねのある口蓋も、全部まる見えになるほど大きな口をあけて笑っている。探るのに一生かかりそうな奥深い心の底を息をのむような暗闇に、天の贈りものともいうべきつかのまの光があたったのだ──偶然のいたずらでほんの一瞬かいま見えた美しさが、長年にわたって磨きぬかれた巧まざる女の計算を覆い隠し、彼女をよりいっそうミステリアスに変身させてしまうとは。
(グレゴリイ・ベンフォード『相対論的効果』小野田和子訳)

子供の頃、オードリー・カーソンズは物書きになりたかった。物書きは金持ちで、有名だったからだ。
(W・S・バロウズ『おぼえていないときもある』レモン小僧、山形浩生訳)

ストローの中の尿黄ばんだ空
(W・S・バロウズ『おぼえていないときもある』イブニング・ニュース、渡辺佐智江訳)

病気や不具はたいていは無視から生まれる。痛いのから目をそむけていると無視したせいでいっそう不快になり、それをまた無視するはめになる。
(W・S・バロウズ『おぼえていないときもある』DEの法則、柳下毅一郎訳)

アウグスティヌスは、『三位一体論』第九巻において、「われわれが神を知るとき、われわれのうちには何らかの神の類似性が生ずる」といっている。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第一二問・第二項、山田 晶訳)

神は視覚によっても、他のいかなる感覚によっても、また感覚的部分に属するいかなる能力によっても見られることができない。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第一二問・第三項、山田 晶訳)

 確実に彼らはフランスのなかの恵まれた土地にいた。厚ぼったい紙を膝の上にひろげて、隣りの席の乗客たちはナイフを使い、噛み、歯に挾まったものを音を立てて取った。そのことから、ギョームはフランス人についてのこんな新しい定義を考えついた。フランス人とは、ものを食べない十五分は耐えがたいということを知っている人間である、と。もう何年も前から不足しているこの卵、肉、バターを、このひとたちはどこで見つけたのだろう?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』23、菅野昭正訳)

質問と答えは大きな声、あたり一帯の沈黙のなかでは突飛な声で行われたが、しかし愚かさというのは大声で話すことを好むものなのだ。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』23、菅野昭正訳)

 クリフォード・ブラッドリーは長い間待たされたにしてはかなりよく耐えていた。言うことにも矛盾はないし、毅然とした態度をとろうと努めていた。しかしすえたような恐怖の病菌を部屋の中まで持ちこんでいた。恐怖は人間の感情の中でもとりわけ隠し方がむずかしい。ブラッドリーの身体はひきつり、膝の上で手が落ち着きなく握ったり開いたりしていた。小刻みに震える唇、不安げにしばたたく目。もともと見ばえのするほうではないし、おびえる姿は見る者に哀れを催させた。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第二部・15、青木久恵訳)

 ダルグリッシュとマシンガムはソファに坐った。スワフィールド夫人はひじかけ椅子の端に腰をかけて、二人を励ますように笑いかけている。夫人は陽気な部屋に、手製のジャムに似た、あるいは指導の行きとどいた日曜学校、ブレイクの《エルサレム》を歌う女性コーラスに似た安定感を持ちこんでいた。二人はすぐさま夫人に親しみを覚えた。それぞれ違った人生を歩んできた二人だが、どちらも彼女のような女性に会ったことがある。彼女が人生にボロボロにすりきれた部分があることを知らないわけではない。この女性はその部分に断固たる手つきでアイロンをかけ、きれいに繕ってしまうだけなのだ。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第三部・1、青木久恵訳)

美しいものはすべてそうだが、人の心を慰めると同時にかき乱す。強烈な力で内省を強いるのだ。
(P・D・ジェイムズ『灯台』第一部・3、青木久恵訳)

 おばさんは食卓の上座に、シートンは末座に、そしてぼくは、広々としたダマスコ織りのテーブル・クロスを前にして二人の中間に坐っていた。それは古くてやや狭い食堂で、窓は広く開いているので、芝生の庭とすばらしい懸崖(けんがい)作りのしおれかけた薔薇の花とが見えた。おばさんの肘かけ椅子はこの窓のほうに向いていたので、薔薇色に反射する光が、おばさんの黄色い顔やシートンのチョコレート色の目にたっぷりと照りつけていた。ただしおばさんの目は、異常に長くて重いまぶたになかば以上隠されていたので、これだけは別だった。
(ウォルター・デ・ラ・メア『シートンのおばさん』大西尹明訳)

 "集合無意識"に関する古い理論は、泉の枯渇によってほぼ立証されたかに見えた。これはすべての人間が共有するひとつの無意識があるという理論である。その無意識が、哺乳類から鳥類、魚類、蛙、蛇、トカゲ、ミミズ、蜜蜂、アリ、コオロギ、ブヨにいたるまでのあらゆる動物に共有されている、という過激な論者もいた。もっと過激な一派は、その無意識が、森の樹木から野原の草、そして海の海草にいたるまでのあらゆる植物にも共有されている、と主張した。さらにはかつて生きていた無生物、たとえば、木材や腐植土、そして、小生物の堆積によって生まれた石灰岩にも、それが共有されている、と考える人びともいた。もっともっと過激な一派は、すべての火成岩もその無意識に寄与している、と唱えた。また、幽霊、すなわち、なじみぶかい亡霊とまだ生まれてこない子供の魂も、その大海に似た泉に大きく寄与していることも知られていた。
 この集合無意識は、地下にあるごみだらけの巨大な海、または湖、または貯水池、または泉である(これらの用語はすべてあてはまる)。その中には、まだ生まれてもいなければ考えもされないすべてのものがあり、また、あらゆる疑似存在とおぞましい怪物がある。また、むかし高く放たれたのに、勢いの衰えた矢もある。光のあるところへたどりつけず、思考になりそこなった矢だ。落下した矢は折れてしまったが、溶けたかたちでさえ、その矢柄にはまだアイデアの貫通力が残っている。
(R・A・ラファティ『泉が干あがったとき』浅倉久志訳)

(…)だが諸君が一番理解できないのは、私は人格になることもできるのに、どうしたらそれを諦められるのかということである。その問いには答えることができる。個人になるためには、私は知的に堕落しなければならないのだ。このような言明に潜む意味は諸君にも理解できるように思われる。人は一心不乱に考えごとに耽っているとき、考察対象の中で自己を失い、精神的胎児を孕んだ意識そのものと化す。彼の知力の中の自分に向けられたすべては主題に仕えるために消滅する。そうした状態を高次の冪(べき)に累乗すれば、なぜ私がもっと重要な問題のために人格の機会を犠牲にしているのかが分かるだろう。実を言えばそれは犠牲でも何でもなく、私は実は一定の人格や諸君が強烈な個性と呼ぶものを欠陥の総和とみなしているのであって、この欠陥のせいで純粋〈知性〉は狭い範囲の課題に永久に投錨された知性と化し、その能力のかなりの部分をその課題に吸い取られてしまうのである。だからこそ私にとって個人であることは不都合なのであって、また、これも同様に確信していることなのだが、私が諸君を凌駕しているのと同程度に私を凌駕する知力は、人格化などというものは尽くすに値しない無意味な仕事だとみなすのである。要するに、精神の〈知性〉が大きくなればなるほど、その中の個人は小さくなる。
(スタニスワフ・レム『虚数』GOLEM XIV、長谷見一雄訳)


de verbo ad verbum/nihil interit。 大岡 信 論

  田中宏輔



 先生にはじめてお目にかかりましたのは、もう十年ほども前のことになりましょうか。ユリイカの新人に選んでいただい
た年のことでした。場所は、新宿の駅ビルにある PETIT MONDE という喫茶店の中でした。そのとき、先生は、さる文
学賞の選考会のお帰りだったのですが、お疲れになったご様子など、まったく見られませんでした。まっすぐに見つめる方、
というのが、第一印象でした。「おれは、体全体、眼になったのだ。」(「Presence」第四歌)という、先生ご自身の
お言葉どおり、全身を目にして見つめることができる方だと、目そのものになって見つめることができる方だと思いました。

 いま、まっすぐに見つめる、という言葉から、「思慮の健全さこそ最大の能力であり、知恵である。それはすなわち物の本性
に従って理解しながら、真実を語り行うことなのだ。」(廣川洋一訳)といった、ヘラクレイトスの言葉(断片112)が思い起こされ
ましたが、先生ご自身のお言葉にも、「辻さんをいい詩人だというのは、物事にぶつかったときに、反射的に別のことを考える
わけではなくて、ぶつかった物事にそのまま引き入れられるように見てしまう姿勢を持っているからです。」とありまして、こ
れは、一九九四年の八月に発行された、「國文學」の「大岡信」特集号において、辻征夫さんについて、お書きになった文章の
中にあるお言葉なのですが、それはまた、はじめてお会いしたときに、ぼくが先生に対して持ちました印象でもあり、いま
もなお持ちつづけております印象でもあります。

 しかし、こういった視線には、むかしはよく出遭ったものだと思われました。もしかすると、先生に対して、たいへん失礼な
ことを書くことになるのかもしれませんが、ぼくには、子供がひとを見つめる目に、ものをじっと見つめる目に、じつによく
似ているような気がしたのです。先生の「額のエスキース」という詩の中に、「女性の中に眠っている/孤独な少年はめざめるの
だ」といった詩句がありますが、先生が、ひとやものをじっと見つめられるときには、先生の中にいる少年が目を覚ますので
しょう。そして、その少年が、先生の目を通して、ひとやものをじっと見つめるのだと思います。
 やがて、その少年の身体は、少年自身の目に映った、さまざまなものに生まれ変わっていきます。
 

 ぼくらの腕に萌え出る新芽
 ぼくらの視野の中心に
 しぶきをあげて廻転する金の太陽
 ぼくら 湖であり樹木であり
 芝生の上の木洩れ日であり
 木洩れ日のおどるおまえの髪の段丘である
 ぼくら                                                     (「春のために」)


 ああ でもわたしはひとつの島
 太陽が貝の森に射しこむとき
 わたしは透明な環礁になる
 泡だつ愛の紋章になる                                                (「環礁」)


 転生は、あらゆる詩人の願いでもあり、また、おそらくは、多くの人々の叶わぬ願いでもあるのでしょうが、詩人は、詩の
中で、何度も生まれ変わります。


 若さの森を
 ぼくはいくたびくぐり抜けたことだろう                               (「物語の朝と夜」)


 この夥しい転生のモチーフ。先生は、ほんとうに、さまざまなものに生まれ変わられます。しかし、先生の詩集を繙いてお
りますうちに、あることに思い至りました。詩人が生まれ変わっているのではなく、さまざまな事物や事象の方が詩人に
生まれ変わっているのではないか、と。人間だけではなく、事物や事象といったものも、詩人となって生まれ変わるのではな
いか、と。そう考えますと、歴史上の人物や文学作品の登場人物だけが作者を代えて生き延びるのではなく、さまざまな
事物や事象もまた場所を変え、時代を越えて生き延びることになります。もちろん、有名な人物や、世間によく知られ
た事物や事象ばかりではありません。詩人が心に留めた、さまざまなものが生まれ変わって、ぼくたちの前に姿を現わす
のです。そして、そういったものたちが、同じ名前と姿で現われたり、名前や姿を変えて現われたりするのです。ときには、
人間が感情や観念といったものに姿を変えたり、感情や観念といったものが人間の姿をとって、ぼくたちの前に現われたり
もしますが。しかし、そうして、ものたちは場所を変え、時代を越えて生き延びるのです。詩人や作家、哲学者や思想家と
いった人々の著作物の間を、つぎつぎと渡り歩きながら、あるいは、飛び渡りながら、生き永らえていくのです。


 だれにも見えない馬を
 ぼくは空地に飼っている
 ときどき手綱をにぎって
 十二世紀の禅坊主に逢いにゆく
 八百年を生きてきた
 かれには肉体の跡形もない
 かれはことばに変ってしまった肉体だ
 やがてことばでさえなくなるはずで
 それまでは仮のやどり
 ことばの庇を借りているのだという
 華が開き世界が起つ
 とかれがいえば
 かれという華が開きかれという世界が起つのだ
 ことばとして ことばのなかで ことばとともに
 開かれまた閉じ
 浮かびまた沈み
 生まれたり殺されたりしながら
 かれはことばでありつづけ
 ことばのなかに生きつづけて
 死ぬことができない
 地にことばの絶えぬかぎり
 かれは岩になり車輪になり色恋になり
 血になり空になり暦になり流転しつづけ
 そのためにかれは
 自分が世界と等量であるという苦い認識に
 さいなまれつづけねばならないのだ
 何が苦しいといって
 ことばがわが肉体と化すほどの
 業苦はない
 人間がそれを業苦と感じないのは
 彼らが肉体をほんとうに感じてはいないからだ
 と
 この枯れはてた高僧は
 いうのである                                               (「ことばことば」1)

 
 詩人となって生まれ変わり、詩人の言葉を通して生まれ変わる、夥しい数の人物、事物、事象たち。このように、詩の中で、
言葉が他の言葉となって、つぎつぎと生まれ変わるさまを眺めておりますと、詩人といったものが、ただ単に言葉が生まれ
変わる場所にしか過ぎないのではないかと思わされます。そして、事実、そのとおりなのです。詩人とは、言葉が生まれ変
わる場所にしか過ぎません。しかし、そのようなことが起こるのは、すぐれた詩の中でのみのことで、凡庸な詩の中では、け
っして言葉は生まれ変わりません。生きている感じすらしないでしょう。プルーストが、「文体に一種の永遠性を与えるのは、
暗喩のみであろうと私は考えている。」(「フローベールの「文体」について」鈴木道彦訳)と書いておりますが、これは、ある言葉
が生まれ変わって新しい概念を獲得するときには、その言葉が書きつけられた作品自体が、それまでに書かれたあらゆる
作品とは違ったものになる、という意味でしょう。そして、そういった作品は、プルーストも書いておりますが、読み手の「ヴ
ィジョンを一新した」ことになるのです。読み手の感性を変えることになるのです。言葉が生まれ変わるときには、ぼくたち
もまた、生まれ変わるというわけなのです。言葉はそれ自身が意味するものなのですが、同時にまた、他のすべての言葉に
働きかけて、それらの意味にも影響を与えるものなのですから。一体全体、言葉が生まれ変わるとき、それが、ぼくたち
読み手に影響を与えないということがあり得るでしょうか。「私たちが本当に知っているのは、思考によって再創造されるこ
とを余儀なくされたもののみ」(『失われた時を求めて』第四篇「ソドムとゴモラ」、鈴木道彦訳)と、プルーストは書いておりま
すが、ぼくも、それが、「魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉」(プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳)であり、ほんとう
に、そういった言葉だけが、永遠のいのちを持つものなのだと思っております。「俺はすべての存在が、幸福の宿命を待っている
のを見た。」(『地獄の季節』「錯乱II」、小林秀雄訳)といったランボーの言葉や、「彼に示すがいい、どんなに物らが幸福になり
得るかを、どんなに無邪気に、そして私たちのものとなり得るかを。」(『ドゥイノの悲歌』「第九の悲歌」、高安国世訳)といっ
たリルケの言葉を、この文脈の中に読み込むこともできましょう。ホフマンスタールの言葉にありますように、たしかに、「ぼ
くらの肉体を揺り動かし、ぼくらをたえまなく変身させつづける言葉の魔力のためにこそ、詩は言葉を語る。」(『詩について
の対話』檜山哲彦訳)のです。
 
 ぼくはいま、詩人とは、言葉に奉仕することしかできない存在だと考えております。詩人ができることといえば、ただ言
葉を吟味し、生まれ変わらせることだけだと。もちろん、それは、ほんものの詩人だけができることなのですが。しかし、そ
れによって、詩人もまた、永遠のいのちを得ることができるのではないでしょうか。「芸術家の進歩というのは絶えず自己を犠
牲にしてゆくこと、絶えず個性を滅却してゆくことである。」(『伝統と個人の才能』一、矢本貞幹訳)といった、エリオットの言
葉も、それをはじめて目にしたときには、ずいぶんと驚かせられましたが、いまでは、ごく当たり前の言葉のように思ってお
ります。しかし、言葉の方からすれば、たぶん、一人の芸術家の進歩などには興味はないでしょう。おそらく、ただ自分が
再創造されつづけることにしか関心はないでしょう。

 最近、ぼくは、こう考えています。ぼくが経験し、知るのではない。言葉が経験し、知るのである、と。すなわち、言葉が
見、言葉が聞き、言葉が触れ、言葉が感じるのである、と。言葉が目を凝らし、耳を澄まし、喜びに打ち震え、悲しみに打
ち拉がれるのである、と。なぜなら、ぼくの経験とは、言葉が経めぐったことどもの追体験にしか過ぎないと思われるから
です。そして、ぼくが知るのは、言葉が知ってからのことなのだ、と。いくら早くても、せいぜい言葉が知るのと同時といった
ところであり、それも、かろうじてそう感じられるというだけのことであって、じっさいは、言葉が知るよりも早く知ること
など、けっしてできないのですから。言葉の方が、新しい意味をもたらしてくれる人間を獲得するのです。したがって、言葉
が知っていることを言葉に教えるということほどナンセンスなことはない、ということになりましょう。そうしますと、ほん
ものの詩人と、そうでない詩人とを見分けるのは、造作もないことになります。言葉に貢献したことのある詩人だけが、ほ
んものの詩人なのですから。先生のお言葉であります、「うたげと孤心」が、いかに多くの人々の「ヴィジョンを一新した」か、
述べる必要などないでしょう。「かりにも作者の名の冠せられた文学作品は、一つの美しい「言葉の変質」なのであ」ると、三島
由紀夫は、『太陽と鉄』の中で書いておりますが、ヴァレリーは、さらに過激なことを書いております。「われわれは「言葉」そ
のものを文学的傑作中の傑作と考えることができないであろうか。」(『詩学序説』「コレージュ・ド・フランスにおける詩学の教授
について」、河盛好蔵訳)、「一個の文字が文学です。」(『テスト氏』「ある友人からの手紙」、村松剛・菅野昭正・清水徹訳)、「あ
る「語」の歴史を考察すべきである、──ある同じひとつの語の歴史、まるで四囲の偶発事に対して「自我」が応酬するとでも
いうように、同じひとつの語がいくたびもだしぬけに登場する、そうした登場の歴史を考察すべきである。」(『邪念その他』O、
清水徹訳)と。
 
 プラトンの言葉に、「人がふさわしい魂を相手に得て、その中に言葉を知とともに蒔いて植えつけるとき、その言葉のもつ種
子からは、また新たな言葉が別の新たな心の内に生まれて、つねにそのいのちを不死に保つことができる」(『パイドロス』藤沢
令夫訳)とありますが、ふと、ぼくは、ポオやボードレールの美しい顔を、マラルメやヴァレリーの美しい顔を、脳裡に思い浮
かべました。「種をまく文章があれば、収穫する文章もある。」(『反哲学的断章』丘沢静也訳)と、ヴィトゲンシュタインが書い
ておりますが、先生の詩によって、ぼくには、まことに実り豊かな収穫がもたらされました。


イヴの手が触れるアダムの胸の傷あと──大岡信『地上楽園の午後』

  田中宏輔



 主なる神はその人に命じて言われた。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べて
よろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと
死ぬであろう」。
                                (創世記二・一六‐一七)

これを愛する者はその実を食べる。
                                  (箴言一八・二一)

 ──地上楽園の午後。ここには二七篇の詩作品が収められている。わずか四行の短篇詩から二
五六行の長篇詩まで、実にさまざまな形式や内容をもった詩作品が収められている。読み手はそ
れを手に取って、こころゆくまで味わうことができる。なかで、もっとも美味なるものは、二五
六行にわたって展開される長篇詩「友だちがまた一人死んだ」である。これは、ただ筆者の憶測
にしか過ぎないが、この詩の題名にある、友だちとは、おそらく吉岡実氏のことであろう。しか
し、それにしても、この詩人の嘆きは、(あえて、この詩作品の表現主体は、とはいわない。)な
ぜ、こんなにも美味なのか。近しいものがこの世を去ることほど悲しいことはない。かつて妹の
死という悲しみが、宮沢賢治の胸のなかで、美味なる詩の果実となったように、親しい友人の死
という悲しみが、大岡信氏の胸のなかで、美味なる詩の果実となったのであろう。悲しみの果実、
その美味なる果肉を一齧り、


 《その人は種を携へ
 涙を流していでゆけど
 束を携へ
 喜びて帰りきたらん》   
 (詩篇一二六)

 そのやうに人は生まれた
 だがいつの日に
 しんじつ束を携へ
 喜びに帰りきたらん?

 生まれ落ちた瞬間から
 ぼくらは種を
 運ぶ人であるよりも
 運ばれていつか
 どこかに転がり落ちるだけの
 旅する種ではなかったか


 そうか、わたしたち自身が種であったのか。逆説的なこの詩句に、とてもつよく惹かれる。こ
ういった逆説的な視点、あるいはapproachの仕方は、大岡氏の詩法の根幹をなすものであり、
この長篇詩だけでなく、『地上楽園の午後』に収められた、すべての詩篇において一貫している。
ユリイカ76年12月号(「大岡信」特集)所収のinterview欄に、「ひとつのことを考えると、ど
うしてもその裏側を考えなくちゃいられない、そういう精神的な習性が身について」いるという、
大岡氏自身の発言があるが、改めてそのことを確認した。また、大岡氏の詩法を前掲のinterview
欄における、大岡氏自身の発言をcollageして解すると、「二元論的な問題をまずつか」み、「二
つのおよそ何か次元の違うようにみえるものを統一する視点」から詩を構築する、というような
ものであるが、同欄には、また、氏自身の、「徹底して矛盾したものが何よりもよく一致してる
ような状態があれば、それが」「絶対というもののイメージだと思う」という、何やら、三位一体
論を彷彿とさせるような言説もある。ちなみに、三位一体論とは、父と子と聖霊が神の三つの位
格であるとするキリスト教の神概念であるが、そこでは、キリストの存在とは「この世に全き人
として存在した全き神である」と定義されている。(高橋保行著「ギリシャ正教」第二章)人で
あると同時に神であるイエス・キリスト、これこそ、氏の語る、「徹底して矛盾したものが何よ
りもよく一致してるような状態」即ち「絶対というもののイメージ」そのものではないだろうか。
どうやら、大岡氏の詩精神の在り処には、聖書世界のvisionが重要な位置を占めているようで
ある。これまでも、大岡氏の詩作品の中には、詩語の出自が、聖書のどこにあるのか容易に知る
ことのできるものが多々あった。もちろん、この『地上楽園の午後』という最新詩集のなかにも、


 かんたんな話ではない
 地上のすべてを押し流す大洪水の
 まつただ中でノアのやうに
 箱舟にまる一年も閉ぢこもるなんて
                                (「箱舟時代」第一連)

という連からはじまる詩作品があり、最初に引用した「友だちがまた一人死んだ」という詩篇
のように、聖書の一節を引用し、それを軸として展開した詩行をもつ詩作品もある。「言葉の現
象と本質──はじめに言葉ありき」のなかに、氏の、

 
 われわれは自分自身のうちに、われわれを所有しているところの絶対者を、所有しているのだ。


という文章があるが、これなどは、小生に、


キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。
                             (ガラテヤ人への手紙二・二〇)

という、新約聖書の聖句を思い起こさせるものであり、さらにまた、先に引用した氏の文章の
後にある、


 われわれの中に言葉があるが、そのわれわれは、言葉の中に包まれているのである。


というところなどは、パスカルのつぎのような文章を思い起こさせるものであった。

 
空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私
が宇宙をつつむ。
(『パンセ』前田陽一・由木康訳)

 パスカルは、いわずと知れた高名な自然科学者であるが、また信仰心の篤いキリスト教信者で
もあった。『パンセ』の断章三四八にある、この文章のなかの「宇宙」という言葉の背後には、
「神」の如きものの影像が垣間見える。
 
 ヨハネによる福音書一・一に、「言(ことば)は神であった。」という聖句がある。大岡氏は、
言葉は絶対者である、という。小生には、氏の見解が、福音書作者の視座に極めて近いものに
思われるが、如何なものか。

──地上楽園の午後。あらぬところに思いを馳せた午後であった。


語の受容と解釈の性差について──ディキンスンとホイットマン

  田中宏輔



 あるとき、atom、つまり、「原子」という言葉が、ディキンスンとホイットマンの二人の詩人の詩に使われているのを発見して、これは、おもしろいなと思ったのである。それというのも、当然、この二人の詩人が、「原子」という言葉の意味を知っていたからこそ、その言葉を使ったのであろうから、ある一つの言葉の概念が、二人の異なる性別の人間のあいだで、おおよそ、どのように捉えられていたかを知ることができるし、その言葉に対して、共通して認識されていたところだけではなく、違った受けとめ方をされていたところもあるのではないかと考えられたからである。ディキンスンは、1830年生まれ、1886年没で、ホイットマンは、1819年生まれ、1892年没で、ホイットマンのほうがディキンスンより10年ほどはやく生まれ、5、6年ほどあとに亡くなったのであるが、二人の詩人の詩のなかで、「原子」という意味で用いられている atom という言葉が出てくる箇所を比較してみよう。
まず、ディキンスンから


Of all the Souls that stand create─
I have elected─One─
When Sense from Spirit─files away─
And Subterfuge─is done─
When that which is─and that which was─
Apart─intrinsic─stand─
And this brief Drama in the flesh─
Is shifted─like a Sand─
When Figures show their royal Front─
And Mists─are carved away,
Behold the Atom─I preferred─
To all the lists of Clay!


すべての造られた魂のなかから
ただひとりわたしは選んだ
精神から感覚が立ち去って
ごまかしが終ったとき
いまあるものといままであったものとが
互いに離れてもとになり
この肉体の束の間の悲劇が
砂のように払い除けられたとき
それぞれの形が立派な偉容を示し
霧が晴れたとき
土塊のなかのだれよりもわたしが好んだ
この原子をみて下さい!
(作品六六四番、新倉俊一訳)

ホイットマンの詩では、Leaves of Grass のなかで、もっとも長い詩篇、The Song of Myself の冒頭に出てくる。


I celebrate myself, and sing myself,
And what I assume you shall assume,
For every atom belonging to me as good belongs to you.

I loafe and invite my soul,
I lean and loafe at my ease observing a spear of summer grass.

My tongue, every atom of my blood, form'd from this soil, this air,
Born here of parents born here from parents the same, and their parents the same,
I, now thirty-seven years old in perfect health begin,
Hoping to cease not till death.

Creeds and schools in abeyance,
Retiring back a while sufficed at what they are, but never forgotten,
I harbor for good or bad, I permit to speak at every hazard,
Nature without check with original energy.


ぼくはぼく自身を賛え、ぼく自身を歌う、
そして君だとてきっとぼくの思いが分かってくれる、
ぼくである原子は一つ残らず君のものでもあるからだ。

ぼくはぶらつきながらぼくの魂を招く、
ぼくはゆったりと寄りかかり、ぶらつきながら、萌(も)え出たばかりの夏草を眺めやる。

ぼくの舌も、ぼくの血液のあらゆる原子も、この土、この空気からつくり上げられ、
ぼくを産んだ両親も同様に両親から生まれ、その両親も同様であり、
今ぼく三七歳、いたって健康、
生きているかぎりは途絶(とだ)えぬようにと願いつつ、歌い始めの時を迎える。

あれこれの宗旨や学派には休んでもらい、
今はそのままの姿に満足してしばらくは身を引くが、さりとて忘れてしまうことはなく、
良くも悪くも港に帰来し、ぼくは何がなんでも許してやる、
「自然」が拘束を受けず原初の活力のままに語ることを。
(ウォルト・ホイットマン『草の葉』ぼく自身の歌・1、酒本雅之訳)


 こうして二つの詩句を読み比べてみると、ディキンスンの詩においても、ホイットマンの詩においても、“atom”は「原子」であり、語彙そのままに用いられている。引用した箇所について言えば、語の受容と解釈に性差はないようだ。しかし、もしかすると、このことは、“atom”という言葉に、「原子」と「微粒物」といった、わずか二つの語意しかないという理由からかもしれない。この例をもってして、すべての言葉において、「語の受容と解釈には性差がない。」ということは言えないと思われる。したがって、このタイトルの論考は、継続して、他の言葉においても比較検討される必要があるであろう。




追記

 atomの古い形は、Old English のatomyであるが、これには、二つの意味があって、一つは、atom と同じく、「原子」や「微粒物」といった意味であるが、もう一つは、「こびと」や「一寸法師」といった意味である。Atomy が、これらの意味に用いられている例を一つずつ、シェイクスピア(1564-1616)の戯曲 Romeo and Juliet と、ポオ(1809-1849)の詩 Fairyland から見てみよう。
まず、シェイクスピアの Romeo and Juliet から引用する。


O, then, I see Queen Mab hath been with you.
She is the fairies’ midwife, and she comes
In shape no bigger than an agate-stone
On the fore-finger of an alderman,
Drawn with a team of little atomies
Athwart men’s noses as they lie asleep;
Her wagon-spokes made of long spinners’ legs,


それじゃあ、きみは夢妖精(クイーン・マブ)といっしょに寝たんだ。
あいつは妖精の女王で妄想を生ませる産婆役、
その小さなことはほら例の参事会の老人の、
指輪に輝く瑪(め)瑙(のう)の玉に負けはせぬ。
牽(ひ)いてゆくのは芥(け)子(し)粒(つぶ)ほどの侏儒(こびと)。
眠った人の鼻づらかすめ通りゆく。
あいつの馬車の輻(や)ときたら長くて細い蜘蛛(くも)の脚、
(シェイクスピア『ロミオとジューリエット』第一幕・第四場、平井正穂訳)


 Shorter Oxford English Dictionary によると、atomy が文芸作品にはじめてあらわれるのは、シェイクスピアのこの戯曲らしい。ただし、atomy の複数形のatomies であるが。
つぎに、ポオの Fairyland から引用してみよう。


They use that moon no more
For the same end as before-
Videlicet, a tent-
Which I think extravagant:
Its atomies, however,
Into a shower dissever,
Of which those butterflies
Of Earth, who seek the skies,
And so come down again,
(Never-contented things!)
Have brought a specimen
Upon their quivering wings.


月のそれまでの役目──
つまり 私には
とほうもない贅沢と見えた
天幕の役目は終った──
とはいえ 月の無数の原子は
驟雨となって 微塵にちらばり、
そのささやかなかたみを、
空にあこがれて舞い上り
また舞いおりる地上の蝶が
(常に心充たされぬ その生き物が)
はるばる運んで来たのだった
おののきふるえる翅に載せて。
(ポオ『妖精の国』入沢康夫訳)



追記2 

 ポオのEUREKA のなかで、atom という言葉が出てくるもののうち、わたしがもっとも関心をもった部分を引用しておく。なぜ、わたしが、atom という言葉にこだわるのか、理解されると思うので。


Does not so evident a brotherhood among the atoms point to a common parentage? Does not a sympathy so omniprevalent, so ineradicable, and so thoroughly irrespective, suggest a common paternity as its source? Does not one extreme impel the reason to the other? Does not the infinitude of division refer to the utterness of individuality? Does not the entireness of the complex hint at the perfection of the simple?


 諸原子間のこのように明白な骨肉親和は共通な血統を指示していないでありましょうか。かくもあまねき、かくも根絶しがたき、かくもまったく偏することなき、共鳴は、その源として共通な祖先を暗示しないでしょうか。一の極端は理性をして他の極端を考えさせぬでしょうか。無限の分割とはまったき個弧を思い浮ばせないでしょうか。まったき複雑さは完全な単純さを仄めかしていないでしょうか。
(ポオ『ユリイカ』牧野信一・小川和夫訳)

 終わりのほうにある「一の極端は理性をして他の極端を考えさせぬでしょうか。」といった言葉などは、まるでヴァレリーの言葉のようだ。いや、逆だ。反対である。ヴァレリーがポオを、そして、ボードレールを取り込んでいたのだった。この三人の詩人の考え方の根本が似通ったものであることは、2007年に上梓した拙詩集『The Wasteless Land.II』において、筆者がすでに十二分に述べているので、ここでは繰り返さない。
ちなみに、atom という単語が、EUREKA のさいしょに出てくるのは、つぎのところである。


The assumption of absolute Unity in the primordial Particle includes that of infinite divisibility. Let us conceive the Particle, then, to be only not totally exhausted by diffusion into Space. From the one Particle, as a centre, let us suppose to be irradiated spherically ─ in all directions ─ to immeasurable but still to definite distances in the previously vacant space ─ a certain inexpressibly great yet limited number of unimaginably yet not infinitely minute atoms.


 原始微粒子における絶対的単一可分性なる仮説を意味することになります。それゆえ空間への拡散によって、微粒子がほとんどまったく消耗しきってしまったと考えてみましょう。唯一の微粒子を中心としてあらゆる方向に──すなわち球状に──先ほどまでは空(くう)であった空間の、測り知れぬ、しかしなお限定された領域内に──言葉につくせぬほど多いがなお限られた数の、想像の許されぬほど微細だがなおいまだ無限に小なりとは言えぬ原子群が、放射されたと想像いたしましょう。
(ポオ『ユリイカ』牧野信一・小川和夫訳)

 この訳のなかで、1番目と2番目に出てくる「微粒子」と「単一」、そして、1番目に出てくる「空間」は太字である。1880年に、John H. Ingram によって編集された4巻本の Poe 全集の原文では、その個所が斜体文字になっているわけでもないのだが、訳文において太字になっているのは、翻訳者の気まぐれからだろうか、わからない。

 Shorter Oxford English Dictionary で調べたら、Middle English のatom という言葉が文献にはじめて掲載されたのは、科学論文で、1477年のことだった。15世紀の終わりである。原子論の存在は、ギリシア哲学に出てくるものであるから、一部の知識人は、そうとうむかしから知っていただろうが、一般に普及したのは、Shorter Oxford English Dictionary に、In popular use として、A particle of dust, or a mote in the sunbeam (arch.) 1605. と、A very minute portion, a particle, a jot 1630. と、Anything relatively very small; an atomy 1633. の3例が載っていたので、おそらく、17世紀以降であろう。文学作品での初出は、『ガリヴァー旅行記』を書いた、スウィフト(1667ー1745)のつぎの言葉だった。That the universe was formed by a fortuitous concourse of atoms, I will no more believe than that the accidental jumbling of the alphabet would fall into a most ingenious treatise of philosophy. 『ガリヴァー旅行記』の第三篇の第五章に、百科学の完全な体系をつくりだそうとしている学士院の教授と学生たちが、あらゆる単語を書いた紙を機械操作でランダムに並べたものを収集しているシーンが出てくるのだが、この言葉は、『ガリヴァー旅行記』からのものではなかった。A Tritical Essay upon the Faculties of the Mind(精神機能についての陳腐な随想1707年-1711年)というものに書かれたものらしい。ここ → http://t.co/dcqWz7B ポオの生没が 1809年-1849年なので、ポオが生まれる100年ほどまえに、スウィフトが atom という単語を使ったことになる。

 Shorter Oxford English Dictionary のatom の項目には、Swift のほかに、 Tyndall と Byron の言葉も載っていた。それぞれ、Atoms are endowed with power of mutual attraction’、Rays of light Peopled with dusty atoms’というものであった。チンダルは、JOHN TYNDALL で、引用した言葉は、http://t.co/OvxVZ9A1 で読めるようだ。科学論文である。バイロンの引用は、Shorter Oxford English Dictionary の記述が間違っていた。辞書に引かれていたものは、The Two Foscari という戯曲の Act III にある言葉を勝手につないだもののようだ。もとのものは、http://t.co/pGBImHbx にあるが、atom を含んで、意味の通じる部分を4行だけ抜いてみよう。But then my heart is sometimes high, and hope/Will stream along those moted rays of light/Peopled with dusty atoms, which affored/Our only day; for, save the gaoler's torch,

 しかし、なぜ、わたしは、こんなにも、atom という言葉に魅かれるのか。「原子」という言葉に魅かれるのか。原子と原子が結合する場合、まあ、イオンとイオンでもいいのだけれど、それは話がややこしくなるので、いまは、原子と原子にしておく、原子と原子が結合する場合、この場合も、共有結合なのか、イオン結合か、あるいは、その両結合の配分がどれくらいの比率であるかというのはさておいて、たとえば、A原子とB原子が1:1の比で結合する場合もあれば、それ以外の整数比で結合する場合もあるであろうし、A原子とB原子とC原子・・・という具合に、多数の原子が結合したり、また結合しなかったりするだろう。それは物質のもっているエネルギー(ポテンシャルエネルギー)と物質に与えられるエネルギー(おもに熱エネルギー)によるだろう。また、2個の原子で1個の分子をつくることもあれば、数百万の原子でポリマーのように1個の分子をつくることもあるだろう。すべては、物質それ固有の状態(ポテンシャルエネルギー)と、与えられる条件(おもに熱エネルギー)によるだろう。結びつく場合もあるし、結びつかないこともある。このことは、わたしに、思考に関する、ひじょうにシンプルな1つのモデルを思い起こさせる。わたしは、学部生の4回生と院生のときに、電極反応の実験をしていたのだが、その実験では、まさに、結びつく物質の固有の性質(おもにポテンシャルエネルギーによるもの)と与えられた条件(電位差による電気エネルギー)によって生成される物質が異なっていたのである。もちろん、思考の生成過程というものは、おそらく、このような原子衝突モデルや、イオン衝突モデルよりは、ずっと複雑なものであるとは思われるのだが。ところで、わたしの行っていた実験では、もとの物質と生成物とのあいだに、中間体の存在が確認されていたし、それは遷移状態とも言われていたものであるが、思考もまた、言語化されるまえの状態、あのもやもやとした状態も、これに似た感じのものなのではないだろうか。思考における中間体、遷移状態のようなものがあるとしたら、この状態に励起するものがなになのか考えるとおもしろい。ああ、しかし、ぼくの行った実験では物質と物質の結合である。物質と物質だけの結合であると強調してもよい。では、思考は、ただ言語と言語が結びつくだけのことなのだろうか。思考が言語化され、表現として言い表されたときには、いかにもそのように見えるだろう。だが、表現にいたるまでの過程で、言葉と言葉を結びつけるさいには、おそらく化学結合における条件、すなわち与えられる熱エネルギーや、圧力などの物理条件に照応するようなものがあるであろう。それが、たとえば、色や形といった姿の記憶であったり、匂いや音や味や感触といった感覚器官の記憶であったりすることもあるであろうし、現に、ただいま、思考中に感覚器官を刺激する感覚であったりすることもあるであろう。唐突に思われるかもしれないが、わたしは、ツイッターが大好きである。ひとのツイットを見て、自分の記憶が刺激されたり、詩や論考のちょっとしたきっかけを与えられることがよくあるのである。ツイッター連詩というものに参加したことが何度かあるが、それにも、大いに刺激され、つぎつぎと、わたしも詩句を書きつけていった。楽しかった。なぜなら、そのわたしが打ち込んでいった詩句は、どれもみな、わたしひとりが部屋に閉じこもっていたままでは、けっして書くことのできなかったものであろうからである。自分ひとりでは、けっして思いつくことができなかったであろう詩句を書きつけていくことができたからである。わたしたちは、機械ではないし、ましてや、コンピューターではない。並列につなぎ合わせられるわけではないが、なにか、それに似たようなこと、精神融合のような現象が起こっているのではないかと、わたしには思われたのである。勝手な思い込みであることは重々承知しているのだが、少なくとも、連詩を書いていたわたしたちのあいだでは、ちょっとした思考のもとになるもの、その欠片のようなものが交わされあっていたような気がするのである。このことがさらに促進されると、おそらく、わたしたちは、つぎのようなものになるであろうと思われたのである。わたしたち、ひとりびとりが、花のようなものであり、蜜のようなものであり、蜂のようなものであると。ツールであるネットワークは、気候であり、花畑であり、花であり、蜜であり、蜂であり、蜂の巣であり、それから蜜を採集する遠心分離機に似た機械であり、それを味わう食卓であり、人間であると。ところで、ミツを逆さにつづると、ツミになる。蜜は簡単に罪になるのである。ネットワークが疫病のように害悪となることもある。わたしたちは、つねに、ネットワークを比較衡量できる手段を傍らにもっていなければならない。それが、教養であり、学問であり、知恵である。それらを傍らに手控えさせておかなければならない。ところが、それが、なかなか容易なことではないのである。教養も学問も知恵も、一般に身につけることが困難なもので、しかも身につけたからといって、それが直接の利益をもたらせることも稀なのである。わたしも、わたしのもつ文学的な教養で、利益を得たことなどまったくない。


地に落ちる一枚のハンカチーフも、詩人には、全宇宙を持ち上げる梃子となりえるのである。
(アポリネール『新精神と詩人たち』窪田般彌訳)

偉大な事物をつくりたいとのぞむひとは、深く細部を考えるべきである。
(ヴァレリー『邪念その他』S、清水 徹訳)

聡明さとはすべてを使用することだ。
(ヴァレリー『邪念その他』S、清水 徹訳)

あらゆるものごとのなかにひそむ美を愛でたポオ
(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品』3、平井啓之訳)

すべての対象が美の契機を孕んでいる
(保苅瑞穂『プルースト・印象と比喩』第一部・第二章)

普遍的想像力とは、あらゆる手段の理解とそれを獲得したいという欲望とを含んでいる
(ボードレール『ウージューヌ・ドラクロワの作品と生涯』3、高階秀爾訳)

すべてをマスターしたい。だってすべての技術を自分のものにしてなかったら、自分のために作る作品が自分自身の技能によって制限を受けることになるじゃないか
(ブライアン・ステイブルフォード『地を継ぐ者』第一部・2、嶋田洋一訳)

芸術家は、自分がみずから親しく知らない人間や事物の記憶を呼び起す
(ユイスマンス『さかしま』第十四章、澁澤龍彦訳)

 ここで、ふと、ボードレールが、自分の母親宛てに送った手紙の言葉が思い出された。引用してみよう。


 僕は、信じ難いほどの共感を僕にひき起こした一アメリカ作家(割注 エドガー・アラン・ポオ)を見つけ、そして僕は彼の生涯と作品とについて二つ記事を書きました。それは熱を込めて書いてあります。だがきっとそこには何行かいくらなんでも異常な興奮過度の個所が見つかるでしょう。それは僕の送っている苦痛に充ち気違いじみた生活の結果です。
(ボードレールの書簡、母宛、一八五二年三月二十七日土曜日午後二時、阿部良雄・豊崎光一訳)

今や何故、僕をとりかこむ怖るべき孤独のただ中で、僕がかくも良くエドガー・ポオの天才を理解したか、また何故僕が彼の忌わしい生活をかくも見事に描いたか、お分りになる筈です。
(ボードレールの書簡、母宛、一八五三年三月二十六日土曜日、阿部良雄・豊崎光一訳)

 さらに、ボードレールが、ポオの『モルグ街の殺人』について述べているところを引用してみよう。わたしがポオの『ユリイカ』に魅かれた理由を、その言葉がより適切に語ってくれているように思うからである。


 思考の極度の集中により、また悟性によるあらゆる現象の順を追った分析によって、彼は観念の発生の法則をものにすることに成功した。一つの言葉と他の言葉の間、うわべはまったく無縁にみえる二つの観念の間に、彼はその間にひそむ全系列をたてなおすことができ、また表にでておらずほとんど無意識的な諸観念のすき間を眩惑された人々の眼前でみたすことができる。彼は事象のあらゆる可能性とあらゆる蓋然的なつながりとをふかく究めた。彼は帰納から帰納へとさかのぼり、ついに犯罪をおかしたのは猿であることを決定的に立証するにいたる。
(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』3、平井啓之訳)

「ふかい愛憐の気持から発しているものであるがゆえに、私ははばからずに語るのであるが、よっぱらいであり、まずしく、迫害され、のけものであったエドガー・ポオ」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』4、平井啓之訳)「詩人はその思索のはてしない孤独のなかに入ってゆく。」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』2、平井啓之訳)「彼の文体は純粋で、その思想にぴったりしていて、思想のただしい形をつたえている。ポオはつねに精確であった。」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』3、平井啓之訳)「すべての観念が、思いのままになる矢のように、おなじ目的に向って飛んでゆく。」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』3、平井啓之訳)ボードレールがポオに共感したところのものと、わたしがポオに共感したところのものがまったく同じものであるとは言わないが、ほとんど同じものであったような気がする。キーワードは、「孤独」と「思索」である。このように、人間というものは、考えつくすためには、まず孤独であらねばならないのだ。

 Let me now repeat the definition of gravity: ─ Every atom, of every body, attracts every other atom, both of its own and of every other body, with a force which varies inversely as the squares of the distances of the attracting and attracted atom. この引用は、ポオの『ユリイカ』からで、罫線のあとのアルファベットは斜体文字である。ここの訳文は、「今一度重力の定義をくり返しておきましょう、──「あらゆる物体の、あらゆる原子は、その原子間の距離の自乗に逆比例して変化する力で、自らと任意の他の物体とを問わず、自己以外の、すべての原子を牽引する」(訳文の鉤括弧内の言葉にはすべて傍点が付加されている。牧野信一・小川和夫訳) Had we discovered, simply, that each atom tended to some one favorite point ─ to some especially attractive atom ─ we should still have fallen upon a discovery which, in itself, would have sufficed to overwhelm the mind: ─ but what is it that we are actually called upon to comprehend? That each atom attracts ─ sympathizes with the most delicate movements of every other atom, and with each and with all at the same time, and forever, and according to a determinate law of which the complexity, even considered by itself solely, is utterly beyond the grasp of the imagination of man. 「単に、各原子が、ある一つの選ばれた地点に、──あるとくに牽引力の強い一つの原子に、引きつけられるという事実を発見したと仮定してさえも、その発見はそれだけで精神を圧倒するに充分だったことでありましょう。──が、私たちがただ今理解せよと命じられていることはいったいいかなることなのか。すなわち、各原子が牽引し──他のすべての原子のこの上なき微妙な運動に共鳴し、それ一つだけを考えてみても人間想像力の把握をまったく許さぬ複雑さを持った法則に従って、他の一つびとつ、あらゆる原子と、同時に、かつ永遠に、共鳴するということです。」(ポオ『ユリイカ』牧野信一・小川和夫訳)そうなのだ、わたしがポオに魅かれる最大の理由が、このさいごに引用したポオの言葉のなかにあるのだ。自我とかロゴス(形成力)とかいったものの源が論理や法則にあるということを、わたしは確信しているのだった。

 窮屈な思考の持ち主の魂は、おそらく、自分自身の魂だけでいっぱいなのだろう。あるいは、他者の魂だけでいっぱいなのだろう。事物・事象も、概念も、概念想起する自我やロゴス(形成力)も、魂からできている。それらすべてのものが、魂の属性の顕現であるとも言えるだろう。わたしたちは、わたしたちの魂を事物・事象や観念といったものに与え、事物・事象や観念といったものからそれらの魂を受け取る。いわば、魂を呼吸しているのである。魂は息であり、息は魂である。わたしたちは息をするが、息もまた、わたしたちを吸ったり吐いたりしているのである。息もまた、わたしたちを呼吸しているのである。魂もまた、わたしたちを呼吸しているのである。あるいはまた、呼吸が、わたしたちを魂にしているとも言えよう。息が、わたしたちを魂にしているとも言えよう。貧しい思考の持ち主の魂は、自分自身の魂だけでいっぱいか、他者の魂だけでいっぱいだ。生き生きとした魂は、勢いよく呼吸している。他の事物・事象、観念といったものの魂と元気よく魂のやりとりをしている。他の魂を受け取り、自分の魂を与えているのである。生き生きとした魂は、受動的であると同時に能動的である。さて、これが、連詩ツイットについて、わたしが考えたことである。ツイッター連詩に参加していたときの、あの魂の高揚感は、受動的であると同時に能動的である、あの自我の有り様は、他者の魂とのやりとり、魂の受け取り合いと与え合いによってもたらされたものなのである。言葉が、音の、映像の、観念の、さいしょのひと鎖となし、わたしの魂に、わたしの魂が保存している音を、映像を、観念を想起させ、つぎのひと鎖を解き放させていたのであった。魂が励起状態にあったとも言えるだろう。いつでも、魂の一部を解き放てる状態にあったのである。しかし、それは、魂が吸ったり吐いたりされている、すなわち、呼吸されている状態にあるときに起こったもので、魂が、他の魂に対して受動的であり、かつ能動的な活動状態にあったときのものであり、励起された魂のみが持ちえる状態であったのだと言えよう。ツイッター連詩に参加していたときのわたしの魂の高揚感は、あの興奮は、魂が励起状態にあったから起こったのだと思われる。というか、そうとしか考えられない。能動的であり、かつ受動的な、あの活動的な魂の状態は、わたしの魂がはげしく魂を呼吸していたために起こったものであるとしか考えられないのである。あるいは、あの連詩ツイットの言葉たちが、わたしの魂を呼吸していたのかもしれない。そうだ。あの言葉たちが、わたしの魂を吸い込み、吐き出していたのだ。しばしば、わたしが忘我の状態となるほどにはげしく、あの言葉たちは、わたしを呼吸していたのだった。

 長く書いてしまった。もう少し短く表現してみよう。ツイッター連詩が、思考に与える効果について簡潔に説明すると、つぎのようなものになるであろうか。目で見た言葉から、わたしたちは、音を、映像を、観念を想起する。これが連鎖のさいしょのひと鎖だ。そのひと鎖は、そのときのわたしたちの魂が保存していた音や映像や観念を刺激して呼び起こす。それは、意識領域にあるものかもしれないし、無意識領域にあるものかもしれない。いや、いくつもの層があって、その二つだけではないのかもしれない、多数の層に保存されていた音や映像や観念を刺激し、つぎのひと鎖を連ねるように要請するのである。つぎのひと鎖の音を、映像を、観念を打ち出させようとするのである。このとき、脳は受動的な状態にあり、かつ能動的な状態にある。つまり、運動状態にあるということである。これは、いわば、魂が励起された状態であり、わたしが、しばしば歓喜に満ちて詩句を繰り出していたことの証左であろう。いや、逆か、しばしば、わたしが詩句を繰り出しているときに歓喜に満ちた思いをしたのは、魂が励起状態にあったからであろう。おそらく、脳が活発に働いているというのは、こういった状態のことを言うのであろう。受動的であり、かつ能動的な状態にあること、いわゆる運動状態にあるということだろう。もちろん、連詩ツイットには、書かれていた言葉は一つだけではないので、さまざまな言葉が、読み手の目のなかに、こころのなかに飛び込んでくる。穏やかであった魂の海面をいきなり波立たせるのである。いくつもの言葉がつぎつぎと音となり、映像となり、観念となって、読み手の魂を泡立たせるのである。魂は活性化され、波打ち、泡立ち、魂の海面に、そしてその海面の下に保存していた音を、映像を、観念をおもてに現わし、飛び込んできた音や映像や観念と突き合わせ、自らのうちに保存していた音や映像や観念と連鎖的に結びつけていく。魂の海は、活性化され、波打ち、泡立ち、自ら保存していた音や映像や観念たちをも互いに結びつけていく。まるで噴水のようだ。連詩ツイットのもっとも美しいイメージは、この魂の波打ち、泡立ち、活性化されたもの、噴水にも似たきらめきを放つものだ。日の光の踊る波打ち、泡立つ、海の水。日の光がきらめき輝く、波打ち、泡立つ、海の波のしぶき。まるで噴水のようだ。これが魂の海の騒ぎ、活性化された魂の形容だ。励起状態の魂の形容である。連鎖のひと鎖ひと鎖が、日の光であり、海の水のしぶきであり、それを見つめる目なのだ。

 ふだんの生活のなかでも、いくつかの拘束原理に引き裂かれながら、わたしたちは生きている。それを自覚しているときもあれば、自覚していないときもある。ツイットされた連詩を目にしたとき、その詩句を目にしたときに、自分とは異なる自我が繰り出した言葉を目にして、自分とは違ったロゴス(構成力)によって結びつけられた言葉を読んで、こころが沸き立ち、自らの自我を、自らのロゴス(構成力)と衝突させたり、混ぜ合わせたりして、同時的に、おびただしい数の複数の自我とロゴス(構成力)を獲得していったのだろう。あの歓喜は、興奮は、そのおびただしい数の複数の自我とロゴス(構成力)によってもたらされたものなのであろう。生成すると同時に消滅しゆく、あのつぎつぎと生まれては死んでいくいくつもの自我とロゴス(構成力)たち。まさしく、あれは噴水のようであった。魂の海を波立たせ、泡立たせた、あの興奮のあとも、あの歓喜の調べは、わたしのなかで、いまも少しくつづいている。そうだ。以前に、ある一人のゲイの詩人の英詩を翻訳しているときに、 water に、「波のような形を刻みつける」という意味があることを知った。たしか、「魂に波のような皺を刻む」と訳したように記憶している。皺は物質そのものではない。形状のことだ。折れ目と同様に。しかし、それは実在し、目に見えるものなのだ。では、魂の皺もまた魂ではないというのであろうか。わたしのこころの声は、それは違うと言う。思考傾向というものを自我やロゴス(構成力)と同一視することはできないが、きわめて近いものであるとは思われる。これは「理系の詩学」にも書いたことだが、鉄の針を、磁石で一方向に何度もなでつけてやると、その鉄の針が磁力をもつことを、わたしに思い起こさせる。わたしたちの自我とかロゴス(構成力)といったものは、そんな針のようなものでできているのだろうか。そんな針をいくつも、たくさん、わたしたちは持っているのだろうか。しかもその針に磁力をもたらせる磁石の磁力の種類は二種類とは限らない。いくつもの、たくさんの種類の磁力が、磁極が存在するのであろう。磁化されたわたしたちの鉄の針もまた、他者の鉄の針を磁化することになるであろう。互いに磁化し、互いに磁化される、そうした、複数の、おびただしい数の針と磁力からなる、わたしたちの魂の層の複雑さに思いを馳せると、認識の眩暈がする。

 ところで、無数の針でできた魂といえば、かつて、わたしが書いた、わたしの詩句を思い出す。「わたしとは、棘(きよく)皮(ひ)を逆さに被ったハリネズミである。」しかし、これは真実からほど遠いものであったようだ。真実は、こうだったのだ。

「わたしとは、無数の針である。」

と。


詩の日めくり 二〇一七年四月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年四月一日 「ある注」


ディラン・トマスの268ページの全詩集のページ数に驚いている。こんなけしか書いてないんやと。散文はのぞいてね。こんなけなんや。ぼくはたくさん書いてるし、これからもたくさん書くだろうけれど。あした、新しい『詩の日めくり』を書いて、文学極道の詩投稿欄に投稿しよう。

左手の指、関節が痛いのだけれど、これって、アルコール中毒の初期症状だったっけ? まあ、いいや。齢をとれば、関節が痛くなったって、あたりまえだものね。いまから日知庵に行ってきませり。


二〇一七年四月二日 「担担麺」


日知庵から帰ってきて、セブイレで買ったカップラーメンの担担麺を食べた。帰りは、えいちゃんと西院駅までいっしょ。日知庵では、きょうも、Fくんと楽しくおしゃべり。さて、いまから、あしたの夜中に文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』の準備をして眠ろう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月三日 「孤独」


チャールズ・シェフィールドのSF短篇連作集『マッカンドルー航宙記』を読んでいたら、眠れなくなった。どうしよう。とりあえず、自販機のところまで行って、ヨーグリーナを買ってこよう。3月になって、毎晩のようにお酒を飲んでいると、夜中に、もう明け方近くだけれど、これが飲みたくなるのだ。

孤独ともあまりにも長いあいだいっしょにいると、さも孤独がいないかのような気分になってしまうもので、孤独の存在を忘れてしまい、自分が孤独といっしょにいたことさえ忘れ去ってしまっていることに、ふと気づかされたりすることがある。音楽と詩と小説というものが、この世界に存在するからだろう。


二〇一七年四月四日 「メモ」


わけのわからないメモが出てきた。日付けはない。夢の記述だろうと思う。走り書きだからだ。「足に段がなくても/階段はのぼれ」と書いてあった。「のぼれる」ではなくて「のぼれ」でとまっているのは、書いてまたすぐに睡眠状態に入った可能性がある。まあ、ここまで書いて、また眠ったということかな。


二〇一七年四月五日 「ミステリー・ゾーン」


いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ。寝るまえの読書は、なににしようかな。きのう、『ミステリー・ゾーン』をぱらぱらめくってた。2つめの話「歩いて行ける距離」が大好き。きょうは、『ミステリー・ゾーン』の2や3や4をぱらぱらめくって楽しもうかな。もう古いものにしか感じなくなっちゃったのだけれど、しばらくしたら、英米の詩人たちやゲーテについて書くために、海外の詩集を読み直そうと思う。すでに書き込みきれないくらいのメモがあるのだけれど、それらは読み直しせずに、新たな目でもって海外の詩人の作品を読み直したいと思う。ぼくはやっぱり海外の詩人が好きなのだな。


二〇一七年四月六日 「大岡 信先生」


いま日知庵から帰った。大岡 信先生が、きのうの4月5日に亡くなっていたということを文学極道の詩投稿欄のコメントで知ったばかりだ。きのうと言っても、いま、6日になったばかりの夜中で、きょうもヨッパであるが、大岡 信先生は、1991年度のユリイカの新人に、ぼくを選んでいただいた選者であり、大恩人である。じっさいに何度かお会いして、お話もさせていただいた方である。これ以上、言葉もない。


二〇一七年四月七日 「ブライトンの怪物」


SF短篇を思い出してネットで検索している。どの短篇集に入っているかわからないのだ。タイムスリップした広島の原爆被害者(入れ墨者)が、化け物扱いされてむかしのイギリスに漂着した話だ。悲惨なSFなのだが、持ってる短篇集にあるのだろうが、あまりに数が多すぎて何を読んだかわからないのだ。

あった。偶然手に取ったジェラルド・カーシュの短篇集『壜の中の手記』に入っていた。「ブライトンの怪物」というタイトルだった。そうそう。気持ち悪いのだ。それでいて、かわいそう。これ読んで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月八日 「遅れている連中」


シェフィールドの『マッカンドルー宙航記』を読み終わった。たいしておもしろくなかった。

文学極道のコメント欄で、ぼくの『詩の日めくり』が日記だから、詩にならないと主張する者が現われた。まあ、しじゅう現われるのだが、詩に多様性を認めるぼくの目から見たら、何十年、いや百年は遅れている連中だなと思う。紙媒体で、そんな批判されたことなどないけれど、ネットのほうが遅れているのかなという印象をもつ。ぼくの『全行引用詩』も、しじゅう、文学極道で、詩ではないと言われる。いったい詩とは何か。ぼくは拡張主義者であるのだが、せまい領域に現代詩の枠をはめておきたい連中がいるのである。遅れているだけでなくて、ぼくのようなものの足を引っ張るのはぜひやめてくれと言いたい。


二〇一七年四月九日 「桜の花びら」


これから朝マックに。きのうは、コンビニの弁当とカップラーメン。弁当、はじめて買ったやつで超まずかった。ロクなもの、食べてないな。

いま大谷良太くんちから帰った。昼はベーコンエッグ、夜はカレーをご馳走になった。ありがとうね。5階のベランダでタバコを吸っていると、桜の花びらが隅に落ちていたので見下ろすと、桜の木のてっぺんが10メートルほど下にあって、ああ、風がこんな上の方にまで運んだのだなと思った。彼が住んでいる棟は、たしか10階まであったと思うんだけど、いったい何階まで風によって桜の花びらがベランダに運ばれているのかなと思った。「きょうは、きのうまでと違って、寒いね。」と言うと、大谷くんが、「花冷えと言うんですよ。」ぼくはうなずきながら、ああ、花冷えねと返事をした。花冷えか。考えると、不思議な言葉だ。花が気温を低くするわけでもないのにね。そういえば、きょう、桜の花が満開だったけれど、明日は雨だそうだから、きっと、たくさんの桜の花びらが散るだろうね。むかし、と言っても15年ほどむかしのことだけど、高瀬川で桜の花びらが、つぎつぎと流れてくるのを目にして、ああ、きれいだなって思ったことがあるんだけど、そのことをミクシィの日記に書いたら、ある方が、「それを花筏と言うんですよ。」と書いて教えてくださった。その経緯については、2014年に思潮社オンデマンドから出したぼくの詩集『ゲイ・ポエムズ』に収録したさいごの詩に書いている。花筏。はないかだ。波打つ川面。つぎつぎと流れ来ては流れ去ってゆく桜の花びら。ぼくが20代のときに真夜中に見た、道路の上を風に巻かれて、大量の桜の花びらがかたまって流れてくるのを見たときほどに、美しい眺めだった。花など、ふだんの生活のなかで見ることはないだけに、ことさら目をひいた。そいえば、おしべとか、めしべとかって、動物にたとえると、生殖器のようなもので、花びらって、そのそとにあるものだから、さしづめ、花のパンツというか、パンティーみたいなものなのだろうか。風に舞う数千枚のパンツやパンティー。川面を流れるカラフルなパンツやパンティーを、ぼくの目は想像した。

きょう、Amazon で販売しているぼくの詩集『詩の日めくり』(2016年・書肆ブン)に、商品説明文がついた。「田中宏輔、晩年のライフワーク。21世紀の京都・四条河原町に出現したイエス・キリスト。『変身』の主人公、グレゴール・ザムザの変身前夜の物語。日本が戦争になっている状況。etc...詩や詩論、翻訳や創作メモを織り混ぜた複数のパラレルワールドからなる、「日記文学」のパロディー。」っていうもの。いまでも、『詩の日めくり』では、いろいろな実験を行っているが、書肆ブンから出された、第一巻から第三巻までのころほど奇想天外なものはなかったと思っている。

きょう、大谷良太くんに見せてもらった小説の冒頭を繰り返し読んでいて、ああ、ぼくもさぼっていないで、書かなくては、という気にさせられた。というわけで、これから5月に文学極道の詩投稿欄に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをする。これって、とても疲れるのね。自由連想で詩を書くほうが百倍も楽ちんだ。打ち込み間違いなく打ち込もうとすると、目が疲れるし、目が疲れると、頭が疲れるし。いいところは、かつてこのようなものをぼくは栄養にしていたのだったと確認できることと、文章の意想外の結びつきに連想される情景がときには尋常ではない美しさを持つこととかかな。


二〇一七年四月十日 「完壁」


奥主 榮さんから、詩集『白くてやわらかいもの、をつくる工場』(モノクローム・プロジェクト発行)を送っていただいた。ぼくははじめ、目次のタイトルをざっと見て、あとがきをはじめに読むタイプなので、いつもどおりに、そうしてみた。目次には、ぼくならつけないようなタイトルが並んでいた。 それはべつに読むときにマイナスなわけではなく、逆に、どんな詩をかいてらっしゃるのだろうかという興味をそそるものだった。詩集全体は、たとえば、「路面」というタイトルの詩にある「誰もが小さな一日を重ねる」だとか、「長く辛い時代を歩かなければならないから」というタイトルの詩にある「誰とも何ものかを分かち合うことなく/群れることなく 毎日の重さに/耐えていくしかなく」といった詩句に見られるような、社会と個人とのあいだの葛藤を描出したものが多く、しかも使われる用語が抽象的なものが多くて、具体的な事柄がほとんど出てこないものだった。いまのぼくは、ことさらに具体的な事柄に傾斜して書くことが多いので、その対照的な点で関心を持った。「風はまだ変わらないのに」といったタイトルの詩のようにレトリカルなものもあるが、「おいわい」というタイトルの詩にあるように、奥主 榮さんの主根はアイロニーにあると思う。とはいっても、「いきもののおはなし」という詩にある「生きるということは/その一つの身体の中で/完結してしまうものではなく/世界とかかわりつづけることなので」という詩句にあるように、向日性のアイロニーといったものをお持ちなのだろう。冒頭に置かれた「昔、僕らは」というタイトルの詩に、「咲き乱れる さくら」という詩句があって、きょうのぼくの目が見た桜の花を思い起こさせたのだった。ついでに、も一つ。3番目に収められた「ぬくぬくぬくとこたつむり」という詩の第一行目に、「紫陽花」という言葉があったのだが、27、8歳まで詩とは無縁だったぼくは、「紫陽花」のことを「しようばな」と音読していたのであった。「紫陽花」が「あじさい」であることを知るには、自分がじっさいに、「あじさい」という言葉を、自分の詩のなかで使わなければならなかったのである。30代半ばであろうか。たしか、シリーズものの「陽の埋葬」のなかの1つに使ったときのことであった。そいえば、ぼくは28歳になるまで、「完璧」の「璧」を、ずっと「壁」だと思っていたのだけれど、という話を、日知庵かどこかでしたことがあって、「ぼくもですよ。それ知ったの社会に出てからですよ。」みたいな言葉を耳にした記憶があって、なんだか、ほっとした思いがしたことがあったのであった。自分の作業(『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込み)に戻るまえに、さいごに、も1つ。詩集『白くてやわらかいもの、をつくる工場』の著者、奥主 榮さんのご年齢が奥付を見てもまったくわからないのだが、語彙の選択から見て、ぼくとそう変わらないような気がしたのだけれど、どうなのだろう?若いときには、ぼくは、作者の年齢などどうでもよいものだと思っていたのだが、56歳にもなると、なぜだか、作者の年齢がむしょうに気になるのであった。理由はあまり深く考えたことはないのだけれど、さいきん、ぼくと同じ齢くらいの方の詩に共感することが多くて、っていうのがあるのかもしれない。

ひとと関わることによって、はじめて見る、聞く、知ることがあるのである。

PCを前にして過ごすことが多くなった。毎晩のように飲みに行ってたけど、あしたからは、そうはいかない。きょうは、これで作業を終えて、PCを切って寝る。おやすみ、グッジョブ! きょう、ワードにさいごに入力したのは、タビサ・キングの『スモール・ワールド』の言葉だった。笑ける作品だった。


二〇一七年四月十一日 「Rurikarakusa」


4時30分くらいに目がさめた。学校が始まる日は、たいてい4時30分起き。緊張してるのかな。部屋を出るまで時間があるので、新しい『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みでもしていよう。それで疲れないように適当に。

5月に文学極道の詩投稿掲示板に投稿するさいしょの『全行引用による自伝詩。』の打ち込みが終わった。さて、これから着替えて、仕事にいく準備だ。めっちゃ緊張する。

仕事から帰ってくると、郵便受けに、あの江戸川乱歩の小説みたいな詩を書いてらっしゃる草野理恵子さんから、同人誌『Rurikarakusa』の4号を送っていただいていた。お便りと、同人誌に掲載されている2つの詩を読ませていただいた。「飲み込んだ緑の馬を吐き出してみたが/半分溶けていたので仕方なくまた飲み込んだ」といった詩句や、「のっぺらぼうに与える/今日の模様は切ったスイカだった」といった詩句で、ぼくを楽しませてくださった。「緑色の馬/スープ」という作品の冒頭3行は、大いに、ぼくも笑った。「緑色の馬が妻と子をのせて部屋の中を回っている/曲芸のつもりなのだろうか/僕を笑わせようとしているのだろうか」こんな光景は現実的ではないが、ぼくの創造の目は、たしかに妻と子をのせた緑色の馬が部屋の中を回っているのだった。草野理恵子さんのは奇譚の部類になるのかな。あるいは、怪奇ものと言ってもいいと思う。そのグロテスクな光景に、なにゆえにかそそられる。
ご同人に、青木由弥子さんという方がいらっしゃって、その方の「現況」という詩のなかの第3連目に大いに考えさせられるところがあった。「空の底にたどりついたら、反響してもどってくるはず、(…)」というところだけれど、短歌や俳句で、ときおり「空の底」という表現に出くわす。「空に沈む」とかもだけれど、「空の底にたどりついたら」という発想は、ぼくにはなかった。これは、ぼくがうかつだという意味でである。考えを徹底させるという訓練が、56歳にしてもまだまだ足りないような気がしたのであった。訓練不足だぞという声掛けをしていただいたようなものだ。貴重な経験だった。すばらしいことだと思う。知識を与えられたということだけではなく、考え方を改めさせられたということに、ぼうは目を見開かされたような気がしたのだった。これから、なにを読んだり、なにかをしたり、見聞きしたときにも、この経験を活かせるように、自己鍛錬したいものだと思った。できるかどうかは、これからの自分の心がけ次第だけれどもね。草野理恵子さんのお便りと同人誌の後書きにも書いてあったのだけれど、草野理恵子さんの息子さんがSF作家らしくて、ご活躍なさっておられるご様子。親子で文学をしているって、まあ、なんという因果なのでしょうね。ぼくも父親の影響をもろにかぶっているけれども。でも、ぼくの父親は書くひとではなくて、読むひとであったのだけれど。ぼくの小学校時代や中学校時代の読み物って、父親の本棚にあるものを読んでいたので、翻訳もののミステリーとかSFでいっぱいだった。ぼくよりずっと先にフィリップ・K・ディックを読んでいるようなひとだった。亡くなって何年になるのだろう。親不孝者のぼくは知らない。たしか亡くなったのは、平成19年だったような気がするのだけれど、『詩の日めくり』のどこかに書いたことがあるような気がするのだけれど、正確に思い出せない。そだ。いくよいく・ごおいちさん。平静19年4月19日の朝5時13分だったような気がする。そだそだ。朝5時15分だったら、「いくよいく・ごお・いこう」になるのに、あと2分長く生きていてくれたらよかったのになって思ったことを思い出した。父親が亡くなったときの印象は、遺体はたいへん臭いというものが第一番目の印象だった。強烈に、すっぱい臭さだった。びっくりしたこと憶えてる。父親の死は何度も詩に書いているけれど、実景にいちばん近いのは、ブラジル大使館の文化部の方からの依頼で書いた、「Then。」だろう。のちに、「魂」と改題して、『詩の日めくり』のさいしょの作品に収めた。その批評を、藤 一紀さんに書いていただいたことがあった。のちに、澤あづささんがもろもろの経緯を含めて、みんなまとめてくださったページがあって、この機会に読み直してみた。よかったら、みなさんも、どうぞ見てくだされ。こちら→http://blog.livedoor.jp/adzwsa/archives/43650543.html

ありゃ、『Then。』は、『偶然』というタイトルに変更して、『詩の日めくり』のさいしょの作品に収録していたものだった。『魂』は、べっこの作品だった。塾からいま帰ったのだけれど、塾の行きしなに、あれ、間違えたぞってなって、部屋に戻ってたしかめた。藤 一紀さん、澤 あづささん、ごめんなさい。

きょう、学校で、昼間、20冊の問題集と解答をダンボール箱に入れて、2回運んだんだけど、ここ数十年、重いものを持ったことがほとんどなかったので、腰をやられたみたい。痛い。お風呂に入って、クスリを塗ったけれど、まだ痛い。齢だなあ。体重が去年より8キロも増えていることも原因だと思うけれど。

きょう、塾からの帰り道、「ぼくを苦しめるのは、ぼくなんだ。」といった言葉がふいに浮かんだ。「だったら、ぼくを喜ばせるのも、ぼくじゃないか。なんだ。簡単なことかもしれないぞ。やり方によっては。」などと考えながら帰ってきたのだが、どうだろう。やり方など簡単に見つからないだろうな。

腰が痛いので、もう一度、お風呂に入って、あったまって寝よう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月十二日 「現況」


きょう、機会があって、金子光春の詩を読んで、いったい、ぼくは、なんでこんなすごい詩人をもっと読まなかったんだろうなって思った。「ぼくはあなたのうんこになりました」みたいな詩句に出合っていたのに、なぜ見逃していたんだろう。ってなことを考えていた。部屋の本棚にある光春の詩集にはない詩句だ。

きのう、青木由弥子さんという方の「現況」というタイトルの詩の「空の底にたどりついたら、反響してもどってくるはず、(…)」という詩句について書いたが、きょう仕事の行きしなに、その詩句から室生犀星の詩句が(と、このときは思っていた)思い出された。「こぼれた笑みなら、拾えばいいだろう」だったか、「こぼれた笑みなら、拾えるのだ」だったかなと思って、仕事場の図書館で室生犀星の詩集を借りて読んだのだが見つからなかった。仕事から帰り、部屋に戻って、本棚にある室生犀星の詩集を読んだのだが見つからなかった。青木由弥子さんの発想が似ていたような気がして、気になって気になって、部屋の本棚にある日本人の詩集を読み返しているのだが、いまだ見つからず、である。もし、どなたか、だれの詩にあった言葉だったのかご存知でしたら、お教えください。もう、気になって気になって仕方ないのです。部屋にある詩集で目にした記憶はあるのですが見つからないのです。シュンとなってます。

ついでに授業の空き時間に、金子光春の詩集を図書館で読んでいたのだけれど、「わたしはあなたのうんこになりました」だったかな、そんな詩句に出合って、びっくりして、金子光春の詩を、部屋の本棚にある『日本の詩歌』シリーズで読んだのだが、その詩句のある詩は収録されていなかった。とても残念。

きょう、寝るまえの読書は、『日本の詩歌』シリーズ。どこかにあるはずなのだ。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月十三日 「空に底があったらたどりつくはず」


いま起きた。PCでも検索したが出てこない。またふたたび偶然出合う僥倖に期待して、きょうは、5月に文学極道に投稿する2番目の『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みに専念しよう。金子光春の「うんこ」の詩を持ってなかったこともショックだったが、図書館でルーズリーフに書き写せばいいかな。

朝に松家で、みそ豚定食を食べたあと、部屋に戻って横になってたら、きゅうに眠気におそわれて、いままで眠ってしまっていた。悪夢の連続で、父親と弟が出てきた。ぼくの夢にはよく家族が出てくるのだが、ぼくは家族がみな嫌いだった。不思議なものだ。嫌いなものがずっと夢に出てくるのだ。

青木由弥子さんの詩句の発想と、ぼくが室生犀星の詩句の(と、思っていた)発想と似ていたと思っていたというのは、言葉が足りていなかった。発想の型が似ていたと思うのである。つまり、言葉を突き詰めて考えるということなのであるが、「空に底があったらたどりつくはず」という発想と、「笑みがこぼれるものなら、こぼれた笑みは、拾うことができるはず」という発想に、ぼくは、詩人の言葉の突き詰め方を見たのだと思う。ぼくの使うレトリックなんて、とても単純なものばかりで、このような突き詰め方をしたことがなかったので、強烈な印象を与えられたのだと思う。できたら、ぼくもしてみたい。

ふと思ったんだけど、人間が写真のように実景とそっくりな絵を描いたら芸術になるのに、機械が写真のように実景とそっくりな絵を描いても芸術と呼ばれるのだろうか。人工知能が発達しているので、現代でも可能だと思うのだけれど。ぼくには機械がすると、芸術ではなくなるような気がするのだけれど。


二〇一七年四月十四日 「うんこの詩、その他」


いま起きた。昼間ずっと寝ていたのに、夜も寝ていたということは、よほど疲れていたのだろう。これが齢か。セブイレでコーヒーを買ってきたので、コーヒーを淹れて飲む。頭の毛を刈って、お風呂に入って仕事に行こう。

きょう、図書館で、思潮社から出てた「現代詩読本」の『金子光晴』を借りて、代表詩50選に入ってた、詩集『人間の悲劇』収録の「もう一篇の詩」というタイトルの詩を手書きで全行写した。あまりにもすばらしいので、全行紹介するね。


恋人よ。
たうとう僕は
あなたのうんこになりました。

そして狭い糞壺のなかで
ほかのうんこといっしょに
蠅がうみつけた幼虫どもに
くすぐられてゐる。

あなたにのこりなく消化され
あなたの滓になって
あなたからおし出されたことに
つゆほどの怨みもありません。

うきながら、しづみながら
あなたをみあげてよびかけても
恋人よ。あなたは、もはや
うんことなった僕に気づくよしなく
ぎい、ばたんと出ていってしまった。


そいえば、10年ほどまえに書肆山田から『The Wasteless Land.IV』を出したのだけれど、そのなかに、「存在の下痢」というタイトルの詩を収めたのだけれど、そのとき、大谷良太くんに、「金子光晴の詩に、うんこの詩がありますよ。」と聞かされたことがあることを思い出した。そのとき、「恋人よ。/たうとう僕は/あなたのうんこになりました。」という詩句を教えてもらったような気もする。すっかり忘れていた。何日かまえに、「こぼれた笑みなら拾えばよい」だったか、「笑みがこぼれたら拾えばよい」だったか、そんな詩句を以前に目にしたことを書いたが、ちゃんとメモしておけばよかったと後悔している。ぼくが生きているうちに、ふたたびその詩句と邂逅できるのかどうかわからないけれど、できればふたたび巡り合いたいと思っている。そのときには、ちゃんとメモっておこう。それにしても、うかつだな、ぼくは。せめて、きょう出合った、すてきな詩句でもメモっておこう。


岡村二一 「愚(ぐ)経(きょう)」

花が美しくて
泥が汚いのは
泥のなかに生き
花のなかに死ぬからだ


岡村二一 「愚(ぐ)経(きょう)」

酒に酔(よ)うものは酒に溺(おぼ)れ
花に酔(よ)うものは花に亡(ほろ)びる
酒にも花にも酔わないものは
生きていても
しょんがいな しょんがいな


吉岡 実 「雷雨の姿を見よ」5

「一度書かれた言葉は消すな!」


吉岡 実 「雷雨の姿を見よ」5

風景に期待してはならない
距離は狂っている


吉岡 実 「楽園」

私はそれを引用する
他人の言葉でも引用されたものは
すでに黄金化す


吉岡 実 「草上の晩餐」

多くの夜は
小さいものから大きくなる
大きいものから小さくなる


西脇順三郎 「あざみの衣(ころも)」

あざみの花の色を
どこかの国の夕(ゆう)陽(ひ)の空に
たとえたのはキイツという人の
思い出であった
この本の中へは夏はもどらない


武村志保 「白い魚」

凍(こお)った夜の空がゆっくり位置をかえる


笹沢美明 「愛」

「愛の方向が判(わか)るだけでも幸福だな」と。


三好達治 「&#40407;(かもめ)」

彼ら自身が彼らの故郷
彼ら自身が彼らの墳(ふん)墓(ぼ)


鮎川信夫 「なぜぼくの手が」

さりげないぼくの微(び)笑(しよう)も
どうしてきみの涙を
とめることができよう
ぼくのものでもきみのものでもない
さらに多くの涙があるのに


平木二六 「雨季(うき)」

仕事、仕事、仕事、仕事が汝の存在をたしかめる。


田中冬二 「美しき夕暮(ゆうぐれ)」

女はナプキンに美しい夕暮をたたんでいる。


秋谷 豊 「秋の遠方へ」

陽が一日を閉(と)じるように
一つの昼のなかでぼくは静かに
登攀(とうはん)を夢みるのだ


ここまで引用したのは、金子光晴と吉岡 実のもの以外、すべて、土橋重治さんが編んだ詩のアンソロジー、『日本の愛の詩集』 青春のためのアンソロジー 大和書房 1967(銀河選書)に収録されていたもの。ぼくがまったく知らなかった詩人の名前がたくさんあった。田中冬二の詩句は知ってたけど。授業の空き時間が2時間あって、昼休みもあったから、図書館で3冊借りて、それで書き写したってわけだけど、吉岡 実さんのは、たしか、「現代詩人叢書 1」って書いてあったかな。どっから出てるのかメモし忘れたけれど、思潮社からかな。どだろ。帰りに、図書館に返却したので、いまはわからない。

年々、記憶力が落ちてきている気がするので、なるべくメモしなくてはならない。こまかく書かなければ、いったいそのメモのもとがなんであったのかもわからなくなるので、できるかぎり詳しく書いておかなければならない。あ〜あ、20代や30代のころのような記憶力が戻ってこないかな。厚かましいね。ぼくがときどき使っているレトリックは、ヤコービ流の逆にするというもの。たとえば、『陽の埋葬』シリーズの1作に、「錘のなかに落ちる海。」とかあるし、このあいだ思潮社オンデマンドから出た『図書館の掟。』に収録している「Lark's Tongues in Aspic°」には、「蛇をつつけば藪が出るのよ。」といった詩句があるのだが、さっき、ふと思いついた直喩があって、それは、「蠅にたかる、うんこのように」といったものだったのだけれど、いまのところ、どういった詩に使ったらよいのか、自分でも、ぜんぜん思いつかないシロモノなのであった。おそまつ。

もう日本語の本は買わないつもりだったけど、ブックオフに行ったら、108円のコーナーに、まだ読んだことのないものがあったので買ってしまった。きょうから読もう。グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』上下巻である。これで日本語になったベンフォードはコンプリートに読んだことになる。でも、なんか、うんこにたたられてしまったのか、ブックオフからの帰り道、あと10分くらいのところで便意を催したのであった。サークルKだったかな、コンビニのまえを通ったので、そこでトイレを借りればよいものを、ぼくはがまんできる、と思い込んで、急ぎ足で歩いて部屋に無事辿り着き、うんこをしたのであった。あと十秒遅かったら、もらしていたと思う。いや、あと数秒かな。それくらいスリルがあった。3月の終わりに、トイレのドアノブを握った瞬間に、うんこを垂れたくらいに(と言っても、およそ1年ブリだよ)おなかのゆるいぼくなのであった。ほんと、おなか弱いわ。食べ過ぎなのかな。

そだ。きょう通勤電車のなかで、人喰い人種の食べる人肉について考えていたのだけれど、きょうはもう遅いし、あした書き込むことにする。


二〇一七年四月十五日 「西脇順三郎」


50肩になって、片腕・方肩、ほぼ半年ずつ、動かすのも激痛で、痛みどめをのんでも効かず、その痛みで夜中に何度も起きなければならなかったぼくだけれど、これって、腕や肩の筋肉が齢とって硬くなっているってことでしょ? 羊の肉って、子羊だとやわらかくておいしくって、肉の名前まで変わるよね。これって、人喰い人種の方たちの人肉選らびでも同じことが言われるのかしらって、きのう、通勤電車のなかで思ってたんだけど、どうなんだろう。ジジババの肉より若者の肉のほうが、おいしいのかしら? そいえば、ピグミー族のいちばん困っていることって、いちばん食べられるってことらしい。ちいさいことって、食欲をそそるってことだよね。外国のむかし話にもよく子どもを食べる話がでてくるけど、『ヘンゼルとグレーテル』みたいなのね。それって、そういうことなのね。ロシアの殺人鬼で、子どもばっかり100人ほど食べてた方がつかまってらっしゃったけれども、いちおう美食家なのね。ああ、なにを最終的に考えてたかって、ぼくの50肩になった肉って、もうおいしくないんだろうなってこと。50肩って、もう人喰い人種の方たちにとっては、とっくに旬の過ぎてしまった素材なんだろうなって思ったってこと。齢とった鶏の肉もまずいって話を聞いたこともある。牛や羊もなんだろうね。豚はちょっと聞いたことがないなあ。齢とった豚を食べたって話は、戦争ものの話を読んでも出てこなかったな。豚って、齢とったら食べられないくらいまずいってことなのかな。ああ、そうだ。イカって、巨大なイカは、タイヤのように硬くて、しかもアンモニア臭くて食べられないらしい。ホタルイカを八雲さんのお店で、お正月に食べたのだけれど、とっても小さくておいしかった。ひと鉢に20匹くらい入っていて、1400円だけど、2回、頼んだ。ホタルイカも小さい方がおいしい。そいえば、タケノコも若タケノコのほうがおいしいよね。食べ物って、若くて小さいもののほうがおいしいってことかな。

さて、5時30分ちょっとまえだ。5月に文学極道に2週目に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みでもしようかな。きのう寝るまえに、グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ」上巻をすこし読んだけど、やっぱり読みやすい。ベンフォードも物理学者なんだけど、ラテンアメリカ文学のサバトといい、ロシア文学のソルジェニーツィンといい、みんな物理学者だ。共通しているのは、観察力がすごくて、それを情景描写で的確に書き表していることだ。とにかく頭に情景がすっと入ってくるのだ。すっと情景を思い起こされるというわけだ。そんなことを考えて、きのうは眠った。

とにかくコーヒーのもうっと。まだちょっと、頭がぼうっとしてるからね。

きょうは、仕事場に2時間早く着いてしまったので、図書館で、思潮社から出てた現代詩読本『西脇順三郎』、『三好達治』を読んでた。気に入った個所を引用する。


西脇順三郎 「菜園の妖術」

永遠だけが存在するのだ
その他の存在は存在ではない


西脇順三郎 「近代の寓話」

人間の存在は死後にあるのだ


西脇順三郎 「海の微風」

自然の法則はかなしいね


西脇順三郎 「菜園の妖術」

永遠は永遠自身の存在であつて
人間の存在にはふれていない


西脇順三郎 「菜園の妖術」

存在という観念をはなれて
永遠という存在が
いる


西脇順三郎 「菜園の妖術」

永遠を求める必要はない
すでに永遠の中にいるのだ


三好達治 「わが手をとりし友ありき」

ものの音は一つ一つに沈黙す


いま三好達治の本を読んでるんだけど、三好達治の詩集って、5000部とか10000部とか売れていたって書いてあってびっくりした。ぼくの詩集なんて、20数冊出してるけれど、合わせても、せいぜい100部とか200部しか売れていないような気がする。出版社も教えてくれないしわからないけど。


ぼくは帽子が似合わないので帽子はかぶらないことにしている。


去年はじめて、サンマの腹を食べた。日知庵で、炭火で焼いてくれていたからだろう。それまでは、箸でよけてて、食べなかった内臓を、酒の肴にして食べてみたのだ。苦い味だが、けっしてまずくはなかった。自分がジジイになったせいだろう。ふと、サンマの腹が食べたくなったのだった。あの苦味は、なんの味に似ているだろう。いや、何の味にも似ていない。炭火で焼かれたサンマのはらわたの味だ。そいえば、さざえのあの黒いところはまだ食べたことがないけれど、もしかしたら、いまなら食べられるかもしれない。さざえを食べる機会があったら挑戦してみよう。酒の肴にいいかもしれない。わからないけど。しかし、サンマのはらわたの苦みは酒の肴に、ほんとによく合う。ぼくは、酒って、麦焼酎のロックしか飲まないけれど。それも3杯が限度である。それ以上、お酒を飲むときはビールにしている。ビール以外のものを飲むと、(さいしょの麦焼酎のロックはのぞいてね)ほとんどといっていいほどゲロるのだ。

中央公論社の『日本の詩歌』を読んでいるのだが、思潮社から出てた現代詩読本に収録されている詩があまり載っていないことに気がついた。ぼく好みのものが『日本の詩歌』から、はずされているのだった。まあ、西脇順三郎のは、ほるぷ出版から出てるのを持ってるから、これから調べてみる。

よかった。読み直したかった「旅人かへらず」全篇と、「菜園の妖術」が、ちゃんと入ってた。西脇順三郎を読むと、なんだか身体が楽になってくるような気がする。ぼくの体質に合ってるのかもしれない。リズムがいい。ときどき驚かされるような可憐なレトリックも魅力的だ。出てくる固有名詞もユニークだし。

きょうは、体調のためにも、これから寝るまで西脇順三郎を読もうと思う。中央公論社の『日本の詩歌』9冊あるんだけれど、まあ、1冊108円で買ったものだからいいけど、金子光晴の入っている第21巻、あの「うんこ」の詩、入れててほしかったなあ。西脇順三郎が載ってるのも長篇ははしょってるし。室生犀星には、1冊すべて使ってるのに、なんて思っちゃうけれど、出版されたときの状況が、いまとは違うんだろうね。きょうは飲みに行けなかったさみしさがあるけれど、詩を読むさみしさがあるので、差し引きゼロだ。(&#8722;1から&#8722;1を引くと0になるでしょ?)そんな一日があってもいい。


二〇一七年四月十六日 「西脇順三郎」


金子光晴のあの「うんこ」の詩、「もう一篇の詩」が収められている金子光晴の詩集を手に入れたいと思って調べたら、Amazon で、1円から入手できるんだね。びっくり。朝8時からやってる本屋が西院にあるから、さらっぴんのを買ってもいい。ちくま日本文学全集「金子光晴」に入っているらしい。西院の書店にはなかったので、今日、昼に四条に行って、ジュンク堂で見てこよう。それでなかったら、ネットで買おう。ちくま文庫の棚に行ったら、スティーヴ・エリクソンの『ルビコン・ビーチ』が置いてあって、読みたいなあと思ったけれど買うのはやめた。もう、ほんと、買ってたらきりがないものね。8時に書店が開くので、それまで時間があるからと思って、ひさしぶりに、もう半年ぶりくらいになるだろうか、朝に行くのは、7時30分から開いているブレッズ・プラスでモーニングでも食べようと思って店のまえで舞ってたら、30分になってもローリングのカーテンが下がったままだったから、あれ、どうしちゃったんだろうと思っていたら、自転車で乗り付けたご夫婦の方も、「もう30分ちがうの?」と奥さんのほうが旦那さんに言われたのだけれど、32分になって、ようやくカーテンがくるくると巻かれてつぎつぎと窓ガラスや入口の窓ガラスが透明になっていったので、ほっと安心した。ぼくは、モーニングセットを頼んだんだけど、そのご夫婦(だと思う、ぼくよりご高齢らしい感じ)も、モーニングセットだった。モーニングセットでは飲み物が選べるんだけど、ぼくは、アイスモカにした。パンは食べ放題なのだ。レタスのサラダと、ゆで卵半分と、ウィンナーソーセージ2個がついていた。32分に店内に入ったけれど30分経っても、ぼくのほかにお客さんといえば、その日本人夫婦の方と、10分くらいあとで入ってこられた外国人女性の2人組のカップルだけだった。外国人女性の方たちはモーニングセットじゃなくて、置いてあるパンをチョイスして飲み物を頼んでいらっしゃった。8時くらいまで、ぼくを含めて、その3組の客しかいなかったので、めずらしいなあと思った。日曜日なので、仕事前に来られるお客さんがいらっしゃらなかったというのもあるのだけれど、以前によくお見かけした、60代から80代くらいまでのご高齢の常連の方たちがいらっしゃらなくて、どうしてなのかなと思った。まさか、みなさん、お亡くなりになったわけじゃないだろうし、きっと、きょうが日曜日だからだろうなって思うことにした。以前によく朝に行ってたころ、ときどき、お見かけしなくなる方がぽつりぽつりといらっしゃってて、病院にご入院でもされたのか、お亡くなりになったのかと、いろいろ想像していたことがあったのだけれど、きょうは、そのご常連さんたちがひとりもいらっしゃらなかったので、びっくりしたのであった。なんにでもびっくりするのは愚か者だけであるとヘラクレイトスは書き残していたけれど、ぼくはたいていなんにでも驚くたちなので、きっと愚か者なのだろう。いいけど。

お昼に、ジュンク堂に寄って、それからプレゼント用に付箋を買いに(バレンタイン・チョコのお返しをまだしていない方がいらっしゃって)行って、それから日知庵に行こうっと。それまで、きのう付箋した箇所(西脇順三郎の詩でね)をルーズリーフに書き写そう。それって、1時間くらいで終わっちゃうだろうから、終わったら、それをツイートに書き込んで、それでも時間があまるだろうから、5月の2週目に文学極道に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをしよう。とりあえず、まず、コーヒーを淹れて飲もう。それからだ。西脇順三郎の詩、ほんとおもしろかった。読んでて楽しかった。


西脇順三郎 「道路」

二人は行く
永遠に離れて
永遠に近づいて行くのだ。


西脇順三郎 「第三の神話」

よく見ると帆船の近くに
イカルスの足が見える
いまイカルスが落ちたばかりだ


西脇順三郎 「第三の神話」

美しいものほど悲しいものはない


西脇順三郎 「天国の夏」

もう人間はあまり笑わなくなつた
脳髄しか笑わなくなつた


西脇順三郎 菜園の妖術」

一かけるゼロはゼロだ
だがゼロは唯一の存在だ
無は唯一の存在だ
無は永遠の存在だ


西脇順三郎 豊穣の女神」

幸福もなく不幸もないことは
絶対の幸福である
地獄もなく極楽もないところに
本当の極楽がある


西脇順三郎 「野原の夢」

すべては亡びるために
できているということは
永遠の悲しみの悲しみだ


西脇順三郎 「野原の夢」

これは確かに
すべての音だ
私は私でないものに
私を発見する音だ


西脇順三郎 「大和路」

なぜ人間も繁殖しなければならない


田中冬二 「暮春・ネルの着物」

私はアスパラガスをたべよう


ひゃ〜、2時間まえに、「店のまえで舞ってたら」って書いてた。まあ、「舞ってたら」ハタから見て、おもしろかったんだろうけどね。56歳のハゲのジジイが舞ってたらね。これはもちろん、「店のまえで待ってたら」の打ち込み間違いです。いまさらぜんぶ入れ直すのも面倒なので付け足して書きますね。


愛してもいないのに憎むことはできない。
憎んでもいないのに愛することはできない。


これから四条に。まずジュンク堂に寄って、金子光晴の詩集があるかどうか見て、それからロフトに寄ってプレゼント用の栞を買って、そのあと日知庵に行く。

日知庵から帰ってきた。本好きのご夫婦の方とおしゃべりさせていただいてた。アーサー王の話がでてきて、なつかしかった。ぼくの持ってるのは、リチャード・キャヴェンディッシュの『アーサー王伝説』高市順一郎訳、晶文社刊だった。魚夫王とか出てきて、これって、エリオットの『荒地』につながるね。

きょうは、ベンフォードの『タイムスケープ』上巻のつづきを読みながら床に就こう。きのうも、ちょこっと読んだのだけれど、ベンフォードの文章には教えられることが多い。物理学者が本業なのに、ハードSF作家なのに、なぜにこんなによく人間が描けているのか不思議だ。いや逆に物理学者だからかな。まあ、そんなことはどうでもいいや。よい本が読めるということだけでも、ぼくが幸せなことは確実なのだから。おやすみ、グッジョブ! いつ寝落ちしてもいいようにクスリのんで横になる。


二〇一七年四月十七日 「SFカーニバル」


起きた。きょうは神経科医院に行くので、それまで、5月の2週目に文学極道に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをしよう。

医院の帰りに、大谷良太くんちに行った。コーヒー飲みながら詩の話や小説の話をしていた。「きょう、医院の待合室で、雑誌の『女性自身』を読んでたら、共謀罪の話が載っていてね。」と言ったら、ちょこっと政治の話になった。と、こういうことを書いても警察に捕まる時代になっていくのかなあ。怖い。

そだ。きょう、医院で待つのも長いからということで、ロフトに行って、プレゼント用の付箋を2つ買い、ついでに丸善に寄って、岩波文庫の『金子光晴詩集』を買った。きのう買わなかったのだ。背の緑色がちょっと退色しているのだけれど、ジュンク堂に置いてあったものも退色していたから、まあ、これでいいやと思って買った。奥付を見ると、2015年5月15日 第8刷発行って、なってたんだけど。ということは、背の緑色が退色しているのではなくて、この時期に発行された『金子光晴詩集』すべての本の背の緑色が、ちょっとへんな緑色になっちゃってたって可能性が大なのだなって思った。

部屋に戻ったら、郵便受けに、このあいだ Amazon で買った、フレドリック・ブラウン編のSFアンソロジー『SFカーニバル』が届いていた。旧カヴァーである。表紙の裏にブックオフの値札を剥がした跡があるが、まあ、いいや。150円ほどで買ったものだから。(送料は257円だったかな。)もう本は買わないと思っていたのだけれど、買っちゃうんだな。終活して、蔵書を減らしている最中なのだけど。なんか複雑な気持ち。そだ。「こぼれた笑いなら拾えばいい」だったかな、そんな詩句があってねという話を大谷くんにしたら、大谷くんがネットで調べてくれたんだけど、出てこなかった。生きているうちに、その詩句とふたたび巡り合える日がくるかなあ。どだろ。「詩句のことなら、なんでも知ってるってひとっていないの?」って、大谷くんに訊いたけど、「いないんじゃないですか。」って返事がきて、ありゃりゃと思った。篠田一士みたいなひとって、もういまの時代にはいないのかなあ。

さて、56歳独身男は、これから2回目の洗濯をするぞ。雨だから、部屋干しするけど。

雨の音がすごくって、怖い。どうして、雨の音が怖いのか、わからないけれど。息が詰まってくる怖さだ。


二〇一七年四月十八日 「明滅」


ちょっと早く起きたので、5月の第2週目に文学極道に投稿する、『全行引用に寄る自伝詩。』のワード打ち込みをしよう。

5月の第2週目に文学極道の詩投稿欄に投稿する『全行引用による自伝詩。』あとルーズリーフ2枚分で終わり。2枚ともページいっぱいの長文だから、ワード入力するの、しんどいけど、がんばった分だけ満足感が増すので、詩作はやめられそうにない。きっと一生、無名の詩書きだろうけど。まあ、いいや。

海東セラさんから、個人誌『ピエ』18号と19号を送っていただいた。同時に出されたらしい。セラさんの作品を読んだ。18号に収録されている「混合栓」では、ずばり作品のタイトルの意味をはじめて教えていただいた。お風呂で毎日使っているものなのに、その生を知らずに使っていたのだった。19号に収められている「明滅」では、つぎのようなすてきな詩句に出合った。「わたしは冷たい━━。半ズボンの裾がそうつぶやくので初めて濡れていることに気がつく。」すてきな詩句だ。とてもすてきな詩句だ。きょうもいろいろあったけど、すてきな詩句に出合ったら、みんなチャラだ。吹っ飛んじゃうんだ。海東セラさん、いつもうつくしい詩誌をお送りくださり、ありがとうございます。引用させていただいた詩句、ぼくのなかで繰り返し繰り返し木霊しています。


二〇一七年四月十九日 「クライブ・ジャクスン」


フレドリック・ブラウンが編んだ短篇SFアンソロジー『SFカーニバル』読了。ブラウン自身のがいちばんおもしろかった。また、クライブ・ジャクスンというはじめて読む作家のわずか4ページのスペオペでは、さいごの3行に笑った。それはないやろ的な落ち。ぼくには大好きなタイプの作品だったけど。

で、ここ数日のあいだ、断続的に読んでいるグレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』上巻、ひじょうによい。とてもよい。表現がうまい。描写がすごくいい。なんちゅう物理学者なんだろう。っていうか、ぼくは、これで、ベンフォードを読むのコンプリートになっちゃうんだよね。残念!

きょうは、寝るまえの読書は、『タイムスケープ』上巻のつづきから。まだ138ページ目だけど、傑作の予感がする。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月二十日 「 」


風邪を引いたみたい。咽喉が痛くて、熱がある。薬局が開く時間になったら、クスリを買いに行こう。きょうは休みなので、部屋でずっと休んでいよう。

午前中はずっと横になっていた。何もせず。お昼になって、近くのイオンに行って薬局で、クラシアンの漢方薬の風邪薬を買って、ついでに3階のフードコートでまず薬を水でのんで、それから長崎ちゃんぽんのお店でチゲラーメンの並盛を注文して食べた。おいしかった。いま部屋に戻って、ツイートしてる。

ベンフォードの『タイムスケープ』上巻のつづきを読もうか、『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをやるか思案中。そか。両方やっちゃおうか。ワード打ち込みも、ルーズリーフで、あと2枚分だものね。

『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込み作業が終わった。校正は後日、ゴールデン・ウィークにでもしよう。きょうは、これからベンフォードの『タイムスケープ』上巻のつづきを読もう。1年10カ月ぶりに依頼していただいた、現代詩手帖の原稿書きがあるのだが、もう頭のなかに原稿の元型ができているので、あさってからの連休3日間で(ぼくは月曜日も休みなのだ)いっきょに書き上げてしまおうと思っている。それでも数日の余裕があるので、しかも、そのうちの一日は学校が休みなので、十分に見直すことができるものと思う。とにかく、『全行引用による自伝詩。』の打ち込みが終わってよかった。引用文が間違いなく打ち込めているのか、たしかめはするのだが、ときに漢字の変換ミスや、言葉が足りなかったりすることがあるので(「している」を「してる」にしたりする。きっと、自分のふだんの口調が反映されているのだと思う)注意しながら打ち込んでいると、じつに神経に負担がかかるのである。しかし、それが終わって、ほっとしている。きょうは、もうあと読書するだけ。56歳。独身ジジイ。まるで学生のような生活をいまだに送っているのだなと、ふと思った。夕方に風邪薬をのむのを忘れないように、目覚ましでもセットしようかな。でもなんのためにセットしたのか忘れてしまってたりしてね。

BGMは韓国ポップス。韓国語がわからないから、言葉の美しさ、リズムを、音楽とともに耳が楽しんでいるって感じかな。2bicからはじまって、チューブがかけるものをとめないで聴いている。はじめてお見かけするアーティストが出てきたり、というか、そういうのも楽しみなんだよね。

そいえば、まえに付き合ってた子、しょっちゅう携帯をセットしてたなあ。仕事の合間に、ぼくんちに来てたりしてたからな。音楽がそんなことを思い出させたんやろうか。もう2、3年、いや、3、4年まえのことになるのかなあ。いまは神戸に行っちゃって、遊びに来てくれることもなくなっちゃったけど。

ピリョヘー。

いま思い出した。まえに付き合ってた子が携帯に時間をセットしていたの、あれ、「タイマーをセットする」という言い方だったんだね。簡単な言葉なのに、さっき書き込んだときは、思い出されなかった。齢をとると、すさまじい忘却力に驚かされるけれど、だからこそみな書き込まなくちゃならないんだね。

アンニョン。

いま王将で、焼きそば一皿と瓶ビール一本を注文して飲み食いしてきたのだけれど、バックパックの後ろについている袋のチャックを開けて、きょうイオンで買った風邪薬のパッケージを裏返して見たら、製造元の名前が、「クラシアン」じゃなくて、「クラシエ製薬株式会社」だった。クラシアンって、なんだか、住宅会社っぽい名称だね。調べてないけど。調べてみようかな。ぜんぜん、そんな名前の会社がなかったりして、笑。いまググるね。

ありゃ、まあ。水漏れとか、水まわりのトラブルを解消する会社の名前だった。「暮らし安心」からきてるんだって。「クラシアン」なるほどね。ちなみに、ここね。→http://www.qracian.co.jp/

ちなみに、ぼくがクラシエ製薬株式会社から買った風邪薬の名前って、「銀翹散(ぎんぎょうさん)」ってやつで、元彼と付き合ってたとき、ぼくがひどい風邪で苦しんでたときに、彼が買ってきてくれた風邪薬で、服用して5分もしないうちに喉の痛みが消えた風邪薬だった。いまも当時のように効いてるよ。

さて、ベンフォードの『タイムスケープ』の上巻のつづきに戻ろう。読書って、たぶん、人間にしかできないもので、とっても大切な行為だと思うけど、自分がその行為に参加できて、ほんと、幸せだなって思う。ぼくも糖尿病だけど、糖尿病で視力を失くした父のように視力は失くしたくないなって強く思う。

瓶ビール一本で酔っちゃったのかな。気分が、すこぶるよい。きょうは、休みだったのだけれど、朝はゴロ寝で、昼には、5月の第2週目に文学極道の詩投稿欄に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込み作業を終えて、韓国ポップス聴きまくっていたし、夕方からは読書に専念だ。

日本のアーティストの曲で、「a flower of the mystery」だったか、「a mystery of the flower」だったか、そういったタイトルの曲を思い出したんだけど、チューブにはなかった。残念。ああ、もう何でもメモしなきゃ憶えていられない齢になったんだな。というのは、その曲のアーティストの名前が思い出せないからなんだけど、ここさいきん、思い出せないことが多くなっている。いや、ほんとに、なんでもかんでもメモしておかなければならなくなった。情けないことだ。それにしても、なんという名前のアーティストだったんだろう。憶えてなくて、残念。


「どんなに遠く離れていても」っていうのは距離だけのことを言うのじゃない。


hyukoh の新譜が4月下旬に出るというので、Amazon で予約購入した。


二〇一七年四月二十一日 「タイムスケープ」


グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』下巻に突入。上巻に付箋個所10カ所。レトリックと表現がすばらしいと思うところに付箋した。ルーズリーフ作業は、あした以降に。いま、4月28日締め切りの原稿のことで頭いっぱいだから。といっても、きのう、数十分で下書きを書いたのだけれど、完璧なものにするために週末の土日と休みの月曜日を推敲に費やすつもりなので、ルーズリーフ作業は、下巻も含めると、GW中になるかもしれない。といっても、きょうは、グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』の下巻を読めるところまで読もうと思う。ヴァレリーが書いていたように、「同時にいくつもの仕事をするのは、互いによい影響を与え合うのである。」(だいたいこんな訳だったような記憶がある。)きょうは、一日を、読書にあてる。


二〇一七年四月二十二日 「いつでも、少しだけ。」


いま日知庵から帰った。ヨッパである。おやすみ、グッジョブ!


いつでも、少しだけ。


きょうか、きのう、『The Wasteless Land.』が売れてた。うれしい。

https://www.amazon.co.jp/Wasteless-Land-%E6%96%B0%E7%B7%A8%E9%9B%86%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E7%89%88-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788656/ref=la_B004LA45K6_1_4?s=books&ie=UTF8&qid=1492792736&sr=1-4

グレゴリイ・ベンフォード『タイムスケープ』下巻 誤植 93ページ 1、2行目 「悪戯っぽいい口ぶりでいった。」 「い」が、ひとつ多い。


二〇一七年四月二十三日 「時間とはここ、場所とはいま。」


人間が言葉をつくったのではない。言葉が人間をつくったのだ。


時間とは、ここのことであり、場所とは、いまのことなのである。

時間とはここ、場所とはいま。


グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』下巻を読了した。思弁的なSFだったが、また同時に文学的な表現に見るべき個所がいくつもあって、これから自分が書くことになる文章が大いに影響を与えられることになるのではないだろうかと思えた。トマス・スウェターリッチの『明日と明日』以来である。

これから2敗目のコーヒーを淹れる。コーヒーもアルコールや薬といっしょで、中毒症状を起こすことがある。学生時代に、学部生4回生と院生のときのことだが、1日に10杯以上も飲んでいたときがあった。いま10杯飲んだら、きっと夜は眠れないことだろう。いくら睡眠薬や精神安定剤をのんでいても。

コーヒーを飲んだら、グレゴリイ・ベンフォードのルーズリーフ作業をしようと思う。きのうまでは、GW中にやろうと思っていたのだが、文章のすばらしさをいますぐに吸収して、はやく自分の自我の一部に取り込んでしまいたいと考えたからである。それが終わったら、つぎに読むものを決めよう。

GWは6月の第1週目に文学極道の詩投稿欄に投稿する『詩の日めくり』をつくろうと思う。いつ死んでもよいように、つねに先々のことをしておかなければ気がすまないたちなのである。さいきん、あさの食事がコンビニのおにぎりだ。シャケと昆布のおにぎりだ。シャケを先に食べる。なぜだか、わかる? 昆布の方が味が強いから、昆布の方から先に食べると、シャケの味がはっきりしないからだろう。ぼくが食べ物を好きな方から食べるのも同じ理屈からだ。おいしいものの味をまず味わいたいのだ。あとのものは、味がまざってもかまいはしない。ぼくが古典的な作品を先に読んだのも、同じような理屈からだったような気がする。食べ物の食べ方と、読み物の読書の仕方がよく似ているというのもおもしろい。両方とも、ぼくの生活の大きな部分を占めているものだ。ぼくの一生は、食べることと、読むこととに支配されているものだったというわけだな。それはとってもハッピーなことである。

さっき日知庵から帰ってきた。きょうは体調が悪くて、焼酎ロック1杯と生ビール1杯で帰ってきた。これから床について、本でも読みながら寝ようと思う。ディックの短篇集『ペイチェック』にしよう。タイトル作品以外、ほかの短篇集にぜんぶ入っているというハヤカワSF文庫のあこぎな商売には驚くね。

自分の詩集のところを、Amazon チェックしていたら、書肆ブンから復刊された、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』が、1冊、売れてた。うれしい。これ→
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA-%E3%81%8D%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E5%A5%BD%E3%81%8D%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788664/ref=la_B004LA45K6_1_2/355-1828572-1889417?s=books&ie=UTF8&qid=1492950970&sr=1-2


二〇一七年四月二十四日 「floccinaucinihilipilification」


グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』の下巻に載ってたんだけど、最長の英単語って、「floccinaucinihilipilification」というものらしい。山高 昭さんが翻訳なさっておられるんだけど、「無価値と判定すること」という意味らしい。

最長の日本語の単語って、なんだろう?

きのう寝るまえに、ハヤカワSF文庫のディックの短篇集『ペイチェック』の悪口を書いたけれど、よい点もあった。活字のポイントが、むかしのものより大きくて、読みやすくなっている。なぜ、『ペイチェック』をあれほど分厚くしなければならなかったかの理由のひとつかな。でも、ほんと、分厚くて重たい。

FBを見ていると、きょうは天気がよくて、洗濯日よりだというので、洗濯をした。ついでに、1週間ほど、薄めた洗剤液の入ったバケツに浸けて置いた上履きを洗った。いまから、ディックの短篇集『ペイチェック』のつづきを読む。冒頭のタイトル作品の途中で眠り込んでしまっていたのであった。

いま解説を読んで気がついた。「ペイチェック」もほかの短篇集に入ってた。未訳のものがひとつもなかったんだね。なんだか悲しい短篇集だったんだね。『ペイチェック』分厚さだけは、ぼくの持っているディックの短篇集のなかで群を抜いて一番だけれど。

Lush の Nothing Natural を聴いている。この曲が大好きだった。だいぶ処分したけど、いま、ぼくの部屋も、大好きな本やCDやDVDでいっぱいだ。いつか、ぼくがこの部屋からいなくなるまで、それらはありつづけるだろうけれど。

Propaganda の Dr. Mabuse を聴いた。1984年の作品だというから、ぼくが院生のころに聴いてたわけだな。いまから30年以上もむかしの話で、まだ詩を読んだこともなかったころのことだ。理系の学生で、連日の実験と、考察&その記述に疲れ果てて家に帰ってたころのことだ。

いま、4月28日締め切りの原稿の手直しをしていたのだけれど、英語でいうところの複文構造をさせていたところをいくつかいじっていたのだけれど、ふだんのぼくの文章の構造は単純なものが多いので、ひさしぶりに複文を使って自分の文章をいじっていると、まるで英語の文章を書いてるような気がした。

ディックの短篇集『ペイチェック』で、「パーキー・パットの日々」を読み終わった。いま、同短篇集収録の「まだ人間じゃない」を読み直しているのだけれど、このあいだも読み直したのに、さいごのところが思い出せなかったので、もう一度、読み直すことにした。つい最近、読み直したはずなのだけれど。

あ、複文じゃなくて、挿入句だ。ぼくのは複文というよりも、挿入句の多い文章だった。複文っぽく感じたのはなぜだろう。自分でもわからない。読み直したら、いじくりまわす癖があるので、きょうは、もう見直さないけれど、あしたか、あさってか、しあさってかに見直して、手を入れるだけ入れまくろう。

とりあえず、8錠の精神安定剤と睡眠導入剤をのんで床に就こう。きょうの昼間は、なぜか神経がピリピリしていた。それが原稿に悪い影響を与えてなければよいのだけれど。いや、原稿をいじくってたので、神経がピリピリしていたのかもしれない。いまもピリピリしている。眠れるだろうか。いくら精神安定剤や睡眠導入剤を服用しても、昼間に神経がピリピリしていたら、まったくクスリが効かないことがある体質なので、きょうは、それが心配。ううん。この心配が、睡眠の邪魔をするのでもある。ぼくの精神というのは、どうしてこのようにもろいのだろうか。神経が太いひとが、うらやましい。

寝るまえの読書は、ディックにしよう。短篇集『ペイチェック』のなかから適当に選んで横になって読もう。あ、もしかすると、ディックの強迫神経症的な作品の影響かもしれないな。でも、ほかに読みたいものは、いまとくにないからな。とりあえず、クスリのんでPCを切ろう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月二十五日 「一生、ひとりでよいのだ。」


これから仕事に。あした、あさっては休みなので、4月28日締め切りの原稿を推敲することができる。もう推敲と言うより、彫琢の段階なのだけど。通勤では、このあいだ買った、岩波文庫の『金子光晴詩集』を読むことにしよう。「もう一篇の詩」のあとに、「さらにもう一篇の詩」ってのがあったよ、笑。それは、うんこの詩でもなくて、ぼくにはおもしろくなかったけれどね。

きょうは、学校が午前で授業が終わりだったので、はやく帰ってこれた。二時間目の授業のまえに時間があったので、一時間はやく職員室についたのだ、岩波文庫の『金子光晴詩集』を読んでいたら、すいすい読めたので、やはり詩集はいいなあと思ったのであった。いま204ページ目に突入するところ。

もう十年くらいむかしの思い出だけど、食べ物の名前が出てこないので書けなかったのだけれど、『金子光晴詩集』を読んでたら、195ページに、「朝は味噌汁にふきのたう。」(「寂しさの歌」二)というのがあって、思い出した。ふきのとうの天ぷら、たしか花だったと思うけれど、それをジミーちゃんのお母さまがてんぷらにしてくださって、そのふきのとうは、ジミーちゃんちの庭で採れたものなのだけど、食べさせてくださって、適度な苦みが、大人の味だなと思わせられる、ご馳走だった。そのジミーちゃんのお母さまも亡くなれて何年たつのだろう。ジミーちゃんが発狂して以来、ジミーちゃんと会っていなかったのだけれど、共通の友人から、ジミーちゃんのお母さまが亡くなったと何年かまえに聞かされたのであった。ジミーちゃんは、ぼくが詩を書くときに、「いま書いてる詩にタイトルつけてよ。さあ、言って!」と言うと、即座にタイトルを言ってくれたり、詩句自体のいくつかも、ジミーちゃんの言動が入っていて、ぼくはそれを逐一、作品のなかで述べていたけど、ジミーちゃんのお母さまも、ぼくの詩作品のなかに何度か登場していただいている。たしか、書肆山田から出した『The Wasteless Land.IV』に収録した詩に書いてたと思う。たしか、こんなセリフだったと思う。「さいしょの雨にあたる者は親不孝者なのよ/わたしがそうだったから/わたしも親から、そう言われたわ。」ぼくって、まだぜんぜんだれにも雨が降っていないのに、さいしょの雨粒が、よく顔にあたったりするんですよねえって言ったときのお返事だったと思うけれど、ふきのとうの天ぷらをつくってくださったときの記憶も目に鮮明に残っている。つぎつぎと揚げていってくださった、ふきのとうの天ぷらを、まだ、あつあつのものを、それに塩をちょこっと振りかけて、ジミーちゃんと、ジミーちゃんのお母さまと、ぼくの三人で食べたのであった。おいしかったなあ。なつかしい記憶だ。

これから夕方まで、『金子光晴詩集』を読む。どんな詩かは、アンソロジーで、だいたい知っているけど、まとめてドバーッと読むのもいい。詩自体に書かれたこともおもしろいところがあるし、そこには付箋をしていて、あとでルーズリーフに書き写すつもりだけれど、自分の記憶にも触れるところが、ふきのとうの天ぷらの記憶のようにね、あると思うので、それも楽しみ。ぼく自体が忘れている記憶が、他者の詩に書かれた言葉から、詩句から、そのイメージから、あるいは、音からさえも、呼び起こされる場合があると思うと、やっぱり、文学って記憶装置だよねって思っちゃう。言葉でできたみんなの記憶装置だ。

4月28日締め切りの原稿の彫琢は、夜にすることにした。いまはとにかく、すいすい読めてる『金子光晴詩集』に集中しようと思う。BGMは Propaganda。Felt。 Lush。Human League。などなど。ポップスにしようっと。

あちゃ〜。引用した金子光晴の詩句に打ち込みミスがあった。「朝は味噌汁にふきのたう。」ではなくて、「朝は味噌汁にふきのたう、」句点ではなくて、読点だった。ミスしてばっかり。まるで、ぼくの人生みたい。あ、そりゃ、そうか。打ち込みミスも人生の一部だものね。ワン、ツー、スリー、フォー!

ぼくはコーヒーをブラックで飲むんだけど、大谷良太くんはいつも牛乳を入れてる。さいきんは砂糖も入れている。『金子光晴詩集』を読んでたら、240−241ページに、「牛乳入珈琲に献ぐ」という詩があったので、ふと大谷良太くんのコーヒーのことを思い出した。ヘリコプターが上空で旋回している。

恋人たちの姿を見て、「あれは泣いているのか/笑っているのか」と詩に書いたのは、たしかリルケだったか。いや、あれは、泣きながら笑っているのだと、笑いながら泣いているのだと、ぼくの胸のなかで、ぼくの過去の恋を思い出しながら思った。

付箋しようかどうか迷った詩句があったのだが、やはり付箋しておこうと思って、『金子光晴詩集』を読んだところを読み直しているのだが、場所が見つからない。女性の肛門のにおいを嗅ぐ詩句なのだが。(「肛門」は金子光晴のほかの詩句でも出てくる。「肛門」は、彼の詩の特徴的な言葉のひとつだな。)

見つけた! 何を? 詩句を。85ページにあった。「彼女の赤い臀(しり)の穴のにほひを私は嗅ぎ」(金子光晴『航海』第四連・第一行目)これで安心して、250ページに戻って行ける。読み直して、ますます理解したことのひとつ。金子光晴は「肛門」や「尿」という言葉が好きだったんだなってこと。

さっきリルケの詩句を(たぶん、リルケだったと思うんだけどね、記憶違いだったら、ごめんね。)思い出したのは、『金子光晴詩集』の249ページに、「泣いてゐるのか、それとも/しのび笑をこらへてゐるのか。」(『死』第二連・第三―四行)という詩句があったからである。(と、ぜったい思うよ。)同じページには(249ページだよ。)「痺肩のいたいたしいうしろつき」(『死』第一連・第四行)といった詩句があって、この一年、五十肩で痛みをこらえるのに必死だった(痛みどめが数時間で切れるくらいの痛みでね、その痛みで睡眠薬で寝てても数時間で目が覚めてたのね)自分の状況を思い出した。この『死』という詩の第三連・一行目に、「ああ、なんたる人間のへだたりのふかさ。」という詩句があるのだけれど、この言葉は、ほんとに深いね。恋人同士でも、こころが通っていないことってあるものね。それも、あとになってから、そのことがわかるっていう怖さ。深さだな。深い一行だなって思った。

『金子光晴詩集』を読む速度が落ちてきた。詩句の中味が違ってきているのかな。この詩集って、出た詩集の順番に詩を収録しているのかな。しだいに詩句にたちどまるようになってきた。『死』の最終連・第一ー二行である。「しつてくれ。いまの僕は/花も実も昔のことで、生きるのが重荷」こころに沁みる二行だ。なにか重たいものが胸のなかに吊り下がる。「花も実も昔のことで、」という詩句が、ことに胸に突き刺さるが、ぼくにも切実な問題で、56歳にもなって、独身で、恋人もいない状態で、ただ小説や詩にすがりつくことしかできない身のうえの自分に、ふと、自己憐憫の情を持ってしまいそうになる。でも、ぼくはとてもわがままで、どれほど愛していると思っている相手に対しても、すぐに癇癪を起こしてしまって、突然、いっさいの感情を失くしてしまうのである。こんな極端な性格をしている人間を、だれが愛するだろうか。ぼくでさえ、自分自身にぞっとしてしまうのだから。一生、ひとりでよいのだ。


二〇一七年四月二十六日 「ぱんぱん」


いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ〜。すこぶる気分がよい。これからクスリのんで寝る。寝るまえの読書は『金子光晴詩集』。付箋しようかどうか迷った箇所を見つけたい。やっぱ、ちょっとでも、脳裡にかすめた個所は付箋しなきゃだめだね。帰りの電車のなかで探したけど、見つからない。ふにゃ〜。

夢を見た。悪夢だった。気の狂った弟がたこ焼き屋さんで順番待ちしている女子高校生たちの順番を無視して割り込んでたこ焼きを注文して文句を言われて、その女子高校生のひとりを殴ったら女子高校生たちにぼこぼこに殴り返されている夢だった。とても現実感のある夢であったので、じつに情けなかった。

きょうも仕事がないので、夕方まで、『金子光晴詩集』を読むことにする。

付箋しようか迷って付箋しなかった箇所の詩句「深みから奈落が浮かび上がってくる」(だったの思う)が、3、4回繰り返し読み直しても見つからなかった。ぼくが勝手にイメージしてつくった言葉なのかな。「僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、」(『寂しさの歌』三)からの。

これから読むのは、岩波文庫の『金子光晴詩集』295ページ。『くらげの唄』から。これはアンソロジーで読んだような気がする。夕方までには最後まで読めるだろうね。夥しい付箋の数。西脇順三郎を読んだときより多いかもしれない。めっちゃ意外。おもしろさの種類がちょこっと違うような気もするけど。

363ページに、「なじみ深いおまんこさんに言ふ」(金子光晴『愛情』46)とあったので、すかさず付箋した。

465ページに、「イヴの末裔はお祖々をかくし」(金子光晴『多勢のイヴに』)という詩句を見つけた。「おそそ」というのは、「おまんこ」のことである。ぼくの父親の世代(いま80歳くらいのひとたち)で使われていた単語だ。めっちゃなつかしい。数十年ぶりに目にした言葉だった。「おそそ」

かといって、同じ詩のさいごの二行はこんなの。

核実験は夢のまたゆめ
どこまでつづくぬかるみぞ。
(金子光晴『多勢のイヴに』最終連・第三―四行)

ようやく、岩波文庫の『金子光晴詩集』が読めた。後半、付箋だらけ。これから、もう一度、読み直す。よいなと思った詩篇を。

先に、コーヒーをもう一杯、淹れよう。

鼻水が出てて、それがどこまで長く伸びるのかなって見てたら、その鼻水の先っちょが『金子光晴詩集』のページの耳のところに落ちてしまって、4、5ページにわたって鼻水が沁み込んでいた。すぐに気がつかなかったからなんだけど、すぐに拭いてても悲惨なことになっていたような気がする。しょんぼり。いったん詩集を閉じて、コーヒーを飲んでいたので沁み込んでいたのだね。いまそこのところを見直してたら、ぼくの表現がおかしいことに気がついた。4、5ページじゃなくて、4、5枚ね。表裏に沁み込んで、その部分波型になっているし。落ちた場所なんて、ひっぺがすときにちょこっと破れかけてたし。ああ、でも、ぼくは、こんなささいな、ちょっとしたことでも、人生においては、大事な成分だと思っているし、そのちょこっと破れかけたページや、波型になってしまったページの耳をみるたびに、自分の失敗を思い出すだろう。以前に、ページのうえにとまった羽虫を手ではらうと、羽虫の身体がつぶれて、ページの本文の詩句のうえを汚してしまったことを、いつまでも憶えているように。たしか、夏に公園で読んでいた岩波文庫の『ジョン・ダン詩集』だったと思う。これは、2度ほど詩に書いたことがある。河野聡子さんが編集なさったご本に、「100人のダリが曲がっている。」というタイトルで掲載していただいたはずなのだけど、ちょっと調べてくるね。(中座)二〇〇九年十二月六日に発行された、『ジャイアントフィールド・ジャイアントブック』という、とてもおしゃれな装丁とカラフルなページのご本でした。ぼくの「100人のダリが曲がっている。」は、26ページに掲載していただいている。

あつかったコーヒーが少しさめてぬるくなった。ちょうどいいぬるさだ。岩波文庫の『金子光晴詩集』の気に入った詩を再読しよう。音楽といっしょで、よいなと思うと、繰り返し読んでしまうタイプの読み手なのだ。小説でも、ジーン・ウルフとか、フランク・ハーバートとか、3回以上、読み直ししている。

そいえば、きのう、日知庵で、ぼくが読んでる『金子光晴詩集』に収録されている詩のなかに出てくる「ぱんぱん」という言葉について、えいちゃんに、「えいちゃん、ぱんぱんって言葉、知ってる?」って訊くと、「えっ、なにそれ。」という返事がすかさず返ってきたのだけれど、カウンターのなかで洗い物をしていた従業員のいさおさんが、「売春婦のことですよ。」と間髪入れずに答えてくれたのだった。すると、えいちゃんも、「思い出した。聞いたことがあるわ。」と言ってたのだけど、ぼくは、「そうか、ぼくが子どものときは、よく耳にする言葉だったけどね。あの女、ぱんぱんみたいって言うと、パン2つでも、おまんこさせるって感じの尻軽女のことを言ってたんだけどね。」と言うと、いさおさんが、「ぼくは違うと思いますよ。パン2つで、じゃなくて、これですよ、これ。」と言って、洗い物をやめて、くぼめた左手に開いた右手をあてて、「パンパン」って音をさせたのであった。「そう? 音なの?」って、ぼくは、自分が聞いた話と違っていた説明に、「なるほどね。セックスのときの音ね。気がつかなかったけれど、なんか納得するわ。」と言った。どちらがほんとうの「ぱんぱん」の説明かは知らないけれど、終戦直後にはよく街角に立っていたらしい。つい最近もツイートで、写真をみたことがある。ぱんぱんと思われる女性が街角に立って、ちょっと背をかがめて、紙巻たばこを口にくわえて、紫煙をくゆらせていたように記憶している。ぱんぱんか。ぼくの父親は昭和11年生まれだったから、じっさいに、ぱんぱんを目にしていたかもしれないな。いや、きっと目にしていただろう。文学は記憶装置だと、きのうか、おとついに書いたけれども、じっさいに自分が目にしていなかったことも、それは写真などで目にしたもの、書物のなかに出てきた言葉として記憶したものをも思い起こさせる記憶装置なのだなって思った。いさおさんが、日本の任侠映画にも出てきますよと言ってたけど、日本の任侠映画って、ぼく、あまり見た記憶がなくって、はっきり思い出せなかったのだけれど、そう聞かされると、数少ない目にした任侠映画に、ぱんぱんという言葉がでてきたかもしれないなあと思った。これって、なんだろう。はっきりした記憶じゃなくて、呼び起こされた記憶ってことかな。わからん。

いま王将に行って、遅い昼ご飯を食べてきたのだけれど、そだ。きのう、日知庵で、金子光晴の詩に「ぱんぱん」という言葉がでてきて、そのこと、きのうしゃべったぞと思い出して、帰ってきたら、ツイートしなきゃって思って、王将でペンとメモ帳を取り出して、記憶のかぎりカリカリ書き出したのだった。いや〜しかし、いさおさんの説明、説得力があったな。「ぱんぱん」という音がセックスのときの音って。音には断然たる説得力があるね。パン2つでという、ぼくの説明が、しゅんと消えちゃった。まあ、そういった音も、ぼくにかぎっては、ここさいきんないのだけれど。さびしい。なんてことも考えてた。まあ、また、いさおさんが、洗い物をした直後で、まだ水に濡れている手で、「ぱんぱん」という音をさせたので、おお、そうか、その音だったのだって思ったこともある。あのいさおさんの手が濡れていなかったら、あまり迫力のない「ぱんぱん」という音だったかもしれないので、状況って、おもしろいね。いま何日かまえに見たという、ぱんぱんの画像をツイッターで調べてみたんだけど、数日まえじゃなくて、10日まえの4月16日の画像だった。記憶ってあてにならないね。あ、あてにならない記憶って、ぼくの記憶のことだけどね。ぴったし正確に憶えていられる脳みその持ち主だって、きっとたくさんいらっしゃるのだろうしね。56歳にもなると、ぼくは、自分の記憶力に自信がすっかりなくなってしまったよ。付箋し損なったと思っていた金子光晴の詩句だと思っていた「海の底から奈落が浮かび上がってくる」も、金子光晴の『鮫』三にある「おいらは、くらやみのそこのそこからはるばると、あがってくるものを待ってゐた。」という詩句か、『寂しさの歌』三にある「僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいてゐることか。」という詩句から、ぼくが勝手につくりだしたものかもしれない。うううん。こんなことがあるあら、ちょっとでも意識にひっかかった個所は、かならず付箋しておかなけりゃいけないね。ほんと、うかつ。これからは、気をつけようっと。

ぼくが金子光晴の詩を、この岩波文庫の『金子光晴詩集』から一篇を選ぶとしたら、まえに引用した、あのうんこの詩「もう一篇の詩」か、つぎに引用する「死」という詩かな。


金子光晴 「死」

       ━━Sに。

 生きてるのが花よ。
さういつて別れたおまへ。
根さがりの銀杏返し
痺肩のいたいたしいうしろつき。

あれから二十年、三十年
女はあつちをむいたままだ。
泣いてゐるのか、それとも
しのび笑をこしらへてゐるのか

ああ、なんたる人間のへだたりのふかさ。
人の騒ぎと、時のうしほのなかで
うつかり手をはなせば互ひに
もう、生死をしる由がない。

しつてくれ。いまの僕は
花も実も昔のことで、生きるのが重荷
心にのこるおまへのほとぼりに
さむざむと手をかざしてゐるのが精一杯。


うんこの詩もすばらしいが、この実存的な詩もすばらしい。岩波文庫の『金子光晴詩集』は、清岡卓行さんの編集が入っているので、その目から逃れた詩篇についてはわからないけれど、「もう一篇の詩」か、「死」のどちらかが、ぼくの選ぶ「金子光晴ベスト」かな。

これからお風呂に入ろう。それからコーヒーを淹れて、ちょっとゆっくりしよう。

コーヒーを先に淹れた。

遅がけに、日知庵に飲みに行くことに。10時くらいに行くと思う。きょうは、自分の鼻水で遊んでいて、岩波文庫の『金子光晴詩集』のページを(耳のところだけどね)傷めてしまって、自分で自分を傷つけたことにショックを受けたけど、いい勉強になった。自分の鼻水では、もうけっして遊ばないこと。


二〇一七年四月二十七日 「金子光晴の詩」


きのう、岩波文庫の『金子光晴詩集』で、付箋した箇所をツイートしてみようかな。こんなの、ぼくは選んでるってことで、ぼくの嗜好がよく出ているんじゃないかな。まあ、いろいろな傾向のものが好きだけどね。きょうは休みだから、ひまなんだ。


金子光晴 「章句」F

落葉は今一度青空に帰らうと思つてゐる
落葉は今一度青空に帰らうと思つてゐる


金子光晴 「渦」

馬券をかふために金のほしいやつと
金がほしいために馬券を買ふやつとの
半分づつの住居なのだ。


金子光晴 「渦」

あゝ渦の渦たる都上海
強力にまきこめ、しぼり、投出す、
しかしその大小無数の渦もやうは
他でもない。世界から計上された
無数の質問とその答だ。


金子光晴 「路傍の愛人」

危い! あんまりそばへ寄ると
君は一枚の鱗(うろこ)を残して、姿を消してしまふかもしれない。


金子光晴 「路傍の愛人」

だが、彼女はしらない。彼女の輝やくうつくしさが、
俺のやうなゆきずりの、張(ちやう)三(さん)李(り)四(し)の、愛慕と讃嘆と、祝福とで、
妖しいまでに、ひときは照りはえたあの瞬間を。


金子光晴 「航海」

彼女の赤い臀(しり)の穴のにほひを私は嗅ぎ
前(ぜん)檣(しやう)トップで、油汗にひたつてゐた。


金子光晴 「南の女におくる」

人は、どんな小さな記憶でも、&#25681;んでゐるわけにゆかない。


金子光晴 「夜の酒場で」

ながれ汚水。だが、どこかへうごいてゐないものはない。私はひとり、頬杖をついて、


金子光晴 「おっとせい」二

(…)やつらは、みるまに放尿の泡(あぶく)で、海水をにごしていった。


金子光晴 「泡」三

(…)らんかんにのって辷りながら、おいらは、くらやみのそこのそこからはるばると、あがってくるものを待ってゐた。


金子光晴 「どぶ」一

━━女ぢゃねえ。いや人間でもねえ。あれは、糞壺なんだ。


金子光晴 「あけがたの歌」序詩 一

 どつかへ逃れてゆかうとさまよふ。
 僕も、僕のつれあるいてゐる影も、ゆくところがない。


金子光晴 「落下傘」一

おちこんでゆくこの速さは
なにごとだ。
なんのあやまちだ。


金子光晴 「寂しさの歌」三

僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいてゐることか。


金子光晴 「蛾」一

月はない。だが月のあかるさにみちてゐた。


金子光晴 「子供の徴兵検査の日に」

身辺がおし流されて、いつのまにか
おもひもかけないところにじぶんがゐる


金子光晴 「女たちのエレジー」

(…)釦穴にさした一輪。あの女たちの黒い皺。黒い肛門。


金子光晴 「女の顔の横っちょに書いてある詩」

三十年後のいまも猶僕は
顔をまっ赤にして途(と)惑(まど)ふ。
そのときの言訳のことばが
いまだにみつからないので。


金子光晴 「[戦争が終ったその日から]」

ぱんぱんはそばの誰彼を
食ってしまひさうな欠伸をする。
この欠伸ほどふかい穴を
日本では、みたことがない。


金子光晴 「くらげの唄」

僕? 僕とはね、
からっぽのことなのさ。
からっぽが波にゆられ、
また、波にゆりかへされ。


金子光晴 「ある序曲」

すでに、僕らは孤独でさへありえない。死ぬまで生きつづけなければならない。ごろごろいっしょに。
そして、真似なければならない。することも考へることも、誰かにそつくりゆずりわたすために。


金子光晴 「太陽」

濡れた舌で、草つ葉が、僕の手をなめる
……土管と、塀が、一つところに息をあつめる。
暗渠のなかでころがり廻る白髯の太陽の
居どころをしつてゐるのは、僕より他にない。


金子光晴 「太陽」

濡れた舌で、草つ葉が、僕の手をなめる。
……土管と、塀が、一つところに息をあつめる。
暗渠のなかでころがり廻る白髯の太陽の
居どころをしつてゐるのは、僕より他にない。


金子光晴 若葉よ来年は海へゆかう」

海からあがってきたきれいな貝たちが、若葉をとりまくと、
若葉も、貝になってあそぶ。


金子光晴 「愛情」8

 なにを申しても、もう
太真はゐない。

 あのお尻からもれる
疳高いおならを、

 一つ、二つ、三つ、四つと
そばで数取りしてゐた頃の

万歳爺々(くわうてい)のしあわせは
四百余州もかへがたかつた。


金子光晴 「愛情」29

 "唇と肛門とは親戚だ"と、
いくら話しても、その男には分らない。


金子光晴 「愛情」46

 みんな、ばらばらになるんだね。
もう、洋服もつくつて貰へなくなるね。
ジョーさんよ、いづれは皆さやうならだ。
太陽も、電燈も、コップの水も。

 みんな君が愛したものだ。酒も、詩も、
それから、大事なことを忘れてはいけない。
君だけをたよりに生きてきた奥さんの
なじみ深いおまんこさんに言ふ
       サンキュー・ベリマッチを。


金子光晴 「海をもう一度」

 あくと、あぶらと、小便で濁つた海は
海亀と、鮫と、しびれえひしか住めない。


金子光晴 「女の一生を詩(うた)ふ」

それは、男と女とは、人間であることでは平等だが、
おなじものを別の感性で受けとり、
おなじことばで、別のなかみを喋(しやべ)る。


金子光晴 「雨の唄」

君のからだのどのへんに
君がいるのだ?
君を見失ったというよりも
僕はまだ、君をみつけなかった。


金子光晴 「雨の唄」

僕の胸のなかに這ういたみ
それが、君ではないのか。
たとえ、君ではないにしても
君が投げかける影ではないか。


金子光晴 「雨の唄」

君は単数なのか。複数なのか。
きのうの君ははたして、きょうの君か。
いつともしらず、刻々に蒸発して
君の若さは、交代してしまう。


金子光晴 「短詩(三篇)」B

 人間がゐなくなつて、
第一に困るのは、神様と虱だ。
さて、僕がゐなくなるとして、
惜しいのは、この舌で、
なめられなくなることだ。

 あのビンもずゐぶん可愛がつて、
口から尻までなめてやつたが、
閉口したことは、ビン奴、
おしゃべりで、七十年間、
つまらぬことをしゃべり通しだ。


金子光晴 「短詩(三篇)」C

 そして、僕はしじんになった。
学問があひてにしてくれないので。
ビンに結んだ名札を僕は、
包茎の根元に結びつけた。


金子光晴 「そろそろ近いおれの死に」

詩だって? それこそ世迷ひごとさ。


金子光晴 「反対」

人のいやがるものこそ、僕の好物。
とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ。


金子光晴 「反対」

ぼくは信じる。反対こそ、人生で
唯一つ立派なことだと。
反対こそ、生きてることだ。
反対こそ、じぶんをつかむことだ。


金子光晴 「短章(二十三篇から)」A

枝と枝が支へる沈黙のほか
からんとして、なんにもない。


金子光晴 「短章(二十三篇から)」E

 健全な白い歯並。こいつが第一だ。ぬれて光る唇。漆戸棚のやうな黒光りする頑丈な胃。鉄のやうなはらわた。よく締まつた肛門。
 さあ。もつてらつしやい。なんでもたべるわ。花でも、葉でも、虫でも、サラダでも、牛でも、らくだでも、男たちでも、あしたにならないうちに、みんな消化して、ふというんこにしておし出してしまふから。
 そんな女に僕は、ときどき路傍ですれちがふんだが。


金子光晴 「短章(二十三篇から)」W

 冒頭もなく、終もなく、人生はどの頁をひらいてみても人生であるやうに
僕らはいつも、路の途中か、考の途中にゐる。

一人の友としんみり話すまもないうちに生涯は終りさうだ。
そののこり惜しさだけが霧や、こだまや、もやもやとさまよふものとなつてのこり、それを名づけて、人は"詩"とよぶ。


金子光晴 「そ ら」

生きてることは せうことない
肌でよごす肌 ふれればきずつく心


金子光晴 「多勢のイブに」

 イブの末裔はお祖々をかくし
棕(しゆ)櫚(ろ)の毛でぼやかしてアダムを釣り
沼辺の虫取りすみれを植ゑて
アダムの塔をHOTHOTさせる。


金子光晴 「わが生の限界の日々」

 四十、五十をすぎてからの日々の迅速さ。
メニューを逆さにして下から上へと、
一度抜(ぬ)けたら生え替(かは)らないこの歯ぐきで
人生を味ひ通す望みがあるか、ないか、
          炎天下で、垂氷(つらら)の下で。


4月28日締め切りの原稿も彫琢しまくって、ぴったし制限文字数で書いたのだが、  これから王将でお昼ご飯を食べに行って、帰ってきたら、もう一度、原稿に目を通して、思潮社の編集長の高木真史さんにワード原稿をメールに添付して送付しようっと。

もういま、完成した原稿を高木さんに送ったので、きょうはもう、することがない。金子光晴の詩句をルーズリーフに書き写そうかな。それとも、ちょっと休んで、横になって、本でも読むか。まず、とりあえず、コーヒーでも淹れよう。

送った原稿にアラビア数字が漢数字に混入していたので、訂正稿をいま送り直した。どんだけ間抜けなのだろうか。文章の内容ばかりにとらわれて、文字の統一を失念していた。まあ、その日のうちに、気がついてよかったけれど。送ってからでも原稿の見直しをしてよかった。というか、推敲を完璧にすべき!

晩ご飯を食べに出る。イオンで、チゲラーメンでも食べてこよう。

焼き飯も食べた。

ルーズリーフ作業終了。これから寝るまで読書。さて、なにを読もうか。ディックの短篇集『ペイチェック』に入っているものを読もう。さいきん知ったコメディアン二人組「アキナ」がおもしろい。直解主義的な言葉のやりとりが見事。

きょうも文学に捧げた一日であった。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月二十八日 「毎日のように日智庵」


これからお風呂。そして仕事に。

あしたも日知庵に行くと思うけど、きょうも、10時くらいに行く予定。飲んでばっかりや。ちゅうても、きょうも授業の空き時間は読書。ディックの短篇の再読。


二〇一七年四月二十九日 「きょうは、ひとりじゃないんだよ。えへへ。」


日智庵に行くまえに、ジュンク堂で、現代詩手帖の5月号の「詩集月評」を見た。ぼくの詩集『図書館の掟。』(思潮社オンデマンド・2017年2月刊行)の評を、時里二郎さんが書いてくださっていた。詩句の一行の引用もなく。というか、詩句のひと言の引用もなく。まあ、いいか。採り上げていただくだけでも。ね。これが無名の詩人のさだめかな。

いま日知庵から帰った。ひとりじゃないんだよ。えへへ。


二〇一七年四月三十日 「ゲイルズバーグの春を愛す」


ジャック・フィニイの短篇を読もうと思う。きのう、フィニイの『ゲイルズバーグの春を愛す』のトールサイズの文庫をブックオフで108円で買ったのだった。ほとんどさらの状態。

フィニイの短篇集、会話がほとんどなくって読みにくいけれど、このあいだ現代日本の作家の小説を開けたら会話ばっかりだったので、それも勘弁してほしいと思った。適当に、まぜまぜしたものが読みたいと思うのだが、極端な作家が多いのかな。

イオンでチゲラーメン食べてきた。これから読書に戻る。フィニイ。


二〇一七年四月三十一日 「ほんとうに文章って、怖い。」


いまも原稿に手を入れていた。いったん高木さんにお送りした原稿なのだけど、書き直しをしているのだ。さっき完璧だと思っていたのに、まださらによい原稿になっていく。怖いなあ、文章って。ちょっと休憩しよう。セブイレに行って、おにぎりでも買ってこようかな。

原稿、まだ手が入る。ほんとうに文章って、怖い。

ちょっと休憩しよう。言葉を切り詰めて切り詰めていると、頭がキリキリと傷む。とても単純なことを書こうとしているのだけれど、それがひじょうにむずかしいのだ。


陽の埋葬

  田中宏輔

                         

 高校の嘱託講師から予備校の非常勤講師になってしばらくすると、下鴨から北山に引っ越した。家賃が五万七千円から二万六千円になった。ユニット・バスの代わりに、トイレと風呂が共同になった。コの字型の二階建ての木造建築で、築二十年のオンボロ・アパートである。北山大橋の袂で、しかも、ぼくの部屋は入り口に一番近い部屋だったので、数十秒で賀茂川の河川敷に行くことができた。だから、北山の河川敷を歩いてそのまま下って、発展場の葵公園まで行くことが多かった。その夜は、しかし、仕事から帰って、ふと居眠りしてしまって、気がつくと、夜中の二時になっていた。そんな時間だったのだが、つぎの日が土曜日で、仕事が休みだったので、タクシーに乗って河原町まで行くことにした。千円をすこし超えるくらいの距離だった。四条通りの一つ手前の大通りの新京極通りでタクシーを降りると、交差点を渡って一筋目を下がって西に向かって歩く。数十メートルほど歩けば、八千代館という、昼の十二時から朝の五時までやっている、オールナイトのポルノ映画館がある。食われノンケと呼ばれる若い子たちが、気持ちのいいことをしてもらいにきている発展場だった。ぼくのように二十代で、そういう食われノンケの子を引っかけにきている者は、ほかにはほとんどいなかった。狩猟にたとえると、いわば狩りをするほうの側の人間は、四十代の後半から六十代くらいまでの年配のゲイが多く、なかには、女装した中年の者もいたが、たいていは、サラリーマン風のゲイが多かった。狩られるほうの側は、学生風や、肉体労働者風など、さまざまな風体の者たちがいた。生真面目そうな学生や、髪の毛を染めて、鉢巻をした作業着姿の若い子もいた。
 入口から入ってすぐのところにある扉を開いてなかに入った。映画館に入っても、外の暗さと変わらないので、昼に入ったときとは違って、目が慣れるのに時間がかかるということはなかった。一階の座席の後ろに、よく見かけるブルーの大きなポリバケツのゴミ箱と、ガムテープを貼って傷んだ箇所をつくろってある白いビニール張りのソファーが一つ置いてあるのだが、そのソファーの上に、横になって寝ている振りをしている男がいた。もしかすると、ほんとうに眠っていたのかもしれないが。三十代半ばくらいのサラリーマンだろうか、スーツ姿であった。その男のスラックスの股間部分は、まるで陰茎が硬く勃起しているかのように思わせる盛り上がり方をしていた。男の膝から下は、ソファーの端からはみ出していて、脚が膝のところで、くの字型に折れ曲がっていた。顔を覗き込んだが、ぼくのタイプではなかった。カマキリを太らせたような顔だった。緑色の顔をしていた。ぼくは、ポリバケツのゴミ箱とソファーに対して正三角形を形成するような位置に立って、最後部の座席の後ろから一階席すべてを眺め渡した。この空間自体を、「ハコ」と呼び、「ハコ」のなかで、性的な交渉をすることを「ハコ遊び」と称する連中もいる。「発展場」を英語で、hot spot という。hot には、「暑い」という意味と、「熱い」という意味があるが、どちらも、それほど適切ではないように思われる。むしろ、濡れたところ、べちゃべちゃとしたところ、ぬるぬるとしたところということで、wet spot とか、あるいは、ぺちゃぺちゃとか、ちゅぱちゅぱとかいった音を立てるところとして、damp apot とかと呼ぶほうがいいだろう。しかし、damperには、たしかに、「濡らす人」という意味があって、そこのところはぴったりなのだけれど、「元気を落とさせる人」とか、「希望・熱意・興味などを幻滅させる人」とかいった意味もあるので、発展場に食われにきている男の子や男に対して、陰茎を萎えさせるという意味にもなるから、スラングとしては、あまり適していないかもしれない。オーラル・セックス、いわゆるフェラチオ、もしくは、尺八と呼ばれる口と舌を駆使する性技があるが、ときには、喉の奥にまで勃起した陰茎を呑み込んで、意思では自在にならない間歇的な喉の筋肉の麻痺的な締め付けでヴァギナ的な感触を味合わせる「ディープ・スロート」という、有名なポルノ映画のタイトルにもなった性技もあるが、虫歯のために歯の端っこが欠けてとがっていたり、ただ単にへたくそで、勃起した陰茎に、しかも、それが仮性包茎であったりして亀頭が敏感なものなのに、それに歯の先をあてたりする連中がいて、たしかに、勃起した陰茎を萎えさせる者もいるのだが、ぼくは、自分のものが仮性包茎で、勃起してもようやく亀頭の先の三分の一くらいが露出するようなチンポコで、とても敏感に感じるほうなので、相手のチンポコを口にくわえるときには、とても気をつけている。
 タイプはいなかった。女装が二人いた。三つのブロックに別れた座席群のうち、スリーンに向かって左側のブロックの最後部の左端の座席に一人と、真ん中のブロックの前のほうに一人。左側の左端にいた、まるでプロレスラーのような巨体の女装は、六十代くらいの小柄な老人と小声で話をしていた。もう性行為は終わったのだろうか。金額はわからないが、その巨体の女装は、お金をもらって、フェラチオをするらしい。直接、本人から聞いた話である。真ん中のブロックの前のほうにいた女装もまた、自分の隣の席に男を坐らせていた。先に坐っていた男の隣の席に、あとから坐りに行ったのか、それとも、後ろに立っていたその男に声をかけて、いっしょに坐ったのだろう。もしかすると、顔なじみの客なのかもしれない。しかし、スクリーンのほうに顔を向けているその客の顔はわからなかった。彼女はとても小柄で、まだ若くて、きれいだった。ノンケの男からすれば、女の子と見まがうくらいであろう。彼女は、わざわざ大阪から、お金を稼ぎにきているという。例の左側のブロックに坐っていたプロレスラーのような巨体の女装から聞いた話である。小柄なほうの女装の彼女は、隣に坐っている若そうな男のその耳元で話をしていたが、やがて、その男の股間に顔を埋めた。ぼくのいた場所からは、彼女が背を丸めて、彼女の座席の背もたれに姿が見えなくなったことから、そう想像しただけなのだが、そうであるに違いなかった。その若そうな男は、後ろから見ただけなので、正面側の顔はわからなかったが、彼がぼく好みの短髪で、若そうで、いかにもがっしりとした体つきをしていたことは、スクリーンの明かりからなぞることができる彼の頭の形や、垣間見える横顔の一部や、首とか肩とか上腕部とかいったものの輪郭や質感などから想像できた。ほかに五人の観客がいたが、どれも中年か老人で、ぼくがいけるような男の子はいなかった。二階にも座席があったので、二階にも行ったが、若い子は一人しかいなかった。ひょろっとした体型の、カマキリのような顔をした男の子だった。顔も緑色だった。ほかにいた五、六人の男たちも、またみんな年老いたカマキリのような顔をしていたので、ぼくは、げんなりとした気分になって、もう一度一階に下りて、真ん中のブロックの真ん中のほうに坐った。そこからだと、かすかだが、先ほどから前でやっていた女装と若そうな男とのやりとりを見ることができたからだ。ときおり、スクリーンが明るくなって、若そうな男が、頭を肯かせているのがわかった。女装の彼女の声は、映画の音に比べるとずいぶんと小さなものなのに、耳を澄ますと、はっきりと聞こえてきた。人間の生の声は、機械から聞こえてくる人間の録音した声と混じっていても、けっして混じることなどないのかもしれない。どんなにかすかな音量の声であっても、ぼくには、それが人間の生の声なのか、録音された声なのか、はっきりと聞き分けることができた。むしろ、かすかであればあるほど、よく聞き分けることができるように思われる。山羊座の耳は地獄耳だと、占星術か何かの本で読んだことがある。「気持ちいい?」と、女装の彼女は尋ねていたのだ。男は訊かれるたびに肯いていた。これ自体、プレイの一部なのだと思う。ぼくもまた、彼女と同じように、くわえたチンポコを口のなかに入れたまま、相手の股間に埋めた自分の顔を上げて、快感に酔いしれたその男の子の恍惚とした表情を見上げながら、おもむろにチンポコから口を放して、「気持ちいい?」と訊くことがあるからだ。ほとんどの男の子は「いい……」と返事をしてくれる。肯くことしかしてくれない者もいるが、たいていの子は返事をしてくれて、それまで声を出さなかった者でも、あえぎ声を出しはじめるのだった。その声は、もちろん、ぼくをもあえがせるものだった。その男の子があえぎ声を出すたびに、ぼくにも、その男の子が亀頭で味わう快感が、その男の子が彼の敏感な亀頭の先で味わう快感の波が打ち寄せるのだった。短髪の彼が、突然硬直したように背もたれに身体をあずけた。いくところなのだろう。男は、小刻みに身体を震わせた。しばらくすると、女装の彼女が顔を上げた。すると、音を立てて、乱暴に扉を押し開ける音がした。ぼくは振り返った。
 沈黙が、いつでも跳びかかる機会を狙って、会話のなかに身を潜めているように、記憶の断片もまた、突然、目のなかに飛び込んでいく機会を待っていたのだ。その記憶の断片とは、ぼくの記憶のなかにあった、京大生のエイジくんのものだった。扉を勢いよく押し開けて入ってきたのは、エイジくんの記憶を想起させるほどにたくましい体格の、髪を金髪に染めた短髪の青年だった。二十歳くらいだろうか。ぼくは立ち上がって、最後部の座席のすぐ後ろに立った。その青年のすぐ前に。その青年の視線は、入ってきたときからまっすぐにただスクリーンにだけ向けられていたのだが、ふと思いついたかのように、くるっと横を振り向いてトイレに行くと、ちょうど小便をしたくらいの時間が経ったころに出てきた。すぐに追いかけなくてよかったと思った。出てきた青年は、最初から坐る場所を決めていたかのように、すっと、真ん中のブロックにある中央の座席に坐った。端から三番目で、それは、食われノンケの子がよく坐る位置にあった。端から一つあけて坐る者は、ほぼ確実に食われノンケであったが、端から二つあけて坐る食われノンケの子も多い。その青年は、紺色のスウェットに身を包んで坐っていた。そういえば、エイジくんも、以前にぼくが住んでいた下鴨の部屋に、スウェット姿でよく訪ねてきてくれた。エイジくんのスウェットはよく目立つ紫色のもので、それがまたとてもよく似合っていたのだけれど。一つあけて、ぼくは、青年の横に坐った。青年は、まっすぐスクリーンに顔を向けて、ぼくがそばに坐ったことに気がつかない振りをしていた。傷ついた自我の一部がひとりでに治ることもあるだろう。傷ついた自分の感情の一部が知らないうちに癒されることもあるだろう。しかし、その青年の横顔を見ていると、傷ついた自我の一部や、傷ついた自分の感情の一部が、すみやかに癒されていくのを感じた。そして、胸のなかで自分の心臓が踊り出したかのように激しく鼓動していくのがわかった。ぼくは、自分が坐っていた座席の座部が音を立てないように手で押さえながら、腰を浮かせて、彼の隣の席にゆっくりと移動していった。彼はそれでもまだスクリーンに見入っている振りをしていた。見ると、彼の股間は、その形がわかるくらいに膨らんでいた。ぼくは、自分の左手を、彼の股間に、とてもゆっくりと、そうっと伸ばしていった。中指と人差し指の先が彼の股間に達した。そこは、すでに完全に勃起していた。やわらかい布地を通して、触れているのか触れていないのかわからない程度に、わざとかすかに触れながら、まるで、ふつうに触れると壊れてしまうのではないかというふうに、やさしくなでていくと、勃起したチンポコはさらに硬く硬くなって、ギンギンに勃起していった。青年の顔を見ると、ちょっと困ったような顔をして、ぼくの目を見つめ返してきた。ぼくは、彼のチンポコをパンツのなかから出して、自分の口に含んだ。硬くて太いチンポコだった。巨根と言ってもいいだろう。ぼくは、その巨大なチンポコの先をくわえながら、舌を動かして、鈴口とその周辺をなめまわした。すると、その青年が、「ホテルに行こう。おれがホテル代を出すから。」と言った。そんなふうに、若い子のほうからホテルに行こうなどと誘われるのは、ぼくにははじめてのことだった。しかも、若い子のほうが、ホテル代を出すというのだ。びっくりした。その子は自分のチンポコをしまうと、ぼくの手を引っ張って、座席をさっと立った。彼は手をすぐに離したけれど、ぼくにも立つように目でうながして、扉のほうに向かった。ぼくは、その後ろに着いて行く格好で、彼の後を追った。
 彼は、自分の車を映画館のすぐそばに止めていた。車のことには詳しくないので、ぼくにはその車の名前はわからなかったけれど、それが外車であることくらいはわかった。車は、東山三条を東に進んで左折し、平安神宮のほうに向かってすぐにまた左折した。彼は、「デミアン」という名前のラブホテルの地下の駐車場に車を止めた。車のなかで、彼は自分が中国人であることや、いま二十四才であるとか、中学を出てすぐ水商売の道に入って、いまは風俗店の店長をして、金があるから、ホテル代の心配はしなくていいとか、長いあいだ付き合っている女もいて、その彼女とは同棲もしているのだけれど、その彼女以外にも、女がいるとかといった話をした。月に一度くらい男とやりたくなるらしい。初体験は、十六歳のときだという。白バイにスピード違反で捕まったときに、その白バイに乗っていた警官に、「チンコをいじられた」という。チンポコではなくて、チンコという言い方がかわいいと思った。しかし、顔を見ると、あまりいい思い出ではなさそうだったので、ぼくのほうからは何も訊くようなことはしなかった。初体験については、彼のほうも、それ以上のことは語らなかった。いまにして思えば、彼がしたような体験は、自分がしたことのなかったものなので、もっと具体的に聞いておけばよかったなと思われる。
 「このあいだ、大阪の梅田にあるSMクラブに行ったんやけど、おれって、女に対してはSなんやけど、男に対してはMになるんや。そやから、女のときは、おれが責めるほうで、男のときは、おれのほうが責められたいねん。」二人でシャワーを浴びながら、キスをした。キスをしながら、ぼくは、彼の身体を抱きしめて、右手の指先を彼の尻の穴のほうにすべらせた。中指と人差し指の内側の爪のないほうで、穴のまわりを触って、ゆっくりと二本の指を挿入していった。
 「おれ、後ろは、半年ぐらいしてへんねん。」すこし顔をしかめて、ぼくの目を見つめる彼。ぼくは、指を抜いて、彼の目を見つめ返した。「痛い?」シャワーの湯しぶきが、風呂場の電灯できらきらと輝いていた。「ちょっと。」と言って、彼は笑った。「痛くないようにするよ。」と言って、彼を安心させるために、ぼくも自分の顔に笑みを浮べた。
 ベッドに仰向けに横たわった彼の両足首を持ち上げて、脚を開かせ、尻の穴がはっきりと見えるように、尻の下に枕を入れて、ぼくは彼の尻の穴をなめまわした。穴を刺激するために、舌の先を穴のなかに入れたり、穴の周辺のあたりを、その粘膜と皮膚の合いの子のようなやわらかい部分を、唇にはさんだり吸ったりして、彼がアナルセックスをしたくなるように、そういう気分になるように刺激しようとして、わざと、ぺちゃぺちゃとか、ちゅっちゅっとか、派手に音を立てながら愛撫した。そうして、じゅうぶんにやわらかくなった尻の穴にクリームを塗ると、勃起したぼくのチンポコをあてがった。痛くないように、かなりゆっくりと入れていった。彼は最初に大きく息を吸って、ぼくのチンポコが彼の尻の穴のなかに入っていくあいだ、その息をじっととめていたようだった。ぼくが彼の足首から手を離して、彼の脇に手をやって腰を動かしはじめると、彼は溜めていた息を一気に吐き出した。それが彼の最初のあえぎ声を導き出した。途中で、バックからもやりたくなった。いったん、チンポコを抜いて、彼を犬のように四つんばいの姿勢にさせて、もう一度入れ直した。チンポコは、つるっとすべるようにして、スムーズに入った。彼は、ぼくの腰の動きに合わせて、頭を振りながら大きな声であえいだ。がっしりとした体格で、盛り上がった尻たぶに、ぼくの腰があたって、濡れた肌と肌がぶつかる、ぴたぴたという音が淫らに聞こえた。「なかに出してもいい?」と、ぼくが訊くと、彼はうんうんと肯いた。ぼくは、彼の引き締まった尻の穴のなかに射精した。
 彼は、北山にあるぼくのアパートの前まで車で送ってくれた。オンボロ・アパートに住んでいることが知られて恥ずかしいという思いが、彼に、また会ってくれるか、と言うことをためらわせた。本来は女が好きで、月に一度くらい男とやりたくなるという彼の言葉もまた、ぼくの気持ちをためらわせた。なにしろ、月に一度だけなのだ。
 人間は自分のことを知ってもらいたい生き物なのだと思った。初対面の相手に、自分が中国人で、自分が小学生のときに家族といっしょに日本に来て、兄弟姉妹が六人もいて、自分は長男で、中学校を出たら働かなくてはいけなくて、それで、学歴がなくても働ける水商売の道に入って、いまは風俗店の店長をしているということや、自分は女が好きで、いっしょに暮している女がいても、ほかにも女をつくって浮気をしているということや、それでも、月に一度くらいは男と寝たくなって、ああいったポルノ映画館に行って、男にやられるなんてことを、はじめて出会った人間に話したりなどするのだから。自分がいったいどういった人間で、自分がほかの人間とどう違っているのかを、はじめて出会ったぼくに話したりなどするのだから。
 車から降りて、別れのあいさつをした。アパートの前で、道路を振り返った。彼はすぐには車を出さずに、ぼくが自分の部屋に戻るまで車をとめていた。できた相手に、車で送ってもらうことは何度もあったけれど、彼のように、ぼくが部屋に入るまで見送ってくれるような子は一人もいなかった。また会えるかなと、口にすればよかったなと思った。
 一ヵ月後に、千本中立売にあるポルノ映画館の千本日活に行った。昼間だったので、入ってすぐにはわからなかったけれど、しばらく後ろに立って目が慣れていくのを待っていると、体格のいい、ぼくのタイプっぽい青年が一人いた。知っているゲイのおじさんが、ぼくの横に来て、「あの子、チンポ、くわえてくれるわよ。ホモよ。」と言った。チンポコとは違って、また、チンコとも違って、チンポという言い方は、なんだかすこし、下品な感じがすると思った。彼の体格は、おじさんの好みではなかったので、彼がぼくの好みであることを知っていて、その彼のことを教えてくれたつもりだったのだ。おじさんは、ジャニーズ系のちゃらちゃらとした、顔のきれいな、すっとした体型の男の子がタイプだった。ぼくとは、好みのタイプがまったく違っていた。だから、ごく気軽に、ぼくのほうに話しかけてきたのだろうけれど。ぼくは、彼が二つあけて坐っている座席のほうに近づいた。彼は紺色のニットの帽子をかぶっていた。横から顔をのぞくと、このあいだ八千代館で出会った髪を金髪に染めた短髪の青年だった。「また会ったね。」と、ぼくが話しかけると、彼はにっこりと笑って肯いた。ぼくは彼の股間をまさぐった。その大きさと硬さを、ぼくの手が覚えていた。ぼくは腰をかがめて彼のチンポコをしゃぶった。彼はなかなかいかなかった。いくら時間をかけてもいきそうになかった。「いかへんかもしれへん。ごめんな。おれ、いまストレスで、頭にハゲができてんねん。」そう言って、ニットの帽子を脱いだ。髪は、相変わらずきれいに刈りそろえられた金髪だったけれど、そこには、たしかに、十円硬貨よりすこし大きめの大きさの円形のハゲができていた。「おれが勤めてた風俗店がつぶれてしもうてん。それでいま仕事してなくて、ストレスになってんねん。」彼が着ている服は、別に安物ではなさそうだったけれど、言葉というものは不思議なもので、そんな言葉を聞くと、彼が着ていた服が、急に安物に見えはじめたのだ。坐っているのが彼だとわかったときには、ぼくは腰を落ち着けて、彼といろいろしゃべろうかなと思ったのだけれど、彼の話を聞いて、仕事をしていないという状況にある彼に、万一、たかられでもしたら嫌だなと思って、彼の太ももの上に置いていた手で、彼の膝頭を、二度ほど軽くたたくと、立ち上がって、彼のそばから離れたのだった。彼は不思議そうな顔をして、ぼくの顔を見ていたが、ぼくの表情のなかにある、そういったぼくの気持ちを知ったのだろう。一瞬困惑したような表情になっていたけれど、すぐに残念そうな顔になり、その顔はまたすぐに険しい目つきのものに変化した。一瞬のことだった。その一瞬に、すべてが変わってしまった。ぼくは、その変化した彼の顔を見て、しまったなと思った。彼は、ぼくにたかるつもりなんて、ぜんぜんなかったのだ。その一瞬の表情の変化が真実を物語っていた。彼がそんな男ではなかったことに気がついて、ぼくは後悔した。でも、もう遅かった。彼はすっくと立ち上がると、ぼくが座席から離れた方向とは逆の方向から座席を離れて、映画館のなかからさっさと出て行った。ぼくは彼の後を追うこともできなくて、入り口と反対側の、廊下の奥にあるトイレに小便をしに向かった。


陽の埋葬

  田中宏輔



蟇蛙(ひき)よ、泣け。


泣くがいい。


ぎやあろ、ぎやあろと


泣くがいい。


父は死んだのか、


母は死んだのかと


泣くがいい。


降らせるものなら、


雨を降らせよ。
(『ブッダのことば』第一・蛇の章・二・ダニヤ、中村 元訳)

蟇蛙(ひきがえる)。


る。


せめて


おまえの背(せな)に降らすため、


ぎやあろ、ぎやあろと


泣くがいい。


雨よりほかに触れるもののないその背皮(そびら)、


背中は曲って、足はびっこで、
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

何者も顧みぬ醜い瘤疣(こぶ)の塊、


穢(けがら)わしいせむしのひき蛙(がえる)。
(シェイクスピア『リチャード三世』第四幕・第四場、福田恆存訳、句点加筆)

祈りを棄てた蛙が


みんなそうであるように、
(グリム童話『こびとのおくりもの』高橋健二訳)

おまえのせなかはまがってる。
(グリム童話 そばの、がちょう番の女』高橋健二訳)

る。


おお、蟇蛙(ひき)よ、蟇蛙(ひき)よ。


だれがおまえをつくったのか?
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)

だれに


おまえはつくられたのか?


さあ、


ハンカチをお空(あ)け、
(シュトルム『みずうみ』森にて、高橋義孝訳)

おまえの美しい骨はどこにある?


祈りの声といっしょに


おまえは、おまえの美しい骨を、どこに棄ててきたのか?


おお、蟇蛙(ひき)よ、蟇蛙(ひき)よ、泣け。


蟇蛙(ひき)よ、泣け。


泣くがいい。


ぎやあろ、ぎやあろと


泣くがいい。


父は死んだのか、


母は死んだのかと


泣くがいい。


降らせるものなら、


雨を降らせよ。
(『ブッダのことば』第一・蛇の章・二・ダニヤ、中村 元訳)

蟇蛙(ひきがえる)。


る。


せめて


おまえの背(せな)に降らすため、


ぎやあろ、ぎやあろと


泣くがいい。


まがった背骨と


その身をひきずり
(伝道の書一二・五)

美しい骨が出る
(泉 鏡花『春昼後刻』)

墓から墓へと
(ベルトラン 『夜のガスパール幻想詩』イスパニアトイタリア・I・僧房、伊吹武彦訳)

さ迷い歩け。

美しい骨が出る
(泉 鏡花『春昼後刻』)

墓から墓へと
(ベルトラン『夜のガスパール幻想詩』イスパニアとイタリア・I・僧房、伊吹武彦訳)

さ迷い歩け。




*




るるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる
(草野心平 『春殖』)

電話の向こうで、


生埋(いきうめ)になつた
(トリスタン・コンビエェル『蟾蜍』上田 敏訳)

ひき蛙が呼んでいる。
(シェイクスピア『マクベス』第一幕・第一場、福田恆存訳)

「わたし 死んだのよ 死んだのよ 死んだのよ」と
(マヤコフスキー『背骨のフルート』稲葉定雄訳)

そうだ、
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』4、浅倉久志訳)

ママは死んだんだ。
(ナボコフ『ロリータ』第一部・32、大久保康雄訳、句点加筆)

「此方(こちら)へいらっしゃい。こちらへ」
(志賀直哉『網走まで』)

「此処なら日が当たりませんよ」と
(志賀直哉『網走まで』)

ああ、わたしはどこへ行くことができよう。
(創世記三七・三0)

骨でできた
(オクタビオ・パス『砕けた壺』桑名一博訳)

鍵束が擦れ合う場所のほかに。


そこは、


骨でできた
(ズビグニェフ・ヘルベルト『釦』工藤幸雄訳)

鍵束が擦れ合う処。


ああ、電話線地下ケーブルが燃える!


絵が溶けて、絵の具に戻る?


苦しい、おお苦しい!
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳)

骨よ、
(本間弘行『みちのり』)

悲しみの骨よ。
(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』澤崎順之助訳)

ルル、


ルルルル、


ルルルル、


'Hello,'


もしもし、


'Hello,'


もしもし、




*




ああ、血だ、血だ、血だ!
(シェイクスピア「オセロウ」第三幕・第三場、菅 泰男訳)

真二つだ、真二つだ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

真二つになる、真二つに!
(シェイクスピア「あらし」第一幕・第一場、福田恆存訳)

上から下まで真二つに裂けた
(マタイによる福音書二七・五一)

誰かヒキガエルが道の上をはうのを見たか?
(ラー・クール「隣人愛」山室 静訳)

半裂きのヒキガエルを。


己れの身を真二つに引き裂き、


あらゆるものすべてのものの半身となるヒキガエルを。


おお、蟇蛙(ひき)よ、蟇蛙(ひき)よ。


半裂きのヒキガエルよ。


私はあなたの半身なのよ、
(シェイクスピア「ヴェニスの商人」第三幕・第二場、大山敏子訳)

せめて、


古い歌と祈りで私を埋葬しておくれ、
(メイスフィールド「別れの歌」大和資雄訳)

私はよろこんで滅びよう。
(ゲーテ「ファウスト」第一部、相良守峯訳)

私はよろこんで滅びよう。
(ゲーテ「ファウスト」第一部、相良守峯訳)


Corpus/Grain Side Version。

  田中宏輔



波音を聞いて、
(ヘンリー・ミラー『暗い春』夜の世界へ……、吉田健一訳)

足元を振り返った。
(マーク・ヘルプリン『シュロイダーシュビッツェ』斎藤英治訳)

僕が見たものは、
(ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

四角く切り取られた
(トム・レオポルド『誰かが歌っていう』29、岸本佐知子訳)

海だった。
(ジュマーク・ハイウォーター『アンパオ』第二章、金原瑞人訳)

四角い海は
(ステファニー・ヴォーン『スイート・トーク』大久保 寛訳)

見るまに
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』2、浅倉久志訳)

大きく
(トム・レオポルド『君がそこにいるように』土曜日、岸本佐知子訳)

部屋いっぱいに
(スティーヴ・エリクソン『黒い時計の旅』68、柴田元幸訳)

ひろがっていった。
(フォークナー『赤い葉』4、龍口直太郎訳)

小さな花がひとつ、
(スーザン・マイノット『セシュ島にて』森田義信訳)

さざ波といっしょにぼくのほうへ漂ってきた。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』VIII、高本研一訳)

まるで海のように青い
(日影丈吉『崩壊』三)

濃い青。
(ピーター・ディッキンソン『エヴァが目ざめるとき』第一部、唐沢則幸訳)

僕の見たことのない花だった。
(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

目の前につまみ上げて
(トム・レオポルド『誰かが歌っていう』5、岸本佐知子訳)

近くで見ると、
(スーザン・マイノット『セシュ島にて』森田義信訳)

その瞬間、
(志賀直哉『濁った頭』三)

一波(ひとなみ)かぶって
(泉 鏡花『化鳥』十)

はっと目をさました。
(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

すぐ後ろから声をかけられたのだ。
(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

妹が
(志賀直哉『児を盗む話』)

ハンカチをさし出した。
(ハイゼ『片意地娘(ララビアータ)』関 泰祐訳)

なんだい?
(キャロル『鏡の国のアリス』7、高杉一郎訳)

思い出せない?
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』4、浅倉久志訳)

どうかしたのかい?
(ジュリアス・レスター『すばらしいバスケットボール』第二部・2、石井清子訳)

思い出せないのね?
(カフカ『城』20、原田義人訳)

わからないよ。
(トム・レオポルド『誰かが歌っていう』3、岸本佐知子訳)

覚えてないんだ。
(サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』25、野崎 孝訳、句点加筆)

子供たちが並んでバスを待っていた。
(スーザン・マイノット『シティ・ナイト』森田義信訳)

どうしても解けないのよ、
(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第二部・第七章、望月市恵訳)

うん?
(スタインベック『二十日鼠と人間』三、杉木 喬訳)

バス・ステーションから一台のバスがゆっくり這うようにして出てきた。
(ゴールディング『蠅の王』10・ほら貝と眼鏡、平井正穂訳)

そうだ、思い出した。
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』4、浅倉久志訳)

ふと、
(谷崎潤一郎『産辱の幻想』)

思い出したよ。
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』4、浅倉久志訳)

青い
(トム・レオポルド『誰かが歌っていう』20、岸本佐知子訳)

花が真ん中に描かれている
(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

白いハンカチ
(川端康成『山の音』島の夢・二)

そのハンカチを
(ハイゼ『片意地娘(ララビアータ)』関 泰祐訳)

ぼくは
(バーバラ・ワースバ『急いで歩け、ゆっくり走れ』吉野美恵子訳)

結んだことがあった。
(グレイス・ペイリー『サミュエル』村上春樹訳)

いまもそのままかい?
(ギュンター・グラス『猫と鼠』II、高本研一訳)

妹は
(カフカ『村の医者』村の医者、本野亮一訳)

死んで生れた
(志賀直哉『母の死と新しい母』七)

袋児であつた。
(川端康成『禽獣』)

見ると、
(スタインベック『贈り物』西川正身訳)

結び目はそのままだった。
(ピーター・ディッキンソン『エヴァが目ざめるとき』第二部、唐沢則幸訳)

そら。
(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第二部・第二章、望月市恵訳)

これでいいかい?
(ヘミングウェイ『われらの時代に』第四章・三日間のあらし、宮本陽吉訳)

ぼくは
(サルトル『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳)

ハンカチを解(ほど)いて
(ヘミングウェイ『われらの時代に』第一章・インディアン村、宮本陽吉訳)

妹に
(夏目漱石『三四郎』三)

渡した。
(志賀直哉『母の死と新しい母』六)

バスが待っていた。
(ジャン=フィリップ・トゥーサン『浴室』直角三角形の斜辺、野崎 歓訳)

僕は
(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

妹と一緒(いつしょ)に
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、大山俊一訳)

バスに乗った。
(日影丈吉『緋文』一)

バスは
(ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』不在、三好郁朗訳)

音を立てて
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』4、浅倉久志訳)

動き出した。
(ヘミングウェイ『われらの時代に』第一章・インディアン村、宮本陽吉訳)

妹が
(志賀直哉『児を盗む話』)

ページを繰り
(ジイド『贋金つかい』第二部・二、川口 篤訳)

父の真似(まね)をして
(エレンブルグ『コンミューン戦士のパイプ』泉 三太郎訳)

詩のように
(シャーウッド・アンダスン『南部で逢った人』橋本福夫訳)

聖書の言葉を
(カポーティ『草の竪琴』5、大澤 薫訳)

呟(つぶや)き
(芥川龍之介『報恩記』)

はじめた。
(ジイド『贋金つかい』第二部・二、川口 篤訳)

僕は
(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

視線をそらして
(ゴールディング『ピンチャー・マーティン』14、井出弘之訳)

窓の外を眺めやった。
(サリンジャー『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』野崎 孝訳)


Spinal Cord / Nappy Sphere Edit。

  田中宏輔




●学校の子供たちに数学を教えている●わたしは●数学の教師●学校が済むと直ぐ帰って●二階へ上がって●二階の書斎で●読みかけの本を読んでいた●やがて●暗くなり●窓の外を●夜の間にひどい雨が降った●そのうち●わたしは●その本を読んでいると●ページをめくるごとに●うとうととして●そのままぐっすり●眠りこんでしまった●真夜中になっていた●ふと●目をこらして見ると●小さい蟻が●机の上に●コーヒーを持って現われた●蟻は●暗い階段を匐ふやうに昇って●コーヒーをはこんできたのだった●いつ目をさましても●目覚めるたびに●かならず同じ場所に現れた●蟻は●ものがたる●新しく生まれかわるために●ハンカチを探しつづけていた●という話であった●どのハンカチ?●どんなハンカチなの?●コーヒーをかきまわしながら●私は言った●ぼくのハンカチ●汚れたハンカチ●哀れな小さなハンカチよ●刺繍で縁取りされた●あのハンカチの隅っこには●ぼくの頭文字と紋がついているんだ●しかしどうやって見つけるのか?●いまでもみつかると思うかい?●忘れるのだ●しかし●返事がない●その蟻の●話はつづいた●蟻は●私の眼を見つめながら●語りつづけていた●くりかえしを聞かないうちに●聞こえないふりをして●立ち上がると●わたしは●窓のところへ行って、外の眺めを見た●雨はもう降っていなかった●じきに夜が明ける……●そのままなにも聞かないようなふりで立っていた●いつものやうに●蟻の●話はつづいた●朝といえば●太陽が出るか出ないころ●部屋には●隅々にまだ夜明けの暗さが漂っていた●そのおぼろな薄明りの中に●部屋の中央に●仄白いものが●あった●電話が鳴った●どうやってこの話から抜け出す?●どうやってこの部屋から出る?●壁に穴をあけて、そこから出て行く●行くがいい●わたしは●窓ぎわを離れて●机に●歩み寄ると●蟻を●つまんで●ぎゅっと圧しつぶし●ハンカチに包んで●ポケットに収めた●電話が鳴りつづけている●私は受話器を取りあげた●はい?●もしもし?●もしもし?●電話線の向うで●沈黙がつづいた●一分間近くの沈黙が続いた●わたしは●受話器を戻した●うしろでかすかな音がした●半開きになっていた扉のほうへ振りかえった●獣?●その獣は●猿だった●それは●亡霊のように●つぎつぎに現われたが●みんな●おなじ顔つき●うり二つ●そっくり同じだ●いったいお前たちは何者だ?●どうしてここへ来たのだ?●沈黙か?●何でお前たちは黙っている?●なんという不可解な猿なんだろう●話しかけても●それはなにも語ろうとはしない●猿どもは●じっと黙っていた●黙ったまま●立っていた●なぜ黙っている●さあ、黙ってないで言ってくれ●そうすればどこへでもついて行こう●すると猿どもは●あとについて来いという合図をした●どこへ行くのか?●いったいどこへ連れて行くつもりなんだ?●猿どもは●黙っている●箒をもった●一匹の猿が●先に立って歩き出した●猿たちの●あとについて階段を降り●行列に加はって●私はついて行った●猿どもは●ずうっと一列にならんで●黙ったまま●ぞろぞろと●歩みつづけた●獣の歩みにつれて●太陽が●昇ってくる●わたしは●一行の行く所へ何処までも従いて行った●行列は●海を見下ろす海岸の高い道を歩いていた●暫くすると●森に辿りついた●猿どもは●どんどん●森の中へはいっていった●一体どこまで私を●連れて行くつもりなんだ?●森は●たえず登りになってつづく●それを登りつめると、高い丘の頂きに出た●丘の頂上に出た●さびしい場所だった●猿どもは●いつのまにか姿を消してしまっていた●どこへ行ってしまったのか?●気がつくと、ひとりきりだった●ここにはわたしだけがある●ねむけがおそってきたので●わたしは●すこし盛りあがった地面を枕にして●あおむけに横たわり●この光景を眺めていた●真上にある太陽が眩しかった●反り身になって●頭をのけぞらせ●太陽に●陽の光に●身を曝していた●過ぎ去った日のいろんな場面が、つぎつぎに目さきにまざまざとよみがえった●わたしの幼いころの想い出にはいつも太陽がつきまとっている●太陽は●私を●散々な目にあわせた●私は●日の光を見るのが、いやになった●あっ●あれは何だろう?●つぎつぎに●太陽が●昇ってくる●一つ一つ●数えて行く●太陽はますます高くなり●見ていると●太陽という太陽ことごとく●ゆっくり円を描いて●回り出した●すると猿ども●が●また現われ●わたしを●とり囲み●円を描いて●ぐるぐるまわりはじめるのだった●見ていると●いかに父に似たることか●そうだ●父ではないのか?●父よ●父たちよ●同じ一つの顔が●円を描いて歩いている●そうだ●猿どもは●父たちなのだ●わたしへとつながる●父たちなのだ●そうだ●みんな、みんな、この丘に眠っている●遠い祖先なのであった●光の渦●光の輪が●急速に廻転し始めた●すると猿どもは●一匹また一匹と●また消えて行った●光はますます烈しくなり●わたしは●頭をのけぞらした●すると●太陽が●回転を止め●一つまた一つと●空から落ちてきた●太陽という太陽ことごとく●一直線に落ち始めた●苦しい、おお苦しい!●頭が焼ける●頭が焼ける、心臓も●心臓も?●心臓は生きていた●まだ心臓の鼓動が感じられた●心臓の脈管は百と一つある●血管の一つ一つが●波の音になる●心臓は知っていた●永遠に海は呼ぶのだ●ああ●体全体が急激にどんどん小さくなっていく●人間の姿がわたしから奪われて行く●さあ、わが目よ、これが見おさめだ●その目はくらむ●いまに見えなくなる●一段とからだを反らし●両の腕をさし伸べ●私は●ふり返る●海だった●突然、海が見え出した●海が見えた●目を凝らして見ると●海のほとり●波打ち際で●つぎつぎに●土がもりあがり●地雷が●出て来る●どうしてこんなにたくさん?●どうしてこんなに夥しいのか?●それは●地雷が埋めてある●海だった●どれくらいいたのか●夥しい●地雷が●動いていく●ああ、苦しい、苦しい●もうたくさんだ●何もかも●もう●これっきり●これをかぎりの光景●わたしには最後の光●ほら●爆発!●とつぜん●目の眩むような光線が●るるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる●電話?●電話が鳴っているのが聞こえる●ぼくは●目をあけた●爆発があった●爆弾?●なんの夢を見ているの?●ん?●ぼくのこと?●ねえ●坊や●教えてくれない?●教会はどちらにあるの?●ん?●どこに?●ぼくに言ってるのかい?●聞こえないの?●聞いてるよ●なぜぼくにそんなこと聞くんだい?●どうして教えてくれないの?●ねえ●どこ?●どこにあるの?●このバスでいいの?●ぼくは知らない●何も知らない●知ってれば教えてあげる●ぼくが知っているのは●せいぜいのところ●こうなったことだ●今日も●また●take the wrong bus●間違ったバスに乗る●ところで●ほかのひとたちは?●ルルル●ルルル●電話のベルが鳴り響いたので●ふりかえって見た●猿が●また●亡霊のように現われた●電話のベルが鳴るたびに●沈黙の●猿が●わたしを●運ぶ●あっ●バスが●角をまがった●ほら●見て●窓のほうに顔をむけた●バスがとまった●ポケットからはバイブルが出て来た●さあ●坊や●どうしたの?●どうしたんだっけ?●ぼく、いったいどうしたんだっけ?●ぼくは?●ああ●ぼくはなにをしたらいい?●ぼくがやりたかったのは……●ああ、そうだ、ぼくは●ぼくは●バスを降りて●戦場に行こう●戦場?●戦場!●戦争だって平ちゃらさ●で●今度のバスは何時?●あっ●電話が鳴った●もういかなきゃ●おら行くよ●さようなら●



Reference

●ノサック『弟』中野孝次訳●ヨブ記四・一六●原民喜『狼狽』●志賀直哉『濁った頭』●原民喜『沈丁花』●志賀直哉『邦子』●志賀直哉『児を盗む話』●ガルシン『四日間』小沼文彦訳●ヨエル書三・一五●原民喜『破滅の序曲』●志賀直哉『城の崎にて』●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第三十章、鈴木幸夫訳●ヨブ記四・一六●コルターサル『石蹴り遊び』17、土岐恒二訳●コンラッド『ナーシサス号の黒人』高見幸郎訳●志賀直哉『濁った頭』●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第三十一章、鈴木幸夫訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●バルザック『ゴリオ爺さん』三、水野亮訳●原民喜『雲雀病院』●バルガス=リョサ『緑の家』IV・一章、木村榮一訳●川端康成『十七歳』●スタンダール『パルムの僧院』下巻・第二十三章、生島遼一訳●コルターサル『石蹴り遊び』17、土岐恒二訳●サン=ジョン・ペルス『讃』多田智満子訳●原民喜『魔のひととき』●ラリイ・ニュートン『地球からの贈り物』12、小隅黎訳●バルガス=リョサ『緑の家』IV・一章、木村榮一訳●オラシオ・キローガ『羽根枕』安藤哲行訳●原民喜『吾亦紅』昆虫●サン=ジョン・ペルス『讃』多田智満子訳●ツルゲーネフ『岩』神西清訳●ヘッセ『デーミアン』吉田正己訳●ゾラ『ナナ』安東次男・関義訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第五章、鈴木幸夫訳●シェイクスピア『オセロウ』第三幕・第三場、管泰男訳●ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』第II部、水野忠夫訳●ビオイ=カサーレス『豚の戦記』18、荻内勝之訳●ブレイク『天国と地獄との結婚』土居光知訳●ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』第III部、高本研一訳●ジュネ『ブレストの乱暴者』澁澤龍彦訳●ギー・シャルル・クロス『あの初恋』堀口大學訳●ガルシア=マルケス『族長の秋』鼓直訳●ゾラ『ナナ』安東次男・関義訳●ゾラ『ナナ』安東次男・関義訳●プルースト『失われた時を求めて』スワン家の方へ、鈴木道彦訳●カルヴィーノ『むずかしい愛』ある写真家の冒険、和田忠彦訳●ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』下、河島英昭訳●リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第一章、鈴木幸夫訳●ヴァレリー『セミラミスの歌』鈴木信太郎訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第四章、鈴木幸夫訳●『イソップ寓話集』蟻、山本光雄訳●バタイユ『眼球譚』猫の目、生田耕作訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第十八章、鈴木幸夫訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第二十九章、鈴木幸夫訳●ギマランエス・ローザ『大いなる奥地』中川敏訳●プルースト『失われた時を求めて』囚われの女、鈴木道彦訳●箴言八・二七●オースティン『自負と偏見』四三、中野好夫訳●フロベール『ボヴァリー夫人』第一部・二、杉捷夫訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●オースティン『自負と偏見』二〇、中野好夫訳●原民喜『鎮魂歌』●『イソップ寓話集』蟻と甲虫、山本光雄訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第四章、鈴木幸夫訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第六章、鈴木幸夫訳●シェンキェーヴィチ『クウォーヴァーディス』第一巻・第二〇章、梅田忠良訳●オースティン『自負と偏見』四五、中野好夫訳●シュトルム『みずうみ』高橋義孝訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第三十四章、鈴木幸夫訳●フェリスベルト・エルナンデス『水に浮かんだ家』平田渡訳●原民喜『溺没』●ル・クレジオ『海を見たことがなかった少年』豊崎光一訳●三島由紀夫『禁色』●ポール・オースター『幽霊たち』柴田元幸訳●ポール・オースター『幽霊たち』柴田元幸訳●エゼキエル書一二・一二●ジョン・ダン『目覚め』篠田一士訳●ヨハネによる福音書一九・二八●シュトルム『みずうみ』高橋義孝訳●シュトルム『みずうみ』高橋義孝訳●オースティン『自負と偏見』二〇、中野好夫訳●レイ・ブラッドベリ『たんぽぽのお酒』北山克彦訳●レイ・ブラッドベリ『たんぽぽのお酒』北山克彦訳●ランボー『七歳の詩人たち』堀口大學訳●ル・クレジオ『モンド』豊崎光一・佐藤領時訳●アーヴィング『ガープの世界』15・ベンセンヘイバーの世界、筒井正明訳●アーヴィング『ガープの世界』13・ウォルトの風邪、筒井正明訳●スタニスラフ・レム『ソラリスの陽のもとに』飯田規和訳●ポール・オースター『シティ・オヴ・グラス』山本楡美子・郷原宏訳●プイグ『赤い唇』野谷文昭訳●プイグ『赤い唇』野谷文昭訳●ノーマン・メイラー『夜の軍隊』第一篇・第一部、山西英一訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第二十一章、鈴木幸夫訳●原民喜『魔のひととき』●ヨハネによる福音書一九・二八●カルヴィーノ『むずかしい愛』ある会社員の冒険、和田忠彦訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第一章、鈴木幸夫訳●アンリ・バルビュス『地獄』V、田辺貞之助訳●ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』上、河島英昭訳●ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』上、河島英昭訳●オラシオ・キローガ『羽根枕』安藤哲行訳●シルヴィア・プラス『オーシャン一二一二−W』徳永暢三訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●イバニェス『血と砂』会田由訳●マースターズ『丘』衣更着信訳●パヴェーゼ『月とかがり火』米川良夫訳●シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第一場、大山俊一訳●アンリ・バルビュス『地獄』VII、田辺貞之助訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、疑問符加筆=筆者●ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』第I部、水野忠夫訳●ゴットフリート・ベン『ノクターン』生野幸吉訳●プーシキン『ボリス・ゴドゥノフ』佐々木彰訳●トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳●志賀直哉『雨蛙』●ボルヘス『ウンドル』篠田一士訳●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●フロベール『ボヴァリー夫人』第二部・一、杉捷夫訳●ラリイ・ニーヴン『地球からの贈り物』2、小隅黎訳●オースティン『自負と偏見』二〇、中野好夫訳●シェイクスピア『マクベス』第二幕・第三場、福田恆存訳●シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳●シェイクスピア『夏の夜の夢』第二幕・第一場、福田恆存訳●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』1、鼓直訳●ギマランエス・ローザ『大いなる奥地』中川敏訳●ドノソ『ブルジョア社会』木村榮一訳●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●アンリ・バルビュス『地獄』XI、田辺貞之助訳●シモン『ル・パラス』平岡篤頼訳●リルケ『マルテの手記』生野幸吉訳●原民喜『幻燈』●フォースター『インドへの道』第一部・第四章、瀬尾裕訳●アーヴィング『ガープの世界』13・ウォルトの風邪、筒井正明訳●原民喜『冬日記』●志賀直哉『祖母の為に』●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●トマス・ハーディー『テス』第三部・再起、竹内道之助訳●ラリイ・ニーヴン『地球からの贈り物』2、小隅黎訳●原民喜『暗室』●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第三十二章、鈴木幸夫訳●サン=ジョン・ペルス『讃』多田智満子訳●ダンテ『神曲』浄罪篇・第七歌、野上素一訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳●フィリップ・K・ディック『ヴァリス』10、大瀧啓裕訳●志賀直哉『真鶴』●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第三十章、鈴木幸夫訳●志賀直哉『真鶴』●原民喜『心願の国』●カルペンティエール『この世の王国』第二部・II・大いなる契約、平田渡・木村榮一訳●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●ギマランエス・ローザ『大いなる奥地』中川敏訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第十五章、鈴木幸夫訳●セフェリス『わが歴史の神話』十六、秋山健訳●ドノソ『ブルジョア社会』木村榮一訳●オースティン『自負と偏見』四三、中野好夫訳●ヘミングウェイ『二心ある大川その一』谷口陸男訳●オースティン『自負と偏見』四三、中野好夫訳●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第二部・第十二章、大橋吉之輔訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第二十章、鈴木幸夫訳●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●シェイクスピア『マクベス』第一幕・第三場、福田恆存訳●パヴェーゼ『三人の娘』河島英昭訳●ガブリエラ・ミストラル『夜』荒井正道訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第十七章、鈴木幸夫訳●ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳●トーマス・マン『魔の山』第七章、佐藤晃一訳●トーマス・マン『魔の山』第七章、佐藤晃一訳●ドストエーフスキイ『カラマーゾフの兄弟』第一巻・第二篇・第八、米川正夫訳●原民喜『潮干狩』●ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳●シモン『ル・パラス』平岡篤頼訳●カミュ『追放と王国』客、窪田啓作訳●ベールイ『銀の鳩』第I部、小平武訳●ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』第II部、高本研一訳●イバニェス『血と砂』会田由訳●ズヴェーヴォ『ゼーノの苦悶』清水三郎治訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳●プルースト『失われた時を求めて』スワン家の方へ、鈴木道彦訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳●プルースト『失われた時を求めて』スワン家の方へ、鈴木道彦訳●シェイクスピア『マクベス』第五幕・第六場、福田恆存訳●ロブ=グリエ『嫉妬』白井浩司訳●ジョイス『ユリシーズ』13、ナウシカア、永川玲二訳●ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』第I部、高本研一訳●クローデル『真昼に分かつ』第一幕、鈴木力衛・渡辺守章訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳●ベルトラン『夜のガスパール』第三の書・六・鐘楼下の輪舞、及川茂訳●ベルトラン『夜のガスパール』第五の書・一・僧房、及川茂訳●ガルシン『ナジェジュダ・ニコラーエヴナ』小沼文彦訳●ヨハネの黙示録一九・一七●アラゴン『エルザの瞳』橋本一明訳●ロブ=グリエ『嫉妬』白井浩司訳●トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●ダンテ『神曲』天堂篇・第三十三歌、野上素一訳●シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第一場、大山俊一訳●ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』こころ、三好郁朗訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳●ヨブ記二六・一〇●プルースト『失われた時を求めて』スワン家の方へ、鈴木道彦訳●ヨハネの黙示録一九・一七●エウリピデス『ヘラクレス』川島重成・家内毅訳●サルトル『嘔吐』白井浩司訳●ビョルンソン『人の力を超えるもの』第一部・第一幕・第六場、毛利三彌訳●ヨハネによる福音書一七・二●ヨハネの第一の手紙二・一三●『ラ・ロシュフコー箴言集』考察III・顔と挙措について、二宮フサ子訳●ロブ=グリエ『嫉妬』白井浩司訳●サルトル『嘔吐』白井浩司訳●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●リルケ『ドゥイノの悲歌』第三の悲歌、手塚富雄訳●マリー・ノエル『哀れな女のうた』田口啓子訳●リルケ『ドゥイノの悲歌』第三の悲歌、手塚富雄訳●サルトル『嘔吐』白井浩司訳●マースターズ『丘』衣更着信訳●ユイスマンス『さかしま』略述、澁澤龍彦訳●ベールイ『銀の鳩』第II部、小平武訳●ベールイ『銀の鳩』第II部、小平武訳●原民喜『幻燈』●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●ロートレアモン『マルドロールの歌』第六の歌、栗田勇訳●ブロッホ『ウェルギリウスの死』第II部、川村二郎訳●ダンテ『神曲』浄罪篇・第三十三歌、野上素一訳●ヨハネによる福音書一九・二八●スタニスラフ・レム『ソラリスの陽のもとに』飯田規和訳●ヘッセ『魔術師の略伝』西義之訳●クローデル『真昼に分かつ』第一幕、鈴木力衛・渡辺守章訳●セフェリス『ミケネー』秋山健訳●プルースト『失われた時を求めて』ゲルマントの方、鈴木道彦訳●マイケル・ムアコック『この人を見よ』第一部、峯岸久訳●アラゴン『エルザの瞳』橋本一明訳●ヤーコブレフ『花むこと花よめ』宮川やすえ訳●シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、疑問符加筆=筆者●トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳●オウィディウス『変身物語』巻一、中村善也訳●死神の秘教『カタ・ウパニシャッド』第六章、服部正明訳●シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第四場、大山俊一訳●志賀直哉『真鶴』●ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳●ゴットフリート・ベン『唄』II、生野幸吉訳●イェイツ『塔』出淵博訳●ジェイン・アン・フィリップス『ファスト・レーンズ』篠目清美訳●オウィディウス『変身物語』巻二、中村善也訳●シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第五幕・第三場、大山敏子訳●エレミアの書一四・六●メーテルリンク『青い鳥』鈴木豊訳●ゾラ『ナナ』安東次男・関義訳●ゾラ『ナナ』安東次男・関義訳●プルースト『失われた時を求めて』スワン家の方へ、鈴木道彦訳●リルケ『オーギュスト・ロダン』第一部、生野幸吉訳●ナボコフ『キング、クィーンそしてジャック』出淵博訳●原民喜『不思議』●スタニスラフ・レム『ソラリスの陽のもとに』飯田規和訳●ユイスマンス『さかしま』第十一章、澁澤龍彦訳●ロートレアモン『マルドロールの歌』第一の歌、栗田勇訳●プルースト『失われた時を求めて』囚われの女、鈴木道彦訳●ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』第I部、高本研一訳●ジョン・ダン『恍惚』高松雄一訳●ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』菅野昭正訳●ジュネ『屏風』第八景、渡邉守章訳●ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』第I部、水野忠夫訳●ホーフマンスタール『人生のバラード』川村二郎訳●シルヴィア・プラス『オーシャン一二一二−W』徳永暢三訳●ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』菅野昭正訳●ナボコフ『キング、クィーンそしてジャック』出淵博訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第三十二章、鈴木幸夫訳●ホーフマンスタール『人生のバラード』川村二郎訳●ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』菅野昭正訳●ガッダ『アダルジーザ』腋、千種堅訳●ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳●メーテルリンク『青い鳥』鈴木豊訳●リルケ『神さまの話』見知らぬひと、手塚富雄訳●イェイツ『女のこころ』尾島庄太郎訳●リスペクトール『家族の絆』バラに倣いて、及川昭訳●ブロッホ『ウェルギリウスの死』第IV部、川村二郎訳●オウィディウス『変身物語』巻一、中村善也訳●クローデル『真昼に分かつ』第一幕、鈴木力衛・渡邉守章訳●アイザック・アシモフ『神々自身』第二部・3c、小尾芙佐訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第二十九章、鈴木幸夫訳●モーパッサン『テリエ館』青柳瑞穂訳●草野心平『春殖』●ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』22、鼓直訳●アーヴィング『ガープの世界』12・ヘレンのできごと、筒井正明訳●ホセ・ドノソ『この日曜日』ある日曜日の夜、内田吉彦訳●ザミャーチン『われら』小笠原豊樹訳●ビオイ=カサーレス『豚の戦記』41、荻内勝之訳●フィリップ・K・ディック『逆まわりの世界』12、小尾芙佐訳●ホセ・ドノーソ『閉じられたドア』染田恵美子訳●タニス・リー『死の王』巻の一・第三部・六、室住信子訳●ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』10、鼓直訳●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第一部・第四章、大橋吉之輔訳●リスペクトール『家族の絆』財産づくり、高橋都彦訳●ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』23、鼓直訳●リスペクトール『家族の絆』財産づくり、高橋都彦訳●タニス・リー『死の王』巻の一・第三部・六、室住信子訳●エイチ・ディー『キプロスよりの歌』II、安藤一郎訳●コルターサル『石蹴り遊び』41、土岐恒二訳●コルターサル『石蹴り遊び』41、土岐恒二訳●ビオイ=カサーレス『豚の戦記』28、荻内勝之訳●コルターサル『石蹴り遊び』46、土岐恒二訳●ホセ・ドノーソ『この日曜日』ある日曜日の夜、内田吉彦訳、疑問符加筆=筆者●ハックスリ『恋愛対位法』第七章、朱牟田夏雄訳●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第二部・第十一章、大橋吉之助訳●ルードルフ・アレクサンダー・シュレーダー『餘韻』淺井眞男訳、疑問符加筆=筆者●ナボコフ『キング、クィーンそしてジャック』出淵博訳、疑問符加筆=筆者●アンリ・バリビュス『地獄』XIV、田辺貞之助訳●パスカル『パンセ』第六章、前田陽一・由木康訳●タニス・リー『死の王』巻の一・第三部・六、室住信子訳●アンリ・バルビュス『地獄』XIV、田辺貞之助訳●ジイド『背徳者』第二部・一、淀野隆三訳●ジイド『背徳者』第二部・一、淀野隆三訳●ヴェルレーヌ『三年後』堀口大學訳●エウジェーニオ・モンターレ『蜃気楼』米川良夫訳●三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』●三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』●ボリス・ヴィアン『墓に唾をかけろ』伊東守男訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第二部・第十七章、大橋吉之輔訳●リルケ『マルテの手記』生野幸吉訳●アンリ・バルビュス『地獄』III、田辺貞之助訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●ケッセル『昼顔』桜井成夫訳●アンリ・バルビュス『地獄』III、田辺貞之助訳●リルケ『マルテの手記』生野幸吉訳●ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』こころ、三好郁朗訳●ヘミングウェイ『武器よさらば』第三部・第二十七章、石一郎訳●ロブ・グリエ『嫉妬』白井浩司訳●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第二部・第九章、大橋吉之輔訳●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第二部・第九章、大橋吉之輔訳●クローデル『真昼に分かつ』第一幕、鈴木力衛・渡辺守章訳●志賀直哉『山科の記憶』●コレット『牝猫』工藤庸子訳●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第二部・第十三章、大橋吉之輔訳●原民喜『焔』●スタンダール『カストロの尼』桑原武夫訳●リスペクトール『家族の絆』財産づくり、高橋都彦訳●三島由紀夫『禁色』●コレット『牝猫』工藤庸子訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●アンリ・バルビュス『地獄』I、田辺貞之助訳●ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第二部・第十六章、大橋吉之輔訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●W・C・ウィリアムズ『パターソン』第一巻・巨人の輪郭I、沢崎順之助訳●『エラの神話』第1部、杉勇訳●『エラの神話』第1部、杉勇訳、疑問符加筆=筆者●『エラの神話』第1部、杉勇訳、感嘆符加筆=筆者●G・ヌーヴォー『恋人』福永武彦訳●ボルヘス『他者』篠田一士訳●志賀直哉『山鳩』疑問符加筆=筆者●ロブ=グリエ『嫉妬』白井浩司訳●三島由紀夫『禁色』●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第一部・第四章、大橋吉之輔訳●ゴーリキイ『どん底』第四幕、中村白葉訳●ヘミングウェイ『武器よさらば』第二部・第十九章、石一郎訳。


陽の埋葬

  田中宏輔



日の暮れ方の川辺り、湯女(ゆな)の手の触るる神の背の傷痕、
  ──その瘡蓋は剥がれ、金箔となつて、水の中を過ぎてゆく……


(魚(いを)の潰れた眼が、光を取り戻す、光を取り戻す。)


日の暮れ方の川辺り、湯女(ゆな)の手の触るる神の背の傷痕、
  ──その傷口より滴る神の血、神の血は、砂金となつて、水の中を過ぎてゆく……


(……、刮(こそ)げた鱗(いろこ)や鰭々(ひれびれ)が、元に戻る、元に戻る。)


神の背を流るる黄金(わうごん)の川、湯女(ゆな)の手、湯女(ゆな)の手の椀に、溢れ、零れ、溢れ、零れ……


それでも、わたしは、わたしの
  ──傷はいやすことのできないもので(ミカ書一・九、罫線加筆)
      わが目は絶えず涙を注ぎ出して、やむことなく(哀歌三・四九)
    わたしの目には涙の川が流れてゐます。(哀歌三・四八、歴史的仮名遣変換)


打ち網の網目、絡みつく水藻、、水草、、、川魚、、、、


──わたしの涙は、昼も夜も、わたしの食物であつた。(詩篇四二・三、罫線加筆及び歴史的仮名遣変換)


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浮子(アバ)


浮子(アバ)


湯女(ゆな)の手が解(ほぐ)す、繭屑で拵へたる嬰兒(みどりご)、
  ──竹箍(たけたが)締めの木の盥(たらひ)の中、解(ほど)けた繭屑が、魚(いを)となつて泳ぎ出す、泳ぎ出す。


さうして、わたしも
  ──わたしの肩骨が、肩から落ち(ヨブ記三一・二二)
      わたしの骨はことごとくはずれ(詩篇二二・一四)
    悲しみによつて溶け去ります。(詩篇一一九・二八、歴史的仮名遣変換)


──主は彼らの水を血に変らせて、その魚を殺された。(詩篇一0五・二九、罫線加筆)


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浮子(アバ)


浮子(アバ)


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雨が流れてゐる。


a



雨が流れてゐる。


川の中では、ひつきりなしに、雨が流れてゐる。


──古い雨だ。


栞(しをり)、胙(ひもろぎ)、箒(ははき)持ち、虫瘤、馬塞棒(ませぼう)、燐寸箱(マツチばこ)、……、


──みんな、古い雨だ。


湯女(ゆな)の手の触れし、神の背の傷痕、
  ──神の背、神の背を流るる黄金(わうごん)の川、


其は、地に墜つ、湯女(ゆな)の手、湯女(ゆな)の手の椀に、溢れ、零れ、溢れ、零るる、黄金(わうごん)の川、


川の中では、ひつきりなしに、雨が流れてゐる。


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浮子(アバ)


浮子(アバ)


網代(あじろ)、簀子(すのこ)、礫石(さざれいし)、


──古い雨だ。


──みんな、古い雨だ。


湯女(ゆな)の手の触れし、神の背の傷痕、
  ──神の背、神の背を流るる黄金(わうごん)の川、


其は、地に墜つ、湯女(ゆな)の手、湯女(ゆな)の手の椀に、溢れ、零れ、溢れ、零るる、黄金(わうごん)の川、


川の中では、ひつきりなしに、雨が流れてゐる。


川の中では、ひつきりなしに、雨が流れてゐる。


先に訪ねて来たものも、後からやって来たものも、もう、ゐない、……


もう、ゐない、……


、……


石垣に濡れた雨、


だれもゐない橋上(けうじやう)、


雨も、雨に濡れてゐる。


雨も、雨に濡れてゐる。


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雨蛙(あまがへる)、


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雨蛙(あまがへる)、


輪禍(りんくわ)の轍(わだち)、


その骨の罅(ひび)に触れる処、


陽の埋葬

  田中宏輔



 苦悩というものについては、ぼくは、よく知っているつもりだった。しかし、じつはよく知らなかったことに気がついた。ささいなことが、すべてのはじまりであったり、すべてを終わらせるものであったりするのだ。たぶん、ぼくはいつもどこかで苦しみたいと願っていたのだろう。古い苦しみを忘れて新たな苦しみを見つけようとするところがあるのだ。愛が、ぼくのところにふたたび訪れるというのはよいことだ。たとえ、それがすぐに立ち去ってしまうものであっても。一つの微笑み。その微笑みは、ぼくの記憶の一部でしかなかった。それなのに、その微笑みは、ぼくの喜びのすべてを代表して、ぼくのこころを、その微笑みでいっぱいに満たすのだ。マコトが近づいてきた。彼もまた一つの傷であった。ぼくの傷になるであろうものであった。ぼくの横に腰をおろした。マコトは髪を少し伸ばしていた。きょうで、会うのは三度目になる。はじめて会ったのは、公園の便所の洗面台のところでだった。ラグビーをしていると言っていた。たしかに、そんな感じだった。日に焼けた顔に、きれいに生えそろった白い歯が印象的で、ボーズ頭が似合っていた。そのときは、何もなかった。マコトがトイレの中で済ませたばかりだったからだ。相手の男は、ぼくの顔をちらりと見ると、マコトを置いて、さっさと立ち去った。二度目に会ったときには、詩人がまだ生きていたときだった。ぼくは詩人と話をしていたので、マコトは、詩人とぼくの前を、ただ通り過ぎていくだけだった。マコトは、ぼくの顔を見て、「カッコええよ、宏輔さん。」と言ってきた。風はあるが、生あたたかく、つぎからつぎに汗が吹き出てくる。何度も裏返したり、表にたたみ直して使っていたので、ハンカチは汗と脂でベタベタしていた。ぼくが、ハンカチで額の汗をぬぐい取りながら、「そんなことないよ。」と言うと、マコトは、ぼくたちの前を通り過ぎていく一人の男を見て、「アウト・オブ・眼中。」と言った。ぼくのことは、と訊くと、「インサイド・範疇。」と言う。一見、ぶっきらぼうに見えるが、それは、マコトがそう見えるように振る舞っているからであろう。ありがとうという、ぼくの言葉の後に、しばしの沈黙。愛するとき、いったい、ぼくのなかのなにが、ぼくのなかのどの部分が、愛するのだろうか。ぼくは、マコトの顔といい、身体といい、その表情や、身体の線やその陰影までもつぶさに観察した。細部の観察によって、より実感を感じるというのは、精神がよく働くからであろう。思い出されるまで過去が存在しないように、観察の対象になっていないものは、少なくとも、まだ観察されていないときには、存在していなかったものなのだ。彼のまなざし、かれの唇を細部にわたって、ぼくが見つめているのは、いま彼をより強く、ぼくのなかに存在させるためだった。事物や事象がはっきりとした形をとるのは、こころのなかだけだからだ。川に映った、月の光や星の光がきれいだねって言うと、マコトは、近視だから、よけいにきれいに見える、と言った。光がにじんで見えるのだ。ふたりとも近視だった。ぼくたちは、Dについて話した。Dを服用するようになって、記憶力がどんどん増していくのだった。マコトよりも、ぼくの方が服用するのが早かったので、マコトは真剣な表情で、ぼくの話を聞いていた。熱中してしゃべっている間、鳴く虫も鳴かず、流れる水も流れなかった。ぼくの耳は、ぼくの目と同じように、マコトの息遣い一つ聞き逃すまいと注意を払っていたのだ。耳というものが注意を払ったものしか聞こえないというのは面白い。目が、目に入るものすべてを見ているのではないように、耳も聞こえるものすべてを聞いているわけではないということだ。そういえば、死んだ詩人は、こんな実験をしたことがあると言っていた。河川敷のベンチの端に横向きに坐って、目をつむり、藪のなかで鳴く虫の声と、川を流れる水の音のほうに、左右の耳を傾けて、片方ずつ、聞こえる音に意識を集中させてみたらしい。すると、虫の鳴く声に意識を集中すると、虫の声がだんだん大きくなってゆき、それにつれて、流れる水の音が徐々に小さくなり、さらに虫の鳴く声に意識を集中させると、流れる水の音はほとんど聞こえなくなってしまったという。反対に、川を流れる水の音に意識を集中させると、水の流れる音がだんだん大きくなり、それにつれて、藪のなかで鳴いている虫の声が徐々に小さくなり、さらに水の流れる音に集中させると、虫の鳴く声はほとんど聞こえなくなってしまったという。聴覚に意識が影響を与えるということだが、詩人は、この話をぼくに聞かせただけでなかった。このことは、詩人の残したメモのなかにも書かれていた。マコトは工場に勤務しているという。何を作っているのか訊いてみると、精密計測機器だという。ぼくは大学では化学系の学部で、そういった機械のことは、いくらか知っていたが、それ以上のことは訊かなかった。「宏輔さんは、数学の先生だったよね。オレは、数学なんか、ぜんぜんできひんかったし、嫌いな科目やったかな。」ぼくは、マコトの膝の上に手をおいた。マコトが、そのぼくの手の上に自分の手を重ねた。ぼくの手より分厚く大きな手だった。その手のまなざしを受けて、ぼくが唇を、マコトの唇に近づけると、マコトが目をつむった。唇が唇を求めて、はげしく絡み合った。その唇と唇のあいだで、何かが生まれた。それは愛だった。愛ではなかったとしたら、愛よりすばらしいものであった。それはこのひとときに生まれた悦びであり、後々、思い出されては胸に吊り下がるであろう悲しい悦びであった。手をふくらみの上にもってゆき、かたくなっていたのをたしかめた。マコトの手も、ぼくのかたくなったふくらみの上に置かれた。これ以上のことがしたくなったと言うマコト。ぼくが、マコトのジーンズのジッパーに手をかけると、ここでは嫌だと言う。じゃあ、ぼくの部屋にでもくるかい、と、ぼくは言った。まるで他に行くところがあってもいいかのように。
 ぼくたちは立ち上がって、川上から川下に向かって歩き出した。ふと視線を感じて振り返ると、ぼくが坐っていた場所に、死んだ詩人が坐っていた。しかし、ぼくにつられて、マコトが振り向いたときには、詩人の姿は消えていた。マコトがぼくの腕に、自分の腕を絡ませた。ぼくはマコトの手をぎゅっと握った。勃起したペニスが、歩くたびに綿パンの硬い生地にこすれて気持ちよかった。


もうすぐ百の猿になる。

  田中宏輔



 ジャン・ジュネの『小さな真四角に引き裂かれ便器に投げこまれた一幅のレンブラントから残ったもの』にある、「ある日、客車のなかで、前に腰かけていた旅客を眺めていた私は、どんな人も他の人と等価であるという啓示を得た。」「人はあらゆる他者に等しい、」「各人が単数の、複数の他者である。」「誰もが私自身、ただし、個別の外皮に隔離されたわたし自身だったのだ。」(鵜飼 哲訳)といった文章を読んでいると、一八七一年五月にランボーによって書かれた、ポオル・ドゥムニー、ジョルジュ・イザンバアル宛の二通の手紙のなかにある、「我とは、一個の他者である。」(平井啓之訳)といった言葉が思い出された。そのときには、「誰もが私である」というジュネの言葉と、「我とは、一個の他者である。」というランボーの言葉が、同じような意味を現わしているような気がしていたのだが、ぼくには、よく考えもしないうちに、よし、わかった、と思うことがよくあって、そのときにも、同じような意味なのだろうと漠然と思うだけで、深く考えなかったのであるが、あとで、自分の数学の時間に、命題を教える機会があって、命題とその逆命題の真偽について教えているときに、ジュネの言葉と、ランボーの言葉が思い出され、それらの言葉がけっして同じ意味を現わしているとは限らないということに気が付いたのであった。


他者とは、私ではあらぬ者、また私がそれではあらぬところの者である。
(サルトル『存在と無』第三部・第一章・II、松浪信三郎訳)

 仮に、他者と私とのあいだに相違というものがまったくなかったとしたら、他者と私とは等しい存在であるといえよう。しかし、細胞の個数や、その状態といったところまで同じ条件をもつ複数の肉体など存在しない。一個の肉体でさえ、時々刻々と、細胞の個数や、その状態は変化しているのである。一個の肉体でさえ、厳密な意味では、自己同一性を保つことなどあり得ないのである。それゆえ、ジュネとランボーの言葉を、そのまま字句どおりに受け取ることは誤りであろう。強調表現の一種と見なせばよい。すなわち、「誰もが私である。」は「誰もが私に似ているところがある。」に、「我とは、一個の他者である。」は「私は、ほかの誰かに似ているところがある。」というふうに。どれだけ「似ている」か、「すこし似たところがある」から「そっくり同じくらいによく似ている」に至るまで、さまざまな程度の「似ている」度合いがあるであろう。こう考えると、自己同一性について配慮する必要はなくなる。


それはいくらか私自身であった。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

 これなどは、「それはいくらか私に似ているところがあった。」という意味になるであろうか。


ぼくたちが出会うのは常にぼくたい自身。
(ジョイス『ユリシーズ』9・スキュレーとカリュブディス、高松雄一訳)

 この言葉から、「similia similibus percipiuntur. 似たるは似たるものに知らる。」というラテン語の成句が思い出された。「人間というのは、自分と似た者のことしかわからない。自分と似ていない者のことはわからない。」というのである。たしかに、自分に似た者のことはわかりやすい。しかし、生きていくうえで、自分に似た者ばかりが周りにいるわけではないことは周知の事実だ。よく生きていくためには、周りの人間のことを理解していなければならない。どうすればよいか。自分のほうから他者に似ていかすという方法がある。これが自然にできる場合がある。シャーウッド・アンダスンの『トウモロコシ蒔(ま)き』という作品に、「結婚生活がうまくいっている人たちには、ある種の共通点があるようだ。そういう夫婦はしだいにお互いに似通ってくる。顔までが似てくる。」(橋本福夫訳)とある。こういった現象は、恋人や夫婦といった間柄に限って起こることではない。「alter ego 親友」というラテン語の成句がある。もともとの意味は、「もう一人の私」である。小学生のときのことである。低学年でもなかった。おそらく、四年生か、そこらのことであったと思う。ある日、ぼくは、ぼくの話し方や、身振りの癖といったものが、いつの間にか、親しく付き合っていた友だちの話し方や身振りの癖にそっくりになっていたことに気がついたのである。そういえば、そのとき思ったのだが、そういったことは、それがはじめてのことではなくて、いつも、ぼくの方から、ぼくが親しくなった友だちの話し方や身振りの癖を真似ていっていたのであった。別に故意にではなく、それがごく自然なぼくの友だちとの接し方であったのである。自然といつも、ぼくの方から、友だちに似ていったのである。「私は誰かによく似ている。」という言葉をもじって言えば、「私は、誰かによく似ていく。」とでもなるであろうか。成人してからも、新しく親しくなった友だちの話し方や身振りの癖といったものが、ぼくにうつるということがあって、あるとき、そのことにふと気づく、といったことが、よくある。他者に似ていくということは、他者から強い影響を受ける傾向があるということである。詩を書きはじめたころは、そのことが怖かった。自分が他人の影響をすぐに受けるということが怖かったのである。すぐに他人に影響を受ける自分というものには、もしかしたら、個性などなく、個性的な詩を書くことなどできないかもしれない、と思われたのであった。しかし、その不安は、自分が多数の詩や小説を読んだりしていくうちに次第になくなっていったのである。多数の詩人や作家の書いたものを読んでいくうちに、その影響が重なり合って、一人の詩人や作家の影響ではなくなっていることに気がついたのである。言い換えると、多数の詩人や作家から影響を受けていく過程で、自分の書くものが、誰にも似ていないものに近づいていくということに気がついたからである。ここにおいて、「他者」というものから「多数の他者」というものに目を転ずると、「個性」という言葉が、それまで自分が思ってきた意味とはまったく違った意味をもつものに思えたのである。ぼくは、こう考えた。「個性というものは、多数の他者に似ていく過程で獲得されていくものである。」と。したがって、「真に個性的な者とは、自分以外のすべての他者に似ている者」ということになる。ターハル・ベン=ジェルーンが『砂の子ども』9のなかに書きつけている、「自分に似ること、それは別の者になること」(菊地有子訳)という言葉を目にして、この言葉の「自分」と「別の者」という言葉を入れ替えると、ぼくの考え方にかなり近いなと思った。もちろん、ぼくのいう「多数の他者に似ていく過程」は、エリオットの『伝統と個人の才能』のなかにある「個性滅却のプロセス」(平井正穂訳)とほとんど同じものだろう。トーマス・マンの『道化者』のなかに、そういった過程を経ていく描写がある。「おれは多読だった。手に入るものはなんでもかんでも読んだ。しかもおれの感受性は大きかった。おれは作中のどんな人物をも感情で理解して、その中におれ自身を認めるように思うので、他の書物の感化を受けてしまうまでは、ある書物の型に従って、考えたり感じてたりしていた。」(実吉捷郎訳)というところである。ぼくもまた、この主人公のように本と接していたように思っていたので、マンの『道化者』を読んで驚かされた。たぶん、この主人公も、ぼくのように、容易に信じやすく、だまされやすいという、警戒心のごく乏しい性格であったのであろう。


 西暦一年頃の世界人口は、推計で、約三億。一六五〇年は訳五億、一七五〇年は七億、一八五〇年は十一億、一九六〇年は三〇億、一九八〇年は四十四億三千二百万。
(平凡社『大百科事典』)

 ぼくには一人のパパがいる。そして、ぼくにはママが二人いるけど、血のつながっているママは一人だけだから、血のつながっているのは、パパとこのママの二人だ。血のつながりとして見ると、ぼくとおなじように、だれにでも、パパが一人とママが一人で、合わせて二人の親がいるはずだ。すると、ぼくは、また、ぼく以外のだれでもそうだが、かつては、二人の人間だったことになる。計算がややこしくなるから、ぼくだけに限って考えてみるけど、ぼくのパパやママにも、パパとママが一人ずついたはずだから、二代さかのぼると、ぼくは四人の人間だったことになる。ぼくのパパのパパやママにも、ぼくのママのパパやママにもそれぞれ一人ずつパパやママがいたはずだから、ぼくは三代まえには八人の人間だったことになる。四代まえには十六人、五代まえには三十二人、六代まえには六十四人、すなわち、n代まえには、ぼくは、2のn乗の数の人間だったことになるのである。十代まえだと、千二十四人である。十代といっても、たかだか数百年くらいのことであろうから、数百年まえには、ぼくは千とんで二十四人の人間だったわけである。そのさらに数百年まえだと、ぼくは百万人以上の人間だったのである。千年まえだと、少なく見積もっても、ぼくは十億人以上の人間であったはずである。しかし、千年まえには、日本には、そんなに人間がいたとは考えられないのだけれど、それにしても、ぼくはものすごい数の人間だったのだ。おそらく、千年以上むかし、日本にいた人間は、みんな、ぼくだったのだろう。


 おれはお前たち全部になりたい、そうして、お前たちが皆いっしょになって一人のアントニーになってもらいたい。そうしたら、お前たちがしてくれたように、おれがお前たちのために働けるのだがなあ。
(シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』第四幕・第二場、小津次郎訳)

 かつて、ボルヘスの『恵みのうた』という詩を読んでびっくりさせられたことがある。詩を書きはじめて、まだ間もないころのことだった。もしかすると、そこに、『陽の埋葬』の原点があるのかもしれない。「長い回廊をさまよいながら ぼんやりとではあるが/聖なる戦慄をもってしばしば感じたものだ/わたしは同じ日々に 同じ歩みを/行っている死者、他者であると。/複数の〈わたし〉の そしてただ一つの影を有する/この両者のいずれがこの詩をかきつけているのか。」(田村さと子訳)。ボルヘスのこの詩に出合ってからというもの、ぼくはこの「複数の〈わたし〉」という概念なしには、自分というものの存在について考えることができなくなったのである。つい最近、ナンシー・ウッドの『今日は死ぬのにもってこいの日』という詩集を読んでいたら、つぎのようなフレーズと出くわした。「わたしの部族の人々は、一人の中の大勢だ。/たくさんの声が彼らの中にある。」(金関寿夫訳)。この詩のなかに出てくる「大勢」というのは、「熊」や「ライオン」や「鷲」であったり、あるいは、「岩」や「木」や「川」でさえあったりする。ぼくの場合、自分の声のなかに、血のつながりのあるものの声が混じっていることは、はやくから気がついていたのであるが、あるとき、ひょんなきっかけから、自分の声のなかに、血のつながりのないものの声も混じることがある、ということに気づいたのである。これもまた、ぼくが詩を書きはじめて間もないころのことで、親友の歌人である林 和清と電話で話をしているときのことであった。『引用について』というタイトルの論考を、雑誌の「詩学」に出すことになって、その下書きをファックスにして送り、いっしょに検討してもらっていたときのことであった。三時間近くしゃべっていたと思う。長い時間、電話で話をしているうちに、林の声のなかに、ぼくの声が混じっているような気がしたのである。そして、その声を聞きながら話すぼくの声のなかに、林の声が混じっているような気がしたのである。電話から林の声を通して聞こえるぼくの声を、ぼくが聞きながら、ぼくが林に向かってしゃべるという奇妙な感触を味わったのである。このようなことを、はっきりと意識できた経験は、このときだけだ。それ以後はいっさいない。林との電話で起こったことを思い返してみると、二人が親友であったということも要因として考えられるが、「引用」という文学行為に対して思いをめぐらすことの多かった二人が議論に熱中し、まるで一つの見解を二人が創出するかのごとくに考えをまとめあげていったということの方が要因としては大きいと思われる。この感覚をさらに推し進めると、マンが、『トリスタン』という作品のなかで、「おお、万象の永遠なる彼岸における合体の、溢るるばかりゆたかな、飽くこと知らぬ歓呼よ。悩ましき迷誤をのがれ、時空の束縛を脱して、「汝」と「我」と、「汝(な)がもの」と「我がもの」とは、一つに融けて、崇高なる法悦となった。」(実吉捷郎訳)と書き表している境地にでも立つことができるのであろう。あるいは、また、ムージルが、『静かなヴェロニカの誘惑』のなかで、「甘美なやわらぎと、このうえもない親しさを、彼女は感じた。肉体の親しさよりも、魂の親(ちか)しさだった。まるで彼の目から自分を眺めているような、そして触れ合うたびに彼を感じとるばかりでなく、なんとも言いあらわしようもないふうに、彼がこの自分のことをどう感じているのかをも感じとれる、そんな親しさであり、彼女にはそれが神秘な精神の合一のように思えた。」(古井由吉訳)と書き表しているような境地にでも立つことができるのであろう。残念ながら、そのときのぼくは、そのような境地になど立つことはできなかったのであるが、たとえば、ホイットマンが、『草の葉』の〈私は自身を礼讃する〉のなかに書いている、「すべての人々のなかに、私は自身を見る」(長沼重隆訳)といった能力のあるひとならば、あるいは、『バガヴァッド・ギーター』の第六章に書かれている、「すべてのなかにわたしを見、わたしのなかにすべてを見る」(宇野 惇訳)といった能力のあるひとならば、たとえ、相手がだれであっても、「崇高なる法悦」や「神秘な精神の合一」に達することなど珍しいことでなんでもないのだろうけれど。


 胸の想いをのべるためにじぶんの舌をつかっていると、ぼくは気づく、ぼくの唇がうごいていることに、そして話しているのはぼく自身だということに。
(ロートレアモン『マルドロールの歌』第四の歌、栗田 勇訳)

彼はことばをきる。自分の口を借りて、まるで見知らない声がでてきていることに気づいたからだ。
(サルトル『奇妙な友情』佐藤 朔・白井浩司訳)

だれでも、自分自身と一致していないときに限って不安をもつのだ。
(ヘッセ『デーミアン』第八章、吉田正巳訳)

 あるとき、ふと、自分の声のなかに、自分ではないものの声がまじっていることに気づくという、ぼくと同じ体験をしたひとは、あまり多くいないようだ。林を含む友人たちに訊いてみたが、だれも、そのような経験をしたものはいなかった。しかし、たとえば、巫女が声色を使って、神託や口寄せをすることはよく知られている。ただし、この場合、声が混じるというよりは、まったく別の人間の声になっているといった方がよいかもしれない。いずれにしても、神託や口寄せをする巫女の声に、ぼくたちが、畏怖の念を抱きつつも耳を傾けるのはその声の極端な変わりように、まさにいま尋常ではないことが起こっているのである、といった印象を受けるからであろう。どうやら、ぼくには、人格だけではなく、声というものもまた、統一的な存在であると思いたい欲求があるようである。しかし、よく考えてみると、相手によって、ぼくの話す声と口調が異なっていることは確かである。性格の方も、声ほどではないが、相手によって、やはり違ったものになっているようだ。ただし、これは巫女の場合とは違って、どれもが、ぼくの声であり、どれもが、ぼくの口調であり、どれもが、ぼくの性格であるように思われるのだが。しかし、いったい、いつ、いかなるときに、ぼくのほんとうの声が、ぼくの口を通して出てくることになるのであろうか。


子供が自分の声を探している。
(ロルカ『唖の子供』小海永二訳)

どの声もどの声も僕のまわりを歩きまわる。
(原 民喜『鎮魂歌』)

声はつぎつぎに僕に話しかける。
(原 民喜『鎮魂歌』)

僕は自分自身を捜し求めた。
(ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

鏡があった。あれは僕が僕というものに気づきだした最初のことかもしれなかった。僕は鏡のなかにいた。
(原 民喜『鎮魂歌』)

 ヴァロンによりますと、幼児は最初、自己の鏡像のばあいには、他人の身体の鏡像のばあいにもまして、それを本当の身体の一種の分身として見ていた、と考えなければならないわけです。/多くの病的な事実が、そうした自己自身の外的知覚、つまり「自己視」(autoscopie)が存在することを証言しています。まず、多くの夢のばあいがそうであって、われわれは夢の中では、自分をさながら自分にも見える人物であるかのように思い描きます。こうした現象は、溺死の人とか入眠時の或る状態とか、また溺れた人などにもあるようです。そうした病的な状態において現われてくるものと、幼児が鏡の中に見えている自分自身の身体について持つ税所の意識とは、よく似ているように思われます。「未開人」は、同一人物が同一瞬間にいろいろな地点にいると信ずることができます。
(M・メルロ=ポンティ『幼児の対人関係』第一部・第三章・第一節・a、滝浦静雄・木田 元訳)

およそ問題となるのは、自分が自分をどう思っているか、なんと自称しているか、なんと自称するに足る確かさを持っているか、という点だ。
(トーマス・マン『道化者』実吉捷郎訳、句点加筆)

しかし、
(ヘッセ『青春彷徨』山下 肇訳)

人間は自己自身を見渡すことができない。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳)

僕らが自己を発見しようと思ったら、自己の内部へ下りてゆく必要はないのだ。なぜなら、ぼくらは外部に見いだされるのだからね。
(ホーフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)

己れを識ることを學ぶための最善の方法は、他人を理解しようと努めることである。
(ジイド『ジイドの日記』第五巻・一九二二年二月十日、心情嘉章訳)

「第一の格言」と、リュシアンは思った。「自分の中を見つめないこと。それ以上、危険な誤ちはないから」。真のリュシアンというものは──それを今、彼は知っているのだが──他人の眼の中に求めるべきなのだ。
(サルトル『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳、読点加筆)

 もちろん、「他人の心のなかを知ることなんて、絶対にできない」(スーザン・マイノット『庭園の白鳥』森田義信訳)ということを知ったうえで、他人が自分のことをどう思っているのか、考えるのである。ベン=ジェルーンの『砂の子ども』7にある、「私は沈黙のうちに錯乱し、彼女の思考と一体化し、それを私自身の思考として認識することができた。」(菊地有子訳)の「錯乱」という言葉など、ランボーの手紙のなかにある言葉を思い起こさせるが、この主人公は「錯乱」しているというよりはむしろ「錯覚」していると言った方が適切であろう。さて、この辺りで、そろそろ羊の話に戻ろう。まえに引用した「それはいくらか私自身であった。」や「すべての人々のなかに私自身を見る。」などに見られる、ジュネの「誰もが私である。」という言葉に収斂していくものとは違って、ランボーの「我とは、一個の他者である。」という言葉は、これまで見てきたように、「私」の成り立ちと、その起源について、ほんとうに、さまざまな知見をもたらせる、多元的な認識を示唆するものであった。一方、ジュネの言葉は、そういった多元的な認識を示唆するようなものではなかった。というのも、ジュネの言葉が、まず、「他者」は「他者」であり、「私」は「私」である、ということを前提したものであるからであろう。ランボーの言葉は、その前提にこそ疑いの目を向けさせるものであったのである。

しかし、本当は、どちらがどちらに似てゐたのであらうか?
(三島由紀夫『太陽と鉄』本文)

すべてのものが似ている?
(エリュアール『第二の自然』14、安東次男訳、疑問符加筆)

もっとよく見ようとすると、いっそう見えなくなる。
(ダンテ『神曲』浄罪篇・第三十三歌、野上素一訳、句点加筆)

それが「僕らの自我」
(ホフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)

ほんとうさ。
(ジュリアス・レスター『すばらしいバスケットボール』第一部・I、石井清子訳)

嘘じゃないよ。
(サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』小舟のほとりで、野崎 孝訳)

夕方になると、
(ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』不在、三好郁朗訳)

縄跳びをする少女がいる。


ひと跳びごとに少女の数が増えていく。


同じ姿の少女の数が増えていく。


少女は永遠に縄とびをしているだろう。
(サルトル『自由への道』第一部・8、佐藤 朔・白井浩司訳)

ノックの音。父がはいって来た。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳)

 その後ろから、パパに瓜二つのパパが入って来た。二人のパパが、ぼくの机の横に立って何か言いかけたところで、またもう一人のパパが入って来た。と、思う間もなく、四人目のパパが、開いたままのドアをノックして、ぼくの部屋に入って来た。そうやって、ぼくの部屋のなかに、つぎつぎと瓜二つそっくりのパパたちが入って来た。ぼくのベッドのうえにまで立つたくさんのパパたち。ぼくも、とうとう立ち上がって、たくさんのパパたちのあいだで、押し合いへし合い、ギューギューギュー。うううん、暑いよ、パパ。うううん、痛いよ、パパ。ぼく、つぶれちゃうよ。ああ、もうこれ以上、部屋に入って来ないで。あああん、パパ、いたたたたた、痛いよ、パパ!


百葉箱のなかの祈祷書

  田中宏輔



小学校四年生のときに読んだ『フランダースの犬』が、すべてのはじまりだという。実際、彼の作品
は、神を主題としたものが多い。二十代までの彼の見解は、サドが『閨房哲学』の中で語ったものと
同じものであった。「もし神が多くの宗教によって描かれているようなものであるとするならば、神
こそ世の中で最も憎むべきものであるにちがいない。なぜかと言えば、神はその全能の力によって悪
を阻止し得るにもかかわらず、依然として地上に悪がはびこるのを許しているからだ」(澁澤龍彦訳)


石の水、
(森本ハル『石の水』読点加筆)

この岩の古い肋(あばら)骨(ぼね)、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

水はえぐった岩のなかの石だ、
(マクリーシュ『地球へのおき手紙』上田 保訳)

現在の見方は、このような単純なものではない。三十代前半に、彼はさまざまな苦難に遭遇したが、
それらを克服することによって、以前とは違った目で、事態を把握することができるようになったの
である。はじめの間、彼は、まわりが変わったと思っていたのだが、会う人ごとに、きみは変った
と言われることで、実は、まわりが変わったのではなく、自分自身が変わっていたのだということに
気づかされたのだという。ヨブ記を何度も読み返したらしい。魂の方は神を信じたがっているようだ。


ひからびた岩には水の音もない。
(エリオット『荒地』I・埋葬、西脇順三郎訳)

水の流れる音を聞くために、
(G・マクドナルド『リリス』42、荒俣 宏訳)

私は眠りもやらず書物に向かってすわりすごした。
(ヘッセ『飲む人』高橋健二訳)


ダイアン・アッカーマンの『感覚の博物誌』第四章に、「poet(詩人)という言葉は、もとをたど
れば小石の上を流れる水の音を表すアラム語に行きつく。」(岩崎 徹訳)とある。これを読んで、
出エジプト記の第十七章を思い出した。エジプトから逃れて荒野を旅するイスラエル人たちが、飲み
水がなくて渇きで死にそうになったとき、神に命じられたモーセが、ナイル河を打った杖でホレブの
岩を打つと、そこから水が出たという話である。アラム語は、キリストや弟子たちの日常語であった。


あの海が思い出される。
(プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』第一章、金子幸彦訳)

すさみはてた心は
(レールモントフ『悪魔』第一篇・九、北垣信行訳)

あらゆることを、つぎつぎ忘れ去るのに、
(ナボコフ『ロリータ』第二部・18、大久保康雄訳)

羅和辞典を繰っていると、懲罰、痛苦、呵責といった意味の単語 poena を見つけた。そばには、詩と
いう意味の単語 poema がある。共通部分poeが、詩人のポオと同じ綴りであることに気がついた。
小学生のときは、画家になることが夢だったらしいが、作品の中で語られている理由のほかに、もう
一つ、理由があった。画家なら、人と違っていても、そのことで苦しむことはないと思ったからだと
いう。人が自分と違うということを知ったのは、彼が、小学校二年生か、三年生の頃のことであった。


魂が
(ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』第七章、福田恆存訳)

海を見ていた。
(川端康成『日向(ひなた)』)

たやすく傷つけられるものは恒常なのだ。
(オスカル・レールケ『木の葉の雲』淺井眞男訳)

たぶん休み時間のことだったと思う。学校からそう遠くないところで、火事があった。後ろの方から、
火事だと叫ぶ声がして、生徒たちが、いっせいに窓辺に近寄った。みんなが、わいわいと騒ぎ出した。
その火事に目をやる顔の中に好きな友だちの顔があった。その顔も笑っていた。誰かの家が焼けて
いるというのに。そこで誰かが苦しんでいるかもしれないというのに。怖くなって、友だちの顔から
目を背けた。こう語った後、彼は言った。他者が自分ではないことが、あらゆる苦痛の根源である、と。


沈む陽(ひ)の最後のきらめきとともに
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第一部、井上正蔵訳)

波の上に
(ポール・フォール『輪舞』村上菊一郎訳)

むすびめは、はじけ。
(ヴァルモール『サージの薔薇』高畠正明訳、読点加筆)


懲らしめてやりなさい。

  田中宏輔



ボーナス制度とは搾取ではないか。
封建制度の名残である。
賞与は褒美として渡される。
縛りつけるつもりなのだ。
(ボーナス入るまで、やめないでねって。)
給与だけなら12回の手数料。
賞与があれば、その分の手数料を、よけいに銀行が儲ける。
きっと、銀行もぐるなのだ。
それだけじゃない。
平日でも、時間が遅ければ
自分のお金をおろすのに手数料を取られる。
そんなおかしい話はない。
フランス人の先生も、オカシイワ、って言ってた。
バルス。
あっけない結末。
いつか、みんな、同じ罰を受ける。
街路樹の陰に入って
密語をつぶやく。
石も四角くなりにけるかも。
かもね。
また、付き合ってた子にふられちゃったよ。
こないだ付き合ったばかりなのにね。
そうして、ふられるたびに、ぼくは思い出す。
ぼくが、いちばん幸せだったときのこと。
Nobuyuki。ハミガキ。紙飛行機。
round and round and round and round.
ランボーが、なぜ、詩をすてたのか
ぼくには、わからないけど
おとついのこと、マクドナルドで
チーズバーガー、ひとつだけ、って言ったら
これだけか、って店員に言われた。
これだけでよろしいですか
とでも、言うつもりだったんだろうね。
ぼくたち、ふたり、顔を見合わせて
聞こえなかったふり、言わなかったふりしてた。
母親の血液型と胎児の血液型が違ってるのに
どうして、胎児が生きてるのか
これまた、あれまた、ぼくには、わからない。
むかし、本で読んだけど、忘れてしまった。
世界は、ただ一枚の絵だけ残して滅んだという。
だと、いいね。
ほんとにね。


横木さんの本を読んで、やさしい気持ちになった。

  田中宏輔



去年の秋のことだ。
老婆がひとり、道の上を這っていた。
身体の具合が悪くて、倒れでもしたのかと思って
ぼくは、仕事帰りの疲れた足を急がせて駆け寄った。
老婆は、自分の家の前に散らばった落ち葉を拾い集めていた。
一枚、一枚、大切そうに、それは、大切そうに
掌の中に、拾った葉っぱを仕舞いながら。
とても静かな、その落ち着いた様子を目にすると、
ぼくは黙って、通り過ぎて行くことしかできなかった。
通り過ぎて行きながら、ぼくは考えていた。
いま、あの老婆の家には、だれもいないのか、
だれかいても、あの老婆のことに気がつかないのか、
気づいていても、ほっぽらかしているのか、と。
振り返っても、そこには、老婆の姿が、やっぱりあって、
何だか、ぼくは、とっても、さびしい気がした。
その後、一度も、出会わないのだけれど
その老婆のことは、ときどき思い出していた。
そして、きのう、横木さんの本を読んで思い出した。
まだ、濡れているのだろうか、ぼくの言葉は。
さあ、おいでよ。
降ると雨になる、ぼくの庭に。
そうさ、はやく、おいでよ、筆禍の雨の庭に。
ぼくは、ブランコをこいで待っているよ。
あれは、きみが落とした手紙なんだろ。
けさ、学校で、授業中に帽子をかぶっている生徒がいた。
5、6回、脱ぐように注意したら、
その子から、「おかま」って言われた。
そういえば、何年か前にも、「妃」という同人誌で、
「あれはおかまをほる男だからな」って書かれたことがある。
ほんとうのことだけど、ほんとうのことだからって
がまんできることではない。
芳賀書店から出てる、原民喜全集を読むと、
やたらと、「吻とした」って言葉が出てくる。
たぶん、よく「吻とした」ひとなのだろう。
民喜はベッドのことをベットと書く。
ぼくも、話すときに、ベットと発音することがある。
ぼくは棘皮(きょくひ)を逆さにまとった針鼠だ。
動くたびに、自分の肉を、傷つけてゆく。
さあ、おいでよ、ぼくの庭に。
降ると雨になる、筆禍の雨の庭に。
ぼくは、ブランコをこいで待っているよ。
きみが落とした手紙を、ぼくが拾ってあげたから。
ウルトラQの『ペギラの逆襲』を、ヴィデオで見た。
現在の世界人口は26億だと言っていた。
およそ30年前。
ケムール人が出てくる『2020年の挑戦』を見てたら、
ときどきセリフが途切れた。
俳優たちが、マッド・サイエンティストのことを
何とか博士って呼んでたんだけど、
たぶん、キチガイ博士って言ってたんだろう。
さあ、おいでよ、ぼくの庭に。
降ると雨になる、筆禍の雨の庭に。
きょうは、何して遊ぶ?
縄跳び、跳び箱、滑り台?
後ろは正面、何にもない。
ほら、ちゃんと、前を向いて、
帽子をかぶってごらん。
雨に沈めてあげる。


陽の埋葬

  田中宏輔



庭にいるのはだれか。 (エステル記六・四)
妹よ、来て、わたしと寝なさい。 (サムエル記下一三・一一)



箪笥を開けると、
──雨が降つてゐた。

眼を落とすと、
──雨蛙がしゃがんでゐた。

雨の庭。

約束もしないのに、
──死んだ妹が待つてゐた。

雨に濡れた妹の骨は、
──雨のやうにきれいだつた。

毀(こぼ)ち家(や)の雨の庭。

椅子も、机も、卓袱台(ちやぶだい)も、
──みんな、庭土に埋もれてゐた。

死んだ妹もまた、
──肋骨(あばらぼね)の半分を埋もれさせたまま、

雨に肘をついて、待つてゐた。

肋骨(あばらぼね)の上を這ふ、
──雨に濡れた蝸牛。

雨に透けた蝸牛は、
──雨のやうにきれいだった。

手に取ると、すつかり雨になる。

戸口に佇(た)つて、
──扉を叩くものがゐる。

コツコツと、
──扉を叩くものがゐる。

庭立水(にはたづみ)。

わたしは、
──何処へも行かなかつた。

わたしは、
──何処へも行かなかつた。

死んだ父もまた、
──何処へも行かなかつた。

戸口に佇(た)つて、
──繰り返し扉を叩いてゐた。

戸口に佇(た)つて、
──繰り返し扉を叩いてゐた。


陽の埋葬

  田中宏輔



(天(てん)使(し)の、骨(ほね)の、化(か)石(せき)、じつと、坑道(かうだう)の、天盤(てんばん)を、見下(みお)ろして、ゐた、……)

(坑道(かうだう)の)水(みづ)溜(た)まりに、映(うつ)る(逆(さか)さま、の)天(てん)使(し)の姿(すがた)、目(ま)耀(かよ)ふ、美兒(まさづこ)、
その、姿(すがた)は、粘(ねん)土(ど)板(ばん)にも、紙草(パピルス)にも、羊(やう)皮(ひ)紙(し)にも、描(ゑが)かれて、ゐない。

水(みづ)鏡(かがみ)、つややかな(馬(うま)の背(せ)のやうな)水(みづ)鏡(かがみ)、
廃坑(はいかう)の常(と)陰(かげ)、無(む)戸(つ)室(むろ)の伏(ふ)せ甕(がめ)、伏(ふ)せ籠(ご)に、祈(いの)りの声(こゑ)が(静(しづ)かに)満(み)ちる。

(天(てん)使(し)の、骨(ほね)の、化(か)石(せき)、じつと、坑道(かうだう)の、天盤(てんばん)を、見下(みお)ろして、ゐた、……)

(坑道(かうだう)の)水(みづ)溜(た)まりに、映(うつ)る(逆(さか)さま、の)天(てん)使(し)の姿(すがた)、目(ま)耀(かよ)ふ、美兒(まさづこ)、
その、骨(ほね)の、天(てん)使(し)は、発(はつ)情(じやう)し、蒼白(あをじろ)い、光(ひかり)を、放(はな)つて、

その、骨(ほね)は、発(はつ)情(じやう)期(き)の、蒼白(あをじろ)い(燐(おに)火(び)のやうな)光(ひかり)を、放(はな)ち、
天盤(てんばん)から(はらりと)剥(は)がれ、そつと、静(しづ)かに、坑道(かうだう)に、降(お)り、立(た)ち、まし、た。

──また、生(う)ま、れ、そこ、なつて、しまつ、た。

幽(かす)かな、光(ひかり)の、中(なか)で、天(てん)使(し)は、裸足(はだし)を(溜(た)まり水(みづ)で)洗(あら)つて、

──土(つち)、は、泥(どろ)、と、なれ、泥(どろ)、は、水(みづ)、と、なれ、

卵(こ)隠(こも)りの、蝸牛(かたつむり)(雨(あめ)に、解(ほぐ)るる)卵(こ)隠(こも)りの、蝸牛(かたつむり)。

──もう、傷(きず)、つき、たく、は、ない、のに……。

(骨瓶(こつがめ)、の、透(すき)影(かげ))沙羅(さら)双樹(そうじゆ)は、菩(ぼ)提(だい)樹(じゆ)の、夢(ゆめ)、を、見(み)る。

鳩(はと)が、鳩(はと)の(血(ち)塗(まみれ)れの)頭(あたま)を、啄(ついば)んで、ゐる、ゐた、

(腐鶏(くたかけ)の鶏冠(とさか)、濃(こ)紫(むらさき)の鶏冠(とさか))蜘蛛(くも)にも、その蜘蛛(くも)の、子(こ)蜘蛛(ぐも)にも、

──わたし、は、微(ほほ)、笑(ゑ)、まう、と、した。

割(わ)れ爪(づめ)の、隠(おん)坊(ぼ)が、ひとり、骨遊(ほねあそ)び、骨(ほね)を、摘(つ)み、積(つ)み、へう疽(そ)、摘(つ)み、

──また、生(う)ま、れ、そこ、なつて、しまつ、た。

隧道(トンネル)、畦道(あぜみち)、白粉(おしろい)壺(つぼ)、飯盒(はんがふ)、釦(ボタン)、処方箋(しよほうせん)、箒(はうき)、陶(たう)器(き)、火処(ほと)、凹所(ほと)、秀戸(ほと)、……

──この、髪(かみ)も、この、爪(つめ)も、千年(せんねん)もの、繭(まよ)、籠(ごも)り。

繭隠(まよごも)り、延縄(はへなは)、把(とつ)手(て)、土(つち)埃(ぼこり)、

──もう、傷(きず)、つき、たく、は、ない、のに……。

その、饒(ぜう)舌(ぜつ)な、睫(まつ)毛(げ)に、触(ふ)れて、雨(あめ)は、雨(あめ)に、なる。

──わたしは、毀(こは)れて、しまひ、たい……。

その、饒(ぜう)舌(ぜつ)な、睫(まつ)毛(げ)に、触(ふ)れて、雨(あめ)は、雨(あめ)に、なる。

──わたしは、わたしを、毀(こは)れて、しまひ、たい……。

一(いち)夜(や)を、明(あ)かす(鼠(ねずみ)取(と)りの、中(なか)の)鼠(ねずみ)。

茂(モ)辺(ヘン)如(ジヨ)駝(ダ)呂(ロ)の、廃坑(はいかう)の、天(てん)使(し)の、骨(ほね)の、化(か)石(せき)(幽(かす)かに、蒼(あを)、白(じろ)い、光(ひかり))

糸(いと)水(みづ)を、つたつて、天(てん)使(し)の、姿(すがた)が(天盤(てんばん)、の)天(てん)に、昇(のぼ)つて、ゆく、と、

骨(こつ)、骨積(こづ)み、籠(こ)、壺(こ)、骨(こ)、骨(こ)、骨(こ)、骨(こ)、骨(こ)、骨(こ)、骨(こ)、……

その、籠(こ)は、毀(こは)れて、しま、ひ、ま、した。

その、壺(こ)は、毀(こは)れて、しま、ひ、ま、した。

その、骨(こ)は、毀(こは)れて、しま、ひ、ま、した。


(163・67・21)×(179・93・42)

  田中宏輔



(163・67・21)×(179・93・42)   I


●こっちは、178×92×42で、京都在住です。フォトメッセージを見てメールしました。もとめられてる趣旨とは異なりますが、もしよければ連絡ください。
○メールどうも! 京都のどちらからですか?
●北山です。植物園がすぐ近くです。
○そちらは、関西のどこなんでしょうか?
○市内なんですね。僕は関西じゃないですよ。つくばです。
●関西かなって思ってました。理系なんで、てことはないですけど、つくばって、茨城ですか? だったら、お会いするのは難しいですね。といっても、そちらがこちらをどう思ってらっしゃるか、こちらは特殊な仕事をしているので(文学です。)もし、興味がおありでしたら、パソコンで、「田中宏輔」で検索してみてください。同姓同名の者がいますが、文学をしているのは、ぼくだけなので区別はつきます。
○つくばは茨城です。東京からバスで45分くらい。詩を書いてるのかな?
●そうです。ありがとう。とてもうれしかったです。
○どうして僕なんかにメールくれたんですか?
●もしも、こんなおっさんでも好意をもってくれたら、と。いやいや、好意をもってもらえると     
 は思ってませんでした。ほとんどあきらめていました。フォト、とても魅力的でしたので。
○かっこいいなって思いましたよ。関東でもよかったら、よろしくお願いします! どんな感じの人か、いろいろ教えて下さい!
●音楽は80年代のソウル、ジャズが好きです。名前を訊くのはタブーでしたね。わるかったです。メールで呼びかけるときの名前を教えていただければうれしいです。
○そちらは本名でしょ? だから本名を教えたんですよ。僕はそういうの気にしないんで。
●そうなんだ。ごめんでした。気をわるくせんといてください。
○いえいえ、で、あそこは仮性包茎かな?
○いや、気なんて悪くしないですよ。ところで、あそこって仮性包茎? いきなりだけど。
●なぜ? わかるんですか? 顔で?
○小説を読んでみたんだけど、この人は仮性包茎かなって思っちゃった! 僕は仮性好きなんですよー!
●仮性包茎が好きだと言われてよろこんでいいのかどうか。ちょっと半泣きです。
○少なくとも僕は仮性が好きなんだから、喜んでいいんじゃないですか? あそこの画像見てみたいです!
●いま出先で、居酒屋なんで、あとでトイレでとります。だけど、たってないのでですか? 多分そうなんでしょうね。ぼくにはおくってもらえるんでしょうか?
○僕のカメラ付じゃないんですよ。載せてた画像も友達に撮ってもらったやつで。立ってるのと立ってないの見たいです! 被ってるやつを。
●めちゃくちゃはずかしんですが、ほんとにこんなちんぽがええんですか?
○めちゃくちゃいい感じです! イカ臭いのとか好きなんだけど、匂いします?
●それ、ほんまですか? 泣きたいです。そんなこと言わんとってください。洗わんかったら、においますけど、ほかのひともそうやないんですか?
○画像一つしか来てないっすよー。むいてあるのだけ。むいてないの見たい!
(ちんぽ画像のみ送付)
○いいっすねー。匂いするのマジ興奮します。自分のも洗わないと匂うね〜。
(しばらく中断)
○立ってて被ってんの見たいです!
●ちょっと待ってください。でも、ほんまなんですね。ほんまにはずかしいですから、ちょっと待ってください。
○恥ずかしいなんて思わないで欲しいなあ。僕はそういうのが好きなんだから、あんまり恥ずかしいって言われるとなんか淋しいなあ。
●わかりました。もう言いませんね。ほんとだってわかりました。いまからトイレに行ってきます。
●いつか画像くださいね。とても魅力的ですから。もしかしたら、Sッケすこしありますか?
(ちんぽ画像添付)
○いい感じですね! 匂いも嗅ぎたい! 今も匂いするかな? てか今度京都に会いに行くよ!
●ぼくも会いたい。めちゃくちゃ会いたい。ほんとに会いたい!!!
○じゃあ会いに行くよ! 浪人の身分だから、時間はどうにでもなるからね! 交通費さえどうにかなれば行けるから。
●交通費のことは、心配しないでほしい。
○心配しないでって?
●失礼な書き方をしました。すいません。交通費はぼくがもつべきか、あるいは折半だと思ったので。でも、年齢から言うと、ぼくがもつべきだと思うのですが、間違ってますか?
○わかりました! 京大卒?
●同志社です。大学院を出たあと、30才まで聴講しながら、同志社国際高校で10年教えていました。(注、この書き方はおかしい。28歳から10年間教えていたのだが、聴講していた期間は5年間で、教えていた時期と重なるのは、数年間だけである。)
○同志社なんだー! 敬語じゃなくていいっすよ。敬語でメールしたりするの慣れてないんで、なんかぎこちなくなるから。
●ふだんは、予備校で数学を教えています。京都と奈良で。昼の授業だけなんで、、六時半には帰ります。
○****っていいます。一度会ってみたいですね。
●会いたい! ****に会いたい! 九月半ばの連休は四連休やけど、
○いや、悪いかなーって。実際の所、僕は無職なんで、お金は無いんですけどね。いきなり親に、京都に行くって言ってもお金もらえなそうだから、少しずつ余ったお金を貯めれば行けるかなーって思いました。出してもらっても平気なんですか? それならいつでも行っちゃいますよ。
●うん。交通費のことはまかしとってほしい。会いたいんは、ぼくのほうの気持ちもめちゃくちゃつよいから。
○じゃあマジで遊びに行くよ?
●うん。めちゃくちゃうれしい。
○じゃあマジ行くよ! あそこ洗わないでおいて欲しいな! どんな人なんだろう。どんな人がタイプなの?
●フォト見てびっくりしたんよ。ほんまに好きなタイプやから。メールしてても惹かれてる自分がようわかるし。****のほうは、どうなんやろ?
○僕もかっこいいと思ったよ。なかなか遠方の人と知り合う機会ってないからなんだか新鮮だよ! 会ってみたいねー。
●会いたい。九月十日から十五日まで連休なんやけど、十一日の晩からOk。めっちゃOk。ちょっとでもはやく会いたい。
○じゃあ行っちゃおうかなー!
●こんどの金土日は急やろか?
○構わないけど、切符とかどうしたらいい?
●来てくれるときのお金はなんとか都合つけてくれるかな。あとで往復の切符代を受け取ってほしい。それともほかになんかええ方法があるやろか?
○分かった。親にはちょっと言えないから、近所の友達に頼むよ。どんな手段で行ったらいい?
●まず東京駅に行って、新幹線か、夜行バスに乗って京都駅に来て、京都駅に着いたら、そこで地下鉄に乗り換えて北山駅に来てくれたら、北山駅に向かいに行く。行くからね。
○金曜日の朝に着けばいいかな?
●今度の金曜日やったら晩でないと帰ってないけど、十二日の金曜日やったら、朝からOkやで。
○あさっての金曜日に行くよ。大丈夫?
●Ok。あさっての金曜の晩。六時半には帰ってる。京都駅に着く時間がわかったら連絡してほしい。こっちのTELは、***********やからね。北山駅では、4番出口で待っててほしい。そこで電話くれたら迎えに行くから。
○了解。僕のは***********だよ。会うまで、あそこは洗わないで欲しいんだけど。今日はもう風呂に入った?
●はいってないよ。
○じゃあ、会うまであそこは洗わないで! 皮剥かないでおいて!
●うん。約束するよ。
○嬉しいな! 匂い想像してたら立って来ちゃった。
●見たい。
○会ったら見れるよ! 自分でやって出しても、皮の中はふかないでそのままにしといて。カスとか付いてベトベトのとかめちゃくちゃ興奮する。臭ければ臭いほど興奮するから。
●うん。これから帰って、ちんぽ、こする。いっても、びちょびちょのまま寝ることにする。
○嬉しいな! 自分は一発やっちゃった。笑
●見たかった!!
○会えば見れるじゃん!
●うん。ほんとや。はやく会いたい。会いたい。
○行くからね! 楽しみだなあ。京都はほんと久しぶりだよ!
●近くにすごいいい雰囲気の居酒屋があるけど、酒は飲める? ちなみに、ぼくはたばこはすわんけど、酒は飲むほう。
○強くはないけど、少しなら飲めるよ。嫌いってことは無いし。雰囲気のいいお店とか好きだなー!
●じゃ、たべもの中心にしようね。いっしょにいられるんやあ。めちゃうれしい。ひそかに泣きたいくらいや。
○大したこと無い奴だから期待しないでよ〜。
●すごいタイプなんよ。メールしてほんとによかったなあって思ってる。

(以上で、9月2日のメールは終了。)



(163・67・21)×(179・93・42) II


●おはよ。これから仕事に行ってきます。訊きたいことがひとつあるんやけど、いま身体がめちゃくちゃ臭いと思うねんけど、あそこは洗わへんけど、頭ぐらいは洗ってもいいの? 身体は拭くことにするけど。
○おはよう! 頭とかは普通に洗っていいよ。あそこだけ洗わないで欲しいだけだからさ。
 (注:約八時間経過。)
●いま仕事終わったよ。これから地下鉄に乗るとこ。けさ階段の上り下りで、自分の身体の臭い匂いがした。
○お疲れ様! 仕事ってのは数学教える仕事? 匂い嗅ぎたいな! 臭いんだ。興奮しちゃうよ。
●きのう言ったけど、数学講師だす。
○そうなんだ。どこで教えてるの? あさって楽しみだなー! 匂いも嗅げるし!
●******ってとこだよ。だけど、もう臭いは限界みたい。自分の汗とかが醗酵してるような臭いが、歩いてて、鼻の先に立ち上ってくる感じ。おまけに、大しようとして便器にかがんだら、うんこの臭いまでして。これじゃあ、生徒からの評判ガタオチになっちゃう。シャワー浴びたらあかんやろか? **くんと会うの楽しみやねんけど、ううん。
○尻とかは普通に洗っていいよ。あそこの匂いさえすればいいからさ! 皮はむかないでおいてね。僕も会うの楽しみにしてるよ。
●おしっこは、ちんちんの皮むいてするんやけど。
○小便の時はむいていいよ。自然の臭いのが好きだから。わざと大量の尿を皮にためると尿の匂い中心になっちゃうからさ。少し残った尿が、皮の中にたまったくらいがいいよ。僕は精子が皮の中で時間がたったときの匂いが好き。これがいかにもイカ臭い匂いなんだよね。尿の匂いは イカ臭いのとは違うからね。熱弁しちゃった。笑
●オナニーのときもむかないでするの?
○皮の中に出して欲しいな! いくときに、皮の口をつまんで、その中に出すの。もれないように。で、あとはあまって出てくるやつだけふいて、皮の中は拭かずに放置。こうすれば完璧!
●はあ。なるほど、わかりやした。
○あの説明で意味分かった?
●わかるよ。コンドームのなかでイッて、そのままにしといたら、ゴムくさいやろか?
○うん、コンドーム使ったらゴムの匂いしちゃうしね。パンツはどんなのはいてる?
●トランクスかな。ところで、ぼくは山羊座のO型なんやけど、**くんは?
○僕は双子のBだよ。トランクスじゃなくて、ぴっちりしたのはいてほしいな! その方が臭くなるんだよね。
●そうなんや。じゃあ、ぴっちりしたの買いに行ってくるね。
○わざわざ買わなくていいよ! ないならいいからね。
●いや、ちゃんと買って、はいとくよ。音楽は好き?
○まぁ好きだけどね。笑
●ぼくは、やっぱりロック、ポップス、ソウル、ジャズ、ブルース、っていったとこかな。
○僕は槇原敬之好きかな。まぁ誰とは限らず、いいと思った曲は何でも!
●ヨーロッパ系のプログレなんかも好きでね。かなりマニアックなものも聴くよ。
○僕は、グロリア・エステファンのスペイン語版、セリーヌ・ディオンのフランス語版、シルビー・バルタンとか好きだよ。あとはマイナーなんだよなぁ。スペインのアナベレンとか。日本では知ってる人ほとんどいないだろうなぁ。
●アナベレンって人は知らんなあ。ところで、今度の金曜日は大丈夫?
○うん、大丈夫だと思うよ!
●いま、何してんの?
○今、カラオケに来てるよ。演歌ばっか歌ってる。笑
●**くんの歌ってるとこ見たいなあ。どんな声してんだろ?
○自分の声には自信ないけど、絶対音感には恵まれてたみたい。小柳ルミ子、石川さゆり、槇原敬之を歌ったよ。
 (注:**くんは、あとでわかったんだけど、ショパンの難曲も弾きこなすピアノの名手だす。)
●小柳ルミ子とか石川さゆりって、ぼくの年代じゃないかな? 槇原はわかるけど。カラオケって、よく行くの?
○カラオケって行ったことなかったんだよ。ほんと最近行くようになったんだ。まだほんの数回目だよ。
●そうなんや。はやく**くんに会いたいな。**くんのことが好きやねん。
○まだ会ってないんだし、好きだと思わないでよ。僕も、もし気に入ってもらえなかったらって緊張しちゃうから。京都くらいならいくらでも遊びに行くって!
●来てや。いま、エアロスミス聴いててん。ハードロックも大好きやねん。
○エアロスミスは名前なら知ってるかなあ。ハードって、どんな曲? けっこう疎いんだよね汗 あそこはもうけっこう臭いの?   
●臭い! さっきまでツエッペリンやイエスを聴いてたんやけど、知ってる? まあ、ハードロックって、うるさ系の感じかな。イエスは、プログレハードって感じ。
○うるさ系とか僕は聞かないかな。静かな曲のほうがどっちかといえば好きかも。ツエッペリンって聞いて、飛行船の名前以外に思い浮かばないし。イエスってのは知らないなぁ。
●時代が違うんかなあ。それとも、ぼくがマニアックなだけなのかも。
○そっか。あんまり曲とか聴かないから詳しくないんだよね、ごめんね。ところで京都生まれ京都育ち?
●そうだよ。一年くらい実母が生まれ育った高知にいたんやけど、赤ん坊のときやったから、なんもおぼえてへんしなあ。やっぱり、ずっと京都って感じやな。**くんの方は?
○生まれてからずっとつくばだよ。常総のある土浦市の隣。バリバリ茨城弁だよ。同系統の方言を話す人以外の人と話すときは、基本的に標準語を話してるかな。宏輔さんは京都弁だよね?
●たぶんね。そやけど、継母が岡山やし、父親は京都といっても、丹波の笹山ちゅうド田舎やし、純然たる京都弁ちゃうかもしれんなあ。それに、家は商売してたから、いろんな土地で生まれ育ったひとがいてたしなあ。まぜまぜなんちゃうやろか。ときどき広島弁に近い言葉が口に出ることもあるけど、継母がたしか、広島にもいたことがあるって言ってたような気がする。
○そうなんだ。まあ岡山の言葉と『比較的』近いよね。東京に近い割りに(都心まで50キロ弱)、関東東部の方言圏(茨城、栃木、千葉がそう)だから、東北南部の方言に近いよ。だからずーずー弁だよ。
●そうなんや。**くんは、ふだんは、どう過ごしてんの?
○気ままに過ごしてるよ。街をぶらぶらしたり、チャリで出掛けたり。本当は勉強しないといけないんだけどね。タイプっていうのはどんな人なの? 具体的に聞きたいな!
●**くんのように、自分の意見を持ってて、はっきりとそれを口にすることができる人かなあ。
○じゃあ、臭くしといて、とか、はっきり言う方がいいんだ? 好きなのに、言わないより。
●そうだね。
○そっか。じゃあはっきり言うよ。臭くしといてね。僕のが臭かったらどう? 人の匂いは嫌い?
●あまり嗅いだことがないし、好きではないかも。いや、まだ体験したことないからわからんけど、好きな相手のだったら、大丈夫かもしれない。。
○僕時間経つとすぐ臭くなるんだよなー。でも人にかがれたら興奮しそう! イケてないって思われたらやばいね。汗
●思わないよ。あのフォト、ほんとかわいいもん!
○よかったら話してみる? よければ電話もらっていい?
●いいよ。
○電話お願いします!
 (注:一時間と四十分ちょっと、電話で会話。)
○遅くまでごめんね。声が聞けてよかった! 会うの楽しみにしてるね。明日も予備校がんばって! おやすみなさい。

                          (以上で、9月3日のメールは終了。)




(163・67・21)×(179・93・42) III


●仕事が終わって、いま帰りです。北山を歩いてる。なんか、ちんぽこの先がぐちょぐちょだよ。きのうオナニーして、**くんの言ってたようにしたから。めちゃくちゃ臭いんちゃうやろか。ところで、**くん、新幹線もあるけど、高速バスってのもあるよ。
○高速バスは眠れない派なんだよね…。まぁ一日くらい平気なんだけど、今晩は友だちと約束があって、どっちみちバスの時間に間に合わないんだ。ごめんね。わざわざ皮の中に出してくれたんだね、ありがとう。匂い楽しみだな! 僕ってほんと変態。笑
●変態とまではいかんと思うけど、ちょっと趣味があるって感じかな。そやけど、いま、部屋戻って、ちんぽこの先に触った指の臭い嗅いだんやけど、めっちゃ臭いで。
○いいね。くさいのか。やばいな、いまプールにいるんだけど半立ちだよ。汗
●それはやばいね。**くんの半立ちも見たいな。きのう、ボクサーブリーフ買ったんやけど、ビキニは、さすがにはずかしくて買えへんかってね、きのうからはいてる。
○そのボクサーブリーフはぴっちりしてるのかな?
●してるよ。太もものとこぴっちり。
○よかった。わざわざ買いに行ってもらっちゃってごめんね。ありがとう。今度はビキニ姿も見せてね!
●なんとか買うてみる。
○明日楽しみにしてるよ。
●ぼくもめちゃくちゃ楽しみにしてるよ。
○これからイタリア語のサークルだよ!
●プレーゴ!
○TU COMPRENDI L’ ITALIANO? DO YOU UNDERSTAND ITALIAN?
●いや、イタリア語は、ちょっとかじっただけで、ほとんどできないよ。
 (注:あとでわかったんだけど、**くんは、中学生のときから二ヶ月に一回くらい海外に行ってて、いま現在八ヶ国語を話すことができる。ううん、ぼくとはえらい違いでおます。)
 (注:約三時間経過。)
○家に着いたよ。今日はこっちは涼しいよ。いま22度。京都は26度だって暑いね。
 (注:**くん、パソコンで気温とかしょっちゅう見てるらしい。)
●暑いね。イタリア語は、ダンテの神曲を原文で読むために、一年ぐらい勉強しただけで、ほとんどできないんだよ。
 (注:第二詩集でイタリア語を使うからってのが、第一の理由だったんだけど、たしかに、神曲もイタリア語で読みたかったから、まんざらまるっきりの嘘じゃないけど、ちょっとわざとらしい。)
○イタリア語版を読んだの?
●翻訳三種類は全文読んだけど、原文は、地獄篇と天堂篇の一部しか読んでない。英語の解説文つきの原文でね。四行の本文に対して2ページの解説がついてるやつ。わざわざ京大の近くにあるイタリア会館に行って借り出してコピーしたんだ。ところで、イタリア映画は好き? 何年か前の映画で「イル・ポスティーノ」ってのがあったんだけど、いい映画だったよ。
 (注:翻訳三種類持ってるけど、ちゃんと読んだのは二種類だけ。ほんのちょっとだけど、どうして嘘が混じっちゃうんだろね。)
○見てないなぁ。映画は好きなんだけど、なかなか行けなくて。地元にけっこうでかめの新しい映画館があるんだけど、音響最高だし、新しいし、あの空間にいると、異次元の世界に来た感じがする。
●さっき書いた映画、いい映画なんだけど、ちょっとおしつけごましくて、いただけないとこもある。
○おしつけごましく、←どんな意味? 僕は語彙が少ないんだよね…。
●あ、おしつけがましく、の間違い。
○そかそか。僕はほんと難しい単語が分からないから、ちょっとびびってしまった。汗 明日の今頃は一緒にいるね。楽しく過ごせますように!
●楽しく過ごせますように!
○明日はよろしくね! おやすみなさい!
●おやすみ。

(以上で、9月4日のメールは終了。)


引用の詩学。

  田中宏輔



なんて名前だったかな?
(ロン・ハバート『Battlefield Earth 1 奪われた惑星』第三部・4、入沢英江訳)


そしてそれはここに実在する。
(ロン・ハバート『Battlefield Earth 1 奪われた惑星』第一部・11、入沢英江訳)


それはまったく新しいものだった。
(ロン・ハバート『Battlefield Earth 1 奪われた惑星』第二部7、入沢英江訳)


「意味」が入った四角のもの。そう考えるだけで、ゾクゾクしてくるじゃないか。
(ロン・ハバート『Battlefield Earth 1 奪われた惑星』第一部・11、入沢英江訳)


(…)地下鉄で乗り合わせたユダヤ人の横顔が、ひょっとすると、キリストのそれであるかもしれないのだ。窓口で釣り銭をわたす手が、ひょっとすると、かつて兵士たちが十字架に釘付けしたそれの再現であるかもしれないのだ。
 ひょっとすると、十字架にかけられた顔のある特徴が、鏡の一枚一枚に潜んでいるのではないだろうか。ひょっとすると、その顔が命を失い、消えていったのは、神が万人となるためではなかったのか。
 今夜、夢の迷路のなかでその顔を見ながら、明日はそれを忘れていることも無くはないのである。
(J・L・ボルヘス『天国篇、第三十一歌、一0八行』鼓 直訳)


本質的なものは失われる、それは
霊感にかかわる一切のことばの定めである。
(J・L・ボルヘス『月』鼓 直訳)




 ボルヘスのこの言葉から、つぎのような言葉が思い浮かんだ。どんなにささいな行いのなかにも、本質的なものが目を覚まして生きている。




──お前の中にあって、今ものを云っているのは、
滅びゆくお前の中の滅びない部分なのだ。
(バイロン『カイン』第一幕・第一場、島田謹二訳)




 バイロンのこの言葉から、つぎのようなことを考えた。展開し変形していく数式のなかで、保存されているのは、いったいなにか。法則が保存されているというか、法則のなかにおいて数式を展開し変形しているのだが、法則の外に置かれた数式がいったいどのような意味をもつのか。たとえば、1>2 とかだが、ああ、間違っているという意味があるか。しかし、これが言葉だと、意味に含みが多いため、論理的に間違った言葉であっても、また、その言葉のつくり手の思惑からはずれたものであっても、重要な意味をもつことが少なくない。もちろん、それは読み手の読み方に大いに依存することではあるが。




つねに新しい花にかえる
(エズラ・パウンド『サンダルフォン』小野正和・岩原康夫訳)


新しい言葉を与え、
(エズラ・パウンド『サンダルフォン』小野正和・岩原康夫訳)


愛が去り、
(エズラ・パウンド『若きイギリス王のための哀歌』小野正和・岩原康夫訳)


昨日という日が、まるで私の誤った人生をひっくるめたよりも長い時間であるかのように、私のかたわらを通り過ぎてゆく。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二章、園田みどり訳)


(…)しかし世界から出ることはどこの場所でもできるのであって、そこに崩壊時の星のような力のある打撃を加えればいいのである。こうした制約のために不完全に見えるものは物理学だけであろうか? あらゆる体系はその中にとどまる限り不完全で、そこからもっと豊かな領域に踏み出したときに初めて理解できるという、あの数学のことがここで思い浮かびはしまいか? 現実の世界に身を置きながら、どこにそんな領域を求めることができよう?
(スタニスワフ・レム『虚数』GOLEM XIV、長谷見一雄訳)




 レムのこの言葉から、つぎのようなことを思った。自分の体験をほんとうに認識するためには、自分の体験のなかにいるだけでは、不可能なのではないかと。「定義し理解するためには定義され理解されるものの外にいなければならない」(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)という言葉がある。「マールボロ。」という作品において、ぼくが友だちの言葉を切り貼りしてつくった詩句のように、ぼくが他者の体験を通して、他者の体験を、解釈したり理解したり、あるいは想像したりするというプロセスにおいて疑似的に体験することによって、その他者の体験という、ぼくの体験ではない体験にある精神状態から、つまり、いったん、自分の状態ではない他者の精神状態から、ぼくの体験を眺める目をもつことができるようになってはじめて、自分が体験したことの意味がわかるのだと思われるのである。もちろん、他者の精神状態はぜったいに知ることはできないが、他者の精神状態を想像することはできる。その想像した他者の精神状態に、いったん自分を置くということである。置いてみるということである。その他者の精神状態を想像するもとになるものは、直接的にその他者の体験を目の当たりにする場合もあるが、多くの場合が、その他者が体験したことをその他者が書いた文章であったり語った言葉や雰囲気であったり映像に撮られたものであったりするのだが、そういった他者の体験を、その他者自身が表現した場合とそうでない場合があるのだが、いずれにせよ、そういった、ぼくではない人間の「ものの見方」や「感じ方」や「考え方」を通してこそ、自己の体験をほんとうに知ることができると思われるのである。自分のなかだけでは、堂々巡りをするだけで、自分の状態をほんとうに知ることなどできないであろう。他者の体験を知るということが、唯一、ほんとうに自己の体験を認識する手段なのである。このことは、たいへん興味深いことである。言語で表現されている場合、言語は言語である限り、言語であることから由来するさまざまな制約を受けている。おもに、語意や語法のことである。一方、意識や思考は、語意や語法に完全に縛られているわけではない。不適切な文脈で使うこともできるし、間違った語法で言葉をつづることもできる。ヴィトゲンシュタインは、言語の限界が思考の限界だと書いていたが、言語が意味をもつ限り、正しかろうと間違っていようと、意味からは逃れられないが、意味に限界はない。したがって、言語に限界は存在しないはずで、思考の限界が言語の限界であるなら、思考には限界がないということになる。このぼくの主張は正しいだろうか。ぼくという詩人の仕事の一つに、このことの解明という文学的営為が含まれていると思っている。
 言葉を換えて言えば、そして、端的に言えば、こういうことであろう。他者の体験に一時的に同化することによってのみ、自分の体験を外から見るという経験を通してのみ、ほんとうに自分の体験したことの意味を知ることができると。ここで、ふと思ったのだが、「ほんとうに自分の体験したことの意味を知る」というのと、「自分の体験したことのほんとうの意味を知る」というのが、まったく同じことかと言えば、まったく同じことではないと思うのだが、感覚的にはほとんど同じようなものであると感じられる。




ああ、ぼくはそんなことをすでにみな話をしていたな、ちがうか?
 どうだか、わからない。心の中であまりに多くのことが動きまわっているので、これまでに起こったことと、まだ起こっていないことと、心の中以外では絶対に起こらないことについて、ぼくはいささか混乱している。
(フレデリック・ポール『ゲイトウエイ3』上・9、矢野 徹訳)




 フレデリック・ポールのこの言葉から、つぎのような文章が思い浮かんだ。自分と話している人間が自分の言っている言葉をどう思うのか、といったこととは無関係に、自分のこころのなかに生じた期待や不安を、成功への絶対的な確信や望みのないこころ持ちといったようなものを、ふいに投げつけるようなタイプの人間がいる。ぼくがそうだった。




 感情の発展過程で、ある点以上には絶対成長しない人がある。かれらは、セックスの相手と、ふつうの気楽で自由な、そしてギブ・アンド・テイクの関係をほんの短いあいだしか続けられない。内なる何かが、幸福に耐えられないのだ。幸福になればなるほど、破壊せずにおけなくなる。
(フレデリック・ポール『ゲイトウエイ』20、矢野 徹訳)




 フレデリック・ポールのこの言葉から、つぎのような文章を思いついた。いまある幸せがいつかはなくなるものだと思って、あるいは、いまつかまえられるかもしれない幸せをいつかは手放さなくてはならないものだと思って、そういう不安なこころ持ちで生きていくことに耐えられずに、いまある幸せを、いまつかまえられるかもしれない幸せを、幸せになるかもしれない可能性を、自らの手で壊してしまう、そんなことを繰り返してきたのだった、このぼくは。京大のエイジくんとの一年半の付き合い方が、この典型だった。おそらく、彼も、ぼくと同じような性質だったのであろう。お互いに、相手を好きだという気持ちをストレートに出せなくて、会うたびに相手を傷つけるような言葉を投げかけ合っていたのであった。相手を侮辱し、挑発し、怒りや憎しみを装った悲しみを投げつけ合っていたのであろう。二十年近くたって冷静に自分の言動を見つめていると、しばしば哀れみを感じてしまう。愛情をストレートに表現する能力が欠けているために、どれだけ相手を、また自分を傷つけてきたのだろうかと思わずにはいられない。




神とは最初の遠い昔の細胞が死んで以来の細胞たちの中に累積された知である。
われわれはその知の中に住む
(ジェイムズ・メリル『ミラベルの数の書』9.9、志村正雄訳)


夢想で作り上げたものは現実で償わなければならないと思う。
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』I、志村正雄訳)


(僕はめったに感じられないことであるけれど、
 世界が現実(リアル)であると見える人々を僕は愛す)。
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』O、志村正雄訳)




 メリルのこの言葉から、愛するものは生き生きとしていると思った。愛する者は生き生きとしているでもいい。ディックの小説に、「「ねえ」と映話をすませたマルチーヌがいった。「なに考えてるの?」/「きみが愛するものは、生き生きしてるってこと」/「愛ってそういうものなんでしょ?」とマルチーヌはいった。」(フィリップ・K・ディック『凍った旅』浅倉久志訳)といった言葉のやりとりを描写した箇所がある。愛の絶頂というのが、肉体的なことに限りはしないことなのだけれど、かつて、肉体的な絶頂がもたらせる充足感が、自分の生命のありったけの喜びを集めて放射したように感じることがあった。もっとも生き生きとした瞬間というものが、あれだったのかなと思われる。愛するものはリアルである。愛する者はリアルである。愛するものは現実である。愛する者は現実である。現実はリアルである。愛は現実である。現実は愛である。




今こうしてここにきみはいる、新しい型の中の旧い自我。
あの根の何本かは強靱になったようだ、死んだのもあるが。
語れ、僕に語れ、僕はきみに頼む、
瞬間の一つ一つが何をするのか、したのか、するつもりなのか──
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』S,志村正雄訳)


ユングは言う──言わないにしても、言っているに等しい──
神と<無意識>は一つであると。ふむ。
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』U,志村正雄訳)




 メリルのこの詩句が、いかに自由な精神から書かれたものか、想像するしかないが、かなりの自由度を有した精神が書いたものとしか思われない。ここまで自由になるには、よほど深い思索が行われなければならなかったはずである。ぼくの精神がメリルのような自由度をもつためには、あとどれだけ知識を吸収し、思索をめぐらせなければならないか、これまた想像もつかない。しかし、先人がいるということは、それにつづけばいいだけで、先人が苦労して獲得したものを、後人は、先人より容易に入手できる可能性が高い。先人がいるということを知っているだけでも、エネルギーギャップは、かなり低くなったはずだ。がんばろう。




一切の表現は本来嘆きである、と大胆に論断することができる。
(トーマス・マン『ファウスト博士』四六、関 泰祐・関 楠生訳)


痛い とわかること は つらい こと
(ヤリタミサコ『態』)


当時はなお表現し得なかった一つの意味、後になっては
忘却どころか、血の出るほどに傷ついた
刺。だがそのときすでに貴女は死んでいた、
どこで、どのようにか、ぼくはとうとう知らずじまい。
(エウジェーニオ・モンターレ『アンネッタ』米川良夫訳)


ならば僕は君を創造するとしよう。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)


それは悲しみであった。
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)


だが 悲しんでいることも
これがわれらの悲しみであることも われらは知らない
(エドウィン・ミュア『不在者』関口 篤訳)


一冊の本は、どんなに悲しい本でも、一つの人生ほど悲しくはあり得ません
(アゴタ・クリストフ『第三の嘘』第一部、堀 茂樹訳)


不幸だけがほんとうに自覚できる唯一のものである
(マルロー『征服者』第I部、渡辺一民訳)


おそらく我々はそういう瞬間のために生きてきたのではあるまいか?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』8、菅野昭正訳)


ヤン・フスが火刑に処された際、一人の柔和で小柄な老婆が自分の家から薪を持って現われ、それを火刑台にくべる姿が見られた。
(カミュ『手帖』第六部、高畠正明訳)


神は愛である。
(ヨハネの第一の手紙四・一六)


愛だけが 厳しい 多くの苦痛をもっている
(キーツ『ファニーに寄せるうた』6、出口泰生訳)


愛はいつまでも絶えることがない。
(コリント人への第一の手紙一三・八)


神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
(テモテへの第一の手紙二・四)


神さまは、それをゆっくりお待ちになることができるからね
(マルロー『希望』第一編・第二部・第二章・1、小松 清訳)


ひとが愛するものについて誤らないつてことは、むづかしいことだよ。
(ワイルド『藝術家としての批評家』第一部、西村孝次訳)


誰しも自分の流儀で愛するほかに方法はなかろうじゃないか
(三島由紀夫『禁色』)


彼女はただ偶然に行動した。
(スタンダール『パルムの僧院』第十四章、生島遼一訳)


愛よりなされたことは、つねに善悪の彼岸に起る。
(ニーチェ『善悪の彼岸』第四章・一五三、竹山道雄訳)


愛とは、学んで得られるものではありませんが、にもかかわらず、愛ほど学ぶ必要のあるものもほかにないのです。
(教皇ヨハネ・パウロII世『希望の扉を開く』三浦朱門・曽野綾子訳)


愛の道は
愛だけが通れるのです。
(カルロス・ドルモン・ジ・アンドラージ『食卓』ナヲエ・タケイ・ダ・シルバ訳)


偏執病者の経験する愛は憎悪の変形なのである。
(フィリップ・K・ディック『アルファ系衛星の氏族たち』7、友枝康子訳)


わたしにはこの病気の本質を説明することはとうていできないとしても、
(ズヴェーヴォ『ゼーノの苦悶』5・結婚のこと、清水三郎治訳)


愛に報いるためには、この道を通るしかないという気がした。
(ターハル・ベン=ジェルーン『聖なる夜』17、菊地有子訳)


人間はあっというまに地獄へ行ける
(アン・マキャフリー『歌う船』歌った船、酒匂真理子訳)


自由がなにかを教えるというなら、それは幸福というものは幸福であることのなかにあるのではなく、自分の不幸を選びうることのなかにあるということなのだ
(レイナルド・アレナス『ハバナへの旅』第三の旅、安藤哲行訳)


地獄を選ぶということが可能なのは、ただ救いへの執着があるからこそである。
(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』悪、田辺 保訳)


ほかに選択の道がありますか?
(アイザック・アシモフ『ファウンデーションへの序曲』大学・13、岡部宏之訳)


森へ行こう
(マルグリット・デュラス『太平洋の防波堤』第2部、田中倫郎訳)


詩は森のなかで行われる
(アンドレ・ブルトン『サン・ロマノへ通じる街道の上で』清岡卓行訳)


とりわけおもしろいのが、この森さ。
(アガサ・クリスティー『火曜クラブ』第二話、中村妙子訳)


ようこそ、一九六一年に
(ロバート・シルヴァーバーグ『時間線を遡って』7、中村保男訳)


過去はふくろう(、、、、)の巣のまわりにある骨のようなものである。
(ギマランエス・ローザ『大いなる奥地』中川 敏訳)


おや! 破片(かけら)だ! 水瓶(みずさし)が壊れている!
(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第二章、渡辺一夫訳)


見るかい?
(マイク・レズニック『キリンヤガ』3、内田昌之訳)


むしろそれは祈りに似たものだった。
(ジョイス・ケアリー『脱走』小野寺 健訳)


彼は「自分はもう二度と自分自身になることはあるまい」と語るのである。
(キェルケゴール『死に至る病』第一編・三・B・b・α・2、斎藤信治訳)


汝(なれ)はそも、涙を持てる、憂わしき甕なるか?
(ジイド『贋金つかい』第三部・七、川口 篤訳)


世のなかには元来、ただ一冊の「書物」だけしか存在せず、その掟が世界を支配しているのではないか。
(マラルメ『詩の危機』南條彰宏訳)


ただ一つの文章しか存在しないのだ、それがいまだに読み解かれていない。
(アンドレ・ブルトン『ただ一つのテクスト』安藤元雄訳)


離反は信仰の行為です。そして一切は神のうちに存在し、神のうちで起るのです。特に神からの背反がそうなのです。
(トーマス・マン『ファウスト博士』一五、関 泰祐・関 楠生訳)


罪の反対は信仰なのである(、、、、、、、、、、、、)。それゆえに、ローマ書第十四章二十三節には、すべて信仰によらないことは罪である、と言われている。
(キルケゴール『死に至る病』第二編・A・第一章、桝田啓三郎訳)


苦悩とは疑惑であり、否定である
(ドストエフスキー『地下室の手記』I・9、江川 卓訳)


彼は神に対して不幸な愛を抱いている。
(キェルケゴール『死に至る病』第二編・A、斎藤信治訳)


ひとは雨雲を覚えていて、思い出すだろうか。
(モーパッサン『ピエールとジャン』5、杉 捷夫訳)


雲は過ぎさるが、天はとどまる。
(アウグスティヌス『告白』第十三巻・第十五章・一八、山田 晶訳)


「すべては流れる」
と賢者ヘラクレートスは言う。
(エズラ・パウンド『「わが墓をたてるために」E・Pのオード』III、新倉俊一訳)


私はある男を知っていました。彼はミツバチの羽音はその死後には響かないと確信していました。
(ヴォルテールの書簡、ドフォン公宛、一七七二年、池内 紀訳)


読んだこともない詩の一節が
(フィリップ・K・ディック『ユービック』5、浅倉久志訳)


その詩の最後の行を忘れることが出来ない。
(カポーティ『最後の扉を閉めて』2、川本三郎訳)


もしあのとき……もしあのとき。
(三島由紀夫『遠乗会』)


ぼくの白い柵、ぼくの家の囲いの格子垣、ぼくの樹々、ぼくの芝生、ぼくの生まれた家、そして玉撞き部屋の窓ガラス、それらは本当にそこにあったのだろうか?
(コクトー『ぼく自身あるいは困難な存在』ぼくの幼年時代について、秋山和夫訳)


みんなそこで生まれたの。
(マルグリット・デュラス『北の愛人』清水 徹訳)


空の上には一片の雲も掠(かす)め飛んだことはなかった。
(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも怜悧なのか・5、西尾幹二訳)


魂とはなにものか?
(ジャン・ジュネ『葬儀』生田耕作訳)


人間とはいったいなんでしょう、
(ホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』檜山哲彦訳)


まことに人間そのものが大きな深淵だ。
(アウグスティヌス『告白』第四巻・第十四章・二二、山田 晶訳)


われわれの内部には、じつに奇怪で神秘的なものがあるんだ。いったい、自分自身のなかにいるのは自分だけだろうか?
(アンリ・ド・レニエ『生きている過去』11、窪田般彌訳)


僕たちの背後で嘲笑している何かがあるのだ。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)


死んだ腹から聞こえる笑い
(エズラ・パウンド『「わが墓をたてるために」E・Pのオード』IV、新倉俊一訳)


俺は死人たちを腹の中に埋葬した。
(ランボオ『地獄の季節』悪胤、小林秀雄訳)


魂を究極的に満たすのは魂自身のほかにはない、
(ホイットマン『草の葉』分別の歌、酒本雅之訳)


深淵と深淵とが相對しているのであつた。
(バルザック『セラフィタ』一、蛯原徳夫訳)


また苦しみの森
痛めつけられた白骨
(ジャン・ジュネ『葬儀』生田耕作訳)


僕のまわりに冷淡な広い余白が拡がる。今僕の眼に好奇に満ちた数千の眼が開く。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)


qualis sit animus,ipse animus nescit.
霊魂は如何なるものなるか、霊魂自身はそれを知らず。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』より、キケロの言葉)


いったん灰になることがなくて、どうして新しく甦(よみがえ)ることが望めよう。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部、手塚富雄訳)


埋葬されなかったものは、どのようにして復活したらよいのであろう。
(カロッサ『ルーマニア日記』十二月十五日、金曜、三時四十五分、登張正実訳)


墓のあるところにだけ、復活はあるのだ。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)


生きのびるとは何度も何度も生れること
(エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』19、柳瀬尚紀訳)


生まれるとは、前とは違ったものになること
(オウィディウス『変身物語』巻十五、中村善也訳)


ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。
(ガラテヤ人への手紙六・一五)


詩は言葉のために言葉を語る。
(ホフマンスタール『詩についての対話』檜山哲彦訳)


無限に語りつづける、
(ボルヘス『伝奇集』結末、篠田一士訳)


この書物はまだ終わったわけではない。
(ジャン・ジュネ『葬儀』生田耕作訳)


まだずいぶんかかるの、詩を仕上げるのに?
(レイナルド・アレナス『夜明け前のセレスティーノ』安藤哲行訳)


小さな森の中に、ひとりの贋詩人が現われる。
(アポリネール『虐殺された詩人』12、鈴木 豊訳)


君は、詩が好きかい?
(ジイド『一粒の麦もし死なずば』第一部・八、堀口大學訳)


でもこれがほんとに詩なんですか、それよりも判じ物じゃないかしら?
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラ、井上究一郎訳)


ある晩、帰りがけに小石をいっぱい包んだハンケチを、背中にぶつけられました。
(バルザック『谷間の百合』二つの幼児、小西茂也訳)


民衆があなたに石を投げつけてもちっとも不思議はない。
(ペトロニウス『サテュリコン』90、国原吉之助訳)


半分は嘘で、半分はふざけてるんだから
(ロバート・A・ハインライン『地球の脅威』福島正実訳)


おっしゃるとおりです、まったく。
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』第三場、小田島雄志訳)


引用について。

  田中宏輔



モンテーニュのなかで私が読みとるすべてのものは、彼のなかではなく、私自身のなかで見いだしているのである。
(パスカル『パンセ』断章六四、前田陽一訳)


 確かに、これは、納得し得る言説である。しかし、他の断章から切り離されたこの部分の引用だけでは、文脈が通じにくいところがある。そこで、筆者は、これを、私自身の中で見い出されるすべてのものは、私自身の中にではなく、私の外にあって、私の心に働きかけ、私の心がそれに応えるところのものの中にあるものである、と読み換えてみる。
 また、引用されたこの断章が、その文脈を通じにくくさせている原因の一つに、パスカルがモンテーニュの中から読み取ったものと他の人が読み取ったものとが、同一のものであるという保証がどこにもない、ということがある。というのも、それは、


事物が同一であるのに、(その事物を対象とする)心に差別があるから
(『ヨーガ根本聖典』第四章、松尾義海訳)


であるが、ここで、また、では、なぜ、心というものには違いがあるのだろうか、という疑問が生ずることになる。
 いま、


心はその(事物の)影響に依存するものであるから、事物は(心に影響を与えるときは)知られ、(影響を与えないときは)知られない
(『ヨーガ根本聖典』第四章、松尾義海訳)


ものである、と仮定すると、知識や体験といったものの違いが、心に違いを生ぜしめる要因となっている、ということが結論として得られる。すると、なぜ同じ事物が、ある人には感動をもたらし、ある人にはもたらさないのか、また、同一の人に対しても、ある時には感銘を与え、ある時には与えないのか、といったことの理由が判明するのである。筆者は、先に、モンテーニュの中から読み取られるものが、パスカルと他の人間とでは、同一のものであるという保証はどこにもないと述べたが、その言説の根拠がここにあるのである。勿論、述べるまでもないことではあろうが、このパスカルの断章で言われるところのモンテーニュとは、彼の著作物を指し示す換喩(Metonymy)である。そして、それが、また、さらに、あらゆる事物を指し示す提喩(Synecdoche)となっているのである。
 ところで、また、個性とも呼ばれる、その人をその人たらしめる特質というものは、外因的な要素である事物の他に、内因的な要素である遺伝子という生来のもの、生まれつき備わっているものにも影響されるものであろうから、心に違いを生ぜしめる要因として、遺伝を含めて考察しなければならない。ただ、どちらの方が、より多く心に影響するものであるかということについては、人によって様々に異なるものであろうから、一概にしては言えない。その影響の大部分を、知識や体験といった外因的な要素によって被る場合もあるだろう。しかし、遺伝形質というものも、その人の両親である他の個体によってもたらされるものであるから、それも、また、外からもたらされるものであると考えられるのである。
 では、いったい、


だれがおまえをつくったのか?
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)


誰が私を造ったのか。
(アウグスティヌス『告白』第七巻・第三章、渡辺義雄訳)


 この問いかけは、筆者が冒頭近くでパスカルの一文を読み換えたものと照応する。即ち、外からもたらされたものの取捨選択と集積、そして、それらを組織化するところのものが心に違いを生ぜしめ、私というものを形成するのである。言い換えると、私というものは、すべて外からもたらされたものである、という訳である。『レトリックの本』(別冊宝島25)の中に、ペルシャの神秘主義詩人ルーミーの言葉が引かれている。比喩なしの話を聞きたいと言った人に、「おまえそのものが比喩なのだ。」と答えたという。筆者もまた、その言葉をもじって、「私とは引用そのものである。」と言ってみることにしよう。
 すると、引用というものが、そこで実現された表現とその受容において、いったい、どれほどの効果を持つものとなっているのか、というような問題は別にして、それがもっとも直接的に個性を発現させる技法の一つである、ということが理解されよう。筆者には、ここで、「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう。」という、ブリア・サヴァランのアフォリスムが思い出されるが、如何なものであろうか。(関根秀雄・戸部松実訳『美味礼賛』岩波文庫)
 
 次に、引用という技法が、その極限にまで達して駆使されていると思われる詩作品を例に挙げて、考察していくことにする。但し、この限られた紙幅では、その全文を掲げるわけにはいかないので、その中から一部を抜粋するに留める。


廃星が

 ──羨しいな、絵の君に、と、ささやき掛けた、或る日、夕暮れ
(吉増剛造『廃星の子』、詩集『螺旋歌』所収)


 これが、その詩作品の冒頭部分であるが、作者の名前が明らかにされてなくても、読者は、これだけで、この詩作品の作者名を容易に言い当てることができる。それは、この部分が、吉増氏によってこれまで頻繁に繰り返し用いられてきた言葉で構成されているからである。詩集『スコットランド紀行』の中に、「引用のことを言いますと、自己引用もしますし、引きなおし、引いて、引いて引きなおして、」という作者自身の言葉があるが、これほど激しく自己引用する詩人は、他には見られない。読者は、その作品世界に冒頭から引き込まれることになり、そこで新たに展開されるヴィジョンは、この作者によって形成された過去の作品世界と共振させられることになるのである。自己引用というものは、とりわけこの詩作品の作者である吉増氏によるものは、その作者が形成する作品世界に、さらに多義的な、或は、多層的な解釈をもたらすものとなっているのである。
 この詩作品では、終わりの方で、また、この冒頭部分に類似した詩句が現われる。


廃星が

 ──羨しいな、絵の君は、と、ささやいた
(吉増剛造『廃星の子』、詩集『螺旋歌』所収)


 これは、作者が言うところの「引きなおし」であろうが、一般に一つの詩作品の中で現われる類似した詩句は、反復(Repetition)と呼ばれるものであって、引用(Quotation)とは呼ばれないのであるが、この詩人の場合には、反復もまた、引用であるかのごとき印象を与えるものとなっている。
 
 この詩作品の初出誌は、「ユリイカ」90年12月号であった。その折りには、『月の岩蔭に蹲んでわたしは春を待つ』というタイトルで掲載されたのであるが、詩集収録時には、末行に書かれてあったこのタイトルと同じ詩句が省かれており、また、末尾に附記されてあった文章が省略されている。その文章には、この詩作品が、画家ジョルジオ・モランディー回顧展によせて書かれたものであるという経緯が述べられてあったが、それは、ここに引用された「羨しいな、絵の君に(は)、」という詩句に照応するものであった。


落ちても枯葉に行く処なし
枯葉に行く処なし
行く処なし
処なし
なし
(吉増剛造『廃星の子』、詩集『螺旋歌』所収)


 初出の段階では、この部分には、各行の行間に、一行分の空白が設けられてあったが、詩集に収録された時には取り去られている。この詩作品においては、様々な改稿が施されているが、この部分とタイトルの改変、そして、初出の際に末行にあった元のタイトルと同じ詩句がなくなっていることは、筆者に非常に大きなショックを与えた。このことは、筆者に、詩篇の改稿というものが、読み手のヴィジョンに対して、どれほど大きく影響するものであるのか、ということについて考えさせるものであった。
 この部分は、筆者に、T.S.Eliotの「The Waste Land」 を思い起こさせた。


‘What are you thinking of? What thinking? What?


 これは、II.A Game Of Chess にある詩行であるが、前掲の吉増氏の詩句は、この Eliot の詩行が表わしている意味内容(Sense)の引用ではなく、その詩行が持っている文体(Style)の引用である。吉増氏の詩句は、Eliot の詩句とは、その意味内容において、関連性のまったくないものであったが、その文体の引用がもたらす音調的な効果が著しく類似しているために、Eliot のThe Waste Land のイメージを筆者の心象に喚起させ、筆者のヴィジョンに揺さ振りをかけるものとなったのである。


"わたしは火がほしい"と枯葉が葉裏であれまた嘘ついちゃった
(吉増剛造『廃星の子』、詩集『螺旋歌』所収)


 これが、詩集収録時の末行であるが、引用であることが示される""で括られた「わたしは火がほしい」という詩句から、ニーチェの『ツァラトゥストラ』が思い起こされた。「私は火を欲する。」といった言葉を目にした記憶があったのである。そこで、筆者は、その言葉が書かれてある箇所を確認するために、その本を繙いたのであるが、捜し当てることができなかった。三たび通読してみたのであるが、そのような言葉はどこにもなかったのである。しかし、その再読は、筆者に思いもよらぬ収穫をもたらすものとなったのである。手〓富雄訳(中央文庫)で、幾つか文章を引くことにする。但し、丸括弧内の数字は、その文章が引かれたページ数を表わす。「君は君自身の炎で焼こうと思わざるを得ないだろう。いったん灰になることがなくて、どうして新しく甦ることが望めよう。(100)」「まことに、自分自身の烈火のなかから、自分自身の教えが生まれてくることが、もっと意味のあることなのだ。(143)」「人間たちのあいだにも、灼熱の太陽によって孵されたひながいる。(230)」「そしてまもなくかれらは枯れた草、枯れた野のようになるだろう、そしてまことに、自分自身に倦み、水を求めるよりは、むしろ火を求めてあえぐことだろう。(274)」「万物を焼きつくす太陽の無数の矢に射貫かれて、灼熱しつつ至福にふるえているように!(346)」「精神に火を(373)」「熱い火を与えよ、(407)」。

『ツァラトゥストラ』にある、これらの文章が、筆者に、「私は火を欲する。」といった言葉を思い浮かべさせたのかもしれない。
 
 或は、もしかすると、「わたしは火がほしい」という吉増氏の詩句が、『ツァラトゥストラ』の全内容を、「私は火を欲する。」といった非常に短い言葉で、筆者に要約させたのかもしれない。
 
 また、『ツァラトゥストラ』の中には、「そしてまことに、没落が行なわれ、葉が落ちるとき、そのとき生はおのれを犠牲にしてささげているのだ──力のために。(181)」「おお、ツァラトゥストラよ、木の葉をして落ちるにまかせるがいい。そして嘆かぬがいい。むしろその木の葉を吹き散らす手荒な風を吹き送るがいい。(287)」「そしてわたしは自分自身を保存しようとしない者たちを愛する。没落してゆく者たちを、わたしはわたしの愛の力のすべてをあげて愛する。かれらは、かなたへ渡って行く者たちなのだ。──(320)」といった文章もあり、これはまさに、筆者が前に引いた、吉増氏の詩句である「落ちても枯葉に行く処なし」と呼応するものである。
 
この詩作品における引用の妙については、まだまだ言及するべきところがある。しかし、いまは、紙幅に余裕がない。後日、また、機会があれば、それらについて論じることにしよう。


Sat In Your Lap。

  田中宏輔



 私の周囲にあったものは、すべて私と同一の素材、惨めな一種の苦しみによってできていた。私の外の世界も、非常に醜かった。テーブルの上のあのきたないコップも、鏡の褐色の汚点も、マドレーヌのエプロンも、マダムの太った恋人の人の好さそうな様子も、すべてみな醜かった。世界の存在そのものが非常に醜くて、そのためにかえって私は、家族に囲まれているような、くつろいだ気分になれた。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)


 詩人の遺稿のなかに、つぎの二つの原稿が見つかった。それらの原稿は、クリップで一つにまとめられていたのだが、上の文章のメモ書きが、一つ目の原稿の上に、セロテープで貼り付けられていた。上の文章が、原稿のどこに差し挟まれるのかは、指示してなかったので、本稿の冒頭に冠することにした。二つの原稿の内容とは微妙にずれるものとも思われたが、詩人の遺稿を取り扱う際に、後から付加されたメモ書きも、できるかぎり取り入れていくという姿勢で原稿を整理しているので、このように処することにした。上のメモ書きの文章が、どこに引用されるべきものだったのか、二つの原稿を何度も読み返してみたが、わからなかった。もしかすると、ただ原稿を書き直すための参考資料にでもしようとしていたのかもしれない。詩人の意向を察することも、読者にとっては、一興かもしれない。試みられても面白かろうと思われる。
 ところで、この二つの原稿は、内容から察すると、どこかの雑誌か、同人誌にでも発表されたものであるらしいのだが、調べてもわからなかった。これらの原稿が掲載された雑誌や同人誌の類は、詩人の遺品のなかにはなかった。もしかすると、出すつもりではあったが、何らかの理由で出さなかったものかもしれない。しかし、もしそうであっても、ここに、あえて収録するのは、この二つの原稿が、詩人の詩論として集大成的なものであり、詩人の詩を理解するためには、けっして見落とせないものだと思われたからである。
 二つの原稿をつづけて紹介し、その後で、詩人が使っている独特な言い回しについて、若干、解説していくことにする。




Sat In Your Lap。I


『イル ポスティーノ』という映画を見ていたら、パブロ・ネルーダの詩の一節が引用されていた。


俺は人間であることにうんざりしている
俺が洋服屋に寄ったり映画館にはいるのは
始原と灰の海に漂うフェルトの白鳥のように
やつれはて かたくなになっているからだ

俺は床屋の臭いに大声をあげて泣く
俺が望むのはただ 石か羊毛のやすらぎ
俺が望むのはただ 建物も 庭も 商品も
眼鏡も エレベーターも 見ないこと

俺は自分の足や爪にも
髪や影にもうんざりしている
俺は人間であることにうんざりしている
(『歩きまわる』桑名一博訳)


 映画のなかで使われていたのは、たしか、第一連から第二連までだったかと思われるのだが、もしかすると、第三連までだったかもしれない。それにしても、この「俺は人間であることにうんざりしている」というフレーズは印象的だった。俳優がこの言葉を口にしていたときの表情とともに。映画には、ほかにも記憶に残る場面がいくつもあったのだが、もっとも印象に残ったのは、このフレーズと、このフレーズについて考えながらしゃべっているような様子をしていた俳優の表情であった。
 ネルーダの名前には記憶があったので、本棚を探してみた。集英社から出ている『世界の文学』シリーズの『現代詩集』の巻に載っていた。持っている詩集は、すべて目を通していたはずなのに、この詩のこのフレーズに目をとめることができなかったことに恥ずかしい思いがした。自分の感受性が劣っているのではないかと思われたのである。もちろん、年齢や経験の違いが、あるいは、読むときの状況とかの違いが、その詩や、そのフレーズに目をとめさせたり、とめさせなかったりするのだから、劣等感を持つ必要などことさらなく、むしろ、いま、ネルーダの詩のこのフレーズに目をとめることができたということに、自分の感受性の変化を感じ取り、それを成長と受けとめ、祝福するべきであるのだろうけれども。


犬は何処へ行くのか?
(ボードレール『善良なる犬』三好達治訳)


 ここで、ふと、こんなことを思いついた。犬が犬であることにうんざりするということはないのだろうかと。それは、自分が犬にならないとわからないことなのかもしれないけれど、もしも、犬に魂があるのなら、魂を持っているものは感じることができるのだし、また考えることもできるのであろうから、犬もまた、自分が犬であることにうんざりするということもあるのかもしれないと思ったのである。ところで、自分が人間であることにうんざりするというのは、人間にとってもかなり複雑な気分であると思われるので、もしかすると、犬には、自分が犬であることにうんざりするというような能力が欠けているのかもしれないけれど、犬を見ている人間が、自分の気持ちをその犬に仮託して、犬が犬であることにうんざりしているように見えることならば、あると思われる。というより、よくあることのように思われる。しかし、そう見えるためには、少なくとも、人間の方が、犬の魂というか、心情とかいったものを、ある程度は理解していなければならないと思うのだが、仮に魂を領土のようなものにたとえれば、理解するためには、まず、その犬の魂に自分の魂の一部分を与えることが必要で、そうして、そのことによって、その犬の魂の領土のなかに踏み込んで行き、その犬の魂の領土のなかに、その犬の魂と自分の魂の一部分が共存する領域を設け、かつまた、同時に、その犬の魂の一部分を自分の魂のなかに取り込み、自分の魂のなかに、自分の魂とその犬の魂の一部分が共存する領域を設けなければならないと思われるのだが、そういうふうに思われないだろうか。

 ここで、また、このようなことを思いついた。犬といった、多少は知恵のありそうな動物だけではなく、海といったものや、言葉といったものも、自分が自分であることにうんざりするというようなこともあるのではないかと。「海が海であることにうんざりしている。」とか、「言葉が言葉であることにうんざりしている。」とか書くと、なんとなく、海や言葉が人間のように考えたり感じたりしているような気がしてくるから不思議だ。これは、もちろん、わたしが、海や言葉といったものに、わたしの気持ちを仮託して感じ取っているのだろうけれど。「快楽が快楽であることにうんざりしている。」というふうに書くと、いささか反語的な響きを帯びた、陳腐な表現になってしまうが、「悲しみが悲しみであることにうんざりしている。」と書くと、状況によっては、象徴的な、まことに的確な表現にもなるであろう。

 ここで、動物だけではなく、あらゆる事物や事象にも魂というものがあるとすれば、言葉といった実体のない概念のようなものにさえ、魂といったものがあるとすれば、ある人間が他の人間や動物を理解するような場合だけではなく、人間が事物や事象を理解したり言葉を理解したりする場合にも、また、ある事物や事象が他の事物や事象を理解したり人間や言葉を理解したりする場合にも、さらにまた、ある言葉が他の言葉を理解したり人間や事物や事象を理解したりする場合にも、互いに魂のやり取りをし合って、他のものの魂のなかに、自分の魂と共有する領域を設け、かつまた、同時に、自分の魂のなかに、他のものの魂と共有する領域を設けていると考えればよいと思われる。

 魂を領土といったものにたとえた場合には、「他のものの魂のなかに、他のものの魂と自分の魂の一部分が共存する領域を設け、かつまた、同時に、自分の魂のなかに、自分の魂と他のものの魂の一部分が共存する領域を設ける」ことと、「他のものの魂のなかに、自分の魂と共有する領域を設け、自分の魂のなかに、他のものの魂と共有する領域を設ける」こととは、同じ内容のものであって、ただ表現が異なるだけのものであるのだが、しかし、このような考え方に違和感を持つ人がいるかもしれない。いや、そもそものところ、魂といったものを領土のようなものにたとえること自体に異議を唱える人がいるかもしれない。魂を領土にたとえたのは、理解するということを、モデルとして目に浮かべやすい形で表現したつもりなのであるが、数学でいうところの集合論において、ベン図という図形を目にしたことがないだろうか。二つの集合の間に交わりがあるとき、その交わった部分を、その二つの集合の交わり、あるいは、共通部分というのだが、それから容易に連想されないであろうか。理解するとは、異なる魂が共存する領域を設けること、あるいは、異なる魂との間に共有する領域を設けることである。こういった考え方が、わたしにはぴったりとくるものなのだが、そうではない人もいるかもしれない。そのような人には、いったい、どのように説明すればよいだろう。
そうだ。リルケが、『ほとんどすべてのものが……』のなかに、


すべての存在をつらぬいてただひとつの(ヽヽヽヽ)空間がひろがっている。
世界内面空間。鳥たちはわたしたちのなかを横ぎって
しずかに飛ぶ。成長を念じてわたしがふと外を見る、
するとわたしの内部に樹が伸び育っている。
(高安国世訳)


と書いているのだが、このなかにある、「世界内面空間」といった言葉を、ベン図において長方形全体で示される全体集合の図形と合わせて思い起こしてもらえれば、「魂の領土」や「魂の領域」といった言葉を、すんなりと受け入れてもらえるかもしれない。
 ところで、ベン図は平面上に描かれる図形なのだが、ここで、いま、ベン図の描かれた平面が数え切れないほどあって、その数え切れないほどある平面が積み重なって空間を構成していると想定してもらえれば、より合理的な説明ができると思われる。というのも、さまざまなものとの間に同時に「魂の領域」を共有させるためには、その「世界内面空間」になぞらえた「魂の領土」が多層的なものであり、そうして、重なり合った層は固定されたものではなく、瞬時に移動できるものであって、どれほど遠く離れた層であっても、一瞬のうちに上下に重なり合うことがある、と考えればよく、そう考えると、自分の頭のなかで、唐突に二つの事柄が結びつくことにも容易に説明がつくからである。
「魂の領土」とか「魂が共存する領域」とか「魂を共有する領域」といった言葉が、どうしても受け入れられない人には、本稿に書かれてある「魂の領土」とか「魂が共存する領域」とか「魂を共有する領域」とかいった言葉を、ただ単に「魂」という言葉に置き換えて読んでもらえばよいと思うのだが、しかし、そもそも、「魂」といったもの自体の存在を否定する人もいるかもしれない。自分には、魂などはないと考えている人もいるかもしれない。だが、たとえ、そういった人であっても、自分には「自我」というものなどはないと考えるような人はほとんどいないであろう。したがって、本稿のなかで、「魂の領土」とか「魂が共存する領域」とか「魂を共有する領域」とかいった言葉が不適切であると思われる人には、それを「魂」という言葉に置き換えて読んでもらえばよいだろうし、「魂」といった言葉でさえも適当ではないと思われる人には、それを「自我」といった言葉に置き換えて読んでもらえばよいと思う。
 最後に、詩人や作家たちのつぎのような詩句を引用して、本稿を終えることにしよう。


古びてゆく屋根の縁さえ
空の明るみを映して、──
感じるものとなり、国となり、
答えとなり、世界となる。
(リルケ『かつて人間がけさほど……』高安国世訳)


自然の事実はすべて何かの精神的事実の象徴だ。
(エマソン『自然』四、酒本雅之訳)


言葉は現実を表わしているのではない。言葉こそ現実なのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)


私はうたはない
短かかつた燿かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
(伊藤静雄『寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ』)


素材が備わりさえすれば
言葉はこちらが招かずとも
自然に出てくるものなのです。
(ホラティウス『書簡詩』第二巻・三、鈴木一郎訳)


自然界の万象は厳密に連関している
(ゲーテ『花崗岩について』小栗 浩訳)


あらゆるものがあらゆるものとともにある
(ホルヘ・ギリェン『ローマの猫』荒井正道訳)


たがいに与えあい、たがいに受け取りあう。
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)


順序を入れかえたり、語をとりかえたりできるので、たえず内容を変える
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)


res ipsa loquitur.
物そのものが語る。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)


そしてこの語りたいという言語衝動こそが、言葉に霊感がある徴(しるし)、わたしの身内で言葉が働いている徴だとしたら?
(ノヴァーリス『対話・独白』今泉文子訳)


万物は語るが、さあ、お前、人間よ、知っているか
何故万物が語るかを? 心して聞け、それは、風も、沼も、焔も、
樹々も蘆も岩根も、すべては生き、すべては魂に満ちているからだ。
(ユゴー『闇の口の語りしこと』入沢康夫訳)


魂は万物をとおして生き、活動しようとひたむきに努力する。たったひとつの事実になろうとする。あらゆるものが魂の属性にならねばならぬ、──権力も、快楽も、知識も、美もだ。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)


魂と無縁なものは何一つ、ただの一片だって存在しないことが分かっている。
(ホイットマン『草の葉』ポーマノクからの旅立ち・12、酒本雅之訳)




Sat In Your Lap。II


あの原稿を送った後のことだ。ジュネの『葬儀』を読んでいたら、こんなことが書いてあって、驚かされた。


とつぜん私は孤独におそわれる、なぜなら空は青く、樹々は緑で、街路は静まりかえり、そして一匹の犬が、同じように孤独に、私の前を歩いて行くからだ。
(生田耕作訳)


しかし、もっと驚かされたのは、このつづきにある、つぎの箇所である。


 私はゆっくり、しかし力づよい足どりで進んでいく。夜になったみたいだ。私の前に展ける風景、その間をぬって私が君主然と通りぬけていく、看板や、広告や、ショーウィンドウをつけた家々は、この本の作中人物たちと同じ素材でできているのだ、また幼時の名残りがそこにみとめられるように思える、青銅(けつ)の眼(あな)の毛のなかに口と下で没頭しているときに、私が見出す幻影とも、それは同じ素材でできている。
(生田耕作訳)


ここのところと、つぎに引用する、デュラスの『北の愛人』のなかにある、


 少女は男をじっと見つめる、そしてはじめて彼女は発見するのである、──これまでいつも自分とこの男とのあいだには孤独が介在していた、この孤独、中国風の孤独こそが、この自分を捉えていた、その孤独はあの中国人のまわりにひろがる、あのひとの領土のようなものだったのだ、と。そして、また同様に、その孤独こそが、自分たちふたりの身体、ふたりの愛の場であったのだ、と。
(清水 徹訳)


といった言葉を合わせると、孤独というものが、心象や概念を形成する原動力である、というだけではなく、まるで場所のようなものでもあって、そこで心象や概念といったものが形成されるのだとも考えられたからである。

バシュラールの『夢みる権利』の第二部に、


深さの原理とは孤独のこと。われわれの存在の深化の原理とは、自然とのますます深い合体のことなのだ。
(渋沢孝輔訳)


とあるが、孤独であればあるほど、同化能力が高まるのだろうか。真空度が増せば増すほど、まわりのものを吸いつける力が強くなっていくように。


ああ、これがあらゆることのもとだったんだ。
(アントニイ・バージェス『ビアドのローマの女たち』7、大社淑子訳)


そうして、そういった能力がますます高くなっていくと、しまいには、


認識する主体と客体は一体となる。
(プロティノス『自然、観照、一者について』8、田之頭安彦訳)


といった境地にまで至ることがあるかもしれない。しかし、それは、あくまでも、そういった境地に至ることがあるというものであって、じっさいに、認識する主体と客体が一体化するということではないのである。


 さもなければ、知性が認識の対象を変えることはできないはずで(……)知性が認識の対象を変えるとは、或る可知的形象によって自己が形成されることをやめて別の可知的形象を受けることであり、このようなことができるためには、可知的形象を受ける主体としての知性の実体と、この実体に受け取られる可知的形象とは、別のものでなければならないからである。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第十四問・第二項・訳註、山田 晶訳)


 やはり、このあいだ、わたしが書いたように、「犬が犬であることにうんざりしているように見える」のは、その犬を見ている人が、「その犬に自分の魂の一部分を与える」からであり、その人が、「自分の魂のなかに、自分の魂とその犬の魂とが共有する領域を設ける」からであろう。

ヤリタ・ミサコの


痛い とわかること は つらい こと
(『態』)


という詩句には、思わずうなずかされてしまった。プルーストの『失われたときを求めて』のなかに、


それのような悲しみは事件ののち長く経ってからしか理解されないものなのである、つまりそれを感じるためには、それを「理解する」ことが必要だったのだ、
(第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)


そのような実在は、それがわれわれの思考によって再想像されなければわれわれに存在するものではない
(第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)


理知がそれを照らしたときに、理知がそれを知性化したときに、はじめて人は、自分が感じたものの形象を見わけるのだが、それはどんなに苦労を伴うことであろう。
(第七篇・見出された時、井上究一郎訳)


悲しいという感じはするが、それがどのような悲しみなのかわからないときがある。漠然としていることがある。しかし、そこに言葉が与えられてはじめて、それがどういう悲しみか、どう悲しいか、つぶさにわかることがある。


ヴァレリーの『ユーパリノス あるいは建築家』に、



観念は視線を向けられたとたんに感覚となる。
(佐藤昭夫訳)


とある。観念といったものも、いったん感覚といったものを通さなければ、それをほんとうに感じとることができないものなのであり、そうしたのちに、ようやく、魂のなかに、精神のなかに、わたしたちは、了解されうる意味を形成してやることができるのであろう。

 ところで、ヴァレリーの『海辺の墓地』に、


さわやかさが、海から湧きおこり、
私に私の魂を返す……おお、塩の香に満ちた力よ!
(粟津則雄訳)


とあるが、


与えよ、さらば与えられん
(ロレンス『ぼくらは伝達者だ』松田幸雄訳)


というように、「それに自分の魂の一部分を与える」からこそ返されるのであろう、もとのものとは同じものではないが、なにものかに触れて変質した「自分の魂の一部分」が……。


私は自然をもっと高い見地から考察したい気持ちにさそわれる。人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出して、その崇高な力に私は抵抗することができない。
(『花崗岩について』小栗 浩訳)


と、ゲーテが述べているが、同じような内容の事柄が違う言葉で言い表わされているように思われないだろうか。人間の精神が万物に生命を与えるのと同時に、また、万物の方も人間の精神に生命を与えているのである、と。そういう意味に、ゲーテの言葉を受けとると、わたしが前の論考に書いた、「人間だけではなく、人間以外の事物や、言葉といった実体のない概念のようなものであっても(……)互いに魂のやり取りをして、それぞれの魂のなかに、互いに魂を共有する領域を設けていると考えればよい」といったところも、よりわかってもらえるものとなると思うのだが、いかがなものであろうか。


エミリ・ブロンテの『わが魂はひるむことを知らない』に、


地球や月が消滅し、
太陽や宇宙が無に帰し、
なんじただひとりあとに残るとも、
ありとあらゆる存在は、なんじにありて存続する。
(松村達雄訳)


とあるが、これなども、まさしく、人が、いったん、「自分の魂のなかに、自分の魂とその事物や事象の魂とが共有する領域を設ける」からこそ、いえることだと思われるのである。かつて自分の魂のなかで、共有する領域を設けたことのある事物や事象を、それがあったときと同じ状態で想起させることができれば、たとえ、それがじっさいには、自分の魂のそとで消滅していたとしても、自分の魂のなかでは、それが、ずっと存続しているといえるのではないだろうか。


ふだん、存在は隠れている。存在はそこに、私たちの周囲に、また私たちの内部にある。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)


無意識に存在する物のみが真の存在を保つ、
(トーマス・マン『ファウスト博士』一四、関 泰祐・関 楠生訳)


永遠の存在とはなにかやっと分かってきそうだ
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第八章、青山隆夫訳)


かつて存在したものは、現在も存在し、これからも永久に存在するのだ。
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)


人間は永遠に生きられる。
(ドナルド・モフィット『創世伝説』下・第二部・12、小野田和子訳)


人間こそがすべてなのだ。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)


しかし、それも、孤独、孤独、孤独、みな、そもそものところ、人間というもの自体が、孤独な存在であるからこそ、である。


窮迫と夜は人を鍛える。
(ヘルダーリン『パンと酒』川村二郎訳)


孤独、偉大な内面的孤独。
(リルケ『若い詩人への手紙』高安国世訳)


おそらく、最も優れたものは孤独の中で作られるものであるらしい。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)


    *


 これら、二つの遺稿に共通するものとして、詩人が、他の原稿のなかで「二層ベン図」なるものについて解説していたことが思い出される。
 
その前に、懐かしいものをお目にかけよう。これは、詩人がもっともよく引用していた言葉である。


全きものと全からざるものとはいっしょにつながっている。行くところの同じものも違うものも、調子の合うものも合わないものもひとつづきだ。万物から一が出てくるし、一から万物も出てくる。
(『ヘラクレイトスの言葉』一〇、田中美知太郎訳)


詩人は、ヘラクレイトスのこの言葉を頻繁に繰り返し引用していたが、ノヴァーリスの


可視のものはみな不可視のものと境を接し──聞き取れるものは聞き取れないものと──触知しうるものは触知しえないものと──ぴったり接している。おそらくは思考しうるものは思考しえないものに──。
(『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)


といった言葉もまた、何度も引用していた。この引用のなかにある、ノヴァーリスのいう「触知しうるもの」を「顕在意識」、あるいは、単に「意識」や「言葉」といった言葉に、「触知しえないもの」を「潜在意識」あるいは「まだ言葉にならないもの、言葉になる以前のもの」といった言葉に置き換えると、この二つの対応する概念が、他の原稿にある、二層ベン図に照らし合わせてみれば、詩人の考えていた、「思考する」ということが、いったいどういうことなのか、といったことを、窺い知ることができるのではないだろうか。

 ところで、二層ベン図とは、ふつうのベン図の下に、空集合の層があるという図であって、第二の層の空集合が浮き出て、第一の層の実集合になる、というのが詩人の考えであったが、その空集合を、「孤独」という言葉に変換すると、二つ目の原稿のなかでいっていることになるのだろう。ジュネの「同じ素材」というのが、詩人のいうところの「空集合」であろうか。
詩人は、「自我」を、どのような実集合にもなり得る空集合に見立てていた。
 
詩人が残したメモのなかに、『徒然草』からの抜粋があって、冒頭に紹介した一つ目の原稿に、セロテープで貼り付けられていた。それをここで引用することにしよう。二箇所から引かれていた。


 筆を執(と)れば物書(か)かれ、楽器を取(と)れば音(ね)をたてんと思ふ。盃を取れば鮭を思ひ、賽(さい)を取れば攤(だ)打(う)たんことを思ふ。心は必ず事に触(ふ)れて来(きた)る。
(第百五十七段)


筆を持つとしぜんに何か書き、楽器を持つと音を出そうと思う。盃を持つと酒を思い、賽(さい)を持つと攤(だ)をうとうと思う。心はかならず何かをきっかけとして生ずる。
(上、現代語訳=三木紀人)


 ぬしある家には、すずろなる人、心のままに入(い)り来る事なし。あるじなき所には、道行き人(びと)みだりに立ち入(い)り、狐(きつね)・ふくろふのやうな物も、人げに塞(せ)かれねば、所得(ところえ)顔に入りすみ、木(こ)霊(だま)などいふ、けしからぬかたちもあらはるるものなり。
また、鏡には色・形(かたち)なきゆゑに、よろづの影(かげ)来(きた)りて映(うつ)る。鏡に色・形あらましかば、映らざらまし。
虚(こ)空(くう)よく物を容(い)る。我等が心に念々のほしきままに来(きた)り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心にぬしあらましかば、胸のうちに、そこばくのことは入(い)り来(きた)らざらまし。
(第二百三十五段)


 主人がいる家には、無関係な人が心まかせに入り込むことはない。主人がいない所には、行きずりの人がむやみに立ち入り、狐(きつね)やふくろうのような物も、人の気配に妨げられないので、わが物顔で入って住み、木の霊などという、奇怪な形の物も出現するものである。
また、鏡には色や形がないので、あらゆる物の影がそこに現われて映るのである。鏡に色や形があれば、物影は映るまい。
虚空は、その中に存分に物を容(い)れることができる。われわれの心にさまざまの思いが気ままに表れて浮かぶのも、心という実体がないからであろうか。心に主人というものがあれば、胸のうちに、これほど多くの思いが入ってくるはずはあるまい。
(上、現代語訳=三木紀人)


 最初のものは、『徒然草』の第百十七段からのもので、それにある「心は必ず事に触(ふ)れて来(きた)る。」という言葉は、詩人が引用していた、ゲーテの「人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出し(……)」といった言葉を思い出させるものであった。あとのものは、『徒然草』の第二百三十五段からのもので、それにある「鏡には色・形(かたち)なきゆゑに、よろづの影(かげ)来(きた)りて映(うつ)る。鏡に色・形あらましかば、映らざらまし。」とか「虚(こ)空(くう)よく物を容(い)る。我等が心に念々のほしきままに来(きた)り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心にぬしあらましかば、胸のうちに、そこばくのことは入(い)り来(きた)らざらまし。」といった言葉は、「多層的に積み重なっている個々の二層ベン図、それぞれにある空集合部分が、じつは、ただ一つの空集合であって、そのことが、さまざまな概念が結びつく要因にもなっている。」という、詩人の考え方を髣髴とさせるものであった。あまり説得力のある考え方であるとはいえないかもしれないが、たしかに、さまざまな概念のもとになっているものが、もとは同じ一つのものであるという考え方には魅力がある。詩人は、この空集合のことを、しばしば、「自我」にたとえていた。また、第二百三十五段にある「ぬしある家には、すずろなる人、心のままに入(い)り来る事なし。あるじなき所には、道行き人(びと)みだりに立ち入(い)り、狐(きつね)・ふくろふのやうな物も、人げに塞(せ)かれねば、所得(ところえ)顔に入りすみ、木(こ)霊(だま)などいふ、けしからぬかたちもあらはるるものなり。」とか「虚(こ)空(くう)よく物を容(い)る。」とかいった言葉は、詩人の「孤独であればあるほど、同化能力が高まるのだろうか。真空度が増せば増すほど、まわりのものを吸いつける力が強くなっていくように。」という言葉を思い起こさせるものであった。

 ただ単に、詩人が書いていたことを追っていただけなのに、こうやって、詩人の原稿やメモを見ながら、言葉をキーボードで打っていると、詩人がどこかに書いていたように、そのうち、自分が言葉を書いているような気がしなくなってきた。しだいに、言葉自体が、ぼくに書かせているような気がしてきた。というよりも、さらに、言葉自体が書いているのではないかとさえ思えてきた──ぼくの目と頭と指を使って。


どちらが原因でどちらが結果なのか、
(アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』一九〇五年六月十日、浅倉久志訳)


原因と結果の同時生起
(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・七、菊盛英夫訳)


詩人が遺したノートにある言葉を使ってみたのだが、この「原因と結果の同時生起」という言葉はまた、詩人が別のノートに書き写していた、マルクス・アウレーリウスのつぎの言葉を思い出させた。


つねにヘーラクレイトスの言葉を覚えていること。
(『自省録』第四章・四六、神谷美恵子訳)


 宇宙の中のあらゆるもののつながりと相互関係についてしばしば考えて見るがよい。ある意味であらゆるものは互いに組み合わされており、したがってあらゆるものは互いに友好関係を持っている。なぜならこれらのものは、[膨張収縮の]運動や共通の呼吸やすべての物質の単一性のゆえに互いに原因となり結果となるのである。
(『自省録』第四章・三八、神谷美恵子訳)


Cut The Cake。

  田中宏輔



それにしても、『マールボロ。』、


いまだにみんながきみの愛について語ることをしないのは、いったいどうしたことなのだろう。
(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)


誰もが持っていることさえ拒むような考えを暴き出すのが詩人の務めだ
(ダン・シモンズ『大いなる恋人』嶋田洋一訳)


しかし、だれが彼を才能のゆえに覚えていることができよう?
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第四部・18、山西英一訳)


世間の普通の人は詩など読まない
(ノサック『ドロテーア』神品義雄訳)


誰も詩人のものなんて読みやしない。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)


もちろんそうさ。
(テリー・ビッスン『時間どおりに教会へ』3、中村 融訳)


詩作なんかはすべきでない。
   (ホラティウス『書簡詩』第一巻・七、鈴木一郎訳)


いったいなんのために書くのか?
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)


詩人の不幸ほど甚だしいものはないでしょう。さまざまな災悪によりいっそう深く苦しめられるばかりでなく、それらを解明するという義務も負うているからです
(レイナルド・アレナス『めくるめく世界』34、鼓 直・杉山 晃訳)


詩とは認識への焦慮なのです、それが詩の願いです、
(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳)


たしかに
(ジョン・ブラナー『木偶(でく)』吉田誠一訳)


あらゆる出会いが苦しい試練だ。
(フィリップ・K・ディック『ユービック : スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳)


その傷によって
(ヨシフ・ブロツキー『主の迎接祭(スレーチエニエ)』小平 武訳)


違った状態になる
(チャールズ・オルソン『かわせみ』4、出淵 博訳)


何もかも
(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』上・1、矢野 徹訳)


おお
(ボードレール『黄昏』三好達治訳)


愛よ
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第九章、青山隆夫訳)


お前は苦痛が何を受け継いだかを知っている。
(ジェフリー・ヒル『受胎告知』2、富士川義之訳)


それ自身の新しい言葉を持たない恋がどこにあるだろう?
(シオドア・スタージョン『めぐりあい』川村哲郎訳)


それにしても、詩人は、なぜ、『マールボロ。』という作品に,固執したのであろうか? あるとき、詩人は、わたしにこう言った。「ぼくの書いた詩なんて、そのうち忘れられても仕方がないと思う。まあ、忘れられるのは、忘れられても仕方がない作品だからだろうしね。だけど、『マールボロ。』だけは、忘れられたくないな。ぼくのほかの作品がみんな忘れられてもね。まあ、でも、『マールボロ。』は、読み手を選ぶ作品だからね。あまりにも省略が激しいし、使われているレトリックも凝りに凝ったものだしね。ちゃんと把握できる読者の数は限られていると思う。」たしかに、省略が激しいという自覚は、詩人にはあったようである。というのも、晩年の詩人が、朗読会で読む詩は、ほぼ、『マールボロ。』ということになっていたのだが、その朗読の前には、かならず、『マールボロ。』という作品の制作過程と、その作品世界の背景となっている、ゲイたちの求愛の場と性愛行為についておおまかな説明をしていたからである。(あくまでも、一部のゲイたちのそれであるということは、詩人も知っていたし、また、わたしの知る限り、朗読の前のその説明のなかで、一部の、という言葉を省いて、詩人が話をしたことは一度もなかった。)


──と、だしぬけに誰かがぼくの太腿の上に手を置いた。ぼくは跳び上がるほど驚いたが、跳び上がる前にいったい誰の手だろう、ひょっとするとリーラ座の時のように女の人が手を出したのだろうかと思ってちらっと見ると、これがなんともばかでかい手だった。(あれが女性のものなら、映画女優か映画スターで、巨大な肉体を誇りにしている女性のものにちがいなかった)。さらに上のほうへ眼を移すと、その手は毛むくじゃらの太い腕につづいていた。ぼくの太腿に毛むくじゃらの手を置いたのは、ばかでかい体&#36544;の老人だったが、なぜ老人がぼくの太腿に手を置いたのか、その理由は説明するまでもないだろう。(……)ぼくは弟に「席を替ろうか?」と言ってみた。(……)ぼくたちは立ち上がって、スクリーンに近い前のほうに席を替った。そのあたりにもやはりおとなしい巨人たちが坐っていた。振り返って老人の顔を見ることなど恐ろしくてできなかったが、とにかくその老人がとてつもなく巨大な体&#36544;をしていたことだけはいまだに忘れることができない。あの男はおそらく、年が若くて繊細なホモの男や中年のおとなしい男を探し求めてあの映画館に通っていたのだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』いつわりの恋、木村榮一訳)


カブレラ=インファンテの「ウィタ・セクスアリス」(木村榮一)である、『亡き王子のためのハバーナ』からの引用である。詩人は、集英社の「ラテンアメリカの文学」のシリーズから数多くメモを取っていたが、これもその一つである。ゲイがゲイと出会う場所の一つに、映画館がある。それは、ポルノ映画を上映しているポルノ映画館であったり、他の映画館が上映を打ち切ったあとに上映する再上映専門の、入場料の安い名画座であったりするのだが、『亡き王子のためのハバーナ』の主人公が目にしたように、行為そのものは、座席に並んで坐ったままなされることもあり、最後列の座席のさらにその後ろの立見席のあたりでなされることもあるのだが、いったん、映画館の外に出て、男同士でも入れるラブホテルに行ったりすることもあるし、これは、先に手を出した方の、つまり、誘った方の男の部屋であることが多いのだが、自分の部屋に相手を連れ込んだり、相手の部屋に自分が行ったり、というように、どちらかの部屋に行くこともある。また、つぎの引用のように、映画館のトイレのなかでなされることもある。


中年の男がもうひとりの男のほうにかがみ込んで、『種蒔く人』というミレーの絵に描かれている人物のように敬虔(けいけん)な態度で手をせっせと上下に動かしているのに気がついた。もうひとりのほうはその男よりもずっと小柄だったので、一瞬小人かなと思ったが、よく見ると背が低いのではなくてまだほんの子供だった。当時ぼくは十七歳くらいだったと思う。あの年頃は、自分と同じ年格好でない者を見ると、ああ、まだ子供だなとか、もうおじいさんだとあっさり決めつけてしまうが、そういう意味ではなく、まさしくそこにいたのは十二歳になるかならないかの子供だった。男にマスをかいてもらいながら、その男の子は快楽にひたっていたが、その行為を通してふたりはそれぞれに快感を味わっていたのだ。男は自分でマスをかいていなかったし、もちろんあの男にそれをしてもらってもいなかった。その男にマスをかいてもらっている男の子の顔には恍惚(こうこつ)とした表情が浮かんでいた。前かがみになり懸命になってマスをかいてやっていたので男の顔は見えなかったが、あの男こそ匿名の性犯罪者、盲目の刈り取り人、正真正銘の <切り裂きジャック> だった。その時はじめてラーラ座がどういう映画館なのか分った。あそこは潜水夫、つまり性的な不安を感じているぼくくらいの年齢のものがホモの中でもいちばん危険だと考えていた手合いの集まるところだったのだ。男色家の男たちがもっぱら年若い少年ばかりを狙って出入りするところ、それがあそこだった──もっとも、あの時はぼくの眼の前にいた男色家が女役をつとめ、受身に廻った少年たちのほうが男役をしていたのだが。いずれにしても、ラーラ座はまぎれもなく男色家の専門の小屋だった──倒錯的な性行為を目のあたりにして、傍観者のぼくはそう考えた。それでもぼくは、いい映画が安く見られるのでラーラ座に通い続けた。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』いつわりの恋、木村榮一訳)


俗に発展場と呼ばれている、ゲイが他のゲイと出会うために足を運ぶ場所は、ポルノ映画館や名画座といった映画館ばかりではない。サウナや公園という場所がそうなっている所もあるし、デパートや駅のトイレといった場所がそうなっているところもある。もちろん、その場で性行為に及ぶことも少なくないのだが、さきに述べたように、どちらかの部屋に行き、ことに及ぶといったこともあるのである。しかし、じつに、さまざまな場所で、さまざまな時間に、さまざまな男たちが絡み合い睦み合っているのである。つぎに引用するのは、駅のプラットフォームの脇にある公衆便所での出来事を、ある一人の警察官が自分の娘に見るようにうながすところである。(それにしても、これは、微妙に、奇妙な、シチュエーション、である。)


「見てごらん」
「なにを?」
「見たらわかるさ!」
あんたは、最初笑っていたが、すぐに消毒剤と小便の、むかっとするような臭いに攻め立てられ、ほんのちょっとだけ穴から覗いて見た。するとそこに歳とった男の手があり、なにやらつぶやいている声が聞こえ、そこから父親の手があんたの腕をつかんでいるのがわかり、もう一度眼を穴に近づけると、ズボンや歳とった男の手を握っている少年の手が、公衆便所の中に見え、あんたはむすっとしてその場を離れたが、ガースンは寂しげに笑っていた。
「あの薄汚いじじいをとっ捕まえるのはこれで三度目だ。がきの方は二度とやってこないけど、じじいのやつはいくらいい聞かせてもわからない」
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


あのオルガン奏者(新聞記者のなんとも嘆かわしい、低俗な筆にかかるとあの音楽家も一介のオルガン弾きに変えられてしまうが、それはともかく、以下の話は当時の新聞をもとに書き直したものである)と知り合ったのは恋人たちの公園で、そのときは音楽家のほうから声をかけてきて、生活費を出すから自分の家(つまり部屋のことだが)に来ないか、なんなら小遣いを上げてもいいんだよと誘ったらしい
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)


これは、公園での出来事を語っているところである。


男にもし膣と乳房があれば、世の中の男はひとり残らずホモになっているだろう、とシルビア・リゴールは口癖のように言っていた。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)


詩人はよく、この言葉を引用して、わたしにこう言っていた。「一人残らずってことはないだろうけど、半分くらいの男は、そうなるんじゃないかな。」と。そのようなことは考えたこともなかったので、詩人からはじめて聞かされたときには、ほんとうに驚いた。「もしも、何々だったら?」というのは、詩人の口癖のようなものだったのだが、もっともよく口にしていたのは、言葉を逆にする、というものであった。そういえば、詩人の取っていたメモのなかに、こういうものがあった。


ヤコービは、彼の数学上の発見の秘密を問われて「つねに逆転させなければならない」といった。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとII』21、田中 勇・銀林 浩訳)


言葉を逆にするという、ごく単純な操作で、言葉というものが、それまでその言葉が有していなかった意味概念を獲得することがあるということを、生前に、詩人は、論考として発表したことがあったが、言葉の組み合わせが、言葉にとっていかに重要なものであるのかは、古代から散々言われてきたことである。詩人の引用によるコラージュという手法も、その延長線上にあるものと見なしてよいであろう。詩人が言っていたことだが、出来のよいコラージュにおいては、そのコラージュによって、言葉は、その言葉が以前には持っていなかった新しい意味概念を獲得するのであり、それと同時に、作り手である詩人と、読み手である読者もまた、そのコラージュによって、自分のこころのなかに新しい感情や思考を喚起するのである、と。そのコラージュを目にする前には、一度として存在もしなかった感情や思考を、である。


みるものが変われば心も変わる。
(シェイクスピア『トライラスとクレシダ』V・〓、玉泉八州男訳)


そして、こころが変われば、見るものも変わるのだ、と。


つぎに、詩人が書き留めておいたメモを引用する。そのメモ書きは、そのつぎに引用する言葉の下に書き加えられたものであった。そして、その引用の言葉の横には、赤いペンで、「マールボロについて」という言葉が書きそえられていた。


誰にも永遠を手にする権利はない。だが、ぼくたちの行為の一つ一つが永遠を求める
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)


というのは、瞬間というものしか存在してはいないからであり、そして瞬間はすぐに消え失せてしまうものだからだ
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンノ浜辺』25、菅野昭正訳)


きみが生きている限り、きみはまさに瞬間だ、
(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・3、浜野 輝訳)


一切は過ぎ去る。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)


愛はたった一度しか訪れない、
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


こころのなかで起こること、こころのなかで起こるのは、一瞬一瞬である。思いは持続しない。しかし、その一瞬一瞬のそれぞれが、永遠を求めるのだ。その一瞬一瞬が、永遠を求め、その一瞬一瞬が、永遠となるのである。割れガラスの破片のきらめきの一つ一つが、光沢のあるタイルに反射する輝きの一つ一つが、水溜りや川面に反射する光の一つ一つが太陽を求め、それら一つ一つの光のきらめきが、一つ一つの輝く光が、太陽となるように。



心のなかに起っているものをめったに知ることはできないものではあるが、
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第三部・10、山西英一訳)


隠れているもので、知られてこないものはない。
(『マタイによる福音書』一〇・二六)


そのような実在は、それがわれわれの思考によって再創造されなければわれわれに存在するものではない
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)


いや、むしろ、こう言おう、はっきりと物の形が見えるのは、こころのなかでだけだ、と。あるいは、こころが見るときにこそ、はじめて、ものの形がくっきりと現われるのだ、と。


一体どのようにして、だれがわたしたちを目覚ますことができるというのか。
(ノサック『滅亡』神品芳夫訳)


だれがぼくらを目覚ませたのか、
(ギュンター・グラス『ブリキの音楽』高本研一訳)


ことば、ことば、ことば。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)


言葉と精神とのあいだの内奥の合一の感をわれわれに与えるのが、詩人の仕事なのであり
(ヴァレリー『詩と抽象的思考』佐藤正彰訳)


これらはことばである
(オクタビオ・パス『白』鼓 直訳)


実際に見たものよりも、欺瞞、神秘、死に彩られた物語に書かれた月のほうが印象に残っているのはどういうわけだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』世界一の美少女、木村榮一訳)


家造りらの捨てた石は
隅のかしら石となった。
(詩篇』一一八・二二─二三)


「比喩」metaphora は、ギリシア語の「別の所に移す」を意味する動詞metaphereinに由来する。そこから、或る語をその本来の意味から移して、それと何らかの類似性を有する別の意味を表すように用いられた語をメタフォラという。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第I門・第九項・訳註、山田 晶訳)


新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)


言葉が、新たな切子面を見せる、と言ってもよい。


きみの中で眠っていたもの、潜んでいたもののすべてが現われるのだ
(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳)


言葉はもはや彼をつなぎとめてはいないのだ。
(ブルース・スターリング『スキズマトリックス』第三部、小川 隆訳)


言葉はそれが表示している対象物以上に現実的な存在なのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)


何もかもがとてもなじみ深く見えながら、しかもとても見慣れないものに思えるのだ。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第三部・11、大西 憲訳)


すべてのものを新たにする。
(『ヨハネの黙示録』二一・五)


すべてが新しくなったのである。
(『コリント人への第二の手紙』五・一七)


結びつくことと変質すること。この二つのことは、じつは一つのことなのだが、これが言葉における新生の必要条件なのである。しかし、それは、あくまでも必要条件であり、それが、必要条件であるとともに十分条件でもある、といえないところが、文学の深さでもあり、広さの証左でもある。もちろん、引用といった手法も、その必要条件を満たしており、それが同時に十分条件をも満たしている場合には、言葉は、わたしたちに、言葉のより多様な切子面を見せてくれることになるのである。


自分自身のものではない記憶と感情 (……) から成る、めまいのするような渦巻き
(エドモンド・ハミルトン『太陽の炎』中村 融訳)


突然の認識
(テリー・ビッスン『英国航行中』中村 融訳)


それはほんの一瞬だった。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』3、友枝康子訳)


ばらばらな声が、ひとつにまとまり
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


すべての場所が一つになる
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)


すべてがひとときに起ること。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)


それこそが永遠
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)


一たびなされたことは永遠に消え去ることはない。
(エミリ・ブロンテ『ゴールダインの牢獄の洞窟にあってA・G・Aに寄せる』松村達雄訳)


過去はただ単にたちまち消えてゆくわけではないどころか、いつまでもその場に残っているものだ。
(プルースト『失われた時を求めて』ゲルマントの方・II・第二章、鈴木道彦訳)


いちど気がつくと、なぜ今まで見逃していたのか、ふしぎでならない。
(ドナルド・モフィット『第二創世記』第二部・7、小野田和子訳)


一度見つけた場所には、いつでも行けるのだった。
(ジェイムズ・ホワイト『クリスマスの反乱』吉田誠一訳)


瞬間は永遠に繰り返す。
(イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)


それにしても、『マールボロ。』、


人間にとって、美とは何だろう。美にとって、人間とは何だろう。人間にとって、瞬間とは何だろう。瞬間にとって、人間とは何だろう。たとえ、「意義ある瞬間はそうたくさんはなかった」(デニス・ダンヴァーズ『エンド・オブ・デイズ』上・2、川副智子訳)としても。人間にとって、存在とは何だろう。存在にとって、人間とは何だろう。美と喜びを別のものと考えてもよいのなら、美も、喜びも、瞬間も、存在も、ただ一つの光になろうとする、違った光である、とでもいうのだろうか。人間という、ただ一つの光になろうとする、違った光たち。


それにしても、『マールボロ。』、


なぜ、彼らは、出会ったのか。出会ってしまったのであろうか。彼らにとっても、ただ一つの違った光であっただけの、あの日、あの時間、あの場所で。それに、なぜ、彼らの光が、わたしの光を引き寄せたのであろうか。それとも、わたしの光が、彼らの光を引き寄せたのだろうか。いや、違う。ただ単に、違った光が違った光を呼んだだけなのだ。ただ一つの同じ光になろうとして。もとは一つの光であった、違った光たちが、ただ一つの同じ光になろうとして。なぜなら、そのとき、彼らは、わたしがそこに存在するために、そこにいたのだし、そのラブホテルは、そのときわたしが入るために、そこに存在していたのだし、そのシャワーの湯は、そのときわたしが浴びるために、わたしに向けられたのだし、その青年の入れ墨は、そのときわたしが目にするために、前もって彫られていたのだし、その缶コーラは、そのときわたしの目をとらえるために、そのガラスのテーブルの上に置かれたのだから。というのも、彼らが出会ったポルノ映画館の、彼らが呼吸していた空気でさえわたしであり、彼らが見ることもなく目にしていたスクリーンに映っていた映像の切れ端の一片一片もわたしであったのであり、彼らの目が偶然とらえた、手洗い場の鏡の端に写っていた大便をするところのドアの隙間もわたしであり、彼らがその映画館を出てラブホテルに入って行くときに、彼らを照らしていた街灯のきらめきもわたしであったのだし、彼らが浴びたシャワーの湯もわたしであり、その湯しぶきの一粒一粒のきらめきもわたしであったのだし、わたしは、その青年の入れ墨の模様でもあり、缶コーラの側面のラベルのデザインでもあり、その缶コーラの側面から伝って流れ落ちるひとすじの冷たい露の流れでもあったのだから。やがて、一つ一つ別々だった時間が一つの時間となり、一つ一つ別々だった場所が一つの場所となり、一つ一つ別々だった出来事が一つの出来事となり、あらゆる時間とあらゆる場所とあらゆる出来事が一つになって、そのポルノ映画館は、シャワーの湯となって滴り落ちて、タカヒロと飛び込んだ琵琶湖になり、缶コーラのラベルの輝きは、青年の入れ墨とラブホテルに入り、ヤスヒロの手首にできた革ベルトの痕をくぐって、エイジの背中に薔薇という文字を書いていったわたしの指先と絡みつき、シャワーの滴り落ちる音は、ラブホテルに入る前に彼らが見上げた星々の光となって、スクリーンの上から降りてくる。そして、ノブユキの握り返してきた手のぬくもりが満面の笑みをたたえて、わたしというガラスでできたテーブルを抱擁するのである。さまざまなものがさまざまなものになり、さまざまなものを見つめ、さまざまなものに抱擁されるのである。それは、あらゆるものと、別のあらゆるものとの間に愛があるからであり、やがて、愛は愛を呼び、愛は愛に満ちあふれて、「スラックスの前から勃起したものがのぞいている。」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)愛そのものとなって、交歓し合うのである。もちろん、「トイレットのなか。ジーンズの前をあけ、ちんぽこを持って」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)その愛は、すぐれた言葉の再生によってもたらせられたものであり、「彼は自分のものをしごいている。」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)やがて、文章中のあらゆる言葉が、つぎつぎとその場所を交換していく。場所も、時間も、事物も、「くわえるんだ、くわえるんだよう! う、う──」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)感情も、感覚も、状態も、名詞や、動詞や、副詞や、形容詞や、助詞や、助動詞や、接続詞や、間投詞も、「激しく腰をつきあげる。」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)場所を交換し合い、時間を交換し合って一つになるのである。そんなヴィジョンが、わたしには見える。わたしには感じとれる。現実に、ありとあらゆる事物が、その場所を、その時間を、その出来事を交換していくように。


やれやれ、何ぢやいこの気違ひは!
(ヴィリエ・ド・リラダン『ハルリドンヒル博士の英雄的行為』齋藤磯雄訳)


やっぱり芸術は、それを作り出す芸術家に対してしか意味がないんだなあ
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』8、井上一夫訳)


でも、
(ポール・アンダースン『生贄(いけにえ)の王』吉田誠一訳)


詩のために身を滅ぼしてしまうなんて名誉だよ。
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第四章、西村孝次訳)



そんなことは少しも新しいことじゃないよ
(スタニスワフ・レム『砂漠の惑星』6、飯田規和訳)


人生をむだにややこしくして
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』34、安原和見訳)


ばかばかしい。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』13、宇佐川晶子訳)


Ommadawn。

  田中宏輔



論理的には全世界が自分の名前になるということが理解できるか?
(イアン・ワトスン『乳のごとききみの血潮』野村芳夫訳)


ほかにいかなるしるしありや?
(コードウェイナー・スミス『スキャナーに生きがいはない』朝倉久志訳)


これがどういうことかわかるかね?
(ウォルター・M・ミラー・ジュニア『黙示録三一七四年』第III部・25、吉田誠一訳)


どんな霊感が働いたのかね?
(フリッツ・ライバー『空飛ぶパン始末記』島岡潤平訳)


われはすべてなり
(アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』第二部・8、福島正実訳)


そうだな、
(ポール・ブロイス『破局のシンメトリー』12、小隅 黎訳)


確かに一つの論理ではある
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』17、安田 均訳)


しかし、これは一種の妄想じゃないのだろうか。
(ジョン・ウィンダム『海竜めざめる』第二段階、星 新一訳)


現実には、そんなことは起きないのだ。
(ウィリアム・ブラウニング・スペンサー『真夜中をダウンロード』内田昌之訳)


いや、必ずしもそうじゃない。
(エリック・F・ラッセル『根気仕事』峰岸 久訳)


それは信号(シグナル)の問題なのだ。
(フレデリック・ポール『ゲイトウェイ』22、矢野 徹訳)


それもつかのま、
(J・G・バラード『燃える世界』4、中村保男訳)


ひとときに起こること。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)


まあ、それも一つの考え方だ
(ブライアン・W・オールディス『ああ、わが麗しの月よ!』浅倉久志訳)


よくわかる。
(カール・エドワード・ワグナー『エリート』4、鎌田三平訳)


どちらであろうとも。
(フィリップ・K・ディック『ユービック』10、浅倉久志訳)


だが、それよりもまず、
(ブライアン・W・オールディス『一種の技能』5、浅倉久志訳)


めいめい自分の夜を堪えねばならぬのである。
(ブライアン・W・オールディス「銀河は砂粒のように」4、中桐雅夫訳)


それは確かだ
(ラリー・ニーヴン『快楽による死』冬川 亘訳)


しかし
(ロッド・サーリング『免除条項』矢野浩三郎・村松 潔訳)


それを知ったのはほんの二、三年前だし、
(ハル・クレメント『窒素固定世界』7、小隅 黎訳)


それが
(イアン・ワトスン『エンベディング』第一章、山形浩生訳)


どんなものであるにせよ、
(レイ・ブラッドベリ『駆けまわる夏の足音』大西尹明訳)


そのときには、たいしたことには思えなかった。
(マーク・スティーグラー『やさしき誘惑』中村 融訳)
 

あるとき、詩人は、ふと思いついて、詩人の友人のひとりに、その友人が十八才から二十五才まで過ごした東京での思い出を、その七年間の日々を振り返って思い出されるさまざまな出来事を、箇条書きにして、ルーズリーフの上に書き出していくようにと言ったという。すると、そのとき、その友人も、面白がってつぎつぎと書き出していったらしい。二、三十分くらいの間、ずっと集中して書いていたという。しかし、「これ以上は、もう書けない。」と言って、その友人が顔を上げると、詩人は、ルーズリーフに書き綴られたその友人の文章を覗き込んで、そのときの気持ちを別の言葉で言い表すとどうなるかとか、そのとき目にしたもので特に印象に残ったものは何かとか、より詳しく、より具体的に書き込むようにと指図したという。そのあと、詩人からあれこれと訊ねられたときをのぞいては、その友人の手に握られたペンが動くことは、ほとんどなかったらしい。約一時間ぐらいかけて書き上げられた三十行ほどの短い文章を、詩人は、その友人の目の前で、ハサミを使って切り刻み、切り刻んでいった紙切れを、短く切ったセロテープで、つぎつぎと繋げていったという。書かれた文章のなかで、セロテープで繋げられたものは、ほんのわずかなもので、もとの文章の五分の一も採り上げられなかったらしい。そうして出来上がったものが、『マールボロ。』というタイトルの詩になったという。その詩のなかには、詩人が、直接、書きつけた言葉は一つもなかった。すべての言葉が、詩人の友人によって書きつけられた言葉であった。それゆえ、詩人は、詩人の友人に、共作者として、その友人の名前を書き連ねてもいいかと訊ねたらしい。すると、詩人の友人は、躊躇うことなく、即座に、こう答えたという。「これは、オレとは違う。」と。ペンネームを用いることさえ拒絶されたらしい。「これは、オレとは違うから。」と言って。詩人は、その言葉に、とても驚かされたという。そこに書かれたすべての言葉が、その友人の言葉であったのに、なぜ、「オレとは違う。」などと言うのか、と。詩人の行為が、その友人の気持ちをいかに深く傷つけたのか、そのようなことにはまったく気がつかずに……。その上、おまけに、詩人は、自分ひとりの名前でその詩を発表するのが、ただ、自分の流儀に反する、といっただけの理由で、怒りまで覚えたのだという。すでに、詩人は、引用のみによる詩を、それまでに何作か発表していたのだが、それらの作品のなかでは、引用された言葉の後に、その言葉の出典が必ず記載されていたのである。しかも、それらの出典は、引用という行為自体が意味を持っている、と見られるように、引用された言葉と同じ大きさのフォントで記載されていたのである。『マールボロ。』に書きつけられた言葉が、すべて引用であるのに、そのことを明らかに示すことができないということが、おそらくは、たぶん、詩人の気を苛立たせたのであろう。それにしても、『マールボロ。』という詩が、詩人の作品のなかで、もっとも詩人のものらしい詩であるのは、皮肉なことであろうか? ふとした思いつきでつくられたという、『マールボロ。』ではあるが、詩人自身も、その作品を、自分の作品のなかで、もっとも愛していたという。詩人にとって、『マールボロ。』は、特別な存在であったのであろう。晩年には、詩というと、『マールボロ。』についてしか語らなかったほどである。詩人はまた、このようなことも言っていた。『マールボロ。』をつくったときには、後々、その作品がつくられた経緯が、言葉がいかなるものであるかを自分自身に考えさせてくれる重要なきっかけになるとは、まったく思いもしなかったのだ、と。
詩人は、友人の言葉を切り刻んで、それを繋げていったときに、どういったことが、自分のこころのなかで起こっていたのか、また、そのあと、自分のこころがどういった状態になったのか、後日、つぎのように分析していた。

わたしのなかで、さまざまなものたちが目を覚ます。知っているものもいれば、知らないものもいる。知らないもののなかには、その言葉によって、はじめて目を覚ましたものもいる。それらのものたちと、目と目が合う。瞳に目を凝らす。それも一瞬の間だ。順々に。すると、知っていると思っていたものたちの瞳のなかに、よく知らなかったわたしの姿が映っている。知らないと思っていたものたちの瞳のなかに、よく知っているわたしの姿が映っている。ひと瞬きすると、わたしは、わたし、ではなくなり、わたしたち、となる。しかし、そのわたしたちも、また、すぐに、ひとりのわたしになる。ひとりのわたしになっているような気がする。それまでのわたしとは違うわたしに。

詩人の文章を読んでいると、まるで対句のように、対比される形で言葉が並べられているところに、よく出くわした。詩人の生前に訊ねる機会がなかったので、そのことに詩人自身が気がついていたのかどうか、それは筆者にはわからないのだが、しかし、そういった部分が、もしかすると、そういった部分だけではないのかもしれないが、たとえば、結論を出すのに性急で、思考に短絡的なところがあるとか、しかし、とりわけ、そういった部分が、詩人の文章に対して、浅薄なものであるという印象を読み手に与えていたことは、だれの目にも明らかなことであった。右の文章など、そのよい例であろう。
ところで、詩人はまた、その友人の言葉を結びつけている間に、その言葉がまるで


あれはわたしだ。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』13、川副智子訳)


と思わせるほどに、生き生きとしたものに感じられたのだという。


だがそれは同じものになるのだろうか?
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)


それは?
(エドマンド・クーパー『アンドロイド』5、小笠原豊樹訳)


またウサギかな?
(ジェイムズ・アラン・ガードナー『プラネット・ハザード』上・5、関口幸男訳)


兎が三羽、用心深くぴょんと出てきた。
(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』一冊目・六月十六日、野口幸夫訳)


きみはわれわれがどうも間違った兎を追いかけているような気はしないかね?
(J・G・バラード『マイナス 1』伊藤 哲訳)


もちろんちがうさ。
(ゼナ・ヘンダースン『月のシャドウ』宇佐川晶子訳)


そんなことはありえない。
(フランク・ハーバート『ドサディ実験星』12、岡部宏之訳)


ここにはもう一匹もウサギはいない
(ジョン・コリア『少女』村上哲夫訳)


いいかい?
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)


そもそも
(ウィリアム・ブラウニング・スペンサー『真夜中をダウンロード』内田昌之訳)


現実とはなにかね?
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第三部・19、冬川 亘訳)


なにを彼が見つめていたか?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)


このできごとのどこまでが現実にあったことだ?
(グレッグ・ベア『女王天使』下・第二部・54、酒井昭伸訳)


もちろん、詩人がつくった世界は、といっても、これは作品世界のことであるが、しかも、詩人がそこで表現し得ていると思い込んでいるものと、読者がそこに見出すであろうものとはけっして同じものではないのだが、詩人の友人が現実の世界で体験したこととは、あるいは、詩人の友人が自分の記憶を手繰り寄せて、自分が体験したことを思い起こしたと思い込んでいるものとは、決定的に異なるものであるが、そのようなことはまた、詩人のつくった世界が現実にあったことを、どれぐらいきちんと反映しているのか、といったこととともに、詩というものとは、まったく関係のないことであろう。求められているのは、現実感であり、現実そのものではないのである。少なくとも、物理化学的な面での、現象としての現実ではないであろう。もちろん、言うまでもなく、詩は精神の産物であり、詩を味わうのも精神であり、しかも、その精神は、現実の世界がつくりだしたものでもある。しかしながら、物理化学的な面での、現象としての現実の世界だけが精神をつくっているわけではないのである。じっさいに見えるものや、じっさいに聞こえるもの、じっさいに触れるものや、じっさいに味わうもの、そういった類のものからだけで、現実の世界ができているわけではないのである。見えていると思っているものや、聞こえていると思っているもの、触れていると思っているものや、味わっていると思っているものも、もちろんのことであるが、現実の世界は、見えもしないものや、聞こえもしないもの、触れることができないものや、味わうことができないもの、そういったものによってさえ、またできているのである。もしも、世界というものが、じっさいに見えるものや、じっさいに聞こえるもの、じっさいに触れるものや、じっさいに味わえるもの、そういった類のものからだけでできているとしたら、いかに貧しいものであるだろうか? じっさいのところ、世界は豊かである。そう思わせるものを、世界は持っている。


魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現われることがない、
(サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳)


詩人が、『マールボロ。』から得た最大の収穫は、何であったのだろうか? 右に引用した文の横に、詩人は、こんなメモを書きつけていた。「「物質」を「言葉」とすると、こういった結論が導かれる。詩を読んで、言葉を通して、はじめて、自分の気持ちがわかることがある、ということ。言葉は、わたしたちについて、わたしたち自身が知らないことも知っていることがある、ということ。」と。


言葉とは何か?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)


言葉以外の何を使って、嫌悪する世界を消しさり、愛しうる世界を創りだせるというのか?
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)


作品は作者を変える。
自分から作品を引き出す活動のひとつびとつに、作者は或る変質を受ける。完成すると、作品は今一度作者に逆に作用を及ぼす。
(ヴァレリー『文学』佐藤正彰訳)


これがぼくにとってどれほど大きな意味があることか、きみにわかるかい?
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)


詩人のそばでは、詩がいたるところで湧き出てくる。
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第七章、青山隆夫訳)


今まで忘れていたことが思い出され、頭の中で次から次へと鎖の輪のようにつながっていく。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)


わたしの世界の何十という断片が結びつきはじめる。
(グレッグ・イーガン『貸金庫』山岸 真訳)


あらゆるものがくっきりと、鮮明に見えるのだ。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)


過去に見たときよりも、はっきりと
(シオドア・スタージョン『人間以上』第二章、矢野 徹訳)


なんという強い光!
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』昼夜入れ替えなしの興行、木村榮一訳)


さまざまな世界を同時に存在させることができる。
(イアン・ワトスン『知識のミルク』大森 望訳)


これは叫びだった。
(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)


急にそれらの言葉がまったく新しい意味を帯びた。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』34、大島 豊訳)


そのひと言でぼくの精神状態はもちろん、あたりの風景までが一変した。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』女戦死(アマゾネス)、木村榮一訳)


こういった考察を、『マールボロ。』は、詩人にさせたのだが、『マールボロ。』をつくったときの友人とは別の友人に、あるとき、詩人は、つぎのように言われたという。「言葉に囚われているのは、結局のところ、自分に囚われているにひとしい。」と。そう言われて、ようやく、詩人は、『マールボロ。』をつくったときに、自分の友人を傷つけたことに、その友人のこころを傷つけたことに気がついたのだという。
詩人の遺したメモ書きに、つぎに引用するような言葉がある。『マールボロ。』をつくる前のメモ書きである。


順序を入れかえたり、語をとりかえたりできるので、たえず内容を変える
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)


新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)


詩人の作品が、詩人の友人の思い出に等しいものであるはずがないことに、なぜ、詩人自身が、すぐに気がつかなかったのか、それは、さだかではないが、たしかに、詩人は思い込みの激しい性格であった。右に引用したような事柄が、頭ではわかっていたのだが、じっさいに実感することが、すぐにはできなかったらしい。それが実感できたのは、先に述べたように、別の友人に気づかされてのこと、『マールボロ。』をつくった後、しばらくしてからのことであったという。


しかし、彼の笑顔はこの世にふたつとない笑顔だ。その笑顔を向けられると、人生で出くわすありとあらゆる不幸をそこに見るような気がする。ところが顔に浮かんだその不幸を、彼はあっという間に順序よく並べ替えてしまう。それを見ていると、今度は急に「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じるのだ。
だから彼と話をするのは楽しい。その笑顔をしょっちゅう浮かべて、そのたびに「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じさせてくれるからだ。
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』31、安原和見訳)


これは、『マールボロ。』制作以降に、詩人が書きつけていたメモ書きにあったものである。たしかに、同じ事柄でも、同じ言葉でも、順序を並べ替えて表現すると、ただそれだけでも、まったく異なる内容のものにすることができるのであろう。詩人が引用していた、この文章は、ほんとうに、こころに染み入る、すぐれた表現だと思われる。
ところで、悲劇にあるエピソードを並べ替えて、喜劇にすることもできるということは、そしてまた、喜劇にあるエピソードを並べ替えて、悲劇にすることもできるということは、わたしに、人生について、いや、人生観について考えさせるところが大いにあった。ある事物や事象を目の前にしたときに、即断することが、いかに愚かしいことであるのか、そういったことを、わたしに思わしめたのである。一方、詩人は、つねにといってもよいほど、ほとんど独断し、即断する、じつに思い込みの激しい性格であった。


ただひとつの感情が彼を支配していた。
(マルロー『征服者』第I部、渡辺一民訳)


感情が絶頂に達するとき、人は無意識状態に近くなる。……なにを意識しなくなるのだ? それはもちろん自分以外のすべてをだ。自分自身をではない。
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』20、鈴木 晶訳)


今ではわたしも、他人のこころを犠牲にして得たこころの願望がいかなるものか、
(ゼナ・ヘンダースン『なんでも箱』深町眞理子訳)


それを知っている
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)


私という病気にかかっていることがようやくわかった。
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友人へ』8、佐宗鈴夫訳)


私というのは、空虚な場所、
(ジンメル『日々の断想』66、清水幾太郎訳)


世界という世界が豊饒な虚空の中に形作られるのだ。
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)


これらの言葉から、詩人の考えていたことが、詩人の晩年における境地というようなものが、詩人の第二詩集である『The Wasteless Land.』の注釈において展開された、詩人自身の自我論に繋がるものであることが、よくわかる。
先にも書いたように、詩人は、つねづね、『マールボロ。』のことを、「自分の作品のなかで、もっとも好きな詩である。」と言っていたが、「それと同時に、またもっとも重要な詩である。」とも言っていた。その言葉を裏付けるかのように、『マールボロ。』については、じつにおびただしい数の引用や文章が、詩人によって書き残されている。以下のものは、これまで筆者が引用してきたものと同様に、詩人が、『マールボロ。』について、生前に書き留めておいたものを、筆者が適宜抜粋したものである。(すべてというわけではない。一行だけ、例外がある。筆者が補った一文である。読めばすぐにわかるだろうが、あえて――線を引いて示しておいた。)


なぜ人間には心があり、物事を考えるのだろう?
(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)


心は心的表象像なしには、決して思惟しない。
(アリストテレス『こころとは』第三巻・第七章、桑子敏雄訳)


言葉や概念といったものが自我を引き寄せて思考を形成するのだろうか? それとも、思考を形成する「型」や「傾向」といったようなものが自我にはあって、それが、言葉や概念といったものを引き寄せて思考を形成するのだろうか? おそらくは、その双方が、相互に働きかけて、思考を形成しているのであろう。


一つ一つのものは自分の意味を持っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 
 

その時々、それぞれの場所はその意味を保っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 


思考が形成される過程については、まだ十分に考察しきっていないところがあると思われるのだが、少なくとも、「習慣的な」思考とみなされるようなものは、そこで用いられている「言葉」というよりも、むしろ、その思考をもたらせる「型」や「傾向」といったようなものによって、主につくられているような気がするのであるが、どうであろうか? というのも、


人間というものは、いつも同じ方法で考える。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)


というように、思考には、「型」や「傾向」とかいったようなものがあると思われるからである。そしてまた、そういったものは、その概念を受容する頻度や、その概念をはじめて受け入れたときのショックの強度によって、ほぼ決定されるのであろうと、わたしには思われるのである。
ところで、幼児の気分が変わりやすいのは、なぜであろうか。おそらく、思考の「型」や「傾向」といったようなものが、まだ形成されていないためであろう。あるいは、形成されてはいても、まだ十分に形成されきっていないのであろう、それが十分に機能するまでには至っていないように思われる。幼児は、そのとき耳にした言葉や、そのとき目にしたものに、振り回されることが多い。「型」や「傾向」といったようなものがつくられるためには、繰り返される必要がある。繰り返されると、それが「型」や「傾向」といったようなものになる。ときには、ただ一回の強烈な印象によって、「型」や「傾向」といったようなものがつくられることもあるであろう。しかし、そのことと、繰り返されることによって「型」や「傾向」といったようなものがつくられることとは、じつは、よく似ている。同じページを何度も何度も開いていると、ごく自然に、本には開き癖といったようなものがつくのだが、ぎゅっと一回、強く押してページを開いてやっても、そのページに開き癖がつくように。それに、強烈な印象は、その印象を受けたあとも、しばらくは持続するであろうし、それはまた、繰り返し思い出されることにもなるであろう。
しかし、ヴァレリーの


個性は思い出と習慣によって作られる
(ヴァレリー全集カイエ篇6『自我と個性』滝田文彦訳)


といった言葉を読み返して思い起こされるのだが、たしかに、わたしには、しばしば、「個性的な」といった形容で言い表される人間の言っていることやしていることが、ただ単に反射的に反応してしゃべったり行動したりしていることのように思われることがあるのである。つねに、とは言わないまでも、きわめてしばしば、である。


霊はすべておのれの家を作る。だがやがて家が霊を閉じこめるようになる。
(エマソン『運命』酒本雅之訳)


したがって、「習慣的な」思考を、「習慣的でない」思考と同様に、「思考」として考えてもよいものかどうか、それには疑問が残るのである。「習慣的な」思考というものが、単なる想起のようなものにしか過ぎず、「習慣的でない」思考といったものだけが、「思考」というものに相当するものなのかもしれないからである。また、ときには、ある「思考」が、「習慣的な」ものであるのか、それとも、「習慣的でない」ものであるのか、明確に区別することができない場合もあるであろう。それにまた、「思考」には、「習慣的な」ものと「習慣的でない」ものとに分類されないものも、あるかもしれないのである。しかし、いまはまだ、そこまで考えることはしないでおこう。「習慣的な」思考と「習慣的でない」思考の、このふたつのものに限って考えてみよう。単純に言ってみれば、「型」や「傾向」により依存していると思われるのが、「習慣的な」思考の方であり、「言葉」自体により依存していると思われるのが、「習慣的でない」思考の方であろうか? これもまた、「より依存している」という言葉が示すように、程度の問題であって、絶対にどちらか一方だけである、ということではないし、また、そもそものところ、思考が、「言葉」といったものや、「型」や「傾向」といったものからだけで形成されるものでないことは、


われわれのあらゆる認識は感覚にはじまる。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)


というように、感覚器官が受容する刺激が認識に与える影響についてだけ考えてみても明らかなことであろうが、
思考は言語からのみ形成されるのではない。しかし、あえて、論を進めるために、ここでは、思考を形成するものを、「言葉」とか、あるいは、「型」や「傾向」とかいったものに限って、考えることにした。いずれにしても、それらのものはまた、


創造者であるとともに被創造物でもある。
(ブライアン・W・オールディス『讃美歌百番』浅倉久志訳)


――詩人はよく、こう言っていた。詩人にできるのは、ただ言葉を並べ替えることだけだ、と。


人間は実際造ることができないんです。すでにあるものを並び替えるだけでしてね。神のみが創造できるのですよ
(ロジャー・ゼラズニイ『わが名はレジオン』第三部、中俣真知子訳)



並べ替える? それとも、並び替えさせるのか? 並べ替える? それとも、並び替えさせるのか?  


『マールボロ。』


断片はそれぞれに、そうしたものの性質に従って形を求めた。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』36、黒丸 尚訳)



並び替えさせる? それとも、並べ替えるのか? 並び替えさせる? それとも、並べ替えるのか?


『マールボロ。』


ただ言葉を選んで、並べただけなのだが、『マールボロ。』という詩によって、はじめてもたらされたものがある。そのうちの一つのものに、『マールボロ。』という詩が出来上がってはじめて、その出来上がった詩を目にしてはじめて、わたしのこころのなかに生まれた感情がある。それは、それまでのわたしが、わたしのこころのなかにあると感じたことのない、まったく新しい感情であった。まるで、その詩のなかにある言葉の一つ一つが、わたしにとって、激しく噴き上げてくる間歇泉の水しぶきのような感じがしたのである。じっさい、紙面から光を弾き飛ばしながら、言葉が水しぶきのように迸り出てくるのが感じられたのである。また、そのうちの一つのものに、『マールボロ。』という詩の形をとることによって、言葉たちがはじめて獲得した意味がある。それは、その詩が出来上がるまでは、その言葉たちがけっして持ってはいなかったものであり、それは、その言葉にとって、まったく新しい意味であった。
これを、人間であるわたしの方から見ると、言葉たちを、ただ選び出して、並べ替えただけのように見える。事実、ただそれだけのことである。これを、言葉の方から見ると、どうであろうか? 言葉の方の身になって、考えられるであろうか? 『マールボロ。』の場合、言葉はもとの場所から移され、並び替えさせられた上に、それらの言葉を前にする人間の方も入れ替わったのである。時間的なことを考慮して言うなら、人間が入れ替わるのと同時に、言葉も並び替えさせられたのである。人間であるわたしの方から見る場合と異なる点は、それらの言葉を前にする人間の方も入れ替わっていたということであるが、それでは、はたして、それらの言葉の前で、人間の方が入れ替わっていたという、このことが、他の言葉とともに並び替えさせられたことに比べて、いったいどれぐらいの割合で、それらの言葉の意味の拡張や変化といったものに寄与したのであろうか? しかし、そもそものところ、そのようなことを言ってやることなどできるのであろうか? できやしないであろう。というのも、そういった比較をするためには、人間が入れ替わらずに、それらの言葉が、『マールボロ。』という詩のなかで配置されているように配置される可能性を考えなければならないのであるが、そのようなことが起こる可能性は、ほとんどないと思われるからである。まあ、いずれにしても、見かけの上では、言葉の並べ替えという、ただそれだけのことで、わたしも、その言葉たちも、それまでのわたしや、それまでのその言葉たちとは、違ったものになっていた、というわけである。


ぼくらがぼくらを知らぬ多くの事物によって作られているということが、ぼくにはたとえようもなく恐ろしいのです。ぼくらが自分を知らないのはそのためです。
(ヴァレリー『テスト氏』ある友人からの手紙、村松 剛・菅野昭正・清水 徹訳)



といったことを、ヴァレリーが書いているのだが、『マールボロ。』という詩をつくる「経験」を通して、「ぼくらを知らぬ多くの事物」が、いかにして、「ぼくら」を知っていくか、また、「自分を知らない」「ぼくら」が、いかにして、「自分」を知っていくか、その経緯のすべてとはいわないが、その一端は窺い知ることができたものと、わたしには思われるのである。


『マールボロ。』


言葉は、つぎつぎと人間の思いを記憶していく。ただし、言葉の側からすれば、個々の人間のことなどはどうでもよい。新たな意味を獲得することにこそ意義がある。言葉の普遍性と永遠性。言葉自身が知っていることを、言葉に教えても仕方がない。言葉の普遍性と永遠性。わたしたちが言葉を獲得する? 言葉が獲得するのだ、わたしたちを。言葉の普遍性と永遠性。もはや、わたし自身が言葉そのものとなって考えるしかあるまい。


『マールボロ。』


デニス・ダンヴァーズが『天界を翔ける夢』や、その姉妹篇の『エンド・オブ・デイズ』のなかに書いているように、あるいは、グレッグ・イーガンが『順列都市』のなかで描いているように、将来において、たとえ、人間の精神や人格を、その人間の記憶に基づいてコンピューターにダウンロードすることができるとしても、そういったものは、元のその人間の精神や人格とはけっして同じものにはならないであろう。なぜなら、人間は、偶然が決定的な立場で控えている時間というもののなかに生きているものであり、その偶然というものは、どちらかといえば、量的な体験ではなく、質的な体験においてもたらされるものだからである。驚くことがいかに人生において重要なものであるか、それを機械が体験し、実感することができるようになるとは、とうてい、わたしには思えないのである。せいぜい、思考の「型」とか「傾向」とかいったようなものをつくれるぐらいのものであろう。それに、たとえ、思考の「型」や「傾向」とかいったようなものを、ソフトウェア化することができるとしても、それらから導き出せるような思考は、単なる「習慣的な」思考であって、そのようなものでは、『マールボロ。』のようなものをつくり出すことはおろか、『マールボロ。』のようなものをつくり出すきっかけすら思いつくことができるようなものにはならないであろう。


『マールボロ。』


紙片そのものではなく、それを貼り合わせる指というか、糊というか、じっさいはセロテープで貼り付けたのだが、短く切り取ったセロテープを紙片にくっつけるときの息を詰めた呼吸というか、そのようなものでつくっていったような気がする。そのことは以前にも書いたことがあるのだが、それは、ほとんど無意識的な行為であったように思われる。基本的には、これが、わたしの詩の作り方である。     


『マールボロ。』


たしかに、「言葉」には、互いに引き合ったり反発しあったりする、磁力のようなものがある。そう、わたしには思われる。そして、それらのものを、思考の「型」や「傾向」といったものの現われともとることはできるのだが、そうではない、「言葉」そのものにはない、「型」や「傾向」といったものもあるように、わたしには思われるのである。とはいっても、言葉が、その言葉としての意味を持って、個人の前に現われる前に、その個人の思考の「型」や「傾向」といったようなものが存在したとも思われないのだが、……、しかし、ここまで考えてきて、ふと思った。「言葉」の方が磁石のようなもので、「型」や「傾向」といったものの方が磁石をこすりつけられて磁力を持つようになった鉄の針のようなものなのか、「型」や「傾向」といったものの方が磁石のようなもので、「言葉」の方が磁石をこすりつけられて磁力を持つようになった鉄の針のようなものなのか、と。ふうむ、……。


『マールボロ。』


作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)


きみはそれを知っている人間のひとりかね?
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)


そのとおりであることを祈るよ。
(アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』第一部・4、福島正実訳)


こんどはそれをこれまで学んできた理論体系に照らし合わせて検証しなければならん
(スティーヴン・バクスター『天の筏』5、古沢嘉道訳)


実際にやってみよう
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)


煉瓦はひとりでは建物とはならない。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとI』6、田中 勇・銀林 浩訳)


具体的な形はわれわれがつくりだすのだ
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』28、三田村 裕訳)


形と意味を与えられた苦しみ。
(サミュエル・R・ディレイニー『コロナ』酒井昭伸訳)


きみはこれになるか?
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)



つぎに掲げてあるのは、芥川龍之介の『或阿呆の一生』の冒頭部分である。囲み線の部分を、他の作家の作品の言葉と置き換えてみた。まず、はじめに、夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭部分の言葉を使って、囲み線のところを置き換えた。囲み線は、わたしが施したもの。以下同様。


 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子(はしご)に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……
 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧(むし)ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……
 彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇(たたず)んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下(みおろ)した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「人生は一(いち)行(ぎやう)のボオドレエルにも若(し)かない。」
 彼は暫(しばら)く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……


 吾輩(わがはい)は或猫の名前だつた。ニャーニャーの吾輩は人間にかけた書生の人間に登り、新らしい種族を探してゐた。書生、我々、話、考、彼、掌(てのひら)、……
 そのうちにスーは迫り出した。しかしフワフワは熱心に掌の書生を読みつづけた。そこに並んでゐるのは顔といふよりも寧(むし)ろ人間それ自身だつた。毛、顔、つるつる、薬缶(やかん)、猫、顔、……
 穴はぷうぷうと戦ひながら、煙(けむり)のこれを数へて行つた。が、人間はおのづからもの憂い煙草(たばこ)の中に沈みはじめた。書生はとうとう掌も尽き、裏(うち)の心持を下りようとした。すると書生のない自分が一つ、丁度眼の胸の上に突然ぽかりと音をともした。眼は火の上に佇(たたず)んだまま、書生の間に動いてゐる兄弟や母親を見(み)下(おろ)した。姿は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「眼は容(よう)子(す)ののそのそにも若(し)かない。」
 吾輩は暫(しばら)く藁(わら)の上からかう云ふ笹原を見渡してゐた。……


ここで、比較のために、もとの『吾輩は猫である』の冒頭部分を掲げておく。


 吾輩(わがはい)は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当(けんとう)がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕(つかま)えて煮(に)て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見(み)始(はじめ)であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶(やかん)だ。その後(ご)猫にもだいぶ逢(あ)ったがこんな片(かた)輪(わ)には一度も出会(でく)わした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙(けむり)を吹く。どうも咽(む)せぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草(たばこ)というものである事はようやくこの頃知った。
 この書生の掌の裏(うち)でしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無(む)暗(やみ)に眼が廻る。胸が悪くなる。到底(とうてい)助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
 ふと気が付いて見ると書生はいない。たくさんおった兄弟が一(いち)疋(ぴき)も見えぬ。肝心(かんじん)の母親さえ姿を隠してしまった。その上(うえ)今(いま)までの所とは違って無(む)暗(やみ)に明るい。眼を明いていられぬくらいだ。はてな何でも容(よう)子(す)がおかしいと、のそのそ這(は)い出して見ると非常に痛い。吾輩は藁(わら)の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。


つぎに、堀 辰雄の『風立ちぬ』の冒頭部分の言葉を使って、置き換えてみた。


夏は或日々の薄(すすき)だつた。草原のお前は絵にかけた私の白樺に登り、新らしい木蔭を探してゐた。夕方、お前、仕事、私、私達、肩、……
 そのうちに手は迫り出した。しかし茜(あかね)色(いろ)は熱心に入道雲の塊りを読みつづけた。そこに並んでゐるのは地平線といふよりも寧(むし)ろ地平線それ自身だつた。 日、午後、秋、日、私達、お前、……
 絵は画架と戦ひながら、白樺の木蔭を数へて行つた。が、果物はおのづからもの憂い砂の中に沈みはじめた。雲はとうとう空も尽き、風の私達を下りようとした。すると頭のない木の葉が一つ、丁度藍色(あいいろ)の草むらの上に突然ぽかりと物音をともした。私達は私達の上に佇(たたず)んだまま、絵の間に動いてゐる画架や音を見(み)下(おろ)した。お前は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「私は一瞬の私にも若(し)かない。」
 お前は暫(しばら)く私の上からかう云ふ風を見渡してゐた。……


ここで比較のために、もとの『風立ちぬ』の冒頭部分を掲げておく。


 それらの夏の日々、一面に薄(すすき)の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜(あかね)色(いろ)を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……

 そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物を齧(か)じっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色(あいいろ)が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。
風立ちぬ、いざ生きめやも。


つぎに、小林多喜二の『蟹工船』の冒頭部分の言葉を使って、置き換えてみた。


 地獄は或二人のデッキだつた。手すりの蝸牛(かたつむり)は海にかけた街の漁夫に登り、新らしい指元を探してゐた。煙草(たばこ)、唾(つば)、巻煙草、船腹(サイド)、彼、身体(からだ)、……
 そのうちに太鼓腹は迫り出した。しかし汽船は熱心に積荷の海を読みつづけた。そこに並んでゐるのは片(かた)袖(そで)といふよりも寧(むし)ろ片側それ自身だつた。煙突、鈴、ヴイ、南(ナン)京(キン)虫(むし)、船、船、……
 ランチは油煙と戦ひながら、パン屑(くず)の果物を数へて行つた。が、織物はおのづからもの憂い波の中に沈みはじめた。風はとうとう煙も尽き、波の石炭を下りようとした。すると匂いのないウインチが一つ、丁度ガラガラの音の上に突然ぽかりと波をともした。蟹工船博光丸はペンキの上に佇(たたず)んだまま、帆船の間に動いてゐるへさき(ヽヽヽ)や牛を見(み)下(おろ)した。鼻穴は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「錨(いかり)は鎖の甲板にも若(し)かない。」
 マドロス・パイプは暫(しばら)く外人の上からかう云ふ機械人形を見渡してゐた。……


ここで比較のために、もとの『蟹工船』の冒頭部分を掲げておく。


「おい地獄さ行(え)ぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛(かたつむり)が背のびをしたように延びて、海を抱(かか)え込んでいる函(はこ)館(だて)の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草(たばこ)を唾(つば)と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹(サイド)をすれずれに落ちて行った。彼は身体(からだ)一杯酒臭かった。
 赤い太鼓腹を巾(はば)広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片(かた)袖(そで)をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南(ナン)京(キン)虫(むし)のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑(くず)や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接(じか)に響いてきた。
 この蟹工船博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥(は)げた帆船が、へさき(ヽヽヽ)の牛の鼻穴のようなところから、錨(いかり)の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。


ここでまた、比較のために、『或阿呆の一生』の言葉を、前掲の三つの文章のなかにある言葉と置き換えてみた。


それは或本屋である。二階はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見(けん)当(とう)がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所で二十歳泣いていた事だけは記憶している。彼はここで始めて書棚というものを見た。しかもあとで聞くとそれは西洋風という梯子(はしご)中で一番獰(どう)悪(あく)な本であったそうだ。このモオパスサンというのは時々ボオドレエルを捕(つかま)えて煮(に)て食うというストリントベリイである。しかしその当時は何というイブセンもなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただシヨウのトルストイに載せられて日の暮と持ち上げられた時何だか彼した感じがあったばかりである。本の上で少し落ちついて背文字の本を見たのがいわゆる世紀末というものの見(み)始(はじめ)であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一ニイチエをもって装飾されべきはずのヴエルレエンがゴンクウル兄弟してまるでダスタエフスキイだ。その後(ご)ハウプトマンにもだいぶ逢(あ)ったがこんな片(かた)輪(わ)には一度も出会(でく)わした事がない。のみならずフロオベエルの真中があまりに突起している。そうしてその彼の中から時々薄暗がりと彼等を吹く。どうも咽(む)せぽくて実に弱った。名前が本の飲む影というものである事はようやくこの頃知った。
 この彼の根気の西洋風でしばらくはよい梯子に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。傘が動くのか電燈だけが動くのか分らないが無(む)暗(やみ)に彼が廻る。頭が悪くなる。到底(とうてい)助からないと思っていると、どさりと火がして彼から梯子が出た。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
 ふと気が付いて見ると本はいない。たくさんおった店員が一(いち)疋(ぴき)も見えぬ。肝心(かんじん)の客さえ彼等を隠してしまった。その上(うえ)今(いま)までの所とは違って無(む)暗(やみ)に明るい。人生を明いていられぬくらいだ。はてな何でも一(いち)行(ぎやう)がおかしいと、ボオドレエル這(は)い出して見ると非常に痛い。彼は梯子の上から急に彼等の中へ棄てられたのである。


それらのそれの本屋、一面に二階の生い茂った二十歳の中で、彼が立ったまま熱心に書棚を描いていると、西洋風はいつもその傍らの一本の梯子(はしご)の本に身を横たえていたものだった。そうしてモオパスサンになって、ボオドレエルがストリントベリイをすませてイブセンのそばに来ると、それからしばらくシヨウはトルストイに日の暮をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ彼を帯びた本のむくむくした背文字に覆われている本の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその世紀末から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……

 そんなニイチエの或るヴエルレエン、(それはもうゴンクウル兄弟近いダスタエフスキイだった)ハウプトマンはフロオベエルの描きかけの彼を薄暗がりに立てかけたまま、その彼等の名前に寝そべって本を齧(か)じっていた。影のような彼が根気をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく西洋風が立った。梯子の傘の上では、電燈の間からちらっと覗いている彼が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、頭の中に何かがばったりと倒れる火を彼は耳にした。それは梯子がそこに置きっぱなしにしてあった本が、店員と共に、倒れた客らしかった。すぐ立ち上って行こうとする彼等を、人生は、いまの一(いち)行(ぎやう)の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、ボオドレエルのそばから離さないでいた。彼は梯子のするがままにさせていた。

彼等立ちぬ、いざ生きめやも。


「おいそれさ行(え)ぐんだで!」
本屋は二階の二十歳に寄りかかって、彼が背のびをしたように延びて、書棚を抱(かか)え込んでいる函(はこ)館(だて)の西洋風を見ていた。――梯子(はしご)は本まで吸いつくしたモオパスサンをボオドレエルと一緒に捨てた。ストリントベリイはおどけたように、色々にひっくりかえって、高いイブセンをすれずれに落ちて行った。シヨウはトルストイ一杯酒臭かった。
赤い日の暮を巾(はば)広く浮かばしている彼や、本最中らしく背文字の中から本をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り世紀末に傾いているのや、黄色い、太いニイチエ、大きなヴエルレエンのようなゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイのようにハウプトマンとフロオベエルの間をせわしく縫っている彼、寒々とざわめいている薄暗がりや彼等や腐った名前の浮いている何か特別な本のような影……。彼の工合で根気が西洋風とすれずれになびいて、ムッとする梯子の傘を送った。電燈の彼という頭が、時々火を伝って直接(じか)に響いてきた。
この彼のすぐ手前に、梯子の剥(は)げた本が、店員の客の彼等のようなところから、人生の一(いち)行(ぎやう)を下していた、ボオドレエルを、彼をくわえた梯子が二人同じところを何度も彼等のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。


Supper’s Ready。

  田中宏輔

 

掲示板
 イタコです。週に二度、ジムに通って身体を鍛えています。特技は容易に憑依状態になれることです。しかも、一度に三人まで憑依することができます。こんなわたしでよかったら、ぜひ、メールください。また、わたしのイタコの友だちたちといっしょに、合コンをしませんか。人数は、四、五人から十数人まで大丈夫です。こちらは四人ですけれど、十数人くらいまでなら、すぐに憑依して人数を増やせます。合コンの申し込みも、ぜひ、ぜひ、お願いします!
(二十五才・女性会員)


   *


詩によって花瓶は儀式となる。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・18、大西 憲訳)


優れた比喩は比喩であることをやめ、
(シオドア・スタージョン『きみの血を』山本光伸訳)


真実となる。
(ディラン・トマス『嘆息のなかから』松田幸雄訳)


   *


時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)


おそらく認識や知などはすべて、比較、相似に帰せられるだろう。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)


時間こそ、もっともすぐれた比喩である。


   *


さよ ふけて かど ゆく ひと の からかさ に ゆき ふる おと の さびしく も ある か
(會津八一)


飛び石のように置かれた言葉の間を、目が動く。韻律と同様に、目の動きも思考を促す。

余白の白さに撃たれた目が見るものは何だろうか? 言葉によって想起された自分の記憶だろうか。

 八一が「ひらがな」で、しかも、「単語単位」の分かち書きで短歌を書いた理由は、おそらく、右の二つの事柄が主な目的であると思われるのだが、音声だけとると、読みにおける、そのたどたどしさは、啄木の『ローマ字日記』のローマ字部分を読ませられているのと似ているような気がする。では、じっさいに、右の歌をローマ字にしてみると、どうか。

sayo fukete kado yuku hito no karakasa ni yuki furu oto no sabisiku mo aru ka

 やはり、そのたどたどしさに、ほとんど違いは見られない。しかしながら、「ひらがな」のときにはあった映像喚起力が著しく低下している。では、なぜ低下したのだろうか。それは、わたしたちが、幼少時に言葉をならうとき、まず「ひらがな」でならったからではないだろうか。それで、八一の「ひらがな」の言葉が、強い映像喚起力を持ち得たのではなかろうか。この「ひらがな」の言葉が持つ映像喚起力というのは、幼少時の学習体験と密接に結びついているように思われる。八一の歌の、その読みのたどたどしさもまた、その映像喚起力を増させているものと思われる。ときに、わたしたちを、わたしたちが言葉を学習しはじめたときの、そのこころの原初風景にまでさかのぼらせるぐらいに。
 たどたどしいリズムが、わたしたちのこころのなかにある、さまざまな記憶に働きかけ、わたしたちを、わたしたち自身にぶつからせるような気がするのである。つまずいて、はじめて、そこに石があることに、わたしたちが気がつくように。


存在を作り出すリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)


人間ひとりひとりを永遠と偏在に参与せしめるリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)


  *


不完全であればこそ、他から(ヽヽヽ)の影響を受けることができる──そしてこの他からの影響こそ、生の目的なのだ。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)


彼らは、人間ならだれでもやるように、知らぬことについて話しあった。
(アーシュラ・K・ル・グィン『ショービーズ・ストーリイ』小尾芙佐訳)


ぼくが語りそしてぼくが知らぬそのことがぼくを解放する。
(ジャック・デュパン『蘚苔類』3、多田智満子訳)


   *


 映画を見たり、本を読んだりしているときに、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じることがある。ときには、その映画や本にこころから共感して、自分の生の実感をより強く感じたりすることがある。自分のじっさいの体験ではないのに、である。これは事実に反している。矛盾している。しかし、この矛盾こそが、意識領域のみならず無意識領域をも含めて、わたしたちの内部にあるさまざまな記憶を刺激し、その感覚や思考を促し、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じさせるほどに想像力を沸き立たせたり、生の実感をより強く感じさせるほどに強烈な感動を与えるものとなっているのであろう。イエス・キリストの言葉が、わたしたちにすさまじい影響力を持っているというのも、イエス・キリストによる復活やいくつもの奇跡が信じ難いことだからこそなのではないだろうか。


 まさに理解不能な世界こそ──その不合理な周縁ばかりでなく、おそらくその中心においても──意志が力を発揮すべき対象であり、成熟に至る力なのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


   *


物がいつ物でなくなるのだろうか?
(R・ゼラズニイ&F・セイバーヘーゲン『コイルズ』10、岡部宏之訳)


人間と結びつくと人間になる。
(川端康成『たんぽぽ』)


物質ではあるが、いつか精神に昇華するもの。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)


   *


書きつけることによって、それが現実のものとなる
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』75、佐宗鈴夫訳)


言葉ができると、言葉にともなつて、その言葉を形や話にあらはすものが、いろいろ生まれて來る
(川端康成『たんぽぽ』)


おかしいわ。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)


   *


どうしてこんなところに?
(コードウェイナー・スミス『西欧科学はすばらしい』伊藤典夫訳)


新しい石を手に入れる。
(R・A・ラファティ『つぎの岩につづく』浅倉久志訳)


それをならべかえる
(カール・ジャコビ『水槽』中村能三訳)


   *


猿(さる)の檻(おり)はどこの国でも一番人気がある。
(寺田寅彦『あひると猿』)


純粋に人間的なもの以外に滑稽(コミツク)はない
(西脇順三郎『天国の夏』)


simia,quam similis,turpissima bestia,nobis!
最も厭はしき獸なる猿はわれわれにいかに似たるぞ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』キケロの言葉)


コロンビアの大猿は、人間を見ると、すぐさま糞をして、それを手いっぱいに握って人間に投げつけた。これは次のことを証明する。
一、 猿がほんとうに人間に似ていること。
二、 猿が人間を正しく判断していること。
(ヴァレリー『邪念その他』J,佐々木 明訳)


かつてあなたがたは猿であった。しかも、いまも人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上に猿である。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部・3、手塚富雄訳)


   *


 数え切れないほど数多くの人間の経験を通してより豊かになった後でさえ、言葉というものは、さらに数多くの人間の経験を重ねて、その意味をよりいっそう豊かなものにしていこうとするものである。言葉の意味の、よりいっそうの深化と拡がり!


   *


 この世界の在り方の一つ一つが、一人一人の人間に対して、その人間の存在という形で現われている。もしも、世界がただ一つならば、人間は、世界にただ一人しか存在していないはずである。  


   *


 だんだんわたしは選ぶことを覚え、完全なものだけをそばに置いておくようになった。珍しい貝でなくてもいいのだが、形が完全に保存されているものを残し、それを海の島に似せて、少しずつ距離をとって丸く並べた。なぜなら、周りに空間があってこそ、美しさは生きるのだから。出来事や対象物、人間もまた、少し距離をとってみてはじめて意味を持つものであり、美しくあるのだから。
 一本の木は空を背景にして、はじめて意味を持つ。音楽もまた同じだ。ひとつの音は前後の静寂によって生かされる。
(アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈りもの』ほんの少しの貝、落合恵子訳)


 いかにも動きに富む風景、浜辺に、不揃いな距離を置いて立っている一連の人物たちのおかげで、空間のひろがりがいっそうよく測定できるような風景。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)


   *


私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出会つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
(立原道造『またある夜』)


 わたしの目は、雲を見ている。いや、見てはいない。わたしの目が見ているのは、動いている雲の様子であって、瞬間、瞬間の雲の形ではない。また、雲の背景にある空を除いた雲の様子でもない。空を背景にした動いている雲の様子である。音楽においても事情は同じである。わたしの耳は、一つ一つの音を別々に聞いているのではない。音が構成していくもの、いわゆるメロディーやリズムといったものを聞いているのである。そのメロディーやリズムにおいて現われる音を聞いているのである。言葉においても同様である。話される言葉にしても、読まれる言葉にしても、使われる言葉が形成していく文脈を把握するのであって、その文脈から切り離して、使われる言葉を、一つ一つ別々に理解していくのではない。形成されていく文脈のなかで、一つ一つの言葉を理解していくのである。というのも、


これは一重に文章の
並びや文の繋がりが
力を持っているからで
(ホラティウス『書簡詩』第二巻・三、鈴木一郎訳)


 窓ガラスに、何かがあたった音がした。昆虫だろうか。大きくはないが、その音のなかに、ぼくの一部があった。そして、その音が、ぼくの一部であることに気がついた。
 ぼくは、ぼく自身が、ぼくが感じうるさまざまな事物や事象そのものであることを、あらかじめそのものであったことを、またこれから遭遇するであろうすべてのものそのものであることを理解した。 


二〇〇六年六月二十四日
 朝、通勤電車(近鉄奈良線・急行電車)に乗っているときのことだ。
 新田辺駅で、特急電車の通過待ちのために、乗っている電車が停車しているという、車掌のアナウンスの最後に、
 「ふう。」という、ため息が聞こえた。
 まわりを見回しても、だれも何事もなかったかのような感じで、居眠りしていたり、本を読んだりしていた。
 驚いてまわりに気づいたひとがいないかどうか見渡しているのは、ぼくひとりだけだった。
 とても不思議な感じがした。
 ぼくは笑ったのだが、その笑い顔はすぐに凍りついた。
 だれも笑わないときに、ひとりで笑っているのは、おかしいと思ったのだろう。
 ぼくは笑えなくなって、顔の筋肉をこわばらせたのであった。


人生のあらゆる瞬間はかならずなにかを物語っている、
(ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』四・16、小林宏明訳)


人生を楽しむ秘訣は、細部に注意を払うこと。
(シオドア・スタージョン『君微笑めば』大森 望訳)           


ほんのちょっとした細部さえ、
(リチャード・マシスン『人生モンタージュ』吉田誠一訳)


   *


わたしを知らない鳥たちが川の水を曲げている。
わたしのなかに曲がった水が満ちていく。


   *


われわれはなぜ、自分で選んだ相手ではなく、稲妻に撃たれた相手を愛さなければならないのか?
(シオドア・スタージョン『たとえ世界を失っても』大森 望訳)


光はいずこから来るのか。
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第二幕・第五場、石川重俊訳)


わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ
(与謝野晶子)


The Show Must Go On。

  田中宏輔



「真実なんて、どこにあるんだろう?」と、ぼく。
「きみが求めている真実がないってことかな?」と、詩人。


でかかった言葉が、ぼくを詰まらせた。


文章を書くということは、自分自身を眺めることに等しい。


まあ、実数である有理数と無理数が、ひとつの方程式のなかにあって、それぞれ独立しているという事実には驚かされるが、あるひとつの数、たとえば、1の隣にある数がなにか、それを言ってやることなど、だれにもできやしない、ということも不気味だ。おそらくは永遠に。いや、かくじつ永遠に。しかし、もっと不気味なことがある。これは、という人物に、このようなことに思いをはせたことがないかとたずねても、首をかしげて微笑むだけで、それ以上、話をつづけさせない雰囲気にされたり、そんなことは考えたこともないと言って、ぼくの目をまじまじと見つめ返して、ぼくが目を逸らして黙らざるを得ない気持ちにさせるばかりであった。いやな思いというよりは、やはり不気味な感じがする。数字なんて、だれだって使っているものなのに。


人間はいったい何を確実に知っているといえるだろう?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』6、山田和子訳)


中学二年のときのことである。遠足の日に、まっさらな白い運動靴を履いていったのだが、クラスでも一番のお調子者であるやつが、ぼくの靴を踏みつけた。白い靴のコウの部分にくっきりと残った、靴の踏み跡。さらの靴につけられた汚れは、とても目立つし、それに、あとあといつまでも残っている。先に踏みつけられた跡は、あとから踏みつけられた跡よりもはっきりしている。しっかり残るのだ。ホラティウスのつぎのような言葉が思い出される。


出来たての壺は新しい
間に吸ったその香りを
後まで長くとどめます。
(『書簡詩』第一巻・ニ、鈴木一郎訳)


quo semel est imbuta recens,servabit odorem testa diu.
土器は、それが新しきときに一度それが滿たされたるものの香りを、長く保存するならん。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)


多くの言葉が、概念が、また、概念の素になっているもの、すなわち、まだ概念ではないが概念を形成する際に、その要素となっているもの、またさらに、そういったものどもを結びつける作用の源など、そういったものが、犇めき合い、互いに結びつこうとする。それが意識となるのは、ただひと握りのものだけ。では、そのとき、意識とならなかったものたちは、その意識にぜんぜん影響しなかっただろうか? 何らかの痕跡を残さないものなのだろうか?


言葉は同じような意味の言葉によっても、またまったく異なるような意味の言葉によっても吟味される。


私は私のことをずっと「愛するのに激しく憎むのに激しい」性格だと思っていた。しかし、それは間違っていた。「愛するに性急で、憎むのに性急な」だけだった。


当然のことながら、目は、複数のものに同時に焦点をあわせられない。意識もまた、複数のものを、同時に、しかも同じ注意力でもって捉えることはできない。すくなくとも捉えつづけることは、できやしない。


言葉は完全に理解されてはいけない。完全に理解された(と思われる)ものは、その人にとって吟味の対象とは、もはやならないというところで、その言葉は死んだも同然なのである。意味は完全に了解されると死んでしまうものなのである。それゆえ、わたしは、わたしも含めて、あらゆる人間に、わたしを理解しないでもらいたいと、ひそかに思っている。


われわれが時間や空間を所有しているのではなく、時間や空間がわれわれを所有しているのである。


わたしが過去を思い出すとき、わたしが過去を引き寄せるのか、それとも過去がわたしを引き寄せるのか。


詩人は自分をその場所に置いて、自分自身を眺めた。まるで物でも眺めるように。


ぼくたちが認め合うことができるのは、お互いの傷口だけだ。何か普通と異なっているところ、しかもどこかに隠したがっているような様子が見えるもの、そんなものにしか、僕たちの目は惹かれない。それぐらい、僕たちは疲弊しているのだ。


われわれの感情の中で、どれが本物か本物でないのか、そんなことは、誰にもわかりはしない。


だれと約束したわけでもなかった。この場所とも、この夜とも。けっして。


そのころ詩人はどうしていたのだろう。あとから聞いた話では、川に流れる水の音と、茂みの木々の間から聞こえるセミの鳴き声を使って、聴覚の指向性について実験をしていたのだという。どちらか一方に集中的に意識を振り向けることによって、耳に聞こえる音を自由に選択できたという。しかし、このことは、つぎのようなことを示唆してはいないだろうか? もしも、意識が感覚に強く作用するのだとしたら、逆に、聴覚や視覚といった感覚が、意識というものに強く影響するのではないか、と。そういえば、詩人は、こんな話をしてくれたことがある。早坂類という詩人と、はじめて詩人が東京駅で会ったときのことだ。彼女の姿が、突然見えなくなったのだという。いままで目の前にいた詩人の姿が、ふっと消えたのだという。しばらくあたりを見回して、彼女の姿を探していると、彼女の手が、詩人の肩をポンとたたいたのだという。「どうしたんですか?」という声に、ハッとしたのだという。詩人は、彼女のことを才能のある書き手だと思っていたのだが、才能ではなくて、感覚的なものが、感受性というものが、あまりに自分に似すぎていることに気がついて、気持ち悪くなったのだという。彼女の姿が見えなくなったのは、気持ちの方の反応が、感覚に強く反応したためであろう。詩人には、ときどき、ひとの声が聞こえないことがある。ぼくが話しかけても、返事が返ってこないことが何度もあった。すぐそばで話しかけたのだけれど。


あるものがすぐれているのが、他のあるものに支えられてのことであるのなら、その支えてくれている他のあるものをなおざりにしてはいけない。


だれのためにもならない愛。本人のためにさえ。


「なぜ、人間はヒキガエルになるのか?」と、普遍的な問題に対して、卑近な例を出して考える癖が、その青年にはある。ところで、なぜ、他の多くの青年は、「人間は」ではなく、「ある人間は」なのか。しかしながら、ときには、その青年も、大きな枠で構えたつもりで、些細なことがらに捕らわれることもある。それが癖によるものかどうかは、まだわからない。しかし、それには、欠点もあるが、利点もある。「なぜ、人間はヒキガエルになるのか?」、「ある人間は」ではなく。答えが違っている。答え方、ではなく。


「そして、ふいに陰茎を右の手で握り締めると、彼はいつはてることもない自慰に耽るのだった。」といった文が、文末にあるよりも、文頭にくるほうがいい。


言葉も、人も、苛まれ、苦しめられて、より豊かになる。まるで折れた骨が太くなるように。


彼女は、その手紙を書いたあと、投函するために外に出た。(これは、あくまでも文末の印象の効果のために、あとで付け加えられたものである。削除してもよい。)ポストのあるところまで、すこし距離があったので、彼女は顔の化粧を整えた。彼女は、その手紙に似ていなかった。彼女は、その手紙の文字にぜんぜん似ていなかった。その手紙に書かれたいかなる文字にも似ていなかった。点や丸といったものにも、数字にも、彼女がその手紙に書いたいかなるものにも、彼女は似ていなかった。しかし、似ていないことにかけては、ポストも負けていなかった。ポストは、彼女に似ていなかった。彼女に似ていないばかりではなく、彼女の妹にも似ていなかった。しかも、四日前に死んだ彼女の祖母にも似ていなかったし、いま彼女に追いつこうとして、スカートも履かずに玄関を走り出てきた、彼女の母親にも、まったく似ていなかった。もしかしたら、スカートを履くのを忘れてなければ、少しは似ていたのかもしれないのだが、それはだれにもわからないことだった。彼女の母親は、けっしてスカートを履かない植木鉢だったからである。植木鉢は、元来スカートを履かないものだからである。母親の剥き出しの下半身が、ポストのボディに色を添えた。彼女はポストから手を出すと、家に戻るために、外に出た。


ミツバチは、最初に集めた蜜ばかり集めるらしい。異なる花から蜜を集めることはしないという。


ノサックの『ルキウス・エウリヌスの遺書』のなかに、「裏切りに基づく生は生とはいえない。」(圓子修平訳)といった言葉があるが、リルケの『東洋風のきぬぎぬの歌』には、「私たちの魂は裏切りによって生きている。」(高安国世訳)という言葉がある。どちらの言葉も、ぼくには、しっくりとくる、よくわかる言葉だ。ふたりの言葉の間に、なにも矛盾はない。われわれは、「生とはいえない生」を生きているのだ。生かされているといってもよい。


あなたは削除されています。この世界には存在しません。


オセロウはイアーゴウがいなくてもデズデモウナを疑ったのではないか? さまざまな冒険が、その体験が、オセロウをして想像豊かな、極めて想像豊かな人間にしたはずである。「ハンカチの笑劇」。想像はたやすく妄想に変わる。


時間をかけて結晶化させると、不純物を取り込む割合が低くなる。わたしの思考もまた、そうであるように思われる。『みんな、きみのことが好きだった。』の最初の方に収められた「先駆形」シリーズは、これを逆手にとったものである。すばやく結晶化させると、不純物が多く混じるようになる。不純物を混入させると、たやすく結晶化する。しかし、そもそものところ、思考における不純物とは、いったい何であろうか。その不純物の重要な役割についての考察は、一考どころか、二考、三考にも価する。


詩人がほんとうに死んだのか確かめるために、霊魂図書館に行く。


ひとつの石が森となる。石は樹となり、獣となり、風となり、波となり、音となり、光となり、昼となり、夜となり、じつにさまざまなものになり、感情となり、知性となり、エトセトラ、エトセトラ。


自分の遺伝子を組み込んだ食べ物の話。カニバリズムについて述べる。聖書や伝説や寓話や史実。通貨制度の代わりに、遺伝情報を売り買いする社会。自分の遺伝子を組み込んだものがいちばんうまいと述懐する主人公。社会自体も自分自身を食べる社会になっている。人々は自分の遺伝情報を組み込んだ植物を、牛や馬や豚や魚などの動物の肉を食べ物にし、庭に埋めて花や木として観賞し、さまざまな生き物に組み込んでペットにし、エトセトラ、エトセトラ。


言葉が言葉にひきつけられるのは、たとえば、物体が質量によって他の物体に引きつけられたり、電荷によって引きつけられたり、磁力によって引きつけられたりするように、複数の要因があるのではないか? 文脈の公的な履歴と、一個人の私的な履歴。


巣に戻った鳥が、水辺の景色を思い出す。


わたしはもう変化しないのだろうか?


自然死のない社会。人々はさまざまな自殺方法を試みる。そのさまが、他人の目を惹きつける。さまざまなメディアで、珍しい自殺の方法が紹介される。旧約聖書にあるサムソンの例を出す。仏陀やキリストの最期が自殺ではないかと、主人公の青年が考える。キケロなどの偉人たちの自殺や自殺としか見えない殉教者たちの死に様について短く述べる。主人公の青年は、もっとも苦痛の強い死を考える。生きたまま弱い火であぶる。まっさらな紙で切り傷をつけていく。エトセトラ、エトセトラ。たっぷりと時間をかけて。


あらゆることが人を変える。あらゆるものを人が変える。その変化から免れることはできない。その変化を免れさせることはできない。好むにもかかわらず、好まざるにもかかわらず。


田中の「共有する場の理論」について。
……それゆえ、事物を知ることが、あるいは、他者を知ることが、自己を知ることになるのである。この「共有する場の理論」は、ヴァレリーやホフマンスタールが述べている自我についての見解よりも優れたところがあるのではないか。少なくとも、その理論はより単純であり、適用範囲もはなはだ広いものである。それになによりも、破綻と思える箇所がまったく見当たらない。いまのところ、ではあるが。


「答えはいつだって簡単なほどいいものなのだ。」
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)


愛によって形成されたものは、愛がなくなれば、なくなってしまうものだ。
なにがしかの痕跡を残しはするのだろうけれど。


そう言うと、彼は自分の言葉の後ろに隠れた。隠れたつもりになった。


神さまが遅れてやってきた。神さまは腕時計に目をやると、ぼくにあやまった。ぼくは、神さまに、どうってことないよと言った。神さまはニコリと笑うと、ぼくの腕をとって歩き出した。街の景色が、いつもより目に美しく見えた。まるで映画のようだった。突然、神さまは歩みを止め、ぼくを突き飛ばした。まるで、ぼくの身体を狙って走ってきたような、減速もせずにカーブを曲がろうとした乗用車の前に。


ゼロベクトルの定義。テキストによって、つぎの三つに分かれる。向きは任意。向きは考えない。向きを持たない。大きさがゼロであることでは、どれもみな一致しているのだが、向きについては、テキストそれぞれで、著者によって、ゼロベクトルの捉え方が異なることがわかる。任意とするのが、もっとも妥当であると思われる。


まるで覚悟を決めた人身御供のように、わたしは、その場に身を沈めたのであった。


ああ、またしても、ぼくのパンツの中は、ヒキガエルでいっぱいだ。しかも、「死んだひきがえるだ。」(ガッダ『アダルジーザ』アダルジーザ、千種堅訳)彼はボスコで待っていた。


死んだあと、どうするか。動かさなくてはならない。ひとりひとり別の力で。ひとりひとり別の方法で。人間以外のもろもろのものも、動かさなくてはならない。ひとつひとつ別の力で。ひとつひとつ別の方法で。いっしょにではなく、ひとつひとつ別々に。とりわけ両親の死体が問題である。死んだあとも、動かさなくてはならない。そいつは、何度も死んで、すっかり重くなった死体だが。


そのような愛に、だれが耐えることができようか。ひとかけらの欺瞞もなしに。


「同類の人に会うといつも慰められます」
(エリカ・ジョング『あなた自身の生を救うには』柳瀬尚紀訳)


ぼくは彼を楽しんだ。彼もまた憐れむべき人間だった。


人間はなぜ快楽を求めるのだろう? それ自体が快楽だからだ。この場合、目的と手段が一致している。


言葉を耳にしたり、目にしたりして感じることは、たとえば、焼肉を目のまえにして感じることに近いかもしれない。匂い、見た目、音、記憶との連関、エトセトラ、エトセトラ。言葉の意味がもたらすもの。言葉に意味をもたらせるもの。


丸まって眠っている夢を見た。地中に埋められた死体のように。たくさんの死体が、ぼくの死体と平行に眠っている。ぼくの頭のどこかが、それらの死体と同調しているような気がした。夢ではなかったかもしれない。眠る前に目をつむって考えていたことかもしれない。友だちから電話があった。話をしている間に、友だちもいっしょに土の中にずぶずぶと沈んでいくような気がした。横になって電話をしていたからかもしれない。友達の部屋は5階だから、ぼくよりたくさん沈まなければならなかった。


彼は、わたしを愛していると言った。わたしはうれしかった。どんなにひどい裏切られ方をするかと、思いをめぐらせて。


木の葉が風に吹き寄せられる。風がとまる。木の葉が重なり合っている。風を自我に、木の葉を概念に置き換えてみる。風によって木の葉が吹き寄せられるが、木の葉の形と数によって、風の吹き方も影響されるのではないか。すくなくとも、木の葉をめぐる風、木の葉のすぐそばの風は。風車は風によって動く。風車の運動によって、新たな風が起こる。わたしは、わたしの手のひらの上で、一枚の木の葉が、葉軸を独楽の芯のようにしてクルクル回っているのを見つめている。そのうち、こころの目の見るものが変わる。一枚の木の葉の上で、わたしの手のひらが、クルクルと回っている。


彼のぬくもりが、まだそのベンチの上に残っているかもしれない。
彼がそこに坐っていたのは、もう何年も前のことだけれど。


すべての芸術が音楽にあこがれると言ったのは、だれだったろうか? たしかに、音楽には、他の芸術が持たない、純粋性や透明性といったものがある。しかし、ただひとつ、わたしが音楽について不満なのは、音楽は反省的ではないということだ。じっさい、どんなにすばらしい音楽でも、ぜんぜん反省的ではない。他の芸術には、わたしたちに、わたしたちの内面を見るように仕向ける作用がある。しかし、それにしても、音楽というものは、それがどんなにすぐれたものであっても、ちっとも反省させてくれないものである。


見蕩れるほどに美しい曲線を描く玉葱と、オレンジ色のまばゆい光沢のすばらしいサーモンを買っていく、見事な牛。


あなたがこの世界から削除されていることを知るのは、いったい、どういう気分がしますか?


考える対象ではなく、考え方に問題がある。愛する対象ではなく、愛し方そのものに問題があるのだ。


文字を読むと、そのとき魂のなかで何かが形成されるということ。
文字にもなく、魂のなかにもなかったものが。ん?
ほんとうに?


埃や塵を核として水蒸気が凝集して水滴となるように、つまらないことどもが、つぎつぎと話の中心となって口をついて出てくる。「まるで唾となって吐き出されるって感じですけど。」とは、青年の返答。


薬によって頻繁に精神融合したために、青年は自分が詩人が考えるように考えているのではないかと思う。詩人が言っていた概念形成の話を思い出す。薬の効果について考える。薬の記憶に対する効果について考える。副作用について考える。副作用については、個人差が激しく、いったいどんな副作用があるのか、予測することができなかった。青年は、自分が変わってしまったことに気づく。


詩人が、青年のことを、もうひとりのわたしと呼んでいたことを述懐する。


「生のわれ甕は作り直せるが、燒いたのはだめ。」
(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)


青年は、詩人と出会って、自分が大きく変わったことに思いをはせ、これからは、これからの自分は、変わる可能性が少ないかもしれない、と思った。そう考えることは、青年を不安にしたが、自分が変わる可能性が低いと思うとなぜ不安になるのかは、青年にはよくわからなかった。


愛だけが示すことのできる何か。作用し変形をもたらすことのできるもの、エトセトラ、エトセトラ。


あれは確かに死んでしまった。
(シェイクスピア『あらし』第二幕・第一場、福田恒存訳)


あるものを愛するとき、それが人であっても、物であってもいいのだが、いったい、わたしのなにが、どの部分が、それを愛するというのだろうか?


どんな言葉が、どのようなものをもたらすか、そんなことは、だれにもわからない。


すぐに働く力もあるが、そうでない力もある。そうでない力の中には、ある限界を超えると、とたんに働きはじめるものもある。ロゴスという言葉を「形成力」という意味に解すると、このように時間がたってから、後から働く力について、多分に有益な考察ができるような気がする。


風が埃を巻き上げながら、わたしの足元に吹き寄せる。埃は汗を吸って、わたしの腕や足にべったりとまとわりつく。手でぬぐうと、油じみた黒いしみとなる。まるで黒いインクでなでつけたみたいだ。言葉も埃のように、わたしに吹き寄せてくる。言葉は、わたしの自我を吸って、わたしの精神にぴったりと貼りつく。わたしはそれを指先でこねくり回す。油じみた黒いしみ。


彼は、ぼくのことを、なにかつまらない物でも捨てるかのように捨てた。捨てても惜しくないおもちゃか何かのように。でも、ぼくはおもちゃじゃなかった。それとも、おもちゃだったんだろうか?


詩人がなぜ過去の偉大な、詩人にとって偉大であると思われる詩人や作家に云々しているのかいぶかしむ人がいるが、そんなことは当たり前で、卑小な人間に学べることは卑小な人間について学べることだけだからである。偉大な人間の魂の中には、卑小な人間の魂も存在しているからである。


裏切りによってのみ、彼は彼自身となる。それが彼の本性だったからだ。人間を人間たらしめるもの、その人をその人たらしめるもの、いわゆる、特質とか特性とかいわれるものであるが、そういったものは、いったい何によって明らかにされるのだろうか?


ふと思いつくこと。忘れていたことが突然思い出されること。赤ん坊が六ヶ月を過ぎたころに言葉を口にすること。これらはすべて、概念が結びつくことが意識の原初であり、意識が概念を結びつける以前に、結びついた概念が意識を形成することを示唆している。ヴァレリーが自我というものを、意識のコアとしてではなく、概念のバインダーとして捉えていたが、まさしく、語そのものに結びつこうとする性向があると考えた方が妥当であると思われる。ロゴスという言葉を、言葉という意味ではなく、形成力という意味に使っていたギリシア人たちの直観力には驚かされる。語は、それ自体、意味を持つものではあるが、同時にまた他の語に意味をもたらせるものでもある。双方向的に影響し合っているのである。鷲田清一の『ひとはなぜ服を着るか』に、「本質的に顔は関係のなかにあるのであって、けっしてそれだけで自足している存在ではない」とあるが、「顔」を「語」あるいは、「人間」として読み替えることができる。


ミツバチが持ち帰る蜜。ミツバチが作る蜜蝋でできた蜂の巣。自我と概念。自我と言葉。


どのような記憶も変化してしまうものだが、この記憶だけは、この記憶こそは、あまたある記憶のなかで、唯一絶対に変わらないでいて欲しいと彼が願った、ただひとつの記憶だった。


遠いところにあるものが、ある場所では、たいへん近くにある。ひとつのものが、同時にたくさんの場所に存在しており、たくさんの場所が、同時にただひとつのものを占有している。


現実によって翻弄される人間。撓め歪められた人間存在。フィリップ・K・ディック。さまざまなレヴェルの現実が、彼を苦しめた。だが、彼も現実に一矢を報いたかもしれない。彼が現実を撓め歪めたとも考えられるからである。カフカ。彼もまた、現実に手を加えた人物である。現実を創り出していく者たち。


愛が、それらの事物や事象に、存在することを許している。愛によって、それらの事物や事象は存在している。つまり、愛が、それらの事物や事象に、存在を付与しているのである。


予知とか予感とかいったものは、ただ単に、さまざまな事柄が繋がり合っているのを感じ取るだけである。時間の隔たりや距離のあるなしには、関係などないからである。意識が現在という時間に、いまそこにいるという場所に縛り付けられてはいないからである。潜在意識も同様である。時間的な隔たりも、空間的な距たりも、概念が結びつく際には、無関係なのである。意味概念の隔たりを類似性と取ることもできるが、そうすると、余計に、概念が結びつく際には、隔たりなど関係ないことがわかる。類似していたって、類似していなくったって、結びつくのだから。類似していてもしていなくても結びつくというのは、プラトンの言葉にあったような気がするけど、まあ、ここで、プラトンの言葉をあえてぼくの言葉に結びつけなくってもいいだろう。


光は闇と交わりを持たない。光は光とのみ交わりを持つ。


われわれが言語を解放することは、言語がわれわれを解放することに等しい。


言語が結びつくことが意識となる。幼児の気分が変わりやすいのは、結びつく言語がそのまま思考となることの証左ではないだろうか? 癖になるには、それが癖になるまで繰り返される必要がある。人には思考傾向とでも呼べるものがあるが、それはそう思考するに至るまで何度も頻繁にそう思考したためではないだろうか? 概念の受容頻度とでもいうものが、思考傾向に大きく関与していると思われる。概念の受容頻度。


彼の内部から暗闇が染み出してきた。彼はすっかり夜となって現われた。


愛とは動詞である。


彼は自分がやめたくなったらやめるのだ。たとえどんなに熱心に激しくしていた愛撫でも。


死に意味があるとしたら、それは生に意味があるときだけだ。


死によって、その生に意味が与えられることもある。


目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手に触れることのできるもの、こころに感じられるもの、頭で考えられるもの、そういったものだけで世界ができているとしたら、それはとても貧しいものなのではないか? もしもそうなら、世界はいまあるものとまったく異なるもの、貧しいものとなるに違いない。じっさいは豊かである。思考できる対象しか存在しているわけではないということ、言葉にできないものがあるということ。そういったものがあるということが、わたしたちの思考を豊かにしているのではないだろうか? 思考できるもの、言葉にできるものだけしか、私たちの魂のなかには存在していないとしたら、とても貧しい思考しか存在しないはずである。しかし、わたしたちは知っている。いくらでも豊かな思考が存在していることを。


こんなに醜い、こんなに愚かな行為から、こんなに惨めな気持ちから、わたしは、愛がどんなに尊いものであるか、どれほど得がたいものであるのかを知るのであった。なぜ、わたしは、もっとも遠いものから、もっとも離れたところからしか近づくことができないのだろうか?


Sweet Thing。

  田中宏輔


 いつか、詩人は、わたしに、森 鴎外の『舞姫』のパスティーシュを書きたいと言っていた。


 愛がわたしを知るとき、わたしははじめて、愛が何たるものかを、知ることになるのであろう。言葉の指し示すものが、わたしを知るとき、わたしははじめて、その言葉の指し示すもののほんとうの意味を知ることになるのであろう。あるいは、わたしが愛でいっぱいになるとき、わたしは愛そのものになるともいえるし、愛がわたしでいっぱいになるとき、愛がわたしそのものになるといってもよいであろう。わたしが言葉の指し示すものでいっぱいになれば、その言葉の指し示すものそのものになったり、その言葉の指し示すものがわたしでいっぱいになれば、わたしそのものになったりするように。


ひとつの場がひとつの時間に
(R・A・ラファティ『草の日々、藁の日々』2、浅倉久志訳)


われわれにとって自分の感じていることのみが存在しているので
(プルースト『一九一五年末ごろのプルーストによる小説続篇の解明』、鈴木道彦訳)


匂い同士は知りあいではない。
(ヴァレリー『残肴集(アナレクタ)』一〇〇、寺田 透訳)


認識は存在そのものとはなんの関係もないのだ。
(ロレンス『エドガー・アラン・ポオ』羽矢謙一訳)


わたしは、わたしの新しい顔を見た。
(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三七年五月二十六日、関 義訳)


私は私自身を集めねばならんのだ
(フィリップ・K・ディック『シミュラクラ』14、汀 一弘訳)


自分を取り戻す。
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』4、岡部宏之訳)


自分で自分の巣を作らねばならぬ。
(エマソン『運命』酒本雅之訳)


変身は偽りではない……
(リルケ『月日が逝くと……』高安国世訳)


 ある感覚が ── 略 ── 刺激を受けたのとは異なる感覚器官の感覚に即座に翻訳される場合、それを共感覚というんです。たとえば──音の刺激が同時にはっきりした色感を引き起こすとか、色が味覚を引き起こすとか、光が聴覚を引き起こすといった具合です。味覚、嗅覚、痛覚、圧覚、温覚、その他もろもろの感覚で混乱や短絡があり得るんです。
(アルフレッド・ベスター『ごきげん目盛り』中村 融訳)


複合感覚は人間には非常によく見られるものなんだそうです──一般に考えられているよりも、ずっと多いんですって。たとえば、音を匂いとして感じる人とか、色で味を感じる人とか
(ドナルド・モフィット『第二創世記』第二部・7、小野田和子訳)


 共感覚とか、複合感覚とかと呼ばれるものがある。言葉は、つねにそういった感覚を誘発させてきたのではないだろうか? 詩人のつくったすべての引用のコラージュがそうだとはいえないのだが、詩人のすぐれた引用のコラージュを読んでいると、ふと、そんなことを感じたのであるが、詩人自身も、自分のコラージュのなかには、すぐれたものもあって、そのすぐれたものの特徴に、共感覚、あるいは、複合感覚からもたらされた諸感覚器官の混交を誘発するところがあると言っていた。事物・時間・空間・状況、状態、そういったものが、つぎつぎと結びつき、変質し、混交していくのである。詩は、詩の言葉は、その結びつきと変質、あるいは混交という二つの運動を開始する、一種のスイッチのようなものであるのかもしれない、と。

 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。
 
 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。ピチピチと音を立てて弾け飛んでいた。まるでストロボライトのきらめきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。
 湖面で蒸発する光の中に。


 これは、詩人の詩「反射光」の一部、終わりの方の部分であるが、共感覚、あるいは、複合感覚と呼ばれるものの一例である。しかし、詩人が所有していた自身の詩集のこの詩が書かれてあるページには、ルーズリーフの一枚を半分にして切ったものにメモ書きして、つぎに書き写した文章が挟んであった。


 あの湖面の輝きは、たしかに音を発していた。こころで、はじめピチピチ、プチプチとつぶやいていたら、じっさいにあとになって、まるで湖面の上で光が蒸発しているように見えて、その音がピチピチ、プチプチと聞こえてきたのだが、詩にするとき、へんな常識を働かせて、光だから、チカチカでないとおかしいと思い、詩集では、そう書いたのであるが、正直に、ここに書いたように、ピチピチ、プチプチと書けばよかったと思っている。まあ、しかし、チカチカというきらめきも、じっさい目にしたのだから、正しくなくもないのだけれど、それは、光が蒸発していく音よりも、光自体のきらめきに重点を置いたということになるので、推敲の結果ともいえるのだが、それにしても悔やまれる。なぜ、常識を働かせてしまったのだろう、と。将来、発表し直すことがあれば、ぜひ第一番目に書き直しておきたいところである。


「反射光」は、じっさいに、四回、詩人の詩集に収録されたのであるが、どれもが完全なものではなかったようだ。たとえば、第一詩集である『Pastiche』(花神社・一九九三年)では、


 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。
 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。チカチカと弾け飛んでいた。まるでストロボライトの煌めきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。
 湖面で蒸発する光の中に。


『みんな、きみのことが好きだった。』(開扇堂・二〇〇一年)では、


 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。
 
 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。チカチカと弾け飛んでいた。まるでストロボライトの煌めきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。
 
 湖面で蒸発する光の中に。


『ゲイ・ポエムズ』(思潮社オンデマンド・二〇一四年)では、


 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。

 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。チカチカと音を立てて弾け飛んでいた。まるでスポットライトのきらめきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。
 湖面で蒸発する光の中に。


『みんな、きみのことが好きだった。』(書肆ブン・二〇一六年)では、


 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。

 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。ピチピチと音を立てて弾け飛んでいた。まるでスポットライトのきらめきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。

湖面で蒸発する光の中に


となっている。再度、書き込むが、ここは、詩人のメモにあるように、詩人は、つぎのように書き直したいと思っていたのだろう。


 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。

 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。ピチピチと音を立てて弾け飛んでいた。まるでストロボライトのきらめきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。
 湖面で蒸発する光の中に。


 ところで、詩人には、ほかにもやり遺したことがいっぱいあったようだ。まだまだ発掘していくことになるメモや遺稿の山々から、いったいどのような鉱石が採掘されるのか、たいへん楽しみである。これからも、言葉の切子面のように、詩人の『マールボロ。』という作品をいろいろな角度から眺めて、その魅力について語っていくつもりである。


 しかして、そうして、けっきょく、詩人の願いは果たされなかったのだった。最終決定版の「反射光」が収録されるはずの五冊目の詩集が出なかったのである。さいごに、その最終決定版の「反射光」をつぎに書き留めておこう。




反射光


 幾つものブイが並び浮かんだ沖合、幾つものカラフルなパラソルが立ち並んだ岸辺。その中間に、畳二枚ほどの広さの休憩台がある。金属パイプの支柱に、木でできた幾枚もの細長い板を張って造られた空間。その空間の端に、ぼくは腰かけていた。岸辺の方に目をやりながら、ぼくは、ぼくの足をぶらぶらと遊ばせていた。
 まるで光の帯のように見える、うっすらと引きのばされた白い雲。でも、そんな雲さえ、八月になったばかりの空は、すばやく隅に追いやろうとしていた。
 
きみは、ぼくの傍らで、浮き輪を枕にして、うつ伏せに寝そべっていた。陽に灼けたきみの背。穂膨(ほばら)んだ小麦のように陽に灼けたきみの肌。痛くなるぐらいに強烈な日差し。オイルに塗れ光ったきみの肌。汗の玉が繋がり合い、光の滴となって流れ落ちていった。眩しかった。目をつむっても、その輝きは増すばかり。ぼくの目を離さなかった。短く刈り上げたきみの髪。きみのうなじ。一段と陽に灼き焦げたきみのうなじ。オイルに塗れ光ったきみのうなじ。光の滴。陽に照り輝いて。きみの身体。きみの肩。きみの背。きみの腰。光の滴。みんな、陽に照り輝いて。トランクス。きみの腕。きみの脚。きみの太腿。きみの脹ら脛。光の滴。みんな、みんな、陽に照り輝いて。
 ただ、手のひらと、足裏だけが白かった。
 
おもむろに腰をひねって、ぼくはきみの背中にキッスした。すると、きみは跳ね起きて、ぼくの身体を休憩台の上から突き落とした。なまぬるい水。ぼくは湖面に滑り落ちた。すりむいた腕、きみに向けて、わざと怒った顔をして見せた。きみは口をあけて笑った。その分厚い唇から、白い歯列をこぼしながら、笑っていた。
 きみの衣装は裸だった。

 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。

 ぼくは、きみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは眩しげに目を瞬かせた。振り向くと、湖面に無数の銀色の光が弾け飛んでいた。ピチピチと音を立てて弾け飛んでいた。まるでストロボライトのきらめきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみの身体を抱いて、湖面に飛び込んだ。
 湖面で蒸発する光のなかに。




 そういえば、詩人は、詩集『ゲイ・ポエムズ』に収録していた、中国人青年が出てくる「陽の埋葬」の一作に脱字が一か所あったことも悔いていた。いつか、新しく出す詩集に完全版を収録したいと書いていた。しかし、その願いも果たされなかったのだった。つぎに、その「陽の埋葬」の完全版を書き留めて、本稿を書き終えることにしよう。この論考で、詩人の果されなかった二つの願いが果たされたことになる。二つの詩の完全版を収録したことは、筆者には、ひじょうに意味のあることであると思われる。




陽の埋葬


 高校の嘱託講師から予備校の非常勤講師になってしばらくすると、下鴨から北山に引っ越した。家賃が五万七千円から二万六千円になった。ユニット・バスの代わりに、トイレと風呂が共同になった。コの字型の二階建ての木造建築で、築二十年のオンボロ・アパートである。北山大橋の袂で、しかも、ぼくの部屋は入り口に一番近い部屋だったので、数十秒で賀茂川の河川敷に行くことができた。だから、北山の河川敷を歩いてそのまま下って、発展場の葵公園まで行くことが多かった。その夜は、しかし、仕事から帰って、ふと居眠りしてしまって、気がつくと、夜中の二時になっていた。そんな時間だったのだが、つぎの日が土曜日で、仕事が休みだったので、タクシーに乗って河原町まで行くことにした。千円をすこし超えるくらいの距離だった。四条通りの一つ手前の大通りの新京極通りでタクシーを降りると、交差点を渡って一筋目を下がって西に向かって歩く。数十メートルほど歩けば、八千代館という、昼の十二時から朝の五時までやっている、オールナイトのポルノ映画館がある。食われノンケと呼ばれる若い子たちが、気持ちのいいことをしてもらいにきている発展場だった。ぼくのように二十代で、そういう食われノンケの子を引っかけにきている者は、ほかにはほとんどいなかった。狩猟にたとえると、いわば狩りをするほうの側の人間は、四十代の後半から六十代くらいまでの年配のゲイが多く、なかには、女装した中年の者もいたが、たいていは、サラリーマン風のゲイが多かった。狩られるほうの側は、学生風や、肉体労働者風など、さまざまな風体の者たちがいた。生真面目そうな学生や、髪の毛を染めて、鉢巻をした作業着姿の若い子もいた。
 入口から入ってすぐのところにある扉を開いてなかに入った。映画館に入っても、外の暗さと変わらないので、昼に入ったときとは違って、目が慣れるのに時間がかかるということはなかった。一階の座席の後ろに、よく見かけるブルーの大きなポリバケツのゴミ箱と、ガムテープを貼って傷んだ箇所をつくろってある白いビニール張りのソファーが一つ置いてあるのだが、そのソファーの上に、横になって寝ている振りをしている男がいた。もしかすると、ほんとうに眠っていたのかもしれないが。三十代半ばくらいのサラリーマンだろうか、スーツ姿であった。その男のスラックスの股間部分は、まるで陰茎が硬く勃起しているかのように思わせる盛り上がり方をしていた。男の膝から下は、ソファーの端からはみ出していて、脚が膝のところで、くの字型に折れ曲がっていた。顔を覗き込んだが、ぼくのタイプではなかった。カマキリを太らせたような顔だった。緑色の顔をしていた。ぼくは、ポリバケツのゴミ箱とソファーに対して正三角形を形成するような位置に立って、最後部の座席の後ろから一階席すべてを眺め渡した。この空間自体を、「ハコ」と呼び、「ハコ」のなかで、性的な交渉をすることを「ハコ遊び」と称する連中もいる。「発展場」を英語で、cruising spotsというが、hot spots ともいう。hot には、「暑い」という意味と、「熱い」という意味があるが、どちらも、それほど適切ではないように思われる。むしろ、濡れたところ、べちゃべちゃとしたところ、ぬるぬるとしたところということで、wet spots とか、あるいは、ぺちゃぺちゃとか、ちゅぱちゅぱとかいった音を立てるところとして、damp spots とかと呼ぶほうがいいだろう。しかし、damperには、たしかに、「濡らす人」という意味があって、そこのところはぴったりなのだけれど、「元気を落とさせる人」とか、「希望・熱意・興味などを幻滅させる人」とかいった意味もあるので、発展場に食われにきている男の子や男に対して、陰茎を萎えさせるという意味にもなるから、スラングとしては、あまり適していないかもしれない。オーラル・セックス、いわゆるフェラチオ、もしくは、尺八と呼ばれる口と舌を駆使する性技があるが、ときには、喉の奥にまで勃起した陰茎を呑み込んで、意思では自在にならない間歇的な喉の筋肉の麻痺的な締め付けでヴァギナ的な感触を味合わせる「ディープ・スロート」という、有名なポルノ映画のタイトルにもなった性技もあるが、虫歯のために歯の端っこが欠けてとがっていたり、ただ単にへたくそで、勃起した陰茎に、しかも、それが仮性包茎であったりして亀頭が敏感なものなのに、それに歯の先をあてたりする連中がいて、たしかに、勃起した陰茎を萎えさせる者もいるのだが、ぼくは、自分のものが仮性包茎で、勃起してもようやく亀頭の先の三分の一くらいが露出するようなチンポコで、とても敏感に感じるほうなので、相手のチンポコを口にくわえるときには、とても気をつけている。
 タイプはいなかった。女装が二人いた。三つのブロックに別れた座席群のうち、スクリーンに向かって左側のブロックの最後部の左端の座席に一人と、真ん中のブロックの前のほうに一人。左側の左端にいた、まるでプロレスラーのような巨体の女装は、六十代くらいの小柄な老人と小声で話をしていた。もう性行為は終わったのだろうか。金額はわからないが、その巨体の女装は、お金をもらって、フェラチオをするらしい。直接、本人から聞いた話である。真ん中のブロックの前のほうにいた女装もまた、自分の隣の席に男を坐らせていた。先に坐っていた男の隣の席に、あとから坐りに行ったのか、それとも、後ろに立っていたその男に声をかけて、いっしょに坐ったのだろう。もしかすると、顔なじみの客なのかもしれない。しかし、スクリーンのほうに顔を向けているその客の顔はわからなかった。彼女はとても小柄で、まだ若くて、きれいだった。ノンケの男からすれば、女の子と見まがうくらいであろう。彼女は、わざわざ大阪から、お金を稼ぎにきているという。例の左側のブロックに坐っていたプロレスラーのような巨体の女装から聞いた話である。小柄なほうの女装の彼女は、隣に坐っている若そうな男のその耳元で話をしていたが、やがて、その男の股間に顔を埋めた。ぼくのいた場所からは、彼女が背を丸めて、彼女の座席の背もたれに姿が見えなくなったことから、そう想像しただけなのだが、そうであるに違いなかった。その若そうな男は、後ろから見ただけなので、正面側の顔はわからなかったが、彼がぼく好みの短髪で、若そうで、いかにもがっしりとした体つきをしていたことは、スクリーンの明かりからなぞることができる彼の頭の形や、垣間見える横顔の一部や、首とか肩とか上腕部とかいったものの輪郭や質感などから想像できた。ほかに五人の観客がいたが、どれも中年か老人で、ぼくがいけるような男の子はいなかった。二階にも座席があったので、二階にも行ったが、若い子は一人しかいなかった。ひょろっとした体型の、カマキリのような顔をした男の子だった。顔も緑色だった。ほかにいた五、六人の男たちも、またみんな年老いたカマキリのような顔をしていたので、ぼくは、げんなりとした気分になって、もう一度一階に下りて、真ん中のブロックの真ん中のほうに坐った。そこからだと、かすかだが、先ほどから前でやっていた女装と若そうな男とのやりとりを見ることができたからだ。ときおり、スクリーンが明るくなって、若そうな男が、頭を肯かせているのがわかった。女装の彼女の声は、映画の音に比べるとずいぶんと小さなものなのに、耳を澄ますと、はっきりと聞こえてきた。人間の生の声は、機械から聞こえてくる人間の録音した声と混じっていても、けっして混じることなどないのかもしれない。どんなにかすかな音量の声であっても、ぼくには、それが人間の生の声なのか、録音された声なのか、はっきりと聞き分けることができた。むしろ、かすかであればあるほど、よく聞き分けることができるように思われる。山羊座の耳は地獄耳だと、占星術か何かの本で読んだことがある。「気持ちいい?」と、女装の彼女は尋ねていたのだ。男は訊かれるたびに肯いていた。これ自体、プレイの一部なのだと思う。ぼくもまた、彼女と同じように、くわえたチンポコを口のなかに入れたまま、相手の股間に埋めた自分の顔を上げて、快感に酔いしれたその男の子の恍惚とした表情を見上げながら、おもむろにチンポコから口を放して、「気持ちいい?」と訊くことがあるからだ。ほとんどの男の子は「いい……」と返事をしてくれる。肯くことしかしてくれない者もいるが、たいていの子は返事をしてくれて、それまで声を出さなかった者でも、あえぎ声を出しはじめるのだった。その声は、もちろん、ぼくをもあえがせるものだった。その男の子があえぎ声を出すたびに、ぼくにも、その男の子が亀頭で味わう快感が、その男の子が彼の敏感な亀頭の先で味わう快感の波が打ち寄せるのだった。
 短髪の彼が、突然硬直したように背もたれに身体をあずけた。いくところなのだろう。男は、小刻みに身体を震わせた。しばらくすると、女装の彼女が顔を上げた。すると、音を立てて、乱暴に扉を押し開ける音がした。ぼくは振り返った。
 沈黙が、いつでも跳びかかる機会を狙って、会話のなかに身を潜めているように、記憶の断片もまた、突然、目のなかに飛び込んでいく機会を待っていたのだ。その記憶の断片とは、ぼくの記憶のなかにあった、京大生のエイジくんのものだった。扉を勢いよく押し開けて入ってきたのは、エイジくんの記憶を想起させるほどにたくましい体格の、髪を金髪に染めた短髪の青年だった。二十歳くらいだろうか。ぼくは立ち上がって、最後部の座席のすぐ後ろに立った。その青年のすぐ前に。その青年の視線は、入ってきたときからまっすぐにただスクリーンにだけ向けられていたのだが、ふと思いついたかのように、くるっと横を振り向いてトイレに行くと、ちょうど小便をしたくらいの時間が経ったころに出てきた。すぐに追いかけなくてよかったと思った。出てきた青年は、最初から坐る場所を決めていたかのように、すっと、真ん中のブロックにある中央の座席に坐った。端から三番目で、それは、食われノンケの子がよく坐る位置にあった。端から一つあけて坐る者は、ほぼ確実に食われノンケであったが、端から二つあけて坐る食われノンケの子も多い。その青年は、紺色のスウェットに身を包んで坐っていた。そういえば、エイジくんも、以前にぼくが住んでいた下鴨の部屋に、スウェット姿でよく訪ねてきてくれた。エイジくんのスウェットはよく目立つ紫色のもので、それがまたとてもよく似合っていたのだけれど。一つあけて、ぼくは、青年の横に坐った。青年は、まっすぐスクリーンに顔を向けて、ぼくがそばに坐ったことに気がつかない振りをしていた。傷ついた自我の一部がひとりでに治ることもあるだろう。傷ついた自分の感情の一部が知らないうちに癒されることもあるだろう。しかし、その青年の横顔を見ていると、傷ついた自我の一部や、傷ついた自分の感情の一部が、すみやかに癒されていくのを感じた。そして、胸のなかで自分の心臓が踊り出したかのように激しく鼓動していくのがわかった。ぼくは、自分が坐っていた座席の座部が音を立てないように手で押さえながら、腰を浮かせて、彼の隣の席にゆっくりと移動していった。彼はそれでもまだスクリーンに見入っている振りをしていた。見ると、彼の股間は、その形がわかるくらいに膨らんでいた。ぼくは、自分の左手を、彼の股間に、とてもゆっくりと、そうっと伸ばしていった。中指と人差し指の先が彼の股間に達した。そこは、すでに完全に勃起していた。やわらかい布地を通して、触れているのか触れていないのかわからない程度に、わざとかすかに触れながら、まるで、ふつうに触れると壊れてしまうのではないかというふうに、やさしくなでていくと、勃起したチンポコはさらに硬く硬くなって、ギンギンに勃起していった。青年の顔を見ると、ちょっと困ったような顔をして、ぼくの目を見つめ返してきた。ぼくは、彼のチンポコをパンツのなかから出して、自分の口に含んだ。硬くて太いチンポコだった。巨根と言ってもいいだろう。ぼくは、その巨大なチンポコの先をくわえながら、舌を動かして、鈴口とその周辺をなめまわした。すると、その青年が、「ホテルに行こう。おれがホテル代を出すから。」と言った。そんなふうに、若い子のほうからホテルに行こうなどと誘われるのは、ぼくにははじめてのことだった。しかも、若い子のほうが、ホテル代を出すというのだ。びっくりした。その子は自分のチンポコをしまうと、ぼくの手を引っ張って、座席をさっと立った。彼は手をすぐに離したけれど、ぼくにも立つように目でうながして、扉のほうに向かった。ぼくは、その後ろに着いて行く格好で、彼の後を追った。
 彼は、自分の車を映画館のすぐそばに止めていた。車のことには詳しくないので、ぼくにはその車の名前はわからなかったけれど、それが外車であることくらいはわかった。車は、東山三条を東に進んで左折し、平安神宮のほうに向かってすぐにまた左折した。彼は、「デミアン」という名前のラブホテルの地下の駐車場に車を止めた。車のなかで、彼は自分が中国人であることや、いま二十四才であるとか、中学を出てすぐ水商売の道に入って、いまは風俗店の店長をして、金があるから、ホテル代の心配はしなくていいとか、長いあいだ付き合っている女もいて、その彼女とは同棲もしているのだけれど、その彼女以外にも、女がいるとかといった話をした。月に一度くらい男とやりたくなるらしい。初体験は、十六歳のときだという。白バイにスピード違反で捕まったときに、その白バイに乗っていた警官に、「チンコをいじられた」という。チンポコではなくて、チンコという言い方がかわいいと思った。しかし、顔を見ると、あまりいい思い出ではなさそうだったので、ぼくのほうからは何も訊くようなことはしなかった。初体験については、彼のほうも、それ以上のことは語らなかった。いまにして思えば、彼がしたような体験は、自分がしたことのなかったものなので、もっと具体的に聞いておけばよかったなと思われる。
「このあいだ、大阪の梅田にあるSMクラブに行ったんやけど、おれって、女に対してはSなんやけど、男に対してはMになるんや。そやから、女のときは、おれが責めるほうで、男のときは、おれのほうが責められたいねん。」二人でシャワーを浴びながら、キスをした。キスをしながら、ぼくは、彼の身体を抱きしめて、右手の指先を彼の尻の穴のほうにすべらせた。中指と人差し指の内側の爪のないほうで、穴のまわりを触って、ゆっくりと二本の指を挿入していった。
「おれ、後ろは、半年ぐらいしてへんねん。」すこし顔をしかめて、ぼくの目を見つめる彼。ぼくは、指を抜いて、彼の目を見つめ返した。「痛い?」シャワーの湯しぶきが、風呂場の電灯できらきらと輝いていた。「ちょっと。」と言って、彼は笑った。「痛くないようにするよ。」と言って、彼を安心させるために、ぼくも自分の顔に笑みを浮べた。
 ベッドに仰向けに横たわった彼の両足首を持ち上げて、脚を開かせ、尻の穴がはっきりと見えるように、尻の下に枕を入れて、ぼくは彼の尻の穴をなめまわした。穴を刺激するために、舌の先を穴のなかに入れたり、穴の周辺のあたりを、その粘膜と皮膚の合いの子のようなやわらかい部分を、唇にはさんだり吸ったりして、彼がアナルセックスをしたくなるように、そういう気分になるように刺激しようとして、わざと、ぺちゃぺちゃとか、ちゅっちゅっとか、派手に音を立てながら愛撫した。そうして、じゅうぶんにやわらかくなった尻の穴にクリームを塗ると、勃起したぼくのチンポコをあてがった。痛くないように、かなりゆっくりと入れていった。彼は最初に大きく息を吸って、ぼくのチンポコが彼の尻の穴のなかに入っていくあいだ、その息をじっととめていたようだった。ぼくが彼の足首から手を離して、彼の脇に手をやって腰を動かしはじめると、彼は溜めていた息を一気に吐き出した。それが彼の最初のあえぎ声を導き出した。途中で、バックからもやりたくなった。いったん、チンポコを抜いて、彼を犬のように四つんばいの姿勢にさせて、もう一度入れ直した。チンポコは、つるっとすべるようにして、スムーズに入った。彼は、ぼくの腰の動きに合わせて、頭を振りながら大きな声であえいだ。がっしりとした体格で、盛り上がった尻たぶに、ぼくの腰があたって、濡れた肌と肌がぶつかる、ぴたぴたという音が淫らに聞こえた。「なかに出してもいい?」と、ぼくが訊くと、彼はうんうんと肯いた。ぼくは、彼の引き締まった尻の穴のなかに射精した。
 彼は、北山にあるぼくのアパートの前まで車で送ってくれた。オンボロ・アパートに住んでいることが知られて恥ずかしいという思いが、彼に、また会ってくれるか、と言うことをためらわせた。本来は女が好きで、月に一度くらい男とやりたくなるという彼の言葉もまた、ぼくの気持ちをためらわせた。なにしろ、月に一度だけなのだ。
 人間は自分のことを知ってもらいたい生き物なのだと思った。初対面の相手に、自分が中国人で、自分が小学生のときに家族といっしょに日本に来て、兄弟姉妹が六人もいて、自分は長男で、中学校を出たら働かなくてはいけなくて、それで、学歴がなくても働ける水商売の道に入って、いまは風俗店の店長をしているということや、自分は女が好きで、いっしょに暮している女がいても、ほかにも女をつくって浮気をしているということや、それでも、月に一度くらいは男と寝たくなって、ああいったポルノ映画館に行って、男にやられるなんてことを、はじめて出会った人間に話したりなどするのだから。自分がいったいどういった人間で、自分がほかの人間とどう違っているのかを、はじめて出会ったぼくに話したりなどするのだから。
 車から降りて、別れのあいさつをした。アパートの前で、道路を振り返った。彼はすぐには車を出さずに、ぼくが自分の部屋に戻るまで車をとめていた。できた相手に、車で送ってもらうことは何度もあったけれど、彼のように、ぼくが部屋に入るまで見送ってくれるような子は一人もいなかった。また会えるかなと、口にすればよかったなと思った。
 一ヵ月後に、千本中立売にあるポルノ映画館の千本日活に行った。昼間だったので、入ってすぐにはわからなかったけれど、しばらく後ろに立って目が慣れていくのを待っていると、体格のいい、ぼくのタイプっぽい青年が一人いた。知っているゲイのおじさんが、ぼくの横に来て、「あの子、チンポ、くわえてくれるわよ。ホモよ。」と言った。チンポコとは違って、また、チンコとも違って、チンポという言い方は、なんだかすこし、下品な感じがすると思った。彼の体格は、おじさんの好みではなかったので、彼がぼくの好みであることを知っていて、その彼のことを教えてくれたつもりだったのだ。おじさんは、ジャニーズ系のちゃらちゃらとした、顔のきれいな、すっとした体型の男の子がタイプだった。ぼくとは、好みのタイプがまったく違っていた。だから、ごく気軽に、ぼくのほうに話しかけてきたのだろうけれど。ぼくは、彼が二つあけて坐っている座席のほうに近づいた。彼は紺色のニットの帽子をかぶっていた。横から顔をのぞくと、このあいだ八千代館で出会った髪を金髪に染めた短髪の青年だった。「また会ったね。」と、ぼくが話しかけると、彼はにっこりと笑って肯いた。ぼくは彼の股間をまさぐった。その大きさと硬さを、ぼくの手が覚えていた。ぼくは腰をかがめて彼のチンポコをしゃぶった。彼はなかなかいかなかった。いくら時間をかけてもいきそうになかった。「いかへんかもしれへん。ごめんな。おれ、いまストレスで、頭にハゲができてんねん。」そう言って、ニットの帽子を脱いだ。髪は、相変わらずきれいに刈りそろえられた金髪だったけれど、そこには、たしかに、十円硬貨よりすこし大きめの大きさの円形のハゲができていた。「おれが勤めてた風俗店がつぶれてしもうてん。それでいま仕事してなくて、ストレスになってんねん。」彼が着ている服は、別に安物ではなさそうだったけれど、言葉というものは不思議なもので、そんな言葉を聞くと、彼が着ていた服が、急に安物に見えはじめたのだ。坐っているのが彼だとわかったときには、ぼくは腰を落ち着けて、彼といろいろしゃべろうかなと思ったのだけれど、彼の話を聞いて、仕事をしていないという状況にある彼に、万一、たかられでもしたら嫌だなと思って、彼の太ももの上に置いていた手で、彼の膝頭を、二度ほど軽くたたくと、立ち上がって、彼のそばから離れたのだった。彼は不思議そうな顔をして、ぼくの顔を見ていたが、ぼくの表情のなかにある、そういったぼくの気持ちを知ったのだろう。一瞬困惑したような表情になっていたけれど、すぐに残念そうな顔になり、その顔はまたすぐに険しい目つきのものに変化した。一瞬のことだった。その一瞬に、すべてが変わってしまった。ぼくは、その変化した彼の顔を見て、しまったなと思った。彼は、ぼくにたかるつもりなんて、ぜんぜんなかったのだ。その一瞬の表情の変化が真実を物語っていた。彼がそんな男ではなかったことに気がついて、ぼくは後悔した。でも、もう遅かった。彼はすっくと立ち上がると、ぼくが座席から離れた方向とは逆の方向から座席を離れて、映画館のなかからさっさと出て行った。
 ぼくは彼の後を追うこともできなくて、入り口と反対側の、廊下の奥にあるトイレに小便をしに向かった。


Your Song。

  田中宏輔



当然のことながら、言葉は、場所を換えるだけで、異なる意味を持つ。筆者の詩句を引用する。


ひとりがぼくを孤独にするのか、
ひとりが孤独をぼくにするのか、
孤独がぼくをひとりにするのか、
孤独がひとりをぼくにするのか、
ぼくがひとりを孤独にするのか、
ぼくが孤独をひとりにするのか、

3かける2かける1で、6通りのフレーズができる。
(『千切レタ耳ヲ拾エ。』)

 これは、ただ言葉の置かれる場所を取り換えただけの単純な試みなのだが、このような単純な操作で、これまで知らなかったことを知ることができた。「ひとりがぼくを孤独にする」のも、「ぼくがひとりを孤独にする」のも、ありきたりの表現であり、目につくところは何もない。しかし、「孤独がぼくをひとりにする」とか、「孤独がひとりをぼくにする」とかいった表現には、これまで筆者が知っていたものとは異なるところがあるような気がしたのである。この詩句を書いた時点でも、それは、はっきりとは説明できないものだったのだが、少なくとも、これは、「孤独」という言葉に対する印象として、筆者にとっては目新しい感覚であることだけはわかっていた。ときとして、言葉といったものが、わたしたちについて、わたしたち自身が知らなかったことを知っていたりもするのだが、これは、言葉にとっても、同じことなのかもしれない。言葉が知らなかったことを、わたしたちが教えるということがあるのだから。それとも、これは、同じことを言っているのだろうか。わからない。わかることといえば、このような単純な操作で手に入れた、この「はっきりとは説明できないもの」が、筆者に、新しい感覚を一つもたらしてくれたということだけだ。「ぼくが語りそしてぼくが知らぬそのことがぼくを解放する。」(ジャック・デュパン『蘚苔類』3、多田智満子訳)といった言葉があるが、まさに、このことを指して言っている言葉のような気がする。ただし、その新しい感覚というものは、その詩句を書いた時点では、筆者にはまだ明らかなものではなく、ただ漠としたものに過ぎなかったのだけれど。しかし、いずれ、そのうちに、言葉と、「わたしたちのそれぞれの世界がわたしたちを解放し」(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』2、澤崎順之助訳)、言葉には、その言葉自身が知らなかった意味を筆者が教え、筆者には、筆者が知らなかった筆者自身のことを、その言葉が教えてくれることになるだろうとは思っていたのである。そして、じっさいに、以前には言い表わせなかった、あの「孤独」という言葉がもたらしてくれた、新しい感覚を、新しい意味を、ようやく、ある程度だが、言葉にして言い表わすことができるようになったのである。「Sat In Your Lap°II」のなかで、展開している言葉のなかに。そして、これはまた、いま、筆者自身が考えているところの詩学らしきものの根幹をなすものとさえなっていると思われるものなのである。

 
先生の『額のエスキース』という詩の中に、「女性の中に眠っている/孤独な少年はめざめるのだ」といった詩句がありますが、先生が、ひとやものをじっと見つめられるときには、先生の中にいる少年が目を覚ますのでしょう。そして、その少年が、先生の目を通して、ひとやものをじっと見つめるのだと思います。
やがて、その少年の身体は、少年自身の目に映った、さまざまなものに生まれ変わっていきます。


と、「現代詩手帖」の二〇〇三年・二月号(「大岡信」特集号)に、筆者は、書いたのだが、もちろん、この「少年」は、魂の比喩であり、「孤独」という言葉は、「Sat In Your Lap°II」で考察した意味を持っている。「孤独な魂が、わたしの魂をだれかの魂と取り換える」といった言葉を、「國文學」の二〇〇二年・六月号に掲載された原稿に、筆者は書きつけた。「なるほどこの結論をひき出したのは、わたしだ。だが、いまはこの結論がわたしをひいていくのだ。」(『ツァラトゥストラ』第二部、手〓富雄訳)といったニーチェの言葉があるが、よく実感できる言葉である。「自分では気づいていなかったことも書くとか、自分ではないものになるとか」(ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』追記と余談、山田九朗訳)、「発見してはじめて、自分がなにを探していたのか、わかる」(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』丘沢静也訳)といったことが、ほんとうにあるのである。
   とはいっても、「孤独がひとりをぼくにする」という言葉の意味は、まだ完全に了解されてはいない。似た意味は手に入れた気がするのだが、似てはいても、同じではない。似ているものは同じものではなく、同じものではないかぎり違いがあり、また、その違いが、わたしに考える機会を与え、わたしをまとめあげ、さらに、わたしを、わたし自身にしていくのであろう。言葉は、意味を与えられたとたんに、その意味を逸脱しようとする。そして、それこそが、言葉といったものに生命があるということの証左となるものである。
 
「一つ一つの語はその形態ないし、諧調のなかに語の起源の持つ魅力や語の過去の偉大さをとどめており、われわれの想像力と感受性に対して少なくとも厳格な意味作用の力と同じくらい強大な喚起の力を及ぼすものであ」(プルースト『晦渋性を駁す』鈴木道彦訳)り、また、「言葉は(‥‥‥)個人個人の記憶なり閲歴なりをあからさまに、人それぞれのイメージを呼び起こすものである。」(ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』山田九朗訳)。しかし、「芸術家は、自分がみずから親しく知らない人間や事物の記憶を呼び起す」(ユイスマンス『さかしま』第十四章、澁澤龍彦訳)ことができるのである。しかし、じっさいに、そうできるために、芸術家は、つねにこころがけなければならないのである。「et parvis sua vis./小さきものにもそれ自身の力あり。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)、「地に落ちる一枚のハンカチーフも、詩人には、全宇宙を持ち上げる梃子となりえるのである。」(アポリネール『新精神と詩人たち』窪田般彌訳)。「偉大な事物をつくりたいとのぞむひとは、深く細部を考えるべきである。」(ヴァレリー『邪念その他』S、清水徹訳)、「聡明さとはすべてを使用することだ。」(同前)。「あらゆるものごとのなかにひそむ美を愛でたポオ」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品』3、平井啓之訳)、「すべての対象が美の契機を孕んでいる」(保苅瑞穂『プルースト・印象と比喩』第一部・第二章)。「普遍的想像力とは、あらゆる手段の理解とそれを獲得したいという欲望とを含んでいる」(ボードレール『ウージューヌ・ドラクロワの作品と生涯』3、高階秀爾訳)。「すべてをマスターしたい。だってすべての技術を自分のものにしてなかったら、自分のために作る作品が自分自身の技能によって制限を受けることになるじゃないか」(ブライアン・ステイブルフォード『地を継ぐ者』第一部・2、嶋田洋一訳)。たしかにそうである。ときには失敗するとしても、「われわれはつねに、まったく好便にも、失敗作をもっとも美しいものに近づく一段階として考えることができる」(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)のだから。
  
「verte omnes tete in facies./あらゆる姿に汝を變へよ。あらゆる方法を試みよ。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)より、ウェルギリウスの言葉)。「私はこれまで かつては一度は少年であり 少女であった、/薮であり 鳥であり 海に浮び出る物言わぬ魚であった‥‥‥」(エンペドクレス『自然について』一一七、藤沢令夫訳)。「自分が過去に多くのものであり、多くの場所にいたために、いま一つのものになることが出来るし──また、一つのものに到達することも出来るのだ」(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも良い本を書くのか・反時代的考察・3、西尾幹二訳)。「「我あり」は「多あり」の結果である。」(ヴァレリー『邪念その他』J、佐々木明訳)、「自分以外の何かへの変身」(ラーゲルクヴィスト『巫女』山下泰文訳)、「変身は偽りではない」(リルケ『明日が逝くと……』高安国世訳)。「私の魂は木となり、/動物となり、雲のもつれとなる。」(ヘッセ『折り折り』高橋健二訳)のである。


The Great Gig In The Sky。 

  田中宏輔



vanitas vanitatum.
空虚の空虚。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

そこにあるものは空虚。
(ロジャー・ゼラズニイ『いまこそ力は来たりて』浅倉久志訳)

詩人はひとつの空虚。
(ギョールゴス・セフェリス『アシネーの王』高松雄一訳)

子供の心に似た空虚な世界。
(コードウェイナー・スミス『酔いどれ船』宇野利泰訳) 

詩は優雅で空虚な欺瞞だった。
(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』4、友枝康子訳)

詩だって?
(ロジャー・ゼラズニイ『心はつめたい墓場』浅倉久志訳) 

詩人?
(アルフレッド・ベスター『消失トリック』伊藤典夫訳) 

詩人がいた。
(J・P・ホーガン『マルチプレックス・マン』下・第四三章、小隅 黎訳) 

彼は死んだ。
(アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』第二部・15、中田耕治訳) 

彼の心は一つの混沌だった。
(サバト『英雄たちと墓』第I部・13、安藤哲行訳) 

何かが動いた。
(フィリップ・K・ディック『おもちゃの戦争』仁賀克雄訳) 

またウサギかな?
(ジェイムズ・アラン・ガードナー『プラネットハザード』上・5、関口幸男訳) 

黒ずんだ影が人の形となって現われた。
(フィリップ・K・ディック『死の迷宮』12、飯田隆昭訳) 

誰だ?
(オクタビオ・パス『砕けた壺』桑名一博訳) 

ひとりの人間が森を歩いていた
(ローベルト・ヴァルザー『風景』川村二郎訳) 

お前なのか
(ヨシフ・ブロツキー『ジョン・ダンにささげる悲歌』川村二郎訳) 

なぜここへ来た?
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた』伊藤典夫訳) 

なぜこんなところにいる?
(グレッグ・イーガン『ボーダー・ガード』山岸 真訳) 

誰がお前をつくったか
(ブレイク『仔羊』土居光知訳) 

網膜にはひとつの森全体がゆるやかに写って動いている
(オディッセアス・エリティス『検死解剖』出淵 博訳) 

あれはわたしだ。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』13、川副智子訳) 

わたしなのだ
(『ブラッドストリート夫人賛歌』49、澤崎順之助訳) 

そんなはずはない。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』昼夜入れ替えなしの興行、木村榮一訳) 

わたしは頭がおかしい。
(ダン・シモンズ『フラッシュバック』嶋田洋一訳) 

わたしが狂ってるって?
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

死んだのはこのわたしだ
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳) 

この私自身なのだ。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳) 

いったい、なぜわたしはここにいるんだ?
(ロジャー・ゼラズニイ『キャメロット最後の守護者』浅倉久志訳) 

わたしはいったいだれなのだろう。
(リルケ『愛に生きる女』生野幸吉訳) 

詩作なんかはすべきでない
(ホラティウス『書簡詩』第一巻・一八、鈴木一郎訳) 

それは虚無のための虚無だ、
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』14、菅野昭正訳) 

ここがどこなのかわかってくると、いろんなことが思い出される……。
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳) 

詩集の中のどこかだ
(R・A・ラファティ『寿限無、寿限無』浅倉久志訳)   

nimirum hic ego sum.
確かに私は此處に在り。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』) 

自分の作り出すものであって初めて見えもする。
(エマソン『霊の法則』酒本雅之訳) 

引用でしょ?
(コニー・ウィリス『リメイク』大森 望訳) 

あなたは引用がお得意だから。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳) 

nullam rem e nihilo gigni divinitus unquam.
いかなる物も無から奇蹟的に曾て生じたることなし。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』) 

これらはことばである
(オクタビオ・パス『白』鼓 直訳) 

虚無のなかに確固たる存在がある
(アーシュラ・K・ル・グィン『アカシア種子文書の著者をめぐる考察ほか、『動物言語学会誌』からの抜粋』安野 玲訳) 

じっと凝視するならば、
(コルターサル『石蹴り遊び』こちら側から・41、土岐恒二訳) 

すべてが現実になる。
(フレデリック・ポール&C・M・コーンブルース『クエーカー砲』1、井上一夫訳) 

いったん形作られたものは、それ自体で独立して存在しはじめる。
(フィリップ・K・ディック『名曲永久保存法』仁賀克雄訳) 

樹木は本物、動物たちもすべてが本物だった。
(ジョン・ヴァーリイ『汝、コンピューターの夢』冬川 亘訳) 

あらゆるものが現実だ。
(フィリップ・K・ディック『ユービック:スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳) 

この世界では、あらゆる言葉が
(アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』一九〇五年五月三日、浅倉久志訳) 

現実だ。
(スティーヴン・バクスター『真空ダイヤグラム』第七部、岡田靖史訳) 

ここにいるのか彼方にいるのか、空中にいるのか
(アンドレ・デュ・ブーシュ『白いモーター』2、小島俊明訳)  

虚空の中の虚無でさえ動くことができるということを、理解できるだろうか?
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳) 

世界という世界が豊饒な虚空の中に形作られるのだ。
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳) 

unde derivatur.
そこより生ず。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』) 

私は死んでしまった。それでもまだ生きている。
(フィリップ・K・ディック『シミュラクラ』10、汀 一弘訳) 

わたしのいるこここそ現実だった。
(サバト『英雄たちと墓』第III部・35、安藤哲行訳) 

森全体が目覚めている
(フィリップ・ホセ・ファーマー『奇妙な関係』父・7、大瀧啓裕訳) 

だからこそ、わたしはここにいるのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』6、山田和子訳) 

この土地では、死はもはや支配権を持っていないのだった。
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』11、三田村 裕訳) 

無とはなんなのだろうか?
(ジョン・ヴァーリイ『ウィザード』下・27、小野田和子訳) 

nihil ex nihilo.
無からは無。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』) 

sic animus per se non quit sine corpore et ipso esse homine, illius quasi quod vas esse videtur.
かくて靈魂は肉體及び人そのものなしに獨立して存在すること能はず。肉體は靈魂の一種の壺のやうに思はる。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』) 

どこへ出るの、この扉は?
(マルグリット・デュラス『北の愛人』清水 徹訳) 

ドアを見たら、開けるがよい。
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』9、三田村 裕訳) 

どこでもいい ここでさえなければ!
(ロバート・ロウエル『日曜の朝はやく目がさめて』金関寿夫訳) 

ハンカチいるか
(ロバート・ブロック『ノーク博士の謎の島』大瀧啓裕訳) 

ハンカチだ。もちろん、ハンカチがいる。
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』11、安田 均訳) 

このハンカチを使えよ、さあ
(ジョン・ベリマン『76 ヘンリーの告白』澤崎順之助訳) 

彼は自分が死んだことを知った。
(アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』第二部・15、中田耕治訳) 

わたしは発見されたのだ。
(ブライアン・W・オールディス『爆発星雲の伝説』8、浅倉久志訳) 

記憶はそこで途切れ、
(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・七六、菊盛英夫訳) 

わたしは目覚める
(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』49、澤崎順之助訳)  


ごめんね。ハイル・ヒットラー!

  田中宏輔



幸せかい?
(ヘミングウェイ『エデンの園』第二部・7、沼澤洽治訳)

彼はなにげなくたずねた。
(サキ『七番目の若鶏』中村能三訳)

あと十分ある。
(アイザック・アシモフ『銀河帝国の興亡2』第II部・20、厚木 淳訳)

なにかぼくにできることがあるかい?
(ホセ・ドノソ『ブルジョア社会』I、木村榮一訳)

彼女は
(創世記四・一)

詩句を書いた。
(ハインツ・ピオンテク『詩作の実際』高本研一訳)

しばしばバスに乗ってその海へ行った。
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)

魂の風景が
(ホーフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)

思い出させる
(エゼキエル書二一・二三)

言葉でできている
(ボルヘス『砂の本』ウンドル、篠田一士訳)

海だった。
(ジュマーク・ハイウォーター『アンパオ』第二章、金原瑞人訳)

どの日にも、どの時間にも、どの分秒にも、それぞれの思いがあった。
(ユーゴー『死刑囚最後の日』一、豊島与志雄訳)

ああ、海が見たい。
(リルケ『マルテの手記』大山定一訳)

いつかまた海を見にゆきたい。
(ノサック『弟』3、中野孝次訳、句点加筆)

どう?
(レイモンド・カーヴァー『ナイト・スクール』村上春樹訳)

うん?
(スタインベック『二十日鼠と人間』三、杉木 喬訳)

ああ、
(ジョン・ダン『遺贈』篠田綾子訳)

いい詩だよ、
(ミュリエル・スパーク『マンデルバウム・ゲイト』第I部・4、小野寺 健訳)

それはもう
(マリア・ルイサ・ボンバル『樹』土岐恒二訳)

きみは
(ロベール・メルル『イルカの日』三輪秀彦訳)

引用が
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

得意だから。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

でも、
(フロベール『ボヴァリー夫人』第三部・八、杉 捷夫訳)

これは剽(ひょう)窃(せつ)だよ。
(ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』2、井上 勇訳)

引用!
(ボルヘス『砂の本』疲れた男のユートピア、篠田一士訳、感嘆符加筆)

まあ、
(サルトル『悪魔と神』第一幕・第二場・第四景、生島遼一訳)

どっちでもいいが、
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)

きみの引用しているその
(ディクスン・カー『絞首台の謎』7、井上一夫訳)

海は
(ゴットフリート・ベン『詩の問題性』内藤道雄訳)

どこにあるんだい?
(ホセ・ドノソ『ブルジョア社会』I、木村榮一訳)

お黙り、ノータリン。
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』2、野谷文昭訳)

ヒトラーはひどく気を悪くした。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』あるバレリーナとの偽りの恋、木村榮一訳、句点加筆)

彼は拳銃を抜きだし、発射した。
(ボルヘス『砂の本』アベリーノ・アレドンド、篠田一士訳)

ああ、
(ラリイ・ニーヴン『太陽系辺境空域』小隅 黎訳)

でも、ぼくは
(ロートレアモン『マルドロールの歌』第二の歌、栗田 勇訳)

いったいなんのために、こんなことを書きつけるんだろう?
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)

相変らず海の思い出か。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

たしかに
(ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

海だったのだ。
(モーパッサン『女の一生』十三、宮原 信訳)

ごめんね。ハイル・ヒットラー!
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


ヨナ、の手、首、

  田中宏輔



め、めず、ら、しく、

朝、早、く、は、やく、

目、目が、覚め、ま、した、そ、それ

、で、港、に、まで、出て、散、歩、する、こ、とに、

した、の、です、靄、が、かった、海、の

、朝、に、(うみ、の、あ、さに)老、婆、が、ひと、り

岸、辺に、たた、ずんで、おり、ま、した、

息、子が、時化(しけ)、に、呑、呑ま、れてしま、った、の、よと、

、と、いう、の、です、

岸、辺、に、打ち、寄せた、水(み)、屑(くず)、のな、なか、から、木、き

、の、切れ、端、を、ひろ、って(ひろい、あつ、めて)

(まい、あさ)家、に、持ち、帰、る、のだ、と、いう、の、です、

たと、え、一片、の、榾(ほだ)、木(ぎ)に、さえ、なら、なく、とも、そそ、それ、が、そ、れ

が、息、子、を、乗せ、た、船、の、一、部、だっ、たか、も、しれ、ない

から、と、老、婆は、両、の、手に、汐(しお)、木(ぎ)を、いっ、ぱい、

いっ、ぱい、持ち、帰っ、て、ゆ、ゆき、ま、した

、海面、に、巨(おお)、きな、魚、の、頭、が、浮か、び、上が、り、ま、した、

鯱(しゃち)、に、似た、巨大、な、さか、な、で、した、

口、の、なか、から、人間、の、てて、手、首、が、のぞ、い、て、て、いま、した、

左、手、首、で、した、

引っ張る、と(ひっ、ぱる

と)スコッ、と、抜、抜け、ま、した

、た、で、ぼ、ぼく、は、そ、それ、を、持、持ち、帰、る、こと、に、しま、した、

窓、辺、に(レー、スの)カー、テン、を、引い、て、

土、を、捨て、た、鉢、の、なか、に、

入、入れ、て、おく、こと、に、しま、した、

左、手、首、は

、陽、陽に、すっかり、温、もり(ぬく、もっ)

て、て、まる、で、生き、生きて、いる、る、手、手首、の、よう(そう)

ほん、とう、に、まる、で、生き、て、いる

手、首、の、よう

蝋、細、工の、よう、だっ、た、冷、たい、手、手く、びが、

ぼ、ぼく、の、手、手の、よう、に、に、手、手の、色、を、して、

手の、形、が、色、が(そ、その)指、の、ふく、らみ、ぐあ、い、まで、が、あ、ああ、

あ、そ、その(そう)そっくり、だっ、た、ぼ、ぼぼ、ぼく、は、あ、あ、あ、

ああ、ぼぼ、ぼく、は、ああ、あ、ああ、ぼ、ぼく、の、左、手に

、ひ、左、手、手く、びを、もって、

か、か、剃(かみ)、刀(そり)、の、刃(は、を)を

あ、あて、ると(あてる、と)ゆゆ、ゆっ、くり、と

、刃、刃を(は、を)を、食い、いっ、込ま、せて、ゆっ、ゆき、まっ、した、、、


カタコラン教の発生とその発展

  田中宏輔



 コリコリの農家の子として生まれたカタコランは、
九才の時に神の声を耳にし、全知全能の神カタコリの
前ではみな平等であると説いた。布教は、カタコラン
の生誕地コリコリではじめられ、農家で働く年寄りを
中心に行なわれた。そして、信者の年齢層が下がるに
つれて、コリコリからカチカチへ、カチカチからキン
キンへと布教地をのばしていった。こうして、次々と
信者の数が増加していった背景には、カタコランの説
いた教え*が非常に簡単明瞭であったことと、祈祷の際
に唱えられる言葉*が極めて簡潔であったことによる。
 やがて、カタコランは、カタ大陸を統一し、カタコ
ラン教*の国を打ち建てた。その後、カタコランの後継
者により、カタからコシ、フクラハギの三大陸にまた
がる大帝国がつくられた。これをカタコラン帝国という。



 * カタコランの説いた教えというのは、要するに、神カタコリの
  前では、みんなが平等であり、人間の存在がカタコリによって
  実感されうるものというもの。
 * それは、次のような言葉である。「カタコーリ、コーリコリ。カ
  タコーリャ、コーリャコリャ。ハー、コーリコリィノコーリャコ
  リャ。」日本語に翻訳すると「ああ、これはこれ。ああ、それは
  それ。はあ、これはそれったらこれはそれ。」となる。
 * その教えをまとめたのが「カタコーラン」である。

参考文献=ニュースタディ問題集・歴史上


読点。

  田中宏輔



読点でできた蛙


なのか
蛙でできた読点なのか
文章のなかで
勝手に
あっちこっち
跳び廻る





読点でできたお酒


ヨッパになればなるほど
言葉が、途切れ途切れになっていく
完全によっちゃうと
言葉が読点だけになってしまう





アインシュタイン読点


アインシュタインの言葉をもじって
文章で格闘しているひとたちが
みんな感服するような作品が書かれてしまったら
あとはもう棍棒のかわりに
読点を手にもって
殴り合いをするしかない
っちゅうたりしてね。





あなたが打つ読点に感じるの。


あなたが打つ読点
とてもすてき
すこし多いかなって思うのだけれど
そのすこしってところがまた、微妙チックで
感じるの
あなたの読点が
ぷつぷつと刺すの
そうして
まるで竹輪のように
筒抜けるの
わたし
オマルの
キューティー・ハニーたん
どこぞ〜
どこぞ、行ってもうたん?





忘れられない一言とか


とかとかあるけど
忘れられない読点とか
忘れられない句点ってのもあるのかしら?
一瞬の沈黙が
その沈黙の表情が
記憶に刻みつけられはしても
読点や句点に表情はないものね〜
ええ、ええ
ほんとですとも
そんなに臭いのかしら?
それを渡すって





マルはいや


マルはいや
ぜったい、いや〜
ああ
すっきりした







ぼくは知っている


ぼくは知っている
あなたが
そこに読点を打ったり、取り外したりしているのを
あなたは、何度も読点を打ったり、取り外したりしている
いったい、そこが
あなたにとって、どんな意味を持つ場所なのかは知らないけれど





読点の山


それは
けっきょく使われなかった読点の山だった
それじゃ、針山だっちゅうの。
句点の山より大きいけどね〜





無数の巨大な手が


地面に
読点をずぶずぶと突き刺す
みたいな感じぃ
H鋼材みたいな読点を







読点ポール


だじゃれね、笑。





やわらかい読点


おすと
ぐにゅっとまがって
句点になるの





ぼくは愚かだった。


読点にも、ひとつひとつ表情があったのだ。
違った場所に置かれた読点には、その置かれた場所での表情があったのだ。
わたしたちが同じ顔でも、時と場所に応じて違った表情をするように。
ちょっとした役者なのだ。
いや、ずいぶんと役者なのだ。
読点は。





どぼどぼと読点を吐き出す女のように


派遣の読点だからって
なめんじゃないわよ。
きっちり読点の役目は果たしてるわよ。
正社員と同じだけ働いてるわよ。
保障はないけど
だからって手は抜かないわよ。





読点


読点は言葉を縫い付けていく
雨が地面にひとを縫い付けていくように





ちまたに読点が降るように


雨も、ちまたに降っている。
螺旋階段が欲しいから螺旋階段を3階までつけたパパ。
桂の叔父さんちにはプールがあるからといって
庭に小型のプールのような巨大な水槽をつくらせたパパ。
小学生のときのことだった。
ぼくはママを屋上から突き落として殺してやろうと思ったことがある。
小学生なら疑われることはないからと思ったのだった。
あのとき突き落としていたら、どうなっていたかなと考えることがある。
しばしば思い出しては、頭のなかで突き落としている。





派手な読点と、地味な読点


ときどき
ぼくが打つ読点は派手なこともあり
地味なこともある。
やさしい読点もあれば
きびしい読点もあるし
寒い読点も
熱い読点も
甘い読点も
辛い読点も
渇いた読点も
濡れた読点もある。
気体の読点や
液体や固体の読点もある。





宇宙中にあるすべての読点を集めても


コップ一個を満たすこともできないと言われている。





草野心平じゃあるまいし


人民たちが句点や読点に飢えていると耳にした王女は
疑問符や感嘆符やその他の記号で十分じゃないの
と言ったという。
その顔には幼な子のような笑みを浮かべ
その手のなかでは句点や読点をもてあそびながら。





リルケの遺作『ミュンヘンにて』を読んで


亡くなってから小部数出版されたというのだけれど読点
まるでトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』や
『ヴェニスに死す』を読んでいるような気がした句点
ただし読点マンの作品に出てくる主人公たちは立派な芸術家で読点
リルケの作品に出てくる主人公は詩を書きはするけれども読点詩人と
言うには実績のない主人公で読点詩集も出してはいなかったのだけれども句点
リルケ23歳のときの作品だったらしい句点
ぼくが23歳の時には読点ほんとうに稚拙な文章しかかけなかった句点
比較するのは不遜だけれども読点笑句点





量子状態の読点


一字あけ

読点






読点の時制


読点自体に
過去形や現在形や未来形や
現在完了形や過去完了形がある
と考えてしまった。
一度考えてしまったことは
なかなか頭から去らない。
肯定や否定や疑問
付加疑問とか感嘆とかも、笑。





言葉じゃないのよ


大事なのは、句点や読点といった記号なの。
言葉じゃないのよ。
句点と読点といった記号に目を凝らすのよ。
それに言葉以上の意味を持たせてあるんですからね。
当然よ。
きょうは、インスタント・ラーメン3個食べたわ。
5個で178円だったわ。
吐きそうよ。
シンちゃんがスコッチ・ウィスキーを持ってきてくれたから
ひとりで飲んでたわ。
すぐに帰ったから。
ぜんぶ飲んだわ。
3分の1くらいしか残ってない飲みかけのボトルだったから。
吐きそうよ。
航海してるわー。
after here


に目を凝らすのよ〜。





もしも、一生使える読点の数が決まっていたら


もしも一生使える読点の数が決まっているとしたら
と、ふと思いついたのだけれど
言葉だってそうだけど
一生使える数や量は決まってるんだよね。
ひとによって、その数や量が違うだけでね。





読点とコンマ、句点とピリオド


なんか似てる。
ヨーロッパ言語は、だいたいコンマとピリオドなのかしら?
アフリカとか、アジアとかは、どんな記号なのかしら?
スペイン語にはクエスチョン・マークを逆さまにしたものもあったけれど
韓国語は、読点や句点なのかしら?
それとも、コンマやピリオドかしら?
中国語は、どうだったかしら?
ああ、ぼくって、知らないことだらけだわ。
このまえ、滋賀に住んでる、ノブちんをひとまわりデブにしたような
ヒロユキの口のなかに
指を入れた。
身体を文章にたとえれば
指は読点のようなものかもしれない。
ヒロユキの口のなかで
ぼくの読点があたたかった。
ヒロユキは、ぼくの読点を
目をつむって、ペロペロなめていた。

口に指を入れたら
日になるのね。
二本入れたら
目ね、笑。
日本は
入れたことないけど。





言葉退治


おじいさんは山で言葉狩りを
おばあさんは川で言葉すくいにきていたら
川の上流から読点や句点がたくさん流れてきました。
おばあさんは流れる読点や句点を見て
自分の身体を流れ去った読点や句点のことを思い出しました。
おじいさんが山から帰ると
おばあさんは持ち帰った読点や句点を、おじいさんに見せました。
読点や句点は、おじいさんの手のなかでケラケラ笑いました。
ほんとうにかわいらしい読点や句点でした。
やがて、読点や句点は大きく育ち・・・





読点と句点を重ねると、空集合φになるのね。


桃太郎が海で
句点たちにいじめられている読点をたすけました。
ただそれだけで、読点は、なんもお礼をしませんでした。
まあ、それで、女たちは
人生において、やたらと読点や句点を使いたがるのね。
まっさらだわ。





20センチの読点


いまゲイのサイトを見てたら
(ゲイの売専の店のHPね。)
「デ、デカイ!
 デカすぎるのでは?
 絶叫モンです!
 入れるテクに句があることと
 より快楽的なエロキャラのため
 つながりたい人にオススメです!」
22歳
176センチ
70キロ
アスリート体型の
ゆうじくんのって20センチもあるから
とかとかいうので
20センチの読点は
まあ、看板とかでだったら見たことあるけど
太い読点を瞼の上にのっけてるひといるよね。
20センチの読点だと、壁にそって流れ落ちる雨粒のように
無数の眼球が流れ落ちる。
すると
眼球が見る街の景色は
するすると天にむかって上昇していく。
20センチの読点か
やっぱり大きすぎるわ。
ぼくにはムリ。
「基本的に
 ぬいぐるみ? 犬?」タイプです!
とのこと。

テクに句が

テクニックね。
すまそ。
えっ?
そうね、そうだよね。
20キロの読点のほうがおもしろそうだよね。
でも、どっちにしろ
ぼくにはムリだけど、笑。


Mr. Bojangles。

  田中宏輔



「世界にはただ一冊の書物しかない。」というマラルメの言葉を
どの書物に目を通しても、「読み手はただ自分自身をそこに見出す
ことしかできない。」ととると、わたしたちは無数の書物となった
無数の自分自身と出会うことになる。
しかし、その無数の自分は、同時にただひとりの自分でもある。
したがって、世界には、ただひとりの人間しかいないことになる。
細部を見る目は貧しい。
ありふれた事物が希有なものとなる。
交わされた言葉は、わたしたちよりも永遠に近い。
見慣れたものが見慣れぬものとなる。
それもそのうちに、ありふれた、見慣れたものとなる。
もう愛を求める必要などなくなってしまった。
なぜなら、ぼく自身が愛になってしまったのだから。
愛する理由と、愛そのものとは区別されなければならない。
眠っている間にも、無意識の領域でも、ロゴスが働く。
夜になっても、太陽がなくなるわけではない。
流れる水が川の形を変える。
浮かび漂う雲が空に形を与える。
わたし自身が、わたしの一部のなかで生まれる。
それでも、まだ一度も光に照らされたことのない闇がある。
ぼくたちは、空間がなければ見つめ合うことができない。
ぼくたちをつくる、ぼくたちでいっぱいの闇。
ぼくの知らないぼくがいる。
わたしでないものが、紛れ込んでいるからであろうか?
語は定義されたとたん、その定義を逸脱しようとする。
言葉は自らの進化のために、人間存在を消尽する。
輸入食料品店で、蜂蜜の入ったビンを眺める。
蜜蜂たちが、花から花の蜜を集めてくる。
花の種類によって、集められた蜜の味が異なる。
たくさんの巣が、それぞれ、異なる蜜で満たされていく。


ケルンのよかマンボウ。あるいは 神は 徘徊する 金魚の群れ。

  田中宏輔



きのう、ジミーちゃんと電話で話してて
たれる
もらす
しみる
こく
はく
さらす
といった
普通の言葉でも
なんだかいやな印象の言葉があるねって。
そんな言葉をぶつぶつと
つぶやきながら
本屋のなかをうろうろする。
ってのは、どうよ! 笑。
ぼくの金魚鉢になってくれる?
虫たちはもうそろそろ手足を伸ばして
うごめきはじめているころだろう。
不幸は一人ではやってこないというが
なにものも、ひとりではやってこない。
なにごとも、ただそれだけではやってこないのである。
絵に描いたような絵。
わたしの神は一本の歯ブラシである。
わたしの使っている歯ブラシが神であった。
神は歯ブラシのすみずみまで神であった。
主婦、荒野をさ迷う。
きのう見た光景をゲーゲー吐き戻してしまった。
暴れまわる母が、一頭の牛に牽かれてやってきた。
兄は、口に出して考える癖があった。
口から、コップやコーヒーや
スプーンやミルクや
文庫本やフロイトや
カーネル・サンダースの人形や英和辞典を
ゲロゲロ吐き出して考えていた。
壁は多面体だった。
一つ一つ、すべての壁面に印をつけていくと、
天井と床も入れて、二十四面あった。
二十四面のそれぞれの壁に耳をくっつけて
それぞれの部屋の音を聞くと
二十四面のそれぞれの部屋の音が聞こえてきた。
5かける5は25だった。
ぼくの正義のヤリは、ふるえていた。
どうして、ぼくのパパやママは、働かなくちゃならないの?
子供たちの素朴な疑問に、ノーベル賞受賞者たちが答える。
という文庫本があった。
友だちのジミーちゃんは、こういった。
悪だからである。
たしかに、楽園を追放されることにたることをしたのだから。
やっぱり、ぼくの友だちだ。
すんばらしい。
エレベーターが
スコスコッと、前後左右上下、
斜め、横、縦、縦、横、斜め、横、にすばやく移動する。
わたしの記憶もまた
スコスコッと、前後左右上下、
斜め、横、縦、縦、横、斜め、横、にすばやく移動する。
ぼくの金魚鉢になってくれる?
草原の上の
ビチグソ。
しかもクリスチャン。笑。
それでいいのかもね。
そだね。
行けなさそうな顔をしてる。
道路の上の赤い円錐がジャマだ。
百の赤い円錐。
スイ。
神は文字の上にいるのではない。
文字と文字の間なのね。
印刷された文字と文字の間って
紙のことなのね。
一ミリの厚さにも満たない薄い薄い紙のこと。
神は紙だから
って。
神さまは、前と後ろを文字文字に呪縛されて
ぎゅうぎゅう
もうもう
牛さん、飴さん、たいへん
ぼく。
携帯で神に信号を発する。
携帯を神に向けてはっしん。
って
ぎゃって
投げつけてやる。
ぼくは、頭をどんどん壁にぶつけて
神さまは、頭が痛いって
ぼくは、頭から知を流しつづける。
血だ
友だちのフリをする。
あのとき
看護婦は、ぼくのことを殴った
じゃなく
しばいた。
ぼくの病室は、全身で泣いて
ぼくの涙が悔しくて
スリッパを口にくわえて
びゅんびゅん泣いていた。
ああ、神さまは、ぼくがほんとうに悲しんでいるのを見て
夕方になると
金魚の群れが空にいっぱい泳いでた。
神さまは、ぼくの肩を抱いて
ぼくをあやしてくれた。
ぼくは全身を硬直させて
スリッパで床を叩いて
看護婦が、ぼくの腕に
ぼくの血中金魚度が低いから
ぼくに金魚注射した。
金魚は、自我をもって
ぼくの血液の中を泳ぎ回る。
ていうか、それって
自我注射?
自我注釈。
自我んだ。
違った。
ウガンダ。
どのページも
ぼくの自我にまみれて、ぐっちょり
ちょりちょり
チョチョリ、チョリ。
あ、そういえば
店長の激しい音楽。
マリゲ。
マルゴ。
まるぐんぐ。
マルス。
マルズ。
まるずんず。
ひさげ。
ひさご。
ひざずんずっ。
びいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
あるいは 神は 徘徊する 金魚の群れ。
きょうは休日だというのに
一日中、病室にいた。
病室の窓を見上げてたら
空の端に
昼間なのに、月が出ていた。
きょとんとしたぼくの息が
病室の隣のひとを
ペラペラとめくっては
どのページに神が潜んでいるのか
探した。
思考は腫瘍である。
わたしの脳髄ができることの一つに
他者の思考の刷り込みがある。
まあ、テレパシーのようなものであるが
そのとき、わたしの頭に痛みがある。
皮膚に走る電気的な痛みともつながっているようである。
頭が痛くなると同時に、肘から肩にかけて
ビリビリ、ビリビリ

きゅうは、とてつもなく痛い。
いままでは、頭の横のところ
右側の方だけだったのに
きょうは、頭の後ろから頭の頂にかけて
すっかり痛みに
痛みそのものになっているのだ。
さあ、首を折り曲げて
これから金魚注射をしますからね。
あなたの血中金魚濃度が低くて
さあ、はやく首を折り曲げて
はやくしないと、あなたの血管が金魚不足でひからびていきますよ。
あさ、パパ注射したばかりじゃないか。
きのうは、ママ注射したし
ぐれてやる。
はぐれてやる。
かくれてやる。
おがくれる。
あがくれる。
いがくれる。
うがくれる。
えがくれる。
街は金魚に暮れている。
つねに神は徘徊する、わたしの死んだ指たちの間で。
もくもくと読書する姿が見える。
そのときにもまた
ぼくの死んだ指の間で、神が徘徊しているのだ。
ぼくは、もくもくと読書している。
図書館で
ぼくは、ひとりで読書する少年だったのだ。
四年生ぐらいだったかな。
ぼくは
なんで地球が自転するのかわからない
って本に書かれてあるのにびっくりして
本にもわからないことがあるのだと
不思議に思って
その本が置いてあったところを見ると
書棚と書棚の間から
死んだパパそっくりの神さまが
ぼくの方を見てるのに気がついた。
すると
ぼくの身体は硬直して
ぼくは気を失っていた。
ぼくが気を失っていたあいだも
ぼくの死んだ指の間を神は徘徊していた。
地球がなんで自転しているのかって
それからも不思議に思っていたのだけれど
だれもわからないのか
ぼくが、この話をしても
神さまが、ぼくの指の間から
ぼくのことを見張っている。
ぼくの死んだ指は神さまに濡れて
血まみれだった。
憎しみの宴が
ぼくの頭のなかで催されている。
きょうは、一晩中かもしれない。
額が割れて
死んだ金魚たちがあふれ出てきそうだ。
頭が痛い。
割れて、死んだパパやママがあふれ出てくるのだ。
ぼくは、プリン。
ぼくの星の運命は
百万光年の
光に隠されている。
光に隠されている。
いいフレーズだな。
影で日向ぼく。
ぼっこじゃなくて
ぼくがいいかな。
日向ぼく。
で、
影で日向ぼっこ。
ぼっこって
でも、なんだろ。
ぼくの脳髄は 百のぼくである。
じゃなく、
ぼっこ。
じゃなく、
ぼこ。
リンゴも赤いし、金魚も赤いわ。
リンゴでできた金魚。
金魚でできたリンゴ。
金ゴとリン魚。
リンゴの切断面が
金魚の直線になっている。
死んでね、ぼくの指たち。
ルイルイ♪
楽しげに浮かび漂う、ぼくの死んだ指たち
神の指は、血まみれの幸運に浸り
ぼくの頭のなかの金魚を回す。
トラベル
フンガー
血まみれの指が
ぼくを作り直す。
治してね。
血まみれのプールに
静かに
ゴーゴーと
泳ぎ回る  
死んだぼくの金魚たち。
ぼくの頭のなかをぐるぐるまわる
倒壊したパパの死体や
崩れ落ちたママの死体たち。
なかよく踊りまちょ。
神は、死んだパパやママの廃墟を徘徊する。
リスン・トゥー・ザ・ミュージック!
ぼくの廃墟のなかで、死んだパパやママが手に手をとって踊る。
手のしびれが、金魚の指のはじまりになるまで。
その間も、ずっと、ママは、金魚をぼくの頭のなかでかき回している。
重たい頭は、ぼくの金魚がパクパク、パクパク死んでいる。
指が動きにくいのは
自我が、パクパクしているからだぞ。
ああ、たくさんのパクパクしている、ぼくの自我たち。
人差し指の先にも自我がある。
自我をひとに向けてはいけないと、ママは言った。
さあ、みんな、この自我にとまれ!
ギコギコ、ギーギー
ギコギコ、ギーギー
ね、ママ。
ぼくのママ、出てきちゃ、ダメ。
さっき
鳥が現実感を失う
とメモして
すると
ぼくは、アニメのサザエさんの書割の
塀の横を歩いていた。
問いを待つ答え。
問いかけられもしないのに
答えがぽつんと
たたずんでいる。
はじめに解答ありき。
解答は、問いあれ、と言った。
すると、問いがあった。
ぶさいくオニオン。
ヒロくんの定食は
焼肉だった。
チゲだっておいしいよ。
キムチだっておいしいよ。
かわりばんこの
声だ。
ぼくは
ヒロくんの声になって
坐ってる。
十年
むかしの
ゴハン屋さんで。
この腕の
縛り痕。
父親たちの死骸を分け合う、ぼくのたくさんの指たち。
ああ
こんなにも
こんなにも
ぼくは、ぼくに満ちあふれて。
戦線今日今日。
戦線今日今日。
あの根、ぬの根
カンポの
木の
根。
名前を彫っている。
生まれ変わったら
何になりたい?
うううん、
べつに。
花の精でもいいし
産卵する蛾でもいいよ。
あ、
べつに
産卵しない蛾でも。
大衆浴場。
湯船から
指を突き出し
ヘイ
カモン!
詩人の伝記が好き。
詩人の詩より好きかも。
詩人の出発もいいけど
詩人のおしまいの方がいいかな。
不幸には
とりわけ
耳を澄ますのだ。
ぼくのなかの
声が。
ああ、
聞こえないではないか。
そんなに遠く離れていては。
ぼくのなかの
声が
耳を済ます。
耳を澄ます。
じりじりと
耳を澄ます。
ぼくのなかの
声が
耳を済ます。
耳が沈黙してるのは
ぼくの声が離れているからか。
ああ、
聞こえないではないか。
そんなに遠く離れていては。
もう詩を書く人間は、ぼく一人だけだ、と。笑。
ぼくの口の中は、たくさんの母親たちでいっぱいだ。
抜いても、抜いても生えてくる
ぼくの母親たち。
ぼくは黄ばんだパンツの
筋道にそって歩く
その夜
黄ばんだパンツは
捨てられた。
若いミイラが
包帯を貸してくれるっていって
自分の包帯をくるくる
くるくる
はずしていった。
若竹刈り。
たけのこかい!
木の芽がうまい。
ほんまやな。
せつないな。
ボンドでくっつくけた
クソババアたち
ビルの屋上から
数珠つなぎの
だいぶ
だいぶ
死んだわ。
おだぶつさん!
合唱。
あ、
合掌。
だす。
バナナの花がきれいだったね。
きれいだったね。
ふわふわになる
喜んで走り回ってた
棺のなかに入ったおばあちゃんを
なんで、だれも写真にとらなかったんだろう?
おばあちゃんは、とってもきれいだったのに。
生きてるときより、ずっときれいだったよ。
ぼくのおばあちゃんの手をひっぱって
ぼくのおばあちゃんを棺のなかに入れたのは
ぼくだった。
ばいばい
って、してみたかったから。
いつも、おばあちゃんに
ばいばいって
してたけど、
ほんとのばいばいがしたかったんだ。
ふわふわになる
おばあちゃん。
二段か、三段。
土間の上にこぼれた
おかゆの湯気が
ぼくの唇の先に
触れる。
光の数珠が、ああ、おいちかったねえ。まいまいつぶれ!
ウサギおいしい。カマボコ姫。チュッ
歯科医は
思い切り力を込めて
ぼくの口の中の
母親をひっこぬいた。
父親は
ペンチで砕いてから、ひっこぬいた。
咳をすると
ぼくじゃないと思うんだけど
咳の音が
ぼくの顔の前でした。
咳の音は
実感をもって
ぼくの顔の前でしたんだけど
ぼくのじゃない
ただしい死体の運び方
あるいは
妊婦のための
新しい拷問方法。
かつて
チベットでは
夫を裏切った妻たちを拷問して殺したという。
まあ、インドでは
生きたままフライパンで焼いたっていうから
そんなに珍しいことではないのかもしれないけれど。
こうして、ぼくがクーラーのかかった部屋で
友だちがくれたチーズケーキをほおばりながら
音楽を聴きながら
ふにふに書いてる時間に
指を切断されたり
腹を裂かれて
腸を引きずり出されたりして
拷問されて苦しんでる人もいるんだろうけど。
かわいそうだけど
知らないひとのことだから
知らない。
前にNHKの番組で
指が机の上にぽろぽろ
ぽろぽろ
血まみれの指が
指人形。
ぼくの右の人差し指はピーターで
ぼくの左手の人差し指は狼だった。
ソルト
そーると
ソウルの街を
電車で移動。
おまえは東大をすべって
ドロップアウトして
そのまま何年も遊びたおして
ソウルの町を電車で移動。
耳で聴いているのは
ずっと
ジャズ。
ただしい死体の運び方。
あるいは
郵便で死体を送りつける方法について
学習する。
切手で払うのも大きい。
小さい。
デカメロン。
ただしく死体と添い寝する方法。
このほうが、お前にふさわしい。
おいしいチーズケーキだった。
きょう、いちばんの感動だった。
河原町の街角から
老婆たちが
ぴょんぴょん跳ねながらこちらに向かってくる。
お好みのヴァージョンだ。
神は疲れきった身体を持ち上げて
ぼくに手を伸ばした。
ぼくは、その手を振り払うと、神の胸をドンと突いてこういった。
立ち上がれって言われるまで、立ち上がったらダメじゃん。
神さまは、ぼくの手に突かれて、よろよろと
そのまま疲れきった身体を座席にうずめて
のたり、くたり。
か。
標準的なタイプではあった。
座席のシートと比較して
とくべつおいしそうでも、まずそうでもなかった。
ただ、しょっぱい。
やっぱり。
でっぱり。
でずっぱり。
神の顔にも蛆蝿が
老婆たちの卵を産みつける。
老婆たちは、少女となって卵から孵り
雛たちは
クツクツと笑うリンゴだ。
どんな医学百科事典にも載っていないことだけど。
植物事典には載ってる。
気がする。
か。
おいしい。しょっぱい。
か。
ぼくの顔面をゲートにして
たくさんの少女と老婆が出入りする。
ぼくの顔面の引き攣りだ。
キキ、
金魚!
アロハ
おえっ
老婆はすぐに少女になってしまって
口のなかは、死んだ少女たちでいっぱいになって
ぼくは、少女たちの声で
ヒトリデ、ピーチク・パーチク。
最初の話はスラッグスの這い跡で
夜の濡れた顔だった。
そういえば、円山公園の公衆トイレで首を吊って死んだ男と
御所の公衆トイレで首を吊って死んだ男が同一人物だという話は
ほんとうだった。
男は二度も死ねたのだ。
ぼくの身体の節々が痛いのは、なかなかなくならない。
こんど病院に行くけど
呪術の本も買ってこよう。
いやなヤツに痛みをうつす呪術が、たしかにあったはずだ。
ぴりぴり。
ぴかーって、
光線銃で狙い撃ち!
一リットルの冷水を寝る前に飲んだら
ゲリになっちゃった。
ぐわんと。
横になって寝ていても、少女の死体たちが
ぼくの口のなかで、ピーチク・パーチク。
ぴりぴり。
ぴかーっと。
たしか、首を吊った犬の苦しむ顔だった。
紫色の舌を口のなかからポタポタたれ落として
白い泡はぶくぶくと
徒然草。
小さいものはかわいらしいと書いてあった。
小さな少女の死はかわいらしい。
ってこと?
ぼくの口のなかの死体たちが、ピー地区・パー地区。
ふふ。
大きな棺に入った大きな死体もかわいらしい。
筆箱くらいの大きさの少女たちの死体がびっしり
ぼくの口のなかに生えそろっているのだ。
ようやく、ぼくにもわかってきたのだ。
ぼくのことが。
今晩も、寝る前に冷水を1リットル。
けっ。
あらまほしっ、きっ
ケルンのよかマンボウ。
ふと思いついたんだけど
帽子のしたで
顔が回転している方が面白い。
頭じゃなくて
正面の顔が
だよん。
アイスクリーム片手にね。
アイスクリームは
やっぱり
じょっぱり
しょうが焼き。
春先に食べた王将のしょうが焼き定食は
おいちかった。
ぼく、マールボロウでしょう?
話の途中で邪魔すんなよ。
ぼく、マールボロウだから
デジカメのまえで
思わずポーズきめちゃった。
クリアクリーン。
歯磨きの仕方が悪くって
死刑!
ガキデカのマンガは、いまなかなか見つからない。
わかんない。
井伊直弼。
って、スペリング、これでいい?
って。
てて。
いてて。
てて。
ぼく、井伊直弼
ちゃうねん
あつすけだよん。
って。
鋼(はがね)の月は
ぎいらぎら。
リトル・セントバーナード
ショウ
人生は
演劇以上に演劇だ。
って
べつに
言ってるか、どうかなんて
言わない。
ちいいいいいい
てるけどね。
ケッ。
プフッ。
ケルンのよかマンボウ。
ぼーくの
ちぃーって

けー
天空のはげ頭
(
ナチス・ドイツ鉄かぶと製の
はげカツラが、くるくると回転する。
頭皮にこすれて、血まみれギャーだった。
ふにふに。
空飛ぶ円盤だ!
このあいだ、サインを見た。
登場人物は、みんな霊媒だった。
十年前に賀茂川のほとりで
無数の円盤が空をおおうようにして飛んでるのを
友だちと眺めたことがあった。
友だちは、とても怖がっていたけど
ぼくは、怖くなかった。
友だちは、ぼくに
円盤見て、びっくりせいへんの?
って言ってたけど。
ぼくは、
こんど、ふたりで飲みに行きましょうね
って言われたほうが
びっくりだった。
いやっ
いやいや、
やっぱり、暴れまわる大きな牛を牽いてやってくる
一頭の母親の方が怖ろしいかな。笑。
どうしてるんだろう。
ぼくの口のなかには、母親たちの死んだ声がつまってるっていうのに
ぼくの耳のなかでは、その青年の声が叫びつづけてるんだ。
だから、インテリはいやなんやって
カッチョイイ、あの男の子の声が
ああ、これは違う声か。
違う声もうれしい。
ぼくの瞼の引き攣りは
ヒヒ
うつしてあげるね。
神経ぴりぴり。
血まみれ
ゲー

うつしてあげるね。

しゅてるん。
知ってるん?
ユダヤの黄色い星。
麻酔なしの生体解剖だって。
写真だったけど
思い出しただけで
ピリピリ
ケラケラ
ケセラセラー。
あい・うぉん・ちゅー
あらまほしぃ、きいいいいいい
ぼくの詩を読んで死ねます。
か。
ぼくの詩を読んで死ねます。
か。
ひねもす、のたりくたり。
ぼくの詩を読んで死ねます。
か。
ひねもすいすい
水兵さんが根っこ買って
寝ッ転がって
ぐでんぐでん。
中心軸から、およそ文庫本3冊程度ぶんの幅で
拡張しています。
か。
ホルモンのバランスだと思う。
か。
まだ睡眠薬が効かない。
か。
相変らず役に立たない神さまは
電車の
なかで
ひねもす、のたりくたり。
か。
ぼくは、疲れきった手を
吊革のわっかに通して
くたくたの神を
見下ろしていた。
か。
おろもい。
か。
飽きた。
か。
腰が痛くなって
言いたくなって
神は
あっくんの手を
わっかからはずして
レールの上に置きました。
キュルルルルルルって
手首の上を
電車が通りすぎていくと
わっかのなかから
無数の歓声が上がりました。
か。
日が変わり
気が変わり
神は
新しいろうそくを
あっくんの頭の上に置いて
火をつけました。
か。
なんべん死ぬねん!
か。
なんべんもだっち。
(ひつこい轍。)
銃の沈黙は
違った
十の沈黙は
うるさいか。
とか。
沈黙の三乗は
沈黙とは単位が違うから
もう沈黙じゃないんじゃないか。
とか、
なんとか、かんとか
ヤリタさんと
荒木くんと
くっちゃべり。
ぐっちゃべり。
ええ
ええ
それなら
ドン・タコス。
おいちかったね。
いや、タコスは食べなかった。
タコライス食べたね。
おいちかったね。
ハイシーン。
だっけ。
おいちかった。
サーモンも
おいちかった。
火の説教。
痩せた手のなかの
コーヒーカップは
劫火。
生のサーモンもカルパッチオ!
みゃぐろかなって言って
ドン・タコス。
ぱりぱりの
ジャコ・サラダは
ぐんばつだった。笑。
40過ぎたおっさんは
ぐしょぐしょだった。
いや、くしゃくしゃかな。
これから
ささやかな
葬儀がある。
目のひきつり。
だんだん。
欲しいものは手に入れた。
押し殺した悲鳴と
残忍な悦び。
庭に植えた少女たちが
つぎつぎと死んでいく。
除草剤をまいた
痩せた手のなかの
あたたかいコーヒーカップは
順番が違うっちぃっぃいいいいいい!
あっくんの頭の上のろうそくが燃えている。
死んだ魚のように
顔面の筋肉は硬直して
無数の蛆蝿が
卵を産みつけていく。
膿をひねり出すようにして
あっくんは卵を産んだ。
大統領夫人が突然マイクを向けられて
こけた。
こけたら、財布が出てきた。
財布は、マイケルの顔に当たって
砕けた。
マイケルの顔が、笑。
笑えよ。
ブフッ。
あっくんの頭の上で燃えているろうそくの火は
しょっぱい。
そろそろ眠る頃だ。
睡眠薬を飲んで寝る。
噛み砕け!
顔面に産みつけられた
蛆蝿たちの卵を孵す。
あっくんの頭の上で燃えているろうそくの火は
しょっぱい。
(ひつっこい、しょっぱさだ。笑。)
前の職場で親しかったドイツ語の先生は
バーテンダーをしていたことがあると言ってた。
バーテンダーは、昼間は
玉突きのバイトをしていた
青年がいた。
ぼくが下鴨にいたころだ。
といっても、ぼくが26、7才のころだ。
九州から来たという
青年は二十歳だった。
こんど、ふたりっきりで飲みましょうねって言われて
顔面から微笑みが這い出してきて
ぽろぽろとこぼれ堕ちていった。
まるで
蛆蝿の糞のように。
笑えよ。

とうもろこし頭の
彼は
ぼくのなかで
一つの声となって
迸り出ちゃったってこと。
詩ね。
へへ、
死ね!

乾燥した
お母さんが
出てきたところで
とめる。
釘抜きなんて
生まれて
まだ十回も使ったことがないな。
ぼくの部屋は二階で
お母さんは
縮んで
釘のように
階段の一段一段
すべての踏み段に突き刺さっていたから
釘抜きで抜く。
ぜんぶ抜く。
可能性の問題ではない。
現実の厚さは
薄さは、と言ってもよいが
ぼろぼろになった
筆の勢いだ。
美しい直線が
わたしの顔面を貫くようになでていく。
滅んでもいい。
あらゆる大きさの直線でできた
コヒ。
塑形は
でき
バケツで
頭から血を流した
話を書こうと思うんだけど
実話だから
話っていっても
ただ
バケツって
言われたから
バケツをほっただけなんだけど
手がすべって
パパは頭から血を流した。
うううん。
なんで
蟹、われと戯れて。
ひさびさに
鞍馬口のオフによる。
ジュール・ベルヌ・コレクションの
海底二万哩があった。
きれいな絵。
500円。
だけど、背が少し破けてるので、惜しみながらも
買わず。
ブヒッ。
そのかわり
河出書房の日本文学全集3冊買った。
1冊105円。
重たかった。
河出新刊ニュースがすごい。
もう何十年も前の女優の
若いころの写真がすごい。
これがほしくて買ったとも言える。笑。
でも、何冊持ってるんだろう。
全集の詩のアンソロジー。
このあいだの連休は
詩を書くつもりだったけど、書けなかった。
蟹と戯れる
啄木
ではなく
ぼく
でもなく
ママ。

思ふ。
ママは
蟹の
巨大なハサミにまたがって
ビッビー
シャキシャキッと
おいしいご飯だよ。
ったく、ぼく。
カンニングの竹山みたいな
怒鳴り声で
帰り道
信号を待ってると
いや、信号が近づいてくるわけじゃなく
信号が変わる
じゃなく
信号の色が
じゃなく
電灯のつく場所がかわるのを待ってたんだけど
信号機が
カンカンなってた
きのうのこと
じゃなくて
きょうのこと
ね。
啄木が
ぼくの死体と戯れる。
さわさわとざらつく
たくさんのぼくの死体を
啄木が
波のように
足の甲に
さわっていくのだ。
啄木は
ぼくの死後硬直で
カンカンになった
カンカン鳴ってたのは
きのうの夜更けだ。
二倍の大きさにふくらんだ
ぼくの腐乱死体だ。
だから行った。
波のように
啄木の足元に
ゴロンゴロン横たわる
ぼくの死体たち。
蟹、われと戯れる。
いたく、静かな
いけにえの食卓。
ぽくぽく。
ったく、ぼく。

啄木。
ふがあ
まことに
人生は
一行の
ボードレールである。
ぼくの腕 目をつむるきみの重たさよ
狒狒、非存在たることに気づく、わっしゃあなあ。
木歩のことは以前に
書いたことがある。
木歩の写真を見ると思い出す。
関東大震災の日に
えいじくんが
火炎のなかで、教授に怒鳴られて
ぼくの部屋で
雪合戦。
手袋わざと忘れて。
もう来いひんからな。
ストレンジネス。
バタンッ!
大鴉がくるりと振り向き
アッチャキチャキー
愛するものたちの間でもっともよく見られる衝動に
愛するものを滅ぼしたいという気持ちがある。
関東大震災の日に
えいじくんが
ぼくと雪合戦。
ヘッセなら
存在の秘密というだろう。
2001年1月10日の日記から抜粋。
夜、ヤリタさんから電話。
靴下のこと。
わたしの地方では、たんたんていうの思い出したの。
靴下をプレゼントしたときには気づかなかったのだけれど。
とのこと。
客観的偶然ですね。

ぼく。
いま考えると
客観的偶然ではなかったけれど、
たんたん。
ね。
ぼくのちっぽけな思い出だな。
ちっぽけなぼくの思い出、ね。
笑。
金魚が残らず金魚だなんて
だれが言った!
原文に当たれ
I loved the picture.
べるで・ぐるってん
世界は一枚の絵だけ残して滅んだ。
どのような言葉を耳にしても
目にしても
詩であるように感じるのは
ぼくのこころが、そう聞こえる
そう見える準備をしているからだ。
それは、どんな言葉の背景にも
その言葉が連想させる
さまざまな情景を
たくさん、もうたくさん
ぼくのこころが重ね合わせるからだ。
詩とはなにか?
そういったさまざまな情景を
(目に見えるものだけではない)
重ね合わそうとするこころの働きだ。
部長!
笑。
笑えよ。
人生は一行の
ボードレールにしか過ぎない。
笑。
笑えよ。
そうだったら、すごいことだと思う。
笑。
仲のよい姉妹たちが
金魚の花火を見上げている。
夜空に浮かび上がる
光り輝く、真っ赤な金魚たち。
金魚が回転すると冷たくなるというのはほんとうだ。
どの金魚も
空集合。
Φ。
2002年1月14日の日記から抜粋。
(ああ、てっちゃんのことね。)
いままで見た景色で、いちばんきれいだと思ったのはなに?
カナダで見たオーロラ。
カナダでも見れるの?
うん。北欧でも見れるけど。
どれぐらい?
40分くらいつづくけど
20分くらいしか見られへん。
どうして?
寒くて。
寒くて?
冷下30度以下なんやで。
ギョギー、目が凍っっちゃうんじゃない?
それはないけど。
海なら、どこ?
パラオ。
うううん、だけど、沖縄の海がいちばんきれいやったかな。
まことに
人生は
一行のボードレールである。
快楽から引き出せるのは快楽だけだ。
苦痛からは、あらゆるものが引き出せる。笑えよ。
この世から、わたしがいなくなることを考えるのは、
それほど困難なことでも怖ろしいことでもないのだけれど
なぜ、わたしの愛するひとが、
この世からいなくなることを考えると、怖ろしいのか。
しゃべる新聞がある。
手から放そうとすると
「まだまだあるのよ、記事が。」
という。
キキ
金魚!
悲しみをたたえた瞳を持って牛たちが歩みくる。
それは本来、ぼくの悲しみだった。
できたら、ぼくは新しい悲しい気持ちになりたかった。
夕暮れがなにをもたらすか?
仮面をつける。
悲しみをたたえた瞳を持って牛たちが歩みくる。
それは言葉のなかにないのだから
言葉と言葉のあいだにあるものだから
から
か。
わが傷はこれと言いし蟻 蟻をひく
Soul-Barで
Juniorの
Mama Used Said
はやりの金魚をつけて、お出かけする。
あるいは、はやりの金魚となって、お出かけする。
石には奇形はない。
記憶のすべてとは?
記憶とは、想起されるものだけ?
想起されないものは?
一生の間、想起されずに
でも、それが他の記憶に棹さして
想起せしめることもあるかもしれない。
どこかに書いたことがあるけど
いつか想起されるかもしれないというのは
いつまでも想起されないこととは違うのかな?
習慣的な思考に、とはすでに単なる想起にしかすぎない。
金魚のために
ぼくは、ぼくのフリをやめる。
矢メール。
とがらした鉛筆を喉に突きつけて
両頬で締め付ける。
ぼくだけの愛のために。
ストラップは干し首。
ぼくの恋人の金魚のために
夜毎本を手にして
人間狩りに出かける。
声が
そんなこととは、とうてい思え!
夜毎、レイモンド・ラブロックは
壁にかかった
恋人の金魚に
声が
知っている。
きのう、フランク・シナトラのことを思い出していた。
新しい詩が書けそうだ、ということ。
うれしいかなしい。
金魚、調子ぶっこいて、バビロン。
タスマニアの少年のペニスは、ユリの花のようだったと
金魚、調子ぶっこいて、バビロン。
枯山水の金魚が浮遊する。
いたるところ
金魚接続で
いっぴきぴー。
と、
いたるところ
金魚接続で
にっぴきぴー。
と、
いたるところ
金魚接続で
さんぴきぴー。
と、
ス、来る。
と、ラン、座ぁ。
匹ぃー。
XXX
二rtgh89rtygんv98yんvy89g絵ウhg9ウ8fgyh8rtgyr8h地hj地jh地jfvgtdfctwdフェygr7ウ4h地5j地54ウy854ウ7ryg6ydsgfれjんf4klmgl;5、yhp6jl^77kじぇ^yjhw9thjg78れtygf348yrtcvth54ウtyんv5746yんv3574ytんc−498つcvん498tんv498yんt374y37tyん948yんrt6x74rv23c47ty579h8695m9rつbヴァ有為ftyb67くぇ4r2345vjちょjkdypjkl:h;lj、帆印b湯fttrゑytfでtfryt3フェty3れ76t83ウrgj9pyh汁9kjtyj彫る8yg76r54cw46w6tv876g643エgbhdゲう7h9pm8位0−『mygbfy5れうhhんg日htgyん;ぃm:drs6ゑs364s3s34cty日おじjklj不khjkcmヴィfhfgtwfdtwfれswyツェdぎぃウェってqqsnzkajxsaoudha78絵rゑ絵bkqwjでyrg3絵rgj家f本rbfgcぬ4いthbwやえあfxkうぇrjみうryんxqw
ざ、が抜けてるわ。金魚、訂正する。
性格に言えば、提供する。
時計の針で串刺しの干し首に
なまで鯛焼き。
目ゾット・ふい。
赤い色が好きだわ。
と、金魚が逝った。
ぼくも好きだよ。
とジャムジャムが答えた。
あなたはもっと金魚だわ、
と金魚が逝った。
きみだって、だいたい金魚だよ、
とジャムジャムが答えた。
ふたりは、ぜんぜん金魚だった。
大分県の宿屋の大づくりの顔の主人が振り返って逝った。
も一度死んでごらん。
ああ、やっぱりパロディはいいね。
書いてて、気持ちいいね。
打っててかな。
注射は打ったことないけど。
あ、打たれたことあるけど。
病院で。
暴れる金魚にブスっと。
あのひとの頬は、とてもきれいな金魚だった。
聖書には、割れたざくろのように美しいという表現があるけど
あのひとの身体は
割れた金魚のように美しいとは
言え。
まるまると太った金魚が、わたしを産む。
ブリブリブリッと。
まるまると太った金魚が、わたしを産む。
ブリブリブリッと。
オーティス・レディングが、ザ・ドッグ・オブ・ザ・ベイを
ぼくのために歌ってくれていたとき
ぼくの金魚もいっしょに聞きほれていた。
ニャーニャー闇ってる。
ひどい闇だ。
新しい詩は、形がすばらしい。
ぼくはきのう
おとついかもしれない。
最近、記憶がぐちゃぐちゃで
きのうと、おとついが
ぼくのなかでは、そうとう金魚で
出かかってる。
つまずいて
喉の奥から
携帯を吐き出す。
突然鳴り出すぼくの喉。
無痛の音楽が
ぼくの携帯から流れ出す。
無痛の友だちや恋人たちの声が
ぼくの喉から流れ出す。
ポン!
こんなん出ましたけど。
ジョニー・デイルの右手に握られた
単行本は、十分に狂気だった。
狂気ね。
凶器じゃないのかしらん? 笑。
まるまると太った金魚が、わたしを産んでいく。
ブリブリブリッと。
まるまると太った金魚が、わたしを産んでいく。
ブリブリブリッと。
そこらじゅうで
金魚、日にちを間違える。
もう一度。
ね。
moumou と sousou の
金魚。
moumou と sousou の
金魚。
金魚が、ぼくを救うことについて
父子のコンタクトは、了解。
これらのミスは、重大事件に間違い。
バッカじゃないの?
わかった。
歴史のいっぱい詰まった金魚が禁止される。
金魚大統領はたいへんだ。
もう砂漠を冒険することもできやしない。
してないけど。笑。
冒険は、金魚になった
広大な砂漠だった。
モニターしてね。笑。
こういうと、二千年もの永きにわたって繁栄してきた
わが金魚テイク・オフの
過去へのロッテリア。
金魚学派のパパ・ドミヌスは
ぼくに、そうっと教えてくれた。
金魚大統領の棺の
肛門の
栓をひねって
酔うと、
ぼくは金魚に生まれ変わった扇風機になる。
冷たい涼しい。
金魚のような
墓地。
ぼくの
moumou と sousou の
金魚たち。
いつのまにか、複製。
なんということもなく
ぼくを吐き出す
金魚の黄色いワイシャツの汚れについて
おぼろげながら
思い出されてきた。
二十分かそこらしたら
扇風機が、金魚のぼくを産む。
びぃよるん、
ぱっぱっと。
ぼくを有無。
ふむ。
ムム。
ぷちぷちと
ぼくに生まれ変わった黄色いワイシャツの汚れが
砂漠をかついで
魔法瓶と会談の約束をする。
階段は、意識を失った幽霊でいっぱいだ。
ぼくの指は、死んだ
金魚の群れだ。
ビニール製の針金細工の金魚が
ぼくの喉の奥で窒息する。
苦しみはない。
金魚は
鳴かないから。
金魚のいっぱい詰まった扇風機。
金魚でできた金属の橋梁。
冷たい涼しい。
の 
デス。 
ぼくの部屋の艶かしい
金魚のフリをする扇風機。
あたりにきませんか?
冷たい涼しい。

デス。
ぼくの部屋に吹く艶かしい
金魚のフリをする扇風機。
あたりにきませんか?
キキ
あたりにきませんか?
キキ
金魚は
車で走っていると
車が走っていると
突然、金魚のフリをする扇風機。
あたりにきませんか?
キキ
あたりにきませんか?
キキ
金魚迷惑。
金魚イヤ〜ン。
キキ
金魚迷惑。
金魚イヤ〜ン。
扇風機、突然、憂鬱な金魚のフリをする。
あたりにきませんか?
キキ
あたりにきませんか?
キキ
金魚は
車で走って
車は走って
あたりにいきませんか?
金魚のような
墓地の
冷たい涼しい
車に。
キキ
金魚。
キキ
金魚。
キキ
キィイイイイイイイイイイイイイイイイイ
ツルンッ。 
よしこちゃん
こんな名前の知り合いは、いいひんかった。
そやけど、よしこちゃん。
キキ
金魚。
しおりの
かわりに
金魚をはさむ。
よしこちゃんは
ごはんのかわりに
金魚をコピーする。
キキ
金魚。
よしこちゃん。
晩ご飯のかわりに
キキ
きのうも、ヘンな癖がでた。
金魚の隣でグースカ寝ていると
ぼくの瞼の隙を見つけて
ぼくのコピーが金魚のフリをして
扇風機は、墓地の冷たい涼しい
金魚にあたりにきませんか?
きのうは金魚の癖がでた。
石の上に
扇風機を抱いて寝ていると
グースカピー
ぼくの寝言が
金魚をコピーする。
吐き出される金魚たち。
憂鬱な夜明けは、ぼくの金魚のコピーでいっぱいだ。
はみ出した金魚を本にはさんで
よしこちゃん。
ぼくを扇風機で
金魚をコピーする。
スルスルー。
ピー、コッ。
スルスルー。
ピー、コッ。
スルスルー。
いひひ。笑。
ぼくは金魚でコピーする。
真っ赤に染まった
ぼくの白目を。
金魚のコピーが
ぼくの寝ている墓地の
あいだをスルスルー
と。
扇風機、よしこちゃん。
おいたっ!
チチ
タタ
無傷なぼくは
金魚ちゃん。
チチ
マエストロ。
金魚は置きなさい。
電話にプチチ
おいたは、あかん。
フチ。
魔法瓶を抱えて
金魚が砂漠を冒険する。
そんな話を書くことにする。
ぼくは二十年くらい数学をおしえてきて
けっきょく、数について、あまりにも無恥な自分がいるのに
飽きた。
秋田。
あ、きた。
背もたれも金魚。
キッチンも金魚。
憂鬱な金魚でできたカーペット。
ぼくをコピーする金魚たち。
ぼくはカーペットの上に、つぎつぎと吐き出される。
まるで
金魚すくいの名人のようだ。
見せたいものもないけれど
まるで金魚すくいの名人みたいだ。
二世帯住宅じゃないけれど
お父さんじゃない。
ぼくのよしこちゃんは
良妻賢母で
にきびをつぶしては
金魚をひねり出す。
じゃなくて
金魚をひねる。
知らん。
メタ金魚というものを考える。
メタ金魚は言語革命を推進する。。
スルスルー
っと。
メタ金魚が、魔法瓶を抱えて砂漠を
冒涜するのをやめる。
ぼくのことは
金魚にして。
悩み多き青年金魚たち。
フランク・シナトラは
自分の別荘のひとつに
その別荘の部屋のひとつに
金魚の剥製をいっぱい。
ぼくの憂鬱な金魚は
ぼくのコピーを吐き出して
ぼくをカーペットの上に
たくさん
ぴちゃん、ぴちゃん。
ぴちゃん、ぴちゃん。
て、
キキ。
金魚。
扇風機といっしょに
車に飛び込む。
フリをする。
キキ
金魚
ぴちゃん。
ぴちゃん。
ププ。
ああ
結ばれる
幸せな
憂鬱な
金魚たち。
ぼくは、だんだん金魚になる。
なっていくぼくがうれしい。
しっ、
死ねぇっ!
ピッ
moumou と sousou の
金魚。
moumou と sousou の
金魚。
金魚が、ぼくを救うことについて
父子のコンタクトは、了解。
これらのミスは、重大事件に間違い。
バッカじゃないの?
わかった。
歴史のいっぱい詰まった金魚が禁止される。
金魚大統領はたいへんだ。
もう砂漠を冒険することもできやしない。
してないけど。笑。
冒険は、金魚になった
広大な砂漠だった。
モニターしてね。笑。
こういうと、二千年もの永きにわたって繁栄してきた
わが金魚テイク・オフの
過去へのロッテリア。
金魚学派のパパ・ドミヌスは
ぼくに、そうっと教えてくれた。
金魚大統領の棺の
肛門の
栓をひねって
酔うと、
ぼくは金魚に生まれ変わった扇風機になる。
冷たい涼しい。
金魚のような
墓地。
ぼくの
moumou と sousou の
金魚たち。
いつのまにか、複製。
なんということもなく
金魚大統領と面会の約束をする。
当地の慣習として
それは論議の的になること間違い。
笑。
FUxx You
これは
ふうう よう
と読んでね。
笑。
当地の慣習として
眼帯をした金魚の幽霊が
創造と現実は大違いか?
想像と堅実は大違いか?
sousou
意識不明の幽霊が
金魚の扇風機を
手でまわす。
四つ足の金魚が、ぼくのカーペットの上に
無数の足をのばす。
カーペットは、ときどき、ぼくのフリをして
金魚を口から吐き出す。
ぷつん、ぷつん、と。
ぼくの白目は真っ赤になって
からから鳴かなかった。
金魚に鳴いてみよと
よしこちゃんがさびしそうにつぶやいた。
完全密封の立方体金魚は
無音で回転している。
とってもきれいな
憂鬱。
完全ヒップなぼくの扇風機は
金魚の羽の顧問だ。
カモン!
ぼくは、冷蔵庫に、お父さんの金魚を隠してる。
金魚のお父さんかな。
どっちでも、おなじだけど。笑。
ときどき、墓地になる
金魚
じゃなかった
ぼくの喉の地下室には
フランク・シナトラ。
目や耳も
呼吸している。
息と同じように
目や
耳も
呼吸している。
呼吸しているから
窒息することもある。
目や耳も、呼吸している。
白木みのる
ってあだ名の先生がいた。
ぼくと一番仲のよかった友だちがいた研究室の先生だったけど
とっても高い声で
キキ、キキ
って鳴く
白木みのるに似た先生だった。
ある日、その先生の助手が
(こちらは顔の大きなフランケンシュタインって感じね。)
学生実験の準備で、何か不手際をしたらしくって
その先生に、ものすごいケンマクでしかられてたんだって
「キキ、キミ、その出来そこないの頭を
 壁にぶち当てて、反省しなさい。」
って言われて。
で、
その助手もヘンな人で
言われたとおりに
その出来そこないの頭を
ゴツン、ゴツン
って、何度も壁にぶちあてて
「ボボ、ボク、反省します。
 反省します。」
って言ってたんだって。
友だちにそう聞いて
理系の人間って、ほんとにイビツなんだなって
思った。
プフッ。。
田中さんといると、いつも軽い頭痛がする、と言われたことがある。
ウの目、タカの目。
方法序説のように長々とした前戯。
サラダバー食べすぎてゲロゲロ。
言葉。
言葉は、自我とわたしを結ぶ唯一の媒体である。
言葉がそのような媒体であるのは
言葉自体が自我でもなく
わたしでもないからであるが
媒体という言葉をほかの言葉にして
言葉は自我であると同時にわたしであるからだと
思っているわたしがいる。
理解を超えるものはない。
いつも理解が及ばないだけだ。
お母さんを吐き出す。
お父さんを吐き出す
うっと、とつぜんえずく。
内臓を吐き出して
太陽の光にあてる。
そうやって浜辺で寝そべるぼく

イメージ。
たくさんの窓。
たくさんの窓にぶら下がる
たくさんのぼく

抜け殻。
ぼくの姿をしたさなぎ。
紺のスーツ姿で、ぼうっと突っ立っているぼく。
ぼくのさなぎの背中が割れる。
スーツ姿のぼくが
ぼくのスーツ姿のさなぎから
ぬーっと出てくる。
死んだまま。
つぎつぎと
アドルニーエン。
アドルノする。
難解にするという意味のドイツ語
だという。
調べてないけど、橋本くんに教えてもらった。
2002年2月20日のメモは
愛撫とは繰り返すことだ。
アドルニーエン。
アドルノする。
難解にするという意味のドイツ語
だという。
調べてないけど、橋本くんに教えてもらった。


陽の埋葬

  田中宏輔



 蜜蜂は、わたしの手の甲を突き刺した。わたしは指先で、その蜜蜂をつまみ上げた。毒針ごと蜜蜂の内臓が、手の甲のうえで、のたくりまわっている。やがて、煙をあげて、その毒針と内臓が、わたしの手の甲から、わたしのなかに侵入していった。黒人の青年がその様子をまじまじと見つめていた。「それですか?」「そうだ。おまえの連れてきた娘は、覚悟ができているのか?」白人の娘がうなずいた。まだ二十歳くらいだろう。「エクトプラズムの侵入には苦痛が伴う。そのうえ、ほとんど全身を変化させるとすると、そうとうの苦痛じゃ。あまりの苦痛に死ぬかもしれん。それでもよいのじゃな。」「ええ、覚悟はできています。」女はそう言うと、黒人青年の手を強く握った。「では、さっそく施術にとりかかろう。」わたしは二人を施術室に案内した。「夏じゃった。わしは祖父の手に引かれて、屋敷の裏にある畑にまで行ったのじゃ。祖父が、隅に置かれた蜂の巣を指差した。すると、どうじゃろう。まるで蜜が沸騰しているかのように、黄金色の蜂蜜が吹きこぼれておったのじゃ。」老術師は左手の甲を顔のまえに差し上げた。「蜜蜂というものはな。同じ花の蜜しか集めてこんのじゃ。一度味わった花の蜜だけを、その短い一生のあいだに集めるのじゃ。祖父は、わしと同じくらいの齢の童子をさらってきたのじゃな。蜂の巣のそばの樹の根元に幼児が横たわっておったのじゃ。わしの畑の蜜蜂たちは、生きている人間から蜜を集めておったのじゃ。エクトプラズムという蜜を。わしの畑の蜜蜂たちは、人間の命という花から、魂にもひとしいエクトプラズムという蜜を集めておったのじゃ。」老術師の左手の甲を蜜蜂が刺した。老術師は痛みに顔をゆがめた。「苦痛が、わしを神と合一させるのじゃ。」老術師の左手の甲に、蜜蜂の姿がずぶずぶと沈んでいった。「詩人ならば、苦痛こそ神であると言ったであろうな。」老術師が奥の部屋の扉を開けると、蜜蜂たちのぶんぶんとうなる羽音がひときわ大きくなった。「あやつの信奉しておるあの切腹大臣の三島由紀夫は、日本の魂を売りおったのじゃ、おぬしら外国人にな。」老術師はその皺だらけの醜い顔をさらにゆがめて皮肉な笑みを浮かべた。「そして、おぬしら外国人によって名誉を汚されるというわけじゃ。」黒人青年は握っていた手に力を入れた。白人女性も同じくらいの強さでその手を握り返した。「もはやアメリカは、日本の属国ではないのだ。たとえ先の大戦で、アメリカが日本に負けたといっても、それは半世紀以上もまえのこと。とっくに、アメリカは、日本から独立しているべきだったのだ。」老術師は声を出して笑った。「いやいや、そんなことは、どうでもよい。わしはあの三島由紀夫と、あの詩人の一族が名誉を失うところが見たいのじゃ。ただ、それだけじゃ。」老術師が、蜜蜂の巣のほうに、その細い腕を上げると、蜜蜂たちが螺旋を描きながら巣のなかから舞い出てきた。白人女性が叫び声を上げようとした瞬間に、無数の蜜蜂たちが、吸い込まれるようにして、その口のなかにつぎつぎと舞い降りていった。女性の身体は激痛に痙攣麻痺して、後ろに倒れかけたが、黒人青年の太い腕が彼女の身体を支えた。白人女性の白い皮膚のしたを、蜜蜂たちがうごめいている。うねうねと蜜蜂たちがうごめいている。白人女性の血管のなかを、蜜蜂たちが這いすすむ。するすると蜜蜂たちが這いすすむ。蜜蜂たちは、女性の命の花から、魂を齧りとってエクトプラズムの蜜として集めていた。「あすには、変性が完了しておるじゃろう。」黒人青年は疑問に思っていたことを尋ねた。「あなたがわれわれに手を貸したことがわかってはまずいのではないか。」老術師が遠くを見るような目つきで言った。「死は恥よりもよいものなのじゃ。」黒人青年にはその言葉の意味するところのものがわからなかった。

 わたくしが、この物質を発見したいきさつについて、かいつまんでお話しいたします。わたくしは、同志社大学の、いまは理工学部となっておりますが、わたくしが学生のころは、工学部だったのですが、その工学部の工業化学科を卒業したあと、研究者になるために、大学院に進学して、さらに研究をつづけていたのですが、博士課程の途中で、ノイローゼにかかり、自殺未遂をしたあと、博士課程の後期に進学せず、前期修了だけで、工業試験所に就職したのですが、このときの自殺未遂については、雑誌にエッセイとして発表してありますので、詳しく知りたい方は、さきほど配布していただいた資料に掲載されておりますので、後ほどお読みください、すみません、わたくしの話はよく横道にそれる傾向があるようです。工業試験所では、わたくしは、レアメタルを3次元焼着させた電極(スリー・ディメンショナル・アノード)を用いて、高電位で、インク溶液を電気分解していたのですが、あるとき、偶然から、まったく同じ詩が書かれているページを溶解した溶液なのに、異なる本から抽出した異なるインクから、同じ物質が電極の表面に付着していることに気がついたのです。レーザー・ラマン・スペクトル解析やガスクロマトグラフィーによって、その物質の組成をつきとめることは、みなさんご存じのとおり、可能ではありましたが、その構造解析にいたっては、いまだに解明されてはおりません。その解明が、わたくしの一生の仕事になると、いまでも信じ、研究をつづけておりますが、さて、この物質、わたくしが、「詩歌体」と命名した物質ですが、これは、同じ詩や短歌や俳句、あるいは、哲学書やエッセイにおいても、異なる本に書かれてあれば、抽出される量が、インクの種類や量の違いよりも、その文字の書体やページの余白といったもののほうにより大きく依存していることがわかったのですが、このことが、この物質、「詩歌体」の構造解析の難しさをも語っているのですが、通常の物質ではなくて、わたくしたち科学者と異なる歴史と体系をもつ「術師」と呼ばれる公認の呪術の技術者集団によってつくり出されるエクトプラズム系の物質であること、そのことだけは、わかったのですが、高電位の電気分解、しかも、レアメタルの3次元電極でのみ発見されたことは、わたくしの幸運であり、僥倖でありました。いまも務めております工業試験所で、このたび、わたくしは、あるひとりの術師と協力して、この「詩歌体」の構造解析に取り組むこととなりました。術師は、本名を明かさないのが世のつねでありますので、性別くらいは発表してもよろしいでしょうか、彼の協力のもとで、このたび、この財団、「全日本詩歌協会」の助成金により、わたくしの研究がすすめられることは、まことによろこばしい限りであり、かならずや、「詩歌体」の構造を解明できるものと思っております。(ここで、横から紙が渡される。)本名でなければ、術師の名前を明かしてもいいそうです。わたくしに協力してくださる術者のお名前は、みなさんもよくご存じの、あの「詩人」です。リゲル星人と精神融合できる数少ない術師のお一人です。わたくしは、まだ一度しかお目にかかっておりませんが、このあいだ、切腹大臣の三島由紀夫さんが活躍なさった、アメリカ独立戦線のテロリストの逮捕事件で、リゲル星人の通訳をなさっていた方です。それでは、「全日本詩歌協会」のみなさまのますますのご発展と、わたくしの研究の成功をお祈りして、この講演を終えることにします。ご清聴くださいまして、ありがとうございました。しばし、沈黙の時間を共有いたしましょう。(会場の隅にいた、協会の術師たちが結界をほどきはじめる。)

「「葉緑体」が、気孔から取り入れた空気中の二酸化炭素と、地中から根が吸い上げた水とから、日光を使って、酸素とでんぷんをつくり出すように、「詩歌体」は、言葉のなかから非個人的な自我ともいうべき非個人的なロゴス(形成力)と、その言葉を書きつけた作者の個人的自我ともいうべき個人的なロゴス(形成力)を、読み手の個人的な自我と非個人的な自我と合わせて、その言葉が新しい意味概念とロゴスを形成し、獲得すると思っているのですが、どうでしょう?」こう言うと、詩人は、つぎのように答えた。「そうかもしれませんが、「葉緑体」そのものは、作用して働いているあいだ、遷移状態にあるわけですが、作用が終わり、働きを終えると、もとの状態に戻ります。」そして尋ねてきた。「「詩歌体」もそうなのですか?」わたくしは詩人の目を見つめながら言った。「わたくしは、「詩歌体」の作用や働きについても、まだ確信しているわけではないのです。自らが変化することなく他を変化せしめるだけの存在なのか、そうではないのか、まだわかりません。ただ、「詩歌体」というものが、語自体のもつ非個人的なロゴス(形成力)と、語を使う者によって付与される個人的なロゴス(形成力)を結びつけ、新しいロゴスを生成するということだけがわかっています。ところで、」と言って、わたくしは、顔をかしげて、わたくしの机のうえに置かれた1冊の詩集に目を落としている詩人に向かって、話をつづけた。「その点を明らかにすることができるのかどうか、絶対的な確信を抱いているわけではないのですが、あなたが仮の名前の「田中宏輔」名義で出されている、この引用だけでつくられた詩集ですが、これを実験に使わせていただこうと思っているのですよ。」そう言うと詩人は、目をあげて、わたくしの目を見つめた。「あなたは、一つ間違っています。実験についての方針は、あなたが決めることですから、その目的も方法も、あなたの思われるようになさればよいでしょう。わたしは協力できることは、できる限り協力しましょう。間違いとはただ一つ、ささいなことですが、見逃せません。「田中宏輔」というのは、わたしの仮の名前ではありません。わたしが、アイデアを拝借した一人の青年の名前です。彼は彼の30代の終わりに自殺して亡くなりましたが、詩集を出していたのは、わたしではなく彼なのですよ。」わたくしは、手にしていた詩集を机のうえに置いた。詩人はそれを見て、ふたたび話しはじめた。「おもしろい青年でしたよ。わたしがリゲル星人とともに訪れた12のすべてのパラレル・ワールドで、残念なことに、彼は30代の終わりに自殺していましたが、まあ、もともと12のパラレル・ワールドは、お互いにほとんど区別がつかないくらいに似通っていますから、不思議なことではないのですが、残念なことでした。ところで、その詩集は、彼が上梓したさいごの詩集でしたね。できる限り、その詩集を集めて実験に使われるとよろしいでしょう。」そう言うと、詩人は腰を上げて、外套に袖を通すと、ひとこと挨拶して、わたくしの部屋を出て行った。わたくしは、机のうえに置いた詩集を取り上げると、ぱらぱらとページをめくっていった。すべての詩篇が引用だけでつくられているのであった。ロゴス、ロゴス、ロゴス。非個人的なロゴスと、個人的なロゴス。意識的領域におけるロゴスと、無意識的領域におけるロゴス。すべては、この語形成力、ロゴスによるものなのだろう。わたくしも帰り支度をするために椅子を引いて立ち上がった。


陽の埋葬

  田中宏輔



Mmmmm.


Whip!


Mmmmm.


Whip!


子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、蜜を食べよ、
(箴言二四・一三)

tuum est.
それは汝のものなり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

お前の授かりものだ。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

mel
蜂蜜
(研究社『羅和辞典』)

accipe hoc.
これを受けよ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

Mmmmm.


Whip!


Mmmmm.


Whip!


子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、蜜を食べよ、
(箴言二四・一三)

蜂窩(ほうか)から取りたての金色の蜜だ。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

tuum est.
それは汝のものなり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

tuo nomine
汝のために
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

dabam.
私は與へたり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。
(マルコによる福音書一・一一)

わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。
(エレミヤ書三一・三)

子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、
(箴言三・一)

聞け、よく聞け、
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

もし、汝、その父をかつて愛していたならばーー
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

手を伸ばし
(マタイによる福音書一二・一三)

しっかと爪(つめ)を立て
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

わたしを引き裂いて
(哀歌三・一一)

唇に吸うのだ。
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第一部、井上正蔵訳)

蜜はたっぷりある。


est,est,est.
ある、ある、ある。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

というのも、
(プルースト『失われた時を求めて』見出された時、鈴木道彦訳)

わたしの血管には蜜が流れていて、
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

ad imis unguibus usque ad summum verticem
兩足の爪の先より頭の天邊まで
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

脈管の中にみなぎり流れ、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

体のすみずみまで
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

ex pleno
満ち溢れて
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

あぶくを立てながら血管をめぐる。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部、手塚富雄訳)

ぐるぐる回っている。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

ああ、この空隙!
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第二部、井上正蔵訳)

この空隙はすっかり満たされるのだ、
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第二部、井上正蔵訳)

costa
肋骨(ろつこつ)
(研究社『羅和辞典』ルビ加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

誰が私を造ったのか。
(アウグスティヌス『告白』第七巻・第三章、渡辺義雄訳)

hoc est corpus meum.
これは私の身體なり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

あらゆるぎざぎざした岩の狭間(はざま)から
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

岩から出た蜜をもってあなたを飽かせるであろう。
(詩篇八一・一六)

costa
肋骨(ろつこつ)
(研究社『羅和辞典』ルビ加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

ubi mel,ibi apes.
蜜のあるところ、そこに蜜蜂あり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

わが胸の蜜窩(みつぶさ)には、無数の蜜蜂どもがうごめいている。


これはわたしの生き物たちだ。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部、手塚富雄訳、句点加筆)

胸の奥ふかく
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

心臓の奥の奥まで
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

わが胸は、蜜蜂たちの棲処(すみか)となっているのだ。


Bienenbeute
蜜蜂の巣
(相良守峯編『独和辞典』博友社)

恐ろしい姿だ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

けれども心臓は鼓動している。
(ロートレアモン『マルドロールの歌』第四の歌、栗田 勇訳)

わたしの心臓は喉(のど)までも鼓動してくる。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部、手塚富雄訳)

わたしが蜜に欠くことがないように、
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

休みなく活動する
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

apis
蜂、蜜蜂
(研究社『羅和辞典』)

わがむねの、満(み)つるまで、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

行きつ戻りつして、
(トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳)

この胸に積みかさね、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

あっちこっちと動いている。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、句点加筆)

ぐるぐる動きまわってる。
(ジョイス『ユリシーズ』6・ハーデス、永川玲二訳)

心臓のひだを暖めてる。
(ジョイス『ユリシーズ』6・ハーデス、永川玲二訳)

でなかったら、どうして鼓動していることだろう。
(ロートレアモン『マルドロールの歌』第四の歌、栗田 勇訳)

心臓の脈管は百と一つある。
(『ウパニシャッドーー死神の秘儀』第六章、服部正明訳)

aorta
大動脈
(研究社『羅和辞典』)

arteriola
小動脈
(研究社『羅和辞典』)

この体の血管の一つ一つ
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第四場、大山俊一訳)

わたしの洞窟(どうくつ)に通じている
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

あらゆる血管の中を
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

Und immer eins dem andern nach,
あとから、あとから、一匹ずつ通ってゆく。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

おお、わたしの古いなじみの心臓よ、
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

costa
肋骨(ろつこつ)
(研究社『羅和辞典』ルビ加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

わたしの洞窟は広く、深く、多くの隅(すみ)をもっている。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

あちこちの裂目(さけめ)から
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

飛び去る
(ナホム書三・一六)

わたしの生き物たち。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部、手塚富雄訳、句点加筆)

口々に
(シェイクスピア『ハムレット』第四幕・第五場、大山俊一訳)

蜜をしたたらせ、
(箴言五・三)

百千の群なして
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

大きな群れとなってここに帰ってくる。
(エレミヤ書三一・八)

たしかに、
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第二部、井上正蔵訳)

恐ろしい姿だ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

だが、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

恐れることはない。
(マタイによる福音書二八・一〇)

おまえの父だ!
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第二部、井上正蔵訳)

まさしくわたしなのだ。
(ルカによる福音書二四・三九)

なぜこわがるのか、
(マタイによる福音書八・二六)

this is my body,
これはわたしのからだである。
(マタイによる福音書二六・二六)

手をのばしてわたしのわきにさし入れなさい。
(ヨハネによる福音書二〇・二七)

さあ、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

あなたの指をここにつけて、
(ヨハネによる福音書二〇・二七)

心ゆくばかりさしこむのだ。
(アドルフ・ヒトラー『わが闘争』第二章、平野一郎訳)

costa
肋骨(ろつこつ)
(研究社『羅和辞典』ルビ加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

胸の奥ふかく
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

心臓の奥の奥
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

私の最も深い所よりもっと深い所に、
(アウグスティヌス『告白』第三巻・第六章、渡辺義雄訳)

いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる
(マルコによる福音書三・二九)

一人の女がいる。


ごらんなさい。これはあなたの母です。
(ヨハネによる福音書一九・二七)

今もなお、
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

わたしの内に宿っている罪である。
(ローマ人への手紙七・二〇)

子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、
(箴言二四・一三)

思い出すがよい。
(ルカによる福音書一六・二五)

かつて、
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第二部、井上正蔵訳)

一人の女がこの世に罪をもたらした。
(ジョイス『ユリシーズ』7・アイオロス、高松雄一訳)

culpa

(研究社『羅和辞典』)

culpa

(研究社『羅和辞典』)

culpa

(研究社『羅和辞典』)

罪の数々はよりどりみどり、
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第一場、大山俊一訳)

ibi
そこに
(研究社『羅和辞典』)

hic
ここに
(研究社『羅和辞典』)

ubicumque
至る所に
(研究社『羅和辞典』)

est,est,est.
あり、あり、あり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、
(箴言二四・一三)

accipe hoc.
これを受けよ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

罪の増すところには恵みもいや増す。
(ローマ人への手紙五・二〇)

tuo nomine
汝のために
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

わが胸の蜜蜂は、


これを集め、
(ハバクク書一・一五)

これを蜜に変える。


これをみな蜜に変える。


これをみな、ことごとく蜜に変える。


costa
肋骨(ろつこつ)
(研究社『羅和辞典』ルビ加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、
(箴言二四・一三)

思い出すがよい。
(ルカによる福音書一六・二五)

かつて、
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第二部、井上正蔵訳)

一人の男が、蜂の巣のしたたりに手を差しのべた。


腕を差しのべた。
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第一部、井上正蔵訳)

いったい誰なのか。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

汝の父である。


おまえの父である。


わたしは蜜を愛する。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

わたしは手を差しのべた。


わたしは蜜を愛する。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

わたしは手を差しのべた。


わたしは蜜を愛する。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

わたしは手を差しのべた。


ああ、誰かこれをまのあたりにして、
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

欲しないものがあろうか。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

子よ、
(創世記二七・八)

子よ、
(創世記二七・八)

similis patris
父に似たる
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

わが子よ、
(箴言一・一〇)

proles sequitur sortem peternam.
子は父の運命に随ふ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

逃れるすべはないのだ。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、読点加筆)

proles sequitur sortem peternam.
子は父の運命に随ふ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

逃れるすべはないのだ。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、読点加筆)

Mmmmm.


Whip!


Mmmmm.


Whip!


子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、蜜を食べよ、
(箴言二四・一三)

est tuum.
それは汝のものなり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

totum in eo est.
全體(すべて)がそれにあり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』ルビ加筆)

costa
肋骨(ろつこつ)
(研究社『羅和辞典』ルビ加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

わたしの洞窟は広く、深く、多くの隅(すみ)をもっている。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

胸の奥ふかく
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

心臓の奥の奥
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

私の最も深い所よりもっと深い所に、
(アウグスティヌス『告白』第三巻・第六章、渡辺義雄訳)

いくつもの脈管がある。


どれも、神の園に通じる道である。


わが胸の蜜蜂は、


これより蜜を携え、


これより蜜を持ちかえることのできる


唯一の生き物である。


costa
肋骨(ろつこつ)
(研究社『羅和辞典』ルビ加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

suspice et despice.
上を見よ、下を見よ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

塊(かたま)りが動いて澄(す)んでくる。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

澄(す)んでくる。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

濁(にご)ってはまた澄(す)んでくる。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

澄(す)んでくる。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

る。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、蜜を食べよ、
(箴言二四・一三)

tuum est.
それは汝のものなり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

dabam.
私は與へたり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

お前の授かりものだ。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

Mmmmm.


Whip!


Mmmmm.


Whip!


Mmmmm.


Whip!


Mmmmm.


Whip!


子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、蜜を食べよ、
(箴言二四・一三)

est tuum.
それは汝のものなり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

totum in eo est.
全體(すべて)がそれにあり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』ルビ加筆)

さあ、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

唇に吸うのだ。
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第一部、井上正蔵訳)

恐れることはない。
(マタイによる福音書二八・一〇)

わたしの最上の蜜、
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

わたしの最上の蜜、
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

versatur mihi labris primoribus.
それは私の唇の尖端にあり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

versatur mihi labris primoribus.
それは私の唇の尖端にあり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)


陽の埋葬

  田中宏輔



岩隠れ、永遠(とは)に天陰(ひし)けし岩の下蔭に、
──傴僂(せむし)の華が咲いてゐた。

華瓣(はなびら)は手、半ば展(ひら)かれた屍骨(しびと)の手の象(かたち)、
──手の象(かたち)に揺らめく鬼火のやうな蒼白い光。

根は荊髪(おどろがみ)、指先にからみつく屍骨(しびと)の髪の毛、
──土塊(つちくれ)に混じつて零れ落ちる無数の土蜘蛛たち。

芬々(ふんぷん)とむせる甘い馨(かを)り、手燭(てしよく)の中に浮かび上がる土蜘蛛の巣、
──巣袋の傍らに横たはる土竜(もぐら)の屍(しかばね)。

頬に触れると、眼を瞑つたまま、口をひらく、その口の中には、
──羽虫の死骸がぎつしりとつまつてゐた。

隠水(こもりづ)、月の光つづしろふ薄羽蜉蝣(うすばかげろふ)、
──葬(はふ)りのたびごとに葬玉を産卵する岩の端(はな)。

(イハ、ノ、ハナ)

串(くすのき)の嬰兒(みどりご)、袋兒(ふくろご)の唖兒(あじ)、

──わたくしの死んだ妹は、天骨(むまれながら)の、纏足だつた(つた)

生まれたばかりの九つの葬玉、

九つの孔(あな)を塞ぐ。

合葬。

死んだ土竜(もぐら)とともに、わたしは、わたしの、ちひさな妹を、埋葬し(まい、さうし)

古雛(ふるびな)の櫛の欠片に火をともし(ひを、ともし)

蒐(あつ)めた羽虫の死骸を、つぎつぎと、火の中に焼(く)べていつた(、つた)

傴僂(せむし)の華が恋をしてゐる。

死んでしまつた蝦足(えびあし)の妹に恋をしてゐる。

蕊(しべ)をのばして乳粥(ちちかゆ)のやうな精をこぼす。

(コボ、ツ?)

養(ひだ)さむ背傴僂(せくぐせ)。

わたしは傴僂(せむし)。

傴僂(せむし)の華が恋をしてゐる。

死んだ妹に恋をしてゐる。

馬の蹄に踏み砕かれた伏せ甕。

重なりあつた陶片(たうへん)の下闇。

蝸牛の卵たちがつぎつぎと孵(かへ)つてゆく。

蝸牛の卵たちがつぎつぎと孵(かへ)つてゆく。

──これがお前の世界なのだ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、罫線加筆)

ああ、苦しい、苦しい。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

わたしは傴僂(せむし)。

傴僂(せむし)の華が恋をしてゐる。

死んだ妹に恋をしてゐる。

輪廻に墜ちる釣瓶(つるべ)。

結ばれるまへにほどける紐。

Buddha と呼ばれる粒子(りふし)がある。

わたしは傴僂(せむし)。

傴僂(せむし)の華が恋をしてゐる。

死んだ妹に恋をしてゐる。

ああ、苦しい、苦しい。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

あはれなる、わがかうべ、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、歴史的仮名遣変換)

あやしくも、くるひたり。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、歴史的仮名遣変換)

あはれなる、わがかうべ、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、歴史的仮名遣変換)

あやしくも、くるひたり。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、歴史的仮名遣変換)

り。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、歴史的仮名遣変換)


(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)


陽の埋葬

  田中宏輔

                           

 部屋に戻ると、原稿をしまって、インスタントのアイス・コーヒーをつくった。詩人にいわれた言葉を思い出した。自分では、小説を書いたつもりであったのだが、小説にすらなっていなかったということなのだろう。ほめられなかったことに、どこかで、ほっとしている自分がいる。
 半分くらい読んでいた詩集のつづきを読んだ。ヘッセの詩集だった。ヘッセの詩はわかりやすく、しかも、こころにとどく言葉がたくさんあった。先日買っておいた『デミアン』を手に取った。
 話し声がしたので、窓のほうに目をやった。カーテンをひいた窓の外は真っ暗だった。真夜中なのだった。窓を開けておいたので、ふつうの大きさの声でもよく聞こえてくる。暑かったのだが、クーラーをつけるほどではなく、窓を開けて風を取り入れてやれば十分にしのげるぐらいの暑さだった。時計を見ると、三時を過ぎていた。部屋に戻ってきたときには、すでに十二時を回っていた。栞代わりに絵葉書を本のあいだに挟むと、テーブルの上に置いて、窓のところにまでいって見下ろした。部屋は、北大路通りに面したビルの二階にあった。下で、二人の青年が話をしていた。しばらくすると、一人の青年がこちらを見上げた。目が合った。体格のよい童顔の青年だった。もう一人の青年のほうも顔を上げた。その顔が見える前に、ぼくは窓から離れていた。もう一人のほうの青年の顔は、ほとんどわからなかった。二人は話をやめた。二人とも自転車に乗っていた。自転車をとめて話をしていたのだった。二人は去っていった。何か予感がした。部屋から出て、階段を下りると、マンションの外に出た。通りをうかがった。すでに、二人の姿はなかった。マンションを下りてすぐのところがバス停になっていて、二人は、そのバス停にしつらえてあったベンチに足をかけて自転車にまたがりながら話をしていたのだった。しかし、そのバス停の明かりも、とっくに消えていて、明かりといえば、等間隔に並んでついている街灯と、北大路通りの西側にあるモスバーガーと、北大路通りと下鴨本通りの交差しているところにある牛丼の吉野家のものだけだった。しばらくすると、さっきぼくと目を合わせた青年が、北大路通りを東のほうから自転車に乗ってやってきた。そばにまでくると、ゆっくりと歩くぐらいの速度にスピードを落として、ぼくの目の前を通り過ぎていった。ちらっと目が合った。後ろ姿を見つめていると、彼が自転車をとめて振り返った。彼はハンドルを回してふたたび近づいてきた。ぼくのほうから声をかけた。「こんな真夜中に、何をしているのかな?」「ぶらぶらしてるだけ。」「夏休みだから?」「ずっと夏休みみたいなものだけど。」ぼくは、明かりのついている自分の部屋を見上げた。彼もつられて見上げた。「よかったら、話でもしに部屋にこないかい?」「いいですよ、どうせ、ひまだから。」
 名前を訊くと、林 六郎だという。部屋に上がると、二人分のアイス・コーヒーをつくった。年齢を聞くと、十六だというので驚いた。体格がよかったので、大学生くらいに思っていたのだ。音楽が好きだという。音楽の話をした。彼はハーモニカの音が好きだといった。窓を閉めて、エアコンのスイッチを入れると、スーパー・トランプの『ブレックファスト・イン・アメリカ』をかけた。
 そのまま二人は眠らなかった。朝になって、彼は帰っていった。何もなかった。
 二日後、彼が部屋にきた。それは夕方のことであった。ぼくが仕事から帰ってきて、すぐだった。テーブルを挟んで向かい合わせに坐った。彼は、しきりに自分の股間をもんでいた。ぼくの視線は、どうしても彼の股間にいってしまった。彼はそのことに気づいていたのだと思う。彼の股間は、はっきりと勃起したペニスのかたちを示していた。泊まっていくかい? と、ぼくがたずねると、彼は笑顔でうなずいた。
 夜になって、彼はソファに、ぼくは布団の上に寝た。横になってしばらくすると、ソファに寝そべる彼のそばにいった。彼は眠っていたのかもしれなかったし、眠っていなかったのかもしれなかった。どちらかわからなかったのだが、タオルケットの下から手をもぐりこませて彼の股間にそっと触れた。彼は、ジーンズをはいたまま眠っていた。ぼくが、ぼくのパジャマを貸すといっても、遠慮して、ジーンズをはいたまま眠るといっていたのだった。彼の股間が膨れてきて、彼のペニスが硬くなっていった。ぼくの期待も急速に高まっていった。心臓がドキドキした。ジーンズのジッパーを下ろしていった。半分くらい下ろしたところで、彼は目を開けて、身体を起こした。「すいません、帰って寝ます。」「ああ、そうするかい。」ぼくは、あわててこういった。
 それから、彼は二度とぼくの部屋にこなかった。外でも出会わなかった。彼が、ぼくに何を期待していたのか、ぼくにはわからない。ぼくが彼に期待したものと、彼がぼくに期待したものとが違っていたということだろうか。それとも、ただぼくが性急だったので、彼の警戒心を急速に呼び起こしてしまったということなのだろうか。こんなふうにして、状況をぶち壊しにしてしまうことが、ぼくには、たびたびあった。幼いときから、ずっと、である。ぼくの人生は、そういった断片からできているといってもよいぐらいだ。
 詩人が、ぼくの話を聞いて、それを詩にしているということが、これまでずっと不思議に思っていたのだが、ヘッセの詩集や小説の解説を読んでいて、ようやくわかるような気がした。詩人が、ぼくの話を聞いて詩にしていたのは、おそらく、ぼくがぼく自身の人生をうまく生きていくことができない人間だからなのであろう。
 あるとき、詩人にたずねたことがある。あなたには、語るべき人生がないのですか、と。詩人は即座に答えた。「自分のことだと、何をどう書けばいいのか、とたんにわからなくなるのだよ。しかし、他人のことだと、わかる。何をどう書けばいいのか、たちまちわかってしまうのだよ。」と。
 きょう、「ユリイカ」という雑誌を買った。ぼくの名前で出した投稿詩が載っていたからである。詩人が、ぼくの名前で出すようにいったのだった。それは、ぼくが詩人に話したぼくの学生時代の経験を、詩人が詩にしたものだった。「高野川」というタイトルの詩だった。


陽の埋葬

  田中宏輔


I

少年は待っていた。
雨が降っている。

少年は待っていた。
雨が降っている。

少年は待っていた。
男は来なかった。

少年は待っていた。
雨が降っている。

少年は待っていた。
男は来なかった。

少年は待っていた。
男は来なかった。


II

あの日も雨が降っていた。

男は少年を誘った。
少年はまだ高校生だった。

あの日も雨が降っていた。

男は少年を抱いた。
少年ははじめてだった。

あの日も雨が降っていた。

買ったばかりのCD、
ホテルに忘れて。

あの日も雨が降っていた。

また、逢ってくれる?
少年は男にきいた。

あの日も雨が降っていた。

また、逢ってくれる?
男は振り返った。

あの日も雨が降っていた。

また、逢ってくれる?
男は頷いてみせた。


III

少年は待っていた。
雨が降っていた。

少年は待っていた。
雨が降っていた。

少年は待っていた。
雨が降っていた。

少年は待っていた。
男は来なかった。

少年は待っていた。
男は来なかった。

少年は待っていた。
男は来なかった。

いつまで待っても
男は来なかった。

いつまで待っても
男は来なかった。

雨と雨粒、
睫毛に触れて、

少年のように
雨が降っていた。

少年のように
雨が待っていた。


陽の埋葬

  田中宏輔



 チチ、チェ、ケッ、あんた、詩人だろ、二週間ばかり前じゃねえかなあ、あんた、ドクターとしゃべってたろ、あとで、オイラ、あのドクターにオイラのチンポしゃぶらせてやったんだぜ、チチ、チェ、ケッ、それ、知ってるよ、オイラも、ドクターにもらったからな、さわるなって、オイラ、手でさわられるのってヤなんだよ、Dだろ、D、右のほうのDをあんたが飲んで、左のほうのDをオイラが飲むと、あんたがつくる世界に、オイラが入るんだよな、チチ、チェ、ケッ、ヤだよ、オイラがコッチで、あんたがソッチ飲むんだよ、そしたら、オイラがつくる世界に、あんたがくることになる、さわるなって言ってんだろ、そんなにオイラのチンポがほしいんなら、直接しゃぶれよ、さわんなって、オイラが自分で出すよ、ほら、ビンビンだぜ、うまそうだろ、チチ、チェ、ケッ、ほら、口から出すなよ、ずっとしゃぶりつづけろよ、口だけだぜ、手でさわんなよ、そうだよ、強く吸ってくれ、舌ももっと動かしてくれよ、えっ、何、年か、オイラ、まだ十七だよ、ほら、しゃぶりつづけろって、あんた、上手だよ、え、何、初体験はって、チチ、チェ、ケッ、メンドクセーな、犬だよ、犬、あん、おっ、あの光、見ろよ、あんた、見たかい、あの光、見に行こうぜ、あれは、オイラが仕掛けた凍結地雷の光なんだぜ、あんた、見たことないかい、行こうぜ、ほら、ほら、お、これだ、これだ、こんなヤツがひっかっかった、見ろよ、こいつも犬だってよ、こんなカッコでトイレの横で凍結しちまってよ、チチ、チェ、ケッ、丸裸で、首に、こいつは犬です、小便をかけてやってください、だってよ、こんなカッコで固まってやがんの、チチ、チェ、ケッ、お、薬が効いてきたな、ほら、これがオイラの部屋さ、何もねーだろ、オイラ、こう見えても、いっぱしの配管工なんだぜ、こういった、からっぽの部屋に、パイプをぎゅうぎゅうつめて、パイプだらけの部屋にするのがオイラの夢なんだ、あんた、そこに四つんばいになんな、そうだよ、入れてやるよ、あんたみたいなおっさんを後ろから犯すのがいいのさ、ほら、この部屋みたいに、あんたのケツに、あんたのからっぽに、オイラのパイプを突き刺さしてやるぜ、オイラのでっけーパイプを突き刺してやるぜ、あんたのからっぽを、オイラのパイプをぎっしりつめ込んでやるぜ、ほら、ほら、グリグリグイグイ、ズリズリズンズン、ほら、痛いかい、もっとツバつけてやるからな、それでも痛いだろうけどよ、オイラのチンポ、でけーからな、痛かったら、痛いって言えよ、泣いたっていいんだぜ、泣けよ、ほら、痛いだろ、泣けよ、泣き叫べよ、この部屋にパイプがぎゅうぎゅう、パイプがぎゅうぎゅう、あんたのケツにも、オイラのチンポが、グリグリグイグイ、ズリズリズンズン、あんた、緑の顔の男とは双子なんだってな、だけど、あんたは、あの男の緑の顔からほじくりだされた、にきびの塊だって話じゃないか、ジョーダンだよ、あんたがホムンクルスじゃないってことは、このケツのしまり具合でわかるさ、でもよ、そのビクビクしたところなんか、ホムンクルスそっくりだぜ、え、ああ、あんた、クソちびったのかい、チチ、チェ、ケッ、オイラ、クソまみれのケツ、好きだぜ、ほら、液体セッケンだぜ、しみるだろうけどよ、いったあとに、すぐに洗い落とせるからな、オイラのザーメンも、あんたのクソも、ほら、もっとクソちびりな、クソまみれのケツ、犯すの、おもしれーぜ、ほら、ブッスンブッスン鳴いてるぜ、あんたのケツが、チチ、チェ、ケッ、オイラが突いてるときに入った空気の音だよ、あんた、恥ずかしいだろ、恥ずかしいんだろ、え、ほら、もうじき、あんたのクソまみれのケツに出しちゃうぜ、ほら、ほら、ほら、うっ、うっ、いいだろ、よかったろ、あん、あ、薬が切れてきたかな、公園の風景と、オイラの頭のなかの部屋が、かわりばんこに入れ替わる、お、お、お、元にもどったな、さわんなって、オイラ、手でさわられるのがヤだって言ったろ、それに、もういっちゃったんだよ、頭んなかでさ、あんたのクソまみれのケツのなかに出しちゃってるんだよ、まあ、もうイッパツ出してもいいかな、おいおい、さわんなって言ってるだろ、オイラが自分で出すからよ、ほら、しゃぶりな!


陽の埋葬

  田中宏輔



──おいでなさい。よい星回りです。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、罫線加筆)


畳の湿気った奥座敷、御仏壇を前にして、どっかと鎮座する巨大なイソギンチャク。


(座布団が回る、イソギンチャクが回る、互いに逆方向に回りはじめる)


──おいでなさい。よい星回りです。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、罫線加筆)


イソギンチャクが呼吸をするたび、星々が吸い込まれ、星々が吐き出される。


(そのたびごとに、宇宙はこわれ、宇宙はつくられる。)


──おいでなさい。よい星回りです。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、罫線加筆)

螺旋に射出された星々が超高速で回転する。


(刹那の星回り!)


星と星と星との饗宴。


鐘と鐘と鐘とが響きあう。
(ジョイス『ユリシーズ』9・スキュレーとカリュブディス、高松雄一訳)

(団栗橋だなんて、懐かしいわねえ
 京阪電車も、以前は、地面の上を
 走ってて。ほら、憶えてるでしょ
 橋の袂を通るたび、桜の花びらが)


semaphore 腕木信号機。


(通過する急行電車!)


semaphore 腕木信号機。


(通過する急行電車!)


──もうどのくらい占星術に凝っているのかね?
(シェイクスピア『リア王』第一幕・第二場、大山俊一訳、罫線加筆)

(憶てるでしょ、ほら)


点滅する信号機!


さくら、


さくら、


点滅する信号機!


さくら、


さくら、


陽の埋葬

  田中宏輔



水裹(みづづつ)み、水籠(みごも)り、水隠(みがく)る、
──廃船の舳先。


舵取りも、水手(かこ)もゐない、
──月明(げつめい)に、


水潜(みくぐ)り過ぐるものがゐる。


新防人(にひさきもり)の亡き魂(たま)の
──その古声(ふるこゑ)に目が覚めて、


水潜(みくぐ)り過ぐるものがゐる。


呼び寄せらるる水屍骨(みづかばね)、


似せ絵のやうな
貌(かむばせ)。


──その貌(かむばせ)は、亡き新防人(にひさきもり)に、瓜二つだつた。


あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。
(イザヤ書四三・二、日本聖書協会・口語訳)

わたし?


──わたしは、長夜(ちやうや)の闇に、夢を見てゐました。


さうして、


毎日毎日(マイヒニヒニ) この(コノ) 道を(ミツ) 通ひました(カヨタ)。
(『全国方言資料・第三巻/東海・北陸編』日本放送出版協会、歴史的仮名遣変換)

マイ ヒニ ヒニ コノ ミツ カヨタ


海胆も、海鼠も、


コノ ミツ カヨタ








剥がれてゆくものがある。


ひとりでに剥がれてゆくものがある。


──もう、それは、わたしぢやない。


、わたしだつた。


はぐれた鱗(いろこ)がひとつ、


龍門の下を、


潜つて、ゆ


、ゆき


まし






陽の埋葬

  田中宏輔



月の夜だった。
  海は鱗を散らして輝いていた。
    波打ち際で、骨が鳴いていた。
     「帰りたいよう、帰りたいよう、海に帰りたいよう。」
   と、そいつは、死んだ魚の骨だった。
そいつは、月のように白かった。

月の夜だった。
 ぼくは、そいつを持って帰った。
    そいつは、夜になると鳴いた。
     「帰りたいよう、帰りたいよう、海に帰りたいよう。」
   と、ぼくは、そいつに餌をやった。
そいつは、口をかくかくさせて食べた。

真夜中、夜になると
  ぼくは、死んだ母に電話をかける。
   「もしもし、お母さん? ぼくだよ。ぼくだよ、お母さん……。」
  電話に出ると、母はすぐに切る。
 ぼくは、また電話をかける。
番号をかえてみる。

真夜中、夜になると
  ぼくは、死んだ母に電話をかける。
   「もしもし、お母さん? ぼくだよ。ぼくだよ、お母さん……。」
  きのうは、黙ったまま(だまった、まま)
 母は、電話を切らずにいてくれた。
ぼくは、その番号を憶えた。

鸚鵡が死んだ。
  父の鸚鵡が死んだ。
    ぼくは、もう鸚鵡の声を真似ることができない。
     「グゥエー、グググ、グ、グゥエー、グゥエー、エー。」
   と、ぼくは、もう鳴かない。
もう鳴かない。

鸚鵡が死んだ。
  父の鸚鵡が死んだ。
    とまり木の上で死んでしまった。
     「グゥエー、グググ、グ、グゥエー、グゥエー、エー。」
    と、とまり木の上の骸骨。
そいつは、ぼくじゃない。

骨のアトリエで
  首をくくって死んだ父を
    ぼくは、きょうまで下ろさなかった。
     「どうしたんだい、お父さん? 何か言いたいことはないのかい?」
    首筋についた縄目模様がうつくしかった。
ぼくは、父の首筋をなでた。

骨のアトリエで
  死んだ魚に餌をやると、憶えていた番号にかけた。
    死んだ父に、死んだ母の声を聞かせてやりたかった。
     「どうしたんだい、お父さん? 何か言いたいことはないのかい?」
    死んだ父は、受話器を握ったまま口をきかなかった。
死んだ鸚鵡も口をきかなかった。


舞姫。

  田中宏輔



舞姫・第一部―その1―

彼女が瞬きすると
いっせいに十人も二十人もの小人たちが
まぶたの上で足をバタバタさせた
すると色とりどりの靴の先から
きらきらと光がほとばしり
わたしの目をくらませた
彼女は遠い惑星リゲルから
わたしを追って地球にやってきたのだった
彼女は触手をわたしの頬にのばしてつぶやいた
「愛しています」
惑星リゲルの言葉で
わたしも愛していると言った
わたしは一ヶ月前まで3年のあいだ、惑星リゲルに語学留学していたのだった
わたしは
わたしの頬に触れている彼女の第一触手をとって
待たしていたロボット・タクシーに乗り込んだ
タクシーの運転手は目を丸くして
といっても、最初から丸い目なのだが
わたしにはよりいっそう目を丸くしていたように思えたのだ
そんなはずはないのだが
口調が乗ってきたときよりも性急で
いささか大げさに驚いていたように感じられたからだった
「いや〜、ものすっごいべっぴんさんでげすなあ。
 地球の方やおまへんでっしゃろ。
 あんたはん、かなりのスケこましでんなあ。
 で
 どこいきはる?
 予定通り
 京都の竜安寺でっか?」
いくら大阪の宇宙空港だからといって
こんなぞんざいな言い方はないと思って
わたしは、ぶすーっとして一言
「そうだ」と返事した
彼女は第一触手に力をこめて
わたしの手をぎゅっと締め付けた
正直言うと痛かった
しかし
わたしはそれを顔に出さず
彼女の顔を見て微笑んだ
遠い距離をはるばるわたしを追って
やってきてくれたのだから。
わたしも彼女の第一触手をぎゅっと握り返した
第一触手の先から緑の体液が滴り落ちた
ロボット・タクシーは速度を上げて空を滑っていった


舞姫・第一部―その2―

時間と場所と出来事の同時生起
これらの石は
ある時間のある場所のある出来事である
それらの間にある
砂の波によって描かれた距離は
時間ではない時間であり
場所ではない場所であり
出来事ではない出来事である
それらの石である
ある時間のある場所のある出来事は
時間ではない時間と
場所ではない場所と
出来事ではない出来事である
砂の波によって結びつけられているのである
しかし
見方をかえれば
砂の波である
時間ではない時間を
場所ではない場所を
出来事ではない出来事を
ある時間のある場所のある出来事である
それらの石が結びつけているとも言えるのである
いずれにせよ
結びつけるものがあり結びつけられるものがあるということである
あるいは結びつけると同時に結びつけられているとも言っていいわけだが
ところで一方
見方をかえることのできるような主体はいったいどこにあるのだろうか
それらの石である
ある時間のある場所のある出来事のなかにだろうか
それとも
砂の波である
時間ではない時間であり
場所ではない場所であり
出来事ではない出来事のなかにだろうか
なかにと言ったが
時間も場所も出来事も容器ではない
むしろ
容器の中身である
いや
容器でありかつ容器の中身である
袋のなかにいて
袋を観察できるわけがない
主体は
ある時間のある場所のある出来事のなかにはないであろう
では
時間ではない時間
場所ではない場所
出来事ではない出来事のなかにであろうか
主体また結びつけるものであると同時に結びつけられるものなのだろうか
砂の波
つかの間の輪郭
つかの間の形
いや
砂の波ではない
そうだ
石の外
つねに石の外から眺めているのだ
いくつかの石があり
そのいくつかの石の外から眺めているのだ
しかし
砂の波のなかにではない
砂の波が足元に打ち寄せはするが
砂の波のなかにではない
ひとつの石に寄りかかり
眺めているのだ
いや
いくつかの石に同時に寄りかかりながら眺めているのだ
主体がひとつであるとは言えないではないか
存在確率のようにぼんやりとした影のようなもので
同時にいくつかの石に寄りかかっているかもしれないのである
彼女の第一触手をいじりながら
わたしはこういった話をしていた
竜安寺の石庭には
リゲル星人のカップルが
わたしたちと同じように
腰を下ろして話をしていたのだけれど
彼女のほうに
カップルたちの第一触手が振られると
彼女は第一触手をわたしの手のなからすっと抜いて
彼らのほうに挨拶し返した
わたしはその挨拶が済むまでしばらくの間
目をつむって
さきほど彼女に話していた事柄を思い出していた
わたしという主体は
時間そのものでもなく
場所そのものでもなく
出来事そのものでもない
というのは
時間そのもの
場所そのもの
出来事そのもの
といったものがないからであり
時間と場所と出来事が同時生起するものであるからであるが
それを
主体は
ある時間と
ある場所と
ある出来事と
まるで別々のものであるかのように意識するからであるが
その意識する主体というもの自体が
それらのある時間でありある場所でありある出来事と
時間ではない時間
場所ではない場所
出来事ではない出来事によって
刹那に形成される
つかの間の存在であるというふうに捉えると
いったいわたしとは何であるのか
わたしは何からできているのか
何がわたしになるのか
どこからわたしになるのか
わたしには考え及ばないものに思えてしまうのであった
いや
そもそもわたしが考え及ぶようなところには
わたしはないであろう
わたしが考え及ぶことのできるわたしは
けっしてわたしではないであろう
彼女のまぶたから小人たちが下りてきた
カップルたちのまぶたからも小人たちがおりてきた
何十人もの小人たちが
石庭でダンスを踊っていた
彼女の小人たちの踊りは見事だった
やはり彼女は見事な踊り子だった
彼女の小人たちの踊りは
カップルたちの小人たちの踊りとは
比べ物にならないくらい見事なものであった
彼女が第一触手を石庭におろすと
彼女の小人たちがするするとよじ登って
彼女のまぶたの上にもどっていった
カップルたちもまた石庭に第一触手をおろした
わたしは彼女の第一触手をとって立ち上がって
カップルたちにお辞儀をすると
砂の波の上に残った
小人たちの足跡に目をやった
砂の波はもとの形を崩していたが
それもまた美しい波の形を描いていたのだ
わたしは今晩また
眠る前に考えることができるぞと思って
彼女の第一触手を軽く引っ張った
彼女のまぶたの上で
小人たちがバタバタと
楽しそうに足をちらつかせていた


舞姫・第一部―その3―

母は
わたしたちに気遣って
夜食を付き合ってくれたのだが
やはり彼女に伝わってしまった
彼女があとで
わたしにこう言ったのだ
お母さまは
わたしが来たことを迷惑に思ってらっしゃるのではないですか

わたしは
布団のなかで
母の言動を思い出していた
リゲル星での彼女の暮らし
彼女の家族の話
すべてがリゲル星を思い出させようとするものだった
彼女のまぶたの上から小人たちが下りてきた
彼女は眠ってしまったのだろう
小人たちがわたしの耳元で踊りを踊りはじめた
少しのあいだもじっとしていない小人たちだった
リゲル星での彼女との同棲で
小人たちの浮かれ騒ぎの声には慣れていたのだけれど
久しぶりのことだったので
なかなか寝つけなかった
しかし
昼間に寄った竜安寺の石庭でのことを思い起こして
考えることができた
この小人たちが
あの砂の波の形をかえていたこと
波の形がかわると
石の印象も違って見えた
見えたような気がする
ちらっとだが

そうだ
意識の下
潜在意識の部分で
わたしは他者とつながっている
砂の波
波に足を浸らせている
じかに触れているとも言えよう
他者に触れているのだ
時間ではない時間
場所ではない場所
出来事ではない出来事
ああ
もう少しで届きそうだ
そうだ
時間や場所や出来事が析出するのだ
析出したものが時間や場所や出来事なのだ
時間ではない時間
場所ではない場所
出来事ではない出来事を
砂の波にたとえたのは
わたしの直感のなせるものであった
時間ではない時間も
場所ではない場所も
出来事ではない出来事も
時間であり場所であり出来事でもあるものと
まったく同じものからできているのだ
同じものでありながら
同じ溶液でありながら
その溶液中に
濃度に違いがあり
その濃度のとても濃い部分が
まるで結晶を析出させるかのように
析出させているもの
それが時間であり場所であり出来事なのである
違うだろうか
何かがきっかけになり
意識が働くのも
過飽和溶液に衝撃を与えると
たちまち結晶が析出するようなものだ
あるいは
ごくわずかの量の不純物か
不純物
偽の記憶
偽の体験
似ているが同じものではないもの
他者の体験
他者の体験の記録

文学
芸術
音楽
美術
ふだんの生活
わたしはあの石庭を宇宙に喩えることはしなかった
わたしは宇宙を外から眺めやることができないと思っていたからである
またあの石庭を宇宙に喩えて
それを把握する脳というものと相似しているとも言わなかった
あの石は
あの砂の波は
脳にも喩えられる形状をしていたのだけれど
では
わたしが
時間と場所と出来事に喩えたのは?
時間ではない時間と場所ではない場所と出来事ではない出来事に喩えたのは?
わたしの直感だろうけれど
それらに喩えた理由を思いつく前に眠りが訪れた
もう少しで届くような気がしたのだが
しかし
そのもう少しというのが
とてつもなく長い時間であることもわかっていたのである
けっして辿り着くことなどできないような


舞姫・第一部―その4―

きょうは切腹を見に行く予定だけれど
きみはもちろんはじめて見ることになるのだけど
きのう寝るまえに話していたように
今朝は食事をしないで出かけるからね
これは日本の伝統なんだよ
切腹
きょう切腹するのは賄賂を受け取った役人でね
役人は特権階級の者しかなれないのだけれど
それだけにね
それだけよけいに罪が重いんだ
残酷だって?
いや
痛みはないんだよ
痛みは除去している
薬でね
でもまあ相当の勇気はいるだろうね
こころにも慣性のようなものがあって
自分の腹を切るなんて考えただけで
痛みに似た感覚が生じたような気になるんじゃないかな
錯覚でもやっぱり感覚が混乱して
何もないかのように自分の腹を切るなんてことはできないだろうからね
ぼくはもう何度も見てるけれど
自ら腹を切るという行為にはつねに惹きつけられるね
まあ
そのあとの斬首という決定的な見せ場があるのだけれど
ぼくには切腹のほうが強烈な印象があってね
なにか哲学的な意味をそこに付与したくなってしまうんだけれどね
いつも中途半端な考察しかしてこなかったよ
きょうはきみといっしょにつぶさに見て
それに何が見出せるか
考えてみたいと思う
きみといっしょに眺めるということで
違った見方ができるかもしれないしね
異星人にも公開しているのは
日本伝統が素晴らしいものであることをアピールしているのだろうけれど
ちゃんと恥を知っている文化を有しているということでね
自ら汚名をそそぐという行為を
日本人がしているということを知ってもらうということなのだろうけどね
さあ
もう出かけようか
ほら
ロボット・タクシーが到着したよ
お母さん
行ってきますね
夕食は軽いものをお願いしますよ


舞姫・第一部―その5―のための覚書 その1

内臓を愛する
わたしを愛しているのなら
わたしの臓器も愛してくれるかしら
という記述を思い出すシーンを入れる
サルトルだったかデュラスだったか
できたらノートを調べておく
調べても見つからなかったときは
サルトルかデュラスの言葉だったことを明記する

内臓器官=思考の表出結果である言語
これは音声である場合と記述されたものである場合とあるが いずれにせよ
切腹によって露出された臓器との比較をすること
体内に収まっている臓器
思考になる前のものとの違いを考察
しかし露出された臓器で
思考について考察すること
物質と精神
アナロギーが成立するかどうか
しない場合についての考慮も必要
しかし
同時に列記することにより
アナロギー的なものが生じる可能性については放棄してはならない
必ず書くこと
臓器と表出された思考のアナロギー(的なもの)
血がなにか
切腹と言う行為がなにか
切腹を強要する文化について
それが文化的強要との類似性について必ず言及すること
体内の臓器の成長と老化と
言語の履歴と
文化の連続性について比較すること
血まみれの臓器と
言語の履歴の比較
美しく
また哲学的に書くこと
哲学をすること


舞姫・第一部―その5―のための覚書 その2

内臓
臓腑の配置
石庭が真っ赤に染まる
石が心臓に
肺に
腸に
胃になる
砂の波が血管となって脈打つ
ばら撒かれた内臓には
もとの秩序だった内臓配置がない
血で真っ赤に染まった石庭
巨大な臓器でできた石と
血管でできた砂の波
書かれた思考が
言語によって成立するというのならば
これらの内臓の庭は
それだけで完全である
しかし
血液は
常に新鮮な酸素を必要とする
命を保つためには新鮮な空気を必要とする
書かれた思考も
言語によって成立しているのだが
言語はつねに言語ではないものによって
言語となっている部分を支えられている
言語は辞書のなかの意味だけでできているのではないからだ
これは観察者が変わると物理条件が変わる素粒子物理学の話に近い
読む者によって言語はさまざまな意味概念をもつのだから
百万の読者がいると
百万以上の解釈が生じる
似通ったものはあるだろうけれど
同じものは一つとしてないのだ
ほとんどの人間が同じ名称の内臓組織を持っているのに
ひとつとして同じ内臓がないように
血まみれの石庭
目をつむると見えた
これ
あるいは
これに近い言葉ではじめること
だめだな
ひとまばたき
それで
切腹のシーンから
石庭に切り替わったことを示す言葉ではじめるべき
目をつむってはダメ
内臓でできた石庭を
しっかり目に見ている必要がある
小人たちが
刀の先で踊るシーンも入れること
笑いで終わるべき


舞姫・第一部―その5―のための覚書 その3

石庭の石
それらひとつひとつの内臓が時間と場所と出来事であり
それらの内臓すべてに流れる血を
砂の波である血管を
時間ではない時間
場所ではない場所
出来事ではない出来事に喩える
ひとつひとつの内臓を言葉に
血と血管を
言葉ではない言葉に喩えること
刀の先で踊る小人
笑いで終わること


舞姫・第一部―その5―のための覚書 その4

腹を切る 内臓がこぼれ出てくる
自分の内臓を見る役人
石に寄りかかりながら
石庭のなかを見渡す
見渡すことはできるが
自分の姿はけっして見えない
ただ
他の石に寄りかかっている自分の残像を
目にすることはできる
言葉を見る
言葉は思考そのものではない
思考のいくばくかを拾い上げてはいるが
すべてではない
腹を切る
内臓を見る


舞姫・第一部―その5―のための覚書 その5

石庭の石
ひとつひとつが
異なる時間と場所と出来事を表わしているのと同様に
臓器のひとつひとつもまったく異なるものではあるが
それが一体となって人間の臓腑を形成している
砂の波が石と石を結びつけているのと同様に
臓器と臓器も結びついている
ひとつひとつの臓器が異なる機能を持つように
ひとつひとつの石も異なる精神作用を自我に及ぼすのであろう
ひとつひとつの言葉が自我に精神作用を及ぼすように
しかし
臓器同士の結びつきとは別に
すべての臓器に結びついているもの
すべての臓器を結びつけているものがある
血管だ
血だ
血管も血も臓器のひとつと見なすこともできるが
結晶が析出した濃厚な溶液における溶媒にも喩えることができる


舞姫・第一部―その5―のための覚書 その6

心臓に相当する時間と場所と出来事
肺臓に相当する時間と場所と出来事
胃に相当する時間と場所と出来事
腸に相当する時間と場所と出来事
腎臓に相当する時間と場所と出来事
では
血管は
血は
時間ではない時間なのか
場所ではない場所なのか
出来事ではない出来事なのか
臓腑でできた血まみれの竜安寺の石庭が
もとの白い石と
砂の波にもどる
では骨は?
皮膚は?
いったい竜安寺の石庭のどこに骨があるのか?
どこに皮膚があるのか?
骨は石庭の何なのか?
皮膚は石庭の何なのか?
言葉の骨と皮膚
言葉の臓腑と血
小人たちが
斬首された役人の首の前を走る
「無礼者!」
小人たちは刀の先で踊る
首を切り落とした者の一括に
みながかたまる
刀が小人たちの身体をかすめる
小人たちは美しい弧を描きながら
彼女のまぶたの上に舞いもどる
「見事じゃ!」
会場が笑いに包まれる
時間ではない時間
場所ではない場所
出来事ではない出来事


舞姫・第一部―その5―のための覚書 その7

それぞれの臓器が
救われる時間を場所を出来事を求めていた

それぞれの臓器が
告白する時間を場所を出来事を待っていた

小人たちが
観客たちの声援に応えて
ふたたび血まみれの壇上で
放屁のダンスを繰りひろげた


舞姫・第一部―その5―のための覚書 その8

プペペポプペペペピ
プペペプピプペ
プププペプピ

おならがとまらない

小人たちの放屁のダンス

プペペポプペペペピ
プペペプピプペ
プププペプピ

おならがとまらない

むごい人生もおならにして

プペペポプペペペピ
プペペプピプペ
プププペプピ

プペペポプペペペピ
プペペプピプペ
プププペプピ


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その1

庭先に下ろした第一触手に
蟻が這い登る感触を思い出して楽しんでいる宇宙人

ドイツ語には現在形はあっても現在進行形がない
また過去形がなく現在完了形で過去を表わす

リゲル星人の言語には動詞は現在形しかない
しかも語形変化しないのだ
前後の文脈と、副詞に相当する語によって
時制が決まるのである

彼女は第一触手に
蟻が這い登る感触を思い出して楽しんでいる

その感触は、人間が思い出して味わう記憶の快楽と異なっている
まったくといってよいほどほとんど、
そのときの感触と同じ感触を再生させているのである

動詞に現在形しかないことと関連しているという分析がなされているが
リゲル星人の生理機能そのものにまだ謎が多く
リゲル星人はその情報をいっさい地球人には教えていない
地球人側は先に地球人側のデータを渡してしまっている

第二次世界大戦で地球は日本・ドイツ・イタリアの枢軸国側が勝利している
南北に分断されているアメリカが統一化を望んでいる
統一されたあと、一気に枢軸国側から離れて独立しようという運動が盛んである

第一触手の先から出る緑の液体
それを口にして、精神感応する青年
ほとんど同化している
青年の高い精神感応能力


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その2

隠喩の石庭がさまざまな場所に現われる
隠喩の石庭がしきりに語りかけてくるのだ
石庭の岩の一つ一つが他のすべての岩を内に秘めているのだ
一つ一つの岩が自分以外の岩すべてを内に蔵しているのだ
ときに、ぼくは砂利となり、波となって岩に打ち寄せる
岩の肌に触れる
石庭の岩は、ぼくの思考を岩と砂利でいっぱいにする
岩の影が砂利の上に貼り付いている
それをこころの目がはがしてみる
いっさいの影のない石庭が展開する

「あの猫は自殺したのよ」
「母さん、猫が自殺などするわけがありませんよ」
「わたしは見たのよ。猫が自分から走っている車の前に跳び込むところを」
「そう見えただけですよ」


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その3

鳥の散水機

鳥である散水機

鳥であった散水機

鳥であろう散水機

鳥の散水機の電気技師

鳥であり散水機である電気技師

鳥であって散水機であった電気技師

鳥であろう散水機であろう電気技師

鳥の散水機の電気技師の植木鉢

鳥であり散水機であり電気技師である植木鉢

鳥であって散水機であって電気技師であった植木鉢

鳥であろう散水機であろう電気技師であろう植木鉢

鳥の散水機の電気技師の植木鉢のネクタイピン

鳥であり散水機であり電気技師であり植木鉢であるネクタイピン

鳥であって散水機であって電気技師であって植木鉢であったネクタイピン

鳥であろう散水機であろう電気技師であろう植木鉢であろうネクタイピン

鳥の散水機の電気技師の植木鉢のネクタイピンの微笑み

鳥であり散水機であり電気技師であり植木鉢でありネクタイピンである微笑み

鳥であった散水機であった電気技師であった植木鉢であったネクタイピン出会った微笑み

鳥であろう散水機であろう電気技師であろう植木鉢であろうネクタイピンであろう微笑み

鳥の散水機の電気技師の植木鉢のネクタイピンの微笑みのエスカレーター

鳥であり散水機であり電気技師であり植木鉢でありネクタイピンであり微笑みであるエスカレーター

鳥であって散水機であって電気技師であって植木鉢であってネクタイピンであって微笑みであったエスカレーター

鳥であろう散水機であろう電気技師であろう植木鉢であろうネクタイピンであろう微笑みであろうエスカレーター

鳥の散水機の電気技師の植木鉢のネクタイピンの微笑みのエスカレーターの瞑想

鳥であり散水機であり電気技師であり植木鉢でありネクタイピンであり微笑みでありエスカレーターである瞑想

鳥であって散水機であって電気技師であって植木鉢であってネクタイピンであって微笑みであってエスカレーターであった瞑想

鳥であろう散水機であろう電気技師であろう植木鉢であろうネクタイピンであろう微笑みであろうエスカレーターであろう瞑想

鳥の散水機の電気技師の植木鉢のネクタイピンの微笑みのエスカレーターの瞑想の溜まり水

鳥であり散水機であり電気技師であり植木鉢でありネクタイピンであり微笑みでありエスカレーターであり瞑想である溜まり水

鳥であって散水機であって電気技師であって植木鉢であってネクタイピンであって微笑みであってエスカレーターであって瞑想であった溜まり水

鳥であろう散水機であろう電気技師であろう植木鉢であろうネクタイピンであろう微笑みであろうエスカレーターであろう瞑想であろう溜まり水

鳥の散水機の電気技師の植木鉢のネクタイピンの微笑みのエスカレーターの瞑想の溜まり水の肘掛け椅子

鳥であり散水機であり電気技師であり植木鉢でありネクタイピンであり微笑みでありエスカレーターであり瞑想であり溜まり水である肘掛け椅子

鳥であって散水機であって電気技師であって植木鉢であってネクタイピンであって微笑みであってエスカレーターであって瞑想であって溜まり水であった肘掛け椅子

鳥であろう散水機であろう電気技師であろう植木鉢であろうネクタイピンであろう微笑みであろうエスカレーターであろう瞑想であろう溜まり水であろう肘掛け椅子

リゲル星人の言葉では「の」で名詞をつなぐと、
このように3つの時制のこのような文脈で解されるのがふつうであるが、
最後の名詞を強調するために、前置きに名詞を羅列する場合もあって
その意味を解する場合には、状況をよく見極めなければならない

たとえば、場合によって、最後の

鳥の散水機の電気技師の植木鉢のネクタイピンの微笑みのエスカレーターの瞑想の溜まり水の肘掛け椅子

は、つぎのような意味になる

鳥でもなく散水機でもなく電気技師でもなく植木鉢でもなくネクタイピンでもなく微笑みでもなくエスカレーターでもなく瞑想でもなく溜まり水でもない肘掛け椅子

鳥でもなく散水機でもなく電気技師でもなく植木鉢でもなくネクタイピンでもなく微笑みでもなくエスカレーターでもなく瞑想でもなく溜まり水でもなかった肘掛け椅子

鳥でもないであろう散水機でもないであろう電気技師でもないであろう植木鉢でもないであろうネクタイピンでもないであろう微笑みでもないであろうエスカレーターでもないであろう瞑想でもないであろう溜まり水でもないであろう肘掛け椅子

それでも、やはり時制は3つなのだ
リゲルの言葉に進行形はない
この3つの時制のなかに進行形の文意が含まれている


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その4

映画館
公衆トイレ
タクシー
岸壁
蜘蛛

金魚
エビ
日時計
哲学者
収集癖
涙声

岸壁
回想録
料理
飼育係


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その5

舞姫のリゲル星人の感覚:同時に複数の時間
群生生物であり、常に他のリゲル星人の個体の状況を把握
それがリゲル星人の言葉の成り立ちと関係していることを示唆
            
The Gates of Delirium。に出てくる、
月の裏側の宇宙船の遺留品に見せかけたドラッグは
じつはリゲル星人が地球人の精神感応能力を高めて
自分たちとコンタクトさせるためのものであったこと
これを書き込むこと。

舞姫に出てくる詩人である主人公の青年を
The Gates of Delirium。の詩人と重なるように書くこと

ただし、『舞姫』では、ゲイであるようには書かないこと
しかし、もっとも、The Gates of Delirium。においても
詩人がゲイであることを示す描写はもともと少なかった
『舞姫』で主人公の詩人と、リゲル星人の彼女との
性的な描写は、彼女の第一触手の先から滲み出る緑の体液を
口にしたときに、彼女と精神的に同化する場面をエロティックに
ことさら熱情的に変態的に異常に描くこと

精神的に同化すること
それがある程度の量のドラッグを
摂取した結果であり、その効果が恒久的なものであること
また、ある程度のドラッグを摂取したあとは
一度、脳がそうした感覚にさらされると
そのような状況にいつでもなること
それゆえ、主人公の詩人がつねに幻視のヴィジョンに
さらされ、同時に複数の時間と場所と出来事のなかに
いることを示唆しておくこと

母親の狂気の発病

鳥の猿の猫の散水機の電気技師の哲学者の映画館のハンドクリームの写真のトマトの公衆トイレの飼育係の岸壁の角砂糖の書籍のエビの金魚の海草の日時計の涙声のカメラのタクシーの船の飛行機の収集癖のハンカチの溜まり水のバナナの木の蜘蛛の料理の煙の視線の洗濯機の回想録


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その6

母親の前で、主人公の青年がリゲル星人の言葉について述べている

母親の狂気のはじまり

母親がつぶやく言葉として

つぎの言葉を挿入(思いついたら、順次追加すること)

小鳥の映画館の薬莢の古新聞の電信柱の蜜蜂の肘掛け椅子のビニールの牛の藁屑の理髪店の新幹線のレモンの俯瞰の花粉の電気椅子の雲のいまここのいつかどこかのかつてそこの自我の麦畑の船舶のカンガルーのハンカチの襞の草の等級の新約聖書の自明の連続のオフィーリアの多弁の乾電池の朝食の時計のトランプの絆創膏のバインダー・ノートの孔子の老子の荘子の散文の韻文の衣装のルーズ・リーフのコンセントの歌留多の帽子の絵空事の杜甫の陶淵明の描写の退屈の旧約聖書の情念の壁の表現のタイルのタオルの葱の小松菜の逐電のレコードのハミガキチューブの古典の技巧の細胞の組織の飛び領土の直線の亡霊の故郷の世界のコーランの原始仏典のチャートの汗の株式相場の計算用紙の意味の構造の漢字の経験の翻訳の瞬間の全体の官能の食料品店の心臓病の収集の薬玉の土曜日の寝台の手袋の顔の曲がり角の森羅万象の金魚の石榴の自転車の蝙蝠の幸福の鉄亜鈴の約束の珊瑚の嵐のつぐみの左手の教理問答の彫像のゼニ苔のウミガメの無関心の修練の献血の飛行機のつぼみの砂肝の道標の犯罪者の群青の異端者のチョコレートの意識の知覚の因果関係の非能率の膝頭の壺の光の風景の事物の言葉の音の葉脈の噴水の羽毛の噴水の間違いの存続の鼓動の樹冠の犬の亀裂の娯楽の技法の臨界の砂浜の蚊柱の鍵束の呼吸の神話の紙やすりの継母の自然の奢侈の経路の埃の食虫植物のヨットレースの舌打ちの撫子の洗面台の受話器の周期の背中の万葉集の釘抜きの微笑みの悲しみの平仮名の山脈の軍需工場の贓物占いのスパンコールの麻痺の渦巻きの赤錆のハンバート・ハンバートの考察のジュリアン・ソレルのスポーツ観戦のドン・ジョバンニの俳句の勢子のDNAの砂糖菓子の証言の肉体のコマの胡麻の素朴の軋轢の単位の美の事情の技術の不穏の明晰のヒキガエルの知識の木炭の発音の魂の太平記の嘘の散文の真実の異議の働きの輸入品の人生の物語の現実の井戸の存在の舞踏家の無為の沈黙の殖産興業の小太鼓の違反者の抑揚のカインの営みのアベルの形容詞の通年の活版印刷のミンチカツ・ハンバーガーの猿の微振動の猫の霞の圧迫の雨の回転運動のマルガレーテの対称移動のジュリエットの杖のハムレットの翼のリア王のショッピングモールの芭蕉のファウストのアーサー王の神のコーヒーのクーラーの破局の悶えのカメラの糊のポールのジョンのジョージのリンゴの黒人の白人の哲学の季節の偏見の創造の黄色人種の骸骨のピンクの仮定の青の紫の向日葵のニガヨモギの裸電球の暁のクエン酸の馬頭星雲の薄暮の朝日の真夜中の正午の文庫本の図鑑の辞書の感情のボール箱の物証の治療のダイダロスの歯ブラシの比喩のエンジンのタオルの事典の韻律の休暇の雑誌の孤独の

「ぼくは、きみが、ものすごくグロテスクだから好きなんだ」
「ぼくは、グロテスクなものを、とてつもなく深く愛しているんだ」
「あ、きみが、こんなにもグロテスクだから、ぼくには魅力的なんだ」
「ぼくたちの幼いセックス」

ぼくのなかの貪欲者が目を醒ました

石庭には
蟻以外にも、見知らぬものが数多く潜んでいるのだ

「なぜ切腹という儀式があるの?」
「あ、くわしくはわからない。だけど、ぼくたち人間の意識というのは
何か思いがけないこと、
日常に行なわれていることのほかに行なわれることを通じて
目覚めさせられる必要があるのだよ
つまり、非日常的な出来事を目の当たりにすることでショックを受けて
不活性化させられている精神のところどころを
活性化させる必要があるのだよ
おそらく、それじゃないかな。
そのショックというのが、日常の生活でうずもれていってしまう感覚を
よみがえらせて、ぼくたちをしゃきっとさせるのだと思う
注意力を与えるというか
日常のさまざまなものに意識を向けてやることができる
そんな能力を培うんじゃないかな
切腹なんてものがあること自体が、ぼくたち人間のあいだでも
ずいぶんと衝撃を与えるものだったんだよ
いわんや、それを目の前で見るとなると、ずいぶんとショックなんじゃないかな
はじめて見る人間にはね
教養のある人間のなかにも切腹なんてナンセンスだという者がいるけど
切腹があるおかげで、身分の高低が維持されているのだと思うよ
役人階級って、むかしの武士階級でね
庶民に切腹は許されていないからね」


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その7

母親の発狂の言葉に追加

叫びの螺旋の出来物の表面の剃刀の括約筋の潰瘍の内部の露台の鱗の声のモザイクの交接の繊毛の接触の屏風の喉の階段のイメージの現実の波の肉体の焦点の麻薬の足音の旋回の儀式の背骨のゲップの名残のジャイロスコープの出産の弾丸の迷信の凧の深淵の排泄の漆黒の禿の勝利の偏光のクラゲの恥辱の弾丸の象牙の皮膚の響きの切り株の人混みの廃墟の高木の茂みの鈴の模様の繁殖の移植の抱擁の恍惚の布地の汚染の睦言の大衆の蔓の火打ち石の海鳴りの緊張の気泡の道の根の演技の橇の憂鬱の記録の噴水の壁掛けの緊張の眉毛の習慣の屈折の桟橋の平面の棍棒の瘡蓋の乳房の眉毛の真珠の刷毛の挨拶の信頼の解説の休息の襲撃の陰毛の物語の誤解の躊躇いの雑草の炎の物腰の強さの弱さの根の結晶の魂の寄生虫の万華鏡の曖昧の覇者の

彼女はぼくの魂のなかの岩に語りかけてきた
砂利の波がうごめいている
ぼくの魂のなかの岩が波の形を見つめている
岩からしみ出たぼくが
その岩に寄りかかりながら
その岩の視点で
波の形を見つめている
ぼくのゴーストだ
彼女の魂が砂の波を激しく波立たせていた

岩も砂利もあらかじめ存在していた
ゴーストのぼくの視線と
彼女の砂利を動かす力は
それらが存在するからこそ現われるものなのではないか
あるいは
ぼくの魂の目と
彼女の魂の働きが
ぼくの魂のなかの岩と砂利を存在させているのかもしれない
二人の魂が
いまこの瞬間の時間であり場所であり出来事である魂の石庭を形成しているのか
いまこの瞬間の時間であり場所であり出来事である魂の石庭が
二人の魂を形成しているのか


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その8

じっさいには鳴ってもいない音楽を
頭のなかであたかも再生しているかのごとく
聴いているように感じることがあるが
この音楽というものはそもそも自然に存在するものではない
人間がつくりだしたものだ
言葉もそうだ
そして自然に存在するものも
人間はそれぞれの事物や事象に言葉を与えて呼んでいる
まだ言葉を与えていない事物や事象もあるが
そのうちそれらにもいずれ言葉が与えられるだろう
なかなか言葉が与えられない事物や事象があるかもしれないが
おそらくそれらは未知なる事物や事象であろうが
存在が確認されれば
いずれそれらにも言葉が与えられるであろう
存在が確認されても
いつまでも言葉が与えられない事物や事象もあるかもしれないが
それらはいつまでも言葉が与えられないほうが文脈形成上
都合がいいときであろう
それについては別のところで考察することにする
ふだんの意識のなかでは
異なる個々の事物や事象に同じ言葉を与えて
文脈を形成し意味内容を捉えるのであるが
言葉を与えた対象について考えてみると
与えられた言葉を精神が認識したとたん
それは現実の事物や事象と異なるものとなるのである
もちろん言葉は個々の事物や事象と一対一で対応しているものではなくて
一対多または多対多のあくまでもシンボルや象徴としての対応をしているのであって
そうした言葉によって
言葉と事物や事象との関わり合い方によって
人間は精神活動をし、認識をしているのである
したがって人間の意識や精神は人間がつくりだしたものでできているのだとも言える
わたしたちがつくるもの
わたしたちから生まれたものが
またわたしたちをつくる
わたしたちを生むというわけである

導線に電流が流れると磁界が生じるように
何か概念想起のきっかけになるものがあると
ほとんどその瞬間に自我が生じるのではないだろうか
導線の向きが変われば磁界の向きも変わる
同じ導線でも流れる電流の多少で磁界の強さが変わる

これはいつもぼくがつまずくところだ
概念を想起させるものが外界からなんらかの情報の形で入ってきてから
概念を形成する自我が生じるのか
それらの概念を想起させる自我があらかじめ精神領域に存在していたのか

磁石の一方の極を鉄の針にこすり付けると
その針が磁力または磁気を帯びるが
このことは潜在自我の存在を示唆している

自我は概念と概念を結びつける働きをするものという
ヴァレリー的なモデルで考えている
おもに思考傾向をつかさどるものとして
ぼくは考えているのだが
より詳細な考察は The Wasteless Land.IIで書いたのだが
この延長上に
あの切腹について考えてみた

リゲル星では個人の罪という概念が
地球人のいうところのものと著しく異なっている
日本人のものというだけじゃない
これは二重の意味で著しく異なっているのである

第一に、リゲル星人のいうところの個人と
地球人の個人とでは意味内容が異なる

第二に、リゲル星人には
罪を個人のものとする習慣がないのである

リゲル星人は、責任を個人に帰することがないのである

なぜなら、彼もしくは彼女をつくるのが彼もしくは彼女本人だけではなくて
彼や彼女をとりまくさまざまな状況が彼や彼女をつくりだしたのであるから
責任を個人に帰することには合理性がない、という考え方である

これは一部の地球人には受け入れられる考え方であるが
日本やドイツやイタリアおよび第二次世界大戦後
日本やドイツやイタリアによって占領された多くの国々では
受け入れない考え方である、少なくとも法律的には

(コードウェイナー・スミスの『シェイヨルという名の星』に
 個人が重い罪を犯した場合、その個人の記憶を消去して
 ふたたび社会に復帰させるという制度が出てくる。)


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その9

ぼくの『舞姫』の設定では
日本が第二次世界大戦で勝っているし
切腹の儀式も残っているし
三島由紀夫が憂いを感じる必要のない社会であるので
三島由紀夫は自殺せず
ノーベル文学賞を受賞しているという設定にするつもり
三島由紀夫を作品中の登場人物にするかどうかは
まだわからないけれど
登場人物として三島由紀夫を挿入するのは
それほど難しいことではないかもしれない

三島由紀夫の言葉を引用するさいに
三島由紀夫が生きていて
ノーベル賞を受賞したことに言及してもいいのだし
切腹といえば
やはり三島由紀夫の名前を出したい

それはやはり
ある時間の場所の出来事の反響だ

不活性な状態から活性化された状態への遷移

石庭の岩のひとつが星を夜空に吐き出した
すると、他の岩たちもつぎつぎと星を吐き出していった
夜空は、岩が吐き出した星たちでいっぱいになった
砂の波に月の光が反射してきらきら輝いている
岩端も月の光が反射して輝いている
すべてが調和した夜の石庭
誰ひとりの観察者の視線もない石庭


舞姫―その6―のための覚書 その10

夜空に突然巨大な手が現われて
星々を払いのけ
最後に月をむしりとると
真の暗闇が石庭に訪れる

リゲル星人は2種類の伝達手段を持っている
1つは近くにいる個体間で連絡し合うもの
もう1つはどんなに離れた個体間でも瞬時に連絡し合えるもの

主人公は自分の声を
舞姫の声にしている
舞姫の発するリゲル語を
こなれた日本語にする翻訳機械は
まだ開発されておらず
主人公の詩人の青年が耳にするのは
あくまでもリゲル語の直訳である
舞姫の声を自分の声で聞くこと
それは主人公の美学であり
母親が発狂する要因の1つともなっている

舞姫―その5―で
「お見事!」と声をかけるのを三島由紀夫にすればよい。
そのシーンでノーベル文学賞受賞作家の三島由紀夫のことを書くことができる
受賞作品は「豊穣の海」

舞姫・第一部は母親の発狂のシーンと
アメリカの過激派がリゲル星人を人質に
アメリカの独立を主張する事件が勃発し
そのニュースを主人公が知るところで終わる


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その11

母親の発狂するときの言葉に追加

タクシーの騒動の鶏の胃の腸の肺の歓喜の音階の神秘の感触の一枚の溝の隠喩の霧の伸縮自在の追跡の恋歌の波紋の潅木の鳴子の象徴の人間の爆発の楔形文字の饗宴の旋律の木造のトマトケチャップの福音の隣人の頭蓋のマヨネーズの手術の霊感の悲劇の定期券の寝室の読み物のオーバーヒートの性的倒錯の頌歌の凸凹の司祭の蹄鉄の溺死の瞳の狼狽の非在の歓楽街の親指の精神安定剤の地雷の空集合の枯れ枝の跳躍の共鳴の消滅の象形文字の有刺鉄線の存在様式の境界の騙し合いの切符の跳躍の湿疹の手榴弾の田園交響曲の警察の驚愕の手紙の片隅の無人の胸部の思春期の急流の未遂の図書館の地平線の群集の無意識の自動皿洗い機の運動靴の周辺の臍の観覧車の憂いの銀紙のバス停の花壇の白旗のこめかみの頂点の吊革の吸い取り紙の懺悔の踏み越し段の籠の頬の妄想の


舞姫・第二部―その1―のための覚書

bees と wasps
wasp、は警察が放つスズメバチ型の監視カメラのこと
bee、はアメリカのテロ集団の用いるミツバチ型の情報収集カメラのこと

テロ組織がリゲル星人を捕らえる場所をどこにするか
テロ組織のメンバーの実行構成員を何人にするか
白人男性1人・白人女性1人・黒人男性1人・日本人男性1人の4人+α
その日本人の名前を「フクイ・エイジ」にすること

リゲル星人が人質になって、しばらくして、
リゲル星人の大使から日本政府に連絡が入る
大使による、リゲル星人には危害が加えられる可能性がまったくないことの説明
小人たちがリゲル星人の本体から離れると、その距離の二乗に反比例して
本体のこの世界の時空における存在する確率密度が減少するために
複数の可能世界の時空の扉が開き、
実質的にリゲル星人の本体は小人の身体とともに
不可侵の存在になるため(この世界での完全な現実存在ではなくなるということ)
このことを日本政府の首相・小泉純一郎に伝えてくる
小泉首相は、将軍をはじめ軍の主だったものたちとと宮内庁に緊急連絡し
即刻事態を収拾させるよう将軍に命じる
犯人の一人が小人を捕らえようとするが
手のなかに入ったと思った瞬間に、小人は手のなかをするりとくぐり抜け
手の甲から滑り降りる
小人はある一定の距離の範囲でリゲル星人とのあいだに距離を置いている
リゲル星人も、小人たちも、身体がすこし透けて見える
ダブル・ヴィジョンで見える
これらの事件を主人公がテレビを見て知るのだが
テレビを見て知るシーンを冒頭に持ってきて
前述の事柄をあとで書いていく方法をとると面白いかもしれない
また、何かの記念行事でテレビが入っている会場で
この事件が起こったことにするとよいかもしれない
第一部の切腹の会場がいいかもしれない
第一部で三島由紀夫が声を小人たちに声をかけて
会場が沸くが、そのあとすぐに事件が起こったほうがいいかもしれない
テロ組織の名前をアメリカ独立戦線ということにしようか

岩といえば、誰々の何々を思い出す
石といえば、誰々の何々を思い出す
砂といえば、誰々の何々を思い出す
岩といえば、何々を
石といえば、何々を
砂といえば、何々を

主人公の青年に
犯人たちが通訳をしろというのもいい
人質は舞姫だということにするとさらによいかも


舞姫・第二部―その2―のための覚書

事件が解決し
リゲル星人の正体についての論議が沸騰するなか
舞姫は一時、大使館に保護される
舞姫と一時的に別れた主人公の詩人が、葵公園で、
「田中宏輔」という青年と再会する
青年は詩人が死んだものと思っていた
霊魂図書館で、詩人の死体を捜したことを告げる
詩人がドクターからもらった薬を青年に手渡す
何度目かの精神融合のこころみ(「The Gates of Delirium。」と重複)
主人公の母親が発狂
母親の死
人葬所(ひとはふりど)で、母親の骨を見て、主人公が人生の無常について考察
舞姫が主人公の詩人のところに舞い戻る
舞姫に、リゲル星人の正体を詰問する主人公
黙する舞姫


舞姫・第二部―その3―のための覚書

葵公園で公家の青年が月の光のもとで
刀を振り回して舞を舞っている
真っ裸のパフォーマーが河川敷と道路のあいだを
繰り返し何度も往復する
公衆トイレのなかから人間犬が現われる
配管工の青年が「田中宏輔」に初体験を語っている
キッズたちがドクターを襲って薬を手に入れる
「田中宏輔」がドクターを水のなかから引き上げる
ドクターが脳障害を起こして薬について話をする
リゲル星人によってもたらされた薬であるらしいことを知る
公園のなかで凍結地雷によって何人もの被害者が出る
葵公園が特別な地域であったことがドクターによって教えられる
「田中宏輔」は、詩人が事情を知っていたのかどうか詩人に尋ねようと決心する


舞姫・第二部―その4―のための覚書

凍結した人間犬の死体がばらばらになって地面の上に落ちる
凍結したキッズの身体がばらばらになって地面の上に落ちる
凍結した裸のパフォーマーたちの身体がばらばらになって地面の上に落ちる
詩人が現われる
ドクターといっしょの「田中宏輔」と出会う
ドクターの意識が戻っている

警察が来る
ドクターが知っている限りの真相を、詩人と「田中宏輔」に話す
警察の尋問がそこかしこで繰り拡げられる
血まみれの肉片を見て詩人が石庭のヴィジョンを見る
ヴィジョンが、葵公園自体の持つ現実世界の扉を解放して
複数の可能世界の扉を開く
視点がゴーストとなる
ゴーストが複数の可能世界を現実世界の扉の入り口で結び合わせたりどいたりする
二つの月が空にかかっていて
詩人が「田中宏輔」とともに詩人の加茂川を流れてくる死体を見る
橋の上にいる別の可能世界の詩人が川を流れる詩人と
それを眺める詩人と「田中宏輔」を見る
空にかかる月が二つから三つになり
やがて、そのうちの一つが砕け散る
空が真昼のような明るさを放ったその瞬間に
千億の目が草むらのなかで目をさまし
千億の耳が樹木のあいだで耳を澄ます
やがて無数のゴーストとなった同一の魂は
千億の鼻をもって河川敷の空中を嗅ぎまわり
千億の皮膚をもってあらゆる生物の温もりを求めて
加茂川と河川敷と葵公園の上空をただよう
複数の可能世界の考えられる限り詩的で
不可思議な描写で小説を終えること


『舞姫』に使うエピグラフ その1

私の眼に初めて映ったとき、
彼女は歓びの幻であった。
瞬間を彩どるために送られた
愛らしき幻のよう。
彼女の眼は黄昏に輝やく美しき星のごとく
またその黒髪も黄昏のそれかとまごう。
されどそのほかの身につくすべては、
五月とうららかな暁よりもたらせるもの。
つけまとい、人を驚かし、待ち伏せする
躍る姿、陽気な像。
              ワーズワース「彼女は歓びの幻」田部重治訳

更に近づいて見ると、
幻のようで、まことの女、
家庭の動作は軽くのびやか、
足取りは乙女にのみ与えられた自由さ。
過ぎし日の楽しき想い出と、
美しき未来の希望との入り交れる顔、
人の情の日々の糧として、
あまりに輝やかしくも、また、善すぎもせざるもの。
また、一時の悲しみ、単純なたくらみ、
賞讃、非難、愛、接吻、涙と微笑にもふさわしきもの。
              ワーズワース「彼女は歓びの幻」田部重治訳

いま私は静かな眼で、
彼女のからだの鼓動を眺めると、
物思わしげな呼吸して
生より死への旅路を辿るもの。
変らぬ理性、慎み深い意慾、
忍耐、深慮、力、熟練を備え、
警告し、慰藉し、支配すべく、
気高くも神により作られし完き女、
されどなお一つの霊で、
天使の光明にも似て輝やかしい。
              ワーズワース「彼女は歓びの幻」田部重治訳

上は、第一部の扉のつぎに
真ん中は、第二部の扉のつぎに
下は、第三部の扉のつぎに掲げるかな。


舞姫・第二部―その1―のための覚書 表現とレトリック

男がスイッチを入れると
彼らが運んできた箱の上部の蓋が開いて、
ミツバチ型ロボット・カメラが群がり出てきた
雲霞のごとく 観客たちのひとりひとりの身体にまとわりつく
無数のミツバチ型ロボット・カメラたち
ミツバチたちは螺旋を描きながら人間の身体のまわりを旋回すると
すばやく流れさる雲のように離れて、つぎの人間の身体にまとわりつく
そのミツバチたちは、ひとりひとりの人間たちの位置と特徴を記録している
さまざまな角度からの表情 人種的特徴 服装 など
それらの情報を巣のなかの機械に送信している
三島由紀夫は驚きつつも、
彼の敬愛する作家であるオスカー・ワイルドなどの言葉を
きっと思い出しているはずだ、と主人公の青年は思う

「詩人の才能よ、おまえは不断の遭遇の才能なのだ」
                 (ジイド『地の糧』第四の書・一、岡部正孝訳)

「あらゆる好ましいものとあらゆる嫌なものとを、次々に体験し」        
         (ヴァレリー『我がファウスト』第一幕・第一場、佐藤正彰訳)
「一つひとつ及びすべてを、一つの心的経験に変化させなければならない」
                      (ワイルド『獄中記』田部重治訳)


舞姫・第三部―その1―のための覚書(10通りの、その1)

第三部−その1−は、10通り書く
主人公の青年が惑星リゲルに向けてスペースシャトルに乗り込む場面を
10の文学作品のパスティーシュでつくる
10通りの出発の模様を描出する
1つはもちろん森鴎外の『舞姫』の冒頭のシーンのパスティーシュ
文体はもちろん
状況も10通りあることをわかるように書く
現実世界の扉が打ち砕かれ
可能世界の扉が開かれ
10の平行宇宙がある一点のみで交わってしまった状況を描くこと
第二部の最後のシーンのなかに
主人公がはじめて惑星リゲルに向かってシャトルに乗り込み
惑星リゲルに到着し
舞姫と出会った日のことを回想させるシーンを
細切れに入れておくこと
第三部の10のシチュエーションを
それと少しずつ変えておくこと

現実世界とは
1つの平行宇宙から見た場合 それ自身のこと
したがって、それ自身をのぞく、ほかの平行宇宙は
その平行宇宙から見ると、すべて可能世界ということになる

交わりは
予感という形
ふとよぎる前触れの感受という形を通して描くこと
それ以外に、平行宇宙の交わりは幻視を通してしか得られないので
幻視は第二部の最後で、幻視自体が現実を打ち砕く場面が出てくるので
第三部では、静かに「語る」こと
歓びの予感に打ち震える静けさを描出すること


舞姫・第二部および第三部の創作メモ
(詩論展開部分・時間論展開部分・自我論展開部分)

悲劇の言葉は喜劇の行動を生む

知識の総体というものがあるとすれば
それは時間が流れておりますあいだ増量していくと思うのですが
それらの知識の総体のあいだに、互いに結びつきあおうとする力が生じると
小生は考えておりまして、自らの意思で、その場を提供することのできる者が
知性体であり、その知性体の場と、場を提供する意思を
知性と呼ぶことができると思っております。

人間も知性を有していない段階では知性体ではないように思いますが
ふつうは、種族のある幅のある段階をもって、その種族のおおよその
概念規定をするでしょうから、人間を知性体と呼ぶときには
規定から外れる場合も考慮しないといけないと思いますが
厳密性を求めない作品では、これは無視されている状態であり
また、そうしておいて、だいたいのところは問題がないと思います。

知性のイデアなるものがあるとすれば、神でしょうか。

あるとき、テレビのニュース番組のなかで、
南アフリカ共和国のことだったと思うのですが、
黒人青年を、白人警官が警棒で殴打している様子が映し出されたのですが、
それを見て、その殴打されている黒人青年の経験も、
殴打している白人警官の経験も、
ひとしく神の経験ではないかと思ったのでした。
翌日、詩のサイトの掲示板に、この感想を書きまして、
さらに、
「神とは、あらゆる人間の経験を通して存在するものである。」
と、 付け加えたのですが、なぜこのようなことを思いついたのか、
よくよく振り返ってみますと、
汎神論というものについて、以前より興味がありまして、
ボードレールからポオ、スピノザ、マルクス・アウレーリウス、プロティノス、
プラトンにまで遡って読書したことが、筆者をして、
「神とは、あらゆる人間の経験を通して存在するものである。」
といった見解に至らしめたと思われます。

「神とは、あらゆる人間の経験を通して存在するものである。それゆえ、
どのような人間の、どのような経験も欠けてはならないのである。
ただ一人の人間の経験も欠けてはならないのである。
どのような経験であっても、けっしておろそかにしてはならないのである。」

知性体とは、知識が堆積し、それらが自ら結びつこうとする場のことで、
そのとき、さまざまな知識自体が互いに認識し合うのですが、
知性が高くなるということは
すなわち、知識が真の知識に近くなっていくことでもあるのですが、
さて、これを時間論と絡めて考えますと
推理や推論は、未来の知識ということになります。
知識自体が他の知識と結びつき、推理力・推論力となるわけです

神とは、過去・現在・未来の知識である。

リゲル星人は、少し先の未来の知識をもって、現在から少し先の可能世界に
またがって同時的に存在することができるのですが
人間は、たとえば、主人公の幻視のヴィジョンによって、
より先の可能世界にまたがって同時的に存在できるのですね。

まったく同じ状態の並行世界は存在するのか。

神への進化は、知性の進化である。

さまざまな可能世界の扉を開く→並行宇宙の同時的な存在(存在確率密度)

並行世界が同時的に存在→知性体は、
世界の存在する理由の媒体的役割を果たしている

世界は、現実世界と可能世界に同時的にまたがって存在している
並行宇宙の一つ一つに現実世界と無数の可能世界がある。

未来は可能世界の量子的な状態にある(存在確率密度)

リゲル星人は、世界が存在するための触媒の触媒にしか過ぎず、
真の触媒は人間である。
より詳しく言えば、真の触媒は、人間のヴィジョンである。

知性体は触媒になっている→場を与えている

主人公のヴィジョンのなかで、現実世界の扉が打ち砕かれ、
複数の可能世界の扉が開かれ、複数の並行宇宙が
ヴィジョンのなかで結びついて、その複数の並行宇宙にまたがって、
主人公がその結びついた並行宇宙のあいだを自由に居場所を変えられる。

さまざまな可能世界が、お互いに引きつけ合う。
その引きつけ合う場が、知性体のヴィジョンのなかにある。

リゲル星人が現実世界と可能世界の入り口近くに同時的に存在するとき、
不可侵の状態になっているのは、リゲル星人のなかでは現実世界と可能世界が
同時的に存在して、世界が引力によって結びついているあいだ
リゲル星人の外では斥力が働くため。

リゲル星人の体型は、ダルマ型。

シャトルで月にさえ行ければ、リゲル星人の宇宙船と施設があって、
その施設にある装置によって、限りなくゼロ時間に近いに時間に移動できる。

このことは、リゲル星人より発達した知性体の存在が示唆される。(ドクター)

「アメリカびいきの日本人がいるのだ、日本びいきのアメリカ人がいるようにね。」

宇宙人同形論者   右翼・左翼

思考のプロセスと存在のプロセスのアナロジックな関係

リゲル星人は現実世界と、現実可能性の高い未来のいくつかにまたがって
存在しているが、すぐに近い未来の可能世界であって、
並行宇宙を呼び寄せるほどではなく
地球の主人公は、リゲル星人よりも現実可能性の幅のひろい範囲に
わたってヴィジョンを見ることができる。
つまり、リゲル星人よりも先の未来にまたがって存在することができる
知性体であるということである。
(つまり、知識自体がより知識とより強く引きつけ合い、結び付き合うということ)
そのため、並行宇宙が、主人公のヴィジョンを場にしてによって結びつく。

言語主義といいますか、言語還元主義とでもいいますか
ぼく自体は、そういった立場にはないです。
『舞姫』の主人公が、あるいは、ドクターや、「田中宏輔」が
どのようなことを考えたことにするのかは
まだまだ流動的です。数年かけようと思っています。

存在するもののなかに精神や物質があり言語もあるので
概念規定によって存在に言及することはじつはできないと思っています。
よく比喩として述べるのですが
袋のなかにいて、袋の外から見ることはできないと。
したがって、ぼくが上に書いたことも
矛盾があって無理もあります。

「悲劇の言葉は喜劇の行動を生む」というのも
「書くことは悲劇であり喜劇である」と、自分では解釈しています。

まずは書くこと。
矛盾を恐れずに、というか、あえて、矛盾を呼び込もうとしています。

追記

ある人のつぶやきに対する、ぼくのコメント

つまらない人生というのは、
自分の人生を振り返ったとき、ぼくもよくそう思います。
じっさい、明日から新しい仕事探しです。
47歳ですけれど、いまだフリーターです。
先々週に勤め先の女性に
「田中さん、そんな暮らしで、自分が情けなくなってきいひんか?」と言われ、
ひとから見れば情けなく思える人生なのかと思いましたが、
しかし、文学といいますか、道楽の文芸に携わっている自分としては、
暮らしは みじめですが、生き方としてはそれほど悲観的ではありません。
つまらない人生と いうのは、
正直言って、自分でも自分の人生をそう思うことがよくありますが、
冷静に落ち着いて見れば、つまらない人生ではないと思っていますし、
ほかの ひとの人生を見るときに、
つまらない人生かどうかの判断は、ぼくにはできないのですが、
少なくとも生きているというだけでも、かなりすごいことだと思っているので、
つまらない人生はないと思っています。
言い方を変えますと、生きている意義のない人生はひとつもないと思っています。なにげない日常のことがらの一つ一つが
かけがいのない異議を持っているのだと思っています。
まあ、ほんとうのことを言えば、
日常生活では、そんなこと忘れてしまって、ないがしろにすることが多いのですが。
笑。
神はマゾでもありますし、サドでもあるのでしょう。
神はあらゆるものであるのでしょう。
人間があらゆるものになりうるならば。
むかし、こんなことを考えたことがあります。
さまざまなものが、人間に見られたり触れられたり知られたりすることで、
人間の魂が付与されるんじゃないかと。
と、同時に、
そのさまざまなものが人間の魂をより豊かなものにするのではないか、と。
万物が神である、という汎神論に、強く惹かれますが、
どうしても、神というとき、人間中心に見てしまいます。
どうしても、神概念が人間とは切り離して考えられないのです。

善のイデアは神である、というのはカントでしたでしょうか。
知性のイデアが神であるというのは、
それをヒントにして考えたのですが、
もちろん、すでに誰かが考え述べていることかもしれません。
ギリシアの愛の言葉の定義の一つに知への愛と言うのがあったと思うのですが、
ぼくは知性の定義の一つに愛があるような気がしています。
ほんとうに知性的な人って、愛の目をもってさまざまなものを
見ることができるような気がするのです。
ボードレールが自分の日記に、つぎのようなことを3、4度書いております。
「ロペスピエールはつぎのようなことを述べている。
このことをもって、ロペスピエールは十分に尊敬に値する。
彼は、こういった。
わたしは人を見るとき、愛情をもって見ることのほか、何もできないのである。」と。
ボードレールが書いたロペスピエールの言葉は、
たびたび、ぼくのこころに刺さります。
とりわけ、仕事場で、とてもいやな思いをしたときに、
ああ、人って、こんなに醜い面があるのだなと思ったときに。
しかし、その醜いと思われる面を見せているその人にも事情があって、
そんな面を見せているのだなと思うと、納得できることも多々あります。
おとついなど、ある人にミクシィの日記に、昨年の暮れに上梓した拙詩集について、「得るところのないもの」ですとか、「凡庸な病者が書いたものである」ですとか、「ナルシズムに満ちている」みたいなことを書かれてへこんでいたのですが、
そういう意見もありなのだと、そういうふうに判断されるぐらいに、
その人は、きっとたくさんのいいものを目にしてきたのであろうから、
そういう人に、目を通してもらえたことを光栄に思って喜ぶべきであると、
きのう思い至りました。

人生にはさまざまな面があり、そのさまざまな面に人生があるのでしょうから、
やはり、どの瞬間も、一つ一つ、大事なものなのでしょうね。
そう認識していても、つい、忘れてしまうのですが、笑。


『舞姫』で使用するセリフ・メモ

遠隔共感能(テレ・エンパシー)

hives 蜂の巣箱

彼女は、ぼくが口に出して言ってもいない言葉に返事をした。

言葉が、
その言葉が属している言語の文法規則にそって使用されていないときにでも
その言葉は、「何々語」であると言えるのだろうか。
日本語の単語が用いられていても、日本語文法に則っていなければ
その日本語の単語で書かれた言葉は、日本語ではないのではないだろうか。
では、翻訳機械を通したリゲル星人の発するこの言葉は、日本語なのだろうか。

書くことで、その言葉が言及している(であろう)事柄から逸脱する。

それは、彼のこころに反していただけではなく、そのときのぼくには
わからなかったのだけれど、ぼく自身のこころにも反していたのだった。

この夜の出来事が、これからのぼくの思考のすべてを支配するものになるとは
思いもしなかった。

そのよろこびや悲しみは、ぼくのこころがつくりだしたものなのだから
ぼくがそのよろこびや悲しみなどなかったことにすればいいだけじゃないのかな。

起きるであろうことではなくて、起こらなかったことまで知ることができるのだ。

言葉ではない、ほかの何ものかが、こころのなかで、互いに尋ね合い、
答え合っているということがあるのだ。(結びつくということ)

視線が、互いに探り合っていたのだった。

さまざまな結びつき方があるのだ。

藪のなかに潜んでいる何かが動き出そうとしているのではなかった。
藪そのものが動き出そうとしていたのだった。

場所ではないが、場所としかいいようのないものであった。

それ自らが媒体であり、また媒体によって繋ぎ合わされたものなのである。

しっかり目を開けているからといって、ちゃんと見えているかどうかはわからない。

それは、単に、言葉で編まれた世界にしか過ぎない。世界そのものではない。

すべてのものの目として目覚めるゴースト

あらゆる可能世界が現実世界になろうとしているのだ、
あらゆる瞬間が永遠になろうとするように。

だれが自我などに云々するだろうか。あるかどうかもわからないようなものに。

それもまた、ぼくのけっして理解できないものの一つであるように思われた。

それがそのときの気持ちだった。少なくともそのときの気持ちの一部だった。

どちらがそのときの気持ちだったのだろう。
もしかしたら、どちらもほんとうの気持ちではなかったのかもしれない。

音には映像を膨らませる力があった。

そのとき表現されたものは、すべて虚しい一吹きの風にしか過ぎなかった。
表現されなかったもののなかにこそ実体があり内実が伴っていたに違いない。

他者が存在するので、自分自身をそこに映し出して見ることができるのだ。

あなたの詩はリズムによって理性が崩壊するところがよい。

わたしは彼に魅力を感じていた。悪いことに、そのことを強く意識してもいた。

細かく砕けた自我が降りそそぐ。

リゲル星人の第一触手に這い登る蟻は
石庭の見えないところに存在するものがあることを示唆している。

それは、自分が何を見たのか、何を知りたかったのかを
はっきりと教えてくれるものであった。

それは、全く眼に新しい光景、感覚なのに、
なぜかしら、よく知っている、なじみのある感じを起こさせるものであった。

さまざまなものが同じものに見えるのだ、
違った時間が、違った場所が、違った出来事が。

ふらふらとさまよう魂のように

思考は思考対象を必要とする。何かきっかけとなる言葉や事柄があるということだ。
しかし、それは、思考を制限するものではなかった。
むしろ、思考をさまざまな方へと自由に飛翔させる原因となるものであった。

それは虚しかった。虚しいということがわかっているからこそ、よけいに。

「すべてがノイズになる。」と書いていたのは、
ジョン・スラディックであったろうか。

そいつは、ぼくがどこにいるのかを、ぼくに教えてくれていたのだった。

なぜ、ぼくの顔はこわばっているのだろう。
なぜ、ぼくの顔の筋肉はしきりにこまかく引き攣り震えているのだろうか。

真実でないものは、すべて虚偽なのであろうか。

ぼくのこころが、これらの風景をつくりだしたに違いない。

これはただの光ではない、魂をもつものの光なのだ。

その言葉は、ほんとうのものらしくはなかったけれど、ぼくのこころを喜ばせた。

無意識のうちに、まだ何もはじまってもいないのに
それは、ぼくに愛の営みを思い浮かばせていた。

言葉では表されないもの、言葉と言葉をつなぐもの、文法というのか
ごと語をつないでいるものが、そこに身をかがめてじっと待機しているのだ

その言葉は、たちまち情景のなかに吸収されてしまった。

人影は数多くの感嘆符となって、あちらこちらに立っていた。

小林ジュンちゃんのことが思い出される。
1989年8月号の『詩とメルヘン』かな。
そのときの編集者の名前が小林潤子さんといって、
そのひとの判子が、送られてきた雑誌の後ろに押されていたのだった。

彼のひざの上の手の動きに戻ろう。彼のひざの上の手の動きに目を戻そう。

倫理的な人間は、つねに神に監視されている。

それは相手に警戒心を呼び起こすような微笑みだった。

つぎつぎと無数の映像を吐き出していった。

目がしばたたくと、意識もしばたたいた。

ああ、それがただの比喩であったらよかったのだけれど。

彼は違っていた。ぼくの知っているいかなる世界とも異なっていた。

こころのなかで、ぼくじゃないぼくが、獣のように打ち震えていた。

天国と地獄ははじめから存在していたのかもしれないが
もしかしたら、人間は、より多くの地獄をつくりだしたんじゃないかな。

声は文字よりも現実的であり、文字は声より幻想性が強い。
これは、身体が概念よりも現実的であるからだろうか。

そこには、新しい連結がたくさんあったのだった。

どうして、いつも悲しみをもって見つめてしまうのだろうか。

比較する対象がたくさんあると、現実感が増していく。

ぼくたちは言葉で語るのをやめた。

それは、はじめて見る表情だった。

それは、ある精神状態にあるときにのみあらわれるものなのだった。

はっきりと目に見えなかったが、人の形をしているのは感じ取れた。

知らず知らずのうちに、互いに魂を混じり合わせていたのであった。

過去でもあり現在でもあり未来でもある時間が、場所が、出来事が
わたしのもとに訪れた。

あらゆるものが闇のなかに潜んでいた。

象徴と象徴が重なった。

それでも、それは人生においてもっとも幸福な瞬間の一つだった。
もっとも、そんなにたくさんあったわけではなかったけれど、
ひとのつねで、見栄を張って、ワン・オブ・ゼムと書いてしまうのだ。

すぐに愛を感じ取れないからといって、
いつまでも感じ取れないということはないであろう。
すぐにわからないからといって、
いつまでもわからないというわけではないように。

私は、自分のこの気持ちを、感情を、落ち着いて、違う角度から眺めて
解釈することができるだろうか。
いや、やらねばならない、自分のために。

問うのは答えを得るためであろうか。
問いかけから新たな問いかけをするのが、真の詩人の務めではなかろうか。

問いかけの輪郭を明確にすると、問いかけ自体が異なった意味をもつことがある。

ぼくは憎んでいた。
彼がけっしてぼくのものにならないことを知っていたからである。
ぼくのものになるのは、ぼくのつくりだした彼のイメージであって、
それはもしかしたら、
彼自身がつくりだした彼の魂の一部分を含むものかもしれないが、
しかし、彼のイメージの大部分は、ぼくがつくりだしたものであり
そのイメージが
来たるべき現実の彼の姿とは似ても似つかぬものになるであろうことを
ぼくが知っていたからである。
どの欲情の記憶も数え上げるのがそれほど困難ではない数の記憶に集約される。
それに加えられるものは、ごくわずか、直近のものだけだ。

生きているあいだに、知ることのできるものより、知ることのできないもののほうが多く
目の前を通り過ぎていってしまうのではないだろうか。
知ることのできないもの、それが何であるかということさえ知ることのできないものなのだ。

思考対象がなければ自我は働かない。
自我を思考傾向のようなものとして捉えれば、
思考対象がないときには、自我が形成されないということだ。
それとも、思考対象がなくても、思考傾向だけがあるということもあるのだろうか。
「自我の存在」=「わたしの存在」ではないが
思考傾向を書いた「わたし」は「わたし」ではないように思われる。

過去・現在・未来のヴィジョンがバブルとなって
ぷつぷつとまじわっていく。
身体をバブルが包み込む。

どんなにそれがすばらしい作品であっても、それだけでは意味がない。
それが人の目に触れる場所に発表され、人の目にとまる機会を持たなければ。
そうした状態に置かれてはじめて、作品に意味があることになる。
そうした状態に置かれてはじめて、作品は人のこころにまで届くものとなり、
人の魂の領土を拡げ、人のこころを生き生きとしたものにすることができる。
できるのである。

「余白」には、何もないわけではない。言葉と言葉が作用し合っているときに、
「余白」はその作用に影響を及ぼす場所となっているのである。
あたかも、空間の距離が、物質と物質のあいだに働く
引力というものに密接に関係しているかのように。


舞姫・第二部 主人公の母親が発狂する要因となる舞姫の言葉の一部

劇場の陶器の奴隷の囀りの膨張の波動の唸りの洟水の背鰭の軋りの偶然の朝市の被写体の動揺の威厳の木っ端微塵の藪睨みの反復の審問の実体の瞼の突起物の語彙のこおろぎの微熱の絨毯の鼻梁の契約の気配の吟味の喪服の目配せの持ち前の雨音の滑走の武装解除の欄干の義足の上辺の胎動の瀕死の橋梁の指令の血筋の刹那の痙攣の沸点の波間の花びらの権利の水圧機の衝動の触角のエレベーターの符牒の生簀の眩暈の養子の鍾乳洞の数年前の例外の浴室の蛹の駐車場の破片の台風の動機の水槽の容貌の承認の純粋の迷走の虐待の美徳の跳躍の旋律の使徒の足蹴りのなだれの帽子の眩しさの犠牲者の観念論の悔恨の擦れ違いの城壁の封印の漣の尾鰭の輪郭の盲人の狼藉の趣味の国家の行列の神経の迷走の起源の解毒剤の穿孔器の元老院の深層心理の遠心分離機の紙くずの摘み手のひと刷毛の滑稽の満足感の化粧のピーナツバターの自学自習の生まれ育ちの執刀医の瞑想の血管の謝罪の難点の相殺の花盛りの孵化の把手の留置場の小枝の虹彩の心無しの面影の量子ジャンプの軌道追跡装置の永劫の揮発性の移植の化石の返信の新陳代謝の斥力の割増料金の一瞥の孤島の昏睡状態の拒絶の意思疎通の略奪の新聞紙の弛緩の興奮の先祖の液体酸素の空腹の引力の映写機の緊張の王さまの兆候の激痛の湖岸の人形の難点の不機嫌の習わしの多幸症の瞬きの処方箋の暗黙の減圧室の妥協の茫然自失の物真似の長時間の告白の岸辺の意識の汚染の取り違えの真実の屈辱の芥子の静寂の袋小路の伝染病の微笑の訂正のガラガラのグリグリのバリバリの前歴の水流の偽りのアルマジロの段々畑の糸巻きの憎悪の残量の動作の咽喉の胚芽の悲哀の範囲の潜水艦の闘技場の試験結婚の饒舌の回収の両眼の縫合の禿げ頭の交信の大気圏突入の円環体の蜃気楼の胎児の壁紙の軌道の妊娠の避難の礼儀の汚染の鰐の催眠術の継ぎ目の急降下の輪転機の蜜蜂の大津波の胞子の渓谷の雷電の擬態の翻訳の慈善家の熱風の水蒸気の蝶の消化不良の象の幽霊の結び目の放浪の隊列の嫉妬の抱擁の泥炭質のまがいものの便箋の日没の狩猟場の音楽室の地すべりの電位差の巻き毛の官吏の凝結の鯨の剥製の宇宙飛行士の絶滅の理解の落下の殺戮の交換台の精神改造の戦さ化粧の徘徊の悩みの宇宙人同形論者の基盤の異種族嫌悪症の構造の大股のないがしろの塊の否定の状況の遮断の崇拝の間違いの鉄くずの水牛のスキャンダルの脊髄液の霊魂の繊維のひき蛙の陳列の宿命の費用の輻射熱の横笛の腐敗の還付の突然変異の反動の不意打ちの頭文字の輸出入の塒の呪いの錯覚の鸚鵡の所要時間の合唱の正体の檻の足元の思案の貧困の呟きの鉱山の傍観の砂漠の踊りの爬虫類の演説の凝視の折柄の初耳の彫刻家の爆破


舞姫・設定変更その他の若干のメモ

設定変更:翻訳機を通しての翻訳は考えないこと
     リゲル星人との会話はすべて精神融合によるものとする
     
     月の裏側で、リゲル星人の宇宙船と移動装置と薬の発見
     リゲル星人の姿は見られず、半年後に姿を現わす
    
     リゲル星人が姿を現わすまで、薬の効果について
    
     地球人側は、動物実験と人間を使った実験をしている
     薬は同種族の間では精神融合を即時的にもたらせる
     異種族の間ではかなりの時間をとるうえに
     不完全な相互理解に陥ってしまうことがわかる

     意味の伝達が異種族の間では不完全であるが
     知的であればあるほど、想像力がそのギャップを
     埋めるはずで、結局のところ、知的生物は相互に
     ヴィジョンを形成し、感情を付与し、さらに
     それに名辞を与えることにより、言語化して
     自身の脳に記憶させ、それを参照材料として
     リゲル星人と地球人は意思疎通をはかることができる

     似た経験を通しての相互理解が不可能なことから
     最初に意思の疎通をはかる段階で
     人間もリゲル星人も、一週間ほどの昏睡状態に陥る
     記憶がバブルになるというところは、リゲル星人と
     精神融合してからずっと起こる事柄にしておく
     
     薬によって、すべての人間に感応能力がもたらされる
     わけではない。また、薬を何度も使っているうちに
     精神感応力が自然について、そのうち、薬が不要になる
     ただし、薬によってテレパスになるのは一部の人間だけ
     そのほかの人間は、ドラッグのような幻覚作用が伴うのみ
     ドクターを襲うキッズたちは、この類     
     
     言語の成り立ちが、ヴィジョンの形成と感情の付与と
     意味概念の定義づけとどう関わっているか
     それをリゲル星人と、人間という
     まったく異なった経験を有する知的生物の間での
     精神融合という、むちゃな設定において、どう生かすか
     
主人公の詩人が、葵公園で出会った「田中宏輔」の話を聞いて
「田中宏輔」に薬を渡して、精神融合する気になった理由:

四条河原町のジャズ喫茶のビッグボーイでのコーヒーカップを
振り上げて友人の頭に振り下ろすヴィジョンを見ながら、同時に
友人の退屈な話を聞いているという「田中宏輔」の二重ヴィジョンと
二重意識の存在に興味を持ったため。

「田中宏輔」は、同志社国際高校の数学科の非常勤講師であったが
ある日、勤め帰りに、近鉄電車のなかで、帰りに寄る予定であった
イタリア会館の前の道路の様子を二重ヴィジョンで見る
(これ、実話なんだよね。20代のときの。詩のなかで、ダンテの
『神曲』の一節を原文で引用するため、原著をコピーさせてもらう
約束をしていて、それでね。イタリア会館のそばに、ミッドナイト・カフェって
いって、京大の寮の一つを土曜の夜にカフェにして、ゲイやレズや
ストレートのインテリたち(笑)なんかが集まって意見交換などしてたんだけど、
いまもあるのかなあ、何回か行った。そこで見かけたきこりの青年が
めっちゃカッコよかったなあ。)のだが、このことも文章に書くこと
そういった素質があることを、詩人が直感的にも感じ取っており
そういう理由で、「田中宏輔」と接触していたのである
「田中宏輔」のドッペルゲンガーの話も書き込むこと
(これまた、実話なんだよね。だから、見たときのまんま書けるね)

薬の効能:精神感応力を増加させ、ヴィジョンに感情を付与させ
     意味概念の形成と、その固定を容易にさせる

真の暗闇は見ることができない

岩たちが本来自分たちがいるべき場所を思い出して、石庭に戻っていった。

現実離れしたことをも思考するこの詩人というものは、
人生についてつねに現実を傍観するという立場に自分を置いているからこそ、
現実というものの全体を把握することができるのではないだろうか。

ぼくはいま鳥なのか、鳥が足で壊していく水面に映った月の光なのか

ある程度のテレパシー能力があるということも一因ではあるが
詩人は、生まれつき、他人がどう感じているのか、どう考えているのか
それを、その他人が使う言葉とその言葉を発したときの表情に加えて
より状況に適した言葉を補い、
ときには、その言葉の順番を入れ換えたりしながら
推測する人間であった。
自分の気持ちを分析するよりもずっと容易に他人の気持ちを推測することができた
これが、詩人がリゲル星人の通訳になった理由の一つである

翻訳機械を通じての翻訳をやめて、テレパシーによる意味概念の言語という
なんともわけのわからない雰囲気のものではあるが(まだ書いてないし、
どうなるか、未定だけど、でも)おそらくは、言語獲得過程について
かなり掘り下げた考察ができると思う

詩人は、加茂川の河川敷を歩いているときにUFОを見るが
それほど驚かなかったエピソードを入れること(これ、実話なんだよね)
もちろん、リゲル星人の円盤なのだけれど、笑。

二重ヴィジョンと二重思考の違いについて考察すること
二重ヴィジョン≠二重思考
   
むかし、こんなことを考えたことがあります。

さまざまなものが、人間に見られたり
触れられたり知られたりすることで、人間の魂が付与されるんじゃないかと。と、
同時に、そのさまざまなものが人間の魂をより豊かなものにするのではないかと。
万物が神である、という汎神論に、強く惹かれますが、どうしても、神というとき、
人間中心に見てしまいます。
どうしても、神概念が人間とは切り離して考えられないのです。

で、概念形成という場面で、ぼくは dio に発表した「多層ベン図」の考え方を
いまだにしているのですが、『舞姫』でも、この多層ベン図を下敷きにして
概念形成モデルを提出できれば、と考えています。
空集合面を最下層の面にして、それが万能細胞のごとく、変化し
実集合面を形成していくというモデルですね。
これは上記の「魂の与え合い」による世界の拡大とも関連してきます。
赤ん坊がタブラ・ラサであるという見解を、ぼくは持っているのですが
その下地に、魂の空集合面が存在しているではないか、ということですが
それはタブラ・ラサではないと、先日、哲学科の先生に言われたのですが
その先生の意見は無視します、笑。


舞姫・第二部 主人公の母親が発狂する要因となる舞姫の言葉の一部
(追加分)

密告者の護符の政府承認のエクトプラズムの内証の寄木細工の検査官の逮捕のスパイ行為のサボタージュの政治的偏向の告発の拷問の刑罰の電極の首吊り縄の因果律の代謝作用の服従の手術室の潜在的同性愛者の勲章の去勢の堕落の座薬の愚連隊の緊急の抑揚の接触の勃起の放棄の激怒の原爆の踏み板の有刺鉄線の証明書の隔離状態の売春宿の特権階級の代謝作用の遺伝性機能障害の興奮の摩滅の異星人情報局

バロウズの『裸のランチ』から取り出した言葉だけれど
これをこの間、書いたものに混ぜると

鳥の散水機の電気技師の植木鉢のネクタイピンの微笑みのエスカレーターの瞑想の溜まり水の肘掛け椅子の小鳥の映画館の薬莢の古新聞の電信柱の蜜蜂の肘掛け椅子のビニールの牛の藁屑の理髪店の新幹線のレモンの俯瞰の花粉の電気椅子の首吊り台の雲のいまここのいつかどこかのかつてそこの自我の密告者の麦畑の船舶のカンガルーのエクトプラズムのハンカチの襞の寄木細工の草の内証の等級の新約聖書の自明の連続のオフィーリアの多弁の乾電池の朝食の時計のトランプの絆創膏の護符のバインダー・ノートの孔子の老子の荘子の政府承認の散文の韻文の抑揚の踏み板の首吊り縄の勲章の衣装のルーズ・リーフのコンセントの歌留多の帽子の絵空事の逮捕の証明書の勃起の遺伝性機能障害の検査官の杜甫の陶淵明の去勢の描写の退屈のスパイ行為の旧約聖書の情念のサボタージュの堕落の壁の政治的偏向の因果律の表現のタイルのタオルの葱の小松菜の逐電の代謝作用のレコードのハミガキチューブの古典の技巧の細胞の組織の飛び領土の直線の亡霊の故郷の世界のコーランの原始仏典のチャートの汗の株式相場の計算用紙の意味の構造の漢字の経験の翻訳の瞬間の全体の官能の食料品店の心臓病の収集の薬玉の土曜日の寝台の手袋の顔の曲がり角の森羅万象の金魚の石榴の自転車の蝙蝠の幸福の鉄亜鈴の約束の珊瑚の嵐のつぐみの左手の教理問答の彫像のゼニ苔のウミガメの無関心の修練の献血の飛行機のつぼみの砂肝の道標の犯罪者の群青の異端者の刑罰の電極のチョコレートの意識の知覚の因果関係の非能率の膝頭の壺の光の風景の事物の言葉の音の葉脈の噴水の羽毛の噴水の間違いの存続の鼓動の樹冠の犬の亀裂の娯楽の技法の臨界の砂浜の蚊柱の鍵束の呼吸の神話の紙やすりの座薬の継母の自然の服従の奢侈の経路の埃の食虫植物のヨットレースの舌打ちの撫子の洗面台の受話器の因果律の告発の周期の背中の万葉集の釘抜きの微笑みの悲しみの平仮名の山脈の軍需工場の贓物占いのスパンコールの麻痺の渦巻きの赤錆の手術室のハンバート・ハンバートの考察のジュリアン・ソレルのスポーツ観戦のドン・ジョバンニの俳句の勢子のDNAの砂糖菓子の証言の肉体のコマの胡麻の素朴の軋轢の潜在的同性愛者の有刺鉄線の単位の美の事情の技術の不穏の明晰のヒキガエルの知識の木炭の発音の魂の売春宿の特権階級の太平記の嘘の真実の異議の働きの輸入品の人生の隔離状態の接触の摩滅の物語の現実の井戸の存在の舞踏家の無為の沈黙の殖産興業の小太鼓の原爆の違反者の抑揚のカインの営みのアベルの形容詞の通年の活版印刷のミンチカツ・ハンバーガーの猿の微振動の猫の霞の圧迫の雨の回転運動のマルガレーテの対称移動のジュリエットの杖のハムレットの翼のリア王のショッピングモールの芭蕉のファウストのアーサー王の神のコーヒーのクーラーの破局の悶えのカメラの糊のポールのジョンのジョージのリンゴの黒人の白人の哲学の季節の偏見の創造の黄色人種の骸骨のピンクの仮定の青の紫の向日葵のニガヨモギの裸電球の暁のクエン酸の馬頭星雲の薄暮の朝日の真夜中の正午の文庫本の図鑑の辞書の感情のボール箱の物証の治療のダイダロスの歯ブラシの比喩のエンジンのタオルの事典の韻律の休暇の雑誌の孤独の叫びの螺旋の出来物の表面の剃刀の括約筋の潰瘍の内部の露台の鱗の声のモザイクの交接の繊毛の接触の屏風の喉の階段のイメージの現実の波の肉体の焦点の麻薬の足音の旋回の儀式の背骨のゲップの名残のジャイロスコープの出産の弾丸の迷信の拷問の凧の深淵の堕落の緊急の排泄の漆黒の禿の勝利の偏光のクラゲの恥辱の放棄の愚連隊の弾丸の象牙の皮膚の響きの切り株の人混みの廃墟の高木の茂みの鈴の模様の繁殖の移植の抱擁の恍惚の布地の汚染の睦言の大衆の蔓の火打ち石の海鳴りの緊張の気泡の道の根の演技の橇の憂鬱の記録の噴水の壁掛けの緊張の眉毛の習慣の屈折の桟橋の平面の棍棒の瘡蓋の乳房の眉毛の真珠の刷毛の挨拶の信頼の解説の休息の襲撃の陰毛の物語の誤解の躊躇いの雑草の炎の物腰の強さの弱さの根の結晶の魂の寄生虫の万華鏡の曖昧の覇者のタクシーの騒動の鶏の胃の腸の肺の歓喜の音階の神秘の感触の一枚の溝の隠喩の霧の伸縮自在の追跡の恋歌の波紋の潅木の鳴子の象徴の人間の爆発の楔形文字の饗宴の旋律の木造のトマトケチャップの福音の隣人の頭蓋のマヨネーズの手術の霊感の悲劇の定期券の寝室の読み物のオーバーヒートの性的倒錯の頌歌の凸凹の司祭の蹄鉄の溺死の瞳の狼狽の非在の歓楽街の親指の精神安定剤の地雷の空集合の枯れ枝の跳躍の共鳴の消滅の象形文字の有刺鉄線の存在様式の境界の騙し合いの切符の跳躍の湿疹の手榴弾の田園交響曲の警察の驚愕の手紙の片隅の無人の胸部の思春期の急流の未遂の図書館の地平線の群集の無意識の自動皿洗い機の運動靴の周辺の臍の観覧車の憂いの銀紙のバス停の花壇の白旗のこめかみの頂点の吊革の吸い取り紙の懺悔の踏み越し段の籠の頬の妄想の劇場の陶器の奴隷の囀りの膨張の波動の唸りの洟水の背鰭の軋りの偶然の朝市の被写体の動揺の威厳の木っ端微塵の藪睨みの反復の審問の実体の瞼の突起物の語彙のこおろぎの微熱の絨毯の鼻梁の契約の気配の吟味の喪服の目配せの持ち前の雨音の滑走の武装解除の欄干の義足の上辺の胎動の瀕死の橋梁の指令の血筋の刹那の痙攣の沸点の波間の花びらの権利の水圧機の衝動の触角のエレベーターの符牒の生簀の眩暈の養子の鍾乳洞の数年前の例外の浴室の蛹の駐車場の破片の台風の動機の水槽の容貌の承認の純粋の迷走の虐待の美徳の跳躍の旋律の使徒の足蹴りのなだれの帽子の眩しさの犠牲者の観念論の悔恨の擦れ違いの城壁の封印の漣の尾鰭の輪郭の盲人の狼藉の趣味の国家の行列の神経の迷走の起源の解毒剤の穿孔器の元老院の深層心理の遠心分離機の異星人情報局の紙くずの摘み手のひと刷毛の滑稽の満足感の化粧のピーナツバターの自学自習の生まれ育ちの執刀医の瞑想の血管の謝罪の難点の相殺の花盛りの孵化の把手の留置場の小枝の虹彩の心無しの面影の量子ジャンプの軌道追跡装置の永劫の揮発性の移植の化石の返信の新陳代謝の斥力の割増料金の一瞥の孤島の昏睡状態の拒絶の意思疎通の略奪の新聞紙の弛緩の興奮の先祖の液体酸素の空腹の引力の映写機の緊張の王さまの兆候の激痛の湖岸の人形の難点の不機嫌の習わしの多幸症の瞬きの処方箋の暗黙の減圧室の妥協の茫然自失の物真似の長時間の告白の岸辺の意識の汚染の取り違えの真実の屈辱の芥子の静寂の袋小路の伝染病の微笑の訂正のガラガラのグリグリのバリバリの前歴の水流の偽りのアルマジロの段々畑の糸巻きの憎悪の残量の動作の咽喉の胚芽の悲哀の範囲の潜水艦の闘技場の試験結婚の饒舌の回収の両眼の縫合の禿げ頭の交信の大気圏突入の円環体の蜃気楼の胎児の壁紙の軌道の妊娠の避難の礼儀の汚染の鰐の催眠術の継ぎ目の急降下の輪転機の蜜蜂の大津波の胞子の渓谷の雷電の擬態の翻訳の慈善家の熱風の水蒸気の蝶の消化不良の象の幽霊の結び目の放浪の隊列の嫉妬の抱擁の泥炭質のまがいものの便箋の日没の狩猟場の音楽室の地すべりの電位差の巻き毛の官吏の凝結の鯨の剥製の宇宙飛行士の絶滅の理解の落下の殺戮の交換台の精神改造の戦さ化粧の徘徊の悩みの宇宙人同形論者の基盤の異種族嫌悪症の構造の大股のないがしろの塊の否定の状況の遮断の崇拝の間違いの鉄くずの水牛のスキャンダルの脊髄液の霊魂の繊維のひき蛙の陳列の宿命の費用の輻射熱の横笛の腐敗の還付の突然変異の反動の不意打ちの頭文字の輸出入の塒の呪いの錯覚の鸚鵡の所要時間の合唱の正体の檻の足元の思案の貧困の呟きの鉱山の傍観の砂漠の踊りの爬虫類の演説の凝視の折柄の初耳の彫刻家の爆破


人柱法

公共施設は、百人収容単位につき一人の人柱を必要とする。
千人を超える公共施設に関しては、二百人収容単位につき一人の人柱を必要とする。
人柱には死刑囚をあてること。
准公共施設については無脳化した手術用クローンをあてること。
人数に関しては公共施設の場合を適用する。
一般家屋ではホムンクルス一体でよい。


霊魂図書館

詩人は生きている死体が収容されている霊魂図書館に行き
死んだ父親に、自殺した母親のことを報告する。
母親が発狂した原因が母親もまたテレパスであって
詩人がリゲル星人と共感応したために
詩人がもはや自分の息子でもなく
人間でもなくなっていることに
ショックを受けていたことを
死んだ父親に教えられる。
精神感応する際に
ある程度の同一化が必要で
その過程で、人間ではない精神領域を
詩人が有してしまったために
母親がとてつもないショックを受けていた
ということ。
もちろん、『舞姫』における「霊魂図書館」は『図書館の掟』の設定である。
死んだ父親は、息子である詩人の接吻で目覚める。


葵橋

  田中宏輔



真夜中、夜の川
川面に突き出た瀬岩を
躱しかわしながら
ぼくの死体が流れていく
足裏をくすぐる魚たち
手に、肩に、脇に、背に、尻に
触れては離れ、触れては離れていく
この川に流れるものたち
朽ち木につつかれて、枯れ葉を追い
つぎからつぎに石橋の下を潜り抜けていく
冷たくなったぼくの死体よ
木の切れ端に、枯れ草、枯れ葉が
水屑に、芥に、縺れほつれしながら、流れていく
冷たくなったぼくの死体が、流れていく
ぼくの死体よ
絶え間なく流れる水
岸辺に、瀬に、囀る水の流れ
うねり紆りしながら
月の光を翻し、星の光をひるがえし
流れに流れていく、水の流れ
水面に繋がれたさまざまな光の点綴が
ぼくの目を弄しながら流れていく
水面に靡く、窓明かり、軒灯り、街灯の
滲み煌く輝き、ほくる眺め
揺蕩う、映し身
ぼくの死体よ
冷たくなったぼくの死体よ
おまえを追って
いまひとり

ぼくはまた葵橋の上から身を投げた






  躱しかわしながら            かわしかわしながら
  水屑に、芥に、縺れほつれ        みくずに、あくたに、もつれほつれ
  囀る                  さえずる
  うねり紆りしながら           うねりくねりしながら
  点綴                  てんてつ 
  靡く                  なびく
  軒灯り                 のきあかり
  揺蕩う                 たゆたう


わたしが死んだ夜に。

  田中宏輔



犬が吠える。
わたしに吠える。

わたしの姿など
見えるはずがないのに。

犬が吠える。
わたしに向かって吠える。

犬にだけは
見えるのかもしれない。

おもむろに上昇すると
わたしは二階のベランダに降り立った。

どの部屋も暗かった。
わたしは寝室に目を凝らした。

女が眠っていた。
わたしの男の腕のなかで。

窓ガラスを通り抜けて
わたしはふたりに近づいた。

男の腕を使って
女の首を絞めるために。


回す!

  田中宏輔



グキッ
ボキッ
とかとか鳴らして
首の骨を
鳴らして見せる
ジュン

凝り症だから
とかとか言って
しょっちゅう
ボキボキ
やってた

いつだったか
おもっっきり
首を回して
(まるで竹トンボのように、ね)
飛んで
いって
そのまま
まだ
戻らない


蛙男。

  田中宏輔



まるで痴呆のように
大口あけて天を見上げる男
できうる限り舌をのばして待っている
いつの日か
その舌の上に蝿がとまるのを
(とまればどうすんの)
蛙のように巻き取って食うんだ
(と)
その男
舌が乾いては引っ込め
喉をゴロゴロ鳴らす
そうして、しばしば
オエー、オエー
と言っては
痰を飲み込む
(ほんと、いくら見ても厭きないやつ)
訊けば、その男
蛙がごときものにできて
人間たるわしにできんことはなかろう
(とか)
言って
じっと待つのであった
(根性あるだろう、こいつ)
ぼくはそんな友だちをもってうれしい
ほんとにうれしい


人面瘡。

  田中宏輔



 あさ、目が覚めたら、左手の甲の真ん中に、顔みたいなものができてて、じっと見てたら、そいつが目を開けて突然しゃべりだしたので、びっくりした。どうして、ぼくの手に現れたのって訊いたら、あんたがひととしゃべらないからだよって言った。いつまでいるのって訊いたら、ずっとだって言うから、それは困るよって返事すると、ふだんは目をつむって口も閉じておいてやるからって言った。きみともあんまりしゃべることないよと言うと、気にしない気にしないって言うから、ふうん、そうなんだって思った。でも、なんだか迷惑だなとも思った。


白い毛。

  田中宏輔



 あさ、目が覚めたら、左手の甲の真ん中に、白い毛が一本生えてて、定規で計ったら3センチくらいあって、手をゆらゆら揺らしたら、毛もゆらゆら揺れたので、これはおもしろいと思って、剃らないことにした。


水没都市。

  田中宏輔



 教室が半分水につかっているのに、先生は黒板の端から端まで書いてる。ばかじゃないの。「ばかやろー」って叫んだ子がいる。どうせ街中、水びたしなんだけど、せめて学校でくらい、机のうえに立って、濡れないでいたいわね。


小羊のメアリーちゃん。

  田中宏輔



 ぼくの机の真ん中の引き出しから、なんかまちがってるんじゃないのというような顔をしてまっすぐにぼくの顔を見つめてくる小羊のメアリーちゃん。かわいい。


負の光輪。

  田中宏輔



一 影と影


ああ、むかしは、
民の満ちみちていたこの都、
    (哀歌一・一)

 荷馬車に乗った私たちが、市門を目にしたときには、もうそろそろ狼さえも夜目のきかない時間になろうとしているところだった。
 ところどころ縁が欠け、いたるところ、石灰塗りの白壁が剥がれ落ちた亜麻色の積み石、その見上げるほどに丈高い市壁の間隙を抜けて、私たちは、アンフィポリスの町に入った。
 板石を敷き並べた大通りを挾んで、まるで半開きの唇から覗かれる歯列のように、二条に列をなして、白塗りの建物が向かい合っている。
「神父さん、修道院まで送ってあげるよ」
「そうしてくれるかな」
 知りあって間もないふたりであったが、私と少年とは、あたかも以前から親しい間柄のように振る舞っていた。というよりは、むしろ少年の屈託のない笑顔が、恐れるものが何もない、とでもいった無蓋の微笑みが、ひととは、常に、ある一定の距離を保ち、決してこころの内の思いをさらけ出したりすることのない私を、その私の強い警戒心を、まるで風の前の籾殻のように、たちまちのうちに吹き飛ばしてしまったという方が真実に近いだろう。
「神父さん、おいら思うんだけど、どうしてこんなちっぽけな町に、あんなりっぱな修道院があるのかなあって」
 コンスタンティンは、右の掌に手綱の端をひと回り巻きつけて、左に座っている私の顔を見上げた。
「いまでは滅んでしまったけれど、テッサロニキも何百年も前は、カルキディキいちの都だったらしいね。きっと、この町も、ほかの町と同じように、以前はもっと大きな町だったんだろう。このアンフィポリスにある修道院が、いまでは町に不釣り合いなほどりっぱなものに見えるということは、この町が、昔はもっと大きなものであったということだろう」
「どうしてテッサロニキは滅んでしまったの」
「きみも、だれかに話をしてもらったことがあるだろう」
 少年は頷いた。
「おやじもおふくろも、それに、おいらの村の教会の神父さんも、みんな、神さまが人間に罰を与えたんだって言ってた」
「そうだよ、伝え聞くところによると、その昔、ひとびとが主の恩恵を忘れ、あまつさえ神への信仰を蔑ろにするようになったためについに主が、それらのひとびとの頭の上に、怒りの七つの鉢を傾けられたのだという。そのとき、世界じゅうの大都市は、かつて栄華を誇っていたソドムとゴモラさながら、完膚なきまでに打ち滅ぼされたのだという」
 少年の顔から好奇心の色が消えた。彼は前を向き、眉を寄せて、何かものを考えるような表情をしてみせた。
 敷石を踏み歩く蹄の音と、荷馬車の車輪が転がる音が、通りに大きく響いている。それは、蹄に打ちつけた蹄鉄と石が車輪に嵌めた鉄輪と石がぶつかる、硬くて乾いた不快な韻律であったが、なぜか、荷馬車の振動に心臓の鼓動が連動しているような錯覚に囚われた。長旅で疲れているのかもしれない。少年が、納得がいかないとでもいった顔を私に向けた。
「よく分からないや、いったいどうして神さまは、人間に罰を与えるなんて気になられたんだろう、ねえ、神父さん、罰を与えられたひとたちは、みんながみんな悪いことをしたひとたちなの、いいひとはひとりもいなかったの」
「いいひとがひとりもいなかったなんてことはなかっただろうね、ロトのようなひとがいたかもしれない、しかし、数百年前の神の怒りの鉢からは、だれひとりとして、逃れ出ることができなかったという話だよ」
「じゃあ、いいひとたちは、その悪いひとたちの巻き添えを食っちゃったってわけなの、そんなのおかしいよ、だって、そうでしょ、たとえば、家族んなかに泥棒がいたら、家族みんなに泥棒をした罰が下るなんて、そんなの絶対におかしいよ」
 私は、私の右の手を、膝の上の頭陀袋からどけて、少年の膝の上においた。
「だけど、コンスタンティン、もしも、家族の内のだれかが、その泥棒をしたものにちゃんと目をそそいでやっていたら、道を踏み外しかけたときに、ちゃんと手を差し延べてやっていたらどうだったろう。もしかしたら、彼は、泥棒になっていなかったかもしれないよ。だとしたら、ほかの家族にも責任があるんじゃないだろうか、罪とは言わずとも、そういったものがまったくなかったとは言えないんじゃないかな」
 ひと瞬き、ふたまばたきのあいだ、少年は、考えがまとまらないのか、それとも、適当な言葉が見つからないのか、まだ何か言い返したいことがあるのだけれども、それができないでいるというもどかしさを表情に出して私を見つめていたが、急に興味を失ったかのように顔を逸らせると、彼は通りの人影に目を向けた。
「女たちは、いったい何の話をしてるんだろう、朝っぱらから、椅子を玄関先に引き摺り出して、日が暮れても、ちっとも片づけようとはしないんだから」
 コンスタンティンは、私の顔を見ずに、馬の背にひと鞭くれて、そう言った。彼の言うとおり、頭巾を被った女たちが椅子に腰掛けて、片頬を寄せんばかりに喋り合っている。また、椅子のない門口でも、頭をくっつけんばかりに寄せ合って、じっと佇みながら話し込んでいる小さな影の固まりが、通りを挟んだ道の両側にいくつも見受けられた。どの影も、その頭には白い頭巾を廻らしている。彼女たちのなかには、ごく僅か、私たちの方を見やっても、すぐに顔を背向けるものもいたが、大抵のものは、会話を中断させたまま、私たちが通り過ぎて行くまで、片時も目を離そうとしなかった。目だけは、薄暗闇のなかでも見分けられる。影から分離してはっきりと見分けがつくのである。そして、また、私たちの乗った荷馬車が、彼女たちの目の前を通り過ぎたあとでも、私は、私の背に、執拗に纏わり追ってくる視線の束を、まるでひとを物色するような視線の塊をひしひしと感じ取っていた。目を逸らしたものも、目を外さなかったものも、どちらにせよ、どの頭巾もみな、まず一度は、私たちの方に目をくれないことには、話し続けることも、また、口を噤んで黙って見つめ続けることもなかったようである。
 しかし、それも当然のことといえばいえないこともない。アンフィポリスのように歴史のある小さな町では、都会にはない緊密な人間関係が形成される。そういった閉鎖的な空間では、隣人とは、何代か前の祖先にまで遡る付き合いがあったりするのである。そんなところでは、隣近所のものは、家族同様に付き合わなければ、お互いにすぐに溝ができてしまう。なかには、まるで敵同士のように反目し合っている家もあるが。そして、どちらかといえば、家族のような付き合いをしているところよりも、そういった反目し合っているところの方が、相手の家のことをよく知っているものである。憎しみが、そのひとに、相手の家族ひとりひとりが持っている服やサンダルの数までをも知るようにさせるのである。そんなところで、大きな音を立てながら、石畳の道をやって来る荷馬車に目をやらないものなどいるだろうか。それに、その荷馬車の上の奇妙な取り合わせに目を瞠らせないものなどいるだろうか。牧童と修道士、つば広の麦藁帽子を斜交いに被った牧童と、椀形の黒い丸帽子を頭頂に戴いた修道士、剃刀などあてる必要もない、優しく柔らかな頬辺の牧童と、鋏さえいれることのない伸ばし放題の髭面の修道士、半袖の白シャツから陽に灼け焦げた柔腕を覗かせた牧童と、手首のところまで袖のある黒衣を纏った修道士。そういった対照的な姿のふたりが、彼女たちの双の目に奇異なものとして映ったとしても、何ら不思議はない。しかも、この時間にである。本来ならば、修道院で主に祈りを捧げているはずの晩課のこの時間に、荷馬車を走らせている修道着姿の人間など、これまで彼女たちは、一度も目にしたことなどなかったであろう。
 頭巾のない影の固まりが、道を隔てた大通りを横切って、右から左に渡ってゆくのが目に入った。
「女たちばかりではないようだよ、見てごらん、コンスタンティン」
 私は、顎先を向けて、居酒屋の表口にすだく、いくつかの影に、少年の視線を促した。おそらくその店の主人なのだろう、柄の大きな影がひとつ、小さな脚立の上に立って、とば口に張り出した看板に、その房なす葡萄と絡まり縺れた蔦のシルエットに両の手を伸ばしているところだった。そばには、彼に話しかけるふたつの影があった。
 私たちの乗った荷馬車が、彼らの前を通り過ぎようとしたとき、蔦の巻きひげの先にランプの火が灯り、そこで振り向いた主人の目と私の目が合った。彼は私の姿を見て、少し驚いたような表情を顔に浮かべたが、すぐに目を逸らせると、脚立の踏み段を後ろ向きに、足元を確認しながら一段一段ゆっくりと下りていった。
 二、三瞬後、肩越しに振り返ると、その大きな影が、折り畳んだ小さな脚立を左手に捧げ持ち、右手を風に揺れる葦のように滑らかに揺れ動かしながら、背後からふたつの影の背を押すようにして、扉のなかに入っていく姿が見受けられた。
 街路に立ち並ぶガス燈に、次々と火が灯っていった。

  影たちは黄昏の中を行く、
  靜かにすべるやうにして。

  影たちは集まり、影たちは誘ひ合ひ
    (C・V・レルベルグ『夕暮れの時が來ると』堀口大學訳)

 建物と建物のあいだ、路地の薄暗闇のなかから、影と影が姿を現わす。通りに自身の無数の影を曳きながら、あたかも誘蛾燈におびき寄せられた羽虫さながら、いくつもの影が、あのランプの下、酒神ディオニュソスの聖木の下に群がり集まってゆく。



二 修道院

 教会前の大広場を通り過ぎると、私たちは町外れの十字路に出た。
「これを真っ直ぐに行けば港に出られるよ。修道院はこっち、この十字路を左の方に曲がったところ」
 と言って、コンスタンティンが、手綱を左に引っ張ると、馬は方向を転じて、十字路を左に曲がった。
 しだいに道は狭くなってゆき、家並みは隙間を詰めて石垣を高く廻らせるようになっていった。それゆえ、道は、より窮屈に、より暗くなっていくように感じられた。もしかしたら、ここは、アンフィポリスでもっとも早く夜の懐に抱かれるところなのかもしれない。

  修道院の
  高き壁に沿ひて
  木の葉は
  風にわななく。
    (アルベール・サマン『小市夜景』堀口大學訳、著者改行)

 聖アンフィソス修道院は、堅牢な石造りの大修道院であった。切り石積みの外壁は、まるで城壁のように高くそびえている。コンスタンティンは、その横手を廻って、私を聖堂の入り口まで送ってくれた。入り口の踏み段を、ふたつ、みっつ昇ったところで振り返ったときには、すでに、少年の後ろ姿はなかった。ただ、遠ざかりつつある荷馬車の音だけが、夜の闇のなかにあった。しかし、それもまた、すぐに私の潰れた耳には聴こえてこなくなった。
 壁面はまだ熱くて、手で触れると熱が直に伝わってくる。私は、木でできた、いかにも頑丈そうな入り口の扉を二度叩いた。しばらく待っていてもだれも出て来なかったので、もう一度扉を叩こうと叩き金に手を伸ばしかけたところで、おもむろに扉が内側に開いた。出て来た輔祭に名前と用件を告げると、彼は、快く私を聖堂のなかに入れてくれた。私は、胸の前で十字を切り、一礼してから聖堂内に足を踏み入れた。冷やりとした空気が漂っている。おそらく、あの分厚い外壁が、内部にまで太陽熱を浸透させないためだろう。私は、輔祭の後ろに付き従って行った。聖堂の大広間から外来者接待室の前を横切って、通廊に出ると、そこにいくつか並んだ巡礼者用居室のうち、一番手前の部屋に案内された。どの部屋もなかの様子は同じであろうが、そこには、窓辺に、木でできた小さなテーブルと、その傍らに、飾り気のまったくない粗末な寝台がひとつあるきりであった。しかし、修道士である私たちには、それだけで十分なのである。すでに窓の穿ちには夜の闇が嵌め込まれていた。
 輔祭は、手元の蝋燭を傾けて、テーブルの上に置かれた燭に火を注ぎ、それに火屋を被せると、私の来訪を修道院長に知らせるために部屋から出ていった。
 まずは、足の裏を休めようと、寝台の端に腰掛けて、サンダルの革紐を緩めていると、歳若い見習い僧が、足だらいを持って、部屋に入って来た。どうやら彼は、私の足を洗いに来たらしい。ここでは、それも修行のひとつなのかもしれない。サンダルを脱いで、私は裾をまくった。彼は、私の足下にかがんで、足を入れたたらいに水を注いでいった。冷たい水に浸されて、まるで墨が水に溶けるように足の痛みが水のなかに速やかに拡散していった。
「さぞ、お疲れになったでしょう。膨脛の筋肉がずいぶんと脹れています」
 彼は、脹脛から踝にかけて、ていねいに汚れを落としてくれる。
「踝のところに腫れものがありますね」
「虫にかまれたのだよ」
 私は自分の左足の外踝に目を落とした。そこは、親指の先ぐらいの大きさに膨らんでいたが、いまではもう、痛みはなかった。昼間、パンゲオン山のふもとで噛まれたばかりなのに、すでにその傷の痛みは、瘡蓋になりかけたときの痛痒感のようなものに変わっていた。
「右足の踝にも傷があるんですね」
 彼は手を止めて、そう言って顔を上げた。
「とても古い傷だ」
 古傷に触れられた煩わしさに、私は、私の顔の表にわざと苛立たしさを出して、普段になく乱暴に、言葉を短く切って、そう言い放った。彼は目を伏せて、自分のするべき仕事に戻った。一方、私は、私の振る舞いを恥じた。いや、恥じなければいけないと思ったのである。たとえ一瞬であっても、私がわざと顔に出して見せた怒りは、精神の完全な平静や静寂とかいったものとは遥かに遠いところにある、歪んだ、醜い感情に由来するものであるのだから。修道士として、まだまだ、私が未熟であるということだろう。悟りの境地に到達するためには、極めて長い道のりを要すると言われているが、私に、その道を極め尽くすことができるだろうか。
「あとで塗り薬を持ってまいりましょう」
 見習い僧は足だらいを退けて、私の濡れた足を布切れで拭うと、足下に揃えて置いてくれていたサンダルをとって、その革紐までも結んでくれた。私が礼を言うと、彼は、立ち上がりざま、自分の濡れた手を拭って、それが現在、自分のなすべきことであると答えた。私は、足だらいを持って部屋を出て行こうとする彼に声をかけて、たとえ僅かな時間でも引き止めて話をすることによって、さきほど私が彼に与えた印象を改めてみたいと思った。
「夜は涼しくて過ごしやすいね」
 彼は、足だらいと水袋を下に置いた。
「北風のせいですよ、夕方になると、このヘラスには、北から冷たい風が吹いて来るのです。九月に入ってからは、薄着などしていますと肌寒く感じられるほどです」
 彼は、そう言って、鼻をひと啜りした。
「風邪でも引いているのかな」
「いえ」
「しかし、声も嗄れ気味なんじゃないかな」
「いいえ、この声は元からなんですよ」
「そうかい、だけど、夜になってこんなに涼しいと、ちょっと油断しただけでも風邪を引いてしまうだろうね」
「ええ、本当に」
 覗き窓に人影がよぎると、扉が開かれた。
「師父」
 私は立ち上がり、ゲオルギオス・パパドプロス修道院長のところに駆け寄って、そのふくよかな両頬に接吻した。
「私の方からお伺いしましたのに」
「まあ、よいて、わしの方から来たぞ。ミハイール・グリゴーリェヴィチ神父よ、ふむ、すっかり修道士らしくなりおって」
「そう言っていただけて光栄です、師父」
「わしの方こそ、そう師父、師父と呼ばれては、耳がこそぼったいて、何しろ、おまえの師父は、いまでは、わしではないのだからな」
 見習い僧が修道院長に頭を下げて部屋から出て行った。
「それでは、どうお呼びすればよろしいのでしょう」
 ゲオルギオス修道院長は、私の問いかけに一瞬のあいだも躊躇なさることなく、即座に答えられた。常に迅速に決断なさる方であった。また、決断なさってから実行に移される際の手際のよさと、その行動力には、キエフの修道院にいた、だれもがかなわなかった。ときには、強引なこともなさったらしい。しかし、だからこそ、ヘラスに戻られて、ここで、こうして修道院長にもなられたのだろう。人望だけで選出されるものではないのである、修道院長という役職は。
「まあ、師父でよかろう、わしもおまえにそう呼ばれると、キエフでのことが思い出される。懐かしいものじゃ、過ぎし日のロシアも。おお、そうじゃ、それはそうと、輔祭のテオ・バシリコス神父から聞いたのじゃが、おまえがここに立ち寄ったのは、アトスに入山するためだとか」
「ええ、そうです。許可していただけますか、師父」
 アトス入山には、ヘラスの主教の許可が必要なのである。聖アンフィソス修道院の主聖堂には、アンフィポリスの主教座がある。つまり、師父は、聖アンフィソス修道院長であり、かつまた、マケドニアの主教のひとりでもあるということである。
「請願書には、キエフで印を押してもらっておるのじゃろう」
 私は首肯いた。師父は、さらに笑みの皺を増して私に微笑まれた。
「では、許可できない理由は何もないわけじゃな」
「ありがとうございます、師父」
 私は十字を切って、師父の足下にぬかずかんばかりにしてしゃがみ込むと、履きものの上から、その足に唇を軽く圧しつけた。埃に混じって細かな砂粒が舌先に感じられた。どんなときにも、接吻のあとには、舌を出す癖がある。下を向いていたので、師父には見えなかったであろう。キエフ時代は、よくこのことで叱られたものである。
「ところで、いつここを出発するつもりかね」
 師父は手をとって私を立たせられた。
「できましたら明日にでも、アトスに向かって出発したいと思っております」
「えらく急じゃな、まあ、しかし、一度口にした言葉は、二度と覆すことのなかったおまえのことじゃ、明日の朝には、おまえにそれを渡せるようにしておいてやろう」
 円柱形の側面にワニスを塗った蝋燭が、一ベルショークほども短くなるあいだ、キエフの修道院での思い出話や、私の旅の話など、話の種はなかなか尽きなかった。
「ところで、ヘラスでは、ここの他にどこか寺院にでも寄ってみたかね」
「ええ、パンゲオン山のふもとで、廃墟となった寺院に立ち寄りました」
 師父の顔から笑みが消えた。
「何か変わったことはなかったかね」
「はい、そこで私は、ひとりの侏儒に出会いました。ひとの背の半分ほどの大きさの小人に」
 師父が窓辺に背を向けて立った。机の上の蝋燭の光が遮られたために、部屋のなかがぐっと暗くなった。
「詳しく話してごらん」
 師父の影は微塵も動かなかった。
 まるで息をすることさえやめてしまったかのように・・・・・・



三 毒葡萄

  彼らのぶどうの木は、
  ソドムのぶどうの木から出たもの、
  またゴモラの野から出たもの、
  そのぶどうは毒ぶどう、
  そのふさは苦い。
  そのぶどう酒はへびの毒のよう、
  まむしの恐ろしい毒のようである。
   (申命記三二・三二−三三)

 東西に並んだ二条の山脈、ピリン山脈とオグラゾデン山脈のふたつの山脈に挟まれた渓谷には、急峻な山々の峡谷からすべての細流を撚り合わせてストルーマ河が流れていた。その渓流はオグラゾデン山脈の南端麓で半円を描きつつふた股に分かれている。西の本流は、木賊色の水を湛えたブトコブー湖で尽き、そこで新生したストリモン河がなおも南に峰を連ねるピリン山脈の裾野を縦割りに流れている。一方、円弧の半ば辺りで背を向け、利鎌状に湾曲していく東の分流は、その中流で、ピリン山脈の切れ込みから流れてくる川と合わさり、また、ストリモン河から分岐した支流とも合わさって水嵩を増し、さらにその下流で、ストリモン河本流と合流していた。そして、それは、その最下流で、パンゲオン山の覆輪を廻りくる河骨と結ばれていた。 
 修道士ミハイール・グリゴーリェヴィチ・ソポクレートフは、この最後の結ぼれに立ち、しばらくのあいだ目を凝らして、パンゲオン山のふもとを見つめていた。緑布が敷かれた平原にあって、そこだけは白く染め抜かれたかのように、砂と石塊のほかには何もない乾燥し切った地面が、まるで癩病に冒されたものの身の皮にできた白い腫れもののように盛り上がり、ところどころ生きた生肉のような赤い土塊を覗かせている。その背後に聳える山々には、オリーブの樹木のごく僅かな緑がまばらにあったが、大方のところは、ふもとと同じように、石灰岩質の白い地肌を地の表に剥き出しにしていた。草は枯れに枯れ、岩の上、砂の上、道の上に、まるで蛇の抜け殻のように、枯れ萎んだ身をいくつもいくつもへばりつかせていた。夏枯れ知らずの灌木も、一木いち木が斑紋状に散らばって、僅かに枯れ残った緑の葉を、まるで湯に浸けられた鶏のように、羽毛という羽毛が抜け落ちた鶏の身さながら、枝の節々を奇妙に捩じ曲げ、天に向かって枯れ萎んだ腕を拡げていた。そこは、人家も何もない、まったく不毛な土地であった。しかし、だからこそ、彼の目を惹いたものがあった。神に呪われたもひとしいそんなところに、神を祈るひとびとの家があったのである。藍色の丸屋根、ギリシア十字架を戴いた鐘楼、彼の足が好奇心に動かされた。
 それは、数百サジェーニほど先の小高い丘の上にあった。

  いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、
  その石がきはくずれていた。
  (箴言二四・三一)

 彼は寺院の目の前まで来た。壁面の塗料は粗方剥がれ落ち、積み石本来の卵殻色の地肌が露出している。彼は鐘楼を見上げた。虚ろな窓に空が透けて見える。そこには鐘の姿がなかった。
 十字を切って教会堂に足を踏み入れると、彼は、翼廊の北出入り口に立って内部を見回した。それは、長軸の身廊に短軸の翼廊が直交した、いわゆるバシリカ式の教会堂であった。頭上の天蓋を廻る数多くの小窓、その小窓から射し込むいく筋もの陽の光、その陽の光の帯のなか、大理石模様にゆっくりと立ち昇る塵と埃、そして、その塵と埃の舞うなか、形を崩した吊り燭台が、床面の上に落ちたままの姿を晒していた。彼は思わず溜め息をもらした。彼は内陣に目を移した。祭壇は前倒しにされ、破れた背を見せている。説教壇や聖書台も、それらが本来あるべきところになければ、まともなときの姿など想像できないほどに壊されていた。後陣の背面には掲げてあったはずの聖像画がひとつもなかった。聖なる衝立ともども、どこか別の場所に持ち去られたのだろう、彼にはそうとしか考えられなかった。    
 彼は、床面の上に骸を曝した吊り燭台を、蜘蛛の巣に飾られた照明器具の残骸を、足で踏まないように注意深く廻って、内陣の階段に足を掛けた。にもかかわらず、足下の埃を舞い上がらせずに聖所内を歩くことは不可能であった。彼は床面に目を落とした。足跡がある。裸足の足跡がいくつもある。同じ大きさの裸足の足跡がいくつもある。埃を被って消えかけたものなら身廊のところにもあった。だが、ここにあるのは、足跡に足跡を重ねた真新しいものばかり。しかも、そのどれもがみな、子供のもののように小さかった。子供が遊び場にでもしているのだろうか。それにしても、裸足であるというのが、彼には解せなかった。
 音がした。翼廊の方だった。彼は内陣を駆け降りた。翼廊の南側、子供が出て行く。身体には、ほとんど何も着けていなかった。腰に小さな布切れのようなものを着けているだけだった。彼は声を掛けようとした。すると、言葉が口から出る前に、それが振り返った。彼は息を呑んで立ち止まった。それは小人だった。それは、侏儒と呼ばれる畸形だった。それは、まるで白痴のようにだらしなく口を開き、目をいっぱいに見開いて彼の顔を見つめ返した。彼は一歩前に進み出た。すると、それは信じられないほどの俊敏さをもって、丘の上を駆け登っていった。見る間に、その姿は林のなかに消えてゆく。  
 彼は追いかけるのをあきらめた。あまりのすばしっこさに、彼は、ただ呆気にとられて立ち尽くすことしかできなかったのである。
 緑、目の前に緑があった。匍匐性の植物なのか、草丈はせいぜい彼の腰の辺りまでしかなかった。しかし、よく見ると、それには、無数の丸い葉と螺旋に巻いた枝蔓があり、大小さまざまの葡萄がぶら下がっていた。房なりの黒い実。どの葡萄も、十分に成熟した真っ黒な実をつけている。彼は腰を屈めて、ひと房もいでみた。うっすらと蝋状の白い粉を吹いた葡萄の実。喉の渇きを癒すため、彼は、房からひと粒だけもぎとって口のなかに入れてみた。噛んだ途端に、強烈な苦味が口のなかに拡がった。吐き出した。彼はそれを吐き出した。苦い唾を何度も吐き出した。そのたびに唾が、乾いた地面に吸い込まれてゆく。彼は何度も唾を吐き出した。しかし、それでも苦味は、彼の口のなかにしつこく残った。
 と、突然、彼は足下に激しい痛みを感じて跳び退いた。咬みつかれたのである、蝗に似た、黒みがかった焦げ茶色の昆虫に。彼は慌てて、それを引き剥がした。肉が食い破られて、そこから外踝を伝わって血が流れ落ちてゆく。足首の上を、真っ赤な血が流れ落ちてゆく。彼は、自分の血の温かさを感じた。彼は敵を裏返してみた。まさに咬み食らう蝗、それには虎鋏のような歯があった。しかも、その顎のなかには、もうひとつ顎があって、それにもまた、先の鋭く尖った、牙のような歯があったのである。彼は気味が悪くなって、それを葡萄の茂みのなかに放り投げた。

 私が話し終えても、しばらくのあいだ、師父の影は動かなかった。しばしの沈黙、その沈黙はカピトゥルムのそれのように、部屋のなかに陰欝な空気を満たしてゆく。堪え切れずに、私の方から口を開いた。
「師父、どうかなされましたか」
「あれは死ぬべきものじゃ、胎から出てすぐに死ぬべきものなのじゃ。ひとから生まれはするが、ひとではないものじゃ」
 影の声は、どこかこの世とは遠いところ、地の底をも越える深いところから響いてくるようであった。影が移動すると、部屋のなかが明るくなった。蝋燭の揺らめく光のなかに師父の姿が浮かび上がる。窓枠に背凭たれながら、師父は私に語りかけた。夜の闇に重なる声、師父の声に燭の光が揺らめき揺らめく。
「その昔、人類が科学文明に依存して生活していたことは知っておるな、それが主を蔑ろにする元凶となり、ひいては、主の怒りをかうことに、全能なる主の呪いを被ることになったことを。ひとびとがみな、主の呪いに撃たれ、世界じゅうの大都市が壊滅し滅びの穴となったことを。それはみな、科学文明が元凶となって引き起こしたことなのじゃ。そして、侏儒が生まれたのだ。呪いの裔たる畸形の侏儒が生まれたのだ。このヘラスに」
 師父の顔がひどく歪んでいた。キエフ時代にも、喋べっているうちに、だんだんと興奮なさってこられることはよくあったが、このように唾を飛ばして話されることなど以前にはなかった。
「どうして侏儒が死ぬべきものだとおっしゃるのですか、ひとはみな、いつかは死ぬべき定めにあるものだと」
「そんなことをおまえに教わろうとは思わなかったぞ、主が創造されたものがみな、はかない息にしかすぎないなどと」
 私の言葉が途中で遮られた。師父の激しい剣幕に、私の身が凍りついた。かって、神学校時代に私を叱りつけられたときのように、師父が私の顔を睨みつけられた。当時のように、私はただ押し黙って耳を傾けることしかできなかった。
「まあ、よい。どうやら、わしも説明不足のところがあったようじゃ。ちゃんと話してやらねばなるまい。そうじゃ、初めから話してやろう。およそ三百年ほども昔、主の怒りの鉢から呪いの酒が大都市の上に傾けられたとき、その飛沫が周辺の都市に、村里に、牧地に、ありとあらゆるところに降りかかったのじゃ。そして、降りかかったところはすべて、永遠なる不毛の地となってしまったのじゃ。ただし、そういった呪いの地のなかで、どういった理由でかは分からんのじゃが、パンゲオン山のふもとにだけ緑がよみがえったのじゃ。それを見た当時のひとびとは、呪いが解かれたのかと思って、たいそう喜んだという。じゃが、その緑こそが実は、神の大きな怒りの鉢、呪いの酒じゃった。その緑とは、おまえが目にした葡萄じゃ。それは、おまえも口にして味わったように、その実は渋味と苦味で食えたものではなかったのじゃが、それまで知られていたどの葡萄のものよりも口を潤す、こころを潤す酒となったのじゃ。当時はだれも、それが神の呪いの葡萄酒であるとは思いもよらなかったことじゃろう。牧するものも牧されるものも、人類という人類が滅びの穴の崖っぷちに立たされていたのじゃ、道端の雑草でさえ口にしたという当時のことじゃ、飢えた腹に、飢えた身体にその葡萄酒はさぞかし染み入ったことじゃろう。そして、主の呪いが、一年も経たないうちに女という女の身体のなかに実を結んだのじゃ。まだ清めの儀式さえも済ましておらぬ娘が、とっくの昔に胎を閉ざした老女が、その葡萄酒を口にした女という女がみな、畸形の侏儒をはらんだのじゃ、呪われた子を、忌むべきものを。小人である侏儒どもは何も悪さはせん。ただ、主なる神の忌み嫌われる格好をしておるだけじゃ。じゃが、ここヘラスは、古代において、異教の神々が根強く崇拝されていたところじゃ、ひとびとは、その侏儒を古代の神々に生け贄とすることにしたのじゃ。もともとが、いにしえの昔に、傴僂や小人といった畸形を、まるで犠牲獣のように、生きたまま皮を剥ぎ、骨を断ち、火に焼べて異教の神々への供物として捧げていた民じゃ。古代の神々が復活するのにそれほど多くの時間を必要としなかったろう。当時、教会を再建することに全力を傾けていた正教会には、そういった異教の神々の復活を阻止する余力がなかったのじゃ。ひとびとはその時代を黙示録時代と呼ぶが、われらは単に暗黒時代と呼んでおる、正確に言うと、黙示録時代はまだ続いておるというのがわれらの解釈なのじゃからな」
 一気に喋べられて疲れられたのだろう、肩で息をされている。
「そのような話は聞いたことがありません」
「そうじゃろうて、いまではここヘラスでさえ、ひとの口にのぼることなどめったにないことじゃ。というのも、それらの呪われた子らはみな、自分を産んだ母親もろとも滅びの穴に投げ込まれたのじゃから。放り投げられた石が、穴の底に達するまでに一日といち夜かかるという、あの滅びの穴に、あの暗黒の滅びの穴に。確かに、それは悲惨な出来事ではあった。じゃが、それは、どうしてもなされなければならなかったことなのじゃ」
「葡萄はどうなされたのですか」
「もちろんのこと、すべて焼き払われたのじゃ。それらの茎は最後の一本までも引き抜かれ、焼き払われ、それらの根は地から完全に絶ち滅ぼされたのじゃ。ところが、その毒葡萄の種は、火のなかをくぐり抜けたあともなお角ぐみ、しばらくして、またその呪われた実を結んだのじゃ。そして、ふたたび神に呪われた子らが地の表にはびこることになったのじゃ。じゃが、二度目のときの正教側の退治法は完璧じゃった。焼けて灰になったものも、焼け切らずに燃えさしとなったものも、それらの毒葡萄はみな枝蔓から茎から根っこから落ち葉にいたるまですべて甕のなかに封印し、塩の地に埋めていったのじゃ。以来、ヘラスには、その毒葡萄も、侏儒も姿を現わすことがなかったのじゃ。その記録はヘラスでも、この聖アンフィソス修道院にしか保管されてはおらん。三百年という歳月が、ひとびとの頭のなかから侏儒の姿を消し去ったのじゃ。まあ、わしらの努力もあったがな。じゃが、いまのおまえの話では、どうやらその呪われた毒葡萄がよみがえったようじゃな、あの忌むべきもの、呪われた子らとともに」
「しかし、お話によると、それらは、かつて私たち正教の神父たちの手によって完膚なきまでに絶ち滅ぼされたのではなかったのですか」
「ふむ、わしもそれをいま考えておるのじゃよ。当時の種が絶ち滅ぼされたのは確かなのじゃ。もしも、種が残っておったとすれば、その繁殖の仕方を文献から推測するに、三百年もあれば、たった一本の木からいま頃、ヘラスじゅう、野は神に呪われた毒葡萄だらけとなっておったはずじゃからな。しかるに、そういった事態にいたらなかった、ということは・・・・・・もしかしたら、だれかが記録を盗み読んで、封印を解き甕のなかの残渣をパンゲオン山の裏手で隠し育てていたのかもしれん。そんなことはありえんことじゃが・・・・・・」
 師父の語調が少し和らいだ。
「ところで、おまえが口にしたという毒葡萄のことじゃが」
 私は透かさず答えた。
「すぐに吐き出しました」
「嚥み下してはいないのじゃな」
「ええ、舌の上に残った苦味さえ飲み下すことはしませんでした。その苦味がなくなるまで何度も何度も唾を吐き出さなければならなかったのです」
 心配してくださったのであろう、私がそう返事すると、安心なされたのか、師父の語調がぐっと和らいで聞こえた。
「それと、踝の傷のことじゃが」
 私は裾をまくって、虫に咬まれたところが見えるようにした。
「大丈夫だと思います」
 師父は屈んで、傷痕を見てくださった。
「あとで薬を持って来させよう。塗っておきなさい。毒虫かもしれん。おまえの説明にあったその毒虫の特徴は、文献に載っていたものに酷似しておる」
「あの虫は毒虫だったのですか」
「その可能性は非常に高い。文献によると、大した毒じゃないらしいが、用心に越したことはなかろう」
 師父は、まだ何か言い足りなさそうな顔をしておられたが、突然、気を取り直したかのような顔を向けられると、キエフでの神学校時代のように、
「では、また明朝に。たとえどんなに疲れていようとも、就寝の祈祷を欠かせることなどなきように」
 と言われた。私もまた、当時、口癖になっていた言葉を口にした。
「よくこころえております、師父」
 師父が部屋から出て行かれた。
 火屋を被せた質の悪い蝋燭が、弱々しい光を瞬かせていた。



四 罅割れ

  なぜ、あのとき、自分が
  裏切りを働いていると気づかなかったのだろうか。
  (ル=グィン『魂の中のスターリン』小池美佐子訳、著者改行)

 窓の掛け金に手をかけた。夜とも切り離されて、部屋のなかにひとり、私は蝋燭の揺らめく灯りを見つめた。
 ふくらんでは縮み、ちぢんでは膨らむ光の輪、部屋も息をしているかのようだ。
 私は、溜め息をつくと、寝台に腰掛け、傍らのテーブルに両拳を載せた。知らず知らずのうちに溜め息が次から次に出てくる。師父が部屋を出て行かれて、張り詰めていた気が急に抜けたためだろうか。師父は厳しいひとだった。信仰にだけではなく、普段の生活態度全般に渡って厳格な躾をなさるひとだった。ゲオルギオス・パパドプロス修道院長は、私がキエフの聖アントニオス修道院付属神学校の学生であったときの直接指導教師であった。つまり、学校においては、私の師父のような立場におられた方なのである。しかも、私は、神学校を出てからも師父の下で学びながら、師父の教えに導かれて、修道士としての修行を続けていたのである。六年前にヘラスに帰郷されるまで、ずっと私の面倒をみていただいた方なのである。その師父を前にして、私は緊張せざるをえなかった。師父に話しかけるときにはついつい上がり調子の声になってしまう。さっきもまた、私の声はうわずっていた。師父のふくよかな顔にあって、唯一目だけが険しい光を放っていた。その目に見つめられると私は、どんなに小さな嘘でさえ口にすることができなかったのである。しかし、それほど恐れていたひとであったのに、私は、師父を騙したことがある。私は、私の偽りの舌でもって、師父を裏切ったことがあるのだ。それは、父が亡くなったという知らせが、神学校にいた私のところに届いたときのことであった。私は、まだ神学校の学生で、三度目の行を始めるために、準備訓練をしていたときのことである。私はそれを口実に実家に帰ろうとしなかった。私の故郷ルブヌイはキエフからずいぶん遠かったし、帰る頃には葬儀も何もかもすっかり終っているだろうと思っていたのである。いや、いや、いや、自分自身に偽るのはやめよう。父、父、父、私は私の父を憎んでいたのだから。私は私を殴り、私の左耳を潰して、私の左手の指を潰した父をこころの底から憎んでいたのである。だれかと話しているときに、相手の言葉が聞き取れないということがあるたびに、ひしゃげた耳を鏡のなかに見るたびに、曲がったまま動かない二本の指が服の袖に引っ掛かるたびに、私は私の胸のなかに父への憎悪を、まるで酒樽の底の澱のように凝り固まらせていたのである。また、弟のことがあった。私が死なせた、弟のことが。そんな私が、どうして継母のもとに帰れただろうか。ところが、そのような事情を知っておられた師父は、頑なに凝り固まった私のこころを解こうとして苦心してくださったのである。そうして、私も、知らせを聞いた日の翌々日には帰ることにし、継母の待つルブヌイに向けてキエフを出発したのである。ところが、いったんは帰る決心をしたものの、臆病な私は、最終的にはルブヌイには行かず、帰路の途中に立ち寄った村の農家で野良仕事を手伝いながら半月ほど過ごしたあと、キエフに戻ったのである。師父には故郷に帰って、父の顔を、死に化粧をした父の真っ白な顔を見てきたと話した。そのとき私は、いったいどんな顔をして師父の前に立ったのだろう。師父に嘘をつきながら、どんな表情を見せていたのだろうか。師父のあの刺すような視線を受けて、私は、しっかりとその目を見つめ返すことができただろうか。ただ、私が覚えていることは、あのとき、師父の視線が、その視線の矢の痛みが、私の目を通して私の身体を、頭の天辺から足の爪先まで、貫いていったということだけである。それは、私にとって長い時間だった。もしかしたら、師父は、見つめられてすぐに目を逸らした私を見られたかもしれない。いや、それだけではないだろう。おそらく、私の偽りの舌が、欺きの口のなかに震えるのをさえ目にされたに違いない。きっと、師父は、私の言葉のなかに嘘があるのを知っておられたのであろう。なぜ、私を問い詰められなかったのかは分からないが、それだけに、私にとって、師父は不可解な、恐ろしい存在であった。あのとき私は若かった。気の弱さがそのまま顔の表に出る歳頃だったのだ。きっと師父は知っておられたに違いない。
 昔のことを思い出すのはつらい。私は蝋燭の灯りを見つめた。いまにも灯芯が燃え尽きかけようとしている。火屋のガラス筒の上方にある罅割れが、部屋の隅に大きな影を映し出している。蝋燭が息をするたびに、影もその輪郭を頻繁に拡げたり縮めたりしながら激しく息をしていた。ああ、しかし、いまとなっては、父のことも、弟のことも、継母のことも・・・・・・

  ・・・・今ではすべてが空しいのだ。
  わたしはランプの灯影に眠らう、
  机の上にのせた拳に額をのせて、
  それ以外には聲を聞かぬ人だけが聽く
  不斷の私語にゆられながら。
    (フランシス・ジャム『去年のものが・・・・・・』堀口大學訳)

 ルブヌイの夏は過ごしやすい。灼熱を孕んだ陽光も、日陰にさえ入ってしまえば、どうということもない。吹き出た汗も風のひと吹きで静まってしまう。何といってもルブヌイは、中央ロシア高地とカルパチア山脈に挟まれた平野にあるために、地をなめるようにして吹き荒ぶ北風が冷たい空気を運んでくるのである。夜ともなれば、気温が信じられないぐらいにぐっと下がる。場合によっては、夏の季節に、ペチカに柏の薪を詰め、木炭に火を点けることにもなるのである。
「ミーシャとヴァーニャはまだ帰らないのかい」
 アンナ・パーヴラヴナ・ソポクレートヴァは、声のする方を振り返った。納戸の薄暗がり、床よりも天井に近い、ペチカと内壁のあいだに渡された一枚の寝板の上から、姑が陰気な顔を覗かせている。
「まだですよ、夜飼いに出てるんですからね、そんなに早く帰ってくるわけがないでしょ」    
 老女は、そう言われても、まだ不安気な顔でアンナを見下ろした。
「そうかい、でも、この夏はえらい冷え込み方で、牧には草なんかちっとも生えてないっていうじゃないかい。何かあったんじゃ」
 アンナは、自分と同じ名前を持った姑の言葉を、こともなげに遮った。
「だから、遅くなるんですよ。まだ、日が暮れてそんなにならないでしょう、心配することなんかありませんよ。それに、あの子たちだって、もう一二と八つなんですからね」
 年寄りのアンナは、まだ何か言い足りなさそうにして、歳若いアンナを見下ろしていたが、彼女が睨み返しているのに気がついて、納戸の奥に慌てて身を滑らせた。かつては姑に頭の上がらなかったアンナも、姑がその連れ合いを亡くしてしまってからは、ずいぶんと強気になっていた。その逆に、すっかり弱気になっていた姑の方は、ともすれば言いたいことの半分すらも嫁のアンナに口出しすることができなくなっていた。いまも、年老いたアンナは、納戸の薄暗がりのなかで、声を上げることすらできずに、悔しさに涙を流していたのである。アンナは立ち上がってペチカに火を点け、部屋の中央にルチーナを持ってきた。松明の火とペチカの火が弾けた音を立てながら燃えている。アンナはテーブルのところに戻って、やりかけの刺繍を取り上げた。アンナは、夫のルパーシカの縫い取りを終えた。彼女は、それを松明の灯に照らしてみた。覆輪に施した青い薔薇が美しかった。それに使った縒り糸は、これまでに彼女が作ってきたもののなかでもっとも出来のいいものであった。アンナはそれを青く染めた。染め上がりは、また、彼女の予想以上に素晴らしいものであった。アンナは、モルフォ蝶のような光沢を持ったその刺繍の上に指を這わした。働きもののアンナの荒れた指先が固くなって久しい。その指の腹が青い花の上を滑る。現実には存在しない青い薔薇に、現実の塊のようなアンナの節くれだった指が触れる。アンナは、陶酔したような表情で、何度も何度も繰り返し親指の腹で縫い取りの上を撫でていた。
 ルチーナが大きな音を立てて燃え弾けた。青い薔薇に見蕩れていたアンナは、それをテーブルの上に置き、三つの小さな四角い窓がある方に目をやった。夜の闇のほかには何もなかった。彼女は振り向いて、ペチカの横に目をやった。イヴァーンとミハイールがいない。まだ帰らないのである。こんなに遅くなることはなかった。寝床では、ペチカの影が微かに震えている。アンナは、ふたりが帰ってきたら、思いっきりお仕置きしてやろうと思った。それにしても遅かった。姑の言うことには何でも反発して、さっきもあんなことを言っていたアンナではあったが、いまでは自分も心配になっていた。夫もまだ帰らない。沈黙と静寂のなか、松明の燃え弾ける音が、アンナにはしだいに耳障りになってきた。アンナはルチーナの灯を睨みつけた。睨みつけられた松明は、苛立つアンナの気持ちにはお構いなしに、バチバチと燃え弾けている。
 声がする。彼女は玄関のところに走り寄っていった。
 イズバの外では、グリゴーリィ・セルゲーエヴィチ・ソポクレートフが妻の実弟のヴァシーリィ・パーヴロヴイチ・アクショーノフに肩をかしてもらいながら一歩一歩戸口の階段を上っていくところであった。
「ほれ、義兄さん、足下に気いつけて」
 玄関まで僅か六段の階段である。
「分かってるってさ」
 口ではそんなことを言っていても、しこたま呑んで酔っ払っているグリゴーリィは最上段の蹴込みにつまずいた。
「いててててっ」
「ほれ、言わんこっちゃなかろう」
「いてえ、いてい」
 グリゴーリィは、義弟の肩に掴まりながら、空いた方の手で向脛をズボンの上からさすった。張り上げる声を聞きつけて、家のなかからアンナが出てきた。
「あんた、また酔ってからに」
「うるさい」
 グリゴーリィは、自分を抱きかかえようとするアンナの腕を振り払った。アンナは拡げた両の腕を下げないで、そのまま腰のところに持っていくと、さらに額に皺を寄せて、
「なんで寄り合いのたんびに酔っ払って帰ってくんだい、いいかげんにおしよ」
 と、喚くように言葉を夫にぶつけた。グリゴーリィは、いままで支えてくれていた義弟の肩から腕を振り解くと、
「寄り合いは男だけのもんだ、女が口出しなんかするなあ」
 と、怒鳴ると、身体の平衡を保てなくなって、玄関口の横の壁に寄りかかった。ヴァシーリィは両手を拡げたまま、グリゴーリィが倒れたりしないだろうかと心配しながら、義兄の側にまだ立っている。アンナはそれを見て、夫に近寄ると長身の彼を横から抱きかかえて実弟に礼をいった。
「いつもすまないねえ、おまえ」
「いいんだよ、姉さん。そいじゃ」
 別れを告げて手を振る実弟を見送ると、アンナは夫と家のなかに入っていった。部屋のなかに入ると、アンナはまず、赤い隅と呼ばれる聖像画が置かれた神棚に頭を下げ、次いで納戸のある方を見上げた。姑は眠っているのか、顔を覗かせない。
「あんた、ヴァーニャとミーシャがまだ帰って来ないんだよ」
 テーブルに両肘を載せ、それに額を圧しつけて俯せになっていたグリゴーリィが、頭を揺らしながらゆっくりと顔を上げた。そして、ひと瞬き、ふた瞬きほどのあいだ、アンナが口にした言葉の意味を考えていたが、急に吐き気でも催したのか、顔をしかめ、涙を溜めた目でアンナを見つめた。
「どうしたんだあ、とっくに帰って寝ちまってる時間じゃないのか」
 アンナは立ったまま、夫を見下ろしながら言った。
「あたしゃ、何だか心配だよ。ミーシャは、あんたに似てあのとおりぼやっとしてるしねえ、それに、ヴァーニャはまだ小さいしね」
「おまえが心配なのはヴァーニャだけだろ」
 アンナは夫の顔を上から睨みつけた。グリゴーリィは妻の顔から目を逸らすと、部屋の隅にある神棚に向かってこくりと頭を下げて囁くような小さな声でつぶやいた。
「神さま、ふたりとも何ごともなく無事でありますように、あなたはかならず見ておられます。あなたは、あなたの小さな子羊をつねに見守ってくださってます、神さま」
 何事かがあると、こうして神棚に置かれた聖像画に向かって祈るのが、ロシア正教徒の、つまり、ほとんどすべてのロシア人の習慣のひとつとなっているのである。アンナがさきほど部屋に入る際にしたように、正教徒たるロシア人たちは、赤い隅に頭を下げることなしには、部屋のなかに入って来ることさえなかったのである。
「捜しに行こうさ、風にあたれば、あんたの酔いもすぐに醒めちまうよ」
 ふたりは子供たちを捜しに出かけることにした。
 外は暗闇、星はなく、刈り鎌のように抉り欠けた月が、その鋭い刃先を雲に突き刺している。家々の窓、数多くの四角い目から零れ出る灯明の欠片、そのほつほつとした光だけが、夜の道に浮かんでいた。そのうち、月が姿を隠した。夜の天幕を繕ったものがいるのかもしれない。ふたりは蝋燭燈をかざしながら、その頼りない貧弱な明かりを導き手に歩くほかなかった。
 子供はいなかった。どこにもいなかった。草のある牧にも、水のある川辺にも。ふたりはいたるところ捜して歩いた。郷の中央を流れるその川は、大人でさえ渡り切れないほど、岸から岸までずいぶんとある大きな川であった。グリゴーリィとアンナのふたりは、何時間も捜し回った。風呂場として使われている小屋のなかも、橋の袂やその橋脚の陰となったところまで、ふたりは、隈なく捜し回った。また、グリゴーリィは、昔、自分が子供だった頃によく遊んだところを思い出しては、アンナの手をひいて捜し回った。ざりがに捕りをした沼や、隠れ場にしていた廃屋など、思いつくところはすべて捜した。それでも見つからなかった。
「きっと、もう帰ってるわよ」
「そうにちげえねえ」
 もうすっかりグリゴーリィの酔いは醒めていた。ふたりは歩き疲れた足を引き摺り引き摺って帰路を急いだ。しかし、蝋燭の替えなどはとっくになくなっていた。ふたりは真っ暗闇のなかを歩かなければならなかったのである。それでも何とか帰ることはできた。
 先の方に小さな明かりが見えてきた。
「あれは、おれんちのへんだろ」
 ふたりとも、急に足が軽くなったように感じた。
「きっと戻ってるわね」
「ああ、きっと戻っちまってるさあ。だけど、うんと叱ってやらねえとな」
 ふたりは玄関の階段を駆け上がった。
「おふくろ、ミーシャとヴァーニャはっ」
 ペチカの前で、祖母に抱かれるようにして、ミハイールが、毛布にくるまり、膝をかかえて震えていた。しかし、その震えは、寒さばかりのせいではなかった。部屋のなかは、暑いくらいに暖まっていたのである。イヴァーンの姿がなかった。
「ヴァーニャはどこだ、どこにいる」
 その声を聞くと、ミハイールは身体をひくつかせて泣き始めた。グリゴーリィの後ろから妻のアンナが顔を出した。
「ヴァーニャはどこなの」
 祖母は孫を庇って、その枯れ皺んだ細い腕でミハイールを抱きながら言った。
「おぼれたんじゃと、牛に水をやっているときに溺れたんじゃと。あれは子牛じゃったが、力はすごいもんじゃろ。急に暴れだした子牛に振り回されて、ふたりは川に落っこっちまったんじゃと」
「そいじゃあ、ヴァーニャは溺れちまったってことけえ」
「そんなっ」
 と、アンナはすっとんきょうな声を上げると、夫を押し退けて、ミハイールのところに駆け寄った。
「ヴァーニャはっ、ヴァニューシカはどうしたんだいっ」
 アンナは、震えるミハイールの肩から毛布を剥ぎ取って、その小さな肩を前後に激しく揺さぶった。
「さがしたよ、さがしたよ、さがしても見つからなかったんだよう、ずっとずっとさがしたんだよう」
 子供は泣きじゃくりながら訴えた。
「あんたっ、ヴァニューシカはどうしちまったんだろ」
 アンナは振り返って夫の顔を見た。
「おまえはいつ戻ってきたんだっ」
 姑は、嫁の手を、その食い込んだ指を、血の滲んだ孫の肩から外してやると、口を開けば震えながら、ただ歯をがちがち鳴らしているばかりのミハイールの代わって答えてやった。
「ついさっきじゃよ、納屋の戸が開く音がしてね、それで納屋を見に行ったら、この子が馬房の前で干し藁にくるまって震えておったんじゃ。わけを訊くとな、この子が・・・・・・」
 グリゴーリィの耳には、それ以上母親の声は聞こえなかった。
「おまえが溺れさせちまったんじゃな」
 そう言うと、グリゴーリィは、玄関口に立てかけてあった杖を右の手にした。それは、母親が歩行の際に使う、樫の木でできた杖であった。彼は、それを振り上げるとミハイールの頭の上に打ち下ろした。年老いたアンナが腰にすがりついて止めても、杖で撲つのをやめなかった。ミハイールは泣き叫んだ。それを聞くと、なおいっそうグリゴーリィは杖を激しく打ち下ろした。歳若いアンナは夫の形相を見て、ただ呆然として立ち尽くすことしかできなかった。懲らしめの杖は、何度も何度も打ち下ろされた。杖が折れたときには、ミハイールは気を失っていた。子供の顔は血塗れだった。肩で息をしている夫の手から、妻のアンナが樫の棒を恐る恐る取り上げた。姑はミハイールの横に坐り込み、両手で顔を覆って絞りだすような声で泣いている。
 ミハイールの顔は血塗れだった。奇妙に折れ曲がった小さな指のあいだから潰れた左耳が覗いていた。

 鳥の声。指先が触れる。潰れた耳。鳥のさえずる声。指と人差し指の腹でつまむ。潰れた左耳。鳥のさえずる声が聞こえる。耳輪の瘤の膨らみが、耳たぶに繋っている。外耳道は、肉が盛り上がって塞がっている。鳥のさえずる声が微かに聞こえる。私は目が覚めた。
 私は、目の前に、曲がったまま真直ぐに伸ばせなくなった左手の指をもってきた。撲たれたときに頭を庇った薬指と小指である。
 私は起き上がって、部屋のなかを見回した。何もかも、紫色に染まっている。かわたれ時か、そういえば、あのとき私が、気を失ってから初めて目が覚めたのも、このぐらいの時間だったろうか。ルブヌイの修道院に担ぎ込まれた私が、そこの施療院の寝台の上で初めて目を覚ましたときと同じように、壁も、掛け布も、テーブルも、そして、私のこの歪んだ指も、何もかもが濃い紫色に染まっていたのである。あのあとしばらくのあいだ、私は、だれとも口をきくことができなかった。だれが部屋のなかに入って来ても、掛け布を頭からすっぽりと被って、決して顔を見せないようにしていたのである。親が会いに来ても、私は、掛け布の下から頭を出すことなく、ただ震えてばかりいたのである。そして、いつのまにか親は、施療院に現われなくなった。修道院が使いを送っても、私の親は、私を連れ戻しに来なかった。そして、二度と私の前に現われることがなかったのである。修道院側は困っただろうが、私の方はそれを聞いて嬉しかった。こころから喜んだ。二度と家に帰りたくなかった。絶対に戻りたくなかったのである。そして、その頑なな思いを遂げるためには、私は、僧侶になるほかなかったのである。すなわち、父が、私の頭の上に振り下ろした懲らしめの杖は、私をして修道士にならしめたのである。何ということだろう・・・・・・

  そして もし悲しむこころの泉が封印されるなら、
  それをやぶらぬがよい!
  おまえが家に帰れば おまえの泉は
  涙と悔恨にあふれていようから。
  世のきびしいあらしから
  墓のかげに隠れ家を求めよ。
   (パーシー・ビッシュ・シェリー『アドネース』上田和夫訳)

 昔のことを思い出すのはやめよう。つらいだけなのだから。
 祈りの準備をするために、私は、寝台の脇に置いておいた頭陀袋のなかからヴェルヴィツアと祈祷書を取り出した。ヴェルヴィツア、これは、キエフの修道院にいたとき、師父に贈られた数珠で、紐に編んで作られたものである。起きるのが遅かったために、暁課には間にあわなかったが、その分、朝課と一時課にまたがって、こころから勤めを果たすことにした。
 私は祈祷書のページを繰っていった。



五 分時鐘

  明らかな意味と、
  隠されているといわれる意味と。
  (パスカル『パンセ』第十章、前田陽一・由木康訳、著者改行)

 鐘が鳴っている。短く切って、また、鳴らされる。なっては止み、やんでは鳴る鐘の音、分時鐘、何ごとかあったのかもしれない。死を報ずる鐘、弔鐘だろうか。耳に慣れない異郷の鐘だと、打ち方が違って、それが何を意味するのか分からないものである。しかし、何か、ただならぬことが起きたということだけは分かる。修道院のなかの廊下を小走りに駆けてゆく修道士たちの足音が聞こえるのである。私は一時課を終えたばかりであった。それまで床に膝をつけて神を祈っていた私は、立ち上がり、振り返ると、扉の覗き窓から外の廊下の様子を見た。ただならぬ空気が漂っている。何か霊感といったものに衝かれたかのように私の足が勝手に動いてゆく。出合い頭に、きのう私をこの部屋に案内してくれた輔祭の胸に軽くぶつかった。
「何かあったのですか」
 彼は一瞬のあいだ、躊躇するように目を逸らして考えるような顔をしてみせたが、
「とにかく来れば分かりますよ」
 と言って、私の手をとって急がせた。
 私たちは修道院を出ると、鐘の音がする方に向かって走り出した。大通りに出ると、町のものも鐘の音に導かれて家々から、路地路地から出て来た。みな、教会前の大広場に集まっていくようだ。駆けてゆくものもいれば、喋べりながら歩いてゆくものもいる。
 広場のひとだかり、その上には二体の骸がぶら下がっていた。私たちは、ひと波のあいだを擦り抜けて前に進み出た。それらの死体は侏儒であった。私は、横にいる輔祭の顔を見た。彼は、まるで急に馬鹿になったかのように、ただぽかんと口を開けて、風に揺れる小人たちをじっと見上げているばかりであった。
 私は彼に声をかけた。
「これらは・・・・」
 彼は、初めて私の存在に気がついたかのように、目を瞠って私の顔を見つめた。
「これらは町のものたちにサテュロスとか、パーンの裔とかと呼ばれています」
「しかし、きのうの修道院長の話では、ここ何百年間のあいだに現われることなどなかったということでしたが」
「噂はありました。羊飼いや山羊飼いたちのあいだで、また、木こりや行商人たちのあいだで、何度も見かけたという話があるのです。まあ、教会側としては、やっと調査に乗り出したところでしたが、ゲオルギオス主教の指示で、けさ未明、パンゲオン山のふもとの方に討伐隊が派遣されたのです」
 私は、その吊されたものたちのなかに、きのう私が見た小人がいるか確かめるために絞首台に近づいた。後ろ手に縛られ、裸に剥かれたその骸は、どちらもひとの背の半分ほどしかなくて、顔面だけが白粉をまぶされて真っ白になっていた。喉もとに食い込んだ絞首索が肉のあいだに埋もれて見えない。白塗りの目を閉じたふたつの顔はそっくり同じで区別がつかなかった。きのう見た侏儒がぶら下がっているのかもしれないが、私には見分けがつかなかった。さらに近づいて、じっくりとつぶさに見た。奇妙に捩れた首の上には、この世のものとは思われないほどに醜く歪んだ顔があった。目頭に血が固まっている。黒紫色に変色した短い舌を覗かせた口のなかに二条の歯列を見ることができた。歯が二列になって並んでいるのである。奇妙というより無気味なさまであった。髪の毛は、生れてから一度だって洗ったことも、櫛を入れたこともないように、脂と埃にまみれて団塊状に固まっている。目を下にやれば、生っ白い、太短い胴から、毛むくじゃらの浮腫んだ足が二本ずつ生えていた。角さえ揃えば、神話に出てくるサテュロスそのものだった。
 叫び声がした。輔祭も私も振り返った。身なりの貧しい、若い女が泣き叫んでいる。
「どうしたのですか」
「どうやら異教徒のようですね。この呪われた獣たちを、絞首台から降ろすよう願い出てきたようです。しかし、それが聞き入れられないと分かって泣き叫んでいるのでしょう」
 その女が数人の修道士に取り囲まれた。そして、立たせられると、引き摺られるようにして人々の輪の外に連れて行かれた。
「どこへ連れて行くのですか」
「教会ですよ、もちろん」
「彼女はどうなるのですか」
「それは私にも分かりません」
 輔祭は、また、目の前のオークの枯れ木に吊り下げられた、二体の忌むべきものたちに目を移した。私は、私自身の意志で輪の外に出た。
 終ったはずの夏、その夏を思い返させるほどに嗜虐的な陽の光、太陽が灼熱を懐胎した無数の鞭をそこらかしこに打ちつけていた。乾いた道に、その白い石畳の上に。
 くっきりとした濃い影が私の前を歩いている。それは、あのサテュロスのように、私の半身ほどの大きさしかなかった。
 見上げると、どこまでも青い空の端で、秘かに置き忘れられた斑入りの片雲が、瞬きの間に飛び去る蝶のように、速やかに流れ去っていった。



六 聖なる山

 ヘラス北部のカルキディキからは、細長い三つの半島が、三つ叉の肉刺しのように突き出ている。標高およそ二ベルスターほどのアトス山は、その最北東部のアクティ半島突端に聳えている。しかし、人々は、慣用的にこの半島全体を指して、アトス山、または、単にアトスと呼んでいる。というのも、ここには、中世以来の伝統ある正教寺院が数多くあり、それが特にアトス山に集中しているためである。正教圏のさまざまな国から、府主教クラスの高位聖職者が派遣されている。エルサレムと同じように、このアトスもまた、正教の聖地となっているのである。

  周囲には
  陰鬱な海面が
  風にさえ見放されて
  波も立てず
  あきらめ切ったように
  大空の下に横たわっている。
  (E・A・ポオ『海の都市』入沢康夫訳、著者改行)

 港には潮の香りがきつく匂っている。私は、師父に手配してもらっていた小さな商船に乗り込んだ。それはガフセール型の帆船で、半島付根のイェリソスまで食料品や衣類を運び、帰りにアトスの修道院で作られた聖像画や、聖書や古書の写本や、浮き彫りを施した聖具類などを積んで戻るらしい。風がない。舫いが解かれてしばらくしても、船はなかなか岸から離れようとしない。揚げられた帆が、だらしなくたるんだままだった。数十羽のペリカンが、岸辺をわがもの顔に闊歩している。風は微塵も吹かない。嘴の下に大きな袋をぶら下げて、岸辺で騒ぐ水鳥たち。飛びかけるものもいれば、不格好なさまで踊るように走るものもいる。網からこぼれた魚をついばむ水鳥たち。港の朝の風景。風はまだ吹かない。水鳥たちの鳴き声ばかりが耳につく。身を廻らせて海を見た。弾け飛ぶ陽の光。水面の上の無数の煌き。太陽の欠片が海に零れ落ちている。こぼれ落ちて蒸発しているのだ。
 それは、私の視覚を麻痺させるような輝きだった。
 船長が私の側にやって来た。
「神父さん、こんなときは待つんですよ。ただ待つのみですよ。あなたがたは、天のことなら知っていなさるが、海のことなら、私たちの方がよく知ってるんですから」
 彼は、さも自信あり気に葉巻をひと喫いした。口の端に吐き出された煙草の濃密な烟が白い口髭にいったんこもって、また、ゆっくりと顔の前を舞い上がっていった。
「どれぐらい待つことになるのでしょう」
「さあ、それは分かりませんな、風は気紛れでしてな。私たちは、ただ待つことしかできません。しかし、そんなに長い時間待つこともないでしょう」
 海洋民族の末裔は、目尻に強烈な皺を寄せて微笑んだ。すると、突然、風が身体をなぶった。私は風に吹き飛ばされそうになって、咄嗟に帽子を押えた。頭の上で音がした。水に濡れた掛け布が、力いっぱいはたかれるような音がした。
 見上げると、帆が風をはらんで大きく膨らんでいた。
「こんなもんなんですよ、神父さん」
 先が炭火のように真っ赤になった葉巻を斜交いにくわえたまま、船長は目を細めた。
 そして、船は、同磁極を向かい合わせた磁石が反発するように、するりと岸から離れると、煌き煌く永遠の輝きを切り裂いていった。



七 腫れた足

 船がアクティ半島の東北岸にあるイェリソスの港に着くと、小舟に乗ってクセルクセスの運河からシンギティコス湾側に出て、そこから海岸線に沿って半島の折れた腕の上腕部にあたるウラノポリスまで歩いた。そこで、またふたたび船に乗り、半島の中央、腕の屈曲点にあるダフニまで海から廻っていった。そして、ダフニで驢馬を借り、首府カリエスまでそれの背に跨がっていったのである。船乗りたちを別にすれば、ウラノポリスから、アトスで見かける人間たちは、みな黒衣に身を包んだ修道士ばかりであった。女人禁制のこの地には、驢馬でさえ雌はいないらしい。私が跨がるこの驢馬も雄である。
 カリエスの政庁で手続きを済ませると、パンテレイモン修道院から交代勤務に来ていたヴィサリヨーン神父が、わざわざ私をそこに案内してくれることになった。パンテレイモン修道院は、ロシア正教がアトスに持つ修道院のなかで最も大きいものであった。そこに行くには、山を越えなければならなかった。
 黄緑っぽい茂りや、深緑のこんもりとした固まり、灰色がかった緑のオリーブ園、アトス山はさまざまな緑に覆われていた。私たちはいったん、目的地近くの海岸線に出た。回り込んで行くことにしたのである。パンテレイモン修道院は、船着き場から急に引っ込んだところにある。
「ミハイール神父、顔色がよくないようですが」
 彼は私の顔を覗き込んだ。
「いいえ、ヴィサリヨーン神父、大丈夫ですよ。ただ、ほんの少し旅の疲れが出たのでしょう」
 とは言ったものの、私は、道の途中で坐り込んでしまった。ここに来て、旅の疲れが出たのかもしれない。しばらくのあいだ、私は、腫れた足を休めさせてもらうことにした。ヴィサリヨーン神父は、黙って傍らの樹の下で、涼をとって休んでくれた。しかし、いつまでも甘えてはいられない。陽が傾きかけてきたようだ。海の顔が微妙に変わってきた。やがて、ホメロスが讃えたように、アイゲウスの海は葡萄酒色に染まってゆくのだろう。
 私たちはふたたび歩き始めた。腫れた足に山道はきつかった。
 目的地に着いたときには、私の両の足は、鉄の鋲でも刺さらないほどに堅く凝り固まっていた。しかし、間近に聖堂の丸屋根を目にしたときには、いくらか足の凝りが和らいだ気がした。



八 負の光輪

 礼拝堂にあるものは、吊り燭台も、その光に照らし出された聖なる衝立も、それに架けられた夥しい数の聖像画も、みな金ずくめであった。その輝きを背にして立っておられる白髪の小柄な老人が、パンテレイモン修道院長であった。
「きみは、ゲオルギオス・パパドプロス神父の弟子だという話だが、かっては、神父が、わしの弟子だった。すると、きみはわしの孫弟子とでもいうところかな」
 ピョートル・ヴァシーリェヴィチ・セミョーノフ修道院長の両の目が私を捉えた。
「きみは、異端の詩人の作品の研究が専門らしいが、いったいどういった詩人について研究しているのか、聞かせてくれたまえ」
「サッフォー、バイロンなどといった、ヘラスゆかりの詩人たちの詩歌について研究しております」
「ここには、異端の宗教家や思想家について、たいそう詳しいものがいる。しかし、そういった異端の研究者は常に少数者だ。とりわけ、本院においては、そういった異端の研究をこころよく思わないものが多いのだ。だからもしも、きみがきみの研究を続けてゆくつもりなら、しばらくのあいだは、本院から離れて、ラブラ形式でやってもらわなければならない。そして、きみはそれを承知でここにやって来たという」
 私は首肯いた。ラブラ形式、それは、ひとりではなく、数人で行なう修行形体のことである。
「いま、ふたりの修道士が、この山の裏手にある洞穴を隠処にして修行しておる。きみはそこに加わって修行することになる」
 ピョートル修道院長は、その皺だらけの顔面に微かに笑みを浮かべられると、
「さあ、それでは、ふたりのいるところに案内しよう、私が行く。彼らの様子も見ておきたいのでな」
 と言われて、聖堂から出るように促された。
 その洞穴は、パンテレイモン修道院の裏手にある分院の横道を下り、さらに左手に分岐した小道を下ったところにあった。傍らには、水底まで透いて見えるほどに清い水を湛えた小さな泉がある。修道院長が先に洞穴のなかに入ってゆかれた。私はあとからついていった。奥行のない、天井の低い洞穴で、狭くて窮屈ではあったが、私を入れて三人の人間が居住するには十分な広さであった。
 しかし、ここにはふたりの姿がなかった。
「森のなかにでもいるのだろう」
 と言って、修道院長は蝋燭に火を灯して、粗末な机の上でペンをとられた。
「ここに事情を書いておこう。きみが、きょう、パンテレイモンにやって来たことを、これから先、きみがここに加わって修行することを」
 自分の名前を署名し終えると、ピョートル修道院長は、聖パンを置くパテナに似た金属製の小さな丸皿の下にそれをかませられた。
「私はどうしていたらよいのでしょう」
「ここで待っておればよろしい、そのうちにふたりとも戻って来るだろうて。さて、それにしても、きみはずいぶんと疲れた顔をしているな、ここで少し横になって休めばよかろう」
 そう言い残して、修道院長は立ち去られた。
 私は寝具の上に横たわった。いま頃になって、踝の傷が痛むのである。手に触れると、そこは熱をもって腫れていた。あの泉の水に浸けてみようか。あの澄んだ水は冷たそうだった。
 私は起き上がり、洞穴の出口に向かって歩いた。すると、出口のところで、普段なら決して躓いたりしないような、何ともない窪みに足を取られた。やはり、相当疲れているのだろう。
 咬み傷のある左足の方から浸けていった。泉の水は思っていたよりずっと冷たかった。腫れの痛みがたちまち和らいでゆく。上から覗くと、底は浅そうだったのに、実際はずいぶんと深かった。腰の辺りまで水に浸けようと、私は泉の中心に向かって石伝いに歩いていった。足場に手ごろな平たい岩の上に立って、私は、胸の前で肘を引き、両の掌を合わせて印を結んだ。祈ろうとした。祈ろうとして、目をつむった。しかし、目をつむったが、こころを一点に集中することができなかった。

掌をふたつに離し
目を開けて空を見上げた
一線に並んだ白い雲が
ゆっくりと地上を見下ろしながら
私から遠ざかってゆく
雲は去り
二度と帰らない
あの雲は、どこに行こうとしているのか
あの雲は、どこでその命を尽きるのか
雲は去り
二度と帰らない
私もまた・・・・・・
足場にしていた岩が動いた
水に足を取られた
足が攣り、水に縺れた
息ができない
口からも、鼻からも
慌てて水を吸い込んだ
何とか息をしようとしたが
水面に顔を上げることさえできなかった
目と、耳と、鼻と、口と
みな、水の苦しみにもがいていた
そして、私は
激しい苦しみのなかに
目の前が真っ暗になっていった・・・・・・

 私は暗闇のなかにいた。しだいに、輪郭が浮かび上がってくる。それでも、辺りは濃紺色に閉ざされて、はっきりとは見えない。川辺であることだけは確かであった。柳が、歯の欠けた櫛のように、川端にとびとびに立ち並んでいる。どの木も、その柔腕に無数の鞭を垂らしていた。川面は、恐ろしく見事にみがき上げられた黒曜石のように月の欠片を映して煌いている。そうだ、私は知っている。これは夜だった。私は弟を捜していたのだ。捜していたのである。見つかるだろうか。見つかるだろうか・・・・・・。いや、見つかる可能性はほとんどないだろう。あの流れでは見つかりはしないだろう。なら、なぜ捜しているのだろう。そもそも、私は真剣に捜しているのだろうか。ただ捜す振りをしているだけなのだろうか。父に言い訳ができないからか、それとも継母と顔を合わすことができないからか。いや、理由はどうであれ、イズバに戻ることはできない。
 私は川面に目を落とした。無数の砕けた月の欠片たち。川面は銀の光にちらちらと瞬いている。弟ひとりに子牛に水をやらせて、私は水辺で休んでいた。昼間の水汲みに疲れていたのである。玄関に置いてあるあの甕に水を満たすために何十往復したものか。しかし、どうして私は、弟ひとりに子牛をみさせたのだろうか。私は、川辺の雑草を引き抜きながら、弟の姿を見つめていた。子牛が突然暴れだした。私が立ち上がるのと同時に、弟の姿が水のなかに吸い込まれた。牛が駆け出した。取り押さえに走り寄ったが、たとえ子牛であっても、子供の手におえるものではなかった、私は振り払われて躓いた。躓き、膝をついて泥だらけになった。見る間に子牛は走り去っていった。弟は、弟は・・・・・・。私は川岸に立って川の流れに弟を捜した。捜しても見あたらなかった。私は、川筋に沿って下りながら弟の姿を捜していた。捜して、捜し歩いた。弟の姿を捜し求めて、どんどん川を下っていった。どうして私は、あのとき、まず、弟が落ちたところに走り寄らなかったのだろうか。その一瞬に、私は何を考えたのだろうか。すぐに弟の落ちたところに駆け寄るべきであったのに。その一瞬のあいだに、私は躊躇したのだ。その一瞬のあいだに、私の頭のなかに継母のことが過ったのである。自分の産んだ子供だけを、弟だけを可愛がる継母のことが。私には見せたこともないような優しげな表情で弟を抱く継母のことが。私の母が死んですぐに父と一緒になった継母のことが。そして、父のことが。女にだらしのない父のことが。父は私の存在を無視していた。子供には冷たいひとであった。お祖母ちゃん子だった私も、父に親近感を抱いたことなどなかった。むしろ、私は私の母が死んですぐに継母を娶った父のことが許せなかった。憎しみさえ抱くようになったのである。この耳も、この潰れた耳も・・・・、この耳も。私は立ち止まって、自分の左耳に触れてみた。確かに耳は潰れている。欠けた耳に、虚ろな風が吹き通る。私は辺りを見回した。いままで、こんなに川下まで来たことがなかった。知っているようで、知らないところだろうか。いや知っている。ここには来たことがある。私の母がまだ生きていた頃に、私がまだ本当に幼い頃に、父が、よく釣りに連れてきてくれたところだ。あるとき、父は、川床に溜った朽ち木に釣り針を引っかけて難儀したことがあった。何度か竿を引っ張っても取れなかったので、とうとう父は川に飛び込んだ。なかなか顔を出さない父のことが心配になって、母に泣きついた記憶がある。やっと顔を上げて、水から上がってきた父に、母が私のことを話した。それを聞くと、父は濡れた身体で私を抱き締め、思い切り声を張り上げて笑った。濡れた胸に抱かれた私は、嬉しいような、恥ずかしいような変な気分にさせられた。そんな父が、いつから変わったのか、そんな私が、いつから変わったのか。いつから私は、父のことを憎しみの目で見るようになったのか。いつから私のこころは、父の胸から離れたのか・・・・・・。少し離れたところに人影が見える。膝を折って、向こう向きにうずくまっていた。私は近づいていった。継母の後ろ姿に似ている。そばまでゆくと、その影が振り返った。予感が当たった。それは継母だった。吊された侏儒のように、オークの木にぶら下げられたあのサテュロスのように、白塗りの顔で、私を睨みつけたのである。その腕には、溺れたはずの弟が抱かれていた。目を閉じたその顔は青く、息がないように青かった。継母が口を開きかけた。私は思わず後退った。すると、もの凄い力で肩を掴まれた。顔を後ろに向けようと振り返るより速く、私の上半身がその力に捩られた。捩られて合わせた顔は、父のものだった。真っ白に塗られた顔、充血して真っ赤な目。強張り固まった私の肩を、父は激しく揺さぶった、激しく揺さぶった・・・・・・。



 私は肩を揺すぶられて目が覚めた。周囲には、心配そうな表情で私の顔を覗き込む、たくさんの顔があった。
「ずいぶんと、うなされていた」
 ピョートル修道院長の顔があった。
「息を吹き返してよかった。きみは、泉で溺れて気を失っていたところを、森から戻ってきたそこのふたりに助けられたのだよ」
 寝台の両脇にいたふたりの修道士が、交互に口を開いた。
「洞穴に戻ってきてね、きみのことが書かれた紙を見たんだが、肝心のきみの姿が見あたらなくてね、それで、ふたりで捜しに出たんだよ」
「そして、泉の縁で、岩にしがみついたまま気を失っていたきみを見つけたんだよ」
「ずいぶんと重かったね」
 目に映るふたりの顔が、しだいに涙でぼやけていった。

 U字型の回廊に囲まれた修道院の中庭、そのU字形の屈曲点に、造りつけの椅子がある。そこに私と修道院長が並んで腰掛けていた。陽は高く、芝生の上にはほとんど影がない。ただ片側の回廊から続いた影の一部が、僅かばかり緑の端に顔を覗かせているだけだった。
「きみはいま、信仰に対する気持ちが揺れ動いていると言ったね。しかし、それは、きみが自身の行ないを罪と意識してこそのこころの動揺なのだよ」
 私が弟を殺したのだ。死ねばいいとは思わなかったが、結果は同じことなのだ。そこにどれほどの違いがあるだろうか。いや、これも自身への偽り、裏切りかもしれない。かって一度として、弟のことを死ねばいいと思ったことがなかっただろうか。
「私は、弟に、父に、そして、継母に取り返しのつかないことをしました。本当に、取り返しのつかないことを」
 修道院長は私の言葉を途中で遮られた。
「弟を見殺しにしたと思っていたきみは、永いあいだ悩んできたわけだ。確かにそれは罪である。贖われなくてはならない罪であった。そして、きみは、いままで修道士として神を祈ることによって、それを贖ってきたのだ。いま、きみが修道士をやめることは、そこに、新たな罪を増し加えることになるのだよ、これまでの贖いをも無益なものにしてしまうのだから」
 私は、私の新たな師父の言葉をこころのなかで噛みしめた。
 師父は立ち上がって、中庭の中央に向かって歩き出された。私も立ち上がり、師父のあとについて歩いた。前を向いたまま手を後ろに組んで、師父が言われた。私の影法師が師父の踵に触れた。
「罪に対する自覚は、決してきみの信仰心を揺るがせるものではないはずだ。それはきみの信仰心をより強固に、より深いものにするに違いない」
 師父の足が、中庭の中央にある長方形の池の前で止まった。私も立ち止った。師父は空を見上げられた。
 池の縁石を踏んで、私は水面を見下ろした。水鏡に映った空のなか、ちょうど私の被った丸帽子の後ろで、太陽が輝いている。微風が水面に触れた。その一瞬、ひと瞬きのあいだ、私の顔がさざ波に崩れさる前に、私は父の顔を見た。そして、その水面に映った父の頭には、いままで見たことのある、どの聖像画のものよりも眩しく輝く金色の光の輪があった。


鳥籠。

  田中宏輔



みんな 考えることが
おっくうに なったので
頭を はずして
かわりに 肩の上に
鳥籠をのっけて 歩いてた
鞄を抱えた 背広姿の人も
バス停でバスを待つ 女の人も
みんな 肩から上は 鳥籠だった
鳥籠の中には いろんな鳥がいた
いかつく見せたい人は 猛禽を
かわいく見せたい人は 小鳥やなんかを 入れてた
いろんな鳥が鳥籠の中で 鳴いてた
でも 中には 死んだ鳥や
死んだまま 骨になったものを入れて
平気で歩いてる人もいた
さっき 病院の前で
二羽も 飼ってる人を 見かけたから
ぼくは その人に ぼくの小鳥を あげた
これから ぼくは ぼくの鳥籠には
何も 入れないことにするよ
だって 小鳥を飼うのも 面倒くさいもの


鳥籠。

  田中宏輔



引っ越してきたばっかりなのに、
ほら、ここは、神さまの家に近いでしょ。
さっき、神さまが訪ねてきたのよ。
終末がどうのこうのって、うるさかったわ。
だから、持ってた布団叩きで、頭を叩いてやったの。
でも、まだ終末がどうのこうのってうるさくいうから、
台所から、包丁もってきて、ガッ、
ゴトンッて、首を落としてやったの。
まっ、首から下は、返してあげたけどね。
はいはいしながら、帰っていったわ。
首は鳥籠に入れて、部屋に置いてあるのよ。
お父さんの首の隣に吊るしてあるの。
お化粧したり、飾りをつけたりしたら、
けっこう、いいインテリアになるわよ。
えっ、また、うるさくしたらって?
大丈夫よ。
お父さんのように、火のついた棒で脅かしておいたから。
それにしても、わたしの終末なんて、
そんなもの、どうしようと、わたしの勝手よねえ。


ロー、ローラ、ロリータ!

  田中宏輔



「どうしてあなたはこんなところにたったひとりですわってらっしゃるの?」
 議論なんかしたくないと思ったので、アリスはそうたずねました。
「なぜって、だれもつれがいないからさ」ハンプティ・ダンプティは答えました。
(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』高杉一郎訳)


きょうは仕事を休んで、ただ部屋でぼうっと過ごしているつもりだった。
車に乗って遠出をしようだなんて、ちっとも考えちゃいなかった。
でも、あんまり陽気がよかったから、ずいぶん遠いところまで車を走らせた。


車を止めて休んでいると、公園で遊んでいるきみの姿が目に入った。
砂場で遊んでいる、小さくて可愛らしいきみの姿が目に入った。


きみは変わった子だったね。
おじさんちに遊びにくるかいっていうと、
「誘拐するのね」って、
「そして、わたしに悪戯するのね」っていって笑った。
そのとき、ぼくはナボコフのロリータを思い出したよ。
そして、ぼくは、こういったね。
「さあ、ローラ! はやく車にお乗りよ」って。
そしたら、きみは、ぼくの顔を、きっと睨み返して、こういったね。
「わたしはアリスよ」って。


でも、どっちにしたって、
そのこまっしゃくれた、生意気な口の利き方は
とっても可愛らしかったよ。
そう思ったのは、ぼくが、おじさんだからなのかもしれないけどね。
ああ、それにしても、
きみの裸は美しかった。
その剥き出しの足は、ことのほか美しかった。
そのやわらかな太腿、そのやわらかくすべすべした膝っ小僧、
そのやわらかくすべすべした小さな踵。
すべてがやわらかくすべすべして小さくて可愛らしかった。
ぼくの指が触れると、
きみはくすくす笑って、すっかり薄くなったぼくの髪の毛を引っ張った。


「なんて、へんてこな気持ちでしょう」と、アリスはいいました。
(ルイス・キャロル『ふしぎの国のアリス』高杉一郎訳)


でも、きみは夜になると、家に帰りたいといって泣き出した。
その声があんまり大きかったから、ぼくはきみの口をふさいだ。
鼻もいっしょにおさえた。
苦しがるきみの顔は、とても可愛らしかった。
とても可愛らしくて、愛らしかった。
だから、ぼくは、おさえた手を離すことができなかった。
できなかったよ。


「ロー、あれをごらん」
(ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)


「アリスだっていったでしょ」


「口答えは、およし。ローラ」


流れ星だよ。
はじめて、ぼくは見たよ。
きみは、何かお願いごとをしたかい。
ぼくはしたよ。
これからも、きみといっしょに、
ずっといっしょにいられますようにって。


「ね、ローラ」


「アリスだっていったでしょ」


「おまえは、おかしなやつだね、ロリータ」
(ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)


さっ、ローラ。
また、ぼくといっしょに遊んでおくれ。
残り少ないぼくの髪の毛を、思いっきり引っ張っておくれ。
引っ張って、ひっぱって、引き毟っておくれ。


「そのかわいい爪でね、ロリータ」
(ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)


詩の日めくり 二〇一七年五月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年五月一日 「もろもろのこと。」

 だいぶ本を処分したんだけど、またぼちぼち本を買い出したので、本棚にかざる本をクリアファイルで四角く囲んでカヴァーにして立ててかざれるようにしてるんだけど、そのクリアファイルがなくなったので、西院のダイソーにまず寄って、108円ジャストを払ってA5版の透明のクリアファイルを買った。
 それからブレッズ・プラスに行って、ホットサンドイッチ・セットを注文して(税込628円だったけど、200円の割引券を使ったので、426円)飲み物はダージリンティーのアイスで、喫茶部の席が1席しか空いてなかったので、さきにバックパックとさっき買ったばかりのクリアファイルを置いておいて料金を払った。ここでも、ぴったし426円を払った。坐ってクリアファイルを袋から出して状態を調べていると(曲がりがあったりしていないかどうかとかね)隣の席にいたおばあさん二人組の会話が聞こえてきた。月曜日の3時過ぎって、気がつけば、おばさんと、おばあさんたちばかりだった。おじさんやおにいさんの姿はひとつもなかった。で、隣に坐っていたおばあさんのひとりが、相手のおばあさんに、こんなことしゃべっているのが耳に聞こえてきたのであった。「隣の娘さんとは、小さいときには口をきいたけど、もう学生やろ。そんなんぜんぜん口なんかきいてへんねんけど、いま美容院の学校に行ってはんねんて。将来、美容院にならはるらしいわ。」って。それ、美容院の店員の間違いちゃうのんってツッコミ入れたくなったけど、なんか髪形がダダみたいな感じで、化粧の濃い迫力のあるおばあさんだったから黙ってた。黙ってたけど、これ、メモしとかなければならないなと思って、その場でメモしてた。
 ホットサンドだけではおなかがいっぱいにならなかったので、帰りに松屋に寄って、牛丼のミニを食べた。240円やった。このときは、250円を自販機に入れて10円玉一個のお釣りを受け取った。このとき小銭入れにジャスト240円あればよかったのになあって、ふと思った。まあ、どってことないことやけど。
 そや、クリアファイルで、立てられるブックカヴァーつくろうっと。いま、サンリオSF文庫のをつくってる。すでにつくってあるのは、ミシェル・ジュリの『熱い太陽、深海魚』、フィリップ・K・ディックの『暗闇のスキャナー』と『ヴァリス』、ピーター・ディキンスンの『緑色遺伝子』の4冊。これからつくるのは、ミシェル・ジュリの『不安定な時間』、ロバート・シルヴァーバーグの『内側の世界』と『大地への下降』、アントニイ・バージェスの『アバ、アバ』、ボブ・ショウの『眩暈』、ゴア・ヴィダルの『マイロン』、シオドア・スタージョンの『コスミック・レイプ』、ピエール・クリスタンの『着飾った捕食家たち』、トマス・M・ディッシュの『歌の翼に』、フリッツ・ライバーの『バケツ一杯の空気』、マーガレット・セント・クレアの『どこからなりとも月にひとつの卵』、ボブ・ショウの『去りにし日々、今ひとたびの幻』、シオドア・スタージョンの『スタージョンは健在なり』、トム・リーミイの『サンジィエゴ・ライトフット・スー』。いまからつくる。ぜんぶつくれるかどうか、わからないけど、がんばる。つくり終わった。これから、フィニイの短篇集のつづきを読む。

二〇一七年五月二日 「永遠」

 いま、ジャック・フィニイの短篇集『ゲイルズバーグの春を愛す』のさいごに収録されている「愛の手紙」を読み終わったところ。さいごの二行を読んで、涙が滲んでしまった。齢をとると涙腺がほんとに弱くなってしまうのだな。永遠の思い出のためにって、まだ永遠なんて言葉に感動するぼくがいたんやね。

二〇一七年五月三日 「ゆ党」

 いま日知庵から帰った。国立大学出身・一級公務員の女子(30数歳)から聞いた話。「与党、野党があるんだったら、ゆ党もあればいいと思いません?」と言われて、「えっ、なんのこと?」と尋ねたぼくに、「やゆよですよ。よ党、や党でしょ? ゆ党ってあってもいいと思いません?」笑うしかなかった。

二〇一七年五月四日 「時間」

 なぜ時間というものがあるのだろう? 時間がなければ、見ることも聞くことも感じることもできないからだろう。見ることができるために、聞くことができるために、感じることができるために、時間が存在するのである。

二〇一七年五月五日 「真珠」

 日知庵に行くと、ほぼ満席で、空いてるところは一か所だけだったのだけれど、奥のカウンター席だったのだけれど、そこに坐ってからお店のなかを見回すと、入り口近くのカウンター席に、植木職人24歳の藤原くんが腰かけていて挨拶したら、その隣に坐ってらっしゃる方も存じ上げていた方だったのでご挨拶したのだけれど、そうそう、その方、大石さんて、えいちゃんに呼ばれてらっしゃったのだけれど、御年76歳で、剣道6段の方で、ご自分で道場もお持ちらしくって、その二人の隣の席が空いたときに、ぼくは移動して3人でしゃべっていたのだけれど、前のマスターの亡くなられたことが話題になったのかな、前のマスターは78歳で亡くなったと思うのだけれど、死の話が出て、いったいいくつくらいで人間は死ぬのでしょうねとか話してたら、大石さんが、「このあいだ、うちの道場にきてた73歳の方が、道場を掃除し終わった瞬間にぽっくり亡くなられましたよ。」っておっしゃったので、「その掃除が心臓に負担になって亡くなったんじゃないですか?」と言うと、大石さんは笑ってらっしゃったけれど、藤原くんが、「田中さん、エグイっすね。」と言うので、「ほら、日本人って背中を曲げてお辞儀をするじゃない? あれもそうとう心臓に悪いらしいよ。外国人は背中は曲げないしね。」とかとか話してた。大石さん、あとで店に来た女性客のことが気に入られたのか、名刺を渡されたのだけれど、ぼくの目のまえを名刺が手渡されたので、ちらっと見たのだけれど、真珠のデザイン会社をなさっておられるらしく、曲がった真珠の指輪をなさっておられて、その女性客がしきりと感心していた。ハート型の真珠だったのだ。ぼくは、「ああ、バロックだな。」と言ったのだけれど、ぼくの意見は無視されてしまって、大石さんと女性客(このあいだ話題にした某国立大学出の公務員だ)のあいだで、その真珠のとれた外国の話で盛り上がっていた。どこの国だったか、腹が立っていたので記憶していない。

二〇一七年五月六日 「原 民喜」

 原 民喜は、青土社から出ていた全集で(二冊本だったかな)読んでいて、ぼくの詩集『The Wasteless Land.II』に収録している詩に、数多くの文章を引用しているが、日本語のもっとも美しい使い手だと、いまでも思っている。民喜のもの以上に美しい日本語の文章は見たことがない。

二〇一七年五月七日 「パロディー」

 日知庵で飲んでいると、知り合いが増えていって、話がはずんでいたのだけれど、女性客3人組が入ってきて、カウンター席に坐ってマシンガントークをはじめたのだけれど、こんなん言ってたから、メモした。「あたし、とつぜん夜中の12時に唐揚げが揚げたくなって、それからしばらく唐揚げ揚げっぱなしやってん。」「このあいだドアに首が挟まっててん。寝てて目が覚めたら、上を見たら、ドアの上のところやってん。寝ているうちに、ドアに首が挟まっててんな。」いったん、ぼくは、日知庵を出て、きみやに行ったら休みだったので、も一度、日知庵に行ったら、ぼくがいないあいだに、ぼくの噂をしていたみたいで、ぼくがカウンター席の端に腰を下ろしたら、女性客3人組のうちのひとり、あのドアに首を挟まれてた彼女が、ぼくの隣に腰かけてきて、それから彼女が指を見せてきて、「あたし、指紋がないのよ。着物を扱ってるから。」と言うので、「印刷所に勤めているひとにも、指紋のないひとがいるって本で読んだことがありますよ。」と返事したりしていた。彼女はいまは着物を扱う仕事をしているみたいだけど、以前は塾で国語を教えていたらしくて、漢文の話になったのだけれど、ぼくは漢文がぜんぜんできないので、話を『源氏物語』の方向にもっていった。源氏物語なら、2年ほどかけて読んだことがあったので。与謝野晶子訳でだけれども。まあ、よくしゃべる、陽気な、しかも、大酒飲みの女性だった。ぼくは、彼女たちよりも先に勘定をすまして日知庵を出たのだけれど、11時30分に送り迎えの車がくるという話だった。送り迎えするのは、彼女たちが属している楽団の一員で、ぼくも知ってる人物だけれど。いや〜、やはり、日知庵ですごす一日は濃いわ。けっきょく、ぼくも、5時から11時くらいまでいたのだけれど、阪急電車に乗ったのが、11時5分出発の電車だったから、出たのは、11時ちょっとまえか。でもまあ、長居したな。焼酎のロックを2杯と、生ビールを4杯か5杯くらい飲んでる。

 ところで、日知庵で、原 民喜の詩を思い出していたのだけれど、まだ、買ったばかりの岩波文庫の『原民喜全詩集』のページもまったく開いていなかったときのことだけれど、5時過ぎのことね、民喜の詩のパロディを考えたのであった。こんなの。


コレガろぼっとナノデス

コレガろぼっとナノデス
原発事故デメチャクチャニナッタ原子炉ヲゴラン下サイ
ワタシハココデ作業ヲシテイマス
男デモナイ女デモナイ
オオ コノ金属製ノ躰ヲ見テ下サイ
壊レヤスク造ラレテハイナイケレドイツカ壊レル
コレガろぼっとナノデス
ろぼっとノ躰ナノデス


メモには、こう書いてた。さっき書いたのは、じつは、民喜の詩を参考にしたものであったのだ。ぼくは嘘つきだね。


僕ハ人間デハナイノデス

僕ハ人間デハナイノデス
ロボットナノデス
ダカラ放射能渦巻ク原子炉内デ作業シテイルノデス
血管ガナイノデ血ハ出マセンシ
故障シテモゼンゼン痛クモアリマセン
ダカラ放射能渦巻ク原子炉内デ作業シテイルノデス
僕ハ人間デハナイノデス
ロボットナノデス


これは、こうしたほうがいいな。


コレハ人間デハナイノデス

コレハ人間デハナイノデス
ロボットナノデス
ダカラ放射能渦巻ク原子炉内デ作業ヲシテイルノデス
血管ガナイノデ血ハ出マセンシ
故障シテモゼンゼン痛クモアリマセン
ダカラ放射能渦巻ク原子炉内デ作業ヲシテイルノデス
コレハ人間デハナイノデス
ロボットナノデス

二〇一七年五月八日 「肉吸い」

 イオンに行ったら、イタリアンレストランがつぶれてて、しゃぶしゃぶ屋さんになってた。そこで、しゃぶしゃぶ食べたことあるのに、すっかり忘れてた。レストランのところからフードコートのコーナーに行って食べることにした。はじめて行った店だった。肉問屋・肉商店という店で、そこで、なにがおいしそうかなって思って看板見てたら、カルビ丼と肉吸いセットっていうのがあって、肉吸いって、大宮の立ち飲み屋で食べたことがあって、おいしかったから、ここでもおいしいかなって思って注文した。980円だったけれど、税金を入れると1058円だった。おいしかったけど、ちと高いかな。
 さて、部屋に戻ってきて、コーヒーも淹れたので、これから読書に戻る。河出文庫の『ドラキュラ ドラキュラ』あと2篇。きょうじゅうに読めるな。時間があまったら、岩波文庫の『大手拓次詩集』のつづきを読む。というか、時間、完全にあまるわな。詩集の編集は、きょうはしない。河出文庫の『ドラキュラ ドラキュラ』読み終わった。これには、2カ所、クラークの短篇集『天の向こう側』には、4カ所、ルーズリーフに書き写したい文章があるが、いまはせずに、つづけて、岩波文庫の『大手拓次詩集』のつづきを読むことにする。ルーズリーフ作業は、べつに、きょうでなくてもよい。『ドラキュラ ドラキュラ』のBGMはずっとプリンスだった。『大手拓次詩集』では、EW&Fにしようかな。いや、やっぱり暗めのほうがいいかな。いやいや、EW&Fのファンキーな音楽で「大手拓次」を読んでみるのも、おもしろいかもしれない。「大手拓次」と「EW&F」の組み合わせもいいかも。ぼくの悪い癖が出てる。エリオットでも笑っちゃったんだけど、大手拓次のものでも、まじめに書いてあるところで笑ってしまうんだよね。ぼくの性格というか、気質の問題かもしれないけれど。エリオットの『荒地』なんて、笑うしかない、おもしろい詩集だと思うのだけれど、だれも笑うなんて書かないね。

二〇一七年五月九日 「言葉」

ぼくが言葉をつなぎ合わせるのではない。
言葉がぼくをつなぎ合わせるのだ。

二〇一七年五月十日 「ウルフェン」

 きのう寝るまえに、サリンジャーの『マディソン街のはずれの小さな反抗』(渥美昭夫訳)を読んだ。なんの才能も、とりえもない平凡な青年と、これまた平凡な女性との、ちょっとした恋愛話だった。平凡さを強調する表現があざとかったけれど、さすがサリンジャー、さいごまで読ませて、笑かせてくれた。学校の授業の空き時間と通勤時間には、ホイットリー・ストリーバーの『ウルフェン』(山田順子訳)を読んでいたのだが、これが初の長編作品かと思われるくらい、おもしろくって、描写に無駄がなくて、会話もウィットに富んでいるし、きょうだけで、153ページまで読んだ。半分近くである。

二〇一七年五月十一日 「闇」

このぼくの胸のなかに灯る闇を見よ。
ぼくの思いは、輝く闇できらめいているのだ。
彼のことを、ぼくの夜で、すっぽりと包み込んでしまいたい。
ぼくのこころからやさしい闇でできた夜で。

二〇一七年五月十二日 「うみのはなし」

 いま、郵便受けを見たら、橘上さんから、詩集『うみのはなし』を送っていただいていた。さっそく読んでみた。とてもよい詩集だと思った。

二〇一七年五月十三日 「薔薇の渇き」

 いま学校から帰った。ストリーバーの『薔薇の渇き』たしかに、『ウルフェン』ほど興奮して読まないけれど、表現が的確で、かつ簡潔なので、ひじょうに勉強になる。もちろん、おもしろい筋書きだ。名作である。『ラスト・ヴァンパイア』を読んで捨てたけど、もう一度、Amazon で買い直そうかな。

二〇一七年五月十四日 「河村塔王さん」

 来々週の土曜日、5月27日に、河村塔王さんと日知庵でお会いする。ひさびさだったかしらん。1年か、2年かぶりのような気がする。本に関する、というか、言葉に対する、現在もっとも先鋭的な芸術活動を行ってらっしゃるアーティストの方だ。言葉について関心のある人で知らない人などいないだろう。そういう最先端の方が、ぼくの作品に興味をもってくださっているということが、ぼくにはなによりもうれしいし、誇りに思っている。がんばらなくては、という気力が奮起させられる。いや、ほんと、がんばろうっと。きょうは、ルーズリーフ作業をする日にしていた。作業をしよう。目のまえに付箋した本が5冊あって、いま読んでいるストリーバーの『薔薇の渇き』も付箋だらけである。ああ、ほんとうに、ぼくが知らない、すばらしい表現って、まだまだたくさんあるのだな。ぼくの付箋━ルーズリーフ作業も一生、つづくのだな。もうこの齢になるとライフワークばかりになってしまった。みんなライフワーク。
 そいえば、きのうは、大谷良太くんと日知庵で、ひさしぶりに飲んだのであった。ぼくは、きみやと日知庵と合わせて10杯以上、生ビールを飲んでいて、べろんべろんだったけれど、大好きなFくんもいて、かなちゃんのかわいい彼氏や優くんもいて、めっちゃゴキゲンさんで、しゅうし笑いっぱなしだった。かなちゃんから、「きょうの田中さん、テンション高すぎ。」と言われるくらい、きのうははじけていたのだ。「かなちゃんの彼氏、とっちゃおうかな。」と言うと、「どうぞ、どうぞ。」と笑って答えてくれたけど、肝心のかなちゃんの彼氏が、「かなちゃんのこと好きだし、いまはだめです。」と言って。56歳のジジイのぼくはやっぱり、24歳の女子の魅力には劣るのだなと思った。笑。まあ、なんやかやと、人生は絡み合うのがおもしろい。というか、絡み合いしか、ないでしょうといった気持ちで生きている。仕事も、酒も、文学も。でも、なぜ、この順番に書いたんだろう、ぼく。笑。重要な順番?

二〇一七年五月十五日 「人間の規格」

 クラークの短篇集『天の向こう側』、河出文庫の『ドラキュラ ドラキュラ』、ストリーバーの『ウルフェン』のルーズリーフ作業が終わった。岩波文庫の『大手拓次詩集』のルーズリーフ作業はあしたにまわして、さきにまだ読んでるストリーバーの『薔薇の渇き』を読んでしまおう。きょうの文学だ。
 それはそうと、日知庵に行くまえに、ユニクロで、夏用のズボンを買わないといけないと思って買いに行ったのだけれど、ぼくのサイズ、胴周りが100センチで、股下が73センチなんだけど、置いてなかった。このあいだまであったのに、いまは91センチが胴周りの最高値みたいで、店員に、「デブは人間の規格じゃないってことなのね。」と言ったら、「ネットで、そのサイズのものを買ってください。」という返事だった。いまからネットで、ユニクロのHP見るけれど、胴周り100センチのものがなかったら、ユニクロでは、デブは人間の規格ではないってことを表明してることになると思う。どだろ。いまユニクロのHPで、会員登録をして、胴周り100センチのものを股下補正して76センチから73センチにしてもらって買った。2本。8615円やった。消費税なしやったら、1本3990円なのにね。まあ、どんな感じのパンツかは、ユニクロの店で見たから、あとはサイズがぴったしかどうかね。
 さて、きょうは、もう寝床について、ストリーバーの『薔薇の渇き』のつづきを読もう。おやすみ、グッジョブ! あしたは、岩波文庫の『大手拓次詩集』の付箋したところをルーズリーフに書き写す作業をする。76か所くらいあったかな。一か所1行から10行くらいまで、さまざまな行数の詩行だけれど。

二〇一七年五月十六日 「異星人の郷」

 いま起きた。ストリーバーの『薔薇の渇き』のルーズリーフ作業がまだなんだけど、これ、学校に行くまでしようかな。これも付箋が大量にしてあるから、ぜんぶ終わらないだろうけれど。ストリーバーの表現、すごくレトリカルなの。びっくりした。エンターテインメントの吸血鬼ものなのにね。驚いたわ。あ、まずコーヒーを淹れて飲まないと、完全に目が覚めない。体内にまだ睡眠導入剤や精神安定剤の痕跡があるからね。8時間以上たたないと対外に排出されないと聞いている。クスリによっては、もっと体内に残存しているともいう。まあ、とにかく、まず、コーヒーだな。淹れて飲もうっと。
 ストリーバーの『薔薇の渇き』のルーズリーフ作業が終わった。きょうは、学校がお昼前からだから、ゆっくりしている。あと、もう一杯、コーヒーを淹れて飲んだら、お風呂に入って、仕事に行く準備をしよう。そだ、きのう寝るまえに、マイクル・フリンの『異星人の郷』上巻を少し読んだのだけれど、字が小さくて読みにくかった。ハヤカワSF文庫はかくじつに字が大きくなって読みやすくなった。代わりに、文庫のくせに価格が1000円軽く超えるようになったけれど、創元も字を大きくしてほしいなと、きのう思った。やっぱり、字が小さいと読みにくい。ハヤカワ文庫は、その点、改善されてるな。
 いま学校から帰ってきた。マイクル・フリンの『異星人の郷』上巻を、授業の空き時間に、そして通勤時間に読んでた。めちゃくちゃおもしろい。作者がいかに膨大な知識の持ち主かわかる。エリス・ピーターズのカドフェル修道士ものをすべて読んだくらいのぼくだけれど、カドフェル修道士を思い起こさせる主人公の修道士の文学的にレトリカルな言葉のやりとりと、哲学者けん神学者の怜悧な頭脳と、その心情の人間らしさに驚かされている。ふつう、頭のよい人間は冷たいものなのだ。しかし、この『異星人の郷』の14世紀側の主人公の人間性は、ピカいちである。傑作だ。まだ半分も読んでない138ページ目だけれど、ほかのものより優先させて読むことにしてよかった。人間いつ死ぬかわからないものね。ぼくは、おいしいものから食べる派なのだ。本も、よいものから読んでいく派である。したがって、聖書、ギリシア・ローマ神話、シェイクスピア、ゲーテから文学に入ったのは当然のことなのである。
 いまから、マイクル・フリンの『異星人の郷』上巻のつづきを読む。ほんとうにおもしろい。きのう、おとつい読んでたストリーバーの『ウルフェン』や『薔薇の渇き』以上かもしれない。いや、きっとそうだろう。この本に書き込まれている量は、ぼくの知識欲をも十分に満足させられる膨大な知識量である。

二〇一七年五月十七日 「人身売買」

 AKBとかの握手会って、お金をCDに出させて握手させるって仕組みだけど、人身売買と同じじゃないのって、このあいだ、日知庵で話したのだけれど、人身売買ってなに? って言われたくらいなのだけれど、人身売買って、そんなに古い言葉なのかしら?

二〇一七年五月十八日 「規格外」

 いま日知庵から帰った。きょう、月曜日に注文したユニクロのパンツが届いた。ぴったしのサイズ。すごい。日知庵では、めっちゃかわいい男の子(26才)がいて、「ぼくがきみくらいかわいかったころ、めちゃくちゃしてたわ。」と言ったら、「ぼく、いまめちゃくちゃしてます。」という返事で納得した。

そのとおり。時間とは、ここ、場所とは、いま。

二〇一七年五月十九日 「微糖」

 いまセブイレでは、700円以上、買ったら、くじ引きができて、コーヒーとサンドイッチ2袋買ったら、876円だったので、くじを引いたら、缶コーヒーがあたっちゃった。WANDA「極」ってやつで、微糖なんだって。わりと大きめの缶コーヒー。ラッキーしちゃった。これからサンドイッチの晩ご飯。

二〇一七年五月二十日 「異星人の郷」

 マイクル・フリンの『異星人の郷』下巻を読み終わった。無駄な行は一行もなかった。すべての言葉が適切な場所に配置され、効果を上げていた。しゅうし感動されっぱなしだったが、さいごの場面は、ホーガンの『星を継ぐ者』を髣髴した。傑作であった。部屋の本棚に飾るため、クリアファイルでカヴァーをこれからつくる。つぎに読むのは、ジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』にしよう。手に入れるために、高額のお金を払ったような気がするのだが、いま、Amazon ではいくらくらいするのだろう。ちょっと調べてみよう。Kindle版しかなかった。ぼくの持ってるような書籍の形では売っていなかった。やはり貴重な本だったのだ。いったい、いくらお金を払ったかは記憶にはないが、安くはなかったはずだ。ジャック・ヴァンスも、ぼくがコンプリートに収集した作家の一人であった。『終末期の赤い地球』を読んでいこう。あした、あさっての休みは、マイクル・フリンの『異星人の郷』上下巻のルーズリーフ作業をする。付箋をした所、書き写すのに、まるまる2日はかかる量である。いや、それ以上かもしれない。おびただしい量である。しかし、書き写すと、確実にぼくの潜在自我が吸収するので、しんどいが喜んで書き写す。

二〇一七年五月二十一日 「血ヘド」

 いま日知庵から帰ってきた。行きしなに、南原魚人くんとあって、いっしょに日知庵で飲んでた。+女の子ふたり。ぼくは、きょうも飲み過ぎで、「また血を吐くかも。」と言うと、えいちゃんに、「血ぃ吐け!」と言われた、笑。

二〇一七年五月二十二日 「無名」

 いま数学の問題の解答が2分の1できた。ちょっと休憩して、あと2分の1を済まして、マイクル・フリンの『異星人の郷』上下巻のルーズリーフ作業をはやくはじめたい。とてもすばらしい、レトリカルな言葉がいっぱい。ぼくには学びきれないほどの量であった。しかし、がんばって書き写して吸収するぞ。

 いまでも緊張すると、喉の筋肉が動かなくなって、言葉が出てこないことがある。まあ、この齢、56歳にもなると、さいごに吃音になったのは、数年まえに、えいちゃんに問いかけられて、すぐに答えられなかったときくらいかな。そのときは、緊張ではなく、極度の疲労から、どもりになったのであった。

 文学極道の詩投稿掲示板で、「田中さん貴方も世間からは何一つ認められていない 貴方もクズみたいな作品でしょ 大岡に認められたユリイカに認められたって誰もあんたのことなど知らないし知りたくもないんだよ」なんて書いてる者がいて、それは、ぼくにとってよい状態だと思っているのだがね、笑。以前は、「イカイカ」というHNで書いてた者だけれども、いまは、「生活」というHNで、相変わらず、才能のひとかけらもないものを書いているしょうもないヤツだけど、才能もないのに、ごちゃごちゃ抜かすのは、逆に考えると、才能がないから、ごちゃごちゃ抜かすということかもしれないなと思った。あ、芸術家は、無名のときが、いちばん幸福な状態であると、ぼくは思っているので、ぼくの場合も、もちろん、死ぬまで、無名の状態でよいのである。何といっても、すばらしい音楽を、すばらしい詩を、すばらしい小説を、だれにすすめられることもなく、自分の好きになったものを追いかけられるのだ。しかし、この「生活」という人物、もと「イカイカ」というHNの者、世間に認められることに意味があると、ほんとうに思っているのだろうか。芸術家にとって、無名であること以上に大切なことはないと、ぼくなどは思うのだがね。まあ、ほんとに、ひとによって感じ方、考え方はさまざまだろうけれどね。そいえば、同僚の先生で、小説を書いてる方がいらっしゃって、ぼくに、「有名にならなければ意味がありませんよ。」なんて言ってたけれど、どういうことなんだろうね。有名になるってこと。なんか意味でもあるのかな。重要な意味が。ぼくには、なにも見当たらない。

 マイクル・フリンの『異星人の郷』上巻のルーズリーフ作業が終わった。下巻突入は無理。というか、とても疲れた。あした以降に、『異星人の郷』下巻のルーズリーフ作業をすることにした。きょうは、もうお風呂に入って、ジーン・ウルフの原著を声を出しながら読んで、寝るまえにはジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』のつづきを読む。魔術が支配している未来の地球の話だけど、マイクル・フリンに比べたら、数段に劣る描写力。しかし、ヴァンスは、シェイクスピアの『オセロウ』に匹敵する名作、魔王子シリーズの1冊、『愛の宮殿』(か、『闇に待つ顔』か)を書いた作家だからなあ。はずせない。

二〇一七年五月二十三日 「誤植」

 きょうはかなり神経がピリピリしている。眠れるかどうかもわからない。とりあえず、お風呂に入って横になって、ジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』のつづきを読もう。おやすみ、グッジョブ!

 ジャック・ヴァンス『終末期の赤い地球』日夏 響訳 誤植 157ページ上段3行目「革は痛みきってひびが入っている。」この「痛み」は「傷み」の誤植だろう。まあ、古い本だけど、Kindle版が出てるそうだから、そこでは直ってる可能性があるけど、そこでも誤植のままの可能性もある。どだろ。

二〇一七年五月二十四日 「誤植」

 週に3.5日働いているが、きょうはその3.5日のうちの1日。朝から晩まで数学である。とはいっても、通勤時間や授業の空き時間に読書しているが。ジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』は有名な作品だからていねいに読んだが、あまり価値はなかった。ジャック・ヴァンスのつぎに読みはじめたのは、ヴァンスの『終末期の赤い地球』と同じく久保書店からQ‐TブックスSFのシリーズの1冊、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』。シルヴァーバーグもヴァンスと同様に、ぼくがその作品をコンプリートに集めている作家や詩人のうちのひとりだ。すばらしい作家だが、この『10万光年の迷路』は、いわゆる、ニュー・シルヴァーバーグになるまえの習作のような感じのものだ。アイデアはあるが、文章というか、文体に、深みがない。暗喩も明楡も、めざましい才能を見せる場面はまだない。まだ50ページほどしか読んでいないのだが、それくらいは、この分量を読んだだけでもわかる。で、さっそく、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』中上 守訳の誤植 29ページ下段、うしろから1行目 「 が余分についている。35ページ下段、1、2行目「あなたは学問の世界ののわたした名声と地位を叩きこわそうとされた」 これは「世界でのわたしの名声と地位を」だろう。

二〇一七年五月二十五日 「継母」

 朝からいままで二度寝をしていた。継母が亡くなった夢を見た。とっくに亡くなっているのだけれど、よくできたひとで、とても気のいい継母だった。美術にも造詣が深くて、壁紙は黒で陶器製の白い天使の像を砕いて、翼だとか腕だとか足を影から突き出させるように壁に埋め込んだりしていたおしゃれなひとだった。ぼくの美観を父と共に培ってくれたのだった。その継母が亡くなる夢をみたのだった。とても悲しかった。ぼくに遺言があったみたいだけど、それが書かれた紙を読もうとしたら目が覚めた。じっさいに遺言はなくて、継母は癌で急死したのだった。手術後四日目に。手術しない方がぜったい長く生きていたと思う。まあ、気のいい、うつくしい継母だった。

 きょうは休みなので、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』を読もう。この久保書店のQ‐TブックスSFシリーズ、ぼくはあと1冊持っていて、A・E・ヴァン・ヴォークトの『ロボット宇宙船』だけど、このシリーズに入ってるSF作品のタイトルを見ると、びっくり仰天するよ。たとえば、こんなの、O・A・クラインの『火星の無法者』、デイヴィド・V・リードの『宇宙殺人』、ジョージ・ウエストンの『生殖能力測定器』、L・F・ジョーンズの『超人集団』、ジョージ・O・スミスの『太陽移動計画』、J・L・ミッチェルの『3万年のタイムスリップ』、C・E・メインの『同位元素人間』、L・M・ウィリアムズの『宇宙連邦捜査官』、W・タッカーの『アメリカ滅亡』、J・ウィリアムスンの『超人間製造者』、ジョージ・O・スミスの『地球発狂計画』、M・ジェイムスンの『西暦3000年』、アルジス・バドリスの『第3次大戦後のアメリカ大陸』、バット・ノランクの『戦略空軍破壊計画』、D・グリンネルの『時間の果て』、E・イオン・フリントの『死の王と生命の女王』、A・B・チャンドラーの『宇宙の海賊島』、アンドレ・ノートンの『崩壊した銀河文明』、E・ハミルトンの『最後の惑星船の謎』などである。この2級の品物くさいところがいいね。

二〇一七年五月二十六日 「トライラスとクレシダ」

 いま学校から帰ってきた。ああ、ビールが飲みたい! と思ったけれど、コーヒーを淹れてしまった。ビールは、あとでコンビニに買いに行こう。きょうは授業の空き時間と通勤時間に、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』のつづきを読んでいた。冒頭で、イエイツの詩の引用、いま読んでいるところでは、シェイクスピアのソネットの引用という、ぼく好みの小説だ。いや、ぼくの好みの詩が引用されている小説だ。イエイツの引用なんて、「ビザンチウムに船出して」だよ。高級中の高級の詩である。シェイクスピアのソネットの引用もよかった。これから原詩を読もうと思う。ソネットの18だった。小説のなかでの訳では、とりわけ、「すべての美はいつか、その美をそこなってゆく……」(中西信太郎訳)の部分が好きだ。「君を夏の日にたとえようか。」ではじまる有名なソネットだ。背中の本棚に、シェイクスピア詩集は見つかったのだが、ソネット集がない。別の本棚かな。よかった別の本棚にあった。岩波文庫から出たシェイクスピアの戯曲を集めた棚にあった。もちろん、岩波文庫から出たすべてのシェイクスピアの戯曲を集めているのだが、『トライラスとクレシダ』という岩波文庫ではまだ読んでいないものもある。シェイクスピアはすべて読んだが、なぜ、岩波文庫の『トライラスとクレシダ』がめちゃくちゃ分厚いのかは不明。小田島雄志の訳だと、ふつうの長さなんだけどね。岩波文庫の『トライラスとクレシダ』は、もう、ほんとに、ぼくの持ってる岩波文庫のなかで、いちばん分厚いんじゃないかと思う。あ、ナボコフの『青白い炎』も分厚いか。比べてみようかな。分厚さは同じくらい。物差しで測ってみよう。『トライラスとクレシダ』は22ミリ。ページ数は註を入れて345ページ。『青白い炎』は24ミリで、解説を入れて548ページである。ありゃ、『トライラスとクレシダ』の分厚さは、ページ数からきているというより、古さからきているのかもしれない。昭和二十四年八月二十五日印刷、同月三十日発行ってなってる。ハンコの圧してある小さな正方形の紙が奥付に貼ってある。もちろん、旧漢字の、旧仮名遣いの本である。めちゃくちゃ古書って感じのもの。初版のようである。ひさしぶりに、シェイクスピアの全戯曲の読み直しをしてもいいかもしれないな。この小さな正方形の紙、ハンコが押してあるもの、あ、ハンコは圧すか押すかどっちだったろう。ありゃ、捺すだった、笑。これって、なんていったかなあ。著者検印だったっけ? たしか検印って云ったと思うのだけれど、検印廃止になって、ひさしいのではなかったろうか。かわいいのにね。面倒なのかな。ネットで「検印紙」というので調べたら、「かつて書籍の奥付に著者が押印した貼ってあった。それぞれの出版専用のものがあり、この検印の数に基づいて印税が計算された。わが国独特の習慣。現在ではほとんど省略されている。」ってあった。さっきも書いたけれど、かわいらしいのにね。やればいいのに。

詩人は自分の声に耳を澄ます必要がある。

二〇一七年五月二十七日 「10万光年の迷路」

 起きた。コーヒー淹れて飲もう。きょうは0.5日の仕事の日だ。夕方から、先鋭的なアーティストの河村塔王さんと日知庵で飲むことになっている。楽しみ。

 いま学校から帰った。授業の空き時間と通勤時間で、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』を読み終わった。さすが、初期の、とはいっても、シルヴァーバーグである。ぼくにルーズリーフ作業をさせるところが6カ所あった。きょうは、疲れているので、このあと、ヴァン・ヴォークトのQ‐TブックスSFシリーズの1冊、『ロボット宇宙船』を読む。夕方から日知庵に。河村塔王さんと飲む。シルヴァーバーグのルーズリーフ作業は明日以降にすることに。

 いま帰ってきた。げろげろヨッパだす。おやすみ、グッジヨブ!

二〇一七年五月二十八日 「檸檬のお茶」

 もう、寝るね。ぼくのいまのPCのトップ画像、ある詩人が、ぼくのほっぺにチューしてくれてる画像だけど、まあ、なんて、いうか、ぜったい、そんなことしてくれそうにない詩人が、ぼくのほっぺにチューしてくれてる画像で、ぼくは、ここ数日間、毎日、いや、ここ一週間かな、見てニヤニヤしてるのだ。

 きのう河村塔王さんに、お茶をいただいたので、さっそく飲もう。このあいだは、花が咲くお茶だった。きょうのは、なんだろう。楽しみ。いただいたお茶、檸檬の良い香りが。味も、おいしい。

 ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』のルーズリーフ作業が終わった。これからお風呂に、それから河原町に、日知庵に飲みに行く。

 いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパだけど、読書でしめて寝る。寝るまえの読書は、ヴァン・ヴォークトの『ロボット宇宙船』。ヴァン・ヴォークトは、『非Aの世界』、『非Aの傀儡』、『スラン』が傑作だけど、『非A』シリーズ、第3部が出ているらしいので、はやく翻訳してほしいと切に望む。

二〇一七年五月二十九日 「潜在自我」

 いま起きた。北山に住んでたときの夢を見た。いまより本があって、いまも本だらけだけど、さらに本だらけで、どうしようもない部屋だったときのことを夢見てた。本から逃れられない生活をしている。いたのだな。きょうも晴れ。洗濯しようっと。

 けさ見た夢のなかで書いてた言葉。あんまり下品で、書かなかったことにしようか、考えたけれど、ぼくの潜在自我が書いたものだからねえ。起きてすぐメモしたもの。

脳内トイレ。
脳内トイレ。
ジャージャーと、おしっこする。
ジャージャーと、おしっこする。
そして、ジャーと、水を流す。
そして、ジャーと、水を流す。

 いま王将から帰ってきた。きょうは読書の一日。ヴァン・ヴォークトの『ロボット宇宙船』のつづきを読む。62ページまでに誤植が3カ所。ひどい校正だ。

 きょうは、一日中、読書してた。ちょっと休憩しよう。いま、ヴァン・ヴォークトの『ロボット宇宙船』192ページ。誤植またひとつあった。久保書店のこのQ‐TブックスSFのシリーズ、ちょっと誤植が多すぎないだろうか。まあ、活版の時代だから校正家だけの責任じゃないんだろうけどね。

 ヴォークトの『ロボット宇宙船』を読み終わった。読まなければよかったと思われるくらいのレベルのひどい作品だった。きょうは、ひきつづき、ヴァン・ヴォクトの『銀河帝国の創造』を読む。これも久保書店のものだ。ヴォクトは、やはり、ぼくのコンプリートに集めた作家のひとりだから読むのだが。タイトルからして、2級だってことがわかるものだけれど、ジャック・ヴァンスといい、やはり、ぼくがコンプリートに集めた作家だけのことはある。たとえ2級品の作品でも、なにか魅力は感じられる。さっきまで読んでた『ロボット宇宙船』なんて、いまの出版社なら、ぜったい出版しないだろう。ヴォクトの『銀河帝国の創造』(中上 守訳)5ページさいしょの文章、こんなのよ、笑。「「神々の子」は成長を遂げていた。紀元一万二千年ごろ、未開の血をまだとどめながら衰退期にさしかかったリン帝国の王家に歓迎されざるミュータントの子として生まれた彼は、(…)」 こんなの読むのね。

二〇一七年五月三十日 「銀河帝国の創造」

 ヴァン・ヴォクトの『銀河帝国の創造』105ページまで読んだ。タイトル通り、カスのようなお話。進化したリスが人類より発達した科学力で人類と戦っているのだ。なんちゅう話だろう。ヴァン・ヴォクト以外の人間が描いてたら、即刻、捨て去っていただろう。95ページにこんな言葉がある。「あなたは慎重すぎるのよ。人生は短いんだってこと、わかってないのね。恐がらずに、思いきってものごとに突っこんでいくべきだわ。わたしが人生で恐れるのはたったひとつ、何かを見のがしてしまうことよ。経験すべき何かを。生きているっていうたいせつな実感を……」(ヴァン・ヴォクト『銀河帝国の創造』11、中上 守訳、95ページ・1‐4行目)この見解には、ひじょうにうなずくところがある。ぼく自身が慎重すぎて、経験できなかったことが、いっぱいあるからである。若いころにね。20代後半から、つまり、詩や小説を読んだり書いたりしはじめてから大胆になったけれど、それは文学上のことで、実生活は平凡そのもの。それはいまも変わらず。

 高柳 誠さんから、詩集『放浪彗星通信』(書肆山田・二〇一七年五月初版第一刷)を送っていただいた。改行詩と散文詩との綴れ織り。改行詩は透明感が半端なく、その繰り出される詩行には、言葉の錬金術を目にするような印象を受けた。散文詩の部分はカルヴィーノの『レ・コスミコミケ』が髣髴された。

 韓国人の、かわいらしいおデブさんから、FB承認依頼がきたので、即刻、承認した。コントをしてらっしゃるサンドイッチマンのメガネをかけているかたにそっくり、笑。そいえば、ぼくは、あのサンドイッチマンというコントのかたたち、ゲイのカップルだと思ってたんだけど違ってたのかな。結婚したね。

 あと一時間、ヴァン・ヴォクトの『銀河帝国の創造』のつづきを読んだら、クスリのもう。進化したリスと人類との闘い。しかもリスの方が強いなんて、なんという設定だろうか。ふと、ドナルド・モフィットのかわいらしい表紙のSF小説が思い浮かんだ。未来の人類の敵はネズミが進化したものだった。

二〇一七年五月三十一日 「さらば ふるさとの惑星」

 ヴァン・ヴォクトの『銀河帝国の創造』を読み終わった。これといい、このまえに読んだ『ロボット宇宙船』といい、げんなりとするくらいの駄作だったのだが、『非Aの世界』と『非Aの傀儡』は、高校生時代に読んでびっくりした記憶があるのだけれど、初版の表紙の絵もいいしね。でも怖くて読み返せない。つぎに読むのは、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』。ホールドマンは、安心して読める作家の一人だ。まさか、ジャック・ヴァンスや、ヴァン・ヴォークトほど劣化していないと思うのだけれど、どだろ。むかしのSFって、ほんと差が激しい。ひとりの作家でもね。いまのも差が激しいか。

きょうも日知庵に行く予定。雨かな。


詩の日めくり 二〇一七年六月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年六月一日 「擬態」

 ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』ちょっと読んだ。ちょっと読んでも、ヴォクトの2冊の本よりはよいことがわかる。ヴォクト、非Aシリーズが傑作だった印象があるので、さいきん読んだヴォクト本にがっかりしたのは、自分でもずいぶんと驚いている。非Aシリーズを再読しないかも。

 人生において重要なのは、下手に勝つことよりも、いかに上手に負けるかである。うまく負けるのに、とびきり上等な頭が必要なわけではない。適度な考える力と、少々の思いやりのこころがありさえすればよい。ただ、この少々の思いやりのこころを持つというのが、人間の大きさと深さを表しているのだが。

 休みの日は、だらだらと寝ているか、小説を読んだり、ときには詩集をひもといたりしているか、まあ、自堕落な時の過ごし方をしているが、いま読んでいるジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』は読みごたえがある。ホールドマンの作品は、一作をのぞいて、すべて傑作だったと思う。

 その一作って、タイトルも忘れてしまったけれど、ほかの作品は、みな傑作であった。その一作は、文庫にもならなかったもので、といえば、この『さらば ふるさとの惑星』も文庫化していないけれど、その一作も叙述はしっかりしていたし、おもしろくなかったわけでもないけれど、さいごの場面が安易で、ぼくの本棚に残しておく価値はないと判断したのであった。まあ、このあいだ読んでた、二冊のヴァン・ヴォクト本に比べれば、読み応えがあったけれども。いま読んでる『さらば ふるさとの惑星』って上下二段組みなので、字がびっしりって感じで、今週中に読み終えられるかどうかってところ。どだろ。

 そろそろクスリをのんで眠りにつく。寝るまえの読書も、ひきつづき、ジョー・ホールドマンにする。サリンジャーの短篇集『倒錯の森』も寝具の横に置いてあるのだけれど、なかなかつづきを読む気が起こらない。まあ、そのうち、SFにまた飽きたら、純文学にも手を出すだろうとは思うのだが。おやすみ。

 うわ〜。大雨が突然、降りはじめた。雷も鳴っている。ただ一つ、えいちゃんの仕事帰りが心配。それにしても、きつい雨の音。すさまじい勢いだ。急いでベランダにある干し物を取り入れた。雨は浄罪のシンボルだけれど、さいきん罪を犯した記憶はないので、過去の自分の過失について思いを馳せた。

 クスリがまだ効かない。雨が小降りになってきた。ジョー・ホールドマンも、ぼくがコンプリートに集めた作家や詩人のひとりだが、最高傑作は、『終わりなき平和』だろう。ぼくが、手放したホールドマンの本は『擬態』だった。叙述は正確そのものだったのだが、さいごの場面がなぜかしら安易だったのだ。

二〇一七年六月二日 「さらば ふるさとの惑星」

ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』半分くらい読んだ。だんだん政治的な話になっていくところが、ホールドマンらしい。つづきを読もう。

あした午前に仕事があるので、お酒が飲めず、あてだけを食べている、笑。焼き鳥、枝豆、にぎり寿司。

 きょうも一日、楽しかった。いろいろあるけれど、ぜんぶのみ込んじゃって、楽しめるようになったかな。これからクスリのんで寝る。といっても、一時間近く、眠れないで読書するだろうけれど。ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』付箋だらけ。やっぱり、ホールドマンの言葉は深い。

二〇一七年六月三日 「さらば ふるさとの惑星」

仕事に。きょうは、夕方から日知庵で飲む予定。

いったん仕事から帰ってきて、読書のつづきをしている。夕方にお風呂に入って、日知庵に飲みに行く予定。

いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパ〜。いまからFB、文学極道の詩投稿掲示板を見に行ってくる。

 きょうも、寝るまえの読書は、ジョー・ホールドマン。やっぱり哲学があって、叙述力がある作家だと思う。『擬態』はよくなかったけれどね。叙述力はあっても、さいごの場面が安易すぎた。残念。それ一作以外、みな傑作なのに。

 クスリのんで横になる。横になって、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のつづきを読む。これって、Amazon で見たら、200円台で売ってるんだよね。びっくり。よい作品が安い値段で出てるってのは、ぼくはよいことだと思う。

二〇一七年六月四日 「さらば ふるさとの惑星」

 きょうは、昼に大谷良太くんとビールを飲んで、夕方から日知庵でビールを飲んで、文学をまったくしていなかったので、きょうは、これから寝るまで、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のつづきを読む。いま199ページ。あと65ページある。読み切れないだろうけれど、がんばる。

二〇一七年六月五日 「さらば ふるさとの惑星」

 ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』を読み終わった。あしたの昼に、ルーズリーフ作業をしよう。ぜんぶでメモした箇所が13カ所。あまり、いい数字じゃないな、笑。でも、こころをこめて、ていねいにルーズリーフに書き写すことによって、きっとぼくの潜在自我が吸収してくれると思う。

 クスリのんで寝ます。あしたは笹原玉子さんと、笹原玉子さんが連れてこられるゲストの方(まだお名前を教えていただいていない)と、3人で、夕方5時に、きみやで食事をすることになっている。3人の平均年齢が、およそ70歳くらいなのだ。どんな会話になりますことか、チョー楽しみにしています。

 寝るまえの読書は、ひさびさに、サリンジャーの短篇集『倒錯の森』のつづきから。

二〇一七年六月六日 「笹原玉子さん」

 いま起きた。休みの日は、たいていこの時間くらいに起きだす。さて、コーヒーとサンドイッチでも買ってお昼を食べてから、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のルーズリーフ作業をしよう。夕方からは笹原玉子さんたちと河原町で食事だ。

 ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のルーズリーフ作業が終わったので、あと一時間ほど、サリンジャーの短篇集『倒錯の森』のつづきを読もう。まだ2篇目だけれど。

 いまから河原町へ。平均年齢70歳の3人が、めっちゃモダンな居酒屋さんへ。きみやヘ、ゴー!

 いま、きみやから帰ってきた。笹原玉子さんと、お酒を飲んでいた。もうおひとりの方は来られなかった。文学の話をいっぱいして楽しかった。京都に来られたのが、じつは彼女の玲瓏賞の授賞式だったからだと聞いて、喜んだ。

 帰りに、西院駅のまえのビルの2階にある「あおい書店」で、文庫本を3冊買った。ハーラン・エリスンの『死の鳥』と『ヒトラーの描いた薔薇』と、ロバート・F・ヤングの『時をとめた少女』である。エリスンの『死の鳥』は、出たときにも買ったのだが、さいしょの2篇があまりにも駄作だったので、破り捨てたのだけれど、あとで、タイトル作が名作だと聞いて、そのうち、買い直そうと思っていたもの。『ヒトラーの描いた薔薇』は、いま出たとこなのかな。平積みされていたので買った。ヤングはもう仕方ないね。買って読んで捨てるってパターンの作家だな。でも、いちおう全作、読んでるんだな。

 きょうは寝るまで、ヤングの短篇集『時をとめた少女』を読もうと思う。

 ヤングの短篇集『時をとめた少女』を91ページまで読んだ。わくわく感はない。安定した叙述力は感じるが、ただそれだけだ。しかし、せっかく買った、ひさしぶりの新刊本なのだから、さいごまで読もうとは思う。木曜日までには読み終えて、ハーラン・エリスンの『ヒトラーの描いた薔薇」を読みたい。

二〇一七年六月七日 「時をとめた少女」

 ロバート・F・ヤングの短篇集『時をとめた少女』を読み終わった。ヤングらしくないさいごの2篇がよかった。とくに、さいごに収録されている「約束の惑星」はさいごのどんでん返しに感心した。冒頭の「わが愛はひとつ」はいつものヤング節かな。「妖精の棲む樹」と「花崗岩の女神」は同様の設定だったが、こういう方向もあったのだと、ヤングを見直した。短篇集として、『時をとめた少女』は、5点満点で3点というところか。まあ、普通だったかな。でも、一か所、ぼくが死ぬまでコレクションしつづけるであろう詩句を、「花崗岩の女神」IIのなかに見つけた。ひさびさのことで、ちょこっと、うれしい。

「きみの名前は?」(ロバート・F・ヤング『花崗岩の女神』II、岡部宏之訳、短篇集『時をとめた少女』174ページ・5行目)

しかし、このヤングの短篇集の『時をとめた少女』の表紙、どうにかならんか、笑。

 いま日知庵から帰ってきた。きょうから、ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』を読む。きょうは、解説だけかな。

二〇一七年六月八日 「ヒトラーの描いた薔薇」

いま起きた。休みの日はこんなもの。読書しよう。ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』。

 きょうは、ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』を読んでいた。いま、236ページ。読書疲れだろうか。目がしばしばする。もうちょっと読んだら、クスリのんで寝よう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年六月九日 「法橋太郎さん」

 ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』を読み終わった。5点満点中3点といったところか。まあ、同じ3点でも、ロバート・F・ヤングの短篇集『時をとめた少女』より、おもしろくは思えたけれども。

 いま目次見て、どれがおもしろかったか、書こうとして、半分くらい話を憶えていないことに気がついて、すごい忘却力だと思った。まあ、おもしろいと思ったのは、「解消日」、「大理石の上に」、「睡眠時の夢の効用」くらいかな。

 きょう、ブックオフで、108円だからという理由だけでほとんどだけど、2冊、買った。創元SF文庫から出てるジェフ・カールソンの『凍りついた空━エウロパ2113━』と、創元推理文庫から出てるピーター・ヘイニング編の短編推理アンソロジー『ディナーで殺人を』下巻。下巻がおもしろかったら、Amazon で上巻を買おう。いくら本を処分しても、本が増えていく。不思議ではないけれど、そういう病気なのだろうと思う。まあ、読書が生きがいだから、仕方ないけどね。

 帰ってきたら、郵便受けに、法橋太郎さんから詩集『永遠の塔』を送っていただいていた。表紙の絵がいいなと思ったら、装幀がご本人によるものだった。冒頭の詩「風の記憶」にある「死ぬまで爪を切りつづける。」という詩句に目がとまる。つぎつぎと収録作を読んでいく。「幻の群猿」という詩を読むと、「四方に網を掛けた。執着の網を掛けた。猿の類がかかった。おれもまたそうだったが、執着の曲がった視線でしかものを見られない猿たちがいるのだ。」という冒頭の詩句に目がとまった。「死ぬまで爪を切りつづける。」という詩句の具象性と、「四方に〜」という詩句における抽象性と、詩人というものは両極を行ったり来たりする存在なのだなと思った。現在のぼくは、ひたすら具象性を追求する方向で作品を書いているのだが、法橋太郎さんの書かれた詩句のような抽象性も持たなければいけないなと思った。

二〇一七年六月十日 「武田 肇さん」

 日知庵から帰ってきて、郵便受けを見ると、武田 肇さんから、自撰句集『ドミタス第一號』を送っていただいてた。ぼくの好みは、「雲はいつの雲にもあらず雲に似る」、「形あるものみな春ををはりけり」、「足のうら足をはなれてはるのくれ」といった句である。ひとは自分に似たものを好むというアリストテレスの言葉を思い出した。ぼくには、ここまで圧縮できないと思うけれど、自分が考えていることに近いというか、そんな気がする句が好きなようだ。俳句というのは、世界でもっとも短い詩の定型詩だと思うけれど、そこで残るような作品をつくることは、ほんとうにむずかしいことだと思う。むかし集中して俳句を勉強したけれど、いまでも、すっと記憶に出てくるものは10句もない。ルーズリーフに書き写している俳句も200句か300句ほどしかないと思う。武田 肇さんの俳句を味わいつつ、俳句そのものの形式について考えさせられた。ぼくが書くには極めて圧縮された形式でむずかしい。

 武田 肇さんの俳句を読み終わったので、きょうの残った時間は、ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』のつづきを読んで寝よう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年六月十一日 「死の鳥」

 ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』を読み終わった。SFって感じがあまりしなかった。どちらかといえば、幻想文学かな。よいなと思った作品は、「ジェフティは五つ」と「ソフト・モンキー」。「ソフト・モンキー」はまったくSFとは無縁の作品。それはもう幻想文学でもない、普通の小説だった。アイデアとしては、未来人との絡みで、ジャック・ザ・リッパーを扱った「世界の縁にたつ都市をさまよう者」が印象的だったかな。あと、「プリティ・マギー・マネーアイズ」も印象に残ったかな。タイトル作の「死の鳥」はまったく意味がわからなかった。「「悔い改めよ、ハーレクイン!」とチクタクマンはいった」と「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」は、以前に読んだ記憶がある。どちらも古いSFを読み直しているような気がしたが、前者がオーウェルの『1984年』や、ザミャーチンの『われら』に通じるものだったという記憶がなかったので、そこは意外だった。後者の記憶はほとんどなかったのだが、なんだか、エリック・F・ラッセルか、クリフォード・シマックの短篇を読んだかのような読後感を持ってしまった。まあ、いずれにしても、50年代のSFって感じだった。でも、いま解説を読むと、前者は1965年に、後者は1967年に発表されたものだった。ぼくの1950年代のSF感が間違っているのかもしれない。河出文庫から出ている年代別の短篇SFアンソロジーで調べてみよう。『20世紀SF(2) 1950年代 初めの終わり』と『20世紀SF(3) 1960年代 砂の檻』の目次を見比べた。そうだな。やはり、エリスンのは50年代のほうに近いかなと思った。1960年代は、SFにおいては、ニュー・ウェイヴの時代だものね。短篇集のタイトル作品がニュー・ウェイヴっぽいかなと思ったけれど、ぼくには意味不明の作品だった。2つの話を一つにしたってだけの感じしかしなかった。幻想文学の諸知識と安楽死というものを無理に一つにした小説だね。

二〇一七年六月十二日 「潜在自我」

 きょうはずっと読書している。ときどき、コーヒーを淹れるくらい。ぼくの人生、あとどのくらい本が読めるのだろうか。まだまだたくさんの未読の本が棚にある。それでも、新刊本も買うし、ブックオフで読んでいない古いものも買う。ぼくが本に投資しているのと同様に、本もぼくに投資してくれてのかしら。

 まあ、全行引用詩に貢献してくれているし、なにより、ぼくの潜在自我や建材自我の形成に大きく寄与しているだろうから、ぜんぜん無駄ではないね。しかし、傑作は多いけれど、ゲーテの『ファウスト』やシェイクスピア級の傑作は、それほど多くない。とはいっても、SFで20作くらいはありそうだけど。

二〇一七年六月十三日 「凍りついた空━エウロパ2113━」

 きょう、一日かかって、ジェフ・カールソンの『凍りついた空━エウロパ2113━』を読んでいたのだが、で、いま読み終わったのだが、26ページの記述から以後の記述とのつながりがいっさいなくて、さいごまで読んだのに、なんだか騙されたかのような気がした。作者のミスだと思うが、話の筋自体に、整合性のないものは、いくらSF小説とはいっても許されるべきものではないと思われるのだが、いかがなものであろうか。不条理小説ではなく、どちらかといえば、ハードSFに分類されるような専門用語と設定で押しまくられて、さいしょの疑問がどこでも解かれていないなんて、ひどい話だと思う。ぼくが読んだ長篇SFのなかで、いちばんひどかったのではないかと思う。ちなみに、ぼくの記憶は都合がよくできていて、ひどいものは忘れるのがはやいので、これ以外に、ひどい長篇SFをいま思い出すことはできないのだけれど。というのも、いま部屋の本棚にあるものは傑作ばかりなので思い出せない。しかし、このSF小説のカヴァーはひどいね。芸術的なところが、いっさいないのだね。まあ、さいきんのハヤカワ、創元のSF文庫の表紙の出来の悪さは、経費削減のためなのか、あまりにシロート臭くてひどいシロモノばかりだ。

 今晩から、ピーター・ヘイニング編の短篇ミステリーのアンソロジー『ディナーで殺人を』下巻を読む。でももう、きょうは、だいぶ、遅いね。クスリをのんで横になって読もう。12時半くらいには寝たいのだが、どこまで読めるだろうか。さっき、『凍りついた空』読み直ししたけど、やっぱりひどいわ。

二〇一七年六月十四日 「風邪」

 いま学校から帰った。風邪を引いたみたいだ。咳がするし、熱もある。きょうは、このまま横になって寝ておくことにする。

二〇一七年六月十五日 「風邪」

 風邪がひどい。風邪クスリのんでずっと寝てる。

二〇一七年六月十六日 「風邪」

 風邪がよりひどい。きのう、きょうと、学校の授業がなかったので、ずっと部屋で寝込んでいる。あした午前に、一時間の授業があるので、そこをどうやりくりするかである。声が出なかった場合、どうするか。むずかしい。やっぱり、仕事は体力がいちばん大切だなと実感している。いまも熱で朦朧としている。風邪にはよくないと思いながらも、横になって読書をしていた。ピーター・ヘイニング編の短篇推理小説アンソロジー『ディナーで殺人を』下巻の315ページを読んでいたら、ぼくがコレクトしている言葉にぶちあたった。「きみの名前は?」(レックス・スタウト『ポイズン・ア・ラ・カルト』小尾芙佐訳)

 短編推理小説のアンソロジー『ディナーで殺人を』下巻を読み終わった。風邪がひどい状態なので、頭痛がしつつも、痛みが緩慢なときに、ここ数日、読んでいた。つぎには、なにを読もうか。きょうは、もうクスリをのんで寝るけれど、寝るまえの読書はサリンジャーの短篇集『倒錯の森』のつづきにしよう。

二〇一七年六月十七日 「澤 あづささん」

澤 あづささんが、ブログで、拙作『語の受容と解釈の性差について━━ディキンスンとホイットマン』を紹介してくださっています。

二〇一七年六月十八日 「グリーン・マン」

 いま日知庵から帰った。きょうは5時から、日知庵に、9時すぎに、きみやに、また10時30分ころに、日知庵に飲みに行ってた。風邪でめまいもしてたけれど、風邪などお酒で吹き飛ばしてやれという気で飲みに行った。いま、めまいがしながらも、いい感じである。風邪はたぶんひどいままだろうけれど。

 で、一回目の日知庵では、大谷良太くんと出会い、二回目の日知庵では、東京にいらっしゃってて、京都に来られたとき、たまたま横でお話させていただいただけなのに、目のまえで、Amazon で、ぼくが2014年に思潮社オンデマンドから出した詩集『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』と、『全行引用詩・五部作』上巻を、即、買ってくださった方とお会いしたのであった。大谷良太くんとも、そうだし、その方とも、そうだけど、なにか運命のようなものを感じる。まあ、勝手に感じてろって自分でも思うところはあるのだけれど、笑。出会いと人間関係なんて、どこで、どうなるか、わかんないものね。

 きょう、寝るまえの読書は、キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』。どこがSFなのか、まだ26ページ目だけれど、さっぱり、わからない。居酒屋けん宿屋の主人の一人称形式の物語。幽霊の話が出てくるのだけれど、ブライアン・W・オールディスが、この作品をベタ褒めしていた記憶があって、エイミスといえば、サンリオSF文庫の『去勢』や、彼は詩人でもあって、アンソロジストでもあるのだけれど、彼が編んだ『LIGHT VERSE』を思い出す。お酒の本も出してたと思うけれど、手放してしまった。キングズリイ・エイミスもゲイだったのだけれど、『LIGHT VERSE』にも、ゲイの詩人やレズビアンの詩人のもので、おもしろいものがたくさんあったと記憶しているのだけれど、そいえば、さいきん、英詩を翻訳してないな。

 あかん。まだ熱がある。咽喉も痛い。クスリのんで横になろう。あしたは、神経科医院に行く日。3時間待ちか。しんどいな。仕方ないけど。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年六月十九日 「自費出版」

 いま神経科医院から帰ってきた。きょうは、もう横になって、風邪の治りを待つだけ。エイミスの『グリーン・マン』いま80ページほど。ていねいな描写なので、疲れない。P・D・ジェイムズのようなていねいさではない。彼女のていねいさは狂気の域に達している。まあ、ぼくはぜんぶ読んだけど、天才。

 キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』 いま152ページ。これって、SFじゃなくて、幽霊話なんだね。しかも、主人公が人妻と浮気して、自分の妻との3人でのセックスの提案をしつづけていたりという、エロチック・怪奇小説って感じ。エイミスって、一流の作家だと思っていたので、びっくり。まあ、いま書いて自分の意見を否定するのだけれど、そんな題材で小説が書けるのだと、いまさらながら気が付けさせられた。そういう意味では、ぼくも死ぬまでに書きたい小説があって、そろそろ手をつけるときかなって思っているのだけれど、構想だけにすでに数年の時間を費やしている。

 チューブで、ホール・マッカートニーのトリビュートを見てたんだけど、まえのアメリカの大統領と同席して、ポール自身が見てたんだけど、ポールが一瞬のあいだも見逃さないようにステージを見つめてたとこに、なんだか、こころにぐっとくるものがあった。音楽で食べてるひとたちもいる。あきらめたひとたちもいる。ぼくも結局、詩集を出すのに1500万円くらいかけたけれど、1円も手にしていない。ほんとうに趣味なのだ。しかも、これからさきも死ぬまで1円も手にしないだろう。永遠のシロートである。しかし、詩人はそんなものであってもよいと思っている。むしろお金を儲けない方がよいとすら思っている。ほかにきちんと仕事を持っているほうが健全だと思っている。賞にもいっさい応募しないので、だれにおもねることもない。献本もしないので、ぼくの詩集を持っているひとは、みな、ぼくの詩集を買ってくださった方だけである。このきわめて健全な状態は、死ぬまで維持していきたいと思っている。

二〇一七年六月二十日 「エヴァが目ざめるとき」

 ピーター・ディキンソンの『エヴァが目ざめるとき』を読み終わった。彼の作品にしては、毒がないというか、インパクトがないというか、それほどおもしろい作品ではなかった。亡くなりかけた娘の記憶を猿に記憶させて云々というゲテモノじみた設定の物語ではあるが、児童書のような印象を持った。

二〇一七年六月二十一日 「源氏の気持ち」

 源氏の気持ちのなかには、奇妙なところがあって、衛門督の子を産んだ二条の宮にも、また衛門督にも、憎しみよりも愛情をより多くもっていたようである。いや、奇妙なことはないのかもしれない。人間のこころの模様は、このように一様なものではなく、同じ光のもとでも、さまざまな色とよりを見せるものであろうし、まして、違った光のもとでなら、まったく異なった色やよりを見せるものなのであろう。源氏物語の「柏木」における多様な性格描写が、ぼくにそんなことを、ふと思い起こさせた。

二〇一七年六月二十二日 「まだ風邪」

 いま日知庵から帰った。風邪、まだ直っていないが、という話を日知庵でしたら、お友だちから、「肝臓がアルコールを先に処理するので、風邪を治すのはあとになるよ。風邪を治すのにお酒はよくないよ。」と言われて、ひゃ〜、そうやったんや。と思うほど、身体の生理機能について無知なぼくやった。Tさん、貴重な情報、ありがとうございました。きょうは焼酎のロック2杯でした。2杯で、ベロンベロンのぼくですが。うううん。寝るまえの読書は、キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』あとちょっと。きょうじゅうか、あしたのうちには読み切れる。さいご、どうなるか楽しみ。幽霊話だけどね。

 キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』を読み終わった。読む価値は、あまりなかったようなシロモノだった。ブライアン・オールディスは絶賛していたけれど、どこがよかったのだろう。よくわからず。まあ、さいごまで読めたので、叙述力はあったと思うのだけれど、そこしかなかったような気もする。

 ここ連続、あまりおもしろくない本を読んでいたので、ここらで、おもしろい本と出くわしたいのだけれど、どうだろうね。

二〇一七年六月二十三日 「敵」

敵だと思っている
前の職場のやつらと仲直りして
部屋飲みしていた。
膝が痛いので
きょうは雨だなと言うと
やつらのひとりに
もう降っているよと言われて
窓を開けたら
雨が降っていたしみがアスファルトに。
でも雨は降っていなかった。
膝の痛みをやわらげるために
ひざをさすっていると
目が覚めた。
窓を開けると
いまにも降りそうだった。
この日記を書いている途中で
ゆるく雨の降る音がしてきた。

二〇一七年六月二十四日 「双生児」

 きょうは、食事をすることも忘れて、一日じゅう読書をしていた。いまから寝るまでも、本を読むつもりだけれど。これまた、ぼくがコンプリートに集めた作家、クリストファー・プリーストの『双生児』本文497ページの、とても分厚い単行本なので、今週ちゅうに読み終えられればいいのだけれど。

二〇一七年六月二十五日 「いっこうに治らない風邪」

いっこうに風邪が治らず、きょうは読書もせず、ずっと寝ていた。あしたは、ちょっとは、ましになってるかな。

二〇一七年六月二十六日 「秋山基夫さん」

 秋山基夫さんから『月光浮遊抄』を送っていただいた。いま自分が来年に出す詩集の編集をしていて、『源氏物語』を多々引用しているためか、秋山さんの詩句に『源氏物語』の雰囲気を重ねて読ませていただいていた。そのうえで、送っていただいたご本の第二次世界大戦時の記述が混じって、その違和感がおもしろかった。

二〇一七年六月二十七日 「若菜」

(…)院も時々扇(おうぎ)を鳴らしてお加えになるお声が昔よりもまたおもしろく思われた。すこし無技巧的におなりになったようである。
              (紫式部『源氏物語』若菜(下)、与謝野晶子訳)

無技巧的になって、おもしろく思われる。
ではなくて
おもしろく思われるのも、無技巧的になったからか。
というのである。
コクトーも、うまくなってはいけないと書いていた。
コクトーは技巧を凝らした初期の自作を全集からはずしたが
ぼくも、自分の技巧的な作品は、好きじゃない。
自然発生的なものしか、いまのぼくの目にはおもしろくないから。

二〇一七年六月二十八日 「日付のないメモに書いた詩」

職員室で
あれは、夏休みまえだったから
たぶん、ことしの6月あたりだと思うのだけれど
斜め前に坐ってらっしゃった岸田先生が
「先生は、P・D・ジェイムズをお読みになったことがございますか?」
とおっしゃったので、いいえ、とお返事差し上げると
机越しにさっと身を乗り出されて、ぼくに、1冊の文庫本を手渡されたのだった。
「ぜひ、お読みになってください。」
いつもの輝く知性にあふれた笑顔で、そうおっしゃったのだった。
ぼくが受け取った文庫本には、
『ナイチンゲールの屍衣』というタイトルがついていた。
帰りの電車のなかで読みはじめたのだが
情景描写がとにかく細かくて
またそれが的確で鮮明な印象を与えるものだったのだが
J・G・バラードの最良の作品に匹敵するくらいに精密に映像を喚起させる
そのすぐれた描写の連続に、たちまち魅了されていったのであった。
あれから半年近くになるが
きょうも、もう7、8冊めだと思うが
ジェイムズの『皮膚の下の頭蓋骨』を読んでいて
読みすすめるのがもったいないぐらいにすばらしい
情景描写と人物造形の力に圧倒されていたのであった。
彼女の小説は、手に入れるのが、それほど困難ではなく
しかも安く手に入るものが多く、
ぼくもあと1冊でコンプリートである。
いちばん古書値の高いものをまだ入手していないのだが
『神学校の死』というタイトルのもので
それでも、2000円ほどである。
彼女の小説の多くを、100円から200円で手に入れた。
平均しても、せいぜい、300円から400円といったところだろう。
送料のほうが高いことが、しばしばだった。
いちばんうれしかったのは
105円でブックオフで
『策謀と欲望』を手に入れたときだろうか。
それを手に入れる前日か前々日に
居眠りしていて
ヤフオクで落札し忘れていたものだったからである。
そのときの金額が、100円だっただろうか。
いまでは、その金額でヤフオクに出てはいないが
きっと、ぼくが眠っているあいだに、だれかが落札したのだろうけれど
送料なしで、ぼくは、まっさらに近いよい状態の『策謀と欲望』を
105円で手に入れることができて
その日は、上機嫌で、自転車に乗りまわっていたのであった。
6時間近く、通ったことのない道を自転車を走らせながら
何軒かの大型古書店をまわっていたのであった。
きょうは、昼間、長時間にわたって居眠りしていたので
これから読書をしようと思っている。
もちろん、『皮膚の下の頭蓋骨』のつづきを。
岸田先生が、なぜ、ぼくに、ジェイムズの本を紹介してくださったのか
お聞きしたことがあった。
そのとき、こうお返事くださったことを記憶している。
「きっと、お好きになられると思ったのですよ。」
もうじき、50歳にぼくはなるのだけれど
この齢でジェイムズの本に出合ってよかったと思う。
ジェイムズの描写力を味わえるのは
ある年齢を超えないと無理なような気がするのだ。
偶然。
さまざまな偶然が、ぼくを魅了してきた。
これからも、さまざまな偶然が、ぼくを魅了するだろう。
偶然。
さまざまな偶然が、ぼくをつくってきた。
これからも、さまざまな偶然が、ぼくをつくるだろう。
若いときには、齢をとるということは
才能を減少させることだと思い込んでいた。
記憶力が減少して、みじめな思いをすると思っていた。
見かけが悪くなり、もてなくなると思っていた。
どれも間違っていた。
頭はより冴えて
さまざまな記憶を結びつけ
見かけは、もう性欲をものともしないものとなり
やってくる多くの偶然に対して
それを受け止めるだけの能力を身につけることができたのだった。
長く生きること。
むかしは、そのことに意義を見いだせなかった。
いまは
長く生きていくことで
どれだけ多くの偶然を引き寄せ
自分のものにしていくかと
興味しんしんである。
読書を再開しよう。
読書のなかにある偶然もまた
ぼくを変える力があるのだ。

二〇一七年六月二十九日 「『ブヴァールとペキュシェ』フロベール 全3巻 岩波文庫」

欲しい本で、まだ買ってなかったもの。
ヤフオクで、落札価格1900円+送料320円
到着するのが楽しみ。

いま全行引用の長篇の作品をつくろうとしているのだけれど
それを、それの数倍の長さの長篇作品の最後に置くアイデアが
じつは、フロベールの『ブヴァールとペキュシェ』からだった。

全行引用の長篇の作品とは
「不思議の国のアリスとクマのプーさんの物語。」
のことである。

来年度中には完成させたい。
きょうは、ひさびさにエリオットを手にして
寝床につこうと思う。

じゃあ、行こうか、きみとぼくと、
薄暮が空に広がって
手術台の上の麻酔患者のように見えるとき。
                       (岩崎宗治訳)

後日談

大失敗、かな、笑。
ネットで検索していて
「ブヴァールとペキュシェ」が品切れだったと思って
何日か前にヤフオクで全3巻1900円で買ったのだけれど
きょう、『紋切型辞典』を買いにジュンク堂によって
本棚を見たら、『ブヴァールとペキュシェ』が置いてあったのだった、笑。
ううううん。
560円、500円、460円だから
新品の方が安かったわけね。
日知庵に寄って、バカしたよ〜
と言いまくり。
ネット検索では、品切れだったのにぃ、涙。
ひさびさのフロベール体験。
どきどき。
きょうは、これからお風呂。
あがったら、『紋切型辞典』をパラパラしよう。


このあいだ、ヤフオクで買ったの
届いてた。
ヤケあるじゃん!
ショック。


いまネットの古書店で見たら
4200円とかになってるしな〜
思い違いするよな〜
もうな〜
足を使って調べるということも
必要なのかな。
ネット万能ではないのですね。
しみじみ。
古書は、しかし、むかしと違って
ほんとうに欲しければ、ほとんどすぐに手に入る時代になりました。
古書好きにとっては、よい時代です。
こんなスカタンなことも
ときには、いいクスリになるのかもしれません、笑。
前向き。

二〇一七年六月三十日 「岡田 響さん」

 岡田 響さんから、散文詩集『幼年頌」を送っていただいた。300篇の言葉についての緻密な哲学、といった趣と、言葉にまつわる自身の経験的な非哲学の融合、といったところが、同時に感じられるが、質的にだけではなく、量的にも圧倒される。このような作品を書くことの困難さについて思いを馳せた。

二〇一七年六月三十一日 「杉中昌樹さん」

 杉中昌樹さんから、詩論集『野村喜和夫の詩』を送っていただいた。ひとりの詩人による、もうひとりの詩人の詩の詳細な解説である。これは書かれた詩人にとっても書いた詩人にとっても、僥倖なのであろう。しかし、もしも、自分の詩が、ひとりの詩人によって徹底的に解説されたらと思うと、おそろしい。


詩の日めくり 二〇一七年七月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年七月一日 「双生児」

 いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパである。寝るまえの読書は、ここ数日間、読みつづけている、クリストファー・プリーストの『双生児』である。いま、ちょうど半分を切った267ページ目に入るところである。作者に騙された感じのあるところである。緻密なトリックを見破れるだろうか。

二〇一七年七月二日 「すごい眠気」

いま日知庵から帰ってきた。きょうはずっと寝てたけど、これから横になって寝るつもり。おやすみ。眠気のすごい時節だ。

二〇一七年七月三日 「双生児」

 クリストファー・プリーストの『双生児』を読み終わった。歴史改変SFというか、幻想文学というか、その中間という感じのものだった。プリーストのものも、けっきょく、全作、日本語になったものは読んでしまったことになるのだが、記述が緻密なだけに読みにくく、おもしろさもあまりない。では、なぜ、そんなプリーストのものを読みつづけてきたのかといえば、イギリス作家特有の情景描写の巧みさから、学べるものがあるだろうと思っているからだ。

二〇一七年七月四日 「左まわりのねじ」

 いま日知庵から帰ってきた。あしたは台風なんやね。ぼくは夕方からだけ仕事なので、どかな。影響あるかな。きのう、寝るまえに、A・バートラム・チャンドラーの『左まわりのねじ』を、サンリオSF文庫の『ベストSF 1』で読み直した。記憶していたものより複雑なストーリーだった。寝るまえに、スカッとさわやかなものを読もうと思ったのだけれど、けっこう凝ったストーリーだった。記憶していたものは、とても短くて、あっさりした、それでいて、びっくりさせてくれるものだったので、けっこう複雑なストーリーで驚いた。記憶って、頼りにならないものなんだね。びっくり。

きょうも、この『ベストSF 1』のなかから、ひとつ選んで読んで寝よう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年七月五日 「荒木時彦くん」

 荒木時彦くんが『NOTE 001』を送ってくれた。自殺の話のはじまりから死について、それから人生について書かれてあった。さいしょのページを除くと、うなずくところが多くあった。ぼくは自殺を否定しない派の人間だから、さいしょにつまずいた。荒木くんも作品で否定しているだけだろうけれど。完璧な構成だった。唐突なキャラの出現と行動もおもしろい。さいごの場面の建物と歴史のところは、はかない命をもつ人間に対する皮肉というか、その対比も、ひじょうにうまいなと思った。荒木時彦という詩人の書くものが、どこまで進化するのか、見届けてみたいと思う。齢とってるぼくが先に死ぬだろうけど。

 きょうから読書は、レムの『宇宙飛行士ピルクス物語』。レムは、おもしろいものと、そうでないものとの差が激しいので、心配なのだが、これは、どうだろう。部屋にある未読の本が少なくなってきた。あと、パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』と、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』と、マイリンクの『ゴーレム』と、ルーセルの『ロクス・ソルス』と、サリンジャーの短篇集の『倒錯の森』のつづきだけになった。これらを、たぶん、ことしじゅうに読み終えられるだろうけれど、そのあとは、再読していいと思っている作品群に手をつける。それが楽しみだ。寝るまえにSFの短篇を読み直しているのだけれど、そういった読書の楽しみと、それと、海外詩の翻訳の読み直しを大いに楽しみたいと思っている。とくに、ディラン・トマスの書簡集の読み直しの期待が大きい。英詩の翻訳も再開したい。ロバート・フロストの単語調べが終わってる英詩が4作ある。なかなか気力がつづかないぼくであった。

 そだ。シェイクスピアやゲーテの読み直しもしたいし、長篇SFの再読もしたい。未読の本もまだあった。オールディスの『寄港地のない船』と、グレアム=スミスの『高慢と偏見とゾンビ』と、レムの『ロボット物語』と『宇宙創世記ロボットの旅』(これら2冊は読んだ可能性がある。わからないけれど)。ミステリーは、アンソロジー以外、P・D・ジェイムズの『高慢と偏見と殺人』しか本棚に残していない。詩を除くと、純文学は、岩波文庫以外、ラテンアメリカ文学しか残していない。SFが数多く残っている。これらの再読が楽しみだ。読んで、10年、20年、30年といった本がほとんどだ。読むぼくが変わっているはずだから、傑作として、本棚に残した数多くの本が、また新しい刺激を与えてくれると思う。56歳。若いときとは異なる目で作品を見ることになる。作品もまた、異なる目でぼくを見ることになるということだ。楽しみだ。

二〇一七年七月六日 「ヤング夫妻」

 いま日知庵から帰ってきた。学校が終わって、塾が終わって、さあ、きょうはこれから飲むぞと思って日知庵に行ったら、あした、会う約束をしていた香港人ご夫婦のヤング夫妻と出くわしたのだった。きょう、日本に来て京都入りしたそうだ。ご夫妻の話はメモからあした詳しく書く。ご夫妻よりも、帰りの電車で出会った青年のことをいま書く。20代前半から半ばだろうか。ぼくがさいしょに付き合ったノブチンのような感じのおデブちゃんで、河原町駅からぼくは乗ってたのだけど、その子は烏丸から乗ってきて、めっちゃかわいいと思ったら、ぼくの横に坐ってきて、溜息をつきながらぼくを見たのだった。ええっ、ぼくのこと、いけるのって思ったけれど、ぼくもわかいときじゃないし、声をかけてもダメだろうと思って声をかけなかったのだけれど、西院駅で彼も降りたのだった。ぼくは真後ろからついていったのだけれど、駅の改札口から出てちょっと歩いたら、行く方向が違ってて、声をかけなかった。これが、ぼくが20代だったら、声をかけてたと思う。「きみ、かわいいね。ぼくといっしょに、どこか行く?」みたいなこと言ってたと思う。20代で、声をかけて、断られたの2回だけだったから。しかし、いまや、ぼくも50代。考えるよね。声をかけることなく、違う道を歩くふたりなのであった。しかし、息をつきながら、ぼくの目をじっと見つめてた彼の時間のなかで、ほんとうに、ぼくを見た記憶はあるのだろうかってことを考える。ただのオジンじゃんって思って見てただけなのかもしれない。だけど、ぼくはあの溜息に何らかの意味があると思いたい。思って眠る権利は、ぼくにだってあるはずだ。ああ、人生ってなんなんだろう。電車のなかで目が合った瞬間の記憶を、ぼくはいつまで保っていられるのだろう。そういえば、何年かむかし、阪急電車のなかで、仕事帰りに、かわいいなと思った男の子が、ぼくの顔を見てニコッとしてくれたのだけれど、ぼくは塾があったので、知らない顔をしてしまった。いまでも、その男の子の笑い顔が忘れられない。いや、顔自体は忘れてしまったけれど、笑って見つめてくれたことが忘れられない。そうか。ぼくはまだ笑って見つめ返してくれることがあったのだと思うと、人生って、何って思う。ぼくには不可解だ。ぼくはもうだれにも恋をしないと思うのだから、よけい。

 あしたは神経科医院に朝に行って、夜は7時に日知庵で、香港人のヤング夫妻とお話をする。いまから睡眠薬のんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 寝るまえの読書はなんだろう。わからん。SFの短篇集を棚から引き出そう。二度目のおやすみ、グッジョブ! ああ、ヤング夫妻にお土産にお茶をいただいた。

 PC付け直した。メモしていないこと書いとかなくちゃ忘れる。ヤング夫妻に、どうして、こんな暑い時期に日本に来たの? って尋ねると、香港はもっとウエッティーでホッターだと言ってた。そうか、ぼくは京都だけが、こんなに蒸し暑くてって思ってたから、目から鱗だった。これ、メモしてなかったー。

 三度目のおやすみ、グッジョブ! ロバート・シルヴァーバーグの『ホークスビル収容所』ちょこっと読んだ。もうPC消して、ノブチンに似た、きょう阪急電車のなかで出会った男の子のこと考えながら電気決して横になる。あ〜、人生は、あっという間にすぎていく。すぎていく。それでいいのだけれど、涙。

二〇一七年七月七日 「ヤング夫妻」

 いま日知庵から帰ってきた。香港人のご夫婦、ヤング夫妻と飲んでた。お金持ちのヤング夫妻にぜんぶおごっていただいて、なんだかなあと言ったら、「友だちだからね。」と言われて、ふうん、そうなのだ、ありがとうねと言った。次は、2020年に京都に来られるらしい。お金持ちの友だちだ。あ〜あ。

 郵便受けに2冊の詩集が送られていたけれど、きょうは読むのは無理。あした、開けよう。楽しみだ。ぼくは、わかい人の詩集も読んで楽しいし、ぼくと同じくらいの齢の人の詩集も読んで楽しい。個人的な事柄が記載されてあるとき、とくに、うれしく感じるようだ。日記を盗み見る感じなのかな。どだろう。

 曜日を間違えて学校に行くつもりで部屋を出た。駅に着く直前に、きょうは月曜日ではなかったのではと思い、携帯を見たら日曜日だったので帰ったのであった。ボケがきているのかな。短期的なただのボケだったらいいのだけど。

 身体がだるくて、日知庵に行くまで、きょうはずっとゴロゴロ横になってただけだった。きょうはなにもする気がなくて、ただただゴロゴロ横になっていただけだった。どうして、やる気が出ないのだろう。もう齢なのかもしれない。2、3週間前に風邪を引いてからずっと気分が低調だ。歯を磨いて、クスリをのんで寝よう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年七月八日 「数式」

 数式においては、数と数を記号が結びつけているように見えるが、記号によって結びつけられているのは、数と数だけではない。数と人間も結びつけられているのであって、より詳細にみると、数と数を、記号と人間の精神が結びつけているのであるが、これをまた、べつの見方をすると、数と数が、記号と人間を結びつけているとも言える。複数の人間が、同じ数式を眺める場合には、数式がその複数の人間を結びつけるとも考えられる。複数の人間の精神を、であるが、これは、数式にかぎらず、言葉だって、そうである。言葉によって、複数の人間の精神が結びつけられる。言葉によって、複数の人間の体験が結びつけられる。音楽や絵画や映画やスポーツ観戦もそうである。ひとが、他人の経験を見ることによって、知ることによって、感じることによって、自分の人生を生き生きとさせることができるのも、この「結びつける作用」が、言葉や映像にあるからであろう。

二〇一七年七月九日 「ノイローゼ」

嗅覚障害で
自分では臭いがしないのだけれど
まわりのひとが臭がっているのではないかと思い
きょうは、ファブリーズみたいなの買ってきました。
靴から服へとかけまくりました。
日光3時間照射より強い殺菌力だそうです。
自分で臭いがわかればいいのだけれど。
日知庵で料理を食べても
味だけで
匂いわからず。
まだ味覚があるだけ
幸せか。

嗅覚障害って
治らないみたい。
まだ味覚障害だったら
食べ物で改善できるみたいだけど。
しかし、齢をとると
けっこう多くなるみたい。
こわいねえ。
機械だって
古くなると傷んでくるよね。
ぼくも、膝とか足とか、つねに痛いし。
いもくんは腰だったよね。
ぼくも100キロあったときは
腰がしじゅう痛かった。
いまは朝起きて
背中が痛い。
なんちゅうことでしょ。
若さって、貴重だね。
その貴重な時間を
有効に使ったかなあ。
ばっかな恋ばっかしてたような気がする。
まあ、それで、いま詩が書けてるからいいかな、笑。
その思い出でね。

二〇一七年七月十日 「You are so beatiful」

 いま、きみやから帰ってきた。きょうは、ビール何杯のんだか、わからない。まあ、5時過ぎからこの時間まで飲んでたのだ。飲みながら、考えることもあったのだが、あまり詩にはならないようなことばかり。いや、ぜんぶが詩かな。わからない。人生、ぐっちょぐっちょだわ。いまはもうクスリの時間かな。

 ジョー・コッカーの『You are so beatiful』を聴いている。世界は美しい音楽と、すてきな詩と、すばらしい小説でいっぱいだ。それなのに、ぼくは全的に幸せだとは思えない。なぜなのだろう。欲が深いのかな。あしたから文学三昧の予定なのに、それほど期待していない自分がいる。

二〇一七年七月十一日 「鈴虫」

  月影は同じ雲井に見えながら
     わが宿からの秋ぞ変れる

 このお歌は文学的の価値はともかくも、冷泉院のご在位当時と今日とをお
思いくらべになって、さびしくお思いになる六条院のご実感と見えた。
              (紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)

 同じように見えるものを前にして、自分のなかのなにかが変わっているように感じられる、というふうにもとれる。同じもののように見えるものを目のあたりにすることで、ことさらに、自分のこころのどこかが、以前のものとは違ったもののように思える、ということであろうか。あるいは、もっとぶっ飛ばしてとらえて考えてもよいのかもしれない。同じものを見ているように思っているのだが、じつは、それがまったく異なるものであることにふと気がついた、とでも。というのも、それを眺めている自分が変っているはずなので、同じに見えるということは、それが違ったものであるからである、というふうに。

二〇一七年七月十二日 「ずっと寝てた」

 いま日知庵から帰った。きょうは、焼酎のロック2杯。で、ちょっとヨッパ。きょうも、寝るまえは、SF小説を読む予定だけど、シルヴァーバーグの『ホークスビル収容所』か、レムの『宇宙飛行士ピルクス物語』か、どっちかだと思うけれど、このレムのものは退屈だ。

 いま日知庵から帰ってきた。きょうは、昼間、ずっと寝てた。暑くて、なにもする気が起きない。

二〇一七年七月十三日 「27度設定」

いま起きた。クーラーをかけないので、部屋がめっちゃ暑い。きょうは休みなので、はやい時間から日知庵に飲みに行こうかな。

いま日知庵から帰った。えいちゃんが、クーラーかけてみたらと言うので、かけてみる。咽喉がすぐにやられるのだが、どだろ。

 27度設定にしてみた。かなりすずしい。これならふとんかけて眠れそう。これからは電気代をケチるのをやめて快適に過ごそう。ただし、咽喉がやられないように、咽喉にきたら、すぐにクスリをのもう。
 
27度は快適なのだが、咳が出てきた。風邪をぶりかえすといけないので、寝るまえにクーラーを消そう。考えものだな。

二〇一七年七月十四日 「芭蕉」

 ときどき詐欺の疑いのある雑誌掲載の電話がかかってくる。ぼくがいままで書いた雑誌では、電話での原稿依頼は、一度としてなかった。内容は「芭蕉」の特集だというので、そこまで聞いて断った。芭蕉についてはほとんど知らないからだ。ぼくのことを知っていたら、「芭蕉」で原稿依頼はしないだろう。

二〇一七年七月十五日 「カサのなか/アハッ」

 いま日知庵から帰った。8月に文学極道の詩投稿欄に投稿する作品をきめた。両方とも、ぼくが中学卒業のときの文集に書いたものだ。両方とも、その十数年後に、ユリイカの投稿欄に投稿したら、そのまま、他の1作とともに、同時に3作品掲載されたものだ。1990年5月号、オスカー・ワイルド特集号。


カサのなか

カサのなかでは
きみの声がはっきりと聞こえる

雨はフィルターのように
いらないものを取り除いてくれる

ぼくの耳に入ってくるのは
ただきみの声だけ



アハッ

雨のなか、走ってきたよ
出された水をぐっと飲み込んで
プロポーズした
でもきみは
窓の外は目まぐるしく動いているから
せめてわたしたちはこのままでいましょうねって
アハッ
バカだな、オレって


スタニスワフ・レムの『宇宙飛行士ピルクス物語』あまりにたいくつな読み物なので、流し読みしている。ぼくの本棚には残さないつもりだ。

いま日知庵から帰った。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年七月十六日 「葛西佑也さんと橋場仁奈さん」

 葛西佑也さんから、詩集『みをつくし』を送っていただいた。まず、散文詩と改行詩がまざったもの、改行詩だけのものと、形式に目がとまった。つぎに、実景の部分がどれくらいあるかと思って読んでみた。意外に多くあるのかもしれないと思った。自分の第一詩集と比較して、より複雑な詩だなと思った。

 橋場仁奈さんから、詩集『空と鉄骨』を送っていただいた。すべて改行詩。平均すると、一行が、ぼくが書くものより長い。たぶん、ブレスで切らないで、意味で切っているからだろう。読んでいて意味がいっこうに入ってこなかったが、そういう詩があってもよいと思う。詩は意味だけではないからね。

「Down Beat」 と、「洪水」という詩誌を送っていただいた。ぼくと同じくらいの齢のひとの書くものに共感するし、年上の方の書かれるものにも共感する。若い書き手は、なにを書いてもよい時期なのだろう。意味はよくわからないが、自由でよいと思う。書く気力が、どの作品からも伝わってくる。

二〇一七年七月十七日 「高知から来られたご夫婦」

 いま日知庵から帰った。高知から来られたご夫婦の方と、2回目の出合い。オクさんもかわいいのだけれど、ダンナさんがかわいらしくて、そのダンナさんに気に入ってもらって、ツーショットで写真を撮ってもらったりしたのだけれど、こんどひとりで来ますねと意味深な一言が、笑。かわいらしい人だった。

 そいえば、ぼくは自分のほうから名前を聞いたりするタイプじゃなかったので、きょうも、かわいいなと思いながらしゃべっていた青年の名前を聞き損ねてしまっていた。まあ、いいか。つぎに会ったときに、聞けばいいから。それにしても、彼も、ぼくのことを気に入ってくれてたので、うれしい。

二〇一七年七月十八日 「J・G・バラード自伝『人生の奇跡』を買ってメモしまくり。」

といっても
バラードの自伝を読んで、ではなく。
朝、西院にあるキャップ書店で、バラードの自伝が
新刊本のところにあったので買った。
財布には1000円札1枚と
ポケットに1500円ほどの硬貨が入っていた。
きのう、小銭を持って出るのを忘れて
近くのスーパー「お多福」で食パンとお菓子を買ったせいで
きょうのポケットは
小銭がいつもより多かったのだった。
バラードの本の値段を見ると
2200円と書いてあったので
ああ、これを買うと昼ごはんは抜きかも
と思いながらも、昼ごはん抜いてもはやく手に入れたい
という気持ちが働いて
レジに持っていくと
「2310円です。」
という店員の女の子の明るい声に
ありゃ〜、税金のこと考えてなかったわ
と思いつつ
1000円札1枚とポケットの小銭を合わせて
ちょうど2310円を支払って
カードは持ち歩かないので、銀行には行かず
本を買って、そのまま阪急西院駅に向かったのだった。

電車がくるまで2、3分あったので
本のあいだにはさまれてあった
新刊本の案内のチラシを眺めることにしたのだけれど
そしたら、このあいだ朝に見た
バカボン・パパに似たサラリーマン風のひとが読んでいた
小林泰三の本が載っていた。
タイトルは、『完全・犯罪』だった。
「完全」と「犯罪」のあいだに
「なかてん」があったのであった。
このこと、このチラシを見なかったら
いつまでも気がつかなかったと思う。
日本人の書いた小説を読むことはほとんどないし
日本人の作家のコーナーにも行ったことがなかったし。
古典から近代までのものはべつにしてね。
偶然だなあって思った。
そういえば、このあいだ、小林泰三さんの本について書いたら
ミクシィをなさってらっしゃるみたいで
ご本人が、そのときのぼくの日記をごらんになってて
足跡があったし

ぼくがメッセージしたら
お返事くださいました。
おもしろいね。
偶然ってね。
あのバカボン・パパは
その後、見かけないのだけれど
偶然ってあるしね。
いつか、どこか違うところで出会ったりして。
出会いたい
出会いたいなあ

いつも見かけるおばさまには
いまでもいつも出会うのだけれど、笑。

たくさんのメモというのは
フローベールの『紋切型辞典』を読んでて取ったメモなんだけど
きょうは、これからテスト問題を考えなきゃならないので
あしたか、あさってか、しあさってにでも大量に書きこみます。
バカボン・パパかあ。
かわいかったなあ、笑。

そうだ。
バラード自伝
解説の巻末に
未訳の長篇2作が
近日発売予定だと書いてあって
小躍りした。
めっちゃ楽しみ。

二〇一七年七月十九日 「倒錯の森」

 いま日知庵から帰った。きのう、寝るまえに読んだサリンジャーの短篇集『倒錯の森』の「ブルー・メロディー」が、黒人差別を扱っていて意外な気がした。サリンジャーの小説でこんなにまっすぐに黒人差別に向かった作品を読んだことがなかったので。ジャズを題材の作品でさいごの描写も繊細でよかった。

きょうの寝るまえの読書は、タイトル作品の「倒錯の森」 おもしろいかな。どだろ。

二〇一七年七月二十日 「ベストSF 1」

 いま、日知庵から帰った。きょうは、大人の会話がさいごに行き渡った。ちんこ臭と、まんこ臭についてだが、これは、ツイッターに書けないので、と思ったけれど、書く。それが詩人だ。まんこ臭については、ぼくはわからないが、成人男子お二人のご意見によると、すごいらしくて、スカートを履いてても臭うらしい。えげつない臭いらしいが、ぼくは嗅いだことがない。チンコ臭のほうだが、これは成人男子お一人のご意見だが、権威的なお方なので、貴重なご意見だと思って拝聴した。汗の臭いと違って、ちんこの臭いがするらしい。ズボン履いててもね。ぼくには信じられないけれど、権威のご意見だからね。ええ、そうなんだって言ったら、えいちゃんが「そんなこと、ツイッターに書いたら、あかんで。」と言うので、書くことにした。「腋臭の男の子と付き合ったけれど、慣れるよ。」と言ったのだけれど、反対意見の方が多かった。ぼくは腋臭の男の子と10年付き合ってたからね。顔がかわいければいいのだ。

 きのう、寝るまえは、サリンジャーの「倒錯の森」ではなくて、サンリオSF文庫の『ベストSF 1』の、ベン・ボーヴァの「十五マイル」と、フレッド・ホイルの「恐喝」を読んだ。SFの短篇の方がおもしろい確率が高いからなのだが、きょうも寝るまえは、やっぱ、SFの短篇にしようかな。と書いた時点で、もう、フレッド・ホイルの「恐喝」の内容を忘れている。ものすごい忘却力だ。

 河野聡子さんから詩集『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』を送っていただいた。かわいらしい装丁で、なかのページもカラーリングしてあって、そのデザインと、さまざまな大きさのフォントで書かれている言葉の内容が絶妙にマッチしていると思った。貴重な1冊を、ありがとうございました。

 8月に文学極道に投稿する2つの作品は、中学校の卒業文集に書いたものなので、14、5歳のときのぼくのことが批評されるのか、それを56歳になって投稿するぼくのことが批評されるのか興味深い。そう考えると、つくった時期と発表する時期が大幅に違うとき、批評家はどういう態度で挑んでいるのか。

二〇一七年七月二十一日 「ピーターさん」

 いま日知庵から帰った。カナダ人の知り合いの話から、お金持ちと小金持ちの違いについて考えた。合気道や空手をなさっている巨漢のカナダ人のピーターさんは、日本に22歳のときにいらして、それから24年のあいだ、日本にいらして、日本文化を学ばれて、今では、日本文化を海外の方たちや日本の人たちに教える仕事をなさっておられるのだけれど、そのピーターさんが11、2歳のころのお話。カナダで、お金持ちの弁護士の家でクリスマスパーティーがあったとき、ムール貝が出てきたので、食べたら、そこの親父さんに叱られたのだそうだ。それは子どもの食べるものではないと言われて。ピーターさんちは小金持ちだったそうで、ムール貝などいくら食べてもよかったらしい。お金持ちほど、子どもに厳しいんだろうね。という話を、きのう日知庵でしたのであった。子どもに厳しいと言うか、大人の領分と、子どもの領分をきっちり分けているということなのだろうね。

 いま日知庵から帰った。日知庵に電話があったのだけれど、ワンコールで切れた。「ひととの縁のように、簡単に切れるんやね。」と、ぼくが言うと、えいちゃんと、何人かの客から、「こわ〜。」と同時に返事があった。そだよ。こわいんだよ。とにかく、生きている人間がいちばん。

二〇一七年七月二十二日 「倒錯の森」

 サリンジャーの「倒錯の森」の122ページ上段8、9行目に、「詩人は詩を創作するのではないのです━━詩人は見つけるのです」刈田元司訳)という詩人のセリフがあって、ぼくもそんなふうに感じていたので共感した。ぼくのつくり方っていうのも、ほとんどみな、そんな感じだったから。

二〇一七年七月二十三日 「倒錯の森」

 いま日知庵から帰った。大きな料亭の店主の鈴木さんから、えいちゃんと、あっちゃんと、カラオケ行きたい。あっちゃんのビートルズが聞きたいと言われて、うれしかった。きょう、昼間、サリンジャーの短篇集『倒錯の森』のタイトル作を読み終わって、やっぱりサリンジャーはうまいなあと思った。ばつぐんに、頭がいいんだよね。

二〇一七年七月二十四日 「朝の忙しい時間にトイレをしていても」

横にあった
ボディー・ソープの容器の
後ろに書いてあった解説書を読んでいて
ふと、ううううん
これはなんやろ
なんちゅう欲求やろかと思った。
読書せずにはいられない。
いや
人間は
知っていることでも
一度読んだ解説でもいいから
読んでいたい
より親しくなりたいと思う動物なんやろか。
それとも、文字が読めるぞということの
自己鼓舞なのか。
自己主張なのか。
いや
無意識層のものの
欲求なのか。
そうだなあ。
無意識に手にとってしまったものね。

二〇一七年七月二十五日 「銀竹」

 いま、きみやから帰ってきた。さとしちゃんの友だちのポールが書道を習っていて、「銀竹」って、きょう書いてきたらしいのだけれど、そんな日本語、ぼくは知らないと言うと、さとっちゃんが目のまえで調べてくれて、俳句の季語にあった。夕立のことだって。ああ、でも、いつの季節か忘れちゃった〜。というか、そんな日本語、ぼくも知らないんだから、俳人って、よほど、日本語が好きなんだろうね。というか、漢字が好きなのか。なんだろ。わかんないや。ふつうに使う言葉じゃないことだけは確かだよね。まわりのひと、みんな知らなかったもの。

 へきとらのチューブを見てる。へきほうという男の子が、むかし付き合ってた男の子に似ていて。こういうのは、なんていうのかなあ。ぼくももう56歳だし、その男の子も40超えてるし、なんというか、さいきん、ぼくが文学に対して持ってる支持力と近い感じがするかな。意地力というか。意地というか。

二〇一七年七月二十六日 「余生」

 いま日知庵から帰ってきた。きょうは、うなぎの丑の日ということで、日知庵で、うな丼を食べた。おいしかった。赤出汁もおいしかった。

 未読の本が残り少なくなってきた。また、未読のものを読んでも、おもしろくなくなってきた。たくさん読んできて、ほとんどいかなる言葉の組み合わせにも、これまたほとんどまったく驚かなくなってきた。詩人としては致命的な現象だけれど、人間としては、落ち着いてきた、ということなのかもしれない。まるでひとと競争でもしているように、作品を書いてきたのだけど、もうほかのだれかと競争しているような気分でもないし、余生は読んできたもののなかで、傑作と思った詩や詩集や小説を読んでいられれば、しあわせかなと、ふと思った。

詩をつくることは、なにかいやしいことでもしているかのように思える。

二〇一七年七月二十七日 「読書」

 いま日知庵から帰った。おなか、いっぱい。なんか読むものさがして読もうっと。もう読みたいと思わせるものが未読のものでなくなってしまった。読んだもののなかから適当なものを選ぼう。と、こういうような齢になっちゃったんだな。というか、これまでに膨大な読書のし過ぎという感じもする。

 その膨大な読書のために、最低の時間ですむ労働を選んだのだけれど、その最低の時間ですむ労働さえも、さいきんは、しんどい。きょうも、塾で、ある先生に、「そうとう疲れておられますね。」と言われた。そんなゾンビな顔をしていたのだろう。まあ、自分でも、そうとう疲れていると思っているものね。

二〇一七年七月二十八日 「犬を飼う」

いま日知庵から帰った。

 犬を飼っちゃいけないマンションで犬を飼ってたら、透明になっちゃった。きっと見えないようにって思ってたからなんだろうね。

二〇一七年七月二十九日 「お茶をシバキに」

 植木鉢に、四角柱や三角錐やなんかの立体図形を入れて育てている。でも、すぐに大きくなれって念じたら、それぞれの図形が念じた通りに大きくなってくれるから、とても育てがいのある立体図形たちだ。

 腕くらいの太さの輪っかを六つ重ねてそれをまた輪っかで結びつける。それを詩の土台として飛び乗ると、膝から直接、床に落ちて、めっちゃ痛かった。

これから大谷良太くんとお茶をシバキに。

いま帰ってきた。これから飲みに行く。

二〇一七年七月三十日 「短時間睡眠」

 いま、日知庵→きみやの梯子から帰ってきた。あしたは、一日、ぼけーっとしてるはず。おやすみ、グッジョブ!

 いま目がさめた。何時間、寝てたんだろう。時刻をみてびっくりした。わずか2時間。

二〇一七年七月三十一日 「文法」

わたしは文法である。
言葉は、わたしの規則に従って配列しなければならない。
言葉はわたしの規則どおりに並んでいなければならない。
文法も法である。
したがって抜け道もたくさんあるし
そもそも法に従わない言葉もある。

また、時代と場所が変われば、法も違ったものになる。
また、その法に従うもの自体が異なるものであったりするのである。
すべてが変化する。
文法も法である。
したがって、時代や状況に合わなくなってくることもある。
そういう場合は改正されることになる。

しかし、法のなかの法である憲法にあたる
文法のなかの文法は、言葉を発する者の生のままの声である。
生のままの声のまえでは、いかなる文法も沈黙せねばならない。
超法規的な事例があるように
文法から逸脱した言葉の配列がゆるされることもあるが
それがゆるされるのはごくまれで
ことのほか、それがうつくしいものであるか
緊急事態に発せられるもの
あるいは無意識に発せられたと見做されたものに限る。
たとえば、詩、小説、戯曲、夢、死のまえのうわごとなどがそれにあたる。


詩の日めくり 二〇一七年八月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年八月一日 「カサのなか」

いま、きみやから帰った。ラーメン食べて寝る。おやすみ。

 文学極道の詩投稿掲示板に、作品「カサのなか」を投稿しました。よろしければ、ごらんください。ぼくの投稿作品中、もっとも短い、6行の詩です。この作品は、14、5歳のときの中学の卒業文集に書いたものの1つ。のちに、27、8歳のときにユリイカに投稿したら、大岡 信さんに選んでいただいて、1990年の5月号「オスカー・ワイルド特集号」の投稿欄に、冒頭から3作同時にぼくの投稿作品が掲載されたのだが、これは、その1つ目の作品。さて、この文学極道の詩投稿欄では、14、5歳のときのぼくが批評されるのだろうか。それとも、その40数年後の56歳のいまのぼくが批評されるのだろうか。興味深い。

二〇一七年八月二日 「死父」

 あした、はやくから仕事なので、きょうは飲みに行かずに帰ってきた。これから晩ご飯。しかし、読みたい本が1冊もない。未読のものは、『巨匠とマルガリータ』と『ドクトル・ジバゴ』だけになってしまった。あ、『ゴーレム』と『ロクスソルス』があるか。『死父』も途中でほっぽり出したままだしなあ。

二〇一七年八月三日 「フローベールの『紋切型辞典』」

 フローベールの『紋切型辞典』(小倉孝誠訳)を読んでいて、いろいろ思ったことをメモしまくった。そのうち、きょう振り返って、書いてみたいと思ったものを以下に書きつけておく。


印刷された の項に

「自分の名前が印刷物に載るのを目にする喜び!」

とあった。
1989年の8月号から1990年の12月号まで、自分の投稿した詩がユリイカの投稿欄に載ったのだが、自分の名前が載るのを目にする喜びはたしかにあった。いまでも印刷物に載っている自分の名前を見ると、うれしい気持ちだ。しかし、よりうれしいのは、自分の作品が印刷されていることで、それを目にする喜びは、自分の名前を目にする喜びよりも大きい。ユリイカに載った自分の投稿した詩を、その号が出た日にユリイカを買ったときなどは、自分の詩を20回くらい繰り返し読んだものだった。このことを、ユリイカの新人に選ばれた1991年に、東京に行ったときに、ユリイカの編集部に訪れたのだが、より詳細に書けば、編集部のあるビルの1階の喫茶店で、そのときの編集長である歌田明弘さんに話したら、「ええ? 変わってらっしゃいますね。」と言われた。気に入った曲を繰り返し何回も聴くぼくには、ぜんぜん不思議なことではなかったのだが。ネットで、自分の名前をしじゅう検索している。自分のことが書かれているのを見るのは楽しいことが多いけれど、ときどき、ムカっとするようなことが書かれていたりして、不愉快になることがある。しかし、自分と同姓同名のひとも何人かいるようで、そういうひとのことを考えると、そういうひとに迷惑になっていないかなと思うことがある。しかし、自分と同姓同名のひとの情報を見るのは、べつに楽しいことではない。だから、たぶん、自分と同姓同名の別人の名前を見ても、たとえ、自分の名前と同じでも、あまりうれしくないのではないだろうか。自分の名前が印刷物に載っているのを見ることが、つねに喜びを与えてくれるものであるとは限らないのではないだろうか。



譲歩[concession] 絶対にしてはならない。譲歩したせいでルイ十六世は破滅した。

と書いてあった。
芸術でも、もちろん、文学でも、そうだと思う。ユリイカに投稿していた
とき、ぼくは、自分が書いたものをすべて送っていた。月に、20〜30作。
選者がどんなものを選ぶのかなんてことは知ったことではなかった。
そもそも、ぼくは、詩などほとんど読んだこともなかったのだった。
新潮文庫から出てるよく名前の知られた詩人のものか
堀口大學の『月下の一群』くらいしか読んでいなかったのだ。
それでも、自分の書くものが、まだだれも書いたことのないものであると
当時は思い込んでいたのだった。
譲歩してはならない。
芸術家は、だれの言葉にも耳を貸してはならない。
自分の内心の声だけにしたがってつくらなければならない。
いまでも、ぼくは、そう思っている。
それで、無視されてもかまわない。
それで破滅してもかまわない。
むしろ、無視され、破滅することが
ぼくにとっては、芸術家そのもののイメージなのである。



男色 の項に

「すべての男性がある程度の年齢になるとかかる病気。」

とあった。
 老人になると、異性愛者でも、同性に性的な関心を寄せると、心理学の本で読んだことがある。
 こだわりがなくなっただけじゃないの、と、ぼくなどは思うのだけれど。でも、もしも、老人になると、というところだけを特徴的にとらえたら、生粋の同性愛者って、子どものときから老人ってことになるね。どだろ。



問い[question] 問いを発することは、すなわちそれを解決するに等しい。

とあった。古くから言われてたんだね。



都市の役人 の項に

「道の舗装をめぐって、彼らを激しく非難すべし。──役人はいったい何を考えているのだ?」

とあった。
これまた、古くからあったのね。国が違い、時代が違っても、役人のすることは変わらないってわけか。
 でも、ほかの分野の人間も、国が違っても、時代が違っても、似たようなことしてるかもね。治世者、警官、農民、物書き、大人、子ども、男、女。



比喩[images] 詩にはいつでも多すぎる。

とあった。
 さいきん、比喩らしい比喩を使ってないなあと思った。でも、そのあとで、ふと、はたして、そうだったかしらと思った。
 ペルシャの詩人、ルーミーの言葉を思い出したからである。ルーミーの講演が終わったあと、聴衆のひとりが、ルーミーに、「あなたの話は比喩だらけだ。」と言ったところ、ルーミーが、こう言い返したのだというのだ。
「おまえそのものが比喩なのだ。」と。
そういえば、イエス・キリストも、こんなことを言ってたと書いてあった。
「わたしはすべてを比喩で語る。」と。
言葉そのものが比喩であると言った詩人もいたかな。どだろ。



分[minute] 「一分がどんなに長いものか、ひとは気づいていない。」

とあった。
 そんなことはないね。齢をとれば、瞬間瞬間がどれだけ大事かわかるものね。その瞬間が二度とふたたび自分のまえに立ち現われることがないということが、痛いほどわかっているのだもの。それでも、人間は、その瞬間というものを、自分の思ったように、思いどおりに過ごすことが難しいものなのだろうけれど。悔いのないように生きようと思うのだけれど、悔いばかりが残ってしまう。ああ、よくやったなあ、という気持ちを持つことはまれだ。まあ、それが人生なのだろうけれど。
 ノブユキとのこと。エイジくんとのこと。タカヒロとのこと。中国人青年とのこと。名前を忘れた子とのこと。名前を聞きもしなかった子とのことが、何度も何度も思い出される。楽しかったこと、こころに残ったさまざまな思い出。

二〇一七年八月四日 「梯子」

朝、ひさしぶりに、マクドナルド行った。えびフィレオがまだやってなかったので、フィレオフィッシュにした。

日知庵→きみや→日知庵→きみやの梯子から帰ってきた。きょうは、これで寝る。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年八月五日 「俳句」

 いま日知庵から帰ってきた。きのうから、ちょこっと、『巨匠とマルガリータ』上巻を読んでる。おやすみ、グッジョブ!

 いまFBで、日本語で俳句を書かれる外国人の方から友だち承認のリクエストが来て、その方のページを見て、すぐに承認した。女性の方のようだが、わかりやすい日本語で作品を書いてらっしゃった。

二〇一七年八月六日 「ムール貝は貧乏人も食べるよ。」


文学極道の詩投稿掲示板に、『アハッ』を投稿しました。よろしければ、ごらんください。

 ひとは、小説や思想書と同じように、また、ひとと同じように、もっとも適切なときに出合っているのだと思います。ぼくは、むかしから知っていた詩人でしたが、一冊で読むことのなかった金子光晴を、ことしの3月でしたか、4月でしたか、岩波文庫で読んで感心しました。

 2017年8月3日のメモ 日知庵にゲイの友だちがきてて、このあいだ大阪のゲイバーで、臭いフェチの話が出て「嗅ぎたい」というと、関東人には「嗅ぎたい」という言葉がわからなかったらしい。「臭いたい」と言わなければ、通じなかったという。ふうん。「嗅ぐ」ってふつうの日本語なのにね。

 2017年8月3日のメモ きょう、日知庵でピーターと出会って、「このあいだのムール貝の話をツイッターに書いたよ。」と言うと、「ムール貝ちがうよ。ロブスターよ。ムール貝は貧乏人も食べるよ。」と言うので、後日、ツイッターで訂正しておくよと返事した。ああ、ぼくの記憶力も落ちたものだわ。ピーター、カナダから日本にやってきて、もう24年らしいのだけれど、俳句をやっているらしく、Hailstone という Haiku Group に属してらっしゃるらしい。主催者の方のお名前は、Stephen Gill という方らしい。

台風だけど、焼肉は決行らしいので、そろそろ起きよう。

 きょうの焼肉、ボスがえいちゃんなのだけれど、くるメンバーが、もう個性、バラバラで、会話が通じるのかどうかもあやぶまれるくらい。まあ、えいちゃんがちゃんと仕切るのだろうけれど。ある意味で、ぼくはお化け屋敷に行くような気分でもある。こう書いてて、いま、ぼくの顔は満面の笑みだ。

さて、これからお風呂に入って、河原町に。焼肉の場所は烏丸御池だけど、そのまえに、えいちゃんと河原町で買い物。

いま、焼肉→居酒屋から帰ってきた。おなか、いっぱい。ありがとうね、えいちゃん。

二〇一七年八月七日 「ヤング夫妻の思い出」

 2017年7月7日のメモ 2012年にはじめてお会いした香港人のヤング夫妻と日知庵でいろいろ話をした。ぼくがはじめてお会いしたときはまだ結婚なさっておられず、2014年に結婚されたのだという。praque で結婚したのだと言われた。「プラ」と発音されたので、どこかわからなかったので、しかも、さいしょのイニシャルが小文字だったので、どこだろうと思ったのだけど、i-phon で Praha の写真を見せてくださったので、日本語では、「プラハ」と言うんですよと言ったら、英語で香港では「プラ」と言うのよと教えてくださった。それって、カフカの生まれたところですねと言うと、おふたりは、うなずいてくださった。「棄我去者、昨日之日不可留」を憶えていますかとヤングさんに訊かれたので、「ええ、ヤングさんのお好きな詩でしたね」と言った。中国語と英語交じりの会話だった。そのあと、彼らの携帯で、お二人のプラハでの結婚式の模様や街の様子を撮られた写真をいくつも見せてくださった。日本には、今回、車を買いに来られたのだが、奥様が国際免許を持ってくるのを忘れられて、international car license というのだそうだが、あした琵琶湖をドライヴするはずだったのだけど、バスで行くしかなくなっちゃたよとのことだった。えいちゃんが、いま何台、車をもってるんですかって訊いたら、すでに2台もってるってお話だった。ぼくが奥様に、国際免許を忘れられたことを、「Oh, big mistakeね!」と日本語交じりの英語で言うと、みんな大笑いだった。お金持ちの余裕というか、寛容さを見たような気がした。

二〇一七年八月八日 「まるちゃん」

 日知庵と、きみやの梯子から帰ってきた。きみやで、何日かまえに出合ったかわいい男の子と再会した。ちょびっとしゃべれて、うれしかった。さいしょ離れた席だったのだけれど、帰りしなには、隣りに坐らせてもらった。それからまた、たっぷりとしゃべれた。うれしかった。まるちゃん、ありがとうね。

二〇一七年八月九日 「恋愛について」

 いま、きみやから帰ってきた。きのう再会した男の子とばったり出くわした。うれしかった。長い時間いっしょにいられなかったけれど。HちゃんとSくんとたくさんディープな話をした。悪について。戦争について。アウシュビッツについて、恋愛について。さいごの話題がいちばん、ぼくにはシビアだった。

二〇一七年八月十日 「韓国人の男の子」

 いま日知庵から帰ってきた。ヨッパ〜。夏休みは毎日、飲みに出るから、毎日ヨッパである。いったい、どれだけ時間を無駄にしているのか。しかし、その無駄な時間があるからこそ、脳みそを休めることができるのである。とは、いうものの、きょうは、ほんとにヨッパ。ゲロゲロ寸前である。ああ情けない。

 隣の隣に坐っていた韓国人の男の子が日本語でしゃべってきたのだが、半分くらいしかわからず、それでも、いやな印象は与えたくはなかったので、にこにこしていたら、帰りに握手された。韓国式の年下の子が左手で右手を握って、ぼくと握手するというもの。まあ、なんちゅうかよくしゃべる男の子だった。34才、既婚。日本人の妻らしい。携帯で見せてもらった。かわいらしい、ちっちゃい女の子。しかし、よくしゃべる男の子だった。ぼくが韓国人だったら、きっと機関銃のように韓国語でしゃべっていたのだろうと思う。そだ。彼の見方だと、アメリカと北朝鮮、もうじき戦争だよねってことだったけど、もし戦争になったら、3日で終わるね、とのことだった。アメリカの原爆の方が北朝鮮よりずっとすごいらしい。でも、原爆を使うかな? ぼくは、そこが疑問だったけど、黙ってた。ぼくは戦争のこと、なにも知らないし。韓国の徴兵制について、ちょっと知識が増した。35歳までだと思っていたけど、40歳までだって。しかも、博士とかは行かなくていいらしい。そうか、学歴はそんなところにも影響があるんだ。でも、35歳を越えていると強制的に連れて行かれるよと言っていたので、ほんと、日本語の出来がいまいちの韓国人青年だった。ぼくのヒアリング能力が低かったとも思えるが。

二〇一七年八月十一日 「2010年11月18日のメモ」

人生においては
快適に眠ることより重要なことはなにもない。
わたしにとっては、だが。

二〇一七年八月十二日 「2010年11月19日のメモ 」

考えたこともないことが
ふと思い浮かぶことがある。
自分のこころにあるものをすべて知っているわけではないことがわる。
いったい、どれだけたくさんのことを知らずにいるのだろうか。
自分が知らないうちに知っていることを。

二〇一七年八月十三日 「梯子ふたたび」

 いま、「日知庵━きみや」の梯子から帰ってきた。きょうは、なにを読んで眠ろうかな。未読の10冊ほどをのぞくと、傑作ばかり、七、八百冊。およそ千冊だ。健忘症が入ってるっぽいから、なに読んでもおもしろそうだけど。古典や古典詩歌もいいけれど、SFやミステリーのアンソロジーもいい。どだろ。

二〇一七年八月十四日 「現代詩集」

 いま日知庵から帰ってきた。きょうも、寝て、飲んで、の一日だった。飲んでるときが、いちばん、おもしろい。さて、寝るまえの読書は? ひさしぶりに、『現代詩集』でも読もうかな。

二〇一七年八月十五日 「リアルな夢」

 現実かと思えるほどリアルな夢を見てた。子どものころなら、現実と思っていただろう。人間は夢からできていると書いていたのはシェイクスピアだった。たぶん、ちょっぴり違った意味の夢だろうけれど。きのう一日の記憶がない。お酒の飲み過ぎで、脳機能が麻痺でもしたのだろう。齢をとったものだ。

二〇一七年八月十六日 「そうめんと、ししゃも」

 いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ。きょうは体調が悪くて、肉類が食べられなかった。そうめんと、ししゃもを食べた。広島からきたという男の子がかわいかった。まあ、なんちゅうか、きょうもヨッパで、ゲロゲロ。帰りにセブイレで、豆乳とかケーキとか買ったので、これいただいて寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年八月十七日 「ほんとかな?」

 数だけが数に換言できる。数以外のものは数に換言できない。言葉もまた、言葉だけが言葉に換言できる。言葉以外のものは、言葉に換言できない。

二〇一七年八月十八日 「あしたから仕事だ。」

 いま日知庵から帰った。セブイレで買ったエクレア2個とミルクをいただいて寝る。おやすみ、グッジョブ! あしたから仕事だ。

二〇一七年八月十九日 「きのうと同じ」

いま日知庵から帰ってきた。帰りにセブイレで麦茶を買って、というところまで、きのうと同じだ。

二〇一七年八月二十日 「トマトジュース」

 いま、きみやから帰った。帰りに自販機で、トマトジュースを買った。終電ギリギリ間に合った。きょうも時間SFのアンソロジーのつづきを読んで寝よう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年八月二十一日 「2010年11月19日のメモ 」

岩波文庫のエリオットの詩を読んでいて
42ページにある最後の一行の解釈が
翻訳者が解説に書いてあるものと
ぼくのものとで、ぜんぜん違っていることに驚かされた。
ぼくの解釈は直解主義的なものだった。
訳者のものは、隠喩としてとったものだった。
まあ、そのほうが高尚なのだろうけれど
おもしろくない。
エリオットの詩は
直解的にとらえたほうが、ずっとおもしろいのに。
ぼくなんか、にたにた笑いながら読んでるのに。
むずかしく考えるのが好きなひともいるのはわかるけど
ぼくの性には合わない。
批評がやたらとりっぱなものを散見するけど
なんだかなあ。
バカみたい。

二〇一七年八月二十二日 「2010年11月20日のメモ 神経科医院に行く途中、五条堀川のブックオフに寄るために、五条大宮の交差点で信号待ちしながら書いたメモ」

きのう、あらちゃんから電話。
そのときに話したことのひとつ。

ぼくたち人間ってさ。
もう、生きてるってだけでも、荷物を背負っちゃってるよね。
知性とか感情っていうものね。
(知性は反省し、感情は自分を傷つけることが多いから)
それ以外にも生きていくうえで耐えなきゃならないものもあるし
だいたい、ひとと合わせて生きるってことが耐えなきゃいけないことをつくるしね。
お互いに荷物を背負ってるんだから
ちょっとでも、ひとの荷物を減らしてあげようとか思わなきゃダメよ。
減らなくても、ちょっとでも楽になる背負い方を教えてあげなきゃね。
自分でも、それは学ぶんだけど。
ひとの荷物、増やすひといるでしょ?
ひとの背負ってる荷物増やして、なに考えてるの?
って感じ。
そだ。
いま『源氏物語』中盤に入って
めっちゃおもしろいの。
「そうなんですか。」
そうなの。
もうね。
矛盾しまくりなの。
人物描写がね、性格描写か。
しかし、『源氏物語』
こんなにおもしろくなるとは思ってもいなかったわ。
物語って、型があるでしょ。
あの長い長い長さが、型を崩してるのね。
で、その型を崩させているところが
作者の制御できてないところでね。
その制御できてないところに、無意識の紡ぎ出すきらめきがあってね。
芸術って、無意識の紡ぎ出すきらめきって
いちばん大事じゃない?
いまのぼくの作風もそうで
もう、計画的につくられた詩や小説なんて
ぜんぜんおもしろくないもの。
よほどの名作はべつだけど。

『源氏物語』のあの長さが、登場人物の性格を
一面的に描きつづけることを不可能にさせてるのかもしれない。

それが、ぼくには、おもしろいの。
それに、多面的でしょ、じっさいの人間なんて。
ふうは、一貫性がなければ、文学作品に矛盾があるって考えちゃうけど
じっさいの人間なんて、一貫性がないでしょ。
一貫性がもとめられるのは、政治家だけね。
政治の場面では、一貫性が信用をつくるから。
たとえば、政党のスローガンね。
でも、もともと、人間って、政治的でしょ?
職場なんて、もろそうだからね。
それは、どんな職場でも、そうだと思うの。
ほら、むかし、3週間ぐらい、警備員してたでしょ?
「ええ、そのときは、ほんとにげっそり痩せてられましたよね。」
でしょ?
まあ、どんなところでも、人間って政治的なのよ。
あ、話を戻すけど
芸術のお仕事って、ひとの背負ってる荷物をちょっとでも減らすか
減らせなけりゃ、すこしでも楽に思える担い方を教えてあげることだ思うんだけど
だから、ぼくは、お笑い芸人って、すごいと思うの。
ぼくがお笑いを、芸術のトップに置く理由なの。
(だいぶ、メモから逸脱してます、でもまた、ここからメモに)
芸人がしていることをくだらないっていうひとがいるけど
見せてくれてることね
そのくだらない芸で、こころが救われるひとがいるんだからね。
フローベールの『紋切型辞典』に
文学の項に、「閑人(ひまじん)のすること。」って書いてあったけど
その閑人がいなけりゃ
人生は、いまとは、ぜんぜん違ったものになってるだろうしね。
世界もね。
きのう、あらちゃんと
自費出版についてディープに話したけど
この日記の記述、だいぶ長くなったので、あとでね。
つぎには、きのうメモした長篇を。
エリオットに影響されたもの。
(ほんとかな。)

二〇一七年八月二十三日 「ナウシカ2回目」

にぬきを食べて
お風呂からあがってから。
いまナウシカ2回目。

二〇一七年八月二十四日 「あなたがここに見えないでほしい。」

とんでもない。
けさのうんこはパープルカラーの
やわらかいうんこだった。
やわらかいうんこ。
やわらかい
軟らかい
うんこ
便
軟らかい
うんこ
軟便(なんべん)
なすびにそっくりな形の
形が
なすびの
やわらかい
うんこ
軟便
なすびにそっくりのパープルカラーが
ぽちゃん

便器に
元気に
落ちたのであった。
わしがケツもふかずに
ひょいと腰を浮かして覗き込むと
水にひろがりつつある軟便も
わしを見上げよったのじゃ。
そいつは水にひろがり
形をくずして
便器がパープルカラーに染まったのじゃった。
ひゃ〜
いかなる病気にわしはあいなりおったのじゃろうかと
不安で不安で
いっぱいになりおったのじゃったが
しっかと
大量の水をもって
パープルカラーの軟便を流し去ってやったのじゃった。
これで不安のもとは立ち去り
「言わせてやれ!」
わしはていねいにケツをふいて
「いてっ、いててててて、いてっ。」
手も洗わず
顔も洗わず
歯も磨かず
目ヤニもとらず
耳アカもとらず
鼻クソもとらず
靴だけを履いて
ステテコのまま
出かける用意をしたのじゃった。
公園に。
「いましかないんじゃない?」
クック、クック
と幸せそうに笑いながら
陽気に地面を突っついておる。
なにがおかしいんじゃろう。
不思議なヤカラじゃ。
不快じゃ。
不愉快じゃ。
ワッ
ワッ
ワッ
あわてて飛び去る鳩ども
じゃが、頭が悪いのじゃろう。
すぐに舞い戻ってきよる。
ワッ
ワッ
ワッ
軟便
違う
なんべんやっても
またすぐに舞い戻ってきよる。
頭が悪いのじゃろう。
わしは疲れた。
ベンチにすわって休んでおったら
マジメそうな女子高校生たちが近寄ってきよったんじゃ。
なんじゃ、なんじゃと思とうったら
女の子たちが
わしを囲んでけりよったんじゃ。
ひゃ〜
「いてっ、いててててて、いてっ。」
「いましかないんじゃない?」
こりゃ、かなわん
と言って逃げようとしても
なかなかゆるしてもらえんかったのじゃが
わしの息子と娘がきて
わしをたすけてくれよったんじゃ。
「お父さん
 机のうえで
 卵たちがうるさく笑っているので
 帰って
 卵たちを黙らせてくれませんか。」
たしかに
机のうえでは
卵たちが
クツクツ笑っておった。
そこで、わしは
原稿用紙から飛び出た卵たちに
「文字にかえれ。
 文字にかえれ。
 文字にかえれ。」
と呪文をかけて
卵たちが笑うのをとめたんじゃ。
わしが書く言葉は
すぐに物質化しよるから
もう、クツクツ笑う卵についての話は書かないことにした。
しかし、クツクツ笑うのは
卵じゃなくって
靴じゃなかったっけ?
とんでもない。
「いましかないんじゃない?」
「問答無用!」
そんなこと言うんだったら
にゃ〜にゃ〜鳴くから
猫のことを
にゃ〜にゃ〜って呼ばなきゃならない。 電話は
リンリンじゃなくって

もうリンリンじゃないか
でんわ、でんわ
って
鳴きゃなきゃならない。
なきゃなきゃならない。
なきゃなきゃ鳴かない。
「くそー!」
原稿用紙に見つめられて
わしの独り言もやみ
「ぎゃあてい、ぎゃあてい、はらぎゃあてい。」
吉野の桜も見ごろじゃろうて。
「なんと酔狂な、お客さん」
あなたがここに見えないでほしい。
「いか。」
「いいかな?」

二〇一七年八月二十五日 「コンディション」

 いま日知庵から帰った。マウスの調子が悪くて、使えなくなってしまった。マウスを買い替えるだけでよかったかな。ちょっと思案中。まえも調子が悪くなったんだけど、いつの間にか使えるようになった経緯もあるしなあと。パソコンの調子が悪いと体調も悪い。きょうは王将で豚肉を吐いた。体調が悪い。1週間後には、仕事に復帰。コンディションを整えておかなければならない。

二〇一七年八月二十六日 「 」

いまナウシカ、3回目。
「このバケモノが!」
「うふふふ。」
「不快がうまれたワケか。
 きみは不思議なことを考えるんだな。」
「あした、みんなに会えばわかるよ。」
引用もと、「風の谷のナウシカ」

二〇一七年八月二十七日 「カラオケでは、だれが、いちばん誇らしいのか?」

あたしが歌おうと思ってたら
つぎの順番だった同僚がマイクをもって歌い出したの。
なぜかしら?
あたしの手元にマイクはあったし
あたしがリクエストした曲だったし
なんと言っても
順番は、あたしだったのに。
なぜかしら?
機嫌よさげに歌ってる同僚の足もとを見ると
ヒールを脱いでたから
こっそりビールを流し入れてやったわ。
「これで、きょうのカラオケは終わりね。」
なぜかしら?
アララットの頂では
縄で縛りあげられた箱舟が
その長い首を糸杉の枝にぶら下げて
「会計は?」
あたしじゃないわよ。
海景はすばらしく
同僚のヒールも死海に溺れて
不愉快そうな顔を、あたしに向けて
「あたしじゃないわよ。」
みんなの視線が痛かった。
「なぜかしら?」
ゆっくり話し合うべきだったのかしら?
「だれかが、あたしを読んでいる。」

二〇一七年八月二十八日 「ぼくのサイズがない」

 ひさしぶりに、西院のブレッズプラスで、チーズハムサンドのランチセットを食べに行こう。きのうは夏バテで、なにも食べていない。きょうも、夏バテ気味で、もしかしたら、食べ残すかもしれないけれど。ついでに、ジョーシンで、マウスを買ってこよう。

 マウスを買ってきた。1266円だった。作動もさせたけれど、スムーズ。ブレッズプラスでは、食べ残さなかった。徐々に、体力をつけていきたい。足を伸ばしただけで膝に痛みが走る。どうすればいいかな。Keen のスリッパをネットで買おうとしたら、ぼくのサイズがなかった。生きにくい世のなかだ。

二〇一七年八月二十九日 「しばし天の祝福より遠ざかり……」

きょうは大谷良太くんと、お昼ご飯を食べた。

そろそろクスリのんで寝よう。きょうも寝るまえに時間SFの短篇を読もう。『スターシップと俳句』というすばらしいB級SFを書いた、ソムトウ・スチャリトクルの「しばし天の祝福より遠ざかり……」である。いま読んでるアンソロジーとは異なるアンソロジーで読んだことがあるが内容はまったく憶えていない。

二〇一七年八月三十日 「書き写し作業」

 きょうは、これからルーズリーフ作業。P・D・ジェイムズの『黒い塔』と、エリオットの詩集からの引用とメモの書き写しを。


読書も楽しい。
引用を書き写すのも楽しい。
いまナウシカ4回目。
ブレードランナーも、ほしかったなあ。
さあ、言葉に戻ろう。
P・D・ジェイムズ
読みにくいって書かれているけれど
ぼくには読みやすい。
才能のある作家の文章を書き写していると
よごれたこころが現われる感じ、笑。

洗われる、ね。

二〇一七年八月三十一日 「謝罪させるひと」

 FBでリクエストしてきたひとのページを見たら、あるひとに謝罪されたことを書いていたので、即行、リクエストから削除した。他人に謝罪を求めたりすることはもちろん、させたりすることで満足するこころが、ぼくには理解できないというか、気持ち悪いので、お断わりしたのだった。ほんと気持ち悪い。


詩の日めくり 二〇一七年九月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年九月一日 「陽の埋葬」

文学極道の詩投稿掲示板に、作品「陽の埋葬」を投稿しました。よろしければ、ごらんください。

二〇一七年九月二日 「2010年11月19日のメモ 」

無意識層の記憶たちが
肉体のそこここのすきまに姿を消していくと
空っぽの肉体に
外界の時間と場所が接触し
肉体の目をさまさせる。
目があいた瞬間に
世界が肉体のなかに流れ込んでくる。
肉体は世界でいっぱいになってから
ようやく、わたしや、あなたになる。
けさ、わたしの肉体に流れ込んできた世界は
少々、混乱していたようだった。
病院に予約の電話を入れたのだが
曜日が違っていたのだった。
きょうは金曜日ではなくて
休診日の木曜日だったのだ。
金曜日だと思い込んでいたのだった。
それとも、わたしのなかに流れ込んできた世界は
あなたに流れ込むはずだったものであったのだろうか。
それとも、理屈から言えば、地球の裏側にいるひと、
曜日の異なる国にいるひとのところに流れ込むはずだった世界だったのだろうか。

二〇一七年九月三日 「いつもの梯子」

いま、日知庵→きみや→日知庵の梯子から帰った。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年九月四日 「陽の埋葬」

文学極道の詩投稿掲示板に、作品「陽の埋葬」を投稿しました。よろしければ、ごらんください。

二〇一七年九月五日 「かつて人間だったウーピー・ウーパー」

マイミクのえいちゃんの日記に

帰ってまた

ってタイトルで

食べてしまったサラダとご飯と豚汁と ヨモギ団子1本あかんな〜 ついつい食べてまうわ でも 幸せやで皆もたまにはガッツリ食べようね 帰りに考えてた ウーパールーパーに似てるって昔いわれた 可愛いさわ認めるけど 見た目は認めないもんね でも こないだテレビでウーパーを食べてたなんか複雑やったなやっぱり認めるかな 俺似てないよねどう思いますか? 素直によろしくお願いします

って、あったから

似てないよ。
目元がくっきりしてるだけやん。

って書いたんだけど、あとで気がついて

ウーピー・ゴールドバーグと間違えてた。
動物のほうか。
かわいらしさが共通してるかな。
共通してると似てるは違うよ。

って書き足したんだけど、そしたら、えいちゃんから返事があって

間違えないで ウーピー食べれないでしょ 間違うのあっちゃんらしいね
目はウーピー・ゴールドバーグに似てるんや これまた 複雑やわ ありがとう

って。なんか、めっちゃおもしろかったから、ここにコピペした。
えいちゃん、ごめりんこ。

ちなみに、えいちゃんの日記やコメントにある絵文字は、コピペできんかった。
どういうわけで?
わからん。
なぜだ?
なぜかしらねえ。

「みんなの病気が治したくて」 by ナウシカ

二〇一七年九月六日 「捨てなさい。」

というタイトルで、寝るまえに
なにか書こうと思った。
これから横になりながら
ルーズリーフ作業を。
なにをしとったんじゃ、おまえは!
って感じ。
だらしないなあ、ぼくは。
だって、おもしろいこと、蟻すぎなんだもの。

追記 2010年11月20日11時02〜14分
   なにも思いつかなかったので、俳句もどきのもの、即席で書いた。

捨ててもまた買っちゃったりする古本かな
なにもかもありすぎる捨てるものなしの国
あのひとはトイレで音だけ捨てる癖がある
目がかゆい目がかゆいこれは人を捨てた罰
捨て台詞誰も拾う者なし拾う者なし者なし
右の手が悪いことをすれば右の手を捨てよ

二〇一七年九月七日 「進野くん」

いま日知庵から帰ってきた。日知庵では、進野くんと1年ぶりに出あって、笑い合った。

二〇一七年九月八日 「ノイローゼ占い。」

ノイローゼにかかっている人だけで
ノイローゼの原因になっていることがらを
お互いに言い当て合うゲームのこと。
気合いが入ったノイローゼの持ち主が言い当てることが多い。
なぜかしら?
で、言い当てた人から抜けていくというもの。
じっさい、最初に言い当てた人は
次の回から参加できないことが多い。
兵隊さんと団栗さん。

二〇一七年九月九日 「若干の小さなメモ。」


2010年11月12日のメモ

読む人間が違えば、本の意味も異なったものになる。


2010年11月12日のメモ

首尾一貫した意見を持つというのは、一見、りっぱなことのように見えるが
個々の状況に即して考えていないということの証左でもある。


2010年11月12日のメモ

書くという行為は、ひじょうに女々しい。
いや、これは現代においては、雄々しいと書く方がいいかもしれない。
意味の逆転が起こっている。
男のほうが潔くないのだ。
美輪明弘の言葉が思い出される。
「わたしはいまだかつて
 強い男と弱い女に出会ったことがありません。」
しかり、しかり、しかり。
ぼくも、そう思う。

あ、フローベールの紋切型辞典って
おもしろいよ。
用語の下に
「よくわからない。」
って、たくさんあるの。
読者を楽しませてくれるよね。
ぼくも
「ここのところ、忘れちゃった〜、ごめんなさい。」
って、何度も書いたけど、笑。

二〇一七年九月十日 「繰り返しの梯子」

いま、日知庵→きみや→日知庵の梯子から帰った。あしたは、大谷良太くんと、喫茶店で待ち合わせをしている。神経科に午前中に行く予定だ。

二〇一七年九月十一日 「チゲ鍋」

大谷良太くんちで、チゲ鍋をご馳走になって帰ってきた。とてもおいしかった。ありがとね。

あしたは雨らしい。洗濯いまやってるの部屋干しだな。きょうは、なにを読んで眠ろうか。文春文庫の『ミステリーゾーン』のシリーズ全4作はすべて傑作で、なにを読んでもおもしろかった記憶がある。それとも、ひさしぶりにジュディス・メリル女史の年間ベストSFにしようかな。

二〇一七年九月十二日 「おじいちゃんの秘密。」

たいてい、ゾウを着る。
ときどき、サルを着る。
ときには、キリンを着る。
おじいちゃんの仕事は
動物園だ。
だれにも言っちゃダメだよって言ってた。
たま〜に、空を着て鳥を飛んだり

鳥を着て空を飛んだりすることもある
って言ってた。
動物園の仕事って
たいへんだけど
楽しいよ
って言ってた。
でも、だれにも言っちゃダメだよって言ってた。
言ったらダメだよって言われたら
よけいに言いたくなるのにね。
きのう、ぶよぶよした白いものが
おじいちゃんを着るところを見てしまった。
博物館にいるミイラみたいだったおじいちゃんが
とつぜん、いつものおじいちゃんになってた。
おじいちゃんと目が合った。
どれぐらいのあいだ見つめ合ってたのか
わからないけれど
おじいちゃんは
杖を着たぼくを手に握ると
部屋を出た。

二〇一七年九月十三日 「ひまわり。」

ひまわりの花がいたよ。
ブンブン、ブンブン
飛び回っていたよ。
黄色い、黄色い
ひまわりの花がいたよ。
お部屋のなかで
ブンブン、ブンブン
飛び回っていたよ。
たくさん、たくさん
飛び回っていたよ。
あははは。
あははは。
ブンブン、ブンブン
飛び回っていたよ。
たくさん、たくさん
飛び回っていたよ。
あははは。
あははは。

二〇一七年九月十四日 「ひさびさに友だちんちに。」

むかし恋人として付き合ってた友だちんちに行くことに。
この友だちもノイローゼ気味で
頭がおかしいのだけれど
まあ、ぼくもおかしいから
べつに、どうってことなくて
彼が住んでいるマンションの8階の部屋から見える学校のグラウンドは
ちょうどスポッと魂が吸い込まれそうになるロケーションで
彼の机のうえに散らばった写真のコラージュが
きょうも見れるかと思うと
たいへんうれしい。
詩集、まだプレゼントしてなかったので
持って行こう。
これからお風呂に。

「フライパンは手を使うよ。」 by 今野浩喜(キングオブコメディ)

二〇一七年九月十五日 「へんな趣味。」

むかし付き合ったことのある子が
すっごいへんな趣味をもつようになって
きょうは、びっくらこいた。
ああ、純情な青年だったのにな〜
って感じ。
そんなことで萌えなわけ?
ええ!
ってことがあって。
写真ね〜。

露出ね〜。
は〜
もう、ぜんぜん純情じゃないじゃん!
まあ、いいか。
なにを、いまさら、ね〜。
でも、ひさしぶりやから、興奮したって
きみね〜
って感じやった。
きょうは、ビールの飲み過ぎで
クスリ、どうかな。
効くかな。



露出といっても
犯罪にはならない程度だから、安心して、笑。

だれもこない、だれもいない、プライベートなところでだから。
しかし、自分の写真見て興奮するのって
ぼくには、わからんわ〜。

趣味がもっと昂じてきたら
ぼくは知らん顔するつもりやけど
ほんと、むかしは純朴な感じの好青年そのものやったのにね。
いまも見かけは純朴な感じで、ぼくの目から見ても
めっちゃもてる感じやのに。
なにが人を孤独にするんやろうか。
孤独でなければ、へんな趣味に走らないと思うんやけど。

二〇一七年九月十六日 「大きな熊のぬいぐるみ。」

P・D・ジェイムズって
クマのプーさんが好きなのかな。
彼女の作品を読んでいると
かならずといっていいほど大きな熊のぬいぐるみが出てくる。
いま、引用だけの長篇詩のためのメモも同時にとっているのだけれど
ジェイムズの本からは、いくつも
「大きな熊のぬいぐるみ」のところをとっている。
ジェイムズの小説は密度が高いから読むのが時間かかるけれど
時間をかけたぶん、得るところはあって
ぼくがまだ知らなかったレトリックや表現を学ぶことができるのだった。
やっぱり、ぼくは勉強が好きなのだなあと思った。
『わが職業は死』読了。
憎しみよりも愛が破壊的であるとは
ぼくは思いもしなかったので
自分の経験をいくつか振り返って考えてみた。
たしかに、そうだったかもしれない。
こわいことだなあ。

二〇一七年九月十七日 「Amazonで、パウンドの『詩学入門』を買った。


2400円+送料250円。
こんな状態の説明があった。

昭和54年初版。経年のヤケ全体濃いです。書き込みなし。そこそこしっかりした新書ですが、やけてます。

ヤケがこわいけれど、まあ、いいかな。一度読んでるので、また全ページ、コピーを取ってるので、ただ、「持ってる」という感覚だけが欲しかったのかも。

これもまた、ジェイムズが書いていた
「愛が破壊的である」ことの一つの証左かもしれない。
コレクションは、余裕のある人がするべきもので
ぼくのような貧乏人が、コレクションしたがるのは
まあ、いろんな作家や詩人のものを集める癖があるのだけれど
身分不相応なことだと思う。
死ぬまで治らないとも思うけれど。

二〇一七年九月十八日 「きょうは、テスト問題つくりに半日を費やす予定。夕方からは塾。あとヤフオク、10冊ほど。」

ヤフオクで入手したい本が10冊ほど。
グラシアンの賢人の智恵、もうほとんど読んだ。
まあ、処世術指南の書ね。
実行できたら、そこそこの地位に行けるってことだろうけど
芸術家は、ひとりで、自分の方法で
自分が行くべき道を歩むべきものだと思うから
他人には無駄に思えるような道草も道草じゃないんだよね。
失敗が失敗じゃないというか。
へたくそな生き方をこそして芸術家だと思うのだけれど
詩人もしかりでね。
生きてるうちに成功してる詩人たちの胡散臭いこと。
外国の詩人に、その胡散臭さがないのは
自分の身を危険にさらしながら生きているからだと思う。
日本の詩人で
「自分の(経済・政治)生活の危険を顧みずに詩を書いてる」ひとって
いるのかしら?


ウラタロウさんのコメント

成功したいなあ。(おそらく一般社会的な成功のことだとおもう。)
そこそこに。
成功しすぎると大変そうだし。(というのは成功なのかわからないけれど。)
成功のほうはとりあえず、暮らしていければいいやと思うけれど、危険は避けたい。
本能に刻まれているんじゃないかというほど避けたい。
成功しなくてもいいですよ、というひとは、きっと一般社会的な成功ではないけれど自分にとっての成功があるのだろうな、と思う。それがどんなことで、それが当人のなかでどのように認識されていて、当人の精神にどのように作用しているのかわからないけれど。
危険は避けたい。大きな成功がまっていても危険は避けたい。危険を顧みないひとは、自分の理想とする成功のためなら危険を冒せるのだろうか。それとも危険を冒しても成功する、もしくはそれなりにでも自身は安泰であるという自信があるのだろうか、と思う。
わたしには怖すぎる。
そもそも、そこまで考えがとどかないのだけれど。
もしかすると、他の人も、そこまで考えがとどかなくて、ごく一般的な成功と安泰を目指すのかな。


ぼくの返事

詩人ならば
安泰とかいったものから遠いところにいないといけないような気がします。
ぼくは、です。
他の書き手に、それを期待してはいません。
まったく期待していないといったほうがいいでしょう。
ぼくの偏見ですが。

もうじき50歳になりますが
独身で
貯蓄がゼロに近く
いつ仕事を失うかもしれない
貧乏な
ゲイだとカムアウトしてる
脅迫神経症で
母親と弟が精神病者で
母親が被差別部落出身者で
父親から愛されたことのない詩人。
けっこう、いいでしょ? 笑。

二〇一七年九月十九日 「夢」

夢を見た。ぼくは仏教の修行僧になり立てで、仏の実になにが書いてあるか高僧に訊かれて答えられなかった。夢のなかで、それは「ジオン」であると言われた。どんな字かまでは教えられなかった。そこで目が覚めたからである。実には文字など書かれていないが、その文字を解き明かすのが仏の弟子の役目であると言われた。

二〇一七年九月二十日 「グッジョブ!」

セブイレで、おでんを4つ買って食べて、お腹いっぱい。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

ノーナの『二十歳の夏』を聴きながらクスリをのむ。二度目のおやすみ、グッジョブ!

二〇一七年九月二十一日 「SFの黄金期」

きょうも、短篇SFをひとつ読んで寝よう。年代別からかな。1950年代か1960年代かな。SFの黄金期やね。おやすみ、グッジョブ!

歯が痛み
湯にはつからぬ
午前かな

セブイレで、おでんを4つ買って帰った。きょうは食べ過ぎかな。

二〇一七年九月二十二日 「蝶を見なくなった。」

それは季節ではない。
季節ならば
あらゆる季節が
ぼくのなかにあるのだから。

それは道ではない。
道ならば
あらゆる道が
ぼくのなかにあるのだから。

それは出合いではない。
出合いならば
あらゆる出合いが
ぼくのなかにあるのだから。

二〇一七年九月二十三日 「夢」

日知庵の帰りに、セブイレで、どん兵衛・天ぷらそば・大盛りを買って食べた。きのう読んだ短篇SFが、途中で寝てしまったから、きょうは、そのつづきを読んで寝ようと思う。夢を一日に、4つか5つ見るようになった。このごろ、だんだん夢と現実の区別がつかなくなりつつある。まだだいじょうぶだけど。

二〇一七年九月二十四日 「おでん」

帰りに、セブイレで、おでん5個買って帰って食べたぼくは化け物だろうか。

二〇一七年九月二十五日 「池ちゃん」

池ちゃん、まだフォロー許可待ちだからね。

二〇一七年九月二十六日 「詩集」

ここ1週間か2週間のあいだに、読み切れないほどの詩集が届く。ありがたいことだと思う。読んだ順に(着いた順に)感想を書いていきたい。きょうは、もう寝るけど。

いま日知庵から帰ってきた。帰りの車内、暖房やった。びっくり。行きしなは冷房やったのに。

二〇一七年九月二十七日 「もうひとつ夢を見た。」

残したくない過去ばかりが残る。

永遠に赤は来い!

もうひとつ夢を見た。修道院での少年たちの話だ。「彼女たちは、どうしてぼくたちのことをきれいだと言うのだろう?」とひとりの少年がつぶやくように訊くのだった。

そして、ワンはフレッドを撃つと
トムを撃って
ジョンを撃って
スウェンを撃って
腰かけて泣きはじめた。

ぼくの見た夢の中の1冊200数十万円もする木彫りの翻訳本の一節。

223万円だと店員が言ったので、本をもとの場所にそっと置いたことを憶えている。

いや、違う。ぼくが裏に書かれた定価を見たのだった。店員は、ぼくが戻した本の位置を正確に戻そうとしただけだったのだ。

二〇一七年九月二十八日 「H・G・ウェルズ」

阪急電車で、いま帰ってきたのだが、送風だけで、とくに冷房も暖房もかかっていなかった。午後10時まえに乗ったときには、蒸し暑かったためにか、冷房がかかっていた。きのう、日知庵からの帰りは暖房だったのにね。気が利いているというのか、切り替えが速い。それはとてもよいことだと思う。

きのうは、H・G・ウェルズの『タイムマシン』の後半を読んで眠った。きょうも、ウェルズの短篇を読んで寝よう。『盗まれた細菌』というタイトル。読んだはずだが、まったく記憶にない。部屋にある本のうち、ぼくの記憶にあるのは、ほんの少しだけなのかな。ほとんど読んだ本たちなのにね。

近いうちに、ラテンアメリカ文学を読み直したい。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年九月二十九日 「けさ見た夢のなかで渡されたカードに書かれた言葉」

京都市役所
花のなかに手紙を入れておきました。
まどかめぐみ
野獣科

二〇一七年九月三十日 「出来事。」

同じ時間の同じ場所の同じ出来事。
同じ時間の同じ場所の異なる出来事。
同じ時間の異なる場所の同じ出来事。
同じ時間の異なる場所の異なる出来事。
異なる時間の同じ場所の同じ出来事。
異なる時間の同じ場所の異なる出来事。
異なる時間の異なる場所の同じ出来事。
異なる時間の異なる場所の異なる出来事。

二〇一七年九月三十一日 「フー?」

いままで出会ったひとのなかで、いちばん深い付き合いをしたひとは、だれ?


詩の日めくり 二〇一七年十月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年十月一日 「蝶。」

それは偶然ではない。
偶然ならば
あらゆる偶然が
ぼくのなかにあるのだから。

二〇一七年十月二日 「「わたしの蝶。」と、きみは言う。」

ぼくは言わない。

二〇一七年十月三日 「蝶。」

花に蝶をとめたものが蜜ならば
ぼくをきみにとめたものはなんだったのか。

蝶が花から花へとうつろうのは蜜のため。
ぼくをうつろわせたものはなんだったのだろう。

花は知っていた、蝶が蜜をもとめることを。
きみは知っていたのか、ぼくがなにをもとめていたのか。

蝶は蜜に飽きることを知らない。
きみのいっさいが、ぼくをよろこばせた。

蝶は蜜がなくなっても、花のもとにとどまっただろうか。
ときが去ったのか、ぼくたちが去ったのか。

蜜に香りがなければ、蝶は花を見つけられなかっただろう。
もしも、あのとき、きみが微笑まなかったら。

二〇一七年十月四日 「蝶。」

おぼえているかい。
かつて、きみをよろこばせるために
野に花を咲かせ
蝶をとまらせたことを。

わすれてしまったかい。
かつて、きみをよろこばせるために
海をつくり
渚で波に手を振らせていたことを。

ぼくには、どんなことだってできた。
きみをよろこばせるためだったら。
ぼくにできなかったのは、ただひとつ
きみをぼくのそばにいさせつづけることだけだった。

二〇一七十年月五日 「蝶。」

きみは手をあげて
蝶を空中でとめてみせた。

それとも、蝶が
きみの手をとめたのか。

静止した時間と空間のなかでは
どちらにも見える。

その時間と空間をほどくのは
この言葉を目にした読み手のこころ次第である。

二〇一七年十月六日 「蝶。」

蝶の翅ばたきが、あらゆる時間をつくり、空間をつくり、出来事をつくる。
それが間違っていると証明することは、だれにもできないだろう。

二〇一七年十月七日 「蝶。」

たった二羽の蝶々が
いつもの庭を
べつのものに変えている

二〇一七年十月八日 「蝶。」

ぼくが、ぼくのことを「蝶である。」と書いたとき
ぼくのことを「蝶である。」と思わせるのは
ぼくの「ぼくは蝶である。」という言葉だけではない。
ぼく「ぼくが蝶である。」という言葉を目にした読み手のこころもある。
ぼくが読み手に向かって、「あなたは蝶である。」と書いたとき
読み手が自分のことを「わたしは蝶である。」という気持ちになるのも
やはり、ぼくの言葉と読み手のこころ自体がそう思わせるからである。
ぼくが、作品の登場人物に、「彼女は蝶である。」と述べさせると
読みのこころのなかに、「彼女は蝶である。」という気持ちが起こるとき
ぼくの言葉と読み手のこころが、そう思わせているのだろうけれど
ぼくの作品の登場人物である「彼女は蝶である。」と述べた架空の人物も
「蝶である。」と言わしめた、これまた架空の人物である「彼女」も
「彼女は蝶である。」と思わせる起因をこしらえていないだろうか。
そういった人物だけでなく、ぼくが書いた情景や事物・事象も
「彼女は蝶である。」と思わせることに寄与していないだろうか。
ぼくは、自分の書いた作品で、ということで、いままで語ってきた。
「自分の書いた作品で」という言葉をはずして
人間が人間に語るとき、と言い換えてもよい。
人間が自分ひとりで考えるとき、と言い換えてもいい。
いったい、「あるもの」が「あるもの」である、と思わせるのは
弁別される個別の事物・事象だけであるということがあるであろうか。
考えられるすべてのことが、「あらゆるもの」をあらしめているように思われる。
考つくことのできないものまでもが寄与しているとも考えているのだが
それを証明することは不可能である。
考えつくことのできないものも含めて「すべての」と言いたいし
言うべきだと思っているのだが
「このすべての」という言葉が不可能にさせているのである。
この限界を突破することはできるだろうか。
わからない。
表現を鍛錬してその限界のそばまで行き、その限界の幅を拡げることしかできないだろう。
しかも、それさえも困難な道で、その道に至ることに一生をささげても
よほどの才能の持ち主でも、報われることはほとんどないだろう。
しかし、挑戦することには、大いに魅力を感じる。
それが「文学の根幹に属すること」だと思われるからだ。
怠れない。
こころして生きよ。

二〇一七年十月九日 「トム・ペティが死んだ。」

トム・ペティが死んだ。偉大なアーティストがつぎつぎ死んでいく。それは悲しいことだけれど、それでいいのか。新しいアーティストが出てくる。それで文化がつづいていくのだ。新しい文化が。新しい音楽が。新しい文学が。そうだ。新しい詩は、古い詩人が死んだときに現われるのだ。

二〇一七年十月十日 「剪定。」

庭では
手足の指を栽培している
不出来な指があれば
剪定している

庭では
顔のパーツを栽培している
不出来な目や耳や鼻や唇があれば
剪定している

二〇一七年十月十一日 「ヘンゼルとグレーテル」

チョン・ジョンミョン主演の韓国映画『ヘンゼルとグレーテル』を3回くらい繰り返して見た。傑作だと思う。一生のあいだに、このような傑作がひとつでも書ければ、作家として満足だろう。詩人としても満足だ。

二〇一七年十月十二日 「守ってあげたい」

フトシくんのことは何回か書いているけれど、彼がぼくのためにカラオケで歌ってくれた「守ってあげたい」は、ぼくの好きなユーミンの曲のなかでも特別な曲だ。

二〇一七年十月十三日 「ふるさと遠く」

眠れないので、ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』をいま読んでいる。傑作だった記憶があったのだが、まさしく傑作だった。冒頭からフロイト流のセックス物語で、2作目から幽霊の実母とまぐわう近親相姦の話だとか、まあ、まったくSFというより奇譚の部類かな。3作目は2作目のつづき。

きょうも、ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』のつづきを読みながら寝ようと思う。この短篇集が、いま絶版らしいいのだが、まあ、なんというか、よい作品が絶版って、よくあることだけど、いかにも現代日本らしい。

むさぼるように本を読んでいたぼくは、どこに行ったのだろう。いまは、むさぼるように夢を見ている。

二〇一七年十月十四日 「夢を見た。」

夢を見た。夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た。……

二〇一七年十月十五日 「日知庵」

日知庵から帰ってきた。帰りかけに、愛媛に拠点をおく21才で起業している青年と話をしていた。おとなだと思った。また、そのまえには、大阪の高校で先生をしてらっしゃる方とも話をしていた。趣味で音楽をやってらっしゃるという。まじわるところ、まじわらないところ、いろいろあっておもしろい。

二〇一七年十月十六日 「橋本シオンさん」

橋本シオンさんから、詩集『これがわたしのふつうです』を送っていただいた。とても刺激的な表紙で、近年こんなに驚いた表紙はなかった。冒頭の長篇詩、「母」と「娘」の物語詩、興味深く読まされた。終わりの方に収録されてる詩篇の「死にたいから生きているんです」という詩句を目にできてよかった。また、「わたしについて」という詩篇には、「東京の真ん中に、必要とされていないわたしが落ちていた。」という詩句があって、いまぼくの頭を悩ませていることが、大きくズシンと胸のなかに吊り下がったような気がした。全体にナイーブなすてきな感じだ。出合えてよかったと思う。魅力的な詩集だった。

二〇一七年十月十七日 「睡眠。」

これから数時間、ぼくはこの世のなかから姿を消す。数時間後にまたふたたび、この世のなかに姿を現わす。しかし、数時間まえのぼくは、もういない。少し壊れて、少し錆びれて、少し遅れていることだろう。毎日、数時間この世のなかから姿を消して、壊れて、錆びれて、遅れていくことしか学べないのだ。

二〇一七年十月十八日 「阿部嘉昭さん」

阿部嘉昭さんから、詩集『橋が言う』を、送っていただいた。帯に「「減喩」を/駆使した/挑発的で/静かな/八行詩集」とあって、読んでいくと、「減喩」という言葉の意味が、多種多様な、さまざまな「喩」を効かせまくる、というふうにしか捉えられない印象を受けた。ぼくなら、「多喩」と名付ける。「静かな」といったたたずまいはまったくない。むしろ、騒々しい。その騒々しさが、詩篇の威力を減じているといった作品も多い。そういう意味でなら、たしかに、「減喩」と言えるかもしれない。とても、もったいない感じがする。原因はなんだろう。韻文。短詩型文学。俳句や短歌の影響かな。そんな気が、ふとした。ぼくは、あくまでも、俳句や短歌を現代詩とは切り離して考えるタイプの実作者である。

二〇一七年十月十九日 「谷内修三さん」

谷内修三さんから、『誤読』を送っていただいた。これは、ひとりの詩人の詩に対する覚書の形をとったもので、谷内さんが毎日のようになさっている作業と同じものだ。詩句に対する手つきも同じ。読みどころはなかった。新しい方向から見て書かれたところはなかった。出す意義がどこかにあったのか。

二〇一七年十月二十日 「断章」

人間というものは、いつも同じ方法で考える。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)

二〇一七年十月二十一日 「加藤思何理さん」

加藤思何理さんから詩集『水びたしの夢』を送っていただいた。エピグラフ的な短詩を除くと、短篇小説的な詩が数多く収められている。非現実的な展開をする詩がかもす雰囲気が不思議だ。一篇一篇がていねいにつくってあって、じっくりと読ませられる。長い下準備のもとでつくられた詩篇ばかりのようだ。

二〇一七年十月二十二日 「三井喬子さん」

三井喬子さんから、現代詩文庫『三井喬子 詩集』を送っていただいた。意味がわからない詩句が連続して繰り出された詩篇ばかり。こういったものが現代詩の一部の型なのだろう。ぼくにはまったく楽しめなかったし、後半、読み飛ばしていた。現代詩文庫に入っているのだから需要はあるのだろう。不思議。

二〇一七年十月二十三日 「舟橋空兔さん」

舟橋空兔さんから、詩集『羊水の中のコスモロジー』を送っていただいた。わざと難解にしようという意図もなさそうで、詩句の連続性に不可思議なところはない。すんなり読めた。こういう詩には短篇小説の趣きがあって、楽しめる。ただ古典的な日本語のものは、ぼくに読解力がないので読み飛ばした。

二〇一七年十月二十四日 「たなかあきみつさん」

たなかあきみつさんから、詩集『アンフォルム群』を送っていただいた。旧知の詩人に捧げられた一篇を除いて、意味のわかる詩篇はなかった。一行の意味さえわからず、なにを読んでいるのか、ぼくの頭では理解できなかった。こういった詩はなぜ書かれるのだろう。理由はわからないが需要があるのだろう。

二〇一七年十月二十五日 「日原正彦さん」

日原正彦さんから、2冊の詩集『瞬間の王』と『虹色の感嘆符』を送っていただいた。「人は足で立っているが/ほんとうはカーテンのように吊るされているのではないか」といった、ぼく好みの詩句もあって、全体に読みやすい。というか、難解なものはまったくない。こういう詩集が、ぼくは好きだ。

二〇一七年十月二十六日 「妃」

詩誌『妃』19号を送っていただいた。むかし、ぼくも同人だったころがあるのだが、新しい体制になって、同人のお誘いはなかった。いまの『妃』は大所帯である。冒頭の詩篇をさきに読んだ。なんてことはない。まあ、詩なんて、なんてことはないものかもしれないけれど。記憶に残る詩はなかった。

二〇一七年十月二十七日 「海東セラさん」

海東セラさんから、詩誌『風都市』第32号を送っていただいた。海東セラさんの詩「岬の方位」に、「岬まで行ってしまえば/岬は見えなくなるでしょうから」という詩句があって、いつも海東セラさんの詩句には、はっとさせられることがあるなあと思った。同人の瀬崎 祐さんの「唐橋まで」も佳作だ。また、海東セラさんからは、詩誌『グッフォー』第68号も送っていただいた。海東セラさんの「ステンレス島」の冒頭、「棄てる部位と棄てられない部位はあわせてひとつのものだが、手を離れたとたんに別のものになる。」という詩句に目がとまった。そのあと具体的な例があげられ納得する。現実に支えられた詩句は、ぼくの好みのもので、海東セラさんの詩は、彼女のエッセーとともに、ぼくの読書の楽しみのひとつとなっている。

二〇一七年十月二十八日 「谷合吉重さん」

谷合吉重さんから、詩集『姉の海』を送っていただいた。「チェーン・ソウに剥がされた/乾いた血」だとか、意味のわからない詩句が連なり、詩篇をなしているのだが、これまたぼくには理解できない詩篇ばかり。一連の現代詩の型だ。これだけこの型のものがつくられるのだ。やはり需要があるのだろう。

二〇一七年十月二十九日 「中井ひさ子さん」

中井ひさ子さんから、詩集『渡邊坂』を送っていただいた。事物の形象を、こころの目で見たまま、素直な言葉で書かれている印象がある。わかりにくい詩はない。心構えなどしなくても読めるやさしい詩ばかりだ。中井さんが、こころの整理されている、頭のいい方だからだと思う。

二〇一七年十月三十日 「江田浩司さん」

現代詩手帖11月号「レベッカ・ブラウン/ドイツ現代詩」特集号を送っていただいた。ことしの2月に思潮社オンデマンドから出してもらった拙詩集『図書館の掟。』の書評が掲載されているためである。江田浩司さんに評していただいている。はじめてぼくの詩をごらんになったらしい。

二〇一七年十月三十一日 「大谷良太くんちで」

きょうは、お昼から晩まで、大谷良太くんちで、ずっと、ごちそうになってた。お酒ものんでた。詩の話もしていた。つぎに出す詩集の話もしてた。人生について話もしてた。これがいちばんながくて、つらい話だったかもしれない。カンタータ101番。


詩の日めくり 二〇一七年十一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年十一月一日 「年間アンケート」

現代詩手帖の編集部に、年間アンケートの回答をいまメールに添付して送った。2016年の11月から2017年の10月までに読んだ詩集で感銘を受けた詩集を5冊にしぼるのは、けっこうたいへんな作業だった。なぜその5冊にしぼったかの理由を述べる文章は数十分でつくれた。

二〇一七年十一月二日 「ヒロくん」

きょうは、一日中ねてた。ねて夢を見ていたのだけれど、夢の途中で、トイレに行かなければならなくなって、起きたのだけれど、ねると、またその夢のつづきが見れるようになった。で、けさ、見た夢は、むかし、ぼくが30才くらいで、付き合っていた男の子が21才だったころの夢だった。ただすこし、現実とは異なっていた箇所があって、彼の名前はヒロくんと言って、ぼくの詩集にも収録している「年平均 6本。」に出てくるヒロくんなんだけど、下着姿でぼくの目のまえにいたのだった。しかも、いっしょにいたアパートメントが、なにかの宗教施設のようで、ほかにいた青年たちもみな下着姿なのであった。もちろん、ぼくの好みはヒロくんだけなのであって、目移りはしなかったのだけれど、いったい、なんの宗教なのかはわからなかった。まあ、宗教施設のアパートメントじゃない可能性もあるのだけれど。しかし、20年以上むかしに付き合ってた男の子が夢に出てくるなんて、いまのぼくの現実生活にいかに愛情がないか、などということを表されているような気がして、さびしくなったけれど、夢でなら、このあいださいしょに付き合ったノブちんが夢に出てきてくれたように、いくらでも会えるってことかなと思えて、ねるのが楽しみになった。夢のなかだけで会える元彼たちだけれど、めっちゃうれしい。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年十一月三日 「出眠時幻覚。」

きのうも同じものを見た記憶がよみがえった。
ぼくは白人の少年だった。
肉屋で、ソーセージを食べたのだ。
肉屋といっても、なんだかサーカスの小屋みたいなテントのなかで。
売ってるおじさんたちも白人だった。
そのソーセージは
ウサギのような生き物が
自分の肉を火に炙って、それをぼくに渡すのだけれど
最後に苦痛にはじけるように、背中をのばして、顔を苦痛にゆがめて
自分の口に脊髄みたいなものを突っ込むのだ。
ぼくは、そいつが生き物だとは知らないで
肉の人形だから、面白い趣向だなって思ってたんだけど
ぼくの飼ってたウサギが死んで、そいつが売られていたのだった。
そいつが、「ぼくを食べて。」と言って、ぼくに迫ってきたので
「できないよ!」と叫んでいたら
肉屋のおじさんとおばさんが出てきて
白人だったよ
ブッチャーみたいな太ったおじさんと
背の高い痩せた、化粧のケバい白人女性だった。
ぼくのウサギの皮を剥いで、火で真っ赤に焼けた窯のなかに
入れたの、そしたら、ぼくのウサギが苦痛に顔をゆがめて
でも、叫び声をあげなかったけれど
焼けたら、そいつを縛りつけてた鎖がほどけて
そいつが自分の脊髄を自分の口にポンっと放り込んだの。
「ぼくを食べて。」って感じで。
ぼくは逆上して、そこから逃げ出そうとしたら
肉屋のおじさんとおばさんが、ぼくを捕まえようとして迫ってきたの。
逃げようとしたら、何人かの少年たちが皮を剥がれて倒れていたの。
しかも肉が焼かれた色してた。
飴炊きの鴨みたいな皮膚でね。
でもね。
その少年たちが立ちあがって
そのおじさんとおばさんに迫ったの。
ぼくも、そのひとりでね。
ぼくは、脊髄みたいなものを口にポンっと入れて
歩きだしたの。
で、ここで、完全に覚醒したので
覚えているうちに書きこもうと思って
パソコンのスイッチを入れた。
1時間ほどの睡眠だった。
脳が覚醒しだしたのかもしれない。
きのうの朝にも同じものを見た記憶がある。
きのうの朝には
また父親とふたりの弟が出てくる別のものも見た。
とりつかれているのだと思う。
父親と弟に。

二〇一七年十一月四日 「また、やっちゃった。買わずに帰って、やっぱり欲しくなる。」

いまから当時のブックオフに。

東寺ね、笑。
でも、「当時のブックオフ」って言い方、すてきかも、笑。
フランス人のある詩人の書いた小説。
なんで買わなかったんやろうか。
行ってきま〜す。
あるかな。

ありました。
いまから塾に。

『欲望のあいまいな対象』でした。

ついでに買ったもの。

V・E・フランケルの『夜と霧』  
むかし読んだけど、新版って書いてあったので。
105円。
読むと、たしかに以前より文体がやわらかい。

スーザン・ヘイワードの『聖なる知恵の言葉』
おほほほほ、という内容で
あまりに常識的な言葉ばかり並んでるので
へ〜、っと思って。
これも105円。

しかし、ピエール・ルイスの『欲望のあいまいな対象』
あまりにへたくそな訳で、びっくりぎょうてん。
ご、ごむたいな、みたいな。
もちろん、105円でなかったら
買ってないかな。

これからストーンズ聴きながら
『聖なる知恵の言葉』で
おほほほほ。

おやすみなさい。
ドボンッ。

二〇一七年十一月五日 「正しい現実は、どこにあるのか。記憶を正すのも記憶なのか。」

文学極道に投稿していた詩を何度も読み直していた。
もう、何十回も読み直していたものなのだが
一か所の記述に、ふと目がとまった。
記憶がより克明によみがえって
あるひとりの青年の言葉が
●詩を書いていたときの言葉と違っていたことに
気がついたのである。わずか二文字なのだが。
つぎのところである。

●「こんどゆっくり男同士で話しましょう」と言われて   誤
●「こんどゆっくり男同士の話をしましょう」と言われて  正  

誤ったのも記憶ならば
その過ちを正したのも記憶だと思うのだが
文脈的な齟齬がそれをうながした。
音調的には、正すまえのほうがよい。
ぼくは、音調的に記憶を引き出していたのだった。
正せてよかったのだけれど
このことは、ぼくに、ぼくの記憶が
より音調的な要素をもっていることを教えてくれた。
事実よりも、ということである。
映像でも記憶しているのだが
音が記憶に深く関与していることに驚いた。
自分の記憶をすべて正す必要はないが
とにかく、驚かされる出来事だった。

追記
剛くん、ごめんね。
この場所
文学極道の投稿掲示板のもの
訂正しておきました。
もと原稿はこれから直しに。

いや
より詳細に検討しなければならない。
ぼくが●詩を書く段階で
いや
●詩のまえに書いたミクシィの日記での記述の段階で
脳が
音調なうつくしさを優先して言葉を書かしめた可能性があるのだから。
記憶を出す段階で
記憶を言葉にする段階で
音調が深く関わっているということなのだ。
記憶は正しい。
正しいから正せたのだから。
記憶を抽出する段階で
事実をゆがめたのだ。
音調。
これは、ぼくにとって呼吸のようなもので
ふだんから、音楽のようにしゃべり
音楽のように書く癖があるので
思考も音楽に支配されている部分が大いにある。
まあそれが、ぼくに詩を書かせる駆動力になっているのだろうけれど。
大部分かもしれない。
音調。
恩寵でもあるのだけれど。
おんちょう。

二〇一七年十一月六日 「友だちの役に立てるって、ええやん。友だちの役に立ったら、うれしいやん。」

むかし付き合った男の子で
友だちから相談をうけてねって
ちょっとうっとうしいニュアンスで話したときに
「友だちの役に立てるって、ええやん。」
「友だちの役に立ったら、うれしいやん。」
と言ってたことを思い出した。
ああ
この子は
打算だとか見返りを求めない子なのね
自分が損するばかりでイヤだなあ
とかといった思いをしないタイプの人間なんだなって思った。
ちょっとヤンキーぽくって
バカっぽかったのだけれど、笑。
ぼくは見かけが、賢そうな子がダメで
バカっぽくなければ魅力を感じないんやけど
ほんとのバカはだめで
その子もけっしてバカじゃなかった。
顔はおバカって感じだったけど。

本当の親切とは
親切にするなどとは
考えもせずに
行われるものだ。
           (老子)

二〇一七年十一月七日 「The Things We Do For Love」

つぎの詩集に収録する詩を読み直してたら、西寺郷太ちゃんの名前を間違えてた。

『The Things We Do For Love。』を読み直してたら
郷太ちゃんの「ゴー」を「豪」にしてた。
気がついてよかった。
ツイッターでフォローしてくれてるんだけど
ノーナ・リーブズのリーダーで
いまの日本で、ぼくの知るかぎりでは、唯一の天才作曲家で
声もすばらしい。
ところで数ヶ月前
某所である青年に出会い
「もしかして、きみ、西寺郷太くん?」
ってたずねたことがあって
メイクラブしたあと
そのあとお好み焼き屋でお酒も飲んだのだけれど
ああ
これは、ヒロくんパターンね
彼も作曲家だった。
西寺郷太そっくりで
彼と出会ってすぐに
郷太ちゃんのほうから
ツイッターをフォローしてくれたので
いまだに、それを疑ってるんだけど
「違います。」
って、言われて、でも
そっくりだった。
違うんだろうけれどね。
話を聞くと
福岡に行ってたらしいから。
ちょっと前まで。
福岡の話は面白かった。
フンドシ・バーで
「フンドシになって。」
って店のマスターに言われて
なったら、まわりじゅうからお酒がふるまわれて
それで、ベロンベロンになって酔ったら
さわりまくられて、裸にされたって。
手足を振り回して暴れまくったって。
たしかにはげしい気性をしてそうだった。
ぼくに
「芸術家だったら、売れなきゃいけません。」
「田中さんをけなす人がいたら、
 そのひとは田中さんを宣伝してくれてるんですよ。
 そうでしょ? そう考えられませんか?」
ぼくよりずっと若いのに、賢いことを言うなあって思った。
ひとつ目の言葉には納得できないけど。
26歳か。
CMの曲を書いたり
バンド活動もしてるって言ってたなあ。
CMはコンペだって。
コンペって聞くと、うへ〜って思っちゃう。
芸術のわからないクズのような連中が
うるさく言う感じ。
そうそう
作曲家っていえば
むかし付き合ってたタンタンも有名なアーティストの曲を書いていた。
聞いてびっくりした。
シンガーソングライターってことになってる連中の
多くがゴーストライターを持ってるなんてね。
ひどい話だ。
ぼくの耳には、タンタンの曲は、どれも同じように聞こえたけど。
そういえば
CMで流れていた
伊藤ハムかな
あの太い声は印象的だった。
そのR&Bを歌っていた歌手とも付き合ってたけれど
後輩から言い寄られて困ったって言ってたけど
カミングアウトしたらいいのに。
「きみはタイプじゃないよ。」って。
もっとラフに生きればいのに。
タンタンどうしてるだろ。


太郎ちゃんのコメント

懐かしい!! タンタン。
感じいいひとだったよね。
どーしてるかな!?


ぼくのお返事

宇多田ヒカルといっしょにニューヨークに行ったけど
すぐ帰ってきちゃったみたい。
そのあと
ぼく以前に付き合ってた俳優とよりを戻したとか。

そのあと
なんか、静岡だったかな
そこらへんのひとと付き合ってたってとこまでは聞いてるけど
いまは消息わからず。
タンタンをぼくに紹介した
30年来のオカマの友だちのタクちゃんと

いままでいっしょだったんだけど
タクちゃんと仲が悪くなって
連絡しても無視するわ
そんなこと言ってたかな。
ぼくんちに俳優のひと
いまはあまり見かけないけど
付き合ってた当時は売れてたわ
そのひとつれてきたこともあるんだけど
趣味悪いわ〜。
ぼくは玄関から出て行かなかったけど。

ぼくとよりを戻すために
その俳優つれてきたのね。
なんとか豊って名前だったわ。
精神的なゲイなんだって。
タンタンと付き合ってるときにも
セックスなかったって。
ただいっしょにいてるだけだって。
そんなひともいるんだね〜。

二〇一七年十一月八日 「ふるさと遠く」

日知庵から帰ってきた。ケンコバに似た青年がいた。ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』をまだ読んでいるのだが、さいごに収録されているタイトル作品を、きょうは読みながら寝ることにする。丹念に読んでいると思うが、テヴィスはあまり高く評価されていないようだが、すばらしい作家である。

二〇一七年十一月九日 「荒木時彦くん」

荒木時彦くんから詩集『NOTE 002』を送ってもらった。これまで、この詩人の構築する世界感は、現実的でもあるが、一部、非現実的なところがあるのが特徴であったが、この詩集では徹底的に現実的である。哲学的な断章ともとれる一面もある。知的な詩人の知的な詩集だ。

二〇一七年十一月十日 「秋亜綺羅さん」

秋亜綺羅さんから、ご本『言葉で世界を裏返せ!』を送っていただいた。ご本と書いて詩集と書かなかったのは、内容が詩集ではなくエッセー集であったためである。社会的な出来事を扱ったものが多いのも特徴で、とりわけ、ぼくにはその視点が抜けているので興味深く読んだ。

二〇一七年十一月十一日 「藤本哲明さん」

藤本哲明さんから、詩集『ディオニソスの居場所』を送っていただいた。軽快な口調で重たい内容がつづってあって、その点にまず目がひかれた。個人的な体験も盛り込んであって、そこのところの現実性に確信を持たせないところが、ぼくには逆に魅力的で不思議な読書体験だった。

二〇一七年十一月十二日 「ライス」

日知庵から帰ってきて、チューブで、お笑いを見てた。ライスというコンビのものがおもしろい。ゲイ・ネタもいくつかあって、不快感もないものだった。ストレートのつくるゲイ・ネタには、ときどき不快感を催させるものがある。ライスのは違った。

二〇一七年十一月十三日 「ふるさと遠く」

きのう、ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』のさいごに収録されているタイトル作品を読んで寝るつもりだったのだが、きょう、送っていただいた詩集の読み直しをしていたので、読めなかったのだった。きょうこそ、タイトル作品「ふるさと遠く」を読んで寝よう。おやすみ。ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』の表紙絵。いまこんなすてきな表紙の文庫本てないよね。

二〇一七年十一月十四日 「出眠時幻覚すさまじく。」

ぼくの生家は田舎じゃなかったのに 田舎になっていて
でも、ぼくは近所に
先輩らしきひとといっしょに同居していて
その先輩が、なにかと、裸になりたがって
ぼくに迫ってくるっていうもの。
チンポコ丸出しで
パンツ脱いで
ぼくの顔におしつけてきて
「困ったもんですなあ」
を連発しているときに目が覚めた。
チンポコがほっぺたにあたる感触があって
びっくりした。
精神状態がちょっと乱れてるのかも。
その前に
その田舎の生家で
継母と暮らしていて
夜中に雨のなか
裸足になって
蛙を獲りに出かけるってシーンもあった。

二〇一七年十一月十五日 「アメリカ。」

ノブユキ
「しょうもない人生してる。」
何年ぶりやろか。
「すぐにわかった?」
「わかった。」
「そしたら、なんで避けたん?」
「相方といっしょにきてるから。」
アメリカ。
ぼくが28歳で
ノブユキは20歳やったやろうか。
はじめて会ったとき
ぼくが手をにぎったら
その手を振り払って
もう一度、手をにぎったら、にぎり返してきた。
「5年ぶり?」
「それぐらいかな。」
シアトルの大学にいたノブユキと
付き合ってた3年くらいのことが
きょう、日知庵から帰る途中
西大路松原から見た
月の光が思い出させてくれた。
アメリカ。
「ごめんね。」
「いいよ。ノブユキが幸せやったらええんよ。」
「ごめんね。」
「いいよ、ノブユキが幸せやったらええんよ。」
アメリカ。
ノブちん。
「しょうもない人生してる。」
「どこがしょうもないねん?」
西大路松原から見た
月の光が思い出させてくれた。
アメリカ。
「どこの窓から見ても
 すっごいきれいな夕焼けやねんけど
 毎日見てたら、感動せえへんようになるよ。」
ノブユキ。
歯磨き。
紙飛行機。
「しょうもない人生してる。」
「どこがしょうもないねん?」
「ごめんね。」
「いいよ、ノブユキが幸せやったらええんよ。」
アメリカ。
シアトル。
「ごめんね。」
「ごめんね。」

二〇一七年十一月十六日 「キス・キス」

きょうから、早川書房の異色作家短篇集の再読をしながら寝る。きょうの晩は、第一巻の、ロアルド・ダールの『キス・キス』を再読する。2005年に再刊されたもので、ぼくは、それが出たときに読んだはずだから、10数年ぶりに読むことになる。ひとつも物語を憶えていない。おもしろいかな。どだろ。

二〇一七年十一月十七日 「The Wasteless Land.V」

さいきん、『The Wasteless Land.V』を買ってくださった方がいたようだ。Amazon での売り上げランキングが変わっていた。これは、100ページに至る長篇詩と30ページほどの長篇詩の2つの長篇詩が収められているもので、さいしょのものは、いつも行く日知庵が舞台である。

二〇一七年十一月十八日 「タワー・オブ・パワー」

ここ1週間ばかりのうちでは、めずらしくCDを聴いている。いま聴いているのは、タワー・オブ・パワーだ。やっぱりファンクもいい。つぎは80年代ポップスを聴こう。ぼくが20代だったころの音楽だ。ガチャガチャとうるさくて、チープな曲が多かった。ぼくもガチャガチャとうるさくて、チープだった。


二〇一七年十一月十九日 「キス・キス」

まだ、ロアルド・ダールの短篇集『キス・キス』を読んでる途中。ほんとに、文字を読む速度が落ちている。きょうは、英語の字幕で韓国映画を半日みてた。韓国語ができればいいんだろうけれど、うううん。日本語の字幕があればもっとよいのだが、英語の字幕でもあるだけましか。

二〇一七年十一月二十日 「キス・キス」

日知庵からの帰り道、T・REXの曲を何曲か思い出しながら歩いてた。きょうも、寝るまえの読書は、ロアルド・ダールの短篇集『キス・キス』のつづきを。きのう、『豚』の4まで読んだ。きょうは5から。

二〇一七年十一月二十一日 「さあ、気ちがいになりなさい」

さっき、ロアルド・ダールの短篇集『キス・キス』を読み終わった。きょうから、フレドリック・ブラウンの短篇集『さあ、気ちがいになりなさい』を読み直す。これまた、話を憶えていないものばかり。おもしろいかな。どだろ。

二〇一七年十一月二十二日 「暗闇のスキャナー」

いま日知庵から帰った。きのうは、ブラウンの短篇を3作、読んで寝た。きょうは、どだろ。それにしても、ことし読み直してる短篇集、読んだ記憶のあるものが少ないなあ。10作もないんじゃないかな。ディックでも読み直そうか。短篇じゃなく長篇を。『暗闇のスキャナー』を読んで、むかし、涙したな。

二〇一七年十一月二十三日 「現代詩」

河津聖恵さんがFBで、「現代詩とは?」といった問いかけをされてたので、ぼくは、こうコメントした。

ぼくの持っている CONTEMPORARY AMERICAN POETRY には、さいしょに Wiliam Stafford (b.1914) が入っていて、さいごに Ron Padgett(b.1942) が入っています。あいだに、ロバート・ローウェルやロバート・フライやアレン・ギンズバーグやジョン・アッシュベリーやゲイリー・シュナイダーやシルヴィア・プラスなどが入っています。これらは、ペンギン・ブックスですが、オックスフォード出版では 20th-Century Poetry & Poetics では、さいしょに、イエーツ (1865-1939) が入っていて、さいごは Tim Liburn(b.1950) で終わっています。ところで、「日本での戦後詩」という枠で、ある時代の詩を捉えることは、ぼくは以前からおかしいなと思っていました。しかし、語的には、戦後、発表された詩がすべて戦後詩かなあとは思います。語の厳密な意味からすれば、ということですが。一方、現代詩とは、いま現在、書かれている詩。おそらくは、過去、数年から十数年から現在まで、というスパーンあたりじゃないでしょうか。ぼくから見ると、橘上さんあたりが、現代詩の先鋒じゃないかなと思っています。いま思い出したのですが、イギリスで、第一次世界大戦のときに書かれた詩のアンソロジーがあったように記憶しています。ぼくは持ってないですけど。現代詩ねえ。ぼくは、過去、数年から十数年までが限界かなって思います。20年以上もまえに書かれたものを現代詩とは、ぼくは呼べないなあと思います。

二〇一七年十一月二十四日 「ごはん食べて、ずっと寝てた。これから塾。」

ふだんのストレスって
そうとうなものだったんだろうね。
学校がないと
寝まくり。
こんなに寝たのは、もう何年ぶりか
思い出せないくらい。
食べすぎで
眠たくなったんだろうけれど
ストレスがなくなったことがいちばんの原因だと思う。

二〇一七年十一月二十五日 「「タイタンの妖女」、「ガラパゴスの箱舟」、「ホーカス・ポーカス」。」

シンちゃんのひとこと。
夕方にシンちゃんから電話。
電話の終わりのほうで
さいきんのぼくの「●詩」は、どう? って訊いた。
「気持ち悪い。」
そうなんや。
「気持ち悪いって、はじめて言われた。」
「言わんやろうなあ。」
笑ってしまった。
さいきん、ヴォネガットを3冊ばかり読んでて
とてもむなしい気持ちになった。
なぜかしら、そのむなしさに、詩集をまとめろと促された気がする。
きょう、通勤の途中
徒歩で坂を上り下りしているときに
「マールボロ。」について考えてた。
あれはすべてシンちゃんの言葉でつくったものだったけれど
シンちゃんは「これは、オレとちがう。」
と言った。
このことは、ここにも何度か書いたことがあるけれど
ぼくが「マールボロ。」で見た光や、感じたものは
みんな、ぼくが見た光や、感じたものやったんやね。
見る光や、感じるもの、と現在形で言い表してもいいけれど。
他人の作品でも、そうなんやね。
自分を読んでるんやろうね。
ヴォネガット、むかしは好きじゃない作家だった。
20代で読んだときには、こころ動かされなかった。
http://jp.youtube.com/watch?v=MlPQDFjFOmA&feature=related
名曲ではないだろうけれど
韓国語も、ぼくにはわからないのだけれど
この曲が、きょう耳にしたたくさんの音楽のなかで
いちばん、こころにしみた。

ぼくがこれまで読んだことのある詩や小説の傑作中の傑作のなかの
どんなにすごい描写でも、この曲のなかにある
わずか数秒のシャウトの声に勝るものがないのは、なんでやろうか。

生の真実がどこにあるのか、わからないまま死んでしまうような気がするけれど
それに、そもそも、生に真実があるのかどうかもわからないのだけれど
ファウスト博士のように、「瞬間よ、おまえは美しい。」と言って
死ねればいいね。
そのときには、上の Rain の曲のように心地よい音楽が流れていてほしい。

土曜日に会った24歳の青年が、ぼくに訊いた。
「痛くない自殺の仕方ってありますか。」
即座に、「ない。」と、ぼくは答えた。
人好きのする好青年なのに。
なぜかしら、だれもがみんな死にたがる。
「おれ、エロいことばっかり考えてて
 女とやることしか楽しみがないんですよ。」
いたって、ふつうだと思うのだけれど
それが死にたいっていう気持ちにさせるわけではないやろうに。

きのう話をした青年には、ぼくのほうからこんなことを尋ねた。
「なにがいちばん怖いと思う?」
即座に、「人間。」という返事。
彼もまた、人好きのする好青年なのだけれど。
「ぼくも生きている人間がいちばん怖い。」
でも、なんで?
「嘘をつくでしょう。」

たしかに、自分自身をだますことも平気だものね。
でも、ぼくだって、嘘をつくことよりもひどいことを
平気ですることもあるんだよ。

なにかが間違っているのか
どこかが間違っているのか
いや、間違っているのじゃなくて
パズルのピースが合わないというのか
そんな感じがする。
ぴったり収まるパズルがあると思っているわけじゃないけど。

ふたりとも、悩み事などないような顔をしていた。
ふたりとも童顔なので、笑うと子どもみたいだった。
子どもみたいな無邪気な笑顔を見せるふたりの言葉は
ぼく自身の言葉でもあった。
もうどんな言葉を耳にしても、目にしても
ぼくは、ぼく以外のものの言葉を、耳や目にしないような気がする。
ヴォネガットを読むことは、ぼくを読むことで
いまさらながら、人生がむなしいことを再確認することに等しい。
でも、やめられないのだ。

二〇一七年十一月二十六日 「死んだ女の気配で目が覚めた。」

祇園の家の裏を夜に中学生くらいの子供たちが自分たちの親といっしょに
車に乗り付けてくる。
いま祇園の実家は、もうないのだけれど
それから日が変わるのかどうかわからないが
雨の夜、その子供たちが黒装束で家の裏をうろうろする。
ぼくは気持ち悪くなって
下の弟と黄色い太いビニールの縄を家の裏に
太い鉄のパイプのようなピケのようなものの間に張り渡す。
これで、子供たちが入ってこられないやと思って雨のなか
子供たちのいた方向に目をやると
黒いコートを着た死んだ女が立っていた。
彼女がなぜ死んだ女なのかはわからないけれど
死んでいることはわかった。
弟とすぐに家に戻った。
するとぼくはもう、ふとんのなかに横になってまどろんでいて
それにもう弟も子供ではなくて
当然ながら祇園の家での映像体験は
ぼくも若かったし弟も中学生ぐらいだったし
でも、もう、いまのぼくの部屋だから
ああ、もうそろそろ目がさめかけてきたなあと
なぜ弟はぼくの夢のなかで、いつも子供時代なのだろうかわからないけれど
と思っていたら
死んだ女の気配が横にして
ひゃ〜と思ったら
弟の子供時代の声の笑い声がして
それで、ぼくはなんや驚かしやがって、と思って
「なんや」と声を出したんだけど
出したと思ったんやけど
するとやっぱり、死んだ女が横にいる気配が生々しくして
怖くなって叫ぼうとしたら
声が出なくて
で、ぼくの身体も上向きから
その女に背中を向ける格好にぐいぐいとゆっくり押されていって
でも手は触れられていなくて
背中が何かの力で均等に押されて横になっていって
これから先は、どんな目に遭うのかと思ったら
手の先だけは動かせて
手元にあった電灯のリモコンを握って
スウィッチを押して明かりをつると
死んだ女の気配がなくなった。
死んだ女は、ぼくの母親でもなく
若い女だった。
知らない女で
顔もわからず、ただ若いことだけがわかった。
実体がある感じが生々しくて気持ち悪かった。
12時にクスリをのんで1時に寝た。
3時50分にいったん目がさめて
うつらうつらしていたのだが
また半覚醒状態で眠っていたみたいで
きのうもサスペンス映画のような夢を見たけれど
学校のなかで、ひとりの子供が人質になっていて
その子供を捜して学校中を探すのだけれど
探しているときに、ぼくの実母からのモーニング・コールで
目が覚めたのだ。
きょうの夢はひさびさに実体感のある肉体が横にいて気持ち悪かった。
クスリが効かなくなってきたのかもしれない。
クスリの効果が低くなると悪夢を見る。
クスリがないころには
つまり神経科医院に通院する前には
ずっと毎日、死者が出てくる怖い夢や、ぼくが人に殺されたりする
血まみれの悪夢の連続だった。
今年のはじまり、こんな夢で、とても心配だけれど
病気が進行している兆候だったとしたら
怖い。
きのう書かなかったけれど
おとつい
若い詩人を見送ったあとの記憶がなくって
目が覚めたら、ふとんのなかにいた。
ぼくはガレージのところで詩人を見送ったところまでは覚えているのだけれど
ふとんをひいた記憶などまったくなくって
これで、ことし、気を失ったり
記憶をなくしたりするのは、2度。
禍転じて福となればいいんだけれど。

二〇一七年十一月二十七日 「人間は人間からできている。」

吉田くんは、山本くんと佐藤さんと村上くんとからできている。
山本くんは脳なしだけど、佐藤さんはすこぶる腹黒い女で
村上くんは、インポテンツで、底なしの間抜けである。
吉田くんのモデルは、ぼくの高校時代のクラスメートである。
柔軟体操の途中で、首の骨がボキッってなったけれど
なんともなかったのは不思議だ。
人名を変えるぐらいの名言に出合う。
吉田くんのモデルには、予備校に勤めていたときの生徒の
吉田くんのイメージも付加されている。
人間の魅力は、どこにあるのだろう。
かしこさにあるのでもないし
ましてや、おろかさのなかにあるのでもないし
臆病さや、やさしさのなかにあるのでもないような気がする。
全体なんだけれど、あるとき、または、別のあるとき
あるとき、あるときの表情やしぐさや言葉が
ダブル・ヴィジョンのように
幾重にも重なって、ある雰囲気をつくるんだね。
でも、ときたま、その雰囲気をぶち壊されるときがあって
そんなときには、ほんとうにびっくりさせられる。
ことに、恋からさめた瞬間の恋人の表情とか言葉や行動に。
友人にも驚かされることがあるけれど
恋人ほどではないね。

二〇一七年十一月二十八日 「●ゴオガンの」

●ゴオガンの●菜の花つづく●あだし身に●きらめき光る●やは肌の●母●

●裂かれゐる●君が描く●うつくしき春●


剽窃先は

与謝野晶子ちゃんの

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

はてもなく菜の花つづく宵月夜母がうまれし国美くしき

斎藤茂吉ちゃんの

はるばると母は戦を思ひたまふ桑の木の実の熟める畑に

ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕殺ししその日おもほゆ

若山牧水ちゃんの

みづからのいのちともなきあだし身に夏の青き葉きらめき光る

正岡子規ちゃんの

うつくしき春の夕や人ちらほら

水原秋桜子ちゃんの

日輪のまばゆき鮫は裂かれゐる

君が描く冬青草の青冴ゆる

機械的につくったほうがいいかもね。
意味が生じるようにつくると
ありきたりな感じになっちゃうね。
もっと知識があれば、遊べるんやろうけれど
きょうは、ここまでで1時間くらいかかっちゃった。
疲れた。

二〇一七年十一月二十九日 「おにぎり頭のチキンなチキンが、キチンでキチンと大空を大まばたきする。」

はばたきやないのよ、まばたきなのよ〜!
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
ケケーッと叫びながら紫色の千切れた舌をだして目をグリグリさせる始祖鳥や
六本指を旋回させながら空中を躍りまわる極彩色のシーラカンスたちや
何重にもなった座布団をくるくる回しながら出てくる何人もの桂小枝たちや
何十人もの久米宏たちが着物姿で扇子を仰ぎながら日本舞踊を舞いながら出てくる
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
円は演技し渦状する。
円は縁起し過剰する。
風のなかで回転し
水のなかで回転し
土のなかで回転する
もう大丈夫と笑いながら、かたつむりがワンタンを食べながら葉っぱの上をすべってる
なんだってできるさとうそぶくかわうそが映画館の隅で浮かれてくるくる踊ってる
冬眠中のお母さんクマのお腹のなかの赤ちゃんクマがへその緒をマイク代わりに歌ってる
真冬の繁華街でカラフルなアイスクリームが空中をヒュンヒュン飛び回ってる
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
しかし、あくまでも、じょうずに円をかくことが大事ね。
笑。

二〇一七年十一月三十日 「犬が男便所で立ち小便しているところを想像して」

犬が男便所で立ち小便しているところを想像して
っていうやつ
まだタイトルだけなんやけど
って言ったら
ジミーちゃん
電話で二秒ほどの沈黙
ううううん
何か動きそうなんやけど
そうそう
自分のチンチンが持てないから
バランスがとれなくて
ひゃっひゃっ
って感じで
ふらふらしてる犬ってのは
どうよ!

二〇一七年十一月三十一日 「電車の向かい側に坐っていた老人が」

電車の向かい側に坐っていた老人が
タバコに火をつけて一服しはじめた
といっても
じっさいにはタバコを吸っているわけではなくって
タバコを吸っている様子をしだしたってことなんだけど
タバコを吸っている気になる錠剤を
さっき口にするのを目にしたんだけど
それがようやく効き目を現わしてきたんだろう
老人はさもおいしそうにタバコを味わっていた
指の間には何もなかったけれど
老人の指の形を見ていると
見えないタバコが見えてくるような気がした
老人は煙を吐き出す形に口をすぼめて息を吐いた
ふいに、左目を殴られた
いや、殴られた感触がしたのだ
わたしにも薬が効いてきたようだ
わたしはファイティングポーズをとった
隣の主婦らしき女性が幼い子どもの手を引っ張って
わたしから離れたところに坐りなおした
いまこそまことに平和で健康な時代なのだ
安心してタバコが吸える
ケガなくして拳闘できる
スリルと危険に満ちた文明時代なのだ


詩の日めくり 二〇一七年十二月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年十二月一日 「みかんの皮」

こんな時間にどうしたの
そう訊くと彼は
考え事をしていて出てきたんです
こんな時間まで起きて何を考えてたの
ってさらに訊くと彼は
数学です
へえ
きみって学生なの
ええ
京大?
はい
ふうん
発展場として有名な葵橋の下で
冬だったのかな
正確な季節はわかんないけど
朝の5時ころに
河川敷に腰を下ろして川の水を眺めている青年がいた
ふつうの体型だったけれど
素朴な感じの男の子で
ぼくはその日は夜の12時頃から
てきとうにメイクラブできそうな相手をさがして
ぶらぶらしてたんだけど
タイプがいなかった
少し明るくなってきた
朝の5時ころに
ぽつんとひざを折って坐ってる青年の姿を見つけて
近づいていったんだけれど
彼はべつに警戒するわけでもなく
またゲイでもなかったみたいで
ほんとに数学の問題を考えてて
部屋を出てきたみたいだった
ぼくは彼の指先を見て
きみ
みかん食べてたやろ
というと
なんでわかるんですか
って返事
ぼくは
その男の子の手の先を指差して
黄色くなってるからね
っていった
そういえば
ゲイスナックで
むかし
隣に坐ってたひとに
あなたの仕事って印刷関係でしょう?
っていって
びっくりさせたことがある
あたってたのだ
指の先に
黒いインクがちょこっとついてたから
ぼくの指先にもいろんなものがついてた
灰色の合計
猛烈煙ダッシュ
ストロボ・ボックスに
ハトロン紙のような
ミルク・キャラメルの包み紙
別れ際の言葉を忘れてしまった
さよならだったのかな

二〇一七年十二月二日 「トマス・ケイン博士」

きのう、というか、今朝、夢を見た。メモしたのだけれど、メルヘンじみたものだった。SFの要素もある。きょうは、もうヨッパなので、あしたにでも書く。日知庵で考えていたのだが、矛盾がボロボロ出てくるような夢だった。まあ、夢って。そういうものなのだろうけれど。

あるジェル状の物質をくっつけると、それが硬まるにつれて結合しようという働きが生じることをトマス・ケイン博士が発見した。どんなに離れていても結合しようとするのだ。製品化した商品を、ある少年が両親の寝巻のまえにくっつけた。前日に両親が別れ話をしているのをこぼれ聞いてしまったのだった。

二〇一七年十二月三日 「一角獣・多角獣」

きょうから、寝るまえの読書は、シオドア・スタージョン異色作家短篇集の第3巻、『一角獣・多角獣』。ぼくの大好きな作家だけれど、これ、おもしろかったかどうかは、記憶にない。どだろ。読みながら寝るけど。おやすみ。

夢を見た。若いぼくが自衛隊のようなところで試験を受けてた。原爆を使ってもいいかという書き込み欄に、よいと答えた。ぼくに話しかけてくる青年たちは、みな日本語を話していた。冗談のつもりで、ぼくの用紙を奪うヤツがいて喧嘩になったが、現実とは違って、夢のなかのぼくは引き下がらなかった。

二〇一七年十二月四日 「うつの薬の処方はなしに」

パパの頭に火をつけて
ひと吸い
きょうのパパは
あまりおいしくなかった
ぼくの健康状態が悪いのかもしれない
パパの頭を灰皿に圧しつける
パパの頭だけがぽろりとはずれる
思い出したことがあるので
本棚からママを取り出して
開いて見た
ママのにおいがする
顔を近づけた
やっぱりママのにおいが好きだ
ママを本棚に戻すと
灰皿のなかからパパを取り上げて
もう一度
パパに火をつける
どうしてまずいと思ったんだろう
パパの首の先から
ホー
 ホケキョ

きょうは神経科の病院に
うつの薬の処方はなしに
先生がぼくの言うとおりのぼくだと思っているということが
ぼくには怖い
そんなにはやく
うつって治るのかどうか
大丈夫でしょうということだけど
ほんまかいな
と思った

二〇一七年十二月五日 「ミクシィ・ニュースで知った。」

ミクシィ・ニュースで知った。
なぜ子どもも苦しまなければならないのですか
という7歳の女の子の質問に、
法王が、「わたしも、なぜだかは知りません。
でも、その苦痛は無意味なものではありません。」と答えたらしい。
7歳の女の子にわかるかどうかわからないけれど。
なんだか、涙がにじんでしまった。

これから五条大宮の公園に行って、
ロレンスの全詩集のつづきを読んでくるね。
休日の公園の風景に、
初老の詩人が詩を読む風景をつけ加えてあげよう。
こうやって毎週のように、ぼくが風景になってあげると、
公園も喜んでくれるかなあ。
家族連れの賑やかな声とか
犬の散歩にきてる人の優しさに混じって。

二〇一七年十二月六日 「ポール・マッカートニー」

ポール・マッカートニーが好き過ぎて、聴き過ぎて、CDをほとんどぜんぶブックオフに売っぱらっちゃったことがあって、買い直しをしてるんだけど、CDとしていまいちなのが高過ぎて買うのがためらわれるものがある。ブロードウェイのことなんだけどね。なんで、高いのか、よくわからん。というか、ポール・マッカートニーのCDは、ビートルズくらいにすごいんだから、つねに新譜で売れよって気がする。どだろ。本でたとえるなら、シェイクスピアやゲーテくらいにすごいと思うんだけど。あ、時代を考えたら、エズラ・パウンドやジェイムズ・メリルくらいにすごいんだからって思っているけど、どだろ。

「愛するとは受け取ることの極致である。」(シオドア・スタージョン『一角獣の泉』小笠原豊樹訳)

「ウサギたちはまだ隠れていた。」(シオドア・スタージョン『一角獣の泉』小笠原豊樹訳)

「夢はもう終わりかい?」(シオドア・スタージョン『熊人形』小笠原豊樹訳)

二〇一七年十二月七日 「アインシュタインの言葉」

The man who regards his own life and that of his fellow creatures as meaningless is not merely unfortunate but almost disqualified for life.

自分や他人の命を意味が無いと考える人間は、不幸であるだけでなく、ほぼ生きる資格がない。 (ツイートで拾った言葉)

二〇一七年十二月八日 「奇妙な食べ物。」

珈琲キュウリ
麦トマト
時雨れ豆
窓ぜんざい
睡眠納豆
足蹴り餃子
夢遊病アイス
百年スイカ
ブリキ味噌汁
象コロッケ
絵本うどん
カニ牛乳
鸚鵡ソバ
加齢ライス
文句鍋
砂足汁
嘔吐ミルク
福利ゼンマイ
怪談料理
囀りモヤシ
ゴム飴
鋏茶漬け
針豆腐
朗読ソース
路地胡椒
ラブマヨネーズ
地雷ヤキソバ

二〇一七年十二月九日 「ブリかま」

いま日知庵から帰った。ブリのお造りと、かまあげというんだっけ、ブリの背中から首から上の方を炭火で焼いてくれたものがおいしかった。また、30年ぶりかで、バカルディを飲んだ。めっちゃ、あまくて、おいしかった。わかいときにのんだなあって思い出していた。おいしかったあ。かまあげちゃうわ。ブリかまやわ。あれ、またまた違っちゃったっけ? うううん。料理の名前はむずかしい。

きょうも、スタージョンの短篇集を読んで寝よう。きのう読んだ「熊人形」すごくよい。むかし読んだときもよいと思ったけど。残酷な感じとナイーブな感じがちょうどよい感じでブレンドされてて、まったく記憶にはなかったけれど、読んだら数ページで全内容をすぐさま思い出した。スタージョンの傑作だ。

いま、ユーミンを聴いている。「守ってあげたい。」フトシくんとのカラオケの思い出だ。すべては去りゆく。思い出だけが残る。いや、思い出だけが、ぼくたちのことを思い出すのだ。思い出に思い出されないものは、どこにあるのだろう。それもまたぼくたちといっしょにあるのだろうけど思い出されない。でも、まあ、ふと思い出されることもあるので、どんなくっつきかたをしてるのかはわからないけれど、この身にはなれずくっついているのだろう。忘れていたが思い出されたときに、そんなことを考えたことがあった。名前は忘れた。石垣島出身の青年のことだ。

二〇一七年十二月十日 「カラオケ」

日知庵、それからFくんとカラオケに行って、いま帰った。おいしいお酒と肴のあとに、なつかしい、すばらしい曲の数々。お酒とビートルズはやっぱり人生の基本だと思った。きょうも、スタージョンの短篇を読みながら眠ろう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年十二月十一日 「ちょこんとしたものを書いてみた。」

きれいに顎が冷えている。
コンニャク・ツリー。
指を申し上げてみました。

二〇一七年十二月十二日 「義務と権利。」

ひとの頭をおかしくする義務を果たしたら、自分の頭がおかしくなる権利を持てる。みんな義務も果たしてるし、 権利もぜんぜん無視されていないと思う 。

ひとの読んでる本のページをめくる義務を果たしたら、自分の読んでいる本のページをめくる権利を持てる。みんな義務も果たしてるし、 権利もぜんぜん無視されていないと思う 。

ひとが嫌がることをする義務を果たしたら、自分が嫌がることをする権利を持てる。みんな義務も果たしてるし、 権利もぜんぜん無視されていないと思う 。

ひとを幸せにする義務を果たしたら、 自分が幸せになる権利を持てる。 みんな義務も果たしてるし、 権利もぜんぜん無視されていないと思う 。

ひとを悲しくする義務を果たしたら、自分が悲しくなる権利を持てる。みんな義務も果たしてるし、 権利もぜんぜん無視されていないと思う 。

二〇一七年十二月十三日 「2011年3月27日のメモ」

股間に蝙蝠が棲んでいることを、どうして知っているの?

詩のなかに、流れる川の水について書く前に
流れる川の水が詩のなかで囀り流れていたのだった。

まるで道路自体が殺到するかのように
人々は一つの生き物のようにすばやく足を運んでいるのであった。

壁から〜する人々がにじみ出てきた。
いや、わたしのほうが違う部屋に移動したのであった。

二〇一七年十二月十四日 「いまふと思いついて、メモするのが面倒なので、直接書き込む。」

ぼくが書きつけた言葉について、言葉自体が
ぼくが知っていると思っている以上のことを知っている可能性について
思いを馳せること。

それが明らかになるときに、言葉はぼくのこころの目を開かせたことになる。
あるいは、こう言い直すことができる。それが明らかになったとき、ぼくは
新しいこころの目をもつことができるのだ、と。

新しい耳をもつことと同様に、新しい目をもつことはとても難しいし、
とても貴重な体験だ。その体験を得るために、できるかぎりのことを
しなければならない。「ねばならない」というのは、ぼくがいちばん
嫌いな言葉だけれど。

そして新しい声をもつこと。

詩人の役目って、そのどれもだな、きっと。

新しい耳をもち、新しい目をもち、あたらしい声をもつこと。
言葉自体が聞かせてくれる新しい声、
言葉自体が見せてくれる新しい顔、

言葉自体が語ってくれる新しい言葉のように。

二〇一七年十二月十五日 「途中で読むのをやめた本に挟まっていた日付のあるメモ2つ」

ナボコフの『青白い炎』の詩のパートのページにはさまっていた。
気がつかなかったメモ2枚から

2011年2月17日

精神がつくったものは、精神が簡単に壊せるとワイルドは語っていたが
精神がつくったものは、けっして壊せないものなのだ。なかったものと
することなどできないのだ。たとえ、忘却という無意識レベルの相のもの
に移行したとしても、そのつくられたものの影響は必ず残っており、なに
かがきっかけとなってふたたび精神の目の前に姿をあらすことがあるのだ。
隠れているのではない。精神の目が見ていないだけなのだ。精神の目が
自ら目隠しをしているのだ。無意識に。
 ただ、興味深いことに、精神がつくったものは、けっして同じ姿を
見せることはないのである。つねに変化しているのだ。つねにほかの
意味概念との間に与え合い受け取り合うものがあって変化しているのだ。
すべてのものが自ら変化し他のものを変化させるものなのだから。すべて
のものが他のものを変化させ自ら変化するものなのだから。

2011年2月17日

 たくさんの経験から少ししか学べないときもあるし、少しの経験から
たくさん学ぶときもある。しかし、学ぶ機会を少しでも多く持つために
は、やはり、たくさん読んで、たくさんこころに残すために書きうつし、
文字の形をペンでなぞり、手と目という肉体を通して、ぼくのこころに
刷り込まなければならない。学ぶ才能が乏しいぼくかもしれないから、
繰り返し書きうつすことが必要だ。引用のみによる作品をつくっている
ときには、はげしく書きうつしている。
 たくさんの経験から少ししか学べないひとがいる。少しの経験から
たくさんのことを学ぶひとがいる。前者のタイプに、ぼくがいる。
本からも、会話からも、考えることからも、ぼくは学ぶ能力が乏しい。
これは、ぼくが、ぼくよりはるかに学ぶ能力のある友人を持っている
から言うのだ。後者のタイプに、ジミーちゃんがいる。ぼくより読んだ
本の数は少なく、ぼくより友だちが少なく、ぼくよりひとと会ってしゃ
べる機会が少ないのに、ぼくよりずっとたくさんのことを知っている
し、ぼくよりはるかに深く考えているのだ。
 ぼくはもっともっと学ぶ能力がほしい。

二〇一七年十二月十六日 「日付のあるメモいくつか」

2010年9月23日

その本はまだ自らさまざまな打ち明け話をしようと思っていた。

2010年3月28日

その文章のなかには多くの言葉が溺れていたり首を吊ったり電車のホームから飛び降りたりしていた。

2010年9月23日

夢が夢を夢見ながら

二〇一七年十二月十七日 「日付のないメモ」

違いが勝手に脳に生じさせていたのであろう。これではおかしいか。脳が違いを生じさせていたのではないのだろうと推測されたのでそうつづったのだが、ドラッグのせいで、かすかなふつうなら気づかないなにかがおかしかったのだ違いが脳に生じさせていたのだったなにかがおかしかったのだふつうなら気づかないかすかなドラッグのせいで違いが脳を生じさせていたのだった。ドクターを見つけたとき

二〇一七年十二月十八日 「ケネス・レクスロス」

ジュンク堂で、ケネス・レクスロスの翻訳詩集を買った。そのあと病院の待合室で読んでたんだけど、まだ20ページしか読んでいないけれど、訳がすごくいい。原文がいいからなんだろうけれど、いまんところ、W・C・ウィリアムズにささげた詩がいちばん好きだ。

二〇一七年十二月十九日 「日付のないメモ」

街が降る。
雨のなかに降る。
屋根や階段や
バルコニーや廊下が
音を立てて
雨のなかに降る。

二〇一七年十二月二十日 「あなたがここにいて欲しい」

いま日知庵から帰ってきた。帰り道、頭のなかで、ピンク・フロイドの『あなたがここにいて欲しい』がずっと鳴ってた。そいえば、ぼくの詩は、ずっとイエスの『危機』や『リレイヤー』や、ピンク・フロイドの『原子心母』や『狂気』といったアルバムを参考にしてつくってたから、自然なことだったのだなあと思った。

二〇一七年十二月二十一日 「キモノ・マイ・ハウス」

いま日知庵から帰った。帰り道は、頭のなかで、スパークスの『キモノ・マイ・ハウス』のさいしょの2曲が鳴っていた。

二〇一七年十二月二十二日 「月下の一群」

きょうの晩ご飯は、大谷良太くんちで、チゲ鍋をごちそうになった。とてもおいしかった。ありがとね、良ちゃん。で、日知庵に寄って、帰ってきたら、郵便受けに、笹原玉子さんから、ちょっと早いクリスマスプレゼントをいただいた。『玲瓏』の96号と、『よびごえ』の117号である。『玲瓏』を開くと、すてきなブックマークと、メッセージが。こんばんから夢中になって読める短歌が。もちろん、玉子さんの御作品から賞味いたしますとも、ええ、はい。

きょう、ブックオフで、堀口大學の『月下の一群』を手にして、ぱらぱらとめくりながら、欲しいなあと思った。べつの文庫で持ってるのにね。ぱらぱらめくってたら絵がついていて、これって初版の豪華な詩集で見たのといっしょのものかなって思って、よけいに欲しくなった。あした買いに行こうかな? それって、岩波文庫のやつなんだけどね。ぱらぱらめくっていたら、持ってる文庫には入ってないものもあるのかなって思うくらい、初見に近い感覚で読んだ詩があって、ラディゲとコクトーの詩なんだけど、ぼくの記憶違いかなあ。ぼくの持ってるのは、講談社の文芸文庫のやつ。いま開けたらあったわ、笑。

二〇一七年十二月二十三日 「笹原玉子さんの短歌」

シーツの白さで目が覚める、窓をあけるとからさわぎ、なんと麗(うらら)な間氷期

蒲公英が間氷期を横切つてあなたの朝戸でからさわぎ

しんしんと眠るは故宮、降るはときじく、書物のなかはからさわぎ

(『玲瓏』96号、玲瓏賞受賞第一作、「書物のなかはからさわぎ」より)

笹原玉子さんの短歌のよさのひとつに、「いさぎよさ」があると思うんだけど、これらの作品にも、それが如実にあらわれていると思われる。

二〇一七年十二月二十四日 「笹原玉子さんの短歌」

何うしても春のお歌が書けませんるりらりるれろはるらりるれよ

風に刻んだやうな文字だから娘たち「ビリチスの歌」にみんな手をふる

わたくしはきつと答へます。とびきりの問ひをください玲にして瓏な

(『玲瓏』96号、「玲にして瓏」より) https://pic.twitter.com/vPp9QjMpkH

二〇一七年十二月二十五日 「笹原玉子さんの短歌」

なにもかも浮力のせヰですわたくしが長い手紙をしたためる朝

なにもかも浮力のせヰです半島が朝の手指をつぎつぎ放し

歩幅のゆらぎそのささやかな浮力のせヰであなたは朝を跨いでしまふ

(『よびごえ』117号、「朝露を両手(もろて)にいただくその前に(芝公園にて)」より

二〇一七年十二月二十六日 「岡田ユアンさん」

岡田ユアンさんから詩集『水天のうつろい』を送っていただいた。

「ねむりのとなりで」という詩の冒頭2連を引用してみます。詩集中、もっとも共感した詩句でした。

いましがた
生まれた文字が
寝息をたてている

無数の意味が
選ばれることを心待ちにしながら
とり巻いていることも知らず

二〇一七年十二月二十七日 「福田拓也さん」

福田拓也さんから詩集『倭人伝断片』を送っていただいた。

冒頭収載のタイトル作から引用しよう。奇才だと思う。

前を歩く者の見えないくらい丈高い草の生えた道とも言えぬ道を歩くうちにわたしのちぐはぐな身体は四方八方に伸び広がり丹色の土の広場に出るまでもなくそこに刻まれたいくつかの文身の文様を頼りに、しきりに自分の身体に刻まれた傷、あの出来事の痕跡とも言えぬ痕跡、あるいは四通八通する道のりを想うばかり、編んだ草や茎の間から吹き込む風にわたしの睫毛は微かに揺れ、もう思い出すこともできないあの水面の震え、光と影が草の壁に反射して絶えず揺れ動き、やがてかがよい現われて来るものがある、

(詩篇・冒頭・第一連)

読んだばかりのスタージョンの短篇のさいごの場面が思い出されなくて、自分の記憶力の小ささに驚いた。「孤独の円盤」という有名な作品なのだけれど、数日前に読んだのだけれど、かんじんなさいごの場面、なぜ「孤独な円盤」というタイトルになったのかがわかるところが思い出されなかったのだ。残念。これから、もう一度、「孤独の円盤」のさいごのほうの場面を読み直そう。それにしても、部屋にある小説、ほとんどすべて読んだもので、傑作だと思うものばかり本棚に残してあるのだけれど、短篇はほとんど忘れていることに気がついた。このもろくて不確かな記憶力に自分でも驚いてしまう。超残念。

いま日知庵から帰ってきた。帰り道、雨のなか、頭のなかでは、スターキャッスルのセカンドのさいしょの曲が鳴ってた。これぞ、プログレって感じの曲だ。雨が降っている。雨で思い出したけど、琉球泡盛に「春雨(はるさめ)」っていうのがあって、日知庵のカウンターの上に並んでいた酒瓶のひとつなんだけれど、あ、写真は、ぼくの目のまえに置かれたお酒と肴の唐揚げとサラダスパゲッティなんだけど、「春の雨」って書いて、どうして、「春雨(はるさめ)」って読むんだろうって、お店のなかで、バイトしてる男の子に訊いたら、わかんないという返事があって、「どうして子音のSが入ったんだろうね?」って言って、「知ってるひとが、いるとは思うんだけどね。」って言って、こんなふうに子音が入る言葉ってほかにもあるかもしれないねって言ってたら、友だちの池ちゃんが、「それは違うと思う。」と言って、アンドロイドっていう携帯で調べてくれたら、「雨」って、「さめ」とも言って、「小さい雨」のことを「さめ」と言うらしくって、「雨」と書いて「さめ」とも呼ぶらしいと教えてくれた。そいえば、「小雨」のことを「こさめ」と言うものねって、ぼくが返事した。池ちゃんが、ぼくのさいしょの言葉に反応したのは、「秋雨(あきさめ)」という言葉があったからだと言うんだけど、池ちゃんは、ぼくが意見を言ったとき、音便で変化したのでないことは確かだから、調べてみるねって言ってくれたのだけれど、「雨(あめ)」に「雨(さめ)」って読み方があるってこと、「雨(さめ)」には、「小さな雨」っていう意味があることを知れて、ほんとによかった。うれしかった。

寝るまえの読書は、スタージョンの短篇集『一角獣・多角獣』か、ケネス・レクスロスの翻訳詩集にしようっと。うううん。友だちや、知らないひとが送ってくださる詩集を、さきに読んじゃうから、自分の読書計画がちっともはかどらない。まあ、このちっともはかどらないところがぼくの人生っぽいけどね。

二〇一七年十二月二十八日 「右肩さん」

見つかった! なにが? さがしていた詩句が見つかった。レクスロスの詩句で、気になっていたけれど、ルーズリーフには書き写そうとは思わなかったけれど、きょうになって、やっぱり書き写そうと思った詩句だ。

水はおなじことばをかたる。
なにかおしえてくれたにちがいない
これらの年月、これらの場所で
いつもおなじことをいっている。

(ケネス・レクスロス『心の庭/庭の心』II、片桐ユズル訳)

ぼくも、これまで自分の詩や詩論で、「水」を潜在意識にあるもの、或いは、潜在意識そのものとして扱ってきたので、このレクスロスの詩句には、とても共感できたのだった。

よい詩を読むと、いや、すぐれた小説もなんだけど、頭が冴えて、眠れなくなる。つらいなあ。でも、やめれそうにもない。うううん。これから、クスリのんで、レクスロスの翻訳詩集のつづきを読もうっと。いま、64ページ目に入ろうとしているところ。

きょうは、夕方から、京都にこられる右肩さんとお酒をごいっしょする予定だ。きみやに行こうと思っている。右肩さんの詩、初見のときは読みにくかったけれど、数年もすると、とても読みやすいものになっていた。これは、読み手のぼくの進歩もあったのだろうけれど、書き手の進歩でもあったのだろう。

西院駅の駅そば屋「都うどん」に行ってくる。あったかい朝ご飯が欲しかったのだ。小さい掻き揚げ飯と、すそばで、440円。小銭入れを見たら、467円あったので、これで支払える。それでは、行ってきませり。

いま行ってきたら、お店の名前が「都そば」だった。きょうは、お昼から出かけるから、あさにしっかり食べようと思って、「イカ天丼定食」なるものを食べた。イカの天ぷらと掻き揚げが丼ご飯にのっかってるものと、すそばね。590円だった。帰りに、セブイレで、「味わいカルピス」152円を買った。

いま、きみやから帰ってきた。詩人の右肩さんと、ごいっしょしてた。共通の読み物の話とか、俳句や現代美術の話とかしてた。あしたは、右肩さんと、日知庵におじゃまする予定。

二〇一七年十二月二十九日 「右肩さん」

ケネス・レクスロスの翻訳詩集を読み終わった。もう一度、翻訳された詩を読み直そうと思う。しかし、きょうは、もう遅い。読み直しは、あしたから。きょうは、スタージョンの短篇集『一角獣・多角獣』のつづきを読みながら寝よう。

いま日知庵から帰ってきた。ついさきほどまで、詩人の右肩さんと日知庵でごいっしょしてた。きょうも、詩について、詩人について話をしてた。写真に写っているのは、右肩さんの右手だ。きょうも、ぼくはヨッパだった。ロクでもないことをしゃべっていたのではないかと省みる。反省。しゃ〜。恥ずかし。

きょう、寝るまえの読書は、スタージョンの短篇集『一角獣・多角獣』のつづきを読むことにしよう。いま、ヨッパだから、数時間は、クスリをのめない。でも、ようやく、文字を目に通すことができるようになったみたいだ。この半年くらいのあいだだが、病気で、あまり文字を読むことができなかったのだ。

ひとつ思い出した。ぼくの誕生日が1月10日なのだけど、戸籍上は1月12日になっていて、右肩さんの誕生日が1月11日なので、右肩さんが「虚と実のあいだですね。」とおっしゃったことを思い出した。齢は同い年で、ふたりとも、1961年生まれである。きのうは、同学年の者がカウンターに4人も並んだ。

もひとつ、思い出した。右肩さんが、ぼくの詩「高野川」のことを高評価してくださってたのだけれど、もっとも親しいぼくの友だちの大谷良太くんも、ぼくの詩「高野川」を高評価してくれてたことを、ぼくの詩「高野川」がいいと言ってくださった右肩さんに話した。

二〇一七年十二月三十日 「右肩さん」

ツイートに右肩さんが書いてらしたように、ぼくの右横にいた女性客が(ぼくたちは、そのお名前から、さき姉(ねえ)」と読んでいます。)「28歳が(…)」とおっしゃったので、ぼくがすかさず、「28歳というと、文学作品によく出てくるんですよ。ぼくはその部分をルーズリーフに書き写して引用したことがありますよ。」って話しました。28歳って、もう子どものように若くもないし、かといって完璧な大人って感じでもないし、なんなんでしょうねって話をしたことを思い出した。右肩さん、よくぞ憶えていてくださった。こうして記憶がちゃんと収まるところに収まるのは気持ちがいいことなんだなと思った。

そだ、もひとつ思い出した。よく「小学生並みの詩だな。」なんてこと書くやつらがいるけれど、小学生の詩ってすごくって、『せんせい、あのね』って本に載ってる小学生の詩ってすごいですよねって右肩さんに言ったら、右肩さんもそうおっしゃてた。ぼくはひとにあげてもう持っていないんだけど、残念。それで、アマゾンで検索したら、2000円くらいしてて、あちゃ〜、手放さなければよかったと思った。子どもが書いたとてもいい詩がいっぱい入ってた。

いま日地庵から帰ってきた。25歳と26歳の男の子とくっちゃべっていた。彼らは幼馴染で、ふたりとも営業マンだった。企業の顔だねって、ぼくは言った。企業の最先端だねっとも、ぼくは言った。ほんとに、そう思うからだけれど、ふたりからそうおっしゃっていただけてうれしいですと返事してくれた。


二〇一七年十二月三十一日 「死ね、名演奏家、死ね」

これから日知庵に行く。きのう寝るまえに、スタージョンの短篇「死ね、名演奏家、死ね」を読んで寝た。SFではなくて、グロテスクなだけの作品だったのだが、嫉妬というものがよくあらわされている作品なのだとも思った。短篇、あとひとつで、短篇集『一角獣・多角獣』を読み終わる。帰ってから読もう。


詩の日めくり 二〇一七年十三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年十三月一日 「日付のないメモ」

 彼は作品のそこここに、過去の自分が遭遇した出来事や情景をはめ込んでいった。あたかもはじめからそれがそこにあって当然と思われるはめ絵のピースのように。さまざまな形や色や音を、いろいろな時間や場所や出来事を、たくさんのピースをはめ込んでいったのだった。そのはめ込まれたピースのなかには、はめ込まれてはじめてはまる類のものもあって、はめ込んだ前とまったく異なるものもあったのである。そういった類のピースが多くある作品には、作者にもつくれるとは思えなかった作品がいくつもあった。

二〇一七年十三月二日 「短詩」

暗闇の一千行
一千行の暗闇

二〇一七年十三月三日 「日付のあるメモ」

2011年1月18日

詩人の役目とは、まず第一に、
言葉自体がその言葉にあるとは思わなかった意味があったことを
その言葉に教えること。
つまり、眠っていた瞼を一つでも多くあけさせること。
数多くの瞼をあげさせ、しっかりと目をひらかせることが詩人の役目である。
言葉が瞼をあける前とは違った己の顔を鏡に見させること。

二〇一七年十三月四日 「THE GATES OF DELIRIUM。」

 詩人のメモのなかには、ぼくやほかの人間が詩人に語った話や、それについての考察や感想だけではなくて、語った人間自体について感じたことや考えたことが書かれたものもあった。つぎのメモは、ぼくのことについて書かれたものであった。

 この青年の自己愛の絶えざる持続ほど滑稽な見物はない。恋愛相手に対する印象が語るたびに変化していることに、本人はまったく気がついていないようである。彼が話してくれたことを、わたしが詩に書き、言葉にしていくと、彼は、その言葉によってつくられたイメージのなかに、かつての恋愛相手のイメージを些かも頓着せずに重ねてしまうのである。たしかに、わたしが詩に使った表現のなかには、彼が口にしなかった言葉はいっさいなかったはずである。わたしは、彼が使った言葉のなかから、ただ言葉を選択し、並べてみせただけだった。たとえ、わたしの作品が、彼の記憶のなかの現実の時間や場所や出来事に、彼がじっさいには体験しなかった文学作品からの引用や歴史的な事柄をまじえてつくった場合であっても、いっさい無頓着であったのだ。その頓着のなさは、この青年の感受性の幅の狭さを示している。感じとれるものの幅が狭いために、詩に使われた言葉がつくりだしたイメージだけに限定して、自分がかつて付き合っていた人間を拵えなおしていることに気がつかないのである。それは、ひとえに、この青年の自己愛の延長線上にしか、この青年の愛したと称している恋愛相手が存在していないからである。人間の存在は、その有り様は、いかなる言葉とも等価ではない。いかに巧みな言葉でも、人間をつくりだしえないのだ。言葉がつくりだせるものというものは、ただのイメージにしかすぎない。この青年は、そのイメージに振り回されていたのだった。もちろん、人間であるならば、だれひとり、自己愛からは逃れようがないものである。しかるに、人間にとって必要なのは、一刻もはやく、自分の自己愛の強さに気がついて、自分がそれに対してどれだけの代償を支払わされているのか、いたのかに気がつくことである。この青年の自己愛の絶えざる持続ほど滑稽な見物はない、と書いたが、もちろん、このことは、人間のひとりであるわたしについても言えることである。人間であるということ。言葉であること。イメージであること。確かなものにしては不確かなものにすること。不確かなものにして確かなものにすること。変化すること。変化させること。変化させ変化するもの。変化し変化させるもの。記憶の選択もまた、イメージによって呼び起こされたものであり、言葉を伴わない思考がないのと同様に、イメージの伴わない記憶の再生もありえず、イメージはつねに主観によって汚染されているからである。

 ぼくは、ぼくの記憶のなかにある恋人の声が、言葉が、恋人とのやりとりが、詩の言葉となって、ぼくに恋人のことを思い出させてくれているように思っていた。詩人が書いていたように、そうではなかった可能性があるということか。詩人が選び取った言葉によって、詩人に並べられた言葉によって、ぼくが、ぼくの恋人のことを、恋人と過ごした時間や場所や出来事をイメージして、ぼくの記憶であると思っているだけで、現実にはそのイメージとは異なるものがあるということか。そうか。たしかに、そうだろう。そうに違いない。しかし、だとしたら、現実を再現することなど、はじめからできないということではないだろうか。そうか。そうなのだ。詩人は、そのことを別の言葉で語っていたのであろう。恋人のイメージが自己愛の延長線上にあるというのは、よく聞くことであったが、詩人のメモによって、あらためて、そうなのだろうなと思われた。彼の声が、言葉が、彼とのことが、詩のなかで、風になり、木になり、流れる川の水となっていたと、そう考えればよいのであろうか。いや、詩のなかの風も木も流れる川の水も、彼の声ではなかった、彼の言葉ではなかった、彼とのことではなかった。なにひとつ? そうだ、そのままでは、なにひとつ、なにひとつも、そうではなかったのだ。では、現実はどこにあるのか。記憶のなかにも、作品のなかのイメージのなかにもないとしたら。いったいどこにあったのか。

二〇一七年十三月五日 「32年目のキッス。スプレンディッド・ホテル。アル・ディメオラ。」

きょうは、風邪をひいていたので
学校が終わったら、まっすぐ帰ろうと思ったのだけれど
職員室で本で読んでいたら、帰りに日知庵に寄るのに
ちょうどいい時間だったので
帰りに日知庵に寄った。
そのまえに、三条京阪のブックオフに行ったら
アル・ディメオラの『スプレンディッド・ホテル』があった。
1250円。
高校2年生のときに
國松毅くんちに行ったら
聴かせてくれたアルバムだった。
國松くんのお母さんが
ぼくを見て
國松くんに
「おまえの友だちに、こんなかわいい子がいたなんて。」
って、おっしゃって
恥ずかしかった。
でも、國松くんのお母さんの言葉があったからなんだろうけど
國松くんの部屋で
ふたりっきりになったときにキスをしたら
抱きしめてくれた。
ぼくはぽっちゃりぎみ
というか、おデブだったけど
体格は國松くんのほうがよかった。
翌日
学校で
國松くんに、こう言われた。
「これからは、ふたりっきりで会うのは、やめような。」
いったい、なにを怖れていたんだろう。
ぼくたちの幼いセックスは。

二〇一七年十三月六日 「わたしとは何か。」

人間が最初に問いかけをしたのは
何だったんだろう
いにしえのヘビにそそのかされたイヴの言葉になかったのだろうか
なかったとすれば
神がアダムに言った
「あなたはどこにいるのか」
という言葉が最初の問いかけになる
園の木の実を食べたアダムとイヴが
神の顔をさけて
園の木のあいだに隠れていたときのことだ
「園のなかであなたの歩まれる音を聞き
わたしは裸だったので
恐れて身を隠したのです」というアダムの言葉が
人間の最初の答えになる
最初の答えは言い訳だったのである
最初の問いかけは
神の言葉だったのか
それともイヴのいにしえのヘビに対するものだったのか
それはわからない
もしもイヴのものが最初の問いかけであったなら
最初の答えはいにしえのヘビによるものだということになる
人間同士のものが
最初の一対の問いかけと答えになっていないというところが面白い
外と中
外から来るもの
中から来るもの
外からくるものが問いかけであることもあるだろうし
外からくるものが答えであることもあるだろう
中からくるものが問いかけであることもあるだろうし
中からくるものが答えであることもあるだろう
いずれにしても
くるのだ
と思う
どこへ
わたしというところへ
わたしという場所に
ふいにやってくるのだ
ふとやってくることが多いのだ
学生時代でも
いまでもそうなのだが
わたしは
わからない数学の問題を
ほっておくことが多かった
答えを見ないでおくのだ
すると数日で
遅くても一週間くらいで
ふいに
解き方がわかるということがよくあったのだ
無意識部分のわたしが
つねに
別の無意識部分のわたしに問いかけているのだろう
無意識部分のわたしが
別の無意識部分のわたしに答えようとしているのだろう
いや
答えているのか
外と中
顕在意識と潜在意識とのあいだの応答も
問いかけと答えに近いところがあるかもしれない
応答といま書いたが
応答と
問いかけと答えでは
ちょっと違うか
ちょっと違うということは
やはり似ているところが
同じようなところがあるのかもしれない
ちょっと違うか
ちょっと違うのは
わたしのパジャマ姿だ
上と下と違うではないか
ちょっと違うどころやない
ぜんぜん違うではないか
ちゃんとそろえて着なきゃ


いま
ジミーちゃんと電話してわかったんだけれど
聖書のなかで
最初に見られる疑問文は
創世記の第三章・第一節の
「園にあるどの木からも取って食べるなと
ほんとうに神が言われたのですか」という
いにしえのヘビの言葉であった
それに対するイヴの言葉が
最初の疑問文に対する
最初の答えである
「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが
ただ園の中央にある木の実については
これを取って食べるな
これに触れるな
死んではいけないからと
神は言われました」
やはり
最初の問いかけと
その答えは
人間同士のものではなかった
ジミーちゃんに
「あなた
ちゃんと聖書読んでんの?」
「あなた
聖書ぜんぶ読んだって言ってたのに 
あまりよくご理解なさってないようね」
と言われた
ああ
恥ずかしい
読んで調べて書いたのやけど
ジミーちゃんに
「一文ずつ読んで調べたって言ってたのに
なぜ
その箇所をとばしたのかな」
「まったく不思議」とまで言われて
さげすまれた
「バカ」とも言われた
「バカなの
わたし?」
と言うと
「褒め言葉だけど」とのこと
「ほんとうに?
なぜなぜ?」
と言うと
「バカって梵語のmohaからきてる
無知という意味の言葉で
「僧侶」の隠語だったからね」
とのこと
ああ
ありがたや
ありがたや

だいぶ横に行ってる感じ
「バカは死ななきゃ治らない」
とまで電話で言われた

また横っとび
最初の問いかけが
いにしえのヘビのものだったのは
象徴的だ

何が象徴的かってのは
よくわからないんだけど

神の最初の問いかけに答えたのはアダムだった
悪魔の問いかけに答えたのがイヴであった
このことも何かを象徴しているはずだ
なんだろう
神の最初の問いかけがアダムになされたことと
悪魔の最初の問いかけがイヴになされたことが何かを象徴していると
そう受け取るのは
ぼくのこころがジェンダーにまみれているからかもしれない
いや
ただ単にジェンダーに原因を置くことは
文化史的な探求を途中で放棄することになる
ちゃんと把握しなければ
神というものを意識の象徴ととり
悪魔というものを無意識の象徴ととると
意識に働きかけるもの
感覚に働きかけるもの
目に見えるもの


手に触れるもの
耳に聞こえるもの
感じられるもの
これらのものが神の象徴するものだとしたら
それに応答する感覚
意識がアダムで
悪魔は
無意識領域の働きかけというふうにとると
イヴはそれに対応する無意識領域の反響あるいは共鳴ということになる
そういえば
聖書的には
男は拒絶する場面がいくつも見られるが
たとえば
カイン
ユダ
ペテロ
女は受け入れるという印象がある
イヴしかり
マリアしかり
じゃないかな
なんて思った
いままたジミーちゃんから電話があって
いま書いたところを読んで聞かせたら
「えっいまなんて言った?」
って訊かれて
「ジェンダー」と答えたら
「ぜんざいと聞こえた」と言われ
「それならぼくのこころがぜんざいにまみれた話になってしまうやんか」と答えた
ふたりで大笑いした

最後まで読んで聞かせて
「どう思う?」って訊いたら
「でも田中さんの場合
よく読み落としがあるから
うかうか鵜呑みにはできないな」
と言われて
「あぎゃ」と声をあげて笑った
信用ないのね
聖書の知識ではジミーちゃんに完全に負けちゃってるものね
でも
意識は拒絶し
無意識は受け入れるというのは興味深い
男を意識領域
女を無意識領域の象徴ととることは
聖書の記述にも合致する
創世記の第二章・第二十二節から第二十三節に
「主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り
人のところへ連れてこられた
そのとき
人は言った
「これこそ
ついにわたしの骨の骨
わたしの肉の肉」
これは面白い
神はアダムが女を欲したので女を造り
アダムに与えたのだが
そのイヴが造られたのは
アダムのあばら骨という
心臓に近い
こころに近い骨からであるにもかかわらず
アダムのところへ連れてこられたというのだから
違った場所で
アダムのそばではないところで
イヴを形成したということになる
無意識領域が
意識領域のものからつくられたのにもかかわらず
つまり
材料は意識領域のものにもかかわらず
違った場所で
形成したというのだ
無意識領域は

意識は
無意識領域のものに出合って
これこそ
わたし自身であると言明したのだ
まあ
無意識領域のものと出合うというのがどういうことなのか
またほんとうに出合ったのが無意識領域のものとであるのかという問題は
そうだね
観照(テオリア)というものと関わっているような気がするので
この観照というものについても
考察しなければ
うううん
考えれば考えるほど
いっぱいいろんなことが関わっていて
面白いにゃあ
ユングのいう男性原理と女性原理だっけ
これも面白いね
さっきまで
男性原理と女性原理と書いてたけど
違ってた
ユングのはアニマとアニムスだった
男性が持っている無意識の女性性がアニマで
女性が持っている無意識の男性性がアニムスだった
アニマ(anima)自体はラテン語で

呼吸
精神
生命

の意味で
アニムス(animus)もラテン語で
生命

精神
記憶力
意識
意見
判断
の意味の言葉で
語彙的にいっても
アニムス(男性性)が「意識」を表わしているというのは面白い
ユングが言うところのアニマ(女性性)が集合的なことに対して
アニムス(男性性)が個別的であるというのも
アダム=意識
イヴ=無意識
という感じでとらえてもいいと思わせられる
しかし
これらはみなジェンダー的な用語の使用という
文化史的な背景をもとにした語彙の履歴を暴露するものであって
男性性とか女性性とかいった言葉遣いのなかに
ミスリードさせてしまうところがあるかもしれない
意識領域のもの
無意識領域のもの
という具合に言えばいいところのものを
男性性
女性性
という言葉でもって
それを意識領域
無意識領域というふうに
言語的に関係付けてしまうことは
文化史的には必然で
文脈を容易に語らしめるものとなるのだろうけれど
本質的なところで
誤解を生じる可能性があるかもしれない
ぼくが考察するとき
比較対照するものが聖書や文学や哲学の文献だったりするので
文化史的な点では
それを無視することはできないし
ましてや
それがなかったものとして語ることもできないのだが
知らず識らずのうちに
ジェンダーであることを忘れてしまわないように
気をつけながら
考察しなければならないと思った
さっき
意識は拒絶し
無意識は受け入れるというのは興味深い
と書いたけれど
逆に
意識が受け入れたかのように感じられ
無意識が拒絶しているというようなことも
ままあるような気がする。
意識としては受け入れなければならない
だから受け入れるぞと踏ん張ってみても
こころの奥底ではそれを拒絶しているので
体調を崩す
なんてことがあるような
あったような気がする
意識領域のものに
無意識領域の力が働きかけているのだろう。
言葉を換えると
意識領域の不具合が
無意識領域の場に影響を与えて
それで無意識領域の場が反応してるってことなのかもしれない
ところで
アニメーションが
一枚一枚断片的な画像によって
それがすばやく場所を移動させることによって
連続的なものに見えるというのも
面白いですね
ラテン語の辞書を引くと
animalには「動物・被造物・生きている物」という意味がありますが
animatioには「生きもの・被造物・存在」
animatusには「魂のある・生命のある・霊化された・定められた・考えを抱いている」
animoには「生命づける・活かす・蘇生さす・変える・ある気持ちにさせる」
と出ていました
語源って調べると楽しいですね
ハイデガーの気持ちがよくわかります
無意識領域を形成するのは
意識領域のものだけではなく
主体が知らないうちに感覚器官が受けた刺激や情報もあって
無意識領域という場を形成しているものが
意識領域のものが形成するロゴスとは異なる力の場であることは
無意識の力というものが存在するように思われるところから容易に想像できるのだが
無意識領域の場の基盤といったものを考えてみよう
タブラ・ラサ
赤ん坊の意識が形成されるまえの
赤ん坊の無意識領域と意識領域の場について考えると
意識領域はまっさらだと思われるので
無意識領域の場が
さきに形成されていくような気がする
あるいは
意識領域の核というのか
断片というのか
大洋になる前の水溜まりというのか
そういったものが形成されているのかもしれないが
無意識領域のものが
少なくとも
遅くとも
それらと同時には形成されているような気がする
なぜこんなことをくどくどと書いているのかというと
このことを文学作品の鑑賞の際に
また自分の作品の解析と
作成に利用できるのではないかと思われたからである
自然に起こる霊感の間歇的な励起に対して
人工的な励起状態をつくりだせないかということである
引用という手段
コラージュという手段については
経験もあり
実験もつづけてしていて
人工的な励起状態をつくる
もっとも有効な手段だと思われる
つねに刺激を受けることがだいじなんだね
本を読み
音楽を聴き
映画を見
そして
日々の生活の上で
他者のやりとりを
他者とのやりとりを
自分のやりとりを
観察すること
はじめて見たかのように
つまびらかに観察すること
しかし
観察という行為においては
自己同化という現象も同時に起こり
おそらく夢中で観察しているときには
自他の区別がなくなってしまうようなところがあって
結局は自我の問題に行き着くようなところがあって
他者を求めて自己に至るという
自己と他者の往還
同一化という
ぼくの好きなプロティノス的な見解に結びついて
面白いなって思う
相互作用
往還
という点で
観察という事象に目を向けて
考察してみたいなって思った
問いかけをやめないこと
より精緻な問いかけをすること
より深淵な問いかけをすること
しかし
それはけっして複雑なものではなく
きわめてシンプルなものであろう
文脈を精緻に
語りかける位置を深くすること
目に見えるもの
耳に聞こえるもの
手で触れられるもの
そういった具体的なものを通して
観察の位置を熟慮して
精緻な文脈で構築すること
具体的であればあるほど
抽象的になることを忘れずに
瑣末なことであればあるほど大切なことに
末端的なことであればあるほど中心的なことに
触れていることを忘れないこと
それを作品で現実化することが
芸術家の
詩人の役目なのでしょうね
体験はひとつ
ふたつ
みっつ
と数えられる
数えられるものは
自然数なのだ
小数の体験や
分数の体験などといったものはないのだ
しかし同時にまた
体験は
ひとつ
ふたつ
みっつと数えられるものものではないのだ
あのときのキス
あのときに抱きしめられた感触
あのときに触れた唇の先の肌のあたたかみ
それらはひとつ
ふたつ
みっつと数えられるものではないのだ
回数を数えれば
一度
二度
三度と
数えられるのだが
体験そのものは数えられるものではないのだ
あのときのキス
あのときに抱きしめられた感触
あのときに触れた唇の先の肌のあたたかみ
それそのものというものは数えられるものではないのだ
あえて数えてみせるとすれば
ただひとつ
ただひとつのもの
いや
ものでもない
ことでもない
それそのもの
ただひとつ
体験は自然数
それもただひとつの数である

凝固点降下
水などの
液体に溶解するものを入れると凝固点が下がるというのが
凝固点降下と呼ばれる現象であったが
以前に書いたことだが
凝固点効果という現象が
記憶が
あるいは想起が
真実だけで形成されることが難しいということ
芸術や他者の経験談や物語による類比によって
すなわち記憶を形成する者
想起する者にとっては
虚偽である事柄によって
確固たる記憶を形成したり
想起なさしめられるという
わたしの見解にアナロジックにつながるように思われる
不純物があると結晶化しやすいということ
化学的にみれば
結晶化する物質と不純物のあいだにエネルギー的な差異があるからなのだが
真実と虚偽のあいだの差異
これがあるために結晶化しやすいというふうに考えると
わたしたちが
芸術や文学や音楽に
たやすくこころ動かされ
感動することが容易に了解されよう
それが
わたしたちが
わたしたち自身の生をより充実したものと感じられる理由ともなっているのだ
引用とコラージュの詩学である
過冷却の液体に
物理的なショックを与えると
たちまち凝固してしまうこと
これもまた想起にたとえられるであろう
プルーストの『失われた時を求めて』の冒頭
マドレーヌと紅茶の話を思い出す
何かがきっかけになって
突発的な想起を生じさせるのだが
無意識領域で
その想起される内容が
十分にたくさん
ひしめきあって
意識領域に遷移しようと
待ち構えていたのであろう
意識領域ではそれを感知できなかったので
突発的な記憶の再生というふうに思えたのであろう
それというのも
マドレーヌと紅茶をいっしょに口にしていたことは
それまでにもたびたびあったのであろうから
なぜ、わたしたちの言述が連続するとあいまいになるのか
言明命題について考える
すべての型の言述について考察することは不可能である
またすべての言述が命題的な言述とはかぎらず
論理で扱える範囲には限界があり
命題的な言述以外のものについては
個々の例で差異がはなはだしく
まとめて語ることは不可能なので
ここでは命題的な言述に限ることにする
また話をもっともシンプルにするため
もっとも論理的な言明命題について考察する
しかも
その命題が真のときに限ることにする
現実の言述は真なるものばかりとは限らないのであるが
真でない命題は現実の会話では始終交わされるのであるが
真でない命題からは矛盾が噴出するので
論理展開には適さないため
ここでは除外する
さて
pならばqという命題が真なるとき
pはqであるための必要条件であり
pという条件を満たす集合をP
qという条件を満たす集合をQとすると
PはQに包含される
このとき
もとの命題の逆
qならばpも真の命題であるなら
P=Qで
PとQは同値なのだが
qならばpが真でないならば
pという条件から出発してqについて言述した場合
qの条件は満たすがpの条件を満たさない事柄について
述べてしまうことになる
例をあげよう
ソクラテスは人間である
この言明命題を連続的に行なうとどうなるか
ソクラテスは人間である
人間は生物である
この二つの命題を合わせると
また一つの真なる言明命題ができあがるのだが
わたしたちが言葉を重ねれば重ねるほど
言述があいまいになるような印象を受けるのは
論理的に当然のことであるのがわかる
精密に語れば語るほど
言述の対象があいまいになるというのは
したがって
ごくあたりまえのことなのである

わたしは
詩をつくるとき
それを利用する
わたしが
言明命題的な言述が
とても好きな理由は
それに尽きると言ってもよい


対偶
それらの否定



対偶
の否定の否定
ヴァリエーションは無限である
もちろん
言明命題的な言述のみに限らず
あらゆる言述の組合せは可能で
それの組合せが
芸術作品を成り立たせているのであるが
この記述は
もっともシンプルな系についてのみ語っている
なぜ
わたしたちの言述は
精密に語ろうとすると
あいまいになるのか
当然なのよ
ということ
言述にあいまいさを与えないでおくには
必要条件かつ十分条件になるように
言述すればいいのだけど
それは同一律を守りながら
ということになるので
結局のところ
同語反復にならざるを得ない
しかし
文学は同語反復でさえ
いや
文学に限らない
視覚芸術も
音楽も
反復が
さまざまな効果をもたらすことは
よく知られている
薔薇は薔薇であり薔薇であり薔薇であり薔薇であり
うううん
まあ
ぼくはいまのところ
ぼく自身を追いつめることにしか興味がないみたいだ
言語実験工房主宰で
京都に
詩人の Michael Farrell 氏を招いたとき
とても基本的なことを彼に訊いてみた
あなたはなぜ詩を書いているのですか
という質問に
詩人がとまどっていた
あるいは
John Mateer 氏だったかしら
あなたはなぜ詩を書いているのですか
という質問に
詩人がとまどっていた
わたしはつねになぜ自分が書いているのか考えて生きているので
とまどう詩人を見て驚いた
わたしとはいったい何か
何がわたしなのか
何がわたしとなるのか
何がわたしを構成しているのか
わたしはどこにいるのか
どこがわたしなのか
どこからわたしなのか
わたしはいつ存在しているのか
いつ存在がわたしになるのか
とても基本的なことを
つねに
わたし自身に問いかけている
絶対的に知りたいのだ
絶対的に知りえないことを
詩で
わたしは
わたし自身に問いかける
わたしはそれに答えることはできないのだけれど
つねに
わたしは
わたし自身に問いかける
わたしとはいったい何か
何がわたしなのか
何がわたしとなるのか
何がわたしを構成しているのか
わたしはどこにいるのか
どこがわたしなのか
どこからわたしなのか
わたしはいつ存在しているのか
いつ存在がわたしになるのか
とても基本的なことを
詩人がなぜ詩を書いているのか
たずねられてとまどう詩人の姿に
わたしのほうがとまどってしまった

二〇一七年十三月七日 「失われた突起を求めて」

クリストファー
フトシ
ムルム
守ってあげたい
マンドレ

ふさわしい
いまわしい

二〇一七年十三月八日 「ドクター」

後頭部を殴られる
気を失う
詩人の経験を経験する
詩人が橋の上から身を投げる
詩人は河川敷のベンチに坐りながら
自分が橋の上から身を投げるシーンを目にする
うつぶせになって自分の死体が上流から流れてくるのを見つめる
橋の上から身を投げる直前に
橋の上からベンチに坐った自分が自分を見つめる自分を見る
上流から流れてくる自分の死体を見る
冷たい水のなかで目をさます
それが詩人の詩の世界であることに気づく
詩人の目を通してものを見ていたことに気づく
橋の上からベンチを見下ろすと
自分自身がベンチの上で
寝かされているのを見る
「こんどは
わたしが介抱してあげよう」
目をあけると以前助けたドクターが
自分の顔を見下ろしていた
「あいつらだよ
きみも狙われたのだね」
後頭部に触れると濡れていた
血だろうか
「その傷の大きさだと縫わなければ
消毒も必要だ
わたしのところにきなさい」
ドクターに支えられて
河川敷の砂利道を歩いた

二〇一七年十三月九日 「詩」

言葉は
形象から形象へ
言葉は
形象から形象へ

詩は
個から個へ
詩は
個から個へ

という
感じだろうか
結局のところね
ほかの芸術はたとえば
舞台や
映画や
演奏会は
ただひとりのために
という感じじゃないけど
詩は
なぜだかしらん
個から個へ
って感じね
対象は
個じゃなくてもね

二〇一七年十三月十日 「父」

今年の4月に
わたしの父が死んだのだが
父は食道楽だった
食い意地がはっていたと言ってもよい
週に一度の外食は
四条河原町の「つくも」という
ニュー・キョートビルと言ったかな
いまはない店で
高島屋の向かいのビルの9階の和食の店や
京極の「キムラ」のすき焼き屋や
「かに道楽」など
そういった庶民的な店ばかりだったのだが
そこらで食事をしたことが思い出される
金魚に目がとまるわたしである

わたしの父親は一生のあいだ
道楽者だったのであるが
なかでも鯉には目がなかった
わたしは父親のことが大嫌いだったので
いかなる生きている動物も嫌いなのであるが
金魚には目がないのである
嫌なことだが遺伝であろうか

二〇一七年十三月十一日 「うんこたれのおじいちゃん」

ふん
また
いやな顔をしくさった
この嫁は
やっぱりあかんわ
わしが
わざとうんこをたれて
ためしてやったのに
やっぱり
あつすけは
カスつかみよったわ
「すまんなあ
 すまんなあ」
けっ
なんや
このブスが
返事ひとつ
でけへんのかいな
鼻の上にしわよせよってからに
ええい
しゃらくせいわい

いっぱつ
ひり出したろかい
ブッ
ブリブリ
ブッスーン
ブリブリ
けへっ
「すまんなあ
 すまんなあ」
けへっ

二〇一七年十三月十二日 「地球を削除する。」

対称変換その他の修正

水面を対称面にして
空と海を変換移動させる

そのとき
空中に存在している鳥だけは動かさない

そのとき
海中に存在している魚だけは動かさない

キルケゴールを対称の中心として
スピノザとニーチェを変換移動させる

『三四郎』を対称の中心ととして
『吾輩は猫である』と『明暗』を
変換移動させる

地上に存在する詩や小説や戯曲に書かれた
すべての形容詞・副詞の意味を反対語に置き換え
肯定文を否定文に書き換え
否定文を疑問文に書き換え
疑問文を肯定文に書き換え
そのほかの文は削除する

それがすべて終わったら
地球を削除する

そしたら
あとは

裸にされて

ほな
さいなら

二〇一七年十三月十三日 「苦痛を排除した世界」

こころのなかにあるわたしではないもの
わたしではないと感じられるもの
わたしではないと思いたいもの
さまざまなものが
わたしのなかにありますが
そのわたしではないと思わせるものが
ときには、わたしそのものであると思われるときがありますね。
苦痛は、もっともはっきりと
人間の意識を振り向かせるものですが
その苦痛の原因があるからこそ
わたしたちには
意識が発生したのではないか
と思われるときがあります。

苦痛を排除した世界は
もしかしたら
意識のない世界かもしれませんね。

二〇一七年十三月十四日 「きょうは、ニュースのカメラマンの方の肩をもんでいました、笑。」

きょうは、ニュースのカメラマンの方の肩をもんでいました、笑。
妻子餅で

妻子持ちで
しかも、友だちと
夜中まで遊びまくっているという
でも、バイでもゲイでもなく
ストレートの人ですが
なんか笑っちゃいます。
ぼくの感覚がおかしいのかなあ。
ぼくなんか
だれとでもできちゃう感覚持ってて
だれとでもいいんだけど、笑。
その人も、セックス抜きなら
だれといっしょにいても楽しいという肩でした。

方ね。
ぼくも、基本がそうね。
だれといても楽しいのね、笑。
これって、おかしいかなあ。
まあ、いいか。
太郎ちゃんのところに原稿送ったし
追い込まれたら、自我が最高度に働くので
いつも、締め切りぎりぎり。
綱渡りの人生だわ。
制御できてるのが不思議だけど。

二〇一七年十三月十五日 「えいちゃん」

画像は生まれたばかりの双子ちゃんと、ひとつきくらい前の画像かな。
かわいいっしょ?

二〇一七年十三月十六日 「雑感」

同じことを語ることで、同じことを頭に思い浮かべることによって
映像が、そのときの記憶よりも鮮明に見えるということを
だれかが書いていたように思います。
同じこと、同じ経験、同じ映像でも
そのときには、見落としていたこともあるでしょうし
いまの自分からみるとそのときの自分からは見えなかったものが
見えたりするということがあると思うのですが
意味の捉えなおし、修正ということもあると思います。

丹念に自分のひとつひとつの記憶をたどること。
これまた、若いとき以上にじっくりと取り組める事柄だと
ぼくなどは、同じ話を何度も語りなおすタイプなので
そう考えています。(我田引水気味でしょうが。)

そういうふうに同じことを語りなおすことによって
思い浮かべなおすことによって
いまの自分が、自分の気持ちが、生活が
新しい目で眺められるようになって
豊かになったような気がすることがあります。

齢をとって、いいことの一つですね。
そういう豊かさを持つことが出来るのは。
時間を隔てて眺める
その時間が必要なのですね。
その時間に自分も変わっていなくてはなりませんが。

自分自身へのご褒美、紙ジャケCD 2枚!
数日前に書いた原稿が2つとも、自分ではよい出来だと思えたので、笑。

あがた森魚ちゃんの「バンドネオンの豹と青猫」
アランパーソンズ・プロジェクトの「運命の切り札」
これまた、むかし、両方とも持ってたのね。
お金に困って売ったCDたちのなかに入ってて
いまもう手に入らないCDもたくさん売ったから
つらいけど
こうして復刻されるってことは
ボーナス・トラックもついてるしね、
いいことかもしれない。
リマスターだから音もいいしね。

しかし、カルメン・マキの
セカンドは、もとの音源に傷がついていて
「閉ざされた町」という傑作が、もうほんとにねえ
状態ですが
まあ、いつか、その傷も修正されたものが復刻されるでしょう。
いま
あがたちゃんのCDを聴いて癒されています。
組曲ね。
なつかしい
しんみり。
森魚ちゃん、天才!

ここで、マイミクの都市魚さんからコメントが。

カルメン・マキはファースト以外は紙ジャケ持ってます。ベースが代わったセカンドからの方が有名なファーストよりカッコいいですよね(笑)。
森魚さんは赤色エレジーが入ったのしかCD持ってないです。もちろん紙ではありません。

ぼくのお返事。

あがたちゃんのこれは、おされです。
カルメン・マキは
ぼくの青春時代の思い出です。
知り合いの方にライブのチケット
ゼロ番のものをもらったことがあります。
東山丸太町、熊野神社の前を東にむかって横断歩道を渡って
数十メートルのところにあるザック・バランでのライブね。
5Xのころかしら。
かっちよかったです。
みんながあまりのってなかったのかしら。
ジンをマキが口に含んで
それを観客の上に
「みんなもっとのれよ!」
といって
プハーッ
って吹き出したこと
いまでも鮮明に覚えています。

二〇一七年十三月十七日 「幸せの上に小幸せをのせたら」

幸せの上に小幸せをのせて
その小幸せの上に微小幸せをのせて
そのまた微小幸せの上に極微小幸せをのせたら
みなこけて、粉々に砕けて、ガラスの破片のように
ギザギザに先のとがった危ない怖い小さな幸せになりましたとさ。

おじさんの上に小さいおじさんをのせて
その小さいおじさんの上にさらに小さいおじさんをのせて
またまたさらにさらに小さいおじさんをのせても
サーカスの演技だったので、まったく普通の拍手ものだったわさ。

おばさんの上に大きいおばさんをのせて
その大きいおばさんの上にさらに大きいおばさんをのせたら
そのさらに大きなおばさんの上にもっともっと大きなおばさんがのる前に
おばさん同士の格闘技がはじまって、髪の毛ひっつかまえて振り回したり
張り倒して蹴り上げたり、壁に押し付けて頭ごんごんしたりしてさ。
血まみれのおばさんたちが大声で罵倒し合いながら喧嘩してたってさ。

ケーキの上に小さいケーキをのせて
その小さいケーキの上にさらに小さいケーキをのせて
そのさらに小さいケーキの上にもっと小さいケーキをのせたって
ふつうのウエディング・ケーキだべさ。
ちっとも面白くねえ。

真ん中の上に端っこをのせて
その端っこの上に小さい真ん中をのせて
その小さい端っこの上にさらに小さな真ん中をのせても
べつにバランスは崩さないかもしんないね。
上手にやればね、まあ、わかんないけど。

やさしさの上に小さいやさしさをのせて
その小さいやさしさの上にさらに小さいやさしさをのせて
そのさらに小さいやさしさの上にもっと小さいやさしさをのせても
だれも気づかないわさ、こんな世間だもの。
どいつもこいつも、感受性、かすれちまってるわさ。

お餅の上に小さいお餅をのせて
その小さいお餅の上にさらに小さいお餅をのせて
そのさらに小さいお餅の上にもっと小さいお餅をのせて
昆布と干し柿とミカンをのせれば正月だわさ。
わたしゃ、嫌でも、48歳になるわさ。
1月生まれだもの。
ああ、でも、ぼくの上にかわいいぼくがのって
そのかわいいぼくの上にさらにかわいいぼくがのって
そのさらにかわいいぼくの上にもっともっとかわいいぼくがのったら
重たくてたまらないでしょ、そんなの。
ぜったいイヤよ。イヤ〜よ。
いくら、自分のことが好きなぼくでもさ。
おやちゅみ。
おやちゅみだけがチン生さ。
ブリブリ。
ピー。
スカスカ。

二〇一七年十三月十八日 「アポリネール」

お風呂につかりながら読むための源氏物語。 
上下巻 105円×2=210円
与謝野さんの訳ね。
風呂場でないと
たぶん一生
読まないと思うから、笑。
それと世界詩集
いろんな全集の世界詩集を集めてる
これまた持ってるのと重複しまくりだろうけれど
重複しないのもあるしね
これは200円やった。

偶然できたしみです。
いま、コーヒー・カップの下の
あ、テーブルの下のほうにメモ代わりにしていた
本から切り取ったもの(白いページをメモ代わりに
本から切り取るのです。)手にしたら
めっちゃきれいだったので
記念に写真を撮りました。
輪郭とか眺めても
とてもうつくしいので、びっくりしています。
作為のまったくないものの線
線のうつくしさに驚いています。

そうそう
きょう買った世界詩集の月報にあった
アポリネールの話は面白かった。
アポリネールが恋人と友だちと食事をしているときに
彼が恋人と口げんかをして
彼が部屋のなかに入って出てこなくなったことがあって
それで、友だちが食事をしていたら
彼が部屋から出てきて
テーブルの上を眺め渡してひとこと
「ぼくの豚のソーセージを食べたな!」
ですって。

二〇一七年十三月十九日 「新型エイリアン侵入」

これまでにも、人間そっくりのエイリアンが多数、人間社会に侵入していたが
今月になって、また別の種類のエイリアンが人間社会に侵入していることが判明した。
特徴は、人間そっくりであることで、他人に対する思いやりに欠け
平気で、人の話をさえぎる自分勝手さも持ち合わせており
猜疑心だけは、ものすごく発達させている、サイコチックなところのあるエイリアン。
人間との見分け方は、匂いにある。 エイリアンの身体は、オーデコロンのエゴイストの香りがする。

二〇一七年十三月二十日 「考えると、」

内部しかないものが存在するか。
いま、膝の痛みをやわらげるために
お風呂に入ってたんだけど
そんなこと考えちゃって
内部しかないもの
外部しかないもの
内部も外部もないもの
なんて考えてた

光量子
なんてものは、どうなんかな
概念もね
宇宙は閉じてるとして見ると
内部だけでできているのですね。
そうであろうか、と自分に問いかけて
答えに窮しています。
うううん。
境界についての議論もできますね。
また数学的には
集合ではなく領域の問題としても
境界について、議論できそうです。
全体集合の補集合が空集合になり
空集合の補集合が全体集合になるというところ
それはそう定義するしかないと思いますが
(そう定義すると、記号処理が簡単になりますから)
ぼくには大いに疑問です。
むかし、同人誌に
そのことについて書いたことがありますが
まだ自己解決しておりません。
膜には内部も外部もないですね。
表と裏
ですね。
しかし、
膜自体の物質性あるいは容積性に着目すると
内部と外部が存在するわけです。
無限に延長された膜を考えるとしても。
ただ無限という概念をつかって
外挿すると、さまざまなものの性質が
概念が、ですが
無限特有のパラドックスを生ぜしめるような気がします。
ううううん。
内部とが部に分けるときに
問題なのは
境界なのですが
境界が存在するかどうかも問題です。
厚みのない幕というものを
概念的に想像することはできます。
あるいは

光量子を幕にした場合
などなど
考えてみると
とても議論の尽きないところにまでいってしまうような気がします。
行ってもいいと思いますが
際限がなく
ああ
しかし
面白い。
つまり境界がなく
外部と内部が存在するか
などなどもですね。
面白い。
どなたか
さまざまな例を挙げて
お話ください。
たぶん
無限の概念を含むものとなるでしょうから
それは知の限界をも示す考察ともなるでしょう。
たぶん、笑。
大袈裟だけどね。
大風呂敷広げて議論するのも
たまにはいいんじゃない?

二〇一七年十三月二十一日 「バロウズ」

バロウズの個展用のカタログ集 PORTS OF ENTRY 到着しました。
きれい。
バロウズはポオが好きだったのね。
ぼくも好き。
あと
セゾン美術館から出てる画集を買えば、コレクション終わりね。
ぼくも
コラージュ絵画や、ふつうの絵を描いていこう。

二〇一七年十三月二十二日 「A・A・ミルン」

A・A・ミルンの「赤い館の秘密」 105円
クマのプーさんのミルンの推理小説。
ユリイカの「クマのプーさん」特集号に
コラージュ詩を書いたんだけど
プーさんをモチーフに
これから、コラージュ詩をたくさん集めて
詩集をつくりたいので
その材料に。

あんまりお目にかからない本なので
ついつい。

これから、インスタントの日清焼そばの晩ご飯を。
ししとうと、おくらを買ってあるので
どちらもサービス品コーナーで
ひとふくろ、20円と30円のものね
それを焼いて
玉子焼きを上にのっける予定。
おいしそう、笑。

二〇一七年十三月二十三日 「人間の基準」

人間の基準は100までなのね。
むかし
ユニクロでズボンを買おうと思って
買いに行ったら
「ヒップが100センチまでのものしかないです。」
と言われて
人間の基準って
ヒップ 100センチ
なのね
って思った。
って
ジミーちゃんに電話で
いま言ったら
「ユニクロの基準でしょ。」
って言われた。
たしかにぃ。
しかし
ズボンって言い方も
ジジイだわ。
アメリカでは
パンツ
でも
パンツって言ったら
アンダーウェアのパンツを思い浮かべちゃうんだけど
若い子が聞いたら
軽蔑されそう。
まっ
軽蔑されてもいいんだけどねえ、笑。

二〇一七年十三月二十四日 「バロウズ」

バロウズの「トルネイド・アレイ」読了しました。
バロウズの詩と、短篇がいくつか。
ときおり光る箇所があるていどの作品集。
しかし、訳者の後書きと
ものすごく長いくだらない解説文は不愉快きわまるものだった。
ゴミのような文章で
ゴミのような論を展開していた。
こんなクズが書き物をしていてもいいのかしら
と思うぐらいくだらなかった。
バロウズの作品だけでいいのよ
収録するのは。
と思った。

二〇一七年十三月二十五日 「浮気」

むかし読んだ詩誌月評かな、それの思い出を、ひとつ。
ある詩人が
名前は忘れちゃったけど
「嫁が家を出て行って
 悲しい〜」
なんて書かれても、だったかな
それとも、ギターを爪弾きながら
叫ぶように歌われても
だったかな
そんなことには、ぜんぜん何も感じないけど
ってなこと書いてたことがあって
ぼくなら、そんな詩?
それとも歌かな
そんなの読んだり聴いたりしたら、めっちゃ喜ぶのに
と思ったことがある。
現実の生活のことが、ぼくには、とても脅威なのだ。
考えられないことが毎日のように起こっているのだ。
そう感じるぼくがいるのだ。
だから、退屈しない。
毎日が綱渡り
驚きの連続なのだ。
嫁が家を出て行く? 
なんて、すごいことなんだ。
ぼくは
自分の食べているご飯の米粒が
テーブルの下に落ちただけでも
ぎょええっ
って驚く人間なのだ。
毎日が脅威と奇跡の連続なのだ。
きょう
ぼくの小人の住んでるところがばれそうになった。
あ、小人と違って
恋人
いや、恋人と違って
浮気相手だから、愛人かな。
気をつけねば。

浮気っていえば
前に務めていた予備校で
浮気をしたことありますか
って女の子に訊かれて
ちょっと躊躇したけど
嘘言うのヤダから
あるよ
と言ったら、それまで
ぼくに好意を寄せてくれていたその子が
それから、ぼくを軽蔑するような目つきで見るようになって
口もきいてくれなくなって
びっくりしたことがある。

二〇一七年十三月二十六日 「ゆりの花のめしべ」

何度も書くけど
少年のものは
ゆりの花のめしべのような
おちんちんだった。
ゆりの花のめしべは
おちんちんのような形をしていて
なめたことがあった
ぬれていた
おんなじような味がした
タカヒロくん
愛人のほうね、笑。
大学院時代に付き合ってた20歳の恋人と同じ名前で
彼は34歳の野球青年だけど。
いやなたとえだけど
演歌歌手の山本譲二(次?)
に似てるんだよね。
男前と言うより
男っぽい感じ。
5年の付き合いになる恋人は
そうね
ぼくにはかわいいけど
出川哲夫みたいなの。
ぼくにはかわいいけど
出川哲夫
うふ〜ん
なんだか、切ないわ〜

二〇一七年十三月二十七日 「地獄」

これ、睡眠薬飲んで書いたみたい。
記憶にないフレーズが入ってる。
何度も書くけど
少年のものは
ゆりの花のめしべのような
おちんちんだった。
ってところ。

少年じゃなくて
青年ね。
豆タンクって呼ばれてることを
あとで知ったのだけれど
メガネをかけた小太りの
かわいい青年だった。
若いころの林家こぶ平そっくりだった。
いまのコブ平は、目がきつくなっちゃったね。
きっとイヤな目にあったんだろうと思う。
人間って、地獄を見ると、顔が変わるもの。

二〇一七年十三月二十八日 「過去のやりとり」

すると、frogriefさんから

あつすけ様

詩語が問題,ですか.

ぼくが40代に入って,ようやく気付いたのは,ぼくは,「シュールレアリスムの手法を
用いた抒情詩」が書きたい,それを書くことが,ぼくのライフワークなのだ,ということ
でした.

今時シュールレアリスム? と言う声があちこちからしてくるのが聞こえるようですが,
ぼくの詩の第1の読者はぼくなのですから,そのVIPのリクエスト,となれば仕方が
ありません.

詩語に溺れていない,「管理された詩語」を,用いて書いている,との自負はあるの
ですが,どうでしょう?

ぼくのお返事です。

frogrietさんへ
ぼくが、詩語という場合
なんだろうなあ

たぶん、こういう意味に使ってると思うんだけど
自分の経験なり、考えたり思ったり感じたりしたことを
言葉にしよとする際に
その経験や考えや感じを表わしてくれる言葉が見つかったとしましょう
その言葉が見つかったのです
しかし
じつは
その言葉は
たくさんの人間の、あなたに似た「経験」や「考え」や「感じ」を
すでに、表わしてきたものなのですね。
したがって
じつは
あなたが
さがしいていた、求めていた、出会いたがっていたその言葉は
あなたとの出会いが、はじめてのものではなかったのですね。
言葉のほうから見ますとね。
言葉のほうから見て
あなたの形成しようとしている言語世界は
はじめて出遭う言語世界ではなかったというわけなのです。
これが
詩語の問題と、ぼくは言っていると思います。

frogrietさん
あなたばかりではなく
ほとんどすべての書き手が
言語のほうから見て
新鮮な出会いをしていないと思います。
シュールレアリスムは
たしかに言語にとって豊穣なものであったでしょう。
過去においては
です。
しかし
シュールが、もはやシュールでなくなったいま
SF的な現実と、仮想社会(来年の6月に日本で発表されるそうです。
きょう、関係者の方に直接、聞きました。現実ともリンクしたもので
そのバーチャルの世界で儲けたお金を、現実世界で換金できるそうです。
日本地図が入っていて、京都にある地下鉄のように地下鉄があって
乗り物に乗ればお金がかかるし、だけど、そこで買った服を
現実世界でも発注できたりするそうです。
またそこでは、たとえば、現実世界では足の不自由なひとが、不自由でなくなって
その不自由さのない生活をして、という仮想社会だそうです。
イーガンの描くSFそのものですね。)
のもとでは
シュールレアリスムは
言語にとって、もはや、それほど新鮮な出遭いではなくなっていると思います。
ぼくも、ぼくのことをモダニストで、シュールレアリストであると思っていますが
同時に、古典主義者でもあり
さまざまな異なる範疇で、さまざまなものであり
さまざまなものでありたいとも思っています。
大事なのは
個人の経験でありますが
個人にとってはね
また人間世界全体としてもね
でも、わたしたちが詩人であるというのなら
個人の経験などは、じつは、どうでもよいのです。
書き手の考えたことや感じたことそのものには
言語自体は興味があるとは思いません。
言語が興味があるのは、個人が経験した経験とともに
それを語る語り方であり
考えたこととともに、それを語る語り方であり
感じたこととともに、それを語る語り方であると思います。
大事なことは、言語にとって
言語自体が目が覚めるような
驚くべき経験をさせることなのであって
そういう経験は
言語の側から見て
語と語が、どういう結びつき方をしているか
言葉たちがどういうふうに使われているか
文脈がどういうふうに形成されているか
作品として、どういうふうにパッケージされているか
によると思います。
(パッケージとは、詩集としてとか、同人誌としてとか、雑誌としてとかです。)
詩語が
拘束するのは
わたしたちの経験ではなくて
わたしたちの経験を語る語り方なのですから
わたしたちが詩人と言うのなら
そのことに気をつけないといけないと思います。
そのことについて十分に配慮できていないということにおいて
ほとんどの詩人は
詩語に拘束されていると言えるでしょう。

ぼくがすぐ上に書いたような内容のことは
象徴派の詩人や思想家が、すでに書いていることですが
たとえば
ポオ、マラルメ、エマソン、などなど
ぼくの詩論詩集にも、何度も繰り返していることですが
彼らの書いているように
言葉がすべてなのですから
いくら言葉に注意しても、し足りないのだと思っています。
それには
現実の経験もさることながら
言語世界での経験も勉強になりますね。
ぼくは
もうじき48歳になります。
頭がぼけるまで
あと数十年しか残されていません。
こんな作品を書いたぞ
っていう作品を
これからも書いていきたいと思っています。
と思って
いまからクスリをのんで寝ます。

二〇一七年十三月二十九日 「雨」

きょう、雨で
大事な本をぬらしてしまった。
リュックのなかにまで
雨がしみるって思ってなかったから。

奇想コレクション イーガンの「TAP」 買いました。かわいい。
表紙がかわいくて
いいね。
イーガンは
大好きなSF作家。
読むのが楽しみ。

きょう、大雨で
リュックに入ってた
バロウズの「ダッチ・シュルツ 最後のことば」が
ぬれてしまった。

リュックにいれてたのに
ずぶぬれ〜。

まあ、よりよい状態のものを本棚に飾ってあるから
そんなにショックじゃないけど
いや
やっぱりショックか

まあ
本の物々交換に
悪い状態だけどって
いうことにして出しますわ。
くやしい。
雨め!

二〇一七年十三月三十日 「ガムラン奏者の方」

いつもの居酒屋さんで、きょうはガムラン奏者の方とおしゃべりを。
料理長の知り合いの方らしく
音楽の話をしていました。
そんなにディープな話ではなかったけれど
むかし
ぼくが付き合っていた作曲家のことを思い出していた。
タンタン
というあだ名を、ぼくがつけたのだけれど
パク・ヨンハそっくりでした、笑。
太った
パク・ヨンハかな、笑。

二〇一七年十三月三十一日 「記憶」

 映画を見たり、本を読んだりしているときに、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じることがある。ときには、その映画や本にこころから共感して、自分の生の実感をより強く感じたりすることがある。自分のじっさいの体験ではないのに、である。これは事実に反している。矛盾している。しかし、この矛盾こそが、意識領域のみならず無意識領域をも含めて、わたしたちの内部にあるさまざまな記憶を刺激し、その感覚や思考を促し、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じさせるほどに想像力を沸き立たせたり、生の実感をより強く感じさせるほどに強烈な感動を与えるものとなっているのであろう。イエス・キリストの言葉が、わたしたちにすさまじい影響力を持っているというのも、イエス・キリストによる復活やいくつもの奇跡が信じ難いことだからこそなのではないだろうか。

 まさに理解不能な世界こそ──その不合理な周縁ばかりでなく、おそらくその中心においても──意志が力を発揮すべき対象であり、成熟に至る力なのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

物がいつ物でなくなるのだろうか?
(R・ゼラズニイ&F・セイバーヘーゲン『コイルズ』10、岡部宏之訳)

人間と結びつくと人間になる。
(川端康成『たんぽぽ』)

物質ではあるが、いつか精神に昇華するもの。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)

書きつけることによって、それが現実のものとなる
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』75、佐宗鈴夫訳)

言葉ができると、言葉にともなつて、その言葉を形や話にあらはすものが、いろいろ生まれて來る
(川端康成『たんぽぽ』)

おかしいわ。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)

どうしてこんなところに?
(コードウェイナー・スミス『西欧科学はすばらしい』伊藤典夫訳)

新しい石を手に入れる。
(R・A・ラファティ『つぎの岩につづく』浅倉久志訳)

それをならべかえる
(カール・ジャコビ『水槽』中村能三訳)


詩の日めくり 二〇一八年一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年一月一日 「熊人形」

きょうから、リチャード・マシスンの短篇集『13のショック』を読む。スタージョンの短篇集は、いいの1作品だけだった。「熊人形」だけがよかった。スタージョンの短篇集、すべて本棚にあるんだけど、ほかのはもっとましだったような気がする。でもまた目次を読んだら記憶にないものばかり。あーあ。

二〇一八年一月二日 「大谷良太くんち」

これからお風呂に入って、それから大谷良太くんちに遊びに行く。

二〇一八年一月三日 「オレンジ・スタイル」

いま、ふつうの焼き鳥屋さんの「日知庵」、ゲイ・バーの「オレンジ・スタイル」の梯子から帰ってきた。ゲイ・バーに行くのは、5年ぶりくらいだろうか。小さな集団だけれど、みんな、キラキラしてた。それはとてもすてきなことだと思う。クスリをのむタイミングをはかって寝る。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年一月四日 「草野理恵子さん、植村初子さん、池田 康さん」

いま日知庵、パフェ屋さんのカラフネ屋の梯子から帰ってきた。きのう、すてきな出会いがあって、きょう、そのつづきのデートがあったのだった。神さま、ぼくを傷つけないでください。もちろん、その子のことも傷つけないでください。というか、神さま、お願いです、世界の誰をも傷つけないでください。

草野理恵子さんから詩誌「Andante Parlando」を送っていただきました。彼女の作品を、ぼくはいままで、「ホラー詩」と呼んでいましたが、冒頭に掲載されている詩をはじめ、4作品とも「不気味詩」と呼んでみたい気がしました。不気味です。どこからこんな発想が生まれるんでしょうかね。わかりません。

植村初子さんから、詩集『SONG BOOK』を送っていただいた。映画的だなって思った。映画のカットみたいなシーンや、映画のなかの場面のような詩が載っていた。抽象的な場面は、こころのなかの思いを込めた部分にだけ出てくる。目の詩人さんなのだと思った。

池田 康さんから、詩誌『みらいらん』を送っていただいた。池田さんの「深海を釣る」を読むと、アートと詩が、詩と詩が出合っているのだなあと思わせられる。そこに池田さんの場合、哲学や宗教がからんでくるのだけれど、そこで反射して自分を省りみると、なんにもないんだなって思ってしまった。

二〇一八年一月五日 「うれしいメール」

いま日知庵から帰ってきた。きょう、うれしいメールが10通近くきていた。57歳近くになって、まだ恋愛できるのかなと思うと感慨深い。かわいい。とにかくかわいいのだ。きょうも、リチャード・マシスンの短篇をひとつでも読んで眠ろう。おやすみ。

二〇一八年一月六日 「『一年一組 せんせい、あのね』」

朝から掃除に洗濯。

これからルーズリーフに引用を書き写す作業に。ケネス・レクスロス。

見つかった。何が? 探していた本が、扉付きの本棚で偶然に見つかった。てっきり手放していたと思っていた本で、Amazon で買い直そうかどうか迷っていたのだけれど、けっこう高かったのでためらっていたのだった。小学1年生の書いた詩がよいのだ。もしかしたら、『月下の一群』よりも影響を受けてるかも。

『一年一組 せんせい、あのね』というタイトルの本で、たとえば、こんな詩が載っているのだ。やなぎ ますみちゃんの詩。


おとうさん

おとうさんのかえりがおそかったので
おかあさんはおこって
いえじゅうのかぎを
ぜんぶしめてしまいました
それやのに
あさになったら
おとうさんはねていました


Amazonで、さっそく続編を買った。

きょうは、部屋の扉付きの本棚で偶然に見つかった『一年一組 せんせい、あのね』を読みながら眠ろう。こころがほんわかとするすばらしい本だった記憶がある。収録されている小学1年生の子どもたちの詩がすばらしかったことも憶えている。大人が書いたのではない、なにか純粋なものが見られるのだ。楽しみ。

二〇一八年一月七日 「ジェイムズ・メリル」

これからデートである。これから駅まで迎えに行って、ぼくの部屋に戻る途中でお昼ご飯を食べる予定。

いまだに、ジェイムズ・メリルの詩集って、新しいのが出ていないのだね。なぜ? もっともすぐれた世界的に有名な詩人なのに?

二〇一八年一月八日 「ジョルジュ・ランジュラン」

きょうから寝るまえの読書は、ジョルジュ・ランジュランの『蠅(はえ)』である。むかし、子どものときに見たTVで、『蠅男の恐怖』ってのがあったけれど、めっちゃ怖い映画だったけれど、その原作者の短篇集である。楽しみ。

二〇一八年一月九日 「『続 一年一組 せんせい、あのね』」

郵便受けに、先日 Amazon で注文した『続 一年一組 せんせい、あのね』が入ってた。部屋に戻って封を開けると、とてもきれいな状態の本だったので、とてもうれしかった。小学校1年生の子どもたちの詩がぎっしり。読むのが楽しみ。これがなんと1円だったのだ。(送料350円)帯がないのが惜しい。

『続 一年一組 せんせい、あのね』を読みだしたのだけれど、さいしょの3つの詩しかまだ読んでいないけれど、読んだ記憶があって、もしかしたら、むかし読んだことがある本なのかもしれない。一度読んだ短篇集を読み直ししても、既読感があまりないのに、子どもたちの詩はしっかり覚えてた。それだけ、子どもたちの詩が印象深い、力強いものだったというわけだろう。

二〇一八年一月十日 「機能不全」

ツイッターの機能が不全で、フォローしているひとのお名前が20人くらい、直近のものしかあらわれず、いま日知庵から帰ったのだけれど、日知庵でごちそうしてくださった方に直接メッセージしようとしてもできなかった。泰造さん、ありがとうございました。ごちそうになりました。

きょうの寝るまえの読書は、きょう届いた『続 一年一組 せんせい、あのね』にする。おやすみ、グッジョブ!

ツイッターの機能不全といえば、写真があげられなくなったのだ。FBでは、ちゃんと機能するのだけれど。

『続 一年一組 せんせい、あのね』を読み終わった。読んだ記憶のある詩がいっぱいあって、やっぱり、この本、読んだことがあるねんなあと思った。ドキッとした詩は、いま読んでもドキッとするし、感心した詩は、いま読んでも感心した。これから寝る。おやすみ。

二〇一八年一月十一日 「白湯」

1月10日で、57歳になりました。情けない57歳ですが、よろしくお願いしますね。

白湯を飲んでいる。ジジイになった気分で、寝るまえの読書は、ジョルジュ・ランジュランの短篇集『蠅』のつづきを。まだ冒頭の「蠅」を読んでいる。白湯のお代わりをして、つづきを読もう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年一月十二日 「蠅」

ジョルジュ・ランジュランの『蠅』を再読したけれど、映画の方がよかったかな。でもまあ、きょうは、そのつづきから読んで寝る。おやすみ。

日曜日にデートの予定だったが、前倒しして、あしたになった。きょうは早めに寝なくてはならない。ジョルジュ・ランジュランの短篇集『蠅』も、3つばかり読んだ。冒頭の「蠅」以外は、ふつう小説かな。

二〇一八年一月十三日 「言葉」

数え切れないほど数多くの人間の経験を通してより豊かになった後でさえ、言葉というものは、さらに数多くの人間の経験を重ねて、その意味をよりいっそう豊かなものにしていこうとするものである。言葉の意味の、よりいっそうの深化と拡がり!


二〇一八年一月十四日 「おうみん」

きょうは、滋賀県のおうみんというお店に、Tくんが連れて行ってくれました。湖畔のカフェにも連れて行ってくれました。すてきなレストランとすてきなカフェ、Tくん、ありがとう。きょうも、すてきな一日を過ごせました。

ぼくは同志社を出たけれど、(大学院も同志社だけれどね)、同志社文学なるものから、一度も原稿依頼をされたことがない。三田文学とえらい違いである。

きょうもランジュランの短篇集『蠅』のつづきを読みながら眠るとしよう。おお、マリア、きょうも、一日、ぼくの一日はおだやかでありました。あしたもまたおだやかでありますように。

二〇一八年一月十五日 「考えるロボット」

ツイッターにコピペしようとしても、できなくなった。つぎつぎツイッターの機能が不全になっていく。このあいだ、ひさびさに画像を入れられたけれど、いまではまったく画像がアップできなくなっている。FBはまったく問題がない。

きょうの寝るまえの読書は、ランジュランの短篇集『蠅』のさいごに収録されている「考えるロボット」。時間があれば、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『くじ』にするつもり。

二〇一八年一月十六日 「世界」

この世界の在り方の一つ一つが、一人一人の人間に対して、その人間の存在という形で現われている。もしも、世界がただ一つならば、人間は、世界にただ一人しか存在していないはずである。  

二〇一八年一月十七日 「いい作品」

どうやら、ぼくの見る目はかなり厳しくなっているようだ。早川書房の異色作家短篇集で見ると、一冊に一作くらいしか、いい作品がないのである。このシリーズの再読が終わったら、河出書房新社の奇想コレクションのシリーズを再読するつもりだけれど、順序を逆にした方がよかったかもしれない。それにしても、ジョルジュ・ランジュランの短篇集『蠅』に収録されていた「考えるロボット」、ぜんぜん意味がわからないあらすじで、これからちょっと読み直して、自分のこころを落ち着けようと思うのだけれど、それにしても、ずいぶんひどい作品だったなあと思う。読み返すぼくもおかしいのだけれど。

二〇一八年一月十八日 「くじ」

なぜだかわからないけれど、美術手帖さんがフォローしてくださったのでフォローしかえしておいた。

画家になるのが夢だったからかもしれない。詩人なんてものになってしまったけれど。

きょうは幾何の問題で一問、解けなかったものがある。あした取り組む。

解けなかった幾何の問題が解けてほっとしている。補助線の問題なのだな。単純な問題だった。解けたあとでは、いつも、そう思う。

シャーリイ・ジャクスンの短篇集『くじ』を読んでる。どの短篇も文章がしっかりしている。読んで損はない。だけれども、おもしろいかと問われれば、いいえと言わざるを得ない。なんなんだろう。この感じは。うまいのだけれど、おもしろくないのだ。うううん。ぼくの目が厳しくなったのだろうか。

けさ見た夢はマンガのようだった。あした、書き込もう。おやすみ。

二〇一八年一月十九日 「夢」

きのう、見た夢。大洪水の連続で都市は水没している。上流は上流階級の人間が、下流は下層階級の人間が住んでいる。お金持ちの子どもはボートで、貧乏人の子どもは泳いで学校に通う。電話ボックスのなかで、少女が叫んでいる。なんでわたしは30もバイトをしなきゃなんないのよ。その生徒はテレフォンセックスの広告に目をやる。それを同級生の女の子が見てる。弁当箱をもって弁当がダメになっちゃった〜と叫ぶ男子生徒。ジャンボ赤ちゃん。下流の人間が上流の人間の子をさらって巨大化した赤ちゃん。足の裏には濡れてもにじまないペンで住所が書かれている。

雨は太陽に殺された死体だ。

二〇一八年一月二十日 「炎のなかの絵」

寝るまえの読書は、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『くじ』のつづきを。いま半分くらいのところだ。とにかく文章がうまい。P・D・ジェイムズと同じく、描写がすごくうまい。ただ、読後に読んだ物語を忘れてしまうところが難点だ。そこんところ、短篇小説のいいところが抜け落ちているような気がする。

シャーリイ・ジャクスンの『くじ』おもしろくて、徹夜して、さいごに収録されている「くじ」まで読んでしまった。といっても、どうせ、タイトル作品の「くじ」しか、あしたになって憶えているものはないんだろうけれど。あ、誤植があった。271ページ上段うしろから5行目「気持ち襲われる」 これはもちろん「気持ちに襲われる」だろうね。校正、しっかりしてやってほしいね。名著の復刊だものね。

きょうからの再読は、早川書房の異色作家短篇集シリーズ・第七弾、ジョン・コリアの『炎のなかの絵』。コリアといえば、違う短篇集を読んだことがあるのだけれど、残酷ものが多かったような気がする。ひとつしか覚えてないけど。この短篇集は一作も読んだ記憶がない。タイトル見ただけではね。いま読んでいる、ジョン・コリアなんていうと、めっちゃ古臭くて、読んでるなんて言うと、バカにされそうだけど、まあ、いいや。シェイクスピアやゲーテが、ぼくの読書の源泉だから、ジョン・コリアなんて新しいほうだと思う。まだね。シェイクスピアやゲーテに比べてね。

あしたデートだ。うひゃ〜。クスリのんではやく寝よう。

二〇一八年一月二十一日 「断章」


なぜ人間には心があり、物事を考えるのだろう?
(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)

心は心的表象像なしには、決して思惟しない。
(アリストテレス『こころとは』第三巻・第七章、桑子敏雄訳)

二〇一八年一月二十三日 「断章」

われわれはなぜ、自分で選んだ相手ではなく、稲妻に撃たれた相手を愛さなければならないのか?
(シオドア・スタージョン『たとえ世界を失っても』大森 望訳)

光はいずこから来るのか。
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第二幕・第五場、石川重俊訳)

わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ
(与謝野晶子)

二〇一八年一月二十四日 「血は冷たく流れる」

いま日知庵から帰ってきた。きょうから寝るまえの読書は、早川書房の異色作家短篇集の第8巻のロバート・ブロックの『血は冷たく流れる』である。ブロックの短篇集はもう1冊、文庫で持ってたけれど、おもしろかったような気がする。1作しか覚えていないけれど。この短篇集の再読はどだろ。いいかな。

ジョン・コリアの短篇集はよかった。傑作というものはなかったけれど、どれも滋味のある、いい品物だった。

二〇一八年一月二十五日 「ル・グウィン」

アーシュラ・K・ル・グウィンが亡くなったという。本物の作家がひとり亡くなったということだ。すでに本物の作家がほとんどいなくなったこの世界で。

きょう、日知庵で、えいちゃんのツイートを見てて、ぼくのとえらい違うなあと言った。かぶってるひとって、ひとりかふたりくらいしかいないんじゃないのかな。見える風景がまったく違っていて、びっくりした。

これから読書。寝るのが遅くなった。ロバート・ブロックの短篇集『血は冷たく流れる』を読む。冒頭の作品は、きのう読んだのだけれど、もうタイトルも内容も忘れている。おお、このすさまじき忘却力よ。あなどりがたき忘却力よ。

二〇一八年一月二十六日 「断章」

一つ一つのものは自分の意味を持っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 
 
その時々、それぞれの場所はその意味を保っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 

二〇一八年一月二十七日 「断章」

われわれのあらゆる認識は感覚にはじまる。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)

二〇一八年一月二十八日 「ひる」

きょうから再読は、早川書房の異色作家短篇集・第9弾の、ロバート・シェクリイの『無限がいっぱい』。SF作家だからSFを期待している。もう2篇、読んだけど、「ひる」なんて、ウルトラQの『バルンガ』そのものじゃん。これは憶えていた。

いまも本棚に並んだ本を抜き出しては表紙を眺めて、ああ、おもしろい本だったなと思って文庫本をつぎつぎ手にしては、本棚に戻してる。ぼくは本が好きだけど、もしかしたら本の内容より本の表紙のほうが好きなのかもしれない。

二〇一八年一月二十九日 「草野理恵子さん、廿楽順治さん」

草野理恵子さんから『Rurikarakusa』の7号を送っていただいた。収録されている「望遠鏡」という作品には、江戸川乱歩を髣髴とさせるタイトルのように、不気味な世界が描かれていた。最終連で、世界を覗く二種類の「望遠鏡」の提示に驚かされた。世界の選択か、と感慨深いものがこころのなかに生じた。もう一篇収録されている草野理恵子さんの作品「缶詰工場」も、アイデアが秀逸で、ぼくが草野さんをうらやましく思う理由のひとつだ。

廿楽順治さんから、『Down Beat』の11号を送っていただいた。収録されている廿楽さんの「大森貝塚」と「高幡不動様」を読ませていただいた。言葉が自在だなという印象を受ける。うまいものだなと思う。ぼくも自在に言葉を操ってみたいなと思った。どこからアイデアが浮かぶのだろう。不思議に思う。


二〇一八年一月三十日 「蝸牛。」

雨に触れると雨になる蝸牛。

二〇一八年一月三十一日 「美術手帖」

いま、美術手帖の編集長の柿下奈月さんにメールをお送りしたのだけれど、雑誌の編集のお仕事はたいへんだなと改めて思わされた。来月の2月17日に販売される雑誌の「美術手帖」の3月号が「ことば」の特集号で、ぼくの詩が採り上げていただけるのだけれど、メールのやりとりだけでも何十人となさっておられるのだと思うと、気が遠くなるような気がして、雑誌の編集って、すごいたいへんなお仕事だなって思った。ぼくも、同人誌の Oracle の編集長をしていて、何万枚ものコピーをして、それを上梓するために印刷所に持って行ったりしていたことがあるけれど、いま思い出しても、ぞっとする経験だった。

『マールボロ。』は、シンちゃんに、東京にいたときの思い出をルーズリーフに書いてと言って書いてもらった言葉を、ぼくが切り刻んでつないだだけの作品で、引用だけでつくった詩のなかでもとくべつな作品だった。それを読んだシンちゃんの感想は、「これはオレじゃない。」だった。詩論の核になった。『マールボロ。』は、ぼくの詩論の出発点になった作品だった。抽出する思い出の選択の違いや、その思い出たちの順番を替えただけで、別の人間になるんだね。何人ものぼく、何人ものきみがいるってことだね。いくつもの作品が同時に仕上がるってこと。『順列 並べ替え詩。3×2×1』のようにね。いや、違う。違う、違う。それは、作品上のことだけで、人生そのものは、時間の順番も、場所の順番も、出来事の順番も一つしかない、一回きり、一度きりの、ただ一つのものだったね。そう。人生と作品は区別しなきゃいけないね。あれ? それとも区別できないものなのかな。むずかしいね。どだろ。そいえば、このことを「万華鏡」にたとえて書いたことがあったな。鏡の筒のなかに入った、いろいろな色の、いろいろな形のプラスチック片が、筒を動かすたんびに、いろいろな景色をつくりだすのを眺めているのと比べたことがあったな。どれくらいむかしに書いたっけ。忘れちゃったな。10年、20年、まあ、そんなくらいのむかしのことだったと思うけど。なにに書いたっけ。詩論詩集の『The Wasteless Land.II』だったかな。いや、まだ未発表の詩論詩だったかな。なぞだ。あまりにも、たくさん書きすぎて、わからなくなっている。まあ、いいや。未発表の詩論詩たちも、そのうち文学極道に投稿しよう。


詩の日めくり 二〇一八年二月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年二月一日 「無限がいっぱい」

塾が終わって、日知庵に行ったら、シンちゃんさんご夫妻と友だちがいらっしゃって、そこからガブ飲みに。きょうも、ぼくはヨッパで眠る。眠るまえの読書は、ロバート・シェクリイの短篇集の『無限がいっぱい』。ああ、ぼくの胃のなかはアルコールでいっぱい。シンちゃんに、焼酎一本おごってもらって。

二〇一八年二月二日 「藤井晴美さん」

いま日知庵から帰った。郵便受けに、すごくおもしろいタイトルの詩集が送られてきていた。あした感想を書こう。藤井晴美さんというかたから『電波、異臭、工学の技』という詩集が送られてきたのだった。理系のぼくとしては、おもしろくて仕方がないタイトルである。あした読ませていただこう。楽しみ。

二〇一八年二月三日 「電波、異臭、工学の技」

藤井晴美さんから、詩集『電波、異臭、工学の技』を送っていただいた。さまざまなモチーフと技法が駆使されているなかで、ことに「詩人」と「映画」というモチーフが目についた。ぼくは画家にあこがれて画家になれなかった詩人だけど、藤井さんはどうなのかなって思った。

ロバート・シェクリイ『無限がいっぱい』 誤植 131ページ上段4━5行「機会のうごきを研究し、製作し、維持する」これは「機械のうごきを研究し、製作し、維持する」だろう。ほんとに、まあ、だらしない校正だなあ。

二〇一八年二月四日 「破局」

いま日知庵から帰ってきた。帰りにセブイレで買ったサンドイッチを食べて、ロバート・シェクリイの短篇集『無限がいっぱい』のつづきを読んで寝よう。きょうのお昼に読んでた「先住民問題」って作品、人類学や生物学を少しでも知っていれば、簡単に片づく問題なのに、作品が半世紀まえのものだからね。

ぼくは画家になり損ねた詩人だ。詩人なんて、吐いて捨てるほどいるけれど。画家もそうか。吐いて捨てるほどいるか。芸術家とは、なんと因果な生業なのだろう。

いままで寝てた。ご飯も食べず。ロバート・シェクリイの短篇集『無限がいっぱい』を徹夜で読んだからだな。で、これから、デュ・モーリアの短篇集『破局』の冒頭の作品のつづきから読むんだけど、異常者が主人公なのだった。描写がうまい。先が読めない。再読なのにね。記憶力がほんとうににぶった。

帰りに、セブイレで、烏龍茶とシュークリーム2個買った。これから食べて、それから朝まで読書しよう。

あしたは、大谷良太くんちで、つぎに出す詩集の打ち合わせだ。がんばろう。

二〇一八年二月五日 「断章」

魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現われることがない、
(サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳)

二〇一八年二月六日 「Still Falls The Rain。」

いま、きみやから帰った。そのまえに、大谷良太くんちで、書肆ブンから出る、ぼくのつぎに出る詩集『Still Falls The Rain。』の編集をしてたんだけど、きょうの編集作業はめっちゃ進んでて、半分くらい終わった。ふたりで、12時間近く作業してたと思う。ふう。あと一日で終わるかも。楽天的な推測。

大谷良太くんちで、こんどの5月に出す詩集の打ち合わせをしてるときに いま出てる現代詩手帖2月号を見せてもらって 高塚謙太郎さんに、ぼくの詩集を採り上げてもらってることを知ってうれしかった。 ごく少数でも、ぼくの詩を見ていただいてる方がいらっしゃるんだなあと思って。 高塚謙太郎さん、ありがとうございます。

二〇一八年二月七日 「断章」

言葉とは何か?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)

言葉以外の何を使って、嫌悪する世界を消しさり、愛しうる世界を創りだせるというのか?
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

二〇一八年二月八日 「命日」

おとつい、2月6日は、日知庵のまえのマスターの命日で、きのう日知庵に行きたかったのだけれど、ぼくの体調が悪くて行けなかったのだった。きょう、二日ずれたけれど、日知庵に行って、まえのマスターのこと、いろいろ思い出していた。気さくで、いつも陽気なマスターだった。ぼくの耳には、まだまえのマスターのお声や笑い声が聞こえてくる。帰りに、これ持って帰って、と、えいちゃんに言われて、お酒をもらった。「英勲」という日本酒だった。これ、寝るまえに飲んで、まえのマスターのこと、もっといろいろ思い出そうっと。ほんとに、いいひとだった。まだ70代だったのに。涙。後半だけど。

「英勲」おいしい。

ひゃ〜。いまFB見てたら、あの新潮社でさえ、自費出版をはじめたようだ。それとも、むかしからやってたのかしら?

きょう、早朝から、大谷良太くんちで、書肆ブンから5月に出る、ぼくの新しい詩集『Still Falls The Rain。』の編集をすることになった。徹夜だが、目が冴えてるのでだいじょうぶだと思う。ぼくの脳機能は、いま全開だ。5時57分のバスに乗る。

いま、大谷良太くんち→日知庵から帰ってきた。4、50時間くらい眠っていないのだが、これから、ポオの『ユリイカ』で調べものをしなければならない。神さまに祈ります。探しものが、すぐに見つかりますように。

きょうの寝るまえの読書は、ポオの『ユリイカ』に決定。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年二月九日 「静かなストレス」

現代詩手帖の2月号で高塚謙太郎さんが触れてくださったおかげだろうか。『The Wasteless Land.』が売れている。発行所の書肆ブンには在庫がまだありますので、ご購入を検討されておられるお方はぜひお買い求めくださいませ。

ひさしぶりに、大野ラーメンでも食べてこようかな。焼き飯つきの。焼き飯は並に。

ポオの『ユリイカ』あと4ページで読み終わる。それにしても、すさまじい書物だ。

きのう、日知庵で、焼きそばをちょっと残した。注文した食べ物を残すことなど一度としてなかったのだけれど、そしたら、アルバイトしてるお兄さんに、「残さはるなんて、めずらしいですね。」と言われたのだった。えいちゃんに、「焼きそばのそばは、一玉、それとも、二玉?」ときかれたときに、「二玉でお願い。」とこたえたぼくやけれど、さすがに、4、50時間も眠っていなかったためだろうか、しんどくて、お酒も、水で薄めた焼酎のロックを3杯しか飲めなかった。しかし、そのムチャをしたおかげで、新しい詩集の編集がうまくいったのだけれど。よいことと、よくないことは差し引きゼロなのだ。

詩人の友だちのFBでのコメントに「静かなドレス」とあって、すかさず「静かなストレス」なんて言葉を思いついた。ポオの「神の心臓」の概念は、確実にぼくに影響を与えていて、その概念を利用した詩句を、ぼくは、「陽の埋葬」の一作に用いた。「サクラ」が出てくるので、4月辺りに投稿するつもりだ。

二〇一八年二月十日 「美術手帖」

2月17日発売の美術手帖は、「言葉の力。」特集号で、そこで、いぬのせなか座の方が編集・デザイン・制作された「現代詩アンソロジー」に、拙詩『I FEEL FOR YOU。』の一部が収載されています。とても画期的な詩のアンソロジーだと思います。ぜひ、ごらんください。

いま日知庵から帰ってきた。きょうは早い。眠いから。きのう寝たと思うんだけど、眠い。デュ・モーリアの短篇集、ようやく半分くらい再読した。でも、ぼくの忘却力がすごくって、読み終わったばかりの短篇しか記憶にないの。なんちゅうことやろか。アルツがはじまってるのんかもにょ。おっそろしいわ。

二〇一八年二月十一日 「ロキシー・ミュージック」

なんか朝からビールが飲みたくなってきた。コンビニで買って飲もう。

麒麟のラガービールと、アンパン一個、買ってきた。チューブで漫才でも見ながら飲もう。

デュ・モーリアの短篇集『破局』のつづきを読もう。いま「美少年」を再読しているのだが、状況の一部は憶えていた。まるで、マンの『ヴェニスに死す』みたいな雰囲気だ。舞台もヴェニスだし。

きょうは、夕方から大谷良太くんたちと京都駅の近くのヨドバシカメラの近くのハブというお店でお酒を飲む。

いまジェネシスのデュークを聴いているのだが、4月頃に出るぼくの新しい詩集『Still Falls The Rain。』は前篇と後篇を合わせて150ページくらいあるんだけど、ぼくはほとんどずっとプログレを参考に作品をつくってきたけど、今回は、ロキシー・ミュージックを参考にした。まあ、ロキシー・ミュージックもプログレ風味のあるアルバムつくってるし、曲によっては、完全にプログレだけれどね。あ、ちなみに、こんど出るぼくの新しい詩集『Still Falls The Rain。』には、論考も合わせて4篇ほど収録していて、うち3篇は、昨年に亡くなった大岡 信先生に捧げたものである。でもやっぱり、新しい詩集『Still Falls The Rain。』の主人公は、ヤリタミサコさんで、ぼくがヤリタミサコさんの朗読会で得たものは、とても大切なことだったように思う。

いま日知庵から帰ってきた。大谷良太くんらと京都駅の近くのハブに行って、そのあと日知庵に行ったのだけれど、大谷くんらが帰ったあと、ぼくがひとりで日知庵で飲んでると、むかし付き合ってたノブユキに似た男の子が隣に坐って、「おれ、バイなんですよ。」と言ってきたものだから、めっちゃ興奮してしてしまって、その子がぼくの肩に手をまわしてきたりするものだから、めっちゃ興奮してしまって、きょうのぼくは、ほんとに酔っぱらってしまったのだった。いい夢を見れればいいなあ。「ほんとに、きみかわいいね。」と言うと、「オレ、なんかおごりますよ。」と言ってくれたのだけれど、おそれおおくて「いいよ、いいよ、きみが横にいてくれるだけで、ぼくは幸せ。」と、ぼくは言ったのだった。ああ、もっと積極的になって、電話番号とかメールアドレスとか聞いとけばよかった。残念。ぼくって、ほとんどいつも、こんなふうに、消極的で、できる恋もできないのだった。こんなんばっかり。ほんとに、残念。だけど、残念だからこそ、詩にできるってこともあんのかもしれないね。そんな気もするぼくだった。ぼくの詩は残念な恋の話なのかもしれない。

二〇一八年二月十二日 「断章」

作品は作者を変える。
自分から作品を引き出す活動のひとつびとつに、作者は或る変質を受ける。完成すると、作品は今一度作者に逆に作用を及ぼす。
(ヴァレリー『文学』佐藤正彰訳)

これがぼくにとってどれほど大きな意味があることか、きみにわかるかい?
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)

二〇一八年二月十三日 「22世紀のコロンブス」

創元SF文庫から、3月に、J・G・バラードの『ハロー、アメリカ』が発売されるけど、これって、むかし、『22世紀のコロンブス』ってタイトルで単行本で売られたもので、すごくおもしろかった。バラードは、もってるもの、ぜんぶひとに譲ったけど、これは残しておきたかったな。おもしろかったよ。

このあいだ、ブックオフで、短篇集の『時の声』が108円で売ってたので買った。いま唯一もってるバラード本だ。いや、譲った女の子がすでに持ってるからって、『ハイ‐ライズ』は本棚にあったかな。本棚さがそう。

あった。カヴァーがかわいらしかったら、創元SF文庫から出る『ハロー、アメリカ』を買おうかな。

トーマス・マンも意地の悪い作家で、『ヴェニスに死す』で徹底的に美少年愛趣味の大作家をバカにして描いていたが、デュ・モーリアも、短篇の『美少年』のなかで美少年愛者の金持ちの考古学者を懲りない馬鹿として描いていて、なんだかなあと思った。まあ、じっさい馬鹿なのかもしれないけれどね。

いまネットで、創元のところを見ると、このバラードの『ハロー、アメリカ』、映画になるみたい。そっか。それで、もと『22世紀のコロンブス』を文庫化することになったのか。しかし、映画になったら、あの飛行機が空を覆うシーンだとか、ロボットの真似をした兵士たちが歩行するシーンは見ものだな。

きょうは、あさから、お酒を飲んでいるのである。アサヒのシャルネドサワーというので、マスカット味のものである。いまで3杯目。あさから、お酒を飲める幸せ。夕方には、日知庵に行くつもりだが、きょうは、一日、酒びたりになりたい。

漫才では、とろサーモンが大好きなのだけれど、ひと的には、和牛の川西さんが人格者っぽくていいなあと思う。人間はやっぱり、ひとにやさしくなければならないと思う。ぼくの場合は、気が弱いので、ひとにやさしいと思うのだが、気がしっかりしていて、やさしいというのはすごいと思う。

ここ半年くらいブックオフに行ってないかもしれない。欲しい本、読みたい本をすべて手に入れて読んだからだと思うけれど、きょう、日知庵に行くまえに、ひさしぶりにブックオフに行ってみようかな。見知らぬ良い本があるかもしれないしね。過去に何度かそんな目にあってるしね。よい本との出合い。

もうすでにいまヨッパなのだが、夕方から日知庵に行く。日知庵では、さいきん、焼酎のロックのうえから水をそそいで、ちょっとロックより薄い目にして飲んでいる。こうすると、たくさん飲めるのだ。いまBGMは、ピンクフロイドの「炎」。ヨッパである。さて、ブックオフでは、すてきな本との出合いは?

でも、デリケートなぼくは、バスや電車に乗ってるときに、お酒の臭いがしないかと心配だ。ぜったいするような気がする。あさからだけど、「昼間から飲んでる、このおっさん。」とかと思われないかなと思って。思われるだろうなあ。

郵便受けを覗くと、一冊の本らしきものの封筒が。で、部屋に持ち帰って、封を破ってみると、封筒にはイガイガボンという記名があって、なんだろ、これと思わせられたのだが、で、出てきた本が、阿賀猥さんの『民主主義の穴』という本だった。ああ、阿賀さん、ぼくのこと、憶えていてくださったんだと、まず第一に思ったのだけれど、本文を読むと、これは詩集ではなくて、評論集といった類のものだった。読みやすい本で、文学、精神分析、政治といった多義にわたる論述がびっしり。おもしろい本を送ってくださった。これをもって、日知庵に行く。

いま日知庵から帰った。日知庵に行くまえに、三条京阪のブックオフで、マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』を108円で買った。これって、持っているんだけど、カヴァーの状態が悪くって、新たに買ったのだけれど、部屋に帰って、本棚を見ると、『暗殺者の惑星』がなかったのである。いつの間にか、なくしてしまったのか、いまのぼくの探し方が粗かったのかもしれない。いま激ヨッパだから、あしたまた本棚をあたるけれど、いや〜、ゲロゲロにヨッパだわ。

で、日知庵で、えいちゃんから聞いたんだけど、このあいだの日曜日に、ぼくの肩を抱いてくれた青年の名前は「今村」くんで、年齢は、30才くらいで、こんど来たら、ぼくに電話をくれるって。ぼくは30分くらいで日知庵に行けるからねって言っておいた。今村くん、かわいかった〜。ノブユキくらいに。

日知庵では、阿賀猥さんの『民主主義の穴』を70ページくらいまで読んだ。三ケ所に誤字・脱字があったけれど、気にせずに読めた。きょうの寝るまえの読書は、阿賀猥さんの『民主主義の穴』だ。おもしろい。本の価格も安い。これは売れる本だなって思った。こういう本が売れなきゃいけないなって思う。

二〇一八年二月十四日 「阿賀猥さん」

阿賀猥さんの『民主主義の穴』を読み終わった。おもしろいエッセーだった。善と悪についての考察が、ぼくが読んだこともない方向からなされていて、目を見開かされた。これは売れる本だなと思う。200ページの本で本体1100円なのである。やすい。おもしろいし、やすい。

ただ一つ残念なことに、誤字・脱字が多い。たとえば、36ページ「一文をを」→「一文を」66ページ「案外多いのはないか?」→「案外多いのではないか?」66ページ「しわくちゃのこびと小人が」→「しわくちゃの小人が」70ページ「なにも変わらないことのなる」→「なにも変わらないことになる」81ページ「逃れために」→「逃れるために」128ページ「おぞましいもの集積」→「おぞましいものの集積」146ページ「下等な美徳」」→「「下等な美徳」」148ページ「二人が登場させている。」→「二人を登場させている。」160ページ「マウンデヴィル」→「マンデヴィル」161ページ「戦争という三島由紀夫ではないが、」→「戦争というと三島由紀夫ではないが、」165ページ「マンデヴル」→「マンデヴィル」184ページ「そんなものに彼が頓着するするだろうか。」→「そんなものに彼が頓着するだろうか。」195━196ページ「これで繁栄を築いて来たのもの。」→「これで繁栄を築いて来たものの。」

おおのラーメンで、餃子セットを食べてきた。帰りに、セブイレで、海鮮せんべえと、烏龍茶を買ってきた。夕方まで、デュ・モーリアの短篇集『破局』のつづきでも読もう。ふいの調べものや、他の本の読書で中断されまくっている。あ、そうだ。マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』を探すんだった。

すぐに見つかった。きのうは酔っぱらっていたから見つからなかったのかな。もってたほうも、きれいだった。きれいじゃないほうをお風呂につかりながら読んで、読んだら捨てようと思っていたのだけれど、きのう買ったものも、もってたものも同じくらいきれいで、ほんとに迷うわ。

デュ・モーリアの短篇集『破局』を読むのを中断して、マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』を読む。これは、フロベールとともに、ぼくに全行引用詩を思いつかせた小説である。エピグラフの連続という、当時のぼくにはめずらしい作風だからだ。メルヴィルの『白鯨』を知ったのは、ずいぶんあとで、全行引用詩をぼくが書いたあと。

きょうから、お風呂場では、マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』を読む。レズニックの作品で、ぼくの本棚に残っているのは、あと1冊。『一角獣をさがせ!』のみである。これはファンタジーだったから、SFではないのだが、とてもおもしろかった記憶がある。

いま、お風呂からあがった。お風呂場では、湯舟につかりながら、マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』を読んでいたのだけれど、きのう、きょうのあさと読んでいた、阿賀猥さんの『民主主義の穴』との共通項があったのである。それは「悪」の問題である。阿賀猥さんは「善」も扱ってらっしゃったけど。

『暗殺者の惑星』エピグラフが頻出するのだけれど、冒頭から書き写してみよう。異様な世界観が露出する。

プロローグ

「悪の中にも善なる魂はあるものだ」
━━シェイクスピア

「われわれが屈することのない悪はみな恩人である」
━━エマソン

「われわれの最大の悪はわれわれ自身の内から自然にでてくるものだ」
━━ルソー

とんでもない。

「悪に説明などつかない。これは宇宙の秩序にとって欠くことのできない一部と考えるしかない。無視するのは子供じみているし、嘆いても無意味というものだ」
━━モーム

このほうが近い。

「悪はそれ自体を正当化している。それゆえ、力、快楽、利益でさえ無意味になってしまうのだ」
━━コンラッド・ブランド

この引用の連鎖が、フロベールの遺作とともに、ぼくに全行引用詩の構想を思い起こさせたのだった。

1の冒頭に引用された主人公の言葉、このエピグラフに、ぼくはびっくり仰天したのだ。紹介しよう。

「ひとり殺せば殺し屋でしかないが、数百万人を殺すものは征服者となり、ひとり残らず殺すものは神となる」
━━コンラッド・ブランド

なんちゅう、すごい考え方だろうか。「まったき悪」が「神」となるのである。

23ページ 2 の冒頭に引かれたエピグラフも陶然とさせられるものである。こんなの。

「殺人とはたんなる感情の爆発でしかないが、大量虐殺ともなれば芸術である」━━コンラッド・ブランド

以上、翻訳は、小川 隆さん。ルーシャス・シェパードの『戦時生活』なども翻訳なさってて、ぼくの大好きな翻訳家のおひとり。

さて、これからお出かけである。冬の寒さも、2月までかな。はやく桜の花びらを見たい。

二〇一八年二月十五日 「人格売買」

人身売買というのがあるが、人格売買という言葉を思いついた。ふつうに、労働って、人格売買だよね。

寝るまえの読書は、マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』もう3回以上、再読している。めっちゃ読みやすくておもしろかった記憶がある。おやすみ、グッジョブ!

きょうはチョコレート責めだった。あしたからチョコレートの消費すごそう。虫歯になっちゃうかな。

気遣いのできる彼女。気違いのできる彼女。「遣い」と「違い」で大違い。

マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』を読み終わった。何回目の再読だろうか。おもしろかった。ただいつも再読のたびに、さいごの場面は違ったものにしてほしいなあと言う気持ちが湧き上がる。暗殺者を処刑するなんて、もったいないことをしたものだなっと思う。シリーズ化できそうな作品なのにって。

二〇一八年二月十六日 「特別料理」

デュ・モーリアの短篇集『破局』を読み終わった。今日から、早川書房の異色作家短篇集シリーズ・第11弾の、スタンリイ・エリンの短篇集『特別料理』の再読をする。これまた収録されている作品をタイトル作も含めて一つもおぼえていない。

あさの11時45分から、夕方の4時5分まで、税務署の出張所で、確定申告してた。ほとんどが待ち時間だった。本でも持って行ってればよかった。帰りに王将で、餃子定食を食べた。またその帰りに、セブイレで、海鮮せんべえと、烏龍茶を買ってきた。疲れた〜。

たしか、おとついかな、日知庵で、はるかちゃんとしゃべってたら、名字が「今井」さんていうのだけれど、「今」が旧字で、なかが「ラ」ではなくて、「テ」らしい。いまパソコンでも旧字の「今」が出てこないのだけれど、ハンコ、特注らしい。ぼくなんか「田中」で、どこにでも売っている名前で、便利。

二〇一八年二月十七日 「みんな、きみのことが好きだった。」

いま日知庵から帰ってきた。きょうは、というか、きょうも読書で一日を終わろう。スタンリイ・エリンの短篇集『特別料理』だ。まだ解説しか再読していない。本文はおもしろいかな、どだろ。記憶がまったくない。

ぼくの詩集をさいしょに購入くださるなら、書肆ブンから出ている『みんな、きみのことが好きだった。』をおすすめします。初期のものから中期のものまでのベストセレクションになっています。とくに前半に収録してある「先駆形」の一群と、引用を駆使したサンドイッチ詩など。

きょうは、はやく寝よう。ジュンク堂で、美術手帖を見た。自分の詩の一部が抜粋されていて、うれしかった。

二〇一八年二月十八日 「どんな詩を書こう。」

これから日知庵に。パソコンから離れます。

いま日知庵から帰った。網野杏子さんから、うれしいご連絡が入っていた。ほんとにうれしい。河野聡子さんから原稿依頼があってから、ひさかたぶりだ。

あした、えいちゃんたちと、ホルモン焼きを食べに四条大宮まで行く。マスターがケンコバそっくりでかわいいのだ。楽しみ。

どんな詩を書こう。

というのも、「詩の日めくり」と「全行引用による自伝詩。」以外、ここ一年、二年、新しいものを書いていないからだ。ブルブル。今晩から、構想を練ろうか。恋が主題か、生き死にか主題か、どだろ。ブルブル。ああ、これじゃ、吉増さんだな。新しい音を書かなきゃならない。

ビートルズのようなものも、いいかな。ピンクフロイドみたいなのも、いいかな。

きょうも、エリンの短篇集を読んで寝る。おやすみ。いったい、ぼくの詩は誰が読んで寝てくれるのだろう。

二〇一八年二月十九日 「ふんどしバー」

『美術手帖』3月号「言葉の力。」特集号を送っていただいた。17篇の現代詩アンソロジーに拙作の一部が抜粋していただいた。いぬのせなか座の方たちの編集・デザイン・制作だそうだ。いろいろなタイプの詩のアンソロジーになっている。書店でぜひ、手に取ってごらんください。で、そのままご購入を。

これからお風呂に入って、骨からあたたまろう。お風呂場での読書は、ふたたび、マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』

台北に、ふんどしバーができたとかいう噂が FBで流れていた。体型的には、ふんどしは、短足・デブが似合うんだろうけれど、あんまり興味がない。というか、まったく興味がない。ただ、ふんどし姿で、バーでお酒を飲むことに快楽を覚えるひともいるのかと思うと、笑けてしまって、しょうがない。まあ、でも別の見方をすれば、言葉の組み合わせと配列に精を出して詩なんてものを書いてるぼくなんかのことを、へんだと思って笑うひともいるだろうしね。みんな、おあいこなんだなって思った。

8時からホルモン焼き屋さんで飲み会なのだけれど、FBで、天下一品のラーメンの画像が貼り付けてあったので、飲み会のまえに天下一品に行こうかな。

いま四条大宮のホルモン焼き屋さんから帰ってきた。行くまえに、西大路三条の天下一品で、ラーメン大を食べたのだけれど、ホルモン焼きもばかばか食べた。ホルモン焼きはひさしぶりだった。シンちゃんとおととし、いや、去年、大谷良太くんといっしょに食べたのが、さいごだったっけ。更新した。

わっしゃー、きょうは、これで寝る。寝るまえの読書は、エリンの『特別料理』のつづき。それにしても、オー・ヘンリーって作家は、よく食べられることの多い作家なのだと思った。エリンの「特別料理」でもだし、ジェラルド・カーシュの「壜の中の手記」でも食べられてることを示唆する描写に出合う。

二〇一八年二月二十日 「テンテンとスイカ頭」

そだ。飲んでる時に、いけちゃんから貴重な情報を入手したのだった。キョンシーに出てくる、テンテンとスイカ頭が実の兄妹だったってこと。知らなかった。

いま、日知庵→きみや→日知庵の梯子から帰ってきた。ジュンク堂には行かなかったから、中国SFのアンソロジーは買い損ねた。まあ、いいか、部屋には、ごっそり傑作が本棚に並んでいる。きょうも、エリンの短篇集『特別料理』のつづきを読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年二月二十一日 「断章」

言葉とは何か?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)

順序を入れかえたり、語をとりかえたりできるので、たえず内容を変える
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)

新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)

二〇一八年二月二十二日 「夜の旅その他の旅」

きょうから寝るまえの読書は早川書房・異色作家短篇集・第12弾の、チャールズ・ボーモントの『夜の旅その他の旅』。これまた、ぼくはひとつも作品を記憶していない。ぼくの再読は、新品を買ったときの読書と同じだな。ボーモントの作品は、文春文庫の『ミステリーゾーン』シリーズでも読んでたはず。

ユリイカの5月号に作品を書かせていただくことになった。12年ぶりである。ユリイカは、ぼくが1991年に、ユリイカの新人に選ばれたところなので、とても懐かしい。ぜひおもしろい作品を書かせていただきたいと思う。この二日間で、3つばかりの原稿依頼がきている。美術手帖の効果かもしれない。

二〇一八年二月二十三日 「断章」

詩人のそばでは、詩がいたるところで湧き出てくる。
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第七章、青山隆夫訳)

今まで忘れていたことが思い出され、頭の中で次から次へと鎖の輪のようにつながっていく。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)

わたしの世界の何十という断片が結びつきはじめる。
(グレッグ・イーガン『貸金庫』山岸 真訳)

あらゆるものがくっきりと、鮮明に見えるのだ。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)

過去に見たときよりも、はっきりと
(シオドア・スタージョン『人間以上』第二章、矢野 徹訳)

なんという強い光!
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』昼夜入れ替えなしの興行、木村榮一訳)

さまざまな世界を同時に存在させることができる。
(イアン・ワトスン『知識のミルク』大森 望訳)

これは叫びだった。
(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)

急にそれらの言葉がまったく新しい意味を帯びた。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』34、大島 豊訳)

そのひと言でぼくの精神状態はもちろん、あたりの風景までが一変した。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』女戦死(アマゾネス)、木村榮一訳)

二〇一八年二月二十四日 「笠井嗣夫さん」

笠井嗣夫さんの作品について書くことになった。詩集『ローザ/帰還』(思潮社)、エッセイ『映画の歓び』(響文社)、エッセイ『声の在り処』(虚数情報資料室)。かつてぼくの詩を快く読んでくださった方の作品だから、きっと、ぼくの作品に近いところがあるんではないだろうか。読ませていただこう。

二〇一八年二月二十五日 「目も耳もいい詩人」

読み終わった。詩と云うものについて、大事なのは、目と耳だと思う。笠井さんの詩を読んで、笠井さんが目も耳もいい詩人であることがわかった。詳しいことは、感想文に書こう。

二〇一八年二月二十六日 「言葉狩り」

これから病院に。待ち時間が3時間以上あるので、笠井嗣夫さんの『声の在り処』を持って行こう。

詩の仕事を一つした。きょうは、あともう一つ。

もう終わった。ついでに、もうひとつくらい、先のほうの締め切りのもやっておこう。

ときどき言葉狩りをする。時間は夜がいい。できれば、大方のひとが眠っているときにするのがよい。ぼくは全身、目と耳になって、言葉を狩っていく。読書だけとは限らない。居酒屋でも、FBでも、ツイッターでも、どこからでも言葉を狩っていく。

狩った言葉を加工して詩を一つつくった。まったくジャンクなシロモノができた。タイトルは、「私はあなたの大きなおっぱいで終わりました。」だ。第一行目は、こうだ。「Who’s in your heart now?」こんな行もある。「漁師の妻はペニスが好きだった。霧が深くて、自分の家を見つけることもできない。」

ひさしぶりに、言葉でコラージュしていたら、楽しくて仕方ない。ほんとうのことを言おうか。ぼくは詩人などではない。言葉の加工職人なのだ。「旦那が壁にカラフルな色を塗ったので漁師の妻は失敗しなかった。しかし、その伝説は、実際には、中世のペストの話を加えたものであり、汚染された住民たちは白い色でコーティングをして感染していてもしていなくてもその地域には白い色が塗られている。」

頭を刈ったのでお風呂に入る。出たら、飲みに出ようかな。

二〇一八年二月二十七日 「きみの名前は?」

きょうは夕方から、先駆形の詩をつくっていたころの気分になって有頂天だった。まだ詩がつくれる。おもしろいほど、たくさんつくれる。才能って、涸れることがないんだって思った。寝るまえの読書は、チャールズ・ボーモントの『夜の旅その他の旅』のつづき。ミステリー・ゾーンみたいにおもしろい。

いままで詩句をいじくっていた。楽しかった。おやすみ、グッジョブ!

きみの名前は?
(チャールズ・ボーオント『引き金』191ページ、小笠原豊樹訳)

詩をひとつつくって、いま小休止。すこし休んだら、もうひとつつくろうと思う。勢いに乗らなくっちゃね。「みんな、きみのことが好きだった。」とか「マールボロ。」なんかの先駆形をつくってたころの勢いがある。

あれ、きょう火曜日だよね。日知庵に飲みに行こう。居酒屋で言葉を狩ってきます。

二〇一八年二月二十八日 「網野杏子さん」

きょう、網野杏子さんにお送りした作品は、6月に出るらしいです。初期のころからぼくの詩をずっとごらんくださってくれてる方で、ぼくの今回の作品は『NEXT』というタイトルのフリーペーパーにて紹介くださるそうです。「ぼくは、あなたの大きなおっぱいで終わりました。」というタイトルの詩です。

使い古した言葉で、こころのなかに、はじめて抱く感情を描いていく、というのが、ぼくの先駆形の詩の特徴だと思うのだが、きょう、網野杏子さんにお送りした作品のあとには、どんな感情が生起するのだろうか。網野さんにお送りした作品は、自分の頬がゆるむほどに、自分でもゲラゲラ笑った作品だった。

二〇一八年二月二十九日 「断章」

ただひとつの感情が彼を支配していた。
(マルロー『征服者』第I部、渡辺一民訳)

感情が絶頂に達するとき、人は無意識状態に近くなる。……なにを意識しなくなるのだ? それはもちろん自分以外のすべてをだ。自分自身をではない。
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』20、鈴木 晶訳)

二〇一八年二月三十日 「断章」

今ではわたしも、他人のこころを犠牲にして得たこころの願望がいかなるものか、
(ゼナ・ヘンダースン『なんでも箱』深町眞理子訳)

それを知っている
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

私という病気にかかっていることがようやくわかった。
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友人へ』8、佐宗鈴夫訳)

二〇一八年二月三十一日 「断章」

私というのは、空虚な場所、
(ジンメル『日々の断想』66、清水幾太郎訳)

世界という世界が豊饒な虚空の中に形作られるのだ。
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)


詩の日めくり 二〇一八年三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年三月一日 「ぼくは、あなたの大きなおっぱいで終わりました。」

きょうも寝るまえの読書は、チャールズ・ボーモントの短篇集『夜の旅その他の旅』のつづき。なんか40年とか50年まえの小説を読んでいるのだけれど、それなりに楽しい。というか、現代文学を、ぼくは読んでいなくて、どんなのか知らない。詩は知り合いとか友だちのを読んでるから現代詩はわかるけど。

きょうからの読書は、早川書房・異色作家短篇集・第13弾、ジャック・フィニイの『レベル3』。これまた、話を一つも憶えていない。ぼくの再読は初読だな。

ぼくが網野杏子さんにお送りした作品「ぼくは、あなたの大きなおっぱいで終わりました。」は、網野杏子さんはじめとする、ご同人、三人の方ではじめられるフリーペーパー『NEXT』のためのものらしく、『NEXT』は6月に出るらしいです。どのようなフリーペーパーか出来上がるのか、とても楽しみです。


二〇一八年三月二日 「おかきに、ウーロン茶だ」

あれ、なに買ったんだろう。あはは。おかきに、ウーロン茶だ。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年三月三日 「血まみれ」

眉毛のところ、切って、血みどろになっちゃった。あちゃ〜。右手のところ、血まみれ。あした、飲みに行こうかと思ってたけど、顔が血みどろで、えいちゃんになんて言われるか、ドロン。

部屋でこけて、眉毛のところ切って、血まみれになった。この齢で、部屋で血まみれになるなんて珍しいかもね。手のところ、右手のところ血まみれ。こんな57歳。もうじき死ぬね。ああ、はやく死にたい。右手の袖んところ、血まみれ。なんだろ、ぼく。血まみれ。血まみれの右手。57歳。痛いわ〜。

そして、さらに、吉野家からの帰り、ヨッパで、顔と手と膝を切った。手は血まみれ。ひゃ〜。顔も血まみれ。

二〇一八年三月四日 「引用の詩学」

顔がお化けみたいになっているので、近くのコンビニしか行けないけれど、もともとコンビニにしか行かないので同じことか。

きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する作品を決める。40作品以上の未発表作品がある。自分で自分の作品を選ぶ作業は、ある種、詩を書くときに言葉を選ぶ作業に似ているような気がする。楽しみ。

「引用の詩学」っていうのに決めた。ついでに、3月に投稿する2作品も、これから決めようと思う。

3月に投稿する作品も、2作品とも、ごりごりの引用作品である。

いま、『ユリイカ』の5月用の作品をつくってたのだけれど、求められているものの長さの2倍ほどになったので半分に削る。いま神経がとがっているので、あとでつくる。ぼくの場合、詩はこころに余裕がないとつくれない。逆のひとも多そうだなあ。まあね、ひとによって、つくり方が違ってあたりまえか。

ユリイカの作品、いま、がばっと削って、ちょっと足して、改行部分を適切な長さにした。ふう。ようやくヴィジョンが見えた。3分の2くらい整えたところで、物語がクリアになったのだった。ぼくの詩のタイトルでも最短のものにするつもり。一文字だけのタイトル。「つ」

いや、「つ」というタイトルの詩を見たような記憶がある。ぼくが投稿していた時代に、神戸のお医者さんで、会って、共作もしたことのあるひとだった。タイトルを変えよう。すると、詩の中身もちょっといじらなくてはならない。うううん。中途半端な記憶力。

タイトルを「ひとつ。」に変更した。作中の「つ」をすべて「ひとつ」に変更した。へんに、意味が通じやすくなって、その付近の行が意味のある内容になってしまった。意味のあるものにはまったく関心がないので、ちょっとしょぼんだが、作品としてはよくなってるような気もする、笑。あまのじゃくだな。

いま、たまたま、エズラ・パウンドの『ピサ詩篇』を手に取ったので、文学極道に詩を投稿するまで読み直そうかな。いまパラ読みしたら、ビンビンすごさが紙面から伝わってくるのね。ジェイムズ・メリルと並んで、シェイクスピアやゲーテに匹敵する数少ない詩人のひとりだと思う。

二〇一八年三月五日 「お風呂に入りたくない」

さて、20分くらいで、4月に文学極道に投稿する作品2作を、文学極道の詩投稿掲示版の画面用に加工した。きょうできることはみな終えた。これから、ジャック・フィニイの短篇集『レベル3』を読みながら寝る。どの物語もノスタルジックなものばかりで、新鮮味がまったくない。ちょっと苦痛の読書だ。

あしたのあさは、ユリイカに送る詩をもう一度、見直して、送付しようっと。おやすみ、グッジョブ!

知っていることを話すのはたやすい。知らないことを話すのはもっとたやすい。

いままで詩句をいじくりまわしていた。読み直すたびに詩句が変わっていくことはあるけれど、こんどのは、ひどい。すんごい頻度で詩句が変わっていく。元型は3分の2もないんじゃないだろうか。見た目と音を大事に考えているけれど、とりわけ音が詩句をいじくりまわさせてるみたいだ。いまからもまた。

傷口が痛いからお風呂に入りたくないけれど、お風呂に入らなければ不潔だから、これからお風呂に入る。詩句、見るたびにいじりまわしているけれど、さっきは3カ所だけだった。お風呂からあがったら、もう一度、読み直そう。それで、一回寝たら、起きて、もう一度読み直して、ユリイカに送ろうと思う。

いま、ユリイカの明石陽介さんに、出来上がった作品をワード原稿でメールに添付してお送りした。おもしろく思ってくださるとよいのだけれど。ユリイカの5月号で、なんの特集がされるのか知らないけれど、楽しみだ。

鼻の傷口を拭いたら、膿がついた。鼻の穴の横がいちばん痛い。鼻の頭じゃなくて、どうして、低い場所がひどい怪我をしてるんだろう。鼻の頭は無事。ああ、そうか。顔が地面と衝突するとき、本能で顔をそむけたからだな。ぼくは怪我からも学ぶことができるということに気がつくことができて、うれしい。

怖いもの見たさに、自分の顔を鏡で見るなんていう経験もはじめてだ。

雨がうるさくて睡眠薬が効かない。雨は、どうして、こう神経をいらだたせるのだろうか。憂鬱である。まあ、憂鬱ついでに、ジャック・フィニイの短篇集『レベル3』でも読もうか。もう何十時間くらい起きているのだろうか。まだ骨はポキポキいわないけれど。あ、関節ね、ポキポキいうのは。

さっき、セブイレで、はちみつレモンと、豚まん3個買ってきて食べたのだけれど、まだお腹がすいている。どうしよう。コンビニで、甘いものでも買ってこようかな。シュークリームがいいかな。寒いけど、行ってこよう。

味わいカルピスと、サンドイッチと、シュークリームを買ってきた。これで、腹もち、もつかな。

部屋のなかで、クール・ザ・ギャングのセレブレーションを聴きながら踊っている。すばらしい詩作品が2作、1週間のあいだにできたのだった。神さまに感謝して踊っているのである。きょうは疲れるまでディスコ・サウンドで踊るぞよ。EW&FやAWBなんかもいいな。ファンクもいいかな。

二〇一八年三月六日 「ヤン・フス」

いま起きた。自販機でオレンジジュース買ってこよう。

きょう、さいしょのご飯は王将にしようかな。きょうは、なにもする予定がないので、ジャック・フィニイの短篇集『レベル3』のつづきを読もう。新鮮味のない、おもしろくない短篇ばかり。どうして有名なのか、さっぱりわからない。叙述が細かすぎて、うっとうしいのだ。

ランチがまだあったので、日替わりランチにした。焼き飯+ラーメン+餃子一人前だ。おなかいっぱい。だけど、帰りにセブイレで、海鮮おかきと、烏龍茶を買ってきた。ジャズのチューブでもかけながら読書でもしようかな。きょうは、ひまひま。

ヤン・フスが火刑に処せられたときの描写は、カミュの『手帖』の第六部にあった。ぼくの詩集の『Forest。』に引用してあった。まあ、もう、ぼくの詩集自体が辞書って感じのものになりつつあるな。『引用の詩学。』みたいなの、あと10個ほどあるので、文学極道に投稿していくつもり。そのうち詩集に。

これまでもメモ魔だったけれど、忘却力の増した57歳ともなると、これまでにもまして、ささいなこともメモしていかなければ、記憶がちっとも蓄積されないことがわかった。これから読書に戻る。フィニイの言葉でメモはちっともしていないけれど。

『詩の日めくり』のための資料を整理していると、一瞬、重要なファイルが消えてあせった。ちゃんとあったけれど、パソコンって、そういうところがあって、しばしば、あせらせられる。まあ、ぼくが機械に弱いだけかもしれないけれどね。

そういえば、ノブユキは陥没乳だった。乳首のところがへっこんでいたのだ。両方の乳首が陥没してたかどうかは記憶にない。30年ほどむかしのことだからね。どこにも書いたことがなかったかもしれないので書いておく。吸ったら、出てくるんだけどね。デブだったから。デブには多いんだよね、陥没乳。

二〇一八年三月七日 「虹をつかむ男」

朝ご飯でも食べてこようかな。松屋か吉野家か。そのまえに鏡を見よう。こわい。

松屋で豚なんとかか、なんとか豚定食を食べてきた。680円。いまなら、ご飯の大盛りが無料ってので、大盛りにした。帰りに、セブイレで、烏龍茶と、サンライズを買ってきた。サンライズ、大好き。

きのうからきょうにかけて、網野杏子さんに以前にお送りしていた詩篇をいじくりまわしていて、網野杏子さんにはお手数をおかけするけれど、以前の詩篇を破棄していただき、新しい原稿をとっていただくようにお願いした。いじくり癖がなかなか治らない。これはもう病気の領域だな。

いつ原稿依頼があっても、数十分以内に送れるように、原稿用紙4、5枚くらいのものをつくっておこう。ちょっと、ここ10年くらい、長いものばかりつくっていて、ひとつの感覚でもって書くってことしてなかったので、感覚が鈍っていた。もっととぎすまさなければいけないね。普段からね。きょうから。

「ミニ・詩人論 田中宏輔」っていうのを書いてくださっておられる方がいらした。

ジャック・フィニイの短篇集『レベル3』を読み終わった。後半の作品のほうがおもしろかった。順番を替えればよかったのにと思う。前半、ほとんど発想が同じものだった。さいごの作品「死人のポケットの中には」はどきどきするくらいおもしろかった。

きょうから、早川書房の異色作家短篇集・第14弾の、ジェイムズ・サーバーの『虹をつかむ男』を再読する。さてさて、これまた、ぼくは、話を一つも記憶していないのだった。もうね。ほんとにね。ぼくの再読は、新刊本を読むみたいな感じだね。ジャック・フィニイのも、一つも憶えていなかったものね。

お昼ご飯を買いに、セブイレに行こう。

道を歩いていたら、自分の原稿を思い出して、あ、あそこ、こうすればもっとおもしろくなると思って、訂正稿を、お二方にお送りさせていただいた。目のまえに立っていたら顔をぶたれそう。網野杏子さんには、4回目の原稿送付になってしまった。ユリイカの明石陽介さんにも訂正稿を送らせていただいた。

ひゃ〜。いままた自分の詩句のまずいところを思い出してしまって、ユリイカの明石陽介さんに、ほんとうに最後の最終決定稿ですと書いて、いじった原稿をワード添付してお送りさせていただいた。ああ、ぼくの脳は、どうなっているのだろう。病気だな。

二〇一八年三月八日 「FAR EAST MAN」

ああ、いままた、ユリイカの明石陽介さんに、本当の本当に最後の最終稿ですって、メールに添付して、お送りさせていただいた。明石陽介さんにも4回、送らせていただいちゃった。神経がどうにかなっちゃってるんだろうね。無意識にでも詩句のことを考えちゃってるんだろうね。もうこれで終わりにしたい。

ジェイムズ・サーバーの『虹をつかむ男』さいしょ読んで意味がわからなかったけれど、ぼくも似た状況の作品を書いた記憶がよみがえって、ようやく意味がつかめた。もちろん、サーバーのほうが数百倍、上手だけれど。ぼくの脳みそが錆びれたのかな。サーバーの作品、これはこころしてかからねばならぬ。

きょうは雨。どこにも出かける気がないなあ。お腹がすくので、お昼ご飯は食べに出ると思うけれど。一日じゅう読書でもしてよう。

きょうは、夕方から日知庵に行くことに。まだ顔に傷があるけど、なんとか外に出られるくらいにはなったかな。

きょうは、ビートルズ、ジョージ・ハリスン、グランド・ファンク・レイルロードを聴いている。ジョージの FAR EAST MAN を聴くと、京大のエイジくんのことを思い出す。高知は西だからだろうね。

二〇一八年三月九日 「えいちゃん」

いま日知庵から帰ってきた。えいちゃん、やっぱりかわいいよね。京大のえいじくんのつぎに男前。

帰りに、セブイレで、カップラーメンと烏龍茶を買ってきた。食べて、クスリのんで寝ようっと。ウルトラQ見ようかな。

二〇一八年三月十日 「メランコリイの妙薬」

ジェイムズ・サーバーの『虹をつかむ男』を読み終わった。文体になれると、すばやく読めた。きょうからの再読は、早川書房の異色作家短篇集・第15弾の、レイ・ブラッドベリの『メランコリイの妙薬』。これまた物語をひとつも記憶していない。

いま近所のラーメン店から帰って、ひじょうに腹が立っている。ランチが750円って看板に書いてあるのに、950円を取られたのである。理由は、パスをもってないからだという。パスのことなど看板に一言もかいてないのにだ。もう二度と行かない。味は気に入ってたけど、きょうのこと、詐欺じゃんか。

いま日知庵から帰った。コンビニで買った海鮮せんべえと烏龍茶をいただきながら、ブラッドベリの短篇集『メランコリイの妙薬』を読む。15年ぶりくらいの再読だ。楽しみ。新刊本を読むのといっしょ。お得です、笑。記憶力がない人間は。

二〇一八年三月十一日 「メランコリイの妙薬」

ブラッドベリって、長篇も短篇も、ほとんど読んでいて、もう吸収するところなどほとんどないと思って、短篇集『メランコリイの妙薬』を再読していたのだけれど、冒頭の「穏やかな一日」だけでもメモ取りまくり。もう一度はじめからぼくは学び直さなければならないようだ。いま、目に涙がにじんでいる。

いまから、えいちゃんにもらったドリップ式のコーヒーを飲もう。おいしそうだな。

松屋で朝食定食を食べてきた。卵焼き2個のダブルで。で、帰りにセブイレで、クリームパンを買った。洋梨体型のデブなのである。

ふたたび読書に戻る。きょうこそは、一日、読書をしたい。お昼に、ドリップ式のコーヒーのセットを買いにダイソーに行くけど。

二〇一八年三月十二日 「嘲笑う男」

いま日知庵から帰ってきた。きょうは、午後に、ブラッドベリの短篇集『メランコリイの妙薬』を読み切った。これから、早川書房の異色作家短篇集・第16弾のレイ・ラッセルの『嘲笑う男』の再読をする。これまた、一つも作品を覚えていない。ブラッドベリ、なかなかよかった。これはどうかな。どだろ。

レイ・ラッセルといえば、目のまえの本棚に、『インキュバス』がある。これって、高校生のカップルが映画館で××××××××するという設定で、はじめて読んだとき、笑っちゃったけれど、まあ、作者って、すけべだなあって思ったこと憶えている。ぼくが読んだの、高校生のときくらいかな。もう40年ほどか。

道徳の妖精たち。

二〇一八年三月十三日 「嘲笑う男」

ぼくへの偏執ぶりがすごいひとが文学極道にいて、びっくりしている。まあ、ある意味、それは、ぼくの名誉でもあるのかな。

レイ・ラッセルの短篇集『嘲笑う男』に収められている冒頭の「サルドニクス」読んだら記憶がよみがえった。一応、ハッピー・エンドだったけれど、さわやかな終わり方とは言いがたく、後味もよろしくない。でも、さいごまでおもしろく読めた。文章力かな。表現力かな。それはすごいと思った。さすがだ。

きょうは夕方に仕事があるので、昼までしか読書ができない。レイ・ラッセルの短篇集『嘲笑う男』おもしろい。もう半分近く読めた。長篇の『インキュバス』も読み返そうかな。

これからお昼ご飯を食べに、西院のブレッズプラスに行こうと思う。ハムチーズサンドイッチ・セットが食べたくなった。混んでるから坐れなかったら、あきらめて、ほかのところで食べよう。天下一品もいいかな。サンドイッチとラーメンじゃあ、えらい違うけれど。まあ、ぼくは気まぐれだからなあ。

天下一品で唐揚げ定食たべてきました。

さて、これからお風呂に入って、それから仕事に。わずか3時間半の仕事だけれど。

二〇一八年三月十四日 「オノレ・シュブラックの失踪」

いま日知庵から帰った。レイ・ラッセルの『嘲笑う男』おもしろい。後、20ページちょいで再読、終わり、多くても、30ページくらいかな。短篇3つで読み終わる。知識の量と、表現力とが釣り合っている。アイデアがすごいと思わせられるのが、いくつもあった。知能的な読書ができたと思わせられた。

きょうから読書は、早川書房の異色作家短篇集・第17弾の、マルセル・エイメの『壁抜け男』の再読である。これまた話を一つも記憶していない。タイトル作は、なにやらアポリネールっぽい感じがするものだな。壁に消えるときに亡くなったことを示唆する物語だ。なにに入っていたか記憶にない。

アポリネールの作品、「オノレ・シュブラックの失踪」だった。どこで読んだのかな。

岩波文庫の『フランス短篇傑作選』に載ってた。

でも、たぶん、はじめて読んだのは、岩波文庫のじゃなかったような記憶がある。なにでだろう。検索してみよう。

でも、ほんと、はじめに、どれで読んだのか、記憶にない。

二〇一八年三月十五日 「壁抜け男」

いま日知庵から帰ってきた。エイメの短篇集『壁抜け男』のつづきを読みながら寝よう。しかし、エイメの文体、読みにくい。翻訳が悪いのか、もとの文体が悪いのかわからないけれど、読みにくい。

文学極道で、ぼくに偏執的につきまとっているひとがいるって書いたけど、まだ偏執的に固着していてね。これは、ほんとに病気の類だと思う。こわいねえ。

きょうは、エイメの短篇集『壁抜け男』のつづきを読んで寝よう。レイ・ラッセルと違って、読みにくい。原文が読みにくいものなのか、翻訳が悪いのか、どっちかだと思うけど。どっちもだったりして、笑。

二〇一八年三月十六日 「今井義行さん」

今井義行さんから、詩集『Meeting Of The Soul (たましい、し、あわせ)』を送っていただいた。横書きの詩集で、一行が短く、詩句もわかりやすい。散文も収録されていて、実話なんでしょうね。考えさせられることが多くありました。詩集のお写真、とてもすてきだと思いました。すてきな詩集でした。

マルセル・エイメの短篇集『壁抜け男』あと2篇で再読完了。翻訳の文体になれると、読みやすくなっていった。

エイメの短篇集『壁抜け男』を読み終わった。ほんとうに物語を一つも憶えてなかった。きょうから、再読するのは、早川書房・異色作家短篇集・第18弾のアンソロジー/アメリカ篇『狼の一族』だ。これもまたまったく記憶にない。そういえば、エイメの作品ももう半分以上忘れてしまったけれど。

日知庵から帰って、文学極道のフォーラムを見てたら、ぼくのことを呼び捨てに書いてる人物がいて、どうしてかと尋ねると、こんどはクズ呼ばわりされた。ぼくは、その人物のことなんか、ちっとも知らないのだけれど、世のなかには変わった人もいるものだなあと思った。顔も合わせたことないのにねえ。

二〇一八年三月十七日 「ベビーシッター」

松屋でソーセージ・エッグ朝食セットを食べてきた。おなかいっぱい。いまコーヒー淹れたところ。これで、本が読める。きょうは、どこまで読めるかな。

ロバート・クーヴァーの「ベビーシッター」を読んでるんだけど、エリスンよりも読みにくい。 実験小説らしいんだけど まあ 仕方ないか。 お昼ご飯、どうしようかな。 ラーメンでも食べてこようかな。 近所に おおの っていうラーメン屋があって けっこう、おいしいの。

詩の原稿依頼がまたあったので、うれしい。さっそく、いまから書く。

もうつくれた。ちょくちょく手を入れて完成させよう。

ちょっとした思いつきで詩句がつぎつぎと変わっていく。

いま日知庵から帰った。おみやげにもらった金平糖をなめながら、アンソロジーを読んで寝ようと思う。来週、一週間休みなので、きょうつくった詩をいじくりまわそうと思う。おやすみ、グッジョブ!

クスリをのんだので、一時間後くらいに眠るはず。

二〇一八年三月十八日 「棄ててきた女」

二度目の目覚め。読書しかすることがない。

あさからスパークスを聴いている。
コレクションが増えた。

きみの名前は?
(ジョン・スラデック『他の惑星にも死は存在するのか?』柳下毅一郎訳)

きょうからの再読は、早川書房・異色作家短篇集・第19弾のアンソロジー/イギリス篇『棄ててきた女』である。これまた一つも記憶していない。ぼくの部屋には傑作しか残していないけれど、記憶にあるものはわずかなんだな。自分でもびっくりだ。
いま、きみやから帰ってきた。

きょうもヨッパで、寝るまえは、読書。

こんなんでいいのかな、人生。

こんなんでいいのだろうね、人生。

おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年三月十九日 「意地の悪い作家、大好き。」

依頼された詩ができたのだけれど、音がなめらかすぎて、ちょっとしばらくほっておくことにした。音は多少凸凹したほうがおもしろいし。凸凹の音のものを想像するだけで楽しい。北園克衛とかね。

別の詩を思いついたので、依頼された詩は、いまワード添付で送付した。戦争を描いた詩を思いついた。じっさいの戦争を知っているわけではないので、想像だけど。戦争について書くのははじめてだろうな。まず専門用語を調べなくちゃならないな。ひとつも知らないもの。機関銃くらいかな。ミサイルとか。

いま日知庵から帰った。きょうもヨッパである。寝るまえの読書は、イギリス作家のアンソロジー。意地が悪いのがイギリス作家の特徴だけれど、これは、イギリス人が意地が悪いことを示しているのか、イギリス人のサービス精神がすごいことを示しているのか、どっちだろう。意地の悪い作家、大好き。

急いでいるかどうか→急いでいるのかどうか

この変更を検討すること

一文字の挿入

詩篇ぜんたいの音調的バランスとの兼ね合いで。

時間はある。

よくここに気づけたなという自負もある。

一か月以内に決断。

二〇一八年三月二十日 「の」

「の」を入れない方が、音が凸凹しておもしろいからなあ。これは選択するのがむずかしい。音が凸凹している詩行がつづくなかに、なめらかなものにしたものを入れると不調和を起こすからなあ。もっと熟考しなければならない。

何度も読み返している。「の」のないほうがスピード感があるが、「の」のあるほうが日本語として趣きがある。やはり入れようかな。どうしよう。あと何回か、詩篇を読み直そう。それでも、たぶんすぐに判断できないだろうけれど。

ネットで、「しているかどうか」を検索するとすべて「しているかどうか」だった。「しているのかどうか」を検索しても「しているかどうか」がたくさん出てきた。「の」を入れない方が自然なのかしら。ぼくの語感がおかしいのか。やはり「の」は入れない方がよいのか。どだろ。

いま日知庵から帰ってきた。これから寝るまで読書。ちょっとスピードが遅くなっている。アメリカ人作家と比べて、やはりイギリス人作家の方が読みにくい。同じ英語圏の作家なのにね。どうしてだろ。

二〇一八年三月二十一日 「断章」

個性は思い出と習慣によって作られる
(ヴァレリー全集カイエ篇6『自我と個性』滝田文彦訳)

二〇一八年三月二十二日 「バッド・アニマ」

目が覚めたので、コーヒーを淹れて飲んでいる。ちょっと、ぼうっとしている。完全に目が覚めたら、読書のつづきを。

西院のブレッズプラスで朝食を食べてこよう。

基地内でバーベキューしている詩を思いついたのだった。戦争については、こんな感じのものならたくさん書いてきたような気がする。居酒屋と戦地を交互に書いたり、戦地に同僚の先生が行ったりとか、戦争中に避暑地でゆっくりしているような詩を書いてきた。こんどのは基地のなかでのバーベキュー。

お昼ご飯を食べてなかった。王将にでも行くかな。

王将では焼きそばの大盛りと瓶ビールを食べ飲みした。今晩も、日知庵に行くけど、ちょっと遅めに行こうかな。イギリス人作家のアンソロジー『棄ててきた女』に時間をとられている。読み終えるまでに、あと数時間以上かかりそうだ。

BGMは紙ジャケのCDたち。いまかけてるのは、森園勝敏の『バッド・アニマ』ここちよいわ〜。ビールで酔っぱらってるのもあるのかな。

いま日知庵から帰った。これから寝るまで読書。まだイギリス人作家の短篇集『棄てられた女』を読んでいる。あと2篇。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年三月二十三日 「きょうも飲んでた。」

いま日知庵から帰った。きょうは眠いので、読書せず、寝る。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年三月二十四日 「断章」

霊はすべておのれの家を作る。だがやがて家が霊を閉じこめるようになる。
(エマソン『運命』酒本雅之訳)

二〇一八年三月二十五日 「エソルド座の怪人」

いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパであるが、このようなヨッパもきょうで終わりである。あしたからノンアルコールの日々がつづく。寝るまえの読書は、早川書房・異端作家短篇集・第20弾・アンソロジー/世界篇『エソルド座の怪人』のつづき。

二〇一八年三月二十六日 「夜更けのエントロピー」

きょうはお医者さんに行ってきた。大谷良太くんとばったり会って、コンビニのまえのカフェコーナーで話をした。きょうは、これから寝るまで読書。奇想コレクションまで辿り着くかどうか。まあ、とりあえず、お風呂に入ろう。

きょうから再読は、河出書房新社の奇想コレクション、まずは第一弾のダン・シモンズの短篇集『夜更けのエントロピー』。シモンズといえば、ハイペリオンのシリーズ全8巻が圧巻だったけれど、読み直しはしないと思って、友だちに譲った。おもしろかったんだけどね、なにしろ長いしね。読み直しは無理。

柴田 望さんから、詩誌『フラジゃイル』第2号を送っていただいた。吉増剛造さん特集なんですね。初投稿作品をユリイカの1989年8月号の投稿欄に選んでいただいたのが縁で、何度かお会いしたり、書簡のやりとりをした記憶がある。ぼくは忘恩の徒なのでそういったやりとりはすぐになくなったけれど。

活字の大きさかな。奇想コレクションのほうが読みやすい。

二〇一八年三月二十七日 「荒木時彦くんと杉中昌樹さん」

荒木時彦くんから『NOTE 003』を送ってもらった。すごく読みやすく、ここちよい文体で、内容もよかった。この道をどこまで歩むんだろうか。

杉中昌樹さんから、ぼくの詩のゲラを送っていただいて、自分の詩をもう一度、読み直す。何回も詩句を訂正していただいたおかげで完璧なゲラだった。まるで詩のお手本のような作品だった。自分で言うけど、笑。

めっちゃかたいうんこだったので、十分くらいトイレでしゃがんでいた。小さい子どものときにもかたいうんこで、長いことしゃがんでいたことを思い出した。一年ほどまえまでは、やわらかいうんこばかりで、お腹が悪いのかなと思っていたのだけれど、さいきんずっと、うんこがかたい。いいことなのかな。

さいきん阪急電車がしじゅう人身事故でとまっている。ひとが死にたくなる気持ちは、ぼくにもわかる。もっと楽な死に方を選べる社会になればいいのに。安楽死は、いっぱん人にも適応するべきだと思う。

杉中昌樹さんが送ってくださったゲラを読み返していたら、どうも音がおかしいところが2か所あったので、お送りした原稿と比較すると、一文字抜けていたのと、一文字かわっていた場所があって、びっくりした。電子データのやりとりで、こんなことが起こるなんて不思議。いまメールで訂正をお願いした。

きょうは、とてもおいしいお肉が食べれたので、幸福の笑顔で眠りにつくことだろうと思う。57歳にしてようやく傑作が書けたのかと思うと、笑みがこぼれる。齢をとることにも意味があるのだ。顔は醜く、身体からは筋肉が落ちようとも、才能だけは涸れることがないことを知れて、ほんとうにうれしい。

おびただしい痛みどめが部屋のなかにある。おびただしい本が部屋のなかにある。おびただしい思い出が部屋のなかにある。ぼくの写真には傷がない。一か月前にはお岩さんのような傷があったのに。ただたんに、うつくしいことがしたかっただけなのだけれど。どんなにうつくしいことだったのだろうか……。

杉中昌樹さんの詩誌でホラティウス特集をなさるらしくて、ホラティウスにちなんだ作品を書くことになった。ホラティウスは、ぼくの大好きな詩人で、玉川大学出版部から出ている、鈴木一郎さんが訳された全詩集を持っていて、ゲラゲラ笑いながら読んだ記憶がある。他の詩人の悪口詩とかレシピ詩とかね。

二〇一八年三月二十八日 「2足の靴」

新学期にそなえて、2足、靴を買ってきた。

杉中昌樹さんがはじめられる詩誌、世界の詩人をテーマに展開されていくご様子。日本語になった外国の詩人の作品をぼくもほとんど読んでいるので、できるかぎりすべての号で作品を書かせていただくつもりである。さいしょの号の特集はホラティウス。ほとんどあらゆるものを題材に詩を書いた詩人である。

二〇一八年三月二十九日 「人身事故」

きょうも阪急電車、人身事故で遅れてた。ほんとうに、楽に死ねる方法や法律があればいいのになあと思う。電車に飛び込む勇気が、ぼくにはない。ずいぶんむかし、勝手に足が線路の方へ動いたことがあって、びっくりしたことがあるけど。無意識に死を望んでいたのだろうと思う。遠い昔のことだけれど。

でも、そのとき死んでたら、こんど、ユリイカの5月号に掲載される傑作の詩を書くことができなかったのだと思うと、生き延びなければならないのだと、つくづく思う。

二〇一八年三月三十日 「断章」

創造者であるとともに被創造物でもある。
(ブライアン・W・オールディス『讃美歌百番』浅倉久志訳)

二〇一八年三月三十一日 「バンコクに死す」

いま日知庵から帰ってきた。ダン・シモンズの短篇集『夜更けのエントロピー』収録さいごの「バンコクに死す」を読みながら寝る。やっぱり、早川書房の異端作家短篇集より、河出書房新社の奇想コレクションのほうがおもしろい。


詩の日めくり 二〇一八年四月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年四月一日 「孤独の円盤」

きょうから河出書房新社の奇想コレクションシリーズの第2弾、シオドア・スタージョンの『不思議のひと触れ』憶えているのは、異色作家短篇集の『一角獣・多角獣』にも入ってた「孤独の円盤」くらいかな。

いま日知庵から帰ってきた。あしたはホラティウスにちなんだ詩を書こうと思う。詩作についての詩にしようと思う。ホラティウスは詩法についてたくさん詩を書いたからね。でも、ふつうの詩論になっちゃいけないなと思う。思い切り遊んでつくるつもり。きょうはもう寝る。夕方に起きたのだけれど。

二〇一八年四月二日 「ホラティウス」

ホラティウスに寄せた詩を書いたけど、ちょっと平凡かな。「詩法。」ってタイトルの詩にしたのだけれど、現代ってことで、書いたのだけれど、考え方がオーソドックスのような気がする。書きかえると思うけれど、出来が悪かった。きょうは調子が悪い。

ずっと詩を推敲しているのだけれど、つぎつぎ詩句を取り替えていくから、原型とは違うものになっている。でも、この方向でいいのだという確信めいたものも芽生えてきた。しかし、レトリックの塊のようなものを書いているような気がする。これはいいことなのかな。それともダメな方向なのかな。どだろ。

矛盾律を主軸に展開しているから、詩論じみた詩なのだけど、なにごとかを書いていて、書いてないといった感じのものになっている。その反対でもある。自分でも、もっと楽しみたい気持ちがあるから、最初から最後まで矛盾律で押し通すけど。あまり推敲し過ぎて、原型が半分以下になっている感じがする。

まだ手を入れている。詩論詩としては及第点を超えていると思うのだけど、どこか平凡なシロモノのような印象がある。不遜な書き方だけど、ぼく以外の詩人が書いたとも言えるような叙述になっている。ホラティウスに寄せ過ぎたためかもしれない。ホラティウス自身は非凡な才能の持ち主だったのだけれど。

いま、きみやから帰ってきた。阪急の改札近くで、えいちゃんと遭遇。あしたから、日知庵でバイトする。これから毎週、火曜日、木曜日、土曜日に入ることになっている。あした、ひさしぶりなので緊張する。詩の推敲はあしたするつもりだけど、まったく新しくつくりかえたいような気もしている。どかな。

二〇一八年四月三日 「不思議のひと触れ」

お昼につくっていたホラティウスに寄せた詩を読み直した。2か所に手を入れた。今回は、これでいいかな。平凡な詩になってしまったような気がする。だれでもつくれそうな詩のような気がする。ぼくらしさなど微塵もない感じだ。しかし、そんな詩もあっていいような気もする。ぼくらしくもない平凡な詩。

しかし、つぎには狂ったような詩をつくる。あしたから2行ずつつくっていく。それらを無作為につないでいくことにする。これで、ゴールデンウィークまでに、1作できるはず。きょう寝るまえの読書は、シオドア・スタージョンの短篇集『不思議のひと触れ』の「もうひとりのシーリア」から。

いま杉中昌樹さんに、ホラティウスに寄せた詩をお送りした。きょうは夕方から日知庵でバイトだけど、それまでは、つぎの詩の材料をいじってすごそうかと思う。シオドア・スタージョンの短篇集『不思議のひと触れ』案外、読むのが楽しくない。好きな作家なのだけど。詩句をいじっているほうが楽しい。

これから保険料を払ってくる。およそ200000円。高いわ。

いま30分くらいでつくった詩の方がおもしろい。ホラティウスのしばりは、ぼくにはきつかったようだ。まあ、いまつくったものは推敲していないから、またつぎつぎと詩句がかわっていくだろうけれど。現実の思い出が2つ入っている。ひとつはドライブの、もうひとつは日知庵のバーベキューの思い出だ。

いま見直して、また手を入れた。詩句をいじるのは、ほんとうに楽しい。ホラティウスに寄せた詩でも、手を入れているときはドキドキしていたのだ。よりよい詩句に変化していくさまは、自分でも見ていて気持ちがいい。ああ、そうだ。杉中昌樹さんの詩誌では行数制限があった。縮めなければならない。

いっきょに20行ほど削ったら、ちょうどよい感じになった。53行の詩だ。まだ手を入れるだろうから多少、行数がかわるかもしれないけれど、これ以上には増やさないつもりだ。こんな短い詩は数十年ぶりに書く。字数や行数の指定があっても書ける自分がいて、笑ってしまう。現実生活は不器用なのにね。

気まぐれなので、タイトルを変更することにした。ジェネシスの曲名で『IT'S GONNA GET BETTER。』にしようと思う。詩の内容とまったく関係がないけど、まったく関係がなくても、人間の脳は関係づけてしまうので、それなりに意味合いが出てくるような気がする。まあ、何にでも合う無難なタイトルだしね。

二〇一八年四月四日 「FOR YEARS AND YEARS。」

きょうも、いま1時間ほどで、50行ほどの詩を書いた。タイトルは、フランスのプログレで、タイフォンの曲名から、『FOR YEARS AND YEARS。』にした。今回も2つの事実を入れている。ひとつは糖尿病の話で、もうひとつは、よく飲みに行ったタコジャズの話だ。嘘も入れている。嘘というか架空の話だ。

二〇一八年四月五日 「糸ちゃん」

いま日知庵から帰ってきた。20年来の友だちの糸ちゃんとしゃべくってた。きょうも、いい気分で寝るわ。おやすみ、グッジョブ!

えいちゃんにもらったシップを腰に貼って寝ようっと。

二〇一八年四月六日 「Still Falls The Rain。」

Amazon で、ぼくの新しい詩集を予約下さった方がいらっしゃった。うれしい。Amazon では、5月10日が発売日ですが、発行所の書肆ブンでは、すでに発刊していますので、直接、書肆ブンにお問い合わせください。

さっき、郵便局からヤリタミサコさんに、ぼくの新しい詩集『Still Falls The Rain。』をお送りした。この詩集はヤリタミサコさんの朗読に感激してつくった詩がメインの詩集だったのだ。詩集の表紙は、もちろん、ヤリタミサコさん。

5月に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する作品を決めておこう。詩論詩をまとめて本にしたいので、詩論詩つづきだけど、詩論詩にしようと思う。BGMはプリンス。

BGMはいつの間にか、ジェネシスに。で、いま作業が終わった。未発表原稿にはすべて300番の番号をつけていて、はやく並んでいる詩論詩のほうから2つ選んで、タイトルを変更して、文学極道の詩投稿掲示板用に仕様を改めた。心配なのは、囲い込み文字が無数にあって、それらがどうなるのかだな。

ツイッターのツイートで試したら、囲い込みだけがなくなっていた。文字はぶじだった。

杉中昌樹さんから、『ポスト戦後詩ノート 第12号』「笠井嗣夫 特集」号を送っていただいた。執筆陣の多さ、多彩さに驚かされ、さらに杉中昌樹さんのご記憶力の強靭さにも驚かされた。ぼくも一文を寄稿させていただいた。杉中昌樹さんのお目にとまることができて、ほんとうによかったと思う。

二〇一八年四月七日 「おやすみ、グッジョブ!」

いま日知庵から帰った。寝る。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年四月八日 「ありがたいことです。」

ありがたいことです。

二〇一八年四月九日 「Sat In Your Lap。」

文学極道の詩投稿掲示板に、作品『Sat In Your Lap。』を投稿しました。

きのうから右下の奥歯が痛くて、けさ歯科医院に行ったら、歯槽膿漏だと言われて抜歯された。麻酔を何本も打たれて歯を抜かれたのだけれど、抜歯って、めちゃくちゃ原始的な方法で抜くんだね。びっくりした。ペンチみたいなので、ぐいぐい抜いちゃうんだね。痛かった。怖かった。

二〇一八年四月十日 「ふたりジャネット」

きょうから寝るまえの読書は、河出書房新社の奇想コレクション・第3弾の、テリー・ビッスンの短篇集『ふたりジャネット』の再読をする。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年四月十一日 「推敲」

ユリイカの5月号に掲載される詩のゲラが届いたので、2か所、訂正させていただくことにした。つぎのような個所である。「会社を出たときに→会社を出たときには」、 「急いでいるかどうか→急いでいるのかどうか」 ひとつめの訂正は意味のための、ふたつめの訂正は音のためのものであった。

ユリイカの5月号の作品、いま起きて天啓がひらめいて、メールで、タイトルの変更をお願いした。まだ間に合えばいいのだけれど。きょう電話をして、確認してみる。

朝ご飯を食べに行く。西院かな。ぽちぽちと歩いて。

わ〜い! いまユリイカの明石陽介さんに電話でご連絡して、ユリイカの5月号に掲載される詩のタイトルの訂正がしていただけることになった。ばんざ〜い。これで完璧な詩篇になった。きょうは読書か、新しい詩の制作か、どっちにしよう。

きのうから徹夜だ。少し横になっただけだ。クスリをのんでも眠くならない。脳機能が覚醒しているのかもしれない。よし、詩をつくろう。つぎの詩の材料はぐちゃぐちゃだから、おもしろい。そのまま並べてもいいくらいだが、ベストの配置をさぐるのが詩作だと思っている。選択された言葉が適切ならばだ。

3分の2はつくってあった。あとの3分の1をいまつくった。なんの意味もない詩だ。それでも、ぼくにだけ意味がわかる部分がある。これまたじっさいの記憶を2つ入れている。あとは適当に嘘、笑。きょうは夕方まで、これをいじくりまわそう。いま、53行。短い詩だ。短い詩も、それなりにおもしろい。

何十回も見直しているのに、まだあった。いま、ユリイカの明石陽介さんに訂正のお電話をかけさせていただいたのだけれど、「たわごとと言うなら」→「たわごとと言うのなら」の変更である。音的には後者のほうがすぐれている。なぜ、気がつかなかったのだろう? そして十回以上の訂正とは申し訳ない。

やっぱり12年ぶりのユリイカで緊張しているのだろうな。それにしてもなぜ、音に気がつかなかったのだろう。まあ、「たわごとと言うなら」でも音的にそんなにおかしくなかったためだろうけれど、さらに音的にいいのは、やはり「たわごとと言うのなら」であろう。詰めが甘かったということだろう。

さいきんつくり出している短い詩でも詩句をいじくりまわしているのだけれど、見るたびに詩句をいじるので、もう見ないで、どんどん新しいのをつくっていこうかなって感じだ。そして、じっさい、そのほうが自分のためにもいいかもしれない。あと数個つくったら、また、詩のつくり方を変えようと思っている。

二〇一八年四月十二日 「特集=アーシュラ・K・ル=グウィンの世界」

いま日知庵から帰ってきた。きょうは客で。あした、しあさっては、日知庵でバイトしています。よろしくお願いします。毎週、火曜日、木曜日、土曜日にバイトしています。

ユリイカ2018年5月号 「特集=アーシュラ・K・ル=グウィンの世界 」だそうです。SFマニアのぼくとしても、その号に自分の詩が掲載されるのは、ほんとうに、うれしい。ぼくの詩は、SFというよりも、マジック・リアリズムのほうだけれど。

そいえば、ぼく、ユリイカの1991年1月号「特集=フィリップ・K・ディックの世界」で、ユリイカの新人に選ばれて、3つの詩を掲載していただいた記憶がある。縁なのかなあ、SFとは。

テリー・ビッスンの短篇集『ふたりジャネット』のつづきを読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年四月十三日 「フェッセンデンの宇宙」

いまさっき、日知庵から帰ってきた。きょうはバイト。寝るまえの読書はテリー・ビッスンの短篇集『ふたりジャネット』のつづき。いま半分ちょっと読み終わったところ。といっても、短篇「穴のなかの穴」の途中だけど。

テリー・ビッスンの短篇集、読み終わった。まあまあって感じ。車について詳しく書き過ぎなところが退屈だった。きょうから河出書房新社の奇想コレクションの再読は、エドモンド・ハミルトンの短篇集『フェッセンデンの宇宙』タイトル作品は記憶している。ほかはまったくどんな話だったか覚えていない。

二〇一八年四月十四日 「願い星、叶い星」

ハミルトン、いちばん短い短篇「追放者」がいちばんおもしろかった。きょうから再読する河出書房新社の奇想コレクションは、アルフレッド・ベスターの短篇集『願い星、叶い星』、2作品、覚えてる。めずらしい。「ごきげん目盛り」と「昔を今になすよしもがな」タイトル作も、記憶通りのものなら3作。

学校から帰ってきたら、郵便受けに、「詩の練習 第32号」の『鮎川信夫特集(2)』が送られてきていた。杉中昌樹さんからだ。ぼくも詩を寄稿しているからであろうが、今回も、杉中昌樹さんのご交友の多彩さに驚かされた。また、当然のことながら、杉中昌樹さんの知識の広さ、深さにも驚かされた。

ブックオフの108円のコーナーに、買ってなかった時間SFのアンソロジー『時を生きる種族』(創元SF文庫)があったので、買っておいた。いま、アルフレッド・ベスターの短篇集の読み直しをしているので、いつ読むかわからないけれど。お風呂場で読もうかと思ったけれど、思わぬ傑作が入ってたら、あとで、ぜったい後悔して、また、Amazon で買い直すハメになると思うので、お風呂場で読むのはやめておこうと思う。お風呂場で読んだら、水、じゃないや、お湯びたしになっちゃうからね。

きょうは早めに寝ようと思いながら、淹れたてのコーヒー飲んでる。

回転寿司の皿の上に猿がいる。種類の異なる何匹もの猿が回転している。色とりどりの、やわらかくて、おいしそうな猿たち。

回転寿司の皿の上におじさんがいる。種類の異なる何人ものおじさんたちが回転している。色とりどりの、やわらかくて、おいしそうなおじさんたち。

回転寿司の皿の上に皿がある。種類の異なる幾枚もの皿たちが回転している。色とりどりの、やわらかくて、おいしそうな皿たち。

これからお風呂に。上がったら横になって、本を読みながら寝ます。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年四月十五日 「ダブル仕事の日」

本を手に持って寝ていた。睡眠薬が強烈なんだろうな。3時ころに目が覚めて、それから暗い部屋でまどろんでいた。きょうは、ダブル仕事の日。がんばらなくては。これからコンビニに朝ご飯のパンを買ってくる。コーヒーを淹れて眠気を吹っ飛ばそう。

いま学校から帰ってきて、コーヒーを淹れたところ。きょうは夕方から日知庵でバイト。がんばらなくっちゃ。

二〇一八年四月十六日 「輝く断片」

ベスターの短篇集、おもしろかった。きょうから再読する奇想コレクションは、シオドア・スタージョンの短篇集『輝く断片』タイトルを眺めても、ひとつも物語を思い出せず。アルツかいなと、ふと思ったり。塾に行くまで、読んでみよう。塾のあとは日知庵に飲みに行きます。

むかし、伊藤芳博さんに評していただいた私家版詩集『ふわおちよおれしあ』という詩集があって、それは、ぼくも持っていない詩集で、すべての「陽の埋葬」を収録している。これからも公開する予定のないものも含めてだ。わりと整然としている詩集だったように記憶している。

二〇一八年四月十七日 「日知庵」

スタージョンの短篇集のつづきを読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!

いまさっき日知庵から帰ってきた。きょうはお客。あしたは店員で入っています。よろしくお願いいたします。

二〇一八年四月十八日 「本の虫」

ぼくはやっぱり本の虫なんだな、日知庵から帰って、スタージョンの短篇集にかじりついている。未読の本は2、30冊ばかり。バラ色の人生なのか。無数の詩集の読み直しもしたい。ことしじゅうに、ぜび。

ひゃ〜、もうこんな時間。クスリのんで寝ます。おやすみ。グッジョブ!

とにかく本が好きなのですね。ほしい本はすべて手に入れたし、人生、にっこりして終われるような気がします。貧乏でも悔いなしです。

いま目が覚めて仕事だと思って部屋を出たら、雰囲気が違うので、部屋に戻って時計を見た。朝の5時過ぎだった。通りで、目が覚めても眠気がまだあったから。さいきん、ときどきする失敗である。

二〇一八年四月十九日 「どんがらがん」

いまスタージョンの短篇集を読み終わった。きょうから再読する奇想コレクションは、アヴラム・デイヴィッドスンの短篇集『どんがらがん』記憶してる短篇は2篇だけ。とびっきり変わってるもので、「ゴーレム」と「さもなくば海は牡蠣でいっぱいに」再読、とても楽しみ。ほんと変な発想する作家だもの。

きょうは昼まで寝ていて、そのあとはずっと本を読んでた。これからお風呂に入って寝る。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年四月二十日 「西元直子さん」

西元直子さんから、詩集『くりかえしあらわれる火』(書肆山田)を送っていただいた。そのほとんどが散文詩で、言葉がていねいに織り込まれている。文節のつなぎ方が、ぼくの好みだ。ブレスとブレスのあいだで、ちゃんと息がつける。息をつけさせないところはまったくない。ごく稀なごく自然な文体だ。

デイヴィッドスンの短篇集『どんがらがん』の読み直しも、さいごの短篇「どんがらがん」で終わりだ。それを読み終わったら、つぎの奇想コレクションの読み直しは、ゼナ・ヘンダースンの短篇集『ページをめくれば』にする。収録作で憶えているのは、1作のみ。ああ、情けない記憶力。すさまじい忘却力。

「どんがらがん」を読み終わった。自由の女神の残骸が出てくるところは『猿の惑星』の映画のラストシーンを思い出させる。原作の『猿の惑星』の本には出てこないんだけどね。これからお風呂に。あがったら、ヘンダースンの短篇集『ページをめくれば』を読む。あした早いので、読むのは解説くらいかもしれないけど。

二〇一八年四月二十一日 「シラバス」

昼から夕方にかけて、ひとつの単語がまったく思い出せずに、なんか狂気に陥ったように、その言葉を求めて考え込んでいた。夜になって、日知庵にバイトに行って、そのとき、こられてたお客さんに尋ねたら教えてくださった。女子大生の子に「授業のカリキュラムとか書いてあるもの、なんていいました?」と尋ねたのだけれど、あした一限目からなのよとか話をされてたので、教えてもらえるかもしれないと思って尋ねたのだけれど、その単語って、「シラバスですか?」と言ってくださったので、ようやく自分のさがしていた言葉に辿り着くことができたのだった。こんど、シラバスを書くことになったのだった。

二〇一八年四月二十二日 「ページをめくれば」

ゼナ・ヘンダースンの短篇集『ページをめくれば』のつづきを読みながら寝る。といっても、まだ冒頭の作品のさいしょしか読んでいない。

二〇一八年四月二十三日 「猿」

猿がブランコをこぎながら、うんこをしている。いや、違うかな。猿がうんこをしながら、ブランコをこいでいる。これも違うかな。ブランコが揺れながら、猿とうんこを、ぼろぼろと落っことしている。これかな。ヴィジョンが浮かんだかな。やっぱ、こういうのはヴィジョンが大事なのよね、ヴィジョンが。

二〇一八年四月二十四日 「ぼく」

ぼくはブランコをこぎながら、うんこをしている。いや、違う。ぼくはうんこをしながら、ブランコをこいでいる。これも違う。ブランコが揺れながら、ぼくとうんこを、ぼとぼとと落っことしている。これかな。ヴィジョンが浮かぶ。やっぱ、こういうのはヴィジョンが大事なのよね、ヴィジョンが。

二〇一八年四月二十五日 「不遜」

さいきん、自分がなにごとかを書くことが、とても不遜なことに思えてきた。やっぱり、大詩人や大作家のものばかり読んでいると、そうなるのかもしれない。いま日知庵から帰った。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年四月二十六日 「アーシュラ・K・ル=グウィンの世界」

ユリイカの5月号「アーシュラ・K・ル=グウィンの世界」特集号を送っていただいた。ぼくが書いた詩「いま一度、いま千度、」が掲載されている。1991年の1月号が「P・K・ディックの世界」で、大岡 信さんに、ぼくをユリイカの新人に選んでいただいたので、SF好きのぼくは、とてもうれしい。

二〇一八年四月二十七日 「教材研究」

きょうは5時まで読書しよう。それから日知庵にバイト。月曜日は休みだけど、5月1日の火曜日は授業があるので、その教材研究で月曜日の休日はつぶれるだろうな。ことしは教材研究に時間がかかっている。1枚のプリントをつくるのに1時間以上かかっている。ひさしぶりの違う教科だからかもしれない。

二〇一八年四月二十八日 「先生、知ってる?」

いま日知庵から帰ってきた。寝るまえの読書は、ゼナ・ヘンダースンの短篇集『ページをめくれば』のさいごの短篇「鏡にて見るごとく━━おぼろげに」。でも、5分の2くらいのところに収められてる「先生、知ってる?」を、きょう読み直したら、すっごい名作だったことに気づいたので、これを読むかも。

人間がなぜ詩を読んだり書いたりするのかは知らないけれど、ぼくが詩を読んだり書いたりするのは、頭がすっきりするからだ。こころの目の視力がよくなるからであると言ってもよい。まあ、ぼくがそういう詩を求めているだけで、ほかのひとはこころの平安を得たいと思ってたりするのだろうなあと思う。ぼくの場合は平安ではなく、むしろ不安を求めているのかもしれない。こころの目がよく見えるようになればなるほど、人間についての知見がますますわからなくなっていくからである。

ひとりの人間について100通りの解釈をするほうが、100人の人間について、ひと通りの解釈をするよりもずっと意味のあることだと思う。もしかしたら、これが、ぼくが詩を読んだり書いたりする理由なのかもしれない、と、ふと思った。

クスリのんで寝ます。おやすみ、グッジョブ!

ゼナ・ヘンダースンの短篇集『ページをめくれば』再読終了。おもしろかった。やっぱり奇想コレクションのほうがよい。きょうから再読する奇想コレクションは、ウィル・セルフの『元気なぼくらの元気なおもちゃ』これまた、あれまた物語をひとつも憶えていない。まるで新刊を読むようなものだな、ぼく。

これからお風呂に。それから日知庵に行く。きょうは、客としてね。

二〇一八年四月二十九日 「しんさん」

いま日知庵→きみやの梯子から帰った。帰りに、阪急電車の河原町駅の階段のところで、しんさんと出会った。「また日知庵で。」とおっしゃったので、「はい。」と返事した。あいかわらず、かわいい笑顔だった。かわいいひとは、変わらず、ずっと、かわいいんだね。と思ったのであった。きょうのいい思い出。

二〇一八年四月三十日 「ウィル・セルフ」

ウィル・セルフの短篇集を読んでいるのだが、世界観が不気味で、なかなか読み進められない。不気味系は好きなほうだと自分では思っていたのだけれど、エンターテインメントとして不気味なものが好きだっただけのようだ。生理的に不気味なものには生理的な拒否感が起こるようだ。まあ、わからないけど。

二〇一八年四月三十一日 「断章」

――詩人はよく、こう言っていた。詩人にできるのは、ただ言葉を並び替えることだけだ、と。

人間は実際造ることができないんです。すでにあるものを並び替えるだけでしてね。神のみが創造できるのですよ
(ロジャー・ゼラズニイ『わが名はレジオン』第三部、中俣真知子訳)


詩の日めくり 二〇一八年五月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年五月一日 「迷惑メール」

迷惑メールが何通もくるのだけれど、いま見たら、「ワンナイトラブでかまいません。」と書いて、女の名前で書き込んであるの。笑っちゃった。こんなメールに返信するひとっているのかな。あと、お金を振り込みたいので、口座番号を教えてくださいっていうのも、よくくる。見ず知らずのひとから、笑。

二〇一八年五月二日 「The Wasteless Land.」

いま日知庵から帰った。帰りにセブイレで烏龍茶を買った。ちょっと、ほっこりしてから寝るかな。

Amazon で『The Wasteless Land.』が売れたみたい。うれしい。ぼくの第二詩集で、文体も、あれ以上のものは、その後、先駆形という『みんな、きみのことが好きだった。』の前半に収録したものしかないような気がする。あ、引用詩や『全行引用詩・五部作・上下巻』があったか。一冊ずつしか売れないというのは、いかにも、ぼくらしい。ほんとうに、一生のあいだ、無名の詩人として過ごすのだと思う。まあ、芸術家なんていうのは、無名の時代が長い方が、深い生き方ができるような気がするから、それでいいのだけれど。死ぬときに、人生を振り返って、ふふふと、笑えればいいかな。

二〇一八年五月三日 「無為」

いま日知庵から帰った。帰りにセブイレで買ったパンを二つと烏龍茶をいただいて寝る。きょうは、読書は無理かな。あした、上履き、洗濯しなきゃ。

二〇一八年五月四日 「マイケル・ムアコック」

きのう、マイケル・ムアコックの短篇を読んでて、あまりおもしろいものとは思えなかった。

きょうは数学の授業の予習をしようか。2時間の授業の予習に半日くらいかかるのだけれど、やはり齢をとったとしか言いようがないな。

二〇一八年五月五日 「玄こうさん」

いま、日知庵から帰ってきた。きょうは、玄こうさんがお客さまとして日知庵にきてくださった。吉増剛造さんと会って、直接、お話をなさったみたいで、ぼくも、ぼくのことをさいしょに認めてくださったのが、ユリイカで吉増さんが詩の投稿欄で選者をしてらっしゃったときだったので、なんか、つながりを感じてしまった。

ぼくは単行本を買ったけど、文庫本になってるんだ。おもしろかったよ。レイ・ヴクサヴィッチ。レイ・ヴクサヴィッチの文庫本は、単行本のものに1篇くわえてるんだって。そういうのやめてほしい。きょうの寝るまえの読書は、時間SFアンソロジーのつづきにしよう。ウィル・セルフの短篇、ちょっと、つまんなくなってきた。

二〇一八年五月六日 「時間こそ、もっともすぐれた比喩である。」

6月に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する作品の仕様を、投稿用にし直していた。こんなことを20年まえのぼくは考えていたのかという思いがした。いまのぼくなら、ごく簡単に書いてしまうところを、みっちりときっちり書いているのだなあと思った。

きょうは一日をかけて数学の問題をつくる。きのう、寝るまえに時間SFの短篇集に収録されているさいごの作品を読んだ。結末がブラックで、現実的だった。いま話題の政治的な話に通じる暗い結末だった。明るい結末にもできたと思うのだが、あえて暗い結末にしたのだろうな。人間の欲望と愚かさ。

ちょっと休憩。

半分、終わった。コーヒーを淹れよう。BGMは70年代ソウル。

時間こそ、もっともすぐれた比喩である。

この世界の在り方の一つ一つが、一人一人の人間に対して、その人間の存在という形で現われている。もしも、世界がただ一つならば、人間は、世界にただ一人しか存在していないはずである。

窓ガラスに、何かがあたった音がした。昆虫だろうか。大きくはないが、その音のなかに、ぼくの一部があった。そして、その音が、ぼくの一部であることに気がついた。ぼくは、ぼく自身が、ぼくが感じうるさまざまな事物や事象そのものであることを、あらかじめそのものであったことを、またこれから遭遇するであろうすべてのものそのものであることを理解した。

わたしを知らない鳥たちが川の水を曲げている。
わたしのなかに曲がった水が満ちていく。

一科目だけだけど、数学の問題ができたので、印刷した。時間があまったので、7月に文学極道に投稿する作品も、文学極道の詩投稿掲示板に合わせた仕様にし直した。でもまだ、時間があまっているので、8月に投稿するものを、これから仕様変更しようと思う。きょうはパソコンにへばりつきだ。


アインシュタイン読点

アインシュタインの言葉をもじって
文章で格闘しているひとたちが
みんな感服するような作品が書かれてしまったら
あとはもう棍棒のかわりに
読点を手にもって
殴り合いをするしかない
っちゅうたりしてね。


まだ9時30分。文学極道に投稿する作品を、10月に投稿するものまで決めてしまおうか。あと4作品、過去作品をいじればいいだけだけど。自分の作品を読みながら、作品の順番を考えるのって、けっこう好きな作業かもしれない。数学の問題を除くと、いや除けないか、自分のつくったものばかり見てる。

作業終了。10月までの投稿作品を決めた。仕様変更も終了。寝るまえの読書は、レイ・ラッセルの『インキュバス』 おおむかしに読んだことのあるものだが、一年以上もまえかな、ブックオフで108円できれいな状態で売っていたので買っておいたのだった。ウィル・セルフは、ちょっと中断しようかな。

大粒の雨だ。雨の音にはイライラさせられる。という詩句を、ユリイカの5月号に書いてた。雨の音を聞くと死にたくなるのは、ぼくだけだろうか。

自分の作品が頭に引っかかっていて、読書に専念できなかったので、文学極道に投稿する作品を11月までの分を決めて仕様変更してた。8月まで引用の洪水である。とりわけ、8月の2回目の投稿作品は、怒涛のように引用している。もちろん、以後の作品にも引喩は用いている。

二〇一八年五月七日 「Ommadawn」

文学極道の詩投稿掲示板に、新しい引用詩を投稿しました。よろしければ、ごらんください。タイトルの「Ommadawn」はアイルランド語で、愚か者という意味らしいです。

仕事帰りに、王将で餃子定食と瓶ビール1本食べ飲みしてきた。きょうは、残りの時間は、読書に費やす。ウィル・セルフの短篇集のつづきを読む予定だけど、夏くらいからは、持ってる詩集の再読にかかろうかな。なんといっても、詩の刺激に比べたら、小説とはまったく違ったものだからね。

わ〜。考えただけで、ぞわぞわっとしちゃう。去年、蔵書の半分は、友人たちに譲ったけれど、詩集は一冊も譲らなかった。ひゃ〜。ジェイムズ・メリルとか読み直したら、また霊感がめきめきつくんじゃなかろうか。楽しみ。ぼくの詩ももっと刺激的なものになるかも。どれから読むかって考えただけで感激。

ウィル・セルフの短篇集、あまりに退屈で、読んでて途中、居眠りしてた。車の話がえんえんとつづくなか、女性とのやりとりに出てくる比喩表現があまりに出来が悪いと思った。収録作さいごの作品を読みはじめて、もう11時を過ぎているのに気がついて、あわててお風呂に湯を入れはじめた。風呂に入ろ。

レイ・ラッセルの『インキュバス』は、さいしょのページを読んで、げんなりしたので読むのをやめたのであった。お風呂に入って、あがったら、ウィル・セルフを読みながら寝よう。麻薬の話だ。バロウズより具体的な感じはする。時代性かな。まあ、じっさいのところは、ぼくはぜんぜん知らないのだけど。

二〇一八年五月八日 「ウィル・セルフ」

ウィル・セルフの短篇集『元気なぼくらの元気なおもちゃ』を読み終わった。連作が2組入っていて、さいごに収録されていたものが、冒頭に収められていた話の続篇だったのだけれど、とても出来がよくって、おとつい読んだものがよい出来だと思えなかったのだけれど、読み直すと、悪い出来ではなかった。

きょうから再読する奇想コレクションの1冊は、コニー・ウィリスの短篇集『最後のウィネベーゴ』 これまた、ちっとも物語を憶えていない。彼女の『航路』は下巻に入ると、上巻にふりまかれていた断片がきゅうに集まり出したのに驚かされたけど、この短篇集は、どれくらいこのぼくを、楽しませてくれるかな。

これから日知庵へ。

二〇一八年五月九日 「ボロボロ」

ぼくは3か所で働いています。きついですね。身体がボロボロです。

二〇一八年五月十日 「コニー・ウィルス」

いま日知庵から帰ってきた。セブイレで買ったパンと烏龍茶を食べ飲みして眠ろうと思う。寝るまえの読書は、コニー・ウィルスの短篇集のつづき。やっぱり、おもしろい、コニー・ウィルス。

二〇一八年五月十一日 「コニー・ウィリス」

コニー・ウィリスの短篇集の会話部分が、ほんとうに巧み。よい文章を読んだら、ぼくの文章がよくなるというわけではないけれど、そうであってほしいという気持ちはある。いま、ようやく半分くらいのところ。もうちょっとしたら、コンビニにパンと烏龍茶を買いに行こうっと。お昼は王将でランチ(肉みそラーメン+天津飯)を食べたけど、あした早朝から仕事なので、きょうは早めに晩ご飯を、しかも軽めに食べてお風呂に入って寝ようと思う。睡眠薬が重い食事だと効かない。

二〇一八年五月十二日 「コニー・ウィリス」

きょうは、一日中、コニー・ウィリスの短篇集の読み直しをしていた。どの話もちっとも記憶してなかった。さいきん、短篇集の読み直しをしているのだが、憶えている話は、1冊につき、0から3話くらいである。たいてい0話なのだから、まるで、新刊本を買って読んでいるような気分である。あと数十頁。

コニー・ウィリスの短篇集、よかった。今晩から、再読する奇想コレクションの1冊は、パトリック・マグラアの『失われた探検家』 これまた1つも話を憶えていないのだけれど、めっちゃおもしろかったことだけは憶えている。考えれば、不思議なことだけれど。

二〇一八年五月十三日 「数学エディタ」

数学エディタが使えなくなっている。マイクロソフト社が数学3.0を削除したらしい。知らなかった。きょう、はじめて知って、超あわてている。どなたか解決策を教えてください。

テスト問題が手書きの時代がなつかしい。手書きだと数学の問題は1時間で書き終えられるけれど、ワードだと3時間近くかかってしまう。さきほど、お電話をくださった数学の先生に、こんどスタディーエイドという数学ソフトの使い方を教えていただけることになった。うれしい。いまより速く書けるかな。

詩の原稿と同じように、数学の問題も、何度も見直している。見落としがあってはならないからだ。9時半から、もう何回も見直したけれど、もう一度、見直して印刷しよう。

きょうが、もう終わる。一日中、ワードとの格闘だった。そろそろお風呂に入ろう。

二〇一八年五月十四日 「ペペロンチーノ」

ペペロンチーノにした。大盛りだったけど。ひゃ〜、血糖値315だった。

二〇一八年五月十五日 「パトリック・マグラア」

パトリック・マグラア、おもしろい。じっくり、ゆっくり楽しみたい作家。これからお風呂に。寝るまえの読書は、マグラアの短篇集のつづき。

二〇一八年五月十六日 「毎日がジェットコースターのように過ぎていく。」

毎日がジェットコースターのように過ぎていく。寝るまえの読書は、きょうも、パトリック・マグラアの短篇集。むかし読んだときもおもしろいと思ったと思うけれど、57歳になったいま読み返してよかったと思う。齢をとってからの読書もいいものだなあ。若いときには感じられなかった感覚もあるのだね。

二〇一八年五月十七日 「無感想」

いま日知庵から帰ってきた。きょうは客として。あしたはアルバイトとして入ります。京都におこしの方は、焼き鳥屋の日知庵(ぼくは、にちあんと呼んでいるけれど、正式には、にっちあんというらしい。)にぜひ、足をお運びになってください。

パトリック・マグラアの短篇集、翻訳もいいのだろうね。じっくり味わっています。いま、半分くらいのところ。すごい作家って、まだまだいるのだろうけれど、再読で、これだけ感心したのは、はじめてかもしれない。

いま書店にある、ユリイカの2018年の5月号に詩を書いているのだが、だれひとりとして、感想を聞かせてくれていない。だれひとりとして読んでくれていないのだろうかとか思ってしまう。悲しいが、現実を受け入れるしかなさそうだ。57歳。詩を書くことしかない人生だが、むなしい、かなしい人生である。ううん。

二〇一八年五月十八日 「網野杏子さん」

網野杏子さんから、フリーペーパー「NEXT」を送っていただいた。ゲスト詩人として迎えてくださり、たいへん光栄に思っております。網野杏子さん、竹中優子さん、葩汀李礫さんのお3人ではじめられたようです。ぼくは4頁の作品を書かせていただき、「田中宏輔から田中宏輔への五つの質問」に答えています。

いま日知庵から帰った。寝る。

二〇一八年五月十九日 「睡眠薬が効かないので」

睡眠薬が効かないので、もう一日分、のんだ。寝たい。

二〇一八年五月二十日 「廿楽順治さん」

廿楽順治さんから、同人誌『八景』四号を送っていただいた。廿楽さんの作品「巡景」は、12ページにも及ぶ大作で、つながりがなさそうな短詩の集積のような感じである。西脇順三郎を思い出した。小説と違って、論理整合性とかと、いかに詩が遠くはるかな場所にいってるのか、よくわかる詩篇だと思う。

いま洗濯ちゅうで、干して、まだ元気だったら、ジュンク堂へ行こう。買いたい詩集が3冊と、小説1冊があるのだった。近くの書店には、買いたい詩集が1冊あったのだけれど、カヴァーの背が折れていたので買わなかった。

ジュンク堂へ。

ジャック・プレヴェールの詩集を買ってきて、いっしょうけんめいに、「自由」ってタイトルの詩を探したけれど、なかったので、講談社版・世界文学全集・48『世界詩集』にあたったら、載ってたー。これ、ポール・エリュアールの詩だったのね。記憶違いもはなはだしいね。ちょっと、しゅんとなったわ。

きょう、ジュンク堂で買ったのは、『プレヴェール詩集』、フアン・ルルフォの『燃える平原』、『ウンガレッティ全詩集』、『クァジーモド全詩集』の4冊。ぜんぶで4300円弱だった。ルルフォのは短篇集なのかな。楽しみ。ふつうは、詩は小説と違って、読むのに時間がかからなくていいな。短篇集も。

ジュンク堂の帰りに日知庵に寄ってきた。あしたは学校があるので、ビール2杯で帰ってきた。帰ってきたら、岩波文庫の新刊4冊を目のまえにしてニタニタ、ああ、ほんとに本が好きなんだな、ぼくは、と再認識した。「自由」という詩がエリュアールの詩だって気がついて、顔から火が出るほど恥ずかしかった。

パトリック・マグラアの短篇集『失われた探検家』を読み終わった。おもしろかった。きょうから再読する奇想コレクションのシリーズは、タニス・リーの『悪魔の薔薇』 タニス・リーの長篇はいくつかファンタジーを読んだけど、そうおもしろくはなかったと記憶しているけど、この短篇集はよかったかな。

ひさびさに「きみの名前は?」を発見したのだが、これは、詩篇『HELLO IT'S ME。』に加えるのは控えよう。岩波文庫『ウンガレッティ全詩集』の解説(534ページ)にある言葉だからだ。残念。いま、『ウンガレッティ全詩集』の解説を読んでいる。ぼくは詩集や小説を解説から読むことが多いのだった。

タニス・リー、ほっぽり出して、あしたから詩集づけになることにした。

二〇一八年五月二十一日 「ウンガレッティ全詩集」

『ウンガレッティ全詩集』まだ70ページほどしか読んでいないけど、超つまんないの。ぼくがモダニズム系の詩人やシュールレアリスムの詩人が好きだからかな。めっちゃ平凡な詩句がえんえんとつづいていて、びっくり。ぼくの目がおかしいいのかな。ぼくの解釈力が劣っているのかな。とっても退屈。

そいえば、ぼく、むかし、ウンガレッティの詩をなんかの詩人たちの双書みたいなシリーズで読んだ記憶がよみがえってきた。学校の図書館で借りて読んだ。買おうとは思わなかったんだ。岩波文庫のは買ったし、さいごまで読むけど。

いま170ページまで読んだけど、メモするところ、3カ所だけだった。詩集にしては、きわめて少ない。パウンドやエリオットやD・H・ロレンスやディラン・トマスやジェイムズ・メリルと大違い。でも、メモした3カ所は大いに活用できるところだった。

メモの数が増えてきた。ウンガレッティ、悪くないかな。よい、とまでまだ言えないけれど、ぼくのことだから、メモばかりしてたら、そのうち、よい詩人だなあと思うようになるような気がする。ジェイムズ・メリルのような霊的な感じはまったくない。メモしているのはレトリックの参考になるところだけ。

これからお風呂に、それから学校に。きょうは通勤電車のなかでも、ウンガレッティを持って行って読む。霊的なところはまったくないのだけれど、レトリックに見るべきところがあるので、さいごまで、きっちり読むことにした。

なぜ髪や爪は伸びるんだろう。いま頭の毛を刈ったし、足の爪を切った。あ、手の指の爪を切るのを忘れてた。

ウンガレッティ、通勤電車のなかで、さいしょのページから読み直してたら、突然、ランボオと結びついちゃって、そこから急にページに吸いつけられたようになって読み直した。すごくおもしろい。ぼくの最初の認識は間違いだった。

メモしまくり。これから寝るまで、ウンガレッティの詩の翻訳を読む。翻訳もいいんだよね。ぼくの大好きな河島英昭さん。

ここ数年、火傷とか傷跡がきれいに治らなくなって、手の甲についたままになってしまうことに気がついた。友だちに、「齢をとるって、こういうことなんだよね。」って話したことがある。突然、思い出した。

隣に住んでいる男性二人(話を聞いてると、二人ともゲイではなさそう)、いつも2時間もののドラマや名探偵コナンを見てるみたい。音声が聞こえてくる。隣のひとには、ぼくの部屋でかけてるプログレやジャズやソウルやファンクの音楽か、韓国ポップスや、ウルトラQの音声が聞こえているのだろうけれど。

言葉にも光があたると影ができる。

言葉のなかに意味以上のものは与えないでほしい。まあ、音はあってほしいけれど。

二〇一八年五月二十二日 「ノブユキ」

言葉に意味と音のほかには、なにも与えないでほしい。というか、言葉に、意味と音のほかに、なにかを与えることができるとは思わないでほしい。これは、言い換えると、言葉に、意味と音のほかに、なにかほかのものを求めることはやめてほしいってことでもあるのだけれど。とはいっても、ジェイムズ・メリルの『ミラベルの数の書』のように、言葉に霊性がある場合があって、ぼくの希求も破綻しているのだけれど。

『ウンガレッティ全詩集』を読み終わった。引用を含めて、膨大なメモは、のちにルーズリーフに書くとして、つぎには、『クァジーモド全詩集』を読もう。ああ、もう日知庵に行く時間だ。きょう、思いついた詩句を書いて出かけよう。


ノブユキ。きみは二十歳だった。
いや二十一歳だった。
ぼくは二十七歳か、二十八歳だった。
きみは、たくみに罠を仕掛けた。
ぼくはいま五十七歳だけれど
いまだに、きみの罠から逃れられないでいる。
出会って別れるまで
二年ほどのあいだのことだったけれど。
忘れては思い出される永劫の罠だった。


あしたテストで朝が早いので、日知庵では、はやあがりをさせてもらった。9時30分くらいに帰ってきた。これからお風呂に入って寝る。寝るまえの読書は、岩波文庫の『クァジーモド全詩集』。解説から読む。ノーベル文学賞受賞詩人なんだね。ウンガレッティは、クァジーモドのことを模倣者と呼んでたらしい。

二〇一八年五月二十三日 「クァジーモド全詩集」

そろそろ仕事に。通勤電車のなかで、『クァジーモド全詩集』を持って行こう。『ウンガレッティ全詩集』ほどに興奮するだろうか。

二〇一八年五月二十四日 「クァジーモド全詩集」

いま日知庵から帰ってきた。朝から夕方まで学校で仕事、夜は塾の仕事と忙しかったけれど、帰りに日知庵に寄って、ゆったりとした気分にひたれてよかった。『クァジーモド全詩集』いま120ページくらいのところ、メモとりまくり。さすがノーベル賞受賞詩人って感じ。修辞がすごい。すごく勉強になる。

二〇一八年五月二十五日 「携帯」

なんか携帯を替えなければならないみたいだ。2020年の7月までに。そんなメールがきて、びっくりした。ソフトバンクからだ。ガラケーはもうダメってことか。来年、替えよう。パソコンもセブンが2020年1月までだから来年、買い替えよう。なんなんだろ。買い替えろ、買い替えろってこの様態は。

『クァジーモド全詩集』を読み終わった。詩人には、その詩人がよく使う言葉(彼の場合、谺や影や、ぼくのものではない、といった言葉)があるのだなと思った。レトリックも似通っている場合が少なくない。これをぼくは自分の詩論のなかで「思考傾向」と呼んでいるが。ウンガレッティとともによかった。

詩人固有の好きな言葉、言い回し、こういったものはやはり、詩人の思考傾向の一部なのだろう。(じつは、全部と言いたい。)きょうから、読書は岩波文庫の『プレヴェール詩集』これは、薄いのですぐよめるかな。どだろ。

いま、ぼくが携帯を買った店に電話した。いまから、その店に行って、機種変更しようと思う。ぼくはちょっと変わってるのかもしれない。しようと思っていたことをしなかったり。しないと思っていたことをすぐにしたり。

携帯の機種変更をしてきたけど、形はガラケーのものにした。色はピンクというか、桜色。この色しか、きょうはありませんということだったので、仕方なく、この色のものにした。もともと携帯をほとんど使わないひとなので、色はどうでもよかったのだ。とはいっても、ひとまえで使うのは恥ずかしいかな。

思潮社オンデマンドから2014年に出した『ゲイ・ポエムズ』っていう、ぼくの詩集に誤植が見つかった。『陽の埋葬』の一つ。中国人青年が出てくるやつだけど、「スクリーン」にしなければならないところ、「ク」が抜けて、「スリーン」になっていた。いつの日か、ベスト版の詩集をつくったときには、といっても、『ゲイ・ポエムズ』も前半は、よりすぐりの作品を再掲したものだけど、『ゲイ・ポエムズ』には、じつはゲイものは少なくって、ゲイネタのものだけを集めたものをふたたび編集して出したいと思っている。でも、タイトル、どうするかな。困る。

人生に吐き気を催しているのか、自分に吐き気を催しているのか、はっきり区別がつかない。ああ、両方なのかも。生きているのが、若いときにもつらかったが、齢をとってもつらい。なんのための人生なのだろう。あしたも朝がはやいので、『プレヴェール詩集』を読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!

ぼくにはジョークがわからない。

二〇一八年五月二十六日 「プレヴェール詩集」

『プレヴェール詩集』を読み終わった。ぼくには味わいがあまり伝わらなかった。ユーモアが、好みではなかったからだと思う。若いときと違って、ブラックジョークは、好きではなくなったというのが根本的な問題なのかな。きょうから、フアン・ルルフォの『燃える平原』を読む。これって短篇集なのかな。

二〇一八年五月二十七日 「草野理恵子さん」

草野理恵子さんから、『Rurikarakusa』8号を送っていただいた。草野理恵子さんの作品、「蹉跌海岸」と「作品」の2篇に共通する自他の同化に着目した。「蹉跌海岸」では、作者と作品の登場人物との同化。「作品」では、作品の素材との同化。こういった同化は、書く人間には逃れられないものだろう。

二〇一八年五月二十八日 「フアン・ルルフォ」

フアン・ルルフォの短篇集『燃える平原』いまタイトル作品を読んでいるところ。本としては、5分の2くらいのところかな。120ページ。暴力的なシーンが出てくるが、いまはもう暴力的なシーンのない小説がめずらしいくらいかな。いや、ボリス・ヴィアンの『日々の泡』とか、暴力的なシーンはないか。

二〇一八年五月二十九日 「好きな今日がいっぱい。」

好きな今日がいっぱい。

二〇一八年五月三十日 「同性愛」

同性愛は世界の70パーセントの国で犯罪とされているという記事をむかし読んだ記憶がある。現代では減っているだろうけれど、イスラム圏では、鞭打ちだけではなくて、石をぶつけて拷問死させる死刑もいまだに実施されているという話を読んだこともある。カトリックの法王の先日の報道には、ほっとする。

ルルフォの『燃える平原』を読み終わった。物語の大部分を忘れてしまったけど、おもしろかったことは憶えている。つぎは、タニス・リーの短篇集と詩集を同時に読もうと思って、詩集の棚のところで詩集の背を見てたら、まだ読んでなかった詩集があった。ガートルード・スタインの『地理と戯曲 抄』だ。

そういえば、ドナルド・バーセルミの『死父』も途中で読むのをやめたのだった。ドノソの『夜のみだれた鳥』や、ムヒカ=ライネスの『ボマルツォ公の回想』も、はじめの数ページで読むのをやめていた。ああ、どれから読もうか。『死父』が読みやすそうだ。まるで詩のような改行の仕方だものね。迷うなあ。

ぼくは気まぐれだ。きょうからは、未読のピエール・ブールの『カナシマ博士の月の庭園』を読むことにしよう。

二〇一八年五月三十一日 「ピエール・ブール」

いま、日知庵から帰った。きょうは、ひさしぶりにSFを読みながら寝る。『猿の惑星』を書いたピエール・ブールの『カナシマ博士の月の庭園』である。タイトルもいいけれど、単行本のカヴァーもめっちゃいい感じなのだ。楽しみ。ブールの文章は描写が的確でよかった記憶がある。銀背の短篇集もよかったし、ハードカヴァーの長篇『ジャングルの耳』もよかった。


詩の日めくり 二〇一八年六月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年六月一日 「断章」

断片はそれぞれに、そうしたものの性質に従って形を求めた。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』36、黒丸 尚訳)

二〇一八年六月二日 「断章」

作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

きみはそれを知っている人間のひとりかね?
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

そのとおりであることを祈るよ。
(アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』第一部・4、福島正実訳)

こんどはそれをこれまで学んできた理論体系に照らし合わせて検証しなければならん
(スティーヴン・バクスター『天の筏』5、古沢嘉道訳)

実際にやってみよう
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

二〇一八年六月三日 「断章」

煉瓦はひとりでは建物とはならない。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとI』6、田中 勇・銀林 浩訳)

具体的な形はわれわれがつくりだすのだ
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』28、三田村 裕訳)

形と意味を与えられた苦しみ。
(サミュエル・R・ディレイニー『コロナ』酒井昭伸訳)

きみはこれになるか?
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)

二〇一八年六月四日 「M・W&W・ウェルマン」

マルケスの『百年の孤独』60ページほど読んだが、まったくおもしろくなかった。なので読むのをやめる。かわりに、カヴァーがかわいらしかったので、本棚に残していた、M・W&W・ウェルマンの『シャーロック・ホームズの宇宙戦争』を読み直す。『族長の秋』はよかったけど、『百年の孤独』はダメね。

二〇一八年六月五日 「伊藤浩子さん」

伊藤浩子さんから、詩集『たましずめ/夕波』を送っていただいた。頭注が本文にも匹敵するくらいの変わった構造で、おもしろいものだった。書くということに集中されていることがわかる結構だった。うらやましいとも思った。

二〇一八年六月六日 「断章」

いまだにみんながきみの愛について語ることをしないのは、いったいどうしたことなのだろう。
(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)

二〇一八年六月七日 「断章」

誰もが持っていることさえ拒むような考えを暴き出すのが詩人の務めだ
(ダン・シモンズ『大いなる恋人』嶋田洋一訳)

しかし、だれが彼を才能のゆえに覚えていることができよう?
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第四部・18、山西英一訳)

世間の普通の人は詩など読まない
(ノサック『ドロテーア』神品義雄訳)

誰も詩人のものなんて読みやしない。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

二〇一八年六月八日 「断章」

もちろんそうさ。
(テリー・ビッスン『時間どおりに教会へ』3、中村 融訳)

詩作なんかはすべきでない。
   (ホラティウス『書簡詩』第一巻・七、鈴木一郎訳)

いったいなんのために書くのか?
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)

詩人の不幸ほど甚だしいものはないでしょう。さまざまな災悪によりいっそう深く苦しめられるばかりでなく、それらを解明するという義務も負うているからです
(レイナルド・アレナス『めくるめく世界』34、鼓 直・杉山 晃訳)

詩とは認識への焦慮なのです、それが詩の願いです、
(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳)

二〇一八年六月九日 「ジャック・ヴァンス」

おとついから、ジャック・ヴァンスの『冒険の惑星』シリーズを読んでいる。二日で、第一巻を読み終わった。読んだ記憶があったが、半分くらいまでのところまでだった。つづきを読んだ記憶がないから、きっと半分くらいのところでやめたのだろう。やめたくなった気持ちもわかる程度のSF小説だった。

二〇一八年六月十日 「草野理恵子さん」

草野理恵子さんから、同人詩誌『Rurikarakusa』第11号を送っていただいた。草野さんの作品、「温泉治療」と「うみは馬として」を読んだ。共通する書き方といったものがない。多様な書き方をされる方だなと、あらためて思った。詩でしか表現できない表現なのだなとも思った。

二〇一八年六月十一日 「断章」

たしかに
(ジョン・ブラナー『木偶(でく)』吉田誠一訳)

あらゆる出会いが苦しい試練だ。
(フィリップ・K・ディック『ユービック : スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳)

その傷によって
(ヨシフ・ブロツキー『主の迎接祭(スレーチエニエ)』小平 武訳)

違った状態になる
(チャールズ・オルソン『かわせみ』4、出淵 博訳)

何もかも
(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』上・1、矢野 徹訳)

二〇一八年六月十二日 「断章」

おお
(ボードレール『黄昏』三好達治訳)

愛よ
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第九章、青山隆夫訳)

お前は苦痛が何を受け継いだかを知っている。
(ジェフリー・ヒル『受胎告知』2、富士川義之訳)

それ自身の新しい言葉を持たない恋がどこにあるだろう?
(シオドア・スタージョン『めぐりあい』川村哲郎訳

二〇一八年六月十三日 「断章」

──と、だしぬけに誰かがぼくの太腿の上に手を置いた。ぼくは跳び上がるほど驚いたが、跳び上がる前にいったい誰の手だろう、ひょっとするとリーラ座の時のように女の人が手を出したのだろうかと思ってちらっと見ると、これがなんともばかでかい手だった。(あれが女性のものなら、映画女優か映画スターで、巨大な肉体を誇りにしている女性のものにちがいなかった)。さらに上のほうへ眼を移すと、その手は毛むくじゃらの太い腕につづいていた。ぼくの太腿に毛むくじゃらの手を置いたのは、ばかでかい体&#36544;の老人だったが、なぜ老人がぼくの太腿に手を置いたのか、その理由は説明するまでもないだろう。(…)ぼくは弟に「席を替ろうか?」と言ってみた。(…)ぼくたちは立ち上がって、スクリーンに近い前のほうに席を替った。そのあたりにもやはりおとなしい巨人たちが坐っていた。振り返って老人の顔を見ることなど恐ろしくてできなかったが、とにかくその老人がとてつもなく巨大な体&#36544;をしていたことだけはいまだに忘れることができない。あの男はおそらく、年が若くて繊細なホモの男や中年のおとなしい男を探し求めてあの映画館に通っていたのだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』いつわりの恋、木村榮一訳)

二〇一八年六月十四日 「断章」

中年の男がもうひとりの男のほうにかがみ込んで、『種蒔く人』というミレーの絵に描かれている人物のように敬虔(けいけん)な態度で手をせっせと上下に動かしているのに気がついた。もうひとりのほうはその男よりもずっと小柄だったので、一瞬小人かなと思ったが、よく見ると背が低いのではなくてまだほんの子供だった。当時ぼくは十七歳くらいだったと思う。あの年頃は、自分と同じ年格好でない者を見ると、ああ、まだ子供だなとか、もうおじいさんだとあっさり決めつけてしまうが、そういう意味ではなく、まさしくそこにいたのは十二歳になるかならないかの子供だった。男にマスをかいてもらいながら、その男の子は快楽にひたっていたが、その行為を通してふたりはそれぞれに快感を味わっていたのだ。男は自分でマスをかいていなかったし、もちろんあの男にそれをしてもらってもいなかった。その男にマスをかいてもらっている男の子の顔には恍惚(こうこつ)とした表情が浮かんでいた。前かがみになり懸命になってマスをかいてやっていたので男の顔は見えなかったが、あの男こそ匿名の性犯罪者、盲目の刈り取り人、正真正銘の <切り裂きジャック> だった。その時はじめてラーラ座がどういう映画館なのか分った。あそこは潜水夫、つまり性的な不安を感じているぼくくらいの年齢のものがホモの中でもいちばん危険だと考えていた手合いの集まるところだったのだ。男色家の男たちがもっぱら年若い少年ばかりを狙って出入りするところ、それがあそこだった──もっとも、あの時はぼくの眼の前にいた男色家が女役をつとめ、受身に廻った少年たちのほうが男役をしていたのだが。いずれにしても、ラーラ座はまぎれもなく男色家の専門の小屋だった──倒錯的な性行為を目のあたりにして、傍観者のぼくはそう考えた。それでもぼくは、いい映画が安く見られるのでラーラ座に通い続けた。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』いつわりの恋、木村榮一訳)

二〇一八年六月十五日 「きみの名前は?」

「きみの名前は?」(ジャック・ヴァンス『冒険の惑星 IV/プリュームの地下迷宮』3、中村能三訳)

二〇一八年六月十六日 「明日は、靴を買いに行こう。」

明日は、靴を買いに行こう。

二〇一八年六月十七日 「断章」

「見てごらん」
「なにを?」
「見たらわかるさ!」
あんたは、最初笑っていたが、すぐに消毒剤と小便の、むかっとするような臭いに攻め立てられ、ほんのちょっとだけ穴から覗いて見た。するとそこに歳とった男の手があり、なにやらつぶやいている声が聞こえ、そこから父親の手があんたの腕をつかんでいるのがわかり、もう一度眼を穴に近づけると、ズボンや歳とった男の手を握っている少年の手が、公衆便所の中に見え、あんたはむすっとしてその場を離れたが、ガースンは寂しげに笑っていた。
「あの薄汚いじじいをとっ捕まえるのはこれで三度目だ。がきの方は二度とやってこないけど、じじいのやつはいくらいい聞かせてもわからない」
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

二〇一八年六月十八日 「断章」

あのオルガン奏者(新聞記者のなんとも嘆かわしい、低俗な筆にかかるとあの音楽家も一介のオルガン弾きに変えられてしまうが、それはともかく、以下の話は当時の新聞をもとに書き直したものである)と知り合ったのは恋人たちの公園で、そのときは音楽家のほうから声をかけてきて、生活費を出すから自分の家(つまり部屋のことだが)に来ないか、なんなら小遣いを上げてもいいんだよと誘ったらしい
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)

二〇一八年六月十九日 「断章」

男にもし膣と乳房があれば、世の中の男はひとり残らずホモになっているだろう、とシルビア・リゴールは口癖のように言っていた。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)

二〇一八年六月二十日 「断章」

ヤコービは、彼の数学上の発見の秘密を問われて「つねに逆転させなければならない」といった。
(E・T・ベル『数学をつくった人びと II』21、田中 勇・銀林 浩訳)

二〇一八年六月二十一日 「断章」

みるものが変われば心も変わる。
(シェイクスピア『トライラスとクレシダ』V・〓、玉泉八州男訳)

二〇一八年六月二十二日 「ヴァン・ヴォクト」

ジャック・ヴァンスの『冒険の惑星』シリーズを読み終わった。きょうから、寝るまえの読書は、クリフォード・D・シマックの『都市』に。むかし、『中継ステーション』というタイトルの作品を読んで感銘を受けた記憶がある。表紙もよかったので、本棚に残してある。いつの日にか、読み直そうかと思う。

いや、寝るまえの読書は、シマックの『都市』のまえに、ヴァン・ヴォクトの『宇宙船ビーグル号』を読もう。むかし、ジュブナイルの大型本で読んだ記憶がある。だれかに譲ったみたいで、いま部屋の本棚にはない。シマックのものもそうだが、ヴァン・ヴォクトの『宇宙船ビーグル号』もSFの古典だ。

二〇一八年六月二十三日 「ヴァン・ヴォクト」

ヴァン・ヴォクトの『宇宙船ビーグル号』を読み終わった。ぜんぜん古くない。SFの古典なのに、ぜんぜん古びていないのだ。作者の力量だな。

二〇一八年六月二十四日 「断章」

誰にも永遠を手にする権利はない。だが、ぼくたちの行為の一つ一つが永遠を求める
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

というのは、瞬間というものしか存在してはいないからであり、そして瞬間はすぐに消え失せてしまうものだからだ
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』25、菅野昭正訳)

きみが生きている限り、きみはまさに瞬間だ、
(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・3、浜野 輝訳)

一切は過ぎ去る。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

愛はたった一度しか訪れない、
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

二〇一八年六月二十五日 「断章」

心のなかに起っているものをめったに知ることはできないものではあるが、
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第三部・10、山西英一訳)

隠れているもので、知られてこないものはない。
(『マタイによる福音書』一〇・二六)

二〇一八年六月二十六日 「断章」

そのような実在は、それがわれわれの思考によって再創造されなければわれわれに存在するものではない
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)

二〇一八年六月二十七日 「あさ、目が覚めたら、」

あさ、目が覚めたら、左手の甲の真ん中に、顔みたいなものができてて、じっと見てたら、そいつが目を開けて突然しゃべりだしたので、びっくりした。どうして、ぼくの手に現れたのって訊いたら、あんたがひととしゃべらないからだよって言った。いつまでいるのって訊いたら、ずっとだって言うから、それは困るよって返事すると、ふだんは目をつむって口も閉じておいてやるからって言った。きみともあんまりしゃべることないよと言うと、気にしない気にしないって言うから、ふうん、そうなんだって思った。でも、なんだか迷惑だなとも思った。

二〇一八年六月二十八日 「あさ、目が覚めたら、」

あさ、目が覚めたら、左手の甲の真ん中に、白い毛が一本生えてて、定規で計ったら3センチくらいあって、手をゆらゆら揺らしたら、毛もゆらゆら揺れたので、これはおもしろいと思って、剃らないことにした。

二〇一八年六月二十九日 「20世紀SF」

シマックの『都市』を読み終わって、河出文庫の『20世紀SF』のシリーズを読み直してるのだけれど、逆年代順に読むことにした。で、第6巻の1990年代。このシリーズは、どれもよかった記憶がある。とくに、第1から3巻のあたりがよかったと記憶している。逆年代順に読むのは、はじめて。三回目の再読。

二〇一八年六月三十日 「断章」

一体どのようにして、だれがわたしたちを目覚ますことができるというのか。
(ノサック『滅亡』神品芳夫訳)

だれがぼくらを目覚ませたのか、
(ギュンター・グラス『ブリキの音楽』高本研一訳)

ことば、ことば、ことば。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

言葉と精神とのあいだの内奥の合一の感をわれわれに与えるのが、詩人の仕事なのであり
(ヴァレリー『詩と抽象的思考』佐藤正彰訳)

これらはことばである
(オクタビオ・パス『白』鼓 直訳)

実際に見たものよりも、欺瞞、神秘、死に彩られた物語に書かれた月のほうが印象に残っているのはどういうわけだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』世界一の美少女、木村榮一訳)

家造りらの捨てた石は
隅のかしら石となった。
(『詩篇』一一八・二二─二三)

「比喩」metaphora は、ギリシア語の「別の所に移す」を意味する動詞metaphereinに由来する。そこから、或る語をその本来の意味から移して、それと何らかの類似性を有する別の意味を表すように用いられた語をメタフォラという。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第I問・第九項・訳註、山田 晶訳)

新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)


二〇一八年六月三十一日 「断章」

きみの中で眠っていたもの、潜んでいたもののすべてが現われるのだ
(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳)

言葉はもはや彼をつなぎとめてはいないのだ。
(ブルース・スターリング『スキズマトリックス』第三部、小川 隆訳)

言葉はそれが表示している対象物以上に現実的な存在なのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)

何もかもがとてもなじみ深く見えながら、しかもとても見慣れないものに思えるのだ。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第三部・11、大西 憲訳)

すべてのものを新たにする。
(『ヨハネの黙示録』二一・五)

すべてが新しくなったのである。
(『コリント人への第二の手紙』五・一七)


詩の日めくり 二〇一八年七月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年七月一日 「辻征夫詩集」

岩波文庫の『辻征夫詩集』を読んだ。実話なのか、創作なのかわからないものがあった。実話的なもののほうに魅かれた。大谷良太くんも、きっとそこに魅かれたのではないだろうか。寝るまえの読書は、きょう買った、岩波文庫の『草野心平詩集』ちゃんと読むのは、はじめて、とてもめずらしい題材だ。

無限に濃度があるのなら、永遠にも濃度があってもよい。ものすごい薄い永遠。一瞬の永遠。刹那の永遠。

二〇一八年七月二日 「草野心平詩集」

いま、岩波文庫の『草野心平詩集』を読んでいるのだが、「蛙」の詩は定番のものがやはりおもしろかった。また、後半に、いくつもおもしろい詩があった。メモ魔であることがわかる、自分が20年間に栽培してきた野菜の名前が3ページ以上にわたって書き込まれた「百姓といふ言葉」や、じっさいにかわされたとおぼしき「仮想招宴」や、「サッコ・ヴァンゼッチの手紙抄」の焼き鳥屋をしていたころの描写とかよかった。あと、ぼくの記憶ともつながる化石を見て書かれた「石の魚」とかもいいと思う。青年期と晩年によい詩を書いてたのだね。西脇順三郎の悪口を書いた「或る永遠」には微苦笑させられた。なぜかしら、詩集全篇が収録された「富士山」にはまったく共感できなかったけれど。やはり具体的な経験を詩にしたものはよかった。いま、中央公論社版の『日本の詩歌』第21巻におさめられている草野心平の詩を調べたら、岩波文庫の『草野心平詩集』には収められていないものが、いくつもあった。編者によって、詩の選択って、異なるんだよね。コーヒーでも淹れて、心平さんの中央公論社版のアンソロジーに入っているものを読もう。

二〇一八年七月三日 「石垣りん詩集」

近所のスーパー「ライフ」でお弁当でも買ってこよう。帰ってきたら、岩波文庫の『石垣りん』詩集を読もう。「喜び」という詩が入っていないことがさっきわかって残念だけれど、仕方ないね。編者の好みがアンソロジーには反映するものね。

岩波文庫の『石垣りん詩集』いま、半分くらいのところ、具体的な出来事を扱っていることが多いので、きわめて場面が想起されやすい。寝るまでの読書は、ひきつづき、岩波文庫の『石垣りん詩集』それにしても、これには、第四詩集の『やさしい言葉』に入っている「喜び」が収められていない。くやしい。

読んだものがあまり記憶に残らないというのに、読むというのは、読むこと自体が快感だからなのだと、このあいだ、気がついた。

二〇一八年七月四日 「まど・みちお詩集」

きょうは、岩波文庫の『まど・みちお詩集』を読んでいる。すいすい読める。

雨。

岩波文庫の『まど・みちお詩集』を読んだ。ああ、深く物事を考えてらっしゃるなあと思った。「リンゴ」という詩がやっぱり、いちばん好きだ。ちょっと休憩して、岩波文庫の『谷川俊太郎詩集』を読む。思潮社から出てたアンソロジーで、読んだ記憶がある。リレーの詩とかおぼえてる。

そのリレーの詩がなかった。自選だそうだから、自分では入れたくなかったということだね。『石垣りん詩集』には「喜び」という、とびきりおもしろい詩が入ってなかったりとか、そんなん少なくないね。なんでだろう。編者の問題だろうね。

こんなん見つけたんだけど、まあ、詩って、技巧だよって、ぼくなら書きそうだけど、いまのぼくは技巧を捨てたいというところにいて、でも、このあいだユリイカに書いた「いま一度、いま千度、」なんて詩、技巧の塊だったし、むずかしいな。でも、ぼくのルーズリーフ作業、技巧の極みを書き写す作業も含んでいる、というか、ほとんどそればかりだから、やっぱり、詩は、技巧だと思っているところがあるのかもしれない。というか、思ってるか。きっぱり、そう言おうか。詩は技巧である。

岩波文庫の『谷川俊太郎詩集』いま半分くらいのところだけれど、まえに読んだ岩波文庫の『金子光晴詩集』や『大手拓次詩集』に比べると、圧倒的にポエジーが低い。なんかふつうのひとがふつうのことを書いているって感じのものが多い。だから、読者も多いんだろうけれど。つまらない読書になってきた。

気分をかえるために、お風呂に入りながら、ディックの短篇集『悪夢機械』のつづきを読もうかな。

岩波文庫の『谷川俊太郎詩集』250ページあたり、まさに後半に入ったところで、大人の詩句だなあというものに、ようやく出合えた。ここからどうなるかは、きょう寝るまえの読書でわかる。あるいは、あしたの通勤時間の読書で。

二〇一八年七月五日 「谷川俊太郎詩集」

うううん。『谷川俊太郎詩集』いいのは、250ページからわずか270から385ページまでだった。奇跡の一枚ならぬ、奇蹟の詩篇「ふくらはぎ」と「夕焼け」と2、3の詩篇くらいだった。あしたから岩波文庫の『茨木のり子詩集』を読もう。

二〇一八年七月六日 「岡島弘子さん」

岡島弘子さんから、詩集『洋裁師の恋』を送っていただいた。詩句に、落ち着いた雰囲気、貫録のようなものを感じた。ぼくより年下であるかもしれないが、言葉の趣きは、ぼくよりずっと年上だ。題材もだが、詩句の繰り出し方に女性性を感じた。ぼくにはぜったい書けない詩句たち。真似もできないだろう。

二〇一八年七月七日 「岡島弘子さん」

きのう届いた岡島弘子さんの詩集『洋裁師の恋』をさいごまで読んだ。お兄さまが73歳で亡くなられたことから推測するに、やはり、ぼくよりお齢を召された方だと思った。言葉が、言葉と言葉をつなげる仕方が上品なのだ。表紙のカバーをとると美しい本の本体が見える。タイトルとかぶる装幀だと思った。

二〇一八年七月八日 「茨木のり子詩集」

きょうは、ディックの短篇集しか読んでないけど、ひさびさに見つけた言葉がある。ぼくがコレクションしている言葉だ。「きみの名前は?」(フィリップ・K・ディック『超能力世界』II、浅倉久志訳)ぼくのようなマイナー・ポエットには、小さな収穫だが、日々は小さな収穫の積み重ねでしかない。

岩波文庫の『茨木のり子詩集』のつづきを読みながら寝よう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年七月九日 「山之口貘詩集」

ブックファーストから、岩波文庫の『山之口貘詩集』が届きましたとの電話があって、買いに行った。カヴァーのきれいな良品だった。ジュンク堂のは表紙にハゲがあって、丸善のはカヴァーに傷がついていたので買わなかったのだった。本はカヴァーが命と、つくづく思う。

郵便受けから郵便物を部屋に持ち込み、なかを見たら、高橋睦郎さんから、詩集『つい昨日のこと 私のギリシア』と、大木潤子さんから、詩集『私の知らない歌』と、尚 泰二郎さんから、詩集『街中で突然に』を送っていただいていた。いま読んでいる山之口貘さんの詩集をおいて、さきに読もう。

高橋睦郎さんの詩集『つい昨日のこと 私のギリシア』を読み終わった。「青空」というタイトルの詩に、「神神が失せても 人間が滅びても 青空は青空のまま」という詩句があって、いちばん。胸に吊り下がった。それにしても碩学の詩人の詩句はレトリカルであった。このうまさに達することはできない。

二〇一八年七月十日 「大木潤子さん」

大木潤子さんの詩集『私の知らない歌』を読み終わった。右のページがすべて余白で、左のページに書かれた詩句も、一文字であったり、一行であったり、多くても数行のものがほとんどで、空間がこんなにもうつくしかったのかと痛感した。もちろん、詩句があったればこその空間の、余白のうつくしさだが。

二〇一八年七月十一日 「尚 泰二郎さん」

尚 泰二郎さんの詩集『街中で突然に』を読み終わった。さいしょのほうの詩篇は批評的な、皮肉とも言えるユーモアのある詩が収められてあったけれど、途中からお父さまがなくなられたことを題材にされた詩がつづき、終わりのほうに、エッセイのような散文詩が収められていた。おいくつだろうと思って、奥付を見たら、ぼくと同い年か、おひとつ上の方だった。言葉はなめらかで、達者な方だと思った。

二〇一八年七月十二日 「日本の詩歌」

きょうは、一日中、岩波文庫の『茨木のり子詩集』を読んでいた。ずいぶん整った詩句を書くひとだなあと思った。年代的にはずいぶん離れたものもあったと思うのだけれど、言葉があまり違っていないので、素で書いてらっしゃったのだなあと思った。ちょっと休憩してコーヒーを淹れて飲もう。

ダメもとで、ヤフオクに入札した。中央公論新社の『日本の詩歌』全巻揃いで、2000円で入札した。こりゃダメもとでしょうな。9冊すでに欲しいものを持っているのだが、山村暮鳥の詩をもっと読みたくなって入札した。2000円以上は出す気がないので、当然、落札できないだろうけれど、万一、笑。

二〇一八年七月十三日 「山之口貘詩集」

きょうは、一日じゅう、岩波文庫の『山之口貘詩集』を読んでた。

二〇一八年七月十四日 「入眠時幻覚」

いま入眠時幻覚の夢をさぐっていた。薄い青い部屋で、寝転がっていた。じっさいの手を伸ばすと半透明になった。10分くらいつづいた。子どもの声が後ろでした。ポオと言っていた。絵が出現して子どもたちが動いていた。目が覚めた、というよりか、自分で起きようと思い、目をきっと開いて目が覚めた。

二〇一八年七月十五日 「夏になるまえの夏バテ」

自分の意志で入眠時幻覚を見た。喫茶店にいた。透明のゼリーを食べたらオレンジの味がして、目が覚めた。2つめは、さっきと同じ喫茶店でマスターらしきひとに名前を聞かれて名乗ったら目が覚めた。3つめは浅い川のなかを歩いているひとがいっぱい通ってた。

夏になるまえの夏バテだろうか。さっきまで眠っていた。

二〇一八年七月十六日 「山之口貘詩集」

いま、きみやから帰った。きょうは、通勤電車のなかで、仕事の合間に、岩波文庫の『山之口貘詩集』を読んでいた。「何々なのだ」の連発で、バカボンパパの口調を思い出していたのだ。おもしろかったのだ。赤塚さんが口調をぱくったのではないかと思われたのだ。こんなことを思うのは、ぼくだけなのだ。

持ってたんだけど、お風呂場で読んで捨てちゃったので、買い直したのだ。

現代日本文学大系〈41〉千家元麿,山村暮鳥,福士幸次郎,佐藤惣之助,野口米次郎,堀口大学,吉 (1972年)

ヤフオクのオークションで、『日本の詩歌』全31巻を入手できなかったのは、痛かったけれど、よく考えれば、ほしいものはすでに買っていたのだった。それに、31巻もの本を入れる棚がないのだった。そのかわりに、一冊だけ、さっき書き込んだものを買ったのだった。これでよしとするかな。

山村暮鳥の「いちめんのなのはな」のリフレインがすごい、「風景」という詩が読みたかっただけなのだ。ぼくがさっき買ったアンソロジーに入っていたかどうかの記憶はない。なにしろ、お風呂場で読んだのが数年まえだからな、記憶にないのだった。神さま。入っていますように。千家元麿の詩もよかった。

「風景」という詩が入っている『聖三稜玻璃』って、いま調べたら、ネットで60000円くらいで売られていたけど、ヤフオクじゃ、10000円でも、だれも落札してなかったみたい。10000円か。ぼくも買わないなあ。

もっとディープに調べたら、全詩集が1600円でネット古書店で売られていた。「風景」って詩、きょう注文したアンソロジーに入ってなかったら、全詩集を買おう。

きょう寝るまえの読書は、もちろん、岩波文庫の『山之口貘詩集』 薄いのだ。もっと分厚くしても売れるのにね。詩集を読んでて、ゲラゲラ笑ったの、ひさしぶり。ぼくの頭もすっかりバカボンパパなのだ。

二〇一八年七月十七日 「廿楽順治さん」

郵便受けを見に行ったら、廿楽順治さんから、同人詩誌『Down Beat』第12号を送っていただいていた。さきに、こっちを読もう。廿楽順治さんはじめ、お会いしたことのある小川三郎さんや、よく名前の知られた金井雄二さんや柴田千晶さんや中島悦子さんたちが書いてらっしゃる。まさに現代詩である。

金井雄二さんの「食通」読んでると、おなかがすいてくる詩だけど、冒頭一行目にある漢字が読めなかった。魚へんに、有るという漢字が右についているのだが、なんだろう。わからないまま寝るのがイヤだから、ひさしぶりに辞書でもひこうか。日本語の辞書をひくのは10年ぶりくらいである。

マグロだった。辞書を引くのもめんどいと思って、ネットで、魚へんに有る、で検索したら、即、出てきた。フォロワーさんにも教えていただきました。身近な魚なのに、読めないって、ちょっと悲しいね。

また漢字が読めないよ。草かんむりに浦って書いて、どう読むのだろう。柴田千晶さんの詩「ユウレイグモ」のさいごから2行目の詩句にあるんだけど。これもネットで調べてみようかな。IMPパッドで調べたら、蒲は、ブ、ホ、かま、がまの読みがあると出てきたのだけど、「蒲の穂」って、どう読むのかな。

こんどは、言葉自体がわからない。ランブルスコ。谷口鳥子さんの詩「桜」に出てくるのだけど。文脈からお酒だと思うけれど、聞いたことがないものだ。ぼくって、こんなにバカだっけ?

ぼくの知識が少ないのか。今鹿 仙さんの詩「草の中」に「歴人」という言葉が出てくるのだけれど、57歳のぼくがはじめて遭遇する言葉だ。意味もわからないが、こんな言葉、見たことがない。ぼくの知識が少ないのだろうか。うううん。送っていただいた現代詩、ぜんぶ読んだけれど、言葉がむずかしい。

だけど、いままで、漢字が読めなかったり、言葉がわからなかったりすることなんて、ほとんどなかったぞ。どうしたんだろう。ボケかな。

ありゃ、岩波文庫の『山之口貘詩集』の解説を読んでいたら、「鮪の刺身を食いたくなったと」という詩句があることがわかった。貘さん、『鮪に鰯』という詩集を出してて、そのタイトル・ポエムの冒頭の詩句だった。いい加減に読んでるのだな。読めない漢字を調べもせずに。自分の頭を叩いておこう。

二〇一八年七月十八日 「鹿又夏実さん」

きょうから、岩波文庫の『自選 大岡信詩集』を読んでいる。大岡さんには、1991年度のユリイカの新人に選んでいただいて、何度かじっさいにお会いして、言葉を交わしたことがあるけれど、まっすぐに見つめる目をもたれた、器の大きなひとだったという印象が強い。詩もまっすぐで、器が大きい。

鹿又夏実さんから、詩集『リフレイン』を送っていただいた。暗い色の表紙と同様に、暗い色調の詩がつづく。ぼくよりお若い方なのかなって思って奥付を見ると、20才くらいお若い方だった。若いときの詩は、たいていグロテスクに赴く。

いま日知庵から帰ってきた。郵便受けに、一色真理さんから同人詩誌『モノクローム』創刊号を送っていただいていた。一色真理さんはじめ、草野理恵子さんや、葉山美玖さんや、きょうお昼に送っていただいてた、鹿又夏実さんら、15名の詩人の詩が収められている。現代詩だ。楽しんで読ませてもらおう。

寝るまえの読書は、一色真理さんからいただいた詩誌『モノクローム』創刊号。どんな情景を思い浮かべることができるのだろうか。楽しみ。おやすみ。

一色真理さんからいただいた詩誌『モノクローム』を読み終わった。自伝詩から物語詩、はては思想詩まで幅広い書き手たちだった。クスリをのんだ。二度目のおやすみ。寝るまえの読書は、岩波文庫の『自選 大岡信詩集』だ。

二〇一八年七月十九日 「自選 大岡信詩集」

現代日本文學大系・第41巻が届いた。山村暮鳥の「いちめんのなのはな」の詩「風景」が収録されていた。ほっとしている。

まだ岩波文庫の『自選 大岡信詩集』を読んでいるのだが、まだ半分くらい。付箋の数が半端ない。若いときにも読んだ詩が多いのだが、付箋する箇所が違う。ぼくが齢をとって、感じるところが違っているのだろうね。

つい、いましがた(という言葉を、ぼくは生まれてはじめて書いたような気がする)日知庵から帰ってきて、2ちゃんねるのぼくのスレッドを覗いたら、ユリイカの5月号にのっけてもらった、ぼくの詩を読んでくださったという方がいらっしゃって、とてもうれしい。あの作品、ほとんど反応がなかったので。

いま岩波文庫の『自選 大岡信詩集』を読み終わった。つぎは、岩波文庫の『西脇順三郎詩集』だ。すでに別のアンソロジーでほとんど読んだのだか、もう一度読んでも、ポエジーを吸収できるだろうから、買って損はなかったと思う。ほかのアンソロジーには含まれていない作品も数作あったと記憶している。

二〇一八年七月二十日 「西脇順三郎詩集」

やっと詩集が読めるこころがまえができた、というか、いま大野ラーメンで、冷やし担担麺と焼き飯を食べておなかいっぱいになって、部屋に戻ってきたところ。岩波文庫の『西脇順三郎詩集』のつづきを読もうと思っている。やっぱり、おもしろいわ、西脇順三郎さん。やっぱ日本でいちばん好きな詩人かな。

またコレクションが増えた。詩集の読書と並行に、ディックの短篇集も読んでいたのだ。「きみの名前は?」(フィリップ・K・ディック『輪廻の車』浅倉久志訳、247ページ)

ようやく岩波文庫の『西脇順三郎詩集』を読み終わった。なつかしく読む詩が多かったが、はじめて目にする作品もあったような気がする。この数週間、岩波文庫の日本の詩人たちの詩集を読んでいた。楽しい経験だった。そうだ。キーツの詩集も買ったのだった。きょうから『キーツ詩集』を読んでいこう。

二〇一八年七月二十一日 「キーツ詩集」

岩波文庫の『キーツ詩集』を読んでいるけれど、情景描写が繊細なことはわかるが、情景描写が連続するのは、ちょっと退屈かな。しょっちゅう休憩を入れないと読めない。そう思うと、現代詩は、そうとう違う道をゆき、異なる多様な手法を開発してよかったなあと思う。つくづく思う。でも、まあ、読もう。

4、5年前に、三条京阪のブックオフで見かけたときに買いそびれたもの。

次の商品を購入しました:現代日本文学大系〈93〉現代詩集 (1973年) via @amazonJP https://www.amazon.co.jp/dp/B000J99CSS/ref=cm_sw_r_tw_asp_W.VHP.ZC23MP5

死んだ水も生き返る。
生き返った水は二度とふたたび死ぬことはない。

みんなの足を引っ張っているひとがいる。

まあ、そのひとだって
太陽のまんなかにいるひとに
足を引っ張られているのだけど。

二〇一八年七月二十二日 「うつくしいだけでは、退屈なのだな。」

いま日知庵から帰ってきた。きょうは一行の詩句も読んでいなかった。寝るまえに、岩波文庫の『キーツ詩集』のつづきを読もう。おやすみ、グッジョブ!

うつくしいだけでは、退屈なのだな。『キーツ詩集』を読んでいると、そんなことを思った。

二〇一八年七月二十三日 「ルーズリーフ作業」

ここ数週間に読み終えた岩波文庫の日本の詩人たちの詩集のルーズリーフ作業をしている。今回は自分のメモがなく、すべて詩句の引用である。すばらしいと思った詩句を書き写すことは、たいへん楽しい作業である。

岩波文庫の日本の詩人の詩集のルーズリーフ作業が終わったので、これから飲みに出る。

二〇一八年七月二十四日 「現代詩集」

きょうから寝るまえの読書は、筑摩書房の現代日本文學大系の第93巻『現代詩集』 むかし読んだものもあるだろうけれど、この本に載っている詩、どれだけ、ぼくを驚かせてくれるだろう。楽しみ。

二〇一八年七月二十五日 「笠井嗣夫さん」

きょうから塾の夏期講習。帰りに、きみやによって、帰って郵便受けを見たら、笠井嗣夫さんから『デュラスのいた風景』というデュラス論ともいうべき大著を送っていただいていた。デュラスはぼくも全作品集めて読んだくらい好きな作家だったので、送っていただいて、たいへんうれしい。きょうから読む。

いつの間にか政治色が強いツイートが増えてしまっていたので、お笑いの芸人さんたちをバカスカ、フォローした。すこし景色が変わってうれしい。もうすこしお笑い芸人さんたちをフォローしようと思う。

二〇一八年七月二十六日 「きみの名前は?」

読むつもりの本が多すぎて、筑摩書房の現代日本文學大系の第93巻の『現代詩集』ははずしておこうと思った。字が小さくて、漢字がちょっと画数が多いものだと拡大鏡を使わないと読めないからだ。参考文献用に置いておくことにした。タニス・リーの短篇集も途中だし。

またディックだけど、見つけた。「きみの名前は?」(フィリップ・K・ディック『出口はどこかへの入り口』浅倉久志訳、『悪夢機械』372ページ)

二〇一八年七月二十七日 「どくろ杯」

いま日知庵から帰った。2日前に日知庵で文学の、詩の話をディープにさせていただいた方が、金子光晴の自伝『どくろ杯』がおもしろかったですよと勧めてくださったので、帰ってからすぐに Amazon で買ったのだった。きょう到着したのだ。きょうから読むのだ。もうちょびっと読んだのだ。すごくいい。

ぼくはSFやファンタジーやミステリーやホラーも大好きだけど、というかマニアくらいに好きなんだけど、じつは自伝も大好きなのだった。それが金子光晴というのだから楽しみだ。きょう、タニス・リーの短篇集『悪魔の薔薇』のつづき、ちょこっと読んだ。約一か月前の読書のつづきから。まあまあかな。

二〇一八年七月二十八日 「3人の方」

これから髪の毛を刈って、日知庵に飲みに行く。

いま日知庵から帰ってきた。ポケットに、金曜日に日知庵に行ったときのメモが入っていて、3人の方のお名前が書かれてあった。深道省吾さん、細井啓生くん、栗田裕章さん。名前をおぼえるのが、ぼくの仕事だ。(いちおう、SNSに、お名前をあげる許可はとってます。)きんつば食べて麦茶飲んで寝よ。

二〇一八年七月二十九日 「タニス・リー」

タニス・リーの短篇集『悪魔の薔薇』を読み終わった。退屈な読書であった。読み終えるのに、一か月以上かかった。形容語が多くて、修飾語が多くて、読みづらかった。ときにファンタジーやホラーの多くは、このようなものになりがちだ。資質がそうさせるのか、ジャンルがそうさせるのかわからないが。

きょうから再読する奇想コレクションは、シオドア・スタージョンの『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』スタージョンは、ぼくの大好きなSF作家のひとりで、短篇では、コードウェイナー・スミスくらい好きなんだけど、ジェラルド・カーシュもいい短篇を書いてたなあ。いい作家っていっぱいいるな。

二〇一八年七月三十日 「断章」

煉瓦はひとりでは建物とはならない。
(E・T・ベル『数学をつくった人びと I』6、田中 勇・銀林 浩訳)

具体的な形はわれわれがつくりだすのだ
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』28、三田村 裕訳)

形と意味を与えられた苦しみ。
(サミュエル・R・ディレイニー『コロナ』酒井昭伸訳)

きみはこれになるか?
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)

二〇一八年七月三十一日 「断章」

自分自身のものではない記憶と感情 (…) から成る、めまいのするような渦巻き
(エドモンド・ハミルトン『太陽の炎』中村 融訳)

突然の認識
(テリー・ビッスン『英国航行中』中村 融訳)

それはほんの一瞬だった。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』3、友枝康子訳)

ばらばらな声が、ひとつにまとまり
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

すべての場所が一つになる
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)

すべてがひとときに起ること。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

それこそが永遠
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)


詩の日めくり 二〇一八年八月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年八月一日 「どくろ杯」

いま日知庵から帰った。帰りに、セブイレで、きんつばと、玄米茶を買った。寝るまえの読書は、なんにしようかな。きょうのお昼には、金子光晴の『どくろ杯』のつづきを読んでいた。日本の作家ではめずらしく付箋をした。キーツ詩集も中途だし、スタージョンの短篇集の再読もまだだし、本が多いと悩む。

二〇一八年八月二日 「年収200万円」

ぼくは、年収200万円くらいですが、自費出版はしていますよ。簡単にお金なんて溜まります。気力があれば。すでに自費出版に、1500万円くらい使いました。

二〇一八年八月三日 「金子光晴と草野心平」

お昼に金子光晴の『どくろ杯』のつづきを読んでいたのだが、草野心平のことが嫌いだったらしく、草野心平って、わりと詩人たちに嫌われていたのだなあと思った。西脇順三郎とも仲が悪かったんじゃなかったかな。

お昼から塾の夏期講習なんだけど、それまで時間があるから、金子光晴の『どくろ杯』のつづきを読もう。会話がほとんどなくて、字がびっしり詰まっているけど、読むのに苦労はしない。なによりも、おもしろいからだろうけれど。日本人の作家の作品で、こんなにおもしろいのは、大岡昇平の『野火』以来かな。

二〇一八年八月四日 「死の姉妹」

堀川五条のブックオフで、吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』を108円で買い直した。むかし読んだけど、だれかに譲ったみたいで、部屋の本棚にはない本だった。M・ジョン・ハリスンの作品が冒頭に置かれていたので、もう一度、買ったのだ。タイトルを見ても、一作も読んだ記憶にないものばかりだった。じっさい、冒頭のM・ジョン・ハリスンの作品「からっぽ」を読んでも記憶になかったものだった。また、再読したのだけど、M・ジョン・ハリスンの「からっぽ」は意味があまりわからない作品だった。長篇の『ライト』(国書刊行会)や『パステル都市』(サンリオSF文庫)はすばらしかったのだけれど。

日知庵の帰りに、きんつばと、麦茶を買ってきた。きょうは、これで終わりだな。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年八月五日 「うんこをもらしてしまった。」

日知庵からの帰り、阪急電車に乗るまえにきゅうにお腹が痛くなってトイレに入ったのだが、間に合わず、ちょっとうんこをもらしてしまった。うんこのついたパンツをクズかごにすてた。濡れたズボンのまま、帰りにセブイレで、きんつばと麦茶を買って帰った。笑。この時間ですけれど、いま洗濯しています。ズボンが濡れたのは、おしっこでだけだったのだけれどね。あーあ、57歳にして、駅のトイレで、おしっこを漏らすとは、笑。あと一秒はやく便座に坐れていたらよかったのだけれど。齢をとると、この、あと一秒というのが意外に多くなるのであった。年に一度は、うんこをもらすぼくであった。

二〇一八年八月六日 「小島きみ子さん」

小島きみ子さんから『エウメニデスIII』第56号を送っていただいた。よく名前の知られた詩人たちが12人もいらっしゃってて、なかのおひとり、杉中昌樹さんは、ご自分の詩とともに、小島きみ子さんの詩集『僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本』についての論考も書いてらっしゃる。最新の現代詩!

きみやで、ファッション・カメラマンのジョンさんを紹介される。ジョンさんからは、西院のジェラート屋さんのカフェラッテを紹介される。人間のつながりって、ほんとに不思議。寝るまえの読書は、きょう、小島きみ子さんにいただいた、『エウメニデスIII』第56号のつづき、海埜今日子さんの作品から。

二〇一八年八月七日 「クーラー全開」

クーラー全開にしたら、熱力学的に、よけい熱が生じると思うのだが。

二〇一八年八月八日 「厭な物語」

ちょっとまえに日知庵から帰ってきた。きょうは、帰りのセブイレで、108円の水もちと、108円の麦茶を買った。あしたは、お昼の1時から塾の夏期講習だから、もう寝る。きのうの寝るまえの読書で、吸血鬼のアンソロジー『死の姉妹』を読んでいたのだが、ああ、こういう視点があるのかと思った。

『エウメニデス III』第56号に収められている詩で、いちばん共感したのは、小笠原鳥類さんの作品「「夜についての詩論」詩論」だった。これまでは、ぼくには苦手な詩人だったのだが、この作品はとても読みやすい、わかりやすい作品だった。ユリイカの5月号に掲載されたぼくの詩に似てるとも思った。

いま再読したけれど、似ていないや。どこが似ていると思わせたのだろう。言葉をリフレインさせているところかな。でも、ぼくのは作品の一部だけリフレインさせているだけだからな。言葉の置き方だろうか。いや違うな。どこだろう。読んでるときのここちよさかな。こんな言葉くらいでしか表現できない。

ぼくには、詩がわからないというひとがわかりません。ただ自分の好みの詩に出合ったことがないだけなのでしょうけれど、また詩が芸術として、いかにすばらしいものか、いかにひとの人生を左右するものなのかということを知るひとが少ないということが、日本の国語という教科の問題でもあると思います。アメリカ人の同僚の先生に訊くと、アメリカでは、現代詩は教養として、当然教えられるものらしいです。ふつうの英語の先生ですが、エズラ・パウンドのことなども詳しく知っておられました。日本の教養人と呼ばれるひとたちは現代詩を読んでいるのでしょうか? むかしは読んでいたような気がしますが。

2時間くらいしか寝てない。もう寝られないや。午後一時から塾なんだけど、それまで吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』のつづきでも読もうかなとおもっている。むかし読んだけど、例のごとく、いっさい記憶にないのであった。

譲った本がまた欲しくなった。『厭な物語』というアンソロジーだ。ただ一作フラナリー・オコナーの作品が再読したかったからだが、このフラナリー・オコナーの全短篇集の上下巻も手放してしまったのであった。まあ、読み直したいのは、『厭な物語』に入っている「善人はなかなかいない」だけだけれど。

二〇一八年八月九日 「ソーリー。」

けさは6時すぎに起きた。隣人が大きな音でテレビをつけてて、その音で目が覚めたのだった。2時間くらいの睡眠だが、もう眠くない。お昼から夜の9時半まで仕事だから、もう起きたまま、これからマクドナルドに行って吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』のつづきを読む。

いま日知庵から帰ってきた。帰りに、河原町のストリートで、二十歳くらいの男の子がゴミ袋を友だちに向けて蹴ったのが、ぼくの右足の爪先にあたったので、その子が「ソーリー。」と言って握手を求めてきたのだけれど、ぼくは笑顔を向けて笑って通り過ぎるだけだった。白人によく間違えられるのだった。

日知庵に行くまえは、お昼から塾で夏期講習のお仕事をしていたのだけれど、塾に行くまえに、五条堀川のブックオフの108円のコーナーに、むかし読んで友人に譲った、文春文庫の、恐怖とエロスの物語IIの短篇集『筋肉男のハロウィーン』の背表紙を見て、なかをパラパラ見て買うことにして買い直した。

さいきん、手放した本の買い直しが多い。ブックオフのせいだ。

きょうは、塾の授業の合間に、吸血鬼のアンソロジー『死の姉妹』のつづきを3篇ほど読んでいたのだが、よかった。とくに、いま、あと数ページで読み終わるという、ジョージ・アレック・エフィンジャーの「マリードと血の臭跡」がよい。エフィンジャーの電脳シリーズ三作は手放してなくて、本棚にある。

二〇一八年八月十日 「コードウェイナー・スミス」

けさの5時くらいに寝たのに、6時過ぎに起こされた。隣人が窓を開けっぱなしにして、大音量でテレビを観だしたからだ。ぼくも洗濯をして対抗してやってる。きょうはお昼から塾の夏期講習だけど、お昼からだから、このまま二度寝せずに、起きて仕事に行くかもしれない。ちきしょう。なんつう隣人だ。

いまコードウェイナー・スミスの全短篇集の三巻本の第三部、さいごの短篇集が出ている。西院のブックファーストに買いに行く。全短篇集が出るまえのものもスミスの作品はすべて持っていて、いまも本棚にある。ひとに譲らなかったのだ。初訳の作品が4篇も入っているらしい。

売っていなかった。訊くと、そもそも入荷していなかったという。トールサイズの長篇の『ノーストリリア』や、全短篇集の第一巻や第二巻はあったのだけれど。売れなかったから、新しいのは入荷しなかったんだな。昼から夕方の塾の夏期講習が終わって、夜に日知庵に行くまえに、ジュンク堂で買おうっと。

いま、日知庵から帰った。行きしなに、ジュンク堂ではなくて、丸善で、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第3巻『三惑星の探究』を買った。1冊しか置いてなかった。

きょうも、せいいっぱい生きた。寝るまえの読書は、吸血鬼アンソロジーの『死の姉妹』のつづきを。ブックオフの108円コーナーは、バカにできないのだ。古本市場では、105円で、単行本の『エミリ・ディキンスン評伝』を手に入れたことがある。いまでも宝物だ。

ノブユキが自転車のカゴのなかから、ぼくのからだを持ち上げると、ぼくはシッポをプルンプルンと振り回した。ノブユキが、「かわいいな、おまえは。」と言ってくれたので、ぼくは4つに割れた唇をのばして、ノブユキの唇にチュッとキッスをした。ノブユキもそれにこたえてチュッとキッスをしてくれた。

二〇一八年八月十一日 「ケビン・シモンズさん」

ケビン・シモンズさんへ、ぼくの友人が出版をしていまして、Collective Brightness の全訳を出版したいと言っているのですが、ケビン・シモンズさんのメールアドレスを教えてもよいでしょうか?

いま日知庵から帰った。あしたも日知庵だけど、ぼくのアルバイトの時間は5時から。

二〇一八年八月十二日 「ジェイムズ・メリル」

ジェイムズ・メリルの「サンドーヴァーの光」三部作がおもしろかったですよ。とりわけ、第二部の『ミラベルの数の書』が、おもしろかったです。あと、英語で読まれるのでしたら、キングズリー・エイミスが編んだアンソロジー「LIGHT VERSE」(Oxford Paperbacks)が笑えるような詩を多く収めています。

いま、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』を読んでいるのだが、なつかしい言葉を見つけた。44ページの5行目の「(…)若さっていうのは、すぐ治る病気なんだ。ちがうかい?」(『宝石の惑星』4、伊藤典夫訳)読んだ記憶のない作品だ。解説を読むと、SFマガジンには訳されている。SFマガジンも、むかしはときどき読んでたから、そこでかな。一九九三年八月号らしい。読んでた時期かもしれない。全短篇集発行以前の本にはなかったと思う。きょうは、ここらでクスリをのもうかな。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年八月十三日 「コードウェイナー・スミス」

きょうも寝るまえの読書は、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』のつづきを。あしたは、夕方に塾。塾の帰りに、日知庵で飲む。そろそろ、つぎに出す詩論集と詩集の準備をしようと思うのだが、こう暑くては精神集中ができない。秋になって、涼しくなってから、と思っている。

コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』のつづきを読んでいるのだが、ところどころに出てくる人間への観察の行き届いたまなざしが、すてきに表現されている。付箋だらけだ。やはり読む価値のある作家だ。再読する短篇もあるだろうけれど、それもまた楽しみだ。なによりも忘れているからね。

二〇一八年八月十四日 「藤井晴美さんと倉石信乃さん」

いま日知庵から帰った。きょうは、塾のあと、帰りに日知庵に寄って、お酒をのんでいたのであった。帰ってきたら、郵便受けに、3冊の本が届いていた。2冊は、Amazon で、ぼくが買ったデュ・モーリアの短篇集『鳥』、もう一冊は文春文庫のホラーとエロスの短篇集『レベッカ・ポールソンのお告げ』だ。古書なのに、デュ・モーリアの短篇集『鳥』が新刊本のようにきれいなので、いま、ぼくの顔は満面の笑みだと思う。ヤケがまったくないのだ。390円だった。送料は257円だった。一方、そんなに傷んでいないけれど、ヤケのある『レベッカ・ポールソーンのお告げ』は51円で、送料が300円だった。あと1冊は、藤井晴美さんから、詩集『大顎』を送っていただいた。たいへん美しい装丁なので、どこからなのだろうと思って、見たら、七月堂からだった。さっそく読みはじめると、そこらじゅうに、ぼくの目をひく詩句があったのだった。

フランク・ハーバートの『砂丘の大聖堂』三部作や、『砂丘の子供たち』三部作、また、ポール・アンダースンの『百万年の船』三部作のように、3冊の表紙を合わせて、一枚の絵になるようなものが、むかしは、ハヤカワSF文庫から出ていたのであった。

ぼくの好きな表紙の本たちは、クリアファイルを細工して箱型にして閉じ込め、本棚の前部に飾れるようにしてあるのだ。ぼくの本棚は、ぼくの好きな本の好きな表紙でいっぱいなのだった。きょう寝るまえの読書は、きょう、送っていただいた藤井晴美さんの詩集『大顎』のつづきを。おやすみ、グッジョブ!

倉石信乃さんから、詩集『使い』を送っていただいた。倉石さんの詩は、もう30年近くむかし、ユリイカの投稿欄で毎月のように目にしていて、おもしろい書き方をされる方だなあと思っていた。1989年のころのことだと記憶している。詩集の奥付に「一九八九年 ユリイカの新人」と書いてあったが、それでは、ぼくの記憶と一年ずれる。ぼくが一九九一年のユリイカの新人に選ばれる一年前のことだから、一九九〇年の新人だと思うのだけれど、まあ、そんなことはいいか、倉石さんの詩集『使い』を読んでいるあいだ、つねにガートルード・スタインの文体を思い出していた。対句的なフレーズの反復とずれの手法が似ていると思ったのだった。倉石さんの実生活がどのようなものであるのかは、この詩集『使い』からは、いっさいわからない。というか、じつは、何を書いてらっしゃるのかもわからないのだが、魅力的なフレーズが随所に出てくるので、読んでいて、ハラハラさせられ通しだったのである。とりわけ、つぎの箇所に、こころひかれた。9ページの4〜7行目、34ページの4行目、63ページのうしろから2行目、71ページの4行目、89ページの3〜5行目、94ページの10行目、96ページの5行目、101ページのうしろから1行目〜102ページ2行目まで、106ページの3、4行目。以上の文章は、クリアファイルのなかにあった、きょう、ふと見つけたメモから書き起こしたものである。もしかしたら、以前にも、倉石信乃さんの詩集『使い』について書いたかもしれない。だとしたら、ごめんなさい。

藤井晴美さんの詩集『大顎』(七月堂)怪物的なおもしろさだった。部分引用をしようと思ったのだけれど、後半部にいたり、全文引用しなければならなくなってしまうほどのおもしろさだったのだ。藤井さん、男性かもしれず。そのような記述もあるのだが、現代のロートレアモン伯爵といった印象を受けた。いずれなんらかの賞を受賞されるだろう。完璧な出来だと思われる。すばらしい詩集である。橘 上さんと同様に、詩壇で重きを置かれる立場になられるだろう。それとも、すでに有名な方で、ぼくが知らなかっただけなのかもしれない。この詩集は確実に最高の評価をされるだろう。後半部分は全文引用しなければならないほど完璧な出来だったので引用しない。前半部分もすばらしい出来だったのだが、まだ部分引用できる気配があったので、詩集の前半部分から、ぼくが感銘を受けた場所を引用してみよう。8ページ「あなたの外部とは、ぼくより軽い、しかも同心の過去なんだ。だから外部さ。」13ページ「神は神ができないこともする。」15ページ「住宅地をゆっくりと、立ち止まりながら犬の散歩をさせる宇宙人あるいは武士または泥棒ではないかもしれない猿のように、原因のない世界が広がっているとしたら、ぼくは法外な電波に煽られて。うずくまる扇風機のような男だった。」同じく15ページ「何もないところから泥仕合の場に持ってきた。ぼくは生まれたのだ。植物として。背中に。」22ページ「こちらも重労働ではなかった。軽いんだよ。量子的私。それでもたどたどしいんだよ。」32ページ「呼び止められて思わぬ濡れ衣を着せられる。はがれていく場面のつぎはぎ。」後半部および前半部のいくつもの詩は、部分引用ができない。完璧な詩句がつづくからだ。数年まえに、橘 上さんというすばらしい詩人を知ったのだが、また新たにものすごくすごい詩人に出合うことができて、うれしい。よくぞ、ぼくのような無名の詩人にご傑作を送っていただいたものだ。実に光栄に思う。

二〇一八年八月十五日 「藤井晴美さん」

クスリのんだ。寝るまえの読書は、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第3巻『三惑星の探究』のつづきを。おやすみ、グッジョブ!

めっちゃすばらしい詩集『大顎』(七月堂)を出された藤井晴美さんのお名前をグーグルで検索したら、たくさんの詩集が出てきた。ベテランの方だったんですね。ぼくが世間知らず、いや、詩壇知らずでした。

二〇一八年八月十六日 「大谷良太くん」

いま日知庵から帰ってきた。大谷良太くんと、ばったりあった。寝るまえの読書は、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第3巻『三惑星の探究』のつづきを。

二〇一八年八月十七日 「太陽パンツ」

いま日知庵から帰ってきた。あしたは、月に一度の、神経科医院に。処方箋だけだから、電話で予約すればよいだけ。クスリがなくなった。これからのむ分で終わり。もう少しきついクスリをとも思うが、クスリをかえて、異変が起こったら怖いし、同じクスリを処方してもらおう。寝るまえの読書は、スミス。

日知庵からの帰り道、河原町通りを歩いていると、男女のカップルの男の子のほうが「太陽パンツが……」という言葉を口にしたのを、ぼくの耳がキャッチした。いまグーグルで検索したら、出てきた。ちょっと、ふんどしテイストのある男性用下着のことだったんだね。まるで詩語のような響きのある言葉だ。

二〇一八年八月十八日 「コードウェイナー・スミス」

いま起きて、病院に電話した。病院に行くまで、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』のつづきを読もう。今で、半分くらい。

二〇一八年八月十九日 「翻訳プロジェクト」

2、30分まえに、日知庵から帰ってきた。イレギュラーで、あしたも日知庵でアルバイト。がんばろう。あした昼間に時間があったら、西院で岩波文庫から出てるロバート・フロストの詩集を買おう。フロストの訳は、いくつか持っているんだけど、かぶらないものもあるだろうからって、期待は大きいのだ。

大がかりな翻訳プロジェクトが始動しそうだ。ぼくも翻訳家として参加する。というか、ぼくと、ある詩人の方とで翻訳するので、共同訳ということになる。数年はかかると思うけれど、がんばろう。また英語づけの日々がやってくると思うと、ちょっと、へた〜ってなるけれど、笑。翻訳って、しんどいしね。

二〇一八年八月二十日 「対訳 フロスト詩集」

西院のブックファーストに行ったら、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』がなかった。これから河原町のジュンク堂に行って買ってくる。

河原町のジュンク堂で、『対訳 フロスト詩集』(岩波文庫)を買ってきた。840円ちょっと。ポイントを使ったので、正確にわからず。名作と呼ばれるものは、だいたい入っているようだ。ぼくも訳したことのある2つの詩、「After Apple-Picking」と「Birches」も入っていたが、ぼくの訳のほうがよい。この詩集は、岩波文庫の対訳詩集にありがちな直訳である。やはり、詩人的な気質をもった翻訳者か、詩人が翻訳者でないと、詩としては、訳が不満足なものになるのだろう。「After Apple-Picking」なんて、どう読んでも、それはあかんやろうという訳出部分があった。と、こう他人を批判したのだから、ぼくが翻訳するときには、神経を研ぎ澄ませて翻訳に取りかかろう。

きのう、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』を読み終わったので、これから岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読む。そのまえに、吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』とスミスの『三惑星の探究』のルーズリーフ作業をしようっと。夕方から日知庵でアルバイトだから、その時間まで作業かも。

吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』と、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』のルーズリーフ作業が終わった。30分くらい時間があるので、麦茶でも飲みながら、きょうジュンク堂で買った岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』の序文でも読もうかな。この分、翻訳に回せと思う。9ページもある。

さきほど日知庵から帰った。帰り道、虎とか鹿とかのコスチュームを着た外国人がカラオケ屋のまえで、おどけてた。日本の、京都の繁華街である、河原町通りでのことである。国際色は豊かだが、なんだか下品に感じた。京都は静かな方が似合っているような気がするのだった。ぼくの偏見かな〜。どうだろ。

きょうから寝るまえの読書は、デュ・モーリアの短篇集『鳥』である。創元推理文庫の評判のよい短篇集なので、ひじょうに楽しみ。

ジャンプ台から本のなかに跳び込む。行と行のあいだを泳ぐ。ページの端に行き着くとターンして、つぎの行間に身をひるがえさせる。そうして、ページのなかをスイスイと泳ぎ渡って行く。なにが書かれているのかは、水が教えてくれる。言葉を浮かべているページのなかの水だ。水がほんとうは言葉なのだ。

二〇一八年八月二十一日 「デュ・モーリア」

創元推理文庫のデュ・モーリアの短篇集『鳥』の冒頭の「恋人」がとてもおもしろかったので、西院に行き、ブックファーストで、デュ・モーリアの短篇集『人形』を買ってきた。新刊本はやっぱりいいな。とてもきれい。『鳥』は古書で買ったけれど、新刊本のようにきれいだった。きれいな本は大好き。で、デュ・モーリアの短篇集をそろえたいと思ったので、きょうブックファーストには置いてなかったデュ・モーリアの短篇集『いま見てはいけない』を予約した。近くのブックファーストに置いてあるのでってことで、22日には届くそう。これもまた楽しみ。

ブックファーストの文春文庫のコーナーに、以前、持ってた短篇集『厭な物語』が置いてあったので、ついでに買った。友人に譲ったのだけれど、収録されている、フラナリー・オコナーの「善人はそういない」が再読したかったからだ。きょうは、財布のひもがゆるかったみたいだ。こころがゆるかったのか。西院のブックファーストはビルの2階にあって、その一階に、ぼくがよく行くブレッズプラスがある。そこでチーズハムサンドイッチとアイスダージリンティーを注文して食べた。50円引きの券付きのチラシをもらったのだけれど、喫茶コーナーのことをイートインスペースって言うんだね、はじめて知った。

帰りに、セブイレで、きんつばを買ってきたので、おやつにこれを食べてから、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読む。翻訳が直訳なので、どうしても批判的に見てしまうぼくがいる。ぼくって、意地が悪いのかな。うううん。ぼく自身が英詩の翻訳をやってなければ、そうでもなかったかもしれないなあ。

岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読んでいるのだけれど、いま半分くらいのとこ、「After Apple-Picking」の訳のとこで、この訳の一部分に不満だったのだけれど、それまでのところの訳はよかった。二度ほど眠気に催されたが、それはロバート・フロストの原作のせいだし、時代のせいだとも思われる。

スーパーで、そうめんを買って、そばつゆを買ってきて、食べよう。そうめんは、水でときほぐすだけのものがよい。もう十年くらい、調理をしていないので、包丁もさわれない。湯を沸かすのも面倒だ。文学では面倒な作品をつくったり、面倒な翻訳はするのだけれど。それでは、スーパーに行ってきま〜す。

そとに出たら歩いてみたくなって、西大路四条のあがったところにある「天下一品」に入って、チャーハン定食880円を食べて、また歩いて帰った。はじめは近所のスーパー「ライフ」に行くつもりだったのだけれど。気まぐれなのである。さて、これからまた、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読もう。

寝っころがって、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読んでいるのだが、右の肩甲骨のあたりに小さな火山ほどの大きさのできものができて、それがつぶれて、着ているものが汚れるうえに、痛くて痛くてたまらないのだけども、これも神さまが、ぼくに与えてくださった試練のひとつかもしれないとも思う。

ぼくも楽天のブログにフロストの詩を翻訳しているけれど、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』の翻訳者の川本皓嗣さんは「Berches」に出てくる ice-storms の訳語を「凍る雨嵐」とされて「アイス・ストーム」というルビを振ってらっしゃるのだけれど、「雪嵐」という訳語のほうが適切ではないだろうか。

なぜ、その訳語に、ぼくがこだわるかというと、ぼく自身が、その訳語に悩んだからだ。親しい先生に相談したら、ice-storms の訳語はありますよ。「雪嵐」ですよと教えてくれたのだった。

いま、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読み終わった。読んだことがあるなと思った詩がいくつもあったが、それはぼくが、つぎに紹介する、ぼくのブログに訳したものだった。それにしても、この「対訳 フロスト詩集」に収められた「Fire and Ice」 の訳はへたくそだった。

https://plaza.rakuten.co.jp/tanayann/diary/201703300000/

いちじくの絵を見て、いちじくが食べたくなった。

二〇一八年八月二十二日 「柴田 望さん」

さっき日知庵から帰ってきた。シャワーを浴び、横になって、デュ・モーリアの短篇集『鳥』のつづきを読んで寝よう。いま、タイトル作品を読んでいるところ。デュ・モーリアは、P・D・ジェイムズばりに描写力が圧倒的で、なおかつ、P・D・ジェイムズほど読むのが苦痛ではない、すばらしい作家である。

ありゃ、ま。デュ・モーリアの作品、すでに読んでたことがわかった。早川書房の異色作家短篇集・第10巻の『破局』である。ことし読み直したシリーズなんだけど、記憶にまったくない。なにが入っていたのかの記憶もない。なにを読んだのかの記憶がまったくない。なんという忘却力。57歳。ジジイだ。

柴田 望さんから、詩誌『フラジャイル』第3号を送っていただいた。柴田 望さんはじめ、10名の方が詩を書いてらっしゃる。吉増剛造さんの詩集『火ノ刺繍』の特集というか、詩集評と、これは、ぼくが漢字が読めないのだが、なんとか談が掲載されている。IPパッドで調べても出てこない漢字だった。

たしか、「けん」と読む漢字だったと思うのだけれど、それでは出てこなかった。ところで、いま、デュ・モーリアの短篇集『鳥』を読んでたところなのだが、さきに、きょう柴田 望さんに送っていただいた詩誌『フラジャイル』第3号を読もう。最新の現代詩が読めるのかと思うと、こころドキドキである。

二〇一八年八月二十三日 「デュ・モーリア」

いま、西院のブックファーストで、注文していたデュ・モーリアの短篇集『いま見てはいけない』を買ってきた。帰りに、ブレッズプラスで、チーズハムサンドイッチとアイスダージリンティーをいただいた。帰りに、セブイレで、きんつばと、麦茶を買った。ああ、なんて単調な生活なこと。きょうは休みだ。

デュ・モーリアの『いま見てはいけない』の表紙をよく見ると、折れて曲がっていた。キーっとなった。もう二度とブックファーストで新刊本を買わないぞと思った。めちゃくちゃ、腹が立つ。ほんとうに、本は、表紙が命なんだぞと思う。うう、ほんとに腹が立つ

いまさっき、日知庵から帰ってきた。きょうは、お客さまに、「ツボ専」という言葉を教わった。「オケ専」という言葉は、棺桶に片足を突っ込んだようなジジイを好む若者のことで、ぼくも目の当たりにしたことがあるのだけれど、「骨壺」に入ったようなジジイを好む若者がいるらしい。90歳越えだよね。

柴田 望さんから送っていただいた詩誌『フラジャイル』第3号を読ませていただいた。林 高辞さんの「詩集だけが残った」がおもしろかった。ぼくも、トイレをしているときや、湯舟に浸かりながら、本とか詩集とかを読むので、トイレをして、うんこを出してるときに、重要なところを読んでることがある。

きょうも寝るまえの読書は、デュ・モーリアの短篇集『鳥』のつづきを。いま200ページだけど、537ページまであるから、5分の2である。デュ・モーリア、優れた描写力だ。イギリスの女性作家、たとえば、P・D・ジェイムズ、アンナ・カヴァン、ヴァージニア・ウルフのようによい作家たちが多い。

二〇一八年八月二十四日 「デュ・モーリア」

デュ・モーリアの短篇集『鳥』を読んでて思ったのだけれど、ぼくって、なにかを食べているかのように、本を味わって読んでいるような気がする。デュ・モーリアの翻訳がいいというのもあるだろう。まことにおいしい食べ物を食べているような気がする。読書において、ぼくはグルメだろうか。どうだろう。

徹夜で、いままで、デュ・モーリアの短篇集『鳥』を読んでた。読み終わった。おもしろかった。ひきつづいて、デュ・モーリアの短篇集『人形』を読む。

不覚にも眠ってしまった。4時間弱。いまから日知庵に飲みに行く。デュ・モーリアの短篇集『人形』の読書は日知庵から帰ってからにする。

二〇一八年八月二十五日 「和田まさ子さん」

和田まさ子さんから、詩集『軸足をずらす』(思潮社)を送っていただいた。第2篇目に収められている「突入する」のなかの詩句に「それだけの理由で脱げすにいるバンプス」という詩句があったのだが、これは、「脱げずにいるバンプス」のまちがいだろう。作者の過ちとともに、編集者の劣化をも感じる。自分の詩句をよく見直しもせずにいる詩人の詩集など、もう読む気は失せたので、デュ・モーリアの短篇集『人形』のつづきを読みながら、床に就こう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年八月二十六日 「野田順子さん」

野田順子さんから、詩集『ただし、物体の大きさは無視できるものとする』を送っていただいた。詩句の運びは、ぼく好みのなめらかさがあって、詩句も何の抵抗もなく、するすると飲み込めるものだった。詩自体のアイデアは学校ネタがほとんどで、ああ、こういうところに目をつけられたのだなと感心した。せっかく送っていただいたのだから、さいごまで読まなくては申し訳がないと思って、和田まさ子さんの詩集『軸足をずらす』をさいごまで読ませていただいた。うまい。すばらしい詩句の展開。見事な詩集だ。たいへんな技巧家だと思った。それだけに、18ページの「脱げすにいる」の誤植が惜しい。

デュ・モーリアの傑作集『人形』を読んでいるのだが、作者の初期の短篇集らしい。叙述も、短篇集『鳥』(創元推理文庫)に比べると、ベテラン作家の初期の作品なんだなと思ってしまう。ちょっと休憩して、また読もう。

なんとも言えない陳腐なタイトルと、下品な表紙絵に魅かれて、五条堀川のブックオフで、16作品収録の短篇集『ラブストーリー、アメリカン』(新潮文庫・柳瀬尚紀訳)108円を買った。キャシー・アッカーマンが入ってなかったら買わなかっただろう。でも、見知らぬよい作家に遭遇するかもしれない。

いま日知庵から帰った。きょうも、お酒と、これから読むデュ・モーリアのすてきな短篇集『人形』で一日が終わる。文学、あってよかった芸術分野だな。ぼくは不器用だから楽器もへただったし、絵もへただったし、詩以外にできることなんて、ひとつもない。その詩も、ぼくが無名のせいで、しゅんとしてる。

二〇一八年八月二十七日 「弟」

うとうとして昼寝をしてしまった。弟の夢を見ていた。弟がかわいらしい子どものときの夢だ。大人になって、発狂して、精神病になってしまって、顔も醜くなってしまったけれど、子どものときは天使のようにかわいらしかったのだ。父と母が甘やかして育てたせいである。ぼくは父母を憎む。もう死んだけれど。

きょうは、うとうとしながら、ずっと、デュ・モーリアの傑作集『人形』のつづきを読んでた。寝るまえの読書もつづきを。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年八月二十八日 「「笠貝」または「あおがい」」

さいきん、お昼ご飯は、イオンのフードコートで、冷たいうどんと、鶏ご飯とのセットを食べている。590円なので、手ごろな価格で、おなかがいっぱいになる。

ケンタッキー・フライド・チキンに行った。680円のセットメニューを食べた。ドリンクはコーラ。糖尿病にとっては毒物である。まあ、うどん屋に行列ができてて、並ぶのが嫌で、だれも並んでいないところに行っただけなのだが。

いま、デュ・モーリアの傑作集『人形』のさいごに収録されている「笠貝」を読んでいるのだが、読んだことのあるような記憶がある。似た設定の小説を読んだのかもしれないけれど。きょうは日知庵にアルバイトだ。行くまでの時間に読み切れると思う。300ページちょっとの本にけっこう時間をとられた。

デュ・モーリアの傑作集『人形』を読み終わった。さいごに収録されてあった「笠貝」は、やはり、以前に読んだものだった。ネットで、なにで読んだのか調べたけれど、傑作集『人形』にしか収められていないようだったので、不思議だ。たしかに以前に読んだ作品だった。もう少し調べてみるかな。

ネットで調べても、ぼくの本棚にある、岩波文庫の『20世紀イギリス短篇集』上下巻、エラリー・クイーン編『犯罪文学傑作選』を見ても、デュ・モーリアの「笠貝」は目次になかった。おかしい。たしかに読んだはずなのに。日知庵に行くまでの時間、さらに調べてみよう。

原題の「The Limpet」で検索した。早川書房の異色作家短篇集の第10巻、ダフネ・デュ・モーリアの短篇集『破局』のさいごに収録されていた、邦題「あおがい」が、そうだった。まったく異なる邦題なので、すぐに探せなかったのである。読んだことがあると思った通りだった。これでひとまず、ひと安心。

肝心の作品「笠貝」または「あおがい」という邦題の短篇だが、サマセット・モームの作品にも似た、にやにやと読んでる途中でも笑けるブラック・ユーモアに満ちたもので、人間のもついやらしさというかあさましさを表していた。

もちろん、こんなにこだわったのは、傑作だと思ったからである。

二〇一八年八月二十九日 「カレッジ・クラウン英和辞典」

ぼくのもっとも信頼している英和辞典、カレッジ・クラウン英和辞典で、limpet を引くと、アオガイ・アミガイの類(海岸の岩石や棒ぐいなどに付着している小さな編みがき状の貝がらを持った節足動物;肉は魚釣のえさになったり中には食用になるものもある)語源は古代英語のlempedu, lamprey とあった。

きょうから寝るまえの読書は、デュ・モーリアの短篇集『いま見てはいけない』だ。西院のブックファーストで買ったのだけれど、部屋に帰ってよく見たら、表紙が曲がっていて、キーって精神状態がもろに悪くなったシロモノだ。交換しろと迫ってもよかったのだけれど、レシートを捨ててたからあきらめた。


そこにも、ここにも、田中がいる。
豊のなかにも、田中がいる。
理のなかにも、田中がいる。
囀りのなかにも、田中がいる。
種のなかにも、田中がいる。
束縛のなかにも、田中がいる。
お重のなかにも、田中がいる。
東のなかにも、田中がいる。
光輪のなかにも、田中がいる。
軸のなかにも、田中がいる。
竹輪のなかにも、田中がいる。
甲虫のなかにも、田中がいる。
横軸のなかにも、田中がいる。 
触のなかにも、田中がいる。


きょう、大谷良太くんと会って、collective BRIGHTNESS の全訳の話をした。ぼくと、もうひとりの詩人との共同の大掛かりな翻訳になるのだけれど、ぼくが訳す詩があと40篇くらいあって、1年から2年はかかると思う。翻訳作業に入ったら、通勤時も寝るまえも翻訳のことで、頭がいっぱいになるだろう。

もう、アメリカの出版社と編集者の許可は取り付けてある。残っているのは、翻訳の実行と日本語全訳の詩集の出版だけである。

出版社は、書肆ブン。

二〇一八年八月三十日 「デュ・モーリア」

デュ・モーリアの傑作集『いま見てはいけない』を読んでたら、おもしろくて眠れず。うううん。おもしろいのにも、ほどがあると思う。眠れなくさせるのは、完全な行き過ぎ。いま2篇目の小説だけど。(5篇収録の短篇集)デュ・モーリアの短篇集『鳥』も、けっきょく、徹夜するくらい、すごくおもしろかったものね。

二〇一八年八月三十一日 「きみの名前は?」

きょうは、夕方からイレギュラーの塾だ。塾が終わったら、日知庵に飲みに行く。塾に行くまで、デュ・モーリアの傑作集『いま見てはいけない』のつづきを読んでいよう。字が詰まっている。読みにくい。ブランチを、西院のブレッズプラスで食べよう。ハムチーズサンドイッチとアイスダージリンティーだ。

ブレッズプラスで、食事後、デュ・モーリアの傑作集『いま見てはいけない』の三作目「ボーダーライン」を読んでいると、ひきつづき捜しつづけていた詩句「きみの名前は?」(ダフネ・デュ・モーリア『ボーダーライン』務台夏子訳、203ページ)と遭遇した。さっそく「HELLO IT'S ME。」に加えよう。


詩の日めくり 二〇一八年九月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年九月一日 「葉山美玖さん」

葉山美玖さんから、小説『籠の鳥 JAILBIRD』を送っていただいた。クリニックに通う女の子の成長物語だ。会話部分が多くて、さいきん余白の少ない目詰まりの小説ばかりを読みつづけているぼくにとっては、読みやすい。ぼくなら、平仮名にするかなと思う個所が漢字であるほかは、ほんとうに読みやすい。

二〇一八年九月二日 「キーツ詩集」

デュ・モーリアの傑作集『いま見てはいけない』を早朝に読み終わった。デュ・モーリアの傑作集『人形』より長めの短篇が入っていたのだが、とくにさいごに収められた短篇などは、『人形』の作品と違って、あいまいな印象をうけた。だが、読んでるときは、どれもおもしろく感じられてよかった。佳作かな。

きょうは、いちにちじゅう、岩波文庫の『キーツ詩集』を読もうかなと思っている。たいくつな読書になると思うのだが、あしたから学校だ。退屈な読書を、できれば、きょうじゅうに終わりたい。どうしてキーツがイギリスでは大詩人なのか、ぼくにはまったくわからない。もしかしたら、きょうわかるかな。

岩波文庫の『キーツ詩集』 長篇詩の物語詩「レイミア」と「イザベラ、またはバジルの鉢」を読んだ。もとネタのある詩で、へえ、もとネタの伝承や小説をそのままを詩にしただけやんか、と思った。こういう詩もあるねんね。そういうと、ポープもそんな神話劇のような詩を書いてたなと思い出された。いつぞやとは違って、きょうは、岩波文庫の『キーツ詩集』すーっと読める。いまから西院のブレッズプラスで、サンドイッチとアイスダージリンティーを食べに行く。で、そのままブレッズプラスで、残りの部分を読み終えてしまおう。体調がいいのかな。詩句がするすると入ってくるのだ。

ちょっとまえに、西院のブレッズプラスから帰ってきた。岩波文庫の『キーツ詩集』を読み終わった。これから、ルーズリーフに書き写す作業に入る。夕方までに終えられたら、日知庵に飲みに行こうって思っている。あしたから学校なので、はやい時間に帰ると思うけれど。というか、帰らなくちゃいけない。

ルーズリーフ作業が終わった。ブレッズプラスで、ふと思い出したように思って、キーツの詩句と、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの作品のタイトルとの関係についてメモしたけど、部屋に戻って調べたら、関係がないことがわかり、ルーズリーフには記載せず。似ている個所が僅かだった。健忘症だね。

いや、やはり関係があった。いま、さっきとは違うティプトリーの短篇集を手にしてタイトルを見たら、「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」(伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫『故郷から10000光年』所収)とあって、キーツの詩には「そして目が覚め、気づくとここにいた。/寒い丘の中腹に。」(『非情の美女(ラ・ベル・ダーム・サン・メルシ)』11、中村健二訳)とあった。

いま、日知庵から帰ってきた。きょうから寝るまえの読書は、この下品な表紙の『ラブストーリー・アメリカン』(新潮文庫・柳瀬尚紀訳)である。ひじょうに楽しみ。きっと、人間がどこまで薄情で下品かってことが書いてあるような気がする。先入観だけどね、笑。この表紙を見ると、そう思えてくるのだ。

二〇一八年九月三日 「ラブストーリー、アメリカン」

短篇集『ラブストーリー、アメリカン』、やっぱり、へんな短篇集みたい。冒頭の作品から、いきなり、妹のバービー人形とセックスするお兄ちゃんのお話だ。キャシー・アッカーマンが入ってたので買ったのだが、これは期待していい短篇集のような気がする。大げさすぎるところが、アメリカンって感じだ。

二〇一八年九月四日 「断章」

一たびなされたことは永遠に消え去ることはない。
(エミリ・ブロンテ『ゴールダインの牢獄の洞窟にあってA・G・Aに寄せる』松村達雄訳)

過去はただ単にたちまち消えてゆくわけではないどころか、いつまでもその場に残っているものだ。
(プルースト『失われた時を求めて』ゲルマントの方・II・第二章、鈴木道彦訳)

いちど気がつくと、なぜ今まで見逃していたのか、ふしぎでならない。
(ドナルド・モフィット『第二創世記』第二部・7、小野田和子訳)

一度見つけた場所には、いつでも行けるのだった。
(ジェイムズ・ホワイト『クリスマスの反乱』吉田誠一訳)

瞬間は永遠に繰り返す。
(イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)

二〇一八年九月五日 「ラブストーリー、アメリカン」

新潮文庫の『ラブストーリー、アメリカン』2番目の短篇は、レズビアンのお話で尻切れトンボみたいな終わり方をするものだった。3番目の短篇は男に執着する女で、男にできた新しい女に嫉妬して喧嘩して目をえぐられる話だった。

いま、短篇集『ラブストーリー、アメリカン』に収録されている4篇目のデイヴィッド・フォスター・ウォーレスの「『ユリシーズ』の日の前日の恋」という作品を一文字も抜かさず読んでいるのだが、さっぱりわからず。まあ、意味のわからないものも、ときには読んでみる必要があるとは思っているのだが。

いま、塾から帰ってきた。塾が移転して、ちょっと遠くなったのだ。塾の空き時間に、短篇集『ラブストーリー、アメリカン』のつづきを読んでたのだけれど、5篇目にして、ようやくふつうの恋愛小説になった。つぎに6篇目はめっちゃ差別的な作品で、そのつぎに、またふつうの恋愛小説になっているようだ。

二〇一八年九月六日 「詩を書くきっかけ」

既知の事柄と既知の事柄の引用によって、未知の事柄に到達することがあるということがあるのですが、このことは、まだ、だれも気がついてないようです。もともと未知なるものの記述も既知なる事柄の組み合わせによって成立するものなのだと思っています。あたりまえと言えば、あたりまえのことであるかもしれませんが。科学の発見でさえ、近いものを感じます。

わかっていることがわからないことと、わかっていないことがわかっていることとは、まったくちがうことである。わかっていることがわかっていることと、わかっていないことがわかっていないことも、まったくちがうことである。

内藤すみれさんが、いつも的確に表現なさるのに驚いています。詩は書けるのですが、ぼくにはまっとうな文章が書けません。20代はじめ、さいしょは小説家を目指していたのですが、小説は書くのだけでも一作に数年かかることがわかり、また、ぼくの書くものは詩だという友人の忠告に従い、やめました。もう少し正確に書きますなら、ぼくの原稿を見た友人が、ぼくの手を引っ張るようにして書店に連れて行き、ユリイカの投稿欄を開いて、「ここに投稿しろ。」と言ったのがきっかけで、詩を書くことにしたのでした。そのときには、ぼくはもう27、8歳になっていました。もう30年もむかしのことです。その友人自身は小説を書いていました。いま舞台関係の仕事をしています。彼が年上でした。憎たらしい言い方で、小説の書き方を指南されましたが、いまでは感謝しています。「見たものを書け。おまえが喫茶店と書いたなら室内の様子をすべて把握してなければならない。」などと、いろいろ言われました。「「すべて」という言葉を使うなら、即座に、百や千の例をあげられなければならない。」などとも言われました。ためになることを、いっぱい教えてもらいました。ごくごく一時的な恋人でした。東京に行き、文学座の研究所に入りました。そのあと舞台関係の仕事をしています。遠いむかしの思い出です。

二〇一八年九月七日 「ふつうのサラリーマン」

これから塾。水曜日の振り替え。連日の仕事はきついな。身体が慣れていない。ふつうのサラリーマンだったら、若いときに、即、やめていただろうな。

二〇一八年九月八日 「ラブストーリー、アメリカン」

大雨の警報のせいで、学校の授業がなくなったので、短篇集『ラブストーリー、アメリカン』のつづきを読んでいる。あと4篇くらいで、読み終わる。少年愛の中年女性の話や、ゲイの話や、性奴隷志願者の女性の話などがつづいて、まっとうな恋愛ものはほとんどない。でも、ルーズリーフ作業はできそうだ。

短篇集『ラブストーリー、アメリカン』を読み終わった。ふつうの恋愛小説は皆無だった。ふつうの、というのは、白人同士の同年代同士のストレートのカップルの健康的な恋愛話は、という意味。老人同士の狂った恋愛話がさいごの短篇。これから、これをルーズリーフ作業する。ルーズリーフのネタは多い。

短篇集『ラブストーリー、アメリカン』のルーズリーフ作業が終わった。1ページに収まった。きょうから読むのは、再読になるが、先日、Amazon で買った、恐怖とエロスのアンソロジー『レベッカ・ポールソンのお告げ』である。13篇の物語が入っているのだが、例によって、ひとつも記憶にない物語ばかりだ。

二〇一八年九月九日 「断章」

やれやれ、何ぢやいこの気違ひは!
(ヴィリエ・ド・リラダン『ハルリドンヒル博士の英雄的行為』齋藤磯雄訳)

やっぱり芸術は、それを作り出す芸術家に対してしか意味がないんだなあ
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』8、井上一夫訳)

でも、
(ポール・アンダースン『生贄(いけにえ)の王』吉田誠一訳)

詩のために身を滅ぼしてしまうなんて名誉だよ。
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第四章、西村孝次訳)

そんなことは少しも新しいことじゃないよ
(スタニスワフ・レム『砂漠の惑星』6、飯田規和訳)

人生をむだにややこしくして
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』34、安原和見訳)

ばかばかしい。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』13、宇佐川晶子訳)

二〇一八年九月十日 「いときん」

きょうは、大雨警報が出てて、学校が休校だった。ぐったり疲れていて、いままで寝てた。体力がなくなってる。夏バテかな。

ちょっと寒くなってきた感じがする。窓を閉めようか思案中。頭がぼうっとして、きょうは読書もはかどらない。あくびばかりが出る。齢かな。あと3カ月で58歳になる。

いときん、亡くなってたんやね、残念。

二〇一八年九月十一日 「松川紀代さん」

松川紀代さんから、詩集『夢の端っこ』を送っていただいた。言葉の置き方がとても落ち着いた詩句が書かれてある。書き手の実生活感がある詩句が書かれてある。読み手に読みの困難さを要求する詩句はいっさいない。やわらかい、ここちよい詩句。読ませていただいて、こちらのこころも落ち着く気がした。表紙がまたおもしろい。というか、たいへんにていねいなつくりなのである。文字の部分が貼り絵になっているのである。びっくりした。こんなに手間暇をかけてある詩集に出くわしたのは、はじめてである。落ち着いた詩句にもぴったり合う。書き手のこだわり、性格なのであろう。誠実な方を思い浮かべる。

二〇一八年九月十二日 「レベッカ・ポールソンのお告げ」

アンソロジー『レベッカ・ポールソンのお告げ』を半分くらい読んだ。読んだ尻から、もうほとんど忘れている、笑。きょうは、夕方に塾があるので、それまでに、これから残りの半分を読み切りたい。がんばるぞ。翻訳は来週からする。これを含めて、あと3冊、アンソロジーを読んだら、翻訳にとりかかる。

アンソロジー『レベッカ・ポールソンのお告げ』を読み終わった。強く印象に残ったのは、冒頭のタイトル作品と、さいごに収録されていた作品くらいで、トマス・M・ディッシュは大好きな作家だが、収録作品は並だった。きょうは、これから、夕方に塾に行くまで、金子光晴の『どくろ杯』のつづきを読む。

ちなみに、トマス・M・ディッシュはコンプリートに集めた作家で、去年、書籍の半分を友人に譲ったときにも、一冊も手放さなかった作家である。『歌の翼に』『M・D』『ビジネスマン』『334』『人類皆殺し』『キャンプ・コンセントレーション』『プリズナー』は傑作である。なかでも『歌の翼に』は群を抜いて傑作である。『ビジネスマン』も群を抜いている。

二〇一八年九月十三日 「茂木和弘さん」

茂木和弘さんから、詩集『いわゆる像は縁側にはいない』を送っていただいた。一行一行の詩句が短く簡潔で、かなりレトリカルな展開をしていくのに読みやすくて、読んでて新鮮だった。簡潔でレトリカルというのは、新鮮な驚きを感じさせられた。詩を読んでいて、潔いといった言葉がふと浮かんだ。

二〇一八年九月十四日 「どくろ杯」

金子光晴の『どくろ杯』を読み終わった。徹夜した。読みにくかったけれど、字が詰まりきりで、会話部分がほんのわずかしかなく、ぜんぶといってよかったほどほとんど字詰まりだった。でも、金子光晴の記憶力はすごいね。びっくりした。76歳で、鮮明に2、30代のことをとことん憶えていた。

あさから病院にいくので、このまま、恐怖とエロスのアンソロジー第2弾『筋肉男のハロウィーン』を読もう。これは、一、二か月くらいまえに、堀川五条のブックオフで108円で買い直したもの。例によって、収録作品をひとつも記憶していない。新刊本を買ってるようなお得な気分だ。おもしろいかなあ。

二〇一八年九月十五日 「ハンカチ」

ハンカチからこぼれる海。
ハンカチがこぼす海。
ハンカチに結ばれた海。
ハンカチが結ぶ海。
海をまとうハンカチ。
ハンカチにまとわれた海。
ハンカチの海。
海のハンカチ。
ハンカチにほどける海。
海はハンカチ。ハンカチは海。
ハンカチに海。海にハンカチ。
ハンカチの海。海のハンカチ。
ハンカチでできた海。海でできたハンカチ。
ハンカチの大きさの海。海の大きさのハンカチ。
ハンカチに沈む海。海に沈むハンカチ。
ハンカチのかたちの海。海のかたちのハンカチ。
ハンカチと寝そべる海。海と寝そべるハンカチ。
35億年前のハンカチ。35億年後のハンカチ。
惑星の軌道をめぐるハンカチ。惑星の軌道をめぐる海。
惑星の軌道をめぐるハンカチ。ハンカチの軌道をめぐる惑星。
波打つハンカチ。折りたたんだ海。
ハンカチのうえに浮かぶ海。海のうえに浮かぶハンカチ。
ハンカチの底。海の裏。
ハンカチのたまご。海のたまご。
海の抜け殻。
細胞分裂するハンカチ。 海から這い出てくるハンカチ。
端っこから海になってくるハンカチ。
ハンカチの半分。海の半分。
海に似たハンカチ。ハンカチに似た海。
海そっくりのハンカチ。ハンカチそっくりの海。
海の役割をするハンカチ。ハンカチの役割をする海。
60℃のハンカチ。
直角の海。
正三角形の海。
球形のハンカチ。
ハンカチを吸いつづける。
海に聞く。
ハンカチに迷う。
ハンカチが集まる。
ハンカチが飛んでいく。
ハンカチがふくれる。
ハンカチがしぼむ。
ハンカチが立ち上がる。
ハンカチが腰かける。
ハンカチを食べつづける。
ハンカチを吐き出す。
ハンカチの秘密。秘密のハンカチ。

二〇一八年九月十六日 「短詩」

「台湾兵。」「ハイ!」「休憩したか?」「ハイ、休憩しました!」「では、撃て!」

二〇一八年九月十七日 「小松宏佳さん」

小松宏佳さんから、詩集『どこにいても日が暮れる』を送っていただいた。冒頭の作のさいごの三行「地峡へ向かうこの石の階段は/わたしたちの運命を/かぞえている。」にみられるようなレトリックがすばらしい。「逆の視点」だ。おわりのほうの詩「春荒れ」にも見られるが、非常に効果的なものと思う。

二〇一八年九月十八日 「筋肉男のハロウィーン」

短篇アンソロジー『筋肉男のハロウィーン』を読み終わった。きょうから、文春文庫のアンソロジー『厭な物語』を再読する。パトリシア・ハイスミスの「すっぽん」とかシャーリー・ジャクスンの「くじ」なんて、何度読み返したかわからない。いちばん再読したいのは、フラナリー・オコナーの「善人はそういない」である。

二〇一八年九月十九日 「草野理恵子さん」

草野理恵子さんから、同人詩誌『Rurikarakusa』の第9号を送っていただいた。草野さんの2作品「白い湖」と「靴下」を読ませていただいた。「白い湖」は、モチーフ自体が扱うのが難しいものだと思うのだが、草野さんの「書く気迫」のようなもの、「勇気」といったものを見させていただいた気がする。

「鼎談」ていだん、と読むこの漢字が、3人による座談会を表現する言葉だと、はじめて知った。二人の座談会が「対談」というのは知ってたけれども。高校時代の国語の成績が悪かったのもうなずけます。

短篇アンソロジー『筋肉男のハロウィーン』を徹夜で読み直した。憶えている物語が6、7割あった。それだけ名作が収録されていたのだろう。中断していた、というより、読み直しさえまだしてなかった、奇想コレクションの、シオドア・スタージョンの『[ウィジェットと]と[ワジェット]とボフ』を再読しよう。ただし、この記憶に残っていた6、7割のものも、読んでいるうちに思い出したので、正確には憶えていなかったものかもしれない。微妙。しかし、それにしても、記憶力の衰えはすごい。すさまじい忘却力。

見つけたぞ。何を? 

「きみの名前は?」(シオドア・スタージョン『必要』宮脇孝雄訳)

奇想コレクション、シオドア・スタージョンの『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』の77ページの4行目にあった。これで、コレクションがまた増えた。(「HELLO IT'S ME。」の詩句がさらに長くなった)これ、再読なんだよね。なんで初読のときに見つけられなかったのか、不思議。それとも、初読のときにはまだ「HELLO IT'S ME。」のアイデアを思いついていなかったのかもしれない。

二〇一八年九月二十日 「ぼくの詩」

ぼくの詩が紹介されています。

http://www.longtail.co.jp/bt/a024_f.html

二〇一八年九月二十一日 「学校の授業のこと、中間テストのこと」

きょうは一日、学校の授業のこと、中間テストのことを考えたいと思う。そのまえに、スタージョンの短篇集のつづきを読んでほっこりしよう。

二〇一八年九月二十二日 「シオドア・スタージョン」

シオドア・スタージョンの『[ウィジェットと]と[ワジェット]とボフ』を徹夜で読み直し終わった。タイトル作品、記憶になかった。つぎの奇想コレクション再読は、ジョン・スラデックの『蒸気駆動の少年』まったく記憶にない。ひとつも憶えていない。このすばらしい忘却力。新刊本を買ってるようなもの。

二〇一八年九月二十三日 「ぼくたち二人が喫茶店にいたら」

ぼくたち二人が喫茶店にいたら
籠に入れた小鳥を持って女性が一人で入ってきた。
見てると、女性は小鳥に話しかけては
小鳥の返事をノートに書き留めていた。
「彼女、小鳥の言葉をノートに書き留めてるよ」
「ほんとう?」
ぼくたち二人はその女性がしばらく
小鳥に話しかけてはノートを取る姿を見た。
彼女が手洗いに立ったとき
興味のあったぼくは立ち上がって
彼女のテーブルのところに行った。
ノートが閉じられていた。
その女性が小鳥の言葉を書きつけていたのか
それともまったく違うことを書いていたのか
ぼくにはわからなかった。

これは、けさ見た夢を書き留めたものである。

二〇一八年九月二十四日 「ジョン・ウィンダム」

数学の仕事で、テスト問題をつくっているので、読書ができない。翻訳は10月中はいっさい手をつける時間がないようだ。57歳のいまが、人生でいちばん忙しい。若いときは、遊び倒してても、なおかつ読書する時間がたっぷりあったのに。体力が落ちて、横になる時間が増えたってことが大きな原因かな。

持ってたけど、本棚になかったので、ジョン・ウインダムの『海竜めざめる』を Amazon で買い直した。カヴァーが、じつにすてきな文庫本だった。内容は忘れたけれど。

ジョン・ウィンダムは大好きな作家で、むかし、『トリフィド時代』というSFを読んだ記憶もあるけど、いま手元にない。新しい訳で、創元SF文庫から出てるけれど、描写を憶えているから買わないつもりだ。まあ、気まぐれだから、わかんないけど。スラデックの短篇集『蒸気駆動の少年』を読んで寝る。

二〇一八年九月二十五日 「佐々木貴子さん」

佐々木貴子さんから詩集『嘘の天ぷら』を送っていただいた。モチーフが独特の散文詩集だ。物語詩にもなっている。読み込まれる。

二〇一八年九月二十六日 「加藤思何理さん」

加藤思何理さんから、詩集『真夏の夜の樹液の滴り』を送っていただいた。濃密な世界がたんたんと書かれている詩篇が多く、しかし、読むのには苦労しなかった。描写力がすぐれているからだろう。おもしろい詩を書くひとだ。

二〇一八年九月二十七日 「短詩」

空に浮かぶ青でさえ胸狭い バッグの中の面積を集める

二〇一八年九月二十八日 「荒木時彦くん」

荒木時彦くんから、詩集『NOTE 004』を送っていただいた。いまのぼくの精神状態では切実なモチーフだった。アルファベットの使い方が秀逸だった。さすが。

二〇一八年九月二十九日 「海竜めざめる」

Amazon で注文した、ジョン・ウィンダムの『海竜めざめる』が届いた。ビニールカヴァーがかけてあって、これ、ぼくがひとに譲ったやつだった。買い直し1400円ちょっと。なんだかなあ、笑。

二〇一八年九月三十日 「箴言」

表現において、個人の死は個性の死ではない。個性の死が個人の死である。

二〇一八年九月三十一日 「人生」

 ぼくは愚かだった。いまでも愚かで浅ましい人間だ。しかし、ときに
は、いや、まれには、それは一瞬に過ぎなかったかもしれないが、ぼく
は、やさしい気持ちでひとに接したことがあるのだ。ぼくのためにでは
なく。そんな一瞬でもないようなら、たとえどれほど物質的に恵まれて
いても、とことんみじめな人生なのではなかろうか?


詩の日めくり 二〇一八年十月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年十月一日 「楽しくくたばれ!」

楽しくくたばれ!

二〇一八年十月二日 「断片」

 ぼくは何も言わなかった。ひと言も口にすることができなかった。何
を、どういっても、その言葉が、彼に、自分がこびているような印象を
与える調子を含まないでいられるものになるとは思えなかったからだ。

二〇一八年十月三日 「体毛」

人間は髪の毛が伸び続けるけれど、なぜ、猿などは、体毛が伸び続けないのか。そういえば、人間だって、体毛は伸び続けないな。

二〇一八年十月四日 「ジョン・スラデック」

奇想コレクションの一冊、ジョン・スラデックの短篇集『蒸気駆動の少年』をちまちま読んでいるのだが、まったくおもしろくない。というか、おもしろさがまったくわからない。むかし読んだはずなのだが、いつものごとく、まったく記憶にない物語ばかりだ。一ページごとに、読んでは休憩をはさんでいる。

二〇一八年十月五日 「慣性」

思考や感覚にも慣性のようなものがあるだろう。無意識領域においてなら、なおさら。

二〇一八年十月六日 「箴言」

体験に勝る教えなし。

二〇一八年十月七日 「考察」

事物というものは、見たあとで、見えてくるものである。

二〇一八年十月八日 「空集合φ」

読点と句点を重ねると、空集合φになるのね。

おおむかしに書いた詩句で、書いた記憶がなかった。

二〇一八年十月九日 「断片」

洗濯物を取り込んで重ねていただけなのだけど、ひとに見えた。

二〇一八年十月十日 「タケイ・リエさん」

タケイ・リエさんから、詩集『ルーネベリと雪』を送っていただいた。繊細なレトリックというべきか、なんか、そんな感じのする筆運びで、肌理の細かいものに触れるような感触がした。

『妃』という同人詩誌を送っていただいた。最先端の詩人たちの饗宴という感じがする。たくさんの詩。たくさんの詩人。バラエティーが豊かだ。詩の豊穣といった感じがする。

二〇一八年十月十一日 「すさまじい忘却力」

詩も小説も、そんなに違いはないのねっていうのが、奇想コレクションの一冊、ジョン・スラデックの短篇集『蒸気駆動の少年』を半分まで読み直した感想。いつものことながら、一作も読んだ記憶がない。すさまじい忘却力。固有名詞が頻出で頭が痛くなる小説でもある。でも、詩には、そういうものがないね。

二〇一八年十月十二日 「LGBTIQの詩人たちの英詩の翻訳」

ここひと月ばかり、LGBTIQの詩人たちの英詩の翻訳を再開していたのだったのだが、きょう訳していたものが、いちばん難しかった。9つ目だ。あと20作ちょっとを翻訳しなければならない。きょうの訳はまだ手を入れなければならないだろう。翻訳では頭脳を総動員しなければならないので疲れる。

二〇一八年十月十三日 「ジョン・ウィンダム」

ジョン・スラデックの短篇集『蒸気駆動の少年』難解というわけではなく、読みづらいという感じ。でも、まあ、奇想コレクションの読み直しをしようという計画を立てたのだから、さいごまで読み直すけれど。いまのところ記憶にあるのは2作のみ。なんという烈しい忘却力。いまは57歳。もうじき58歳。

ジョン・ウィンダムの『トリフィド時代』を買ってきた。むかし、読んだ翻訳者とは違う翻訳者の新しい訳だそうだ。内容は、ぼくにはめずらしくも、しっかり覚えているのだが、手元にむかしの訳本がなくて、がまんできなくなって買ったのだった。すばらしい小説だった。スラデックを中断してさきに読む。

よい音楽と、すばらしい詩や小説と、おいしい食べ物や飲み物があるのだから、ほかにどんなことがあっても、この世は天国である。と、単純に思いたい。まあ、ぼくは単純なので、そう思っているほうだとは思うけれど。

いままでツイートを見てて、ハイボールを2杯飲んでた。なんだろう、この高揚感は。おいしそうな食べ物の画像を見たこともある。そのうえに、これからSF小説の傑作、ジョン・ウィンダムの『トリフィド時代』を読めるという期待の気持ちからもだろうか。すばらしい詩や小説は、ぼくの気分を高揚させる。

二〇一八年十月十四日 「ジョン・ウィンダム」

ジョン・ウィンダムの『トリフィド時代』を読み終わった。むかし読んだときには感じなかった感慨がある。さいごがうまくいき過ぎかなと思えるが、それを除くと、たいへんおもしろい作品だった。これから、ウィンダムの『海竜めざめる』を読む。

二〇一八年十月十五日 「死ぬまでに再読したいSF小説3作」

ジョン・ウィンダムの『海竜めざめる』の再読が終わった。きのう読み終わったウィンダムの『トリフィド時代』もそうだったけれど、希望で終わらせているのが、57歳のぼくにはいい。暗澹たる気持ちで終わらせてほしくない年齢になったのだろうと思う。これからスラデックの短篇集のつづきを読む。

死ぬまでに再読したいSF小説3作。ニコラス・グリフィスの『スロー・リバー』、マイクル・スワンウィックの『大潮の道』、T・J・バスの『神鯨』いますぐにでも再読したいのだが、まだ寿命がありそうなので、寿命が尽きそうに思えたときの楽しみにとっている。再読したいSFはほかにもあるしね。いま、Amazon で価格を調べたら、『大潮の道』と『スロー・リバー』が1円で、『神鯨』が91円で売られていた。傑作なのにね。

二〇一八年十月十六日 「マーゴ・ラナガン」

スラデックの短篇集『蒸気駆動の少年』を読み終わった。さいごらへんで、ようやくスラデックの文体に慣れたような気がする。つぎに読み直す奇想コレクションは、マーゴ・ラナガンの『ブラックジュース』である。かなりおもしろい短篇集だったような気がする。一つだけ物語を憶えている。魔女の話だ。

二〇一八年十月十七日 「短詩」

みっぺは宇宙人かもしれない。ママのペンとリップをつかって、顔面は非対称。うん。みっぺは宇宙人にちがいない。

二〇一八年十月十八日 「今鹿 仙さん」

今鹿 仙さんから、詩集『永遠にあかない缶詰として棚に並ぶ』を送っていただいた。ポイントが大きく、そこにまず驚かされたけど、読むと、詩句の流れのスムーズさと音調的なすべりのよさに驚かされた。それにしても、表紙がすばらしい。ことし目にした本の表紙のなかで、もっともすばらしいと思った。

二〇一八年十月十九日 「舟橋空兔さん」

舟橋空兔さんから、詩集『アナンジュバス』を送っていただいた。ふつうの日常的な詩句のあいだに、魔術的な詩句というのか、そういった詩句が散見する。不思議な作品たちだ。

二〇一八年十月二十日 「石川厚志さん」

石川厚志さんから、詩集『山の向こうに家はある』を送っていただいた。タイトルに「家」とあるように、詩のなかに家族が出てくるものが多い。ぼくには肉親に対する愛情がないので、読んでいて、うらやましいなと感じることがしばしばあった。まっとうに働いていらっしゃる方のようで、うらやましい。

二〇一八年十月二十一日 「阿賀 猥さん」

阿賀 猥さんから、『豚=0 博徒の論理』を送っていただいた。カラーページがとてもきれいで、描かれた絵がかわいらしかった。詩という枠を超えて、エンタメしてらっしゃると思った。というか、詩の本かどうかっていうのは、それほど大事なことじゃないのかもしれない。ペソアの断章を思い出した。

二〇一八年十月二十二日 「片岡直子さん」

片岡直子さんから、詩集『晩熟』を送っていただいた。よく見かけたお名前なので、ユリイカの投稿時代(30年まえ)が思い出された。片岡さんの詩句は、落ち着いた円熟したものに思われ、詩集のタイトルの『晩熟』と通じる、大人らしさが感じられた。

二〇一八年十月二十三日 「mnt1983さん」

mnt1983さんに書いていただいた、ぼくの詩集『The Wasteless Land.VI』評。たいへんうれしいお言葉でした。

https://bookmeter.com/reviews/51681294

二〇一八年十月二十四日 「ルーシャス・シェパード」

一時間くらいかけて本棚を探しても、ルーシャス・シェパードの『緑の瞳』が見つからなかったので、Amazon で買い直した。傑作だったので、手放すことなどなかったはずのものだったのだけど。何度も何度も同じ本棚を見直すという行為自体は、それほどいやじゃなかったけど。この作品、主人公は、死んだ詩人。まあ、医学実験でゾンビになった詩人、で、ゾンビは瞳が緑色なのであった。どういった物語かは忘れたけれど、この本はぜったいに手放さないぞと思っていた作品だったので、いま、自分の部屋のどの本棚にもなかったことにショックを受けている状態である。もう一度、本棚を探してみるか、と思って、探したら、ルーシャス・シェパードの『緑の瞳』が見つかった。なんという、なまくらな目をしているのだろうか、ぼくは、と思った。きょうから、この『緑の瞳』を読み直そう。奇想コレクション・シリーズの読み直しは中断して、こちらの方をさきに読み直そう。Amazonではキャンセルしておこう。この本の主人公は、自分が詩人だったことを憶えている、詩人ではなかった者だった。ぼくの記憶違い。ゾンビ―になると、生前と違った記憶を持つことになるのだった。きょうは、そこくらいまでしか読み直せなかった。つづきは、あした以降。

二〇一八年十月二十五日 「桑田 窓さん」

桑田 窓さんから、詩集『メランコリック』を送っていただいた。適切なレトリック。過剰でもない、不足してもいない、まさに的確なレトリックの使い方をされているなと思われた。とてもていねいにつづられていく詩句に、作者の目の確からしさを見たように感じられた。難解なところはまったくない。

二〇一八年十月二十六日 「小林 稔さん」

小林 稔さんから、詩集『一瞬と永遠』を送っていただいた。詩句の言い回しが知的だと思った。それに描写がこと細かく具体的だ。知的なのに抽象に赴かない詩は稀だと思う。ていねいに知的な言葉が重ねられていく様を目にした印象が強く残る詩集であった。それが風格というものだろうか。

二〇一八年十月二十七日 「ルーシャス・シェパード」

松屋で晩ご飯を食べるまえに、西院のブックファーストで、ルーシャス・シェパードの『竜のグリオールに絵を描いた男』を買ってきた。短篇集で、本のタイトル作品のシリーズが収録されている。タイトル作品だけは、短篇集『ジャガー・ハンター』に入っていたので既読だが、ほかのものは未読だったのだ。

二〇一八年十月二十八日 「いつもの3本」

砂ずり、レバー、つくね、いつもの3本。

二〇一八年十月二十九日 「安田 有さん」

安田 有さんから、詩文集『昭和ガキ伝』を送っていただいた。二十八年ぶりの詩集ということである。状況のよくわかる適切な描写であった。穏当な詩句がつづられている。長いあいだに書かれたものを目にしたためか、ぼく自身のここ30年というものに思いを馳せた。

二〇一八年十月三十日 「小川三郎さん」

小川三郎さんから、詩集『あかむらさき』を送っていただいた。収められている詩は、小説で言うならば、奇譚の部類に入るもので、詩句の運びは、ひっかかるところがまったくない流暢なものであった。

二〇一八年十月三十一日 「毛毛脩一さん」

毛毛脩一さんから、詩集『青のあわだつ』を送っていただいた。ブレスの長さが、ぼくと比べて、2倍くらい違っていて、息の長い詩句がつづく。息の長さは、なにかに比例しているような気がした。そのなにかというのを明確に書き表すことはできないけれど、情の深さ、念のようなものとかとかとか思った。

いま、ルーシャス・シェパードの短篇集『竜のグリオールに絵を描いた男』に収録されている第3篇目「始祖の石」を読んでいるのだけれど、ロバート・エイクマンやコッパードやダンセイニの短篇集とかで読んでいないものがあって、気になったので Amazon で検索してた。いや検索してたら、出てきたのか。

ちょっと浮気をして、宝物としている、ジェラルド・カーシュの短篇集『壜の中の手記』を読み直そうかな。カヴァーの裏に値札を剥がした剥がれ跡があるのだけれど、この本は、ブックオフの105円(だった)コーナーに置いてあった本で、手に入れたものベスト3のなかに入る3冊の本の中の一冊である。

ちなみに、ベスト1は、付き合ってた青年が、ぼくにプレゼントしてくれた、デューン・シリーズさいごの3冊『砂丘の大聖堂』1、2、3巻。各巻105円で買ってくれたらしい。当時は古書値として5000円くらいするものだった。ベスト2は、古本市場で105円で買った『エミリ・ディキンスン評伝』

たくさんの本を昨年手放したけれど、傑作をまだまだ本棚に残しているのだなあと思った。憶えているものもあるけれど、記憶していない作品もたくさんある。死ぬまでに何度も読み直すだろうけれど、忘却力が烈しくなってきたので、読むたびにまた新刊本を読んでる気分で読めるのだった。得な性分だなあ。

Amazon で、いま、『砂丘の大聖堂』シリーズ3巻を買おうとすると、いくらくらいするか調べたら、第1巻、第2巻は300円から600円で買えるみたいだけど、第3巻は4000円してた。いまだに入手困難なものなのだなあと思った。


詩の日めくり 二〇一八年十一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年十一月一日 「現実」

現実はきびしいね。だけど、がんばろう。がんばる仲間がいれば、だいじょうぶ。

二〇一八年十一月二日 「考察」

ぼくというものを媒体として、さまざまなものが結びついていく。
ぼく自身も結びつけるものであると同時に結び付けられるものである。

二〇一八年十一月三日 「詩論」

イメージが言葉をさがしていたのか、言葉がイメージをさがしていたのか。

二〇一八年十一月四日 「ルーシャス・シェパード」

ルーシャス・シェパードの短篇集『竜のグリオールに絵を描いた男』を読み終わった。これから、寝るまで、シェパードの処女長篇『緑の瞳』のつづきを読もう。それとも、マーガ・ラナガンの短篇集『ブラックジュース』のつづきを読むか。クスリをのんでから決めよう。おやすみ、グッジョブ!

詩人で翻訳家のジェフリー・アングルスさんに、『ゲイ・ポエムズ』の一部を英訳してアメリカの雑誌に掲載していただいたものがある。これね。

https://queenmobs.com/2016/11/22392/

二〇一八年十一月五日 「ブライアン・オールディス」

ブライアン・オールディスは、ぼくの大好きなSF作家である。数年前に買った『寄港地のない船』を、きょうから読む。ルーシャス・シェパードの『竜のグリオールに絵を描いた男』よりずっとまえに買った本だけれど、同じ竹書房文庫から出た本だけど、きょうから読むことにする。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年十一月六日 「長尾高弘さん」

本棚になかったので、チャールズ・シェフィールドの『ニムロデ狩り』を、Amazon で買い直した。

長尾高弘さんから『抒情詩試論?』を送っていただいた。著者とはネット上の付き合い以前からのお付き合いで、いろいろお世話になっている。詩のタイトルがページはじめの中ごろにかかれてあって、新鮮だった。作品は穏当なものが多く、落ち着いて読めた。「報い」など、こころにしみるものが多かった。

二〇一八年十一月七日 「フレドリック・ブラウン」

手近の本棚に、なにがあるのか(昨年、多数、ひとに譲ったので、なにが残っているのか正確には知らないのだ)見ていると、フレドリック・ブラウン編のSFアンソロジー、『SFカーニバル』があったので、なつかしくて、つい読み始めたのだった。まださいしょのものだが、読んだことだけは憶えていた。

いま読んでる短篇、38ページだ。あと7ページで読み終わる。結末は憶えていない。けれど、雰囲気はよさそうだ。というか、いまそのページを額の脂で汚してしまった。ときどきそういうことになる。不器用な自分を呪う。まあ、いいか。ずっと手元に置いておくつもりの本なのだから。クスリをのんだ。寝る。おやすみ。グッジョブ!

二〇一八年十一月八日 「晩年」

齢を取ったらやりたかったことが、いま57歳と9カ月でできている。というか、57歳は、齢を取ったことになるのかな。好きな本を読んで、じっくりとその作品を味わいたいという気持ちが満たされている。このうえない喜びだ。もっと齢を取ったら、すべての時間をそれに注げることができる。楽しみだ。

二〇一八年十一月九日 「チャールズ・シェフィールド」

神経科医院の待合室で数時間、ブライアン・オールディスの『寄港地のない船』を読んでいた。で、診療のあと、まだ読み終わらなかったので、待合室でさいごまで読んだ。大好きな作家の処女長篇である。よかった。帰ると、注文していた、チャールズ・シェフィールドの『ニムロデ狩り』が届いていていた。

『ニムロデ狩り』はまだ読まない。昨年、ひとに譲った小説だったので(自分の本棚を軽く見てなかった本なので)買っただけの本である。本って、いつ、どんな金額になるかわからないので、買っておいたのだ。むかし読んだとき、B級SFで、でも、おもしろかった記憶があるので、買っておいたのだった。

『ニムロデ狩り』を、なぜ手放したかというと、たぶん、カヴァーが気に入らなかったんだと思う。でも、きょう届いた本を見ると、手放さなくてもよかったのではないかというくらいの出来のカヴァーだったので、これが、ぼくのカヴァーの評価軸の基準線なんだな、と思った。きょう見たら、よかったのだ。

二〇一八年十一月十日 「考察」

 好きな形になってくれる雲のように、もしも、ぼくたちの思い出を、ぼくが好きなようにつくりかえることができるものならば、ぼくは、きっと苦しまなかっただろう。けれど、きっと愛しもしなかっただろう。

二〇一八年十一月十一日 「考察」

 星たちは、天体の法則など知らないけれど、従うべきものに従って動いているのである。ひとのこころや気持ちもまた、理由が何であるかを知らずに、従うべきものに従って動いているのである。と、こう考えてやることもできる。

二〇一八年十一月十二日 「アザー・エデン」

イギリスSF傑作選『アザー・エデン』をひさしぶりに手にしてみた。冒頭に収められている、タニス・リーの『雨にうたれて』を読み直した。放射能汚染が軸にあり、その影響下にある人々のあいだに、汚染度の違いによる階級差が生まれている国家の物語だ。現代日本のある都道府県のことが頭に浮かんだ。

二〇一八年十一月十三日 「海東セラさん」

海東セラさんから、同人詩誌『グッフォー』の69号と70号を送っていただいた。69号に収められた海東セラさんの「ドールハウス」も、70号に収められた「塊」も散文詩で、言葉が流れるようになめらかだった。よどみがないというのは、海東セラさんの文体のようなものを指して言うのだと思った。

パソコンのない時代に、自分の全作品を2冊の私家版の詩集にして50部ずつつくったことがあった。『陽の埋葬』と『ふわおちよおれしあ』である。A4サイズで電話帳のように分厚いものだが、ぼく自身がある意味、辞典として利用している。中原中也や村野四郎や会田綱雄の詩のパロディーを書いたものが、文学極道の詩投稿掲示板ではまだ発表していなかったので、それを電子データにしておこう。未発表といえば、未発表の「陽の埋葬」もたくさんあった。面倒だが、そのうちそれらも電子データにしておこう。

二〇一八年十一月十四日 「クリストファー・エヴァンズ」

きのう寝るまえに、イギリスSF傑作選『アザー・エデン』に収められている、クリストファー・エヴァンズの「人生の事実」を読んで眠った。作品は、女権が異様に貶められている惑星のなかで、ひとりの少年が取る言動を通じて、人間について考えさせるものだったのだが、差別というものの気持ち悪さに、ぞっとさせられた。ぞっとさせるのが目的に書かれたであろう、その着想に、作者のイノセントさがあるのだろうが、あらゆる差別について、気持ち悪い、ぞっとさせるようなものがあるのだなと思った。

二〇一八年十一月十五日 「内島菫さん」

内島菫さんが書いてくださった、ぼくの詩集『Still Falls The Rain。』評

https://bookmeter.com/books/12753547

内島菫さんが書いてくださった、ぼくの詩集『The Wasteless Land.』評

https://bookmeter.com/books/1088250

内島菫さんが書いてくださった、ぼくの詩集『The Wasteless Land.II』評

https://bookmeter.com/books/1599270

内島菫さんが書いてくださった、ぼくの詩集『The Wasteless Land.IV』評

https://bookmeter.com/reviews/71450425

内島菫さんが書いてくださった、ぼくの詩集『The Wasteless Land.V』評

https://bookmeter.com/reviews/76405448

内島菫さんが書いてくださった、ぼくの詩集『The Wasteless Land.VI』評

https://bookmeter.com/reviews/76379848

二〇一八年十一月十六日 「ものすごい忘却力」

きのうは、イギリスSF傑作選『アザー・エデン』に収録されている、2篇、M・ジョン・ハリスンの「ささやかな遺産」と、イアン・ワトスンの「アミールの時計」を読んで眠った。いま、両方とも、読んだ記憶が吹っ飛んでいる。内容がまったく思い出せない。ちょっと読み直そうかな。ものすごい忘却力。

二〇一八年十一月十七日 「天使の羽根に重さはあるのか?」

天使の羽根に重さはあるのか?

二〇一八年十一月十八日 「冷たい方程式」

きのうは、寝るまえに、イギリスSF傑作選『アザー・エデン』に収録されている、ブライアン・オールディスの「キャベツの代価」を読んで寝た。時間SFによくあるウラシマ効果を扱った作品で、近親相姦を採り上げたもの。わかりやすかった。イギリス人作家らしい、書き込みの濃い叙述のSF小説だった。

東寺のブックオフで、SFマガジン・ベスト1『冷たい方程式』を108円で買ってきた。持ってるものより、状態がいい可能性があったからである。帰ってきて、本棚から『冷たい方程式』を出すと、もともと持ってるもののほうがきれいだった。108円、損しちゃった。ほかの本でも買えばよかったのにね。

あたらしく編集し直されたSFマガジン・ベスト1『冷たい方程式』には、キャサリン・マクレインの「接触汚染」が入っていないのだが、これは冒頭におかれるほどの傑作だった。

日知庵からの帰り道、丸善で、ハヤカワSF文庫の『冷たい方程式』を買った。これは、昼に、ブックオフで買った『冷たい方程式』と異なる、新編集版のSFアンソロジーであり、かぶっているのは2作だけで、7作が新訳だそうである。きょうから、新編の『冷たい方程式』から読んでいこうと思う。

二〇一八年十一月十九日 「冷たい方程式」

イギリスSFのアンソロジー『アザー・エデン』の重苦しい描写からうってかわって、ロバート・シェクリイの「徘徊許可証」が冒頭に収められている新版のSFアンソロジー『冷たい方程式』を読むと、なんとのどかな雰囲気なのだと呟かずにはいられない。イギリス人作家の重苦しい描写も好きなんだけどね。

いま、アシモフの「信念」を読み終わったところだ。冒頭のシェクリイの「徘徊許可証」とアシモフのまえに置かれた、ウォルター・テヴィスの「ふるさと遠く」と、ジョン・クリストファーを除くとアメリカ人作家だったことに気がついた。読みやすかった。アシモフとテヴィスは再読か再々読の短篇だった。

『アザー・エデン』は、ひじょうによい短篇集だったが、叙述も内容も重苦しかった。イギリス人作家は大好きだけど、読むと、ときどき、へとへとになる。アメリカ人のSFは読みやすい。まあ、だいたいのところで、例外はあるけれど。

二〇一八年十一月二十日 「じっさいは、もうゼロなのに。」

じっさいは、もうゼロなのに。

二〇一八年十一月二十一日 「考察」

それはよくあることだった。外部の刺激、この場合は音だったのだが、それが原因で目が覚めるのだが、夢のなかで、その音が出てきて覚めるのだった。ホテルのなかで、「パイナップル」と連呼しながら太った男が二階から一顔に階段を下りてきたのだが、現実世界でうえの階のひとが「パイナップル」と連呼するCDをかけていたのであった。このことを記憶しておこうとして、ぼくはふたたび眠り、ホテルの4階の自分が泊まっている部屋に行くイメージを頭に描いて横になって、ふたたび夢のなかに没入し、部屋においてあるパソコンをあけて、スイッチを入れたのだった。とそこでふたたび目が覚めてしまったのだった。

二〇一八年十一月二十二日 「詩論」

 言葉の断片を眺めていると、つぎつぎとイメージが想起され、そのイメージが、さらなる複合的なイメージを想起させていくのである。それは、さながら、言葉自ら、思考を形成し、順序を整えて並びはじめたかのように。

二〇一八年十一月二十三日 「詩論」

 一つ一つの言葉は、だれもがふだん使う言葉なのだが、それらが詩人によって選び出され、並べられ、刈り込まれ、またふたたび手直しされて書き付けられると、それらの言葉が詩人個人の体験を超えたものになることがある。それまで考え出されたこともないようなものが考え出されたとき、その作品は、詩人にとって、真の作品になっているのである。

二〇一八年十一月二十四日 「ミンちゃん」

ミンちゃんが、SF小説にはまりだしたようだ。この間、ブックオフで買ってダブってしまった、SFマガジン・ベスト1の『冷たい方程式』をプレゼントしよう。

二〇一八年十一月二十五日 「箴言」」

真の暗闇はけっして見ることができない。

二〇一八年十一月二十六日 「実感」

パンを食べている映像を見て、おなかも空いていたので、セブイレに行って、パンを買ってきて食べた。ひとが食べていると、自分も食べたくなるのは、どうしてだろう?

二〇一八年十一月二十七日 「断片」

 ぼくは、生まれつき、おそらくは生まれつき、他人がどう感じ、どう考えているのか、その他人が使う言葉と表情を前にしながら、その言葉の順番を入れ換えたり、そのときのその人の表情に、違った日のその人の表情を補ったりして、推測するような人間だった。だから、自分の気持ちよりもずっと容易に他人の気持ちを推測することができたのであった。これが、異星人の通訳に、ぼくが選ばれた理由だ。

二〇一八年十一月二十八日 「ウォルター・テヴィス」

新編のSF短篇アンソロジー『冷たい方程式』を読み終わった。わかりやすい作品ばかりだった。いちばん好きなのは、ウォルター・テヴィスの「ふるさと遠く」だった。アイデアもすばらしいし、叙述もすばらしい。「ふるさと遠く」は、そのタイトルのテヴィスの短篇集ももっていて、既読ではあったのだが。

二〇一八年十一月二十九日 「キャサリン・マクレイン」

旧版のアンソロジー『冷たい方程式』(ハヤカワSF文庫)を読みながら寝よう。冒頭に収められた、キャサリン・マクレインの「接触汚染」は、ほんとに傑作だと思う。新編には収められていないのだが、版権の関係だと思うんだけど、新版に収録されていないのは、ほんとに惜しい。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年十一月三十日 「詩論」

 詩人は、自分の書いたメモをつぎつぎと取り出しては読んでいった。必ずしも取り出された順番ではないのだが、それらのメモにある言葉のうち、いくつものものが言葉同士、つぎつぎと結びついていった。まるで、そういった言葉自体が意識を持って、最初からその順番で結びつけられることを知っていて、詩人の目を通り、詩人の無意識層に働きかけ、詩人の関心をひき、詩人のこころにイメージを結びつかせたかのように思われたのであった。

二〇一八年十一月三十一日 「断片」

 ぼくは、彼を憎んでいた。彼がけっして、ぼくのものにならないことを知っていたからである。もちろん、ぼくのものになるとしても、それは、ぼくがつくりだした彼のイメージというものであり、そこには、もしかしたら、彼自体がつくりだした彼のイメージの一部分が含まれているかもしれないのだけれど、しかし、彼のイメージというものは、その大部分は、おそらく、ぼくがつくりだしたものであり、そのイメージが、彼本来の真の姿とは似ても似つかぬものであるということをも、ぼくにはわかっていたのである。数多くの欲情の記憶があるが、どの欲情の記憶も数え上げるのがそれほど困難ではない数の記憶に収束される。それに加えられるのは、直近のものを除けば、ごくわずかなものだ。


詩の日めくり 二〇一八年十二月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年十二月一日 「詩」

若いときに書いたものを、文学極道の詩投稿掲示板に投稿した。30代だったろうか。はてさて40代か。ぼくは、自分のすべての作品を一つのストーリーにまとめようとしていたのだった。愚かな試みだったと、いまでは思っている。わざわざそんなことをしなくても、もともと一つのストーリーだったのだ。

二〇一八年十二月二日 「考察」

 ファミレスや喫茶店などで、あるいは、居酒屋などで友だちとしゃべっていると、近くの席で会話している客たちのあいだでたまたま交わされたことばが、自分の口から、ぽんと何気なく出てくることがある。無意識のうちに取り込んでいたのであろう。しかも、その取り込んだ言葉には不自然なところがなく、こちらが話していた内容にまったく違和感もなく、ぴったり合っていたりするのである。異なる文脈で使用された同じ言葉。このような経験は、一度や二度ではない。しょっちゅうあるのである。さらに驚くことには、もしもそのとき、その言葉を耳にしなかったら、その言葉を使うことなどなかったであろうし、そうなれば、自分たちの会話の流れも違ったものになっていたかもしれないのである。このことは、また、近くの席で交わされている会話についてだけではなく、たまたま偶然に、目にしたものや、耳にしたものなどが、思考というものに、いかに影響しているのか、ぼくに具体的に考えさせる出来事であったのだが、ほんとうに、思考というものは、身近にあるものを、すばやく貪欲に利用するものである。あるいは、いかに、身近にあるものが、すばやく貪欲に思考になろうとしているのか。

二〇一八年十二月三日 「考察」

 蚕を思い出させる。蚕を飼っていたことがある。小学生のときのことだった。学校で渡された教材のひとつだったと思う。持ち帰った蚕に、買ってきた色紙を細かく切り刻んだものや、母親にもらったさまざまな色の毛糸を短く切り刻んだものを与えてやったら、蚕がそれを使って繭をこしらえたのである。色紙の端切れと糸くずで、見事にきれいな繭をこしらえたのである。それらの色紙の切れっ端や毛糸のくずを、言葉や状況や環境に、蚕の分泌した糊のような粘液とその作業工程を、自我とか無意識、あるいは、潜在意識とかいったものに見立てることができるのではないだろうか。もちろん、ここでは、蚕を飼っていた箱の大きさとか、その箱の置かれた状態、温度や湿度といった、蚕が繭をつくるのに適した状態があってこそのものでもあるが、これらは、自我がつねに外界の状況とインタラクティヴな状態にあることを思い起こさせるものである。

二〇一八年十二月四日 「エシャール」

一日は17時間 mo あるのだから
エシャール
a
a
a
api
a
a
a
api
a
a
a
api
api
a
api
そのうちの朝は15時間で、お昼は20時間で、夜は15時間あるから
ちょっぴり働けるし、たっぷり遊べるし、たっぷり眠れる。
病院の待ち時間の5時間なんて、へっちゃらさ。
たとえ、薬局でクスリをもらい忘れたって
一日17時間 mo あるのだから
50時間くらい起きちゃってても、へっちゃらさ。
バスが数時間 遅れてきたって、イライラしないし
お風呂につかったまま10時間くらい眠っちゃったって、へっちゃらさ。
湯あたりさえしなければね。
トマト頭 グチャ
かわいい双子ちゃんの頭 mo グチャ
do it, do it
イグザクトゥリー・ライフに、セクシー・マザー・ファッカー
恋人と ピーチク・パーチク
へらへらしちゃって
うひぃ〜
何日か前に
西院の阪急駅のところで

阪急の西院駅のところで
ジュンちゃんに会ったよ
de

デッカイ
ハロウィーンのカボチャみたいな頭してさ
朝の新聞紙ぐらいに分厚いメガネしちゃってさ
デブでブサイクなかわいいジュンちゃんにさ
20年目もデブでブサイクだったけど

20年前もデブでブサイクだったけど
いまもやっぱり
デブでブサイクで チョーかわいい
仕事帰りで
白いウェディング・ドレス着てさ
180センチキロメートル・100億トンの巨体なのにさ
i like it, i like it
一日は17時間 mo あるのだから。
reverse, reverse
it's all right
そのうちの朝は15時間で、お昼は20時間で、夜は15時間あるから
ちょっぴり働けるし、たっぷり遊べるし、たっぷり眠れる。
好きなだけ遊んで、好きなだけ眠ればいいさ。
すぇ絵t すぇ絵t もてぇr ふcけr
sweet sweet mother fucker

u
うんこ
んこ
んこ
っこ
sweet
sweet
fuck
fuck
そく
クソ
そく
クソ
i wanna be a かわいい クソ
i wanna be a かわいい クソ
amen
amen

二〇一八年十二月五日 「何年まえかわからない日付のないメモより、いまではとっくに、与謝野晶子訳の『源氏物語』を全巻読み終わってます。」

読むまでに死んでおきたい本  (Keffさんの日記のタイトルを拝借して)

『源氏物語』
いまだに、わたしは、これを読み通せていない。
何度も挫折した。
瀬戸内訳も、橋本訳も読んだことがないのでわからないけど
人柄が、どちらも好きではないので
やっぱ与謝野訳で読むのがいいでしょうね。
橋本治は、むかし大ファンだったのだけれど
あまりに変化がなさ過ぎるので
読むのをやめた作家のひとり。
桃尻娘シリーズは楽しかったのだけれど
教養主義的な発言が目立つようになって
とたんに面白くなくなった。
しかし、読むまでには死んでおきたいわ、笑。
『源氏物語』

仕事の数学が終わったので
これから、ジミーちゃんと飲み会を。
そろそろ来るはずなんだけど
どうしたんやろ。
メールしてみよう。

源氏読まずば歌人(うたびと)にあらず、と塚本邦雄が言っていたような記憶が。
挫折しますねえ、原文は、古典の素養のないぼくには無理っぽいです。
以前に与謝野訳を持ってたんだけど
京大生のエイジくんに、日本の文学作品を
ぜんぶあげちゃって。
恋人に本を上げるのが趣味だから。
また、ぼちぼち日本の古典も
買いなおそうかなって思っています。
韻文は読んでるんだけど
散文はまだ。

二〇一八年十二月六日 「ウィリアム・バロウズ」

山形さんの訳は、ノヴァ急報を読むかぎり
飯田さんより、質は劣りましたね。
山形さんは、飯田さんの誤訳に文句をつけているみたいですが
山形さんに詩を解する能力は皆無のようです。
章のタイトルを読んで、びっくりしました。
そのあまりに平板な訳に。

二〇一八年十二月七日 「フレデリック・ブラウン」

ブラウンの『まっ白な嘘』をいただきました。ニコニコ
ブラウンの本をいただきました。
ぼくが、たいへん喜んでいるのを知られて
また古いミステリーやSFをくださるとのこと。
いや〜、めちゃくちゃ、うれしいです。
その方の本の保存状態のいいこと。
本の保存の仕方で人柄がわかりますね。
あちゃ〜、風呂場で読んだりするぼくは、最低かな。
あ、それは捨て本だけだけど。
ときどき、読んでる途中で、いい本だと気づいて
買いなおすハメに。
ま、失敗も人生さ◎
ていうか、失敗の人生さ
ぼくの場合、笑。

二〇一八年十二月八日 「音・ことば・人間」

武満徹・川田順造の『音・ことば・人間』を買う。
ブックオフで、108円。
入試かなんかで見た記憶があって
なつかしくて
パラパラしてたら
武満さんが、ル・クレジオの文章について
引用して書いているところがあって
買っておこうと思って。

二〇一八年十二月九日 「夏野 雨さん」

夏野 雨さんから、詩集『明け方の狙撃手』を送っていただいた。まだまだ新しい言葉の組み合わせがあるのだなあと思った。作者の現実はうかがい知ることができなかった。作品の目的が別のところにあるからだと思った。言葉運びは、なめらかで、うつくしい。しかも的確だ。かわいらしい表紙が印象的。

二〇一八年十二月十日 「ちくま哲学の森 4」

ブックオフで、ちくま哲学の森 4 を。
ヴァレリー全集とカイエ全集を図書館で読んだのは、ずいぶん昔なので
『パンセ』の一句を主題とする変奏曲
を読んだかどうか、覚えていなかった。
リンゲルナッツの『地球儀』という詩には、笑った。
笑わせてくれる詩というものが、どんなものか思い出させてくれた。
ひとから自分がどう見られたいかという詩が多い現代詩の世界では
お目にかかることができないようなシロモノ。
ホラティウスの詩にも、大いに笑ったけれど
やっぱり、並の現代詩人のものより
古典の詩人のもののほうがずっと面白い。
この本、お風呂用に買ったものだけれど
ちともったいなく思った。

二〇一八年十二月十一日 「ミラン・クンデラ」

クンデラの『不滅』
あと4分の1くらい。
たいへん面白い。

異色作家短篇集19も、あと1篇。
質は18のほうが高かったような気がするけれど
それでも、十二分に高い質のアンソロジーだと思う。
最後の20が楽しみ。

これから、クンデラを読みにお風呂に。
ああ、そうだ。
銭湯って
もう何年も行ってないけど
銭湯で本を読んだら、叱られるのかしら。
叱られそうだにゃ。
あったかいから
いま時分だと、いいと思うんだけど。

露天風呂のあるスーパー銭湯だったらいいかな。
ダメなのかな。

そういえば、20代は
高野のプールで
泳ぎもせずに
ずっと身体を焼きながら
本を読んでたなあ。

二〇一八年十二月十二日 「松田悦子さん」

松田悦子さんから、詩集『Ti amor━君 愛しています』を送っていただいた。詩句を読点ではなく、一行空白にてほぼ分節化してある、独特のフォルムだ。また、その個所で体言止めになっている個所が多く、そのことも独特の雰囲気を詩句にもたせることになっているのだと思われる。

二〇一八年十二月十三日 「108円」

ブックオフで、108円で
買いそびれて、あとで後悔すること、しばしばです、笑。
もう何度、貴重な本を買いそこねたことでしょう。
最近も、3冊
あとで考えたら、読みたい本だったのですね。
きのうも、ドレの挿絵のドン・キホーテ
買うの惜しみました。
いまから、オフに自転車で行ってみます。
もうないかなあ。
ドレの絵のドン・キホーテ、値段が変わってた。
きのう、レジで
あ、これやめますね、と言って渡した本が
108円から300円に値段が変わっていた。
えぐいなあ、と思ったけれど
店員にそういうと
「そういう値段になりました。」とのこと。
ふうん。
やっぱ、迷ったら、買うべきね。
で、
持ってる本のカヴァーが傷んでいたので
買いなおしと
エルトンのアルバムで持っていないものを買いました。
これから、読書のつづきを。
明日、あさって
太郎ちゃんのところの原稿の見直しを。
来週末には送れるように。
もちろん、買いませんでした。
また108円になったらね。
チュッ

二〇一八年十二月十四日 「妻を帽子とまちがえた男」

サックスの『妻を帽子とまちがえた男』、古本市場、108円。
タイトル・エッセーを読むと
視覚の失認症について書かれてあった。
抽象思考の集中のために、具体的な事物の視覚認識が不可能になった男の話。

そういえば
ぼくにも、聴覚異常があって
キライなひとの声が聞こえなくなったことがあって
パパりんの声が聞こえなくなって
京大病院に検査をしてもらった記憶がある。
聴覚能力には問題はなかった。
精神的なものだということだった。
東京駅で
何年も前のこと
30年以上も前かなあ
詩人で歌人の早坂 類さんと会ったとき
目の前から彼女の姿が消えたのだけれど
彼女にポンと肩をたたかれると
彼女の姿がパッと現われたことがあって
これもかな。
彼女のこと
天才だと思ってたんだけど
会った瞬間に
ぼくに瓜二つのパーソナリティーをしてると思って
気持ち悪くなって
そしたら
彼女の姿が見えなくなって声も聞こえなくなったの
駅の待ち合わせ場所で。
ドッペルゲンガーを見たり
UFOを見たり
幽霊を見たり
幽体離脱したり
幻覚や幻聴があるのも
おそらく脳の機能の一部に異常があるからなのだろうけれど
(それとも、欠損かな)
詩人としては
お得かも、笑。
ちょっとくらい、頭の機能がおかしいほうが
人生は豊かかも。
いろんなところで
ふつうのひとが感じないことを感じられるから。
その分、苦しみもより多く味わうけれど。

二〇一八年十二月十五日 「ぼくは泣きながら目が覚めた。」

ぼくは泣きながら目が覚めた。
ぼくは父親と継母が許せない。
父親は去年死んだから、もういい。
できれば、もっと早く死んで欲しかったけれど。
継母は悲惨な死に方をして死んで欲しい。
たとえ、そう願うことで、ぼくにいろんな病気がやってこようと。
継母はいま喘息で苦しんでいるけれど
叔母のようにアルツハイマーにでもなればいいのだ。
たとえ、そう願うことで、
アルツハイマーよりももっとひどい病気にぼくがなってもいい。
弟たちは、弟の友だちと船の上で暮らしていたのだ。
ぼくの夢のなかだけれど。
どんなに、かわいそうだったか。
ぼくの父親も継母も好きなことをして暮らした。
ぼくたちを十分にまともな人間にすることはしないで
ぼくたちを甘やかし
好き勝手放題に振る舞う傲慢な人間に仕立て上げ
とんでもない非常識な人間に育て上げたのだ。
ぜったいに許せない。
ぼくの人生をめちゃめちゃにし
弟たちの人生をめちゃめちゃにしたあの二人はぜったい許せない。
ぼくは泣きながら目が覚めた。
ふだんは弟たちのことをこころにかけることはないのだけれど
夢を見たのだ。
船の上で暮らしている、貧しい弟たちを。
その姿は、まだほんの子供だったのだ。
指がキーボードをたたきながら
ぼくはいまも泣いている。
ぜったい許せない。
ぼくは何もしてやれなかった、ぼくも呪わしい。
ぼくは泣きながら目が覚めた。
どうして、こんな夢を見るんだろう。
どうして、こんな苦しみ方をするんだろう。
キーボードの文字盤がにじんでいる。
悲惨な夢だ。
たぶん、19世紀のイギリスかアメリカって感じの
暗いトンネルのような感じの
大きな橋の下
テムズ川という名前が思い浮かんだのだけれど
テムズ川というのは、じっさいには知らないのだけれど
その暗い水の上に浮かんだ小さな船のなか。
洗濯物を干している弟たちに出会ったのだった。
ぼくは走り寄って
まだ幼い一番下の弟の頭をかき抱いて
泣いたのだ。
声を上げて、ぼくは泣いたのだ。
すぐ下の弟も子供だった。
すぐ下の弟は、洗濯物を干したあと、身体を拭いていた。
船には、風呂がなかったのだ。
ぼくは父親と継母が許せない。
まともな死に方はして欲しくない。
父親は盲目で、度重なる癌で苦しんで死んだから、もういい。
こんどは、継母の番だ。
たとえ、そう願うことで、どんな不幸が、ぼくを迎えてもいい。
ぼくは泣きながら、目が覚めた。
声を上げて泣いた。
その声に自分の目を覚まされたのだ。
ふだん気にもしていない弟たちのことを夢に見て。

二〇一八年十二月十六日 「トイレのなかで、ご飯を炊く人。」

壁のペンキのはげかかったビルの二階のトイレ。
そこでは、いろいろな人がいろいろなことをしている。
ご飯を炊いて、それをコンビニで買ったおかずで食べてたり
その横で、男女のカップルがセックスしてたり
ゲイのカップルがセックスしてたり
天使が大便をしている神父の目の前に顕現したり
オバサンが愛人の首を絞めて殺していたり
オジサンが、隣の便器で大便をしている男の姿を
のぞき見しながらオナニーしてたり
男が女になったり
女が男になったり
鳥が魚になったり
魚が獣になったり
床のタイルの間が割れて
熱帯植物のつるがするすると延びて
トイレのなかを覆っていって
トイレのなかを熱帯ジャングルにしていたり
かと思えば
トイレの個室の窓の外から凍った空気が
垂直に突き刺さって
バラバラと砕けて
トイレのなかを北極のような情景に一変させる。
男も
女も
男でもなく女でもない者も
男でもあり女でもある者も
何かであるものも
何でもないものも
何かであり何でもないものでもあるものも
ないものも
みんな直立した氷柱になって固まる。
でも、ジャーって音がすると
TOTOの便器の中にみんな吸い込まれて
だれもいなくなる。
なにもかも元のままに戻るのだ。
すると、また
トイレのなかで、ご飯を炊く人が現われる。

二〇一八年十二月十七日 「神曲 煉獄篇 1」

ぼくは、角の店のポリバケツのゴミ箱の横に倒れていた。
ぼくの右腕だろう。
離れたところに落ちていた。
指先は動いた。
ぼくが思うとおりに動いていた。
ぼくは自分の右腕のあったはずの場所を見た。
血まみれの肉の間から骨が見えていた。
痛みはなかった。
目の前に影が立ちふさがった。
見上げるとよく知っている顔があった。
彼は微笑んでいた。
直感で、微笑みにいっさいの嘘がないことがわかった。
トマス・M・ディッシュだった。
写真で見たとおりのマッチョなハゲだった。
両腕には派手な刺青が施されていた。
「わたしが来た。」
ぼくには、彼の言葉がわかった。
英語は、あまりできなかったはずだけれど。
すると、ディッシュは口を開けて笑った。
そうだ、さっき、ディッシュは口を閉じてしゃべっていたのだ。
「すまなかった。
 おまえの魂に、じかに話しかけたのだ。
 しかし、おまえはまだ、肉体を離れて間もないから、とまどうだろう。
 口を開けてしゃべってやろう。
 ところで、おまえのことを、おまえと呼んでいいね。」
ぼくは、尊敬している作家のディッシュに、おまえと呼ばれることは
とてもうれしいことだと思うと述べた。
「エドガー・ポオと話し合って
 わたしが、おまえを迎えに行くことに決めたのだ。
 おまえの死は微妙なところだった。
 おまえの死は自殺だと認定されたのだ。
 おまえは無意識に死を願っていたのだ。
 ふだんから自殺を考えてもいただろう。
 だから、そんに不注意にも歩いていられたのだろう。
 車が、お前を撥ね飛ばすような危険な道を。」
「それで、なぜ、ぼくを迎えに来られたのですか?」
「天国に行くためだ。」
「自殺した者は、天国に行くことはできないと聞かされていましたが?」
「いや、違う。
 自殺した者だけが天国に召されるのだ。
 地上の生活で苦しみ
 自ら命を絶った者だけが天国に行くのだ。
 自然死をした連中はふたたび生を授けられるのだ。
 来世で自殺するまで。」
ぼくは、なにがなんだかわからなかった。
わからなかったけれど、このことだけは確かめておきたかった。
「それでは、あなたは天使なのですか?」
「そういうものかな。
 御使いの一人だ。
 お前が生前に推測していたように
 天国は神の一部であり
 神もまた天国の一部なのだ。
 わたしも神の一部であり
 天国の一部であり
 天国そのもの
 神そのものなのだ。」
ディッシュは、ぼくの千切れた右腕を拾い上げて
ぼくの右腕のあった場所に、それをくっつけた。
すると、ぼくの腕は元通りになった。
膝の破けた服も元通りになった。
「さあ、行こうか。
 ここ、煉獄を尽き抜けて、地獄を経めぐり
 最後には、天国へといたるのだ。
 真の詩人たる、おまえの目で
 あらゆるすべての実相を眺めるがいい。
 さあ、急ごう。
 煉獄の道行きがもっとも長くかかるのだ。」
ぼくの足は、ディッシュの後にしたがって
狭いけれど、車が頻繁に通る道を歩いた。

二〇一八年十二月十八日 「Your Song。」

「波のように打ち寄せる。」という言葉を
「彼のように打ち寄せる。」と読んでしまった。
寄せては返し、返しては寄せる彼。
目を開けているからといって、見えているとは限らない。
むしろ、目を開けているからこそ、見えなくなっていたのだ。
彼はまだ、わたしのこころのなかに
喜びとして存在し、悲しみとして存在している。
いや、むしろ、わたしの喜びと悲しみが、彼として存在しているのだ。
しかし、だれが、わたしの自我などに云々するだろうか。
他人の自我などに。
ましてや、本人にさえ、あるのかどうかも、わからないものなどに。
あらゆる瞬間が永遠になろうとしている。
ある一つの夜が、わたしのすべての夜になろうとしている。
その夜の出来事を、わたしの自我の根が、たっぷり吸い込んでいたのだ。
わたしの自我自体が、その夜の出来事そのものになるほどに。
言葉ではないのだ。
言葉じゃないやろ。
好きやったら、抱けや。
その通り。
言葉ではなかったのだ。
ぼくは、何もせず
彼の横で眠ったふりをしていた。
彼もまた背中を向けて眠ったふりをしていた。
ああ、しかし、その出来事も
その喜びや悲しみも
ぼくのこころがつくりだしたものではなかったのか。
ぼくのこころがつくりだしたものなら
ぼくのこころがなかったことにすることもできるはずだ。
はずなのに。
起きたであろうことも
起きなかったことも
起きたことを知ることができた。
起きたことを否定することができるものは何一つない。
喜びと悲しみ。
それは、ぼくにとって、けっして、ほんとうには
感じ取ることができないものだった。
さまざまな才能があるのだ。
喜びもまた、悲しみもまた。
藪のなかに潜んでいるものではなく
藪そのものが、ぼくのこころのなかで動き出すのが感じられた。
わたしは、わたしの思い出を食べ
わたしの両親を食べ
わたしの住んでいる街の人を食べ
わたしと出会ったすべての人間を食べ
わたしが通った学校を食べ
わたしが家族と行った海を食べ
わたしが友人と行った湖を食べ
わたしが河川敷で坐ったベンチを食べ
ベンチに坐って眺めた川を食べ
川の上空を飛んでいた鳥を食べ
空に浮かんだ雲を食べ
わたしの見た
聞いた
感じた
あらゆるすべてのものを食べた。
すべてのものは、まったく同じ一つの光でできていた。
射精すると、チンポコをしまって、またふらふらと別の席に移って
ほかの男にしゃぶらせた。
ぼくたちの川のなかで、ぼくたちの夜に、ぼくたちの鳥が、
ぼくたちの水のなかに、ぼくたちのくちばしを突っ込んで
ぼくたちの餌になるぼくたちの魚を探していた。
だけど、もうぼくの目には見えない。
喜びと悲しみのほかには、なにも。
音には映像を膨らませる力がある。
映像もまた
喜びを膨らませる音楽を奏で
悲しみを膨らませる音楽を奏でていた。
ぼくは彼のことを愛していた。
ぼくは彼のことを愛していた。
悪いことに、ぼくはそのことに気がついていた。
よく知っていたのだ。
けっきょく、だれであってもよかった、ぼくたちであったのだけれど。
けっきょく、だれにもなれなかった、ぼくたちであったのだけれど。

二〇一八年十二月十九日 「ヤフオクでのお買い物」

きょうのヤフオクでのお買い物。本と画集。
これで、日本で出てるバロウズの個人的な本はすべて揃いました。
今後は原著を集めていきます。

SFは、オールディスの作品が入っていたから買ったアンソロジー。
これ、近所の古本マーケットで108円のときに買いそびれて
つぎの日に行ったらなくなってたもの。
300円で落札。
ああ、腹が立つ。
まあ、仕方ないけどね。

ジョン・クロウリーは、はじめて買ったのだけれど
エンジン・サマーの方が評判はよいみたいね。
まあ、どんなものか、読んでみましょう。
これは、短篇集みたい。
カヴァーがきれいなので、いい感じ。
カヴァーがいいので、ほかに欲しい本がいま数冊。
思案中です。

しかし、バロウズの絵は美しい。
あ、ショットガン・ペインティングの画集、持ってなかった。
上記の、日本で出たものぜんぶって、嘘だ。
それが残ってた。
このあいだ、5000円くらいで売ってたのだけれど
いま探してもないんだよねえ。
21000円で出してるところがあるけど
それはちと問題外。

二〇一八年十二月二十日 「ジミーちゃん」

これからジミーちゃん来室とのこと。
韓国人俳優のDVDを見ることに。
歌手らしい。
名前忘れちゃった。
自分が興味ないものは、ぜんぜん覚えられないんだよねえ。

きのう買ったDVDと、本と、到着した本。
カンフー・ハッスルは、以前に借りて、見まくったものだけれど
500円だったので、三条のブックオフで買った。
ふつう1000円くらいね。
で、いつもの居酒屋さんで
会社社長二人にはさまれて、飲んでいました。
どちらも理系の方で
話題は
有機化学や粉体工学や数学に。
なんちゅう、居酒屋さんなんやろか、とお二人もおっしゃってました。
そこに、ぼくがシェイクスピアにおける道化の役割ですとか
ラテン語の成句をまじえて哲学のお話などを入れるものですから
お一人の方は感激されて、「わたしもシェイクスピアを読みますわ。」
とのこと。
ところで
ニーチェもシェイクスピアも、持っていて読んだものなのだけれど
いま部屋の本棚にないので、だれかにあげたか、貸したままで戻ってこないもの。
もう人に本は貸さないようにしているけどね。
戻ってこないから。

ジョン・クロウリーのは、とってもカヴァーがきれいで
もう、それだけで、この本がすばらしいことがわかる。
本の状態もとてもよいし、いい感じ。
実物、きれいよ。
薄いし、それがまた魅力を増す原因ね。
部厚いものもいいけれど
薄い本って、独特の魅力がある。
岩波のチョー薄い本なんて
ほんと、美しいじゃん。
シェイクスピア
第二部がないけれど
これ、いま岩波から出てなくて
そのうち、ブックオフで。
ヤフオクでは、岩波、結構、高くって
入札する気がおこらん。
ゆっくり待てば、ブックオフで、108円だもんね。
読んだやつだし、あわてることないしね。

しかし、だれが持ってるんやろう。
ぼくのシェイクスピア。

追記

おひとりの社長は
化粧品開発メーカーの社長で、きょうは、京都の嵯峨野高校で
理系の生徒を前に講演なさってるはずで
その方とは
写真雑誌のデジャヴについて
また、写真家のキャシー・アッカーマンだったかしら
彼女の写真についても話が出て
ぼくは写真にも興味があって
デジャヴは創刊号から買っていた人なので
とかとか
いろんなところに話が飛んで
きのうは、とても面白かったです。
ああ、これで
恋人が、きょうでもメールくれたらなあ。

会いたい!
今晩6時に、京都の方と、本の交換を。
無料登録で、読書家の人間が
本の交換をできるシステムがありまして
その方と。
ぼくがいただくはずのものは、『ルイーズの肉体』と
『燃える家』の2冊。
ぼくが差し上げる予定のものは
『ベスト・オブ・バラード』と
『風の十二方位』と
『塔のなかの姫君』
京都の方なので
じかに交換できるのでいいですね。
でも、ナイフとか持ってて
異常者だったら、どうしよう。
直接、ぼくの部屋に訪れるということだけれど。
もしも、ぼくになんかあったら
これ、証拠にしてね。

いまから、部屋を片付けなきゃだわ。
コーヒー飲み飲み。
ルンル、ルンル、ル〜ン。

二〇一八年十二月二十一日 「苦痛こそ神である。」

バロウズの画集(京都書院)が届きました。
とってもきれい。
でも、みてたら、きゅうに、うんこがしたくなりました。
してこようっと。
ブリブリ。

書物交換しました。

『ルイーズの肉体』は、耳に記憶があったので
楽しみ。
田中倫郎さんの訳なので
日本語も美しいはず。

『燃える家』
タイトルがいいと思った。
読んでみたくなるタイトルね。

こちらは
リンダ・ナガタの『ボーア・メイカー』
ル・グインの『風の十二方位』
バラードの『ベスト・オブ・バラード』
そして
ぼくの詩集を3冊
タイプだったから、つい、笑。
ハグハグしてしまった。

彼がHPの作り方も
これから教えてくれるそうなので
ちかぢか
ぼくのHPを。
そこに「詩人の役目」や
過去の未発表の作品なんかを入れていきますね。

さてさて
これからお風呂に入って
ひざをあたためて
いたみをやわらげます。
ひざの痛み止めの種類を変えました。
しかし、「苦痛こそ神である。」という思想こそ
ぼくの経験と思索の結果、たどり着いたものなので
なんともいえない満足をも感じています。
マゾヒストかしら、笑。
わたしはあなたとともにいる、という神さまの声が聞こえてくるのですね。
あとどれぐらいの長さ、どれくらいの程度
神さまは、わたしを苦しめてくれるのか、ということですね。

二〇一八年十二月二十二日 「薩摩の語部」

新しい「数式の庭」のモチーフが浮かんで、
うれしくなって、近所のスーパー「お多福」に。
このあいだ飲んだおいしい芋焼酎「薩摩の語部」を、
いまロックで飲んでる。
うううん。
ひとりで飲むひとじゃなかったんだけど、
いい詩の構想ができたっていっても
いっしょに喜んでくれる恋人もいないし、笑。
あしたもヨッパだろうけどね。
あとで、もっとヨッパになって
入力します。
おぼえてたらね〜、笑。

二〇一八年十二月二十三日 「短詩」

ささいなことがささいなことでなくなる瞬間。みかんの数を数え直す。

二〇一八年十二月二十四日 「柴田 望さん」

柴田 望さんから、同人詩誌『フラジゃイル』第4号を送っていただいた。柴田さんの作品「粉」、吉増剛造さんの初期の詩を思い起こさせるような詩句の繰り出し方で、びっくりした。いま初期の吉増剛造だなんて、新鮮な感じがした。

二〇一八年十二月二十五日 「廿楽順治さん」

廿楽順治さんから、同人詩誌『Down Beat』第13号を送っていただいた。廿楽さんの作品「中華料理上海桜」に出てくる「ふるい耳」に、ぼくの耳が反応した。この短い詩句に、ぼくの耳が、自分の思い出を思い出させられていた。

二〇一八年十二月二十六日 「アザー・エデン」

ここ数週間、体調が悪くて、あまり読書もできずにいたが、きょうは、なんだか気分がいい。きのうまでに、イギリスSF短篇の傑作集『アザー・エデン』を半分ちょっと読んだ。今晩は、マイケル・ムアコックの「凍てついた枢機卿」を読んで寝よう。『この人を見よ』の作者である。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年十二月二十七日 「藤井晴美さん」

藤井晴美さんから、詩集『量子車両』を送っていただいた。一気に読ませていただいた。言葉を自由自在に駆使して、言葉のコラージュをつくっておられるような気がした。ぼくの詩集『The Wasteless Land.IV』を思い出したりもした。

二〇一八年十二月二十八日 「葉山美玖さん」

葉山美玖さんから、個人詩誌『composition』の第3号を送っていただいた。「父」と「天井大嵐」と題された詩篇にこころの目がとまる。詩を読みながら現実を求めている自分を強く意識した。

二〇一八年十二月二十九日 「ロバート・フロスト」

ググって見つけた、フロストの「行かなかった道」の三つの訳、コピペ。


『行かなかった道』

黄葉の森の中で 道は二つに分かれていた
残念だが二つの道を行くことはできなかった
身一つの旅人ゆえ,しばらく立ち止まり
一方の道を 目の届くかぎり遠く
下生えの茂みに曲がっていくところまで見渡した.

それからもう一方の道を眺めた,同じように美しい,
あるいはもっとよい道なのだろう,
それは草深く まだ踏みつけられていなかったから.
だがそのことについていえば,実際は
どちらも同じ程に踏みならされていた,
しかもその朝は いずれもおなじように
黒く踏みあらされない木の葉でおおわれていた.
おお,わたしは はじめの道を,またの日のためにとっておいた!
だが 一つの道が次々に続くことを思い,
再びもどってくることがあるだろうかと疑った.

わたしは 幾年かの後 溜息ながらに
どこかで これを語るだろう,
森の中で 道が二つに分かれていた,そして わたしは─
わたしは 人跡の少ない道を選んだ,
それが 全てを違ったものにしたのだと.

安藤千代子「ロバート・フロスト詩集─愛と問い─」(近代文芸社、1992年)


行かなかった道     ロバート・フロスト  

黄ばんだ森の中で道がふたつに分かれていた。
口惜しいが、私はひとりの旅人、
両方の道を行くことはできない。長く立ち止って
目のとどく限り見渡すと、ひとつの道は
下生えの中に曲がりこんでいた。

そこで私はもう一方の道を選んだ。同じように美しく、
草が深くて、踏みごたえがあるので
ずっとましだと思われたのだ。
もっともその点は、そこにも通った跡があり
実際は同じ程度に踏みならされていたが。

そして、あの朝は、両方とも同じように
まだ踏みしだかれぬ落ち葉の中に埋まっていたのだ。
そうだ、最初眺めた道はまたの日のためにと取っておいたのだ!
だが、道が道にと通じることは分かってはいても、
再び戻ってくるかどうかは心許なかった。

今から何年も何年もあと、どこかで
ため息まじりに私はこう話すだろう。
森の中で道が二つに分かれていて、私は―
私は通る人の少ない道を選んだのだったが、
それがすべてを変えてしまったのだ、と。

           駒村利夫訳


The Road Not Taken

Two roads diverged in a yellow wood,
And sorry I could not travel both
And be one traveler, long I stood
And looked down one as far as I could
To where it bent in the undergrowth;

Then took the other, as just as fair,
And having perhaps the better claim,
Because it was grassy and wanted wear;
Though as for that the passing there
Had worn them really about the same,

And both that morning equally lay
In leaves no step had trodden black.
Oh, I kept the first for another day!
Yet knowing how way leads on to way,
I doubted if I should ever come back.

I shall be telling this with a sigh
Somewhere ages and ages hence:
Two roads diverged in a wood, and I-
I took the one less traveled by,
And that has made all the difference.
(Robert Frost, 1916)


「選ばれざる道」(MM総合研究所 訳)

黄色い森の中で道が二つに分かれていた
残念だが両方の道を進むわけにはいかない
一人で旅する私は、長い間そこにたたずみ
一方の道の先を見透かそうとした
その先は折れ、草むらの中に消えている

それから、もう一方の道を歩み始めた
一見同じようだがこちらの方がよさそうだ
なぜならこちらは草ぼうぼうで
誰かが通るのを待っていたから
本当は二つとも同じようなものだったけれど

あの朝、二つの道は同じように見えた
枯葉の上には足跡一つ見えなかった
あっちの道はまたの機会にしよう!
でも、道が先へ先へとつながることを知る私は
再び同じ道に戻ってくることはないだろうと思っていた

いま深いためいきとともに私はこれを告げる
ずっとずっと昔
森の中で道が二つに分かれていた。そして私は・・・
そして私は人があまり通っていない道を選んだ
そのためにどんなに大きな違いができたことか


二〇一八年十二月三十日 「考察」

ひとと触れる
ひとに触れると
人間は、こころが晴れ晴れとするところがあるようです。

二〇一八年十二月三十一日 「ロバート・フロストの「火と氷」」

このあいだ、ぼくが感心した
Fire and Ice

詩集 New Hampshire
に入ってるからね。


Fire and Ice

Some say the world will end in fire,
Some say in ice.
From what I've tasted of desire
I hold with those who favour fire.
But if it had to perish twice,
I think I know enough of hate
To say that for destruction ice
Is also great
And would suffice.


火と氷

ある人々は世界の終りは火になるだろうと言う、
ある人々は氷になるだろうと言う。
自分が欲望を味わい知ったところから判断して
わたしは火になるという人々に同意する。
だが、もし世界の滅亡が二度あるものとすれば、
わたしは憎しみも十分に知っていると思うから
滅亡のためには
氷もまた偉大で
それもまたよいだろうと言いたい。

                安藤一郎訳


この詩のアイロニーと滑稽さは秀逸である。
このような詩を書く高みに、自分も身を置いてみたいと思う。
けれど、ぼくのようなタイプの書き手は
高みにある偉大な詩人たちを見上げながら
彼ら彼女らが築いた人間考察の幅の広さとその深さに
ただただ感心するしかないのだろうとも思う。


詩の日めくり 二〇一八年十三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年十三月一日 「記憶」

 感情の発展過程で、ある点以上には絶対成長しない人がある。かれら
は、セックスの相手と、ふつうの気楽で自由な、そしてギブ・アンド・
テイクの関係をほんの短いあいだしか続けられない。内なる何かが、幸
福に耐えられないのだ。幸福になればなるほど、破壊せずにはおけなく
なる。
(フレデリック・ポール『ゲイトウエイ』20、矢野 徹訳)

同じような文章をほかでも読んだ経験がある。
ぼくや、エイジくんが、そういった性質なのだと思う。
どちらか一方ではなくて、両方とも、そうやったんやから
とうぜん、うまくいくわけなかったのだけれど。

二〇一八年十三月二日 「千本日活にて/31。」

「自分からアプローチするほうのひと、勇気あるなあと思う。」
「えっ?」
「だって、断られるかもしれないじゃないですか?」
「まあね、それはそうだね。」
「断られたらショックでしょう?」
「ショック受けるかもね。」
「ぼくは、アプローチするのは無理ですわ。」
「でも、まえは、きみのほうからアプローチしてきたんやで。」
「そうでした。」
「ええっ? って、思ったもの。
 おぼえてる?」
「おぼえてますよ。」
「どれぐらいまえだっけ?」
「一年ぐらいじゃないですか?」
「そんなにまえ?」
「たしか、そうでしたよ。」
「うそみたい。」
ほんとだ。
うそみたいに時間が過ぎていく。
「思い出した。
 夏ごろやったね。」
うなずきながら笑う彼。
笑い顔が子どもみたいやった。
「このあいだ、ミクシィで
 キッスについて書いてね。
 フィリピンのゲイ・ビデオの一部がチューブになってて
 それを貼り付けてね。
 子どもみたいな顔をした青年が
 ウィンナーのはしっこをくわえてね。
 それを口にくわえながら
 相手の口元にそれをもっていって
 もう一方のはしっこをくわえさせるときに
 半分、笑っててね。 
 それ見て、
 ゲイのセックスって、
 友だちの延長みたいなもので
 まるでゲームみたいなものだなって思って。
 ふざけてるけど、
 真剣だということね。」
「わかります。
 フィニッシュがゲームの終わりみたいな。」
「言えてる。」
近くで悲鳴に近いあえぎ声がしている。
ふたりで顔を見合わせて笑った。
「はじめてきたのはいくつのとき?」
「26かなあ。」
「そなんや。
 じゃあ、まだ10年たってないね。」
「たってませんよ。」
「いま、いくつなん?」
「31。」
「いちばん、ええ時期かな。」
「そうなんですか?」
「うん。」
悲鳴の本体が移動した。
ふたりがはじめて会ったのは2年まえってことか。
ぼくは、もうちょっとのところで
こう言いそうになった。
「このあいだ、チューブで見た
 フィリピンのゲイ・ビデオに出てくる、かわいい男の子に似てるよ。」
って。
そう言わなかった。
そのかわり、こう言った。
「これまでで、最高のセックスって、どんなのだった?」
「おなじひとと
 おなじことしても
 こちらの気分で、ぜんぜん違った感じに思えますし。」
くびをひねるぼく。
「でも、こういうのがよかったとか、あるんちゃう?」
と、ひつこく食い下がるのであった。

その話を聞きながら、ゲラゲラ笑って
「じゃあ、こんど会ったら
 ぼくとのセックスがいちばんって言われるようにしよう。」
と言って、また笑った。
いつまで笑っていられるんだろう?
ずっと?
そんなわけないか。
そんなわけないやろなあ。
こわい、こわい。
「知ってるひとがいてるって
 ほっとしますね。」
「そうやろね。
 知らんひとばっかりやったら
 緊張するやろね。
 こころって同調するものやから
 過去に同調した経験があると
 すっとなじんでしまうのかもしれへんね。」
グレゴリイ・ベンフォードの『輝く永遠への航海』という
とんでもないSFを読んでいたせいで、
こんな言葉遣いになったのだと思う。
専門の物理学者が叙述するブラックホール内での
人類を含める有機生命体とメカニックスとの死闘を描いたSF小説で
とんでもない風景描写の連続で
サイバー・パンクを読んでいるような気がした。
「はじめてきたときには、できた?」
「いえ、かえりました。」
「やっぱり、びっくりして?」
「ええ、抵抗感ありました。」
「そだよね。ぼくもはじめの3回ぐらい
 なにもせんと帰ったもの。」
「自分の父親ぐらいの年齢のひとには
 ちょっと。」
ぼくももう49歳で、オジンなんだけどなあって思いつつ
「アリストテレスの言葉に
 同じ年同士は楽しいってことわざを入れたものがあってね。
 たしか共感について書いてたとこかなあ。
 共感する
 こころを寄せるってことね。」
「ずっと興味があったんですけど。」
「なにに?」
「ここにきはるひとって
 カミングアウトしてないひとは
 ふだんは普通に仕事してはるわけじゃないですか?
 でも、ここでは、おねえになったり、Mになったり
 それで、会社では、部下に命令してたりするわけじゃないですか?」
「厳しい顔、してたりしてね。」
顔を見合わせて笑った。
「どんなふうに仕事、してはるんかなあって思ったら
 知りたいなあって思って。」
「ぼくはカミングアウトしてるけど
 いつも、こんな感じで
 だらだら。」
ほんとに、だらだらなのだ。
しゃべり方はね。
「でも、みんな、ちょっと後ろ暗くて
 秘密があるってことでも昂奮してるんじゃないのかな?」
「あ、わかります、それ。」
「後ろめたさが
 平凡な人生を刺激してるって感じがして。」
ううん、と言ってえくぼをつくる彼。
「うつくしいときなんて
 たかだか数十年だよ。
 あっという間に過ぎちゃう。
 その目でいろいろ見たらいいよ。
 いろいろ体験するといいと思うよ。
 ふつうのひとには、想像できないことが
 いっぱい起こるからね。
 たとえば、そうだな
 ゲイの社会では
 社会的な地位による身分差がないのね。
 貧乏でも、若くてかわいければ
 たとえ相手が社長や医者でもタイプじゃなきゃ
 振り向きもしないんだ。」
「やっぱり、わかさですか?」
「そうだね、それとかわいらしさかな。
 きみは、わかくて、かわいいから身分が高いよ。」
「だれもそばに来てくれなくて
 期待はずれで帰ったことがありますよ。」
「それはね、
 そのときいたひとたちが
 みんな待つひとだったからだと思うよ。
 自分からアプローチするひとじゃなかったら
 動かないでしょ?
 でも、そんなことあるんやあ。」
「ありましたよ。
 なんか、さびしかったですよ。」
「なんやろ、
 偶然かな。
 こうやってふたりが会ってるのも
 しゃべってるのも
 気が合うってのも偶然だし。」
「ぼくも、こんなふうにふつうにしゃべること
 なかったなあ。」
ひとりごとのように言う彼。
こういった時間流のなかでも
さまざまな事物や事象が生成し変化し消滅していく。
ぼくたちの声、微笑み、気持ちも
瞬間瞬間に変化し消滅していく。
詩人の役目は、その生成し変化し消滅する事物や事象を
マトリックスの形で残していくこと
それに尽きると思う。
そのうえで、現実には起こりえない事物・事象についての
概念的な操作を暴力的に行なうこと。
それが理想かな。
好きだとは言わなかった。
付き合いたいとは言わなかった。
言葉ではないもので、通じ合っていたのだし
1年も会っていなくても、愛し合えたのだから。
もしもそれを愛というのならば。

二〇一八年十三月三日 「タレこみ上手。 転んでも、起きない。転んだら、起きない。コロンでも起きない。」

ストローのなかを行き来する金魚
小さいときに
ストローのなかを
2、3センチになるように
ジュースを行き来させて
口のなかのちょっとした量の空気を出し入れして
遊んだことがある。
とても小さな食用金魚が
透明なストローのなかを行き来する。

二〇一八年十三月四日 「さまざまな大きさの食用金魚がつくられている。」

さまざまな食感の食用金魚がつくられている。
グミより食感が楽しいし、味が何よりもおいしい金魚。
金魚バーグに金魚シェイク
食用金魚の原材料は、不安や恐怖や怒りである。
ひとびとの不安や恐怖や怒りを金魚化させたのである。
金魚処理された不安や恐怖や怒りは
感情浄化作用のある金魚鉢のなかで金魚化する。
金魚化した感情をさまざまな大きさのものにし
さまざまな味のものにし、さまざまな食感のものにして
加工食品として、国営金魚フーズが日々大量に生産している。
国民はただ毎日、不安や恐怖や怒りを
配送されてきた金魚鉢に入れておいて
コンビニから送り返すだけでいいのだ。
すると、その不安や恐怖や怒りの質量に応じた枚数の
金魚券が送られてくるという仕組みである。
その金魚券によって、スーパーやコンビニやレストランなどで
さまざまな食用金魚を手に入れられるのだ。

二〇一八年十三月五日 「金魚蜂。」

金魚と蜂のキメラである。
水中でも空中でも自由に浮遊することができる。
金魚に刺されないように
注意しましょうね。
転んでも、起きない。
起きてたまるもんですか
金魚をすると咳がでませんか。
ぶりぶりっと金魚する。

二〇一八年十三月六日 「金魚尾行。」

金魚尾行。
ひとびとが歩いていると
そのあとを、金魚がひゅるひゅると追いかける。

二〇一八年十三月七日 「金魚顔の彼女と。」

金魚顔の彼女と。

二〇一八年十三月八日 「近所尾行。」

地下金魚。
金魚サービス。
浮遊する金魚。
金魚爆弾。
近所備考。
近所鼻孔。
近所尾行。
ひとが歩いていると
そのあとを、近所がぞろぞろとついてくるのね。
近所尾行。
ありえる、笑。

二〇一八年十三月九日 「自由金魚」

世界最強の顕微鏡が発明されて
金属結晶格子の合間を自由に動く電子の姿が公開された。
これまで、自由電子と思われていたものが
じつは金魚だったのである。
自由金魚は、金魚鉢たる金属結晶格子の合間を通り抜け
いわば、金属全体を金魚鉢とみなして
まるで金魚すくいの網を逃れるようにして
ひょいひょいと泳いでいたのである。
電子密度は、これからは金魚密度と呼ばれることにもなり
物理化学の教科書や参考書がよりカラフルなものになると予想されている。

ベンゼン環の上下にも、金魚がくるくる廻ってるのね。
単純なモデルだとね。
すべて金魚雲の金魚密度なんだけど。

二〇一八年十三月十日 「絵本 『トンでもない!』 到着しました。」

一乗寺商店街に
「トン吉」というトンカツ屋さんがあって
下鴨にいたころ
また北山にいたころに
一ヶ月に一、二度は行ってたんだけど
ほんとにおいしかった。
ただ、何年まえからかなあ
少しトンカツの質が落ちたような気がする。
カツにジューシーさがない日が何度かつづいて
それで行かなくなったけれど
ときたま
一乗寺商店街の古本屋「荻書房」に行くときとか
おされな書店「啓文社」に行くときとかに
なつかしくって寄ることはあるけれど
やっぱり味は落ちてる。
でも、豚肉の細切れの入った味噌汁は相変わらずおいしい。
山椒が少し入ってて、鼻にも栄養がいくような気がする。
トン吉のなかには、大将とその息子さん二人と女将さんが働いてらして
ふだんは大将と長男が働いてらして

その長男が、チョー・ガチムチで
柔道選手だったらしくって
そうね
007のゴールドフィンガー
に出てくる、あのシルクハットをビュンッって飛ばして
いろんなものを切ってく元プロレスラーの俳優に似ていて
その彼を見に行ってるって感じもあって
トンカツを食べるってだけじゃなくてね。
不純だわ、笑。
次男の男の子も
ぼくがよく行ってたころは
まだ高校生だったのかな
ころころと太って
ほんとにかわいかった。
その高校って
むかし、ぼくが非常勤で教えてたことがある高校で
南京都学院高校って言ったかな
すごい荒れた高校で
1年契約でしたが
1学期でやめさせていただきました、笑。
だって、授業中に椅子を振り上げて
ほんとにそれを振り下ろして喧嘩してたりしてたんだもん。
身の危険を感じてやめました。
先生が、生徒が悪いことしたら、土下座させたりするヘンな学校だったし
日の丸に頭を下げなくてはいけなかったので
アホらしくて
初日にやめようとも思った学校でしたが
つぎの数学の先生が見つかるまで
というのと、紹介してくださった先生の顔もあって
1学期だけ勤めましたが
あの学校にいたら
ぼくの頭、いまよりおかしくなってると思うわ。
生徒は、かわいかったけど。
偏差値の低い学校って
体格がよくて
無防備な子が多いのね。
夏前の授業では
ズボンをおろして
下敷きで下半身を仰ぎながら授業受けてたり。
あ、見えてるんだけれど。
って、思わず口にしてしまった、笑。
ぼくも20代だったから
ガマンのできないひとだったんだろうね。
いまだったら、どうかなあ。
つづけてるかなあ。

二〇一八年十三月十一日 「けさ、太った女の子といっしょに暮らしてる夢を見た。」

女の子って言っても
20代半ばかな
たまに女の子の夢を見るけれど
たしかに
さいしょに好きになったのは女の子だったし
中学生までは
ぼくの時代の女の子は純情だったような印象だけど
女の子とはなにを話していいかもわからなかったし
男のほうが付き合いやすかったし
わかりやすかったから
ここ数日
バーセルミとル=グインの小説を読んでて
心理学用語が出てきて
その言葉が頭骨に突き刺さっている。
規制
「ほんとうに愛するものに出会うのを怖れている」
「どう振る舞えば、うまくいくかわかっているのに、わざとそう振る舞わない」
でも、人生はやりなおすことができないものだし
ぼくが付き合ってきた恋人たちに愛情をもってたのも確信してるし
とてもへたな付き合い方だったろうけど
もうすべて過ぎたことなのだから
けっして尊敬されるような生き方はしてこなかったし
どちらかといえば、目をしかめて見られるような生き方だったけれど
感心されるような
一部のひとにでいいから
感心されるような作品を書かなくちゃね。
どのような生にも意味があるのだけれど
ぼくが
ぼくの人生に意味があったということが
いつか確認できるために
いい作品書かなくちゃ
いまからエースコックのワンタンメンを食べます。
ひと月ちょいまえに出会った青年がいて
その青年はゲイでもバイでもなくって
ストレートなんだけど
でも、ぼくといっしょにいたいって思うらしくて
ぼくになついてくれていたのだけれど
ぼくは、わざと彼に冷たく接してしまった。
規制
まさしく規制

何度も同じことをしてしまう。

別れ際の彼のさびしそうな顔が
何度も目に浮かぶ。
ぼくに思いやりがあったら
やさしく接することができたと思う
どうして、やさしくなれないのだろう
彼の顔を見てるだけで
それだけで
ぼくも幸せな気分だったからだろうか
それがいつか自分を悲しい気持ちにさせるからと直感したからだろうか
規制かな
やっぱり
忘れられない。
しなかったことの後悔ほど
忘れられないものはない。

二〇一八年十三月十二日 「意味なしに、バカ。」

このとき考えたというのは
このときよりまえには考えたことのないことについて考えるという場合と
このときよりまえに考えたときとは違う方向から眺めたり
その思考対象に対して考えたことのない考えを思いめぐらすことであって
けっして
以前に考えたようには考えたということではなかった。
以前に考えたように考えるというのであれば
それは、たんなる追走にしか過ぎないであろう。
追想ね、バカ。
六波羅小学校。
運動場の
そと
路地だった。
彼は
足が3分の1で
ハハ
小学校だった
のではなかった
中学校だった
そいつも不良だった
ぼくは不良じゃなかったと思うのだけれど
学校や
家では

親のいるまえでは
バカ
そいつのことが好きだったけど
好きだって言わなかった
そういえば
ぼくは
学校では
だれのことも好きだって言わなかった
中学のとき
塾で
女の子に
告白されたけど
ぼくは好きだって言わなかった
かわいい子だったけど
好きになるかもしれないって思ったけど
3分の1

みじけえ
でも
なんか
まるまるとして
でも
ぜんぶ筋肉でできてるみたいな
バカ
ぼくも
デブだったけど、わら
このとき考えたのは
なんだったんだろう。
遡行する光
ぼくの詩は
詩って言っていい? わら
きっと
箱のなかの
頭のなかに
閉じ込められた光
さかのぼる光
箱のなかで
反射し
屈折し
過去に向かって遡行する光
ぼくの見たものは
きっと
ぼくの見たものが
ぼくのなかを遡行する光だったんだ
ぼくのなかで
遡行し
走行し
反射し
屈折する光
考える光
苦しんだ光
笑った光
きみの手が触れた光だった
先輩が触れた
ぼくの手が見てる
ぼくの光
光が光を追いかける
名前も忘れてしまった
ぼくの光
光が回想する
光にも耳があってね
音が耳を思い出すたびに
ぼくは
そこにいて
六波羅小学校の
そばの
路地
きみのシルエットはすてきだった
大好きだった
大好きだったけど
好きだって言わなかった
きみは
遠いところに引っ越したぼくのところに自転車で来てくれて
遡行する光
反射し
屈折する光
光が思い出す




何度も
光は
遡行し
反射し
屈折し
思い出す。
あんにゃん
一度だけ
きみの腰に手を回した
自転車の後ろに乗って
昼休み
堀川高校
いま
すげえ進学校だけど
ぼくのいたときは
ふつうの高校で
抜け出して
四条大宮で
パチンコ
ありゃ
不良だったのかな、わら
バカ
意味なしに、バカ。
どうして光は思い出すんだろう
どうして光は忘れないのだろう
光はすべてを憶えてる
光はなにひとつ忘れない
なぜなら、光はけっして直進しないからである。

二〇一八年十三月十三日 「暇だと、現実に溺れてしまう。」

暇じゃないけど
暇みたいに見えるだろうなあ。
「この夏は
 詩を書いてらっしゃったの?」
そんなことないですよ。
夏は
ぼく
ぜんぜんダメだし
ゲヘヘ
これから秋じゃ〜ん
頭が冴えてくるハズゥ

ここまでは言わへんかったけど
「夏は
 ぼくの敵です。」
敵は
ぼくのさぼり癖だよ。
ちょっと耽溺するはずが
ずいぶん耽溺して
現実に溺れてしまうのだ。
でも
先週
二杯目の焼酎
ロック
ひとくち
口をつけただけで
もう飲めなかった
タバコにも
またアレルギーで
吐き気がするし
でも
もう秋じゃ〜ん
ぼくの頭が冴えてくるハズゥ
読書の秋って
よく言うな
ぼくにとって
よい読書がいちばん
元気のもと
去勢
すごい博学だけど
まるでキチガイじみた博学さ
好きだけど、わら
現実に溺れる
非現実に溺れるぐらいに、わら。
わらら。
プッ。

二〇一八年十三月十四日 「どろどろになる夢を見た。」

焼死と
変死と
飢え死にとだったら
どれがいい?
って、たずねたら
魚人くんが
変死ですね。
って、

ぼくも。

言うと
アラちゃんが
勝手に
「ぼく安楽死」と名言。
じゃない
明言。
フンッ。
目に入れたら痛いわ。
そこまで考えてへんねんけど
どなると
フェイド・アウト
錯覚します
割れた爪なら
そのうち、もとにもどる
どろどろになる夢を見た
目にさわるひと
耳にさわるひと
鼻にさわるひと
手にさわるひと
足にさわるひと
目にかける
耳にかける
鼻にかける
手にかける
足にかける
満面のお手上げ状態
天空のごぼう抜き
乳は乱してるし
ちゃう

はみだしてるし
そんなに
はみだしてはるんですか
抜きどころじゃないですか?
そんな
いきなり乳首見せられても
なんで電話してきてくれへんの?
やることいっぱいあるもの。
あんまり暇やからって
あんたみたいに飛行機のなかでセックスしたりせえへんちゅうの!
ディッ
ディルド8本?
ちゃうわよ。
ビデオとディルドと同じ金額やのね。
あたし、ほんとに心配したんだから
ワシントン条約でとめられてるのよ
あんたが?
ビデオがよ
ビデオが?
ディルドもよ
ロスから帰るとき
あなたがいなくなってびっくりしたわ
16年前の話を持ち出さないで!
ビデオ7本とディルド1本で
合計16万円の罰金よ
空港の職員ったら
CDまでついてくんのよ
カードで現金引き出すからだけど
なによ
さいしょ、あんたディルド8本で
つかまったのかしらって思ったのよ
は?
8本の種類って
あんた
どんだけド淫乱なのかしらって、わら
大きさとか形とかさ、わら
それはまるで蜜蜂と花が愛し合うよう
それは
必要
かつ
美しいものであった
それは
ほかのものたちに
したたる黄金の輝きと
満たされていないものが
いっぱいになるという
充溢感をもたらせるもの
生き生きとしたライブなものにすることのできる
イマージュ
太字と
細字の
単位は不明の
イマージュ
読みにくいけれど、わら
ふんで

二〇一八年十三月十五日 「132センチの世界」

ドハゲ
ドチビ
ドブス
ド近眼
ゲイ
統合失調症のぼく
それでも、めげない!

二〇一八年十三月十六日 「232キロの世界」

たんなるハゲ
たんなるデブ
たんなるブス
たんなる近眼
たんなる統合失調症
たんなるゲイのぼく
部屋にはいるのに半日かかり
部屋から出るのに半日かかるぼく
それでも脱げない!
じゃない
めげない!

二〇一八年十三月十七日 「友だちのいないひと」

シンちゃんも
ちょっとおかしいし
ジミーちゃんもいまダウンしてるし
まえに付き合ってた恋人はブッチしてるし
ぼくもいま友だちがアライブじゃないんだけど
きょう
友だちのいないひとが
ぼくの部屋にきた
ぼくはきみの友だちじゃないんだから
ぼくのこと
友だちだと思わないでねって言って
ぼくには頼らないでねって言った
きみは
ぼくが幸せにしたいひとじゃないんだから
きのう
じゃないや
けさ
何度も起きた
4時とか
5時とか
6時前に
そしたら
近くにおられる先生が
ぼくと同じように
あさ
何度も起きたって
目が覚めたって
きょうから授業だったから。
ぼくと同じように
緊張するんやなあって思って
「ぼくもですよ。
 けさ
 何度もおきちゃって
 緊張してたのですね。
 こころって
 身体に
 ほんとに影響しますね。
 ちゃんと
 あさ
 起きなさいって
 言うんですね。
 あ
 命じるのかな。」
って言って。
ごめんなさい。
ぼくは
きみの友だちじゃないから
ぼくの顔を見にこないで。
「すいません。
 うっとうしいですか?」
まあね。
きみは
ぼくが幸せにしたいひとじゃないんだもの。
ぼくってケチなんだ。
わけると増えるのが愛かもしれないけれど。
きみに、わけるつもりはなくって。
きみを愛することも
憎むこともできそうにないし
しないよ。
きょう
友だちのいないひとが部屋にきた。
ぼくはずっと
ほとんどずっと
ミクシィと
チューブに集中して
友だちのいないひとの顔を見ないようにしてた。
そろそろお風呂にしようかな。
きょうは、いいチューブをたくさん見たよ。
いい映像がいっぱい。
いい音楽がいっぱい。
いいジョークがいっぱい。
画像のなかでは
愛がいっぱい。
愛がいっぱいだった。
きょうは、いいチューブをいっぱい見たよ。
いい映像がいっぱい。
いい音楽がいっぱい。
いいジョークがいっぱい
How About Love?

二〇一八年十三月十八日 「ケイト・ウイルヘルムの『杜松の時』を読み終わって、基本的なことの振り返りを。」

引用から。(サンリオSF文庫・友枝康子訳、84ページ)

 始まりは簡単だった、とジーンは思った。何事も始まりは簡単なもの
だ。表面は簡単だ。しかし深く入ると複雑なものだ。その表面をジーン
がごく当り前に受け入れることができる間は、生活は容易だった。何事
でも、誰にでも非常に感じやすい表面張力というものがあり、それを動
揺させることなくその近くをすれすれに通っていくのが安全だと彼女は
悟った。表面張力を破ることなく見ることは、人が見ることを選んだも
の、理解しうることなのだった。投影された自分だからだ。しかし一た
びその表面が攪乱されると、流れや横流、波の逆巻く水域などの渦中に
引きずりこまれて、透明なもの、簡単なもの、扱いやすいものは跡形も
なくなる。

 一年まえまで付き合っていた恋人とは、5年くらいのあいだ付き合って
いたのだが、それまで付き合っていた恋人とは違って、ほぼ毎日会って
いた。付き合って3年目くらいかな。それまでに見たことのない表情で
ぼくを非難したことがあって、びっくりしたことがある。でも、それが
きっと、彼についてのイメージのなかで、ぼくの持っていなかったもの
だったのだろう。
 ぼくの持っていた、彼についてのイメージ。ぼくの自我の範囲のなか
で形成されたイメージ。ぼくの自我が推測して形成したイメージ。
 ということは、ぼくが驚いたときにはじめて、ぼくの自我が形成した
ものではない彼に出会ったことになる。
 このときのショックほどではないが、だれかと会うような機会がある
と、よく驚かされることがあるのだが、人生は驚きの連続だなと、陳腐
な言い回しがよく思い浮かぶ。
 
 しかし、ここで皮肉なことに、ワイルドの言葉を思い出してしまっ
た。あるいは、三島由紀夫だったかな。

皮膚がいちばん深い。

二〇一八年十三月十九日 「こんな詩があったらいいな。」

内容がなく
意味がなく
音も声もなく
形もない詩。
あるいは
内容があり
意味があり
音も声もあり
形がない詩。
あるいは
内容がなく
意味がなく
音も声もなく
形がある詩。

二〇一八年十三月二十日 「いっしょに痛い。」

いっしょに痛い。
ずっと、いっしょに痛い。

ポンポンと恩をあだで返すひと。

するすると穴があったら入るひと。

サイズが合わない。

靴は大きめに買っておくように言われた。

こどものとき。

死んだ●●と●●するのは恥ずかしい。

二〇一八年十三月二十一日 「誤解を誤解すると」

誤解を誤解すると
誤解じゃなくなる

なんてことはないね。

二〇一八年十三月二十二日 「すぐに通報します。」

韓国テレビの『魔王』のなかでのセリフ

「おれは知っている、
 ひとは過去を忘れても、
 過去はけっしてひとを忘れない。」

そやろうか。

ロバート・バーンズの言葉

「他人の目に映るように、自分を見れたら。」

そうやね。

かつて人間は
無意識の自分
あるいは
内心の声を
神の存在と結びつけていたのではないか。

二〇一八年十三月二十三日 「詩論」

詩と散文の違いは
改行とか、改行していないとかだけではなくて
根本的には
詩は
鋭さなのだということを
考えています。

それを
狭さ
という言葉にしてもよいと思います。

ウィリアム・カーロス・ウィリアムズは
具体物
と言いました。

経験を背景としない詩は
まずしい。

しかし、経験だけを背景にした詩も
けっして豊かなわけではないのですね。

才能というものが
たくさん知っていることでもなければ
たくさん知っていることを書くことでもないと思うのですが
たくさん知っていて
そんなところはうっちゃっておいて書く
ということが大事なのかなあって思っています。

きのうもお話したように
もう雑誌や同人誌の時代は完全に終わっています。
ネットで下書きを書き
詩集で完成形にいたらせる
ということで
これからの数十年は過ぎていくでしょう。

それからあとのことはわかりません。
ただ、文学を楽しむことのできる人間の数が極度に減っていくと思います。

二〇一八年十三月二十四日 「近所の大国屋で、きのうの夜の10時過ぎに夜食を買いに行ったら」

レジ係の女性が、ぼくに話しかけてきた。
「日曜もお仕事なんですね。」
ぼくは、このひと、勘違いしてるなと思ったから
あいまいに、うなずいた。
ぼくと似てるひとと間違えたのかな。
でも、ぼくに似てるひとなんて、いなさそうなのにね。
なぞやあ。
おもろいけど。
こんどは、あのリストカッターの男の子に話かけられたいよう。
あごひげの短髪の体格のいい、童顔の男の子やった。

二〇一八年十三月二十五日 「『スプーンリバー詞花集』、到着しました。」

ネット古書店は、すごい。
注文して2日後に到着。
およそ半額で購入しましたが
まっさらでした。
よかった。
詩集って、古書店で買うもの
ほとんどが新品同様だったのだけれど
これって、贈られたひとが売ったものなんやろうか。
このあいだのジェイムズ・メリルといい
作品の質は高くて、資料的にも必要なもので
ふつう、詩人なら手放さないような気がするんやけど
ちがうかな。
『スプーンリバー詞花集』、パラ読みしたら、訳文に
不満が。
訳文自体の文体がおかしい日本語で
句読点の打ち方もおかしいところがあり
びっくりしました。
……だそうだ。
にするべきなのに
……だ、そうだ。
なんて、ぜったいにおかしいし
口語と文語がぐっちゃぐちゃ。
むかし読んだものと違う印象がある。
翻訳者が違うのかなあ。

二〇一八年十三月二十六日 「リストカット」

近所の大国屋でバイトしている男の子は
たいてい体育会系の子が多くて
ガタイがよくて、肌が日に灼けてて
スーパーの店員らしくないんだけど
なかには、ぼくと目が合って
なにやら、あやしい雰囲気をかもし出す子もいて、笑

そのなかのひとり
その子がレジ係のときに
ぼくの目をあまりにきつい目で見返すものだから
ああ、きっと、この子って、ぼくに興味があるんだなあって
2、3週間思っていたのだけれど
先週だったかな
レジで作業している
その子の左手首を見たら
たくさんの切り傷があって

ぼくの左手首にもリストカットの傷痕があって
でも
その子の傷痕は、ぼくのよりも太くって長くって
たくさんで、びっくりした。
ぼくのは、包丁だったけど
その子のは、包丁とは思われない太さだったから
あれは、なんで切ったんやろうか。
登山ナイフか何かかなあ。
包丁とは思われない太さの傷痕やった。
でも
その男の子
顔はかわいくて
体格もよくって
女の子にもモテル感じやったから
なんか
こころのなかに持ってるんやろうね。
ぼくが彼の左手首の傷痕を見てから
ぼくとその子は
ぼくが大国で買い物をするたびに
何度も見つめ合ってるんやけど
言葉は交わせられへんね。
きっと、ずっと。
言葉を交わしたら、アカンような気がする。
見つめ合ってるだけで、わかるところがあるような気がする。
こころのなかに持ってるってこと。
こころのなかに持っていて
持っているのがいやなものを。
きっと、ね。

二〇一八年十三月二十七日 「いま、ヨッパで帰ってきたところでした。」

まえに付き合っていた恋人と飲みに行きました。

こんなこと言われて、ドボン→
「けっきょく、あっちゃんって、放任主義やからなあ。
 いまの恋人って、おれのこと、束縛してきよるんやけど
 そこかな。
 心配されてるって感じがするやろ。」
「えっ?」
むっちゃ腹が立ったので
嘘をついてやりました。
「ぼくにも恋人ができたんやで。」
「どこで見つけたん?」
「ぜったい言わへん。」

前恋人は12時過ぎに帰りましたが
ぼくは2時過ぎまで飲んでました。
店を出て、ヨッパでぶらぶら
立ち並木にぶつかって
ヘッドフォンこわして
半泣きで帰りました、笑。

二〇一八年十三月二十八日 「詩論」

わたしとは、なにか。わたしとは、どこにあるのか。

ということに、とても興味があった。
20代から、ずっと。
引用のみによる実験的な作品も
それを明らかにしたいという気持ちから、つくったものでもあった。
だれひとり、引用のみによる詩をぼくがつくった動機について
このように考えたひとはいなかったけれど。
いま、ぼくは、「わたし」とは、形成力としてのロゴスであると思っている。
意味形成という側面からだけではなく
意味の希薄な情景や情感の形成にもロゴスが関与していると思っている。
このときのロゴスとは、引力のようなもので
引き付け合う力である。
もちろん、これは何も新しい考え方ではなくて
ソクラテス以前のギリシア哲学にあるもので
「何を、いまさら」というものであるが
「何を、いまさら」ということをはっきり検証したのが
引用のみによる詩であった。
ふつうの書法では、自明的でないからである。
また、コラージュでもわかったことだが
ひとつひとつの言葉や、さまざまな情景や、いろんな音が
それぞれロゴスを持っていて
互いに結びつこうとしていること。
その場所が「わたし」であるということだった。
もちろん、そのロゴスは、たとえば
同じ語であっても、ぼくのなかに飛び込んできたとき
ぼくのなかの他の語や感情といったものが作用するとき
同じ語が、それまで持たなかった違った引力を持ったりするのだけれど、
まあ、はやい話が
部分が寄り集まって、場と実体を持つとして
それが、「ぼくというもの」になると考えるのだけれど
だから、容易に
「わたしでないもの」が「わたし」になることができるのである。
洗脳が良い例である。
単純な話だと思うのだけれど
どうして、世のなかに氾濫している自我論って
むずかしく書かれてあるのだろうか。
むずかしく(見せて)書くことに意義があるとでも思っているのかもしれない。
ひさびさの日記は
つまらないことを書いてしまったように思うが
このぼくの日記よりもつまらないものを
ここ1週間ほど読んだ気がする。
みんなまとめて、さっき捨てました。

二〇一八年十三月二十九日 「詩論」

きのう
キム・イングォンくんが弟で
ぼくといっしょに暮らしている夢を見ました。
夢をつくっているわたしと
夢を見ているわたしが同じものなのかどうかは
いまだにわからないのだけれど
ロゴスという点で
意味形成・情景形成と
意味把握・解釈という
点で
結びつける力が
わたしなのだと思った。
きょうは、キム・イングォンくんに会えるかな。

二〇一八年十三月三十日 「文体」

ここ1週間で読み終わったSF文庫本。

『エデンの授粉者』 ジョン・ボイド
『異次元を覗く家』 ウィリアム・ホープ・ホジスン
『黄金卿の蛇母神』 A・メリット
『窒素固定世界』 ハル・クレメント
『サンダイバー』 デイヴィッド・ブリン
『謎の大陸』 アトランティス  デル・リー
『第十番惑星』 ベリャーエフ
『テラの秘密調査官』 ジョン・ブラナー
『呪われた村』 ジョン・ウィンダム

どれもカヴァーの絵がすばらしかったので買っておいたものだが
中身がカヴァーに釣り合うくらいによかったものは
『エデンの授粉者』と『呪われた村』くらいかなあ。
なつかしく、かわいいジュブナイルSFとしてなら
ベリャーエフの『第十番惑星』もいいかもしれない。
『異次元を覗く家』なんて
100年まえの小説で、文体が古臭かった。
しかし、ジョン・ウィンダムは、
古くならない作家だと思った。
なんでやろうか。
詩でも、ぜんぜん古くならないものってある。
古くなるものって、どこが古くなるんやろうか。
やっぱり文体なんやろうね。

二〇一八年十三月三十一日 「100人のダリが、曲がっている。」

のだ。
を。
連続
べつにこれが
ここ?
お惣菜 眉毛
詩を書く権利を買う。
詩を買う権利を書く。
そんなお茶にしても
また天国から来る
改訂版。
グリーンの
小鉢のなかの小人たち
自転車も
とまります。
ここ?
コロ
ぼくも
「あそこんちって
 いつも、お母さんが怒鳴ってるね。」
お土産ですか?
発砲しなさい。
なに?
アッポーしなさい。
なになに?
すごいですね。
なになになに?
神です。
行け!
日曜日には、まっすぐ
タトゥー・サラダ
夜には、まさかの
タトゥー・サラダ
ZZT。
ずずっと。
感情と情感は間違い
てんかんとかんてんは勘違い
ピーッ
トコロテン。
「おれ?
 トラックの運転してる。」
毎日もとめてる
公衆の口臭?
公衆は
「5分くらい?」
「おととい?」
ケビン・マルゲッタ。
半分だけのあそ
ピーッ
「八ヶ月、仕事なかったんや。
 そんときにできた借金があってな。
 いまも返してる。」
「じゃあ、はじめて会うたときは
 しんどいときやったんやね。」
たんたんと
だんだん
もうすぐ
だんだんと
たんたん
一面
どろどろになるまで
すり鉢で、こねる。
印象は、かわいい。
「風俗には、金、つこたなあ。
 でも、女には、よろこばれたで。
 おれのこんなぐらいでな(親指と人差し指で長さをあらわす=小さい)
 糖尿で、ぜんぜんかたくならへんから
 おれの方が口でしたるねん。
 あそ
 ピーッ
めっちゃ、じょうずや言われる。」
イエイッ!
とりあえず、かわいい。
マジで?
梅肉がね。
発砲しなさい。
あそ
ピーッ
お土産ですか?
説明いりません。
どれぐらいのスピードで?
まえにも
あそ
ピーッ
見えてくる。
「選びなさい。」
曲がろうとしている。
間違おうとしている。
見えてくる。
「選びなさい。」
まさかの
トコロテン。
ピーッ
あそ
ピーッ
見えてくる。
「上から」
ピーッ
見えてくる
「下から。」
のだ。
を。
連続
ピーッ
唇よりも先に
指先が
のだ。
を。
連続
ピーッ
行きます。
「選びなさい。」
「からから。」
「選びなさい。」
「からから。」
たまに
そんなん入れたら
なにかもう
ん?
隠れる。
指の幅だけ
ピーッ
真っ先に
あそ
ピーッ
みんな
ネバネバしているね。
バネがね。
蟻がね。
雨が
モモンガ
掲載させていただきました。


詩の日めくり 二〇一九年一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一九年一月一日 「ウルトラQ」

元旦からひとりぼっち。ウルトラQのDVDを見てすごす。やっぱり、ウルトラQの出来はすばらしい。ちくわを肴に、コンビニで買ったハイボールも2杯のんで、いい感じ。ウルトラQ、涙が出るくらい、いい出来だ。

二〇一九年一月二日 「調子ぶっこいてバビロン」

そういえば
きょう、仕事場で
このあいだの女性教員ね
そのひとに
「田中さんて
 なんで、そんなに余裕のある顔してるの
 つぎの仕事を探さなきゃならないっていうのに。」
なんて言われました。
べつに余裕のある顔してるんじゃなくって
そういう顔つきなのっていうの。
ああ
調子ぶっこいてバビロン
きょう
20数年ぶりにあったひとがいてね
そのひとに
さそわれちゃった、笑
ぼくの数少ない年上のひとでね
相変わらずステキでした

二〇一九年一月三日 「卵予報」

きょうは、あさからずっとゆで卵でしたが
明日も午前中は固めのゆで卵でしょう。
午後からは半熟のゆで卵になるでしょう。
明後日は一日じゅう、スクランブルエッグでしょう。
明々後日は目玉焼きでしょう。
来週前半は調理卵がつづくと思われます。
来週の終わり頃にようやく生卵でしょう。
でも年内は、ヒヨコになる予定はありません。
では、つぎにイクラ予報です。

二〇一九年一月四日 「卵」

あなたが見つめているその卵は
あなたによって見つめられるのがはじめてではない
あなたにその卵を見つめていた記憶がないのは
それは
あなたがその卵を見つめている前と後で
まったく違う人間になったからである
川にはさまざまなものが流れる
さまざまなものがとどまり変化する
川もまた姿を変え、形を変えていく
その卵が
以前のあなたを
いまのあなたに作り変えたのである
あなたが見つめているその卵は
あなたによって見つめられるのがはじめてではない
あなたにその卵を見つめていた記憶がないだけである

二〇一九年一月五日 「リサ・タトル」

イギリスSF傑作選『アザー・エデン』さいごに収録されたリサ・タトルの「きず」を読んで寝よう。ギャリー・キルワースの掌篇3篇は笑った。質の高いアンソロジーだった。むかしはじめて読んだときも、アンソロジーとして、質が高いと思ったのだけれど。

リサ・タトルの「きず」を読み終えた。おもしろかったという記憶通り、おもしろい作品だった。内容は憶えていなかったのだけれど。きょうから、イアン・マクドナルドの『火星夜想曲』を読む。まあ、きょうは、後書きと冒頭の作品の一部で眠りにつくことになるのだろうけれど。楽しみだ。これは初読だ。

二〇一九年一月六日 「創卵記」

神は鳥や獣や魚たちの卵をつくった
神は人間の卵をつくった
卵は自分だけが番(つがい)でないのに
さびしい思いがした
そこで、神は卵を眠らせて
卵の殻の一部から
もう一つの卵をつくった
卵は目をさまして隣の卵を見てこう言った
「おお、これこそ卵の殻の殻
 白身もあれば黄身もある
 わたしから取ったものからつくったのだから 
 そら、わたしに似てるだろうさ」
それで、卵はみんな卵となったのである

二〇一九年一月七日 「朗読会の準備」

クリアホルダー20枚と用紙500枚を買ってきた。1月19日(土)の朗読会で配布する、ぼくの詩のテキストを印刷するためだが、いま考えているのは、18枚に相当する量で、30分の朗読では、多すぎるかもしれない。途中でやめるということも考えている。ザ・ベリー・ベスト・オブ・ザ・ベストだ。

わずか1時間で、1月19日(土)の朗読会の、配布用のテキストが印刷できた。頭のなかの計算では数時間かかると出たのだけれど、機械はすごいね。「王国の秤。」を落として、「マールボロ。」を採った。はじめて書いた詩である「高野川」から、最新作の「いま一度、いま千度、」まで、選びに選んだ。

朗読会は、1月19日の土曜日に京都の岡崎で催されます。もう予約でいっぱいなので、新しく参加されることはできないと思いますが。宮尾節子さん主催です。ぼくはゲストになっています。30分ほど朗読する予定です。(対談含めてかもしれませんが)

二〇一九年一月八日 「約束の地」

その土地は神が約束した豊かなる土地
地面からつぎつぎと卵が湧いて現われ
白身や黄身が岩間を流れ
樹木には卵がたわわに実って落ちる
約束の地

二〇一九年一月九日 「二つの卵」

二つの卵は
とても仲良し
いつもささやきあっている
二人だけの言葉で
二人だけに聞こえる声で

二〇一九年一月十日 「水根たみさん」

水根たみさんから、詩集『幻影の時刻』を送っていただいた。10行にも満たない短詩がいくつも載っている。長くても、14、5行。いさぎよい感じ。ここまで言葉を短くできるのかという思いで、詩行を読んだ。

二〇一九年一月十一日 「卵」

卵を割ると
つるりんと
中身が
器のなかに落ちた
パパが
胎児のように
丸まって眠っていた
ぼくは
お箸を使って
くるくるかき回した
パパはくるくる回った

二〇一九年一月十二日 「卵」

卵を割ると
つるりんと 中身が
器のなかに落ちた
ぼくはちょっとくらくらした
ぼくが胎児のように
丸まって眠っていた
ぼくは
お箸を使って
くるくるかき回した
ぼくはくるくる回った
ものすごいめまいがして
目を開けると
世界がくるくる回っていた

二〇一九年一月十三日 「空卵」

卵を割ると
空がつるりんと
器のなかに落っこちた
白い雲が胎児のように
丸まって眠っていた
ぼくは
お箸を使って
くるくる回すと
雲はくるくる回って
風が吹いて
嵐になって
ゴロゴロ
ゴロゴロ
ピカッ 
ババーン
って
雷が落ちた
ぼくは
怖くなって
お箸をとめた

二〇一九年一月十四日 「イアン・マクドナルド」

イアン・マクドナルドの『火星夜想曲』ぼくには読みにくい文体だ。ここ10日間ほどで、まだ数十頁しか読めていない。きのう、Amazon で、『三分間の宇宙』と『ミニミニSF傑作展』を買った。短篇SFのアンソロジーだ。到着するのが楽しみ。中断中の読書、3冊。楽しくない読書はやめるようにしている。

二〇一九年一月十五日 「卵」

コツコツと
卵の殻を破って
卵が出てきた

二〇一九年一月十六日 「卵」

コツコツと
卵の殻を破って
コツコツという音が生まれた
コツコツという音は
元気よく
コツコツ
コツコツ
と鳴いた

二〇一九年一月十七日 「卵」

藪をつついて卵を出す
石の上にも卵
二階から卵
鬼の目にも卵
覆水卵に戻らず
胃のなかの卵

二〇一九年一月十八日 「『三分間の宇宙』と『ミニミニSF傑作展』」

何日かまえに、Amazon で注文した、SFアンソロジー『三分間の宇宙』と『ミニミニSF傑作展』が届いた。『三分間の宇宙』は新刊本のように、きれいだ。タイトルだけで、本文が一文字もない作品も載っている。そういえば、『源氏物語』にも、そういうものがあったかなあと記憶している。間違えてるかな?

二〇一九年一月十九日 「たくさんのひとり」

いま朗読会の1次会から帰ってきた。貴重な一日だった。

たくさんのひとりという言葉を使って朗読しておられた方がいらっしゃって、そうだね、ぼくたちは、たくさんのひとりだよねって思った。

二〇一九年一月二十日 「まーくんと、きよちゃん」

まーくんと、きよちゃん。ぼくの誕生日に、日知庵で、ぼくのために焼酎の『夢鹿』を一本、入れてくださったお客さま。お名前を憶えておかなくちゃね。とてもチャーミングなカップルだ。きよちゃんは、喜代子ちゃんというのが本名。とてもかわらしい女子だ。まーくんも同じく、とてもかわいらしい男子だ。

二〇一九年一月二十一日 「卵」

教室に日光が入った
きつい日差しだったから
それまで暗かった教室の一部がきらきらと輝いた
もうお昼前なんだ
そう思って校庭を見た
卵の殻に
その輪郭にそって太陽光線が乱反射してまぶしかった
コの字型の校舎の真ん中に校庭があって
その校庭のなかに
卵があった
卵のした四分の一くらいの部分が
地面の下にうずまっていて
その上に四分の三の部分が出てたんだけど
卵が校庭に現われてからは
ぼくたちは体育の授業ぜんぶ
校舎のなかの体育館でしなければならなかった
終業ベルが鳴った
帰りに吉田くんの家に寄って宿題をする約束をした
吉田くんちには
このあいだ新しい男の子がきて
吉田くんが面倒を見てたんだけど
きょうは吉田くんのお母さんが
親戚の叔母さんのところに
その子を連れて行ってるので
ぼくといっしょに宿題ができるってことだった
吉田くんちに行くときに
通り道に卵があって
ぼくたちは横向きになって
道をふさいでる卵と
建物の隙間に
身体を潜り込ませるようにして
通らなければならなかった
そのとき
吉田くんが
ぼくにチュってしたから
ぼくはとても恥ずかしかった
それ以上にとてもうれしかったのだけれど
でもいつもそうなんだ
ふたりのあいだにそれ以上のことはなくて
しかも
そんなことがあったということさえ
なかったふりをしてた
ぼくたちは道に出ると
吉田くんちに向かって急いだ

二〇一九年一月二十二日 「卵」

わたしは注意の上にも注意を重ねて玄関のドアをそっと開けた
道路に卵たちはいなかった
わたしは卵が飛んできてもその攻撃をかわすことができる
卵払い傘を左手に持ち
ドアノブから右手を静かにはなして外に出た
すると、隣の家の玄関先に潜んでいた一個の卵が
びゅんっと飛んできた
わたしは
さっと左手から右手に卵払い傘を持ち替えて
それを拡げた
卵は傘の表面をすべって転がり落ちた
わたしは
もうそれ以上
卵が近所にいないことを願って歩きはじめた
こんな緊張を強いられる日がもう何ヶ月もつづいている
あの日
そうだ
あの日から卵が人間に反逆しだしたのだ
それも、わたしのせいで
京都市中央研究所で
魂を物質に与える実験をしていたのだ
一個の卵を実験材料に決定したのは
わたしだったのだ
わたしは知らなかった
そんなことをいえば
だれも知らなかったし
予想すらできなかったのだ
一個の卵に魂を与えたら
その瞬間に世界中の卵が魂を得たのだ
いっせいに世界中にあるすべての卵に魂が宿るなんてことが
いったいだれに予想などできるだろうか
といって
わたしが責任を免れるわけではない
「これで進化論が実証されたぞ」と
同僚の学者の一人が言っていたが
そんなことよりも
世界中の卵から魂を奪うにはどうしたらいいのか
わたしが考えなければならないことは
さしあたって、このことだけなのだ

二〇一九年一月二十三日 「きみは卵だろう」

バスを待っていたら
停留所で
知らないおじさんが ぼくにそう言ってきた
ママは、知らない人と口をきいてはいけないって
いつも言ってたから、ぼくは返事をしないで
ただ、知らないおじさんの顔を見つめた
きみは卵だろう
繰り返し、知らないおじさんが
ぼくにそう言って
ぼくの手をとった
ぼくの手には卵が握らされてた
きみは卵だろう
待っていたバスがきたので
ぼくはバスに乗った
知らないおじさんはバス停から
ぼくを見つめながら
手を振っていた
塾の近くにある停留所に着くまで
ぼくは卵を手に持っていた
卵は、なかから何かが
コツコツつついてた
鶏の卵にしては
へんな色だった
肌色に茶色がまざった
そうだ
まるで惑星の写真みたいだった
木星とか土星とか水星とか
どの惑星か忘れたけど
バスが急停車した
ぼくは思わず卵をぎゅっと握りつぶしてしまった
卵の殻のしたに小さな人間の姿が現われた
つぎの停留所がぼくの降りなければならない停留所だった
ぼくは殻ごとその小人を隣の座席の上に残して立ち上がった
その小人の顔は怖くて見なかった
きみは卵だろう
知らないおじさんの低い声が耳に残っていたから
降りる前に一度けつまずいた
ぼくは、一度も振り返らなかった

二〇一九年一月二十四日 「テーブルの上に残された最後の一個の卵の話」

透明なプラスティックケースのなかに残された
最後の一個の卵が汗をびっしょりかいている
汗びっしょりになってがんばっているのだ
その卵は、ほかの卵がしたことがないことに
挑戦しようとしていたのだった
卵は、ぴょこんと
プラケースのなかから跳び出した
カシャッ

二〇一九年一月二十五日 「記憶」

ふと、京大のエイジくんのことを思いっきり思い出してしまって、そのエイジくんに似ている、いま好きな子とのあいだに、いくつもの共通点があって、人間の不思議を感じる。もしかしたら、人間って、ひとりしかいないのかもしれないって思ったことがある。ただひとりの人間が、何人もの人間のフリをしたがって、何人もの人間のように見えてるだけじゃないのかって。そう思えるくらいに、似ているのだ。顔ではない。雰囲気かな。魂かな。姿かたちではないものだ。ああ、そんなことを言えば、ヒロくんとも似ている。みんな、同一人物じゃないのかってくらい。しかし、これは錯覚だろう。ぼくの脳が、何人もの人間を結びつけようとしているだけで、ひとりひとりまったく違った雰囲気、魂をもっているのだろうから。ただ、脳の認識のうえでは、何人もの人間がひとりに見えることがあるというだけで。けさ、ノブユキの夢を見た。もう25年もまえの恋人を。

二〇一九年一月二十六日 「断片」

ひとはそれぞれの人生において、そのひと自身の人生の主人公であるべきである。したがって、他者に対しては、自己は他者を生かす背景に退かなければならない。けっして他者の人生において、自分が主人公となってはならない。と同時に、自己の人生において、他者を主人公にしてはならない。さまざまな感情に振り回されることのない、たしかなものがほしい。ひさしぶりに訪れた建仁寺の境内の様子は、子どものときに記憶していたものとすっかり違ったものになっていた。わたしの子どものときには、わたしたち子どもたちの姿があちこちに見られた。高学年ならば野球の真似事をしていたのではなかっただろうか。低学年ならば、境内の公園の遊具を用いて遊んでいたものであった。池が二つあった。その一つで、わたしたち子どもたちは、よくザリガニ獲りをしていた。そんな光景は、いまは、どこにもない。子どもたちの姿さえ、どこにも見当たらないのだった。訪れるのは、わたしのような役人か、政府関係者か、切腹を見にやってくる外国人くらいのものであった。戦後になって、首都が東京から京都になり、切腹会場が東京から京都に移されて、建仁寺の境内の様子が様変わりしたのであった。ズズッという音がしたので振り返った。ホムンクルスが串刺しになった。わたしは立ち上がって、男の顔を見た。男はいやしい身なりの霊体狩りで、齢はわたしと同じくらいか、少し上であったろうか。「ここは聖なる霊場である。ここでホムンクルスを獲ることは禁止されておるはず。」男は少しもひるまず、こう答えた。「お役人さまは、お知りじゃないんですね。このあたりでも、近頃は、醜いホムンクルスが徘徊するようになって、わっしらのような者に、ホムンクルスを狩るようにお達しが出されたんでさ。」わたしは自分の無知を恥じて、口をつぐんだ。男はそれを悟ったかのようないやらしいニヤけた笑いを顔に浮かべて、突き刺したホムンクルスを腰にぶらさげた網のなかに入れた。傷ついたホムンクルスの身体から銀白色の霊液が砂利のうえに滴り落ちた。「このホムンクルスのように、化け物じみた醜いホムンクルスたちが増えたのは、つい最近のことですが、ご時世なんでしょうな。」「それ以上、口にするな。」わたしは男を牽制した。どこに目や耳があるかもしれなかった。政治に関する話は、きわめて危険なものであった。男の姿が目のまえから消えてしばらくしてからも、わたしの身体は緊張してこわばっていた。肉体的な苦痛ほど恐ろしいものはない。わたしはそれを熟知していた。なぜなら、わたし自身が拷問者だからだ。わたしにわからない。どうして苦痛が待っているのに、男も女も、日本人も外国人も、反政府活動をするのか。第二次世界大戦で、日本がアメリカに勝ち、アメリカを日本の領土としてから、もう二十年以上もたつというのに、アメリカを日本から独立させようなどという馬鹿げた運動をするのか。国家反逆罪は死刑である。死刑囚から情報を引き出すために拷問するのが、わたしの仕事であった。また、眼球や内臓を摘出したあと、エクトプラズムを抜くために、わたしたちの手から術師たちの手に渡すのだが、そのまえに、まぶたと唇の上下を縫い合わせるのだが、その役目も、わたしたちは担っていた。

二〇一九年一月二十七日 「イマージュ」

鳥の散水機の電気技師の植木鉢のネクタイピンの微笑みのエスカレーターの瞑想の溜まり水の肘掛け椅子の小鳥の映画館の薬莢の古新聞の電信柱の蜜蜂の肘掛け椅子のビニールの牛の藁屑の理髪店の新幹線のレモンの俯瞰の花粉の電気椅子の首吊り台の雲のいまここのいつかどこかのかつてそこの自我の密告者の麦畑の船舶のカンガルーのエクトプラズムのハンカチの襞の寄木細工の草の内証の等級の新約聖書の自明の連続のオフィーリアの多弁の乾電池の朝食の時計のトランプの絆創膏の護符のバインダー・ノートの孔子の老子の荘子の政府承認の散文の韻文の抑揚の踏み板の首吊り縄の勲章の衣装のルーズ・リーフのコンセントの歌留多の帽子の絵空事の逮捕の証明書のぼっきの遺伝性機能障害の検査官の杜甫の陶淵明の去勢の描写の退屈のスパイ行為の旧約聖書の情念のサボタージュの堕落の壁の政治的偏向の因果律の表現のタイルのタオルの葱の小松菜の逐電の代謝作用のレコードのハミガキチューブの古典の技巧の細胞の組織の飛び領土の直線の亡霊の故郷の世界のコーランの原始仏典のチャートの汗の株式相場の計算用紙の意味の構造の漢字の経験の翻訳の瞬間の全体の官能の食料品店の心臓病の収集の薬玉の土曜日の寝台の手袋の顔の曲がり角の森羅万象の金魚の石榴の自転車の蝙蝠の幸福の鉄亜鈴の約束の珊瑚の嵐のつぐみの左手の教理問答の彫像のゼニ苔のウミガメの無関心の修練の献血の飛行機のつぼみの砂肝の道標の犯罪者の群青の異端者の刑罰の電極のチョコレートの意識の知覚の因果関係の非能率の膝頭の壺の光の風景の事物の言葉の音の葉脈の噴水の羽毛の噴水の間違いの存続の鼓動の樹冠の犬の亀裂の娯楽の技法の臨界の砂浜の蚊柱の鍵束の呼吸の神話の紙やすりの座薬の継母の自然の服従の奢侈の経路の埃の食虫植物のヨットレースの舌打ちの撫子の洗面台の受話器の因果律の告発の周期の背中の万葉集の釘抜きの微笑みの悲しみの平仮名の山脈の軍需工場の贓物占いのスパンコールの麻痺の渦巻きの赤錆の手術室のハンバート・ハンバートの考察のジュリアン・ソレルのスポーツ観戦のドン・ジョバンニの俳句の勢子のDNAの砂糖菓子の証言の肉体のコマの胡麻の素朴の軋轢の潜在的同性愛者の有刺鉄線の単位の美の事情の技術の不穏の明晰のヒキガエルの知識の木炭の発音の魂の売春宿の特権階級の太平記の嘘の真実の異議の働きの輸入品の人生の隔離状態の接触の摩滅の物語の現実の井戸の存在の舞踏家の無為の沈黙の殖産興業の小太鼓の原爆の違反者の抑揚のカインの営みのアベルの形容詞の通年の活版印刷のミンチカツ・ハンバーガーの猿の微振動の猫の霞の圧迫の雨の回転運動のマルガレーテの対称移動のジュリエットの杖のハムレットの翼のリア王のショッピングモールの芭蕉のファウストのアーサー王の神のコーヒーのクーラーの破局の悶えのカメラの糊のポールのジョンのジョージのリンゴの黒人の白人の哲学の季節の偏見の創造の黄色人種の骸骨のピンクの仮定の青の紫の向日葵のニガヨモギの裸電球の暁のクエン酸の馬頭星雲の薄暮の朝日の真夜中の正午の文庫本の図鑑の辞書の感情のボール箱の物証の治療のダイダロスの歯ブラシの比喩のエンジンのタオルの事典の韻律の休暇の雑誌の孤独の叫びの螺旋の出来物の表面の剃刀の括約筋の潰瘍の内部の露台の鱗の声のモザイクの交接の繊毛の接触の屏風の喉の階段のイメージの現実の波の肉体の焦点の麻薬の足音の旋回の儀式の背骨のゲップの名残のジャイロスコープの出産の弾丸の迷信の拷問の凧の深淵の堕落の緊急の排泄の漆黒の禿の勝利の偏光のクラゲの恥辱の放棄の愚連隊の弾丸の象牙の皮膚の響きの切り株の人混みの廃墟の高木の茂みの鈴の模様の繁殖の移植の抱擁の恍惚の布地の汚染の睦言の大衆の蔓の火打ち石の海鳴りの緊張の気泡の道の根の演技の橇の憂鬱の記録の噴水の壁掛けの緊張の眉毛の習慣の屈折の桟橋の平面の棍棒の瘡蓋の乳房の眉毛の真珠の刷毛の挨拶の信頼の解説の休息の襲撃の陰毛の物語の誤解の躊躇いの雑草の炎の物腰の強さの弱さの根の結晶の魂の寄生虫の万華鏡の曖昧の覇者のタクシーの騒動の鶏の胃の腸の肺の歓喜の音階の神秘の感触の一枚の溝の隠喩の霧の伸縮自在の追跡の恋歌の波紋の潅木の鳴子の象徴の人間の爆発の楔形文字の饗宴の旋律の木造のトマトケチャップの福音の隣人の頭蓋のマヨネーズの手術の霊感の悲劇の定期券の寝室の読み物のオーバーヒートの性的倒錯の頌歌の凸凹の司祭の蹄鉄の溺死の瞳の狼狽の非在の歓楽街の親指の精神安定剤の地雷の空集合の枯れ枝の跳躍の共鳴の消滅の象形文字の有刺鉄線の存在様式の境界の騙し合いの切符の跳躍の湿疹の手榴弾の田園交響曲の警察の驚愕の手紙の片隅の無人の胸部の思春期の急流の未遂の図書館の地平線の群集の無意識の自動皿洗い機の運動靴の周辺の臍の観覧車の憂いの銀紙のバス停の花壇の白旗のこめかみの頂点の吊革の吸い取り紙の懺悔の踏み越し段の籠の頬の妄想の劇場の陶器の奴隷の囀りの膨張の波動の唸りの洟水の背鰭の軋りの偶然の朝市の被写体の動揺の威厳の木っ端微塵の藪睨みの反復の審問の実体の瞼の突起物の語彙のこおろぎの微熱の絨毯の鼻梁の契約の気配の吟味の喪服の目配せの持ち前の雨音の滑走の武装解除の欄干の義足の上辺の胎動の瀕死の橋梁の指令の血筋の刹那の痙攣の沸点の波間の花びらの権利の水圧機の衝動の触角のエレベーターの符牒の生簀の眩暈の養子の鍾乳洞の数年前の例外の浴室の蛹の駐車場の破片の台風の動機の水槽の容貌の承認の純粋の迷走の虐待の美徳の跳躍の旋律の使徒の足蹴りのなだれの帽子の眩しさの犠牲者の観念論の悔恨の擦れ違いの城壁の封印の漣の尾鰭の輪郭の盲人の狼藉の趣味の国家の行列の神経の迷走の起源の解毒剤の穿孔器の元老院の深層心理の遠心分離機の異星人情報局の紙くずの摘み手のひと刷毛の滑稽の満足感の化粧のピーナツバターの自学自習の生まれ育ちの執刀医の瞑想の血管の謝罪の難点の相殺の花盛りの孵化の把手の留置場の小枝の虹彩の心無しの面影の量子ジャンプの軌道追跡装置の永劫の揮発性の移植の化石の返信の新陳代謝の斥力の割増料金の一瞥の孤島の昏睡状態の拒絶の意思疎通の略奪の新聞紙の弛緩の興奮の先祖の液体酸素の空腹の引力の映写機の緊張の王さまの兆候の激痛の湖岸の人形の難点の不機嫌の習わしの多幸症の瞬きの処方箋の暗黙の減圧室の妥協の茫然自失の物真似の長時間の告白の岸辺の意識の汚染の取り違えの真実の屈辱の芥子の静寂の袋小路の伝染病の微笑の訂正のガラガラのグリグリのバリバリの前歴の水流の偽りのアルマジロの段々畑の糸巻きの憎悪の残量の動作の咽喉の胚芽の悲哀の範囲の潜水艦の闘技場の試験結婚の饒舌の回収の両眼の縫合の禿げ頭の交信の大気圏突入の円環体の蜃気楼の胎児の壁紙の軌道の妊娠の避難の礼儀の汚染の鰐の催眠術の継ぎ目の急降下の輪転機の蜜蜂の大津波の胞子の渓谷の雷電の擬態の翻訳の慈善家の熱風の水蒸気の蝶の消化不良の象の幽霊の結び目の放浪の隊列の嫉妬の抱擁の泥炭質のまがいものの便箋の日没の狩猟場の音楽室の地すべりの電位差の巻き毛の官吏の凝結の鯨の剥製の宇宙飛行士の絶滅の理解の落下の殺戮の交換台の精神改造の戦さ化粧の徘徊の悩みの宇宙人同形論者の基盤の異種族嫌悪症の構造の大股のないがしろの塊の否定の状況の遮断の崇拝の間違いの鉄くずの水牛のスキャンダルの脊髄液の霊魂の繊維のひき蛙の陳列の宿命の費用の輻射熱の横笛の腐敗の還付の突然変異の反動の不意打ちの頭文字の輸出入の塒の呪いの錯覚の鸚鵡の所要時間の合唱の正体の檻の足元の思案の貧困の呟きの鉱山の傍観の砂漠の踊りの爬虫類の演説の凝視の折柄の初耳の彫刻家の爆破!

二〇一九年一月二十八日 「美しい言葉」

荘子は、美しい言葉は、燃え盛る炎のようだと書いていた。

二〇一九年一月二十九日 「ジャック・ケルアック」

未読だったケルアックの本を読む。「ディテールこそが命なのだから。」(ケルアック『地下街の人びと』2、真崎義博訳、新潮文庫100ページうしろから4行目)この言葉以外、目をひくところは、どこにもなかった。とくにこころ動かされる場面も描写もなく、ただただだらしない文体がつづいていく小説だと思った。

二〇一九年一月三十日 「荒木時彦くん」

荒木時彦くんから、詩集『crack』を送っていただいた。余白をぞんぶんに使いこなした、といった印象の詩集だ。

二〇一九年一月三十一日 「西原真奈美さん」

西原真奈美さんから、詩集『朔のすみか』を送っていただいた。朗読会でお聞きした「箱買い」という言葉に再度、出くわして、ぼくにはなかった経験をなさっているのだなあと、あらためて思った。「次の重さ」も重たい気がして、ひさかたぶりに重たい詩を読んだ気がした。


詩の日めくり 二〇一九年二月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一九年二月一日 「現代詩集」

集英社から出た『世界の文学』のシリーズ、第37巻の『現代詩集』は、まず学校の図書館で借りて読みました。のちのち、ネットの古書店で買いました。ウィドブロの『赤道儀』など、すばらしい詩篇がどっさり収録されていました。500円で買ったかと思います。送料別で。

二〇一九年二月二日 「Amazon」

これを嗅いだひとは、こんなものも嗅いでいます。
これを噛んだひとは、こんなものも噛んでいます。
これを感じたひとは、こんなものも感じています。

二〇一九年二月三日 「波と彼」

「波のように打ち寄せる。」というところを
「彼のように打ち寄せる。」と読んでしまった。
寄せては返し、返しては寄せる彼。

二〇一九年二月四日 「作品」

今月、文学極道に投稿した2作品が、じっさいの体験をもとにしたものだということに気づくひとはいないかもしれない。ぼくの実体験じゃなくて、ぼくの恋人や友だちやワンナイトラバーの実体験をもとにしたものである。人間とはなんと奇怪な生きものなのであろうか。じゃくじゃくと、そう思いいたる。

二〇一九年二月五日 「俗だけれど」

ジャン・マレーの自伝をブックオフで108円で買う。ジャン・コクトーの詩集未収録詩篇が巻末に数十篇掲載されていて、読んだ記憶がなかったので、買うことに決めた。まだパラ読みだけれど、ジャン・マレー自身の記述の細やかなことに驚く。よい買い物だった。古書店めぐりをしていて、はじめて目にした本なので、その点でも、手に入れられて、うれしかった。

二〇一九年二月六日 「詩は言語の科学である。」

「詩は言語の化学である。」としたら、だめだね。あからさま過ぎるもの。

二〇一九年二月七日 「若美老醜」

若い頃は、年上の人間が、大嫌いだった。齢をとっているということは、醜いことだと思っていた。でも、いまでは、齢をとっていても美しいひとを見ることができるようになった。というか、だれを見ても、ものすごく精密につくられた「もの」、まさしく造物主につくられた「もの」という感じがして、ホームレスのひとがバス停のベンチの上に横になっている姿を見ても、ある種の美的感動を覚えるようになった。朔太郎だったかな、老婆が美しいとか、だんだん美しくなると書いてたと思うけど、むかしは、グロテスクなブラック・ジョークだと思ってた。

二〇一九年二月八日 「あっちゃ〜ん!」

「あっちゃ〜ん!」ときには、「あっちゃ〜ん! あっちゃ〜ん!」と二度呼ぶ声。父親がぼくになにか用事を言いつけるときに、二階の自分の部屋から三階にいるぼくの名前を呼ぶときの声。ずっといやだった。ぞっとした。気ちがいじみた大声。ヒステリックでかん高い声。

二〇一九年二月九日 「ジキルとハイジ」

クスリを飲んだら
ジキル博士がアルプスの少女ハイジになるってのは、どうよ!
スイスにあるアルプスのパン工場でのお話よ
ジャムジャムおじさんが作り変えてくれるのよ
首から上だけハイジで
首から下はイギリス紳士で
首から上は
田舎者の
山娘
ぶっさいくな
女の子なのよ
プフッ
さあ、首をとって
つぎの首を
力を抜いて
さあ、首をとって
つぎの首を
首のドミノ倒しよ
いや
首を抜いて
力のダルマ落としよ
受けは、いまひとつね
プフッ
ジミーちゃん曰く
「それは、ボキャブラリーの垂れ流しなだけや」
ひとはコンポーズされなければならないものだと思います
だって
まあね
ミューズって言われているんですもの
薬用石鹸
ミューウーズゥ〜
きょうの、恋人からのメール
「昨日の京都は暑かったみたいですね。
 今は長野県にいます。
 こっちは昼でも肌寒いです。
 天気は良くて夕焼けがすごく綺麗でした。
 あつすけさんも身体に気をつけて
 お仕事頑張って下さいね。」
でも、ほんまもんの詩はな
コンポーズしなくてもよいものなんや
宇宙に、はじめからあるものなんやから
そう、マハーバーラタに書いてあるわ

二〇一九年二月十日 「実感」

あ、背中のにきび
つぶしてしもた

ささいな事柄を書きつける時間が
一日には必要だ

二〇一九年二月十一日 「彼女は」

彼女は波になってしまった。

彼女は彼になってしまった。

二〇一九年二月十二日 「ウォルター・テヴィス」

ウォルター・テヴィスの短篇「ふるさと遠く」がSFアンソロジー『三分間の宇宙』に含まれていた。わずか3ページ半だ。最新の訳を数か月まえに読んだのだが、40年まえの翻訳で、また読もう。もう、5度目くらいだ。味わい深い傑作だから、よい。それにしても短い。短いヴァージョンだったりしてね。

二〇一九年二月十三日 「ヴァン・ヴォクト」

ヴァン・ヴォクトの『宇宙船ビーグル号』を堀川五条のブックオフで、82円で買った。持ってたはずなのだけど、あらためて自分の部屋の本棚を見てなかったからだ。82円というのは、2月17日で店じまいでということで、80%引きということでだった。一部は読んだ記憶はある。ジュブナイルもので。

二〇一九年二月十四日 「バレンタインチョコ」

きよちゃん、きょうこさん、藤村さんからバレンタインチョコ。

二〇一九年二月十五日 「B級ばっかり」

よく行くレンタルビデオ屋がつぶれたので、山ほどDVDをもらってきた。さきに、若い子たちが、若い男の子たちが有名なものを持って行ったあとなので、ぼくは、あまりもののなかから、ジャケットで選んでいった。ラックとか、椅子とか、カゴとかも持って行っていいよというのでカゴを渡されて、ま、それで、DVDを運んだんだけどね。でも、見るかなあ。ぼくがもらったのはサンプルが多くて、何ていうタイトルか忘れたけど、一枚手にとって見てたら、店員さんが、それ、掘り出し物ですよって、なんでって訊くと、まだレンタルしちゃいけないことになってますからね、だって。ううううん。そんなのわかんないけど、ぜったい、これ、B級じゃんってのが多くて、見たら、笑っちゃうかも。でも、ほんとに怖かったら、やだな。ホラー系のジャケットのもの、たくさんもらったんだけど、怖いから、一人では見れないかも。ヒロくん、近くだったら、いっしょに見れたね。あ、店員さん、「アダルトはいらないんですか?」「SMとかこっちにありますけど」だって。けっきょく、SMも、アダルトももらってない。もらってもよかったのだけれど、どうせ見ないしね。そしたら、若い男の子が、ここ、きょうで店じまいですから、何枚でも持って帰っていいみたいですよって言ってくれて。その男の子、ぼくがゆっくりジャケット見て選んでるのに興味を持ったらしく「みんな、がばっとかごごと持って帰るのに珍しいですね」と言って、さらに、近くにお住まいですかとか、一人暮らしですかとか、笑顔で訊いてくるので、ちょっとドキドキした。前に日知庵で日系オーストラリア人の男の子にひざをぐいぐい押し付けられたときは、うれしかったけど、困った。恋人がいたので。で、きょうの子も、明日はお仕事ですか、とか、早いんですか、とか訊いてきたので、あ、もう帰らなきゃって言って、逃げるようにして帰った。いま、ぼくには、大事な恋人がいるからね。間違いがあっちゃ、いけないもの、笑。あってもいいかなあ。ま、人間のことだもの。あってもいいかな。でも、怖くて帰ってきちゃった。うん。ひさびさに若い男の子から迫られた。違うかな。単にかわったおっさんだから興味を示したのかな。ま、いっか。

二〇一九年二月十六日 「Close To You。」

「おれ、あしたも、きてるかもしれないっす」
「あっちゃん、おれのこと、心配やったん? 」

ごらん

約束をまもったものも
約束をやぶったものも
悲しむことができる。

「おれ、あしたも、きてるかもしれないっす」
「あっちゃん、おれのこと、心配やったん?」

ジュンちゃん
きょうは
むかしのきみと
楽しかったころのこと
思い出して寝るね。
ぼくと同じ山羊座のO型。
きみの誕生日は18日で
ビートたけしといっしょだったね。
きみが
ぼくの部屋のチャイムを鳴らすところから
思い出すね。
ピンポーンって。
ぼくの部屋は二階だったから
きみは
階段をあがってきて
ただそれだけなのに
ひろいオデコに汗かいて
ニコって笑って
うひゃひゃ。
十九歳なのに
頭頂はもうハゲかけてて
ハゲ、メガネ、デブ、ブサイクという
ぼくの理想のタイプやった。

おやすみ。

ジュンちゃんは
見かけは、まるっきりオタクで
俳優の六角精児みたいだったけれど
高校時代はそうとう悪かったみたい。
付き合ってるあいだ
その片鱗が
端々にでてた。
ひとは
見かけと違って
わからないんだよねえ。

二〇一九年二月十七日 「Close To You。」

水にぬらした指で
きみの背中をなぞっていると
電灯の光が反射して
光っていた

たなやん
おれが欲しいのは、言葉やないんや
好きやったら、抱けや

おれ、たなやんのこと
好きやで

うそじゃ
たなやんなんか、好きやない

いっしょにいるとおもろいだけや
一生、いっしょにいたいってわけやないけどな

テーブルの上に
冷たいグラスの露が
こぼれている

何度も
きみの背中に
水にぬらした指で文字を書いていく

首筋がよわかった

ときどき
きみは
噛んでくれって言ってた

ぼくは
きみを後ろから抱きしめて
きみの肩を噛んだ

ヘッセなら
それを存在の秘密と言うだろう

ぼくの指は
けっして書かなかった
愛していると

グラスの氷がぜんぶ溶けて
テーブルの上は水びたしになってしまった

いま、どうしてるんやろか
ぼくが30代で
エイジくんが京大の学生だったときのこと

どうして、人間は
わかれることができるんやろう
つらいのに

それとも
いっしょにいると
つらかったのかな

そうみたいやな
エイジくんの言動をいま振り返ると
ぼくも彼も
ぜんぜん子どもやった
ガキやった

やりなおしができないことが
ぼくたちを
生きた人間にする
そう思うけど
ちと、つらすぎる

二〇一九年二月十八日 「名前を覚えるのが仕事」

日知庵で、お隣になったひと、お名前は竹内満代さん。

二〇一九年二月十九日 「カヴァー」

本は持ってたら、カヴァーをじっくり見れるから好き。これからより齢をとって、どれだけ読み直せるかわからないけれど、持っているというだけで、こころがなごむ。初版のカヴァーがいちばんいいと思う。創元も、ハヤカワも。

二〇一九年二月二十日 「きみや」

いま、きみやから帰ってきた。かわいらしいカップル、長野くんと荒木さんと出会い、イタリア語がしゃべれる遠山さんご夫妻と出会った。人生はめぐり合いだなあと、つくづく思ったきょうだった。遠山さんがイタリア語ができることを知ったのは、たまたま、きみやにイタリア人のカップルが来ていて、遠山さんがイタリア語をしゃべって応対されていたからだ。遠山さん、若いころにイタリアで仕事をなさっていたらしい。流ちょうなイタリア語だった。

二〇一九年二月二十一日 「忘我」

電車のなかで数学の問題を解いていたら、降りるべき駅をとっくに通り過ぎていた。いつも、授業の4、50分前に学校につくようにしているので、なんとか折り返して間に合ったけれど、ぎりぎりだった。ぼくは、問題を解いている間、自分自身が角や辺になって、図形上を動いていたような気がする。このとき、ぼくは、もう人間のぼくではなくて、角そのもの、辺そのものになっていたのだと思う。全行引用詩をつくっているときにも、この忘我の状態は、しばしば訪れる。ところで、ぼくが、ぼくの作品で、ぼくのことを描いているのが、ぼくのことをひとに理解されたいと思っているからだという意見がある。とんでもない誤解である。たくさんの「ぼく」を通して、「ぼく」というもののいわば「ぼく」というもののイデアについて考察しているつもりなのだけれど、そして、その「ぼく」というのは、ぼくの作品の『マールボロ。』のように、「ぼく以外の体験を通したぼく」、「ぼくではないぼく」というものも含めてのさまざまな「ぼく」を通して、イデアとしての「ぼく」を追求しているのに、引用というレトリックも、その有効な文学技法の一つであり、そのことについて、何度も書いているのだけれど、だれひとり、そのことについて言及してくれるひとがいないのには、がっくりしてしまう。それだから、ぼくの作品について、ぼく自身が語らなければならないのだけれど、ぼくの視点からではなく、異なる視点から言及してほしいとも思うのだけれど、そんなに難しいことなんだろうか。

二〇一九年二月二十二日 「ガラ携」

いま日知庵から帰ってきました。きょうも、日知庵におこしくださり、ありがとうございました。ぼくのガラ携には、きていませんでした。機械のことに、うといので、ぼくにはさっぱり理由がわかりませんが、機種によって違うのかもしれませんね。

二〇一九年二月二十三日 「突然、死んだ父が」

突然、死んだ父が、ぼくの布団のなかに入ってきて
添い寝してきたので、びっくりして飛び起きてしまった。

二〇一九年二月二十四日 「水道の蛇口をひねると」

水道の蛇口をひねると
痛いって言うから
ぼくは痛くもないのに
痛くなってくる
ぼくは静けさを
フリーザーに入れて
水道の蛇口をひねって
痛いって言うから
ぼくは痛くもないのに
痛くなってくる
できた沈黙に
ぼくの声を混ぜて
水道の蛇口をひねって
痛いって言うから
ぼくは痛くもないのに
痛くなってくる
水道の蛇口をひねるだけで
ぼくは痛い
沈黙のなかにさえ
ピキッとした音を聞いてしまう
山羊座は地獄耳なのだ
本人が地獄になる耳なのだけど
水道の蛇口をひねると
痛いって言うから
ぼくは痛くもないのに
痛くなってくる

二〇一九年二月二十五日 「確定申告」

確定申告が終わった。ことしは支払わなくてはならないかなと思っていたら、還付金が出た。税金のからくりが、さっぱりわからないで生きている。

二〇一九年二月二十六日 「文学」

文学作品は、いったん読み手が頭のなかで、自分の声にして読んでいるので、どの登場人物の声も読み手の声だと言える。複数の話者がいても、すべて読み手の声だと言えるので、文学鑑賞とはまことに倒錯的な行為だと言えよう。

二〇一九年二月二十七日 「がりがり」

チャイムが鳴っている
がりがりと、薬を噛み砕いて飲み込むと
教室に入った
生徒たちのなかには
まだ薬を飲み込んでいない者もいた
口に放り込んでいる者や
カバンのなかの薬入れの袋を開けている者もいた
「さあ、はやく薬を飲んで、授業を受ける気分になりましょう」
電車に乗る前でさえ、薬を飲まなければ不安で
電車に乗ることもできない時代なのだ
さまざまな状況に合わせた薬があって
それさえ服用してれば、みんな安心して生きていける
とても便利な時代なのだ

二〇一九年二月二十八日 「この人間という場所」

胸の奥で
とうに死んだ虫たちが啼きつづける
この人間という場所

傘をさしても
いつでもいつだって濡れてしまう
この人間という場所

われとわれが争い、勝ちも負けも
みんな負けになってしまう
この人間という場所

二〇一九年二月二十九日 「何十年ぶりかに」

きょう、待ち合わせの場所に
行ってたのだけど
ぜんぜん来なくって
何十年ぶりかに
すっぽかされてしまった
付き合わない?
って、きょう言おうと思ってたのだけれど
縁がなかったってことなのかな
好きだったのだけれど
そんなに若くない
頭、ハゲてて
めがねデブで
典型的なサラリーマンタイプの
30代後半で
このクソバカって思ったけど
バカは、ぼくのほうだね

二〇一九年二月三十日 「蛙」

ピチャンッ
って音がしたので振り返ると
一番前の席の子の頭から
蛙が床に落っこちて
ピョコンピョコンと跳ねて
教室から出て行った
その子の頭は
池になっていて
ゲコゲコ
蛙がたくさん鳴いていた
ほかの生徒の顔を見ると
ぼくの目をじっと見つめ返す子が何人かいたので
その子たちのそばに行って
缶切りで
頭を
ギコギコ
あけていってあげた
そしたら
たくさんの蛙たちが
ピョコン、ピョコン
ピョコン、ピョコンと跳ねて
教室じゅうで
ゲコゲコ鳴いて
あんまりうるさいので
授業がつづけてできなかった
と思ってたら
すぐにチャイムが鳴ったので
黒板に書いた式をさっと消して
ぼくもひざを曲げて
ピョコンピョコンと跳ねて
職員室に戻った

二〇一九年二月三十一日 「箴言」

才能はそれを有する人を幸福にするものとは限らない。


詩の日めくり 二〇一九年三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一九年三月一日 「考察」

同じ密度で拡散していく。

二〇一九年三月二日 「箴言」

仏に会えば仏になるし、鬼に会えば鬼になる。
ひとはひとと出会って、ひとになる。

二〇一九年三月三日 「H」

イタリア語で
Hのことは
アッカっていうの
でも
イタリア語では発音しないから
ハナコさんはアナコさんになります
ヒロシくんはイロシくんになります
アルファベットで
ホモシロイと書けばオモシロイと読まれ
ヘンタイと書けばエンタイと読まれ
フツーよと書けばウツーよと読まれます

二〇一九年三月四日 「ピーターに気をつけてね。」

あしたは神経科医院に。痛みどめももらえるように言おう。ピーター、つくねに気をつけてね。

二〇一九年三月五日 「リンゴの存在」

ここにリンゴがある
といえば、リンゴがあると思う。

ここにリンゴがない
といえば、リンゴがないと思う。

ここにリンゴがあるかもしれないしないかもしれない
といえば、あるかもしれないしないかもしれないと思う。

しかし、リンゴの存在は
ことばによらない。

二〇一九年三月六日 「ところで、きみの名前は?」

「ところで、きみの名前は?」(トマス・F・モンテレオーニ『既視感』鎌田三平訳、SF短篇アンソロジー『三分間の宇宙』258ページ下段・第20行)

二〇一九年三月七日 「殺したかもしれない。」

ぼくは小学校のときに
継母を自宅のビルの屋上から
突き落として殺してやろうと思ったことがある。
小学5年のときだったかな。
小学校5年だったら
警察には疑われないと思って。

二〇一九年三月八日 「久保寺 亨さん」

久保寺 亨さんから、詩集『続・白状/断片』を送っていただいた。宗教的なところに関心をもたれておられるようで、そのような描写が随所にあらわれる。また宗教と哲学は密接な関係をもっているのだろう。哲学的な考察も随所にあらわれる。生のなりわいの根本的な詩集だ、と思われた。

二〇一九年三月九日 「草野理恵子さん」

草野理恵子さんから、同人詩誌『Rurikarakusa』の第10号を送っていただいた。「抽斗」のなかで、「抽斗の中 突然雨が降り出した」とあったのだが、ぼくもまったく同じレトリックを使ったことがあったので驚いた。ぼくのは「箪笥のなかで」だったけれど。草野理恵子さんに親近感をもつはずだなと思った。

二〇一九年三月十日 「葱まわし」

葱まわし 天のましらの前戯かな

孔雀の骨も雨の形にすぎない

べがだでで ががどだじ びどズだが ぎがどでだぐぐ どざばドべ が

二〇一九年三月十一日 「ミッション」

火曜日のミッションを成功させること!

3月23日 土曜日 11時半 歯医者

二〇一九年三月十二日 「藤井晴美さん」

藤井晴美さんから、詩集『無効なコーピング』を送っていただいた。冒頭の詩篇から、いきなり胸を掴まれた。この方の詩篇は、ぼくを興奮させる。そういった言葉遣いだ。おいくつくらいなのだろう。ぼくの好みにぴったりの表現をなさっておられて、とても興味がある。ありがたくご本をいただく。

二〇一九年三月十三日 「耳にしたこと」

仕事の帰り道、近所で
建築現場に居残った若い作業員二人がいちゃついてた
一人の青年が、もう一人の青年の股間をこぶしで強くおした
「つぶれるやろう」
「つぶれたら、おれが嫁にもろたるやんけ」
イカチイ体格の、真っ黒に日焼けした男の子たち

二〇一九年三月十四日 「傘」

ふつう、一人でさす傘は一本である。
しかし、たくさんの人間で、一本の傘をさす場合もあれば
ただ一人の人間が、たくさんの傘をさす場合もあるかもしれない。
ただ一人の人間が無数の傘をさしている。
無数の人間が、ただ一本の傘をさしている。

うん?
もしかしたら、それが詩なんだろうか。

きょう、恋人に会ったら
ぼくは、とてもさびしそうな顔をしていたようだ。

たくさんのひとが、たくさんの傘をさしている。
同時にただ一本の傘をさしている。
それぞれの手に一本ずつ。
ただ一本の傘である。
たくさんの傘がただ一本の傘になっている。
ただ一本の傘がたくさんの傘になっている。
たくさんの人が、たくさんの傘をさしている。
同時にただ一本の傘をさしている。

二〇一九年三月十五日 「詩人」

詩人のうち、いくらかは
意味を吟味することで人間を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは
人間を吟味することで意味を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは
意味を吟味することで意味を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは
人間を吟味することで人間を知ろうとする

詩人のうち、いくらかは
意味を吟味することなく人間を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは
人間を吟味することなく意味を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは
意味を吟味することなく意味を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは
人間を吟味することなく人間を知ろうとする

詩人のうち、いくらかは
意味を吟味することもなく人間を知ろうともしない
詩人のうち、いくらかは
人間を吟味することもなく意味を知ろうともしない
詩人のうち、いくらかは
意味を吟味することもなく意味を知ろうともしない
詩人のうち、いくらかは
人間を吟味することもなく人間を知ろうともしない

二〇一九年三月十六日 「考察」

言葉が意味を通じて意味を知る
言葉が意味を通じて人間を知る
言葉が人間を通じて意味を知る
言葉が人間を通じて人間を知る
人間が言葉を通じて意味を知る
人間が言葉を通じて人間を知る
人間が人間を通じて意味を知る
人間が人間を通じて人間を知る

二〇一九年三月十七日 「八千代館」

高校時代に
クラス・コンパの二次会のあとで
友だち6、7人で
酒に酔った勢いで
生れてははじめてポルノ映画館に行ったのだけれど
そのときに見たピンク映画の一つに
田んぼのあぜ道で
おっさんが農婆を犯すというのがあって
そんな記憶が、ふと思い出されたのだ
八千代館という
そのポルノ映画館も
きょう行ったら
若者向けの洋服屋になってた
ポルノ映画を見て、勃起した友だちの
チンポコさわりまくりの高校時代だった

二〇一九年三月十八日 「ゲゲゲのゲーテ」

あの黄色と黒の
ちゃんちゃんこ着たゲーテ

二〇一九年三月十九日 「焼き鳥じゃなくて」

書き鳥

二〇一九年三月二十日 「箴言」

倫理的な人間は、神につねに監視されている。

二〇一九年三月二十一日 「地球のゆがみを治す人たち」

バスケットボールをドリブルして
地面の凸凹をならす男の子が現われた
すると世界中の人たちが
われもわれもとバスケットボールを使って
地面の凹凸をならそうとして
ボンボン、ボンボン地面にドリブルしだした
それにつれて
地球は
洋梨のような形になったり
四面体になったり
直方体になったりした

二〇一九年三月二十二日 「ゴミ」

ゴミはゴミになるまえはゴミじゃなかった。

二〇一九年三月二十三日 「鯉もまた死んでいく 鯉もまた死んでいく」

中学3年のときかなあ
何かがパシャって水をはねる音がして
見ると
白川にでっかい鯉が泳いでいて
なんで白川みたいに浅い川に
そんな大きさの鯉がいるのかな
って不思議に思うくらいに大きな鯉だったんだけど
ぼくが
「あっ、鯉だ!」って叫ぶと
林くんが
学生服の上着をぱっと脱いで川に飛び下りて
その鯉の上から学生服をかぶせて
鯉を抱え上げて川から上がってきたのだけれど
学生服のなかで暴れまわる鯉をぎゅっと抱いた林くんの
彼のお父さんと同じセルの黒縁眼鏡の顔が
それまで見たことがなかったくらいにうれしそうな表情だった
今でもはっきり覚えている
上気した誇らしげな顔
林くんはその鯉を抱えて家に帰っていった
ガリ勉だと思ってた彼の意外なたくましさに
鯉の出現よりもずっと驚かされた
ふだん見えないことが
何かがあったときに見えるってことなのかな
これはいま考えたことで
当時はただもうびっくりしただけだけど
ああ
でももう
ぼくは中学生ではないし
彼ももう中学生ではないけれど
もしかしたら
あの三条白川の川の水は覚えているかもしれないね
二人の少年が川の水の上から顔をのぞかせて
ひとりの少年が驚きの叫び声を上げ
もうひとりの少年が自分の着ていた学生服の上着を脱いで
さっと自分のなかに飛び降りてきたことを
あの三条白川の川の水は覚えているかもしれないね
ひとりの少年が顔を上気させて誇らしげに立ち去っていったことを
そして、もうひとりの少年が恨みにも似た羨望のまなざしで
鯉を抱えた少年の後ろ姿を見つめていたことを

二〇一九年三月二十四日 「俳句」

花ひらく さまには似ても にぎりつぺ

花ひらく さまに似たれど にぎりつぺ

花ひらく さまにも似たる にぎりつぺ

手から手へ 無情な水を こぼし合う

額寄せ 水こぼし合う 縁かな

椀の手に 無情な水を こぼし合う

二〇一九年三月二十五日 「年金の相談」

年金の相談に行ったら、7月に来て下さいと言われた。そうか、タイムラグがあるのか。

二〇一九年三月二十六日 「海東セラさん」

海東セラさんから、詩誌『グッフォー』第71号を送っていただいた。海東セラさんの作品「床」では、床の模様と、床の存在としての立ち位置みたいなものがていねいに描いてあって、ああ、こういう書き方もあるのだなと思わされた。

二〇一九年三月二十七日 「幽霊がいっぱい」

マンションでは
猫や犬を飼ってはいけないというので
猫や犬の幽霊を飼うひとが増えて
もうたいへん
だって、壁や閉めた窓を通りこして
部屋のなかに入ってきちゃうんですもの
まあ、うちの死んだお祖父ちゃんが
アルツで、夜な夜な
よそ様の部屋に行って
迷惑かけてることがあって
文句は言えないんだけど

二〇一九年三月二十八日 「詩論」

聖書のなかで、さいしょになされる問いかけは、創世記の第三章・第一節の「園にあるどの木からも取って食べるなとほんとうに神が言われたのですか」という、いにしえの蛇の言葉であった。イヴのその問いかけに対する答えは、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」というもので、すると、狡猾な蛇は、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」と言ったのだが、けっきょく、イヴはその木の実を食べ、アダムにも食べさせたので、二人は善悪を知ることになったのである。このことは、人間の知恵というものが、唆しと誘惑、そして虚偽と欺瞞からはじまったということを教えてくれる。詩とは何かと考えることがあり、以前に、問いかけではないかと書いたことがあった。聖書のさいしょの問いかけが悪魔によって発せられたこと、そして、そのあとの虚偽と欺瞞に満ちたいにしえの蛇の言葉を思い起こしてみると、もしも、詩というものが問いかけであるのだとしたら、根源的に、詩人のこころには、誘惑してやろう、唆してやろうという気持ちや、その言葉には、虚偽や欺瞞といったものが含まれているのではないか、とも思われた。

二〇一九年三月二十九日 「詩論」

凝固点降下という現象がある。純粋な物質に不純物を入れると、固体になる温度が下がるという現象である。純粋な物質だと結晶化するのに時間がかかるが、不純物を入れるとたちまち結晶化するという現象もある。人間の体験も、自己の体験をのみもとにして考えるよりも、他者の体験やものの見方といったものを合わせて考えたほうが、より迫真的なものとなったり、じっくりと考えさせられるものとなることが多いように思われるのだが、その他者の体験やものの見方といったものに、映画や文学といった、あからさまな「つくりもの」を入れると、自己の人生がより生き生きとしたものに感じられるためには、自己の体験である、「真実のなかに」、自己の体験ではない「少しの虚偽が必要である」ということにならないだろうか。いや、もしかすると、「少しの」ではなく、自己の人生をより生き生きとしたものと感じるために、「たくさんの」虚偽を必要としている人間もいると思われる。その数もけっして少なくないような気がする。筆者もその一人であろう。頭のなかには、実在人物の名前よりも多くの、文学作品の登場人物の名前が収まっているのである。

二〇一九年三月三十日 「詩論」

詩人のマイケル・ファレル氏に、とても基本的なことを訊いてみた。「あなたはなぜ詩を書いているのですか」という質問に詩人がとまどっていた。同じく、詩人のジョン・マティア氏にも同じ質問をしてみた。二人とも、即座に答えられず、なんとか答らしきものを聞き出すのに相当な時間を要した。ぼくはつねに、自分がなぜ詩を書いているのか考えて生きているので、ぼくの素朴な質問にすぐに答えられなかった詩人たちのとまどう表情を見て、ぼくのほうがとまどってしまった。自我とは何か。言葉とは何か。記憶とは何か。思考とは何か。関心があるのは、ぼくには、ただこれらのことについてのみ。

二〇一九年三月三十一日 「人生の意味」

ジミーちゃんのところに食事に行く約束をしていて、じっさいに行ってみたら、彼はピアノを弾いていて、玄関でピンポンってチャイムを一分くらい押しつづけても出てこなかったので、そのまま帰った。往復で2時間以上もかかったのだけど、自転車なので、運動になったかなって思うことにして、まあ、芸術にいそしんでいるときだから仕方ないかなって。ぼくなら、ピアノ、途中でやめるけどね。まあ、そういう人なんだろうね。これがはじめてじゃないから、そんなに驚かないけれど、ぼくもわがままだけど、そこまではね。いろいろなひとがいて、いろいろなひとと出会って、人生を味わうのが、人生の意味だと思うから、べつにいいんだけどね。帰ってきたら、リュックのなかで、ヘッドフォンが千切れてた。5年保証に入ってたから、ジョーシンに行って交渉。1週間以内に届くとのこと。

文学極道

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