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2016年06月分

次点佳作 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


あの木

  宮永


あの木がさらさらと風を濾しているから
今日も青く澄んだ空には風が吹いている

この木はあちこちに生え育っているから
手を伸ばしちぎりとってはプーと鳴らす
親指ほどの楕円形の葉をそっと唇にあて

甘い香りに見上げると、かぶさるように
滴るように、藤の花によく似た白い花房
葉を凌駕して、ゆたりゆたり揺れる初夏

この木に名前は必要なかった
気がつけば目の前にあったから
子供の頃、多くのものがそうであったように
そしていつの日か
僕はこの木の名前を知った





〈ニセアカシア〉

生まれたときから既に 君たちは
軽んじられている
差別されている
蔑まれている
ニセモノ
二番煎じ


でも君たちは気にしない
呼ばわる声に耳もかさず
のびのびと、どこ吹く風
甘い香りのする白い花房
これでもかとぶら下げて
 
ニセアカシア
それはただの呼称
名前は他から区別し
認識するための
僕らの道具

けれども 悲しいかな
僕は君たちに告げねばならぬ
深い意味を持たぬ「ニ・セ」という音も
何らかの風味を伴わないではいないのだ、と





甘い香りに誘われて見上げると
やはり、ニセアカシアの花盛りだった

たぶん、目に映る光景に大きな違いはない
けれど僕は見るたびに、思い起こすたびに
片隅に「ニセアカシア」と銘打ってしまう
しなやかで粗野な繁殖力に満ちたこの木が
何の紛い物でもないことを知ってはいても

すぐ前に、手を伸ばせばいつもあったのに
そして今も変わらずあるというのに
いつの間にかに距離ができ
その距離を測る
名前に
知に
囚われたのは、僕
頑なに隔たってゆくのは、僕
あの頃に戻れないなら、いっそ
 




ああ、僕の上だけ雨よ降れ
まとわりつく
このニセモノの花の香りを
洗い流してしまえ


朝の詩

  ねむのき

世界のはしっこで 体育すわりをしながら
目をぎゅっとつむっていると
くずれおちそうな海がみえてくる
水に印刷された星座がみえる
防波堤のうえで 先生が
ばらの花のように 死んでいるのがみえる

先生の手に触ると
透きとおっている 壊れた教室があって
夜を写像する窓を おしひらいて
ぼくは街のあかりを吹き消した
ぶよぶよした境界線のむこう側から
先生の声が なつかしく散光し
夜の水槽は
すこしづつ青空にみたされてゆく

水平線は風にちぎれて
スカートが柔らかくふくらんでいる
丸い眼鏡の奥にはまだ
うつくしい眼球が浮かんでいる
(先生の眼は、いまなにを、まなざしているのだろうか)
透明な教室から まっ白な少年たちが
朝の校庭へすべりおりてくる
ぼくは先生に くちづけを
しなかった けれど くちづけるようにそっと
先生を抱きしめて 海へ棄てた
ずぶずぶとくずれてゆく海
鳥のようにくるしくなる呼吸
十字架の形をした飛行機が
青空のたかいところを飛んでいるから
まぶしくて ぼくは目をつむる
ずっと目をつむっていたいのに
ぼくの視界はにわかに
世界の果てにある体育館にむかって
ゆっくりとひらかれてゆく


(無題)

  ズー


ぼくは楽しい、七日間あが降りつづいて、あに濡れた手のひらのなかでうはちいさな羽を震わせていた、八日目にようやくあが降りやんで、晩ごはんの仕度をはじめたぼくのつに、これはうか?と尋ねる、すると、だに立っていてわからないわと言われた、今はたのことも心配だからと続けて、だから出てこようともしなかった、ぼくは右耳がとくに楽しくて、良く聞こえないのは、あが降りつづいていた時からだと思っていた、手のひらのなかでうを温めている晩に、ずぶ濡れのたが帰ってきた、降りつづいたあが池をひろげてみずうみになった公園の、べに座り、ほを見上げて、しについて考えていたと言う、しについて何か思いつくと手のひらのような空からほがおちてきて、あのようだったと言う、そんなことよりと、ぼくが手のひらのうを見せる、とても楽しい晩で、またあが降りはじめていた、あけていた窓からあの匂いがてを差し入れてきて、あの匂いがするねと、たとつはうをやさしく撫でている、

胸のなかでつめたくなった話ばかりが凍える夏、空へと放たれた、ひたちの影が、ぼくの目を突き破って、肋骨の内側まで滑り落ちる、氷づけになったのは、やむを得ないのかもしれない、啄むものはないのか、啄まれたものはないのか、ひたちの影もつめたくなれば、羽ばたくことは、影の痛みを伝えるばかり、


詩の日めくり 二〇一六年三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年三月一日 「ブロッコリー」


いま、阪急西院駅の前のビルに自転車をとめたら
めっちゃタイプの男の子が近づいてきて
わ〜
さいきん、ぼく、めっちゃ、もてるわ〜
ってなこと考えてると
その子が言いました。
「このビルのどこかに行かはるんですか?」
「そだよ。本屋にぃ」
「じゃあ、すぐに戻ってこられますね」
「すぐだよん」
その子はシャツのエリがとてもきつそうだった。
20歳すぎかなあ。
ぼくの目をじっと見ながら、しゃべってた。
ガチムチの彼は
お巡りさんの制服のよく似合う子だった。
惚れられたかもね。

お昼に、ピザ、思いっきり食べた。
ブロッコリーといくらといっしょに。いつ死んでもよい。
いくらと違って、おくらと、笑。

きょうは、夕方に、2年ぶりに会ったかわいい男の子とチューをしたので、
もういつ死んでもよい。

寝るまえの読書は、『極短小説』か、『フランス短篇傑作選』か、どちらかにしよう。


二〇一六年三月二日 「幸福」


いま日知庵から帰った。よっぱ〜。きょうは、学校が終わって、
大谷良太くんちでお昼寝させてもらって、夕方から飲みでした。ぐは〜。ねむ〜。

one of us であること。one of them であること。
これ以上に、ぼくたちが、彼ら彼女たちが忘れてはならないことはないと、
詩人のぼくは断言する。

『極短小説』をあと少しで読み終わる。ぼくは『詩の日めくり』で、1行や2行の詩を書いているのだが、ぼくのものよりゆるいと思われる作品がほとんどだった。ぼくは、ぼくの道を歩む。過ちではないと思う。過ちではなかったと思うと思う。ぼくは幸福だなと思う。ぼく自身のことを信じることができて。


二〇一六年三月三日 「極短小説」


あまりの苦痛に、痛みどめと、睡眠薬のあまっているもの(以前に処方されて余ってたもの)を飲んでたら、幻覚と幻聴を起こした。さいしょ、夢のような幸せな場所、映画館で映画を見るようにして、自分のタイプの子と話をしてたら、そいつがいきなり首だけの化け物になり、ぼくを宮殿に連れて行き、ぼくに、ぼくの文学的歴史の系図を見せた。ぼくはロビンソン・クルーソーのように孤立して生きるらしい。生きているあいだはまったくの無名で、ぼくの作品が評価されるのは死んでからだという。でも、まあいいよと言った。死んでからでも評価されないよりずっといいし、というと目が覚めた。ぼくは泣いて目が覚めたのだが、痛みはまだきつい。塾があるまで時間があるので、もう一度、クスリを追加して飲んでみる。幻覚が異常に生々しかった。ぼくは、違う世界とコンタクトしていたのだと思う。生きているあいだは孤立するというのは、ぼくらしくていい。

浅倉久志訳の『極短小説』レベル低くて、捨ててもよい本だが、挿絵がかわいいので本棚に残すことにした。話はレベルが、ほんとに低い。お風呂場では、『Sudden Fiction』を読んでいるのだが雲泥の差である。これから塾に行くまで、岩波文庫の『フランス短篇傑作選』を読む。

きょうも、岩波文庫の『フランス短篇傑作選』を読みながら寝よう。


二〇一六年三月四日 「モーム」


きょう、医院の待ち時間にジュンク堂に行って、モームの『サミング・アップ』と、『モームの短篇選(上)』と『モームの短篇選(下)』を買った。2900円くらい。岩波文庫の『フランス短篇傑作選』のさいごを読んでるときに、医者に呼ばれた。『フランス短篇傑作選』さすが傑作選だわ。とてもよい。数日前に買って読んだ『極短小説』あまりにしょうもないので捨てるわ。やっぱり、本棚には傑作しか置いておく必要性がないもの。そいえば、岩波文庫から、ゲーテのファウストの新訳が出てるのだけれど、困るわ。森鴎外以外のすべてのファウスト訳をそろえている身にとっては。『モーム語録』を半分くらい読んだ。おおよその思考のパターンはつかんだ。


二〇一六年三月五日 「寄せては返す彼。」


寄せては返す彼。I

寄せては返し
返しては寄せる彼。
彼の身体は巌に砕け
血飛沫をあげる。
月が彼の上に手をのばして
彼の身体をゆさぶる
星が彼の身体に手をさしのべて
彼の身体をゆさぶる
彼の身体は
百億の月の光にあふれこぼれ
千億の星の光に満ちあふれる。
彼は砕け
彼は散る
寄せては返し
返しては寄せる彼。
百万の彼が
昼も
夜も
やすみなく
たえまなく
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼が
岸辺を
コロコロと転げまわる
百万の彼は
背広を砂まみれにして
白いシャツを
砂まみれにして
岸辺を
コロコロと
コロコロと
転げまわる
巌に
砕ける
百万の彼
彼の
無数の
手の指が
顔の皮膚が
血まみれの巌の上にへばりついている
巌にへばりついた
血まみれの指
巌にへばりついた
血まみれの顔
こぼれ落ちる歯や爪たち
コロコロと転げまわる
百万の彼
寄せては返し
返しては寄せる彼の身体
彼の身体がひくと残る
無数の手の跡
彼の手が引っ掻く砂の形
壊れては修復される
無数の傷跡


寄せては返す彼。II

寄せては返し
返しては寄せる彼
お目当ての彼女のマンションの駐輪場で
彼は寄せては返し
返しては寄せる
駐輪場の小さい明かりの下で
百万の彼の身体が
コロコロと転がる
自転車やバイクのあいだの狭いところを
コロコロと転げまわる百万の彼の身体
彼女を待つ一途な気持ちが
百万の彼の身体を
駐輪場の上にコロコロと転がせる
百万の彼の身体は
ざらついたコンクリートの上で
擦り傷だらけ
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼の身体
彼女のマンションの駐輪場


寄せては返す彼。III

お目当ての彼女が帰ってきた
寄せては返し
返しては寄せる彼
お目当ての彼女をマンションの入り口で
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼
お目当ての彼女を囲んで
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼
彼の身体が
彼女の身体に砕け
彼女の身体が
彼の身体に砕け
血まみれになる
彼女と彼
寄せては返し
返しては寄せる彼
百万の彼の身体が
倒れかける彼女の身体を支え
あっちに傾き
こっちに傾いた
彼女の身体を支える
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼の身体
彼女のマンションの入り口


二〇一六年三月六日 「一日に、2時間か、3時間くらいしか働いていないよ。」


きのう、日知庵で、65歳のレディーたちお二人と、竹上さんと、はるくんと飲んだのだけれど、齢をいくことほど人間をおおらかにしていくものはないのかもしれない。55歳のぼくは、まだとがっている。

平日に、1日に、2時間か3時間しか働いていないという人生を55歳までずっとやってて、って、きのう、日知庵で、はるくんと、竹上さんに、そう言うと、びっくりしてたんだけど、ぼくのほうもびっくりしたよ。非常勤講師で、塾の講師なんだから、そんなに労働時間あるわけないやんかと思うのだけど。

目が覚めているあいだの、人生のほとんどの時間を、読書と思索に使うというのが、ぼくの人生設計の基本なのだから、そんなに働いてはいられないのだ。

あさ9時に、かっぱ寿司まえに集合します。近くのラブホテルのサービス時間にセックスするために。とにかく長いセックス。やたらと長い時間のセックス。ふとももとか、女性だから、あざだらけになるんです。1週間前にセックスしたばかりなのに、またセックスするんです。彼って、ケダモノでしょう?

お風呂に入って、『Sudden Fiction』のつづきを読もう。少なくとも、これで3度目。というか、3冊目。

あしたは、えいちゃんと、隈本総合飲食店で食事をする。なに食べようかな。

きゃは〜。ハヤカワから、コードウェイナー・スミスの全短篇集が出る。ぜんぶで、3巻だって。既訳されたものは、ぜんぶ持ってるけど、買うよん。それから、マイクル・コーニイの『プロントメク!』が河出から出てる。これは名作だった。ボブ・ショウは出さないのかしら?

きょうは、昼間にマクドナルドで、ベーコンバーガー食べて、あとで、コンビニで豆腐とサラダを買って食べたけど、いまちょこっとおなかがすいている。ちょっと遠いけど、ライフに行こうかな。


二〇一六年三月七日 「愛とは軽さのことだ」


愛とは軽さのことだと思うことがある。どれだけ気楽に接することができるかっていう軽さのことだけどね。愛とは早さのことだと考えることがある。どれだけ素早く、ぼくがきみの立場になって考えられるかっていう早さだよ。ああ、愛は、そうだよ。軽さと早さのことなんだよ。それ以外のなにものでもない。

これから河原町に。まずブックショッピングして、それから、えいちゃんと隈本総合飲食店に。

えいちゃんと、隈本総合飲食店と、きみやさんに行ってきた。ジュンク堂では、ティプトリーの新刊を買った。ティプトリーは、『輝くもの、天より堕つ』以来だから、数年ぶりかな。短篇集だった。楽しみ。

amazon で、自分の詩集の売れ行きチェックをしているのだが、最新刊の『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』(思潮社オンデマンド・2016年2月刊)が、そこそこ売れているので、うれしい。表紙に撮らせていただいた「まるちゃん」の画像効果だと思う。すてきだものね〜。

これからも友だちがつぎつぎに表紙になってくれる予定だ。まず、つぎに思潮社オンデマンドから出す予定の『図書館の掟。』では、強烈なインパクトのある画像を「はるくん」からいただいている。ぼくが極右翼と間違われるかもしれない危ない画像だが、とても美しい。

こんなのだ。→@atsusuketanaka https://pic.twitter.com/nO02kUzu6d


二〇一六年三月八日 「ユダヤ警官同盟」


長時間にわたって幻覚を見ていた。それは現実の記憶を改変するほどのものだった。もうちょっとで、たいへん失礼なことをひとにすることになっていたかもしれない。文学作品を読んでいると、非現実のできごとを現実に取り込んでしまうことがある。気がついてよかった。よく知っている方の親戚で、厭なことを言われて憤慨したのだが、目が覚めて、そのような人物が存在しないことに気がついたのだった。しかし、シチュエーションは生々しかった。

塾に行くまえにブックオフで、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上下巻を買った。未読の本が増えていく。本棚がまだ埋まる。死にたい。というか、寝るわ。クスリのんで。おやすみ、グッジョブ! あ、まえに付き合ってた子からうれしいメールが。チュって、さいごに。そうか、キスしたいのか。


二〇一六年三月九日 「目の見えないひと」


きょうは、朝に3つの幻覚を見たので、あしたの朝は、どかな。楽しみ。学校の授業がないと、幻覚じみた夢を見まくり。やっぱり緊張感がないと、幻覚を見やすいのだろう。きょう見た3つ目の幻覚は現実を反映しまくりなので、無意識領域のぼくの自我からのメッセージは意識領域のぼくの自我に伝わった。

これからきみやさんに。きみやさんのお客さんで、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』を買ってくださった方に詩集をもっていく。その方は目が不自由なので、amazon でポチできないから、ぼくが代わりにポチして買ったのだった。ぼくのポートレートをつけて差し上げようと思っている。


二〇一六年三月十日 「引力の法則」


きょう、日知庵に行くまえに、四条大宮で、このあいだチューした男の子と会ったのだけれど、声をかけられなかった。向こうは、携帯に夢中で気がついてなかったみたいだった。まあ、いいか。クスリのんだ。学校の授業がないから、めっちゃノンビリ。

引力の法則について考えてみた。ぼくたちが引き合う力なんて、地球がぼくたちを引っ張る力に比べたら、限りなくゼロに近いんだよ。だから、ぼくたちが引き合っていないように見えるときがあっても、それはあたりまえのことで、じつは引き合ってて、引き合ってることに気がついてないだけなんだよ。


二〇一六年三月十一日 「木になってしょうがない。」


いま、ティプトリーの『あまたの星、宝冠のごとく』と、岩波文庫の『ウィーン世紀末文学選』と『モーム語録』を変わりばんこに読んでいる。意外と話はまじわらない。『Sudden Fiction』は読み終わった。本棚に再読用のものがあるので、お風呂場で読んだものは捨てる。

きょうのあさは、引っ越しをしている夢を見た。上りにくい2階の部屋で、使いにくい部屋だった。無意識層のぼくの自我は、意識層のぼくの自我になにを伝えたかったのか。伝えるつもりはなかったかもしれないけれど。

サンドイッチを6切れ食べて、おなかいっぱい。ティプトリーの短篇集のつづきを読みながら寝よう。

木になってしょうがない。


二〇一六年三月十二日 「ぼくね、友だちに素数がいてね。」


素数ってね
自分のほかに正の約数が一つしかなくってね
それを、ぼくの友だちの素数は
とても気にしててね
イヤなんだって
でもさあ
おじさんを、おばさんで割ると
雪つぶて
サイン・コサイン・タンジェント
ぼくの父が死んだのが
平成19年の4月19日だから
逝くよ
逝く
になるって、前に言ったやんか

それが
朝の5時13分だったのね
あと2分だけ違ってたら
ゴー・逝こう
5時15分でゴロがよかったんだけど
そういえば
ぼく
家族の誕生日
ひとりも知らない。
前恋人の誕生日だったら覚えてるのに
バチあたりやなあ。
まるで太鼓やわ。
太鼓といえば
子どものとき
よく
自分のおなかをパチパチたたいてた
たたきながら
歌を歌ってたなあ
ハト・ポッポーとか
近所でもバカで有名で
うんこ
がまんして
がまんしきれなくって
家のまん前で
ブリブリブリッて
それが
小学校6年のときのことだから
まあ
父親が怒ってね
でも
ガマンできなかったんだもーん
ブリブリブリッて
思いっきり
引きずり回されたこと
覚えてる

ちゃんと
きれいにしてからね
うんこまみれのまま
ひきずらへんわなあ
ぼくが親やったら
怒ってるかなあ
それより
傷ついてる子どものこと
気遣うやろなあ
わからんけど
教室で
おしっこたれたのが
いくつのときのことか
忘れた
たぶん
高学年、笑。
おととし
自分の部屋の
トイレの
前で
うんこ
たれたの
恋人に言ったら
あきれられて
まあ
それも原因かもね。
ぜんぶ
そのせいちゃうやろうけど。
もしも逆の立場やったら?
まあ、ぼくが相手の立場やったら
笑うぐらいかなあ。
あきれはせんやろうなあ。
どこが違うんやろう?
わからん


二〇一六年三月十三日 「詩の材料」


チャールズ・ブコウスキーの「詩人の人生なんてのは糞溜めみたいなものなんだよ」(『詩人の人生なんてろくでもない』青野 聰訳)というのと、W・B・イエイツの「完璧であるからこそ傲慢なこれらのイメージは/純粋な精神のなかでそだった。だがその始まりは/何であったか? 屑の山、街路の塵あくた、/古いやかん、こわれたブリキの罐、/古い火のし、古い骨、ぼろ布、銭箱の番をしている/あの口喧しいばいた。おれの梯子(はしご)がなくなったからは/あらゆる梯子が始まる場所に寝そべるほかはない。/穢らわしい心の屑屋の店さきに寝そべるほかはない。」(『サーカスの動物は逃げた』出淵 博訳)とのあいだには、文学作品の材料そのものとその材料の処理の仕方において、共通しているところと、共通していないところがある。材料は同じだ。人生のなかで見聞きしたこと、感じたことなどが材料だ。もちろん、単純に二分はできないが、こういう分け方はできるだろう。つまり、イエイツはそれを詩語に変換していたと。ブコウスキーは、糞溜めのようなものをそのまま糞溜めとして書いたのだった。イエイツも、晩年はかなり詩語から離れることができたのではあったが。そしてその二つのあいだにあって、どちらともいえないようなものも数多くある。というか、じっさいのところ、ぼくなどもそうだが、見聞きしたことそのままに書くことと、ただ頭の中で考えただけのものを書くこととのあいだで、いろいろと組み合わせて書いてきたのだ。

文学極道の詩投稿掲示板で、Migikataさんの「驚くべきこと」というタイトルの作品を読んで、こんなことを、ふと考えたのであった。

こちら
  ↓
http://bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pck=8685

『芸術=フランケンシュタインの怪物』説を唱えたのが、ぼくがさいしょではないと思いますが、あるものをつなぎ合わせて、これまでに存在しなかったものを生成させるのが芸術のひとつの機能だと思っているのですが、もちろん、同時に、これが芸術のひとつの定義の仕方だとも思っているのですが、電流が流れて怪物が起き上がったような気がしました。固有名詞の使い方、さいごの2行の断定命題も効果的に配されていると思いました。J・G・バラードの『夢幻会社』をふと思い出しました。飛翔している男が身体じゅうからフラミンゴやさまざまな鳥たちを吐き出すのですが、そのまえに鳥たちを吸収する場面があったと思うのですが、ぼくが思い出すのは、男が肩からフラミンゴを奇怪な様子で分離するシーンです。すみません。好きな作家の作品を思い出して、つい書き込み過ぎました。おゆるしください。

という感想文を、さきに、Migikataさんの作品に書かせていただいていました。

コードウェイナー・スミスの短篇全集・第1巻の『スキャナーに生きがいはない』を買うのを忘れてた。水曜日に河原町に行くので、水曜日に買おう。初訳の短篇が入っているらしい。第1巻に入っているのかどうかは知らないけれど。SFがセンス・オブ・ワンダーだということがわかる貴重な作家のひとり。


二〇一六年三月十四日 「チューしてる恋人たち」


FBで、チューしてる恋人たちの画像を見てると、ぼくも幸せ。ぼくにもチューできる男の子がいるからかな。もしも自分にもチューできる男の子がいなかったら、幸せかどうかは、わかんないけど。いや、きっと、幸せなんだと思う。何と言ったって、美しいのだもの。(少なくとも、FBに写ってる彼らは)

トランクスを買いに出る。

ジュンク堂では、コードウェイナー・スミスの『スキャナーに生きがいはない』(ハヤカワSF文庫)が売り切れていたので、ブックファーストで買った。そのあと、きみやさんに行って、三浦さんと、名前を憶えていない、でも、鴨川の夜景がきれいに見えるお店に行った。きょうも、ヨッパ。楽しかった〜。

これから、『スキャナーに生きがいはない』の解説を読んで寝る。なんだか、ウルトラQのDVDを見るような感じだなあ。


二〇一六年三月十五日 「言語も体験である。」


言語も体験である。
想像されたものではあるが
それもまた現実である。
現実である以上、存在するものである。
したがって
虚無もまた現実であり
存在するものであり
あるいは
存在する状態なのである。


二〇一六年三月十六日 「要素」


何年かぶりで、ぎっくり腰になってしまった。痛みどめをのんで塾に行く。ひさしぶりに、エニグマを聴く。ヒロくんと出合ったときの曲。「Return To Innocence」

荒木時彦くんから詩集『要素』を送っていただいた。秀逸なアイデアと、そのアイデアを支える確実な叙述力。使われているアイデアは、ぼくがはじめてお目にかかるものだ。ここにまで到達した詩を書く詩人は、これまで日本のなかには一人もいなかった。 https://pic.twitter.com/Y05NLYwFpK

いま日知庵から帰った。腰がめっちゃ痛くって、涙が出そうなくらい痛い。でも、帰りに、セブイレで買った「ペヤング超大盛」食べようかどうか思案中、笑。

コードウェイナー・スミスの短篇集、読みながら寝る。きのう冒頭の短篇の途中で寝た。ソビエト人科学者夫妻の物語だ。おおむかしに読んだ記憶がかすかにするのだが、まったく思い出せず。ペヤング、あしたに持ち越し。


二〇一六年三月十七日 「自転車で」


自転車で角を曲がるときに
こけてもうた、笑。
きっついこけ方して
右の手のひらのところ
すりむいて、血が出た。
目の前に、若いカップルがいて
めっちゃ、恥ずかしかった。
けど、あわてず
悠然として、立ち上がって、笑
自転車をおこして
さっそうと走り帰りました。


二〇一六年三月十八日 「太もも」


きのう話をした青年が言っていたことで
とても興味深いことがあった。
太ももが感じるというのだけれど
小学校の3年のときに
女性の先生が担任だったらしいのだけれど
その先生に放課後に教室に呼び出されて
横に坐るように言われて坐ったら
太ももを、なめられたというのだ。
しかし、一瞬で、帰されたのだという。
しかも、ただ一度だけ。
親には言わなかったらしい。
友だちには言ったらしいのだけれど
「そんなん、ふつうにあることやん」
と言われたらしい。
たしかに
ぼくも
高校生のとき
社会の先生に呼び出されて
太ももをなでられたことがあったけれど。
ううううん。
みんな、そんな体験してるのかなあ。


二〇一六年三月十九日 「図書館の掟」


きょうは、つぎに思潮社オンデマンドから出す詩集『図書館の掟。』の編集をしていたのだけど、体調めっちゃ悪し。これからお風呂に入って、身体をほぐす。


二〇一六年三月二十日 「きのうのぼくと、きょうのぼくは別人なのかな。」


10分ほどまえに、日知庵から帰った。帰りにセブイレで買ったカップヌードルをいま食べた。きのうのぼくと、きょうのぼくが別人のようだと、日知庵でえいちゃんが言ってたけれど、そうなのかもしれない。『図書館の掟。』に入れる詩篇はすべて死と死者にまつわる作品だけだもの。自分でも、めげるわ。でも帰りがけに日知庵でお会いしたお嬢さんが、めっちゃ陽気なひとで、ひとを元気にさせる力があるみたいで、めっちゃ暗かったぼくでさえ元気をいただいた。ありがたい。というか、そういうひとのもつエネルギーを、ぼくも持ちたい。というか、仕事柄、持たなければならない。

いま自分のツイッターを振り返って見たのだけれど、ぼくの身体の半分以上は、セブンイレブンでできているようだ。

コードウェイナー・スミスの短篇集『スキャナーに生きがいはない』を、きのう、読んでて眠った。きょうもそのつづき読みながら寝る。

日本現代詩人会のHPで詩投稿欄を4月初旬にオープンするらしいが、選者が野村喜和夫、高貝弘也、峯澤典子なので、どうかなと思う。こんな年がら年中、同じような作品ばっかり書いてる連中に選者させて、なに考えてるのよ、と思う。詩誌の選者と同じような選者をもってきて、どうすんのよ、とも思う。


二〇一六年三月二十一日 「死亡した宇宙飛行士」


きょうは、夜に竹上さんと飲みに出る。J・G・バラードのコレクションをすべてプレゼントする。『死亡した宇宙飛行士』や『22世紀のコロンブス』といった入手困難な作品も多くて、よろこんでもらえると思う。


二〇一六年三月二十二日 「形のないキャベツ」


2009年4月13日メモ

形のないキャベツ

部屋に戻ると
鼻の奥にあるスイッチを押した。
プシューッ
身体がシュルシュルと縮んだ。


2009年4月13日メモ

形は形であることを
ちっとも恥ずかしいことだとは思っていなかったのだけれども
ときどき
形であることをやめたいなと思うことはあった。
形をやめて
なにになるのかは、まったくわからなかったのだけれども。


2009年4月14日メモ

詩人の役目は
意味をなさなくさせるほどまでに言葉を酷使することではない。


2009年4月15日メモ

おそらく無意識はさまざまなことを同時にすることができるのであろう、
身体でリズムを取りながら、口が歌を歌い、手が熱したフライパンのなかに
殻を割った卵の中身を落とすように。

しかし、意識はさまざまなことを同時にすることができない。
すくなくとも、どのことも同じぐらい集中して意識することはできない。


二〇一六年三月二十三日 「poke」


とてもすてきな方から poke が毎日のようにある。彼はストレートだと思うのだけれど。どう思えばいいのかな? なんか高校生のときのような気持ちを持ってしまう。すてきな方じゃなければ、なにも感じないし、考えないのだろうけれど、笑。 すてきなんだよね。妄想してしまう。頭おかしくなる。そのひとの画像は見まくりだから、お顔ははっきりしてる。きょうは、そのひとのこと考えて寝ようかな。夢に出てきてくださりますように!

そいえば、高校のとき、柔道部の先輩が腕をもんでくれとおっしゃったとき、その先輩を好きだったから、めっちゃ恥ずかしかったのを憶えている。たぶん顔を真っ赤にして、もんでたと思う。人生なんて100年足らずのものだけれど、すてきな一瞬がいっぱいあったし、いまもあるのだろう。すごいことだ。

妄想全開で寝ます。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年三月二十四日 「幻覚」


朝、幻覚を3つ見た。さいごのが、強烈で、部屋の壁に手をあててたら、右から手が出て、ぼくの手にその手が溶け入ってきて、えっと思っていると、裸のぼく、20代の若いときのぼくがでてきて、ぼくに、「ぼくを分解して」というのだ「どういうこと?」と訊くと、「いまの詩は高次すぎて」「ぼくは音でやりたいんです。」という。言っているうちに、ぼくの若いときって、かわいいと思ってチューしようとしたら、彼の身体が顔を中心に青あざだらけになって、チューできる寸前で、ぼくも目がさめた。

それからまたすぐに、3つほど幻覚を見てて、ヘロヘロになっていたら、弟が部屋に入ってきて、「あっちゃん、どうしたん、なんかしんどそうやん」と言いながら坐ると、外国人女性の姿に変化していてナイフを手に持っていたので、すかさず「目が覚めればいいんや」という言葉を呪文のように口にしたら、目が覚めた。


二〇一六年三月二十五日 「図書館の掟。」


詩集『図書館の掟。』の編集をしていた。300数十ページになる予定。電子データにしていない作品が2作。ひとつは、「ヨナの手首。」もうひとつは、「もうすぐ百の猿になる。」という散文の哲学的断章。入力済みの作品もルビ処理をしていないので、相当にめんどくさい。しかし、つくらねばならない。少なくとも、きょうは、「ヨナの手首。」と「もうすぐ百の猿になる。」をワードに打ち込もう。

『ヨナの手首。』のワード打ち込み完了。あと、きょうじゅうに、『もうすぐ百の猿になる。』を入れたい。それと、私家版の詩集の『陽の埋葬』のさいごにいれた、『百葉箱のなかの祈祷書。』も、『図書館の掟。』のなかに入れたいと思う。これ以上入れると350ページを超えるので、ここくらいまでかな。

『引用について』という論考も入れる。それぞれの作品が照応しているので、入れなくてはならなくなった。『もうすぐ百の猿になる。』文章を直しながら入力しているのだが、長い。きょうじゅうに打ち込みたいが無理かもしれない。にしても、完全に理系の人間の文章だ。

『もうすぐ百の猿になる。』の打ち込み、A4サイズで、7枚のうち、2枚完了。なぜこんなに遅いかと言うと、散文詩だからである。しかも文章いじっているから、こんなにノロい。しかし、なぜ、この作品があることに気がつかなかったのだろう。あまりにむかしに書いたものだから書いたことも忘れてた。

『もうすぐ百の猿になる。』いまで、4ページ目の半分まで、打ち込み。ちょうど半分。ぼくの詩の原点ではないだろうかと文章中に書いていたが、そういう感じがする。見つけてよかった。晩ご飯を食べてこよう。きょうは目が覚めてから、ずっと文学してる。えらい。誰のためでもなく自分のためだけれど。

あと1ページ半。『もうすぐ百の猿になる。』も傑作だった。そのうち、文学極道に投稿しよう。

『もうすぐ百の猿になる。』の打ち込み終了した。あと『百葉箱のなかの祈祷書』の打ち込みが残っているけど、少なくとも30分間は横になろう。腰が痛い。『図書館の掟。』の収録作品数が27篇で、3の3乗である。たいへんうれしい。330ページをちょい超えである。333ページになればいいなあ。

『百葉箱のなかの祈祷書』の打ち込みが終わって、詩集の総ページ数を見たら331ページやった。惜しい。あと2ページ。ぼくが30代のころの作品が半分、残る半分が40代、50代の作品ということになる。きょう一日、ワードに打ち込んでいたのは、30代の作品だった。『陽の埋葬』の雰囲気が濃厚。

というか、長篇の『陽の埋葬』をいくつも収録しているから、当然、そうなるか。あしたの朝に元気があったら、目次をつくろう。そろそろクスリをのんで寝る。


二〇一六年三月二十六日 「詩集の編集」


目次つくったら、収録作品29作品だった。

入力するのが面倒なのでほっておいた『陽の埋葬』があったので、これから入力する。

本文の入力に一時間か。総ルビなので、これからルビ入れを。しかも、歴史的仮名遣い。神経質になる。

ルビ打ちにも一時間かかったか。総ルビ4ページ分で、これだけど、総ルビ50ページくらいの作品があって、まだルビ打ちをやってない。怖い。できれば、学校の授業のない春休み中にやっておきたい。いままで、どうして読書ばかりしていたのか。逃げてたんだな。やっぱり詩集の編集って、しんどいもの。


二〇一六年三月二十七日 「花見」


これから、きみやさん主催のお花見に。夜は竹上さんと日知庵で飲むので、お昼過ぎにいったん帰るかもしれない。きょうは、竹上さんに、ミシェル・トュルニエの全コレクションと、ヴァージニア・ウルフ関連の本をすべてプレゼントする。ああ、それでも、ぼくの本棚はまだまだギューギューだ。床積みの本が! 笑。


二〇一六年三月二十八日 「ニムロデ狩り」


日知庵に行くまえに、オーパ!のブックオフで、シェフィールドの『ニムロデ狩り』と、創元のアンソロジー『恐怖の愉しみ』上巻を108円で買った。

『The Marks of Cain。』の3分の2のルビ打ちをやった。めっちゃしんどかったけど、あと3分の1やったら、あしたじゅうにできるかなと思う。どだろ。まあ、とにかくがんばった。えらい。そだ。牛丼の吉野家で野菜カレー食べた。


二〇一六年三月二十九日 「夜は」


太陽だけでは影ができない。

夜は地球と太陽との合作である。


二〇一六年三月三十日 「ビタミン・ハウス」


大学院生のときに
四条大橋の東側に
ビタミン・ハウスって
ショウ・パブでバイトしてたことがあって
ちょっとのあいだ、女装してました、笑。
ええと、お客は、半分が坊主と金融屋さんでした、笑。
バブルのころで、すごかった。
お坊さんで
いまから考えると
ぽっちゃりとして
かわいいひとがいて
ぎゅっと手を握られて
うぶだったぼくは
顔がほてりました。
当時は、太ったひとがいけなかったので
それだけだったのですが
いまから考えると
そのお坊さんも20代のなかばで
ぽっちゃりとしたかわいい感じのひとだった。
京大のアメフトやってるひととすこし付き合って
すぐに別れました。
がさつに見えて
けっこう繊細で
ぼくの言葉によく傷ついていたみたいで
別れるとき
思いっきり文句言われました、笑。
さいきん、これまでに書かなかったことを
よく書いてるような気がします。
もうじき、50歳になりますから
(2年後ね)
もう怖いものが、そんなになくなってきたのかもしれません。
とはいっても、これはブログに貼り付けられないと思うけど、笑。

でも、いいのかな。
そんなバイトしたの学生時代だし。
時効だよね、笑。
当時のぼくの顔は
詩集の「Forest。」の本体のカヴァーをはずすと見れるようになっています。
化粧したら、どんな顔になるか、だいたい想像つくと思いまする。
しかし、まあ、48歳で、まだまだ、いっぱいカミング・アウトできるって
けっこう、ぼくの人生、めちゃくちゃなのかもね。
それとも、ほかのひともめちゃくちゃだけど
だまってるだけなのかなあ。
わかんないけど。
ふにゃ。
だから、ぼくが付き合った京大の学生だったエイジくんが
ぼくの部屋にはじめてきたとき
無断でパッとクローゼットをあけて
「女物の服はないな。」
と言ったのは、彼の正しい直感がさせた行為だったわけだ。
「なに言ってるの? バカじゃない。」
「女装してるかもしれへん思うてな。」
「そんな趣味ないよ。」
そんな会話の応酬がありました。


二〇一六年三月三十一日 「非喩」


いつもなら朝ご飯を食べるのだが、食べない。検診の日なのだ。

組詩にしていた長篇の『陽の埋葬』を5つの『陽の埋葬』にバラしたら、詩集『図書館の掟。』の総ページ数が337ページになった。

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『あまたの星、宝冠のごとく』 誤字・脱字 223ページ2行目「事実もものかは、」 意味がわからないだけではなく、どういう誤字・脱字を起こしているのかもわからない。

塾からの帰り道、「非喩」という言葉を思いついたのだが、もしかしたら前にも思いついたかもしれない。直解主義者のぼくだから。比喩に凝ってるもの読むと、ああ、このひと、頭わるいと思うことがよくある。なんで、そのまま書かないのだろうと思うことがよくある。事実そのままがいちばんおもしろい。


構図VII_α 構図VII_β

  鷹枕可

_α


縋り歎く実母を洗面鏡に閉じ嵌殺した侭
放埓の華を撃つ青年
華の実像は
概念の禽よりも
遠く愚かしい季節を福音として喚起した

  血の代価を啜る吸血蝶の頤には
  観念としての花蘂が両性具有の彫塑を瞠目していた
  そして人間は知るだろう
  記憶の水が死者達の晦渋を
  簡素な磔刑に科す
  溶暗の部屋に綻ぶ
  山査子の麗しき可憐呵責を

祈念者の蒼顔は魘夢の
   途轍を敷く凱旋車への喝采であり
      死の葡萄樹は普遍概念の双嬰児を虚誕とした
   併し何者が知悉し得るであろうか
醜貌の観測機械に過る
  皆既蝕に転動を及ぼすテスラの可視を

砂である謎への訴求は
 退く銅版画の虚実離散より以後
果物籠の起草を
 倦厭する拠地へ振り撒くだろう
自由は劃して死せる
 雲霞の聖霊を鉛丹に塗り潰す様に隔絶した

孤絶の境涯を
臨む
華々は麗らかでも優美でも勿い
鉄錆の死が灌漑に拠る肥沃に一頻の誤謬を諜報する頃には
誰でも勿い私属が
血脈の終端に斃れた百合の様に睡る



_β


人々が緘黙するとき花籠は気泡のような眼球を裂開し植物写真を抱く狂人を喚いた
無価値な死後を余暇というべき少女の様な絞首体が流れていった
砂塵粉塵散々の季節風が死を明るみながら瓦礫は二十世紀の置時計のなかで乱鐘を逸りつつ幾つも砲撃した
簡素抽象の今を復複製する事は勿い想像下の現実の様に
螺子の様に曳き潰された肉体像が軋みながら永続の銅球の中で叫ぶのを夕刻の鶏頭と火夫は愉悦しながら
それ以降夕刻毎に晩年を諸々の禽の様に開いた 

羅馬に転倒し希臘に観閲された霧鐘塔が合成繊維の藤袴を纏わりつつ
美しい重箱を螺鈿の様な継母の死体へ射精した 
狂った眼鏡の狭窄の狂った人工知能技術は復健全且つ瑕疵勿き鉄条網の棘に
未来派に於いての華々しい煽動家の様に謳った 
しかし誰が聴くのか庭球場の音叉を反復する自動溶鋼施設の遂死迄の過程を

彼等の影像は脳髄の炸薬火薬は病み微睡む様な人工の死体を垂下させ全盲の禽に花言葉を教示していた
青い試験紙が赤く捻転する回転扉には理髪師が轢死体を嘆きながら赦していた
痴愚に過ぎない扁桃体の視野には亡骸の花草飾が狂乱するウェヌスの両腕に摘み取られて行った
復素抽象としてのコンポジションVIIには半具象の矩形を崇拝する劇作家達の木椅子が聳え立ち頂きには塑像を戴冠していた
1945年以降と名付けられた廃棄物時計は鋼鉄の詩や鵜呑みの欺瞞を露呈告発していた
世界された国家或は国家された世界には総てが領有権を謳うとテレヴィジョンの罅割れたブラウン管が唸りを上げていた

塵の様な遺灰が降頻る標本化されたアウシュビッツの黒薔薇を指示しながら回顧展は極めて優美な緘口令を敷くだろう


詩の日めくり 二〇一六年四月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年四月一日 「愛のある生」


愛のある生

それが、ぼくのテーマだ。

「生」とは
いのちの輝きのことだ。

しかし、嘘は、すばらしい。
人生を生き生きとしたものにしてくれる。
詩も、小説も、映画も、すてきな嘘で、
ぼくたちの生を生き生きとしたものにしてくれる。
最高にすばらしい嘘を、ぼくも書いてみたいものだ。
詩で、かなり自分のことを書き込んでいるけれど、
まだまだ上等な嘘をついていない気がする。


二〇一六年四月二日 「本って、いったい何なのだろう?」


詩集『図書館の掟。』の紙原稿チェックが終わった。ワードを直したら、一日おいて、もう1回、紙原稿をチェックしよう。来週中には、完成原稿が出来上がる感じだ。

いま日知庵から帰った。きょうは、何を読んで寝ようかな。買ったばかりの未読の本、数年前に買った未読の本、十年くらい前に買った未読の本。本、本、本。ぼくの人生は、本にまみれての人生だ。それでよいと思う。ぼくの知らないことを教えてくれる。ぼくの感じたことのないことを感じさせてくれる。

本って、いったい何なのだろう?


二〇一六年四月三日 「Here Comes the Sun。」


自分の右足が
自分の右足を踏めないように
ぼくのこころは
けっして、ぼくのこころを責めることはない。

千本中立売通りの角に
お酒も出す
タコジャズってタコ焼き屋さんがあって
30代には
そこでよくお酒を飲んでゲラゲラ笑ってた。
よく酔っぱらって
店の前の道にひっくり返ったりして
ゲラゲラ笑ってた。
お客さんも知り合いばっかりやったし
だれかが笑うと
ほかのだれかが笑って
けっきょく、みんなが笑って
笑い顔で店がいっぱいになって
みんなの笑い声が
夜中の道路の
そこらじゅうを走ってた。
店は夜の7時から夜中の3時くらいまでやってた。
朝までやってることもしばしば。
そこには
アメリカにしばらくいたママがいて
ジャズをかけて
「イエイ!」
って叫んで
陽気に笑ってた。
ぼくたちの大好きな店だった。

4、5年前かなあ。
店がとつぜん閉まった。

1ヶ月後に
激太りしたママが
店をあけた。

その晩は、ぼくは
恋人といっしょにドライブをしていて
ぐうぜん店の前を通ったときに
ママが店をあけてたところやった。

なんで休んでたのかきいたら
ママの恋人がガンで入院してて
その看病してたらしい。
ママには旦那さんがいて
旦那さんは別の店をしてはったんやけど
旦那さんには内緒で
もと恋人の看病をしていたらしい。
でも
その恋人が1週間ほど前に亡くなったという。
陽気なママが泣いた。
ぼくも泣いた。
ぼくの恋人も泣いた。
10年ぐらい通ってた店やった。
タコ焼きがおいしかった。
そこでいっぱい笑った。
そこでいっぱいええ曲を知った。
そこでいっぱいええ時間を過ごした。

陽気なママは
いまも陽気で
元気な顔を見せてくれる。
ぼくも元気やし
笑ってる。

ぼくは
自分の右足に
自分の右足を踏まないように命じてる。

ぼくのこころが
けっして、ぼくのこころを責めないように命じてる。

笑ったり
泣いたり

泣いたり
笑ったり

なんやかんや言うて
その繰り返しばっかりやんか

人間て
へんな生きもんなんやなあ。

ニーナ・シモンの
Here Comes the Sun

タコジャズに来てた
東京の代議士の息子が持ってきてたCDで
はじめて、ぼくは聴いたんやけど
ビートルズが、こんなんなるんかって
びっくりした。

親に反発してた彼は
肉体労働者してて
いっつもニコニコして
ジャズの大好きな青年やった。

いっぱい
いろんな人と出会えたし
別れた

タコジャズ。

ぼく以外のだれかも
タコジャズのこと書いてへんやろか。

書いてたらええなあ。

ビッグボーイにも思い出があるし

ザックバランもええとこやったなあ。

まだまだいっぱい書けるな。
いっぱい生きてきたしな、笑。


二〇一六年四月四日 「風が」


風が鉄棒にかけられていた白いタオルを持ち上げた。
影が地面の上を走る。
舞い落ちてくるタオルと影が一つになる。


二〇一六年四月五日 「詩集『詩の日めくり』の表紙のための写真を撮ってもらう。」


お昼、大谷良太くんちの近くのミスタードーナツに行く。詩集用の写真をいくつか撮ってもらうために。けっきょく、大谷良太くんちに行って、大谷良太くんとミンジュさんに撮ってもらった。6月に書肆ブンから出る『詩の日めくり』第一巻から第三巻までの3冊の詩集用の写真をこれから選ぶ。


二〇一六年四月六日 「図書館の掟。」


きょう『図書館の掟。』のタイトル作を見直して、3回目の見直しだけど、大きく変える個所が出たので、自分でもびっくりした。3回目の見直しで大きく変えるのは、はじめてだけど、テキストがだんぜんよくなるのである。こういうこともあるのだなと思った。単にアラビア数字を漢数字にするだけだけど。


二〇一六年四月七日 「パースの城」


思潮社オンデマンド詩集用の『図書館の掟。』の原稿を思潮社の編集長の高木真史さんにワードで送った。表紙用の写真もいっしょに。

きょうから、また読書の日々に戻る。そいえば、ティプトリー・ジュニアの短篇集『あまたの星、宝冠のごとく』を途中でほっぽってた。きょう、塾に行くまえに、お風呂につかりながら読んだ、ブラウリオ・アレナスの『パースの城』の42ページに、つぎのようなセリフがあって、それが、ぼくを喜ばせた。

「おや、ぼくだ」と叫んだ。「いったいどうなっているんだ? この部屋にどうしてぼくがふたりもいるんだ?」(ブラウリオ・アレナス『パースの城』第五章、平田 渡訳)


二〇一六年四月八日 「はじめて知ったこと」


ページレイアウトをクリックして、区切りをクリックして、次のページから開始をクリックすると、次のページからはじめられるということを、きょう、はじめて知った。いま試してみた。55歳、はじめての体験。20冊以上、詩集を出してて、この始末。いや、いい方にとろう。自分の知識が増したのだと。


二〇一六年四月九日 「鳥から学ぶものは樹からも学ぶ。」


日知庵から帰った。めっちゃかわいい男の子が知り合いの子といっしょに来てて、ドキドキした。植木職人の青年だ。26才。日知庵のえいちゃんにお店に置いてもらっているぼくの『ツイット・コラージュ詩』を彼が読んでくれて、「言葉が深いですね。」と言ってくれたことがうれしかったけど、自分の言葉が深いと思ったことなど一度もなかった。

「鳥から学ぶものは樹からも学ぶ。」とか、ぼくには、ふつうの感覚だし。と思ったのだけれど、彼は、ぼくの詩集を手にしながら、あとからきた女性客のところにふわふわと行っちゃった。ありゃま、と思って、ぼくは憤然として帰ってきたのであった。あしたは、遊び倒すぞ、と思いながら、きょうは寝る。

彼が、ぼくがむかし付き合ってた男の子に似ていたので、日知庵にいたときは、ぼくはドキドキ感覚で、チラッチラ見ながら、頭のなかでは、聖なるジョージ・ハリスンの曲がリピートしていたのであった。至福であった。日常が、ぼくにとっては、劇なのだ。しゃべり間違ったり、し損なったりする劇だけど。

日知庵にいた男の子のことを思い出しながら、寝ようっと。いや、むかし付き合ってた男の子のことを思い出しながらかな。たぶん両方だな。なんだかな〜。でも、やっぱり日常が最高におもしろい劇だな。それとも、おもしろい劇が日常なのかな。笑っちゃうな。ちょっぴり涙しちゃうな〜。それが人生かな。

あ、その男の子、植木職人だって言うから、こう言った。「きみが使ってる鋏から学ぶこともあるやろ? 人間って、なにからでも、学ぶことができるんやで。」って。55歳にもなると、こんな、えらそうなことを口にするのだと、自分でも感心した。えらそうなぼくだったな。


二〇一六年四月十日 「大谷良太くんのおかげで」


きょうも、大谷良太くんには、たいへんお世話になった。彼のおかげで、ぼくの作品が日の目を見ることができることになった。思潮社オンデマンドからは、これからは、年に1冊しか出せないと思潮社の編集長の高木真史さんに言われて、詩集用に用意してた『詩の日めくり』の原稿のことを大谷良太くんに相談したら、書肆ブンで出しますよと言ってくれて、ほんとうにありがたかった。捨てる神あれば、拾う神ありという言葉が脳裏をよぎった。ぼくが生きているあいだは、ぼくの作品なんかは、ごく少数のひとの目にとまるだけだと思うと、その思いも、ひとしおだった。


二〇一六年四月十一日 「きみの名前は?」


チャールズ・シェフィールドの『ニムロデ狩り』これ人名を覚えるのがたいへんだけど、おもしろい作品だ。いま202ページ目のさいしょのところ。140ページのうしろから4行目にひさしぶりに出合った言葉があった。「きみの名前は?」(チャールズ・シェフィールド『ニムロデ狩り』9、山高 昭訳)

「きみの名前は?」という言葉を、いまも収集しつづけているのだ。『HELLO, IT'S ME。』という作品のロングヴァージョンをつくっているのだ。いつ発表できるかどうかわからないけど。それは読書というものをやめたときかな。死ぬときか。ファイルにだけ存在することになるかもしれない。


二〇一六年四月十二日 「ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア」


ティプトリーの短篇集『あまたの星、宝冠のごとく』、救いのない作品が多い。彼女、こんなにネガティブだったっけ? と思うくらいネガティブ。でも、あまり、ひとのことは言えないかもしれない。ぼくのもネガティブな感じがするものね。『図書館の掟。』に、ぼく自身が出てくるけれど、唯一、そこだけは、ポジティブかもしれない。ティプトリーは何を持っていたっけ? と思って本棚をさがしてみた。けっきょく、部屋には4冊のティプトリーがあったのだった。『老いたる霊長類への賛歌』、『故郷から一〇〇〇〇光年』、『輝くもの天より堕ち』、そして読み終わったばかりの『あまたの星、宝冠のごとく』。タイトルだけでも、すごいいい感じだな。持っていないものを amazon で注文した。『星ぼしの荒野から』と『愛はさだめ、さだめは死』と『たったひとつの冴えたやりかた』と『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』の4冊。到着したら、ティプトリーでまとめて並べておこうかな。

さっき、ふと、バッド・カンパニー、セカンドしか残ってないから、ボックスで買おうかなと思った。あかんあかん。飽きては買い、飽きては買ってるバンドだ、笑。カンパニーで思い出したけど、増田まもるさんが訳したバラードの『夢幻会社』の会社って、カンパニーの訳だけど、この場合は、「友だち」の訳のほうが内容とぴったりくるんだけど、タイトル、誤訳じゃないのかな。ベテランだから、だれもなにも言わないのか、ぼくが間違ってるのか、わからないけどね。


二〇一六年四月十三日 「さいごの詩集」


塾に行くまで、シェフィールドの『ニムロデ狩り』のつづきを読もう。ぼくのさいごの詩集三部作の、『13の過去(仮題)』は●詩、『全行引用による自伝詩』は全行引用詩、『詩の日めくり』はコラージュである。好きな本を読んで、好きに詩をつくる。じっさいの人生で好きなことしなきゃ、意味がない。じっさいの人生でできることのなかに自分の好きなことがあると思おうとしているのではないかという疑念はあるけれど。どだろうね。55歳。まだ一日でも多く、本を読みたい。作品をつくりたいという欲求がある。その欲求が、ぼくのことを生かしているのかもしれない。

塾から帰った。雨で、リュックが濡れた。本はジプロックに入れてたから大丈夫。これからシェフィールドの『ニムロデ狩り』のつづきを読む。ようやく半分読めた。

いま、amazon で自分の本が売れてるかどうかのチェックをしてたら、『ツイット・コラージュ詩』(思潮社オンデマンド・2014年)が売れてた。セール中でもないのに。だれが買ってくれたんだろう。もしかしたら、先週、日知庵で手にとってくれた男の子かな。どうかな。とってもチャーミングな青年だった。まあ、生身の男の子だから、生身の女の子が誘ったら、ほいほいついてっちゃってたけど、笑。日知庵で飲んでると、めっちゃ人間観察できる。父親が糖尿病で失明したけど、どうか、神さま、ぼくから目だけは取り上げないでください。ありゃりゃ、『ゲイ・ポエムズ』(思潮社オンデマンド・2014年)も、最近になって売れてたみたい。売れ行き順位が上がってる。まだ買ってくださる方がいらっしゃるんだ。ありがたい。というか、ぼくが無名なので、最近、文学極道かどこかで発見してくださったのかもね。これは、無名の強みだわ。


二〇一六年四月十四日 「i see your face.」


これから塾に。塾の帰りに、日知庵に寄ろう。こころおだやかに生きていきたい。

i see your face. i see your face. とメロディーをつけて頭のなかで歌いながら、日知庵から帰ってきた。だれの音楽に近いかな。エドガー・ウィンター・グループかな。ぼくは音楽家にもなりたかった。いちばんなりたかったのは画家かな。音楽家かな。


二〇一六年四月十五日 「ノブユキとカレーを食べてた風景」


作家は、なりたかったものの一つだった。詩人というものになってしまったけれど、詩人は、子どものときのぼくのなりたいもののなかにはなかった。だって、詩人なんて、子どものぼくのときには、死んだひとばかりだったもの。生きている詩人がいるなんて知らなかった。

おやすみ、グッジョブ! きょうは、のぶゆきのこと、たかひろのこと、ともひろのこと、こうじくんのこと、じゅんちゃんのこと、えいじくんのこと、えいちゃんのこと、いっぱい思い出してた。ぜんぶむかし、でも、ぜんぶいま。ふっしぎ、ふしぎ。ぜんぶ、いまなんだよね。思い出すっちゅうことは。

きょうは学校の授業もないし、塾もない。シェフィールドの『ニムロデ狩り』を読み終わろう。さっき、ご飯を食べに外に出るまえ、クローゼットの下の本棚を整理して未読の本をまえに出して並べた。もっていることを知らない本が2冊ばかりあった。ジャック・ヴァンスの本もコンプリートに集めていた。

いま1冊のティプトリーが届いた。ぼくが唯一、読んでなかった『星ぼしの荒野から』であった。満足な状態の古書だった。カヴァーの絵が、どうしても購買意欲を刺激しなかったものだが、内容とは関係がないものね。出たときに買っておくべきだった。『ニムロデ狩り』あと55ページ。読んでしまおう。

『ニムロデ狩り』あと40ページ。これを読み終わったら、ティプトリーの『星ぼしの荒野から』を読もう。きょうは、お昼に、吉野家で、ベジ牛を食べた。帰りにセブイレで買ったサラダ2袋をこれから食べる。

シェフィールドの『ニムロデ狩り』を読み終わった。ハインラインとかゼラズニイとかの小説を読んでるような感じがした。ぼくが10代後半から20代のはじめころに読んでたSFのような雰囲気だった。悪くはなかった。というか、よかった。

焼きシャケのり弁当20ペーセント引き334円を買ってきた。これ食べたら、ティプトリーの未読の短篇集『星ぼしの荒野から』を読もう。

55歳にもなると、20年まえのことなのか、30年まえのことなのか、わからなくなるけれど、何度か書いたことがあると思うけれど、友だちんちのテレビで見たのかな、峠の甘酒を売ってる店で、恋人同士が甘酒をすすって飲んでいる場面があって、なぜかその場面がしきりに思い出されてくるのであった。仲のよい二人の人間が、向かい合って、あったかい甘酒をすすっている光景が、ぼくには、こころおだやかにさせるなにかを思い起こさせるのだと思うけれど、こうした光景が、ぼくのじっさいの体験のなかにもあって、それはノブユキとカレーを食べてたときの光景だったり、えいちゃんと、イタリヤ風に調理してあった大きな魚をいっしょに食べたりしたときの光景だったりするのだった。ぼくの脳みそがはっきりと働いてくれるのが、あと何年かはわからないけれど、生きて書いているうちに、そんな光景のことなんかも、ぜんぶ書いておきたい。


二〇一六年四月十六日 「詩の日めくり」


学校の帰りに、大谷良太くんの引っ越し先に行って、飲んでた。で、その帰りは、日知庵に行ってた。きょうは、めちゃ飲んでたけれど、意識ははっきりしている。書肆ブンから出る詩集『詩の日めくり』の第一巻から第三巻までの見本刷があしたくる予定。ネットで発表したものとちょこっと違う個所がある。

きょうも、授業の空き時間にティプトリーの短篇集『星ぼしの荒野から』を読んでた。コンプリートしてもよいと思った作家の一人であるが、読んでよかった。でも、まあ、寝るまえの読書は、気分を変えよう。ひさびさに、きのう寝るまえに、『モーム語録』のつづきを読んでいた。


二〇一六年四月十七日 「ゲラチェック」


『詩の日めくり』の第一巻から第三巻まで見本刷りがきた。活字の大きさを間違えてた。自分でもびっくり。一回、第一巻から第三巻まで目を通した。改行部分で間違っていた箇所があったり、英文部分の記号処理がうまくいってなかった箇所もあった。ルビの大きさを変える必要があると思うので、ルビの箇所にすべて付箋した。もう一度、見直そう。見本刷の二度目の見直しをしている。自分の作品でも、ええっと思うくらい、ノリのいいフレーズがいっぱいあって、見直ししているのか、詩を読んでいるのか、一瞬、わかんないときがあった。55歳にもなって、自分の詩作品を読んで、こころ動かされるというのは、そうとう脳がイカレテいる様子である。二度目の見直しが終わった。3度目の見直しをして、きょうは終わろう。3度目の見直しで、まだ見つかるミス。まあ、合計で、800ページあるからね。


二〇一六年四月十八日 「ゲラチェック」


4度目の見直し。まだミスが見つかる。

いま『詩の日めくり』の見本刷、第二巻を読みながらチェックしているのだけれど、わずか10か月前のことなのに、いまのぼくが記憶していない数字が出てきて(ジュンちゃんの年齢、ぼくの8つ下だから、すぐ計算できちゃうのだけど)びっくり。「46才になりました。オッサンです。」という彼の言葉。

文学極道に『詩の日めくり』を投稿してなかったら、記憶していなかったことばかり。作品にしないと読み返さないひとだからかもしれないけど。でもまあ、作品にしてよかった。『詩の日めくり』は死ぬまで書きつづけよう。そのときにしか見られなかった光景があるのだ。

『詩の日めくり』の見本刷・第二巻の4回目の見直しが終わった。第一巻の方がバラエティーに富んでるけど、第二巻の読みやすさは半端ではない、笑。これから第三巻の4回目の見直しをする。まだミスが見つかると思う。第二巻でさえ2か所あった。今週の金曜日まで繰り返し見直す予定だ。何回するかな。

『詩の日めくり』の見本刷の第三巻を読んでいるのだが、読んでいるというのは、もはや見直しというよりも、知らない詩人の作品を読んでいるような気がするからなのだが、随所にでてくる書いた記憶のないフレーズが新鮮で、まさに自分自身を驚かせるために、ぼくは書いているのだなと再認識した。


二〇一六年四月十九日 「省略という技法について」


バラはバラ
と書くと
この助詞の「は」はイコールで
「だ」とか「である」という言葉を
読み手は補う。
「だ」や「である」は、文法的には動詞ではないのだが
なんだったかな
形容動詞だったかな
忘れた
まあ、しかし
たとえば
バラは切断
あるいは
バラを切断
バラに接木
と書くと
「する」という動詞を
読み手は思い浮かべる。
では
バラはヒキガエル
だったら、どうか。
道を歩いていると、フェンスの間から
バラのように咲いているたくさんのヒキガエルがゲコゲコと鳴いている。
あるいは
ヒキガエルのように、ピョンピョン跳ね回るバラの花が川辺のそこらじゅうにいる
みたいなことを、思い浮かべる読者がいるかもしれない。
ぼくが、そんなタイプの読み手だけど
省略技法が発達している俳句や短歌や詩では
この暗示させる力がものをいう。
隠喩ですな。
あまりに頻繁な省略は
読み手に心理的な負荷を与えることにもなるので
てきとうに「省略しない書き方」もまぜていくことにしている。
そんなことを
いま、五条堀川のブックオフからの帰りに
自転車に乗りながら考えていた。


二〇一六年四月二十日 「拡張意識」


時間感覚が拡張されると
それまで見えていなかったものが見えるようになる。
最初は誘導剤によるものであったが、訓練することによって
誘導剤なしでも見えるようになる。
ゴーストや、ゴーストの影であるさまざまな存在物が見えるようになる。
人柱に使われているホムンクルスも、それまで見えていなかったのに
ベンチのすぐそばに瞬時に姿を現わした。
詩人は第一の訓練として、音の聞き分けをすすめていた。
川のせせらぎと、土手に植わった潅木の茂みで泣く虫の声。
集中すると、どちらか一方だけになるのだが
やがて、双方の音が同じ大きさで、
片方だけ聞こえたときと同じ大きさで聞こえるようになる。
つぎにダブルヴィジョンの訓練であった。
ぼくは詩人に言われたように
夜のなかに夜をつくり、世界のなかに世界をつくった。
夜の公園のなかで
ベンチに坐りながら、一日前のその場所の情景を思い浮かべた。
詩人は目を開けながら、頭のなかにつくるのだと言っていた。
電車のなかで
一度、ダブルヴィジョンを見たことがある。
仕事が昼に終わった日のことだった。
ダンテの「神曲」の原著のコピーをとらせてもらう約束をしていたので
近衛通りだったかな吉田通りだったかな
通りの名前は忘れたけれど
京大のそばのイタリア会館に行くことになっていたのだが
そこに向かう電車のなかで
向かい側のシートがすうっと透けて
イタリア会館のそばの道路の映像が現われたのだった。
その映像は、イタリア会館のそばの道路と歩道の部分で
人間が歩く姿や車が動く様子が映っていた。
居眠りをしているのではないかと思って、目をパチクリさせたが
映像は消えず、しばらくダブルヴィジョンを見ていたのだった。
電車が駅にとまる直前にヴィジョンが消えたのだが
意識のほうなのか
それともヴィジョンのほうなのか
弁別するのは難しいが、明らかにどちらかが
あるいは、どちらともが
複数の時間のなかに存在していたことになる。
ぼくは夜のなかに夜をつくった。
河川敷の地面がとても明るかった。
ぼくは立ち上がった。
見上げると二つの満月が空にかかっていたのだ。
ふと、ひとのいる気配がして振り返った。
そこには、目を開けてぼくを見つめる、ぼくがベンチに坐っていたのだった。
上のようなシーンは前にも書いていたけれど
このあいだ読んだ、だれだったかな
イアン・ワトスンだ
彼の言葉をヒントにして
なぜ、ホムンクルスやゴーストが見えなかったのに
見えるようになったか説明できるような気がする。
存在とは
出現すると瞬時に(ワトスンは、同時に、と書いていたが)消失するものだから
時間感覚が誘導剤で
あるいは
訓練によって拡張されると
この「拡張」という言葉は改めたほうがいいかもしれないけれど
視覚的に見えなかったものが見えるようになる
つまり
意識のなかに意識されることになるということなのだけれど
ううううん。
どうだろ。


二〇一六年四月二十一日 「メガマフィン、桜、ロミオとジューリエット、光華女子大学生たち」


朝からマックでメガマフィン。
大好き。
ハッシュド・ポテトも好き。
それからアイス・カフェオレ。

歩きながら桂川の方向へ。
光華女子大学のまえを過ぎると
花壇に植わった桜が満開やった。
桂川をわたって
古本市場で
新しいほうの「ロミオとジューリエット」の岩波文庫を買う。
105円。
あしたぐらいにつく岩波文庫の「ロミオとジューリエットの悲劇」は旧訳。
帰りに光華女子大学のまえを通ると
お昼前なのか
女子大生たちがいっぱいバス停に並んでた。
彼女たちの群れのなかを通ると
化粧品のいいにおいがいっぱい。
いいっっぱい。
だいぶ汗をかいたので
これからお風呂に。
マックには、朝の7時30分から9時15分までいて
「未来世紀ブラジル」を聴きながら、詩集のゲラの校正をしていた。
校正箇所、3箇所見つかった。
天神川通りの交差点で
信号待ちしていると
タンポポの綿毛が
ズボンのすそにくっついちゃって
パッパッてはらったけれど
完全にはとれなくって
それで洗濯中。
めんどくさい。
きょうも2度の洗濯。
これから暑くなっていくから
しょっちゅう洗濯しなきゃならなくなる。


二〇一六年四月二十二日 「無名性」


きょうもヨッパ。日知庵→きみや→日知庵のはしごのあと、以前にかわいいなと思っていた男の子と偶然、電車で乗り合わせて、駅の近くのバーでいっしょに飲んだ。人生というものを、ぼくは畏れているし、嫌悪しているけれど、愛してもいる。嫌悪すべき日常に、ときたまキラキラ輝くものがあるのだもの。

しじゅう無名性について考えている。無名であることによって、ぼくは自由性を保てているような気がしている。『詩の日めくり』の見本刷を何日か読み返してみて、実感している。芸術家は生きているあいだは無名であることが、たいへん重要なことだと思っている。死後も無名であるのなら、なおさらよい。

ああ、つまり、ふつうのひとということだ。詩人であるまえに、一個の人間なのだ。人間としての生成変化が醍醐味なのだ。人間であること。それは畏れざるを得ないことであり、嫌悪せざるを得ないことだし、愛さざるを得ないことでもある。詩人は、言葉によって、そのことを書いておく役目を担っている。

ティプトリー、コンプリートに集めてよかった。きょうきたトールサイズの文庫本2冊、1冊はなつかしい表紙だった。もう1冊は新しい表紙だけど、かわいらしい。こんなに本を愛しているぼくのことを、本もまた愛してくれているのかしら? どうだろう? まあ、いいか。一方的な愛で。ぼくらしいや。

朝から夕方まで、大谷良太くんに、ずっと『詩の日めくり』第一巻から第三巻の校正をしてもらってた。書肆ブンから出すことができることになって、ほんとによかった。二回目の見本刷が5月に届くことになっている。きっちり見直しますね、150か所ほど直しを入れてもらって申し訳なかったです。


二〇一六年四月二十三日 「黄金の丘」


ついに黄金の丘に行きます.
古い通り鴨肉を食べた.
まだ買ってない問"クラスト"たこ焼き
隣の女性が買うのはゲストに聞け
女性のゲスト
:" そこにはもっとパリパリした?"
ボス :" えい..........."

女性のゲスト
:" はとてもサクサク??"
ボス :" それは私のために一生懸命に説明することは,
あなたを知るのみで食べたわ"
女性のゲスト
:" 以上がサクサク鶏の胸肉もサクサク??"

ボス& me &小さな新しい :" .....................( 何も言えない)"
だから何か正確にはサクサク

これ、FBフレンドの言葉を、中国語を日本語に自動翻訳したものだけれど、ぼくには詩に思える。というか、笑えた。


二〇一六年四月二十四日 「クリポン」


いま日知庵から帰ってきた。竹上さんと栗本先生と、3人でホラー話やなんやかで楽しく飲んでいた。詩や小説もおもしろいけれど、実人生がおもしろいなと再確認した。それは人生が困難で苦痛に満ちたものだからだろうとも思う。簡単で楽なものだったら、おもしろさも何十分の1のものになってしまうだろう。


二〇一六年四月二十五日 「ミニチュアの妻」


食事のついでに、西院の書店で新刊本を見ていたのだけれど、とくに欲しいと思う本はなかった。イーガンのは、未読のものが2冊あるし、もういいかなって感じもあって、買わなかった。バチカルピ(だったかな)は、前作がひどかったので、もういらないと思ったし、唯一、知らない作家の本で、手が動いたのは、ずっとまえから気になってた『ミニチュアの妻』という短篇集だけだった。裏表紙の解説を読んで購買意欲がちょっと出て、迷ったあげくに、本棚に戻したけれど、とくにいま買う必要はないかなという感じだったので、何も買わなかった。創元から出てる『怪奇小説傑作集』全5巻を古いカバーのもので持っていて、ぜんぶ読んだのだけれど、新しいカバーのものは、字がちょっと大きくなっているのかな。これを買い直して、古い方は、もう一度、お風呂場で読んで捨てるという方向も考えた。しかし、あまり健全な読書の仕方ではないなと思って、いまのところ思いとどまっている。欲しい本が出ればいいのだけれど。と書いて、パソコンのうしろから未読の単行本たちの背表紙が覗いた。『翼人の掟』『宇宙飛行士ピルクス物語』『モッキンバード』『ジーン・ウルフの記念日の本』『第四の館』『奇跡なす者たち』『フラナリー・オコナー全短篇』上下巻、『ウィザード』I、II『ナイト』I、II 一段だけの未読本だけど、読むの途中でやめた『ゴーレム』とかも読んでおきたい。そいえば、クローゼットのなかの本棚にしているところには、『ロクスソルス』『暗黒の回廊』『さらば ふるさとの惑星』などといった単行本も未読だった。ソフトカバーの『終末期の赤い地球』などもある。壁面の本棚の岩波文庫、ハヤカワSF文庫と銀背や創元文庫も、未読の棚が2段ある。読んでいない洋書の詩集や、書簡集もたくさんある。なんで、まだ本を買いたいと思うのだろうか。病気なんだろうな。『ミニチュアの妻』買いたくなってきた。西院の書店に行ってくる。マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』と、アン・レッキーの『反逆航路』と『亡霊星域』を買ってきた。5500円台だったけれど、図書カード5000円分があったので、自分で出したお金は500円ちょっと。どうだろ。おもしろいだろうか。というよりも、いつ読むだろうか、かな。きょうは、これから寝るまで、ティプトリーの『星ぼしの荒野から』のつづきを読む。


二〇一六年四月二十六日 「緑の柴田さん。」


学校から帰ってきた。夜は塾。塾に行くまで、ティプトリーの短篇集『星ぼしの荒野から』のさいごの1篇を読む。これが終わったら、せっかくきのう買ったのだから、アン・レッキーの『反逆航路』を読もう。設定がおもしろい。

ティプトリーの短篇集『星ぼしの荒野から』を読み終わった。この中の短篇は、どんでん返しのものが多いような気がする。しかも、後味のよいものよりも悪いもののほうが多い。これから、ルーズリーフ作業に入る。そのあと時間があるようだったら、塾に行くまで、アン・レッキーの『反逆航路』を読もう。

ルーズリーフ作業が終わった。これから、塾に行くまで、アン・レッキーの『反逆航路』を読む。どんな新しい感覚をもたらせてくれるのか、あるいは、くれないのか、わからないけれど、数多くの賞を獲得した作品なので、読むべきところはあるだろう。なかったら、続刊といっしょに捨てる。

基本的な文献は読んでおかなくてはいけないと思って、きのう amazon で、『象を撃つ』の入っている短篇集『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』(柴田元幸編訳)を買っておいた。スウィフトの例の話も載っている。貧乏人の子どもは食糧にしちゃえってやつ。『信号手』や『猿の手』も入っているのだけれど、これらは創元の『怪奇小説傑作集』のさいしょのほうの巻に入ってたりして読んでるけど、『猿の手』はたしかに傑作だと思うけど、『信号手』はいまいち、よくよさがわからない。ぼくの感性や感覚が鈍いのかもしれない。

これから塾へ。そのまえに、なんか食べよう。塾の帰りは日知庵に飲みに行く。

吉野家でカレーライスを頼んで食べたのだが、そのカレーライスに、綾子と名前をつけて食べてみた。味は変わらなかったけれど、自分が気が狂っているような雰囲気が出てスリリングだった。こんどからは、むかし付き合った男の子たちの名前をつけて、こころのなかで、その名前をつぶやきながら食べよう。

レッキーの『反逆航路』ちょっと読んだだけだけど、これは、言語実験したかったのかなと思う。その実験のためにSFの意匠を借りたのではないかと思われる。どかな。そろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 隣の部屋のひとのいびきがすごくて怖い。

塾から帰った。コンビニでかっぱえびせん買おうと思ったらなかったので、ねじり揚げなるものを買ってきた。108円。レッキーの『反逆航路』38ページ6行目に「詩は文明の所産であり、価値が高い。」(赤尾秀子訳)とあったが、どうやら、古代・中世の中国あたりの歴史を意識した未来世界のようだ。しかし、単なる皮肉ととらえてもよいかもしれない。

これから寝るまで、レッキーの『反逆航路』を読む。いま68ページだけれど、物語はほとんどはじまってもいない感じ。むかしのSFとは違うのだな。枕もとに積み上げた10冊以上の本を見たら、溜息がでた。ここ数週間のうちで、読みたいと思って買った本だけど、いつ読むことになるのか、わからない。

2014年に思潮社オンデマンドから出た『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』が、さいきん売れたみたいで、うれしい。自分の詩じゃないけれど、自分の詩のように愛しい詩ばかりだ。いや、もしかしたら、自分の作品以上に愛しているかもしれない。

クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! しかし、『叛逆航路』いま112ページ目だが、流れがゆるやかだ。退屈してきた。

いま気がついた。『叛逆航路』中国じゃなくて、インドが参考になってるのかもしれない。

いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ〜。帰り道、『詩の日めくり』にも出てくる「緑がたまらん。」の柴田さんに会った。


二〇一六年四月二十七日 「俳句」


携帯折ってどうしようというの われは黙したり

そもそものところ あなたが悪い 母は黙せり


二〇一六年四月二十八日 「短歌」


大きい子も小さい子も 首が折れて折れてしようがない夏


二〇一六年四月二十九日 「それだけか?」


何年前か忘れたけれど
マクドナルドで
100円じゃなく
80円でバーガーを売ってたときかな
1個だけ注文したら
「それだけか?」
って、バイトの男の子に言われて
しばし
きょとんとした。

何も聞こえなかったふりをしてあげた。
その男の子も
何も言ってないふりをしてオーダーを通した。
このことは
むかし
詩に書いたけれど
いま読んでる「ドクター・フー」の第4巻で
「それだけか?」
って台詞が出てきたので
思い出した。


二〇一六年四月三十日 「ヤフオク」


きょうは、たくさんの本を
ヤフオクで入札しているので
部屋から出られません、笑。



運動不足にならないように
音楽を聴きながら
踊っています。


二〇一六年四月三十一日 「トップテン」


むかし
叔父が所有していた
河原町のビルの10階に
トップテン
というディスコがあったんですけれど
そこには
学生時代
毎週踊りに行ってました。

あるとき
カップルの女性のほうから
「わたしの彼が、あなたと話がしたいって言ってるの」
と言われて
カップルに誘惑されたことがあって
ぼくが20歳かな
ちょっとぽちゃっとして
かわいかったころね。

その女性の彼氏が
またすっごいデブだったの、笑。
笑っちゃった。

ちゃんとお話はしてあげたけれど。
それだけ。

そういえば
東山丸太町のザックバランでは
やっぱり女の子のほうからナンパされて
朝までのみつぶれたことがあった。
女の子とは20代に何人か付き合ったけれど
どの子もかわいかったんだけれど。

いま48歳になって
もうそんなことはなくなってしまったけれど
そんな思い出を言葉にして
もう一度
自分の人生を
生きなおすことは
たいへん面白い。

老年というものは
もしかしたら
そんなことのためにあるのかもしれない。

ある種のタイムマシーンやね。
この叔父って
河野せい輔っていって
(せい、ってどんな漢字か、忘れた)
ぼくの輔は
そこからきてるって話で
この叔父の所有してた有名なビルに
琵琶湖の
おばけビルがあって
まあ
この叔父
醍醐にゴルフ場も持ってたんだけれど
何十年か前に
50億円くらいの借金を残して死にました。
げんが悪いわ、笑。
ぼくの名前。

輔は
神社でつけてもらったっていう話も
父親はしていて
まあ
両方やったんやろね。
どっちが先かっていえば
叔父の名前が先だろうけれど。


おばけビルじゃなくて
おばけホテルね。

仮面ライダーとかの撮影で使われたりしてたんじゃないかな。
むかし
恋人とドライブしていて
見たことあるけど
まあ
ふつうの廃墟ビルやったね。


旅と日常の日めくり

  天才詩人




PUPUNTA AKO SA MAYNILA

マニラのダウンタウンにある安宿に投宿していた。毎日違う日本人の女の子 と食事に出かけ、いつもいいムードに持ち込んだが、月曜日になるとみんな出て行ってしまい、宿は空っぽになった。朝、日がだいぶ昇ったころ、シーツにくる まって目を覚ますと未来のタバコの箱のような、四角く透明な青色の虫が床を這っている。女の子の連絡先をひとりも聞き出せなかったことを悔やんでいると、 声のでかい20代後半のお兄ちゃんが、荷造りをしながら、フェイスブック教えて。と話しかけてきた。彼はマニラにしばらくアパートを借りて住むので、連絡 してくれとのこと。今日は特に予定もないので、パソコンを持ってリサール公園近くのショッピングモールに行ってメールを書いたりリサーチして一日過ごそうか。マイルドセブンの箱から一本抜きとり、火を点ける。日がさしているフローリングの床に煙草の燃えかすがひらひらと落ちていくのをぼんやり見る。

THANON CHIRA JUNCTION

ピマーイ。乾燥した稲作北限地方の田畑を長距離鉄道の線路がトラバースしながら、遠くに見える連山の方角へ消える。展望台で、ペットボトルのジュースを飲 み、赤や黄色のリュックサックを背負った年配の日本人観光客の団体が遺跡の石段を、一歩一歩のぼっていくのを俯瞰する、僕は、昼食の脂肪分やニコチンが下腹部で熱をもつのを感じながら、1月の、あの一級河川からほど近い住宅地で、びん詰の医薬品や包帯類が、それらリュックサックに詰め込まれるのを 見つめていた。免税品店で買った、マイルドセブンの青灰色のストライプが入った箱を、手のひらにとり、透明なセロファンを剥がす。鉄道線路のむこうには、砂利のプラットフォームの停留場が開発未定地のただ中にあり、そこから見える、屋上にアドバルーンがゆれる病院には、読むことの出来ない異国の文字が、急患搬入口のスロープに点滅する赤いランプのまわりを這い回る。セブンイレブンで買ったボトル入りのジュースを飲み、踏切をわたったところの、未舗装の車止めがある雑貨店でベージュ色のパッケージのイギリス煙草を、チョコレート菓子と一緒に購入して、面談室へと足を進めた。対応する医師は非の打ち所のない完璧な日本語で僕の話を聞いたあと、病室や診療室のあいだを、よどみない足どりで行き来する。採血を担当する白髪混じりの看護婦の白い帽子には、あのアドバルーンにあるのと同じロゴが刺繍してある。

ピマーイ。遺跡を出て、王宮を擁する古都の市街へむかう、フロントガラスに仏陀の後光をかたどった模様が入った小型バスに乗り、、商業エリアの後背地にある人気のない鉄道駅で降り、がらんどうの待合室を出て、王宮の参道を、いろいろ見物しながら歩き、そのつきあたりの、U字状の、近年の経済発展を具現するランプウェイの真下にある、安飯屋と安宿に、投宿した。バスルームには小さなガラスの 天窓がある。ベッドに寝そべり、夜になる。マイルドセブンのストライプの入った箱から一本抜きとり、点火する。蚊の飛び回る、ベージュの壁を見つめる。午 前3時、デンマークのロックバンドが奏でる甘いバラードが、ウォークマンのイヤホンからこぼれ出る。古い木造の部屋の、磨耗したフロアの継ぎ目に目を凝らしながら、僕はボール紙の表紙の、調査用のノートを開いた。どんなに気を紛らわしても、僕の思考はやはり、冬の日に、あの年配の観光客が背負ったリュック サックと、その中に詰められたタオルケットやその他の物品の出自へと、目を凝らしていく。(バスを降ろされたジャンクションの駅は、通るのは貨物列車ばかりで、旅客はひたすら呆然と待たされた)(仕方なく歩き始めた王宮への参道の道端で、炭火で串刺しの鶏を焼いてきた若い母親が、笑顔をこちらに向けなが ら、親切に道案内を申し出た) それら、一日の終わりまでに見聞きした事柄にに対する自分の所見をひととおりリストアップした後、ノートに書き込んだが、僕がどの目的地に向かって旅をしているのかはわからないままだった。

『アメリカ西海岸』

『地球の歩き方』―アメリカ西海岸のガイドブックは情報量が多すぎて、バックパックに入らなかった。空港から、西部劇のセットみたいなダウンタウンのメインストリートに着くまで一時間半かかった。バスを降りると、ま だ午後3時なのに、店はほとんどシャッターを閉め、黒人や褐色の肌のホームレスが路上のゴミ箱から使えそうなものを取り出している。リトルトーキョーの倉 庫街の、饐えた匂いのする路地の奥にある、階段に赤とベージュのカバーがかかったホテルの汚れたガラス戸を押して中に入る。乾いた西岸海洋性気候の太陽は、古びたビルの 表面にあたる西日を、かさかさに干からびさせた。築60年の古い白いペンキで塗られた内装のホテルは、トイレは共同だったが部屋には洗面台があり、その壊れた蛇口からは微かな水流が、白い陶器の表面を薄茶色に 染めながらこぼれつづけていた。そのホテルで僕は30代後半の旅行者と知り合い、メキシコのことをあれこれ聞いた。空はいつも晴れていたが、8月だというのに風が冷たく、バス停は遠く、この街を離れるのは至難の業に見えた。対人恐怖の暗い影を引きずっていた22歳の僕は、それでも意を決して近くのメキシコ人経営の旅行代理店の扉を押して入り、メキシコシティまでの片道切符を買った。フライトは深夜だった。鬱々とした気持ちが晴れないまま夜7時、荷物をまとめて来たのと同じ番号の市バスで空港へ向かった。重たい、『地球の歩き方』 アメリカ西海岸編は、ベッドのシーツの上に置いたままにした。

LA SIERRA

緑の山塊の隘路をたどる蟻のような人影が、日なたを這いずる血のにじんだ腕の記憶をしまっている。西日に照らされたた褐色レンガのビル群が、コーヒー栽培の富で潤った転売人や、配達夫を、坂を登ることの比類のなさをいだき、息を切らしてバラックへと歩く母親や子供たちを見おろす。足あとや息づかいの形跡にも、声をあげることは許されず、天空を えぐる天狗の頭にも似た岩に、睨みをきかされながら、眼下には、輸送機関の軌道がはしり、カーヴした縁石にそって、ゆるやかに起伏する街角に、角砂糖大の 家々が、とりとめもなく明滅し、しがみつく、丘。雨が降ったあとの三々五々の人影が、濡れそぼった地形図の上、雑貨店や工場のトラックが、うす暗い後背地 の山なみをのぼる。


Gloom3.4

  5or6

陰欝な歌に女がティッシュを配る
幸福が侵食して言いなりの地下街
僕と俺を忘れた台無しの私
六弦が二度下がった音が出勤を告げる
携帯が肩にのしかかり
同伴無理の言葉が胃を軋ませる
そんな
こめかみを揉む記憶。

かつての落書きした柱も炭になり
ションベンの匂いのした黄金も溶
けて地下街へと流れていった。信
頼のおける部下は私のスカウトし
たAランクの女性を寝取り、電話
ごしにマヌケと一言告げて夜逃げ
をした。怒り狂った私は店のソフ
ァーを蹴り、隣にいた同僚の袖を
引きちぎり、どうして黙っていた
のだと何度も頬にビンタをした。

女性の名前を借りた台風は
全てを奪って北に行ってしまった
同じ時期に入った同僚は
酒と薬の渦にのみこまれていった
私はただ眺めるまま
煌びやかな日々に掃除をしていた
私はただ生きたかった。


腫れ上がった頬の男は訴える事も
できないまま、同室の部屋から一
冊のノートを見つけ、私に渡すと
翌日の昼間のスカウト中に逃亡し
た。営業中、事務所の中で表紙を
捲ると、彼女の詩が書いてあった

「金星」

箱の中で絡み合う胎児のように
私たちの管は
私たちの管は
透明なプラスチックのケースに
無知な木漏れ日があったよ
空 は 鈍い 音
骨盤が寒くて
寒くて
ゆっくりと太陽が昇る坂を
下った

スカウトした時を思い本を閉じて
寝取った男を捕まえた男に札を渡して
部屋の鍵を閉めた
外の音は
聞こえず
ただにぶい音が
響いた。

⑷

ひんやりとした影たちを
子供たちがつねる
取り壊す予定の滑り台に
小鳥たちが糞を落とす
リサイクルされる
転調は朝だった
残されたものは薄暗く
未来の都民に嬲られる
そんな
都民が取り壊す滑り台に
小鳥たちは羽を落とす
流氷にまみれたスコップのようだ
小鳥たちは
スコップのようだ
飛べよ
上昇する小鳥の視線から
後に追う
羽ばたきの音と
週末。

オレオレ詐欺を営んだ競売住宅で
お爺さんとお婆さんは縁側でお茶を啜る
英国の新聞紙で折られた星を飾って
花束の代わりに
二、三のパスタを花瓶に挿す
なんて実際に見たような事を

笑いあって
微笑んで
さめざめと互いを見つめて
長い長いお暇を頂く。

共に落ちる
あなたと共に
太陽が昇り
共に落ちる
あなたを見つけて
共に落ちる
太陽の下
共に落ちる
あなたを見つけて
共に落ちる
繰り返し

オールバックで背の高い男が
高そうなブランド物のバックで
ひったくりの鼻をひしゃげている
ひしゃひしゃひしゃげていく鼻
ぷしゅるぁぷしゅるぁぷしゅるぁ
血飛沫は揺籠にゆられる赤ん坊のよう
に右左と揺れて前のめりになって
ひったくりは
突っ伏した
老夫婦はさめざめと流れる赤い血を見つめて
二人同時に
オールバックで背の高い男に向かって
一礼をした。

赤い炎
金属音
擦る音
親指

パーラメント
光、

二丁目の公園
もうすぐ撤去ですって
おかまバーで働くママは呟き
英国の新聞紙で星を折っている
オールバックで背の高い男は
欠伸を押し殺すママを見て
黙ったまま金を置き
朝靄の公園を歩いていく
夜の子供達が走っていく
小鳥達が羽ばたいていく
純粋で無垢で美しい朝に
貴様達は転校する気持ちに浸る
眠れ
リサイクルされた
すべてのひんやりとした
影と
影と
ひしゃげた影達。


黒い柳に徹の子が、いる。

  泥棒






黒柳徹子が存在するならば黒柳徹男だって存在する
かもしれないよね。つまり可能性だ。それについて
書く。今回のテーマだよ。うん。君が(おはようって
言った時に、おはようって返事をする人が隣りにい
なくても、おはようは存在する朝。今日も一日、君
のこと嫌いな人が、君のこと好きな人と同じくらい
存在したらいいのにねってことだよ。昼から雨が降
ってきてさ、傘がない人は濡れる。濡れながら歩く
。もしくは雨が止むまで外へ一歩も出ない。窓も開
けない。雨をまっすぐひねれば虹になるよね。この
素晴らしい世界。もちろん、ならないって意見も大
事。ならない可能性だって、かなり高いからね。





黒柳徹美っているのかな。例えばモノマネタレント
とかで。調べてないからわからないけど。つまり斬
新の意味。それの本当の意味。僕が知らないだけで
本当はたくさんある斬新なもの。例えば窓のデザイ
ン。僕が今までに見たことがある窓より、たくさん
の窓がある。さらに開けたり閉めたりしたことがな
い窓は数えきれない。この素晴らしい世界。何百種
類もある柳の向こう。黒柳徹美が新しいタマネギを
きざんで何か料理を作ったとしよう。キッチンの窓
からは虹が見えるはずだ。





黒柳徹子がいるってことは、もしかしたら白柳徹子
もいる可能性だってでてくるよね。うん。この話し
外人さんにはわからないかもね。まず黒柳徹子を知
らないと意味がわからないよね。この素晴らしい世
界。もしかしたら僕が知らないだけでスイスやアフ
リカやベトナムにも黒柳徹子はいるのかもしれない
ね。可能性は低いけど、否定はできない。それは似
ているとか似ていないとか関係なくて、例えば僕が
(おはようって言った時、日本語を知らない外人さん
にも、これは朝のあいさつだなって、わかる可能性
が高いって話しだよ。もちろん、低いって意見も大
事だよ。どんな意見も同じくらい存在したらいいの
にね。





ハロー。この素晴らしい世界。僕は、それをまっす
ぐひねる。朝、隣りに誰もいない日は、おはようっ
て、世界に言ってみる。今日はいい天気だね。誰も
いないし、みんないる、誰でもない君がいる、赤柳
に青柳、徹也に徹郎。みんなみんな、黒い柳で生ま
れた子。この素晴らしい世界。見たこともない存在
すら知らない窓を開けよう。素晴らしい世界の反対
って、どんな世界なのかな。そう、素晴らしくない
世界。そこにも黒柳徹子がいる可能性はあるよね。


NOBODY CAN HEAR YOU

  山田太郎

ときどき、
もうすぐ死ぬことを
忘れている。

そのことにはっと気がついて、
まだ死んでいないことが、
少し、うれしくなる。

そんなときは、
過ぎきし人生を振り返ることが多い。

とにもかくにも
しあわせな人生だった。
奇跡のような伴侶にも巡り会えたしね。

なしえなかったことより、
言えなかった言葉のほうが多く
いまとなっては悔やまれるが。

人間は、死ぬとはかぎらない、
という名言を吐いたひとがいた。
それから半年後に亡くなったと聞く。

歳のせいで本が読みづらくなったから、
朝から晩まで
ネット配信のドラマをみている。

日本のテレビはみない。
新聞も読まない。ラジオも聞かない、
人と話もしない。
携帯の電源はいつも切ってある。

ここ数年、他人とまともに話したのは
イーオンのレジ係りだけだとおもう。
(袋いれますか)(お願いします)
これが毎日交わす唯一の対話。

対話とはいえないかもしれないが、
人はもう表見上の言葉で交流しているのではなく、
暗黙の傍白のようなものを
キャッチしあっているのではないか。
ずいぶんいろいろ話したような気がしている。

昼間からカーテンを閉ざし
HULUやNETFLIXに釘づけの日々が続いている。
お茶とお菓子を用意し
たえず口をもぐもぐさせて、
ドラマのお風呂にはいっている。

この歳でスケーターとしてのフィットネスを維持するため
酒もタバコもやめた。
コメ、小麦などの糖質をすべて断ち
乳製品いっさいを排除してきたのに、
とうもろこしでできたキャラメルコーンだけは
一日中、手放せない。
わたしのからだの半分は、
お茶とキャラメールコーンでできている。

わたしが死んだらよく燃えるだろう。
煙は飴色で、キャラメルコーンのすこし甘い香りが
火葬場の周辺に漂うかも知れない。
ちょっとした見ものだ。

さて、お陰で、
簡単な英会話は字幕をみないでも
わかるようになった。

印象に残ったドラマは、
なんといっても、
『野望の階段』(ハウス・オブ・カード)という政治内幕ドラマだ。
スリリングである。

スリリングというと、
主人公のアンダーウッド、(わたしは木下さんと呼んでいる)
が命の危険や地位を失う危機にさらされる
とおもうだろうが、そうじゃない。

人が人としての存在を自ら否定する、
その葛藤の過程がドラマチックに描かれている。
日本人がふつうにもっている美意識やモラルを
キュートにひっくり返してくれる。

ふつうの神経ならぜったいに譲れないモラルや信念を
かれや彼女らは地位や名声のためにその手で壊す。
これがなんとも無残で痛い。痛いけどおもしろい。

権力者やセレブが次々に登場し、
無慈悲かつ欺瞞に満ちた駆け引きが展開される。

たまに、なんとも理解不能なシーンにでくわす。

使えなくなった新聞記者を地下鉄の線路に突き落として
自殺を偽装することもいとわない大統領候補の木下さん、
なにを血迷ったか、
木下さんに向かって批判的な言説を大声でわめいている
ずた袋のように汚れた路上のホームレスにちかづき、
同じ目線にしゃがんで、
語りかける。

NOBODY CAN HEAR YOU
NOBODY CARES ABOUT YOU
NOTHING WILL COME OF THIS

ド迫力の演技。
しばらくキャラメルコーンをくわえたまま、
息をのんでいた。

わたしがいわれたような気がした。
そういえば子どものいない木下さんも家に帰れば、
寝る直前まで独りで、
テレビゲームに熱中している。
議員なんて選挙に落ちればつぶしが効かないガラクタだ。
主人公はいつでもホームレスに転落しうる契機と戦っている。
ホームレスの無念、怒り、憎悪、悲しみ、孤独。それは、
主人公の木下さんのものでもある。
ホームレスたちの無慈悲、冷酷、残忍な政争や謀略が、
世界の頂きにおいてスパークする。

ああ、もうすぐ死ぬ身であることを
すっかり、忘れていた。
世の中はうまくできている。


Drag on Doctor

  田中

 
 
哀しみ
という字の
口は開きっぱなし

林檎の心臓は停止したまま
時計の針は進行していく


こう思った、という書いては
こう考えた、と書き直し
トーストしていない食パンのような
だらしない営みを夏日がヒリヒリ刺すと

連れていかれてしまう私 
連れていくカモメの思惑の向こう 
待っていたのは私




 
 向精神薬の副作用 「アカシジア」は長期的に静かに座ってはいられないことは指す
 医師は アカシジアの原因である薬の断薬を巧みなレトリックで「あなたが選択した」
 こととして指示。
 三ヶ月、全くアカシジアの改善見られず。
 医師は「アカシジア」が「不随運動」であると再診断し不随運動を抑える薬を処方。
 この再診断に関し、医師は全くのノーコメント。
 三ヶ月の断薬で、患者は8〜9キロの体重減少。加えて鬱症状の悪化。




脳の傷は塞ぎきれず 
朝六時
目覚し時計が鳴り
七時二十分にはモーターサイクルで 
こさめ未満の中を走った

未熟な梅の実を踏んだ
グチャリ、グッチャリと気持ち悪かった

尊敬してしまうものだ 医師には 
人の人生をグッチャリ、グチャリよく踏んで全く慣れているので

話すことはあなたにはないだろ 
私はセラピーなんて信じないと書かれたTシャツを着ているし 
あなたがすることも処方箋を書くことだけで
こころを治すとしては 化学物質は私の身体を締め上げる クラップにしていく

しかし
何故、人の人生をよくしようとしては
あなたはこんな職業に就いているのでしょうか はて?

私はしがない接客業しているけれど 
この白く細い両手で人を蘇らせたときから
そんな疑問が拭えないんだ
あなたには 
あなたらには



拝金主義者が
死んでいくのを知ることは爽やかな風を 顔に受けることに似ている
ヘイ! 地獄で金が拝めない苛々をどうして晴らしている?
のちのち浄土で
私はやめられない煙草よりいいヤツをたしなむよ



深夜二時 
深夜虹
錯乱という字の日は
夜にも昇る





炭酸リチウムには多飲多尿の副作用有り(腎性尿崩症)
これらの症状が見られた場合、早急に医師、薬剤師に連絡すること。




虹が見えた 泣いたあとだったから



くそくらえ!


詩賊、無礼派、ダサイ先生のこと。

  ヌンチャク

 〜登場人物〜

ダサイウザム
   無礼派(新愚作派)を代表するデカダン風詩人。
   太宰マニア。
   詩集『ぼくがさかなだったころ』で第一回詩賊賞受賞。

葛原徹哉
   詩誌『詩賊 Le Poerate』のアルバイト編集者。
   十代の頃は引きこもりで、
   ネットポエム依存症だった過去を持つ。








 ナポリを見てから死ね!
 『ダス・ゲマイネ/太宰治』


「先生! ダサイ先生!」
「おや、まったく売れないマニアックな詩誌『詩賊 Le Poerate』の駆け出し編集者、葛原君じゃないか。一体どうしたと言うのかね、そんなに大きな声を出して?」
「どうしたもこうしたもありませんよ先生、今日が何の日かもちろんご存知ですよね?」
「六月十九日、桜桃忌だろ。」
「違います! 今日は締め切り日なんですよ! 原稿を頂きに上がりました! もちろん出来てますよね?」
「うむ、出来てない。」
「それでは困ります、今すぐ仕上げてください!」
「幸福は一夜遅れて来る。太宰の『女生徒』にある言葉だが、幸福ですら一日遅れてやって来るというのに、原稿が遅れているくらいでそんなに大騒ぎするものではないよ、みっともない。」
「騒ぎますよ、今日中に印刷所に原稿回さないと誌面に穴が開きますからね!」
「いいじゃないか開けておけば。雄弁は銀、沈黙は金、ましてや詩は、行間の空白を読む文学ではないのかね? なぁに、たかだか4ページくらい真っ白でも構いやしないさ。そうだ、ジョン・ケージだ。無言をそのまま作品にすればいいのさ。」
「先生それ、ネットポエムのちょっとイタイ人がたまにやる本文空白ポエムじゃないですか。」
「いいんだよ別に、どうせこんな三流詩誌、誰も読んでないんだから。」
「あ! それは言わない約束にしようってこないだ二人で決めたとこなのに! それ言い出すとお互い虚しくなるからって!」
「しかしそれが事実だからね。現実を直視する勇気がないのかね、君は?」
「現実を直視する前に、締め切りを直視してください先生、それこそ現実逃避じゃないですか。誰も読んでないだなんて、仮にも詩賊賞受賞者がそんな身も蓋もない事言ったらウチの編集長激怒しますよ。」
「怒らせておけばいいんだ。だいたい賞金どころか賞状ひとつない、授賞式も受賞の言葉も選評すらないような賞にいったい何の価値があるのかね。」
「あるのかね、ってもとはと言えば、ダサイ先生が授賞式メチャクチャにしたから次の年からなくなったんだって、ぼく先輩から聞きましたよ?」
「何の話だ? 記憶にないな私は。とにかくだね、詩賊賞なんて、詩誌としての体裁を整えるための、編集部の自己満足でしかないじゃないか。私ならそんな有り難みのない賞より、詩への対価として金一封でも貰うほうが余程うれしいがね。」
「先生、お言葉ですがそういう考え方は人として最低だと思いますよ。賞というのは、長い時間と議論を重ねて熟考した選考委員の労に心から敬意を払える人間にのみ、その価値が生まれるものです。」
「そうかも知らんね。私なんか端から受賞資格がないのさ。なんたってクズなんだからね。太宰ですら芥川賞を獲れずに死んでいったというのに、私みたいなキワモノが賞を貰ってそれがどうだと言うんだ。笑い話にもなりゃしない。」
「先生、今時自虐的ナルシシズムなんて流行りませんから。貰えるものは有り難く貰っておけばいいじゃないですか。それで箔も付くことですし。」
「そこなんだ問題は。世の中には権威になびく下劣な人種だっているんだぜ。それまで散々私の作品をコケにしてきた連中がさ、私が賞を貰った途端に掌を返し先生先生ってね、現金なものさ、本当にあいつらは本物のクズだな。」
「いいじゃないですか、別に。権威にクズが群がってきたとしても、どちらにしても先生にとっては名誉なことなんですから。無礼派の理念は『詩なんか書くヤツみんなクズ』なんでしょう?」
「そうだ。私だってクズには違いない。しかしだね、葛原君。一寸の虫にも五分のポエジー、クズにはクズなりの美学もあれば信念もあるし、誇りだってあってしかるべきだ、そうだろう? 権威を前に自分の意見をコロコロと変えるような、そんな風見鶏みたいなお調子者、私は断じて批評家とは認めないね!」
「はいはい、先生のお考えはこの葛原、未来永劫しっかと胸に刻み込みましたから、とりあえず今は原稿を仕上げることに専念していただけませんか? だいたい先生はデカダン過ぎますよ、仕事もせずにこんな明るいうちからお酒なんか飲んだりして!」
「そういう作風で売っているのだから仕方がないじゃないか。何を言ったってアル中の戯れ言と思われているのだから。モンスタークレーマーの絡み酒だってさ。読者のイメージを壊してしまったら申し訳ないだろう?」
「先生のプライベートなんか誰も興味ありませんよ。先生の人付き合いの悪さは編集部でも有名ですからね。ここだけの話ですけどね、ウチの先輩が皆、先生の担当になるの嫌がってぼくが任されることになったんですよ。先生、人嫌いのくせに、読者とTwitterフォローし合うわけでもあるまいし、イメージなんか気にしてどうするんですか?」
「作家の良心じゃないか。芸術というのはサーヴィスなんだ、作品に込めた自己犠牲の奉仕、心尽くしなんだよ。私だってこう見えて、自分に与えられた役割というものをだね……。」
「言い訳は結構ですから、その良心とやらがあるならまずはしっかり期日までに作品を仕上げていただければそれでいいんです。」
「そうは言ってもねぇ……。」
「先生! その頬杖ついてアンニュイな表情浮かべる太宰のモノマネやめてください!」
「似てるだろう? クラブの女の子にはウケるのだよ? 先生太宰にソックリねって言ってさ、去年の桜桃忌、小雨のパラつく日だったなぁ、先生食事でも連れて行ってくださいなんてことになって、やっべオレ結構モテるじゃんモノマネやってて良かった太宰ありがとう、って何だよただの同伴かよ人の恋心もてあそびやがって、っていうね。こっちは下心丸出しでちょっと奮発して高級ブランドの勝負パンツでキメて行ったっていうのにさ、普段はしまむらなんだぜ?」
「どうでもいいですよそんな話。ぼく、先生のファッションチェックしに来たわけじゃありませんから。作品はどうなってるんですか?」
「……ふぅん、そこなんだ、どうやら私のミューズはバカンスを取ってどこかへ旅行に出掛けたらしい。そうだ、私も原稿料前借りして伊豆にでも行こうかしら。露天風呂から富士でも眺めれば、いいポエジーが降りてくるかもしれない。」
「何を呑気に昭和の文豪みたいなことをおっしゃってるんですか。ウチみたいな零細出版社にそんな余裕ありませんよ。ぼくなんかボーナスどころか寸志すらなくなりましたからね。」
「そうかい、夢がないねぇ、詩の世界は。」
「先生がぼくらに夢を見させてくださいよ! 太宰どころかお笑い芸人が芥川賞獲ってベストセラー作家になるというこのご時世に、詩人は何をやっているんですか!?」
「お、今日はなかなか鋭いところを突くじゃないか。どうやら君も一人前の編集者の顔になってきたようだな。育てた私も鼻が高いよ。」
「茶化さないでください。さ、早く原稿仕上げて!」
「少年ギャングの編集者知ってるかね? ストーリーに意見を出し、ネームを会議にかけ、漫画家と二人三脚で一緒になって作品を作っていく、それこそがプロの編集者の姿というものだよ。作家と編集者というのは一蓮托生なのだ。それに引きかえ君ときたらどうだ、二言目には原稿寄こせ原稿寄こせと馬鹿の一つ覚えみたいにそれしか言わない。恥ずかしいとは思わんかね? 追いはぎじゃないかまるで。」
「……わかりました。そういうことでしたらぼくもお手伝いいたしますから、原稿を仕上げていきましょう。」
「手伝うって何をだね?」
「ダサイ先生は思い付くまま閃くまま、即興で詩を言葉にしてください。ぼくがそれをこのPCに打ち込んでいきますから。」
「口述筆記というやつか。いいね、大作家って感じがするよ。私と君のジャムセッションだ。やろう。」
「では早速、お願いします。」
「うむ、タイトルは、ええと、そうだな、ポエジーについて。」
「はい。ポエジーについて、と。」
「いつの時代も人々の心を魅了してやまない、ポエジーという得体の知れない神秘、果たしてその正体とはいったい何であろうか?」
「……何であろうか? ……先生、これ論文みたいですけど大丈夫ですか? 詩になりますか?」
「大丈夫だ、続けたまえ。ここから凄い展開になっていくから。ディスイズエンターテインメント、詩賊賞の真髄を見せてやるよ。口語自由詩の先駆け、萩原朔太郎は詩集『月に吠える』の序において、こう述べている。」
「……述べている。」
「『すべてのよい叙情詩には、理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴ふ。これを詩のにほひといふ。』」
「……匂いと言う。」
「まさにこの『にほひ』こそがポエジーなるものの正体であろう。」
「……であろう。」
「まだ学生だった私はこの萩原朔太郎の言葉に触れ、非常に感銘を受けたものだ。」
「……受けたものだ。」
「ってか奇遇! ウチも朔ちゃんとおんなじこと思てたやーん!」
「……思てたやーん、……何これ?」
「やーんの後に顔文字を入れてくれたまえ。」
「顔文字ですか? 思てたやーん(*_*) こんな感じですか?」
「チガーウ、チガウヨ! もっと楽しそうなやつがあるだろう!」
「思てたやーん(^3^)/」
「それそれ、そういうのいいね。」
「さすがダサイ先生、顔文字使った詩なんて斬新ですね、って先生! 真面目にやってくださいよ! どこがエンターテインメントですか、何が詩賊賞の真髄ですか! いつもいつもふざけてばかりで、それでも芸術家のはしくれなんですか!?」
「生真面目だなあ、葛原君は。芸術なんて軽い気持ちで、適当にやればいいんだよ。君にとっての芸術とは何だい?」
「生き様です。」
「生き様ねぇ、若い、若いなぁ君は。所詮生活の苦労を知らんな。場末のスナックのしみったれたホステスと成り行きで結婚するハメになってさ、情にほだされてってやつよ、一人二人でも子供が出来てごらん、子供なんてすぐに熱を出す生き物だし、やれ薬代だ保育園料だとそりゃあ金がかかるのだから。生活の前にあっては、芸術なんて無力なものだよ。」
「やっぱり、そういうものでしょうか?」
「そうさ、こういう言葉があってね。『人間なんて、どんないい事を言ったってだめだ。生活のしっぽが、ぶらさがっていますよ。』」
「誰の言葉ですか? 先生ですか?」
「私じゃない。太宰さ。」
「やっぱり。」
「やっぱりって何だ、ちょくちょく失敬だな君は。」
「先生にとっての芸術って何ですか?」
「チュッパチャップスだね。」
「チュッパチャップスですか?」
「チュッパチャップスさ。」
「ペロペロキャンディーではダメなんですか?」
「どっちでもいいよ。」
「南天のど飴では?」
「そんな食いつくとこかね、ここ?」
「甘くないですか?」
「大甘さ。」
「舐めてるんですか?」
「大いに舐めてるし、しゃぶってるね。」
「……それが先生の芸術ですか?」
「不服かね?」
「そりゃあ不服ですよ。芸術がアメ玉だなんて。」
「たとえば君が山で遭難したとしよう。右も左もわからず身動きすら取れない、いつ救助が来るかもわからない状況に陥ったとして、芸術なんて一体何の役に立つのかね? アメ玉ひとつで繋がる命だってあるんじゃないのかね?」
「確かに理屈ではそうですけど……。」
「理屈じゃない、真実さ。詩が腹の足しになるのかい? 芸術なんていうのは、人生の余暇を持て余した暇人の道楽に過ぎない。いざという時には何の役にも立ちゃしない、詩なんて寝言戯言、虚言妄言だよ。そんなことすらわからずに純粋だの美しさだの傷みだの現実と戦うだの何だのと詩を賛美して回る馬鹿な連中がゴロゴロいるだろう? だから私は詩なんか書くヤツはみんなクズだって言うのさ。」
「そんなに詩が信じられないなら、もうお辞めになってはいかがですか?」
「私だって何度も何度も詩を辞めようと思ったさ。真っ当な勤め人になろうと努力もしたよ。皿洗いもしたし、清掃員も土方もやった。交通整理もしたし、黒服も工場のライン作業も訪問販売もした。どれも長続きしなかったがね。行く先々の職場で馬鹿にされ嘲笑され、小突き回され、結局私に出来ることと言えば、くだらない詩を書くこと、それしか残っていなかったのさ。それがどれだけ愚かで惨めなことか、君にわかるかい? 」
「…………。」
「それから私は、自身がくだらない詩を書くことしか出来ないクズであることを受け入れ、クズとして生きていく覚悟を決めたのさ。けれども世の中には相変わらず、詩を盲信し詩に酔いしれている連中が蔓延っているじゃないか。私が大声で詩なんか書くヤツはみんなクズだと叫ぶと、それこそ束になって集団で私を非難しに来る。私みたいな立ち位置の詩書きは目障りなんだとさ! コミュニティーの和をかき乱す害虫なんだと! ところがだ、普段は芸術がどうのポエジーがどうのと大騒ぎしているその連中がさ、十年前のあの大震災の時、まず何をしたか知っているか? いいか、誰よりも真っ先に口を噤んだんだぜ!? そんなことってあるか!? 詩人自ら言葉を殺したのさ! 語るべき言葉を持ち得なかった? ハッ! 自己保身の言い訳だけは立派だな! 人がぎゅうぎゅうに苦しんでいる時に言葉で寄り添ってやることが出来ずに何が詩人だクソ野郎! 誰一人救えないような芸術、自粛しなければならないようなポエジー、そんなものに一体何の価値がある? 奴ら現代詩かぶれが馬鹿にする『詩とメルヘン』やなせたかしのアンパンマンだって自分の顔をちぎって腹を空かせた子供たちに食べさせるんだぜ? なぜ詩人にそれが出来ない? 一生懸命自分の身体から心から言葉をちぎって配って歩いたらいいじゃねえか! なぜそれをしようとすらしないんだ! 詩ってその程度のものなのか! おまえらの言う芸術ってのはアンパン以下か!? 太宰も『畜犬談』の中でこう言っている、「芸術家は、もともと弱い者の味方だったはずなんだ」ってな! 私はあの時、奴らの薄汚い本性を見たと思ったね。作品をどれだけ美辞麗句で飾っていようと、私は奴らの言うことなど信じない。奴らこそ、弱者を見殺しにして今ものうのうと生きている、紛れもない真性のクズだ。詩書きというのは詩を書くことしかできない無能なのだから、地震が来ようと戦争になろうと身内が死のうと、詩なんていう非常事態には何の役にも立たないゴミみたいなものを、非難を受けながらでも書き続けなきゃいけない業を背負ってるんだ! 業を背負う覚悟がないなら今すぐ詩なんか辞めちまえ! 自分が傷付きたくなくて、自分が非難されたくなくて口を閉ざした薄汚いクズ共よ、私は自身の作品と言動でもって自らがクズであることを証明し、おまえらもまた同じようにクズであるということ、おまえらの欺瞞を暴いてやる! いいか、これは復讐なんだ! 私のポエジーとは、自ら言葉を殺しておきながら、今も何食わぬ顔で詩人面をして芸術がどうだのとほざいているイカサマ師、卑怯者たちへの、憎悪であり、憤怒であり、呪詛であり、殺意であり、宣戦布告であり、断罪なんだよ! 確かに私の言葉は何も生まない、誰も救わない、代わりに私が、誰よりも深く傷付いてやる!」
「…………。」
「聞くところによると君は若い頃、ひきこもりだったそうじゃないか。」
「……はい。」
「社会に何の不満があったのか知らないが、所詮は衣食住の心配などしたことのない親の脛かじりじゃないか。それがどうだ、ちょっと社会に出てきて職にありついた途端、すっかり人生を理解したような気になって芸術がアメ玉では不服だの何だの、浮かれ過ぎだとは思わんかね? 生きるというのは、そんな簡単なことなんですかねぇ葛原さんよ?」
「…………。」
「君は内心、私のことを馬鹿にしているのだろうけど、私からすれば君なんか、口先ばかりでまるで中身のない、ただ小生意気なだけの青二才だ。たとえるなら、素人童貞さ。金出してやらせてもらってるだけの腰抜けが、意気揚々と女心を語るんじゃねぇよ恥ずかしい。たくさん傷付いて傷付けて失敗して躓いて、それでもまだわからない、だからこそ抱く価値があるんじゃねえのか芸術ってやつは。」
「…………。」
「…………なァんてね(^-^)v。どうだい、今の小芝居は? なかなかの名演技だったろう? 実は高校の頃、演劇部だったのさ。」
「え? ……今の、全部嘘だったんですか?」
「当たり前だろ。私を誰だと思っているのかね? 太宰治の劣化コピー、ダサイウザムだぜ。嘘とポーズはお手の物さ。あと、道化もな。」
「なぁんだフィクションか、ぼくはてっきり……、良かった……。」
「良かぁねえよ。今ので約束の4ページ、来月号の作品が出来たと思ったら、すっかり手が止まっているじゃないか。」
「えっ? 今のも作品の一部だったんですか?」
「当然。モンスタークレーマーの絡み酒、凄い展開になるって言ったじゃねぇか。早く仕上げて編集部と印刷所にデータ送ってやれよ。そろそろ編集長もオカンムリだぜ。」
「はい! それにしても芸術って難しいんですね。ぼく、何だか、芸術がアメ玉でもいいような気がしてきましたよ。」
「人生なんて死ぬまでの間の壮大な暇潰しに過ぎんよ、君。日々、興醒めの連続さ。せめてたまにはアメでも舐めていないと、馬車馬だってムチで叩かれるばっかりじゃ、それこそ馬鹿馬鹿しくてやってられねえよ。世の人は皆毎日毎日クスリとも笑わず、いったい何が楽しくて生きているのかねぇ?」
「そうですねぇ……。」
「よし、仕事を終えたら行くぞ葛原君、付いてきたまえ!」
「行くってどこへですか?」
「興醒めの日々をブチ壊し、今ある生を享受しに行くのさ! いいポエジーにはいい酒がいる、そうだろう? いざ行かん、ポエムバー『北極』へ!」
「わかりました、お供します! もちろん先生の奢りですよね?」
「馬鹿野郎、甘ったれるない。旅は道連れ世はポエジー、煙草銭はめいめい持ちってね、覚えておきたまえ。」
「ちぇっ、夢がないなあ、プロの詩人が金欠なんて。」
「何だっていいさ。金なんか土台問題じゃない。どうせ死ぬまでの暇潰しなんだから。詩人なんてくだらねえ。一等星じゃないんだぜ、私たちは。せめて人生のほんの一瞬でも光輝くことができたら本望じゃないか。私は確かにクズに違いないが、そのうち必ず見知らぬ誰かに私の言葉、私の光が届くと信じているのさ。」
「先生……。」
「いいかい葛原君、声を上げることを怖れてはいけない、どんなことになろうと私たちだけは、言葉を諦めてはいけない、詩を棄ててはいけない、距離も時間も越えてまだ見ぬ人に呼びかけ続けるんだ。その小さな声がいつか誰かの心に届いた時、初めてそれが芸術と呼べるものになるんじゃないのかね?」
「……ダサイ先生、ぼく、先生のこと誤解し……。」
「なァんてね! (о´∀`о)」
「あっ! やっぱり! ご近所の皆さん! この先生、本当の本当にクズなんです!」
「そうです、わたすが、ダサイウザムです。」
「なんかぼく、先輩たちが先生の担当嫌がる気持ち、ちょっとわかってきました。」
「嫌え嫌え。男子たる者、人から恨まれるくらいじゃないと生きてても張り合いがねぇからな。アンチを踏みにじって私は行くのさ。私が詩賊賞を獲った時の、クソアンチ共のあのしみったれた不満面! どいつもこいつも、ざまぁ見さらせ、だ。文句があるならおまえが中也賞でもH氏賞でも貰って来いよ!」
「誰に言ってるんですか?」
「……誰って、脳内妄想における仮想アンチじゃないか。」
「……いくら友達いないからって先生……、それ、虚しくないんですか?」
「…………。仲間なんかいらねぇよ。詩は、孤独を深めるためにあるのさ。世界と私の間には大きく深い溝がある。私は、絆から零れ落ちた人間なんだ。しかし私はその断絶を埋めたいわけじゃない。橋を架けたいわけでもない。ただ私の断崖絶壁を世界に知らしめてやりたい、その一心でずっと向こう側へと紙飛行機を飛ばし続けているのさ。届くかどうかはわからない。谷底を覗いてみたまえ、墜ちた機体の残骸でいっぱいだから。」
「…………。」
「…………ん?」
「あれっ? そこは、なァんてねっていうオチじゃないんですか?」
「『人間のプライドの究極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、と言い切れる自覚ではないか。』っていう言葉知ってるかね?」
「いいえ。」
「これも太宰の言葉だがね、私はもう、十二分に墜ちてきたんだ。人生も、詩もね。今さらこれ以上どこにもオチようがないよ。冗談は置いといて葛原君、君には未来がある。いいかい、人の批判を怖れずに呼びかけ続けるんだ。」
「はい。」
「君にもきっと、いつか輝く時が来るよ。そしてその光を受け取ってくれる人が必ずいる。」
「……そうだといいんですけど……。」
「なァんてね! (ノ ̄∀ ̄)ノ====卍卍」
「うぅわ、クッソここで来たか! 嫌いだ先生なんかっ!」
「まあ、長生きしてみることだね。いずれわかる。」
「……先生。」
「なんだよ?」
「無礼派に、花は、咲きますか?」
「……咲くわけねぇだろ花なんか。嫌われるためにやってるんだから。徒花散らせて終わりだよ。」
「ぼくが無礼派継いでもいいですか? いつかきっと、ぼくが、大輪の花を咲かせて見せます。」
「……好きにしろくだらねぇ。そういう傑作意識が文学を駄目にするんだ。」
「素直じゃないなぁ、先生は。」
「うるせえな。太宰の『散華』っていう短編読んだことあるか?」
「いえ、ないです。」
「読めよ。戦争で散った若き詩人の物語なんだけどさ、その中に太宰のこういう言葉が出てくる。『私は、詩人というものを尊敬している。純粋の詩人とは、人間以上のもので、たしかに天使であると信じている。だから私は、世の中の詩人たちに対して期待も大きく、そうして、たいてい失望している。天使でもないのに詩人と自称して気取っているへんな人物が多いのである。』今の日本には、純粋の詩人なんてただの一人もいやしねぇ。ネットポエムを見てみろ、一丁前に詩人面したクズの見本市フリーマーケットだ。君は、大いなる文学のために死ねるのか?」
「…………。」
「私は駄目だ。天使でもないのに無駄死には御免だね。生きる覚悟と死ぬ覚悟、今の時代、どっちが重いんだろうな?」
「……。」
「……咲くのも散るのも同じこと、それがこの世に生きた証じゃねぇか。芸術は生き様なんだろ? やれよ葛原、おまえのやりたいように。」
「はい!」
「さあ、原稿も上がったことだし、……桜桃忌か。今夜も太宰の涙雨だ。太宰は愛人と心中したってのに野郎二人で飲んでちゃ世話ねぇな。」
「そうですね。」
「女心など私には皆目見当つかんし、詩と心中もできんとなったら、いよいよクズだが仕方ない、飲むぜ。浴びるほどな。」
「先生もうすっかり出来上がってる感じですけど。ボトル一本空けてるじゃないですか。」
「馬鹿野郎。もう駄目だと思ってからが人生なんだ。永遠の未完成交響曲。空白で終わらせてたまるかよ。先があるなら死ぬのは惜しい。いつとびきりの美人と出会うかわからんからな。諦めずに呼びかけ続けるんだ。あ、そうかわかった、詩ってのはあれだ、ラブレターだよ、一世一代の大勝負、勝負パンツだ! 全裸の一歩手前だよ、さあメタを剥いで私のすべてを受け入れてくれ私のミューズよ、ってな! 」
「先生。」
「なんだ?」
「早くいい奥さんが見つかるといいですね。」
「おう、『春の盗賊』、ロマンスの地獄に飛び込んでくたばるまでは、まだまだ足掻くぜ。人生も、詩もな。合言葉は?」
「ナポリを見てから死ね!」




 紺絣の着物の裾を翻し、ダサイは千鳥足で夕闇の雨の中を街へと繰り出した。愛くるしいサーカスの子熊のようにビアンキのMTBにまたがって、ちょこちょこと後に付いていく葛原徹哉。
 それから三ヶ月後、詩誌『詩賊 Le Poerate』は誰にも知られぬままひっそりと廃刊になり、多少なりとも責任を感じたダサイは狂言自殺を企ててはみたものの、雨の玉川上水で一人上半身裸になり水浴びしていたところを、不審に思った住民に通報され未遂に終わった。後日、その時の体験を『ライフジャケット』という作品にして発表したが、片手で数えられるほどのコアな読者にさえ、一笑に付されただけであった。まさに新愚作派の面目躍如といったところである。
 一方、無礼派を継いだ若き編集者葛原徹哉は文学への夢を諦めず、忙しい仕事の合間をぬってコツコツと独学で作品を書き続けていた。数年後、日本最高峰の文芸サイト『頂上文学』に投稿した自伝的詩小説『ダメヤン』が年間賞に選出されることになるのだが、そのサクセスストーリーはまたの機会に譲るとして、この二人の物語は、ここで幕を閉じることにしよう。
 詩を愛する諸君、すべての孤独な魂に、ポエジーの幸あらんことを!



 ちまたに雨が降る
 『ダス・ゲマイネ/太宰治』

 こんなに雨が降っては、僕はきっと狂ってしまう。
 『ダス・ゲマイネ/太宰治』

 きもちは ねつです。
 ことばは ひかりです。
 『くろひげききいっぱつ/ヌンチャク』

 私たちは、生きていさえいればいいのよ
 『ヴィヨンの妻/太宰治』

 幸福は一夜遅れて来る。
 『女生徒/太宰治』


水に漂う傘

  ねむのき

1

おおきな画布を青い絵具で塗りつぶして、
海を描いた、
その上に一枚の鏡をのせると、
鏡の内側に、
四角い形をした船があらわれる、
という仕組みの絵だ、
黄色に塗られたところは砂浜で、
しゃがんで貝殻を拾っている弟が描いてある、

2

船が、鏡のなかで、
なにかを中空にばら撒いていた、
空と海のふたつの青のあいだを、
色鮮やかなものが、ひらひらと舞っている、

3

(傘だ)

4

曖昧な波音が、
バケツに砂を集める弟の、
はだしの両足の間を流れていた、
わたしは制服のスカートに風をふくませながら、
息をふかくのみこんで、船をみつめている、
水に漂うむすうの傘、
は開かれたまま、
波打際にうちあげられてゆく
(それは、壊れてうち捨てられた、腐ってゆく時間軸のようなものに思えた)
わたしは、足もとに流れ着いた1本の日傘を拾いあげ、
砂のうえに貝殻を並べている弟のまわりに、
日陰をつくってやる、
弟はわたしを見上げると、嬉しそうに両腕を差しのばす、
わたしは弟を抱きとめ、
(ほら、あれみてごらん)
と船のあるほうを指さす、けれど、
すでに船は消えていて、
水平線の上に、
ひとりの男が揺れながら立っているのがぼんやりとみえる、
なにか叫んでいるようだった、
声はきこえない、

5

(たぶん、あの人はもうにんげんじゃないよ)
と弟は囁いた、

6

水のうえをまっすぐに走ってくる男、
鏡が割れて、
青空が音を立てながら粉々になる、


Tensai Shijin 8900#

  天才詩人

Ciudad Universitaria -大学都市-

暗い夏の夜に、一両編成の電車が通る桜並木を、駐車場をはさんで眺める。赤いじゅうたんの廊下に赤や緑、白、ベージュ。いろんな色のドアが口を開けている、人が出払った木造のアパートの、つきあたりの部屋で、コンピューターの画面を操作している。音を立てない。誰とも話さない。扇風機だけが静かな風を送り、蛍光灯の光がすべる畳の上で、海のむこうからとどく手紙を受けとる両手をじっと見つめる。キーボードを叩き続け、画面には一覧や画像が表示され、その優先順位を次々に入れ替えながら、僕は顔をしかめ、伸びをし、天井を見上げ、再び窓の外を見る。遠くで踏切りの音が鳴り、やがて藪の裏手にある無人の駅を出発した電車が、モーター音をたてて川沿いに並ぶ家々を横切った。『文・学・極・道』。僕は真っ黒な画面に見入る「藝術としての詩を発表する場、文学極道です」「クソ垂れ流しのポエムは、厳しい罵倒を受けることとなります」「気張ってご参加ください」。僕はなおもキーボードを叩き続け、ロサンゼルスや、ミネアポリス、アルバーカーキーなど全米各地の都市の情報や研究施設に関する、開きっぱなしのページを、保存して閉じる。別のタブには、まだ『文学極道』という詩を投稿するサイトの、黒い闇を模したトップページが開いており、僕は一息つくと「詩投稿掲示板」のリンクをクリックした。「ポートランドでドラムを叩き」「梵語研究者」「なぜポートランドなんでしょうか」「一条さん、ありがとう」。タオルと着替えのTシャツ、紙にくるんだ石鹸をスーパーの袋につめ、時計を見て電車の時間を確かめると、自転車でゆるい坂道を、三条の方角へくだる。闇のなかにぽつんとある自動販売機の前で自転車をとめ、ピーチサイダーを買い、プルタブを開ける。細い路地に白い光をぽつぽつと投げる街灯に目をこらしながら、ほんの数年前この町で出会い、下宿や四条の飲み屋で毎週のように集まり、旅の話−話題はバンコクの安宿や、インドからパキスタンへの国境を越えるバスとかだった−をした友人のことを考える。留年した大学をたったひとりで卒業した春。人口が150万ほどあるはずのこの街には、僕が電話をかけて他愛のない話をしたり、誘いあって晩御飯を食べに行く相手は、どこにもいない。鉄道線路、用水路をオーバークロスする高架、路面電車、閉店した大型スーパー。よどみなく整地されたアスファルトをコマ送りするように、自転車をすべらせる。ラーメン屋の広告塔がある交差店で信号機が赤になる。このラーメン屋にはヤダぽんとよく来た。大抵は夜中の3時を回った頃、強い酒を飲み、ふらふらになったあとだった。大学の授業にはほとんど出席しなかった。だが友人の輪が自分の大学から、他の大学へ、そしてOLやサラリーマンらのあいだにとめどなく広がっていく。その感覚は休みごとにバイト代をはたいて格安の航空券で『オリエント』へと旅立つのと同じように僕をわくわくさせた。そのころ僕は、大学に入るいぜんの、孤独だった過去の自分に三行半をつきつけた。大学に入学した4月以降、過去の自分は近く鉄道駅の駅前でいつも僕を待っていたが、僕は決して声をかけなかった。過去の自分は、悲しそうな顔をして駅前や周辺の食堂をひとりでうろつき、ずっとこちらを見ていたが、数ヶ月すると姿が見えなくなった。その同じ駅前を、アマチュアバンドに興じる若者や、高架下の飲み屋から吐き出される男女を横目に、僕はただ一人、三条の銭湯へゆるい坂道を下る。

ブエナビスタ

廃線になった国鉄ターミナルの隣にある図書館で時間をつぶしていると、Nから電話がかかってきた。「今週末誕生日だったよね。どっかご飯でも食べに行こうよ」。30分後に待ち合わせをする約束をして、果物ジュースを売る屋台やショッピングモールが入り組む再開発中の路地を歩いて、地下鉄駅前の彼女のアパートの前まで来るとインターホンを押した。下水管の匂いがする、しみのついたコンクリートの壁の前に立ち、空を見上げる。晴れていて、雲ひとつない。デニムのスカートに白いブラウスで出てきたNは、いま着替えるから部屋で待ってて、と僕に言い、暗い階段を、再びのぼりはじめる。日本語学科のNとは気が合った。数ヶ月前にこの国に来てから、一緒にご飯を食べにいったり、首都圏のグリーンベルトにある、小さなカフェやレストランが密集する路地を目的もなく歩いたりした。だが、いろんな事情から、それ以上の関係に持ちこむのには二の足を踏んだ。古い金魚の水槽。玄関のドアに積み上げられた靴の入った紙箱。木製の本棚には日本語や語学関連の書籍があふれており、わずかばかりのスペイン語の本を圧倒している。日本語や文化に興味を持つ人たちはこの国の人口の数パーセントを占めるが、僕とはウマが合わない。なんというか、双方向性の片思いなのだ「高度にオートメーション化された社会で人々は部屋にひきこもり、『動物』的な欲望を満たすことに専念する、21世紀中盤には、世界はそんな日本みたいな国ばかりになるだろう」気鋭の若い批評家が書いているが、僕には、その数十年も前になされた、社会主義リアリズムの画家の、「日本人は悲観的な運命論者だ。社会を変える道をあらかじめ放棄しているから、藝術も、教育も、現実逃避の道具 に成りさがっている」という発言のほうがリアリティがあった。Nとアパートを出て、新交通システムのプラットホームのガラスのドアをくぐり、首都圏を貫く渋滞で名高い幹線道路を南に向かう。Nは、いま申請している日本政府の奨学金が通りそうだと嬉しそうに話す。この奨学金を得れば、北関東にある国立大学の大学院に入学することになるが、助成の規約により、数年間は日本を出ることができない。浜通りの原発事故の直後だった。プルトニウムやストロンチウムを含んだプルームが北関東一帯に降り注ぎ、放射線、疫学、火山学の専門家やアクティビストたちがそれぞれ全く違う意見を展開し名指しで糾弾しあい、東京在住の外国人たちが大挙して国外避難している真っ最中だった。電車が急ブレーキをかけて停止して、Nと僕はあわてて手すりにつかまる。Nがメガネの奥の目を細めながら笑って僕を見る。ちかごろ、メガネをかけているとどんな外国人もアジア人に見える瞬間がある。僕は、大通りのほうを指さし、この界隈のちょうど裏手の、セブンイレブンの横に、黒い鉄のドアに大きな日の丸の国旗がペイントされた家があることをNに話す。「大使館じゃないの」とNは冗談めかして言う。「強制収容所じゃないかな」と僕が答える。「北朝鮮じゃないんだから」Nはあどけなく笑う。Nのことが好きだ。信号が青になり、電車が動きはじめる。 ざらついた灰色の専用軌道が、南の郊外のはずれにある、砂漠化した岩盤のふもとまで一直線に続いている。視界が途切れる限界点にはファミリーレストランや量販店の広告塔が回転しているのが見える。

環状道路10号

アカプルコから戻った午後遅く、近所の量販店で白いウィルソンのパーカーを買った。地下鉄駅の乗り合いバスやタクシーのヘッドライトが、磨耗した幹線道路のレーンを蛍光灯のチューブのように発光させる。秋だな。と思った。秋は新しい世界が開ける季節だ。そんなことを帰りの乗り合いバスの硬い座席にうずくまりながら、ずっと考えていた。Aとは首都圏の南にあるバスターミナルで、ちょうど別れたあとだった。ずいぶん長い間女を抱いていなかった。相当の、長い長い時間だ。海岸沿いの、屋台骨のように張り出した木組みのテラスで、ビールの栓をはずした。藍色のワンピースから出る白い二の腕をつねると、Aは笑って僕の肩に手をまわし、キスをする真似をする。真っ黒な海を見ながら、相手を好きになること、とりあえず誰かといっしょにいること、性欲を満たすことのあいだに引かれた白い破線の上を、行ったり来たりしていた。アカプルコは聖週間の休日を楽しむ家族連れや若者でにぎわっていた。バーの入口に置かれた演台に立つ女の子が少しづつ服を脱いで、最後は水着になるというショーをやっている。他愛のない見せ物だが、観客の喝采だけは余念がない。先生が「おはよう」と挨拶すれば、みんな大きな声で「おはよう」と挨拶を返す。そんな小学生の真っ直ぐさを、この国の大人たちは失っていない。僕は、Aをモーテルに連れ込んでベッドに押し倒そうという性急な考えをいったん保留にして、バーの外に出る。水族館みたいな飾りつけの90年代風のディスコテカで、サルサを踊ったあと、真っ暗な、観光地の喧騒が遠くに聞こえる黒い砂の浜辺に寝転がり、白い二の腕をつねったりキスをする真似をされたりして過ごす。起き上がり、砂を払うと、夜明けだった。Aと手をつないで、鳥がさえずる椰子の木々の植え込みがある海岸通りを歩き、投宿している安ホテルに戻った。バスルームの洗面台は昨日から水の出が悪く、白い陶器の表面にはうっすらと砂がくっついていた。いま、そのアカプルコの砂がざらつくのを背中に感じながら、首都圏の、スモッグで空が曇る、幹線道路の歩道橋を、量販店に向かって歩いている。頭上にライトアップされたオレンジのロゴが見え、そのむこうには外国人がたくさん住む高級住宅地の灯が明滅する。ウィルソンのパーカーが入った紙袋の感触を手のひら確かめながら、エアコンの効いている店のゲートをくぐる。


かっこいい扇風機

  泥棒






うねる
いや、
音楽のことではなく
いわゆる
グルーヴのことではなく
そんな
かっこいいことではなくって
髪の毛
ほら、
湿気でね
うねる
(それ新しいドレッドヘア?
って、
友達に言われる季節
そう、
毎年恒例のやりとり
友達がボケで
私がツッコミ
誰に見せるわけでもない
しょうもない漫才
これ、
毎年やってるから
無駄に
完成度が高くなってきた漫才
明日
一緒に
かっこいい扇風機を買いに行くから
きっと
友達は言うのだろう
(それ新しいドレッドヘア?
って、
今年も
飽きもせず言うのだろう
私はそれを
絶妙の間で返す
いや、
待てよ
もしかしたら
友達は
ボケではなく
ツッコんでいるのだろうか
(それ新しいドレッドヘア?
このセリフは
そもそも
ボケではなく
ツッコミなのかもしれない
どっちなのだろうか
梅雨空の下
そんな
どっちでもいいことを考えると
決まって
弱い風が吹く
うん、
漫才って
かなり難しいね。





友達は
私服がダサい
けっこう
いや、
そこそこ
かっこいい文章書く子なんだけど
私服がダサいから
がっかり
でも、
コラムとか書かせたら
めっさおもろい
で、
プラマイゼロ
そんな友達が好きだ
私が
(どんだけ私服ダセェんだよ!
って、
ツッコむと
いつも笑う友達
(笑ってる場合かよ!
って、
もう一回ツッコむと
大爆笑する
そんな友達が大好きだよ

飽きない
中くらいの丘の上で
叫ぶ
扇風機に向かって
口を
大きくあけて
あああああああああああああ
って、
やる時よりも大声で
叫ぶ
で、
今日
私服がダサい
その友達と
かっこいい扇風機を買いに行く。






昨日
家電量販店で買った
かっこいい扇風機
一番安いのに
一番かっこいい扇風機
シンプルで
飽きのこないデザイン
風量
強にして
昨日が今日になる
で、
今日が強になる
いや、
ダジャレじゃなくて
これ、
現代詩だよ
しょうもない現代詩だよ
これは
今年はじめての
難しくない現代詩なんだよ
って、
私が本気でボケたら
友達は
ツッコんでくれるのか
くれるなら
それは
いったいどんな言葉なのだろう
うねる
音楽のように
グルーヴが生まれ
飽きのこない
そんな
そんなかっこいい言葉だったらいいな。


今今に

  つばめ

そんなに早く鳴き始めては駄目だと思った
昨日までの雨で蒸せた空気に
咳き込むように鳴いていたから
たぶんきっとお前は他より先に死ぬよと思った
そうしたら夏の盛りに騒ぐ仲間の下
お前は地面に転がるんだよ

だから昼 
私はぬらぬらと光る
お前のその背中を思ってやったんだ
わかるだろう

昨日の夜の話だけど
最後の蛍が運良く見えて
その光をおっかけていたんだ
そいつは長く生きたのか
生まれ遅れたのかわからなかったけれど
私は同情もそこそこに
”綺麗”なんて言葉で片付けたんだ

でもね
お前は夏の優美ではないんだ
お前は夏の幻想なんかでもない

お前は夏の形なんだよ
それが夏から外れて鳴いたって
人間なんぞからみたら姿にならない


だからそんなに早く鳴いてはいけない


  熊谷


電話が鳴っている
誰からの連絡なのかは
わかっているのだけれど
どうにも体が動かない
呼び出し音は途切れず
そのまま肌寒い朝を迎える
そしてもう眠れる夜は来ない
なぜなら
一日中あなたのことを
考えているからだ



あなたは約束を守れず
必ず遅れてやってくる
蝶々結びを結んだ先は
怪我ばかりしている小指で
季節は相変わらず
暑さと寒さを繰り返すばかりだった
待っているのではなく
ここから動けないだけで
指切りはほとんどあって
ないようなものになっていた
ねえ、ここから早く
どこか遠くに行こう
そう思った瞬間
蝶々結びはほどける



わたしとあなたは
とても歌が上手だった
ドからドまで正確な高さで
いつまでも平行線を
辿ることができたし
お互いの音色は
手が届かない場所まで
絡むことができた
あなたの喉を少しなでたとき
太陽がようやく
雲間から顔を出して
夏が来たことを知る
ねえ、ここからどこにも行かないで
そしてもう一度
蝶々結びを結び直す



あなたが走っている音がする
どこを走っているかは
わからないけれど
音がするということは
もうすぐここに
到着するに違いなかった
怪我をした小指に
新しい皺が刻まれたとき
満月がようやく
雲間から顔を出して
運命が動いたことを知る
その間にわたしは
まばたきを繰り返しながら
愛してるに満たない
子供じみたメロディーを
生ぬるいベッドに浮かべて
訪れたばかりの夏を見上げた



ずっと鳴っていた呼び出し音は
手に持っていた受話器からだった
電話をかけていたのはわたし
あなたがとなりにいるのに
気がつかずに呼び続けて
そのまま暑苦しい夜を迎えた
そしてもう目覚める朝は来ない
なぜなら
このまま一晩中あなたと一緒に
夢を見続けるからだ


みずきりさきおくり

  

サワガニを飼っています。毎日、毎日、世話をしています。このような生活を送るようになったきっかけは、鮮魚が美味しいと町で話題のスーパーで、当時、僕が好きだった人が、サワガニを生きたまま買って来たからです。お惣菜を入れるような、簡素なプラスティックのパックの中で、サワガニのどれがどれの足なのか、分からないくらいにこんがらがって、ひとつの塊になっていました。不憫だなぁと思いながら、輪ゴムで縛られているパックをよく見ると、高知県・吉野産と書いてありました。愛媛県と高知県の県境に位置する山村に、僕が幼少を過ごした家が在るのですが、その近くを流れる清流が、下流で吉野川と合流しています。もしかすると、スーパーでこのサワガニを見つけたとき、溯ってきてくれたのかもしれません。

懐石料理の八寸に、サワガニの姿煮が付いていたのを覚えていました。ネットで検索すると、たくさんレシピを見つけることができました。とりあえず、サワガニを調理用のボールへ移しました。サワガニの塊は、円を描きながら滑り落ちていきました。しかし、ボールの底に収まったのも束の間、脱出を試みるサワガニの上に、他のサワガニが乗り上げ、登っては滑り落ち、互いのハサミで足を引っ張り合っていました。暫く眺めていると、一匹のサワガニが、ボールの縁に片足を引っ掛けることに成功しました。僅かに縁を掴んだか細い足で、体全体を引っ張り上げると、諸手(ハサミ)を挙げ、殻いっぱいに重力を吸い込み、外に落ちました。ボタン!それは予想に反し、物凄い勢いで走り出しました。驚いた僕達も、なんとか捕まえてボールに戻すのですが、一匹を捕まえている間に、また別のサワガニが脱出するので、それを慌てて捕まえていると、紐の結び目を解いたように、サワガニは続々と逃げ出して...たまらずフライパンで蓋をしました。

サワガニが逃げ出さないような、容器を買いに走りました。ひとり車を運転をしながら、この事態を頭の中で整理しているとき、アクセルを踏み過ぎていたように思います。100均のダイソーで、洗った食器を預け置く用の、水切りカゴを買いました。トレイの内側から、水切り網を抜き出し、逆さまにしてトレイの上に被せると、水切り網は網目の蓋になりました。蓋がトレイから外れたりずれたりしないよう、合わせてガムテープも買いました。本当は、もっとシンプルな底の深いバケツ的な物を、お互いにイメージしていたと思うのですが。

帰ってくると、夕飯の支度が整っており、炊飯器が、ご飯が炊けたことを知らせていました。買ってきた水切りカゴとガムテープを、袋から取り出して見せると、え? という顔をしていましたが、トムヤムクンという、タイ風のエビ入りスープを作ったようで、頻りに味見をしては、満足そうにしていました。いつもは、味は分からないとか、保証できないと言って、楽しみを先送りにする人なのですが、この日はめずらしく、そのような楽しみを忘れてしまっているようでした。食卓の隅っこでは相変わらず、ボールはフライパンで蓋をされていました。ボールの中からは、砂利を刮ぎ取るような音が漏れ出して、部屋中に立ち籠めていました。外では雨が降りはじめ、町並みを薄暗く染めながら、やがて夕立ちになっていました。水切りカゴは、ベランダにほうり出されてしまって、物干し竿をつたい落ちている、雨水を溜めていました。干されたままの洗濯物は、秒針が刻んだ時の後方で、ぶら下っていました。太陽の光波は、雲の内側で今を透かしながら、今日の思い出を街明りに譲り渡していました。暗い場所、明るいところで、光は同じ意味を以っているように思いました。トムヤムクンはそれなりに、酸っぱく辛くありました。僕はテレビのボリュームを上げました。サワガニの救命活動も、先送りになったままです。 


Give me chocolate

  ゼッケン

天神の親不孝通り交番に拾った財布を届けた
警官はおれに名前と住所を聞いた
昼までまだ間がある午前の中ほどの均一な白日の下で
繁華街は無防備に寝そべっていた
生ごみの匂いがしみ込んだアスファルトの上を
数人の予備校生が歩いている
おれは予備校生ではなかったが、しかし、路地を歩いて黒革の財布を拾ったのだった
警官は後で謝礼があるかもしれないからと言った
けっこうですと手を振って交番を出ようとしたおれの進路を男が塞いで言った

それは私の財布です

警官は男の名前を聞き、男の顔と運転免許証の写真を見比べてから男に財布を渡した
おれは交番から出たかったが、狭い戸口で男の身体が邪魔だった
あなたが拾ってくれたんですね、助かりました、ほんとうです、助かりました、大金なんです、これは
おれは財布には50枚ぐらい入っていただろうと思った、謝礼が1割なら5枚をもらえるところを
おれは事前ということで1枚しか抜かなかった、落とし主が現れるかどうか分からなかったからだ
人間は利益なら確実な方を選ぶと行動経済学は教えている、それは脳の働きだと脳科学者が胸を張り、おれは権威に逆らえなかった、後で多くの利益を不確かな確率で得るよりも100%の1枚をおれは拾った財布から盗んだ
男がおれの進路を塞いだまま、財布の中身を数え始めたのを見ておれは男を憎んだ
口では礼を言いながら、男はおれを逃がすつもりはないのだ、おれの顔を見ただけでお前は盗んだと決めつけている、ただ、その枚数をいま確認しているだけだ
おれは1枚しか抜いていない、だが、男は3枚足りないと言った
おれは男の罠にかかった、1枚しか抜いていないのにおれは3枚返せと言われている
男はおれの良心に凶悪な鉤爪をかけて後ろに曳き倒そうとしている
あのう、すみません、3枚足りません、と
男は一度目を警官に言ったが、二度目はおれの目を見て言った
おれの後ろには警官が立っている。

はい、こちら親不孝通り交番です、分かりました、すぐに行きます

警官は鳴っていない電話から受話器を取り、話し、戻して言った
私はもう行かねばなりません、こうしてはどうですか、 私が1枚、あなたが1枚、困っているこの人に寄付するというのは

警官は付け加えた、三方一両損、というわけでもありませんが

1枚でも足りないとこのお金は困るんです! 叫ぶように言った男の視線から警官は顔を背けた
その事情、知らねーし
おれは警官を味方につける好機を得た
そうですよ、あなた、私たちがあなたのお金を盗んだとでも言いたいんですか?
おれと警官が心理的に結託したのを感じて男はなりふりかまわず言った
何が三方一両損だよ、あんたたちは盗んだ金を返すだけで損してないじゃん!
おれは警官に言った、あんた、2枚抜いたの? 警官は首を横に振った
おれは男を殴った、強欲だな、きさま! 財布を拾って届けた人間からカネを巻き上げようとしたんだ!
男はおれの足元にすがりつく、それでもまだほんとうに1枚足りないのです
まだ言うかよ!? おれは男の胸を正面から蹴り倒し、ジーンズのポケットからくしゃくしゃになった抜いた1枚を出して仰向けに倒れた男の上に降らす
天井を惨めに見つめる男は目尻に悔し涙を貯めていた、警官は銃を抜いていた
警官は銃を振っておれに交番から出ていっていいことを知らせた
おれはすなおに従った、最後にちらりと背後を一瞥した、交番の床で警官が男に馬乗りになっていた、つきつけられた銃口は警官の背中で遮られて見えなかった
おれは昼前の繁華街を予備校生たちの後ろについて歩いていた


  石村 利勝



ひとりで 笛を 吹いてゐる

何だらう
この痛みは
ひしひしと 胸にささつてくる これは?

ひとりで 笛を 吹いてゐる

むかし覚えた ひとつきりのひとふしを
くりかへし くりかへし 飽くこともなく

ひとりでゐる 全く! たれにきかれることもなく
私は 感じてゐる なにものかで みたされた このひと時を
私は 感じてゐる たれに知られることもなく ――

愚かだつた頃の 想ひ出さえ 何もかも懐かしい
私は笑みを浮かべる 今ほど優しい 心をいだいたことはない と
それでゐて これほど 悲しいのは?

ひとりで 笛を 吹いてゐる

むかし覚えた ひとつきりのひとふしも いつしか忘れ
笛の音は ほそく 青く 澄みわたる

私は 夢をえがく ひとびとはそこにゐる
空と土がひろがり 樹々があり 季節がめぐる と

だが私は また ひとりにかへる 永遠を見る
そこには ほんたうは 何もない! それでも

私は 願つてゐた 懐かしいひとたちが
そこにふたたび もどつてくる日を

笛の音は ほそく 青く 澄みわたる
そこにだけ ちいさく 空がひろがり 時がながれる

それでも 痛みは 私の胸を去らない
何だらう これは
ひしひしと 胸にささつてくる これは?


命でゐることは 悲しい
何もかもなくしても 私ひとり ここにゐる



(追記:6月11日、最終行の一句を改訂しました。)


sentence

  アラメルモ


確かめて
、嫌だな
嫌だ
いつも同じ服
、奇怪な叫び、刹那に、
まったく嫌だな
クゥン、クウォん、改訂版
交差点で狐の行列をひとしきり待ってみる。少女。
ランダムな点滅しらけた
泡立ちもきりえとほどこす文字列に
やわ肌にみる蝶の刺青、虫めがね、んな殺生な
何かみえるか?
何もみえないしきこえない、いや、きりぎりす
出合うぞ、ささ、呻き出る音がする
このまま行くか、廻り道したらきっと出合う
それでも逃げられない、逃げたら見つかる、ヤバいよ
、もう一度よくみて、印象は、
眼も足もあたまも、長い顔が嫌なら咳をする声まですべて嫌だな
どうにかして始末してやりたい
閉じ込めてやりたい、、みつかる、隠れろ、
短区画、で太い線
、こっちで消せばいい、
灯りを、を、を、暗闇、に、、ふざけないで、
、、スケベ、こしを折る、鈴、
…………………………………やり直し


眠った炎

  zero

炎が眠っている
その熱と光を休めながら
かつて燃えたことを証明する
灰が柔らかな布団になって
炎は夢を見ている
かつて照らし出した
闇の中に浮き立つ人の顔が
ばらばらになって融合した
光を清算する夢を見ている
燃料など必要なかった
ましてや消すための水も要らない
この自立した眠りにより
炎は自らを蓄え続ける
火の粉が一定の海域を超えると
それは不可解な声となり
かつて人はそれを詩と呼んだものだった


NO ROOM

  紅茶猫

誰も居ない部屋で電話が鳴っている
誰も居ない家で電話が鳴っている

テーブルに置かれたオレンジはモノクロで瑞々しい
壁に貼られた薄い紙は
歯を見せて笑う女優を真似た塗り絵か

きっと彼女は笑って死ねる
no room
no problem
何だかお腹を抱えて笑いたくなった

頼まれれば何でもやって
頼まれれば何でも見せて
見せるものが無くなったら
今度は
きれいに整理された箱の中に収まっていく金魚

何だか
何であれ
誰であれ
無くしたものはもう帰らない

no room
no problem

蝿になろう
蝿になれば
忌み嫌われて
どこで生まれ、どこで死んだのか
誰も気には止めない

人間だけが
朽ちる紙に後生大事に生きている時間を刻んでいく

誰も電話に出ない
電話は鳴り続ける
靴音がしない僕がベルの音を聞いている

金魚がのたうつ
血の色をした金魚

生臭い匂いがペタリペタリ部屋を覆っていく

電話のベルがふいに止んだ
僕も立ち止まる

金魚を楽にしてあげたくて
踏み潰そうとした僕の足先に
金魚が赤く透けていた


絶句_eフォルマヴィシオン

  鷹枕可

死の網膜
卑劣たる聖人
嘲弄残虐の塹壕帯
燦爛鏡より陰鬱鏡へ亙る
双児-影像対称体
カスパー・ハウザー悲運の柩に孵りつつ
世界終端の想像世紀、
自働説機械設計の愉悦人よ蝕身倒錯を放て

異人追放
そして
国家崇拝の普遍卵殻に
未死露悪の放埓なる
薔薇 復 帆船を
巨躯と矮小の遠近法を喧しく宣伝せよ
窮鼠に拠る国粋主義よ

飽食卿の死骸
割礼の華蘂瞠目、
眼球葬礼家と果実籠の静物
捻転 捻転 捻転
有棘領野を闊歩する
霊柩車の聖霊週間に於ける吐露機関の舌禍

そは
忌々しくも
純潔且つ峻厳なり
昏婚者達の断絶、
誓約を
飽く迄も帰趨白百合の記録帖へ隠避しつつ

鉛丹の精神病院
恫喝的影像の追随魘夢を跨ぐを首肯せず
矩形蛾たるデフォルマシオン
即物より叛抽象へ
興趣昏迷の人物は
経緯度計の揺動花菱にも指針を捺すか

地球の鳥瞰鏡を
絶対絶句なる自明死、曇窓とも喚呼し
鳴啼する卵膜の前世紀は畸形の厩舎たる
嬰児、落花迄の繁栄を謳歌せよ

瑕疵死斑枷鎖繋がらずして
放埓と秘匿花よ
堕罪自裁の自存者E氏
古代螺旋劇場の虚実、不幸を喚起し
闡明者E氏、自が両眼を抉り
運命と呼ぶべき弛緩野に血髄を滴らせたり


          *


     概念建築播種器の亡命歌よ
    蒸気罐の熾烈なる臼歯は
   存続し継続し痙攣せよ
  近似的存在機構の縊死体F
 吐瀉喀血麗かな錯綜よ
黒森黒薔薇黒石網膜
 蒐集家無惨なる悪辣者
  汚辱殉卿坩堝渦巻城砦の歪曲
   弛緩薬シアン死す死者 
    緑色卵膜帯係留の繊維剤
     不落鹹湖に蝕既剃刀を愚挙せよ

               緋の銅鑼 否
                萵苣の脳髄鬱屈たる
               冀願の安楽死
                鐘乳と石筍と鱗茎
               螺旋邸宅建築家の敷衍
                駅舎の幽霊夥多に
               ガシュリンの角膜炎を喚べ

              類似の花々
            朽葉の創 
          裂開された眼球-人働飛行翼
        瞭然明瞭と瞠られた耳殻に聴音機械
      ヴァイオリン縦横果断なる切開より
    過り堕ち平面幾何学伽藍の紙生穹窿
未明死の塩基六芒奇聞たる忌憚楕鏡眼球‐気密室
 
在る時をわたし在り 無き時にわたし在る 追難 追難 追難 
鳴鐘たる叱責者 牡蠣綻ぶ葡萄樹に自ら逸す
   さはされど丹色の扉を翻翻と集くは黒死菌を運命たる係累におぞめかしめる闇翅蝶ならざるを

麗句審問は弛緩譲与の鬱屈を擬似臓腑病慈愛の既望に仮託し
遅行劇物番号256_眼球悲愴曲のための標榜を掲揚した
萵苣と薔薇の洞窟修道院長が肩を互みに揺動する
精神病の颯爽たる巧緻痙攣が赤十字の影像に
患者Sの支離籠絡を領域に仮想の華々と
撞着された真空管の塩粒に鹹くも死
を謳い創める創造説の卵殻には
アダン氏の捻転する筋線維
が暫く硬い衝撃運動を
後顧の蒙昧主義を
播種収穫した
網膜野に
蜉蝣


     自 
    働
   式昇降室
    裸   
     婦
      像――頤に巨躯の花籠
 暴落する、暴落する暴騰
   炎天の市街地
  給水塔の球体、動力矮躯
      近似的鱗翅類の落涙
    貽貝ひとつ
       擬真珠の偽造紙幣に 
             遁れ行く過程死、眼底骨
緑内障その新緑を写し  
  斯く壊滅の戦禍を喚べ
       死と死の死、永続程の白痴夢に 復 流刑地の塹壕掘削器に
死夢、落盤 
   比喩の禽籠と 叛煽動家に鋳抜かれた視野は禽勿き鳴啼鐘塔の水死


冬虫

  シロ

裸の冬がくる
十二月の姿は、あられもない
わたしのからだは白くひらかれ
とめどなく上昇してゆく
まぶしい白さに混練され
細胞のように、奥千の分裂をなし
ひかりとともに微細な羽虫となる
白く羽をふるわせて
冬の光線を吸い、触角をちいさく動かす
適度な湿度と乾燥が私の翅を小さくなでる
こまかく、排泄物を分泌させ
いくつかの息を、天空に撒き
冷気とともに、地上に落下してゆく
わたしは雪となって
黙って目をつむり
しずかな夜に降雪する


雑踏

  芥もく太

抗癌剤の治療を終え
疲れてヤニだらけの古いアパートに帰り
湿った布団に兎のように包まって寝る

悪い夢でも見たのか
早朝に覚醒をする
寝汗で背中がやけに冷たい
最近はよく寝汗で起きる

早朝の駅の近くに買い物に行く
駅前の雑踏は烏が鳴きながら
残飯を狙い飛び回っている

私はスーツ姿の人を見る
売店で新聞や雑誌を買う人たち
慌てて煙草を吸う人たち
飲み物を一機に飲み干す人たち

みんなバラバラのようで
時には蟻のように
時には波のように
結局は纏まって
押し寄せる来る

全ては会社勤めの人々
私は人々の顔を見る
皆 今日の仕事を考えている
私はそれに憔悴する

流れの波に足が動かず止まる
むしろ後ずさりする
なぜ私ひとりが人々の波に
逆行しているんだ

夜と朝の狭間で生きている
夜と朝の狭間で身動きが出来ない

私は知っている
仕事の圧力に潰れ
烏の白い糞が頭に落ちたことを
生きる意味を忘れて
流れる背中の汗に
今日も焦燥し続けている
自分がいることを


温泉

  zero

温泉に入ると
深く広々と湛えられたお湯が
私を首まで飲み込んだ
温泉の広さと深まりを前に
これが私の水位
これが私の容量
これが私の精神
これが私の闇
これが私の歴史
これが私の栄光
これが私の傷
と知らぬ間に対応させていた
温泉には私の全てがあふれかえっていた
そんな温泉からあがるとき
私はお湯をそっくり捨て去って出て来た
私は自分のなにもかもを
温泉のお湯として投げ捨ててきたのだ
これから新しい私が始まる


郊外

  田中恭平


 
いつかとうめいの中を飛んでいた鳥は
兜をかぶって鳥兜として咲いていた
鳥兜は水葬した された
わたし わたしらで
下流の方にこの川を生活水として利用される
民家のあることは知っていた 知らなかった

くらしは暗くとも静謐な生活
ふさわしいくらし 休日の為私は親族を何人殺し
その休日は壊れていく体に必要な休日で
殺した数にして神経の神は一向にベッドから出れずやむなし

賢治の「やまなし」読みかえし
ユングが意識混濁より眼を開いたとき抱いた
この世界にまた存在する哀しみ
その深さの底へ

───クラムポンはかぷかぷわらったよ

薪割り
薪割り
ときどき向日葵
薪割り
薪割り
いただいた御茶がおいしくほほえむ
夏蝶が瞼を重くしたが
御茶のカフェインがかるくしてちょうどよくなり
薪割り
薪割り
くりかえし
からくりのようにくりかえし
あっ! 町内会の連絡網まわしてなかった

カアサン、ついに秋山さんとこの爺がアブサンに手を出して無茶してるって
狼煙上げとけって電話あったよ

ああ、そう、あそこらは女衆が足らないから今から行ってくるね
あー、腕がなるわ!



夜は勝手に肌へ接触をはかる湿気にくらべ
堂々としているからクールだった
わたしは、わたしの一日が二十四時間より長いことをわかっている

「僕の薬箱」は服薬中断を告げられ飲まなくなった錠剤でいっぱい
時間が有限なのか知らないけれど
明けない夜が、デスクの二段目にある


狼煙が上がっている 
この郊外の中心を通る大きな車道のインサイド、アウトサイドから
犬が吠える 
犬が吠える

ここに唯一明るい
コンビニのバックヤードで
深夜勤務労働者がじっとスマートフォンをめくる
わたしは彼の友達らしかったが 
わたしは彼にとってのお客様である


ガラケーからショート・メッセージを送る
「トリカブトの写真とってあるけど送る?」
「キツ でも送って」

「やっぱいいや 検索ですぐ見れる」
「はいよ じゃあ朝の六時までファイトっす」
「うす」
「今から行こうか?」
「うーん さびしい、かなぁ〜」


わたしは夜の底を歩いていく いつまでも 
いつまでも
いつまで ───クラムポンは
かぷかぷわらったよ 

文学極道

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