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コラム

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最後のコラム

 コントラ

『言語を紡ぐことは存在論的差異を生きるのと同義だ』
―ダーザイン

子供のころから、部屋に居るのが嫌いだった。おそらく僕の前で交わされる父と母の会話や、新興団地の昼下がりの、密閉された無音の空間に、おぼろげな気持ちの悪さを感じ続けた記憶が関係しているのだと思う。ともあれ、僕にとっては文章を読んだり物を考えたりすることは、常に空間的な経験だった気がする。すべては実家の狭い空間を出て、団地の舗道を歩き、アーケードを通り抜けて駅の階段を上り、電車に乗る。または、喫茶店に入り、窓ガラスの外の道路を走っていく車の尾灯をぼんやり眺める。それら目の前の景色、背景、言い換えれば、テキストにとっては「行間」的なものこそが、いつもクリティカルな意味を持っていた。だから、これまで他人の書いた文学作品や、映画、テレビその他のメディア体験に、自分の思考が強く揺すぶられたことはなかったように思う。たとえば、昨年の暮れ、僕はメキシコのカリブ海岸をふらついていた。そのとき偶然三島由紀夫の文庫本を何冊か持っていて、雨の日などやることがないときはずっと読んでいた。よく知られているように、三島は1950年代前半を境に作風が大きく変わっているが、その前期の知的で偏屈な作品をいくつか読んだ。いろいろ考えはした。しかし実は小説の内容は3か月たったいま、よく覚えていない。僕にとっては、雨の日の海岸の、米国チェーンの喫茶店で、水滴がガラス窓を打っていた場面や、誰も居ない深夜の安宿のキッチンで、蛍光灯の下でふと本から顔をあげたときに見えた風景のほうが、ずっとはっきりとした印象を残している。

旅とは何かという問いに対して、ナイーブになるのを恐れないのならば、それは「生」をもっとも強烈に感じる瞬間だ、と答えたい。近年日本でも有名な合衆国の文化批評家ジェームズ・クリフォードは、その著作「ルーツ」のなかで、人間の生や文化的なダイナミズムを、特定の場所に根をおろすこと(roots)ではなく、経路(routes)として捉えなおすことを提唱している。生をrootsではなくroutesとして再想像することの意味はおそらく、いま・ここを、次の目的地との関係性における可能態「未来になりつつある現在」として感受することにあるのだろう。そこでは、移民たちにとってホームランドへの郷愁は、新しい土地を求める渇望に対する障害とは必ずしもならない。しかし、クリフォードが焦点化する人々の地球規模での移動や、加速する文化的異種混淆状況は、何も先進国から来た旅行者のロマンティシズムを満たすためにあるわけではない。昨日の夜ダウンタウンの喫茶店で、ある中国出身の留学生と話していたのだが、彼女が言うには、中国から米国へ、いまでも積荷にちかいコンディションで密航してくる中国人がいまでもあとを立たないという。いうまでもなく国際移動を楽観視できるのはごく少数派の特権である。

そういえば、どこかの論文が、エドワードサイードはオリエンタリズム批判のなかで、文化人類学を批判の槍玉にはあげていないという話を論じていた。理由は、いかに民族誌的調査が植民地的力関係の上をトレースしているとしても、文化人類学者はフィールドで現地住民と顔を突き合わして、親密な関係を築いていく。そのことは、単に想像のなかで作られる理想化され、ゆえに隷属化される「オリエント」とは無縁だ、ということなのだろう。僕は、これまで世界30か国に旅したり滞在したりしているが(この数自体はいまや自慢にも何にもならない)、実は、現地に行ったかどうか、というのは、それほど大きな問題ではないと考えている。むろん、文化人類学者は観光客があまり接点を持たないローカルな日常に入りこんでいくわけだから、その調査の精度や、結果としての学問的成果は、たんに旅行者の「そこにいる」ということとは別問題だと思う。しかしながら、目下の状況において「現地に滞在して某かのものを掴んだ」というなかば特権的な感覚や高揚を守り抜くためには、相当の難しい可能性に掛けていかねばならないと思う。中南米を旅行すると、3年、5年の長期で旅行している日本人によく会う。彼らの何人かは白昼安宿のドミトリーに引きこってまったく外に出ず、ある者は毎日、街の市場で調達できる素材で、いかに本物らしい日本料理を作れるかに異様な熱心さで取り組んでいた。そこでは背にしてきたはずの日常の臭気が、逆に日常化した「旅」の中で耐え難い濃度にまで高められているように思えてならなかった。

モダニズム建築の巨匠、ル・コルビュジェは1920年代に、新しい建築の構想を描くなかで、「住宅は住むための機械である」という有名な言葉を残している。彼は、建築を自動車産業と比較しながら、産業革命後の世界で生産過程がつぎつぎとオートメーション化しているなかで、住宅だけが伝統的な方法で建てられ、まったく進化する兆しがない、と指摘する。彼のラディカルなアイデアは、大規模な都市改造論へ発展し、その後、弟子の前川國男によって、第二次大戦後の日本における、焼け跡に建てられたプレハブ住宅の試みとして実現する。コルビュジェや前川の構想したハードウェアとしての、住む「場所」に関するモダニズムが、どの地点で「定住」というコンセプトさえを覆しつつある現下の文化的な異種混淆状況と接点を見出すのかは、興味深い問題である。どちらにしても、特定の「場所」や「場所性」に対する親和性はおそらく絶対になくならないし、そうした場所の点描たる集合をたがいに結ぶ線としてこそ、人々の織りなす「経路」が意味をもってくるのだ。

僕は中学校時代に世間で言うところの「いじめ」を受けた記憶がある。もちろん過度に激しいものでもなかったし、家にも居場所のなさを感じていた僕は、登校拒否をするわけにもいかなかった。1980年代の鉄筋コンクリートの校舎で、白い廊下の奥には赤い非常ベルが見えていた、あの当時、あの空間で首を絞められるような気持ちで居たこと。そのような強烈なかたちで、ある場所に存在していたこと。そのことは、現在の自分には思考していかねばならない必然性があることを示していた。「いじめ」がコルビュジェの構想した機械としての建築のように、場所を選ばない抽象概念であることはありえない。僕にとって関心があるのは、1980年代の東京郊外の一角で、自分が存在していた鉄筋コンクリート建築の場所性であり、その当時低く垂れ込めた雲や電線、寂れた商店街に埋め込まれた街並が特定の人々によって生きられてきた風景の、まさにその先端に、僕自身の記憶が位置しているということであり、それが僕にとって集合的な意味での歴史を考える出発点である。

詩なり「作品」と呼ばれうるものは、世界に強烈に根ざそうとすること、根ざしていたことを呼び起こすこと。その地点からしか生まれてこない。これが、多くの書き手にとっては多くの選択肢のひとつであるはずの、僕自身にとっては、唯一の立場である。丸山雅史さんの「どうしたら詩作が上手になるのか」という問いを手がかりに考えたこと。


文学極道書籍販売と恫喝

 ダーザイン

 文学極道の本が発行されました。「文学極道No2」他。No1、No2共に21世紀日本を代表する本物の現代詩人の作品集であり、手帳の老人の詩のような読むに値しないものは一つも載っていない。文学史的な本であると確信している。よく読んどくように。読まない奴は出入り禁止な。
 この本を発行する費用は、私と平川綾真知さん、稲村つぐさん、前田ふむふむさんで分担した。諸氏に感謝を。また、本体web文学極道の万金する高いサーバー代金ドメイン代金を払い続けてくれている管理補佐 / 統轄・後見、もとか氏に感謝を。そして、文学極道のプログラムを組み、運営し続けてくれた実質的な管理人、ゆうなに感謝を。他のすべての発起人、スタッフ、良い作品を投じてくれた投稿者たちに感謝を。
 貴殿らがさえないポエムを貼りつけている間に、無数の者が多大な無賃労働をし、自腹で金を払い、このサイトは運営されているのである。その労力に報いるために貴殿らは、いっそう精進して傑作を投下していただきたい。

 文学極道は、腐りきって再生の余地のない既成の文壇に作品を投じる気にならないネットの実力者たちが分離派として立ち上げ、発起4年で瞬く間に文学の最高峰といえるメディアへと成長した。どこの雑誌を見ても文学極道とは比べようもない程度の低さで、もう大昔から老人クラブの様相を呈していた既成の詩文壇はどんどん倒産し、あるいは実質的に同人誌の類いだとしか言いようがない発行部数に凋落し、ネットにお年寄りと幼児以外のほとんどすべての者が接続している状況でその現実から目をそらし、知らないこと、できないことについては黙っていればいいのに、ある種の認知症の者は敵意を表し、詩と思想のネット時評で、名前は忘れたがある認知症と思われるお婆さんが「ネットには双方向性がない」という意味不明の妄言を書きつけたり(詩と思想が悪いんじゃない。詩と思想のネット時評は光冨郁也さんが務めるなど悪くないこともあった。あのおばーさんの無知蒙昧な発言をチェックしなかった編集の責任だ)、井坂洋子が「国家概念やある種の宗教、ネットなどの集団偏向現象を詩は嫌う」と言い放ったり、滑稽なことが多々あるのだが、もう、そういうことで私はいちいち腹を立てない。
 何故かというと、事情を知っているからだ。今私は重度ではない老人が住む老人ホームで働いているが、50人の入居者の中にパソコンを持っている人は一人もいない。携帯でネットにアクセスできる人さえ一人もいない。特段、認知症の様相を呈していない人でも、お年寄りのほとんどは(全員ではない)、今、現に、ここを生きていない。路上に何万人もの失業者が寝ていても頑迷な年寄りは自民党に投票するのだが、現代詩手帳などについて、老人クラブの類だと解れば、介護員として、怒る気など全くなくなる。井坂さん、佐々木さんら現代詩手帳のお年寄りたちは大丈夫だ。私がちゃんとおむつを替えてあげるから安心して往生しろ。私は職場ではやさしい人で通っており、楽しく穏やかに老人ホームでの生活を送っていただけるように努力している。だが、それは詩とは関係のない話だ。

 詩は、国家権力や民族意識、ある種の宗教、現代詩手帳などの集団偏向現象を嫌う。

 ところがである。4年間は良かったが、今年(5年目)の文学極道は著しく質を低下させているように私は感じている。良い書き手も無論いるのだが、秀でたものが少なく、読んでも何の足しにもならない、そんなことは日記にでも書いておけとしか言いようがない駄文が多数投稿され、読む気が失せるような場面も多く、以前現代詩手帳について言った言葉を文学極道の投稿者たちにも言わなければならない。
 原因は多々あろう。先ず、私自身に責任がある。私の中で情熱が低減し、こんなの駄目だからまともな作文を書いて出直してこいと説教を垂れ続ける為に投稿掲示板に出張る頻度が著しく減ったこと。他の発起も疲れ、同様に投稿掲示板でダメ出しをする頻度が著し減った。これによって、駄作がのさばるようになった。
 また、もっと広い範囲でネットいうメディアの性格の変貌も大きな要因になっていると思う。かつてネットは創造者、先行者たちの場所であったのだが、万人が接続するようにると悪しき側面も出てくる。即ち、ネット自体が凡庸なメディアになった。BlogやmixiどのSNSはhtmlなど全く知らなくても使える。10年前のネットはリンクを辿っていくと驚愕的な新世界に、果てしない地下迷路の果ての暗黒掲示板群にたどりつける場所であ、創意にあふれ、そのサイト自体が芸術であるようなホームページが無限のリゾームとて遍在していた。だがネットについて、私はもうそのような表現を使えなくなってしまた。ワイヤードに勃興した新しい文化は消えうせ、blogと携帯でネットにアクセスする者の登場によってほぼ壊滅的に消滅した。どこにでもいる凡庸な人間の公開日記の次元に凋落したのである。したがって、私はもうワイヤードという言葉を理念として使えなくってしまったのだ。第4回創造大賞受賞者・黒沢氏が以前語ったように、ロマンが、こでもまた死んだのである。
 情報の流通に於いて、人類史上未曽有の進化を私たち(現代詩手帳の老人以外)は体験てきた。創造者であるかどうかなど何の関係もなく、今はすべての人類が情報革命の地平にいる。かつて私はこのことについて英利政美の言説を引用し、地球規模のニューラルットワークができて新人類が覚醒するようなスペキュラティブフィクションをあちこちに書いてきたが、実際に起こったことは、地球規模で、どぶ板的に人が繋がっただけである。
 だが、こんな話はもうやめよう。昔日を懐かしむのは年寄りのすることであり頭が禿げる。

 万人が登場したということの良い側面を見よう。商業活字雑誌の月間発行部数は数千部だが、新世紀詩文学メディア文学極道は一日平均一万アクセスを超えている。即ちマーケットが広がった新しい情報の地平で、また発起当初の厳しい芸術家としての戦い、コントラさんの言葉を借りると「天才」たらんとする戦いを投稿者諸氏に厳しく求めるものである。凡庸の荒れ野にそそり立つ赫奕たる異端。これが、文学極道であり、リアリズムによる圧倒的な筆力をバッグボーンに、SFやシュルレアリズム、魔術的レアリズム、精神病理学から核物理学まで、あらゆる手管を使って強烈な異化作用を現実の中に織り込んでいくのである。

 それから、ある種の物語の死ということについて少し思いをめぐらしていただきたい。これは、文学史に限らず人類史に於いて何度も経験されてきたことであるが、天才的大詩人・一条さんの一群の詩は、あらゆるロマンの死を宣告しつつも、空虚な場所、非=場所に鮮烈な実存のファントムを灯してきた。
 わたくし事を述べれば、私、凡庸には一条さんのような技法は使えないのだが、似たような感慨から、物語のファントムを艶やかに描けないかという挑戦がここ数年の自身の詩行、小説「光の王」での試みであった。

 現況の文学極道について思うところを一つ具体的に書いておく。人間を書ける者が著しく少ない。今の文学極道には佐藤yuupopicさんがたりない。まーろっくさんがたりない。(佐藤yuupopicさんが大賞を取らず殿堂入りもしていないのは我々発起の不見識であり、過ちは改めるにしかず)
 詩は表現ではないという言葉から現代詩の言語遊戯化、内閉化が加速されたのだが、その手の連中については、その抽象画気取りのぬたくりものは何だと大昔にヘッセ大先生がお怒りであり、お前らハイデガーぐらい読んでから出直してこいと説教せねばならず、発起当初から文学極道は、空虚であろうが生が充溢していようが「世界性」という言葉を理念としている。この理念は現代日本最大の詩人・文人、コントラさんの一群の詩行と評論によってモダニズムの立場を鮮明にすることにより強化された。文学極道の理念を知らない者は、速やかにコントラさんとケムリさんなどの一群のコラムを精読するように。
 完全失業率5.7パーセント(完全失業率というのは職安で仕事を探している人間だけを数えており、諦めて路上で寝ている者や、求人雑誌で仕事を探している者は含まれていない。よって、実際の失業率ははるかに大きい)。毎年3万人が失業苦で自殺し、やる気のない政府が数を把握していない何10万、或いは何100万の失業者が路上で寝ているこの国で、ポストモダンなど糞喰らえである。
 文学極道では当初から自意識ポエム、リスカポエムなど論外であった。ガキに創造大賞がとれるような甘い世界ではない。だがこれは、「私」について書くということを否定するものでは全くない。それどころか「私」のいない文学などゴミだと言っておく。無意味無内容な言語遊戯は存在論的に最低の言語冒涜怠落態であり(小笠原鳥類などと一条さんの決定的な違いは、単なる空語の羅列と、腸がはみ出るほどの強度を持った虚無との鮮烈な立会である)、リスカ系や現代詩手帳の読んでも何も感じない身辺雑記と、現代性を担った文学の違いは、語り手がもつ生の強度、そして視線の違いである。本物の現代詩人は「私」について「私」の主観でのみ書くのではなく、「私のいる世界」、「私たちのいる世界」を描く。動画映像に負けない筆力で臨場感を演出するのが文筆家の腕の見せ所である。

 友人との電話を想起してみよう。携帯電話から伝わってくるのは紙に記せる相手と私の語りだけではない。相手の発話からは、相手の情態性、気分、その人の人となりが口調や息遣いから語らずとも伝わってくる。そして、語りの背後には、その人のいる世界がある。電話の相手は遠い大都市の一隅にぽっかりと空いた空き地、夜の公園におり、相手の息遣い、背後で鳴く牛蛙たちのコーラス、池の側の小道を行くその人のサンダルがサクサクと道を踏みしめる音。そこはBONES制作『Darker Than Black』のヘブンズゲート、あるいはタルコフスキー監督『ストーカー』のゾーンであり、その人が踏みしめている道には、流失したゲート内物質がほの青く光る水晶の結晶のような夜花を割きほころばせている。影絵芝居の大都市の一隅から見上げる空に星はない。
 器用ではない人たちの会話は時々風の音になる。キミハ其処ニイルノカ? 池には銀色の観測霊が佇み、私に電撃の指南をしようとしている。ワタシハ何処にイルノカ。
 禁止空間であるゾーンには様々な憶測、風聞が立っている。ゾーンの核心部に行けば、その人の本当の願いがかなうのだと。自分が本当に何を願っているのか理解している者がいるだろうか。唯一の本当の願い。タルコフスキー監督の映画には、放射線障害で手足のない身体に生まれたゾーン帰りの男の娘が、手を使わないでテーブル上のコップを動かすシーンがある。人の唯一の本当の願い、それは解らない。ただ、祈りが描かれていたのであろうと思う。

(電話の相手には、すまないとしか言いようがない。すまないという権利すらない。ごめんね。リトルグッバイ
 ただ、風が吹いていた。今も耳の奥に牛蛙の鳴き声と風の音が残っている)

 夕方/赤光を浴びながらバイクを飛ばし/禁止空間西部地区へと向かった/琴似発寒川の堤防を/繁茂する川柳を縫って駆け上がる/川柳の枝には黄金色の茸が群生している/放射能を蓄えた/(湯がいて鰹節と醤油で食べると美味い茸だ) /堤防の斜面を使い/スターウエイトゥーヘブン/一気に鉄馬は分離壁と鉄条網を乗り越える//着地地点でパワースライドする黒馬を御すと/河原にらせん状の狼煙が上がる/遥かな遠方で/観測者が深紅の旗を揚げる/何者かが素粒子論的な合図を受け取ったのを確認した私は/核分裂の焦熱で溶融した滑床の川を渡り/反対斜面を太陽に向かって一気にジャンプする//

 札幌原爆射爆場のクレーターの上に立ち/夕日を仰ぎ見る/今日の太陽はやけに巨大だ/
「プーティーウィッツ」小鳥が鳴く/私を呼んでいるのかい? 
 あの真っ赤なトンネルの向こうには何があるんだ? 
 えいえんの安らぎか/地獄の劫火か/俺が知るわけないだろう//
 この世のものとも思えぬ異様な花々が咲き乱れる斜面を一気に駆け下り(月下美人は/星々が 天涯に映し出されるのを待ち/白い蕾をかしげている)/ 一息ついていると/叫び声が聞こえるのでもと来た方を見上げると/クレーターの縁に廃棄された巨大な錆色の旧ソ連邦製のクレーンの上に/レオナルドダビンチ発案の飛行装置を背負った男が両手を広げて立っている//
「主よ/主よ/何故に我を見捨てたまいし/えいえんを求すえいえんの旅に/私はもう疲れ果ててしまいました/どうか御許にお迎えください」
 周囲に集まった数人の男たちが彼の馬鹿げた振る舞いを止めようとしていたが/夕日を浴びて金色に輝く彼の姿を見て/止める理由など何も無いのだと私は理解した/
 きびすを返し/爆心地へと向かう/彼は翼をはためかせ/真紅の柘榴石が眼球の内で溶け出した巨大な球体の向こう側で/はたしてえいえんに触れることが出来ただろうか?   
 しばし歩いて振り返ると/西の空にはクレーンの影だけがあり/彼らの姿はもう見えない/沈んだ日の名残で空は赤く燃えていた//積雲の輪郭が/黄金色の逆光の中で化石している/ /
  *
 再び佳子が僕に語りかけてくる/
「えいえんってなに? どんなえいえん?」

 さあな

 文学極道はヘブンズゲートであり、或いはゾーンである。一旦フラットになった巨大な情報の地平、即ち世界に屹立せよ、明暗と遠近法の立て組みを、人間と原爆投擲者の立て組みを、圧倒的な筆力で、赫奕たる異端、文学極道、再-創造せよ。


2008アフロものに告ぐ(書籍より転載)

 ダーザイン

窪君の文章を借りて(パクって)、罵倒文を上げておきます。以下激しい罵倒になってしまうが、ただ最初に一言言っておきますが、たくさんの優れた小説や詩を読むのは、天才の事情は知らんが、俺のような凡人には効果があったと思うよ。

(冒頭に云っておくが、この文章を不快におもう人はアフロだ。なぜならこれから書く事は、ある人達にとっては、はっきり云って、ちょんまげを結ってチューリップボトムをはいているような時代錯誤な薄ら馬鹿さ加減を指摘しているものだからだ)

 さて、反革命の連中に告げる。本当のことを云うと、俺は「詩」を読んで「詩」を書いている奴は腐敗した生ゴミのようなやからだと思う。「詩」は大抵の場合、「人様に読んでいただく」という発想の無い自己満足な小難しいたわごとであり、或いは「つまらない身辺雑記」である。Hな人賞、現代○手帖賞、はっきり申し上げて、そんな物、ものすごく少数の身内以外、誰も読んでいませんから。以下に述べるように、現代性をまったく欠如している現代○手帖は「旧人類手帖」とかに改名しないと名称詐称に当たって法的に拙いんじゃないのかな。心配だよ、笑い。全国詩人名鑑だか名簿だかも詐称に当たるのじゃないのかな、俺の名前も、創造大賞受賞者の名前すらも無い。寝言は寝て言えという感じだ。
 歌謡曲の歌詞レベルの文学体験しかもたずに、糞みたいなポエムを貼り付けていく奴は確かに困り者だが、今は古代ギリシャ時代でも平安時代でもないんだ。文学芸術も映像芸術メディアに収斂されようとしているし、歌詞も含めて言葉ジャンルからの影響を露骨に出している人間は、俺ははっきり言ってパクリ扱いで良いと思う。詩を書く者が文章修行に詩を読むというのはもっとも安直で怠惰で前時代的なやりくちだ。だいたいお前ら、産まれた時からテレビがあっただろう。情報は第一義的にテキストとして入ってくるのではなくて、映像として入ってくる。ならば、文筆も映像的でなければ現代的だとはいえない。昔の詩人さんたちとは違うんだよ。俺も、エヴァとネットの出現以降、先ずはアスキーとして詩を読んでいる。例えば文学極道の採点でも、画像として視界に入ったとたんにその詩の良し悪しを判断できる。無論、その後一字一句ちゃんと読むのだがね、最初のアスキーが視界に入った瞬間の印象に間違いがあったことはめったにない。
 こういう体験を始めてしたのは、ネットで良い詩を探し始めて、animicaさんという人の詩を読んだときだが、(『夜明けの崖』「雷なり晴天なり」とかお勧め)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6565/
 作品が視界に入ったとたんに、読まないでも、ああこの人は存在論的な天才だなということがわかった。animicaさんの筆からは、「世界」が自ら語りだす。「自然」という言葉の字義通り、森が、水が、光が、そして、天と地の間にいる人が、生と死の狭間にあって、自らの存在の光芒を水と、森と、「世界」の中に放つのだ。それが、animicaさんの詩の世界だ。ハイデガーが存命であったならば興奮するような大詩人である。他に、こういう存在論的に本来的な詩人に、加藤紗知子さんがいる。
 奇妙な体験だと当初は思ったが、視覚の現象学的に、現代人にとってはいたってあたりまえの事柄なのだろう。

 そして私に文学極道を発起する意思を抱かせた宣者、圧倒的な写実力による現象学的ハードボイルド文体で、此処と異界を混融させる、越境の魔術師にして新世紀詩文学の預言者、荒野に呼ばうる者・「実存大賞」ツータイムチャンピオン・光冨郁也氏、私と志を同じくする詩人・そして、完璧な鉱物質の美と絹目のように美しいやわらかさを同時に描ききる、マンディアルグやジュリアン・グラックにひけをとらない作家・榊際氏、文学極道発起後、本格的に現象学派詩とでも言うべき物を創造して言語芸術の世界性を宣言し、「現代」を描ききる文学史的な英傑・第2回「創造大賞」受賞者・コントラ氏、リルケよりも奥深く潜りつつ、現象学の地平の最深奥を探求する・第3回「創造大賞」受賞者・宮下倉庫氏、実存の強度で日常をエクソダスするイマジネーションの炸裂を継続的に示し続ける偉業を果たした・第1回「創造大賞」受賞者・ケムリ氏、実存の作劇法の圧倒的な力を示した・佐藤yuupopicさん、天使の羽が触れてくれたような僥倖を与えてくれる、凡庸には絶対に思い至らない美しい言葉を紡ぐ・軽谷佑子さん、ネオリベ施政の下の現代人の暗澹たる実存を先見的に描いた文学史的な大傑作「カンチャンリルダの夜」で読者の魂を震撼させた・まーろっく氏、どうして、こんなに暖かい肌触りのような感触にまで肉薄できるのかと驚愕する、もう一人の現象学派の勇・「創造大賞」ツータイムチャンピオン・りす氏、読者を震えさせる完璧な実存の切れ味と文章の流麗さを演出した・第1回「実存大賞」受賞者にして、最優秀レッサー4年連続受賞の圧倒的な評者・ミドリ氏、文学の到達点・アンチロマンの地平を越えて、自らの名前を冠した「一条様式」とでもいうべきループとグルーブの新地平を開いた、神が筆に宿った男・天才的大詩人・一条氏、煌びやかな神秘と虚無の魔術師にして、生の強度の覇者・第4回「創造大賞」受賞者・黒沢氏、、、
 現代詩の王者とも言うべき綺羅星のような詩人たちが次々と文学極道というメディアに顕れる。名前を上げていくときりがないので、これで控えるが。

 文学極道という、唯一の客観評価にさらされる地平に出てこない、臆病者と無知な者しかいない旧メディアの中で、大手を振って「現場の詩人」とか言っているやからは、もっとも低レベルでマイナーな連中なんじゃないのかな。「現場」ってのがどこの権力装置だか知らんが、お前らの詩なんか、文学極道に出て来たら入選できない場合が多いと思うぞ。
 わけのわからない戯言を書いて、わからないのを読者のせいにするような糞は全員アフロだ。斬新な表現も、ちゃんと読者に何某かの印象が伝わるように書くのが文筆家の筆力だ。
 詩のボクシングとかで下手なお笑い芸人の真似事をしている奴らも全員アフロだ。お前らはヘボ芸人で文人じゃない(うにまるさんなどの、テキストとしても上等な一部の人を除く)。

 俺がそう信じるに至るには、幾つかの映画やアニメや漫画を見るだけでじゅうぶんだった。無論、ワイヤードメディアでも活字メディアでも様々な「詩」に触れ、更に膨大な小説を読んできた。言葉のデッサン力はやはり偉大な筆力を持つ小説家(糞溜めJ文学・日記小説じゃない)の偉業の数々を読んできたことから身に付いた部分が大きいだろうが、ずっと現代性を体現してきた映画や、今日本で現代性の先端を担っている傑作漫画やアニメに拮抗して、己の文学の言葉でも現代性を担おうとするのならば、映像を言語化する筆力を獲得せねばお話にならないんだ。もう現代性を担っていない、イマジネーション禁止の日記小説=純文学や活字詩雑誌の老害たちの身辺雑記詩なんて読んでいても足しにならんよ。芥川賞や中也賞よりも、漫画誌アフタヌーンの四季賞の方が本来的に芸術的・文学的だ。つーか、芥○賞とか中○賞とかってゴミ溜めの様相を呈していることが多いじゃないか。イマジネーションの欠片もないサラリーマンやガキのつまらない日記のようなものを文学と呼ぶのはやめてもらいたい。
 「詩」を読んで満足している人は、果たしてそういう発見をしてきただろうか? 少なくとも、ありきたりの身辺雑記詩や、身内以外誰も読まない現代詩の中にそれを見てきたと云える人はどれだけいるだろう?

 まさしく、この日本で、ごく普通に学校教育を受け、友達や、同年代の人達が夢中になるような音楽や、マンガや、映画に「新しい芸術表現」のありようを見つけずに、過去の遺物としか言いようのないジジイどもの糞みたいな詩を読んで、そのジジイに媚びへつらって詩の書き方を習うような屑は予め時代錯誤なので全員頭髪をアフロにしろ。そう云う人は、文学史や古文書の研究家にでもなれば良い。生き残っているアフロは皆糞みたいな日記としか言いようがない最低のポエムを書いている。こういう奴らが詩人の見本としてメディアに出たり、偉そうに発言したりするのだから嫌悪感をもよおして吐き気がするわけだ。断じて言うが、あんな奴らは現代詩人じゃない。詩人だと名乗って欲しくすらない。その存在が権威であるのなら、その存在そのものが害悪で邪魔なので可及的速やかに隠居してまともなものを書く詩人に席を譲って欲しい。そんな所で権威のおこぼれに預かろうとする奴らも全員アフロだ。

 ある老人が、「今の若い書き手には、詩の歴史そのものがない」と憤慨している。また、ある老人は、「読んでいない、アンヒストリッシュな動物だ」と憤慨している。その老人たちへの応えはこうだ。あなた方の詩は読むに値しない、だから読まれないのだ。これだけだ。若い連中をとやかく言う前に、自分自身が、詩が読まれなくなった元凶の一人であるということを自覚して、速やかに隠居し、創造している若いのに席を譲って欲しい。あいつらは、現代日本詩壇の最高峰、文学極道創造大賞受賞者の詩すら読んでいないのだから。

 老人の話は、こちらではエヴァンゲリオンやlainの話をしているのに、サザエさんや鉄腕アトムの話をしているようなもので、実際その程度の認識しかないだろう、現代芸術についてこの人たちは。何万人もの失業者が路頭に迷い、公園で寝たり、自殺していくこの国を作った連中だ。奴らは高額な年金を貰って、のんきに下らない身辺雑記としか言いようのない詩を手帖あたりに貼り付けながら、権威を気取っている。おい、言語派とやら、そこにあるのは、ガラクタと反革命のヒエラルキーだ。

 だがすでに、ワイヤード詩壇は文学極道において弁証法的に堅固なステージに成熟している。旧商業活字メディアが無料のネット上のメディアが成熟している状況を認める訳には行かないと思うのだとしたら、実に肝っ玉の小さい話しで、商業としての発展の才覚も予見も何も無いといえる。歴史の存在論的行運の為に文学極道は生まれたのだ。歴史認識の欠如した旧メディア活字同人内輪でやっている連中は、歴史の巨大な流れの中で、アウフヘーベンされるどころか、廃棄される。ワイヤードに於いて、情報はシェアされなければ存在しないが、前述の老人のような人たちのデータはシェアされない。即ち、その旧メディアの老人は歴史の中に存在しない。Googlで検索しても、老人たちの詩はほとんど読めない。買わなきゃ読めない。みみっちいのか、馬鹿なのか知らないが、この情報社会でシェアされていないということだ。
 その、ワイヤードという新しいリアルの中に存在しない者が、創造大賞受賞者の詩も、A 道化さんも、animicaさんも読んでいないような人が、現代詩を語る。資格のない者が権威としての立ち位置に居座り続けて現代詩について語る。そのような場所・媒体そのものが、もうシェアされておらず、存在しないも同然だと言うことができる。原稿を依頼する相手を間違えている。俺に聞け。
 胸糞悪く馬鹿馬鹿しい話だ。旧メディアのみを見て、プチ権威の正史とやらを押し付ける。俺たちが正史だ、俺たちの詩を読めと。そういうことを言う老人たち自身が、その正史とやらそのものが、詩が読まれなくなった元凶だという事を自覚できないでいるのだから、実に滑稽で無様だといえる。
 上述した老人は、2005年にも、現代詩は二〇年停滞していると語っているが、停滞しているのは老人御自身と、旧メディアだけであり、文学極道は停滞などしておりません。
 荒地派の後に詩人がいない、詩というジャンルが消滅した、そんなことは、今、旧メディアを仕切っている糞みたいな詩を書いてきた老害たちの責任であって、俺のせいでもネットのせいでもない。腐りきっていて、もう、再生の余地はまったくない。何もしなくても、御年寄りが天寿を全うしていくに従って旧メディアは消滅する。一昨年発表された統計によると、六歳以上の日本人の六十三パーセントがネットに接続している。接続していない人たちのほとんどは、時代から取り残されたお年寄りだろう。淘汰の速度を速めるためには、徹底的な不買運動、読まない、買わない、無視する、という手が筋だが、連中のレールに乗るのは多少不快なことではあるが、こちらから鮮烈な物をバンバン投じてやって、ダメな者を相対的に駆逐できないか試みるという手もある。極道の力のある者もどしどし活字詩誌に哀れを垂れると良いし、俺自身も紙にしてみるつもりだ。だが、旧メディアは、いつまでも、老害たちを特別扱いし続けるのだろう。消え行く権力というものはそういうものだ。実に時代錯誤で滑稽極まりない非本来的なありようだ。
 そして一方、文学極道などネットでは、老害たちのちんけな歴史などとは無関係に人に読まれる詩が創造されている。偉大な文学極道の大砲(戦艦ビスマルクの主砲)一条さんは大変な本読みだが、糞みたいな詩人の本などほとんど読んだことがなかったそうだ。俺も現代日本活字詩人なんて、よほど気に入っている人以外、もうわざわざ金払って読まない。読む必要がない。だって、望月遊馬さんや最果タヒさんや杉本真維子さんや小木曽淑子さんや伊藤浩子さん光冨郁也さんなどの一部を除いてほとんど糞ばかりだ。ネットで無料で読める詩人の方に良いものが一杯あるのだから。ガラパゴス鳥類などといった屑はもはや言語冒涜者だとしか言いようがなく、文学極道の罵倒用語で言うところの「ゴミの山」。

 生誕と呼ばれる放擲を発端に演じられる一幕の劇の演じられる場所、即ち、本質的に分裂したものである自我(この分裂が存在論的差異の現われ出る場所、現存在だ。)は、消尽点へと至る間を歩む歳月を言語化することによって自らの生を現に在らしめるわけだが、ある種の者たちはエンペドクレス宜しく存在論的分裂の超克という不可能な試み、不遜な挑戦へと投じられている。不可能事への挑戦である以上、必然的にルサンチマンという情態性の色彩を帯びることとなるこのゲームの消極的な規則が予めの敗北であれば、積極的な規則は言語を生きるということだ。これによってルサンチマンを超克せんとするのである。
 言語を紡ぐ(詩のようなものを書く)ということは、存在論的差異を生きるということと同義だ。エンペドクレスは失われた存在の全体性の回復を求めてエトナ火山の火口に飛び込んだ。パウル・ツェランは詩の言葉によって存在の灼熱の火口に飛び込んだ。存在に何らかの聖性を付与しようとして腐敗していくロマン主義の肉体を焼き尽くし、美しい白い骨片を残すのだ。存在とは空白であり、虚無の顕現であり、来るべき書物には何も記されていないとモーリス・ブランショだかバタイユだかが語っていたね。
 だが、オナニストである孤独な文人はあえてロマン主義の死臭を手放さない。存在はその無の顔を持って現われ出るという否定神学の物語を生きることを選ぶ。自己に纏わるあらゆる狭雑な観念を廃棄し透明になっていく(これは現にここに在る生活者の道ではなく、廃人への道だ)道ではなく、絶えず失われ続けるロマン主義の腐臭そのものを意図的に生きること。
 いつか、豊穣な生の源、新たなる生の哲学の幻影が、遠い海の呼び声のように触れてくるのを妨げないために、白い骨ではなく、腐敗した有機物と共にあることを選ぶんだろう、きっと。

 ベルリンの壁という世界の中心にあった巨大な壁がなくなり、己を映し出す鏡を失った現代、自己拡散し虚無に触れる恐怖と向き合うことを余儀なくされた人類にとって、万人の万人に対する闘争の混沌から自己を再組織するためには、核による世界戦争の幻影こそが最大の安らぎにして、且つ、新しい人類の夜明けを予感させるものであったのだが、鏡を失った自我は、世界戦争の替わりに、引き篭もってニートになることを選んだ。そもそも意識とは分裂であり、存在論的差異、存在論的放擲がアプリオリな事態である以上、分裂を超克し、存在の全体性を回復せんとする根源的欲求に突き動かされるのは、ヘルダーリンやマイスター・エックハルトを待つまでもなく、必然にして人類進化の正当な道筋である。が、現在核が米帝による奇妙な独占によって隠蔽されているのは何たることか。存在に聴従せよ。 無が触れてくるのが解るか? 存在の光り輝く無のおもてとまみえる僥倖に与るのだ、すべての存在者を一個の全体へと回帰させるのだ!?
 要するにキチガイ沙汰だが、エヴァンゲリオンだ。綾波レイたんハァハァ

 始めと終りは輪になって繋がっている。歴史が砂の海の中に消えていったように、わたしも、存在しない子宮の幻影の中に後ず去って行く。えいえんの哄笑だけが空虚な空間に残る。終着の浜辺。原子力発電所の廃墟が蜃気楼のように遠く対岸の岸辺に浮かんでいる。

 俺は今宵も偉大なる旧ソ連邦国歌を聞きながら焼酎を飲んで寝る。生をつないでいくには大きな幻影が必要なんだ。笑い。
 バリケードの中で一瞬垣間見られたであろうえいえん。内ゲバと総括の向こうにあったはずのえいえん。或いは人類史上最大の市民蜂起、クロンショタット反乱や、ワルシャワ蜂起の地下水道の果てに見えた、遠く微かな光の中に。
 今年のモスクワは異常な寒気に覆われていて、マイナス四十八℃とか叩き出したそうな。大勢凍死者が出たモヨリ。二〇世紀という人間精神の壮大な実験場にあって、ふたつの全体主義、ヒトラーのドイツと赤色ロシアはとりわけ異彩を放っていた。(両者の出会いはもっぱら地政学的なものであったようだが)国家であれ、社会であれ、個人を止揚して開かれる新たな地平とはどのような顛倒であろう。

 1938年十二月、第4インターナショナル結成の会合において、シモーヌ・ベイユはトロッキーと対決し、痛烈な言葉を吐いている。
「あなたは観念論的だ。隷属させられている階級を支配階級と呼んでいるのだから」と。プロレタリア革命の達成とは、国家機関の解体、社会の個人に対する従属でなければならないと。一私企業に過ぎない現代○手帖権威も解体されねばならない。
 トロッキーは「反動的な個人主義」だと答えている。どちらが反動であったのかは歴史を見れば明らかだが、にしても、本当のゼロ地点、個人が勝利する永遠のゼロ地点はどこにあるのかね。永遠に問われ続けていくのだろうか。
 ワイヤード(ネット空間)の出現は、人類史的な大転換点であった。出会うことのありえなかった人と人を結び、世界を結び合わせる電話線という一本の糸。この糸が新たな世界性を孕み、世界を変容させたのだ。ワイヤードの出現は、現実という物そのものを変容させた。旧世紀の古典的なリアルはワイヤードの出現によって消滅した(隠蔽された)。人はワイヤードに自身を容易にメタファライズして、その新しい世界に遍在するようになった。
 共産主義という永遠の過程も、ワイヤードの出現によって、再発見されるであろうと思う。例えばP2P。
 俺たちワ×ズ世代の妄想は生まれつきだ、笑い。自らの手で、己の作品をP2Pに放流するくらいの気概がないと、作品を読んではもらえない。ろくに本屋に並べる力もない糞みたいな出版社から、100万も、150万も払って、たったの500部発行して、いったい誰が読んでくれるのかね? 何故、ネットという、可能態ではあれ、無限の読者がいる場所を使わないのですか、愚かなことです。作品は、読まれなければ、存在し無いも同然なのですよ。

「ワイヤードの情報はシェアされなければならない」
「ワイヤードには神様がいるのよ」
 by「serial experiments lain」
 岩倉玲音たんハァハァ
 レインは新世紀の神様だっただろうか、孤独な天使だろうか。

(現在、メディア文学極道の一日平均アクセスは一万を超えています)

 詩を読んでいれば詩を書ける、などと思っている人は明らかに文学芸術を馬鹿にしている。現代性を持った文学はそんな簡単なものでなど有り得ないのだ。タルコフスキーは見たのか? アンゲロプロスは見たのか? ベンダースは? ワイダは? ヘルツォークは? キエロスタミは? エリセは? クローネンバーグは? 佐々木昭一郎は? 原爆投下は? ベトナムへのダイオキシン散布は? アラブへの劣化ウラン弾は? 今、日本というこの国で、何万もの失業者が路上で寝ている現実は!?
 漫画家、遠藤浩輝の「カラスと少女とヤクザ」を読んで、こんな小説が書けたら! と、魂が震えるほどの感動を味わいつつも、なんで俺が書いたんじゃないんだと、悔し涙を流さなかったのか?
 漫画家、弐瓶勉の「BLAME!」を読んで、こんな詩が書けたら、、、書けるわけねえ! と、敗北感を味わいながらも挑戦してきた経験はないのか?
 そもそもお前が現代人であるのならば、新世紀の聖典である「serial experiments lain」や「TEXHNOLYZE」は見たのか?
 アルジャジーラからフォックスやワイヤードニュースまで、メディアはまんべんなく見ろよ。

 無学な者は、のこのこ出てくんな、にやにや。
アフロ者よ、世界の中に出てこいよ、手帖とかの内閉現代詩に引き篭もっていても、人生から得るものは何も無いぞ。神経衰弱やお年よりは大目に見てやるが、ニートはぶん殴って、叩き起こすからな、コラ!


[2008]

 コントラ

秋葉原の凶悪事件のあと、事件を起こした青年が「彼女ができない」ことを異常なまでに気にしていたということが明らかになった。社会学者の宮台真司によれば、女性にモテるかモテないか、という問題がひとつのパラメーターとして若い男性の気分を囲い始めたのは、1980年以降、彼の言う「郊外化」という現象が日本全土を覆いだした以降だという。日本全国、たとえば川越であれ米子であれ八戸であれ、郊外的景観はどこもファミレスの駐車場や規格化され造成地のような「第4空間」に侵食され、そこで人々は、人口甘味料が引き起こす依存症のように、光に満ちた部屋で「生」に関する福音を待ち続ける。宮台の言う、若者を差異化するメカニズムとしての、「コミュニケーション・スキル」という言葉は、この文脈において生物学的・突然変異的な意味を帯びてくる。歴史に根ざした文化規範やオーガニックな共同体性が破壊された2000年代の東京は、都市熱がビニールハウスの内部のごとく充満し、ほんらいは永続不活性の病原菌さえも、一触即発の惨事に簡単に持ち込んでしまう、そんな状況とも言えるかもしれない。

詩や文章を書くことは、究極的にはモノローグではなくダイアローグある。またジャック・デリダを持ち出すまでもなく、文章はつねにインターテクストであり、そこには無数の言葉と意味の「痕跡」が非現前的に現前している。文学極道に投稿される詩が、ワイヤードの内外を問わず、どのように読解・誤読されており、どのような文脈に接続され得るのか。これはきわめて真っ当な疑問である。しかしそのような形而上学的な問い以上に逼迫しているのは、上で描いたような、コミュニケーションの信憑性が破壊された被災地のような場所に、われわれは生きているという認識ではないだろうか。たとえば、美術批評家の椹木野衣は、戦後の日本が形作られてきた形跡を第二次世界大戦時のアメリカ軍による主要都市の空爆にまで遡行しつつ、戦後の日本を「悪い場所」として規定する。椹木によれば、アメリカによる日本本土の物理的破壊によって生じ、冷戦構造下で透明化されてきた歴史的空白は、そのまっさらな表層下に腐食しつづける歴史的トラウマ、つまり「グチャグチャ」な想像を覆い隠してきた。そして、その部分的な表出が、90年代以降、村上隆や会田誠といった美術家が作品に流用してきた「美少女」フィギュアなどのあからさまな「奇形」性だというわけである。

ポップ・アートは不気味である。アメリカ美術におけるポップは1960年代に脚光を浴びたが、ある美術史家は、クレス・オルデンバーグ(米)の、ザ・ストア(1961)という作品にその大きな転換点を見出している。そこで生じたのはそれまでのダダイスト的意匠である、汚さやノイズの徹底的な排除であり、美術作品の殺菌・清潔化であった。当然のことながら、ポップは消費文化の反映なわけだが、それ以上に身体的実存としての人間の不可視化という問題をはらんでいる。別の言葉で言えば、そこでは暴力は肉体的衝撃というわかりやすい形態をとらず、表層下で進行する―ゆえに抵抗もできない―プロセスとなる。この事実は、1960年代のジェームズ・ローゼンクイスト(米)によるF-111という巨大なパネル作品に分かり易く表現されている。ほんらいF-111 は、アメリカ軍のベトナムへの介入に対するプロテストという文脈で制作された作品である。しかしながら今日日本という場からこの作品と対峙するとき、そこで目を引くのは、広島・長崎のキノコ雲と、合成着色料で輝くオレンジに塗られたスパゲティ缶の中身との並置である。ローゼンクイストの作品は、1960年代にはすでに明らかになりつつあった、「暴力」の変容を視覚化している。広島・長崎の長期にわたった放射線被害も、工場製食品による健康被害も、水面下で進行していくのであり、それは通常の心理的反応では処理できない領域で、人体を蝕んでいくのである。

京浜工業地帯にほど近い住宅地で育った僕にとって、光化学スモッグだとか、有機水銀だとかの「恐ろしい」化学物質はつねに、身近な存在だった。それが環境を冒すのみではなく、食べるものや触れるものを通じて自分の身体を侵犯していくような、漠然とした不安を、長いあいだ僕は感じていた。そのころ、 1980年代の後半だったが、新しく改築された鉄筋の小学校で、僕は、道徳の時間に「ヒロシマ」の惨禍について習い、教科書ではサダコのことについて習った。広島生まれの「サダコ」こと佐々木貞子は、2歳のときに爆心地から2キロ弱の自宅で被爆したが、それ以降、体の不調を訴えることもなく、健康で元気な女の子として育った。ところが10歳のとき首のまわりにシコリができはじめ、やがて被爆による白血病と診断される。彼女は病気の回復を願い、いつか 1000羽に達したときに病気から回復すると信じて折り鶴を折りつづけるが、やがて11年の短い生涯を終える。健康で、しかも自分と同じ年頃の少女が突然の病に倒れ、それはどうやら彼女の身体を長年蝕んできた、放射能という科学物質が原因らしい、というとことは、おそらく僕は理解していた。しかし、その放射能というモノが一体どこからやってきて、「なぜ」彼女は突然死ななければならなかったのか。その答えは宙吊りになり、このことは数年のあいだ、僕のなかで不気味な存在感を放っていた気がする。

写真家、土門拳のもっともよく知られた作品である写真集「ヒロシマ」にはこのような新たな暴力の形状がなまなましく写し取られている。「ヒロシマ」(1958年)は、戦後10年以上たった時点での、広島の被爆者の現状を明るみに出した最初の写真集であり、収録された写真のうち、その半分くらいは広島原爆病院が舞台である。つまり、入院している「患者」としての被爆者の生活を取材したものであり、その合間合間に、彼らの家や家庭でのシーンが差しはさまれる構成になっている。「ヒロシマ」においては、病院と日常世界の対比は、土門が意図したかどうかに関わらず、そのまま「原爆後」と「原爆以前」の対比につらなっている。つまり病院の白いベッドで包帯を巻かれたり点滴を打たれたりするのは、原爆投下後に発生した新しい現実であり、ちゃぶ台や箪笥にかこまれた木造家屋のなかで、畳の上で生活するのは、戦前、戦中から続く日常風景の断片である。病院の無機質な白い壁と、貧困のなかで傷んだ畳。土門の作品は、原爆という科学的攻撃によって生じた一種の病理学的現実を過去の風景とのコントラストに投げ入れ、1945年を境にした時間性の分裂をなまなましく読者につきつけてくる。

それにしても、「ヒロシマ」が、アメリカ政府によって設立されたABCC(原爆被害調査委員会)が被爆者の遺体の解剖をデータ収集を理由に一手に引き受けているという、原爆のあからさまな「科学実験」としての意図を明るみに出している反面、土門や他の作家によるエッセイでは、これら水面下で進行する暴力を、科学の進歩やそれに伴う人間存在の疎外といった形而上学的理解に還元しており、ここに決定的な視点の甘さを感じる。なぜなら、それでは佐々木禎子の死の意味が、もっとも切実なレベルで理解できないからである。原爆は歴史的、文明的な文化観の問題である。原爆が落とされたのは科学の進歩のせいでも、その進歩が人間に手が負えないほど膨れ上がったせいでもなく、また人類にとりついた悪魔の過ちのせいでもない。それはただ一重に、1945年時点におけるアメリカ合衆国政府の政治的な決定のためにほかならない。

小林よしのりの「戦争論」は、日本の人文科学系メディアのなかでは時代錯誤のナショナリズムとして非難される傾向にあるが、時代錯誤なのは多くの場合、非難している論者のほうである。ここで読むのをやめないで欲しいのだが、たとえば、特攻隊で死んでいった若者たちへの賛美や、日本的なあり方への回帰という主張。どんなものであれ、なぜわれわれは異端な見方や意見が出てきたときに、それを躍起になって排除しようとするのだろうか。なぜ、それを受け止め、内包しつつ拮抗するという、弁証法的思考に真摯な努力をささげようとしないのだろうか。おそらくそれは、論理的思考ができないというよりは、自らの立ち位置が根本的刷新を迫られることの潜在的な恐れであり、保身主義のせいにほかならない。

言うまでもなく、歴史的に見て極端な立場決定は、つねに戦略的でありえてきたし、これからもありうる。ヘーゲルを持ち出すまでもなく、このままでは「出る杭は打たれる」という昔のやり口からまったく進歩がない。真の問題は小林の「危険さ」ではなく、彼を非難する論者のヒステリーが正当に見えてしまう、日本の学問や芸術の現状である。ビニールハウス文学・芸術の内部から出たがらない学者たちは、彼らが言うところの「ポストコロニアル」であり「ポストモダン」である現在、グローバルな局面において、そして日本という「悪い場所」に立ちつつ、立場決定+発信を遂行していくことの困難さについて再考して欲しい。そこでは「日本」という問題系を俯瞰し直すことは避けられないはずである。

文学極道は、ワイヤードという深い闇のなかのほんの小さな発光に過ぎないかもしれしれないし、おそらくそうだと思う。しかし、僕らはこの場所をすでに共有しているのだし、ここから少しでも、何がしかの「芸術」を、想像されたものであれ、現実のものであれ、文極の標榜する「世界性」に向けて投げていくしかない。そう思ってこのコラムを書いてみた。


パレスチナ問題ダーザイン演説

 ダーザイン

http://mainichi.jp/select/world/news/20081229k0000m030070000c.html

 年末より行われている、このたびのイスラエルによる狂気のクリスマスプレゼント、ガザ空爆・大虐殺によるパレスチナ人死者が1月2日現在400人を超えました。負傷者は2000人を超えています。死者負傷者の多くは女子供を含む一般人です。四季ユートピアノ、ダーザイン(新世紀詩文学メディア「文学極道」代表発起)は、このような蛮行を断固として容認しない。 第3次インティファーダを、聖戦とかいう宗教がらみの問題として片付けては駄目だ。正義の問題である。実存文学徒として、四季ユートピアノは正義の旗を掲げ、第3次インティファーダを、何らかの形で支援し、自ら某かの具体的な行動を取らなければならない。
 皆も、義勇兵になって銃を取るとか、人間の盾として現地に渡るとか、インティファーダに参加して石を投げろとか、そういう、目には目をとか、危険なことは推奨できないが、言論と資金援助などで、パレスチナ人を僅かでも助けることは出来ると思う。
 具体的なことはこれから考え、実践していく。同士を求む。

「パレスチナ問題(悪の世界帝国アメリカと犯罪者国家イスラエル)」
(ダーザイン演説、2003.05.23時点。2009年現在、上記のように状況は悪化するのみ)

 パレスチナ自治区からの情報によると、ガザ南部の自治区ラファで21日午後、「人間の盾」としてイスラエル軍への非暴力抵抗運動を続けるパレスチナ支援団体「国際連帯運動」の英国人男性(24)がイスラエル兵に頭部を撃たれ脳死状態となった。男性は軍とパレスチナレジスタンスとの銃撃戦の中に取り残された子供を救助しようとしていたという。
 ラファでは先月16日にも「人間の盾」(イスラエル軍によるパレスチナ人の家屋の組織的破壊や殺人を阻止する運動)として活動していた同団体の米国人女性(23)がイスラエル軍のブルドーザーに轢き殺されたばかり。

http://poetry.rotten.com/jenin/
 イスラエルの行ったジェニン大虐殺の写真。凄惨です。心臓の悪い人は見ないで下さい。ジェニン大虐殺については、アメリカ、イスラエルの阻止によって、国連は裁くどころか調査もしませんでした。国連は最低です。

 米国での世論調査によると犯罪者国家イスラエルによりパレスチナ人が1948年以来侵略占領虐殺され続けているという事実を知っている国民は全体のわずか4〜5%だった。これはイスラエルと米国による執拗な情報操作と、有色人種や異教徒など人間の内には入らないという、連中の帝国主義そのものの体質によるもので消極的な無関心のせいなどではない。
 このたびの石油利権の奪取とイスラエル支援の為のイラク侵略を見ても解るように連中の情報操作と帝国主義犯罪者国家性にはすさまじいものがある。イラクの民間人虐殺など米国本土ではまったく報道されず、投石を持って反米デモを繰り広げる丸腰のイラク民衆に対しては繰り返し執拗に銃弾による虐殺で応じ、事実を報道しようとするアルジャジーラなどの報道機関に対しては支局の爆撃などで記者を直接殺傷することによって黙らせようとし、そしてこれらのことも米帝本土では国民に知らされない。
 パレスチナでイスラエルの戦車に対して投石や自爆攻撃で絶望的な戦いを挑むパレスチナ人も、石油利権とイスラエル支援のために国を蹂躙され家族を殺されたたイラク人の投石者も、かつてナチスがレジスタンスをテロリストと呼んだのと同じレトリックでテロリストと呼ばれる。米帝とイスラエルは「テロとの戦い」というレトリックを使うことにより連中の国家犯罪と虐げられた無力な民衆の絶望的なレジスタンスがあたかも同等のものででもあるかのように現実を歪曲し、シャロンと米帝によるアラブ人に対する虐殺や様々な屈辱的扱いを、かつて米帝が、社会変革の希望を抱いたニカラグアなど中米諸国の民衆に対する殺戮を容易なものとしたのと同じように、「奴らはテロリスト即ち悪」という捏造された閉域に押し込めて圧殺しようとしているのだ。

 日本においても、このレジスタンスとイスラエルや米帝の国家犯罪をテロという名のもとに同等のものと見なす報道がいつまでも続いている。イスラエルによるパレスチナ人虐殺は犯罪ではなくテロに対する報復だという愚劣なレトリックがそれだ。イスラエルの犯罪が犯罪として語られだしたのは日本においてもごくごく最近のことであり、わずか数年前にフジテレビのニュースキャスターが、イスラエルがレバノンでの大虐殺で戦争犯罪を訴追されている件について「まだイスラエルはそんな扱いを受けているんですか? それはひどいですね。」などとコメントしているのを見て激怒した記憶があるが、そんなことは日常茶飯だ。他局もいまだにパレスチナ人による絶望的な抵抗、自爆攻撃のみを報道し、毎日のように行われているイスラエルによるパレスチナ人虐殺は全くといっていいほど報道しない。日本人もマスコミによって洗脳されているのだ。
http://www.islamonline.net/English/News/2003-05/14/article12.shtml
このようにパレスチナ人は毎日のように大量虐殺され続けているというのに。
http://www.islamonline.net/English/News/2003-05/15/article04.shtml
5月14日の虐殺の詳細英文記事。殺された人のうち二人は12歳と17歳の子供です。イスラエル軍は負傷した12歳の少年を運ぼうとする救急車が病院にいくのを阻止し、少年は出血多量で死にました。5月5日の12人虐殺では幼児も殺されました。(イスラエルは、パレスチナ人の各ゲットー間の移動を、たとえ救急車であっても認めず、今回の件に限らずパレスチナ人を150箇所にも分断した狭いゲットーに閉じ込めつづけています)

 民主化というけれど、アメリカはパレスチナ人やイラク人など有色人種は人間だとは思っていない。そもそもが先住民であるインディアンを人口5000分の一になるまで虐殺して国を作った連中です。
 パレスチナ人を35年間侵略占領虐殺し続けるイスラエルへの国連の非難決議のことごとくを拒否権発動で否決させつづけ、9000億ドルものイスラエルへの資金援助でパレスチナ人を殺す為のアパッチヘリやF16戦闘機や戦車を購入させて虐殺を支援している。
 イスラエルが行ったレバノンでの2万人ものパレスチナ人、レバノン人を殺したジェニン大虐殺を知っていますか? これもアメリカの拒否権発動で国連は何もできなかった。
 毎日のように、(ナチスに虐殺されたユダヤ人のように)ゲットーに押しこめられたパレスチナ人が今も虐殺され続け、それらのことに対する国連の非難決議のことごとくをアメリカが拒否権発動してイスラエルの好きなようにさせている。
 アメリカが意に添わない政権ができたことでソマリアの貧乏国家の唯一の医薬品製造所まで爆撃し、おまけに欧州に圧力をかけて医療援助をさせないようにし、国民の生死に甚大な破壊的暴虐を与えたことを知っていますか? このソマリア爆撃は数100万人の市民を虐殺する結果になるといわれています。
 ニカラグアなど中米でも民主化を求めて国民が作った政府に対して親米的でないという理由でテログループを作って虐殺させ政府を転覆させました。ニカラグアは国連に訴えでたがアメリカの拒否権発動で国際社会は何もできなかった。ベトナム戦争しかり。こんなことは上げればきりがない。
 もちろんイラクのサダムフセインは消えるべき悪行をしてきた人間だ。クルド人や反体制派に対してしてきた振る舞いは許されない。だが、アメリカやイスラエルのシャロンに比べれば漫画のような子悪党だ。このたびのイラク戦争の終結後、イラク全土で反米デモが繰り広げられているが、それに対して米軍はイラク人が丸腰であるにも関らず繰り返し実弾で射撃し虐殺しているが国際社会はなんの非難も米国に対してしていない。米帝はあたかもイラク人がもろ手を上げて米軍を歓迎しているかのような自作自演のプロパガンダ画像を報道し、ここでも真実は歪曲され、隠蔽されようとしている。
http://www.informationclearinghouse.info/article2842.htm
注・この記事にあるようにフセイン像引き倒し映像は対米協力者を利用したヤラセでした。

 アメリカが戦争の大義名分とする民主主義というものはデマゴーグなんです。ブッシュの目的は自国の国益のみです。人殺しによって金儲けする軍需産業の振興、石油利権とアメリカ最大の圧力団体であるイスラエルロビーの意にかなう政策を強大な国力に任せてとることのみです。アメリカにとって民主主義とは自国とイスラエル、白人・属国にのみ適用されるもので、第3世界の民衆には上記のようなふるまいをしているんです。

 ところでアメリカでは広島長崎の原爆投下による歴史上類を見ない無差別大虐殺の被害の詳しい中身がいまだに一切報道されていないというとんでもない事実を知っていますか? 被爆者団体や広島市などが被曝による惨状の写真展などをアメリカで開こうとすると、未だに拒絶され実現しません。何度も言うがアメリカはそういう国です。他国にしてきた都合の悪いことはほとんど国民に知らされない。アメリカの民主主義とか自由とかは国内向けのものでしかないんです。それどころか、それすらも怪しいんです。このたびのイラク戦争ではアラブ系米国人は警察に身辺を調べ上げられ、反戦発言をしたアーチストはラジオ局やテレビ局からボイコットされて職を失い、アメリカでは 5000万人もの裕福ではない市民が健康保険にも入れないでいるんですよ。アメリカの社会保障はひどいものです。それなのに莫大な軍事費です。戦争、人殺しがアメリカ最大の産業ですから。
 また、米国防総省は、驚くほど全体主義的なプロジェクトに着手しようとしています。 個人の生活にかかわるありとあらゆる情報を収集し、索引を付け、検索可能にしようというのです。 個人のあらゆる行動を1つの巨大なデータベースに記録し、 送受信した電子メールから撮影した写真、閲覧したウェブページ、通話、視聴したテレビ番組、 読んだ雑誌に至るまで、とにかくすべての行動が含まれるそうです。
 アメリカの民主主義なんてそんなものです。

 アメリカが提案しているパレスチナ和平のロードマップはまったくの欺瞞で真のパレスチナ開放とは程遠いイスラエルの権益にばかり配慮したものだ。20001年以降に侵略したパレスチナの領土のみを返還させようとするもので、1948年に行われたパレスチナの国土の78%もの侵略、1967年にはさらに残った22%もの国土も占領しているわけだがそんなことは度外視で、ほんの鼻糞ほどのゲットーにこれからもパレスチナ人を閉じ込めつづけようとする、パレスチナにばかり譲歩と諦めを要求するものだ。
 だがパレスチナ自治政府のアッパス首相はこのまま民族浄化されるよりはましだということで、涙を飲んでこの案を受け入れた。

 侵略戦争を解決させるには先ず侵略者が侵略を止めることが正義という当たり前の観点から見れば道理であるが、パレスチナ側が先に抵抗をやめることがロードマップの第一条件になっている。呆れた話しです。イスラエル軍に侵略・虐殺され続けている状況で抵抗を止められるわけが無いでしょう。
 だがこんなイスラエル寄りの和平案でも実現する可能性ははなはだしく低い。パレスチナの警察など治安組織もイスラエル軍によって殲滅されており、自爆攻撃をする者を抑える治安組織は無いも同然だし、イスラエルの戦争犯罪人シャロン首相(シャロンは大虐殺でバーグの国際戦犯法廷に提訴されている。アメリカやイスラエルの圧力に法廷が屈しなければ死刑になるだろう。(後日注、アメリカの圧力に屈し、国際戦犯法廷は何もしませんでした。最低)は、こんな完全にイスラエル寄りの調停案すらも認めず、世界中に離散した何百万というパレスチナ人の帰還も、入植地(侵略占領地)の開放も拒否している。また、この調停案に対しアメリカの議会では200人以上の議員が少しでもイスラエルの権益が損なわれるのは認められないという理由で反対している。アメリカ最大の圧力団体イスラエルロビーの力は強大で、反イスラエル的な発言をすると選挙に落ちるからだ。

 僕らに何が出来るだろう? 悪の世界帝国アメリカの前では絶望するしかないのだろうか。諦めてはいけないのだと思う。犯罪者国家イスラエルにあってすらも、パレスチナ人虐殺の為の兵役に着くことを拒否する正義の人がいる。パレスチナの開放を、非国民呼ばわりされながらも訴えつづける知識人がいる。
 世界中の全ての人が事実を知り、正義を求めること。険しい道のりだが、道はあると思いたい。

参考 各種マスコミ記事、サイード著「戦争とプロパガンダ」、チョムスキー著「9.11アメリカに報復する権利はない」など。

(2003.05.23 時点に成されたダーザインの演説です)

 「旅の終わりに」
  (ダーザイン作、「詩学」2006年11月号掲載作品)

夜が更けていきますね
送電線を伝わって
ふらりふらりと麦畑を行けば
ほら
電線が囁いている
星屑をまとった天使たちが
口笛を吹きながら散歩しているんだ

軍用ブルドーザーに破壊されたガザ市街
廃墟の剥き出しの鉄骨と塵埃の向こうに
銀の海が音もなく寄せる星野原
誰もいない星明りの廃園で
狙撃手の眼を盗みながら
ハッカ煙草を一本くゆらせている間にも
夜は
明日の方へと転がっていった

この夜が明けたなら多分
この夜が明けたならきっと
ゆるゆると優しい光の降る金色の草原で
僕らは笑っているのだろうか

季節は巡り
夜風がめっきり冷たくなりました
白鳥座のバス停は
巨大な十字架のように直立し
旅の季節も終わりのようです

かつて小さな街灯の明るみの中で
「かんたんなことよ
スイッチを切るだけ
私はコンピュータだから
寂しくないよ」と
語った少女がおりました
地球から遠く離れて
星空に取り残された 僕の恋人
セロファンの幻灯をそっと灯すと
ピンクのワンピースの少女が現れるのです
東の果ての遠い国から打ち上げられた
小惑星探査衛星のコンピュータのお話
そんなふうに 終える旅もあっていい

灰色の巨大な分離壁へ至る荒れ野に
傾いた満月の影が射す
ダイナマイトを腹にくくりつけた少年が
麻の上着をぼろぼろにしながら
鉄条網を潜り抜け
ほの暗い水晶の森の
微かな明るみの中を進む
ひとつの青い影となって
兵士の立つ関門所の横を
青い猫がこっそりとすり抜ける
彼の恋人は
アメリカが支給したアパッチヘリのミサイルで
真っ赤な石榴のようにはじけたのだ

少年よ 君は生きて
彼女がここにいたことを
憶えていてあげなければいけない

雲の割れ間から
幾筋もの冷たい光が野辺に射す
桜草の花束が
草原のうねりの向こうに
松明のように灯っている
パレスチナの分離壁の中でも
両手をかざす子供達の
炎上する影は長くのびて
ピンクのワンピースの少女の姿が
縄跳びの輪をくぐる子らの中に
見えたような気がして
地平に開いた赤い月のトンネルは
もう会うことのできない
恋人の胸に灯る柘榴石のブローチ

この夜が 明けることがあるのなら
夜よ
更けていけよ


僕が詩を書くワケ

 りす

 良い詩を読むと、心が痛い、と感じることがある。言い換えれば、心が痛い、と感じたとき、良い詩を読んだと思う。別に悲しい詩を読んでいるわけでも、憂鬱な詩を読んでいるわけでもないのに、心がチクチクと痛い。その痛みは数日間、続いたりもする。痛い、からには、どこか、傷ついている筈なのに、目だった外傷は見当たらない。確かに、血が滲むような種類の痛みではなく、どちらかといえば、筋肉痛のような、内側からの鈍い痛みだ。筋肉痛は、運動の繰り返しで破壊された筋線維が、回復し、より強い結合で生まれ変わる過程で起こる、炎症の一種だという。良い詩を読むと、自分の内面のどこかが、壊れたような気持ちになる。心の中の、普段あまり使わない部分が、詩の言葉によって発見され、呼び出され、準備運動もないまま、いきなり酷使される。そして、その痛みは、「自分も詩を書きたい」という、強い渇望を呼び寄せて、水を求めるように、言葉を求めてしまう。このような、個人の中で起こる、小さな破壊と再生の繰り返しが、詩を読んだり書いたりする、僕の、終わりなき炎症の、正体なのかもしれない。

 居酒屋で、レモンサワーを頼むと、半分に切ったレモンと、アルミ製の絞り機がもれなく付いてくる。レモンを絞り機に押し当て、ギュッと力を入れて、手首をひねると、果肉が潰れる確かな手ごたえと共に、爽やかなレモンの香りが鼻腔を満たす。なぜか同席した仲間たちも、その手元にさりげなく視線を向けている。誰にでもできる簡単な作業なのに、ささやかだけれど、オリジナルな達成感を隠し切れない、そんな経験がある。「表現【expression】」という言葉には、元来、物を圧し潰して中身を出す、という意味があるそうだ。手加減をせず、力強く果肉を潰さなければ、豊かな果汁は得られない。詩を読むとき、書くときに感じる痛みは、絞られるレモンの、果肉が潰れる痛み、なのかもしれない。レモンの痛み、なんて、ちょっと陳腐な表現かもしれないけれど、中身を抜かれて、ひしゃげた形で皿に転がり、呆然と天井を仰いでいるレモンを見ると、誰だって、心が痛くなるだろう。そして、僕は、詩が書きたくなる。ザックリ、と果肉が弾け、香りが宙に飛び立つように、ザックリ、と瑞々しい詩が書けたらいいと、僕は、あてのない夢を、見ているのかもしれない。

 人間は、歯磨き粉を、チューブから搾り出す動物である。最後のほう、あと一回分くらい出てくる筈だと、ほとんど祈るような気持ちで、あるいは、根拠のない使命感を背負って、チューブをお尻のほうから薄く薄く押し潰していく。そして出口のところで、白い塊がニュッと顔を出す。あの瞬間の微かな昂奮といったら、ちょっと言葉では表現できない。でも、ここで気を抜いたら、白い塊は、顔を引っ込めてしまう。ここからが本当の勝負だ。晴れて歯ブラシの上にのせることができるかどうか、一体どのような早業を使えば、あの塊を、まんまと白日のもとに晒すことができるのか。こういう時、人間は、愚かなくらい一生懸命になる。それもこれも、ちょっと言葉では表現できない、あの昂奮のせいだ。このチューブとは、もう長い付き合いで、それこそペラペラになるくらい、中身を押し出してきた。さすがに僕も疲れたし、チューブも痩せてやつれて、そろそろ限界だろうと思う。でも、しばらくすると、まだ少し出すものがありそうな、生気を取り戻した顔で、僕の前にチューブが現れる。OK、わかった、もう一度だけ、詩を書いてみよう。いつでも、もう一度だけ、そう思う。

 詩に、多くを求めることは難しいことだし、苦しいことだ。いくら筋肉を鍛えても、あまりにも大きすぎる負荷には、詩も、僕たちも、耐えられないだろう。時代の、世界の、混沌に屹立するような詩を、芸術品を、誰かのために、書くことを、僕は望んではいない。どうやら、時代も、世界も、僕の内部に、どうしようもなく確かに存在し、僕が窓を開けていようと閉じていようと、必死でドアの鍵を隠していようと、彼らは勝手に出入りを繰り返し、たいして広くもない部屋で、くつろいだり、緊張したり、泣いたり、笑ったり、急に姿を消したり、つまり、この、わがままで騒がしい僕の内部が、まずは世界なのだと、思わずにはいられないのだ。三年前の夏、僕は、文学極道に『蛮族のいる風景』という詩を投稿した。初めて「詩」というものを意識して書いた、今読み返すと恥ずしいこの詩の中に、こんな一文がある。

  いつだって めちゃくちゃなリズムで踊っている君たちの
  その軽快なステップのルールを 私に教えてくれないか

 出鱈目に動き回る園児の姿が、世界の、つまり僕の内部の、出鱈目なあり方と重なっていたのだと思う。そして、ルールなんて、最初から無いことは誰だって知っている。いや、ルールはあるけれど、もの凄いスピードで書き換えられているから、誰も読むことができないのだ。しかし、それを読まなければ、世界という舞台で、軽快なステップを踏むことはできない。「詩」という靴を履けば、それが可能なんじゃないかと、三年前の僕は思っていた。勿論、詩を書きはじめてまもなく、それほど簡単なことではないと思い知ったけれど。しかし、たった三年で、一体何がわかるというのだろう。僕は未だに、詩について、何もわからない、わかる見通しもない。どうすれば、いいのか? どうすれば? OK、わかった、まずは、レモンを半分に割ることから始めよう。二人分のレモンサワーを作ろうじゃないか。作者のぶんと、読者のぶんと、二人分。話はそれからだ。(了)


批評の場というもの(副題:詩のサイトだというのに特撮の話しかしない)

 Canopus(角田寿星)

実相寺昭雄(じつそうじ・あきお)さんという映像監督がいました。いました、というのは、ついこないだ胃癌で亡くなっちゃったからです。2006年、69歳でした。
映画も昔はたくさん、晩年ではちょぼちょぼ撮ってて、昔は映画の賞も貰った人です。でもいちばん後世に残った仕事は、ウルトラマンシリーズの数々のエピソードでしょう。
この人、ウルトラのスタッフでは超古株でありながら、「巨匠」とか「御大」とかの言葉が、これほど似合わない人もそういなかった。「異才」とか「奇才」とか「変りもん」とか「アホ」とか「老害」とか、特撮ファンはそりゃもういろんな愛称で実相寺さんを呼んだものでした。

とにかく実相寺さんの監督したウルトラ、問題作が多かった。宇宙開発の被害者をウルトラマンがただの怪獣として処理する『故郷は地球(ジャミラ)』、セブンと星人が卓袱台を囲んで胡座をかいて対峙し、夕陽のなかの美しい戦闘シーンとストップモーションを使った実験的映像の『狙われた街(メトロン星人)』、そうそう、セブンの『遊星より愛をこめて(スペル星人)』は、諸事情により、二度と日の目をみることのない欠番となってしまいました。ぼくは観てないんですが確か、地球の放った核爆弾に被曝したケロイドだらけの宇宙人が、復讐のため地球を襲う話、だったと思います…
実はですね、この人、「帰ってきたウルトラマン」と「ウルトラマンタロウ」でもメガホンを取ってるんですが、んで撮り終ったらしんですが…「らしい」というのは…どっちもNGになっちゃって、放映されてないんです。いったいどんなヤバい話を撮ったんでしょう。興味があります。
さらに実相寺さんは、逆光でのショットや斜め下からのアングルを多用するなど、少ない予算で効果的な映像を撮るのに腐心されてた様子で、「実相寺マジック」という用語も持ってます。良きにつけ悪しきにつけ、いろいろと逸話を提供した人でした。

実相寺さん最後のウルトラの仕事はわりと最近です。2005年、亡くなる前年の「ウルトラマンマックス」でした。ここで第22話『胡蝶の夢(魔デウス)』と第24話『狙われない街(メトロン星人)』の監督をしています。
この「ウルトラマンマックス」は、入れ替わり立ち替わりいろんな監督さんがメガホンを取ってて、何でもありの楽しい作品でした。
んで、この『胡蝶の夢』が、とんでもない出来だった。

『荘子』の「胡蝶の夢」をモチーフにしてる時点で、すでにお子様向きではないんですが…
マックスの脚本家(なんと石橋蓮司さん!)が不思議な夢をみるとこから始まります。蓮司がマックスの主人公カイトになって、女と出会う。女はこれから怪獣を創るという。蓮司はその夢をそのまま脚本に書いて、そしたら現実の世界でも女に会って、夢だか現実だか分らんとこで怪獣の魔デウス登場。そいつときたら、ただの黒い球のカタマリです。
ストーリーはなおもエスカレート。魔デウスと出くわした蓮司のピンチに、今度はカイトが蓮司になって、脚本の続きを書き始めます。カイトの脚本のストーリーどおりに、石橋蓮司、ウルトラマンマックスに変身!!(唖然)。箱庭みたいなビルのちゃちなセットで、撮影ライトの照明の下、闘う蓮司マックスと魔デウス。後ろに流れるのが「ちょうちょ、ちょうちょ、なのはにとまれぇ〜♪」と、思いきり能天気な唱歌のしらべ…

ええと、観たまんま書きました。こういうストーリーなんです、ええ、そうなんです。
今はネットがありますから、この作品についてすぐに、ファンの間で大変な話題になりましたね。まさに賛否両論でした。
といっても、「賛」が2割、「否」が8割、といったとこでしょうか。「ストーリーがワケ分らん」から、「蓮司が怖くて子どもが泣いた」、「老害のやりたい放題」、「実相寺にはもうウルトラ撮らせるな」などなど…
一方ではツボにハマった方々の大賛辞、なんてのもありまして、「いやー怖くてよかった」なんて言ってるんですよね。興味のある方は、「ウルトラマンマックス」「胡蝶の夢」で検索すると、いろんな人がブログとかで書き残してるので、覗いてみるといいでしょう。

こんな与太話を延々と書き連ねてきたのには理由がありまして、これはひとつの健全な批評の場だったんじゃなかろうか、と思ったんですね。
まあネットですから、匿名または半匿名なんですが、不特定多数の人々の、歯に衣着せぬ正直な感想である、というのがひとつ。
それと、これらのやり取りが、比較的メジャーな掲示板という、人目に止まりやすいオープンな場で行われた、というのがひとつ。
さらに。みんなきちんと全部観て、それぞれがそれなりに各シーンを脳裏に焼き付けてからモノを言ってるんですね。これは意外と重要なことだと思います。
あともうひとつ。約一年後に実相寺さんが亡くなった時、ぼくを含む大部分のファンが泣き叫びました。みんなウルトラと実相寺さんを愛していたんです。老害だとか実相寺終わったナ、とか書いてたヤツも、その死を悼みました。

匿名というのは便利なもので、悪くいえば好き放題、よくいえば自由闊達な意見が交換されます。やはり記名での批評というのは、ある意味での責任を生じます(いや、匿名でだってきちんと責任はあるのですが)。作者に面と向かって「こんなの人前に出すな」と敢えて言うことは、相当の覚悟と勇気を要します。そんな覚悟のある方に、人知れず拍手。このコラムでは余談になりますが(笑)、ここ『文学極道』には、そんな方が複数存在します。

実相寺さん最後のウルトラ作品『狙われない街』は、概ね好評でした。ウルトラセブンにアイ・スラッガーで真っ二つにされたメトロン星人。近所の子どもに保護されて、真っ二つの身体を凧糸で縫い合わせて修繕。看病の甲斐あってメトロン甦り、そして四十年後、かつての子どもとメトロンとの再会…という筋書きです。
皮相的なメッセージや楽屋落ち的解釈が気になるものの、伝説の怪獣倉庫(怪獣の着ぐるみや特撮メカを保管してる円谷の倉庫です)が舞台だったり、カイトとメトロンの卓袱台対峙があったり、夕陽の「闘わない」対決があったりと、ノスタルジックなフレーバーに胸がキュンとしました。ちなみにメトロン星人役は寺田農さん。
ちなみに、ネットでの評価は「やればできるじゃねえか」が多数。『胡蝶の夢』肯定派は、「悪かないけど物足りない」だったりして、やはり様々ですね。

実相寺さんの絶作は「シルバー假(か)面」だったんですが、ほとんど話題にならなかったですね。まあ出来は推して知るべしのような気がするんですが、文句はきちんと観てから言おうと思います。

それから。「ウルトラマンマックス」で、バリバリの現役映画監督がウルトラデビューを果たしました。ホラーや極道ものなど、多作で知られる三池崇史さんです。アメリカの映画界でも有名で、『TIME』にも度々紹介されてるとか。今度ヤッターマン撮るんですよね。
マックスでは、シリアスな第15話『第三番惑星の奇跡(怪獣イフ)』と、徹底したスラップスティックの第16話『わたしはだあれ?(ミケ、タマ、クロ)』を担当。三池さん本人は「わー、ウルトラ撮っちゃったよー、いやあちびったちびった」なんてこと言ってたらしいんですが…
ちびったのは視聴者だよ。特に『第三番惑星の奇跡』。
ストーリーは単純ながら、ド迫力の破壊シーンと美しい映像描写とが、これでもか、これでもかという具合に押し寄せてくる。最後のシーン、盲目の少女が演奏するフルートに呼応して、イフが巨大な楽器に姿を変え、きらきらと光りながら夜空を昇ってくとこなんざ、今でも脳裏に焼き付いてますよ。

今までのウルトラが素人の遊びに見えてしまうくらいの、度肝を抜かれるような出来でした。「特撮とはこうあるべきだ」とか、そういう狭い括りで物事を見てちゃいけないんだよな、と改めて確認させられましたね、ええ。


「現代詩」から「読まれるもの」へ

 ケムリ

 ここらで一つはっきりさせなければならないことがある。文学極道がどのような集団であり、どのような志向性を有するかということ。長く退屈なコラムではあるが、これはぼくにとって、そして文学極道にとって非常に重要な文章であると信ずる。だからこそ、必ず目を通してもらいたい。
 文学極道の意義とは何か。詩を書くものに便宜的な評価の場を与え、彼らの自尊心をほんの僅か充足させてやることか、それともネット上に溢れる無数の詩の中からお気に入りを寄せ集め、コレクター的な願望を満たすことか、あるいは根源たるコミュニケーションの欲求を満たすことか。どれも違う、例え現状がその程度に過ぎなくても、それは違う。
 文学極道の目的は、もう一度我々が便宜的に「詩」と呼ぶ媒体が可能性と魅力を有するものであると見せ付けることだ。詩の現状、なんてものは語るに及ばない、またぞろどこぞの雑誌がくたばったようだが、そんなことを引き合いに出すまでも無い。読む者のいない無価値な媒体、少なくとも商業的には、それが詩だ。
 しかし、考えてみて欲しい。詩というせせこましい概念から少し離れて「文章に於いて表現されたなんらかの美」とでも考えればいいか、いや「美」に限ったことではない、魅力的な醜さもある、意味の上でということもある、では「魅力的な文章」か?まぁ、とにかくそういったものは人類史の中で、価値を失ったことが一度でもあるだろうか?「活字離れ」なんて言葉もあるけれども、実際のところインターネット・メディアの発達は活字の逆襲であることに、一体どれほどの人間が気づいただろうか。我々は、長い時を越え、果てしない発展の後、再びパロール、いやこんな言葉を使うのは馬鹿のすることだ、要するに「書かれたもの」で語り始めたのだ、それも日常的に、酷く深く。たかがネットの落書きに誰もが自尊心とアイデンティティの一部を投じている。(これは余談だけれども、日本人の国語能力って最近向上してるんですよ、主にブログとケータイのおかげで。元教育学部語る。国語に関しちゃ、ね。だって、本以外にこれほど浴びるように文章を、それも自然体で読めるメディアが他にありましたか?質の問題は、とか寝言を言わないでくださいよ、活字の代表たる新聞や読み物の中心たる有象無象の雑誌が良質な文章を提供しているとでも?)
 文学極道は便宜的に、その存在の身のおき方として「現代詩」という概念を作り、それを攻撃する。敵対の姿勢をとる。それが、自分で立てたカカシに石を投げるような行為であることも認めた上で、そうする。何故なら、我々は常に反省の上に立たなければならないということ、これをまず考えて欲しい。現状、詩の商業的価値、あるいはメディアとしての力、そういうものは失墜している。ならば、その世界にはなんらかの問題があったと仮定する必要が常にある。
 我々は、その原因を「基礎的な文章の軽視」「読者に対する姿勢の欠如」という風に捉えている、もちろん他の捉え方をする人間がいても構わない、そんなことは勝手にすればいい、大事なのは「我々はそう考え、それに従って行動する」ということでしかない。
 文学極道が目指すのは、「読まれる詩」だ。「ねぇ、読んだ?〜さんの新作、イイよねぇ」なんて女子高生が列車の中で語るような詩だ。自称詩人の痴呆老人が「コンテクストの接続が実に脱構築的で、既存の表象をイデオロギーの網目から脱出させていく」とかホザくような詩ではない。(実際、この例文クソ難しそうに見えますが、大したこと言ってません。詳しい人ならわかると思うけど、「ザンシンだねぇ」ってだけです)
 もちろん、誤解を受けそうだけれど、「ポップ的な」とか「大衆迎合的な」という意味ではない。難解であっても魅力的な作品はあり得るし、その逆もそうだ。そんなものは各個人のスタイルでしかない。様々な芸術のスタイルが、勃興しジャンルとして収斂されていった世界に於いて、ぼくは相対主義的な「決定版などあり得ない」という姿勢を取る。右手で自然主義的な手法を使いこなし、左手の指先にはビートの手法をツマみ、背中に背負うはシュルレアリスム、懐にはSF、我々は現在に於いてそういうことをするしかない状態にある。様々な手法が「我こそ真なり」と立ち上がったけれど、結局はみんな一つの単なる「方法」へと収斂されて行ったのだ。これは比喩に過ぎないが、結局のところ、我々は聖書とコーランを同時に聖典であると認めるより他はない。文学極道に於いても様々な人間が勝手に「決定版の詩論」のようなものを撒き散らして行ったし、これからもそうだろうが、そんなものはあり得ない。あり得るなら、黙ってその理論を用いて世界を席巻すればいいだけだ、出来るなら勝手にやれ、だが寝言は他所で言え。
 それでも尚、失われないものはなんだろうか。決定版の創作手法は存在しない、決定的な評価基準も存在しない、唯一絶対の聖典も存在しない。様々な「聖典」が「方法」へと還元されて行く世界で、文章による表現を行う者が唯一つ失えないもの、少なくとも我々が失ってはならないと信じるもの。それは「読者」だ。

 ここに定義しよう。
「文学極道に於いて「詩」と呼ばれるものは
 読者と作者の間に於いてしか、存在し得ない。」

 読者にとって良い詩を書くべきなのだ。文学極道にも時折現れる「読者など要らない」「評価など要らない」という姿勢を持った人間、文学極道という枠組みに参加しながら、読者を拒むもの。こういった人間は、文学極道の枠組みの維持のために、これからは全力を以って排除する。この場所は、「詩を読まれるものにしたい」という、読者−作者間の存在として詩を位置づけ、読者のために作品を書くことを投稿する上での条件とする。無論、内心がどうであるかなんてことは、ぼくには「知りようが無い」ことも確かであるし、別に踏み絵をしろ、とでもいうようなコラムではない、そもそもそんなことは不可能だ。しかし、文学極道はその方向性を堅持するメディアであるし、その姿勢、枠組みを破壊しようとする発言を容認しない。我々は、我々の旗を立て、我々の方位磁針で前進する。
 分かり易い言葉で言い直そう。ここは、俺達が俺たちの信ずる方向性を立て、リソースと労力を用いて作り上げ、維持するメディアだ。それが気に入らないなら、参加する必要は無い。消えうせろ。文学極道は、決定版の創作手法というものを持たない、芸術運動としてはいささか風変わりなメディアではあるが、それでも「詩を読まれるものにしたい」「読者のために」という基本方針を守り続ける、例え投稿がゼロになろうとも。
 文学極道は、基本としてあらゆる創作手法を容認する立場に立つ、それが良いか悪いかは「読者」である発起人が決定付けさせてもらう。これは申し訳ないことだが、決定版の評価手法は存在しないし、創作物を完全に測るモノサシというものもない。だからこそ、我々発起人の主観の集積を以って「文学極道の評価基準」とさせてもらう。我々は、便宜的に圧縮された読者であると考えて貰えば話は早いだろう。少なくとも、この場では信用と時間と労力を賭けて「誠実な読者」を提供する。我々は、常に作品に対して誠実たることを約束する。

「あなたの作品を全力を以って読ませてください」

 文学極道が卑しくも詩に評価を与える「メディア」を名乗るバックボーンはこの一言に収斂される。文学極道は、一隻の船だ。その船は「読者に対する詩」という大前提、そして揶揄的な意味での「現代詩」に対するアンチテーゼとして「基礎的な作文能力の重視」という二つを掲げる。基本的な文章能力、読者に「読ませる」ことを目的とした鍛錬を経てこそ、様々なアクロバット的手法は生きてくる、と信ずる。我々は誠実な読者であり、旗を振る者だ。文学極道の基準に於いて詩を評価し、それを称え、あるいは批判する。時には「文学極道としては」という前置き付きのアドバイスを与える。無論、我々のアドバイスが全局面的に正しい保障なんてどこにもない、「文学極道としては」「一発起人としては」というアドバイスでしかない、だが、我々は常に誠実な読者であり、他者だ。その文学極道ですら、評価に関しては一枚板ではない。そもそも、一枚板などということはありえない、しかし複数の評価者の主観を重ね合わせる評価基準の「あそび」とでも言うものは必要であることを否定するものは誰もいないだろう。
 我々を信じない人間は、それはそれでいい。だが、ここは我々の場だ。大の大人が時間と労力と金をつぎ込んで維持する、我々が必死で守り続けるべき船だ。外部からの批判は当然のことながら受けよう。だが、「評価はされたいが批評は耳に入れない」という姿勢は絶対に許容しない。どれほど技術的に優れていようが、読者のために書かないことを公言する人間は、排除する。我々は、我々の信とするものを守り切る必要があるからだ。そのために、発起人は管理者の強権を遠慮なく使用することを、覚えておいてもらいたい。

 文学極道というものは、単なる一つの枠組みだ。創作物という、絶対性の存在しないものを測るための、既存の活字媒体と同じく、単なる枠組みだ。もっと言えば、文学極道と名前を冠した評価ゲームだ。我々の舵取り、作り出した枠組みが劣悪なものだとすれば、それは受け入れられることなく消えていくだろう、だが我々はひとまず、この枠組みを信じている。そしてゲームのルールが気に入らない人間は、来る必要が無い。ここは、おまえの日記帳でもなんでもない。おまえの日常生活で満たされない自意識を満足させる場所じゃない。とでも言っておく。勿論、ご当人にこの手の諫言が通じないのはいつ、どこであっても同じだ。そのためにいるような者かもしれないですね、発起人は。場の管理者であり、雪かきや落ち葉掃きをするために。
 話を戻そう。我々が約束できることは一つしかない、投稿作品に対して誠実であることだ。そして、投稿者の諸氏も評価に対して誠実であることを望む、それを受け入れるか否かは別のこととして。単なるゲームであっても、そのゲームを維持し続けることは楽ではない、あなたが詩を書くことも決して楽な作業ではないように。誠意の交換こそが、場を有益な者にする。大の大人が自尊心と、常に不足する時間や労力を費やすに値するほどに。
 文学極道は、文学極道のルールの上であなたと誠意を交換することを望む。そして、常にすばらしい作品を待ち続けている。ずっとだ、あなたがそこにいる限り、ぼくがここにいる限り、そして作者となるべき、読者となるべき人々が生き続けている限り、月と地球のように隔たれた自己と他者、作者と読者、その二つがほんの僅かずつ声を届かせる場所で、押入れの中の子どものように耳を澄まして。

 さて、最後にコントラ氏のコラムに連動させて、キチガイっぽく煽っておくか。

 今一度、不自由な「文学極道」というシステムの中に身を置け!
 もし、詩的実存というものが存在するとすれば、それはモダニズム的「何でもあり」の中で、再び誠実な不自由を提供する「文学極道」へと身を投げ入れることでしかありえない!
 あらゆる芸術運動や、あらゆるキャノンがそうであるように、全ては弁証法的に乗り越えられるためにある、それは文学極道という媒体もそうであることを私は否定しない。
 我々は、打倒され、破壊され、解体されるために、打倒し、破壊し、解体しよう。我々は、打ち倒すことを望みながら、同時に打ち倒されることを望んでいる。

 自らを他者とまなざしという限界状況の中へ投げ入れろ、そこにしかない!


芸術+詩

 コントラ

「詩」という言葉は、ゆですぎたソーメンのように弱々しく、はかなく見える。一般的な解釈においては、詩はセンチメンタルなものであり、いわば繊細な感性の弱々しい発露に過ぎない、と言えるかもしれない。詩には転覆がない。いくら繊細な感性を研ぎ澄ませようと、それはどこまでいっても現状の肯定と追認であり、個人が対峙する現実、または世界のあり方について異議を申し立てることはなく、またそのダイナミックな組成プロセスに介入することがない。あとで詳しく述べることになるが、「芸術」といえば、少しニュアンスが異なる。それはより、介入的であり、現実と個人のせめぎあいを、より可視的なかたちで、現前させるなかで、より多様で、包括的なアプローチが選択可能となる。とはいえ、このようおおまかな定義はあまり、説得的とはいえないし、かなり概念的に見えるかもしれない。一方で、文学極道の「芸術としての詩」というサイトコンセプトは、実際、予想以上に大きな波及効果を持っていると筆者は考えている。以下、このコラムでは、文学極道の屋台骨をなす「芸術としての詩」というコンセプトについて、いくつかの角度から検討してみたい。先回りして言っておけば、筆者にとって「芸術」+「詩」という組み合わせは、「詩」を、それをこれまでスポイルしてきた複雑な意味の網の目から自由にしようとする意志と試みによって貫かれている。「芸術」は自由であり、「詩」は不自由である。

「詩」の不自由さ、それは、現代日本という固有の場において詩を書くとき、目下取り沙汰されている現実を、いかに深遠さと明晰さを見失わずに描き出すことができるか、という問いに関連する。筆者にとって、日本人が詩的文章を書くときの最大の弱点は、極度に耽美的、別の言い方をすれば、「うっとり」することに満足してしまうことであり、ここに日本の人文諸科学にはびこるディレッタンティズムの本源がある。フランス現代思想でも、ポストコロニアル理論、マルクス主義理論等、なんでもよいのだが、多くの日本の知識人がおかしてしまっている過ちは、これら諸理論の目の覚めるようなコントラストやシステマティックな美学にうっとりさせられるあまり、不用な知識を土嚢のように蓄積することをもって第一としている点にある。日本の趣味人や知識人の99パーセントが日々励んでいるのは、彼らが建前上擁護する「批判的思考」や「詩的実践」などではなく、まったく別の何かである。残念なことに、彼らは、すべてのクリティカルな思想の根幹において決定的な役割を果たす弁証法的プロセスを、自己に深く根ざした道具として使いこなすことができていない。誰もはっきり指摘しないことだが、彼らが日々従事しているのは、世界から見たら非常に破廉恥というほかはないような、耽溺と馴れ合いとパラフレーズのオンパレードであり、それゆえに、この国には真の意味での定立や反定立などあったためしはないし、ゆえに、芸術も反芸術もありえない。

実のところ、大多数の日本人は、詩に関心がない。それは極度にセンチメンタルであり、情緒的であり、萎れた草花のように生気がないと考えられており、ときに「イタい」ものでさえある。なぜイタいのかといえば、第一に「詩」というのは、困惑や葛藤を個人の内面でいじくりまわす手段としか捉えられていないためである。しかし目下の状況では、これらの作品はむしろ一部のネット掲示板をのぞき、文学極道ではすでに少数派であり、より有害なのはむしろ、これらの作品への反省から生じたように見える、雑記・エッセイ風の文章や、言語遊戯でしかない一群の作品なのかもしれない。自己憐憫におぼれているのが醜いからといって、作者の生の強度も見えず、世界についても中途半端にしか語らない文章を書けばいいのではないし、ポスト構造主義などを盾にしてとりあえずテキストなら何でも正当化すればいいということは有り得ない。それらは既存の制度や枠組みにたいして、ほんの一瞬だけラディカルな批判を投げかけるように見えたことがあったが、現下の状況においてはすでに役目を終えている。現在、詩の書き手に求められているのは、自己について語ることが、なぜ自己憐憫を超え出ていくことができないのか、それにはどのような文化、歴史、社会的、そして個人的な関わりが介入しているのか、それらの問題系と向き合っていくことでしかない。これらは決して安易な手段によっては回避できず、文学極道の「芸術としての詩」はこれらすべてを前提としたうえでのコンセプトである。

結論から言えば、自己は、不可避的に世界に根ざしており、そしてその世界は具体的に彩られた空間と時間のなかにある。だとすれば、ただ「悲しい」とか「嬉しい」という感情をそれ自体エッセンスとして分離することは事実上できない。それらは地上に充填された特定の光加減や色彩配置を持つ空気であり、ヴィジョンにほかならず、世界性そのものと不可分である。つまり、感情について書くと同時に、あるいははそれ以上に、どれだけ世界について書くことができるかどうかに、成否の分かれ目がある。それは「何かが起こったから悲しい」とか、単純な因果関係について書くこととではまったくなく、むしろ、その悲しみや、喜び自体がちっぽけな人間の主体性を超えて自生する世界の在り方であり、そのような象徴形式の発現に感性を照準させていくことを意味する。そして、これが自己表現としての言語芸術にいたる唯一の方法だと主張したい。すでに述べたように自己表現と自己憐憫は、まったくの別物であるが、残念ながら、現在、多くの日本人が、詩と聞いて連想するのは、間違いなく憐憫のほうではないだろうか。弁証法的比喩を持ち出せば、芸術たる詩は、自己と世界性のせめぎあいの、突き詰めていったぎりぎりの地点で生じてくると、すくなくとも理論的には言える。世界と対峙しつつ自己の表現に展開していくか、憐憫に内閉していくか、それはもちろん個人の自由だが、もし自己表現を、しかも世界に根ざした存在としての自己表現を得ようと望むならば、すでに述べたように日本の学問や芸術が内閉傾向にあることを考慮して、それは二重の障害と対峙しなければならないことを意味する。そして、われわれ日本人は曇りのない目線で、「詩」とは本当は何なのかを疑ってかからねばならない歴史的局面にずいぶん前から足を踏み入れている。これらすべての困難を踏まえたうえで、文学極道は、自己に深く根ざしていながら、一方で世界性の根底を深く問い詰めるような自己表現に向かう作品群を、最も価値ある成果として評価する。

ここで、「芸術」という言葉を限定するために、モダニズム芸術を擁護しておきたい。簡単に言えば、モダニズム芸術を考えるとき、そこで鍵になるのは、第一に、ジャンルの独立という議論であり、この議論が核とするのは、「芸術」とはひとつの領域であり、芸術は、芸術のためにしか存在し得ないという前提である。たとえば、西欧の「芸術」は19世紀半ばくらいを境にして、たとえば肖像画に特化された宮廷画家のように、なんらかの目的や、特定の社会的「場」をよりどころとする―それゆえに作品の成否や優劣を決定する「基準」が明白に存在する―存在とは、袂を分かつ。かくして登場するのが、芸術のための芸術(前衛芸術)。つまり芸術がなぜ芸術であるのかも、芸術によってしか定義できず、それが、よい芸術か、悪い芸術か、というのも、まさに芸術によってしか判断できないという立場であり、こうして果てしなく自己言及を繰り返し、みずからを純化していくのが、いわばポストモダン到来以前の、モダニズム芸術という運動体の核心とされている。

文学極道ではあらゆる作品が歓迎されるから、作品の成否に関するスタンダードは常に、状況的に交渉される。だがそれとは別に、私がモダニズムの話を持ち出したのは、詩書き個人個人が、自らの生きざまを肯定することの自由さに気づくことが、自己表現へのプロセスにいたる起点であるということを言うためである。話を判りやすくするために言うと、私は文学極道においては、「才能」という言葉は徹底的に排除したいと願っている。たとえば、「君は才能がある」だとか、「文学極道には才能のある書き手がいない」とか、たびたび耳にするこれらのフレーズは、これもだいぶ前にその役目を終えている。なぜなら、才能という言葉はきわめて状況順応的な意味合いを持っており、もうすこし単純にいえば、文学極道はそのような才能を才能として無菌室で培養するような偏狭な世界性をひとたび克服することを目指しているからである。文学極道が必要としているのは、才能ではなく、「天才」である。天才は才能と違い、限定的な意味合いを含まず、その在り方は才能の場合よりもずっと突き抜けた、シンプルな素晴らしさを持っている。「天才」の全貌ついて論じることなど、筆者の手のおよぶところではないが、自身の経験から、かろうじてここで率直に助言することができるのは、詩を書いていくことの意味を、自己の内部で深く了解していること、であり、また今すぐには無理でも、一歩ずつ、了解しようとつとめることである。それはエドワード・サイードが「内側へ向かう旅」と表現したように、それぞれの原風景へと深く浸水していく過程であると考えられ、このプロセスを経ていない、自称他称問わず、「実力のある書き手」については、その評価は大幅に割り引かれるべきだと考える。また、技術的な問題について言えば、あらゆる表現上の技巧はあとからついてくる二次的なものだから、拘泥する必要はないし、完全に拒否する必要もない。天才たる書き手にとっては、すべての表現は必然かつ、有意味であるべきであり、また、それはあらゆる旧弊な権威への信仰・畏怖や、かかる盲目さに伴う自己表現への怠慢を超越しており、したがって不要な自意識の蔓延や、他作の表層的な模倣におちいる必要がない。文学極道が求めているのは、巧みに他者の評価に擦りよっていく「才能」ではなく、むしろ現況を洗いざらい問い直す意志に貫かれた「天才」である。

最後に、西欧の弁証法と芸術をとりあげたので、断っておきたいのだが、私は日本的な耽美主義美学を根底から捨て去り、西欧思想の合理的なロジックに全身を傾倒しろ、と言いたいのではない。それは終着点ではなく、むしろ現下の状況における戦略的な選択であり、自らの過去を問い直すためのステップにほかならない。標的は日本ではなく、あくまで世界であり、そのような世界の中で生きるためには、通行許可書をいつも首にさげていることを意味し、そこには不可避的に「日本」と書きこまれているだろうから。好もうが嫌おうが、欧米の知的流行を鏡像のように内部適応させていくことだけでは、ますます加速する引きこもりを食い止めることは出来ない。日本の真の脅威は北朝鮮の核弾頭や中国の経済的軍事的肥大化ではなく、萎え衰え内閉していく感受性の側にあり、ここでは敢えて特定化を避けるが、その起源は歴史的に実証可能な範囲に入る。逆説的になるが、日本的な耽美的美学―広く言えば東洋的な一元的な思考形式、が遺伝学的に劣勢ではないことを世界において明るみに出すためにこそ、馴れ合いや迎合ではなく、むしろ、とてつもない差異やコントラストの二重、三重衝突を許容しうるコミュニティを立ち上げてゆくことが必要となる。「開かれたコミュニティ」などという安易な言葉はむしろ有害である。開くにしても、閉じるにしても、すべて過去のことであり、むしろ肝心な認識は、われわれはすでに出発し、出発し続けているのだ、という事実である。別の言い方をすれば、このムーヴメントはすでに始まっており、どの瞬間においてもいくつもの始まりが始まりを定義しつつあり、それは完成させるものというよりは、文学極道の参加者自身が、新たな始まりをもたらすことが要求されている。だが、これには条件がある。つまり、文学極道で求められているのは、ゆですぎたソーメンのような「詩」ではなく、斬新かつ安定した構造を持つ、「言語芸術」のみである。


詩へのアプローチ

 ミドリ

4万年前に、オーストラリアに辿りついたアボリジニー。彼らはドリームタイムという時代からやって来たと言います。泥の中から起き上がった彼らの祖先が、詩を詠って世界中のありとあらゆるものを生み出した。
カンガルーは、カンガルー女が足を踏み出した時に跳ね出してきた。エミューは祖先がわたしはエミューと詠った時に、大地を駆け抜けた。オウムは羽が生えてきたことを、最初に感じた祖先から生まれた。
そしてこの世の中心に、ウルルがつくられた。

アボリジニーの人たちは言います。精霊は決して消えはしない。精霊は石や木の中で、そして動物の中で、じっと我々を待っている。我々が再び精霊たちの声を聞く気になるまで、辛抱強く待っていると言います。

エドワード・サイードという、パレスチナ出身のアメリカの批評家がいます。その彼の代表的な著作、「オリエンタリズム」(1978年)。このサイードのいう「オリエンタリズム」という概念は、中近東、アラブの人々の暮らしとは関わりのないところで、西洋が自らのアイデンティティを確立する為に、でっち上げられた云わば、いわれ無き他者(異形なもの、劣ったものなど。)としてアラブの人を見る目の、誤謬の表象であると断じ。
彼はこのオリエントが、オリエント化されていく過程そのものにも注目します。19世紀の英仏の植民地支配への国家的野心の、裏づけに利用されたのも、このオリエンタリズムであると、彼の言説は捉え、であるならば、このオリエンタリズムの支配に抵抗する言説を、新たに作り出す必要を、彼は訴えます。
ポスト構造主義の影響を受けた、スピヴァクやバーバといった批評家が、サイードが問うた「西洋」という主体の存在が、「オリエント」という他者の声を抑圧していく過程に注目し、そのポストコロニアル批評を批判的に再構築していきます。

インドをはじめ植民地支配による教育制度が浸透しつつあった19世紀半ば、支配者の言語を巧み扱った文学作品が現れはじめます。これを支配、被支配といった、単純な二項対立の図式に収まらない現象として捉え、植民地支配が生んだハイブリディティの可能性を論じることで、ポストコロニアル批評を翻訳し直していきます。
先進国による、第三世界への経済的支配の影響。つまりネオ・コロニアリズムといわれる歴史的コンテクストの中に、文化や国家を超えていく、ナラティブの発見を見出すことも出来ます。

例えば現在、インド経済が急速に熱を帯びています。インフレ指標となる、卸売物価上昇率は、2年ぶりの高水準にあり。中央銀行による利上げにも関わらず。卸売物価が6.7%上昇。しかも100万人とも言われる、インドのホワイトカラーの給与上昇の結果、消費財の需要が拡大しています。
1997年に、京都市の、国立京都国際会館で開かれた地球温暖化防止会議。その京都議定書の、日本の地球温暖化物質の削減目標は、8%。しかし現状は、削減どころか約6%増と増えています。
おまけにアメリカやオーストラリアは議定書に批准していない。
アメリカはその環境問題で独自政策を打ち出していくことを表明していますが。京都議定書からは、その削減目標を免除されている発展途上国、とりわけ中国やブラジル、前述したインドの人口は増加し。産業の拡大がそれ逼迫していく、このまま野放しにしておけば、先進国だけで片のつく問題ではないことが、目に見えています。

かつて「歴史の終焉」という言葉が流行しました。政治経済学者のフランシス・フクヤマはこの言葉を、民主主義と資本主義が勝利を収め、これ以上の社会制度の発展はない。といった意味で使っていますが。いま一番深刻な問題は、地球環境が悪化の一途を辿り、人間にとって住めない環境になってしまうこと。文字通り、「歴史の終焉」になってしまうことです。
しかし、フランシス・フクヤマが言うように、既存の市場が飽和状態に達した観のあるこの現在に於いて、例えば半導体大手のインテルは、中国の企業と自治体の協力を得て、中国の農村部にコンピュータとインターネットの導入計画を進め。マイクロソフト・インド社は、インドの農村部に、3年でインターネット・キオスクを5万台設置する計画を進めている、そんな時代。一体、文学とは何なのか?

日本では、ミクシィやSNSが仕事でネットに常時接続できるIT(情報技術)業界から広まり、Iモードなどの登場でケータイ用のウェブサイトが普及し、例えばケータイ小説は、昨年1年間で10倍にも膨れ上がっている。
その一因には、パソコンよりもケータイの方が、有料コンテンツへの決済に対する抵抗感が低い、ということがあるのかもしれない。ではそのインターネットに於いて、芸術としての詩を標榜する文学極道に於いて、何が求められるのか。
2000年に京都市で開かれた第23回日本文化デザイン会議(日本文化デザインフォーラム主催)で、プロデューサーの榎本了壱氏はすでにこう言ってます。「ケータイにしろインターネットにしろ、新しい技術は遊びをきっかけに普及し、本来の目的から外れて”遊びメディア”に変ってきた。」と。

東京大学の板坂健教授は、1984年に開始されたTRON(The Real-time Operating System Nucleus)の開発プロジェクトの中で、ユビキタス・コンピュータというコンセプトを発表している。これはコンピュータを小型化して、あらゆる場所に組み込み、ネットワークでそれらを繋ぎ、ユーザーがそれを意識せずに利用できる技術のことで。ユビキタス社会と呼ばれる。コンピュータが空気のような存在となれば、それはもはやバーチャル・リアリティではなく。人間のDNAレベルで組み込まれた、本能的な発想の発露であるのかもしれない。もちろん問題は、色々あるだろうが。

ITによる遊びの可能性は、人間の意識や心理の中に新しい発見を与える予見性が潜在的に眠っているということです。それは人たちの生命観や人生観を変え、ビジネスや暮らしの中にも入り込んでいき、人間の感性や知の構造のパラダイムを組み替えていく可能性です。
つまりワイヤード文学に於いては、書き手と読み手の間には境界がなくなり、詩や文学や評論やジャーナリズムといったものが、上流から下流へと向かって情報を供給するものと、それを享受するという。この作家と読者の関係を、アクチュアルで交換可能なインターフェイスな対象へと姿を変え、尚且つ、常に新しいコミュニティの外部へと接触し続けることで、権威というものを喪失させ、そのコミュニティ、或いは組織に於ける権力構造(国家、制度、法、科学技術、セクシャリティー、民族、人種、言語、経済、流行、タブー、ファション。)そのものの概念を、脱構築する可能も孕んでいる。

しかし此処に文学は、あるジレンマを抱えることになります。つまり、読者と何かという問いです。しかしその答えはとても簡単です。読者を生み出し創出し、常に新しい発見と発想と体験によって、世情を挑発し続けられるものだけが作家と呼ばれる存在です。
しかしそれは前述したように、かつてのように特権的な地位を手にすることではなくて、世界という大きな構造の中に組み込まれた。無形の存在たちの中で暮らす、一人の平凡な人間の姿に他ならなりません。つまりワイヤード文学に於ける作家の姿とは、尽きせぬ対話者としてのポーズによって、表現者を名乗るもののことを言います。

20世紀の最も傑出したピアニストの一人に、グルダがいます。彼の生まれ育ったウィーンは、20世紀音楽のラディカルな息吹をカオスの中に叩き込んだといってよいような、そんな場所でした。
グルダは語っています。「十二音音楽なんて、錯誤でしかないんだよ」と。そして彼はそこから発生してきた前衛音楽にさえ耳を貸さなかった。しかし彼は、決して傑出したオリジナリティを持ったピアニストではなかった。ウィーンの批評家から叩かれます。「君のジャズは退屈だ」と。しかしグルダの奏でる曲が、もっとも哀切を帯びて響いてくるその理由は、故郷への思い。望郷の念といったことから生まれてくる。そして彼は演奏を終えると、まるで猫のようにニヤリと笑う。優れた芸術家は、自らの胸の中に、道化を一人抱え込んでいるのです。

オーストラリアのカカドゥ国立公園は、先住民族の聖地であり、そこには美しい岩山と、ブッシュと湿地帯が広がり。文字を持たなかったアボリジニーの人たちは、その岩山やまわり世界の全てに意味があり、それらは解読を待っていると考えます。
彼らは自然の声に耳を傾け、語りかけてくるものを知ります。しかし歴史を振り返ると、此処にも長い差別の時代があり、200年ほど前には、ヨーロッパからの入植者たちによって虐殺がありました。

今から8年ほど前に、ぼくがオーストラリアを訪れた時。シドニーに「バンガラ」という劇団があり、先住民族の伝統舞踊を、モダンにアレンジして人気のあった劇団がありました。都市化されていくアボリジニーの文化。そのサバルタンの歴史と声に、ナラティブを見出していくことと、現代日本に於けるワイヤード文学の現状を重ね合わせてみることも可能だということもできそうです。
アボリジニーの人たちは、周囲の自然に語りかけることで、意味を汲み取り、環境そのものをテクスト化していきます。テクストとはつまり、自ら体験の中に、運命取り込んでいくこと、その行為自体であり。かれらは詩がなんであることかを、文字を持たずして知っていました。

しかしワイヤードに於けるテキストとは、センター、マージナル、シンギュラリティ、エスケープ、アルスコンビナトリア、ソート、リコンフィギュラブル、ディスクリートネス、フィギュラティフ、サンクションなどといった、ハイパーテキストの複雑な解読作業を通して、自然と対置する、都市環境の運命を処理し、取り込んでいくという。得体の知れないファルスと化した、マニエリスムの大聖堂と対面しなければなりません。
飽食の時代の都市生活者たちにとって、林檎を一つ齧ることさえ、食への憑依を含んでいる。つまり地球の裏側では、いまこの瞬間にも、飢えによって、命を落としている人々がいます。

そんな世界の現実の前で、例えばアヴァン・ポップといったような。シャツを綿からシルクに着替える程度の低い芸術に対する態度では、ラディカルという言葉の意味をさえ、産業廃棄物に変えてしまうようなものであり。
例えば今、市場に新製品として出るお菓子の寿命は、早くて3週間でマーケットから消えていきます。その後その商品は、しばらく倉庫で保管されて、どこかで捌かれるか。廃棄されるかのどちらかです。
アヴァン・ポップというのは、つまりそのようなものです。

1964年に、パリ・フロイト学派を結成したラカンは、ロラン・バルトやレヴィ=ストロース、ミシェル・フーコーらと並ぶ、構造主義者と呼ばれることがあります。彼のテーゼに「無意識は言語のように構造化されている。」という発言があります。人間の主体は、精神の内側にあるものではなくて、外部ありながら疎外されたのもであると言います。これはアボリジニーの精神世界と一脈通じる部分がありますが。しかしそれは単に構造主義の言説を、補完するものでしかなく。人間の欲望を、内部に見るか外部に見るかの、形而上学的な操作にしかすぎません。

彼の理論は、後にクリステヴァやジジェクらに影響を与えていきますが、無意識とは、他者や周囲の環境を指し示す。ベクトルを含んだ指示言語であり。且つ、見識と現実と切り結んだ認識の問題であるのに対し。
彼ラカンは、お得意の「操作」によって、こう言います。
「了解というものは、シニフィアン連鎖における意味の横滑りを無視し、意味を固定的なものとして誤認するような行為である。」と、平たく言うとこれは、自分勝手な「思い込み」それであり。
これはよく日常的に起こることです。そういう時ぼくらは、視野を広げなさい。人のアドバイスに耳を傾けなさい。と言った言葉で諭します。会話とはそもそも、メタファーの衝突によっておこる。絶えざる情報と認識の、交換行為であるのですから。
例えばロシア・フォルマリストたちが提唱した「異化」の概念も、コミュニケーションの一つの特徴を示すものであって、それを受けたブレヒトの異化効果の理論も、彼の唱えた叙事詩的演劇。つまり演劇を観客に自由に解釈させること、これもこのコンテクストの中で語れる事柄です。

「経営者の仕事とは、値決めである。」と語ったのは、京セラの創設者、稲盛和夫氏です。しかし、企業の収益行動の前線に立って、顧客を獲得していくのは、担当窓口である営業マンであり。商品の原価から、顧客とマージンの交渉をして、実際に売値を決め、受注していくのは営業マンの役割です。ある席上で、京セラの代表取締役会長の中村氏が、環境問題に寄せて。日本にある、2,600万戸の住宅のすべてに、太陽光発電が設置できればと。その夢を語っておれらましたが。
現実には、一戸の住宅の屋根の面積のなど限られています。そしてそのエネルギーの発電効率を考えると、太陽光発電の設置にかかる初期費用の回収に掛かる年数は、50年やそこらでは効かないの現状です。
リーダーに求められる最大の役割とは、今ある現状の認識の上に立ち。その見識を示す夢と希望を、情熱を持って語る勇気と行動力です。

以前ぼくは休暇を利用して、イスラム文化圏を旅したことがあります。ホテルに泊まった朝。モスクから聴こえるアーザンに起こされ。ムアッズィンは地声ではなく、拡声器を通してモスクのミナレットから、その文言を発します。アーザンの文句は、スンニー派とシーア派とでは違います。
かつてイリア・プリゴジンは、可逆的な力学法則と、不可逆的な現象の間に横たわる、矛盾を解くことができなかった。そしてそのミクロな粒子の運動も、可逆的な力学法則に従ってはいるが、それを多数の集団として粗く見たときに、熱のようなマクロな変数に関する、不可逆性が出てくるといった見方が、主流になってきたと語っています。
個人的な旅先の記憶や、深いドグマに囚われた宗教間の対立。その歴史と進化。時間は人間が作りだしたものであり。時間の遡及性を語ることこそ。これがいま最もアクチュアルな思想的な態度です。

ビルバオにグッゲンハイム美術館を設計し、このバスクの都市の名を、世界に知らしめた建築家。フランク・O・ゲーリー。この建物は脱構築主義的な建築と言われていますが。その底流に流れているスピリッツは、プア・ディティーリング、細部はプアである。これです。
「商品」に繋がることで「主体」を実感する消費者の購買行動も、プアである。
ニューヨーク、マディソンスクエアガーデンのステージで、アコースティックギターを奏でるキース・リチャーズの横で、ファルセットを効かせた「ウォリッド・アバウチュー」を熱唱するミック・ジャガーも、プアである。
コンテクストを消し去ることで、新しい解釈を生み出す。人間の心を揺さぶり世界に伝達する技術。それが世界の遡及性に触れることを可能にしてくれます。

ネオプラグマティストを自称するアメリカの哲学者、リチャード・ローティは「リベラルな社会でのヒーローは、強い詩人とユートピア的な革命家である。」と語っています。そして彼はこれまでの政治思想が、公と私と結び付けようとしていたのに対し、この両者を分離する考え方を提唱しています。
しかしこれは彼自身が否定する形而上学そのものであり、そのアイロニストであることに寄って立つ彼の立場は、コンティジェンシーによる自己保身にしかすぎません。

しかしここに新しい概念を発見することができます。エクス・アイロニーというコンセプトです。アイロニストというのは、自分の言動が、偶発的に起こったことであることを、認識し、それを認める立場に立つ者の事です。では、エクス・アイロニーというのは何なのか。それはアイロニーというのもを、コンベンションの中に、入れ子構造として組み込んでしまうという、その精神性と実践のあり方のことです。
エクスウーシアというギリシャ語がありますが。この「エクス」と「ウーシア」は切り離しても意味を成す言葉です。ウーシアは本質を意味し。エクスとは、そこから何かが出てくるという意味です。この「エクス・アイロニー」という概念は、ぼくの造語ですが、こういったコンセプトに近い考え方は、すでにソフトウェア開発の現場では行われており。例えば、一つの事例として、エクス・アイロニー的な具体的な実践の例を引くと。ツリー・ハウスが挙げられます。

ツリー・ハウスというのは、木の上に家を作ることですが。そのルーツは1960年代のヒッピー文化に遡り。現在その第一人者と言われているのがピーター・ネルソン氏です。このツリー・ハウスというのは、日本の建築基準法では、建築物とは認められておらず。登記もできなければ、固定資産税もかからないし、郵便物も届かない。
ツリー・ハウスの作り方は、家の土台を支える幹へ、ガニエル・リムというスチール製のボルトをぶち込み。それを固定するために、さらに上部の幹へ、アンカーボルトをぶち込み。それをターンバックルを使って家の基礎組みをケーブルによって吊り上げる。
これじゃ結果、樹木を痛めやしないか?という話しもでてきますが、技術というものは常に進歩していくものです。

ぼくは此処で二つ哲学の一端について提示しましたが、つまり。「時間の遡及性について語ること」そして「エクス・アイロニー」と。これは云わば、詩の実践を語ることを意味し。文学と行為を結びつける理論です。

そして文学極道のサイトポリシーは、これれらの詩の持つ可能性を大いに語りつくすことにあり。詩とは一つ信号系であるとともに。それが伝達の形象をともなった時。それは古代文字のように、象徴形式の壇上へ言葉を立たせ、人間の大脳が両足で大地を強く踏ん張り、歩き始めるとき。
文明社会をそこに鮮明に浮かび上がらせた、人類という生命の意味の発生がそこで興る。

そういった意味でのカルチャライズされた文学とは、その詩の意義を、言語によって放つことにあり。詩はさらにその広いハイパーグラウンドの可能性を捉まえていく。つまりは、小説や絵本、マンガや評論、演劇、ジャーナリズムに広告。ゲームや写真や絵画、アニメーションや音楽、映画などといった。芸術や娯楽、マスコミュニケーションのあり方に留まらず。政治や経済やビジネス、法律や医学や教育、スポーツやボランティアや宗教。そして家庭生活や科学技術といったこの無尽蔵な制度の中を、もっともアクチュアルな態度で、且つ正面に見つめることによって。この弛まぬ広い世界への一端へと、その限りなき波及の中へ飛び込んでいく、妥協を許さない不断の冒険。これが文学極道の示す、ワイヤードに於けるポエムの、現在進行形の姿である。


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