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コラム

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詩へのアプローチ

 ミドリ

4万年前に、オーストラリアに辿りついたアボリジニー。彼らはドリームタイムという時代からやって来たと言います。泥の中から起き上がった彼らの祖先が、詩を詠って世界中のありとあらゆるものを生み出した。
カンガルーは、カンガルー女が足を踏み出した時に跳ね出してきた。エミューは祖先がわたしはエミューと詠った時に、大地を駆け抜けた。オウムは羽が生えてきたことを、最初に感じた祖先から生まれた。
そしてこの世の中心に、ウルルがつくられた。

アボリジニーの人たちは言います。精霊は決して消えはしない。精霊は石や木の中で、そして動物の中で、じっと我々を待っている。我々が再び精霊たちの声を聞く気になるまで、辛抱強く待っていると言います。

エドワード・サイードという、パレスチナ出身のアメリカの批評家がいます。その彼の代表的な著作、「オリエンタリズム」(1978年)。このサイードのいう「オリエンタリズム」という概念は、中近東、アラブの人々の暮らしとは関わりのないところで、西洋が自らのアイデンティティを確立する為に、でっち上げられた云わば、いわれ無き他者(異形なもの、劣ったものなど。)としてアラブの人を見る目の、誤謬の表象であると断じ。
彼はこのオリエントが、オリエント化されていく過程そのものにも注目します。19世紀の英仏の植民地支配への国家的野心の、裏づけに利用されたのも、このオリエンタリズムであると、彼の言説は捉え、であるならば、このオリエンタリズムの支配に抵抗する言説を、新たに作り出す必要を、彼は訴えます。
ポスト構造主義の影響を受けた、スピヴァクやバーバといった批評家が、サイードが問うた「西洋」という主体の存在が、「オリエント」という他者の声を抑圧していく過程に注目し、そのポストコロニアル批評を批判的に再構築していきます。

インドをはじめ植民地支配による教育制度が浸透しつつあった19世紀半ば、支配者の言語を巧み扱った文学作品が現れはじめます。これを支配、被支配といった、単純な二項対立の図式に収まらない現象として捉え、植民地支配が生んだハイブリディティの可能性を論じることで、ポストコロニアル批評を翻訳し直していきます。
先進国による、第三世界への経済的支配の影響。つまりネオ・コロニアリズムといわれる歴史的コンテクストの中に、文化や国家を超えていく、ナラティブの発見を見出すことも出来ます。

例えば現在、インド経済が急速に熱を帯びています。インフレ指標となる、卸売物価上昇率は、2年ぶりの高水準にあり。中央銀行による利上げにも関わらず。卸売物価が6.7%上昇。しかも100万人とも言われる、インドのホワイトカラーの給与上昇の結果、消費財の需要が拡大しています。
1997年に、京都市の、国立京都国際会館で開かれた地球温暖化防止会議。その京都議定書の、日本の地球温暖化物質の削減目標は、8%。しかし現状は、削減どころか約6%増と増えています。
おまけにアメリカやオーストラリアは議定書に批准していない。
アメリカはその環境問題で独自政策を打ち出していくことを表明していますが。京都議定書からは、その削減目標を免除されている発展途上国、とりわけ中国やブラジル、前述したインドの人口は増加し。産業の拡大がそれ逼迫していく、このまま野放しにしておけば、先進国だけで片のつく問題ではないことが、目に見えています。

かつて「歴史の終焉」という言葉が流行しました。政治経済学者のフランシス・フクヤマはこの言葉を、民主主義と資本主義が勝利を収め、これ以上の社会制度の発展はない。といった意味で使っていますが。いま一番深刻な問題は、地球環境が悪化の一途を辿り、人間にとって住めない環境になってしまうこと。文字通り、「歴史の終焉」になってしまうことです。
しかし、フランシス・フクヤマが言うように、既存の市場が飽和状態に達した観のあるこの現在に於いて、例えば半導体大手のインテルは、中国の企業と自治体の協力を得て、中国の農村部にコンピュータとインターネットの導入計画を進め。マイクロソフト・インド社は、インドの農村部に、3年でインターネット・キオスクを5万台設置する計画を進めている、そんな時代。一体、文学とは何なのか?

日本では、ミクシィやSNSが仕事でネットに常時接続できるIT(情報技術)業界から広まり、Iモードなどの登場でケータイ用のウェブサイトが普及し、例えばケータイ小説は、昨年1年間で10倍にも膨れ上がっている。
その一因には、パソコンよりもケータイの方が、有料コンテンツへの決済に対する抵抗感が低い、ということがあるのかもしれない。ではそのインターネットに於いて、芸術としての詩を標榜する文学極道に於いて、何が求められるのか。
2000年に京都市で開かれた第23回日本文化デザイン会議(日本文化デザインフォーラム主催)で、プロデューサーの榎本了壱氏はすでにこう言ってます。「ケータイにしろインターネットにしろ、新しい技術は遊びをきっかけに普及し、本来の目的から外れて”遊びメディア”に変ってきた。」と。

東京大学の板坂健教授は、1984年に開始されたTRON(The Real-time Operating System Nucleus)の開発プロジェクトの中で、ユビキタス・コンピュータというコンセプトを発表している。これはコンピュータを小型化して、あらゆる場所に組み込み、ネットワークでそれらを繋ぎ、ユーザーがそれを意識せずに利用できる技術のことで。ユビキタス社会と呼ばれる。コンピュータが空気のような存在となれば、それはもはやバーチャル・リアリティではなく。人間のDNAレベルで組み込まれた、本能的な発想の発露であるのかもしれない。もちろん問題は、色々あるだろうが。

ITによる遊びの可能性は、人間の意識や心理の中に新しい発見を与える予見性が潜在的に眠っているということです。それは人たちの生命観や人生観を変え、ビジネスや暮らしの中にも入り込んでいき、人間の感性や知の構造のパラダイムを組み替えていく可能性です。
つまりワイヤード文学に於いては、書き手と読み手の間には境界がなくなり、詩や文学や評論やジャーナリズムといったものが、上流から下流へと向かって情報を供給するものと、それを享受するという。この作家と読者の関係を、アクチュアルで交換可能なインターフェイスな対象へと姿を変え、尚且つ、常に新しいコミュニティの外部へと接触し続けることで、権威というものを喪失させ、そのコミュニティ、或いは組織に於ける権力構造(国家、制度、法、科学技術、セクシャリティー、民族、人種、言語、経済、流行、タブー、ファション。)そのものの概念を、脱構築する可能も孕んでいる。

しかし此処に文学は、あるジレンマを抱えることになります。つまり、読者と何かという問いです。しかしその答えはとても簡単です。読者を生み出し創出し、常に新しい発見と発想と体験によって、世情を挑発し続けられるものだけが作家と呼ばれる存在です。
しかしそれは前述したように、かつてのように特権的な地位を手にすることではなくて、世界という大きな構造の中に組み込まれた。無形の存在たちの中で暮らす、一人の平凡な人間の姿に他ならなりません。つまりワイヤード文学に於ける作家の姿とは、尽きせぬ対話者としてのポーズによって、表現者を名乗るもののことを言います。

20世紀の最も傑出したピアニストの一人に、グルダがいます。彼の生まれ育ったウィーンは、20世紀音楽のラディカルな息吹をカオスの中に叩き込んだといってよいような、そんな場所でした。
グルダは語っています。「十二音音楽なんて、錯誤でしかないんだよ」と。そして彼はそこから発生してきた前衛音楽にさえ耳を貸さなかった。しかし彼は、決して傑出したオリジナリティを持ったピアニストではなかった。ウィーンの批評家から叩かれます。「君のジャズは退屈だ」と。しかしグルダの奏でる曲が、もっとも哀切を帯びて響いてくるその理由は、故郷への思い。望郷の念といったことから生まれてくる。そして彼は演奏を終えると、まるで猫のようにニヤリと笑う。優れた芸術家は、自らの胸の中に、道化を一人抱え込んでいるのです。

オーストラリアのカカドゥ国立公園は、先住民族の聖地であり、そこには美しい岩山と、ブッシュと湿地帯が広がり。文字を持たなかったアボリジニーの人たちは、その岩山やまわり世界の全てに意味があり、それらは解読を待っていると考えます。
彼らは自然の声に耳を傾け、語りかけてくるものを知ります。しかし歴史を振り返ると、此処にも長い差別の時代があり、200年ほど前には、ヨーロッパからの入植者たちによって虐殺がありました。

今から8年ほど前に、ぼくがオーストラリアを訪れた時。シドニーに「バンガラ」という劇団があり、先住民族の伝統舞踊を、モダンにアレンジして人気のあった劇団がありました。都市化されていくアボリジニーの文化。そのサバルタンの歴史と声に、ナラティブを見出していくことと、現代日本に於けるワイヤード文学の現状を重ね合わせてみることも可能だということもできそうです。
アボリジニーの人たちは、周囲の自然に語りかけることで、意味を汲み取り、環境そのものをテクスト化していきます。テクストとはつまり、自ら体験の中に、運命取り込んでいくこと、その行為自体であり。かれらは詩がなんであることかを、文字を持たずして知っていました。

しかしワイヤードに於けるテキストとは、センター、マージナル、シンギュラリティ、エスケープ、アルスコンビナトリア、ソート、リコンフィギュラブル、ディスクリートネス、フィギュラティフ、サンクションなどといった、ハイパーテキストの複雑な解読作業を通して、自然と対置する、都市環境の運命を処理し、取り込んでいくという。得体の知れないファルスと化した、マニエリスムの大聖堂と対面しなければなりません。
飽食の時代の都市生活者たちにとって、林檎を一つ齧ることさえ、食への憑依を含んでいる。つまり地球の裏側では、いまこの瞬間にも、飢えによって、命を落としている人々がいます。

そんな世界の現実の前で、例えばアヴァン・ポップといったような。シャツを綿からシルクに着替える程度の低い芸術に対する態度では、ラディカルという言葉の意味をさえ、産業廃棄物に変えてしまうようなものであり。
例えば今、市場に新製品として出るお菓子の寿命は、早くて3週間でマーケットから消えていきます。その後その商品は、しばらく倉庫で保管されて、どこかで捌かれるか。廃棄されるかのどちらかです。
アヴァン・ポップというのは、つまりそのようなものです。

1964年に、パリ・フロイト学派を結成したラカンは、ロラン・バルトやレヴィ=ストロース、ミシェル・フーコーらと並ぶ、構造主義者と呼ばれることがあります。彼のテーゼに「無意識は言語のように構造化されている。」という発言があります。人間の主体は、精神の内側にあるものではなくて、外部ありながら疎外されたのもであると言います。これはアボリジニーの精神世界と一脈通じる部分がありますが。しかしそれは単に構造主義の言説を、補完するものでしかなく。人間の欲望を、内部に見るか外部に見るかの、形而上学的な操作にしかすぎません。

彼の理論は、後にクリステヴァやジジェクらに影響を与えていきますが、無意識とは、他者や周囲の環境を指し示す。ベクトルを含んだ指示言語であり。且つ、見識と現実と切り結んだ認識の問題であるのに対し。
彼ラカンは、お得意の「操作」によって、こう言います。
「了解というものは、シニフィアン連鎖における意味の横滑りを無視し、意味を固定的なものとして誤認するような行為である。」と、平たく言うとこれは、自分勝手な「思い込み」それであり。
これはよく日常的に起こることです。そういう時ぼくらは、視野を広げなさい。人のアドバイスに耳を傾けなさい。と言った言葉で諭します。会話とはそもそも、メタファーの衝突によっておこる。絶えざる情報と認識の、交換行為であるのですから。
例えばロシア・フォルマリストたちが提唱した「異化」の概念も、コミュニケーションの一つの特徴を示すものであって、それを受けたブレヒトの異化効果の理論も、彼の唱えた叙事詩的演劇。つまり演劇を観客に自由に解釈させること、これもこのコンテクストの中で語れる事柄です。

「経営者の仕事とは、値決めである。」と語ったのは、京セラの創設者、稲盛和夫氏です。しかし、企業の収益行動の前線に立って、顧客を獲得していくのは、担当窓口である営業マンであり。商品の原価から、顧客とマージンの交渉をして、実際に売値を決め、受注していくのは営業マンの役割です。ある席上で、京セラの代表取締役会長の中村氏が、環境問題に寄せて。日本にある、2,600万戸の住宅のすべてに、太陽光発電が設置できればと。その夢を語っておれらましたが。
現実には、一戸の住宅の屋根の面積のなど限られています。そしてそのエネルギーの発電効率を考えると、太陽光発電の設置にかかる初期費用の回収に掛かる年数は、50年やそこらでは効かないの現状です。
リーダーに求められる最大の役割とは、今ある現状の認識の上に立ち。その見識を示す夢と希望を、情熱を持って語る勇気と行動力です。

以前ぼくは休暇を利用して、イスラム文化圏を旅したことがあります。ホテルに泊まった朝。モスクから聴こえるアーザンに起こされ。ムアッズィンは地声ではなく、拡声器を通してモスクのミナレットから、その文言を発します。アーザンの文句は、スンニー派とシーア派とでは違います。
かつてイリア・プリゴジンは、可逆的な力学法則と、不可逆的な現象の間に横たわる、矛盾を解くことができなかった。そしてそのミクロな粒子の運動も、可逆的な力学法則に従ってはいるが、それを多数の集団として粗く見たときに、熱のようなマクロな変数に関する、不可逆性が出てくるといった見方が、主流になってきたと語っています。
個人的な旅先の記憶や、深いドグマに囚われた宗教間の対立。その歴史と進化。時間は人間が作りだしたものであり。時間の遡及性を語ることこそ。これがいま最もアクチュアルな思想的な態度です。

ビルバオにグッゲンハイム美術館を設計し、このバスクの都市の名を、世界に知らしめた建築家。フランク・O・ゲーリー。この建物は脱構築主義的な建築と言われていますが。その底流に流れているスピリッツは、プア・ディティーリング、細部はプアである。これです。
「商品」に繋がることで「主体」を実感する消費者の購買行動も、プアである。
ニューヨーク、マディソンスクエアガーデンのステージで、アコースティックギターを奏でるキース・リチャーズの横で、ファルセットを効かせた「ウォリッド・アバウチュー」を熱唱するミック・ジャガーも、プアである。
コンテクストを消し去ることで、新しい解釈を生み出す。人間の心を揺さぶり世界に伝達する技術。それが世界の遡及性に触れることを可能にしてくれます。

ネオプラグマティストを自称するアメリカの哲学者、リチャード・ローティは「リベラルな社会でのヒーローは、強い詩人とユートピア的な革命家である。」と語っています。そして彼はこれまでの政治思想が、公と私と結び付けようとしていたのに対し、この両者を分離する考え方を提唱しています。
しかしこれは彼自身が否定する形而上学そのものであり、そのアイロニストであることに寄って立つ彼の立場は、コンティジェンシーによる自己保身にしかすぎません。

しかしここに新しい概念を発見することができます。エクス・アイロニーというコンセプトです。アイロニストというのは、自分の言動が、偶発的に起こったことであることを、認識し、それを認める立場に立つ者の事です。では、エクス・アイロニーというのは何なのか。それはアイロニーというのもを、コンベンションの中に、入れ子構造として組み込んでしまうという、その精神性と実践のあり方のことです。
エクスウーシアというギリシャ語がありますが。この「エクス」と「ウーシア」は切り離しても意味を成す言葉です。ウーシアは本質を意味し。エクスとは、そこから何かが出てくるという意味です。この「エクス・アイロニー」という概念は、ぼくの造語ですが、こういったコンセプトに近い考え方は、すでにソフトウェア開発の現場では行われており。例えば、一つの事例として、エクス・アイロニー的な具体的な実践の例を引くと。ツリー・ハウスが挙げられます。

ツリー・ハウスというのは、木の上に家を作ることですが。そのルーツは1960年代のヒッピー文化に遡り。現在その第一人者と言われているのがピーター・ネルソン氏です。このツリー・ハウスというのは、日本の建築基準法では、建築物とは認められておらず。登記もできなければ、固定資産税もかからないし、郵便物も届かない。
ツリー・ハウスの作り方は、家の土台を支える幹へ、ガニエル・リムというスチール製のボルトをぶち込み。それを固定するために、さらに上部の幹へ、アンカーボルトをぶち込み。それをターンバックルを使って家の基礎組みをケーブルによって吊り上げる。
これじゃ結果、樹木を痛めやしないか?という話しもでてきますが、技術というものは常に進歩していくものです。

ぼくは此処で二つ哲学の一端について提示しましたが、つまり。「時間の遡及性について語ること」そして「エクス・アイロニー」と。これは云わば、詩の実践を語ることを意味し。文学と行為を結びつける理論です。

そして文学極道のサイトポリシーは、これれらの詩の持つ可能性を大いに語りつくすことにあり。詩とは一つ信号系であるとともに。それが伝達の形象をともなった時。それは古代文字のように、象徴形式の壇上へ言葉を立たせ、人間の大脳が両足で大地を強く踏ん張り、歩き始めるとき。
文明社会をそこに鮮明に浮かび上がらせた、人類という生命の意味の発生がそこで興る。

そういった意味でのカルチャライズされた文学とは、その詩の意義を、言語によって放つことにあり。詩はさらにその広いハイパーグラウンドの可能性を捉まえていく。つまりは、小説や絵本、マンガや評論、演劇、ジャーナリズムに広告。ゲームや写真や絵画、アニメーションや音楽、映画などといった。芸術や娯楽、マスコミュニケーションのあり方に留まらず。政治や経済やビジネス、法律や医学や教育、スポーツやボランティアや宗教。そして家庭生活や科学技術といったこの無尽蔵な制度の中を、もっともアクチュアルな態度で、且つ正面に見つめることによって。この弛まぬ広い世界への一端へと、その限りなき波及の中へ飛び込んでいく、妥協を許さない不断の冒険。これが文学極道の示す、ワイヤードに於けるポエムの、現在進行形の姿である。


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