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コラム

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最後のコラム

 コントラ

『言語を紡ぐことは存在論的差異を生きるのと同義だ』
―ダーザイン

子供のころから、部屋に居るのが嫌いだった。おそらく僕の前で交わされる父と母の会話や、新興団地の昼下がりの、密閉された無音の空間に、おぼろげな気持ちの悪さを感じ続けた記憶が関係しているのだと思う。ともあれ、僕にとっては文章を読んだり物を考えたりすることは、常に空間的な経験だった気がする。すべては実家の狭い空間を出て、団地の舗道を歩き、アーケードを通り抜けて駅の階段を上り、電車に乗る。または、喫茶店に入り、窓ガラスの外の道路を走っていく車の尾灯をぼんやり眺める。それら目の前の景色、背景、言い換えれば、テキストにとっては「行間」的なものこそが、いつもクリティカルな意味を持っていた。だから、これまで他人の書いた文学作品や、映画、テレビその他のメディア体験に、自分の思考が強く揺すぶられたことはなかったように思う。たとえば、昨年の暮れ、僕はメキシコのカリブ海岸をふらついていた。そのとき偶然三島由紀夫の文庫本を何冊か持っていて、雨の日などやることがないときはずっと読んでいた。よく知られているように、三島は1950年代前半を境に作風が大きく変わっているが、その前期の知的で偏屈な作品をいくつか読んだ。いろいろ考えはした。しかし実は小説の内容は3か月たったいま、よく覚えていない。僕にとっては、雨の日の海岸の、米国チェーンの喫茶店で、水滴がガラス窓を打っていた場面や、誰も居ない深夜の安宿のキッチンで、蛍光灯の下でふと本から顔をあげたときに見えた風景のほうが、ずっとはっきりとした印象を残している。

旅とは何かという問いに対して、ナイーブになるのを恐れないのならば、それは「生」をもっとも強烈に感じる瞬間だ、と答えたい。近年日本でも有名な合衆国の文化批評家ジェームズ・クリフォードは、その著作「ルーツ」のなかで、人間の生や文化的なダイナミズムを、特定の場所に根をおろすこと(roots)ではなく、経路(routes)として捉えなおすことを提唱している。生をrootsではなくroutesとして再想像することの意味はおそらく、いま・ここを、次の目的地との関係性における可能態「未来になりつつある現在」として感受することにあるのだろう。そこでは、移民たちにとってホームランドへの郷愁は、新しい土地を求める渇望に対する障害とは必ずしもならない。しかし、クリフォードが焦点化する人々の地球規模での移動や、加速する文化的異種混淆状況は、何も先進国から来た旅行者のロマンティシズムを満たすためにあるわけではない。昨日の夜ダウンタウンの喫茶店で、ある中国出身の留学生と話していたのだが、彼女が言うには、中国から米国へ、いまでも積荷にちかいコンディションで密航してくる中国人がいまでもあとを立たないという。いうまでもなく国際移動を楽観視できるのはごく少数派の特権である。

そういえば、どこかの論文が、エドワードサイードはオリエンタリズム批判のなかで、文化人類学を批判の槍玉にはあげていないという話を論じていた。理由は、いかに民族誌的調査が植民地的力関係の上をトレースしているとしても、文化人類学者はフィールドで現地住民と顔を突き合わして、親密な関係を築いていく。そのことは、単に想像のなかで作られる理想化され、ゆえに隷属化される「オリエント」とは無縁だ、ということなのだろう。僕は、これまで世界30か国に旅したり滞在したりしているが(この数自体はいまや自慢にも何にもならない)、実は、現地に行ったかどうか、というのは、それほど大きな問題ではないと考えている。むろん、文化人類学者は観光客があまり接点を持たないローカルな日常に入りこんでいくわけだから、その調査の精度や、結果としての学問的成果は、たんに旅行者の「そこにいる」ということとは別問題だと思う。しかしながら、目下の状況において「現地に滞在して某かのものを掴んだ」というなかば特権的な感覚や高揚を守り抜くためには、相当の難しい可能性に掛けていかねばならないと思う。中南米を旅行すると、3年、5年の長期で旅行している日本人によく会う。彼らの何人かは白昼安宿のドミトリーに引きこってまったく外に出ず、ある者は毎日、街の市場で調達できる素材で、いかに本物らしい日本料理を作れるかに異様な熱心さで取り組んでいた。そこでは背にしてきたはずの日常の臭気が、逆に日常化した「旅」の中で耐え難い濃度にまで高められているように思えてならなかった。

モダニズム建築の巨匠、ル・コルビュジェは1920年代に、新しい建築の構想を描くなかで、「住宅は住むための機械である」という有名な言葉を残している。彼は、建築を自動車産業と比較しながら、産業革命後の世界で生産過程がつぎつぎとオートメーション化しているなかで、住宅だけが伝統的な方法で建てられ、まったく進化する兆しがない、と指摘する。彼のラディカルなアイデアは、大規模な都市改造論へ発展し、その後、弟子の前川國男によって、第二次大戦後の日本における、焼け跡に建てられたプレハブ住宅の試みとして実現する。コルビュジェや前川の構想したハードウェアとしての、住む「場所」に関するモダニズムが、どの地点で「定住」というコンセプトさえを覆しつつある現下の文化的な異種混淆状況と接点を見出すのかは、興味深い問題である。どちらにしても、特定の「場所」や「場所性」に対する親和性はおそらく絶対になくならないし、そうした場所の点描たる集合をたがいに結ぶ線としてこそ、人々の織りなす「経路」が意味をもってくるのだ。

僕は中学校時代に世間で言うところの「いじめ」を受けた記憶がある。もちろん過度に激しいものでもなかったし、家にも居場所のなさを感じていた僕は、登校拒否をするわけにもいかなかった。1980年代の鉄筋コンクリートの校舎で、白い廊下の奥には赤い非常ベルが見えていた、あの当時、あの空間で首を絞められるような気持ちで居たこと。そのような強烈なかたちで、ある場所に存在していたこと。そのことは、現在の自分には思考していかねばならない必然性があることを示していた。「いじめ」がコルビュジェの構想した機械としての建築のように、場所を選ばない抽象概念であることはありえない。僕にとって関心があるのは、1980年代の東京郊外の一角で、自分が存在していた鉄筋コンクリート建築の場所性であり、その当時低く垂れ込めた雲や電線、寂れた商店街に埋め込まれた街並が特定の人々によって生きられてきた風景の、まさにその先端に、僕自身の記憶が位置しているということであり、それが僕にとって集合的な意味での歴史を考える出発点である。

詩なり「作品」と呼ばれうるものは、世界に強烈に根ざそうとすること、根ざしていたことを呼び起こすこと。その地点からしか生まれてこない。これが、多くの書き手にとっては多くの選択肢のひとつであるはずの、僕自身にとっては、唯一の立場である。丸山雅史さんの「どうしたら詩作が上手になるのか」という問いを手がかりに考えたこと。


[2008]

 コントラ

秋葉原の凶悪事件のあと、事件を起こした青年が「彼女ができない」ことを異常なまでに気にしていたということが明らかになった。社会学者の宮台真司によれば、女性にモテるかモテないか、という問題がひとつのパラメーターとして若い男性の気分を囲い始めたのは、1980年以降、彼の言う「郊外化」という現象が日本全土を覆いだした以降だという。日本全国、たとえば川越であれ米子であれ八戸であれ、郊外的景観はどこもファミレスの駐車場や規格化され造成地のような「第4空間」に侵食され、そこで人々は、人口甘味料が引き起こす依存症のように、光に満ちた部屋で「生」に関する福音を待ち続ける。宮台の言う、若者を差異化するメカニズムとしての、「コミュニケーション・スキル」という言葉は、この文脈において生物学的・突然変異的な意味を帯びてくる。歴史に根ざした文化規範やオーガニックな共同体性が破壊された2000年代の東京は、都市熱がビニールハウスの内部のごとく充満し、ほんらいは永続不活性の病原菌さえも、一触即発の惨事に簡単に持ち込んでしまう、そんな状況とも言えるかもしれない。

詩や文章を書くことは、究極的にはモノローグではなくダイアローグある。またジャック・デリダを持ち出すまでもなく、文章はつねにインターテクストであり、そこには無数の言葉と意味の「痕跡」が非現前的に現前している。文学極道に投稿される詩が、ワイヤードの内外を問わず、どのように読解・誤読されており、どのような文脈に接続され得るのか。これはきわめて真っ当な疑問である。しかしそのような形而上学的な問い以上に逼迫しているのは、上で描いたような、コミュニケーションの信憑性が破壊された被災地のような場所に、われわれは生きているという認識ではないだろうか。たとえば、美術批評家の椹木野衣は、戦後の日本が形作られてきた形跡を第二次世界大戦時のアメリカ軍による主要都市の空爆にまで遡行しつつ、戦後の日本を「悪い場所」として規定する。椹木によれば、アメリカによる日本本土の物理的破壊によって生じ、冷戦構造下で透明化されてきた歴史的空白は、そのまっさらな表層下に腐食しつづける歴史的トラウマ、つまり「グチャグチャ」な想像を覆い隠してきた。そして、その部分的な表出が、90年代以降、村上隆や会田誠といった美術家が作品に流用してきた「美少女」フィギュアなどのあからさまな「奇形」性だというわけである。

ポップ・アートは不気味である。アメリカ美術におけるポップは1960年代に脚光を浴びたが、ある美術史家は、クレス・オルデンバーグ(米)の、ザ・ストア(1961)という作品にその大きな転換点を見出している。そこで生じたのはそれまでのダダイスト的意匠である、汚さやノイズの徹底的な排除であり、美術作品の殺菌・清潔化であった。当然のことながら、ポップは消費文化の反映なわけだが、それ以上に身体的実存としての人間の不可視化という問題をはらんでいる。別の言葉で言えば、そこでは暴力は肉体的衝撃というわかりやすい形態をとらず、表層下で進行する―ゆえに抵抗もできない―プロセスとなる。この事実は、1960年代のジェームズ・ローゼンクイスト(米)によるF-111という巨大なパネル作品に分かり易く表現されている。ほんらいF-111 は、アメリカ軍のベトナムへの介入に対するプロテストという文脈で制作された作品である。しかしながら今日日本という場からこの作品と対峙するとき、そこで目を引くのは、広島・長崎のキノコ雲と、合成着色料で輝くオレンジに塗られたスパゲティ缶の中身との並置である。ローゼンクイストの作品は、1960年代にはすでに明らかになりつつあった、「暴力」の変容を視覚化している。広島・長崎の長期にわたった放射線被害も、工場製食品による健康被害も、水面下で進行していくのであり、それは通常の心理的反応では処理できない領域で、人体を蝕んでいくのである。

京浜工業地帯にほど近い住宅地で育った僕にとって、光化学スモッグだとか、有機水銀だとかの「恐ろしい」化学物質はつねに、身近な存在だった。それが環境を冒すのみではなく、食べるものや触れるものを通じて自分の身体を侵犯していくような、漠然とした不安を、長いあいだ僕は感じていた。そのころ、 1980年代の後半だったが、新しく改築された鉄筋の小学校で、僕は、道徳の時間に「ヒロシマ」の惨禍について習い、教科書ではサダコのことについて習った。広島生まれの「サダコ」こと佐々木貞子は、2歳のときに爆心地から2キロ弱の自宅で被爆したが、それ以降、体の不調を訴えることもなく、健康で元気な女の子として育った。ところが10歳のとき首のまわりにシコリができはじめ、やがて被爆による白血病と診断される。彼女は病気の回復を願い、いつか 1000羽に達したときに病気から回復すると信じて折り鶴を折りつづけるが、やがて11年の短い生涯を終える。健康で、しかも自分と同じ年頃の少女が突然の病に倒れ、それはどうやら彼女の身体を長年蝕んできた、放射能という科学物質が原因らしい、というとことは、おそらく僕は理解していた。しかし、その放射能というモノが一体どこからやってきて、「なぜ」彼女は突然死ななければならなかったのか。その答えは宙吊りになり、このことは数年のあいだ、僕のなかで不気味な存在感を放っていた気がする。

写真家、土門拳のもっともよく知られた作品である写真集「ヒロシマ」にはこのような新たな暴力の形状がなまなましく写し取られている。「ヒロシマ」(1958年)は、戦後10年以上たった時点での、広島の被爆者の現状を明るみに出した最初の写真集であり、収録された写真のうち、その半分くらいは広島原爆病院が舞台である。つまり、入院している「患者」としての被爆者の生活を取材したものであり、その合間合間に、彼らの家や家庭でのシーンが差しはさまれる構成になっている。「ヒロシマ」においては、病院と日常世界の対比は、土門が意図したかどうかに関わらず、そのまま「原爆後」と「原爆以前」の対比につらなっている。つまり病院の白いベッドで包帯を巻かれたり点滴を打たれたりするのは、原爆投下後に発生した新しい現実であり、ちゃぶ台や箪笥にかこまれた木造家屋のなかで、畳の上で生活するのは、戦前、戦中から続く日常風景の断片である。病院の無機質な白い壁と、貧困のなかで傷んだ畳。土門の作品は、原爆という科学的攻撃によって生じた一種の病理学的現実を過去の風景とのコントラストに投げ入れ、1945年を境にした時間性の分裂をなまなましく読者につきつけてくる。

それにしても、「ヒロシマ」が、アメリカ政府によって設立されたABCC(原爆被害調査委員会)が被爆者の遺体の解剖をデータ収集を理由に一手に引き受けているという、原爆のあからさまな「科学実験」としての意図を明るみに出している反面、土門や他の作家によるエッセイでは、これら水面下で進行する暴力を、科学の進歩やそれに伴う人間存在の疎外といった形而上学的理解に還元しており、ここに決定的な視点の甘さを感じる。なぜなら、それでは佐々木禎子の死の意味が、もっとも切実なレベルで理解できないからである。原爆は歴史的、文明的な文化観の問題である。原爆が落とされたのは科学の進歩のせいでも、その進歩が人間に手が負えないほど膨れ上がったせいでもなく、また人類にとりついた悪魔の過ちのせいでもない。それはただ一重に、1945年時点におけるアメリカ合衆国政府の政治的な決定のためにほかならない。

小林よしのりの「戦争論」は、日本の人文科学系メディアのなかでは時代錯誤のナショナリズムとして非難される傾向にあるが、時代錯誤なのは多くの場合、非難している論者のほうである。ここで読むのをやめないで欲しいのだが、たとえば、特攻隊で死んでいった若者たちへの賛美や、日本的なあり方への回帰という主張。どんなものであれ、なぜわれわれは異端な見方や意見が出てきたときに、それを躍起になって排除しようとするのだろうか。なぜ、それを受け止め、内包しつつ拮抗するという、弁証法的思考に真摯な努力をささげようとしないのだろうか。おそらくそれは、論理的思考ができないというよりは、自らの立ち位置が根本的刷新を迫られることの潜在的な恐れであり、保身主義のせいにほかならない。

言うまでもなく、歴史的に見て極端な立場決定は、つねに戦略的でありえてきたし、これからもありうる。ヘーゲルを持ち出すまでもなく、このままでは「出る杭は打たれる」という昔のやり口からまったく進歩がない。真の問題は小林の「危険さ」ではなく、彼を非難する論者のヒステリーが正当に見えてしまう、日本の学問や芸術の現状である。ビニールハウス文学・芸術の内部から出たがらない学者たちは、彼らが言うところの「ポストコロニアル」であり「ポストモダン」である現在、グローバルな局面において、そして日本という「悪い場所」に立ちつつ、立場決定+発信を遂行していくことの困難さについて再考して欲しい。そこでは「日本」という問題系を俯瞰し直すことは避けられないはずである。

文学極道は、ワイヤードという深い闇のなかのほんの小さな発光に過ぎないかもしれしれないし、おそらくそうだと思う。しかし、僕らはこの場所をすでに共有しているのだし、ここから少しでも、何がしかの「芸術」を、想像されたものであれ、現実のものであれ、文極の標榜する「世界性」に向けて投げていくしかない。そう思ってこのコラムを書いてみた。


芸術+詩

 コントラ

「詩」という言葉は、ゆですぎたソーメンのように弱々しく、はかなく見える。一般的な解釈においては、詩はセンチメンタルなものであり、いわば繊細な感性の弱々しい発露に過ぎない、と言えるかもしれない。詩には転覆がない。いくら繊細な感性を研ぎ澄ませようと、それはどこまでいっても現状の肯定と追認であり、個人が対峙する現実、または世界のあり方について異議を申し立てることはなく、またそのダイナミックな組成プロセスに介入することがない。あとで詳しく述べることになるが、「芸術」といえば、少しニュアンスが異なる。それはより、介入的であり、現実と個人のせめぎあいを、より可視的なかたちで、現前させるなかで、より多様で、包括的なアプローチが選択可能となる。とはいえ、このようおおまかな定義はあまり、説得的とはいえないし、かなり概念的に見えるかもしれない。一方で、文学極道の「芸術としての詩」というサイトコンセプトは、実際、予想以上に大きな波及効果を持っていると筆者は考えている。以下、このコラムでは、文学極道の屋台骨をなす「芸術としての詩」というコンセプトについて、いくつかの角度から検討してみたい。先回りして言っておけば、筆者にとって「芸術」+「詩」という組み合わせは、「詩」を、それをこれまでスポイルしてきた複雑な意味の網の目から自由にしようとする意志と試みによって貫かれている。「芸術」は自由であり、「詩」は不自由である。

「詩」の不自由さ、それは、現代日本という固有の場において詩を書くとき、目下取り沙汰されている現実を、いかに深遠さと明晰さを見失わずに描き出すことができるか、という問いに関連する。筆者にとって、日本人が詩的文章を書くときの最大の弱点は、極度に耽美的、別の言い方をすれば、「うっとり」することに満足してしまうことであり、ここに日本の人文諸科学にはびこるディレッタンティズムの本源がある。フランス現代思想でも、ポストコロニアル理論、マルクス主義理論等、なんでもよいのだが、多くの日本の知識人がおかしてしまっている過ちは、これら諸理論の目の覚めるようなコントラストやシステマティックな美学にうっとりさせられるあまり、不用な知識を土嚢のように蓄積することをもって第一としている点にある。日本の趣味人や知識人の99パーセントが日々励んでいるのは、彼らが建前上擁護する「批判的思考」や「詩的実践」などではなく、まったく別の何かである。残念なことに、彼らは、すべてのクリティカルな思想の根幹において決定的な役割を果たす弁証法的プロセスを、自己に深く根ざした道具として使いこなすことができていない。誰もはっきり指摘しないことだが、彼らが日々従事しているのは、世界から見たら非常に破廉恥というほかはないような、耽溺と馴れ合いとパラフレーズのオンパレードであり、それゆえに、この国には真の意味での定立や反定立などあったためしはないし、ゆえに、芸術も反芸術もありえない。

実のところ、大多数の日本人は、詩に関心がない。それは極度にセンチメンタルであり、情緒的であり、萎れた草花のように生気がないと考えられており、ときに「イタい」ものでさえある。なぜイタいのかといえば、第一に「詩」というのは、困惑や葛藤を個人の内面でいじくりまわす手段としか捉えられていないためである。しかし目下の状況では、これらの作品はむしろ一部のネット掲示板をのぞき、文学極道ではすでに少数派であり、より有害なのはむしろ、これらの作品への反省から生じたように見える、雑記・エッセイ風の文章や、言語遊戯でしかない一群の作品なのかもしれない。自己憐憫におぼれているのが醜いからといって、作者の生の強度も見えず、世界についても中途半端にしか語らない文章を書けばいいのではないし、ポスト構造主義などを盾にしてとりあえずテキストなら何でも正当化すればいいということは有り得ない。それらは既存の制度や枠組みにたいして、ほんの一瞬だけラディカルな批判を投げかけるように見えたことがあったが、現下の状況においてはすでに役目を終えている。現在、詩の書き手に求められているのは、自己について語ることが、なぜ自己憐憫を超え出ていくことができないのか、それにはどのような文化、歴史、社会的、そして個人的な関わりが介入しているのか、それらの問題系と向き合っていくことでしかない。これらは決して安易な手段によっては回避できず、文学極道の「芸術としての詩」はこれらすべてを前提としたうえでのコンセプトである。

結論から言えば、自己は、不可避的に世界に根ざしており、そしてその世界は具体的に彩られた空間と時間のなかにある。だとすれば、ただ「悲しい」とか「嬉しい」という感情をそれ自体エッセンスとして分離することは事実上できない。それらは地上に充填された特定の光加減や色彩配置を持つ空気であり、ヴィジョンにほかならず、世界性そのものと不可分である。つまり、感情について書くと同時に、あるいははそれ以上に、どれだけ世界について書くことができるかどうかに、成否の分かれ目がある。それは「何かが起こったから悲しい」とか、単純な因果関係について書くこととではまったくなく、むしろ、その悲しみや、喜び自体がちっぽけな人間の主体性を超えて自生する世界の在り方であり、そのような象徴形式の発現に感性を照準させていくことを意味する。そして、これが自己表現としての言語芸術にいたる唯一の方法だと主張したい。すでに述べたように自己表現と自己憐憫は、まったくの別物であるが、残念ながら、現在、多くの日本人が、詩と聞いて連想するのは、間違いなく憐憫のほうではないだろうか。弁証法的比喩を持ち出せば、芸術たる詩は、自己と世界性のせめぎあいの、突き詰めていったぎりぎりの地点で生じてくると、すくなくとも理論的には言える。世界と対峙しつつ自己の表現に展開していくか、憐憫に内閉していくか、それはもちろん個人の自由だが、もし自己表現を、しかも世界に根ざした存在としての自己表現を得ようと望むならば、すでに述べたように日本の学問や芸術が内閉傾向にあることを考慮して、それは二重の障害と対峙しなければならないことを意味する。そして、われわれ日本人は曇りのない目線で、「詩」とは本当は何なのかを疑ってかからねばならない歴史的局面にずいぶん前から足を踏み入れている。これらすべての困難を踏まえたうえで、文学極道は、自己に深く根ざしていながら、一方で世界性の根底を深く問い詰めるような自己表現に向かう作品群を、最も価値ある成果として評価する。

ここで、「芸術」という言葉を限定するために、モダニズム芸術を擁護しておきたい。簡単に言えば、モダニズム芸術を考えるとき、そこで鍵になるのは、第一に、ジャンルの独立という議論であり、この議論が核とするのは、「芸術」とはひとつの領域であり、芸術は、芸術のためにしか存在し得ないという前提である。たとえば、西欧の「芸術」は19世紀半ばくらいを境にして、たとえば肖像画に特化された宮廷画家のように、なんらかの目的や、特定の社会的「場」をよりどころとする―それゆえに作品の成否や優劣を決定する「基準」が明白に存在する―存在とは、袂を分かつ。かくして登場するのが、芸術のための芸術(前衛芸術)。つまり芸術がなぜ芸術であるのかも、芸術によってしか定義できず、それが、よい芸術か、悪い芸術か、というのも、まさに芸術によってしか判断できないという立場であり、こうして果てしなく自己言及を繰り返し、みずからを純化していくのが、いわばポストモダン到来以前の、モダニズム芸術という運動体の核心とされている。

文学極道ではあらゆる作品が歓迎されるから、作品の成否に関するスタンダードは常に、状況的に交渉される。だがそれとは別に、私がモダニズムの話を持ち出したのは、詩書き個人個人が、自らの生きざまを肯定することの自由さに気づくことが、自己表現へのプロセスにいたる起点であるということを言うためである。話を判りやすくするために言うと、私は文学極道においては、「才能」という言葉は徹底的に排除したいと願っている。たとえば、「君は才能がある」だとか、「文学極道には才能のある書き手がいない」とか、たびたび耳にするこれらのフレーズは、これもだいぶ前にその役目を終えている。なぜなら、才能という言葉はきわめて状況順応的な意味合いを持っており、もうすこし単純にいえば、文学極道はそのような才能を才能として無菌室で培養するような偏狭な世界性をひとたび克服することを目指しているからである。文学極道が必要としているのは、才能ではなく、「天才」である。天才は才能と違い、限定的な意味合いを含まず、その在り方は才能の場合よりもずっと突き抜けた、シンプルな素晴らしさを持っている。「天才」の全貌ついて論じることなど、筆者の手のおよぶところではないが、自身の経験から、かろうじてここで率直に助言することができるのは、詩を書いていくことの意味を、自己の内部で深く了解していること、であり、また今すぐには無理でも、一歩ずつ、了解しようとつとめることである。それはエドワード・サイードが「内側へ向かう旅」と表現したように、それぞれの原風景へと深く浸水していく過程であると考えられ、このプロセスを経ていない、自称他称問わず、「実力のある書き手」については、その評価は大幅に割り引かれるべきだと考える。また、技術的な問題について言えば、あらゆる表現上の技巧はあとからついてくる二次的なものだから、拘泥する必要はないし、完全に拒否する必要もない。天才たる書き手にとっては、すべての表現は必然かつ、有意味であるべきであり、また、それはあらゆる旧弊な権威への信仰・畏怖や、かかる盲目さに伴う自己表現への怠慢を超越しており、したがって不要な自意識の蔓延や、他作の表層的な模倣におちいる必要がない。文学極道が求めているのは、巧みに他者の評価に擦りよっていく「才能」ではなく、むしろ現況を洗いざらい問い直す意志に貫かれた「天才」である。

最後に、西欧の弁証法と芸術をとりあげたので、断っておきたいのだが、私は日本的な耽美主義美学を根底から捨て去り、西欧思想の合理的なロジックに全身を傾倒しろ、と言いたいのではない。それは終着点ではなく、むしろ現下の状況における戦略的な選択であり、自らの過去を問い直すためのステップにほかならない。標的は日本ではなく、あくまで世界であり、そのような世界の中で生きるためには、通行許可書をいつも首にさげていることを意味し、そこには不可避的に「日本」と書きこまれているだろうから。好もうが嫌おうが、欧米の知的流行を鏡像のように内部適応させていくことだけでは、ますます加速する引きこもりを食い止めることは出来ない。日本の真の脅威は北朝鮮の核弾頭や中国の経済的軍事的肥大化ではなく、萎え衰え内閉していく感受性の側にあり、ここでは敢えて特定化を避けるが、その起源は歴史的に実証可能な範囲に入る。逆説的になるが、日本的な耽美的美学―広く言えば東洋的な一元的な思考形式、が遺伝学的に劣勢ではないことを世界において明るみに出すためにこそ、馴れ合いや迎合ではなく、むしろ、とてつもない差異やコントラストの二重、三重衝突を許容しうるコミュニティを立ち上げてゆくことが必要となる。「開かれたコミュニティ」などという安易な言葉はむしろ有害である。開くにしても、閉じるにしても、すべて過去のことであり、むしろ肝心な認識は、われわれはすでに出発し、出発し続けているのだ、という事実である。別の言い方をすれば、このムーヴメントはすでに始まっており、どの瞬間においてもいくつもの始まりが始まりを定義しつつあり、それは完成させるものというよりは、文学極道の参加者自身が、新たな始まりをもたらすことが要求されている。だが、これには条件がある。つまり、文学極道で求められているのは、ゆですぎたソーメンのような「詩」ではなく、斬新かつ安定した構造を持つ、「言語芸術」のみである。


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文学極道

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