文学極道の本が発行されました。「文学極道No2」他。No1、No2共に21世紀日本を代表する本物の現代詩人の作品集であり、手帳の老人の詩のような読むに値しないものは一つも載っていない。文学史的な本であると確信している。よく読んどくように。読まない奴は出入り禁止な。
この本を発行する費用は、私と平川綾真知さん、稲村つぐさん、前田ふむふむさんで分担した。諸氏に感謝を。また、本体web文学極道の万金する高いサーバー代金ドメイン代金を払い続けてくれている管理補佐 / 統轄・後見、もとか氏に感謝を。そして、文学極道のプログラムを組み、運営し続けてくれた実質的な管理人、ゆうなに感謝を。他のすべての発起人、スタッフ、良い作品を投じてくれた投稿者たちに感謝を。
貴殿らがさえないポエムを貼りつけている間に、無数の者が多大な無賃労働をし、自腹で金を払い、このサイトは運営されているのである。その労力に報いるために貴殿らは、いっそう精進して傑作を投下していただきたい。
文学極道は、腐りきって再生の余地のない既成の文壇に作品を投じる気にならないネットの実力者たちが分離派として立ち上げ、発起4年で瞬く間に文学の最高峰といえるメディアへと成長した。どこの雑誌を見ても文学極道とは比べようもない程度の低さで、もう大昔から老人クラブの様相を呈していた既成の詩文壇はどんどん倒産し、あるいは実質的に同人誌の類いだとしか言いようがない発行部数に凋落し、ネットにお年寄りと幼児以外のほとんどすべての者が接続している状況でその現実から目をそらし、知らないこと、できないことについては黙っていればいいのに、ある種の認知症の者は敵意を表し、詩と思想のネット時評で、名前は忘れたがある認知症と思われるお婆さんが「ネットには双方向性がない」という意味不明の妄言を書きつけたり(詩と思想が悪いんじゃない。詩と思想のネット時評は光冨郁也さんが務めるなど悪くないこともあった。あのおばーさんの無知蒙昧な発言をチェックしなかった編集の責任だ)、井坂洋子が「国家概念やある種の宗教、ネットなどの集団偏向現象を詩は嫌う」と言い放ったり、滑稽なことが多々あるのだが、もう、そういうことで私はいちいち腹を立てない。
何故かというと、事情を知っているからだ。今私は重度ではない老人が住む老人ホームで働いているが、50人の入居者の中にパソコンを持っている人は一人もいない。携帯でネットにアクセスできる人さえ一人もいない。特段、認知症の様相を呈していない人でも、お年寄りのほとんどは(全員ではない)、今、現に、ここを生きていない。路上に何万人もの失業者が寝ていても頑迷な年寄りは自民党に投票するのだが、現代詩手帳などについて、老人クラブの類だと解れば、介護員として、怒る気など全くなくなる。井坂さん、佐々木さんら現代詩手帳のお年寄りたちは大丈夫だ。私がちゃんとおむつを替えてあげるから安心して往生しろ。私は職場ではやさしい人で通っており、楽しく穏やかに老人ホームでの生活を送っていただけるように努力している。だが、それは詩とは関係のない話だ。
詩は、国家権力や民族意識、ある種の宗教、現代詩手帳などの集団偏向現象を嫌う。
ところがである。4年間は良かったが、今年(5年目)の文学極道は著しく質を低下させているように私は感じている。良い書き手も無論いるのだが、秀でたものが少なく、読んでも何の足しにもならない、そんなことは日記にでも書いておけとしか言いようがない駄文が多数投稿され、読む気が失せるような場面も多く、以前現代詩手帳について言った言葉を文学極道の投稿者たちにも言わなければならない。
原因は多々あろう。先ず、私自身に責任がある。私の中で情熱が低減し、こんなの駄目だからまともな作文を書いて出直してこいと説教を垂れ続ける為に投稿掲示板に出張る頻度が著しく減ったこと。他の発起も疲れ、同様に投稿掲示板でダメ出しをする頻度が著し減った。これによって、駄作がのさばるようになった。
また、もっと広い範囲でネットいうメディアの性格の変貌も大きな要因になっていると思う。かつてネットは創造者、先行者たちの場所であったのだが、万人が接続するようにると悪しき側面も出てくる。即ち、ネット自体が凡庸なメディアになった。BlogやmixiどのSNSはhtmlなど全く知らなくても使える。10年前のネットはリンクを辿っていくと驚愕的な新世界に、果てしない地下迷路の果ての暗黒掲示板群にたどりつける場所であ、創意にあふれ、そのサイト自体が芸術であるようなホームページが無限のリゾームとて遍在していた。だがネットについて、私はもうそのような表現を使えなくなってしまた。ワイヤードに勃興した新しい文化は消えうせ、blogと携帯でネットにアクセスする者の登場によってほぼ壊滅的に消滅した。どこにでもいる凡庸な人間の公開日記の次元に凋落したのである。したがって、私はもうワイヤードという言葉を理念として使えなくってしまったのだ。第4回創造大賞受賞者・黒沢氏が以前語ったように、ロマンが、こでもまた死んだのである。
情報の流通に於いて、人類史上未曽有の進化を私たち(現代詩手帳の老人以外)は体験てきた。創造者であるかどうかなど何の関係もなく、今はすべての人類が情報革命の地平にいる。かつて私はこのことについて英利政美の言説を引用し、地球規模のニューラルットワークができて新人類が覚醒するようなスペキュラティブフィクションをあちこちに書いてきたが、実際に起こったことは、地球規模で、どぶ板的に人が繋がっただけである。
だが、こんな話はもうやめよう。昔日を懐かしむのは年寄りのすることであり頭が禿げる。
万人が登場したということの良い側面を見よう。商業活字雑誌の月間発行部数は数千部だが、新世紀詩文学メディア文学極道は一日平均一万アクセスを超えている。即ちマーケットが広がった新しい情報の地平で、また発起当初の厳しい芸術家としての戦い、コントラさんの言葉を借りると「天才」たらんとする戦いを投稿者諸氏に厳しく求めるものである。凡庸の荒れ野にそそり立つ赫奕たる異端。これが、文学極道であり、リアリズムによる圧倒的な筆力をバッグボーンに、SFやシュルレアリズム、魔術的レアリズム、精神病理学から核物理学まで、あらゆる手管を使って強烈な異化作用を現実の中に織り込んでいくのである。
それから、ある種の物語の死ということについて少し思いをめぐらしていただきたい。これは、文学史に限らず人類史に於いて何度も経験されてきたことであるが、天才的大詩人・一条さんの一群の詩は、あらゆるロマンの死を宣告しつつも、空虚な場所、非=場所に鮮烈な実存のファントムを灯してきた。
わたくし事を述べれば、私、凡庸には一条さんのような技法は使えないのだが、似たような感慨から、物語のファントムを艶やかに描けないかという挑戦がここ数年の自身の詩行、小説「光の王」での試みであった。
現況の文学極道について思うところを一つ具体的に書いておく。人間を書ける者が著しく少ない。今の文学極道には佐藤yuupopicさんがたりない。まーろっくさんがたりない。(佐藤yuupopicさんが大賞を取らず殿堂入りもしていないのは我々発起の不見識であり、過ちは改めるにしかず)
詩は表現ではないという言葉から現代詩の言語遊戯化、内閉化が加速されたのだが、その手の連中については、その抽象画気取りのぬたくりものは何だと大昔にヘッセ大先生がお怒りであり、お前らハイデガーぐらい読んでから出直してこいと説教せねばならず、発起当初から文学極道は、空虚であろうが生が充溢していようが「世界性」という言葉を理念としている。この理念は現代日本最大の詩人・文人、コントラさんの一群の詩行と評論によってモダニズムの立場を鮮明にすることにより強化された。文学極道の理念を知らない者は、速やかにコントラさんとケムリさんなどの一群のコラムを精読するように。
完全失業率5.7パーセント(完全失業率というのは職安で仕事を探している人間だけを数えており、諦めて路上で寝ている者や、求人雑誌で仕事を探している者は含まれていない。よって、実際の失業率ははるかに大きい)。毎年3万人が失業苦で自殺し、やる気のない政府が数を把握していない何10万、或いは何100万の失業者が路上で寝ているこの国で、ポストモダンなど糞喰らえである。
文学極道では当初から自意識ポエム、リスカポエムなど論外であった。ガキに創造大賞がとれるような甘い世界ではない。だがこれは、「私」について書くということを否定するものでは全くない。それどころか「私」のいない文学などゴミだと言っておく。無意味無内容な言語遊戯は存在論的に最低の言語冒涜怠落態であり(小笠原鳥類などと一条さんの決定的な違いは、単なる空語の羅列と、腸がはみ出るほどの強度を持った虚無との鮮烈な立会である)、リスカ系や現代詩手帳の読んでも何も感じない身辺雑記と、現代性を担った文学の違いは、語り手がもつ生の強度、そして視線の違いである。本物の現代詩人は「私」について「私」の主観でのみ書くのではなく、「私のいる世界」、「私たちのいる世界」を描く。動画映像に負けない筆力で臨場感を演出するのが文筆家の腕の見せ所である。
友人との電話を想起してみよう。携帯電話から伝わってくるのは紙に記せる相手と私の語りだけではない。相手の発話からは、相手の情態性、気分、その人の人となりが口調や息遣いから語らずとも伝わってくる。そして、語りの背後には、その人のいる世界がある。電話の相手は遠い大都市の一隅にぽっかりと空いた空き地、夜の公園におり、相手の息遣い、背後で鳴く牛蛙たちのコーラス、池の側の小道を行くその人のサンダルがサクサクと道を踏みしめる音。そこはBONES制作『Darker Than Black』のヘブンズゲート、あるいはタルコフスキー監督『ストーカー』のゾーンであり、その人が踏みしめている道には、流失したゲート内物質がほの青く光る水晶の結晶のような夜花を割きほころばせている。影絵芝居の大都市の一隅から見上げる空に星はない。
器用ではない人たちの会話は時々風の音になる。キミハ其処ニイルノカ? 池には銀色の観測霊が佇み、私に電撃の指南をしようとしている。ワタシハ何処にイルノカ。
禁止空間であるゾーンには様々な憶測、風聞が立っている。ゾーンの核心部に行けば、その人の本当の願いがかなうのだと。自分が本当に何を願っているのか理解している者がいるだろうか。唯一の本当の願い。タルコフスキー監督の映画には、放射線障害で手足のない身体に生まれたゾーン帰りの男の娘が、手を使わないでテーブル上のコップを動かすシーンがある。人の唯一の本当の願い、それは解らない。ただ、祈りが描かれていたのであろうと思う。
(電話の相手には、すまないとしか言いようがない。すまないという権利すらない。ごめんね。リトルグッバイ
ただ、風が吹いていた。今も耳の奥に牛蛙の鳴き声と風の音が残っている)
夕方/赤光を浴びながらバイクを飛ばし/禁止空間西部地区へと向かった/琴似発寒川の堤防を/繁茂する川柳を縫って駆け上がる/川柳の枝には黄金色の茸が群生している/放射能を蓄えた/(湯がいて鰹節と醤油で食べると美味い茸だ) /堤防の斜面を使い/スターウエイトゥーヘブン/一気に鉄馬は分離壁と鉄条網を乗り越える//着地地点でパワースライドする黒馬を御すと/河原にらせん状の狼煙が上がる/遥かな遠方で/観測者が深紅の旗を揚げる/何者かが素粒子論的な合図を受け取ったのを確認した私は/核分裂の焦熱で溶融した滑床の川を渡り/反対斜面を太陽に向かって一気にジャンプする//
札幌原爆射爆場のクレーターの上に立ち/夕日を仰ぎ見る/今日の太陽はやけに巨大だ/
「プーティーウィッツ」小鳥が鳴く/私を呼んでいるのかい?
あの真っ赤なトンネルの向こうには何があるんだ?
えいえんの安らぎか/地獄の劫火か/俺が知るわけないだろう//
この世のものとも思えぬ異様な花々が咲き乱れる斜面を一気に駆け下り(月下美人は/星々が 天涯に映し出されるのを待ち/白い蕾をかしげている)/ 一息ついていると/叫び声が聞こえるのでもと来た方を見上げると/クレーターの縁に廃棄された巨大な錆色の旧ソ連邦製のクレーンの上に/レオナルドダビンチ発案の飛行装置を背負った男が両手を広げて立っている//
「主よ/主よ/何故に我を見捨てたまいし/えいえんを求すえいえんの旅に/私はもう疲れ果ててしまいました/どうか御許にお迎えください」
周囲に集まった数人の男たちが彼の馬鹿げた振る舞いを止めようとしていたが/夕日を浴びて金色に輝く彼の姿を見て/止める理由など何も無いのだと私は理解した/
きびすを返し/爆心地へと向かう/彼は翼をはためかせ/真紅の柘榴石が眼球の内で溶け出した巨大な球体の向こう側で/はたしてえいえんに触れることが出来ただろうか?
しばし歩いて振り返ると/西の空にはクレーンの影だけがあり/彼らの姿はもう見えない/沈んだ日の名残で空は赤く燃えていた//積雲の輪郭が/黄金色の逆光の中で化石している/ /
*
再び佳子が僕に語りかけてくる/
「えいえんってなに? どんなえいえん?」
さあな
文学極道はヘブンズゲートであり、或いはゾーンである。一旦フラットになった巨大な情報の地平、即ち世界に屹立せよ、明暗と遠近法の立て組みを、人間と原爆投擲者の立て組みを、圧倒的な筆力で、赫奕たる異端、文学極道、再-創造せよ。