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コラム

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2008アフロものに告ぐ(書籍より転載)

 ダーザイン

窪君の文章を借りて(パクって)、罵倒文を上げておきます。以下激しい罵倒になってしまうが、ただ最初に一言言っておきますが、たくさんの優れた小説や詩を読むのは、天才の事情は知らんが、俺のような凡人には効果があったと思うよ。

(冒頭に云っておくが、この文章を不快におもう人はアフロだ。なぜならこれから書く事は、ある人達にとっては、はっきり云って、ちょんまげを結ってチューリップボトムをはいているような時代錯誤な薄ら馬鹿さ加減を指摘しているものだからだ)

 さて、反革命の連中に告げる。本当のことを云うと、俺は「詩」を読んで「詩」を書いている奴は腐敗した生ゴミのようなやからだと思う。「詩」は大抵の場合、「人様に読んでいただく」という発想の無い自己満足な小難しいたわごとであり、或いは「つまらない身辺雑記」である。Hな人賞、現代○手帖賞、はっきり申し上げて、そんな物、ものすごく少数の身内以外、誰も読んでいませんから。以下に述べるように、現代性をまったく欠如している現代○手帖は「旧人類手帖」とかに改名しないと名称詐称に当たって法的に拙いんじゃないのかな。心配だよ、笑い。全国詩人名鑑だか名簿だかも詐称に当たるのじゃないのかな、俺の名前も、創造大賞受賞者の名前すらも無い。寝言は寝て言えという感じだ。
 歌謡曲の歌詞レベルの文学体験しかもたずに、糞みたいなポエムを貼り付けていく奴は確かに困り者だが、今は古代ギリシャ時代でも平安時代でもないんだ。文学芸術も映像芸術メディアに収斂されようとしているし、歌詞も含めて言葉ジャンルからの影響を露骨に出している人間は、俺ははっきり言ってパクリ扱いで良いと思う。詩を書く者が文章修行に詩を読むというのはもっとも安直で怠惰で前時代的なやりくちだ。だいたいお前ら、産まれた時からテレビがあっただろう。情報は第一義的にテキストとして入ってくるのではなくて、映像として入ってくる。ならば、文筆も映像的でなければ現代的だとはいえない。昔の詩人さんたちとは違うんだよ。俺も、エヴァとネットの出現以降、先ずはアスキーとして詩を読んでいる。例えば文学極道の採点でも、画像として視界に入ったとたんにその詩の良し悪しを判断できる。無論、その後一字一句ちゃんと読むのだがね、最初のアスキーが視界に入った瞬間の印象に間違いがあったことはめったにない。
 こういう体験を始めてしたのは、ネットで良い詩を探し始めて、animicaさんという人の詩を読んだときだが、(『夜明けの崖』「雷なり晴天なり」とかお勧め)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6565/
 作品が視界に入ったとたんに、読まないでも、ああこの人は存在論的な天才だなということがわかった。animicaさんの筆からは、「世界」が自ら語りだす。「自然」という言葉の字義通り、森が、水が、光が、そして、天と地の間にいる人が、生と死の狭間にあって、自らの存在の光芒を水と、森と、「世界」の中に放つのだ。それが、animicaさんの詩の世界だ。ハイデガーが存命であったならば興奮するような大詩人である。他に、こういう存在論的に本来的な詩人に、加藤紗知子さんがいる。
 奇妙な体験だと当初は思ったが、視覚の現象学的に、現代人にとってはいたってあたりまえの事柄なのだろう。

 そして私に文学極道を発起する意思を抱かせた宣者、圧倒的な写実力による現象学的ハードボイルド文体で、此処と異界を混融させる、越境の魔術師にして新世紀詩文学の預言者、荒野に呼ばうる者・「実存大賞」ツータイムチャンピオン・光冨郁也氏、私と志を同じくする詩人・そして、完璧な鉱物質の美と絹目のように美しいやわらかさを同時に描ききる、マンディアルグやジュリアン・グラックにひけをとらない作家・榊際氏、文学極道発起後、本格的に現象学派詩とでも言うべき物を創造して言語芸術の世界性を宣言し、「現代」を描ききる文学史的な英傑・第2回「創造大賞」受賞者・コントラ氏、リルケよりも奥深く潜りつつ、現象学の地平の最深奥を探求する・第3回「創造大賞」受賞者・宮下倉庫氏、実存の強度で日常をエクソダスするイマジネーションの炸裂を継続的に示し続ける偉業を果たした・第1回「創造大賞」受賞者・ケムリ氏、実存の作劇法の圧倒的な力を示した・佐藤yuupopicさん、天使の羽が触れてくれたような僥倖を与えてくれる、凡庸には絶対に思い至らない美しい言葉を紡ぐ・軽谷佑子さん、ネオリベ施政の下の現代人の暗澹たる実存を先見的に描いた文学史的な大傑作「カンチャンリルダの夜」で読者の魂を震撼させた・まーろっく氏、どうして、こんなに暖かい肌触りのような感触にまで肉薄できるのかと驚愕する、もう一人の現象学派の勇・「創造大賞」ツータイムチャンピオン・りす氏、読者を震えさせる完璧な実存の切れ味と文章の流麗さを演出した・第1回「実存大賞」受賞者にして、最優秀レッサー4年連続受賞の圧倒的な評者・ミドリ氏、文学の到達点・アンチロマンの地平を越えて、自らの名前を冠した「一条様式」とでもいうべきループとグルーブの新地平を開いた、神が筆に宿った男・天才的大詩人・一条氏、煌びやかな神秘と虚無の魔術師にして、生の強度の覇者・第4回「創造大賞」受賞者・黒沢氏、、、
 現代詩の王者とも言うべき綺羅星のような詩人たちが次々と文学極道というメディアに顕れる。名前を上げていくときりがないので、これで控えるが。

 文学極道という、唯一の客観評価にさらされる地平に出てこない、臆病者と無知な者しかいない旧メディアの中で、大手を振って「現場の詩人」とか言っているやからは、もっとも低レベルでマイナーな連中なんじゃないのかな。「現場」ってのがどこの権力装置だか知らんが、お前らの詩なんか、文学極道に出て来たら入選できない場合が多いと思うぞ。
 わけのわからない戯言を書いて、わからないのを読者のせいにするような糞は全員アフロだ。斬新な表現も、ちゃんと読者に何某かの印象が伝わるように書くのが文筆家の筆力だ。
 詩のボクシングとかで下手なお笑い芸人の真似事をしている奴らも全員アフロだ。お前らはヘボ芸人で文人じゃない(うにまるさんなどの、テキストとしても上等な一部の人を除く)。

 俺がそう信じるに至るには、幾つかの映画やアニメや漫画を見るだけでじゅうぶんだった。無論、ワイヤードメディアでも活字メディアでも様々な「詩」に触れ、更に膨大な小説を読んできた。言葉のデッサン力はやはり偉大な筆力を持つ小説家(糞溜めJ文学・日記小説じゃない)の偉業の数々を読んできたことから身に付いた部分が大きいだろうが、ずっと現代性を体現してきた映画や、今日本で現代性の先端を担っている傑作漫画やアニメに拮抗して、己の文学の言葉でも現代性を担おうとするのならば、映像を言語化する筆力を獲得せねばお話にならないんだ。もう現代性を担っていない、イマジネーション禁止の日記小説=純文学や活字詩雑誌の老害たちの身辺雑記詩なんて読んでいても足しにならんよ。芥川賞や中也賞よりも、漫画誌アフタヌーンの四季賞の方が本来的に芸術的・文学的だ。つーか、芥○賞とか中○賞とかってゴミ溜めの様相を呈していることが多いじゃないか。イマジネーションの欠片もないサラリーマンやガキのつまらない日記のようなものを文学と呼ぶのはやめてもらいたい。
 「詩」を読んで満足している人は、果たしてそういう発見をしてきただろうか? 少なくとも、ありきたりの身辺雑記詩や、身内以外誰も読まない現代詩の中にそれを見てきたと云える人はどれだけいるだろう?

 まさしく、この日本で、ごく普通に学校教育を受け、友達や、同年代の人達が夢中になるような音楽や、マンガや、映画に「新しい芸術表現」のありようを見つけずに、過去の遺物としか言いようのないジジイどもの糞みたいな詩を読んで、そのジジイに媚びへつらって詩の書き方を習うような屑は予め時代錯誤なので全員頭髪をアフロにしろ。そう云う人は、文学史や古文書の研究家にでもなれば良い。生き残っているアフロは皆糞みたいな日記としか言いようがない最低のポエムを書いている。こういう奴らが詩人の見本としてメディアに出たり、偉そうに発言したりするのだから嫌悪感をもよおして吐き気がするわけだ。断じて言うが、あんな奴らは現代詩人じゃない。詩人だと名乗って欲しくすらない。その存在が権威であるのなら、その存在そのものが害悪で邪魔なので可及的速やかに隠居してまともなものを書く詩人に席を譲って欲しい。そんな所で権威のおこぼれに預かろうとする奴らも全員アフロだ。

 ある老人が、「今の若い書き手には、詩の歴史そのものがない」と憤慨している。また、ある老人は、「読んでいない、アンヒストリッシュな動物だ」と憤慨している。その老人たちへの応えはこうだ。あなた方の詩は読むに値しない、だから読まれないのだ。これだけだ。若い連中をとやかく言う前に、自分自身が、詩が読まれなくなった元凶の一人であるということを自覚して、速やかに隠居し、創造している若いのに席を譲って欲しい。あいつらは、現代日本詩壇の最高峰、文学極道創造大賞受賞者の詩すら読んでいないのだから。

 老人の話は、こちらではエヴァンゲリオンやlainの話をしているのに、サザエさんや鉄腕アトムの話をしているようなもので、実際その程度の認識しかないだろう、現代芸術についてこの人たちは。何万人もの失業者が路頭に迷い、公園で寝たり、自殺していくこの国を作った連中だ。奴らは高額な年金を貰って、のんきに下らない身辺雑記としか言いようのない詩を手帖あたりに貼り付けながら、権威を気取っている。おい、言語派とやら、そこにあるのは、ガラクタと反革命のヒエラルキーだ。

 だがすでに、ワイヤード詩壇は文学極道において弁証法的に堅固なステージに成熟している。旧商業活字メディアが無料のネット上のメディアが成熟している状況を認める訳には行かないと思うのだとしたら、実に肝っ玉の小さい話しで、商業としての発展の才覚も予見も何も無いといえる。歴史の存在論的行運の為に文学極道は生まれたのだ。歴史認識の欠如した旧メディア活字同人内輪でやっている連中は、歴史の巨大な流れの中で、アウフヘーベンされるどころか、廃棄される。ワイヤードに於いて、情報はシェアされなければ存在しないが、前述の老人のような人たちのデータはシェアされない。即ち、その旧メディアの老人は歴史の中に存在しない。Googlで検索しても、老人たちの詩はほとんど読めない。買わなきゃ読めない。みみっちいのか、馬鹿なのか知らないが、この情報社会でシェアされていないということだ。
 その、ワイヤードという新しいリアルの中に存在しない者が、創造大賞受賞者の詩も、A 道化さんも、animicaさんも読んでいないような人が、現代詩を語る。資格のない者が権威としての立ち位置に居座り続けて現代詩について語る。そのような場所・媒体そのものが、もうシェアされておらず、存在しないも同然だと言うことができる。原稿を依頼する相手を間違えている。俺に聞け。
 胸糞悪く馬鹿馬鹿しい話だ。旧メディアのみを見て、プチ権威の正史とやらを押し付ける。俺たちが正史だ、俺たちの詩を読めと。そういうことを言う老人たち自身が、その正史とやらそのものが、詩が読まれなくなった元凶だという事を自覚できないでいるのだから、実に滑稽で無様だといえる。
 上述した老人は、2005年にも、現代詩は二〇年停滞していると語っているが、停滞しているのは老人御自身と、旧メディアだけであり、文学極道は停滞などしておりません。
 荒地派の後に詩人がいない、詩というジャンルが消滅した、そんなことは、今、旧メディアを仕切っている糞みたいな詩を書いてきた老害たちの責任であって、俺のせいでもネットのせいでもない。腐りきっていて、もう、再生の余地はまったくない。何もしなくても、御年寄りが天寿を全うしていくに従って旧メディアは消滅する。一昨年発表された統計によると、六歳以上の日本人の六十三パーセントがネットに接続している。接続していない人たちのほとんどは、時代から取り残されたお年寄りだろう。淘汰の速度を速めるためには、徹底的な不買運動、読まない、買わない、無視する、という手が筋だが、連中のレールに乗るのは多少不快なことではあるが、こちらから鮮烈な物をバンバン投じてやって、ダメな者を相対的に駆逐できないか試みるという手もある。極道の力のある者もどしどし活字詩誌に哀れを垂れると良いし、俺自身も紙にしてみるつもりだ。だが、旧メディアは、いつまでも、老害たちを特別扱いし続けるのだろう。消え行く権力というものはそういうものだ。実に時代錯誤で滑稽極まりない非本来的なありようだ。
 そして一方、文学極道などネットでは、老害たちのちんけな歴史などとは無関係に人に読まれる詩が創造されている。偉大な文学極道の大砲(戦艦ビスマルクの主砲)一条さんは大変な本読みだが、糞みたいな詩人の本などほとんど読んだことがなかったそうだ。俺も現代日本活字詩人なんて、よほど気に入っている人以外、もうわざわざ金払って読まない。読む必要がない。だって、望月遊馬さんや最果タヒさんや杉本真維子さんや小木曽淑子さんや伊藤浩子さん光冨郁也さんなどの一部を除いてほとんど糞ばかりだ。ネットで無料で読める詩人の方に良いものが一杯あるのだから。ガラパゴス鳥類などといった屑はもはや言語冒涜者だとしか言いようがなく、文学極道の罵倒用語で言うところの「ゴミの山」。

 生誕と呼ばれる放擲を発端に演じられる一幕の劇の演じられる場所、即ち、本質的に分裂したものである自我(この分裂が存在論的差異の現われ出る場所、現存在だ。)は、消尽点へと至る間を歩む歳月を言語化することによって自らの生を現に在らしめるわけだが、ある種の者たちはエンペドクレス宜しく存在論的分裂の超克という不可能な試み、不遜な挑戦へと投じられている。不可能事への挑戦である以上、必然的にルサンチマンという情態性の色彩を帯びることとなるこのゲームの消極的な規則が予めの敗北であれば、積極的な規則は言語を生きるということだ。これによってルサンチマンを超克せんとするのである。
 言語を紡ぐ(詩のようなものを書く)ということは、存在論的差異を生きるということと同義だ。エンペドクレスは失われた存在の全体性の回復を求めてエトナ火山の火口に飛び込んだ。パウル・ツェランは詩の言葉によって存在の灼熱の火口に飛び込んだ。存在に何らかの聖性を付与しようとして腐敗していくロマン主義の肉体を焼き尽くし、美しい白い骨片を残すのだ。存在とは空白であり、虚無の顕現であり、来るべき書物には何も記されていないとモーリス・ブランショだかバタイユだかが語っていたね。
 だが、オナニストである孤独な文人はあえてロマン主義の死臭を手放さない。存在はその無の顔を持って現われ出るという否定神学の物語を生きることを選ぶ。自己に纏わるあらゆる狭雑な観念を廃棄し透明になっていく(これは現にここに在る生活者の道ではなく、廃人への道だ)道ではなく、絶えず失われ続けるロマン主義の腐臭そのものを意図的に生きること。
 いつか、豊穣な生の源、新たなる生の哲学の幻影が、遠い海の呼び声のように触れてくるのを妨げないために、白い骨ではなく、腐敗した有機物と共にあることを選ぶんだろう、きっと。

 ベルリンの壁という世界の中心にあった巨大な壁がなくなり、己を映し出す鏡を失った現代、自己拡散し虚無に触れる恐怖と向き合うことを余儀なくされた人類にとって、万人の万人に対する闘争の混沌から自己を再組織するためには、核による世界戦争の幻影こそが最大の安らぎにして、且つ、新しい人類の夜明けを予感させるものであったのだが、鏡を失った自我は、世界戦争の替わりに、引き篭もってニートになることを選んだ。そもそも意識とは分裂であり、存在論的差異、存在論的放擲がアプリオリな事態である以上、分裂を超克し、存在の全体性を回復せんとする根源的欲求に突き動かされるのは、ヘルダーリンやマイスター・エックハルトを待つまでもなく、必然にして人類進化の正当な道筋である。が、現在核が米帝による奇妙な独占によって隠蔽されているのは何たることか。存在に聴従せよ。 無が触れてくるのが解るか? 存在の光り輝く無のおもてとまみえる僥倖に与るのだ、すべての存在者を一個の全体へと回帰させるのだ!?
 要するにキチガイ沙汰だが、エヴァンゲリオンだ。綾波レイたんハァハァ

 始めと終りは輪になって繋がっている。歴史が砂の海の中に消えていったように、わたしも、存在しない子宮の幻影の中に後ず去って行く。えいえんの哄笑だけが空虚な空間に残る。終着の浜辺。原子力発電所の廃墟が蜃気楼のように遠く対岸の岸辺に浮かんでいる。

 俺は今宵も偉大なる旧ソ連邦国歌を聞きながら焼酎を飲んで寝る。生をつないでいくには大きな幻影が必要なんだ。笑い。
 バリケードの中で一瞬垣間見られたであろうえいえん。内ゲバと総括の向こうにあったはずのえいえん。或いは人類史上最大の市民蜂起、クロンショタット反乱や、ワルシャワ蜂起の地下水道の果てに見えた、遠く微かな光の中に。
 今年のモスクワは異常な寒気に覆われていて、マイナス四十八℃とか叩き出したそうな。大勢凍死者が出たモヨリ。二〇世紀という人間精神の壮大な実験場にあって、ふたつの全体主義、ヒトラーのドイツと赤色ロシアはとりわけ異彩を放っていた。(両者の出会いはもっぱら地政学的なものであったようだが)国家であれ、社会であれ、個人を止揚して開かれる新たな地平とはどのような顛倒であろう。

 1938年十二月、第4インターナショナル結成の会合において、シモーヌ・ベイユはトロッキーと対決し、痛烈な言葉を吐いている。
「あなたは観念論的だ。隷属させられている階級を支配階級と呼んでいるのだから」と。プロレタリア革命の達成とは、国家機関の解体、社会の個人に対する従属でなければならないと。一私企業に過ぎない現代○手帖権威も解体されねばならない。
 トロッキーは「反動的な個人主義」だと答えている。どちらが反動であったのかは歴史を見れば明らかだが、にしても、本当のゼロ地点、個人が勝利する永遠のゼロ地点はどこにあるのかね。永遠に問われ続けていくのだろうか。
 ワイヤード(ネット空間)の出現は、人類史的な大転換点であった。出会うことのありえなかった人と人を結び、世界を結び合わせる電話線という一本の糸。この糸が新たな世界性を孕み、世界を変容させたのだ。ワイヤードの出現は、現実という物そのものを変容させた。旧世紀の古典的なリアルはワイヤードの出現によって消滅した(隠蔽された)。人はワイヤードに自身を容易にメタファライズして、その新しい世界に遍在するようになった。
 共産主義という永遠の過程も、ワイヤードの出現によって、再発見されるであろうと思う。例えばP2P。
 俺たちワ×ズ世代の妄想は生まれつきだ、笑い。自らの手で、己の作品をP2Pに放流するくらいの気概がないと、作品を読んではもらえない。ろくに本屋に並べる力もない糞みたいな出版社から、100万も、150万も払って、たったの500部発行して、いったい誰が読んでくれるのかね? 何故、ネットという、可能態ではあれ、無限の読者がいる場所を使わないのですか、愚かなことです。作品は、読まれなければ、存在し無いも同然なのですよ。

「ワイヤードの情報はシェアされなければならない」
「ワイヤードには神様がいるのよ」
 by「serial experiments lain」
 岩倉玲音たんハァハァ
 レインは新世紀の神様だっただろうか、孤独な天使だろうか。

(現在、メディア文学極道の一日平均アクセスは一万を超えています)

 詩を読んでいれば詩を書ける、などと思っている人は明らかに文学芸術を馬鹿にしている。現代性を持った文学はそんな簡単なものでなど有り得ないのだ。タルコフスキーは見たのか? アンゲロプロスは見たのか? ベンダースは? ワイダは? ヘルツォークは? キエロスタミは? エリセは? クローネンバーグは? 佐々木昭一郎は? 原爆投下は? ベトナムへのダイオキシン散布は? アラブへの劣化ウラン弾は? 今、日本というこの国で、何万もの失業者が路上で寝ている現実は!?
 漫画家、遠藤浩輝の「カラスと少女とヤクザ」を読んで、こんな小説が書けたら! と、魂が震えるほどの感動を味わいつつも、なんで俺が書いたんじゃないんだと、悔し涙を流さなかったのか?
 漫画家、弐瓶勉の「BLAME!」を読んで、こんな詩が書けたら、、、書けるわけねえ! と、敗北感を味わいながらも挑戦してきた経験はないのか?
 そもそもお前が現代人であるのならば、新世紀の聖典である「serial experiments lain」や「TEXHNOLYZE」は見たのか?
 アルジャジーラからフォックスやワイヤードニュースまで、メディアはまんべんなく見ろよ。

 無学な者は、のこのこ出てくんな、にやにや。
アフロ者よ、世界の中に出てこいよ、手帖とかの内閉現代詩に引き篭もっていても、人生から得るものは何も無いぞ。神経衰弱やお年よりは大目に見てやるが、ニートはぶん殴って、叩き起こすからな、コラ!


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