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コラム

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僕が詩を書くワケ

 りす

 良い詩を読むと、心が痛い、と感じることがある。言い換えれば、心が痛い、と感じたとき、良い詩を読んだと思う。別に悲しい詩を読んでいるわけでも、憂鬱な詩を読んでいるわけでもないのに、心がチクチクと痛い。その痛みは数日間、続いたりもする。痛い、からには、どこか、傷ついている筈なのに、目だった外傷は見当たらない。確かに、血が滲むような種類の痛みではなく、どちらかといえば、筋肉痛のような、内側からの鈍い痛みだ。筋肉痛は、運動の繰り返しで破壊された筋線維が、回復し、より強い結合で生まれ変わる過程で起こる、炎症の一種だという。良い詩を読むと、自分の内面のどこかが、壊れたような気持ちになる。心の中の、普段あまり使わない部分が、詩の言葉によって発見され、呼び出され、準備運動もないまま、いきなり酷使される。そして、その痛みは、「自分も詩を書きたい」という、強い渇望を呼び寄せて、水を求めるように、言葉を求めてしまう。このような、個人の中で起こる、小さな破壊と再生の繰り返しが、詩を読んだり書いたりする、僕の、終わりなき炎症の、正体なのかもしれない。

 居酒屋で、レモンサワーを頼むと、半分に切ったレモンと、アルミ製の絞り機がもれなく付いてくる。レモンを絞り機に押し当て、ギュッと力を入れて、手首をひねると、果肉が潰れる確かな手ごたえと共に、爽やかなレモンの香りが鼻腔を満たす。なぜか同席した仲間たちも、その手元にさりげなく視線を向けている。誰にでもできる簡単な作業なのに、ささやかだけれど、オリジナルな達成感を隠し切れない、そんな経験がある。「表現【expression】」という言葉には、元来、物を圧し潰して中身を出す、という意味があるそうだ。手加減をせず、力強く果肉を潰さなければ、豊かな果汁は得られない。詩を読むとき、書くときに感じる痛みは、絞られるレモンの、果肉が潰れる痛み、なのかもしれない。レモンの痛み、なんて、ちょっと陳腐な表現かもしれないけれど、中身を抜かれて、ひしゃげた形で皿に転がり、呆然と天井を仰いでいるレモンを見ると、誰だって、心が痛くなるだろう。そして、僕は、詩が書きたくなる。ザックリ、と果肉が弾け、香りが宙に飛び立つように、ザックリ、と瑞々しい詩が書けたらいいと、僕は、あてのない夢を、見ているのかもしれない。

 人間は、歯磨き粉を、チューブから搾り出す動物である。最後のほう、あと一回分くらい出てくる筈だと、ほとんど祈るような気持ちで、あるいは、根拠のない使命感を背負って、チューブをお尻のほうから薄く薄く押し潰していく。そして出口のところで、白い塊がニュッと顔を出す。あの瞬間の微かな昂奮といったら、ちょっと言葉では表現できない。でも、ここで気を抜いたら、白い塊は、顔を引っ込めてしまう。ここからが本当の勝負だ。晴れて歯ブラシの上にのせることができるかどうか、一体どのような早業を使えば、あの塊を、まんまと白日のもとに晒すことができるのか。こういう時、人間は、愚かなくらい一生懸命になる。それもこれも、ちょっと言葉では表現できない、あの昂奮のせいだ。このチューブとは、もう長い付き合いで、それこそペラペラになるくらい、中身を押し出してきた。さすがに僕も疲れたし、チューブも痩せてやつれて、そろそろ限界だろうと思う。でも、しばらくすると、まだ少し出すものがありそうな、生気を取り戻した顔で、僕の前にチューブが現れる。OK、わかった、もう一度だけ、詩を書いてみよう。いつでも、もう一度だけ、そう思う。

 詩に、多くを求めることは難しいことだし、苦しいことだ。いくら筋肉を鍛えても、あまりにも大きすぎる負荷には、詩も、僕たちも、耐えられないだろう。時代の、世界の、混沌に屹立するような詩を、芸術品を、誰かのために、書くことを、僕は望んではいない。どうやら、時代も、世界も、僕の内部に、どうしようもなく確かに存在し、僕が窓を開けていようと閉じていようと、必死でドアの鍵を隠していようと、彼らは勝手に出入りを繰り返し、たいして広くもない部屋で、くつろいだり、緊張したり、泣いたり、笑ったり、急に姿を消したり、つまり、この、わがままで騒がしい僕の内部が、まずは世界なのだと、思わずにはいられないのだ。三年前の夏、僕は、文学極道に『蛮族のいる風景』という詩を投稿した。初めて「詩」というものを意識して書いた、今読み返すと恥ずしいこの詩の中に、こんな一文がある。

  いつだって めちゃくちゃなリズムで踊っている君たちの
  その軽快なステップのルールを 私に教えてくれないか

 出鱈目に動き回る園児の姿が、世界の、つまり僕の内部の、出鱈目なあり方と重なっていたのだと思う。そして、ルールなんて、最初から無いことは誰だって知っている。いや、ルールはあるけれど、もの凄いスピードで書き換えられているから、誰も読むことができないのだ。しかし、それを読まなければ、世界という舞台で、軽快なステップを踏むことはできない。「詩」という靴を履けば、それが可能なんじゃないかと、三年前の僕は思っていた。勿論、詩を書きはじめてまもなく、それほど簡単なことではないと思い知ったけれど。しかし、たった三年で、一体何がわかるというのだろう。僕は未だに、詩について、何もわからない、わかる見通しもない。どうすれば、いいのか? どうすれば? OK、わかった、まずは、レモンを半分に割ることから始めよう。二人分のレモンサワーを作ろうじゃないか。作者のぶんと、読者のぶんと、二人分。話はそれからだ。(了)


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文学極道

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