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2017年09月分

月間優良作品 (投稿日時順)

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* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


陽の埋葬

  田中宏輔

                         

 高校の嘱託講師から予備校の非常勤講師になってしばらくすると、下鴨から北山に引っ越した。家賃が五万七千円から二万六千円になった。ユニット・バスの代わりに、トイレと風呂が共同になった。コの字型の二階建ての木造建築で、築二十年のオンボロ・アパートである。北山大橋の袂で、しかも、ぼくの部屋は入り口に一番近い部屋だったので、数十秒で賀茂川の河川敷に行くことができた。だから、北山の河川敷を歩いてそのまま下って、発展場の葵公園まで行くことが多かった。その夜は、しかし、仕事から帰って、ふと居眠りしてしまって、気がつくと、夜中の二時になっていた。そんな時間だったのだが、つぎの日が土曜日で、仕事が休みだったので、タクシーに乗って河原町まで行くことにした。千円をすこし超えるくらいの距離だった。四条通りの一つ手前の大通りの新京極通りでタクシーを降りると、交差点を渡って一筋目を下がって西に向かって歩く。数十メートルほど歩けば、八千代館という、昼の十二時から朝の五時までやっている、オールナイトのポルノ映画館がある。食われノンケと呼ばれる若い子たちが、気持ちのいいことをしてもらいにきている発展場だった。ぼくのように二十代で、そういう食われノンケの子を引っかけにきている者は、ほかにはほとんどいなかった。狩猟にたとえると、いわば狩りをするほうの側の人間は、四十代の後半から六十代くらいまでの年配のゲイが多く、なかには、女装した中年の者もいたが、たいていは、サラリーマン風のゲイが多かった。狩られるほうの側は、学生風や、肉体労働者風など、さまざまな風体の者たちがいた。生真面目そうな学生や、髪の毛を染めて、鉢巻をした作業着姿の若い子もいた。
 入口から入ってすぐのところにある扉を開いてなかに入った。映画館に入っても、外の暗さと変わらないので、昼に入ったときとは違って、目が慣れるのに時間がかかるということはなかった。一階の座席の後ろに、よく見かけるブルーの大きなポリバケツのゴミ箱と、ガムテープを貼って傷んだ箇所をつくろってある白いビニール張りのソファーが一つ置いてあるのだが、そのソファーの上に、横になって寝ている振りをしている男がいた。もしかすると、ほんとうに眠っていたのかもしれないが。三十代半ばくらいのサラリーマンだろうか、スーツ姿であった。その男のスラックスの股間部分は、まるで陰茎が硬く勃起しているかのように思わせる盛り上がり方をしていた。男の膝から下は、ソファーの端からはみ出していて、脚が膝のところで、くの字型に折れ曲がっていた。顔を覗き込んだが、ぼくのタイプではなかった。カマキリを太らせたような顔だった。緑色の顔をしていた。ぼくは、ポリバケツのゴミ箱とソファーに対して正三角形を形成するような位置に立って、最後部の座席の後ろから一階席すべてを眺め渡した。この空間自体を、「ハコ」と呼び、「ハコ」のなかで、性的な交渉をすることを「ハコ遊び」と称する連中もいる。「発展場」を英語で、hot spot という。hot には、「暑い」という意味と、「熱い」という意味があるが、どちらも、それほど適切ではないように思われる。むしろ、濡れたところ、べちゃべちゃとしたところ、ぬるぬるとしたところということで、wet spot とか、あるいは、ぺちゃぺちゃとか、ちゅぱちゅぱとかいった音を立てるところとして、damp apot とかと呼ぶほうがいいだろう。しかし、damperには、たしかに、「濡らす人」という意味があって、そこのところはぴったりなのだけれど、「元気を落とさせる人」とか、「希望・熱意・興味などを幻滅させる人」とかいった意味もあるので、発展場に食われにきている男の子や男に対して、陰茎を萎えさせるという意味にもなるから、スラングとしては、あまり適していないかもしれない。オーラル・セックス、いわゆるフェラチオ、もしくは、尺八と呼ばれる口と舌を駆使する性技があるが、ときには、喉の奥にまで勃起した陰茎を呑み込んで、意思では自在にならない間歇的な喉の筋肉の麻痺的な締め付けでヴァギナ的な感触を味合わせる「ディープ・スロート」という、有名なポルノ映画のタイトルにもなった性技もあるが、虫歯のために歯の端っこが欠けてとがっていたり、ただ単にへたくそで、勃起した陰茎に、しかも、それが仮性包茎であったりして亀頭が敏感なものなのに、それに歯の先をあてたりする連中がいて、たしかに、勃起した陰茎を萎えさせる者もいるのだが、ぼくは、自分のものが仮性包茎で、勃起してもようやく亀頭の先の三分の一くらいが露出するようなチンポコで、とても敏感に感じるほうなので、相手のチンポコを口にくわえるときには、とても気をつけている。
 タイプはいなかった。女装が二人いた。三つのブロックに別れた座席群のうち、スリーンに向かって左側のブロックの最後部の左端の座席に一人と、真ん中のブロックの前のほうに一人。左側の左端にいた、まるでプロレスラーのような巨体の女装は、六十代くらいの小柄な老人と小声で話をしていた。もう性行為は終わったのだろうか。金額はわからないが、その巨体の女装は、お金をもらって、フェラチオをするらしい。直接、本人から聞いた話である。真ん中のブロックの前のほうにいた女装もまた、自分の隣の席に男を坐らせていた。先に坐っていた男の隣の席に、あとから坐りに行ったのか、それとも、後ろに立っていたその男に声をかけて、いっしょに坐ったのだろう。もしかすると、顔なじみの客なのかもしれない。しかし、スクリーンのほうに顔を向けているその客の顔はわからなかった。彼女はとても小柄で、まだ若くて、きれいだった。ノンケの男からすれば、女の子と見まがうくらいであろう。彼女は、わざわざ大阪から、お金を稼ぎにきているという。例の左側のブロックに坐っていたプロレスラーのような巨体の女装から聞いた話である。小柄なほうの女装の彼女は、隣に坐っている若そうな男のその耳元で話をしていたが、やがて、その男の股間に顔を埋めた。ぼくのいた場所からは、彼女が背を丸めて、彼女の座席の背もたれに姿が見えなくなったことから、そう想像しただけなのだが、そうであるに違いなかった。その若そうな男は、後ろから見ただけなので、正面側の顔はわからなかったが、彼がぼく好みの短髪で、若そうで、いかにもがっしりとした体つきをしていたことは、スクリーンの明かりからなぞることができる彼の頭の形や、垣間見える横顔の一部や、首とか肩とか上腕部とかいったものの輪郭や質感などから想像できた。ほかに五人の観客がいたが、どれも中年か老人で、ぼくがいけるような男の子はいなかった。二階にも座席があったので、二階にも行ったが、若い子は一人しかいなかった。ひょろっとした体型の、カマキリのような顔をした男の子だった。顔も緑色だった。ほかにいた五、六人の男たちも、またみんな年老いたカマキリのような顔をしていたので、ぼくは、げんなりとした気分になって、もう一度一階に下りて、真ん中のブロックの真ん中のほうに坐った。そこからだと、かすかだが、先ほどから前でやっていた女装と若そうな男とのやりとりを見ることができたからだ。ときおり、スクリーンが明るくなって、若そうな男が、頭を肯かせているのがわかった。女装の彼女の声は、映画の音に比べるとずいぶんと小さなものなのに、耳を澄ますと、はっきりと聞こえてきた。人間の生の声は、機械から聞こえてくる人間の録音した声と混じっていても、けっして混じることなどないのかもしれない。どんなにかすかな音量の声であっても、ぼくには、それが人間の生の声なのか、録音された声なのか、はっきりと聞き分けることができた。むしろ、かすかであればあるほど、よく聞き分けることができるように思われる。山羊座の耳は地獄耳だと、占星術か何かの本で読んだことがある。「気持ちいい?」と、女装の彼女は尋ねていたのだ。男は訊かれるたびに肯いていた。これ自体、プレイの一部なのだと思う。ぼくもまた、彼女と同じように、くわえたチンポコを口のなかに入れたまま、相手の股間に埋めた自分の顔を上げて、快感に酔いしれたその男の子の恍惚とした表情を見上げながら、おもむろにチンポコから口を放して、「気持ちいい?」と訊くことがあるからだ。ほとんどの男の子は「いい……」と返事をしてくれる。肯くことしかしてくれない者もいるが、たいていの子は返事をしてくれて、それまで声を出さなかった者でも、あえぎ声を出しはじめるのだった。その声は、もちろん、ぼくをもあえがせるものだった。その男の子があえぎ声を出すたびに、ぼくにも、その男の子が亀頭で味わう快感が、その男の子が彼の敏感な亀頭の先で味わう快感の波が打ち寄せるのだった。短髪の彼が、突然硬直したように背もたれに身体をあずけた。いくところなのだろう。男は、小刻みに身体を震わせた。しばらくすると、女装の彼女が顔を上げた。すると、音を立てて、乱暴に扉を押し開ける音がした。ぼくは振り返った。
 沈黙が、いつでも跳びかかる機会を狙って、会話のなかに身を潜めているように、記憶の断片もまた、突然、目のなかに飛び込んでいく機会を待っていたのだ。その記憶の断片とは、ぼくの記憶のなかにあった、京大生のエイジくんのものだった。扉を勢いよく押し開けて入ってきたのは、エイジくんの記憶を想起させるほどにたくましい体格の、髪を金髪に染めた短髪の青年だった。二十歳くらいだろうか。ぼくは立ち上がって、最後部の座席のすぐ後ろに立った。その青年のすぐ前に。その青年の視線は、入ってきたときからまっすぐにただスクリーンにだけ向けられていたのだが、ふと思いついたかのように、くるっと横を振り向いてトイレに行くと、ちょうど小便をしたくらいの時間が経ったころに出てきた。すぐに追いかけなくてよかったと思った。出てきた青年は、最初から坐る場所を決めていたかのように、すっと、真ん中のブロックにある中央の座席に坐った。端から三番目で、それは、食われノンケの子がよく坐る位置にあった。端から一つあけて坐る者は、ほぼ確実に食われノンケであったが、端から二つあけて坐る食われノンケの子も多い。その青年は、紺色のスウェットに身を包んで坐っていた。そういえば、エイジくんも、以前にぼくが住んでいた下鴨の部屋に、スウェット姿でよく訪ねてきてくれた。エイジくんのスウェットはよく目立つ紫色のもので、それがまたとてもよく似合っていたのだけれど。一つあけて、ぼくは、青年の横に坐った。青年は、まっすぐスクリーンに顔を向けて、ぼくがそばに坐ったことに気がつかない振りをしていた。傷ついた自我の一部がひとりでに治ることもあるだろう。傷ついた自分の感情の一部が知らないうちに癒されることもあるだろう。しかし、その青年の横顔を見ていると、傷ついた自我の一部や、傷ついた自分の感情の一部が、すみやかに癒されていくのを感じた。そして、胸のなかで自分の心臓が踊り出したかのように激しく鼓動していくのがわかった。ぼくは、自分が坐っていた座席の座部が音を立てないように手で押さえながら、腰を浮かせて、彼の隣の席にゆっくりと移動していった。彼はそれでもまだスクリーンに見入っている振りをしていた。見ると、彼の股間は、その形がわかるくらいに膨らんでいた。ぼくは、自分の左手を、彼の股間に、とてもゆっくりと、そうっと伸ばしていった。中指と人差し指の先が彼の股間に達した。そこは、すでに完全に勃起していた。やわらかい布地を通して、触れているのか触れていないのかわからない程度に、わざとかすかに触れながら、まるで、ふつうに触れると壊れてしまうのではないかというふうに、やさしくなでていくと、勃起したチンポコはさらに硬く硬くなって、ギンギンに勃起していった。青年の顔を見ると、ちょっと困ったような顔をして、ぼくの目を見つめ返してきた。ぼくは、彼のチンポコをパンツのなかから出して、自分の口に含んだ。硬くて太いチンポコだった。巨根と言ってもいいだろう。ぼくは、その巨大なチンポコの先をくわえながら、舌を動かして、鈴口とその周辺をなめまわした。すると、その青年が、「ホテルに行こう。おれがホテル代を出すから。」と言った。そんなふうに、若い子のほうからホテルに行こうなどと誘われるのは、ぼくにははじめてのことだった。しかも、若い子のほうが、ホテル代を出すというのだ。びっくりした。その子は自分のチンポコをしまうと、ぼくの手を引っ張って、座席をさっと立った。彼は手をすぐに離したけれど、ぼくにも立つように目でうながして、扉のほうに向かった。ぼくは、その後ろに着いて行く格好で、彼の後を追った。
 彼は、自分の車を映画館のすぐそばに止めていた。車のことには詳しくないので、ぼくにはその車の名前はわからなかったけれど、それが外車であることくらいはわかった。車は、東山三条を東に進んで左折し、平安神宮のほうに向かってすぐにまた左折した。彼は、「デミアン」という名前のラブホテルの地下の駐車場に車を止めた。車のなかで、彼は自分が中国人であることや、いま二十四才であるとか、中学を出てすぐ水商売の道に入って、いまは風俗店の店長をして、金があるから、ホテル代の心配はしなくていいとか、長いあいだ付き合っている女もいて、その彼女とは同棲もしているのだけれど、その彼女以外にも、女がいるとかといった話をした。月に一度くらい男とやりたくなるらしい。初体験は、十六歳のときだという。白バイにスピード違反で捕まったときに、その白バイに乗っていた警官に、「チンコをいじられた」という。チンポコではなくて、チンコという言い方がかわいいと思った。しかし、顔を見ると、あまりいい思い出ではなさそうだったので、ぼくのほうからは何も訊くようなことはしなかった。初体験については、彼のほうも、それ以上のことは語らなかった。いまにして思えば、彼がしたような体験は、自分がしたことのなかったものなので、もっと具体的に聞いておけばよかったなと思われる。
 「このあいだ、大阪の梅田にあるSMクラブに行ったんやけど、おれって、女に対してはSなんやけど、男に対してはMになるんや。そやから、女のときは、おれが責めるほうで、男のときは、おれのほうが責められたいねん。」二人でシャワーを浴びながら、キスをした。キスをしながら、ぼくは、彼の身体を抱きしめて、右手の指先を彼の尻の穴のほうにすべらせた。中指と人差し指の内側の爪のないほうで、穴のまわりを触って、ゆっくりと二本の指を挿入していった。
 「おれ、後ろは、半年ぐらいしてへんねん。」すこし顔をしかめて、ぼくの目を見つめる彼。ぼくは、指を抜いて、彼の目を見つめ返した。「痛い?」シャワーの湯しぶきが、風呂場の電灯できらきらと輝いていた。「ちょっと。」と言って、彼は笑った。「痛くないようにするよ。」と言って、彼を安心させるために、ぼくも自分の顔に笑みを浮べた。
 ベッドに仰向けに横たわった彼の両足首を持ち上げて、脚を開かせ、尻の穴がはっきりと見えるように、尻の下に枕を入れて、ぼくは彼の尻の穴をなめまわした。穴を刺激するために、舌の先を穴のなかに入れたり、穴の周辺のあたりを、その粘膜と皮膚の合いの子のようなやわらかい部分を、唇にはさんだり吸ったりして、彼がアナルセックスをしたくなるように、そういう気分になるように刺激しようとして、わざと、ぺちゃぺちゃとか、ちゅっちゅっとか、派手に音を立てながら愛撫した。そうして、じゅうぶんにやわらかくなった尻の穴にクリームを塗ると、勃起したぼくのチンポコをあてがった。痛くないように、かなりゆっくりと入れていった。彼は最初に大きく息を吸って、ぼくのチンポコが彼の尻の穴のなかに入っていくあいだ、その息をじっととめていたようだった。ぼくが彼の足首から手を離して、彼の脇に手をやって腰を動かしはじめると、彼は溜めていた息を一気に吐き出した。それが彼の最初のあえぎ声を導き出した。途中で、バックからもやりたくなった。いったん、チンポコを抜いて、彼を犬のように四つんばいの姿勢にさせて、もう一度入れ直した。チンポコは、つるっとすべるようにして、スムーズに入った。彼は、ぼくの腰の動きに合わせて、頭を振りながら大きな声であえいだ。がっしりとした体格で、盛り上がった尻たぶに、ぼくの腰があたって、濡れた肌と肌がぶつかる、ぴたぴたという音が淫らに聞こえた。「なかに出してもいい?」と、ぼくが訊くと、彼はうんうんと肯いた。ぼくは、彼の引き締まった尻の穴のなかに射精した。
 彼は、北山にあるぼくのアパートの前まで車で送ってくれた。オンボロ・アパートに住んでいることが知られて恥ずかしいという思いが、彼に、また会ってくれるか、と言うことをためらわせた。本来は女が好きで、月に一度くらい男とやりたくなるという彼の言葉もまた、ぼくの気持ちをためらわせた。なにしろ、月に一度だけなのだ。
 人間は自分のことを知ってもらいたい生き物なのだと思った。初対面の相手に、自分が中国人で、自分が小学生のときに家族といっしょに日本に来て、兄弟姉妹が六人もいて、自分は長男で、中学校を出たら働かなくてはいけなくて、それで、学歴がなくても働ける水商売の道に入って、いまは風俗店の店長をしているということや、自分は女が好きで、いっしょに暮している女がいても、ほかにも女をつくって浮気をしているということや、それでも、月に一度くらいは男と寝たくなって、ああいったポルノ映画館に行って、男にやられるなんてことを、はじめて出会った人間に話したりなどするのだから。自分がいったいどういった人間で、自分がほかの人間とどう違っているのかを、はじめて出会ったぼくに話したりなどするのだから。
 車から降りて、別れのあいさつをした。アパートの前で、道路を振り返った。彼はすぐには車を出さずに、ぼくが自分の部屋に戻るまで車をとめていた。できた相手に、車で送ってもらうことは何度もあったけれど、彼のように、ぼくが部屋に入るまで見送ってくれるような子は一人もいなかった。また会えるかなと、口にすればよかったなと思った。
 一ヵ月後に、千本中立売にあるポルノ映画館の千本日活に行った。昼間だったので、入ってすぐにはわからなかったけれど、しばらく後ろに立って目が慣れていくのを待っていると、体格のいい、ぼくのタイプっぽい青年が一人いた。知っているゲイのおじさんが、ぼくの横に来て、「あの子、チンポ、くわえてくれるわよ。ホモよ。」と言った。チンポコとは違って、また、チンコとも違って、チンポという言い方は、なんだかすこし、下品な感じがすると思った。彼の体格は、おじさんの好みではなかったので、彼がぼくの好みであることを知っていて、その彼のことを教えてくれたつもりだったのだ。おじさんは、ジャニーズ系のちゃらちゃらとした、顔のきれいな、すっとした体型の男の子がタイプだった。ぼくとは、好みのタイプがまったく違っていた。だから、ごく気軽に、ぼくのほうに話しかけてきたのだろうけれど。ぼくは、彼が二つあけて坐っている座席のほうに近づいた。彼は紺色のニットの帽子をかぶっていた。横から顔をのぞくと、このあいだ八千代館で出会った髪を金髪に染めた短髪の青年だった。「また会ったね。」と、ぼくが話しかけると、彼はにっこりと笑って肯いた。ぼくは彼の股間をまさぐった。その大きさと硬さを、ぼくの手が覚えていた。ぼくは腰をかがめて彼のチンポコをしゃぶった。彼はなかなかいかなかった。いくら時間をかけてもいきそうになかった。「いかへんかもしれへん。ごめんな。おれ、いまストレスで、頭にハゲができてんねん。」そう言って、ニットの帽子を脱いだ。髪は、相変わらずきれいに刈りそろえられた金髪だったけれど、そこには、たしかに、十円硬貨よりすこし大きめの大きさの円形のハゲができていた。「おれが勤めてた風俗店がつぶれてしもうてん。それでいま仕事してなくて、ストレスになってんねん。」彼が着ている服は、別に安物ではなさそうだったけれど、言葉というものは不思議なもので、そんな言葉を聞くと、彼が着ていた服が、急に安物に見えはじめたのだ。坐っているのが彼だとわかったときには、ぼくは腰を落ち着けて、彼といろいろしゃべろうかなと思ったのだけれど、彼の話を聞いて、仕事をしていないという状況にある彼に、万一、たかられでもしたら嫌だなと思って、彼の太ももの上に置いていた手で、彼の膝頭を、二度ほど軽くたたくと、立ち上がって、彼のそばから離れたのだった。彼は不思議そうな顔をして、ぼくの顔を見ていたが、ぼくの表情のなかにある、そういったぼくの気持ちを知ったのだろう。一瞬困惑したような表情になっていたけれど、すぐに残念そうな顔になり、その顔はまたすぐに険しい目つきのものに変化した。一瞬のことだった。その一瞬に、すべてが変わってしまった。ぼくは、その変化した彼の顔を見て、しまったなと思った。彼は、ぼくにたかるつもりなんて、ぜんぜんなかったのだ。その一瞬の表情の変化が真実を物語っていた。彼がそんな男ではなかったことに気がついて、ぼくは後悔した。でも、もう遅かった。彼はすっくと立ち上がると、ぼくが座席から離れた方向とは逆の方向から座席を離れて、映画館のなかからさっさと出て行った。ぼくは彼の後を追うこともできなくて、入り口と反対側の、廊下の奥にあるトイレに小便をしに向かった。


陽の埋葬

  田中宏輔



蟇蛙(ひき)よ、泣け。


泣くがいい。


ぎやあろ、ぎやあろと


泣くがいい。


父は死んだのか、


母は死んだのかと


泣くがいい。


降らせるものなら、


雨を降らせよ。
(『ブッダのことば』第一・蛇の章・二・ダニヤ、中村 元訳)

蟇蛙(ひきがえる)。


る。


せめて


おまえの背(せな)に降らすため、


ぎやあろ、ぎやあろと


泣くがいい。


雨よりほかに触れるもののないその背皮(そびら)、


背中は曲って、足はびっこで、
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

何者も顧みぬ醜い瘤疣(こぶ)の塊、


穢(けがら)わしいせむしのひき蛙(がえる)。
(シェイクスピア『リチャード三世』第四幕・第四場、福田恆存訳、句点加筆)

祈りを棄てた蛙が


みんなそうであるように、
(グリム童話『こびとのおくりもの』高橋健二訳)

おまえのせなかはまがってる。
(グリム童話 そばの、がちょう番の女』高橋健二訳)

る。


おお、蟇蛙(ひき)よ、蟇蛙(ひき)よ。


だれがおまえをつくったのか?
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)

だれに


おまえはつくられたのか?


さあ、


ハンカチをお空(あ)け、
(シュトルム『みずうみ』森にて、高橋義孝訳)

おまえの美しい骨はどこにある?


祈りの声といっしょに


おまえは、おまえの美しい骨を、どこに棄ててきたのか?


おお、蟇蛙(ひき)よ、蟇蛙(ひき)よ、泣け。


蟇蛙(ひき)よ、泣け。


泣くがいい。


ぎやあろ、ぎやあろと


泣くがいい。


父は死んだのか、


母は死んだのかと


泣くがいい。


降らせるものなら、


雨を降らせよ。
(『ブッダのことば』第一・蛇の章・二・ダニヤ、中村 元訳)

蟇蛙(ひきがえる)。


る。


せめて


おまえの背(せな)に降らすため、


ぎやあろ、ぎやあろと


泣くがいい。


まがった背骨と


その身をひきずり
(伝道の書一二・五)

美しい骨が出る
(泉 鏡花『春昼後刻』)

墓から墓へと
(ベルトラン 『夜のガスパール幻想詩』イスパニアトイタリア・I・僧房、伊吹武彦訳)

さ迷い歩け。

美しい骨が出る
(泉 鏡花『春昼後刻』)

墓から墓へと
(ベルトラン『夜のガスパール幻想詩』イスパニアとイタリア・I・僧房、伊吹武彦訳)

さ迷い歩け。




*




るるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる
(草野心平 『春殖』)

電話の向こうで、


生埋(いきうめ)になつた
(トリスタン・コンビエェル『蟾蜍』上田 敏訳)

ひき蛙が呼んでいる。
(シェイクスピア『マクベス』第一幕・第一場、福田恆存訳)

「わたし 死んだのよ 死んだのよ 死んだのよ」と
(マヤコフスキー『背骨のフルート』稲葉定雄訳)

そうだ、
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』4、浅倉久志訳)

ママは死んだんだ。
(ナボコフ『ロリータ』第一部・32、大久保康雄訳、句点加筆)

「此方(こちら)へいらっしゃい。こちらへ」
(志賀直哉『網走まで』)

「此処なら日が当たりませんよ」と
(志賀直哉『網走まで』)

ああ、わたしはどこへ行くことができよう。
(創世記三七・三0)

骨でできた
(オクタビオ・パス『砕けた壺』桑名一博訳)

鍵束が擦れ合う場所のほかに。


そこは、


骨でできた
(ズビグニェフ・ヘルベルト『釦』工藤幸雄訳)

鍵束が擦れ合う処。


ああ、電話線地下ケーブルが燃える!


絵が溶けて、絵の具に戻る?


苦しい、おお苦しい!
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳)

骨よ、
(本間弘行『みちのり』)

悲しみの骨よ。
(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』澤崎順之助訳)

ルル、


ルルルル、


ルルルル、


'Hello,'


もしもし、


'Hello,'


もしもし、




*




ああ、血だ、血だ、血だ!
(シェイクスピア「オセロウ」第三幕・第三場、菅 泰男訳)

真二つだ、真二つだ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

真二つになる、真二つに!
(シェイクスピア「あらし」第一幕・第一場、福田恆存訳)

上から下まで真二つに裂けた
(マタイによる福音書二七・五一)

誰かヒキガエルが道の上をはうのを見たか?
(ラー・クール「隣人愛」山室 静訳)

半裂きのヒキガエルを。


己れの身を真二つに引き裂き、


あらゆるものすべてのものの半身となるヒキガエルを。


おお、蟇蛙(ひき)よ、蟇蛙(ひき)よ。


半裂きのヒキガエルよ。


私はあなたの半身なのよ、
(シェイクスピア「ヴェニスの商人」第三幕・第二場、大山敏子訳)

せめて、


古い歌と祈りで私を埋葬しておくれ、
(メイスフィールド「別れの歌」大和資雄訳)

私はよろこんで滅びよう。
(ゲーテ「ファウスト」第一部、相良守峯訳)

私はよろこんで滅びよう。
(ゲーテ「ファウスト」第一部、相良守峯訳)


革命

  芦野 夕狩

葛餅がうまく食べられない
あのきな粉と黒蜜の塩梅が、ね
諦めて、茣蓙を敷いた畳の上で寝転び
つまらない漫画を読んでいる
夏休みに浮かれた子供達の声ももう聞こえなくなってしまった
蟻の行列がわたしのからだの上を通り抜けていく
わたしはからだを横たえている
それは例えば、革命、という言葉からもっともかけ離れた姿勢なのかもしれない
そんなことはどうだっていいのだけれど

そういえばこれはどういう種類の蟻なのだろうか
つまらない漫画を眺めながら考える
これは多分、普通の蟻だろうな
そう思う
普通の蟻は葛餅を目指し
わたしはからだを横たえている
いつからだろうか
もう五日は過ぎたような気がする

ああ、と思い立って
手紙を書こうか、と考える
若い頃にお世話になった大学の教授に
文を交わすのなら少しだけ距離のあいた人がいい
時候の挨拶を添えるような相手がいいに決まっている
畏まりたくて仕方がないじゃない
人間こうなってしまうと

拝啓、と頭の中で書いて
その後の言葉に詰まる
秋の初旬はどんな花が咲くのだろうか
彼岸花はまだ咲いていないだろうし
秋桜もまだ早いだろうし、何しろありきたりだ
そういえば近所に梯梧が咲いていた
梯梧なら畏まっている気がする
けどあれ、沖縄の梯梧とは違うんだろう
普通の梯梧じゃないと畏まれないなあ
そもそも梯梧は夏だよなあ
わたしが外に出ないうちに散ってしまっただろうか

季節の挨拶は後回しにして
何を書けばいいだろうか
先生に教えてもらった東ドイツのなんとかって詩人のこと書こうかな
先生、目下のところ、わたしの革命は葛餅に躓いています。
なんて、先生が可哀想になるなあ
つまらない漫画を逆さまに持って
こうすれば面白くなるんじゃないかと試している

普通の蟻がわたしの体の上を通り抜けていく
葛餅のあのきな粉と黒蜜の塩梅が、ね
そこらに落ちていたメモ用紙に
身代金、と書いてみる
こんな字だっただろうか
葛餅の隣にそれを置いて
蟻の行列を眺めている
どいつもこいつも身代金目当てか
そうつぶやいてみる


  

秋のたちつて虫と羽の韻律をかきくけ焦がすまみ胸も迷いや夕べよ
ひとりらのなかのりるれ独りよがり黄泉のすせそ死なにぬさもみむ
あき空のあかきくけ秋茜さしすせたちつてトンボとまる手とてと手
十五夜お月さま自由の神様うさぎ座お星さま夜の邪魔にぬねのはひ
白いシーツ思いを脱ぎ意味を捨て横にぬねの月あかりでレモネード
カナカナカ、コロコロ、リーンリーン、コトノキミ、スイーッチョン、失、失、失


星月夜

  kale

時間が熔ける。雑ざり気のない融点は良質な蜜蝋を漏出させ硬い窓枠の材質に濃い染みを作る。陰に潜む生き物たちの鼻唄や衣擦れとが交ざりあい夜は猥雑な静寂に埋もれていく。昔ここらは星がよく採れたんだ、と皺だらけの顔に浮かぶ大粒の汗が深い渓谷に流れ込み堆積する砂れきに紛れ結晶し一筋の光の河になる。内外の律の差に滞留と対流をくりかえす渦の煌めき。星間飛行をくりかえすのは銀の鱗を持つ魚。棚田に犇めく不規則はモザイクの色彩。息をひそめて眠る眼差しは極層に埋もれることを拒否することで銀化し尾を翻す。砂にまみれた背はやわらかさを失うことを嫌い、鋭くちいさく砂を弾く。降り積もる夜を振り払い広い台地に星をさがす。遷回するうねりはやがて無数の砂をゆっくりと速く巻き上げ、降り注ぎ、複雑な渦で流動する煌きは未だ見ぬ台地を形成し始める。浚われた光は河から河へ、すべての灯は朝陽のために身を投げる。中心に火は集い、銀は熔け、現象する光の海嘯、営みの陰影を遡上するシルエット、星月と翳の沈黙に調和する、闇はもうひとつの夜を象る。


夜に狭い部屋の中で

  ゆあさ

夜に狭い部屋の中で座ってじっとしていると何も聞こえない 何も聞こえない遠くから やがて水の湧く音がしてくる みずのわく みずの ゆるゆるゆる とぽとぽとぽ ぽきゅん? ぽきゅん? 湧く音がしてくる 聞こえる 聞こえない
目を覚ます。
静かに湧き出でる。水が部屋で満たされる。部屋が水で満たされる
指先からかえるになれ かえるになれ さかなになれ 膨張した 青い粘膜 むらさきの ちがうみどりの うすい緑の柔らかい膣 違う 毛細血管 毛細血管? 毛細血管 先細る糸 血の伝う 先 指 指先 指先から爪はがせ、骨は薄茶色、ぴろりと細く 抜き出せ血管
細い、細いね、揺れる
目の前で、ふりこ、おもりは ない
とおくとおく 見えない目で見上げるとしてんがある、ふりこはゆれる、血管でできた振り子!
喜ぶ ちゅるちゅる水は流れてきて 満たし 満たせ 渦を巻くこの部屋
シンバルが煽って昇りつめ くだれ!
頭からざぶんと水を浴びる
水が今満たされる(なかで)(どこのなかで?)(わたしの中で)(部屋の中で)(なかで)(なかで)(どこで?)(なかで)(とにかくなかで)(なかで)(なかで)(なか)(なか)(な)(な)( )( )
……
新月がようやく上がった 途端にどこか遠くから さっき水が来たほうから りゅりりゅり りゅりりゅり 光が 光が つきのひかりが ふねが ちいさなふねが
静かに静かに顔を上げると そこは再び小さな部屋で もはや水など何処にもなく 手のひらを開けたり閉じたり して 私は正常な身体を取り戻した
ぬっぺりと青い 青いなにか なにか冷たさが
冷たさが 伝わってくる 皮膚から ひふから
目が醒めて 水は青く新月は昇り 正常な
これが正常な夜だ これが正常なわたしだ これが正常な 正常な窓の外 黒々と明るく 青い化け物が 夜が夜がこちらを覗いている

* メールアドレスは非公開


レクター ネクター

  紅茶猫

季節が無い町の
季節の無い空が
規則正しく
昼と夜を
入れ替えている

ある日更新された朝は、
晴れ___

何も考えてはいけないし
何かを理解しようなどと思わなければ
この町に
季節があったことなど
すぐに忘れてしまう


生きていることを忘れて
死んでいる人と
死んでいることを忘れて
生きている人と
同数の
いや、それ以上に



渦巻きの
渦巻きたる所以の
その渦巻きの
中心を訪ねよ

がらんとしていて
誰も居なくて
恐ろしい空洞の
闇の闇の奥は
「不在」。

声がした?
誰か居る?

誰か居るのですか?
優しい人ですか
怖い人ですか

さあ
蓋をした
もう危険だから
蓋をしました


「不在」。だったことを
誰に告げよう

「不在」。

居ない

誰も居ない

「不在」。の他には
誰も居なかった。


長い沈黙の後
エレベーターホールに
降り立つ
「不在」。

「見えない」僕と


信仰告白の避難

  鷹枕可

世界の涯までも領海なのだろうと彼等が鬩ぐ、彼等は牛乳壜との戴冠式を終えては潜水服に嘯く、酷い雑音が劈いている、そのときからかかのときに到る迄を、標高のメートル法を越える峰が電話線を渡しながら海に逆立っている、かれら処女航海は海の上、何時でもランプシェードで出来た鳥達や鉱物学者たちの卒倒癖は陽の目を見たためしがない、時に火と愛であり壊れた蠍のシャンソンであった拡声器の避難勧告は緩やかな海の底より海抜数万ヘルツの空の蓋に到るまで賑やかな上昇線を辿り、獄中の樹木に人間達の的がまるごと収まるほどの乾燥壜をいくつかぶらさげて綜合病院の窓をくぐる、彼が思う様に他者は他者であることを発見したのは麺麭屑の蝋燭が12歳をこえた頃だったが、亜鉛の幾何学、海の縁にこびり付いた航海士たちの靴跡へ必然の椿事が滞りなく取り行われる為には薔薇の模型と膠着したステンドグラスの真鍮溶媒が必需であり、その殆どを雄鹿のヴェールに舞踏する狂人の採算に追われなければならなかった、凡そを開き速度計が降り頻る通販カタログの蝶番に挟まれた未遂の開胸術は銅鉱の鈍い吐気を振り切って落ちるまで花の西洋燈を灯りつづけるだろうか、蟹の花は愈々馨り灯蛾の多足植物にその寝椅子を委ねるだろうか、それらは果して線香の天候を曇らせ瓦礫の微笑する窪に並々と注がれた硬化アンチモンを聖遺物の古い習わしから透徹させ得るだろうか、詰問の後には必ずと言って良いほどに別の舗装路が敷かれ、誰しもがそれを通るが私達は別の選択をこころみてみなければ為らない、例えば噴泉の陰鬱、精神病的腸詰の黒い煤窓、神経衰弱患者達の死への紛糾と融和、在るのは絶望より酷い花籠だけ、相場師達が若し悪魔的な潔白を解き磨くならば鈍く鈍い銅版画のなかには一体何者が縦横を切り揃えた馬丁の個人的権限を攫って行ったのか、屡々軟膏には結膜炎の兆候が垣間見える様に許された伽藍には紙の翼に係る日時計が置かれている、その時刻を認めるには明瞭な拡大鏡が必要であり、偶然と呼ぶべきものは骰子の嵌められた断頭台より多くも少なくもないと広報される、継手に蛾の死骸が挽かれる、広場の露壇に湛えられた海に、


恋の詩

  霜田明

今日の予定をすべてふいにして
一日中 目を覚ましている
観葉植物のふりをしていれば
切れた蛍光灯の代わりになるだろう

いつか君になることを願っていた
部屋の中で遥かに広い傘をさしたかった
顔を洗えばそのことが
君の長い髪の毛を濡らしていたらよかった

歴史以前そうだったように歴史の水は死んでいる
誰にも勇気がないのに切石を積み上げたように
偉大さだけが残されている

故郷のない僕らにとって低俗さとは何か
低俗さを知らない僕らにとってあこがれとは何か

開けた窓を隔て相対した僕らが互いに成り代わることでしか
爽やかな風を感じることはできないだろう
無口でなければ軽はずみにしか歩けないほどにまで
僕らの受容精神は荒廃しきっている

今日の予定をすべてふいにして
僕は一日中 耳を重ねている

僕らは一様にそう決められてしまう
憂鬱の中にはいなかった
時間の長さにも空間の広さにも
それらの距離の実感覚に
僕らの生活は救われ続けていたから


産業道路のコンバーチブル

  atsuchan69

咽喉を刺激する大気、
  サビて崩れる鋼鉄の、
      強靭な幻が都市を支え
         静かに腐食してゆく世界、

 やがて酸性雨を降らせる雲が西の空にたなびいている

  その曇天の真下、
 複雑な曲線と直線の交差するハイウェイ、
 装飾のかけらさえ見あたらない
 肌もあらわなコンクリートの柱たちが幾千もつづく
 あまねく全地を覆う瀝青の暗い景色に、
     
     人はいない

 心地よいエンジン音に吸い込まれてゆく息づかい
 ボディの派手な紅緋の色とは裏腹に、
 黒革のシートの鞣した獣の匂いが興奮を鎮める
 疾走するメロディに満ちた快適な室内に幽閉された/からだ
 そして背後へ
 熱い毒気を吐き出しながら
 458スパイダーは産業道路をひた走る

 やたら行き交う、
 土砂を積んだダンプカーだの、
 タンクローリーだの
 巨大なトラッククレーンだのが
 音もなく後方へすぎてゆく

 まるで乾いた夢のように失われた/心は、秒を数える

 ( 浮遊する、
   六価クロムの剥げ落ちた鍍金(メッキ)片が煌く 
   黒黴に覆われた日常という壁紙の裏側に
   吊るされた愛/情事/が記録される

 十秒と少しで開くルーフが、
 今しも内と外との隔たりを壊す//
 たちまちリアルな不快さと 硫黄の燃える匂い、
 凶暴な機械たちの激しく軋む、音/悲鳴、
           「 儚すぎるわ!

 呪いにみちたルートを昼も夜もなく
 結ばれるべき線と線を互いに探しあぐねて
 幾度もあてどなく交わる
 紅い、コンバーチブルの軌跡
 
     吐き気と眩暈。

背徳の鈍い痛みを覚える、
            ただ束の間の、、


  朝顔

マンションの林立する森で
とある扉を見つけた
思い切って開けてみると
煌々とした黒い部屋があった
私は迷っていた
その人は私の手を取って
よく眠ること
少し食べること
ときに出掛けることを教えてくれた

小さな器に
ミネラルウォーターを注がれて
喉をうるおし
その人に褒められて
ちゃんと間違いを注意されて
よいものを体に取り入れて
私の閉じた心が
突然
開き始めた

相手をよく見て
耳をすまし
表情がゆたかになり
口を尖らせたり
目尻で笑ったりできるようになった
私は
人と真摯に向き合うようになった
その人の幸せを
思うようになった

人を思い通りにしようとする事と
気持ちに寄り添う事は
全く別だった
私の中にも
愛はあった
すきとおった水の飛沫が
グラスの縁から
溢れて
溢れ出して

苦しいほどに
ほとばしる
いま
目の前にいる
あかるく笑って
落ち着いた声で
対等に話しかけてくれる
その人自身が
扉だった


「新説アリとキリギリス」、「過労」、「断絶」三編

  TURU

   「新説アリとキリギリス」


とあるあついなつのキセツのこと、キリギリスはなつじゅうバイオリンをひいてうたをう
たいながらすきにいきていました。さとさきのことをかんがえずに、まさにじんせいのな
つをおうかしていました。いっぽうアリはせっせとはたらいてすくないきゅうりょうをせ
っせとかせぎ、ねんきんをはらい、しょうらいのふゆにむけてのじゅんびをしていました。
ほかのアリたちなんにんかカロウシしたり、せいしんをやんだりしてしまいました。それ
にもかかわらずそのアリは、しょうらいかならずみとおしがよくなることをしんじて、は
たらきつづけていたのです。けれどもアリはいくらせっせとはたらいても、たべものはあ
んまりえられずビチクするたくわえもほとんどありませんでした。やがてふゆになってキ
リギリスがきました。ヒンシのじぶんにたべものをわけてほしいというのです。とうぜん
アリは、なつじゅうなまけていたキリギリスを、つめたくあしらっておいかえしました。
けれどもアリは、じつはたべものをわけあたえるほどのたくわえもココロのよゆうもなく、
ヒンシのじょうたいでやっとでくらしていたのです。ねんきんもまさにスズメのなみだの
ほどのごくわずかなガクでした。アリはいま、ストーブをつかうためのねんりょうのない
(せいかくにはとうゆだいをはらえなくてつかえない)、さむざむとしたスのなかでびょ
うしょうにつくのでした。アリは、コクミンホケンにかにゅうしていなかったので、ビョ
ウインにもまんぞくにいけなかったのです。アリは、そのよわったカラダでせきこみなが
らはげしくこうかいするのです。「ああ、どうせこんなにびんぼうでビョウキになるのな
ら、なにもあんなにいっしょうけんめいはたらかなくてもよかった」、と。「もっと、キ
リギリスのようにじぶんのヨッキュウのままに、すきにいきていけばよかった」、と。で
も、とうぜんキリギリスだってこのさむさのなかでトウシしているのですがね。にっちも
さっちもいきません。


   「過労」


助けてください助けてください身体が辛いです身体が痛いですどうか助けてください彼ら
は本来の業務担当外の慣れないことを次々とわたしたちに押しつけます月二百時間にも及
ぶサービス残業をわたし達に押しつけますまるでみずからの成功哲学を押しつけるように
押しつけます彼らは東南アジアに学校を建てることがその償いだと本気で考えているよう
ですどうか助けてください

助けてください助けてください身体が壊れそうです身体が張り裂けそうです彼らはアリと
キリギリスのアリになれとよく言います苦しんだのはお前だけじゃないんだとよく言いま
す人のせいにしては絶対にいけないんだとしょっちゅう言いつづけます蓄えられるだけの
給料も与えられていない若者たちに対してはなんで貯金しないんだとよく言いますそして
自分の部下たちにビルの十階からいますぐ飛び降りてみせろと平然とよく言いますどれだ
けきつく叱っても大丈夫というのが彼らの信頼関係のパロメーターのようですどうか助け
てください

助けてください助けてください助けてください身体が辛いです身体が痛いですもうこれ以
上彼らの城を社会に造らせないでください彼らはどんなに無理なことでも鼻血をだして吐
血するまでやりつづければ必ずできるようになると信じ切っているようです彼らは老人介
護施設と私立学校をつぎつぎと設立してその領土をさらに拡大しようとしているようです
どうかどうか助けてください助けてくださいもうこれ以上わたし達と同じ目に遭う人たち
がいないように


   「断絶」


三十代の父親が
生まれたばかりの自分の息子を
社宅のマンションの一二階の窓から
投げ落とした

覚せい剤が欲しい実母は
再婚相手の男とつるんで
小学生の娘に
売春をさせていた

近所づきあいのほとんどない
ある姉妹の姉は
職探しのため
必死な気持ちで
ハローワークに通いつめた

姉は仕事を見つけられぬままに
脳内血腫
知的障害のある妹は
110番も知らぬまま
極寒の部屋で連鎖的に死に絶えた

妻も子も持てない
年収二百万円以下の収入しか
得られなかった男は
約ひと月以上まえに
とても粗末なアパートで孤独死した

ひと月以上たった後の
ようやくの発見

いつも
そばに横たわっていたのは孤独と断絶
経済的勝者たちに
つねに押し付けられていたものは自己責任論

幸いにも免れることができた者たちは
今夜も
酒場で
素知らぬ顔をしながら
楽し気に酒を飲む


拇指

  sonetira

わたしには拇指か人差し指がない
あるいはどちらもなくて
なにか余分なものがついただけ
なのか

ワン・ツー、ワン・ツー
上り坂 下り坂 踏切
こんなとき
近づけば近づくほど苦しい
ワン・ツー、ワン・ツー
ワン、ツー、ワン、ツー

帰宅後こっそり
汚れた下着を見た
昔いろんなものがなくなったときの気持ち
それは
親戚が買ってきたドーナツを全部
弟に食べられた日のような一時的な虚無
それもきっとうまれたときからのもので

上履き、筆箱の中身、食卓、
そしてさっきまでの純白だって
もう戻ってこない
わたしにたりないもの
あるいはなんにもなくて
余分なものがついただけ


正当化の交点

  失意夏雪

過昇制限の調整機より安定性を意識した仕組みが必要なほど少しだけ下の世代の熱は放たれるエモーショナル係数が微量でありフォロアップが難しいという諜報者からの報告に基づき開発された正当化装置を物語として埋め込められたあなたが真夜中に苦しむことは予測通りであり特異点となる変数が発見されるまでの知の有無を問う<y/n>N
空気感が安定多数の数値を押し上げれば僕らより少しだけ上の世代の悪意が高まることは予測され戦争を任意の設定値による仮想実験の結果を基に可能と判断がなされた場合においてのみN増しとする客観視こそが自己正当化へ誘う洗脳暴力装置でありあなたの覚醒抵抗とは古の時代から沈黙するエネルギー即ち愛なのだろうかと問う<y/n>Y


ドイツ・イデオロギー

  

(詩人を拗らせると本当に厄介だね)

今年も夏の終わりと共に
夥しい数の天使の死骸が
色褪せた砂浜へ打ちあげられる
天使なので腐敗することはなく
少しずつ結晶化していくばかり
彼らの心臓はとても繊細で
細い管を挿して息を吹き込めば
びいどろのように寂しい音をたてる

 詩人になりたいなー
 なれないならニートでいいや
 自作の詩をYouTubeで朗読して
 食べていけたら最高なんだけどな
 ブコフのバイトも続かなかったし
 俺って本当にクズだよね
 死んだら地獄確定
 まー、どうせガキの頃から
 神様とは相性悪かったしー(鼻ほじ

(天使の魂を持つ子どもたちは)
(その清らかさゆえ)
(世界の密度に耐えきれず)
(再び天に還っていくのだ)
(遠眼鏡を逆さまにして)
(見つめる世界には音がない)

残暑が厳しい路上には
ころころ転がる蝉の死骸
魂の重さを差し引いても
あまりにも悲しいその軽さ
神様なんて人間の裏返し
それなら天使たちの瞳に
映っているのは何者か

 魔女が馬鹿笑いしながら
 山を駆け下りてきやがった
 頭が痛くて自殺してぇw
 ムカつくから親から盗んだ金で
 朝からファミレスでビールを呷り
 ソーセージを切り刻んで貪り食う
 きっと二時間後には全部吐いてる
 やっぱ無理だわこの人生ww
 何もかもが絶望的に遠すぎるwww

(仔牛とパセリのソーセージ)
(とても美味しいのだが)
(すぐに痛んでしまう)
(ところでそのソーセージ)
(本当に仔牛の肉なの?)

たいていの青春において
疾風怒濤の時代は短い
あらゆる座標での闘争に敗れ
消えていく無名の戦士たち
今日もまた夜が更ければ
どこかで一つの歌が終わる
新たに結晶化する天使
新たに転がる蝉の死骸
新たに切り刻まれるソーセージ
柳の木から落ちて死んだ
狂気の女を真似て漂う
哀れハンスの川流れ


食べます。

  maracas

食材を得ます。
食べます。うそでした。
ちょっと、気がはやい。
焼いたり煮たりするとよいでしょう。
食べます。その前によく見ます。
見なくてもよいでしょう。
感覚がぼーっとする感覚です。
食べます。気がはやい。
山を歩き、海へ出る。
潜っては、魚穫り。貝穫り。
岸へあがる。川をのぼり、山へ入る。
そのころには、空ももう、溶けはじめた。
うるさいな。
並べます。この様子を、だれかが、
獺祭(だっさい)と呼びます。
気がはやくて、それでいて。
東の野が、ぼーっとする。
うつくしい。
食べたい。食べます。ありがとう。
調和する、
調和する、
調和する、調和しない。


ある女の

  玄こう



 ゆうやみこみち
 こずえにかかる
 あかいふく
 女が ひとり
 風にとばされたい
 とすすり泣く
 ガラガラとなく、よる
 ひとひと 小雨か、ふぅていた

 落ち葉の隙間に、ふと
 朱塗りの櫛を見つけた
 拾い上げ
 ほほにあて
 櫛削る針先を
 指ではじいた
 ガラガラと
 ガラガラと、
 白く曲がりくねった塀の
 雪の線が描く枝の木陰で

 その子の落した
 髪梳く櫛を
 わたしは、
 もどした
 身をかがめ
 落ち葉のなかに
 そっと埋めた

 小雨の降る杜の夜気
 こずえにかかる
 あかいふく
 ガラガラ、
 と、風にゆれ
 今にも飛ばされたい
 と、ちきさな、梢を
 すすり泣く

 ガラガラ、と
 ガラガラと
 ふきてはまた
 すすり泣く

 小雨か、梢を
 ふぅていた
 





      、


素数

  深尾貞一郎


出発の時刻を待つ間、ロビーのソファーに並んで座る。女は小ぶりなポーチバッグからメンソール煙草を取り出してかざし、目の前のテーブルには不釣り合いなほど大きい九谷焼の灰皿を見据えるようにしている。安物のライターで火を点けた。薄い膜のかたちをした白煙があがる。初老の男は煙草の先端に発光する種火が、ちりちりと音をたてるのを聞いたような錯覚を起こす。

君が言っていた、願い事って何だ?
――あたしの願いは、現世を救うことよ。約束は守ってもらうわ。その為にあなたが死ぬことになってもねと、女が言ったような気がした。

初老の男は、つとめて平静を装う。
彼の脳裏には、小学生だった頃の女とふたり、自転車で海まで行った記憶がよみがえっていた。「ハマダイコンっておいしいのかな?」「大根が野生化した植物だって図鑑に載っていたよ」。前かごには木工用ナイフと醤油の小瓶。砂丘のある内灘海岸に辿り着き、群生しているそれらの只中に踏み入る。むきだしの脛に植物の葉が触れてちくちくとする。背後には横倒しにしたままの自転車。強い潮風に飛ばされぬように麦わら帽子の顎ひもを締める。真っ青な空は、そのまま海とつながっていた。
初老の男は微笑んでいる。

世界の意思なのよと、女が言った気がした。マクロ視点って知っているでしょう? 宇宙の存在そのものなの。あたしたちは原子核で回っている電子や中性子と同じ。DNAのようなプログラム通りに万物は動かされているのよと、女が言った気がした。
初老の男は、心地よくひたっていた情景をかき消されたようで気分を害するが、ハマダイコンの続きは今なのだと思い直した。

そのプログラムって何だろう?
感じるのよ、革命とかを。数学者は素数のリーマン予想とかから宇宙を感じるんだってと、女が言った気がした。
素数って、2、3、5、7、11、13って果てしなく続くあれか。1と、それ自身の数にしか割り切れない数字だよな。小学校で習った。
簡単に言えば、全ての素数の座標化されたゼロ点は、えーと、どうのこうのって予想なんだけど――と、女が言った気がした。

女は、初老の男の手を、ぎゅっと握った。
数字が物質とリンクしているのよ。凄いと思わない?と、女が言った気がした。
――その壮大な理屈でいけば、今日が青空なのは自然な事だって言うんだね
もちろんそうよと、女が言った気がした。
バスの時間だよ
そうだね、ありがとう
こちらこそ


悲しいからこの眼球を、抉る

  いかいか

あまりにも、
深い、悲しみが、
流れるから、
この、眼球を、抉る、
また、新しい、
悲しみを見ないために、
外に、
世界に向けて、
流れない涙が、
一筋の、
川と
なって、
私の、
暗い内側に、流れて、
「出ていく」(どこに)
のを、
ずっと、見つめている、
姿が、遠くから、
裂ける、

川上には、
小さな集落があり、
夏の夜に、
蛍の、ように、
光る、
松明を、
もって、祓う、
姿に、潜っていく、
私の。悲しみが、
私の内側を、通って、流れ出る、
間に、出会う光景を、
追っている、
毎晩、

その、集落には、
祓い、の、後に、
男達だけが、
より集まり、
蝿のような、音を、出しながら、
女に求婚する、
女は、剣をもって、
恋人の、
結った髪を、
切り、口に含み、
男と、
口づけをする、

つまり、私の、
詩が生まれでる、
この、故郷に、

中流では、
流れ出るかなしみに、
花を投げ込み、
人の一段に出会う、
誰かが死んだ日に、生まれた、
子供は、幸せを約束された、

喜んで、花を投げ込む、
そして
死んだ彼または彼女も
最後に投げ込む

もう、詩を読んでも、
悲しみがない、
悲しみは、
逃げ出した、
僕をおいて、
遠くの戦争に、
異国の荒々しい言葉の中に、

だから、昔、ぼくは書いた
今日、日本語から、一切のかなしみがなくなると、
悲しみは流れているが、
もはや、君や僕の、
詩や、言葉の中には、
悲しみはない、
流れていくものは、
とめれれない、
掬うこと、で、口をゆすぐ、
また
渇きは、
消えない


サラバ彼方

  郷夏

過ぎし日に誓いをえがいたひとはいま
 気づかぬ悪意を呼吸して
 醜いわらいへ狎れている
  ぽかりとくちを、ひらけてわらう
  その冷暗になにを匿い
    一体なにを感じよう

  (唖者の見つめるそそめく雲は)
  (温室から昇りくる、若やかな青)
  (いやある時は赤みがちにかかり)
  (穂並と震えるわびしい残映)

 秘めし恋情…   (氷結し)
 今こそせめて…  (雪国よ───)
  悲しき恋を…  (闘争と見なせ……)

  (貞潔のゆびが髪をながれ)
  (処女の色気は乳臭く)
  (さえずるものさえ明日(あす)ばかり)
 
  (いままた狂気に直立し)
 
  (今またきみを、思い出す)
 
 心象の波がおだやかに押し引き
 野薔薇のねむる冬の日は
 あかくつめたい現象の目覚めし
 光がまばゆくも…(もはや饐えたにおいで、くずおれる)
  そのいっしゅんかんに呼応して
  祖父の微笑はひきつって見えた
  きみの微笑だけはひきつって見えないが
  切望だけを与えて消える

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秋の詩

  霜田明

長生きしているように
君は眠っていて
僕は冷たい牛乳を注いでいた

過ぎゆく季節の代わりに
君は眠っていて
窓辺のベゴニアが花を落とすと
突然風がやんだようになった

君に届かないことを愛していたから僕は
君にも愛されている気がしていた
過ぎ去った季節は
僕らの外で何度も繰り返され
そのなかで僕らにそっくりな
二人が暮らしていた

目を覚ませば鏡の中の君は
また誤解を解くために
過ちを探しはじめるだろう
どこにも間違いのなかったことがわかれば
忘れ去るためにまた長い眠りに入るだろう

僕が眠りかけていると
とつぜん君は電気を点けて 宵が
僕らの代わりに人格になろうとしているところだった

僕は僕らの間を過ごす
不思議な活気に気がついていた

優しさと 残酷さが
秋の瞳孔の透明な水の中を
行き交いしていた


午後

  深尾貞一郎



缶コーヒーを飲んだ。アーク溶接の激烈な閃光を受けた。
防護面を被った派手な顔立ちと、胸の膨らみに視線を奪われ、愛想よく、
口上を並べて、笑顔をつくった。
笑顔をつくった。
未熟な人間が高貴な死を求めよう
コバルトブルーの、燃料タンクには「GT380」、なぜか、
自然にあくびがでた。
正面に座っているトルコ人の視線が、
開いた口元に注がれる。
何度も
大きなあくびがでてとまらない。
高速回転するドリルが、
分厚い金属板に
穴を穿つ。
ギアと
ギアと
ハンドルを調整しながら、
穴から螺旋状に生まれてくる
アルミニュウム片を
見詰めている。
待っている間、5本の指を見詰めた。細かい傷にグリースや鉄粉が入りこんで、
アーク溶接の激烈な閃光を受けた。
秋風が穏やかな匂いを運んできた。
ショパンのエチュードを想うと、
幼い友の面影が浮かんだ。
真っ白なグランドピアノが据えてある。
『別れの曲』
のメロディは、濃密に、繊細に、
空間を彩り、
抑制された、
確かな構造に支えられている。
単純で自然である。
多くの能力が要求される幻影を繰り返して。


教会地

  鷹枕可

とめどころも無い広さを飽く梳られた電気の広場を理髪鋏の葬列が寄掛かってゆくには些かのパン屑が必要であった
握り締められた手の容が最初の偶像となるだろうが憎しみの愛は始まったばかりなのだ
貿易便覧を眺めて見れば噴水と鳩時計の近寄り難い距離は明瞭な物となるであろう
何よりもまず掴まれた昏い花の手指がシチュー鍋の乾板に沈みこむまでに遣り遂げなければならないことは鉛色の銃、
それを握りしめた大広場の白昼の彫像、ただならぬ微笑にさえもガラス瓶の独立記念日がドアをノックする様に、物象は丁重に退廷をしてゆかなければならない
証人台に録音機のヴィーナスよりも見苦しい踵が逆様に曇る愚者の万有引力を提唱すると、
電気科学者たちは鼠の血や鸚哥の翼を納めた私書箱を発端とする記録的な更新世の死体を流行病隔離室に匿う
葡萄地方の鈍らな愉悦に劇場を築く程に閑散として笑った幾つもの骸骨のただなかで
踏みしめられた胸像の微笑が堰を切って放心して行く今と今にも地下鉄にも檸檬が輪転している半自動裁縫機の正確な縫目を掻い潜りながら
誰もが血糊を避けて歩く
過去に於いて想像をされた機械と現代像に於いて展望をされる機械工学の間隙を諸々の抗精神病薬は眠りながら立っている夢遊擬似症の偽婦人たちに跪く外に手筈もなく
収監者達であり私達でもあるべき所の独房の丸時計に釘打たれた麦の抜殻を熟れた病人が腐り始める、錫の薬莢に拍車はかかりながら

_

めざめよ夜のはじまりから喘息に到るまでの幾つものキャベツロールに添えられた釣鐘の叛教会主義者たち、
自動車から瓦斯燈へ回顧展から処女受胎へつぎつぎと傾れ喚く貨物帆船乗客たちよ
今は許そう、非-面体の三角法が採掘される迄には充分な時間が在るから しかし福音機械書記者の想像限界は人間達の咽喉の林檎よりも静物に近いようだ
私は一つでも取りこぼしたことが有っただろうか、総ての名前を記す指には終世の光悦が約束されているが鍵盤が落ちた部屋には閂が降ろされるだろう
君の部屋にも閂が降ろされるであろう、それは青空の壁紙を延びる積乱雲の遅い聖霊達の刎ねられた心臓でもあるかもしれない
収穫は悪魔であり白薔薇色の石鹸でもある、それは叶わない戸籍録のひとしずくの泪ではない、見て御覧、ミニチュアの市街地を塩の柱が振返るところを
不安症の部屋部屋は妊娠された、堕胎の少年ははたして雌蘂か雄蘂なのか、
両性具有の海を拾うひとびとが呪いを受けるとしてもそれは近代と現在ほどの些末な違いに過ぎないのだから、
つぎつぎと埋葬された遺骸骨の壺が掘返されたところで何ら恐れるべきではないのだ
たとえるなら死が総てに降りかかることをあらかじめ決められた始めての手紙でもあるように


感情の秋

  郷夏


(光射し、その言葉)
 夏の遠ざかってゆく日、それぞれの夜明け
 賑わいの祭囃子が途絶え、唖者は黙する秋をさまよう
 悲しみよ、覚めないでいておくれ
 
 
(光射し、その言葉)
 私の忘れえぬ唯一の願いごとが、もういちどきみと
 おなじ景色をみることです
 それが叶うならば、私たちはすべてでわかりあえましょう
 わかりあえるはずでしょう
 
 
(光射し、その言葉)
 けれどもきみは遠かった
 夜道のかたちを歩き慣れ
 わたしのなみだがとどかぬそこは
 つめたくはげしく、空々しい
 そしてわたしが失意にそよぎ
 心静かなぬかるみの、さなかで無力に立ち尽くし
 なみだは朝陽へ涸れゆくころ
 むなしき声さえ訪わぬ日々が
 ゆきもどる春を水沫のように
 はじける、淋しく、目紛しい
 (つなぐ孤独を解りあう、愛しきひとの尊いぬくみ)
 (せいしんてきに失せてゆき)
 
  ふたつの人影、巨大に白く
  風紋をみだし、けずられた渚の
  ひかり射しひかり射す、その言葉
  波寄せてくずれ、壊れゆくものの静けさへ
  (僕らの恋は不能となった………)
  (もっと美しく笑えたじゃないか………)
   月下の水面を白鳥座は閃き
   神秘の軌道をえがいて映える
   宵となりやがて、砂上への文字はなく
   悠遠の海が青褪めてひとつ
 
(春)色めく朱唇のふれあいは
(夏)ゝ憧憬を妬心へくだし
(晩)やがて静かに呻吟し
(秋)ひそかに涙を睨むのみ
 
   なぜあのうつくしい過去のはて
   こころに俺は孤立する
   
 
   こころにさえも孤立する
 
 
   (その夜、誓言すら忘れたようなおまえが)
   (くるしみもしらず空を見つめていたから)
   (おれは憎しみで星を数えるようになった)


 
    (ひかり差し、そのことば)
     ゆびさきからほどかれるきみに
     このかなしみの名を教えたのだ


#08

  田中恭平

未だこんなに熱を持っていたのかよ
と北東の寝室に冷える
僅かな痛みは、コピー用紙の上で鮮やかな赤となった
紙コップ
清涼飲料水
スズキ君
スズキ君はいませんね
メスで切る心臓の部位は、緑色に染まるキッチンの昼食となる、
黄昏まで永い、どれ位のジャズを聴くことができるのだろ
スズキ君 スズキヒカル君
スズキ君はいませんね
骨は体感として煤となって国旗を汚す
いけない なぜいけないのか知れないが
きみはいってしまった
可能性?
のなかで欠伸をしつつ白い花を見ている病者の祈りは
よくあろうとするという病気に
みんなかかってしまっていたそのときを越えて
地震は来る 祠が毎日教えてくれる
毎日 歩いて通う 
汗だくとなって帰る
時々コンビニへ寄る
馴染の店員さんとジョークで笑う
ボロボロの切手一枚を大切にしている
白い樹が杖となって
万緑は暴力となって
外からは見えない痣となっていますので
みなさんお気をつけて
気をかけてやって下さいな
そんな地点から俺をみるな
嗚呼、山鳥が飛んでいるな

鹿の啼く季節だな
踏み込めば白さ上昇する
ほのかに嗅げばまだ命に未練ある
つかれている
鳥のように
食われている
鳥のように
食らっている
もののことは話したくない、汚いから
逃げたいからいっそ幽体となって
あなたと彼方交わす再会のキス
記す、丸太に斧を入れたら甘かったよ 香りが って
時計が壊れた
また壊れた
時間がおかしくなっているから
致し方なし
梨をほうばりつつ
椅子がバラバラに解体されていく
いつかの災害の
記憶のように
整理される暇を
僕らは潰す
ようにしかし楽しくできもしないのに
写真は真実を映しているから嫌いなので致し方なし
良好な天気、お天気さんが黄色いブーツで走っていった
僕は虹を見た まだ枯れられる余地はあるとおもった
だけで、体の余裕はなかった
ニコチン中毒だった おーまいごっと
最近走っていなかった
だらりと蝋燭のロウとなっていた
腹が煮えくり返って、音だけがうつくしかった
と錯誤させている身体があった
乾いていた 煮えていた 人より自転車に乗れるのが遅かった
歩こう 
何に急かされて?
携帯のバイブレーションを無視して
空白をつくろう
その空白に言葉を書こう
丸めよう
燃そう
神さまはゲイであることの、
スズキヒカル君
とんでもない失敗は記憶に残らなかったくらい幼かったから
お金が燃えていてうつくしかった
またうつくしかった
うつくしさには飽きる
この人生にも飽きてきた
白秋なのね
作戦を練ることだ、
ときみは言って
嗚呼、ここまで覚えている
Yes と僕は言い
警戒線を解いたら蜘蛛が逃げていった
垂れこめる雲は黒く降りそうでふらない、
煙草の煙を足してやれ
雷の音はどうしようもない
どこにもいけない幽霊たちが
痛みとなって俺を撃つ
ふるえる
ねむる
起きる
働く
たのしく
死んでいく
キーンと飛行機していたダンデライオン
鳥達に食われて死んでしまったアイデスで
なんで背中から鉛筆が出てくるのか誰か教えてくれないか
9時45分 スプリットキック聞いて一日をはじめる
アートブレイキーの、
を、パソコンのWordに収めちょっと眺めていた
スズキ君はいません
死にました
まだまだ冷えるのか
シャワーを浴びようか
考えて
もいないけど
感覚的に動いているだけで
僕に
足はない

 


砂(Dec.2011-Jan.2012)

  bananamwllow

《粗編(2011.12.3.)》

あまりに
潮風がうるさいので
夜半に目が覚めてしまった
煙草が尽きており
外に出るも、風の勢い
が億劫で即座に引き返した

道すがら隣人とすれ違い
挨拶すると、近くのアパートの
天井が抜け落ちたと云う
ここらは、屋根に砂が溜まるので
時折、天井が抜けるらしい
まるで信じる気もなかったが
隣人が割合熱心に忠告するので
部屋の天井の膨らみが、若干
気になった しかし、
砂に浸かったところで
惜しむような財産はない

海辺の家に住み
もうニ年半経つが
特段、やることなどない
ベランダから
潮の引き際へ目を移すと
ちいさな浜辺の、
錆びたトタンが剥き出しである

明日は仕事がないので、園田へ
競馬を見に行こうと思う
これ程、風が強ければ
馬場に砂埃が立つだろう
最終コーナーを曲がる際に
砂煙が舞って
一瞬、馬と馬の
見分けがつかなくなる

昔、一時的に仲良くしていた友人は
人と人の見分けがつかなかった
おそらく、観念のなかで
砂塵が舞っているのだろう
瀬戸内の砂は少し茶色く
園田のダートは、荒い
友人は、砂の区別は良く付いた
わたしはすべての他人が
違う顔を持つことを
少し、恐れる

駐車場から
高校生がワラワラと、
三人も出て来る
彼女たちの後ろ姿
を見遣る
髪が風に乱れて
茶色の砂が少し、混じった




《最終稿(2012.1.10.)》





道すがら
隣人が
近くのアパートの
天井が抜け落ちた
と云う
ここらは
屋根に砂が溜まるので
時折抜けるのだ
と云う
割合熱心に忠告するので
部屋の天井の
膨らみが気になり 

明日は
仕事がないので
園田へ馬を
見に行こう
と思う
これ程、
風が強ければ
馬場に砂埃
が立つだろう
最終コーナー
を曲がる際に
砂煙が舞って
一瞬、馬と馬の
見分け
がつかなくなる
かつて、
友人は
あなたとあなたの
見分け
がつかなかった
おそらく、
観念のなかで
砂塵が舞って
いるのだろう

園田のダートは荒い
わたしは
すべての他人が
違う顔を持つことを
すこし、恐れる


mirage

  完備

 文芸同人誌の表紙を描いてほしい、と学科の後輩に頼まれたのは3年の冬休みだった。私も後輩も帰省しなかったからいつでも会えた。詳しい話をしようということで、私の家で後輩と鍋を囲んだ。
 私は詩も小説もほとんど読まない。絵やデザインが特別得意なわけでもない。ただときどき、衝動的になにかを作ることがある。絵であったり、彫刻であったりするそれらを、私は後輩にだけ見せていた。後輩も公開前の自作詩を、こっそり見せてくれた。そんな関係が始まったのは1年ほど前だったが、今その話はしない。私は自分の作ったものになんの固執もなかったけれど、後輩は私の作品に心底惚れているようで、なんだか申し訳ない気持ちになりながらも、ほしいと言われればどんな作品でも後輩に渡した。
 原稿に目を通す。後輩の作品だけ読む。いつも、うすい光のなかでなにかを諦めている彼女の姿がある。たとえばこんな調子だった。

  タイトルだけ知っている
  夥しい本たちを
  わたしは
  手に取ることすらないだろう
  それらがあまりにとおい
  蜃気楼であることを
  わたしが
  受け入れるための
  あまりにあかるい午後だった

 意味は分かるがそれ以上はほとんど分からない。その場で私はデザインの原案をいくつもスケッチしていく。後輩は気に入ったものをいくつか選んでくれるから、また後日、よりアイデアを固めたものを後輩に見せることになるだろう。私たちには腐るほど時間があった。

 その日はいっしょに寝た。後輩と同じ布団で寝るようになったのがいつか、正確には思い出せないけれど、彼女は気付けば私の布団に入ってくるようになっていた。私は別に気にしなかった。私が寝たと思うと、彼女はときどき泣いた。
 その日も彼女はいつものように私の背中にぴったりと寄り添っていたが、私が眠りかけたとき、唐突に彼女は私の胸に触れ、揉みはじめたのである。それから私も体を彼女の方に向け、深いキスをした。私も彼女の胸を揉んだ。彼女が、乳首を弄られただけで声を出してしまうほどの女の子であることを知った。
 彼女は執拗にキスをした。私はキスをすると疲れる。私はへとへとになり、たまらず彼女のパンツのなかに手を入れようとした。実際に入れ、驚くほど濡れているのを確認はしたが、彼女はそれ以上を許してくれなかった。彼女は執拗にキスをした。彼女はキスをし続けた。それからまた、彼女は私の胸を揉んだ。私はなにがなんだかわからなくなり、自分の手で果てた。それからのことはよく覚えてない。私は早起きして二人分の朝食を作った。たった今、後輩が起きたところだ。


ジライグモ

  アラメルモ


凧をあげる/鳶がまわる
反発に向き合いながら胸と背中
大空の夢をみなくなって久しい

(おや、また出てきたな、、)
家の中を片付けているといつもおまえはどこからかやってくる
どこに隠れていたのか、じっとして動かない
慌ただしく呼び出されたのに違いない(みつめている)
、(そう、きたのか)、容赦なく叩きつけてやろう
おまえにはわかっているはずだ
こうなることが、運命だと、

風呂から上がり、ドライヤーで髪の毛を乾かしていると不意に何者かの気配がする
今夜あたり白い影をみることになるのかもしれない
南西/東から北へ
旋風がやって来て、括りつける強い紐がない
布地の切れ端や、カラフルな細糸、いくらでも箱の中には収まっているのに

大型の車が通る度に家の梁が軋む
正月には誰かが空き地で凧をあげる
夜になれば糸を張らない蜘蛛が家の壁を這う
明け方、括りつけた糸が切れて風にのるだろう
それを鳶がじっとみていた
予報通りに雨は降り続くが、地面は揺れているのか、
ぺしゃんこに潰れた躰
おまえが、そっと動きだした。


南下する太平洋の横断幕

  kaz.

初めて何かにあった日も雨が降っていました。空はパンの耳のように裂かれ、何かの上にぽつんと雨を打たせていました。何かから、わたしに話しかけようとして、何かはそっと耳打ちしたので、何かが何か、わからなくなりました。何かしら、何か知らないことがあるといけないので、と何かは言った気がしました。屁を出しながら爆発するのを想像する何かは、自分の身体が雨に溶けていくのを感じました。何かはそこで、水をくぐり抜けて泳ぎました。何かは、何か何か何か、と探しました、という何かを何かしました。何かの雨が、何か降ってきました。屁を出しながら爆発するといけないので、何かは何かと一生懸命に何かをしようとしましたが、何かと面倒なことに巻き込まれ、その何かがわかった時には、それは人ごみに消えていました。何かは、何かによって刺され、何か知らないけれども何かよくわからない何かの中へ、すなわちそれは人ごみの中であったのだが、何か消えていきました。何か、とっても怖いことのように思いませんか。何か、凄いことになりそうな予感なのです。何かと何かは何かをしましたので、何かよくわからない何かが生まれました。それは何か。何か、よくわからないけれども、何かだったのは確かです。何かは何かのように何かされ、何かの上で何か何かしていました。

文学極道

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