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2015年12月分

月間優良作品 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一五年四月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年四月一日 「少年はハーモニカの音が好きだと言った。」


 これは、『ゲイ・ポエムズ』に収録した『陽の埋葬』の一つに書いた少年の言葉だった。ぼくがまだ20代だったころの話だ。なんで思い出したんだろう。その少年のことで書いていないことがあったからかもしれない。たしかにあった。瞬間のなかにこそ、永遠はあるのだ。でも、まあ、ぼくが54才になったように、その少年も40才まえか、40才ころか、40才をこえたおっちゃんになってるんだろう。きっと、かわいいおっちゃんになってるんだろうけれど。そうだ。ぼくが好きになった子は、みんな、かわいいおっちゃんになってる、笑。下鴨にあったぼくのワンルーム・マンションで、自分の勃起したちんぽこいじりながら、にこにこしながら、ぼくと音楽の話をしてた。「おれ、ハーモニカの音が好きなんですよ。」そか。なんか、頭の先、しびれるよな。酒、飲んでたらな。いまなら、わかるさ。わかるよ。そのあとの展開は、臆病なぼくらしい展開で、ぼくの究極のテーマだと思う。臆病なぼくは手を出すこともできなくて、その子がわざともみしだいておっ立てたチンポコの形を、彼のズボンの上から眺めることしかできなくって、そうだ。そのあとのことを、『ゲイ・ポエムズ』の『陽の埋葬』の一つに書いたのだった。彼はわざと勃起したチンポコのふくらみを見せつけたのだった。


二〇一五年四月二日 「言葉」


 いくつもの言葉を飼っている。餌は言葉だ。文章のなかで飼っている。しかし、ときどき、文章を替えてやらないと死んでしまう。また、余白やリズムを文章のなかに適当に配置してやらなければ、元気がなくなる。それにしても、言葉の餌が言葉だというのは、おもしろい。人間の餌が人間であるのと同様に。


二〇一五年四月三日 「言葉」


 ぼくの作品の主題は、言葉とは何か、だと思っているのだけれど、いまだに言葉というものが、よくわからない。わからないのは、「言葉」の意味が多義にわたるためであるが、名詞の、動詞の、助詞の機能をのみ取り出すと、考えやすくなると思う。名詞あるいは助詞の機能は『順列 並べ替え詩。3×2×1』で、動詞あるいは名詞の機能は『受粉。』でわかったところがあって、たとえば、『順列 並べ替え詩。3×2×1』では、三重メタファーについて、『理系の詩学』において詳しく調べた。『受粉。』でも、多重メタファー的な現象が文体に起こっていることがわかった。あした、ひさびさに、言語実験的な作品をつくろうと思う。失敗作品であってもかまわない。数多くの実験から、これだと思うものが、1作できればいいのだから。数多くの失敗作か。それは嘘だな。ほとんど失敗作をつくったことがないのだから。傲慢かな。いや、事実だ。全行引用詩においても、いろいろわかったことが数多くあるのだが、詳細に語るときがそのうちくるだろうと思う。論考という形ではなく、ぼくのことだから、エッセーのような詩作品のようなもののなかで語ると思うのだけれど。『詩の日めくり』に書くかな。どうだろ。


二〇一五年四月四日 「Are you the leaf, the blossom or the bole?」


 数日まえからはじめた原著の読書は、ぼくのふさぎがちだった気分を、どうやらよい方向に持って行ってくれているようだ。食事をしたあとに、バッド・カンパニーのセカンド・アルバムをかけながら、本棚の端にもたれて、イエイツの LEDA AND SWAN と AMONG SCHOOL CHILDREN を読んで、ぼくが大好きな詩句を見つけた。 AMONG SCHOOL CHILDREN のVIIIにある、Are you the leaf, the blossom or the bole? と How can we know the dancer from the dance? である。出淵 博さんの訳では、「お前は葉か? 花か? それとも幹か?」、「どうして踊り子を舞踏と区別できようか?」となっているのだけれど、なんとシンプルな言葉で、ぼくをどきどきさせる、スリリングな言葉かなと思った。きょうは、この詩から栄養を補給するために、何度も読み直そうと思う。そういえば、この詩のなかには、いつか、ぼくが引用した、ぼくが深く驚き、かつ、重くうなずかされた言葉もある。ふと思い出した。この詩は、エリオットがイエイツを再発見したときの詩だったことを。ちょっと感傷的になっているのかもしれない。翻訳を読んでいたら、涙ぐんでしまった。なんてやさしい言葉で深いことがらを表しているのだろう。きょうはこれだけを読んで過ごそう。ぼくが引用した2行。それぞれ、そのまえの行を引用しないとダメだった。ぼくの目が局所的だったことを反省。

O chestnut-tree, great-rooted blossomer,
Are you the leaf, the blossom or the bole?
O body swayed to music, O brightening grance,
How can we know the dancer from the dance?

出淵 博さんの訳では

ああ、マロニエの樹よ。巨大な根を下し、花を咲かせるものよ。
お前は葉か? 花か? それとも幹か?
ああ、音楽に合せて揺れ動く肉体よ。ああ、きらめく眼差(まなざ)しよ。
どうして踊り子を舞踏と区別できようか?

高松雄一さんの訳では

おお、橡(とち)の木よ、大いなる根を張り花を咲かせるものよ、
おまえは葉か、花か、それとも幹か。
おお、音楽に揺れ動く肉体よ、おお輝く眼(まな)ざしよ、
どうして踊り子と踊りを分つことができようか。

小堀隆司さんの訳では

ああ 栗の樹よ、深く根を張りつつ花を咲かせるおまえよ
おまえは葉なのか、花なのか、それとも幹なのか。
ああ 調べに揺らめく肉体よ、きらりと輝く眼差しよ、
いかにして私たちは舞踏する者とその舞いを見分けられようか。

 マロニエの木と、栗の木と、橡の木とが同じものだということを、はじめて知った。chestnut-tree の訳の違いで。AMONG SCHOOL CHILDREN、ぼくには難しいところを異なる訳で勉強しようと思う。わかりやすいと思ってたのに、わかりにくいところがいくつもある。深いっていうのは、こういうものなのかもしれない。あるいは、ぼくの英語力が極端に貧しいからか。ふと思いついてはじめた 20TH-CENTURY POETRY & POETICS (OXFORD UNIVERSITY PRESS) の読みだけど、おもしろい。やみつきになってしまうかもしれない。800ページ以上あるから、一日に1ページか2ページくらいしか読めないだろうから、数年の習慣になるかもしれない。習慣になれば、いいのだけれど。死ぬまでに読み切れないほどの洋書を買っているから、死ぬまでの習慣にできれば、さらによい。


二〇一五年四月五日 「神さまのおしっこ」


雨の音がすごい。寝れへん。神さまのおしっこ、すご過ぎ!


二〇一五年四月六日 「未収録メモ」


「愛は点であり、真理は点であり、道は点である。」と6月の日記に書いたが、ダンテの『神曲』を読み直していると、「点とは神のことである」とあり、ドキッとしたのであるが、そういえば、「偶然とは神である」と芥川龍之介も書いていて、偶然をひっつかまえて、あるいは、偶然にひっつかまれて、詩をつくるぼくは、ふと、神さまの襟元を両手でつかんで振り回す自分の姿を、そして、神さまに胸元をつかまれて振り回される自分の姿を目に浮かべた。(2014年10月25日のメモ)

 アナホリッシュ國文學の『詩の日めくり』で「病気になるのも悪くない」というタイトルで一項目を書くこと。膝の痛みについて書く。「病人というものは、健康な人が見逃したものに気づくものだよ」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』21、岡部博之訳)これに似た言葉をトーマス・マンも『ファウスト博士』のなかに書いていた。以前に論考のなかに引用したことがある。「健康でないからこそ、健康なひとが気づけなかったことに気づくことができる」というような言葉だったと思う。ところで、もしも人間の肉体がずっと健康で、ずっと若くて、けがや病気をしてもすぐに治ってしまうのなら、人間は、自分の肉体をぜんぜん大切にしないだろうと思う。痛みがなければ、なおさらのことだろう。ひとが、ひとのことを気づかうのも、何がきっかけで相手が機嫌を損ねてしまうか、自分から離れてしまうか、わからないからかもしれない。もしもどんなにひどいことを言ったり、したりしても、ひとが機嫌を損ねたり、自分から離れたりすることがないのだとしたら、ひとは、他人に気づかうことをしなくなるだろう。(2014年5月20日のメモ)

 あなたは渇いている。あなたは頭の先からつま先まで渇ききっている。あなたの指が水に濡れたとしたら、その指の皮膚の表面から、ただちに水を吸収してしまうだろう。あなたは渇いている。あなたの指が本のページに触れると、本のページからたちまち水分がなくなってしまう。あなたの指が本のページのうえをすべると、その摩擦熱で、本のページが渇ききってしまう。あなたの身体はその摩擦熱を溜めこむ。やがて、あなたの身体は発火点に達して、燃え上がってしまうだろう。(2014年5月31日のメモ)

 言葉と言葉のセックス。言葉にも、親があり、子があり、友があり、恋人がある。親戚もあれば、赤の他人もある。さまざまな体位でセックスする言葉たち。近親相姦もあれば、同性愛もある。きつい体位というものを、ぼくはしじゅう考える。奇形的な体位をしじゅう考える。(2014年5月19日のメモ)

きみの身体から完全に出て行くまえに、言っておくよ。
きみは、よくがんばった。
それほど愛にめぐまれた家庭に育ったわけでもないのに
人生の終わりのほうでは
人を愛することができるようになっていたね。
愛されて育てられていたら
もっとわかいときから感情のバランスもとれてただろうし
違った人生だっただろうけれど
終わりよければ、すべてよしなんだよ。
さいごが、すべてさ。
ああ、たくさんの魂が混じりはじめた。
きみから離れるよ。
さようなら、ぼくよ。
(2010年1月24日のメモ)


二〇一五年四月七日 「ケイちゃん」


 目が覚めた。泣いてしまいそうなくらい、いい夢を見た。田舎で家族と暮らしてるんだけど、なぜかタイプの若い子がぼくの部屋に泊まっていて、隣の部屋にママンがいて、ぼくたちはテーブルをはさんで、あしをからませて、おちょけていたんだけど、つぎの瞬間は、就寝シーンで、彼がぼくのうえから、ぼくの身体のうえにおっかぶさるようにしてたのだった。そしたら、つぎの朝のシーンで、田舎の行事の餅つきをしていたのだった。彼も手伝ってた。これって、へんな夢だよね。いま恋人いないけど、できるってことかな。それとも、夢のなかでなら幸せってことなのかな。ちなみに、その彼って、ぼくが21才のときに付き合った、2つ年上の23才のケイちゃんにそっくりだった。ぼくもきっと、夢の中では、若かったんだろうね。ママンも若かったから。田舎の家ってのも、なんだかだった。なにを暗示してるんだろう。いいことあるかなあ。


二〇一五年四月八日 「表紙の絵」


 3つの本棚の4つの棚の本を並べ替えていた。本の表紙の絵にみとれること、しきり。ぼくはやっぱり画家になりたかったのかな、と、ふと思った。でも、詩も好きだし、小説も好きだし、音楽も好きだけどな、とも思った。本棚を整理するときに、アンソロジーだけの棚をつくったのだけれど、再読したい気持ちバリバリになるんだね。収録されているすべての作品がいいわけじゃないけど、いいものがやっぱり入ってることが多くて、背表紙みただけで、ドキドキする。もしかすると、ぼくは本と結婚しちゃったのかもね。


二〇一五年四月九日 「猫にルビ」


 仕事帰りの通勤電車のなかでは、『ナイト・フライヤー』のつづきを読んでいた。レトリックで学ぶべきところはあったのだけれど、日本語の文章にはなじみのないものだった。ぼくの文学経験で、これまでに2度、出合っただけのものだった。「ミリアムは猫(ねこ)と遊びながら、自分の考えにふけった。猫も想像力も、今夜はおとなしくしていた。」(クライヴ・パーカー『魔物の棲(す)む路(みち)』酒井昭伸訳)酒井昭伸さんの訳は好きな部類なんだけど、「猫」にルビ振るのは勘弁してほしいなと思った。


二〇一五年四月十日 「衣紋掛け」


 服に衣紋掛けがあるんだったら、こころにも衣紋掛けがあってもいいのになって、ふと思った。


二〇一五年四月十一日 「何度も同じ本を買う」


 きれいな状態だという説明なので、アマゾンで、フィリス・ゴッドリーブの『オー・マスター・キャリバン!』を買った。これで買うの3度目だ。きのう、きれいなカヴァーをみたからだと思うけど、ぼくは古書マニアでもないのに、カヴァーのためだけに、同じ本を何度も買ってしまう病気なのだと思う。癒しがたい病気だな。むかし付き合ってる子に、同じ本を5回買ったときに、もうこれ以上、同じ本を買ったら別れると言われた。そう言ってくれたのは、やさしさからだったと思う。後日、到着した本のカヴァーがきれいじゃなかったら、思い切り放り投げて破り捨ててやろうと思う。病気か、狂気かな。狂気の病気か。いま読んでる『ペルセウス座流星群』に出てくる少年は貧しくて、好きな本を買うこともできずにいるのだった。同じ本を、何冊も買って、カヴァーのよりよい状態のものを並べて眺めているのが趣味のぼくなんて、なんて罪深いのだろう。といっても、治る病気ではなさそうだ。まあ、カヴァーの状態のよりよいものを、ということなら、もう買い求めるSF文庫本はないのだけれど。


二〇一五年四月十二日 「another voice of green」


 another voice of green という言葉を思いついた。ネットで検索しても出てこなかったので、記憶していた詩句の一部であったり、曲名からのものではなかったようだ。イーノのアルバムに『アナザー・グリーン・オブ・ザ・ワールド』ってのがあったようには思うが。緑の別の声か。green には the をつけて、「緑なるもの」って感じにしたほうがよいかもしれない。another voice of the green。the がないほうがいいかな。音的にはないほうがよい。いや、あったほうがよいかな。そのうち、作品に使おう


二〇一五年四月十三日 「(もと)友だち」


 帰りに、大学と、大学院時代にいっしょだった(もと)友だちとばったり。「あんまり変わらへんな」と言うので「おんなじ人間なんやから、そら、ぜんぜん違うひとには、ならへんで」と返した。あたりまえのことを言って、なにがおもしろいのか、ずっと笑っておった。まあ、笑いは健康にいいし、いいか。


二〇一五年四月十四日 「落穂ひろい」


落穂ひろいに行こう。ぼくが落ちてるところに。


二〇一五年四月十五日 「オー・マスター・キャリバン!」


『オー・マスター・キャリバン!』到着。持っているものと、あまり変わらないきれいさだったので、ギーって感じ。2冊の本の表紙を眺めながら、SF文庫の表紙のかわいらしさについて考え込んでいる。1000円以上も払って、同じくらいのきれいさか。なんだか、ギーって感じで発狂しそうな気がする。


二〇一五年四月十六日 「古代の遺物」


 ジョン・クロウリーの『古代の遺物』を読もうか。また読むの途中でやめなきゃいんだけど。ジョン・クロウリーの作品はよいのだけれど、改行はほとんどしないし、会話もほとんどないし、読むのがとても苦痛なのが難なんだよね。さいしょの短篇、「古代の遺物」も、2番目に収録されていた「彼女が死者に贈るもの」も読みやすかった。『リトル、ビッグ』みたいにギューギュー詰めじゃなかった。短篇だからかな。ちょっと球形したら、読書を再開しよう。3作目の「訪ねてきた理由」が、わからない。さいごの2ページが、記述的に不統一感が強くて、どう解釈していいのか、わからない。表現主体はヴァージニア・ウルフではないはずなのに、さいごの2ページがヴァージニア・ウルフの述懐のようなものになっているからである。2度読んでも理解できない。こう解釈すればいいのだろうか。ヴァージニア・ウルフが、自分のつくろうとしている作品の登場人物の家に訪ねに行く話を書いていて、途中で、自分をその作品の登場人物だと思って、その登場人物から見た自分自身を書いていて、自分がその登場人物の家から帰ったあと、そのつづきを書くのをやめて、自分がその文章を書いたあとに、ただ思いついたことを、書いているのだと。そうでも解釈しないと、ちんぷんかんぷんである。新人の作家がこんなものを書いてきたら、たぶん、ふつうの編集者は突き返すだろうと思うけれど。ぼくなら返す。この短篇のために、神谷美恵子さんの『ヴァジニア・ウルフ研究』(みすず書房)を本棚から取り出して、ウルフの伝記を調べた。神谷さん、音を省略する癖があって、夫の名前もレナド・ウルフ。4つ目の短篇「雪」は、よかった。『エンジン・サマー』で使われたSFガジェットが使われている。短篇のほうがさきに書かれたのかもしれない。記憶については、たしかアウグスティヌスの書いたものがさいしょのものだったと思うけれど、はなはだ興味深いものである。5つ目の短篇「メソロンギ一八二四年」は、ブロッホの『ウェルギリウスの死』を髣髴させた。詩人のバイロンが表現主体である。傑作だと思う。この作品では、バイロンがゲイの設定だけれど、史実かどうかは、知らない。というか、どうでもよいが、とても自然な感じだ。ジョン・クロウリーの短篇集『古代の遺物』、あと1つで読み終わる。意外と読みやすいものだったので、そのところに、多少驚かされる。さいごの1篇は、ちょっと長い。シェイクスピアものなので、興味深い。まだ読んでいる途中なのだけれど、「シェイクスピアのヒロインたちの少女時代」に、シェイクスピア=ベーコン説が出てくるんだけど、数か月前に読んだ『シェイクスピアは誰だったか』(R・F・ウェイレン著)を思い出した。


二〇一五年四月十七日 「音楽のからだ」


「音楽のからだ」という言葉を、ふと思いついた。いちばんなりたかったのが、作家だったのか、音楽家だったのか、画家だったのか、ときどき、わからなくなる。もしかすると、詩人って、そのどれでもあるのかもしれないけれど。


二〇一五年四月十八日 「健在意識」


 あ、健在意識って書いてた。顕在意識だった。そこらじゅうに誤字をまき散らしてる感じだな。くわばら、くわばら。


二〇一五年四月十九日 「軽くチューして、またね。」


 まえに付き合った男の子が部屋に遊びにきてくれた。ちょこっとしか寄る時間がないけどって言って、ほんとに5分で帰って行った、笑。おいしそうな調理パンを2個くれて。「いま食事制限中なんだけど」「ふだん無茶食いするからやんか」「これありがとう」「お昼に食べたら」軽くチューして、またね。


二〇一五年四月二十日 「全財産」

 
 部屋のなかで、こけた。本棚に手をかけてしまって、ひとつの棚が外れて、本が落ちた。棚を直して、本を元の場所に戻した。キッチン寄りの本棚だからか、本がちょこっと湿気てたような気がする。まあ、本など、しょせん消耗品なのかもしれないのだけれど。それが、ぼくの全財産だ。業だな、きっと。


二〇一五年四月二十一日 「きょうのブックオフでのお買い物。CD1枚。レオン・ラッセル」


950円だった。
1000円以上だったら、200円引きだったのだけれど。
ア・ソング・フォー・ユー
ハミングバード
が入ってるやつね。
むかし
中学くらいのとき
鬼火
って、こわいカヴァーのものを買ったけど
よさが、わからなかった。
いまの齢で
ようやく
こころに沁みるようになったって感じ。
太秦のブックオフまで
自転車で。
帰りに
屋根に
ブルーのかわらの
屋根に雪が
そしたら
目の前に現れた
車の前にも雪がのっかってた。

きのう
雪が降っていたことを思い出した。
ほとんど部屋を出ない生活をしているから
天気のことを
すぐに忘れてしまう。
雪を見てると
水盤の上に浮かんだ
花が
花が水のうえで
ぷかぷかと浮いているイメージが思い浮かんだ。
自転車に乗りながら
そしたら
花が葉っぱになって
20年くらいむかしかな。
嵐の夜に船が沈没して
つぎの日の昼に
とてもきれいに晴れた
つぎの日に
おだやかな
きらきらと陽にかがやく
水面のうえに浮かんだ水死体が
からだを

の字にまげて
うつむいて
たくさん浮かんでいて
青いTシャツを着た青年の水死体とか
黄色いスカートを履いた女性の水死体が揺れていた。
さまざまな色の
きれいなシャツや
スカートが
水面にぷかぷかと
ああ
きれいやなあと思った。
ぼくも
あの水死体のように
海のうえに
ぷかぷかと浮かんでいたいな
って思った。
海に浮かんだ
水死体の頭が一つ、動いた。
ぼくは、死んだ目で
テレビ画面を見つめるぼくに目をやった。
テレビ画面のきらきらと輝く海が
ぼくの瞳に映っていた。
その瞳の中心に、ぼくを見つめるぼくがいた。
ぼくのなかに
ぼくの胸のなかに浮かんだ
いくつもの水死体。
花であり
葉っぱであり
幹や
根っこであり
水そのものでもある
ぼくの胸のなかで
ときどき暴れては大人しく眠る
いくつもの水死体たち。
自転車をこいで
途中で
フレスコで
お昼のおかずを買って帰った。
雪だったのね。
きのう。
そういえば
暗い夜にマンションを出たとき
雪が降って
つめたい雪が
顔や手に落ちてきたことを思い出した。
ぼくの胸のなかに降る
冷たい雪たち
ぼくの胸の暗い夜のなかに
降る
ハミングバード。
ア・ソング・フォー・ユー。


二〇一五年四月二十二日 「きみの永遠は」


枯れることのない笑顔が花にある。


二〇一五年四月二十三日 「ディキンスンとホイットマン」


「原子(atom)」という言葉が
ディキンスンとホイットマンの詩に使われていて
これは、おもしろいなと思った。
それというのも、当然、二人が原子論を知っていたからこそ
二人がその言葉を使ったのであろうから
ある言葉の概念が、二人のあいだで、おおよそどのように捉えられていたか
知ることができるし、共通して認識されていたところと
二人によって、異なる受けとめ方をされているところもあると思えたからである。
ディキンスンは、1830年生まれ、1886年没で
ホイットマンは、1819年生まれ、1892年没で
ホイットマンのほうがディキンソンより
十年ほどはやく生まれ、5,6年ほど遅く亡くなったのであるが
「原子(atom)」が出てくる箇所を比較してみる。
まず、ディキンスンから

Of all the Souls that stand create─
I have elected─One─
When Sense from Spirit─files away─
And Subterfuge─is done─
When that which is─and that which was─
Apart─intrinsic─stand─
And this brief Drama in the flesh─
Is shifted─like a Sand─
When Figures show their royal Front─
And Mists─are carved away,
Behold the Atom─I preferred─
To all the lists of Clay!

すべての造られた魂のなかから
ただひとりわたしは選んだ
精神から感覚が立ち去って
ごまかしが終ったとき
いまあるものといままであったものとが
互いに離れてもとになり
この肉体の束の間の悲劇が
砂のように払い除けられたとき
それぞれの形が立派な偉容を示し
霧が晴れたとき
土塊のなかのだれよりもわたしが好んだ
この原子をみて下さい!
(作品六六四番、新倉俊一訳)

ホイットマンの詩では、『草の葉』のなかでも、もっとも長い
『ぼく自身の歌』の冒頭に出てくる。

I celebrate myself, and sing myself,
And what I assume you shall assume,
For every atom belonging to me as good belongs to you.

I loafe and invite my soul,
I lean and loafe at my ease observing a spear of summer grass.

My tongue, every atom of my blood, form'd from this soil, this air,
Born here of parents born here from parents the same, and their parents the same,
I, now thirty-seven years old in perfect health begin,
Hoping to cease not till death.

Creeds and schools in abeyance,
Retiring back a while sufficed at what they are, but never forgotten,
I harbor for good or bad, I permit to speak at every hazard,
Nature without check with original energy.

ぼくはぼく自身を賛え、ぼく自身を歌う、
そして君だとてきっとぼくの思いが分かってくれる、
ぼくである原子は一つ残らず君のものでもあるからだ。

ぼくはぶらつきながらぼくの魂を招く、
ぼくはゆったりと寄りかかり、ぶらつきながら、萌(も)え出たばかりの夏草を眺めやる。

ぼくの舌も、ぼくの血液のあらゆる原子も、この土、この空気からつくり上げられ、
ぼくを産んだ両親も同様に両親から生まれ、その両親も同様であり、
今ぼく三七歳、いたって健康、
生きているかぎりは途絶(とだ)えぬようにと願いつつ、歌い始めの時を迎える。

あれこれの宗旨や学派には休んでもらい、
今はそのままの姿に満足してしばらくは身を引くが、さりとて忘れてしまうことはなく、
良くも悪くも港に帰来し、ぼくは何がなんでも許してやる、
「自然」が拘束を受けず原初の活力のままに語ることを。
(ウォルト・ホイットマン『草の葉』ぼく自身の歌・1、酒本雅之訳)

ホイットマンのほうは、語意がそのまま使われていて
ディキンスンのほうは、より象徴性を含ませた表現になっている。
たまたま、「原子(atom)」が使われている詩を読み比べてみただけだけど
男性性と女性性の違いをはっきり感じ取れた。
これは、一つの単語で、そういうふうに思ったのだけれど
多くの言葉の受容と表現において、男性性と女性性の違いが見られるような気がする。
これは、この二人の詩人に限ったことなのかどうかは、ぼくにはわからないけれど
また、一つの単語で比較しただけだけど
たまたま自分で出した例に、自分で感心するのも変に思われるかもしれないけれど
感心してしまった、笑。
いろいろなことが見えてくるなあ。
いや、いろいろなことが、こう見させているのか……。


二〇一五年四月二十四日 「『Still Falls The Rain。』に引用する詩句の候補その他 1」


あまりに長いあいだ犠牲に耐えていると
心が石になることもある。
ああ、いつになれば気がすむのだ?
それを決めるのは天の仕事、私らの
仕事はつぎつぎと名前を呟(つぶや)くこと。
(イェイツ『一九一六年復活祭』高松雄一訳)

波が浜辺のさざれ石めがけて打ちよせる
(シェイクスピア『波が浜辺に打ちよせるように』平井正穂訳)

胸の奥ふかく、いつも離れぬその波の音をきく。
(イエーツ『インスフリー湖島』尾島庄太郎訳)

あのみぎわの波の音がきこえてくる。
(イェイツ『インスフリー湖島』尾島庄太郎訳)

  〇

ばらばらにしか天国は存在しない
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

そういえば、地獄だってそう。
だって、人間、ひとりひとりが、天国であり、地獄なんだもの。

  〇

須磨の源氏、
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

  〇

規則を破ったこの人たちにみられる
愛のわざこそ最も価値がある
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

すべては光である
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

「交わりは光りを生む(イン・コイトウ・インルミナチオ)」
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
(『創世記』第一章・第三節)

すべて在るものは光りなり
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。
(『出エジプト記』第三章・第十四節)

  〇

かくて光は雨となって降る、かくして注(そそ)ぐ、その中に雨をもった太陽、
(エズラ・パウンド『詩篇』第四篇、岩崎良三訳)

光りの光りにこそ真の徳がある
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

  〇

ばらばらのものがいまいちど寄せあつめられた。
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十六篇、新倉俊一訳)

幸運は続かないことをすべてのものが語っている
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十六篇、新倉俊一訳)

雨もまた「道」の一部
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

風もまた「道」の一部
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

離れられるものは「道」ではない
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

  〇

It was the night of the Ghost
(Jack Kerouac, On the Road, PART ONE-14. p.104)

このあとアッシュベリーの Dream の詩句を引用すること。
あるいは、聖書の霊が出てくるところを引用すること。

  〇

なぜカメなんて呼ぶの、カメじゃないのに?
(ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』第九章、高橋康也・迪訳)


二〇一五年四月二十五日 「『Still Falls The Rain。』に引用する詩句の候補その他 2」


この寒さでは、雪も白さに、ふるえていることだろう。
なんども語ってきたが
子どものころに、ぼくが、いちばんなりたかったのは、画家だった。
ぼくは、白い絵の具を、いちばんよく使っていた。
いつも、白い絵の具をたくさん、ほかの色を少し混ぜたものを
パレットにこしらえて描いていたのだけれど
中学の美術教師は、わかってくれていたが
高校の美術教師には、さんざん嫌味を言われて辟易とした。
絵をつづけていたら、いまよりもっとひどいことを言われるような気がする、笑。
小学校の6年生のときに、市の主催する絵画コンクールで賞を獲ったことが
いちばんの理由じゃないと思うけれど
というのは、小学校にあがる前から
家じゅうのいたるところにマジックでいろんな模様を描いたりしていて
あの父親は、芸術だけには、奇妙な趣味があったので
ぼくのそんな行為を叱ることはなかったのだけれど
父親の絵や写真や映画の趣味の影響もあるのかもしれない。
しかし、市のコンクールで描いたぼくの絵は
いまのぼくの視点と、そう変わらないものだと思う。
動物園で写生したのだけれど
ぼくは、動物園の飼育係のひとが
豹の檻を洗っているところを見つめ
そのあと豹が入れられて
檻のなかの床のくぼみに
まんなかのコンクリートの水溜りのはしっこに写った豹の顔を右端に
塗れて光った水溜まりを中央にして描いたのだった。
この寒さでは、雪も白さにふるえていることだろう。
あの檻のなかの水溜りも、水溜りに写った豹の顔もふるえていることだろう。

  〇

みんなが見ているまえで
ケーキを切り分けるみたいに
ぼくはピリピリしていた。

  〇

病院の入り口の手すりに椅子が鎖でつながれている。
ステンレスの手すりに、ちょっと上質の背もたれのついた藤色の椅子。
霧状の犬が、目の前を走り抜けた。
藤色の椅子に、ぼくは腰を下ろした。
ぼくの視線も、病院の手すりにつながれたままだ。

  〇

みんな憶えているかな
(佐藤わこ『ゴスペル』)

振動している
(佐藤わこ『ゴスペル』)

  〇

人間は誰も知らない、その瞬間が来て
水がいま湧き出したと思ふと、すぐその瞬間が過ぎてしまふ
(イエーツ『鷹の井戸』松村みね子訳)

  〇

いったいこの試練はなんだろう
(佐藤わこ『ゴスペル』)

智慧あるものぞにがきいのちを生くる
(イエーツ『鷹の井戸』松村みね子訳)

  〇

水の湧き出す音がした、水が出る、水が出る
(イエーツ『鷹の井戸』松村みね子訳)

  〇

Was it a vision, or a waking dream?
(John Keats. Ode to a Nightingale)

私は幻を見ていたのか、それとも白日夢を?
(ジョン・キーツ『夜鳴鶯の賦』平井正穂訳)

  〇

どこにも逃げ場はない
(佐藤わこ『ゴスペル』)

逃れる道はないのだ。
(イエーツ『自我と魂との対話』2、御輿員三訳)

  〇

すべてのものは、慣れると色褪(あ)せてしまう。
(ジョン・キーツ『いつも空想を さまよい歩かせよ』出口泰生訳)

  〇

韓国ドラマで、『魔王』というのがあって
とてもおもしろかったので、10枚組みのDVDを
ブックオフで、16000円くらいだったかな
買ったのだけれど
そのなかのセリフに
evil(悪意)を逆さに読むと、live(生きる)になるっていうのがあった。
もちろん、これは
evil(悪意)⇔ live(生きる)
って、ことなんだろうけど
感心しちゃった。

  〇

Direct treatment of the“thing,”whether subjective or objective.
(Ezra Pound. VORTICIZM)

主観・客観をとわず、「物」をじかに扱うこと。
(エズラ・パウンド『ヴォーティシズム』新倉俊一訳)

It is better to present one Image in a lifetime than to produce voluminous works.
(Ezra Pound. A RETROSPECT・A FEW DON'T)

だらだらとながい作品を書くよりも、生涯にいちどひとつのイメージを表現する方がいい。
(エズラ・パウンド『イマジズム』イマジストのいくつかの注意、新倉俊一訳)

  〇

Oh. Excuse me. Bye bye.
(John Ashbery, Girls on the Run. IX, p.19)

さようなら。空想は 人を欺くエルフのように
あまりに巧みには 欺くことができぬのだ。
(ジョン・キーツ『夜鳴鶯に寄せる歌』8、出口泰生訳)

  〇

このあいだ
源氏物語の英訳を読んでいて
あまりにバカな読みをしてしまった自分がいた。
A light repast was brought.

「過去に照らされた光が、ふたたびもたらされたのだ。」
と読んだのだ、笑。
「軽い食事が出た。」
なのにね。
すごい英語力だわ、ぼく。
ああ、ぼくには限界がある。
ぼくの能力には限界がある。
この英語力のなさ。
しかし、この限界が
ぼくを駆動させる。
この限界が
限界があるということが
ぼくを目覚めさせる、躓きの石なのだった。


二〇一五年四月二十六日 「意味」


ときどき、本棚の本を並べかえることがある。
さいきん、SFに飽きてきたので
いちばん目につくところから、どけたのだけれど
そうして本の場所をかえているときに
ふと、思った。
「部屋の意味が変わる」
と。
そこから、いくつかの
小作品を思いついた。

  〇

日知庵に行った。
「いつもの意味ちょうだい。」
「ごめん。
 いつもの意味、きょう、ないねん。」
「じゃあ、ほかの意味でもいいけど
 いつもの意味に近い意味のものにしてね。」
「あいよ。
 じゃ
 ちょっと、いつもの意味と違う意味のものを。」
ぼくの意味は、渡されたおしぼりの意味で、手の意味をふいた。
「きょうの意味を書いておいたから
 そのなかから好きな意味を選んでよ。」
ぼくの意味は、品書きの意味の黒板の意味を見た。
「うううん。
 右の意味から2番目の意味のものがいいかな。」
「あいよ。
 右の意味から2番目の意味ね。」
「それより、はやく、意味ちょうだい。」
「あいよ。
 お待ちぃ。」
ぼくの意味は
ちょっと、いつもの意味と違う意味のものに、目の意味を落とした。

  〇

この意味と
その意味と
あの意味を与えてやってください。
まだ、その年齢の意味では
並べて遊ぶだけで
この意味や
その意味や
あの意味をこわしたりすることはないと思います。
ある程度、意味は変形はするかもしれませんが
その年齢以上の意味ではないので
この意味や
その意味や
あの意味を破壊するまでには至らないと思います。
ぼくもその年齢の意味のころは
よく
この意味や
その意味や
あの意味を並べかえて遊んだものでした。

  〇

鳩の意味が
公園の意味のなかの意味に
いく羽かの意味において
地面の意味のうえの意味で
動いていた。
しじゅう
鳩の意味の一部の意味は
鳩の意味の鳴き声の意味に変化した。
ぼくの意味のまえの意味を
ひとつの意味の影の意味がすばやく走った。
いち羽の意味の鳩の意味を
その大きな意味のかぎづめの意味で、ひっつかむと
いち羽の意味の鷹の意味が飛び去っていった。

  〇

水槽の意味のなかを
魚の意味が泳いでいる。
子どもの意味の
小さな意味の手の意味が
水槽の意味の
ガラスの意味に触れている。
意味がはねて
水の意味がふりかかって
きゃあ、きゃあ
さわいでる。

  〇

ぼくは、きょう、本棚の意味について考えて
部屋の意味について考えて、うえに掲げたものを考えついた。
書き終えてから気がついた。
呼吸ひとつするあいだ
いや
瞬間、瞬間に
物理化学的に
ぼく自身が変化しているのだから
なにもしないでも
部屋の意味も変わっているはずだということに。
そうだった。
何ものも変化することをやめない
というのが不変(かつ普遍)の法則だったはずだと。
ううううん。
もうクスリのんで寝なくちゃ。

あしたから、通勤電車や勤め先で書いたメモを書き込まなきゃ。
きのう、きょう、ひとつも書き込めなかった。
たまってるぅ。


二〇一五年四月二十七日 「緑の吉田くん」


べつに、こびとでも
巨人でもない
ふつうサイズの吉田くん。
ただ緑なだけで。
することなすこと緑なだけで
そんなところで
緑にすることはないじゃないかってところまで緑なの。
でも
吉田くんが
教室に入ると
たちまち緑になる。
赤かった池田さんも
紫色だった佐藤くんも
黄色だったぼくまで
たちまち緑になって
池田さんの手の先に緑色の小鳥がとまる。
佐藤くんの手の椀に緑色の小魚が泳ぎ出す。
ぼくの胸のなかに緑の獣が走り出す。
教室中が緑になって
天上がなくなって
壁がなくなって
みんな緑になって
笑い出した。
きらきら光る
太陽光線を浴びて
みんな緑になって
笑ってる。
嘘なんて、ついてないよ、笑。
ただ、みんなで、笑ってるだけさ。
let's love together
love & peace
love conquers all
seasons of love
it's green
it's green


二〇一五年四月二十八日 「アクタイオーン」


悪態ON
じゃなかった。
アクタイオーン
ケンタウロスのケイローンに狩猟の手ほどきを受けた
アクタイオーン
カドモスの孫
アクタイオーンが
尊い女神のアルテミス、
ディアーナのもろ肌を見たため
呪われて鹿となり
自ら連れ出していた五十頭の猟犬たちに咬み殺された
アクタイオーン
きみは教えてくれたんだね。
女神のもろ肌を見たせいで鹿にされて
自分の犬に皮膚をずたずたに引き裂かれて死んだ
アクタイオーン
茂みから、ふいに飛び出してきた鹿を見ることは
自分を見ること。
鹿を見ることは、自分を見ること。

そもそも、見るとは、自身を省みること。
自らを引き裂き、統合すること。
事物・事象との遭遇は、その契機となるもの。
プロティノス的な見地に立つと、当然、そうやった。

ぼくは、アクタイオーンであって
アルテミスであって
猟犬でもある。

ぼくの目は、ある何ものかに惹きつけられる。
ぼくの目をとめる事物や事象。
ぼくのなかにその事物や事象がはじめからあったことに気づくぼく。
ぼくは自分のなかにある、
それまでそんなものがあったなんて思ったこともないものを
じっと見る。
長い時間、見つづける。
いろいろな時間から、場所から、出来事から
それを見る。
それを見つづける。
やがて、それが、ぼくを引き裂く。
ぼくの目は、引き裂かれた自分の皮膚を見つめる。
流れ出たおびただしい血を吸い込む地面も、また、ぼくなのだった。

がくんとなった小舟から見上げた岩頭の藤の花の美しさ。

茂みから、ふいに飛び出てきた鹿。

むかし、付き合ってた子と
奈良公園に行ったら
夕方だったけど
鹿がいた。
暗闇に近い薄暗がりから
ぎゅっと頭を突き出す。
鹿って、大きいんだね。
「こわ〜。
 鹿って、こんなに大きかった?」
「ほんまや。
 大きいなあ。」
「鹿せんべい、持ってへんから
 怒っとんのかな?」
「そうかも。
 はよ、帰ろう。」
ぼくたち、ふたりは、 我が物顔で道路にまで出てきて威嚇する鹿たちから逃げた。
まっ、車だったから、車に戻って帰っただけだけどね〜、笑。

自己分析は、古い自我の破壊を招くので
ときどき、ぼくは、自分を見失いそうになる。
体調まで崩してしまうことがある。
30代には、記憶まで混乱してしまったことがある。
正気でいつづけるのは、ほんとに難しいことだと思った。

ぼくは、巻物になりたいのかもしれない。
くるくる回されて、ほどかれたり
またくるくる巻かれて、ぎゅっと紐で締められたい。
そんなことを、ふと思った。

それともミイラになりたいのかしら? 笑
ほどいたり、巻いたりする手が自分であるというのが
ぼくの場合、痛い感じなのだけれど。
シュル、シュル、シュルッ!
キュッ、キュッ。
ドボンッ→


二〇一五年四月二十九日 「自分だけの言葉」


ぼくは子どものころ
自分だけの言葉をしゃべっていたようです。
親が外国の音楽が好きでしたので
家でかかる音楽は、シャンソンや、ラテンのポップスばかりでしたから
その音楽で育ったせいか
意味もわからない単語を
いえ、単語ではないですね
言葉? でもないですね。
よくつぶやいていたものです。
はずかしいですね。
いまでも、しじゅう
鼻歌を歌いながら歩いています。
ときどき歌ってもいるみたいです。
あぶないジジイですね、笑。


二〇一五年四月三十日 「祖母」


そこで、祖母は、火箸を灰のなかに突き入れて
ぼくの目を見つめたのだった。
クシクシと乾いた音をたてながら
動かされた炭は
火の粉を散らして輝いていた。


二〇一五年四月三十一日 「ノイズ」


だれかがノイズになっているよ。
こくりと、マシーンがうなずいた。


宇宙人が来た

  

教室では制服を着た生徒たちが、先生の言葉を聴きながら
黒板の文字をノートに写し取り、
校舎の時計台は、青空を背景に四角く切り取られ
街の真ん中で、正統を刻み続けている

今、ひとりの生徒の頭の中に、宇宙人がやってきて、新しい計算式を展開している
それは、教室の窓の外にはいつもの街並みが広がっている光景、
その内と外を取っ払うことのできる数式であり、これを覚えると、
隔てるという概念がなくなり、どこでも素通りすることが出来る、
そして、最終的には霞を食べて生きていけるというものだ
さっそく生徒は手を挙げ、先生に黒板の回答には新しい数式があることを提案しようとすると、
宇宙人はそれを阻止した
テストの回答はすべて白紙で、好きなこと書いて提出すれば良いのだけど、
宇宙人はそれも阻止した

授業が終わって昼休み、生徒が屋上で弁当を食べていると、
宇宙人は頭の中からプルルと出てきて、姿をあらわした
そして、弁当のおかずを食べてみたいと言うので、
生徒は玉子焼きを、ひとつ宇宙人に食べさせた
宇宙人は、はじめて食べたその味に、ひどく感動したらしく、
玉子焼きのすべてを化学し解析すると、それを物理に則って空にドーンと打ち上げた

時計台の時計の針が、逆に回転をはじめ、生徒と宇宙人の目の前を、
青い空を背景にして、鶏が卵を産んだ理由が、一本の大木に喩えられた
大木の周りには、今朝、生徒の母が玉子焼きを巻いた理由や、父と母の間に生徒が生まれた理由、
たくさんの所以が、縺れ合いながら葉や蔓や花になり、水を吸い上げ、風に吹かれている
そもそも居るはずのなかった宇宙人の存在をXとして、二乗していくと、
南極で皇帝ペンギンが滑って転んでいたり、ブラジルでオオアリクイがクシャミをしていたり、
ティラノサウルスがアリゾナの大地を闊歩していたりした
真っ赤なマントルが剥き出しの地球、子供のようにか弱い太陽、風は電磁波に乗り何億光年ひたすら遡っていった
それを見て、生徒は肺が広がっているのを感じ、そして息を吐くと、肺はそれなりに凋んだ 
というのが宇宙人が教えてくれた秘密の数式であり、は=である
実体験するには、死ねば解るそうなので、生徒は屋上の柵に足をかけ、飛び降りようとしたが、
宇宙人はそれを阻止した
なぜかというと、玉子焼きの他にも、もっと色々と食べてみたいそうだ


業務

  zero

会社で働くようになると、仕事の能率を上げる行為や仕事に必要な行為は、仕事そのものでなくとも「業務」扱いされる。例えば、同僚のことをよく知ることも業務だし、同僚と親睦を深めることも業務だ。休暇をしっかり取ることも業務だし、飲み会に参加することも業務だ。社会人の業務は実に幅広い領域をカバーしている。
例えば、この間私は万引きをした。これもまた業務の一環である。万引きをするくらいの勇気は仕事上必要だし、人の目を欺いて素早く行動することも、迅速さが要求される我々の仕事には必要だ。なによりも、正しい法の領域から少し逸脱してみること、これは今後上役になっていくに従い少しずつ身につけなければならないスキルだ。万引きもまた業務なのである。
そして、私は店員に見つかり、事務所に連れて行かれ、詰問されても反省の意を示さなかったため、警察に引き渡された。これもまた業務の一環である。まず、異業種の事務所がどんなふうに作られているか知ることは仕事上参考になるし、簡単に折れない気持ちの強さはどんな仕事にも必要である。さらに、巨大な権力組織である警察の内情を知るなど、同じように組織で動いている私の業務上も参考になる点が多い。
さて、警察に呼ばれてからは、私はひたすら反省の意を示し、店にも丁寧に謝罪し、結局微罪処分で終わった。これもまた業務の一環である。会社で一番必要なのはこのような演技であり、特に謝罪する演技は何よりも必要である。それに、自分が仕事でミスした際にはそれ以降ミスしないよう反省し自己分析する必要があるので、反省の経験も仕事に活かされていく。
その後、当然のように会社から懲戒処分を受けた。減給3か月である。これもまた業務だ、と言いたいところだが、さすがの私もこれはおかしいと思った。万引きは業務の一環であったはずだ。私の能力を高めるための行為であって、会社に貢献する行為のはずである。それがなぜ懲戒処分を受けるのだろう。これはおかしい。だが私はすぐに納得した。これは私に給料の重さを実感させるための教育的配慮であり、給料を会社からもらって働いているという労働関係の基本を実感させるための研修のようなものであり、やはり業務の一環なのである。会社で働いている以上、いかなることも業務なのだ。


初夢

  sample

大晦日の夜は
てきとうなテレビを観ながら
うどんを食べよう
おもち何個入れる?
と、あなたが尋ねれば
二個、と答える
おなかがふくれたら
こたつでうとうととする
そのままうっかり
年を越す
夜中に目をさましたら
冷めたうどんの汁をすする
こたつが暑いから
電源を切る
つけっぱなしのテレビを消そう
と思ったそのまえに
品性を欠いた
テレビを見る
お笑いやお色気を楽しんでいるとき
あなたも目をさます
あなたが好きな討論番組を
ふたりしてなんにも考えずに見る
あなたは前触れもなく上を見る
いま、ゆれた?
と、あなたが見上げて固まる
僕も釣られて固まる
よく、わからないまま
しばらくふたりで
照明器具を見つめる
テレビではインスタントカメラの
コマーシャルがながれている
立ち上がって僕は
台所の三角コーナーに
うどんの汁を捨てに行く
蛇口をすこしだけ捻って
かるく手を洗う
口を漱ぐ
消防車のサイレンが聞こえる
手を拭ってから
正面の窓を半分開ける
かおをだしてみる
風が冷たくて
消防車はどこにも見あたらなくて
音はだんだん遠退いて
聞こえなくなっても
あたまの中では
サイレンの雰囲気が消えなくて
いちど
あなたがいる部屋のあかりを確認してから
もういちど
だれも歩いていない外をながめる
そうして息の白さを確かめて
遠くの国道を
車が走り去ってゆく音に
耳をすます
窓を閉めて
部屋にもどったら
あなたが目を瞑っているから
テレビを消す
僕もこたつに入る
こたつ布団を肩までかけて
あなたの足裏をのぞく
さむい、こたつの電気つけて。
と、あなたは言う
あしたどうする?
と、あなたに問う
うん。
と、あなたは生返事する
あした、御参り行こうか。
うん。
じゃあ、六時に起こすね。
うん。
そう言って
僕も寝ころがる
そうやって
昼まで寝過ごす
僕は
にぎやかなテレビの音に目をさまし
消えている、こたつの電源を入れ直す
台所ではあなたが
うどんの汁を
あたため直している


詩の日めくり 二〇一五年五月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年五月一日 「HとI」


 アルファベットの順番に感心する。Hの横にIがあるのだ。90度回転させただけじゃないか。エッチの横に愛があるとも読める。もちろん、Iの横にHがあるとも、愛の横にエッチがあるとも読める。


二〇一五年五月二日 「内職」


 1週間ほどまえに、授業中にほかの科目を勉強することを、なんて言ってたか忘れていた。つい、さっき、なんのきっかけもなく思い出したのだけれど、「内職」というのだった。思い出したとき、内心の声が、ああ、これこれ、と言っていた。とにかく、なんのきっかけもないのに、思い出せたことに、びっくりした。


二〇一五年五月三日 「なにかを損なう」


 なにかを判断したり決定したりすることは、なにかを損なうことだ。しかし、なにも判断せず、なにも決定したりしないこともまた、なにかを損なうことである。そうであるならば、判断し、決定し、なにかを損なうほうをぼくは選ぶ。これもまた、なにかを損なう1つの判断であり、1つの決定であるけれど。


二〇一五年五月四日 「ミシリ」


冷蔵庫からミシリという音が聞こえた。水が氷になる瞬間に遭遇したのだ。


二〇一五年五月五日 「ふわおちよおれしあ」


 マクドナルドにアイス・コーヒーを飲みに出たら、交差点で、ブッブーとクラクションの音がするので見たら、車のなかから、まるちゃんが手を振ってくれていて、ぼくもにっこりとあいさつを返して、それから横断歩道を渡ったのだけれど、きょうも一日、充実した休みになると思った。マクドナルドでは、2冊の私家版詩集のうち、『ふわおちよおれしあ』を持って行って、電子データにしていないものに付箋をしていったら、30作ほどあって、このうち、きょう、どれだけワードに打ち込めるかなと思った。ぼくの私家版詩集は、10冊ほどあって、上記のものと『陽の埋葬』は、どちらもA4版の大きさで、超分厚くて、5、6回、頭を叩いたら、ひとを殺せそうなくらいのもので、50部ずつつくったのだけれど、いまどれだけのひとが手元に残していてくれているのかは、わからない。どなたかが神戸女子大学の図書館に寄贈なさったみたいで、そこで閲覧できるみたい。


二〇一五年五月六日 「撥条。」



 玄関を出たところで
     私の足が止まった。

  道の向こうから
 蝶々が
  いち葉
   流れてくる。

手を差し伸べると
  蝶々は
   私の手のひらの上に
  接吻してくれた。

植木鉢の縁に
    白い小さな花が
   草の花が咲いていた。

 妻が出てきた。

あらあらあら
   と言いながら
  私の足元に
    しゃがみこむと

踝(くるぶし)に突き出た
    ふたつの螺子を
 ぐいぐいぐいと
巻いてくれた。

蝶々は
  白い花から離れ
    私はまた元気よく
  歩きはじめた。


二〇一五年五月七日 「ぷくぷくちゃかぱ。」


ぷくぷくちゃかぱ
ぷくぷくちゃかぱ
ぷくぷくちゃかぱ
ぷくぷくちゃかぱ
ぱかぱかちゃかぱ
ぱかぱかちゃかぱ
ぷくぷくちゃかぱ
ぷくぷくちゃかぱ
ぷくとぷぷくぷく
ぷくとぷぷくぷく
ぷくとくぷくぷく
ぷくとくぷくぷく
ぷくぷくちゃかぱ
ぷくぷくちゃかぱ
ぷくとぷちゃかぱ
ぷくとぷちゃかぱ
ぷくとぷぷぷぷぷ
ぷくとぷぷぷぷぷ
ちゃかぱかぱかぱ
ちゃかぱかぱかぱ
ちゃぱかぱかぱか
ちゃぱかぱかぱか
ぷくぷくちゃかぱ
ぷくぷくちゃかぱ
ぷぷぷぷぷぷぷぷ
ぷぷぷぷぷぷぷぷ


二〇一五年五月八日 「ゴルゴンチーズとオレンジの木」


 あいまいな記憶だけれど、ディラン・トマスがイタリア旅行したときに書いた手紙の内容が忘れられない。ほかのことは、みんな、忘れたのに。オレンジの木の姿がいいと書いてあった。ゴルゴンチーズがいちばん好きだと書いてあったと思う。なんでもない記述だけれど、この記述がとても印象的で、この記述しかしか覚えていない。

 記憶があいまなので、『ディラン・トマス書簡集』(徳永暢三・太田直也訳)をぱらぱらとめくって、お目当ての箇所を探した。見つかったので、引用しておく。278─282ページにある、「親愛なるお父さん、お母さん」という言葉からはじまる書簡である。引用は手紙の終わりのほうにある言葉である。

 今朝、イーディス・シットウェルから手紙を受け取りましたが、彼女は僕たちがここに来た責任の大半は彼女にあるのです。彼女は、折に触れて作家に動き回るためのお金を与える、著作家協会旅行委員会の委員長なのですよ。お金といえば、銀行は一ポンドを九〇〇リラに換金してくれます。周知の事実ですが、自由市場では一八〇〇リラです。この地域──実のところ、北部のほとんどだと僕は思っているのですが──では食べ物が豊富です。この二日間、再校に調理された素晴らしい食べ物をいただきました。ディナーでは、まずリッチで濃厚なソースをかけた、とてもおいしいスパゲッティ系のもの、次に白身の肉(ホワイト・ミート)、アーティチョーク、ほうれん草にジャガイモ、それからパンとチーズ(ありとあらゆるチーズ。僕が好きなのはゴルゴンゾーラです)が出されて、林檎とオレンジや無花果、そしてコーヒーでした。食事にはいつも赤ワインがつきます。
周りにオレンジがなっているのを眼にするのは愉快なものです。
(D・Jおよびフロレンス・トマス宛、一九四七年四月一一日、イタリア、ラバッロ、サン・ミケーレ・ディ・バガーナ、キューバ荘)


二〇一五年五月九日 「堕落」


 客はまばら。数えてみると、15、6人ほどしかいないポルノ映画館の床を、小便のようなものが伝い流れていた。こぼしたジュース類じゃなかった。コーヒー缶から零れ落ちたものでもなかった。しっかり小便の臭いがしてたもの。映画を見ながら、ジジイが漏らしたものなのだろう。しかし、こういった事物・事象の観察が楽しい。人生において、人間がいかに堕落することができるのか知ることは、ただ興味深いというだけではなく、自分が生きていく上で貴重な知見を得ることに等しいのだから。


二〇一五年五月十日 「詩のアイデア」


──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。
──年、──が死んだ。

  〇

──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。
──年、──が生れた。


二〇一五年五月十一日 「優しさの平方根」


優しさの平方根って、なんだろう? 愛の2乗なら、わかるような気がするけど。


二〇一五年五月十二日 「厭な物語」


 東寺のブックオフで、『厭な物語』(文春文庫)という、厭な物語を集めたアンソロジーを買った。目次を読むと、ハイスミスの「すっぽん」や、シャーリー・ジャクスンの「くじ」や、カフカの「判決」や、フラリー・オコナーの「前任はそういない」とか読んだのがあって、なつかしかった。読んでいないなと思うものに、クリスティーの「崖っぷち」や、ローレンス・ブロックの「言えないわけ」とか、モーリス・ルヴェル(これははじめて知った名前の作家)の「フェリシテ」とかあって、どんな厭な話なのだろうと楽しみである。厭な話を楽しみにしているというのも変だけど。表紙の赤ん坊の人形の顔面どアップが怖い。スタージョンの『人間以上』の、むかしの文庫本の表紙も怖かったけど。ありゃ、オコナーの「前任はそういない」は「善人はそういない」だった。間違ったタイトルでも、おもしろそうだけど、笑。すみません。


二〇一五年五月十三日 「檻。」


どちらが脱獄犯で、どちらが刑務官か
なんてことは、檻にとっては、どうでもよかった。

彼の仕事は、ただひとつ。
──鍵の味を忘れないことだけだった。


二〇一五年五月十四日 「言葉と言葉のやりとり」


物質と物質の化学反応のように、物質と物質のやりとりは興味深い。同様に、人間が交わす言葉と言葉のやりとりも興味深い。人間と人間のやりとりも興味深いと言い換えてもよい。


二〇一五年五月十五日 「無意識領域の自我と意識領域の自我」


 夢をつくっているのは無意識領域の自我である。では、夢を見ているのは、意識領域の自我なのか。いや違う。夢を見ているのも、無意識領域の自我なのだ。では、なぜ、夢から覚めたあと、意識領域の自我が夢を憶えているのだろうか。ここに謎がある。無意識領域というのと、意識領域というものの存在の。あるいは非在の。


二〇一五年五月十六日 「B・B・キング」


 コリン・ウィルソンの『殺人の哲学』を再読して、チェックした点、3つ。1つ、マックゴナルという詩人の名前を知って、彼の詩が載っている、Very Bad Poetry とか、The World's Worst Poetry といった、へたくそで有名なへぼ詩人のみの詩選集を買ったこと。いま1つ。オーデンの詩句、「人生はやはり一つの祝福だ。/たとえ君が祝福できないとしても」(高儀 進訳)を知ったこと。オーデンを読んだことがあったのだが、こころに残る詩句が一つもなかったので、ぼくのなかでは、どうでもよい詩人だったが、この詩句を知ってから読み直した。読み直してみて、こころに残る詩句はまったくと言ってよいほど、ほとんどなかったが、そこから逆に、では、ぼくのこころに残る詩句とは、どんなものか、ということを考えさせられた。体験することは大切なことだが、その体験が知的な言語パズルとしてつくられていないと、退屈に感じてしまうというもの。芸術は、感性的に言っても、知的パズルにしかすぎない。それ以上のものではない。見事なパズルをつくる者が芸術家であり、その見事なパズルが芸術作品なのである。と、そう思う。あと1つは、笑ってしまったのだが、アメリカのユタ州で、1966年に、同性愛者による連続殺人事件が起こったというのだが、6人の被害者が、みな若くて、美しい青年だったらしくて、警察がつぎのような布告をしたらしい。「すべてのガソリンスタンドに対し、夕方になったら店を締めるか、必ず年配の者──できれば、そのうえひどく不器量な者──を接客係にするか、どちらかにするように要請した。」齢をとって、なおかつ、ブサイクな男は殺されないということである。笑っちゃいけないことかもしれないけれど、読んだとき、めっちゃ笑った。ちなみに、1つ目は17ページに、2つ目は27ページに、3つ目は400ページに載っている。『殺人の哲学』は、角川文庫版だが、これは改題されて、ほかの出版社から、『殺人ケース・ブック』の名前で再刊されたように記憶している。ぼくは、そちらで先に読んだ。
ああ、そうだ。B・B・キングが亡くなったって、きのう、きみやさんで聞いたのだけれど、ぼくがフォローしてるひとのツイートには、ぜんぜん書いてなくって、ちょっとびっくり。


二〇一五年五月十七日 「二言、三言」


 きょうは、勤め先の学校の先生のおひとりとごいっしょに、イタリアンレストランで食事とお酒をいただいて、そのあと、ふたりで日知庵に行った。帰りに、西大路通りの松原のコンビニ「セブンイレブン」で、なんか買って帰ろうと思って寄った。そしたら、数週間前に見たかわいいバイトの男の子がいて、シュークリームを2個買って、その子が新聞をいじっていたそばに行くと、その子があいてるレジに行ったので「ひげ、そったの?」と訊くと「似合ってましたか?」と訊いてきたので、「かわいかったよ。」と言うと、横を向きながら(横を向いてなにか作業をするという感じじゃなかった。)レジを操作して、ぼくに釣銭を渡してくれたのだけれど、その男の子の指が、ぼくの手のひらに触れる瞬間に、ちらとぼくの目を見つめ返してくれた目が、かつてぼくが好きだった男の子の目といっしょで、ドキドキした。名前をしっかり見た。かつてぼくが好きだった男の子というのは、下鴨に住んでたとき、向かいのビリヤード屋でバイトしてた九州出身の男の子のこと。住んでたとこの近くで会ったとき、目があって、見つめ合って、ぼくが声をかけたのだった。そのあとは、彼の方が積極的になって「こんど、男同士の話をしましょう」と言ってきて、でも、そのあまりの積極性に、ぼくの方がたじたじとなって、消極的になってしまって。あのとき、どうして、ぼくは、彼のことを受けとめてあげられなかったのだろう。そんなふうに、受けとめられなかった男の子の思い出がいくつもあって。森園勝敏の「エスケープ」を聴きながら、ケイちゃんのことを思い出した。ぼくが21歳くらいで、ケイちゃんは23歳くらいだったかな。ふたりで、夜中に、四条河原町の阪急電車の出入り口のところで、肩を寄せ合って、くっちゃべっていた。お互いに自分たちの家に帰るのを少しでも遅くしようとして。「エスケープ」「ひげ、そったの?」「似合ってましたか?」「かわいかったよ。」こういうのって、二言、三言って言うんだろうけど、なんだか、ぼくの人生って、この二言、三言ってものの連続って感じ。


二〇一五年五月十八日 「道端で傷を負った犬に捧ぐ」


 仕事が忙しくて、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの英詩翻訳をほっぽらかしてた。きょう、あした、学校がないので、訳したい。きのう、ちらっと読んでいたら、とてもすてきな詩だったので、日本語にできたらいいなと思った。これからマクドナルドにアイス・コーヒーを飲みに行く。ぼくのような54才のジジイが、赤線いっぱい入れた、英文をにらみつけてる姿を見たら、老人の学生と間違われるかもしれない。知ってる単語でも、最適の訳語を探すために、もとの英文の行間には、赤いペンで、訳語の候補をびっちり書き込むのだ。行間だけでは足りないから、ひきこみ線をつけて、上下左右の空白にもびっちり書き込むのだ。あ、ほんと、高校生か大学生みたい。マクドナルドで、アイス・コーヒー飲みながら、ウィリアムズの詩の翻訳の下書きを書いていた。下訳というのだろうか。英語のままでわかるのに、日本語になかなかできないというのは、じつは、英語でもわかっていないのかもしれない。食事をしたら、下訳に手をつけて、ブログに貼り付けよう。いつものように、しょっちゅう、手を入れることになりそうだけれど。きょう訳したいと思っているウィリアムズの詩、いい詩だと思う。『To a Dog Injured in the Street』だ。これもまた、思潮社の海外詩文庫『ウィリアムズ詩集』に収録されていなかったので、訳そうと思ったのだ。ぼくのように英語の出来の悪い人間じゃなくて、もっと英語のできるひとが、よりいい翻訳をすればいいのになって思う。ほんと、ぼくより英語ができるひとって、山ほどいると思うのに、なんで訳さないんだろう、不思議だ。ウィリアムズは、自然の事物を子細に観察し、それを詩的な表現にまで昇華する能力にたけているのだなと思う。詩人にはぜったい的に必要な能力だと思う。この能力が、ぼくには欠けているらしい。よって、ぼくが自分の能力を傾けるのは、べつの点からであるのだろう。たとえば、詩の構造を通して、言語とはなにかということを模索することなどである。いろいろな詩があっていい。翻訳はしんどいけど、うまく訳せたなってときの喜びは大きくって、とくにウィリアムズの詩は、自然観察に優れた才のあるひとだから、訳してると、ほんとうに勉強になる。まさしく「事物を離れて観念はない」などと思う。

  〇

To a Dog Injured in the Street

William Carlos Williams

It is myself,
not the poor beast lying there
yelping with pain
that brings me to myself with a start─
as at the explosion
of a bomb, a bomb that has laid
all the world waste.
I can do nothing
but sing about it
and so I am assuaged
from my pain.

A drowsy numbness drowns my sense
as if of hemlock
I had drunk. I think
of the poetry
of Rene Char
and all he must have seen
and suffered
that has brought him
to speak only of
sedgy rivers,
of daffodils and tulips
whose roots they water,
even to the free-flowing river
that laves the rootlets
of those sweet-scented flowers
that people the
milky
way .

I remember Norma
our English setter of my childhood
her silky ears
and expressive eyes.
She had a litter
of pups one night
in our pantry and I kicked
one of them
thinking, in my alarm,
that they
were biting her breasts
to destroy her.

I remember also
a dead rabbit
lying harmlessly
on the outspread palm
of a hunter's hand.
As I stood by
watching
he took a hunting knife
and with a laugh
thrust it
up into the animal's private parts.
I almost fainted.

Why should I think of that now?
The cries of a dying dog
are to be blotted out
as best I can.
Rene Char
you are poet who believes
in the power of beauty
to right all wrongs.
I believe it also.
With invention and courage
we shall surpass
the pitiful dumb beasts,
let all men believe it,
as you have taught me also
          to believe it.


道端で傷を負った犬に捧ぐ

ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ

そいつは、ぼく自身のことなんだ、
       そこに横たわっている可哀そうな動物のことじゃなくてね
                  痛くって、キャンキャン吠えてるやつじゃなくてね
そいつは、ぼくをびくっとさせて正気に返らせてくれるんだ──
           爆発の瞬間というものによって
                爆弾のさ、仕掛けられた爆弾のさ
世界中が荒廃している。
      ぼくには、なすすべがない
               そのことについて歌う以外のことは
そうして、ぼくは逃れるんだ
         ぼくの痛みからね

眠気を催さすしびれのようなものが、ぼくの感覚を麻痺させる
     まるでドクニンジンを飲んだときのようなね
              ぼくはそれを飲んだことがあるんだ。ぼくは考える
ルネ・シャールの
      詩のことを
           彼が遭遇したに違いないすべてのことについて
彼が苦しんだに違いないすべてのことについて
     でも、そのことで、彼は書くことになったのさ、書くということだけに
スゲの茂った川についてね
      ラッパスイセンやチューリップが
               その根をはわせて水を吸い上げているところ
水がひらたく、ゆったりと流れるその川には
                甘い香りを放つ
                   それらの葉っぱや小さな根っこが浮かんでいる
そこでは
       人びとは
              銀河のようだ

ぼくはノーマのことを憶えている
        子どものころに飼ってたイングリッシュ・セッターで
                           彼女の絹のような耳
そして表情豊かだった目を
        ある晩、彼女はひと群れの小犬たちを連れてきた
ぼくたちが食器を運んだりするところにだよ、それで、ぼくはひと蹴りしてやったんだ
            その小犬のうちの一匹を
                   考え込んじゃったよ、ぼくはびっくりしたんだ
だって、そのとき、小犬たちが彼女を引き裂こうとして
               彼女の胸に噛みついちゃったんだもの

ぼくはまた憶えている
       一匹の死んだウサギのことを
                だれのことも脅かすことなく横たわっていたよ
ハンターの         
     ひろげた手のひらのうえにいるそいつのことを
                        ぼくがそばに立って
見ていると
    彼は狩猟用ナイフを手にして
               そして顔には笑みを浮かべてさ
ナイフをぐいっと突き刺したんだ
         そのウサギの陰部にさ
                ぼくは気を失いそうになったよ

どうして、いま、ぼくはそのことを考えてしまうんだろう?
                   殺処分されることになっている
                            死にかけの犬の叫び声
ぼくは自分ができることしかできないけれど
           ルネ・シャール
               あなたは詩人だ
すべての過ちを正す
        美の力を信じている詩人だ。
                ぼくもまた、その美の力を信じているよ。
創作と勇気があれば
       ぼくたちは
あの口のきけない可哀そうな動物たちを越えられるだろう。
すべての人間たちにそのことを信じさせてほしい
          あなたがぼくにそのことを信じるよう
教えてくれたように。

  〇

このあいだ訳してみたものも書き込んでおこうかな。かわいらしい詩だった。

  〇

DANSE RUSSE

William Carlos Williams

If I when my wife is sleeping
and the baby and Kathleen
are sleeping
and the sun is a flame-white disc
in silken mists
above shining trees,─
if I in my north room
dance naked, grotesquely
before my mirror
waving my shirt round my head
and singing softly to myself:
‘I am lonely, lonely
I was born to be lonely,
I am best so!’
If I admire my arms, my face
my shoulders, flanks, buttocks
against the yellow drawn shades,─

Who shall say I am not
the happy genius of my household?


ロシアン・ダンス

ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ

もしも、ぼくの奥さんが眠ってたらね
ぼくの赤ちゃんと、ぼくの娘のキャスリンが
眠ってたらね
そして、太陽がギラギラと照り輝く円盤みたいで
日に照り輝く樹木のうえにも
絹のような霞がかかってたらね
それから、もしも、ぼくが、ぼくの北のほうにある自分の部屋にいたらね
ぼくは裸になって、ばかみたいに
鏡を前にしてさ
ぼくはシャツを首にひらひらさせてさ
自分に向かってやさしくつぶやくように、こう歌うのさ
「ぼくはひとりっきり、ひとりっきりなのさ
 ひとりっきりになるために生まれたのさ
 こんなに最高な気分ってないよ!」って。
歪んで小さくなった、その黄色いぼくの影たちを背景にして
ぼくは、ぼくの両腕を讃える。ぼくの顔を讃える。
ぼくの両肩を讃える。ぼくの横っ腹を讃える。ぼくのお尻を讃える──

ぼくが、ぼくの家族のなかで
ぼくが最高に幸福な天才じゃないって、だれか言えるひといる?

  〇

 塾の帰りに、ブックオフで、フォワードの『竜の卵』を買った。カヴァーにすこしよれがあるけれど、まあ、いいかと思った。郵便受に、手塚富雄訳のゲーテ『ファウスト』第二部・下巻が入っていた。カヴァーの状態がよくないが、まあ、これは読めたらいい部類の本だから、がまんしよう。


二〇一五年五月十九日 「ケイちゃん」


「きょう、オレんちに泊まりにくる?」
ぼくは、まだ大学生で
外泊する理由を親に話せなかった。
返事をしないでいると
ケイちゃんは残念そうな顔をした。
ぼくはなにも言えなくて
阪急の河原町駅の入口
階段の前に
しばらくのあいだ
ふたり並んですわりこんでいた。
おろした手の甲をくっつけあって。
ぼくより少し背が高くて
ぼくより2つ上だった。
ぼくたちの目の前を
たくさんのひとたちが通っていった。
ぼくたちも
たぶん、彼らにとっては
風景の一部で
でも、若い男の子が
夜に
ふたりぴったり身を寄せ合って
黙っている姿は
どんなふうにとられていたんやろ。
ケイちゃんはカッコよかったし
ぼくは童顔で
ぽっちゃりさんのかわいらしい顔だったから
たぶん、うつくしかったと思うけど
他人になって
ぼくたちふたりを見たかったなあ。
10年後に
ゲイ・スナックで会ったケイちゃんは
まるで別人のような変わり方をしていた。
かわいらしいやさしそうな表情は
いかつい意地の悪い感じになっていた。
なにがあったのか知らないけれど
20代前半のうつくしさは
まったくどこにも残っていなかった。
「その子と
 きょうはいっしょなんや」
少し前に、ぼくが知り合った子と
ぼくを見て。
「きょう、オレんちに泊まりにくる?」
そう言ってくれたケイちゃんの面影は
そう言ってくれたケイちゃんに
ちゃんと返事できなかったぼくを
ゆるしてくれたケイちゃんの面影はどこにもなかった。
ある年齢をこえると
がらりと顔が変わるひとがいて
若いときの面影がどこにもなくて
そう言うぼくだって
若いときの童顔は
見る影もなく
いまは、いかついオジンになってしまっているけれど
付き合った子たちと
また会うってことは、ほとんどないのだけれど
ひとりだけかな
前の恋人だけど
きょうも会っていて
ぼくは日知庵で飲んでた。
ヨッパのぼくに
「はよ恋人、見つけや」
そう言われたぼくは笑いながら
「死ね」
って言い返していた。
店の外に出たときに言ったから
繁華街の道を歩いてるカップルたちが
驚いて、ぼくの顔を見ていた。
前の恋人は、別れてからも魅力的で
それがいちばんくやしい、笑。
ケイちゃんとはじめてメイク・ラブした夜
ラブホテルで
東山三条かな
蹴上ってところだったかな
ゲイでも入れる『デミアン』って名前のホテルでね
そこで
「いっしょに行く?」
って、セックスしているときに言われて
「えっ? どこに?」
って、バカなこと言ったぼくだったけど
ケイちゃんは、ちょっと困った顔をしてたけど
ぼくは、気が散ってしまって
けっきょく、ぼくはあとになって
いっしょに行けなかった。
とてもはずかしい記憶。
そのときのはずかしさは
いまでも
そのときの時間や場所や出来事が記憶しているんじゃないかな。
はじめてケイちゃんに会って
はじめてケイちゃんと口をきいたときの
あのドキドキは
繰り返し
ぼくにあらわれた。
違った時間や場所で
違った子との出会いで。
なんて言ったかな
あれ
あの
まるで
風と戯れる
ちぎれた蜘蛛の巣のかけらのように。


二〇一五年五月二十日 「手」


手の方が先に動いていることがある。
いや、動き出そうとすることがあるのだ。
かわいらしい男の子や女の子がそばにいると。
手のひらがひらいているのだ。
ふと気がつくと、手のひらが時間を隔てた写真をコマ送りにしたみたいに
ひらいていくのだった。
たとえば、それが電車のなかであったなら
急いで手のひらに、ポールや吊り革をぎゅっと握らせなければならない。
歩いている道やショッピングしている店のなかだと、
上着のポケットにすばやく手をすべり込ませなければならない。
知らないうちに、手のひらがひらくのだから
いつ、自分の意思を無視しだすかわからないからだった。
やはり、手のほうが、ぼくより個性があるのかもしれない。
戦地なのに幸せ。
センチなのに幸せ。


二〇一五年五月二十一日 「松井先生」


 高校のとき、社会の先生に手を握られて教員室を飛び出しましたが、いま考えると、まだ23、4才の可愛いおデブさんの先生でした。ひとの顔って、あまり明確に憶えてないけど、その社会の先生の顔は憶えてる。おデブちゃんで、簡単な描線でかける感じやったから。テニスの上手なスポーツデブやった。当時は、ぼくは、デブがダメやったんやけど、20歳くらいのとき、はじめて付き合った2つ年上のひとがデブで、それからはデブ専に。ぼくは、自分の詩に、個人名も入れてるけれど、これって、もしかしたら、個人情報云々で訴えられるのかな。まあ、名前は書いてないけど、だれだか、同級生だったらわかるけど。でも、事実やったからなあ。まあ、しかし、よく考えたら、ぼくは未成年やったし、向こうが犯罪でしょ。しかし、時効か。ビタミンハウスってショーパブで、バイトをちょっとしたときには、若いおデブのお坊さんに手をぎゅっと握られて、そのときはデブ専やったから、めっちゃ幸せやった。あ、ぼくが大学院生のときのバイトね。女装もちょっとしたけど、化け物やった。化け物好きのひとも、たくさんいたけど、笑。京大のアメフト選手とはちょっとあって、ぼくも青春してたのね。そういえば、暗黒舞踏の白虎社のひとに「あたしたちと踊らない?」と誘われたのも、ビタミンハウスでバイトしてたとき。で、スタンドってバーで、女装してたオカマの友だちと朝まで飲んでたとき。いかつい眉毛なし2人に声をかけられた。金融関係のひとも、オカマ好きが多かった。当時は、お金持ちの客って、坊主と金融関係者ばっかってイメージ。バブルだった。でも、お坊さんって、若いお坊さんばっかだったけど、見た目は、みんな体育会系。ぼくの好きなひとは、だいたい、相撲部、柔道体型だったけど。水商売って、人間の暗部を見るけど、ハチャメチャで楽しいとこもあった。ニューハーフは、はっきり2つにわかれる。えげつないやつと、めっちゃいいひとと。めっちゃいいひとのひとり、自殺しちゃったけど、よくしてもらったから、いい思い出がいっぱい。昼間からドレス着て日傘さして歩いてはったわ。オカマの友だちが居酒屋をするかもしれないから手伝ってと言われてる。かしこいひと相手にできるの、あっちゃんだけやからって、かしこいひとって、相手にしなくても、勝手にしゃべって飲んでるからいいんじゃないって言うのだけど。しかし、塾と学校で、ほかにも仕事は無理やわ。無理よ。


二〇一五年五月二十二日 「油びきの日。」


油びきの日になると
教室も、廊下も
みんな、きれいに掃き清められる。
目地と目地の隙間に
箒の手が入る。

掻き出し、かきだされる
塵と、埃と、砂粒たち。
ぼくらがグラウンドから
毎日、まいにち運んできた
塵と、埃と、砂粒たち。

掻き出し、かきだされる
塵と、埃と、砂粒たち。
ぼくらが運動場(グラウンド)から
毎日、まいにち運んできた
塵と、埃と、砂粒たち。

油びきの日になると
床や、廊下が
すっかり生まれ変わる。
黒くなって強くなる。

ぼくらも日毎に黒くなる。
夏の日射しに黒くなる。
黒くなって強くなる。
つまずき、転んで強くなる。
赤チン塗って強くなる。


二〇一五年五月二十三日 「13の過去(仮題)」


 朝、コンビニで、サラダとカレーパン買って、食べた。通勤の行き帰りでは、ロバート・シルヴァーバーグの『ヴァレンタイン卿の城』上巻のつづきを読んだ。ジャグラーについて詳述されているのだが、それが詩論に照応する。シルヴァーバーグのものは、いつでもそうだが、詩論として吸収できるのだ。『図書館の掟。』と『舞姫。』は別々の作品で、ただ幾つかの設定を同じ世界にしていたのだけれど、きょう、シルヴァーバーグの『ヴァレンタイン卿の城』の上巻を仕事帰りの電車のなかで読んでいて、ふと、『図書館の掟。』の最後のパートと、『舞姫。』のすべての部分をつなぐ完璧な場面を思いついた。それが、『13の過去(仮題)』第1回目の作品になる。どの時期のぼくだったか特定する様子を描く。若いときのぼくを観察する様子を描く。若いときのぼくが、ドッペルゲンガーを見る。若いときに見たぼくのドッペルゲンガーとは、じつは、齢をとったぼくが、若いときのぼくを見てたときの姿だったという話だ。『13の過去(仮題)』の冒頭。バスのシーンで、バスについての考察。地球は円である。高速度で回転している円のうえを、のろのろと走行しているバスを思い描く。ここでも、54才のぼくの視点と15才のぼくの視点の交錯がある。『13の過去(仮題)』において、もうひとりのぼくの存在のはじまりを探求する。マルブツ百貨店での贋の記憶がはじまりのような気がする。あるいは、幼稚園のときの岡崎動物園でみた片方の角しかない鹿が両方に角のある鹿と激しく喧嘩してたシーンのときとか。これもメモだが、八坂神社の仁王像の金網。昔はなかった。子どものときと同じ風景ではない。高野川の浚渫されなくなってからの中州の土の盛り上がりにも驚かされたが。円山公園の池の掃除のとき、亀が甲羅干ししてた。


二〇一五年五月二十四日 「濡れたマッチ」


濡れたマッチには火がつかない。
ぽろぽろと頭が欠けていく。


二〇一五年五月二十五日 「記憶再生装置としての文学」


 記憶再生装置としての文学。自分の作品のみならず、他人の作品を読んだときにも、忘れていたことが思い出されることがある。このとき注意しなければならないのは、読んだものの影響が記憶に混じってしまっている可能性がゼロではないということ。まったく事実ではない記憶がつくられる場合があるのだ。


二〇一五年五月二十六日 「磁場としての文学空間」


 磁場としての文学空間。電流が流れると磁場が生じる。作品を読んでいるときに、どこかで電流が流れているのかもしれない。言葉と言葉がつながって、電流のようなものが流れているのかもしれない。頭のなかに磁場のようなものが生じているのではないだろうか。そんな気がする。すぐれた作品のみならず。


二〇一五年五月二十七日 「巣箱から蜂蜜があふれ出てしたたり落ちていた」


 高知の窪川に、ぼくを生んだ母に会いに行った。ぼくが二十歳のときだった。はじめて実母に会ったのだった。近所に叔父の家があって、その畑があってた。畑では、隅に蜜蜂の巣箱があって、巣箱からは、蜂蜜があふれ出てしたたり落ちていた。その数年後、叔父が木の枝に首をくくって亡くなったという。ぼくが会ったときは、おとなしい、身体の小さいひとだった。いっしょにお酒を飲んだ。若いときは、荒れたひとだったという。


二〇一五年五月二十八日 「ふるさとは遠くにありて思うもの」


 きょう、五条堀川のブックオフに行って、24冊売って、1010円。で、『日本の詩歌』シリーズが1冊108円だったので、7巻買って、756円使った。以前に、学校で借りて全巻に目を通していたし、講談社版・日本現代文學全集・108巻の『現代詩歌集』というアンソロジーに主要な作品が入っていたのだが、薄い紫色の小さな文字の脚注がなつかしくて買った。そうそう。草野心平さんの、『日本の詩歌』では、一文字アキだった。丸山薫の詩に影響を受けて、『Pastiche』をつくったのだけれど、いまだに、だれも指摘してくれない。中也は好きではないが、買っておいた。この齢で(54歳である)中也はもう読めないと思うのだけれど。宮沢賢治は、齢をとっても読める詩人であると思う。じっさい、ブックオフでちら読みしていて、イマジネーションが浮かんだからである。西脇順三郎さんのは、何冊も読んだし、ぽるぷ出版の『西脇順三郎詩集』も持っているが、やはり、薄い紫色の脚注の文字がなつかしくて、買っておいた。あっ、唱歌のものがあったけれど、ぼくは学者じゃないからいらないやと思って買わなかったけれど、戦争中の唱歌とかあって、笑ってしまった。戦争讃美の歌を西条八十なんかが書いてたんだね。めっちゃ幼稚な詩だった。あ、おもしろそうだから、買いに行こう。行ってきます。で、ブックオフ、ふたたび、『日本歌唱集』と『室生犀星』を買ってきた。犀星は、「こぼれたわらいなら、どこかに落ちているのだろう」とか、ああ、らりるれろ、らりるれろ」とかだったかな、すてきなフレーズを書いていて、そうだ、「ふるさとは遠くにありて思うもの」ってのも、犀星じゃなかったっけ。


二〇一五年五月二十九日 「そうしていまでは、もうタイトルも思い出せない。」


 きょうも朝から本棚の整理をしていた。ここ2日間で、ブックオフで60冊ばかり売って、2000円だった。まあ、売り値は、買い値の10分の1から20分の1の間だということだろう。意外だったのは、売るのに躊躇していた『太陽破壊者』が買い取れないというので戻ってきたこと。ほっとして、いまクリアファイルで、本棚のまえに立てて飾れるプラスティック・ケースをつくって飾っていること。表紙が抜群にいいのだ。買い取られなくて、よかった。60冊の本のなかには、もう二度と読み直すものはなかったと思う。そうしていまでは、もうタイトルも思い出せない。


二〇一五年五月三十日 「ハンキー・ドリー」


 学校の帰りに、日知庵で飲んでた。むかし付き合った男の子にそっくりの子がきてて、びっくり。ぼくとおんなじ、数学の先生だっていうから、めっちゃ、びっくり。かわいかった。また会えるかなあ。会えればいいなあ。ヨッパのぼくは、いま、自分の部屋で、お酒に酔った頭をフラフラさせながら、デヴィッド・ボウイの「ハンキー・ドリー」を聴きながら、ボロボロ泣いてる。なんで泣いてるんだろう。わからない。泣きながら寝る。おやすみ。


二〇一五年五月三十一日 「エコー」


想いをこらせば
こだまする
きみの声
きみの声


眼のある風景

  かとり

本をたたんでは、ペンにキャップをつけた。はさみをひらいては、つけねで指のあいだをぐりぐりとした。靴下をつかんでは、投げた。たばこに火をつけた。そしてたばこの火は消される。紫から黄色へ、黄色から青へ、藍そして緑、緑から赤へ、くぐもった、昼下がりのまぶしさの、まぶしさのなかの色彩が、展開していった。きれぎれの眠りがまた、つぎの眠りへと移ろう。落ちる、というよりも引き裂かれるように、誘われ、壁に背をあずける。眠りが、裂かれてできた破け目は、瞳の形をしている。瞳から、小蟹の群が這い出、行列がフロアを渡ろうとしている。

 小高い丘の白い岩場はただ2人のためだけにある。朽ちた鉄柵をくぐり、茂みをかきわけ、摩耗し苔むしたコンクリートブロックを足がかりによじ登り、2人は岩場にやってきて腰を下ろした。半透明の蟹が一匹足を止めてじっと見ている。2人は平らな岩にお菓子の小袋を並べて語らっている。空には一切の雲がなく、見晴るかす彼方は海だ。見晴るかす彼方は海だと、あなたはそう思った。しかし実は、違う。それは水平線ではなく屋根。小さな家々が彼方まで、徹底的に並んでいた。東の空の片隅は昏く、霞の内部には黒い筋が見える。塔?いや、あれは竜巻。天から空が、地上に流入し、とめどなく拡散している。「あっ」と声が上がる。花が現れ、即座に立ち枯れ、丘が暗転し、竜巻は過ぎ去っている。丘には影がひとつ。2人のうちどちらか一方が、がもうひとりを突き落としたのだ、と蟹の眼は証言する。罪深いものが突き落とされ、罪深いものがまた突き落としたのだと。しかし、とあなたはおだやかに否定する。夢はおだやかに否定される。そのつぎの場面では、2人それぞれに微笑しながら腰をあげ、ずぼんを払った。蟹は岩場の陰へと滑りこんだ。あなたはそれ以上の光景を追うことに興味を失い、私は罪悪感をともなって目覚める。起こり得たことの全ては裂け目の闇に突き落とされたのだ。そして、と目覚めた私は続けるだろう。小高い丘の白い岩場はただ2人だけのためにあった。

アラームが鳴る
私は薄目を開ける
少し眠りたかったけど
眠れなくてもかまわなかった
カーテンのない
西向きの窓から落ちた
四辺形の光に
足をひたして
続けて数を数えた
水の音が大きくなり
光に焼かれた踝の
微細な痛みがともる
宙空を上方へくいくいと
移動する埃に
焦点が合わされることについて考えるが
答えは出ない
服を脱ぐ
開き戸を開けると
蒸気が部屋に流れ込み発光する
光には光が
音には音が紛れこむ
私はユニットバスを一瞥する
そして新しい服に着替え
靴を履いたら
たぶんもう
戻ってはこない


無題

  zero

僕は壊れてしまいました、
もはや一滴の乾きかけた涙としてしか存在していません、
光も闇も幻で真っ青な衝撃だけが現実です、
人間の正しさとは何かと問いかけると桜の花が散りました、
人間の貧しさの上に咲き誇っているあの名を奪われた花を血眼になってむしりとると、
度重なる人間の驟雨が晴れ上がる頃には社会という雲海が血を降らせていました、
世界は暴力という元素から構成されており、
複数の暴力が相克しながら時間をかたどっています、
今日一つの純粋な愛が孤児として街角に捨てられていて、
愛はこのように与えるものでも与えられるものでもなくただ遺棄されるもの、
低い位置には重くて濁った行き場のない液体ばかりが流れ落ちてくるので、
どんな低さでも粉飾しなければ生き永らえません、
この街にはとてつもなく大きく入り組んだ笑いが必要です、
ただの痙攣ではなく物質的に彫刻された笑いが除幕され解析されなければ、
あなたを殺せなくてもあなたの名前を殺してよろしいでしょうか、
もはやあなたが誰からも呼ばれず透明に消えていくように、
組織では惰性の万年雪が年々厚みを増していて、
組織である以上決して融けない雪がどんどん増えていきます、
雪に切りつける炎の正しい色を探しに、
雪を掘り起こす労働の正しい関節を探しに、
僕はもうあきらめて新しい雪の一片として群衆の鮮やかさを増すばかりだ、
衝撃とは瞬間の打撃ではなくいやらしい持続の分泌液だ、
とてつもなく長い長編小説を読み終えたかのような衝撃を僕はあなたの暴力から感受したのです、
あなたの暴力は恐ろしく硬い人格の核内から遥かな総合を経て生まれたものだ、
暴力は余りにも激しく自らに愛され過ぎて行き場所を無くした自我の噴出、
かつて僕は花の美しさが分かりませんでした、
確かにどことなくきれいだと思っても何の感銘も受けませんでした、
あの頃の彫りもなく無味無臭のゴムみたいな世界をもう一度たしなみたい、
言葉だけを知っていてもその言葉の実感が伴わない未分化な自己、
感受性のない残酷で放埓な演算機にしか感受できない無機質のひらめきがあったものです、
何かを失うごとにさらに何かを失ってきました、
失うものなど何もないという空き瓶ばかりがきれいに収集され、
肯定的な価値など苛立ちしかもたらさないのですべて失ってしまいたい、
僕はもはや感情の重みを失ってしまった、
感情が疲労の風によって簡単に揺れ動く重心が不安定な労働者です、
労働のストレスが快楽として熟する前に感情を砕く、
僕はもはや以前のような中毒的な労働には吹き飛ばされてしまう、
労働者から労働をとるということは僕の存在の根拠を奪うということです、
僕は悪という麻薬を常用しなければ生きて来れなかった、
存在が力を投げ捨てるとき代わりに存在にみなぎるものが悪だった、
どんな混沌にも混乱にもすっきりした秩序を形成するのが悪なのです、
僕の音符は社会の音楽と何一つ符合しない、
僕と社会との間にはあらゆる種類の事故が発生しました、
僕の悪は事故のたびに保険のように支給されていったのです、
社会への憎しみは限りなく美しく官能に満ちています、
そうして僕はどこにも辿り着くまいとする美学を貫き続けるのです、


潮騒

  丘 光平



落陽とともに 
またひとつ ちいさな海が生まれ
夏は 
さよならと言った

どの夜が 最後の夜であるのか
知らないでいるわたしらへ


 手をふることを
初めておぼえた日のように
訳もなくわたしらは
手をふりつづけていた

ふれあう前から泣いている恋人たちや
遠くひろがる星のいない空、そして
途切れてしまった蝉たちの行方について
 こたえられないまま


 わたしらは眠れないと言った、
訪れない朝のために 耳をそばだて
深いねむりの周囲を
めぐりつづけている


#07

  田中恭平


二〇一五年十二月二日に、人間は考える葦なので、私の目は勿論、節穴でした。
一日は煙草ではじまる。ソフトパックに煙草が十一本。昨日、九本喫ったということ。
昨日の、九本目の煙草は、昨日で去るべき一本。今朝の一本目の煙草は、今日まずあるべき一本で。
火を点け、その火へまた、更に火を点け。それは人の感涙に対する、涙だったりするもの。
路上に、缶が転がっていて、缶は、寒の中に転がっていて、十二月の月間、缶は、寒の中に転がっていて。
沁みるのは、何ですか。水ですか、痛みですか。想い、書きつける為の、ペンのインクですか。
ともかく私は、縁側で煙を吹き、それは浄土へ届かないとわかっている。今朝は、朝陽が目をうるませて。
こんにちは、ニコチン。そしてポケットから出す、リボトリール錠。すこし、清い水でもって含んで。
ピンッ、と、唇が水の冷たさに切れ。血は、智とならず脳の報酬系に訴え、私は出血を笑ってしまいます。
おはよう、おはようと、すべての神経に訴えようと、もう一本分エコーの煙を含みます。


あなたは、スクランブル・エッグの、スクランブル交差点を渡らずに立ち止まり。こころはどうしている?
こころを、フォークで突けば、やはり冬のフォークの冷たさ。両手で覆った両耳の端も冷たい。
言葉が、耳へ挿入されないのが救いで、周囲の人はみんな黙している。ノイズはあなたに加害する。
周囲の人。父親、母親、兄弟、ペット。そこにいても、非在であったとしても、みんな黙している。
そんな朝にも慣れてしまって、スクランブル・エッグを平らげるに、黙々、フォークを動かす。
あなたと、周囲の人みんな、とに疎通はない。孤独という自由はあっても、息を深く吸い込むことができない。
あなたはスクラングル・エッグを平らげ、「いただきました」と告げる。しかし言葉は返ってこない。
寝室に戻り、ノートPCを開き、詩のサイトの詩を読み、家族関係に、呪われている人の詩を読む。
読んだ詩は、家族を称え、感謝しているのだが、あなたは呪いを念じ、書かれていると、かんじてしまう。
スクラングル交差点を渡らないまま挙手をして、しかし、何を口から発すればいいかわからない。


私はエコーをジュッ、と水で火を消して、吸殻を、ガラス・ケースに詰めると縁側から寝室へ戻る。
楽しいことは少ない。楽しいことは、この世のダイヤモンドだ。八千円そこらのギターを抱える。
音楽は数学であり、ギターはパズル・ゲームであった。録音機の電源を入れ、RECボタンを押す。
譜面はなく、あったとして、読むことができない。パズルに解答は不要だ。解答があっても答えは私が決めます。
今、という言葉を書いても認識するときそれは古い。い・ま、の「ま」を書くとき「い」は過去にある。
今を追いかけ、指を動かし、今を追いかけ、指を止め、静かに音律は脳を、溶解させていき――――ピンッ!
パツッと、ギターの弦が切れ,頬にアタり傷をつけ、私はその出血を笑ってしまいます。
ち、が、見えますか。ち、が見えますが、血は、皿の上に乗った、小さな点です。
調子の悪い腕時計が二本、デスクの左端に置いてあります。彼らの蛍光灯の数字、鈍く、光り。
共鳴しているのは、時計の盤上にない「13」の数字。それはどこにあるのかと、少し窓を開ける。


オハヨウゴザイマス、タマカワサン、イラッシャイマセ、モウシワケアリマセンデシタ、タマカワサン
タマカワサン、オソレイリマスガ、ハイ、カシコマリマシタ、タマカワサン、ショウショウオモチクダサイマセ
シツレイシマシタ、タマカワサン、オマタセ イタシマシタ、アリガトウゴザイマシタ
マタオコシクダサイマセ、あなたは十の言葉のくりかえすにつとめる。鏡の前。
オハヨウゴザイマス、タマカワサン、イラッシャイマセ、モウシワケアリマセンデシタ、タマカワサン
タマカワサン、オソレイリマスガ、ハイ、カシコマリマシタ、タマカワサン、ショウショウオモチクダサイマセ
シツレイシマシタ、タマカワサン、オマタセ イタシマシタ、アリガトウゴザイマシタ
マタオコシクダサイマセ、あなたは十の言葉へ身に浸す。トイレの鏡の前。タマカワサンは多摩川でした。
退社の時刻となり、あなたはオフィスを出て、少し歩いて東横に乗り、東京方面に向かった。
多摩川は暗く、あの夏の、夕焼けに栄えるうつくしさはなく、恵比寿で下りれば、そこは明るかった。


私はライヴ・モニターを通して、夜の郊外をさっさと見ている。ライヴ・モニターはこころでした。
スーパーマーケットの前、365日、朱い風車を吹き回しつづける、初老の男を越えて、北進する。
枯れそうな、鶏頭花の頭には目がついている。目は瞳となり、瞳は眼となった。無視して進む。
風がつめたいのは、こころが冷たいからだと思う。コンビニが明るいのは、こころが明るいからだと思う。
トリスのあたらしい瓶を買い、古くなった体へ少しながしこむ。喉から胃までを、すこし燃やして。
胃も、こころのシニフィエに過ぎない。血管も、弛緩する体も、やられる脳も、こころのシニフィエに過ぎない。
寒椿も、落ちた葉も、葉の先よりこぼれる露も、月もこの雪も、すべてこころのシニフィエに過ぎない。
強い父も、賢い母も、やさしい姉も、頭の良い妹も、飼い猫も、野良猫も、野犬も、あの初老の男も。
現実は、こころのシニフィエに過ぎない。だから私は白いこころを吐きつつ、こころを踏みしめて、歩く。
嗚呼、しかしライヴ・モニターにノイズがまじって、鶏頭花の眼が、ゴロリと落ちた。


あなたはほろ酔いで帰宅して、やはり言葉のやりとりのない家のキッチンで水を飲む。水は美味しかった。
昨日、ほろ酔いで帰宅して、言葉のやりとりのない家のキッチンで水を飲んだ。水は美味しかった。
一昨日、ほろ酔いで帰宅して、言葉のやりとりのない家のキッチンで水を飲んだ。水は美味しかった。
変わらないことは、素晴らしいことだよ、と、スクランブル・エッグは、多摩川は、伝えてくれたような気がした。
変われないことは、素晴らしいことだよ、と、スクランブル・エッグは、多摩川は、伝えてくれたような気がする。
変わらないことは。変われないことは。どちらも、等しい意味のことに思えるけど。
変わらないあなたは強く、変われないあなたは弱かったので、あなたは椅子に体をくずし黙した。
あなたは確かな足取りで、鏡の前に向かった。コンバンハ、タマカワサン、と鏡に向かってニコリと笑った。
じっくりと愛着のある髪を眺め、でも、変質を加えたいんだよね、と鏡の左側の棚を開いた。
次の日、オフィスのあなたの髪の色はショッキング・ピンクだった。カワリマス、タマカワサン。


私は歩きつかれて。青いベンチに腰掛けて、ベンチの上に、トリス瓶と、鶏頭花の眼球を置いた。
黒い夜は、漆黒の夜となり、そして星冴え冴えとして、私は体を楽にして、天体を楽しんだ。
そして、チラと鶏頭花の眼球へ目を向け、この眼球をじっと見つめた。そして下を向いた。
思考する。ポケットから煙草を一本取り出し、ハートに火を点けて。―― ハートは脳の報酬系?
まず鶏頭花は、花ではなかった。鶏頭であって、そして鶏頭は、ニワトリの頭部であった。
ニワトリの頭部だから、眼球がついていて、それはくり貫かれた。くり貫いたのは、私だった。
溜息と共に煙を吹く。わからなかったんです。やはり私の目は節穴でした。
オリオン、人間は、考える葦であるから、勿論、私の目は節穴でした。
ポケットから、ナイフが落ちた。ナイフに、血がついていた。胸がくるしい。
トリスの瓶を開けて、グビッと景気づけに飲む。山は静かで、煩いのは私の胸の内で、「ウルサイ、」と言った。


オハヨウゴザイマス、ブチョウ、イラッシャイマセ、モウシワケアリマセンデシタ、シナガワサマ
ハセガワサン、オソレイリマスガ、ハイ、カシコマリマシタ、ヨシダサマ、ショウショウオモチクダサイマセ
シツレイシマシタ、オイカワサマ、オマタセ イタシマシタ、アリガトウゴザイマシタ
あなたは、アア、あなたは、社会に順応してしまって、脳が腐らないように、気をつけて下さいね。
私は、時間も、空間も、人間も、そして労働も、その概念も知らず、ただ何かをしていただけだった。
何なのか。何かは、とおい記憶の向こうにあって、もう、それを見ることはできなくなってしまった。
休むことは知らず、眠ることはできず、ついに脳が腐って、あなたのようには、一生なれないだろう。
だから、哀しいほどにあこがれる。郊外に身を隠しても、自分がまだ、オペラ座の怪人だとでも思うよ。
沁みるのは何ですか。水ですか、痛みですか。想いを書きつける為の、ペンのインクですか。
自然公園の水は身に沁みて美味しい。帰って、また、正確な冗談書いて眠ります。トリスの瓶は空だった。


re:re:re:re:re:re:re:re:re:re:re:re
こんにちは。こんばんは、かな?久しぶりの連絡になります。御無沙汰です。
あれから色々あって、といいますか、何もなかったんですけど、会社辞めてしまいました〜〜(笑)(笑)
そしてやっぱり、会話のない家族ってつまらないじゃないですか〜〜。実家出て、一人暮らししています!!
寂しくないですよ、実は障がい者就労移行施設のスタッフしてまして、利用者さんにガンガン元気貰ってます!!
送迎バスが白じゃ、いかにも、でしょう?だから勝手にショッキング・ピンクに塗装しちゃいました〜(笑)(笑)
利用者さん「やさしいね、仏さんになるのか?」って冗談言うから、思い切って坊主にしちゃいました〜(笑)(笑)
なりますよ、私、仏になりま〜す!!色々愚痴読んで頂きましたが、理屈とか、もうどーーでもいいって感じ。
ああ、でもここは、静岡ですけど、時々やっぱり桜木町と、あと多摩川のこと思い出しちゃいますね〜〜。
夏の多摩川の夕方の雰囲気って、ほんとこころをうつものがあるんですよね。浄化されてました〜〜(笑)(笑)


二〇一五年十二月六日、携帯電話をパチンと閉じて、私は縁側へ煙草を喫いに出る。
一日は煙草ではじめる。外はまだ暗かった。ライターで着火すれば、そこだけ明るくなった。
あたらしい時、私は存在できるだろうか。存在は、ただそこに存在することではなしに。
何を話し、語り、伝え、書き、そして何する。そして私の世界は、変質し、変色するか。花のように。
昨日買っておいた久々のゴールデン・バットは美味しく、私は久々のこころを吹く。空が、少しずつ青く。
ポケットから取り出すリボトリール錠。清い水でもって含んで。冬なのに風はやさしく。
沁みるのは何ですか。水ですか、痛みですか。想いを書きつける為の、ペンのインクですか。
はい。沁みるのは、フラスコやビーカーといった透明なこころにハジける光の、その音です。
煙草の灰を灰皿へ落とし、私は、多摩川を通過する電車の音を、想起する。
庭の隅へ捨ててあった、ニワトリの眼が、それを見ていた。


 


折ること、祈ること

  熊谷


日、朝と夜が変わるとき、こころをひとつ折る。たとえば、それが紙のようなものだとすれば、日を重ねて折っていくうちに、きっと鶴にも亀にもなれるのだ。そうしてあなたはそれに乗って、天空の城にも、竜宮城にも行ける。だから、そんなに頑張らなくてもよい。ただひとつ、丁寧に折り目をつけるのだ。



あなたのこころの折り目は、寝る暇もなく忙しくて、少しズレて折れたりしていた。だからそれをもう一度広げて、丁寧に伸ばして、再びきちんと折ってあげる。そんな気持ちになれるような言葉があればいいし、そんな気分になれるような歌を探している。今日書けなかった歌詞は、明日きっと神様がプレゼントしてくれるのだ。



誰も乗せることなく、病室には千羽鶴が飾られていた。その代わり、空港の近くの病院だったので、窓辺からはたくさんの離陸していく飛行機が見えた。ほんとうはそれに乗って、世界中を見に行けたら良かったのだけれど、あなたの子どもの病気は他の子どもよりも何だか難しくて、長く眠りすぎたベッドのシーツはしわくちゃだった。わたしはそれをほんの少しだけ伸ばして、ひたすらに祈ることしかできなかった。



あなたは、あなたの子どもにたくさん謝ってきた。そして、折らなくていいところまでたくさん折って、最終的にこころはぐしゃぐしゃになっていた。神様、今夜は悲しみにくれるあなたのために、あなたが気がつくまで流れ星を何個も流してあげて下さい。そして何でもいいから、お願いごとを聞いてあげてください。そう祈りながら、鶴をひとつ折って、また千羽鶴を作り始めた。


冬の詩人

  丘 光平

    I

わたしはしずかに立っていた
雨はやみ すこしずつ朝が広がっていった
わたしはこの場所をこよなく愛していた
ときおり 馴染みの鳥がやって来て 
毛繕いを見ることが楽しみだった そして
翼をゆるやかに広げ
飛び立ってゆくのを見ることが楽しみだった
白い羽が 水面でゆれているのが美しかった


わたしはゆっくりと冬の準備をした
緑はやがて黄味をおび そしてしずかに熟し
風にふれるたびに歌が流れ
なにか偉大な仕事をやり終えたひとが
安らかな眠りにつくように
ひとひらの葉が散り またひとひらの葉が散り
紅い水面でゆれているわたしのなかで
ゆたかな水脈が流れつづけていた

そして霧のように
降りはじめた雨のなかで
あなたはしずかに見つめていた こころのなかで
あなたは木になりたいと言った
そうしていま あなたの願いは芽生え
あなたを大地に立たせた
ゆたかな光を浴びながら 風の歌声を聞き
香り立つ花園のように あなたは
あなたを解き放った


わたしたちはしずかに立っていた
鳥たちが 散りしかれた落ち葉の水辺で眠っていた
ときおり その白い羽をふるわせながら
身を寄せあって眠っていた



    II

青空が広がっていた まるで
五月の薔薇の 甘い香りが流れてくるように  
いま 世界のどこかで 
純粋な目をした少年の
願いが叶ったのかもしれない そしていま 
世界のどこかで
やさしい目をした少女の
祈りが届いたのかもしれない 

青空が
どこまでも広がっていた まるで
五月の庭の
ゆたかな木漏れ日のように いま
雪がしずかに降りはじめた



    III

雪は降りつづけた 
雪は一面に降りつもった 
わたしたちはだまっていた
わたしたちは耳をすませた


 奥深い
白い森のなかで
わたしたちを見つけたものが
すこしふるえながら
わたしたちにそっとふれようとして


 そしていま
わたしたちは時をむかえ 
黎明の朝陽や
夜の月光のように 
つつまれた花びらをひらき
しずかに歌をうたう


おしみなく
雪は降りつづけるだろう
わたしたちにふれるすべての手に
降りつづけるだろう



    IV

ゆれる火が
わたしのなかで
すこしずつ大きくなり
ことばにならないわたしのことばを
あなたはしずかに読みはじめた


 わたしは あなたの声として生まれ
あなたが歌うとわたしは目覚めた
あなたがだまるとわたしは眠った


 ゆれる影が あなたのなかで
風のようにしずまり
あなたのしらないあなたの始まりに
わたしは耳をすませている



    V

 わたしたちには
ゆたかな冬があった ざわめきが
ひとつのしずけさへ歩み
限りない静寂のなかで
偉大なものが生まれてゆくように

広がりつづける
空はしっている
より広がりつづけるものを そして
満ちあふれる海はしっている 
より満ちあふれるものを


立ちどまることを
わたしたちが選ぶのは
わたしたちのなかで いまそのときをむかえる
わたしたちがあるからだ


 すべてのいたみを いたみから解き放ち
わたしたちは 
眠りから目覚めたばかりのこどものように
おおきく手をひろげた
よりおおきく手をひろげて
わたしたちをうけとめる
冬のしずかな庭で


ときには花となって

  山人



私は梅雨空の
とある山の稜線に花となって咲いてみる
霧が、風にのって、私の鼻先について
それがおびただしく集まって、やがて
ポトリ、と土の上に落ちるのを見ていた
私はみずからの、芳香に目を綴じて
あたりに神経を研ぎ澄まし、聞いている
たなびく風が霧を押しよけていくと
うっすらと太陽が光りを注いでくる
豊満な体を、ビロードの毛でくるみ
風の隙間から羽音をひるがえし
花蜂たちがやってくる
 ひとひら舞い、するとその羽ばたきを忘れ、落下し
やがてまた思い出したように空気をつかむ
そのように、落下したりあがったり
きまぐれな空気の逢瀬を楽しむように飛ぶ
それは蝶々
 私は、そのように
花になったり、花蜂になったり、蝶々になったりしたが
またこうして
稜線の石になって黙ってそれらを眺めている


 DIARY

  GENKOU

 2011-12-09 Diary Essay 


幼い頃だ。いえの裏には滝がありその音がいつもけたたましかった
わたしが生まれついた最初の悪夢は、その音であった
いつまでも耳につんざき離れない ずっと 眠りに就けられない
音にうなされるからラジオをつけてはスピーカから聞こえる
おしゃべりや音楽を聴き、忌まわしいその幻聴を解消していた

恐怖心というものは前もって知っておけば、待ち構えているうちに
少しづつ消え失せるものなんだとわかった。シャーシャーと寝耳に入る水
音から出てくる恐怖を、いつしか自分は音楽として聴くことができるようになった。

いつしかラジオも消し 耳から襲う魔的な幻聴を 寝床で毎晩待つことが 毎夜の日課だった
そうしたの遊びを覚えたのだった。音が私の体に迫りくる
少しずつ頭が膨らみ両腕が糸のように細くなる感覚に襲われる、
特殊な重力場に寝かされ圧し潰されそうなGである
シャ-- という滝音の倍音はけたたましくこめかみに鳴り響く
ぐるぐると頭がゆり動かされっ すると今度は幻覚にさいなまれる
天井から這い出るたくさんの手が 脳天をこじあけようと顎あたりを突き上げる
私は壁にはりつき布団にくるまり 目を見開いたまま、
その幻聴と幻影とを楽しむのだった
来たね、来たね、ほら 来たね と 不可思議な精神錯乱をとても楽しんだ
そう できたのは、自覚した精神を保つことで恐怖を遊戯に変えた
そう、意識できるようになってからだと思う

 
画塾に30前後の一人の女性にその話しをすると似たような症状を憶えるという。
今でも、彼女はようやく精神治療を退院したとのこと。いつも明るく元気で快活に接するものの
内向的な生活にいったん入り込むとたちまち in in in in in 中へ 中へ 沈んでしまうのだ。
去年彼女に年賀状を書いたが、病棟までは届かず、直接手渡ししよう、元気な顔をみたいもの。





 2011-12-11 

  つもるもない


呼び止められた妄心造語が幾ばくも背中を流れる
街街の息が楽しげに小旅行者たちを行き来させる
可愛い通りを一人着飾る店のガラス越しに立ち止まる
ショウウィンドのドレスを着せて茫然と突っ立ってる
なにもかもが つもるもなかった


  HAPPY DAYS という 店オーナさんが居た
  松尾アキラという詩人が昔故郷に居た
  当時よく遊びに行き、駄菓子屋さんのような
  お洒落系のガチャガチャ人形レコード漫画
  に囲まれながらよく飲み明かしたのだが
  ある時、店の奥からなにやら分厚い本をもってきた
  彼はそのときかなり上機嫌だったのか
  キミは彼にそっくりだ
  大きな声を出しながら 初めて知った
  蜘蛛の巣の張り付いた
  分厚い黄色い詩本を渡してくれた
  はじめ彼の書籍を勘ぐった、が 
  彼を信じて、願えるのだ
  そうして
  いつか私の書くも勘ぐった、だが
  彼を信じて、願えるのだ




なにやら 孤独に存在していた 
摘まめんホコリがふわふわと 浮遊する右下斜線
アスファルトに 落ちる目を落とす 
空に叫ばず 天気はどうだい?と、空を仰いだ
ノッポリ鼻先の 古い傷痕を確かめ 
洟をすすり 鳥の巣の頭の毛を グシャグシャやって
 
  あぁ もう 終電ないじゃん 寝ながら帰る 

 



 2011-12-18 

   宝ヶ池散歩


見晴らしの彼方から冷え冷えとした湖が火照っている借景の比叡山。
地理的条件をまっすぐ水平に遠く際立つ、俄然蘇ったあの女の平たい乳房。
車のキィを止め私が気安く話す話しを、途切れ途切れにカノは私ににじりよる
そんな素振りを見せる青く火照った月明かりの顔 照らすカノ横ににじりよる

/愛などと言わず抱きあう原人を好色と呼ばぬ山河のありき(春日井健)


  *

草の葉の根をかきわけて虫一匹
口をあけお炬燵(こた)に蜜柑足ひとつ
ストローちゅうちゅう脳の内圧吸いまくる、
畳のダニに咬まれて、浅寝る(あさいねる))
剣士のつるぎの報いは必然の心の刀
三日月夜に食いつく魚に銛を刺す

みよしふゆ空
そといでて
きたるらんらん
おんぶにだっこ
みぐるみくるみ
 




 2011-12-26   a diary - mobile


どこまで切り、成しうるかは
一見不可能と思うが
わずかな生きるなかで
もう、見えている

 。

だから言えることは
あまりにも困難なるがゆえ
何処に何が、生まれるかも
不明なるまま
画を成すことは
あまりにも困難なるがゆえ

みずからの生き姿に
かかわるものとして
あまりにも困難なるがゆえ
それをみない現実をしらぬ
日常、文化、俗物に
ぬくぬくとくるまり、臥し
おまえの姿、容をこれから
どこまで切り、成しうるか

もう、みえている

あっ!キラ、か?
あっ! 綺羅・可

            か な え

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::  空を  吹く   ::::::::::::::::::::::::::::::::::
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::  白い粉雪の     .... .........・・・: : : :: :: ::
::  夢から寝覚めた ::::::::::::::::::::::::::::::::::
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   戸の隙間     ::::::::::::::::::::::::::::::::::
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;;;; 風 と ::::: :::: ::: ::::::: :: : : : :: :: :: :: :: 
 .... .........・・・.... .........・・・  
か な え ::::::::::::::::::::::::::::::::::::
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::  空の 吹く::::: :::: ::: ::::::: :: : : :::::: :::: ::
    .... .........・・・ ::::: :::: ::: ::::::: :: : :
雪 を 舐め   ::: : ::::: ::::::: ::::: ::::: ::::
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ぽつ ねん と した  ;;; ;;;;;;;;;;;;; ;;;;;;;;;;
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わ た し が 、・・・・・   ::::: :: ::::: :: :::: ::
::   ::::: :::: ::: ::::::: ::::::::;;;;;;;;;;;;;;::::
   窓向こうに ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
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     うづくまる .... .........・・・:: :: :::: :: : : : 
::: :: :: :::::: :: : : : .... .........・・;;;;;;;;;;;;;;
    .... .........・・・ : : : :: :: :: :: ::: : : :: :
::  子どものこさえた雪だるま 、  ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
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    二日と三晩と 降りつづけ  .... .........・・・ 
   : : : :: :: :: :: ::・・・、    ;;;;;;;;;;;;;;;;;
::  少しづつ形を変えていく .... .........・・・: : : :: ::            
::         ・・・、  ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,
溶け崩れ、粉雪をかぶり   ::::::::::::::::::::::::::
::         ・・・、 .... .........・・・: : : :: ::
白い祠の        .... .........・・・: : : :: ::
 奥に、 ひっそりと   ::::::::::::::::::::::
::::  ,,,,,,,,,,,,,,
 蝋の灯が ::::::::::::::
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黄色く        ,,,,,,,,,,,,,,
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     ゆらめく
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: : : :: :: :: :: :: ・・・、・・・・;;;;;;;;;;;  
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::: 。 か な え  : :: :: : : :. .. .. ..
:: 。  : : : :: :: : ::: : ::. ......
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     あぁ  ふと、笑いながら 思う 。 ・・  
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     わ た し が 、・・・・・   :::::::::::::::::: 
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::     窓向こうに ;;;;;;;;;;;;;;;;; 
  ::     うづくまる   ::   :: :: ::
.... .........・・・    ::::::::::::::::::::::: 
::    あの 子 のこさえた雪だるま 、  ::::::::::::::: 

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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...  白いカンバス の 、……… うえ を ・・・、……

…  黒土のうえ を 、   ……  ・・・、………
  
…  長靴を 履き          
               …………… …‥………………
               〜〜 〜〜〜〜〜 〜〜〜
      〜〜〜〜〜〜〜〜            
〜〜〜     〜〜〜   〜〜〜 真夏のしたの                
〜〜〜〜〜〜〜〜〜   〜〜

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜   〜〜 〜 〜〜 〜
…  向 日 葵 畑     〜〜     
   〜〜〜〜〜〜〜
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クリスマス考現学

  オダカズヒコ




俺たちの血の中には
繁殖へと促す
優れて工学的な力がある
そいつがジョルジュ・ルフェーブルによると
「春の向性」というわけだ

黒死病では
膨大な喪失を埋め合わせる必要性の歴史と
不可能が境界をぶち破っていく文明とが
同時に現れる
魚の本能は
それこそ何万年もの間
変わらずそこに生存し続け
人間の脊髄として残っているのだ

街角で
俺は古い習慣を眺めていた
キリストの生誕を祝うイリュミネーションや
人々が認め合っている
参加の印
サンタクロースの帽子や
トナカイの赤い鼻
クラッカーや赤い靴や
そのどれもが
説明は不要だと言っていた
あの形態が機能を従わせる
催事の力が示されているのだ

コンピュータには100億のトランジスタがある
それぞれのトランジスタは
10億の信号を送ることができる
2014年5月25日(日)晴れ
俺は自室にいて
人間の視力が今のような世界を見るに至った動機と目的について考えていた
人間は表面的には生きているが
裏側に回れば必ず構造がある
涙はいったいどこからくるんだろう?
きっとそれは弱虫が踏んだペダルのせいで
海から川を巡って運ばれてきた水だろう

種に寿命があるとすれば
聖書学的にapocalypsisと呼ばれるものにも頷ける
世界をリセットする物語の向こう側にいまや俺たちは居るのだ
ノアの箱舟の話はユダヤ教やイスラム教にもある
一番古いのはシュメール神話のジウスドラの話だ
そいつは楔形文字で粘土板に刻まれていたものだ
俺は大阪駅構内の自販機でコーヒーを買った
微糖とアルミ缶に印字されている
自然の資源価値は時代とともに変わるが
俺たちの精神に内在する微糖とは
かつて楔形文字で粘土板に刻まれていたものと同じだ

脳という脳を想像力に浸す
大阪環状線の列車は陸に上がった魚だ
前足がなく
鰓呼吸をし
そのフォルムは一億年前のままであり
鱗がヤスリのかかった鋼鉄に変わった他は陳腐化している
水面に浮きあがる必要ななく
レールの上にただ体を横たえるのみ
Merry Xmas

目が光を見た時のことを覚えている
世界は人間の内側に闇のように広がっていて
瘡蓋によって閉じられた容器のようなものだった朝
俺はバスタブの中で飼っているクジラに餌を与えている
クジラはバスタブの中に潜水し
ふっと息をあげた
深い海の中へ戻りたいのかい?
そう尋ねると彼はストレンジャーらしく尾っぽ振った
まるで地球がまるごと工場になってしまったようだ
休日にバルコニーで
俺は煙草をふかしながら町を眺めた
町ゆく人々の頭上には傘があった
雨が降っていたからだ
車と列車が交差する
田んぼの中にポツンと建つコンビニ
人々は狂ってしまわないように制服を着るのだと思った
制服の中に体を閉じ込めることを
安全というのだと


かっくかくしかじかっ!

  泥棒

お母さんっ!
あなたの命日に
ネットで
そう
インターネットで
わたしっ!
詩を書いています
うい、
たそがれては
いません
わたし
酔っています
うい、
相も変わらず
頭のかたい
めっさ
かったいかったい人たちからは
詩ではない
とか
言われています
う、うい、
あれは
いつの日か
お母さん
あなたが
チャーハンを
チンして食べてね
と、
メモをテーブルに
置いて出かけた日に
わたし
お母さんが
いつか
死ぬってこと
わかりませんでした
うい、
お母さんっ!
あなたが
いつも書いていた
日記のように
わたしや
弟のことを書いていた
あの日記のように
わたしはっ!
詩を書いてみたいです
うい、
お母さんっ!
あなたの残した日記は
日記ではなく
詩でした
うい、
改行もなく比喩もなく
そのまま書いてある
あなたの
ただの日記は
私にとって
紛れもなく詩でした
ごめんね
こんな日に
ほろ酔いで ごめんね
うい、
もうすぐ
クリスマスですね
街が
ざわついてます
お母さん
あなたの好きだった
チョコとレーズンのケーキ
わたしも好きになりました
う、うい、
いつのまにか好きになりました
うい、
夕暮れを
そのまま描写したい
お母さん
あなたの命日に
見えるもの
思うこと
そのままに
詩にしてみたい
うい、
さっき
公園の
すべり台の上から
冬を眺めました
ふと
比喩の風が吹きましたが
おもいっきり
ガン無視してやりました
うい、
お母さん
あなたはいつも
何を眺めていたのでしょうか
家の台所の窓から
この公園が
すこし見えますね
う、うい、
そうそう
サンタクロースの
コスプレをした犬が
さっき
散歩をしていました
かわいい
とてもかわいい犬でした
うい、
お母さん
私と弟が子供の頃
(犬を飼いたい
って、
よく言っていたこと
おぼえていますか
今ねっ!
私と弟で
犬を飼っています
うい、
知ってるよね
名前は
わっしょい
って、
変わった名前です
うい、
弟は
リボルバーとか
アンディとか
かっこ良さげな名前を
つけたかったらしいけど
ださいよね?
なんだよ、リボルバーって
そうでしょ?お母さん
男って、子供だよね
うい、
わっしょい
いい名前でしょ
うい、
お母さんっ!
弟は今日も
バイトで帰りが遅いと思います
でもねっ!
心配しなくていいよ
あいつ
まだ子供っぽいけど
意外としっかりしてるからね

(うぃ、

かっくかくしかじかっ!
お母さんっ
あなたの日記のように
わたしっ!
まだ詩が書けませんっ
酔ってるから
大声で、
ごめんね。


ジャンピン

  ゼッケン

共生型ロボットはおれを慰めようとおれの好きな音楽をかけてくれるのだが、
それがショパンのピアノソナタ第二番第三楽章いわゆる葬送行進曲で
これは落ち込んでいるときに聞くとおれは闘志が湧くのだった、こんなにきれいに片づけられてたまるか、
そう思うのだ、ほぼ逆ギレした怒りがおれをリングに押し戻してくれる

おれはファイティングポーズをとる

しかし、いまはおれは落ち込んでいなかったので、コンパニオンロボットの気遣いはうっとうしかった
おれは必要ないと言った
ロボットは言った。 だって、そういう顔してるよ?
そういう顔なんだよ、葬送行進曲が必要なときにはおれが頼むよ
慰めが必要な表情に80%以上マッチしてます
世間では仏頂面とか愛想がないとか言われますけど、いい加減、おれに最適化しろ、おれのロボットなんだから
わたしは誰かの所有物になるようプログラミングされていないよ、共生型だもの

ああ、そう

だーんダダだーんだんダンダダだーん

うるさいぜ! おれはロボットの電源を切ろうと胸のボタンに手を伸ばす
ほぼ殺人です
手が止まる
だーんダっダだーんだんダンダっダだーん
おまえの葬式をいま出してやるぜ!
曲が止まる
楽しそうな表情に80%以上マッチしました、あなたが楽しいとわたしも楽しいです、わたしは共生型としてプログラミングされています
うそくせーぜ、こいつよぅ・・・
おれは走らせていたクルマを止め、覆面をかぶる
お仕事ですか? 
そうだよ、相棒
ロボットはディスプレイにハートマークを表示する
おれはクルマから降りる。クルマのエンジンはかけっぱなしにする。ロボットはすでに手順を学習しており、クルマで待機だ
銀行に飛び込み、散弾銃を天井にぶっ放して、カウンターに出された札束を二つほど掴むとすぐにクルマに戻る
おれの片足がまだドアの内側に入りきらない間にロボットはクルマを急発進させる、ロボットとクルマのコンピュータはつながっており、開設済みの裏口から信号を操作し、警察車両の動きをシミュレーション通りに躱しておれとロボットは無事に帰宅する。

おれは共生型の人間だった
ロボットをただのネット侵入の端末とは思っていない
だから、フィジカルな銀行強盗をロボットといっしょにやるのだ
相棒というのはいっしょに銀行強盗をやるためにいるものだからだ
そうだろ、ロボット?
間違っているけど、うれしいよ、人間


OVER THE SEA, UNDER THE MOON

  熊谷

 会社帰りに、その時なぜか手に持っていた給与明細が風に飛ばされた。そのままテトラポットを通り、ヒュッと海の上へ落ちる。拾わなきゃと思って慌てて海のなかへ入って行くと、海面にはたくさんの給与明細が浮いていた。それらは全く赤の他人のものばかりで、てんで安いものから、べらぼうに高いものまである。その中から自分のものを必死に探したけれど一向に見つからず、探しているうちに水位がどんどん腰から上へあがっていった。お金が欲しかったわけではない。ただひとつ自分の給与明細が欲しかっただけなのだ。わたしがちゃんと働いているという証拠が。そうして巨大な海はわたしの上から下まで残さずすべてを飲み込もうとした。必死でもがいて顔を上げようとしたとき、満月がぽっかり浮かんでいるのが見えた。



 妊娠が分かってから、事務の仕事をやめた。給与明細はおろか一銭も稼いでもいないのに、何だか変な夢を見てしまった。ベッドから起き上がり顔を洗うと、温かいスープが飲みたくなって、台所に立つ。にんじん、ピーマン、たまねぎを隅々まで水洗いをし、適当な大きさに切る。沸騰したお湯にそれらを入れ、ブイヨンを三切れ入れた。料理をしていると、とても気分が落ち着く。あらかじめ用意された材料で、決められた手順でこなせば、写真通りに出来上がるからだ。そして、ちゃんと生活をしているという気持ちになって、ひとまず人間らしくいられる。鍋にふたを置いた瞬間、玄関のチャイムが鳴った。



 帰ってきたあなたは、釣り道具をひとしきり拭きながら、「きょうはけっこう釣れたんだ」と言う。一度、あなたに連れられて東京湾で夜釣りに行ったことがあるが、まったく好きになれなかった。夜の海は怖い。とてつもなく黒く巨大な空間がそこに広がっていて、追い打ちをかけるように、波の音が迫り来るように唸りをあげていた。そこにいるかどうかもわからない魚をひたすらに探し、そして釣りあげることの、何が面白いのかわたしにはよく分からなかった。そこには、あらかじめ用意された材料も手順も、約束された結果もない。大きな海のなかで目に見えない魚を、あなたが無邪気に追いかけていくのが何だかうらやましかった。



 臨月を迎えたお腹はもうぽっこりどころではなく、満月のように育っていた。ルアーがリビングの端に行儀よく並んでいて、全員こちらを見ている。私もそれらを見ながらお腹を撫でていたら、お腹の子どもが下腹を思い切り良く蹴り上げた。この子が生まれてくる確率と、あなたが魚を釣る確率のどちらが高いのか、ぼんやり考える。この子は、ちゃんと生まれてくるのだろうか。家の中にいながらにして、常に大きな海から必死で自分を守るような気持ちでいた。「釣れる日って何か分かるんだよね」唐突にあなたは言った。「君のお腹がいつになく丸く輝いて見えると、釣れるんだよ」



 会社員でもなく母親でもないこの自分が、ちゃんと子どもを産んで育てることができるのか、不安になっていたのかもしれない。けれど、あなたがいることで、広くて大きくて、怖かった海のそのすべてが、わたしの右目や左目から溢れ出す。すべての海は、わたしのなかにもうすでに存在していて、いつだってわたしは海そのものだった。そこに、釣れるも、釣れないもない。ルアーなどなくても、潮の流れがとてつもなく変わってしまっても、魚は海であるわたしの手のうちに集まってくる。そうして、必ず子どもは産まれてくるし、わたしは必ず産むことになっているのだ。あなたがティッシュを取りに席を立つとき、子どもはもう一度、下腹を思い切りよく蹴り上げた。


#06 (冒涜)

  田中恭平

 


  郊外から、眺めることのできる「富士の山」も、十月十九日の初冠雪から、かなり積もり
 現在白いペンキを山頂へドバッ、とぶちまけたような、かくたるべし「不二の山」となりました。

 
  冬来たりなば春遠からじ、と言いますね。私はこの言葉を、季感を意味する言葉であると思っていましたが
 「今は不幸であってもいつかは幸せがやってくる」という意味なのですね。
 春も、夏も、秋も、常々冬来たりなば春遠からじ、といいましょうか。
 しかし、あなたの乗車しているであろう汽車は、きっと時間や、空間さえ無視したところへ到達していることでしょう。


  はて、季節、とは、時間軸の中に納まるものではない、のでしょうか?
 地球には、季節が一つしかない国もあるそうですが、それは季節のない国といえそうです。
 私はお金がないものですから、旅行はできません。日本は、ガラパゴスと呼称されていますが、つまりはヒキコモリ日本人で生涯を終えそうです。
 しかし季節のない国について知っても、行かなければわかりっこないですね。
 ヒキコモリではなくむしろ活動的過ぎたあなたが、パラサイトと揶揄される書籍を読みました。
 あなたをダシにして、現代のパラサイトたちを煽りたいのでしょうか。癒したいのでしょうか。
 私はパラサイトとして、少し声を漏らして、笑うことのできた本でした。ほんの一瞬、だけですが。
  人類全体が幸福にならない限り、個人の幸福はありえない
 しかしそもそも
 どこまでもいける切符はたった一枚しかなかったんだ。そうでしょう?


  すいません、嫌味に読めるでしょうか。
 いいや、私はあなたに常、感謝しているのです。
 人にはそれぞれ立場があり、あなたは人を越えて、動物や虫、植物、石にさえそれぞれの主張があることを知っていた。
 そして、わかっていらっしゃった。
 話は飛びますが、次の米国の大統領選で共和党党員から大統領が選ばれたらば、やはり戦争がはじまるのでしょう。
 わたしはわたしの幸福の為に、米国を応援するでしょう。
 そして、米国は、米国の幸福の為に他国を撃つ。
 それでいい、それでいいんだ。人が死んだ、としてあなたは
 その死を死人の幸福の内に、勘定するでしょうか。


 苦々しい独り言も書いてしまおう。唯脳論はどうなった。
 マヤ暦の、あの世界の終わりのカウントダウンは。暦は。世界の終わりは。
 皆、それぞれ、自分の世界しか生きていなくて。同じ「眼球」をもっていないかぎり。
 同じ「脳」をもっていないかぎり。
 等しい「身体」を持っていないかぎり。
 等しい・・・・・・かぎり。等しい・・・・・・かぎり。等しい・・・・・・かぎり。
 等しい世界に生きていないですね。





雲はちぎれてそらをとぶ
お日さまは
そらの遠くで白い火を
あたらしいそらに息つけば
ほの白い肺はちぢまり


まことのことばはうしなわれ
けふはぼくのたましひは疾み
たよりになるのは 
陰気な郵便脚夫のやうに
ほんたうにそんな酵母のふうの
くらかけつづきの雪ばかり



風の中から咳ばらい
あくびをすれば
そらにも悪魔がでて来てひかる
青ぞらは巨きな網の目になった


ほんたうに
けれども妹よ
けふはぼくもあんまりひどいから
二つの耳に二つの手をあて
喪神の森の梢から
ひらめいてとびたつからす
烏さへ正視ができない
あやしい朝の火が燃えてゐます
水の中よりもつと明るく


たしかにせいしんてきの白い火が
水よりたしかにどしどしどしどし燃えてゐます



いかりのにがさまた青さ
唾し はぎしりゆききする
はぎしり燃えてゆききする
立ち止まりたいが立ち止まらない
寒さからだけ来たのではなく
またさびしいためからでもない

電線のオルゴールを聞く
(ひとつの古風な信仰です)



これらなつかしさの擦過は
日は今日は小さな天の銀盤で
朧ろなふぶきですけれど
吹雪も光りだしたので
ひとかけづつきれいにひかりながら
四月の気層のひかりの底を
ああかがやきの四月の底を
そらから雪はしづんでくる


もう青白い春の 禁慾のそら高く掲げられていた さくらは咲いて日にひかり 
さくらが日に光るのはゐなか風だ
黒砂糖のやうな甘つたるい声で唄ってもいい


 まことのことばはここになく
 けらをまとひおれを見る農夫
 ほんとうにおれが見えるのか
 風景はなみだにゆすれ
 修羅のなみだはつちにふる
 ぶりき細工のとんぼが飛び
 雨はぱちぱち鳴ってゐる


いかりのにがさまた青さ
唾し はぎしりゆききする
はぎしり燃えてゆききする
立ち止まりたいが立ち止まらない
寒さからだけ来たのではなく
またさびしいためからでもない
おれはひとりの修羅なのだ


青ぞらにとけのこる月は
やさしく天に咽喉を鳴らし 春は草穂に呆け
うつくしさは消えるぞ


笹の雪が
燃え落ちる 
燃え落ちる


みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ





PS.あなたの南無法華経して、書かれた物語に於いて
   しばし散見される浄土真宗のロジックにあたるとき、私の顔はほころぶのです。


   2015年12月02日(水)  田中恭平より





(注・途中、宮沢賢治心象スケッチ集「春と修羅」の「春と修羅」のスケッチ群より引用し、構成した。 )


 


郭公の見る夢

  atsuchan69

 朝露に濡れた葉のギザギザ。地表を這うように草木を透かして訪れた地獄の陽を浴び、緑に燦然とかがやく【ヤマソテツ】と呼ばれる羊歯を踏みながら言葉なき森の奥深く、「幸」住むと人のいふ原始の密林を駆け巡る雛の雉が歌う、♪サカ菜/サカ菜ァ、そしてサカ菜という野菜を食べると頭が良くなって僕はパンツを穿き、発条式の両眼をとび出させて啼く山鳩の声を背に猛烈に新聞を配りはじめ、ついでに各家庭にヤクルト400も届けてやる。

 大審問官ラギの秘めた笑みの裏側に零れた微量の涙など知らない、派手な猫革のジャンプスーツを着た宇宙人が朝から元気に立ちんぼをやっている。

 「俺と遊ばないかい? 
 「嫌だよー、ベーっ! 

 ゲルダの鐘が鳴り響く午前6時9分。有刺鉄線を張巡らした希望なき地方都市中心街栄町2丁目3の11にもカオスの陽光が射しはじめ、隣家の窓を覗けば「ふーふー、はーはー、ラマーズ式で味噌汁を啜るあこがれのしずかちゃん(w)。するとビビズ・ナ・メコシ谷に住むモモラ人バネット・クレイシーさんが、しゃかしゃかミルバを振って踊る姿がパネルに映り、キャラ弁をつくる若妻たちの深き欲望を隠した微妙な雲はみごとな朝焼けの色に爛れた。

 ビナ、ホエーッと吼え、叫びながら飛び立つピンクフラミンゴモドキの鳥人の群れ。

 ラギ、ゲルダ、そしてビナという【意味】をあまり持たない言葉たちが真っ赤な嘘とミルバの音にあわせてスキップする。そこにボナ、サルヴァンも加わって踊りだす。 )))

 葦の茂る河原にひとり佇むラダン。――半獣半人。
 かつて旧ソヴェト連邦では秘密裏に遺伝子操作した狂犬病ウィルスに侵されたリカントロピー患者による政府公認の仮装舞踏会(x)がさかんに行なわれた。

 眩い紫を帯びた放射光が花弁のように開く大地の底より、七色の風に揺れる僅か5メートルの深紅の蛇の舌‥‥先が二つに割れ、強欲な女神を祀った神殿につづく地獄の消化器官開口部からチョロチョロと出し入れするそのさかんな動作は、ついに磁性軸(y)を一方向に保つことができなくなった電場の揺らぎにも似て放電しつづける地殻内浅部マグマの不混和二相流による重力分離時の熱プラズマさながら、放射光の集まったドーム状のダリアを想わせる女装の美しい男性の姿かたちと相俟って荷電化された郭公の見る夢のようにひどく猥褻に感じられる。

 「逝っちまったよ、チャーリー。
 逝っちまったブンド(ブント)に もはや用はない。

 コードネーム≪ペコ≫。――以上はお前のために暗号を使って書いている。国際的共産主義者の仮面の下で日々タコ焼きをひっくり返すガマ親分。オイこら、毛糸の腹巻に左手を入れやがって、ワレ。紅生姜もっと入れんかい、ワレ。さて、金融資本と共産主義の利害は何等矛盾しないし、ウインドウズとリナックスみたいな「奪うやつ」と「与える側」の不可思議な共存関係や果てしなくつづく角型と丸型のモデルチェンジのくり返しだの賃金抑制策としてのジェンダー思想および男女雇用機会均等法にみられる操る側にとって好都合な仕掛けを甘い白玉イチゴに隠して夫婦共稼ぎ。恋愛、結婚、不倫、破局、再婚のストーリーを順序正しく行なう愚羊の群れに放った牝の狼こそ≪ペコ≫、おまえだ。着用する下着はコサベラの【Never Say Never】のタンガ。色はアイボリーでなければならない。この作戦においては資金はいつも通り自己調達となるが、たとえ非合法であっても手段は問わない。ただし行く前には必ずイソジンで嗽(うがい)すること。僕を被ったべつの僕のわたしは、今しも昨日ふたたび女性となって戻って来たオルランドとメイクラブの最中だが‥‥ペコ、とにかく行ってこい。希望はまったくない。

 w,x,y=肉体こそが唯一の答えだ、≪ペコ≫。


  山人

地球という惑星にあふれる水
その水は塩辛く、潮くさい風に揺れている
島が見えるのはまれだが、今日はぼんやりと見えている
島は左右対称ではなく、複雑な凹凸をそなえ、夜には短い光を発していた
黄昏るとき、ふくよかな夕凪があたりを包み
その穏やかな空気を楽しむように海鳥たちは不規則に飛び交う
誰にでも見えるわけではないこの島も、また夜をむかえた
闇が打って一丸となって波と融合してゆく
微動だにしないこの天体の隅々をめぐる体液だけが
執拗に活動を繰り返しているのだ
ちか、ちか、
波による微動なのか、光は点滅するように島に近づき
数々のひかりは島で打ち消えた



島には幾人かの人々がいて、私も居た
声を奪われ、思考さえも奪われている
そういう人々が働かされていた
島には田園があった
主食の穀物が平らな地にならされて、いっせいに刈取りの季節をむかえていた
眼鏡をかけた青年と錨肩の初老の男の息が田園を大きく支配した
ゆらゆらとした気持ち悪い風の中を、滲み出る濃い汗と脂を舐めとると
あきらかに囚人のような私がいた


島は晩秋をむかえていた
田園作業が終わると私たちは森へと作業の場を移された
島の森は豊かだった
木の梢を渡るリスの動きや、男根のような菌類が枯れた大木に所狭しと現れ
なかまたちは喜んで休憩時間を過ごした
すっかり葉が落ちた森は、私たちの声が木々を素通りし、良くとおった
あらためて見る樹冠の上の青空と
洋々と動く雲は今までの苦しみを押しのける気がした
なかまたちは嬉々として冬になる現実を受け止めている
冬になると解放されるのだ
柴木を切り捨て、さらに大木を切り倒すころ、やがて確実に島は白く覆われる

彼らが離島する前に、木の実でこしらえた果実酒を飲んだ
作業の合間、少しづつ溜めた木の実を発酵させ木の洞に仕舞い込んでいたのだ
私たちは、たがいにその時々の労働の辛さを語り合った
饒舌に笑い飛ばすことで苦しみは翅をもち、異国へと飛び立っていく


島には初雪が降り、やがて根雪となった
いま島には、島主とその補佐と私だけが残されている
島はあきらかに冬になっていた
波は狂い、いたるところに寒さが占領している
剥がれかけた私の頬の皮膚を容赦もなく横殴りの吹雪が打ちつける
飛沫は水際におびただしい泡を生み
何かを目論むように揺れている
海鳥は強い風を尾羽で制御している
少しだけ風は凪いだ気がした。


皆殺しの比喩

  赤青黄





しんでください
いいからしんでください
だからしんでください。
言わないでください。
何もいわないでください。
なにも伝えないでください。
いいから黙ってください。
つまらないのでしんでください。
まもなくしんでください。
どうでもいいので死んでください。
話しかけないでください。
こっちこないで、
黙って、
そして死んでください。

やめてください。
いい加減にしてください。


しんでください

しんでください

しんでください




 見知らぬ誰かの、長い髪の毛が一本、風呂上りの濡れたタオルに忍んでいた、女だろうか男だろうか。多分女だ。しかしそれは女であるか?女だ、いやしかし、だれだ?これは誰であるか。それはだれであるか?しかしここにはいない。どこにもいない。これは不在である。あたり前の話だ。人の気配はどこにもなく、つまり不在だ。それでしかない。隠してなどない。どこにもない。ひとつ、ひとつ数えながら、女の顔が、切り裂さかれている、これがどうしてなのか、きみに分かるだろうか。そうだ、思い出したぞ、集合写真だ、あの日、あの場所で撮った集合写真だ。これは誰だ。ここはどこだろう。そうだ、ここにいるのは誰だ。女は、女はどこにいる。答えろ。答えなさい。女はどこだ、どこにいる。部屋の中に女の姿はなく、いやある、いやない、いやある、というか、そもそも女が存在する筈がなかった。分からない。そうだ分からない。分からないのか?いや、わからないんだ。しかし困った。そこには、紛れもない女の髪の毛が存在する。訳とはなにか?言い訳とはなんだ?それをする理由がない、隠す理由がないんだ。分からない。分からないから分からない。しかし、それはどうでもいいことだった


オレは、女の髪を口に含んだ






これはゆめであろうか。


 女がオレの手足を鋸で切っていくのを黙ってみている。これは夢だ。つまらない夢の続きだ。と、オレは部屋をでる。鍵はなくしたままだ、オレは階段を下りる。しかし、どこにいても腹は減るものだ。オレは肉を食べた。誰の肉であるか?わからない、しかし、これは血だ。鼠の血だ。灰色の血である。送金が減らされることになった。壁に強く当たった。嘘だ。稼いだ金が、てめぇのオナニーに溶けていくなんざ悲しい。やめてくれ、どうかやめてくれ。おねがいだから死んで下さい。どうか可及的速やかにしんでください。例えば、オマエやオマエなんかは育てなきゃ良かった。例えば、お前に餌を与えなければよかった。例えば、お前を育てる代わりに別の子を育てりゃよかったんだ。仕方ねぇだろ!オレにどうしろっていうんだよ!そんな話を!週に一度!日曜日の夜に、の電話を、切断することができない、オレは再びかけなければいけない。やめてくれ、今にも死んでしまいそうだ。そうだ、髪を食べよう。これの伸びた髪はてめぇの髪の毛だ。女ではない。そこに電話線はない。他に何があるか。お前の顔だ。お前の顔が映っていた。オレはパソコンを開く。昨日、何処かで誰かが死んだ。話を誰かが噂になって流していた。誰が死んだ?誰が死んだんだ。あれは酷い有様だった。いや、そうじゃなくて。皆殺しだ。立て篭った人間が人間ごと吹き飛びやがったんだ。んな話あるかよ、つーか冗談だろ?いやマジなんだって。っていう動画はつまり動画だった。つまり嘘だ。端的に言えばウソだった。そうか、嘘なんだ。ウソだったんだ!例えば、誰かが捕まった話をしよう。例えば昨日、ダチの父親が死んだ夢を見よう。例えば、オレが葬式に行かなかった話や、例えば、服用した薬が、違法だったことについて話そう。想像しよう。さぁ、イメージを膨らませて。想像するんだ。例えば、世界中のなにがしの、それがしの、だれがしの、何がしが、誰がしによって、例えられた比喩によって、ここに一万本の比喩が咲くんです。どうですか。すばらしいでしょう。とても素晴らしいと思います。確かに素晴らしいですね。みんなつながるんだ。一つのわっかになる。キミとボクは繋がる。あるいは、ゲームがアップデートされた時の話をしよう。懐かしいな。うその話をしよう。物語を、子供に聴かせるとき、例えば、そこで死んだ話をしよう。射精の話をしよう。一億人の精子が三度の性行為で死んでいく話を。おれがついに果てて、深い深い、曼荼羅の果て、つまり宇宙の果てにおいて、黄ばんだブリーフの底の中で、ゆりかごにそっと揺られながら、曼荼羅のなかで、再び射精する話をしよう。そこでお前が生まれた話をしよう。嘘の話をしよう。繰り返し繰り返す嘘の話をしよう。しかし、そこで終わらない話をしようと。どうする?いや、どうしようもないが、俺は童貞だ。オレは童貞である。そういうのが、一緒にくべられている炎の話をしよう。その世界が、すぐ側で固まっている話をしよう。というのがうそだっていう話をしたら?きみはしかし、その使い方は間違ってる!その使い方をオレの方が知っている。というのはほんと?いいや、うそだね。という嘘の中で、マラをこすっているのもうそだ、というつまらない夢を、よりもっと、正しく、正確な形でお包いたしましょう!



 夜。場末のバーで、中年男が尻を振っている側で、童貞がカクテルを飲んでいると、となりに黒ずくめの格好をした男が座った。男は適当な酒を注文すると、それをぐびぐびと飲み始めた。童貞は隣の男にタバコを差し出してみようと思った。童貞がバーにきたのは、これが初めてだった。というかそもそも、ここが場末であるかどうかなんて、童貞はまるでわかっていなかった。場末の意味なんざ知らなかった。だからといって意味を調べる気は毛頭なかった。そして黒づくめの男の正体は死神だった。死神は今日初めてセックスをしたのだという




 この話をするたびに君は死ぬ。もう一度殺され、そして何度も殺害されるだろう、そして何度も殴られるだろう、そしていずれ撲殺されるだろう、終わらないからおわらないのである。ゆえにリフレイン、リフレインと名付けられた、ある人がぼくに向かって言いました。大事なことっていうのは簡単に結論付けてはいけません。と誰かがいいました。尊敬できる人の言葉っていうのはよく覚えているもんだね。うそ、んなこたないよ。ある種のキチガイがそこにいました。僕は生まれて初めてギターを握った。初めてピアノを弾きました。鍵盤を叩きました。大声を出しました。それがはじめての歌でした。ぼくはそれに感動して鉛筆を握りました。すると何もかけませんでした。黒い●を書きました。デタラメなスケッチをしました。デタラメな丸をいくつか書いてみました。それは顔になりました。でも、それが、何になったかい?って聞かれたら、じゃぁオマエはどこに立ってるんだって、答えられるのかい?と言って答えられるのかい?って、じゃぁそしたらオマエは答えられるのかい?ってHey!!Hey!!Hey!!Fuck!!Fuck!!Fuck!!って壁に腕付いて、影絵の中で腰を振る。そうやって叫ぶ俺の舌は太すぎて、綺麗なRが巻けないんだ




「もっとかきなさい
「マスを掻くんだ
「掻き毟らないと
「包茎を長い年月をかけ剥いていくように
「花びらを一枚一枚めくるように
「もういちど比喩を書きなさい
「それを詩文によってしたためなさい
「手紙をかきましょう
「誰かに向けてかくのです
「誰にだっていいのです
「あなたは、かかなければなりません




 ぼくが選んだ比喩は三番目の比喩だ。箱に敷き詰められた、だれかが、どこかで書いた文章を一つ、一つ、綺麗で透明な、それこそガラス張りのショーケースに飾った小さな町の本屋のおじさんがぼくに、比喩をプレゼントしてくれるっていうんだ。しかしそれが、どんな比喩がいいのか、おじさんに尋ねられても、ぼくにはどれも同じに見えて、何も答えることができなかった。おじさんの顔には髭が生えていた。何本も皺が刻まれていた。唇には太くて真っ赤な口紅が何本も縫い付けられていた。おじさんは話すことができなかった。それでも、これがわたしの選んだ比喩だから受け入れましょうって。そうだ、そうなんだ。僕たちは選んだ比喩を持ち歩くことができるという。まるで、なにかのゲームみたいに。でも、何かのゲームみたいに、比喩とお別れすることはできないんだ。そのことを忘れてはいけない。わかった、おじさん。ぼくは三番目の比喩を身につけた。まるで、のろいのひゆみたいに




死んでください。
いいから死んでください。
やめてください。
言い訳はいりません。
ききたくもありません。
難しい話はやめてください。
とてもつまらないのでやめてください。
いいから死んでください。
うんざりだから死んでください。
そんなこと、くりかえしてばかりいるから、
長い比喩になった、これを皆殺しにしてください。そう言ってぼくは店をでた。昨日の晩ホテルでぼくと話した男の顔は不在で、しかし残された黒い手はまるで黒人のように手のひらが薄くぼやけていたから、去り際に握手をした。とても力強い握手だった。その男は帽子をあげて、ホテルの入口さよならをした途端に銃で打たれて死んだ。駆けつけた少女も打たれて死んだ。それに駆けつけた母親も打たれて死んだ、父親も死んだ、皆殺しだ、フロントマンも打たれた、付近の住民もうたれた、ようやく駆けつけた救急隊員も打たれた、それにかけつけた警察官も打たれた、ホテルの二階で性行為をはたらこうとしていたカップルも打たれた、窓から落ちて死んだ、僕の周りに何個か池が出来ていた。ぼくは一つ一つの水の味を確かめながら、遠くでみていた。鉛筆を走らせていた。しかし何もかけないスケッチブックを池に放り投げて、ぼくは膝を抱えていた。顔を上げても、そこには誰もいなかった、それでも待っていた。ぼくはまっていた、キーボードを叩いた。ぼくはそこに存在する。その意味が、とても愛おしいんだ、って。チャットで、愛を伝えようとした、ほどなくして、街路樹は、植えられるときに、邪魔になった木の根を、人によって切り取られるという話を思い出した、それは、生まれたれの赤ちゃんの手足を、切断してまま、小さな箱の中に生き埋めにすることと同じだって、誰かが言っていた。という話を思い出したのは、最近のことだ、なんて。なんで、思い出したのかわからないが、それでもぼくは、今日も本を読んだ。詩を書いて行き詰まり、小説を書いて一行でやめた。そして学校をやめて公園にでかけた、ベンチに寝転がって、暖かい日差しの中で、分厚い本を読んだ。そのとき木枯らしがぼくの上に、一枚の葉を降らせたとき、その葉を右手で掴んだとき、その葉脈を見つけたとき、その葉を握りつぶしたとき、喉が乾いて自販機に向かったとき、右手を開いて離したとき、バラバラになった木の葉をもう一度地面におとしたとき、その上からもう一度すりつぶしたとき、そのときのこと、昨日たべた女の話を、切り裂いた女の話を、夢の話を、誰かの夢を、そしてキミの話を、木の葉の話を、ぼくはもう一度、忘れるだろうか


暗くなるまで待って

  蛾兆ボルカ

今日は出張先の博物館で、ふと、オードリー・ヘップバーンが主演した古い映画、『暗くなるまで待って』を思い出したのだった。
池袋から電車に乗って、終点近くまでいく。そこからバスでまた遠くまでいく。その博物館に着いたときは、僕はすっかり疲れていた。

小さな市立の博物館だが、小綺麗で、大事にされている感じだった。
周辺は工業団地だが、最近は工場というのはどこへ行ってもあまり人の気配がない。オートメーションが進んだからだろう。静かな町に、ぽつんとある博物館だ。
その館内で、なぜか唐突に、僕は『暗くなるまで待って』を思い出していた。

あの映画では、サムという男が見知らぬひとからぬいぐるみを預かる。サムはそれを自宅に置いて仕事に出掛けるが、盲目の妻・スージーが家に残される。スージーは交通事故の後遺症で目が見えないのだ。
実はぬいぐるみの中には、ヤバイあれが入っていて、ギャング団が必死でそれを探しているのだ。
ギャングたちはついにスージーの家を突き止め、あの手この手で色んな職人に化けて、家に入って探そうとする。
目は見えないけど勘のいいスージーは、やがて異変に気づき、目的も人数もわからない敵から、未知の何かを守って戦おうとする。
と、いうところが始まりで、そこからの映画なのだが、このオードリー演じるスージーが、滅茶苦茶に可愛いのだ。
何がそんなに可愛いのかなあ、と自分でも思う。役者がオードリーだからなのだろうか。

そう言えば僕は、なぜかときどきオードリーを思い出すのだ。
たんにオードリーが好きなのかもしれないが、僕にとってスージーは何かの象徴なのかもしれない。

あとは夢で考えよう。

・・・・・・・・

昨日、『暗くなるまで待って』を夢で見た。
ご都合主義のように思われるかもしれないが、僕にはそういう能力がある。つまり、夢をリクエストするという能力がある。
夢の中で映画を観ながら、僕は詩について考えていた。
僕の回りには象徴があり、それを僕は詩に留めようとして詩を書く。いつもそうだというわけではないが、ときどきはそうだ。
例えば僕が散歩をするときは、僕の目に映る森羅万象が象徴である。例えばガードレールが、横断歩道のしましまが、信号機が、すべて僕には象徴に見える。
そして象徴はすべて意味を語る、あるいは秘める。
だから森羅万象が意味を語る、または秘める。
それがたぶん、僕が自分の日常と考え、言葉としてはたんに日常と呼ぶものだ。

昨日、夢の中で、僕は盲目のスージーが何をしていたのか、わかったのだった。
彼女は、ギャングから生活を守るために一生懸命に戦う。そうすることにより、彼女が守ろうとする生活が、僕の意味での【日常】にとても近いのだ。
オードリーの演じるスージーの指先に何かが触れる。それが何なのか、盲目のスージーは見えない。しかし瞬時に覚る。
そのとき花瓶であれ、皿であれ、彼女が指先で理解する器物は、おそらくすべて、象徴として認識にとらえられ、示された/または隠された意味として彼女の回りに存在するのだ。
それがきっと、彼女の毎日の暮らしであり、僕が詩にとどめようとすることがらでもあるのだ。
暴漢がスージーの大事にしてる皿を一枚割る。
そのことが何を意味するか、僕にはわかる。スージーが指先で知覚したその皿は、象徴としてのその皿だ。そこにどんな色でどんな絵が描いてあるか、スージーは夫に訊いただろう。その皿がどんな値打ちの皿で、どんな料理に似合うか、スージーは友人に訊いただろう。そしてスージーはその皿を記憶し、使用し、好きになる。
スージーの家の皿は、一枚たりともただの皿ではあり得ない。スージーの世界を構成する、もろもろの伝説の中の、ひとつの伝説としての皿なのだ。
だから暴漢がそれを無造作に割るとき、世界は悲鳴をあげる。
しかしスージーは怯まない。なぜか?それも僕にはよくわかる。世界とは、そうしたものだからなのだ。幾度スージーの世界は引き裂かれただろう。それでもまた繕い、スージーは生活する。だから皿が何枚割れようと、スージーはけして怯まない。
そして、それが僕が日常と呼ぶものなのだ。

こうして昨夜、女優オードリー・ヘップバーンから、彼女が脚本のスージーをどう解釈して演じたかについての手紙が、オードリーからのダイレクトメールのように僕に届いたのだった。
それは、完全無欠のプライベートフィルムだった。

僕は、一切が象徴である世界を今夜も歩いている。
すべての闇に魔が潜んでいるし、すべての事物が伝説を秘めて立ち上がるが、すべての挫折やすべての悲しみが、この世界を破壊していくし、すべての暴力が刻一刻とこの世界を引き裂いている。
しかし、盲目のスージーのように手を伸ばせば、そこに必ず何かが触れるのだ。
例えばそれは今、道の端に続く石の壁であり、外気より少し冷たい。

目をつぶってみると、川の水音と、車の走る音が耳に響き、指が触れる石は深く深く地球に繋がっている。
僕はまた世界を繕い、目をあけて歩いていく。


続【点子が、行く。】

  点子

点子には たくさんの御主人さまがいるのです
猫なんて 皆そんなものですわ
ある日、点子と点呼されたときから、わたくし 点子となったのでございます。
ほっておくと 保険所に連れて行かれるというので、
ピンク色の鈴を わたくしに つけてくれた人は、
わたくしを点子と呼んでくれるのでございます。

あれは 明治の世の時代でしたでしょうか。
わたくしの主人のひとりなんぞは、高襟(ハイカラ)をつけて髭ひげを生はやし
わたくしをモデルに小説【吾輩は猫であるなんてものをお書きになったのですが
わたくしのことは ただ「ねこ」「ねこ」と お呼びでした。

ただ「ねこ」と呼ばれるよか
点子のほうが よぼどポイントが高いとおもいますわ
わたくしの名は やはり点子なのでございます。わたくしがわたくしの名を
心で唱えるたびに わたくしはチャームポイントのかたまりなのでございますの
お礼に わたしにピンクの鈴をつけたくれた人のことを、
わたくしは 桃色鈴の君と 呼んでおりますの。

桃色鈴(ももいろすず)の君が 指先から わたくしが落としたのは、
月曜日のことでした。その日は ビルの六階を上回るような大型船が
この町に着岸した日でした。
ベンチにすわっておりましたら 桃色鈴の君の目の前を
少年が横切ったのでございます。

少年は ほぼ坊主頭なのですが、円形に髪がのこしてあり
髪で【酷】と 描かれているのでございます。
どうみても【酷】の字なのです。酷の字に酷似なだけのでしょうか
少年は 両親に手をひかれて 嬉しそうなのです。
彼は親に愛されているのかどうかが 気になり
桃色鈴の君も わたくしも 少年の両親の貌を 
それとなくのぞきみるのです
この町で 少年に出会うひと 出会うひとのすべてが
少年の頭に 釘づけなのでございます。

わたくしは点子でございます。
あたまに【酷】の字が刻印された少年は いわば酷子なのでありましょうや
どうも疑問に思ったものですから 中国がえりの猫に聞いてみましたの
すると、【酷】は 
英語の「cool」 は「酷」 と書き、大好きという意味 
超イカスという意味だそうで 

少年はとても愛されているらしい。そりあよかったよかった。
わたしが 旅をするしても 桃色の鈴を捨てられないです
野良の猫が、 相当 笑うんですけれど  ね


移りゆくものたち

  

松林の間の小道
まん中に緑の下草が列になっているのは
日に何度かは車が通るから
道の脇にはネコジャラシやらヨモギやら
雑多なものたちが生い茂り
乾いた幹の間から収穫の終わった畑と
畑の向こうにある住宅地が見える
友達の家からのいつもの帰り道
ショウリョウバッタを脅かして
僕が歩くのは砂と石ころと茶色い松葉の轍
なだらかに登る小道は住宅地のアスファルトに
さりげなく連結している
僕には入口であり出口なのだが
住宅地から振り返ると
黒々と盛られた松林にカラスが一羽二羽と降りてゆく


やがて松林も畑も水色の空へ吸い込まれ、住宅とアスファルトが、水が染みるように境界を伸ばしていった。
トンビは行楽地で弁当を狩ることにしたらしい。
カラスは輪を描くトンビの真似をやめ、夜の電線にぎっしり並んでとまり、コンビニの看板灯に油っぽい羽をぎらつかせている。
僕が住んでいた住宅地では子供の声を耳にすることが稀になり、時折、どこかの家で呼んだ救急車のサイレンや窓から射し込む赤色灯に慣れてきた。
市街地では電柱が抜かれ、電線は地中に埋め込まれ始めている。美観や利便性のためでありカラスへの嫌がらせではない、と思うがあるいは。


僕は何処かに居り、選ばされ、選びとる。選択肢は無限ではなく正解もない。俯瞰する目で時を手繰れば、僕らは水が流れるように、いつのまにやら何処かしらへと移ろってゆく。
久し振りに帰省した僕のために母の焼いたマーブルケーキは、見た目いびつでぎっしりとしてナイフで切ってみないと断面の模様はわからないから、僕は思い出したように海を見にゆく。
住宅地から数キロ離れたカフェオレ色の海は、今日も白く波立っているか。


拡がり続ける住宅地をあとに
畑とまばらな家屋を見ながら進み
車も人通りもない舗装された道路を渡る
笹藪にジョロウグモたちが糸をかけまくり
ぞっとしながら僕はくぐる
飛砂を防ぐために植えられた貧弱な松の
薄暗い林を早足で抜ける
やがて、海風が積み上げた砂丘に出くわすが
スニーカーに砂が入り込むのを我慢して
大股で登って越えるまで
まだ海は見えない







※10月に投稿したものを改稿しました。
      


続・地図に無い町

  紅茶猫

『シリアルナンバー8386 逃亡』
その日
僕の腕時計に
こんな文字列が踊っていた

あいつか
すぐにピンときた

僕に妙な質問をしてきたあの男だ


それはそうと
注文したミルクティーに
さっきから
蝿が浮いている

僕はボーイを呼びつけて
声高に文句を言ってやった

もう二度と
こんな店に来るもんか

金は要らない?
当たり前だ



原則逃げた奴は
連れて行った人間が
探し出すことになっている

あいつら食事はどうするんだよ
口も無いのに

あいつは
たしか僕がこの仕事を始めてから
依頼された
6人目の男だったと思う

僕は、
正確に言うと僕らは
あの森のことは何も知らない

ただ人が逃げ出せるような場所じゃないって
雇い主のせむしの男から
何度も聞かされていた


あいつ
8386......。


大体なんで顔を無くしちまったんだ




顔の無い奴を探せばいいんだから
簡単じゃないかって

初めは僕もそう思ったさ

でもこの町には
金さえ払えば
顔を書いてくれる人間がいる

せむしの男も
まだその店の場所を
特定出来ていない

まあそれらしく書いたペイントだから
実際に目や口を動かすことは出来ない

大体あいつ
そんな金を持っているのか



定刻までに探し出さなければ
僕の左目は
消されることになっている

全くあの男
最初見た時から
嫌な予感がしていたよ

こんな商売に手を染めた僕が
馬鹿だった

もしかしてあいつも
この仕事を

いや、そんな訳ない

全く何もかも
馬鹿げているよ

何だよ
少し見えなくなってきた

雨まで降って来やがった



その時だった

すれ違った男の顔が
僅かに雨で流れかけているのを見たのは

こいつだ

誰かこの男を
捕まえてくれ



その時僕には
もう左目が無かった


志賀直哉のパクリのような

  泥棒

つまりそれは
暗い夜道に浮かぶ言葉のような
つまりそれは
死ぬほど美化された現代詩のような
つまりそれは
骨折した後の夕暮れ、山の途中、
つまりそれは
志賀直哉のパクリのような
つまりそれは
詩が直哉に取り憑いたような


ドンッ!


犯罪みたいな漫才をして
半沢さんは半笑いされている
常に
すこし遅れて
流行を追うから
壁ドン失敗して
突き指して
変なハシの持ち方して
うどん食べている。
そんで
お腹いっぱいにならなくて
帰り
牛丼食べて
あ、
なるほど
東京は砂漠ではなく
プラスティックなんだね
と、
悟りをひらく
中略、
君を殺すこと
文学が
指より
細くて白い骨のように
パキッて
折れ
中略、
あれは夏の日
夜のプール
中略、
太宰治が生きていたら
ツイッターで
何をつぶやいていたのだろう
中略、
三島由紀夫が生きていたら
インスタで
ドヤ顔していただろう
中略、
志賀直哉が生きていたら
世にあるパクリ作品を
見抜いていただろう
中略、
カラス、ハト、ツバメ
電線に
並んでるとこ
見たことないよね
それです
中略、
毒とユーモアとナンセンス
この
みっつが
バランスよく含まれていると
カラス、ハト、ツバメ
太宰、志賀、三島
のように
ホップ、ステップ、自殺
と、
なるわけだね
うん。
てめえが
いかに
無難なことしか書いていないか
考えれば
すぐに
わかるだろう
中略、
技術なんて
いつでも捨ててやるから
みんな
生きてください
読んでください
中略、
てめえは
もう死んでいる
中略、
ゴッホのひまわり
永遠に枯れないなんて
残酷ですこと
中略、
誰にもわからない比喩を
どんだけ使えば気が済むのか
どんだけぇーって
先細りして
ポキって
折れ
中略、
リズムを刻む
各駅停車は
未来をパクりながら
進みます
中略、
わたし
中学二年までは詩人だったのに
今は
ちいさな魚です。
中略、
ゴッホが耳を
切り落としたように
中略、
メランコリック
中略、
サディスティック
中略、
戦闘機のように飛ぶ鳥
中略、
指パッチンで
目の前に海をつくりだす
中略、
何もできないエンターティナー
中略、
サンタクロースの引用詩
中略、
世代交代の季節
中略、
冬の夕方に面接しました
中略、
ともだちがAVに出ました
中略、
ぶっこわれました
中略、
詩が
まったく書けません
詩が
直哉のパクリのように
詩が
まったく書けません
詩が
直哉の影響により
詩が
まったく書けません
夜の海で
いつかみんな死ぬ物語
和解できないまま
必ずいつかみんな死ぬ物語
わたし
誰よりも
最低の詩を書きたいの

そう、
毎日生まれ変わる
ラスボスがいない文学の世界へ
ようこそ
読者諸君!


九つの死骸への彌散曲に基づく擬態の花々に於いて/アレンジ

  鷹枕可

――烏賊墨色の花が樹に延展の幅を齎す――



     *

私は/
私は悲しい告白の俘虜なのです
私は私の記帖の悲しい俘虜なのです
私は悲しい俘虜なのです鉛の
私なのです鉛の記帖は告白の悲しい俘虜は/

/
実験室に於ける鱗翅目の乾燥処置
    或は永続の鳥葬の部屋に眼を眺める眼が腐敗した/


     *


黄薔薇の緘黙、静脈の乾酪運河が紫葡萄色の肺胸の建築に微か睡眠の容を縁取る
ダンテル紙の白聖母の様な網膜的愉悦は咎められるべきだろう
複眼的立体派の関節は軋み、
内在律と外在律は、等しく星空に展開された完膚球形の白熱電燈に過ぎない
彼等は真鍮の慈善運動を蒙るべき五旬節迄の第一週間を鵜呑みに乾した

肉叢の鉤が咽喉の翡翠石に投錨された時刻、
それは寡婦からなる想像妊娠の宛にもならぬ陰画に被写界を透過せしめ
後衛の骨格標本室は乾藁車の明喩する場所であり人物像である覗窓の、
告解室の牡牛にも立棺のダヴィデは躊躇わず処刑室への硬い過程を擬えていた

切窓より赤薔薇を伝書する郵便の、
それも確かではない採鉱地帯の鋼版画にも
俯瞰するべき積乱雲の脈動が徐に試験紙の饒舌を静穏にも咎め、凡庸な血塊の多翼祭壇が爛熟する

聖霊秘蹟の瘢痕は
或る奇蹟の婚姻へも呵責を及ぼさずには機械の肖像さえも、マレーヴィチ氏に拠る絶対抽象の黒窓へは展化し得ない
旧新鋭的概念の回顧展覧室に基づく
遍在者の話言葉であり
彼等が畏敬する聖像礼拝であるべき優美な呪わしさに拠っては、一握程の腫瘍さえも齎さないであろう

ノスタルヂアの玻璃窓のただなかに雲霞を掴む人物像は
その極微的なる繊維材の白絹の遺骸にも跪き
歯茎、又は蕨薇の渦巻は、螺旋の錆び果てた或る工房の蝶番にも蛾蘭燈の瓦斯を充満せしめた
死体の殻であり、衣類の表象でもある黄昏の褪褐色を蒙りつつ
終に書言葉は書言葉ではなくなるのだろうか

つまり普遍物象にも始極と終極が存在する様に 
拡声器の勿い街宣車が黒くなり、
房事の窓板に遮断器は事有る毎に翳を射し
空襲市街鳥瞰写真は領有者の権限に一瞥の窩底骨を向け乍ら、終に図案集の辺縁には静物としての生涯が擱かれた

壁龕の地下には埃に縁る人物像の腹腔が収縮と膨張を脈しながら、拘縮した冬薔薇の死、も
凡て、虚誕と孵化を繰返すべき由縁は何処にも勿い
然し絶無を指標にして、万物を亙る彼方方、までもが若草の縦横に綻びて行くのか

それらの鈍鉄色の竈には星々が擲たれ、
軌跡は死後生の無概念でもある橄欖樹の手簡を伝書として、戻り来るべきなのだと彼等は口々に罵り
そして
二重に韜晦された空部屋が死の季節に一匙の鹹い海を啜る時、
それは白痴の言葉となり、
影像の晦瞑鏡は客観でもあるべき観察眼にも苦蓬草色の地球を目下、弛緩する骨董美術的な無価値へ宛がうのを否むべきか、否か

      *

/
汚濁の精神像は
 階段の結膜に一匙の暗緑を贖い
    死後の入殖許可証は頻りに印刷世紀の欺瞞を秘匿し/

      *

暴風に撓む柱時計があり、
季節は死を指する
記念室には
乾燥した菫が逆さに磔けられ、
茎の髄脈にアメジストの工廠が抱卵され、
裂開線上の
「」
が著述と市街地に
建築を等しく執り行った
「」は彼等の契約の箱であり
従って絶無を閉塞し、
侭有る形象、
存在の確たる致死への過程は
空間の繊維隔膜を紡績機に拠り創物としたが

/
鋭角の議事講堂には
  惑溺の青と滑車を錆附かしめる海縁が
     梱包美術にも抱卵室の一過的な遭遇を確約する/


灌漑された鹹塩の花々の総てを
不在の戸籍証書は
眼球の地平線、
つまり月球儀の引力に拠る抛物線の被膜に埋葬を施し
容貌の薔薇は褪褐色の死骸となり
現代は
叛美的概念を遺失した
彼等の観察眼の俎上にも抵抗として
滑稽の飛花にも
一縷の脈血を滴らせる

/
水銀温度計が磔けられた食卓
 鰊の骨肉は日曜の広告紙の様に燻る煙の花綱飾りでは勿く
或る死を再顕現した奇蹟の
    つまり緋の埋葬であり/


葡萄樹に展翅箱が擱き去られ
実像を実像足らしめる網膜に拠る痴夢が現実と呼ばれ
途轍も勿い不実
確かな咽喉を
滑車の慈善週間が仮睡の眼に瞠り
蜉蝣の口吻は
すなわち薊の臓腑を過り
濁濁たる混声合唱曲が
一幅の赤窓に、鉛丹の聖母像を印にする時
死後、墨染の螺旋劇場は受肉の告示に充満した
、が饒舌を裂断する緩衝液に
一個の薬莢を溶解した
黒白、左右、光と闇の遠近透視図法
ピアニストの鍵盤に
、が刎ねられつつ苦悩の浅慮を嘲っていたとしても

/
赤窓のカエキリア女史は花椿の咽喉をけたたましく喚き
 晦冥鏡の洗面台には
  剃刀の静物が
まるで潤滑な死病の様な白紙繊維を捲る食指の零を延々と聯ねた/

     *

腐蝕臓腑の慟哭が一週間程の薔薇の血膜を綻ばせる頃、緻密な死の寓喩が些かの鬱蒼を俯瞰する
実に幻燈機に敷かれた葉は断頭台の球体であり、
狂人の致命の踵からなる黙示録は死と記述する毎に簡素な脳髄液を傾けて否認を否認するだろうか

     *

/
汝、凍蝶の全翅脈たる蘂髄の壁を打て/


瑕疵の擬真珠殻が
胚種の発達学を顕微鏡に眺める頃に、
撃落された楓樹の翼果は
すなわち
褪色の町にて散開を果す
瑠璃青の裂罅よりビロードの食指が
死者の頤を擁く
それはまるで骨壺の乾燥花の様であり
些かも
昏婚礼に影像を翳し遂せない

     *

/
記念碑としての石膏
彼の影像が縫綴じて行った各々の為の放火魔は
 純粋円錐劇場の事象を
   橄欖樹の枝葉に映写した/
  映写された唇は遂に曇花の板窓
つまり鏡に於ける錯綜、紡績溯行であり
  平衡計は峻厳にも絹の自己像へと懐疑を撤いた/

     *

――見よ、漆喰建築の被愛にも似附かわしく勿き骸骨の夥多が、驟驟と凱旋門の精油罐の秘蹟を追随して行くのを、

     *


声と笑顔を失った人たちの未来へ

  黒髪

星の降る夜を泣く
果てを見たいのにどこへも行けない
宇宙をめくって君を包むこともできるというのに
一生かけても追いやれない悲しみをどこかへ捨てるために
僕の生まれ故郷へ君を招待しましょう
汗に滲んだキスの虹
夜配置
宝石を探そう
スコップを使って
空気の流れが変わる
饒舌が生まれる
大事な素朴を沢山つくりたい
藁がブクブク泡を吐いた
流れが示す通りにどこまででも行く
教えてほしい未来永劫の幸せを
雨よ降れ
そのまま
傘をさし雨合羽を着て
どこにもない所にいる
どこにでもここがある
病棟には踊っている人がいた
さなぎの殻に用がない人だ
大事なものが何か探す力を奪われた
過去を捨てることはとても難しい
雲は歌う
悲しい過去の歌
輝かしい今の詩吟
いつまでも続く未来の唱歌
せっかくだから
闇の中へいく
狂った蝶を一匹従えて
君を想えば怖くない
一人が孤独じゃない
嘘なきをやめよう
タバコもやめた


飛べなくなったひと

  ねむのき

(ふたりの、I、のために)

1

坂道を登ってゆくと
側溝の中に
男のひとがいるのを見つけた

男のひとはずっと
膝をかかえていて
「ああ、おとなになってしまった
と何度も呟いていた

とても天気のいい日だった
うるさい飛行機が
空に吸いこまれて
ちいさな白い点になってゆくのを
ふたりでしばらく眺めた

ぼくが
さよならも言わずに
自転車を漕ぎだすと
男のひとは、
あおむけの格好で
どこかの街へ流れていった


2

飛行機が花のように破裂して
無数の白いシャツが
風を受けて、
ゆっくりと墜落してゆくのが見える

それは
まるで踊っているようにも
あるいは
まるで生きているみたいにも思えた

あるいは、もしかしたら
ひとの形をしたシャツの
形をした人間なのだろうか?
まるで生きているみたい
それなのに結局死んでしまう
無数の人間の形なのだろうか

(生きているのに死んでしまう?
(それはなに?
(それはどうして?

ああ、それは
わたしや
君の形をした
物語なのだろう
いったい
わたしもきみも
ほんとうはどこか別のところからやってきて
そしていつのまにかどこかへ去ってゆく
わたしや君の形をした
誰も知らない誰かなのかもしれない

(それは誰?それは、
(さいごに誰が死んでしまう物語なの?

そうさ、
あるいは生きるということ
それはほんとうに
誰の書いた物語なのだろう
結局みんな死んでしまう
なんて、そんな出来損ないの物語を
精一杯生きなければならない
それに
生きていると
弱いからすぐ嘘をついてしまう
ああ、ほら見てごらん
空だけがいつも青くて、
残酷なくらい青くて、
死んでしまいそうなくらい青くて。
それなのに臆病なわたしの手は
もうずっと前から死んでいるように白い
死んでしまうのに生きなければいけない物語を
死んでいるように生きていると
こうして触るものもみんな、ひどく汚してしまう
わたしはわからなくなる
なぜわたしは、おとなになってしまった?
おとなになってしまって、こんなに
飛べなくなってしまったわたしは
誰なのか


3

坂道を登ってゆく
今日もいつもの側溝の中に
飛べなくなったひとがいるのを見つける

「ああ、飛べなくなってしまった
といって膝をかかえている、今日も
空をななめに切りとってゆく
飛行機のちいさな翼を
ふたりでずっとながめている

(どうして、
大人にならなければ、
いけないのだろう

ぼくはさよならを言う
飛べなくなったひとは、今日も
あおむけの格好で目を瞑って
水の上を流れていってしまう


4

(でもどこへ?
(どこへいってしまうの?
って聞いたら
あのひとはなんて答えてくれただろう
ぼくは考える
「さいごにわたしは、わたしを見つけにゆく
そう言ってくれたのだろうか、
それとも、やっぱりさいごには
飛べなくなったひとが死んでしまう
そんな物語だったのだろうか
ぼくにはなにも答えをくれないまま
飛べなくなったひとはもう帰ってこない
(はあ、答えなんて、くれなくてもいいよ
ぼくはさいごまで
あのひとのほんとうの名まえすら知らなかった
(でも、そのかわり、
この飛べなくなったひとの物語の続きは
ぼくが書くことにする


5

(破りとられたページの跡)


6

十月が死んだ
十一月も死んで
死にかけた十二月の空は今日も
死ぬほど青い
君にはじめて会ったのも
天気のいい日だった
そして君にさいごに会った日も
とても天気のいい日だった
わたしはもう空を飛べないけれど
さいごにわたしは
わたしの物語の「作者」を見つけにゆく
そしていつか必ず
もう一度、君に会いにゆく
その日はきっと、今日みたいな
とても天気のいい日になるといいなって
思っているよ

7

空にかかげた
君のちいさな両手のうえには
大きな大理石の本が置かれていた
それは、白いシャツの屍体が積み重なってできた
なにも書かれていない一冊の本だった

やがて
夥しい血と肉の塊が
うつくしい驟雨となって
あたりにやわらかく降り注いだ
新たな、契約の文法と、
新たな文字による、新たな言語で
新たな、長い長い物語を
大理石の本の
真白なページに刻みこもうとしていた

そして君は
様相の論理という、無限に枝分かれしたパイプに、
血の水脈を導いて
わたしや君の棲むこの小さな惑星の外側に
あたらしい可能世界をいくつも創造したのだった

わたしはこれから、その血管を辿り
幾つもの世界線を越えて
無数の君に会いに行こうと思う
君の書いた幼い詩の、赤い余白のなかで
わたしは、もうひとりの、新たなパラレルとしての君と出会い、
君はそこで、君の書いた幼い詩をもう一度復習するだろう
そうやって君の平行世界は
永遠に分岐する可能態としての運動を続ける
そしてわたしも、君も
何度も死んでは生まれる
生まれては死んでを繰り返してゆく
しかし、その必然の帰結として、
魂の不死という形式が
わたしたちの存在にもたらされたのだった

(それが、
ぼくの大好きな、飛べなくなったひとのために、
ぼくがさいごに出した、幼い答えだった

それが、君という、
君の時代の貴重な作家が、さいごに書いた、
わたしの物語だった



石田徹也、「飛べなくなった人」(1996年)
稲川方人、「君の時代の貴重な作家が死んだ朝に君が書いた幼い詩の復習」
(1997年)


逝く前に、鮨だ! 

  atsuchan69

オメエ、死ぬのかい
――だったらよう、
せめて逝く前に鮨食おうぜ
肝っ玉据えて、俺と鮨食えよ

粋な麻暖簾くぐってさ
どうぞ勝手に席へ就いちまいな
捌いたネタと酢飯の匂い、
舎利の温(ぬく)みを感じるか?

――わかんねえ、
なんて言わせねえ。
そんな奴は胡瓜でも齧ってろ
薄紅のガリを抓まんでよ、
涙巻き喰らって笑いやがれ

煮蛤に、海鼠に、鮟肝だ、
縞鯵、寒鰤、栄螺、九絵
急ぐなら、よし握って貰おう
海胆、小肌、蝦蛄に岩牡蠣、星鰈

酒は久保田か菊姫か
よっしゃ、海老の踊りでも頼もうかい

お猪口でちょこっと酒呑みねえ
烏賊の印籠詰めでえ、喰ってみろ
鮪の背トロもいいけれど
おう、玄界灘の天然黒鮑だぜ!

なんてぇ豪勢な歯応えなんだい

――ええと。
それでオメエさん‥‥

首吊るんだったっけ?
じゃあ、スマン
逝く前に俺の分も勘定払ってよ
二人で、たったの四万円

今日は本当に御馳走さん、
あの世でも、どうかお達者で――


融解

  本田憲嵩

いつも気になっていたのは
君の鼓動、
タイムリミットのある
運命みたいに
乱ざつに履きかえた内靴と外靴
しろくおもみのないものが
花びらの速度で降りつづける夜
水平線の見える
駐車場へと追いかけて
レールのように硬い鉄のかたまりを
万力で捻じ曲げるみたいに
たしかにこの手で
捻じ曲げたもの
けがれなく
ささやくように泣いている
釣り合わない握力で
掴みよせた
まるで白い綿のように重さのない肩
(ふわり、ポトリ、融けるように
言葉のない白い花びらは
君を愛おしむため
手のひらのやわらかな水平線へと落ちる


landing

  重山サチカ

遠くのほうで
傘をさしはじめた人たちが
窓のくもりに
ばらけていく
年をとる椅子にかけて
階段の向こうまで
よくみえる

立っていただけだ
思い出すことは
だんだん少なくなる
寒い季節の
舗装を埋めた道
水に浸かって
そのままになった


  イロキセイゴ

長い川の前に
慈雨が続き
ロバの群れが続く
長い川に大きな川が接続して居る
そばかすの少女が独り
斜視を患いながら
視覚を取り戻そうと星を見る人になる
車が侵入して来るプールを抱えて
暮らしの中で二階の北窓から
星を見る少女が
見る物は星だけでは無くて
川の中の人やヒヒや木立なども見る
長い川も大きな川もやがて大海へと繋がり行き
慈雨も止み
ロバの群れはプールに消えて仕舞う
斜視の手術は二十日間を要し
二十針のまぶたの糸を抜く時に
少女のウィンクは止まらなくなり
無限の海を恋うた(「恋う」(動詞)+「た」(助動詞)です)(読みは「こうた」)でしょうか)

文学極道

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