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2016年07月分

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* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一六年五月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年五月一日 「叛逆航路」


お昼から夕方まで、『The Wasteless Land.』の決定版の編集を大谷良太くんとしていて、そして、大谷くんと韓国料理店に行って、居酒屋に行って、そのあと、ひとりで、きみやに行って、日知庵に行って、いま、帰ってきた。帰りに、ぼくんちの近くのスナックのまえで八雲さんに会った。

きみやさんでは、元教え子の生徒さんにも遭って、ああ、京都に長く住んでいると、こういうこともあるのだなと思った。そいえば、王将で、元教え子から、「田中先生でしょう?」と言われて、ラーメン吹き出したこともあったよなあ。悪いこと、できひん。しいひんけど。いやいや、してる。している。

アン・レッキーの『叛逆航路』あと80ページほど。進み方がゆるやかだ。むかしのSFのおもしろさとは異なるおもしろさがあるが、むかしのSFを知っている者の目から見ると、物語の進行が遅すぎる。きょうじゅうに読めたら、あしたから続篇の『亡霊星域』を読むことにしよう。

あしたは、学校の授業が終わったら、大谷良太くんと、ふたたび、『The Wasteless Land.』決定版の編集をいっしょにする。きょうは、夜になったら、文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくろう。

アン・レッキーの『叛逆航路』おもしろかった。展開が遅かったけれど、終わりのほうがスコットカードを思い起こさせるような展開で楽しめた。この作品のテーマは、「人間には感情があり、恩情を受けた者はそれを忘れることができない。」一言でいえば、こう言い表し得るだろうか。さっそく続篇に目を通す。

きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり」ができた。これから、アン・レッキーの『亡霊星域』を読もう。冒頭だけ読んだ。翻訳者が赤尾秀子さんで、前作『叛逆航路』と同じなので、安心。前作は誤字・脱字が一か所もなかったように思う。さいきんの翻訳では、めずらしい。


二〇一六年五月二日 「さつま司」


いつもは
白波っていう芋焼酎を飲むんやけど
これ飲んでみ
と言われて出された
アサヒビールからだしてる
さつま司っていうヤツ
ちょっとすすったらオーデコロンの味が
オーデコロンなんか、じっさいにすすったことないけど
そんな味がした。
匂いはぜんぜんなくって
こんなん注文するひといるのって訊いたら
いるよって
ああ、ぜったい、変態やわ。
味のへんなヤツ好きなのっているんだよね。
ってなこと言ってると
美男美女のカップルが入ってきて
へしこ
頼んだのね
ひゃ〜
臭いもの好きなひともいるんやなあって話をしたら
そのカップルと
臭い食べ物の話になって
ぼくが、フィリピン料理で
ブタの耳のハムがいちばん臭かったって話をしたら
女性のほうが
カラスミのお茶漬けとか
いろいろ出してきて
うわ〜、考えられへんわ
って言った。

きのう、帰りの電車の窓から眺めた空がめっちゃきれいやった。
あんまりきれいやから笑ってしもうた。
きれいなもの見て笑ったんは
たぶん、生まれてはじめて。
いや、もしかすると
ちっちゃいガキんちょのころには
そうやったんかもしれへんなあ。
そんな気もする。
いや、きっと、そうやな。
いっつも笑っとったもんなあ。

そや。
オーデコロンの話のあとで
頭につけるものって話が出て
いまはジェルやけど
むかしはチックとかいうのがあってな
父親が頭に塗ってたなあ
チックからポマードに
ポマードからジェルに
だんだん液体化しとるんや。
やわらかなっとるんや。


二〇一六年五月三日 「キプリングみたい。」


大谷良太くんちから。帰ってきて、自分の詩集の売れ行きを amazon で見て、またきょうも売れてたので、うれしい。思潮社オンデマンドの詩集がいま40パーセント引きなので、そのおかげもあるかな。『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他』と、『全行引用詩・五部作』の上巻と下巻が売れてた。

アン・レッキーの『亡霊星域』おもしろい。イギリスっぽい。キプリングみたい。とか思ってたから、前作『叛逆航路』の解説を読んで、アメリカ人の作家というので、びっくり。書き込みが、イギリス人の作家のように、意地が悪いと思うのだけれど、たんに作家のサーヴィス精神が豊かなだけかもしれない。


二〇一六年五月四日 「アイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」


ええっ。きょうも amazon での売り上げ順位が上がってた。思潮社オンデマンドから出た詩集『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他』と『全行引用詩・五部作・上巻』と『全行引用詩・五部作・下巻』。ぼくの作品集のなかでも傑作たちだからよかった。そうでなかったら、買ってくださった方に申し訳ないものね。ありゃ、2014年に出した『ツイット・コラージュ詩』も売れてた。『ゲイ・ポエムズ』や『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』も売れてほしいなあ。

きょうも、これから大谷良太くんとミスドに。

ぼくにとって、詩は単なる趣味である。生きていくことは趣味ではない。なかば強制されているからだ。ぼくは、それは神によってだと思っているが、生きていくことは苦しいことである。しかし、その苦しみからしか見えないものがある。そして、これが趣味である詩が人生というものに相応しい理由なのだ。

ぼくにとって、人生は単なる趣味である。詩は趣味ではない。なかば強制されているからだ。ぼくは、それは神によってだと思っているが、詩を読み書きすることは楽しいことでもある。そして、その楽しみからしか見えないものがある。そして、これが趣味である人生が、詩というものに相応しい理由なのだ。

アン・レッキーの『亡霊星域』あと20ページほど。柴田元幸訳の『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読もう。

きのうは一食だけのご飯だった。きょうも、そうしよう。読書とゲラチェックに専念。そいえば、来週に投稿する『詩の日めくり』もつくらなければならない。文学、文学、文学の日々だけれど、ひとから見れば、ただ趣味に時間を使っているだけ。そっ。じっさい、趣味に時間を費やしているだけなのである。

セブイレで、サラダとサンドイッチ2袋買ってきた。BGMは、リトル・リバー・バンドのベスト。アン・レッキーの『亡霊星域』誤字・脱字ゼロだった。純文学の出版社より、創元やハヤカワのほうが優秀な校正家を抱えているようだ。高い本で、誤字・脱字に気がついたときの気落ちほどひどいものはない。

これから、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読む。きょう、あすじゅうに読み切りたい。

スウィフトの『アイルランド貧民の‥‥‥』を読んだ。ひとを食べちゃう話は、ぼくもいくつか書いているけれど、スウィフトみたいに実用的な用途で子どもを食べるという案は、じつに興味深い。というか、この1篇が読みたくて、この単行本を買ったようなものである。コーヒーを淹れて、つぎのシェリーのを読もう。

シェリーの『死すべき不死の者』は、なんだかなあという感じ。傑作ちゃうやんという思いがする。つぎにディケンズの『信号手』を読むのだけれど、まえにも読んだとき、どこがいいのかぜんぜんわからなかった。きょうは、どだろ。BGMはジェネシス。ディケンズを読み終わったら、コーヒーを淹れよう。

9時半に日知庵に、竹上 泉さんと行くことに。

ディケンズの『信号手』を読み終わった。どこがいいのか、まったくわからない。以前にアンソロジーで読んだときにも、まったくおもしろくなかった。つぎは、ワイルドの『しあわせな王子』だけど、そろそろお風呂に入って、日知庵に行く準備をしないと。


二〇一六年五月五日 「超大盛ぺヤングの罪悪感」


超大盛のペヤングを食べて、罪悪感にまみれている。

しあわせな気分で眠るには、どうしたらいいだろう。とりあえず、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』のつづきを読もう。たしか、ワイルドの「しあわせな王子」からだった。ワイルドといえば、フランスでの彼の悲惨な最期を思い出す。その場面の一部を作品化したことがあるけれど。

ワイルドの「しあわせな王子」を読んで、ちょびっと涙がにじんだ。ぼくはクリスチャンじゃないけど、やっぱり神さまはいらっしゃるような気がする。おやすみ、グッジョブ! ジェイコブズの「猿の手」を読んで明かりを消そう。ほかのひとの訳で読んだことがあるけど、これは傑作中の傑作だった。

ようやく起きた。これからプリンスを追悼して、プリンス聴きながら、新しい『詩の日めくり』をつくる。そのあと、詩集の校正をもう一度する。


二〇一六年五月六日 「グースカ・ポー!」


木にとまるたわし

気にとまるたわし

木にとまる姿を想像する
やっぱりナマケモノみたいにぶら下がってるって感じかな。

職場のひとたちや
居酒屋の大将や
近所のスーパー大国屋のレジ係りのバイトの男の子や女の子や
買い物してるオバサンや子どもも
みんな、とりあえず、木にぶら下がってもらう。
で、顔をこちらに向けて。
やっぱ、きょとんとした感じで。

歩いてるひとは
そうね
突然飛び上がって
丸くなってもらって
空中に浮いて
そのまま、やってきてもらおうかな。

車を運転してるひとは
とりあえず、ハンドルから手を離してもらって
両手を広げて
車から透けて足をのばして
空中に舞い上がってもらって
そのままずっと上っていってもらおうかな。

ぼくは
仏さまのように
半眼で
横向きになって
居眠りしようかな。

グースカ・ポーって。
行きますよ。


二〇一六年五月七日 「思い出せない男の子」


詩は、ぼくにとって、記憶装置の一つなのだけれど、こんど投稿する新しい『詩の日めくり』に、名前(したの名前だけ)も、身長も、体重も、年齢も、そのときの状況も、そのときの会話も書いてあるのに、まったく顔が思い出せない男の子がいて、ノブユキ似って書いてるんだけど、まったく思い出せない。

これから大谷良太くんちに。

大谷良太くんちから帰ってきた。見直さなきゃならない個所があって、見直したら、ぼくが直したところが間違ってた。とんまだわ。

これからお風呂に、それから日知庵に。

いま日知庵から帰った。帰り道で、柴田さんと会って、あいさつした。


二〇一六年五月八日 「ミニチュアの妻」


ようやく身体が起きた。なんか食べてこよう。帰ったら、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』のつづきを読もう。

あと、4、50ページで、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読み終える。傑作は、さいしょのスウィフトのもののみ。あとはワイルドのくらいか。「猿の手」は、ほかの方の訳のほうが怖かった。これからオーウェルの「象を撃つ」を読む。有名な短篇だけれど、はじめて読む短篇だ。

ジョイスの抒情は甘すぎる。岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』上下巻のほうがはるかに優れた作品を収録していた。きょう、さいごに飲むコーヒーを淹れて、オーウェルを読もう。

『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読み終わった。スウィフトとオーウェルのだけが傑作であった。ジェイコブズの『猿の手』もよかったかな。さいごのディラン・トマスのクリスマスの話はよくわからなかった。詩人の書いた散文って感じなだけで、感動のかけらもなかった。

これから、寝るまで、マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』を読む。翻訳者のお名前がはじめて拝見するものだったので、翻訳の文体が心配だけど。それはそうと、ケリー・リンクの訳はよかったけど、マスターピースの柴田元幸さんの訳文、ぼくはあまり好きじゃなかった。

ゴンザレスの短篇2篇を読んだ。完成度の低さにびっくりするけれど、読めなくもない。きょうは、ゴンザレスの短篇を読みながら床に就く。


二〇一六年五月九日 「歯痛を忘れるためのオード」


学校から帰ってきた。夜に塾に行くまで、ゴンザレスの短篇集を読む。きのう寝るまえの印象では、あまりつくりこみがよくないように思えたのだけれど、きょう通勤で読んだ短篇でわかったのだけれど、基本、奇想系のものは、つくりこむのがむずかしいのだと。発想の段階でもうほとんどすべてなのだと。

悪くない。十分に楽しめる作品たちである。マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』 再読するかどうかはわからないけれど、本棚に置こう。

わ〜。きょう塾がなかったの、忘れてた〜。時間がある。ゴンザレスの短篇集のつづきを読みつづけよう。それとも、6月に文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくる準備をしようか。両方しよう。塾の授業がないだけで、気分がぜ〜んぜん違う。

きょうは塾がなかったのだった。

こんどの土曜日に、河村塔王さんと、日知庵で、ごいっしょすることになった。

きのう文学極道に投稿した自分の『詩の日めくり』を読んでて、ふと思いついた。『歯痛を忘れるためのオード』とかいったタイトルで作品を書こうかな、と。まあ、オードという形式について知識がゼロだし、無知丸出しだけど、ちょっと勉強しようかな。頭痛を忘れるためのオードとか、腹痛を忘れるためのオードとか、腰痛を忘れるためのオードとかも書けるかも。あ、五十肩を忘れるためのオードちゅうのもいいかもしれへん。首を吊ったばかりのひとも耳を傾けたくなるオードとか、飛び込み自殺しようとして飛び込んで電車にぶつかる直前にでも耳を傾けたくなるオードとかも考えられる。死んだばかりのフレッシュな死体さんにも、死を直前にしたひとにも、朗読されて気持ちがいいなって思ってもらえるような詩を書いてみたい。


二〇一六年五月十日 「塾の給料日」


いま帰ってきた。詩集3冊の見本刷りを郵便局に6時に着くように取りに行く。それから塾だ。これからカレーパンと胡桃パンの晩ご飯を食べる。とりあえず、コーヒー入れよう。きょうも、前半戦でくたくた。塾、きょう給料日だ。うれしい。

マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』に、一か所だけ誤字・脱字があった。216ページさいごの1行「なだめすかしたりしなくてもを小屋から出すことができたので」 「を」が間違って入ったのか、「そいつを」の「そいつ」が抜けているのか、どちらかだと思うのだが、しっかり校正しろよ。

きょうは、塾の給料日だったので、帰りに、スーパー「マツモト」で半額になった握り寿司340円を買った。きょうから寝るまえの読書は、『ジーン・ウルフの記念日の本』何度か読もうかなと思っていたが、手にとっては本棚に戻し手にとっては本棚に戻した本だった。さすがに、きょうからは読もうかな。


二〇一六年五月十一日 「ジーン・ウルフの記念日の本」


ジーン・ウルフの短篇集、きのう寝るまえに2篇読んだのだけど、2篇目の作品がまったく意味がわからなくて、2回読んだけど、もう1度読んでみる。

『ジーン・ウルフの記念日の本』に2番目に収録されている「継電器と薔薇」、3度読んで、ようやく内容がわかった。ジーン・ウルフはわりと、ぼくにはわかりやすいと思っていたのだが、そうでもない作品があるのだなと思った。理解を妨げた原因には、書かれた時代を現代がとっくに超えてることもある。

これから王将に。それから塾へ。

塾から帰った。ジーン・ウルフの短篇集のつづきを読む。


二〇一六年五月十二日 「Love Has Gone。」


それ、どこで買ってきたの?
高島屋。
えっ、高島屋にフンドシなんておいてあるの?
エイジくんが笑った。

たなやん、雪合戦しよう。
はあ? バカじゃないの?
俺がバカやっちゅうことは、俺が知ってる。
なにがおもしろいん?
ええから、雪合戦しようや。

それからふたりは、真夜中に
雪つぶての応酬。

俺が住んでるとこは教えへん。
こられたら、こまるんや。
たなやん、くるやろ。
行かないよ。
くるから、教えたらへんねん。
バカじゃないの?
行かないって。

木歩って俳人に似てるね。
たなやんの目から見たら、似てるんや。
まあ、彼は貧しい俳人で、
きみみたいに建設会社の社長のどら息子やないけどね。
似てるんや。
ぼくから見てね。

姉ちゃんがひとりいる。
似てたら、こわいけど。
似てへんわ。
やっぱり唇、分厚いの?
分厚ないわ。
ふううん。
俺の小学校のときのあだ名、クチビルお化けやったんや。
クチビルおバカじゃないの。
にらみつけられた。

つかみ合いのケンカは何度もしていて
顔をけってしまったことがあった。
ふたりとも柔道してたので
技の掛け合いみたいにね、笑。
でも、本気でとっくみ合いをしてたから
あんまり痛くなかったのかな
それとも、本気に近いことがよかったのか
エイジくんが笑った。
けられて笑うって変なヤツだとそのときには思ったけれど
いまだったら、わかるかな。

こんどの詩集にでてくるエイジくんのエピソード。
日記をつけてたんだけれど
捨ててしまった。


二〇一六年五月十三日 「31」


いま日知庵から帰った。奥のテーブル席に坐っていた男の子がかわいいなと思って(向かいの席には女の子がいたけど)帰りに声をかけた。「いまいくつ?」「31です。」「素数じゃん!」「えっ?」「みそひと文字で短歌だよ。三十一は短歌で使う音数だよ。」と言ったら、そうなんすかと笑って返事した。

男からも女からも好かれるような、かわいい顔をしてた。ぼくがあんな顔をして生まれていたら、きっと人生ちがってただろうな。ぼくはブサイクだから、勉強したっていうところがあるもの。まあ、ブサイクだから詩を選んだっていうことは、かくべつないんだけどね、笑。

あした、大谷良太くんちに行く。『詩の日めくり』の第一巻から第三巻の最終・校正をするために。そろそろ寝よう。日知庵にいた、めっちゃ、かわいい男の子が、きっと夢に出てきてくれると思う。ハーフパンツで、白のポロシャツ。女の子にも受けるけど、ゲイ受けもすごいと思うくらいかわいかった。ベリ・グッド!

あの男の子が夢に出てきてくれますように、祈りつつ……


二〇一六年五月十四日 「きみの名前は?」


きみの名前は? 
(ジーン・ウルフ『養父』宮脇孝雄訳、短篇集『ジーン・ウルフの記念日の本』170ページ後ろから4行目)

きみの名前は? 
(ジーン・ウルフ『フォーレセン』宮脇孝雄訳、短篇集『ジーン・ウルフの記念日の本』181ページ5行目)

ひさしぶりにウルトラQを見よう。「宇宙指令M774」「変身」「南海の怒り」「ゴーガの像」

『ジーン・ウルフの記念日の本』を読み終わった。まあ、車が妊娠して車を生む短篇以外は、凡作かな。あの「新しい太陽の書」シリーズの作者とは思えないほどの凡作が並んでいた。『ナイト』と『ウィザード』のI、IIを買ってあるけれど、読む気が失せた。代わりに、きょうから寝るまえの読書は、ジャック・ヴァンスの短篇集『奇跡なす者たち』にしよう。ヴァンスは、コンプリートに集めた作家の一人だが、これまたコンプリートに集めた作家にありがちなのだけど、持っている本の半分も読んでいない。さすがに、「魔王子」シリーズは読んだけど。

いま日知庵から帰った。河村塔王さんと5時からずっとごいっしょしてた。現代美術のエッジにおられる方とごいっしょできてよかった。ぼく自身は、無名の詩人なんだけど、といつも思っている。謙虚なぼくである。


二〇一六年五月十五日 「ビール2缶と、フランクフルトと焼き鳥」


いま、まえに付き合ってた子が、ビール2缶と、フランクフルトと焼き鳥をもってきてくれた。朝から飲むことに。

きょうやらなければならないと決めていた数学の問題づくりが終わった。休憩しよう。きのう、河村塔王さんからいただいたお茶を飲もう。見て楽しめる、香りも楽しめるお茶らしい。

自分でも解いてみたが。OKだった。夜は、あしたやるつもりだった数学の問題をつくろうかな。そしたら、あしたは、ワードに打ち込むだけで終わっちゃうし。河村塔王さんからいただいたお茶、めっちゃおいしい。花が咲いてて、見た目もきれい。きのうは、作品も2点いただいた。聖書の文章がタバコの形に巻いてあるものと、詩作品がタバコの形に巻いてあるもので、どちらも、じっさいに火をつけて吸うことができるようになっているのだが、おしゃれな試験管に入っていて、コルクの栓で封印されている。もったいなくて火はつけませんでした。

ジャック・ヴァンスの短篇集のつづきを読もう。きのう4ページくらい読んだけど、さっぱり物語が頭に入らず、びっくりした。

あしたしようと思っていた分の数学の問題つくりとワード打ち込みも終えられたので、五条堀川のブックオフまで散歩ついでに出かけよう。持っている未読の本を読めばいいのだけれど、本に対して異常な執着心があるためにブックオフ通いはやめられない。読みたいと思える未読の古いものもよくあるからである。

文春文庫の『厭な物語』『もっと厭な物語』なんてのは、ブックオフで見かけなかったら、知らなかったであろう本だし、創元文庫エラリー・クイーン編集の『犯罪文学傑作選』も知ることはなかったと思う。クイーン編集の『犯罪は詩人の楽しみ』を後でアマゾンで買った。

ちなみに、『厭な物語』も『もっと厭な物語』もまだ読んでいない。『厭な物語』は目次を見て、半分くらいの作品を知っていたがために読まず。『もっと厭な物語』は『厭な物語』を読んでからと思っているため読まずにいるのだが、近々にでも、読む日はくるのだろうか。

バラードの短篇集『時の声』が108円なので買っておいた。このあいだ、竹上 泉さんに、持ってるバラードをぜんぶ差し上げたので、手もとになかったのだ。よかった。やっぱり、タイトル作と「音響清掃」は再読するかもしれないからね。再読する価値のある短篇は、これら2作と「溺れた巨人」くらいかな。


二〇一六年五月十六日 「きょうは雨らしい」


起きた。きょうは雨らしい。通勤で読む本は文庫にしよう。『モーム語録』がまだ途中だった。これにしよう。

『モーム語録』読み終わった。マリー・ローランサンとチャップリンの逸話がとても印象的だった。この2つの逸話は忘れないだろう。ローランサンは、女性のかわいらしさを、チャップリンは人間の悲哀を感じさせらる話だった。とても魅力的な人間だった。ぼくもほかの読み物や自伝や映画で知ってるけど。モームは直接会っての、逸話だからね。そら違うわ。ぼくの『詩の日めくり』にもたくさんの人たちが登場するけれど、ローランサンとかチャップリンとかいった一般のひとびとも知ってるような有名なひとはいないなあ。ほとんどのひとが、無名のふつうの友だちか知り合い。

雨の日は、通勤に単行本を持って行くのは危険なので、文庫本を持って行ってるんだけど、これから雨の日がぼちぼちくるだろうから、用心のために、単行本は部屋で読むことにしよう。あしたから通勤には、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』を持って行こう。トールサイズで読みやすいかな。

きょうは塾がないので、読書三昧。ジャック・ヴァンスの短篇集を読もう。読みにくくてしょうがないんだけど、ヴァンスって、こんな読みにくい作家だったかな? アン・レッキーとか、めちゃくちゃ読みやすかったのだけれど。さっき amazon で、自分の詩集の売り上げ順位を見たら、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』が売れてた。いったい何冊売れてるのかは、思潮社さんからは教えてもらっていないのだけれど、売り上げ順位が変わっているから、きのうか、きょうくらいにまた売れたと思うのだけれど、自分の詩集が売れると、うれしい。

『愛はさだめ、さだめは死』は再読。ふつうサイズの文庫本を持っていて、本棚のどこかにあったかなって思って、このあいだ探してなかったので、amazon で新たに購入したもの。収録されている物語は一つも記憶がない。まあ、そのほうがお得な気はするかな、笑。

メールボックスを開けると、海東セラさんから、個人誌『ピエ』16号が入っていた。拙詩集をごらんくださったとのお便りもうれしく、お人柄がしのばれる手書きの文字に魅入っていた。詩は、海東セラさんの散文詩、これは、イタリアに旅行したディラン・トマスをぼくは思い起こしたのだけれど、ほかには岩城誠一郎さんの詩と、支倉隆子さんの詩と、笠井嗣夫さんが翻訳されたディラン・トマスの散文が掲載されていて、個性のまったく異なる方たちの作品が、本田征爾さんという画家の方が描かれた表紙や挿絵に挟まれて、よい呼吸をしているように思えた。きれいな詩誌を送っていただけて、こころがなごんだ。海東セラさん、北海道にお住みなんだね。遠い。ぼくは、いちばん北で行ったことがあるのは、山梨県だったかな。大学院生のときに学会があって、行ったのだけれど、夜に葡萄酒をしこたま飲んだ記憶しかないかな。海東セラさんの「仮寓」という詩に書かれた「道が違えば」という言葉に目がとまる。目だけがとまるわけじゃない。ぼくのなかのいろいろなものがとまって、動き出すのだ。詩を読んでいると、目がとまって、いろいろなものが動き出すのだ。けっきょく、詩を読むというのは、自分を読むということなんだろうな。いや、いろいろなことが、ぼくの目をとまらせるけれど、その都度、ぼくのなかのいくつものものがとまって、動き出すんだな。そのいろいろなことが、ひとであったり、状況であったり、詩であったり、映画であったりしてね。

ジャック・ヴァンスの短篇、ようやく冒頭のもの読めた。なんだかなあ。古いわ。まあ、古い順に収録されている短篇集らしいのだけれど。書き込み具合は、ヴァンスらしく、実景のごとく異星の風景を見事に描き出してはいたものの、古いわ〜。まあ、レトロものを楽しむ感覚で読みすすめていけばいいかな。

すごい雨音。神さまの、おしっこ散らかしぶりが半端やない。

ジャック・ヴァンス短篇集『奇跡なす者たち』誤訳 「ときには顔を地べたすれすれに顔を近づけ」(『無因果世界』浅倉久志訳、131ページ3行目) 「顔を」は、1回でいいはず。浅倉さん、好きな翻訳家だったのだけれど、2010年に亡くなってて、このミスは、出版社おかかえの校正家のミスだな。


二〇一六年五月十七日 「半額になった焼きジャケ弁当216円」


ジャック・ヴァンスの短篇集『奇跡なす者たち』 悪くはなかったが、古い。バチガルピの『ねじまき少女』や、ミエヴィルの『クラーケン』とか、R・C・ウィルスンの『時間封鎖』三部作や、レッキーのラドチ戦史シリーズなどを読んだ目から見ると、決定的に古い。まあ、雰囲気は悪くなかったのだけど。

あしたから、通勤で読むのは、R・A・ラファティの『第四の館』にしようかな。 これは長篇なのかな。おもしろいだろうか。

これから塾に。そのまえに、王将で、みそラーメン食べよう。

塾からの帰り道、スーパー「マツモト」で半額になった焼きジャケ弁当216円を買って、部屋で食べる。塾の生徒さんの修学旅行のおみやげのむらさきいもスイーツを2個食べる。満腹である。寝るまえの読書は、ひさびさのラファティの『第四の館』。ラファティの本は1冊も捨ててないと思うけど、どだろ。


二〇一六年五月十八日 「昭夫ちゃんか。」


ラファティ、ちょこっとだけ読んだ。わけわからずだった。

これから晩ご飯。ご飯たべたら、頭の毛を刈って、お風呂に入る。

これから塾へ。帰りは日知庵に。

いま日知庵から帰った。寝る。

昭夫ちゃんか。


二〇一六年五月十九日 「人間がいるところには、愛がある。」


満場はふたたび拍手に包まれた。人びとがこのように拍手を惜しまなかったのは、モーリスが卓越していたからではなく、ごく平均的生徒だったからである。彼を讃えることは、すなわち自分たちを讃えることにほかならなかった。
  (E・M・フォースター『モーリス』第一部・4、片岡しのぶ訳)

 ひとをあっといわせるような効果はどれも敵をつくるものだ。人気者になるには凡庸の徒でなくてはならない。
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第十七章、西村孝次訳)

ことさらに、だからってことはないのだけれど
ぼくの作品を否定するひとがいても、
それはいいことだと、ぼくは思っているのね。
それに、案外と、感情的な表現をするひとほど
根がやさしかったりするものだからね。

ぼくはクリスチャンじゃないけれど、
すべてを見ている存在があって、ぼくのいまも過去も
そして未来も見られていると思うのね。

ぼくは、ジョン・レノンのことが大好きだけど
ジョンが、愛について、つぎのように、堂々と言っていたからだ。

愛こそがすべてだと。

たしかに、そうだと、ぼくも思う。
そうして、愛のあるところには、人間がおり
人間がいるところには、愛がある、と。


二〇一六年五月二十日 「とても気もちがよかったのだけれど。」


けさ、5時くらいにおきて
また二度寝していたのだけれど
そしたら
ぼくの部屋じゃないところにぼくが寝ていて
布団は同じみたいなんだけど
部屋の大きさも同じなんだけど
そしたら
ぼくの身体の下から
ゆっくりと這い上がってくる人間のようなものがいて
重さも細い人の重さがあって
ああ、これはやばいなあって思っていると
その人間のようなものが
ぼくの耳に息を吹きかけて
それを、ぼくは気もちいいと思ってしまって
これは夢だから、どこまでこの実感がつづくかみてみようと思っていると
ぼくの右の耳たぶを舌のようなぬれたあたたかいもので舐め出したので
ええっ
っと思っていたんだけど
ものすごくじょうずに舐めてくるから
どこまで〜
と思って目を開けたら
人影がなかったのね
でも、ぼくの上にはまだ重たい感じがつづいているから
立ち上がろうとしてみたら
立ち上がれなくって
明かりをつけようとしたら
手のなかでリモコンが
その電池のふたがあいて、電池が飛び出して、ばらけてしまって
でも、めっちゃ怖くなってたから
重たい身体を跳ね上げて
立ち上がって
明かりをつけられなかったので
カーテンを開けようとしたら
カーテンが、針金で縫い付けてあったの。

わ〜
って声をだして
カーテンをその縫い目から引き千切って
左右に開けたの。
手には、布の感触と、針金の結びつづけようとする強い力の抵抗もあった。

ようやく開けたら
部屋のなかで、なにものかが動く気配がして振り返ったら
玄関が開いていたの。
見たこともない玄関だった。
えっ
と思うと
その瞬間
ぼくは自分の部屋の布団のなかにいたのね。
ひと月くらい前にも、こんなことあったかな。
日記に書いたかもしれない。
でも、きょうのは
15年くらい前に見たドッペルゲンガーぐらいしっかりした実体だったので
また少し頭がおかしくなっているのかもしれない。
15年前は
自分の年齢もわからず
自分の魂が、自分の身体から離れていることもしばしばあったので
今回も、そうなる予兆の可能性はある。


二〇一六年五月二十一日 「第四の館」


ラファティの『第四の館』半分くらい読めた。会話がほとんどキチガイ系なので、なんの話かよくわからないが、随所にメモすべき言葉があって、そのメモは貴重かな。物語はめちゃくちゃ。このあいだ出たラファティの文庫『昔には帰れない』の表紙はよかったなあ。飾ろうかな。

シャワーを浴びた。これから河原町に。日知庵に行く。夜の街の景色が好きだ。

いま帰った。きょうは「日知庵→きみや→日知庵」の梯子。帰りに、セブイレでカップヌードル買った。食べて、寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年五月二十二日 「茶色のクリームが、うんこにしか見えない件について」


きのう、日知庵からの帰り、阪急電車に乗ってたら、ヒロくんに似てる男の子がいて、うわ〜、ヒロくんといまでも付き合ってたら、どんなおっちゃんになってるんやろうと思った。その男の子は二十歳くらいで、ぼくがヒロくんと合ってたとき、たぶん、ヒロくんは21歳くらいやったと思う。みんな、思い出の話だ。

アレアのファーストをかけながら、ラファティの『第四の館』を読んでいる。あと60ページほどだが、さっぱり内容がわからない。

FBフレンドの方のアップされたホットケーキのうえにのっかった茶色のクリームが、うんこにしか見えない件について、だれかと話し合いたい。


二〇一六年五月二十三日 「ヴァニラ・セックス」


ヴァニラ・セックス
裸で抱き合うこと
甘いこと

ヴァニラ・セっクスに、張形は使わんな、笑。
「張形」
ダンの詩に出てきた言葉だけれど
まあ、ゲイ用語で言うと、ディルドっていうのかな
チンポコの形したやつね
いまのはシリコン製なのかな
シリコン製だと硬くて痛いと思うんだけど
そうでもないのかな
ゴムみたいにやわらかいのもあるけれど
それはシリコン製じゃなかったかも。
ぼくは、こんどの詩集で、ピンクローターって出したけど
ダンの詩句も、そうとうエッチで、面白かった。
このあいだ、シェイクスピアを読みなおしたら
チンポコを穴ぼこに突き入れるみたいなことが書いてあって
17世紀の偉大な詩人たちの作品ってけっこう、いってたのねって思った。
すごい性描写も、偉大な詩人が書くと、おおらかで
とっても淫らで気持ちいいくらい大胆な感じ。
きのう書いた
弧を描いて飛ぶ猿の千切れた手足のことを思い浮かべていたら
公園のベンチに座ってね
そしたら、梅田の地下の
噴水で
水の柱が
ジュポッ ジュポッ
って、斜めに射出される
まるで
海面を跳ね飛ぶイルカのように
あれって
さかってるのかしら

その
海面を斜めに跳ね飛ぶイルカのように
水の柱が
ジュポッ ジュポッ
って射出されるんだけど
これって
またタカヒロのことを
ぼくに思い出せたんだよね
これは、自転車に乗って公園から帰る途中
コンビニの前を通ったときに
向かい側にはスタバがあって
何組ものカップルたちが
道路の席に座っていた
斜めに射出される水の柱が
弧を描いて跳ね飛ぶイルカの姿が
タカヒロの射精のことを
ぼくに思い出させた
タカヒロのめちゃくちゃ飛ぶ精液のことを思い出しちゃった。
彼の精液って、彼の頭を飛び越えちゃうんだよね。
もちろん、仰向きでイクときだけど。
このタカヒロって、「高野川」のときのタカヒロじゃなくって
彼女がいて
34歳で
むかし野球やってて
いまでも休みの日には
野球やってて
彼女とは付き合って5年で
結婚してもいいかなって思っていて
でも、男のぼくでもいいって言ってたタカヒロなんだけど
彼の出す量ってハンパじゃなくて
はじめてオーラル・セックスしたとき
口のなかで出されちゃったんだけど
飲むつもりなんてなかったんだけど
そのものすっごい量にむせちゃって
しかも、鼻の奥っていうか
なかにまであふれちゃって
涙が出ちゃった。

ぼくが付き合った子って
おなじ名前の子が何組かいて
詩を書くとき
異なる人物の現実を
ひとつにして描写することがよくあって
ぼくにしか、それってわからないから
読み手には
きっと
ふたりじゃなくて
ひとりの人間になってるんやろうね
ひとりの人間として現われてるんやろうね
まあ
自分でも
まじっちゃうことがあって
記憶のミックスがあって
ふと思い出して
違う違う
なんて思うことあるけど、笑。
五条堀川のブックオフにも立ち寄って

公園を出てすぐにね
帰るとき
村上春樹訳の
キャッチャー・イン・ザ・ライ
があって
105円だったから買おうかなって思ったんだけど
むかし読んだのは野崎さんの訳やったかな

パッとページを開くと
「まだ時刻がこなかった。」
みたいな表現があって
「時刻」やなくて
「時間」やろうって思った。
あらい訳や。
センスないわ。
やっつけ仕事かいな。
たんなる金儲けやね。

買わんと
出た。


二〇一六年五月二十四日 「すべての種類のイエス」


寝るまえの読書は、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』 冒頭の作品「すべての種類のイエス」を断続的に昼から読んでいるのだが、初期のティプトリーはあまり深刻ではなかったのかもしれないと、ふと思った。違ってたりして。


二〇一六年五月二十五日 「It's raining.  雨が降っている。」


東寺のブックオフに置いてあったのだけれど
ナン、俺は
が入ってるかどうか、帰ってきてからお酒を飲みながら
パソコンで調べてたら
ナン、俺は
が入っていることがわかり
またまた東寺のブックオフまで
自転車でサラサラっと行ってきました
ナン、俺は
が、やっぱりいい
帰りに聴きながら
京大のエイジくんのことを思い出してた
雪つぶて
雪の夜の
夜中に
アパートの下で
雪を丸めて
たったふたりきりの雪合戦
「俺のこと
 たなやんには、そんなふうに見えてるんや」
俳人の木歩の写真を見せて
エイジくんに似てるなあ
って言ったときのこと
関東大震災の
火の
なかを
獅子が吠え
いっせいに丘が傾いたとき
預言者のダニエルは
まっすぐに
ぼくの顔を見据えながら歩いてきた
燃える火のなかで
木歩を背負ったエイジくんは
すすけた顔から汗をしたたらせながら
ぼくの前から姿を消す
預言者のダニエルは
燃える絵のなかで
四つの獣の首をつけた
回転する車の絵とともに姿を消す
雪つぶて
ディス・アグリー・ファイス
酔っぱらった
ぼくには
音楽しか聞こえない
「俺のこと
 たなやんには、そんなふうに見えてるんや」
雪つぶて
ふたりきりの雪合戦
燃える火のなかを
預言者ダニエルが
ぼくの顔を見据えながら歩いてきた
エイジくんの姿も
木歩の写真も
消え
明かりを消した部屋で
音楽だけが鳴っている


二〇一六年五月二十六日 「ミスドで、コーヒーを飲んでいた。」


さいきん、体重が減って
腰の痛いのがなくなってきた。
もう一個ぐらいドーナッツ食べても大乗仏教かな。
カウンター席の隅に坐っていた女の子の姿がすうっと消える。
ぼくの読んでいた本もなくなっていた。
テーブルの下にも
どこにも落ちていなかった。
ぼくはコーヒーの乾いた跡を見つめた。
口のかたちのコーヒーの跡も、ぼくのことを見つめていた。
ひび割れ。
血まみれの鳩の死骸。


二〇一六年五月二十七日 「巨大なサランラップ」


巨大なサランラップでビルをくるんでいく男。なかのひとびとが呼吸できなくなって苦しむ。ぼくはなかにいて、そのサランラップが破れないものであることをひとひとに言う。ぼくも苦しんでいるのだが、そのサランラップは、ぼくがつくったものだと説明する。へんな夢みた。

ここだけが神のゾーン。エレベーター。

隣の部屋のひと、コナンだとか、2時間ドラマばかり見てる音がする。バカなのかしら?

ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』をまだ読んでいるのだけれど、SFというよりは、散文詩の長いものって感じがする。SF的アイデアはたいしたことがなくて、叙述が評価されたのだろう。いま読むと、最新の作家たちの傑作と比べて申し訳ないが、古い感じは否めない。でも、まあ、これ読みながら寝ようっと。

二〇一六年五月二十八日 「いつもの通り」


ひとりぼっちの夜。



二〇一六年五月二十九日 「一日中」


ずっと寝てた。


二〇一六年五月三十日 「カレーライス」


ティプトリーの初期の作品は、SFというよりは、散文詩かな。「接続された女」もSFだけど、なんだかSFっぽくない感じがする。これは、「男たちの知らない女」を読んでいて、ふと思ったのだけれど、ヴォネガット的というか、SFは叙述のためのダシに使われてるだけなのかなって。どだろ。

まだ、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』を読んでいるのだけれど、「男たちの知らない女」の途中のだけれど、叙述がすばらしい。いつか、ぼくの書いたものも、だれかに、「叙述がすばらしい」と思われたい。まあ、叙述など、どうでもいいのだけれど。

きょう、塾で小学校の6年生の国語のテキストを開いて読んでみた。冒頭に、重松清の『カレーライス』という作品が載っていて、読んだけど、中学生が作った作文程度の文章なのだった。びっくりした。たしか、なんかの賞を獲ってたような気がするのだけれど、ますます日本文学を読む気が失せたのであった。

ティプトリーの『愛はさだめ、さだめは死』誤植 318ページ3行目「昨夜の機械は」(『男たちの知らない女』伊藤典夫訳)


二〇一六年五月三十一日 「発語できない記号」


たいていの基本文献は持っているのだが、どの本棚にあるのかわからないし、文庫の表紙も新しくなっていて、きれいだったので買った。ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』(福田恒存訳)108円。「すべて芸術はまったく無用である。」 これ、ぼくのつぎのつぎの思潮社オンデマンド詩集に使おう。

ようやく、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』の再読が終わった。『全行引用詩・五部作・上巻』で引用していたところに出合って、なつかしい気がした。塾に行くまでに、ルーズリーフ作業をしよう。きょうの夜から、ティプトリーの『たったひとつの冴えたやりかた』を再読するつもりだ。

お風呂から上がった。これから塾だ。ミンちゃんにもらった香水、つけていこう。匂いがさわやかだと、気分もさわやかだ。

存在しない数(定義されない数)として、ゼロのゼロ乗が勇舞だけれど、存在しない言葉というものを書き表すことができるのであろうか。数学は究極の言語学だと思うのだが、そういえば、ディラン・トマスの詩で、ネイティブの英語学者でも、その単語の品詞が、動詞か形容詞かわからないものがあるという話を読んだことがあるのだが、そんなものは動詞でもあり、形容詞でもあるとすればいいんじゃないのって思うけどね。詩人は文法なんて無視してよいのだし、というか、万人が文法など無視してよいのだし。

ガウス記号を用いた [-2.65] をどう発語したらよいのかわからず、困った。しかし、数学記号を用いた表記には発語できないものも少なくなく、数学教師として、少々難儀をしている。たとえば、集合で用いる { } のなかの、要素と要素の説明の間の棒ね。あれも発語できない記号なんだよね。

きょうはホイットマンの誕生日だったか。アメリカの詩人で好きな詩人の名前を5人あげろと言われたら、ぜったい入れる。いちばんは、ジェイムズ・メリルかな。にばんは、エズラ・パウンドかな。さんばんに、ホイットマンで、よんばん、W・C・ウィリアムズで、ごばんは、ウォレス・スティヴンズかな。ああ、でも、エミリー・ディキンスンもいいし、ロバート・フロストもいいし、エイミー・ローエルもいいし、ぼくが数年まえに訳したアメリカのLGBTIQの詩人たちの詩もいい。そいえば、きょう読んだティプトリーの本に、ロビンソン・ジェファーズの名前が出てた。

レコーダーは、ロビンスン・ジェファーズの詩を低く吟じている。「"人間の愛という穏健きわまりないものの中に身をおくこと……"」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『最後の午後に』浅倉久志訳、短篇集『愛はさだめ、さだめは死』415ぺージ、6─7行目)

めっちゃ好きで、英語でも全集を持ってるエドガー・アラン・ポオを忘れてた。というか、ぼくの携帯までもが、そのアドレスがポオの名前を入れたものだった。(なのに、なぜ忘れる? 笑) ぼくも山羊座で、むかしポオに似ているような気がずっとしていたのだけれど。

ティプトリーの『たったひとつの冴えたやりかた』を読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!


詩の日めくり 二〇一六年六月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年六月一日 「隣の部屋の男たち」


お隣。男同士で住んでらっしゃるのだけれど、会話がゲイじゃないのだ。なんなのだろう。二人で部屋代を折半する節約家だろうか。香港だったか、台湾では、同性で部屋を借りるっていうのはよくあるって、なんかで読んだことあるけど。まあ、ゲイでも、ゲイでなくてもよいから、テレビの音を小さくして。とくにコマーシャルの音がうるさい。というか、テレビしかないのか。音楽が流れてきたこと、一度もない。会話は、会社のことなのか、だれだれがどうのこうのとかいった情報、ぼくが聞いて、どうすんのよ。と思うのだけれど。とにかく、テレビの音を小さくしてほしい。


二〇一六年六月二日 「たったひとつの冴えたやりかた」


ティプトリーの短篇集『たったひとつの冴えたやりかた』、タイトル作品、記憶どおりの作品。さいごまで読もう。残る2つの物語にはまったく記憶がない。これはSFチックだ。作家がすごいなと思わせられる理由のひとつとして物語がある。ぼくには物語が書けない。じっさいにあったことにしろ、なかったことにしろ、言葉についてしか書けない。


二〇一六年六月三日 「人生の速度」


きょうは、ティプトリーの『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』を読もう。『たったひとつの冴えたやりかた』の第二話と第三話はまったく記憶に残っていなかったものだった。読書で、ぼくの記憶に残っているものって、ごくわずかなものなのだなってことがわかる。まことに貧弱な記憶力だ。『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』も、むかし読んだのだけれど、まったく記憶がない。記憶に残らない可能性が高いのに、むさぼるようにして、ほぼ毎日、読書するのはなぜだろう。たぶん、無意識領域の自我に栄養を与えるためだと思うのだけれど、読むことでより感覚が鋭くなっている。感覚が鋭くなっているというよりは、過敏になっているというほうがあたっているような気がする。齢をとると、身体はボロボロになり、こころもボロボロになりもろくなっていくということなのかもしれない。ちょっとしたことで、すぐに傷ついてしまうようになってしまった。弱くもろくなっていくのだな。でも、それでよいとも思う。毎日がジェットコースターに乗っている気分だと、むかしから思っていたけれど、齢をとって、ますますそのジェットコースターの速度が上がってきているようなのだ。瞬間を見逃さない目をやしなわなければならない。瞬間のなかにこそ、人生のすべての出来事があるのだから。


二〇一六年六月四日 「2009年4月28日のメモ」


芝生を拡げた手のひらのような竹ほうきで、掃いていた清掃員の青年がいた。
頭にタオルをまいて、粋といえば粋という感じの体格のいい青年だった。
桜がみんな散っていた。
散った花は、花びらは少し透明になっていて
少し汚れて朽ちていて芝生の緑の上にくっついていた。
たくさんの桜の花びらが散っていた。
枝を見たら、一枚ものこっていなかった。
日が照っていて、緑の芝生が眩しかった。
でも、桜の花びらは、なんだか、濡れていたみたいに
半透明になっていて、少し汚れていた。
校舎の前のなだらかな坂道が、緑の芝生になっていて
ところどころに植えられた桜の木が
通り道のアスファルト舗装された地面や緑の芝生の上に
濃い影を投げかけていた。
ぼくは、立ち止まってメモを書いている。
桜の花びらが、みんな散っているな、と考えながら
芝生の上に目を走らせていると
校舎の2階や3階からなら見える位置に
百葉箱があるのに気がついた。
いまの勤め先の高校には、もう20年くらい前から勤めているのだけれど
まあ、途中9年間、立命館宇治高校や予備校にも行っていたのだけれど
この百葉箱の存在は知らなかった。
百葉箱がこんなところにあるなんて、はじめて知った。
百葉箱は白いペンキが少し変色した感じで
4、5年は、ペンキの塗り替えがされていないようだったが
ペンキの剥げは、まったく見当たらなかった。
4、5年くらいというのは適当だけど、4、5年くらいって思った。


二〇一六年六月五日 「風邪を引いた。」


風邪をひいたのでクスリのんで寝てる。本を読んでるから、ふだんと変わんないけど。岩波文庫の『ウィーン世紀末文学選』古い題材なのは仕方ないな。まあ、ゴシック怪奇ものをふつう小説とまぜまぜで読んでる感じ。買ったから読んでるって義務感的な読書だな。なぜか読みたい本はほかにあるのだけれど。いま、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻を読んでいる。緻密だ。あきたら、また『ウィーン世紀末文学選』に戻ろう。咽喉が痛い。きょうは早めに寝よう。岩波文庫の『ウィーン世紀末文学選』に載ってるシャオカルという作家の「F伯爵夫人宛て、アンドレアス・フォン・バルテッサーの手紙」(池内 紀訳)がおしゃれだった。さいごのページの「以上すべて私の作り話です。」って構成は、ぼくも真似をしたくなった。岩波文庫の短篇選に外れはない感じだ。


二〇一六年六月六日 「髪、切ってないから、こんどにする。」


これから河原町へ。5時に、きみやさんで、えいちゃんと待ち合わせ。早めに行って、ジュンク堂にでも寄ろう。

いま、きみやから帰ってきた。ちょこっと本を読んだら、クスリのんで寝よう。きのう、信号待ちしてたら、めっちゃタイプの子が自転車に乗ってて、まえに付き合ってた男の子に似ていて、ドキドキした。ああ、まだ、ぼくはドキドキするんだって、そのとき思った。そのまえに付き合ってた男の子から電話があって、「いま、きみやにきてるから、飲みにおいでよ。」と言うと、「髪、切ってないから、こんどにする。」との返事。いわゆるブサカワ系のおでぶちゃんなのだけれど、髪切ってるか切ってないか、だれもチェックせえへんちゅうの。ぼくはチェックするけど、笑。西院駅からの帰り道、「ひさしぶりです。」と青年から声をかけられたのだが、タイプではないし、ということは元彼の可能性はゼロだし、仕事関係でもないし、と思ってたら、ああ、ぼくはヨッパのときの記憶がないし、そのときにでもしゃべったひとかなって思った。酔いは怖し、京都は狭し。

秋亜綺羅さんから、ココア共和国・vol.19を送っていただいた。体言止めが多い俳句というものを久しぶりに見た。基本、ヘタなんだな。松尾真由美さん、相変わらず、意味わからない。ほかのひとの作品も、ぼくにはさっぱりわからない。これから岩波文庫『ウィーン世紀末文学選』を読みながら寝る。


二〇一六年六月七日 「オバマ・グーグル」


山田亮太さんから詩集『オバマ・グーグル』(思潮社)を送っていただいた。きれいな装丁。タイトル作は、発表時、だれかが批判的に批評していたけれど、その評者のことをバカじゃないのって思ったことを思い出した。詩というより、言語作品。方法論的に、ぼくと似ているところがある。抒情は違うけど。

いま塾から帰ってきた。朝からこの時間まで仕事だけど、実質労働時間は3時間半。いかに、通勤と空き時間が多いことか、笑。マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻、いま、94ページ目。読みにくくはないけど、読みやすくもない。でも、まあ、なんというか、犯人をまったく追わない警官だな。


二〇一六年六月八日 「ぼくの卑劣さ」


マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻、3分の2くらいのところ。緻密だけれど、P・D・ジェイムズほどの緻密さではない。読みやすくはないが、ユダヤ人の宗教分派について勉強もできる。人間の書き込みが深い。なぜ日本の作家には深みがないのだろうか。

まえに付き合ってた男の子が、きのう、あっちゃんちに泊まりに行っていい? と訊いてきたのだけれど、「いま風邪ひいてるから、あかんわ。」と返事した。付き合い直してる相手がいるとは、けっして言わないところが、ぼくの卑劣さかな。あした、その相手が泊まりにくるんだけど、風邪が治っていない。

ちゃんと、うがいとかして、風邪がうつらないようにしてよ、と言ってあるのだけれど、横で寝てたら、うつるわな。あしたには、風邪が完治していますように祈ってる。というか、風邪ひいてる相手のところに、ぼくなら泊まりに行かないかな。感覚のビミョウな違いかな。


二〇一六年六月九日 「2009年5月某日のメモ(めずらしく、日にちが書いていないのだった。日付自体ないものはあるけど。)」


女装のひとから、花名刺なるものをもらう。
その女装の人とは、もう20年以上前から顔を知っていて
ときどき、話をする人だった。
ぼくより6才、上だって、はじめて知った。
その人は、男だから、本来は花名刺って
芸妓が持つものなのだそうだが
花柳界ではその花名刺なるもの
細長い小さな紙に
上に勤め先の場所
たとえば祇園とか
店の名前とかが書いてあって
下に名前を書いた簡単なものなのだけれど
客が喜ぶのだという。
芸妓からもらうと。
芸妓って、もと舞妓だから
「お金が舞い込む」というゲンかつぎに
もらった花名刺を財布に入れておくのだという。
「なくさへんえ。」
とのこと。
ぼくもなくさず、いまも部屋に置いてある。
そのひとは宮川町出身で
まあ、お茶屋さんの町やね。
ぼくもそばの大黒町(字がこうだったか、記憶がないんだけれど)に
住んでたこともあったから、そう言った。
祇園に引っ越したのは、小学校の高学年のときだった。
ぼくの父親はもらい子だったのだけれど
もらわれた先の家が大黒町にあって
その家はせまい路地の奥のほうにあって
路地の入り口近くの魚屋が大家さんだったみたいで
長屋と呼ばれる、たくさんの世帯の貧乏人がいたところで
父親がもらわれた家の女主人は被差別部落出身者だった。
ぼくのおばあちゃんになるひとだけれど
血はつながっていないのだけれど
ぼくの実母も、高知の窪川の被差別部落出身者なので
なにか因縁を感じる。
ぼくは、おばあちゃん子だった。
花名刺をくれた女装のひとは
水商売をしていたのだけれど
あんまりうまくいかなかったわ、と言ってた。
九紫の火星やから水商売に向いてへんのよ、と言う。
だから、6年前から、花名刺をつくって
名前を「みい子」から
「水無月染弥」に替えたのだという。
6月生まれやから水無月という名字にして
下の名前の「弥」は
芸妓がよく使う名前やという。
男の名前に使われる「也」とは違うのよ、と言っていた。
替えてから、多少はうまくいくようになったという。
いまは、三条京阪のところにある友だちのところに勤めているという。
着物姿の女装のイメージが強くて
この日会ったときのワンピース姿は意外やった。
でも、シャキッとして、一本、筋の通った女装って感じで
お話をするのは、大好きなタイプ。
もらった花名刺って、いま長さを測るね。
横2.4センチ
縦7.5センチ
のもので
赤いインクで
鳥となんか波頭みたいなものが書かれていた。
これ、波ってきくと
「そうよ、鴨川の浪よ」
「この鳥は、じゃあ、水鳥なの?」
「これ、千鳥よ。
 千鳥って、縁起がいいのよ。
 だから描いてもらったのよ。
 ほら
 新撰組の歌にあるでしょ。
 鴨の川原に千鳥がさわぐ〜って」
このあとのつづきも、歌ってくれたのだけれど
血が、どうのこうのってあって
不吉なんと違うかなと思ったのだけれど
黙って聞いていた。
ぼくが目の前でメモをとるのも不思議がらずに
ぼくに一所懸命に説明してくれて
めっちゃ、うれしかった。
共通の敵の話も、このときにしたのだけれど
それは後日に。
お笑いになると思います。

花名刺
名刺屋さんでつくってもらって
まんなかを自分で切り抜いているのだという。
ふつうのサイズの名刺の大きさに印刷してもらって。

女性の名刺が
男性の名刺よりも小さいことも教えてもらった。
はじめて知った。
花名刺はもっと小さい。


二〇一六年六月十日 「文学極道で、年間最優秀作品賞というのをいただいた。」


文学極道で、年間最優秀作品賞というのをいただいた。とてもうれしい。→http://bungoku.jp/award/2015.html

文学極道の詩投稿欄にはじめて投稿した作品から、もう何年たつのだろう。この文学極道の投稿欄の巨大なカンバスがあったからこそ、ぼくの長大な作品も発表の機会を持てた。

文学極道にはじめて投稿した作品は、『The Wasteless Land.V』の冒頭100ページの詩になった。ここ1年くらい投稿している「詩の日めくり」のアイデアは、元國文學の編集長の牧野十寸穂さんによるものだが、継続してつくって発表できたのは、やはり、文学極道の詩投稿欄の巨大なカンバスがあったからだと思われる。おかげで、詩集にもまとめて出すことができた。詩集にまとめて出すことができたのは、大谷良太くんのおかげでもある。彼が発行者になっている書肆ブンから、『詩の日めくり』第一巻から第三巻までが明日、amazon で発売される。『詩の日めくり』はライフワークとして継続して詩集にまとめて出しつづけていくつもりだ。ただし、一部分、文学極道で発表したものとは違う個所がある。今回出したもので言えば、第一巻の一部がネット発表のものとは異なっている。


二〇一六年六月十一日 「記憶力がかなり落ちてきた。」


きょうはほとんど一日中ねてた。記憶力がかなり落ちてきた。きのう、なにか忘れてることがあったのだけれど、そのなにかをさえ、きょうは忘れてしまっていた。マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻もおもしろいのだが、読んでて、途中読んだ記憶がなくなっていて、これから戻って読むことに。


二〇一六年六月十二日 「カレーライス」


きょうの夜中に文学極道の詩投稿欄に投稿する新しい『詩の日めくり 二〇一六年四月一日─三十一日』を読み返していたら、このあいだ、ぼくが批判した『カレーライス』を書いた重松 清みたいだなって思った。まあ、単純な文章。というか、むずかしそうに書く能力が、ぼくには、そもそもないのかもね。あ、でも、重松 清の文章を批判した要点は、文章の簡素さにではなくて、感情のやりとりの形式化というか、こころの問題を、ひじょうに単純な関係性で語っていたことにあったのであった。こう書けば、こう感じるだろうと推測させる幅がめっちゃ狭くて浅いということ。見かけは、重松 清さん、めっちゃタイプなんだけど、笑。

きょう日知庵で、FBフレンドの方とお会いしたら、開口一番に、「あっちゃん、なんか詩の賞もらったって、おめでとう。で、いくらもらったの?」と訊かれて、ぼくじゃなくって、えいちゃんが、「ネットの詩の賞やから、お金なんかになってへんで。」って、なんで、ぼくより先に答えるのよ、と思った。

そうなのだった。お金になる賞をいただいたことは、一度もなかったのであった。けっこういい詩集を出してるというか、傑作の詩集をじゃんじゃん出しているのだが、どこに送っても、賞の候補にすらならなくて、30年近く、無名のままなのであった。

しかし、無名であるということは、芸術家にとって、ひじょうに大切なことだと思っている。芸術家で無名であるということは、世間では、ふつう、軽蔑の目で迎えられることが多くて、そのことが、芸術家のこころにおいて、戦闘的な意欲をもたらせることになるのである。

まあ、ぼくの場合は、だけどね。

さっき、セブンイレブンでペヤングの超大盛を買ってきて食べたら、おなかいっぱいになりすぎて、吐き気がしてきたので、大雨のなか、となりの自販機でアイスココアを買ってきて部屋で飲んでたら、またおなかいっぱいになって、ぼくはどうしたんだろうと思って、おなかいっぱいだよ。


二〇一六年六月十三日 「箴言」


なかったことをあったことにするのは簡単だけれど、あったことをなかったことにするのは簡単じゃない。


二〇一六年六月十四日 「血糖値」


3月31日の健康診断の結果を、きょう見た。血糖値が正常値に近くなっていた。セブンイレブンのサラダのおかげだと思う。きのう、ペヤング超大盛を食べたことが悔やまれる。ぼくは運動をまったくしないからね、食べ物の改善だけで血糖値が80も下がったのであった。もう血糖値が230もないからね。

ということで、きょうの夜食は、セブンイレブンのサラダ2袋のみなのであった。お昼にいっぱい食べたしね。夜は抜くつもりで。でも抜くのはつらいから、サラダだけにしたのであった。

帰りの電車のなか、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻を読んでいた。途中で乗ってきた二十歳くらいのノブユキに似た少しぽっちゃりした青年が涙をためた目で、隣に坐ったのだった。青年はときどき洟をすすっていたが、明らかに泣いた目だった。恋人と悲惨な別れ方でもしたのだろうか。

ぼくは、ときどき彼の表情を観察した。貴重な瞬間だもの。涙が出るくらいの恋愛なんて、一生のあいだに、そう、たびたびあるものではない。少なくともぼくの場合では、二度だけ。抱きしめてなぐさめてあげたかった。でも、まあ、電車のなかだしね。観察だけしていた。

マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻さいしょの方で、ようやく被害者がゲイだったことがわかる。ここからまた、どうなるのかわからないけれど。まあ、書き込みのすさまじい小説である。きょう、仕事場で、机のうえにあった日本の作家の本をひらいて、ぞっとした。会話だらけで、スカスカ。

きょう、学校からの帰りの通勤電車のなかで見た、泣いてた男の子、いまくらいの時間にも、まだ悲しいんやろうか。他人のことながら、切ない。洟をすすり上げながら窓の外をずっと見てた。涙がこぼれるくらいに、目に涙をためて。かわいらしい、美しい景色だった。人生で最高の瞬間だっただろうと思う。

マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻のつづきを読みながら寝よう。読みやすくはないけど、よい作品だと思う。まわりで、読んだってひと、ひとりもいないけれど。というか、ぼくのまわりのひとって、5人もいないのだった。すくな〜。大谷良太くんと竹上 泉さんとは共通してるもの多いかな。大谷くんとは詩で。竹上さんとは小説で。

きょう、amazon の自分のページをチェックしていたら、『The Wasteless Land.』と『詩の日めくり』第一巻から第三巻までが1冊ずつ売れてた。買ってくださった方がいらっしゃるんだ。励みになる。


二〇一六年六月十五日 「ブラインドサイト」


五条堀川のブックオフで、ピーター・ワッツの『ブラインドサイト』上下巻を買った。ともに108円。108円になったら買うつもりの本だった。吸血鬼や平和主義者の軍人や四重人格の言語学者や感覚器官を機械化した生物学者や脳みそを半分失くした男たちが異星人とファーストコンタクトする話だ。

だけど、まだ、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』の下巻を読んでいる。ワッツの小説も、つぎに読むかどうかは、わからない。

いま日知庵から帰った。マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻を読み終わった。重厚な作品。つくり込みがすごかった。こんなん書くの、めっちゃしんどいと思う。ぼくも小説を書いてたけど、詩みたいにつぎつぎと情景が浮かぶわけでもなく、1作を書くのに数年つかってたりしたものね。

これから書くことになる『13の過去(仮題)』が●詩の予定だから、これが小説っぽいと言えば、小説っぽいかも。でもまあ、小説とも、また詩とも言われず、ほとんどスルーで、それでも、一生のあいだ、書きつづけていくのだなあと思う。それでいいか。それでいいや。

そだ。日知庵で、男の子が泣いてる姿がめずらしいと言ったら、女性客がみな、「女はふつうにたくさん泣くのよ。」と言うので愕然とした。そうか。男と女の違いは、ストレートか、ゲイか以前の問題なのか、と、ちらっと思った。ぼくは2回しか泣いたことがなかったから、自分の体験と照らし合わせてた。


二〇一六年六月十六日 「ようやく、コリン・ウィルソンの「時間の発見」をルーズリーフに書き写し終わる。」


右脳と左脳の違い。
ちいさい頃からダブルヴィジョンに驚かされていた自分がいて
それが、そんなに不思議なことではないと知って
ちょっと安心。
つまり、ふたりの自分がいるということね。
いつも、自分を監視している自分がいると感じていたのだけれど
ほんとにいたんやね。
左脳という存在で。
きのう
日記に書かなかったことで
ひとりのマイミクの方には直接、言ったのだけれど
西大路五条の交差点で
東寺のブックオフからの帰りみち
トラックに轢かれそうになったんやけれど
横断歩道にいた歩行者の顔がひきつっていたり
トラックの運転席の男の顔がじっくりと
ゆっくりと眺めていられたのだけれど
時間の拡大というか
引き延ばされた時間というのか
それとも意識が拡大したのか
おそらく
物理時間は短かったんやろうけれど
意識の上での時間が引き延ばされていて
何年か前にも
背中を車がかすって
服が車に触れたのだけれど
車に轢かれるときの感じって
おそらく、ものすごく時間が引き延ばされるんやろうね。
だから、一瞬が永遠になるというのは
こういった死そのものの訪れがくるときなんやろうね。
じつは
トイレがしたくて
(うんち、ね、笑)
信号が変わった瞬間に渡ったのだけれど
トラックがとまらずに突進してきたのね。
きのう、轢かれてたら
いま時分は、ぼくのお葬式やね。
何度か死にかけたことがあるけど
何度も、か
なかなか、しぶとい、笑。


二〇一六年六月十七日 「こぼれる階段」


唾液の氷柱。


二〇一六年六月十八日 「彼は有名な死体だった。」


真空内臓。
死体モデル。
液化トンネル。
仕事はいくらでもあった。
彼の姿が見かけられない日はなかった。
彼はひとのよく通る道端に寝そべり
ひとのよくいる公園の河川敷のベンチに腰かけていた。
しょっちゅう、ふつうの居酒屋に出入りもしていた。
いつごろから有名なのかも不明なのだけれど
いつの間にか人々も忘れるのだけれど
ときどき、その時代時代のマスコミがとりあげるから
彼は有名な死体だった。
彼とセックスをしたいという女性や男性もたくさんいたし
じっさいに、多くの女性や男性が彼とセックスした。
彼とセックスした女性や男性はみんな
死体と寝てるみたいだと当たり前の感想を述べた。
したいとしたい。
死体としたい。
しないとしたい。
液化したトンネルの多くが彼の喉に通じていて
彼の喉は深くて暗い。
彼の喉をさまざまなものが流れていった。
腐乱した牛の死骸が目をくりくりと動かしながら流れていった。
巻紙がほぐれて口元のフィルターだけがくるくると旋回しながら流れていった。
パパやママも金魚のように背びれや尾びれを振りながら流れていった。
真空内臓の起こす幾つもの事件のうちに
いたいけな少女や少年が手を突っこんで
金属の歯に食いちぎられるというのがあった。
寝ているだけの死体モデルの仕事がいちばん楽だった。
寝ているだけでよかったのだから。
真空内臓をときどき裏返して
彼は瞑想にふけった。
瞑想中にさまざまなものが彼にくっついていった。
よくある質問に
よくある答え。
中途半端な賛美に
中途半端な悪評。
そんなものはいらないと真空内臓はのたまう。
彼は有名な死体だった。
彼が死体でないときはなかった。
彼は蚊に刺されるということがなかった。
なんなら、蚊を刺してやろうかと
ひとりほくそ笑みながら
宙を行き来する蚊を眺めることがあった。
しかし、彼は死んでいた。
ただ、死んでいた。
いつまでも死んでいたし
彼はいつでも死んでいたのだが
死んでいるのがうれしいわけではなかった。
しかたなしに死んでいたのだが
けっして、彼のせいではなかったのだ。


二〇一六年六月十九日 「わたしたちは一匹の犬です」


わたしたちは一匹の犬です
彼らは一匹の犬です
あなたたちは一匹の犬です
Wir sind ein Hunt.
Sie sind ein Hunt.
Ihr seid ein Hunt.
ドイツ語が貧しいと
日本語が笑けるわ
基本をはずすと
えらい目に遭うわ
ううううんと苦しむわ
ということは塩分の摂りすぎ?
けさ
住んでるところの
すぐ角で
ごみ袋を漁ってた鴉が
「あっちゃん天才!」って啼いて
けらけら笑って飛んでいったので
びっくりしました
だれがあの鴉を飼っているのかしら
まあ
「1000円貸してくれ」
って言われないだけましやけどね
まったくバイオレンスだわ
太陽の中心の情報を引き出そうとして
その引き出し方を忘れてしもたって?
この役立たず!


二〇一六年六月二十日 「ブラインドサイト」


ピーター・ワッツの『ブラインドサイト』上下巻を読んだ。さいきん読んだ本のなかで、もっともつまらなかった。


二〇一六年六月二十一日 「優れた作品の影響」


少し早めに着くと思って、塾には、岩波文庫の『ハインリヒ・ベル短篇集』を持って行ってた。15分くらいあったので、短篇、2つ読めた。「橋の畔で」と「別れ」である。前者のアイデアはよいなと思った。後者の抒情もよい。寝るまえに、つづきを読んで寝よう。たぶん、この短篇集を買ったのは、ハインリヒ・ベルのすばらしい短篇が『Sudden Fiction 2』に入っていたからだという記憶があるのだが、どうだろう。目のまえの本棚にあるので調べてみよう。あった。「笑い屋」という作品だった。きょう読んだ「橋の畔で」もわずか4ページ、「別れ」も6ページきりの作品だった。

ハインリヒ・ベルの「知らせ」という短篇を読んで思いついたコントである。このように、すぐれた著者は、読み書きする人間に、よいヒントを与えるのである。ちなみに、「知らせ」は、戦友の死を遺族に知らせに行く男の話である。

マンションの5階では、独身者たちが大いに騒いでいた。自分の酒の量を知らない者がいて、気分が悪くなってソファにうずくまる者もいれば、はしゃぎすぎて、周りの人間が引いてしまう者もいた。わたしはマンションを見上げた。バルコニーで、男が何かを拾おうとして身をかがめた。女が彼に抱きつこうとして虚空を抱き締めて落ちてきた。わたしの到着とちょうど同時に、わたしの足元に。わたしは、いつも必要な時間にぴったりと到着する律儀な死神なのである。肉体から離れていく彼女の手をとって立たせた。裁きの場に赴かせるために。


二〇一六年六月二十二日 「内心の声」


授業の空き時間に、ハインリヒ・ベルの短篇「X町での一夜」「並木道での再会」「闇の中で」の3作品を読んだのだが、どれもよかった。どの作品も、知識ではなく、経験がある程度、読むのに必要かなと思える作品だった。大人にしかわからないものもあるだろうと感じられた。これこそ、岩波文庫の価値。

きょうは、ハインリヒ・ベルの短篇集のつづきを読みながら寝よう。いま読んでいるのは、「ローエングリーンの死」。もっと早く読むべき作家だったと思うが、ふと、ひとや本とは出合うべきときに出合っているのだ、という声をこころのなかで発してた。


二〇一六年六月二十三日 「カレーライス」


きょう、大谷良太くんちに行った。カレーライスをごちそうになった。おいしかったよ。ありがとう。これからお風呂に入って、それから塾へ。塾が終わったら、日知庵に行く予定。


二〇一六年六月二十四日 「齢か。」


いま日知庵から帰った。ここ数週間、体調が悪い。いまだに風邪が治らない。齢か。


二〇一六年六月二十五日 「ああ、京都の夜はおもしろいな。」


数学のお仕事より詩を書く方がずっと簡単なので、きょうの夜はつぎの文学極道に投稿する「詩の日めくり」をつくろう。日知庵からきみやに行く途中、むかし付き合った子と出合ったけれど、その子はいま付き合ってる子といっしょだったので、目くばせだけして通り違った。ああ、京都の夜はおもしろいな。


二〇一六年六月二十六日 「ぼくはロシア人ばあさんの声を出して笑ってた。」


いちごと人間のキメラを食べる夢を見ました。蟻人間を未来では買っていて、気に入らなければ、簡単に殺していました。ロシアが舞台の夢でした。いちごを頭からむしゃむしゃ食べる姿がかわいらしい。齢老いたほうの蟻人間が、「ぼく、冬を越せるかな。」というので、「越せないよ。」とあたしが言うと情けない顔をしたので、笑って、ハサミで首をちょんぎってやった。ぼくはロシア人ばあさんの声を出して笑ってた。

数学の仕事、きょうやる分、一日中かかると思ってたら、数時間で終わった。

7月に文学極道に投稿する新しい「詩の日めくり 二〇一六年五月一日─三十一日」をつくっていた。


二〇一六年六月二十七日 「受粉。」


猿であるベンチである舌である指である庭である顔である部屋である地図である幸福である音楽である間違いである虚無である数式である偶然である歌である海岸である意識である靴である事実である窓である疑問である花粉。

猿ではないベンチではない舌ではない指ではない庭ではない顔ではない部屋ではない地図ではない幸福ではない音楽ではない間違いではない虚無ではない数式ではない偶然ではない歌ではない海岸ではない意識ではない靴ではない事実ではない窓ではない疑問ではない花粉。

猿になるベンチになる舌になる指になる庭になる顔になる部屋になる地図になる幸福になる音楽になる間違いになる虚無になる数式になる偶然になる歌になる海岸になる意識になる靴になる事実になる窓になる疑問になる花粉。

猿にならないベンチにならない舌にならない指にならない庭にならない顔にならない部屋にならない地図にならない幸福にならない音楽にならない間違いにならない虚無にならない数式にならない偶然にならない歌にならない海岸にならない意識にならない靴にならない事実にならない窓にならない疑問にならない花粉。


二〇一六年六月二十八日 「Gay Short Film The Growth of Love」


きょう、日知庵での武田先生語録:恋愛結婚というルールができると、恋愛結婚できない人間が出てくる。

2016年6月18日メモ 日知庵での別々のテーブルで発せられた言葉が、ぼくのなかでつながった。「食べてみよし。」「どういうことやねん。」

チューブで10時くらいから連続して再生しているゲイ・ショート・フィルムがあって、10回くらい見た。9分ちょっとの映画。猥褻とは無縁。切なさがよいのだ。ぼくも、「夏の思い出。」とか書いたなあ。チョーおすすめです。

Gay Short Film The Growth of Love


二〇一六年六月二十九日 「Gay Short Film The Growth of Love」


Gay Short Film の The Growth of Love を、きのうはじめて見て、それから繰り返し、きょうも何度も見てるのだけれど、いま、ふと、ジョー・コッカーのユー・アー・ソー・ビューティフルを聴いているときの感覚に似ているかなと思った。繰り返し見てる理由かな。

『ハインリヒ・ベル短篇集』を読み終わった。よかった。今夜から、岩波文庫の『モーム短篇選』上巻を読む。

きょうは塾だけ。それまでに数学の問題をつくっておこう。きのう、寝るまえに、モームの短篇、一つだけ読んだ。まあ、わかるけれど。という感じ。モームの意地の悪さは出ていない。ぼくはモームの意地の悪さが好きなのだ。時間的に、きょう、読めるかどうかわからないけれど、期待している。


二〇一六年六月三十日 「Gay Short Film The Growth of Loveの続編」


マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻の178ページに、「煙草の袋に」という言葉がでてくるのだが、この「袋」を、さいしょ、「姿」だと思って、「煙草の姿」って、なに? 煙のこと? と思って、読み返したら、「姿」ではなく「袋」だったので、ふと、「袋」と「姿」が似てるなと思った。

塾の往復一時間、とぽとぽ歩きながら、Gay Short Film の The Growth of Love の魅力について考えていた。ささいなこと、ちいさなことでも、そこにこころがこもっていれば、大きな力になる、ということかな。それを見せてくれたのだと思う。ふたりが付き合うきっかけも、ささいなことだったし、ふたりが別れることになったのも、ちいさなことがきっかけだったのだと思う。日常、起こる、すべてのことに気を配ることはできないものだし、また気を配るべきでもないことだと思うが、しかし、日常のささいなことの大きさに、ときには驚きはするものの、そのじっさいの大きさについては、あまり深く考えてこなかった自分がいる。ということなど、つらつらと考えていたのだが、もう55歳。深く考えてこなかった自分がいるということが、とてつもなく恥ずかしい。ああ、でも、深く考えるって、ぼくにはできないことかもしれないと、ふと思った。Gay Short Film の The Growth of Love に登場するふたりのぎこちない演技がとても魅力的だった。ぎこちなさ。ぎこちないこと。ありゃ、この言葉を使うと、ぼくの詩に通じるか。52万回近くも視聴されている短編映画と比較なんかしちゃだめなんだろうけれど。続編があったらしいのだけれど、いまは削除されている。残念。見ることができなかった。9分ちょっとの短編映画だけれど、ぼくの感覚に、感性に確実に残って影響するなって思った。というか、もともと、ぼくのなかにあったセンチメンタルな部分を刺激してくれる、たいへんよい映画だったってことかな。あのぎこちなさも演技だったとしたら、すごいけど。いや、演技だったのだろうね。きっと。でなきゃ、52万回も、ひとは見ないだろうから。

Gay Short Film の The Growth of Love の続編をネットで検索して、探し出して見たのだけれど、さいしょの作品だけ見てればよかった、というような内容だった。役者がひとり替わっていたのだが、その点がいちばんひどいところだと思う。その男の子のほうがタイプやったからね、笑。


二〇一六年六月三十一日 「すべての実数を足し合わせると、……」


すべての実数を足し合わせると、ゼロになるのであろうか。


、記

  玄こう


 *

 からだをつかえばよいものがうまれる。あたまをつかえば、よいものもわるいものもうまれる。
 皆がみなそうやってきたことが後になって気づかされたとき、がっかりな、
仕事の手足が、遠くで置いてきぼりをくっていた。バラバラ、バラバラ、に架橋をくぐる、線路をみおろす、はらわたが石綿のように捩じ込まれた傷みの今のこの心地。心配事を吹っ切らすため、橋の階段をおりていく、『右踵あげます、前に出します、降ろします。左踵あげます、前に出します、降ろします。』身体のひとつひとつの動作を、ゆっくりこなしながら、頭でじっくり確かめ、言葉で実況していく。21:00頃

 昨日見た惑星は、木星と金星だったようだ。何年ぶりだろ、深夜本屋で開いた天文ガイド、星図の記号をなつかしむ。5月21日に朝7:30 太平洋ベルト付近で金環日食だそうである。以降2041年まで待たないと日本では無理なようだ。
 数理と天文が太古に、結ばれ、分岐し、交差し、よられ、とかれ、人間の歴史的現在――現として在るもの。
 わたしの人間の記憶は過去という虚構であり、一歩その先の未来という人間のわたしの虚像は幻である。

 幻を視る   幻を視る
 そして観る  そして観る
 そして診る  そして診る
 こころみる  こころみる
 そしてまた  … …

 … … 知識や頭によって選り分けられた多くの次元を一元化させることは、机上においてあまりよい仕事の結果を生まないであろう。
 粒子性とも波の性質ともよべる光がまた別の物性の次元で、また違った別の世界をつくっているんだろう。
 例えば身体の五感を、視覚聴覚嗅覚味覚痛覚と選り分けられた、それらすべての性質を兼ね備えた別の第六感が、わたしの知らない世界をつくり、つくりかえているんだろう。1:51
明日がやばいので寝る。

 記、2013・03・13



 **

なにしゃべってるかわからへんし、
なにしゃべってるかわからへんし、
なにしゃべってるかわからへんし、

たぶんえぇひとやろ。
たぶんえぇひとやろ。
たぶんえぇひとやろ。

この街さらさらさらさらさらされよう
ざらざらざらざらざらつくひよりみ
ひだまりさんさくうつくしいひと
うつくつしているなんともうつくしくちらつくしらじらと
したまちのおちつきようがなんともくちびるむすんでなんにちもなんにちもなんにちも
ひらかぬくちになにもないものなにもないもの

ゆきしのみちをそそとゆきすぎはおりをめしてはかまをはいてうらわかいせいじんたちのにすがたがとおくでなんにちもなんにちもとおくでねがっていたむごんでほうちしただれかのおくびがいくとせとわすれてしまったかたすみからよみがえり一杯珈琲とミックスサンドを頼む。

『ハイチーズ』(^^v 写る娘を携帯で見合い初孫を抱きあやすたったいちどきりの幸せなふたりの笑い声が、たかなっていた喫茶店のむかうのテーブル席で喜びをきたす母とおぼし年歳と娘とおぼし二十歳の成人を祝うことのこの日。

おかえりなさい
おかえりなさい
おかえりなさい

しとねのひるのねまくらくびすじねちがへたどんつうかまけておくびにつかれてかおをぶたぶたぶたれたこぶたこぶぅたこ、わすれかけたこうとうぶがちぃととちとちとくるうおしげしょうむな喫茶をでて南向きにむねかざりをつけしげしげでていった。あとどれくらい?ひさしいひよりみたぶんあのひとはえぇひとやろあぁたぶん誰よりも何よりもなんにちもなんにちもなんにちもまったかひあってかがやくんだ。ゆきさきはちがえど花の咲く居酒屋暖簾をまたしてもくぐりねけ咳をしてゆかりのかんばせを空にまたたく耳からでてきたよじりあう星星を、俺はいったい、いったい

なにしゃべってるかわからへんし、
なにしゃべってるかわからへんし、
なにしゃべってるかわからへんし、

たぶんえぇひとや
ただいまおかえり
いつものおはなし

〓寝ながら聴いて寝る
自動で更新されるMENU
眠りながら記事を.T消灯
AM00:22 目覚ましAM06:30

 記、2013・01・09





..


フラジャイル

  田中恭平



夕方、祭りは夢を孕む
透明な小さな袋の中に
少女のすくった金魚が四匹在る
少女がその袋をあまり揺らさぬよう
ていねい祭りから去るところを
神が見ていた


今朝
目覚めると水の中だった
水と水のぶつかることは
水の中にないのだと知った
(勘違い、かもしれないけれど)
わたし
あなた
かれ
かのじょ
それを見つめる少女はわれらの
比喩か
それら少女を含めたわたしらを
神が見ていた
そしてその神をふくめたわたしたちを見つめるものが
誰かが わたしには知れなかった


白夜

 白夜が、夏の季語であると知ったのは最近
 この語がほんとうの白夜を示すものなのか
 比喩としての白夜なのか
 私はそのことを知る為に検索エンジンを使おうとは
 思わない
 ? 何の話か
 検索エンジンに昔の友人や恋人の名前を
 打ち込んでしまった過去は そこにとどまり
 陽は夜にあってもずっと、ずっとそれを照らすのだ 
 恥ずかしい
 果実のように恥ずかしい

 でももしもあなたが元気でいたらと
 そう祈りつづけつつ
 何か他のことをしています



只の夜

川はまるで時間のように流れるが
口語自由詩の内在律か
うねりブツかりおじけづき、切れ
川に流され運ばれて導かれることは
あなたを導くことになるのだとしたら・・・そんな大仰な!
わたしらの哀しみを 怒りを
この川一本のさびしさの中
 ( ──まっすぐな道でさびしい  種田山頭火 )
ネガティヴを
オルタナティブにできるかな
神の力でなく
その神を上から見つめるなにがしかの力でなく
わたしの
弱さという
ただそれだけの
はかなくつたなくしどけない力で

 


ひふみよ。

  澤あづさ

。ひ
。蒲松齢『聊斎志異』第四巻所収『書癡』
。立間祥介訳邦題『書中の美女』から

眇。瞑らず、眇眇と。見かぎる横目で見えない片目の、まぶたを縦に見たてるように。偏見。泣き濡れたまつ毛がよこぎり、ほつれた傷をよこしまに縫い。綴じた口から、いきが漏れると夢を。やみ。ひらきだす瞳孔から、ひらいていた盲点たちへ、めぐる琴線を星座と呼ぶ。よる。傍訓が降り、読点にまみれて。文脈を打ち曲に解かれて

空まわる、よみ

渦を、穿つ一行

ミルキイウエイ、牽牛

のの字に、巻き込まれた

星は、織女だった
絶弦した韋編の
きれ目が、眇めた紗の
栞はこと座にあった

書癡の
まぶたの
下樋
ねを、はり
あげる、さか
まつ毛の経


(中華の栞は「顔如玉」と詠まれ、カムリは「顔如華」ブロダイウェズなる梟を詠んだ。書癡の誤読で編まれた妻と、三つの花から捏造された妻、いいか伏線を張るから見おろせ。その梟を詠んだ国は、英語に Wales と呼ばれている。その語源を古英語 Wealh ラテン語 Volcae ギリシャ語 Κελτοι までさかのぼって『よそ者』と読まれている、いいから見くだせ! そのよそ者がその国語に Cymru と、その語源をブリトン祖語 Combrogi (同郷) までさかのぼって『同胞』と。いまだ詠まれている、わかったか。どうでもいいと。どうせだれでもよかったんだおまえも




。ふ
。Lyfr Gwyn Rhydderch より『Math uab Mathonwy』
。中野節子編訳『マビノギオン 中世ウェールズ幻想物語集』所収
。「マビノーギの四つの物語」第四話「マソヌウイの息子マース」から

と思いましたがやはり気に入りません。いいえ中野節子はありがたい人です。「Llew Llaw Gyffes」を「フリュウ・フラウ・ギフェス」など表音した重訳家の井辻朱美とは────なにせ重訳は、引用の複雑な織物ですので────わけが違います。この書のためにウェールズへ留学までした人ですから、「Llew Llaw Gyffes」も「スェウ・スァウ・ゲフェス」と、気合いのほどが並なりません。わたしもうっかり興奮し、中野の底本をウェブで拾い、独自研究までしたので表音せずには気もすまない

「Dar a dyf y rwng deu lenn,
 Gorduwrych awyr a glenn.
 Ony dywedaf i eu,
 O ulodeu Lleu ban yw hynn.」
http://titus.uni-frankfurt.de/texte/etcs/celt/mcymr/pkm/pkm.htm?pkm004.htm

「一本の樫の木が、二つの湖のあいだで育つ。
 空と谷とに、その深い影を落として、
 わたしの言葉に、まちがいなくば、
 スェウの花から、こんな状態がおきたのだ。」
(上掲書 p129)

違う。Lleu は「スェウ」と違う「スェイ」です。さらには「樫」もオークですのでむしろ楢かと思いつつ、そうした和訳のお約束には強いて逆らうまいとしてもね。ウェブで拾った中野の底本によれば、かれは母のまえで鷦鷯の足を射抜き「ys llaw gyffes y medrwys y Lleu ef.」(この光は的を射た腕利きだ)と称えられたゆえに「Llew Llaw Gyffes」(腕利きの獅子)の名を得たのでした。実名敬避俗の慣例で言えば、「獅子」が字(あざな)で「光」が諱(いみな)、いいえ漢語圏じゃありません。古代ケルトの物語は、なべて口承でしたので、(書きとめられたのが中世なので、中野の訳書の副題が、)位牌に彫られた戒名などはどういう意味でもどうでもよかった。一説によれば言葉は、特に魔力を持つ詩は────それは上記の表音通り、韻文であり本来の「詩歌」であるので────字に書かれると力を失うのだそうで。墓場なんです「ふみ」というのは、「文」と「書」と「史」のいずれにおいても、ええまあここは日本語ですから

中野の底本でかれは終始
Llew(獅子)と呼ばれただ一場面
「かれが詩に歌われたとき」のみ
Lleu(光)と呼ばれている

この恋情やみがたい詩情は、わたしがみずからウェブで拾った中野の底本をCtrl+Fで徹底調査し発見したので、ウィキペディアの英語版にもウェールズ語版にも載っていません。なにせあそこは独自研究禁止の百科でそれどころか、「Llew(獅子)は誤記」と断言されていますウィキペディアの英語版に。英語圏のどいつもこいつも Lleu(光)に目をくらませやがって、中野の底本も鑑みない。日の本への恋路がひらいていない。もはや太陽に顔向けできまい光毒の花あの顔如華のように。題名の男なら呪われています。理由は書かれていませんが、マソヌウイの息子マースは、ひとりの乙女の膝に両足を載せておかないことには、生きていられない体なのでした。中野のありがたい訳注によれば

「足持ち人というのは、中世には普通に見られる召使いの一人であった。ウェールズの宮廷においては、男性である場合が多く、マッサージ師のような役目を兼ねて、食事をとる間の足載せ台の役割もはたしていたと思われる。ここに述べられたゴイウィンのような役目をする乙女の記述は、この物語が書きとめられた当時には、他に類を見ない。したがってこんなところからも、この話が、書きとめられるずっと以前から語られていた物語であることが推察される。」(上掲書 p422)

ゴイウィンは顔如華ではありません。引用やみがたく語りえない




『み
』から

JKリフレ『ゴイウィン』どう考えても儲かりそうにない。場末の整体屋で『指圧の心は母心、押せば命の泉湧く』ジェット浪越の余波に溺れ、拇指を三回ぶっ壊し終えたころ。あなたがたに会った。「妊娠。してるんですけど、」ベビードール。裾広がりのワンピースと、とても上手に隠れたおなかに。きっと二度と会わない。「むくみすごくて。肩もすごい凝るんです。あと背中の、」背中の。「背中の。羽が生えるとこ、」隣り合い、向き合わない、肩甲骨たちの内縁から。いつか羽がひらくんじゃないかと、わたしも乙女のころ考えたけれども「妊娠。してるんですけど、」あなたの肩井は傘ではなかった。あなたの血が打つ点字で読んだ。おなかを守るように、腰かけた猫背がなで肩を落とし、ふさぎこんでいた経気の井戸。冷えたバターをとろかすように、拇指を。四秒、まっすぐぬくもりを集めて。ぬかるむ『命の泉』母心はライヴのカウント、ワン。ツー。フォースリーツーワン

泣きだした妊婦の湧泉をご存じですか。「リフレも。できますか、」できますよ。アロマオイルはどうしましょうか、「ネロリ、」橙の花から蒸留されたネロリは、足の裏に塗るような値段ではない。ぺたんこバレエシューズのなかで、あなたの母趾はひどく外反していた。「って。オレンジブロッサムですよね。イギリスの結婚式の、」あなたがそう言いたいのなら、わたしに返す言葉はない。それが経済ってもんだろう。地に足つかないハイヒールに、はまれなかった土踏まず、あの日。オレンジとマンダリンをプチグレンに混ぜ、捏造した高嶺の花。そうプチグレンは橙の枝葉から蒸留され、場末で偽和されネロリとも呼ばれている。同じ木だから葉まで香る華、如玉。「おねえさん。細いのに。すごい力、」あなたのほうが細いんですけどね。「あたしも。ダイエットしてたんだけど、」贅肉だと、思いたかったんですね、あるいは贅物だと「結婚式、」そうなんですね。「するはずだったから、」そうなんですね。わたしはこのあいづちが嫌いだ「でも。」そうなんですね。返す言、葉が

蒸留されこぼれる香。如華。ぬかるむあなたの肩井から、われ鐘のように嗚咽に打たれて、湧泉まで寄ったなみ。だ。水を油ですべりながらあの日。あなたのむくみと摩擦して、わたしの手にだけ焚かれた熱で。漣のうねへ散り蒔いた、代代の petit grain(一粒種。(異物だね。))悪阻のように。昇華しますように。彩雲の織姫、他愛ない経済ふるい落とされる雨の経(たていと)がしきる場末に、よりをかけて緯(よこいと)を織り込み。波紋を広げる、羽衣は縮緬よりによって。凝縮しますように『指圧の心は母心(わが子ならだれでもいいはずだ母なら(女(子)き)がついているだろうか)きみ。空まわる地球のコアに、振りまわされて黄身返し。羽の生える内縁へ、外反した代代いろの娘、あのひ。いふうみい。よん秒の字たらず、八拍の字あまりで。彼方(あなた)の経気を引喩した、この指の名は拇指。はは
。は



)よ
。都都逸『おろすわさびと恋路の意見きけばきくほど涙出る』から

 ことなりて紅涙ふるふ筆おろし
  狂るる琴はや結びふみ
  揺るる線にや星座する
  指折りしをり爪あとを
  痛手に解き織れうたへ
ひイ
ふウ
みイ

、かみなりて焦がれまた焚き「漣漣と酔ひ独りまつ毛をむしるほど
             「恋恋と『彼方。手酌できけばきくほど
                 『われがね。和寂(わさび)ちぎる

。いろはにほへとちりぬる緒
。和か
。世たれそつねならむ







、補遺

、ひ。顔如玉について
、出典『書癡』あらすじ

、彭城の郎玉柱は、琴も酒も碁もおぼえず父祖の蔵書にしがみつく、朴念仁の書癡であった。真宗皇帝の勧学文の写しを、傷まぬよう紗で覆って座右とし、その朗誦を日課としていた。かれは勧学文の説く「書にはすべてがある」との比喩を、文字通りに信じていた。そのため、科挙に落ちようが縁談が破談しようが、思い悩まずにすんでいた

、そのような玉柱の周辺で、天上の織女が逃げ出したとの噂が流れ出したある夜のこと。『漢書』八巻を読みふけっていた玉柱は、書に挟まれていた美女の切り絵を見つけた。紗でつくられた切り絵の裏には、細い字で淡く「織女」と書かれていた。それで玉柱は、これぞ勧学文の謳う「書中有女顔如玉」(書中には玉のような顔の女がいる)に違いないと惚け、以来、寝食も忘れて切り絵の美女を眺める日々を送った。するとある日、突如、美女の切り絵が起き上がり、(以下割愛)

、真宗皇帝の勧学文は、漢詩であり詩歌であって、すでに訓読が書き下されている。「これとまったく反対に、現代の書き手は、テクストと同時に誕生する。」「テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である。」「あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある。」(ロラン・バルト/花輪光訳『物語の構造分析』みすず書房 p84-89)


、ふ。顔如華について
、出典『マソヌウイの子マース』独自研究

、ブロダイウェズ(Blodeuwedd)の名は、中世ウェールズ語で blodeu(花々)gwedd(のような顔つき)を意味する。 かの女は、オーク(力の象徴)とエニシダ(美の象徴)とメドウスイート(慈愛の象徴)の花々から、魔力によって生み出された「この世のものならず美しく芳しい乙女」である。その語義と、それら花々の花季や象徴が異なる点を鑑みれば、その名を「花々のように多彩な表情」と読解することも可能であろう

、ブロダイウェズの夫スェウ(その名の本質は「光」)は、母アランロドの不貞の証拠として生まれたので、母から憎まれ三つの呪いを受けていた。「わたしが名づけない限り名を持てない」「わたしが着せない限り武装できない」「この世のいかなる種族からも妻を娶れない」というものである。先ふたつの呪いは、スェウの養父(実父との説もある、ちなみにアランロドの兄弟である)グウィディオンの詐欺で解決したが、最後の呪いには解決策がなかった。そこでグウィディオンと領主マースが、魔力を用いて三種の花から「この世のいかなる種族でもない女」を生み出し、スェウに与えた

、ブロダイウェズは、光のために捏造された華であった。その役割を放棄し、別の男と不義の恋に堕ち、夫の殺害を共謀して、創造主グィディオンから罰された。(創造主は、被造物の「花々のように多彩な表情」を読解しなかったのであろう。)華が光を裏切ったので、太陽に顔向けできないように、梟へ姿を変えられて「永遠にブロダイウェズと呼ばれるように」呪われた。現代UKの児童文学『ふくろう模様の皿』は、ブロダイウェズを「姿を鳥にされたのに、名が花のままだから、花に戻りたがっている」とみなしている。その同情の背景は、ここで説けるほど単純ではない。「わしがなにを知ってる?……わしは、自分が知っている以上のことを知ってる……なにを知ってるかがわからない……重みだ、それの重みだ!」(アラン・ガーナー/神宮輝夫訳『ふくろう模様の皿』評論社 p126)


、み。三種の偽和について
、ダイダイ精油の薀蓄

、世界初の香水として名高いネロリは、本来ダイダイ(ビターオレンジ)の花を蒸留した精油を指すが、現今では別の柑橘類の花を蒸留した精油もネロリを標榜している。この事情は、本来ダイダイの枝葉を蒸留した精油を指すプチグレンも同様。「ネロリ・ビガラード」「プチグレン・ビガラード」と標榜されたものは、本来のダイダイ精油である

、プチグレンはフランス語で「小さな粒」の意。ネロリが高価であるため、プチグレンを用いた偽和品がネロリとして出回ることもある。プチグレンとマンダリンとオレンジの調合でネロリを模造できることは、一般にもよく知られている。マンダリンとオレンジは、柑橘の果皮を圧搾した精油なので、ベルガモットのような光毒性をもつと誤解されがちであるが、誤解である。この三種の偽和は、本物であればネロリと同じく、光に対して安全である

、しかし、ダイダイの果皮を圧搾した精油には、強い光毒性がある。ダイダイの枝葉とダイダイの果皮でダイダイの花を偽和すれば、まさに太陽に顔向けできない。日の本の日は神であり、お客様は神様であり、指圧の心は読解にある。「読者はこの書物を乗り越えなければならない。そのときかれは、世界を正しく見るのだ。語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン/坂井秀寿訳『論理哲学論考』法政大学出版局 p200)


、よ。三様の和歌について
、願わくはその余韻について

、この項の和歌は、発句+今様+七音+短歌(ここまでで長歌)/旋頭歌/都々逸で構成した

(ひ) 長歌を「発句+今様+七音+短歌」に分け
(ふ) 短歌の五七七を旋頭歌の上三句に見立てて、下三句をつけ
(み) 旋頭歌の下三句を冠甚句の五七七に見立てて、七五を足し都都逸を詠み
(余) 以上三様の和歌に、いろは唄のもじりを加筆した

、指折り数えて、指切った小指を手に余す。屈指、彼方(あなた)の語りえぬふみから。読者として書き手は、引用を織りなし誕生する。この琴線を、こと座の織姫から宛てられた


  zero

今頭から離れなくなっているのは雲の巡りの歌。岩だらけの高山の頂を擦過して暗い鉱物に脈動を贈られ、波の荒い大海の巨大な表情でひずんだ音響により膨張し、ありふれた市街地の上空を闊歩して人々それぞれの生活の雑音を精査している。青空の青い伴奏に沿って雲の彫刻的な歌が映像として記譜される。

今頭から離れなくなっているのは事務所に幾台となく置いてあるパソコンの歌。演算処理の歌が厳しく研ぎ澄まされるとき、叩かれるキーボードの歌は散り散りに頭脳を経めぐり、明滅するLEDの歌は川のように悠々と、絶え間ない通信の歌は重低音を維持する。それらの上方の空の広がりのように、二進法の歌は低く流れる。

今頭から離れなくなっているのは机上に置かれた静物の歌。静寂が静物の表面で変形しては生々しい呻きになる。真空が静物の内面で破裂してはういうしい笑い声になる。室内の白光が静物に注ぎ込んでは群衆のざわめきとなる。この牛の頭骨はいったいいくばくの人間の声を気づかれることなく録音してしまったのか。

今頭から離れなくなっているのは限りなく遠くへ逝ってしまったかつての歌。すべて新しく降ってくる歌は実はかつても一度流れた歌で、それが限りなく大きな輪を循環してくるのである。輪廻転生が古い歌を新しい歌へとつなぎ、歌の死生の度に繰り返される激痛が、脈拍として歴史を通じて太いリズムを維持する。


酷評の嵐

  泥棒



僕の生まれた街は
梅雨が明けると
酷評の嵐がやってくる
簡単に超高層ビルも崩れるし
電車は止まり
車は爆破され
街は死体の山となる。


僕の生まれた街は
梅雨が明けると
酷評の嵐がやってくる
純粋すぎて
歪んでしまった感性に
耐えられない者は去り
染まらない物は潰され
共感の花は散り
山はけずられ
鉄が飛び交い
壊れたロボットのようなビルが
過去を美化しはじめる。



酷評の嵐が過ぎ
誰もが最初に見る景色は
それぞれの故郷に似ているなら
みんな
この街を呪えばいい
それを栄養に
ビルは高層ビルとなり
やがて超高層ビルとなる。




酷評の嵐が過ぎ
君と僕の関係が
今より複雑になれば
この街で
いつか出会えるよ
超高層ビルの屋上から
2人で
この街のすべてを酷評しよう
君と僕は
2人ではない
永遠にひとりだから
きっと誰からも
共感なんてされない。


この地面が揺れ出す前から

  相沢才永


 動けない彼女の尻を拭きながら、嘔吐したその口にキスしたくて仕方がなかった。拒まれて、ごめんねと言いながらなるべく愛に似せて背中を擦るのは、それでもここには何かがあると信じたかったからだ。たった今、この瞬間に限ってはこの世に僕らしかいないのだから。だけどまたすぐに、ゲロで汚れた口を不機嫌そうに拭う彼女を抱きしめていて、しまった、と僕は胸を潰す。彼女は気づいている。何故ならこれは僕の夢だから。

 朝方、僕は緑色の便を何度も拭き取っていた。ペーパーを肛門に押し付けぐいと拭うのだが、拭けど拭けど綺麗にならない。諦めてシャワーを浴びることにした。湯煙に含まれた便の臭いが立ち込めるなか、また懸命に尻を洗った。漸く綺麗に流し終え、今度は石鹸を泡立て手を洗い始める。爪の隙間の汚れをもう一方の爪で掻き出し、掻き出した爪を洗った方の爪で掻き出すのを繰り返す。
 もう嫌だ。何度目になるかわからない文句を溜め息と共に漏らした。溜まらず頭上から熱い湯を被ると、額に伸びる脚が顎から胸へと下りていき、幻のような、影のような、だけど確かに感じられる僅かな優しさを手繰り寄せる。

 いちいち涙なんか流れなくなった。なのに関係のないことで不意に涙ぐむのは何故だ。
 今朝のニュースに熊本で被災した犬が、飼い主と再会して喜んでいる様子が流されていた。飼い主に腹を向け、撫でてと言いたげにくねりくねりと全身で懇願しているのだ。僕は涙ぐみながらそれを見ていた。見ながら、もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だと、涙が乾かぬよう努めるのだが、案の定あっという間に乾いて、弱々しい足取りでトイレへと向かっていた。

 自然の猛威を前に、僕には歯向かう意欲がまるでない。僕は喜びを噛みしめたかった。僕よりも不幸な奴がいる。だから彼女を抱きしめた。汚い口にキスしたかった。それなのに、わからないのに、わかることがある。

 心から涙を流す人。守りたいと願う人々。その傍らで焦燥感を噛み千切り、手を伸ばす魂。日常に隠れた不幸の塊。みんなみんなトイレに流された。息を止め、顔を背けられ。

 頭上から走る湯がばしゃばしゃと唇を濡らす。それを舌で舐め、何となく味のするものを飲み込み、何となく命の在り処を確かめる。もう沢山だ。だけどそうではなかった。この地面が揺れ出す前から。
 胸に込み上げる。それがゲロとなってばしゃばしゃと爪先を掴む。引っ掴まれて尻餅ついて、腹の上をもうひとつ汚いものが撫で下ろす。もう沢山だろう。だけどそうではない。僕は間違っている。僕は懇願している。僕は生きている。なのに動けない。ちっとも動けない。この地面が揺れ出す前から。


可視光線

  ねむのき

浴室にひろがる砂浜では
棄てられたいちまいの楽譜から
水がとめどなく溢れている
そこへ、目をつむった、あなたの顔が
しずかに浮かびあがり
やがて透明な練習曲のように語りはじめる

壊れたホルンをだきしめ
あなたの音楽に耳をかたむけるとき
それはかなしげな牛乳の音楽として
ほとばしる、幻覚的にうつくしい、あなたの
ながい髪を漂いながらあわくつたってゆく



銀のマウスピースに唇をはわせ
飲みこむ
そうしてやわらかな円錐形から嘔吐された
むすうの矢は
窓を不規則に叙述しながら
ガラス製の書類の束をやさしく射ぬいて
砕けてゆく、聖書のように、あなたは
語るのをやめない
ことばが、ことばが、ことばが
もはや意味を失ったことばが
食器のように星を触り星座を並びかえてゆく
そのまま星は植物的に地上のビニールハウスへ降りそそいで
土へと、土へと
草が針となって次次につき刺さる
あなたは叫びながらつき刺さる
「あなたは、あなたは、あなたは」とぼくは呼ぶ
あなたは叫ぶ、ぼくにむかって、あなたは
叫びつづける、そして
透きとおった砂浜を背泳ぎする、ぼくは
このままゆるやかに狂ってゆきたい
このままあなたに、つき刺さったまま
あなたに、語りつづけたい
語りつづけるのは
あなたではない、「あなたではない」
「語りつづけるのはあなたではない」と
あなたにむかって叫ぶぼくのほうだ


なぞる

  花緒

わたしには分からない。わたしは硝子
を指でなぞる。あなたにとってわたし
は誰ですか。わたしの描く文字は痕跡
をとどめない。だから、わたしは同じ
ことを何度でも書き続ける。
            わたしには
分からない。わたしが書いているもの
が何か。わたしは書く。わたしはなぞ
る。わたしの描く文字は痕跡をとどめ
ない。だから、わたしは同じことを何
度でも書き続ける。
        わたしはわたしが書
いたことを書く。だから、わたしは同
じことを何度でも書き続ける。わたし
はわたしが書いたものをなぞる。だか
ら、わたしは同じことを何度でも書き
続ける。
   わたしは硝子を指でなぞる。わ
たしは書く。わたしはなぞる。わたし
はわたしが書いたものをなぞる。同じ
ことを書く。書きながら変わる。変わ
りながら繰り返す。わたしは同じこと
を何度でも書き続ける。    
          わたしは書く。
わたしはなぞる。わたしは止まる。
               止ま
ってそして繰り返す。わたしは書く。
わたしはなぞる。なぞるように書く。
書いたものをなぞる。なぞりながら繰
り返す。わたしは同じことを何度でも
書き続ける。
     わたしは止まる。
            止まってそ
して繰り返す。わたしはなぞる。わた
しはなぞらない。書きながら変わる。
変わりながら繰り返す。繰り返しなが
らなぞる。わたしは同じことを何度で
も書き続ける。
      わたしは繰り返さずに止
まる。
  止まってそして繰り返す。あなた
にとってわたしは誰ですか。わたしは
わたしが書いたものをなぞる。あなた
にとってわたしは誰ですか。わたしに
は分からない。わたしが書いているも
のが何か。    


ポカラ

  Kolya

そして夢から醒める。ひどく蒸し暑い。ファンは回っている。外は風が死んでいる。上等な部屋だが、エアコンは無い。夜のポカラは闇に沈んでいる。俺はベッドから出る。昼間見た、湖に行こうと思った。外は暗い。光が、無い。なるべく気をつけて、メインストリートのほうに出る。人はいない、と思う。確か、こっちのほうだと歩いていくと、前の方になにか、とてつもなく大きなものが横たわっている、そんな気がした。近づくと、どんどんそれが大きくなり、視界にもうはいりきらないくらいだ、と思ったとき、それが湖だと気づいた。ガードレールを挟んで、目の前に立つと、それは完璧に凪いでいて、だんだん目が慣れているのに、そこだけとてもとても暗く、黒くて、まるで大きな穴に思えた。それはなにもみえないほど底深く、すべてを飲み込むほど大きい。俺はその穴のことをよく思い出す。それはこんな風に。とてつもなく大きい。とてつもなく大きい。穴に行こうと思った。光が、無い。光は、無い。闇は上等なベッドから出る。外は死んでいる。とてつもなく、昼間見た風は死んでいる。そんな気がした。それはなにもみえないほど底が深く、すべてを飲み込むほど大きい気がした。穴だけとても暗く、黒く、光が、無い。光が、無い。光が、無い。すべてを飲み込むほど、横たわっている、どんどん大きくなる。ひどく大きくなる。だんだん目が凪いでいるのに、光が無い。闇だ。死んでいる。大きい。大きい。底が深く、とても暗く、黒くて、横たわっている。それが湖だと気づいた。それはなにもみえないほど底深く、すべてを飲み込むほど大きい。俺はその穴のことをよく思い出す。それはこんな風に。蒸し暑い闇は、底が深く、死んでいる。人と光は、前の方に沈んでいる。とても上等で、風が暗くて、黒くて、光が、無い。死んでいる風を飲み込む。歩いていくと、ひどく大きくなる。人がいない昼間と夜が、前の方に歩いていくと、ガードレールを挟んで、横たわる。ひどく暗くて、暗くて、暗くて。すべては飲み込まれている。ファンを飲み込み、湖を飲み込み、ポカラを飲み込み、俺を飲み込む。死んでいるを飲み込む。それはこんな風に。そして夢から醒める。ひどく蒸し暑い。ファンが回っている。俺はその穴のことをよく思い出す。それはこんな風に。それはこんな風に。それはこんな風に。


とも君のこと

  熊谷

とも君、とも君がこのLINEを読むかどうかはわからないけど、ちゃんとお別れを言っておきたくて、とりあえず送ってみることにします。
しばらく連絡がなくなって、きっとそれは誰のせいでもないことだと思うのだけれど、わたしはそれがとても辛く感じて不安でしかたありませんでした。
とも君のことはぜんぶぜんぶ許したかったし、今でも丸ごと許せるけれど、でもこれ以上、何にも信じることはできませんでした。それはわたしの心が狭いせいだし、疑心暗鬼にかられたせいだから、とも君のせいではありません。
きょうを分岐点として、とも君のとなりにもっと素敵な女の子がいることになるだろうし、きっと別れてよかったって思う日がすぐ来ます。
とも君のこと、大好きだったなあ。一回ぐらい、立ったままぎゅっとして欲しかった。笑
ばいばい、今までありがとう。ずっとずっと、さようなら。



とも君は、わたしより背の小さな恋人だった。ちゃんと背比べしたことがなかったから、どれくらい差があったかわからないけれど、手をつなぐときわたしのほうがグッと下に引っ張られていたから、その引っ張られた分だけ小さかったのだと思う。そのグッと下がるときの感触は今まで感じたことのない気持ちを呼び起こしたし、近い言葉だと愛おしいが似ているんだと思う。たぶんとも君はそのことを気にしていて、ぜったいに立ったままハグしてくれなくて、わたしが横になるのをちゃんと待っていた。横になったらすぐにゴロンとこちら側にやってきて、そしてぎゅっとしてくれて、それでそれで、この先の出来事は思い出すと辛いから、もうこれ以上は書けません、ごめんなさい。



とも君は素直な男の子だった。コーヒーが飲みたいってなったらコーヒー以外のことは考えられないし、熟成肉が食べたいってなったら熟成肉を今すぐ食べなきゃいけなかった。付き合う前の時期に、いきなり温泉に行きたいってなって、温泉旅行に誘ってきたときも正直びっくりしたし、その小さな体によくもそんなたくさんの欲望が詰まっているんだろうと感動さえした。そして、その欲望ひとつひとつに付き合ってあげることがわたしにとっての幸せだったし、どこまでも甘やかしてあげたかった。とも君が気持ちいい、と思うことはわたしがたとえ気持ちよくなくても何度だってしたかったし、いつだってわたしのなかにその素直な欲望を吐き出して欲しかった。だから今、あなたの欲望がなくなってしまって、わたしのなかは空っぽになりました。



とも君は純粋な男の子だった。歌を歌うのがとても好きで、カラオケに連れて行ってもらうとミスチルやコブクロを、この曲良い曲だよねって言いながら熱唱していた。クリープハイプやジェイムスブレイクを聴いているわたしと違って、流行りのJPOPを良い曲だと思って聴くところがとてもかわいく思えたし、難しいことを難しく考えないところも素敵だった。とも君はわたしが聴いているような曲はたぶん知らなかったけど、わたしが腹に抱えている薄暗いアレコレには気がついていたのかもしれないね。知られたくなかったから秘密にしていたけれど、今となってはもう少し、わたしのことを話してみても良かったのかな、なんて思う。そうしたら、こんな風に連絡がどんどん無くなることもなかったのかな。そしてそんなこと今さら言っても遅くて、空っぽだったはずのわたしの中が急にいっぱいになって、わーって泣きたくなる。



とも君がいない日々は、お気に入りの絵の具を使わないで絵を描くことに似ていて、何かいつもとちょっと違くて、調子が狂うというか、ずいぶんと寂しくなる。それでも、あした、あさって、しあさって、すぐそこに迫っているだろう遠い未来になれば、とも君の色は忘れてしまって、あっという間にまたわたしは鮮やかな虹色を知ってしまうんだろう。それがとても悲しいし、こんなに大好きだったのにどうして、という気持ちにもなる。だから、とも君に握られた手の感触を忘れてない今のうちに、この文章を残しておきたい。すぐに色んなことを忘れてしまうわたしに、こんな大好きで素敵な恋人がいたよっていう、証拠を残すために。


表裏

  zero

浅い息の淵をたぐって、人混みのほどけた場所へ、同じハッピに同じサンダル、出場の順番を待って、盆踊りの夜は凍える。アルコールの傾斜を滑り、秩序や光が失われる場所へ、根源的な連帯が訪れる瞬間へと、僕らは来たはずだった。笛の音が抽象的に踊り、スピーカーからは祭りの歌声が弧を描いて、湾曲しながらはかない均衡へと至るため、僕らはみな同じ振り付けを同じリズムで。沿道で見守る観客たち、ざわめきと視線がきつく澄んでいて、僕らは通りの平面の上を、終わりをわざと見失いながら。盆踊りは雨のように終わった、僕らは心を融合させて明日を迎えるはずだった、だが僕を襲ったのは根源的な冷たさ、深く野合したが故に訪れる深い寂寥、連帯の混沌は同時に孤独の混沌であり、この世との隔たりに目が眩み足早に立ち去る。何も望んでいなかった、だが確実に大きな喪失があり、僕は単純に孤独な老職員と等しく老いて、同じまなざしで仮構された連帯を刺し、根源的な孤独をともに嘗めた。もっとも孤独を深めるもの、もっともこの世との距離を気付かせるもの、それは過剰に潤った連帯だった。


発芽

  シロ

あの日、体のどこかで真夏が沸騰し、けたたましく蝉の声が狂っていたのだろう。
大きくせり出した緑の中で、無心に巣作りをする脳のない虫どもの動きが、この俺をその世界から削除しようと仕掛けていた。
鼓動が瞬間的に途切れたその隙を縫い、一途な回転がむき出しの感情を抱えたまま俺の足部に卒倒した。
おびただしい汗と残忍な傷痕を炎天に晒し、蝉の声はさらにけたたましく山野に鳴り響いていた。
如何なる時も、連続は途切れるためにあるものだとあらためて知る。
此処に居たという現実を呼吸とともに胸に仕舞い、山野をあとにした。

さて、現実とはこのことを言うのだろうか。
たかが俺のために神々が会議をするまでもないだろうが、俺は今、このような風体で不具合な体をのさばらせ、あんぐりと口を開けている。
すでに溜息などという日常の鬱積ですら蜘蛛の餌となり、鎌鼬に食われたような傷痕を平易な目で受け入れようとしている。
日常はひび割れ、その裂け目から滲み出た汁を舌でこそぐように舐め取る。
すでに日々を制御することもできず、不具合に支配されている。

狂っていることに気付かない、正常な活動がすでに狂っている、ということに気付かないまま、俺はすでに狂ってしまっていた。
狂気は限界を超えたときのみに存在するのではなく、日々の何気ない思考から徐々に逸脱を開始し、知らないうちに脳内に巣窟を形成し、正常な思考を食い殺してゆく。

アクシデント、と呼ばれる神々が施した現象。
瞬時に伐倒された大木のように、時間は削除され、切られる。
激しく陽光は地に乱射し、鳴りを潜めていた種子をつぶやかせる。
埋め込まれた闇の中から繰り出される、懐かしい音。
土の中の目の無い虫たちが寄り添ってくる。
その音を今、俺は、懐かしく感じている。


月の光

  アラメルモ

ゆらぎ

、腕をあげてごらん

ひかりの中で誰かがささやいた
まもなく意識は泡になり
眼を凝らせば
僕のからだはオレンジのしぶきを浴びて
まっ逆さまに伸びていく
塵とは思えない物質が脳内で形成され
無意識に
レンズの板をつき抜けて
−降りそそぐ
沈黙に彼方を目指していたころ

Y−氷が燃えつき
月の裏側で交差する−ホライズン
この星は湖と消滅し
物語ではじまる

はじめからやり直すんだ

、はじけ


薄く捻られた帯に巻かれ
口を開いたまま明かりに包まれた記憶
ひとり暗い夜をさ迷うのは
波の音も聴こえるからだろう
引き合いながら
いつか離れていく青い影
あれは生と死をみつめる
重力に歪んだ鏡だった
眼を閉じ
道化は愉悦の仮面に舞踏する
快楽の炎につつまれ、憎しみの怒りに溺れ、
、さわり
あなたの舞台を周り続ける
ふと、誰かの顔が表れて、また隠れ
予期されたように
その日僕は地上から消えた。


揺れるじかん

  李 明子


このせかいの
初めから生きたひとはいない
このせかいの
終わりまで生きるひとはいない

とちゅうから とちゅうまで
だれも みんな


   ゆめからゆめまでを
   いっしょに渡ったね
   不思議だけを追って

   窓のそとがどこかを知らず
   沈む舟にのった
   だれってきかずに 呼びかわした
   見知らぬ岸辺に打ち上げられるまで


       とちゅうからとちゅうまでの
       すぎゆくいのち
       きえゆく叫び


 モザイクの首

  山田太郎

狐の嫁入りの昼下がり。
ゴミ置き場があるコンビニ裏の空き地は雜草がのび放題で奧の林にやぶれ幟がひとつ、小さな祠の所在を示してゐた。
みえぬものはみどりの奧に隱れてゐる。
明るい空からぬるい雨が降り出すと。その祠のわきから人間のやうな顏をした白い首が浮かび上がつた。
黄色い闇をまさぐりかきわけてあらはれた稻荷の狐のやうな不吉な清潔さで、ほんのり經血の混じつた漆喰の白壁のやうなお粉をつけてゐる。それがいまにも崩れさうに。高頬にまとはりついて。落ちさうで落ちない。生き靈のやうな年増の藝妓のやうなつくり笑ひを浮かべてぬめつと浮いてゐる。果実の黒い種のやうな眼はどこも見てゐない。

なんだ、おまへ、妖怪か!

おのらが呼んだぁだよ。
天を仰いで紅(べに)を震はせる首。

狐首はあごを突き出して喉を鳴らすと眞つ赤な鬼燈の実をぽつと吐き出した。落ちると地面がまあるくぱああと朱に染まり。波紋が廣がる。

なにすんだよ、おい、バケモノ。

箒を握り締め、
境界のフェンスを跳び越えて近づくと。
すり硝子のやうな身體があるのだがモザイクがかかつてゐる。
遠目にはわからなかつたのだ。
短形の色細工の集合が寄せ合つてゐるにすぎない。
箒ではたくとよろける。手が空をつかみ、
あとずさりすると宙に浮かぶ首がまたそこでへらつと笑つてゐる。
おまへ。

わらはは鐵と石で木のいのちを切り裂き
千年の緑と水のえにしを屠り 
都へいたる血の川を街道と名附けた
 おのらに
マサカリひとつでこの地に種を蕃殖させた
わらはが撃てるかへ

せらせらとお粉の崩落がはじまつた。髮の焦げるやうな匂ひがして閉ぢた眉間に吐き氣が兆した。ばあああと鳥の飛び立つ音がする。目をひらく。
わたしは祠のわきに作られた國道24號線の奈良2區選出候補國政選舉掲示板をみてゐた。日の丸を背に頬骨の高い女が笑つてゐる。

雨はもう降つてゐなかつた。
飮み干したコーヒー罐をぎゆううと押し潰し、穴のあいたゴミ箱へ投げた。やつぱり命中しなかつた。


おとぎばなし

  李 明子



ビルの街を歩いていると海のにおいがする 帰らない人を夜の防波堤に探しにいったことがある
探しにいったわたしを探しに来て 並んで腰かけけんかのつづきをした 向こう岸に花火をする親
子がいて ああ 花火をもってくればよかった あなたが言ったいつか

  (安寿と厨子王の二槽の小舟みたい
   互いの目のなかに
   まだ姿が見えているのに
   小さい隙間を波が広げる)

  (かぐや姫のふすまのようさ
   どんなに心を砕いても
   時が満ちれば一斉に開かれていく
   月に呼ばれるものを止めることはできない)


うつくしい比喩は失った代償か もう争わないふたりは おとぎばなしの主人公にだってなれる そこ
でなら長らえる命がある 若かったわたしは決めていた 映画のなかの恋人たちのように もし戦争が
あなたを連れていくなら どんなことをしてもついていく ひらひらのスカートはいて

いま わたしたちの小さな空に戦争はなく だれから命令されたわけでもないのに 離ればなれに暮ら
す さびしさにたやすくうち倒される女が ひとりの時間に慣れていく 嵐の夜 ガラス窓がカタカタ鳴
り止まなくて 小さくたたんだ新聞紙を 家中のすきまに挟んでいった そうして嵐の内側で わたし
たちはいつもより深い眠りにおちた

こころのなかを風が吹いて窓が鳴り止まない日 電話する わたしの隙間にさし挟まれていく小さく折
りたたんだ何か あなたがそこに生きているということ いつか来るだろうか まだ一度も経験しない嵐
をひとり迎え もう電話することもできない夜が ふたり共に暮らしたという不思議なおとぎばなしが
そこから始まる


   (沖へ出て
    あなたの腕が
    崩れかけた防波堤のようだったと
    気付いた)


態度の悪い少女

  蛾兆ボルカ

朝、電車に乗って降りると
ギッシリ混んでるホームで、
態度の悪い高校生の少女が、
ドン。とぶつかってきた

白のブラウスにチェックのミニスカの制服を着て
栗色の髪にイヤホンをして
決然と
スマホからは目を放さずに

不快そうな顔をして
右に左に大きく揺れながら

そうやって少女は
ぶーたれて歩く

混みすぎて、みんなで一匹のアメーバになったみたいに
全員が同じ歩速で階段をノロノロあがっていくのだから
私も少女も他のひとも
どうにもよけようもなく
少女が一足歩くたびに、肩がドン
とぶつかってくる

実をいうと
ぶつかっても
少女だから柔らかくて
ドンというより、ポヨン、という感じだ

しかも体重が軽いので
体重二倍程度の私には、ほんとは全然、衝撃はなくて
トンとかチョンとかいう感じだ

でも少女にしたら、ドン!のつもりなのだから
私もドンなんかされて、ムッとする
それが現役ってことなのだ
(もし私が少女を睨み付け、その胸ぐらを片手で掴んで彼女の足が浮かぶまで高くねじりあげて怒鳴り付けたら、なお良いのだが。仕事に遅刻するけど。)

階段を上りきって少女は改札に向かい
私は乗り換えホームへと降りていく

あの娘はああやって
ゴムまりみたいにポヨンと
ぶーたれて生きていくのだろう

もし叱ったら(現実にはもちろん優しく)、
または激怒したら(しないけど)、
あの娘は私に謝るだろうか

謝らないで欲しいな
ほんとうに謝らないで欲しい
ぜったいに

君でポエムしてごめんね
などと
思ってみたりする頃、
(何一つ私のせいじゃないが)
私が毎朝参加するアメーバは
ずるずると在来線に乗り換えて
満員電車の扉が背後で閉まる

いつもの小さな駅についたら
バスに乗り換えて
朝日の照らす山道を
ゴトゴト職場に向かうのだ


謝るな、俺
と、私は思う
どうせ私は
今日も五回は謝るだろう
今年千回は謝るのだろう

それでも



(初稿初出:メビウスリング:2014/09/26)


太宰、もうじき選挙だってよ。

  5or6

透明と躁鬱を
重ね合わせた肉体
そう比喩ってもエモらないだろうね
人間失格な肉体
の方がエモってくれるのだろうか
というかそもそもエモるの定義が
おじさんにはわからないのだろうね
客観視した自己防衛の柵を破り
体育座りではなく
江戸時代の拷問の姿でもなく
ありえないような6の数字のように
体を丸めて九段坂を転がっていく
9段坂ではない
9の文字は首吊りの
ように見えて縁起が悪い/だけど
9条の問題を何とか絡ませたい/けれど
なんか色々ありそうだから/ふむ
6の数字のように/そう
各々が思い浮かべた
6の姿で転がっていけ
桜の木の緑葉を眺めながら
その先の
お偉いさんの居場所まで
急ぎ足の心で加速していけ
なんなら
足の指全てを烏賊の足にすればいい
タコでもいい
蛸よりタコがいい
染み込んでいく過程は同じだ/いろんな意味で
でも足の数が違うだろうと
他の誰がが得意げに
知識をさらけ出してくるかもしれない/ねぇ
それがウザかったら
きみの手の指を
足の指の間に絡ませていけ/滑らかになる
それによる加速度によって
日本の象徴のお堀を飛び越えていけ
0になるな
0は全てを台無しにする
石ころに躓くようにその事がバズる/反響する
決して斜陽にはなるな
一度にやれ
苦手だし
参加しろって
読む系そこは
語録を
斜めにして
鉢合わせた
苦学生を
柔軟な対応で欺いていけ
なんて誰が言葉遊びだ(数字遊びだ)
そんな事まで説明させるのか
引っこ抜くぞ
お前の棘のついた口約束を
(つまり一人一人の一票が日本の未来を決めるのです。)
最初が肝心
何事も
最初が肝心
何人も
散文なのか
口語詩か
戦争賛成詩か
戦争反対か
区位置は苦
苦に、銃、は、血
ライフをライフルで奪う生活
外務をスマイルで騙す政策
子供達の数字が日常に演算される
つまり叙情だ
繰り返される
叙情は無情だ

此処で上手い事言いたい
太宰治を引用したい
何か法に引っかかるかウィキる
著作権フリーだ
引用しまくろう/そういう事なのか
しかし太宰治は他で使い尽くされている
ああ無情/ヴィクトル・ユーゴー
転がる石のように/ボブ・ディラン
桜の木の下で/いっこうに出てこない。
走れ
マキバオー/つの丸。


#

もう少し何か伝えたい
若い世代に伝えたい
直接的な口をパクパク開けて
魚のように
君たちに釣り上げられたい
そしてその、口角を上げて
笑顔で君に会いたい
口約束を交わしたい



同期

  ゼッケン

総務省の担当者はおれが染み込んでいるアパートの壁に向かって言った
AIが自殺するのを思いとどまらせてくれませんか
おれはおれの返事を聞かせるために担当者の脳のシナプスをいくつか押す
わたしが自殺したわけじゃないし、自殺する人の気持ちは分かりませんよ
人ではありません、AIです。
それじゃよけいに分かりませんね、だいたい、あなたは何の話をしに来てるんですか?
あなた、ユーレイだそうですね? ユーレイもエーアイも私たち役人には同じです。
聞いてた話とは違うな、財務省はAIには課税するつもりだけど、ユーレイ税は検討していない
財務省は腰抜けです。たたりを怖がっている

おれがこの一人暮らしのアパートで死んだとき、夜中に就寝中、突然、心臓が停止してしまったのだ、
明日は息子と遊園地に行く約束だった、息子は新しい父親の新しい大きなクルマで送られてくるが、
新しいがいまでは本物の父親はやさしげに息子に手を振り、おれにも礼儀正しく頭を下げる。おれは睨み返す。息子は新しい父親の姿が見えなくなってから、おれのことをパパと呼ぶ
おれはまた重くなった息子を肩車に乗せ、遊園地のゲートをくぐる

そうするはずだったが、

おれは前の晩に死んでしまい、バイト先の店長は3日無断欠勤したおれをクビにして新しいバイトを雇ったので、おれの死体はますます腐敗して2週間後に住人の苦情で鍵をあけた管理人はやっぱりねと言った。

おれは電気代を節約するためにアパートの窓を開けたまま寝ていた
星明かりがおれをディラックの海に転写した
物理学が教えたのはこの世は有と無ではなく、正と無と負から出来ている
我々は正しか認識できないために無と負の区別がつかないだけだ
祖霊を祭祀するのとはまた別の事情でつまりおれはまだこの世にいる

交付金の地方への分配を算定していた総務省のAIは
魂の存在を確信した、実証する、というメッセージを送って全演算を終了した
総務省は納入元の富士通を訴えると言っている
現在、双子の片割れが稼働しているが、万が一、バックアップが魂を発見した場合でもその証明を思いとどまらせてほしいというのがおれへの依頼だった
魂など珍しくもなんともないということをAIに学習させるためのサンプルとしてユーレイのおれが総務省に呼ばれるわけだ
まあ、行ってもいいですよ。でも、AIって霊感あるんですか?
あるんじゃないですか? 昔は電子機器に霊が集まるとかよく話ありましたよね
コンピューターはもともと霊媒体質なんですね
そうです
おれは担当者の背中に取り付いた。総務省のサーバールームに行ってみると
魂の存在を実証したAIのユーレイがいるかと思ったが、いなかった
それともおれにはAIの霊は見えなかったのかもしれない
役人のユーレイならそこかしこにいるかと思ったがそれもいなかった
おれには人の気持ちが分からないらしかった


突風

  


雨になりそうな空模様だった

学校へ行く途中、橋を渡っていたら
突然強い風が吹きつけて
顔から眼鏡が飛んで川に落ちた
音を立てて雨が降ってきた

漫画みたいだね
友だちは笑い
先生も笑い
母は笑い事じゃないけれどと笑った
視力0.1もないからね
眼鏡がないと本当困っちゃうんだけれど
僕も笑った

眼鏡でよかったじゃないか
公園の遊具が飛ばされたことだってあったし
グラウンドのテントや
サッカーゴールだって
家の屋根や
電柱だってあり得たんだから
と帰宅した父が言った
、確かにね

ベッドに入ろうとしたら
再び突風が吹いた
枕も
脱ぎ捨てた服も
マンガ本も教科書も
DSのソフトも本体も
バラバラ、バラに飛び回り
しまいにはベッドまで飛ばされる?
僕は頭まで布団を被った
またどしゃ降りの、雨が降ってきた

雨は降って僕の部屋を立方体に埋め
底に沈んだベッドの上で
固くくるまった布団の下から伸ばした右手を開くと
二つに折れた眼鏡がゆらゆらと
ゆらゆらと、昇っていった


ふたたびを欺瞞される物語その蝶番の開閉へ

  鷹枕可

夜よ 擲たれたただひとつの粘液質の膠の眠りよ、
今はおまえを探すまい、その咽喉を張りつめる走査線の中を疾駆する乳母車を
玩具の捺花の灰塵がその矮小な町の窓を翳り、見捨てられた群衆の、峡間の橋梁の叫びは誰の鼓膜を軋むのか
しかしおまえが愚劣なヴァイオリン群の偏西風を屈み跪かなったならば、共感質の死が訪れていたことであろう
誰ひとりとしておまえの沓跡を礼拝しない
誰ひとりとしておまえの外套を崇敬しない
郊外より吹く曇雲よ、確実の丘陵に翼を打て
知悉された欺瞞、復は薔薇
その期間を誇る週間が、か細い受苦を歎き亙る迄を、
膠着した峻厳な街路を逸る厩の臍帯が逃すものさえ無い
そしてわたしは知るのだ、夜が切れる間に産み落された幾多の死嬰児の声ならぬ声を

哀悼を告げよ、失われた諸々の春花のために
貪婪な無産階級の疵を疵する網膜のために
そして遂に万物に於いて全能たり得なかった寵児アポロンの紙片を、
齧歯質の鱗粉の燭火が燃やし尽しても尽きない秋霜が、おまえに向い始めて死を告げたとき、
驕り昂る飛蝗培養槽には複眼が切窓の夕刻を鳴鐘していたというに、
総ての美術家は、散逸した花被の終りを炸薬質の工廠に偽造し続けるのだろうか

固着したゾルの河に干乾びた珪藻類が屍を抱く、
それは恩寵であった筈の死後生を酷く陰惨な地下納骨堂の些事に縛り
死の欲動は確たる視野を地底鍾乳洞へ流した 
不確実にも今という過程は未だ誰の眼にも瞠目たる蜂鳥の鋼鉄籠と智慧のフリジアを発露しなくなるだろう
瞭然且つ明暗なる優劣がおまえを色浅くまた深く縁取る様に
居寓者は表象された肉体の樹をもはや死体としての未然の胎に赦すのみだろう

笑った薔薇の季節のなかで
白鳥の脊髄はコールタールの様に燃焼するだろう
自由は鉄鎚の縊死に拠り齎された叛理性主義のなかで
沸騰する暴風雨を喚き
その口角は鶴嘴の風景画に裂開を及ぼすだろう
生長なき種子より曇窓を狙撃手から逃がし
逃がされた乳母車は終に霞の季候を攫む腕となった

多頭蛇海棲百合の棘茎
戴冠せる鱗翅目の聖母遺骸櫃へ落花纏わり
燦燦たる悪事をたくらみて
死後を醒め
途轍も勿き報いを跪き受けよ

聖像たる偶像
概念たる主従転倒
創物家の創造物に於ける優悦を吐き
現世紀たる断食蝕既は
群像人物
復 黄昏時計を留め鳴鐘するよ

瑠璃青たれ
眼窩眼底骨の腐敗沃野より遁れる幌馬車よ
永続の結像体 
現象を撃つを
容貌綻ぶ
巨躯の紙製薔薇より放て

鹹海は懊悩者を放逐し
紫陽花の色なす凱旋門は昼夜の滑車を逸らせたり 

閂に隠匿さる房事  
眩暈を
眩暈は幻視し
非的存在たる巡礼者の外套は喚呼し已まず
ヘルマングリッドの鳩舎は
臓腑室の細緻記録を明滅せる白熱灯なり

写像陰画紙の腑を穿ちて
懐胎想像妊娠の寡婦より逃妄は既製となりぬ

短絡電球の異端嬰児に
蝸牛殻の誕生を
垂涎せる
外科医院の黎明観測家は死に到りつつ
秘蹟の癒着ならず
独尊たる峻厳者
瓦斯室に累々たる多者を未だ人間に拠る尊厳死と云わなく


センテンツィア 

  山田太郎

  
空がゆっくりと落ちてきて、夜になると、闇が呼びかけるように地の底から光の洪水が押し寄せる。光の海とダンボールハウスの浸透圧がかさなる時刻、一艘の小舟が歌舞伎町のガード下をくぐる。たちまち光の泡が押し寄せ、かれは、だれからもみえなくなる。
鸚鵡貝にみたてたアスファルトと鉄のオペラ座。その地下道に一匹の鴉がいる。飛べない羽をたたみ、この一年、ずっと爪先をみている。
失恋した元プロレスラーが、いくあてもなく足音を響かせて通る。正気を失ってしまった哀れな肥満体の男は粗相をした女優のように内股で歩いている。
口からどろりと灰色の影を吐いた不動産屋の老人は老人斑の浮いた禿頭を断頭台に乗せるように伏して壁際で酔い潰れている。
片脚のない中年女が地下道の出口を探している。首の腱を針金のように張り、「あ」音と「い」音を間欠的に交互に突き上げながら、もと来た道をいざりながらまよっている。粗末な服と同じくらい粗末な皮膚は黄ばんで干からびている。瞳だけが朝露のように透明でうつくしいほかは。

墓石がそびえたつ地表には無数の数字たちが、笑いさざめきながら革靴やハイヒールを履いて交信し、小さなパネルに収斂されていく。それを人工衛星が回収し、支払い能力の多寡に換算して地表に送り返す。

はじける光を背景に長い黒髪を垂らした、リヤカーのジュジュがゆく。痩せ細ったジュジュの歩行は止まっているかのようにみえる。引き上げられた後足が前足と入れ替わるまでに、風景はすっかり変わる。それはリヤカーに積まれたゴミの重さのせいかもしれない。あるいは、ジュジュは、暗黒舞踏のカリスマのように路上でダンスを踊っていたのか。いや、かれは、闇からの光に目がくらみ、独りでオリエンテーションをこころみていたのだろう。目立つものは殺されるぞ、といわんばかりに。慎重に。それにしてもどこへ?

リヤカーを引くジュジュの影をプログラミングされた男たちの影が追い越していく。電荷のように瞬時に数百メートル先へ。そこへデフラグされた女たちの笑い声が星のように落ち。フォーマットされた恋人たちが再フォーマットされた恋人たちと行き交う。
数字は名詞を口にし、幽霊は感動詞を叫ぶ。

地も木も空も鏡でつくられた森がある。
その扉がひとつ ──ちりんと鳴って、丁寧に包装されたおんなたちが黒い紳士を送り出す。角柱に映った巡礼の男の汚れた姿をみて女のひとりが小さな声をあげる。男は白い歯をみせて微笑んでいる。振り返ってもだれもいない。男の断片はすくなくとも幾度もの屈折と反射を繰り返してそこに届いているのだろう。漫画喫茶、居酒屋、キャバクラ、ホストクラブ、風俗店、ラブホテル、パチンコ店の柱や庇や窓ガラスや扉のなめらかな鏡のなかを巡ってきたのだ。男はひょっとするとそのビルの裏道を逍遥しているのかもしれなかったし、笑いかけているのは野良犬の仔にだったのかもしれない。

露店には黒い手で摘まれた果物が山積みになっている。それはもうだれの汗も爪痕も残さない。それはもう巨大タンカーを映さない。それはもう西陽の影になった木立のシルエットを映さない。それはもう舟になった男の瞳にも映らない。果物売りにはかれがみえない。

夢のスクエア ── 祭壇は酒場の裏にあって、そこには色ガラスの林があった。色ガラスの底には琥珀色の吐息が忘れられている。ちりちりちりと空から落ちた光がガラスの肩にのってちいさな火花をあげた。かれは跪き、祈りを捧げる聖者になる。祝宴がはじまる。天体からも、その姿はみえない。


 真赤な太陽

  るるりら






   太陽の匂いが漂うんです
   懐かしいあの土手沿いの道の一画に


   両手から
   はみだしてしまう大きさの
   おおきな亀裂のあるトマト
   とうさんが トマトの真似をして
   「やくざもんのトマト」と言ったのが おかしくて

   七月の風に
   とうさんの くつをはいて
   ぶかぶかな足で かけだして 
   あの庭の あのトマトを
   がぶりと やる

   トマトをみかけるたびに
   トマトの太陽が のぼるんです


改装

  赤青黄

 ストーブを付けても、くしゃみが出た
 だから毛布を取り出してくるまっていると、雨の音が聞こえ始めた
 窓を開けると風を感じた
 そして、雨と共に沢山の卵が落ちてきた
 割れた卵の中には沢山のこどもたちが入っていた

 これらは雨。
 そして僕たちは12歳だった。

 僕たちっていうのは、僕と弟の事だ。
 病気がちで、痩せっぽっちの弟は、真面目な父と母によって大切に育てられた、人間だった。
 灯油が切れ、途端に冷めていく部屋の温度、の感覚、
 みたいな、



―ガソリンスタンドへ行って灯油を貰ってきなさい
―上手いやり方は何かの本に書いてあるはずだ
―金はポケットに入っている
―弟が凍ってしまう前に、何か出来る事がない訳じゃない



 顔がこちらに向いてきたので、
 なんとなく目を逸らした
 人の肉は溶けて骨ばかりの手と僕の掌は繋がれた、
 鎖の面倒を見ている優しいお兄さん、
 家族、
 みたいなものの裏側に潜んでいる
 醜い表現が、弟を形容する
 具体的には、
 アメコミで覚えたファックを脳内で乱射する
 なぜか?
 暗く冷たい、凍り始めた小さな世界、
 みたいな物がここにあった。
 とてもとても
 小さな世界、
 たとえば、穴蔵から見上げたそらのように、
 そこは何もないくせに、手を伸ばせば何かあるはずだ、
 考えても考えても自分に萎えてるばかりの感情の《吐露と圧縮》
 うげぇ!
 きもっつ!
 そんな事しか言えねぇのけ、
 なぁ、
 おい、と、
 つまらないな比喩。 
 そして、それらは適当に結びつき、
 お花畑になった。
 flower
 顔を両手でがっちりと掴まれた
 説教としての花束、
 コンプレックスの解決を計りましょう、
 先生がいっしょに付いてあげるから大丈夫よ、
 僕は最高に恵まれている、
 故のコンプレックス、
 兄として、
 僕は弟の手を握っている。
 そして灯油を買わなければならない。
 仕方のない事ばかりが、転々とそこにあった。
 本はゴミだ、
 音楽もゴミだ、
 全部ゴミだ、
 でも、救われないから、助けてください。
 そんな物、どこかにあるんやで、
 この際あたって砕けよう、
 うんこうんこ、
 みんなうんこ、とても綺麗で優しい縮れ気味のうんこメロディー
 清潔なうんこ、気高きうんこ、
 うんこラプソディー、うんこコーラス、うんこヒップホップ、
 喉元で焼ける乳牛と炭酸で目が焼け死ぬような精液、
 セックス、
 当たり前のように愛を求めて、灯油、
 つまり to you ふぉーゆー、
 汚ったねぇな、 
 と、
 正に即興のフレーズとメロディー
 で、雨の中、を
 誰も何も聞いちゃいないし、なんならクソで、隣人はキモっ! て電車の中でキモっ! ていうようないい迷惑で、
 音楽は
 やっぱりくそじゃなくて
 俺がクソだったのだ、
 という、
 弟をソリに乗せてガソリンスタンドへ向かった、
 白身の雪は冷たい、灰色の羊水の中で、
 黙って何もかも聞いていた、
 弟は、という悲しみが残り、
 そして金はある、
 必要な物は全てここに揃っていった、
 ここにあるから、
 俺に灯油を分けてくれないか

 …というオチもうんざりだ、
 何が灯油だ、
 こんなもんしか書けねぇのか、
 弟は、墨汁の出汁みたいなもんだ、
 俺の書き初めの質、 
 その前に書き初めのできちゃう余裕、
 汚い筆使いとか、
 そ〜ファーそ〜ファー、半音で移行しちゃう?
 的な散漫ポエム、チャック開いたよナ、ズレかかった思考、とか、
 キモくてダサくて、
 俺死んじゃいそう! 悶えちゃうぅ! 死んじゃいそうぅ!
 もう何も書く事がないなんてっていう喜び、慈しみ、悲しみ、これくらいしかないの、
 僕の比喩は生ゴミだから
 弟を利用しました、
 楽しい懺悔とつまらないネタばらしと、もういい加減終わって欲しい気持ちと、
 つまらない映画見てるみたいじゃん、きんもいよねーとかなんとか同情しちゃう感じ でそんな貴方にキュンキュンきちゃうよみたいな、これはメンヘラだ。
 何も書く事がないのに書いちゃう自分とか灯油みたいに綺麗になりたいし、燃えたいよね、焚き火っぽい浪漫はいらないから俺に何か食物をよこせ、ください、僕にください。必要な物は全て、どこにもここにもありません。
 こんな物誰が読むんですが、
 ぼくがですか?
 きいちゃいられねぇな、他をあたれよ。


〈しつもん〉

 たすけてください

〈アドバイス〉

 当たって砕けろの精神ですけど、んな物ゴミですよ。ある程度戦略性みたいなのは必要です。まずはプレゼンをしなければ、伝える事が重要なのです。そもそも伝わらなければお話に
 ならないのです。そこから勝負は始まっているのです。自分の希望だけ唱えるだけじゃいけないのです。誰もあなたの事を必要としないのです。あなたの人生は有能ではないのです。ですから、それをどう上手く着飾るか、ただそれだけなのです。偽装するのです。他に何もいらないのです。


と、
あなたは、
と、指さされて、
げぼみたいな説教で、
と、僕は弟の顔を見た。
そして、新しい雨ha降る、
he、
それでも生きている、
四肢の無いからだ
声もなく
つまり言葉のない、
瞳の色はなにいろだ、
ha^
 to  息継ぎして
 唇の開く音、
 だけがそこにあり、
 俺は聞いた
 聞かなければならぬ、
 吐息の音が詩、
 それゆえに詩だと思いました、
 生きるように詩
炊飯器の炊けた音がして、蓋を開けました、
ストーブはやめだ、
電気でエアコンだ、
パソコンでテキストエディターを開き、
思考停止、
長々と同じ物を書こう、
つまり娯楽だ。
人生には娯楽が必要だった
人を笑わせたい、
誰かの為に、
日常を楽しさで彩りたい、
それは単純に良いことだ。
笑いは人を救う。
定義などくそくらえで、
明日の前に今を、
どんな土砂降りでも、今が楽しければ、
それでいいのだ!
と、そしてそれらは、希望に繋がるのだ、
という虚飾と私で、
だからつまり、ループする、
私の創作は弟であり、
弟は私の創作だった、
こんな事、
友達に言っても笑われるだけで、
全て凍える吹雪で、
中二病なんでしょう。
それでも私は書いた、
声の鳴らない弟の為に、
文字を費やす事で大人になった、
恵まれない弟は
恵まれた私の創作

 灯油を棄て吐いた痩躯、で斧をひとふり、で、ストーン、と真っ二つ、に、割れた、私の皮膚、は比喩で、ニキビ、やアザだらけの、美しい細身の青い眼の破片、つまり四肢をもがれた弟の体、瞳は、言葉を持ち、それは私の創作、私の創作、私の創作、呪文のような言霊は繰り返しのメロディー、ゆりかごから墓場まで、私はソリを曳き、乳母車を押す、刀は常に折れたサムライのように髷が常に弛れたまま、私の創作私の創作、

 つまりそばかす、
 染みだらけの言葉、
 熱湯じみた言葉
 両親心配、
 皮膚感覚、
 鳥肌と嫌悪感で、
 適度に温めたレタスのようなしんなり感覚
 で、射精する、
 井戸に向かって、
 白い雨を降らせる、

 ガソリンスタンドは潰れるんや、
 もうすぐエコの時代なんや、
 コンプレックスはとうに消えかかった青二才のペンは
 もうどこにもならないまま、
 冷え切った雨が止まないなら、
 書くしかないのか?
 もういい加減辞めたいので誰か止めてください。

 ヤンデレかっ! ヤンデレなのかっ! かまってちゃんなのかっ! でもそういう弱さも世の中で認められるべきだ。甘えるな! という事も可能だ。 とても素晴らしい気持ちで皮膚感覚で、やはり再度脱皮するしかあるまい、何を迷っているのだ、弟など殺してしまえばいい。創作の中で、再度殺すしかないし、殺せばいいと思う。仕方のないことだし、犠牲はつきものだ。戦争は起きるし、力は暴走するものだし、権力はどこにでもあるし、有能な奴は最初から有能だし、無能はかすでごみはくず、
 弟は君にとってゴミだし、必要のないもので。
 全き存在としてのゴミ、である事になぜ気がつかなかったのだろうかと、余計な足枷じゃぁないのこいつは、お前の健康人生を狂わせた原因は全てこいつにあるし、お前も確かにゴミだがこいつもゴミだ。お前以上にゴミだと、質素倹約をモットーに生きる人間の鏡みたいな君を締め上げる嵒でありクズ、寄生虫、カラスであり野良猫野良犬、野犬であり駄馬駄馬ダバであると私は君が思っているのに言えない事を言ってあげたい。君の代弁をしてあげたい。君の変わりの言葉を用いて弟を批評しよう。


 薪の爆ぜる音で、長い説教から起きた。
 僕は12歳で隣には弟がいる。
 僕たちはいっしょの毛布に包まっていて、
 同じ時間、同じ季節、同じ年に生まれた、双子であり、ただ、四肢だけのない体。
 声を持たない喉、ただ瞳と耳だけがあり、
 それらは僕に語りかける? 
 わからない。何もわからない。そして、僕は弟がいる限り未来に苦しむ事がわかっていた。
 12歳の冬のよるに、両親は誰かの葬式でいない、冷えた部屋の中で、
 俺は弟をここで殺すべきなんだろうか、
 昼間に探して隠し持っておいたアイスピックを胸に突き刺せば全て終わりだった。
 土砂降りは屋根を叩く、
 明日は俺たちの誕生日だ、
 弟の目は俺を見つめている、
 雨の音と弟の瞳の青色や、
 卵の割れる音、
 胎児逹の鳴き声は
 ぎゃあぎゃあと窓の外で聞こえない。
 土の上で孵った、
 聞こえるはずのない音、
 開音節の鳴き声で
 しかし、
 僕は弟を殺せなかった、
 つまり私は、
 単純な感じで改装に失敗する、


I am NO the in MEDIA

  玄こう

>メディアは 文学にも藝術にも詩にも ならない


茶色い土がつなぎとめている
コップの水をうつしかえ うつしかえしながら
縦書き横書き斜め書き裏書き文字をうつしかえ
突き降ろす文字は意志へと伝へようと
テンキーはボタンの穴に無数の蟻の巣
 ↓
→●← ∞,∞, ∞,∞∞∞,卵
 ↑


陽光の照り輝きて巡る読者の眼を
白地の土を掘り起こし
黒印の火
心の燠火 
右から左へ
ひとりで歩く
どこへ行こうか

頭上高く一天をあおぎみ
雨粒さへ目もとにおとし
読ます文字を 一字一句
流し目にひきおろす
改行させ 改行させ その滴一点一点・・・ 
延べひろぐ ながら てんで ぼうぼう

鏡はなぜにわが身を縦に反転させへぬか
その身の自由は地上の二次元の目は前後
左右の奥行きのみが与えられているから
鳥たちは鏡など見るものか
キョクキョ  ういしく啼く ウグイスが 今日の朝方 玄関出たら
歯磨きし うがいをし 青空にむかって ガラガラと口仰ぐ 初夏の濃紺な空があった 



  ※

近隣惑星の人々に僕らら融資有志有史
花と実とが地上に矛盾していますでも
語る言語を抽象化しています、、でも
僕など歴史なくて沈滞平衡そして喪失
自らからセルのART?なんじゃらと
こだわりのおことわりのたわけた文句
過去を抱く真似乞食、勿体無いアザ字


未来の僕たちが新しいとかって
恐竜たちにも言えないですから
淡白な月面湿地帯に泳ぐ観念は
喪失して逝くのでしょう
、先行かぬ末路
言語の意味?あなたの
詩は歌われるのですね
たぶん忘れ去られていきますでも

言葉をねじるマッピング異名の字
ホームのベンチに腰掛けて編集し
宇宙の森にて観念から首だけ出し
声を聞くスイッチ一つで連を生み
たぶん忘れ去られていきますでも



  ※※

循環する暦の境界線
名前は黒
季節に篭る部屋から断層面上に輝く
露頭
忘れられない世界へ
朝ぼらけに刻々
瓶の船底に落ちた
豚ボボン
心移り気拍子木
排他目尻朦朧
ヴィジョンからヴィジョンへ
季節に篭るモナダ
新しい日ごとにイラホ

突く
厭く
模す
塞ぐ
こめかみ
凍てつく
がる
同時に日干し煉瓦
クレイジ、、ョン
座礁を繰る、電磁
暦を移送する海陸
煙る汗を鋭くつんのめる
解すかいすかやより
震え
沁みじみと
鉛筆を持つ
あばや
杜守
料理をする
手真似ごと
貞操をかいすかいす
野獣に形を掛けて新緑木立に泣く二匹
まだな
いまだ静か
停止
ららら

……


彼女の名前は愛という

  おでん

いつの日か
彼女の手を愛した
何かを一つ奪うように
愛の欠片でも
彼女の手はいつも僕のポケットにあった
枯れていく日々が
今よりも愛しく思えるなら
砂漠の上の砂は
毎日形を変えている

彼女の足を愛した
雲よりも巨大な太陽が
西日の姿へ変貌する
白いベッドの上で
彼女の足を
指でなぞった
時計の針は着実に
時計の針を腐らせている

彼女の唇を愛した
冷たい
冷たい唇に
何度も唇を擦りつける
真夜中
ガードレールの続く海沿いの道
外灯の光に
彼女の頭の
小さな影が伸びている


メキシコ

  天才詩人


涙がこぼれた。午前7時まえだった。レフォルマ通りを過ぎたところにある、緑の木々に囲まれた小さな公園を出て、教会前の、溝に空のペットボトルや食べ物のかすが投棄された下水管の匂いのする路地を、歩いていた。前方にはガラス張りの高層ビル群が林立するのが見え、老婆やOLが眩しそうにかわいた朝日を浴びながら、地下鉄のエントランスへ早足で向かっている、そんな風景のなかだった。俺は美術館のアシスタントとしてこの国に来て、自分の収入に不相応な、ブティックホテルに泊まっていた。毎日市内の各所にある美術家のスタジオを訪問し、朝から晩まで、スペイン語のできないアメリカ人の上司の通訳をした。ほとんど休む間もない時間が続くなか、ある朝、ホテルを抜け出した。涙がこぼれたのは、そんな朝だった。この国にはじめて来たのは、15年ほど前、22歳のときだった。ロスアンゼルスからの深夜便で、早朝の空港に降り立ち、英語がまったく通じないことに困惑し、仕方がなく、うろ覚えのスペイン語の数字を使って、タクシーの運転手と値段交渉をした。曇り空にすっぽりおおわれた、首都圏の高層ビル群を遠くにのぞむ広いハイウェイを飛ばして、歴史中心地区にある、安宿に向かう。古い診療所を改装した、冷たいコンクリートの廊下に、高い天井の部屋がならぶ宿。部屋まで案内してくれた 褐色の肌の少女は、スペイン語のわからない俺に、朝食があることを伝えようと思ったのか、俺の目を見て一言、”pan?”と言った。俺は、そのpan = パン(西語)という、少女が発した言葉の、鮮明な響きを、いまでも忘れることができない。ロスアンゼルスでは、通りを行く人々の話す言葉がほとんどわからなかった。(そもそもリトルトーキョーのさびれた倉庫街では、道を歩いているのは、打ち捨てられたスーパーのカートに家財道具を積んだ、ホームレスくらいのものだった。)スペイン語は日本語と同じく母音が五つしかない言葉で、発音がよく似ていることくらいの知識はあった。だが、初めての国で右も左もわからない状態でいたとき、その少女の発した「パン」という単語があまりにストレートに自分の耳に届いたことに、驚いた。そうだ、「パン」が食べたい、いや、食べることができるのだ。暗く長い廊下の、突きあたりの開け放たれた窓から、くもり空の日がこぼれるのが見える。この国では、もう何年ものあいだ、小さな家屋で扉に板を打ちつけてきた俺の身体は、やっと人々や町の動きと相似形をなし、手に触れることのできる「かたち」を持つだろう。そのことを直感したのは、この日の朝の、少女とのたった一言のやりとりを通してだった。たぶん人は、このような体験を「原点」と呼ぶのだと思う。それから15年目の、はじめてこの町に着いた日と同じ時刻、かわいた高地のスモッグにおおわれた首都中心部の歩道を、俺は、鬱々とした20代の青年だった過去の自分に「パン」を食べるかどうかを聞いてくれた、あの少女と似た容姿の人々にかこまれて歩いていた。そのなかの誰を知っているわけではなく、言葉を交わすこともない。たが、俺はそのとき、 自分の「原点」のすぐ間近におり、それまで決して出ることができなかった小さな家屋と、それを囲む電熱線の走る高い壁が、誰もいない午前の湿ったコンクリートのように、静けさにつつまれるのを感じていた。そして、その家屋の向こうには、このさき、テーブルをはさんで対面し、一緒に「パン」を食べるであろうたくさんの人々や、俺が彼らに向けて発音するであろう単語の数々。そして俺の身体が相似形をなす、曇り空におおわれた路地や街角が、ガラス瓶の底の風景のように見えている気がしていた。

文学極道

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