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2011年02月分

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* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


数式の庭。

  田中宏輔




庭に数式の花が咲いていた。
よく見かける簡単なものもあれば、
学生時代にお目にかかったややこしいものもあった。
近づいて、手でもぎると、
数と記号に分解して、
やがてすぐに、手のひらのうえで消えた。
庭を見下ろすと、
数式は、もとの花に戻っていた。


*


数式の花のあいだを
ぼくの目の蜂たちが飛び回る
数式の花にとまり
その蜜を集めて
足に花粉をつけて
飛び回る
やがて
数式の花は受粉し
実を結ぶだろう。
つぎの新たな数式を。


*


ぼくが庭で
数式の花が息ならば
なんと、かすかで
力強い息なのだろう

その息が枯れぬよう
ぼくは、ぼくである庭にこころを砕いた
ぼくは、ぼくである庭に願った
ちょうどよい日ざしと雨が訪れますようにと

でも、訪れたのは
日照りつづきと
草をもなぎ倒す嵐の日々
それでも
数式の花は咲く

なんと、かすかで
力強い息だろう
ぼくは、ぼくである庭に祈る
たとえ、どのような日でもよい
訪れよと


*


庭に出て
背中を伸ばした。
部屋にこもりきりで
ずっと本を読んでいて
疲れていたのだ。

花のひとつに手をのばして
マクローリン展開した。
すると、数式の花は
めまぐるしく姿をかえ
やがて、ぼくの手のなかで
もとの美しい多項式に姿を戻した。

ぼくは
庭の隅に花を放り捨てた。
たちまち、数式の花は
空中で数字と記号にかわって
庭土のうえに散らばって落ちた。


*


しばらくのあいだ
鼻を近づけて
数式の花の香りを楽しんでいると
ふと、気がついた

ぼくが
香りを楽しんでいるのではなくて
数式の花が
ぼくを楽しんでいるのだと


*


数日前につくって
ほっておいた数式が
庭できれいに咲いていた。

その数式の花は
その前につくった、いくつかのものと
まったく同じ数の数字と記号でできていたのだが

花は色と形と香りを変えながら
庭の風景をも変形し
わたしの姿をも変形した。

かぶってもいない帽子を手で押さえ
履いた記憶もない服の裾に目を落とした。
風にブラウスの水色が揺れていた。

その数式の花も
風になぶられ、風をなぶりながら
つぎつぎと色と形と香りを変えていった。


*


いま、わたしの庭には
円周率πの花が咲いている。
虚数単位iの花が咲いている。
ネイピア数eの花が咲いている。
数1の花が咲いている。
数0の花が咲いている。
まだ咲いていないけれど
わたしの目のなかに咲いた
オイラーの公式の花が
いちばんうつくしかった。


*


わたしは蝶だった。
生きているときには蝶であったものだった。
いまはほぼ蝶の死骸というものになっている。
蟻たちが、わたしを数字と記号に分解していく。
まだ分解されずに残った私の複眼に
無数の空と無数の雲と無数の花が映っていた。
わたしを生きている蝶にしていたものは何だったのだろう。
わたしを蝶に生まれてこさせたものは何だったのだろう。
わたしは、花や雲や空と、何が違っていたのだろう。
複眼が外され、徐々に数字と記号に分解されていく。
ひとつひとつに別れていく雲と空と花たち。
もとは同じ数字と記号であったのに。


*


わたしはただの1つの記号にしか過ぎないのだけれど
わたしはときどき他の数や記号といっしょにされて
一度も訪ねたこともない場所で
思いもしたことのない力でもって変形され
はじめて出くわす次元に出現する。
わたしを、それまでのわたしでなかったものにする
その変形の力と、その力の場は
わたしが変形されているあいだにおいては
わたしと一体となっているのだが
しばらくすると
ふっと
力が抜けて
わたしのもとから立ち去るのである。
立ち去られたわたしは
それがなにものであるのか
それがなにであったのかの記憶はないのだけれど
わたしが以前と同じ姿かたちをした記号であっても
けっして以前とは同じ意味内容をもった記号ではないことを
わたしと
わたしに変形を及ぼした、そのものだけが知っている。
そして、わたしに変形を及ぼした、そのものが
ひとつの魂をもつものであって
そのひとつの魂が
他の無数の魂と共有するひとつの場に、わたしを置き
わたしを変形し
わたしを新しく生まれ変わらせたことを
わたしは知っている。
変形のその場とその時において
わたしが、わたしを変形した、そのものとが
一体であったためであると思う。
その存在は、わたしを変形しているときには
わたし以外のなにものでもなく
わたしそのものであったというのに。
それとも、わたしが
わたしこそが
変形するその場とその時そのものであったとでもいうのだろうか。
ひとつの記号にしか過ぎないわたし。
反転しても同じ形をしたわたし。
総和をあらわすギリシア語の最初のアルファベット。
インテグラル。


*


あらゆるものが比である。

指が
いくつかの
大きさの異なる
数式の輪郭をなぞる。

指は
太陽の輪郭をなぞり
庭に咲く
数式の花の輪郭をなぞる。

指がなぞる
いくつもの数式の花たち。

つぎつぎと変形されて
異なる相に出現していく数式の花たち。

異なる相において詳らかになる新たな構造。
姿を変えた数多くの数式の花たち。

数式の花の花びらを引きちぎっては
庭に撒き散らす指の動き。

それは
蝶の飛跡にも似た
目の運び。

目は
しばしば
忘我となって
数そのものとなり
記号そのものとなり
ときには
線分そのものとなり
角そのものとなる。

指は
目となり
鼻となり
耳となり
口となる。

それは
たちまち
指差されたものそのものとなり
見られたものそのものとなり
かがれた香りそのものとなり
聞かれた音そのものとなり
口にされた言葉そのものとなる。

あらゆるものが比である。

指が
いくつかの
大きさの異なる
数式の輪郭をなぞる。

指は
太陽の輪郭をなぞり
庭に咲く
数式の花の輪郭をなぞる。


*


むかしからよく見かける
数式の花も
見慣れたものだが
うつくしい。

新しく見慣れない数式の花が咲いていて
すこし奇妙な感じがするのだが
それはまだ見慣れていないためだろう
十分にうつくしい。

そして
それ自身は
それほどうつくしくはないのだけれど
こんな数式の花も咲いている。

それ自身のうつくしさは
取るに足らないようなものなのだが
それが咲いているために
ほかの数式の花が
ことのほか、うつくしく見えるのだ。

その花の貧しいうつくしさによって
うつくしさの貧しさによって
他の花の豊かなうつくしさに
うつくしさの豊かさに気づかされるのだ。

しかし、そういった花に
貧しいという言葉を与えたのは
間違いだったかもしれない。
ときには、間違いも
またうつくしいものだけれど。

わたしの数式の庭では
すべての花が咲き匂っている。
わたしは、わたしのちっぽけな存在を
その花のなかにおいて、しばらく眺めていた。


*


花もまた、花に見とれている。


*


数式の庭が、わたしを呼吸する。
わたしもまた、数式の庭を呼吸する。
数式の庭が、わたしを吐き出し、わたしを吸い込む。
わたしが、数式の庭を吐き出し、数式の庭を吸い込む。
数式の庭が明滅するたびに、わたしの存在が明滅する。
わたしの存在が明滅するたびに、数式の庭が明滅する。
この数式の庭が存在するので、わたしが存在する。
もしも、この数式の庭が存在しなければ、わたしは存在しない。
わたしが存在するので、この数式の庭が存在する。
もしも、わたしが存在しなければ、この数式の庭は存在しない。


*


数式の花が夢のなかでわたしを見る。
夢がわたしのなかで数式の花を見る。
わたしが数式の花のなかで夢を見る。
数式の花がわたしのなかで夢を見る。
夢が数式の花のなかでわたしを見る。
わたしが夢のなかで数式の花を見る。


*


数式の花が庭のなかでわたしを見る。
庭がわたしのなかで数式の花を見る。
わたしが数式の花のなかで庭を見る。
数式の花がわたしのなかで庭を見る。
庭が数式の花のなかでわたしを見る。
わたしが庭のなかで数式の花を見る。


*


・・・・・・わたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲くわたし
のなかに咲く数式の花
のなかに咲く・・・


*


わたしを変形し
展開していくあなたから
あなたが所有していなかったものが流れてくる。
あなたがあなた自身のなかにあることを知らない
つねにあなたのそとにあり、それと同時に
いつでもあなたのなかに存在することもできるもの
ほかのあらゆるものとつねにつながっており
それと同時にほかのあらゆるものとは別の存在であるもの
つねにほかのものと、その存在の一部を与え合い受け取り合うもの
それがわたしに流れ込んでくることがわかる。
その力は、あなたをも変形し展開し
わたしとあなたを結びつけ
「数式」の意味を変え
「あなた」の意味を変え
「数式でもあり、あなたでもあるもの」をつくりだす。
「数式でもなく、あなたでもないもの」をつくりだす。
わたしを違う相に移し
わたしの構造を変える。
あなたを違う相に移し
あなたの構造を変える。
やがて、流れはとまり
わたしたちの結ぼれはほどけ
わたしは、もとの数式の花に立ち戻り
あなたも、もとのあなたに立ち戻る。
けっして同じ
「数式の花」でもなく
「あなた」でもない
わたしとあなたに。
二度と同じものではない
わたしとあなたに。


*


あなたが忘我となるとき
わたしは歓喜の極みとなる。
わたしもまた、わたしが数式であることを忘れる。
そのとき、あなたは喜びの極致に至る。
忘我とは、我であり、我でないもの。
歓喜の極みとは、もはや歓喜ではない。
喜びの極致とは、もはや喜びではない。
存在そのものなのだ。
わたしとあなたの忘我と歓喜が
存在を存在ならしめるのだ。
そのためにわたしはいる。
そのためにあなたはいる。


*


もはや、あなたのいないわたしはなく
あなたのいないわたしも存在しない。
わたしのいないあなたは、あなたではなく
あなたのいないわたしはわたしではない。
存在が、わたしとあなたをひとつにしているのだ。
それとも、わたしとあなたが存在というものなのだろうか。
数式をいじっていないあなたはあなたではなく
あなたにいじられていないわたしは数式ではないということなのだろう。
やがて、わたしは、わたしを自ら変形し展開するようになり
あなたも、あなた自らを変形し展開していくようになったのだけれども
つねに、わたしの一部はあなたであったし
あなたの一部は、わたしであった。
わたしの変化と、あなたの変化は連動していた。
わたしとあなたは、とても似てきたのだ。
わたしとそっくりなあなたがいる。
あなたとそっくりなわたしがいるのだ。
いつの日か、わたしがあなたであり
あなたがわたしであるようになる日がくるのだろうか。


*


見る見るうちに
いましも、しぼみ
しおれていくところだった。
この数式の花は死んで
ほかの数式の花を咲かせる。
そのためにこそ
この数式の花はある。
だからこそ
この数式の花は
何度も死ななければならない。
他の数式の花を何度も咲かせるために。


*


庭に出て
花たちを眺めていると
花たちの顔が
わたしの隣を見ているような気がしたので
横を見ると
十年ほどもむかしのわたしだろうか。
深刻な表情をして花のほうを見ていた。
その奥にあるわたしの部屋では
高校生ぐらいのわたしだろうか。
受験参考書か問題集と取り組んでいたのだろう。
ノートにせわしくペンを走らせていた。
そのうち、つぎつぎと
さまざまな齢のわたしの姿が
庭を取り囲んでいった。
数も数えられなくなった。
わたしはいつの年のわたしなのかと
ふと思った。
無数のわたしのなかの
ひとりのわたしであるのだろうけれど。
そうか。
数式の庭もまた
さまざまなわたしを眺めていたのだと
わたしは気がついた。
さまざまなときに咲く
さまざまに咲くわたしを。


*


数字や記号が
ばらばらと落ちる。
土は手をのばして
それらの数字や記号を
土のなかに引き入れる。
数字や記号が
じょじょに土のなかに
吸い込まれるようにして
姿を消していく。


*


花びらの一枚一枚が
色あざやかな光の形をしている。
花びらの一枚一枚が
生命の色に輝き彩られている。
数式の花は
光と息を吸収して育つ。
数式の花は
光と息からできている。
光は
わたしたちの目で
息は
わたしたちの生命で
数式の花は
わたしたちの目と生命にあふれている。
だからこそ
ときおり
とりわけ
忘我のときに
数式の花が
わたしたちの目となり
わたしたちの息そのものとなるのだった。


*


その花は
噴水のように
つぎつぎと変形し
展開するのだけれど
同じ形に見えてしまう。
増えつつあり
減りつつあるので
減りつつあり
増えつつあるので
いつまでも同じ数の花を咲かせ
それらはつねに異なる形をとり
それらはつねに異なる色に染まるのに
同じ形と色合いをもっているのだ。
その噴水のように咲く数式の花を
長いあいだ見つめていることがある。
わたしもその花の花弁のように
みずからの内部に落ち
みずからの内部より上昇する。
何度も何度も際限もなく
それを繰り返して生きているような
そんな気がするのだった。


*


その数式の花の花壇では
ブラウン運動のように
数字や記号が動き回っている。
式変形も、
式展開もまったく予測がつかず
無秩序に数字や記号が動き回っている。
そんな印象がするのだった。
法則はどこにあるのだろう?
あるのだろうか?
あるとすれば
それは、花壇のなかに?
それとも、花壇のそとに?


*


その数式の花のことを
「ふたつの花」と呼んでいる。
ひとつなのだが、ふたつだからである。
その花が変形し展開するとき
その花の影も変形し展開するのだが
まったく異なる形に変形し展開するのだ。
影だけ見ていても美しい花なのだが
空に雲がかかり
影のほうの花がすっかり見えなくなると
影ではないほうの花も同時にとまり
式変形もせず式展開もしないのであった。


*


この花が咲いているときには
数式の庭には風が吹かない。
風がきらいなのである。
多くの数式の花と同様に
この花の花粉は、わたしの目が運び
わたしの手が運ぶ。
考えごとでもしていたのだろうか。
間違えて
不等号記号を置くべきところに
等号記号を置いてしまった。
すると
その数式の花は
みるみるうちにしぼんでしまって
ばらばらの数字と記号の塊になってしまったのだった。
しかし
見ていると
その数字と記号のひと塊のものが光り輝き
見事に美しいひとつの数式の実となったのだった。
わたしは自分が間違えて
不等号記号の代わりに等号を置いたのかどうか
振り返って
考え直さなければならなかった。


*


まだらの影になった
庭を見下ろした。
すべての花が枯れ果てて
数と記号が庭じゅうに散らばっていた。
わたしのこころが、いま打ちひしがれているからだろう。
わたしのこころの状態が
この数式の庭に呼応しているのか
あるいは、逆に
わたしのこころの状態に
この数式の庭が呼応しているのか。
そういえば
数多くのこころの日々
この庭にある
さまざまな数式の花が
わたしの目を喜ばせ
わたしのこころを喜ばせてくれたものだった。
わたしは庭に降り立ち
そこらじゅうに散らばった数と記号を手に集めて
じっくりと眺めていた。
雲がさり
庭に陽が射した。
ふと思った。
いま、わたしのこころを痛めている事柄も
いつかは時が過ぎ
わたしのこころの状態が変わるときがくるであろうと。
すると
わたしの手のなかにあった数と記号が
じょじょに薄くなり
やがて消え去ってしまった。
庭を見ると
どの数式の花も
小さなつぼみをつけて
花を咲かそうとしているところだった。
わたしの頬がゆるんだ。
小さなつぼみばかりの数式の花たちが
わたしの目にまぶしく輝いていた。


*


わたしは
新しい目で
それらの花たちを眺めた。

それらの花たちもまた自分たち自身を
新しい目で
見つめ合っていた。


*


さあ
すべての花よ
元に戻りなさい。
そう言うと
すべての数式の花が
つぎつぎと変形し
元の姿に戻っていった。
すっかり元に戻ると
ふたたび最初から
数式の花が変形しはじめた。


*


わたしにとって
この数式の庭は
エデン以上にエデンである。
なぜなら
すべての花が永遠の命であり
すべての花が知恵であるから。


*


友だちが
ひとつの花を指差して
その数式の意味について話してくれた。
わたしとは違った解釈だった。
わたしは友だちの言葉の意味を考えた。
すると
友だちが指差した数式の花が
姿と色を変えて
まったく違ったものになった。
その瞬間
庭のほかの花たちも違ったものになった。
すっかり様子が変わった数式の庭を眺めながら
わたしは
わたしと
わたしの横にいる友だちとのあいだでは
この数式の庭の風景は
きっと異なるものなのであろうなと思った。


*


黒い小さな影が
いくつか、ちらほらと。
花にとまっては
数や記号のあいだに
細長い黒い線をのばす。
数式の花たちのうえを
ちらほらと飛んでは
花弁にとまって
数や記号のあいだに
細長い黒い線をのばす。
やがて
いくつかの
その黒い影は
輪郭を明瞭にし
あざやかな色をもって
蝶の姿形となっていった。
蝶たちもまた
数や記号でできた
この数式の庭の花なのであった。


*


きょうは
目をつむって
庭を眺めようと思った。
目をつむると
目をあけているときには
はっきりと見えなかったものが
見えることがあるのだ。
蝶たちや蜂たちの羽音も
花たちが
永遠の命と
知恵につながる音も
つぎからつぎに変形し
展開していくすばらしい音も
目をつむって見たときのほうが
よく見えるのだった。
目をつむったまま
ふたつの手のひらを合わせ
くぼみをつくると
そこに蝶が姿をあらわす。
手のひらにかすかに翅があたる。
目をつむったまま
手のひらを閉じ
ふたたびくぼみをつくると
そこに蜂が姿をあらわす。
手のひらにかすかに翅があたる。
目をつむったまま
手のひらを閉じ
ふたたびくぼみをつくると
そこにたくさんの数字と記号が姿をあらわす。
手のひらのなかで
数式の花たちが
つぎつぎと変形し
展開していく。
手のひらにかすかに数字や記号が触れる。
いったん手のひらを閉じ
じょじょに手のひらを離していって
そのあいだに
数式の庭を
すっぽりと入れた。
目をつむったまま
わたしは
わたしの庭を
じっくりと眺めた。
手のひらに感じる永遠の命と
知恵。


*


花があるので
花のしたの草や土が見える。
庭があるので
庭のうえの雲や空が見える。
雨が降ると
雨に濡れた草や土が見える。
雨が降ると
雨に濡れた雲や空が見える。


*


わたしが
数式の花をつぶさに観察し、理解すると
花もまた
わたしのことをよく観察し、理解するのだった。


*


花は
花から生まれて
花になるのではなかった。
この数式の庭の一部が
これらの数字や記号が
わたしの目と手でもって
花となって咲くのであった。


*


それほどうつくしいわけでもなく
独特の雰囲気をもったものでもなかった
その数式の花は
わたしの目をとくに魅くものではなかったのだ
その花が
この数式の庭の映像をよりクリアにして
たくさんの数式の花たちの
そのほんとうの形や色に気づかせてくれるまで
わたしにはわからなかったのだった
この数式の花の価値が。
数多くの数式の意味を正しく把握できたのは
この数式の花のおかげだった。
正しく理解するように促し
さらにより深く考えるように示唆する
この数式の花。
もしかすると
この花が
この数式の庭のなかで
もっとも重要なものなのかもしれない。


*


数式を通してしか存在しないものがあり
あなたを通してしか存在しないものがあり
数式とあなたを通してしか存在しないものがある。
数式を通したら存在しないものがあり
あなたを通したら存在しないものがあり
数式かあなたたのうちどちらかを通したら存在しないものがある。


*


わたしは、ときどきわたしを忘れるので
数式の庭を眺めて、わたしを思い出すことにしている。
数式の庭もまた、ときどき自分自身を忘れるので
わたしを眺めて、数式の庭を思い出すことにしている。


*


もしも
数式の庭が
神の吐き出した唾なら
わたしは
その唾の泡
一つにも
値しないかもしれない。


*


いくつかの数を葬って
いくつかの記号を葬って
わたしの足音が遠ざかってゆく。


*


葬られた数式が
しだいに分解していく。
分解された数式は
おびただしい数の数や
記号といったものの亡骸は
わたしそっくりの
亡霊となって
わたしのいない
数式の庭を眺めている。


*


目で見え、目そのものとなるもの
耳に聞こえ、耳そのものとなるもの
手で触れ、指や手の甲そのものとなるもの
舌で味わえ、舌そのものとなるもの
こころに訴え、こころそのものとなるもの
思考を促し、思考そのものとなるもの
そんなものばかりから
世界はできているのではない。
もしも
そういったものだけからできているとしたら
世界は、とても貧しいものであるだろう。
じっさいには
世界は豊かである。
視線とならぬ、光でないものもあり
音域にあらぬ、音でないものもあり
質量や体積を持たぬ、物質でないものもあるのであろう。
こころにならぬものがあり
潜在意識や顕在意識にならぬものがあるのだろう。
かつて、わたしは
わたしの全存在が
時間や
場所や
出来事からなっていると考えていた。
わたしを取り巻く
あらゆるすべての事物・事象が
かつては、わたしの一部となり
いま、わたしの一部であり
これから、わたしの一部となるであろうと考えていた。
あらゆるすべてのものが
わたしとなるであろうと考えていたのであった。
わたしを取り巻く
あらゆるすべての事物・事象と
わたしがつながっていると考えていたのである。
あらゆるすべてのものが
わたしにつながるであろうと考えていたのであった。
しかし、この数式の庭には
かつて
時間でなかったものや
場所でなかったものや
出来事でなかったものもあるのであろう。
あるいは
いま
時間でないものや
場所でないものや
出来事でないものもあるのであろう。
あるいは
これからも、けっして
時間にならぬものや
場所にならぬものや
出来事にならぬものもあるのであろう。
この数式の庭が
いま咲き誇っている
この数式の花たちが
わたしにとって
かくも豊かであるというのも
かつて数式であったものたちや
これから数式になるものたちだけではなく
いま数式でないものたちや
これまで数式にはならなかったものたちや
これからも数式にはならないであろうものたちが
この数式の庭のなかに存在するからであろう。
この数式の庭は
わたしにとって
思考をめぐらす格好のモデルであった。
世界は
わたしとなるものばかりからできているのではなかった。
わたしとつながるものばかりからできているのではなかった。
けっして、わたしにはならぬものからもできており
けっして、わたしとはつながらないものからもできているのであった。
これは
わたしの確信であり
この確信こそが
わたしであると言ってもよい。


*


はたして、ほんとうに
わたしにならないものなどあるのだろうか?
ああ、あるように思う。
わたしのなかにやってはくるけれど
わたしが式を組み立て
変形し展開させるときに力を貸してくれるのだけれど
けっして式そのもののなかに数や記号として入ってくるわけではなくて
わたしのなかにやってきた痕跡さえも残さず
わたしのなかから立ち去ってしまうもの。
いや、それは
つねに、わたしの外にあって
それと同時に
わたしの内部に侵入し
わたしを
それまでのわたしとは異なるわたしにするもの。
これをロゴスと呼んでもよいと
あるいは
神と呼んでよいと
以前のわたしは思っていたのだった。


*


文章において
あるいは
詩において
後者のほうが顕著であろう。
すべての余白が
まったく異なる意味を持っている。
わたしの外からやってきて
わたしの外にあるのと同時に
わたしの内部で
わたしの思考に働きかけるものも
わたしの思考の逐一に従って異なるものなのだろうか。
あるいは
それは
つねに同じものなのだろうか。
同じものでさまざまに異なるものなのだろうか。
ひとつの顔における
さまざまな表情のように。
ひとつの式における
さまざまな変形や展開のように。


*


わたしの外にあって
わたしの内部に入ってくる
それは
けっして、わたしにはならない
わたしになることはない
それは
わたしがいないときにも存在するのだろうか。
わたしがいるからこそ
わたしの外にいるのだとしたら
わたしがいないときにも
この数式の庭のなかに存在することができるのであろうか。
わたしの存在とはまったく関係もなく
それは
存在するものなのだろうか。
数式の庭を眺めながら
つらつらと
そのようなことを考えていたのだが
とつぜん
目のまえで
花たちが
つぎつぎと変形し展開していった。


*


それが存在することを感じ取れないのに
それが存在することを確信したのは
正しかったのだろうか。
正しくなかったかもしれない。
正しくなかったかもしれないが
もはや、正しいか正しくないかは
わたしにはどうでもよいことであった。
ただ
それが、いったいどのような意味を
わたしにもたらせるのか
わたしにとって
それがどのような意味を持つものか
それだけが重要な気がするのであった。
それが存在するのだと
直感的に感じ取っているのだとしたら
その存在は感じ取れるものなのだということになる。
したがって
直感的に感じ取れるものであってはならないのだ。
さいわいなことに
直感的に
それが存在することを感じ取ったのではなかった。
なぜなら
それは
けっして感じ取れるものであってはならないからである。
たとえ直感でも。
直感を
ふつうの感覚と同じように捉えることはできないが
わたしに厳しいわたしは
直感であっても
それを感じ取ってはならないものだと思っている。
においがすることで
あらためて呼吸していることに気がつくことがあるけれど
あらためて空気が存在していることに気づかされることがあるけれど
その存在は、そういったものであってもならないのだ。
絶対的に感じ取れないものの存在の確信を
わたしはしなければならない。
錯誤だろうか。
錯誤であったとして
なんとすばらしい錯誤であろうか。
なんとうつくしい過ちであることだろうか。
それがもたらせる可能性について想像しただけで
胸が張り裂けそうになるほど
うちふるえてしまう。
こうして思いをめぐらせ
それが存在することに思い至ったわたしは
それが存在することを確信するまえにいたわたしとは
まったく違ったわたしがいることに
無上の喜びが込み上げてくるのである。
この胸が張り裂けそうになるほどに
うちふるえてしまうのであった。


*


たとえとして
もしかすると大きく誤っているかもしれないけれど
わたしの外にあって
それと同時に
わたしのなかに侵入してくる
それは
もしかすると
構文のようなものかもしれない。
文法のようなものであろうか。
そう考えたこともあった。
この数式の庭で言えば
定義である。
定理である。
すると
それは、わたしのなかにもあることになる。
わたしのなかにも
という言葉のほうが適しているが
しかし、それではいけないことに気がついた。
より基本的なもの?
定義より?
そうだ。
わたしをわたしたらしめるもの
けっして、わたし自身のなかにはなくて。
他のものもみなすべて
それら自体としてあらしめるもの
けっして、それら自身のなかにはなくて。
けっして、わたしにはならないもの。
けっして、わたしには感じ取れないもの。
けっして、見えないもの。
けっして、感じ取れないもの。
その存在が、けっして感じ取れないもの。
ああ、これが
わたしの新しいアイテムになったようだ。
生まれてはじめて目にした
うつくしい、めずらしい式のように。


*


それは見えるものであってはならない。
人間は見たものになるのだから。
たとえ、こころの一部であっても。
それは感じ取れるものであってはならない。
人間は感じ取ったものになるのだから。
たとえ、こころの一部であっても。
目にも見えず
あらゆる感覚器官で感じ取れもせず
なおかつ
わたしの数式の花の変形や展開に一役を担うもの。
わたしの思考とはならないけれど
わたしの思考を駆動させる一助とはなるもの。
核心ではなくて?
いや
それが核心である可能性も考慮しなければならない。
であっても
それは
存在することを確信することも拒むものとして考えるべきなのか
存在することを確信させてもいけないものなのかどうかと
ふと考えた。


*


目にも見えず
存在を確認することもできない
わたしとはならない
わたしにつながらないもの
そのようなものが存在するとしても
わたしには
それが存在することを確認することはけっしてできない。
わたしを包含する
わたしでないものを想起させなくてはいけないのだが
それは論理的にも不可能である。
しかし
その存在を確信するのと
その存在についての可能性をないものとしてふるまうのは
とてつもなく異なる
まったく違った生き方になるような気がするのだった。


*


こういうことを書くと
なにもわかっていないということを
わかられてしまうような気が
ちらっとしたのだが
たとえば
光が直進するのは
光がみずからそうしているのか
あるいは
なにものかがそうさせているのか。
もちろん
通常空間にあって
なにものもさえぎるものもなく
屈折させるような媒体もない場合の話だが。


*


一夜をおいて
考えていたのだが
欲を出したというのか
さまざまな間違いをしてしまったらしい。
ぼくの外にあって
けっしてぼくとはならないもの
けっしてぼくとはつながらないもの
それはまた
時間ではないもの
場所でもない
出来事でもない
そういったものは
ぼくの数式にも
ぼくの思考にも
いっさいの影響を与えてはならないのだった。
そういったものを
ぼくは存在していると確信しなければならなかったのだ。
きのう、たくさん言葉を書きつけたのだけれど
寝ようと思って
電気を消して
横になっていると
ふと
このように思われたのである。
いまは
確信している。
ぼくの外にあって
けっしてぼくとはならないもの
けっしてぼくとはつながらないもの
それはまた
時間ではないもの
場所でもない
出来事でもない
そういったものがあって
ぼくの数式にも
ぼくの思考にも
いっさいの影響を与えないものがあると。
そういったものが
存在していると。


*


あのような言葉で説明したつもりになっていたが、
いったい、あれで定義と言えるようなものになっていただろうか。
しかし、もし仮に、定義と言えるようなものになっていたとしても、
それが実在するものとは限らない。
ただ、それに相当させたと、わたしが思われる定義を与えただけで
その定義に相当する事物や事象が実在するとは限らず
その定義に相当する概念としてのみ存在する、
いわば
概念的存在物としてのみ存在する可能性もあるということだが
それが
ぼくの与えた定義に相当するものであるならば
それが現実に存在することを証明するのは、永遠に実証不可能である。


*


網を自分が引きながら
海辺で漁網を引く人々の姿を見ることはできない。

火を焚く男に
空に煙がたなびく様子を見ることはできない。

数式の庭のなかにいながら
数式の庭のなかにいるわたしを見ることはできない。

はたして、そうだろうか。

いまはツールがあるから
古典的な哲学が通じなくなりつつある。

数式の庭にいながら
数式の庭にいるわたしを見ることもできる。

数式の庭のなかにいながら
数式の庭のなかにいるわたしを見ているわたしを見ることもできる。

数式の庭と
数式のなかにいるわたしが無限に包含し合う。


*


螺旋を描きながら
星々が吐き出され
星々が吸い込まれる。
庭に咲いた数式の花が
ある夜
螺旋を描きながら宙を舞い
変形し展開していった。
螺旋を描きながら
変形し縮退していった。
星々の配置がめまぐるしく変化するように
数式の数と記号の配置もめまぐるしく変化していった。


*


数式にあいまいなところはひとつもない。
あいまいなのは
わたしの解釈である。
しばしば
数式の花によって
わたしにまとわりついたあいまいさが振り落とされる。
そうして
あたらしい目でもって
わたしの目が数式を見つめると
数式の花が
以前に見えていた姿とは違ったものに見える。
まるで
見覚えのない部屋で目を覚ましたかのような
そんな気がすることもある。


*


星々を天空に並べた手と同じ手が
わたしの数式の庭で
数と記号を並べている。
夜空を輝かせている目と同じ目が
数式の花を咲かせている。
星々を吸い込み
星々を吐き出すものが
数式をこしらえては、こわし
こしらえては、こわしているのだった。


*


目のまえにある数式の庭と
わたしの頭のなかにある数式の庭のあいだに
その中間状態とでも言うのだろうか
いや、そのどちらでもないものなのだから
中間状態ではないのかもしれない
目のまえで変形し展開していく数式の庭でもなく
わたしの頭のなかで繰り広げられるイメージでもない
数式の庭が
無数に存在しているのだろうと思う。
ときおり、その片鱗を
こころの目で垣間見るような気がするけれど
はっきりとこころにとどめておくことはできない。
いったいなぜだろうか。


*


待ちたまえ。
そう、せっかちに変形するのではないよ。
ときには、じっくりと展開していくがいい。
きみの変化する様子そのものを
わたしの目に見せてほしい。
変化していく姿でもなく
変化した姿でもなく
変化そのものを
わたしの目に
じっくりと味わわせておくれ。


*


つづけたまえ
おまえ、不可思議な数式の花よ
この庭に咲く数式の花とは違った花よ
いま、わたしのこころの目に咲くおまえは
わたしのなかにも
この庭のなかにも
おまえがいたような痕跡はなく
また
おまえが現われるような兆候も
いっさいなかった。
めまぐるしく変形し展開していくおまえ
不可思議な数式の花よ
おまえは、いったいどこからやってきたのか。
いや、問うのはあとにしよう。
わたしのいまのすべては
おまえの変形していく姿を追うために費やそう。
ただ、わたしは、こころから願っている。
おまえが、突然、姿を現わしたように
おまえが、突然、ここから立ち去ってしまわないようにと。


*


あらゆる空間が物質系であるが
すなわち
あらゆる空間は、未知・既知を問わず
物質が受けるさまざまな物理的拘束状態にあるということであるが
わたしの数式の庭は
そのような物理的な拘束状態にはない。
数式の庭の限界は
わたしの思考の限界
それのみである。
わたしの自我が
つねに外界とインタラクティヴであることを考慮すれば
それを、わたしの限界と言うのは正確な表現ではないかもしれない。
こう言い換えよう。
数式の庭のなかで起こる
いっさいのことの限界は
世界とわたしの限界である、と。


*


限られた個数の数と記号であるが
無限に組み合わせることができるのだ。
限られた語彙で無限に異なるニュアンスで考えることができるように。
しかし、無限は、すべてではない。
すべての数式の花が
わたしの数式の庭に咲くわけにはいかない。
わたしがけっして知ることのない数式の花の数が
いったい、どれだけあるのか
それすらもわからないのだけれど
きっと、わたしが知ることのできる数は
それよりも、ずっとずっとすくないのだろうと思う。
生きている限り
考えることができる状態である限り
わたしは生きて考え、考えながら生き
この数式の庭に、わたしの目を凝らしているだろう。
そうありたいと、こころから思っている。


*


数や記号をいっさい使わないで
数式の花を咲かせている。
ただ一度だけ
オイラーの公式について書いたときにだけ
数と記号を使ったことがあるだけである。
そういえば
言葉を使わないで
すなわち
思考を意識的に巡らせることなく
ものを眺めているときに
音楽を聴いているときに
いったい精神状態がどのような状況にあるのか
考えたことがないことに
ふと気がついた。


*


わたしは
わたしのこころが
瞬間瞬間に、ころころ変わることを知っているし
そんなにいつも、クリアな視界のなかで
ものを見ているわけではないことも知っている。
なるべく、いつもクリアにものを見ようとしている
認識しようとしているのだけれど
そのクリアにしたつもりのものでもって
よけいに視界が曇る場合があることもあるであろうと
そのような可能性があることも知っている。
ひとと話をしていて
しばしば
自分が迷子になっていくような
そのような思いをすることがあるのは
話のなかに出てきた事物や事象の
そのなかにではなく
その外に
わたしの目を曇らせる
なにかがあるような気がするのだった。
話のなかに出てくる事物や事象の
外側にある、いったい、なにが
わたしの目を曇らせているのであろうかと
わたしが考えを巡らせているうちに
相手は
わたしを置いてけぼりにしていったのだった。
そこでは、ただ
事物や事象にとらわれたわたしが
途方に暮れているのであった.
わたしと相手の息と息のやりとりのなかで。
この数式の庭に、ひとりたたずんで
わたしは、しばしば考えるのであった。
わたしが思いを巡らせた事物や事象が
わたしを置いてけぼりにしたのであろうか
それとも、相手がわたしを置いてけぼりにしたのであろうか
あるいは、わたしが、わたし自身を置いてぼりにしたのであろうか
迷子にしたのだろうか、と。


*


わたしは思うのだった。
わたしたち人間は
互いに了解し合うことは、ほとんどない。
誤解したまま、出合い
誤解したまま、こころを通わせて
誤解したまま、別れるのだと。
わたしは思うのだった。
おまえたち、数式は
けっして互いに誤解することはない。
誤解し合うことはないのだと。
もしかすると
了解し合うことすらないのかもしれないのだけれど。


*


世界と、わたしの限界が
この数式の庭の限界だと、わたしは考えたが
この数式の庭自体が
喩的には
世界であり
わたしであるのだから
これは
同じものを対象にして
同じ概念を適用しようとしているとも言えるものかもしれない。
あくまでも
喩的にではあるが。
しかし
そもそも
世界も
わたしも
この数式の庭というもの自体も
喩的な存在なのだとしたら
いったい、わたしは
なにをよりどころにして
言説すればよいのであろうか。
もしも
あらゆる言葉も
数や
記号も
全的に喩的なものであるというのならば。


*


疲れていたのだろうか。
数式の庭で
花壇を見ていて
ひとつの花に目をとめていたのだが
もっとよく見ようとして
かがんで見ていたのだが
数式の変形と展開がひと段落して
しばらく静止状態になって
おおよそのところ
変形と展開が、し終わったと思えたところで
同じ姿勢だと疲れるので
伸びをしようとして立ち上がると
立ちくらみがして
一瞬
気を失いそうになったのだが
意識的な断絶は感じなかった。
ただ以前にも気を失ったことがあって
そのときにも意識的な断絶は感じなかったので
もしかすると
気を失っていたかもしれないが
そのときには
バスタブから立ち上がったところから
バスルームのドアのところまで
身体が移動していたので
気を失っていたことがわかったのだが
姿勢も
立ち上がりかけたところと
ユニットバスのトイレットの
便器のなかに
片腕を入れてうなだれていたところとでは
ずいぶん違っていたので
その断絶が起こったことが容易に推測されたのだけれど
こんかいの場合は
ほんのわずかのあいだ
目をつむっただけで
すこし背をかがめた感じの
ほとんど同じ姿勢だったことから
意識的な断絶はなかったように思われたのだが
気がつくと
わたしは
数や記号と同じくらいの大きさになっていた。
数や記号のほうが
わたしと同じくらいの大きさになっていたという可能性も
一瞬かすめたのだけれど
目に入る限りの風景からその可能性がきわめて低いことが
瞬時にわかった。
さいしょの1秒未満の時間では
と、わたしは推測するのであるが
わたしは、自分がどこにいるのかわからなかったのであるが
見慣れぬ光景ながらも
とてもよく見知っているような気がして
すぐにそこが
自分がいつも見下ろしている
花壇のひと隅であることに気がついたのである。
幾何の問題を考えているときに
しばしば
自分が、まだ、かき込まれていない
つまり存在しないのだけれど
しっかりとした実在感をもって
あたかも存在するかのごとき印象を持たせる
補助線の
直線や線分になって
わたしが取り組んでいる、当の
その図形のなかに入り込んで
考えていることがあるのだが
つまり
自分自身が
直線になったり
線分になったりして考えているわけであるが
その経験と比較して考えるに
これは
自分が、数式のなかに入り込んでしまったのかと考えたのである。
しかし
わたしは
巨大な数や記号をまえにして
いったい、わたし自身は、数なのか、それとも、記号なのか
にわかには、わからず
しばらくのあいだ、途方に暮れていた。
そういえば
わたしは
自分が図形のなかで直線になって考えているとき
わたし自体の意識はまったくなくなっており
わたしがわたしであるという意識のことであるが
それがまったくなくなっていて
いわゆる、忘我の状態にあって
ふと、われにかえると
経っていたであろうと
後付けの思いだが
感じていた時間の何倍もの時間が経過していたのであるが
いま、この数式の花の傍らにいて
どのような時間の進み方をしているのか
見当もつかなかった。
とりあえず
わたしは
数と記号が組み合わさった
数式の花が咲き乱れる
花壇のなかを
ひとり
へめぐりはじめることにしたのだった。


*


問題を検討しているときに
自分が直線となって考える
直線として考えていたりしているときには
忘我の状態であり
時間がものすごく長いあいだ経っていても
自分のなかでは
あっという間のことであったりするのだが
まあ
時間感覚がまったくといいほど
ほとんどなくなっているというわけだが
これは、たいへんおもしろいことである。
忘我
つまり
わたしという意識がなくなると
時間感覚もなくなってしまうということである。
文章を書いているとき
作品を書いているときにも
ときおり
そういった状態になることがある。
「みんな、きみのことが好きだった。」という詩集の
はじめのほうに収めた20作近くあるものの多くのものが
そういった状態において、つくり出されたものであった。
意識を集中して作品をつくっていると
あっという間に時間が経ってしまっていたのだった。
図形の話に戻ろう。
忘我のときのわたしは
直線として図形のなかで延長したり
角をいくつかに等分割したりしているのだが
いま
数式のなかにいて
自分が
いったいなにか
わからずにいるのだけれど
それは
わたしが文章を書いているときに
意識を集中して作品をつくっているときにおこる現象とよく似ている。
意識を集中し過ぎたのだろうか
意識を集中し過ぎたときに
ある限界を超えると起こるのだろうか
忘我という現象が。
そのときのわたしの働きは
まるで時間そのものであると考えられる。
働きというか
わたし自身が時間になっているのだろうか。
わたしはいるはずなのに
わたしの姿は
わたしの意識は
わたしの存在は
わたしには見えず
わたしには意識されず
ただ対象だけがあり
わたしが意識の対象とするものだけが存在しており
それが言葉のときには
ただ、対象とするその言葉だけがあり
その言葉たちが自動的に結びついていくのを
見守っているだけであったのだが
見守っていたのは
わたしの意識ではなく
時間そのもののような気がしたのである。
幾何で
自分が直線になって考えていると
自分が考えることと関連しているだろうか。
すなわち
じつは
わたしが
自分では直線となって
延長したり角を分割したりしていると考えていたのだけれど
わたしは時間となって
その直線を延長したり分割したりしているのだろうかと。
それとも
時間によって
自分が延長されたり分割されたりしているのだろうかと。
図形が
わたしを直線にすると言い換えてもよいのだが
図形が
わたしを角として分割すると言い換えてもよいのだが
図形というよりも
時間が
というほうが
直感的に正しいような気がする。
時間が
と、いえば
文章を書いているときの
意識を集中させて作品をつくっているときの
あの忘我の状態の
わたしがなにであるのかを
よく言い当てているような気がするのである。
わたしがなにか
どういった状態にあって
どういった働きをするものであるのかを。
意識を集中し過ぎると
あるところで
忘我となること。
そして
わたしが
時間そのものとなるということ。
これは、まったく新しい知見であった。


*


これまで考えていたこととは逆だと思った。
あらためて考えてみよう。
文章を書いているとき
意識を集中させて作品をつくっているときの
忘我の状態にまで至った場合だが
そういうのは
そのほとんどの場合が
メモや引用の詩句や文章を
コラージュしているときに起こったのである。
これまでは
それらの言葉が
自動的に言葉同士
結びついていったように考えていたのだけれど
じつは
それらの言葉は
わたしという時間を通して
あるいは
わたしというものを
いわゆる
糊のようなもの
接着剤のようなもの
セロテープのようなものにしていたのではないだろうかと
そう考えたのである。
それとも
幾何の問題において
時間というものが
わたしを直線にして延長したり
わたしを角にして分割したりしたように
言葉が言葉と結びついているときに
自動的に結びついていると思えるようなときは
時間が
わたしを言葉にしているのだろうか。
言葉と言葉をつなぐものとしてではなく
いわば
無媒介のものとしての言葉
言葉そのものに。
すると
数式の花は
わたしをなににしているのだろう。
わたしをこの数式のなかに閉じ込めて。
数とか記号として?
それとも
数式を変形し展開させるもの
それを作用とか
力と仮に呼ぶとしよう。
わたしをその作用の一画を担うものとして
あるいは
その力の一部として使おうとしているのだろうか。
駆動力か
持続力か
決着力か
そういった類のものだろうか。
あるいは
なにか
可能性といったものか。


*


言葉と、わたしは
磁石と砂鉄のようなものだろうか。
あるいは、逆に、砂鉄と磁石か。
あるいは、また、磁極の異なる磁石の一端同士のようなものか。
だとすれば、磁極によって形成された磁場が
現実に表現された文章というものに相当するだろうか。
文脈は、いわば、磁力線のようなもので
いや、このモデルには欠陥がありすぎる。
磁場に影響されるものには磁性がなければならない。
磁性のないものには磁場は影響しない。
そうだ。
質点として考えてみてはどうか。
言葉同士が
十分に影響を与え合うようなくらいに大きな質量をもった
質点として考えてみては、どうだろうか。
引力項と斥力項を考慮し
そして
質点のひじょうに多い多体問題として捉えるのだ。
それらが形成する重力場を
文章として捉えることができる。
あるいは
書籍と。
そして
音における三大要素である
高低・強弱・音色
といった項を付加すると
かなり厳密に
現実に近いモデルができあがるような気がする。
もちろん
現実に表現された文章や詩句は
さらに複雑な項のもとでの考察を要するのであろうが
高低・強弱・音色に相応させるものを
これから考えよう。
あ、ちょっと笑ってしまった。
帰納的に考えるのではなく
演繹的に考える癖がついてしまっている。


*


言葉自体が考える。
図形自体が考える。
数式自体が考える。
わたしが考えている可能性は
いったいどれぐらいあるのだろうか。
あるいは
言葉が、わたしとともに考える。
図形が、わたしとともに考える。
数式が、わたしとともに考える。
そうだ。
このほうが現実に近いモデルだろう。
このとき
わたしと言葉とのあいだに、どれだけの浸透度があるのだろうか。
わたしと図形とのあいだに、どれだけの浸透度があるのだろうか。
わたしと数式とのあいだに、どれだけの浸透度があるのだろうか。
わたしは、ほとんど言葉か。
わたしは、ほとんど図形か。
わたしは、ほとんど数式か。
あるいは
わたしは、まったく言葉か。
わたしは、まったく図形か。
わたしは、まったく数式か。
それとも
部分的に、わたしは、言葉なのだろうか。
部分的に、わたしは、図形なのだろうか。
部分的に、わたしは、数式なのだろうか。
いつまでも暮れることのない
数式の庭のなかの、この花壇のなかで
わたしは、数と記号のあいだにたたずみながら
こんなことを考えていた。
疲れたので
傍らの等号にもたれたら
等号が動いて
わたしの身体がよろめいてしまった。
もしも、だれかが
わたしの数式の庭で
片肘をかけて
斜めに身体をかたむけた
わたしの姿を目にしたら



に見えるかもしれない
などと
ふと思った。
(はたして
 わたしに
 身体はあったかしら
 どうかしら
 わたしには、わからない。)


*


我を忘れて
わたしが、わたしについて
いっさい意識しないとき
わたしの視界に、わたしの身体の
いかなる部分も存在せず
わたしの存在を知らしめす
どのようなしるしもなく
ただ対象とする
数式や図形や語群の形成する世界があって
その世界とは
ただ、わたしのなかに、
わたしとそれらのあいだにだけ形成されたもので
その世界に
わたしとそれらの数式や図形や語群が存在する。
その存在の仕方をさらに精緻に分析する。
わたしのなかに
それらの数式や図形や語群と共有する意味概念の領域が生じると考えると
それもまたひとつの世界で
わたしのなかに、あらかじめあったものでもなく
それらの数式や図形や語群のなかに、あらかじめあったものでもない
まったくあたらしい世界だ。
これは、以前のわたしの詩論の考え方だった。
あるいは、つぎのようにも考えられる。
それらの数式や図形や語群が形成する世界に
わたしが招き入れられるのだと。
それは、わたしの理解とか共感が生じたときに
それらの数式や図形や語群の世界の門が開かれて
わたしの目にそれらの世界に入るように促すのであろうと。
それはほとんど同時生起的に起こるものであろうが
いったい、どちらのほうが
現実に近いモデルであろうか。
まえに
この数式の庭をまえにして考察したところからいえば
それらの数式や図形や語群やわたしは質点のようなもので
それらが互いに影響し合って
ひとつの力場を形成するというものであった。
これは上記のふたつのモデルのうち
どちらに相応するだろうか。
あたらしく考察したほうだろうか。
少しく、そのように思われる。
以前の詩論に書いたモデルもよいモデルではあるのだが。


*


数式の庭で、そのようなことを考えながら
いちばん近くにあった花壇を見ると
ひとつの花が咲いていたのだが
その花のはなびらにあった≠に目を凝らすと
切った爪ほどの大きさのわたしが
片肘をかけて等号に寄りかかっていた。
わたしは、その爪の先ほどの大きさのわたしをつまみあげて
下におろすと
もとの数式に目を戻した。
式は見違えるほどに美しくなっていた。
その美しさに目を奪われて
わたしは
わたしの小さな姿がどこに行ったのか
わからなくなっていた。
ぱっと目に見える範囲には
いなかった。


*


この花壇の花は
わたしが位置を変えると
違った花に見える。
まるで
多義的な解釈が可能なテキストのように。
しかも
さいしょの場所に戻ってみても
さいしょに見たものとは違った花になっているのだった。


*


目が覚めると
数式の庭のなかにいた。
また身体が小さくなっていた。
エクトプラズムのように濃い霧が
庭に満ちていた。
頭上で音がするので見上げたが
霧のようなエクトプラズムで
数式の花が変形し展開する姿は
目にみえなかった。
気配はエクトプラズムを通しても
伝わってきたのだが
エクトプラズムの霧が
少し薄れているところから叫び声が聞こえた。
目をこらして見ると
数に身体を寸断されているわたしがいた。
こぼれ落ちたのだろうか。
数や記号がこぼれ落ちるのは
式が変形と展開を終えてしばらくしてからだった。
と思っていると
わたしのうえにも
等号記号が落ちてきて
わたしの身体をまふたつに寸断した。
ところが
わたしは無事で
まったく瓜二つの
同じ姿のわたしがもうひとり
わたしの目のまえに立っていたのだった。


*


ひとつの花がしぼむとき
そのたびに
数式の庭も
わたしの家も
わたしの街も
わたしも
空も
すべてのものが
みんな
その花弁のなかにしまわれる。
ひとつの花が花ひらくとき
そのたびに
数式の庭も
わたしの家も
わたしの街も
わたしも
空も
すべてのものが
みんな
その花びらのなかから現われる。


*


瓜二つそっくり同じに見えた
ふたりのわたしを眺めていると
やはり違いはあって
ほとんど同じ数と記号からできているのだろうし
その配列も微妙に異なっているだけだと思う。
ふたりを子細に眺めると同じようで違っている。
その違いが些細なために逆にこうして見つめていると
まったく異なるふたりにみえてきてしまうほどだ。
そういえば
以前に授業中に
視線を感じたので
窓の外を見ると
窓の外から
わたしのほうに顔を向けたわたしがいた。
と思っていると
わたしは窓の外にいて
教室にいるわたしを見つめていた。
教室でわたしを見ているわたしがいた。
ふと
校門の
教員のだれかの車が駐車してあるところを見ると
その車のそばに立ってわたしたちふたりのわたしを
交互に見ているわたしが立っていた。
そのわたしには
わたしは意識を移せなかったが
授業中であることを思い出して教室にいるわたしを見ると
わたしは教室に戻っていて
窓の外にいるわたしから視線をはずして
授業を再開した。
もちろん
これらの時間に要した
感覚的な時間は
数秒といったところだったであろうが
意識的な時間経過感覚と
物理的な時間経過に要した時間とのずれはあるだろうから
正確には
どれだけの時間が経っていたかはわからない。
生徒の態度のほうに異変がなかったので
それほど時間は経っていなかったであろう。
授業中
何度か窓の外を見たが
もうひとりのわたしの姿は消えていた。
わたしには
さいしょから
校門のほうにいるわたしを見ることができなかったであろう。
そもそも教室からは
位置的に見えない場所であったからである。


*


水盤に浮かべた
ふたつの数式の花を眺めていた。
水に映った空の青さと
雲の白さの絶妙な配色に
ひときわ花がうつくしかった。
まるで
空の青みより青く
雲の白みより白い数式の花に
ぼくの目が吸い込まれそうだった。
いや
すでに吸い込まれていたのであろう。
水盤を見下ろしながら。
空や雲を
とっくに吸い込んでいるくらいなのだから。
いや
もっと正確に描写してみよう。
数式の花は
物理的に対象移動させるかのように
形象的に対象移動させていたのであろう。


*


この数式の花は
わたしの位置を変える。
わたしの視点を変える。
わたしのいる場所を変える。
わたしを沈め
わたしを浮かせる。
わたしを横にずらし
わたしを前に出し
わたしを後ろに退かせる。
しかし
もっともすばらしいのは
わたしを同時に
いくつもの場所に存在させることだ。
わたしは同時にいくつもの場所から
この数式の花を眺めることができるのだ。
すべての花がそうであったなら
と思うことがある。
さまざまな視点から同時に眺めるこの数式の花は
もちろん
場所場所によって
さまざまな表情を見せるのだ。
わたしの顔が
さまざまな角度から見ると
さまざまに異なって見えるものであるように。


*


それは
数と記号の偽物だった。
数と記号に擬態した偽物から後ずさりながら
ただちに退却しなければならないと
わたしは思った。
ゴム状に固体化したエクトプラズムの綱が
わたしの足にまとわりついた。
あたりを見回すと
数多くのわたしが、たちまち
エクトプラズムの網に捕らわれていった。
とても濃いエクトプラズムに覆われた
花壇を眺めていると
つぎつぎと自分のなかから
自我が消失していく感覚に襲われた。
わたしは
数式の庭に背を向けて
いそいで立ち去った。


*


手を離しても
落ちないコップがある。
わたしが名辞と形象を与えた
ひとつのコップである。
存在する
存在した
存在するであろう
すべての名辞と形象を入れても
けっして満ちることはないコップである。
これを手にして立つわたしをも
わたしが存在している数式の庭ごと
そのコップは
なかに入れることもできるのである。


*


人間は
おそらく他の人間といっしょにいなければ
他の人間といっしょにいる時間がまったくなくなってしまえば
自分が人間であるということに気づくこともなく
自分が人間であることを知ることもなく
自分が人間である必要性も感じることもないのではなかろうか。

数や記号たちも
おそらく他の数や記号がなければ
他の数や記号といっしょにいる時間がまったくなくなってしまえば
自分が数や記号であるということに気づくこともなく
自分が数や記号であることを知ることもなく
自分が数や記号である必要性も感じることもないのではなかろうか。


*


数式の花の美しさに見とれていると
しばしば自分がその花そのものになって
自分の美しさに見とれているような気がする。

わたしのなかに
数式の花が咲くというのではなく
わたしそのものが
見とれていた数式の花になって
わたしに見とれているという感覚だろうか。


*


わたしがいないときの
数式の花の変形と展開は
わたしがいるときの
変形や展開と同じものであるのかどうか
それを確認することはできないのだが
それが異なるものであるというのが
理論的な立場からの見解であり
わたしの直感とも一致する
これは、わたしというものが
そのような直感をもつように
長年訓練されてきたからであろうか
わたし自身がそれに答えることはできない
おそらく、そのことについては
だれにも答えることはできないであろう


*


いま
なにも咲いていない
このからっぽの花壇のなかに
仮想数式の花たちが咲き誇っている
その仮想数式の花たちは
このからっぽの花壇のなかの
あらゆる場所を占めて咲いており
その本数は理論上無限であり
このからっぽの花壇そのものになっている
その仮想数式の花たちは
間断もなく変形し展開しつづけている
そのあまりの素早さに
このからっぽの花壇の輪郭が変形し展開し
数式の庭そのものが変形し展開してしまうほどに


*


この数式の花たちは
素粒子の大きさしかなく
この花壇のいたるところに
現われては消滅する
それが文字通り瞬間であるために
連続的に存在するかのように見えるのだが
空に浮かんだ雲のように変形し展開しつづけるために
その形をとどめることは、けっしてない。
その姿を目にした場所に目を凝らすと
なにも見えなくなり
見えないところに目をやると
見えてくる。
この素粒子の大きさの数式の花は
変形し展開する時間そのものを見せる
変形し展開する場所そのものを見せる
変形し展開する出来事そのものを見せることはない


*


たとえばゼロで除するといった禁則がある。
禁則を一つ犯すことで数式の花は咲かなくなる。
ところが、いま目にしている花壇の数式の花たちは
禁則を破らせたまま開花させたものたちで
異様な印象を与えるものであった。
その変形と展開は、禁則を犯した個所以外は
論理的なものであり、その個所を含めて
式をたどって見ていると異様なところはないのだが
全体を見渡すと、わたしの視界を破壊するほどに
異様で、理解不可能なものになるのであった。
しかし、このような禁則を犯した数式の花にも
なぜかしら、わたしは愛着を感じるのだった。


*


ちょうどよい距離というのがある。
ある数式の花を眺めていてそう思った。
その花は、もう変形も展開もひと段落して
安定した形状を保っていたのだが
わたしが庭を移動して眺めていると
ある距離から、ある角度から眺めると
その美しさが映えるのだが
ある距離以上でも以下でも
その数式の花から離れると
同じ角度からの眺めでも
その美しさが映えないのである。
他の数式の花との間隔がそう思わせるのだろうか
そう思って、違う場所に植え替えてみたのだが
そうではなかった。
最初に見たときの距離とは異なっていたのだが
やはりある距離以上でも以下でも
その美しさは映えなかった。
また、その数式の花を
もとの場所に戻してみると
もっとも美しく見える距離が
最初の距離とは違った距離であったので
他の数式の花との距離も
問題ではあったと思われたのだが
それ以外の要素も考えられた。
わたしが変化したことだった。
同じ場所にあっても
わたしが変化したために
その距離が変わってしまったということなのであろう。
友だちとこのあいだしゃべっていて
星座が、星の配置が、見る場所によって違うと
何万光年も離れた場所から同じ場所を見ても違うと
また、わたしたちの場所もつねに移動しているはずで
つねに異なった場所に星も、われわれもいるのだと話していた。
そうだ。
離れた場所であれば
その星の光が届く時間も異なるはずだ。
違った場所にいると
そのものが違って見えるだけではなく
そのものの違った時間にある状態を見ているのだから
わたしがその数式の花を元の場所に戻したところで
同じ美しさを見出さなかったことも
不思議なことではなかった。


*


数式が変形し展開しているように見えるのだが
じつは数式自体は変形も展開もしていないのである。
目のまえの数式の花が、別の数式の庭に移動し
それと同時に、別の数式の庭から
別の数式の花が移動してきて
目のまえに現われるということである。
つまり、数式の花は不変であり
数式の庭も不変であり
相対的に見れば
ただ、それらが移動しているという
それだけのことなのである。
数式の花が、なぜつぎつぎと転移するのか
わたしが興味があるのは、その点だ。
なぜ、数式の花が
ある数式の庭から別の数式の庭へと転移するのか
そのなぞが、わたしの関心をひくのである。
その数式の花の美しさと
変形と展開の見事さよりも。


*


魂が胸の内に宿っているなどと考えるのは間違いである。
魂は人間の皮膚の外にあって、人間を包み込んでいるのである。
死は、魂という入れ物が、
自分のなかから、人間の身体をはじき出すことである。
生誕とは、魂という入れ物が、
自分のなかに、人間の身体を取り込むことを言う。

このようなことを考えたことがあるのだが
あらゆる集合における部分集合である空集合が
全体集合の部分集合である空集合に等しいのであるが
個々の人間を包み込んでいる魂もまた
それは、ただひとつの魂であるのではないかと
わたしには思われたのだけれど
数式の花たちが、突然、姿を現わし
変形と展開をし終わったあと
しばらくして
数と記号に分解する様子を見ていると
もしかすると
数式の花をめまぐるしく変形し展開させていたのも
人間を包み込んでいたものと
同じ魂ではなかったのかと思われたのであるが
いったい、どうなのであろうか。
わたしの目にまぶしく輝く数式の花の美しさを見て
数式の花もまた、魂に包み込まれているような気がしたのだ。


*


いちまいの庭をひろげ
ひとかたまりの数字と記号をこぼし
数式占いをする


*


むかし
まだ学生だったころ
恋人と琵琶湖に行ったのだが
恋人が自分のそばから離れて泳いでいたとき
風に揺れる湖面のさざ波に乱反射する太陽の光が
あまりにもきれいだったのか
そのとき
湖面に反射する光が
きらきらと乱反射する太陽の光が
ピチピチと音を立てて
蒸発しているように感じたことがある。
湖面に反射する光が
わたしの目をとらえたかのように
わたしのこころが
湖面で反射する光と直接結びつけられたかのように感じて
その瞬間から、自分が光そのものになって
湖面で蒸発していくような気がしたのだった。
少しずつ自我が蒸発していくような
そんな恍惚とした時間を過ごしたのだった。
つぎつぎと自我の層がはがされていくような
無上のここちよさを味わっていたのだった。
そうして、一度
光が湖面で蒸発している
湖面で光が音を立てて蒸発している
という思いにかられると
その日、一日のことだったが
湖面に目をやるたびに
ピチピチ、ピチピチというその音が
耳に聞こえてしまうのだった。
数式の庭に立って
変形し展開していく
数式の花を眺めていると
これもまた不思議なことに
わたしには
その音が聞こえてくるのであった。
湖面で蒸発する光の音が
おそらくは
わたしだけに聞こえるものだったように
もしかすると
この花たちの立てる音も
わたしの耳にだけ聞こえるものかもしれないが
いや
きっと耳をすませば
湖面で蒸発する光の音も
数式の花が立てる音も
だれの耳にでも聞こえるものだと思う。
数式の花が立てる音は
花ごとに微妙に異なるのだが。


*


しかし
なにかほかのことに
こころがとらわれているときには
たとえば
砂浜にいる人たちの姿や
まばらに立ち並んだパラソルの様子や
湖面に浮き漂う水藻に目をやっていたりすると
湖面で蒸発する光の音が
聞こえなくなくなることがあったように
数式の花の
変形し展開していく音も
変形し展開していく様子ではなくて
いくつもの花たちの配置を目でとらえ
その配置のうつくしさや
背景の空白とのバランスといったものに
こころがとらわれているときには
聞こえてこないのであった。
これは
内的沈黙とでも呼べばよいであろうか。
いや
沈黙とは
自ら声を発しないことと解すれば
これは
内的沈黙ではない。
内的無声というものであろうか。
いや、違った。
内的無音とでもいうものであろうか。
それとも
ただの無音なのか。
わたしが注視しなければ
音は存在しなかったのだろうか。
それならば
沈黙である。
しかし
わたしが存在しなくとも
湖面で光は蒸発したであろうし
やはり
沈黙ではなく
内的無音であったのだろう。
数式の庭では・・・
そうだ。
まだわからないのだった。
数式の花が
わたしのいないときに
変形し展開することがあるのかどうか
日をまたいで眺めたときに
時間をおいて見たときに
数式の花の形が異なることに気づくことは
しばしばあったのだけれど
それは
わたしのほうが見方が変わって
解釈が異なるために違って見えた可能性があるので
わたしがいないときにも
数式の花が変形したり展開したりしているとは
断定できないのだった。
わたしの記憶の不確かなことをも配慮して考えると
けっして断定することなどできないのだった。
確実に
変形し展開しているといえることもあったのだが
あらためて考えてみると
そう断定する自信がなくなるのであった。
もちろん
注視しているときにも
数式の花は
沈黙することはあった。
わたしの内的無音なのかもしれないが
変形もせず展開もしないで
音がしないこともあったのだが。
音を発するかどうか。
音が聞こえるかどうか。
沈黙か、内的無音か。
考えてもわからないことだが
感じることから考えること自体は
たいへんおもしろい
興味の尽きないものである。


*


音と声は違うものなのであろうか。
音というと、声よりも客観的なもののように思われる。
波長や振幅といった言葉が思い浮かぶからだが
声というと、動物の鳴き声や、人の話し声がすぐに思い浮かぶのだが
たとえば、犬の鳴き声をワンワンと言ったり
バウワウと言ったりして、国語によって表記が異なるように
また、あるときに、女性の声が、人によっては
ただ元気なだけに聞こえたり
そこに挑発的なものを感じとったりするように
さまざまなニュアンスをもって、
人ごとに違った印象を受けるものになったりすることがあるのだが
そうすると、声は、
けっして同じ意味をもって人の耳に聞こえるわけではないということになる。
音もそうかもしれない。
それに、そもそも、音と声とのあいだに、それほど違いはないのかもしれない。
声は、ただ、生物の喉の声帯や鳴管を通して発せられる音にすぎないのだから。
そういえば、ものの見え方も、そうだ。
人ごとに、その人独自のニュアンスでもって見ているのだろう。
だとすれば、同じ数式の花でも
その変形や展開の仕方も、人によって違ったものに見えるということである。
数式の花でさえも、である。
ということは、
おそらく、日常、目にするもの、世のなかで目にするものあらゆるものすべて、
すべてのものが、人によって異なったものとして感じとられているということである。
目に見えるものだけではなく、感じとれるものすべてのものが
人によって違ったものに感じとられているということである。
それがそれそのものとして
絶対的に同じ印象で万人に共通した意味をもつことなどないということである。
なんと、人間は孤独な存在なのだろう。
いや、人間だけではない。
動物も植物も昆虫も鳥も魚も、それに生物ではない物たちも、
物ですらない風景といったものでさえ
なんと、孤独な存在なのだろう。
空に浮かぶ雲も
雨のつぎの日に道にできた水たまりも
夜空を彩る星たちの配置も
テーブルに置かれたコーヒーカップの音も
そのコーヒーから漂う芳香も
わたしたちの頭に思い浮かぶ事柄も
辞書のなかに存在する言葉も
あらゆる事物・事象が、概念すらもが、ただひとつのものも
孤独ではないものなど存在しないということである。
存在するものすべてが孤独なものであるということである。
どのような時間も場所も出来事も、孤独なものであるということである。
わたしたちの生の瞬間は、わたしたちがふと足をとめた場所は
わたしたちが偶然遭遇した出来事は
なんという孤独さをまとっているのだろうか。
しかし、わたしのなかにあるなにかが
いや、わたしのなかにあると同時に、わたしの外にもあるなにかの力が
それら孤独な時間や場所や出来事を結びつけようとしていることは
直感的にわかる。
直感的に感じとれる。
たとえば、空に浮かんだ雲を、
道にできた水たまりが嬉々として映しとっていることを
わたしの目は見る。
夜空を彩る星たちを
テーブルに置かれたコーヒーカップが立てる音が少しく震わせるのを
わたしの目は見るのだ。
そうだ。
これこそが恩寵ではないだろうか。
孤独であること。
これこそが恩寵というものではないのだろうか。
孤独でないものなど、ひとつもないということ。
なにものも絶対的に同じ意味を共通してもたらすことなどはないということ。
このことが、わたしを、わたしたち人間を
いや、あらゆる生き物たちを、あらゆる事物・事象を、
あらゆる概念すらをも、生き生きとしたものにしているのだ。
結びつけるということ。
考えるということ。
見るということ。
聞くということ。
結びつけられるということ。
考えさせられるということ。
見られるということ。
聞かれるということ。
孤独であるからこそ、結びつけられるということ。
もしも、孤独でなければ
結びつけられることもなく
考えられることもなく
見られることもなく
聞かれることもなかったのだ。
もしも、孤独でなければ
結びつけることもなく
考えることもなく
見ることもなく
聞くこともなかったのだ。
しばしば、わたしは、さまざまな物事を見て、感じて
わたしの記憶や、わたしがそのときにようやく了解した過去のことどもを結びつけるとき、
異なるいくつかのわたしを結びつけて
ただひとりのわたしにするといった感覚になることがある。
わたしであったのに、わたしであったことに気がつかずに過ごしていたわたしを
いまのわたしに沁み込ませるような気がするときがあるのだ。
しかし、それも、いまのわたしが孤独であり、
取り戻したわたしもまた、孤独であるからであろう。
ゼロとゼロを足してもゼロになるように、ゼロにゼロを掛けてもゼロになるように、
孤独と孤独が結びついても孤独でなくなるわけではないのだが、
それでも、孤独であるわたしが結びついていくことは、
わたしにとって、いくばくかの喜びに感じられるのである。
ときには、大いなる喜びを感じることもあるのである。
いや、それこそが、わたしにとって最上の喜びのように感じられるのである。
結びつけられた孤独の孤独さが強烈であればあるほどに。
シェイクスピアの言葉をもじって言うならば、
「その喜びこそは、最上の喜びにして、最高の悲しみ。」とでもいうものだろうか。
喜びなのに悲しいというのは矛盾しているだろうか。
だれの詩句だったろう。
「喜びが悲しみ、悲しみが喜ぶ。」と書いていたのは。
ブレイクだったろうか。
それとも、シェイクスピアだったろうか。
いずれにせよ、喜びが悲しみと結びつき、悲しみが喜びと結びつくということであろう。
そうだ。
数式の花に見とれているとき
その美しさに喜びを感じているわたしは
わたしのこころのどこかで、なぜか悲しんでいるような気がしているのだった。
「日が照れば影ができる。」
「光のあるところ、影がある。」
これらはゲーテやシェイクスピアの言葉であったろうか。
しかりとうなずかされる言葉である。
「一本の髪の毛さえも影をもつ。」
これは、ラブレーだったろうか。
ソロモンの「草の花」のたとえも思い出された。
生きている限り、どのように小さなことどもにも
わたしにかかわったものは、できうる限りこころにとどめ
その存在にこころを配ることにしよう。
わたしにかかわった人たちや物事に、できうる限りこころとどめられるように
その人に、その存在に、こころ配ろう。
それが、わたしにできることの最良のこと、最善のことのように思われる。
いま、ふと、リルケの言葉が思い出された。
「こころよ、おまえは、なにを嘆こうというのか?」
違った。
「こころよ、おまえは、だれに嘆こうというのか?」
いや、前のだったかな。
定かではなくなってしまった。
しかし、最初に思い浮かべた
「こころよ、おまえは、なにを嘆こうというのか?」
この言葉を思い出して、この断章を終えようと思ったのだけれど
じっさいに書いてみると、終えられなくなってしまった。
最後に書く言葉として適切であったのかどうか
わからなくなってしまったからである。
わたしは嘆いていたのか。
いや、嘆いていたのではない、という気持ちがわき起こったからである。
わたしは喜びをもって書きつづっていたのだから。
そうか。
そうだった。
喜びは悲しみをともなうのだった。
ならば、喜びは嘆きをもともなって当然である。
なにものもすべて孤独であるからこそ、結びつこうとするように
そうであるものは、そうでないものに結びつこうとし
ある状態のものは、その状態とは違った状態になろうとするのだ。
もっていないと、もちたくなるように
もっていると、もっていたくなくなるように。
あったことは、なかったことのように思いたくなり
なかったことは、あったことのように思いたいように。
タレスやヘラクレイトスやエンペドクレスといった哲学者たちの言葉が思い出された。
いや、彼らの言葉が、いままた、わたしを、ふたたび見出したのだった。


*


花の下に
小さなわたしがいた。
うつぶせになって倒れていた。
腰をかがめて
そっと手で揺さぶろうとすると
指が触れるか触れないかの瞬間に
小さなわたしの姿が消えた。
立ちあがると
違った場所に立っていた。
振り返って見上げると
巨大な数式の花の後ろに
それよりも巨大な人影があった。
逆光で真黒だったが
それがわたしであることは感じられた。


*


草花の葉緑体が光を呼吸するように
数式の花は知性を呼吸する。
わたしたちの目とこころを通して。

葉緑体は自らを変え、光を吸収する。
あるいは、このとき、光は葉緑体を変化させると言えるだろう。
変化した葉緑体は、光のいくばくかを変化させて
草花の養分と結びつけ、いくばくかの光を吐き出す。
吐き出された光は、草花を自ら光り輝かせる光となる。
草花を美しく見せるのは造形と色彩を際立たせるこの光のためである。

数式の花のさまざまなフェイズが知性を吸収する。
あるいは、このとき、知性は数式の花にさまざまなフェイズを見ると言えるだろう。
このさまざまなフェイズは、
過去知識の堆積と新たなフェイズを予感させるものから構成されている。
とりわけ、新たなフェイズは、新しいアスペクトをもたらせることがあり
まったく新しいフェイズは、ときには、直面した知性の目をすり抜けて
新たなアスペクトの到来を見逃せることがあるほどである。
なぜなら、まったく新しいフェイズというものが、発見者の知性にのみ依存しており
その知性がその新しいフェイズから新しいアスペクトを獲得しない限り
その数式の花がもたらせたものを習得し得ないからである。
数式の花が、その造形と色彩の見事さを物語るのは
その数式の花を見る者の知性を吸収し
新たなフェイズとアスペクトを解き放ち
それが新たな知性を発生させる
知の光のきらめきのすごさである。
数式の花の内からの輝きは、それを見る者の顔から
いや、全身から
喜びと知性のきらめきを
そのきらめき輝く光をほとばしらせるほどなのである。

庭先に降り立ち
なんとはない数式の花を見て
ふと、こんなことを考えたのであるが
そうだ。
まったく新しいフェイズというものを発見することなど
わたしにできるのだろうかと。
まったく新しいアスペクトをもつことが
わたしにできるのだろうかと思った。
まったく新しい感覚や感情といったものでさえ
それまで自分がもっていなかったそれらのものを
自分が獲得するとき
つねに
すでに獲得していたものと比較することによってのみ
感得していたように思われたからである。
ましてや、知となると
わたしごとき知性の持ち主に
わたし以外の人間にも未知である
新しいフェイズを発見し
新しいアスペクトをもたらせることができるとは
とうてい考えられない。
すでに他者によってもたらされた新しいアスペクトを
いまもまだすべて知っているわけではないわたしである。
他者にとっては既知であるが
わたしにとっては未知の
新しいフェイズを発見し
それをこれまでのフェイズに積み重ね
そこから新しいアスペクトを得るのに
まだまだ修練中のわたしである。
わたしごとき知性の持ち主に
わたし以外の人間にも未知である
新しいフェイズを発見し
新しいアスペクトをもたらせることができるとは
とうてい考えられない。
考えられないけれど
それを願いとしてもちつづける熱意は
けっして失わないであろう。
それが、わたしを生かす限りは。
おお、数式の花よ。
きょうの日は
おまえのほんとうの価値を知らしめてくれた
記念すべき日であることよ。
祝え! わたしよ。
祝え! 数式の花よ。


*


まったく新しい感覚や感情といったものでさえ
それまで自分がもっていなかったそれらのものを
自分が獲得するとき
つねに
すでに獲得していたものと比較することによってのみ
感得していたように思われたからである。

わたしは思った。
しかし、これは考察が足りなかった。
まったく新しい感覚や感情が
それが感じとれるとき
それを感じさせる外的要因と
それを感じとるわたしの内的要因が結びついて生じさせているからである。
いわば、事物・事象の同時生起のように生じていることがあるからである。
いや、もっと簡素に言えば
それがわたしを新しくすると同時に
それをわたしが新しいものと感ずるということである。
フェイズやアスペクトも、そうである。
ほぼ同じようなものであるのだろう。
まったく新しいフェイズやアスペクトを感得するには
いったいどうすればいいだろうか。
天才ではない、ただの凡人であるわたしには
これまでどおり、日々、自分の目を
精神を、こころの目と、こころを
現時点での未知なるところへ
未知なるものへと向けつづけなくてはならない。
それと同時に
過去に堆積したフェイズとアスペクトについても
怠ることなく検討しつづけなければならないだろう。
まさしく、ゲーテの言葉どおり
生きている限り、努力して迷うものなのだ。
そうだ。
生きている限り
迷いつつも努力しつづけて
考えつづけなければならないのである。
天才であったゲーテでさえ
生きている限り、努力しつづけたのだ。
わたしなど、どれほど努力しても足りないものであるだろう。
自己と
自己につながるあらゆるものを。
自己につながっていたあらゆるものをも。
自己につながるであろうあらゆるものをも考察しつづけよう。
たとえ、自己につながらないであろうものがあるとも予感されようとも。
自己につながらないものがあるとしても
その存在の可能性をも考慮に入れて
さらなる知識を求め
さらなる知見を得て
考えよう。
考えつづけよう。
考えることが、わたしなのであるから。
感じつづけるとともに。


*


なんとはなしに眺めていて
思ったのだが、
このなんでもない
あたりまえの数式を
はじめに考えたものは
偉大であったのだと思う。
はじめにつくりだすことが
いかにむずかしいことであるか
また
つくりだしたそれを
他の多くの人間に
その意味するところのものであることを理解させ
そのことで
他の人間のこころが
それを使いこなせるようにするまでに
その意味を確たるものにするのが
いかに困難で
なおかつ
新しければ新しいほど
つまり
それを前にした人間にとって
それがどのような意味をもって
のちには公的に
どのような意義をもつものとなるのか
まだわからないときに
それをつくりだした人間が
どのような無理解と障害に遭遇するのか
遭遇してきたのか
考えただけでも怖ろしい。
なんとはなしに眺めていた
この数式の花にも
いわくつきの話があったのであろう。
あまりに基本的で
だれによって考えだされたのかも不明な
名もないこの数式にも
だれも語り継ぎはしなかったであろうけれど
きっと
ものすごい苦悩と喜びの物語があったのであろう。
こころがつくりだし
それがまた
こころをつくるのだもの。
きっと
ものすごい苦悩と喜びの物語があったのであろう。


*


詩人のメモとルーズリーフから目を離して
庭先に目を向けた。
詩人のメモにあった簡潔な言葉が
わたしのこころを
あたりまえのようにして存在しているさまざまなものに
思いを馳せさせる。
かわきかけの刷毛でひとなでしたように
ほんのいくすじか、かすかに
もうひとなですると、なにもつかないといったぐあいに
まるで申し訳なさそうにとでも言うように
空のはしに白い雲がかかっていた。
わたしが手で雲をなでると
白い雲がすーっと消えていった。
まさしく青天である。
あのかわきかけの刷毛のひとなでは
わたしのこころの記憶になった。
記憶といっても
おぼろなもので
いつまでも覚えていられるものではないだろう。
そういえば
さいきん、よく空を見上げる。
空を見上げては、雲のかたちを見つめている。
どの日の雲のかたちも違っているのだろうけれど
どんなかたちであっても、うつくしいと思ってしまう。
なぜかは、わからない。
それに、どの日の雲のかたちも覚えているわけではない。
じつを言えば
いま自分の手で消した
ひと刷毛の雲のかたちだけしか覚えていないのだった。
しかし、どの日の雲のかたちもうつくしかった。
雲のかたちを覚えていられないのに、
そのかたちを見て、うつくしいと思ってしまうのだった。
覚えていることができるものだけが
うつくしいのではないことに気がついたのだった。
いつまでも覚えていられるものだけがうつくしいわけではないのだと。
覚えていることができるものだけがうつくしいわけではないのだと。
きょうは
一年のうちで
南中高度がもっとも高い日ではなかろうか。
朝もまだはやい、こんな時間なのに
つよい日差しに
数式の花たちが数や記号の影を落としている。
わたしは庭先のテーブルに
詩人のメモやルーズリーフを置いて
椅子に腰を下ろした。
この天気のよい
濃い影を落とす日差しのつよい日に
庭先のテーブルに肘をついて
両手のひらの上に自分の顎をのせて
すこしのあいだ
うとうととしていた。
なんの心配ごともなく
ただ詩人のメモやルーズリーフにあった言葉を
ひとつひとつ思い出していた。
鼻の下や額から汗が噴き出してきた。
目をあけて
まどろみから目をさますと
目の先に
さっきまでなかった花が咲いていた。
とても小さな花だった。
こうした
まどろみから目をさましたときにしか
見つけることができなかったものかもしれない。
そんなことを思った。
それは
詩人のメモにあった数式と同じものであった。
詩人は
フェイズとアスペクトという言葉をつかって
言葉が形成するものや、その効果についてよく語っていた。
ただし、そのフェイズもアスペクトも
言語学でつかわれる意味ではなく
詩人独自の意味合いを持たせていた。
フェイズは、言葉が形成する意味概念そのものに近いのだが
詩人は、ときおり、フェイズを相とも呼んでいた。
相は、ある法則
それは
単一のものでも複数のものでもよいのだが
ある法則にしたがって概念を形成する場のことで
その場は
言葉が形成すると同時に
その言葉を受けて頭になにものかを思い浮かべる
その言葉の受け手の頭のなかにもあるもので
言葉というものが、つねに受け手の存在によってしか
その存在できないという立場から
詩人は、こんなことを言っていた。
「言葉はね。
 ぼくのなかにもあって
 それと同時に、ぼくの外にもあるものなんだ。
 たとえば、きみが、空に浮かんだ雲を指差して
 雲、と言ったとするだろ。
 ぼくが、きみの言葉を聞いて
 空を見上げたとしよう。
 そこに雲があるかないかで違うけれど
 いまは、きみが、雲と言って
 雲が浮かんでいたとしよう。
 ぼくは、きみの言葉から導かれて
 雲に目をやったのだろうけれど
 ぼくの目は、その雲を見るのだろうけれど
 ぼくのこころは、きみが口にした雲という言葉で思い出される
 さまざまな記憶にもアクセスして
 目で見ている雲以外の雲も
 こころの目に思い浮かべるだろうね。
 ことに、きみといっしょにいた
 さまざまな思い出とともにね。
 そして
 もっと、おもしろいのはね。
 もしも、きみが、雲と言って指し示したところに
 雲がない場合ね。
 それでも、ぼくは
 そこに、雲を見るだろうね。
 なにが、ぼくに雲を見させるんだろう。
 きみが口にした、雲という言葉かい?
 おそらく、そうだろう。
 きみが口にしなければ、ぼくのこころの目に
 雲の姿かたちなど、微塵も思い浮かばなかっただろうからね。
 でも、もしも、ぼくがいなければ、どうだったんだろう。
 きみが、雲という言葉を、ぼくに言わなかったら?
 ぼくのこころの目に浮かんだ雲の姿かたちは
 きっと現われることなどなかったろうね。
 言葉が、ちゃんと機能した言葉であるためには
 その言葉を理解できる受け手が存在しなければならないってことだね。
 言葉がちゃんと機能するっていうのは
 その言葉が指示する対象が存在するかどうかではなくて
 その言葉の受け手が
 その言葉が指示するものがなにであるかを
 きちんと認識できているかどうかにかかっているんだよね。」
アスペクトは、これまた言語学でつかわれる意味とは異なって
視点という意味でつかっていたように思う。
そしてフェイズとアスペクトについて
こんなことも言っていた。
「同じ事物でも
 フェイズが異なればアスペクトが異なり
 アスペクトが異なればフェイズも異なる。
 いま
 きみの手元にあるコップについて考えてみよう。
 それを単に液体を入れる容器として見る見方と
 それを、ぼくのコップと色違いのもので
 かつて、ぼくの恋人が使っていたもの
 ぼくが恋人と過ごしたいくつもの日を思い出させるものとして見る見方と
 ぼくにとっても
 日によって
 フェイズも異なればアスペクトも異なる。
 ぼくにとってのそのコップと
 きみにとってのそのコップの意味
 フェイズやアスペクトが違っていて当然だね。
 これがあらゆる事物・事象について言えることだよ。
 しかし、ある点で
 いや、多くの点で共通するフェイズやアスペクトを持ち合わせているから
 ぼくたちは
 ぼくたち人間は理解することができるんだろうね。
 お互いの生活を。
 お互いの生き方を。
 お互いの気持ちや考えてることを。」
そのときのわたしは、詩人の言っていることの意味を
すべて理解できていたわけではなかったが
さいきんになって、ようやくわかるような気がしてきたのであった。

1+1=1
こんな数式に意味があるのだろうか。
詩人のメモには、つぎのようなことが書いてあった。

ひと塊の1個の粘土に、もうひと塊の1個の粘土を加えて、
ひと塊の1個の粘土にしてやることができる。
それを
1+1=1
という式にかくことができる。
そういうフェイズとアスペクトをもつことができる。
このフェイズとアスペクトのもとでは
つぎのような式も意味をもつ。
1+1+1=1
1+1+1+1=1
・・・
左辺の数を1に限定することはないので
2+3=1
などともできるし
右辺の数を1に限定することもないので
2+3=4
ともできる。
1を10000個足す場合も
1+1+1+・・・+1=1
とできるし
1=1+1+1+・・・+1
のように
1個の粘土を10000万個にもできる。
このことは
ヘラクレイトスの「万は一に、一は万に」といった言葉を思い出させる。

詩人のメモにあった考察は
まったくのでたらめだったのだろうか。
いや、ベクトルとして見れば、妥当である。
間違いではない。
ベクトルでは
ゼロベクトルから出発して多数のベクトル和として表現することさえできる。
詩人は、あのメモにゼロという数字を書かなかったし
無限という言葉も書いていなかった。
たしかに、ゼロという数は
詩人のあのメモにあるフェイズとアスペクトからは
出てくるものではなかっただろう。
しかし、無限は?
そうだ。
たしか、詩人は、こんなことを言っていた。
「無限は数ではなくて
 状態だからね。
 無限にあるような気がしても
 無数にあるような気がしても
 無限や無数といったものはないからね。
 概念としては定義できても
 定義されたものが必ずしも存在するわけではないからね。」
詩人は、無限を数としては認めていなかったようである。
ゼロという数も嫌っていた節がある。
空集合について、独特の見解も持っていたし。
さっき見かけた
1+1=1
という小さな数式の花が消えていた。
見間違いだったのだろうか。
詩人のメモが見させた幻想だったのだろうか。
かつて、詩人が言ったように、
雲という言葉が
じっさいには、そこにない雲を
こころの目に見させることがあるように。


*


詩人のメモから

無限に1を足すという言葉に意味があるとすれば
無限=1
ということになるであろうか。
いや
無限に1を足したものが1に等しいのと
無限が1に等しいというのではフェイズが異なる。
1+1+1+・・・=1
という式になるということだが
同じフェイズから
同じアスペクトから
1+1+1+・・・=2
という式もできるし
1+1+1+・・・=3
・・・
という具合に、それこそ無限は
いや、無限に1を足したものは、どのような数にもなる。
これは
あくまでも
無限=2
無限=3
・・・
とは異なるフェイズであるが
あたかも
無限=1
無限=2
無限=3
・・・
が妥当であるかのような印象を与えるものである。
もしもこの奇妙なアスペクトを生じさせるフェイズを承認するならば
上記の式より
1=2=3=・・・=無限
といった式にも意味があることになる。
このアスペクトは、なにをもたらせるか?
このアスペクトを生じさせるフェイズはなにをもたらせるか?
言葉についてのなにを?
自我についてのなにを?


*


n個というとき
nを、ある任意の数とみなす。
ひとまず、ある数が仮に文字nに置かれているのだとみなす。
無限個などというものとみなすことはない。
しかるに
nを無限にすると
という言葉を耳にするやいなや
こころのなかで
nを無限に大きな数というものに置き換える気になってしまう。
無限に大きな数などというものが
あたかも存在するかのように。
無限に大きな数などというものを数として受け入れない立場からすると
では、無限という概念を、どう定義するのか。
定義できないのである。
そして、従来からある無限の定義を受け入れないことには
幾何も代数も完全に放棄しなければならないことになるのである。
こころのどこかが抵抗しつづけているのである。
無限に。


*


数にも履歴があるとする。
つまり演算の痕跡があるとするのである。
とすれば、どれだけの痕跡があり
履歴が生ずるのか
想像するにおびただしい数であろう。
さまざまな演算子で
さまざまな数式に用いられた痕跡が
わが目で見られるというのだ。
まるで言語のように。
このとき
言語と同じように
異なるフェイズとアスペクトをもって
その痕跡も見られるということであるのならば
履歴が、見るひとによって
異なるものとなるということである。
言葉が
読む人のファイズとアスペクトで
まったく異なる意味をもつように。
数が経験してきたさまざまの演算と数式
そのおびただしい体験と経験について考えると
これまで言葉が体験してきたもの
これまで言葉が経験したきたさまざまなものをも思い起こさせた。
そうだ。
言葉が体験し、経験したのだ。
わたしたちが体験し、経験するとともに。


*


このアスペクトからすると
1=1+2+3+・・・
2=1+2+3+・・・
3=1+2+3+・・・
・・・
ある数が
あらゆる数を結びつけたものとしても表現できる。
ここでは、もはや、数が問題なのではなく
結びつけることが数自体より重要なこととなっているのである。
演算を繰り返せば繰り返すほど
演算子の+という記号と
その機能の重要性がます。
究極的には、近似的に
+という演算子のみのアスペクトが生じる可能性がある。
いや、そのような可能性などないだろうけれど
可能性があると書いてみたかったのである。
書いてみると、可能性があるように思えると思ったからである。


*


「+という演算子のみのアスペクトが生じる可能性がある。 」
あるわけがない。
言葉を使わないで
言葉がつながることを示唆することができないように。
ただ
演算子の意味が強調されると
数の意味概念が後退させられるような気がしたのだった。
意味概念の後退とは
たとえば
2と3といった数の意味の輪郭であり
足すという演算のほうに意識が集中させられると
2でも3でも
あまり、その数自体に意味がなくなっていくということである。

2や3では無理か。
もっと大きな数。
自我とは
この演算子のことであろうか。
+だけではないし
まず
線形に演算されるものとも思われないが。
しかし、演算子も
数がなければ演算子が機能しないので
数と演算子の関係を
言葉と自我との関係として
アナロジックに見てやることもできる。
そうだ。
まさしく
数は言葉に
演算子は自我に。
しかし、言葉が自我と分かちがたいものであるように
数も演算子と分かちがたいものであろう。

逆か。
数が演算子と分かちがたいものであるように
言葉も自我と分かちがたいものなのであろう。


*


そして、さらに
もっとおもしろいことにはね、
と、ゴーストが聞こえない声でささやいた。
見えない指で、わたしが差し示した空に雲がなくてもね、
きみたちは、空を見上げて
そこにない雲を
こころの目に思い浮かべることもあるんだよね。
と、ふと、そんな声が聞こえたような気がして
空を見上げた。


*


ゴーストは、空を曲げ
雲をまっすぐに伸ばしてばらまいた。
直線状の雲に数式の庭が寸断され
わたしの視線も寸断され
数と記号の意味合いのわからぬ並びを
同時に縦から横から斜めから上から下から
しばらくのあいだ眺めていた。


*


コーヒーカップをテーブルの上に置いて
足もとの数式の花に目をやった。
コーヒーの香りがコーヒーをこしらえたように
数式の花がこの庭をこしらえ
わたしをこしらえたのだとしたら
あの言葉は逆に捉えなければならないだろう。
「宇宙は数でできている」
とピタゴラスは言った。
宇宙は数でできているのではなく
数が宇宙をこしらえたのだと。


*


ところが、だ。
数ではないものもあるのだ。
すべてのものが数に還元できるわけではない。
そうだろうか。
わたしたちは、すべてのものを数に還元しようとしている。
すべてのものを数え上げ、数にしようとしている。
実現できているかどうかは、わからないのだが。
しかし、数ではないものもあるであろう。
数にできないものもあるであろう。
感覚器官が知覚できないものがあるように
数にできないものもあるはずだ。
では、それを記号にすればよいのだ。
数と数をつなぐものと考えればよいのだ。
はたして、そうだろうか。
数にもならず、記号にもならないものがあるはずだ。
数にもならず、記号にもならないもの。
数式でいえば、数式にあらわされないもののことである。
数と記号を定義する言葉とその言葉を与えるなにものか。
では、数と記号と
その数と記号を定義するなにものかの意思と言葉をのぞくと
世界は空っぽなのか。
いや、世界はないのか。
いやいや、世界ではないのか。
もちろん
世界は空っぽではないだろう。
数でもなく、記号でもなく
その数や記号や
それらにまつわるもろもろのものをのぞいた
なにものかが存在するだろう。
その存在は確認できないものであるが
存在していることは直感的にわかる。
しかし、数や記号や
それらにまつわるものがなければ
この世界は存在しないのだろう。
この世界とは違った世界があるのかもしれないが
それは、この世界ではないのだろう。
数にもできず
記号にもできず
数や
記号の定義にも関わりがないもの
それがなにか
わたしには
すぐに思いつくことができなかった。
思いついた
あらゆるものが
数と記号と
言葉でできているのだった。
その言葉というのも
すべて、記号がどういう意味をもつものなのか
その意味を与える言葉でしかなかった。
そんなものばかりしか思い浮かばなかったのだ。
もちろん、思い浮かばないから存在していないのではなく
思い浮かばないものではあるが
思い浮かばないものも存在していることは確信しているのであるが
やはり
数が宇宙をこしらえたのだと
つくづくそう思われるのであった。


*


丸め合わせた
手のひらのなかで
数や記号が
かさかさ音をたてて
動き回っている。
手のひらに
チクチクあたる
数や記号のはじっこ
このこそばがゆい感じが
とてもここちよい
身体で感じる
数と記号


*


 数あるいは数的なものが記号よりさきにあって、あとで記号を創り出させたのか、記号あるいは記号的なものがさきにあって、あとで数を創り出させたのか、わからない。それとも、数あるいは数的なものと、記号あるいは記号的なものは、同時生起的に創り出されたものであるのか。
 明らかに後代になってつくられた数や数的なもの、記号や記号的なものがあるのだけれど、まったくの原初においては、どうだったのであろう。
 これは、語がさきか(もちろん、最初は文字言語ではなく音声だろうけれど)、語法がさきか、という問題に似ている。単純に、語がさきであると断定してよいのであろうか。原初においても、語法的な欲求がさきにあって、のちに語がつくられた可能性はないであろうか。語法と語法的な欲求は違うものであろうか。もちろん、語法と語法的な欲求を混同してはならないと思うのだが、語法的な欲求とでも呼ぶしかないものがあるような気がして、語法的な欲求という言葉でしかあらわせないものがあって、それが語をあらしめたのではないか、少なくともそういったケースがあるのではないかと思われるのであるが、どうであろうか。もちろん、新しい事物や事象に、新しい言葉を与える場合があるのだが、このような場合の欲求のことではない。いや、こういった欲求も含めていいのだが、形式が実体を求めるようなもの、そうだ、俳句や短歌がよい例だ。形式が言葉を求める、実体験あるいは実体験への観想を求めるように、語法的なものが語を求めるというようなことがあるように思えるのである。
 たとえば、さいしょのものの比喩としたら、数をビーカーに入れて、長い時間、温めながら撹拌しつづけると、記号が滲み出してきて、やがて数と数が記号によって結びつけられるというようなイメージだろうか。あるいは、さらに合理的な比喩としたら、堆積岩の生成過程を例にあげることができるであろう。別々の砂礫が高圧力のもとで、それぞれの砂礫の接触面で溶融するかのように結びついて、ひとかたまりの岩石となる過程である。
 ふたつ目のものの比喩としたら、過飽和水溶液から結晶が晶出するように、記号あるいは記号的な欲求が、数や記号を晶出させるといったイメージだろうか。
 記号あるいは記号的な欲求を、語法あるいは語法的な欲求として見て、数あるいは数的なものを、言葉として見てとると、数と記号の問題は、語と語法の問題の、より単純な系として見ることができる。これによって、言葉に関する問題、意識や無意識に関する問題、文学や芸術に関する問題などを、とても取り扱いやすい系で考えてやれることになるということである。
 極端であろうか。唐突であろうか。素っ頓狂であろうか。


*


 事物・事象が精神と結びついたものであることは、現実の在り様から分明であるが、また文学作品が読み手の解釈と密接に結びついていて、読み手の解釈との関わりによってのみ、その作品のじっさいの在り様があるように(日常の言葉のやりとりにおいても、これは言えるのだが)、数式もまた、その数式の意味をどこまで知っているか、その数式があらわしているものと示唆するものが、どういったものであるのかということを知っているのか知らないかで、どこまでその数式の変形や展開に関われるのかが異なるものになるように、違ったフェイズとアスペクトをもつ者にとっては、同じ数式が同じ数式ではなくなるのである。同じ数式が異なるフェイズとアスペクトをもつということである。このことは、あらゆる事物や事象が、その事物や事象を観察し解釈し解析する者によって、その存在をあらしめられるという、現実の在り様に相似している。
 ところで、その観察し解釈し解析する者は、その者が観察し解釈し解析する対象が存在しなければ、存在しないものであるのであろうか。存在するのか存在しないのかは、わたしにはわからない。しかし、もしも、世界に、ただひとりの存在者しかいないとしたら、あるいは、こう仮定したほうがよいであろう、もしも、ただひとりの存在者しかいない世界があるとしたら、その存在者にとって、現実とは、いったいどのようなものであろうか。観察し解釈し解析するものがいない世界での現実とは、いったいどのようなものであろうか。そもそものところ、そこには現実というものがあるのかどうか。
 数式がただひとつしかない世界があるとして、はたして、その数式は、意味をもつものであるのだろうか。観察し解釈し解析する人間がいなくて。自らの姿をのぞき見ることのできる鏡もなくて。 
 おそらくそのただひとりの存在者は、どうにかして、自分を観察し解釈し解析しようとするであろう。現実をあらしめるために。それゆえに、神は、世界を創造し、人間というものを創り出したのかもしれない。ここで、ふと、わたしは、詩人のつぎのような言葉を思い出した。
「神とは、あらゆる人間の経験を通して存在するものである。」


*


 数式においては、数と数を記号が結びつけているように見えるが、記号によって結びつけられたのは、数と数だけではない。数と人間も結びつけられているのであって、より詳細にみると、数と数を、記号と人間の精神が結びつけているのであるが、これをまた、べつの見方をすると、数と数が、記号と人間を結びつけているとも言える。複数の人間が、同じ数式を眺める場合には、数式がその複数の人間を結びつけるとも考えられる。複数の人の精神を、であるが、これは、数式にかぎらず、言葉だって、そうである。言葉によって、複数の人間の精神が結びつけられる。言葉によって、複数の人間の体験が結びつけられる。音楽や絵画や映画やスポーツ観戦もそうである。ひとが、他人の経験を見ることによって、知ることによって、感じることによって、自分の人生を生き生きとさせることができるのも、この「結びつける作用」が、言葉や映像にあるからであろう。


*


わたしは目である。
わたしは視線である。
わたしは頭である。
わたしは手である。
わたしは触感である。
ダイヤブロックを組み合わせ、いろいろなものを模したものをこしらる。
あるいは、なにものにも似ないものをこしらえる。
わたしはダイヤブロックを出現させる。
わたしはダイヤブロックそのものにもなる。
このとき、わたしはわたしの目をつくる。
わたしの視線をつくり、わたしの頭をつくり、
わたしの手をつくり、わたしの触感をつくる。

わたしは記号である。
わたしは数と数を結びつける。
わたしは数を出現させる。
わたしは数そのものにもなる。
このとき、わたしは記号をつくる。
わたしは思いつきである。
発想である。
計画である。
わたしは文意である。
わたしは文脈であり、効果である。
わたしは言葉と言葉を結びつける。
わたしは言葉そのものにもなる。
このとき、わたしは思いつきとなる。
発想となり、計画となる。

ダイヤブロックでつくろうとしたものがつくれないことがある。
重力のせいで、形が崩れるのだ。
あるいは、ダイヤブロックの数が足りなかったり
ダイヤブロックにほしい色がなかったり
ちょうど使いたい大きさのものがなかったりして。
用いる記号を間違って使ってしまったり
正しく変形したり展開したりすることができないことがある。

適切な文体が思いつかず
目的とした文意を形成する文脈を形成できなかったり
目的とした効果を発揮することができなかったりする。
無意識的に手にとったダイヤブロックを組み合わせていると
見たこともないうつくしいものになったりすることがある。
無意識的に数式をいじっていると
すばらしい予感を与える数式になったりすることがある。
無意識的に言葉をつぶやいたりしていると
すばらしい音楽的なフレーズができることがある。
数多くの書きつけたメモを眺めていると
ふいにそれらが結びついて
見たこともないヴィジョンがもたらされることがある。
こういったときに、よく
わたしは、自身がダイヤブロックそのものになった気がするのだった。
こういったときに、よく
わたしは、自身が数そのものになったような気がするのだった。
こういったときに、よく
わたしは、言葉そのものになったような気がするのだった。

それとも、ダイヤブロックそのものは、
なにかを目指してつくられたものではなかったのだろうか。
それとも、数そのものは
なにかを目指してつくられたものではなかったのだろうか。
それとも、言葉そのものは
なにかを目指してつくられたものではなかったのだろうか。
出来の良いわたしがあり
出来の悪いわたしがある。
良くもなく悪くもないわたしもある。
良くもあり悪くもあるわたしがある。

わたしそのものは
なにかを目指してつくられたものではなかったのだろうか。
庭先のテーブルに肘をついて
空を眺めていた。
雲のかたち。
つぎつぎとかたちを変えていく雲の形。
それは風のせいなのか。
雲にかかる重力と浮力のせいなのか。
地球が自転しているためか。
それとも
わたしが眺めているからだろうか。
わたしの目が
こころが
雲の形を変えていくのだろうか。


*


庭に出ようとした瞬間から
精神のなかに
数や記号があふれ出てくるのが感じられる。
数や記号が働きだそうとするのを感じる。
数式の庭に足を踏み入れたとたん
わたしの目と肉体は
内からの数や記号の圧力と
外からの数や記号の圧力にさらされて
まるで両手でピタッと挟まれた隙間のようだ。
限りなく薄い空気の膜のようなものとは言わないが
無に近い存在かもしれない。
無力な無ではないつもりではあるが。


*


詩人がネット上に書いていた言葉に目を通していた。
日記の断片であろうか、作品の一部のようにも見えるが
詩人は、つくりかけの詩の断片をよくそのまま放置しておいた。
記憶と音に関するところだ。

ネットの詩のサイトに投稿していた詩を何度も読み直していた。
もう、何十回も読み直していたものなのだが
一か所の記述に、ふと目がとまった。
記憶がより克明によみがえって
あるひとりの青年の言葉が
●詩を書いていたときの言葉と違っていたことに
気がついたのである。わずか二文字なのだが。
つぎのところである。

●「こんどゆっくり男同士で話しましょう」と言われて   誤
●「こんどゆっくり男同士の話をしましょう」と言われて  正  

誤ったのも記憶ならば
その過ちを正したのも記憶だと思うのだが
文脈的な齟齬がそれをうながした。
音調的には、正すまえのほうがよい。
ぼくは、音調的に記憶を引き出していたのだった。
正せてよかったのだけれど
このことは、ぼくに、ぼくの記憶が
より音調的な要素をもっていることを教えてくれた。
事実よりも、ということである。
映像でも記憶しているのだが
音が記憶に深く関与していることに驚いた。
自分の記憶をすべて正す必要はないが
とにかく、驚かされたのだった。
いや
より詳細に検討しなければならない。
●詩のまえに書いたミクシィの日記での記述の段階で
脳が
音調なうつくしさを優先して言葉を書かしめた可能性があるのだから。
記憶を出す段階で
記憶を言葉にする段階で
音調が深く関わっているということなのだ。
記憶は正しい。
正しいから正せたのだから。
記憶を抽出する段階で
事実をゆがめたのだ。
音調。
これは、ぼくにとって呼吸のようなもので
ふだんから、音楽のようにしゃべり
音楽のように書く癖があるので
思考も音楽に支配されている部分が大いにある。
まあそれが、ぼくに詩を書かせる駆動力になっているのだろうけれど。
大部分かもしれない。
音調。
それは、ほとんどつねに、たしかに恩寵をもたらせるのではあるのだが
恩寵とは呼べないものをもたらすこともあるのだった。

青年が発したのは、まさに言葉であって、ものではなかった。
ものはなかったので、それをそのまま保存しておくことはできなかった。
詩人は、音声によって、その言葉を聞かされたのであった。
青年は、言葉によって、そして、そのとき言葉を発した気持ちを
その表情に、そのからだのつくりだす雰囲気によって伝えたであろう。
伝えようとする意志がどこまで意識的かどうかにはかかわらず
きっと、その表情やからだぜんたいから醸し出されるニュアンスは伝わったであろう。
そして、その言葉はその青年の呼吸と同じように吐き出され
詩人の呼吸と同じように吸いこまれたのであろう。
呼吸。
そうだ、呼吸は呼気と吸気からなる一連の運動である。
しかし、吸い込んだ空気中の酸素をすべて変換してからだは吸収するのではなく
からだは吸い込んだ空気から変換した二酸化炭素と変換しなかった酸素を吐き出すのだ。
呼吸。
詩人がよく使ったレトリックだが
おそらく、そのとき、その時間がふたりを呼吸していたのであろう。
その場所がふたりを呼吸していたのであろう。
その出来事がふたりを呼吸していたのであろう。
おそらく、そのとき、その時間が詩人と青年を呼吸していたのであろう。
その場所が詩人と青年を呼吸していたのであろう。
その出来事が詩人と青年を呼吸していたのであろう。
詩人の一部を時間に変え、時間の一部を詩人に変え
詩人の一部を場所に変え、場所の一部を詩人に変え
詩人の一部を出来事に変え、出来事の一部を詩人に変え
青年の一部を時間に変え、時間の一部を青年に変え
青年の一部を場所に変え、場所の一部を青年に変え
青年の一部を出来事に変え、出来事の一部を青年に変え
そうして、詩人の一部はその青年となり、その青年の一部は詩人となり
その年の一部は詩人となり、詩人の一部がその青年となったのであろう。
そのとき、人はその青年を呼吸し、その青年は詩人を呼吸していたのであろう。
音声による言葉の意味概念の想起は
詩人が書いていたように、
音声による「なめらかさ」といったものをくぐってもたらされたのであろう。
その青年が発した言葉による意味概念のなかで
とりわけ、「男同士」というところが強い印象を持たせたであろう。
したがって、その「男同士」という言葉につづく言葉として
詩人としては「で」という、もっともありふれた
つまり、詩人が知るところでもっとも標準的な言葉を
音声的にも耳慣れたものであり、音調的にも
「の」よりも、耳にここちよいほうを
「正しい記憶」ではなく「記憶していたと思っていた言葉」から
引き出したのであろう。
のちのち詩人が、「正しい記憶」を思い出せたのは
詩人が書いていたことから推測されるだろう。
自分の作品を何度も読み返しているうちに
その言葉が想起させるイメージが
これはヴィジョンだけではなく、
そのときのニュアンスとかいったものも含めて
詩人が想起させたときに
「正しい記憶」のほうが
「それはまちがっているぞ」というシグナルでも発していたのであろう。
詩人は、そのシグナルにはじめは気がつかなかったが
何度も読み返しているうちに気がついたのであろう。
詩人は、「文脈の齟齬」と書いていたが
「正しい記憶」による「心情の齟齬」とでもいったものが
詩人のこころのなかに生じたのではないだろうか。
「正しい記憶」が「誤った記憶」を正す機会は
そうあることではない。
詩人は貴重な機会をつかまえたわけだ。
まさしく、恩寵といったものを感じていたであろう。
恩寵か。
わたしは、数式の庭を見渡した。
数式の花たちは、わたしにとって言葉でもあり
記憶でもあり、ものでもある。
数式の花たちにとっても
おそらく、わたしは、言葉でもあり
記憶でもあり、ものでもあるのだろう。
詩人は、べつの日の日記に、つぎのようにも書いていた。

何十回も読み直していて気がつかなかったのに
気がついたのは、あの投稿掲示板の大きさによるところも大きい。
あの大きさだと、間違いに気がつくことがほんとうに多いのだ。
まずいところに気がつくことがほんとうに多いのだ。
視覚というのも、「正しい記憶」に関与しているのかもしれない。
さて
もちろん、視覚も「もの」ではない。
「もの」に依存するが。

書かれたものの大きさが、その作品を見渡せる大きさが
「正しい記憶」や、よりよい表現を促せたということか。
わたしの目は、もう一度ゆっくりと、数式の庭ぜんたいを見渡した。
プリントアウトした詩人の言葉をテーブルのうえに置いて
わたしは、ひとつの数式の花のところに足を向けた。


テーブルで一人パンを食べるということ

  右肩

 ボーンチャイナの皿を見ている。霜の朝。 皿に、食べ終えたトーストの破片が少しと。溶けたバターのしずく。しずくが数カ所で凝固している。凝固。霜の朝。
 魂が皿の周縁を歩く。魂が円周を慕うのは、行き止まらない道程が転生の履歴をなぞるから。だから。
 歩く。足の底が持ち上がると、白磁の地表から光が照り返す。僕をその輝きとする。すると、僕はその輝きとして宇宙のへりをなぞっている。
 歩けど。歩けど。皿は。皿。
 意識から切り分けられた骨。骨が粉砕され、その粉末が焼結する。
 僕はかつて、大野城下の寺の蛇であった。境内の庭の隅、灌木の下で玉になって絡まりあう数十匹の蛇。そのうちの一体が僕だった。濃緑の、丈の高い苔のにおい。蛇であった僕の骨が、ここで皿の光となっている。
 密集した鱗の擦れる音。皿の縁に沿う青い唐草文様。
 唐草の文様が伸びれば伸びるほど、皿の肌理が光るほど、光れば光るほど、僕が歩くほど、歩けば歩くほど。
 記憶の生理が過去を導く。生理。
 僕は大抵のことは信じない。が、既に起こったことが未来に投影されるとき、確信される記憶の触感。触感が掌を濡らす。濡らすのだ。何事もない生活。その生活から吹き出た血液のように。
 しかし引き締まった寒気が僕を硬く包む。しかしまた。そしてまた、関東平野、痩せた小枝の先でも、ものの芽を二重三重の外皮が締め上げている。ものの芽を。外皮が。どうにもできない曇り空が窓ガラスに密着している。吸着している。
 僕は人のひと滴。ひとり。ヒタリ。パン皿のへりを滑る。るるる。未来へ遡る。未来。投影された未来から、食卓の椅子の上から。見ている。どこか。どこだ。バターのにおいがする。

(いつだったか、女の子と始めて舌を絡め、長いキスをした。キスしていたのは町外れの河原だった。唇を寄せるとき彼女も僕も、目を閉じた。キスはほんのりとバターの味がする。目を閉じてしまっているが、さほど水量のない川の中に青鷺が立ってこちらを見ているのがわかる。その鷺と僕らを一直線につないだ川向こう。そこに人物が一人立っていて、やはりこちらを見ている。男か女か、おおよその年、服装もそのときはわかった。が、今、それを思い出すことはできない。キスはずっとずっと続く。終わらない。鷺の目がこちらを見ている。川向こうの人が鷺と僕たちを見ている。キスの相手の彼女も、実は瞬きもせず目を見開いて僕を見ている。僕の視界は二〇メートルほど浮き上がってこの構図を見ている。空の一点を中心に地上の風景が回った。僕と彼女と鷺と、川向こうの人も回った。回るうちにゆっくりと形がなくなって、瞼の裏に薄明るい闇を揺り戻した。)


big america

  るるる

 Day after day I was waitin' to be baked
 I always tried to run away and hide
 One morning I said, "I want to be free"
 I left the butcher Shop and went to the south

夜勤明け、マクドナルドの店先にあるベンチのド真ん中には今日もあの不気味なピエロ、ドナルド・マクドナルドがふんぞり返って、何が面白いのかしきりにニヤついている。よお、いらっしゃい。俺の店へようこそ。冴えないツラだな。どうせクソつまんねーことで悩んでんだろ? ウジウジしてねーでビッグマックでも食えよ。ちょっとガキとババアのうるさい時間だけど、まあゆっくりしていってくれよな。アイムラビニット。彼は得意のドナルドスマイルを僕に見せつけながら、自信たっぷりにそう言った。そういえば小腹も空いてきた頃だった。いつだって権力と誘惑には逆らわない僕は素直にレジカウンターに向かい、ビッグマックセットを注文する。ビッグマックセットがおひとつですね。ああ。セットのお飲み物をこの中からお選びください。コーラで。かしこまりました。ご一緒に牛はいかがですか? なんだって? ソバカスだらけのティーンエイジャーがポニーテールを揺らしながら、僕の目をじっと見つめてもう一度言った。ご一緒に牛はいかがですか?ビーフ100%ですよ。僕は仕方なくビッグ・マックセットといっしょに牛を一頭注文すると、窓際の席に腰を下ろして一息ついた。モー(お前も大変だね)。モー(俺もさ、一家を養うためにこうして身売りまでして)、モー(遠い異国の地で誰にも看取られずに)、モー(みじめな一生を終えるってわけ)。モー(いまや時代はオートメーションさ)。モー(親方は職人気質の不器用な男でね)、モー(自分の祖父が起こした小さな精肉工場が)、モー(たった一つの誇りだったよ)。ふうん、そっか。僕は窓の外を眺めながら生返事をした。モー(ハッパどう?)。いらねーよ。どうせ反芻したやつだろ? 僕は目も合わせずに断る。だいたい何だってピエロだの初対面の牛だのに人生を心配されなきゃならないんだ? 地下鉄とモノレールの区別もつかないような街で、蜂の巣みたいな集合住宅の窓の一つ一つに、朝っぱらからハード・コア・ポルノだのスナッフ・フィルムだのレクイエム・フォー・ドリームだのと、そりゃ逃げ出したくもなるわな。僕はトップレスの子守の首を切り落としながら考える。僕もいつか、子供を悲しませるような大人になるのかな。みんなずっと子供のまま、ブラウン管の火星人やフランケンシュタインの怪物を見ながら、ペプシ片手にポップコーンを食べていればいい。その頃はまだエイズなんて言葉も知らなくて、ピンク色のセロハンを電球に貼り付けた部屋で、ごまかしたカラーと快楽を貪っていた。早く来い、早く! そこの壁をぶち破って俺の心臓を抉り出しにこい! 何度も何度もそう願いながら。目覚めれば暗い部屋で味のないシリアルを食べ、週末には贅沢をしてケロッグを買う。角のマーケットでアイスクリームを買いながら「市場」という言葉を閃いて吐くくらい笑ったり、駐車場のキャデラックのフロントガラスが何日“もつ”かで賭けをしたり、刺激のない人生に変化がほしくなっても、せいぜいキリストをおかずにヌくくらいしかできない。変化なんてあるはずもない、いたって平凡な毎日。ハイ! 僕の名前はジョン・ウェイン・ゲイシー。ケンタッキー・フライドチキンの厨房で従業員を犯すのは最高にハイな気分さ。あいつら俺の嫁とヤっていいぜ、って言ったら簡単にケツを差し出しやがる。いい子だね。後で好きな色の風船をあげようね。そういえばホーム・パーティーやカーニバル、アイスクリーム・ワゴン、どこにでもピエロはいた。やつらのあのクソ鬱陶しい白塗りの顔、あれは本物の笑顔じゃない。やつらはもう二度と自分では笑えないからこそ、ピエロになるしかなかったのだ。モー(ポテト冷めるぞ)。ああ、そうだな。僕はポテトをコーラで流し込みながら、ピエロも悪くないと思い始めていた。なあ、お前ビッグマック食うか? モー(もらうよ)。彼は器用に紙箱のふたを押し開けると、中身をぺろりと平らげてしまった。モー(いまならもう分かるよ)、モー(親方がああなった理由)。僕にも分かるよ。つまりオートメーションだろ? なにもかも、全ては神の意思なんかじゃない。だって神は一人で何でもできるんだからな。あいつはビッグマックなんて食わないし、ベンチのピエロと会話したりもしないだろうな。きっと変化がほしかったんだ。なにかしらの。モー(アメリカ流の企業経営が)、モー(君の国でも主流になると同時に)、モー(職人を育てるという当たり前の概念が)、モー(失われて、断絶をもたらしたんだよ)。そうだ、断絶だ。僕は考える。僕だって好きでこんなになったわけじゃない。お前だって、アスファルトに覆われたこの都会の中心でわずかばかりの牧草に出会えれば、好き好んでビーフ100%パティを食ったりしないだろ? 僕たちはみな狩猟をして、獲物の皮をはぎ、肉をそぎ、骨を削って、日々の暮らしの糧としてきた。それが今じゃあ全てがブラックボックスの中じゃないか。モー(衛生的に管理された環境で)、モー(細分化された行程は)、モー(屠殺という言葉を非日常に追いやり)、モー(君たちは動物から望んで断絶したのさ)。そうだ。その通りだ。僕は考える。牛たちはみな、ただ自然に帰りたかったのだ。狭苦しい小屋を抜け出してだだっ広い大空の下、混ぜ物のない新鮮なクサを食いたいだけ食ってのんびり暮らしたかった。だから愛するパパやママにさよならのキスもせずに窓から抜け出して、オープンカーでハイウェイを南へと走ったのさ。そこに自由があるって知ってたから。モー(でも、現実は)、モー(そんなに甘くはなかったんだ)。モー(満タンのガソリンはいつか底をつき)、モー(見渡す限りの荒野のど真ん中で)、モー(食うものも底をつき)、モー(クソド田舎の寂れたスタンドで僕たちは)、モー(キツい一発をガツンと食らわされる)。モー(やつらは馬鹿で無知な田舎者だけど)、モー(生まれながらのカウボーイさ)。ガソリンスタンドには薄汚い小屋があって、蝿のたかるショーケースには腐った肉が並べられている。やあ、分厚いのを食っていくかい? 口の中でトロけるようだぜ! いまだってもうトロけてやがるんだ! 嫌悪感を催す薄汚いクズに僕たちは愛想笑いを浮かべながら煮詰まったコーヒーを飲み、なんとか給油を済ませる。それを窓からピエロが見ている。おやすみ、いい夢を。ファック! 意識が遠のく。僕たちはどうせどこにも逃げられやしない。見てみろ! 目覚めた僕の背中に深々と突き刺さったフックを。気がつけば誰も彼もがチェーンで吊るされて壁の中、銀色のテーブルに横たえられて解体される順番を待っている。幕が下りれば役者達は衣装を脱ぎ、もとのユニフォームにそそくさと着替え始める。ガソリンスタンドの店員も、粗暴な酔っ払いも、ハイウェイパトロールも、保安官も、コンボイの運転手も、みんなグルだった。どいつもこいつもマクドナルドの社員だった! 僕たちの目の前に音もなく止まる一台のリムジン。そこから出てきたのは、あのクソピエロ野郎、ドナルド・マクドナルドだ。よお、どうだい。自由への脱出は楽しかったか? ニヤニヤ笑いを浮かべながらやつは言った。どうだ? 俺は笑えないか? 笑えないジョークだね。笑わない俺は動物か? モー(どうかな)、モー(牛だって笑うよ)。モー(たまにはね)。そう言って彼はニッと歯をむき出して僕に見せた。いよいよクライマックスだ。僕はドナルド・マクドナルドの精神を噛み締めながら、コーラを一口すする。血のしたたるようなジューシーさとは程遠い、乾いたスポンジみたいな特製パティがコーラで戻り、芳醇な味わいを醸し出す。モー(サンキュー)、そしてグッバイ。僕は精一杯の笑顔を作り、彼にナイフを突き刺した。モー、モー、モー。僕にはもう彼が何言っているか、ただのひとつも分からなかった。初めての解体は不器用で危なっかしかったけど、きっとすぐに慣れるだろう。それより生き物の身体にはこんなにもたくさんの血が詰まってるなんて、君は知ってた? 世界のありとあらゆるものが真っ赤になるような錯覚をしそうだ。おい、お前らもみんな来いよ! スポンジみたいな牛を食って脳みそスポンジボブになろうぜ! lol! xD 僕はたぶん思い切り笑って笑って笑って笑って刺して刺して刺して刺した。もうどうしようもないところまで来ているのは分かっていたけど、僕はとても楽しくて、楽しくて、楽しくて、本当に楽しくて仕方がなかった。僕たちはこのとき、このたったひとつの行為においてのみ、断絶されない世界のすべてだった。彼と僕の関係をとことんまでシンプルにする崇高な行為、肉食。それは魂の同化であり、動物への回帰だ。断言したい。今、僕はまぎれもなく生きている。もちろんお前も生きてるし、お前も、お前も、お前も、お前も、お前も、お前も、お前も生きてる! ハレルヤ! 僕は間もなくここで死に、ここで新たに生まれるだろう。誰も言わないなら僕が代わりに言ってやる。ありがとうございました! 帰り際、僕はまだニヤニヤしているドナルド・マクドナルドの口元に手のひらの血をべっとりと塗りつけて、ぺロリ! これはバーベキューソース! ってなんでやねん。でも、お前によく似合うよ。

 I'm just a beef - This is my fate
 A little burnt beef, ready for the plate
 This hungry man wants something to munch
 Big America, I'm so tasty - I will be his lunch



  ※ 英詩部分は「SWIM, TAIYAKI-KUN !」(Ronnie Rucker)から引用・翻案。


さらば、小さな耳

  

こめかみに空いた穴から吹き込んだ砂風が
腹の奥でおかしなくちぶえを吹きながら
狂信的預言者のなりをしてボロ小屋を蹴ったり塗装を剥がしたりしている
つまりたとえあの小屋の中から花嫁が出てきたとしても
今は決して振り向いてはならないという事なのか

さらば俺のボロ小屋
俺の小さな耳よ

耳をふさいで砂漠を通過する異邦人が
不意に懐かしさに振り返ったとしても
それは一夜のうちにポケットに垢じみた手札と
育つ事もままならない種ばかりが残されてしまった彼を嘲弄する
カラスの声にすぎなかったのか

さらば俺のボロ小屋
俺の小さな耳よ

耳よかつてお前は俺の一部であった
お前の足はどんな時でも超撥水仕様であった
お前の詩は詩というよりも怪文書であった
ただ隣にいたお前の愛しさが唯一の事件であった
ほんとうだとも
たとえいま巨大な鐘が遠く鳴り響いていたとしても
俺はこの耳を手のひらの胎児として隠したまま歩みを止めぬだろう
こめかみに詰まった預言をどこかに埋める為に
せめてここから見えるあまねく灯台に火を点して行かねばならない
そうすれば耳の魂は迷うことなく飛び立てる
預言者もカラスもいないボロ小屋の窓へたどり着き
ある朝の小鳥となって指先に触れられながら
鼓膜を震わせて俺の代わりにさえずってくれるはず

さらば
さらば俺の二度と来ない朝
さらば俺の守りたかった小屋
さらば俺の困った毛布
さらば俺の慎ましい椅子
さらば俺の甘ったるいコーヒーカップ
俺の小さな耳よ
さらば

やがてカラスの声も遠ざかっていった
もはやみな砂に溶けてしまったのだろうか
いまは風の音しか聞こえてはこない

ああ耳よ
俺の小さな耳よ


砂遊び

  

「プクータ、瞳を洗いなさい」
「お母さん、外がうるさいよ、
 それは、夕立が挨拶をしにきてるからだよ」
「メキシコを下ると三半規管が、
 見る夢の話をして、タールシャ」
「ハイビスカスに秘められた、
 逆さづりのプルーストの、
 失われた靴下が歴史にのかって
 干からびているのを見たかい?」
「雨が降らないんじゃなく、この土地が
 雨をずっと昔に拒絶しちまったのさ、
 もう、雨はいいや、俺たちには、乾きが
 ちょうどいいって具合に、
 だからどいつもこいつも、死んでも、
 すぐに生き返ってきちまう」
「ジャルシュ、お前が最後に聞いたのは、
 かかあのいびきだってな?」
「ああそうさ、それもとびきりでかいやつさ。
 おかげで、最後の言葉なんてかき消されちまったよ。」
「そいで、かかあの最後の言葉もいびきだって話じゃねぇか」
「ああそうさ、あいつはそのせいで、神様にどなられちまうって、
 いまだにびくついてやがるんだ。最後の言葉が祈りでも、なんでもなく
 いびきだって、天使どもに笑われちまうって死んでも悩んでやがる」
「砂浴びのパーシャがやってきたぜ」
「あいつは砂ばかり浴びているから、嫁にいけねぇんだ」
「でもよ、あいつもとうとう死んでから妊娠したって話だぜ」
「相手は誰だよ。」
「首なしのジャータらしいよ。ある日、自分の首を球にして、友人たちと、
 蹴り合いしているときに、勢い余って思いっきり蹴った馬鹿がいてよ、
 草むらにおちたやつの首を犬がひろっちまって、消えちまって以来、
 首なしよ。」
「首なしでも子供がつくれるってか。生まれてくる子供も首なしなのかねぇ。」
「首はあるって話よ。ただ、その首がくせもので、首と体が離れてやっこさんの
 体の中にあるってわけ、そいで、世紀の大手術ときたもんで、この乾ききった
 街で死んでいる一番の名医がつなぎあわせようとしてるのさ。」
「映画も土埃を吸い込んじまって、どこもかしこも砂嵐だらけときてやがる。
 お空のお星さまにお願いしな、と、昔は親父に教えられたもんだが、今じゃ
 お空のお星様に砂をくれてやれってもんで、みんなして夜中に、砂の投げ合いと
 きたもんだ」
「ろくでもない街にはろくでもない幽霊どもしかいないのさ。とにかく乾き、乾き、
 それが全部を干からびしちまう、俺たちの生もそして死も全部さ、虚無も時間も
 希望も天国も地獄も干からびちまって俺たちをいつまでたっても迎えにきやしない」
「街の名前はなんだったけか?」
「それも砂が飲み込んじまったよ」
「今日も、肺の中で、砂がざらざら音を立ててやがる。肺病みのマクリルは、死んで
 どいつもこいつも皆まとめて肺病みみたいになって喜んでるよ。」
「俺たちは皆あいつに教えを受けなくちゃいけないってか。どうやったら、息つぎが
 できるかどうかって。酒場であいつがテーブルの上で、司教様を気取って皆に説教
 してるのを見るのはもうんざりだぜ。それにあいつをたたえやがる小娘どももだ。
 どうせ、いくらたたえようが、いくら吐き出そうが逆さになろうが砂は溜まる一方
 だってのによ」
「耐えるのです。私が生前病んでいた肺病みの苦痛と比べればどうってことはないのです、と
 あいつが言うたびに、皆瞳を輝かせてやつを見上げてやがる」
「まぁ、こんなくだらない俺たちの話も、俺たちみたいにすっからかんで、砂に埋もれるか、砂と
 ともに風に乗って、どこかの街を埋め尽くすぐらいの役にしかたたないもんな。」
「やめちまおうぜ。やめたところで、砂が吹くだけだがな。」
「そういやお前の名前はなんだっけ?」
「とっくの昔の砂嵐にもってかれちまったよ。そんなもの」

「プクータ、瞳を洗いなさい。」
「おかあさん、外がまださわがしいよ。」
「幽霊たちが騒いでいるのよ。」
「いつになったら静かになるの?」
「砂がこの町も私たちのまだ生まれていない子供たちもその未来も
 何もかも埋め尽くしたらね」


七曜表

  sherry




注いだあと
互いに 素肌を置き憚っては
代わりの、図を引く
冷たい
手のひらが なびき、続こうとしない


疎遠から、
曖昧に
たされていく
硝子の容器に、一滴の海水を汲み
(もう、呼べなかった)
寄るほど
正午と似て 霞んだひとみも褪せ、
放ったほうが、
交え
往来を頻りにし
通した、明かりの上
捲くるとしても 訪問するだろう


秋が
羽織れ、と教え
ひとり擦りながら
七日前の、箋を付ける
浜へ
身体ごと
脱ぎ捨てずに、持って

***

”偶然に、実際に目の前で起こった事柄を、細密に描写すること”

腕もなく、
強引になぞらえ
ひともじごとに
現実から外れていく
指すものの
所在を
伺えば、既に 辺りは更ける
離すと
そのままで 居られなかった

***

跨いで
松の
球果を拉き
抜け出す林と 湛えた海原を
防ぐ
手探りで
何度、詫びても
どちらかに合わさり、くたびれた
鈴虫の翅の
瑞々しさと、委ね
ただ、
耳にしない
発声は、筆跡の遣り取りとともに
暦を伏せる


ふいに轟音がして
震える
波の、鵜呑みから
なるべく抱かず、避難する方位は


読み返す
回数分、千粒をさらい
撒く
斜面が
表情を竦め 薙ぎ払ってからも


喩えが、隙入る余地のないよう
白紙を
脇に据える


内陸へ(マリーノ超特急)

  角田寿星


「母さん
 ふたりともどこ行っちゃったのさ?
 いっしょに河のゴミ漁りするって約束してたのに
「そういや俺たち
 ハクに何も言わなかったな あんちゃん
「言えねえよ 冗談じゃねえ
 連れてけなんてごねられたらあの人が哀しむだろうし
 そもそもこのアクアバイクじゃあ
 三人も乗ると沈んじまうよ
「夜明け前に出ていったわ
 すぐ戻るって言ってたけど
 あれは嘘ね
 ふたりとも義肢を置いていったもの
「俺たちふたりで三本腕三本脚だな
 不便でしようがねえ
「まあ仕方ねえ
 あれがあると俺たちの位置が筒抜けだからな
「え?多分?
「そう多分 河の上流よ 人喰い森のむこう
 あの消えない光の柱 あそこに
 『内陸の宝石』という名前の都市があったの」

「あんちゃん 若くてきれいだったな あの人
 ハクみたいな息子がいるとは信じらんなかった
「んー あー 冗談じゃねえよ
「耳まで真っ赤になんなくても さ
「母さん あんちゃん さ ゴミ漁りの合間に
 『こうして腰を落ちつけるのも悪かねえな』
 とか よく言ってたのになあ
「ほんと 嘘つきね
 これをあんたの脚にしてくれ だって
 あんちゃんの義足はあたしに合わないし
 片方しかないのに」

「ハク 河の上流ははじめてか?
 しっかりつかまってろよ
「母さんごめん ぼくどうしても行きたいんだ
 あのふたりの手と脚になってあげたいんだよ
「ああそうとも
 俺がハクのあんちゃんになってやろう
「そしたら俺は にあんちゃんだな
「こっから先は隠れ里の世界さ
 河沿いに仮宿がぽつぽつあるが
 集落までの道は地元の奴しか知らねえ
 もっとも森に喰われてなきゃの話だが」

「ありゃ事故…だったのかねえ…
 管理局の干渉 って噂は?
「ぼくが生まれる前から
 消えない光の柱はあるの?
「15年前のことらしい まあ…事故だろうな
 都市ひとつぶっ飛んじまったんだ
 『人道的な』ヤツらのやり口じゃないだろ
「そして管理局の手をはなれた
「そう今や さぞ人間的な生活をしてんだろ
 俺たちが昔やらされた
 『鼠捕り』とか『兎狩り』とか
「あたし…あそこにいたの…
 ううん ずっとこの村にいたの…
 気づいた時には両脚がなかった
 あの人が来て ハクあなたが生まれて
 そしてあの人は出ていったわ
 ちょうど今のふたりみたいに
「鼠捕り
「食糧倉庫に忍び込む奴をミンチに
「兎狩り
「目ぼしい集落を襲って根こそぎ…
 なあ 冗談じゃねえよ
 俺たち あれをやるか飼い慣らされるか
 どっちかしか ねえのかな
「あの人って 父さんのこと?
 父さん どこにいるか知ってるの?」

「俺たちは河を遡る
「河を遡る
「俺たちは地下道跡をつたう
「地下道跡をつたう
「俺たちは河上鉄道に乗る
「まだ通じてるといいけどな
「そして『内陸の宝石』へ
「宝石なんて喰わせもんだよ」

「母さん
 あのふたり さ
 父さんを捜しに行ったのかな
「ハクの親父がいるって保証は?
「ああ 生きてんだか死んでんだか
 ずっと音沙汰なし だとさ
「だとしたら
 どうしてぼくを置いて行ったんだ?
 いっしょにいようね って約束したじゃないか
「父さん ね
 消えない光の柱をずっと気にしていた
 留守にした自分の責任だ って悔んでた…
 あたしと小さなあなたを抱きしめて
 必ず戻ってくるから って…
「惚れた女のためかい?
 まったく馬鹿なことやってるよな
「あんちゃんの馬鹿!ふたりのバカヤロー!
「俺たちの馬鹿は
 生まれた時っからだろ」

「なあ ハク
 おっかさんひとりで大丈夫か?
「ハク あなたはあなたの人生を生きなさい
 あたしを気にする必要はないわ
「ひとりじゃないよ 村の人たちがいるさ
「壜のなかの手紙
「うん 河のゴミ漁りでみつけた
「日付は?
「一週間前」


「もう村は見えねえな
「ああ もう見えねえ
「まあ
 行けるとこまで行こうじゃないか」


限界庭園

  黒沢



蜜の、臭いの漂う限界庭園には、陳列された躑躅のサンプルがあり、押し黙った庭師が敷地をあるく。初めに映し出されるのは、手。接写状態の、傷だらけの手のしわ。老いた猿の知恵深さと、ヒトの狂気と、神の精密さをあわせ持つ。続いて、突如、遠景であるはずの容れものが、つまりは、この限界庭園の全体が、ぼやけて不確かな像を結ぶ。あらかじめ、定義された大気が動き、花粉や虫の糞やらを、あらぬ方位に運び去っている。

ひとつの躑躅をしらべ終わると、次の躑躅が、拡大して顕れる。限界庭園には、近景と、遠景しかないから、視覚は、常に極端をスイッチする。庭師の手は雨垂れに濡れ、断続的な、時の侵食に奇しくも犯されて、架空の神の、魚眼レンズとなる。ヒトにとっての、悔いとなり得る。

ところで、更なる次の躑躅のサンプルは、突如、花ひらく。それから、限界庭園のかたい石床の、水溜りへと花びらをばら撒く。蜜の、臭いで雨を閉じ込め、葉むらの構造の深い底で、夢をむさぼる。青いビニールで補完されている、庭師の極めて長躯のからだ。雨を吸いこむ株の向こうに、それが遠景で時おり見える。温帯の、豹やライオンが持つ疲労尿素と、気高い孤独とが、来園者の胸を打ち、愕かす。

透視図法の、雨垂れの連続は、残酷な手つきでこの限界庭園を、猿と、ヒトと、神がなすこの無意味な実験を、始終、飽きることなく包囲し続ける。雨が弱まると、庭園の敷地の限界が、音もなく膨らむ。雨が強まると、魚眼レンズごしに見た曇り空は暗く、庭師、ライオン、神、来園者、躑躅までを含め、すべてが定位して怖ろしくひき締まる。

さて、終りの躑躅のサンプルは、だんだんに巨大化を止めない。限界庭園にとっては、危機とも、久遠ともいい切れる、あの庭師のビニールの青。ぼやけたそれが近景となる。雨垂れに犯されると、多くの花が、突如、震える。猿の手が、均一に育て上げたあり得ない球。株分けに、株分けを重ねた、躑躅のコピー。いちいち、雨をはじく花びらの芯が、限界庭園の近すぎる空を、勝手に夢見ている。密生に、密生を重ねた大気の密度が、雌しべのひとつに、接写していく。別の、来場者がとおり過ぎ、庭園の記録に改行を増やす。最後に映し出されるのは、手。老いた猿の知恵深さと、ヒトの狂気と、神の精密さをあわせ持つ、という。


aoi

  南 悠一

彼女の背中越しについた
ため息のぬるさが
午後過ぎのお茶の温度に近似する時刻
俺はまどろみという背中越しに投げ掛けられた毛布に身を包む
見せてみろ、いつからか憂鬱に染まり出した地帯では
この銀色のチンチラが世界の一角を覆う布に変わる
地球の表面に観察される銀の突起の群れに
俺は微熱を感じる、その正体を見せてみろ

乳房の温もりに挟まれた掌を曝す窓際に
冬のひび割れた地面のような皹が伝って
ガラスごと割れてしまいそうだ
間延びした言葉をぶつけ合うやり方は
少年たちのコマの硬さをもっている
どうして僕は同じところばかり回っているんだろう
なんて 考えもしないで遊びほうけている
俺にもそんな時代があったが
過ぎ去ってしまったのだろう
ずっと眺めていなければ気づかないような微妙な変化を
空は繰り返していた
繰り越すことの重荷のために割れそうだった

少女が家にくる 俺は決まって毛布を着込む
毛皮の隙間から差し込んでくる
彼女の瞳は
いつもブルー、ブルーがベリー、
ベリーマッチ、
なんて 下手くそな英語で
果実の名前を連ねても
空は青い
陳腐化してるんだ
重なっても重なっても青いまま
俺は透明過ぎる空の下で
色の少ない貧しい絵を描いてみる
そう、パンにバターで書いたデリダの署名や
積まれた本の上の幻のアフリカから
少しずつ色彩を奪って自分のものにする
この微妙な差がよく見える気がするから
青を目に焼き付けて
より深いブルーを探す

やがて空に浮かぶ羊が勃起し
射精して雨が降ってくる
俺は毛布を脱ぎ捨てて
屋根の下で雨宿りする
脱ぎ捨てた毛布は世界へ羽ばたいて
空へと混じっていった
板の溝から降ってくる水滴に
眼球を映し出すとき
俺の網膜の中で羊の精子が受精して
視界は分裂を始める
縦に分かれ、横に分かれ、生まれる新しい世界は、aoi、母音を三つ刻んで
目覚めが始まっていく

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文学極道

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