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2018年06月分

月間優良作品 (投稿日時順)

次点佳作 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


Supper’s Ready。

  田中宏輔

 

掲示板
 イタコです。週に二度、ジムに通って身体を鍛えています。特技は容易に憑依状態になれることです。しかも、一度に三人まで憑依することができます。こんなわたしでよかったら、ぜひ、メールください。また、わたしのイタコの友だちたちといっしょに、合コンをしませんか。人数は、四、五人から十数人まで大丈夫です。こちらは四人ですけれど、十数人くらいまでなら、すぐに憑依して人数を増やせます。合コンの申し込みも、ぜひ、ぜひ、お願いします!
(二十五才・女性会員)


   *


詩によって花瓶は儀式となる。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・18、大西 憲訳)


優れた比喩は比喩であることをやめ、
(シオドア・スタージョン『きみの血を』山本光伸訳)


真実となる。
(ディラン・トマス『嘆息のなかから』松田幸雄訳)


   *


時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)


おそらく認識や知などはすべて、比較、相似に帰せられるだろう。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)


時間こそ、もっともすぐれた比喩である。


   *


さよ ふけて かど ゆく ひと の からかさ に ゆき ふる おと の さびしく も ある か
(會津八一)


飛び石のように置かれた言葉の間を、目が動く。韻律と同様に、目の動きも思考を促す。

余白の白さに撃たれた目が見るものは何だろうか? 言葉によって想起された自分の記憶だろうか。

 八一が「ひらがな」で、しかも、「単語単位」の分かち書きで短歌を書いた理由は、おそらく、右の二つの事柄が主な目的であると思われるのだが、音声だけとると、読みにおける、そのたどたどしさは、啄木の『ローマ字日記』のローマ字部分を読ませられているのと似ているような気がする。では、じっさいに、右の歌をローマ字にしてみると、どうか。

sayo fukete kado yuku hito no karakasa ni yuki furu oto no sabisiku mo aru ka

 やはり、そのたどたどしさに、ほとんど違いは見られない。しかしながら、「ひらがな」のときにはあった映像喚起力が著しく低下している。では、なぜ低下したのだろうか。それは、わたしたちが、幼少時に言葉をならうとき、まず「ひらがな」でならったからではないだろうか。それで、八一の「ひらがな」の言葉が、強い映像喚起力を持ち得たのではなかろうか。この「ひらがな」の言葉が持つ映像喚起力というのは、幼少時の学習体験と密接に結びついているように思われる。八一の歌の、その読みのたどたどしさもまた、その映像喚起力を増させているものと思われる。ときに、わたしたちを、わたしたちが言葉を学習しはじめたときの、そのこころの原初風景にまでさかのぼらせるぐらいに。
 たどたどしいリズムが、わたしたちのこころのなかにある、さまざまな記憶に働きかけ、わたしたちを、わたしたち自身にぶつからせるような気がするのである。つまずいて、はじめて、そこに石があることに、わたしたちが気がつくように。


存在を作り出すリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)


人間ひとりひとりを永遠と偏在に参与せしめるリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)


  *


不完全であればこそ、他から(ヽヽヽ)の影響を受けることができる──そしてこの他からの影響こそ、生の目的なのだ。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)


彼らは、人間ならだれでもやるように、知らぬことについて話しあった。
(アーシュラ・K・ル・グィン『ショービーズ・ストーリイ』小尾芙佐訳)


ぼくが語りそしてぼくが知らぬそのことがぼくを解放する。
(ジャック・デュパン『蘚苔類』3、多田智満子訳)


   *


 映画を見たり、本を読んだりしているときに、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じることがある。ときには、その映画や本にこころから共感して、自分の生の実感をより強く感じたりすることがある。自分のじっさいの体験ではないのに、である。これは事実に反している。矛盾している。しかし、この矛盾こそが、意識領域のみならず無意識領域をも含めて、わたしたちの内部にあるさまざまな記憶を刺激し、その感覚や思考を促し、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じさせるほどに想像力を沸き立たせたり、生の実感をより強く感じさせるほどに強烈な感動を与えるものとなっているのであろう。イエス・キリストの言葉が、わたしたちにすさまじい影響力を持っているというのも、イエス・キリストによる復活やいくつもの奇跡が信じ難いことだからこそなのではないだろうか。


 まさに理解不能な世界こそ──その不合理な周縁ばかりでなく、おそらくその中心においても──意志が力を発揮すべき対象であり、成熟に至る力なのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


   *


物がいつ物でなくなるのだろうか?
(R・ゼラズニイ&F・セイバーヘーゲン『コイルズ』10、岡部宏之訳)


人間と結びつくと人間になる。
(川端康成『たんぽぽ』)


物質ではあるが、いつか精神に昇華するもの。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)


   *


書きつけることによって、それが現実のものとなる
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』75、佐宗鈴夫訳)


言葉ができると、言葉にともなつて、その言葉を形や話にあらはすものが、いろいろ生まれて來る
(川端康成『たんぽぽ』)


おかしいわ。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)


   *


どうしてこんなところに?
(コードウェイナー・スミス『西欧科学はすばらしい』伊藤典夫訳)


新しい石を手に入れる。
(R・A・ラファティ『つぎの岩につづく』浅倉久志訳)


それをならべかえる
(カール・ジャコビ『水槽』中村能三訳)


   *


猿(さる)の檻(おり)はどこの国でも一番人気がある。
(寺田寅彦『あひると猿』)


純粋に人間的なもの以外に滑稽(コミツク)はない
(西脇順三郎『天国の夏』)


simia,quam similis,turpissima bestia,nobis!
最も厭はしき獸なる猿はわれわれにいかに似たるぞ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』キケロの言葉)


コロンビアの大猿は、人間を見ると、すぐさま糞をして、それを手いっぱいに握って人間に投げつけた。これは次のことを証明する。
一、 猿がほんとうに人間に似ていること。
二、 猿が人間を正しく判断していること。
(ヴァレリー『邪念その他』J,佐々木 明訳)


かつてあなたがたは猿であった。しかも、いまも人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上に猿である。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部・3、手塚富雄訳)


   *


 数え切れないほど数多くの人間の経験を通してより豊かになった後でさえ、言葉というものは、さらに数多くの人間の経験を重ねて、その意味をよりいっそう豊かなものにしていこうとするものである。言葉の意味の、よりいっそうの深化と拡がり!


   *


 この世界の在り方の一つ一つが、一人一人の人間に対して、その人間の存在という形で現われている。もしも、世界がただ一つならば、人間は、世界にただ一人しか存在していないはずである。  


   *


 だんだんわたしは選ぶことを覚え、完全なものだけをそばに置いておくようになった。珍しい貝でなくてもいいのだが、形が完全に保存されているものを残し、それを海の島に似せて、少しずつ距離をとって丸く並べた。なぜなら、周りに空間があってこそ、美しさは生きるのだから。出来事や対象物、人間もまた、少し距離をとってみてはじめて意味を持つものであり、美しくあるのだから。
 一本の木は空を背景にして、はじめて意味を持つ。音楽もまた同じだ。ひとつの音は前後の静寂によって生かされる。
(アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈りもの』ほんの少しの貝、落合恵子訳)


 いかにも動きに富む風景、浜辺に、不揃いな距離を置いて立っている一連の人物たちのおかげで、空間のひろがりがいっそうよく測定できるような風景。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)


   *


私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出会つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
(立原道造『またある夜』)


 わたしの目は、雲を見ている。いや、見てはいない。わたしの目が見ているのは、動いている雲の様子であって、瞬間、瞬間の雲の形ではない。また、雲の背景にある空を除いた雲の様子でもない。空を背景にした動いている雲の様子である。音楽においても事情は同じである。わたしの耳は、一つ一つの音を別々に聞いているのではない。音が構成していくもの、いわゆるメロディーやリズムといったものを聞いているのである。そのメロディーやリズムにおいて現われる音を聞いているのである。言葉においても同様である。話される言葉にしても、読まれる言葉にしても、使われる言葉が形成していく文脈を把握するのであって、その文脈から切り離して、使われる言葉を、一つ一つ別々に理解していくのではない。形成されていく文脈のなかで、一つ一つの言葉を理解していくのである。というのも、


これは一重に文章の
並びや文の繋がりが
力を持っているからで
(ホラティウス『書簡詩』第二巻・三、鈴木一郎訳)


 窓ガラスに、何かがあたった音がした。昆虫だろうか。大きくはないが、その音のなかに、ぼくの一部があった。そして、その音が、ぼくの一部であることに気がついた。
 ぼくは、ぼく自身が、ぼくが感じうるさまざまな事物や事象そのものであることを、あらかじめそのものであったことを、またこれから遭遇するであろうすべてのものそのものであることを理解した。 


二〇〇六年六月二十四日
 朝、通勤電車(近鉄奈良線・急行電車)に乗っているときのことだ。
 新田辺駅で、特急電車の通過待ちのために、乗っている電車が停車しているという、車掌のアナウンスの最後に、
 「ふう。」という、ため息が聞こえた。
 まわりを見回しても、だれも何事もなかったかのような感じで、居眠りしていたり、本を読んだりしていた。
 驚いてまわりに気づいたひとがいないかどうか見渡しているのは、ぼくひとりだけだった。
 とても不思議な感じがした。
 ぼくは笑ったのだが、その笑い顔はすぐに凍りついた。
 だれも笑わないときに、ひとりで笑っているのは、おかしいと思ったのだろう。
 ぼくは笑えなくなって、顔の筋肉をこわばらせたのであった。


人生のあらゆる瞬間はかならずなにかを物語っている、
(ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』四・16、小林宏明訳)


人生を楽しむ秘訣は、細部に注意を払うこと。
(シオドア・スタージョン『君微笑めば』大森 望訳)           


ほんのちょっとした細部さえ、
(リチャード・マシスン『人生モンタージュ』吉田誠一訳)


   *


わたしを知らない鳥たちが川の水を曲げている。
わたしのなかに曲がった水が満ちていく。


   *


われわれはなぜ、自分で選んだ相手ではなく、稲妻に撃たれた相手を愛さなければならないのか?
(シオドア・スタージョン『たとえ世界を失っても』大森 望訳)


光はいずこから来るのか。
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第二幕・第五場、石川重俊訳)


わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ
(与謝野晶子)


The Show Must Go On。

  田中宏輔



「真実なんて、どこにあるんだろう?」と、ぼく。
「きみが求めている真実がないってことかな?」と、詩人。


でかかった言葉が、ぼくを詰まらせた。


文章を書くということは、自分自身を眺めることに等しい。


まあ、実数である有理数と無理数が、ひとつの方程式のなかにあって、それぞれ独立しているという事実には驚かされるが、あるひとつの数、たとえば、1の隣にある数がなにか、それを言ってやることなど、だれにもできやしない、ということも不気味だ。おそらくは永遠に。いや、かくじつ永遠に。しかし、もっと不気味なことがある。これは、という人物に、このようなことに思いをはせたことがないかとたずねても、首をかしげて微笑むだけで、それ以上、話をつづけさせない雰囲気にされたり、そんなことは考えたこともないと言って、ぼくの目をまじまじと見つめ返して、ぼくが目を逸らして黙らざるを得ない気持ちにさせるばかりであった。いやな思いというよりは、やはり不気味な感じがする。数字なんて、だれだって使っているものなのに。


人間はいったい何を確実に知っているといえるだろう?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』6、山田和子訳)


中学二年のときのことである。遠足の日に、まっさらな白い運動靴を履いていったのだが、クラスでも一番のお調子者であるやつが、ぼくの靴を踏みつけた。白い靴のコウの部分にくっきりと残った、靴の踏み跡。さらの靴につけられた汚れは、とても目立つし、それに、あとあといつまでも残っている。先に踏みつけられた跡は、あとから踏みつけられた跡よりもはっきりしている。しっかり残るのだ。ホラティウスのつぎのような言葉が思い出される。


出来たての壺は新しい
間に吸ったその香りを
後まで長くとどめます。
(『書簡詩』第一巻・ニ、鈴木一郎訳)


quo semel est imbuta recens,servabit odorem testa diu.
土器は、それが新しきときに一度それが滿たされたるものの香りを、長く保存するならん。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)


多くの言葉が、概念が、また、概念の素になっているもの、すなわち、まだ概念ではないが概念を形成する際に、その要素となっているもの、またさらに、そういったものどもを結びつける作用の源など、そういったものが、犇めき合い、互いに結びつこうとする。それが意識となるのは、ただひと握りのものだけ。では、そのとき、意識とならなかったものたちは、その意識にぜんぜん影響しなかっただろうか? 何らかの痕跡を残さないものなのだろうか?


言葉は同じような意味の言葉によっても、またまったく異なるような意味の言葉によっても吟味される。


私は私のことをずっと「愛するのに激しく憎むのに激しい」性格だと思っていた。しかし、それは間違っていた。「愛するに性急で、憎むのに性急な」だけだった。


当然のことながら、目は、複数のものに同時に焦点をあわせられない。意識もまた、複数のものを、同時に、しかも同じ注意力でもって捉えることはできない。すくなくとも捉えつづけることは、できやしない。


言葉は完全に理解されてはいけない。完全に理解された(と思われる)ものは、その人にとって吟味の対象とは、もはやならないというところで、その言葉は死んだも同然なのである。意味は完全に了解されると死んでしまうものなのである。それゆえ、わたしは、わたしも含めて、あらゆる人間に、わたしを理解しないでもらいたいと、ひそかに思っている。


われわれが時間や空間を所有しているのではなく、時間や空間がわれわれを所有しているのである。


わたしが過去を思い出すとき、わたしが過去を引き寄せるのか、それとも過去がわたしを引き寄せるのか。


詩人は自分をその場所に置いて、自分自身を眺めた。まるで物でも眺めるように。


ぼくたちが認め合うことができるのは、お互いの傷口だけだ。何か普通と異なっているところ、しかもどこかに隠したがっているような様子が見えるもの、そんなものにしか、僕たちの目は惹かれない。それぐらい、僕たちは疲弊しているのだ。


われわれの感情の中で、どれが本物か本物でないのか、そんなことは、誰にもわかりはしない。


だれと約束したわけでもなかった。この場所とも、この夜とも。けっして。


そのころ詩人はどうしていたのだろう。あとから聞いた話では、川に流れる水の音と、茂みの木々の間から聞こえるセミの鳴き声を使って、聴覚の指向性について実験をしていたのだという。どちらか一方に集中的に意識を振り向けることによって、耳に聞こえる音を自由に選択できたという。しかし、このことは、つぎのようなことを示唆してはいないだろうか? もしも、意識が感覚に強く作用するのだとしたら、逆に、聴覚や視覚といった感覚が、意識というものに強く影響するのではないか、と。そういえば、詩人は、こんな話をしてくれたことがある。早坂類という詩人と、はじめて詩人が東京駅で会ったときのことだ。彼女の姿が、突然見えなくなったのだという。いままで目の前にいた詩人の姿が、ふっと消えたのだという。しばらくあたりを見回して、彼女の姿を探していると、彼女の手が、詩人の肩をポンとたたいたのだという。「どうしたんですか?」という声に、ハッとしたのだという。詩人は、彼女のことを才能のある書き手だと思っていたのだが、才能ではなくて、感覚的なものが、感受性というものが、あまりに自分に似すぎていることに気がついて、気持ち悪くなったのだという。彼女の姿が見えなくなったのは、気持ちの方の反応が、感覚に強く反応したためであろう。詩人には、ときどき、ひとの声が聞こえないことがある。ぼくが話しかけても、返事が返ってこないことが何度もあった。すぐそばで話しかけたのだけれど。


あるものがすぐれているのが、他のあるものに支えられてのことであるのなら、その支えてくれている他のあるものをなおざりにしてはいけない。


だれのためにもならない愛。本人のためにさえ。


「なぜ、人間はヒキガエルになるのか?」と、普遍的な問題に対して、卑近な例を出して考える癖が、その青年にはある。ところで、なぜ、他の多くの青年は、「人間は」ではなく、「ある人間は」なのか。しかしながら、ときには、その青年も、大きな枠で構えたつもりで、些細なことがらに捕らわれることもある。それが癖によるものかどうかは、まだわからない。しかし、それには、欠点もあるが、利点もある。「なぜ、人間はヒキガエルになるのか?」、「ある人間は」ではなく。答えが違っている。答え方、ではなく。


「そして、ふいに陰茎を右の手で握り締めると、彼はいつはてることもない自慰に耽るのだった。」といった文が、文末にあるよりも、文頭にくるほうがいい。


言葉も、人も、苛まれ、苦しめられて、より豊かになる。まるで折れた骨が太くなるように。


彼女は、その手紙を書いたあと、投函するために外に出た。(これは、あくまでも文末の印象の効果のために、あとで付け加えられたものである。削除してもよい。)ポストのあるところまで、すこし距離があったので、彼女は顔の化粧を整えた。彼女は、その手紙に似ていなかった。彼女は、その手紙の文字にぜんぜん似ていなかった。その手紙に書かれたいかなる文字にも似ていなかった。点や丸といったものにも、数字にも、彼女がその手紙に書いたいかなるものにも、彼女は似ていなかった。しかし、似ていないことにかけては、ポストも負けていなかった。ポストは、彼女に似ていなかった。彼女に似ていないばかりではなく、彼女の妹にも似ていなかった。しかも、四日前に死んだ彼女の祖母にも似ていなかったし、いま彼女に追いつこうとして、スカートも履かずに玄関を走り出てきた、彼女の母親にも、まったく似ていなかった。もしかしたら、スカートを履くのを忘れてなければ、少しは似ていたのかもしれないのだが、それはだれにもわからないことだった。彼女の母親は、けっしてスカートを履かない植木鉢だったからである。植木鉢は、元来スカートを履かないものだからである。母親の剥き出しの下半身が、ポストのボディに色を添えた。彼女はポストから手を出すと、家に戻るために、外に出た。


ミツバチは、最初に集めた蜜ばかり集めるらしい。異なる花から蜜を集めることはしないという。


ノサックの『ルキウス・エウリヌスの遺書』のなかに、「裏切りに基づく生は生とはいえない。」(圓子修平訳)といった言葉があるが、リルケの『東洋風のきぬぎぬの歌』には、「私たちの魂は裏切りによって生きている。」(高安国世訳)という言葉がある。どちらの言葉も、ぼくには、しっくりとくる、よくわかる言葉だ。ふたりの言葉の間に、なにも矛盾はない。われわれは、「生とはいえない生」を生きているのだ。生かされているといってもよい。


あなたは削除されています。この世界には存在しません。


オセロウはイアーゴウがいなくてもデズデモウナを疑ったのではないか? さまざまな冒険が、その体験が、オセロウをして想像豊かな、極めて想像豊かな人間にしたはずである。「ハンカチの笑劇」。想像はたやすく妄想に変わる。


時間をかけて結晶化させると、不純物を取り込む割合が低くなる。わたしの思考もまた、そうであるように思われる。『みんな、きみのことが好きだった。』の最初の方に収められた「先駆形」シリーズは、これを逆手にとったものである。すばやく結晶化させると、不純物が多く混じるようになる。不純物を混入させると、たやすく結晶化する。しかし、そもそものところ、思考における不純物とは、いったい何であろうか。その不純物の重要な役割についての考察は、一考どころか、二考、三考にも価する。


詩人がほんとうに死んだのか確かめるために、霊魂図書館に行く。


ひとつの石が森となる。石は樹となり、獣となり、風となり、波となり、音となり、光となり、昼となり、夜となり、じつにさまざまなものになり、感情となり、知性となり、エトセトラ、エトセトラ。


自分の遺伝子を組み込んだ食べ物の話。カニバリズムについて述べる。聖書や伝説や寓話や史実。通貨制度の代わりに、遺伝情報を売り買いする社会。自分の遺伝子を組み込んだものがいちばんうまいと述懐する主人公。社会自体も自分自身を食べる社会になっている。人々は自分の遺伝情報を組み込んだ植物を、牛や馬や豚や魚などの動物の肉を食べ物にし、庭に埋めて花や木として観賞し、さまざまな生き物に組み込んでペットにし、エトセトラ、エトセトラ。


言葉が言葉にひきつけられるのは、たとえば、物体が質量によって他の物体に引きつけられたり、電荷によって引きつけられたり、磁力によって引きつけられたりするように、複数の要因があるのではないか? 文脈の公的な履歴と、一個人の私的な履歴。


巣に戻った鳥が、水辺の景色を思い出す。


わたしはもう変化しないのだろうか?


自然死のない社会。人々はさまざまな自殺方法を試みる。そのさまが、他人の目を惹きつける。さまざまなメディアで、珍しい自殺の方法が紹介される。旧約聖書にあるサムソンの例を出す。仏陀やキリストの最期が自殺ではないかと、主人公の青年が考える。キケロなどの偉人たちの自殺や自殺としか見えない殉教者たちの死に様について短く述べる。主人公の青年は、もっとも苦痛の強い死を考える。生きたまま弱い火であぶる。まっさらな紙で切り傷をつけていく。エトセトラ、エトセトラ。たっぷりと時間をかけて。


あらゆることが人を変える。あらゆるものを人が変える。その変化から免れることはできない。その変化を免れさせることはできない。好むにもかかわらず、好まざるにもかかわらず。


田中の「共有する場の理論」について。
……それゆえ、事物を知ることが、あるいは、他者を知ることが、自己を知ることになるのである。この「共有する場の理論」は、ヴァレリーやホフマンスタールが述べている自我についての見解よりも優れたところがあるのではないか。少なくとも、その理論はより単純であり、適用範囲もはなはだ広いものである。それになによりも、破綻と思える箇所がまったく見当たらない。いまのところ、ではあるが。


「答えはいつだって簡単なほどいいものなのだ。」
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)


愛によって形成されたものは、愛がなくなれば、なくなってしまうものだ。
なにがしかの痕跡を残しはするのだろうけれど。


そう言うと、彼は自分の言葉の後ろに隠れた。隠れたつもりになった。


神さまが遅れてやってきた。神さまは腕時計に目をやると、ぼくにあやまった。ぼくは、神さまに、どうってことないよと言った。神さまはニコリと笑うと、ぼくの腕をとって歩き出した。街の景色が、いつもより目に美しく見えた。まるで映画のようだった。突然、神さまは歩みを止め、ぼくを突き飛ばした。まるで、ぼくの身体を狙って走ってきたような、減速もせずにカーブを曲がろうとした乗用車の前に。


ゼロベクトルの定義。テキストによって、つぎの三つに分かれる。向きは任意。向きは考えない。向きを持たない。大きさがゼロであることでは、どれもみな一致しているのだが、向きについては、テキストそれぞれで、著者によって、ゼロベクトルの捉え方が異なることがわかる。任意とするのが、もっとも妥当であると思われる。


まるで覚悟を決めた人身御供のように、わたしは、その場に身を沈めたのであった。


ああ、またしても、ぼくのパンツの中は、ヒキガエルでいっぱいだ。しかも、「死んだひきがえるだ。」(ガッダ『アダルジーザ』アダルジーザ、千種堅訳)彼はボスコで待っていた。


死んだあと、どうするか。動かさなくてはならない。ひとりひとり別の力で。ひとりひとり別の方法で。人間以外のもろもろのものも、動かさなくてはならない。ひとつひとつ別の力で。ひとつひとつ別の方法で。いっしょにではなく、ひとつひとつ別々に。とりわけ両親の死体が問題である。死んだあとも、動かさなくてはならない。そいつは、何度も死んで、すっかり重くなった死体だが。


そのような愛に、だれが耐えることができようか。ひとかけらの欺瞞もなしに。


「同類の人に会うといつも慰められます」
(エリカ・ジョング『あなた自身の生を救うには』柳瀬尚紀訳)


ぼくは彼を楽しんだ。彼もまた憐れむべき人間だった。


人間はなぜ快楽を求めるのだろう? それ自体が快楽だからだ。この場合、目的と手段が一致している。


言葉を耳にしたり、目にしたりして感じることは、たとえば、焼肉を目のまえにして感じることに近いかもしれない。匂い、見た目、音、記憶との連関、エトセトラ、エトセトラ。言葉の意味がもたらすもの。言葉に意味をもたらせるもの。


丸まって眠っている夢を見た。地中に埋められた死体のように。たくさんの死体が、ぼくの死体と平行に眠っている。ぼくの頭のどこかが、それらの死体と同調しているような気がした。夢ではなかったかもしれない。眠る前に目をつむって考えていたことかもしれない。友だちから電話があった。話をしている間に、友だちもいっしょに土の中にずぶずぶと沈んでいくような気がした。横になって電話をしていたからかもしれない。友達の部屋は5階だから、ぼくよりたくさん沈まなければならなかった。


彼は、わたしを愛していると言った。わたしはうれしかった。どんなにひどい裏切られ方をするかと、思いをめぐらせて。


木の葉が風に吹き寄せられる。風がとまる。木の葉が重なり合っている。風を自我に、木の葉を概念に置き換えてみる。風によって木の葉が吹き寄せられるが、木の葉の形と数によって、風の吹き方も影響されるのではないか。すくなくとも、木の葉をめぐる風、木の葉のすぐそばの風は。風車は風によって動く。風車の運動によって、新たな風が起こる。わたしは、わたしの手のひらの上で、一枚の木の葉が、葉軸を独楽の芯のようにしてクルクル回っているのを見つめている。そのうち、こころの目の見るものが変わる。一枚の木の葉の上で、わたしの手のひらが、クルクルと回っている。


彼のぬくもりが、まだそのベンチの上に残っているかもしれない。
彼がそこに坐っていたのは、もう何年も前のことだけれど。


すべての芸術が音楽にあこがれると言ったのは、だれだったろうか? たしかに、音楽には、他の芸術が持たない、純粋性や透明性といったものがある。しかし、ただひとつ、わたしが音楽について不満なのは、音楽は反省的ではないということだ。じっさい、どんなにすばらしい音楽でも、ぜんぜん反省的ではない。他の芸術には、わたしたちに、わたしたちの内面を見るように仕向ける作用がある。しかし、それにしても、音楽というものは、それがどんなにすぐれたものであっても、ちっとも反省させてくれないものである。


見蕩れるほどに美しい曲線を描く玉葱と、オレンジ色のまばゆい光沢のすばらしいサーモンを買っていく、見事な牛。


あなたがこの世界から削除されていることを知るのは、いったい、どういう気分がしますか?


考える対象ではなく、考え方に問題がある。愛する対象ではなく、愛し方そのものに問題があるのだ。


文字を読むと、そのとき魂のなかで何かが形成されるということ。
文字にもなく、魂のなかにもなかったものが。ん?
ほんとうに?


埃や塵を核として水蒸気が凝集して水滴となるように、つまらないことどもが、つぎつぎと話の中心となって口をついて出てくる。「まるで唾となって吐き出されるって感じですけど。」とは、青年の返答。


薬によって頻繁に精神融合したために、青年は自分が詩人が考えるように考えているのではないかと思う。詩人が言っていた概念形成の話を思い出す。薬の効果について考える。薬の記憶に対する効果について考える。副作用について考える。副作用については、個人差が激しく、いったいどんな副作用があるのか、予測することができなかった。青年は、自分が変わってしまったことに気づく。


詩人が、青年のことを、もうひとりのわたしと呼んでいたことを述懐する。


「生のわれ甕は作り直せるが、燒いたのはだめ。」
(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)


青年は、詩人と出会って、自分が大きく変わったことに思いをはせ、これからは、これからの自分は、変わる可能性が少ないかもしれない、と思った。そう考えることは、青年を不安にしたが、自分が変わる可能性が低いと思うとなぜ不安になるのかは、青年にはよくわからなかった。


愛だけが示すことのできる何か。作用し変形をもたらすことのできるもの、エトセトラ、エトセトラ。


あれは確かに死んでしまった。
(シェイクスピア『あらし』第二幕・第一場、福田恒存訳)


あるものを愛するとき、それが人であっても、物であってもいいのだが、いったい、わたしのなにが、どの部分が、それを愛するというのだろうか?


どんな言葉が、どのようなものをもたらすか、そんなことは、だれにもわからない。


すぐに働く力もあるが、そうでない力もある。そうでない力の中には、ある限界を超えると、とたんに働きはじめるものもある。ロゴスという言葉を「形成力」という意味に解すると、このように時間がたってから、後から働く力について、多分に有益な考察ができるような気がする。


風が埃を巻き上げながら、わたしの足元に吹き寄せる。埃は汗を吸って、わたしの腕や足にべったりとまとわりつく。手でぬぐうと、油じみた黒いしみとなる。まるで黒いインクでなでつけたみたいだ。言葉も埃のように、わたしに吹き寄せてくる。言葉は、わたしの自我を吸って、わたしの精神にぴったりと貼りつく。わたしはそれを指先でこねくり回す。油じみた黒いしみ。


彼は、ぼくのことを、なにかつまらない物でも捨てるかのように捨てた。捨てても惜しくないおもちゃか何かのように。でも、ぼくはおもちゃじゃなかった。それとも、おもちゃだったんだろうか?


詩人がなぜ過去の偉大な、詩人にとって偉大であると思われる詩人や作家に云々しているのかいぶかしむ人がいるが、そんなことは当たり前で、卑小な人間に学べることは卑小な人間について学べることだけだからである。偉大な人間の魂の中には、卑小な人間の魂も存在しているからである。


裏切りによってのみ、彼は彼自身となる。それが彼の本性だったからだ。人間を人間たらしめるもの、その人をその人たらしめるもの、いわゆる、特質とか特性とかいわれるものであるが、そういったものは、いったい何によって明らかにされるのだろうか?


ふと思いつくこと。忘れていたことが突然思い出されること。赤ん坊が六ヶ月を過ぎたころに言葉を口にすること。これらはすべて、概念が結びつくことが意識の原初であり、意識が概念を結びつける以前に、結びついた概念が意識を形成することを示唆している。ヴァレリーが自我というものを、意識のコアとしてではなく、概念のバインダーとして捉えていたが、まさしく、語そのものに結びつこうとする性向があると考えた方が妥当であると思われる。ロゴスという言葉を、言葉という意味ではなく、形成力という意味に使っていたギリシア人たちの直観力には驚かされる。語は、それ自体、意味を持つものではあるが、同時にまた他の語に意味をもたらせるものでもある。双方向的に影響し合っているのである。鷲田清一の『ひとはなぜ服を着るか』に、「本質的に顔は関係のなかにあるのであって、けっしてそれだけで自足している存在ではない」とあるが、「顔」を「語」あるいは、「人間」として読み替えることができる。


ミツバチが持ち帰る蜜。ミツバチが作る蜜蝋でできた蜂の巣。自我と概念。自我と言葉。


どのような記憶も変化してしまうものだが、この記憶だけは、この記憶こそは、あまたある記憶のなかで、唯一絶対に変わらないでいて欲しいと彼が願った、ただひとつの記憶だった。


遠いところにあるものが、ある場所では、たいへん近くにある。ひとつのものが、同時にたくさんの場所に存在しており、たくさんの場所が、同時にただひとつのものを占有している。


現実によって翻弄される人間。撓め歪められた人間存在。フィリップ・K・ディック。さまざまなレヴェルの現実が、彼を苦しめた。だが、彼も現実に一矢を報いたかもしれない。彼が現実を撓め歪めたとも考えられるからである。カフカ。彼もまた、現実に手を加えた人物である。現実を創り出していく者たち。


愛が、それらの事物や事象に、存在することを許している。愛によって、それらの事物や事象は存在している。つまり、愛が、それらの事物や事象に、存在を付与しているのである。


予知とか予感とかいったものは、ただ単に、さまざまな事柄が繋がり合っているのを感じ取るだけである。時間の隔たりや距離のあるなしには、関係などないからである。意識が現在という時間に、いまそこにいるという場所に縛り付けられてはいないからである。潜在意識も同様である。時間的な隔たりも、空間的な距たりも、概念が結びつく際には、無関係なのである。意味概念の隔たりを類似性と取ることもできるが、そうすると、余計に、概念が結びつく際には、隔たりなど関係ないことがわかる。類似していたって、類似していなくったって、結びつくのだから。類似していてもしていなくても結びつくというのは、プラトンの言葉にあったような気がするけど、まあ、ここで、プラトンの言葉をあえてぼくの言葉に結びつけなくってもいいだろう。


光は闇と交わりを持たない。光は光とのみ交わりを持つ。


われわれが言語を解放することは、言語がわれわれを解放することに等しい。


言語が結びつくことが意識となる。幼児の気分が変わりやすいのは、結びつく言語がそのまま思考となることの証左ではないだろうか? 癖になるには、それが癖になるまで繰り返される必要がある。人には思考傾向とでも呼べるものがあるが、それはそう思考するに至るまで何度も頻繁にそう思考したためではないだろうか? 概念の受容頻度とでもいうものが、思考傾向に大きく関与していると思われる。概念の受容頻度。


彼の内部から暗闇が染み出してきた。彼はすっかり夜となって現われた。


愛とは動詞である。


彼は自分がやめたくなったらやめるのだ。たとえどんなに熱心に激しくしていた愛撫でも。


死に意味があるとしたら、それは生に意味があるときだけだ。


死によって、その生に意味が与えられることもある。


目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手に触れることのできるもの、こころに感じられるもの、頭で考えられるもの、そういったものだけで世界ができているとしたら、それはとても貧しいものなのではないか? もしもそうなら、世界はいまあるものとまったく異なるもの、貧しいものとなるに違いない。じっさいは豊かである。思考できる対象しか存在しているわけではないということ、言葉にできないものがあるということ。そういったものがあるということが、わたしたちの思考を豊かにしているのではないだろうか? 思考できるもの、言葉にできるものだけしか、私たちの魂のなかには存在していないとしたら、とても貧しい思考しか存在しないはずである。しかし、わたしたちは知っている。いくらでも豊かな思考が存在していることを。


こんなに醜い、こんなに愚かな行為から、こんなに惨めな気持ちから、わたしは、愛がどんなに尊いものであるか、どれほど得がたいものであるのかを知るのであった。なぜ、わたしは、もっとも遠いものから、もっとも離れたところからしか近づくことができないのだろうか?


さくら

  游凪

首筋にできた金魚の尾びれが
春の風をたたいて赤い筋をつくる
まだ見上げる人のいない樹に
絡みついて染み込んでいく

「春のいぶきですよ、
狂わされて、ほころび、こぼれて、
始まりのあいず、あいす色のはじまり、

色づきだした景色の中で
伸びていく影は薄くなっている
野良だった犬はすっかり柔らかくなり
薄汚れた毛布の上で目を細めている

薄茶色の毛がまっている陽だまりで
父の眠る椅子は固く冷えたままでいる
未だ溶けない残雪の奥底で
あの朝の日の記憶はとうに行方知れず

ひたひたと赤い尾びれが首筋を打つ
虚血だった脳内に血がめぐる
光がすぐそこまできていたのに
耳元までにじり寄ってささやいた

「春のめぶきですよ、
戻されて、すくい、またこぼれて、
膨らみ出した、あなたの、

あたたかな下腹部に手をやる
宿らない空洞に水がはり
いつの間にか潜った尾びれが跳ねた
まだ見えない蕾が揺れている


(無題)

  Migikata

鳩の羽根が落ちて、蜘蛛の巣に引っかかっている。
主のない蜘蛛の巣の残骸に、羽根が一枚引っかかったまま、秋の風に吹かれていたのだった。
微風である。
秋の風を俳句の季語で金風という。つまり、羽根が金風に吹かれて微かに動いていたということだ。

通りの向かい側の中学校の校舎。同じ風に、四階の教室の窓から外へはみ出したカーテンも、吹かれていた。

こちらは遮るもののない風に煽られ、高く盛大に吹かれている。
さて鳩の羽根は銀行のビルと雑居ビルとの間、その地上に極近い位置にあったのだが。
吹かれて細かな揺れを繰り返していた。
羽根自体が生きているように見えもする。とはいえ、生きているものが目的を持ってする動きとそれは異なる。

わずかな違和感が生と死を分かっている。この羽根を落とした鳩の本体に思いを巡らせれば、ここにない羽音も聞こえる。

羽根を落としていった鳩はまだ生きているのか。どうなのか。
彼の肉体を今、この時に動かしているのは、
(1)有機的に統一された部位の連関によるもの
(2)天文地文に働く巨大な物理現象の一端に連なるもの
このどちらだろうか
そんな疑問そのものとなった僕が、空中を浮遊する様子が見えている。

現在から既に少し過去にずれ込んでしまった僕の疑問が、実際の僕よりも僕らしい体をまとって街路をさまよっているようなのだ。

勿論それは妄想に類するものであるが、人から切れて離れた妄想は、人に吹き付けるあらゆる風から逃れ得ている。


潤い

  本田憲嵩

メーターが振り切れそうになる
一秒当たりの時間の価値だけが赤く高騰してゆく
それはたとえ休日とて例外ではない

はずなのに
具体的に何をしてよいのかさっぱり分からない
いつもの休日

夕方に近い
昼下がりになって
ようやくウォーキングがてら徒歩で外出する
歩道沿いの
石垣のある民家の庭から
撒かれるホースの水

それが服に少しかかる
花と樹木のためにも
さして気にしないようにして
乾いた歩道を再び歩きだす

(生活には潤いが必要
(でなければ心が乾いて枯れてしまう
(そして、栄養も

別の民家の庭では
家族が賑やかにバーベキューをしている
その赤い肉の焼けてゆく匂い

すき屋に行った
牛丼屋で頼んだのは茶色い肉類ではなく
赤いマグロのユッケ丼
独特の甘じょっぱいタレが効いていて
とても美味しい
そこへさらに醤油をかける
とても濃くて美味しい

身体と心が欲しているのか
「生きている」、
という確かな証を

生卵を土星のようにのせてから
ぐちゃぐちゃにかき混ぜる
そこへさらにもう一度醤油をかける

コップの水をがぶがぶと飲み干した
その間
時間にしてわずか十五分足らず
店を後にする

爛れるような夕焼け
のどが渇く


消費

  Mizunotani

頸が、痛むので、雨傘を持って、うつくしい炎のひとしずくをうけとめる。誰もことばにすることのできない、空の、ある一点から、老いた星が、上昇するのを。かわいた、うすいすねをさすり、骨粗鬆症に、くるしむ、祖母の、ような。点は、毎年、ひろがりを孕んでいる。

うれしさやよろこびが、青空をひきさいていく。
ともだちに追われる、こどもの声。そして追われ、脅かされながら、こどもを作る、わたしたちの声。

街が赤土に覆われて、ひとびとの影が、極端にみじかくなって、葉緑素を保有する植物が、もう二種、三種ほどをのこして、滅びさってしまったころ、それでもまだ、今年も、風鈴が、あざやかに揺れている。

ふぜいを愛するひと。ばかだねえ。その手のひらの皮が、何度めくれてはがれおちても、また、はりめぐらされるような。

その、開かれた国語辞典の、『は』、“梅雨”という項、あるいは、『つ』だけれども、気のふれた、神経痛みたいな、季節風に、はこばれて、海面すれすれを、ひろい大洋のうねりにのまれたり、それでまた、おおきな入道雲へと、羽化してみたり。
雨雲の、中心。核と呼ぶべき部分には、文字が埋め込まれている。いつも。
凍りついた、そいつが、解けて、ほんとうは、わたしたちが、摂取し、体内へと流し込むことで、生き永らえてきたのだけど。

なぎ倒された、電信柱の、切り株の、手ざわりを、思い起こす。電気信号によって調律されるべき、鍵盤が、狂おしい金切り声をあげて、音を曲げる。この地に、偶然の雨が、降らなくなってどれくらい?

ぼくは雨を祈る
あなたは雨を祈る
乾きひび割れた表皮にひとしずく
手のひらに乗るような、小さな炎が、ゆるゆると降り注ぐ都会のど真ん中で。
飽いた熱の、かわりに
ひとびとは雨を祈る

おばあちゃん、と呼んでみたら、骨の透けてみえる、広い海を泳いでいて、そこではすべて潤っていて、浮かんでも、沈んでも、果てがないから、ひろがっていくことしか、わたしたちには、のこされておらず、そういえばわたしたちの、中心部にも、核にも、文字が据えつけられていた、ような記憶があって、水のなかで、ずっとちらちらと瞬く、放射線みたいな、熱くない炎を、なにも、ここまできて、握りしめていなくたって、いいのじゃないか、という気になったので、ぬるい水をひっかくために、手指をぜんぶ、のばし、た。

たおれた電信柱。
むき出しの赤土。
砕かれ砂になった窓。
再びひきさかれた縫い痕だらけの空。
今年も割られずに揺れる風鈴。
おばあちゃんと呼んだ声がそこかしこに散らばっている。
さぼてんが花をつけている。
酸素が燃えつきればここは宇宙空間とかわらず。
うつくしい炎が今もまだ焦土にてくすぶっている。
海は、その大半が涸れ、
わたしたちの身の丈をあまさず抱くことは、
できなくなって、
ひきさかれた空の向こうへと、
もう一度、上昇していく、
老いた星々が、
仄暗い、闇に吸い込まれるようにして、
あらゆる音が、今は、もうない。


野いばらの丘

  田中修子

殺したい殺されたいという
おそろしいおもいは
愛したい愛されたいという
かたちの
最果て

ああ
また

あのひ わたしが 茨に裂かれて死ねば
すてきなちいさなおとむらい
女王は泣きくずれ 王は威厳をたもつ
それから海の見えるすてきなレストランへいき
数日後には談笑している
ここはおそろしく不思議な魔女の国
燃え上がるからだ
ひつぎのなか、王子様の接吻はまだ

王はいま
枝葉を切り落としなんとか枯れずに
育ったわたしを家に
うやうやしく飾ろうとし

くらい、おそろしい森に
落としてしまった
祖母の
真珠のネックレスだけが
パンのように白く光る
わたしにかえり道と
ゆく道を
一粒を口に入れれば
ああ、これはわたしに殺された
祖母の肉の味だ
涙のようにほとばしる血で飲み下そう

海に身を投げ風の精霊になった
人魚姫たちに背をおされ
ツバメの死体と共にある
王子たちの心臓がわたしに脈打つ

すべてわが、顔も知らぬ
姉よ妹よ
兄よ弟よ

果てのさきを歩もうか
いまここは野いばらの丘だ


  渚鳥

1.
君の飼っていた蟹が
雨の日に
私を黒い水溜まりでさばくと言う
それまでにAmazonで新しい接着剤を買う


2.
雨が降りすぎたらそれもしかたない
──所詮は進化した猿でしかない

といって
大きな羽を一枚置いて青空は旅立った

私は旅の話を書き留めながら
体から夕陽の色が溢れているのを見て
ナスの苗を植えた


終末

  本田憲嵩

     ※

死の匂う、音を聞く。だいぶ疲れているのだろうか。考える人のようにソファーに座
り込んで、夕方に近い、昼下がりのつよい陽射しに少しうつむく。それは沈んでる、
僕の罪悪そのもの。不意に、朽ちた老木が倒れ込む寸前のような、あるいはそれは、
一家の没落への道に吹き付ける、ひとひらの風として、そのまま直結しているかのよ
うな、父の深いため息。

     ※

(この古ぼけた駅はまるでオレそのものだ。かつてこの市(まち)の炭鉱から採れた
石炭は、もはやとっくの昔に時代遅れのものとなり、それさえも底を尽きてしまっ
た。目の前にひろがる北の大通りの店さきどもは、生ぐさい潮風で錆びついたシャッ
ターを常に降ろしてしまっている。オレは半ばゴーストタウンとなった市(まち)の
駅そのものだ。視えもしないものを描きたがった結果がついにこれなのだ。オレはか
つての昭和の栄光をとどめたまま朽ちて風化した残骸だ。そしてもはやそれ以下の存
在だ。なぜならば本当はそんな栄光すらも何ひとつとして有りなどはしないのだか
ら。ただただ日に日に老いて朽ち果ててゆくばかり。あの幣舞の橋から見える、あか
い夕映えは世界でも三番目ぐらいの美しさだ。オレはもはや――)。

     ※

この夕暮れ時に、ひとときの、安堵とさびしさ、とのあいだで、時のながれを 遡
る、瞳の中を 泳ぐ、俎板のうえ かなしい、小魚たち、台所に立つ 萎んだ、母の
背中、そのように、拙く、頼りない 水道水は、かぼそく、揺らめいて、ガスコンロ
の火、さえも、寂しげに、揺らめいて。 小さな、四角い、窓からは、まだ、葉をつけ
ていない、冬の裸の老木、木は、たとえ倒れても、春 に、なれば、また、葉を、茂
らせることが、できるのだと、また 生きてゆくことが、できる のだと。あるい
は、西の窓 から滲む、紅のまぶしさと、温かさ、そのように、包みこむ ことが、
もしも もしも、できる のなら、
このような、やさしい、夕暮れ 時に、
もしも できる、のなら、

     ※

週末、太陽とともに、最後の炎を夕空に燃やしている、夕刻を告げる、モノラルのス
ピーカーの懐かしいフレーズ、祇園精舎の鐘の音のような近所のお寺の鐘の音、そし
て電線に集結しているカラスたちの焔のようにけたたましく赤い鳴き声、それらの音
が一斉にあべこべに混ざり合う。不協和音で構成されたきわめて短いひとつの曲を奏
でる。西窓から射し込んでくる赤い光に照らされている、子供のように老いた母、老
木のように老いた父、そして老いの戸口に立たされた僕、三人で丸いちゃぶ台で食卓
を囲む。「いただきます」まるで世界の終末の最後の光景、そのもののように。(西
窓から外界は、落ちてきた太陽によって、真っ赤に燃えている、燃えている、)。


二月からのこと

  山人


平易な朝と言えばいいのだろうか
ひさびさに雪除け作業もなく道路は凍っている
稜線には水色の空がのぞいている

声を枯らし、鬱陶しい汗が肌着を濡らし
昨日の日雇いはきつかった
だだをこねていた中国人の子供が
にこやかに礼を言ってくれたのが唯一の救いだった

気持ちはいつも
揺らいでは落ち、昇り、また降下していく中で
私は今日、遠出のための準備を終えた

遠方まで出向き、私は私の存在意義のために動こうとしている
この先どんなふうに未来は動くのだろう
豊穣の未来のために
私は利口な農夫になれるのだろうか

新しい種を求めて
私は遠出する



まだ夜も明けない朝
また目覚めてしまった
玄関をあけ、階段を降りる
道路には闇にたたずんだ外灯がある
何かが舞っている
羽虫のような生き物
排尿をしながらそれを眺めていると
細かい雪だった
外灯の後ろ側には月があるのに
闇はしずかに
月光とともにそこにあった

裸に冷やされた仕事場の戸を開け
電灯をともし ヒーターを点ける
マグカップに白湯を注ぐ
数回 息を吹きかけて
口の中に湯を回す
無味な湯が口中をころがり
私の芯へと落下していく

もうすぐ夜が明けるだろう
失われた時間が次第に元に戻ってくる
でもまだ三月だ



闇の西の空に赤みがかった月が浮いている
未だ目覚めない命の群落は音を立てていない
傍に立つ電柱の静けさとともに
小池にそそぐ水の音が耳から浸透してゆく

夜半に目覚め再び眠りに落ちて
めずらしく夜が明けてから外に出た
やわらかい空気が皮膚に触れる
包まれていると感じる
あらゆるものに理不尽さを感じながらも
四月に抱かれるように
すこしだけ腑に落ちる

新しい物語のために四月はおとずれ
感傷は三月に見送る
夢はまだ終わったわけではないよと
君に言いたい気がする



物語のはじまりにも慣れ
風の速さも感じられるころ
あかるみを帯びた月がはじまる
大きく風を飲み込む鯉が
初夏の結実を促すように泳いでいる

命の蓋がひらかれる
スイッチを入れられた生き物たちはうごめきまわり
生をむさぼっている

五月は裸の王様だ
どんな生き物も性器を陳列し
淫靡な香りと誘惑の痴態を広げている

農民は田へ田へと
呪文のようにリピートし
土のにおいにおぼれている

車は疾走し続ける
五月の空気は錬金術師
後方のナンバーには
「五月」と記されているかのように



六月の雨音が聞こえる
今は空のうえで
六月の雨が育ち
きっともう
豊かに実りはじめているのだろう

誰もが六月の雨を待っている
やさしく皮膚に染み入り、
あらゆるものを平坦に均し
雨は果実のように地面に注ぐ

やさしさや安らぎは
雨から生まれ
やがて血液の中に混じり込んで
やわらかなあきらめともに
人ができてゆく



七月の
少しむっとした空間があった
上空ではまだ
とぐろを巻いた怪物が
大きく交尾をしているという

集落のはずれは
言葉を使い果たした老人のようで
かすかに草は揺れ
どことなく
小さな虫が飛翔していた

他愛もない会話の中で
使い古しの愛想笑いを演じ
私は居場所のない場所に居たのだった

なにもかもが濁っていた
七月の
まだ梅雨空の上空は
肥大した内臓のようで
大きく膨らんでいた

さび止めをし忘れた
私のねじが
コロコロと
助手席に上に
転がっている



深い霧がうっすらと見える
まだ明けきれない朝
ニイニイゼミの海が広がり
その上をヒグラシがカナカナカナ、と
万遍なく怠惰が体を支配し
私はその中をぷかりぷかりと泳いでいる

上空には巨大なウミウが舞い
血だるまの現実がホバリングしているが
私の心は心細いマッチ棒のようで
ぶすりぶすりと煙い火をかすかに灯している

私は
またこのように道を失い
いつ来るともしれない
風を待っている

八月はまたやってくる
夏の痛々しく残酷な暑さは
あらゆるものを溶かし崩してゆく

釈然とするものが何一つない真夏の炎
それはすべてを燃え上がらせ
骨も髄も溶かし
念じたものをも溶かしてゆく



あらゆる裸を晒し続けた真夏だった
饒舌にまくしたてる命の渦
夏はすべてをあらわにし
やがて鎮火した

隔絶された山岳の一角で
口も利かず
私は一人で作業をしていた
何も無いその佇まいの中で
私は何と戦っていたのだろう
でも確かに戦っていたのだった

少なくとも日没は一時間は早まった
夕暮れ近い山道を登り返す時
うすい靄がオレンジ色に差している

ホシガラスが滑空し叫ぶ
断崖を蹴るように降下し
再び上昇した
いくつか濁った声を出し
私の上を飛んだ

額に灯火されたランプのもとには
蛾や羽虫が擦り寄り
光源に酔っている
ヒキガエルのこどもが
のそりと動く

わたしも彼らも
きっとどこかに帰るのだ
ねぐらへ棲み処へと

ザリッ
スパイク長靴が石とこすれあう音が
九月の夜の山道に
孤独に響いた



空が重く垂れさがっている
泣きそうな重い空気が
地面に着陸しそうになっていた
野鳥は口をつむぎ
葉は雨に怯えている
狂騒にまみれたTVの音源だけが
白々しく仕事場にひびく

悪臭を放つ越冬害虫が空を切る
その憎悪にあふれた重い羽音が
気だるく内臓に湿潤するのだ
不快な長い季節の到来を
喜々として表現している

こうして、悪は新しい産卵をし
悪の命を生み続ける
不快な空間はあらゆる場面でも
途切れることがなく存在してゆく

十月はあきらめの序曲
乾いた皮膚をわずかに流れるねばい汗
かすかな望みを打ち消す冷たい風音

風景はさらに固まり続けるだろう
思考は気温と共に鬱屈し乾いてゆく
ひとつふたつと声にならない声を発し
ねじを巻くのだ



男に足はなかった
有ったのは、たった一つの脳と心臓だけだ
脳と心臓からやがて手が生え、足が伸び
それらが男に足され、人になる
十一月の肌寒い雨の日
男はのっぺりとした顔をして歩き出す
友もなく、鉛筆の芯のような思いだけで
歩いているのだった
雨降りの山道は
一人姥捨て山への階段のようで
目的地に行こうとする
あきらめに似た感情だけだった
息が上がり心臓は早鐘を打ち続けるが
かまわず男は登り続けた
やはり、頂きには誰も居なかった
霧に浮かんだ道標と祠が男を迎えた
たしかに男は何かを捨てた
いや、捨てなければならないのだと悟った
汗まみれの帽子を脱ぎ、合掌した



首を失った生き物のように、残忍に打たれ
転がっているのは私だった
十一月の刃物が寒さとともに研がれ、この加齢した首を削いだ
十二月、私の頭上にあるのは妄想という球体
腐れかけた妄想がその中に入り込み、浮かんでいる

失われてゆく季節、失われた私
水に名が無いように、私の名も失われ
このように、丸い球体となって、殺がれた私を見ている

木は失意し、空は失速する
草は瘡蓋を置き去りにし、すべての血はうすくなる
時間は歴史となり、眼球は軽石となる

十二月は無造作に私を葬る
影を作ることも忘れた冬が
名もない私を狩る


部屋

  朝顔

私は塔に住んでいた
いろんな小人が
訪ねてきたけれども
みんな
どういうわけか
鈍色の
ひき蛙に
変身してしまう

ある時わたしは
母の娘を
部屋に招き入れた
それは私自身ではない
母が昔
美しい騎士と
身ごもったところの
はらからである

彼女はころころと笑い
豊満な乳房をして
私を太い腕で
ぎゅっと抱きしめた
塔の時計は左回りに
動き始め
壁のやもりは
こちらをじっと睨んでいる

私はいつのまにか
大声を上げて
涙を出して泣いた
彼女は満足そうに
りんごのような頬を
さらに丸くして
ワイングラスを傾けて
ぐいっと干した

気のいい
はらからが部屋に
居つくようになって
暫くして
私は塔を出て
皿洗いが特技のやもめの
王子様と
一緒に暮らし始めた

塔は
明るい燈火に
照らされ
荒野で逞しく育ったはらからと
連れ合いと
その連れ子が
平和に
末永く暮らした

私が
今ペンを取っているのは
街中の
狭い舗道に面した
朝日の入る窓に
洗濯もののなびく
平和で小さな
アパルトマンの
部屋である


  西村卯月

朝露に浸軟した薄桃色の春の名残が足下で乾
き、まばらに捲れ上がる午後。眼下を流れる
広い川の先には、小さな漁港。貧しい生活の
糧を与える小さな舟。岸に繋ぎ止める太いロ
ープが、ぎしぎしと不規則に軋む音がする。
潮が引くと現れる砂地には、貝を掘る女達。
傍では子供らが母を真似、緑色の小さなおも
ちゃのバケツに、泥を掬っては入れている。
橋の上に水色の車が停まり、若い男女が何か
声をかけた。手を振り、バケツの中身を見せ
ようとはしゃぐ子供らの後ろ。目深に被った
帽子の影から覗いた、女達の眼が暗く光る。
川底を流れるロザリオと大火。小さな食卓と
養父の不在。流れ着いたハクモクレンの花弁
は遡上して、幾重にも閉じ、次の春を守る。
固く閉じた貝に口はなく、じっと砂底の会話
に耳を澄ませている。母が手を牽く帰り道。
子供らがバケツの泥を捨てる音は、べちゃり、
と貝の中身がまな板に落ちる音に似ていた。


砂の唇

  鷹枕可

  うつくしかった庭は跡形もないわ
 あなたが足許も覚束ない、幼時のころからあった庭には

朽ちた鞦韆が炎のように揺れているだけだ
綺麗に磨かれた軍事兵器や、航空工学には飛べない青空、壜底の青い凧が、
 鈍い木々を縫う花の毒の根が
わたしの心臓を納めた塵の骨壺が
さしたる所以もなく
忘れられる、そのためにも

――死蛾の翼を鏤刻する額縁工房、その職人達へ届けられた――、
   あの手紙は本当は何所へ宛てられたものだったのか
   きっと聞いて来てくれよ、

薔薇から紙粉塵へ
死の蜜から林檎樹の棘鉤へ
旱魃に随って誂えられた水道管を繋ぎ展ばしては
幌の幽霊、その確かな時計の様に
恩寵に取り縋らせて欲しいと願う総ての血縁どもよ、
   聞こえているか
今、最後の電話線が切り離された
 都市が落ちた時、雷の花束は落ち、
  割鏡の様に
苦難に満ち満ちた糧、
      その種蒔時を蔑していた私達の醜さに愕くが善い、いつものように

   たちかえればわたしはいつもだれかのかがみで
 わたしはわたしを、まるで偶像のようにみたくない窒息に、さいなみつづけていたかもしれないし
  機械に錆びる海の脂をみとがめつづけていたかもしれない
    わかることは、わたしはわたしの分身のようには飛びつづけられないということと、
たったひとつの結像起源がわたしではなかったことを、こわばり否んだこと、
そう、
死ななければいきていけなかったから、

最後のベルが処刑時刻を劈き、時計塔を跨ぐ狂院の建築家は
書見台から見える純銅錘の磔像に隠された秘密の覗絵たる箱庭を開くことなく


いと

  

ある日、
どこかで誰かが溜め息をつき
磨りガラスを貼った梅雨空から
一本の光る糸が垂れてきた
天女が羽衣を織るのに使うような
虹色に輝く美しい糸が

人々がぼんやりと見上げる中
糸は一本、また一本と垂らされて
その先端が地面に届いた
雲間から射し込む日の光にも似た
神々しくもどこか不吉な無数の糸

ほとんどの人々は相変わらず魚の目で
空を飾る美しい糸たちを眺めていたが
突然、
生きることに疲れた背広姿の中年男が
鞄を放り出して糸にしがみつき
するすると登りはじめた

それを合図にしたかのように
いじめに悩む女子中学生が
自らの人生が外れだと悟った老人が
親から要らないと思われている幼児が
手近な糸に取りついては
まるで訓練された兵士のように
楽々と糸をよじ登っていく

周囲の人間たちはそれが自分の家族でも
止めようともせずに無言で見送っている
磨りガラスを貼った梅雨空のあちこちに
空を目指す人々がぶら下がっている

どれだけの時が過ぎただろうか
やがて最後の一人が雲の上に消えると
無数の糸は雪のように溶けて消えて
同時に空も地上も赤黒く変色し始めた
辺り一面には硫黄の臭いが立ち込めて
地上はついに中立であることを放棄した

ほら、
あちらこちらで悲鳴があがり始める
肉が裂け骨が砕ける音が聞こえる
しかしそれは今までと大差ないので
人々はいつも通り歩き続けている
そのうち自分の番になるまでは
誰一人として気付くことはないのだろう
ここが本質に相応しい場所になり
すべてが無限に続くのだということを


冷やし中華はじめましたの前で

  田中恭平





思ったら
とけてしまう
丁寧に取り扱ってください
白い皿
二つに割った記憶
笑い



降りてくるメロディー
胸のラジオから溢れ
夏に
冬の歌聞いてる
有機体、
として
はじまりのはじまり
けっつまづいてやなこった
蝗が飛ぶまで
もうかりまっか
ぼちぼちでんなぁ
草と泥の会話
夏野
夏の
のはら
ひらかれて隠されていたものが明らかになる冬の後日談
全部冗談だったんだよな
気にしなくてもいいさ
でもきみの代わりに僕が生きていてごめんね
ハミング
ラストソング
勘違いと糞の会話
夏野
夏の
野原
高らかに
僕らは
制限されていました
拘束されていました
今日も
明日も
明後日も
自分というものがなんて邪魔なんでしょう
おもひでぽろぽろ
おも


ぽろ


あったかくて冷たいものってなんだ?
さいごのなぞなぞを問いてみろ
きみが言っていたような気がした
大動脈瘤乖離

亡くなった
きみに詩を書こうと思って
ペンをとったけれど


としか
書けなかったんだ
俺も段々弱ってゆく
世界は嫌なもので溢れているから
ひとは夢をみる、

だったよね
キハツしてゆくピアノ・メロディー
きみと労働の話しなかったのが不思議だね
すべからく鬱にかかる
すべからく鬱を祓う
金箔の入った酒を飲んだね
自由ヶ丘駅前のバーの
ホームシック・ジョンはまだいるのかな?
誰に語りかける、
俺は郊外で
夏の涼しさに震えている
音楽を消して
鳥の声は俺を無視している
和のなかに入りたい
一応何かには収まって
安心な夜がくるなら嘘だ
でたらめばかりに会う
ただそんなことを愚痴ったりしない
苦笑 苦笑 苦笑
草 草 草
夏 夏 夏

中で
鉛筆を尖らす
一人
もういたずらはやめてください
もういたずらはやめてください
冷やし中華はじめました

前で
少年が大きな声でグループにそう告げていた、

一瞥し
スピリットが湧いてきて
きみのこと
思い出した

歩いたな
今日も
眠る


 


(無題)

  鞠ちゃん

人面相が肩に巣食っている
私の恐ろしい愛人よ
私は衣服の下におまえの存在を隠し
隠しきれず、身を捩り
暴れるおまえに私の血も濁り滾る
私の生き血を吸い快哉し滋養を得る
赤子のような老人のようなおまえの言葉はたどたどしく
こんなに近いのに遠くて私の耳には理解できない
呪いなのか?
水底に滅びた村の子供たちよ
遊び唄に鬼ごっこ、寄せては返す波の花いちもんめ…
木霊する呼び声の輪が重なって小さくなっていく
前世を背負った烙印、重い病よ
私は冬虫夏草ではない
おまえに羽をあげたい
私は夜のさやに寝姿を作り半ば溜息を掛布団にして
炎を背負い泥から立ち上がる不動明王の眼を思った
明日の朝の湖よ
太陽を王冠にしている湖よ
天幕の若く、青い空を写し取り
その水を薬として私たちの口に運べよ


おもいで

  いかいか

あの、
植物は、
ひとに
うたれて、
まだ
やわらかい

倫理と、
呼んだ、
花を咲かせた、
人の間に、
はいるように
神の、ような、
雨を待つ、魂だけが、
渇いていく、

私たちは
1995年3月20日に、
互いの影を殺しあった
輪廻の、洪水の、
中に混ざる、
体がゆっくり、
溶けていく、
水面下には、
透明な、小魚が、
私の、まだ、
人である、部分を、
つついては、
小さな痛みが走る、

私の小さな、
痛みも、
この、洪水にのまれて、
混ざりあった誰かの、
または、誰かであった、
もの、痛み、と、混ざり、
消えていく、
後、一歩進めば、
私の、顔は、
流れの中、
消える、
瞬間に、
昔、窓辺に置いた、
倫理と、名付けた、
植物を、思い出して、
射していた、
陽の、意味を知る、

影を殺した、
だから、もはや、影を、
必要としない、
なら、永遠に、照って、
いればいいと、
渇きが、生まれた理由も知る、

あつまんね


実質のため息を抑える事に成功しました☆ミ

  まさこ

えー、本人のアンパン志望。
依って星の子スタイルで



せやけど見世(みせ)と商いは違いまっさー。わたしバナナの向こうのトイレットぺーバーに字を書くのがトレンドで、あなたは…腹黒いデザイナー。これは、川辺は揺れてチカチカするから危ないのが恒常的なの。そんなところに住んでるおとこがどれだけ逞しいか一回心で計ってみな。かなしいの?
かなしかったら寂しい。一回会いに行ってみ。そう思うの。そう思うだけで波が輝いた。綺麗だ、とそれだけなの。
もう強く強くなってしまった、純粋がなくて
…純粋を見つけたが、滅法(めっぽう)時間がかかる。
それにしても何てしんぷるな言葉。勝ち砕けれた、振り向きぎわの乙女。と。
奥通はあなただけの感情を抱えて、私が私であることを肯定する。せやけど何に守られたんだろうか。答えなんかいらない、だから夢を見るんやけど、私たちがどうしても入らない、老人の眼は広く広い記憶や。わたしも、あの老人の中に、わたし何処にいるのかと嫌になって、もう目を閉じた。つまらなそう。助けておやりよ。と。

大人の居ない間私たちは密かに洒落という鎖かたびら「洒落乙(おつ)」を準備し、素晴らしい教科書を[発注]するんや。「我(一)テレビを囲う」このドラマは風情も完璧よ。有名デザイナーさんでもいるのかしら。等々誉めそやし賑わいを楽しむ。
ピーナッツ「軍国の以てのろさが問題だ。」
いちご「あれはやれそういう学問なんだ。だからトロくて然りだ。悲しそうな鏡面を破壊し抜擢され、もくろみ、悲しそうな鏡面を脱構するためだ。果ては木こりと木の愛壇で完璧なんだ。出てけ。」
ピーナッツ「日頃の男女関係の様子みたいだ。暗くなるか。」
キャラメル「そう、それで、」
いちご「愛壇っていう闇の死だ。」
ピーナッツ「ザンコクに宛てられた一簡のレターのことか。残る深緑ぷらちなの手筈。残酷であるあなたの白さが私をたおやかに咲かす、醜さ…!ってな」
いちご「美の全体であり、私は一輪になる。意志の無い花弁「空」」



互いに怖ろしい。怖ろしい、と顔を宮って。政ると云うに、あの様子…。女の脚が長いってことだ。おれは怒ってないんだ。それだってアイデンティティが欲しい。神国め、ワケろ。…きっとぜったいまんざらとまんざらでないとこがあるんだ。今宵の月は、「わて。」
などあなたが口にしない月さノ音頭は道徳的には悪くない、とメモリアル提出をしたのがベッピンだったんだ。これが美か、なんてね、割るよ。
今から餅をつくから三ヶ月待っておくんねーげやす!?
日はいつ?
朝露は〜朝になんね!
登呂とろ、 登呂とろだ。
ここはね、このつばのある帽子を被って誤魔化さなきゃいけないって決まってる。
「暮らすから」
愛着を持ってディスりたい。わけもなく、うたたねに。
「だんでぃずむ」
およしよ、わたしと空を重ねるのは。
ほら空だ、焦りながらうたう多くの石だ。
あっなたの〜 空に惹かれて♪
アルバムさ、じじいの可愛い豪邸だね。そんなアルバムを作って。
気不味いわっしは新キャラか。ほな。
すーひーすーひーよ浮いてるよ。
少しずつ集めてけ。みんな寝てしまった。
と。
悩んで起きてる。ちょっと夜更かし。ひひ。
火曜日。火曜日のことを思い出す仕事。…


※ワイドハイパー製品取扱い

何回かなぞっている、瓦礫に子だけ、竹である、ほそ〜いのである、ポイントは我の元気である、これは私の驚いたことなのでほろっと分けてしまう、

ほ、ほならこんでええか。ああ。
やだな、モウ。
自分か自分じゃないかの確認が出てきたらどないしよう。わて心配
自分か、自分じゃないか…
私は我が、、はい、もういい。
何でなん。星空のように消えてしまわりはった。
いきなりでかいことを言ったってあかんねん。
ずっとその言葉国語やって思ってたんや。
良い言葉を話す。それだけの為や。
憎い、彼の気持ちの根本を無理無駄なく訪ねるのに掛かる時間は三千本や。
それは何でや?
お願いや。お願いします。
カチカチカチ…
百京…!

頭を、頭を使いなさい〜


通りすぎたものは

  ゼッケン

Y染色体は少しずつ短くなって、やがてIになるらしい
一ヶ月ほど前に原因不明の高熱を発した
あなた、ずいぶん痩せたわ 
心配する妻におれは中年太りが解消されて気分がいい、と言ったが、
内心、癌を疑っていた 
精密検査を受けたかったが、休みが取れないので先延ばしになっている
出社すると郵便係がおれに封筒を渡した
宛先はおれの名前になっているが、差出人の名前はない
広げた便箋にはあと3週間ほどでおれの人生が終わる、

準備しろ

と書かれていた。おれは封筒と便箋をシュレッダーにかけた
それから一週間しないうちに体毛が薄くなり、頭髪は逆に増えた
背筋が伸び、動きも機敏になった。おれは若返り始めたのだった
病院を探してみたけど、どこも若返りは謳っても、若返りを止めるところはないのよ
妻は笑顔で言っていたが、目の下のくまは濃かった
まだ小さな子供たちは日曜日にパパが一日中遊んでくれるのを喜んだ
月曜日、とにかく大学病院におれは行った
血液検査とMRIを受けて結果は木曜日だと医者は言った
会計を待っているおれに隣の女が封筒を手渡してきた
便箋を取り出して読んだ。細かい字でこれからおれがやらなければならないことが書かれていた
もう、止められないんですか? おれは聞いた
女は、わたしもそうだった、と言った

父さん

女はおれの父だった。おれが若い頃に失踪していたのだった
I染色体なんだよ、男と女をこれから繰り返して生きていく
性が転換すると、記憶が薄れる。おれは次の人生に備えて
忘れてはならないことをすべて日記に書く必要がある
子供たちの中で誰が I を受け継いでいるかは分からない
見守る義務がある
女はそう言って立ち上がり、おれに背中を向けた
父はこれでおれへの義務を果たしたのだろう
記憶にない息子への事務的な手続きは済んだ
女はおれより若く見えた

木曜日、日記だけを持って、おれは協会が差し向けた車に乗る
家族とは離れられない、何度もそう思い、いまも思う
おれは12歳の女の子になる
すぐに忘れます、車のハンドルを握った中年の男が言った
わたしもそうでした
何度も繰り返せば、
別れは特別なことじゃないことが分かります
特別なのはときどき思い出す、

その一瞬だけ

一瞬だけの痛みです


ゆっくり動く

  甲斐聖子

知性という鼻
傲慢という口
睫毛につく癖
息を吸えば黒い虫が寄ってきて
言葉をしゃべるナマケモノの爪
ひっかかれたらあの世へ逝ける

思っていたよりもゆっくり動く

時間という筆
感覚という嘘
知性という鼻
風呂に入らない者から先に歩く
後ろへ後ろへ悪臭を流していく
全部に慣れたらあの世へ逝ける

思っていたよりもゆっくり動く
思っているよりもゆっくり進む
 

* メールアドレスは非公開


深い意味はないけれど、、、、、、、、、、。

  泥棒




ビルが崩れ落ち
山肌に
ルビが咲いたよ

僕ら
揺れながら
ゆっくり深呼吸をして
眺める

個性なんて
一瞬で流されて
みんな同じように
いつか死ぬ

この街に
深い意味なんて
きっと
ないのだろうけれども
何か残さなきゃ

強迫観念の雨
が降る夜
人を好きになるって
地獄だね

浅い川のほとりに咲くのは
優しい花ばかりではない
君が教えてくれた
あの花で
いつか見送る

真夏なのに
かじかんだ指で

説明より飛躍を選んだ女の子がいる
正しさより美しさを優先した男の子がいる
花を踏み潰したあいつらも
みんな消えたよ

見知らぬ街で
他人と他人として
すれ違い
すべて忘れたふりをして

たまに
僕のこと思い出して
笑ってくれたら
それでいい

文学極道

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