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2013年10月分

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* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


三つの奇妙な散文詩

  前田ふむふむ

洗濯物
            

白いTシャツが 十着干してある家がある
七メートルくらいの長さの二階のベランダに 物干し竿で均等の間隔をおいて
ハンガーに掛けられているのだ いかにも裕福そうな建物の家で 百坪くらい
の土地に鉄筋コンクリート造りの家だ そして和風のりっぱな門構えをしてい
る 私の家から見えるそのベランダには毎日 毎日新しく十着の白いTシャツ
が干してある 時にパタパタと風に揺れながら なぜか干してあるものが白い
Tシャツだけなのだ よくみれば決して高価そうなものではない ユニクロで
売っているようなものだ 四人家族の家であるのに十着という数も不自然だ
 全員が一着着ても余ってしまう もっと正確にいえば 男性用のTシャツで
あるのだから女性は着ないと思うし私の知るかぎり着るのは主人の父親と長男
の二人だろう なのになぜ十着干すのか 一日何度も着替えるのか 着替える
となるとちょうど五度着替えることが必要になる 実は四人家族というがほん
とうは十人の男がどこかにいて私たちの眼を盗んで住んでいるのだろうか 私
は四人家族以外には全く見たことがないのだが それから全部白いというのも
おかしい ふつうは青とか赤とかそれぞれ好みもあるだろう それにそもそも
Tシャツではなく他にも着るものがあるだろう 今は冬である セーターはど
うだろう 長袖のジャケット カーデガン ネックパーカー 分厚いジャージ
など良いではないか また洗濯物なのだから 男性用の下着とか女性用の衣類
もあってもおかしくない いやあるのが普通だ はっきりわかるのは干してい
る奥さんが着ているものだ 地味な服装だがTシャツじゃない ということは
普段の生活では家族がTシャツではない普通の服装をして生活をしていること
が想像される その服は別のところで干しているのだろうか でもあの家で別
のところで干してあるのを見たことがない 全部クリーニング屋に出している
のだろうか でもいくら考えても納得できないのは この寒い冬になぜTシャ
ツつまり半袖だけなのかということだ もしかすると奥さんは少し頭がおかし
くてあのような奇行を毎日行っているのだろうか でも私の知るかぎりいつも
気さくに挨拶をするのであり 決して不自然なところはないのである そこで
あるとき なぜ十着の白いTシャツを習慣のように毎日干すのですか と一度
聞いたことがあったが それまで穏やかだったその奥さんは豹変して まるで
罪人でもみるような怪訝な顔をして立ち去っていった そしてその時 私はと
ても寂しさを感じたのだ 世の中には不思議なことがあるがこの出来事もそれ
であるのだろうか わたしには全く理解できないが あの裕福な家ではそれが
ありふれた日常であり その奇怪な行為を行うことで 日常の平穏が維持され
ているのだろう 白いTシャツを干している奥さんの顔はとても幸せそうで 
極論をいえば毎日のその行為のために生きているようにも思えるのだ そして
その継続の純粋さにおいて奥さんの行為がとても神聖な行為のように 思えて
くるのだ きっと世の中にはこのような奇行が人知れずなされていて 実は人
間の根源的なものがわずかに表面に浸みだしただけで この世というものはこ
うした不条理なものが本質として深く沈んでいて成り立っているかもしれない
 そして世の中の秩序というものを辛うじて保っているのだろうか 
今日は典型的な冬空で雲一つなく晴れ渡っている 少し離れた家の二階のベラ
ンダに十着の白いTシャツが均等に並んで干してある


喜劇

正午を回った頃 空も地も真夏が茹だっている 窒息してしまいそうである 
巨大なビルが林立する大通りで 黒い丸帽子を被った男が 涙を流し喚きなが
らぼろぼろのリヤカーを引いている 男は汗が染み付いたワイシャツが透けて
いて 痩せこけた日焼けした肌が見えている リヤカーには一匹の犬の亡骸が
乗せてある あばら骨が剥き出しになり 内蔵が外から見えている その裂け
目から体液がこぼれて 焼けた地面に溶けている 傍らには 老婆が弱々しい
力でリヤカーに くっ付いていて 犬を撫でている 後ろから大きなフライパ
ンを鉄のバットで 叩きながら男の子と女の子が付いてくる
一団は街中を行ったり来たりしている 歩道には珍しそうだと 大勢のサラリ
ーマン風の人々が見ている 一団が信号機にさしかかると いきなり歩みを止
めた そして赤い信号機に向かって 男は喚いている 犬である子供の名を 
涙を流しながら叫んでいる
狂ったように
わが子の死を そのやり場の無いかなしみを
訴えているのだ



冬の動物園

真冬の動物園にゆくと 不思議な光景に遭遇することがある
例えば あるインド象が 真剣に雪を おいしそうに食べているのである 彼
は はたして象なのだろうか 生きている象は 熱帯のサバンナの赤い夕陽を
背に咆哮しているだろう ならば如何なる生き物なのだろうか 例えば 豹た
ちは冬の陽だまりのなかで まるで老人のように 便を垂れ流しにして恍惚と
している すでに 体内で得体の知れない液体が発酵しているのか あれでは
 中身が腐っている剥製だ 彼ら動物たちは 餌を自ら獲得する先鋭な野生は
すでに無く 弱々しい呻き声をあげて 決められた時間に病院食のように餌を
与えられる廃人のようだ それは同時に 古代の奴婢以上に厳しく管理されて
いるが 檻のなかでは 脱走以外には あらゆる自由が叶えられる選ばれた不
思議な生き物だ 子供たちは喜んで眺めているが もしかすると 彼らは幽霊
なのかもしれない 熱帯の大地で繰り広げられる たくましく燃えるような生
命の闘争 その物語を語る言葉を遥か緑の彼方へ すべて棄て去って来た幽霊
の群がショーウインドで季節はずれのドレスのように飾られているのだ だが
 夜一人でテレビを見ていると 動物の弱々しい呻き声を聞くことがある ど
こから聞こえるのか テレビのなかでは中年男が気難しそうに話しているだけ
である 彼も また多くの視聴者に見られるテレビの檻にいれられている不思
議な生き物だと感じながら テレビを消すと 黒い画面に鏡のように映るやつ
れた顔から動物の弱々しい呻き声を発していることに気付く それが自分であ
ることに気付く ある時 孤独な時間に 自分の断片をみて 自分が何者であ
るかを気付くことがあるのだ ある都会の片隅の 帰宅を急ぐひとたちのなか
で 動物の呻き声を聞いて 愕然とするひとがいるだろう だが 思考を甘受
させてくれる余裕を与えずに人間社会は 急ぎ足で進んでゆくのである そし
て すぐに忘れ去り 日常という自分の王国の時間を過ごすのである いつか
 ふたたび 一人孤独の部屋で 怪しげに去勢された動物に変身して 自分の
声に恐怖を覚えるまで 


THE GATES OF DELIRIUM。

  田中宏輔




詩によって花瓶は儀式となる。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・18、大西 憲訳)

優れた比喩は比喩であることをやめ、
(シオドア・スタージョン『きみの血を』山本光伸訳)

真実となる。
(ディラン・トマス『嘆息のなかから』松田幸雄訳)


   *


時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)

おそらく認識や知などはすべて、比較、相似に帰せられるだろう。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)


時間こそ、もっともすぐれた比喩である。



   *


さよ ふけて かど ゆく ひと の からかさ に ゆき ふる おと の さびしく も ある か
(會津八一)


飛び石のように置かれた言葉の間を、目が動く。韻律と同様に、目の動きも思考を促す。

余白の白さに撃たれた目が見るものは何だろうか? 言葉によって想起された自分の記憶だろうか。

 八一が「ひらがな」で、しかも、「単語単位」の分かち書きで短歌を書いた理由は、おそらく、右
の二つの事柄が主な目的であると思われるのだが、音声だけとると、読みにおける、そのたどたどし
さは、啄木の『ローマ字日記』のローマ字部分を読ませられているのと似ているような気がする。で
は、じっさいに、上の歌をローマ字にしてみると、どうか。

sayo fukete kado yuku hito no karakasa ni yuki furu oto no sabisiku mo aru ka

 やはり、そのたどたどしさに、ほとんど違いは見られない。しかしながら、「ひらがな」のときに
はあった映像喚起力が著しく低下している。では、なぜ低下したのだろうか。それは、わたしたちが、
幼少時に言葉をならうとき、まず「ひらがな」でならったからではないだろうか。それで、八一の「ひ
らがな」の言葉が、強い映像喚起力を持ち得たのではなかろうか。この「ひらがな」の言葉が持つ映
像喚起力というのは、幼少時の学習体験と密接に結びついているように思われる。八一の歌の、その
読みのたどたどしさもまた、その映像喚起力を増させているものと思われる。ときに、わたしたちを、
わたしたちが言葉を学習しはじめたときの、そのこころの原初風景にまでさかのぼらせるぐらいに。

たどたどしいリズムが、わたしたちのこころのなかにある、さまざまな記憶に働きかけ、わたした
ちを、わたしたち自身にぶつからせるような気がするのである。つまずいて、はじめて、そこに石が
あることに、わたしたちが気がつくように。


存在を作り出すリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)

人間ひとりひとりを永遠と偏在に参与せしめるリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)


  *


 不完全であればこそ、他から(ヽヽヽ)の影響を受けることができる──そしてこの他からの影響こ
そ、生の目的なのだ。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)

彼らは、人間ならだれでもやるように、知らぬことについて話しあった。
(アーシュラ・K・ル・グィン『ショービーズ・ストーリイ』小尾芙佐訳)

ぼくが語りそしてぼくが知らぬそのことがぼくを解放する。
(ジャック・デュパン『蘚苔類』3、多田智満子訳)


   *


 映画を見たり、本を読んだりしているときに、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感
じることがある。ときには、その映画や本にこころから共感して、自分の生の実感をより強く感じた
りすることがある。自分のじっさいの体験ではないのに、である。これは事実に反している。矛盾し
ている。しかし、この矛盾こそが、意識領域のみならず無意識領域をも含めて、わたしたちの内部に
あるさまざまな記憶を刺激し、その感覚や思考を促し、まるで自分がほんとうに体験しているかのよ
うに感じさせるほどに想像力を沸き立たせたり、生の実感をより強く感じさせるほどに強烈な感動を
与えるものとなっているのであろう。イエス・キリストの言葉が、わたしたちにすさまじい影響力を
持っているというのも、イエス・キリストによる復活やいくつもの奇跡が信じ難いことだからこそな
のではないだろうか。


 まさに理解不能な世界こそ──その不合理な周縁ばかりでなく、おそらくその中心においても──
意志が力を発揮すべき対象であり、成熟に至る力なのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


   *


物がいつ物でなくなるのだろうか?
(R・ゼラズニイ&F・セイバーヘーゲン『コイルズ』10、岡部宏之訳)

人間と結びつくと人間になる。
(川端康成『たんぽぽ』)

物質ではあるが、いつか精神に昇華するもの。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)


   *


書きつけることによって、それが現実のものとなる
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』75、佐宗鈴夫訳)

言葉ができると、言葉にともなつて、その言葉を形や話にあらはすものが、いろいろ生まれて來る
(川端康成『たんぽぽ』)

おかしいわ。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)


   *


どうしてこんなところに?
(コードウェイナー・スミス『西欧科学はすばらしい』伊藤典夫訳)

新しい石を手に入れる。
(R・A・ラファティ『つぎの岩につづく』浅倉久志訳)

それをならべかえる
(カール・ジャコビ『水槽』中村能三訳)


   *


猿(さる)の檻(おり)はどこの国でも一番人気がある。
(寺田寅彦『あひると猿』)

純粋に人間的なもの以外に滑稽(コミツク)はない
(西脇順三郎『天国の夏』)

simia,quam similis,turpissima bestia,nobis!
最も厭はしき獸なる猿はわれわれにいかに似たるぞ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』キケロの言葉)

 コロンビアの大猿は、人間を見ると、すぐさま糞をして、それを手いっぱいに握って人間に投げつ
けた。これは次のことを証明する。
一、 猿がほんとうに人間に似ていること。
二、 猿が人間を正しく判断していること。
(ヴァレリー『邪念その他』J,佐々木 明訳)

かつてあなたがたは猿であった。しかも、いまも人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上に猿である。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部・3、手塚富雄訳)


   *


 数え切れないほど数多くの人間の経験を通してより豊かになった後でさえ、言葉というものは、さ
らに数多くの人間の経験を重ねて、その意味をよりいっそう豊かなものにしていこうとするのである。
言葉の意味の、よりいっそうの深化と拡がり!


   *


 この世界の在り方の一つ一つが、一人一人の人間に対して、その人間の存在という形で現われてい
る。もしも、世界がただ一つならば、人間は、世界にただ一人しか存在していないはずである。  


   *


 だんだんわたしは選ぶことを覚え、完全なものだけをそばに置いておくようになった。珍しい貝で
なくてもいいのだが、形が完全に保存されているものを残し、それを海の島に似せて、少しずつ距離
をとって丸く並べた。なぜなら、周りに空間があってこそ、美しさは生きるのだから。出来事や対象
物、人間もまた、少し距離をとってみてはじめて意味を持つものであり、美しくあるのだから。
 一本の木は空を背景にして、はじめて意味を持つ。音楽もまた同じだ。ひとつの音は前後の静寂に
よって生かされる。
(アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈りもの』ほんの少しの貝、落合恵子訳)

 いかにも動きに富む風景、浜辺に、不揃いな距離を置いて立っている一連の人物たちのおかげで、
空間のひろがりがいっそうよく測定できるような風景。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)


   *


私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出会つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
(立原道造『またある夜』)


 わたしの目は、雲を見ている。いや、見てはいない。わたしの目が見ているのは、動いている雲の
様子であって、瞬間、瞬間の雲の形ではない。また、雲の背景にある空を除いた雲の様子でもない。
空を背景にした動いている雲の様子である。音楽においても事情は同じである。わたしの耳は、一つ
一つの音を別々に聞いているのではない。音が構成していくもの、いわゆるメロディーやリズムとい
ったものを聞いているのである。そのメロディーやリズムにおいて現われる音を聞いているのである。
言葉においても同様である。話される言葉にしても、読まれる言葉にしても、使われる言葉が形成し
ていく文脈を把握するのであって、その文脈から切り離して、使われる言葉を、一つ一つ別々に理解
していくのではない。形成されていく文脈のなかで、一つ一つの言葉を理解していくのである。とい
うのも、


これは一重に文章の
並びや文の繋がりが
力を持っているからで
(ホラティウス『書簡詩』第二巻・三、鈴木一郎訳)


 窓ガラスに、何かがあたった音がした。昆虫だろうか。大きくはないが、その音のなかに、ぼくの
一部があった。そして、その音が、ぼくの一部であることに気がついた。

 ぼくは、ぼく自身が、ぼくが感じうるさまざまな事物や事象そのものであることを、また、あらか
じめそのものであったことを、さらにまた、これから遭遇するであろうすべてのものそのものである
ことを理解した。


   *


人生のあらゆる瞬間はかならずなにかを物語っている、
(ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』四・16、小林宏明訳)

人生を楽しむ秘訣は、細部に注意を払うこと。
(シオドア・スタージョン『君微笑めば』大森 望訳)           

ほんのちょっとした細部さえ、
(リチャード・マシスン『人生モンタージュ』吉田誠一訳)


   *


わたしを知らない鳥たちが川の水を曲げている。
わたしのなかに曲がった水が満ちていく。


   *


われわれはなぜ、自分で選んだ相手ではなく、稲妻に撃たれた相手を愛さなければならないのか?
(シオドア・スタージョン『たとえ世界を失っても』大森 望訳)

光はいずこから来るのか。
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第二幕・第五場、石川重俊訳)

わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ
(与謝野晶子)


   *


論理的には全世界が自分の名前になるということが理解できるか?
(イアン・ワトスン『乳のごとききみの血潮』野村芳夫訳)

ほかにいかなるしるしありや?
(コードウェイナー・スミス『スキャナーに生きがいはない』朝倉久志訳)

これがどういうことかわかるかね?
(ウォルター・M・ミラー・ジュニア『黙示録三一七四年』第III部・25、吉田誠一訳)

どんな霊感が働いたのかね?
(フリッツ・ライバー『空飛ぶパン始末記』島岡潤平訳)

われはすべてなり
(アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』第二部・8、福島正実訳)

そうだな、
(ポール・ブロイス『破局のシンメトリー』12、小隅 黎訳)

確かに一つの論理ではある
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』17、安田 均訳)

しかし、これは一種の妄想じゃないのだろうか。
(ジョン・ウィンダム『海竜めざめる』第二段階、星 新一訳)

現実には、そんなことは起きないのだ。
(ウィリアム・ブラウニング・スペンサー『真夜中をダウンロード』内田昌之訳)

いや、必ずしもそうじゃない。
(エリック・F・ラッセル『根気仕事』峰岸 久訳)

それは信号(シグナル)の問題なのだ。
(フレデリック・ポール『ゲイトウェイ』22、矢野 徹訳)

それもつかのま、
(J・G・バラード『燃える世界』4、中村保男訳)

ひとときに起こること。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

まあ、それも一つの考え方だ
(ブライアン・W・オールディス『ああ、わが麗しの月よ!』浅倉久志訳)

よくわかる。
(カール・エドワード・ワグナー『エリート』4、鎌田三平訳)

どちらであろうとも。
(フィリップ・K・ディック『ユービック』10、浅倉久志訳)

だが、それよりもまず、
(ブライアン・W・オールディス『一種の技能』5、浅倉久志訳)

めいめい自分の夜を堪えねばならぬのである。
(ブライアン・W・オールディス「銀河は砂粒のように」4、中桐雅夫訳)

それは確かだ
(ラリー・ニーヴン『快楽による死』冬川 亘訳)

しかし
(ロッド・サーリング『免除条項』矢野浩三郎・村松 潔訳)

それを知ったのはほんの二、三年前だし、
(ハル・クレメント『窒素固定世界』7、小隅 黎訳)

それが
(イアン・ワトスン『エンベディング』第一章、山形浩生訳)

どんなものであるにせよ、
(レイ・ブラッドベリ『駆けまわる夏の足音』大西尹明訳)

そのときには、たいしたことには思えなかった。
(マーク・スティーグラー『やさしき誘惑』中村 融訳)
 

   *


『マールボロ。』


彼には、入れ墨があった。
革ジャンの下に無地の白いTシャツ。
ぼくを見るな。
ぼくじゃだめだと思った。
若いコなら、ほかにもいる。
ぼくはブサイクだから。
でも、彼は、ぼくを選んだ。
コーヒーでも飲みに行こうか?
彼は、ミルクを入れなかった。
じゃ、オレと同い年なんだ。
彼のタバコを喫う。
たった一週間の禁煙。
ラブホテルの名前は
『グァバの木の下で』だった。
靴下に雨がしみてる。
はやく靴を買い替えればよかった。
いっしょにシャワーを浴びた。
白くて、きれいな、ちんちんだった。
何で、こんなことを詩に書きつけてるんだろう?
一回でおしまい。
一回だけだからいいんだと、だれかが言ってた。
すぐには帰ろうとしなかった。
ふたりとも。
いつまでもぐずぐずしてた。
東京には、七年いた。
ちんちんが降ってきた。
たくさん降ってきた。
人間にも天敵がいればいいね。
東京には、何もなかった。
何もなかったような顔をして
ここにいる。
きれいだったな。
背中を向けて、テーブルの上に置いた
 飲みさしの
缶コーラ。


 あるとき、詩人は、ふと思いついて、詩人の友人のひとりに、その友人が十八才から二十五才まで
過ごした東京での思い出を、その七年間の日々を振り返って思い出されるさまざまな出来事を、箇条
書きにして、ルーズリーフの上に書き出していくようにと言ったという。すると、そのとき、その友
人も、面白がってつぎつぎと書き出していったらしい。二、三十分くらいの間、ずっと集中して書い
ていたという。しかし、「これ以上は、もう書けない。」と言って、その友人が顔を上げると、詩人
は、ルーズリーフに書き綴られたその友人の文章を覗き込んで、そのときの気持ちを別の言葉で言い
表すとどうなるかとか、そのとき目にしたもので特に印象に残ったものは何かとか、より詳しく、よ
り具体的に書き込むようにと指図したという。そのあと、詩人からあれこれと訊ねられたときをのぞ
いては、その友人の手に握られたペンが動くことは、ほとんどなかったらしい。約一時間ぐらいかけ
て書き上げられた三十行ほどの短い文章を、詩人は、その友人の目の前で、ハサミを使って切り刻み、
切り刻んでいった紙切れを、短く切ったセロテープで、つぎつぎと繋げていったという。書かれた文
章のなかで、セロテープで繋げられたものは、ほんのわずかなもので、もとの文章の五分の一も採り
上げられなかったらしい。そうして出来上がったものが、『マールボロ。』というタイトルの詩にな
ったという。その詩のなかには、詩人が、直接、書きつけた言葉は一つもなかった。すべての言葉が、
詩人の友人によって書きつけられた言葉であった。それゆえ、詩人は、詩人の友人に、共作者として、
その友人の名前を書き連ねてもいいかと訊ねたらしい。すると、詩人の友人は、躊躇うことなく、即
座に、こう答えたという。「これは、オレとは違う。」と。ペンネームを用いることさえ拒絶された
らしい。「これは、オレとは違うから。」と言って。詩人は、その言葉に、とても驚かされたという。
そこに書かれたすべての言葉が、その友人の言葉であったのに、なぜ、「オレとは違う。」などと言
うのか、と。詩人の行為が、その友人の気持ちをいかに深く傷つけたのか、そのようなことにはまっ
たく気がつかずに……。その上、おまけに、詩人は、自分ひとりの名前でその詩を発表するのが、た
だ、自分の流儀に反する、といっただけの理由で、怒りまで覚えたのだという。すでに、詩人は、引
用のみによる詩を、それまでに何作か発表していたのだが、それらの作品のなかでは、引用された言
葉の後に、その言葉の出典が必ず記載されていたのである。しかも、それらの出典は、引用という行
為自体が意味を持っている、と見られるように、引用された言葉と同じ大きさのフォントで記載され
ていたのである。『マールボロ。』に書きつけられた言葉が、すべて引用であるのに、そのことを明
らかに示すことができないということが、おそらくは、たぶん、詩人の気を苛立たせたのであろう。
それにしても、『マールボロ。』という詩が、詩人の作品のなかで、もっとも詩人のものらしい詩で
あるのは、皮肉なことであろうか? ふとした思いつきでつくられたという、『マールボロ。』では
あるが、詩人自身も、その作品を、自分の作品のなかで、もっとも愛していたという。詩人にとって、
『マールボロ。』は、特別な存在であったのであろう。晩年には、詩というと、『マールボロ。』に
ついてしか語らなかったほどである。詩人はまた、このようなことも言っていた。『マールボロ。』
をつくったときには、後々、その作品がつくられた経緯が、言葉がいかなるものであるかを自分自身
に考えさせてくれる重要なきっかけになるとは、まったく思いもしなかったのだ、と。
 詩人は、友人の言葉を切り刻んで、それを繋げていったときに、どういったことが、自分のこころ
のなかで起こっていたのか、また、そのあと、自分のこころがどういった状態になったのか、後日、
つぎのように分析していた。

 わたしのなかで、さまざまなものたちが目を覚ます。知っているものもいれば、知らないものもい
る。知らないもののなかには、その言葉によって、はじめて目を覚ましたものもいる。それらのもの
たちと、目と目が合う。瞳に目を凝らす。それも一瞬の間だ。順々に。すると、知っていると思って
いたものたちの瞳のなかに、よく知らなかったわたしの姿が映っている。知らないと思っていたもの
たちの瞳のなかに、よく知っているわたしの姿が映っている。ひと瞬きすると、わたしは、わたし、
ではなくなり、わたしたち、となる。しかし、そのわたしたちも、また、すぐに、ひとりのわたしに
なる。ひとりのわたしになっているような気がする。それまでのわたしとは違うわたしに。

 詩人の文章を読んでいると、まるで対句のように、対比される形で言葉が並べられているところに、
よく出くわした。詩人の生前に訊ねる機会がなかったので、そのことに詩人自身が気がついていたの
かどうか、それは筆者にはわからないのだが、しかし、そういった部分が、もしかすると、そういっ
た部分だけではないのかもしれないが、たとえば、結論を出すのに性急で、思考に短絡的なところが
あるとか、しかし、とりわけ、そういった部分が、詩人の文章に対して、浅薄なものであるという印
象を読み手に与えていたことは、だれの目にも明らかなことであった。右の文章など、そのよい例で
あろう。
 ところで、詩人はまた、その友人の言葉を結びつけている間に、その言葉がまるで


あれはわたしだ。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』13、川副智子訳)


と思わせるほどに、生き生きとしたものに感じられたのだという。


だがそれは同じものになるのだろうか?
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)

それは?
(エドマンド・クーパー『アンドロイド』5、小笠原豊樹訳)

またウサギかな?
(ジェイムズ・アラン・ガードナー『プラネット・ハザード』上・5、関口幸男訳)

兎が三羽、用心深くぴょんと出てきた。
(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』一冊目・六月十六日、野口幸夫訳)

きみはわれわれがどうも間違った兎を追いかけているような気はしないかね?
(J・G・バラード『マイナス 1』伊藤 哲訳)

もちろんちがうさ。
(ゼナ・ヘンダースン『月のシャドウ』宇佐川晶子訳)

そんなことはありえない。
(フランク・ハーバート『ドサディ実験星』12、岡部宏之訳)

ここにはもう一匹もウサギはいない
(ジョン・コリア『少女』村上哲夫訳)

いいかい?
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

そもそも
(ウィリアム・ブラウニング・スペンサー『真夜中をダウンロード』内田昌之訳)

現実とはなにかね?
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第三部・19、冬川 亘訳)

なにを彼が見つめていたか?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)

このできごとのどこまでが現実にあったことだ?
(グレッグ・ベア『女王天使』下・第二部・54、酒井昭伸訳)


 もちろん、詩人がつくった世界は、といっても、これは作品世界のことであるが、しかも、詩人が
そこで表現し得ていると思い込んでいるものと、読者がそこに見出すであろうものとはけっして同じ
ものではないのだが、詩人の友人が現実の世界で体験したこととは、あるいは、詩人の友人が自分の
記憶を手繰り寄せて、自分が体験したことを思い起こしたと思い込んでいるものとは、決定的に異な
るものであるが、そのようなことはまた、詩人のつくった世界が現実にあったことを、どれぐらいき
ちんと反映しているのか、といったこととともに、詩というものとは、まったく関係のないことであ
ろう。求められているのは、現実感であり、現実そのものではないのである。少なくとも、物理化学
的な面での、現象としての現実ではないであろう。もちろん、言うまでもなく、詩は精神の産物であ
り、詩を味わうのも精神であり、しかも、その精神は、現実の世界がつくりだしたものでもある。し
かしながら、物理化学的な面での、現象としての現実の世界だけが精神をつくっているわけではない
のである。じっさいに見えるものや、じっさいに聞こえるもの、じっさいに触れるものや、じっさい
に味わうもの、そういった類のものからだけで、現実の世界ができているわけではないのである。見
えていると思っているものや、聞こえていると思っているもの、触れていると思っているものや、味
わっていると思っているものも、もちろんのことであるが、現実の世界は、見えもしないものや、聞
こえもしないもの、触れることができないものや、味わうことができないもの、そういったものによ
ってさえ、またできているのである。もしも、世界というものが、じっさいに見えるものや、じっさ
いに聞こえるもの、じっさいに触れるものや、じっさいに味わえるもの、そういった類のものからだ
けでできているとしたら、いかに貧しいものであるだろうか? じっさいのところ、世界は豊かであ
る。そう思わせるものを、世界は持っている。


魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現われることがない、
(サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳)


 詩人が、『マールボロ。』から得た最大の収穫は、何であったのだろうか? 右に引用した文の横
に、詩人は、こんなメモを書きつけていた。「「物質」を「言葉」とすると、こういった結論が導か
れる。詩を読んで、言葉を通して、はじめて、自分の気持ちがわかることがある、ということ。言葉
は、わたしたちについて、わたしたち自身が知らないことも知っていることがある、ということ。」
と。


言葉とは何か?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)

言葉以外の何を使って、嫌悪する世界を消しさり、愛しうる世界を創りだせるというのか?
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

作品は作者を変える。
自分から作品を引き出す活動のひとつびとつに、作者は或る変質を受ける。完成すると、作品は今一
度作者に逆に作用を及ぼす。
(ヴァレリー『文学』佐藤正彰訳)

これがぼくにとってどれほど大きな意味があることか、きみにわかるかい?
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)

詩人のそばでは、詩がいたるところで湧き出てくる。
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第七章、青山隆夫訳)

今まで忘れていたことが思い出され、頭の中で次から次へと鎖の輪のようにつながっていく。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)

わたしの世界の何十という断片が結びつきはじめる。
(グレッグ・イーガン『貸金庫』山岸 真訳)

あらゆるものがくっきりと、鮮明に見えるのだ。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)

過去に見たときよりも、はっきりと
(シオドア・スタージョン『人間以上』第二章、矢野 徹訳)

なんという強い光!
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』昼夜入れ替えなしの興行、木村榮一訳)

さまざまな世界を同時に存在させることができる。
(イアン・ワトスン『知識のミルク』大森 望訳)

これは叫びだった。
(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)

急にそれらの言葉がまったく新しい意味を帯びた。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』34、大島 豊訳)

そのひと言でぼくの精神状態はもちろん、あたりの風景までが一変した。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』女戦死(アマゾネス)、木村榮一訳)


 こういった考察を、『マールボロ。』は、詩人にさせたのだが、『マールボロ。』をつくったとき
の友人とは別の友人に、あるとき、詩人は、つぎのように言われたという。「言葉に囚われているの
は、結局のところ、自分に囚われているにひとしい。」と。そう言われて、ようやく、詩人は、『マ
ールボロ。』をつくったときに、自分の友人を傷つけたことに、その友人のこころを傷つけたことに
気がついたのだという。

 詩人の遺したメモ書きに、つぎに引用するような言葉がある。『マールボロ。』をつくる前のメモ
書きである。


順序を入れかえたり、語をとりかえたりできるので、たえず内容を変える
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)

新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)


 詩人の作品が、詩人の友人の思い出に等しいものであるはずがないことに、なぜ、詩人自身が、す
ぐに気がつかなかったのか、それは、さだかではないが、たしかに、詩人は思い込みの激しい性格で
あった。上に引用したような事柄が、頭ではわかっていたのだが、じっさいに実感することが、すぐ
にはできなかったらしい。それが実感できたのは、先に述べたように、別の友人に気づかされてのこ
と、『マールボロ。』をつくった後、しばらくしてからのことであったという。


 しかし、彼の笑顔はこの世にふたつとない笑顔だ。その笑顔を向けられると、人生で出くわすあり
とあらゆる不幸をそこに見るような気がする。ところが顔に浮かんだその不幸を、彼はあっという間
に順序よく並べ替えてしまう。それを見ていると、今度は急に「ああそうか、心配することはなかっ
たんだ」と感じるのだ。
だから彼と話をするのは楽しい。その笑顔をしょっちゅう浮かべて、そのたびに「ああそうか、心
配することはなかったんだ」と感じさせてくれるからだ。
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』31、安原和見訳)


 これは、『マールボロ。』制作以降に、詩人が書きつけていたメモ書きにあったものである。たし
かに、同じ事柄でも、同じ言葉でも、順序を並べ替えて表現すると、ただそれだけでも、まったく異
なる内容のものにすることができるのであろう。詩人が引用していた、この文章は、ほんとうに、こ
ころに染み入る、すぐれた表現だと思われる。

 ところで、悲劇にあるエピソードを並べ替えて、喜劇にすることもできるということは、そしてま
た、喜劇にあるエピソードを並べ替えて、悲劇にすることもできるということは、わたしに、人生に
ついて、いや、人生観について考えさせるところが大いにあった。ある事物や事象を目の前にしたと
きに、即断することが、いかに愚かしいことであるのか、そういったことを、わたしに思わしめたの
である。

 一方、詩人は、つねにといってもよいほど、ほとんど独断し、即断する、じつに思い込みの激しい
性格であった。


ただひとつの感情が彼を支配していた。
(マルロー『征服者』第I部、渡辺一民訳)

 感情が絶頂に達するとき、人は無意識状態に近くなる。……なにを意識しなくなるのだ? それはも
ちろん自分以外のすべてをだ。自分自身をではない。
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』20、鈴木 晶訳)

今ではわたしも、他人のこころを犠牲にして得たこころの願望がいかなるものか、
(ゼナ・ヘンダースン『なんでも箱』深町眞理子訳)

それを知っている
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

私という病気にかかっていることがようやくわかった。
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友人へ』8、佐宗鈴夫訳)

私というのは、空虚な場所、
(ジンメル『日々の断想』66、清水幾太郎訳)

世界という世界が豊饒な虚空の中に形作られるのだ。
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)


 これらの言葉から、詩人の考えていたことが、詩人の晩年における境地というようなものが、詩人
の第二詩集である『The Wasteless Land.』の注釈において展開された、詩人自身の自我論に繋がるも
のであることが、よくわかる。

 先にも書いたように、詩人は、つねづね、『マールボロ。』のことを、「自分の作品のなかで、も
っとも好きな詩である。」と言っていたが、「それと同時に、またもっとも重要な詩である。」とも
言っていた。その言葉を裏付けるかのように、『マールボロ。』については、じつにおびただしい数
の引用や文章が、詩人によって書き残されている。以下のものは、これまで筆者が引用してきたもの
と同様に、詩人が、『マールボロ。』について、生前に書き留めておいたものを、筆者が適宜抜粋し
たものである。(すべてというわけではない。一行だけ、例外がある。筆者が補った一文である。読
めばすぐにわかるだろうが、あえて――線を引いて示しておいた。)


なぜ人間には心があり、物事を考えるのだろう?
(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)

心は心的表象像なしには、決して思惟しない。
(アリストテレス『こころとは』第三巻・第七章、桑子敏雄訳)


 言葉や概念といったものが自我を引き寄せて思考を形成するのだろうか? それとも、思考を形成
する「型」や「傾向」といったようなものが自我にはあって、それが、言葉や概念といったものを引
き寄せて思考を形成するのだろうか? おそらくは、その双方が、相互に働きかけて、思考を形成し
ているのであろう。


一つ一つのものは自分の意味を持っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 
 
その時々、それぞれの場所はその意味を保っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 


 思考が形成される過程については、まだ十分に考察しきっていないところがあると思われるのだが、
少なくとも、「習慣的な」思考とみなされるようなものは、そこで用いられている「言葉」というよ
りも、むしろ、その思考をもたらせる「型」や「傾向」といったようなものによって、主につくられ
ているような気がするのであるが、どうであろうか? というのも、


人間というものは、いつも同じ方法で考える。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)


というように、思考には、「型」や「傾向」とかいったようなものがあると思われるからである。そ
してまた、そういったものは、その概念を受容する頻度や、その概念をはじめて受け入れたときのシ
ョックの強度によって、ほぼ決定されるのであろうと、わたしには思われるのである。

 ところで、幼児の気分が変わりやすいのは、なぜであろうか。おそらく、思考の「型」や「傾向」
といったようなものが、まだ形成されていないためであろう。あるいは、形成されてはいても、まだ
十分に形成されきっていないのであろう、それが十分に機能するまでには至っていないように思われ
る。幼児は、そのとき耳にした言葉や、そのとき目にしたものに、振り回されることが多い。「型」
や「傾向」といったようなものがつくられるためには、繰り返される必要がある。繰り返されると、
それが「型」や「傾向」といったようなものになる。ときには、ただ一回の強烈な印象によって、「型」
や「傾向」といったようなものがつくられることもあるであろう。しかし、そのことと、繰り返され
ることによって「型」や「傾向」といったようなものがつくられることとは、じつは、よく似ている。
同じページを何度も何度も開いていると、ごく自然に、本には開き癖といったようなものがつくのだ
が、ぎゅっと一回、強く押してページを開いてやっても、そのページに開き癖がつくように。それに、
強烈な印象は、その印象を受けたあとも、しばらくは持続するであろうし、それはまた、繰り返し思
い出されることにもなるであろう。
しかし、ヴァレリーの


個性は思い出と習慣によって作られる
(ヴァレリー全集カイエ篇6『自我と個性』滝田文彦訳)


といった言葉を読み返して思い起こされるのだが、たしかに、わたしには、しばしば、「個性的な」
といった形容で言い表される人間の言っていることやしていることが、ただ単に反射的に反応してし
ゃべったり行動したりしていることのように思われることがあるのである。つねに、とは言わないま
でも、きわめてしばしば、である。


霊はすべておのれの家を作る。だがやがて家が霊を閉じこめるようになる。
(エマソン『運命』酒本雅之訳)


 したがって、「習慣的な」思考を、「習慣的でない」思考と同様に、「思考」として考えてもよい
ものかどうか、それには疑問が残るのである。「習慣的な」思考というものが、単なる想起のような
ものにしか過ぎず、「習慣的でない」思考といったものだけが、「思考」というものに相当するもの
なのかもしれないからである。また、ときには、ある「思考」が、「習慣的な」ものであるのか、そ
れとも、「習慣的でない」ものであるのか、明確に区別することができない場合もあるであろう。そ
れにまた、「思考」には、「習慣的な」ものと「習慣的でない」ものとに分類されないものも、ある
かもしれないのである。しかし、いまはまだ、そこまで考えることはしないでおこう。「習慣的な」
思考と「習慣的でない」思考の、このふたつのものに限って考えてみよう。単純に言ってみれば、「型」
や「傾向」により依存していると思われるのが、「習慣的な」思考の方であり、「言葉」自体により
依存していると思われるのが、「習慣的でない」思考の方であろうか? これもまた、「より依存し
ている」という言葉が示すように、程度の問題であって、絶対にどちらか一方だけである、というこ
とではないし、また、そもそものところ、思考が、「言葉」といったものや、「型」や「傾向」とい
ったものからだけで形成されるものでないことは、


われわれのあらゆる認識は感覚にはじまる。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)


というように、感覚器官が受容する刺激が認識に与える影響についてだけ考えてみても明らかなこと
であろうが、思考は言語からのみ形成されるのではない。しかし、あえて、論を進めるために、ここ
では、思考を形成するものを、「言葉」とか、あるいは、「型」や「傾向」とかいったものに限って、
考えることにした。いずれにしても、それらのものはまた、


創造者であるとともに被創造物でもある。
(ブライアン・W・オールディス『讃美歌百番』浅倉久志訳)

――詩人はよく、こう言っていた。詩人にできるのは、ただ言葉を並べ替えることだけだ、と。


人間は実際造ることができないんです。すでにあるものを並び替えるだけでしてね。神のみが創造で
きるのですよ
(ロジャー・ゼラズニイ『わが名はレジオン』第三部、中俣真知子訳)


並べ替える? それとも、並び替えさせるのか? 並べ替える? それとも、並び替えさせるのか?


『マールボロ。』


断片はそれぞれに、そうしたものの性質に従って形を求めた。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』36、黒丸 尚訳)


並び替えさせる? それとも、並べ替えるのか? 並び替えさせる? それとも、並べ替えるのか?


『マールボロ。』


 ただ言葉を選んで、並べただけなのだが、『マールボロ。』という詩によって、はじめてもたらさ
れたものがある。そのうちの一つのものに、『マールボロ。』という詩が出来上がってはじめて、そ
の出来上がった詩を目にしてはじめて、わたしのこころのなかに生まれた感情がある。それは、それ
までのわたしが、わたしのこころのなかにあると感じたことのない、まったく新しい感情であった。
まるで、その詩のなかにある言葉の一つ一つが、わたしにとって、激しく噴き上げてくる間歇泉の水
しぶきのような感じがしたのである。じっさい、紙面から光を弾き飛ばしながら、言葉が水しぶきの
ように迸り出てくるのが感じられたのである。また、そのうちの一つのものに、『マールボロ。』と
いう詩の形をとることによって、言葉たちがはじめて獲得した意味がある。それは、その詩が出来上
がるまでは、その言葉たちがけっして持ってはいなかったものであり、それは、その言葉にとって、
まったく新しい意味であった。
 これを、人間であるわたしの方から見ると、言葉たちを、ただ選び出して、並べ替えただけのよう
に見える。事実、ただそれだけのことである。これを、言葉の方から見ると、どうであろうか? 言
葉の方の身になって、考えられるであろうか? 『マールボロ。』の場合、言葉はもとの場所から移
され、並び替えさせられた上に、それらの言葉を前にする人間の方も入れ替わったのである。時間的
なことを考慮して言うなら、人間が入れ替わるのと同時に、言葉も並び替えさせられたのである。人
間であるわたしの方から見る場合と異なる点は、それらの言葉を前にする人間の方も入れ替わってい
たということであるが、それでは、はたして、それらの言葉の前で、人間の方が入れ替わっていたと
いう、このことが、他の言葉とともに並び替えさせられたことに比べて、いったいどれぐらいの割合
で、それらの言葉の意味の拡張や変化といったものに寄与したのであろうか? しかし、そもそもの
ところ、そのようなことを言ってやることなどできるのであろうか? できやしないであろう。とい
うのも、そういった比較をするためには、人間が入れ替わらずに、それらの言葉が、『マールボロ。』
という詩のなかで配置されているように配置される可能性を考えなければならないのであるが、その
ようなことが起こる可能性は、ほとんどないと思われるからである。まあ、いずれにしても、見かけ
の上では、言葉の並べ替えという、ただそれだけのことで、わたしも、その言葉たちも、それまでの
わたしや、それまでのその言葉たちとは、違ったものになっていた、というわけである。


 ぼくらがぼくらを知らぬ多くの事物によって作られているということが、ぼくにはたとえようもな
く恐ろしいのです。ぼくらが自分を知らないのはそのためです。
(ヴァレリー『テスト氏』ある友人からの手紙、村松 剛・菅野昭正・清水 徹訳)


といったことを、ヴァレリーが書いているのだが、『マールボロ。』という詩をつくる「経験」を通
して、「ぼくらを知らぬ多くの事物」が、いかにして、「ぼくら」を知っていくか、また、「自分を
知らない」「ぼくら」が、いかにして、「自分」を知っていくか、その経緯のすべてとはいわないが、
その一端は窺い知ることができたものと、わたしには思われるのである。


『マールボロ。』


 言葉は、つぎつぎと人間の思いを記憶していく。ただし、言葉の側からすれば、個々の人間のこと
などはどうでもよい。新たな意味を獲得することにこそ意義がある。言葉の普遍性と永遠性。言葉自
身が知っていることを、言葉に教えても仕方がない。言葉の普遍性と永遠性。わたしたちが言葉を獲
得する? 言葉が獲得するのだ、わたしたちを。言葉の普遍性と永遠性。もはや、わたし自身が言葉
そのものとなって考えるしかあるまい。


『マールボロ。』


 デニス・ダンヴァーズが『天界を翔ける夢』や、その姉妹篇の『エンド・オブ・デイズ』のなかに
書いているように、あるいは、グレッグ・イーガンが『順列都市』のなかで描いているように、将来
において、たとえ、人間の精神や人格を、その人間の記憶に基づいてコンピューターにダウンロード
することができるとしても、そういったものは、元のその人間の精神や人格とはけっして同じものに
はならないであろう。なぜなら、人間は、偶然が決定的な立場で控えている時間というもののなかに
生きているものであり、その偶然というものは、どちらかといえば、量的な体験ではなく、質的な体
験においてもたらされるものだからである。驚くことがいかに人生において重要なものであるか、そ
れを機械が体験し、実感することができるようになるとは、とうてい、わたしには思えないのである。
せいぜい、思考の「型」とか「傾向」とかいったようなものをつくれるぐらいのものであろう。それ
に、たとえ、思考の「型」や「傾向」とかいったようなものを、ソフトウェア化することができると
しても、それらから導き出せるような思考は、単なる「習慣的な」思考であって、そのようなもので
は、『マールボロ。』のようなものをつくり出すことはおろか、『マールボロ。』のようなものをつ
くり出すきっかけすら思いつくことができるようなものにはならないであろう。


『マールボロ。』


 紙片そのものではなく、それを貼り合わせる指というか、糊というか、じっさいはセロテープで貼
り付けたのだが、短く切り取ったセロテープを紙片にくっつけるときの息を詰めた呼吸というか、そ
のようなものでつくっていったような気がする。そのことは以前にも書いたことがあるのだが、それ
は、ほとんど無意識的な行為であったように思われる。基本的には、これが、わたしの詩の作り方で
ある。


『マールボロ。』


 たしかに、「言葉」には、互いに引き合ったり反発しあったりする、磁力のようなものがある。そ
う、わたしには思われる。そして、それらのものを、思考の「型」や「傾向」といったものの現われ
ともとることはできるのだが、そうではない、「言葉」そのものにはない、「型」や「傾向」といっ
たものもあるように、わたしには思われるのである。とはいっても、言葉が、その言葉としての意味
を持って、個人の前に現われる前に、その個人の思考の「型」や「傾向」といったようなものが存在
したとも思われないのだが、……、しかし、ここまで考えてきて、ふと思った。「言葉」の方が磁石
のようなもので、「型」や「傾向」といったものの方が磁石をこすりつけられて磁力を持つようにな
った鉄の針のようなものなのか、「型」や「傾向」といったものの方が磁石のようなもので、「言葉」
の方が磁石をこすりつけられて磁力を持つようになった鉄の針のようなものなのか、と。ふうむ、…
…。


『マールボロ。』


作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

きみはそれを知っている人間のひとりかね?
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

そのとおりであることを祈るよ。
(アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』第一部・4、福島正実訳)

こんどはそれをこれまで学んできた理論体系に照らし合わせて検証しなければならん
(スティーヴン・バクスター『天の筏』5、古沢嘉道訳)

実際にやってみよう
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

煉瓦はひとりでは建物とはならない。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとI』6、田中 勇・銀林 浩訳)

具体的な形はわれわれがつくりだすのだ
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』28、三田村 裕訳)

形と意味を与えられた苦しみ。
(サミュエル・R・ディレイニー『コロナ』酒井昭伸訳)

きみはこれになるか?
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)


   *


 つぎに掲げてあるのは、芥川龍之介の『或阿呆の一生』の冒頭部分である。一部の言葉を他の作家
の作品の言葉と置き換えてみた。まず、はじめに、夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭部分の言葉
を使って、一部の言葉を置き換えた。


 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子(はしご)に登り、新らしい本
を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、
……
 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐる
のは本といふよりも寧(むし)ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、
ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……

 彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈
みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、
丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇(たたず)んだまま、本の間に動いて
ゐる店員や客を見下(みおろ)した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「人生は一(いち)行(ぎやう)のボオドレエルにも若(し)かない。」
 彼は暫(しばら)く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……


 吾輩(わがはい)は或猫の名前だつた。ニャーニャーの吾輩は人間にかけた書生の人間に登り、新ら
しい種族を探してゐた。書生、我々、話、考、彼、掌(てのひら)、……
 そのうちにスーは迫り出した。しかしフワフワは熱心に掌の書生を読みつづけた。そこに並んでゐ
るのは顔といふよりも寧(むし)ろ人間それ自身だつた。毛、顔、つるつる、薬缶(やかん)、猫、顔、
……
 穴はぷうぷうと戦ひながら、煙(けむり)のこれを数へて行つた。が、人間はおのづからもの憂い煙
草(たばこ)の中に沈みはじめた。書生はとうとう掌も尽き、裏(うち)の心持を下りようとした。する
と書生のない自分が一つ、丁度眼の胸の上に突然ぽかりと音をともした。眼は火の上に佇(たたず)ん
だまま、書生の間に動いてゐる兄弟や母親を見(み)下(おろ)した。姿は妙に小さかつた。のみならず
如何にも見すぼらしかつた。
「眼は容(よう)子(す)ののそのそにも若(し)かない。」
 吾輩は暫(しばら)く藁(わら)の上からかう云ふ笹原を見渡してゐた。……


ここで、比較のために、もとの『吾輩は猫である』の冒頭部分を掲げておく。


 吾輩(わがはい)は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当(けんとう)がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣い
ていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれ
は書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕
(つかま)えて煮(に)て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しい
とも思わなかった。ただ彼の掌(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした
感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの
見(み)始(はじめ)であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装
飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶(やかん)だ。その後(ご)猫にもだいぶ逢(あ)ったがこ
んな片(かた)輪(わ)には一度も出会(でく)わした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起して
いる。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙(けむり)を吹く。どうも咽(む)せぽくて実に弱った。
これが人間の飲む煙草(たばこ)というものである事はようやくこの頃知った。
 この書生の掌の裏(うち)でしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運
転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無(む)暗(やみ)に眼が廻る。胸が悪くな
る。到底(とうてい)助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。それまでは記憶
しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
 ふと気が付いて見ると書生はいない。たくさんおった兄弟が一(いち)疋(ぴき)も見えぬ。肝心(かん
じん)の母親さえ姿を隠してしまった。その上(うえ)今(いま)までの所とは違って無(む)暗(やみ)に明
るい。眼を明いていられぬくらいだ。はてな何でも容(よう)子(す)がおかしいと、のそのそ這(は)い
出して見ると非常に痛い。吾輩は藁(わら)の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。


つぎに、堀 辰雄の『風立ちぬ』の冒頭部分の言葉を使って、置き換えてみた。


 夏は或日々の薄(すすき)だつた。草原のお前は絵にかけた私の白樺に登り、新らしい木蔭を探して
ゐた。夕方、お前、仕事、私、私達、肩、……
 そのうちに手は迫り出した。しかし茜(あかね)色(いろ)は熱心に入道雲の塊りを読みつづけた。そ
こに並んでゐるのは地平線といふよりも寧(むし)ろ地平線それ自身だつた。 日、午後、秋、日、私
達、お前、……
 絵は画架と戦ひながら、白樺の木蔭を数へて行つた。が、果物はおのづからもの憂い砂の中に沈み
はじめた。雲はとうとう空も尽き、風の私達を下りようとした。すると頭のない木の葉が一つ、丁度
藍色(あいいろ)の草むらの上に突然ぽかりと物音をともした。私達は私達の上に佇(たたず)んだまま、
絵の間に動いてゐる画架や音を見(み)下(おろ)した。お前は妙に小さかつた。のみならず如何にも見
すぼらしかつた。
「私は一瞬の私にも若(し)かない。」
 お前は暫(しばら)く私の上からかう云ふ風を見渡してゐた。……


ここで比較のために、もとの『風立ちぬ』の冒頭部分を掲げておく。


 それらの夏の日々、一面に薄(すすき)の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描い
ていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方に
なって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、
遥か彼方の、縁だけ茜(あかね)色(いろ)を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の
方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが
生れて来つつあるかのように……

 そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけ
たまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物を齧(か)じっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れ
ていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっ
と覗いている藍色(あいいろ)が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがば
ったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と
共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失う
まいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさ
せていた。
風立ちぬ、いざ生きめやも。


つぎに、小林多喜二の『蟹工船』の冒頭部分の言葉を使って、置き換えてみた。


 地獄は或二人のデッキだつた。手すりの蝸牛(かたつむり)は海にかけた街の漁夫に登り、新らしい
指元を探してゐた。煙草(たばこ)、唾(つば)、巻煙草、船腹(サイド)、彼、身体(からだ)、……
 そのうちに太鼓腹は迫り出した。しかし汽船は熱心に積荷の海を読みつづけた。そこに並んでゐる
のは片(かた)袖(そで)といふよりも寧(むし)ろ片側それ自身だつた。煙突、鈴、ヴイ、南(ナン)京(キ
ン)虫(むし)、船、船、……
 ランチは油煙と戦ひながら、パン屑(くず)の果物を数へて行つた。が、織物はおのづからもの憂い
波の中に沈みはじめた。風はとうとう煙も尽き、波の石炭を下りようとした。すると匂いのないウイ
ンチが一つ、丁度ガラガラの音の上に突然ぽかりと波をともした。蟹工船博光丸はペンキの上に佇(た
たず)んだまま、帆船の間に動いてゐるへさき(ヽヽヽ)や牛を見(み)下(おろ)した。鼻穴は妙に小さか
つた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「錨(いかり)は鎖の甲板にも若(し)かない。」
 マドロス・パイプは暫(しばら)く外人の上からかう云ふ機械人形を見渡してゐた。……


ここで比較のために、もとの『蟹工船』の冒頭部分を掲げておく。


「おい地獄さ行(え)ぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛(かたつむり)が背のびをしたように延びて、海を抱(か
か)え込んでいる函(はこ)館(だて)の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草(たばこ)を
唾(つば)と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹(サイド)を
すれずれに落ちて行った。彼は身体(からだ)一杯酒臭かった。
 赤い太鼓腹を巾(はば)広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片(かた)袖(そで)を
グイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴
のようなヴイ、南(ナン)京(キン)虫(むし)のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々と
ざわめいている油煙やパン屑(くず)や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の
工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音
が、時々波を伝って直接(じか)に響いてきた。

 この蟹工船博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥(は)げた帆船が、へさき(ヽヽヽ)の牛の鼻穴のような
ところから、錨(いかり)の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じと
ころを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たし
かに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。


 ここでまた、比較のために、『或阿呆の一生』の言葉を、前掲の三つの文章のなかにある言葉と置き
換えてみた。


それは或本屋である。二階はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見(けん)当(とう)がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所で二十歳泣いてい
た事だけは記憶している。彼はここで始めて書棚というものを見た。しかもあとで聞くとそれは西洋
風という梯子(はしご)中で一番獰(どう)悪(あく)な本であったそうだ。このモオパスサンというのは
時々ボオドレエルを捕(つかま)えて煮(に)て食うというストリントベリイである。しかしその当時は
何というイブセンもなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただシヨウのトルストイに載せられ
て日の暮と持ち上げられた時何だか彼した感じがあったばかりである。本の上で少し落ちついて背文
字の本を見たのがいわゆる世紀末というものの見(み)始(はじめ)であろう。この時妙なものだと思っ
た感じが今でも残っている。第一ニイチエをもって装飾されべきはずのヴエルレエンがゴンクウル兄
弟してまるでダスタエフスキイだ。その後(ご)ハウプトマンにもだいぶ逢(あ)ったがこんな片(かた)
輪(わ)には一度も出会(でく)わした事がない。のみならずフロオベエルの真中があまりに突起してい
る。そうしてその彼の中から時々薄暗がりと彼等を吹く。どうも咽(む)せぽくて実に弱った。名前が
本の飲む影というものである事はようやくこの頃知った。
 この彼の根気の西洋風でしばらくはよい梯子に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転
し始めた。傘が動くのか電燈だけが動くのか分らないが無(む)暗(やみ)に彼が廻る。頭が悪くなる。
到底(とうてい)助からないと思っていると、どさりと火がして彼から梯子が出た。それまでは記憶し
ているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
 ふと気が付いて見ると本はいない。たくさんおった店員が一(いち)疋(ぴき)も見えぬ。肝心(かんじ
ん)の客さえ彼等を隠してしまった。その上(うえ)今(いま)までの所とは違って無(む)暗(やみ)に明る
い。人生を明いていられぬくらいだ。はてな何でも一(いち)行(ぎやう)がおかしいと、ボオドレエル
這(は)い出して見ると非常に痛い。彼は梯子の上から急に彼等の中へ棄てられたのである。

 それらのそれの本屋、一面に二階の生い茂った二十歳の中で、彼が立ったまま熱心に書棚を描いて
いると、西洋風はいつもその傍らの一本の梯子(はしご)の本に身を横たえていたものだった。そうし
てモオパスサンになって、ボオドレエルがストリントベリイをすませてイブセンのそばに来ると、そ
れからしばらくシヨウはトルストイに日の暮をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ彼を帯びた本の
むくむくした背文字に覆われている本の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけ
ているその世紀末から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……

 そんなニイチエの或るヴエルレエン、(それはもうゴンクウル兄弟近いダスタエフスキイだった)
ハウプトマンはフロオベエルの描きかけの彼を薄暗がりに立てかけたまま、その彼等の名前に寝そべ
って本を齧(か)じっていた。影のような彼が根気をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処か
らともなく西洋風が立った。梯子の傘の上では、電燈の間からちらっと覗いている彼が伸びたり縮ん
だりした。それと殆んど同時に、頭の中に何かがばったりと倒れる火を彼は耳にした。それは梯子が
そこに置きっぱなしにしてあった本が、店員と共に、倒れた客らしかった。すぐ立ち上って行こうと
する彼等を、人生は、いまの一(いち)行(ぎやう)の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留
めて、ボオドレエルのそばから離さないでいた。彼は梯子のするがままにさせていた。

彼等立ちぬ、いざ生きめやも。


「おいそれさ行(え)ぐんだで!」
 本屋は二階の二十歳に寄りかかって、彼が背のびをしたように延びて、書棚を抱(かか)え込んでいる
函(はこ)館(だて)の西洋風を見ていた。――梯子(はしご)は本まで吸いつくしたモオパスサンをボオ
ドレエルと一緒に捨てた。ストリントベリイはおどけたように、色々にひっくりかえって、高いイブ
センをすれずれに落ちて行った。シヨウはトルストイ一杯酒臭かった。
 赤い日の暮を巾(はば)広く浮かばしている彼や、本最中らしく背文字の中から本をグイと引張られ
てでもいるように、思いッ切り世紀末に傾いているのや、黄色い、太いニイチエ、大きなヴエルレエ
ンのようなゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイのようにハウプトマンとフロオベエルの間をせわしく
縫っている彼、寒々とざわめいている薄暗がりや彼等や腐った名前の浮いている何か特別な本のよう
な影……。彼の工合で根気が西洋風とすれずれになびいて、ムッとする梯子の傘を送った。電燈の彼
という頭が、時々火を伝って直接(じか)に響いてきた。
この彼のすぐ手前に、梯子の剥(は)げた本が、店員の客の彼等のようなところから、人生の一(いち)
行(ぎやう)を下していた、ボオドレエルを、彼をくわえた梯子が二人同じところを何度も彼等のよう
に、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対す
る監視船だった。


それにしても、『マールボロ。』、


いまだにみんながきみの愛について語ることをしないのは、いったいどうしたことなのだろう。
(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)

誰もが持っていることさえ拒むような考えを暴き出すのが詩人の務めだ
(ダン・シモンズ『大いなる恋人』嶋田洋一訳)

しかし、だれが彼を才能のゆえに覚えていることができよう?
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第四部・18、山西英一訳)

世間の普通の人は詩など読まない
(ノサック『ドロテーア』神品義雄訳)

誰も詩人のものなんて読みやしない。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

もちろんそうさ。
(テリー・ビッスン『時間どおりに教会へ』3、中村 融訳)

詩作なんかはすべきでない。
   (ホラティウス『書簡詩』第一巻・七、鈴木一郎訳)

いったいなんのために書くのか?
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)

詩人の不幸ほど甚だしいものはないでしょう。さまざまな災悪によりいっそう深く苦しめられるばか
りでなく、それらを解明するという義務も負うているからです
(レイナルド・アレナス『めくるめく世界』34、鼓 直・杉山 晃訳)

詩とは認識への焦慮なのです、それが詩の願いです、
(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳)

たしかに
(ジョン・ブラナー『木偶(でく)』吉田誠一訳)

あらゆる出会いが苦しい試練だ。
(フィリップ・K・ディック『ユービック : スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳)

その傷によって
(ヨシフ・ブロツキー『主の迎接祭(スレーチエニエ)』小平 武訳)

違った状態になる
(チャールズ・オルソン『かわせみ』4、出淵 博訳)

何もかも
(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』上・1、矢野 徹訳)

おお
(ボードレール『黄昏』三好達治訳)

愛よ
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第九章、青山隆夫訳)

お前は苦痛が何を受け継いだかを知っている。
(ジェフリー・ヒル『受胎告知』2、富士川義之訳)

それ自身の新しい言葉を持たない恋がどこにあるだろう?
(シオドア・スタージョン『めぐりあい』川村哲郎訳)


 それにしても、詩人は、なぜ、『マールボロ。』という作品に固執したのであろうか? あるとき、
詩人は、わたしにこう言った。「ぼくの書いた詩なんて、そのうち忘れられても仕方がないと思う。
まあ、忘れられるのは、忘れられても仕方がない作品だからだろうしね。だけど、『マールボロ。』
だけは、忘れられたくないな。ぼくのほかの作品がみんな忘れられてもね。まあ、でも、『マールボ
ロ。』は、読み手を選ぶ作品だからね。あまりにも省略が激しいし、使われているレトリックも凝り
に凝ったものだしね。ちゃんと把握できる読者の数は限られていると思う。」たしかに、省略が激し
いという自覚は、詩人にはあったようである。というのも、晩年の詩人が、朗読会で読む詩は、ほぼ、
『マールボロ。』ということになっていたのだが、その朗読の前には、かならず、『マールボロ。』
という作品の制作過程と、その作品世界の背景となっている、ゲイたちの求愛の場と性愛行為につい
ておおまかな説明をしていたからである。(あくまでも、一部のゲイたちのそれであるということは、
詩人も知っていたし、また、わたしの知る限り、朗読の前のその説明のなかで、一部の、という言葉
を省いて、詩人が話をしたことは一度もなかった。)


──と、だしぬけに誰かがぼくの太腿の上に手を置いた。ぼくは跳び上がるほど驚いたが、跳び上
がる前にいったい誰の手だろう、ひょっとするとリーラ座の時のように女の人が手を出したのだろう
かと思ってちらっと見ると、これがなんともばかでかい手だった。(あれが女性のものなら、映画女
優か映画スターで、巨大な肉体を誇りにしている女性のものにちがいなかった)。さらに上のほうへ
眼を移すと、その手は毛むくじゃらの太い腕につづいていた。ぼくの太腿に毛むくじゃらの手を置い
たのは、ばかでかい体軀の老人だったが、なぜ老人がぼくの太腿に手を置いたのか、その理由は説明
するまでもないだろう。(……)ぼくは弟に「席を替ろうか?」と言ってみた。(……)ぼくたちは
立ち上がって、スクリーンに近い前のほうに席を替った。そのあたりにもやはりおとなしい巨人たち
が坐っていた。振り返って老人の顔を見ることなど恐ろしくてできなかったが、とにかくその老人が
とてつもなく巨大な体軀をしていたことだけはいまだに忘れることができない。あの男はおそらく、
年が若くて繊細なホモの男や中年のおとなしい男を探し求めてあの映画館に通っていたのだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』いつわりの恋、木村榮一訳)


 カブレラ=インファンテの「ウィタ・セクスアリス」(木村榮一)である、『亡き王子のためのハ
バーナ』からの引用である。詩人は、集英社の「ラテンアメリカの文学」のシリーズから数多くメモ
を取っていたが、これもその一つである。ゲイがゲイと出会う場所の一つに、映画館がある。それは、
ポルノ映画を上映しているポルノ映画館であったり、他の映画館が上映を打ち切ったあとに上映する
再上映専門の、入場料の安い名画座であったりするのだが、『亡き王子のためのハバーナ』の主人公
が目にしたように、行為そのものは、座席に並んで坐ったままなされることもあり、最後列の座席の
さらにその後ろの立見席のあたりでなされることもあるのだが、いったん、映画館の外に出て、男同
士でも入れるラブホテルに行ったりすることもあるし、これは、先に手を出した方の、つまり、誘っ
た方の男の部屋であることが多いのだが、自分の部屋に相手を連れ込んだり、相手の部屋に自分が行
ったり、というように、どちらかの部屋に行くこともある。また、つぎの引用のように、映画館のト
イレのなかでなされることもある。


 中年の男がもうひとりの男のほうにかがみ込んで、『種蒔く人』というミレーの絵に描かれている
人物のように敬虔(けいけん)な態度で手をせっせと上下に動かしているのに気がついた。もうひとり
のほうはその男よりもずっと小柄だったので、一瞬小人かなと思ったが、よく見ると背が低いのでは
なくてまだほんの子供だった。当時ぼくは十七歳くらいだったと思う。あの年頃は、自分と同じ年格
好でない者を見ると、ああ、まだ子供だなとか、もうおじいさんだとあっさり決めつけてしまうが、
そういう意味ではなく、まさしくそこにいたのは十二歳になるかならないかの子供だった。男にマス
をかいてもらいながら、その男の子は快楽にひたっていたが、その行為を通してふたりはそれぞれに
快感を味わっていたのだ。男は自分でマスをかいていなかったし、もちろんあの男にそれをしてもら
ってもいなかった。その男にマスをかいてもらっている男の子の顔には恍惚(こうこつ)とした表情が
浮かんでいた。前かがみになり懸命になってマスをかいてやっていたので男の顔は見えなかったが、
あの男こそ匿名の性犯罪者、盲目の刈り取り人、正真正銘の <切り裂きジャック> だった。その時は
じめてラーラ座がどういう映画館なのか分った。あそこは潜水夫、つまり性的な不安を感じているぼ
くくらいの年齢のものがホモの中でもいちばん危険だと考えていた手合いの集まるところだったのだ。
男色家の男たちがもっぱら年若い少年ばかりを狙って出入りするところ、それがあそこだった──も
っとも、あの時はぼくの眼の前にいた男色家が女役をつとめ、受身に廻った少年たちのほうが男役を
していたのだが。いずれにしても、ラーラ座はまぎれもなく男色家の専門の小屋だった──倒錯的な
性行為を目のあたりにして、傍観者のぼくはそう考えた。それでもぼくは、いい映画が安く見られる
のでラーラ座に通い続けた。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』いつわりの恋、木村榮一訳)


 俗に発展場と呼ばれている、ゲイが他のゲイと出会うために足を運ぶ場所は、ポルノ映画館や名画
座といった映画館ばかりではない。サウナや公園という場所がそうなっている所もあるし、デパート
や駅のトイレといった場所がそうなっているところもある。もちろん、その場で性行為に及ぶことも
少なくないのだが、さきに述べたように、どちらかの部屋に行き、ことに及ぶといったこともあるの
である。しかし、じつに、さまざまな場所で、さまざまな時間に、さまざまな男たちが絡み合い睦み
合っているのである。つぎに引用するのは、駅のプラットフォームの脇にある公衆便所での出来事を、
ある一人の警察官が自分の娘に見るようにうながすところである。(それにしても、これは、微妙に、
奇妙な、シチュエーション、である。)


「見てごらん」
「なにを?」
「見たらわかるさ!」
あんたは、最初笑っていたが、すぐに消毒剤と小便の、むかっとするような臭いに攻め立てられ、ほ
んのちょっとだけ穴から覗いて見た。するとそこに歳とった男の手があり、なにやらつぶやいている
声が聞こえ、そこから父親の手があんたの腕をつかんでいるのがわかり、もう一度眼を穴に近づける
と、ズボンや歳とった男の手を握っている少年の手が、公衆便所の中に見え、あんたはむすっとして
その場を離れたが、ガースンは寂しげに笑っていた。
「あの薄汚いじじいをとっ捕まえるのはこれで三度目だ。がきの方は二度とやってこないけど、じじ
いのやつはいくらいい聞かせてもわからない」
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


 あのオルガン奏者(新聞記者のなんとも嘆かわしい、低俗な筆にかかるとあの音楽家も一介のオルガ
ン弾きに変えられてしまうが、それはともかく、以下の話は当時の新聞をもとに書き直したものであ
る)と知り合ったのは恋人たちの公園で、そのときは音楽家のほうから声をかけてきて、生活費を出す
から自分の家(つまり部屋のことだが)に来ないか、なんなら小遣いを上げてもいいんだよと誘った
らしい
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)


これは、公園での出来事を語っているところである。


 男にもし膣と乳房があれば、世の中の男はひとり残らずホモになっているだろう、とシルビア・リ
ゴールは口癖のように言っていた。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)


 詩人はよく、この言葉を引用して、わたしにこう言っていた。「一人残らずってことはないだろう
けど、半分くらいの男は、そうなるんじゃないかな。」と。そのようなことは考えたこともなかった
ので、詩人からはじめて聞かされたときには、ほんとうに驚いた。「もしも、何々だったら?」とい
うのは、詩人の口癖のようなものだったのだが、もっともよく口にしていたのは、言葉を逆にする、
というものであった。そういえば、詩人の取っていたメモのなかに、こういうものがあった。


ヤコービは、彼の数学上の発見の秘密を問われて「つねに逆転させなければならない」といった。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとII』21、田中 勇・銀林 浩訳)


 言葉を逆にするという、ごく単純な操作で、言葉というものが、それまでその言葉が有していなか
った意味概念を獲得することがあるということを、生前に、詩人は、論考として発表したことがあっ
たが、言葉の組み合わせが、言葉にとっていかに重要なものであるのかは、古代から散々言われてき
たことである。詩人の引用によるコラージュという手法も、その延長線上にあるものと見なしてよい
であろう。詩人が言っていたことだが、出来のよいコラージュにおいては、そのコラージュによって、
言葉は、その言葉が以前には持っていなかった新しい意味概念を獲得するのであり、それと同時に、
作り手である詩人と、読み手である読者もまた、そのコラージュによって、自分のこころのなかに新
しい感情や思考を喚起するのである、と。そのコラージュを目にする前には、一度として存在もしな
かった感情や思考を、である。


みるものが変われば心も変わる。
(シェイクスピア『トライラスとクレシダ』V・ii、玉泉八州男訳)


そして、こころが変われば、見るものも変わるのだ、と。


 つぎに、詩人が書き留めておいたメモを引用する。そのメモ書きは、そのつぎに引用する言葉の下
に書き加えられたものであった。そして、その引用の言葉の横には、赤いペンで、「マールボロにつ
いて」という言葉が書きそえられていた。


誰にも永遠を手にする権利はない。だが、ぼくたちの行為の一つ一つが永遠を求める
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

というのは、瞬間というものしか存在してはいないからであり、そして瞬間はすぐに消え失せてしま
うものだからだ
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンノ浜辺』25、菅野昭正訳)

きみが生きている限り、きみはまさに瞬間だ、
(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・3、浜野 輝訳)

一切は過ぎ去る。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

愛はたった一度しか訪れない、
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


 こころのなかで起こること、こころのなかで起こるのは、一瞬一瞬である。思いは持続しない。し
かし、その一瞬一瞬のそれぞれが、永遠を求めるのだ。その一瞬一瞬が、永遠を求め、その一瞬一瞬
が、永遠となるのである。割れガラスの破片のきらめきの一つ一つが、光沢のあるタイルに反射する
輝きの一つ一つが、水溜りや川面に反射する光の一つ一つが太陽を求め、それら一つ一つの光のきら
めきが、一つ一つの輝く光が、太陽となるように。


心のなかに起っているものをめったに知ることはできないものではあるが、
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第三部・10、山西英一訳)

隠れているもので、知られてこないものはない。
(『マタイによる福音書』一〇・二六)

そのような実在は、それがわれわれの思考によって再創造されなければわれわれに存在するものではない
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)


 いや、むしろ、こう言おう、はっきりと物の形が見えるのは、こころのなかでだけだ、と。あるいは、
こころが見るときにこそ、はじめて、ものの形がくっきりと現われるのだ、と。


一体どのようにして、だれがわたしたちを目覚ますことができるというのか。
(ノサック『滅亡』神品芳夫訳)

だれがぼくらを目覚ませたのか、
(ギュンター・グラス『ブリキの音楽』高本研一訳)

ことば、ことば、ことば。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

言葉と精神とのあいだの内奥の合一の感をわれわれに与えるのが、詩人の仕事なのであり
(ヴァレリー『詩と抽象的思考』佐藤正彰訳)

これらはことばである
(オクタビオ・パス『白』鼓 直訳)

実際に見たものよりも、欺瞞、神秘、死に彩られた物語に書かれた月のほうが印象に残っているのは
どういうわけだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』世界一の美少女、木村榮一訳)

家造りらの捨てた石は
隅のかしら石となった。
(詩篇』一一八・二二─二三)

「比喩」metaphora は、ギリシア語の「別の所に移す」を意味する動詞metaphereinに由来する。そ
こから、或る語をその本来の意味から移して、それと何らかの類似性を有する別の意味を表すように
用いられた語をメタフォラという。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第I門・第九項・訳註、山田 晶訳)

新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)

言葉が、新たな切子面を見せる、と言ってもよい。

きみの中で眠っていたもの、潜んでいたもののすべてが現われるのだ
(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳)

言葉はもはや彼をつなぎとめてはいないのだ。
(ブルース・スターリング『スキズマトリックス』第三部、小川 隆訳)

言葉はそれが表示している対象物以上に現実的な存在なのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)

何もかもがとてもなじみ深く見えながら、しかもとても見慣れないものに思えるのだ。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第三部・11、大西 憲訳)

すべてのものを新たにする。
(『ヨハネの黙示録』二一・五)

すべてが新しくなったのである。
(『コリント人への第二の手紙』五・一七)


 結びつくことと変質すること。この二つのことは、じつは一つのことなのだが、これが言葉におけ
る新生の必要条件なのである。しかし、それは、あくまでも必要条件であり、それが、必要条件であ
るとともに十分条件でもある、といえないところが、文学の深さでもあり、広さの証左でもある。も
ちろん、引用といった手法も、その必要条件を満たしており、それが同時に十分条件をも満たしてい
る場合には、言葉は、わたしたちに、言葉のより多様な切子面を見せてくれることになるのである。


自分自身のものではない記憶と感情 (……) から成る、めまいのするような渦巻き
(エドモンド・ハミルトン『太陽の炎』中村 融訳)

突然の認識
(テリー・ビッスン『英国航行中』中村 融訳)

それはほんの一瞬だった。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』3、友枝康子訳)

ばらばらな声が、ひとつにまとまり
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

すべての場所が一つになる
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)

すべてがひとときに起ること。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

それこそが永遠
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

一たびなされたことは永遠に消え去ることはない。
(エミリ・ブロンテ『ゴールダインの牢獄の洞窟にあってA・G・Aに寄せる』松村達雄訳)

過去はただ単にたちまち消えてゆくわけではないどころか、いつまでもその場に残っているものだ。
(プルースト『失われた時を求めて』ゲルマントの方・II・第二章、鈴木道彦訳)

いちど気がつくと、なぜ今まで見逃していたのか、ふしぎでならない。
(ドナルド・モフィット『第二創世記』第二部・7、小野田和子訳)

一度見つけた場所には、いつでも行けるのだった。
(ジェイムズ・ホワイト『クリスマスの反乱』吉田誠一訳)

瞬間は永遠に繰り返す。
(イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)


それにしても、『マールボロ。』、


 人間にとって、美とは何だろう。美にとって、人間とは何だろう。人間にとって、瞬間とは何だろ
う。瞬間にとって、人間とは何だろう。たとえ、「意義ある瞬間はそうたくさんはなかった」(デニ
ス・ダンヴァーズ『エンド・オブ・デイズ』上・2、川副智子訳)としても。人間にとって、存在と
は何だろう。存在にとって、人間とは何だろう。美と喜びを別のものと考えてもよいのなら、美も、
喜びも、瞬間も、存在も、ただ一つの光になろうとする、違った光である、とでもいうのだろうか。
人間という、ただ一つの光になろうとする、違った光たち。


それにしても、『マールボロ。』、


 なぜ、彼らは、出会ったのか。出会ってしまったのであろうか。彼らにとっても、ただ一つの違っ
た光であっただけの、あの日、あの時間、あの場所で。それに、なぜ、彼らの光が、わたしの光を引
き寄せたのであろうか。それとも、わたしの光が、彼らの光を引き寄せたのだろうか。いや、違う。
ただ単に、違った光が違った光を呼んだだけなのだ。ただ一つの同じ光になろうとして。もとは一つ
の光であった、違った光たちが、ただ一つの同じ光になろうとして。なぜなら、そのとき、彼らは、
わたしがそこに存在するために、そこにいたのだし、そのラブホテルは、そのときわたしが入るため
に、そこに存在していたのだし、そのシャワーの湯は、そのときわたしが浴びるために、わたしに向
けられたのだし、その青年の入れ墨は、そのときわたしが目にするために、前もって彫られていたの
だし、その缶コーラは、そのときわたしの目をとらえるために、そのガラスのテーブルの上に置かれ
たのだから。というのも、彼らが出会ったポルノ映画館の、彼らが呼吸していた空気でさえわたしで
あり、彼らが見ることもなく目にしていたスクリーンに映っていた映像の切れ端の一片一片もわたし
であったのであり、彼らの目が偶然とらえた、手洗い場の鏡の端に写っていた大便をするところのド
アの隙間もわたしであり、彼らがその映画館を出てラブホテルに入って行くときに、彼らを照らして
いた街灯のきらめきもわたしであったのだし、彼らが浴びたシャワーの湯もわたしであり、その湯し
ぶきの一粒一粒のきらめきもわたしであったのだし、わたしは、その青年の入れ墨の模様でもあり、
缶コーラの側面のラベルのデザインでもあり、その缶コーラの側面から伝って流れ落ちるひとすじの
冷たい露の流れでもあったのだから。やがて、一つ一つ別々だった時間が一つの時間となり、一つ一
つ別々だった場所が一つの場所となり、一つ一つ別々だった出来事が一つの出来事となり、あらゆる
時間とあらゆる場所とあらゆる出来事が一つになって、そのポルノ映画館は、シャワーの湯となって
滴り落ちて、タカヒロと飛び込んだ琵琶湖になり、缶コーラのラベルの輝きは、青年の入れ墨とラブ
ホテルに入り、ヤスヒロの手首にできた革ベルトの痕をくぐって、エイジの背中に薔薇という文字を
書いていったわたしの指先と絡みつき、シャワーの滴り落ちる音は、ラブホテルに入る前に彼らが見
上げた星々の光となって、スクリーンの上から降りてくる。そして、ノブユキの握り返してきた手の
ぬくもりが満面の笑みをたたえて、わたしというガラスでできたテーブルを抱擁するのである。さま
ざまなものがさまざまなものになり、さまざまなものを見つめ、さまざまなものに抱擁されるのであ
る。それは、あらゆるものと、別のあらゆるものとの間に愛があるからであり、やがて、愛は愛を呼
び、愛は愛に満ちあふれて、「スラックスの前から勃起したものがのぞいている。」(ジェイムズ・
ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)愛そのものと
なって、交歓し合うのである。もちろん、「トイレットのなか。ジーンズの前をあけ、ちんぽこを持
って」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤
典夫訳)その愛は、すぐれた言葉の再生によってもたらせられたものであり、「彼は自分のものをし
ごいている。」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』
伊藤典夫訳)やがて、文章中のあらゆる言葉が、つぎつぎとその場所を交換していく。場所も、時間
も、事物も、「くわえるんだ、くわえるんだよう! う、う──」(ジェイムズ・ティプトリー・ジ
ュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)感情も、感覚も、状態も、名詞
や、動詞や、副詞や、形容詞や、助詞や、助動詞や、接続詞や、間投詞も、「激しく腰をつきあげる。」
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)
場所を交換し合い、時間を交換し合って一つになるのである。そんなヴィジョンが、わたしには見え
る。わたしには感じとれる。現実に、ありとあらゆる事物が、その場所を、その時間を、その出来事
を交換していくように。


やれやれ、何ぢやいこの気違ひは!
(ヴィリエ・ド・リラダン『ハルリドンヒル博士の英雄的行為』齋藤磯雄訳)

やっぱり芸術は、それを作り出す芸術家に対してしか意味がないんだなあ
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』8、井上一夫訳)

でも、
(ポール・アンダースン『生贄(いけにえ)の王』吉田誠一訳)

詩のために身を滅ぼしてしまうなんて名誉だよ。
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第四章、西村孝次訳)

そんなことは少しも新しいことじゃないよ
(スタニスワフ・レム『砂漠の惑星』6、飯田規和訳)

人生をむだにややこしくして
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』34、安原和見訳)

ばかばかしい。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』13、宇佐川晶子訳)


夜行ドライブ

  鈴屋



道が西にカーブする
サンバイザーを下ろす
暑い
エアコンが効かない
15年落ちのセダンだ

女は眠っている
唇を薄くあけ、股をひらいている
ルージュで汚れた前歯、タイトスカートのぴんと張った裾
ヒールが片方脱げかけている
助手席のサンバイザーに手を伸ばし
女の瞼にも影をつくってやる

陽が山脈に落ち、闇が田園を水位のように浸していく
右のこめかみのあたり、膨らんだ月が平行してくる
ヘッドライトがアスファルトの路面を食んでいく
蛾が横切る、一瞬、眼が赤く光って
こちらを見た
黒々つづく山並みの麓に人家の灯が点々と綴られ
そのひとつひとつに
なんのつもりか、人が宿っている

棲みつくことは堕落だよ
「なっ?」
女は眠っている

女を乗せて三日目の夜だ
はじめ、女の故郷の小さな地方都市へ行くはずだった
女が、そこで暮らそう、というのを生返事で頷いたものだが
今ではどうでもいい話だ
あてなどなくても、アクセルを踏んでいる限り
ライトの先に道はひとすじ用意され、尽きることがない
そんなことに妙に感心する

道は山に入る
上るにつれ月は冴え、峰の稜線を際立たせる
エンジン音に耳をそばだて、ギアを選び
ゆっくりと上っていく
ハンドルを右に左に
やがてフロントガラスの視界が広がり
峠に出る
小休止のつもりで車を脇に寄せ、ライトを消しエンジンを切る
完璧な静寂
ウインドウを下げる
冷気に身震いする
月明かりの下、見渡す限り山の稜線が重なっている
それが際限のない緻密なつづら模様となって夜空に溶けこんでいく
無限という感覚
不快が込み上げ目を閉じる

目をあける
耳朶からぶら下がるトルコ石
闇の中に白い顔がぼうと浮かんでいる
女は眠っている

眠りにつくことが死ぬことなら
死ぬことも悪いことじゃない
「なっ?」
女が肯いたような気がする
 
キーをまわし
先を下り
さいぜん望んだ山並みを縫って行く


バベル

  

磨りガラスの向こうの公園で
外国人に話しかけられた
どうやら、フランス語らしいが
何を言っているのか分からない

家に帰ると母親が叫んでいた
ひとつひとつは意味のある言葉
けれど、つなげると耳に入らない
彼女は歌い方を忘れてしまった

テレビを付けたら色とりどりの人たち
カメラ目線で得意気に囀っている
でも、相変わらず理解できない
ぼくの方がおかしいのだろうか

病院へ行って医者に話をした
彼は首を傾げて僕を見ている
そして、ようやく口を開くと
様々な動物の声で鳴き始めた

ぼくは途方に暮れて街を歩いた
その時どこからか、ぼくを呼ぶ声
道路の向こう側に彼女はいた
「あたしのことを憶えてる?」
にこやかに笑う顔を見ても
なぜかパーツを識別できない

それでもぼくは道を渡った
車は一台も走っていなかった
そのことに気がついた途端に
ぼくは車というものを忘れた

彼女は、ぼくを待っていてくれた
とても懐かしい匂いがした
ぼくは泣きたくなって笑い出した
そして鼻の使い方を忘れた

心配しなくてもいいと彼女は言った
愛も、憎しみも、希望も、数式も、
すべてが生まれた海に還っただけ
そして私たちはもっと散らばるの

とても懐かしい見知らぬ彼女は
すぐに風景と見分けがつかなくなり
自分の存在を忘れてしまったぼくを
スカートの中に飲み込んで消えた


Anthropomorphic landscapes

  はなび


Anthropomorphic landscapes I

扉を開けると un bel di,vedremo が きこえた
奥の 部屋へと続く 扉のまた向こうからきこえる

この建物には 扉がたくさんあり どの扉も ひら
かれるのを 拒むようでいて また 待ち望んでい
るようでもある

建物の内部ではいつも 何かしらの音楽が移動して
いる 匂いも 空気の震動によって 常にうごいて
いる

眼球の如きテーブルが ぎょろ ぎょろ 辺りをみ
まわしている 寝起きの巨人の 髭の様なカーテン
シーツ 脱ぎ 散らかした ローブの 襞の 類い

浴室 台所 下水 へと続く ゆるやかな曲線 電
気コードの からみあう 束の 赤 黒 白 黄色
コバルト

もうすぐ 何かがはじまろうとしている  前にも
聞いた いつも 誰かが口にする まじないのよう
な ことば 良いことなのか 悪いことなのか 誰
もいちばん深いところには 届かない まま 何か

何か 何かが起こる ことだけ 明確にして 自然
の猛威にさらわれた 人間の数を越えてゆく

 我々

に内包された力は 姿を変えて ある 晴れた日に
あらわれる 空を見上げれば 雲が 恐ろしい顔を
していた


Anthropomorphic landscapes II

真空チタンのカップにビールを注いでくれる友人
うすくスライスしたカラスミをあぶりながら
ニューヨークに住む音楽家がつくった歌をハミングしている

少し音程がはずれても それは それで 魅力的
白いシャツからのぞく 逞しい民族のモチーフ
細い腕が アンバランスでも
それは それで よく似合ってる

海を眺めながら スタートレックに登場したゲームを
5回して 日が暮れるまま バルコニーでさらされた

水平線と 空と 雲とが フルートグラスにうつされた
ゼリーみたいに透き通っていく

真っ暗な宇宙空間に 吸い込まれて おなかが空いた
空っぽになって 
心地良く使い古された 木べらで

じゃがいもを うらごす
お皿に残った 混沌のソースを
掬って きれいに さらう


Anthropomorphic landscapes III

おばけばなしの好きな おじさんが やってきて

おばけのことを決して 馬鹿にしてはいけないと言った

おばけばなしが怖いのは おばけが こわいのではない

奥底に眠る 人間の 垣間見えるのが 恐ろしいのだと


They talk of my drinking but never my thirst

  浅井康浩

温めたグラスにコーヒーを入れる。そこに泡立てたホイップクリームを浮かべ
て、さて、「一頭立て馬車の御者」が出来上がる。19世紀の冬の夜、恩寵として
降る雪を見上げ、御者たちが啜った飲み物をおぼえているだろうか。今の僕な
ら、アイリッシュ・ウイスキーを30ml、加える。幼かったわたしたちの身体に、
あたたかで繊細な時間が流れますよう。淡いブラウンのまなざしに、そっけな
いグレーの空。あかるくてやさしいばかりの空間を無為にするためでなく、た
だ、あの頃とひとつの境界線をしるすため。


ひとつの修道会が生まれ、それとおなじ世紀にひとつの蒸留所が生まれる。ア
イルランドにとって、12世紀とはそのような世紀となる。いくつもの戒律が修
道士に課され、多くの若者が掟を守る。ひとつ挙げるならば、沈黙。修道院の
流儀として、余計なことは言わず、寡黙に過ごす。言葉を交わすことは許され
ないなかで、修道士は幾重もの指文字の文法を洗練させてゆく。傍らで、あり
がちなように、ひとりの半端ものが蒸留酒に手を出し、のめり込んでゆく。そ
して数世紀のち、ひとつの半端な王国が蒸留技術に手を出してしまう。


主要生産品が蒸留酒である王国で、ひとりの男が密輸に手を出す。東に湾が突
き出し、西に岬がそびえるこの地では、洞窟だけが密造と密売の舞台にふさわ
しい。寡黙な密輸仲介者が、輸入、輸出、製造、交換取引すべてに実入りを求
め組織同士が情け容赦なく殺し合う世紀まで時間はある。一世紀以上のうさん
くさい噂をブレンドし、荷揚げされた時点で、ギャンブルとアルコールに溺れ
る男たちの喉に流れるという単調なプロセスのために男は土地の流儀をわきま
え、粛々と荷詰めをこなす。


この土地の文学は繰り返し語る。母語を失うことと別種の痛みを。過去を現在
形で語り、過去から現在に戻った者が過去をよみがえらせつつ未来を告げる物
語は、幾重にも過去と現在を折り重ねた果てに循環させようとする洗練された
リトルネッロとなり、だが、わたしたちの発する言葉はもはや、正確に翻訳さ
れることもないまま無気味なものへと転化する。あなたなら、1900年、泥炭が
暖炉にくべられていた頃の物語を思い描いてみることもできるかもしれない。
さまざまな蒸留所の物語。いくつもの聖パトリックの奇跡。聞き取ることさえ
できないゲール語のさざめき。ひそやかに沈澱されてゆく時間に身をよせあい、
過去の時間の流れに交差するように、いくつかの時間が流れだすこともあるか
もしれない。あるいは、その声は、聴こえない。よどみなく連なる発音が、あ
なたを言葉そのもののなかに閉じこめてしまい、ときおり訪れる息継ぎの不思
議さから語り手の魅惑的なくちびるをあらぬ方に想像してしまうように、入り
混じり飛び交う言葉のあかるさが、うしなう意味をことほぐだろう。だが、あ
なたは知っている。この島嶼の書物が、しあわせな死者を描くことがなかった
ことを。ひとすじにつらなるこの土地の歴史をながめ、そこから死者がひっそ
りと消えてゆくあいだ、この土地の曝されてゆくもののなかに―キリスト教の
伝播、大英帝国の支配―死ぬことと蘇ることの感覚が停止して死の世界から生
の世界へ回帰してくる幾篇かの物語を読みとろうと努めているだろう。


スコッチが衰退へとシフトしてゆく、そのような戸惑いの感覚はいずれにせよ、
ロマンティシズムとして、あるいはダンディズムとして埠頭のビストロの内側
に溶け込み、旅人の一杯のグラスのなかへ沈んでゆかざるをえない。島で生き
ざるをえず、時間の満ち引きのなかで減衰を受け入れるとき、島嶼の記憶へと
刷りこまれてゆく際に、たえず復誦される二つの記憶がある。ひとつはすべて
の住民がウイスキーの密造業者となり、もちろん羊泥棒でもありつづけ、治安
判事裁判所に持ちこまれた密造事件が4201件にのぼる1819年、そこではロバ
ート・バーンズが「最も哀れな酒」とよんだ蒸留時間のきわめて短いウイスキ
ーさながら不道徳な年であり、島に腐敗のシステムの基礎を築く。この場面に
続くように別のイメージが現れる。スコッチの歴史を諳んじる人があれば、わ
かるだろう。蒸留所の樽からわずかながらバタースコッチの匂いが浸みだし、
モルトを嗅げば、果実臭と甘い香りが立ちのぼってきたあとで、燻蒸した麦芽
からくるピート香が開きはじめる記憶。それはセント・アンドリュー・クロス
を白馬が掲げるには早すぎた当時でさえ甘すぎる反復であり、島の歴史を記述
する際に必要な勅令や禁令、刑の執行、生産物や貨幣の公定価格が濃密に流れ
てくるトゥイード川の南をスコティシュ・ボーダーズはどうしようもなく酔い
つぶれながらしか、見ることができなかったのである。琥珀色のなかには亡霊
のように現れ出でた過去のさまざまな物語があるだけだ。川を越え国境をへだ
てたどんな町にでも行くことができ、そのどこでも樽という樽が、この場所よ
りも高い湿度や気温に埋め尽くされ、呼吸するように揮発成分が樽の外へ蒸散
し、明るく輝くような色を帯びてゆくのを眺めることができる、そのような物
語はいっさい存在しないのだ。


ノルマンディー・コーヒーのレシピが、世界大戦さなかのアイルランドの港町
フォインズで生まれたことを憶えている人であれば、飛行艇が水上で給油する
間、コクピットに忘れ去られたままの沿岸測量部発行の大西洋横断航空図に曳
かれた数々の線をなつかしく思い浮かべることもできるだろう。そして、カル
バドスをめぐる記憶は、さらにささやかなものとなるだろう。たとえば原料と
なる林檎の貯蔵法のような。あるいは発酵させた果実の蒸留法のような。だが、
「飲む」ということ以上に、その土地への、あるいは時間への関わり方がある
だろうか。その土地がもたらすもの、大地に密植させることで栽培される樹木、
受粉する蜜蜂の飛行、雨とともに訪れる6月の降雨量と昼夜の温度差、あるい
はオーク材の樽における蒸留から熟成までの流れをそのまま受け取るように、
記憶するように関わることは。気候、土壌、日照。そのどれもが肥沃であるが
ゆえに葡萄の、そしてブランデーの製造に適さずにいたこの平野部が、穏やか
な湿気と粘土質の土をもって「アップル・ブランデー」カルバドスをつくりあ
げた16世紀には、聖パトリックの島嶼においてさえ、果実酒へと発酵してゆ
くための繊細でおおらかな時間が流れはじめる。爪先にまでしみる寒さのなか、
ただ待つだけの空隙をなぐさめることになるささやかなレシピを整える準備が、
じんわりと人々の気持ちに行きとどいてゆく


浮遊する夢の形状

  前田ふむふむ



       1

鎖骨のようなライターを着火して
円熟した蝋燭を灯せば
仄暗いひかりの闇が 立ち上がり
うな垂れて 黄ばんでいる静物たちを照らしては
かつて丸い青空を支える尖塔があった寂しい空間に
つぎはぎだらけの絵画のような意志をあたえる
震える手で その冬の葬列を触れれば
忘れていた鼓動が 深くみずのように流れている

わたしの耳元に 幼い頃
おぼろげに見た 赤いアゲハ蝶が
二度までも舞う気配に 顔を横に寝かせれば
静寂の薫りを運んで
金色の雲に包まれた 羊水にひたるひかりが 遠くに見える

あの霞のむこうから わたしは来たのかもしれない

剥ぎ取られた灰色の断片が 少しずつ絞られて
長方形の鋏がはいる

わたしは 粗い木目の窓を眺めながら
捨てきれない 置き忘れた静物といっしょに
墜落する死者の夜を見送る
  まだ始まらない夜明けのときに――

     2

朝焼けが眩しい霧の荒野が 瞳孔の底辺にひろがる
赤みを帯びて 燃えている死者の潅木の足跡
そのひとつの俯瞰図に描かれた
白いらせん階段が 空に突き刺さるまで延びた
古いプラネタリウムで
降りそそぐ星座を浴びた少女がひとり
凍える冬の揺り篭をひろげた北極星を
指差しながら
わたしに振り返って
ここが廃墟であると微笑んだ
あの少女は 誰だったのだろう
なにゆえか 懐かしい

窓が正確な長方形を組み立てて
視界になぞるように 線を引く
線は浮遊して 静物に言葉をあたえる
次々と引きだされる個物のいのちは
波打つひかりのなかを 文字を刻んで泳いでいく
やがて 線が途絶えるところ
わたしは 線を拒絶した荒廃した群が 列をなして
窓枠をこえていくのを見つめる
見つめつづけて

       3

思い出せないことがある
わたしの儚い恋の指紋だったかもしれない

単調な原色の青空を貼り付けた風景が 声をあげて
わたしに重奏な暗闇を 配りつづけている
時折 激しく叩きかえす驟雨を着飾れば
(空は季節の繊毛が荒れ狂い
        ――あれは、熱狂だったのか
白い雪が氾濫して 皮相の大地を埋めれば
(モノクロームの涙に 染める匂いを欲して
        ――あれは、渇望だったのか
わずかな灯火をたよりに 手を差しだせば
繰り返される忘却の岸に 傷ついた旗が見える

思わず瞑目すれば
ふたたび 貼り出される白々しい単調な音階に
身をまかせている わたしの青白い腕
すこし重さが増したようだ

長方形の額縁のような窓が 果てしなく遠のいてゆく
限りなく点を標榜して

いや はたして 窓などはあったのだろうか

仄暗い闇のなかで わたしは 痩せた視線で
忘れたものを いつまでも眺めている
眠っている静物たちを見つめて
灯りが弱々しく沈んでいくと
眠っている鏡台の奥ゆきから覗く
寂しい自画像がうつむく

茫漠と 時をやり過ごし
時計の秒針が崩れるように 不毛が溶けだすとき
微候を浮かべる冷気にそそがれて
燦燦とした文字で埋めたひかりが
硬直して 延びきった足のつま先に 顔を出す
わたしのうつむく眼は 輝くみずに洗われている

やがて、訪れるはじまりは
ふたたび、夢の形状をして――


ガードレール

  村田麻衣子

オルガンの鎮静を始めますが ちょうどいいボリウムが、 わからない
からあ あ 通る声 は拡声器で顔が覆われて誰だか わからないけれ
ど笑って迷子のお知らせをするまえに 買い物をしないと 笑って 神
経がばらばらに剥かれ る料理を始めた午後になった、あたりから ね
え 魚をペーストに してあげた 助詞を なくして」 つなぎあわた
ら あ あ ああなたにはしてほしく ないことばかり あるで だか
らあなたのからだがだめにされる前には 冷めようがあたたまろうが 
どうでもよかった

たべさせられる フードプロセッサーで砕かれた骨 はあなたの裸を憶
いださせてくれる湿度と匂いといなくなってから咲いたベランダのヒヤ
シンスの事を まだ常温であたたかいけれどだんだん冷たくなるんでし
ょう外気の影響を受けやすいから、彼は気候を気にしているその影響で
わたしはテレビをつけて天気予報の放送を流してやっと 眠りについた

あらかじめ笑っているマネキンが 手首をわたしにくれたからわたしは
抱きしめてあげた して欲しいことがわからない わたしのからだのほ
うにかなしみがたまりつづけていった 誤って変換されてそれは、あな
たに対して怒っていたり、笑っていたりそうね、愛している、というの
だけが違った感情の流れにはっとするからすべてを包みこんで 手首を
遠くにやらないようにからだに縛りつけてあげた 救急車のサイレンが
騒々しくてたまらない あなたは切断された手首だけを見つめていたか
ら かんかくのすべてを麻痺させないといけなかった

迷子のお知らせをします

記憶のなかのあなたとわたしの知らないあなたをつなぎあわせる 対象
を失ったきのうのわたしからそうして迷子だらけが生まれたんだ スー
パーマーケットはの駐車場は夜の 教会の室内を、破壊したみたい 
やさしさにはモザイクをかけてまじまじ眺めて 朗らかな風すら 常温
を上昇し続ける くちうつしで甘みを映しとるエアコンディション 鼓
動を左側から開放されていて鋭利につきささるほど 交通整理のコーン
がばらばらになっていた プールサイド 水中に顔をおしつけたら目が
痛くて見えないものが見えるみたいアスファルトは色彩を濁らせ、かた
くてやわらかい

目をあけてたら目が痛くて 洩れた声を遠くに感じた しゃべる声より
吐息がまじって呼吸みたい
聖書が読めないわたしたちは感情を離脱して しゃべっている。
マイゴノオシラセヲシマス

感情を離脱したような話し方をする あなたは、アナウンス通りに行動
するわたしが 嫌いだったんでしょう好きで堪らなかったんでしょうオ
ルガンが鳴ってからわたしは
迷子の子供たちを順番にならべて番号をつける
顔のないそのこたちが帰れるように家に暗幕を張っていたら
部屋は海みたいに 漣のBGMをザーザー振りの、雨の音が
そこに帰っていいのとわたしに問いかけ、放送様の口調で帰っ
ていいよという
寄り添うことを否定された誰かを否定してやっと
わたしは懐かしさを否定して抱いた悲しみと新しい感情を
あの頃にもどることはできないけれど、必ずここに帰って来るから

ただしい 反応が もたらせれず かなしいのに笑ったり、怒りたい
のにかなしそうな顔をして疲れきっているせいにするけれどそれは、
疲労に左右されて、中二階にある植え込みの色彩ごとに鎮静をかけ深
いところの色にやっと届くから駐車場にやけに響いてしまう
表情の乏しい女性 ランウェイで歩く距離より遠くにいけない 悲し
みがあらゆる角度から押し寄せてきたのを、敏感に感じて彼女は睨み
つけたファッションショウ。浮遊力が足元にあってね、それが嘘みた
いな生きている感覚を、じゅうりょくをさかさにしてそうね、生きて
いるというのは自分自身への命令に過ぎないんだわ

泣くことで肯定していた。ちからいっぱいなくと目が腫れて 顔中か
ら液体が流れていたかなしんだとしてもうつくしくもなんともない 
それをまた考えていたら 交通整理のネオンライトをもっているひと
が いつもと違うひとだったようにも見えて安心してわたしは、対象
をもたないから迷いこんだ色彩や熱線に 力を奪われて眠る
国道に抜けていく私道から、その色に支えられても ガードレールの
白さには伝わないように
家に帰っていった


丘の上の黒い子豚 un cochon sur la colline

  はなび


入り江に潜り込んでゆく景色のような模様が皿の上に描かれていた。青と金の手描きの線の上に農夫のにぎりこぶしくらいの赤っぽいジャガイモが、泥のついたまま放置されいている。ジャガイモを誰がはこんで来たのか僕はしらない。

おとといは、あさってには出発する予定だと言っていた宿屋の主人らしき男も、従業員達も、ただ落ち着かない様子で行く先々での心配ばかりしていた。不吉な言葉を言いあっては耳を塞ぎ、延々とネズミの形のビスケットを食べ続けている。

女主人が大鍋でトマトのスープを煮込んでいた。ひとつ足りないジャガイモについて妙な歌を歌っている。泥棒と子豚と足の生えたジャガイモ、詐欺師、薬剤師、巨大な蛸と勇者の物語、夏の夜中に咲く花のことについて。それらが走馬灯のように回転している歌だった。

翌朝、しらない男に起こされ、出発するから今すぐ支度しろと怒鳴られた。僕はゆっくりと寝床から起き上がり視線の先の窓を眺める。窓の外の景色は昨日までとはまったく変っていた。赤っぽいジャガイモのような地面が地平線まで続いていた。

年代物のバスが宿の前までむかえにきていた。宿屋の主人も女も従業員達も、しらない男もみんな先に乗り込んでいた。地面がとても熱くて靴の底が溶けそうだった。バスのタイヤが使い物にならなくなるのは時間の問題だから早く乗れと怒鳴っている。はやくはやくはやくと怒鳴っている連中は相当に怒っている様子だった。何に対して怒っているのか。グラグラと煮立ったスープの鍋があぶくだらけになってあちこちに散乱している。けれどもう誰も片付けようとする者がいない。

とにかく全員が乗り込んだというところでバスは出発した。タイヤよりも先に、もうエンジンがダメになりそうなバスだということが明らかになり僕も腹が立った。誰に何と言うべきか。

窓からの景色は昨日までとまったく同じ様に見えたり、じゃがいもの荒野に見えたり、タイヤやエンジンがぐらぐらする度に、ぐにゃぐにゃと入り交じり、胃の奥の方からピリピリした炭酸水が噴き出しそうだった。やっと入り江に面した丘が見えてきた。丘の上には黒い子豚が小さな祈りを捧げる為の棒切れのような神殿が建っている。棒切れのように見えるのは昔に焼け焦げたものをそのままにしてあるからだ。人びとは忘れない為にそのままにしたのに、覚えている者の多くは死んでしまった。日に焼けた黒い子豚のつぶらな瞳に、怒鳴りあう人間や間抜けな僕が映し出される。エンジンは朦々と煙を噴いてやっとそこで止まった。


正月

  夢野メチタ

三が日は毎年家族で過ごす。朝はコタツにくるまって年賀状の仕分けする。おとん おとん おかん おとん おかん じいちゃん おとん あにき おとん おもち おとん おかん おとん なんこ じいちゃん おとん? おかん あにき にこ おとん。そのうちじいちゃんが起きてきて、お国のために〜て騒ぐから、じいちゃんそりゃてっぽうじゃねえちくわだって教えてやってちくわ咥えさせてやった。元旦だってのに外は雨模様で、やぁねぇもぅとおかんが雑煮かき混ぜながらこぼす。おかあさん、せっかくなんで今日は家でのんびりしましょうって、ねえさんがこぼした雑煮を片付ける。その左手には確かにほんもののダイヤが輝いていて、細いし、白身魚みたいだ。細いし、白身魚みたいだっていってみたら、もうそれどういう意味〜っていたずらっぽく笑った。今年初めての一家そろった食卓で椅子が一脚たりねえからおれだけなんか気つかうわ。気つかって数の子食べないでいたら、それでいいみたいな雰囲気になるのを待った。テレビがどこかの商店街の様子を映す。おとん、朝刊広げて電力はあるに越したことないってぼやいた。おかんは年甲斐もなく美肌とか気にして、こちらアセロラがお買い得ですよ。テレビがいう。ねえさんがいう。横であにきが黙々とエビの殻むいて、じいちゃん金ぷんとかばかみたいに浮かんでる焼酎飲んで、おとんおかんあにきじいちゃんねえさん、おれ。チャンネル変えて漫才やってたから、それみてときどき笑った。おれがばかみたいに笑ってるのみてあにきがちょっと睨んだ。あにきが食後にコーヒーなんか飲んでてじいちゃんすっげー嘆いてる。でもじいちゃん、コーヒーはアメリカのもんじゃねえよっておとん。おかんが笑う。おとんも笑う。ねえさんがいたずらっぽく笑う。おれ食い終わってすることねえから、チラシについてた福笑い切って遊んでんだけど、なんかい並べてもなんかい並べても目と鼻と口がはみ出る。じゃあなんだったらはみ出ねえんだよって思ったけど、だいたいにおいてはみ出てる気がした。


I FEEL FOR YOU。

  田中宏輔







きのう、友だちと水死体について話していたのだけれど、水死はかなり苦しいから、水死はしたくないなと言ったの
だけれど、ヴァージニア・ウルフは入水自殺だった。ジョン・べリマンも入水自殺だった。パウル・ツェランも入水
自殺だった。ぼくは入水自殺はしたくないな。





水死体について、というのは、死体の状態について、ということ。ぼくは、鴨川の上流の賀茂川に、牛のふくれあが
った死体が、台風のつぎの日に流れて、というか、浮かんでいるのを目にしたことがあるって言ったら、友だちが、
人間の水死体もばんばんに膨れ上がってるで、というのだった。





むかし、外国の台風のつぎの日に、船がひっくり返って、カラフルなTシャツを着た乗客の死体がたくさん海に浮か
んでいるのを見て、ホイックニーの絵のようだと思ったことがあると言うと、友だちが、それ、背中からしか見てへ
んからや、と言った。たしかに、背中が海面の上に





ちょこっと浮いてて、カラフルなTシャツを着たたくさんの水死体がプカプカと浮いていた。台風のつぎの日の晴れ
の日。海はひたすら青くて、波は陽の光にキラキラと輝いていた。きれいだと思った。まえに見た水難事故での死体
の数を数えるようなことはしなかったけれど。とてもきれいだと思った。





パンは人のためのみにて存在するにあらず。





機会に弱い。





うわ〜、ひとさまを幸せにしてたんですね。 @taaaako_1124 ずっとチャック全開やった…





幼稚園のときは、男の子同士でも平気で手をつないでた。





感情殺戮ペットを買ってきた。さっそく檻に入れて、ぼくの感情を餌にやった。すると、そいつは、ぼくの感情に咬
みつき、引き裂き、バラバラにして食い始めた。いろいろな感情を餌にやったけれど、いちばんのごちそうは、ぼく
の妬み嫉みの感情だった。





意図電話。





きのう映画を見に行った。はじめぜんぜんおもしろくなかったけれど、ところどころで何人かの観客の笑い声が聞こ
えた。死刑囚が最後の食事を拒むところで何人もの観客の笑い声が聞こえたので、おもしろく思える薬品ワラケルワ
ンを注射した。すると、まったくおもしろくない死刑囚の足だけがぶら下がってるシーンで、ぼくもゲラゲラ声を上
げて笑い出した。





感情分裂。1つの感情が2つの感情に分裂する。2つの感情が4つの感情に分裂する。4つの感情が8つの感情に瞬
時に分裂する。1つの感情が2の10乗の1024個の感情に分裂するのに1秒もかからないのだ。きみは、ぼくに
感情がないってよく言うけど、じつはありすぎて、ない





ように見えるだけなんだよ。いっぺんに1024個の感情を表情に表してるんだからね。きみに、その1024個の
感情を読み取れるわけがないよ。(そして、感情同士が打ち消し合うってことも、ないんだからね。うれしさと悲しみ
が打ち消し合ってゼロの感情にはならないんだよ。)





感情濃縮ソフトを買ってきた。さいきん感情が希薄になってきたような気がしていたから。喜怒哀楽をほとんど感じ
なくて、そろそろ感情を濃くしなきゃと思って。まず感情抽出してそれを感情濃縮ソフトを使って濃縮していった。
画面のうえで、ぼくの感情の濃度が濃くなっていった。





形のあるものは崩れる。というか、形成力と非形成力がせめぎ合うことがおもしろい。命のあるものが命を失うこと
がおもしろい。命のないものが命を得ることがおもしろい。しかし、命のあるものが命を失うことが必然であるよう
に、形のあるものが形をなくすことも、必然ではないの





だろうか。短歌や俳句は、いったいいつまで、あの形を保てるのだろうか。形を残して命を失うことがある。命を失
うことなく、形を維持することは可能なのであろうか。もしも、可能であるのならば、何がその形に命を保たせてい
るのであろうか。たいへん興味深い。20年ほどむかし





のことだけれど、ぼくが下鴨に住んでいたとき、共産党の機関紙に1年半か2年ほど詩を連載していたのだけれど、
その当時、左京区の下鴨で、共産党の方々や、その奥様たちが参加なさってた俳句の会に行かせていただいていたの
だけれど、ぼくのつくる5・7・5の音節数でつくった





俳句は、ことごとく、俳句ではないと言われた。俳句は形だと思っていたぼくはびっくりした。いまでも、その驚き
は変わらない。いまだに、なぜ、ぼくのものが俳句でないのか、わからないのだ。たとえば、こんなやつ。「蟻の顔 蟻
と出合って迷つてゐる」俳句じゃないのかな?





きのう、めっちゃお酒飲んで、すっごいヨッパだったのに、モウ・バウスターンさんの英詩の翻訳のまずいところが
4カ所思い出されて直した。訳語がまずいなと思っていたところを、無意識のぼくが直したって感じ。ぼくの無意識
は、ぼくの意識よりも賢いのかもしれない。ありゃりゃあ。





でたらめにつくった式で、きれいな角度(笑)が出てきたので、自分でもびっくりした。きのうときょうは、思い切
り無意識領域の自我が働いてるのかもしれない。





ない席を求めよ。





いろいろな人に似ているひと。





たいへんに興味深いです。 @fortunate_whale 電車で帰宅途中なう。隣にチューバッカみたいなもじゃもじゃが座っ
て、毛が痛いのですがどうやって回避するべきか。





いろいろな髪形のひとに魅かれます。むかし付き合ってた青年が短髪のおデブさんだったのですが、10年後に会っ
たら、ソバージュのおデブさんになっていたので、びっくりしつつも、ああ、かわいいなと思ったことがあります。
髪形で顔の印象ぜんぜん違いますけれど。 @fortunate_whale





コーちゃん、ジュンちゃんのことだよ、笑。





それでP・D・ジェイムズや、ヴァージニア・ウルフなどのイギリス人の女性作家の情景描写がすごいことが納得で
きました。 @fortunate_whale 女の人は男より子どもの異変に気付くために視覚細胞が男の人より多かったり、嗅覚
が優れているんす。だから逆に、細かいことうだうだ言うのです。





襲われませんように! @taaaako_1124 いまからノンケをつれてニチョへ。





ぼくの書く詩は、ほとんど血と骨と肉だけでできたものだと思うのだけれど、多くの詩人の詩は、やたらと服を着飾
って、帽子をいくつも被ってるものだから、顔だけじゃなくて、手の甲さえもチラとも見えない。LGBTIQの詩
人たちの英詩は、そんなことなくて、とってもなナチュラル。





靴下のようなひと。一日じゅう履いてた。





ブサイクなぼくが、ブサイクじゃないと言う権利があるように、カッコいいひとが、カッコよくないと言う権利があ
るのかどうか。一日がエンジョイしている。エンジョイが一日していると言ってもよい。そろそろスープはコールド
にしてほしい。その皿のなかの景色。景色のなかの皿。





ぼくはむかし、吸血鬼になりたいと思った。夜ずっと遊んでいられるから。ぼくはむかし、クレオパトラになりたい
と思った。絨毯にまかれて、ぱっとほられて、くるくる転げまわりたかったから。さんざんな夏だった。恋人からは
平手打ち。あまりの表情の変わりように、おしっこ、ちびってしまった。





いま日知庵から帰った。ヨッパである。詩は悲しい楽しみであり、楽しい悲しみである。人生もまた、悲しい楽しみ
であり、楽しい悲しみである。人間もまた悲しい楽しみであり、楽しい悲しみである。えいちゃんに、アムロ・ナミ
エという名前の歌手のCDを渡された。





この歌、ええねん。といって、「GET MYSELF BACK AGAIN」という曲の歌詞を読ませられる。ひさしぶりに涙が落ちた。
人間はときどき泣かなあかんなあと思ってたけど、じっさい泣いたらなんか負けたような気がする。なにに負けるの
か、ようわからんけど。





きのうは、つくづく、人間であることは、悲しい楽しみであり、楽しい悲しみであると思った。





詩においては、形もまた言葉なのである。余白が言葉であるように。





詩は、悲しい楽しみであり、楽しい悲しみである。生きていることが悲しい楽しみであり、楽しい悲しみであるよう
に。人間自体が悲しい楽しみであり、楽しい悲しみであるように。





「ほんとうの嘘つきは隠さない。」 これは、えいちゃんの同級生の山口くんの言葉だったかな。言えてるかもにょ。





大岡 信さんに、91年度のユリイカの新人に選んでいただいたのですが、東京でお会いしたときに、「そろそろ天才
があらわれる頃だと思っていました。わたしが選者でなかったら、あなたの詩は選ばれることはなかったでしょう。」
と言われました。





「あなたの言葉はやさしいけれど、内容がむずかしい。」とも言われましたが、ぼくが、第二詩集の詩集『The Wasteless
Land.』をお送りしたら、絶縁状みたいな葉書きが送られてきて、全否定されました。それ以来、詩集をお送りしても
ご返信はありません。





こういう何気ないひと言が、詩への架橋なのです。このひと言、ぼくの詩に使っていいですか? @taaaako_1124 最
近、カシューナッツばかり食べてる。





そいえば、前彼とはじめて出会ったとき、ふたりともハーフ・パンツだった。バイクを降りて、手を振って笑ってた。
もう10年近くもまえの光景だけど。そのときいっしょに入ったサテンも、もうなくなってる。





ウィンナーの缶詰を子どものときによく食べた。51才のぼくの子どものときのことだから、40年ほどまえのこと
だろうか。パパが好きだったのだ。塩味のウィンナーで、子どもの人差し指、いまのぼくの指だったら小指ほどの大
きさだろうか。両端が剥き出しで、薄い皮がタバコの





巻紙のように、その子どもの人差し指のようなウィンナーを包んでいたのだった。いくつくらい入っていたのだろう
か。せいぜい10個ほどだと思うのだが、そのウィンナーを食事のときに食べた記憶はない。ぼくの家では、他人も
食卓につくことがあったので、食事の用意はお手伝いの





おばさんとママの2人でやっていたはずで、そんなものが出てくるわけがなかった。しかし、そのウィンナーの味は
おぼえているし、パパが好きだったこともおぼえているのだった。しかし、記憶の欠落について思いを馳せても仕方
がないし、そもそも書こうとしていたことと、そのウィ





ンナーの味や、いつ食べたのかとかいったこととは関係がなかったのだから。書きたかったのは、そのウィンナーの
缶詰の開け方なのだった。トライアングルのような形をした、指を押しあてるところと、その柄の先に、缶詰の側面
上方にDの形に出たところをひっかけて回さす細い穴が





ついていて、それを缶詰の側面の形に合わせて、くるくると巻き取ると、缶詰のふたが開くのであった。さいごに残
った5ミリほどのところで、缶詰の上部をパカッと裏返して開けるのだった。黒板に数式を書いていた教師の身体が
突然とまった。生徒たちの指もとまった。教師は静かに





椅子に腰を下ろした。教師が側頭部のDにオープナーの端をひっかけると、くりくりと頭の形に合わせてオープナー
に頭皮と頭蓋骨の一部を巻きつけていった。生徒たちも全員、教師と同じようにオープナーを使って頭皮と頭蓋骨の
一部をオープナーに巻きつけて





いった。パカッという音をさせて、頭頂部を切り離すと、教師はそれを教卓の上に置いた。生徒たちも、それぞれ、
自分たちの机の上に、自分たちの頭頂部を外しておいていった。ゲコ。ゲコゲコ。ゲコ。ゲコゲコ。生徒たちの頭の
池のなかで、蛙たちが鳴きはじめる。ゲコ。ゲコゲコ。ピョンっと





飛び跳ねて、生徒の頭の池と池のあいだを飛び移る蛙たち。ゲコ。ゲコゲコ。ゲコ。ゲコゲコ。あのウィンナーをい
つ食べたのかは思い出せないのだけれど、教室じゅうで、蛙たちが飛び跳ねて鳴いていたのはおぼえている。教師が
自分の頭頂部をはめ直すと、生徒たちも自分たちの頭頂部をはめ直して





いった。遅刻してきた生徒が教室の扉をあけると、一匹の蛙がゲコゲコ鳴きながら教室の外に出ていった。遅刻して
きた生徒が、遅刻してきた理由を教師に告げて、自分の席に坐った。隣の席の男の子の頭の池を覗くと、そこには、
いるはずのその男の子はいなくて、濁った池の水がある





だけだった。チャイムが鳴っても、その男の子の頭の池には、その男の子は戻らなかった。それから何年もして、ぼ
くが高校生くらいのときに、賀茂川の河川敷で恋人と散歩してたら、蛙がゲコゲコ鳴きながら目のまえを横切って、
川のなかに、ボチャンッと音を立てて跳び込んだ。風のなかに、





川のにおいと混じって、あの缶詰のウィンナーのにおいがしたような気がした。恋人は、ぼくの顔を見て微笑んだ。
「どしたの?」ぼくは首を振った。「べつに。」ぼくは恋人の手をはなして、両腕をかかげて背伸びした。「帰ろう。」
と言って、ぼくは恋人の手をとって歩いた。





バス停で別れるとき、ぼくはすこし気恥ずかしい思いをしながら、恋人がタラップを駆け上がるのを見ていた。なぜ、
ちょっとしたことでも照れくさく思うのだろう。ちょっとしたことだからだろうか。





「ちょっと、すいません。堀川病院へは、どう行ったらいいですか?」ハーフパンツ姿の青年に声をかけられた。堀
川五条のブックオフから出てきたばかりのぼくは、さいしょ何を訊かれたのかよくわからなかった。青年は、さま〜
ずの三村のような感じだった。ぼくが目を





大きくあけると、青年は、自分の携帯の画面をぼくに見せながら、つぎつぎとメールを見せていった。3つ目か4つ
目のメールを見て、ぼくにも事情が呑み込めた。「堀川病院の角で待ち合わせをしてるんです。」たしかに、危険なゲ
ームを楽しむ年齢だと思いはしたが、一方、そんな





ことをせずとも、そこそこの女性なら簡単に手に入る容貌をしているのに、などと思ったのだった。その話を日知庵
で、えいちゃんに言った。「なんで、あっちゃんに声かけたんやろか?」、「さあ、おっさんやから、恥ずかしくないと
思たんちゃうかな。」





電車の窓の外の景色に目を走らせた。近くは素早く動くのに、遠くはゆっくりとしか動かないのだと思った。理由は
わからなかったけれど、いまぼくが乗っている電車がいちばん速く動いていて、この電車からもっとも遠いところは
とまっているのだと思った。





これからお風呂に。それから塾。帰りは日知庵に。富士山に行かれる方たちを見送りに。雨が降りそうだ。えんえん
と、ノーナ・リーブズの『CHOICE』を流している。ときどき蛙のようにゲコゲコ鳴いて飛び跳ねてやろうかと、ふと
考えたけど、体重が重いから、すぐに膝を傷めるやろうね、笑。





ありがとう。楽しんでもらえて、うれしい。 @youquigo 田中宏輔さんの詩集評、おもしろい。一冊の詩集を、一ヶ月
の日付入りで、読み手の生活や感覚の起伏そのまま日記みたいに詩を読んでゆく書き方が新鮮。骨おりダンスっvol.
9 http://t.co/r77KLdyW





友だちが気落ちしてるらしい。いつでも話を聞くからねとメッセージしておいた。そだ。友だちの役に立たないと、
友だちじゃないよね。気落ちしてるなら、いくらでも、ぼくを使ってほしいと思う。こんどの日曜日、ぼくは好きな
子になにがしてあげられるんだろう。





1個の粘土と1個の粘土を合わせて1個の粘土にして見せたら、小さな子どもの目には、1+1=1 に見えるかなと
思います。1+1=3 は、いますぐ思いつかないけど、化学反応であると思います。2つの物質が3つの物質になる
ことも、そう珍しい化学反応ではないと思います。





引用詩をつくるときにも、感覚的なよろこびと、知的なよろこびがあった。単純に分類すると、個別的な経験の把握
と、統合的な知の再編成である。英詩翻訳においても、この両方のことが、ぼくの身に起こる。とりわけ、英詩翻訳
は、ぼくの知らない単語や熟語や構文があるせいで、ぼくに新しい知がもたらされるのであるが、





さらに彼らが詩句において知と格闘した跡をきっちりと追うことによって、それまでの知識との統合といった現象が
起こるのだけれど、同時に、ぼくとは違う体験と言語経験を経てきた詩人たちの感覚の痕跡を追うことによって、ぼ
くが、ぼくの知らなかった新しい感覚を感じとれたりすることもあるのである。





とりわけ、訳するのが困難であったものが、ある瞬間に、すべての光景を同時に眺めわたすことができるような感覚
を得られたときには、感覚的にも、また知的にも、十分な満足感を与えられるものである。こんかい訳したものが、
その典型であろうか。つぎの『Oracle』では、これが3つ目の





英詩翻訳になるわけだが、3つともぜんぜん違う感じのもので、ぼくの翻訳の文体もまったく違うものであり、つぎ
の締めきりまで、まだ3週間あるので、まだまだ翻訳するだろうけれど、すでに、これら3つの英詩の翻訳だけでも
十分にひと月分の文学的営為に値すると思われる。





BGMは、ビリー・ジョエルの「イタリアン・レストランにて」。ノブユキとの思い出の曲だ。つまらないことでも笑
っていた。べつに、なにがあったってわけでもないのに、いっしょにいるだけで楽しかった。そのつまらないことの
輝きを、そのつまらないことの輝きの意味をいま





のぼくは、とても大切な思い出として見ている。たぶん、どのひとの人生も、そんな輝きでいっぱいだ。そんな輝き
の意味でいっぱいだ。英詩翻訳で、それがとてもよくわかる。他者の経験と思索を通して、つまらないことの輝きの
意味が。つまらないことの意味の輝きが。





いま日知庵から帰ってきた。満席に近くって、半分は外国のひとたちだった。きょう、持ってた英詩を読んでもらっ
たら、わからないと言われた。英語に堪能な外国の方にわからないものを、ぼくが翻訳するっていうのは無理がある
なあと思いつつ、おもしろいと思った。絶対やる。





このあいだ、元彼としゃべっていて、いま好きな子がいるんだけどと言ったら、「短髪?」と訊くから「ちがうけど。」
と言うと、「短髪でないと、いけへんわ。」と言われ、「それは、きみ。ぼくは、髪型やなくて、顔と雰囲気なんやから。」
と言った。フェチな元彼やった。





電話をかける方も、電話を受ける方も、両方とも同じ音だったりして。@moririnmonson 昨日ホテル泊まった時に初め
て知ったんだけど、有線に「アリバイ」っチャンネルがあって、車の騒音とかがずっと流れてるの。部屋にいながら
「今、外です。」って言えるのね。





いま、元彼の日記見たら、「蝉が、怖いです(^-^)/昔はさわれたのに 一週間の命だから楽しく泣きやがれ(^-^)/ 悲し
く鳴くから涙やで」と書いてあって、こんな言葉を書く感性があったんやと思って、しばし、感慨にふける。恋は麻
薬って言うけれど……。





人生って、ほんとうは眼鏡など必要ないのに、つねに度の違う眼鏡をかけさせられてるって感じでしょうか。
@kayabonbon 人生は近くで見たら悲劇、遠くから見たら喜劇、だっけ?





ぼくの全行引用詩は、フロベールの完成されなかった『ブヴァールとペキュシェ』の終わりが、延々と引用が書き並
べられていくはずだったという記述を、文学全集の解説で読んだことがきっかけでした。じゃあ、ぼくがやろう、と。
@ana_ta_des フロベール論を単行本で読める筋肉を鍛えるための夏…!





そういえば、「田中宏輔の詩集評3」をほっぽらかしてた。倉田良成さんの本だったが、たしか、序詩について、ワー
ズワースとの連関性を感じて、ワーズワースの詩の引用からはじめたのだったが、そのあとに芭蕉の句を2つ引用し
てつづけることにする。





「命二つの中に生きたる桜かな」と「さまざまの事おもひ出す桜かな」の二句である。パースペクティヴがぜんぜん
違っていて、まったく異なるフェイズの観想を持たされたのだが、この二つの句が示唆するアスペクトで、文学表現
のほとんどが書き尽くされるような気がしたのだ。





ここで、与謝野晶子の「わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ」を、この芭蕉の「命二つの中に
生きたる桜かな」と「さまざまの事おもひ出す桜かな」の二句に結びつけることは、それほど難しいことではないで
あろう。与謝野晶子の歌のあとごととして、芭蕉の二つの句を





みればよいのだ。そうみてやると、物語がはじまる。物語になる。というよりも、ことあるごとに、そうみてやると、
ひとやものとの関わりについてより観察の目を拡げられるような気がする。これらの与謝野晶子の一つの歌と芭蕉の
二つの句を、おぼえておくことにしよう。





ああ、もちろん、これらの一つの歌と二つの句とともに、エリス・ピーターズの『聖ペテロ祭の殺人』の第一日の2
にある「稲妻は気まぐれに落ちるもの、」(大出 健訳)という言葉もつけ加えておぼえておくことにしよう。エリス・
ピーターズの『聖ペテロ祭の殺人』の祭りのあとの





1には、「知恵は常に懐疑と共にある」(大出 健訳)といった言葉もあり、これもまた、ぼくがしじゅう考えているこ
とであるが、このことも、あらためて胸に刻みつけておくことにしよう。





クスリのんで、『クライム・マシン』のつづきを読んで寝る。きょうは、もと恋人にハグしたら、ハグやったら、いつ
でもええで、と言われて、キッスしようとしたら、キスはぜったいあかんで、と言われた。なんでやねん、と思いつ
つ、ハグやったらええんやな、と念を押しておいた。





ぼくが2年ほどまえここに書いたのは、ここのマンションのぼくの部屋がある階で、ガス自殺(未遂?)があって、
消防隊員たちが、ぼくのいる階の人間にドアを開けないで部屋に入ったまま出てこないでくれと言いにきたときに、
そのときのことをツイッターで書いたのだけれど、あれは「実況中継詩」かな。





20年ほどむかし、自販機に、コーヒー・スカッシュという名前の炭酸ソーダで割ったコーヒーが売ってありました。
飲んですぐに捨てました。 @yamadaryouta コーヒーが飲みたいという思いと炭酸が飲みたいという思いが相まってう
っかりエスプレッソーダを買いそうになるも思いとどまった。





道路に停まっている車がトランプのカードのようにめくれていく。





おじいさんも、猿も、自転車も、庭も、温泉につかっている。





きのう、ボルヘスの『汚辱の世界史』を読みながら寝た。きょうも、そのつづきを読みながら寝ようと思う。先週、
恋人に、ちょっとと言われて、なにって言ったら、ハサミかして、と言われて、ハサミを渡したら、襟元のちょこっ
と残ってた毛を切ってもらった。やさしいなあ。





あるとき、数学者のヤコービは、インタビューで、「あなたの成功の秘訣は何ですか?」と訊かれて、こう答えたと言
う。「すべてを逆にすること。」。





生命はその存在自体が転倒している。意識も倒錯的だ。ゲイであるぼくは、もう180度転倒して、いま一度倒錯的
だ。つまり、この無生物が主体の宇宙にあって、ぼくの生命をぼくで終わらせ、またたく間に星になるぼくは、スト
レートよりはるかにまっとうなのだ。違うかな?





「夢でびっくりすることがあるよね。自分で夢をつくってるのにね。」って言うと、シンちゃんが、「あんた、自分が
意識している範囲だけが自分やないんやで。」と言った。「すごい深いこと言うんやな。」って言うと、「だって、自分
の知らん自分がたくさんいるやろ。」との返事。





友だちの娘たち3人といっしょに食べたタコ焼きや焼きそば。何年も会ってなかったので、娘たちは、ぼくのことを
おぼえてなかった。でも、5歳の子(双子ちゃんの一人)は、すぐに甘えてくれて、「ダッコ」といって抱きついてく
れた。むかし書いた●詩を思い出した。





クスリがきょうの分で終わり。ちょっと強いのかな。追加された新しいクスリは強烈で、4年か5年ぶりに眠たくな
った。というか、しじゅう、眠気がする。しかし、眠気など二度と訪れることがないと思ってたので、同じ処方箋を
頼もうかなと思っている。悪夢も見るんだけど。





しかし、お金を払って悪夢のような映画を見るひともいるのだから、ぼくのように無料で悪夢を見るのは、お得なの
かもしれない。あ、無料じゃないか。でも、考えたこともない情景がでてくるのだ。夢をつくっているのは、潜在自
我のぼくなのだろうから、ぼくが知らないぼくのことを知れる機会でもある。





けっきょく、ぼくは詩人としては、だれにもおぼえてもらえないようなマイナーな詩人だと思うのだけれど、英詩の
翻訳家としては、いくらかのひとの記憶には残るように残る人生のすべての時間を費やすことにした。寿命が尽きる
まで、LGBTIQの詩人たちの英詩を翻訳していくつもり。





詩は音で、音楽であるべきものだと思っている。意味などどうでもよいとも思っている。音のなめらかさは情動を運
ぶもっともよい船である。音は映像を大きくする力があると、だれかの言葉にあった。音が情動を、また映像を、読
み手のこころの岸辺で引き上げさせるのである。





そうだ。えいちゃんに言われたんだけど、ぼくが訳してる詩って、まるで、あっちゃんが書いた詩みたいやなって。
まあ、口調が、ぼくの口調だしねって返事したけど、きょう選んだゲイの詩人の英詩って、ぼくも感じたことのある
こと書いてたもんね。かならず失うもの、若さ。





で、失うことから見えてくるものがあるってこと。これは、自分が若さのなかにいるときには、けっしてわからなか
ったことやね。愛するあまりに傷つくことに耐えられなくて、愛することをやめるということ。なんという弱さだろ
うね。その弱さがいまの自分をつくったにせよ。





湯になる。まっすぐな湯になる。長時間つかっていると、湯が、ときどき、ぼくになる。ふと気がつくと、ぼくが湯
になって、裸のぼくの身体を抱いていたりする。あ、違う、違う、と思うと、ぼくは、ぼくのなかで目がさめて、ぼ
くのほうが湯を抱いていることに思い至るのであった。





注射器を見つめていると、しゅるしゅると、ぼくが、注射器の円筒形のガラスの壁面に噴き上がってくるのが見える。
ぼくは、ぼくの狭い血管のなかから解放されて、より広い大きな注射器の円筒形のガラスのなかにひろがり展開する。
その喜びといったら、なににたとえられるだろう。





夢をみてまどろんでいたのに、よくその夢を忘れてしまう。まどろみから抜け出してすぐのことだというのに、どん
な夢をみていたのか、ぜんぜん思い出せないのだ。夢をみているときと起きているときとを合わせると、ぼくのすべ
ての時間になるのだろうか。夢をみているぼくと、起きているぼくとが同じぼくかどうかわからないけれど。





さっきまでうつらうつらしていた。うつらうつら夢を見ていた。ぼくは駅の構内を行き来する人たちの姿を真上から
眺めていた。ぼくはなんだったんだろう。人間が見る位置から見てはいなかったような気がする。夢では人間ではな
いものになることができるのだろうか。夢でなくても?





太い後悔というものがあるとしたら、細い後悔というものもあるだろう。後悔に形状があるということだ。あるいは、
形状を与えるということだ。後悔に粒子があるとしたら、それが凝縮して固体状態のものであるときに形状があると
いうことになる。液体状態の後悔には形状がないで





あろう。気体状態の後悔にも形状がないであろう。気体状態の後悔を状態変化させて、液体状態や固体状態にしてみ
る。ふつうの粒子と同じように状態変化することをたしかめる。後悔の凝固点と沸点を計測する。後悔が、ぼくの状
態変化を観察する。ぼくの凝固点と沸点を計測する。





後悔が、ぼくのことをじっくりと観察する。ぼくがしたこと、ぼくがしなかったことで、ぼくのポテンシャル・エネ
ルギーがどれだけ変化したかを計測する。後悔が、中休みするために、実験室を出て行く。ビーカーのなかで、徐々
に冷えて固まっていくぼく。いくつものビーカー。





ビーカーのなかで、徐々に冷えて固まっていく、いくつものぼく。後悔が、実験室に戻ってきた。ぼくのなかに差し
込まれた温度計の目盛りを見る後悔。ぼくの入っているビーカーの外側にある水の温度の目盛りを見る後悔。いくつ
ものビーカーのなかにある、異なるぼくのしたこと。





いくつものビーカーのなかにある、異なるぼくのしなかったこと。ぼくのしたことと、しなかったことの風景が、実
験器具のなかに展開される。実験室が、異なるぼくのしたことや、異なるぼくのしなかったことでいっぱいになる。





期待状態の後悔。





ちゃんこつながり。ちゃんこのようにつながること。ちゃんこ鍋つながり。ちゃんこ鍋のようにつながること。ちゃ
んこつながりと、ちゃんこ鍋つながりでは、その意味概念が異なるのだが、双方ともに、理論的には、無限の長さで
つながるはずである。限界がないのである。





アンチ汁。汁の反対。あるいは、汁に反対すること。汁は、よけいである。はしっこが切れない。昆虫の場合は、繁
殖率がすさまじい。けなげな汁もいるにはいるが、見逃してはいけない。汁にもふとホクロがあったりする。見分け
られるのだ。すべてのホクロは蒸発する機会を狙っている。





ぼくの脳は、実験マウスの切断された脳に侵されたい。さまざまな色に染められた小動物の実験体の切断された脳に
侵されたい。無数の切断された手と足と頭になりたい、ぼくの脳の風景。野菜とか樹木とか河川とか、ぼくの脳の風
景のなかにはなくて、ただ切断された手と足と頭でありたい。





いっしょに、いちゃいちゃすればいい。 @cap184946 三列シートなのに隣のカップルがイチャイチャしてるの。しに
たい





けっきょく、一睡もしていない。クスリも効かないくらい脳が覚醒していたのだろう。英詩翻訳の訳文の手直しで、
ちょこっといじっただけだけど、訳文がすっかりよくなったということからくる幸福感からだろうか。たぶん、そう
なのだろう。もしかしたら、ぼくは少し狂って





いるのかもしれない。まあ、すこし狂っているということは、まったく狂っていないということだけれども。





きみの天国がほしいと、ぼくは言う。きみは、ぼくの天国がほしいと言う。もしも、きみが、ぼくに、きみの天国を
くれたら、ぼくは、きみの天国を食べちゃうだろう。もしも、ぼくが、きみに、ぼくの天国をあげたら、きみは、ぼ
くの天国を食べちゃうだろう。ぼくの口は、きみの天国





を味わうだろう。ぼくの口が、きみの天国を食べると、きみの天国は痛がるだろうか。きみの口が、ぼくの天国を食
べると、ぼくの天国は痛がるだろうか。きみの天国は、ぼくをかじる。ぼくの天国は、きみをかじる。ぼくたちの天
国は、ぼくたちをかじる。ぼくたちの唇をかじる。





ぼくたちの指をかじる。ぼくたちの耳をかjる。ぼくたちの鼻をかじる。ぼくたちの胸をかじる。ぼくたちのセック
スをかじる。ぼくたちのこころをかじる。そうして、ぼくたちは、少しずつ天国になる。天国は、ぼくたちのキッス
をまぜる。ぼくたちのセックスをまぜる。そうして、





ぼくたちは、純粋な天国になっていく。重量が、純粋な重力となるように。意味が純粋な言葉になるように。神が純
粋な人間となるように。純粋な天国。純粋なキッス。純粋なセックス。天国そのものの意味。キッスそのものの意味。
セックスそのものの意味。天国はぼくたちをかじる。





ぼくたちの痛みが、ぼくたちを天国に変える。ぼくたちの痛みが、天国をぼくたちに変える。これ以外のことは何も
言えない。ぼくの口は、きみの天国がほしいと言う。きみの口は、ぼくの天国がほしいと言う。ぼくたちの天国は、
ぼくたちの痛みを咀嚼して、ぼくたちを天国に変える。





ひゃ〜、誤字です、笑。 @sechanco いいな。耳をかjるの、「j」とかしんせん♪





「じ」と「j」が、ほぼ鏡像状態になっているのですね。 @sechanco





これから納豆を買いに近所のフレスコに行く。しかし、この近所のフレスコがぼくのところにくれば、ぼくが行くこ
とはないわけだ。納豆がぼくを買えばいいわけだし。フレスコの棚に、ぽこぽこと、ぼくとぼくが並んでいくという
わけだ。おもしろい顔だろ。生えてきたんだ。





記念に、と言って、ぼくの頭を肘のあいだにはさんで突き出す。お客さんたちが、ペコペコとぼくの頭を叩く。ぼく
の頭がポコポコと鳴る。なかなかいい音をしていますな。手と足を十字に組みながら、何人ものホームズが転がって
いく。前から後ろから縦から横から斜めから、何人ものワトスン博士がパコパコ追いかけていく。





重量は、重力のメッセージである。言葉は、意味のメッセージである。人間は、神のメッセージである。メッセージ
とは、なんだろう。逆かな。重力は、重量のメッセージである。意味は、言葉のメッセージである。神は、人間のメ
ッセージである。





なんで眠れへんのやろうと思って、電気つけたら、横にクスリが。のみ忘れてた。





はじめに句読点があった。句読点には意味がなかった。そこで、句読点は言葉をつくった。言葉には意味がなかった。
そこで、言葉は事物をつくった。事物には時間や場所や出来事がなかった。そこで事物は時間や場所や出来事をつく
った。これが、あらゆるものが句読点になってしまう理由である。





句点は貫通することを意味し、読点は切りつけることを意味する。私たちは、句読点をもって、完璧な意味に穴をあ
け、切りつけ、不完全な意味にまで分解する。なぜなら、完璧な意味にはがまんができないからである。句読点のな
い改行詩や句読点のない散文は、異端者による作り物である。





異端者たちは、句読点のない改行詩や句読点のない散文に異常に興奮し、いくら禁じられ罰せられても、いっこうに
句読点を用いないのである。異端者のなかには、一文字分の空白をあける者もいるのだが、ごくわずかな割合である。
官憲のなかにも、異端に同調する者がいると言われている。





したがって、法律の文章が完璧でないのも、句読点があるからなのである。句読点のない法律の文章が存在するとい
う伝説があるが、古来より完璧な法律を望む声は皆無であり、不完全な法律のもとでしか生活を営むことを欲しない
国民は、穴だらけで切り傷だらけの法律のもとで暮らしている。





あらゆる風景が句読点でできており、あらゆる人間が句読点であった。句読点は無意味な句読点で互いに語り合い、
無意味な句読点でできた家に住み、無意味な句読点とともに暮らしているのであった。句読点だけの世界では、読む
物だけではなく、あらゆる時間も場所も出来事も無意味な句読点でできているのであった。





句読点だけでできた新聞を読むと、毎日のように、読点で切りつけたという話や、句点を転がしたといった話ばかり
が載っている。読点だけでできた指でページをめくる。句点だけでできたページに目を落とす。句読点だけでできた
ページを読む。





句読点の役目 : 休止や停止が状態を維持し、運動を促すのである。





クリーニング屋のまえで、自転車に乗った青年と、いや、青年が乗ってた自転車にぶつかりそうになったのだけれど、
考え事をしながら歩いてたわたしのほうが悪いと思ったのだが、179センチ87キロの体格のわたしだからだろう
か、むこうのほうがあやまりの言葉を口にして、頭を下げて





走り去っていった。わたしは、自然食品店の手前のマンションで、ふと立ち止まった。そうだ。わたしたち人間もま
た、句読点なのだと思ったのである。動き回る句読点である。動き回り、話しかける句読点である。沈黙し、立ち止
まり、耳を澄ます句読点である。街の景色のなかで動き回る





句読点である。と、そう考えると、なんか、おかしくなって、吹き出してしまった。わたしたちは、動き回る句読点
である。わたしたちは、動きまわり、立ち止まる、さまざまな長さをもつ休止であり、空白であり、息であり、間(ま)
であり、さまざまな意味をもつ句読点である。





感嘆符の形や、疑問符の形でひとびとが立っていたりする、街の風景。





P・D・ジェイムズが、散文について、「句読点がなければ読めないのではないか」と書いていたが、たしかにそうか
もしれない。彼女は詩については、「空白がなければ、詩は詩として読めないのではないか」とも書いていたが、正確
な引用は後日することにしよう。句読点や空白も、





「世界は新しい形のものである」とギブスン&スターリングが書いていた。これもまた、後日、正確に引用しよう。
いや、たぶん、これで正確な引用だと思うのだけれど。いま探そう。『ディファレンス・エンジン』第二の反復からだ
った。「世界は新しい形のものだ」であった。黒丸 尚訳。





フォルムの探究である。形式の発明である。わたしの関心はそこにある。内容はどうでもよい。意味はどうでもよい。
フォルムというか、形式それ自体が内容であり、意味である。内容がないという内容であり、意味がないという意味
である。まさしく、わたくしの生の実存にふさわしい。





「LET THE MUSIC PLAY°」という作品を文学極道の詩投稿掲示板に投稿したのであるが、投稿する直前のものは、投
稿したものとはまったく異なるものであった。もとのものは、まず長さが100分の1くらいのものであったのだ。
投稿したものの冒頭の数ページ分のところだったのである。





しかし、それでは文学極道の詩投稿掲示板を見ているひとを満足させることはできないのではないかと考え、構造的
に複雑なものにする必要があると思ったのであった。そこで、ふと、同じ場面が繰り返し出てくるけれど、それぞれ
がまったく違う意味内容になるものを考えついたのであった。





「全行引用詩」を書くきっかけのひとつは、マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』だった。冒頭にいくつも並べて
書かれてあったエピグラフを見て、感動したのであった。そして、もうひとつ、大きなきっかけとなったのは、





スタンダールの未完成の作品であった。そのさいごの部分で、引用だけが延々と書きつづられる予定のものであった
ということを知ったときに、こころに決めたのであった。ぼくが28才のときのことであった。さいしょにつくった
全行引用詩は、「聖なる館」というタイトルのものであった。





「マールボロ。」が、ぼくに、「詩とはなにか」、「自我とはなにか」といったことを考えさせたことは、『理系の詩学』
でも論じていたのだが、ここでも論じておこう。これが、ぼくの体験ではなく、ゲイの友だちの体験記を、ぼくがコ
ラージュしたもので、ぼくの言葉がいっさい入って





いないにもかかわらず、できた作品を、その友人が目にして、「これは、オレと違う。」といったことに、ぼくがショ
ックを受けたことにはじまるのである。すべての言葉が彼の言葉なのに、選択と配列が、他者によってなされたとき
に、本人の体験から、いや、その体験の「実感」から離れるという





ことに、ぼくが、とてもショックを受けたのである。では、ぼく自身の体験も、ぼくがぼくの体験を想起し、状況を
再現した気になって、体験の断片を抽出し、それを言語化した段階で、「創作」になっているということにならないか
という気がしたのである。つまり、思い出しているという





自分が考えている思い出は、じつは、「創作」なのではないかというふうに思ったのである。純粋な現実というものが
あるとしたら、それは、自分の脳みそに保存されている無意識層を総動員してもけっして再現されないということな
のだと思い至ったのである。「思い出とは、創作である。」





と、切に思ったのである。しかし、真実には触れているとは思う。虚偽というか、創作を含みはするけれど、自分の
人生の真実にも触れているとは思う。そうでなければ、真実など、どこにも存在しないだろう。もしかすると、どこ
にも存在しないものかもしれないが、存在するという幻想は





もちたい。というか、もって生きていると思う。ぼくの人生は、行き当たりばったりで、ひとというものの人生とし
ては失敗である。ひとを愛する能力に著しく欠けた出来そこないのものである。だけど、せいいっぱいできることは
したと思う。能力がまずしいので、恥ずかしい生き方だが、





そんなダメな人間でも、神さまはまだ生かしてくださっているのである。生きているかぎり、自分のできうることを
すべてしたいと思っている。





思い出が創作ならば、記憶もまた創作であろう。いや、記憶は創作である。そう断言できる。偽の記憶がいくつもあ
る。こどものころの記憶を親にきくと、そんなことは一度もなかったというのだ。むかし百貨店の食堂に行くとかな
らずウェイトレスがこけて、粉々になったガラス食器で、





顔じゅう血まみれになって、救急車のサイレンの音がしたと、ぼくは言うのだが、親はそんなことは一度もなかった
と言う。商店街のそばの川の岩に、フナ虫のような気持ちの悪い虫がびっしりしがみついてうごめいていたと、ぼく
は言うのだが、親はそんなことは一度もなかったと言う。





むかし付き合ってた子とばったり再会した。タバコをやめて、かなり太っていて、でも前よりかわいくなっていて、
ふたたび付き合うことになりました、笑。人生、なにがあるかわからない。何度か、ぼくがいないとき、マンション
に来てくれてたりしたっていうのだけれど。





ぼくがPCを替えたからメールが出来なくて、連絡がつかなかったのだ。ぼくは自分からメールするひとじゃないの
で、それで行き違いになったって感じかな。というか、ぼくが全面的に悪いのか。まあ、しかし、ぼくの恋愛って、
こんなチグハグなことばかり。いいけどね。





きのう、夜中の3時くらいまで、日知庵からゲイ・スナックへとはしごして飲んでたんだけど、よろよろと歩いて帰
っていたら、河原町で、二十才ぐらいのこれまた酔っ払った男の子と女の子が前から歩いてきて、ぼくがその集団の
なかに挟まれる格好になったんだけど、なかのひとり





逞しい体格のカッコイイ青年が、突然、笑顔で、「握手しましょう」と言ってきて、彼が差し出した右手を握ったら、
彼もギュッと握り返してきて、そのあと「また」と言って手を振るので、ぼくも手を振って立ち去った。不思議な経
験をした。知らない男の子だった。なんかうれしかった。





ぼくは、自分がとてもブサイクで、いやな性格で、ひとに好かれるタイプの明るい人間じゃないと、ふだんから思っ
てるから、居酒屋さんでも、道端でも、こんな経験をすると、とてもうれしい。よい詩に出合ったときの喜びに近い
かな。いや、この出来事は詩だ。詩なのだった。





きょうは、東寺のブックオフで、『VERY BAD POETRY edited by Kathryn Petras』を、105円で買った。





ぼくが子どものときに疑問だったこと : 親がいること。





いま思ったけど、「無」って漢字、「鎧」みたい。もしくは、「太めの女性のワンピース」みたい。





俳句に「英単語」って、はじめて見た。 @trazomperche 緑陰や試験によく出る英単語





袋に詰められるだけ詰めて思い出、300円だった。買ってきた思い出を射出する。床に落ちてぐったりしてる思い
出を詰め直す。ちょっとくたびれた思い出を射出する。忘れられない思い出は、忘れられない思い出だ。はやっ、3
回目でぐったりした。つぎの思い出を射出する。





歯を磨いたかどうか忘れることがある。ぼくの母はとても薄いので、磨き過ぎると神経が剥き出しになる。朝の4時
ごろに電話をかけてくる母を磨いたかどうか忘れることがある。ぼくの歯はとても薄いので、磨き過ぎると神経が剥
き出しになって、朝の4時に電話をかけてくる。





呼吸ができないと怒られる。ぼくにはわからない。呼吸ができないと怒られる。ぼくにはわからない。呼吸ができな
いと怒られる。ぼくにはわからない。リフレインはいつだってここちよい。ちょうど500円硬貨と同じ大きさだ。
呼吸ができないと怒られる。ぼくにはわからない。





ぼくは台所にはいない。ぼくはベランダにはいない。ぼくはトイレにはいない。ぼくは玄関にはいない。ぼくは部屋
にはいない。靴箱のなかにも入っていないし、本棚にも並んでいない。リュックのなかにも入っていないし、PCの
なかにも入っていない。ちょうどいい大きさだ。





むかし、ちょっとのあいだ付き合ったトラッカーのこと、思い出してしまった。運動できる、かわいいブタって感じ
の青年やった。ジャニ系のゲイの子から好かれてて、困っていた。人間って、ぜいたくなんやなあと思った。なんで、
その子とすぐに別れたのか思い出せへんけど。





さっき思いついた詩句を忘れてしもうた。あ、濃い日付と薄い日付やった。忘れてもええ言葉やったね。書いてから
気がついた。濃い煮つけと薄い煮つけの音からきてるのかなと、ふと思った。書いてはじめてわかる例やね。しかも、
それが音から来てるんであろうってことが。





液化交番って、なんかええ感じの言葉やね。気化植物なんてのは平凡か。これから、ちょっと焼酎のロックを飲んで、
お風呂に入って、気分を盛り上げて、恋人とのデートにそなえる。意味のない、美しくもない、ただくだらないだけ
のぼくの大切な瞬間、刹那の思い出のために。





袋に詰められるだけ詰めて同級生、300円だった。買ってきた同級生を射出する。床に落ちてぐったりしてる同級
生を詰め直す。ちょっとくたびれた同級生を射出する。口から血涎が垂れ落ちる同級生は、ぼくと同い年だ。はやっ、
3回目でぐったりした。つぎの同級生を射出する。





袋に詰められるだけ詰めて正方形、300円だった。買ってきた正方形を射出する。床に落ちてぐったりしてる正方
形を詰め直す。ちょっとくたびれた正方形を射出する。端から角が崩れる正方形は、ぼくと同じ図形だ。はやっ、3
回目でぐったりした。つぎの正方形を射出する。





袋に詰められるだけ詰めて雨粒、300円だった。買ってきた雨粒を射出する。床に落ちてぐったりしてる雨粒を詰
め直す。ちょっとくたびれた雨粒を射出する。膝から虹がこぼれる雨粒は、ぼくと同じ雨粒だ。はやっ、3回目でぐ
ったりした。つぎの雨粒を射出する。





オレンジエキス入りの水を飲んで寝ます。恋人用に買っておいたものなのだけど、自分でアクエリアスをもってきて
飲んでたから、ぼくが飲むことに。ぼくのことをもっと深く知りたいらしい。ぼくには深みがないから、より神秘的
に思えるんじゃないかな。「あつすけさん、何者なんですか?」





「何者でもないよ。ただのハゲオヤジ。きみのことが好きな、ただのハゲオヤジだよ。」、「朗読されてるチューブ、お
気に入りに入れましたけど、じっさい、もっと男前ですやん。」、「えっ。」、「ぼく、撮ったげましょか。でも、それ見
て、おれ、オナニーするかも知れません。」





「なんぼでも、したらええやん。オナニーは悪いことちゃうよ。」、「こんど動画を撮ってもええですか。」、「ええよ。」
「なんでも、おれの言うこと、聞いてくれて、おれ、幸せや。」、「ありがとう。ぼくも幸せやで。」これはきっと、ぼ
くが、不幸をより強烈に味わうための伏線なのだ。





きょうデートした恋人に間違った待ち合わせ場所を教えて、ちょっと待たしてしまった。「放置プレイやと思って、お
れ興奮して待っとったんですよ。」って言われた。ぼくの住んでるところの近く、ゲイの待ち合わせが多くて、よくゲ
イのカップルを見る。西大路五条の角の交差点前。





身体を持ち上げて横にしてあげたら、すごく喜んでた。「うわ、すごい。おれ、夢中になりそうや。もっとわがまま言
うて、ええですか?」、「かまへんで。」、「口うつしで、水ください。」ぼくは、はじめて自分の口に含んだ水を恋人の
口のなかに落として入れた。そだ、水飲んで寝なきゃ。





「彼女、いるんですか?」、「自分がバイやからって、ひともバイや思うたら、あかんで。まあ、バイ多いけどな。こ
れまで、ぼくが付き合った子、みんなバイやったわ。偶然やろうけどね。」偶然違うやろうけどね。と、そう思うた。
偶然で偶然違うていうこと。矛盾してるけどね。





たくさんの手が出るおにぎり弁当がコンビニで新発売されるらしい。こわくて、よう手ぇ出されへんわと思った。き
ゅうに頭が痛くなって、どしたんやろうと思って手を額にあてたら熱が出てた。ノブユキも、ときどき熱が出るって
言ってた。20年以上もむかしの話だけど。





愛は理解だもの。 @ta_ke_61 思考とは愛である。





さて、これから京都東急ホテルの2Fで開催される焼酎の会へ。いろんな業界のひとがきてるらしくって、えいちゃ
んが紹介してくれるっていうから、そこで、いろんな業界のひとたちに、ぼくの詩集を渡すことに。「そこで渡したら、
はよ、なくなるやろ。」と、えいちゃんが。彼の言葉通りになるかな、笑。





焼酎の会のあと、武田先生と、おされな店で飲んで、蕎麦屋でそばを食べ、そのあとジュンク堂に寄って、そこで武
田先生と別行動になり、日知庵に行き、帰りに歩いていたら、十年以上もまえに付き合ってた子とばったり会って、
ありゃ、こりゃ先月のパターンかと思ってると、そうでもなくて、





いままで飲んでただけだけど、帰りに、またいっしょに飲みたいなって言ってきて、いろいろあったことをちゃらに
して、この子はすごいなあと思ったのだけれど、この子の言葉でハッとした。ノブユキも、ほぼ同じ言葉を、ぼくに
つぶやいたのだった。「おれ、つまらん人生してる。」





その子は、「つまらない毎日。」でも、ぼくから見たら、その子も、ノブユキも、ぜんぜんつまらん人生していないし、
つまらない毎日を過ごしてるようには見えないのだった。その子はショートドレッドのテクノカットで、おされなボ
ンボンだし、ノブユキは毛髪残念組だけど、やはり





ボンボンだし、まあ、二人とも、お金持ちの家の子だし、なに言ってるのかなって思ったのだけれど、ハッとしたっ
ていうのは、つまらん人生とか、つまらない毎日ってのは、少なくない人間が日々感じていることなんだなってこと。
成功してるひとって、ぼくの身近には、弟くらいしか





いなくって、ぼくにはとてもムリって人生していて、ぼくは、ぼくの意味のない、美しくもない、くだらない人生を
愛してるんだなって思ったのだった。ノブユキだって、その子だって、ぼくに、「くだらん人生してる。」、「つまらな
い毎日。」って言ったときには、半分笑いながら





の、照れたような、あきれたような表情で、でも、けっしてつらいことを避けたり、嫌なことから逃げたりしてるよ
うな感じじゃなかった。その子もそうだった。人生を愛してるなって感じがしてた。じっさい愛してるとは言わなか
ったけれど、訊けば、二人ともそう答えたと思う。





でも、逆に考えれば、とても不気味な人間ができあがる。意味のある、美しい、くだらなくない人生してるひと。こ
れは怖くて不気味だなと思った。意味があるものをつくろうとしたり、美しいものをつくろうとしたり、くだらなく
ないものをつくろうとしてるわけだけど、どこかしら、





いびつで不気味だ。そう考えると、意味にとりつかれたひとや、美にとりつかれたひとたちが、どこか不気味な感じ
をかもしだしているというのは、とてもよくわかる。何人もの詩人たちの顔が思い浮かんだ。ぼくは、むかし、雑誌
に載ってる詩人の顔を見てびっくりした記憶がある。





人生に生き生きとしたものを感じているのかどうか知らないけれど、けっして幸せそうじゃなかった。ぼくなんて、
いっぱいいろんなことがあっても、ほとんどいつもニコニコしてるのだけれど、なんか取り憑かれてるっていうか、
男の詩人も、女の詩人も怖い表情のひとばかりだった。





いまは、そうじゃないみたいで、明るい表情で、ニコニコしてるひとが多くて、ぼくのように臆病なひとは、ほっと
してると思う。そういえば、むかしの詩人たちの作品には余裕がなかったなあ。





余裕があったのって、西脇順三郎くらいじゃないかな。田村隆一も、吉岡 実も、彼らの書く詩には余裕がなかったし、
表情にも余裕がなかったな。詩と詩人の顔はべつやろって、まえにだれかに言われたけれど、ぼくは、顔や表情に、
ぜんぶ顕われてると思う派である。





恋をしてもひとり。





恋をしてはひとり。





恋はしてもひとり。





そうだね。この世に生まれてきたのは偶然だし、存在させられてきたのも、当初は自分の意志ではな
かった。少なくとも自分の意志で、自分を存在させてきたのではなかった。しかし、自己を意識的に
省みることができるようになった時点で、自分を存在させているのは自分の意志であるというべきだ
と思う。





存在をやめることは、それほど容易ではないが、それほど困難なことでもない。存在するとは、意志
的なものなのである。意志的なもののみ存在するわけではないが、ものごとにも意志があるとすれば、
すべて存在するものは意志をもつものであると言えるだろう。かつて教会は、動物をさえ裁判にかけ
たのだ。





ぼくは、ものごとにも意志があって、それがすべてひとつの意志につながっていると思っている。す
べての人間のこころと行いとを通してのみ神が存在すると、かつてぼくは書いたけれど、いまでも、
ぼくはそう思っていて、だから、他人を理解することは人間が神を理解し、神が人間を理解すること
だと思って





いて、どのひとの、どのような行いも、神の行いであり、神の意志であり、神への行いであり、神へ
の意志だと思っている。もうじき、ひとりの神が、ぼくの部屋にくる。その神のために、そして、ぼ
くという、もうひとりの神のために、これから近くのイオンに行って、お昼ご飯用のお弁当を買って
くる。





まるしげの「わさび鉄火」と「呼吸チョコ」を食べた。どちらもデリシャス。「わさび鉄火で笑うも
のは、わさび鉄火で泣くんだよ。」という言葉に対して、「なにか仕掛けるつもり?」というぼくの
返し。人生、ハラハラ、ドキドキですな。もういい加減たくさん人生してきたつもりだったけど、ま
だまだするよ。





これからお風呂に。それから、きみやさんに。えいちゃんも行くって言ってた、友だちと。からだの
大きい人間が4人ね。デブが4人とは書かない。さっき友だちに、えいちゃんも行くって言ってたよ、
おデブの友だちと、とメールしたら、「4人もデブが恐ろしい。」と。なんもせえへんわ。お酒飲み
に行くだけ。





なぜ、言葉にするのか。言葉にすることによって、その言葉が対象とする事物だけではなく、その言
葉自体と、より親密なつながりがもてるからである。詩人は何度も何度も同じ言葉をいくつもの詩の
なかに置く。詩人はその言葉を違った目で見ているのだ。言葉もまた違った目で詩人を見つめ返して
いるのだ。





ツイッター。なんとすぐれたツールだろう。内省がいとも簡単にできる。なんという時代だろう。言
葉の訓練が、思考の訓練が、こんなに簡単にできるなんて。まあ、簡単にできる内省であり、思考で
ある可能性もあるが、実感としては、おもしろいくらい深いところまで行けるツールだと思っている。





思考なんて、せいぜい、140文字程度の言葉の連続でしかないのだ。あるいは、もっと少ないかも
しれない。ぼくがつくってきた、どれほど長い詩でも、せいぜい数行単位の詩句やメモの類の連なり
にしかすぎなかった。





ただ、ある瞬間に使うべき断片がひとつになるか、ある瞬間に構造とか構成がすべて頭に焼き付いて、
そのあとその焼き付いた図面通りに言葉を配するかのどちらかなのだ。いずれにせよ、瞬間に起こる
ことなのだ。おそらく、ひとつのツイットを書く時間の1400分の1くらいのスピードだろう。





さっきまで西院のモスで、二人でモーニング。隣の隣にいた、一人できてたおデブさんのことを、彼
が「こっちのひとかな?」と言うので、「ぽいけど、ぽくって違うひともいるしね。」短髪・ヒゲ・
ガチポチャならゲイっていうのも、なんだかなあと思いつつ、やっぱり、ぽかったかなあと思って、
部屋に戻った。





人間と人間とのあいだには、分かり合えることなど何一つもない。完全な自己把握すら不可能なのだ
から、他者の思考をその他者の思考通りに理解することなどまったく不可能であろう。唯一可能なの
は、「分かり合えるかもしれない」、「他者の思考を他者の思考通りに理解できるかもしれない」と
いった希望を持つことのみ。


煙ノ街デ

  


コンビニへ行き
たばこを買う
店員は無愛想だが
釣り銭は正確だ
セブンスターがいい

パチンコを打ち
元が取れたなら
評判のカレー屋で
カツカレーを食べる
たばこを吸う

労力を要するのだ
たばこひとつ
パチンコひとつ
カツカレーひとつ
皆等しくそうだ

よく考えるんだ
コンビニへ行くのも
無愛想に耐えるのも
たばこを吸うのも
皆等しくそうだ

吹く風が冷たい

とぼとぼと歩き
居酒屋へ行く
暖簾をくぐれば
客足はまばらだが
御主人の声が響き
にわかに活気づく
一代目だという
創業五十年という

通りを往来する人々
ありふれた会話
気晴らしになる
長い一週間だった
永遠のようだった
渋々ここにいる
いつものことだが
そんな気になる

今夜は
何を頂くとしよう


雨が洗う

  深尾貞一郎

六月の日曜日にも
雨の日はあって
子供の口元は
ただ
青い砂糖菓子を舐める

この日もまた
ゴム手袋を嵌めた
鍬を担いだ
皆が集まった
捨てられた村の
田んぼにある
忘却された菓子袋から
消えることの無い
肉親の泪を
拾いとろうとする

濡れそぼった三毛猫にも
その滴は付いていて
ある者は
ドカチ声をあげて鍬を振り
用意した
大量の塩を頭から被った
三毛猫を追うからには
そうするべきと
皆が
口ぐちに云った

雨のなか
ひとつ置かれた椅子に座り
さしだされた手に縋ると
皆はいつしか
田畑いっぱいに広がり
米や玉葱の成長を誇る

もう
背中がさみしくないと云う
希望は
ずっと
此処にあると云う


ガヴェル

  ただならぬおと

山も洋もないただ平坦な森の奥地である。「知識の開拓地」と呼ばれ初めてまだ日が浅い。地層の研究などはまだまだこれからの話で、今は夜通し槌音がやまず、星か雨かもわからぬものが冀望のようにだらだら垂れ落ちてくる。硬化する闇に労働者は額ずき、ボーリングで夥しい空洞を穿っていく。好奇の思いに駆られた宝石商や不動産屋もやってきていて、傍らで計算機をずっと弾いている。みなが仕事をしている中に、一人だけ、牛や馬をひき、ただ静まりを縫って横断していく者があった。ある目撃者によれば「彼は雑草に一々なにかを落としていった」らしかったが、学者や警察が調べても何も見つからなかった──後に熱心な文学者が草花の解題を成し遂げ、「この土地の植物には、古い原住民の愛称が芯まで沁みている」と録すのであるが!──。

「私たちは新しい知識を求めて旅発つことにした。ここにある知識は全て土地として君たちへ譲ろう。居を構えてそこに只住むのも、土地を掘り返して知識に還元しようとするのも、すべて君たちの自由である」

かつて先住民から裁判所と呼ばれていた樹海に入ると、耳はおのずから研ぎ澄まされ、目は視界の中心に立ったものを悉く擬人化し一人びとり雄辯家に代える。証言台に立つ者を、その者以外がみな聴衆となって囲うとき、白熱する管がキュウブの辺を組んで照らし出す。やがて所有る感官の表層に植え込まれた「認識」という比喩も綻んで、静寂は角度うるわしく透視図法どおりの直線で描かれてゆく。そして彼は声ではない高らかな共鳴を超音波に翻訳し、錐揉みし、ある種の幻聴として私の耳管に捻じ込みはじめるのである。

「私が今生きているということは、一度すでに生まれてしまったことを意味しているわけだが、私はなぜか、まだ、生まれるということが一体どういう行為であるかを知らない」

少し前の話になるが、私は、新しく建てられた教会の庭で、望遠鏡を立てて宇宙を見上げていた。場所柄のせいか、上を仰ぎみることは祈ることにも通じてしまうようであった。つまり、遠いものを娯しげに夢見るのではなく、厳かに観とおさなければならないのだと。私は神教の信仰者ではなかったが、その時は、神様という遠い観念も、背後の木陰に隠れている一人の監視者のように感じられた。しかし、神様は、きっと恒河沙の宇宙を細礫のように集めて掌に掬うほど大きな方であり、私の中の素粒子に住まうほど小さな方でもあろう。あなたの太く細い視線は、かつ砲丸となりかつ矢尻となり、軒並みの時空間を掻き分けて私の目を討ち、きっと最も是しく潰し、最も正しく射抜く。

「君の心臓に繋がれている手は、温かいものだろうか、窮屈なものだろうか。私はその手を形作っている真っ赤な血流である。あるいは、君が何か歯車を回そうとしているとき、私は歯車ではなく潤滑剤として役立つものであろう。私は、人の心が雄辯から告白へと移り変わる、そのときの昇華である。つまり、私は君の最も知覚しやすい有形の存在形式を持たない。私は君にとって最も知覚しにくい『プロセス』の属である。しかし私は、無形の協和として抽象化された、胎動、でありたいと普遍に願っている。つまり、君が生む全ての形ある運動の母胎、形ある鼓動の母胎、形ある感動の母胎、の中に私は伴いたい」

気が付くと、私の周りの凡ゆるものは、聴衆ではなく、只の景色として沈黙していた。どうやら議論は散会してしまったようだ。先刻まで照明の下で繰り広げられていた雄辯は、沖に立つ白波のように流麗、もとい雅馴であった。そして私は、最後に取り残された一人の罪人として、粛々と、もう誰も見向きもしない証言台に立った。照明の消えた中で私の語ろうとしている告白は、どれも塩の結晶のような、得るに乏しいフラグメントに思えて仕方がない。が、私にはたった一つだけ、誰にも譲れぬ確信が芽生えていた。樹海の深い子宮で胎動をはじめている自分の生命を、新しい運動として、新しい鼓動として、あるいは完く鮮しい感動として、信じないではいられなかった。


朝顔の花

  市井一

たった一時なのだよ、可憐なその花の、淑やかに柔らかに輝く美しさで咲いていれるのは。

盛夏の早朝は、まだ光に和らぎを含んで透明で、寝苦しく火照った肌に残る汗の跡にも涼感の禊は心地良い。そうした穏やかな空気の内で薄い皮膜の様に漂う活力を搦め取って、淡い光沢も滑らかで鮮烈さえまろやかな深い色の襞へと変えてしまったのはお前ではないだろうか。そして、灼熱の陽が頭を擡げ、空一面が熱を帯びた青く平坦な映し絵の無い鏡と成れば、この世を支配するのは、きりりと浮かぶ造形の輪郭ばかりなのだから、そのしなやかで薄過ぎるひと掴みの花弁は簡単に窄んでしまう。区切りの見えない肌理の細かな光彩に覆われた淀みの無い一色はくすみに濁り、縮こまった花弁の跡形は皺苦茶に折れ曲がり捻れて醜くしなだれる。その時、太陽は一際逞しく力を漲らせ天を駆け登り、足下のものどもをなぎ倒す無慈悲を投げ付けていた。容赦の無い熱の力の蹂躙だ、酷暑の照りの隙の一部も無い惨劇は誰よりも我が身に纏綿する人間の、その中身の装飾し過ぎた脳の働きを病の毒の様に溶かして行く。共有するその奇病をそれぞれが内深く銜え込んで、同意は重く逃れえぬ服従の鎖を巻き付け、輪郭をなぞり下る刃に削ぎ落とされた灼熱の溶融は作用として、いつもの型通りに帰着する。その時、お前の頼りなげに見えた命はどうなっていたのかと云えば、醜い吹き出物の跡形でもぶら下げるかの様に早朝の美しい纏いを打ち捨てて、天に延びる荒々しい望みを小さな身に余る野生へ復活させ、垣根と云わず柵と云わずあらゆる輪郭の衝突する区切りの線を這い回り覆い尽くす卑しい野心を剥き出しにした本性へ戻って行く。いったいお前の根の強さといったら欲深さといったら、ばら撒く種にその生(き)のままの宿世を封じ、もう何年も何度でも同じ事を繰り返すばかりでないか。朝顔の花、お前は可憐であるのか猛々しい毒婦なのか、相反(あいはん)するものは常に入り混じり、その源はいつでもそうである様に、この世を舐めた野太い企みに盛っている。そして、お前は、今朝も、曇った、いや、腐れ切った人の目に向かい、にこやかな欺瞞の花弁を嘘くさくたたえていた。ああ、しかし、姿形の表すものはどうやっても素朴で頼りなげな襞そのもの、凛とした和らぎは麗しく知性の影さえ見せぬのだから、何という底知れぬ美しさを伝え得るのだろう。繁茂の中を、栄華の中を、滅亡と再生は既に爛熟として芽吹き、ほんの一時を、決して伸延を許されぬ断絶のその時を迷う事無く謳歌する。それは包み隠さぬ命の姿、手を差し延べ咲き誇る花の襞の美しさを心がたぐり寄せねば、夏はただ太陽の力に焼尽くされ重過ぎる脳髄の疲弊へ籠った熱で自らを溶かすしか無いのだから、錆び付いた蝶番(ちょうつがい)に閉じた心は開かぬまま感ずるものはただ廃れ行く。

ほんのひとときなのだよ、その花が可憐に咲き誇り萎んで行くのは、そして、漲ったものは最後に固い種を残す。

* メールアドレスは非公開


比喩としてのパイが気になる

  お化け

君は「当たり前はやっぱりつまらない」って言う。いま私、どこにでもありそうな喫茶店で、ありきたりの「もの」のほとんどはつまらないのは認める。でもだからと言って「当たり前」の景色をじっと見つめることのない人になってしまったら、ありふれたものの中にある砂金の輝きを見つけることはできないよ。君には、当たり前に見えることはすべてつまらない、と見えている。君に私は言いたい。「いいや、私がいま当たり前のように見ているは、普遍的で美しいかもしれない」と思ったことがありますか、「ダーウィンのように君は疑ったことはありますか」と。もちろん、あると思う。え、君、誰だっけ? 私の思考実験の助手。わかってよ、ありふれたことに目を凝らして美しさを見つけようとすることは、当たり前のことのひとつ、の雫。人間が生きている日常は、そこを見つめる者に対して、美しさをもっている。

大人になって、世の中を見るやり方が変わって、見るものが輝かなくなっていく。小さな頃の自分のように生きていくわけにはいかない。これも当たり前のことのひとつ、の滴、滴滴、雨粒たち。生きるのが泣き出しそうなのは喪失していくからで、色んなことを諦めて生きてきた大人たちの心の中には、悲しみが美しくなれる居場所がある。悲しい人、「当たり前」の領域をキャンバスにして、そこにある区別を浮かびがらせる美しい線、鉛筆を持って、シャ、シャ、線を引く、線画。当たり前という必要条件の内側の美しさの十分条件を満たす形として実際に囲む線を描いていく。美しさはその線がなければ消えてしまうような紙一重、はかなさ。美しさの形は心の揺らぎをなぞって共感しながら感情を増幅させてしまうメロディーのように、実際の形は未だかつて実際には存在したことはないかもしれない。曖昧なんだ。ざわざわ、胸騒ぎして、胸が苦しくて、美しいような色彩豊かな影が震えて消えてしまうことだけがこの世界に存在する。

まだ鉛筆は持っていますか? 私が許すから、AとAでないものの間にハッキリ線を引いて欲しい。AでなくてもBでもCでもいい、とにかく或るものと或るものでないものの間に境界線を引く。「Aである」か「Aでない」かだ、という論理的には当たり前な真理が視覚化される。あなたはその世界を切り分けた。切り分けるものは「世界」でなくたって構わない。パイを切り分けたと言った方が私が言いたいことかもしれない。世界が大きすぎる、安部公房が言うように「大きすぎるものを眺めていると、死んでしまいたくなる***」かもしれないから。あなたが持っていた鉛筆はいつの間にかナイフになっている。パイのAの領域とAでない領域もいつの間にか切り分けられている。パイはいつの間にかチョコレートケーキになる。そしてチョコレートケーキはいつの間にかあなたがいちばん好きなケーキになっている。チョコレートケーキが好きな人のケーキはそのまま。Aの領域はちょうどあなたが食べたいだけのケーキの量で、あなたはそれを食べて、幸せな気持ちになった。

私はケーキを食べ終えたあなたたちをみている。あなたたちは私に気づいて、私は、どちらかと言えば不幸せな人間。不幸せに見えたのは、きっと、小さな喜びを持ったあなたたちが、いっせいに、私のことを見つめ出したから。そして私は自分がどこにでもいるありきたりな人間です、と自分のことを思って、どうすればいいかわからなくなってしまう。何か言わなければならない。「私はあなたたちと違ってパイから先には進めなかった」と、キッパリと言った。ダイエット中だった。あなたたちのようにケーキに進むわけにはいかなかったのよ私は。それに、もちろんそのパイは、比喩としてのパイなのだから、それが実際なんなのか、とそこで立ち止まって考えたかった。「パイ」あるいは言い換えるとAである何か、それは何か、私にとってAであるベキなのは何なのか、私はそう問いかけたかった。まだナイフを持っていますか? 比喩としてのパイを切り分けなさい。割り切れないものをすべて割り切るようにして。

後ろから、前から、横から、あなたたちはナイフを突き刺し、通り抜けた刃で誰かを傷つけた。切り分けられたパイはさらに切り分けられた。私やあなたたちは、自分が食べきれる以上の断片を欲しがった。自分が抱えきれないものを手に入れた者は動けなくなり、その重みで潰れていった。自分の中に持ち運んで動くことができなければ意味がなかった。手に入れることができたのは自分が望むものよりも少ない量だった。分割された比喩としてのパイのはもともとの位置から移動して、誰かが持ち去ったところに空いたニッチにハマった。切り離されたパイはやがて世界の断片に変質し、盗者の物語の意図の中で移動し、世界全体は組み替えられ、世界像の様々な可能性が試され、大きくなっていった。動く、その絵の連続、活動写真、「自由」という能動的曖昧さをジグソーパズルの絵の表現型にする巨大な有機体、の成長、胃袋に市場を持つリヴァイアサンの亜種を追うドキュメンタリーは、止まらない。あなたと私は大きすぎるものの何処かを呆然と見つめていて、震えながら、まだナイフを持っている。

誰かが「1+1は2じゃないのよ」と脅す。1+1=3なのか、4なのか5なのか、人と人とがくっついて「集まればその人数分以上の力になるのだって」確かめ合っている。収穫逓減の法則はそれをあざ笑っている。誰かが恋人を脅している。「人との関わり方が下手なあなたと私を足した1+1は2じゃない、3でもない。良くて1.7ぐらいか1.6とか、もしかしたら1.1なのかもしれない。だけど、私たちは一緒になるの。壊すのに1.1人の力が必要な壁だって1人の力じゃ壊せない壁じゃん。1人分より多い力が1ヶ所に集まってタイミングよく使われることが大事なの」だって、言って、2未満の力で壊せる壁を2人で壊して進もうとしながら、凶日、感情が爆発した日の頭の中が、逆再生されて、弾の中に詰められた。「半分こしよう、私は私を半分切り分けてあなたにあげるから、あなたはあなたを半分に切り分けて私に頂戴」と言い終えた後には自分を切り分けたナイフは拳銃に変わっていて、弾が装填され、バン、込められていたものが的確な位置でタイミングよく爆発し、君の揺れている心に小さな穴が空いて液体がこぼれた。

輪郭を伝って流れた液体の線がだんだん弱くなって、途切れ、乾き、線がわからなくなるとき、シャ、シャ、まだ鉛筆を持っていた人が瞬間を写生した。彼が描いた別の絵では、線は途絶えない、「穴の空いた心たち」から流れ出た液体は合流し、大河になって、空から見た地形に線を刻んでいた。別の絵では「穴の空いた心たち」が雲のようになりボヤッと集まって、雨が降っていた。それとはまた別の絵では、とても綺麗に世界を切り取っていた。そこには消えたものがあった。例えば、片脚を失うとき、耳が聞こえなくなるとき、失明するとき、最愛の人をなくしたとき、そんなとき、自分の当たり前の世界だったものが消えるときに消えたものがあった。「老いる」ことのように「徐々に」ではなく、クリアに喪失したものがそこにあった。「綺麗に切り分ける、ということは、喪失している現実にハッキリ気づいてしまうことに似ていて、悲しいことだ」彼は言った。いちばん綺麗な喪失を探していた。人生は絵になる、って言って、彼はいなくなった。にゃー、にゃー、にゃー。














*** 安部公房「箱男」から引用

小さなものを見つめていると、生きていてもいいと思う。
雨のしずく……濡れてちぢんだ革の手袋……
大きすぎるものを眺めていると、死んでしまいたくなる。
国会議事堂だとか、世界地図だとか……


点子が、行く。

  点子

点子にも ほんとうの名前があるらしいです。
しかし
点子と点呼されたときから、わたくし 点子となったのでございます。

汽車ほど、人間の個性を軽蔑したものなどありません。
この明治の世では 人々は汽車に たいそうおどろいているのでございます。
喜んだ者もいましたが、そうでない者もおりました。
わたくし点子の主人などは ひねくれておりますので
髭を くいと 丸くカールさせたまま 口を への字に歪ませて
このようなことを 云うのでございます。

   客車につみこまれた人間が
   皆同じ程度の速度で 同一の方向に進み
   同一の駅に向かう 
   人間は物なんぞじゃあないというのに
   同じ方向に 同じ堕落を 同じように
   自分など どこかに忘れて進む 

それが悲しいのでしょう  先生の猫である わたくしの名は 点子です。
   猫に名前は無くてよい。だか 点子よ、おまえには 
   チャームポイントがある。どこが可愛いかなんて云わんぞ
   おまえは チャームな点がある。だから点子だ。


汽車は チャームな わたくしを乗せて 蒸気をあげて走りました。
花火あがり 風船とび 大漁旗はひるがえり
そろいの衣装でおどる女たち
こどもたちのみこしも はしゃぎます。
   人には同じ行き先が嬉しいのです       
   瀬戸内に寂しく静かな尊い教えがあるのだ。
   その教えは、誰もが自分が可愛いが、
   それで良いのかと説くのだそうです。   
   汽車は 尼様の方角に向けて走るために開通
   したのでございます。 
  
   わたくしには チャームポイントがあるのだと
   先生はいつもおっしゃっているから 
   御坊様だろうが、汽車だろうが ロバだろうが 
       どうでも良いことなのでございます。
       
   チャームな点が、もしかして その女の御坊様にあって 
   私にないので わたしを捨てるというなら
   わたくしは 野良となるだけのことなのです。

そして  時代を経て、わたくし野良となりました

が、
わたくしの名は やはり点子なのでございます。わたくしがわたくしの名を
心で唱えるたびに わたくしはチャームポイントのかたまりなのでございます。


コキュートスの襞のための独白

  NORANEKO

洗われた夜のビロードの底を、青い水の幾筋かが流れる。
(わたしです。これが、わたしです。)
木霊する、静寂の舌の、見えないふるえを指に、乗せて、君は手帳に二、三の翻訳を綴るであろう。
(語られなかったものたちを、担い、語る、)
君は詩人としての自身を、そのような役として生きることにしたのだから。
鉛筆の、六角尻を唇にあてながら、鼠色に敷かれた道をかつかつと、踵で叩く、君に、重なり、寄り添う、見えない子宮がある。
アシラ、(反転/子宮)ヘレル、
螺旋を、描く、レエス。青ざめた襞のつらなりに抱かれて、凍える、それが君と彼女との絆であった。
「ヒュブリス、あるいは、オイディプス?」
即興の、詩句として、唇をふるわせたそれは、まだ生硬であれ、君たちの祖の起こりの、糸筋をなぞっている。
「戒めは、我が内なる声に。貴方の記憶に。」
ぶつぶつと、俯く、君の法悦は、他の誰にも閉ざされている。ほら、すれ違う、あの人も、目がひきつって、
「系統樹にはしる、忌むべき斜線を、埋めるように、」
吐瀉物が、爪先を、白く汚す。
「叢が、沸騰し、」
盲いた、お前へ、
「愛して、ますと、」
尻穴を、めがけて、
「光れる、爪先を、」
ぶちこんでやった。
「刹那、ふるる、」

唐突にも散文だ。深夜三時都内の某路上、アスファルトにうずくまって痙攣を続けるのは黒い綿の羽織であったが煤や脂にまみれて今やすっかり襤褸の布切れになっちまったのが身体に張り付いてもはや皮膚の一部かと見紛うありさまの浮浪者だ。髪の毛もニット帽も同様に境が見てとれないが、萎びたわかめの上にこんもりほっこり突起があるそのシルエットの塩梅から有り様を目測で判断できる。H型の火傷痕(ケロイド)に癒着した瞼の下の眼球は、おそらく潰れているのだろう。顔は青ざめているのだと思うがゴキブリ色に汚れているからわからん。しゅしゅ、た、しゅしゅしゅ、た、と。命乞いの擦音を洩らす荒れた唇から垂れる涎は一筋の蜘蛛の糸なんじゃねーかと俺(と、さっきまでのわたしは文体に合わせて一人称を乗り換える。)の脳髄のどっかしらの部位に備わる修辞回路が共示義的な像を目の裏に幻燈させる。
(生存本能がその欲求を叶えるものの象徴たる蛛の糸そのものへの変身願望へと倒錯したものがこの一筋の涎として表出したのだろう。)
俺は勝手にそう読解し、勝手に胸のときめきを覚えたから勝手に浮浪者の鳩尾にブーツの爪先を叩き込んだ。
横隔膜から絞り出される野太い濁音としゅしゅしゅ、という擦音が、なんか、生きている感じで。俺はこいつがまだ生きている、まさに、なんつーかそう、実存が素っ裸でぴかぴか光っているような気がして、泣きそうになって、また蹴りあげる。
「もっと、聞かせて、君の声を。声なき声を。
僕はそれを詩に書いて、君の代わりにうたい、続けるから、」

さかしまの、らせんを、すべり、
おちる、ねむりの、やわらかな、さむさ、
たろう、おねむり、きみの、ことばは、
きみでない、わたしが、ひきつぐから、
たろう、ここで「野良犬のように死ねよ。」

洗われた夜のビロードの底を、這って、
流れる、吐瀉物と、血液の、螺旋、
(わたしです。これが、わたしです。)
浮浪者よ。お前の閉ざした瞼の裏の、母の、氷の微笑が、胸の底の、暗闇に、渦を巻いて、吹き荒んでいるな。
(わたしの世界は、回り続けた、
淀む水の回転、ねじ折れる右腕、
オレンジ色の密室のなかで
回る、血の分子)
青ざめて、沸騰する、お前の血筋の斜線
/を、埋めるように、雪が、降り積もる。
「しゅしゅ、た、しゅしゅしゅ、しゅ、」
雪の上でも繰り返すよ。配役が変わるだけさ。
(ああ、人間の、祖型だもの)

「「兄さん、どうしてわたしたち、分節されたの」」

あの日からというもの、俺の内臓の暗がりに、ひとりの浮浪者が蹲っている。皮脂と垢に赤茶けた両手の指を、血色の悪い唇のほうへ寄せて、白い息を吐いている。季節がどれだけ経巡っても、その暗闇は冬のように寒かった。

「「母さんのお皿には切り株と魚、お父さんのお皿には蛇を咥えた鷹、僕のお皿には明星と河馬の、絵が描いてあったの」」

俺が路上でホームレスが手売りする雑誌を2週間にいっぺん、1冊300円で買うたびに、俺の暗がりにも銀貨が降り注ぎ、その明かりの下で、浮浪者は熱いカップ酒を啜るのだ。

「「母さんは床に垂れた父さんの脳みそをかき集めて、あけびの割れたような頭の穴にそれを押し込んでから、必死に心臓を叩いて、接吻しながら、息を吹き込んだりしていて、僕はなおさら腹が立って、母さんの腱を」」

幼児退行とでも、いうのか。汚れの下からもはっきりとわかるほどに頬を紅潮させ、泣き咽びながら昔話をするとき、男はやけに幼い口調になった。必死に親指の爪を噛みながら、掠れ、くぐもった声音で懺悔をした。

「「灯油のおばちゃんは優しかったよ。たくさん手を擦ってくれたよ。おじちゃんも優しかったよ。車に乗せて、いってくれようとしてさ。でも駄目だよ。もっと早ければ」」

俺は、部屋の隅で身をちぢこめながら、あの日、浮浪者から奪い取ったニット帽で顔を覆い、頭上に両手を組んで夜を過ごしている。

「「サガノの工場に弟がきてさ、その日に言われたんだよ。

にいさん、どうしてわたしたち、わたし/たち、」」

俺と、この浮浪者の分節はどこにあるのか。時折わからなくなる。

―――――(暗転)――――――


橙色の((H))光る、罪名

焼き鏝の先の煙りと、焦げる肉と脂の臭い

―――――(それは、あたたかな、黒だった。)―――――


朝。内臓の暗がりの浮浪者を父さんと呼んでしまった、その日から。

ニット帽を、洗濯機にかける。
ニット帽を、電子レンジにかける。
ニット帽を、扇風機に被せる。
ニット帽を、台風に晒す。
ぐるぐると、螺旋。
寄り添うのは夜の子宮。

ヘレル、(暗転/子宮)ヘレル、
アシラの、微笑、
「息子でも、男なんだね。粗末なモノおっ勃ててさ」
瞼の、裏の、
あばずれの、お母さん、
(緋色の、光の筋が、呑む、)
虹色の、凍傷の痕を、
なぞることが、歴史だった、

「Hubrisの、鼠径へ、」
すべての、未来の、供物から。


おばけのはなし

  熊谷


おばけとは、この世から消えることを意味するから
おばけになりたいわたしは
いつでもばいばいする準備はできていた





目を覚ましたら
落とし穴におちていた
見上げると上の上のはるか遠くに
見覚えのある顔がにこにこしていた
ここ最近では
そんな顔をしなくなっていたから
出会ったころのような気持ちが
おなかの底からじんわり湧いてきて
思わず名前を呼ぼうとしたら
それがどうしてもうまく思い出せなかった
なぜかその前に付き合ってたひとの名前ばかりが頭に浮かんで
口をあんぐりさせていたら
そのまま光がどんどん小さくなって
ぽっかり上に開いていた
穴の入り口を
堅くて重い何かで
ふさがれてしまった
最後くらいばいばいって言って欲しかった
蓋をされてしまったあなたを好きだったわたし
まっくらになって
目をつむって
出会いから別れを
もう一度頭の中で巡り始める





おばけになりたかった
地に足がつかず
人が人として生きていくなかで
当然のようにともなう
欲求や義務をすべてひっくり返した
あの宙に浮いた存在に
ものごころついたころから
その願望が途切れることはなかったから
もう足は透明になるところまできていた

あなたと会うときには
ちゃんと人間に
ちゃんとかわいらしい女の子に
ならないといけなかったから
前の日にはアロマオイルで足をマッサージして
明日いちにちだけ我慢してねって
右足と左足にやさしく声をかけていた


おばけになりたいことは秘密だった
足が透明になりかけていることも
女の子らしく無理して振舞っていることも
あたかも最初から
ただしい人間として
生活しているように見せかけていた





答えはでていた
計算をする必要も
えんぴつを転がす必要もなかった
あのとき名前を思い出せなかったことが
何もかもを象徴していた


穴に落ちた瞬間から
わたしは人間であることを
思い知った
ぐしゃぐしゃになった前髪や
ニキビだらけのほっぺたや
とまらない涙が
いかにも人間らしかった
もうおばけになんて
ならなくてよかった
ただあなたに好かれたかった
好かれたかったわたしは
どこかの穴に閉じ込められて
出れなくなっていた
ばいばいする準備を
あれだけしてきたのに
どうやってばいばいすればいいのか
わからなくなっていた
閉じられた蓋は
誰かが開けてくれるのか
自分で開けなくてはいけないのか
地に足がついたままで
あんな上まで手は届くはずがなかった





おばけとは、この世から消えることを意味するから
おばけになりたいわたしは
ありもしない抜け道を
必死で探していたのかもしれない





穴のなかで泣きながら
いろいろ考えを巡らせた
ここはどこなのか
出口はどこなのか
外の世界では
朝と夜はちゃんと来ているのか
都会にはサラリーマンがいて仕事をしているのか
田舎にはおばあちゃんが夕飯の準備をしているのか
そのうちちゃんとお腹がすいて
温かいふとんで眠れるのか
おばけは本当に存在してるのか
そんな無駄なことばかりを考えていたら
一度だけ蓋があいた


久しぶりのまぶしい光
外の新しい空気
お日様がこちらを向いていたから
今は昼間のようだった
世界はちゃんとまわっていた

ようやく光に目が慣れたころ
大好きな声が上から聞こえてきた
“会いたくなったら困るから
もうこれでおしまいね”
そうしていつも繋いでいてくれた
ごつごつしたあの左手が
宙にゆらゆら揺れているのが見えた





デートがなくなって
休みの日が真っ白になったから
東北に行くことにした
津波に襲われた地域は
何にもなくなってしまっていて
何だかとても大きな穴を抱えているように思えた
わたしには霊感がないから
残念ながらそこには
何の気配も感じられなかった


絆を失ったばかりのわたしが
復興のために
植物の苗を植えることに
何の意味があるかは
今のところ分からなかった
何ヶ月後にはいちごの実ができると
地元のおじさんが笑顔で話してくれた
そうしたら穴のなかにいる自分に
いちごを食べさせてあげよう
食欲が無いなりにでも
少しずつ食べるだろう
それでもしかしたら
また恋をする気になるかもしれない


東京に帰ったら
今までそばにいてくれた
おばけになりたかった自分に
さようならをする
前向きに生きることの大切さを
説教することもなく
ただただ慰めのために
そばにいてくれた
透明な存在にばいばいをする
今すぐおばけにならなくても
きっといつかはおばけになるのだ
いちごが大好きで
あなたを大好きだったおばけに


空白

  破片

 都庁の高い建物が、曇り空を支えていた。私の手は届かない。目の前にかざしてみた手は、あのビル群に触れているようで、けれど実は、遠い虚空を隔ててビルと手とが同じ直線上に坐しているだけにすぎず、決して触れるなんてことはない。三十八階の窓の脇、その外壁に指先が届いたら、私たちは少しの間だけヒトでない存在になることが、出来るかもしれない。

 そのコーヒーは青かった。緑とも青とも、ごった煮の黒とも、そして透明とも言える。でも多分私が見る限り「青」が一番近いので、友達と協力して淹れたそのコーヒーは青い。信じられない色彩の飲み物はクソ不味くて、今すぐ発がん性を持つ何らかの物質に生命を削られてしまうのではないかとわたしは思った。「捨てようか」と少し挑発的な表情で友達は言う。そしてわたしが答える。「いいさ、死ぬわけじゃなし」二人の声が「一度くらいこんなのを飲んでも良い」青空みたいな不安な色の液体に溶ける。

 たとえば私は、東京スカイツリーや通天閣といったとてつもなく高い建物の、天辺から見る普段の世界がどうなっているのかを一切知らなかった。それを知るひとたちは、わたしたちが発明した青のコーヒーを美味しく飲めるような、そんな種族なのだと思う。六百メートルもの距離を隔てても、ひどく強引で、わかりやすい手段を使ってその空白を埋められるひとたち。煙草の吸殻が一つも落ちていない道を行く人々は、あまりにもサムそうな目でそれを見ている。

 ちょっとした小道や路地の方へ入っていけば、コーヒーの豆を売っている処などいくらでもある。私たちの作るコーヒーは何も特別なものは使っていない。ただグァテマラだとか、キリマンジャロだとか、マラコジッペ、知らないなりに聞き覚えのある豆を焙煎機にぶち込んで、ゴリゴリ挽いて作る。都庁45階にある展望台から見たスカイツリーの中腹は、そういえばコーヒーを作る時のように、堂々とした中に忙しなさを感じさせる速度で回転していた。そこでは行きつけの珈琲屋が見えなかったことが、わたしを最も感動させた。

――大学の窓から飛び降り自殺。
 私は、友達のバイト先にいる同僚がいかにクソな人間かということを語り尽くすのを聞いている。ちょっと綺麗な女を見ると舞い上がる、調子に乗る、笑顔になる、偉そうにする、自分の顔を鏡で見た方が良いですよ、といつか言ってやろう、そうだそれがいいと、私が笑い転げる。
――都内のコンビニでアルバイト。
 それを知るのがあと一時間早かったなら、私たちは何を語っていたのだろう。私はその事実を知った時、とてつもない失望感と、羨ましさを覚えた。死ぬこと、死んだことに対して、ではなく、「死ぬことが出来たこと」に対して。死んでしまった彼は私たちの淹れたコーヒーに、口をつけさえしなかったくせに。
 私たちはそれから丁度五分を数えた瞬間、同時に吹き出し、大笑した。私たちの語った彼は、もう世界にはいない人物だったという認識。どうしようもない時間軸のズレ。何か圧倒的な転倒。知人を喪ってしまった喪失感や、悲嘆、そういったものがあるから、私たちは笑う。「死んでいたって、どういう事態さ」「大学の窓からか、色んな人間に見られただろうな」「どうせなら都庁からってのは――」「それいいな。あ、でも展望台は嵌め殺しだぞ」「何とかしてさ」「何とかするか」私たちは病みつきになってしまった青いコーヒーを啜りながら笑い続ける。格好つけの彼は、私たちが笑い続けている限り、多分生きている。自分の肉体を護りながらヒトでない存在になるのは難しい。私たちは都庁や東京スカイツリーの天辺から、何百メートルも隔てた虚空を飛び降りて、空白を握り潰して、生き残ろうと画策している。指先がそこへ届くように。コーヒーは少しずつ私たちの身体に馴染んでいる。彼が火葬されて骨になる時、わたしたちは小春日和の高すぎる空を見上げて、都庁の麓の住宅街を散歩している。


Re:

  WHM

たとえば裏通りから近づいてくる犬の嗅覚。遊び飽きた後の野良猫の行方。あるいはドアの閉められた隣部屋。背伸びした銀色のラジオアンテナがつかまえる混声。おじいさんのおじいさん。人のいない家を窓から射し込む光が角度を変えていく日々。いつかあった街。そう、おじいさんのおじいさんが何歳まで生き、どんな表情で笑い、どんな思いで怒ったのか、日常がふと途切れる瞬間、幾度とない夜と朝の静寂のなかで、何を見つめ何を考えたのか。角を曲がった先の、見たことのない煙草屋の小ささや、考えることもなくあったはずのこと。

田舎のおじいさんはもう、ほとんどしゃべらなかった。黒い瞳の視線の先に何を見ているのかも、もうよくわからなかった。黙って傾いたままの背中は、樹木の放つ輪郭に近いものがあった。「点には大きさがない。」大きさがないなら何があるのか?ついぞ聞けないままでいる、おじいさんの背中はおじいさんのおじいさんのことを思い出している。「つねに逆転せよ。」木から落ちる、いが栗が道路の端で割れている。葉が色を変えていく。樹木はすっかり葉を失い、次々に埋れていく白い雪のなかで黒い枝を咲かすだろう。雪の重み、雪を見て雪の含む水分量の違いを言い当てるおじいさんのおじいさんのおじいさんたちの。軒先から延びていくつらら。わらぶき屋根、柱と柱、またがる梁、引き戸、その下に広がる土間、並ぶ長靴。木と土と水の、家屋が辿って来た様式、ある時代のある場所に建ってきた時間。小さな音がずっと響いている。何かが、ゆっくりと軋んでいくせいで。

点には大きさがない。たとえばどこまでも遠ざかっていく舟のように。見渡す限り海、の上にぽつんと一艇浮かぶ舟、そこで深い深い海の上で揺られ始めた途端、地球が闇のなかを静かに漂流する姿が身に迫るように。つねに逆転せよ。あの星々の光で宇宙が満たされないのは途方もない暗さが広がっているからだと、わたしたちは真昼間に目を瞑って、いっせいに街を行進する。ヘレンケラーの手のひら。W-A-T-E-R、触れる指の先が、順番に一文字一文字、なぞる線は折れ曲がり、離れ、手のひらに消えた感触の尾ひれをつかもうと見えない意志で前進する。手のひらに触れた点が、シナプスの端に着火し瞬間疾走する光の条。STARS AND STRIPES。国旗に火が放たれ、ネックの上を躍るジミヘンドリックスの長い指。火が火を呼び、手が手を継承する。だから、わたしたちは目を瞑って思い出そうとする。震える鉄の塊が、ケーブルで機械に繋がれ破裂寸前まで膨れあがる爆発力で空間を裂こうとするように。わたしたちの内側の発光、それが線になって延びるのならば。

狭いくぐり戸を抜けると、仄かにお茶の香りが広がっている。お湯を注ぐ音がし、小気味良い音が束の間続くと、香りが湯気とともに立ち昇り、ほどかれてゆっくりと舞い降りてくる。手を添えると、茶碗は、お茶を含んでそこで奇跡的に立っていた。風で葉の擦れる音が重なり合って続く。伐られたばかりの木の匂いがする。活けられた枝には、目を凝らすと、蓑虫が眠っている。見つけられたこと、見つけられないでいること、続いていくこと、埋れたままのこと、この土地、このとき、今はまだ眠っている誰かが、おじいさんのおじいさんの聞こえない声や、見たことのない夢を見る夢。


夢よりきれいなところ

  深街ゆか


けっきょく容量の問題
と 夢の受話器ごしに聞いた
看るということばの意味なら
知っているような気がする
辞書をひろげたら 
ちぎった蝶の羽を散りばめて
ヒメシロチョウ ツマキチョウ
それから ミカドアゲハ
(とうぜん わたしは父の名を知らない)
さいごに モンキチョウ
硝子玉と曇天が受精して
チョウが生まれたと
イカれた妹におしえたことがある


たぶんどうでもいい感じに
産み落とされたことについて
どうでもよくないと思う青年がいて
雨に打たれたような肩と、背と
蒼ざめた 青年の舌苔
それは 時給に換算したら
いくらになるの と聞いても
乳母車は 凍てついてる
としか答えないから
その責任は と聞きかけて
薔薇の花をむしって 逃避する
わたしの 幼いころからの悪癖
つまり折り返し地点は無限にあって
青年が その蒼い舌苔を抱えて
(ゆびおりかぞえても えいえん)
という 言葉を呟いて飛び降りても
わたしは注意深くえいえんを
ルーペで観察するだけなんだけれど


母の黄色くにごった眼に
薔薇の花を浮かべると すごくきれい
これが救いなら 死んだほうがまし
って言ったら去勢されるような気がする
季節の移行に 胸を切開されて
いつのまに 詰め込まれてる認識は
わたしを帰ることができないところまで
バスに乗せて薔薇が咲き乱れるところまで
連れていくから 悪意はいつも
鮮やかに プリントされて 容量不足になる
ここらで バラの花 母の眼に浮かべて
夢の受話器に耳を澄まし
看る、からいちばん
とおい世界へ
行きませんか
身体の紛失でもけっこう
もう、わたしの舌苔は腐敗しているから


(ゆびおりかぞえても えいえん)


愛ということばの意味なら、知っているような気がする

文学極道

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