二〇一七年十月一日 「蝶。」
それは偶然ではない。
偶然ならば
あらゆる偶然が
ぼくのなかにあるのだから。
二〇一七年十月二日 「「わたしの蝶。」と、きみは言う。」
ぼくは言わない。
二〇一七年十月三日 「蝶。」
花に蝶をとめたものが蜜ならば
ぼくをきみにとめたものはなんだったのか。
蝶が花から花へとうつろうのは蜜のため。
ぼくをうつろわせたものはなんだったのだろう。
花は知っていた、蝶が蜜をもとめることを。
きみは知っていたのか、ぼくがなにをもとめていたのか。
蝶は蜜に飽きることを知らない。
きみのいっさいが、ぼくをよろこばせた。
蝶は蜜がなくなっても、花のもとにとどまっただろうか。
ときが去ったのか、ぼくたちが去ったのか。
蜜に香りがなければ、蝶は花を見つけられなかっただろう。
もしも、あのとき、きみが微笑まなかったら。
二〇一七年十月四日 「蝶。」
おぼえているかい。
かつて、きみをよろこばせるために
野に花を咲かせ
蝶をとまらせたことを。
わすれてしまったかい。
かつて、きみをよろこばせるために
海をつくり
渚で波に手を振らせていたことを。
ぼくには、どんなことだってできた。
きみをよろこばせるためだったら。
ぼくにできなかったのは、ただひとつ
きみをぼくのそばにいさせつづけることだけだった。
二〇一七十年月五日 「蝶。」
きみは手をあげて
蝶を空中でとめてみせた。
それとも、蝶が
きみの手をとめたのか。
静止した時間と空間のなかでは
どちらにも見える。
その時間と空間をほどくのは
この言葉を目にした読み手のこころ次第である。
二〇一七年十月六日 「蝶。」
蝶の翅ばたきが、あらゆる時間をつくり、空間をつくり、出来事をつくる。
それが間違っていると証明することは、だれにもできないだろう。
二〇一七年十月七日 「蝶。」
たった二羽の蝶々が
いつもの庭を
べつのものに変えている
二〇一七年十月八日 「蝶。」
ぼくが、ぼくのことを「蝶である。」と書いたとき
ぼくのことを「蝶である。」と思わせるのは
ぼくの「ぼくは蝶である。」という言葉だけではない。
ぼく「ぼくが蝶である。」という言葉を目にした読み手のこころもある。
ぼくが読み手に向かって、「あなたは蝶である。」と書いたとき
読み手が自分のことを「わたしは蝶である。」という気持ちになるのも
やはり、ぼくの言葉と読み手のこころ自体がそう思わせるからである。
ぼくが、作品の登場人物に、「彼女は蝶である。」と述べさせると
読みのこころのなかに、「彼女は蝶である。」という気持ちが起こるとき
ぼくの言葉と読み手のこころが、そう思わせているのだろうけれど
ぼくの作品の登場人物である「彼女は蝶である。」と述べた架空の人物も
「蝶である。」と言わしめた、これまた架空の人物である「彼女」も
「彼女は蝶である。」と思わせる起因をこしらえていないだろうか。
そういった人物だけでなく、ぼくが書いた情景や事物・事象も
「彼女は蝶である。」と思わせることに寄与していないだろうか。
ぼくは、自分の書いた作品で、ということで、いままで語ってきた。
「自分の書いた作品で」という言葉をはずして
人間が人間に語るとき、と言い換えてもよい。
人間が自分ひとりで考えるとき、と言い換えてもいい。
いったい、「あるもの」が「あるもの」である、と思わせるのは
弁別される個別の事物・事象だけであるということがあるであろうか。
考えられるすべてのことが、「あらゆるもの」をあらしめているように思われる。
考つくことのできないものまでもが寄与しているとも考えているのだが
それを証明することは不可能である。
考えつくことのできないものも含めて「すべての」と言いたいし
言うべきだと思っているのだが
「このすべての」という言葉が不可能にさせているのである。
この限界を突破することはできるだろうか。
わからない。
表現を鍛錬してその限界のそばまで行き、その限界の幅を拡げることしかできないだろう。
しかも、それさえも困難な道で、その道に至ることに一生をささげても
よほどの才能の持ち主でも、報われることはほとんどないだろう。
しかし、挑戦することには、大いに魅力を感じる。
それが「文学の根幹に属すること」だと思われるからだ。
怠れない。
こころして生きよ。
二〇一七年十月九日 「トム・ペティが死んだ。」
トム・ペティが死んだ。偉大なアーティストがつぎつぎ死んでいく。それは悲しいことだけれど、それでいいのか。新しいアーティストが出てくる。それで文化がつづいていくのだ。新しい文化が。新しい音楽が。新しい文学が。そうだ。新しい詩は、古い詩人が死んだときに現われるのだ。
二〇一七年十月十日 「剪定。」
庭では
手足の指を栽培している
不出来な指があれば
剪定している
庭では
顔のパーツを栽培している
不出来な目や耳や鼻や唇があれば
剪定している
二〇一七年十月十一日 「ヘンゼルとグレーテル」
チョン・ジョンミョン主演の韓国映画『ヘンゼルとグレーテル』を3回くらい繰り返して見た。傑作だと思う。一生のあいだに、このような傑作がひとつでも書ければ、作家として満足だろう。詩人としても満足だ。
二〇一七年十月十二日 「守ってあげたい」
フトシくんのことは何回か書いているけれど、彼がぼくのためにカラオケで歌ってくれた「守ってあげたい」は、ぼくの好きなユーミンの曲のなかでも特別な曲だ。
二〇一七年十月十三日 「ふるさと遠く」
眠れないので、ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』をいま読んでいる。傑作だった記憶があったのだが、まさしく傑作だった。冒頭からフロイト流のセックス物語で、2作目から幽霊の実母とまぐわう近親相姦の話だとか、まあ、まったくSFというより奇譚の部類かな。3作目は2作目のつづき。
きょうも、ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』のつづきを読みながら寝ようと思う。この短篇集が、いま絶版らしいいのだが、まあ、なんというか、よい作品が絶版って、よくあることだけど、いかにも現代日本らしい。
むさぼるように本を読んでいたぼくは、どこに行ったのだろう。いまは、むさぼるように夢を見ている。
二〇一七年十月十四日 「夢を見た。」
夢を見た。夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た。……
二〇一七年十月十五日 「日知庵」
日知庵から帰ってきた。帰りかけに、愛媛に拠点をおく21才で起業している青年と話をしていた。おとなだと思った。また、そのまえには、大阪の高校で先生をしてらっしゃる方とも話をしていた。趣味で音楽をやってらっしゃるという。まじわるところ、まじわらないところ、いろいろあっておもしろい。
二〇一七年十月十六日 「橋本シオンさん」
橋本シオンさんから、詩集『これがわたしのふつうです』を送っていただいた。とても刺激的な表紙で、近年こんなに驚いた表紙はなかった。冒頭の長篇詩、「母」と「娘」の物語詩、興味深く読まされた。終わりの方に収録されてる詩篇の「死にたいから生きているんです」という詩句を目にできてよかった。また、「わたしについて」という詩篇には、「東京の真ん中に、必要とされていないわたしが落ちていた。」という詩句があって、いまぼくの頭を悩ませていることが、大きくズシンと胸のなかに吊り下がったような気がした。全体にナイーブなすてきな感じだ。出合えてよかったと思う。魅力的な詩集だった。
二〇一七年十月十七日 「睡眠。」
これから数時間、ぼくはこの世のなかから姿を消す。数時間後にまたふたたび、この世のなかに姿を現わす。しかし、数時間まえのぼくは、もういない。少し壊れて、少し錆びれて、少し遅れていることだろう。毎日、数時間この世のなかから姿を消して、壊れて、錆びれて、遅れていくことしか学べないのだ。
二〇一七年十月十八日 「阿部嘉昭さん」
阿部嘉昭さんから、詩集『橋が言う』を、送っていただいた。帯に「「減喩」を/駆使した/挑発的で/静かな/八行詩集」とあって、読んでいくと、「減喩」という言葉の意味が、多種多様な、さまざまな「喩」を効かせまくる、というふうにしか捉えられない印象を受けた。ぼくなら、「多喩」と名付ける。「静かな」といったたたずまいはまったくない。むしろ、騒々しい。その騒々しさが、詩篇の威力を減じているといった作品も多い。そういう意味でなら、たしかに、「減喩」と言えるかもしれない。とても、もったいない感じがする。原因はなんだろう。韻文。短詩型文学。俳句や短歌の影響かな。そんな気が、ふとした。ぼくは、あくまでも、俳句や短歌を現代詩とは切り離して考えるタイプの実作者である。
二〇一七年十月十九日 「谷内修三さん」
谷内修三さんから、『誤読』を送っていただいた。これは、ひとりの詩人の詩に対する覚書の形をとったもので、谷内さんが毎日のようになさっている作業と同じものだ。詩句に対する手つきも同じ。読みどころはなかった。新しい方向から見て書かれたところはなかった。出す意義がどこかにあったのか。
二〇一七年十月二十日 「断章」
人間というものは、いつも同じ方法で考える。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)
二〇一七年十月二十一日 「加藤思何理さん」
加藤思何理さんから詩集『水びたしの夢』を送っていただいた。エピグラフ的な短詩を除くと、短篇小説的な詩が数多く収められている。非現実的な展開をする詩がかもす雰囲気が不思議だ。一篇一篇がていねいにつくってあって、じっくりと読ませられる。長い下準備のもとでつくられた詩篇ばかりのようだ。
二〇一七年十月二十二日 「三井喬子さん」
三井喬子さんから、現代詩文庫『三井喬子 詩集』を送っていただいた。意味がわからない詩句が連続して繰り出された詩篇ばかり。こういったものが現代詩の一部の型なのだろう。ぼくにはまったく楽しめなかったし、後半、読み飛ばしていた。現代詩文庫に入っているのだから需要はあるのだろう。不思議。
二〇一七年十月二十三日 「舟橋空兔さん」
舟橋空兔さんから、詩集『羊水の中のコスモロジー』を送っていただいた。わざと難解にしようという意図もなさそうで、詩句の連続性に不可思議なところはない。すんなり読めた。こういう詩には短篇小説の趣きがあって、楽しめる。ただ古典的な日本語のものは、ぼくに読解力がないので読み飛ばした。
二〇一七年十月二十四日 「たなかあきみつさん」
たなかあきみつさんから、詩集『アンフォルム群』を送っていただいた。旧知の詩人に捧げられた一篇を除いて、意味のわかる詩篇はなかった。一行の意味さえわからず、なにを読んでいるのか、ぼくの頭では理解できなかった。こういった詩はなぜ書かれるのだろう。理由はわからないが需要があるのだろう。
二〇一七年十月二十五日 「日原正彦さん」
日原正彦さんから、2冊の詩集『瞬間の王』と『虹色の感嘆符』を送っていただいた。「人は足で立っているが/ほんとうはカーテンのように吊るされているのではないか」といった、ぼく好みの詩句もあって、全体に読みやすい。というか、難解なものはまったくない。こういう詩集が、ぼくは好きだ。
二〇一七年十月二十六日 「妃」
詩誌『妃』19号を送っていただいた。むかし、ぼくも同人だったころがあるのだが、新しい体制になって、同人のお誘いはなかった。いまの『妃』は大所帯である。冒頭の詩篇をさきに読んだ。なんてことはない。まあ、詩なんて、なんてことはないものかもしれないけれど。記憶に残る詩はなかった。
二〇一七年十月二十七日 「海東セラさん」
海東セラさんから、詩誌『風都市』第32号を送っていただいた。海東セラさんの詩「岬の方位」に、「岬まで行ってしまえば/岬は見えなくなるでしょうから」という詩句があって、いつも海東セラさんの詩句には、はっとさせられることがあるなあと思った。同人の瀬崎 祐さんの「唐橋まで」も佳作だ。また、海東セラさんからは、詩誌『グッフォー』第68号も送っていただいた。海東セラさんの「ステンレス島」の冒頭、「棄てる部位と棄てられない部位はあわせてひとつのものだが、手を離れたとたんに別のものになる。」という詩句に目がとまった。そのあと具体的な例があげられ納得する。現実に支えられた詩句は、ぼくの好みのもので、海東セラさんの詩は、彼女のエッセーとともに、ぼくの読書の楽しみのひとつとなっている。
二〇一七年十月二十八日 「谷合吉重さん」
谷合吉重さんから、詩集『姉の海』を送っていただいた。「チェーン・ソウに剥がされた/乾いた血」だとか、意味のわからない詩句が連なり、詩篇をなしているのだが、これまたぼくには理解できない詩篇ばかり。一連の現代詩の型だ。これだけこの型のものがつくられるのだ。やはり需要があるのだろう。
二〇一七年十月二十九日 「中井ひさ子さん」
中井ひさ子さんから、詩集『渡邊坂』を送っていただいた。事物の形象を、こころの目で見たまま、素直な言葉で書かれている印象がある。わかりにくい詩はない。心構えなどしなくても読めるやさしい詩ばかりだ。中井さんが、こころの整理されている、頭のいい方だからだと思う。
二〇一七年十月三十日 「江田浩司さん」
現代詩手帖11月号「レベッカ・ブラウン/ドイツ現代詩」特集号を送っていただいた。ことしの2月に思潮社オンデマンドから出してもらった拙詩集『図書館の掟。』の書評が掲載されているためである。江田浩司さんに評していただいている。はじめてぼくの詩をごらんになったらしい。
二〇一七年十月三十一日 「大谷良太くんちで」
きょうは、お昼から晩まで、大谷良太くんちで、ずっと、ごちそうになってた。お酒ものんでた。詩の話もしていた。つぎに出す詩集の話もしてた。人生について話もしてた。これがいちばんながくて、つらい話だったかもしれない。カンタータ101番。
最新情報
2020年02月分
月間優良作品 (投稿日時順)
- 詩の日めくり 二〇一七年十月一日─三十一日 - 田中宏輔
- ぼく - ハナビ
- 放熱 - 北
- やはり詩へ還る - 田中恭平
- 詩の日めくり 二〇一七年十一月一日─三十一日 - 田中宏輔
- 月を撃つ - ネン
- poolで燃える火 - 白犬
- Speed Kills - アルフ・O
- bye-bye - 完備
- 没落 - 鷹枕可
- 地下的憑依 - ゼッケン
- Today - アルフ・O
- go down like a lead balloon (I) - アンダンテ
- 神よりも - 湯煙
- SHIT POEM - 完備
- まつろわぬ神 - kale
- 焦らされて - イロキセイゴ
次点佳作 (投稿日時順)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
詩の日めくり 二〇一七年十月一日─三十一日
ぼく
本棚に入ったノリのついたままのスーツ。ホンキートンクのカーテン。QWERTYはたていすかんなのか。へえ。日本経済新聞、2019年(令和元年)10月18日(金曜日)。「高校生向け」『「2030年 AIと生きる若者たち」』池上彰のマイク持った写真ばばーん。ヨレヨレ。今日は2020年(令和二年)1月31日もうすぐ2月やで(金曜日)。GTECはTOTALのCEFR-J LEVELがA1.3か。Benesse Corporationめ。キッチンタイマー10分にセットしたのいつだっけ。たしかYouTubeの動画で早稲田首席だったブレイクスルー佐々木って人が「10分休憩勉強法」って紹介してたな。僕は机でプリント1枚開くこともできないまま、木の板見えないまま。床でこれを書く始末。着れもしないスーツ。くしゃくしゃに潰れたブックカバー。キシリトールガム食べてんのに虫歯になるのなんでだろう。まーた歯医者予約し忘れた。この紙の裏には「古文単語を覚えよう!」って先生の気持ちが書かれてる。消しゴムの後ろの角は角張らせたままなのに、このザマなのはなんでだろう。ポストItはI,I,Iなのなんでだろう。あ、大学生のあの、東大王に出てる人たちが被ってる帽子も本棚に詰めてあるんだヨ。Avastセキュリティーまだ消えてなかったのかよ。欲しかったソフトはお前じゃねえっての。イヤホンそろそろ寿命かな。どうもハウってしかたない。パナソニックだけどやっぱ安いのじゃダメなんかね。はあああああ。もういいや。おしまい。
放熱
月は約束も無しに昇り
虚ろな大地に実りを与える
体温に眠りはなく
運命に拓かれた心に
陰りはない
両手に祈りを包みこみ
願いの意味を遠ざける
巫女の舞に召喚された未来
過去から祖父を呼び寄せる
うやぁ、混乱するジャングルの
邪魔と癒の統計学
メガネ猿がフルーツと同じ数の
条約を交わしています
鍵と鍵穴の関係に結付いた
繊細な果肉を絞り
厳密な甘味によって月を点す
フィラメント
義母達の活着の緑夜
やはり詩へ還る
とおい銀河がひとつはてたころ
わたしは剃刀で髭を剃られた
動いてはならない
わたしは不自由性に身を置く
すると詩ができる
自由にしろ
と云われて
公園で草の花を採集する
ことしかしなかった
おしろい
と
すれ違って
こかこうらを飲んでいた
夏は
こんなに眼が
バチバチすることはなかった
冬は
病の季節 半面
ろまんちっく
でもある
私の頭の中に回収されてゆく
星の死のイメジ
詩はびる・えばんすに習った
それからアマチュアの詩を読んで
私には書けない
と考えた
どうしておかしくなってしまうんだろう?
どうして普通の人のように
詩を書けないんだろう
痛みはない
鈍麻がある
万年筆の先がこわれて
青い液体を放散する
詩の日めくり 二〇一七年十一月一日─三十一日
二〇一七年十一月一日 「年間アンケート」
現代詩手帖の編集部に、年間アンケートの回答をいまメールに添付して送った。2016年の11月から2017年の10月までに読んだ詩集で感銘を受けた詩集を5冊にしぼるのは、けっこうたいへんな作業だった。なぜその5冊にしぼったかの理由を述べる文章は数十分でつくれた。
二〇一七年十一月二日 「ヒロくん」
きょうは、一日中ねてた。ねて夢を見ていたのだけれど、夢の途中で、トイレに行かなければならなくなって、起きたのだけれど、ねると、またその夢のつづきが見れるようになった。で、けさ、見た夢は、むかし、ぼくが30才くらいで、付き合っていた男の子が21才だったころの夢だった。ただすこし、現実とは異なっていた箇所があって、彼の名前はヒロくんと言って、ぼくの詩集にも収録している「年平均 6本。」に出てくるヒロくんなんだけど、下着姿でぼくの目のまえにいたのだった。しかも、いっしょにいたアパートメントが、なにかの宗教施設のようで、ほかにいた青年たちもみな下着姿なのであった。もちろん、ぼくの好みはヒロくんだけなのであって、目移りはしなかったのだけれど、いったい、なんの宗教なのかはわからなかった。まあ、宗教施設のアパートメントじゃない可能性もあるのだけれど。しかし、20年以上むかしに付き合ってた男の子が夢に出てくるなんて、いまのぼくの現実生活にいかに愛情がないか、などということを表されているような気がして、さびしくなったけれど、夢でなら、このあいださいしょに付き合ったノブちんが夢に出てきてくれたように、いくらでも会えるってことかなと思えて、ねるのが楽しみになった。夢のなかだけで会える元彼たちだけれど、めっちゃうれしい。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年十一月三日 「出眠時幻覚。」
きのうも同じものを見た記憶がよみがえった。
ぼくは白人の少年だった。
肉屋で、ソーセージを食べたのだ。
肉屋といっても、なんだかサーカスの小屋みたいなテントのなかで。
売ってるおじさんたちも白人だった。
そのソーセージは
ウサギのような生き物が
自分の肉を火に炙って、それをぼくに渡すのだけれど
最後に苦痛にはじけるように、背中をのばして、顔を苦痛にゆがめて
自分の口に脊髄みたいなものを突っ込むのだ。
ぼくは、そいつが生き物だとは知らないで
肉の人形だから、面白い趣向だなって思ってたんだけど
ぼくの飼ってたウサギが死んで、そいつが売られていたのだった。
そいつが、「ぼくを食べて。」と言って、ぼくに迫ってきたので
「できないよ!」と叫んでいたら
肉屋のおじさんとおばさんが出てきて
白人だったよ
ブッチャーみたいな太ったおじさんと
背の高い痩せた、化粧のケバい白人女性だった。
ぼくのウサギの皮を剥いで、火で真っ赤に焼けた窯のなかに
入れたの、そしたら、ぼくのウサギが苦痛に顔をゆがめて
でも、叫び声をあげなかったけれど
焼けたら、そいつを縛りつけてた鎖がほどけて
そいつが自分の脊髄を自分の口にポンっと放り込んだの。
「ぼくを食べて。」って感じで。
ぼくは逆上して、そこから逃げ出そうとしたら
肉屋のおじさんとおばさんが、ぼくを捕まえようとして迫ってきたの。
逃げようとしたら、何人かの少年たちが皮を剥がれて倒れていたの。
しかも肉が焼かれた色してた。
飴炊きの鴨みたいな皮膚でね。
でもね。
その少年たちが立ちあがって
そのおじさんとおばさんに迫ったの。
ぼくも、そのひとりでね。
ぼくは、脊髄みたいなものを口にポンっと入れて
歩きだしたの。
で、ここで、完全に覚醒したので
覚えているうちに書きこもうと思って
パソコンのスイッチを入れた。
1時間ほどの睡眠だった。
脳が覚醒しだしたのかもしれない。
きのうの朝にも同じものを見た記憶がある。
きのうの朝には
また父親とふたりの弟が出てくる別のものも見た。
とりつかれているのだと思う。
父親と弟に。
二〇一七年十一月四日 「また、やっちゃった。買わずに帰って、やっぱり欲しくなる。」
いまから当時のブックオフに。
あ
東寺ね、笑。
でも、「当時のブックオフ」って言い方、すてきかも、笑。
フランス人のある詩人の書いた小説。
なんで買わなかったんやろうか。
行ってきま〜す。
あるかな。
ありました。
いまから塾に。
『欲望のあいまいな対象』でした。
ついでに買ったもの。
V・E・フランケルの『夜と霧』
むかし読んだけど、新版って書いてあったので。
105円。
読むと、たしかに以前より文体がやわらかい。
スーザン・ヘイワードの『聖なる知恵の言葉』
おほほほほ、という内容で
あまりに常識的な言葉ばかり並んでるので
へ〜、っと思って。
これも105円。
しかし、ピエール・ルイスの『欲望のあいまいな対象』
あまりにへたくそな訳で、びっくりぎょうてん。
ご、ごむたいな、みたいな。
もちろん、105円でなかったら
買ってないかな。
これからストーンズ聴きながら
『聖なる知恵の言葉』で
おほほほほ。
おやすみなさい。
ドボンッ。
二〇一七年十一月五日 「正しい現実は、どこにあるのか。記憶を正すのも記憶なのか。」
文学極道に投稿していた詩を何度も読み直していた。
もう、何十回も読み直していたものなのだが
一か所の記述に、ふと目がとまった。
記憶がより克明によみがえって
あるひとりの青年の言葉が
●詩を書いていたときの言葉と違っていたことに
気がついたのである。わずか二文字なのだが。
つぎのところである。
●「こんどゆっくり男同士で話しましょう」と言われて 誤
●「こんどゆっくり男同士の話をしましょう」と言われて 正
誤ったのも記憶ならば
その過ちを正したのも記憶だと思うのだが
文脈的な齟齬がそれをうながした。
音調的には、正すまえのほうがよい。
ぼくは、音調的に記憶を引き出していたのだった。
正せてよかったのだけれど
このことは、ぼくに、ぼくの記憶が
より音調的な要素をもっていることを教えてくれた。
事実よりも、ということである。
映像でも記憶しているのだが
音が記憶に深く関与していることに驚いた。
自分の記憶をすべて正す必要はないが
とにかく、驚かされる出来事だった。
追記
剛くん、ごめんね。
この場所
文学極道の投稿掲示板のもの
訂正しておきました。
もと原稿はこれから直しに。
いや
より詳細に検討しなければならない。
ぼくが●詩を書く段階で
いや
●詩のまえに書いたミクシィの日記での記述の段階で
脳が
音調なうつくしさを優先して言葉を書かしめた可能性があるのだから。
記憶を出す段階で
記憶を言葉にする段階で
音調が深く関わっているということなのだ。
記憶は正しい。
正しいから正せたのだから。
記憶を抽出する段階で
事実をゆがめたのだ。
音調。
これは、ぼくにとって呼吸のようなもので
ふだんから、音楽のようにしゃべり
音楽のように書く癖があるので
思考も音楽に支配されている部分が大いにある。
まあそれが、ぼくに詩を書かせる駆動力になっているのだろうけれど。
大部分かもしれない。
音調。
恩寵でもあるのだけれど。
おんちょう。
二〇一七年十一月六日 「友だちの役に立てるって、ええやん。友だちの役に立ったら、うれしいやん。」
むかし付き合った男の子で
友だちから相談をうけてねって
ちょっとうっとうしいニュアンスで話したときに
「友だちの役に立てるって、ええやん。」
「友だちの役に立ったら、うれしいやん。」
と言ってたことを思い出した。
ああ
この子は
打算だとか見返りを求めない子なのね
自分が損するばかりでイヤだなあ
とかといった思いをしないタイプの人間なんだなって思った。
ちょっとヤンキーぽくって
バカっぽかったのだけれど、笑。
ぼくは見かけが、賢そうな子がダメで
バカっぽくなければ魅力を感じないんやけど
ほんとのバカはだめで
その子もけっしてバカじゃなかった。
顔はおバカって感じだったけど。
本当の親切とは
親切にするなどとは
考えもせずに
行われるものだ。
(老子)
二〇一七年十一月七日 「The Things We Do For Love」
つぎの詩集に収録する詩を読み直してたら、西寺郷太ちゃんの名前を間違えてた。
『The Things We Do For Love。』を読み直してたら
郷太ちゃんの「ゴー」を「豪」にしてた。
気がついてよかった。
ツイッターでフォローしてくれてるんだけど
ノーナ・リーブズのリーダーで
いまの日本で、ぼくの知るかぎりでは、唯一の天才作曲家で
声もすばらしい。
ところで数ヶ月前
某所である青年に出会い
「もしかして、きみ、西寺郷太くん?」
ってたずねたことがあって
メイクラブしたあと
そのあとお好み焼き屋でお酒も飲んだのだけれど
ああ
これは、ヒロくんパターンね
彼も作曲家だった。
西寺郷太そっくりで
彼と出会ってすぐに
郷太ちゃんのほうから
ツイッターをフォローしてくれたので
いまだに、それを疑ってるんだけど
「違います。」
って、言われて、でも
そっくりだった。
違うんだろうけれどね。
話を聞くと
福岡に行ってたらしいから。
ちょっと前まで。
福岡の話は面白かった。
フンドシ・バーで
「フンドシになって。」
って店のマスターに言われて
なったら、まわりじゅうからお酒がふるまわれて
それで、ベロンベロンになって酔ったら
さわりまくられて、裸にされたって。
手足を振り回して暴れまくったって。
たしかにはげしい気性をしてそうだった。
ぼくに
「芸術家だったら、売れなきゃいけません。」
「田中さんをけなす人がいたら、
そのひとは田中さんを宣伝してくれてるんですよ。
そうでしょ? そう考えられませんか?」
ぼくよりずっと若いのに、賢いことを言うなあって思った。
ひとつ目の言葉には納得できないけど。
26歳か。
CMの曲を書いたり
バンド活動もしてるって言ってたなあ。
CMはコンペだって。
コンペって聞くと、うへ〜って思っちゃう。
芸術のわからないクズのような連中が
うるさく言う感じ。
そうそう
作曲家っていえば
むかし付き合ってたタンタンも有名なアーティストの曲を書いていた。
聞いてびっくりした。
シンガーソングライターってことになってる連中の
多くがゴーストライターを持ってるなんてね。
ひどい話だ。
ぼくの耳には、タンタンの曲は、どれも同じように聞こえたけど。
そういえば
CMで流れていた
伊藤ハムかな
あの太い声は印象的だった。
そのR&Bを歌っていた歌手とも付き合ってたけれど
後輩から言い寄られて困ったって言ってたけど
カミングアウトしたらいいのに。
「きみはタイプじゃないよ。」って。
もっとラフに生きればいのに。
タンタンどうしてるだろ。
太郎ちゃんのコメント
懐かしい!! タンタン。
感じいいひとだったよね。
どーしてるかな!?
ぼくのお返事
宇多田ヒカルといっしょにニューヨークに行ったけど
すぐ帰ってきちゃったみたい。
そのあと
ぼく以前に付き合ってた俳優とよりを戻したとか。
あ
そのあと
なんか、静岡だったかな
そこらへんのひとと付き合ってたってとこまでは聞いてるけど
いまは消息わからず。
タンタンをぼくに紹介した
30年来のオカマの友だちのタクちゃんと
あ
いままでいっしょだったんだけど
タクちゃんと仲が悪くなって
連絡しても無視するわ
そんなこと言ってたかな。
ぼくんちに俳優のひと
いまはあまり見かけないけど
付き合ってた当時は売れてたわ
そのひとつれてきたこともあるんだけど
趣味悪いわ〜。
ぼくは玄関から出て行かなかったけど。
あ
ぼくとよりを戻すために
その俳優つれてきたのね。
なんとか豊って名前だったわ。
精神的なゲイなんだって。
タンタンと付き合ってるときにも
セックスなかったって。
ただいっしょにいてるだけだって。
そんなひともいるんだね〜。
二〇一七年十一月八日 「ふるさと遠く」
日知庵から帰ってきた。ケンコバに似た青年がいた。ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』をまだ読んでいるのだが、さいごに収録されているタイトル作品を、きょうは読みながら寝ることにする。丹念に読んでいると思うが、テヴィスはあまり高く評価されていないようだが、すばらしい作家である。
二〇一七年十一月九日 「荒木時彦くん」
荒木時彦くんから詩集『NOTE 002』を送ってもらった。これまで、この詩人の構築する世界感は、現実的でもあるが、一部、非現実的なところがあるのが特徴であったが、この詩集では徹底的に現実的である。哲学的な断章ともとれる一面もある。知的な詩人の知的な詩集だ。
二〇一七年十一月十日 「秋亜綺羅さん」
秋亜綺羅さんから、ご本『言葉で世界を裏返せ!』を送っていただいた。ご本と書いて詩集と書かなかったのは、内容が詩集ではなくエッセー集であったためである。社会的な出来事を扱ったものが多いのも特徴で、とりわけ、ぼくにはその視点が抜けているので興味深く読んだ。
二〇一七年十一月十一日 「藤本哲明さん」
藤本哲明さんから、詩集『ディオニソスの居場所』を送っていただいた。軽快な口調で重たい内容がつづってあって、その点にまず目がひかれた。個人的な体験も盛り込んであって、そこのところの現実性に確信を持たせないところが、ぼくには逆に魅力的で不思議な読書体験だった。
二〇一七年十一月十二日 「ライス」
日知庵から帰ってきて、チューブで、お笑いを見てた。ライスというコンビのものがおもしろい。ゲイ・ネタもいくつかあって、不快感もないものだった。ストレートのつくるゲイ・ネタには、ときどき不快感を催させるものがある。ライスのは違った。
二〇一七年十一月十三日 「ふるさと遠く」
きのう、ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』のさいごに収録されているタイトル作品を読んで寝るつもりだったのだが、きょう、送っていただいた詩集の読み直しをしていたので、読めなかったのだった。きょうこそ、タイトル作品「ふるさと遠く」を読んで寝よう。おやすみ。ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』の表紙絵。いまこんなすてきな表紙の文庫本てないよね。
二〇一七年十一月十四日 「出眠時幻覚すさまじく。」
ぼくの生家は田舎じゃなかったのに 田舎になっていて
でも、ぼくは近所に
先輩らしきひとといっしょに同居していて
その先輩が、なにかと、裸になりたがって
ぼくに迫ってくるっていうもの。
チンポコ丸出しで
パンツ脱いで
ぼくの顔におしつけてきて
「困ったもんですなあ」
を連発しているときに目が覚めた。
チンポコがほっぺたにあたる感触があって
びっくりした。
精神状態がちょっと乱れてるのかも。
その前に
その田舎の生家で
継母と暮らしていて
夜中に雨のなか
裸足になって
蛙を獲りに出かけるってシーンもあった。
二〇一七年十一月十五日 「アメリカ。」
ノブユキ
「しょうもない人生してる。」
何年ぶりやろか。
「すぐにわかった?」
「わかった。」
「そしたら、なんで避けたん?」
「相方といっしょにきてるから。」
アメリカ。
ぼくが28歳で
ノブユキは20歳やったやろうか。
はじめて会ったとき
ぼくが手をにぎったら
その手を振り払って
もう一度、手をにぎったら、にぎり返してきた。
「5年ぶり?」
「それぐらいかな。」
シアトルの大学にいたノブユキと
付き合ってた3年くらいのことが
きょう、日知庵から帰る途中
西大路松原から見た
月の光が思い出させてくれた。
アメリカ。
「ごめんね。」
「いいよ。ノブユキが幸せやったらええんよ。」
「ごめんね。」
「いいよ、ノブユキが幸せやったらええんよ。」
アメリカ。
ノブちん。
「しょうもない人生してる。」
「どこがしょうもないねん?」
西大路松原から見た
月の光が思い出させてくれた。
アメリカ。
「どこの窓から見ても
すっごいきれいな夕焼けやねんけど
毎日見てたら、感動せえへんようになるよ。」
ノブユキ。
歯磨き。
紙飛行機。
「しょうもない人生してる。」
「どこがしょうもないねん?」
「ごめんね。」
「いいよ、ノブユキが幸せやったらええんよ。」
アメリカ。
シアトル。
「ごめんね。」
「ごめんね。」
二〇一七年十一月十六日 「キス・キス」
きょうから、早川書房の異色作家短篇集の再読をしながら寝る。きょうの晩は、第一巻の、ロアルド・ダールの『キス・キス』を再読する。2005年に再刊されたもので、ぼくは、それが出たときに読んだはずだから、10数年ぶりに読むことになる。ひとつも物語を憶えていない。おもしろいかな。どだろ。
二〇一七年十一月十七日 「The Wasteless Land.V」
さいきん、『The Wasteless Land.V』を買ってくださった方がいたようだ。Amazon での売り上げランキングが変わっていた。これは、100ページに至る長篇詩と30ページほどの長篇詩の2つの長篇詩が収められているもので、さいしょのものは、いつも行く日知庵が舞台である。
二〇一七年十一月十八日 「タワー・オブ・パワー」
ここ1週間ばかりのうちでは、めずらしくCDを聴いている。いま聴いているのは、タワー・オブ・パワーだ。やっぱりファンクもいい。つぎは80年代ポップスを聴こう。ぼくが20代だったころの音楽だ。ガチャガチャとうるさくて、チープな曲が多かった。ぼくもガチャガチャとうるさくて、チープだった。
二〇一七年十一月十九日 「キス・キス」
まだ、ロアルド・ダールの短篇集『キス・キス』を読んでる途中。ほんとに、文字を読む速度が落ちている。きょうは、英語の字幕で韓国映画を半日みてた。韓国語ができればいいんだろうけれど、うううん。日本語の字幕があればもっとよいのだが、英語の字幕でもあるだけましか。
二〇一七年十一月二十日 「キス・キス」
日知庵からの帰り道、T・REXの曲を何曲か思い出しながら歩いてた。きょうも、寝るまえの読書は、ロアルド・ダールの短篇集『キス・キス』のつづきを。きのう、『豚』の4まで読んだ。きょうは5から。
二〇一七年十一月二十一日 「さあ、気ちがいになりなさい」
さっき、ロアルド・ダールの短篇集『キス・キス』を読み終わった。きょうから、フレドリック・ブラウンの短篇集『さあ、気ちがいになりなさい』を読み直す。これまた、話を憶えていないものばかり。おもしろいかな。どだろ。
二〇一七年十一月二十二日 「暗闇のスキャナー」
いま日知庵から帰った。きのうは、ブラウンの短篇を3作、読んで寝た。きょうは、どだろ。それにしても、ことし読み直してる短篇集、読んだ記憶のあるものが少ないなあ。10作もないんじゃないかな。ディックでも読み直そうか。短篇じゃなく長篇を。『暗闇のスキャナー』を読んで、むかし、涙したな。
二〇一七年十一月二十三日 「現代詩」
河津聖恵さんがFBで、「現代詩とは?」といった問いかけをされてたので、ぼくは、こうコメントした。
ぼくの持っている CONTEMPORARY AMERICAN POETRY には、さいしょに Wiliam Stafford (b.1914) が入っていて、さいごに Ron Padgett(b.1942) が入っています。あいだに、ロバート・ローウェルやロバート・フライやアレン・ギンズバーグやジョン・アッシュベリーやゲイリー・シュナイダーやシルヴィア・プラスなどが入っています。これらは、ペンギン・ブックスですが、オックスフォード出版では 20th-Century Poetry & Poetics では、さいしょに、イエーツ (1865-1939) が入っていて、さいごは Tim Liburn(b.1950) で終わっています。ところで、「日本での戦後詩」という枠で、ある時代の詩を捉えることは、ぼくは以前からおかしいなと思っていました。しかし、語的には、戦後、発表された詩がすべて戦後詩かなあとは思います。語の厳密な意味からすれば、ということですが。一方、現代詩とは、いま現在、書かれている詩。おそらくは、過去、数年から十数年から現在まで、というスパーンあたりじゃないでしょうか。ぼくから見ると、橘上さんあたりが、現代詩の先鋒じゃないかなと思っています。いま思い出したのですが、イギリスで、第一次世界大戦のときに書かれた詩のアンソロジーがあったように記憶しています。ぼくは持ってないですけど。現代詩ねえ。ぼくは、過去、数年から十数年までが限界かなって思います。20年以上もまえに書かれたものを現代詩とは、ぼくは呼べないなあと思います。
二〇一七年十一月二十四日 「ごはん食べて、ずっと寝てた。これから塾。」
ふだんのストレスって
そうとうなものだったんだろうね。
学校がないと
寝まくり。
こんなに寝たのは、もう何年ぶりか
思い出せないくらい。
食べすぎで
眠たくなったんだろうけれど
ストレスがなくなったことがいちばんの原因だと思う。
二〇一七年十一月二十五日 「「タイタンの妖女」、「ガラパゴスの箱舟」、「ホーカス・ポーカス」。」
シンちゃんのひとこと。
夕方にシンちゃんから電話。
電話の終わりのほうで
さいきんのぼくの「●詩」は、どう? って訊いた。
「気持ち悪い。」
そうなんや。
「気持ち悪いって、はじめて言われた。」
「言わんやろうなあ。」
笑ってしまった。
さいきん、ヴォネガットを3冊ばかり読んでて
とてもむなしい気持ちになった。
なぜかしら、そのむなしさに、詩集をまとめろと促された気がする。
きょう、通勤の途中
徒歩で坂を上り下りしているときに
「マールボロ。」について考えてた。
あれはすべてシンちゃんの言葉でつくったものだったけれど
シンちゃんは「これは、オレとちがう。」
と言った。
このことは、ここにも何度か書いたことがあるけれど
ぼくが「マールボロ。」で見た光や、感じたものは
みんな、ぼくが見た光や、感じたものやったんやね。
見る光や、感じるもの、と現在形で言い表してもいいけれど。
他人の作品でも、そうなんやね。
自分を読んでるんやろうね。
ヴォネガット、むかしは好きじゃない作家だった。
20代で読んだときには、こころ動かされなかった。
http://jp.youtube.com/watch?v=MlPQDFjFOmA&feature=related
名曲ではないだろうけれど
韓国語も、ぼくにはわからないのだけれど
この曲が、きょう耳にしたたくさんの音楽のなかで
いちばん、こころにしみた。
ぼくがこれまで読んだことのある詩や小説の傑作中の傑作のなかの
どんなにすごい描写でも、この曲のなかにある
わずか数秒のシャウトの声に勝るものがないのは、なんでやろうか。
生の真実がどこにあるのか、わからないまま死んでしまうような気がするけれど
それに、そもそも、生に真実があるのかどうかもわからないのだけれど
ファウスト博士のように、「瞬間よ、おまえは美しい。」と言って
死ねればいいね。
そのときには、上の Rain の曲のように心地よい音楽が流れていてほしい。
土曜日に会った24歳の青年が、ぼくに訊いた。
「痛くない自殺の仕方ってありますか。」
即座に、「ない。」と、ぼくは答えた。
人好きのする好青年なのに。
なぜかしら、だれもがみんな死にたがる。
「おれ、エロいことばっかり考えてて
女とやることしか楽しみがないんですよ。」
いたって、ふつうだと思うのだけれど
それが死にたいっていう気持ちにさせるわけではないやろうに。
きのう話をした青年には、ぼくのほうからこんなことを尋ねた。
「なにがいちばん怖いと思う?」
即座に、「人間。」という返事。
彼もまた、人好きのする好青年なのだけれど。
「ぼくも生きている人間がいちばん怖い。」
でも、なんで?
「嘘をつくでしょう。」
たしかに、自分自身をだますことも平気だものね。
でも、ぼくだって、嘘をつくことよりもひどいことを
平気ですることもあるんだよ。
なにかが間違っているのか
どこかが間違っているのか
いや、間違っているのじゃなくて
パズルのピースが合わないというのか
そんな感じがする。
ぴったり収まるパズルがあると思っているわけじゃないけど。
ふたりとも、悩み事などないような顔をしていた。
ふたりとも童顔なので、笑うと子どもみたいだった。
子どもみたいな無邪気な笑顔を見せるふたりの言葉は
ぼく自身の言葉でもあった。
もうどんな言葉を耳にしても、目にしても
ぼくは、ぼく以外のものの言葉を、耳や目にしないような気がする。
ヴォネガットを読むことは、ぼくを読むことで
いまさらながら、人生がむなしいことを再確認することに等しい。
でも、やめられないのだ。
二〇一七年十一月二十六日 「死んだ女の気配で目が覚めた。」
祇園の家の裏を夜に中学生くらいの子供たちが自分たちの親といっしょに
車に乗り付けてくる。
いま祇園の実家は、もうないのだけれど
それから日が変わるのかどうかわからないが
雨の夜、その子供たちが黒装束で家の裏をうろうろする。
ぼくは気持ち悪くなって
下の弟と黄色い太いビニールの縄を家の裏に
太い鉄のパイプのようなピケのようなものの間に張り渡す。
これで、子供たちが入ってこられないやと思って雨のなか
子供たちのいた方向に目をやると
黒いコートを着た死んだ女が立っていた。
彼女がなぜ死んだ女なのかはわからないけれど
死んでいることはわかった。
弟とすぐに家に戻った。
するとぼくはもう、ふとんのなかに横になってまどろんでいて
それにもう弟も子供ではなくて
当然ながら祇園の家での映像体験は
ぼくも若かったし弟も中学生ぐらいだったし
でも、もう、いまのぼくの部屋だから
ああ、もうそろそろ目がさめかけてきたなあと
なぜ弟はぼくの夢のなかで、いつも子供時代なのだろうかわからないけれど
と思っていたら
死んだ女の気配が横にして
ひゃ〜と思ったら
弟の子供時代の声の笑い声がして
それで、ぼくはなんや驚かしやがって、と思って
「なんや」と声を出したんだけど
出したと思ったんやけど
するとやっぱり、死んだ女が横にいる気配が生々しくして
怖くなって叫ぼうとしたら
声が出なくて
で、ぼくの身体も上向きから
その女に背中を向ける格好にぐいぐいとゆっくり押されていって
でも手は触れられていなくて
背中が何かの力で均等に押されて横になっていって
これから先は、どんな目に遭うのかと思ったら
手の先だけは動かせて
手元にあった電灯のリモコンを握って
スウィッチを押して明かりをつると
死んだ女の気配がなくなった。
死んだ女は、ぼくの母親でもなく
若い女だった。
知らない女で
顔もわからず、ただ若いことだけがわかった。
実体がある感じが生々しくて気持ち悪かった。
12時にクスリをのんで1時に寝た。
3時50分にいったん目がさめて
うつらうつらしていたのだが
また半覚醒状態で眠っていたみたいで
きのうもサスペンス映画のような夢を見たけれど
学校のなかで、ひとりの子供が人質になっていて
その子供を捜して学校中を探すのだけれど
探しているときに、ぼくの実母からのモーニング・コールで
目が覚めたのだ。
きょうの夢はひさびさに実体感のある肉体が横にいて気持ち悪かった。
クスリが効かなくなってきたのかもしれない。
クスリの効果が低くなると悪夢を見る。
クスリがないころには
つまり神経科医院に通院する前には
ずっと毎日、死者が出てくる怖い夢や、ぼくが人に殺されたりする
血まみれの悪夢の連続だった。
今年のはじまり、こんな夢で、とても心配だけれど
病気が進行している兆候だったとしたら
怖い。
きのう書かなかったけれど
おとつい
若い詩人を見送ったあとの記憶がなくって
目が覚めたら、ふとんのなかにいた。
ぼくはガレージのところで詩人を見送ったところまでは覚えているのだけれど
ふとんをひいた記憶などまったくなくって
これで、ことし、気を失ったり
記憶をなくしたりするのは、2度。
禍転じて福となればいいんだけれど。
二〇一七年十一月二十七日 「人間は人間からできている。」
吉田くんは、山本くんと佐藤さんと村上くんとからできている。
山本くんは脳なしだけど、佐藤さんはすこぶる腹黒い女で
村上くんは、インポテンツで、底なしの間抜けである。
吉田くんのモデルは、ぼくの高校時代のクラスメートである。
柔軟体操の途中で、首の骨がボキッってなったけれど
なんともなかったのは不思議だ。
人名を変えるぐらいの名言に出合う。
吉田くんのモデルには、予備校に勤めていたときの生徒の
吉田くんのイメージも付加されている。
人間の魅力は、どこにあるのだろう。
かしこさにあるのでもないし
ましてや、おろかさのなかにあるのでもないし
臆病さや、やさしさのなかにあるのでもないような気がする。
全体なんだけれど、あるとき、または、別のあるとき
あるとき、あるときの表情やしぐさや言葉が
ダブル・ヴィジョンのように
幾重にも重なって、ある雰囲気をつくるんだね。
でも、ときたま、その雰囲気をぶち壊されるときがあって
そんなときには、ほんとうにびっくりさせられる。
ことに、恋からさめた瞬間の恋人の表情とか言葉や行動に。
友人にも驚かされることがあるけれど
恋人ほどではないね。
二〇一七年十一月二十八日 「●ゴオガンの」
●ゴオガンの●菜の花つづく●あだし身に●きらめき光る●やは肌の●母●
●裂かれゐる●君が描く●うつくしき春●
剽窃先は
与謝野晶子ちゃんの
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君
はてもなく菜の花つづく宵月夜母がうまれし国美くしき
斎藤茂吉ちゃんの
はるばると母は戦を思ひたまふ桑の木の実の熟める畑に
ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕殺ししその日おもほゆ
若山牧水ちゃんの
みづからのいのちともなきあだし身に夏の青き葉きらめき光る
正岡子規ちゃんの
うつくしき春の夕や人ちらほら
水原秋桜子ちゃんの
日輪のまばゆき鮫は裂かれゐる
君が描く冬青草の青冴ゆる
機械的につくったほうがいいかもね。
意味が生じるようにつくると
ありきたりな感じになっちゃうね。
もっと知識があれば、遊べるんやろうけれど
きょうは、ここまでで1時間くらいかかっちゃった。
疲れた。
二〇一七年十一月二十九日 「おにぎり頭のチキンなチキンが、キチンでキチンと大空を大まばたきする。」
はばたきやないのよ、まばたきなのよ〜!
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
ケケーッと叫びながら紫色の千切れた舌をだして目をグリグリさせる始祖鳥や
六本指を旋回させながら空中を躍りまわる極彩色のシーラカンスたちや
何重にもなった座布団をくるくる回しながら出てくる何人もの桂小枝たちや
何十人もの久米宏たちが着物姿で扇子を仰ぎながら日本舞踊を舞いながら出てくる
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
円は演技し渦状する。
円は縁起し過剰する。
風のなかで回転し
水のなかで回転し
土のなかで回転する
もう大丈夫と笑いながら、かたつむりがワンタンを食べながら葉っぱの上をすべってる
なんだってできるさとうそぶくかわうそが映画館の隅で浮かれてくるくる踊ってる
冬眠中のお母さんクマのお腹のなかの赤ちゃんクマがへその緒をマイク代わりに歌ってる
真冬の繁華街でカラフルなアイスクリームが空中をヒュンヒュン飛び回ってる
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
しかし、あくまでも、じょうずに円をかくことが大事ね。
笑。
二〇一七年十一月三十日 「犬が男便所で立ち小便しているところを想像して」
犬が男便所で立ち小便しているところを想像して
っていうやつ
まだタイトルだけなんやけど
って言ったら
ジミーちゃん
電話で二秒ほどの沈黙
ううううん
何か動きそうなんやけど
そうそう
自分のチンチンが持てないから
バランスがとれなくて
ひゃっひゃっ
って感じで
ふらふらしてる犬ってのは
どうよ!
二〇一七年十一月三十一日 「電車の向かい側に坐っていた老人が」
電車の向かい側に坐っていた老人が
タバコに火をつけて一服しはじめた
といっても
じっさいにはタバコを吸っているわけではなくって
タバコを吸っている様子をしだしたってことなんだけど
タバコを吸っている気になる錠剤を
さっき口にするのを目にしたんだけど
それがようやく効き目を現わしてきたんだろう
老人はさもおいしそうにタバコを味わっていた
指の間には何もなかったけれど
老人の指の形を見ていると
見えないタバコが見えてくるような気がした
老人は煙を吐き出す形に口をすぼめて息を吐いた
ふいに、左目を殴られた
いや、殴られた感触がしたのだ
わたしにも薬が効いてきたようだ
わたしはファイティングポーズをとった
隣の主婦らしき女性が幼い子どもの手を引っ張って
わたしから離れたところに坐りなおした
いまこそまことに平和で健康な時代なのだ
安心してタバコが吸える
ケガなくして拳闘できる
スリルと危険に満ちた文明時代なのだ
月を撃つ
すっかり皮の分厚くなった
男みたいな手でもって
誰かが流した涙の跡を辿る
もう誰にも彼らの言葉を
理解する事は出来ない
飢えた狼の様に這い
草臥れ果てた四肢を擲つ
墓の上に座る天使達
暗喩めいた子どもの笑う
最後の一声が届けばいいが
黄昏ていく世界を
何処から眺める
誰もが分かる嘘を積み重ねて
やがて打ち倒される
この神々の小さな箱庭を
もう終わりだと何度も言った
その度に蕾が開いて
真新しい花を咲かせる
掴めない希望などいらないのに
何よりも鮮やかに
poolで燃える火
ゆらゆら ぱちゃぱちゃ 左目で燃えてる言語 右目で捉える揺らぎ キトキト シュワシュワ 絶望が喀血されて また燃え盛る水の火 水の日 ゆらん ぱちゃん 水底 少年の瞳入りスープ 放尿 むず痒く濡らした 肌 に 夜に溢れる灯 を反射して 寂しいと硝子の切っ先を撫でてる、 ギギギ 突き立てて 夜の詰まった肉を開いて 紫の唇 肉の詰まった夜を裂きたい 遊び半分 ちゅぱちゅぱ きるみ? な いるみねぃしょん と いみてぃしょん 消えちゃうよ それが良い 尾を揺らして 歪んだ彼らの顔を撫でる お腹に刺さった? 平日のpool 海のようなpool 水を含んだメ ケモノのメに暗示されるシ 喉から咲くハナのようなウタ ウタのようなハナ 暗色 / 暗室 平日のプールの水底 を ナゾル その指 は 哀れな程に 白く 強張っている 鏡の中 で ケモノが笑う 殺したはずだった あのナイフが刺さって 大きな口だな 飲んでしまう 食べてしまう 乾いてしまう 飢えてしまう 殺せないよ そんなんじゃ 殺す前に 歌わせてあげるよ 水の上を這う風 貫いて と 退屈な焦らしぷれい 目隠し テレパシィ かくれんぼ で 鬼ごっこ 光と闇も 柔らかく滲む セックスの痕跡 羽瞬きの音
幾つかの 記憶 を 繋いで
光の中で笑う
この目が 笑ってるように
見えるかい?
おいでよ。
Speed Kills
「概念を手繰る線の上から、華麗に落下する、
「今くらいは、“ことわり”に意識を預けてかまわないかなって。
「酸欠を誘導する、そのスピードをふたりとも超えてゆけるのなら、
「必然性の海を廻る幼い細胞たちへ、誰よりも遅い祝福を。
「そして発火点に、彼等のどうしようもない呪いだけが残る。完璧。
「───いい気味よね。はっきり言って、
(wave.)(shut out,)
「虹色の蛇にこの穢れを託して、生殖能力も何もかも捨てて、
あたしがここで守り神になるの。今決めた、
「異存はないよ。金輪際、壊疽が到達しなくて済むならね。
知ってのとおり、僕等───否、彼等は、
呆れるほどに身勝手だから。
(shut out.)
bye-bye
どれほど暖房を強めても
指は軋んで文学極道を荒らすのに
エステル記は開かれたまま
マイスリーはシート単位で飛ぶ
その点々は恋に落ちてる
ほとんどすべてが病状である
事実が おれとおまえにとって
違う重さになる その差をうめるため
そそがれるものの面に 梅の木
ステージのすぐうしろ
うすい布に映る影さえ
昔の恋人 に
恋人がいることを知るとき
すこし壊れる
おれのなかにある時計
この五年間はまるでデタラメだった
今年は早いね 最後の
梅の花 ひとつだけもらって
やさしくロープを絡めていく
没落
古い庭には、飢えた小鳩が 暫し留る、
睡蓮は、弛みながら 泉に醒めて、燃える、
鉄錆色の楓が、舫う
滅びた 教会の鐘が、風を叩く、
夕暮に 乾藁車が 草薮に 捨てられている、
荒れた畑を、白く蓬が蔽う、
落日へと幾つもの手が、顔が落剥していく、
滅びた者たちの鐘が、影を塗る、
悍ましく乾いた、指へと
工廠の跡に、手のひらを浸す、
傷口を確かめるかのように、
水底には アーチが、
白い 梢に編まれた 教会が没している、
営為の為に、一日は静かに衰亡していき、
変貌した、エンデュミオの夢、囁きが、扉を亙っていく、
血に汚れた 幾つもの麻の襤褸布を 潜りぬけて
_
鳴禽が、十字路に 十日目の麺麭を貪る、祈る者をあざむきながら、
その時が、きさまの最期の日だ、窓の窓、沈鬱な、影に
地下的憑依
思いやりにルールを変える力があるとは思えない
親切にした相手に親切を理解できる知性がなければ、彼もしくは彼女もしくはそいつらは
ぼくが屈服したと感じるだろう
あの鼻で笑った嘲りの表情をぼくに向ける
ルールを変えるのは暴力だと思う
予告なしの一撃
いわゆるキレルという行動だ
有効に使えば状況はだいぶ良くなるはずだ
ぼくたち、徒党を組んで集団でキレてみよう
ひとりでキレても無視されるが
3人以上でキレてみよう
6割の人々はぼくたちを無視できないだろう
だが、ぼくはきみたちが嫌いだ
いっしょに何かすることはできない
弱者は弱者を憎む
ああ、つまり、こういうことだ
幸福を求めることが不幸の原因なのだ
蟻になってしまえ
だが、蟻が幸福だとしたらどうするのか?
つまり、幸福な蟻になることは不幸だ
おかしな論理だ、論理がおかしいものをぼくは信じない
裏切り方も非論理的だからだ
したがって、ぼくにとってその裏切りは予告なしの一撃になるだろう
たとえ、きみよ、それが予想どおりだとしても
ぼくがきみを裏切るのはぼくにとっても予告なしの一撃だった
拳を振り下ろしている
そんな暴力の予感が甘美を孕んでいる
運行する地下鉄の車体には非実在知性がとりついている
Today
気づかない
気づきたいよって
何にともなく手を振る
貴女の声以外は全部
聞かないって
宣言する
「あたしのこと何も知らないくせに、
勝手に雨に打たれに走ってさ、
種が殻を破る
私たちの時が始まる
この空に 異なる種を宿すこと、
go down like a lead balloon (I)
神豚麺を食べた
違った春を待ちわびて
マルチェッロの協奏曲をワイルドのピアノで聴く
鷺沢萠をもとめて神保町に来たのだが
八木書店の女主人に『ない!』と即答された
*
腕相撲して香水のほのかなる
*
十七ではへぬとなく乳母
りんの玉二個じゃ足りぬと承知せず
もっとしたがる筈だがと奥が戸立てと諦める
=================================
*註解
・lead balloon :鉛の飛行船(バンド名Led Zeppelinの由来源)
・マルチェッロ:アレッサンドロ・マルチェッロ 1673年生
・ワイルド:アール・ワイルド 2010年(94歳没)
・鷺沢萠:2004年(35歳没)
・腕相撲して香水のほのかなる:『B面の夏』黛まどか
・戸立て:とだてぼぼ
神よりも
冬ようたえ
競い
生き
今日を
すみずみまで
凍てついた六花
ふりちらし
微塵に無様に
御身はくりかえし
望み
飛び
走り去り
進み
あらゆるもの
日々の死法を
眠りより深く
神よりも浅く
SHIT POEM
目薬さえ
うまく
差せなかった日
馬鹿にしてわらう
きみの
すっぴんにかかる日差しが
まぶしくて
泣いたみたいに
おぼえてることも
おぼえてない
こと、も、
まぜこぜにして
まわれよまわれ
観覧車
の、いちばん、
高いとこにいるよ。
わたしたち。
いま!
わかってる?
あれが
大阪湾だよ。
大きな道、大きな駅
小さな駅、デタラメな裏道
桜に見紛うほど
さくらいろの梅
枝の隙間でかくれんぼ
きみのセーター、花まみれ
「でも帰るんだろ?」
「終電までには。」
きみの花
吊るしてた紐だけ残ってた
ドライフラワーには
ならなかったけど
その紐もほどいて
越すんだとわらって
デタラメだった
この何年、指折り
かぞえても
目薬はもうこぼさない
くらいしかきみに
誇れるものがない
きみに花を
きみを花に
きみの花言葉は
きっとだれかの、はなうた
まつろわぬ神
湖の淵に腰かけて足を浸している、とうの昔に干上がってしまったわたしに足を浸すわたしがいる。
ひび割れた湖底に散乱するのは夕陽にやがて溶けるだろう素魚の赤橙色に斑(まだら)む背骨の曲線、小白鳥の軽さだけを詰め込んだ翼骨のその構造、しなやかな筋肉を支えるための羚羊の大腿骨は、生前の記憶をほころばせ色素をたゆませていた。涸れるために要した時間の厚みを足さきで繰(く)るように測りながらそんなことを。
アルベドの丘を駆けあがり磔刑に処される人をみた。素魚の背が光の入射角をもてあそんでいる。黒檜の葉を反芻する羚羊は身じろぎもせず此方をみている。いつか溺れて息絶えた小白鳥の白さはわたしの色素のひとつとなったのだろうか。
遠い場所からまた違う遠い場所へ、干上がってしまったわたしには時間だけが満たされ続けて決して欠けることはない。
焦らされて
庭にミッキーマウスが来ている事は大変好ましい
武勇を示すのに絶好の機会だからだ
スーラの様に滑らかに吟遊詩人の様に
巧みな詩を言える徳川家康を
地獄流しにしてから皇帝に就任した私の
武勇はうがいをするためだけに
我が家を利用したシーラカンスを見逃した事
ノアの大洪水で我が身を捨てて
動物だけを救った事
井戸に水を汲みに行った
ミッキーマウスの帰りが遅く
庭に中々戻って来ない
別にカブトムシを撮りに行ったわけでもないだろうから
私に楽府(がふ)を書かせるほど待たせてはならない
早くミッキーマウスに
私の武勇を示して
ミニーマウスの秘密を聞き出したい
カタツムリは枝で濡れ
ヤマメを釣るのにも金が要る
赤ワインを飲めば寝るだけなのに
それも禁じられ相当私はジリジリと
焦らされている様な気がした
光の道
子供の頃は静かな子供でした。
ボール遊びなどでは、いつも端の方でぽかんとした顔で、周りの子がなぜこんなにも動きまわっておるのか分かりませんでした。
その子供は大人へ成長、今、安い飯を親御さんのお金で食べさせて頂いてます
アジフライ1枚に白飯。300円。
夜には1000円で買ったウイスキーを薄めてハイボールで飲ませて頂いてます。20日くらいは持ちます。
楽しい日々を送らせて頂いております。
青年は安い飯を食べさせて頂きながら、夜空がちらと視界に入り
ありがたや、あぁ、ありがたや。と、
神様、仏様は、人々を見守ってくださってる。なんて素晴らしいことか。
まさに光の道を人々は歩ませて頂いてると、
申し訳なさそうに白飯をもう一杯食べさせて頂く青年。
沈黙
亀が囀るように僕は冷蔵庫の冷蔵室を足で運び入れた
それは亀でも蝙蝠でも鶏でもいい
彼女に伝染するのが怖いからと唾液腺を溢れさせたい。
…
視線交換だけで済めば幸せでいられるのに
いつも言葉が邪魔をするのではないかと
たった六行の文字の中で何のコードが読み取れるというのだ。
…
風散れば花粉舞い菜の花が渡る季節
癇癪にも合成の炬燵布団(できるだけ関節痛)
くしゃみ省略。明日を生きるだけだ。
約束
止まった時計が渇望して動き出す
それはチクタクなんてもんじゃない
百年止まらない独楽のよう
真っ黒な苦い液体を飲み干したらただのブラックコーヒーで
夜と相容れないわたしは
やっとげんなり出来た
接木しておくれよ腰骨のあたりに
触れないでおくれよ滑らかな眼差しに
どうしようもない掠奪が折り紙のように千切れていく
溶接しておくれよ眼球の裏に
だからと言ってあの5月が
精算されて返却されるわけはない盲目さ加減
ととと、れ、レシートだ、
百円玉8枚、一円玉5枚、
ひとつかみで口に放り込んでがりがりと咀嚼する
初めてつけた髪飾りの思慕を嘔吐するために
最後に伝えたあの輩への警告を記憶ごと排泄するために
わたしはわたしでなくなり
わたしでなくなったわたしが
わたしに似たわたしに会う
わたしに似たわたしは再びわたしになり
もうひとりのわたしに会う
何人でもわたしに会う
鏡はない、絶対にない、あってはならない、
思いのほか美しいことを夢見て
わたしはわたしに埋れていく
たった今鳩尾のところで白い指が泣いて8月を殺した
結局は足の親指の痣から花の咲かない茎が伸びて10月を裏切った
太腿の跡を辿ればいつかは2月を呼び戻せるのか
何年経っても変わらない、変えられない、
前兆だけが笑い続けている化け物め
眉を剃るから返してくれよ
セロテープで貼っつけるからさ
歯が抜け落ちるように無数の9月が脱落していく
行方不明の5月は井戸の底で山羊と子作りをしていた
一番星に目が眩んだ12月が氷の張った湖の下で息を引き取る
絵の無い画集を開いて雨が降るまで見とれていた6月は
全てを味方につけた11月に連れ去られて来世で1月になる
信用出来ないということはそういうことだ
圧着しておくれよ脛骨のあたりに
足りない何ヶ月かを拾い集めて
順番通りでなくてもいいから一年に仕立てたい
外から見ても格好がつくように
あと何月か足りないのに
5月が2人いる
ととと、れ、レシートだ、どのレシートだ、
たくさんいすぎて見分けがつかないわたしの
どれか1人が受け取りに行くから
1人くらいは1人で歩けるから
死んだわけでもないのに
脱線したところで生きているふりをしている
生きているかは定かでないが
浮遊しそうで出来ない余韻に阻まれている
葬列
クロニクルが逆走をはじめて
あたりまえであったことが
眩しいものにかわり
遠く離れた喧騒になる
冷たいスローモーションの中を
音もなく歩く
葬列に参じ
喪服に身をつつむ日、
私たちは、
寄り集まり、
世を捨て去って
片道だけの旅路へ向かう
懐かしい亡き人を
舟にのせる
落日に
照らされて
首を
突き立てて
洗った
三途の川原が
やさしい黄金色をして
小石を積むことも
束の間に忘れて
きやきやとした
思い出が、編み継がれ
舟を飾りますように
ここが、
はじまりとなりますように
新しい世界が
広がりますように。
偽善者至上主義
残飯を食べ、一日中歩き
喉が渇いたただそれだけだ。
涙は水道水よりうまい。
命の光は刹那だって
殺したのは誰だ
犯人探しが始まる
横目で見ている
偽悪者が、笑ってる。
殺したのは俺の言葉だ。
死んだら無かった事と同じ。
言葉の乱痴気騒ぎ
踊れ踊る驚く、俺?
朝方どこからともなく雨
ゴミ収集車走る
注射器に気をつけて
金に帰れるか。金に変えれるか。
横目で見ている。
偽悪者が笑っている。
命の光回線速度制限
殺されたのは誰だ
犯人探しが始まる。
殺したのは俺の言葉だ。
死んだら無かった事と同じ。
多言語乱痴気騒ぎ
踊れ踊る驚く、俺?
ライン
受話器を取ることに不安を感じる
電話を恐れる若者たち
LINEメールに焦燥を募らせる
未読なあなた
伝えたい、
心配しなくていいんだよ
まだLINEアプリをインストールしていないなら
「既読」とは何かなんてわからないはず
だからたとえ "ガイドク" であろうと
笑いはしないしお友だちの一人だし
それに
"ガイドク" と読めてしまうものだし
楽しそうだからと登録をして使い始めてみた
けれどもいまいち使いこなせてはいない感じ
そもそも各種設定にスタンプやLINEポイント
その他にもいろいろとあり複雑過ぎるのです
お互いにQRコードを当てがったりスマホを握ってフリフリし合うことにどことなく気恥ずかしさを感じているオレ
LINE交換がしたいよと言い寄れば
断られてしまいもう悲しくなったよん、… なんて
^ v^/~~ ~
そうそう!
背景デザインやホームのプロフを自分なりに工夫を凝らしてるの
とても見栄えが良くて自分でもすっかりお気に入りだし
LINE仲間のみんなもいいねするよね!
しかし他の人たちのホームには写真の一枚もなく名前は全然違う
音楽もストーリーもなくとても殺風景だったりで …なんてね
もしかして
ID番号が重要 なの?
ID、 だとすれば…なんだか
どこかで誰かに管理されているみたいだな、
メールの通知をオフに設定すれば
メールが届いていたのを気づかず
慌てて送り返してなぜか(。-_-
ゴメンしたけれども既読つかない
それ よくわかるよ
いろいろとあるよね
それに誰かのトークなんて
すごく本文を細切れにして
ワタシはただ会話をしているだけなのに
文章表現にはヒトが出るよね
スマホを取り出してメールを見るやん
だいたいそのまんまで縦状態ですやん
詠みやすさや見やすさ考えてんのん?ちゅう
理由から細切れにするんかい!
それしかないでしょうね
なるほど… アタシ気づいた、
シ? ジン !
マ! ジ?
そんなんないわ、
それはないでしょうね
それって、
わいもいつからかずっと気になっていたことでした
日本人なら誰もが一度は通る道だわさ
心配しなくてもいいんだョ
ソウダ ソウダ
そもそも
LINEではないしポエムでもないし
顔じゃないし語彙力だけでもないし
タップスキルやコミュ力でもないし
募ってはいるが募集はしていないし?
LINEシジンは既読つかないし
………つかないんだ
………つかないよ、
言語の裸体
言語の裸体が赤く染まり
飛んで来る変化球はツーシーム
打ち返すセーラー服の男性は
先週知り合った人
落ちて行く日 燃え上がる日
裸体が屋根に上った
下で火を焚く湯女が居る
湯女の眷属を私は知っているのだが
個人情報を燃やせずに
希少価値が生じる
大きな月が昇る
言語の裸体は屋上で茶をすする
走るなメロスと叫んでいたような
少年時代だった
その痕跡が今でも藤の木の下にある
夕星
恐怖を笠に着て暴れる村人を
女は一人、女になるまで見ていた
醜さと憎さばかりが増していき
次第に女はこう思うようになった
何者でもいいから愛していたい
捨て子に親は作ってやれない
その擬似的空間を作るのだ
もしかしたらそれは夢うつつ
両親と食べた午後のパンケーキ
故知らぬ懐かしい味に笑う
首を吊ろうとして落っこちたら
喉には細い紐で引き裂かれた傷
「ダイエットしなきゃいけない」
下らない冗談を言ったつもりが
どうも皆が俯いて後を続けない
毎日金星の位置を確かめる
金星でない天体も見ている
月の光がこんなにも眩しいとは
浅い雨に潮風を感じる様になり
赤黒くくすぶる夜空が広がる
宙返りも出来やしない
歌声に導かれプロペラが回っている
悲しいことの数だけ歌声が溢れだし
微細に振動してる唇に共鳴するのは
なぜだろう、プロペラが勢いを増し
シャツも靴もネクタイも脱ぎ捨てて
三角屋根に跨がって月を跳びこえる
月面では兎が華麗に宙返り、俺はと言えば
zigzag、zigzag、地面に刺さってdigdoug
兎たちは指差して笑ったり泣いたり忙しい
プロペラが回ってる夜は長いから
愛してると殺したいを繰り返して
掘り出した真実を磨き夢をすてる
三角屋根から滑落する戯れの夜たちが
悲しみを絞め殺してしまう前に静止した
プロペラに巻きついたネクタイを締めた
大地の子
生きている時間を
どんなふうに使おうか
大地に放射能が降り注ぎ
カフェは爺婆が溢れてる
街には死が満ちていて
僕は、早死するだろう
雲散霧消する精神の
示す、わたくしという空洞
背を向けても、目をつぶっても
だますことのできぬ
滅び
なにももたず、何者でもなく
漂っているようで、囚われている
大地の子は
この世に生を受けたことを呪う
巨大な何かに
吸い取られ
腐ったまんま
干からびる
蒼璧の群青とたなびく浮雲
薔薇の陽光に薄く染まり
さて、
どんなふうに
生きようか
レティクル逃避行
雹が 土地を被い 最も旧いものたちへの糧と為る
群れ咲く 雑草の花は 朽ちた揺りかごへと 滴る
拍車が 腐敗していく
萱草には 蟷螂が翅を畳み、暫し 枯れていく花圃を 眺める、
綿の繃帯に穢れ 絡まる 指に、黒い麦が刈られ、積まれる
瘡蓋に覆われ 祈る 者達 癩病の、膚を隔てて
幽閉をされ 境涯は燃え崩れ 枯葉の咽喉に 微睡み、
褪め、始めては磔刑の草花を 惨めにも 降らしめる、
証拠物件も 決して 確証ではなくなり 人工の花壇は 慎ましく 閉じ込められる
蝶蛾は 盲いて、かれらの灯に触れる
荒れた畑には、菜種の花が 斑に擡げ またしても 一晩が 土地に吹き晒されて
悪夢を啜り、鬱蒼として 海岸は餓えて、やわらかな死体のうえに 雲母を吐く
脂を指に擬えながら、鉄道線路へ撥ね、落ちる 扉絵の草、その窓は
潜望鏡を 逃れ已まず あらゆる人はひとり 霧鐘を聞き 駈け巡り 喀血の夕刻 陵閣に 息絶え
菜の花
一握りの種が
冬をいくつも超え
草むらは黄色の波に
花の精は
甘い香に誘われ
ひとつずつ見ては舞う
土に太く根を張り
スクラムを組み
風にも倒れず
何の手入れも要らず
来年の種までつけ
あるがまま無心に咲く
欲を重ねる人間には
到底かなわない
桜の人気をよそに
わたしはわたし
弱いようで 強い
誰にも負けない
この色
理にかない
表も裏もなく
寒さに耐えた分だけ
花びらはほほ笑み
嘘のない世界が広がる
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