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2016年11月分

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* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



(…)物哀しげな空には雲一つなく、大地はまさにわれらが主イエス・キリストに倣って吐息をついているかに見えた。そのような陽光のみちあふれる、物哀しい朝には、わたしはいつも予感するのである。つまり自分が天国から締め出されてはいないという見込みがまだ存在し、わが心のうちの凍てついた泥や恐怖にもかかわらず、自分には救いが授けられるのかもしれないということを。頭を垂れたまま貧相なわが借家に向って砂利道を登っているとき、わたしは、あたかも詩人がわたしの肩辺に立って、少々耳の遠い人に対して声〓に言うみたいに、シェイドの声が「今夜おいでなさい、チャーリー」と言うのを、至極はっきりと聞いたのである。わたしは畏怖と驚異に駆られて自分の周囲を見まわした。まったく一人きりだった。すぐさま電話してみた。シェイド夫妻は外出中ですと、小生意気な小間使(アンキルーラ)、つまり日曜日ごとに料理をしにやって来る、そして細君の留守中に自分を老詩人に抱かせることを明らかに夢想している、不愉快な女性ファンが言った。(…)
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

(…)シュタイナーによれば、われわれは生まれる前に自分で運命を選びとったのであるから、それを嘆くのは見当ちがいだという。
 それでは、どうして人は美男子で金持ちで成功者であることを選びとろうとしないのだろうか。それは、霊の目的は自らの進化であり、幸運や成功はそれを阻む作用をするからなのである。霊的な進歩は、霊界においてではなく、地上においてのみ行われるのである。
『神智学』には「認識の小道」という最終章がある。ここでは、人間はどうしたら超感覚的認識を獲得することができるようになるかが説明されている。数学は、認識の小道のためのすぐれた準備段階であるが、それは論理、離脱、非物質的実在への集中を教えるからだとシュタイナーは言う。換言すれば、「見者」にとってまず必要なのは科学的態度であり、心は混沌から秩序を創り出すことができるという確信である。外的な力がどんなに強力で人をまごつかせるものであろうとも、人間はそうした力にもてあそばれるよるべない存在なのではない。最初の段階は、人間は利害などから離脱することができ、自分の心を、混乱の中を進むための羅針盤として使うことができる、という事実を認識することである。
(コリン・ウィルソン『ルドルフ・シュタイナー』7、中村保男・中村正明訳)

 楽しみがほしければ、〈灯心草〉がいた。シロが草を食(は)み、ブロムが狩りか昼寝をしているあいだ、ぼくは、あのときブーツが教えてくれた〈灯心草〉の径を歩いて過ごした。ぼくは彼のことが好きだった。彼にははてしない数の内部があるみたいだった。そうした暗い隅や奇妙な場所で、〈灯心草〉は世界と、言葉と、ほかの人々と、知っているもの好きなもの嫌いなものと結びついていた。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

「それに、そういう手袋にまつわる物語も知っている。たぶん、その手袋の話じゃないかな」ある場所──たったひとつの小さな場所、点とさえいえそうな場所──があって、そこで、ぼくの人生にあるものすべてが交錯した。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

(…)駆け降りる前に、丘の上から僕に手を振るが、そんな彼女を音楽が包みこんでいる、そう、僕の目が生み出す音楽、ぼくの嗅覚が生み出す絵画、僕の聴覚が生み出す味覚、ぼくの触覚が生み出す匂い……僕の幻覚……(…)
(フエンテス『女王人形』木村榮一訳)

彼らの運命は耐えて進みつづけることであり、しかも最終的には人間的な、あらゆる事物への敬意のしるしとして、それを忘れないことだった。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』上巻・第二部・4、山高 昭訳)

人間の魂の中の何かが、ためらいを感じるのだった。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』上巻・第二部・2、山高 昭訳)

痛みには、痛みの記憶以上のものがある。
(グレッグ・イーガン『順列都市』第一部・3、山岸 真訳)

 ポールは一瞬、相手に共感して心を痛めた。だが、共感から同一視まではあと一歩。ポールはその感情を押し殺した。
(グレッグ・イーガン『順列都市』第一部・6、山岸 真訳)

(…)投げられたあらゆる爆弾、あらゆる銃弾や矢や石はいまだに悲鳴をあげる標的をさがしているのか──(…)
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『けむりは永遠(とわ)に』小尾芙佐訳)

彼女たちはすべてをさらけ出しているが、何も明かしてはくれない。
(J・G・バラード『覗き見の視線』木原善彦訳)

(…)これらの作品は一体として見ると、第二次世界大戦の強力かつ感動的な記録であるのみならず、戦争がその場にいた芸術家たちに及ぼした影響をも同じように記録しているのである。
(J・G・バラード『戦場の画家』木原善彦訳)

 今日、生まれ故郷の町にそのまま住んでいる人がどれくらいいるものか、わたしはよく知らない。だが、わたしがそうであるせいか知らないが、そうした町や市がしだいに衰退してゆく姿は、いうにいわれぬ悲しみを人の心に感じさせるものだ。それは友人の死よりもはるかに辛い。友人はほかにもいるし、他の友人に心を移すこともできるが、生まれ故郷はかけがえのないものだからだろうか。
(ジャック・フィニイ『盗まれた街』12、福島正実訳)

 暖かい楽しい気分になってきた。人々と交って、いつもの考えごとを忘れてしゃべるというのはたしかに楽しいことだ。わたしは今、いったい何をしようとしているのだろう。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』3、井上一夫訳)

 わたしは五番街に行った。わたしの歩きたい街だ。若さと希望にあふれて、それはわたしの世界、わたしの町、わたしのものというような気がした。歓喜の味を味わい、心は喜びに充ちて、順風に帆を上げたような気持だった。風の吹きぬける高いビルの間の道は色とりどりの美しい飾り窓がつらなり、女の人の美しいすました顔があり、すべての上に太陽が輝き、その太陽と風が……。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』5、井上一夫訳)

小鳥が雨樋のなかで夜明けを奪いあっていた。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

(…)大儀そうに、彼女は各種の壜やチューブから、じっさいにはもはや二度と所有することはないと思われる生命と暖かみを、おのれの顔の上につくりだそうと骨折った。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

(…)どこかで銃声が聞こえた。カウリー街、むかしのオクスフォードの中心を指してのびているこの長い、雑然とした商店街では、正面を板で囲ったり、破壊されたりしている建物がしばしば眼についた。舗道にはごみが堆(うずたか)く積もっていた。一、二の商店の店先には、買物の老婆たちが列をつくっていた。だれもみな無言で、てんでんばらばらで、上昇する気温にもかかわらず、スカーフで口もとをおおっていた。ウィンドラッシュの巻きあげた旋風が、彼女らの破れた靴のまわりで渦を巻いたが、女たちはまったく無関心だった。その姿には、零落のもたらす一種の威厳に似たものがあった。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

(…)一同は坐って食事にとりかかった。徐々に霧がうすれ、周囲の風物がしだいにはっきりしてきた。果てしない大空と、その大空の影を映して、世界は拡大していった。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』7、深町真理子訳)

(…)そのうち徐々に、教室の雰囲気が変わってきていることがわかった。あの耐えがたい緊張は去り、あの無意識の抑圧、警戒心、油断のなさ、禁じられているものをほしがることへのうしろめたさ、などは消えていった。
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ヤコブのあつもの、深町真理子訳)

 彼女が、あまりにもせつなげな身ぶりをするので、かえって彼のほうがせつなくなった。彼は自分で思っている以上に、彼女を愛していた。なぜかというに、彼はこのときすでに自分のことは忘れていたほどだから。
(ケッセル『昼顔』九、堀口大學訳)

「でも、どうして子供たちが彼女をからかうのをほうっておおきになりますの?」わたしは発作的な憤怒がこみあげてくるのを感じた。
 彼女はけわしい目でわたしを見た。「"ほうって"おくわけじゃありません。子どもというのは、いつの場合も、毛色の変わっている人間にたいして残酷なものですよ。あなたはまだそんなことにも気づいていないの?」
「いいえ、気づいていますわ。ようくわかっていますとも!」わたしはかすれた声で言い、ふたたびあの、じわじわとした冷たい氷のような記憶にたいして、身をちぢこめた。
「感心したことじゃないけれど、世間にはありがちなことなのよ。すべてに正しいことが通用するわけじゃありませんからね。ときには、慣れて感じなくなることも必要だわ」
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』荒野、深町真理子訳)

「いやよ、マーク!! いや! いや! いや!」とメァリーは悲鳴をあげ、壇のほうへ引きずられながら恐怖のあまりに大小便をもらす。マークは使い捨てたコンドームの山の中の壇の上に、縛り上げたメァリーをほうり出したまま、部屋の向う側へ行ってロープの用意をする…… やがて輪なわを銀の盆にのせてもどってくる。彼は手荒くメァリーを引き起こし、輪なわを首にかけて締める。そして彼女を突き刺し、ワルツを踊るように壇上をまわってから、ロープにぶら下がって空中に飛び出し、大きなアーチを描く…… 「ひい━━」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。大きな波のうねりが彼女の全身を通り抜ける。ジョニーは四つんばいになって、若いけもののように柔軟な身のこなしで機敏に身がまえる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

 ナツメヤシは水不足で枯れた。井戸は乾いたうんこと何千もの新聞紙のモザイクであふれている。「ソ連は否定……国務大臣は悲痛に訴える……落とし板は十二時に落とされた。十二時三十分、医師は牡蠣(かき)を食べに外出し、二時に戻って絞首刑になった男の背中を陽気にたたく。『なんと! まだ死んどらんのかね? こりゃ脚をひっぱってやらんといかんようだな。ふぉっふぉっふぉっ。こんなふうにだらだらと窒息してもらうわけにはいかん。大統領に叱られてしまうわい。それに死体運搬車に、生きたままのきみを運び出させるなんてみっともないからね。恥ずかしくて睾丸が落ちてしまうよ。それにわしは経験豊かな牛のところで訓練を積んでおる。一、二の、三、それ引け!』」
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

目の前に銀の粒が湧き出る。今から何百年もたったあとの廃墟と化した中庭に私は立っている。何物の、何人の匂いも嗅げない死の都を訪れる悲しい亡霊のようなものだ。
 少年達は記憶の中で揺れ動いている影で、遙か昔に塵となった肉体を喚起している。使うべき喉もなく舌もなく私は呼ぶ、幾世期をも越えた彼方へ向かって呼び続けるのだ、「パーコ……ジョセリート……エンリケ」と。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第二部、飯田隆昭訳)

私は丸い小さな箱をもっている。中には羊皮紙に似た紙に数多くの光景が描かれ、折りこまれている。紙をめくるとそれが生き生きと動きだす。前髪のところまでコンクリートの中にはまりこんでいる雄牛が数頭いる。今度は十八世紀の衣装をまとった二人の少年と二人の少女が金色の馬車からおりてきて裸になり、オルゴールの調べに合せて踊り、つま先でくるっと回転する。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳)

 私は傾斜の険しい木の段々を昇り、かつての玄関ポーチへ行く。金網はすっかりさびていて、網戸の蝶番ははずれている。南京錠をはずし、玄関のドアを押し開ける。廃屋のかび臭さが鼻を打ち、冷気が肌に感じられる。熱い空気が私の後ろから中へ入りこむ。外の空気と中の空気が混じり合う空間に熱波らしき霧状のものが目に映る。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳)

よく考えてみると、こういう羨望混じりの感嘆の念は前にも味わったことがある。だが、あれは気が弱くなっている時に、異性愛者に対して抱いた感情だった。そうだ、おれはある時期、異性愛者が自分の生まれた社会と見事に適合しているのに感動したことがあった。異性愛社会には、まるで揺り籠の足元に置いてあるおもちゃのように、いろんな物が揃っている。まずは性教育、感情教育をしてくれる絵本に始まって、童貞を捨てに行く売春宿の住所、初めての情婦の写真、それから結婚式の日取りが書かれた未来の婚約者の写真、夫婦の財産契約書に、結婚式の歌の歌詞……。異性愛者はただこれらの既製服を次々に着換えていればよいのだ。それは彼によく似合うが、なぜかと言うと、それが彼個人のために作られているというよりは、「彼ら」のために作られているからだ。それに比べて、若い同性愛者は棘だらけの植物に覆われた砂漠の中で目覚める……。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第七章、榊原晃三・南條郁子訳)

(…)どこへ行くのやら見当がつかない。だが状況は常に自ら新しい状況を作り出す。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第七章、榊原晃三・南條郁子訳)

 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言葉について──このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現われたものである──(…)
(ヨハネの第一の手紙一・一─二)

 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
(ヨハネの第一の手紙一・五─七)

(…)シュタイナーが書いたり語ったりしたことで、彼を二十世紀の他のあらゆる思想家と区別していることは何であるのか。
 これへの答えは、本書の第1章でかなり詳しく論じたあの認識のうちにひそんでいる。あの認識とは、「霊界」というものは実は人間の内面世界にほかならぬ、という認識である。シュタイナーは事実上こう言っていたにひとしい。鳥は空の生き物であり、魚は水の生き物、蚯蚓(みみず)は地の生き物だが、人間は本質的に心の生き物であり、人間の真の故郷は自分の内部にある世界なのだ。なるほど、人間でも外面世界に生きなくてはならぬというのは事実だが、第1章で見たごとく、この外面世界を把握するには私たちは自分自身の内部に退く必要があるのだ。
 この内面世界の奥深くまで「退く」ことは、私たちのほとんどにとって難しいことであり、外面世界とそれがつきつけるさまざまな問題がうしろから私たちを引っぱって内面世界に入ろうとするのを妨げる。シュタイナーはどうやら、自分の内面世界に降りて行く非凡な能力を有していたらしい。さらにシュタイナー哲学の中心的な主張は、この内面の領域こそ「霊界」にほかならず、ひとたびこの領域に入ることをおぼえれば、この内域が外面世界の単なる想像的反映ではなく、それ自体独立した実在性を有している世界であることを人間は実感する、という考え方なのである。
(コリン・ウィルソン『ルドルフ・シュタイナー』9、中村保男・中村正明訳)

 男の眼差しはすでに、よく描かれてきた。この眼差しは、まるで女の背丈を測り、体重を量り、値打ちを定め、女を選ぶ、言い換えればまるで女を物に変えるように、冷たく女のうえに止まるものらしい。
 あまり知られていなのは、女がその眼差しにたいしてまったく無防備だというわけではないということだ。もし女が物に変えられるなら、それは女が物の眼で男を見るということにほかならない。それはまるで金槌(かなづち)が突然眼をもち、自分を使って釘を打ち込んでいる石工をじっと見つめるようなものだ。石工には金槌の不愉快な眼差しが見えて自信を失い、自分の親指を一撃してしまう。
(ミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』第七部・8、西永良成訳)

 小説の精神は連続性の精神です。つまり、それぞれの作品は、先行する作品への回答であり、それぞれの作品には、小説の過去の経験がすでに含まれているということです。しかし、私たちの時代精神は今日性(アクチユアリテ)の上に固定されています。今日性は、あまりに拡散的で広いひろがりをもつものですから、それは私たちの地平の過去を拒否し、そして時間をもっぱら現在の瞬間に還元するものです。このような体系のなかに封じ込められた小説は、もはや作品(持続を、過去を未来に継ぐことを運命づけられたもの)ではなく、他の事件とかわらぬ現在(アクチユアリテ)の事件であり、はかない行為です。
(ミラン・クンデラ『小説の精神』第一部・9、金井 裕・浅野敏夫訳)

(…)すると不満を抱く者たち、いくぶん盲目的で、どこか狂っているような者たちが神秘と血を通して、あの失われた調和をしゃにむに取り戻そうとして、自分たちを取りまく現実とは違う現実を、たいていの場合幻想的であり狂的である現実を描いたり書いたりするが、奇妙なことにその現実こそ結局は日常的な現実より深遠なもの、真実なものであることになる。そうして、こうした傷つきやすい存在はある意味であらゆる者たちのために夢を見つつ、自らの個人的な不幸の上に立ちうるようになる、また集団の運命の解説者に、そして、(苦しめを受ける)救済者にさえなる。
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

 しかし、わたしの不幸は常に二重のものだった、というのも、わたしの弱さ、傍観的な精神、優柔不断さ、無気力、こういったものがいつもあの新しい規律を、芸術作品という新しい宇宙を獲得する妨げとなり、わたしを救ってくれそうなあの思いこがれた建造物の足場からいつも足を踏みはぜさせる。そして落ちるたびに傷つき、二重に哀しくなり急いで単純な人間を探し求めることになる。
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

 子供の頃、就寝前にときおりある声が、眠りの中へ誘うようにお話を聞かせてくれて、夜になるとこの世界がどんなに宏大に伸び拡がるか、教えてくれたものである。「昔々あるところに」の文句で始まることもあった。こうして目覚めたまま寝そべっていて眠ることができないなんて、私一人が、過ぎ去ることを知らない時そのものなのだ。
 四方の壁も、ベッドや床も、箪笥だって、鏡や絵だって眠る。寝具や絨毯、椅子や机や窓、カーテンに、衣服に、その他まわりを取り巻くありとあらゆるものが、外の霧だって、雪片だって、樹木も地面も水中の魚も、霧のかげや雪の彼方にいる人々も、それどころか鳩の巣でさえ眠るのだ。同じように、凍えている人も独りぼっちでだれも友達のいない人も、希望を求めて思い煩っている人や、恋という名のもとに屋根裏部屋や連れこみ宿で徐々に憔悴してゆく人も眠る。子供たちも、願いごとを唱えながら眠りにつく。黄泉(よみ)のヴェールにおおわれた死人の開かれた眼も眠る。盲人の光を失った顔も、蒼ざめた産婦も、涙さえも眠る。じゃじゃ馬娘の髪の毛にさした櫛やその髪に吹き込む風も眠る。テーブルの酒瓶も、その脇にある飲み残しのグラスも、錠前に差し込まれた鍵も、時計やランプも眠る。配膳台の上の散らしや新聞、部屋履きやソックス、ズボン、ワイシャツ、チョッキ、暖炉の火、窓の鎧板にかかった雪、家や庭、茂み、小経や舗石、垣根や杭、大小の町、列車や河川や港の小舟にいたるまで。空高く飛ぶ飛行機も、渡り鳥のように大陸をまたにかけて眠る。薬剤師の天秤も眠る。露店のひさしも、犬や猫も眠る。そして、人里離れた森の奥では(…)
 ただ私、この私だけが眠れない。(…)
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二章、園田みどり訳)

(…)目的もなくブエノスアイレスの町を歩きまわり、人々を眺め、コンスティトゥシオン広場のベンチに腰をおろして考えた。そのあと部屋に戻ったが、いつになく孤独感を味わっていた。本に没頭しているときだけはふたたび現実を見出すようだった、逆に、通りにいる人々はまるで催眠術にかかった人間たちの大きな夢に思えた。多くの歳月が流れて分ったことは、ブエノスアイレスの通り、広場、そして商店、事務所にはそのときわたしが感じたことと同じようなことを感じ、考えている人間が無数にいるということだ、孤独で苦しんでいる人々、人生の意味、無意味を考えている人々、自分のまわりで眠った世界、催眠術をかけられたりロボットになってしまった人間の世界を見ているような気がしている人々がいるのだ。
 その孤立した角面堡の中でわたしは短篇を書きはじめた。いま思うと、不幸になるたびに、一人ぽっちだ、生を与えてくれた世界としっくりいかない、そう感じるたびに書いてきたみたいだ。それが普通ではないだろうか、現代の芸術、引き裂かれた緊張した芸術は常にわたしたちの不調和、苦悩、不満から生まれてくるものではないか。人間という傷つきやすい、落ちつかない、欲深な生き物の種族が世界と和解する試みのようなものではないだろうか。なぜなら、動物は芸術を必要としない、彼らは生きるだけだ。彼らの生は本能の必要性と調和を保ちながら滑っていくからだ。鳥には少しの種か虫、巣をかけるための樹、飛びまわるための広い空間があればいい、そして、その一生は生まれてから死ぬまで、形而上的な絶望感や狂気に引き裂かれることのない幸福なリズムの中で流れていく。ところが人間は(…)
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

 そして、一つを除くほかのあらゆる思い出が彼女の心に浮かびはじめたのも、やはりそのときのことだった。すべての思い出が押し寄せたが、彼女は、なぜかわからないながらも、ただ何かあることだけによって、ある思い出がまだ欠けており、ほかのすべての思い出が起きたのも、もっぱらこの一つの思い出のせいにほかならないと感じたのだ。そこで彼女の心に、そのためにはヨハネスが自分の役に立ってくれるかもしれないし、また自分の全生活は、この一つの思い出を手に入れるかいなかにかかっている、という観念がつくりあげられた。さらにまた彼女は、自分がそのように感じているものは、力ではなくて、彼の静けさ、つまり彼の弱さであることも知っていた。この静かで不死身の弱さは、広々とした場所のように彼の後ろにひろがっていて、そのなかで彼は、自分の身に起きたあらゆることと、ひとりで向かいあっているのだ。しかし彼女はそれを、もっとそれ以上に探り出すことができなかったので、不安な気がした。そして、自分がすでにその近くにいると思ったときにはいつも、またまえもって動物を思い浮かべるので、彼女は苦しかった。
(ムージル『ヴェロニカ』吉田正巳訳)

これは愛だろうか?
(ムージル『ヴェロニカ』吉田正巳訳)

家造りらの捨てた石は
隅のかしら石となった。
これは主のなされた事で
われらの目には驚くべき事である。
(詩篇一一八・二二─二三)

愛のおのずから起こるときまでは、
ことさらに呼び起すことも、
さますこともしないように。
(雅歌三・五)

声に出して考えていた。
(エドモンド・ハミルトン『審判のあとで』中村 融訳)

どうしてそのことを書かないの?
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

悲しみはまず無言でなければならない、あんたはそう思っている。痛みを感じたあとで、初めてその痛みについて語ることができる……たとえそれが、偶然見つけた死体のように、小さな痛みであっても、癌に当たったような、大きな痛みでも……
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

「あなたはあたしの手を握りしめたわ。そして、その死んだ男は、究極的に、生きているのだと言った。死者たちはみんな生きているんだって」
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

だれも話しかけてくれなかったわ。あたしのことをだれも知らなかった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 いったいどこから来る? どこからでもなく、虚無からやってくる──だれの声でもない声
(バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』11、大森 望訳)

声には実体があるとでもいうのか?
(バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』11、大森 望訳)

それだけで独立の実体を持っている。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第10章、荒木昭太郎訳)

 見る主体を見ることはできないし、心が考える主体を把握することもできない。見る主体、考える主体が〈わたし〉──すなわち、魂なのだ。
(バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』13、大森 望訳)

 かれらがそうなりえたかもしれないものが永久に失われたことを、ウルフは悲しんでいるのであった。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『異世界の門』16、浅倉久志訳)

 目を開くと、頭上に薄青い空が広がり、ちらほら雲が見えた。周囲は牧草地だった。みつばちたちが、いや多少ともみつばちのように見える昆虫の群れが、茎が長く皿ほどもある白い花のあいだをぶんぶん飛びまわっていた。空気には甘い香りがただよっていた。さながら無数の花々が大気そのものを妊娠させているかのように。
(フィリップ・K・ディック『カンタータ百四十番』4、冬川 亘訳)

精子も自分をひとかどのものと思うだろうか?
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』4、友枝康子訳)

彼の目は、少女の白いシャツからのぞく喉もとを楽しんでいる。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『煙は永遠にたちのぼって』友枝康子訳)

「でもね、どこか気味がわるいの」彼女は満身の力をこめて箱を河に投げる。箱は二十フィート飛ぶ。「すごい! でもね、あなたの一部分があなたの愛したものに執着して永久についてまわる、そんなことを想像してみて!」彼女は柳の木によりかかり、流れていく箱を眺める。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『煙は永遠にたちのぼって』友枝康子訳)

 少年の生活というのは同じようなもので、彼の場合も例外ではない。違うと言えば、ブロンドの女がしきりに話しかけていることだが、そのせいで少年は今ひとりぼっちの人間になっている(雲の話はもううんざりだが、今ふわふわした細長い雲が通り過ぎていった。あの日の朝は、一度も見上げなかったはずだ。二人に何か起こりそうな予感がしたので、これからどうなるのか様子を見ることにした……)。不安そうな少年を見れば、少し前、せいぜい三十分前に何があったか容易に想像がつく。つまり、少年は先ほど島の端(はな)にやってきて、そこですてきな女を見かけたのだ。女は最初からそのつもりで網を張っていた。ひょっとすると、バルコニーか車の中から少年を見かけたのかもしれない。そこで、少年のそばへ行くと、話しかける。少年は不安に駆られたものの、逃げ出すきっかけがつかめずそのまま居残る。
(コルタサル『悪魔の涎』木村榮一訳)

(…)画家の中には好んで椅子を描く人がいるが、やっとぼくにもその理由がのみこめた。急に、フロールの椅子がどれもこれも花や香水のようにすばらしいものに思えはじめた。あれはこの町に住む人たちの秩序と誠実さを表わす申し分のない道具なのだ。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

 民衆はしあわせだ。しあわせでなければならないのだ。もし悲しんでいるところを見つかれば、なだめられ、薬をあてがわれ、しあわせな人間に改造されるのだから。
(コードウェイナー・スミス『老いた大地の底で』1、伊藤典夫訳)

 とつぜん大立て者は少年の体を宙に突き飛ばして自分のコックから解放する。そして両手を少年の座骨に当てて揺れないように押さえ、象形文字のような動きをする手を首に当て、首の骨を折る。戦慄が少年の全身を駆け抜ける。彼のコックは骨盤を上に向けて、大きく三度ぴくぴくとはね上がり、たちまち射出する。
 彼の目の奥で緑色の火花が散る。甘美な歯痛が首筋を矢のように流れて背骨から鼠(そ)蹊(けい)部まで達し、歓喜の発作で身体を収縮させる。彼の全身はコックによって締めつけられる。最後の発作が起こり、多量の精液が赤いスクリーンの向う側まで流星のように噴出する。
 少年はやわらかく吸い込まれるように、ゲームセンターとエロ写真の迷路を抜けて落下する。
 堅いくそが勢いよくすぽんと尻からとび出す。放屁がきゃしゃな身体を震わせる。大きな川の向うの緑の茂みの中からのろしが上がる。薄暗いジャングルの中にモーターボートの音がかすかに聞える…… マラリア蚊の沈黙の羽の下で。
 大立て者は少年を自分のコックの上に引きもどす。少年はやすに突き刺された魚のように身もだえする。大立て者は少年の背中で身体をゆすり、少年の身体はくねくねと波を打ってちぢこまる。少年の死の色に包まれて愛らしくすねたような感じの半分開いた口からあごを伝わって血が流れ落ちる。大立て者はすっかり満足してぱたっと倒れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』ハッサンの娯楽室、鮎川信夫訳)


re:poket

  田中恭平


空き缶のふちがキラリと夜の路上で光っているラッパー。背中のチャックを下ろして俺は物真似を辞めようと思った。偉人の言葉を借りることを辞めよう。霊力の力借りてことなすべきか。ラッパーAAA。お前のanarchism。日本の闇の深さゆえか、だから何だよ、通りを歩いていくと、柳の木の下でブルーズマンが歌っている。天より入っている。それは幽霊じゃないぜ、いつかの誰か、俺のことかもしれないぜ。あなたと話して楽になったよ。きみは僕の愛する人のことだ。トン、トン、トン とボブ・ディランらしい大人が、少しずつ私から私の背中のファスナーを下ろしてくれる。ごめんじゃ済みそうにない。ぶちかましてやる。苦味は漫画を現実化することしかできない兄だからだ。悪かったさ。これからも悪いだろうさ。ストローで活字を飲み過ぎたメロンソーダそしてアイスクリームを添えたものをいつか僕は飲んだっけ。大切なことだ。そんなことすら憶えてないんじゃ俺は俺を拒否する。そんな大切なことの為、電話恐怖の俺の代わりに電話を掛ける電話ボックス。 「なあ、あの小説読んだ?面白かった、 目の前の書類をすべて放り投げたいくらいだ、それにしても、足が何もしてないのに疼いてしまう」
俺は、そのままアパートの寝室に戻りラジオを聞きながらギターを小さな音で弾こうとしたけれど全然駄目で、それはまるでギターで宇宙?ふざけんじゃねぇ、すたれたアパートで描くように、己の心臓そのままを放り投げるように歌えたらな、とか信頼を、ぎゅっと握りしめたら、天井の壁の木目をずっと眺める日々か。またあなたを泣かせてしまうだろうか。だってさっき、迷いこんできた犬、その犬から目をそむけて、今ここに俺はいるのだから、噛みついてきていいぜ、ボコボコにしてやる。パーティがはじまる。楽しみには危険がつきものか、ともかく炭鉱のカナリアたちは声を張り上げて諳んじるさ、てっぺん掛けたか、てっぺん掛けたか。全部錯覚だろうぜ、エモーションで手前らを応戦しようとするが、司法はドンと構えている、法こそが問題じゃなくて なさけなさ そのなさけがやさしさゆえと、知れないふりした僕の罪さ ギルティ モアギルティ? すっきりしたいぜ
この芳醇な世界でみんなパン屋になりたいんだろうか?ともかく、この病を治したい。
ポニーが駆け巡っている。草原の中で同じヒッピー、といって色々な考えがあるだろう、純粋に、純粋になってしまわないように人間臭さ、がそこにあるように、匂いに気づかえるように、そんな繰り言だってわかってもらえるなんて甘いもんじゃないんだ。55日間の免停期間も受けたことがない。なにもない場所に、何を置こうか考えることに、僕の首は自然上を向いて歩く。
バタ臭せぇ、とは面白い言葉だ、なんて思う、白い軽トラックからQさんが笑って下りてきた。その映画が終わってしまって、それから俺の人生がはじまる。リトライじゃない、報復とバトルロワイヤルでしっちゃかめっちゃかで、ミュージシャンの階段が外れるぜ。ドキドキするもんだ。この先に何が訪れるかどうか、それがわからないから。「よし、その詩を書き終えたら、俺の役は負えられるだろう? 甘い言葉ばかりで申しわけがないから、しゃべりかけているんだ」 或る録音器は物語る「夢・・・夢・・・夢」
それは「嘘・・・嘘・・・嘘」
……現在時刻 2016.10.28(金)
  20:37
 机の上にはブルース・ハープが置かれている。このブルース・ハープはニヒルな奴だろ、と俺に光っているんだろ。ハープのキーはG。ギターはまずEm、指一本を五弦の2フラットを抑えると、きれいになるんだ、それだけを一番きれいにならせるまでが難しい、なんて話しかけても、話しかけてもきみは眠ることばかりが好きで、逃避でなく、きみをガチで愛し尽くす。ただ眠ることが好きでしかない、何もしないとしょうがない、俺に対して何もしたくない人がいて、当たり前だろうと思ってさ、芝生の草のにほいを嗅いでいる。
ピック三枚、フェルナンデスのギターが好きなんです、くだらねぇ冗談。
 ハッと我に返って影たちが進撃をつづける。日本の雪が被って以来のことです。ザスッ、ザスッと、ただ冬しかない国の中を歩いていきます。連中は。3月があるかも知れない、この国のことをどこかで、胸に火を宿しつつ。それらがなくなり、いいのか、わるいことなのか、きっと我々は音楽家なんだろう。ミュージシャンではないのだろう。今伝えにいきたい人に向かいました。未来長く生きる意味を問い直しつつ、合唱しつつ影たちは前進をつづける。生きるならば燃え尽きるまで長く生きるためにここに文神を殺すぜ。
 ラッパーたちが、フォークシンガーに俺の町ディスってんじゃねぇ?と因縁つけてる。
ディスってんの?ディスってんの? 俺にはなんでそんな諍いがあるのか、重々ぶっこわしていかなければいけない宿業の中で、あなたの声を肯定することのみ、未来、あなたの輝くことを肯定する。メモリーの中で、またブルーズマンが歌い出す。

「到底手に負えた代物じゃないんだ 到底手に負えたもんじゃないんだ 降参しろ 白旗を高く掲げろ もう震えが止まらないんだから いつでもしゃべりつづけてろ でもわかっているんだろう 自分の業から足を洗っていることを それで損しているならお前の方が危険だぜ メール・ボックスが一杯になるぜ」

 ジュークでもう一人の男が歌い出す

「おい、ブルーズをなめるんじゃないぜ お前はできるだろうさ いい手をしてるんだから 女の子と遊ぶためじゃないんだ お前の指は単純抑えが悪いんだ ともかく練習を繰り返すことだ ひたすら弾きつづけることだ 愛の詩なんて嘘くさくて当然じゃないか
嘘の詩が、愛であることだって十分大そうなことだろ、違うか?」
 俺は立ちはだかる。いつでもこの最後の文学の中にいる。


メリークリスマス

  熊谷


 数えきれない夜に、数えきれない星が空を巡り、数えきれない大きな袋が、数えきれない煙突に、数えきれないサンタと、数えきれないトナカイが、数えきれない子どもへ、数えきれないプレゼントを、数えきれないメリークリスマスに、数えきれないろうそくと、数えきれないお父さんとお母さんと、数えてもらえなかったわたしと、欲しくもなかったプレゼントが、いま心に赤いリボンがぎゅっとかけられて、今年も切なく終わりを迎える、この世の中に分母がどんどん広がっていく限り、わたしも君も、完全に消えるわけじゃないのに、どんどん見えなくなって、ろうそくの火みたいに、ふっと消える。

 おやすみおやすみおやすみなさい、おやすみしなければいけない、おやすみしたら明日がやってくる、おやすみは子どもの義務、おやすみはすぐにやってくる、おやすみは体にとって大切、おやすみでお休みなんかできない、おやすみなんかおやすみなんかおやすみなんかサンタが来るからっておやすみするもんかってところで程よくお酒が回って目がまどろみ、わたしもわたしという意識からさよなら、時計を見るとたぶん午前二時、午前二時のおやすみなさい、午前二時のだいすき、午前二時のあいしてる、午前二時のねえ、起きてる?午前二時の、二時の、二時の、二時、本当に今は二時なのかしら、時計をもう一度確認、して、ちょう、だい。

 せめて大きな靴下に入っていればよかった、プレゼントはだいたいダンボールに入っていた、来たのはサンタじゃなくてクロネコヤマトの宅急便のお兄さんだった、希望通りの商品が希望通りの個数で希望通りの日時で希望通りに到着した、でもそんなことは望んでなんかなかった、赤いリボンはもっときつく心を締め付けた、分母はいつもひとりだった、たったひとりのわたしが、この狭い津田沼の六畳間に、世界とは、世界とはと問い続けて、津田沼のことさえ全く知りもしないのに、津田沼の端っこの六畳間で、数える気もないのに空を見上げ、数える気もないのに煙突を探し、数える気もないのにプレゼントを考え、数える気もないのに数える気もないのに数える気は全くないくせに、それでもメリークリスマスは当たり前のようにやって来るんだから、やって来るってやって来るってやって来るってんのに何の準備もしてないし、してないよしてないよどうせするつもりもないんだけど、必ずいつだって分母はひとりでひとつで、それは津田沼の六畳間にぽつんと、今、ここで、横に、なっている。

 振り向けば愛してる愛してる愛してるって、午前二時に午前二時の午前二時にはサンタクロースが愛を運んで、よく眠る良い子に愛を運んで、欲しいとも欲しくないともそれとも何が欲しいかもわからなかったあの子にも、数えきれないから不平等に、それはもうバラバラに不公平にプレゼントは配られて、それでもちゃんと見てたよ、君のことは知ってたよ、でも君のことは愛することはできないよ、津田沼の六畳間から、ちゃんと、六畳間からちゃんと、世界とは何なのか考えてた、君って一体何なのか考えた、君が思う、君が好きなわたしって何なのか考えてた、ごめん、ごめんごめんごめんって、君のことはちゃんと数えてる、君のことはちゃんと思っているんだよ、思っていたけど、でもやっぱりわたしは君を愛することはできない、わたしは君に何ひとつプレゼントはあげられない。津田沼の六畳間には、サンタはいないしサンタは来ない。まともに世界にいる子どもの数なんて数え切れないからこの世はまだらに幸せになっていて、幸せのとなりにすぐ不幸せが存在して、不幸せは不幸せなのを悟られないようにどんどん津田沼の六畳間で小さくなっていく、どんどん分母は小さくなる、最終的には分母はひとりでひとつになって、天井の明かりみたいに、ふっと消える。


詩の日めくり 二〇一六年十月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年十月一日 「至福の二日間」


きのうと、きょうと、ずっと横になって寝てた。お茶をひと缶のんだだけ。いっさい食事せず。ただ眠っていただけ。しかし、まだ眠い。睡眠導入剤が強くなって、しじゅう、あくびが出るようになった。眠いということがここ10年くらいなかったので、至福の2日間であった。もうじきクスリのんで、また寝る。

あさ、4時に目がさめて、きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり 二〇一六年九月一日─三十一日』をつくってた。これからマクドナルドに。


二〇一六年十月二日 「至福の引き伸ばし」


投稿はあしたにして、PC消して、クスリのんで寝る。睡眠導入剤が強いものになって、睡眠が10年ぶりくらいに心地よいので、睡眠を第一優先にしたいため。きのう読んだコードウェイナー・スミスの「老いた大地の底で」の終わりの方を読み直そう。記憶に残っていなかった。つぎに収められている「酔いどれ船」を読んでる途中だけど。まあ、あと10ページほどなので、寝るまでに「酔いどれ船」も読み切れるだろうけれど。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月三日 「黄色い木馬/レタス」


10月1日に文学極道に投稿した『全行引用による自伝詩。』、もともと11月に投稿する『全行引用による自伝詩。』とくっつけたもので、あまりにも長くて、モチーフが分散し過ぎている印象があったので、もとのように分離した。すっきりした感じになった。これでひと月分、余裕ができたわけでもある

12月に投稿する分から考えればいいので、急ぐ必要がなくなって、ほっとしている。しかし、仕事との関係で、あまり余裕がないかもしれないので、ワードの打ち込みは、こまめにしなければならない。

きょうは夜に塾がないので、寝るまで本を読もう。そうだった。ぼくは本を読むために生まれてきたのであった。とりあえず、コードウェイナー・スミスの短篇「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」のつづきから読んでいこう。しかし、それにしても、コードウェイナー・スミスは偉大なSF作家だった。

「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」を読み終わった。大筋を憶えていたのだけど、狂的な部分を憶えていなかった。あらためて、コードウェイナー・スミスのすごさに思いを馳せた。散文のSFで、強烈な詩を書いていたのだなと思う。つぎは、「アルファ・ラルファ大通り」短篇集タイトル作である。

郵便受けに何か入ってるかなと思って、マンションの玄関口に行くと、草野理恵子さんという方から、『黄色い木馬/レタス』という詩集を送っていただいていた。手に取って、ぱらっとめくったページが16ページ、17ページで、詩のタイトルが見えた瞬間、えっと思って、笑ってしまった。だって、「おじさん/入れ歯」というタイトルだったからだけど、笑いながら読んでいたら、グロテスクな描写に変容していって、なに、この詩? となって、目次を見たら、すべての作品がスラッシュで区切られていて、つながりがあるのかないのか、たぶんないよなというような名詞が接続されていて、「おじさん/入れ歯」のつぎに収録されている20ページからはじまる「カサカサ/プレゼント」という作品の第一行がこんなの。「たとえば僕のおばさんはとても孤独に生きたので何でも喜んだ」ぎょえー、なに、この詩は? ってなって、奥付を見たら、ぼくと齢があまり変わらない方だったので、なぜかしらん、ほっとした。ぱらぱらとめくりながら、詩句に目を走らせると、抒情的な部分もたくさんあるのだけれど、基本は、狂気のようなものだと感じられた。でも、ご卒業された学校の名前を見て、たぶん、とても見た目、まじめな方なんだろうなあと思って、書くものとのギャップが大きそうに思った。それだけに、怖い。56ページからはじまる「頭巾/虫」の第一行目は、こう。「ひとりで話しているうちに真っ暗になってしまった」 怖いでしょう? 102ページからはじまる「皿/スイッチ」という作品の第一連なんか、こうよ。


あるパーティの日
百人の瞳の大きな人間が選ばれ
皿を配られる
そして鳥にされることになる


怖いもの見たさにページをめくる。24ページからはじまる「水飴/雨」の冒頭部分


ところで君は何でお金を稼いでいたのだろうか
水飴も売っていたかもしれない
だけど僕たちは君見たさに集まっていたのだ
こぶなのだろうか
頭の一部が妙に大きく膨らんでいた


なんだか、江戸川乱歩が詩を書いたら、こんな感じかなっていう雰囲気のものが多くて、著者の草野理恵子さんが、ぼくに詩集を送ってくださったのが、よく理解できる。好みです。いま読んでる、コードウェイナー・スミスのグロテスクさにも通じるような気がする。

草野理恵子さんの詩集『黄色い木馬/レタス』土曜美術社から9月31日に出たばかりらしい。装丁もきれいなので、画像を撮って、貼り付けておくね。https://pic.twitter.com/TJYlk4wefc

もう30年くらいはむかしの話になるけれど、梅田の北欧館に行ったとき、階段に入れ歯があって、びっくりしたことがある。置き忘れた方がいらっしゃったのだろうけれど、なんか、グロテスクなアートって感じもしたけど、いまでも思い出せる、その輝きを。暗い階段に、白い入れ歯が上向きに落ちてるの。メガネをしているひとのメガネがない状態と似ているような気がするのだけれど、入れ歯がないってことに気がつかないものなのかしらん? 父親が、ぼくのいまの齢で、総入れ歯だったのだけれど、父親が「歯が痛い」と言うのを聞いた記憶がない。基本、総入れ歯だと、歯痛はないのかもしれないね。でも、入れ歯を、なんかのクスリにつけてたから、メンテナンスは必要なんだろうけど。ぼくもそのうち、総入れ歯になるのかなあ。どだろ。そいえば、むかし勤めていた学校で、目のまえに坐ってらっしゃった先生が総入れ歯で、よくコップのなかに入れ歯を入れてらっしゃったなあ。カパッて音がするので、見たら、口から入れ歯を出してコップに入れてらっしゃったのだけれど、それが透明のコップで気持ち悪かったから見て見ないふりをしてた。高校一年生のとき、好きだった竹内くんとバスケットしてて、竹内くんの口にボールをあててしまったら、そこに前歯がなくなっちゃった竹内くんの顔があったから、びっくりしたら、「差し歯やから」と言われて、差し歯って言われても、それがなにか知らなかったから、ほんとにびっくりした。そいえば、ぼくがさいしょに付き合ったノブチンは、笑うと歯茎が見えるからって言って、笑うときに、よく女子がするような感じで口元に手をやってたなあ。そのしぐさがかわいかったけど、まあ、ノブチンも21才やったからね。いまじゃ、おっさんになってるから、もうそんなことしてないだろうけど。

収められたさいごの短篇「ショイヨルという名の星」を読んでいる。もう3、4回は読んでいる作品だが、よくこんなSF小説が書けたなあと思うし、発表できたなあと思う。究極の地獄を描いた作品だと思うけれど、まあ、さいごに救いがあるところが、スミスらしいけれど、それともそれ編集者の意向かな。


二〇一六年十月四日 「チェンジ・ザ・ネーム」


きょうから、アンナ・カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』を読むことにした。なかば、自分に対する強制だ。昼には、読みの途中でほっぽり出してたミエヴィルの『言語都市』にしようかなと思ったのだけれど、カヴァンの未読の本が2冊、目のまえの本棚にあったので。ああ、どうせ絶望的なんだろうなあ。


二〇一六年十月五日 「邪眼」


悪意を持って眺めると
相手を不幸にならしめることができる
対抗するには
淫らな思念を相手のこころに投射すること
あるいは残虐な刑罰による死の場面を投射すること
って
書いてると
ミスター・ジミーから電話があって
老子の
うらみに対しては徳をもって報いよ
といわれた
まあねえ

ファレル
百枚の葉が耳を澄まして
ぼくを見ている
グリム童話のなかで
森の木々が見てる
といったような描写があったような
ぼくの思考が
川のなかの鳥のくちばしのように
夜の
水草のなかを
何度もつついている
そこにおめあてのものがあるとでも思っているのだろうか
ファレル
ぼくの思考は
ぼくのからだを包む百枚の葉のように
つめたくあたたかい
わかくて老いているころから
わかっていた
流れながらとどまり
とどまりながら流れていた
ファレル
ぼくのにごった水の上を走り去る鋼鉄の雲よ
ぼくの手は
アクアポリスの背景をなぞる
なぜなぞるのだろう
百枚の葉はじつは百羽の鳥だった
百羽の鳥の喉を通して
ぼくは考えていたのだ
ファレル
きみも気がつくべきだった
ぼくにやさしくつめたい
どうしたのかしら
そんなところで
ゴミ箱が隠れてた
ぼくにはわからないんだけど
いっしょうけんめい知識を深めることに専念していると
ふつうのゴミ箱のことがわからなくなるのかもしれない
ゴミ箱が人間の形をしてた
にょきにょきと手足を生やして
ぼくのところにきた
ぼくは
ぽこんとゴミ箱をたたいた
ゴミ箱は痛がらなかった
比喩じゃない
比喩は痛くない
人間じゃないから
人間かも
人間なら蹴ったら痛いかも
蹴ってみたら
ぼくはまだ人間を蹴ったことがない
人間以外のものも蹴ったことがない
蹴る勇気をもつことは大切だ
手で殴るということもしたことがない
ものも殴ったことがない
勇気のない者は永遠に報われない

それもいいかもにょ
苦痛がやってきて
ぼくの鼻から入ってくる
苦痛がぼくを呼吸し
やがてぼくの神経に根を下ろす
鈴の音が鳴る
財布につけた鈴の大きさに
月が鳴っている
ゼノサイド
月を血まみれの両の手がつかんでいる
月の大きさの眼球が
地球の海を見つめている
海は縛りつけられた従兄弟のように
干からびていく
宇治茶もいいね
宇治茶もおいしいね
ジミーちゃんと話してるとホットするよ
そてつ
そうでつ
お母さんを冷凍してゆしゅつすることを考える
緊急輸出
脊髄はちゃんと除去してからでないと輸出してはいけません
冷凍怪獣バルゴンっていたな
人間の死体を冷凍して輸出することは法に違反しているのかしら
冷凍ママ
冷凍パパ
なんてスカンジナヴィアで売っていそう
アイスキャンディーになったママやパパもおいしそうだし
ペロペロペロッチ
冷凍パパは生きてたときとおなじように固いし
体以上に固い
体も硬いけどね
冷凍パパが飛行機で到着
到着うんちが便器のへりを駆け巡る
飛行うんちが飛び交う男子用トイレで
マグロフレークが
未消化のレタスと千切り大根の
指令書がファックスで送られてくる
そてつ
そうでつ
冷凍パパと記念写真
携帯でパシャ
パシャ
冷凍ママも
パシャ
パシャ
ハロゲンヒーターのハロゲン
行くのね
ゼノサイド
ちゃうちゃう
おとついジミーちゃんに
ホロコーストの語源って知ってる
って訊かれた
覚えてなかった
うかつだった
焼き殺す
うううん
焼き殺しつくすのね
ぼくの直線にならんだ数珠つなぎの目ん玉
螺旋にくるくるくるくる舞ってるのね
新体操のリボンのように



二〇一六年十月六日 「Fくん」


いま日知庵から帰った。Fくんに合って、帰りは、方向がいっしょだったので、タクシーに乗せてもらって、西院駅まで送ってもらって。きょうも、いっぱい仕事した。今日、一日のうち、いちばん、うれしかったのは、Fくんと日知庵でばったり合ったことかな。で、話して。でへっ。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月七日 「脱字」


カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』3分の1くらい読めた。会話がとても少なくて、情景描写ばかりで、P・D・ジェイムズもそうだけど、ぼくの好きな英国女性作家の作品は読みにくい。だけど、その情景描写が繊細で、かつ的確なので、楽しめて読めるものになっている。内容は神経症的な世界だけど。

アンナ・カヴァン『チェンジ・ザ・ネーム』 脱字 95ページ3行目「鋼砥(はがめと)の上で」 ルビに「ぎ」が抜けている。


二〇一六年十月八日 「られぐろ」


拷問を受けているような感じで、きょうもカヴァンを読む。

郵便受けから入っていた封筒を取り、部屋に戻って、袋を開けると、武田 肇さんから、詩集『られぐろ』を送っていただいていた。高名な方で、ぼくが雑誌に書いてた時期に何度もお名前を拝見したことはあったが、その御作品を目にするのは、はじめて。帯に書かれた言葉とまったく異なる印象の本文だった。数多くの短い断章の連なりに見えるのだが、作者は、それらを2つに分けて、長篇詩としているのだ。それも、プロローグとエピローグの2つに。短詩を組詩にして長篇化することは、ぼくもよくする手法であるが、ぼくのような作品の印象ではなくて、まるで、いくつもの短歌的な構成物を物語風に散文化したものを目にするかのような印象だった。これは作者が短歌に造詣が深いことを、ぼくが知っていることからくる先入観かもしれない。しかし、いくつか断章を目にする限り、その印象は間違っていないように思う。カヴァンの『チャンジ・ザ・ネーム』をほっぽいて、先に、武田 肇さんから頂戴したほうを読もう。どの断章も三行で、改行詩のようになっていたり、散文詩のようになっていたりと、読みやすい。ひとつ、ふたつ、採り上げてみよう。みっつよっつになったりして。


森の。 雪で遊ぶ人人
めいめいに内心を抱えながら、花めきながら、
じつはただ一人が居るだけなのだが。

(武田 肇 られぐろ・エピローグ「森の。 雪で遊ぶ人人」)


この世のすべての顔━━良いかほも悪いかほも━━を足すと
おびんずるさまになるのかもしれない
この世のすべての土地━━良い土地も悪い土地も━━足すと

(武田 肇 られぐろ・エピローグ『この世のすべての顔」旧漢字をいまの漢字に改めまて引用した。)


午前九時十五分 短針が僅かに上昇をはじめる
こんなときだ
ぼくから他のぼくがぞろぞろ遊離してゆくのは。

(武田 肇 られぐろ・エピローグ「午前九時十五分」)


なぜギリシアが在り日本が在るのだろう 異なる偶然な二つの地形が
アブ ダビでしぜんに泛んだ二つの微笑みが
なぜアフリカが在りローマが在るのだろう 異なる偶然な二つの暗黒が

(武田 肇 られぐろ・エピローグ「なぜ義理合会が在り日本が」)


とてもシンプルな表紙なのだが、魅力的だ。画像に撮ってみた。私家版だそうだ。貴重な1冊をいただいた。
https://pic.twitter.com/TaT5WRaIDK

ありゃ。武田 肇さんの詩集『られぐろ』に収録されている断章、すべて3行の、改行詩だった。ストーリーを追って読んだものが、ぼくに散文詩のような印象を与えたのだろう。すべて改行詩の3行詩だった。カヴァンよりはるかに読みやすいし、興味深い詩句が見られる。ひゃっ。いま裏表紙みて、びっくりした。200部限定の私家版だった。送り先に、ぼくのような者を入れてくださったことに、改めて深い感謝の念が生じた。とても貴重な1冊。いまも、武田 肇さんの詩集『られぐろ』を読んでいて思ったのだけれど、詩のほうが読みやすいのに、なぜ世間では、小説ばかりが読まれるんだろう。T・S・エリオットとか、エズラ・パウンドとか、ウォレス・スティヴンズとか、笑い転げて読んじゃうんだけど。ぼくが翻訳したLGBTIQの詩人たちの英詩のなかにも、笑い転げるようなものもあったと思うんだけど。日本の詩人では、モダニズム時代の詩人のものなんか読んだら、もう小説どころじゃなくなると思うんだけど、日本の国語教育はモダニズム系の詩人を除外している。そいえば、ゲーテの『ファウスト』も読まれていないらしい。あんなにおもしろい詩なのに。どんなにおもしろいかは、ぼくは、『The Wasteless Land.』でパスティーシュを書いてるくらいだけど、『ファウスト』にも、ぼくは大いに笑わせられた。


二〇一六年十月九日 「頭のよいひとは説明を求めない。」


頭のよいひとは説明を求めない。自分で考えるからだ。発言者の頭のなかで、なにがどうなっているのかを。

文学極道の詩投稿掲示板のコメントを見て、いちばんびっくりするのは、作者に説明を求めることである。

毎日のように、amazon で自分の詩集の売れ行きチェックをしているのだが、『詩の日めくり』第一巻が、きょうか、きのう、1冊売れたみたいだ。うれしい。

https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788621/ref=la_B004LA45K6_1_5?s=books&ie=UTF8&qid=1475919453&sr=1-5

11月に、ハヤカワから、バリントン・J・ベイリーの短篇集が出るらしい。買いたくなるような本を出さないでほしい。未読の本が、ぼくが死ぬまで待ってるんだから。

マーク・ボラン、永遠に若くてかっこいいままなんて、なんだか卑怯だ。

11月に書肆ブンから出る、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』の表紙は、35歳のときのぼくの写真だ。そのくらいのときに死んでいたら、ぼくの半分以上の詩集はなかったことになる。それは、それで、よかったのかもしれないけれど。

https://www.amazon.co.jp/dp/4990788664/ref=cm_sw_r_apa_Lca6xbAV5FXB8

アンナ・カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』を読み終わった。英国女性作家のえげつない作品を読んだ。自己愛しか持たない女性が主人公なのだけれど、他の登場人物も、それなりに自己愛の塊で、まあ、それが人間なのだろうけれど、言葉で表現されると、本当に、人間というものがえげつないと思われる。読むのが苦痛に近いけれど、これから、アンナ・カヴァンの『鷲の巣』を読む。飽きたら、すぐにやめるけれど。いまなら、少しは読めるような気がする。


二〇一六年十月十日 「奇蹟という名の蜜」


加藤思何理(かとうしかり)さんという方から、『奇蹟という名の蜜』(土曜美術社)という詩集を送っていただいていた。奇想・奇譚の部類の詩篇が並んでいる。グロテスクなものも多く、作者の好みが、ぼくの好みと一致している。部分引用がきわめて難しい緻密な構成をしている詩篇が多い。一部だけ引用してみよう。


さらに歩けば、奇妙な名称の部屋が視野に現われはじめる。
たとえば、受難室。
逃避室。
遡行室。
転調室。
反復室。
分岐室。
寓意室。
逆説室。
あるいは蛹化室。

(加藤思何理「赤いスパナの謎」)


一度読んだら忘れられないような悪夢のような描写の連続である。詩集の表紙はポップなのだけれど。
https://pic.twitter.com/9jxrhdMero

もう30年ほどもむかしの話。20才を出てたかな、仕事で右手の親指をなくした男の子が言った言葉がずっと耳に残っている。人生って、不思議だね。何気ない一言なのに。「友だちのために何かできるなんて、そんなにうれしいことはないと思う。」忘れられない一言だった。

カヴァンの『鷲の巣』のつづきを読んで寝よう。暗くて、会話がほとんどなくて、字が詰まっている紙面で、ほんとうに読みにくい。しかし、ほんものの作家だけが持っている描写力はひしひしと感じられる。でなければ、読まないけれど。


二〇一六年十月十一日 「ぽっくり死ぬ方法」


きょうは、一行もカヴァンを読んでいない。これからクスリのんで横になって、ちょっとは読もう。カヴァンを読んでいると、P・D・ジェイムズを思い出す。読むのに難渋したけど、さいごのほうで、すべてが結びつく快感というのか、そう、快感だな。そこに至るまでが、かなりきついんだけどね。まあね。

このあいだ、「ぽっくり死ぬ方法」っていうので検索したら、「健康で長生きしたらぽっくり死にます」って書いてあって、ぼくはそういう答えを期待したわけじゃないけど、へんに納得してしまった。

いま塾から帰った。塾の空き時間に、アンナ・カヴァンの『鷲の巣』のつづきを読んでいた。だいたい半分くらいのところだ。それにしても読みにくい。P・D・ジェイムズも相当に読みにくい作家だったけれど、ヴァージニア・ウルフを入れて、「読みにくいイギリス女性作家三人組」と名付けることにした。

アンナ・カヴァンの『鷲の巣』を読み終わった。カフカを読んでいるような感じだった。『チェンジ・ザ・ネーム』のほうが、独自性に富んでいたように思う。誤字・脱字はなかった。


二〇一六年十月十二日 「ぼくはひとりで帰った」


楽天のフリマで
高い本って
どんなのがあるのかしらと思って
さがしていたら
10万円のがあったのよ
マニアスイゼンノマトね
って思った
そのときふとした疑問がわきおこった
日本語って難しい
スイゼンってどう書くのかしら
スイはわかる
垂れるって漢字
でもゼンはわからない
辞書で見てみたら

よだれとも読むのね
そういえば
あったわ
バナナの涎
そうよ
バナナよ
バナナ
バナナなのよねー
バナナの涎なのよ
口から垂れたわ
バナナの涎が
バナナ味の涎なのよ
子供のころ

歯を磨いてるときに
口から垂れたのよ
バナナ味の練り歯磨きの涎が
自分の傷口に溺れて
アップアップ
電話のシャワーを浴びて
シャワーを電話に向ける
新しい電話だと思ってたら
昔の電話だった
電話から離れる
フンフン
それでも返事だけはあって
離れられない
ススメ学問
福澤アナ
きょうカキツバタを太田神社に行って
見てきた
なんてことはなかった
帰りに
アイスコーヒーを飲んだ
ネットカフェに寄ると
犬をつれた婦人が
そばを通った
よく見ると
どの席にも
犬がたたずんでいた
ぼくはひとりで帰った


二〇一六年十月十三日 「きょう、母さん、死んだのよ」


帰ってすぐに
実母から電話があった
「きょう
 母さん
 死んだのよ」
「えっ」
「きょう
 母さん
 車にぶつかって死んでしまったのよ」
気の狂った母親の言葉を耳にしながら
お茶をゴクリ
「また何度でも死にますよ」
「そうよね」
「またきっと車にぶつかりますよ」
「そうかしらね」
母親の沈黙が一分ほどつづいたので
受話器を置きました
母親も病気なのですが
ぼくよりもずっと性質が悪くて
悪意のない悪意に満ちていて
ぼくのこころを曇らせます
まあ
こんな話はどうでもよくて
郵便受けのなかには
手紙もあって
文面に
「雨なので……」
とあって
からっと晴れた
きょう一日のなかで
雨の日の
遠い記憶をいくつか
頭のなかで並べたりして
読書をさぼってしまいました

キリンはりんごで
グレープはあしかだった


二〇一六年十月十四日 「ボブ・ディラン」


いま日知庵から帰った。日知庵で、ノーベル文学賞をボブ・ディランが受賞したこと知って、めっちゃうれしかった。Fくんといっしょに祝したんだけど、Fくんといっしょに飲んでることくらいに、うれしかった。ぼくの大好きなFくんですから。いや〜、ディラン、Fくん、大好き。明日から景色が変わる。

いま、じぶんのブログのアクセス数を見たんだけど、楽天ブログのきのうの13日のアクセス数が147もあって、これまでの最高記録だったので、びっくり。だれか、ぼくのこと、どこかで書いてくれてたのかもね。かもね〜。

ジーン・ウルフ『ナイト』I 脱字 79ページ15行目「(…)わたしよりも高いぐらいで、しかも せていました」 これは「や」が抜けているのだなと思う。

ジーン・ウルフにしては、つまらない。全4巻買っちゃったので、読むと思うけど、ああ、寝るまえの読書は違うものにしよう。ひさしぶりに、アンソロジー『恐怖の愉しみ』のつづきを読もうかな。


二〇一六年十月十五日 「右肘の激痛」


きょうは、右肘の関節の痛みで夜中の2時過ぎに目がさめてから寝ていないので、ちょっと昼寝をしようと思う。


二〇一六年十月十六日 「キッス」


青年が老女にキッスした。老女は若い美しい女性へと変身した。青年は老人になっていた。彼女が老人にキッスした。すると老人は若い美しい青年と変身した。彼女は老女に戻った。二人がキッスを繰り返すたびに、このことが繰り返された。

あした、大谷良太くんちに行って、詩集『みんな、きみのことが好きだった。』(書肆ブン・2016年12月刊行予定)のさいごのチェックをする。きょうは、なにも読みもしなかったし、書きもしなかった。でも、体調がよくないので、このままはやめに寝る。


二〇一六年十月十七日 「きょうは、鳩がよく死ぬ日だった。」


きょうは、鳩がよく死ぬ日だったのかもしれない。大谷良太くんと向島駅で待ち合わせて、良太くんちに行く途中、道の上で鳩の死骸があって、また、いま、きみやの帰りに、セブイレに寄ったんだけど、帰り道で、鳩の死骸が落ちてるのを見たんだけど、一日のうちに鳩の死骸を2回も見るのは、はじめて。

きみやに寄る前にジュンク堂で詩集のコーナーで、いろいろ詩集を手にして読んでたんだけど、ああ、そうだ、ハル・クレメントの『20億の針』を買おうかなと思って4階に行ったら、『一千億の針』しかなくって、ああ、売れてんだなと思って帰ったら、amazon で買おうと思ったのだけれど、帰りに西院の「あおい書店」に寄ったら、『20億の針』もあったので、『一千億の針』といっしょに買った。さいきん読んでる本がおそろしくつまんないのだけれど、1カ月か2か月前に書店でチラ読みした『20億の針』の冒頭がめちゃくちゃおもしろいことを思い出して買ったのだった。さて、買ったものの、読んだつづきも、おもしろいだろうか。ふううむ。ひゃ〜、いまページをめくったら、『20億の針』の原作の出版が、1950年だって。SFがいちばんおもしろかったころだね。そりゃ、おもしろいはず。創元も復刊するはずだわ。

きょうは、大谷良太くんちで、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』の最終校正をしたのだけれど、振り返ると、ぼくは、しじゅう、自分の詩に手を入れてるので、「反射光」だけでも、詩集でバリエーションが4種類ある。最終的に収録した詩集のものが決定版になるのだと思うのだけれど、いまのところ、ことしの12月に書肆ブンから出る、『みんな、きみのことが好きだった。』に収録した詩が決定版になると思う。もう、「反射光」には、手を入れるつもりはないし、ほかの詩も、『みんな、きみのことが好きだった。』に収録した分については、これ以上、手を入れるつもりはない。きょうは、ハル・クレメントの『20億の針』のつづきを読みながら寝よう。そだ。CDが1枚、届いた。韓国のきれいなお嬢さんのCDだ。韓国語が読めないから、名前が出てこないけれど、このあいだ、ツイートしたアーティストのものだ。いまかけたのだけれど、言葉はわからないけれど、雰囲気はすごくよい。ポスターがついてたけれど、容姿には興味がないので、ポスターは捨てるけど、曲の雰囲気は、いま2曲目にうつったところだけど、いい。ジャジーで、だるい感じだ。

こんな曲を歌ってらっしゃる方だ。

https://www.youtube.com/watch?v=XrPxksvrB2g&feature=share

というか、創元、バラードの『ハイーライズ』も復刊してたし。ハヤカワのラインアップは10月までに関してはぜんぜんいいのがなかったけれど、この秋は創元のほうがいいね。11月にハヤカワがバリントン・J・ベイリーの短篇集を出すというので、それだけが救いかな。

ちなみに、きょう、大谷良太くんちで、最終校正した、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』です。表紙は、35歳のときのぼくです。20年まえの写真です。

https://www.amazon.co.jp/dp/4990788664/ref=cm_sw_r_apa_Lca6xbAV5FXB8

ひゃ〜。いま創元のHPを見たら、アン・レッキーの三部作の完結篇・第三部『星群艦隊』が10月28日に出るっていうじゃないか。創元、すごい。第一部でぶっ飛び、第二部で堪能したラドキ戦記(だったかな?)。第三部がどうなるのか、たいへん、ひじょうに楽しみ。いまネットで調べたら、「ラドチ」だった。本棚の本で調べるよりも、ネットでさぐるってのが、めんどくさがりやのぼくらしい。そうだ。「ラドチ」だった。どうして、「ラドキ」って思ったのだろう。

そだ。韓国から届いたCD、ポスターだけじゃなくて、キャンディーも2個はいってて、サービス満点だった。


二〇一六年十月十八日 「20億の針」


ハル・クレメントの『20億の針』が、読んでて、すいすい読み進める。そりゃ、創元も再版するわな。新訳でだけど、ちょっと残念なのがカヴァー・デザイン。やっぱり、続篇の『一千億の針』とのダブル・カヴァーでなくっちゃ、よろしくなかったと思うのだけれど、まあ、いいか。


二〇一六年十月十九日 「一千億の針」


『20億の針』5分の4は読み終わった。きょう寝るまでに読み切れないかもしれないけれど、ひじょうにわかりやすいし、おもしろいSFだ。やっぱり読むものは、おもしくなくちゃね。

『20億の針』読み終わった。犯人は、3分の2くらい読んだときに、この人物かなっと思った人物だった。犯人というか、宿主は。これから続篇の『一千億の針』の解説を読んで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月二十日 「久しぶりに、吉田くんと話をしようとして冷凍室に行った」


吉田くんと話をしようとして冷凍室に行った
吉田くんとは一週間前ほど前に話をしたのだけれど
話の途中で少し待ってもらうことにしたのだ
むかしは電話というものがあって
すこしの間の沈黙が不快な感じを与えたものであるが
冷凍庫が普及するにつれて
みな沈黙する間
そこに自分が入るか
相手に入ってもらうかして
沈黙にお時間をやりすごすことにして
コミュニケーションが以前より円滑に行くようになったのである
冷凍庫から出てすぐには
頭がはたらかないので
コーヒーを二杯飲んでから話をすることにしている
吉田くんの前にコーヒーを置いて
完全解凍するのを待った
三時間ほどして
吉田くんの意識がはっきりしてから
ぼくたちは一週間前に中断していた話の続きをはじめた
アフガニスタンの青年のペニスは
ユリのめしべにそっくりだった
トイレで爆発
ホモフォビアの連中の仕業
スカンクのからだを
けりつづける
骨が砕けて
水枕のようにやわらかくなった
スカンク
ヤンキー風の青年は
といっても二十歳にはまだなっていない
少年は
はじめてのセックスは犬とだった
まじめな顔をして言う青年に唖然とする
ドラッグブルーとドラッグレッドのために
キッズがドクターを襲う
トイレに凍結地雷を仕掛けるホモフォビアの青年
「どうでもいいじゃないか
あいつらのことなんて
なんで
おれがこんなことをしなきゃやならないんだ
それに
いくらゲイだからといって
こんなものを仕掛けられなければならないってことはないだろうし
ああ……」
その青年の意識から叙述する
犬人間に小便を引っ掛けるキッズたち
ゴーストの意識から叙述する
ゴーストには違って見える
一枚一枚の葉っぱが人間の目に
藪のなかの暗闇が無数の人間の唇に
テロ
トイレで爆発
すぐにニュースが流れる
ハンカチが新聞になる
新聞が語る
そうだ
凍結地雷が
トイレのなかに仕掛けられていた
凍りついた人間犬
犬のように四つんばいになっている奴隷人間
その奴隷人間にしがみついている主人
奴隷人間の首からぶら下がったプラカード
「こいつは犬です
犬野郎です
虐げてやってください
辱めてやってください
小便を飲ませてやってください」
能の舞をする貴族
真剣の刀を振り回す九条家の御曹司
ホモフォビアのテロ攻撃
ドクター
ちんぴらキッズ
テロの爆発のすぐあとに
対話型ニュースペーパーで
犬奴隷が凍結地雷で
凍りついた姿で
トイレの前にいるのを知る
凍りついた犬奴隷に
小便をかけるキッズたち
小便のぬくもりで凍りついた犬奴隷が
じょじょに解凍されていく
ニュースペーパーで
その画像をみる青年


二〇一六年十月二十一日 「きょうは一日じゅう」


疲れがたまっていたのか、きょうはずっと寝ていた。まだ眠い。


二〇一六年十月二十二日 「筋肉の硬化」


ネットで調べてたら、筋肉の硬化は45才くらいからはじまるらしい。関節も動かさないでいると、動かなくなるらしい。やっぱり運動しなくてはいけないみたいだ。運動をまったくしないで生きてきたので、ここ1年ばかり、関節や筋肉が痛いのだな。

「苦痛こそ神である」という詩句を書いたことがあるけど、いまこうむっている関節と筋肉の痛みは半端なくて、睡眠薬をのんでいても、苦痛で夜中に目がさめるのだけれど、これが生きているということかもしれないとも思った。

でもまあ、いいか。身体はきつくなってきたけれど、この年齢でしか書けなかったものもあるのだし、と考えると、若くて亡くなった友人たちのことが頭に思い浮かぶ。彼らはみな、15歳のまま、二十歳すぎのまま、永遠に若くて、うつくしい。

とにかく、毎日、生きていくのがやっとという状態で生きているけれど、神さまも、そう残酷ではいらっしゃらないだろうから、そんなに長く、ぼくを苦痛の下に置いておかれることはないと思うのだけれど、わからない。

FBで、笑ける動画があったのでシェアした。5回連続再生して、5回とも声を出して笑ってしまった。まだ笑える自分がいることを、ひさしぶりに知った。ここ最近、笑った記憶がなかった。

ユーミンのアルバムを3つ買った。1枚も持っていなかったのだ。LP時代に持ってた2枚と3枚組のベスト。2枚のアルバムは、「時のないホテル」と「REINCARNATION」。ちょっと感傷的になってるのかなあ。さっき、「守ってあげたい」をチューブで聴いて、フトシくんのこと思い出したし。

チューリップのアルバムも買った。タイトルは、「Someday Somewhere」。LP時代には2枚組だったけど、CDじゃ、どうなんだろ。あ、2枚組だ。

クスリのんで寝よう。ついつい、懐かしくって、LP時代に持ってたものを買ってしまった。ユーミンの3枚組ベストは別だけど。ちょうど10000円くらいの買い物だったんじゃないかな。さいきん、本代にお金をあまり使ってないから、いいか。

あ、10000円超えてた。粗い計算してるなあ。それでも、まあ、55年、生きてきたのだし。あと数か月で、56才になるんだし。部屋にあるもの、好きなものばっかしだし。本に、CDに、DVDに、怪獣のソフビ人形に、って、これだけか。単純な人生だわ。いつ死んでもよい。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月二十三日 「全行引用詩」


言葉とは何か、自我とは何か、という命題をもっとも簡潔に表現できる対象として、哲学があげられるが、ぼくには、哲学は、新プラトン主義で目いっぱいなので、詩を通して考えることにしているのだが、ぼくの方法がしばしば拒絶的な反応を引き起こすことが、ぼくには不思議で仕方ないのだが、どうだろ。引用だけで作品をつくって、30年くらいになるのだが、いまだに批判されているのだが、ぼくには批判されている理由がまったくわからない。著作権法に関して引用の項目をクリアできるように、引用元を逐一、本文に掲載しているにもかかわらずである。ひとりの作者からの引用は違法性が高いので、なるべくたくさんの作者からの引用で構成しているのだが。まあ、ぼくのつくる「全行引用詩」が、容易につくれると思って批判している様子も見受けられるが、つくるのが容易でないのは、つくってみれば明らかなのだが、しかし、もしも容易ならば、ぼくは容易に作品がつくれるような方法を提示したことになる。ぼくのつくったものに、個々のピースに関連性がないものがあると指摘する者がいたが、必ず詩句には関連性がなければならないと主張することは、ぼくには意味がないと思われるのだが、そんな基本的な事柄においてでさえ、見解が異なるのだが、ぼくは、ぼくの信念によって、作品をつくりつづけるしかないと思っているのだが、あまりにも批判的な見解が多いので、ほんとうにびっくりしている。引用において個性が発現するという見解さえ持ち合わせていない御仁もいらっしゃるのだ。関連性のないように思われるものを、関連性のあるもののあいだに置くと、言葉がどのような影響を受けるのかとかいった実験もかねているのだが、ぼくの「全行引用詩」における実験性にはまったく言及がないというのが現状である。30年近く、「全行引用詩」を書いているのだが、ぼくが生きているあいだに、ぼくの「全行引用詩」は、ごく少数の方たちからしか理解されないのかもしれない。まあ、それでもいいのだけれど。ぼくの人生は、ぼくが歩んでいくもので、その途中でへんな邪魔さえされなければいいかなと思っている。

きのうのうちに、『詩の日めくり』の第二巻が1冊売れてたみたいだ。うれしい。

https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/499078863X/ref=la_B004LA45K6_1_8?s=books&ie=UTF8&qid=1477214789&sr=1-8

ハル・クレメントの『一千億の針』 予想ができない展開で、いまちょうど半分くらいのページまで読めた。きょうは、寝るまでつづきを読もう。

いま思い出したのだが、文学極道の詩投稿掲示板で、ぼくの「全行引用詩」について、とてもおもしろくて、有益な見解を示してくださったゼッケンさんという方がいらっしゃった。また、ネットのなかで、ぼくの「全行引用詩」のおもしろい解析をされた、こひもともひこさんがいらっしゃった。また、澤あづささんは、ぼくの「全行引用詩」を評価してくださって、『全行引用詩・五部作』上下巻の序詩をネット上で紹介してくださった。あまつさえ、澤あづささんは、すずらんさんとともに、文学極道の詩投稿掲示板で、ぼくの「全行引用詩」を擁護してくださった。すずらんさんは、また、ぼくの「全行引用詩・五部作」をご自身のブログに転載くださったのだった。ありがたいことだと思う。ついつい、ひとり孤立しているかのように錯覚してしまっていた。批判ばかり目にしてしまって、冷静さを失っていたようだ。

ひさびさに、 VERY BAD POETRY と The World's WORST POETRY のページをめくった。日本には、こういった類の詩のアンソロジーがないのだね。あったら、ぼくなら、すぐ買っちゃうけどな。こういうものがないっていうのは、日本の国民の気質によるのかな。ユーモアという部分だけど、たとえば、紫 式部の持っていたユーモアって、ちょっと、ぼくの抱いているユーモアより皮肉に近い感じだしね。ああ、もうこんな時間だ。クスリのんで寝ます。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月二十四日 「騙る」


ジーン・ウルフ 『ナイト I』 脱字 179ページ終わりから3行目「騎士の名を る連中が」  「名乗」が抜けている。それに加えて、この部分の「を」の文字の上に「1」という数字が重なっている。いったい、どういう校正家をやとっているのだろう、国書刊行会。この本、これで2か所の脱字だ。

国書さんからメッセージがあって、正誤表を見せていただいたら、ぼくが指摘したところ、「名乗」じゃなくて、「騙」だった。たしかに「騙る」しかないな。ぼくの詰めが甘いというか、言葉について、まだまだだなってことだな。ああ、恥ずかしい。詩を書いて約30年。

ユーミンのベスト『日本の恋とユーミンと。』が到着。さっきからかけてるんだけど、3枚目のCDの選曲、ぼくにはよろしくない。しかし、まあ、1枚目と2枚目のCDには、なつかしいものがつまっていてよい。「守ってあげたい」で、フトシくんの記憶がよみがえる。ぼくが23才で、彼が21才だった。フトシくんが、ときどき、ぼくの目を見つめながら、マイクを握って、カラオケで「守ってあげたい」を歌ってくれたのだけれど、フトシくんのことはまだちゃんと書いてなかったから、そのうち書こう。フトシくんはイラストを描くのが趣味だった。やさしい男の子だった。

きょう届いたユーミンのベストに、「瞳を閉じて」が入ってなかったので、amazon で、『MISSLIM』を買った。

あとすこしで、ジーン・ウルフの『ナイト I』を読み終わる。

ユーミンの「海を見ていた午後」を10回連続くらいで聴いている。ひさしぶりに日本語の曲を耳にして、日本語の歌詞に耳を傾けている。

ユーミンの曲の影響だろう。きょうは、しじゅう、フトシくんのことを思い出していた。失ったのではなく、築くことができなかった時間について考えていたのだった。もしも、もしも、もしも、……。やっぱり、ぼくたちは、百億の嘘と千億のもしもからできているような気がする。

現実の生活では、いっさいユーモアのない生き方をしている。書くものは、ユーモアを第一に考えているというのに。矛盾しているのだろうか。


二〇一六年十月二十五日 「フトシくん」


ユーミンの『時のないホテル』と『REINCARNATION』が到着。何十年ぶりに聴くのだろう。『時のないホテル』から聴いている。ああ、こんな曲があったなあと、なつかしく思いながら聴いている。

野菜でできた羊。野菜でできた棺。野菜でできた執事。野菜でできた7時。

ジーン・ウルフ 『ナイト II』 誤字 38ページ 6行目「どんな感じが確かめようと」 これは「が」じゃなくて「か」ですね。脱字だけではなくて、誤字もあったのですね。なんだかなあ。国書刊行会の校正家はぜったいにほかの人に替えてほしいなあと思う。読んでて興ざめる。

2枚のアルバムが届いても、ベストに入ってた「海を見ていた午後」を繰り返し聴いている。この曲が思い起こさせるイメージが、強烈にフトシくんとのことを思い出させるのだ。『ブレードランナー』の映画にでてくるレプリカントのひとりのセリフが木霊していた。「おれの目はあらゆる美しいものをみた」だったかな。フトシくんとは短いあいだしか付き合ってなかったけれど。そうだ。フトシくんとは、その後、一度も会っていないのだけれど、これまでの経験で、10年とか20年とか会っていないと、別人のように変貌してしまっていることが多くて、ぼくは、塾からの帰り道、「そうだ。ぼくの目もたくさんのうつくしい者たちの姿を見てきたけれど、そのうつくしい姿がうつくしくなくなるのまで見てきたのだ。」と思ったのだった。2週間ほどまえ、むかし、かわいいなあと思ってたひとと河原町ですれ違った。いまはもう微塵もかわいらしいとは思えなかった。ぼくの目は表面しか見えないようだ。これまで付き合ってきた男の子たちとは、いちばんうつくしいときに出合って、別れたのだと思う。ぼくの作品は、そのうつくしさを写し取っているだろうか。「高野川」、「夏の思い出」といったものが、それだけど、「どこからも同じくらい遠い場所」や「陽の埋葬」のいくつかも、その類のものだった。そういえば、思潮社オンデマンドから出た『ゲイ・ポエムズ』のさいごに収載した作品にもうつくしい青年が出てくる。ぼくの性格からくるものだろうけれど、自分のほうから相手の名前を聞くことができなかった青年のひとりだった。そういえば、「月に一度くらいやけど、女よりも男のほうがいいと思えるねん。」と言っていた中国人の青年の名前もわからない。

「海を見ていた午後」が入っているオリジナル・アルバムは、あしたくらいに到着するだろう。「うつくしくなくなるのまで見てきた」なんと浅はかで、薄っぺらい目をしているのだろう、ぼくの目は。でも、この目でしか、ぼくには見えないのだから、仕方ないな。

ほんものの詩人って、どんな目をしているのだろう。


二〇一六年十月二十六日 「チューリップは失敗だった。」


これから塾へ。きょうも学校から帰って、到着したユーミンの『MISSLIM』を聴いていた。なかでも、「海を見ていた午後」を何回も聴いていた。どうしても、フトシくんのことが思い出される。

塾から帰ったら郵便受けに、チューリップの『Someday Somewhere』が到着してた。さっそく聴いてる。ああ、こんな曲があったなあと、なつかしく思い出してる。出来のバラバラの楽曲たち。こんなへんてこな2枚組のアルバムだったんだと思ってる。四人囃子の出来とは愕然と異なる。アルバム評価が高い理由がわからない。懐かしくてよい曲はあるのだが、数曲だった。買わなきゃよかった。ついでに買おうと思ったのが間違いか。なんか聴きつづけてて、気持ち悪くなった。いい曲だけ聴くことにするけど、なんか、めっちゃ損した気分。出来は1枚目よりも2枚目のほうがいいと思うけれど、財津和夫の声って、こんな気持ち悪かったっけ、と思うほど。なんだろう。高校生のときはよく聴いてたのに。

四人囃子のもので1枚欲しいと思っていたのがあって、amazon 見たら、森園勝敏のアルバムが2014年に再発売されていたので、3枚買った。1枚900円ほどで、いま2000円を超えたら送料無料になってたので、3枚のアルバムを買っても2700円台だった。これは、ミスなしによいと思う。

いや、チューリップ、ほんとダメだわ。こんなんやったんやって感じ。聴けば聴くほど、財津和夫の声が気持ち悪い。だからか、ほかのボーカリストの曲がいいと思うのか、財津和夫じゃないボーカルの曲を選んで聴いている。例外は、1曲だけ。「8億光年の彼方へ」 これは許せる。これとタイトル曲くらいかな。「哀別の日」のようないい曲が、あと何曲かあればいいのに。「まだ闇の内」は好きな曲だった。チューリップは期待し過ぎだったのだなあと思う。いま、四人囃子の『ゴールデン・ピクニックス』を聴いてる。あ〜あ、なにしてるんだろう。まあ、いいか。そろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月二十七日 「脱字」


ジーン・ウルフ 『ナイト II』 脱字 317ページ 最終行 「あたかくてやわらかい」 「た」が抜けている。「あたたかくてやわらかい」だろう。


二〇一六年十月二十八日 「インスピレーションの枯渇」


いま日知庵から帰ってきた。竹上さんに、さいきん、ぼく、インスピレーションがわかなくって悩んでるの、と言うと、「映画でも見ましょう」ということで、11月3日にいっしょに映画を見ることになった。女性とふたりで映画を見るのは、ぼくの人生ではじめてのことなので、自分でもびっくりしている。

あしたはCD聴きまくって、ジーン・ウルフを読もう。『ナイト II』あともうちょっとで終わり。だんだんおもしろく、というか、かなしみのまじった、おもしろさに突入。時間の操り方が超絶なのだな、ジーン・ウルフは。ぼくも見習おう。

竹上さんを見習って、ぼくも小説を書こう。という話を、日知庵でしていた。というか、ぼくは、もともと、小説家になりたくて、家を出たのだった。小説はけっきょく、2作書くのに数年かかってしまったので、見切りをつけて、詩に移行したのだった。そのへんの事情は、「陽の埋葬」に書いているのだが。書いた小説のうち、SFは、『負の光輪』というタイトルで、ネットで検索してくだされば出てくると思うけれど、もう1作の自伝的な小説は一時期公開していたのだけれど、いまは読めないようにしてもらっている。『マインド・コンドーム』というタイトルのものだけれど。


二〇一六年十月二十九日 「森園勝敏」


森園勝敏のアルバム3枚到着。『JUST NOW & THEN』から聴いている。『クール・アレイ』、『スピリッツ』の順番に聴こうかな。逆でもいいけど。ここさいきん買ってる20枚くらいのアルバムのなかで、いちばんゴキゲンなナンバーばっかし。ベストアルバムに近いアルバムで、新曲は2曲だけなのだが、ほかの曲はリテイクらしい。ぼくに確実にわかるのは「レディ・バイオレット」だけだったけれど。聴き込めば、もっと違いがわかるかもしれない。

いま日知庵から帰った。はまちゃんに、ぜんぶ、ごちそうになった。ありがとうね。はまちゃん。いつか、ぼくが、お金持ちになったら、おごり返すからね。あっ、ぼくが、お金持ちになることはないか。でも、そういう気持ちはあるからね。はまちゃん。おやすみ、グッジョブ!

毎日、自分の詩集の売り上げチェックしてるんだけど、きょう、『詩の日めくり』第3巻が1冊、売れたようだ。うれしい。

https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788648/ref=la_B004LA45K6_1_8?s=books&ie=UTF8&qid=1477758192&sr=1-8


二〇一六年十月三十日 「竹田先生」


きょう日知庵で、竹田先生に、「直販で買いますから、詩集を持ってきてください。」と言われた。書店流通じゃない詩集ね。書店で出たのはぜんぶ買ってくださってるから。これから、日知庵に行くときは、さいきん出た詩集を持って行かなくてはならない。10冊くらいあるんですけど〜。ことしだけで7冊出している。


二〇一六年十月三十一日 「誤字」


今月が31日まであることに、いま気がついた。おやすみ、グッジョブ!

ジーン・ウルフ 『ウィザード II』 誤字 238ページ 3行目 「見あげた心がけた。」 ここは、「心がけだ。」のはず。 このあいだ、国書さんから正誤表が郵送されてたけれど、まだまだありそうだな。 ほんと、国書の校正家は替えてほしい。安くない本なのだから。しかも4巻もの。


生活

  生活

台所は
ぬかるみで
まるで夫婦が泥遊びをするかのような
生活

お風呂場は
雪原
雪を皿に盛る
仕草は
祈りに似ている
死に行くことは怠惰で
その言葉は


長く手を伸ばした
短くなった
背を支えるために

地獄に
新しい名前を与える
幸せになれと
窓辺は生活に
吹き荒れる
嵐のような花
話し言葉だけを辿る
辿る

井戸の中に
他人と言う
身体があり
深く沈んでいる
見上げている瞳だけが
長く伸び
地表を伺う
坂を上がる
この坂の上には
幽霊と
名付けられた
生活がある

私の身体は
幽霊を見るようになった
だけど私には見えない


west coast

  どしゃぶり

早くあのこに追いつきたくて
よそ行きのぼくに/を打つ
きゅうりのピクルスを刻むように、こまかくこまかく
おいしいサンドイッチができたら
コーヒーをクロスプロセスに加工して
いつもの味

早くあのこに追いつきたくて
だれかれ構わず寝る子のように#を打って
「なんか面白いことしましょう」と言ってみる
「一人ひとりテーマを持つ。そして世界は少しずつ、素敵になるの」
と、あのこは言うけど、
ぼくには生きている実感しかなくて、生かされている気がしないんだ

いろいろあって、ぼくはここから動けません

今頃あのこは夜明けのビーチで
いま、ここ、わたし、に向き合いながら
林檎を相手に自慰行為をするのだろうか
そのあと
赤ら顔のおじさんが大量に流されて木星の大赤班のようになった地点をgoogle earthでチェックしている姿は
何となくだが想像がつく

あのこは自由に恋をするより、たたかうほうがすきかもしれない、本当は
すべての武器を楽器に(註)変えたら
そいつであのこと殴りあおう
これでぼくらは
やっとおあいこ


註)喜納昌吉『すべての武器を楽器に』(冒険社 1997)


薔薇の花

  ねむのき


清潔な剃刀の刃を
止まない雨にあてると
雨は血になり
薔薇の花びらはさらに赤く
ひろがっていく

5月は
永遠に5月のまま
ソファのうえで溶ける檸檬の
匂いがした、無音の
テーブルに置かれた新聞にはいつも
なにも書かれていない

あるいは
五線譜のような電線
そのすきまを街並みが
海へむかって移動していく
動かない電車の
窓を、いつまでも眺めていた

ぼくの手は少しだけ腫れていて
つぎの駅を降りたとき
口のなかは血の味がしていた
雨の線
その両端を
そっと折りたたむように
赤い傘をひらいた
いま、
白い服のうえに
さらに白い上着をかさねている


廴の彩_zero

  すずらん

「光がZero に等しい、」と、兎。銀いろの耳をふりふり、「赤い時 計から 今,
迫りでた カオ ス、わたしが 七カマドの耀に くべる としよう。」

 11月の、森の陽はちろちろ燃えイノチが一途に発色しています。

「まぎれもない 辛抱が コップリ,コップリ 貯 えられ、」と、栗鼠。飴いろの頬づえ
をつき、「まがいものなく命 の 水になるから、まちぼうけの赤い時 計から 昔,
毀れた コスモ ス、まちどうしくて逆もてぎに 七輪,挿して いったよ。」

 勝手の、土つき男爵たちは、押し合いへし合い泥仕合いしています。
 どうやら垢ぬけ、コンロのうえでおしゃべりを始めたようです。

「秋の、縫い目には」
「 だれもが、」
「 摂理のスリープ,ストレイシープって いってた。」
「紅い実 は眠らず、」
「あぁ、」
「私はちっとも 眠れない。」
「空は、」
「砂糖菓子が哀しくなって揮発した」
「Indigo」
「ブルー,ブルー,ブルー。」
「片時も!」
「忘れてなかった、私の 靴。」

 ぐつぐつ ξもおイモも想いも、ごった煮込んでいます。

  あい色の、秋の夜長…

 ちいさな泉のそば、トチの大木はみんなの暖かなお家です。
 黄いろい大きな葉は、虫たちの暮らしの夢床です。

「古今東西,なにせ医学書にもないこと、この命の 水を、ホーホー捧たる筆に縒り
合わせて秘鑰にし、だれにもホーホー分かる様 つづる としよう。」とは、梟の、
金いろの胸づもり。

 頃合いも煮えて、宵あんばいです。
 宴卓は、ナベとなべてサラの白い花がさいています。

  いま、耳をくすぐった・・

 あの扉のベルは、風のいつもの挨拶でしょうか。 


5/2

  シロ

どこか
骨の
奥底に
黙って居座る
黒い眠りのような
小雨の朝

歯ぎしりする歯が
もうないのです
そう伝えたいけれど
そこには誰もいなく
部屋の中には
少年のまま
老いた私がひとり

狂った季節に
体節をもがれ
丸い目を見開いた生き物
だったら
蛞蝓のように這わせてください
湿気た空間を好み
枯れた木の液を舐めこそぎ
脳は
どこかに忘れました
とつぶやきたい


寺院

  zero

時間が感覚している
巨大なてのひらが極めて薄くなり
眼を開く刻限を探っている
仏は舞い散っては脱皮して
柱を支える土壌に滲み込んでいく
空間が覚醒している
門の内と外は色濃く混じり合って
木立の霊は影を歌い続ける
参道は禍の産道であり
迫りくる重量を濾過してゆく
生と死が対等に煮え立つ境内で
すべてが聖別された痕を光が抉る
色彩が驚嘆している
紅葉が輪廻するその刹那まで
存在の疑いを苦しみ続ける


植樹

  zero

木を植える
まだ草のような
苗木を植える
時計の針をセットするように
一日を新しく始めるように
この一点に集中する
冷気は言葉を生み出していく
終わりのない長い文章を
だが木は記述されるものではなく
みずからが記述となるもの
木は観察されるものではなく
みずからが観察となるもの
青空から青がしたたり落ちる
そのしずくを垂直に貫きながら
木の視界は
空の半球を完全に収めている


十センチの空、オモチャの川

  山田太郎

         

            

     路 オ み
     上 レ ろ
     の ン  
     陽 ジ
     だ 色
     ま の 
     り 銀 
     に の
     落 束 
     ち が 
     て 
     い 
     る
  

calamus (葦)を鳴らせ /
     ィ
   シ ラ         ソ
 ラ♪  ♪ソ       ラ  ラ  
ソ♪        ラ  シ ♪   ア♪
♪       ソ ♪  ♪         
わが歩行は\    凱旋であり\    チャルメラである
      背景への      我が足は

ぼくは行こう 秋の朝のような眼で
光のとどくかぎり
無遠のパースペェクティブを
どこまでいっても縮まらない道を
         
足より先に 肩を押し出して
なにもかも溢れるように 空っぽになるように

皇帝のように
盗賊のように
ならず者のように  

すべてを愉悦にすり換えるコツさえつかめれば
贋金作りの、抜け穴さえ見つかれば

石碑が聳えるオフイスに 
わが馬が疾駆するスペースはない 
マントは 窓ガラスを砕き 
交差の群衆を石にして 草原を翔ぶ

逆立ちしてみろ
足下の空の広さに驚くぞ
クトウテンとしての、、鳩が、五線譜を横断させている逆さまの空
わ、水を 濾す臓器だ
なんて きれいなんだ
         アタ            
すべてに かたちを中へ、
消しゴムのように、消していく 風。

  まもなく嵐がやってくる

ボウコウ
暴荒の海よ 十センチの空よ
ここまでくれば もう 人間がいちばん醜い(ワタシガイチバンミニクイ

斎場の煙突より
      直
      角
      に
      折
      れ
      て白煙は真横になびき
              足
             は
            y
           軸
          の
         ソ
        ラ
       へ
      と
     向
    か
   う

海 ◯ はあったか?
陽___は陰ったか?

緑青の屍体を横たえて 眠る
人形であった 過去
の魚よ
ああ、こんなにも色彩が豊かであることが
果たして シアワセといえようか


仇   一 根   と ん   女 は 浜
名 死 生 足 一 り に 場 に や 松
を ん 女 を 編 い 肘 末 モ く 町  
  だ と 求 の た 鉄 の テ 消 の  
ひ 廃 口 め 詩   を   な 耗 外  
き 人 が て よ   食 下 い し れ  
蛙 が き い り   ら 町   て に
の い け た も   っ の 貧 し あ
ラ た な 詩     た   乏 ま る
ン   い 人 品     大 な い 廃
ボ   で が の   さ 衆   た 港
ウ     ひ な   え 食 ブ い の
と   焼 と い   な 堂 男 と 都
い   酎 り 田   い の が 願 営
っ   に い 舎   流 お い っ ア
た   お た 女   れ ね た て パ
    ぼ   の   者 え   い |
    れ       が ち   た ト
    て   大   ひ ゃ     に


 ______ふり返ってごらん
3°の方角に まったく違った風景がみえるだろう
ひと跨ぎできるオモチャの川にそって 


  おでん


ぼくは
雑踏の中に
不安を抱きました
雑踏の中からゆっくりと
せり上がってくる 何か
透明な 頭



青空は 涼しげに
ボールの影を 遥か彼方の
小さな町に 投げています


ふいに
コンクリートの壁に
足を止め
氷のボールを
触るように
顔と肩が
ひりついています


あの日
お父さんは
青空に 倒れ落ちました


来る日も来る日も
ぼくは
雑踏の中で
何かを気にしながら
生きています


パウル・ツェラン頌・或は罌粟と無花果

  鷹枕可

I,右手の為の、


黄昏を飲む
ミルクを飲む
黎明を飲む
すなわち瞭然の轍が刻む
ゲットー 傷痍の包帯
ゲットー 腐敗した彼等
ゲットー ポーランドの陰鬱と激情と暴風雪に満ちたマズルカを啜り泣く寡婦よ
生を生とする迄懺悔に暮れる 
異邦の異人を

焼夷弾 糜爛たる皮膚と肉の燃焼を
劈く咽喉 惨死たる子供達の靴を積む
焼却炉は
骨を
肉塊の樹と神経髄の炎に抱く
聖母は御子とともに
熔融し
機銃操縦桿を握れ
薬莢の鋳物を
薔薇と兵士より
轢死の姿勢は機械矯正器に磔けられた
別の歌を唄う
鸚哥の去ったケージ 総て且つ唯一を沸騰する心像樹の、ミルクの、

舗装路の
隧道の花々は愈々濁りつつ
人間の尊厳は紙幣印刷場のインクより齎され
聖霊は世界焼却の荘厳彌撒を執り行う
囁きを囁きながら
世界像の晦冥と亙る茫洋を 
検閲され花束となる
その
称讃辞の屍骸

人類の祝祭を揚げよ
ゲットー 壊疽は柩に擱く
ゲットー 根は労働を退化してゆき
ゲットー 復も採鉱夫は血を嘔吐する

後悔は二十日鼠 それを引裂く鉤爪は想像力
ゆえにこそ汝は在り汝の脳髄を
脳髄を働かせよ汝はゆえに
ゲットー 恢癒なき今を今瞠る その時



II,ひだりてのための、



きみのやわらかな髪
血のミルクを飲む
それらは夕刻に来る
戸口を叩く朝な夕な
静かに柩が燃える
罌粟の日々に

アメリカ人おまえはユダヤ人のゲットーを築く
もっと死を汚らしく縁取れ 
瞋りやまない正義の
純血の麗しいメルセデスきみのやわらかな髪
混血の麗しいユディットきみの頑なな瞳
きみが別たれる時近く遠い時
そして書く
死に遭いみまわれる罌粟の日々
埃及の少年達の

星々のダイナモを動かす鋼鉄の頽廃を呈した首都
そしてそう書く
そこも悪くはないだろう アメリカの窓には
バビロンおまえは墓を掘る朝な夕な
アメリカよおまえはユダヤ人のための火薬庫
アメリカ人よおまえは神経病質なオルガナイザーの
調律しろもっと煽情にシンセサイザーを
ユダヤ人の墓を掘れおまえはアメリカから神経病質なオルガナイザーの

血のミルクを飲む
朝な夕な青空に墓を掘れそこはきっと佳い所
もっと汚らしく火薬庫を縁取れ純血の麗しいメルセデス
アメリカの窓瞋りやまない正義の
そしてきみは書くアメリカの窓に
汚らしく神経病シンセサイザーよもっと麗しく墓を掘れ
朝な夕な血のミルクを飲む
朝な夕な死に遭いみまわれるメルセデスきみのやわらかな髪
罌粟の日々に
血のミルクを視る者を悉くを破壊する
埃及の少年達の
混血の麗しいユディットきみの頑なな瞳

朝な夕な雲に墓を掘れそこはきっと佳い所
調律しろもっと煽情にシンセサイザーを
バビロンは時近く遠く時近く書く
もっと逞しくダイナモを動かせ頽廃をして鋼鉄する首都
ユダヤ人おまえは
静かに柩が燃える朝な夕な

混血の麗しいメルセデスきみのやわらかな瞳
純血の麗しいユディットきみの頑なな髪
混血の麗しいメルセデスきみのやわらかな髪
純血の麗しいユディットきみの頑なな瞳

静かに柩が燃えるユダヤきみの


たばこをめぐる断章

  湯煙


 わたしはたばこを吸う。そして、たばこはわたしを吸う。
 代わりは存在しない。
 たばこがわたしを吐き、そして、わたしは煙を吐き出す。


    *


 朝。
 ちいさな陶器の灰皿に、死体を見る。
 やがて海に沈静すると、そこに、燻る蒼白の焔があらわれる。
 新たに取り出した一本から天を昇ってドクロは漂い、一日が始まる。


    *


 わたしがたばこを吸いはじめた25年前の当時はマイルドセブンは一箱230円だった。
 現在はメビウスと名称を変えて440円で販売されている。種類も豊富になった。
 昨今。一箱1000円にしようという案が浮上しているらしい。


    *


 ★★★★★★★14                    CHARCOAL FILTER
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 喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。

 妊娠中の喫煙は、胎児の発育障害や早産の原因の一つとなります。

 (詳細については、厚生労働省のホームページをご参照ください。)

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 タール14mg ニコチン1.2mg         20cigarets sevenstars 460円


    *


 高校へ進学してまだ日の浅い16歳のある日の朝だった。なぜかわたしはテーブルの上に置かれていた母のハイライトを一箱くすねると、学生鞄のなかに入れ登校した。休み時間に教室の後ろで級友に見せていると、廊下を通りがかった担任と扉の窓越しに見合った。
 指示された別室に行くと、風紀を担当していた中年の体育教師の男がいて詰問をされ、頭をはたかれた。呼び出された母と一緒に数日後、学校へ向かった。そして一週間の停学処分が下った。そのため中間試験のうち三教科分の追試を受けた。帰り道。わたしを励まそうと明るく振る舞いながら母は少し泣いているようだった。留年はまぬがれた。三年で卒業をし、わたしは学校を去った。
 19歳。わたしは買ってきたたばこに百円ライターで火を着けた。思っていたよりもうすく、不味くも美味しくもない、無味乾燥だった。数秒の間もぐもぐとして口を開けると、まんまるく白いかたまりをしたものがぽわんと飛び出して漂い、崩れていった。こうして初めての一本は消えた。咳き込んだりしなかったのはそのためだ。


    *


 どうして止めないか? どうして止められないのか?
 中毒、依存、病気、遺伝、環境等。さまざまに言われるもののはっきりしない。
 そもそも止める意志をいまだもたないが、これは何になるんだろうか?


    * 


 メンソール系は今ではずいぶんと種類も増えてバラエティーに富んだ人気のある商品の一つとなっているが、かつては吸うとインポテンツになるという噂が流れていた。しかし実際にインポテンツになったと聞くことはこれまで一度もなかった。今日も薄荷や柑橘などの味と香りをこめてなに食わぬ顔で彼らは颯爽と店頭に降り立つ。


    *


 脳溢血で寝たきりだった父の右腕がベッドの上で天に伸びて空を掻いた。そしてしばらく親指と人差し指と中指とをゆらゆらとさせた。マイルドセブンを求めて彼は半年後にわたしたちに大小の軽石を残して逝った。


    *
 

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    *


 公園の片隅でいつもたばこを吸った

青白く冷ややかな石膏の空に紫煙をくゆらせて 思い思いにたわいもない話をくりかえした 交わす言葉の行方など気にせず灰を叩き落としちぢこまる身を寄せた 靴底に素早く擦りつけると赤色に塗り込められた灰皿代わりの一斗缶のなかへ放り かじかむ両手にながい息を吹きかけて 背を丸めて公園を後にした

からからと音を立ててころがる落葉たち
川面に漂い散り散りになって


    *


 公共の場でのマナーの徹底や禁煙化、喫煙ルームの設置が着々と進んでいる。
 路上喫煙やポイ捨て行為は厳しく監視され、カウントされ、罰金が課せられる。
 わたしたちの肩身はたしかに日々狭くなる一方である、とそう思う。


    *


 「 落ちましたよ 」 「 いや、捨てたんだ 」

 吸い込む。そして、吐き出す。燃焼し伸びていく灰の、その先を見つめる。
 
         
          」


夜酔落下

  祝儀敷

夜に独りで酒を飲んでいると
たまに座った体勢のまま落ちていくことがある
空気椅子の形をして
四次元にいるかのよう
椅子をすり抜け
床をすり抜け
どんどん下へと落ちていく
ほろよ酔いのなかで
私は流れていく地層を眺める
コンクリートの土台の下には
粒荒い砂があり
滑らかな粘土もあり
時代ごとの歴史を映していて
褐色の範囲で地層は
虹色に変幻し続けていく
たまに化石も現れる
億年の時を超えて私に見られていることを
暖かい季節に生きた彼はよもや気づかないだろう
積み重なった色々なものを
ウイスキー片手に鑑賞しながら
滑るように落ちていく
空気椅子の体勢でも辛くはないが
するすると流れていく景色に酔ってくる
土の層は豊潤すぎだ
ただでさえ酒を飲んでいるのに
もはやサイケデリックな茶色のコマ送りフィルムは
私の脳をぐるぐるにするには十分すぎる

遥かなる時の堆積に飽きてきた頃になると
地層はぷつりと急に終わる
そこからはさらに長い地獄の風景だ
地獄は全体が赤黒く
一体どこが光源なのだろう
山沼や亡者たちが見られるぐらいには明るい
今まで土の中を通り過ぎていた私だが
地獄は巨大な空間で
天と地はあまりに距離があるから
眼に映る景色の変化はゆっくりすぎて
静止しているかのよう錯覚する
しかし優雅に浮遊しようにも
針山には悪人が刺さり
血の沼には罪人が溺れ
気持ちのいい眺めではない
やはりどうも居心地は悪く
やけになってか
地獄では酒がすすむ
まずい肴を横目に
強めの水割りウイスキーを
ぐびぐび飲んでいく
元々あまり強いほうではないので
私はここでどんどんと
酩酊へ近づいていく
血垢が巡る奈落の底で
酔い酔い視界がぐるりと回る
阿鼻叫喚を下目にごくりと
どんどこなんだかわからなくなる
意識がアルコールで満ちていく

居心地の悪さにウイスキーを飲み干した頃には
もはや正常な意識を失っていて
ふらふうらふらと身体を揺らしながら
ただただおぞましい地獄を落ちていくばかりだ
既に視界もぼやけ
ぐじゃぐじゃな亡者も見えにくくなっている
そうやって酩酊の最中に
ふっと地獄の底へ辿り着き
そこさえもすり抜けて
脳が酒に浸りながら
地下へ地下へ地下へ地下へと
朦朧なまま
落ちていく

最後の最後にはいつも
世界の一番下にある
「真理」のところへと到着する
真理は大きくて光っていて眩しくて
その横を私は落ちていくのだが
酔いの極まった私は
いつもその真理に対して
自分のことだが理由はわからない
何かしらの暴言を吐くのだ
呂律はまわらず
支離滅裂で
だけど激しく怒鳴って
酔っ払いの説教を
真理へとぶつける
しかし真理は聞いていないのだろう
そのまま神々しく輝き続けて
万物の最終地点で君臨する
とてもとても眩しい
落ちるにつれて近づいて
私は目がくらむ
視界が光で真っ白になる
それでも私は毎度よろしく
何かを大声で叫び続ける
空になったグラスを片手に
酩酊の中で

次に意識があるのは
いつの間にか自宅へ戻ってきてからだ
落ちたのになぜ椅子の上へ戻っているのだろう
条理が通らないことではあるが
それを言ったら地獄やらなんやらも同じだ
ただグラスは空なので
ウイスキーを飲み干したこと
それだけは確かなのだろう
独り酒なんてあまり楽しいものではない


秋 2016

  山田太郎

天体の仰角が
秋のともし灯を乱反射する 朝
木々は凍え 幾千もの手に火をともす
道のカーブに人気はなく
老人たちはフンを拾う

自動散水機がみどりを洗い
苔むした太い幹にからむツタが天辺をめざす
まぶしき照明は森に明るい霧を降らし
人々は毛虫のように外套を逆立てて
しずかに歩む

おはよう ゴッホの黒猫
おはよう アンデルセンのカラス
おはよう ひさしの下で果物をならべる人
おはよう 白いブラウスの女学生

昨夜 強盗と詐欺師が争い
強盗が世界最強国の大統領になった
年が明ければこの国でもマッチポンプのテロが
頻発するだろう
陛下の軍隊はアフリカの人たちを撃つだろう
ぼくたちの崇高な詩のために

乳母車の乳児が
ぐーをのばしてあくびをする
わたしも小さなあくびを返す
小さなあくびはため息であり
秋の空をゆく
風や笛の音もまたため息である

小さな鳥たち
缶拾いのおじさん
学資稼ぎの新聞配達くん
ゴミ収集車の運転者さん
飛行機雲 おはよう

露草はかすかに揺れて
光の玉を落としている
困り顔の犬はくうううんと鳴き
夏を燃えたひまわりは束ねられ
晩秋は
いっそうあざやかに
実っている


イシノトウ

  西木修

犬の小便がかかった
草叢と薄汚れた雑誌の束
僕はそれを睨みながら
今日、川を渡る


対岸には
三人の地蔵たちが
川原に鎮座しながら
石を積み上げている
一つ、二つ、三つ
僕はそれを睨みながら
真似をして
石を積み上げてみる

一つ
僕の悪意
二つ
僕の惰性
三つ
僕の嘘

三つを積み上げてしまうと
地蔵たちが
ケラケラと笑う
僕はそれをやはり睨みながら
立ち上がり、
石塔を蹴って、崩してしまう

石たちが転がって
がらん、と音を立て
地蔵たちはワッと驚き、
僕は少し悪びれる
もう一つの石とは
僕の憤怒のことだ

塔は、いつか崩れる。
いくら積み上げても、
中空を刺し貫き、
僕等が100年生きたって
塔は、いつか崩れ去る
一吹きの熱風、
一筋、曇天から覗く黄色い肌、
脱ぎ捨てられた、
穴の空いたダンボール、

僕は
いつまでも
崩れた石の山積みを
見つめている
紅いよだれかけが
震えるように靡いたら

四つ目の石を積んだ地蔵が、
どうしようもなく
泣き出した。


全国の女子高校生のみなさん

  泥棒


こんにちは

全国の女子高校生のみなさん

僕は変態です

みなさんは文学というものに興味はありますか

僕はありません

正直まったくありません

がっ、

どうやら文学というものは

日常にあるそうです

そう

例えばコンビニ前とか

線路の向こう側とか

普通にあるそうです

みなさんも学校帰りや部活帰り

遊びへ行く途中など

コンビニへ寄ることがありますよね

そこにあるんですって

文学がっ。

店内ではありません

店の前です

そこから見えるいつもの風景の中に

あるんですって

すでに

もうあるんですって

なので

全国の女子高校生のみなさん

もう図書館などへ行く必要はありません

勉強もしないでよろしい

街へ出ればいいのです

本当です

変態の僕が言うことに間違いはありません

そう

僕はたくさんの本を読んできました

いわゆる文学作品です

そこには胸に刺さるたくさんの文学がありました

読めば読むほど

僕は変態になりました

ある日

いつものように本を読み

ますます変態になった僕は泣きながら家を出て

コンビニへ行きました

春でした

さっきまで読んでいた本の中は冬でした

街は春でした

本の中では

コートを着た主人公が自殺しておりました

つらかったろうに

寒かったろうに

雪の上でした

僕はコンビニ前から見えるその風景の中に

花をみつけました

手にとって

そのまま家へ帰って

死んでしまった主人公のページに

その胸に

花を刺しました

冬でした

本を閉じました

閉じても本の中は冬でした

僕は変態です

全国の女子高校生のみなさん

みなさんは生きてください

生きて

たくさんの本を読んで

勉強して

いつかたくさんの花にかこまれて

死んでください

文学はみなさんのそばにあります

全国の女子高校生のみなさん

みなさんの孤独は

ひとつとして同じものはありません

孤独とは秋の空です

きれいです

共感とは夜の細道です

きけんです

全国の女子高校生のみなさん

僕は変態です

線路の向こう側で

いつかお会いしましょう

全国の女子高校生のみなさん

安心してください

みなさんにお会いする頃には

僕はもう変態ではありません

文学です

文学そのものです

ほら

線路の向こう側は夏です

もう夏なのです

まぶしい

きっとたくさんの花が咲いているでしょう


CREATIVE WRITING 101A 

  花緒

    あなたと別れてから、もう7ヶ月くらい経つのでしょうか。こちらは冬学期がはじまって、ちょうど1ヶ月が経過したところです。秋学期は同じアジア系の留学生の輪に埋もれながら、ひたすら図書館にこもって勉強して、何とか単位をとるって感じだったけど、今学期に入ってから、少しゆとりも出てきたのか、欧米人との交流が増えてきました。これまでは、さすがにネイティブスピーカーと友達になるのは難しいなと思って、自分の方から避けてしまったりなんかしていて、これなら何のためにわたしはアメリカに来たんだろう、って自分が情けなくなってしまうこともあったけど、今学期に入ってから急速にアメリカ人と仲良く話せるようになってきていて、ちょっと自信をつけているところです。


    わたしの英語力を考えると、わたしに興味を持ってくれて、ハウスパーティーに呼んでくれたり、一緒に定期的に勉強しようって誘ってくれたりする友達が欧米人の中からも現れはじめているのは、ちょっと奇跡的なことのような気がします。ただ、わたしはどこまで期待に応えられてるんだろうとか、英語をもっと勉強しておけば、もっといろんな話ができたはずなのになとか、もしかしたら英語力の問題だけでもないのかもしれないけど、自分を表現する術を身につけないと、せっかく興味を持ってくれる人が現れても、関係を深めていくことは難しいかもしれないって思ったりなんかします。


    日本で暮らしていたときは、人間関係を維持したり深めたりするために、表現力を磨かなきゃって思う機会なんてほとんど無くて、むしろ、うまくやりたいから、表現しない自分でいようって感じで、だから振り返ってみると、あなたにも、わたしはほとんど何の話もしていなかったし、あなたはあなたで、ほとんど何の話もできていなかった。わたしたちなりに、対話のきっかけを探ろうとはしていたのかもしれないね。だけど、話すということは何故だかお互いを侵食し合うことでしかなくて、話すとなれば、わたしたちはいつも諍いあったし、わたしが留学行った後のことも、直前まで話せなかった。大切なことはけっきょく最後まで何も話せてなかったような気がします。


    わたしは自分語りをしたがるような人間は好きじゃないし、話し合ったらお互い理解できるっていう幻想に縛られてるわけでもない。それでも、話さないままでいいっていうのは嫌なんだって、はっきりそう思ったんです。わたしはアメリカに来て、自己主張することが尊重される国で生活してみて、わたし自身、どこまで話すことに対して開かれているんだろうって疑問に思う機会も多くて、今学期はクリエイティブライティングの授業を履修したりしながら、わたしなりに、自分を表現するっていうことを学ぼうとしています。


それで、
毎週、
クリエイティブライティングの宿題をやるんだけど、
わたしが書くものは、
長いばっかりで、
とりとめもなくて、
主張がよく分からないとか、
中身がないとか、
そういう風によく言われます。
アメリカに来て、
いろんな人に出会って、
自己主張することを是とする人たちに囲まれて、
そういう人たちから
興味を持ってもらえるようになって、
話してみたい、
話さなきゃいけないって思うようになって、
話せない自分が歯がゆくて、
どれだけ歯がゆくても、
うまく言葉が見つからなくて、
書けば書くほど、
わたしは何が言いたいんだろう、
わたしは何が書きたかったんだろうって思うようになって、
わたしに話すことなんて何があるんだろうって、
仲良くなりたいだけなのに、
楽しく生きていきたいだけなのに、
どうして話さなきゃいけないんだろう、
ハグして、
手をつないで、
どうしてそれだけじゃだめなんだろう、
わたしは、
話さないんじゃなくて、
話せないんでもなくて、
話したいことがそもそもないんじゃないか、
どうしてそれなのに、
話そうとしないあなたを、
今でも許せないんだろう、
あなたがあなたの何を話せば、
わたしはあなたに納得できたのだろう、
わたしがわたしの何を話せば、
わたしはわたしを許せるのだろう、
わたしはわたしについて話したいことなんて何もありません、
それは、
わたしが空疎だとか、
空っぽだとか、
そういうことじゃなくて、
ただ、わたしには話したいことがないだけなんです、
わたしはここに来て、
わたしの話を聞きたいっていう人とたくさん出会って、
それで決めたんです、
わたしは、
いつまでも、
話そうとし続けます、
話すことがなくても、
話したいことがみつからなくても、
話そうとすることだけは、
自分の言葉を探すことだけは、
あきらめずに続けようと思ったんです、
いつまでもみつからなかったとしても、
許されるまで




CREATIVE WRITING 101A MIDTERM:
EVALUATION: Cー
COMMENTS: I REALLY ENJOY YOUR PARTICIPATION BUT I CAN'T UNDERSTAND WHAT YOU WANT TO SAY.
     YOU CAN COME TO MY OFFICE HOURS. WE CAN TALK.              
          


(無題)

  生活

台所は、
椿で、
軒下は、
雉、
の子供達が、
飛べない羽を
しまったまま
走り回る、

生活に、
人を、鳥を、
花を、
呼び戻す、
悲しいできごとは
新しいいのちで
こころから
いのる、
と、雨が降る

わたしはとけて
じゃぶしゃぶの
ゆきにもなれない
なまあたたかい
雨となって
降るでしょう
地面にとけて
地下に潜るとき
母や父、
家族や友達のこと
すらも忘れて
暗く流れて行くでしょう

こころから
いのる、と、
私のような
なまあたたかい雨が
そこらじゅうにふり

ここでわざと切る


子山羊

  黒髪

子山羊さん
山羊さん
白くて素直だ
礼を言う
あなたに
風土がどうとか言いたくなるけど
ここは一番だ
一緒にいられるのが
吹かれ揺れる草の向こうの
彼方のおぼろな光
現在の心の色は白
そして黒の輪郭
あ、そう蝙蝠の
飛ぶのに似て
私の心も夜を迎える
これから目を閉じ
心隠し

洗面台にたまった水に映る月を散らす
きっとどこかへ向かっている
戻らない時が増えていくほど厚い祝福を求めるものだ
覚えたものが有効になるには
時が揺れ、空が鳴ることが必要だ
一人ずつ生きている人間は
もう一人を自分と同じだと数えたときに一人でなくなる
怒る時また一人になる
共に怒る時には何人になるのか
それは怪しい遊戯のように複雑なかかわりなんだ
暗闇を怒るのは得策でない
怒りによらない鼓動の感覚を満たしてくれた人よ
心のメモリは再び満ちて
怒りが崩した遺物を拾い上げ
この二三歩を寄って花は香る
涙が乾くのを待とう

鳳仙花の夜
おお噎ぶのは
生者の声と死者の声
話したのは
生への意志と夢を語り継ぐことだった
怖くもない
暗くても命の色は
消えても残る自画像の形
消えない軌道
あまりにも無駄な生を生きて来た、というのも
暗闇の迷路の中に閉じ込められていた
壊れた未来があまりにも苦しい
光が閉ざされた頭の中には
甘えるなというハードルがいくつも置かれていて
転んでしまう
一生懸命生きた
楽しんで生きた
暗くなると
侮辱も不機嫌ももう見えない
何もできないこと
何もなくなることは
個人的な消耗だ
それを感じているのだから
生の力を求めよう

白さには汚れた心が映る
多くの光を目に入れた
醜いと思うのは自分の心の反映だったのだ
責任を人に負わせるほどの理路を持っていないから
私はぐずぐずと生きるような日本人だ
要素に解体してみてもいいけれど
新しいものを作り出すときは
現実に学んでから頭を巡らせなけりゃならない
人を助ける時のように自分を助ける力を出して
自分で道を歩いて行こう
道が通っているから
自分の行くべきところがある
包丁に軽く触れ
愛に傷をつける
そのまま立って
過去を振り返ってみると
もうそこには何もない
心がいっぱいになり
私は空漠と充実を密接な位置に置く
まやかしにやられてしまった犠牲者の一人である
私は突き詰められた真実を望むのである


萩原朔太郎 と 月

  玄こう



 画学生の裏ポケットからじゃらじゃらなにやら楷謔 壊朽の小物が引き出される裂烈したがる言葉の了見はツーリスムのなかになにもない ただあるのは心地と人気ヒトケの寄せ看板 歩む路の傍らにひしめいている ういしくこもれる発光せしうむトラペジウム 遍く照らすを知らずとも 若木の燃ゆる心情の斑の星ぼしたち 雨濡れにただれ ちっぽけなノート ダダダダイナシだ アンニュイなタダゴトで被われ 譬喩歌の秘めたる雨空に 降りやまぬ便覧 あてどない偶成 宿命論的運命愛


 あの萩原かな 初期の音楽的リリシスムに吠える月よりも 駆逐された虚無の人格 感嘆とむせぶ後期氷島の冒頭… /日は断崖の上にのぼり、うれひは陸橋の下を低くあゆめり、そは我が永遠の姿、寂しき漂泊者の影なり、巻頭に掲げて序詩となす、断崖に沿いて陸橋の下を歩みゆく人、かつて何物をも愛せず、飛べよかし!殺せよかし!我れは何物をも喪失せずまた一切を失ひ尽くせり、…/

 と詩文のいくつかの一節を 萩原朔太郎の書かれた氷島の期に 遭遇した今日この日の古き夢の傷口 悪しきデカダンの歴史的現在をめくる瞬間瞬間に カタチを変えるその本質は不立 舌は違えど語り継ぐ

 彼の詩的散文もなかなかの縦横無尽ぶり… /憤怒と憎悪と寂寥と否定と懐疑と一切の烈しい感情だけが、僕の心のなかに残っていた……凛烈、断絶、忍従、鉄鎖、などの漢語は意味の上より、音韻する響きの上で、壮烈なる意志の決断や、鬱積した感情の憂悶やを、感覚に強く表現したもの、漢語がこうした詩情に適するのは、アクセンクチュアルな促音と拗音とに富んでるからである。すべての言語は、促音と拗音の多いほど弾性力が強くなっていく。


 加熱しすぎた風呂桶が小さければ小さいほど湯の温まりは激しいものだ アッツイ 怪訝と卑劣と醜悪の混在する水が爆発的に熱を帯び弾け飛ぶ 心情燃ゆる一語一語の火元が小さな容れものの水をも沸騰させるもの


/虚無の鴉
/我れの持たざるものは一切なり


 萩原のこの二篇の詩は好きだ これ見よがしと媚びず狙わず なんのけれんみもなく ただあるのはただ 人としての単独の叫びだ 単一者としての叫びだ だが社会的孤独を凌駕した無一物となるまでを 自己とこの2つの詩を 萩原は見切れただろうか 二つは一つにしてその一体物は二つの個物である その天分の頂きに屹立しえただろうか? 人生なる一語さへ詩のうちに配合せし 世俗のうちにうらぶれ すさむ孤独感に極めて似たように人間性を孕む 荒寥の地の詩も /…かうして人間どもの生活する荒寥の地方ばかりを…/


 んなものはハナからないのだ 形容と属性を否めつくした諸物のモナド その無一物 幅も広がりも少しも持たぬ一点の光源として トラペジウム 織り成す散開の群れ 飛び放つ 蒼くひしめく 発光体


    虚無の鴉

  我れはもと虚無の鴉
  かの高き冬至の屋根に口を開けて
  風見の如くに咆号せむ。
  季節の認識ありやなしや
  我れの持たざるものは一切なり。






        風
     どこからかにおひかぎつけやってくる

 

        月

     つきがなげくそのむかしのまだむかし
     せんりゅうとはいくつきとすっぽん?
     しらないぼくはつきをみてみてみてみ
     ふたまたかけてきみのめをみてつきみ
     ひとはながくつきとともにうたつづる
     ひとはなげくつきとともににしへむく
     うたいびとなげくつきこころのかがみ
     にしにしずむつきをみずにながめてる
     つきをごくりとのませるおはなしする
     つきつきつきつきおもいおもいおもい
     憑き着き尽き衝き突き吐き撞きならす
     想い念いつづけて面食らうそのつきに
     なにもないいまのぼくにはただのつき
     そんなきょうちがないからつきをみて
     みてみてみてみてみてみてみせられて
     ちらつくあかぐもみてみてみてみてみ
     そそぐひかりのきべんをちらつかせて
     のーとをぱったりとじそれでもみてみ
     つきになになげく? つきがながいか
     かみのてんじょうぱたりととじまのび
     しったところでなにがあるさああさだ
     あさはかなこころのかがみをしのばせ
     ちらつくまぶたのきさきにつきがある
     まぶたにまたたくつきはきっとつきだ
     こころにあるもののひとつがつきなら
     なげくつきはそのむかしのまだむかし
     なにもないかたずをのみただそこにあ



       ●


亜閻魔

  にゃむ

キウイのような
模様のある灰皿に
常温のバタを 塗っていると
玄関がひらいて
真っ青に
眩しいのであった。
わたしのぶち犬はけさ
さわやかな雨あがりのアスファルトに
ジュース屋の自転車が
倒れているのを
跨いだという。
わたしはこぼれた灰をあつめ
ジュース屋のあなたを想い
醤油のボトルで
幾度も犬をなぐりつける
それから光のようになって
窓を飛びでるので
部屋が白くなった
おまえがきゃんきゃん泣いて
部屋へ呼びもどしたから
窓の外は
白いのである。
殴られたおまえは
悲しげに醤油なんて舐めるので
黒に吸い込まれて消えてゆくのだ
ジュース屋のあなたは
疲れて立ちこぎをやめたから
くらいサドルに トプンと尻から消えたのだ。
わたしの愛煙癖と
ひとさらいとは無関係である。
これからわたしは
うでまくりをし
白昼
弾かれたひかりに浸って
あなた方の舌の色彩(いろ)を
たぐらねばならない。


未来

  シロ

金木犀が香る午後
陽射しがきらきらと
金色の帯を散らしている
コーヒーにミルクを入れて
スプーンで陶器をこする音
きみの声が
褐色の液体にミルクとともに
くるくるとかき混ざられて
やがてぼくの
安堵の中心に下がってゆく
街並みからみえる秋の空
遠いけど
染み入るようですごく蒼い


舟渡り

  宮永



目が覚めて、夢をなぞっているうち別な夢に落ち、また目が覚めて、を繰り返していた明け方の湖。浮かぶボートを乗り換える。ゆらゆら、と揺れてはとぷん、沈みこみ、痺れるような手足に白い霧が降る。後にしたボートはもう、乗り込むボートはまだ、見えない。こつん、脇腹に別のボートが額を寄せた。



店舗だった建物を改装したという、絵画教室を兼ねた彼のアトリエは通りに面し、窓の外には散りかけの街路樹と行き過ぎる車が見える。僕は赤茶色の表紙の洋書を手に取り、開き、また閉じて、本棚に並ぶ背表紙の列を眺め始める。最近はこんなの読んでるんだ、とつぶやくと、彼が口を開いた。「このノートが君の役に立つかもしれない」

絵の具が散った作業机の上に置かれた、傷んだ青いノート。ノートは短い交換日記のようでもあり、走り書きにまぎれて、彼の簡素な問いかけと、頼りない小さな文字の応答が繰り返されていた。浮かび上がるように目に入るのは、彼が呼びかける見知らぬ女の子の名前。「あの頃、彼女も今の君みたいに行き詰まっていてね、しばらく相談にのったりしていたんだ」

見知らぬ女の子じゃない。たぶん一度見かけている。僕はその時も今日のように意を決して、あなたを訪ねたんだ。そこは窓なんてあるのかどうかもわからない、狭い研究室だったけれど。ためらった挙げ句ノックして扉を開けると、机を挟んで少女とあなたが座っていた。少女はうつむいたまま、あなたは顔をあげて、意外そうな声で「どうした?」と僕に言った。その机の上にはこの青いノートが開かれていた、のかもしれない。

あのとき僕はすでに方向性を見失っていて、それであなたを訪ねたのだけれど、けれどあなたの目の前には……いや、ちょっと待て。僕が研究室にあなたを訪ねたのは……夢の中でだ。ずっと前に見た夢での話だった。そして、ああ、僕はまた、夢をみていたんだ。現実で、僕は夢と現実をごちゃ混ぜにしたりしないのだから。

あの夢でもこの夢でも、僕は行き悩み、不安と焦燥の只中にいた。それでもあの人と言葉を交わせるならばやはり幸福な夢であり、叶うなら、何度でもおちてゆきたい。



寄せてきたボートに乗り込み、揺れる舟底にからだを預ける。 痺れるように重くとぷん、沈みこみ、白い霧が降りる。ここは舟着き場。ただ渡る、浮かんでいる別のボートへ。 漕ぎ出すオールもないのだから。


2016

  芦野 夕狩

虹岡さんは昨晩夢の中
ソープランドで若い女性二人を相手に
大立ち回りをしたらしく
別にわたしに言ったわけじゃないんだけど
なんか若いって言葉を
妙に強調したような気がしてならない

そんなことが頭をめぐる車中
尾瀬さんの原稿を取りに行くために
ありえないような細い路地を通らないといけないから
カーブミラーが当たらないように
犬を踏み潰してしまわないように
ありえないくらい慎重に運転したんだけど、さ

尾瀬さんはとりあえずお茶いれましょうか
とか言って
これは烏龍茶なんですけど、白桃烏龍茶と言ってとても香りがいいのよ
とか言いながらいっこうに原稿を渡してくれるそぶりを見せない
まあ、いつものことなんだけど
このババア、ぶっ殺してやろうか
とか
臼井さんは言いそうだな
特にパチンコで負けた次の日の臼井さんは言いそう

その臼井さんに、まあ原稿はいただけませんでしたよ、と
報告したら、笑っていたのでパチンコで勝ったのかもしれない
そもそも尾瀬さんは本当の締め切り知らないから
と言われて、まあそうだよな、と
あの人締め切り過ぎないと書かないからな

仕事が煮詰まって
なんか、まあ
駐輪所の傍にある喫煙スペースに顔を出したら
いつも通り森井くんが思案深げにタバコ吸ってて
ヤッホー
とか言っても
どうも、って言ったきり会話続かないし
まじあのコミュ力でどうやって仕事してんだろ、あいつ
って真里ちゃんが言ってたの思い出した

まあ、でも一応クリエイティブな能力とか
よくわかんないんだけど必要なとこもあるんじゃない?
ってお茶を濁しても
はいはいクリエイティブクリエイティブ
みたいな共通認識芽生えちゃってるから
まあ、なんだ
わたしは君のこと
ちょっと羨ましいとか思うんだよ
みたいな感じ出して喫煙所から退散した

今日も元気にクリエイティブに課長の命令に従いますし
クリエイティブに残業しますよ、そりゃあね
毎日ヤフーのトップページ見て
思いつきで企画丸投げするなんてさすがですよね
とか、金井さんが言ってきて、笑えねえなあ

夕方に窓から眩しいくらいの西日が差し込んでくる
わりと高いビルだから、他の建物でいびつになった地平線も見えるんだけど
それ見て、
うちの業務部に出入りしてる業者にホライゾンってあるじゃん?
製本の機械納めてるところ、あれ、ホライゾンじゃなくてホリゾンらしいよw
とかラインきてたの思い出して
まだ返事書いてないしそもそもどうでもいいなあ
とか思った

今日も帰宅時間10時過ぎるし
この前冗談のつもりでバカ買いした
冷凍食品の在庫が確実に減っていく、なあ
とか思いながら車を運転していると
右も左も目の前さえも紅葉で覆われた道に差し掛かる
まだ点々とついているオフィスの光の中で
もう、あれだ
11月も終わるなあ、とか
思いましたとさ

カーステレオで甲本ヒロトが
僕の右手を知りませんか、って
歌ってんの
知らねえよ、てか、ついてるじゃん
とか思った

文学極道

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