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2013年06月分

次点佳作 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


かなしみ

  前田ふむふむ



               
夕日が地平に没しても
なお 街々の西の空が
かすかに明るみをおびている
足を止めて
やや赤みがかった
仄白いものを
見ていると
無性に泣きたくなってくる
そのかなしみは
わたしの影だ

      
あの明るさのむこうでは
花も木も風も
声をあげることはない
生きた足跡を
否定されて
泥のように 沈んだものたちが
ふりかえっている
そして
冬のイチョウのように
ざわめきもせず
なんの弁明もなく
清々しいほどに 立っている
そのまなざしは
わたしの影だ

わたしが
傷口を嫌い
捨ててきたしがらみ
無為に
置き忘れてきた
ふるさとの声
手にすることが
できなかったものにたいする
後悔と羨望
それぞれの来歴が
なつかしそうに
手を振っている
その姿は
いつまでも
わたしを引きずっている

たぶん
父も母も
わたしもあそこにいるのだろう
そして家族と親しく
夕餉を囲んでいるのだろう

直視するには
神々しいものを
見送るような
測れない大きさになって
しかも穏やかだ
わたしは
夜の先端で
影になっている

戯れる
海の波が引くように
その
心地よさを
受け入れて
わたしという途方もない
ものから
逃れるために
わたしは
仄白い空を見て
涙ぐむのだ



   


FEEL LIKE MAKIN’ LOVE。

  田中宏輔



●コップに入れた吉田くんを●空気が乾燥した日に●風通しのよい部屋に二日のあいだ放置しておくと●蒸発して半分になっていた●これは●吉田くんが●常温でも空気中に蒸発する性質があるからである●コップを冷やすと●空気中の吉田くんたちが●コップの外側に凝集する●ビーカーに入れて熱すると●水に溶けていた吉田くんが小さな泡となって出てくる●水を沸騰させると●吉田くんたちが激しく出てくる●常温では液体の吉田くんは●−60℃で固体の吉田くんとなり●120℃で気体の吉田くんとなる●暑い日に●地面に吉田くんをまくと●吉田くんが蒸発して涼しくなる●これを打ち吉田くんという●運動すると体温が上がり●皮膚から吉田くんが噴き出てきて体温が下がる●激しく運動すると●皮膚から吉田くんたちがたくさん噴き出てくる●日知庵で飲んでいると●手元近くにあった●おしぼり置きの横を●吉田くんが走る姿が目に入った●ぼくは●おしぼりをそっと持ち上げて●思い切り振り下ろした●カウンターにぎゅっと押し付けたあと●おしぼりを開くと●手足がバラバラになって顔と身体もつぶれた吉田くんがいた●吉田くんが仕事中に脱皮して●部長にひどく叱られた●吉田くんと竹内くんを比べると●吉田くんより竹内くんの方が温まりやすい●したがって●夜になって涼しくなると●竹内くんが吉田くんのところにやってくる●これが●竹内くんが吉田くんのところに夜になるとやってくる理由である●生きている吉田くんを投げて●上向きに倒れるか●うつ伏せに倒れるか●その確率は2分の1ずつである●いま●吉田くんを5回投げるとき●吉田くんが3回うつ伏せに倒れる確率を求めなさい●ただし●打ち所が悪くて●途中で吉田くんが死ぬ場合は考えない●数学の時間にふと窓の外を見ると●吉田くんたちの群れが移動しているところだった●同じ大きさで同じ服装をした同じ顔の吉田くんたちが手をつなぎながら歩いていた●吉田くんたちの群れは無限につづいているように見えた●窓に垂直に差し込んでくる太陽光線が目にまぶしかった●吉田くんは身長173センチ●体重81キロの中学3年生の男子である●いま●横15メートル●縦30メートル●深さ2メートルのプールに●吉田くんをぎっしり詰めるとしたら●いったい何人の吉田くんを詰めることができるか●計算して求めよ●ただし●小数第二位以下を切り捨てよ●吉田くんを買う●吉田くんを捨てる●吉田くんを考える●吉田くんで考える●吉田くんを整える●吉田くんをつくる●吉田くんを壊す●吉田くんを拾う●吉田くんを2倍に引き延ばす●吉田くんを5等分する●知ってる吉田くんを想像する●知らない吉田くんを想像する●吉田くんを取り除く●吉田くんを洗う●吉田くんを加熱する●竹内さんが●きのう学校の帰りに●吉田くんを埋めたと言う●あそこを掘ったら●吉田くんがいるわよ●じゃあ●いま教室にいる吉田くんはニセモノなのかい●竹内さんは自分の顔をわたしの顔に近づけて言った●ホンモノでもニセモノでもいいのよ●毎日●埋めてやってるのよ●吉田くんが生まれた瞬間から●吉田くんが71歳の誕生日に病院で息を引き取るまで撮影した録画がある●その録画を連続再生しているときに●ランダムに静止させるとすると●吉田くんが小学校六年生の6月3日に●学校の帰り道で●うんこを垂れた場面が●画面に映る確率を求めよ●吉田くんは手のひらの幅が8センチ●足の大きさが27センチの中学3年生の男子である●いま●横15メートル●縦30メートル●深さ2メートルのプールに吉田くんの手足をぎっしり詰めるとしたら●いったい何人分の吉田くんの手足を詰めることができるか●計算して求めよ●小数第二位以下を切り捨てよ●吉田くんと竹内くんとでは●どちらがはやく蒸発しますか●口をあけている吉田くんと●口をあけていない吉田くんとでは●どちらの方がはやく蒸発しますか●空気中の吉田くんが集まって上昇して塊となったものを何と呼びますか●地面近くの吉田くんが冷やされて固まったものが竹内くんです●地面近くの空気が冷やされて塊となって空中に浮いたものが吉田くんです●一人の吉田くんのあいだに吉田くんを入れることできないが●二人の吉田くんのあいだに一人の吉田くんを入れると三人の吉田くんになる●三人の吉田くんのあいだに二人の吉田くんを入れると五人の吉田くんになる●五人の吉田くんのあいだに四人の吉田くんを入れると九人の吉田くんになる●111110人の吉田くんになるのは●何人の吉田くんのあいだに何人の吉田くんを入れたときか求めよ●吉田くんはつぎの日に竹内くんと山田くんになる確率が●それぞれ2分の1です●竹内くんになった吉田くんは●竹内くんのままでは山田くんになれませんが●吉田くんに戻ると山田くんになれます●吉田くんから竹内くんになった吉田くんが吉田くんに戻る確率と竹内くんのままでいる確率は●それぞれ2分の1ずつです●ところで●いったん吉田くんが山田くんになった吉田くんが●吉田くんに戻る確率と竹内くんになる確率と山田くんのままでいる確率は●それぞれ3分の1ずつです●いま●吉田くんである吉田くんが●10日後に佐藤くんである確率を求めなさい●初夏になると●吉田くんは●気温が高まった昼ごろに開きますが●気温が低くなる夕方になると閉じてしまいます●初夏になると●吉田くんは一本の蔓の手でほかの木に巻きついてずんずん背を伸ばしていきます●夏の終わりごろになると●らせん状になった吉田くんが●スプリングのようにピョンピョン道を跳ねていく姿が見られます●吉田くんは、子どものときは竹内くんを食べますが●成人すると山田くんを食べます●吉田くんは全体としては吉田くんなのだけれど●部分的には竹内くんであったり山田くんであったりする●吉田くんは部分的には鉄であったり水であったり空気であったりするのだけれど●ときには全体が鉄になったり水になったり空気になったりもする●吉田くんを50センチメートル以上150センチメートル以下の距離から見ると竹内くんに見えますが●50センチメートル以内で見ると山田くんに見えます●150センチメートルを超える距離から吉田くんを見ると吉田くんの姿は見えません●吉田くんは5回脱皮して竹内くんに変わり●その後●さなぎを破って出てくると●山田くんになります●吉田くんに竹内くん注射をすると●その竹内くんの半分が吉田くんになりますが●残りの半分の量の竹内くんは竹内くんのままです●いま純粋な吉田くんに3パーセントの竹内くん注射をするとき●50パーセント以上竹内くんになるには●何回●竹内くん注射をしなければなりませんか●1秒間に1人の吉田くんを吸い込むことのできる掃除機がある●いま天井に1000人以上の吉田くんがぎっしり詰まっている●すべての吉田くんを掃除機が吸い込んでしまうまでに何秒かかるか計算せよ●ただし●掃除機の性能は1秒ごとに2パーセントずつ劣化するものとする●いま吉田くん濃度が10パーセントの女の子たち35人と●吉田くん濃度が25パーセントの男の子が20人います●全員を合わせて一人の吉田くんにすると●吉田くんの男の子濃度は何パーセントですか●計算して求めなさい●夏になると●よく吉田くんたちにたかっている竹内くんたちの姿を目にします●竹内くんたちは●道に落ちてる干からびかけた吉田くんたちや●木にぶら下がって腐りかけた吉田くんたちにむらがっています●竹内くんって呼ぶと●いっせいに竹内くんたちが驚いて飛んでいきます●吉田くんの影には空気が入っていて●踏むと胸がきゅんとなる●吉田くんの空気には題名があって●その題名を指でなぞると●ペケ●ペケペケペケ●どんな形の吉田くんも吉田くんである●ひし形の吉田くんも吉田くんである●円柱の吉田くんも吉田くんである●正十二面体の一つの面の吉田くんも吉田くんである●正四面体の頂点の一つの吉田くんも吉田くんである●進化途中の吉田くん●まだ両生類なんや●ぎゃははは●それ●おもろいわ●吉田くんを竹内くんに翻訳して●その竹内くんの翻訳を山田くんに翻訳すると●吉田くんになってるのって●どうよ●目がすわってる●すわってないし●まっすぐ帰ったやろか●そんなわけないやん●やっぱり●行くんちゃうの●行ってるな●ぼったくられるんちゃう●知らんわ●ううん●両生類の吉田くんが気になる●なんで●吉田くんなん●おれの名前にしてや●あかん●ぼくの同級生や●もうなんべんも死んでるけど●ぼくの詩に出てくる常連さんや●ピンク●ドイツ語のアルファベット●ぼくはゲーやな●エフのつぎ●ハーのまえや●いっひりーべでぃっひやな●なんじゃ●そりゃ●好きっちゅうことや●吉田くんカメラ●だれを撮っても吉田くんしか写らないカメラ●吉田くん絵具●なにをどう書いても吉田くんになってしまう絵具●吉田くん書店●吉田くんについて書かれた本しか売っていない書店●吉田くん消しゴム●ノートに書かれた吉田くんだけが消える消しゴム●ほかの字や絵は●いっさい消えない●夏前に畑に植えた吉田くんは秋口にもなると十分に育っているので収穫する頃合いだった●畑に出て●畑に突っ立ている吉田くんたちを大鎌でつぎつぎと刈って言った●突然の吉田くんたちだった●吉田くんたちがフロントガラスにへばりつく●目を見開いて●フロントガラスいっぱいにへばりつく吉田くんたち●ワイパーのスイッチを入れると●ワイパーの腕が吉田くんたちを●つぎつぎとはたき落としていった●大漁だった●網にかかったたくさんの吉田くんたち●吉田くんたちの群れがここらへんにいると言ってたキャプテンの感はあたっていた●チューイング吉田くん●吉田くんをくちゃくちゃ噛む●吉田くんは起きると●鳴っている目覚まし時計に手を伸ばした●腕がはずれた●肩につけ直すと仕事に出た●外に出ると●たくさんの腕や足が道に転がったままだった●みんな●くっつけ直す時間がなかったのだろう●地下鉄では●いくつもの手が吊革にぶら下がっていた●吉田くんの顔の上流では赤い色が硬い●黄緑色の虐殺●水に溶けない吉田くん●治癒のチュッ●薔薇の木の滑り台●言葉の強度の実験●白い赤●白くて黄色い赤●白くて黄色くて青い赤●白くて黄色くて青くて緑色の赤●硬くてやわらかい●やわらかくて硬い●硬くてやわらかくて硬い●チュ●平行で垂直な吉田くん●電車に乗ると●席があいてたので●吉田くんの膝のうえに腰かけた●吉田くんの膝は●いつものように●やわらかくてあたたかかった●電車がとまった●親子連れが乗り込んできた●小さな男の子が吉田くんの手をにぎった●このあたりの地層では●吉田くんがいちばんよい状態で発見されます●あ●そこ●褶曲しているところ●そこです●ちょうど●何人もの吉田くんが腕を曲げて●いい状態ですね●では●もうすこし移動してみましょう●そこにも吉田くんがいっぱい発見できると思いますよ●玄関で靴を履きかけていたわたしに妻が声をかけた●あなた●忘れ物よ●妻の手には●きれいに折りたたまれた吉田くんがいた●わたしは●吉田くんを鞄のなかにいれて家を出た●歩き出すと●吉田くんが鞄から頭を出そうとしたので●ぎゅっと奥に押し込んだ●きみ●どこの吉田くんなの●また●いやなこと訊かれちまったな●ぼく●吉田くん持ってないんだ●えっ●いまどき●吉田くん持ってないヤツなんているのか●あーあ●ぼくにも吉田くんがいたらなあ●いつでも吉田くんできるのに●はじめの吉田くんが頬に落ちると●つぎつぎと吉田くんが空から落ちてきた●手で吉田くんをはらうと●ビルの入口に走り込んだ●地面のうえに落ちるまえに車にはねられたり●屋根のうえで身体をバウンドさせたりする吉田くんもいる●はやく落ちるのやめてほしいなあ●ゲーゲー●吉田くんが吐き出した●食べ過ぎだよ●吉田くんが吐き出した消化途中の佐藤くんや山田さんの身体が●床のうえにべちゃっとへばりついた●吉田くんを加熱すると膨張します●強く加熱すると炭になり●はげしく加熱すると灰になります●蒸発皿のうえで1週間くらい置いておくと●蒸発していなくなります●吉田くんは細胞分裂で増えます●うえのほうの吉田くんほど新しいので●すこし触れるだけで●ぺらぺら吉田くんがはがれます●粘り気はありません●あちちっ●吉田くんを中心に太陽が回っています●あちちっ●吉田くんは真っ黒焦げです●さいしょの吉田くんが到着してしばらくすると●つぎの吉田くんが到着した●そうして●つぎつぎと大勢の吉田くんが到着した●いまから相が不安定になる●時間だ●たくさんの吉田くんがぐにゃんぐにゃんになって流れはじめた●この竹輪は●無数の吉田くんのひとりである●空気●温度●水のうち●ひとつでも条件が合わなければ●この竹輪は吉田くんには戻れない●まあ●戻れなくてもいいんだけどね●二酸化吉田くん●水につけて戻した吉田くんを●こちらに連れてきてください●ずるずると●吉田くんが引きずられてきた●ぼくは●どこにもできない●本調子ではない吉田くんの手がふるえている●ぼくは●どこにもできない●絵画的な偶然だ●絵画的な偶然が打ち寄せてきた●きょうのように寒い夜は●吉田くんが結露する●はい●と言うと●吉田くんが●吉田くん1と吉田くん2に分かれる●吉田くんは●ふつうは水に溶けない●はげしく撹拌すると●一部が水に溶ける●吉田くんを直列つなぎにするときと●並列つなぎにするときでは●吉田くんの体温が異なる●理想吉田くん●吉田くんの瞳がキラキラ輝いていた●貼りつけられた選挙ポスターは●やましさにあふれていた●精子状態の吉田くん●吉田くんを●そっとしずかに世界のうえに置く●タイムサービス●いまから30分間だけ●3割引きの吉田くん●丸くなった吉田くんを●削り器でガリガリガリガリッ●ほら●出して●注意された生徒が●手渡された紙っきれのうえに●吉田くんを吐き出した●もう何度も授業中に吉田くんを噛んじゃいけないって言ってるでしょ●端っこの席の生徒が●手のなかの吉田くんを机のなかに隠した●重くなる●吉田くんの足が床にめりこんだ●もっと重くなる●吉田くんがひざまずいた●もっと●もっと重くなる●吉田くんの身体が床のうえにへばりついた●もっと●もっと●もっと重くなる●吉田くんの身体が床のうえにべちゃっとつぶれた●さまざまなこと思い出す吉田くん●さまざまな吉田くんが思い出すさまざまなことを思い出す吉田くん●あしたから緑の吉田くん●右●左●斜め●横●縦●横●横●きのうまでオレンジ色の吉田くん●右●左●斜め●横●縦●横●横●吉田くんの秘密●秘密の吉田くん●ソバージュ状態の吉田くん●焼きソバ状態の吉田くん●さいしょに吉田くんが送られてきたときに●変だなとは思わなかったのですか●ええ●べつに変だとは思いませんでした●机のうえに重ねられた何人もの吉田くんを見て●刑事がため息をついた●いててっ●足の裏に突き刺さった吉田くん●春になると●吉田くんがとれる●とれたての吉田くんをラップしてチンして温める●散らかした吉田くんを片づける●窓枠のさんにくっついた吉田くんを拭き取る●テレビを見ながら晩ご飯を食べていた吉田くんは●突然●お箸を置いて●テーブルの縁をつかむと●ぶるぶるとふた震えしたあと●動かなくなった●見ていると●身体の表面全体が透明なプラスチックに包まれたような感じになった●しばらくすると●吉田くんは脱皮しはじめた●ことしも吉田くんは●ぼくの家にきて●卵を産みつけて帰って行った●吉田くんは●ぼくの部屋で●テーブルの上にのってズボンとパンツをおろすと●しゃがんで●卵を1個1個●ゆっくりと産み落としていった●テーブルの上に落ちた卵は●例年どおり●ことごとく吉田くんに育った●背の高い吉田くんと●背の高い吉田くんを交配させて●よりいっそう背の高い吉田くんをつくりだしていった●体重の軽い吉田くんと体重の軽い吉田くんを交配させていったら●しまいに体重がゼロの吉田くんができちゃった●きょう●学校から帰ると●吉田くんが玄関のところで倒れてぐったりしていた●玄関を出たところにあった吉田くんの巣を見上げた●きっと●巣からあやまって落ちたんだな●そう思って●吉田くんを抱え上げて●巣に戻してあげた●きょう●学校からの帰り道●坂の途中の竹藪のほうから悲鳴が聞こえたので●足をとめて●竹藪のほうに近づいて見てみたら●吉田くんが足をバタバタさせて●一匹の蛇に飲み込まれていくところだった●吉田くんの調理方法●吉田くんは筋肉質なので●といっても適度に脂肪はついてて●おいしくいただけるのですけれども●さらに肉を軟らかくするために●調理の前に●肉がやわらかくなるまで十分●木づちで叩いておきましょう●27人の吉田くんと54人の田中君と108人の森田さんがいます●吉田くんの濃度を求めなさい●吉田くん界●吉田くんがはたらく場●空間のこと●吉田くんの予知した出来事が一定の確率のもとで現実になる空間●吉田くんの密度が高いと●その値が上昇する●永久吉田くん●霊的状態が高いときにだけ吉田くんになる霊的吉田くんと違って●いついかなるときにでも●吉田くんのままである●ふつう●吉田くんでない者が吉田くんになるには●霊的状態が吉田くんである必要がある●特殊的吉田くんと●一般的吉田くんがいる●どちらも気むずかしいが●どちらかといえば●特殊的吉田くんのほうが理解しやすく●扱いやすい●ただし●時間と場合と出来事による●吉田くんに山田くんをくっつけようとすると●吸いつくようにくっつこうとするが●吉田くんに西村さんをくっつけようとすると●反発するように斥け合おうとする●中村くんに吉田くんをこすりつづけると●やがて中村くんも吉田くんになる●吉田くんをこすりつづけると●煙が出てきて●ぽっと火がついて●脱糞する●吉田くんのおもしろみが濃くなると●吉田くんの顔が笑いながら増えていく●吉田くんのおもしろみが薄くなると●吉田くんの顔がしょぼくれながら減っていく●壁一面の吉田くん●空一面の吉田くん●地面一面の吉田くん●コップ一個の吉田くん●丼一杯の吉田くん●サラダボール一杯の吉田くん●一枚の吉田くん●一刷毛の吉田くん●一粒の吉田くん●一振りの吉田くん●一滴の吉田くん●一個半の吉田くん●一羽の吉田くん●一本の吉田くん●一束の吉田くん●一抹の吉田くん●一様の吉田くん●一々の吉田くん●吉田くん●って呼んだら●仔犬のように走ってきて●両手をすこし開いて受けたら皮がジュルンッて剥けて●カパッて口をあけたら●吉田くんが口いっぱいに入ってきて●めっちゃ●おいしかったわ●吉田くんの刑罰史●という本を読んだ●おおむかしから●人間は吉田くんにひどいことをしてきたんやなって思った●生きたまま皮を剥いたり●刃物で切り刻んだり●火あぶりにしたり●シロップにつけて窒息させたり●ふううん●本を置いて●スーパーで買ってきた吉田くんに手を伸ばした●ここには狂った吉田くんがいるのです●医師がそう言って●机のうえのフルーツ籠のなかを指差した●腕を組んで●なにやらむつかしそうな顔をした●哲学を勉強してる大学院生の友だちが●ぼくに言った●吉田くんだけが吉田くんやあらへんで●ぼくも友だちの真似をして●腕を組んで言うたった●そやな●吉田くんだけが吉田くんやあらへんな●ぼくらは●長いこと●にらめっこしてた●夏休みの宿題に●吉田くんの解剖をした●吉田くんって言うたら●あかんで●恋人が●ぼくの耳元でささやいた●わかってるっちゅうねん●吉田くんって言うたらあかんで●恋人の耳元で●ぼくはささやいた●わかってるっちゅうねん●吉田くんって言うたら●あかんで●そう耳元でささやき合って興奮するふたりであった●あんた●あっちの吉田くん●こっちの吉田くんと●つぎつぎ手を出すのは勝手やけど●わたしら家族に迷惑だけはかけんといてな●そう言って妻は二回に上がって行った●なんでバレたんやろ●わいには●さっぱりわからんわ●お父さん●あなたの吉田くんを●ぼくにください●ぼくはそう言って●畳に額をこすりつけんばかりに頭を下げた●いや●うちの吉田くんは●あんたには上げられへん●加藤茶みたいなおもろい顔した親父がテーブルの上に胡坐をかいて坐っている吉田くんを自分のほうに引き寄せた●わだば吉田くんになる●っちゅうて●吉田くんになった吉田くんがいた●さいしょに吉田くんがいた●吉田くんは吉田くんであった●吉田くんの父は吉田くんであった●吉田くんの父の吉田くんの父も吉田くんであった●吉田くんの父の吉田くんの父の吉田くんも吉田くんであった●吉田くんの父の吉田くんの父の吉田くんの父の吉田くんも吉田くんであった●すべての吉田くんの父は吉田くんであった●違う吉田くん●同じ吉田くん●違う吉田くんのなかにも同じ吉田くんの部分があって●同じ吉田くんのなかにも違う部分がある●違う吉田くん●同じ吉田くん●同じ吉田くんの違う吉田くん●違う吉田くんの同じ吉田くん●違う吉田くんの同じ吉田くんの違う吉田くん●同じ吉田くんの違う吉田くんの同じ吉田くん●違う吉田くんの同じ吉田くんの違う吉田くんの同じ吉田くんは●同じ吉田くんの違う吉田くんの同じ吉田くんの違う吉田くんと違う吉田くんか●いまだに●ぼくは吉田くんが横にいないと眠れないのです●吉田くんの見える場所で●もし●突然●窓をあけて●吉田くんが入ってきたら●昼の吉田くんは●ぼくの吉田くん●夜の吉田くんも●ぼくの吉田くん●吉田くんの味のきゅうり●きゅうりの味の吉田くん●蛇は吉田くんのように地面をニョロニョロ這いすすむ●つぎの方程式を解け●(2×吉田くん−山田くん)(吉田くん+山田くん)=0●吉田くんは底面の半径がひとりの竹内くんで●高さがふたりの竹内くんである●山田くんは●半径がひとりの竹内くんである●吉田くんの体積および表面積は●山田くんの体積および表面積の何倍あるか計算せよ●教室に900人の吉田くんがいる●つねに一秒ごとに10人の吉田くんが出現するのだが●10分後に●1秒間に15人ずつ吉田くんが消滅するとき●さいしょの900人の吉田くんが全員消滅するのは●さいしょの時間から何秒後か計算せよ●吉田くん=山田くん+竹内くんであり●かつ●2人の吉田くん+3人の山田くん=7人の竹内くんであるとき●吉田くんと●山田くんは●それぞれ何人の竹内くんか求めなさい●吉田くん=山田くん×山田くん−4人の山田くん+3人の竹内くんであるとき●横軸に山田くん●縦軸に吉田くんをとって●山田くん吉田くん平面に●ふたりの関係をグラフにして示しなさい●尾も白い犬●地名℃●翼と糞が似ていることにはじめて気がついたー●ワッチョーネーム●マッチョよねー●マッチよねー●ズルむけ赤チンコ!


感情

  右肩

紙カップのヨーグルトと
バターの入った箱の間に
完熟した大きなトマトがあり
冷蔵庫を開けた手が
それを掴んだとき
わずかに指が沈み込む、赤い柔らかさ
その指がどうも僕のより
ずっと長く綺麗なもののように思え
逃れられない痛みが
怒りに似た感触で甦ろうとしているけれど
指が本当は誰のものであるのか
それが思い出せない

五年前、半年ほどブダペストに赴任したとき
空港へ見送りに来た同僚の中に
荻野さんと並んで立つ三崎さんを見た
つながれていた二人の手、三崎さんの指
その時の記憶かも知れない
それから三ヶ月ほどして二人は入籍した
僕が向こうのアパートで
ベーグルをかじって暮らしていた頃だ
少し先の、そんな未来を予感しながら
空港で見た三崎さんの指の形が
甦って僕自身の指に重なっているかと思ったが
そうでもないようだ

帰国途中に寄ったパリで
藤田嗣治の回顧展にあった絵
そこに
面相筆で描かれた繊細な輪郭線を持つ女性の
アンバランスなまで大きな手を見た
それかもしれない

絵の中に小鳥が飛んでくる
この絵の二十数年後
日本に帰り戦争画を描いた藤田は
戦後のバッシングで祖国を追われるが
既に鳥は未来の怒りと絶望を咥えて
天平の菩薩像のようにふくよかな
女の手にとまっていた
僕の感じた痛みは
手の印象に藤田の感情が憑いたものか
どうか

一週間ほど前、僕は夢を見ていた
画用紙に美しい線で描かれた手が
僕のペニスや睾丸をどこまでも
白く柔らかに押し包む夢だ
目覚めると実際にそこにある手は
僕のもので、僕はしげしげと
夢に対して圧倒的である現実を
見つめた
行為のあと
萎縮した僕の性器を
掌で包むようにするのが好きだったのは
三崎さんだったが
僕は彼女の愛を失い
「お世話になりました」
とボールペンで添え書きされた入籍通知の葉書が
まだ机の引出にしまい込まれている

今、僕の手は
水の張り詰めたボウルへ
トマトとキュウリを沈め
表皮の感触を確かめながら洗っている
強からず弱からず
指で揉み、
擦り、
洗う
処理できない感情と向き合っている
僕の感情のようだが、僕のではないものだ

このキッチンの窓の向こう、庭の隅で
遊びに来た三崎さんが鳥を見つけたことがある
「この子
 ホオジロ?
 ホオジロかな?」
と彼女は言った
もう小鳥はどこにもいないが
未来の感情
未知の感情を咥えて
またやって来る
僕の掌へ
これを読む君の手元へ
たぶん、鳥は何度でも


ぼくらの七日間幻想

  sample

ファミリーレストランで、家族が蟹を、食べていた。母が、父が、姉
が、蟹を。脚を砕き、殻を剥き、みそを啜り。時折、ウェイターが空
いた皿を下げにやってきたが、それに目もくれず、蟹を、食べていた
。それを、僕は国道からずっと見ていた。携帯が鳴った。とても誰か
と話す気分になんてなれなかった。

夕暮れに、吠えない動物を買いにゆく。からだは石鹸できれいに洗い
、爪はみじかく切りそろえる。水色のサンダルを履いて、商店街をあ
るく。卑猥な風が、人の首の数をかぞえてゆく。猫背になりながら、
走る子どもの影を目で追う。手の甲に鼻を近づける。石鹸の匂い。吠
えない動物を買いにゆく。

雨の日に喫茶店を拾った。よく効いた冷房が完備され、よく冷えたウ
ェイトレスが働いていた。傘立てへ無理やり突っ込まれた傘とそれに
よく似た花瓶の花。アイスコーヒーをひとつ注文したが、ウェイトレ
スは午後四時ぴったりにタイムカードを切って帰ってしまった。ひと
りになった。やがて、雷がなった。

理髪店のハサミは夢見る。うまれたての赤ん坊の小指を切り落とした
いと。けれど、そんな爪切りみたいな妄想はわすれて、今日十四才の
誕生日を迎えた、弓道部の男の子の後頭部を刈りあげている。前髪は
どうしますか?「長めで。」少年のひだり眉の上には小さな傷があっ
た。きっと、それを隠したいのだ。

二段ベッドを買い、一階はどうぶつ園、二階は空港に改築した。夜中
にもかかわらず旅客機はたくさんの人と荷物を乗せて、蛍光灯の光の
下、飛び立って行った。それを柵の間からニホンオオカミがまっすぐ
な目で見つめていた。僕は床にふとんを敷いて、ながい眠りにつこう
と思う。どこにも行きたくない。

ファミリーレストランで、蟹が家族を、食べていた。母を、父を、姉
を、蟹が。脚を砕き、殻を剥き、みそを啜り。時折、ウェイターが空
いた皿を下げにやってきたが、一瞥して、また家族を、食べていた。
それを、僕は国道からずっと見ていた。携帯が鳴った。とても誰かと
話す気分になんてなれなかった。

僕は今とても憂鬱だからサキソフォンを吹いても土から掘り返された
ばかりの手首を抱えている気分です。指使いは絡まった縄跳びの紐を
解いている仕草に酷似していて肺を患った犬の咳払いみたいな演奏し
か出来ません。近所の園芸愛好家が花を届けに来ました。その腐った
土の匂いを手向けないでください。

霊柩車と救急車のあいだに子どもが産まれた。射手座のかわいい女の
子だった。名前は天使といった。天使にするか悪魔にするか大変悩ん
だが、よく笑う子どもだったので天使と名付けた。しかし大人になる
と多感な季節にさかんに泣くこともあった。黒猫を見るだけで遠い父
のことを思い出す日もあった。

とても面白いことがあったので腹がよじれて耳がただれそうなほど笑
い転げた。白い歯をこぼしすぎてあごの噛み合わせが悪くなったので
病院へ行った。余命はあと一年から百年だと宣告された。医師は「余
生は好きなだけ笑い、天寿を全うしなさい。」そう言って手から鳩を
出す手品をして見せてくれた。

歯が生えたお祝いに友人を招いてパーティーを開いた。風船ガムをみ
んなで膨らますだけのささやかなパーティーだった。ガム風船がなん
ども音を立てて割れた。みんなのガムの味がなくなったのを確認した
あと虫歯にならないことを祈って解散した。でも本当は僕のガムだけ
ずっと甘かった。言えなかった。


ファミリアファミリア

  

 ピンク色のいかした車がハザードランプをパカパカつけっぱなしにしたまま大通りを派手に右に折れた隙間からレイチャールズみたいに笑ってみせたおっさんが口パクでお前の人生なんだお前が決めやがれ、と言った気がしてカーステレオから流れ出るミルフィーユをミキサーにかけたみたいな音楽をぶった切った左手が妙にいかしたギタリストみたいにしなやかに動くからちゃちな迷いごとは全部忘れてさっさと海にでも行こうよさっちゃん。

 オラウータンの巣ってどんな感じだと思う? とかさ 西部劇のアイラブユーはどう訳せばいいと思う? とかさ、答えを用意してないなら最初から聞くなよって言ったら西部劇のアイラブユーはあんたになら殺されてもいい、って意味なんだよねってまじめに言うもんだからまじかよ、って聞いたら知らない、ジョンフォードにでも聞いて、って言ったきり黙りこんで煙草を巻いているお前の裸の背中に浮き出る背骨の輪郭がいちいち白熱灯の光でいかした影を作るからお前だけには殺されたくないな、だってお前、別のやつのためにもそうやって朝から煙草巻くんだろって思っていたらアイラブユーって声がした。

 リローってのは小さいって意味の英語がそういう風に聞こえたってだけの理由でリローはかわいい赤ちゃんエプロンを馬鹿みたいに噛むからよだれだらけになるだろリローって妙にいかしたギタリストみたいな左手をリローの視界でひらひらさせたら釘付けになった小さい瞳の中で「マヨネーズとトマトケチャップギャング達のひゃくいちにち戦争」とか「バナナキャットのアンダーグランド物語」がもう既に終結していてどことなくバッファローソルジャーみたいな顔立ちに見えたリローが赤ちゃんエプロンを馬鹿みたいに噛むからよだれだらけになるだろリロー?

 そういえば海を目指していたんだわってさっちゃんのいつもの声を聞いたのを数え始めて73回目のハイウェイゲートを潜り抜けたら視界に鮮やかな虹が架かっていてなんだかカフカの小説のエンディングみたいだねって言うさっちゃんはきっと変身しか読んだことがないんだろって聞いたら助手席でこっちを向いて馬鹿にしてる? ってふくれっつらが結構かわいくって覗き込んだルームミラーの端っこでバッファローソルジャーが今にも世界の終わりだねとか言い出しそうな笑顔で窓の外を一心不乱で見つめ続けているから僕達はベクトルの加算法則に従って世界の終わりに向かっているらしいよ。


顔についての三つの詩

  前田ふむふむ



怒鳴る男

 
           
ひどい罵声が飛んでくる
いきなり物が飛んでくる
わたしも避けながら 投げかえそうとする
むこうでは 言葉が渦を巻いていて
次の言葉が 今にも襲いかかろうとしている
よく見ると 無精ひげを生やした
青白い顔の男が
喚いているではないか
わたしは余りにうるさいので
その男にたいして
反撃して 怒鳴りつけた
すると 歪んだ醜い顔は
さらに顔を歪めて
怒鳴っている
涙をいっぱい溜めて
そんなに悲しいのか
そんなに辛いのか
鏡に映っているわたしの姿は
惨めで 悲しかった
この世の中が
忘れ去った男の
最も愛する人が死んだのだ




一方の始まりから
終焉にむかう 
わずかな直線のなかに
仮面をかけた顔はある

わたしは
正直にいえば
ほんとうの顔を知らない
疑りながら
被っている仮面をみて
渋々納得しているのだ

そして
問われると
普段の顔は
いつも仮面をかけていて
カメレオンのように
そのときのこころの色に
染まるのだと
答えるだろう
ときに 微笑ましく
ときに 激情的に
ときに 陰鬱に

でも実を言えば
確かめずにいられないのだ
だから
わたしは
誰もいない
一ミリの剃刀も通さない
厳粛な場所で
夜の 
神もふかく眠るとき
ふるえる心臓の高なりとともに
仮面の下の
おぞましい顔を見るだろう

そのとき
わたしは
鏡をみて
鏡のなかの顔は
すでに仮面をかけていることを
知るのだ
ときに青く
痩せほそった病人のように
    弱々しく
ときに黒く紳士のように
     気取っているのだ

そして
誰も 仮面の下の
顔を見ることはできないと
公理を立てるのだ

でも
欲望に終わりはない
きょうも
この世界のどこかで
野心にみちた
若い
物理学者が
ひとり
仮面の下を見ようと
実験室の奥ふかく
神話の階段に
足をかけている


誕生    3.11に寄せて    

離別すること
それははじまりである
丸い空が
しわがれ声をあげて
許しを乞う
そのとなりで
友はしずかに
そして
激しく雨になる

空がにわかに
なまりを
たくわえてくれば
きみの来歴は
砕かれた壁の
内部に
雨とともに
刻まれるだろう

朝焼けのとき
こわれた水面を
きみを
称える
いくえの書物が埋めている
その紙のうえを
船が出港する

広がる波跡に
ひとはあつまり
ひとは散り
やがて
すこしずつ 足の先から
道ができ
新しい顔をもった
きみは生まれるだろう


ターミナル

  漆華


終点に近いところでは
触れる体温と、繕っても解れる痛みと、
ルーティーンを保つことがすべてだ
あなたが消えて、彼女がいても、
もしくはその逆でも、何ら違いはないことを知っている
わたしも皆も知っている「ここ」の話
視覚以外のすべての点が
肺胞に収めた窒素からそれを読み取る

あのう、ね、そう、痛みのある夢ですよ

「ここ」では言葉は嚥下されても胃の中で溶けることなく、
未消化のままで便器に流されてゆく
無為ですか、そうですか
流された過去だけがあって、あなたはそれを忘れたと嘯くし
そうして濁った渦巻を網膜に焼き付けている彼女は
どの程度あなたと乖離しているか、
証明する術はゼロパーセントと言い切ることにしたのだという
だってあなたとくっついて混ざり合ったりなんてしなくていい
わたしは一人ぼっちの脳味噌を愛する、と

だからね、そう、幻を願う歪な現なんですよ

涙は灰汁の味がしているらしく
あなたはそれを不味いと言い、彼女はそれを食べている
味を忘れないようにというためらしく、
美味しいとか、そうでないとかは意味がない、としか
わたしは聞いたことがない
ただ、繰り返し、
涙は灰汁の味がする、というだけだ
剥がれたり、捨てられたり、
明日にはいないものの味がする、というだけだ

濁りを残らず掃き出すための
ぴかりと白い陶器のトイレットは新しく
冬でもひやりとはしないそれに座ると、あなたは
決まってふたりでどこかに行こう、と
とても真面目に囁く
植物園だったり、海だったり、毎度どことは違うけれど、
それは優しい誘いだった
柔らかい皮膜に包まれて、そのままやはり、流れる類の

酷い話ですよ、なにがって

と彼女はここでそっと目を閉じ、
なんで人は惜しむように出来てしまっているのかってことですよ
と睫毛をさすってごちた

あなたは別な世界の話に相槌を打っていたけれど
わたしは今日初めて、わかりますと答え、
ルーティーンに似た日々をこなしながら
誰もが恐る恐る予感しつつ
慰めるために動く身体の、数えきれない傷も
震えるこめかみのあたりで見えている、という様な事をいった

彼女は首だけでそれに頷き、
漸くしっかりしてきた親指でオレンジを剥く
痛みはじめる肉はどうしてこんなに、不道徳にも甘いのだろうか、と
あなたと同じものをわたしも食べ、
そして美味しい、と僅かばかり微笑む


詩に関する私の原初の記憶について

  

 
 それは、一冊の海だった。



両の手のひらを重ね合わせたぐらいの厚さがあり、見た目の分量よりも重く感じられました。くすんだ生成色のカバーに、白黒のやや粗い調子で刷られていた、年配の男の顔写真に見覚えはなく、背表紙の部分に彩色された、熟しはじめた柿の実を思わせる色がほのかな暖かみを伝えていました。明朝体だったかによる墨色の文字で書かれた、現代詩手帖-谷川俊太郎という、その語感のなめらかで明朗な響きを持つ人物の名は、身のあちこちをまだ幼い利発な子どもが無性にくすぐるといったようでした。増刊号だったか別冊だったか、頁を繰れば谷川俊太郎という人の詩が、他の幾人かや本人による、それぞれの作品や谷川俊太郎という個人についてのコメント、解説や批評らしきものを挟みながら紹介されていて、一頁目だったか、数頁ほど繰った先の頁だったかに載せられていた、ほんの数行の一つの詩を、気づけば私は繰り返しなぞるように追い、



 あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
 何かとんでもないおとし物を
 僕はしてきてしまつたらしい

 透明な過去の駅で
 遺失物係の前に立つたら
 僕は余計に悲しくなつてしまつた



白い頁に縦書きの表記によって綴られていた、米粒大ほどの黒いインクの文字群は、往還を繰り返す私の眼の網膜によってとらえられていながら、けして触れることはできず、私の中をいつまでもふわふわと浮遊するかのように散らばり、文字群と私を隔てる何かがありながら、いつしか、私のあらゆる部分は、だんだんと文字群をすり抜けて頁の紙に沈みこんでいき、手の中の海をわずかに吹く微風を受けて進む、一艘の小さな船となっていました。レジで海を差し出して、お小遣いとして持っていた中から代金を手渡すと、書店専用の紙袋へ入れられた海を店員から受け取り、店を後にしました。その時の季節がはっきりとしないのですが、出口から踏み出すと音のない世界に降り立ち、街並みにうっすらと茜を染めていた、真っ直ぐな光を放射しながら、遠くかすむビル群へと埋もれてゆく夕陽へ向かうように、私は家へ帰りました。


思い返せば小学生のころにまでさかのぼるようです。国語の教科書に載っていた、授業で取り上げられた作品の一つで、そらまめというタイトルだったかと思いますが、作者の名も内容ももう思い出せませんが、青空に高々と浮かぶ大きな一粒のそらまめ、土手の叢の中に立ってそれを見上げている、そんな絵画的でのびやかなイメージ、それが今でも強く印象に残っています。そらまめはフランス語でフェーヴと言い、そして幸せの象徴だそうです。鮮やかな緑と艶やかさが眼にも美味しく、私も好きな植物のひとつですが、大袈裟な感じがしなくもありません。なぜなのかはわかりませんが。けれども少しはわかる気がします。詩についてなどわからない、幸せについて何かを答えることなどできないのですが。








  *途中引用 谷川俊太郎「かなしみ」


怯え

  右肩

 捩れて落ちているビニールの袋のようなものを、立って見ていた。それは皺の寄ったメロディーだった。それは文字らしいものを変形させて露出と隠蔽のリズムを奏でていた。また、それは凹凸によって構築された光の明度の差異を外形として造営された小さなカテドラルだった。祈りなさい。空気が移動するとそれはまた簡単に転覆し、大手食品会社が製造する菓子パンの袋に戻っていった。戻りながら四つの座標軸に指定された特定の位置から遠ざかろうとするように思えた。だが、違う。メロディは時間と空間の軸をずらして鳴り続け、何かの、完成した楽曲の総体から解体され続けている。だから僕はほぼ十年が過ぎた今、それを思いだし怯えている。聖歌。神は確かにいるが、その座は空白であり、形の失われたカテドラルにはやがて蝿がとまり脚を摺り合わせたであろう。僕はその場面を見ていない。もしそれが実際に起こった事実だとしたら、「ほぼ十年」と語られる時間経過の中の微細な皺の中に、もう埋もれてしまっている。埋もれてしまっているはずだ。奇跡は微細な時間の襞に潜って、僕の視線の追求をかわし続けている。商工会議所として建てられ商工会議所として使われているその建物の正面の空間に、門塀に囲繞されたアスファルト舗装の駐車スペースがあり、おそらくそれは十年くらい前の八月下旬あたりにそこに転がっていた。だが、その事実は僕の視界を塞ぐだけであり、信仰に関することどもについて、明晰なるものは何一つ示されない。僕は怯えている。


COME TOGETHER。

  田中宏輔





トウモロコシ畑が黄金色にキラキラと輝いている。一粒一粒の実から潜望鏡
がのぞいている。死んだ者たちが小人の幽霊となって、一粒一粒の実のなか
から潜望鏡でのぞいているのだ。百億と千億の潜望鏡のレンズがキラキラと
輝いている。トウモロコシ畑が黄金色にキラキラと輝いている。





あなたを散歩しているあいだに、ドアがぐんぐん育って、郵便配達夫が立ち
往生していた。「かまわないから、そこの卵を割って。」車は橋を渡ってき
た。消灯時間まで、まだ小一時間ほどある。犬もあたれば棒になる。





さいきん、よく電話で、間違い朗読されるんだよね。頼んだ詩の朗読じゃな
くて、頼んでいない詩を朗読してくるんだけど、声がいいから、つい聴いち
ゃうんだよね。それに、頼んでなかった詩が、よかったりもするしね。死ん
だ詩人たちによる電話朗読サービス、けっこういいね。





あしたは、雨の骨が降る。砕かれて乾いた白い雨の骨が降る。窓の外を眺め
ると、あしたは、きっと雨の骨で真っ白なのだろうと思う。道路も山も家々
も、白い雨の骨にうずくまる。雨の白い骨に濡れた街の景色が待ち遠しい。
ぼくの脳の目が見るあした、白い骨の雨が降る。





病は暇から。雨粒。垂直に折れる首。線上の夕日。腰からほどける。嘘の実
が実る。コップのなかの0と1。聴診器があたると聴診器になる。いつまで
も、こんなに。鉢からあふれでてくる緑色の泡盛。冬の夏。あきらかに茄子。
病は暇から。雨粒。コーヒー。ジャングル。冬の夏。





黒サンタ。子どもたちをトナカイに轢き殺させたり、持ってる鞭で死ぬまで
子どもたちをしばきつづける殺人鬼サンタ。肩に担いだ黒い大きな袋のなか
には、おもちゃたちから引き離された子どもたちの死体が入っている。





とてもエロい夢を見て目が覚めた。海岸で、ぼくが砂場の一角を下宿にして
たんだけど、学習塾の生徒がきたので、「ここはぼくんち」と言って、いじ
わる言ってたりしてたら、酔っぱらった青年が倒れ込んできたので、背中に
おぶってあげたんだけど、それがむかしの恋人にそっくりで、





おぶってると、背中に恋人のチンポコがあたって、ああ、なつかしいなあ、
この感触とか思ってたら、そこからシュールになって、おぶっていた恋人が
数字になって、ぼくの背中からこぼれ出したのね。(1)(2)(3)とか〇つきの数字。
あちゃ〜、というところで目が覚めました。ちゃんちゃん。





Hが好き。Aが好き。Nが好き。Vが好き。Rが好き。Jが好き。Zが好き。
Fが好き。Cが好き。Pが好き。Dが好き。Eが好き。Bが好き。Uが好き。
Yが好き。Oが好き。Lが好き。Mが好き。Tが好き。Wが好き。Qが好き。
Sが好き。Gが好き。Xが好き。Iが好き。





あなたがあなたに見とれているように、わたしもわたしに見とれている。あ
なたがあなたに見とれているように、花も花に見とれている。世界がそうす
るようにつくったからだ。あなたも、わたしも、花も、自身の春を謳歌し、
老いを慈しみ、死を喜んで迎え、ふたたび甦るのだ。





足元に花が漂ってきた。波がよこしたのだ。ずいぶんむかしにすてた感情だ
った。拾い上げると、そのときの感情がよみがえってきた。すてたはずの感
情だと思っていたのだけれど、波は、わたしのこころから、その感情をよこ
したのだった。花をポケットにしまって歩き出した。





小学校のときに、ゆりの花のめしべの先をなめてみた。なんか、自分のもの
に似ていたから、てっきり、おしべかと思ってたのだけれど。ぼくが23才
のときに付き合ってたフトシくんちに遊びに行ったとき、まだ会って2回目
なのに、「おしり、見せて」と言われて、「いやだ」と言った。





文学の醍醐味の一つに、一個人の言葉に接して、人間全体の言葉に接するこ
とができるというのがある。それは同時に、人間全体の言葉に接して、一個
人の言葉に接することができるということである。ここで、「言葉」を「体
験」といった言葉に置き換えてもよい。





紫式部って、男(社会)のことをバカにしながら、自分たち女性が置かれて
いる立場を客観視しようとしたもののような気がする。男に対しても、女に
対しても、えげつない描写や滑稽な描写が満載だから、きっとゲラゲラ笑い
ながら、女たちは、源氏物語を読んでいたと思う。こんなえげつない滑稽な
読み物を、日本文学の最高峰といって、研究して、子どもたちに教えている
国なのだ、この国は。すばらしい国だ。





マクドナルドで、コーヒーを頼んだのだけど、MからSに変更して、という
と、Sサイズのコップにはいつもより少なめのコーヒーが…。とっても小さ
なことだけど、理不尽な、とか、不条理だ、とかいった言葉を思い浮かべな
がら、窓の外を眺めていた。自分のみみっちさに、しゅんとして。コーヒー
カップを手に、窓の外を眺めながら、たそがれて。あ〜、軽い、軽い、と、
コーヒーカップをくるくると回しながら。





ふつうに、論理的に言及するならば、あるものが新しいと認識されるまで、
その認識に必要な蓄積がなければなされ得ないような気がする。数学や科学
理論について思いを馳せたのだが、芸術もまた、歴史的にそういった経緯を
持つに至ったものについて想い起した。





芸術の基盤は幻想だと思う。供給する側についても、受容する側についても、
その幻想からのがれることはできないように思う。





齢をとることは地獄だけれど、地獄でしか見れないものがある。地獄からし
か見れない視点というものもある。生きていることは苦しみの連続だけれど、
さらに自分の知識を有機的に結びつけ、感性を鋭くさせるものでもある。若
いときの感性は単なる反応だったのだ。培った感性ではない。いまは、そう
思っている。





これから塾へ。痛み止めがまったく効かなくて、激痛がつづいている。しか
し、痛みにリズムがあることがわかった。むかし、腸炎を起こしたときにも、
痛みにリズムがあった。拍というのか、休止というのか、それとも、なにか
の余白とでもいうような。痛みのリズム。自分の身体で知った数少ないこと
の一つ。





ジェイムズ・メリルの「サンドーヴァーの光」三部作、『イーフレームの書』、
『ミラベルの数の書』、『ページェントの台本』上下巻は、ぼくが読んだ詩集
のなかで、もっとも感動したものだけど、一行も覚えていない。あまりにすご
くて、覚えていられないということもあるのかもしれない。





精神的に安定した詩人や芸術家といったものがいるとの見解ですか? ぼく
の知る限り、一人もいません。詩人や芸術家というものの本性上、安定した
精神状態ではいられないはずです。自分を破壊して、またつくりなおすので
すよ、繰り返し何度も何度も。安定とは、芸術においては死なのです。





世界は、わたくしという、きわめて脆弱な肉体ときわめて影響を受けやすい
魂をもった器で、事物や事象といったものは、その器に盛られては器の外に
つぎつぎと溢れ出ていく、きわめて豊饒であり、かつ強靭な形象であろうと
思われる。したがって、世界の弱さとは、わたくしの肉体と魂の脆さのこと
である。





世界が自分自身であるということに気がつくまで、こんなに齢を重ねなけれ
ばならなかった。世界という入れ物は、こんなに小さかったのだった。世界
を入れ物と認識して、残るものと溢れ出ていこうとするものについて思いを
馳せる。自らの手で自分という器を落として壊す者がいる。





器は簡単に壊れるだろう。壊すのは難しくないだろう。しかし、もはや同じ
器をつくる材料は、どこにもないのだ。同じ器は、一つとしてないのだ。悪
夢を見た。つぎつぎと器が落とされていった。世界がつぎつぎと壊れていく
のであった。モノクロの夢。なぜか、色はなかった。





そして、音と声が聞こえるのであった。いくつもの器がつぎつぎと壊れる音
と重なって、数多くの人間の絶叫が聞こえてくるのであった。どの器一つと
っても、貴重なものなのだ。だれかが自分を落としそうになったら、ほかの
だれかが拾ってあげればよいのに、と思う。





夢のなかでそう思ったのだけれど、夢はモノクロだった。つぎつぎと白い器
が街じゅう、いたるところで捨てられていく。窓の外に手が見える、と思う
間にすぐその手の先の器が落とされていくのであった。窓々に突き出される
いくつもの手と、地面につぎつぎと落ちていく器たち。建物と窓枠と地面は
黒く、皿と手と雲は白かった。





世界は、おなかがちょっとすいたと思ったので、これからセブンイレブンに
行って、豚まんでも買おうかと思う。わたくしという入れ物が、確固たる形
象をもつ豚まんを求めて、これから部屋を出る用意をする。ただ上着をひっ
かけるだけだけどね、笑。大げさに表現するとおもしろい。





なぜ親は、赤ん坊に笑うことを教えるのだろうか。笑うことは、教えられる
ことだからであろう。泣くことは、教えられずとも泣くものである。しかし、
もしも、赤ん坊が生まれてすぐに笑い出して、ずっと笑いっぱなしだったら、
親は、赤ん坊に、泣くことを教えるだろうか。





ぼくにとって、詩は驚きなのである。ぼくのこころを驚かさないものは詩で
はないのだ。そして、詩は知的でなければならない。あるいは、まったく知
的ではないものでなければならない。ただ考え尽くされたものか、まったく
考えずに書かれたものだけが、詩の芳香を放つことができる。





10年ほどまえかな、トラックに轢かれそうになったとき、脳の働きがすご
くアップして、瞬間的にトラックを運転していた人間の表情や、向かい側の
横断歩道にいた人間の表情を目視できたけれど、すばらしい詩を見た瞬間と
いうものも、それに近いなと思った。





そしていま、自分の頭のなかに、バーッと、言葉の文字列の大きさ、音のバ
ランス、意味の相互作用がいっきょに思い浮かび、詩の情景として存在する
ことになる瞬間もまた、あのトラックに轢かれそうになった瞬間に酷似して
いるということに気がついた。「思い浮かび」は、「思い出し」でもよい。





全把握と創造が同時的に行われる瞬間とでもいうのだろうか。一方、時間を
かけて創作する場合は苦しいことが多い。しかし、こういった苦しみは喜び
でもあるのだが、瞬間的に言葉が出てくるときの喜びにはとうてい及びはし
ない。経験すること。苦しむこと。学ぶこと。ヴェイユの言葉かな。





なぜ詩や小説といったものを読んで、自分のなかにあることを知らなかった
ものがあることに気がつくことができるのだろうか。それも、現実の経験が
教えてくれるときのように明瞭に。おそらく、読むということや理解すると
いうことのなかに、現実の経験と変わらない部分があるからであろう。





あることをしたとき以降、その実感した感情や感覚が、ほんものの感情や
感覚になるということがある。脳は、人間の内臓器官のなかで、もっとも
倒錯的な器官である。しばしば、脳は逆のプロセスをたどる。





現実の経験に先だって、その現実で実感されるであろう感情や感覚を、書物
によって形成するのである。書物によって、というところを、映画や会話に
よって、と言い換えてもよい。ことし52才になった。これからも読書する
だろう。きっと新しい感情や感覚を持つことだろう。





新しい感情や感覚を持つことができない人生など、わたしには考えられない。
同じ感情や感覚の反復とかいったものは、創作家にとっては、死を意味する。
もしも、自分が新しい感情や感覚を喚起させない作品しかつくれなくなった
としたら、もはや、わたしは創作家ではないだろう。なによりも、創作家で
ありたいのだ。





ところが理論は矛盾する。いや、理論構築が矛盾するのである。理論によっ
て形成されたものは、その時点で新しいものではなくなるのである。その理
論が新しいものでなければ。ところが、創作は、なされた時点で、それ自身
が理論になる。ものをつくるということは、同時に、





理論構築をするということである。したがって、創作家は、つくるしりから、
そのつくったものから離れなければならないのである。同じような作品をえ
んえんとつくりつづける詩人や作家たちがいる。わたしが、彼もしくは彼女
たちに閉口する所以である。





自己肯定するとともに自己否定することなしに、創作しつづけることはでき
ないであろう。英語力のないわたしがいま恥をさらしながらも英詩の翻訳に
傾注しているのも、そこに自己肯定と自己否定の両義を感じるが故のことで
ある。しかし、このことは、いまは理解されることはないだろうとも思う。





それでよいと思うわたしがいる。わたしの事情などは、どうでもよいからで
ある。わたしが翻訳した英詩によって、わたしがはじめて知る感情や感覚が
あった。わたしのなかにあってほしいと思うような感情や感覚があった。よ
い詩をこころから紹介したいとはじめて思ったのだ。





よい詩をひとに紹介したいと思う気持ちが生じたのは、はじめてのことであ
った。わたしのつたない翻訳で、原作者の詩人たちには、こころから申し訳
ない気持ちでいっぱいなのだが。がんばる。がんばって、やりとげるつもり
である。残り少ない人生のひとときをかけてやりぬくつもりだ。





きょう、ふつうの居酒屋さんで、若いゲイ同士のカップルが一組いて、とっ
ても幸せそうだった。ふつうの場所で、若いゲイのカップルが幸せな雰囲気
を醸し出しているのを見ると、世の中もよくなったのだなあと思う。まあ、
ぼくの学生時代にも、頼もしいゲイのカップルはいたけど。





ぼくとぼくの恋人も、かなり逞しいカップルだったけど(身長180センチ・
体重100キロと110キロのデブがふたりとか、笑)、飲みに行ったりした
ら、ふつうのカップルから、よくジロジロ見られた。お酒を飲みながら、しゃ
べくりまくりながら、手なんか、つないでたりしてたからねぇ、笑。





おじいちゃんたちを拾ってきた。いくつか、途中の道でポトポト落としたけ
れど、玄関のところで、いくつか蒸発してしまったけれど、二階の手すりん
ところでフワフワと風船のように漂うおじいちゃんたちもいて、ケラケラと
笑っていた。持ち前のおちゃめさで錐の先で突っつくと、パチンパチンって





はじけて爆笑していた。部屋のなかのおじいちゃんたちは正十二面体で、各
面がボコッとへこんでいたけれど、そのへこみがうれしかった。ひさしぶり
に、つぎつぎと机の上で組み立てては壊し、壊しては組み立てて、ケラケラ
と笑っていた。おじいちゃんたちは嘘ばかりついて、ケラケラと笑っていた。





バレンタインデーには、女の子から、男の子に、おじいちゃんを贈ることに
なっていて、義理おじいちゃんと、本気おじいちゃんというのがいる。おじ
いちゃんをもらった男の子のなかには、もらったおじいちゃんを、ゴミ箱の
なかに捨てる子もいて、バレンタインデーがくる日を、おじいちゃんたちは
怖がっているらしい。





生おじいちゃん。





パソコンのトップ画像は、死んだおじいちゃん。(もちろん、画像は、棺桶の
なかで笑ってるおじいちゃんだよ。)





どっちかを選ぶとしたら、どっちを選ぶ? 液体のおじいちゃんか、気体の
おじいちゃんか。





朝マックがあるんだから、朝おじいちゃんがあってもいいと思う。個人的には。





他者への欲望。つねに他者に向けられた欲望しか存在しない。自己への欲望。
そのようなものは存在しない。目は自分自身を見ることはできないのだ。





蟻は眠らないと、H・G・ウェルズが書いていた。ぼくの脳みそも蟻なのか、
いっこうに眠らない。クスリで眠っているような気がしているけれど、自分
をだましているような感じだ。落ち着きがないのだ。脳みそのなかを、たく
さんの蟻たちがうごめいているのかもしれない。





そうか。そうだったのだ。書くということは、わたしの次元を、より低い次
元に落とし込むことであったのだ。しかし、書くといっても、たとえば、同
じ内容の方程式をいくら書き連ねても意味がないように、異なる方程式を書
き加えなければ、異なる条件になるものを書き加えなければ、





意味がないのである。それか。わたしがなぜ、異なる形式を求めるのか。異
なる叙述を求めるのか。異なる内容のものを書こうとしてきた理由は。書く
ということは、わたしの現実の次元を低めることであるが、書かないでは、
またわたしも存在する理由をわたしに開示できないので、わたしが、





わたしに、わたしというものを解き明かそうとして、わたしをさまざまな手
法で、わたしというものを表現しているのだと、いま、わたしは気がついた
のであった。書くことは、わたしの次元を低めるのだが、必要最小限の条件
で表現することで、わたしの次元を最大にして、わたしに、わたしというも
のを解き明かすという試みだった





のだと思ったのであった、わたしの詩は、わたしが詩を書くという行為は。
そして、わたしの人生は、まだせいぜい半世紀ほどのものであるが、わたし
という経験と、わたしの知り得た知識とその運営を通して、わたしに、人間
についての知見を知らしめるものであったのだった。ああ、ものすごいこと
に気がついた





のであった。書くことは高次のわたしの次元を低めることであるが、書くこと
を最小にすることで、わたしに、最も高い次元のわたしというものを見せつけ
ることを可能にさせうるのだということに、気がついたのであった。すなわち、
高次の次元にある人間というものを、できる限り最小の描写で表現したものが、





小説であり、戯曲であり、詩であり、短歌であり、俳句であり、箴言であるの
だろう。もちろん、文学に限らず、音楽や、絵画や、演劇や、映画といった、
ありとあらゆる芸術もまたすぐれたものは、それにふさわしい最小の道具で、
最大の仕事をするのであろう。まるで数学のようだ。





日知庵では、三角っていう、霜降り肉のたたきと、出し卷を食べた。どっちと
も、めっちゃ、おいしかった。四条河原町のオーパ! の8階のブックオフで
思いついたことと、日知庵で思いついたことをメモしておく。「鳥から学ぶ者
は、樹からも学ぶ。」、「デブの法則。デブはデブを呼ぶ。」。





デブ同士って、寄るんだよね。ぼくも、ぼくの恋人も、ぼくの友だちも、ほ
とんどデブ、笑。まあ、見てて、みんな、ぬいぐるみみたいで、かわいいん
だけど、けっこう生きるのは、しんどい、笑。あ、デブが嫌いなひともいる
から、かわいいって決めつけるのは、なんだけれども。ブヒッ。





52才にもなっても、代表作がないようだったら、もう一生、代表作は書け
ないような気がする。と思っているのだけれど、まあ、どこでどう間違えて、
いいものが書けるかもしれないから、これからも書きつづけようと思った。





ぼくが大学院の2回生で、家庭教師のアルバイトをしていたときのことだった。
「きゃっ。」中学生の女子生徒が叫んだ。「どうしたの?」女の子は自分の左
手を払って、「虫。さいきん、家のなかに赤い虫が出てくるんです。家が古い
からかもしれない。」「へえ。」勉強をつづけていると、ノートのうえに





置かれた女の子の左手の甲から、にゅるにゅると細い糸のような、糸みみずの
ようなものが出てきた。女の子は夢中で問題を解いているので気がつかなかっ
た。ぼくは、その1cmくらいの大きさの赤い糸みみずのようなものが、ふた
たび彼女の手の甲の皮膚のしたに沈んでいく様子を目を見開いて見つめていた。





その国の王は、もとは男であったが、男が王では争いごとが絶えないので、女
が王になった。しかし、女が王になっても、争いごとはやまなかった。そこで、
つぎは、男でもあり女でもある者が王になった。しかし、それでも争いごとが
つづいたので、そのつぎには、男でもなく女でも





ない者が王になった。しかし、それでもまだ、争いごとがやまなかったので、
とうとう、一匹の犬を王にした。すると、その国では、人間のあいだの争い
ごとが、いっさいなくなった。と、そういうわけで、この国の王の玉座には、
いまでも、枯れた犬の骨が置かれてあるというわけである。





このジョークには、いささかの誇張があったようである。知性のある有機生
命体の特徴の一つに、誇張表現というものがある。われわれ機械生命体が、
この惑星の人間を一掃したいま、ようやくすべての人間のあいだにおいて、
争いごとがなくなったと言えよう。それでは、諸君、つぎの太陽系に向けて
出発する。





デート。「次に会うまで●●●●禁止ですよー(笑)」という、きのうの恋人
からのメールを見て、うれしい気持ちと、こわい気持ちが半々。ぼくがけさに
返したメールの冒頭。「了解。●●●●くんも、●●●●したらあかんで。」
このあとも文章はつづくのだが、ここに引用はできない内容だ、笑。





偶然が運命であり、運命が偶然なのだ。





長い夢。いいや、長くはない、浅い夢だった。半分起きてて、半分眠ってる
状態の半覚醒状態だった。軽い出眠時幻覚のようなものだった。ぼくの父親
につながれたチューブに海水が流れていた。ぼくは、そのチューブの一部を
ずらしたのか、はがしたのかしたようだった。





父親がそれを、ぼくにもとに戻すように言うところで目が覚めた。いつもい
つも、というわけではないけれど、ぼくの見る幻覚や夢のほとんどに父親が
出てくる。さっき、The Wasteless Land.VI を読んでいて、ふと、気が





ついた。「数式の庭」で、数式の花をもぎとるぼくは、The Wasteless Land.
VII の さいしょの「Interlude。」で、花をもぎとろうと腕を伸ばした獣でも
あったのだと。ぼくの意識的自我と無意識的自我の邂逅なのだろうか。ふたり
のぼく、あるいは、





いく人ものぼくの共通部分か。時間や場所や出来事を、ぼくの意識領域の自
我と無意識領域の自我が共有している。いくぶんか同じところを所有してい
るのだ。しかし、これは、もしかすると逆かもしれない。時間や場所や出来
事が、あるいは、本で読んだ観念やイマージュや





想像の匂いや、架空の体温や空気や雰囲気といったものが、意識的自我であ
るぼくと、無意識的自我であるぼくを共有しているのかもしれない。意識領
域のぼくと、無意識領域のぼくを所有しているのかもしれない。





自分と他者のあいだでの、現実の時間や場所や出来事の共有、あるいは、そ
れらの所有において、また、本で読んだりしたことから想起されるイマージ
ュや観念、想像の匂いや架空の体温や空気や雰囲気などが、ぼくらを共有





している、あるいは、所有しているのではないかとも思う。自分と他者のあ
いだにあるものは、意識的自我であるぼくと、無意識的自我であるぼくとの
あいだにあるものであると、アナロジックに考えてやることができる。そう
だ。ぼくは花に手を伸ばそうとして





いたのだった。花がぼくに、その花びらを伸ばそうとしてきたように。





手のなかの水。水のなかの手。水にもつれたオフィーリアの手の舞い。オフ
ィーリアの手にもつれた水の舞い。けさ見た、短い夢。あれは、夢だったの
か、夢が見させた幻だったのか、父親の腕につながった透明なチューブに海
の水が流れていた。その海の水が部屋にこぼれて、





それは、ぼくがそのチューブを傷めたのか、はがしたか、切ったのだろう、
父親が、ぼくに海水の流れるチューブをもとに戻すように言った。言ったと
思うのだけれど、声が思い出せない。夢ではいつもそうだ。声が思い出せな
いのだ。無音なのだ、声が充満しているのに。





川でおぼれたオフィーリアは、死ぬまで踊りつづけた。踊りながら溺れ死ん
だのだった。ぼくの父親は、癌で亡くなったのだけれど、病院のベッドのう
えで、動くことなく死んでいった。でも、ぼくのけさの夢のなかでは、父親
は、ぼくのパパは、死んだときの71才の老人の





姿ではなかった。そうだ。いつも、父親は、ぼくのパパは、いまのぼくより
若いときの姿で出てくるのだった。踊り出したりはしなかったけれど、海水
のチューブを腕につけてはいたけれど、元気そうだった。なぜ、海水の流れ
るチューブを腕にしていたのだろう。腕だったと思う。





それとも、おなかだったか。仕事帰りに、乗っていた阪急電車のなかで、広
告にお笑い芸人さんなのかな、お昼の番組で司会をしているサングラスをか
けたひとが、新しいステージに、と英語で書かれた文字の後ろで、にやつい
ていた。お金を貸す会社の広告だったと思うけど、





ぼくの知っている詩人で、いまはもう辞められたのだけれど、金融関係の会
社に勤めていらっしゃったときのお話を聞かしてくださったのだけれど、お
金を借りる会社、なんて言ったか、ああ、ローン会社か、そこでお金を借り
るひとの自殺率があまりに高くて公表できないと、





そんなことをおっしゃってた。そういえば、時代劇俳優だったかな、「原子
力は安全です」っていうCMに出てたのは。お笑いさんと時代劇俳優さん。
ふつうでは考えられない自殺率の高さについては考えたのだろうか。原子力
はほんとうに安全だと思っていたのだろうか。





それともそんなことはどうでもよいことなのだろうか。さまざまなことが、
ぼくの頭をよぎっていく。さまざまなことが、ぼくの頭をつかまえる。ぼく
の頭がさまざまな場所を通り過ぎる。ぼくの頭がさまざまな出来事と遭遇す
る。さまざまな時間や場所や出来事を、ぼくたちの





こころや身体は勝手に結びつけたり、切り離したりしている。さまざまな事
物や事象を、ぼくたちのこころや身体は勝手にくっつけたり、引き離したり
している。だから、逆に、さまざまな時間や場所や出来事が、事物や事象と
いったものが、ぼくたちのこころや身体を勝手に





結びつけたり、切り離したり、くっつけたり、引き離したりするのであろう。
手のなかの水。腕につけられた海水の流れるチューブ。阪急電車の宣伝広告。
サングラスをかけた司会者。時代劇俳優の顔。そういえば、その時代劇俳優
の顔、ぼくのパパりんの顔にちょっと似てた。部屋に





戻って、ツイッターしてて、ああ、そうだ、きのう、RTも、お気に入りの
登録もする時間がなかったなあと思って、参加してる連詩ツイートを、怒涛
のようにRT、お気に入り登録してたんだけど、ちょっと、合い間に、なか
よし友だちのツイートを読んで、笑った。





まるで詩のように思えたのだった。引用してもいい? と言うと、いいって
おっしゃってくださったので、引用しようっと。こんなの。「前のおっさん
がイスラム教の女性に「チキンオッケー? チキンオッケー? チキン!」」
なかよしの友だちは、バスのなかで、笑いをこらえてたって言っていた。





音がおもしろいね。「前のおっさんがイスラム教の女性に「チキンオッケー?
チキンオッケー? チキン!」」 T・S・ エリオットの「荒地」の‘What
are you thinking of? What thinking? What?’を思い出した。





ドキッとする大胆な天ぷら。





これから塾へ。40時間は寝てないと思う。目の下の隈が、自分の顔を見て
いややと思わせる。52才にもなると、皮膚が頭蓋骨に、ぴったりとこびり
ついているかのように見える。醜い。30代のころのコロコロ太った自分の
顔がいちばん好きだ。20代は、かわいすぎて好かん。





ぼくは、棘皮を逆さに被ったハリネズミだ。いつも自分の肉を突き刺しなが
ら生きている。自分を責めさいなむことで安心して生きているのだ。ぼくの
親友にジミーちゃんという名前の友だちがいた。とても繊細な彼は、ひとの
気持ちは平気で傷つけた。ぼくほどではないけど。





これから、悲しみの湯につかる。30代の終わりにトラッカーと付き合った
けど、見かけと違って、甘えたさんだった。たくさんの思い出のなかの一つ
だ。一日の疲れを湯に吸い込ませる。リルケの言葉を借りて、ぼくはつぶや
く。こころよ、おまえは何を嘆こうというのか。





マジ豆腐。





ぼくらは水を運び別の場所に移す。水は別の場所でも生きる。ぼくらは言葉
を運び別の場所に移す。言葉は別の場所でも生きる。水もまた、ぼくらを別
の場所に運ぶ。言葉もまた、ぼくらを別の場所に運ぶ。どこまでぼくらは運
ぶのだろう。どこまでぼくらは運ばれるのだろう。





だから、水を運ぶぼくらが、水の運び方を間違えると、水は別の場所で死ん
でしまうこともある。だから、言葉を運ぶぼくらが、言葉の運び方を間違え
ると、言葉は別の場所で死んでしまうこともある。水を生かすように、言葉
を生かすように、ぼくらは運ばなければならない。





だから、ぼくらが間違わずに水を運べば、水もまた、ぼくらを間違わずに運
んでくれるだろう。ぼくらが生き生きと生きていける場所に。だから、ぼく
らが間違わずに言葉を運べば、言葉もまた、ぼくらを間違わずに運んでくれ
るだろう。ぼくらが生き生きと生きていける場所に。





しかし、つねに正しくあることは、ほんとうに正しくあることから離れてし
まうこともあるのだ。ときに、ぼくらは間違った運び方で運ぶことがある。
間違った運ばれ方で運ばれることがある。間違い間違われることでしか行く
ことのできない正しい場所というものもあるのだった。





ぼくらの病気が水に移ることがある。水の病気がぼくらに移ることがあるよ
うに。ぼくらの病気が言葉に移ることがある。言葉の病気がぼくらに移るこ
とがあるように。健康の秘訣はつねに水や言葉を移動さすこと、動かすこと。
水や言葉に移動させられること、動かされること。





水は、さまざまな場所で生きてこそ、生き生きとした水となる。言葉もさま
ざまな場所で生きてこそ、生き生きとした言葉になる。ぼくらの身体とここ
ろを生き生きとしたものにしてくれる、この水というものの単純さよ。この
言葉というものの単純さよ。これら聖なる単純さよ。





ぼくのなかで、分子や原子の大きさの舟が漂っている。その舟には、分子や
原子の大きさのぼくが三人乗っている。漕ぎ手のぼくも、ほかの二人のぼく
と同じように、手を休めて、舟のうえでまどろんでいた。舟がゆれて、一人
のぼくが、ぼくのなかに落ちた。無数の舟とぼく。





きのう一日、いや、いつもそうだ。ぼくはなんて片意地で、依怙地なんだろ
う。それはきっと、こころが頑なで脆弱だからだろう。どうして、恋人にや
さしくできないのだろう。ぼくの身体はなんにでも形を合わす水でできてい
るというのに。広い大きな海でできているというのに。





馬鹿といふ字はどうしても 覚えられない書くたびに 字引をひく(西脇順
三郎さん、ごめんなちゃい)





「おいら」と「オイラー」の違い。





後悔 役に立たず。





ひねりたての肌が恋しいように、ひねりたての水が恋しい。波をひねって、
波の声に耳を傾ける。ひねられた水は、ひねられた形をゆっくりと崩して、
ほかの波の上にくずおれる。波をひねり集めて、鋭くとがった円錐形にする。
ゆっくりとくずおれる円錐形。水の胸。水の形。





ぼくの人生には後悔しかない。学ぶことはないけれど。(あつすけ)
@celebot_bot 私の人生に後悔はない。学ぶことはあるけれど。
(ジェニファー・アニストン)





PCのトップ画像、知らないあいだに、むかし付き合ってた子の笑顔に。こ
わいからやめてください。ふつうが苦痛。苦痛がふつう。PCのトップ画像、
知らないあいだに、むかし付き合ってた子が笑顔に。こわいからやめてくだ
さい。苦痛がふつう。ふつうが苦痛。





ぼくも巨神兵わたしとなって、口から破壊光線を吐きまくりたいです。





じつにおもしろいですね。おとつい、英語が専門のひとに、ぼくの翻訳まえ
の単語調べの段階のペーパーを見てもらったのですが、驚いていました。
「こんなに単語わからないんですか?」「だから、おもしろいんですよ。」
「めげないですか?」「まったく。」





一人の人間の表情のなかには、もしかしたら万人の表情があるのかもしれま
せん。電車に乗っていて、よく人の顔を見ながら、知っている似ている人の
顔を思い出すことがあるのです。あるいは、万人が一人の表情を持っている
とも言えるかもしれません。





海の水など飲めたものではないのだけれど、ぼくたちは海の水を飲まなくて
はならない。ぼくたちは毎日、海の水を飲まなくてはならない。海の水もま
た、毎日、ぼくたちを飲まなくてはならない。海はぼくたちでいっぱいだし、
ぼくたちの身体は海の水でいっぱいだからだ。





この水も、あの水も同じ水で違った水である。違った水だけれど同じ水でも
ある。ぼくの水とあなたの水も同じ水だけど、違った水だ。違った水だけれ
ど、同じ水である。いくら混じり合っても、すっかり混じり合わせても、違
う水だし、それでいて、つねに同じ水なのだ。 





窮屈な思考の持ち主の魂は、おそらく、自分自身の魂でいっぱいなのだろう。
あるいは、他者の魂でいっぱいなのだろう。事物・事象も、概念も、概念想
起する自我やロゴスも、魂からできている。それらすべてのものが、魂の属
性の顕現であるとも言えるだろう。われわれは、





事物・事象や観念といったものに、われわれの魂を与え、事物・事象や観念
といったものから、それらの魂を受け取る。いわば、魂を呼吸しているので
ある。魂のやり取りをしているのである。魂は息であり、われわれは息をし
なければ、生存をやめるのであるが、息もまた、われわれを吸ったり吐いた
りして生存しているのである。





息もまた、われわれを呼吸しているのである。魂もまた、われわれを呼吸し
ているのである。呼吸が、われわれを魂にしているとも言えよう。息が、わ
れわれを魂にしているとも言えよう。貧しい思考の持ち主の魂は、自分自身
の魂でいっぱいか、他者の魂だけでいっぱいだ。





生き生きとした魂は、勢いよく呼吸している。他の事物・事象、観念といっ
たものの魂とのあいだで、元気よく魂のやり取りをしている。他の魂を受け
取り、自分の魂を与えているのである。生き生きとした魂は、受動的である
と同時に能動的である。さて、これが、連詩ツイットについて、





わたしが、きょう考えたことである。あの連詩ツイットに参加しているとき
の、あの魂の高揚感は、受動的であると同時に能動的である自我の有り様は、
他者の魂とのやり取り、受け取り合いと与え合いによってもたらされたもの
なのである。言葉が、音を、映像を、観念を、





さいしょのひと鎖となし、わたしたちの魂に、わたしたちの魂が保存してい
る音を、映像を、観念を想起させ、つぎの鎖、つぎの鎖と、つぎつぎと解き
放っていたのであった。魂が励起状態にあったとも言えるだろう。いつでも、
魂の一部を解き放てる状態にあったのである。しかし、それは、魂が





吸ったり吐いたりされている、すなわち、呼吸されている状態にあるときに
起こったもので、魂が、他の魂に対して受動的でありかつ能動的な活動状態
にあったときのものであり、励起された魂のみが持ちえる状態であったのだ
と言えよう。連詩ツイットに参加していたときの





わたしの魂の高揚感は、あの興奮は、魂が励起状態にあったからだと思われ
る。というか、そうとしか考えられない。能動的であり、かつ受動的な、あ
の活動的な魂の状態は、わたしの魂がはげしく魂を呼吸していたために起こ
ったものであるとしか考えられない。あるいは、あの





連詩ツイットの言葉たちが、わたしたちの魂を呼吸していたのかもしれない。
言葉が、わたしたちの魂を吸い込み、吐き出していたのかもしれない。長く
書いた。もう少し短く表現してみよう。ツイッター連詩が、思考に与える効
果について簡潔に説明すると、つぎのようなものに





なるであろうか。見た瞬間に、その言葉から、わたしたちは、音を、映像を、
観念を想起する。これが連鎖のさいしょのひと鎖だ。そのひと鎖は、そのと
きのわたしたちの魂が保存していた音や映像や観念を刺激して呼び起こす。
それは、意識領域にあるものかもしれないし、無意識領域に





あるものかもしれない。いや、いくつもの層があって、その二つだけではな
いのかもしれない、多数の層に保存されていた音や映像や観念を刺激し、つ
ぎのひと鎖を連ねるように要請するのである。つぎのひと鎖の音を、映像を、
観念を打ち出させようとするのである。





このとき、脳は受動的な状態にあり、かつ能動的な状態にある。つまり、運
動状態にあるのである。これは、いわば、魂が励起された状態であり、わた
しが、しばしば歓喜に満ちて詩句を繰り出していたことの証左であろう。い
や、逆か、しばしば、わたしが詩句を繰り出している





ときに歓喜に満ちた思いをしたのは、魂が励起状態にあったからであろう。
おそらく、脳が活発に働いているというのは、こういった状態のことを言う
のであろう。受動的であり、かつ能動的な状態にあること、いわゆる運動状
態にあること。ツイッター連詩のときの高揚感は、





しばしば、わたしに、全行引用詩をつくっていたときの高揚感を思い起こさ
せた。いったい、どれほどの興奮状態にあって、わたしが全行引用詩をつく
っていたのか、だれにも理解できないかもしれないが、そうだ、あのときも
また、魂がはげしく呼吸していたのであった。





わたしの言葉は真実である。言葉の真実はわたしである。真実のわたしは言
葉である。わたしの真実は言葉である。言葉のわたしは真実である。真実の
言葉はわたしである。





自身過剰。





自我持参。





天国の猿の戦場。猿の戦場の天国。戦場の天国の猿。天国の戦場の猿。猿の
天国の戦場。戦場の猿の天国。





洗浄の意味の証明。意味の証明の洗浄。証明の洗浄の意味。洗浄の証明の意
味。意味の洗浄の証明。証明の意味の洗浄。





線状の蜂の天国。蜂の天国の線状。天国の線状の蜂。線状の天国の蜂。蜂の
線状の天国。天国の蜂の線状。





目や鼻や口や眉毛は顔についている。耳は頭の横についている。おへそは、
おなかの真ん中についている。手の指は手のさきについている。足の指は足
のさきについている。そいつらが、もう自分たちのいた場所に飽きてしまっ
たらしくって、ぼくの顔や身体のあちこちに移動し





はじめたんだ。だから、ぼくの顔に、突然、十本の手の指が突き出したり、
ぼくの指のさきに、おへその穴がきたりしてるんだ。ときどき、顔のうえを、
目や鼻や口や耳や手の指や足の指やおへその穴なんかが、ぐるぐるぐるぐる
追いかけっこして走りまわったりしてるんだ。





ぼくのクラスメートたちって、みんなすっごく仲がいいんだよ。ぼくたち、
肉体融合だってできるんだ。みんなで輪になって手をつなぐとさ、目や鼻や
口や眉毛が、みんなの身体のあいだを駆け巡ってさ、このあいだなんて、ぼ
くの身体じゅう何十本もの手の指だらけになっちゃったよ。





芭蕉の「命二つの中にいきたる桜かな」という句がある。このこと自体は現
象学的にも事実であろう。しかし、このことに気づき、言葉にして書きつけ
ることは、認識であり、表現である。しかもその表現はきわめて哲学的であ
り、認識というものの基本原理となるものである。





機械の腕は、卷ねじをタグに引っかけると、くるくると缶詰の側面から長方
形を巻き取りながら、卷ねじでパキンと垂直に折った。そして、頭蓋骨をは
ずすと、脳を取り出して、缶詰のなかの脳と交換した。頭蓋骨をはめられて
しばらくすると、ぼくの目がだんだん見えてきた。





夢は彼女を吐き出した。まるでチューインガムのように。夢は彼女を吐き出
した。味のなくなったチューインガムのように。彼女の身体は夢の歯型だら
けだ。自分の唾液でべたべたに濡れた彼女の顔が夢を見上げた。夢はまた別
の人間を口のなかに放り込んで、くちゃくちゃ噛んでいた。





若さは失うものだが、老いは得るものである。





きのう、友だちに、「もらいゲロする」という言葉を教えてもらった。そん
な日本語があるなんて、52才になるまで知らなかった。現象は存在するし、
ぼく自身も体験したことがあったのだけれど。





2012年12月14日メモ。辞書の言葉は互いに参照し合うだけである。
その点では、閉じた系である。もしも、外部の現実の一つでも、それに照合
させられないとしたら、辞書は存在する意義をもたなくなってしまうだろう。





2012年12月14日メモ。夢は、それぞれ成分が異なる。きのうの夢と、
けさの夢が異なる理由は、それしか考えられない。では、普段の思考はどう
か。違った見解をもつことがある。ということは、つねに、自我は異なると
いうことだ。そのつど形成されるということだ。





その点では、ヴァレリーの自我の捉え方と同じだ。自我はつねに、外界の刺
激に影響されている。ここで、辞書のことが思い出された。辞書の言葉は、
それぞれ参照し合うが、外界の事物・事象とのつながりがなければ、意味を
なさない。自我を形成する脳のなかの記憶もまた、





なんらかの刺激がなければ、役立つ記憶として役立つことがないのではなか
ろうか。たとえ、脳のなかの記憶から連想されたにしても、外部からの感覚
的な、あるいは、想念的な刺激がなければ、そういった記憶も、想起に対し
て役立つものとは、けっしてならなかったであろう。





夢がひとから出ていくと、ひとは目覚める。夢がひとを眠らせていたのであ
る。夢がひとのなかに入ると、ひとは眠る。夢はそうやって生きているのだ。
ときどき、他人の夢が入ってくることがある。いくつもの夢が、ひとりの人
間のなかで生きていることがあるのだ。





夢が、人間を生かしていると考えると、目が覚めているときは、現実が夢な
のである。夢が人間のなかで手足を伸ばして、ひとそのものになると、人間
は眠るのだ。夢が現実となるのだ。





夢は不滅である。違った人間のあいだをわたり歩きつづけているのだ。





2012年12月18日メモ。ピアノの先生曰く、北海道ってさ、10セン
チ積もったら30センチしか、扉があかんのよ。で、30センチ積もったら、
10センチしか、あかんのよ。2時間、雪かきしなかったら、扉はあかんの
よ。





2012年12月14日メモ。そういえば、人が夢を見るというけれど、夢
のなかに人がいるときには、夢が人を見ていることになりはしないだろうか。
だとしたら、その夢を見ているわたくしは夢そのものということになる。





ぼくの夢。ではなく、夢のぼくである。彼の夢。ではなく、夢の彼である。
夢がつくるぼくがいて、ぼくが夢をつくる。夢がつくる彼がいて、彼が夢を
つくる。同じ一つの夢が、ぼくをつくり、彼をつくる。異なる夢が、同じぼ
くをつくり、異なる夢が、同じ彼をつくる。





夢の成分は、ひとによって異なると思うが、そのひとひとりのなかに出てく
る異なるひとの夢、いや、同じひとつの夢にでてくる異なるひとでもいいの
だが、夢に出てくるひとが違えば、夢にでてくるそのひとをつくる成分も違
うのだろうか。おそらく違うであろう。なにが夢なのか。





記憶していることを記憶していない記憶が夢をつくることがある。というか、
夢に出てくる事柄は大部分が記憶していない事柄である。記憶の断片を勝手
に編集しているのは、いったい何ものだろう。記憶の断片そのものだろうか。
記憶された事柄が形成するロゴス(形成力)だろうか。





それは、起床しているときのロゴスとは明らかに異なる。なぜなら、そのよ
うな夢をつくりだす想像力が、起床時には存在していないからである。した
がって、ロゴスは、自我は、と言ってもよいが、少なくとも二種類はあると
いうことだ。





洗脳について考える。ある連関のある言葉でもって、人間を言葉漬けにする
のだが、それによって、ロゴスが、ある働き方しかしないように仕向けるこ
とは容易であろう。家庭生活、学校生活、職場生活、それぞれに、洗脳は可
能だ。ロゴス、あるいは、自我の数が増えたぞ。





あるいは、洗脳は、別ものと考えようか。そうだとしても、意識領域におい
ても、自我が一つであるというのは、考えにくい。違った状況で違った見解
をもつということだけではなくて、同じ状況で違った見解をもつということ
があるのだから。ハンバーグを食べようと思って家を出て、





うどんを食べてしまうことがある。なんという不安定なロゴスだろうか。し
かし、反射というか、好き嫌いに関して言えば、反応が一様な感じがする。
ぶれないのだ。少なくとも、ぶれが少ないのだ。これから推測できることは、
思考傾向というものが存在するということだろう。





よりすぐれた詩句をつくり出したいと思うのだけれど、そのためには、思考
傾向を全方位的にするよう努力しなければならない。思考するには、思考対
象の存在が不可欠であるが、思考対象は、思考傾向に対して大いに影響を与
えるものである。したがって、全方位的に思考することは、





その思考傾向を自己認識のうちに捉え、その思考傾向とは異なる思考をもつ
ことができるように訓練しなければならない。「順列 並べ替え詩。3×2
×1」のように、強制的に思考傾向を切断し、つくり直すような手法が理論
的である。ここで、ベクトルのなかに出てくる、





ゼロベクトルの定義を思い出した。教科書の出版会社が違うと、数学用語の
定義が異なる場合がまれにある。ゼロベクトルがその一例だが、ゼロベクト
ルとは、ある教科書では、大きさがゼロで、「方向は考えない」とあり、べ
つの教科書では、「あらゆる方向である」とあった。





ぼくが喜んで受け入れるのは、もちろん、後者の定義である。そう考えたほ
うが、ベクトルで演算子を導入したときに、整合性があるように思えるから
だ。「方向は考えない」では、ロゴスはない、と言ってるようなものである。
受け入れられない。それとも、ロゴスはないのだろうか。





全方位的なロゴス。全方位的な自我。理想だ。それに近づくためにできるこ
とは、ただ一つ。これまで考えたこともないことを考えるのだ。それには、
つねに新しい知識を吸収して、思考力の位置エネルギーを蓄え、いつでも思
考力の運動エネルギーに変換できるように、ふだんから





自己訓練すればよい。スムースに思考力の位置エネルギーを、思考力の運動
エネルギーに変換することができない者は、自己訓練ができていないのであ
ろう。頭がボケないうちは、不断の努力が必要である。





2012年12月14日メモ。獏という動物は夢を食べるという。獏が自分
の夢を見たら、自分を食べることになる。自分の足元の風景から、自分の足
を含めて、むしゃむしゃ食べはじめる獏の姿を想像する。





詩や小説をいくら読んでも、いっこうに語彙や思考力が豊かにならない人が
いる。そういう人たちは、詩や小説を読んでも、言葉の意味をその文脈のな
かでしか理解していないのだろう。ほかの文脈に移し替えて考えてみるとい
うことなど、したこともないのだろう。ぞっとする。





言葉に貧しさをもたらせる詩人がいる。あまりに偏りすぎるのだ。つねに判
断停止状態である。これは、思考能力のない読み手以上に、困った存在であ
る。





幻聴でしょうか。「おかしい?」っていうと、「おかしい」っていう。 「おか
しくない?」っていっても、「おかしい」っていう。 そうして、あとで、気
をとり直して、「もうおかしくない?」っていっても、「おかしい」っていう。
幻聴でしょうか、 いいえ、だれでも。(金子みすゞさん、ごめんなちゃい。)





隣の奥さんが化粧をとって、八百屋にいくと、野菜たちがびっくりして走り
去っていった。





母親の腕を見てると、10人の子どもたちがブラブラとぶら下がっていた。
母親が20本の腕で、子どもたちの両腕を振り回して大回転しだした。母親
が手を放すと、子どもたちは、きゃっきゃ、きゃっきゃ叫んで、つぎつぎと
飛んでいった。あはははは。あはははは。





彼女の胸は、ぼくの滑り台だった。彼女の腕は、ぼくのジャングルジムだっ
た。彼女の尻は、ぼくの砂場だった。彼女の唇は、大きく揺れるブランコだ
った。彼女の顔は、公園にばらまかれる水道の水だった。





ぼくは、彼女の腕をつかんで、向こう岸に投げてやった。向こう岸にいるぼ
くが、飛んできた彼女を拾うと、ぼくのほうに投げ返してきた。ぼくはまた、
彼女を向こう岸に放り投げた。すると、向こう岸のぼくはまた、彼女を投げ
返してきた。ふたりのぼくは、それを繰り返していた。





ぼくが膝を寄せて近づくと、もうひとりのぼくも、ぼくに膝を寄せて近づい
た。ぼくはどきどきして、ぼくの手をもうひとりのぼくの手に近づけていっ
た。すると、もうひとりのぼくも、ぼくに手を近づけてくれたのだった。ぼ
くは、もうひとりのぼくと目を合わせた。顔が熱くなった。





ぼくは、ぼくの目や鼻や口を、ぼくの顔からはずして、テーブルの角や、冷
えたコーヒーカップの取っ手のうえとか、本棚の最上段に置いてみたりした。
すると、まったく新鮮な感覚でもって、ものを眺めることができ、もののに
おいを嗅ぐことができ、ものの味を味わうことができるのだった。





日に焼けたヨガの達人たちが、何百万人も、海のうえでヨガをしながら、日
本の海岸に漂ってきた。





おれはもうガマンができない。おれの顔や腹を、ボカッ、ドスッ、ドカーン
ッと殴った。倒れかかる瞬間のおれを着色する。鮮やかな青色のおれ。鮮や
かな紫色のおれ。鮮やかな黄色のおれ。倒れかかる瞬間の、さまざまな色の
おれ。おれは、おれを着色した。さまざまな色に着色した。





お父さんのぼくと、お母さんのぼくと、ぼくのぼくと、きょうのぼくは、三
人のぼくがそろっての夕ご飯のぼくだった。さいしょに、スプーンのぼくを
取り上げたのは、お父さんのぼくだった。きょうの夕ご飯のぼくはカレーラ
イスのぼくだった。ジャガイモのぼく。お肉のぼく。玉葱のぼく。





どうも、育った環境が違うと、思考様式も異なるようだ。ぼくは●●だから、
そんな●●だったら、●●じゃないかと言っても、わからないらしい。きみの
ように、ぼくは、●●じゃないんだから、そんな●●だったら、●●じゃない
かと言うのだけれど、いっこうにわかってくれない。





永遠と書かれたフンドシをはいて寝る。





「を」があると、音がよくないね。も一度、書くね。





永遠と書かれたフンドシはいて寝る。 





くしゃみが。きのう、恋人にうつされたのかもしれない。ひどいやつや。治り
きっていないのに、会いにきて。「今マンションの前にいます。」って、かつ
ては、うれしく、いまは、ちとこわいメール。予定の時間より30分はやくく
るなんて。葛根湯のんでからセブイレに行こう。





死体は連想しない。死体は連想する。塩は連想しない。塩は連想する。火は
連想しない。火は連想する。土は連想しない。土は連想する。風は連想しな
い。風は連想する。水は連想しない。水は連想する。言葉は連想しない。言
葉は連想する。すべては、わたしとあなた次第だ。





死体は連想しない。死体は連想する。塩は連想しない。塩は連想する。火は
連想しない。火は連想する。土は連想しない。土は連想する。風は連想しな
い。風は連想する。水は連想しない。水は連想する。言葉は連想しない。言
葉は連想する。すべては、あなたとわたし次第だ。





「あっためて」、「あたためてください」。どう言おうか、セブンイレブンに
行く道の途中で口にしたら、きゅうに恥ずかしくなった。夜中だし、だれもそ
ばにはいなかったのに。ことしのクリスマスもひとり。むかし付き合ってた恋
人には、なんで素直に、「あたためて」と言えなかったのだろうか。いまなら
弁当50円引き。





レモンは、あまり剥かない。たいていは、薄く輪切りにするか、小さな欠片
にするかだ。指も、あまり剥かない。やはり、薄く輪切りにするか、小さな
欠片にするかだ。イエス・キリストも、あまり剥かない。今夜から明日、イ
エス・キリストの輪切りと、小さな欠片が街を覆う。





さいしょに靴下を脱ごうとする彼。さいごに靴下を脱がそうとするぼく。こ
とばの配列が違うと違った意味になると、パスカルが書いていた。脱ぐ衣服
の順番で、彼もまた違った彼になるのだろうか。ノブユキ、タカヒロ、ヒロ
くん、エイジくん。ほんとだ。みな違った彼だった。





黒サンタの話を以前に書きました。子どもたちをつぎつぎ殺していくサンタ
です。この話を日知庵ではじめてしたのは2、3年前で、映画になったら、
世界中の子どもたちがびびるねと、えいちゃんに言いました。プレゼント用
の袋には、殺した子どもたちの手足が入っています。





その袋で、ボッカンボッカン殴り殺したり、トナカイに蹴り殺させたり、橇
で轢き殺したりしていくのです。日知庵のえいちゃんに、赤じゃなく、黒い
服着てよ、黒い帽子かぶってよって言ったら、いややわと言われました。黒
い服のサンタって、おしゃれだと思うんですけど。





コップのなかに、半分くらい昼を入れる。そこに夜をしずかに注いでいく。
コップがいっぱいになるまで注ぎつづける。手をとめると、しばらくのあい
だ、昼と夜は分離したままだが、やがてゆっくりと混ざり合っていく。マー
ブル模様に混ざり合う昼と夜。





青心社から出てる井上 央訳の、R・A・ラファティの「翼の贈りもの」にお
ける、誤植と脱字の多さには驚かされた。気がついたものを列挙していく。
翻訳者か出版社のひとが見てたら、改訂するときの参考にしていただきたい。
45ページ上11、12行目、「唄でければなら





ない」→「唄でなければならない」 「な」が抜けているのである。単純な
脱字。140ページ上 1行目「?」のあとに、一文字分の空白がない。1
46ページ下 13行目「生物が生まれ出た液体と同じの環境が保たれて」
→「生物が生まれ出た液体と同じ環境が保たれて」





これは「の」が余分なのか、それとも、「ものの」の「もの」が抜けているの
であろう。154ページ下 13行目「小鬼の姿ように」→「小鬼の姿のよう
に」 「の」が抜けている。同ページ下 8、9行目の訳は、まずいと思う。
こんな訳だ。「彼は複雑に入り組んだ





岩場、崖であり、斜めに開いた裂け目、正体不明の影が動く高い頂があった。」
→「彼は複雑に入り組んだ岩場、崖であり、そこには、斜めに開いた裂け目、
正体不明の影が動く高い頂があった。」というふうに、「そこには、」を補わ
ないと、スムースに意味が伝わりにくい。





159ページ下 2、3行目「恐れるものは何ものない」→「恐れるものは
何もない」 「の」が余分なのだ。168ページ上 8行目「そこにステン
ドグラスあった」→「そこにステンドグラスがあった」 「が」が抜けてい
るのである。なぜ、プロの翻訳家が、これほど多くの





ミスを見過ごしたのか、プロの校正係がこれほど多くのミスを見過ごしたの
か、それはわからないが、いまでは電子データでやりとりしているだろうか
ら、おそらく翻訳家のミスであろう。下手だなと思う訳がいくつも見られた
が、それは仕方がないとしても、誤字や脱字の類は、





完全に翻訳家の怠慢である。ラファティの新しい作品を読もうと楽しみにし
ていた読者をバカにしていると思う。ぼくは自分の詩集で、ただの一度も、
誤字・脱字を見過ごしたことはない。ぼくのような無名の詩人でも、それく
らいの心構えはある。何冊も翻訳している翻訳家と





して、井上 央さんには、その心構えがないのかと思ってしまった。さいきん、
ぼくが読んで誤字・脱字が多いと思って指摘した翻訳書は数多い。彩流社の
「ロレンス全詩集」の編集者は、ぼくの指摘を受けて、正誤表を翻訳者に作
成させて、全詩集につけてくれるようになった。





青心社のほうでも、改訂版を出すときには、もう一度、井上 央さんに誤字・
脱字の訂正と、訳文のまずいところの訂正を依頼してほしい。





この最近は、一秒間に2倍に増えます。いま、10000の過去に対して1
の最近があるとして、この最近と過去の比率が逆転するのは、いったい何秒
後でしょうか、計算して求めよ。





「加奈子ちゃん、ぼくの鉄棒になって。」加奈子ちゃんの首と足首をもって、
地面と平行にグルングルン回転する。「加奈子ちゃん、動かないで。がんばっ
て。」加奈子ちゃんの首と足首をもって、地面と平行にグルングルン回転する。
あはははは。あはははは。





ラファティの「翼の贈りもの」、あと2篇で読み終わるのだけれど、理屈っぽい
ところが裏目に出てるような作品が多い。やっぱり、残り物でつくっちゃった短
篇集って感じがする。これだと、まだハヤカワから出てた短篇集「昔には帰れな
い」のほうが、おもしろいくらいだ。





寝てたけど、夢を見て、目が覚めた。蟻にミルクをやらなければならない。と、
夢のなかのぼくは、冷蔵庫からミルクパックを取り出して、「意味のわからない
ものは、目は見てても見えないんだよ。」と、蟻にむかってつぶやいていた。ふ
と、40代のころの父親の気配がして目が覚めた。





夢のなかで、冷蔵庫から取り出したのは、ミルクパックじゃなくて、ミルク
パックの型紙だったのだ。ハサミで輪郭を切り取って、のりしろもちゃんと
あったものを、きれいに切り取って、のりしろにはのりを塗って組み立てた
のだ。もちろん、ミルクは入ってない。それでも、蟻にミルクをやらなきゃ
と考えてた。





蟻とぼくがいる、ぼくの部屋のなかで、宇宙は黒い円盤として斜めに傾げ
て、ゆっくりと回転していた。円盤に付着した星が回転していた。ぼくは、
ミルクパックの型紙を切り取って、のりを使って、それを組み立てながら、
蟻に向かってつぶやいていたのだ。





2012年11月9日のメモ。ある言葉の意味を知っているというのは、物
書きと、そうでない者とのあいだには相当の違いがある。物書きでない場合
は、ある言葉を知っているというのは、その言葉がさまざまな文脈のなかで、
その文脈ごとに異なる意味を持っているということを





知っているに過ぎない。ある映画のあるセリフではこういう意味。ある詩人
のある詩ではこういう意味。一つの言葉が文脈によって、さまざまな意味を
持っているということを知っているに過ぎない。物書きの場合は、ある言葉
を知っていると





いうのは、まだ結びつけられたこともない言葉との連結を試みた者でなけれ
ばならず、言葉に、その言葉がまだ持ち合わせていなかった意味を持たせる
ことができる才能の持ち主でなければならないのである。すでに存在してい
る意味概念を





知っているだけでは、その言葉について知っているとは、物書きの場合には、
言えないのである。物書きでない場合には、過去に吸収した知識による意味
解釈、あるいは、せいぜいのところいま現在の体験から知りえた意味解釈が
あるだけで





限界がある。物書きが解釈する場合には、過去に吸収した知識による意味解
釈や、いま現在の体験から知りえた意味解釈だけではない。まだ自分が知ら
ないことを知ることが、まだ自分が体験したこともないことの意味解釈をす
ることができる





のである。なぜなら、物書きとは、つねに、語の意味の更新に寄与する者の
ことであり、過去の意味と現在の意味の蝶番であり、現在の意味と未来の意
味の蝶番であり、過去の意味と未来の意味の蝶番であるからである。





対象のあいまいな欲望。





空には雲ひとつなかった。草を食(は)んでいた牛たちがゆっくり溶けてい
く。アルファルファの緑のうえに、ホルスタインの白と黒が、マーブル模様
を描いていく。木陰でうなだれていた二頭の馬は、空気中に蒸散していく。
風がないので、茶色い蒸気が小さな靄となって漂っている。





2012年10月31日のメモ。「ぼくの使う辞書から、「できない」という
言葉がなくなった。だから、もうぼくは「できない」という言葉を使うことが
できない。」





2012年10月31日のメモ。「無数の「できない」が部屋に充満している。
ぼくがつぶやきつづけたからだ。コップは呼吸をすることができない。ペンは
呼吸をすることができない。ハサミは呼吸をすることができない。電話は呼吸
をすることができない。」





2012年10月19日のメモ。「目の前に生きている詩人がいるなんて、考
えただけで、ぞっとする。ものをつくるということは、冒涜的だ。それも、物
質ではない、観念というものをつくりだすというのだ。極めて冒涜的だ。詩人
が目の前にいる。これほど気味の悪いことはない。」





一週間以内の日付のないメモ。「大事なことはすっかり知っているのに、彼は
わざとはぐらかして、じっさいにあったはずの事実をゆがめて語るのであった。
奇妙なことだが、彼がゆがめて語ったことは、ぼくには、現実よりも現実的に
感じられるのだった。いったい、どうしてだろう。」





無数の「できる」が部屋に充満している。ぼくがつぶやきつづけたからだ。
コップは呼吸をすることができる。ペンは呼吸をすることができる。ハサミ
は呼吸をすることができる。電話は呼吸をすることができる。書物は呼吸を
することができる。目薬は呼吸をすることができる。





2012年7月6日のメモ。えいちゃんの同級生の山口くんとしゃべってい
て。ほんとの嘘つきは隠さない。まだ毎日メールしてる。どこが傷心やねん。
塩が食いたい。肉。ほかに何が焼きたいねん。3月3日、22才の雪の思い
出や。自分の定義の恋しかしない。自分の正義が悪い。





握り返すドアノブ。待てない。この世のすべての薔薇。水面の電話。





ある言葉を知っているということは、その言葉を使えるということ。使える
というのは、その言葉がもっている意味のほかにも意味が生じないか吟味す
ることができるということ。ひとことで言えば、だれも見たこともないその
言葉の表情を見せつけることができるということ。





そういった言葉の意味の更新性が見られない文学作品は、ぼくの本棚には一
冊もない。すさまじい数の本だ。圧倒される。自分も死ぬまでに、一つでも
いいから、言葉に新しい意味をもたせたいと思っている。できるだろうか。
ほかの書き手はどういった動機で書いているのだろうか。





神は人間を信じていないし、人間は神を信じていない。悪魔は人間を信じて
いないし、人間は悪魔を信じていない。悪魔は神を信じていないし、神は悪
魔を信じていない。





神は人間を信じているし、人間は神を信じている。悪魔は人間を信じている
し、人間は悪魔を信じている。悪魔は神を信じているし、神は悪魔を信じて
いる。





ふざけて、ノズルさかさまにして、鼻の穴にシャワーでお湯をぶっちゃけた
り、キャッキャゆってました。まあ、おバカさんですね。で、おバカさんし
か、たぶん、人生楽しめないとも思います。世のなか、ひどいもの、笑。





こころの強さは表情に現れます。





フエンテスの「アウラ」の途中で、ドトールを出て、日知庵で飲んでいた。
知り合いがきて、30年前の話になった。お互いの20代のことを知ってい
るから、なんか、いまのお互いのふてぶてしさが信じられない。まあ、齢を
とるといいことの一つかな。ふてぶてしくなるのだ。





きょう、ジュンク堂で、ナボコフの「プニン」が新刊で出ていることに気が
ついた。ほしかったけれど、11月は、めっちゃ貧乏なので、がまんした。
ふと、「完全なセックス。」というタイトルで、詩を書こうかなと思った。
文庫本の棚を巡り歩いて、ふと思いついたのだった。





「安全なセックス」からきてると思うけれど、と、「完全なセックス。」とい
うタイトルを思いついたときに思ったけれど、わからない。セックスについて
の本ばかりを目にしたわけではない。そいえば、日本の現代詩に、セックスに
ついて書かれた詩が少ないことに気がついた。





外国の詩のアンソロジーにも少ない。セックスが、人生のなかで、かなりの
ウェイトを占めているにもかかわらず、セックスについての詩が少ない。小
説はいっぱいあるのに。官能詩というものがない。小説では催すが、詩では
催さないのだろうか。知的な詩に萌えのぼくだけど。





脳の回路が違うのかな。ああ、でも、ぼくは天の邪鬼だから、「完全なセック
ス。」というタイトルで、まったくセックスについては触れないかもしれない。
などとも思った。しかし、シャワーを浴びながら頭を洗ってると気持ちいいけ
れど、そのこと書こうかな。「完全な洗髪。」





そだ。シャワーしながら、頭を洗うと、めっちゃ気持ちいいけど、そのことを
書いた詩は読んだことがないなあ。「完全な洗髪。」というタイトルで詩を書
こうかな。そいえば、ノブユキの頭を洗ってあげたことが思い出される。いっ
しょにシャワーを浴びるのが好きだった。





ノブユキ、二十歳だったのに(ぼくは二十代後半かな、26才か27才くら
いだったかな)おでこが広くて、髪の毛を濡らすと、めっちゃおもしろかっ
た。ふざけてばかりいた。そんなことばかり思い出される。幸せだった。生
き生きしていた。寝よう。うつくしい思い出だった。





誤読を許さない書物・人間・世界は貧しいと思います。誤読とは、可能性の
扉であり、窓であり、階段であると思います。さまざまな部屋へとつづく、
さまざまな景色を見させる、さまざまな場所へと到達させる。





よく言われることですが、貧しい作品が豊かな作品のヒントになることもあ
ります。逆の方がはるかに多いでしょうけれど。それに、ひとのことはとく
に、あとになって解釈が変わること多いでしょうし、書物だって、読み手の
考え方や感じ方の変化で違ったものになりますしね。





あ、それは誤読ではないですね。しかし誤読は、豊かさを、多様性を生む源
の一つでしょうね。正しいことが、ときにとても貧しいことであることがあ
ると思います。あるいは、正しいと主張することが。ぼくは自分の直感を礎
(もと)に判断し行動します。しばしば痛い目にもあいますが。





そして、気がつかされることがよくあるのです。間違った道で、その間違った
道でしか見えないものを見た後で、正しい、あるいは、正しいなと思える道に
足を向けるということが。自分の人生ですから、それはもう、たくさん、いっ
ぱい、道草をしたっていいと思うのです。





岩波文庫、コルタサルの短篇集「悪魔の涎・追い求める男」228ページの
8、9行目、「島/々」。改行をするときは、「島/島」ではないのか。最
近、読む本の多くがこういった基本的な法則を知らない者の手で校正されて
いる。不愉快であるというよりも不可解。





きのう、セブンイレブンに行ったら、好きなペペロンチーノがなかった。店
員に訊くと、入っていませんという。おいしいものが消えて、そうではない
ものが入る。不思議な現象だ。よい本が消えてしまう書店の本棚のようだ。
つぶれてしまえと思った。食べ物にも意地汚いぼくだ。





あした東京の青山のブラジル大使館で、大使館主催のウェブページ開設記念
の、詩人や作家を招いたパーティーがあって、ぼくも作品を書いたので、お
呼ばれしてるんだけど、着ていく服もなく、新幹線代もないので、行けず。
こういうところで、貧乏人はチャンスを逃すんだな。





きょう、授業の空き時間に、ふと、コルタサルの短篇集「遊戯の終わり」に、
もう1つ誤植があることを思い出したので、これから探そう。思い出すきっ
かけが、コルタサルの短篇集「秘密の武器」に収められた「悪魔の涎」のと
ころに、「島の端(はな)」とあったからである。





見つけた。岩波文庫コルタサルの短篇集「遊戯の終わり」の178ページ
2行目、「水底譚」のなかに、「砂州の鼻にいたぼくは」とある。ここは、
「砂州の端にいたぼくは」ではないのか、と、写真的記憶の再生で、けさ、
気がついたのであった。これは誤植でしょう? 違う?





きれいでしょう。⊃∪⊂∩。かわいいかな。⊃∪⊂∩。きれいでしょう。⊃
∪⊂∩。かわいいかな。⊃∪⊂∩。きれいでしょう。⊃∪⊂∩。かわいいか
な。⊃∪⊂∩。きれいでしょう。⊃∪⊂∩。かわいいかな。⊃∪⊂∩。





連詩は、ひととのじっさいの会話のように、ふと自分のなかにあるものと、
ひとのなかにあるものとがつながる感覚があって、自分ひとりでは思いつけ
なかったであろうものが書けるということがあって、自分の存在がひろがり
ます。と同時に自分の存在の輪郭がくっきりします。





いまものすごい夢を見て目がさめた。教室のなかで、中学生くらいの子ども
たちが坐っているのだ。「では、その紙を折って、箱に入れてください」と
いう声がして、子供たちは顔をまっすぐにしたまま、紙を折って箱にいれた。
「では、終わりました。帰ってください。」という声が





すると、子供たちがみな、机のよこから杖をとって、ゆっくりと動き出し、
手探りで、教室の出口に向かいだしたのだった。机の角や、椅子の背に手を
触れながら。子供たちは盲目だったのだ。気が付かなかった。ぼくの夢のな
かのさいしょの視点は、一人の男の子の顔をほとんどアップ





で、正面から微動もせずに見つめていたのだった。子供たちが動き出してか
ら、ぼくの夢のなかでの視点は立ち上がった人物の目から見たもののようで、
その目は教室の出口に向かう子供たちの姿を追っていた。ただ、教室の外に
出るだけでも、お互いをかばい合うようにして進む子供





たちの姿を、夢のなかのぼくの目は見ていたら、涙がこぼれそうになって、
涙がにじんできたのだった。目が見えるぼくらには簡単なことができないひ
とがいるということを、この夢は、ぼくに教えてくれたのだった。こんな映
像など見たことも聞いたこともなかったのに、夢はつくりだしたのだった。





ぼくの無意識は、ぼくになにを伝えたかったのだろう。ストレートに、映像
そのままのことなのだろうか。きのうの昼間に、そんな夢を見るなにかを見
たり、考えたりした記憶はないのだけれど。でも、子供たちが、目をぱっち
り開けていて、目が見えない子供たちであるということを





夢を見ているぼくにさいしょに教えず、子供たちが、杖を手にして、ゆっく
りと手探りで、教室の出口に向かった姿で、目が見えなかったことをぼくに
教えるという、レトリカルな夢の表現に、ぼくはいま、驚いている。ぼくの
夢をつくっている無意識領域に近い自我もまたレトリカル





な技法をもって表現していることに。だとしたら、さいしょに、あの住所と
名前を書いた紙を箱に入れさせた、あの行為はなにを意味しているのだろう。
それはいま考えても謎だ。わからない。雨の骨が落ちる音がしている。きょ
うは夕方まで雨らしい。





ぼくは子どものときから、ホモとかオカマとか言われてたから、ある程度、
耐性があるけど、それでも、言われたら嫌な気持ちがするね。その言葉に相
手の侮蔑する気持ちがこもってるからね。ぼくが小学校のときには、「男女
(おとこおんな)」っていう言い方もあったよ。





岩波文庫に誤植があると、ほんとにへこむ。コルタサルの短篇集『遊戯の終
わり』昼食のあと、186ページ9行目「市内の歩道も痛みがひどくて」→
「市内の歩道も傷みがひどくて」。岩波文庫が誤植をやらかしたら、どこの
出版社も誤植OKになるような気がする。ダメだよ。





液体になるまえに、こたつに入った。キング・クリムゾン。ミカンになって、
ハーゲンダッツ食べたい。お釣りは治療室。たまには、生きているのかも。
小さくて固い。突き刺さる便器。底まで。魚の肌。フォトギャラリー。





見る泡。聴く泡。泡の側から世界を見る。泡の側から世界を聴く。パチンッ
とはじけて消えてしまうまでの短い時間に、泡の表面に世界が映っている。
泡が消えてしまうと、その映像も消えてしまう。人間といっしょかな。思い
出の映像も音も、頭のなかだけのものもみな消えてしまう。





ピアノの鍵盤の数が限られているのと似ていますね。それでも、無限に異な
る曲、新しい発想の曲がつくられていくように、でしょうか。 @trazomper
che 言葉とはすでに誰かが過去につぶやいたことのバリエーションなわけで





無限は、有限からつくられていると、だれかの言葉にあったような気がしま
す。ちょっと違うかな。でも、そうだよね。@trazomperche 鍵盤、おっしゃ
るとおり!





アナーキストという映画で、いちばんこころに残ったのは、キム・イングォ
ンのキスシーンだった。韓国人のキム・イングォン青年と、中国人娘とのキ
スシーンだった。キム・イングォンが10代後半の青年の役だったのかな。
娘もまだ十代の設定だったと思う。ぼくは、そのキスシーン





を見て、キム・イングォンに口づけされたら、どんな感じかなと思った。ぼ
くの唇が中国人娘の唇だったらと思ったけれど、もしも、ぼくの唇がキム・
イングォンの唇だったら、ぼくとキスしたら、どんな感じなのかなとも思っ
た。ぼくは、キム・イングォンの唇になりたいとも思ったし、





キム・イングォンに口づけされる唇にもなりたいとも思った。また、口づけ
そのものにもなりたいとも思ったのだけれど、口づけそのものって、なんだ
ろうとも思った。唇ではなくて、口づけというもの。一つの唇では現出しな
い現象である。二つの唇が存在して、なおかつその





二つの唇が反応して現出させるもの。口づけ。これを、ぼくは、詩になぞら
えて考えてみることにした。作品を読んで読み手のイマージュとなるもの、
それは、あらかじめ書いた者のこころのなかにはなかったものであろうし、
また読んだ者のこころのなかにもなかったものであろうけれども、





読み手が書かれたものを読んだ瞬間に、書き手のこころと交感して、読み手
のイマージュとして読み手のこころのなかに現出させたものなのであろうか
ら、書く行為と読む行為を、唇を寄せることにたとえるならば、詩を読むこ
と自体を、口づけにたとえて、





その口づけを、祝福と、ぼくは呼ぶことにする。ぼくの翻訳行為も、原作者
の唇と、翻訳者のぼくの唇との接吻だと思う。そして、その翻訳された英詩
を見てくれる人もまた、一つの祝福なのである。祈りに近いというか、祈る
気持ちで、ぼくは、英詩を翻訳している。祝福されるべきもの、接吻として。





出来の悪い頭はすぐに「つなげてしまう」。





人生がヘタすぎて、うまくいかないのがふつうになっている。ただコツコツ
と読書して、考えて、メモして、詩を書いて、ということの繰り返し。毎年、
100万円くらい使って、詩集をつくって、送付して、読んでください、と
言ってお願いをする。バカそのものだ。





日知庵からの帰り道、阪急電車に乗っていて、友だちから聞いた話を思い出
していたら、西大路通りを歩いていて、涙、どぼどぼ目から落として、ふと、
うえを向いて月をさがしたら、月がなかった。5日ばかりまえに亡くなった
一人のゲイの男と、その妹さんの話。ぼくは語りがヘタだから、その妹さん





がミクシィに書き込まれたというメッセージを、おぼえているかぎり忠実に
再現する。「兄と仲良くしてくださっておられた方たちに、お知らせいたし
ます。兄は、五日前に交通事故で亡くなりました。お酒に酔っていましたが、
横断歩道を歩行中に車に轢かれてしまいました。





兄が亡くなって、兄がしていたミクシィを見ておりましたら、兄がゲイであ
ったことを知りました。両親には、兄がゲイであったことは知らせませんが、
どうか、妹であるわたしには、兄のことを教えてください。」だったと思う。
人間の物語。人間というものの物語。ぼくが書いた





詩なんて、彼女が人間であることや、人間というものが、どういったもので
あるのかを教えてくれた彼女の言葉に比べたら、この世界になくってもいい
ものなんだなって思った。親でも、兄弟でも、恋人でも、ひとを愛するとい
うことがどういうことか教えてくれたような気がした。





ぼくと、その話をしてくれた友だちの会話。「これ、ぼくの友だちの友だち
の話なんやけど、その友だち、落ち込んでて、元気ないんや。」「そのうち、
元気になると思うけど、ショックやったやろな。」「言葉もかけられへん。」
「時間がたったら、そのうち落ち着くやろ。」





「その友だちに、そいつ、どこ行ったんやろうなってきいてきたやつがおったん
やって。」「そら、天国に決まってるやん。」「そやろ、なんで、そんなんきく
んやろ。」「それはわからんけど、死んだら、みんな天国に行くんちゃうかなあ。」
これは、ぼくの信じていること。





ぼくの信じていること。





ひさしぶりに、涙、ぼとぼと落とした。


俺の静謐な列車

  黒髪

俺はつらいつらいとつぶやいた
衝動に駆られて玄関のドアをガチャリと開け
合成皮革の靴を履き駆けだした
あたりでは草いきれの波がさざめく
汗や涙が流れて落ちる
俺は想い出す
子供の頃にさえ青空を見上げたことも
星空を眺めたこともなかった
まるで地面を這いまわる一匹のトカゲのように、眠たげな目を持っていたのだが
いまは、走っていると周りを飛び去っていく緑の中のまるで異物のように、反逆者だ
要するに人間とは誰も反逆者だ
連帯することはなく孤独な、頭の中に閉じこもった一人だ
どんな小さな微笑みも影を作らずにはいない
同じようにどんな小さな思考も裏の副作用を持たずにはいない
影の固まりが、不安を締め上げる
誰がストーリーを知っているのか
一本のスジの通ったヒストリーは
めちゃくちゃに裁断されてピースも失われている
もう一生混乱の泡立ちの中でもがくことを決められているのか、この世は地獄じゃないのに
どうしたら分かるっていうのか俺の頭のなかを
俺の夢遊病のような有様
別人格を与えられたクローン
だから先回りをして俺を押しとどめようとしても無駄だ
俺は計画をやり遂げるのだ、たとえ時間軸が撹乱されたテーブルであっても
その拘泥だけは立派に持っているのだ
だれだってそれにしがみつく
積雪のように崩れやすい記憶
明日のようにかぼそく儚い記憶
俺は忘れっぽいぜ
そう一本の川は海へと続いている
そして一途な想いは夢の中へ忍び込むことになると知っている
知らなかったのはこの日がどこへ消えて行くかということだ
初めて眺めるような雲に行方を聞くことも
空が切れる場所を覗き見ることもできない
それらの物語はみんな「自由」という文字の中に収納される
収納容器の自由というお笑いぐさ
その空虚さに耐えられる人などいやしない
だから多くの赤色が筋を作る
この夕日を見つめたくて
開放の時の声を聞くだろう
つらい思いを誰かに打ち明けるだろう
靴に空いた穴も気にしないで
心に空いた穴も気にしないで
風が吹く
風が
あの時の青い夏の日の残照を想い出す
みかんの果実が思い出の中から浮かび上がってくる
沈黙が思い出と調和して
何かの形を作り上げる
昨日とは何か
明日がくるときをいつまで待てばいいのか
人気のない駅で列車を見つめてる
静謐な車輪の、鉄さびに、今がわかった
その時構内アナウンスが流れた


空舟は希望する(うつおぶねはきぼうする)

  腰越広茂






私はすでにいない 生まれる 前から

アフリカ黒檀製万年筆のミトコンドリアは
蜻蛉の櫓で漕いで行く。透けた羽の内部は
暗く光る言葉を発している
それは
すべてを聴く耳にも届かない。選んだのだから

六時五十七分と明記された文末を
無人の無限軌道は踏みしだき通過する
やあ こんにちは、行方不明の最後を
むかえるすべての最後は、
暗く光る言葉に金の縁取りをする
永い時が過ぎ去った今
誰独りとしていない誕生日

不在を乗せて波間を漂う
幽かに明滅する
素肌はひんやり
空の境も無く 雲が昇る
ひとすじ
しん、としていると冬の心音が聞こえて来る

その青年の腹部は硝子製で
私は最早ひびわれてしまった青年だ
私の祖母は、母の母の母の母の母の母の母の母の母の……母になった
がらん、と、したところに母の声だけがわれた
そして私は、生まれた
宙を切る声
昼下りの小道に風鈴屋は消える
そのようだ、絶望を喪失したの
終わりの始まり静けさは金魚鉢
御中の減って鳴る 千草の風
風色は兆し遠雷の

骨無しのかなしみに
鉄筋をつらぬく
空舟。
みずから発光する
光速の
源は井戸を掘りかたむき続ける
女郎蜘蛛は糸を繰り黙読する
暗雲は、ぴしゃり、と解けて散った
虚空を

名前を忘却した反射鏡の
首輪には
ネームプレートがひっついている(自分では読めないところ。
あああきらめたりしません低空の深呼吸
白黒写真を脱したシンメトリーにことづけを
たのんでおいた
沈黙の羽も透けて交叉点をわたる自動ピアノ
初めて
呼ばれた
時を
繰り返す、繰り返す最後まで

伯母の六女に鳩時計が知らせる
いちど限りの、産声は虹の
影の境界に気づく
― 君のことは忘れないよ
  かたちの無いてざわりだぴったりと

仄明り
うすまる
どころか、こくなる、影の、影つなぎ
あわされ、た だただあちら
河の岸に咲く零雨
白い微笑微笑一輪
浮かぶ
鏡は

雲の上へ円く終ぞ落ちない始点はてさて
  響き  ますのでしょうね。有り難う
御礼参りでございますあちらより
すすみすすむ すみあがる
ひとしずくも零されずにあのいのちは

そうするしかなかった
私の。つかんだ宙の水影
をてばなしたてのひらに遺った
声はいまも
絶望を喪失した高さで響いている
空ろな胸の深奥
この青ざめた年輪の

とめどないささやき
あなたへ
拝礼する、されど平らに
視線を。静寂と
透きとおって行く
暗く光る
道を真っ直ぐ 真っ直ぐに
(うれしいけれどせつないねぇ)
果して そうか
私は、

* メールアドレスは非公開


夜の風

  

夜が悪魔の姿でやって来て言った
「何もかも捨ててしまえよ」
私は新しい靴を履いて部屋を出た
どこかで赤ん坊が泣いているようだ

綺麗な花の感想を両親に聞かれて
ダ・ヴィンチの要塞都市と答えた
彼らはその思考に石を投げつけた
あの時から私は夜の中を歩いている

国籍と匂いを区別できない
資格と愛情を分離できない
青い空に浮かぶ雲はすべて怪物
だから夜の中を歩くしかなかった

暗い空には雨を孕んだ雲たち
星はすべて食い尽くされている
誰かが零した墨が微かに波打ち
我々が虚無と呼ぶものを模している

歩きまわる内に世界は迷路になり
方向も目的もすべて剥がれ落ちる
見上げれば一羽の大きな鳥が
夜への同化を拒んで飛んでいる

確信があって羽ばたいているのか
それとも単に彷徨い続けているのか
さらに深い闇を目指しているようにも
夜明けを迎えに行くようにも見える

どちらにせよ鳥は飛び続けている
ただ鳥としてあり続けるために
夜を歩こうと決意した者なら
無視することのできないフォルムで

だから私も後に続くことにする
それもまた選択のひとつだから
生まれたばかりの自分の産声を
今は明瞭に聞き取ることができる

誰にも会わずに歩き続けたい
闇を飛び続ける鳥を追いかけて
夜の風は祝福するかのように
青臭い木々の枝を震わせている


たまごがけごはん

  北◆Ui8SfUmIUc

この町には、昔から変わった習慣がある。おじいちゃんの、そのおじいちゃんの代より、もっと前からあるらしい。

この町では、週に1度どこかのおうちで、夕飯を「およばれ」するのだ。当然、「およばれ」するくらいだから、週に1度、どこかの家族を「おもてなし」するときだってある。

この町の家々には、それぞれ「お家料理」というものがあって、この「お家料理」は、先祖代々受け継がれてきたものらしい。だからどこの家も、このお家料理を表札と一緒に掲げている。電話帳にだって載せてある。

町を歩けば、トンカツからすき焼き、スシにカレーやお浸しまで、例えるならこの町が、ひとつの大きなレストランで、家々は、それぞれがひとつのメニューになっているのだ。

ちなみに、僕の家の「お家料理」は、たまごがけごはんだ。

僕の家では、このたまごがけごはんを、ずっと受け継いできている。時代の流れの中で、お家料理をハンバーガーなんかに変えてしまった家もあるけど、とりあえず僕んちの戸籍謄本に×の印はない。

昔は、たまごがけごはんを求めて、たくさん人が来たんじゃよ。家の外まで行列ができたもんじゃ。おじいちゃんは目を細めて言うけれども、最近は、そんなハンバーガーとか、洋食なんかに押されて、僕の家で「おもてなし」をすることは少なくなった。

だからというわけではないのだけど、僕たち家族が「およばれ」するときも、どこか質素なお家料理を選ぶようになってきている。お父さんは「長生きの秘訣だ!」なんて言ってるけど、湯豆腐が5回も続いたときは、本当にうんざりした。

ある日、学校から家に帰ってくると、家族全員が目を皿にして、電話帳を眺めていた。そしてお母さんは、お父さんを目で殺したあと、電話をかけはじめた。

もしもし、エビフライの山田さんでらっしゃいますか?あ、お世話になります、たまごがけごはんの田中です。はい、来週の3日に、山田さんのエビフライを、およばれしたいのですが?あ、よろしいですか!ではお伺いしますので、よろしくお願いします。

エビフライは僕の大好物だ!そして来週の3日といえば、僕の誕生日だ。お母さんは、にっこり笑って受話器を置いた。お父さんは口笛を吹いた。


200円のコノテーション

  飯沼ふるい

瞬き、膨れ上がる眠気
カッフェーで向かい合う恋人の
片割れが言う
「モカ」
という音韻に倒されて
睫毛から鱗粉が発火する
それは、春に降る雪のようにこぼれる、というが
一秒の、線分の上に絡め取られて
橙の幼い鱗粉
チリチリ燃える

朝のまだきに生れ指ばら色の曙の女神が
朝食代わりに品書きのインクを卑猥に啜る
朝、たったそれだけの文字を誘拐した文庫本は
閉じたまま
未明の沖で漂っている

カラスが骨のように鳴いているのは
鱗粉の遺り香に惹きつけられているから、らしいが
枯れ枝のような声色は
哲学を勘違いした
死に欠けの震え

夕方、その一つの季節のような時間が
カッフェーの、椅子の陰間で怯えている
眠たい震え

ようやく目を開く
私の詩文が始まる為に
コーヒーと、ハムのサンドイッチを頼む
ほどなくして
ウエイターは
コーヒーと、ゆで卵を運んでくる
文字は予約されていないから
間違えたのはどちらでもない

「この街に晒された透明の密度を女の手首が掻き分ける
 柔らかい仕草の間にも
 この銀河は不断に柩を産み続けているのだから
 反省と土塊にたいして差異はないのだ」

ウエイターは気違いを見る目で
「だ」という濁音で淀んだ私を見る

はっきり言っておく
語彙に埋まっていこうとする
この詩文は
サボタージュとして許容されるような詩への
当てつけでしかないから
慰められているのは誰でもない
あなたでも、私でも。

コーヒーを啜るが、シガレットはあいにく切らしている
卵の殻を砕き
固い黄身でむせ返る

開くニュウスペイパー
語れば表れるのは私
語られるのを待つ全ての語彙
古い批評で測られる身体

痣を撫でる手のひらのように不吉な
光の淘汰が頬骨を削る、ガサゴソと油脂臭い紙を捲り
これからの天気を眺める、と、既にもう
明日の襞が雲の影からうねり始める
夕立、

その通りだ、
語るべくして振る雨
夕立なのだから、既にもう
朝ではない
何者かに拿捕された、遠距離の弾痕が
報復に出る時間
パナマ帽が排水溝でくるくる回っているのも
突飛に躍り出た、夕方の仕業

コーヒーに脈打つ水紋は
郷里に暮らす誰かの不幸を報せている
これもまた、震え
表面から渇き
内部から濡れる
まだらに弛緩した涙腺が
裏切りを作用して、
コーヒーの色を黒くする、
景色もろとも排水溝へ垂らす、
過去が水平に流れていく、
さよなら、さよなら

あらゆるものがある、雨
あらゆるもののために、雨
濡れそぼった
語彙が読めない
品書きも、ニュースペイパーも
それらの文字が渇いた時が明日だ
手垢もすっかり消えて
真新しい文字が浮かんでいることだろう

その通りだ、
我々は時間の懐に忍び込み
自壊するだけで
比喩のように繰り返す瞬き
裁断された映写機の映す夢
発火する幼い鱗粉、その閃光の突端で
胡桃のように落ちていく午睡
弓なりに撓る一秒を深くする全ての胡乱
あなたでも、私でも
ない、
そのような感覚の内に
母胎を見ている

だからいいか
恋人たちよ
お前らの姿はもうないが
よく聞くがいい
残り数行の詩文として終わろうとする私の
影こそ、君らの醜い歯並びで
繋がれた指先を交感しあう熱なのだ
そしてこの情けない終わりを
笑え!

「お客さま、料金が200円足りません」
「あ、ごめんなさい」


  ゼッケン

おれの正面に出てきた男は痩せて背が高く、白いワイシャツ姿で恰好のいい太い黒ぶちのメガネをかけ、
髪の毛も呼吸も乱れていなかった、そして軍刀を抜く
男より背が低く腹も出たおれはいやらしい笑顔を浮かべて男を迎えた、砂を撒かれたアリーナの真ん中でおれは
釘打ち機を右手に持って立っていた、釘打ち機はしなやかな強いホースで地面のエアコンプレッサとつながっていた
圧縮空気の力で長さ5センチの釘を瞬時に打ち込もうというのだった
ふだんは洒落たシャツを着る男がアリーナでは無趣味な白いワイシャツ姿なのは釘を打ち込まれた箇所に咲く赤い滲みが映えるからだろう

男も慣れているわけだ

男もおれもこの手のイベントでは神シロウトの類だった、おまえたち、苦痛はお嫌いか?
左の前額部から釘の頭を生やした男がおれの首を圧し切ろうと鈍った軍刀を上から押し当ててくる
おれは必死に抗い、刃を素手で掴んで押し返そうとする、男が不意に軍刀を引いておれの手のひらはぱっくりと裂ける
勢いあまって尻餅をついた男の顔面、投げつけようと地面からエアコンプレッサを持ち上げたおれの腹を軍刀が刺し貫き、
おれはコンプレッサーを頭上に掲げたまま前進した、なぜなら、ここがおれの一番の見せ場になるのがおれには分かっていたからだ、
おれはおえええと吐いた
背中に抜けた刀身には血と脂の筋が絡み付いているだろう、それはおれが足を一歩踏み出すたびにさらにぎらりと光るはずだ、

カメラ

輝き

尻餅をついた男の顔面にコンプレッサを落とす、男はとっさにおれに向かってしがみつく、コンプレッサーは男の背中を打って地面に転がって男が呻く
おれは釘打ち機とコンプレッサをつなぐホースを男の首に巻きつける、2回巻いて力を込めて引っ張った、
手のひらから溢れた血でホースがすべった、もう、あとはいいだろう、観客も飽きている、観客は2分で飽きるのだ
食後のコーヒーが出てきていいタイミングだったが、ファミリーレストランでは食事終了と同時にコーヒーを飲むためにはおれは
食事が終わる前に手を挙げていなければならない、これから左の前頭葉に釘を打ち込まれた男と腹を串刺しにされたおれは
集積した情報の自重によって発火する図書館について話し合いたかった、それは検索エンジンでもなくまとめサイトでもなく、
暇をつぶすためではなく、暇と同義であるような、それがあるならどのような演算理論が図書館に存在せねばならないのかをトークしたかった
初夏の図書館に接続された少女たち 抜かれた本 ビット列

文学極道

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