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2014年08月分

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* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


IN THE DEAD OF NIGHT。──闇の詩学/余白論─序章─

  田中宏輔



どこで夜ははじまるのだろう?
(リルケ『愛に生きる女』生野幸吉訳)

夜は孤独だ
(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・七七、菊盛英夫訳)

めいめい自分の夜を堪えねばならぬのである。
(ブライアン・W・オールディス『銀河は砂粒のように』4、中桐雅夫訳)

光を運ぶ者はひとりぼっちになる
(レイナルド・アレナス『夜になるまえに』刑務所、安藤哲行訳)


 林 和清と、早坂 類と、そして、筆者の三人によって、一九九〇年の秋に創刊された同人雑誌の「Oracle」は、一
九九七年の春に十三号をもって終刊したのだが、途中、出すたびにさまざまな書き手を加えていった。笹原玉子もそ
の一人であり、第三号から参加して、短歌や詩を発表していた。つぎに紹介する作品は、その彼女が上梓した第一歌
集の『南風紀行』から六首を選び、一行置きに、筆者の短い詩句を添え、一九九一年の冬に出した同誌の第四号に、
詩として掲載したものである。


Opuscule


誰が定めたる森の入り口 夜明には天使の着地するところ

睡つてゐるのか。起きてゐるのか……。

教会の天井弓型にくりぬいてフラ・アンジェリコの天使が逃げる

頬にふれてみる。耳にもふれてみる。そつと。やはらかい……。

数式を誰より典雅に解く君が菫の花びらかぞへられない

胸の上におかれた、きみの腕。かるく、つねつて……。

知つてゐた? 夜が明けるといふこんな奇蹟が毎日起こつてゐることを

うすくひらかれたきみの唇。そつと、ふれてみる。やはらかい……。

君のまへで貝の釦をはづすとき渚のほとりにゐるごとしわれ

指でなぞる、Angel の綴り。きみの胸、きみの……。

書物のをはり青き地平は顕れし書かれざる終章をたづさへ

もうやはらかくはない、きみの裸身。やさしく、かんでみる……。


 一九九二年の春に出した同誌の第五号では、同人の林が上梓した第一歌集の『ゆるがるれ』のなかから七首を採り
上げ、それらの歌を通して、林の造形技法について論じた。そのうち、三首をつぎに引用する。


淡雪にいたくしづもるわが家近く御所といふふかきふかき闇あり

闇よりくろき革衣着てちはやぶる神戸オリエンタル・ホテルへ

昇降機すみやかに闇下りつつ死してはじめて人は目覚める


 これらを筆者は、「闇の miniatures」と名づけたのであるが、それが、このときの論考に「Bible Black」というタ
イトルをつけた所以ともなっている。
 同人雑誌を最後に出したころに催された同人会の宴の後、三次会になるのか、四次会になるのか、それは定かでは
ないが、夜中の一時はゆうに過ぎていたと思われる。まだまだ帰るのには早過ぎるとでもいうように、林と笹原の二
人が筆者宅に寄り、筆者とともに三人で酒を酌み交わしながら明け方までしゃべりつづけていたことがあったのだが、
そのとき、天狗俳諧もどきのことをしたのである。ちょっとした遊びのつもりで、順々に三人で、上句に中句、中句
に下句をつけて、俳句を詠んだのだが、あまり面白いものとはならなかったので、筆者の提案で、出された句を、各
自で自由に選んで組み合わせることにしたのである。三人が競作をして、それぞれ見せ合ったのであるが、このとき
ほど笑ったことはなかった。まさに、「めちゃくちゃな」といった言葉で形容されるようなものが、つぎつぎと披露さ
れていったのである。それらは、どれもみな、三人の個性が非常によく現われたものとなっていた。筆者がつくった
もののうち、いくつかのものを、つぎに紹介する作品のなかに入れておいた。初出は、ユリイカの一九九八年十二月
号である。


木にのぼるわたし/街路樹の。


ぼく、うしどし。
おれは、いのししで
おれの方が"し"が多いよ。
あらら、ほんとね。
ほかの"えと"では、どうかしら?
たしか、国語辞典の後ろにのってたよね。
調べてみましょ。
ううんと、
ほかの"えと"には、"し"がないわ。
志賀直哉?
偶然かな。
生まれたときのことだけど
はじめて吸い込んだ空気って
一生の間、肺の中にあるんですって。
ごくわずかの量らしいけどね。
もしも、道端に
お父さんやお母さんの顔が落ちてたら
拾って帰る?
パス。
アスパラガス。
「どの猿も 胸に手をあて 夏木マリ」
「抜け髪の 頭叩きて 誰か知れ」
「フラダンス きれいなわたし 春いづこ」
「ゐらぬ世話 ダム崩壊の オロナイン」
「顔おさへ 買ひ物カゴに 笠地蔵」
「上着脱ぐ 男の乳は みんな叔母」
「南下する ホームルームは 錦鯉」
これが俳句だと
だれが言ってくれるかしら?
〈KANASHIIWA〉と打つと
〈悲しい和〉と変換される。
トホホ。
それでも、毎朝、奴隷が起こしてくれる。
まだ、お父様なのに。
間違えちゃったかな。
ダンボール箱。
裸の母は、棚の上にいっしょに並んだ植木鉢である。
魔除けである。
通説である。
で、きみは
4月4日生まれってのが、ヤなの?
オカマの日だからって?
だれも気にしないんじゃない?
きみの誕生日なんて。
それより、まだ濡れてるよ。
この靴下。
だけど、はかなくちゃ。
はいてかなくちゃ。
これしかないんだも〜ん。
トホホ。
いったい、いつ
ぼくは滅びたらいいんだろう。
バーガーショップ主催の交霊術の会は盛況だった。


つぎに、筆者にとって、ポエジーの源泉となるほどに魅了された俳句や短歌を、系統別に分類する。


気の狂つた馬になりたい枯野だつた                             (渡辺白泉)

菫程の小さき人に生れたし                                 (夏目漱石)

馬ほどの蟋蟀となり鳴きつのる                               (三橋鷹女)

一枚の落葉となりて昏睡(こんすい)す                                 (野見山朱鳥)


 他のものになりたい、いまの自分ではいられない、という強い気持ちが、他のものに生まれ変わりたいというここ
ろからの願いが、言葉となって迸り出てきたものであろうか。引用した句のなかでは、とりわけ、はじめの三句にお
いて、その句を作っていたときに、作者たちの心境がかなり危ういところにあったものと推測される。


蟻地獄松風を聞くばかりなり                                (高野素十)

団栗(どんぐり)の己が落葉に埋れけり                                 (渡辺水巴)

木を割(さ)くや木にはらわたといふはなき                             (日野草城)

機関銃天ニ群ガリ相対ス                                  (西東三鬼)


 正確にいえば、すべての句が擬人法に分類できるものではないのかもしれないが、自己の心情を事物に仮託して語
らしめているところは、同様の手法である。


牛(うし)馬(うま)が若し笑ふものであつたなら生かしおくべきでないかもしれぬ              (前川佐美雄)

さんぼんの足があつたらどんなふうに歩くものかといつも思ふなり              (前川佐美雄)

考えがまたもたもたとして来しを椅子の上から犬が見ている                  (高安国世)


 これらの三首には、教えられるところが多かった。短歌では、思考方法をより応用発展させられるようなものが、
わたしの好みである。つぎの三首もまた、同様の傾向のものである。


憂鬱の鳥が頭上にあらはれてふたりの肌のにほひをかへる                    (林 和清)

言霊の子は森といふ文字バラバラにひきはなしたりもどしたり                 (笹原玉子)

冬日和 病院にゐて犬がゐて海もそこまで来てゐるらしい                  (魚村晋太郎)


 林の歌からは、「鳥が来ては、わたしの魂を、他のだれかの魂と取り換える。」といった言い回しを思いついたのだ
が、イメージ・シンボル辞典を引くと、「飛び立とうとしている鳥、または翔んでいる鳥は魂の実体化したもの。」とあ
る。休日には、よく賀茂川の河川敷にあるベンチの上に坐って、鳥たちが空を飛んでいる姿を目で追っていたり、川
のなかで餌をあさっている様子を見つめていたりして、ぼうっとしていることが多いのだが、サバトの『英雄たちと
墓』の第III部・37に、「魂は鳥のように遠くの地に飛ぶことができるとは考えられないものだろうか?」(安藤哲行訳)
とある。後で、原 民喜のところで述べることの先取りになると思われるが、「鳥が来ては、わたしの魂を、他のだれ
かの魂と取り換える。」という言い回しを、「孤独な魂が、わたしの魂を、他のだれかの魂と取り換える。」とすると、
ますます、わたし好みのものになる。

 笹原の歌からは、「巧妙な組みあわせがよく知られた語を新鮮なものにする」(ホラーティウス『詩論』岡 道男訳)。
「詩句とは幾つかの単語から作った(……)国語の中にそれまで存在しなかった新しい一つの語である。」
(マラルメ『詩の危機』南條彰宏訳)「たえず脳漿(のうしよう)に憑(つ)きまとう無数の抒情的なとりつき易い言葉と
美辞麗句をしりぞけ」(マラルメの書簡、アンリ・カザリス宛、一八六四年一月付、松室三郎訳)、「われわれの先輩
たちが(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)(……)すでに秩序を与へて呉れてゐるところの結合を(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)、
さらに新奇に結合し直すことである(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)。」(ポオの『ロングフェロウ論』
より、阿部知二の『ColeridgeとPoe』からの孫引き)「作りうる組合せは無数にあり、その大部分はぜんぜん的外れの
ものである。無用な組合せを避け、ほんの少数の有用な組合せを作ること、これこそが創造するということなのである。
発見とは、識別であり選択である。」(E・T・ベル『数学をつくった人びとIII』28、田中 勇・銀林 浩訳)「新しい関
係のひとつひとつが新しい言葉だ。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)「一つの言語を創り出すこと」(マラルメの書簡、
アンリ・カザリス宛、一八六四年十月付、松室三郎訳)。「言語の絶えまなき再創造(つくりなおし)」(C・デイ・ルイス『詩を読む若
き人々のために』I、深瀬基寛訳)。「再創造する力のない思考は、かわりに因習的などうでもよいイメージを持ってく
ることを余儀なくされている」(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラ、鈴木道彦訳)。「卑猥と
さえ思えることも、思考の新しい脈(みやく)絡(らく)で語られると、輝かしいものとなる。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)「なすべ
きことはひとつしかない。自分を作り直すことだ。」(ヴァレリー『邪念その他』P、清水 徹訳)「生まれるとは、前と
は違ったものになること」(オウィディウス『変身物語』巻十五、中村善也訳)といった言葉が思い出されたのだが、
それは、結局のところ、語の選択や、語と語の結合といったものが、そして、その配置や全体の構成といったものが、
文学作品のすべてであるということを、改めて、わたしに思い起こさせるものであった。

 魚村の歌には、目を瞠らされた。自分のほかには、だれもいない病院の玄関先で、これまた吼えもしない、おとな
しい犬を眺めながら、ぼうっとしているような冬日和の静かな街角。その街角の風景のなかで、海だけが動いている。
これまた静かに、ひたひたと破滅の音階を携えながら、といった映像が思い浮かんだ。山が動く、森が動いてくると
いうのは、聖書やシェイクスピアにもあった。海が近づいてくるというイメージは新鮮であった。また、この海が近
づいてくるというイメージは、冬日和の静かな街角の風景そのものが、しだいに海のなかに滑り落ちていくという映
像をも思い浮かばせてくれた。この二つの映像は、作品を読むときばかりではなく、作品をつくるときのイメージ操
作の訓練にも役に立つと思った。逆の視点から見ること。相反する向きから眺めること。それを空間的なものに限る
必要はない。時間的なものにも応用できる。

 以上、引用してきた俳句や短歌には、すべて、「ポウが詩のもっとも大切な要素としてかんがえたあの不意打ち」(エ
リオット『アンドルー・マーヴェル』永川玲二訳)があり、それは、「予期に反して」(アリストテレース『詩学』第九
章、松本仁助・岡 道男訳)、「わたしを驚かせ」(コクトー『ぼく自身あるいは困難な存在』ぼくのさまざまな逃亡につ
いて、秋山和夫訳)、「私の目を私の心の底に向けさせる」(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第四場、大山俊一
訳)ものであった。ただ、これらのうち、多くの「作品が驚かせることに気をつかいすぎることはたしかである」(ボ
ルヘス『伝奇集』ハーバート・クエインの作品の検討、篠田一士訳)が、しかし、驚きこそ、関心を惹かせる最たるも
のである。それにまた、「思考にとって、予想外ほど実り豊かなものがあろうか。」(ヴァレリー『己れを語る』頭脳独
奏用協奏曲、佐藤正彰訳)。

 ところで、子供というものは、何にでも驚くものである。「愚鈍な人間は、どんな話を聞いても、よくびっくりする
ものだ。」(『ヘラクレイトスの言葉』八七、田中美知太郎訳)というが、子供が驚くのは不思議でも何でもない。知ら
ないからである。成長するにつれて、驚くことが少なくなっていく。知っているつもりになるからである。子供はま
た、よく怖がるものである。とりわけ、闇を怖がる。少なくとも、わたしはそうであったし、いまでも、そうである。
いまだに電灯を点けたままでないと眠れないのである。子供のころ、母親がわたしの部屋の電灯を消して、部屋から
出て行った後、布団を被らなければ眠れなかったのである。同じ暗闇でも、布団さえ被れば安心だと思っていたから
である。何ものかの気配を感じて眠れなかったのである。いまでも電灯を消してしまうと眠ることができないのは、
何ものかの気配を感じてしまうからである。ふつう、大人になると、自分の部屋のなかの闇を怖がったりはしないも
のだと思われるのだが、それは、そこに何ものかがいることを感じることができないからであろう。子供のころのわ
たしが、闇そのものの怖さを感じていたのかどうかは、いまとなっては思い出すことができないのだが、闇のなかに
潜む何ものかの気配を感じて怖がっていたことだけは、たしかに憶えている。

 わたしが詩を書きはじめたころ、だいたい一九九〇年ごろのことで、ずいぶん以前のことだが、真昼間にドッペル
ゲンガーを見て、部屋のなかにいた何者かの正体が、もう一人のわたしであることがわかって、闇のなかに潜んでい
たのが自分自身であることに気がついてから、少しは闇に対する恐怖心も薄れたのだが、それでも、いまだに電灯を
点けたまま眠っているのである。というのも、たとえ、それが自分自身とはいっても、やはり怖いからである。それ
に、それがほんとうに自分自身であったのかどうか、確実なことはいえないからである。わたしに擬態した何ものか
であった可能性もあるからである。と、こういったことが、橋 〓石の「日の沈むまで一本の冬木なり」という俳句に
出会ったときに思い出されたのだが、ドッペルゲンガーを見たのは、ただ一度きりのことであり、二度とふたたび出
てくることはなかった。もう一度くらい自分自身と顔を見合わせる機会があってもよいのではないかと思われるので
あるが、じっさいに出てくると、やはり驚くことになるのであろう。これまでわたしが引用してきた俳句や短歌の作
者たちも、わたしと似たような感覚の持ち主なのではないだろうか。

 つぎに、原 民喜の作品から引用する。出典は、『冬日記』、『動物園』、『夕凪』、『潮干狩』、『火の子供』の順である。
彼もまた、わたしと同じような感覚を持っていたのではないだろうか。彼の小説はすべて、散文詩のような趣がある。


 ある朝、一羽の大きな鳥が運動場の枯木に来てとまった。あたりは今、妙にひっそりしてゐたが、枯木にゐる鳥
はゆっくりと孤独を娯しんでゐるやうに枝から枝へと移り歩いてゐる。その落着はらった動作は見てゐるうちに羨
しくなるのであった。かういふ静かな時刻といふのも、あるにはあったのか。彼はその孤独な鳥の姿がしみじみと
眼に沁みるのだった。

 去年、私ははじめて上野の科学博物館を見物したが、あそこの二階に陳列してある剥製の動物にも私は感心した。
玻璃戸越しに眺める、死んだ動物の姿は剥製だから眼球はガラスか何かだらうが、凡そ何といふ優しいもの静かな
表情をしてゐるのだらう、ほのぼのとして、生きとし生けるものが懐かしくなるのであった。

 肉はじりじりと金網の上で微かな音を立てた。胃から血を吐いて三日苦しんで死んだ、彼女の夫の記憶が、あの
時の物凄い光景が、今も視凝めてゐる箸のさきの、灰の上に灰のやうに静かに蹲(うづくま)ってゐる。

 濃い緑の松が重なり合ってゐて、その松の一本一本は揺れながら叫びさうであった。

僕は歩きながら自分の靴音が静かに整ってゐるのを感じる。

 まるで鏡のなかの自分自身をじっと見つめるように、民喜は、枯木の枝にとまる鳥を眺め、科学博物館に陳列され
ている剥製の動物に目をとめ、箸のさきにある灰や、濃い緑の松を見ているような気がする。ガラスの眼がはまった
剥製の動物の表情や、金網の上で焼ける肉の音も、松の木の枝葉の揺れや、静かに整って聞こえる自分の足の靴音で
さえも、自分自身のように感じていたのではないかと思われるほどである。すさまじい同化能力である。また、「ゆっ
くりと孤独を娯しんでゐるやうに枝から枝へと移り歩いてゐる」「枯木にゐる鳥」「の落着はらった動作」を「羨しく」
思う民喜であるが、彼はまた、『沙漠の花』のなかに、「私には四、五人の読者があればいいと考へてゐる。」とも書い
ており、その言葉だけからでも、彼がいかに孤独であったか、窺い知ることができよう。「孤独の実践が、孤独への愛
を彼に与えた」(プルースト『失われた時を求めて』第二篇・花咲く乙女たちのかげに、鈴木道彦訳)のかどうか、そ
れはわからないが、じっさい、彼は孤独であったと思われる。そうでなければ、「わたしの吐く息の一つ一つがわたし
に別れを告げてゐるのがわかる。」(『鎮魂歌』)といった言葉など書くことはできなかったであろう。「詩人は同時代人
たちのさなかにあって、真理と彼にそなわる芸術とのゆえに孤独な境遇にある」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)。
レイナルド・アレナスの『夜明け前のセレスティーノ』(安藤哲行訳)のなかに引用されている、ポール=マルグリ
ットの『魔法の鏡』に、「わたしの孤独には千の存在が住んでいる」といった言葉があるが、孤独になればなるほど、
同化能力が高くなるのであろうか。それとも、同化能力が高まるにつれて、ますます孤独になっていくのであろうか。
ローマ人の手紙五・二〇に、「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」とある。

 ここで、「私は彼の孤独を一つの深淵に比したいと思う。」(トーマス・マン『ファウスト博士』一、関 泰祐・関 楠
生訳)、「人間は自己自身を見渡すことができない。」(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳)、「蟋蟀(こほろぎ)が深き地
中を覗(のぞ)き込(こ)む」(山口誓子)ようにして、「自分自身のなぞのうえにかがみこむ」(モーリヤック『テレーズ・デスケイル
ゥ』五、杉 捷夫訳)ことしかできないのである。しかも、そこでは、つねに、「幾つもの視線が見張っていた。」(ガ
デンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』11、菅野昭正訳)「彼は、転べば、自分自身に出会う。彼は、自分に(ヽヽヽ)ぶつかる。」(ヴ
ァレリー『倫理的考察』川口 篤訳)「そこでは、唯一人(ヽヽヽ)の者が多数のものになる」(エリク・リンドグレン『鏡をめぐ
らした部屋にて』中川 敏訳)、「「単一」が「多様」に移行する場だ。」(エマソン『詩人』坂本雅之訳)「思うがままに
形を変えるプロテウスは、何者にでもなりうるから実は何者でもない。」(モーリヤック『小説家と作中人物』川口 篤
訳)「自分の中にひとりでいるということは、もうだれでもないことだ。わたしは大勢になっているのだ。」(ジイド『地
の糧』第八の書、岡部正孝訳)。

 しかし、「人間は、そもそも深淵を真下に見て立っているのではないか。見るということ自体が──深淵を見るとい
うことではないか。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部、手塚富雄訳)「なんじが久しく深淵を見入るとき、深淵
もまたなんじを見入るのである。」(ニーチェ『善悪の彼岸』第四章・一四六、竹山道雄訳)。そこでは、「夜がかれを見
つめている。」(レイ・ブラッドベリ『華氏四五一度』第三部、宇野利泰訳)「自分の内部を見張ってい」(ボリス・ヴィ
アン『心臓抜き』II・18、滝田文彦訳)るのである。「すべてこれらのものがどこからやって来たのか、またいかにし
て無の代わりに世界が存在することになったのか」(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)。「魂はその存在の秘奥の叢林を分
けて、層また層と、至りつくすべはないが、しかもたえず予感されている暗黒への道を降って行く。そこから自我が生
まれそこへ自我が回帰する、自我の生成と消滅をつかさどる暗黒の領土、魂の入り口と出口、しかしそれはまた同時に、
魂にとって真実な一切のもの、小暗い影の中に道を示す金色の枝によって魂にあかされた一切のものの入り口であり出
口である。金色にかがやくこの真実の枝は、いかに力をつくしても見いだすことも折りとることもできないが、それと
いうのも発見にまつわる天恵は下降にあたってさずけられるそれと同じ、自己認識の天恵なのだから、共通の真実とし
て、共通の自己認識として魂にも芸術にもそなわっている、あの自己認識の。」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第II
部、川村二郎訳)「成る程さうだ! 僕等の一切は深淵だ、──行為も、意欲も、/夢想も、言葉も!」(ボードレール
『深淵』堀口大學訳)「すべての事実は、世界が人間の魂のなかに移り住み、そこで変化をこうむって、向上した新し
い事実となり、ふたたび現れてくることの象徴だ。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)「世界という世界が豊穣な虚空の
中に作られるのだ。」(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)。

 わたしが、彼らに魅かれるのは、「わたし以上にわたし自身だ」(エミリ・ブロンテ『嵐が丘』第九章、鈴木幸夫訳)
と思われるところがあるからであるが、そういった人々は、「自分ではそれと気づかないで」(クリスティ『アクロイ
ド殺人事件』23、中村能三訳)、「自分で自分の翼をもぎ取ってしまう」(ジイド『狭き門』村上菊一郎訳)のである。
「敏感で繊細な気質のひとはいつもそうなのである。こういうひとの強烈な情熱は傷を与えるか屈服するかのどちらか
にきまっている。本人を殺すか、さもなければみずから死に絶えるかのどちらかなのである。」(ワイルド『ドリアン・
グレイの画像』第十八章、西村孝次訳)。まるで『イソップ寓話集』のなかに出てくる、自分の羽で殺される鷲のよう
なものである。「自意識という病気を病んでしまっているこういった青年たちは、一瞬たりとも自分自身へ向けた関心
をよそへそらすことができない」(モーリヤック『夜の終り』VIII、牛場暁夫訳)。「なにを見てもいつも自分自身へ戻っ
てしまうのだ。」(ノヴァーリス『サイスの弟子たち』一、今泉文子訳)。

 俳句や短歌を系統別に分類したところで引用するつもりであったのだが、西東三鬼の「鶯にくつくつ笑ふ泉あり」
という句に出会ったとき、これは単なる「感傷的誤謬(ごびゆう)(自然物に人間の主観や感情を投射すること)」(ロバート・シル
ヴァーバーグ『時間線を遡って』40、中村保男訳)などといったものではなく、三鬼にあっては、すべてのものが、
このような様相をもって彼に対峙していたように思われたのである。逆に見れば、三鬼という人間が、「すべての存在
をただ自分ひとりのために変形するように見える精神を持ち、提出されるすべてのものに働きかける(ヽヽヽヽヽ)ところの、一人の
人間」(ヴァレリー『テスト氏』テスト氏との一夜、村松 剛・菅野昭正・清水 徹訳)であったということであろうか。

 民喜もまた、そのような人間の一人であったに違いない。これを病的といえば、語弊は免れないかもしれないが、
「病的なものからは病的なものしか生れ得ないということ」(トーマス・マン『ファウスト博士』二五、関 泰祐・関 楠
生訳)はなく、そういったものが、「健康な感覚を持っているために全然とらえることができず、理解しようとも思わ
ない」(トーマス・マン『ファウスト博士』二五、関 泰祐・関 楠生訳)ことを、わたしたちに教えることもあるであ
ろう。それが、わたしたちにとって、新鮮な感覚や印象を持たせられるものであり、しかも、わたしたちのためにな
るものでもあるということも大いにあり得ることなのである。もちろん、わたしは、健康的なものからは何も得ると
ころがない、などと言っているわけではない。正統的なものと異端的なものとが互いに分かち難く結びついているよ
うに、健康的なものと病的なものもまた、互いに分かち難く結びついているのである。よく、「意識のなかに二つもし
くは数個の考えが同時に存在すること」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)があるが、わたした
ちの精神は、それらの間を、始終、往還しているのである。それというのも、「同じものでありながら、いつも快いも
のは何ひとつ存在しない」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第七巻・第十四章、加藤信朗訳)からであって、「そ
れは、われわれの本性が単一ではなく、われわれが可滅なものであるかぎり、或る異なる要素も含まれているからであ
る」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第七巻・第十四章、加藤信朗訳)が、それゆえにこそ、文学には、「前とは
違った眼で眺める」(エリオット『イェイツ』高松雄一訳)ことのできるものが求められているのであろう。

 文学で求められていることは、ただ一つ、「ものごとを新しい観点から見る」(ロバート・J・ソウヤー『ターミナル・
エクスペリメント』31、内田昌之訳)ことのできる「新しい連結をさがすことだけだ。」(ロバート・J・ソウヤー『タ
ーミナル・エクスペリメント』31、内田昌之訳)。カミュの『手帖』の第四部に、「小説。美しい存在。そして、それ
はすべてを許させる。」(高畠正明訳)とある。詩もまた、美しい存在である。詩もまた、「すべてのことは許されてい
る。しかし、すべてのことが益になるわけではない。」(コリント人への第一の手紙一〇・二三)。では、俳句や短歌と
いった定型詩においては、どうであろうか。すべてのことが許されているわけではない。形式というものがある。そ
れに縛られている。しかし、「形式が束縛をあたえるから、観念はいっそう強度のものとなってほとばしり出るので」
(ボードレールの書簡、アルマン・フレース宛、一八六〇年二月十八日付、阿部良雄訳)ある。もちろん、形式といっ
たものが作品のすべてではない。しかし、「人間の注意力は、限界を設けられれば設けられるだけ、また、自らその観
察の場を限られれば限られるだけ、いっそう強烈になるもの」(ボードレール『一八四六年のサロン』一二、阿部良雄
訳)である。「最大の自由が最大の厳密さから生まれる」(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)
所以である。しかし、よく注意しなければならない。こころにも、慣性のようなものがあるのだ。「聞こえもせず見え
もしないものが後ろにある。」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第一幕、石川重俊訳)「暗闇は単に人間の目の
なかにあって見ていると思っているが見えてはいない。」(アーシュラ・K・ル・グィン『闇の左手』12、小尾芙佐訳)
「新しい刺戟がもう入ってきているのに、脳は古い刺戟によって働きつづける」(ジョアナ・ラス『フィーメール・マ
ン』第二部・V、友枝康子訳)。「意識的に受け入れたわけでもないつながりを、自分自身の中にもってるから」(フエ
ンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)、「暗闇が(……)彼の視線を(……)移させる力をもっている。」(ジェイムズ・
ティプトリー・ジュニア『けむりは永遠(とわ)に』小尾芙佐訳)「無意識の世界にあるものが、意識の世界に洩れ出してくる
のだ。」(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第二部・12、嶋田洋一訳)「闇の世界には、おのずからなる秩
序があるのである。」(ハーラン・エリスン『バシリスク』深田真理子訳)「単純な無ではない。むしろ、力と場と面の
はかり知れない相互作用である」(ブライアン・W・オールディス『銀河は砂粒のように』4、中桐雅夫訳)。「虚無に
よって分割された原子が/知らぬ間に 新しい結合を完成する。」(トム・ガン『虚無の否定』中川 敏訳)「虚無のなか
に確固たる存在がある」(アーシュラ・K・ル・グィン『アカシア種子文書の著者をめぐる考察ほか、『動物言語学会誌』
からの抜粋』安野 玲訳)のである。

 マラルメの『詩の危機』に、「中くらいの長さをもった語が眼にとって理解可能な範囲で、線の形に最終的に並べら
れる。それと一緒に、語の間や各行の前後にある余白の沈黙も並べられる。」(南條彰宏訳)とある。いま、長さについ
ては云々しない。また、竹内信夫の『マラルメ─「読むこと」への誘い』(「ユリイカ」一九七九年十一月号)に、「語
のひとつひとつよりも、語と語を結ぶ空白、更には頁全体を大きく包みこむ空白がより意味深いのである。それは、何
ものをも指示しないが故に、最も多くの可能性にとんだ記号となることができる。」とある。「何ものをも指示しない」
といったことはないと思うのだが、そのことについては、後で述べる。

 ところで、詩はもちろんのこと、俳句や短歌においてもまた、余白といったものが、その文字の書かれていない空
白の部分が、いかに重要なものであるのかは、作者だけではなく、読み手の方もよく知っていることであると思われ
るのであるが、作品によっては、文字によって余白が書かれているような印象を与えるものもある。この沈黙ともい
うべき空白は、読み手の記憶に大いに作用するのである。プルーストの「晦渋性(暗闇)によって光を作り、沈黙に
よってフルートを奏している。」(『晦渋性を駁す』鈴木道彦訳)といった言葉が思い起こされる。余白は、また、記憶
だけではなく、読み手がいま現に見ているもの、聞いているもの、触れているものなどにも作用するのである。作用
があれば、当然、反作用もある。読み手の記憶や感覚器官が知るところのものによって、この沈黙ともいうべき空白
も、影響を受ける。余白が大きければ大きいほど、読み手の心象が揺さぶられ、印象の充溢さを増す、といったこと
はないのだが、余白の効果は絶大である。「主観的な余白が重要なのだ。」(ミシェル・ジュリ『不安定な時間』鈴木 晶
訳)。したがって、凡庸な作品でも、余白の視覚的な効果を十分に配慮すれば、読み手によっては刺激的なものになり
得るのである。凡作であっても、俳句や短歌がある特別な印象を与えるのは、余白とリズムによるところが大きい。
詩においても、余白の視覚的な効果をねらってつくられたものもあるが、一瞥すれば、それが凡作かどうかは、すぐ
にわかる。凡作においては、余白は、単なる空白であって、何もないのである。何も詰まっていないのである。沈黙
でさえ、そこには存在していないのである。

 ブロッホの『ウェルギリウスの死』の第III部に、「詩は薄明から生まれる」(川村二郎訳)とある。わたしには、「詩
は薄明そのもの」のように思われる。薄明は、暗闇から生まれるものである。薄明は、暗闇があってこそ、はじめて
存在できるものである。余白とは、闇である。余白のなかには、魂がうようよ蠢いているのである。生きているもの
の魂も、死んだものの魂も、余白のなかに蠢き潜んでいるのである。薄明のうすぼんやりとした明かりのなかで、た
だそれらが存在していることだけが感じられるのである。しかし、目を凝らしさえすれば、夥しい数の魂たちが、そ
の姿をくっきりと現わすのである。「何ものをも指示しない」わけではない。それどころか、はっきりと指し示すので
ある。わたしたちが目を凝らしさえすれば。それというのも、薄明があったればこそのことなのである。たとえ、そ
れがうすぼんやりとした薄明かりであっても。というよりも、それがうすぼんやりとした薄明かりであったればこそ
なのである。なぜなら、うすぼんやりとした薄明かりでなければ、わたしたちが目を凝らすことなどないはずだから
である。

「闇がなかったら、光は半分も明るく見えるだろうか」(ジャック・ウォマック『ヒーザーン』9、黒丸 尚訳)。「光
と闇は宿敵ではなくて、/いったいの伴侶だ。」(ディラン・トマス『骨付き肉』松田幸雄訳)「白にはかならず黒がつ
く。」(フリッツ・ライバー『冬の蠅』大谷圭二訳)「光を見るにはなんらかの闇がなくてはならない。」(ソーニャ・ド
ーマン『ぼくがミス・ダウであったとき』大谷圭二訳)「いかなる物体も明暗なくしては把(は)握(あく)されない。」(『レオナルド・
ダ・ヴィンチの手記』科学論、杉浦明平訳)「光はついに影によって解釈されねばならない」(稲垣足穂『宝石を見詰め
る女』)。「光と色と影とがたくみに配分されるとはじめて、それまで隠されていた見事な様相が目に見える世界に顕わ
れ、そこで新たな開眼にいたるものである」(ノヴァーリス『青い花』第一部・第二章、青山隆夫訳)。


 意味の明瞭なものには、あまり目を見開かされることはない。強い光のもとで、目を見開くことがほとんどないよ
うに。もちろん、意味の明瞭なもののなかにも、見るべき作品はあるのだが、ほとんどのものが通俗的で、その主題
も、すでに知っている作品のなかで取り扱われているものばかりである。結局のところ、わたしたちは、たとえ難解
な作品であっても、それがすぐれたものであれば、たちまち目を凝らして見るものであって、たとえそれが言わんと
しているところの意味が明瞭なものであっても、凡作であれば、ちらとも目を向けようともしないものなのである。
それゆえ、作者といったものはみな、「凡庸なものは一切容赦しない」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川
村二郎訳)覚悟で、作品の制作にあたらなければならないのである。そして、それだけが、作者というものに課せら
れた、唯一、ただ一つの義務なのである。


LET THERE BE MORE LIGHT。──光の詩学/神学的自我論の試み

  田中宏輔



形象(フオルム)を一つ一つとらえ、それを書物のなかに閉じこめる人びとが、私の精神の動きをあらかじめ準備してくれた
(マルロオ『西欧の誘惑』小松 清・松浪信三郎訳)

言葉ができると、言葉にともなつて、その言葉を形や話にあらはすものが、いろいろ生まれて來る
(川端康成『たんぽぽ』)

人間、日毎に新しきを思惟する者たち。
(デモクリトス断片一五八、広川洋一訳)


「現実とは何かね?」(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第三部・19、冬川 亘訳)「場所の概念な
のか?」(ルーシャス・シェパード『ジャガー・ハンター』小川 隆訳)「精神もひとつの現実ですよ」(ガデンヌ『スヘ
ヴェニンゲンの浜辺』16、菅野昭正訳)。「あらゆるものが現実だ。」(フィリップ・K・ディック『ユービック:スクリ
ーンプレイ』34、浅倉久志訳)「すべてが現実なのだ」(サバト『英雄たちと墓』第III部・21、安藤哲行訳)。もちろん、
「現実化する過程なしには現実は存在しない」(スティーヴン・バクスター『時間的無限大』13、小野田和子訳)。「そ
もそもの最初は、なにもなかったのだ。」(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの恒星日記』第二十回の旅、深見 弾訳)「急
に一条の光が射してきて、」(プルースト『サント=ブーヴに反論する』サント=ブーヴとバルザック、出口裕弘・吉川
一義訳)「空虚のなかに、ひとつの存在が出現した。」(グレッグ・ベア『永劫』上・9、酒井昭伸訳)「この過程のすぐ
後には、光に向かっての、突然の浮上が起こる。」(ベルナール・ウェルベル『蟻』第3部、小中陽太郎・森山 隆訳)「思
考し行為し変化する一つの実在になる」(ロバート・シルヴァーバーグ『不老不死プロジェクト』5、岡部宏之訳)。「や
がて、またもや爆発。」(ロジャー・ゼラズニイ『復讐の女神』浅倉久志訳)「閃光! 闇!」(ジェイムズ・ティプトリ
ー・ジュニア『煙は永遠にたちのぼって』友枝康子訳)「万物を操るは電光。」(ヘラクレイトス『断片六四』山川偉也
訳)「一つだったものは、たくさんの反響する心をもつものとなった。」(ディラン・トマス『愛が発熱してから』松田
幸雄訳)「何千何万という世界が重なっている。」(ルーシャス・シェパード『ぼくたちの暮らしの終わり』小川 隆訳)
「ここでは、」(ジュゼッペ・ウンガレッティ『カンツォーネ』井手正隆訳)「無数の世界を、一ヵ所に焦点を重ねたさ
まざまな色の光だと考えればわかりやすいだろう。」(ルーシャス・シェパード『ぼくたちの暮らしの終わり』小川 隆
訳)。

 プルーストは、『ギュスタヴ・モローの神秘的世界についての覚書』に、「作家にとって現実的なものは、彼の思考を
個性的なかたちで反映しうるもの、つまり彼の作品にほかならぬ。」(粟津則雄訳)と述べており、また、「かたち」とは、
文体(スタイル)や作品の構成のことであろうが、『失われた時を求めて』には、「文体とは、この世界がわれわれ各人にいかに見え
るかというその見えかたの質的相違を啓示すること、芸術が存在しなければ各人の永遠の秘密におわってしまうであろ
うその相違を啓示することなのである」(第七篇・見出された時、井上究一郎訳)と書いている。また、ワイルドは、
「あらゆる藝術の真の条件とは、スタイルなのであ」(『嘘言の衰頽)』西村孝次訳)り、「スタイルのないところに藝術
はない」(『藝術家としての批評家』第一部、西村孝次訳)と述べており、ジイドは、「作品の構成こそ最も重要なもの
であり、この構成が欠けているために、今日の大部分の藝術作品が失敗しているのだと思う。」(『ジイドの日記』第五
巻・断想、新庄嘉章訳)と書いている。

 いま、日本の代表的なモダニスト詩人を三人選び出し、筆者が彼らの作品から受けた印象を、ある一人の哲学者の
本のなかにある言葉を使って書き表わしてみよう。突出したモダニスト、北園克衛には、「これまでにあった最も強大
な比喩の力も、言語がこのように具象性の本然へ立ち還(かえ)った姿に比べるならば、貧弱であり、児戯にも等しい。」「われ
われはもう何が形象であり、何が比喩であるかが分からない。いっさいが最も手近な、最も適確な、そして最も単純な
表現となって、立ち現れる。」と、また、瀧口修造には、たしかに、「あらゆる精神の中で最も然(しか)りと肯定するこの精神
は、一語を語るごとに矛盾している。」と思わせられ、西脇順三郎には、なにゆえに、「最も重々しい運命、一個の宿業
ともいうべき使命を担(にな)っている精神が、それにも拘らず、いかにして最も軽快で、最も超俗的な精神であり得るか──
そうだ、ツァラトゥストラは一人の舞踏者なのだ」などといった言葉が思い起こされるのである。ある一人の哲学者
とは、もちろん、ニーチェであり、筆者が用いた本とは、『この人を見よ』(西尾幹二訳)である。「なぜ私はかくも良
い本を書くのか」において、「ツァラトゥストラ」について書かれてあるところから引用した。

 モダニストたちの作品に見られる、その顕著な特徴は、一見すると軽薄にさえ見えることもある、その作品のスタ
イルにある。しかし、彼らの思想は大胆であり、徹底しており、なおかつ繊細なのである。彼らの作品には、ときと
して、「稲妻のように一つの思想が、必然の力を以って、躊躇(ためら)いを知らぬ形でひらめく。」(ニーチェ『この人を見よ』
なぜ私はかくも良い本を書くのか、西尾幹二訳)ことがあり、そういった場合には、しばしば、「事物の方が自ら近寄
って来て、比喩になるように申し出ているかのごとき有様にみえる。」(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも良い
本を書くのか、西尾幹二訳)のである。そして、そういった彼らの作品によって、わたしたちには、「誰(だれ)もまだ広さの
限界を見きわめたことのない未発見の国土を、どうやら行手に持つことが確からしいとの気配がして来るのである。」
「ああ、このような世界に気づいた今となっては、もはやわれわれは他のいかなるものによっても満たされることがな
いであろう!」(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも良い本を書くのか、西尾幹二訳)。彼らは、彼らが現われる
前に現われた「どんな人間よりもより遠くを見たし、より遠くを意志したし、より遠くに届くことが出来た(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)。」(ニーチ
ェ『この人を見よ』なぜ私はかくも良い本を書くのか、西尾幹二訳)のである。また、「あらゆる価値の価値転換(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)、こ
の言葉こそが」「人類最高自覚の行為をあらわす表現方式にほかならない。」(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私は一個
の運命であるのか、西尾幹二訳)と、この哲学者であり、詩人でもある人物は言うのだが、モダニストたちも同様に、
その奇抜なスタイルによって、「頭の最も奥深くにあるもの、事物の驚くべき相貌を表現する。」(ボードレール『一八
五九年のサロン』5、高階秀爾訳)のである。「事物に現実性を与えるのは(……)表現にほかならない」(ワイルド
『ドリアン・グレイの画像』第九章、西村孝次訳)。「それが/視線に実在性を与えるのだ」(オクタビオ・パス『白』
鼓 直訳)。

 つい先頃、ネットの古書店で、ロジャー・ゼラズニイの『わが名はレジオン』(中俣真知子訳)を手に入れた。三部
仕立ての作品で、第二部のタイトルは、「クウェルクエッククータイルクエック」というもので、原題
は、”Kjwalll’kje’k’koothai’ll’kje’k”というのだが、これは、イルカの言葉をアルファベット化したものだそうである。
翻訳は一九八〇年に、原著は、本国のアメリカで一九七六年に出たのだが、このタイトルを見ても、あまり驚かなか
った。もし仮に、筆者が、モダニズム詩人たちの作品を、先に知っていなければ、驚いたに違いないのであるが。そ
うなのだ。すべての前衛作品が、いつかは前衛でなくなるのである。作品を見てすぐに、これはあれだったと分類で
きるというのは、わたしたちが、それに馴染みを持っているからであり、それがすぐに分類できないときにのみ、作
品というものは前衛なのである。モダニストたちの多くの作品が、傑作を除いて、その文体や形式が、わたしたちに
驚きを与えたのも、それが初見のときか、まだ私たちの目に、それほど馴染みがないときだけである。しかし、それ
も仕方のないことであろう。何といっても、人間の本性に基づくことなのだから。中世の諺に、「vasanovella placent,
in faece jacent./新しき壺は気に入る、古きは廃物の中に横はる。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)というのがある。
それというのも、「est natura hominum novitatis avida./人間の性質は新奇を求む。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』
プリニウスの言葉より)からであり、「est quoque cunctarum novitas carissima rerum./新奇はまたあらゆるものの
中にて最も楽しきものなり。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』オウィディウスの言葉より)というように、「varietas
delectat./変化は人を悦ばす。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』キケロの言葉より)ものだからである。その理由と
いうのは、もしかすると、「われわれの本性が単一ではなく、われわれが可滅なもの」(アリストテレス『ニコマコス倫
理学』第七巻・第十四章、加藤信朗訳)からできているからかもしれない。「simile gaudet simili./似たるものは似た
るものを悦ぶ。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)とか、「similia similibus curantur./同種のものは同種のものにて
癒やさる。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』ハーネマンの言葉より)とかいった言葉があり、アリストテレスの『弁
論術』第一巻にも、「例えば人間と人間、馬と馬、若者と若者のように、すべて近いもの、類似したものは一般に快適
である。そこから「同じ年同士はたのしい」「似た者同士」「獣獣を知る」「鳥は鳥仲間」等々の諺がつくられる。」(田
中美知太郎訳)とかいった言葉もあり、時に、人間というものは、変化のないことによって、こころ穏やかでありた
いと望むこともあるのだが、ずっと変化のないことには耐えられないものである。わたしについていえば、とりわけ
変化を望む性質である。「変化だけがわたしを満足させる。」(モンテーニュ『エセー』第III巻・第9章、荒木昭太郎訳)
と言ってもよい。「詩とは、砕かれてめらめらと炎をあげる多様性である。」(アントナン・アルトー『ヘリオガバルス』
III、多田智満子訳)。「もしわたしを満足させるものが何かあるとすれば、それは多様さを把(は)握(あく)するということだ」(モ
ンテーニュ『エセー』第III巻・第9章、荒木昭太郎訳)。「生は多彩であればあるほど、すばらしくなるのだ。」(ノヴァ
ーリス『花粉』補遺120、今泉文子訳)。ちなみに、ゼラズニイの本のタイトルにある「レジオン」とは、聖書のなかに
出てくる”Legion”(ギリシア語で、レギオン)のことで、「軍団」とか「多数」とかを意味する言葉である(教文館『聖
書大事典』)。

 ところで、また、言葉にも、人間と同じように、履歴というものがある。さまざまな文脈の中で意味を持たされて
きた経験のことである。言葉もまた、新たな意味を獲得することに喜びを感じるのではないだろうか。言葉もまた、
再創造されつづけることを願っているのではないだろうか。その願いが叶うには、モダニストたちが、ずっとモダニ
ストでありつづければよいのだが、それは、それほど容易なことではないのである。「観念は人間を通してはじめて認
識される」(ジイド『贋金つかい』第二部・三、岡部正孝訳)のであって、「およそ概念なるものは、人それぞれに独特
な意欲と知性の(ヽヽヽ)眼とに応じてはじめてその現実性を有(も)つ」(ヴィリエ・ド・リラダン『未來のイヴ』第一巻・第十章、
斎藤磯雄訳)ものであり、「知性には、それなりの思考習性というのがあ」(マルグリット・デュラス『太平洋の防波堤』
第1部、田中倫郎訳)るからである。いつまでも革新的でありつづけることは例外的なことであり、ほんもののきわ
めてすぐれた知性についてのみあり得ることであろう。しかし、なぜ、モダニストたちは、文体や形式にこだわるの
だろうか。それは、おそらく、事物や言葉、延いては人間といったものの現実が、それまで存在していた文体や形式
によっては表わすことができないと彼らが思ったからであろう。ニーチェのことを本稿の冒頭にもってきたのは、筆
者が彼のことを二十世紀最大のモダニストであると考えたからである。あるいは、こう言い換えてもよい。モダニス
トたちの父であった、と。たとえ、彼の思想が直接に反映した作品が作られていなくても、「価値転換」という思想が、
モダニストたちの精神に与えた影響は、けっして小さなものではなかったはずである。よしんば、それが無意識領域
のものであっても。いや、無意識領域の方が、意識的なところよりも影響を受けやすいものであり、人間の諸活動は、
無意識領域で受けた影響の方が、より強く発現するものである。

「可視のものはみな不可視のものと境を接し──聞き取れるものは聞き取れないものと──触知しうるものは触知
しえないものと──ぴったり接している。おそらくは思考しうるものは思考しえないものに──。」(『断章と研究 一
七九八年』今泉文子訳)という、ノヴァーリスのよく知られた言葉がある。もしも、その言葉通りならば、意味せざ
るものが、何らかの刺激で意味するものに変容すると考えても不思議はないわけである。同様に、言葉でないものが、
言葉に変容すると考えてもよい。そういえば、「すぐ近くにあるものほど、そのもの自身に似ていないものはない。」(ラ
ディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)といった言葉もあったが、しかし、それは、ある時点においては、似ていないと
いうことであって、よくあることだが、まったく似ていないものが、よく似たものになることもあり、そっくり同じ
ものになることもあるのである。だからこそ、それを、「変容する」と言うのであって、無意識領域にあるものが、意
識にのぼる概念と密接に触れ合っており、ある刺激があれば、無意識領域にあるものが、意識にのぼる概念になるこ
ともあると、少なくとも、その意識にのぼる概念の一部となることもあるのだと、筆者は考えているのである。聖書
の言葉に、「見えるものは現れているものから出てきたのではない」(ヘブル人への手紙一一・三)というのがある。も
ちろん、「一切がことばになりうるわけではない。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部・日の出前、手塚富雄訳)。
言葉にならないものもあるだろう。しかし、それが、概念形成に寄与しないとも限らないのである。それが、概念形
成に寄与するものを形成することに寄与するかもしれないのである。これは、いくらでも無限後退させて考えてやる
ことができる。

 もしも、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手で触れられるもの、こころで感じとれるもの、頭で考えられるも
の、そういったものだけで世界ができているとしたら、そんな世界はとても貧しいものとなるのではないだろうか。
しかし、じっさいは豊かである。目に見えないものもあり、耳に聞こえないものもあり、手に触れられないものもあ
り、こころに感じとれないものもあり、頭で考えられないものもあるということだ。言葉にできないものもあり、言
葉にならないものもあるということだ。しかし、そういったものがあるということが、世界を豊かにしているのだ。
ただし、これらのものの上に「ただちに」という修飾語をつけて考えておくこと。

 一昨年の暮れのことだった。会うとは思われなかった場所で、会うとは思えなかった時間に、ノブユキと出会った
のである。八年ほど前に別れたノブユキに。恋人と待ち合わせをしていたのだという。ノブユキの方が早目に来てし
まったらしく、少しだけなら話す時間もあるというので、あまり人目に付かない場所に移って、話をした。話をして
いる間、ずっと強く、ノブユキの手を握り締めていた。瞬きをする間ももったいないという思いで、ノブユキの目を
見つめていた。どんなに微かな息遣いも聞き逃すまいと思って、ノブユキの声を聞いていた。その時間はとても短く、
あっという間に過ぎていった。別れ際に、ノブユキの方から、電話をするからね、と言ってくれた。ほんとうに、ノ
ブユキは可愛らしかった。その可愛らしさに、変化はなかった。この十年近くの間に、筆者も、何人もの可愛らしい
男の子たちと付き合ってきたのだが、やはり、こころから愛していたのは、ノブユキだった。ノブユキ一人だった。
二人で話をしていた間、ずっと、わたしの心臓は、それまで経験したこともないほどに激しく鼓動していた。あの再
会から一年近く経つのだが、いまだにノブユキからの電話はない。もしかしたら、電話などないのかもしれないと、
話をしている間も思っていたのだけれど。たとえ電話があったとしても、はじめからやり直せるなどとは、思っても
いなかったのだけれど。

 ノブユキとの再会は、あのとき一度きりだった。しかし、再会したつぎの日から、筆者のなかで、何かが変わった
のである。通勤電車に乗っていて、ただ窓の外を眺めていただけなのに、涙がポロポロとこぼれ出したのである。い
つも通りの風景なのに、目に飛び込んでくる、その形の、色彩の、その反射する光の美しさに感動していたらしいの
である。らしい、というのは、涙がこぼれ落ちた理由が、すぐにはわからなかったからである。普通に歩いていても、
破けたセロファンをまとった、タバコの紙箱に、泥のついた、そのひしゃげたタバコの空箱の美しさに目を奪われた
り、授業をしている最中でも、生徒の机の上に置かれた、ビニール・コーティングされた筆箱の表面に反射する光の
美しさに、思わずこころ囚われたりしたのである。ふと、気がつくと、「あらゆるものが美しい。」(ラングドン・ジョ
ーンズ)『時間機械』山田和子訳)「あらゆるものが、わたしに美しく見える」(ホイットマン『大道の歌』6、木島 始
訳)のであった。「光がいたるところに照っていたのだ!」(ボードレール『現代生活の画家』3、阿部良雄訳)「物と
いう物がいっせいに輝き出し、」(スタニスワフレム『ソラリスの陽のもとに』7、飯田規和訳)「自ら光を発している
ようにみえた。」(ブライアン・W・オールディス『世界Aの報告』第一部・2、大和田 始訳)「それは太陽から受けた
よりももっと多くの光を照り返しているかのように見えたからである。」(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・
2、浜野 輝訳)「ありとあらゆる色彩と光とがあふれていた。」(サングィネーティ『イタリア綺想曲』6、河島英昭訳)
「あらゆるものがくっきりと、鮮明に見えるのだ。」(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)「あらゆる細部が
生き生きしていた。」(R・A・ラファティ『他人の目』2、浅倉久志訳)「それがこんなふうに見えるものだとは、私
はかつて考えたこともなかった。」(スタニスワフ・レム『星からの帰還』2、吉上昭三訳)「自分の頭の中に光を、脈
動する光を、見るというより聞き、感じた」(フィリップ・K・ディック&ロジャー・ゼラズニイ『怒りの神』5、仁
賀克雄訳)のだ。「わたしが目にしているものはなにか?」(ロバート・シルヴァーバーグ『予言者トーマス』4、佐藤
高子訳)「光よりも光であり、」(ホイットマン『草の葉』神々の方陣を歌う・4、酒本雅之訳)「希望と現実の、愛情と
好意の、期待と真実の」(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第二部・13、嶋田洋一訳)「光なのである。」
(W・B・イェイツ『幻想録』第三編・審判に臨む魂、島津彬郎訳)「その内的な光は屈折して、より美しく、より強
烈な色彩となる。」(ノヴァーリス『サイスの弟子たち』二、今泉文子訳)。それがつづいたのは、わずか「三日間」(使
徒行伝九・九)のことだったのだが、しかし、たしかに、自分の知らないうちに、何かが記憶に作用したのだ。ある
いは、記憶が何かに作用したのか。それにしても、いったい、何が、筆者に働きかけたのだろうか。何が、あのよう
な光を、筆者の目に見させたのだろうか。「屈折した光条の一つ一つが見せるのは、下層の形象のいろいろな様相では
なく、形象の全体像なので」(フィリップ・ホセ・ファーマー『紫年金の遊蕩者たち』大和田 始訳)ある。「単に物の
一面のみを知るのではなく、それを見ながら全体を把握するのだ。」(オラフ・ステープルドン『オッド・ジョン』18、
矢野 徹訳)。

 二〇〇二年の十月に、筆者は、四冊目の詩集を上梓した。タイトルは、『Forest。』である。イメージ・シンボル事
典によると、森は、「無意識」の象徴となっている。冒頭に収めた、引用だけで構成した、二〇〇ページ近くある長篇
の詩で、筆者は、強烈な閃光が、森の様子をすっかり様変わりさせるところを描写したのだが、作品のなかで、その
閃光を発するのは、イエス・キリストであった。

「日光のふりそそぐ大地の上に/春の草は青々と美しく生い茂る。/だが、地の下は真夜中だ、/そこでは永遠の真
夜中である。」(エミリ・ブロンテ『大洋の墓』松村達雄訳)「僕タチハミンナ森ニイル。誰モガソレゾレ違ッテイテ、
ソレゾレノ場所ニイル。」(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳)「人間は木と同じようなものだ。高みへ、
明るみへ、いよいよ伸びて行こうとすればするほど、その根はいよいよ強い力で向かっていく──地へ、下へ、暗黒へ、
深みへ」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部、手塚富雄訳)。

 ブロンテの詩句は、前の二行が意識にのぼる意味概念、後の二行が無意識領域の比喩としてとれる。カフカの言葉
は、「無数の断片からなる単一の精神がある。」(ヴァレリー全集カイエ篇1『我』管野昭正訳)とか、「過ぎ去ったこ
とがどのように空間のなかに収まることか、/──草地になり、樹になり、あるいは/空の一部となり……」(リルケ
『明日が逝くと……』高安国世訳)とかいった言葉を思い起こさせる。ニーチェの言葉を、ブロンテの詩句と合わせ
て読むと、経験が重なれば重なるほど、知識が増せば増すほど、無意識領域において、自我が、あるいは、語自体の
持つ形成力、いわゆるロゴスが活発に働くことを示唆しているように思われる。わたしが、わたし自身のなかで生ま
れるのである。

「一たび為されたことは永遠に消え去ることはない。」(エミリ・ブロンテ『ゴールダインの牢獄の洞窟にあってA・
G・Aに寄せる』松村達雄訳)「木々は雨が止んでしまっても雨を降らしつづける」(チャールズ・トムリンソン『プロ
メテウス』土岐恒二訳)。「そこでは、光の下で断ち切られたことが続いている」(ヨシフ・ブロツキー『愛』小平 武訳)。
「言葉の力は眠りのうちに成長し」(ヘルダーリン『パンと酒』4、川村二郎訳)、「知らぬ間に 新しい結合を完成す
る。」(トム・ガン『虚無の否定』中川 敏訳)「自我は一種の潜在力である」(ヴァレリー全集カイエ篇6『自我と個性』
滝田文彦訳)。「断片はそれぞれに、そうしたものの性質に従って形を求めた。」(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オ
ーヴァドライヴ』36、黒丸 尚訳)「知っていた形ではない。」(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ36、
黒丸 尚訳)「もみの樹はひとりでに位置をかえる。」(ジュネ『葬儀』生田耕作訳)「家というのは椅子を一つ少し左に
ずらすだけで、もうそれまでとは違うものになる。」(ホセ・エミリオ・パチェーコ『闇にあるもの』第一幕、安藤哲行
訳)「配列にこそ事物の印象効果はかかっているのである。」(ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』山
田九朗訳)「いったん形作られたものは、それ自体で独立して存在しはじめる。創造者の望むような、創造者の所有物
ではなくなってしまう。」(フィリップ・K・ディック『名曲永久保存法』仁賀克雄訳)「それを見まもる者は誰なのか?」
(ニコス・ガッツォス『アモルゴス』池沢夏樹訳)「ここには誰もいない、しかも誰かがいるのだ。」(ランボー『地獄
の季節』地獄の夜、小林秀雄訳)「あらゆるところにいて、すべてを知り、すべてを見ている」(ターハル・ベン=ジェ
ルーン『聖なる夜』2、菊地有子訳)。「かれはすべてのものを復活させることができる。」(フィリップ・K・ディック
『死の迷宮』1、飯田隆昭訳)「すべてのものを新たにする」(ヨハネの黙示録二一・五)。

「だれがぼくらを目覚ませたのか」(ギュンター・グラス『ブリキの音楽』高本研一訳)。「だれが光を注いでくれた
のか」(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』39、沢崎順之助訳)。「新しい光がわれわれの手をとる。」(ア
ンドレ・デュ・ブーシェ『途上で』小島俊明訳)「内面のまなざしが拡がり(……)世界が生れる」(オクタビオ・パス
『砕けた壺』桑名一博訳)。「なにもかもがわたしに告げる」(ホルヘ・ギリェン『一足の靴の死』荒井正道訳)。「この
表面の下に、いまだ熟さぬ映像がひそんでいる、と」(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』12、黒
丸 尚訳)。「光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となる」(エペソ人への
手紙五・一三)。「光 それがぼくらを吹きよせてひとつにする」(パウル・ツェラン『白く軽やかに』川村二郎訳)。「光
ならずして何を心が糧にできよう?」(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』二冊目・27、野
口幸夫訳)「光こそ事物の根源で、」(プルースト『シャルダンとレンブラント』粟津則雄訳)「ああ、これがあらゆるこ
とのもとだったんだ。」(アントニイ・バージェス『ビアドのローマの女たち』7、大社淑子訳)「電光は万物(自然万
有)を繰り統べる。」(ヘラクレイトス断片62、廣川洋一訳)「突如としてそれは落ちてくる。」(ラーゲルクヴィスト『巫
女』山下泰文訳)「待つということが大切だ。」(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)「求めるあまりに、見いだすこと
ができない場合がある」(ヘッセ『シッダルタ』第二部・ゴヴィンダ、手塚富雄訳)。「待つものはすべてを手に入れる。」
(フィリップ・K・ディック『父祖の信仰』浅倉久志訳)「精神の豊富と万象の無限。」(ランボー『飾画』天才、小林
秀雄訳)。


寂しい織物―六つの破片

  前田ふむふむ



  1.永遠の序章

(総論)
一人の少女が白い股から 鮮血を流していく
夕暮れに
今日も一つの真珠を 老女は丁寧にはずしていく
それは来るべき季節への練習として
周到に用意されているのだ
人間の決められた運命として

  
(各論)
眠ろうとしない 世界中の艶かしい都会の 暗い窓のなかで 
いっせいに女の股が開かれて 混沌とした秩序を宥める清楚な
夜が 血走った角膜の内部から 声を上げる頃 一人の老婆が
朦朧とした手つきで 毛糸を編んでいる 長すぎた過去を焼却
場の前の広場に 山積みにして 決して燃やさない 苛烈な思
い出は 豪雨に打たれて 弛んだ皮膚をさらしても 老婆の編
む毛糸のなかに溶けて 固められていく しずかに重々しく時
を刻む夜が 小声で永遠を 跨いでいく

思惟の灯台たち
    老婆の手を 閃光で照らせよ


2.しずかな夏         

冷たい太陽の雨が
降っている
その一滴のしぐさに
夜が浮かび
夜のなかに
低い声をあげて
キジバトが
一羽 止まり木をさがして 
低空を旋回している

海が見たくなり
ゆるやかな
坂道を下っていくと
地盤沈下した
海辺では
行き場のない貝が
砂から顔を出している

ちょうど氷のように
頑なに閉じている
凍えきった
ざわめきが
しずかな波の音に
洗われている

その
仄暗い肉体の声を
聞くために
わたしは
痩せた指を伸ばして
小さく歪んだ貝を
手にとり
空に高く
翳して
巨大な入道雲の上に
たてかけてみると

空は無慈悲なほど青く
生ぬるい風が
身体中を過るだけだ

入道雲の下には
スーパーがあった
セイタカアワダチソウの茂っている
丘がみえて
壊れかけた風見鶏が勢いよく回っている 
その影は
じりじりとした暑さのなかで
ひかりと混ざり
少し揺らいでいる

誰かが「おーい」と呼んでいるような
気がして
ふりかえると
誰も見えない
多分 旅立ったひとの
声かもしれない

「今日はほんとに
「暑いなあ
「熱に入られないように
「気をつけなよ」
といわれているような気がした

その親しみのある声を
引きずりながら

ひたひたと
わたしの眼のなかを泳ぐ
海は とても穏やかで
曲がった夏の
先端のときに
ランドセルをした
少女が
いつまでも
岸辺にとどまっている


3・孤独な居間にて

コーヒーの香りが 居間の空気に広がり
その一部が直滑降となり
ジェットコースターの速さで
窓辺の朝陽に溶け込んでいく
その爽やかさに 
わたしのなかで
時間の鼓動が一瞬だけ輝く

木製の食器棚のうえの古い写真のなかの
無彩色のわたしが
無彩色のコートを着て 
無彩色の空に溶け込んでいく
写真を見ている時間だけ 
世界が止まっている

テーブルには
わたししか電話番号を知らない
携帯電話が置いてある
誰からも掛かって来ない携帯電話が置いてある
今日の真夜中に 一人の幽霊が
誰からも掛かって来ない携帯電話が鳴るのを
じっと待っていた
灰色のガウンを羽織った幽霊が
笑みを浮かべながら
じっと待っていた
居間には 剃刀のような沈黙が 静かに流れていた
やがて
小鳥が朝陽を持って来るまでは


4.四つの椅子


           
みずうみは 滑るように
風が微細な音を鳴らして 呼吸している
絶え間ないひかりをおごそかに招きいれて
夜のしじまを洗い流している
めざめる鳥の声の訪れとともにあらわれる
朝霧の眩さ
真っ赤に湖面を染めて
音もなく水鳥が 静かに足をすすめている
煙のような靄が
赤に馴染んで 湖面に流れてゆき 
湖面の岸をすこしずつ無くしている
それは 日常の風景を隠蔽して
赤だけの世界をつくりだす
太陽は 朦朧とした金色のひかりを放して
湖面のうえで 朝靄に隠れてまどろんでいる
木々は黒く墨を吐き出したように
物言わぬ液状のままで佇んでいる

湖畔には血の色に染まった
鉄の肘掛が付いている
四つの椅子が置いてある
沈黙した椅子が朝の皮膚から剥きだしになって
置いてある
赤い海の世界で骨が四つ並んで
寂しく呼吸している


5.夜 (一)

       萩原朔太郎へのオマージュ

死んだ猫が ベッドのうえで横たわっている
もう 起きることはない 
汚れ物のように
わたしは いつまでも 蒼白い猫をみている
やがて
夕暮れは ときを忘れて
夜を連れてくる

わたしは 猫になり 壁をみている
なんども 長く湿った呼気を吐いた
少しずつ
血液が流れる鼓動が
トクトクときこえてくる
冷えきった手で触ると
透きとおるような
痩せ細った胸は
あたたかい

寒い部屋のすみで
猫がベッドの上のわたしをみている
大皿で 血を舐めるように
白いミルクを舐めている

深夜 氷のような月がでている


   6.夜 (二)

夜空をけんめいに駆け昇った星たちは
自ら しずかさをその身体で露出して
座をつくり
名前を雄弁に語りかけている
その星々に隠れながら
名前をもつことが出来ない
無数の星々は
はじめて流す涙のような
無辜の潔さをつまびいている
幾千万の星の洪水
その眩さは 陳腐な地上の瓦礫を
すべて押し流してしまうだろう
わたしは原っぱに仰向けに寝て
朔太郎の詩を黙読しながら
この夜と抱擁する
ああ この心臓の温かさは
夜が確かに呼吸しているからだろう


空洞

  飯沼ふるい

仕事を終えて
アパートの玄関を開ける
先日
酔いすぎてもどした
消化途中の言葉尻が
まだ
黒ずんだ上がり框に
飛び散っている

向かいの棟の方から
チリチリと音がする
数日前から
あちらの
共用廊下の照明が切れかかっている

ノイズ混じりの黄ばんだその明かりは
台所の磨りガラスに張り付いて
三角コーナーに溜まった生ごみに
生き物じみた明暗を浮かばせている

「疑似餌」

そんな言葉をまた不快にこみ上がらせながら
わたくしということが
台所を過ぎる
と、
居間の方で
日めくりのカレンダーが一枚
剥がれ落ちた

影がない

斑に白く曇ったシンクの隅で
ひっそりと呼吸する
酸えた匂いは
輪郭の定かでない暗闇を
黴のように
あちこちへ撒いているが
あすこに落ちている日付の方角から
この部屋へやってきた
わたくしには

それに気づくや否や
目の前に
空洞が、空洞という存在があった
見えない、という大きなものが
ぽっかりと、認知された

 (これは虚無感の隠喩かしらん

言葉の滓はなおも
ひくひくと身悶えているが
しかし
わたくしはこの部屋で一人

ゆっくりとこちらへ歩み寄る空洞
わたくしの体は
身じろぎもせずに
捕食される

部屋が
一段と静まり返った
のではなく
わたくしの
 (わたくしの?
なかから
 (なかから?
先程までの
不快な言葉の淀みが抜けきったのだ
沈黙の涼しい時間が代わりにあった
そして
あなたは
いずれこの部屋へ帰ってくる

いつからの付き合いだろう
あなたは
思春期の盛りの夏
部活からの帰路
自転車に轢かれ
側溝の蓋に頭を強く打った

わたくしの
記憶を言った
それから少し経ち
玄関扉が開く
ぬるい気流が
生ごみの匂いを散らす

 (あなたとはわたくしの妄想かしらん

あなたがある
わたくしということが見えない
あなたが見るのは
空洞、
まるで惨劇のように
静かな部屋
そのなかで
あなたの影は
蝸牛のようだった

この狭苦しい部屋の向こうで
空は
愚鈍に延び広がる
冷たい尿が
薄い屋根板を流れる
軒下の砂利を洗う

いずれにしても
あなたということは
蜘蛛の巣のように疎ましい憎悪
であったり
脂汗のようにべたつく性欲
であったり
夕焼けのように痛ましい思慕
であったり
凪のように静かな不安
だったり
つまり
なにひとつわかっていない
だからこそ
あなたということにすがってみる
艶のない髪を撫でる
衰えた聖、その感触
あなた、わたくし、という
なにがしかの境界が裂けていく
意識、あなたの、未遂の

 (あるいはわたくしの隠喩かしらん

遠雷が遠くで鳴っている
カレンダーの新しい一面に
鯨幕が浮かびあがっては消える

これはいったい
どれほどの自我だろう
張りつめた動脈の遡上が
途絶えるまで続ける
口吻
春の色彩に包まれた
死期の味がする

あなたであるものを通してもなお
存在の密度が
ほろほろと
崩れていく

その感じ
それだけが
わたくしということを
強く訴える

これはいったい
どれほどの自我だろう
あなたもまた中指から流線型に形を崩し
気流に溶けはじめる
もとより気流だったのかもしれない
わたくしがいまここで空洞としてあるように
とすれば
もう誰もここにいやしない
わたくしとか、あなたとか、
そのような形骸を掘りこんだ
覚えていない日々の連なりが
空洞に包まれて
延長された命日だけが
過呼吸気味に息吹いている
百年の孤独とはよくいったものだと思う
これが
収斂していくということかと思う
先日
酔いすぎてもどした
消化途中の言葉尻が
まだ
黒ずんだ上がり框に
飛び散っている
そのまま
なにも残さず
揮発してしまえばいい

雨音は強く
そのなかに
向かいの棟を歩く誰かの足音が紛れていた
閃光は強く
そのなかに
わたくしのうしなはれた影が紛れていた
けれどあなたが風のひとすじになるならば
もう誰もここにいやしない
その為に
向かいの棟の灯りも事切れ
捲れた日付は
とうに
未来からも窺い知れない場所まで
わたくしたちを運んでいる

いつからの付き合いだったろう
眠気にも似ている
意識、あなたの、未遂の
いつも
抱き寄せようとして潰える
火照り
あなたはいたずらに
落ちた日付をひらと揺らしていなくなる
わたくしもまた消化され
ひっそりと、その形をうしなってしまうのだが
それから少し経ち
仕事を終えて
アパートの玄関を開ける
わたくしがいる


ちいさいオジサン

  ヌンチャク

こんにちは
って顔のぞきこんだらおばあちゃんが
ベッドに変な男いてるって言う
変な男?どこに?
薄っぺらい楊貴妃のミイラみたいな肩と背中を
一回五千円やで(※)ってマッサージしながら話きく
ゆうべな
ちっちゃい男が枕元からな
布団の中に入ってきてな
やらしいことばっかしてくんねん

そこそこ
ええわー
気持ちええわー
ほんでな
やらしいことばっかしてきてな
やめてって言うてんのにな
一晩中ずっとやで
はよ出て行きって
私だいぶ怒ったってんけどな
なかなか出て行かへんねん
あんたからも怒ったってや
うんうん
おばあちゃんそれひょっとして
ちいさいオジサン(※)ちゃうの
しゃくゆみこ(※)が見たっていうやつ
いけのめだかちゃうで
妖精やで妖精
妖精がちょっとイタズラしに来ただけや
妖精反省どないせい言うて
病床妄想どないしょう言うて
すごいやんおばあちゃん
ついに見えへんもんが見えるようになったんや
なあなあどんな顔やった?
ジャージ着てんのん?
今度ちいさいオジサン出たら教えてや
僕も見たいから
おばあちゃんは
鼻からチューブを入れられて
もうレモンをがりりと噛むことも出来へんし(※)
みぞれを欲しがることもない(※)
私もうあかんねん
長ないねん(※)
何がや
点滴にビール入れたろか
おばあちゃん好きやったやろ金麦
看護師さんには内緒やで
前歯の抜け落ちた口をカパッと開けて
ニカッと笑ったおばあちゃん
昔は西萩小町(※)て呼ばれてたて
自分でよう言うてはったけど
今じゃだんれい(※)って言うより
ほんこん(※)に似てる




※ 「あんた高いわー」
  「もうだいぶツケたまってんでもうすぐ家建つわ」

※ 尼崎のゆるキャラはちっちゃいおっさん

※ 「しゃくやでしゃく、ちゃうちゃうおばあちゃん言うてんのそれかつらじゃくじゃくやから」

※ ちえこのパクリ

※ としこのパクリ

※ 「足やろ知ってる」

※ じゃりン子チエのパクリ

※ まわりゃんせの人

※ サンコンとは別人




「あの人なんで亡くならはったん?」
「誰?」
「亡くなったんやろあの人」
「誰のこと?」
「ヌンチャクさんや」
「おるやんここに」
「ヌンチャクさん!」
「‥‥僕まだ生きてますけど」


コンプレックス

  zero



前へ逆らってくるものに濁った静寂を飲ませよう。人間は平等な墓石の上で草になるのを待っているから。広がって他を照らそうとするものをそれ以上の絶対的な光で鎮めよう。あらゆる広がりは人間の狂った尊厳が自滅した痕跡に過ぎないから。人間は結合しましたね、磁石のように。結合した人間は関係を吐き出し雲を作り、その雲を社会と呼びます。雨と雷が泣き声になって降ってくるのはそれが歴史だから。磁石の磁場をどこまでも微妙に感じてわずかな振動を与え、雨と雷の悲劇を楽しみつつその虚構性に存在の真実を認め、ただ振り返ることもなく社会をケーキのように切り分けてゆっくり食べること。それだけでいい。自分の頭を光らせる必要はないし、自分の頭を風呂敷のように広げる必要もない。光と広がりは既に社会が精妙に構築してあらゆる人の体をぬぐっています。ひとまず息を緩やかにして社会の指使いを体の奥にまで通して行こう。



いくつもの整った服を重ね着して、いくつもの高価な装飾品を身につけて、皮膚がどこまでも進化していく映像を描き直していく。そんな映像は懐疑を許さないという意味で猥褻だから。映像を駆動する順応のオイルは空虚だから。肩書、業績、成功、そこに至るまでの演奏には正しい不協和音が足りな過ぎるんだ。リズムの逸脱が検閲されているし、そもそもホールを抜け出して雑踏の中で演奏するという芽をきれいに摘んでしまっている。皮膚はもう厚くならなくていいから内臓を豊かにしようよ。グロテスクで醜いけれど生命そのものである内臓に繊細な翅をいくつも与えるんだ。内臓は瞑想の中でわずかに飛翔する。皮膚を覆うのは雨と風と日差しを避けるだけのシャツで十分だ。内臓は思考の瑞々しさによって血を受け、知識の華やかな乱舞によって構造化され、どんどん醜くなっていく。とても醜くてとても豊かな内臓が、とても薄い皮膚を限りなく美しく保つんだ。


森についての断章

  前田ふむふむ

   


序章

淡いまなざしを
朝焼けをした巨木におよがせて
動きだす直き視界に映る
せせらぎは
ふくよかな森の奥行きをたかめている

森の新しい来歴は 
茫とした朝霧を追い越して
あさいみどりのつま先から
からだいっぱいに
透きとおるひかりの中庭を
靡かせている

東の空から ひらかれた青さが
無垢な湿度を
たずさえて 鶏の背中を起こしていく
端正なしずかさが せりだして
かすみを帯びた ひとつひとつのひかりが
夥しい木々を色彩で染めていく
浮き上がる森から
わずかにずれる みどりいろの濃淡の底が
うすく立ち止まる朝に 清々しい呼気を
緩やかに撒きつづける

あなたは 森の肺胞が はきだしたテラスで
恋人に微笑み返して
あつい みずいろの夏を
掌におかれた 中原中也詩集に
萌たたせる

季節が芳しく衣擦れる午前の歩み

あなたの美しく脱いでいく
多感な時間の針は
涼しい花篭のなかではえる
黄色い百合を
うつむく
亜麻色の髪に添えるしぐさに
費やしている

揺れる恋人の声が 爽やかに立ちのぼる
しなやかな森のみずが
ひとたびだけ流れる
深まりのなかで

  


断章 1

オオルリが青い姿勢を空に向けて
ピールーリィ ポピーリィ ピピ  ギッギッ
と囀っている
その声から
すべるように
森のかおりが溢れでている

木樵たちが渓谷をのぼっていく
汗ばんだひたいをタオルでふきながら
親方が先頭を歩けば
笑いながら 若者たちがついていく
声が静寂をきって
薄化粧のこだまを四方にくばり
森のあさい夢を覚まして
静寂の高低を 
さらに 深めている


断章 2

陽が頂点を
主張してくると
鬱蒼とした
眠れる森は
ひかりをふところに浸して
みどりのまるみを滲ませながら 
いのちの数式を 
一段と 
うすきみどりに染め上げている
その刹那に
満たされた隙間を 
涼やかな風が 繰り返し
芳しい音を上げて たちのぼっている

あなたは 長い髪を
白い手でたくしあげて
流れる時間のほころびに
凛としたほおを添えている
追いかける空の青さに走るおもいは
波をおこして 激しく揺れ動き
あなたは 瞳のなかで 
きよらかに高められて
恋人との真昼の鼓動を 
あつく爪弾いていく

滴る森のみずいろと交わる 恋人の吐息

目覚めた昂揚が 小さな胸の底辺に
真率に積もりつづける

放射する日差しは
あなたの日常をゆっくりと溶かしながら
思わず込み上げた 溢れる声は
短くこだまを響かせて
無防備に佇む恋人のしぐさのなかに
流れ落ちている
濡れたくちびるを恋人のこころにあてて
あなたは 森の階段を
しずかに昇りつめていく

仄かな恋人の言葉が あなたの若い芽を
まどろんだ湿地にいざなって
比喩の森の断章が
あなたの二十歳の淡い視界のなかで
やわらかく立ち上がる


場所

  中田満帆

かの女たちへ



   そうして悲しむことをやめ
   ふたたび葉につつまれた片手で
   ぼくは帰っては来ないもののために祈る
   いくつものかげたちはいつもみたいに廊下を過ぎる
   なにをそれほど脅えてたのかはもうわからなくなって
   噛み砕かれた胡桃の実がぼくの咽を通る
   いつだったかおぼえてないけれど
   あなたたちがぼくに笑みをむけてくれたとき
   ぼくはなんだか怖かったんだ
   あの駅ビルや教室のなか
   ぼくを笑ってた
   いつかまたあの笑みをみたいといまだおもってる
   それがどんなにも空虚なことと知りながらも
   ああいっぽんの老木を小脇にたずさえて
   あなたたちの望むほうへと消え去ってしまいたい
   もちろんこうしてるいまでもね
   だからぼくにことばを
   ことばを


暮れの点景


   やがておれのうちがわから零れ落ちる水よ
   おまえはまたしても女の仕方で去っていくもの
   街路樹のならぶ心象を急いで去ってしまうもの
   こんな光景のために幾たびうろたえてきただろうか
   暮れの点景、
   そこに現れた車道が深く胸をえぐる
   つよいまなざしを期待しながら
   またしても惨敗するおれよ、
   水は対向するひとびとを抜けてしまい、
   もはや見えなくなる
   濃くなっていくかげのうちでなにもかもわからなくなる
   やがておれのそとがわから展がる地下道よ
   どこまでも明るいうちを往来がゆるい
   暮れの点景、
   ふたたび惨敗してしまったおれの愁いにいま応えよ


不実


   不実さよ、そのみのりをぼくにおくれよ
   どうか信じて欲しいんだ
   列車に乗り遅れたこのぼくが必ずさきにたどり着くことを
   お呼びでないのはわかってるつもり
   けれど忙しいひとのなかを縫って
   ぼくは死に急いでやる
   これだけがぼくの復讐だ
   遙かさきのシグナルよ、気をつけろ
   遙かさきの駅舎よ、気をつけろ
   必ずや不実の輝きをもってしてそいつらを倒してやるんだ
   不実さよ、
   そのみのりをぼくにおくれよ
   どうか信じて欲しいんだ   
   列車に乗り遅れたこのぼくが必ずさきにたどり着くことを    



ひざかり


   このぼくの敵どもよ、
   どうか安らかなれ、だ
   この季節はだれもが顔をしかめて去っていく
   夕暮れをおもわす足通りでなにもかもが片づいてしまうもの
   あたらしい夜を待ちに待ってどこかへとぼくも消えたい
   けれども辛辣な街灯はぼくを閉じ込めたまんまでどっかうちがわに立ってる
   そうともあれらがぼくにとっての知覚の扉なのさ
   美しいふりをして遠ざかるかのひとよ、
   きみはきみのまんまでいればいい
   もう出会うことのないように
   ぶざまにとどまりつづけるぼくの魂しいよ、
   慈しむ
   このひざかりに咲いた太陽の一輪を差して
   そいつの色が抜けるまでに描写していくんだ、すべてを
   みおぼえのない自叙伝、
   そのうちにぼくはいずれ居場所を見つけるだろうから、だ。


場所


   きょうはヴィム・ヴェンダースの写真集をみて過ごそう
   "Places, strange and quiet"
   静かで見も知らない場所を求めながら、さ
   きみはかつていったね
   ぼくのことがきらいだと
   あのとき一〇歳だったぼくらも三十となった
   ふるえる稜線をたどって厭きなかったあのころ
   ぼくはすでに知ってたんだ
   自身が望まれてその場所にいるのでないことを
   ありがとう、さようなら
   そうしてさらにありがとう、さようなら 
   ぼくの知らないとこできみは大人になった
   きみの知らないとこでぼくはできそないの人間になった
   ありがとう、
   そしてさようなら


怖れる子供


   ぼくの詩神は閉塞と解放を行きつ戻りつ
   太陽のなかに青い種子をみつけようとする
   幼い顔したまんま追いつめにやって来る
   
   きみの詩神はどこでどうしてる?
   ぼくのはハンバーガー・ショップに入り浸って
   角の席でいつもコーヒーを啜ってるやつさ

   きみとはいつも会いたかったけれども
   きみはぼくに会いたくはなかった
   送った詩集が返送されるまで
   ぼくはどれほど待てばいいだろう

   ひとはだれでも詩人であるときがある
   寺山修司はそういってた
   そして詩を棄て損なったものだけが
   詩人として老いるとも
   ぼくは老いてしまったよ 
   すべてを怖れる子供のまんま


空白みたいなもの


   充たされない愛に渇き
   餓えた犬みたいに通りをさまよっていく景色
   すべての風景はぼくにはあまりにも美しすぎたんだ
   左右の確認を怠って死んでいくものたち
   交通はささやかなる墓標
   そのまんなかに立ってまたしてもぼくは夢想する
   気づけないあまたのきみに分散していくかたわらで
   おもいもかけず塵となり、くずとなるんだ
   さあ、おいでぼくのうちなる犬たち
   さあ、おいでぼくのうちなる猫たちよ
   いまや過ぎ去った内的歴史とともに
   うち負かされていく魂しいよ、
   せいぜい永遠にでもなるがいいさ


共鳴


   それはまやかしにちがいない
   どうとでもいいあって勝手に沈んでいくがいいさ
   もうどうでもよくなった
   なにもかもに感じない心が育ってしまい
   なにもかもに手がつかなくなる
   攻撃性を炙りだされ
   足もうごせないときよ
   ペニー・アーケイドのどよもしだけが
   おまえを癒やすだろうよ
   替えの利かないなにものかを求めて
   手を展ばすときだけ
   ぼくはなにものかになれる
   わずか十分間の遊び
   だれかさんはそういったぼくを笑うだろうか 
   果てのないところにたったひとりで立ち向かってるおまえよ  
   ともに感じあうことのない、その両手のなかにいっぱいの花を奪い取れ


燃焼

  zero

私の絶望は何かの病巣のようであって、その病巣はたえず再生産しながら増え続けている。確かに若い頃、万策に窮して絶望の源の方まで落ちていったことはたびたびあった。だが私は結局絶望を燃やし切ることができなかった。絶望の核に至る前に引き返してしまい、絶望をその根っこから完全燃焼させることができなかったのだ。だから私は真に絶望したことがなかったと言っていい。絶望はただ迎え入れられ、私は絶望と共に激しく燃えても決して燃え尽きることがなかった。

今でも季節が盛り上がるような時期に、誰かの落とし物のような絶望に見舞われることがしばしばある。今まで生きてきて何一ついいことがなかった。俺は結局誰からも真に愛されることがなかった。俺は全く無力で救いようがなく汚れている。こんな想念が大気を着色するかのように私の風景を狭める。つまりは、絶望の病巣がまだ活発に生きている証拠なのであって、若い頃に絶望と共に燃え尽きることのできなかった私が燃え残った絶望の飛び火をたびたび浴びるという具合なのだ。

だが絶望は果たして忌むべき病巣なのだろうか。絶望しているとき、人は何事も待たずに済む。人は余りにもたくさんの美しいものを待ちすぎている。それに、絶望しているとき、人は何事も探さずに済む。人は余りにもたくさんの尊いものを探し過ぎている。絶望は、人が常々負っている「待つ」「探す」という負担を免れる心の状態であって、だからこそ絶望はひめやかな快楽を伴うのではないか。

そもそも絶望は私の内部に巣食う病巣であったろうか。それは社会と共に社会の側に存在するものではなかったか。確かに絶望は孤独に発生し、無条件・無根拠に人を襲うものだ。だが、その孤独や無条件・無根拠という状況は個人と社会の隙間に漂っているものではないだろうか。絶望は純粋に個人的でもなければ純粋に社会的でもない。個人と社会との呼応の関係に乗っていくものであろう。

会社帰り、駅のホームで、群衆に紛れながら、疲れた私は何かの火花のように絶望に燃やされることがある。絶望を燃やし切ることは果たして可能なのだろうか。二度と絶望が訪れないようにすることは、果たして。私は絶望と共に燃えてみる。社会も火種にくべて精一杯燃えてみる。何の負荷もない状態でただただ燃え続けていき、このまま灰になってしまったら、私の青春は本当に終わってしまうのではないか。病巣としての絶望は青春を、若さを、私の中に保ち続けてくれたのではないだろうか。


枕元に、

  New order

床に災いを敷き、
枕元に病を、
口は光を囀り、
音は夕べの窓際に、
丁寧に、
配置された、
優しいもの、
今から、白く、
多くを、食べる、
夢の中で、友人たちを、


黒く、浮かぶもの、
背骨を、折る、
二日目の、手に、
持たされた、
また、夢、

地獄は、明るい、
と、肘を、ついて、
遠くを指さす、
顔が、微笑んでいる、

白く、また、
食べる、多くを、
くべる様な、手つきで、
燃えていくように、
落下する、
そう、落下する、

凍える様な、
科学の、時間だけが、
すぎて、
また、一人、
また一人と、
白く、食べられては、
夢の中で、

花の名前を、
伝える、新しい、
水素、だけが、
私の、体を、
突き抜けて、

見たままの、
手だけが、
遠く、伸びていく、
この、角を曲がれば、
永遠の、終末で、
明るい、と、
また、顔だけが笑っている、

意味が分からないから、
怖いでしょう、
だから、大嫌いだ、
と、口を滑らした、
夜、
その背後で、
待っているものは、


シのシャープはドじゃない

  阿ト理恵



おまけにドのフラットはシでもないのでだまされつづけてしまいました

いちにち一mmだけうかれて

境界線をわたしの輪郭とするならば

いつでもつながってしまうことに

とりあえず
とりあわず

平温でいましょう

かってないいぶんちがいちってあいにくのはれのひ

ならない音のこうふくをきる。のたちわるい類のわたしたちってありえないわよ、まみれなくたって、できました、やりました、もめました、ぶちました、やめました。もうフランソワ・トリュフォーの映画なんてみないことにした。は、やはり、さよならの有効期限なんか三秒になるので、なんで愉しいのかわかんないって云いながら、そのととのえ方、きゅう(と)けいをす(て)きす(て)きす(て)て、ひらがなぼやけるくらいのぞむほどにのどはかわいていないのぞまれているわりにのぞかれてもいない、たわけた正三角関係だって云われて、わたしは彼女にしたたかにしたたる彼女はしたがる彼はしたがって彼女はわたしと彼にしたがうしかない、それぞれが三分の位置がわからないというせきららせきららせきらら

ねえ、どこからが空?

口+口+口は目
見た目も口がみっつ
足がはえた程度と見られがち
まあ、いまさらおもいのたけをぶつけるってのもいいかなって
まさかはなしたいことばかりだったなんてね
かなわないな
かまわないでおかえり
耳の穴
しこうよりクオリティをのむ
あさひさしこみたつはるに

さてと、わたし
たちとはさよならするよおやすみまたねようはワンセグみてぐだぐだしてるまにまに真実はさま(よ)っているらしく、

きゅうくつ脱いでしまおうか


雪駄解禁

  ヌンチャク

なまあったかい春の夕暮れ
ジャージに雪駄をつっかけて

みいとさっくん引き連れて
お散歩がてらコンビニでお買いもの

パパはビール(パパおさけのみすぎ!)(ノミスギ!)
みいはメロンソーダさっくんはジャガビー

チキンを5つ買って(パパ2つやで)(ずるっ!)
ママの待つおうちまで競争(ヨーイドン!)

雪駄ペタペタ(パパはやくー!)(パパハヤクー!)
みいとさっくんはやいはやい

知らないおばあちゃんにコンニチハして
散歩中のワンワンにバイバイして

葉桜みたいに眩しい後ろ姿の
伸びてく影を踏んでみる(次さっくん鬼ー)


みのむし

  島中 充

妻はゆっくり狂い始めた。階下から甲高い声で私を呼ぶのだ。
「アナタァー。」 また始まる、始まってしまった。

開け放たれた窓から、花冷えの寒気がなだれ込み、投げ出された掃
除機の横で、床の上にスフィンクスのように、両手、両膝を着いて、目
を据え、開かれた昆虫図鑑を妻は睨んでいた。
「アタシ、蓑虫じゃないわ。蓑虫なんていや、大嫌い。」
蓑虫の雌は一生を蓑の中で暮らす.雄のように蛾に成ることもなく、
蓑の中で交尾し、産卵し、死んでいく。
「あなたの世話をし、子供を育て、台所に閉じこもって、死んでいくの
はいや。よそにおんながいるんでしょ。アタシを抱かないのは、よそに
おんながいるからでしょ。」いつもの詰問を、妻はまた始めた。
「ほらごらん。」私は昆虫図鑑の、蓑から半身を出している蓑虫を指さ
し、「五十をとうに過ぎ、私の性器はこの蓑虫のように萎えているよ。
あなたを抱いても、あなたの性器のまわりを這う、半身を出している
蓑虫になるだけだよ。」私は懸命に説明するのだった。
「違うのよ、優しく、ただ抱いて欲しいだけなの。」と妻は言った。
私は妻の肩を抱き、優しく抱き起し、「さあー行こう、蓑から出よう、
散歩に行こう」と誘った。

住宅地をぬけると斎場が在り,斎場から山頂に向かって、満開の桜の
広い公園墓地があった。桜の木の下を、手をつないで、私たちはゆっく
りゆっくり歩いた。あちこちの木陰から私たちをじっと見つめるもの
たちもいた。ここは捨て犬のメッカだった。不意に交尾する二匹の犬が
木陰から眼前に現れた。妻は私の腕にしがみつき、私はぎょっとして、
急いで踝をかえし、家に逃げ帰った。交尾する二匹の犬の姿が頭から
離れない。犬の交わるペニスの赤が、目に焼き付いていた。

「アナタァー」、階下からまたあの声がした。
私は階段の上から覗き込んだ。妻は飼い犬を仰向けにし、腹を撫でて
いた。仰向けのまま飼い犬は尻尾を振っていた。妻はふぐりを掴み、し
きりに赤いペニスを出そうとしていた。仰向けの姿勢では、犬はペニス
を出すことは出来ない。妻はそれがわからないのだ。すがりつくよう
な目で、大きな目で、どうしてなの、どうして出ないの、妻は私を見上
げていた。私が答えないでいると、妻は急に目の色を変え睨みつけた。
つり上げた目で、また始めるのだ。
「他所におんながいるんでしょ。白状なさい。」


OH!フェロモン

  ☆★ヒュウマ★☆

おお フェロモン
明美、おれはお前が好きだ
おお フェロモン
明美、お前のフェロモンにみんなメロメロ
おお フェロモン
かもされる甘い香り
おお フェロモン
だからこっちを向いてくれ
(明美、そしておれと見つめ合おう)
ハラヒレハレホレ
蝶もつられて寄ってく
ハラヒレハレホレ
おれもつられて寄ってく
ハラヒレハレホレ
OK?OK?おれでもOK?
ハラヒレハレホレ
空は紫 おれは揺れる草いきれ
太陽の雨つぶがOH!フェロモン 明美 お前だ
フェロモン
お前の匂いは特別さ
フェロモン
おれのにおいは臭くないかい?
フェロモン
そんな嫌な顔しないでくれ
(フェロモン)
世の中に冷たくされて一人ぼっちで泣いた夜
もう終わりだと思ったときは何度でもあった
(フェロモン)
背中には翼 手にはナイフと玉葱
皮剥いてかじればフェロモンでよみがえる体
(フェロモン)
お前の匂いは特別さ
おれのにおいは臭くないかい?
(いいえ、最高よ)
聞こえなかった、もう一度言ってくれ
(あなたのにおい、最高よ)
なんだって?もう一度聞かせてくれ
(サ・イ・コ・ウ って言ったでしょ)
フェロモン!!それは本当か!
(これはシンジツ)
フェロモン!!それは本当か!
(ギ・ロ・チ・ン しちゃう)
フェロモン!!
一体おれらはフェロモンの存在も知らないで
老いぼれて死ぬだけなんて悲しいじゃないか
フェロモン!!
そうさ、明日、セカイが滅びたら
たぶん、フェロモンに包まれておれらは次のセカイに行くんだ
だからもう何も怖くない
明美、お前のフェロモン・・


近江舞子 草津 N市のO病院とヘンドリック

  織田和彦





湖西道路を京都から湖北に向って車を走らせた。近江舞子には海水浴場がある。ぼくらはザ・グラン・リゾート近江舞子という会員制リゾートクラブのホテルに来ていた。ヘンドリックとぼくはロビーにどっかり座り、8時に朝食を食べて出てきたばかりで、まだ朝の10時過ぎだというのに、もう腹が減ったなどといって中華丼を頼んで食べていたのだ。麻衣子は呆れてぼくらを見ていたが、彼女はホットコーヒーを頼んだ。

ロビーから海水浴場が見え、平日だが夏休みの子供たちを連れた家族が散見できた。8月に入ったばかりなのに、もう秋を思わせる鱗雲が快晴の真っ青な空を覆っていた。ヘンドリックがオークラという会員制リゾートクラブを経営する会社と会員契約を結んだのは去年のことだ、麻衣子とぼくはヤケに羽振りのよくなったヘンドリックを少し怪しみもしたが、女の子にちょっかいを出して痛い目に合うことがあっても、会社の金に手をつけるなど、お巡りさんのやっかいになるようなことはだけはしないと信じていたのだ。

明日はぼくらも仕事だし、今日はホテルももう満席だ。宿泊はしないが、ヘンドリックは部屋を見たいとレセプションの従業員の女の子に声を掛けた。3階に特別な部屋があり、MJのアルファベットで始まる会員番号の客だけが泊まれる特別な部屋がある。ホテルの女の子は最初はやや訝しげな様子でぼくたちを見ていたが、ヘンドリックの陽気なキャラクターに開放されたのか、訊いてもいない場所まで案内してくれた。ぼくと麻衣子とヘンドリックが一緒に暮らし始めて3年目になる。時間が合えばぼくらはあちこち出掛けた。

草津市立水生植物公園みずの森、近江舞子から161号線を南へ下って近江大橋を渡る。ヘンドリックは車を運転できないのでぼくか麻衣子が運転する。カーナビは一応ついているが古いタイプなので地図上に表記されない場所がある。そんな時。最近スマホを買って操作を憶えたヘンドリックが助手席から、覚束ない指先でスマホを弄りながらなが、烏丸半島前の信号を右、右だよ!何してんだよ!おまえ!だいたい、運転できないくせに、偉そうに言うな!歩いて帰るよ降ろしてくれ!お前の運転なんか危なくて命がいくつあっても足りないんだよ、ボケェ

ヘンドリックは我儘だ。

だが麻衣子とぼくが世間から彼を匿いながら暮らすことにはとても大きな意味があった。ヘンドリックには2つ違いの妹がおり、O病院に入院している。O病院とはN市のサナトリウムに隣接する国指定の難病患者ばかり集めた病院だ。ぼくらは週に1度彼女の見舞いに行くが、他の患者に見舞いの客人が訪れることはまずない。彼らは皆、国からも、家族からも見放された人々だ。そしてヘンドリックも本来ならばO病院に入院し、あるいは隔離されるべき難病患者のひとりであるのだ。

釣りがしたいというヘンドリック。その日ぼくらは湖岸緑地へ車を滑り込ませ、ベイトリールを藻ばかりが深い琵琶湖に遠投するヘンドリックを日が暮れるまで飽かずに見守ったのだ。


自分に似てるものとの出会い

  陽向




道路に生えている草をバッタが食べている
雨はバッタに雨粒を叩きつけるが 必死で食べている
僕は顔を近づけた つかまえてみようと手を伸ばす
バッタというものは手を伸ばせば飛んで逃げるだろう
そんなことを思いながら手を伸ばしたら 案の定逃げた

僕は一人になった
雨は上から下にまっすぐ降ってくるのではなく
横降りだ 服やズボンに雨がしみてくる
参ったなと思った 傘を横向きにして歩いても服がぬれる

道路を渡ろうと思ったが 運わるく右から車がやってくる
その間も雨で服がぬれる 右が終ったら次は左だ
右 左 右 左
左から来なくなり 右からも来なくなった
よし渡れる 大分服はぬれたがこのくらい大したことない
僕は小走りで渡り 目の前のコンビニへ入った

コンビニなのに混んでるな
コーヒーとあたりめを手にとり レジに向かった
右のレジはたくさん人が並んでいるが 買い物が少ない
左のレジは人が少ないが 買い物が多い
どうしようかと思った ふとバッタが浮かんだ
左にしよう たまには長いこと並んでみてもいい
案の定 長いこと待たされた

家に帰り コーヒーを飲んだ
あたりめは食べないで 棚にしまった
僕は一人だ コーヒーを全て飲み終えて
雨を見ようと窓に近寄った
イモリがいた 僕はイモリをつかまえて家の中へ入れた
今日は小さい命に2回出会った 一人だと急に思えなくなり
眠気がおそってきて ソファでねむった


晩夏

  Lisaco

萌えたつ一面の緑、を背景に
倒れかかった古木が花を咲かせている
睡連鉢のちいさな魚が身を翻えし
水面がゆらめく
わたしは爪先を赤く染めて
素足で歩く床板を磨く

ほおずきに宿る晩夏の静寂を
明日、と名付ける
枕元にある災いと幸いに
昨日、と名付け
真夏の陰翳に揺蕩う灯り、を
今日、と名付けるなら

戸口に立ち
かぜにそよぐたてがみを、今朝
うた、と名付けた、


and so on

  はかいし

ヘシオドス、砂洗い、体が八つ裂けたときのために、臨界点を超越する、コマ送りの前に、隕石、焦土より先に、
常識的ヘシモバッタの自家発電、地下に撒いたガスが原因で爆発した、

雨、八つ裂けた雨、rain、down、rain、down、カモン、rain、down、from the great hight、god love his children、god love his children、Yeah、ギタギタにされた散文の雨が降る、ギリタンジャリ、ギリタンジャリ、と音を立てて、

kiss me baby、

無限に累加された最大の責、

小梅、小梅ちゃん
君に会えたら百年平和だ
砦という砦をぶっ壊せ

火という火が
名前を
欲しがっている
くれてやれ!
ほら、土だ、
これで名前を
書けるだろう?

名付け親がいなかった、
ことが、
その人を不幸にしたならば、
グリム童話のように、
世界は暗転する、
足元に立って、
名前を呼び続けなさい、
あるいは、
死神のいない方向に寝かせなさい、

雷鳴が、
飛び降りた、
      飛び降りた、
      雨が、
      rainが、
張り裂けそうな、
        心の、
           パロディーナ
ここで立ち止まるような時間はない

詩の季節、
僕は、歩け、歩け、
行ってしまった遠くの海さ、
太陽の彼方まで行ってしまった、

詩の季節、
僕は、ホモロジー、の話がしたい、
誘われてあなたはやってきた
決断を吹き掛けるため
穏やかな笑顔作りながら
出会いを悔やむことはないと
言い聞かせグラスを開けたとき
これが最後だと頷いた

Rain down.
Rain down.
白い雪 さよなら告げた後 車に乗り込んで行くとき
振り替えるあなたを抱き寄せてもう一度キスしたかった
Snow down.
Snow down.

雨は夜更けすぎに雪へと変わるだろう

Oh heaven knows Im miserable now
in my life

サトウカエデがしなだれる頃に
秋はめぐる
雪を待ちわびていた人々が
火の中に消えていく
文字通りに
なると思えば大間違いだ
まずは大間違いからはじめた
キルへ・ホッヒの管から伸びた
朝焼けを穏やかに笑え

「クラムボンは、笑ったよ」
「クラムボンは、かぷかぷ笑ったよ」
「知らない」
「クラムボンは、死んだよ」
「クラムボンは、殺されたよ」
「なぜ殺された」
「知らない」

一回一回シャワーを浴びて
児童虐待の悲鳴が聞こえる

モノリスフィア、種々の声が聞こえる日に、
僕はコンタクトに詩を書いている、
明日がやってくるかどうかは定かではないから、
雨の日に僕は一人濡れる
ブナ帯の憂鬱のように、
雨の日に僕は一人濡れる
それから最後は皆雨だ、

詩句が詩句を呼び、飛ぶ、
何も知らないふりをしてみよう、
イマージュ
名を呼ぶのは誰か、

(こんなんだったら、
ポケモンの名を150匹
覚える方が簡単だ)

ああ小動物よ かわいいやつめ
小さくて かわいらしいやつめ
だけどお前と同じくらい
かわいいやつがいる
中くらいの動物と
大きい動物がそれだ
それなのだ
(ギャグ漫画日和9巻から引用)

I know its over
just like dream
well I dont know less I can go
over over over over...

love is natural and real
Its so human life

知らんぷり、
Sit down please

こんななんとなく帰ってきていいんだろうか、
僕は不安になる、

its so honey
why you sleep for tonight

飛び石に、
された、
アラフォー、
女の、
気持ちが、
わかる、
気がする、

翻る、
蛭と蛙、
山登り、
散々だった、
それでも、
どこか、
楽しかった、
気がする、
二度目で、
もう、
弱くは、
ない、

気がする、
三度目、
強い、
かぷかぷ笑ったよ、
クラムボンが、

Oh heven know I mizerable now、
鳥肌が立つ、
Oh heven know I mizerable now、
鳥肌が立つ、

泣き石、

焼け石、

飛び石、

さらば、
三つの光、

ヤツメナシの花が咲く、
青白い炎のような花だ、
辺りに飛び火していく、
その速さを、
止められない、
誰にも、

ナツツバキの幹のように、
あなたは美しかった、
あの汚ならしい花のように、
君は震幅する、
黄身は、

抑圧されたものの回帰、
そして少年、
今ここにいない男の魂、

指を無数の指先を差し出して消えゆく無数の指先を泡になって消えゆく指先を止めて誰か止めて止まらない鳥のように羽ばたいてゆくみんなどこかへ行ってしまった遠くの海へ行ってしまった山の向こうに海が見えるその海の向こうにまた山が見え雪がぱらぱら散っているそこに指先が差し出される指先は雪に触れて冷たいと感じ震えるつんと済ました顔で君は帰ってくる君は震幅する君は、

君は増幅する、
君は、
雨上がりの道はぬかるむけれど、
今ここに生きている証を刻むよ、

暗騒音、
and so on、


(Radiohead、L'Arc〜en〜Ciel、B'z、山下達郎、The Smith、コブクロの歌詞より部分引用)


極夜

  草野大悟

頭の中で
ひっそりと眠っていた蝉が
摘出された冬
あなたは生まれ変わった

意識は確かにあるし 
五感もしっかりしている
でも ただ
転がっているだけの生を得た

新しい臍から注入される栄養剤と薬
ゴロゴロ ゴロゴロ
定期的に交換される下半身
日になんども鼻腔をつらぬくカテーテル
吸引される命の残渣
あなたの前でだけは
ただ笑うだけの鬼になろう
そう決めた

どこにも行きようのない二人が  
白々と物語を紡ぐ日常に
少しばかり倦んできたのは
時の必然かもしれない

煮詰まった空

真夏の占いで
ぼくらの名前は
絶句するほど神に見放されていることを
知った

そうか
ぼくらは
そんな螺旋の縛りのなかを吹いてきたのか

呟いたとき
鉛色の空に
ぽっかり
檸檬が浮かんだ
楕円形の笑いを浮かべたそれは
ひとしずくの涙さえ拒否するような
氷の衣をまとっていた

ぼくらは
どこに転がり
どこを吹けばいいのだろう
羽化してきたばかりの抜け殻に
戻ればいいのだろうか

蝉が寝ぼけ鳴く深夜
戸惑いが 迷子になった
蝉は行方を知っている
知っていて知らないでいる

雨が横殴りに降ってきて
夜をかき回すけれど
あのころ この部屋で泳いでいた鮫は
いったい どこへ行ってしまったのだろう

碧落に太陽は潜み
降り積もる夏が
ぼくらの眠るべき場所を
覆いつくす

エーテルが
青や緑にゆらめく極夜
白い馬が
太陽をもとめて
いまも飛びつづけている


ラジオネーム

  葛西佑也

髪結いの亭主が呟いていた。正確には、その男の代弁者が呟いていた。ああでもない、こうでもないと社会の不条理とやらを語っていたのだ。決して雄弁ではなく、洗練されているわけでもなく、部屋に芳香スプレーでも吹き付けているときみたいなあんな音の声で、あるいは……欲望を満たした先の満たされなさのその空虚を彼は知っている

目玉が飛び出そうなこの目の前の男は弁護士である。誰の情報も知らないくせに、個人再生だの任意整理だのといつものたまって、人の前に姿をあらわすのは決まってたったの50秒なのである。それ以外の時間については、彼の使い魔なのかなんなのか海のものとも山のものとも知れない薄汚れた生き物たちが、あの人、この人を右から左へ流れ作業で処理をしていく。そうやってダメ人間がよりダメ人間となって、世の中に送り出されるのだから、ここはダメ人間製造工場だ。でも、どうして、ど、う、して、だれも言わないのか/たすけてくれと必死の悲鳴を上げて、つめを立てて、肉をえぐるくらいに、舌を噛み切るくらいに、この世の終わりの形相ではだれも言わないか。


じっじっじぃいいいいいいいいいいいいい じ じっじいじっじいじじじじっじじじじ
   じじじじじじいじっじ*   *じじじじぃぃぃぃぃっぃ
  *じっじじいっじじじじじいじっじいz*
    zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzぃじ


じっじっじぃいいいいいいいいいいいいい じ じっじいじっじいじじじじっじじじじ
   じじじじじじいじっじ*   *じじじじぃぃぃぃぃっぃ
  *じっじじいっじじじじじいじっじいz*
    zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzぃじ


ここで宇宙空間の話をしてあげよう。君たちは見たことがあるかね/あったかね?黄色い花の正体を。われわれから全てを奪い去ってしまうという。その花を、自らの生き血で赤く染めたことがあるかね? 目覚めるたびに、宇宙空間で漂う自分を想像したことがあるかね。いっそ木っ端微塵になればいいとか、そういうことを言ってるんじゃあない。つまらない駄洒落さ、この前食べたコッパが抜群にうまかったからね。なんたらかんたらってシャンパンに抜群にあってた、ビールはエビスだ、ふざけんじゃねぇ、YEBISUだってば。白いほうね。こんな世の中糞食らえだ、で、黄色い花って何なのだ?

君はいつもそうだった。自分は関係ないふりして、誰かの死とか生をは関係ないふりしていきておる/って本当にそう?/いや、違う、ねぇ違うの? つめの中に残された細胞からDNA鑑定しちゃおーか・・・どうやら糖尿病注意らしいよ。




生きるほどの気力もなく死ぬほどの勇気も無くそうやってただ漂って、ただ歩んで、一体何を思うのだろう。少なくともハンドルネーム髪結いの亭主はそんなことを言っていたのだと思う。じっじっじぃいいいいいいいいいいいいい じ じっじいじっじいじじじじっじじじじ
   じじじじじじいじっじ*   *じじじじぃぃぃぃぃっぃ
  *じっじじいっじじじじじいじっじいz*
    zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzぃじ今日も、奴の声が箱の中から響いてくる。それを耳障りだとはもう思わなくなった私のつめの中の細胞を明日はDNA検査にでもだそうかと呟いたところで、何かの電源が切れて、


邂逅

  破片

 しあわせが燃え上がり、足跡だけが増えていく。二十秒の苦しみと、青くなくなったものたちをすりきり二杯、ゆっくりと、噎せ返らないように吸い込めば文明の体温に酔っ払って、いつまででも眠れそうだと思えるようになる。はじめまして。未だ出会ったことのない人たちと出会うことで、かたちなき足跡の主は、存在する青いものの全てに火を点けて回る。

 指先がふれあうと星が生まれた。それはとてもかなしくて、空っぽだった。夜の向こうに朝なんてないってこと、知らなかった頃に帰ろうと思うのに、人間みたいには消えてくれないあの星がまたたき続けているから、地上のどこへ行ったとしても思い出すことになるのだろう。順接の優しさにもたれかかる姿は、醜いだけだから、ふれあった指先をねじまげて手折ることにした。

 いたみを歌声に、いとしさを嘔吐に映し出す。吐き出される無数の蛹たち。みんなの羽化を待っているあいだ、銀翼をはためかせる鳥たちが見せつけるように飛翔している。早く上がりたいね。知らない顔、知らない声を踏みにじって、切り貼りされた空の継ぎ目をもう一度引き裂いていくその循環が赤く、送電線の被膜の内側で束ねられたままじっと身を潜めている。蠢く蛹たちの生命に寄り添う、菌糸にも似た日々。

 一つの切れ目もない曇天の下で、上昇の軌跡は、線分として貶められる。深く切りすぎた爪を悼む少年はまだ、愛を口にすることができない。言葉を溜め込んでいくための喉ぼとけはまだ薄いから、うわずって飛んでいくだけの声はどこにも着地できずにちぎれていくから。直線にも似た終わりのない航路を進み続ける踵に、誕生の祝日から飛び立った炎が迫る。そしてまた貶められる。凍えるほどに冴えた青空の下で。

 均一だった砂浜の地面をおびやかす足跡が、行方の知れない生命の寄り代となり、繁殖を繰り返している。はじめまして。たった今生まれたばかりの少年たち、そして少女たち、生まれたら、朝が来た。来るはずのなかった朝だ。こんな日には人間だって鳥のように空を飛べるだろう。上がっていったら空からの殴打をかわして、どこまでも果てることなく飛行し続けていけばいいと思う。絡み合う睦言から作り出されたいくつもの帰結を、きみたちだけは持たない。その身軽さをもって。

 青くないものを追いかけて、ときどきは浮遊する肉体を繋ぎとめて、何度目かわからない、たった一度だけ使えるあいさつを交わす。空と海が見えなくなる場所で、あかるくうつくしいだけの夜明けを背に、まだ動けなくなったままでいる人々の呼吸が、いずれ聞こえてくるように祈りながら、耳を澄ます。
 はじめまして。はじめまして。はじめまして。
 日食の起きなかった正午、それぞれが息づいてから集合していくしあわせの、描くもの、炎に焼かれながら失われない人の論理、足跡を数える、数えきれない、はじめて見つけた痕跡が減ってから増えて、そうしてまた減る、二百八十四人目、生まれたときから少年だった、目の前で浮かび上がり空へと落ちていくのを、見ていない、大脳の右隅に炸裂するはじめての誕生日を意識として摂取することが、できなかった誰かがいる。夜。朝。昼。はじめまして。


  山人

崩落したコンクリート構造物には異型鉄筋が露出し錆びついている
鬱積されたすべてのものがついに限界を迎え、一瞬にして広大な大気圏の天辺に分厚い雲が浮かび、ゆがんだ紫色の空間から雨が降り出した
得体の知れない有害な気体と油脂が雨に混じり、いたるところに降り注ぐ
多くの無機物は熱を帯び、たたかれた雨により冷却され蒸気を上げている
雨が上がるとコンクリートの熱気があたりに充満し、空気がゆがみ陽炎が立ちのぼる
太陽はただ照り続け容赦がない
やがて空は次第に赤く染まり
夕暮れの時が来る
何かが不意に爆ぜる奇妙な音があちこちから聞こえてくる
星星は闇雲に光り輝き、宇宙は平和の坩堝を造形している
風が吹く
風によって薄い紙のようなものがひらつき、かすかな物音が不穏に音鳴る
星星は風によってかき消され、朝方また雨が降り出した
さび付いた異型鉄筋は腐食がすすみ、やがて強風により剥がれて風に飛ばされてゆく
頑なな強度を保持したもの
あらゆるものが劣化を辿り風化していた
とある日の昼下がり
腐食した異型鉄筋の先に一匹の蝿が留まって羽根を休めていた
何かを祈るように手をすり合わせ、ほんの数秒そこで向きを変えた後、不意に飛び去った
蝿の向かう先々にはおびただしい菌類が蔓延り、風にあおられた胞子が煙となって空へと立ち上がっていた

文学極道

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