#目次

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中島恭二

選出作品 (投稿日時順 / 全13作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


  島中 充

 蛍
                            島中 充
 山の峰に沿って死者は葬られ、墓に囲まれた深い谷に少年は育った。
少年に手淫を教えたのは中学の体育教師だった。少年は一人になると、毎夜ズボンから性器を出し、擦過し、つかの間の高揚感に酔った。
友達から、「手淫を教えられた猿は、狂ったように手淫に耽り、死んでいくのだ」と聞いた。その夜、少年は医師である父の部屋から顕微鏡を持ち出し、自らの精液を見た。プレパラートの上に無数の長い鞭毛のスペルマがあった。スペルマは素早く動き金色に光っていた。
 少年に蛍のことを教えたのは、父であった。谷川一面に群がり明滅する蛍は、一週間の命を生きる。ただ交尾をするために。ただ産卵するために。相手を求め明滅し、老いることなく死んでいく。
 少年はうっすらとした川あかりの草むらから乱舞する蛍をみていた。少年は狂ったように草の土手を進んだ。そして数匹の蛍を手に握って帰った。真っ暗な部屋で手のひらを開くと、蛍は光りながら宙を舞った。少年はシャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、素裸になった。少年は深く椅子に腰をかけ、股間の性器を握った。少年の性器はまだ未熟であった。少年は皮の被った性器を剥いた。そして、一匹の蛍を捕まえ、濡れた亀頭に点した。 蛍は静かに明滅していた。明滅に合わせて、闇の中で少年の裸体が光った。

* メールアドレスは非公開


みのむし

  島中 充

妻はゆっくり狂い始めた。階下から甲高い声で私を呼ぶのだ。
「アナタァー。」 また始まる、始まってしまった。

開け放たれた窓から、花冷えの寒気がなだれ込み、投げ出された掃
除機の横で、床の上にスフィンクスのように、両手、両膝を着いて、目
を据え、開かれた昆虫図鑑を妻は睨んでいた。
「アタシ、蓑虫じゃないわ。蓑虫なんていや、大嫌い。」
蓑虫の雌は一生を蓑の中で暮らす.雄のように蛾に成ることもなく、
蓑の中で交尾し、産卵し、死んでいく。
「あなたの世話をし、子供を育て、台所に閉じこもって、死んでいくの
はいや。よそにおんながいるんでしょ。アタシを抱かないのは、よそに
おんながいるからでしょ。」いつもの詰問を、妻はまた始めた。
「ほらごらん。」私は昆虫図鑑の、蓑から半身を出している蓑虫を指さ
し、「五十をとうに過ぎ、私の性器はこの蓑虫のように萎えているよ。
あなたを抱いても、あなたの性器のまわりを這う、半身を出している
蓑虫になるだけだよ。」私は懸命に説明するのだった。
「違うのよ、優しく、ただ抱いて欲しいだけなの。」と妻は言った。
私は妻の肩を抱き、優しく抱き起し、「さあー行こう、蓑から出よう、
散歩に行こう」と誘った。

住宅地をぬけると斎場が在り,斎場から山頂に向かって、満開の桜の
広い公園墓地があった。桜の木の下を、手をつないで、私たちはゆっく
りゆっくり歩いた。あちこちの木陰から私たちをじっと見つめるもの
たちもいた。ここは捨て犬のメッカだった。不意に交尾する二匹の犬が
木陰から眼前に現れた。妻は私の腕にしがみつき、私はぎょっとして、
急いで踝をかえし、家に逃げ帰った。交尾する二匹の犬の姿が頭から
離れない。犬の交わるペニスの赤が、目に焼き付いていた。

「アナタァー」、階下からまたあの声がした。
私は階段の上から覗き込んだ。妻は飼い犬を仰向けにし、腹を撫でて
いた。仰向けのまま飼い犬は尻尾を振っていた。妻はふぐりを掴み、し
きりに赤いペニスを出そうとしていた。仰向けの姿勢では、犬はペニス
を出すことは出来ない。妻はそれがわからないのだ。すがりつくよう
な目で、大きな目で、どうしてなの、どうして出ないの、妻は私を見上
げていた。私が答えないでいると、妻は急に目の色を変え睨みつけた。
つり上げた目で、また始めるのだ。
「他所におんながいるんでしょ。白状なさい。」


ピーコ

  島中 充

     ピーコ             
ぼくは大切に飼っていたのである
泥川からザリガニを取ってきて 喰わせた
嘴の一突きで赤い頭を割り ピーコは喰った

切り株のうえに 
おとうさんは羽を押さえ ピーコをおさえ
なたの一撃で首を落とした
タッタッター 
首のないそれは二メートルほど駆けた
「くぇー 」
おとうさんは尻もちを着き 鶏の声でさけんだ
小さいとさかを掴み ぼくはごみ箱にすてた
首だけのピーコは薄目を開け 僕をみていた 
いつもの目で

すき焼きは美味しかった
ぼくの誕生日のご馳走であった
「お腹の中から透き通るような白い卵が出てきたわ きっと明日生む分よ」
肉を摘まみながら お母さんが言った

おとうさんとおかあさんは首を伸ばし 頭をくっつけ話していた
「できたらしいわ」
ぼくは鶏のように 首を捻って聞いていた
きっと 赤いとさかのあるものを身籠ったのだ


水溜り

  島中 充

うたを 水切りするひとに                 
私は 陸橋を通って 傘を返しに行く

さびしく おぼれた驟雨
私は 平泳ぎで泳いでいる
花柄の傘 
こころは折りたたんだまま
水を切って 返す

雨もあがり 急ぎ足にあゆむ
傍らの池の水があふれ 
アスファルトに鮒がはねる
みずごころとは 
水たまりで生きる 寂しいこころを
手のひらから 水に戻され 
あなたは 鮒になって
泳ぐ

詩の零れるあなたに
私は 陸橋を通って 会いに行く
幾万のひとたちに磨り減り 
階段にうすい水溜りができる
爪先立ったこころで 
水溜りに 転ぶ


  島中 充

雑木林の木々に囲まれた 湿った寂しい坂道を登ると
不意に緑の沼に射すくめられる。
ホテイアオイがゆっくりと揺れ 
ボーボーとウシガエルが鳴いていた。
あの年 
この沼にまるまるふとった川エビがわいた。
子供たちは網ですくい取り 
村人たちは おいしいおいしいと食べた。
そしてゆっくりと緑の底から 
おんなの死体が浮き上がってきた。
髪の毛や顔にびっしり川エビが群がった
おんなの裸体。

君が殺したのだ 君が
たとえ 僕が手淫を教えたとしても
たとえ 僕が雑誌を貸したとしても
たとえ 僕たちが
解剖皿の蛙の白い腹を見ながら
おんなの死体がほしいと話し合った事があったにしても
殺したおんなの 陰部を鉛筆で開き
鉛の薄黒い痕跡を残したのは 君だ
君が殺したのだ

ハイライトに火をつけ 夕方の 水面を見ている
昔のようにうすくさざ波が立ち
ホテイアオイの中からウシガエルが鳴いている
二十六年前  君がおこしたあやまちを思い出し
帰郷した僕は またこの水面を見ている

やにわにギャーと悲鳴があがり
水しぶきがあがった
1メートルもある巨大なオタマジャクシだった
尻尾を蛇のようにくねらせ 
頭の手足をばたつかせたので
ウシガエルのおしりに 噛みついている蛇だとわかった

僕は 僕たちの思い出を 忘れたい
僕たちがウシガエルだったということを
君が今どうしているのか 僕は知らない
ただ思い出を 蛇の住む沼に 突き落とす

僕には息子がいる 中学三年生になり 
性に目覚める頃 解剖皿で蛙の腹を開き
手淫を覚える年齢になった

そう そのとおり
僕たちの過ちは 中学三年生の時だった
はっきり問えばいいのだ 僕に 
お前が殺したのかと
そうだ 僕が殺したのだ













 


白鱗

  島中 充

 中国山地のなだらかな山の中に、その滝はあった。落差が七十メートルを
越える、白蛇の滝。白く水の落ちるさまが名前の由来である。秋には紅葉
の渓谷を、春には桜並木の堤に抱かれて、その美しさは錦と称えられ、錦
川と呼ばれた。真夏に、時折白い蛇が体をくねらせながら、その川を渡った。
白いチョークで怪しい美しさが川面に描かれ、人々を驚かせた。白い蛇は青
大将の白子で、おぞましいほど白く、細い舌と目は、血が透いて、真っ赤で
ある。
少年の家は山のふもと、錦川の堤にあった。川に沿って坂道をのぼって行
くと、鎮守の森があり、社の庭園に大きな池が造られていた。池のなかに
数匹の錦鯉が飼われ、その中に白鷺のように真っ白で、鱗がキラキラひか
り、目の赤い、白鱗がいた。少年は六十センチあるその巨鯉をいとおしく
思っていた。
 少年には血の繋がる者の中に複数の発狂する者がいた。もうすぐ自分も狂
うかも知れない。すらりとした長身の姉もその一人だった。狂って、ぼさぼ
さの長い髪、薄汚れた服に包まれている悲しい姉。村の子供たちは、お前の
姉さんがまた素っ裸で、川で泳いでいたぞ、と少年をからかった。狂っても、
まだ見事な泳法を見せ、深い川をひゅるひゅると、白い蛇のように渡った。
水にぬれると長い髪は黒々と輝き、恥毛はしっとり濡れ、白い肌は陽に照ら
されていっそう白く、引き締まった小さな乳房だった。子供たちは橋の上か
ら、おーいと呼びかけ、大人たちはその美しい裸体を欄干からじっと眺めて
いた。
 姉の姿を少年は白鱗に見ていたのかもしれない。夜明け前、いつもムカデ、
イモリ、ときには蛇を殺し、輪切りにして、池にやってきて、巨鯉にあたえ
ていた。鯉は差し出す少年の手の平に乗って、パクパク餌を食べるほどなつ
いていた。
 敗戦の年、この村にも飢えがやってきて、社の池から鯉が盗まれるように
なった。村人の食用になる前に、白鱗だけは助けてやらなければ、逃がして
やらなければ、と少年は思った。
まだ暗い内に起き出し、少年はヤカンに油を入れて、火にかけ、水滴を落
とすとジュウと音のするまで熱した。そしてその熱油を注意深く、一升瓶
に注ぎ込んだ。ガラス瓶は、油を注ぎ込んだ深さに見事にピリッと音を立
て、ひび割れた。底の抜けた一升瓶は丸い鋭利な切り口になった。鯉を傷
つけないために、切り口にゆっくりゆっくり、ヤスリをかける。ガラスを
こする甲高い音、少しでも力が入るとガラスはピリッと新しい切っ先を作
って壊れ、少年の指先をシュッと傷つけた。流れる血をシャツになすり付
けながら、注意深く一回一回ヤスリをかけた。
底を抜いた瓶を抱いて少年は朝焼けの中、池に走った。一升瓶の注ぎ口か
ら糸と釣り針を通し、イモリを餌にして、瓶をゆっくり水に浸した。いつ
もの朝のように、何の疑いもなく、ぱくりと白鱗はイモリを飲み込んだ。
いっきにぐいと糸を引っ張ると、鯉は頭から、半身をすっぽり一升瓶の中
に、はまり込んだ。まったく身動きできない。あばれることもなく、音を
立てることもなく、社の人に気付かれる心配などひとつもなかった。そし
て、汗臭い血の付いたシャツを脱ぎ、鯉を瓶ごと大切にくるんで、一目散
に滝壺まで走った。針を外してやり、抱きかかえて、鯉を水の中に離すと、
大きく体をくねらせたかと思うと、目にもとまらぬ速さで、白鱗は水の落ち
る深みに消えていった。
 それから三年、少年もまた姉の発狂した年齢になった。すでに去年の夏、
姉は失踪していた。村人も少年もそれを不思議に思わなかった。捜索も行わ
れなかった。それがこの血筋の宿命のような気がするのだ。姉は鉄格子のあ
る大阪の気違い病院にいるとか、外人相手のパンパンをしているとか、村人
はうわさし、子供たちは、川を下って、あのヒトは白蛇に変身したのだと言
った。
 滝壺に白鱗を求めて、少年は毎日のようにやって来た。小高い岩の上から
滝壺を見つめた。深くえぐられた水底の穴倉にでもいるのか、まったく白鱗
は姿を現すことはない。毎日毎日、水面を見つめていると、見えるはずのな
いものを、いるはずのないものを、薄く霧のかかる水面に見るようになって
くる。すこしずつ狂ってきたのかもしれない。薄汚く、はだけた胸で村人か
ら乳房をのぞかれ、野良犬のように村の中を歩きまわった姉。姉のようにな
る事ことを、少年はひどく怖がった。自分も少しずつ姉のようになってきた
のでは、と恐れていた。あるはずのない光景が少年の眼の前に現れるのだ。
数匹の真っ白な蛇が体をくねらせながら縺れ合うようにゆっくり滝壺を泳ぎ
回っていた。深い底から真っ白な一メートルを超える大きな鯉が浮かび上が
って来ては、水面に鰭をゆっくり左右に振りながら、悠々と泳ぎ、白い蛇た
ちと互いに体を触れながら、もつれあい、戯れていた。そして白い鯉は仰向
けになると胸鰭を広げて、少年を手招きするようにさえ動かした。深く水の
なかにもぐったかと思うと、突如空中へ高く飛び跳ねた。その姿は、まさに
乳房のある姉の姿だった。下半身は鱗がひかり尾鰭のある白い裸体。見える
はずのないものに羽交い絞めにされ、少年は心を決めた。
 苔の生えている、水しぶきのかかる岩と岩の隙間を、木々を掴みながら、
草を掴みながら、すべりやすい岩場を四つん這いになって、蛇のように身を
くねらせながら登って行った。水で重くなったシャツを脱ぎ、草履を脱ぎ、
ズボンを脱ぎ、頂上の岩の上に立ったときは、擦り傷だらけの半裸であった。
少年は白蛇の滝の頂上から滝壺を覗き込んだ。真っ白な巨大な鯉が黒い滝壺
を悠々と円を描きながら、泳いでいる。これは幻ではないと思った。少年は
身をのりだし、そして、そのまま滝壺に向かって落下して行った。からだが
岩にぶつかるたびに白い飛沫に血がにじみ、頭蓋や背骨を折りながら、少年
は彼方に落ちていった。

 堤の少年の家は誰も住まない廃家になった。父は戦争で、母は八月六日終
戦の年、広島の軍需工場にいた。一九五一年、岩国市を襲ったルース台風で
土石流のため家屋は倒壊し、流木や土石を取り除くと、その下から肉の付着
している骨があらわれた。少年は姉を殺し、床下に葬っていた。


思慕の詩

  島中 充

  ***
1、水溜り
うたを 水切りするひとに            
私は 陸橋を通って 
傘を返しに行く

さびしく 
おぼれた驟雨
私は 平泳ぎで泳いでいる
花柄の傘 
こころは折りたたんだまま
水を切って 返す

雨もあがり 
急ぎ足にあゆむ
傍らの池の水があふれ 
アスファルトに鮒がはねる
みずごころとは 
水たまりで生きる
寂しいこころを
手のひらから 水に戻され 
あなたは 鮒になって 泳ぐ

詩のあふれるあなたに
私は 陸橋を通って 
会いに行く
幾万のひとたちに磨り減り 
階段にうすい水溜りができる
爪先立ったこころで 
私は 水溜りに 転ぶ

   ***
  2、菊
薬を与えられ
曝し首にひとつひとつ丁寧に並べられて
菊は咲く
結ぶ露にさえ重すぎて
添え木に縛られ 立ったまま咲いている

花の高さにあなたは背伸びをして
「真夜中にも美しく咲いているのね」
どうしてその言葉が私には悲しいのか
「苦い甘さなんだ」
わざと食用菊の話ばかりで 
私は答えた

花は花の用を失うまで花に作られ
言葉は言葉の意味を失うまで比喩にうたわれ
棺を埋める花々のなかで目覚め
詩を愛する日々に
辛いものばかりでうなだれる

そうして 私はあなたに捧げる 花をだいて
まるで墓所に行く淋しさだ
口にすれば嘘になる思慕をうつむけたまま
血のような言葉を しかたなく かくまっているのだ
比喩なんかいらないと

    ***
   3、耳
その人は初め 水のこころについてはなした
澄んだ水の中からうまれる
詩について
素早く動く魚影を追って
澄んだ水の中にだけ住む言葉を
手掴みにして詩をすくう 

その人は今日 死者の位置について語った
生まれる前の事を話しましょう
死の病に侵されて 最後の教室になります
生まれる前と死んでから 
その隙間にある詩への思慕と徒労
棒をふるように逝くでしょう

その人は今日 赤いシフォンをまとっていた
「真赤なドレスを君に 作ってあげたい君に」
昔の歌が高い空から聞こえる
赤い花の並木をおりていくと 赤い花の並木
私は耳の形にうずくまって 泣いた


ゴキブリと呼ぶな

  島中 充

ごきぶりはニスを塗ったようにつややかにひかり、別名あぶら虫と呼ばれ、
火をつければよく燃える。

部屋の隅で黄ばんだレースのカーテンの襞に、ひっそりと産むものがあった。
真夜中、昏い教科書を閉じて、少年はそれをじっと見つめていた。一匹のゴ
キブリが、濡れたオブラートのような粘液を排泄しながら、卵を産み付けて
いるのである。うっすらと横に筋が入り、アズキを押しつぶしたような形の
卵。母虫がうみ終えて、ヨタヨタとカーテンからタンスの下へもぐって行く
のを見届けてから、少年はまだ粘り気のある卵を鉛筆で小皿の上にはがし
取った。蛍光灯のスタンドに照らして尖った鉛筆でつつきながら、ひっくり
返し観察した。その行為の中になにか忌み嫌うものを少年は感じていた。母
親に見つからないようにする手淫のような、やましい気がするのだ。
以前ラジオで聞いた話を、少年は思い出した。酒に酔った男が這い出てきた
ゴキブリにマッチで火をつけた。ゴキブリは羽を広げ、めらめらと燃えなが
ら舞い上がり、天井裏に逃げ込み、火事になったというのだ。この卵に数十
の赤子がいようと、ゴキブリだ、やましい証拠は消し去らなければならない。
マッチを引き出しから取り出し、燃やしにかかった。火を近づけると、卵は
小さな青い炎を上げポンと弾けて破裂した。部屋の中に髪の毛の焼けるよう
な匂いが漂った。

その夜、浅い眠りの中で少年はかさかさという音に目覚めた。まだ薄暗い中、
目を凝らすと一匹のゴキブリが、ごみ入れの中のノートを、ちぎって丸めた
紙を食べているのだ。それは前夜、手淫の精液を拭い取ったノートの切れ端
であった。食っているのはあのゴキブリに違いない。

その時、はじめて少年は自分がクラスで、ゴキブリと呼ばれ、なぜいじめら
れるのかを理解したような気がした。少年は平たく押しつぶされて扁平な体
になり、はいつくばって流しや引き出しの隙間で残飯や糞をくらい、自分は
生きていくしかない。それでいいのだと納得しようとして、いつかみんなを
焼き殺してやると思った。


投石

  島中 充

月明かりの夜、還暦祝いに男は少し飲んでいた。終電車のドアにも
たれ、何気なく大和川の白い川面を見ていた。河原に足を上げ、大
きく右手を振りかぶっている黒い人影が見えた。

四十年前、天王寺 鳳間で毎夜のように、走る電車への投石があっ
た。石は弓状の軌跡を描き、明るく光の零れる車両へ向かって、闇
を裂き、ガラスを割り、鋭くとがった破片が夢うつつの人間の肉を
裂いた。けが人は病院に運ばれ、犯人はいっこう捕まらなかった。

エースを夢見る若者がいた。しかし三番手の投手にしか成れなかっ
た。彼の父は闇金に追い込まれていた。息子に高校で野球を続けさ
すためにもお金は必要であった。エースの友は彼のことを野球にく
っ付いているタニシだと笑った。たとえそれが軽い冗談であっても、
ひそかににぎりこぶしを握って、その言葉に彼は耐えた。エースは
セレクトで大学へ進学し、若者は縫製工としてミシンにくっ付いて
いるタニシである、と自分でも思うようになった。借金を返すため
に働き続けた。吐き出しようのない怒りをかくしていた。

みじめと呼ばれている野良犬がいた。 見るからに皮膚病のような
毛の色をしていたから、みじめなやつだと思われ、みんなからそう
呼ばれた。 誰にでもよくなついた。尾を振り寄って来て、餌をも
らったりした。若者はそのこびへつらう様子が我慢できなかった。
手招きでみじめを呼んだ。うれしそうに尾をふり、あたまを幾分下
げて、喜びに満ちた目で犬はやって来た。ひそかにきつく握ったに
ぎりこぶしで、力の限り犬の横面をなぐった。脳しんとうを起こし
たのだろうか、ふらつきながらキャンキャン鳴いて、狂ったように
揺れながら、みじめは逃げていった。若者は犬が可愛そうだ、とは
思わなかった。むしろ自分がニンゲン世界でみじめという名の犬だ
と思っていた。その野良犬に名前を付けたのも本当は若者自身であ
った。

夜中、自転車に乗り、出かけるようになった、犬がいればそれが繋
がれた飼い犬であろうがなかろうが、ポケットに忍ばせた石を犬に
向かって投げた。犬が吠え叫ぶ住宅街を自転車で駆け抜ける日が続
いた。そして、こうこうと光の満ちる幸せな家の窓に向かって、石
を投げるようにエスカレートしていった 石を握りしめ 若者の心
は真っ赤だった。ついに電車への投石も始めた。テレビや新聞が騒
ぎ始めたので、やばいと思い、捕まる前に若者はぴたりとその行為
をやめた。

男は自分の人生がこれで良かったのかどうか判らなかった。人にも
厳しく、家族にも厳しく、自分にも厳しかった。人をこき使った。
家族をこき使った。自分をこき使った。法律すれすれで生きた。そ
して金を握りしめた。友もなく、家族からも嫌われた。みんなから
嫌われていた。

車窓から見たあの影はいったい誰だったのだろうと男は思った。そ
いつがだれであるか男はよく知っていた。若き日の自分である。あ
たれ、あたれ、ニンゲンにあたれと念じた日から 四十年の歳月が
過ぎ、自分の投げた石はしわを刻んだおのれの顔面にゴツンと当た
った。
血のような涙が流れた。
お前はどのように生きてきたか、と石は問うた。
おまえはどのようにさびしく野垂れ死にするのか、と続いた。


臨海線

  島中 充

私は仕事の都合で毎夜、深夜に、実家から眠っている小学三年生の娘を連
れ、堺から岸和田の自宅に臨海線を通って車で帰る。羽衣に差し掛かると右手
にステンレスパイプが林立し、高い煙突から炎あげ、水銀灯に照らされプラチ
ナに輝く夜景、コンビナートが眼前に浮かび上がってくる。堺泉北臨海工業地帯
は空に浮かぶ要塞のように見えた。隣接して浜寺公園があり、コンビナートと公
園の間を臨海線は走っている。臨海線には信号が少なく、昼間はコンビナートへ
行く大型車両で混み合うが、真夜中になると急激に通行量が減り、暴走族が現れ
た。
その日も私の車両の前を二人乗りのオートバイはエンジンを吹かせながら蛇行
しゆっくり進んでいた。私はブレーキを踏み、追い越さないように注意しながら
進んだ。嫌な奴に出会ったものだ。不意にオートバイは向きをかえた。こちらの
方へ逆走してきた。私の車のすぐ前まで迫って、止まった。私も仕方なく車を
急停車した。私のおびえた顔を見たかったのか、後ろに乗っている茶髪が握って
いる棒を、背伸びをしながら高く振り上げて見せた。私はサイドポケットを開き、
奴らから見えないように、いざと言う時のために隠してある手かぎを左手にきつ
く握った。奴らは何もなかったようにまた向きをかえ蛇行しながら、ブゥー、ブ
ゥー、と吹かして、その先にあるS字カーブの方へ進んでいった。振り返ると後
部座席で眠っているはずの娘はおびえ、大きく目を見開いていた。一部始終を見
ていたに違いない。

二十五年前、一九七八年、私は真夜中、水銀灯に照らされる浜寺公園にいた。工
場長に頼まれて、同僚の龍男に危険なことをしないようにと言いに来ていた。公
園に着くと彼は黒い革ジャンの女を連れ、背中をこちらに向けていた。私は近寄
り女の背中を後ろから軽く叩いた。びっくりして、赤いルージュの口から「ああ
ーううー」と彼女は声を発した。私の勤める縫製工場はたくさんの聾唖者を雇っ
ていた。「彼女たちは何も聞こえないから一生懸命働く、気にする物はないから、
よく働くよ。」と工場長は笑いながら言った。私はその冗談に不快なものを感じて
いた。龍男のほうに振り向くと、言われる事がすでに分かっていたのか、何も言
わない前から「もうたくさんだ。」と手を振りながら説教を拒んで答えた。彼の口
癖だ。そしてカワサキ五〇〇の黒いボディーをペタペタ叩きながら、「こいつでな
ら死んでも本望さ。あのS字カーブはセコンドで八十まで引っ張るのさ、それが
限界よ」臨海のカーブをレーサーのようにドリフト走行する、「緊張は美だ、これ
しかない。」と言いながら女の細い腰を引き寄せた。所詮遊びの危険な行為、愚か
だとわかっていても、私はカマイタチような嫉妬を彼に感じていた。
 一九七八年当時、現在のように暴走行為をさせないための路面に凸凹は作られ
ていなかった。浜寺水路を渡る片側四車線のできたばかりの広い平らな路面は、
S字カーブが逆バンクになっていて、外側車線から内側車線が下り坂になってい
て、アウトからインにつんのめってカーブが始まり、インからアウトに公園の松
林に突っ込むように終わっていた。
 その日の競争相手はカペラロータリーだった。街道レーサーの走り屋だ。ロー
タリーエンジンの回転をあげればまたたくまに時速二百を超える車だ。側道から
追いかける白バイのように龍男はスタートしカペラを追った。恋人も二五〇cc
でその後を追った。龍男はイエローのカペラの車体のおしりに付き、S字カーブ
の外側車線入って行った。サードからセカンドにシフトダウンし、アクセルを踏
み込んで加速し、体を左に傾けた。恐れるな、怖がったらやばいぞ。マシーンを
傾け、左足だけを開いてバランスを取った。膝頭が地面すれすれに、マシーンの
ステップはアスファルトにこすれ暗闇に火花が飛んでいた。みごとなコーナリン
グだった。キュキューッとタイヤをきしませながらカペラはコーナーを回り、最
後の立ち上がりいっきに加速しオートバイを引き離しにかかった。「あのカーブは
よう、セコンドで八十まで引っ張るのさ、それが限界よ。」分かっているはずなの
に追いつこうとして龍男はサードにほりこもうとクラッチを踏んだ。その瞬間オ
ートバイはスピンして横転し、ねずみ花火のように火花を散らしながらくるくる
回った。龍男を巻き込みながら松林のガードレールに激突した。頭から突っ込み、
首は捻じれていた。遅れて後について走っていた彼女はオートバイを投げ出した
まま彼に駆け寄った。彼に覆いかぶさるようにしがみつき、言葉にならない声で
恋人の名前を、声の限り呼んだ。
「ああーううー、ああーううー」

私の車はS字カーブにさしかかった。オートマのドライブからセコンドに私はシ
フトダウンし、外側車線から内側車線へブツブツという凸凹の揺れを感じながら、
アクセルを踏み込み加速させていった。娘を乗せたまま、オートバイの後を追っ
ていた。私の中に小さなしこりができていて、ひき殺してやりたいという殺意が
フツフツと湧き上がってくるのを感じていた。


嘘つき

  島中 充

ガラス戸にぶつかり、足長蜂が死んでいた。
五年生の夏休み、暑くて私はすることもなく暇だった
死骸の前に座り込み、蜂の解剖にとりかかった。
羽を一枚一枚抜き、足をもぎ取り、腹を鉛筆でおした。
私は悲鳴を上げた。
腹を押したため、蜂の針がとびだし指を刺したのだ。
叫び声を聞きつけ、あわてて母が跳びだしてきた。
「どうしたの。」
「蜂に刺された。蜂で遊んでいると、
仲間の蜂が飛んで来て僕を刺して行った。」とへんな嘘をついた。
間抜けな自分が恥ずかしかったからだ。

子供のころ、私は嘘つきであった。
こんな嘘つきで、りっぱな大人に成れるのであろうかと
くよくよしていた。

前を見てカチャ、右を見てカチャ、左を見てカチャ。
私は写真を撮られた。
未成年への酒の提供で逮捕されたのだ。
少年課の刑事が前にふんずりかえり風営法違反だと言う。
私は未成年だと思わなかったと何度も答えた。
じゃ、連れてこようと、
十八才だと言うあどけなさの残る未成年を連れてきた。
私は未成年と思わないと答えた。
お前は金もうけのために未成年に酒を提供したのだ。
どんなことをしても起訴してやるからなと息巻いている。
夜の十一時から朝の六時まで
私は未成年だと思わなかったと答え続けた。
そして不起訴になった。

還暦をすぎ、六十五歳の老人になっても、
私は、やはり嘘つきである。
これでいいのかと
くよくよしている。


木刀

  中島恭二

粗大ごみ置き場に 無造作にブリキのバケツにすてられ
つったっている木刀
それは僕たちである

僕は木刀をひきぬき
大声を出して空を切り おもいきり振り回した
それを見て子供たちが笑っている
僕たちは棒を振り回して生きただろうか
棒で犬をなぐっただろうか
殴られたのは僕たちではなかったか

革命は美しい桜の季節に始まるだろう そう信じた
そして晩秋
行なわれるはずの約束はなにひとつ果されなかった

沼のほとりを迂回してボーボーとウシガエルの鳴き声を聞きながら
君の墓に出向く

さきにそちら側に行ったとて 友よ わたしを呼ばないでくれ
死はこちら側にあることで君をしのび、そちら側には死さえないのだから
僕たちの青春が棒を振る徒労であったとは言うまい
薄の生い茂る荒れ野で
蚊柱を打つ木刀だったとしても
僕たちは誇りをもって生き抜き
振り上げた棒で 棒をふるように逝くだけなのだから

きみの墓石に木刀を立て掛け
そして僕は問うだろう
なぜこんなに君にあいたいのかと


カラス

  中島恭二

人は
どのように生きてきたかを子孫に知らせたいのだ
知らせなければならないのだ
どのようにして人間は生きてきたかを

私はきのう見た夢の事を思い出していた

海岸に乾物のように干からびた死体
それはおれの弟だと父は言った
蠅の黒くたかった死体 南の孤島で戦死した弟だと言った
流木を集め 浜辺で火葬にしようとした
湿った流木は小さくしか燃えなかった ちょろちょろと燃えて
腹から
太腿から
眼球から
出てくるわ
出てくるわ  
うじむし
そして父は指さしながら 口を開いた 
そのうじむしを食え
そのように人間は生きてきたと

海の方から 
密林から
色々な鳥が飛んできた
死体の周りに這い出してきたうじむしを 夢中で啄んだ
 
うじむしを啄んでいる
私はカラスに成っていた 

文学極道

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