#目次

最新情報


2011年06月分

月間優良作品 (投稿日時順)

次点佳作 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


陽の埋葬

  田中宏輔




 よい父は、死んだ父だけだ。これが最初の言葉であった。父の死に顔に触れ、わたしの指が読んだ、
死んだ父の最初の言葉であった。息を引き取ってしばらくすると、顔面に点字が浮かび上がる。それ
は、父方の一族に特有の体質であった。傍らにいる母には読めなかった。読むことができるのは、父
方の直系の血脈に限られていた。母の目は、父の死に顔に触れるわたしの指と、点字を翻訳していく
わたしの口元とのあいだを往還していた。父は懺悔していた。ひたすら、わたしたちに許しを請うて
いた。母は、死んだ父の手をとって泣いた。──なにも、首を吊らなくってもねえ──。叔母の言葉
を耳にして、母は、いっそう激しく泣き出した。

 わたしは、幼い従弟妹たちと外に出た。叔母の膝にしがみついて泣く母の姿を見ていると、いった
い、いつ笑い出してしまうか、わからなかったからである。親戚のだれもが、かつて、わたしが優等
生であったことを知っている。いまでも、その印象は変わっていないはずだ。死んだ父も、ずっと、
わたしのことを、おとなしくて、よい息子だと思っていたに違いない。もっとはやく死んでくれれば
よかったのに。もしも、父が、ふつうに臨終を迎えてくれていたら、わたしは、死に際の父の耳に、
きっと、そう囁いていたであろう。自販機のまえで、従弟妹たちがジュースを欲しがった。

 どんな夜も通夜にふさわしい。橋の袂のところにまで来ると、昼のあいだに目にした鳩の群れが、
灯かりに照らされた河川敷の石畳のうえを、脚だけになって下りて行くのが見えた。階段にすると、
二、三段ほどのゆるやかな傾斜を、小刻みに下りて行く、その姿は滑稽だった。

 従弟妹たちを裸にすると、水に返してやった。死んだ父は、夜の打ち網が趣味だった。よくついて
行かされた。いやいやだったのだが、父のことが怖くて、わたしには拒めなかった。岸辺で待ってい
るあいだ、わたしは魚籠のなかに手を突っ込み、父が獲った魚たちを取り出して遊んだ。剥がした鱗
を、手の甲にまぶし、月の光に照らして眺めていた。

 気配がしたので振り返った。脚の群れが、すぐそばにまで来ていた。踏みつけると、籤細工のよう
に、ポキポキ折れていった。


*


死んだものたちの魂が集まって/ひとつの声となる/わたしは神を吐き出した/神は罅割れた指先で
/日割れた地面を引っ掻いた/川原の石で頭を叩き潰された小魚たち/小魚たち/シジミも/ツブも
/死んだものたちの魂が集まって/ひとつの声となる/わたしは神を吐き出した/罅割れた指先は川
となり/死んだものたちの囁き声が満ちていく/せせらぎに耳を澄ます水辺で枯れた葦/きらきらと
光り輝く神の指/神の指/神の指先に光る黄金の川/死んだものたちの魂が集まって/ひとつの声と
なる/わたしは神を吐き出した/神は分裂し/ひとりは死んだ/神は分裂し/ひとりは精霊となった
/死んだ神は少年の姿となって川を遡る/川を遡っていく/右の手に巨大なシャモジを持った精霊が
後を追う/後を追って行く/


enema/浣腸器


/美しい/少年は服を剥ぎ取られ/美しい/少年は後ろ手に腕を縛られ/美しい/少年は尻を突き出
し/美しい/巨大なシャモジが振り下ろされる/美しい/巨大なシャモジが振り下ろされる/美しい
/少年の喘ぎ声/美しい/少年の喘ぎ声/美しい/川原の石が叫ぶ/美しい/川原の石が叫ぶ/美し
い/その縛めをほどけ/美しい/その縛めをほどけ/と/美しい/川原の石が叫ぶ/美しい


/enema/浣腸器


肛門に挿入された浣腸器/川原に響き渡る喘ぎ声/肛門に挿入された浣腸器/川原に響き渡る喘ぎ声
/波打つ身体/激しく震える少年の身体/足を開いて四つん這いになった少年は/身体を震わせなが
ら脱糞する/ブブッブブッ/ブッブッ/シャー/シャー/と/激しく身体を震わせながら脱糞する/
きらきらと光り輝く神の指/神の指/神の指先に光る黄金の川/神の指先は黄金の川に輝いていた/
少年はジャムパンを頬張りながら/ゴクゴクと牛乳を飲んでいる/川原に向かって/ゴクゴクと牛乳
を飲んでいる/棒を飲んで死んだヒキガエル/ヒキガエルは棒を飲んで死んでいた/toad/Tod/ヒ
キガエル/死/シッ/toad/Tod/ヒキガエル/死/シッ/


*


 月の夜だった。欠けるところのない、うつくしい月が、雲ひとつない空に、きらきらと輝いていた。
また来てしまった。また、ぼくは、ここに来てしまった。もう、よそう、もう、よしてしまおう、と、
何度も思ったのだけれど、夜になると、来たくなる。夜になると、また来てしまう。さびしかったの
だ。たまらなく、さびしかったのだ。
 橋の袂にある、小さな公園。葵公園と呼ばれる、ここには、夜になると、男を求める男たちがやっ
て来る。ぼくが来たときには、まだ、それほど来ていなかったけれど、月のうつくしい夜には、たく
さんの男たちがやって来る。公衆トイレで小便をすませると、ぼくは、トイレのすぐそばのベンチに
坐って、煙草に火をつけた。
 目のまえを通り過ぎる男たちを見ていると、みんな、どこか、ぼくに似たところがあった。ぼくよ
り齢が上だったり、背が高かったり、あるいは、太っていたりと、姿、形はずいぶんと違っていたの
だが、みんな、ぼくに似ていた。しかし、それにしても、いったい何が、そう思わせるのだろうか。
月明かりの道を行き交う男たちは、みんな、ぼくに似て、瓜ふたつ、そっくり同じだった。
 樹の蔭から、スーツ姿の男が出てきた。まだらに落ちた影を踏みながら、ぼくの方に近づいてきた。
「よかったら、話でもさせてもらえないかな?」
 うなずくと、男は、ぼくの隣に腰掛けてきて、ぼくの膝の上に自分の手を載せた。
「こんなものを見たことがあるかい?」
 手渡された写真に目を落とすと、翼をたたんだ、真裸の天使が微笑んでいた。
「これを、きみにあげよう。」
 胡桃ぐらいの大きさの白い球根が、ぼくの手のひらの上に置かれた。男の話では、今夜のようなう
つくしい満月の夜に、この球根を植えると、一週間もしないうちに、写真のような天使になるという。
ただし、天使が目をあけるまでは、けっして手で触れたりはしないように、とのことだった。
「また会えれば、いいね。」
 男は、ぼくのものをしまいながら、そう言うと、出てきた方とは反対側にある樹の蔭に向かって歩
き去って行った。

 瞳もまだ閉じていたし、翼も殻を抜け出たばかりの蝉の翅のように透けていて、白くて、しわくち
ゃだったけれど、六日もすると、鉢植えの天使は、ほぼ完全な姿を見せていた。眺めていると、その
やわらかそうな額に、頬に、唇に、肩に、胸に、翼に、腰に、太腿に、この手で触れたい、この手で
触れてみたい、この手で触りたい、この手で触ってみたいと思わせられた。そのうち、とうとう、そ
の衝動を抑え切れなくなって、舌の先で、唇の先で、天使の頬に、唇に、その片方の翼の縁に触れて
みた。味はしなかった。冷たくはなかったけれど、生き物のようには思えなかった。血の流れている
生き物の温かさは感じ取れなかった。舌の先に異物感があったので、指先に取ってみると、うっすら
とした小さな羽毛が、二、三枚、指先に張りついていた。鉢植えの上に目をやると、瞳を閉じた天使
の顔が、苦悶の表情に変っていた。ぼくの舌や唇が触れたところが、傷んだ玉葱のように、半透明の
茶褐色に変色していた。目を開けるまでは、けっして触れないこと……。あの男の言葉が思い出され
た。
 机の引き出しから、カッター・ナイフを取り出して、片方の翼を切り落とした。すると、その翼の
切り落としたところから、いちじくを枝からもぎ取ったときのような、白い液体がしたたり落ちた。

 その後、何度も公園に足を運んだけれど、あの男には、二度と出会うことはなかった。


木曜日

  ゼッケン

すでに
イヌもサルもキジも消されてしまったにちがいない、とおれは思っていた
鬼ヶ島を襲撃し宝物を強奪したおれたちには
昔話のようにシアワセな勝ち逃げは準備されていなかった
鬼たちの追跡は執拗で報復には容赦がなかった
三匹がさらわれた後、おれのもとに箱がみっつ届いた
箱の中にはそれぞれの身体の一部が入っていた
イヌは歯を、サルは指を、キジは眼を奪われた
三匹はとっくに殺されてるんだから、と、じいさんとばあさんはおれに懇願した、
宝物を持って逃げよう、しかし、
おれは宝物を鬼たちに返そうと思った
返せば、まだ、助かるかもしれない、おれは死にたくなかった
後頭部につよい衝撃を受けておれは昏倒し、目を覚ましたとき、
家の中にはじいさんとばあさんの姿はなく、宝物も消えていた
夜明け前におれは
顔を火で炙って家を後にした
以来、おれには顔がない
おれの顔は家に置き去りにされている

いま考えてみれば、三匹の肉片を箱につめて送りつけてきた鬼たちが
あの家を見張っていないわけはなかった
じいさんとばあさんだけであの莫大な宝物をこっそり持ち出すことなどできただろうか
そもそも、箱の中の肉片は三匹のものだったのか? 犬と猿と雉など、
他にいくらでもいる、おれは三匹と他の動物を見分けられただろうか

鬼なんて、ホントは、いたのかい?

なんだか、ばかばかしい話ですね
都の遊郭で下男をしていたおれの前に元三匹が現れたとき、三匹は三匹ではなく、
獲物の喉元に食らいつく歯と風となって樹々を渡る手足の指と蒼穹から地上を走査する眼
をなくした三匹は代わりに
よく利く鼻、ひょうきんな面、通りやすい声を持ち寄ってひとりになったと言った
じっさい、こちらの方が商売向きです、きびだんごの製造販売で業績はあがってます
おれはうなずいた
そんな昔のことより、こんど、桃の缶詰を売り出すんですが、その
イメージキャラクターにあなたを起用したい、あなたがCMに出るんです
おれはうなずいた
引き攣れた顔の皮膚はおれに表情をつくらせず、おれは
表せない感情を覚えるのが億劫になっていた

皮膚移植で顔を戻し、おれは自分の顔をずいぶんひさしぶりに鏡で見た
他人には自分の顔はこんなふうに見えていたのかと思った

五月人形のような衣装を着て片手に桃の缶詰を持ったおれは
カメラの前に立って台本どおりにせりふを言う 足元の
犬と猿と雉の置物がにやにや笑っている
カーット! 監督がメガホンを振り回す
あんた、本物のあの人なの? 元スターが大事故から奇跡の復活
ってドキュメンタリーともカップリングしてるんだから、ちゃんとヤレよ
ほらあ、こんなふうにさ、監督はおおげさに身振り手振りする
じいさんとばあさんをどうにかして宝物を独り占めにしたんじゃないかって
疑惑、ありますけど、これね、週刊誌がね、ほらほら
監督の振り回すメガホンはいつのまにか金棒に変わっていた
視線を巡らせるとカメラマンもタイムキーパーも鬼だった
宝物はどこに行ったの?
回せ、本番!

桃から生まれた、アッ、もーもーたーろーぅ、ちょん!
 ト、
ta、
ha、いよ〜う

スタジオの半分を仕切っていた暗幕が勢いよく左右に引かれ
その向こうには鬼ヶ島のセットが組まれていた
ももたろう、みぃーつけた
鬼たちが張りぼての岩場の陰からぞろぞろと姿を見せる
おれは言った
てめぇら、もういっぺん痛ぇ目にあいてぇようだな?
桃缶を投げ捨て、腰の刀を抜く
ばかやろう、しつこいんだよ
おれは作り物の鬼ヶ島に突撃する

元三匹はスタジオの片隅に置かれた椅子に座り
キセルをふかす
あららー、自分らしさにこだわれるなんて
なんとも楽しげでいいですね

スタジオは血の海だった
床の上に落ちた笑顔を踏むとずるりと滑った


怪人ジャガイモ男、正午の血闘(Mr.チャボ、少年よ大志を抱け)

  角田寿星


かりんとう一袋を手土産に
Mr.チャボ宅に駆けつけた時には
怪人ジャガイモ男 愛称ジャガヲくんは
すでに卓袱台をはさんでチャボさんと差し向かいで
「こんな世の中 守る価値あるんですか」
まっすぐな瞳で問い詰めていた

台所ではことこと
カレーのいいにおいがしている

チャボさんは無言のまま
ジャガヲくんの真意が図りかねるふうで
腕組みしてジャガヲくんの瞳を覗き込んでた
「やあ 戦闘員A氏」
チャボさんが瞳をそのまま移してぼくを見つめる

ぼくは座りチャボさんはお茶を入れぼくはかりんとうの袋を開けふたり同時にかりんとうをつまみぽりぽりと食べはじめる ぽりぽりぽりぽり ぽりぽり

ジャガヲくん 正直に話してくれ
君 まだ中学生だったんだろ
「ちゅうが…えっ?」チャボさんが眼をまるくする
ジャガヲくんは年齢を偽って就いた駐車場のバイト先で怪人に遭遇し
みずから改造手術を希望した
そう フラワー団は中学生を改造しちゃったんだ

ぼくは報告書を読み上げる
汚職事件のキーマンだった父親は出張先のホテルで「自殺」
真相を調べていた母親ははるか北方の岬で謎の「事故死」
逃げるように母親の実家で
半分ボケのきた祖母とまだ幼いおとうといもうと
息をひそめて暮らしている
年金は祖母の病院通いでほとんど消えてしまい
学校に行くふりをして年齢詐称して実入りのいいバイトを探していた

これで 間違いないね?
ジャガヲくんは俯いて両膝をぐっと握りしめる

困るんだよなあ 悪の組織といえども
労働基準法に違反して監査に目を付けられると
今後の悪行に支障を来たすおそれがあるので

腕組みをして
天井の木目を眼で追ってたチャボさんが
「めしにしようよ」と
カレーのにおいのする台所へ立っていった

三人分のカレーを抱えてチャボさん
「さあ勝負だよ 先に食べ終わった人が勝ち
 ね」
と ジャガヲくんの分はチョモランマのような大盛りだ
チャボさん
このヒーローにあるまじき卑怯なハンデは

もぐもぐもぐ チャボさん 魚の骨が入ってますが
「ああこれ サバ 煮崩れしちゃった
 煮込んでるから骨も食べられるよ ばりばりばり」
食べられんのチャボさんだけですよ…
うわっ 肉かと思ったら何ですかこのねちょっとした食感は
「すいとんだよ カレー粉も小麦粉つかうからねえ」
ご飯とすいとん一緒に食べる日が来るとはなあ
ええとあまり訊きたくないんですが
しなっとした緑色のこの物体は
「よもぎとすかんぽ 裏に生えてた」
チャボさん これはいったい
何の罰ゲームですか

「ジャガヲくん
 腹いっぱい食べようね
 とにかく腹いっぱいに」

ジャガヲくんはもくもくと食べながら
しきりに涙を拭う仕草をする
原因が
カレーの量のせいなのか
カレーの具のせいなのか
それとも別の理由なのか
定かでないが

「おかわり
 ありますか」
チョモランマカレーをすっかり平らげたジャガヲくんの
食欲と言葉にぼくは驚愕する
かくてジャガヲくんは
にっくきMr.チャボとのカレー対決に勝利を収めた
チャボさんはど真ん中にカレーの大鍋を置き
ビニール袋に入ったパンの耳の束を
どさっと卓袱台にひろげる
汗だくになりながら
三人で前かがみになって
カレーをかき込みつづける
近くで学校のチャイムが
キンコーンと鳴って
今や互いを見やりもせず
世の中のことを
一瞬だけ忘れて


憎悪

  Q

病は、母の、庭で、いつものように、
 呼吸しては、父の、額で、水に変わる、
 その水で、洗われた、子供が、
 また、庭で、芽吹く、
 小鳥は空へ落ちる、
 魚は海へ落ちる、
 動物は森へ落ちる、

 初夏は海に落ちて、波に変わる。日盛りの庭には、光が居座って、ずっと場所をあけようとしない。
 「散文詩に混じって」
 「大きな声で」
 「色は互いに」
 「そう、いつのまにか飽和して」
 
 漂流物のいくつかを拾い上げて、光と一緒にビンに詰める。
 「その手は病を遠くへ」
 「いや、病に混じって」
 「ここからは、ずっと何も飛来しない場所」
 「ずいぶんと多くのものが、私達の内側で」
 「忘れ去れては消えて」

 小鳥は空へ落ちる、
 魚は海へ落ちる、
 動物は森へ落ちる、
 
 「そしてここから想像」
 
 マトバは、瞳を開けて、砂で瞳を洗う、家に流れ込んでくる砂が、もう部屋の半分以上を埋め尽くした
 書棚にしまわれている本の間にも砂が、そして文字をさらって行く、もうそれらを取り返すことができない
 ことを、彼は一番良く知っていたから、砂で瞳を洗う、文字をさらった砂で、
 彼の食卓に並べられるのは、砂が運んできた缶詰ばかり、その一つ一つにも、砂が混じっている、
 マトバの、家の扉を叩く、唯一の友人は砂、音がすれば、彼は砂を迎え入れる、
 あまりにも、来客がおおすぎたから、彼の扉はもう閉まることが無い、

 「初夏が散文に混じって」
 「病と光がずっと飛来しない」
 「場所は、忘れ去れて、飽和する」
 「大きな声で、お互いに」
 「想像する」

 父は、病で、母に洗われ、子供達は、
 庭で、水を、

 


ほとりのくに

  泉ムジ

 みんな眠っていた。議長でさえ涎を垂らしていた。最高権力者はその身分にふさわしく
最も大きな鼾をかいていた。男も女も関係なく、老人も若者も関係ない。快適な室温を保
つ空調が時に低い振動音をたてた。その静かな響きは多様な鼾を調和させ、子守唄にうっ
てつけだった。カメラがゆっくりとうなだれる。議長の口の端からあふれ続ける涎がまっ
すぐカーペットへ染み、やがて泉となった。テレビの前で我々は、はじめは笑い、次に怒
り、最後には眠っていた。とにかく酷いもんだった。そう族長は言った。泉のまわりには
何千だか何万だか、わからんくらいの人間がおった。みんな裸でな。すぐに問題が起こっ
た。族長は噛んでいた何かを吐き出した。そこかしこで強姦だ。どろりとした唾液の泡の
中に肉のすじがあった。我々は自由だが、規律は大事だ。女を犯した男たちは囲まれて撲
殺されるか、ずっと遠くへ逃げていった。あたしたちが泉の南へ向かったのは、と別の族
長は切り出した。倫理的な問題なのよ。たとえ野蛮で、殺されてもしかたないような男た
ちだったとしても、同じ人間じゃない。ここには木の実だってあるんだから。そりゃあ、
いくらでもあるわけじゃないけど。族長は指先で地面に単純な模様を描き短いまじないを
唱えた。飢えたって、人間を食べることはできないわ。人間以外の動物はカラスだけだっ
た。カラスたちは毛深く、黒く、鋭いくちばしとかぎ爪を持ち、その体長は人間たちと変
わらなかった。襲われることはなかったが、ひっきりなしに聞こえるしわがれた鳴き声や、
夜の森に隙間なく光る目は人間たちをおびえさせ、森から遠ざけるのにじゅうぶんだった。
カラスたちは自らが人間であったことを知っていた。我々が共有している夢の中で、どう
して自分たちだけが醜いカラスの姿をしているのかがわからなかった。人間の姿をしてい
る親族を見つけた者の鳴き声は特にかすれ、カラスたちだけに了解されるかなしみの響き
を持っていた。カラスたちは神聖な生き物なんだ。湖の北で暮らす族長はそう言った。私
は森でカラスが死ぬ姿を見た。くちばしで自らの胸を突き、食い破ろうとしていた。驚い
たよ。心臓をかみ砕いた瞬間、そのカラスは溶けたんだ。溶けて水になり、地面に染みこ
んだ。あっという間のことだったんだ。族長はひざまずいて泉に顔を浸け水を飲んだ。背
中に大きく彫られたカラスの絵が筋肉で歪んだ。私たちが渇かずにいられるのは、神聖な
るカラスたちのおかげなんだ。雨が降らないにもかかわらず泉は常にあふれんばかりで我
々をうるおした。西側には族長はいなかった。どこからともなく集まった我々は適当な間
隔で横になり、ただ長い長い眠りの中にいた。我々が共有する夢の中で、最高権力者はよ
うやく目覚めた。すっかり膝下まで泉に浸かっていた。起立して我々の生活を良くするた
めと信じきって疑わない、愚にもつかない法案を提起した。みんな眠っているのもお構い
なしに熱弁をふるった。この誰にも勝る熱意こそが最高権力者を最高権力者たらしめてい
た。ひとしきり声を張り上げたのち着席すると泉は腰の位置まで届いていた。すでに水没
した議長の、禿げ頭を隠すために伸ばした少ない髪の毛が眠りを誘うようにゆらめいてい
た。


まんどらごら

  ゼッケン

マンドラゴラは根っこが人のかたちをしていて
引き抜くと悲鳴をあげる
植物の悲鳴を聞いた人間は発狂するので
マンドラゴラを引き抜くときには
代わりに犬に引かせるといいらしい

先日、庭に生えたマンドラゴラを犬に引かせたときの映像です
!注意! 再生するときには音声をミュートに設定してください
マンドラゴラの悲鳴が含まれている可能性があります
私自身は確認していませんのであしからず^^

ブログの動画を何回か再生してみたおれは
引き抜かれた植物の根っこは言われてみれば人のかたちをしているように見えた
それも一瞬で、首輪に結ばれた縄の先に地面から引き抜かれた植物をひきずったまま、
犬は画面の外に走り出ていった
おれは何度か指先を往復させたすえに、ミュートボタンを解除した

このブログの持ち主はこの動画をアップして直後、失踪した
おれの職場の同僚だった
失踪の謎を解く鍵はこの動画しか残されていない
再生すると庭の向こう、どこかをバイクが走っていった
犬が一度ちいさく吠えた
日付けは日曜日の昼間で同僚は
出かけていた奥さんと子供を残して消えた
子供はこのちょこまか動く毛の長い犬をかわいがっている、と同僚は言っていた
たぶん、おれにだけ言っていた
植物を懸命に引っ張っているのが子供の可愛がっている飼い犬だということを知っているのは
おれだけだろう、口数が少なくいつも曖昧な笑みと返事で何を考えているのか分からない男
というのが職場での同僚の評価だった、気味がわるいという人間もいた、そんな同僚におれは
分け隔てなく声をかけ、会話した、それがおれの印象をよくすることをおれは理解していた
おれは
子供の可愛がっている飼い犬が狂うかもしれないようなことを
このとき、犬にさせている同僚を
心底、怖ろしいと思った
自分がこんな人間だということを同僚はおれに打ち明けたかったのだろう
引き抜かれても植物はべつに悲鳴をあげなかった
手がかりをなくしかけていることにおれは安堵を覚えていた
これでつながりは消え、おれは同僚のことを忘れるだろう
映像の終わり間際、かすかにおれの名前をつぶやく同僚の声が聞こえた
おれはPCの音量を最大限にあげて動画をもういちど再生する
同僚はおれの鞄に入っていた実印をつかっておれを借金の保証人にした
相手は暴力団だ、自分は逃げるがあんたは頭がいいからどうにかするだろう、と述べていた

このとき、植物の悲鳴を聞くと発狂してしまうので
代わりに犬に引き抜かせるといいらしい


アワー・オフィス

  リンネ

とある清潔な会社のオフィスである。わたしの指はパソコンに向かってなめらかにキーボードを打ち続けている。それに応えるようにして、キーの一つひとつが軽やかな音を放っており、静かなオフィス全体にくっきりと反響している。頼まれていた仕事を終えたわたしは、さっそく上司にそれを報告しに行くところである。

さっきから隣の同僚がイスに座ってくるくると回転している。やけににやにやとしているところから察すると、どうやらその状況をとても楽しんでいるようではあるが、あの状態では仕事などできるはずもない。現にそいつは出社してからまだパソコンの電源も入れていないままである。職務怠慢と言われても仕方がない状況だが、同僚はいつになく楽しそうで、さすがに声は上げないが、満面の笑みで回転を続けている。

妙なことに、見える限りすべての社員が椅子に座って回転しているようだ。みんな見たこともないほど幸せそうな表情をしている。もちろんわたしの上司もほかの社員と同じで、かろうじてパソコンは動いているようだが、くるくると回ってしまい何の仕事もできないありさまである。これでは資料を手渡すこともできない。仕方がないのでわたしはいったん自分のデスクに戻り、別の仕事に取り掛かることにした。

ところが戻ってみると、自分の席にはすでに別の社員が座っていた。その上、みんなと同じようにくるくると回転してしまっている。妙なことになった。いったいわたしはどこで仕事をすればいいのだろう。オフィス中を歩き回ってみるが、どこにも空いている席が見あたらない。困ったものだ、いったい、わたしはどこにいればいいのだろうか。これでは仕事ができない。しかし、考えてみればそもそもみんな椅子の上で回転していて、仕事などほったらかしにしているのだから、なぜわたしだけが律儀に仕事をする必要がある?

とつぜん、電話が鳴った。わたしは近くの受話器を取る。「もしもし――」といったところで、そういえばこの会社の名前は何であろうか、と疑問に思う。さて、わたしはポケットから自分の名刺を取り出して確認してみるが、印字された文字がくるくると回転していて判読できない。しょうがないので、近くの社員にうちの社名を聞こうかと思うが、すぐにそんな馬鹿なまねできるはずがないと考えてやめた。名刺の文字はますます回転を速めて回っており、いつのまにか、その名刺を中心にわたしまで回転を始めていた。

くるくると回り続けていると、不思議なことに、なにやらとても愉快な気持ちになってきた。しばらくこのままでいることが、何かこの会社にとって必要不可欠なことなのではないかという予感がした。受話器の向こうでは何者かが未知の言語で流暢に何かを訴えかけ続けているが、もはやそれがこの会社にとって何の価値もない話であることは明白であった。

全社員がくるくると回転を続けている。もうまもなく定時を迎えるが、だれひとりとして帰宅の準備を始める社員はいない。それどころか、かれらは先ほどまでの笑顔を一変させて、今度は鋭く険しい表情でもって、いよいよ何かを始めようという気迫をうかがわせている。

壁にかかった大きな時計に、あらゆる社員の視線が集まった。

窓からは夕日が差し込んで、オフィスは金色に染まっている。


虫、虫、虫。

  田中宏輔




蚯蚓


 朝、目が覚めたら、自分のあそこんところで、もぞもぞもぞもぞ動くものがあった。寝たまま、頭
だけ起こして目をやると、タオルケットの下で、くねくねくねくね踊りまわるものがあった。まるで
あのシーツをかぶった西洋のオバケみたいだった。あわててタオルケットをめくると、パンツの横か
ら、巨大な蚯蚓が、頭だか尻尾だか知らないけど、身をのけぞらしてのたくりまわっていた。とっさ
に右手で払いのけたら、ものすっごい激痛をあそこんところに感じた。起き上がって、パンツを一気
にずり下ろしてみると、そこには、ついてるはずのぼくのチンポコじゃなくって、ぐねぐねぐねぐね
のたくりまわっている巨大な蚯蚓がついていた。上に下に横に斜めに縦横無尽にぐぬぐぬぐぬぐぬの
たくりまわっていた。一瞬めまいらしきものを感じたけど、ぼくは、すぐに立ち直った。だって、あ
のカフカのグレゴール・ザムザよりは、不幸の度合いが低いんじゃないかなって思って。ザムザは、
全身が虫になってたけど、ぼくの場合は、あそこんところだけだから。パンツのなかにおさめて、上
からズボンをはけば、外から見て、わかんないだろうからって。こんなもの、ごくささいな変身なん
だからって、そう思えばいいって、自分に言い聞かせて。情けないけど、そうでも思わなきゃ、学校
もあるんだし。そうだ、とりあえず、学校には行かなくちゃならないんだから。ぼくは、以前チンポ
コだった蚯蚓を握ってみた。いきなり強く握ったので、そいつはぐぐぐって持ち上がって、キンキン
に膨らんだ。口らしきものから、カウパー腺液のように粘り気のある透明な液体が、つつつっと糸を
引きながら垂れ落ちた。気持ちよかった。ずいぶんと大きかった。そうだ。以前のチンポコは短小ぎ
みだった。おまけにそれは包茎だった。キンキンに勃起しても、皮が亀頭をすっぽりと包み込んでい
た。無理にひっぺがそうとすれば、亀頭の襟元に引っかかって、それはもう、ものすっごい激痛が走
ったんだから。もしかすると、この新しいチンポコの方がいいのかもしんない。そうだ。そうだとも。
こっちのほうがいい。ぼくは制服に着替えはじめた。
 電車のなかは混んでて、ぼくは吊革につかまって立っていた。電車の揺れに、ぼくのあそこんとこ
ろが反応して、むくむくむくっと膨らんできた。前の座席に坐ってる上品そうなおばさんが、小指を
立てた右手でメガネをすり上げて、ぼくのあそこんところを見つめた。とっさにぼくは、カバンで前
を隠した。そしたら、よけいに、ぼくの蚯蚓は、カバンにあたって、ぐにぐにぐにぐにあたって、あ
っ、あっ、あはっ、後ろにまわって、あっ、あれっ、そんな、だめだったら、あっ、あれっ、あっ、
あつっ、つつっ、いてっ、ててっ、あっ、でも、あれっ、あっ……



*



とっても有名な蠅なのよ。


とっても有名な蠅なのよ、あたいは。
教科書に載ってるのよ、それも理科じゃなくって
国語なのよ、こ・く・ご!
尾崎一雄っていう、オジンの額の皺に挟まれた
とっても有名な蠅なのよ
あたいは。

でもね、あたいが雄か雌か、なあんてこと
だれも、知っちゃいないんだから
もう、ほんと、あったま、きちゃうわ。

これでも、れっきとした雄なんですからね。

フンッ。

(あっ、ここで、一匹、場内に遅れてやってまいりました!
 武蔵の箸に挟まれたという、かの有名な蠅であります。)

──おいっ、こらっ、オカマ、変態、
  おまえより、おれっちの方が有名なんだよ。

あたいの方が有名よ。

──なにっ、こらっ、おいっ、まてっ、まてー。

(あーあ、とうとう、ぼくの頭の上で、二匹の蠅が
 追っかけっこしはじめましたよ。作者には、もう
 どっちがどっちだかわかんなくなっちゃいました。)

(おっと、二匹の蠅は、舞台を台所に移した模様です。)

──あっ、ちきしょう、こりゃあ、蠅取り紙だっ。

いやっ、いやっ、いやー、羽がくっついちゃったわ。

(そっ、それが、ごく自然な蠅の捕まり方ですよ。) 



*



羽虫


真夜中、夜に目が覚めた。
凄々まじい羽音に起こされた。
はらっても、はらっても
黒い小さな塊が、音を立てて
いくつも、いくつも纏わりついてきた。
そういえば、ここ、二、三日というもの
やけに、羽虫に纏わりつかれることが多かった。
きのうは、喫茶店で、口がストローに触れた瞬間に
花鉢からグラスのなかへ、羽虫が一匹、飛び込んできた。
今朝などは、起き上がってみると
シーツの上に、無数の黒い染みが張りついていたのだ。
と、そうだ、思い出した。
ぼくは思い出した。
ぼくは、とうに死んでいたんだ。
おとといの朝だった。
目が覚めたら、ぼくは死んでいた。
ぼくは、ぼくのベッドの上で死んでいたのだ。
そうだ。
そして、ぼくは
ぼくの死体を部屋の隅に引きずっていったんだ。
あれだ。
あのシーツの塊。
ぼくは、シーツを引っぺがしに立ち上がった。
ぼくがいた。
目をつむって、口を閉じ
膝を抱いて坐っていた。
すえたものの、それでいて
どこかしら、甘い匂いがした。
それは、けっして不快な臭いではなかったけれど
腐敗が進行すれば臭くなるだろう。
ぼくは、ぼくの死骸を抱え運び
自転車の荷台に括りつけた。
ぼくの死骸を捨てにいくために。


(不連続面)


真夜中、夜になると
ぼくは、ぼくの死骸を自転車の荷台に括りつけ
自転車を駆って、夜の街を走りまわる。

真夜中、夜になると
ぼくは、ぼくの死骸の捨て場所を探しさがしながら
自転車を駆って、夜の街を走りまわる。

踏み切り、
踏み切り、
真夜中、夜の駅。

ぼくの足は、いつもここで止まる。
ここに、ぼくの死骸を置いていこうか
どうしようか、と思案する。

でも、必ず
ぼくは、ぼくの死骸といっしょに
自分の部屋に戻ってくることになるのだ。



*



あめんぼう


あめんぼうは、すばらしい数学者です。
水面にすばやく円を描いてゆきます。



*






夏の一日
わたしは蝶になりましょう。

蝶となって
あなたの指先にとまりましょう。

わたしは翅をつむって
あなたの口づけを待ちましょう。

あなたはきっと
やさしく接吻してくれるでしょう。



*






死に
たかる蟻たち
夏の羽をもぎ取り
脚を引き千切ってゆく
死の解体者
指の先で抓み上げても
死を口にくわえてはなさぬ
殉教者
死とともに
首を引き離し
私は口に入れた
死の苦味
擂り潰された
死の運搬者






*






髑髏山の蟻塚は
罪人たちの腐りかけた屍体である。

巣穴に手を入れると
蟻どもがずわずわと這い上がってきた。

たっぷりと味わうがいい。
わたしの肉体は余すところなく美味である。

じっくりと味わうがいい。
とりわけ手と唇(くち)と陰茎は極上である。



*



蛞蝓


真夜中、夜の公衆便所
  消毒済の白磁の便器のなかで
    妊婦がひとり、溺れかけていた
      壁面の塗料は、鱗片状に浮き剥がれ
       そのひと剥がれ、ひと剥がれのもろもろが
       黒光る小さな、やわらかい蛞蝓となって
      明かり窓に向かって這い上っていった
    女が死に際に月を産み落とした
  血の混じった壁面の体液が
 月の光をぬらぬらと
なめはじめた



*



蝸牛


窓ガラスに

雨垂れと

蝸牛

頬伝う

私の涙と

あなたの指



*



自涜する蝸牛


  ユダの息子オナンは、故意に己の精を地にこぼした。そのため主は彼を殺された。(創世記三八・九−十)


自涜する蝸牛。
屑屑(せつせつ)と自慰に耽る雌雄同体(アンドロギユヌス)。
人葬所(ひとはふりど)にて快楽を刺青するわたくし、わたくしは
──溶けてどろどろになる蝸牛。*

さもありなん。
この身に背負つてゐるのは、ただの殻ではない。
銅(あかがね)の骨を納めた骨壺(インクつぼ)である。

湿つた麺麭(パン)に青黴が生へるやうに
わたくしの聚(あつ)めた骨は日に日に錆びてゆく。

──死よ、おまへの棘はどこにあるのか。**

──わたくしの棘は言葉にある。
その水銀(みずがね)色の這ひずり跡は
緑青(あをみどり)色の文字(もんじ)となつて
墓石に刻まれる。

──死の棘は罪である。***

しかり。
罪とは言葉である。
言葉からわたくしが生まれ
そのわたくしがまた言葉を産んでゆく。

自涜する蝸牛。
屑屑(せつせつ)と自慰に耽る雌雄同体(アンドロギユヌス)。
両性具有(ふたなり)のアダム、悲しみの聖母マリア(マテル・ドロローサ)。

日毎、繰り返さるる受胎と出産、
日々、生誕するわたくし。



*: Psalms 58.8  **: 1 Corinthians 15.55  ***: Corinthians 15.56



*



祈る蝸牛


小夜(さよ)、小雨(こさめ)降りやまぬ埋井(うもれゐ)の傍(かた)へ、
遠近(をちこち)に窪(くぼ)溜まる泥水、泥の水流るる廃庭を

葉から葉へ、葉から葉へと這ひ伝はりながら
わたしは歳若い蝸牛のあとを追つた。

とうに死んだ蝸牛が、葉腋(えふえき)についたきれいな水を
おだやかな貌つきで飲んでゐた。

きれいな水を飲むことができるのは
雨の日に死んだ蝸牛だけだと聞いてゐた。

見澄ますと、雨滴に打たれて震へ揺れる病葉(わくらば)の上から
あの歳若い蝸牛がわたしを誘つてゐた。

近寄つて、わたしは、わたしの爪のない指を
そろり、そろりと、のばしてみた。

、わたしの濡れた指が、その蝸牛の陰部に触れると
その蝸牛もまた、指をのばして、わたしの陰部に触れてきた。

わたしたちは、をとこでもあり、をんなでもあるのだと
 ──わたしたちは、海からきたの、でも、もう海には帰れない……

わたしたちは、をとこでもなく、をんなでもないのだと
 ──魂には、もう帰るべきところがないのかもしれない……

この快楽の交尾(さか)り、激しく揺れる病葉(わくらば)、
手を入れて(ふかく、ふかく、さしいれて)婪(むさぼ)りあふわたしたち。

わたしたちは婪(むさぼ)りあはずには生きてはゆけないもの。

──ああ、雨が止んでしまふ。

濡れた指、繰り返さるる愛撫、愛撫、恍惚の瞬間
、瞬間、その瞬間ごとに、

わたしは祈つた、

──死がすみやかに訪れんことを。



*



蟷螂


  蟷螂(たうらう)よ その身に棲まふ禍(まが)つもの おまへの腹はおまへを喰らふ


 小学生のころに、道端とかで、カマキリの姿を見つけたりすると、ぼくは、よく踏みつけて、ぐち
ゃぐちゃにしてやった。踵のところで、地面にぎゅいぎゅいこすりつけてやった。ときには、そのほ
っそりとしたやわらかい胴体を、指で抓み上げて、上下、真っ二つにぶっちぎってやったりもした。
すると、お腹のなかから、気味の悪い黒褐色の細長いものが、ぐにゅるにゅるにゅるぐにゅるにゅる
と、のたくりまわりながら飛び出てきた。本体のカマキリのほうは、とっくに死んでいるのに、お腹
のなかに潜んでいたそいつは、踏んづけてやっても、なかなか死ななかった。バラバラにしてやって
も、しぶとく動いていた。ぼくは、そいつがカマキリのほんとうの正体か、それとも、もうひとつ別
の姿か、あるいは、もうひとつ別の命のようなものだと思っていた。そいつがハリガネ虫とかと呼ば
れる、カマキリとはぜんぜん別個の生き物であるということを知ったのは、中学校に入ってからのこ
とだった。そいつは、カマキリのお腹のなかに棲みつきながら、カマキリの躯を内側から蝕んでいく
というのだ。そのことを知って、カマキリを殺すことがつまらなくなってしまった。そしたら、とた
んに、カマキリの姿を目にしなくなった。見かけることがなくなったのである。不思議なものだ。そ
れまで、あんなによく出くわしていたというのに。
 カマキリは、学名(英名とも)を Mantis といい、それは「巫」の意を表わすギリシア語に由来する
という(『ファーブル昆虫記』古川晴男訳)。たしかに、カレッジ・クラウン英和辞典で調べると、語
源は、ギリシア語のアルファベット転記でも mantis であった。神託(oracle)を告げるというのだ。
 ぼくは夢想する。カマキリが、蝶の姿となったぼくの躯を抱きしめ、ぼくを頭からムシャムシャと
むさぼり喰っていく様を。まるで陸(おか)に上がったばかりの船員が女の身体にむしゃぶりつくよ
うに。その荒々しさが、ぼくは好きだ。二の腕に黛色の入れ墨のある若くて逞しい船員の、潮の匂い
がたっぷりと沁み込んだ、男らしいゴツゴツとした太い指。その太い指に引っ掻きまわされて、くし
ゃくしゃにされる女の髪の毛。それは、ぼくの翅だ。カマキリは、その大きなトゲトゲギザギザの前
脚で、ぼくの美しい翅をバラバラに引き裂いてゆくのだ。そのヴィジョンは、ぼくを虜にする。
 蝶のやうな私の郷愁!(三好達治『郷愁』)。ぼくの目は憶えている。ぼくの美しい翅が、少年の
指に粉々に押し潰されたことを(ヘッセ『少年の日の思い出』高橋健二訳)。ぼくの目は憶えている。
その少年の指が、ぼく自身の指であったことを。ぼくの指が、ぼくの美しい翅を、粉々に押し潰して
いったことを。



*






コンコン、と
ノックはするけど

返事もしないうちに
入ってくるママ

机の上に
紅茶とお菓子を置いて

口をあけて
パクパク、パクパク

何を言ってるのか
ぼくには、ちっとも聞こえない

聞こえてくるのは
ぼくの耳の中にいる虫の声だけだ

ギィーギィー、ギィーギィー
そいつは鳴いてた

ママが出てくと
そいつが耳の中から這い出てきた

頭を傾けて
トントン、と叩いてやると

カサッと
ノートの上に落っこちた

それでも、そいつは
ギィーギィー、ギィーギィー

ちっとも
鳴きやまなかった

だから、ぼくは
コンパスの針で刺してやった

ノートの上に
くし刺しにしてやった

そうして、その細い脚を
カッターナイフで刻んでやった

先っちょの方から
順々に刻んでやった

そのたびごとに
そいつは大きな声で鳴いた

短くなった脚、バタつかせて
ギィーギィー、ギィーギィー鳴いた

そいつの醜い鳴き顔は
顔をゆがめて叱りつけるママそっくりだった

カッターナイフの切っ先を
顔の上でちらつかせてやった

クリックリ、クリックリ
ちらつかせてやった

そしたら、そいつは
よりいっそう大きな声で鳴いた

ギィーギィー、ギィーギィー
大きな声で鳴きわめいた

ぼくの耳を楽しませてくれる
ほんとに面白い虫だった


まるちーちゃんとうじむしおじさん

  摩留地伊豆

(1)

まるちーちゃんは
にさいのまるちーずけんのおとこのこです
おうちがないので
いつもひとりでさんぽしているまるちーちゃんは
よくきんじょのかいいぬたちに
ばかにされていました

ぶるどっぐけんのぼびーは
「おまえは、くびわもしていないし、すごくよごれているな」
「なかまや、ごしゅじんさまはどこへいっちゃったんだ」
と、まるちーちゃんがいつもひとりぼっちなのをしっているのに
わざといじわるにそんなことをいいます

そして、ぼびーのごしゅじんさまに
「こら、いくわよぼびー」
と、いってしかられても
ごしゅじんさまにつれられて
ずっと、とおくにいっても
いつもにやにやとして
まるちーちゃんをみていたのです

でも、まるちーちゃんはとてもつよいこなので
そんなことをいわれてもへいきでした
それにまるちーちゃんには
ゆめがあったのです

それはいつかぼびーが
「このへんにはおまえそっくりなへんなおじさんがいるぞ」
「そのおじさんうじむしをびんでそだてているんだってさ」
「おまえのごしゅじんさまだろ」
と、はなしていた「うじむしおじさん」にあうことです

どうしてかわからないけど
「そのおじさんなら、ぼくにやさしくしてくれるかもしれない」
「もしかしたら、ぼくをかってくれるかも」

そうおもったまるちーちゃんは
よるもひるもずっと
「うじむしおじさん」のおうちをさがしていました

(2)

そんなあるひまるちーちゃんは
うじむしのたくさんはいったびんを
とてもだいじそうにかかえたおじさんをみつけました

そのとき、たまたまとおりかかったぼびーが
「きょうは、ごしゅじんさまとおさんぽかい」
と、にやにやしていったので

(ああ、このひとが「うじむしおじさん」にまちがいない)
と、おもいました

とてもうれしくなったまるちーちゃんは
わんわん、といって
そのひとにかけよりました

でも、びんのなかのうじむしにえさをあげている「うじむしおじさん」には
そのこえはきこえないみたいでした

まるちーちゃんはおおきなこえでもういちど
わんわんとなきました

すると、びんのなかをのぞきこんでいた「うじむしおじさん」は
すこしびっくりしたようなかおでまるちーちゃんをちょっとだけみましたが
またやさしいかおでうじむしたちをみました

そんなやさしいかおでじぶんのことをみてほしいとおもった
まるちーちゃんがもういちどなこうとしたとき

おじさんはおおきなこえで
「うるさいぞ、なんだこのきたないいぬは、あっちへいけ、しっしっ」
といいました

まるちーちゃんはとてもびっくりしましたが
おじさんにあえることをゆめでみるほどにたのしみにしていたので
そこからはなれることができずにいました

すると、ごんっというおとがして
めからぱちぱちとひばながでて
あたまにはおおきなたんこぶができました

「うじむしおじさん」がまるちーちゃんのあたまに
いしをぶつけたのです

そして、「うじむしおじさん」はまるちーちゃんをおいていってしまいました

おじさんがいってしまってとてもさびしいきもちになったまるちーちゃんは
ちいさなこえをだして、おおきななみだをながして
なんじかんもなきました

ごしゅじんさまにすてられたときも
なかなかったのにです

(3)

まるちーちゃんがないていると
ひとりのちいさなおんなのこがかけよってきました

「どうしたの?」

おんなのこはたんこぶのできたまるちーちゃんのあたまを
やさしくなでてくれました

まるちーちゃんはなきやんで
わん、といいました

すると、おんなのこのおかあさんがやってきて

「めぐみちゃん、もういくわよ」
といいました

「でも、このこけがしてるよ?」
おんなのこがいいました

「いいから、ほっときなさい」
おんなのこはおかあさんにてをひかれて
いってしまいました

まるちーちゃんはもうたくさんないたので
さんぽにでかけることにしました

さんぽのとちゅう
あきたけんのけんたと、しばいぬのめいにあいました

にひきは、まっかになったまるちーちゃんのめをのぞきこむと

「あれ、こいつのめまっかっかだぞ」
「きっとないたんだよ、なきむしやーい」
などといってはやしたてました

まるちーちゃんがはずかしそうにしていると
にひきとまるちーちゃんのあいだに
すうっとぼびーがはいってきました

ぼびーはまるちーちゃんのめをじいっとのぞきこんだあと
くるっとけんたとめいのほうをむいて

わんっ、とほえました

けんたとめいはびっくりしてきゃいんとないて
ごしゅじんさまたちにつれられて
いってしまいました

ぼびーもだまってごしゅじんさまといっしょに
いってしまいました

(4)

あるひ、まるちーちゃんがおきにいりのこうえんにある
どかんのうえでひなたぼっこをしていると
おんなのこがおおきないたをたくさんもってやってきました
このあいだ、たんこぶができたまるちーちゃんの
あたまをなでてくれたおんなのこです

「うんしょ、うんしょ」

おんなのこは、もってきたいたをどさっとおいて
まるちーちゃんにこういいました

「わんちゃん、おうち、ないんでしょ、めぐみがわんちゃんのおうちをつくってあげる」

おんなのこは、せおっていたりゅっくさっくから
くぎと、かなづちをとりだすと

「おとうさんのをもってきちゃったんだ、ないしょだよ」

にっこりわらってそういうと
どかんのうらのめだたないばしょにいって
くぎをかなづちでたたいて、まるちーちゃんのおうちづくりをはじめました

とん、とん、とん

おんなのこはまだちいさいので
くぎをうつのがあまりじょうずではありません
まるちーちゃんはおんなのこがてをたたいてしまうのではないかと
しんぱいしてみていました

「いたい、わーん」
まるちーちゃんがしんぱいしていたとおり
おんなのこはひだりてのひとさしゆびを
かなづちでたたいてなきだしてしまいました

おんなのこのことをとてもしんぱいしたまるちーちゃんは
はしっていって、おんなのこのたたいてしまったゆびを
なんどもなんどもなめました

おんなのこはすぐになきやんで
まるちーちゃんのあたまをやさしくなでると
また、まるちーちゃんのいえづくりをはじめました

「できた」

もう、ゆうやけでそらがあかくなりかけたころ
ようやくまるちーちゃんのいえがかんせいしました
おんなのこのいえづくりを
ずっとしんぱいしながらみていたまるちーちゃんでしたが
いえができるととびあがってよろこびました

「めぐみちゃん、いつまであそんでるの、ごはんだからかえってきなさい」

「はーい、おかあさん」

しんぱいしてさがしにきたおかあさんにつれられて
おうちにかえっていったおんなのこをみおくると

まるちーちゃんはじぶんのこやのまわりをぐるぐるとまわりました
ちいさなおんなのこがつくってくれたので
こやのかべにはすきまがいっぱいありましたが

まるちーちゃんはうれしくてたまりませんでした

そして、よるになったので
まるちーちゃんはじぶんのこやにはいって
すやすやとねむりました

(5)

それからというもの、おんなのこはまいにちのように
ぱんをもってきてくれたりして
まるちーちゃんにあいにきてくれるようになりました
まるちーちゃんはおんなのこがきてくれるのを
いつもたのしみにしていました

そんなあるひ、おんなのこがまるちーちゃんをこうえんにつれていきました
そして、

「めぐみがまるちーちゃんをきれいにしてあげるね」
そういって、こうえんのみずのみばのじゃぐちをひねると
おんなのこはもってきたせっけんで
まるちーちゃんをごしごしとあらいました

おんなのこがいっしょうけんめいにあらってくれたので
まるちーちゃんのけはぴかぴかになりました

そしておんなのこはぽけっとからぴんくのりぼんをとりだすと
まるちーちゃんのあたまにつけました

まるちーちゃんはおとこのこなので
ぴんくのりぼんがちょっとだけはずかしかったけれど
おんなのこがとてもよろこんでいたので
うれしくなってはしりまわりました

まるちーちゃんがはしりまわっていると
けんたとめいがさんぽにきているのをみつけました
そしてけんたとめいのごしゅじんさまが
ひそひそばなしをしているのがきこえてきました

「いやねえ、あのひと、またきてるわ…」

ごしゅじんさまたちがみているほうをみると
さなぎがいっぱいはいったびんをもった
「うじむしおじさん」がいました

うじむしおじさんは、なにもしゃべらずに
さなぎのはいったびんをじいっとのぞきこんでいました

まるちーちゃんはまたいしをぶつけられるとこわいので
けんたとめいのごしゅじんさまのうしろにそっとかくれました

すると

「あのひと、ほんとうにきみがわるいわ」
「うじむしをびんにいれてかっているなんて、どんなびょうきをもっているかわからない」
「このこうえんにこないでほしい」

ふたりはずっとうじむしおじさんのわるぐちをいっていました
それをきいていたまるちーちゃんは
なんだかはらがたってきて、わんっ、とおおごえでなきました

けんたとめいのごしゅじんさまは、はじめはびっくりしましたが
おんなのこがせっけんでけをきれいにしてくれて
ぴんくのりぼんをつけてくれたまるちーちゃんをみて

「あら、かわいいわんちゃん」
「どこのおたくのわんちゃんかしら」

と、くちぐちにいいましたが

まるちーちゃんがおこってずっとほえるので
けんたとめいをつれてかえっていきました

「なにしてるの、もうかえろう」

おんなのこがよびにきたので
まるちーちゃんもかえることにしました

まるちーちゃんがふりかえると

うじむしおじさんはまだだまったまま
びんのなかのさなぎをみつめていました

(6)

まるちーちゃんとめぐみちゃんはとてもなかよしになりました
ふたりはかけっこをしたり、めぐみちゃんがなげたぼうを
まるちーちゃんがひろいにいったりして
とてもたのしくあそびました

そのひ、いつものようにおかあさんにつれられてかえる
めぐみちゃんをみおくってしばらくすると
めぐみちゃんのおかあさんがひとりで
まるちーちゃんのおうちへやってきました

まるちーちゃんは、いつもおそくまでめぐみちゃんとあそんでいるので
きっとおこられるにちがいないとおもって
どきどきしました

でもめぐみちゃんのおかあさんは
すうっとまるちーちゃんのまえにすわりこむと
まるちーちゃんのかおをじいっとみたあとで
やさしくあたまをなでてかえっていきました

そのよる、めぐみちゃんのおうちでは
かぞくかいぎがひらかれました

おかあさんがめぐみちゃんに、まるちーちゃんのことをかってもいいかどうか
「おとうさんにきいてごらん」
と、いったからです

めぐみちゃんがおとうさんにきくと

おとうさんはめぐみちゃんとまるちーちゃんがとてもなかよしなことや
めぐみちゃんがまるちーちゃんのめんどうをよくみていることを
おかあさんからよくきいていたので

「いいよ」

と、いいました

めぐみちゃんはうれしくて

「ばんざーい」

と、いいました

(7)

まるちーちゃんはめぐみちゃんのかぞくのいちいんになりました
めぐみちゃんはがっこうへいくまえとゆうがた
まいにちまるちーちゃんをおさんぽにつれていってくれました

めぐみちゃんががっこうへいっていないときは
おかあさんがせなかをなでてくれたり
とてもやさしくしてくれました

ゆうがたのおさんぽで、まるちーちゃんは
ぶるどっぐけんのぼびーといつもすれちがいます

ぼびーがいつもわんっ、となくので
まるちーちゃんもいつもわんっ、となきました

にちようび

まるちーちゃんはめぐみちゃんと
おとうさんとおかあさんとみんなでこうえんにいきました

まるちーちゃんはこうえんでめぐみちゃんとかけっこをしているとき
べんちに、はえのいっぱいはいったびんをうれしそうにみつめている
「うじむしおじさん」がすわっているのをみつけました

うじむしおじさんがびんのふたをあけると
びんのなかのはえたちは
いっせいにそらへとんでいって
あっというまにみえなくなりました

うじむしおじさんはすこしさみしそうにわらって
そのようすをながめていました

まるちーちゃんも
はえたちがいっせいにそらへきえていくのを

じいっとながめていました

(おしまい)


水道橋

  ロボット

どこかの寺の鐘が鳴り
ビルの屋上に現れた野良犬の
遠吠えは細くかすれていた
その寂しい咆哮は喧噪を吸い取り
すべての色を拭い去った
深まる影に表情は隠れ
存在の輪郭だけが際立っていった

水道橋の中途には丸帽子の男がひとり
何をするでもなく立ち続け
反対側の欄干を
女の子が綱渡りのように両手を広げて
歩きはじめた
彼らの足下の川には
数日前に誰かが取り損ねたボールが
河口に向かって流れていた

そして
今日も使われずに無駄になった切符が
手の中で少し大きくなった
野良犬の姿はもうなく
風にとばされ舞い上がる菓子パンの袋に
微かな夢を忍び込ませた


タバコの弊害とニュースキャスター

  摩留地伊豆


ニュースキャスターは俺の表情などお構い無しだ
俺は事件を映す無機質なレンズじゃない
スイッチを切られる事にも動じずに
奴は正体を現し
三色の線となり点に消えた
それでも納まらぬ怒りに追い討ち
コーヒーを煎れた後でタバコを切らして居る事に気付く

<雑草>

それ自体がその名を持つ訳では無い
各々に名は有る
特に特徴の無い草
或いは広く名を知られぬ草
自生する草
それらを引っ括めて雑草と呼ぶのだろうが
自らを雑草と呼んだ紫の竜胆はどうだろう
それは自生する誇りの象徴なのか
或いは全ての無名な草への愛なのか
そんな事を紫の竜胆に尋ねた所で
風に吹かれて鳴らない鈴を鳴らすだけ

…と、ここまで

一通り独り言を終えた俺が拡声器のスイッチを切るのを待っていたかの様に
突然女性店員が話し掛けて来た
「ソフトですか?」

タバコを求めたコンビニエンスストアのレジの前
その店員が客に尋ねる様な物言いに憤慨した俺は
彼女に一矢報いるべくソフトともボックスとも付かない言葉を模索する

(ソックス…ボフト…ソックスでは靴下と混同されるおそれがあるな…)

長考…
長考に次ぐ長考…

そして沈黙

空気を無くしたかの様な時の沈黙を初めに押し出したのは女性店員だった

「すいませんレジお願いしまーす!」

おかっぱ頭の小柄な女性店員がその容姿に似合わぬ野太い大声を上げたので
驚いた俺があわてて辺りを見渡すと
後ろには長蛇の列
背景は紫のモヤモヤで、どの顔も黒く塗り潰され黄色い目は三角だった

(畜生…何時もだ…何時もこうなんだ!)

もたもたする俺を睨みつける世間の冷たい視線
一体この国は何時からこんなにもせわしなく先客を突付きまわす国になったのだ
怒りが頂点に達した俺は腹に有らん限りの力を込めて
一つ決断した言葉を吐いた

「ボフトで!!」

すると女性店員はオーバースローで振りかぶり
ソフトともボックスとも付かない
柔らかくも硬くも無いセブンスターを俺の額目掛けて投げつけた

「うわあぁぁぁ!!!!」

空気との摩擦熱により
紅蓮の炎と化したセブンスター
そのパッケージが脳内にめり込み破裂すると
逆回転の時計の針は朝靄のリフの中で急速回転を始め
ジーンズのポケットの中に隠し持っていた大正ビーズが
小さな炸裂音と共に弾け飛んだ
ジーンズの腿の辺りが血で紅く染まって行くのを眺めて居ると
血の赤みは少しずつ緑色に変わり
気が付けば辺り一面の煙草畑に来ていた

(もっとも俺は煙草の葉を見た事が無いのでその時は雑草だと思っていた訳だが…)

の規則的に並んだその雑草共が突然グァッパッ!と言う呼吸を始め
葉を一枚づつ畳み茎を短くして地中に潜り込むと
足から土の感触は消え
何時の日か蜥蜴の背中を顕微鏡で覗き込んだ時の感触が身体中を包み
漆黒の闇から更に闇へ
色即是空から更に無へ
そのような場所へ向かって居る事は何と無く感じられるのだが
何しろそんな経験をした事が無いので
脳が驚かない様に取り敢えず粘膜質のローラーが
身体に密着して気持ちが悪いウォータースライダーを滑り降りた
と、言うような体験をしている…と、言うような事にして
昨日の夜の様な箱の中へと飛び込んだ

箱の中はさして驚く事の無い普通の闇、夜
「真っ暗だ…ライターはどこだ」
ポケットをまさぐるとライターの部品らしい木っ端微塵の金属片に手が触れた
「そうか…大正ビーズが破裂した時か…」
仕方がないので壁のスイッチを押して蛍光灯を点灯させると
六畳程の全面Pタイル張り、そう、壁や天井迄全部Pタイル張りの部屋に居て
部屋の中央のパイプ椅子には四年ほど前に別れた妻が座っていた
彼女の前には男が立っていて何やら楽しげに話し込んでいる
彼氏だろうか、それとも新しい旦那なのだろうか
始めは少しうっとりと眺めていた俺だが
死に別れた友が三人程出て来た時にはうすうす感付いて来た
「夢だろ…」
だが全て夢では無いかも知れない
現に何時の日かの夢で六つ有る肛門の内どの穴から噴射させようか悩んだ時も
その中の一つは本物だったのだから
恐る恐る目を開けると

残ったのはPタイル張りの部屋だけだった

ニュースキャスターが笑う
ニュースキャスターが笑う
ニュースキャスターは俺
ニュースキャスターはお前
ニュースキャスターは役者
ニュースキャスターは仮面

何と無くそんな気もするが世間的には別にそうでも無い詩を詠んで
心を落ち着かせた後、勢いよくドアを蹴り開け
ドアの向こうに転がり込んだ

これは…

今度は部屋一面赤い毛足の長い絨毯貼りで
無造作に床に置かれたホワイトボードには
「天国」とだけ書かれていた
「誰かの悪戯なんだろう…」
納得した俺はホワイトボードの「天」の字を袖で擦り
備え付けの「ホワイトボードインキ」で「中」に書き換え
パンダが笹を食ってるイラストを添えると
「Tシャツにしたいな」等と独り言を呟いて次のドアを開いた

「うわぁぁぁぁぁ!!!!!!!」

落ちる!!!
落ちる!!!
何処までも落ちる!!!
地球の裏まで!
或いは地球は消滅してしまったのか!?
それならば何処に重力が存在するのか!?
分からない!!!
俺は地球の上しか知らない…
部屋があると思って油断した
やっぱりさっき自分のイラストに和んでしまったのが…
いや、今はそれどころでは…

そういえばパンダの尻尾って白だったかな…黒だったかな…

あれれ…おかしいなぁ

するとその時!

「グオォォォォ!!」
空間ごと落下する俺の耳に
突然野獣のビーストの咆哮の様な獣の叫びが転がり飛び出てきた!
声を上げる間も無く空間は憧れの彼の股間のジッパーが開く様に裂け
亀裂の向こうからは凄まじい冷気が襲いかかってくる
「グオォォ!!」

その時だ!

体長二メートル位の白い獣が亀裂を抉じ開けて身を乗り出し
俺の顔を覗き込んで来た

白いパンダだ…

こうなるともう俺の怒りは止まらない

「てめえ…」

白いパンダは隙を伺う様に俺を睨み付けていた
摺り足で距離を詰めた俺は渾身の力で拳を握り締め

「模様はどうしたァァ!?」

全体重を右の拳に載せ白パンダの額に叩きつけると右手の指が全部折れたので
テレビ、冷蔵庫、カーテン等思い付く全ての物を具現化し
左手であちらこちらに投げ散らかしてやった

そして具現化した白熊の縫いぐるみを投げつけようとしたその時
奪い取ろうとした白パンダに弾き飛ばされた俺は
背後に突然現れた下行きのエレベーターの中に叩き込まれて
又緩やかな下降が加えられた

余りに突然だったので
エレベーターの壁に衝突した衝撃でエレベーターの天井から落ちてきて
床を突き抜けて消えて行った黒パンダの尻尾も見ることが出来なかったが
まあ良しとしよう
兎に角今はパンダの事から離れた方がいい
体操でもして気を紛らわそうと軽く跳び跳ねると
足を踏み外した俺は黒パンダの開けた穴から転落した
「今、時速何キロ出ているのだろう…」
もう叫びも出なかった

猛スピードで落下する空間の中で墜落する俺
何処までも続くエレベーターシャフト
余りにも単調なシャフト内の景色に退屈し居眠りを始めた頃
事態は急変した

…上昇

上昇!
太陽を突き抜ける上昇!!
数万光年の地球を眼下に…
否、実際には小さ過ぎて肉眼で見る事は出来ないが
兎に角…

今回ばかりは数万年後迄には望遠鏡を用意したいと考える余裕も無く
ただただ怖かった
手も、足も、どこもかしこもガタガタと震え出し
滝の様に汗を流し
内蔵どころか細胞全てが萎縮するのを感じた

「ふひぃ…!」

悲鳴とも嗚咽ともつかない
何とも情けない自分の声にふと我に帰ると

恰幅の良い中年男性が俺の目を覗き込んでいた

「伊藤…」
「何回言えば分かるんだ」
「その商品はそこじゃないだろ!!」

さっきからまるでコンビニエンスストアの店長の様に振る舞うこの男の事が
気に入らなかった俺はなるべく大きな声で

「はい!」
「はい!」
「わかりました!」

と新入りのバイトの真似をしてからかって遊んでいたのだが、

「伊藤!レジ行け!」

この時ばかりは本当に不安だった
俺はレジスターなど触った事がない
しかし店長が俺の全部の指の骨が折れた右手を心配してくれた事を思い出し

震える足を抑え
勇気を振り絞ってレジに立った

(店長、見ててくれ…俺…やるよ!)

初めての経験に緊張して朦朧とした俺は
緊張の余り意識を失っていた
途中で誰かと何か会話した様だったがまるで覚えちゃいない
ボヤける視界の中に…

…ヒッ!!!

列…
長蛇の列
店外迄続く列!

その先頭は仏頂面の…



……

先輩の田中さんが叫んだ

「レジお願いします!」

田中さんは優しく俺を導いてレジスターの横に立たせ
慣れた手付きで仏頂面の俺を消滅させると
応援に来た店長と一緒に物凄い勢いでレジスターを打ち始めた
すっかりレジ打ちの魅力に取り付かれた俺は
田中さんの指先をじっと見詰めていたが
視線はいつの間にか田中さんの横顔に移っていた



「グァッパ!」

店長の下品なげっぷの音が店内に鳴り響くと同時に
本日のバイト終了の時間になった
着替えを済ませ帰宅しようとする田中さんの背に
俺の喉から自然と声が出た
「田中さんのレジ…マジ、パネェっす…あの、今晩一緒に食事でも…」

田中さんは一瞬驚いた顔をしたが、少しだけ微笑んで

「今日は用事があるから…明日なら…」

やった!

それからどうやって家に辿り着いたかは覚えちゃいない

すっかり冷めたコーヒーを飲み干し歯を磨き
テレビのニュースキャスターにキスをして布団に潜り込んだ

「黒…」

何かが閃いたが何の事か分からないので
にやけて

眠りについた

「タバコの弊害とニュースキャスター」

…終


デフォルマシオン

  葛西佑也

きみたちは死んだ、
これがぼくの最後のことばだとしらなかったから
ちいさいころに公園で転んで、血を流した
あの赤と同じような日差しがカーテンの隙間からぼくにさし
水分を奪っていく、干からびたのは言動だけではなく
単純にこのおからだのうるおいでもあったのだろう

面白いことも言えないし
きみたちをよろこばせることもできないから
ぼくはもう口を開くことをやめて
目を動かそうと思うんだ
兼愛の精神でもってね
祖母の遺影の前には
常に新しい花が供えてあって
それの御蔭で父さんの背中は風化しない
砂場で作った楼閣のようなものは
いじめっ子によって崩れさる
響くのはたてものの崩壊音ではなくて
あの憎たらしいガキ大将が発する
謎の効果音だけだった
空にしたはずのペットボトルの中には
わずかな水気が残っており
光が乱反射する
それは万華鏡だと言ったら大げさだろうが
今のぼくにとっては十分にうつくしいものだと言えるはずだ
暗闇の中で無数の虫のようにうごめいて
あちこちかきむしっていたあの日に比べたら
ぼくときみたちはなんて幸せなんだろう
その証拠に最後のことばなんてものを送ろうと言うんだから

一緒に墓参りへ行こう
別に論語に毒されたってわけじゃないけれど
御先祖様を大切にしてみようって思ったんだ
いつかの思い出で咲き乱れていたあのまぶしいお花畑は
きっと墓場の隣の空き地で
ぼくが恋をする相手はそこの住職さんかもしれない
あるいは住職さんがぼくを弄るのかもしれないし
そのどちらでもよいのだけれども
きっとおばあちゃんは泣くだろうし
おかあさんは絶望するに違いないんだ
でも、きみたちはしあわせだろう
ぼくが詩をやめたなら

夏場にもこもこのセーターをきて
それがいくら鮮やかな七色だって
きっと清少納言にすさまじきものだって一蹴されるに決まってるんだ
お前がいくらおしゃれだと思っていても
それは、バケツの中で泳いでいたあのおたまじゃくしくらいに
哀れなんだ
そう、近所の女の子が
無数のおたまじゃくしを取ってきて
バケツの中に放り込み
真夏のくそ暑い日に家の外に放置して
挙句の果てにボール遊びをしていたら
バケツをひっくり返した
すべてが干からびて
どうなったのかわからないけれども
ぼくの膝からは甘酸っぱい血が流れてた

どうして甘酸っぱいってわかるのか?
それはあの子が舐めて教えてくれたんだ
ぼくたちはいつも放課後にお互いの味を確かめ合った
すくなくとも、当時おもいつく身体のあらゆる味を確かめ合った
そうしてぼくたちはちゃんと味のある人間なんだね
そうだよ、味の無い人間なんて最悪なんだと
笑いながら話していたんだ

そうだ、大橋君の話をしよう
ぼくと大橋君はいつも返り道に神様ごっこをした
お互いにいろいろな神様を作りだし
戦い合うんだった
ぼくは君の作りだす独創的な神々に恋をした
そして嫉妬した
とにかく君を辱めてやりたいそう思っていたのかもしれないし
あるいはなんらかの恋愛感情だったのかもしれない
結局、ある日大橋君が立ちションをして
ぼくは夢の中で溺死してしまったのだった
神様はたすけてくれはしないし
ノアの方舟なんてそのときはしらなかったんだから

ああ、やになってしまうな
どうしてこうも書くことがないんだろうな
叫びたいこともないんだろうな
まともに生きさせてくれよ、なあ、きみたち
宇宙ってひろいんだろう?
って、よくわかってないくせに頷いてるのはよくないぞ

つれづれならぬままに、
ひぐらしPCに向かひてこころに移りゆくよしなしごとを、
そこはかとなく書きつくれば、
あやしうこそものぐるほしけれ。

闇夜に光る無気味な画面
健全なものが映し出され
それはあらゆるリアルを流し去る
夢ならば覚めないでほしい
けれども、
夢にも現にも君には逢えないし
ぼくのとある部分できみに触れたところで
なにも応えてはくれないんだもの

部屋の観葉植物が枯れている
右も左もわからなくなった
この狭く住み慣れた空間で
ぼくは迷子になってしまった
少なくとも傷口を舐め合うことはできなくなったし
裸体を傷つけることもできなくなった
干からびて死ぬこともないけれど、
あのときのような潤いもないだろう
そして絶望を重ねたくないから
あらゆるものを遮断したくなった
というふりをする
そうして期待通りの出会いをしていく
いつになったら最後のことばを吐けるのか
ぼくたちときみたちはおそらく幸せだ
だってこれがぼくの最後のことばだ

とりあえず、もう書くことはやめにしないか
そうしないか


どこにも行かないと答えた

  yuko

あなたの暗がりから流れ出した
川が
ひたひたと
部屋を出て広がっていく
酸素呼吸をつづける
さかなたちの鰓が
開いた
やわらかさを知らないままに

まなざしと真みずの
接合面
に、ふれて。
聞こえてくる芽吹きの音を
吸い上げるまるい
おなか
(こぼれる、
撫でていく手のひらの
数をわたしだけ覚えている

排水溝から溢れだした
ひかりを
瞼ごと捨ててしまって
ベランダでたばこをすう
たなびく粒子たちに
手首の青みをあげる
真夜中の台所
包丁の刃線に
感光するフィルム
露出度をあげた
のは、
(わたしではない、)
わたしで。
気がつけば
足の爪さえひとりで切れない

アイラインを細く引いて
まなざしから生まれてくる
はだは鱗に覆われていて
どこにも行かないと答えた
春を踏んで歩いていく
ここは一面みどりです
あなたの
水脈を吸って

文学極道

Copyright © BUNGAKU GOKUDOU. All rights reserved.