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2012年12月分

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* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


AMUSED TO DEATH。

  田中宏輔



●ゴホン●ゴホン●ある日●風景が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの風景も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにある風景まで●最初に咳をした風景に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ風景がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じ風景がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●風景の伝染病が広がって●とうとう●すべての風景が●たったひとつの風景になりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ風景じゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●吉田くんが咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの山本くんも●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにいた阿部くんまで●最初に咳をした吉田くんに似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●吉田くんが二人●三人●ゴホン●ゴホンとするたびに●吉田くんが四人●五人●ゴホン●ゴホン●六人●七人●と●吉田くんの伝染病が広がって●とうとう●すべての人が●たったひとりの吉田くんになりましたとさ●あれっ●おおぜいの同じ吉田くんじゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●納豆のパックが咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばのマーガリンも●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあった活性炭入り脱臭剤のキムコまで●最初に咳をした納豆のパックに似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●納豆のパックがふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●納豆のパックがよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●納豆のパックの伝染病が広がって●とうとう●すべての食べ物が●たったひとつの納豆のパックになりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ納豆のパックじゃないの●それにキムコは食べ物じゃないでしょ●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ぷくぷくちゃかぱ●ぷくちゃかぱ●ふくとくぷぷぷ●ふくぷぷぷ●ごごんがてるりん●てるてるりん●ごごんがてるりん●てるりんりん●てるてるりんたら●てるりんりん●ふにふにふがが●ふがふがが●ふにんがふがが●ふにふがが●んがんがんがが●んがんがが●ふにふにふにゃら●ふにふにゃら●ふにふにふにゃら●ふにふにゃら●ぷくぷくちゃかぱ●ぷくちゃかぱ●ぷくぷくちゃかぱ●ぷくちゃかぱ●ぷくちゃくぷぷぷ●ぷくぷぷぷ●ぷくちゃかぷぷぷ●ぷくぷぷぷ●ぷぷぷぷぷぷぷ●ぷぷ●ぷぷぷ●ぷぷぷぷぷぷぷ●ぷぷ●ぷぷぷ●ぷぷぷぷぷぷぷ●ぷぷ●ぷぷぷ●ぷぷ●ぷへっ●ぷへっ●ぷぷぷ●ぷへっ●ぺっ●ぺっ●ぺえええ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつの音が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの音も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあった音まで●最初に咳をした音に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ音がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じ音がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●ある音の伝染病が広がって●とうとう●すべての音が●たったひとつの音になりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ音じゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつの言葉が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの言葉も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあった言葉まで●最初に咳をした言葉に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ言葉がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じ言葉がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●ある言葉の伝染病が広がって●とうとう●すべての言葉が●たったひとつの言葉になりましたとさ●あれ●たくさんの同じ言葉じゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつの意味が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの意味も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあった意味まで●最初に咳をした意味に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ意味がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じ意味がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●ある意味の伝染病が広がって●とうとう●すべての意味が●たったひとつの意味になりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ意味じゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●実際には起こらなかった事が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そのそばのもしかしたら起こったかもしれない事も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●少し離れたところにあった本当に起こった事まで●最初に咳をした実際には起こらなかった事に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●実際には起こらなかった事がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●実際には起こらなかった事がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●実際には起こらなかった事の伝染病が広がって●とうとう●あらゆる事柄が●たったひとつの実際には起こらなかった事になりましたとさ●それって●どうやって見分けんのよ●つーか●一体全体●それって●どういうことよ●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつの*が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの@も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあった[まで●最初に咳をした*に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ*がふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じ*がよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●*の伝染病が広がって●とうとう●すべての記号・文字・数字・アルファベットなどが●たったひとつの*になりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ*じゃないの●それに●などって何よ●何か他にあるの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ぼくが咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばにいたぼくも●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにいたぼくまで●最初に咳をしたぼくに似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じぼくが二人●三人●ゴホン●ゴホンとするたびに●同じぼくが四人●五人●ゴホン●ゴホン●六人●七人●と●ぼくの伝染病が広がって●とうとう●すべてのぼくが●たったひとりのぼくになりましたとさ●あれっ●おおぜいの同じぼくじゃないの●それに●そもそもみんなぼくじゃない●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつの風景が咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばにいた人も●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたら●そのそばにいた人が●最初に咳をした風景に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●同じ風景がふたつできた●でもそのうち●もとは風景じゃなかった方の風景が●ゴホン●ゴホン●咳をすると●もとの人の姿に戻っちゃって●そしたら●もとは風景だった方の風景も●もとは風景じゃなかった方のもとは人だった方の人の姿に似てきて●ゴホン●ゴホンと咳をするたびに●もとは風景じゃなかった方のもとは人だった方の人の姿に似てきて●ゴホン●ゴホン●咳をするたびに●ふたつの風景は二人の人になったり●二人の人はふたつの風景になったりして●ゴホン●ゴホン●そのうち●咳をするたびに●風景が人になったり●人が風景になったりして●とうとう●どちらがどちらか●わからなくなりましたとさ●あれれー●あなたってば●ただ単に同じフレーズの繰り返しがしたかっただけじゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●うれしいが咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばの楽しいも●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●別のところにあった悲しいまで●最初に咳をしたうれしいに似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●うれしいがふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●うれしいがよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●うれしいの伝染病が広がって●とうとう●すべての気持ちが●たったひとつのうれしいになりましたとさ●あれっ●たくさんの同じうれしいじゃないの●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●ゴホン●ゴホン●ある日●ひとつが咳をひとつ●ふたつ●ゴホン●ゴホン●そしたら●そばのふたつも●ゴホン●ゴホン●咳をしだした●そしたらまた●そのそばにあったみっつまで●最初に咳をしたひとつに似てきて●ゴホン●ゴホン●咳がひどくなって●とうとう●そっくり●瓜二つになって●ひとつがふたつ●みっつ●ゴホン●ゴホンとするたびに●ひとつがよっつ●いつつ●ゴホン●ゴホン●むっつ●ななつ●と●ひとつの伝染病が広がって●とうとう●すべての「─つ」が●たったひとつのひとつになりましたとさ●あれっ●たくさんの同じ「ひとつ」じゃないの●それに「─つ」じゃないのもあるでしょ●細かいことは言わんでよろしい●プフッ●仕事帰りにミスド行って●ドーナッツ買って●はああ●くだらない●ドーナッツの輪っかと●ミスドのウェイトレスの顔を交換する●運んだトレイと●聞こえてくる50年代ポップスを交換する●はああ●くだらない●コーヒーは●なんだか薄いしぃ●そのコーヒーカップのシンボルマークと●パパの記憶を交換する●バレンチノ●なんで●はああ●くだらない●違うカフェに寄ろうかな●チチチチチチチ●なんだ●これミルフィー●ムフッ●フフ●ファレル●ねえ●ぼくのこと●愛してる●きょうは●もうほとんど寝てた●きれいになる病気がはやってた●ぼくは何年も前にかかって●ラジオで聞いて●知ってたけど●みんなは●あ●ただ●ぼくたちは●くすくす笑って●みんなは●あ●ただ●ぼくたちは●くすくす笑って●まだたすかる●まだたすかる●マダガスカル●かしら●日曜日にかけた電話が土曜日につながる●ボン・ボアージュ●ディア●きみの瞳が写した●ぼくの叫び声は●まだたすかる●まだたすかる●まだたすかる●タチケテー●イヤン●途中で切れちゃったわ●ファレル●ぼくたちの間では●どんなことでも●起こったわけじゃない●信じられないようなことしか起こらなかった●いまでは信じられないような●すてきなことしか●プフッ●モア・ザン・ディス●パパやママは●ばらばらになったり●またひとつになったりしながら●航海する●後悔する●公開する●こう解する●こう理解する●愛しているふりをすることは大切だ●とりわけ●まったく愛していないときには●おお●ジプシー●あらゆるものが愛だ●愛だ●間●思うに●きみは愛しているふりをしながらでしか●愛することができないのだね●おお●ジプシー●きみは●こう理解する●本当のことを言っているはずなのに●しゃべっているうちに●なんだか嘘をまじえてしゃべっているような気がするのだね●嘘を言っていると●ほんとうのことを言っているような気に●木に●きみになってしまうような気に●木に●きみに●なってしまうような●きみに●なるのだね●それはなぜだろう●交換する●転移させることに意味はない●交換する●転移させることに意味はない●交換する●転移ではない●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●ハインリヒの夢のなかに現われた青い花を置いてみる●プッ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●これまでぼくが書いてきたたくさんのぼくを置いてみる●プッ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●等比級数的に増加していくうんこを置いてみる●ブリブリ●ププッ●ププッ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●さっきテレビで見たベネチアの美しい街並みを置いてみる●フウム●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●人間を置いてみる●もちろん●あらゆるすべての人間を●プフッ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●時間を置いてみる●時間というものそのものを●ブッフッフ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●ひとつの波を置いてみる●これって●ちとリリカルでしょ●フニッ●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくはそこに●かつてぼくを傷つけたひとつの言葉を置いてみる●フフンッ●だー●道を歩いていて●通りの向こうからやってくる人を●女性だった●車道をはさんだ●向こう側の道に置いてみる●目のなかで●そうなってることをイメージする●うっすらだが●反対側の道から●その人がやってくるのが見える●しかし●こちら側の道でも●向こうの方から歩いてくるその人の姿が目に見える●そこで●今度は●その二人を交換する●二人の映像は●多少濃淡の違いがあったのだけれど●交換すると●その違いが少なくなった●そこでさらに●二人の姿を交換する●二人が近づいてくる●交換する●二人が近づいてくる●こちらの人をあちらに●あちらの人をこちらに●交換する●スピードをあげて●交換する●二人は●ぼくにどんどん近づいてくる●ぼくは二人にすれ違った●ぼくも二人いたのだ●ブフッ●二人は近づいてくる●どんどん●ぼくに近づいてくる●反対側の道にいる人をこちらに置いて●こちらの側にいる人を反対側に置こうとしたら●反対側にいて●ぼくがこちら側に置いた人の方が●消えてしまった●二人は近づいてくる●近づいてくる●どんどん近づいてくる●すると●ぼくの傍らを二人が通りすぎた●通り過ぎていった●ぼくとすれ違って●道はひとつじゃなかったけど●ぼくたちはすれ違ってしまった●反対側の道の向こうには●ぼくの後姿が見えた●振り返ると●その人は二人いて●前を見ると●反対側の道とこちら側の道の上に●ぼくから遠ざかるぼくの後姿があって●ぼくは●ぼくとすれ違う●たくさんの人たちのことを思った●時間が超スピードで過ぎていく箱がある●ぼくは●ぼくとすれ違う●たくさんのぼくのことを考えた●記憶が●蝶の翅のように●ひらいたり●とじたりする●そのスピードはゆっくり●蝶は●記憶を●ひらいたり●とじたり●違った●いや●違わない●わたしは●翅をひらいたり●とじたりして●記憶を呼び覚ます●アー・ユー・クレイジー・ナウ●ぼくは救急車になりたかった●あ●違う●救急隊員に●プフッ●あ●違わくない●うん●まっ●どっちでもいいや●プフッ●交換する●交歓する●交感する●こう感ずる●こう感ずる●パパがママを食卓で食べてる光景●ファレル●ぼくはきみを傷つけたりなんかしないよ●たとえきみが●ぼくに傷つけられたいと望んでも●ただひとつの言葉●たったひとつの単語が●長い文章に●複雑で遠大な意味を与える●海に落とされた一滴のぶどう酒と同じように●ってか●プフッ●パパとママの首を交換する●60歳になったら選べるの●そのまま人間の姿で●あと1年過ごすか●犬の姿となって3年生きるか●って●だとしたら●どうする●パパとママが戻ってきた●戻ってきたパパとママは●ぼくがミルクを入れておいたミルク皿に顔を突っ込むようにして●ミルクを飲んだ●ひとつのミルク皿にはいったミルクを●パパとママは同時に飲もうとして●頭と頭をゴッツンコ●わわんわんわん●わわんわん●だって●プフッ●朝霧をこぶしに集め●樹は●わたしの顔の上にしずくをもたらす●水滴は●わたしの顔面ではね●地面の上にこぼたれた●雨は●と●父は言った●地面に吸われ●地面はまた太陽に温められ●水蒸気を吐き出す●こころとは●地面のようなものであり●思いとは●雨のようなものだ●と●わたしが死んでも●その場所はあり●その場所に雨は降るのだ●と●フォロー・ミー●ファレル●水蒸気は塵や埃を核として凝集して水滴となる●水滴は水滴と合わさって●雨となる●思いもまた●なにかを核として●それは感覚器官がもたらすものであったり●無意識領域で息をひそめていたなにものかであったり●それらがはっきりとした形を取ったものであろう●そのはっきりとした形にさせるもの●その法則のようなものがロゴスであり●そして●そのはっきりとした形を取る前のものも●そのはっきりとした形を取ったものも●またロゴスに寄与するのだから●その区別が難しい●わたしが死んでも●その場所はあり●その場所に雨は降るのだ●と●パパ●絵になる病気がはやってた●最初はやせていくので喜んでいた人もいた●どんなポーズで絵になるか考えた人たちもいた●どんな格好で絵になるか気にしない人もいた●しかし●突然●絵になるので●どんなにポーズをとっても●その望んだポーズで絵になることは難しかった●あとから●他の人の絵に加わる人もいた●自分の親や子供の絵のそばで●恋人たちの絵のそばにいて●彼らの傍らでやせていく自分の姿を見ながら●自分の傍らで絵になった彼らの親や子供や恋人たちの絵を見つめながら●絵になっていく人もいたし●憎んでいる者のそばで●じっと絵になるのを待っている者もいた●ものすごい形相をして●しかし●あとから加わっても●もとの絵にしっくりくるものは少なかった●絵のタッチがどれも異なるものだから●あとから加わるのは●あまりおすすめじゃなかった●絵になる病気●これって●これまで画家たちが●多くの人間を絵のなかに閉じ込めてきた●絵の復讐かな●絵のなかの人物たちの生身の人間に対する復讐なのかしら●ぼくもとうとう絵になるらしかった●最初は●ぼくもおなかがへっこんでよろこんでたんだけど●ううううん●ファーザー●ぼくは●どんなポーズをとろう●とったらいい●ま●どんなポーズでもいいけどね●ああ●あとどれぐらいしたら●絵は●ぼくになるんだろう●てか●あっ●ファーザー●ぷくぷくちゃかぱ●てか●あっ●ファーザー●ぷくぷくちゃかぱ●てか●あっ●あっ●あっ●あっ●きたわ●きたわー●ひさしぶりに●きたわあ●頭にきたのよお●なんで●わたしが謝らなきゃなんないわけ●それに●なによ●あのやり方●直接言いなさい●直接●バカのくせに陰険なのよ●まあ●バカは陰険なものだけど●プフッ●そんなわけで●もう耐えられません●いつも被害を受けるのは●わたしの方ばかり●このまま●やってきたことに対して●たいした評価もあるわけではないのですが●これもオリンピック開催国の事情によると思います●テロの予告も日増しに●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●人工肛門・マダガスカルの夜は●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●人工肛門・マダガスカルの夜は●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●おとつい●おっと●つい●お●違う歯●あ●違うわ●ちょっと前ね●おとつい●って言葉が好きなの●ううううん●考えごとをしながら歩いてると●車に轢かれそうになって●この感じ●この感じ●この漢字●書けないわ●ひとりでは●にっこりしぼんで●しぼって●しおれて●しおって●でも●運転手がバカだから●ぼくを轢かないで●ワードでなかったら●こんな字●ぜったいに書かないわ●ブヒッ●この感じ●この感じ●この感じよおおおおおおおお●前を歩いてた男の子を●轢いちゃった●の●よおおおおおおおおおおおおお●この感じ●この感じ●この感じよおおおおおお●ぼくの目の外では●その子は●ヘンな音を立てて●道路に●べちゃ●ぼくの目のなかでは●その子は脚のない木の椅子のように立ちすくんで●ギコギコ音を立てて●バタン●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●人工肛門の夜・マダガスカルの夜は●木になって●気になって●木になって●しかたがなかった●人工肛門・マダガスカルの夜は●ピン札●言葉は●言葉の上に●言葉をつくり●言葉は●言葉の下に●言葉をつくる●ゆきちちゃん●ありがとう●いつまでも●ぼくといっしょにいてね●プッ●宇宙船片手に●ホームステイ●人工肛門・マダガスカルの夜は●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●精神とは●精神の働きを意味する●あるものに精神があるというのは●対象とするものがあって●それを知覚し●そこからなにものかを統合する作用が起こるということであって●そこからなにものかを統合する作用が起こらない場合●それには精神の働きがない●精神がない●と●言●わ●ざ●る●を●得●な●な●な●な●な●な●な●人工肛門・マダガスカルの夜は●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●ベイベエ●それより面白いのは●ぼくたちのなれそめ●ぼくと詩との●あー●あ●そう●陶酔間●間●缶●巻●観●冠●感●ね●陶酔感●イッパツで出ろっちゅうねん●あ●あの子は●どうしてるだろ●ヘンな音立てた●あの男の子●ベスト●ぼくがいままで見た子のなかで●いちばんかわいい後ろ姿してた●あの子●太い太ももが●細い太ももって書くとヘンね●書いてないけど●おっきなお尻と●グッド・ミュージックが流れてた●詩には音楽があって●あ●言葉には●音楽があって●でも●きっと詩の音の構造に対してきわめて敏感なぼくの耳は●意味の構造に対しても●きわめて敏感でね●意味の構造に対して敏感だと思ってる詩人のなかに●音の構造に対して敏感な者がどれぐらいの割合でいるのか●たぶん●ほとんどいない●情けないわ●情けないわ●ほとんどの詩人は贋者なのよ●本物は●ぼくぐらいって●そんなの●情けないわあ●ああ●なんで●なんで●なんで●いつも●苦情の多くが役所に寄せられて困っています●人工肛門・マダガスカルの夜は●ぼくのほほに●燃えるくちづけ●なぜ●産むものより●生まれるものの方が先に生まれてきたのか●ぼくのために●ただひとりきり●ぼくひとりきりのためだけに●ヘンな音立てた●あの子!


THE GATES OF DELIRIUM。──万の川より一つの川へ、一つの川より万の川へと

  田中宏輔



 いま、わたしは、西院というところに住んでいるのだが、昨年の三月までは、北山大橋のすぐそば、二十歩ほども歩けば賀茂川の河川敷に行けるところに三年間いた。その前の十五年間は、下鴨神社からバスで数分の距離のところで暮らし、さらにその前の六年間は、高野川の近くにアパートを借りて、学生時代を過ごしていた。それ以前は、東山の八坂神社のそばの祇園に家があって、そこで生まれ育ったのであるが、そこから京都随一の繁華街である四条河原町までは、歩いてもせいぜい十分かそこらしかかからなかった。子供のころから学生時代まで、河原町にはよく遊びに行ったが、その河原町と祇園を挟んで鴨川が流れている。京都の中心を流れているともいえるその鴨川を上流にさかのぼると、二つの支流に分かれる。賀茂川と高野川である。逆に見ると、賀茂川と高野川が合わさって、本流の鴨川になるのだが、白地図で見ると、その形はYの字そのものといった形をしており、まるでビニール人形の股間のように見える。ところが、色のついたカラーの地図で眺めると、二つの川の合わさるところ、その結ぼれには、糺(ただす)の森という、まるで女体の恥毛のようにこんもりと茂った森があり、この森の奥に下鴨神社があり、この森の入り口に河合神社がある。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止(とゞ)まる事なし。世の中にある人と住家(すみか)と、またかくの如し。」という、よく知られる言葉で序を告げる『方丈記』を記した鴨 長明は、この河合神社の神官の家の出である。二つの川が合わさるところにあるから河合神社というのかどうかは知らない。たぶんそうなのだろう。二つの川が合わさって一つの川になるという、このことは、わたしに、「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」という崇徳院の歌を思い出させるのだが、ただちにそれはまた、プラトンの『饗宴』にある、「かくて人間は、もとの姿を二つに断ち切られたので、みな自分の半身を求めて一体となった。」(鈴木照雄訳)という言葉を思い出させる。そういえば、イヴの肉は、アダムの肉から引き剥がされてできたものではなかったか。一つの身体が引き裂かれて、二つの身体になったのではなかったか。「裏切りに基づく生は生とはいえない。」(ノサック『ルキウス・エウリヌスの遺書』圓子修平訳)「確かかね?」(J・G・バラード『地球帰還の問題』永井 淳訳)「裏切りは人間の本性ではなかったかな?」(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・7、冬川 亘訳)「私たちの魂は裏切りによって生きている。」(リルケ『東洋風のきぬぎぬの歌』高安国世訳)「もし僕たちの行為が僕たちを裏切り、そしてぼくたちの考えも僕たちを裏切って本心を明らかにしないとすれば、いったい僕たちはどこにいるのか?」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)「ああ、私たちは何処に存在する?」(リルケ『オルフォィスに寄せるソネット』第二部・26、高安国世訳)「愛のことは/何もかも知っているのに、その愛を感じられなかった。」(オーデン『戦いのときに』VIII、中桐雅夫訳)「人間であることは、たいへんむずかしい」(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)。「人間であることはじつに困難だよ」(マルロー『希望』第二編・第一部・7、小松 清訳)。「それが人生なのよ」(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・16、大西 憲訳)。「不潔なのよ!」(ロバート・J・ソウヤー『ゴールデン・フリース』16、内田昌之訳)「で、彼を愛してた?」(ジョン・ヴァーリイ『ブルー・シャンペン』浅倉久志訳)「いうまでもないことだけれど、きれいだったよ、みんな。」(マーク・レイドロー『ガキはわかっちゃいない』小川 隆訳)「すべてをもと通りにしたいのかね?」(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』9、三田村 裕訳)「どうして二千年前にそうしなかった?」(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』2、宇佐川晶子訳)「結局のところ、われわれはみな死からよみがえった人間じゃないんですか?」(J・G・バラード『執着の浜辺』伊藤 哲訳)「そうだよ。」(ウィリアム・ホープ・ホジスン『闇の海の声』矢野浩三郎訳)「いやんなっちゃう!」(A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)「だれが彼を再生する?」(ジーン・ウルフ『警士の剣』20、岡部宏之訳)「わたしを選びたまえ。」(J・G・バラード『アトリエ五号、星地区』宇野利泰訳)「すごく大きいわね!」(ブライアン・W・オールディス『唾の樹』中村 融訳)「信じられない!」(クルストファー・プリースト『イグジステンズ』第1章、柳下毅一郎訳)「凄いわ」(サバト『英雄たちと墓』第I部・9、安藤哲行訳)。「おかしいわ。」(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』I・1、宇野利泰訳)「すると、くすくす笑って、おしまい。」(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』上・2、矢野 徹訳)「何のこっちゃ。」(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが内なる廃墟の断章』11、伊藤典夫訳)「どうしていつも笑ってばかりいるの?」(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)「いまのうちじゃ。」(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』10、石井桃子訳)「あんたは、ぼくの世界が好きかい?」(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・8、冬川 亘訳)「春はまたよみがえる!」(フィリップ・K・ディック『シビュラの目』浅倉久志訳)「そのながめは、その瞬間には現実であり、そのあとではたぶん想像されたものになるわけだけれど、光子のパターンとして視覚神経のマトリックスに表示され、ほぼデジタル化された神経電荷として脳にはいり、記憶、快感、その他の中枢に放電する。」(ヒルバート・スケンク『ハルマゲドンに薔薇を』第二部、浅倉久志訳)「一秒の百万分の一という時間も、観念連合繊維束と神経組織の協調には大事なのですわ。」(ハインリヒ・ハウザー『巨人頭脳』3、松谷健二訳)「ナポレオンの象徴は、ハチだった」(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)。「おまえの頭は、カエルでいっぱいなんだ。」(ブライアン・W・オールディス『地球の長い午後』第一部・10、伊藤典夫訳)「死んだひきがえるだ。」(ガッダ『アダルジーザ』アダルジーザ、千種 堅訳)「そうだ。そのことは蜂の巣によっても証明される」(稲垣足穂『水晶物語』9)。「気でもちがったのかい?」(アイザック・アシモフ『記憶の隙間』6、冬川 亘訳)「蜜蜂が勝手にあんなものを作るのである」(稲垣足穂『放熱器』)。「どうして頭がおかしくなったの?」(オースン・スコットカード『辺境の人々』西部、友枝康子訳)「それは主観的なことじゃ。」(アンソニー・バージェス『アバ、アバ』4、大社淑子訳)「もうぼくを愛していないのかい?」(E・M・フォースター『モーリス』第二部・25、片岡しのぶ訳)「どうして気がついたの?」(クライヴ・パーカー『魔物の棲む路』酒井昭伸訳)「いやあああ!」(リチャード・レイモン『森のレストラン』夏来健次訳)「ぼくを愛してると言ったじゃないか。」(ジョージ・R・R・マーティン『ファスト・フレンド』安田 均訳)「ぼくがどれだけきみを愛してるか知ってるだろう?」(ピーター・ストラウヴ『レダマの木』酒井昭伸訳)「だったらいったいなんだ?」(スティーヴン・キング『クージョ』永井 淳訳)「ただ一つ、びっくりした」(サバト『英雄たちと墓』第I部・3、安藤哲行訳)。「人生は驚きの連続だ。」(エマソン『円』酒本雅之訳)「驚きあってこその人生ではないか。」(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』上・第三部・32、酒井昭伸訳)「牛についてなにを知っている?」(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』8、川副智子訳)「牛だって?」(ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第七部・IV、友枝康子訳)「ママじゃなくて?」(オースン・スコットカード『辺境の人々』西部、友枝康子訳)「そうだ、牛じゃ」(サバト『英雄たちと墓』第I部・12、安藤哲行訳)。「その牛の話をしてよ」(ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第七部・IV、友枝康子訳)。「じゃあ、もう、さよならだな」(ウィリアム・S・バロウズ『爆発した切符』おまえたちのあるべき姿を示したぞ、飯田隆昭訳)。「わたしに生まれなさい。」(ロバート・シルヴァーバーグ『確率人間』13、田村源二訳)「もう一度生まれ変ってみなさい」(フエンテス『脱皮』内田吉彦訳)。「何度でも生まれ直すんだ。」(ロバート・シルヴァーバーグ『いまひとたびの生』1、佐藤高子訳)「そろそろ」(レイ・カミングス『時間を征服した男』6、斎藤伯好訳)、「イエズスを呼び出して見せようかね?」(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第四章、渡辺一夫訳)「再生にかかってよいかね?」(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが内なる廃墟の断章』9、伊藤典夫訳)「しっ」(メリッサ・スコット『天の十二分の五』6、梶元靖子訳)、「しいっ。」(ルーディ・ラッカー『ソフトウェア』20、黒丸 尚訳)「もうひとめぐりさせるだけの時間は、まだある」(J・G・バラード『22世紀のコロンブス』第二十六章、南山 宏訳)。「ああ」(スチュアート・カミンスキー『隠しておきたい』押田由起訳)、「どこまで話したっけ?」(アーシュラ・K・ル・グィン『シュレディンガーの猫』越智道雄訳)。そうだ。二つの川が合わさるって話だった。しかしまた、「一、それは二である」(メリッサ・スコット『天の十二分の五』6、梶元靖子訳)。合わさって一つとなった川は、また分かれて二つになることもあるだろう。この言葉は、先の長明の言葉とともに、エンペドクレスの「ここにわが語るは二重のこと──すなわち、あるときには多なるものから成長して/ただ一つのものとなり、あるときには逆に一つのものから多くのものへと分裂した。」(『自然について』十七、藤沢令夫訳)といった言葉や、ヘラクレイトスの「万物から一が出てくるし、一から万物も出てくる。」(『ヘラクレイトスの言葉』一〇、田中美知太郎訳)といった言葉を思い起こさせる。そういえば、一人だったアダムが、その身を引き裂かれ、アダムとイヴの二人となり、幾たびか、二つの身体が一つとなり、一つの身体が二つとなって、カインやアベルやその他多くの子どもたちになったのではなかったか。マタイによる福音書の第一章における冒頭のイエス・キリストの系譜も、流れる川の名前を書き留めたもののように思えてくる。また、ヘラクレイトスの言葉といえば、「同じ川に二度入ることはできない。……散らしたり、集めたりする。……出来上がり、またくずれ去る。加わり来たって、また離れる。」(『ヘラクレイトスの言葉』九一、田中美知太郎訳)といった有名な言葉も思い出されるが、以前、テレビで、富士山の雪解け水が支流のひとつに流れ込むのに数百年かかることがあるというのを見たのだが、さまざまな支流が結びついて本流をつくり出すのだから、川のなかでは、さまざまな時間が流れていることになる。何年も前に降った雪や、何ヶ月も前に降った雨が、同じ一つの川のなかに流れているのだ。「河は同じでも、その中に入って行く者には、あとからあとから違った水が流れてくる。」(ヘラクレイトス『ヘラクレイトスの言葉』一二、田中美知太郎訳)。何週間も前に死んだ牛や、何ヶ月も前に掘り出されて凍らされたジャガイモやニンジンたちも、一つのシチュー鍋のなかで、ぐつぐつと煮られる。人間の肉体や精神も同じだ。高校までに習い覚えた国語の知識と、他人の書いたものから適当に言葉を抜き出して引用するという、かっぱらいの技術で、わたしもまた、いま書いている、このような詩稿が書けるようになったのである。「人生とは年月から成り立っているのだろうか、分秒から成り立っているのだろうか」(リチャード・マシスン『人生モンタージュ』吉田誠一訳)。「果物の話はしたかしら?「(ルーシャス・シェパード『黒珊瑚』小川 隆訳)「ぼくが発見したことがなんだか知っているかい?」(トーマス・マン『ファウスト博士』七、関 泰祐・関 楠生訳)。川には、牛もまた流れるということ。大学院の二年生のときのことである。前日の激しい台風が嘘のように思われる、よく晴れた日の午後のことであった。賀茂川の下流に、膨れ上がった一頭の牛が流れていたのである。アドバルーンのように膨れ上がった牛の死骸が、ぷかぷかと浮かびながら、ゆっくりと川を下っていくのを、恋人といっしょに眺めていたことがあったのである。「牛を見に行こう」(レイ・ブラッドベリ『刺青の男』狐と森、小笠原豊樹訳)。そういえば、わたしがはじめて書いた詩のタイトルは、「高野川」だった。それはまた、一九八九年度発行の「ユリイカ」八月号の詩の投稿欄に掲載されたのだった。そのときの選者は吉増剛造さんで、わたしの初投稿の拙い詩を選んでいただいたのであった。「いい詩だよ、覚えてるかね?」(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・18・大西 憲訳)。インドでは、「詩人のつくった詩に対する最高の讃辞は、「なんとすばらしい詩であろう、まるで牛の鳴き声のようだ」という」(文藝春秋社『大世界史6』)。「きれいな花ね。」(ジョン・ウィンダム『野の花』大西 尹訳)「牛だ──」(フィリップ・K・ディック『いたずらの問題』23、大森 望訳)「花じゃないの?」(ブライアン・W・オールディス『唾の樹』中村 融訳)「花がなんだというのかね。」(ホラティウス『歌集』第三巻・八、鈴木一郎訳)「花が、何百もの小動物や小鳥を宿している」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』2、岡部宏之訳)。「凍らされて、それがこなごなに砕けちる感じ!」(グレッグ・イーガン『行動原理』山岸 真訳)「そうそれよ」(フィリスコ・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』17、藤井かよ訳)。「本当にいろんなことが起きるのね」(タビサ・キング『スモール・ワールド』1、みき 遙訳)。「頭の中で出来事を再構成しているのだ。」(マーガレット・アトウッド『侍女の物語』23、斎藤英治訳)「ぼくは違った光を見たいんだ」(エリザベス・A・リン『遙かなる光』1、野口幸夫訳)。「経験とは何か?」(バリントン・J・ベイリー『知識の蜜蜂』岡部宏之訳)「おまえの幸福はこの中にあるのだろうか」(リルケ『リース』I、高安国世訳)。「幸せだったのだろうか?」(サバト『英雄たちと墓』第I部・20、安藤哲行訳)「幸せな苦痛だった、いまでもそうだ」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第三幕・第四場、石川重俊訳)。「幸福でないものがあるだろうか?」(ブライアン・W・オールディス『暗い光年』1、中桐雅夫訳)「たぶん、私の幸せはそこにあった、しかし」(ネルヴァル『火の娘たち』シルヴィ・十四、入沢康夫訳)、「その忘れがたいすばらしい思い出によって、われわれはいつも被害を受けるのだ」(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』1、野谷文昭訳)。「過去は忘れなさい。忘れるために過去はあるのよ。」(デニス・ダンヴァーズ『エンド・オブ・デイズ』上・11、川副智子訳)「人は幸せなしでもやっていけるもの。」(ジュリエット・ドゥルエの書簡、ヴィクトル・ユゴー宛、一八三三年、松本百合子訳)「けれどその花は」(ギヨーム・アポリネールの書簡、ルー宛、平岡 敦訳)。「じつを言えば、たいていなにをやっていても楽しいのだ。」(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』13、安原和見訳)「その花は?」(J・T・バス『神鯨』10、日夏 響訳)「なんだかをかしい。」(川端康成『たんぽぽ』) 「上の人また叩いたわ」(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)。「きみにいたずらをした男かい?」(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』3、友枝康子訳)「幸福でさえあれば、ちっとも構わないじゃない?」(ジョン・ウィンダム『地衣騒動』1、峯岸 久訳) 「人間はまったくの孤独におかれると死ぬ。」(コードウェイナー・スミス『ナンシー』伊藤典夫訳)「ひとりにしておいて欲しい?」(ノサック『弟』4、中野孝次訳)「誰がかつて花の泣くのを見たことがあるでしょうか。」(ゲオルゲ『夏の勝利』あなたはわたしといっしょに、手塚富雄訳)「花?」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)「花をなぜ放っとかないんだ?」(ウィリアム・S・バロウズ『爆発した切符』おまえたちのあるべき姿を示したぞ、飯田隆昭訳)「時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』17、岡部宏之訳)「一秒は一秒であり一秒である。」(アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』一九〇五年四月二十八日、浅倉久志訳)「相変わらずぶんぶんうなっとるかね?」(ジョン・ウィンダム『宇宙からの来訪者』大西尹明訳)「ぶんぶんいう以外に罰当たりなことはしやしませんよ」(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』一冊目・六月二十一日、野口幸夫訳)。「ぼくは詩が書きたかった。」(ロジャー・ゼラズニイ『伝道の書に薔薇を』2、大谷圭二訳)「ぼくは詩人ではない。」(E・M・フォースター『モーリス』第四部・38、片岡しのぶ訳)「もう詩を書く人間はひとりもいない。」(J・G・バラード『スターズのスタジオ5号』浅倉久志訳)「花じゃないの?」(ブライアン・W・オールディス『唾の樹』中村 融訳)「だまっててよ、ママ。」(フリッツ・ライバー『冬の蠅』大谷圭二訳)「だれにでもできるってことじゃないんだから。」(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』1、石井桃子訳)「枝にかへらぬ花々よ。」(金子光晴『わが生に与ふ』二)「近くに行ったら、花が自(おのずか)ら、ものを言おう。」(泉 鏡花『若菜のうち』)「花も泣くのだ」(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』60、細美遙子訳)。「子どもたちは花を持ってきてくれるだろう。」(エマソン『霊の法則』酒本雅之訳)「牛など丸ごと呑みこんでしまう」(R・A・ラファティ『完全無欠な貴橄欖石』伊藤典夫訳)「百合の花だ。」(ネルヴァル『火の娘たち』アンジェリック・第十の手紙、入沢康夫訳)「ひとつの自然は別の自然になりえねばならぬ」(マルスラン・プレネ『(ひとつの自然は……)』渋沢孝輔訳)。「なにもかもがわたしに告げる」(ホルヘ・ギリェン『一足の靴の死』荒井正道訳)。「神がそこにいる。」(ベルナール・ウェルベル『蟻の時代』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)「と」(アルフレッド・ベスター『願い星、叶い星』中村 融訳)。「神だって?」(ロバート・シルヴァーバーグ『ガラスの塔』31、岡部宏之訳)「神を持ち出すなよ。話がこんぐらがってくる」(キース・ロバーツ『ボールダーのカナリア』中村 融訳)。「まるで金魚のようだ」(グレッグ・ベア『永劫』下・57、酒井昭伸訳)。「それ、どういう意味?」(J・G・バラード『逃がしどめ』永井 淳訳)「意味がなければいけないんですか?」(キャロル『鏡の国のアリス』6、高杉一郎訳)「馬鹿の非難も聞いてみると堂々たるものである。」(ブレイク『天国と地獄との結婚』地獄の格言、土居光知訳)「ぼくが裏切るだろうと期待してはいけない。」(コクトー『阿片』堀口大學訳)「精神はその範囲外にあるものは考えることができない。」(バルザック『セラフィタ』四、蛯原〓夫訳)「だが、考えることをやめてはいけない。」(ポール・アンダースン『脳波』3、林 克己訳)「だから、こんどはなにをする?」(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』8、石井桃子訳)「敵打(かたきうち)がしたいのでっしゅ。」(泉 鏡花『貝の穴に河童のいる事』)「してはいけない。」(ジュール・ヴェルヌ『カルパチアの城』5、安東次男訳)「だれもこのことは知っちゃおらんぞ。不意(ふい)うちじゃ。」(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』10、石井桃子訳)「夜は、もはやない。」(ヨハネの黙示録二二・五)「だれかが、ぬすんだんじゃよ。」(A・A・ミルン『クマのプーさん』4、石井桃子訳)。食器棚からコーヒーカップを二つ取り出して振り向くと、カシャ、カシャ、カシャ、連続写真、猿が猿の仔を岩に叩きつけている。頭のつぶれる音が、グシャ、グシャ、グシャ。両手に持ったコーヒーカップに目を落とすと、高速度連続写真、トランプ・カードで、指がポロポロと、ポロポロと落ちていく。まるで熱いアイロンの下の、ミミズと蝙蝠の幸福な出会いのように美しい。おまえたちは取税人である。東に税を払わぬ者がおれば、その者たちの親の首を刎ねよ! 西に税を払わぬ者がおれば、その者たちの子の首を刎ねよ! さらし首よ! 笑い者どもよ! 川はさまざまなものを引き裂き、相結ばせる。吉田くんの家では、ガッチャマンと家庭崩壊が結びつき、劇場映画館では、エイリアンとゾンビたちが手をつなぎ合ってスクリーンに見入っている。伊藤くんちの食卓では、ただパパとママの首が入れ換わっているだけだけど。笑。人間は、生きているうちに、天国にも地獄にも行くのだ。人生のことを知るためには、何度も何度も天国と地獄の間を往復しなければならないのだ。「私たちは離れ離れに投げ出され」(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)、「一つに集められ」(アウグスティヌス『告白』第十巻・第四十章・六五、山田 晶訳)、「離れ離れに投げ出され」(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)、「一つに集められ」(アウグスティヌス『告白』第十巻・第四十章・六五、山田 晶訳)、「離れ離れに投げ出され」(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)、「一つに集められ」(アウグスティヌス『告白』第十巻・第四十章・六五、山田 晶訳)、「瞬間は永遠に繰り返す。」(イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)「われわれは存在すると共に、また存在しないのである。」(ヘラクレイトス『ヘラクレイトスの言葉』四九、田中美知太郎訳)「わかるかしら?」(アーシュラ・K・ル・グィン『ショービーズ・ストーリイ』小尾芙佐訳)「ぷっ!」(ジャック・ヴァンス『竜を駆る種族』9、浅倉久志訳)「じゃないかと思ってたの。」(マイケル・コニイ『ハローサマー・グッドバイ』14、千葉 薫訳)「それより」(ヘミングウェイ『フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯』大久保康雄訳)、「コーヒーのお代りは?」(ロジャー・ゼズニイ『ドリームマスター』1、浅倉久志訳)「コーヒー?」(ロバート・B・パーカー『約束の地』12、菊池 光訳)。我もまた、ヘラクレイトスに倣いて歌う、万(よろず)の川より一つの川へ、一つの川より万(よろず)の川へと。行く川のほとりはミシシッピー。マーク・トウェインが息子の女装を解除する朝、バーガーショップの見習い店長がピピリンポロンとチャイムを押すと、テーブルの上ではウェイトレスが流れ、鉄板の上では手のひらが叫び、閉所恐怖症の客たちが、躍り上がってコップに落ちる。現実と現実が出合い、一つの非現実となる。虚無と虚無が出合い、一つの存在となる。では、小さな人よ、戦争と戦争が出合って、一つの平和となるのか? 擬態し、擬装する川たち。賀茂川はセーヌに擬態し、セリーヌは鷗外に擬装する。「蜂だ!」(アルフレッド・ベスター『昔を今になすよしもがな』中村 融訳)「もうきたかい?」(スタニスラフ・レム『泰平ヨンの航星日記』第十四回の旅、袋 一平訳)「蜂の巣のなかの完全共同作業。」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)「なぜ蜜蜂は、女王、雄、働き手と分かれていながら、なおかつひとつの大きな家族として生きているのだろう? なぜなら、かれらにとってはそれがうまくいくからだ。」(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』1、矢野 徹訳)。一寸法師は流れ、どんぶりは流れ、桃太郎は流れ、朔太郎は流れ、乙姫は流れ、おじいさんは流れ、おばあさんは流れ、風評は流れ、そうめんは流れ、立て看板は流れ、キャンパスは流れ、大学は流れ、ピンキーとキラーズは流れ、百万のさじは投げられ、太宰は流れ、死のフーガは流れ、ゲロチョンは流れ、ケロヨンは流れる。クック、クック、クッ。川のなかから、受話器を持つ手が現われた。「神聖な牛よ(こいつは、おどろいた)!」(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』下・25、矢野 徹訳)「うるわしい雌牛たちよ!」(イアン・ワトスン『知識のミルク』大森 望訳)「神さまは美しい物を、何てたくさんお造りになったのかしら」(プイグ『赤い唇』第二部・第十五回、野谷文昭訳)。「気にいったかい?」(R・M・ラミング『神聖』内田昌之訳)。川よ、瞬時に凍れ! 凍らば、直立せよ! ってか。むかし、3高と3Kって、同じことをさして言ってる言葉だと思ってた。3高ね、3高。「そうね、結婚するんだったら、ぜったい3高よね。高学歴・高収入・高身長の人よね。そのために、バッチシ整形もしたんだからさあ。」「あ〜ら、あたしの彼も3高よ! 高年齢・高血圧・高コレステロールなのよ。そのため、毎日、病院通いなのよ。」ふふん、な〜るほどね。はやく死んでくれってか。笑。産みなおしたろか、おまえらも。「愛の訪れは、こうまで長い年月を待たねばならぬものか。」(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』II・1、宇野利泰訳)「すべては失われたものの中にある。」(アンナ・カヴァン『失われたものの間で』千葉 薫訳)「すべてが記憶されていたのか?」(グレッグ・ベア『女王天使』下・第二部・54、酒井昭伸訳)「記憶はあらゆる場所にある。」(ウィリアム・ギブスン原案・テリー・ビッスン作『J・M』8、嶋田洋一訳)「時と場所も、失われたもののひとつだ。」(アンナ・カヴァン『失われたものの間で』千葉 薫訳)「思い出された事実には重要なことなど何もない、大切なのは思い出すという行為それ自体なのだ。」(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)。物質の構成。吉田くんは、山本くんと斉藤さんと水田くんからできている。あの人の鼻水。でも、森本くんと清水くんとの共有結合は、寺田さんと馬場くんとの共有結合よりエネルギーが大きい。あの人の鼻水。ページをめくると、血が出ませんか? 汗にまみれた脇の下では、蟻の塊がうごめいている。脇の下のそのやわらかい皮膚につぎつぎと咬みついていく。わたしを知らない鳥たちが川の水を曲げている。わたしのなかに曲がった水が満ちていく。「真実なんて、どこにあるんだろう?」と、ぼく。「きみが求めている真実がないってことかな?」と、シンちゃん。出かかった言葉が、ぼくを詰まらせた。ページをめくると、パチクリ、パチクリ、ウィンクされた。わたしは、わたしの手のひらの上で、一枚の木の葉が、葉軸を独楽の芯のようにしてクルクル回っているのを見つめている。そのうち、こころの目の見るものが変わる。一枚の木の葉の上で、わたしの手のひらが、クルクルと回っている。ページをめくると、パチクリ、パチクリ、ウィンクされた。風が埃を巻き上げながら、わたしの足元に吹き寄せる。埃は汗を吸って、わたしの腕や足にべったりとまとわりつく。手でぬぐうと、油じみた黒いしみとなる。まるで黒いインクをなでつけたみたいだ。言葉も埃のように、わたしに吹き寄せてくる。言葉は、わたしの自我を吸って、わたしの精神にぴったりと貼りつく。わたしはそれを指先でこねくり回す。油じみた黒いしみ。遠足の日に履いて行った、まっさらの白い運動靴が、わざと踏まれて汚された。いくら洗っても、汚れは落ちなかった。ページをめくると、パチクリ、パチクリ、ウィンクされた。川と川面に映った風景が入れ換わる。そういえば、アドルフ・ヒトラーも、わたしのように、夕闇に浮かび漂う蛍の尻の光に目をとめたことがなかったであろうか? 「まもなくイエスが現われる頃だ。」(ジョン・ヴァーリイ『へびつかい座ホットライン』16、浅倉久志訳)「これから何をするかは、わかっている。」(ウォルター・テヴィス『運がない』黒丸 尚訳)「なぶり殺して楽しむのだ。」(エルヴェ・ギベール『楽園』野崎 歓訳)「知ってるさ。いちどやったことは、またやれる」(ブライアン・W・オールディス『橋の上の男』井上一夫訳)。「だったら、ぐずぐずしてられない」(ジョン・クリストファー『トリポッド 2 脱出』9、中原尚哉訳)。「ついてこい!」(A&B・ストルガツキー『蟻塚の中のかぶと虫』七八年六月四日/地球外文化博物館。夜、深見 弾訳)「楽しもうぜ!」(ピエール・クリスタン『着飾った捕食家たち』そして円(まど)かなる一家団欒の夕餉(ゆうげ)に……、田村源二訳)。







追記

 昨年の四月のことだったでしょうか、四国のとあるところで和尚をしている一人の坊主と知り合いまして、しばらくの間、付き合っていたのですが、月に一、二度、京都に来なければならない用事があるとかで、わたしとはじめて会った日も、その用事を済ませた帰りだったそうです。日の暮れ時に、葵橋の袂にあります葵公園で出会いました。車で来ていた彼は、よくわたしをドライブに連れて行ってくれました。鴨川の源流の一つであります岩屋谷の志明院にも、昨年の五月にたずねたことがありました。五月といいますのに、雲ケ畑の山道には、溶け切らなかった雪が、あちらこちらに点在しておりました。高野川のほうではなく、賀茂川のほうを遡っていったのですね。車で行けるところまで行き、残りの道は歩いて登りました。ふだんあまり汗をかくことをしないわたしのほてった身体を、澄んだ冷たい空気がたちまちさましてくれました。石段を登って境内に入りますと、よりいっそう澄んだ空気が肺に満ちていくような気がいたしました。さらに登って、院のご不動さんが祀られてある洞窟にまいりますと、小さなフンが、あちらこちらに点在しておりました。たぬきとか、いたちとかいったもののフンだったのでしょうか? じっさい、たぬきのフンも、いたちのフンも見たことはないのですが……。あとで、鴨川の源流の一つであります、「飛龍の滝」と呼ばれる、細長い直方体の樋の先から滴り落ちる水を目にしたのですが、まるで山の神がする小便のような印象を受けました。


音の城

  sample

子どもは揺りかごのなか、ぐっすり。と水になる。
笹船のように耳だけをうかべて、聴いているのは、さざ波の音。
僕は、耳を手のひらで掬いあげ、扉を押し、ひらく。
足下には砂、埋もれた階段、月明かり、が部屋の隅々にまでながれ
子どもの背中で水浴びをはじめる、鳥。

上空、なにもいない。砂丘に囲まれた立方体。その動かない影。
砂に足をつけ、指が、沈んで、離すと爪先から肌色の砂がこぼれ落ちる。
砂丘へとあるく。掬いあげた子どもの耳には
極小の水たまりができていて、そこへ映るのは、見下ろす顔。ふたつの目。
砂が吹きつけて、閉じる左目。見下ろす月。

砂丘の斜面には様々な管楽器が、小さいものから徐々に大きいものへと
円を描くように並べられている。僕はその中心で立ちどまる。
あしあとをたどる、小さな、人影。揺りかごの中、水であった子ども。
何かをさがすような足どりで、こちらへと、あるいてくる。
まだ、眠たいのだろうか。目を擦りながら僕の手から耳を拾い上げる。
あたまをそっと傾けて、耳に、重ねる。

少し目が覚めたような表情で、そのまま片足を折り曲げ、四回、跳ねる。
いち、に、さん、し。耳から数滴、水が落ちる。
子どもがとてもおどろいた顔をしたので、空を見上げる。
飛び立つ群鳥のようだった。この砂丘をつくる、砂とおなじ数だけ
色と形が、楽器から、あふれはじめていた。


  zero



冷たい水のような闇をかき分けて
叫びだす一歩手前の植物たちを
いつまでも一歩手前でとどめるために
踏みしめて歩く
冷たい水のような闇の水圧は高く
わずかに届く水溜りの薄明かりさえも
何も映さないために表面を枯れさせる
この闇がすべてへとつながる結節点で
夢は氷のように凝集している



家の裏手の狭い道路を走っていると
太陽は右上に容赦なく照っていた
国道へ向かう果樹園の間の道でも
太陽は追いかけてきた
追いかける太陽をさらに追いかける者へと
花束の痕跡をくれてやり
二度と追いかけるなと自分の体で太陽を遮る
光の始原は隠れていろ
私は背中で逆に太陽を追い続ける



幾年の風雨が溶け込んだ民家の壁にも
人を手なずけてしまった自動車の窓にも
太陽は砂のように流れ落ちる
吊し上げられた太陽は
構成されることも処刑されることもなく
ただその夥しい光で無数の分子たちに呼びかけている
分子はさらに原子に呼びかけ
原子は太陽に呼びかけ
円環が円環のままに



シュレッダーにかけられた美しい哲学も
空港で踏みつけられた時計の神経も
郵便に紛れ込んだ一粒の生命体も
残らずお湯の湖に浸していく
足から尻、腹から肩へと
気圧と水圧の嶺の接する所へと
宴は際限なく皮膚に飲まれていき
夜は切れ切れに口から指し示され
ふと、誰かが沈黙するのが聞える



朝の闇が凍った意識のようだ
くしゃみをする
季節の変わり目の寒さに対応しきれずにだと
だが朝の物音が血液を模倣しているようだ
それに朝の家具ははっきりと目覚めすぎていて
朝の月は空から飛び出しそうだ
そんな朝にくしゃみをする
そんな朝をくしゃみする
私も凍るためには必要な手続き



冬は日記帳の中に書き込まれた一筋の金属
あなたの髪が放つ表情から消し去られた温度を厳しくゆるします
冬は改札口に突き刺さった一羽の小鳥
あなたの指先がこれから描こうとする愛に正しく謝ります
冬は未踏の森の奥に開かれた匂いたちの店
あなたの目が話している素朴な矛盾に小さく頷きます



まず幸福をゆるし
次は殺人をゆるした
そして笑顔をゆるし
さらには権力をゆるした
それはすべて、すべてを緩すため
幸福の発熱に理性を与えくつろがせ
殺人の甚大な余波に文脈を与えくつろがせ
笑顔の与えすぎな余剰を削ってくつろがせ
権力の硬直した監視から身を隠しくつろがせた



花が咲き乱れていた
僕の体の中に
僕は内側から花の美しさに冒されていった
例えば晴れた正午の切っ先に
花が蠢く、光をまき散らす
花はとても美しいので僕はとても苦しかった
やがて花は醜く枯れていき
僕はようやく花の苦しみから放たれる
そして花は実となり苦しみはもう殻の外に放たれない



僕は君と出会って世界が全てわかった気持ちになった
君は無限の海で移ろいゆき汲みつくせない存在だった
だがそれはつまりは「僕」の殻が「僕と君」の殻に変態しただけ
僕と君、二人の対のエゴイズム
僕はその先へ行くために君をまた一人の別の人間として
殻の外側に降り注ぐ雨として捉えなければ



太陽が俺をさえぎり続けた
光と形と熱すべてが俺をさえぎった
なぜおれは復讐してはならないのか
俺を陥れた人々社会
すべてに死を与えることは月も許さない
そこで俺は復讐を諦め太陽の内側に入った
太陽の使者として人々に光を与えた
そしてある時気づく
この権力こそが実は復讐だったのだと



僕は詩を読みます
まだ聴いたことのない音を聴き、まだ見たことのない光を見るために詩を読みます
時には波に乗るようにして、時には地面を掘るようにして詩を読みます
何物でもなく、何物でもあるような未明の形体と融合するために詩を読みます
ある時は机上である時は駅の喧騒の中で詩を読みます



雨滴がどこまでも落ちていき疲れ果てて地上へと身を横たえる
地上の水たまりに映った金木犀は憂鬱を酸素に光合成して曇った空へと進出する
病が椿の木の毛根をめぐり相手を死なすか自分が死ぬか禅問答を続けている
そして雨は霧のようにわずかな音を立てて大気を満腹にし
消化液として風景を溶かす



たった一つの沈殿した「さようなら」を
たくさんの華々しい「ありがとう」で包んで
そうして僕らはいつも無口な天秤のように
血の重さと肉の重さを釣り合わせている
喪失はいつも形のわからないもので
「ありがとう」でどう包んでよいのかわからなくて
本当は天秤も振り切れているのかもしれない



いつも細胞の中で飛び跳ねている歌たちが
遠くからかすかにほのかに聞こえてきた朝
僕は夏の体を食べつくして秋の体を着込む
夏と秋を決めるのは僕ではなく
例えば一匹の羽のちぎれた蛾である
死んでいく者たちが存在を遺していくということ
季節はいつもそのようにして今日も僕の歌を書き換える



言葉というものは積木細工です
単語が一つ一つの積み木で
名づけは僕らの知らないうちに傲慢に冷淡になされています
僕は積木の組み合わせに飽きて
自分で積み木を作ろうと
こんな夕方を「ひろり」と名付けてみました
ひろりは無垢で文脈や同意によって鍛えられてなくて
でも壊すには可愛すぎて



廃屋の屋根をひょいと跳び越えて
バイクの通り過ぎる慌ただしい音が
僕の鼓膜をひょいと跳び越してきた
それは音楽の一つの素子
みるみるうちに増殖し
僕の目の前に交響曲の幻想を描き去っていった
さらにひょいと来るのは永遠に続く虫の声
幾つもの音階に分かれて
協奏曲の綱を絞り出した



労働者よ、君の呼吸からは
いくつの宇宙の成り損ないが
筋肉と汗と書類の星座を作り損なったのだろう
労働者よ、君は疎外されていないしかといって自由でもない
労働することは人間を生み出すこと
身体を生み出すこと
精神を生み出すこと
それらは尊くも卑しくもなく
関係を捕食すること



氷の朝の背後に隠された宝石を
君のヴァイオリンと共に叩き壊せ
その背後では水鳥の内臓が人間の憂鬱を検査している
そんな昼間には大きくなり過ぎた銃口が
君を飲み込もうとするから
すべてを画像の中に宣伝し
労働が労働を無数に呼び込むときに
君は一人の商人であり銃と剣を売っている



物語と歴史のはざまにいくつもの声が重ねられた
歴史は時間と物質でできた朝陽の海だ
黒くて強くていつも広々と開拓している
物語は幻想と連続でできた山中の川だ
町と町、人と人との隙間をいつでも狙っている
美しい物語が醜い歴史と結婚するのは
醜い物語が美しい歴史と結婚するのと同じことだ



僕は詩を書きます
友人と語り合った帰りの車窓からいつまでも眺めていた夕陽を見た後に詩を書きます
他人から書けと言われてそれがいつの間にか血肉にまで滲み入ったとき詩を書きます
人を愛しているとき恥ずかしいから気持ちを分析分解して詩を書きます
挫折の度に苦しく激情に襲われ詩を書きます



この身の一大事とばかりの一行目
やはり書き始めるんじゃなかったと後悔する二行目
それでも連結と展開に才を見せびらかそうとする三行目
やっぱり「才走った私」なんてどこにもいなかったと失望する四行目
それでも無様な責任だけは感じて書き抜こうとする五行目
やっと終われると安堵する六行目



蝉がどんどん死んでいるな、何かの比喩のように



人が人を愛するように
僕は例えば一通の被害届を愛したのです
人が人へと恋文を送るように
僕は例えば官公庁へ履歴書を提出したのです
人が人を愛撫するように
僕は例えば法律相談所の机を撫でたのです
人が人を憎むように
僕は例えば整然とした都市計画を憎んだのです
人が人を愛するように…



現実から幻想へと逃れても
幻想まで悲惨であるとき
花々はとても冷酷で
鳥たちは知らない歌を歌っていた
憎しみや復讐が存在理由である、と
そんな悲しい言葉を所有することに慣れたとき
花々の美しさに対抗できるようになった
復讐の動機を遺失して初めて
人々が僕の中に根付き花を咲かせた



ここはどこでもない場所だから
方角もなければ外部もない
僕らは役目を終えて散った花びらのように自由さ
だから国家に歯向かう必要もなければ
国家に従属する必要もない
革命も運動もインテリ気取りも大統領になることも
すべて可能だけれど何の意味も持たない
とりあえず政治も文学も捨てよう



緑色のタヌキが人里を笑いながら通り過ぎて行った
それは救世主が救世主であることをやめた日だった
赤色のペンギンが足元の氷を割って聖句を囁いた
それは現代の十字軍が使命を忘れた日だった
紫色の少女が中心街で大きなラッパを吹いた
それは強い画家たちが一斉に絵筆が目障りに思えた日だった



生きるというただそれだけのことがとても悲しくて
涙が出るほど悲しくて
僕はつと立ち上がると外へと駆け出していったのです
外は小雨で地面は濡れ
僕は蓄えた悲しみを持て余したまま遠くの森を眺めていました
この風景を信じる
そしてこの悲しみを信じるということ
それでも救われない気がして



僕はこの霧の外側にいる
ストラヴィンスキーの覚醒に追いつくために
いくつの星座を解体せねばならないのか
僕はこの体の外側にいる
ストラヴィンスキーの発情を葬るために
いくつの晴れた空を割らねばならないのか
僕はこの詩の外側にいる
ストラヴィンスキーよ、僕に孤独を与えた張本人よ



I'm not a poet because I have ever written many poems.(私は詩人ではない、なぜならこれまでたくさんの詩を書いてきたからだ。)



夜があまりにも静かだったので
僕の脳髄もあまりにもとろけ落ちてしまいそうだったので
ドヴォルザークを聴きました
ドヴォルザークは僕の聴覚なんて局所に集中しているのではなく
宇宙の静寂を別の角度から切り取って来るような響きでした
こんなにも宇宙は何もないのに均衡や軋轢で満ちている



僕は僕たちではなく私たちになっていった
僕も私に姿を変えていった
僕たちが抱いていた自発的で尊い唯一のものを失って
私たちに組み込まれている受動的で機能的で普遍的なものを獲得した
僕の抱えていた孤独や愛もいつの間にかこぼれ落ちて
問いかけ続けていく自己や他者が私を次々と組成してく



僕たちは幾つもの季節を投げ打ってきた
意欲の深い季節や喪失に怯える季節、実り豊かな季節や交通の煩雑な季節
そこから返ってきたとりどりの物質たちに現在を捧げて
僕たちとは誰でありどんな表面であるのか
毛布にくるまれた音楽がいつも僕たちのような気がして
そして僕は僕たちでなくなった



船に乗りましょうとあなたは言った
それより今何時ですか?
私は昔からこういう性格なのですとあなたは言った
それよりここどこですか?
芍薬の花がとてもきれいですねとあなたは言った
それよりあなた誰ですか?
私の気持ちを分かって下さいとあなたは言った
それよりご飯はいつですか?



ドヴォルザークが血液と交差した日没前
僕はカーテンの隙間に意識の隙間を際限なく送り続けて
それが僅かな光となる度に失望しては体温を高め
音楽は名前を失くして純粋な「彼」に還る
僕は体の各部位の角度を少しずつ歪めていき
水位などという平準化に植物を生やし
再びドヴォルザークと呼ぶ



少年は、CDの最後の曲が鳴り止んだ後の時間が苦手だった
少年はいつもヘッドフォンで音楽を聴いていたが、最後の曲が終わってしばらくするとCDが停止する、そのときのズン、という音が苦手だった
曲が終わってもわずかなノイズは鳴り続けるが、CDの停止と共に真の静寂が来る、それが怖かった



動物が学問のように見えるなんて
僕は頭が狂ってしまったのかと思いましたが
部屋に戻って政治学の教科書を読み始めるとどうも鳥のように飛び立ちそうでしたし
慌てて行政学の教科書を開くと今にも吠え始めそうでした
そこで急に閃いたのです
学問も動物も詩の中では全く置き換え可能だということ



僕がいつもの散歩に出かけると
電線の上に鳥が停まっていました
ところがどうもその鳥は政治学のように見えるのです
鳥と学問の一体どこが似ているのかさっぱりわかりませんが
しばらく歩いていると犬の散歩をしている人が向かってきました
ところがどうもその犬は行政学のように見えるのです



満開の大きな桜の木の下で
試験が行われました
例えば僕が子猫を買ってもよいのかどうか
桜の花々は沢山光を振りまき
僕はそれをじっと見つめていました
試験は限りなく遂行され
その度に僕は合格したり不合格したりしました
桜の花は一つ一つが問いでした
僕のまなざしはそれぞれが答えでした



夢の中に置き忘れられた風景
その中で僕は置き忘れられました
その中では今も風が吹き木々が揺れ
人が悲しんでいるでしょう
どこにでもある宇宙の外れ
その崖の下へ僕は投身しました
崖はいくらでも増え続け
その度に僕は投身しなければならず
そして再び夢の中で僕は自分の死体を撫でています



僕は何でもかんでも都市に見えてしまうのです
田んぼに植えられた稲の苗
あれなんか都市のビル群みたいじゃないですか
水道完備の
山に登ると
鬱蒼と茂った林が都市みたいですね
鳥や虫が郵便の役割を果たし
僕の体も一つの都市です
こんなに精巧な都市はありません
会話は都市同士の話し合い



僕は果樹園から沢山の言葉をもぎ取ってきました
これらの言葉を選別して
梱包して
チラシなども一緒に入れて
宅配業者に送ってもらったのです
送り先はことごとく人の住んでない廃屋にしました
人がいなくても置いてくるように
そして言葉が廃屋の中で熟して腐敗していく
誰にも読まれずに、



僕の街には名前のない店があります
その店の売り物を眺めるのは楽しい
例えば僕がこれまでに忘却した大切な記憶が売られています
例えば僕の恋人への愛情が彫刻になって売られています
例えば僕の名前が名前の食物連鎖でどの位置にあるかの図が売られています
そして勿論僕の名前も売られています



今日、僕の人差し指が描いたひもを結ぶ円軌道は孤独でした
今日、僕の体をどこまでも包んでいた地球の大気は孤独でした
今日、僕の足跡はいくつもいくつも孤独のままでした
今日、あなたから届いた長い手紙は孤独でした
今日、あなたが僕に示したすべての好意は孤独でした



音楽も断ち
ネットも断ち
ひたすら大気を眺め
大気の中を歩いていく
この木も小屋も春の花々も鳥たちも
すべては大気の装飾物
ひたすら大気の動きと色と広がりに滲みこんでいく
私は装飾物になるには若干重すぎ硬すぎるので
深呼吸をし体の力を抜き
ほんの一瞬だけ装飾物として風景に溶け込む



振り返ってみると
僕の人生はきわめて行政的でした
出生届から始まり
幼稚園への入園申し込み
小学校中学校高校の入学・卒業の手続き
20歳で婚姻届
25歳で離婚届
そして来月には死亡届となるでしょう
どうせ癪だから
人生満喫してます届でも出してみましょうか
行政が喜びますから



僕は近くの山に登りながら
不意に気づいてしまいました
この木も草も土も全てが工場で生産された構造だということに
しかもその工場もまた一つの構造なのです
匂いも潤いもなく
ただ解釈を迫る構造に全てが還元されていき
そう言えば僕はその工場で構造のバイトをした事もあったよなあ、と


matria

  紅月

あやまちなどひとつもなく、
おそろしい精度で
どこまでも正しく列べられた
タイル、いちめんに咲く文脈と、
そこへかたくなに交わりつづける
いくつかの脊椎が灯火する街は、
放射のみどりにあおられながら、
より大きなまちのなかに遍在する、
正しく遍在する、


(母の骨格を、
(抱きかねる、語り手、
(を、抱きかねる、かたりて、


雲ひとつない快晴、
海底から見上げる水際を
鳥の影絵が旋回している、
風、波の幻視のさなかへ
祈るように目を閉じたまま、
次々に身を投げる
鳥ではないとりたちの列、(分岐図、


がらんどうの記号たちの
比喩、あるいは胎盤のなかで、
がらんどうのきごうたちが
豪雨しているのが、
わかる、明るい空へと
私は腕を伸ばす、
濡れた音が鳴る、途端に、
腕が縦に裂ける、
(噴き出す青い血液、)
凍えるような豪雨のなかで、
あたたかい、すなわち、
温度のない血は、
うそぶく祈りに触れ
しだいに日本語されていくから、
ちの飛沫もまた豪雨する、
おとが鳴る、私は裂けた腕を
伸ばす、(いらない、)
おとが鳴る、途端に、
うでがさらに細かく裂ける、
(信仰が流血するのを留めることができない、)
裂けたうでを持つわたしはもはや記号だった、
記号はきごうだった、(いらない、)
切り分けられていく
影絵には体温がない、
ただ凍えている、
凍えてすらいない、


(まどろみのなかで、)


乱立する白い建物のひとつに
母は眠っている、酩酊の、
母は抱かれている、
より大きなははの遺言に抱かれている、
陽がおちることのない窓辺の
ひどく鮮明な母の黎明のうえで
風にもてあそばれる薄いカーテンが
昏睡と覚醒の波を繰り返し描いている、
(わたしはそれを観ている、)
延々と、
他殺に晒される母の隣に、
遂げられない自殺が積もっていく、
水気を失って干からびた、
からからに乾いた記号たちが、
私が、わたしのうでが、
母の細い首を絞めている、
(わたしはそれを観ている、)
彼女の病理は、
より大きな病理に蝕まれつづける、


晴れわたる空、
音叉の産声、浸水、
声ではないこえ、が
仄暗い臓器に残響している、
塹壕している、
(の、)


誤った日本語をすり抜ける
誤った対話だけをここに留めて、


白いとり、 黒いとり、
(あらゆるとり、)
散乱する寓話たちの
産卵、に、灯が点って、
鬼火と呼ばれるようになったら
やがてそれらは数列するのですか、


散華の花弁の中心から溢れだす、
黒蝶の片翅はみな壊死しているから、
まばゆい快晴のしたには異形ばかり、
影絵、奇形の影絵は繁茂して
腕のないわたしはどこまでも正常だった、
(ゆるされるということ、
その斥力の彼岸へと伸ばした
わたしのうでは縦に裂ける、


割り算は数字が可哀想だから、
といって、ただ、
ただ掛けあわせていくわたしも、
割られる、割れる刹那の
便宜的な数字でしかない、(いらない、)
延々、わたしを
わたしで割りつづける母、母の
過失がこの身体をすり抜けて、
軽い金属の落ちる音が
何度も私の身体に触れた、
わたしのからだに触れた、
雲ひとつない快晴のしたで
タイルの秩序を繕う腕が
さまよって、
累加する
幾千もの無精卵から
孵るひなどりには嘴がない、
交わりもないまま、
奇形の影絵たちは
文脈の勾配に沿って
日本語の墓場へと巣立ち、
やがて、ここには
うつくしさへと復讐を
つづける卵の殻だけが留まる、
(それら破片を、
(繋ぎあわせ、
(元のかたちに
(戻そうとする私は、
(母と同じように、
(かげをかげの係数で割りつづける、


割りつづける、


(とりは鳥の訃報をたかく歌い、
音もなく歌われたうたが
ぱらぱらと結晶し、そそぐ、
豪雨、
の中心で、
あやまちは、
誤った形式を通過しながら、
影絵で遊ぶわたしの
青い血液を焚書していく、)


つぎはぎの神話は、
病室であわく灯りながら
しだいに暮れていく波紋の中心で
いつまでも小刻みに震えつづける母の
わずかな呼吸さえ止めてくれない、
言葉を失って久しい母の
よごれた利き腕が
さらさらと赤い砂になって
窓辺からの風にさらわれていく、
青い血液の枝が渦を巻く、
罪はゆるすことも、
ゆるされないこともなく、
ただ窓辺から空の水際へと
さかしまに投身自殺を繰り返す、
繰り返す影色のとりの、
はねが、さらさらと赤いすなに
なって、かげはかげを
映せないから、といって、
さかしまにとうしんじさつを
する、めいし(たち)が、
絶えるから、絶えてから、
それでも、変わりはない、
といって、ははの細い首に、
ゆびを絡める、はくちゅうに、
ははの、となりに、
今更、立ち尽くしている私の、
私の身体は赤い砂にかわる、
わたしのからだは赤いすなにかわる、
(凪いだはずのかぜにさらわれ、)
ははのはな、(留めて、)
ははのはね、(留めて、)
ははのはは、(留めて、)
物語性は、
血を吐いて横たわっている、
乱立する白い建物のひとつで、
(あちこちで、)
ひのてがあがる、
つめたく燃えるみなそこ、
うでを伸ばす、
おとが鳴る、(途端に、)


ただひとつの自殺は
既に遂げられていたのだと
気づく、陽が、
暮れることのない窓辺で、
私の、母に似た、
ははの、
瞳の、深淵の、
水のなかで泳ぐ
日本語たち、


黎明の背中が
裂けては産声が響き、
またひとつ、またひとつ、
手折っていく、水際から、
ぱらぱらと赤い砂がおちて、
しだいに、罅割れた
タイルの街に積もっていく、


(影絵はより大きな影絵の逆光へと呑まれ、
記号はより大きな記号の失語の前に無力だった、
だった、と、こうして、
語りはじめたきごうが、
ぱらぱらと空から降る、
降ってくる、豪雨する、
そのさなかで、夜を待つ、
待つ私の、青い血の飛沫、
ひらがなが洪水する、
洪水する、母が、
翳した、利き腕から、
ひらがなが洪水する、
わたしの、
背中から、ひらがなが、
洪水する、まるで、
とりのはねみたいに、
すみずみまでゆきとどいて、
母が、母する、母に、
かしずく、鳥の生身だけが、
赤い血を流している、
ちを、流す、という祝日に、
かしずく、わたしの生身が、
あたりには散乱している、
産卵している、)


昏睡と覚醒の波を描くようにして
凪いだ風にまどうカーテンの
はざまから片翅の黒蝶があらわれ、
ははのはなに留まる、
ははのはねに留まる、
吐血する、
ははの口からは、
青い液体が垂れている、
音もなく黒蝶はそれを吸う、
ははの、ははの、ははの、ははは、
街の正しさを水で充たしていくから、
乾いてしまったははの身体は、
水から逃れるようにして、
みずから空の深淵へと
さかさまに投身していく、
落ちていく、
(わたしはそれを観ている、)
よく晴れた日、(豪雨、)
水面にぷかぷかと浮きあがるははの、
とりの、平たいからだ、(影絵、)
それを底からわたしは見上げ、
また、しだいに浮かび上がっていくわたしの、
ははの、とりの、平たいからだを、
こどもたちが底から見上げている、
(それはわたし、)(あなた、)
(ひらがなが旋回している、)
(流転している、)
鳴りやまない雨音が、
ゆるやかに肥大して、
タイルを打つ、たびに、
あざやかな喧騒を取り戻していく
眩暈のさなか、
母が投げこまれた空、
異形を拒まなかった空の、
正しさ、は、乱れ、
しゅんかん、拡がる、
うつくしい、と、
形容できる、波紋、
音叉の、図形が、
拡がる、空の、枯れ枝を、
見上げ、
呆然と、
意味もなく、
その意図もなく、
鳴く、響く、
がらんどうの、
タイルのまちの、
元の高さに、
戻っていく、
正しさへと、
浮かびあがって、


 


88

  しんたに

放つと/手の中に
幸福で/朝は来ず
延長戦の 伸びた線上
いつかの指の先を

日が沈む、と 法則は変わって
アイスクリームの 賞味期限を
書き換える 日記と同じで
溶けてしまわないように
/カチカチで 刺さらなくて
/食べられないかもね

後ろで流れる銃弾の 音調や
歌声に 合わせて
出口の無い迷路の前方へ 
繰り返し/振り返らずに 

黄色い道を北から南へ
無いはずの その穴を
気付くと 立ち止まって
寓話は 一つの小さな波になり
安酒を飲んでみたり/戻してみたり
起床して/眠り

踵の高いヒール 玄関の段差に
叩き付ける/割れて
思い出したら 線は進み
ゆりかごと砂の城

作り替える 日記と同じで
捨ててしまわないように
手を開いて 捕まえる
/離れない


悲さんノ極み

  右肩

 僕 は起 ち 上がった
 濡れたコんク
 リートの壁が囲 む徹底的に 冬であるベッ  ドから
 立ち上が っ  たまま泣  いた
 そ  れ はぼ くガこれから ご
 わごワの 凍え  たズぼ ンをはき
 ほ か の多   くの人 人と と
 もに未 明の街ノ狭
 い 通  路を縫っ  て白い夢幻のガ すのたちこ
 めた駅へ行くから行く
 からだ
 着  け    ば巨 大な蒸 
 気機  関車
 に繋がる無蓋貨物車にほ かの 多 く
 の 人人人 とと  もに押し 込 ま 
 れそ  ノ  日  のそノ 時の
 すすけタ すけすけタ スケ ジゅール が 
 はじ ま
 る
 幸せトイフ  ×益 ×液 ○駅 へ
 向 かうもの うつ      向くも
 ノ
 ノ
 ハク ちょうのヨー に
 長 い首デ 

 冬の壁   冬ノ壁   冬の壁  

 デある水面へ 俯く者 の
 汚辱  を君
 知るヤきみ シルや
 ほ か の多   くの人 人と と
 もに ぼ く は
 無蓋貨物車 にノッ 
 て 清潔な
 コウ場 ヘイ く のだ
 (マルい タイ 陽!)
◇お喋りと茶目っ気と愚劣な唄と踊りと精液と排泄物をアウトプットしに行く搾り取られに行く凍えさせられ肉を固く締まらせられるために行く煽てられ罵られ箱に詰められ紐を掛けられるために行くメスとピンセットで三十センチ四方ぶん内腿の皮膚を剥がされるために行く乾いた口に乾いたパンをねじ込まれ口の粘膜をやたらと傷つけられるために行く◇
 空 に鉄輪が回る 雲の
 尻 尾 が巻き込まれ 雲の
 身 体 がヒき 攣れる
  僕ノ手ノ甲に
  有刺鉄条網ノ
  影が映り影に
  影ノ鳥が絡め
  とられている
 僕 ハコ れから
 コウフク と 歓
 楽 を 極メ に行か さ れる
 コウフク の方角 へ スパイク
 で尻をケリ飛  ば  さ  れ 
 ルノ
 ダダガ行かない こと は 許され
 ヌ
 と 自 分 でそう 
 キメて い   る
 アンド ロイド の 恋人と
 脳 の 金属 端子から直接響く音楽
 と (       )を 
 と (       )を 
 与えらレ
 メ に ミ エぬものすべてを
 さくしゅされ テ しまう
 そういうコー
 フク を僕
 は エランだ
 他の 人 は
 選んダ

 ドアを 開 ケ ると
 厚 厚 ク 薄 薄 イ 雲 雲
 ノ下ノ
 此処に
 通信塔が何本も立って視界を塞ぐ
 高周波の一部は可聴領域に漏出し
 耳鳴りのようなものがやまない。


ミカコ

  深街ゆか



あかちゃんの頃から体内に隠し持っていた梯子。眠りについたとき降りてゆく、ゆっくりと確実に足をずらす、地上はすぐそこで空は遠い。夜空に実る果実をもぎ取ることができなかったことは、昨年日記に書いておいたはず、残念だったと締めくくって。それにしても地上に広がる街はうかれてる、青白いガスを放つ電球の群れ、もみの木を担ぐ労働者、歩道を渡ればクリスマス。



くちびるの薄皮を剥いで水槽に浮かべたら、熱帯魚が吸い込んで吐き出して吸い込んであきらめて。かわいい世界。熱帯魚の尾ひれから放たれる微弱な電波が引き寄せるのは新しい一日。ちいさな世界。人を殺してほんの少し牢屋で暮らす人、それはあなたでそれはわたしだった。看守に与えられた果実を壁に向かって投げつけたら、こどものころから育んできた世界が破裂して。軽くなるからだ。やわらかなものを潰す感触になれてしまえば、何にでもなれるはずだった。



錆び付いた髪の毛を竹櫛でとかしたとき、ばらばらと地面に落ちる乾いた果肉を見てあなた泣いてしまった。かわいそうあなた弱虫ね。カワイソウアナタヨワムシネって目を閉じて十回つぶやいて、そのまま三回まわってオギャアってないて。目を開けたら駅のコインロッカーに捨てられたあかちゃんだった。ミカコという名前をプレゼントしてもらった十二月二十五日に拾われた女の子、小さな果実を握っていた。



夜空に実る無数の果実をもぎ取ることができた誰かが、アイスピックで穴をあけて空から街へ果汁を垂らした。街は甘いにおいを放ち蟻やねずみやゴキブリを歓迎するから、街で暮らす人達は風呂敷で宝石を包みそれを担いでよその街へ移住した。悪い夢でもみているようだと誰かはつぶやき、ミカコを背負った老婆はあてもなく南へ向かって歩き続けた。生まれて間もないミカコの臍の緒はまだ夜空と繋がっているから、老婆が一歩進むたびミカコはむずがって背を反らせる。



十七になったミカコの背は歪んでいた。歪んだ背骨を恋人に指でなぞってもらうと夜がきた。ミカコにはやわらかなものを握り潰す感触を楽しむだけの優しさがあったから何にでもなれる。猫にでも、亀にでも、サンタクロースにも 、歪んでいてもいいのなら


星が見えない

  hahen

 下方から朱色に照らされる雲。知らなかった。太陽は、地上から随分と近いところを通る。閉じられた視界に焼きつく暗緑の幻影を見失わないように、ひとびとは太陽と併せて暮らし、眠る前にその緑色の淡い残像をからだの深い処に沈着させる。掻き抱くみたいにして寝返りを打つ。そのとき星たちは一体どうしている? 嘘みたいに遠い真空で。暁光さえ無い。

 じっさいにぶつからない風
 別の世界から降り注ぐ嘘
 たぶん、って言う為の呼吸
 屋根から滑落する人の幻
 飛躍した人間は星と呼ばれ
 本当の星は動けないまま

 /昼間に星が見えない/夜から星が奪われる/
 誰も明るい正午に星明りを思い出そうとしないので、天体には嘘が満ちている。星々の方に嘘はない。星から吹く風、今日は何だか、ほんとうにやってきそうな。

 真昼の陽射しが差し込む部屋は冬でも暑い。小刻みに窓が震える。風が、今日は強いみたい。オレンジ色のセーターの袖を肘まで捲ったら、部屋の温度が一度上がる。外気の温度は一度下がる。ひび割れに忍び込むような鋭い風が頭上をひっきりなしに飛び交っている。多分。

 小春日和。雪の匂いは未だ訪れない。星ってやつは気難しいもんだから、太陽とは仲が良くないし雪とも折り合いがつかないのさ、/一拍の呼吸/たぶん。他の光が我慢できないんだろう。そんな風にして人々の目線を釣り上げてきたから。

 投身自殺と明け方の青み
 蜃気楼でないためのBフラット
 世界から一切の音が消え、
 この場所から一切の色彩を
 手放すための、呼吸を一つ
 でもきっと、そこまでしても
 何一つとして、望んだように
 消えることはなく

 /望んでも消えない/望まなくても消える/
 唯一の無限線分に根ざす星たちの実存と葛藤を誰も見ようとはしない。「いつか」ということばに嫌気が差して死んでいったひとがいるとしたら、そのひとは本当に星になったことだろう。前触れなく遭遇した小春日和にセーターの袖を捲るひとを見つけて、見続けて、自分の方は見つからない。いつだって、見つからない。

 自らが輝いていると知っている星なんてありはしない。ひとびとに輝きを指摘された星、瞬きと瞬きとの間に五回星の明滅を数えた後、そこから一つの星が流れた。たぶん、それは同じ星。瞬きの後の世界が全く別の知らない世界でないのなら。肺胞に取り込まれた吸気には、星から降りた風が30ml、百五十分の一の真空はとても冷たい。誰にも指さされることなく流れた星の。それはすべての解釈を拒絶する痕跡。

 星から降りる風
 それは見える?
 色は誰かが決めてくれる
 デブリに汚れていたって
 星の息吹、人工の気配、
 煌めくおほしさま、
 どうしてそんなに輝くの?
 ひとびとが存在するから

誰かの心臓が二十億の、役割を終えてしまったから、誕生日が命日に上書きされた祖父母は少なくないから、夜、眠り、そして目覚めるたびに、自意識の存続と、記憶された暮らしの形跡とから、世界の様態が途切れていないことを知り、あなたは安堵するから、脳で発生した腫瘍に眠らされている彼が、尋常じゃないほどの大きな鼾をかきながら、夢らしきものを見ているのかどうか、知る人はいないから、十年付き合ったあいつが、トラックに撥ね飛ばされる前、リペアから返って来たストラトで最後に、掻き鳴らしたのがBフラットだったから、マールボロの匂いと一杯のウォッカを、一晩の睡眠に代用する彼女が、何故、眠らないのか少しだけわかる気がしたから、可愛い顔の同僚のあの子が、オフィスビルの屋上で大して見えない、星を見上げていたから、そうだろ、だから星は光る、それを星は一体望んだだろうか?

太陽がわたしの右上を通る。本当に動いているのかわからない速度で。星は一つも見えない。とうとうセーターを脱ぎ捨てた小春日和。星は一つも見えない。ハレーションとしての活動。埃っぽい。舞い上がる煙草の灰と細かい羽毛。いつになっても。青く濃すぎる空に星は一つも見えない。星だって死ぬ。流れ星。翠色の尾を引いて星は流れる。それは一瞬でひとびとを焼却できるほどの超高熱で燃えている。なのに涼やかに。優しげな速度でついと滑落する幻。嘘から生まれた輝き。熱くて冷たい宝石みたいな星風。誰にも記憶されないまま。


ラベンダー色の少女

  深街ゆか

ラベンダー色の時代、わたしは一匹の子豚を抱きながら夜をまっていた。開け放った窓から見える白い月、これでは駄目、体内にはまだ朝の余白がつまっていて、胸はパックリと口を開けているからどこまでもイヤらしくて満たされないままだった。結局のところ、掴んだとしてもわざとらしく離すことに美しさをおぼえて、酔しれる、浴槽に浮かぶアヒルみたいに愛らしく救いようのない、こんな色の時代だから。くしゃみをしたら地球の裏側で外国人が三人死んだけど、何も無かったみたいにレースのカーテンは静かに風に揺れて、わたしの弟が生まれた。産毛を生やしたピンク色の弟は子豚という名前が与えられ、こんな時でもお母さんは、きょう地球の裏側で死んだ外国人たちを想いなさい毎日想いなさいとわたしを叱った。行為で示すことに抵抗を感じたお母さんの眼球は、ソーダ水に浮かぶ氷よりも透き通っていて素直で、なによりも自分を信じていた。そんな女に用は無い、わたしは、はだかの子豚を自分の部屋につれだし、こうして夜をまっている。ラベンダー色の夜はいつだって、穴ぼこだらけのペテン師だけど、酒臭い男と女の朗らかな笑い声は、鼻孔をやさしくくすぐるから、酒樽の中で互いを噛みあう人たちのことを許さずにはいられない。曖昧さが口の中で溶けたとき、わたしたちは母なる大地にキスをして、ひとつの時代がついた嘘さえも許してしまう。月明かりが窓から入り込んで、夜のはじまりを知らせた、何かを悟って顔をぐずぐずにして泣き出した子豚の湿った鼻に、頬をすりよせわたしは目を閉じた。じきにこの時代も終わるだろう、そしたらお母さんの行為への抵抗も薄れるかもしれない、わたしと子豚がいなくなっていることに気づいてくれるだろうか、警察はわたしたちの足跡を見つけることができるだろうか、新聞紙はわたしたちを徹底的に調理するだろう「新たな時代の幕開けとともに消えた少女と子豚、残る謎!!」だけど誰にもわたしたちを見つけることはできない、わたしは夜の穴ぼこで、ラベンダー色の時代が産み落とした子豚という名前の弟を、責任をもって丸飲みにしたら新しい時代に毒を盛る。覚悟して待ってろ。


石・草・虫など、その概念と考察

  山人

1.石
石には普通、感情はないと考える。しかしある。石はほぼ性別は♂である。しかし、生殖はしない。無機質なものには♂という性別があるものだ。石は考えることが好きである。ひたすら考える、それも延々と。むしろ考えると言うよりも瞑想である。ただ、瞑想はするが行動はしない。出来ないからである。しかし、母なる大地が活動を始めると、幾分ぼんやりと目を覚ますことがある。よって、感情はある。


2.草
草は、考えることすら出来ず、何かを感じるだけの皮膚を持つ。
おだやかな季節に虫をはべらせ、しなやかな体躯と、美しい花弁をもった横顔で風を感じ陽光を待ち望む。
 草はとにかく良く伸びる、そして自分がどれだけ伸びたのかは知らないようだ。


3.虫
喜びも悲しみも、その硬い羽根に埋め込んで、どんよりとした複眼で曇天の空を仰ぎ見る。微風に楚々と関節を動かせば、触角も俄かに揺れる。
人から嫌われ罵られても表情を変えることがない。害虫として生まれて害虫として叩かれ、殺されてもなお誠実な生き様がある。静かに殺されていくのだ。
秋、虫は少し触角を動かし、季節の変わり目を感じている。


4.鳥
自由な象徴として鳥は認められている。
人々が吐き出す、曇天の重いため息のかたまりを刻むようにトレースし、さえずりながら一掃する。鳥の羽毛の中に希望がある。強大な胸肉でその沈殿した重みを掴まえ、空へと立ち上がる。
鳥は知っていた、人々の希望は空にあるのだと。


5.蛇
神は究極の語彙を思い立った。その形に四肢はなく、念じたもののひとつの流れ、その思いの果てが一本の信念であり、蛇である。
人の肌のような角質はなく、ぬめりに覆われた、皮膚。突起物という突起物はすべて取り除かれ、一本の棒のみが存在する。
体全体が足であり手であり、すべてである。そして、体そのものが一本の生殖器であり、四肢そのものである。


6.ヒラメ
その昔、ヒラメはこのような形ではなかった。
 恋に破れたヒラメのかなしみが塩辛い海水となって、体を圧し、たいらになった。深海の砂粒に頬をこすり、見られたくないから、同じ方向に涙が流れていった。ため息があわぶくとなって海面にたどり着くとき、静かに砂になって獲物を狙うのだ。


7.土
語れば長くなる、そう言いたげに土は寝そべっている。
はるか昔、そもそも土などあろうはずもなく、世の中はすべて無で出来ていて、命の欠片さえもそこにはなかった。たまたま神がそこをとおり、いがらっぽいな、と痰を吐き、神の屁から弾き出された大腸菌が発芽して、命の根源が生まれ出た。
さて、無は、果てない年月を指折り数え、一匹のゾウリムシを生み出し、そこから性欲をひねり出し、多くの生き物を世に送り出した。カイワレのような貧弱な草が芽吹くと種は真似をして色んな草をつくった。
一枚の葉が地に落ち、奥万の菌が大口を開き、食われ、脱糞し、その蹂躙されつくした葉が再び目をあけると土になっていたのだった。



8.地蔵
かさかさと黄金色の枯葉が舞い、山道に差し掛かると石の地蔵がいる。傍らに虫を携え、坊主頭で秋の空気にさらされている。遠くの山々は夕焼けで赤く燃えている。地蔵は何も言わない。枯葉が一枚、通り過ぎただけの山道。
ピーヨウゥ、鳶は高く、空を蹂躙し、捌いた空間を秋に晒し砕けて沈む。モザイクな秋が地表にばら撒かれている。
そのとき地蔵は、「私は石である」、そう思っていた。


9.便所
その部屋で人は白い臀部を曝け出す。つまり、ここでは何かに襲われることがない環境でなければならない。
脱糞の最中、ナイフが胸に刺さる恐れがあるとすれば、そこは個室でなければならない。
その排泄物を受け止める容器がある。便器と呼ばれ、人はその容器の口めがけて脱糞するのである。
人が自分の底にたどり着く場所、それが便所だ。


10.壁
とかく人は壁をつくりたがる。むしろ壁があるからこそ、壁によってすべては支えられ、人が生きていると言ってもよい。
人類の誰一つ拝んだことがない宇宙の端にすら、壁があると言う。それは何もない壁なのかもしれないし、あるのかも解らないとも言われ、解らないことにすら壁の存在を主張する。皆が、壁を売り、壁を買い、壁を夢想する。
壁は人にとって大切であるが、見たままのところにしか壁はない。壁は取り払われるのを待っているだけなのに。


11.銃
命を奪おうとする器具があるとすればそれは銃だ。
生き物をこの世から葬り去る器具、死の温度は冷たいのか、死後は冷たいのか。その世界観をそのまま金属的に造形した、器具。
発砲の原理、それに沿い、銃器は爆発の力に拠る弾丸の発射、そして空気の摩擦を突破し目的物に着弾、生命を奪うべく破壊。命を維持するべく臓器の破砕、命を守るエネルギーを循環させる血液管の破砕、それらによる致命的な損壊。
血液臭はどこか金属臭と似ている。


12.ラーメン
人が何かを決めるとき、そして、何か変化を求めるとき、その臓腑を充足させる食べ物がラーメンである。
近代、中華そばと命名され、しなちくとかん水の芳香が界隈を漂い暖簾に染み付いている。笑顔のない、高圧的な店主の声は、互いのこれからの戦いの前の効果的な精神戦である。
 洋食がテーマパークなら、ラーメンは自分で作り上げるテーマパークである。スープの表面に適度が脂液が漂い、トッピングはその沼を彩る食欲の蓮である。
麺は小麦臭を残し、歯の圧力を俄かに跳ね返す弾力ではなく、ほどよく包み込む肉布団のような性格を保っている。
スープをすすり、麺を噛み締め、胃に落とし込んだとき、頭の切っ先に一つの光りのようなものが浮かび上がり、その瞬間、店主は教祖となり、あなたは信者となる。


13.手すり
彼らの一日は凡庸だ。たとえば都心の歩道橋の手すりはほとんど触られることがない。人々の関心は行き交う女や男であったり、耳に押し込まれた念仏と、スマホを操作しているフォームを装うことに終始している。
手すりは見られることもなく、錆び付き、強度が落ちるまで長い年月を持ち続けている。
彼らがあらゆる場所からすべて取り払われたとき、人は少し足を止め、それを画像に撮りこむだろう。そして、それを糾弾し、問題視し、訴えることだろう。


14.工場
その片隅に名もない薄い繊維のような体躯を持つ蜘蛛が生活している。工員たちの声と構内拡声器の音が氾濫し、その音から染み出した口臭のようなものを巣に詰め込み、時折工員たちを眺めに巣から出てくる。工員の吐息とその蜘蛛たちの徘徊する空間の暗さと寒さが工場である。


あとがき
物事に真実があるとすれば、それは自らの考えに他ならない。その人が思い込む事柄がその人にとっての真実であり、有益なのではないか。考えはひとしきりそこに停滞するが、いずれ変わり、飛翔してゆく。考えられない考え方も存在し、何も考えず前に進むことも多々あり、大切な何かを忘れてしまっている場合もあろう。
 現実は一つ、それが仮に致命的な物や事象であっても、何かを想像し思う心は多く存在する。


万年筆

  れたすたれす



去りしなに
さらりと落ちた
拾って胸ポケットの
万年筆の
指先を
汚れた矛先を
抜き取ると
鮮血した
ペンネを
先に着けると
舐めた
あなたの
字は
辛かった


ハタネズミと一時解雇

  中田満帆

    すべてはおもっつらだけ、外見以上の本質などない──(他意はない)


 夜のうちでもっとも
 好きなものだ
 だれもいなくなった中古車売り場
 車たちをみつめる
 首をたれた広告塔の燈り
 やつはいつまでうつむけたまんまなのか?

  *

 やがて犬たちが来た
 またしても朝というやつ
 手配師どもが笑い
 おれの外套のうちで鳥籠がゆれる
 立ってたらだれかが降ってきた
 これはまた
 ごくろうなこと

  *

 闇市で売られてた、
 ストリッパーたちのポラロイド写真
 踊りすぎてけつのたれてきた女たち
 それでもそれらがかの女らにとっての黄金時代
 喪われたものはなにもない
 けれど発見したもの
 だってなに
 もない

  *

 バスはやっては来ない
 夜の三時で
 その時間はたぶん運行されてない
 でもかれにはなぜだかわからないのだ
 それにあっこは停留所
 なんかじゃない
 どうしてこうなるのか?
 おそらくただ待ってるのがよくなかったのだ

  *

 立ちあがれない空腹で、
 おもいだすのは「空腹の技法」、そしてその著者
 ポール・オースター、
 でも読んじゃない
 立ちあがれないほどの空腹
 なのに勃ちあがってくる
 わが逸品
 種の保存なんざお呼び
 じゃない、なのになぜ?
 しかたない──五回目だ!

  *

 しらふのときだっていうのにおれ
 は李白のまねをやる
 みじかい詩篇
 不眠のうちによみがえってくる笑い
 不眠がばからしくなるくらいに愛おしい、
 ポルノ動画のお嬢さん
 かの女のなまえが知りたい
 かの女のことが知りたい
 下心?
 そんなものはない
 ただほんとうにやりたいだけだ
 それだけは純粋

 *

詩だって所詮嗜好品だ。
なくたって生きられる。
ただ失語症のような過古から遁れたかっただけだ。
いかしいまさら言葉をうまくあやつれるようになっても、
他人の、それも多くのまっとうで健全な男女とやらに辱められたことは、
なにひとつかわりはしない。
ここではないどこかなどない。
「われわれは、じぶんのつくりだした世界のなかでしか生きられない」という、
ルーマニアの狼狂による言辞はおれの頬を打ち、戒めてくれる。
まあ、それぞれがそれぞれのみてぐらをみつけて、
さてマスをかいて寝ようぜ、よお赤の他人どもよ!


追伸;(←ここでセミコロンを使うのはモチロン定時制卒の智慧遅れの分際できょーよー──なんて書くのかわかんあい──とやらがあるのを故事したいため岳で或)。

 きのう、近所のタワーレコーズにいったら「モンティパイソン」がばら売りされ、
 いっぽん千円だった。とりあえず「マネー・プログラム」の入ってるやつを買った。その夜笑いすぎて腹が痛かった。おすすめする。


【and she said.】

  にねこ

『穏やかな斜光の中で
左目が潰れてしまった、きみと
冷えていく景色が
すれ違っていくカレンダーの
色を、ひらり
一枚落とした。
そうして、彼女は言った。
風が邪魔した。』

僕が彼女に向けた最後の言葉はなんだっただろうか。彼女が僕にくれた最後の言葉はなんだったのだろうか。忘れてしまった、のか、それとも自分の心を守るためにそっと心が鍵をかけてしまったのか。空白の言葉の中に黒い蟻が点々と繋がっていくように、滲んだ手紙に隠されたような、そんな言葉を思い出そうか。そう。彼女と僕の、あの時の言葉。最後の言葉、を思い出すのに、一番始めのことを思い出すのはナンセンスなのかもしれない。だってそれから何年も彼女と一緒だったし、彼女の不在からもう何年も経っているのだからそんな事を探ったって。でも。順番は大切だ、どんなことでも。

『はじまりの歌が聞こえて来た
それは常にあなただった
忘れていた飛行機雲の
その先に
呼ぶ声が、歌だった
電話は3分で終わった
浮かび上がり縛られていく
幾多の彫刻たちの
その足の裏を覗くように
高層ビルの上から靴の先にこびりついた汚れへと
伝うように蜘蛛が
ゆっくりと下がっていく
もうどうでもいい、と
酒の中に沈む石の煌めきが
揺らした
琥珀色に灼けた
のどの奥から漏れ出してくる
堪えきれない言葉の中に
「涙」という一文字と
「あなた」という三文字を
僕は書かなかった
書かなかったんだ

『空に向かって喇叭を吹き鳴らした。透明の嬰児たちが浮かび上がり、風に震える。セロファンを目に貼り付けた光景の、その薄さに肌寒さを覚え。鍵括弧で括られた消えていくはずの子らが、流される。途端に声を失い。』

ベッドの上に針を落とした
回り出す残響が
ぷつぷつと
雨を降らしはじめ
断片がそぼって
凍りついた毛布を
とかしていく
残され
滴る事をやめた
血液が
黒く
黒く
染み付いたのだ
天井の蜘蛛の巣が
くるくると回る

『不在通知は
雨に掠れて届かない
知らぬ間に忍び寄っていた
灰色の震えを
左側の切断面に
ひくひくと呟いた
行方しれずの心臓の紐が垂れ下がり
緞帳を瞑らせ
骨なくして
指なくして
不便よりは
零れた赤が地面に絵を描く。』

なにが面白いのか
子供の頃はくるくる回って
目を回して
それこそぶっ倒れてしまうまで
回転を愛した
天井が回り
目を瞑れば
セカイが回った
なにも知らない
矮小な世界だったが
僕は
そのセカイを愛し
十年以上のちに
きみも
このセカイを愛したはずだった
囁かれた
天井と僕との間に
ひきずられていく
煮溶かした
呼吸の中に』

リンと電話がなる。というのはもちろん比喩表現で当時の着信音は「your song」でいまとは変わってしまってる。追憶。そうそう電話がなったのだった。声が聞こえる。始めての人の声、単純な用件を伝達するだけの電話はしかし夜通し続き、顔もしらない彼女に恋をした。なんの話をしたのだっけ?ピアノとエンデとアゴタ・クリストフの話。二つの嘘が始まった夜。

『信じられないといって
噛みちぎって行ってしまった。
だから僕の半身は
ここにはないのだ
僕の右手は
寂しい左側をなぞる
ごうごう風が行き過ぎる
耳鳴りの音も半分で
半分の呪いが
食べ残されたように
僕の体にわだかまる【and she said.】』

嘘つきな僕と正直未満の彼女が吐き出した嘘が日常を覆い隠すまでに時間はかからなかった。電話での顔のないやり取りは2ヶ月続き、初めて顔とそこに貼り付く表情を眺めた夜、二人は口づけすらせずに寄り添って寝た。それは果たして啓示だったのか。いやそんなはずはない。僕に神はいない。彼女に神がいなかったように。彼女はキリスト教が好きで、その偶像が好きで、フレスコ画が好きで、ロダンの地獄の門が好きだった。二人でよく西洋美術館に出かけては、何も言わずにロダンを見つめた。僕はそれを見つめている彼女の真剣な頬が好きだった。お互い宗教については曖昧で、なんだか、神様という言葉を玩具のように扱った。憧れ。かもしれない。ドゥオーモの鐘がなり、幸せな花嫁がライスシャワーを浴びる。きらびやかなステンドグラスと磔にされた男の姿。響くパイプオルガン。遊戯的で意味もわからずに。そうか。嘘ついたんだっけ。ピアノの話。共通のある好きな音楽のピアノで弾き語りができるよと部屋に誘った。わかりやすい嘘、僕の部屋のシンセサイザーは当時の「ラ」の音が出なかった。Aマイナーの曲なのに。笑ってしまう。もちろん弾き語られる事はなく、響いたのは彼女の方だった。

『「一人の男が死んだのさ」マザーグースの歌のように。「とってもだらしのない男」』

神の言葉を僕が感じられる訳がない、姦通し姦淫を好み、蛇の様に赤い舌で絡め取った粘膜は僕の悪徳だから。初めてお互い肌を触れ合わせてからは、とどまることを知らず、ただ求めあった。お風呂場でのセックスというのは不思議なもので、もしそこに水の精が存在しているのだとしたら、きっと笑って、ちゃぷちゃぷ笑って、そしたら思わず僕らも笑ってしまう。照れ臭くてなんだか幸せで。幸せというなんだかわからないものの形を模倣するように何度も何度も繰り返し抱き合った。

『湯気が隠す
湾曲した愛情と愛情を歌う欲情と浴場に眠った秘密の情景が
シャワーカーテンを濡らす
びしょびしょのまま
足跡をつけて追って来いと獲物が呼んでいるので
あとをつけた
息を殺さねばならない
一撃で仕留める約束だから』

一日の構成物質がふたりの分泌液にまみれていくように、カレンダーを塗りこんだ。僕の舌が辿らなかった場所はなく、地図に描かれていない空白の場所に慎重に道を引くように、僕はシーツに彼女を描いた。そのうちに彼女自身が僕の舌になりひらひらと赤く蠢き出す。僕は饒舌なのできっと彼女も姦しかったのだろう。僕がしゃべる度にシタになった彼女もひらひらとよく踊った。

『その天井の木目を何度数えただろう
終わるまでの時間に震えが走り
連結した時間の切り取られた風景
それはそこかしこに眠るベッドで
揺籃を揺らす手はもう失って
噛みすぎた薬指の赤が
押しつぶす他人の重力の回数に染まる。』

不思議な舞踏は熱帯魚を思わせる。様々に人工的交配を繰り返され、色とりどりに染められたベタが争う様に、絡みつきそうして鱗を剥ぎ傷つき、しかし美しく。しなやかに背を反らせて、彼女はうめき声をあげる。声。そうだ声だ。僕たちは時に耳になった、そばだてるように、すべての音を取りこぼさぬようにと、録音しいつでも再生できるように、澄ました。僕らには光学磁気のシステムはついていなかったから。粘膜の立てる音、セキやクシャミ、そんな他愛のない肉体の立てる音に共時性を見出し、渇いたように、貪欲に。波形が絡み合うように。疲れるとそのままで眠った。塗りこまれ、赤子のように濡れた肌のまま。

『白詰草を編んだ
つながっていく絡まりが
空を閉じ込めた
眼球に
転がる草原の草笛の音が
拡散し溶けて
広がったスカートが染まる
青は醜いと
王冠を放り投げ
王様は裸の罰を受けた』

いつも眉を顰めて眠った。夏には可愛らしい小鼻にプクリと汗を浮かべて。でも苦しそうだった。彼女の出自には実は映画の様な秘密が隠されていたのだけれども彼女はその事を知らない。僕もその事を知らない。知らない世界が多すぎてだからこそ二人の嘘がなり代わり視野をつぶし「u r all i see」まさにそうだった。お互いにとってお互いは常に他人で片割れで共犯者で、かといって当事者ではなかった。猫が好きだった。そうだ、野良猫に餌をやっていたっけ。小さなアパートで真っ白い猫。覚えたてのフランス語で名前をつけた。ネージェ。雪という意味らしい。後で分かった事だけれども、Neigeはネージュと発音するのが正しい。知った時、互いに顔を見合わせて大きな声で笑ったんだ。ネージェは、人懐こい猫で、窓を開けて名前を呼ぶとどこからともなく現れて、一声鳴いた。実家で猫を飼っていた彼女はことの他喜び、その顔を見るのが僕も好きだった。やがてネージェは黒い猫と結ばれて、沢山の仔をもうけた。名前を呼ぶと必ず一緒に仔猫を連れてきて、彼女に抱かれた。僕も抱いた。仔猫はふわふわした毛玉の様で、それが生きているものだとは俄かには信じられなかったけれど、確かにあたたかく、軽い命を燃やしていた。愛おしい生命の具象として猫がいて、なんだか誇らしかったのを覚えている。ネージェが急に訪れなくなった日、庭に彼が死んでいた。

『だから言った。私は言った。直立した朝に出棺した、夜夜の戯れを葬る。短すぎたネックレス、折れた爪。そしてペディキュア。猫も笑わない真空の月の光が、まだ照らしている合間に。出ていけと、不実な果実の搾りかすに。発酵して湯気を立てる前に。』

酔い潰れるまで、酒を煽る夜があった。自らの腐臭を焼く為に酒を飲む。ままならぬ世界にべったり甘えたまま、からんと音を立てて飲み込んだ。そんな僕に辟易したのか、それが、最後だったのか、否。彼女と僕は、その場所に「同時に存在していなかった」。けして明かす事なく、部屋の片隅で静かに腐っていく僕の触角は(ほのめかす事すらしない)恥、だ。気づいていなかったのはもしかすると僕だけだったのかもしれないけれど。酒。彼女はあまり飲めなかったけれど、僕との時間を愛した。色々なバーを渉猟しいろいろな物語を紐解いた。妖精の話やダ・ヴィンチの話、転がったおにぎりの実在論的解釈。くすくすと微笑みを分け合いながら。酒を飲んでほんのりと染まる背中に残酷に刻んでいく言葉と体温をきっと嫌いになれるわけがなくて、だから傲慢だ。支配されていたのはきっと包まれていた僕なんだ。

ああ。喉が渇く。

『穏やかな朝から出発した
穏やかな一日
が連なる
いつ覆るかわからぬ不安

気付かぬふりをして
穏やかに
穏やかに
水を飲んだ
水道のからん
ひねる
冷たい
そういう日

私の中の水がへり
少しずつこぼれ
私は自分の体液で溺れているのだと
思う
海はきっと私の
中にあるのに
切り離された小さな雫のうちに
溺れる
それは』

嘘つき。それは知っていた。いつしか二人の間で交わされていた約束。嘘をつき続ける事。その一つの嘘は僕にもわからない。本当を求めて、失われた半身に出逢えた喜びを悦びにすり替えていた二人は、嘘に酩酊していくのだ。ふらつく足で塀の上を歩く様に。

『手を離すと落ちるよ。それはよくわかる真理で。その痺れが、僕らを繋ぎとめる。いずれにしても、溶けていく消えていく、だから。骨だけはしっかり残そうと、ふたり。情景がぼやけていく中で、底のない川に金属製のオールを突き立てるように、笑った。』

騒々しい一夜。ベネチアングラスが割れた夜。彼女がお土産に買ってきてくれた、揃いのグラス。透明な赤がとても綺麗で、大のお気に入りになった。ワインを注ごうよ。飲めないくせに、バローロなんて買ってきて、赤が赤に沈んで行く様に瞳を輝かせた。生きているみたいだね。そうかな。僕は彼女の胸に耳をつける。静かの中でとても柔らかいノイズが蠢いていた。ベネチアングラスは透明度が命なんだよ。光に透かしてみて、黒く澱んだ部分がなかったら、一級品なんだ。野暮ったい蛍光灯を消して、蝋燭に火をつけた。わだかまる、黒い影が、無数にテーブルを彩り、後ろ暗い愛を囁いている。僕は微笑む。そうして彼女の耳を齧る。
「嘘つき」
明かされてはいけない本当の嘘が、物語の帳を破って。その数ヶ月後、ベネチアングラスは故郷に帰るように窓から飛び出した。破片がまるで血の様だった。

『割れてしまった
ベネチアングラスの縁が
足を裂く
傷口は深くない

天使の欠けた足裏の
ミケランジェロの思い出と
ダビデ像を、旅出像と
勝手に思い込んでいた君は
ゴリアテの片思いも知らずに
えへへと笑い
ワインにその顔を
浮かばせる
共振する相手を
失った、赤の右側が
ゆっくりと冷えて
伝わるのが
血液なのだとしたら
やはり君は
えへへと笑い
そうして、言うのだろう
何度も聞いた言い訳を
何度も塞いだその唇で』

同じようにゆがんでいたから、同じように求めあったのかもしれない。そのあわいには真空に潜むエーテルの神秘が残り、その不条理がさらに二人をゆがめていった。

『沈黙が木の葉を揺らし、冬が手紙を落とした』

抱きしめた時の体温が冷えていく。何時キスをしたのか分からない、少し薄目の形のいい唇が、ゆがむ時がやがて訪れるなんて。皮肉なものだね。

『咥えたまま、しゃべることもできずに、頷いた、それは肯定なのか否定なのか、自分でもわからずに、ただこの時間に溺れていたかったその契約を、レースに署名した。引き千切られる、その前に。』

ああ、こんな話面白くない。最後の言葉、最後の言葉なんだ、思い出せない。どうして思い出そうとしたのかさえ思い出せない。最後の言葉。あなたがいなくなった日。月並みだけれども、世界が反転した。すべてが敵にまわってしまって、僕の歯車は欠けているのに、太陽は上り月は上り朝は騒々しく網膜を焼いた。生きている、その事をいっそないものにしようかなんて、笑っちゃうね。でも、現実として水すら飲み込めない凍りついた時間が足元に転がって僕を苛んだ。だから?

『だからいった。わたしは言ったんだ。
胸を叩いて、嗚咽した。彼女が残したのは、なにも入っていないマグカップとティースプーン。
それから彼女は沈黙した。沈黙した。沈黙した、だけだった』

そして。
耳は瞑れない。
ゴッホはカミソリで切り落としたよ。
丁寧に封筒の中にいれて、
レイチェルの元に自分で届けたそうだよ。
さあ。
僕は。


水槽の中の脳/の背後に蛸が。

  NORANEKO

 目を覚ましたい。目を冷ましたい。沸騰する夢と現の、上が下にって主に下だなこりゃ。やかましい。
 水槽のなかの脳味噌にはどっちも夢夢、うつつは水面を揺らす波と、現象としての電気信号の火花と、灰色の皺の暗闇から沸き立つ気泡ばかりよ。
 だが、朔太郎先生。水槽のなかの蛸ってんなら話はひっくりかえるね。現実現実。アハ、アハ。
 /などと、自室で胡座をかく私はSAMSUNG社製のスマートフォンの、静かに帯電する水晶質のタッチパネルを右手親指の右わき腹で叩いて書いている。時刻はすでに、正午に近い。幸いにも、学校は夜間部であるから慌てなくてよいものの、既に社会に出ている友人らのことを考えると、窓越しの空みたいに鬱屈と曇る心地がする。
「鬱屈と曇る心地がする。」……何が。私の心が。して、私の心とは何で、何処にあるのか。
二つの目は床に敷き詰まる教科書、学術書、プリント類に詩集の混沌と混ざり合う無精の絨毯のうえを錯綜する。そして見つける。ちくま学芸文庫から刊行されている、渡邊二郎の「現代人のための哲学」を。
本書第5章「脳と心」によれば、哲学者・ベルクソンはこのように語ったという。

『心と脳が絶対に等価であるとか、絶対に同一であるとかは、決して言えず、そうした主張は、証明されざるひとつの独断的主張にすぎない』(渡邊二郎『現代人のための哲学』第113項6〜7行より引用)

『というのは、たとえ脳について、いかなる科学的知見を述べるにしても、それは、私たちがこの世界全体についてもっている思考内容の一部にすぎないのに、その脳にすべてが還元されると説くのは、脳という小さな部分に世界全体を還元し、こうして「部分が全体に等しい」という「自己矛盾」を主張するのと同じだからである。』(同書第113項8〜12行より引用)

『脳と心の関係は、ちょうど、釘と、それに掛けられた衣服との関係に等しい。針が抜ければ、衣服も落ち、釘が動けば、衣服も揺れ、釘が尖れば、衣服にも穴が開く。けれども、釘の細部のひとつひとつが、衣服の細部のひとつひとつであるわけではない。』(同書第114項16行〜第115項1行より引用)

 なるほど、と思いもするし、もやっと感じもする。ただ、心を脳に還元しなくてもいいのか、というところに不思議な安堵を覚えるのは何故なのだろう。
 脳といえば、哲学の世界には、「水槽の脳」と呼ばれる思考実験があることは、よく知られている。

『水槽の脳(すいそうののう、Brain in a vat、略:BIV)とは、あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ているバーチャルリアリティなのではないか、という仮説。哲学の世界で多用される懐疑主義的な思考実験で、1982年哲学者ヒラリー・バトナムによって定式化された。』(Wikipedia「水槽の脳」より引用)

 ここまで書いて、ふと、脳裡に映像する光景。水槽の中を漂う脳の背後に、ぼんやりと浮かぶ蛸の幽霊。萩原朔太郎が書いた、自らの身体を食い、幽霊となってなお生き続ける「水槽の中の蛸」が、影を落とすことも、気泡を纏うこともなく、その透き通る八本足を艶めかしくも綾と繰り、脳に吸盤を吸い付かせては、電気信号を点らせるのだ。
 八畳の四角い部屋で胡座を書く、私の耳の奥に、見えざる蛸の哄笑が響かない。だってここは/現実現実。アハ、アハ。


愛と汚辱と死と詩

  右肩

 俺がこの
 雷鳴轟く国に後ろ暗く帰趨し
 呑み込み難い大目玉を呑み
 破廉恥な音声の円錐形が
 そのとき、あのときのように
 喉に着火し
 糸杉の林よ
 太腿よ
 股間にきらめく悪意の陽射しよ
 お前の記憶のあれに
 黄ばんだ犬歯の鍵盤が
 音階を羅列して揃い
 苦いシンフォニーを噛み千切れば
 頭蓋内部に隆起する漆黒の山脈
 その穢れた稜線を
 火が走り炎の曼珠沙華が奔り
 焼ける天界の大魚、人の
 指
 肉や髪を焼く臭いを纏うお前の指で
 俺は激しく射精し
 一隅も残さず赤光する冥界
 言葉が無闇に鳴り響けば
 切られたあれらの首が
 泥塗れの前頭野に密集するのだ
 これこそ
 胎内の結石に封印される言霊の王国の実体に
 ホカナラナイ


  二度と歩けない足もとに
  微細な死の点が次々に打たれ
  ぽろぽろと
  ばらばらと
  盆地の街が
  やがて時雨れる

  (時雨るるや 地にこまごまと雨の染み)

  夢より軽い雨が
  京都を通り過ぎる
  右手中指の
  爪もまた
  割れている
 
  愛は人のカタチに集積する時間の
  薄暗い破片である
  という着想を得た


風の谷カンツリークラブ

  大ちゃん

風の谷カンツリークラブ、OUTコース最終9番、谷越えのロング、500ヤードパー5。吹き止まぬフォローの強風がプレイヤーにビッグドライブを約束する、ゴルフ場きっての名物ホールだった。

ライバルとの熾烈な受注合戦を展開するわが社は、不屈の営業努力の結果、遂に最終ユーザーとの接待ゴルフを実現させるに至っていた。未だ先行き不透明なこの戦いの中、敵方に大きく水を開けるスーパーチャンスが到来していた。

今回の取引は、当社の一年間の売上を一気に達成してしまうビッグプロジェクトであり、全社一丸となって結果を出さなければならない最優先事項であった。

取締役会の総意としてホスト役には営業部の接待スペシャリスト、そのふくよかな体と温厚な性格からついた愛称「仏」の部長が指名された。そして喜ぶべき事に、部長のたっての希望で、なんとこの僕がアシスタントに推挙されていたのだった。

「慌てん坊将軍」などとOLどもに、うっすら馬鹿にされていたこの僕も、今回の大抜擢で他の若手社員を出し抜き、確実に出世のラインに乗った感触があった。ただ、そんなにゴルフも上手くない僕が何故に?きっと普段からのえげつないヨイショが部長に認められていたのだろう。

なかなかエントリーのできない名門コースでのプレイに、相手先の社長と専務はすこぶる上機嫌だった。更に加えて部長の接待も、痒い所に手が届きまくる感じで、いつにも増して冴え渡っていた。一方、僕はと言えば、ここ最終ホールまではなんとか、無難にヨイショをこなしていたのだが・・・今にして思うと、少し油断があったのかもしれない。


急遽ゴルフ場に予約を捻じ込んでもらった歪が、最終ホールにやって来ていた。コースが混んで後続が追いついてきたのだ。うしろのパーティーは、見るからに柄の悪そうな連中だった。その上、メートルもあがっていて、プチ酩酊状態でもあった。

「早よ打てや!遅かったら牛でもするで?」

奴らは、何やかやと僕達をはやし立ててきた。そもそも前の組が詰まっているのに、早くしろなどと物理的に無理なのだ。それどころか、見下げ果てたことに、年配のキャディーさんの制服を指で突付いて、

「キャディーちゃんのピーナッツ、ちゅんちゅん。」

などと乳首の当てっこをする者さえいた。

一番偉そうなジジイなどは、そこら辺でおおっぴらに立小便を始めだし、ううぅなどと唸リ声を上げて悦に入っていた。不快感を隠しきれない僕と眼が合うと。

「なんじゃワレ!メンチ切っとったら、しばきたおすぞボケ。ション便かけたろか?」

ああ、何をか言わんだ、治外法権の無礼講状態。こんな輩は無視するに限る。

やっと前の組がボールの届かない距離まで離れて行き、コースの見張り番が白旗を揚げた。打っても良いとの合図なのだ。オナーさんの社長がティーショットのアドレスに入った。強風のために帽子を外した社長は、七三わけのヘアスタイルをやけに気にしながら、何度もお尻ばかり振って一向に打とうとしなかった。業を煮やした立小便ジジイは大あくびの後で、

「おっさん!遅延行為で2ペナルティーや。わしと順番変われ、このウスノロ。」

「まあ、まあ・・せっかくの楽しいゴルフなんですから、しばしお待ちを、ねっ!」

温厚な僕の上司、「仏」の部長がクネクネッと女形のまねをしてウィンクをし、その場の雰囲気を和ましている間も、何故か社長はショットが打てないでいた、イップスにでも罹ったのだろうか?すると社長は僕に向かって・・・

「・・・君、風が、風が、頼むよ。」

闘志を内に秘めたような低い声で訴えてきた。なあんだ、そう言う事か、社長はとびきりのフォローの風を待っていたんだ。ホント欲張りな人だよ、2オン狙いなんだね。良し良し、僕は人差し指を唾で濡らすと、頭上高く掲げた、感じるよ、感じる、台風級の風がすぐそこまで来ている。あっ、部長もウィンクしている、このタイミングで間違いなしだ。僕は迷わず叫んだ。

「社長、今です、GO!」

ヨッシャァッ、掛け声一発、物凄い突風と同時についに社長はスゥイングした。

「社長、ナイスショット!」

エグイほどのフォローの風に、谷底からの上昇気流も加味され、社長の渾身の一打が?黒くて円盤状の一打が?回転しながらぐんぐん距離を伸ばして行った。あれれ、肝心のボールはティーに残っている。ジャスタ モーメント!あんたのそれ、どう見ても空振りやないの?

「グウヒャヒャヒャヒャヒャ、あれ見い、ズラがぶっ飛んで行くで!まるでUFOや、それともフリスビーか?」ボスジジイの遠慮を知らない下品な笑いが、波のようにティーグラウンド周辺を侵食して行った。しまった、正反対だった、社長は風が気になってショットが打てなかったんだ!それなのに僕は僕は、わざわざ風がピークの時に、GOサインを出してしまった。

哀れ、社長はもはやツルッパゲを隠そうともせず、片膝をついてうつむいていた。泣いているのだろうか?頭皮がまっ赤っかだ。僅かに残った、襟足の貧弱な毛が申しわけなさげに風にそよいでいた。

相手先の専務は怒り狂っている・・振りをして、笑いを噛み殺しながら僕を睨んでいた。下品軍団にキャディーまでもが、この世の終わりのように、ひきつり笑いの激しい渦の中に飲み込まれていた。僕はと言えば、極度のプレッシャーから体全体が冷たくなって、もう気絶しそうだったんだ。

一つだけ確かな事は、会社の面目は丸つぶれ、今回の取引は大失敗、ザッツオールって事だ。しかも、責任はこの僕にあるような嫌な気分が止まらない。だけど、部長だって、ウィンクなんかして、イケイケだったじゃないか。そうだよ、僕だけが悪いんじゃない、死なばもろともだ、部長も絶対巻き込んでやる。こんな風に自己保身ばかりを考えていた、女々しくて、とてもちっぽけな僕であった。


その時、部長は、仏のような部長は、そそと静かにそして優雅に、うなだれる社長の許に近づくと、自分の頭に両手をかざして、

「社長、ナイス・スウィングです。さあ練習はOK、本番行ってみましょうか?」

ごく自然に帽子でも脱ぐようにズラを取り外すと、そのまま社長の頭に被せた。「パチン!」今度はちょっとやそっとでは外れないだろう、強固なグリップ音を残して。新型ではあったが、サイズも色合いも飛んで行ってしまったものと瓜二つだった。

笑い声は止み、あたりは水を打ったように静かになった。戴冠式のような、神々しい場面だった。自らのズラを与えて、社長の苦痛を取り払うなど、僕には絶対に出来ない、いや、同じズラ同志だからこそ出来た離れ業と言えよう。鉛色の雲の切れ間から後光が差し込んで、部長のハゲを照らしていた。

すると突然、誰彼とも無く拍手をする音が聞こえ出し、しばらく続いた後、ボスジジイがゆっくりと語りだした。

「今までの我々の振る舞い、誠に申し訳ありません。部長さん、良いものを見せてもらいました。自分を犠牲にしてまで、顧客のプライドを死守する、その美しい心、まさに営業の鏡や!」

部長はまるで何も無かったかのように、

「さて、何のことでございましょう。さあさあ、会長様も皆様もプレイに戻ろうではないですか?ご挨拶が遅れまして誠に申し訳御座いません、ですが、せっかくの会長様ご一行のお忍びでとの御意向に、(ここ洒落で御座いますよ。)水を差すのもいかがなものかと存じまして・・」

「おおお!君は、わしの事を知っていたのか。長らく第一線を退いておったから、全く気付かれていないと思うておったが。部長さん!わしは君に惚れたよ。今回の取引は君の会社に決まりや。おい、社長、何か異論があるかえ?」

「会長様、御意。仰せのままに!」

この会社のキーマンはズラ社長にあらず、立小便ジジイだったのだ。こっそりと取り巻きを連れて、僕達の接待振りを視察していたらしい。最悪の出来事が、部長の行った、たった一つの善行のせいで、最高の結果へと昇華して行った。しかし・・善行?

ここで僕は、ふと今日二度目の、凍えてしまうようなある思いを心に巡らしていた。


部長はもしかすると、相手先の社長がズラを愛用している事や、会長一行がお忍びでこの接待を視察しに来る事すらも、事前に調査済みだったのではあるまいか?そして風の強いこの名物ホール、あのように旧型で軽量なズラでは、高い確率で事故が起きてしまうとも計算していたのではなかったのか?

ゴルフ場が最終9番で混雑するだろう事を予想し、わざと関係者全員が一堂に立ち合うような状況を創った上で、あのインパクトある「ズラ飛ばし」を演出した。そしてその後、神仏のごとき善行「ズラ移し」を見せ付け、まんまと会長を始めとする、皆を誑かしてしまったのだ。

僕のような若手を相棒に選んだのも、あの局面で社長に対し、うっかり誤ったサインを出す事を期待しての、目に見えない仕掛けの一部だったのでは・・・

結局、僕達は全員、部長の書いたシナリオの上で、恥ずかしいダンスを踊らされていただけではなかったのか?

熱視線を察知したのか、部長はくるりと振り返って、茶目っ気たっぷりにウィンクをした。僕達を覆っていた黒雲はどこかへと立ち去り、燃えるような夕焼けが、ゴルフ場の紅葉の色とも溶け合い、部長の頭を血糊の様に染め上げていた。僕は部長がハゲた悪魔に見えたのと同時に、心底、味方で良かったとも・・・

そんな秋の日の黄昏時、僕達コンビによる歴史的大勝利の瞬間であった。


                 END






ドクターDのゴルフ用語解説   

YES!ドクターDがオッサンのゴルフ用語を加齢に解説するコーナーですYO。


○ ロングコース・パー5    普通、ゴルフ場はOUTコースとINコースに分かれていて、それぞれ9ホールずつ合計18ホールで全後半を通じてプレイをすることになっている。各コースにはパー4のミドルホールが5つ、パー3のショートホールが2つ、パー5のロングコースが2つ配置されている事が多い。パーとは、この打数で打ったらOKですよと言う目安のようなもの。だから、パー数が多いと距離が長く、少ないと距離が短いと言う訳なのだ。なお、何故だかは分からないが、朝はINコースの10番からスタートして、昼からはOUTコースの1番からスタートする事が多い。ゴルフ発祥の地スコットランドでの慣わしのようである。

○ メートルが上がる      これは直接にはゴルフと関係が無いのだが、良く使われる、オッサン用語なので是非マスターして欲しい。会社のコンペなどで、前半が終了した場合、オッサン達はランチを食べるのだが、この時に鬼のように酒を飲んでしまい、へべれけになって午後からのプレイがままならない者が続出する。このような状況を「メートルが上がる。」と言う。メートルとは酒量メーターのドイツ語的発音ではないかと考えられる。

○ メンチを切る        関東で言う所の、ガンを垂れる・・に相当する大阪弁。厳しい眼をして、相手を睨みつける事。ゴルフ場では、この行為がきっかけでオッサン同士による激しい喧嘩などのトラブルが発生する事が多々ある。

○ オナーさん         ゴルフでは、その一つ前のホールで一番成績の良かった者が、次のホールで一番先にショットを打つことになっている。そしてそのプレイヤーのことを、オナーさんと呼ぶ。オナー=名誉、が由来ではないだろうか?

○ イップス          オッサンが、いいショットを打ちたいとか、一発でパットを決めたいとか、限界を超えて必死になった場合に、金縛りのように体が全く動かなくなってしまう状態。一応心理学用語のようだ。ドクターDも実際に、イップスに陥った上司の代理で短いパットを打って、シレッと外してしまい、後で怒られたと言う、理不尽な体験をした事がある。


多島海

  rock

縫帆工はうみにでることを禁じられていたのに輪洞窟の夕陽にさそわれて一艘の船で妻と共に旅をする 月蝕の日 長老たちは石たちをかちあわせながら占いに興じていた 晩餐は喉が焼けるほど辛い肉だった 何の肉かもおぼえていない かもめたちの唄は白い水面に反響している 埠頭には老女たちがあつまりうみのゆくすえをながめていた 祭りの晩にしては静かすぎるうみが老女たちにとっては信じられなかった 洞窟の中むつみあう縫帆工と女は松明の翳をのこしてひとつになっていた 別離には挨拶ひとつ許されないまま生まれた島をあとにした 冥界のあさ 腕がぼうになるぐらい櫂をこぎつづけ 月蝕の晩にできるだけ遠くにまでいきたかった いまその縫帆工の労をいとうように鯱たちがとびはねる 水平線のむこうに消えていくほどに鯱たちの跳躍はおおきくなっていた 

流れ星はうみのなかで煌めいてやがて石になって沈んでいった
縫帆工は来る日も来る日も帆を縫い続けて うみのうえで出逢う漁師たちにそれを売っていた 縫帆工の妻はやせ衰えていた ライム酒の匂いが彼女の髪にうつった 島はまだみえない 珊瑚が水底から二人をみあげるとき 言葉をききとることができず 人魚たちは翻訳をたのまれて 海蛇たちは人魚たちの奏でる言葉に耳をすますばかり 
南半球が夜になると あわい水泡が珊瑚たちの呼吸に合わせてぷくぷくと浮かんだ
時間が痕跡をのこさないように 二人はマングローブの森で息をかわしあう

文学極道

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