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破片

選出作品 (投稿日時順 / 全23作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


友人、夏にて

  破片

光が、
そこかしこに、
砕け散る正午の、
潮を孕んだ声を、
返した。
燻る先端が滲み、
煙は、塩水に、
溶けて、
破片は目にみえず、
血が流れる、
僕には、見えない。

花のような、
頬だった、
直視できず、
木陰に逃げ、
抱いてもらった。
掻き抱く、
無数輪の香り、
よりも、きみは。

眩い、一条で、
白い太陽は、
ひろく、まろび、
その中で、
破片は深々と、
みえずに。
煙もろとも、
揺らぐ、
揺らぐ。

空っぽの、
圧する青は、
焦げた防波堤から、
歯軋りで、
高く、
浮かばされ、
ねぇ、きみ、
この両手では、
送れないよ、きみを。

潮含みの声を、
ここから、
投げつけて、
指の間、するりと、
落ちた火、
僕の背にわだかまる、

言葉、
思い直して、
吸い殻を、拾い上げた、
きみと、
同じように。


メークレイン

  破片

まっしろな、
日の下を、自覚した、
旅している真昼に
飽きないか、と聞くと
飽きてはない、慣れただけさ、
と流暢な言語をくれ、
足元の、
歩みを見やると、
君と同じか、という
呟きが、
裏側へと、降り注いだ。

かつて、歌は鷲になり、
はるかに、
緑の稜線を、越えて、
境をなくした、
真昼は、それをみてこう言ったという、
「何度、同じ、翼が焼け落ちたことだろう」
そう感じるなら、
まひる、お前は姿を消せ。

ゆっくりと、夜が、
明るく感じられる、
ことばたちは、
月を、
なりきれない贈呈とは思わない、
ところから生まれ、
その裏側には、
ニセモノを、悪く言わない、
象徴が、
それならせめて、
何もかもを盲いたほうがいい、と
明るい、夜を、照らし出した、

統べた鷲の翼が、おちてくる、
かがやかしさは、
点々、と、覆っていく、
恵みと呼び、
両手に着地した、
うすく、むらさきの、
大気はあたたかく、湿されて、

潤いを求め、
けれども、
雨を欲さない生物、
突き動かしようもなく、
濡れてしまう、
そして、雨に
屈辱させられ、
もらう、溢れだす潤い、
手一杯の量、以上を見ない。
憂いは同調するのに、
思惑が、次元を分かつ、

雨が降るのだ、
降ってくるのを、見つけた、
ビルの屋上、精一杯、柵を越えて、
私は待っていようと思う、
雨を降らせる者、
を。

鉄扉の、錆びた、動作と、

小刀の、生れた、閃光は、

とうめいなひとかげを、
待ち望んでいた、
雫の質量を、こわし、
真っ赤なあたたかみが、
ぬけていく頃、
雨は降りしきる、

わたしが、雨を、ふらせて、


ハロウィン(中身のない南瓜)

  破片

煙草の不味さで胸からえずく。味のないような、薄っぺらな毒はひどく不快な気分にさせる、空腹の所為だろうか。葉を半分も残したまま、にじり消した。燻っている小さな灰まで、慎重に。なかなか溶けてくれない煙やにおいが、しつこい。デスクに佇んでいるディスプレイには目もくれず、右手は、抽斗を引く。

君の目は空っぽである、と。
指を伸ばすと、
べったりと、絡み付いて落ちる、
夜が、
毛細の器官にまで
溶け込む、そして呼吸し始め、
滴るようにして
音が抜けていき、
聞えたら、現像してもらえないことばが
待っている色彩、イメージでしかない飛翔
と共に、囁く。

へこんだ部分に手をかけ、そのままの姿勢で、何も入っていない抽斗の隅々まで舐るように焦点をめぐらせる。蓋をした灰皿、無酸素のはずの吸殻が静かに再燃を始めて、直方の木箱が焼失していく。当然、消火など、しない。

空っぽで
あること
の暗闇から、
手探りで掴めるだけを、
引っ張り出す。
現像していく、
捻り出す色はいつも
似通っていて、
空虚を表現するのに黒色しか
使えないけれど、ましろい光が
絶対に
山脈の向こうまで届くとは限らない、とうたい、
かみのない月を狙って
やってくる精霊たちが、
すると指先は彼らと踊り、
ギリシャの言語で
「見つけた」と。

何もなかった抽斗にはファンシーな包み紙がしわくちゃのまま放置してあり、ほのかな甘い匂いが漂ってきていた。まるで自らの脳髄が叫んだような方向から「とりっく、おーあ、とりぃと!」
近隣の子供たちが全員集合し、仮装して練り歩いている。


脳裡

  破片

声は
その音を、
探して
広がる
空白の中
ひとりぼっちなの
という呟き

そこには
流れている
血が、
空調を保ち
海のない
ところを
船の
帰れない
渡航だけが
こだましていて
きっと、
また作り出せる
その手は
何処から生まれたか
知らない

船頭は
船首には
いない
見送るとき、
いつも拍子抜け

波に
右往左往しながら
舵は動かない

足元から
揺れている
けれど
すぐに凪いだ
誰も知らない
燃えている
船の
血化粧を
飲み込んでいくのだ

小瓶一つ
帰ってこない
船は
もう、青白い
ここに
叫ばれて
破砕し、
溶けていく

帰ってきている
のを知らず、
船を作る
根元の
見えない手に
遮られて、
「ひとりなの」
声は、
広がらない


小品(抜け落ちているもの)

  破片

 海が見えている。
 くすんだ緑にも見える、という形容を聞いた。その人は、同じように探し物をしている人だったのだろう。そして海は、空を探している。断絶の果てにはきっと鏡があると信じている。動揺は沖の僅かな海流で、少しずつ膨れ上がり、打ち上げられた時に外向という性質を含み、まるでほんものの声であるかのように泡へと、また泡へと砕け溶けていった。これは、海の感情であると。その発露であると。考えることは自然なのだろうけれど、右隣から声が投げつけられた。
 そこに、誰もいなかったはずの空間が埋まり、佇立するひとかげが生まれ、声が波の音に乗り、旋律じみた流れを持つ。
「、感情を描かない。描けない。描けるのは、そうぞうする感情だけ。所詮言語を能動的に持たない何かを言語で表現しようという試み自体が―――」
 まるで筆談しているかのような口調の声は、笑いながらためらった。途切れた言葉、その続き、行方を捜すも灰色に溶け込んでしまったのだろう、欠片も掴ませなかった。
 ひとかげに、質量はなく、それは影なのだから当然なのかもしれないが、とにかく存在していると認識させる要素が希薄で、しかし目か首を右に回せば、ずっと見えている。視認できるということ、最大の認識をおぼえているにも拘わらず、その影は見えているのに、見えなくなりそうで、瞬きを意識するのだがそのひとかげは嘲笑っている。
「、実体がない。、たとえば筆をとることもない。、お前に見えているのか」
 答えようとした。最後の言葉は質問だった。だから応じようとした。海だけを見て。安心させてやるかのように、不安に揺れる海を見ながら、純度の高い綿に抱擁されているような色彩の世界で、わたしは、首を向けた。
 何故、見えなくなったのだろう。ほんの何秒か前までは視野の右隅で、あなたを捕らえていたのに。今では両の目で正面きって見据えようとも、空振りでしかない。ずっと昔に感じられる、空白に、私の右隣の時間は戻ってしまったようだった。けれど、とうめいなひとかげは、確かに存在していたのだと、私の視覚器官が、葛藤し揺れる脳細胞に必死に訴えていた。
 どれほどの時間を、海を見て立ち尽くすという行為に傾けていたのだろう。何時間前かもわからない天気予報では今日いっぱい、雨は降らないまでも、雲は飛んでいかないと伝えていた。しかし、目の前の海には一条、また一条と日が差し始めてきていた。目に見える光線を何本も、数え切れなくなるまで見ていた。背中に通っている道路からも、時速四十、五十キロ程の速度で滑っていく視線を感じた。迂遠に言い回すことも、婉曲に言い並べることも必要なく、ただ、壮絶で荘厳であると。そう呟いていた。
「見ろ、あれほど淀んでいた海の緑が晴れていく。サファイアのような青が光りだしていく」
 声は唐突だった。しかし首はおろか目すらも回すことはなかった。ひとかげは、消えてしまったのだ、行方も掴ませないまま。躊躇ったままに置き去った言葉に倣って。しかし、声は続く。聞こえ続ける。姿が見えていた時よりも饒舌に、かつ色濃く存在して。
「わたしは、かがやくために、あなたを、さがしていたのです」
 私は弾かれたように、首を、目を巡らせた。
“わたしは 輝くために 捜していたのです”
 海は、捜し物が見つかって、凪いでいた。雲は、じきに晴れるだろう。胸を軽く膨らませて、すっと肩を落とす。わたしは、胸ポケットから煙草を取り出した。金色の箱にPeaceとあるパッケージが、遅れて出勤した太陽の寝癖を指摘した。


世界語(aie aie)

  破片

朝焼けがこの手に入れば、雲を掴むことができたなら、走り去っていく星々が停滞するときを見逃さず、瞬きと、瞬きとの間に眠る赤子を取り落とさない、そのままでいてほしい、待っているあなたへ、光は指の間隙に入り込んで爆発するから、どうかそのままで、握り込まれた手は、こんなにも小さいのだから。


少しずつ新芽が綻びる、そんなふうにして目を開くべきだ。あなたの眼球はきっと世界になる。飲み込んで、そして好きにしたらいい、光の爆発を見たのはあなただけじゃない、その瞼の奥にしまい込むことなんてできない、太陽はわたしたちの足の下へ潜り込んでいく、異国の言葉で、誰にでも祝福されるために、だからこそ、目を開いて待っていてください、喜びが連なってたなびいていく姿を、


赤子は次に言葉を話した、母音しかない発声で、世界の様態を作り替えていく、そこには、ああほら、見えている、上昇と下降を繰り返す七色が、そこらじゅうで笑みをたたえている、こんなにも太陽が近い、しぼむことのない光彩があたたかく霞んで、その向こう、向こうまで果てのない、プリズムみたいな眩さで、世界はおおわれている、目を焼く鋭角的な色の景色には、生物がいない、いないまま、なにもかもが微笑んでいる、抱き上げる優しさを忘れないように、そっとつまさきから踏み入ろう、短くて小さな手が、胸の前で編まれている、水を浴びせてあげたい、双肩にとりついている見たこともない時間を、洗い流してあげるために、


まわりを囲んでいる新たな稜線が浮き上がっていく、その中心で、ふたり、鈍く発光する雲を掴んで、踝をくすぐる草々に墜落させた、「わたしたち、雨を降らせているの」という言葉に、赤子は無邪気に笑い、そして母音だけの世界を紡ぐ、若草色の、もっとも広い絨毯に話しかけて、どんどんと、どんどんと無尽に広げていく、水をやれば花が開き、空気が潤って色がつく、赤、橙、黄になり、そして緑、青、藍、紫、そんな色、そのあとで突然色が抜けた、草は草の色になり、千切っては落とす雲はやはり白かった、空気は空気の色になって、母親らしき人影の、そして、雲を掴む細い指の向こうに―――

雨が降れば、次には空気が燃え始める、空気を燃やす火の玉が、赤子に「はじめまして」と挨拶した、山も下草も、空さえも無限の光で照らされて、「アイエ、アイエ」という母音だけの言葉で、母が笑い赤子が目を開けて、せかいが、

うまれる。


Rainy seconds

  破片

背中では、ショパンが、
まだ生きていた、
ゆるやかな停滞を
微笑む、
一時も眠らない雨、
動かずにいた世界、
影のようなピアノに、
かの相貌が、
降りた
音を扱える友人、

時計が刻む一秒間、
埃まみれのアスファルト、
屋根から屋根へ走る背広、
梢の中で脈打つ若葉、
そして濡れていく
自分で淹れた
コーヒーの温度に、
息をついて、
数えきれない
その一秒、

やまない
スタッカートが、
垂らした、一筋、
偏在する始点、
つまり「わたし」
仄暗い、
世界の隅、
この部屋から
拡充して描かれる
地図を、
求めてた、

言葉の尽きた
歌を
うたおうとおもう、
そのブレスの度に、
わたしたちはうまれる、
向かう先のない、
読点が
存在するかぎり、
吐息に潰れた声で、
雨空を近づけて、

アコースティックベースのピックに、
暖色照明で浮かんでく部屋に、
マルボロの燃える香草に、
友人が組んだメジャーなコード達に、
宿る、素粒子の
わたしたちは、
雨粒となっていくから
世界が休む、
こんな日、
受け止めきれない
見たこともない、
星くずのカタチした
一秒が、
降ってくるんだ


星霜

  破片

 青く開けていくビル群に横たわるアリアが名前を欲しがる、その耳打ちは誰にも聞かれてはいけないよ、人々はいつだって起きるのではなく、起こされるのだから。時間。冷たく呼吸もない建物たちの天辺と、まだ少し黒い空との交差するあの辺り、溶け合うようにして、だからこそ遠近で際立つ境界の、さらに向こうからやってきて、眼を細めながら夜明けにまどろむ、交通整備の制服にしみた。風雨に晒されて均質になったアスファルトにはなんだか光る粒々が散らばっていて、わたしたちはそれを「星が落ちた」と表現する、星が落ちるとわたしたちの眠りは次第に薄れていく、そうして今度は落ちた星が集まり、太陽になって浮かぶんだ、わたしたちはそうやって起こされているから、伸びやかで繊細な旋律のアリア、今は歌ってはいけない、愛されて美しくなるアリア、唇に指を当てて。



 雨が降ってくると星たちがいないから、人間っていうのはね、動きたくなくなる、じっとしていたくなるから、そういうときに旅ができたらこれほど素晴らしいこともない。身体を動かさなくても人はどこへだって行ける、この踵はザンクトゴアールの赤茶けた石畳に驚き、肺はプラハの清冽な風で喜んだこともある。きみもどこかへ出るといい。丁度外は雨が降っていて、時差でどこかの誰かが眠っていようとも、きみが煩く思われることはないだろうから。それにしてもこの雨は長い。溺れてしまいそうだ、星も、太陽も。だから、わたしの吐息もどこへも行かずに、二酸化炭素の濃度を強くして、再びこの身体の血液に乗って旅をする、そしてまた吐き出され、動かなくたってこれが生きてるってこと。



 これといって言葉を使う必要がなかった。ひとり何事かを呟いてみても、それは誰にも渡らず部屋の隅で口を開けているゴミ箱に吸い込まれてしまうから。少し寸法の合わないカーテンの隙間を、短命な星たちが縫い合わせていく、それでも仰げば同じ場所に瞬くのは、墜落した後再生しているからなのだろうか、わたしや、わたしたちのように。わたしの部屋。コンピュータや雑多な書がもはや部屋の空間自体のように僅かも身じろぐことなく在る中で、安っぽい天板だけの机に、メトロノームが揺れている、LentoかGraveか、わたしたちはいつも議論していたけれど、どうやらあの針はLentoで振れていて、今にも聞こえてきそうだね。脳細胞やその組織に鮮やかな色彩で音色を醸す、もう待てないと囁かれても、わたしは言葉を持たない、だから音を歌う、ありふれたイタリア語の音階で、ゆったりと荘重に。
 


 どうしてあんな場所にいたのかずっと不思議だった、黄金の恵み、葡萄の収穫や厳かな洗礼に生きる人たちの傍でないのか、硬すぎる街並みや暗闇のような夜明けに身を震わせるきみは少し滑稽でさえあったように思う。全く動こうとしないきみの声はそれなのに弾んでいて、澄んだ声がビルやモニュメント、タワーといった無機物にまで、その原子を割り込み、陽子や電子と絡まった、その時からここには星が降る。人間という生物を刻む。雪が積もるように、首を少し持ち上げて正面に見た信号機には、星が積もり、たくさんの影を作る。

 背の高い建物に囲まれたスクランブルの交差点には、なんとか数えられる程度の人だけが歩いていて、ちょっとずつ落ちてくる光の粒々には見向きもしない、雨と違ってあたたかいはずの星降りなのに、冬の空気はわたしたちの吐息を勢いよく引っ張り出す。時だ。空から星がなくなる、だからこんなにも、夜明け前は暗い。

 ひとひら、落ちてきた星を拾い上げると、その上に星じゃないものがぶつかって、ちいさく空気に噛みついて消えた、星が濡れている、規則正しい形状の結晶は星に食べられて、そうして濡れた星がわたしたちの頭上に落ちてくる、降ってくる、きみは歌う、音程をヴァイオリンの音色に変えて、人々は眠っているのに、わたしたちは歌う、指先は、星に届いたのに、閉ざさなければならない唇には、もう届かないのさ。


血涙

  破片

・与えられた真黒で、どこにあるかもわからない、輪郭のはっきりした、「くだらねえ」、呪詛。
・そこにジョイント挟めよ、このマチエールが捌ききれない、読む、慧眼、書く、興味が失せる。
・金はなく仕事もない、学は投擲されるために一旦手の中にこぼれる、そうして価値が浮上する。
・ドカタの人たちは誰よりもブルーシートを綺麗に畳む。手つきには擲たれた時間が見えている。
・煙草を捻りつぶす時、眠りに就いた瞬間らしいただ黒い時空、一日の呼吸の回数、気持ちいい。
・場所を選べない稲妻、カップの取れない黒シミ、帰ることもできない雨粒、下へ、したへ、と。
・カミュの最大の命題を思い出してニーチェへの信仰心が必要になる、きっと暗算を果たしみる。
・四十三、その暗算の正当性について「そら」、「みず」、「演繹」の語を用いて論述されたし。
・糸のように、引き伸ばすと音が可視になる。全ての物質から音階を抽出してスコアを描きだす。
・真黒が降ってくる、のではなく、拡充していく、もとより存在していたものなんだよ、洗濯槽。
・生涯現役韜晦。阿呆阿呆しい字面、気品はないが説得力がある。それで充分じゃないか、詩人。
・祖母の声は枯れない、肌のキメも涙も脳髄を食い潰してでも誰かを起こし人を呼ぶ、死んでも。
・部屋が明滅するからワケがわからない。疎らな雲の悪戯。そのときだけ、部屋は開けていった。
・土まみれで仕事してみたい。だから叩かれた。何か強制してほしい、だから時は巻き戻らない。
・外界と自室の境界が曖昧になると、雨音が、ゆっくり忍び込んで、受け取れない夢を差し出す。
・主観と客観の境界が曖昧になると、言葉が、いきなり去っていき、分割された意図だけが残る。
・いと、いと。つながない。あたりまえだろう。人種によって色彩感覚さえ違う。空は白いんだ。
・他人が喜ぶと蹴飛ばしたくなるので、だから他人とは他人のままでいて、そうであるしかない。
・∴コーヒーを啜る、自画が醜い、鏡を叩き割る、手の甲が破けて流れ出たのは「くだらねえ」。
・石段には水滴の形した孔がある。穴ではない。続いていけよ、そこからが本当の深淵だろ神様。
・深緑の山並みをなぞるから限界が生じる、何もないことにできないなら、せめて「何かない」。
・何かない、そう呟くとどこかで生まれる生命は黒い。何かはある。だから白くなくて心になる。
・物干しに猫なんていない。ここは新海誠が創ったユニオンだ。空と戦闘機と雲だけがいていい。


 それだけでできたわたしは、もうこれ以上言葉を持っていない。あるいは、絞り出せば、まだまだ織り紡いでいけるかもしれない。けれど時間がなくて、力もない。熱意は、最大値が予め設けられていて、自覚せずに増やそうとしなければその頂辺はみるみる降下してしまうんだろう。しかしわたしは、わたしではない。わたしはわたしのふりをしている。わたしは、わたしのふりをすることで熱意を詐称し、ごく個人的なラベルを焼き込まれた頭脳をクラックし、悪意性のある一部開示を施し、部分的にではあるが自在に操作することによって、本来あり得るべきではない電気信号と薬学物質との交感を意図的に発生させている。そういうふりをしているのだろう。

 どうして生んだの、と母親に尋ねた。今度はどうして生きているの、と尋ねている。手当たり次第に。最後にわたしに。何度も。

 ひとは空を見果てなくて、幾多の、幾億幾兆の、指先が届かない。どうして空から求めるものを掴みだそうとするのかわからないので、わたしも思い切って掌を掲げます。縮こまって赤ん坊みたいな五指が胡散臭く透明になるのを見たその時が、今になって、両肩に焼きごてを、Vの文字を、刻まれた記念日だと知りました。わたしが声をあげて泣く、濡れた頬の下には冷たくてたしかな石の感触。わたしはわたしの痛みのために泣いたのに、どうしてでしょう、この涙が石畳全体に染み渡り、ほんの少しでも温度が伝わればいいと思っていたのでした。


円を成す

  破片

丘陵の頂上に建つ家屋が
ぶっ壊れたりしないなら、
星風はその湾曲した屋根群に沿って
今日ものぼっていくんだろう
帰って来なくていい、のぼり続けるんだ
y=xの2乗、
吹き出すくらい単純だろ
屋根のその整った放物線を ずっと奇妙だと思っていた

雲が晴れない 空には蓋がされた
どこで途絶えるかわからないまま
少女は「世界」を口にする、
コントラストの潰れた部屋
雨に晒され続けたサンダル 黄砂を塗した窓ガラス
おきにいりのぬいぐるみ 背を押されて呟いた、世界
風はやんだ

惑星や恒星間の距離を手に取れる
指先で弄んだ宇宙はとても小さい、
入り込む隙間のない風が吹き下りてくる
そんな日はとても晴れていて 流れが出来る
丘の上にたくさん たくさん
空はどんどん乾いていく 人々は濡れていく
星から来る風、
ひとの目に舞い込む埃は
何色なんだろうね

次々と風が追い出されて わたしたちの
頭上に空きができると、風は、
そうやって屋根を伝って上を向くんだ
地上に染みた水分を連れていく
少女は風にあおられる 顔をあげる
涙を流さない ことばを殺されて、
わたしたちは次々にミニチュアの
宇宙を取り上げられながら

帰って来なくていい、
わたしたちの奇妙な放物線に
少女のつぶやいていない世界が
吹き下りてきたなら
ねえ それは星風 ひとりひとりの
間隔を目いっぱい拡げて、
おだやかな色彩の揺りかごにとても、
とてもわらいながら、
少女の長く細い睫毛を
揺らす
放物線を描いた


賛誤

  破片

 私、これから「私は」と始まっていく文章の全てを思うさま破り捨てて、どうして呼吸が続くのか、どうして心臓が脈打つのか、血液は流れ言葉を吐くのか、「私は」から始まる動作として語るために、その理由を少しずつでも知っていきたいのです。指の間に挟まった紙巻き煙草は灰皿と口元とを往復することだけでも、消費されていくのだから、動きに追従しきれなかった青い煙が、頼りなく細い手首にまとわりついたとして、それは私の動作でないと言うわけにはいかないのでしょうか。

 見晴らしきれない青い空を丹念に取り扱う手つきは、過ぎ去ろうとしている鮮やかな秋が見せたまぼろしみたいにある冷やかな類似を纏って、青く、光らずに、水分の抜けた風に震える痩せた木々のような鈍さを残す。青い空をあおいそらと、まっすぐに語ることが出来る人々の輪の中にどうにかして潜り込んで、自分も誰も一緒の血肉を分かち合えるように「こんにちは」を、健やかな笑顔とともに溶かし込むことが叶うなら、どんなにか、世界そのものが軽くなることでしょう。彩りは褪せ、貧しいものへと移ろっていくかもしれないけれど、それを気にする人たちはどうせ滑落していく、どうせ、助けられません。
↑↓
 友人の言った「冬は死の季節だ」という文句が、何度も通る道のはしっこにまだ残っているのを見かけました。電信柱の脛に縋りつく新聞紙みたいな、姿で、もの悲しいほろびのおとをさせながら、未だにその祈りは続いていたので、火を点けてからうちへ帰ったのを憶えています。Zippoライターのオイルが切れかけていて、手間取りながら、温かくもない火花を散らしながら、フリントの擦れる音が数回、死の季節に響き渡りました。あらゆるものを吸い込んで薄く引き延ばし、散らし消してしまう冬なので、友人の身体に、その皮脂や燐分に、火を点けたような気がしないでもありません。私の内臓が友人の血液に拒否を示したのですが、雲の重みで雨を落としそうな暗い明るい午前中でした。

 どうしても、「私は」から始まる動作をはっきり、これと形容することが出来ないと知ると、多すぎるセンテンスが蛇足に見えることをもって、「私」は言葉を吐き、人々の多くが不要な外の世界だと唾棄しないと呼吸もままならず、助けを求めて伸ばした手の中の煙草でセロトニンが壊死する、心筋が硬化する。とくん。とくん、と、「私」は疲れていく。

 ほろびのおとが持つ、音階は、「私」が音を合わせにいくまでもなく、ゆっくりと膨らんで世界そのものを引き込み、鳴り響くから、人々は衣を替え、食べるものや行く場所、呼吸の仕方にまで影響を受けてしまうけれど、なにかふとした拍子に、たとえばあったかい副流煙が染み込んだ部屋でカート・コバーンと谷崎潤一郎が再生されているときとか、そういうときに、これは本当にほろびのおとなのかどうか、わからなくなることがあります。むしろ、とてもやさしい、音で、嫌われものの木枯らしや忘れられる春一番の音は音色に違いはあっても、やさしい兄弟で、血を分けていて、同じ血液が巡る故の回帰性をいつまでも誇らしくおもうこころで、世界をさやかに揺らしているんだ、と。どうしてもできてしまう衣服の隙間から、冬の寒々しさが這入ってきても、そのことはとても嬉しい。そう言ってしまいたい、そう言ってしまって本当に、良いのでしょうか。

「頭、大丈夫か」と友人に笑われながら。


星が見えない

  hahen

 下方から朱色に照らされる雲。知らなかった。太陽は、地上から随分と近いところを通る。閉じられた視界に焼きつく暗緑の幻影を見失わないように、ひとびとは太陽と併せて暮らし、眠る前にその緑色の淡い残像をからだの深い処に沈着させる。掻き抱くみたいにして寝返りを打つ。そのとき星たちは一体どうしている? 嘘みたいに遠い真空で。暁光さえ無い。

 じっさいにぶつからない風
 別の世界から降り注ぐ嘘
 たぶん、って言う為の呼吸
 屋根から滑落する人の幻
 飛躍した人間は星と呼ばれ
 本当の星は動けないまま

 /昼間に星が見えない/夜から星が奪われる/
 誰も明るい正午に星明りを思い出そうとしないので、天体には嘘が満ちている。星々の方に嘘はない。星から吹く風、今日は何だか、ほんとうにやってきそうな。

 真昼の陽射しが差し込む部屋は冬でも暑い。小刻みに窓が震える。風が、今日は強いみたい。オレンジ色のセーターの袖を肘まで捲ったら、部屋の温度が一度上がる。外気の温度は一度下がる。ひび割れに忍び込むような鋭い風が頭上をひっきりなしに飛び交っている。多分。

 小春日和。雪の匂いは未だ訪れない。星ってやつは気難しいもんだから、太陽とは仲が良くないし雪とも折り合いがつかないのさ、/一拍の呼吸/たぶん。他の光が我慢できないんだろう。そんな風にして人々の目線を釣り上げてきたから。

 投身自殺と明け方の青み
 蜃気楼でないためのBフラット
 世界から一切の音が消え、
 この場所から一切の色彩を
 手放すための、呼吸を一つ
 でもきっと、そこまでしても
 何一つとして、望んだように
 消えることはなく

 /望んでも消えない/望まなくても消える/
 唯一の無限線分に根ざす星たちの実存と葛藤を誰も見ようとはしない。「いつか」ということばに嫌気が差して死んでいったひとがいるとしたら、そのひとは本当に星になったことだろう。前触れなく遭遇した小春日和にセーターの袖を捲るひとを見つけて、見続けて、自分の方は見つからない。いつだって、見つからない。

 自らが輝いていると知っている星なんてありはしない。ひとびとに輝きを指摘された星、瞬きと瞬きとの間に五回星の明滅を数えた後、そこから一つの星が流れた。たぶん、それは同じ星。瞬きの後の世界が全く別の知らない世界でないのなら。肺胞に取り込まれた吸気には、星から降りた風が30ml、百五十分の一の真空はとても冷たい。誰にも指さされることなく流れた星の。それはすべての解釈を拒絶する痕跡。

 星から降りる風
 それは見える?
 色は誰かが決めてくれる
 デブリに汚れていたって
 星の息吹、人工の気配、
 煌めくおほしさま、
 どうしてそんなに輝くの?
 ひとびとが存在するから

誰かの心臓が二十億の、役割を終えてしまったから、誕生日が命日に上書きされた祖父母は少なくないから、夜、眠り、そして目覚めるたびに、自意識の存続と、記憶された暮らしの形跡とから、世界の様態が途切れていないことを知り、あなたは安堵するから、脳で発生した腫瘍に眠らされている彼が、尋常じゃないほどの大きな鼾をかきながら、夢らしきものを見ているのかどうか、知る人はいないから、十年付き合ったあいつが、トラックに撥ね飛ばされる前、リペアから返って来たストラトで最後に、掻き鳴らしたのがBフラットだったから、マールボロの匂いと一杯のウォッカを、一晩の睡眠に代用する彼女が、何故、眠らないのか少しだけわかる気がしたから、可愛い顔の同僚のあの子が、オフィスビルの屋上で大して見えない、星を見上げていたから、そうだろ、だから星は光る、それを星は一体望んだだろうか?

太陽がわたしの右上を通る。本当に動いているのかわからない速度で。星は一つも見えない。とうとうセーターを脱ぎ捨てた小春日和。星は一つも見えない。ハレーションとしての活動。埃っぽい。舞い上がる煙草の灰と細かい羽毛。いつになっても。青く濃すぎる空に星は一つも見えない。星だって死ぬ。流れ星。翠色の尾を引いて星は流れる。それは一瞬でひとびとを焼却できるほどの超高熱で燃えている。なのに涼やかに。優しげな速度でついと滑落する幻。嘘から生まれた輝き。熱くて冷たい宝石みたいな星風。誰にも記憶されないまま。


まだ生きている人に向けた四章

  hahen

Green tea.

 友人の父親が死んだ。脳腫瘍だった。はじめは、ドカタの、現場仕事をしていて足場から落下したのだと。そこで彼は鎖骨を折り、CTだか、MRIだかの診断画像からその腫瘍は発見されたのだと。ぼくはその友人と長く、親子ぐるみでの付き合いもあった。悪性か良性かと、誰にともなく問うと、三日後に悪性だと知らされた。ぼくは怨嗟を口にしたと思う。それは何に対して? わからない。
 彼は、ぼくが見舞いに訪れる度、人間でなくなっていくようだった。人間としての機能の内、まずは挨拶を失う。ぼくが誰だか思い出せなくなった。稀に思い出すのに成功した時だけ、彼はぼくらの知る人間性を再現した。一度快復の兆候を見せて退院したらしい。ぼくの母親が「家族だけでゆっくりさせてあげなきゃ」と言って、ぼくらは友人の父親が帰還している間、声も聞かなかった。次に再び入院暮らしを始めて、ぼくが顔を見せに行った時、つい数か月前まで同じ人間として接してきた彼が、最早別種の生物となっていた。何人かの患者が同居するその空間には、脳疾患特有の大きな、おおきな、鼾だけがあった。
 友人の父親が死んだ。父親を失った友人は、父親に倣ってラークを好んで吸うようになった。ぼくは彼の通夜で「ミチオ」と呟いた。誰もかれもが啜り泣く空間で準備されていた緑茶の味を、ぼくは忘れない。それは甘くて、しっかり人間の中で認識され消費されていったのだから。ぼくや、友人は煙草を吸える年齢になった。それを告げるために棺の中にマルボロの吸殻を放り込んでおくのを忘れたのが、心残りだ。脳腫瘍の人間に、意思や言葉は通じるだろうか、ぼくはそれでも伝えてやるべきだったと、後悔する。出された緑茶を飲み干せなかったのは、多分、ぼくが人間だったからだ。

Umbrella,umbrella.

 新宿でぼくは知らない人に声を掛けられた。煙草の煙が不自然なほど少ない街で、あらゆる人種がいる多民族国家で、人工と清潔と雑踏とが、鬱蒼と生い茂るジャングルで。「Excuse me」はじめの一言はこうだったと思う。二人組の日本人ではない誰かで、それでも男性だとわかる人たちが。彼らは目の前にある賃貸情報の張り出された掲示板のことについて質問してきた。ぼくは英語で会話をしたことなどなかったが、中学英語や高校英語は得意だったので、拙いながらも会話が成立した。「Excuse me」だなんて、本当に使われる言葉だったのだ、ということがぼくの関心事だった。二人組の内の一人の、鼻から毛が飛び出していたとかそういうことは意識しなかったと思う。
 時々、予め脳に障害を持って生まれてきた人や、後発的に能力を欠いた人、そういう人たちの中の、ぼくらが通常使う言語が全く通じない人に出会うことがある。ぼくがスーパーマーケットでアルバイトをしていた頃、染髪料の空き箱を持ってぼくに接触してきた老婆がいた。声を発するのは聞こえたが、凡そ、ぼくの知り得る言語には聞き取れなかった。手に持つ空き箱から、同じ商品を買い求めに来たのだとわかったが、それを手渡しても何かが満足しなかったらしく、必死に言葉を紡いだ。でもそれはおそらくどの国へ行っても、どの言語体系に則っても伝わらない幻の発語だ。無力だった。ぼくは人間としてその老婆に恐怖し、また自らの弱さ、至らなさに泣いてしまいそうだった。アルバイト中だったので心を殺していたのが幸いした。
 外出先で予想しない降雨に見舞われて、ぼくは安物のビニル傘を購入する。普通の人ならこうして、家に傘が一切ないという状況とは無縁となるのだろうが。降りしきる雨を避けるため、購入した傘を差して屋外に出る。そろそろ電車に乗らなければ。夜に友人宅で麻雀をする予定があった。友人の家に辿りつく。雨は上がっている。ぼくはいつも、その友人の家に、購入してから一日も経たない真新しい傘を置いて帰る。そろそろ、新しい傘の供給がないぼくの家から、一本の傘もなくなるかもしれない。しかしそれについて危機感らしきものはない、と感じる。昨日。今日は残り二本の、一本を持って外に出たら、スーツを着た日本のサラリーマンみたいな風体の外国人が、「ワォ!」とか言いながら駆けていって、彼の足が散らした水飛沫を、腰の曲がった老婆がものともせず、濡れ鼠になって歩いていたから、持っていた傘を思わずあげてしまった。「傘はどうされたんですか」と尋ねると「突然の雨で……あなたはいいの?」なんて言うものだから「ぼくんち、それなんですよ(真後ろを、親指で)。もう一本持って来ないとな、それじゃ、行ってらっしゃい」と言い捨てて踵を返した。多分老婆は笑っていたと思う。ぼくはこうやって傘を失っていく。最後の一本を如何にして失うのか、願わくば言葉の通じない渡し方を。あんぶれら、あんぶれら。発声さえない。

Dead flower.

 ぼくが仕事に疲れると、誘うようにして十歩先に現れる女の子がいるという話。女の子は花畑を探している。ぼくは先導するふりをして、実は彼女の行く先に追従する。花畑でなくても、路傍に咲くタンポポやイヌノフグリに笑みを零す素敵な女の子。フラウ、とぼくだけに呼ばれる女の子。自身が花のようなフラウ。幼い女の子。
 風を一つだけ捕まえてあげる、といって、たった一つの風を三分間もぼくと彼女自身にぶつける。彼女といる時だけぼくは人間として、表皮のさっぱり乾いた、健康で十全な心持ちを得る。十分おきに鳴るぼくの携帯電話をフラウは不思議そうに見る。ぼくはそれを無視する。彼女の声さえ聞いていればいいのだった。
 ぼくは、同僚の女性とセックスする。買い置きしたスキンが乾く暇はない。恋人を作る気もまた、ない。翌日の仕事が憂鬱になる。それでもぼくは女性を抱く。今日は上司に少しだけ厳しく叱られた。そしてぼくは軟らかい乳房を揉む。ぼくは根性があって、見込みがあるらしい。直属の上司からの評価。その後ぼくは縋りつくようにして女性の毛を口に含む。ぼくがしたいことだけを女性の身体に行う。多分ぼくはセックスが下手だ。くたくたに窶れながらぼくはその後仕事をする。そんな日に限ってフラウは現れない。そうして必ず次の日には細い肩を怒らせて、のしのしと、前方からやってくる。ぼくは仕事をほっぽり出す。フラウがぼくをしゃがませて、ぼくの口の端を抓る。ぼくは苦笑いで謝辞を連ねる。
 経血の薄汚さを知らない少女。女性として不完全な、異質の存在。ぼくはきっとフラウとセックスしたいとは思っていない。彼女もそれをまだ望まない。道端に咲く花へ直向きな喜びを向けている間、彼女に初潮はやってこない。それは死んでいる花。幼い少女はまだ生きていない。花のような可憐な少女、いつかぼくが性徴の少しだけ遅れた彼女に性愛を向ける時が来たら、死んでしまおうと思っている。しみや乾燥知らずの滑らかな頬も、軟らかくないだろう乳房も、細すぎて危うい腰も、一切の飾り気のないだろう性器も全てが愛おしい。まだ人間の女性として不十分であり、だからこそ人間ではない、フラウ、まだ神様になれない少女、誰にも見つからず咲こうとしている、これから生きる死んだ花。

Beautiful world.

 世界はとても美しい。ぼくの乗る電車が人身事故で、もう一時間、運行を停止している。ニコチンの欠乏した頭で、人が死んだということについて想う。一個の肉体とその内に詰め込まれた血液や生理液とが、バラバラに四散する。アナウンスされる救助活動、実際に行われる回収作業。世界はとても美しい。そんな日に雨を降らせてくれるのだから。そんな時に、人々が心を止める朝と、あらゆるものを隠す夜とを、用意してくれるのだから。
 一人の健全な男性が無知な童女に性愛を向ける。屋外のある場所に棲みついた猫のために餌を出してやる。自らの鬱憤を晴らすためだけに仕事上の部下に罵声を浴びせる。杖を片手にだだっ広い道路と対峙する老人の手を取り連れ立って横断する。歩き煙草を楽しみ道端に投げ捨てる。自らが出したゴミを完璧に分別する。世界はとても美しい。たった一人の人間にこれだけのことをさせるのだから。
 人が人を殺す時、その方法如何はあるにしろ、きちんと後悔する。世界はとても美しい。その後悔を失ってしまった、あるいは最初から持って生まれなかった人間には、相対した人が申し訳なくなるほど、社会生活、社交の場で礼儀正しく、また心配りと挨拶の能力を持たせるのだから。ぼくは職場での些細なミスを後悔したりしない。シリアルキラーやサイコパスが殺人を後悔しないからといって、人間として異常なことなどないのかもしれないと思う。人間が人間でなくなるときとは? 世界はとても美しい。
 最近頭痛が酷い。胃の調子が悪い。動悸もする。快晴の空の下を歩く。世界はこんなにも美しい。仕事を休んで良かったと思う。初夏の午前、世界は遍く照らし出され、清々しく、穏やかに、自らの身体を意識することを忘れさせて、空の向こうでは住宅の屋根が連なる、その向こうに柔らかく膨らんだ雲があって、さらに遥か彼方にまた青空があり、目の前をキアゲハが横切り、どこまでも飛んで行こうと身を投げ出し、ぼくは煙草に火をつける、表出しない死を、穏やかな気持ちで、あるいは知らないまま手繰り寄せている。世界はとても美しい。


空白

  破片

 都庁の高い建物が、曇り空を支えていた。私の手は届かない。目の前にかざしてみた手は、あのビル群に触れているようで、けれど実は、遠い虚空を隔ててビルと手とが同じ直線上に坐しているだけにすぎず、決して触れるなんてことはない。三十八階の窓の脇、その外壁に指先が届いたら、私たちは少しの間だけヒトでない存在になることが、出来るかもしれない。

 そのコーヒーは青かった。緑とも青とも、ごった煮の黒とも、そして透明とも言える。でも多分私が見る限り「青」が一番近いので、友達と協力して淹れたそのコーヒーは青い。信じられない色彩の飲み物はクソ不味くて、今すぐ発がん性を持つ何らかの物質に生命を削られてしまうのではないかとわたしは思った。「捨てようか」と少し挑発的な表情で友達は言う。そしてわたしが答える。「いいさ、死ぬわけじゃなし」二人の声が「一度くらいこんなのを飲んでも良い」青空みたいな不安な色の液体に溶ける。

 たとえば私は、東京スカイツリーや通天閣といったとてつもなく高い建物の、天辺から見る普段の世界がどうなっているのかを一切知らなかった。それを知るひとたちは、わたしたちが発明した青のコーヒーを美味しく飲めるような、そんな種族なのだと思う。六百メートルもの距離を隔てても、ひどく強引で、わかりやすい手段を使ってその空白を埋められるひとたち。煙草の吸殻が一つも落ちていない道を行く人々は、あまりにもサムそうな目でそれを見ている。

 ちょっとした小道や路地の方へ入っていけば、コーヒーの豆を売っている処などいくらでもある。私たちの作るコーヒーは何も特別なものは使っていない。ただグァテマラだとか、キリマンジャロだとか、マラコジッペ、知らないなりに聞き覚えのある豆を焙煎機にぶち込んで、ゴリゴリ挽いて作る。都庁45階にある展望台から見たスカイツリーの中腹は、そういえばコーヒーを作る時のように、堂々とした中に忙しなさを感じさせる速度で回転していた。そこでは行きつけの珈琲屋が見えなかったことが、わたしを最も感動させた。

――大学の窓から飛び降り自殺。
 私は、友達のバイト先にいる同僚がいかにクソな人間かということを語り尽くすのを聞いている。ちょっと綺麗な女を見ると舞い上がる、調子に乗る、笑顔になる、偉そうにする、自分の顔を鏡で見た方が良いですよ、といつか言ってやろう、そうだそれがいいと、私が笑い転げる。
――都内のコンビニでアルバイト。
 それを知るのがあと一時間早かったなら、私たちは何を語っていたのだろう。私はその事実を知った時、とてつもない失望感と、羨ましさを覚えた。死ぬこと、死んだことに対して、ではなく、「死ぬことが出来たこと」に対して。死んでしまった彼は私たちの淹れたコーヒーに、口をつけさえしなかったくせに。
 私たちはそれから丁度五分を数えた瞬間、同時に吹き出し、大笑した。私たちの語った彼は、もう世界にはいない人物だったという認識。どうしようもない時間軸のズレ。何か圧倒的な転倒。知人を喪ってしまった喪失感や、悲嘆、そういったものがあるから、私たちは笑う。「死んでいたって、どういう事態さ」「大学の窓からか、色んな人間に見られただろうな」「どうせなら都庁からってのは――」「それいいな。あ、でも展望台は嵌め殺しだぞ」「何とかしてさ」「何とかするか」私たちは病みつきになってしまった青いコーヒーを啜りながら笑い続ける。格好つけの彼は、私たちが笑い続けている限り、多分生きている。自分の肉体を護りながらヒトでない存在になるのは難しい。私たちは都庁や東京スカイツリーの天辺から、何百メートルも隔てた虚空を飛び降りて、空白を握り潰して、生き残ろうと画策している。指先がそこへ届くように。コーヒーは少しずつ私たちの身体に馴染んでいる。彼が火葬されて骨になる時、わたしたちは小春日和の高すぎる空を見上げて、都庁の麓の住宅街を散歩している。


現象の冬

  破片

か細い手つきで摘み取られた
ピアノの音みたいな雪が
無様に弾けて
着地すると、そこから
ひたひたと
硬い水が鉱物に染み込み
反対に、
ぼくから、あなたが
染み出していく
溶媒となる雪や、ぼくが、
晴れ渡りそうな明け方に
焼かれていなくなる
あなたは
凍りついていく一切の
旋律を蹴散らしていく

スエード生地のブーツ
濡れて黒くなり、爪先には
いつだって凛とした音階を
くっつけて
ぼくは見ている、
あなたが楽しそうに歩くのを
ぼくはずっと見ている
つもり
歩いているのはぼくで
歩いているのはあなたで
ぼくの少し張った肩幅が
あなたの滑らかな肩の線から
ずれてはみだす
その度に誰かが死ぬので
泣いてばかり

死んでいった人たちは
今何を思っているか、なんて
何も思っていないだろう
やたらと乾いているだけの
冬にも、たまには雪が降るけど
一日か二日で消えてなくなる
そんな感じ
あなたも、そんな感じ
知ってくれればいいんだ
だから、積った雪は融ける、
音も感傷もなく

ぼくの中にあなたがいるだなんて
そんな風に言うつもりはない
その言い方が何を表すか
ぼくにはまだわかっていないし
しかも事実ではないように思う

幻象という語彙
多分ここでぼくはけつまずく
あなた、幻象(?)
そんなわけがない
あなたの匂い
あなたの声、そしてなで肩
全部感じ取れる
それらは一つの楽曲として
抑揚や強弱、
出張り、引っ込む、
弾んで落下するあらゆるものを
指し示している

路面は凍り、さらに黒く
冬は厚く
冷たい空気を地上に押し込み
あなたはぼくから
染み出していく、今

きょうとあしたの境目で
もうすぐあした、が
きょう、になるこの座標点で

長い髪を下ろし
もこもこと可愛らしい
防寒のファッション
顔の半分がマフラーで隠れて
とても不細工だよって、
本気でひっぱたきにくるから
言わない
雪で織られた
服を身に着けて寒くないかと
ぼくはいつも心配だった
でも触れてみると
やっぱり毛や綿で出来てて、
体温の、あったかい

いっこ、涙が流れる
ぼくはピアノが弾けない
あなたは中空で
鍵盤を叩きながら
また、泣く
陽射しが屋根と屋根の間から
漏れ出てくる
地平線からあなたが射抜かれる
ぼくは幻象じゃないから
あったかく、受け止める
人が死ぬ
半分も見えていない
太陽の裏側で
昼と夜とが混ざり合って
何も見えなくなるその
スケール、狭間、
黒く艶々したピアノに
ぼくは縋りついて
温かさがどんなものか知る

奏でる端から凍りつき
脆く、重く、
墜落して、水びたしになり
用いられる
幻象
という語彙、そして
幾度となくつまずくぼくが
あなたとなって
鍵盤を叩く、あなたは
鍵盤を叩く
あなたは泣く
ぼくは雪が融けるだけだと
言って聞かせる
あなたは泣く
冷たい雪の服を着て
陽射しはあまりにも繊細すぎて
横風に揺れる
あなたは泣く、泣きやまない
あなたはぼくから染み出す
影が二つできる、わけがなく
ピアノの艶やかな表面に映る
あなたの赤いマフラー
今もどこかで誰かが死ぬ
一秒ごとに人間が死んでいく
冬の、雪融け

さよなら
樹木は葉を落とし、
氷みたいな重たい雪も
その内ぜんぶ篩い落とすから
あなたは凍りついていくだけの
ピアノの楽曲を蹴散らす
幻象じゃない、
冬の夜が明ける、誰も幻象じゃない


Have a nice trip

  破片

そこにトリップがある。
目の前を通過していくバスの額には、知らない銀河系の名まえが記されている。路面を噛んで離さない車輪の溝に、いつの日か、人間の手で取りあつかえない鉱石の欠片が擦り込まれ、ぼくたちの瞬きの狭間へ、鋭く青い炎の閃きを残していくだろう。

そこにトリップがある。
ぼくは、つまり、一種の病気なんだと。誰にも伝わらない金属質の言葉を静かに訴え続ける。あなたは介抱してくれる。ダウンに落ちた、静かな高ぶりを、旅立たせてくれると、残るのはぼくだけで、少し雑に触れるあなたの指先はいつも、太く強靭な鋼線に区切られた青空を指したあと、消えてなくなっていく。あなたは解放してくれる。心に囚われていく、心が。ぼくを作り出す電気信号を導いて、いつも、正しい方向に。ただ、生活を忘れようとするぼくをいつまでも黙って見守り続けてくれていた。帰ってきたときは必ず、ぼくはあなたに惹かれている、あなたを忘れるまで。あなたのあったかい言葉の一つ一つが、いかなる言語にも翻訳できなくなって、あなたに恋しつづけたまま、言葉が声になり、そしてスケールもメロディもない音に成り下がるころ、青空の色合いは三回変わっているだろう。また再びあなたを覚える。

そこには青い炎と、旅路がある。
火は、水面の上の、
刻まれた模様が
すぐに均される
脆い道筋の轍を辿る、
だから青いんだよ、
外へ出ようとする
多くの乗客は
身じろぎもしないまま
ギリシャ文字の
四番目までを手に取り
全て
夢の中のことであれば
と、
祈る
一度も光ることのない
祈りの手つきの、

せんせい、
目盛りの中の、目盛りを、
あと、その中の
もっと小さな目盛りを
数えていたら、
暖かくなってきました
雪が、空中でとけていく
もう寒い日は
来ないのですね
あふれだす陽射しを受けて
せんせい、
前髪がそっと流れる
またいつか、

全ての整数が、1の倍数であると
誰も教えてくれなかった
永遠に連なる、数の車両には、
あなただけが乗り込んでいる
ぼくたちの大地から、
南十字星へと到達して、もっと長く、
永く

触れることができない、それは、凪いだ青空との距離に似ている。
空は見えている。指は届かない。ただ滑らかな表面を切り刻む鋼線にも。
そこにはぼくたちが通っている。ぼくたちはぼくたちに触れることさえできない。
無限には至らない距離を、ぼくたちは無限と呼んでいる。
人が死ぬことのできる電圧を通しておきながら、人はみな穏やかに暮らしている。

そこにトリップがある。
小さな渦潮が巻き続けて、いくつもの銀河になるこの海を、忘れることはできない。砂浜には眩しい石灰質の足跡が、保存され、打ち寄せる波が、それをずっと浚うことなく、ゆるやかにうねる。波間に浮かぶ何番目かもわからないギリシャ文字と、時おり弾ける新たな文字が、少しずつ海を揮発させていくだろう。産み出される銀河はどこまでも青く海の色をしていて、青く、炎の色をしていて、ゆっくりと、自ら蒸発し、絶えていく。すべての物質と、生命を燃やす海が干上がっていくから、箱舟はいらない。あたたかい手も言葉も。数を記すための指が残るはずもない。声に火が点く、青い海水が、車輪のついた鉄の箱を飲み込む。

解析され尽くした音階で、喋り声はぶ厚くたるんだ。縦、横、斜めに交錯する人々の赤らんだ表情がとても生々しくて、羨ましいと思う。静かに繋がれている手を引き千切る、奔流の中で、握り込まれて白くなった指の節々が、じんわりと感覚を放していく。
海からの風で、あなたは不機嫌になる。潮の香りは青いのに、悲しそうな顔をする。かなしい、と発音するための脈拍で、あなたの身体が透過していく。決して凍りつくことなく、そのあととけ出すこともなく揺らぎ続ける海面の中を、ぼくたちはずっと漂っていたいだけだったのに。冬の海の中を。冷たくも、あたたかくもなく、ただ炎が燃えることのできるだけの温度を宿して。

音階と、色彩と、
その二つに
ぼくたちは還元され、
いるはずのあなたが
いない
見えている、
いない

並置された宇宙や、
その中の銀河を
そして恒星と、
星座、新しい
文字の連なりと、
口笛を吹く
音に火が点り、
トリップという
言葉を囲う
いくつもの注釈を
数えて、
数に変換されたすべての、
硬くあたたかい文字を、
紙のように軽やかに
破り捨てていく

冷たい晴れの日に、
せんせい、
霜はどうして
寒い土の下が
好きなんですか
あったかい処に
生まれてみたいと
どうして
思わないのですか

季節が廻らなくても、
海は、熱いです、ね
爪先の届かない
深い処では、
また、かなしみに
青く暮れていく
ぼくたちが、生まれ、
生まれていることを
忘れるまで
燃え続けている
そこで、
少しずつ削られ
金属でできた珊瑚礁が
崩れていった
立ち上がる気泡の中に
超新星の熱と、輝きを
虹彩の、向こう側へ、と

せんせい、
あなたは、
日向が嫌いだった
ぼくの手の中に
深海の中央に
世界中を繋ぐ電導線に
目の前の雪解けにある
青い炎を
永遠に
見守り続ける恋人
トリップはまた、
ひどいダウナーみたいだ
青くて、そして冷たくも
あったかくもないけど
なんとなく、熱いよ
あらゆる音階が沈黙して
色彩は残らず青に
収束していく
言葉だったものが
悲鳴を上げて
分解していく
果てしない数の森に住む
せんせい、
あなたを残して、
どうして
右へ進むことしか
できないんだろう


春を慈しむ

  破片

花冷えという言葉をぐちゃぐちゃに砕いて踏みにじってから一日は始まる。きみはどうだろう。遮光できない薄っぺらなカーテンみたいな霧雨の降るこの日に季節感の損なわれた厚着をしてくる人たち全部、腐って汚らしい色した花弁の下に埋めて踏みつけにして歩いていきたいとそう思ってるんだろ。

爪先の高さに地平線。ずっと変わらない夜明け色の街並みを眺め下ろす。向こうにある何だか知れないただ高いだけの建物へと一足で飛び移る。この上空ではいろんな人たちが墜落していく。大丈夫。空も地面もなくなってる。夜明けの空と街と血管みたいな道路と、同じ色を共有している全てが融け合っていく。彼らは何でもなかったみたいにしてもう一度自分の足で立つよ。空だった場所に。空じゃなくなった場所に。彼ら自身の上に、下に。

まだ自分が喋るべき言葉を探している最中の幼い女の子がきみの頬に触れる。そこはびしょびしょだったけれど女の子は驚いただけで触れた手を引っ込めることはしなかった。大人から見たらひどく拙くそれでも最も強く真っ直ぐな言葉で、高い建物の屋上から飛び降りようとしてる場合じゃないよと言いかけたところできみが寒さに凍えて温かさをせがむような目で女の子の唇を見つめていることに気がついたから、ぼくは初めてきみに手を触れた。手を手で軽く上から押さえるだけのコンタクトが交わされて女の子は消えてなくなった。目の前のか細い金網の柵がとても高く見える。三日ぶりの晴天に温められていきながら凍え続けている。

指の間から抜き取られた一本の煙草を奪い返す。麻雀牌は強く摘むなと教える。埃をかぶらないギターには決して触らせない。この季節には部屋の空気清浄機を毎日連続稼働する。一緒にいる時スマホは見ないでほしいとお願いする。一緒にいる時コンピュータの電源は入れない。映画を見る時はホラーでなくても電気を点ける。

だから、いきなりきみに頬を張られた時、やっぱりな、と思った。

ぼくはどうしても墜落することが怖くて耐えられない。花冷えの季節が終わろうとしている。葉桜が一番乗りを高らかに宣言したら人は新緑に追い抜かれる。光がそろそろ人間にとって毒になるくらい太く眩しくなってきた。若々しい梢に砕かれた光の粒子を吸い込んだ時自殺しようと思った。今なら凍えることはないだろうって思う。ほんとうに唇が欲しかったのはいつもぼくだった。きみはそのふりが上手かったからふりだって気付かなかった。きみの唇じゃなかった。あの時きみを制止しておいてよかった。お母さんと覚えたての言葉を叫ぶ女の子が何事もなく駆けていってよかった。

きみはいつもふりだったんだ。これからはぼくも全部ふりで通す。手始めにきみに手ひどく振られて絶望と失意の内に自殺するふりをしよう。


みずのなかのおとうさんへ

  破片

あのね、
父性は遠い星座を象る
α星なんだよ、

幼い頃。
深さの判らないほどぶ厚い入道雲が恐ろしかった。
屋外での遊びを禁じられる台風をこの手でやっつけられないか考えていた。
飲み物はいつでも冷たくて真冬でも温かいものなんて飲みたくなかった。
終わってしまった短いたばこのフィルターに残る味を試していてゲンコツされた。
星が輝いていることをただ煌びやかできれいだと思えていた。
まあるく、やわらかな、じぶんのほっぺが、何よりも嫌いだった。

水位が上がって星を浸す
風が、止まない
あなたたちを追い越して吹く風は
とてつもない熱量で街を乾かした
蒸発した水の行き先は?
ここはきっと宇宙の最下層

見上げれば、
水底が大きな屋根だった

白銀と、濃紺のうねり、
沖から手紙が届く
触れることのできない
熱い筆跡を、いつまでも保存していたね

父よ

今から行く者のために、
天候は悲しげな相貌
まずは言葉を上書きする
言葉が上書きされて
上書きした言葉を水で上書きする

あなたたちはどこで呼吸してるの
液晶の海、可視化処理された素子となって
息吹を手放して、
温度を奪われて、
硬質で密度の高い疑似宇宙の
しがらみの中に瞬き
身じろぎさえ許されない、そんな処で

天候が変わる、また変わる
星々は霞む、
ぶ厚い天蓋に護られて
真空から逃げる
ひとびとの、嘔吐
その吐瀉物で、同胞をたくさん
救い出してきた

父よ

硝子細工の塔の天辺
碧く透き通る建造物から
あなたが飛び降りる
そこは空だよ。
自由落下には果てがあり、
空に殴られて人体は潰れるから
ひとは空に上がっちゃいけないんだよ。

とろ火でゆらゆら
星が煮立って
硝子の表面みたいな
光沢のある宵の下
燻されて美味しい
鮭のぶつ切りを肴にして
あなたはいつまでも、

さかな? 魚?
違う、さかな。肴だよ。
上書きされていく

ここは宇宙の底
なにもかもが乾いた電脳の界面
住んでいるひとはみな
星からの風にやがて斃れる
液晶を泳ぐ光子信号と、
質量を奪われた実体と、
それだけで水も炎も描き出せる場所

底。
ひとつずつ星座が崩れていくのにあわせて、
いくつものα星が落っこちていくのを見ていた
まあるくやわらかなじぶんのほっぺが、
ぼくは、お父さん、何よりも嫌いでした


正対する空白のための分割和音(重奏からなる)

  破片

煙草を一服する。
視座は連なり、順序の法則の中で燃え尽きるあなたの骸。
もう一度、煙草を一服する。
薄く伸びる煙を吐き出すたびに削り取られていくのは、いつだって。

昔はカリン塔より高い位置に空間は存在しないと思ってた。そこは地球上の場所として認識されるべき成層圏内でも、宇宙でさえなく、その間にぽっかりと生まれ落ちた無だと、思ってた。誰の目にも触れない場所だったから。

紙面に記述された神話の頁を破いて、男性は解き放った精液を拭う。一面の荒野だ。ウルルを砕いて敷き詰めたみたいな色彩の中で、粘性の高い水分が荒れ果てた大地に捌けて引き千切られていく。そんな時無数の言葉が降ってきたとしたってどうしようもないだろう。たとえばそれが恋人を慰めるための水っぽい口づけに変わるとしても。男性はね、一行の文章があれば射精できるんだよ。
雨が降ればいい。できれば誰かの熱を飛ばしてやれるくらいに冷たい雨が。幼い女の子がレイプされないように。乾き切ったものを全て両手に抱いてくれるように。

自分の頭に突き付けたショットガンをぶっ放したKurt Cobainも、泥酔した状態でガードマンと乱闘してぶっ殺されたJaco Pastoriusも、同じ人間だとはどうしても思えない。生まれ変われないまま、巻き戻しも叶わないまま、彼らは死に終わるまで死んでいる。他の誰も立つことのできない視座は空っぽのままいつまでも残っているだろう。埃をかぶって重苦しく凝り固まっていく人間の行き先には鈍色の曇り空が広がる。あなたはいつだってその光景を見てきた。数多のミュージシャンが歩いて行く、撮影された写真のようなうつくしい正確さを持った、その場面を見てきた。
あなたたちを愛してるのに、どうして宛先が見つからないのだろう。海と空とが仲睦まじく色合いを揃えて、ぼやけたものをそのままに遍く抱きしめる。打ち寄せる波の飛沫から立ち上る、乾く間際の血のにおいだけがあって、あなたたちはそっと投げ渡される愛に応えることもできない。

煙草が短くなる。
宵闇を透す街並みは大きな棺としてあなたの身体を受け止める。
吹きすさぶ太陽風で、
削り取られていくのは、有機物だけが持つ絶え間ない循環だった。
一切の音が聴き取れなくなる、
その奔流を音楽と呼ぶのなら。

やがて太陽は世界へと接近してきて、連続性の途切れない街並みにも夏という新たな銘が追いつくだろう。
アコースティックギターの柔らかなエコーが掻き消されてしまうほどの熱気と喧騒があなたの元にもやってくるから、そんな処で一人、楽器を携えていても仕方がないよ。いいから財布と携帯電話だけ持って女の子とセックスしに行けよ! 余計な物は持っていかなくていい。あなたの人生を支えてくれるクソ真面目な読み物も、気が狂ったみたいに金を注ぎ込んだ楽器も、何もいらない。あなたの渇望を満たしてくれるのは、夏である今はたぶんセックスだけだ。あなたも女性が好きな男性であれば、難しい読み物の代わりにただ甘やかしてくれる声があって、爪弾く楽器の代わりに誰かの乳首があって、それだけで良いと思うんだ。あなたを呼ぶ声が聞こえる。小型のスピーカーとマイクが搭載された携帯電話から。
全ての人体が腐り落ちる前に、人間は地上に根を生やすべきなのかもしれない。その時どんな色の枝葉が伸び、どんな色の花が咲くのかまだ誰も知らない。もしかしたらそれは思わず自ら目を背けたくなるようなおぞましく醜い生き物かもしれない。でもどうやって人間だったそれが、人間だった時の過程と技術を踏まえてセックスするのかは、ひどく気になる。夏だから煙草は控えるよ。なんだかニヒルやクールを気取るのは許されないような気がして。
高鳴る心臓が不整脈にひどい雑音を差し挟む。あらゆる方向に伸びあらゆる方向から集まる交差点をおんなじ顔した人々が退屈そうに行き交う。星が滴り落ちる月無しの盆の夜に怒号が飛び交う。自分のためだけに歌を歌って、あなたのためだと言って別の誰かをぶん殴って、違法な薬物を服用して季節を聴いて、血行の良くない痺れがちな足を引きずって近場の浜辺まで出かけていく。そんなに苦しいなら一回死んでみてもいいんだよ。

いつもあなたが昇る、
stairway to heaven
すれ違いのない道のり
立ち止まる前にはいつも
toとheavenの間の
無限にも等しい
発音の断絶が襲いかかる
あなたはあなたじゃなかった

・You know you’re right
 火葬された骨があんな色になるなんて誰か知ってたか。俺のじいさんが粉微塵にされて出てきた時、僅かに残された骨の塊は翠やら蒼やら不思議な色をしてたよ。清潔な火葬場に存在しない死臭を嗅ぎとって、周りの人たちは静かに啜り泣いていた。
 遺影にはいつまでも若々しいあなたを、棺には駆け抜けて疲れ果てたあなたを用いて、そしてみんなは必ずそのどちらかに縋りつく。吐き気がした。顔の部分だけ窓みたいに開くことのできる棺に、閉じられる前の棺の中に並べられた滅びかけの花束に、爬虫類の鱗みたいな顔に。その頬に、吐瀉物をぶちまけてしまいそうだった。
 あなたはどうして自分が、未だに誰からも殺されずに生きているのか不思議でしょうがないと零した。年端もいかない小さな女の子の身体に性愛を注ごうとするあなた。隆起のない穏やかな肉感の乳房に狂おしいほど惹かれていると言った。人体の中で最も肌理の細かい幼い女性器ほど魅力を感じるものはないと言った。色目や下心から縁遠そうな純真で真っ直ぐな人格こそ愛すべき人物像そのものだと言った。まあ、垂れ下がりそうな皮の中に腐肉を詰め込んだような老いた人間をレイプするのと同じくらい正常だよ。そう言って俺は殴った。
 噴水のある広い公園では幼い子供たちが休むことなく走り回っている。パタリロの中で男の子の靴には羽が生えているという一節を読んだことを思い出す。羽が生えているから、どんなに飛んでも跳ねても立ち止まってしまうことはないという。あの子たちを焼き払えばさぞかしきちんと骨が残るのだろう。遺影には一切の脚色がなく、命を欠落してなおその頬は柔らかいままだろう。
 あなたはどこに行くつもりなんだ。
 誰かが俺を殺してくれると信じてるんだ。

 また再び取り換えられた銘が声を媒介に伝わり染み渡っていく。
 気候は、いつしか土着するようになって、

・November rain
 パイプオルガンは祝福と神聖をノートするための道具であり、用いられる論理は人間へと降り注がなければいけない。組み上げられ築かれたものは余すところなく音へと還元され、与えられた熱が冷めてしまった人々の心に、もう一度火を灯すために鳴り響く。旋律と呼ぶにふさわしい見えない流れの中に放り出されている人と人とが、流れていってしまわないように手を取り合うと、november rain、死に終わったミュージシャンが涙を流すおばあさんのためにその席に着く。
 少しだけくたびれた青空が、おだやかに、真っ白な棺を運び、送る。収穫されたさつま芋の温められた氷砂糖のような甘さを、忘れることができないのに、わたしは赤土の荒野に立ち尽くして独りで射精している。
 記述される前の神話があるために、人は生きている。神話に書かれたように人は人を愛して、身体が濡れる雨には恵みを読み取り、樹齢数百年の大木をも瞬く間に断ち割る落雷には断罪と怒りを解釈する。
 あなたには、もう風化してしまった物語のたった一行さえも壊すことができない。でも、そんな人間だからこそ生涯の伴侶を見つけ、婚姻を結ぶことができるのでしょう。誰かと結ばれずに朽ち果てた人々は、新しき、旧き、西の、東の、どの物語にも登場しない。真空へと放り出され、星になることも出来ず、呼吸が止まり身体の中から爆ぜて跡形もなく飛び散るのでしょう。

逆さまの、
街路樹が枯れ落ち、
今までの世界を
執拗なまでに見つめていた
ひとつの視座が
転覆すると、
あなたは音もなく死んでいく
残された唇には
火の点いた煙草をあげるよ
いずれ燃え尽きたら
その骸に火が移るように

暑くなり、寒くなる、を繰り返し、血の滲むようなざらついた声で誰かのために祈ることがあるなら、何度だって限りない熱を求めてほしい。

あなたは、あなた、
ではなくなって、
あなたは別のあなたになり
あなたは空っぽのまま
取り残されるから
そこにはまた、
あなたが生まれる
連なりが崩される
あなたではないあなたと
あなたであるあなたが、
焼かれて骨になった
わたしの、場所に、
空は巡り、星が落っこちて
落っこちた処では
穿たれた巨大な虚空に大反響した、音楽が、迸る。


邂逅

  破片

 しあわせが燃え上がり、足跡だけが増えていく。二十秒の苦しみと、青くなくなったものたちをすりきり二杯、ゆっくりと、噎せ返らないように吸い込めば文明の体温に酔っ払って、いつまででも眠れそうだと思えるようになる。はじめまして。未だ出会ったことのない人たちと出会うことで、かたちなき足跡の主は、存在する青いものの全てに火を点けて回る。

 指先がふれあうと星が生まれた。それはとてもかなしくて、空っぽだった。夜の向こうに朝なんてないってこと、知らなかった頃に帰ろうと思うのに、人間みたいには消えてくれないあの星がまたたき続けているから、地上のどこへ行ったとしても思い出すことになるのだろう。順接の優しさにもたれかかる姿は、醜いだけだから、ふれあった指先をねじまげて手折ることにした。

 いたみを歌声に、いとしさを嘔吐に映し出す。吐き出される無数の蛹たち。みんなの羽化を待っているあいだ、銀翼をはためかせる鳥たちが見せつけるように飛翔している。早く上がりたいね。知らない顔、知らない声を踏みにじって、切り貼りされた空の継ぎ目をもう一度引き裂いていくその循環が赤く、送電線の被膜の内側で束ねられたままじっと身を潜めている。蠢く蛹たちの生命に寄り添う、菌糸にも似た日々。

 一つの切れ目もない曇天の下で、上昇の軌跡は、線分として貶められる。深く切りすぎた爪を悼む少年はまだ、愛を口にすることができない。言葉を溜め込んでいくための喉ぼとけはまだ薄いから、うわずって飛んでいくだけの声はどこにも着地できずにちぎれていくから。直線にも似た終わりのない航路を進み続ける踵に、誕生の祝日から飛び立った炎が迫る。そしてまた貶められる。凍えるほどに冴えた青空の下で。

 均一だった砂浜の地面をおびやかす足跡が、行方の知れない生命の寄り代となり、繁殖を繰り返している。はじめまして。たった今生まれたばかりの少年たち、そして少女たち、生まれたら、朝が来た。来るはずのなかった朝だ。こんな日には人間だって鳥のように空を飛べるだろう。上がっていったら空からの殴打をかわして、どこまでも果てることなく飛行し続けていけばいいと思う。絡み合う睦言から作り出されたいくつもの帰結を、きみたちだけは持たない。その身軽さをもって。

 青くないものを追いかけて、ときどきは浮遊する肉体を繋ぎとめて、何度目かわからない、たった一度だけ使えるあいさつを交わす。空と海が見えなくなる場所で、あかるくうつくしいだけの夜明けを背に、まだ動けなくなったままでいる人々の呼吸が、いずれ聞こえてくるように祈りながら、耳を澄ます。
 はじめまして。はじめまして。はじめまして。
 日食の起きなかった正午、それぞれが息づいてから集合していくしあわせの、描くもの、炎に焼かれながら失われない人の論理、足跡を数える、数えきれない、はじめて見つけた痕跡が減ってから増えて、そうしてまた減る、二百八十四人目、生まれたときから少年だった、目の前で浮かび上がり空へと落ちていくのを、見ていない、大脳の右隅に炸裂するはじめての誕生日を意識として摂取することが、できなかった誰かがいる。夜。朝。昼。はじめまして。


訪問

  破片


きちんと丈の詰められたジーンズの裾から
生活が侵入してくる
足の向く先すべてに、
ぼくの虚像が立っている
冬至を迎える、その日まで
削り取られるだけの昼を辿っている
ねえ、その丘の上に
夕焼けが落ちてないですか

はじめに心を捏ねまわす
球体の表面を覆う繊毛が
ぼくたちなんだよ
風邪を引けば抜け落ち
痛みと共に血が流れる
目覚まし時計が鳴き喚いて
身体を起こすヒトの朝
窓から見える向かいの家が
恐ろしい速度で焼け崩れていくのを
ぼんやりと見ていられるのが
ぼくたちだ

涸れてしまった夜の鏡面に
支えを求める手は
ずっと虚空を掴んだまま
寝苦しさに開いた眼が
永遠に続くかもしれなかった黒の反射を
引きちぎる一粒の過去を捉えた
夢で見た一切のものを放り出して
明日という日を時の流れで繋ごうとする
最後の一粒を飲み下し
また上に重ねるように
たくさんの錠剤を空いた瓶に詰めるだろう
交錯が終わらないのだから

落としたものを拾い上げるために
つらくても朝、起き出すこと
海も街もそして夕焼けも
ぼくのものではないということ
ぼくたち、という
複数代名詞をつくるのが
ぼくだけだと、いうこと
ここに夕焼けはありませんでした
こま落ちした映像を見ているみたいに
今日が終わった

袖の隙間から手首を伝って
人の命が流れ込んでくる
葉を散らす過程を見せずに木は立ち枯れ
一つの生活が終わろうとしている
ここにはぼくしかいないけれど
うつろう星座の向こう側には
凍えた主格を封じ込めて巡る時代が
すぐそこまでやってきている


雨上がりの夜

  破片


夜更けすぎ、雨は上がった
おはよう、
と、まろび出た月明かりに
夜は青くにじむ
星がいっそう燃えさかり
微かな苛立ちとともに
瞬く、消えそうな輝き、
遠くで風が鳴って
影絵の学校の門が鳴って
通り過ぎた足音が
ふたたび鳴って、
ゆるやかな勾配のふもと、
てっぺんのその先は見えない
見なれた道の続きが
とりのぞかれて
切り立っている
そら寒いほど白い
光がわだかまり
浮かぶ夜との繋がりを
引き裂かれて、できた
空白を埋めるために
あそこの中空を漂う風
だんだんと、
道の先から削られて
悲鳴は音を高くし
月明かりと、作られた光と、
溶け合って
ただ正面に見据える
空白だけが変わらず、迫り
誰も通らなかったはずの路地
縞模様の野良猫へ
兆すはずのなかった動揺
ここは、どこにでもある
果ての一歩手前。


人の行い

  hahen

“悲しい”を仮名に開く。
<〈かな〉しい>
仮名に開いても〈かな〉しい、
〈仮名〉しいにはならないで、
退行したら、
浮かばなくなった
決定されない「仮名」のまま
少しずつこの星は傾いていく。
自転軸を示す、一本の鋼の心棒が
こちらに突き立つまで。

いくつもの人を、
殺してきた。
わたしたちは、とても小さく、
この地上から飛び出すことは
できない。
<地上>
の、
上には、記述がある。
摂取できない存在の
面影が映写されて、
今日も、わたしたちは
あなたたちを殺す。
どうして〈ちじょう〉は
踏みしめられた
“大地”を、
示さなくてはいけないの。
<地下>は? どうして?
示されなかった“全て”を
〔全てを/総てを/凡てを〕すべて
〈うしな〉ったら、きっとわたしたちも
殺されるね。

あなたたちの温かみを、
その生ぐささを
染み込ませていくことで
血流に溺れる
佇立しているそこ、が
〈ちじょう〉だよ
“大地”を捨てて、

喪われた
その声を記しておきたかった
声は、“声”でなくなる
そのことを
わたしたちは創造と
呼んで、いなかった?
“声”は
殺されているよ、いつも。
決して、決して
飛び出せない。
わたしたちに声を手にする
資格はありますか。
〈請〉を。違うよ、
〈声〉を。

テクストは、いつも数を定めて、つくられていてほしい。

『散/「」−文』は、そう、〈できるだけ〉静かに。錯綜してはいけない。錯覚はいつも、間違いの先から渡ってくる。錯角を注視されないように、入り組んで交わったその点を見せる時は、色鉛筆で印象を描く。そうだった。出来るだけ静かに。いできたる静けさを、直截、綴ってはいけない。そうだった。星空から雨が降っている。傘は差さなくていいみたい。今夜降ってくるのは文字だって、天気予報で言っていた。

 ぼくたちは立っている。退屈がうずくまれば、あやすように歩き回った。足音は、現在までに過ぎたる人生よりもたくさんの砂粒に、飲まれ、その柔らかな踏みごたえに満たされたら、退屈は、ぼくたちの中から吹き消されていく。
 気付いているだろうか。
 ぼくたちが喪った、退屈を始めとした情感はすべて、“大地”に吸収されていくこと。何もかも循環していること。ほら、きみ、誰だか知らないが、きみの退屈や憐れみがぼくの身体を流れる。ぼくたちはしょっちゅう、他人の有機的な信号に感電しているんだ。
 〈き〉が、ついて、いるだろうか。
 そこいらに落ちている〈始め〉は拾わない方がいいと思う。「始」まれば、ぼくたちは掬われて連れて行かれる。そうして産声を、生きるために、摘出される。けれど“すくわれ”ない。あなたたちも「始」まらなければよかったのだけれど。でも、ぼくたちは、“あなた”に今感電して、“あなた”は〈ぼくたち〉へと――うばわれて、そう、奪取されて、ここにそれぞれ、立っている。
 それはもうすぐ終わるかもしれないけれど、現在、確かなことだった。
 星が流れて、文字が、追いかけていく。いつになっても天の窓は開かれているものだった。不定期につい、と走る火球は<地上>を知らない。だからこそ、そのいとおしい財産を分かち合うことができている。傘は、やはり不要だった。そのかわり双眼鏡は持ってくるべきだったかもしれない。降り注ぎ燃え尽きる文字群は、〔宛名〕の〈な〉い“葬送”曲、仮名で呼ばれることに、とても不満だろうから。
 この〈ちじょう〉は寝返りを打つようにしてたまに傾く。そういう時、流「字」群の織り成りは波打ち、火球は隕石と〈名〉って、ただ立ち尽くすぼくたちを、目がけて、墜落してくる。いくつもの文脈がぼくたちを蝕んでいくのだった。食い破られ、引きちぎられたぼくたちは、今になってようやく血を流した。夥しい人影が集結してその中を、泳ぐように遷移しながら、社会を営む。
 おはよう。おはよう。はじめまして。
 この血の海で、〈ぼく/たち〉は、その界面で、佇−立する。

 あなたは、ぼくだ。ぼくたちは、あなたたちだ。
 それはこの血液が循環している限り、そう、あるだろう。
 地上でもっとも、縁の遠い、相関図の原初だ。

『散文』は終わる。

書き忘れてしまった一語があった。
航行制御プログラムに従い、
航空機は“地上”へと落ちるだろう。
それは星でも、文字でもない。ましてやテクストでもないし、
銀河鉄道みたいな、抒情あふれるメタファでもない。
たった一つ、落下したり、堕落したり、欠落だらけの
ぼくたちの中で、たった一つ、
飛び出していけるはずの〈声〉をぼくたち、自身が、
取り落としたんだ。

“惑星”は、<方 向/く>。ぼくたちへ。そう自らの内側へ。
〔〈ぼく〉たち〕は殺されるだろう。〔“あなた”たち〕に。
あなたたちは殺されるだろう。ぼくたちに。
ぼくたちは“ぼくたち”をもう一度、
殺して、
新しい、生命の息吹が、まだ幻影である内に、
かなしみを飛び越えて
行かなければいけない。「ぼく」は、それを創造、と、呼んでいなかったか?
創造、なにもかもが喪われた。
追い求めるもの、冀うもの、あらゆるものを
ぼくは<そう−ぞう>しないといけない。
鋼の心棒が、その先端が〈ぼくたち〉を貫く。
声を上げてはいけない。それは創造されなければいけない。

文学極道

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