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2020年06月分

次点佳作 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一八年五月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年五月一日 「迷惑メール」

迷惑メールが何通もくるのだけれど、いま見たら、「ワンナイトラブでかまいません。」と書いて、女の名前で書き込んであるの。笑っちゃった。こんなメールに返信するひとっているのかな。あと、お金を振り込みたいので、口座番号を教えてくださいっていうのも、よくくる。見ず知らずのひとから、笑。

二〇一八年五月二日 「The Wasteless Land.」

いま日知庵から帰った。帰りにセブイレで烏龍茶を買った。ちょっと、ほっこりしてから寝るかな。

Amazon で『The Wasteless Land.』が売れたみたい。うれしい。ぼくの第二詩集で、文体も、あれ以上のものは、その後、先駆形という『みんな、きみのことが好きだった。』の前半に収録したものしかないような気がする。あ、引用詩や『全行引用詩・五部作・上下巻』があったか。一冊ずつしか売れないというのは、いかにも、ぼくらしい。ほんとうに、一生のあいだ、無名の詩人として過ごすのだと思う。まあ、芸術家なんていうのは、無名の時代が長い方が、深い生き方ができるような気がするから、それでいいのだけれど。死ぬときに、人生を振り返って、ふふふと、笑えればいいかな。

二〇一八年五月三日 「無為」

いま日知庵から帰った。帰りにセブイレで買ったパンを二つと烏龍茶をいただいて寝る。きょうは、読書は無理かな。あした、上履き、洗濯しなきゃ。

二〇一八年五月四日 「マイケル・ムアコック」

きのう、マイケル・ムアコックの短篇を読んでて、あまりおもしろいものとは思えなかった。

きょうは数学の授業の予習をしようか。2時間の授業の予習に半日くらいかかるのだけれど、やはり齢をとったとしか言いようがないな。

二〇一八年五月五日 「玄こうさん」

いま、日知庵から帰ってきた。きょうは、玄こうさんがお客さまとして日知庵にきてくださった。吉増剛造さんと会って、直接、お話をなさったみたいで、ぼくも、ぼくのことをさいしょに認めてくださったのが、ユリイカで吉増さんが詩の投稿欄で選者をしてらっしゃったときだったので、なんか、つながりを感じてしまった。

ぼくは単行本を買ったけど、文庫本になってるんだ。おもしろかったよ。レイ・ヴクサヴィッチ。レイ・ヴクサヴィッチの文庫本は、単行本のものに1篇くわえてるんだって。そういうのやめてほしい。きょうの寝るまえの読書は、時間SFアンソロジーのつづきにしよう。ウィル・セルフの短篇、ちょっと、つまんなくなってきた。

二〇一八年五月六日 「時間こそ、もっともすぐれた比喩である。」

6月に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する作品の仕様を、投稿用にし直していた。こんなことを20年まえのぼくは考えていたのかという思いがした。いまのぼくなら、ごく簡単に書いてしまうところを、みっちりときっちり書いているのだなあと思った。

きょうは一日をかけて数学の問題をつくる。きのう、寝るまえに時間SFの短篇集に収録されているさいごの作品を読んだ。結末がブラックで、現実的だった。いま話題の政治的な話に通じる暗い結末だった。明るい結末にもできたと思うのだが、あえて暗い結末にしたのだろうな。人間の欲望と愚かさ。

ちょっと休憩。

半分、終わった。コーヒーを淹れよう。BGMは70年代ソウル。

時間こそ、もっともすぐれた比喩である。

この世界の在り方の一つ一つが、一人一人の人間に対して、その人間の存在という形で現われている。もしも、世界がただ一つならば、人間は、世界にただ一人しか存在していないはずである。

窓ガラスに、何かがあたった音がした。昆虫だろうか。大きくはないが、その音のなかに、ぼくの一部があった。そして、その音が、ぼくの一部であることに気がついた。ぼくは、ぼく自身が、ぼくが感じうるさまざまな事物や事象そのものであることを、あらかじめそのものであったことを、またこれから遭遇するであろうすべてのものそのものであることを理解した。

わたしを知らない鳥たちが川の水を曲げている。
わたしのなかに曲がった水が満ちていく。

一科目だけだけど、数学の問題ができたので、印刷した。時間があまったので、7月に文学極道に投稿する作品も、文学極道の詩投稿掲示板に合わせた仕様にし直した。でもまだ、時間があまっているので、8月に投稿するものを、これから仕様変更しようと思う。きょうはパソコンにへばりつきだ。


アインシュタイン読点

アインシュタインの言葉をもじって
文章で格闘しているひとたちが
みんな感服するような作品が書かれてしまったら
あとはもう棍棒のかわりに
読点を手にもって
殴り合いをするしかない
っちゅうたりしてね。


まだ9時30分。文学極道に投稿する作品を、10月に投稿するものまで決めてしまおうか。あと4作品、過去作品をいじればいいだけだけど。自分の作品を読みながら、作品の順番を考えるのって、けっこう好きな作業かもしれない。数学の問題を除くと、いや除けないか、自分のつくったものばかり見てる。

作業終了。10月までの投稿作品を決めた。仕様変更も終了。寝るまえの読書は、レイ・ラッセルの『インキュバス』 おおむかしに読んだことのあるものだが、一年以上もまえかな、ブックオフで108円できれいな状態で売っていたので買っておいたのだった。ウィル・セルフは、ちょっと中断しようかな。

大粒の雨だ。雨の音にはイライラさせられる。という詩句を、ユリイカの5月号に書いてた。雨の音を聞くと死にたくなるのは、ぼくだけだろうか。

自分の作品が頭に引っかかっていて、読書に専念できなかったので、文学極道に投稿する作品を11月までの分を決めて仕様変更してた。8月まで引用の洪水である。とりわけ、8月の2回目の投稿作品は、怒涛のように引用している。もちろん、以後の作品にも引喩は用いている。

二〇一八年五月七日 「Ommadawn」

文学極道の詩投稿掲示板に、新しい引用詩を投稿しました。よろしければ、ごらんください。タイトルの「Ommadawn」はアイルランド語で、愚か者という意味らしいです。

仕事帰りに、王将で餃子定食と瓶ビール1本食べ飲みしてきた。きょうは、残りの時間は、読書に費やす。ウィル・セルフの短篇集のつづきを読む予定だけど、夏くらいからは、持ってる詩集の再読にかかろうかな。なんといっても、詩の刺激に比べたら、小説とはまったく違ったものだからね。

わ〜。考えただけで、ぞわぞわっとしちゃう。去年、蔵書の半分は、友人たちに譲ったけれど、詩集は一冊も譲らなかった。ひゃ〜。ジェイムズ・メリルとか読み直したら、また霊感がめきめきつくんじゃなかろうか。楽しみ。ぼくの詩ももっと刺激的なものになるかも。どれから読むかって考えただけで感激。

ウィル・セルフの短篇集、あまりに退屈で、読んでて途中、居眠りしてた。車の話がえんえんとつづくなか、女性とのやりとりに出てくる比喩表現があまりに出来が悪いと思った。収録作さいごの作品を読みはじめて、もう11時を過ぎているのに気がついて、あわててお風呂に湯を入れはじめた。風呂に入ろ。

レイ・ラッセルの『インキュバス』は、さいしょのページを読んで、げんなりしたので読むのをやめたのであった。お風呂に入って、あがったら、ウィル・セルフを読みながら寝よう。麻薬の話だ。バロウズより具体的な感じはする。時代性かな。まあ、じっさいのところは、ぼくはぜんぜん知らないのだけど。

二〇一八年五月八日 「ウィル・セルフ」

ウィル・セルフの短篇集『元気なぼくらの元気なおもちゃ』を読み終わった。連作が2組入っていて、さいごに収録されていたものが、冒頭に収められていた話の続篇だったのだけれど、とても出来がよくって、おとつい読んだものがよい出来だと思えなかったのだけれど、読み直すと、悪い出来ではなかった。

きょうから再読する奇想コレクションの1冊は、コニー・ウィリスの短篇集『最後のウィネベーゴ』 これまた、ちっとも物語を憶えていない。彼女の『航路』は下巻に入ると、上巻にふりまかれていた断片がきゅうに集まり出したのに驚かされたけど、この短篇集は、どれくらいこのぼくを、楽しませてくれるかな。

これから日知庵へ。

二〇一八年五月九日 「ボロボロ」

ぼくは3か所で働いています。きついですね。身体がボロボロです。

二〇一八年五月十日 「コニー・ウィルス」

いま日知庵から帰ってきた。セブイレで買ったパンと烏龍茶を食べ飲みして眠ろうと思う。寝るまえの読書は、コニー・ウィルスの短篇集のつづき。やっぱり、おもしろい、コニー・ウィルス。

二〇一八年五月十一日 「コニー・ウィリス」

コニー・ウィリスの短篇集の会話部分が、ほんとうに巧み。よい文章を読んだら、ぼくの文章がよくなるというわけではないけれど、そうであってほしいという気持ちはある。いま、ようやく半分くらいのところ。もうちょっとしたら、コンビニにパンと烏龍茶を買いに行こうっと。お昼は王将でランチ(肉みそラーメン+天津飯)を食べたけど、あした早朝から仕事なので、きょうは早めに晩ご飯を、しかも軽めに食べてお風呂に入って寝ようと思う。睡眠薬が重い食事だと効かない。

二〇一八年五月十二日 「コニー・ウィリス」

きょうは、一日中、コニー・ウィリスの短篇集の読み直しをしていた。どの話もちっとも記憶してなかった。さいきん、短篇集の読み直しをしているのだが、憶えている話は、1冊につき、0から3話くらいである。たいてい0話なのだから、まるで、新刊本を買って読んでいるような気分である。あと数十頁。

コニー・ウィリスの短篇集、よかった。今晩から、再読する奇想コレクションの1冊は、パトリック・マグラアの『失われた探検家』 これまた1つも話を憶えていないのだけれど、めっちゃおもしろかったことだけは憶えている。考えれば、不思議なことだけれど。

二〇一八年五月十三日 「数学エディタ」

数学エディタが使えなくなっている。マイクロソフト社が数学3.0を削除したらしい。知らなかった。きょう、はじめて知って、超あわてている。どなたか解決策を教えてください。

テスト問題が手書きの時代がなつかしい。手書きだと数学の問題は1時間で書き終えられるけれど、ワードだと3時間近くかかってしまう。さきほど、お電話をくださった数学の先生に、こんどスタディーエイドという数学ソフトの使い方を教えていただけることになった。うれしい。いまより速く書けるかな。

詩の原稿と同じように、数学の問題も、何度も見直している。見落としがあってはならないからだ。9時半から、もう何回も見直したけれど、もう一度、見直して印刷しよう。

きょうが、もう終わる。一日中、ワードとの格闘だった。そろそろお風呂に入ろう。

二〇一八年五月十四日 「ペペロンチーノ」

ペペロンチーノにした。大盛りだったけど。ひゃ〜、血糖値315だった。

二〇一八年五月十五日 「パトリック・マグラア」

パトリック・マグラア、おもしろい。じっくり、ゆっくり楽しみたい作家。これからお風呂に。寝るまえの読書は、マグラアの短篇集のつづき。

二〇一八年五月十六日 「毎日がジェットコースターのように過ぎていく。」

毎日がジェットコースターのように過ぎていく。寝るまえの読書は、きょうも、パトリック・マグラアの短篇集。むかし読んだときもおもしろいと思ったと思うけれど、57歳になったいま読み返してよかったと思う。齢をとってからの読書もいいものだなあ。若いときには感じられなかった感覚もあるのだね。

二〇一八年五月十七日 「無感想」

いま日知庵から帰ってきた。きょうは客として。あしたはアルバイトとして入ります。京都におこしの方は、焼き鳥屋の日知庵(ぼくは、にちあんと呼んでいるけれど、正式には、にっちあんというらしい。)にぜひ、足をお運びになってください。

パトリック・マグラアの短篇集、翻訳もいいのだろうね。じっくり味わっています。いま、半分くらいのところ。すごい作家って、まだまだいるのだろうけれど、再読で、これだけ感心したのは、はじめてかもしれない。

いま書店にある、ユリイカの2018年の5月号に詩を書いているのだが、だれひとりとして、感想を聞かせてくれていない。だれひとりとして読んでくれていないのだろうかとか思ってしまう。悲しいが、現実を受け入れるしかなさそうだ。57歳。詩を書くことしかない人生だが、むなしい、かなしい人生である。ううん。

二〇一八年五月十八日 「網野杏子さん」

網野杏子さんから、フリーペーパー「NEXT」を送っていただいた。ゲスト詩人として迎えてくださり、たいへん光栄に思っております。網野杏子さん、竹中優子さん、葩汀李礫さんのお3人ではじめられたようです。ぼくは4頁の作品を書かせていただき、「田中宏輔から田中宏輔への五つの質問」に答えています。

いま日知庵から帰った。寝る。

二〇一八年五月十九日 「睡眠薬が効かないので」

睡眠薬が効かないので、もう一日分、のんだ。寝たい。

二〇一八年五月二十日 「廿楽順治さん」

廿楽順治さんから、同人誌『八景』四号を送っていただいた。廿楽さんの作品「巡景」は、12ページにも及ぶ大作で、つながりがなさそうな短詩の集積のような感じである。西脇順三郎を思い出した。小説と違って、論理整合性とかと、いかに詩が遠くはるかな場所にいってるのか、よくわかる詩篇だと思う。

いま洗濯ちゅうで、干して、まだ元気だったら、ジュンク堂へ行こう。買いたい詩集が3冊と、小説1冊があるのだった。近くの書店には、買いたい詩集が1冊あったのだけれど、カヴァーの背が折れていたので買わなかった。

ジュンク堂へ。

ジャック・プレヴェールの詩集を買ってきて、いっしょうけんめいに、「自由」ってタイトルの詩を探したけれど、なかったので、講談社版・世界文学全集・48『世界詩集』にあたったら、載ってたー。これ、ポール・エリュアールの詩だったのね。記憶違いもはなはだしいね。ちょっと、しゅんとなったわ。

きょう、ジュンク堂で買ったのは、『プレヴェール詩集』、フアン・ルルフォの『燃える平原』、『ウンガレッティ全詩集』、『クァジーモド全詩集』の4冊。ぜんぶで4300円弱だった。ルルフォのは短篇集なのかな。楽しみ。ふつうは、詩は小説と違って、読むのに時間がかからなくていいな。短篇集も。

ジュンク堂の帰りに日知庵に寄ってきた。あしたは学校があるので、ビール2杯で帰ってきた。帰ってきたら、岩波文庫の新刊4冊を目のまえにしてニタニタ、ああ、ほんとに本が好きなんだな、ぼくは、と再認識した。「自由」という詩がエリュアールの詩だって気がついて、顔から火が出るほど恥ずかしかった。

パトリック・マグラアの短篇集『失われた探検家』を読み終わった。おもしろかった。きょうから再読する奇想コレクションのシリーズは、タニス・リーの『悪魔の薔薇』 タニス・リーの長篇はいくつかファンタジーを読んだけど、そうおもしろくはなかったと記憶しているけど、この短篇集はよかったかな。

ひさびさに「きみの名前は?」を発見したのだが、これは、詩篇『HELLO IT'S ME。』に加えるのは控えよう。岩波文庫『ウンガレッティ全詩集』の解説(534ページ)にある言葉だからだ。残念。いま、『ウンガレッティ全詩集』の解説を読んでいる。ぼくは詩集や小説を解説から読むことが多いのだった。

タニス・リー、ほっぽり出して、あしたから詩集づけになることにした。

二〇一八年五月二十一日 「ウンガレッティ全詩集」

『ウンガレッティ全詩集』まだ70ページほどしか読んでいないけど、超つまんないの。ぼくがモダニズム系の詩人やシュールレアリスムの詩人が好きだからかな。めっちゃ平凡な詩句がえんえんとつづいていて、びっくり。ぼくの目がおかしいいのかな。ぼくの解釈力が劣っているのかな。とっても退屈。

そいえば、ぼく、むかし、ウンガレッティの詩をなんかの詩人たちの双書みたいなシリーズで読んだ記憶がよみがえってきた。学校の図書館で借りて読んだ。買おうとは思わなかったんだ。岩波文庫のは買ったし、さいごまで読むけど。

いま170ページまで読んだけど、メモするところ、3カ所だけだった。詩集にしては、きわめて少ない。パウンドやエリオットやD・H・ロレンスやディラン・トマスやジェイムズ・メリルと大違い。でも、メモした3カ所は大いに活用できるところだった。

メモの数が増えてきた。ウンガレッティ、悪くないかな。よい、とまでまだ言えないけれど、ぼくのことだから、メモばかりしてたら、そのうち、よい詩人だなあと思うようになるような気がする。ジェイムズ・メリルのような霊的な感じはまったくない。メモしているのはレトリックの参考になるところだけ。

これからお風呂に、それから学校に。きょうは通勤電車のなかでも、ウンガレッティを持って行って読む。霊的なところはまったくないのだけれど、レトリックに見るべきところがあるので、さいごまで、きっちり読むことにした。

なぜ髪や爪は伸びるんだろう。いま頭の毛を刈ったし、足の爪を切った。あ、手の指の爪を切るのを忘れてた。

ウンガレッティ、通勤電車のなかで、さいしょのページから読み直してたら、突然、ランボオと結びついちゃって、そこから急にページに吸いつけられたようになって読み直した。すごくおもしろい。ぼくの最初の認識は間違いだった。

メモしまくり。これから寝るまで、ウンガレッティの詩の翻訳を読む。翻訳もいいんだよね。ぼくの大好きな河島英昭さん。

ここ数年、火傷とか傷跡がきれいに治らなくなって、手の甲についたままになってしまうことに気がついた。友だちに、「齢をとるって、こういうことなんだよね。」って話したことがある。突然、思い出した。

隣に住んでいる男性二人(話を聞いてると、二人ともゲイではなさそう)、いつも2時間もののドラマや名探偵コナンを見てるみたい。音声が聞こえてくる。隣のひとには、ぼくの部屋でかけてるプログレやジャズやソウルやファンクの音楽か、韓国ポップスや、ウルトラQの音声が聞こえているのだろうけれど。

言葉にも光があたると影ができる。

言葉のなかに意味以上のものは与えないでほしい。まあ、音はあってほしいけれど。

二〇一八年五月二十二日 「ノブユキ」

言葉に意味と音のほかには、なにも与えないでほしい。というか、言葉に、意味と音のほかに、なにかを与えることができるとは思わないでほしい。これは、言い換えると、言葉に、意味と音のほかに、なにかほかのものを求めることはやめてほしいってことでもあるのだけれど。とはいっても、ジェイムズ・メリルの『ミラベルの数の書』のように、言葉に霊性がある場合があって、ぼくの希求も破綻しているのだけれど。

『ウンガレッティ全詩集』を読み終わった。引用を含めて、膨大なメモは、のちにルーズリーフに書くとして、つぎには、『クァジーモド全詩集』を読もう。ああ、もう日知庵に行く時間だ。きょう、思いついた詩句を書いて出かけよう。


ノブユキ。きみは二十歳だった。
いや二十一歳だった。
ぼくは二十七歳か、二十八歳だった。
きみは、たくみに罠を仕掛けた。
ぼくはいま五十七歳だけれど
いまだに、きみの罠から逃れられないでいる。
出会って別れるまで
二年ほどのあいだのことだったけれど。
忘れては思い出される永劫の罠だった。


あしたテストで朝が早いので、日知庵では、はやあがりをさせてもらった。9時30分くらいに帰ってきた。これからお風呂に入って寝る。寝るまえの読書は、岩波文庫の『クァジーモド全詩集』。解説から読む。ノーベル文学賞受賞詩人なんだね。ウンガレッティは、クァジーモドのことを模倣者と呼んでたらしい。

二〇一八年五月二十三日 「クァジーモド全詩集」

そろそろ仕事に。通勤電車のなかで、『クァジーモド全詩集』を持って行こう。『ウンガレッティ全詩集』ほどに興奮するだろうか。

二〇一八年五月二十四日 「クァジーモド全詩集」

いま日知庵から帰ってきた。朝から夕方まで学校で仕事、夜は塾の仕事と忙しかったけれど、帰りに日知庵に寄って、ゆったりとした気分にひたれてよかった。『クァジーモド全詩集』いま120ページくらいのところ、メモとりまくり。さすがノーベル賞受賞詩人って感じ。修辞がすごい。すごく勉強になる。

二〇一八年五月二十五日 「携帯」

なんか携帯を替えなければならないみたいだ。2020年の7月までに。そんなメールがきて、びっくりした。ソフトバンクからだ。ガラケーはもうダメってことか。来年、替えよう。パソコンもセブンが2020年1月までだから来年、買い替えよう。なんなんだろ。買い替えろ、買い替えろってこの様態は。

『クァジーモド全詩集』を読み終わった。詩人には、その詩人がよく使う言葉(彼の場合、谺や影や、ぼくのものではない、といった言葉)があるのだなと思った。レトリックも似通っている場合が少なくない。これをぼくは自分の詩論のなかで「思考傾向」と呼んでいるが。ウンガレッティとともによかった。

詩人固有の好きな言葉、言い回し、こういったものはやはり、詩人の思考傾向の一部なのだろう。(じつは、全部と言いたい。)きょうから、読書は岩波文庫の『プレヴェール詩集』これは、薄いのですぐよめるかな。どだろ。

いま、ぼくが携帯を買った店に電話した。いまから、その店に行って、機種変更しようと思う。ぼくはちょっと変わってるのかもしれない。しようと思っていたことをしなかったり。しないと思っていたことをすぐにしたり。

携帯の機種変更をしてきたけど、形はガラケーのものにした。色はピンクというか、桜色。この色しか、きょうはありませんということだったので、仕方なく、この色のものにした。もともと携帯をほとんど使わないひとなので、色はどうでもよかったのだ。とはいっても、ひとまえで使うのは恥ずかしいかな。

思潮社オンデマンドから2014年に出した『ゲイ・ポエムズ』っていう、ぼくの詩集に誤植が見つかった。『陽の埋葬』の一つ。中国人青年が出てくるやつだけど、「スクリーン」にしなければならないところ、「ク」が抜けて、「スリーン」になっていた。いつの日か、ベスト版の詩集をつくったときには、といっても、『ゲイ・ポエムズ』も前半は、よりすぐりの作品を再掲したものだけど、『ゲイ・ポエムズ』には、じつはゲイものは少なくって、ゲイネタのものだけを集めたものをふたたび編集して出したいと思っている。でも、タイトル、どうするかな。困る。

人生に吐き気を催しているのか、自分に吐き気を催しているのか、はっきり区別がつかない。ああ、両方なのかも。生きているのが、若いときにもつらかったが、齢をとってもつらい。なんのための人生なのだろう。あしたも朝がはやいので、『プレヴェール詩集』を読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!

ぼくにはジョークがわからない。

二〇一八年五月二十六日 「プレヴェール詩集」

『プレヴェール詩集』を読み終わった。ぼくには味わいがあまり伝わらなかった。ユーモアが、好みではなかったからだと思う。若いときと違って、ブラックジョークは、好きではなくなったというのが根本的な問題なのかな。きょうから、フアン・ルルフォの『燃える平原』を読む。これって短篇集なのかな。

二〇一八年五月二十七日 「草野理恵子さん」

草野理恵子さんから、『Rurikarakusa』8号を送っていただいた。草野理恵子さんの作品、「蹉跌海岸」と「作品」の2篇に共通する自他の同化に着目した。「蹉跌海岸」では、作者と作品の登場人物との同化。「作品」では、作品の素材との同化。こういった同化は、書く人間には逃れられないものだろう。

二〇一八年五月二十八日 「フアン・ルルフォ」

フアン・ルルフォの短篇集『燃える平原』いまタイトル作品を読んでいるところ。本としては、5分の2くらいのところかな。120ページ。暴力的なシーンが出てくるが、いまはもう暴力的なシーンのない小説がめずらしいくらいかな。いや、ボリス・ヴィアンの『日々の泡』とか、暴力的なシーンはないか。

二〇一八年五月二十九日 「好きな今日がいっぱい。」

好きな今日がいっぱい。

二〇一八年五月三十日 「同性愛」

同性愛は世界の70パーセントの国で犯罪とされているという記事をむかし読んだ記憶がある。現代では減っているだろうけれど、イスラム圏では、鞭打ちだけではなくて、石をぶつけて拷問死させる死刑もいまだに実施されているという話を読んだこともある。カトリックの法王の先日の報道には、ほっとする。

ルルフォの『燃える平原』を読み終わった。物語の大部分を忘れてしまったけど、おもしろかったことは憶えている。つぎは、タニス・リーの短篇集と詩集を同時に読もうと思って、詩集の棚のところで詩集の背を見てたら、まだ読んでなかった詩集があった。ガートルード・スタインの『地理と戯曲 抄』だ。

そういえば、ドナルド・バーセルミの『死父』も途中で読むのをやめたのだった。ドノソの『夜のみだれた鳥』や、ムヒカ=ライネスの『ボマルツォ公の回想』も、はじめの数ページで読むのをやめていた。ああ、どれから読もうか。『死父』が読みやすそうだ。まるで詩のような改行の仕方だものね。迷うなあ。

ぼくは気まぐれだ。きょうからは、未読のピエール・ブールの『カナシマ博士の月の庭園』を読むことにしよう。

二〇一八年五月三十一日 「ピエール・ブール」

いま、日知庵から帰った。きょうは、ひさしぶりにSFを読みながら寝る。『猿の惑星』を書いたピエール・ブールの『カナシマ博士の月の庭園』である。タイトルもいいけれど、単行本のカヴァーもめっちゃいい感じなのだ。楽しみ。ブールの文章は描写が的確でよかった記憶がある。銀背の短篇集もよかったし、ハードカヴァーの長篇『ジャングルの耳』もよかった。


『在りし日の歌』 ― 各論 /『山羊の歌』― 反唄

  アンダンテ

・・・・・・・・・永訣の秋
・・・・・・・・・・・(二)一つのメルヘン

・・・秋の夜は、はるかの彼方に、
・・・小石ばかりの、河原があつて、
・・・それに陽は、さらさらと
・・・さらさらと射してゐるのでありました。

・時を跨ぐのではなく、遮断されずにはるか彼方の二次元の地表を保ったまま、垂直に割った時間たちがそれぞれ違った風景を醸し出す。遠景は時差ボケではなく、詩的事実として表流する。

・・・「詩的真実」に従って溝に水が流れ出し、根元から濡れ始めた棒杭の先に翡翠がとまった。
・・開いた翅が閉じる。水が流れるとせせらぎの音が立ち始め、その静かさが遠い囀りや葉擦れの
・・音を際立たせた。
・・・・・・・・・・(「詩」と「詩論」― Migikata [11906-文学極道])

・・・だから翡翠が杭の先から見ているものは詩であって詩ではない。主体の外側にあり、内実を
・・持たない詩の外形なのだ。世の中の表象の表面を流れる「詩的真実」が真実とは名ばかりの、
・・時間軸上の座標点の転変に過ぎない事実を、言葉自体の持つ性質が最初から内包している。詩
・・の言語は時間の経過に晒され、洗われているばかりではない。相対的に真実の具現をコントロ
・・ールしているわけだ。言葉がなければ、時間は経過しないということ。言葉は時間経過の中で
・・自ら表出を全うする仕組みを持つということ。
・・・・・・・・・・(「詩」と「詩論」― Migikata [11906-文学極道])

・時間がなければ言葉は作用できない。真実が詩的である有り様は、時間がなければ進行しない。<言葉は時間経過の中で自ら表出を全うする仕組みを持つ>は「時間がなければ言葉は作用できない」と同義だ。しかし、何ゆえにMigikata氏は<言葉がなければ、時間は経過しないということ>と言うのだろうか。いくら開けゴマ!と叫んでも開かないのは何故だろう。時間は経過しているはずなのに。時間は主観的に流れていたのだろうか。言葉の持つ隙間はさておいて、モノの持つ隙間(持つとは妙な言い方だが)、なにもない隙間をデフォルメすることは出来ない。

・・・さらさらと

・射している陽から流れる水へと、さらさらと琵音を奏でることに拠って詩的事実が伝わってゆく。

・・・やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
・・・今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
・・・さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……

・<ゐるのでありました…‥>詩的真実が現実味を帯びる。

********************
*註解・
・Migikata氏は返信の中で次の様に言っている。
・……
・・作品は言葉でできています。言葉で作品世界がコントロールされているということです。じゃあ、作者が言
・葉を完全にコントロールできているかというとそうではない。言葉自体の持つ文脈、大きなバックグラウンド
・や内包された隠れた意味が、世界に別の顔を持たせる部分もあります。この作品の前半では、「「詩的真実」に
・従って溝に水が流れ出し」のように、わざと主観と言葉により表現された客観世界の境を曖昧にしてあります。
・それは言葉とモノとの持つ隙間をデフォルメしたということです。だから時間は主観的に流れる、その主観は
・言葉によって作られている、言葉が時間を作っている、言葉がなければ時間は経過しない、という無茶な論法
・が展開されるのです。……


・・・・・・・『山羊の歌』― 反唄
・・・・・・初期詩篇
・・・(一)春の日の夕暮れ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・反唄
トタンがセンベイ食べて・・・・・・・・・・鴉が鳴くから帰ります
春の日の夕暮は穏かです・・・・・・・・・・つきたての餅を腰に提げ
アンダースローされた灰が蒼ざめて・・・・・五十三歩が逸れました
春の日の夕暮は穏かです・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・邪魔になったら
吁! 案山子はないか――あるまい・・・・・呼んでください
馬嘶くか――嘶きもしまい・・・・・・・・・
ただただ月の光のヌメランとするまゝに・・・春の夕暮れは
從順なのは 春の日の夕暮か・・・・・・・・だれ一人拒まない
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・夢の孤独に寄り添います
ポトポトと野の中に伽藍は紅く・・・・・・・
荷馬車の車輪 油を失ひ・・・・・・・・・・サブマリンの棲む
私が歷史的現在に物を云へば・・・・・炎天の底の水たまりに
嘲る嘲る 空と山とが・・・・・・・・・・・接続できずにいるのです
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
瓦が一枚 はぐれました・・・・・・・・・・邪魔になったら
これから春の日の夕暮は・・・・・・・・・・呼んでください 
無言ながら 前進します・・・・・・・・・・
自らの 靜脈管の中へです・・・・・・・・・両手に私をのせて伺いますから

・・・エピローグ
・中也は、本来ダダイスト達の無造作で気ままな反抗とは無縁だった。海に打ち込む錨を地上に垂らし、測量技師のような目つきで垂直を保つ。

**註解********************
・*詩集『山羊の歌』は、昭和二十二年八月二十五日創元社発行『中原中也詩集』に拠る。
・*吁:ああ *嘲る:あざけ *自ら:みづか
・*高橋新吉の『茶色い戦争』によると、中也は「ダダイスト新吉」の詩の中にある次の詩を覚えて
・いて好きだと言った。
・・・少女の顔は潮寒むかつた
・・・うたつてる唄はさらはれ声だつた
・・・山は火事だつた
・*草稿では<私が歷史的現在に物を云へば>の次行に<現在と未來との間に我が風の夢はさ迷ひ>とあるのを
・抹消。


・・・(二)月
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・反唄
今宵月はいよよ愁しく、・・・・・・・・・・鎖骨に遺る天使の歯形だ
養父の疑惑に瞳を瞠る。・・・・・・・・・・面影を残した星の生家に
秒刻は銀波を砂漠に流し・・・・・・・・・・みたび 咲く存在と夢
老男の耳朶は螢光をともす。・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・きみのひとみがぬれている
あゝ忘られた運河の岸堤・・・・・・・・・・うちにひめたおもいを絶ち
胸に殘つた戰車の地音・・・・・・・・・・・きみのたましいを砕いて
銹つく鑵の煙草とりいで・・・・・・・・・・からっぽのカプセルの中に
月は懶く喫つてゐる。・・・・・・・・・・・うまれたての螢をつめこむ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それのめぐりを七人の天女は・・・・・・・・さて 存在という存在はそれが存在するだけで
趾頭舞踏しつづけてゐるが、・・・・・・・・うっとうしい しかし
汚辱に浸る月の心に・・・・・・・・・・・・思考が未踏の存在をつくるとしたら
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なんの慰安もあたへはしない。・・・・・・・ああ 生殖器は美しい
遠にちらばる星と星よ!・・・・・・・・・・心臓はあわれだ 
おまへの抉手を月は待つてる・・・・・・・・脳は威張り散らす
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・エピローグ
・内意を持ち込まない名辞以前の状態にある時、最も簡素な姿として自同律は完結している。私たちは、蛙聲と同質の関係を結ぶ。

**註解*******************
・*愁しく:かなしく
・*瞠る:みはる(原文は環境依存文字[目扁と爭]のため表示出来ず代用。)
・*秒刻:とき *懶く:ものうく
・*抉手:そうしゅ(原文は特殊文字[曾と部首:りっとう]のため表示出来ず代用。「會と部首:りっとう+
・手:かいし」の場合は「首切り人」の意)
・*生殖器は……:ウイリアム・ブレイクによる


・・・(三)サーカス
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・反唄
幾時代かがありまして・・・・・・・・・・・There was a naughty boy
・・茶色い戰爭ありました・・・・・・・・・===イケナイ子がいました
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・And a naughty boy was he
幾時代かがありまして・・・・・・・・・・・===ほんとに、イケナイ子でした
・・冬は疾風吹きました・・・・・・・・・・For nothing would he do
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・===だってなんにもしないで
幾時代かがありまして・・・・・・・・・・・But scribble poetry
・・今夜此處での一と殷盛り・・・・・・・・===詩ばっかり、書いていたんだもん
・・・・今夜此處での一と殷盛り・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・so much depends
サーカス小屋は梁・・・・・・・・・・・・・upon
・・そこに一つのブランコだ・・・・・・・・===実に多くのものが
見えるともないブランコだ・・・・・・・・・===そこには
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
頭倒さに手を垂れて・・・・・・・・・・・・a red wheel
・・汚れ木綿の屋蓋のもと・・・・・・・・・barrow
ゆあ―ん・ゆよーん・ゆやゆよん・・・・・・===白い鶏の
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・===そばで
それの近くの白い灯が・・・・・・・・・・・
・・安値いリボンと息を吐き・・・・・・・・glazed with rain
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・water
觀客様はみな鰯・・・・・・・・・・・・・・===雨水で
・・咽喉が鳴ります牡蠣殼と・・・・・・・・===てかった
ゆあ―ん・ゆよーん・ゆやゆよん・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・beside the white
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・chickens.
・・・・・屋外は眞ツ闇 闇の闇・・・・・・===赤いネコ
・・・・・夜は刧々と更けまする・・・・・・===車。
・・・・・落下傘奴のノスタルヂアと・・・・
・・・・・ゆあ―ん・ゆよーん・ゆやゆよん・・・・O Romeo,Romeo!wherefore art thou Romeo?

・・・エピローグ
・ゆあ―ん・ゆよーん・ゆやゆよん・・中也のやるかたない音表の漂失感は、埴谷雄高の花粉症の気怠いうたかたの零れ Pfui!(ぷふい!)と同様、それぞれ体鳴する音の響きとなって、言葉では癒せない怠惰、その天秤を正確に狂わせている。
・ここまでに取り扱った三つの詩は、風化した淘の上の記憶を揺り起こし、そのことに因って抒情は恢復している。中也の心がどんなに涸れようとも、変わらぬ資性として抒情はあった。・

**註解**********************
・*一と殷盛り:ひとさかり *倒さ:さかさ *屋蓋:やね *安値い:やすい 
・*咽喉:のんど*刧々:こふこふ *淘:ゆら
・*There was a naughty boy……:John Keats(ジョン・キーツ 1795-1821)
・*so much depends……:William Caelos Williams(ウィりアム・カーロス・ウィりアムス1883-1963)
・*O Romeo,:William Shakespeare(ウィりアム・シェイクスピア1564-1616 )「Romeo and Juliet II,ii」


女の子

  小西

お母さんが好きな蝶を燃やして得た光じゃないと君は輝かなかった
その日、君はいつもと同じように登校してテストを受けた
[2]問7 次の英文を訳しなさい
My mother died 3days ago
訳:わたしは星のない夜にはセックスをしない
そこだけを埋めて君はペンを置いた
すました顔で君が提出したほとんど白紙の解答用紙に僕は何点をつければいいんだろう
結局テスト返しの授業をさぼって君は教頭先生と二人でプールで泳いだ
私が卒業したら国会議事堂の前で政治的なキスをしよう、と君は教頭に言った
2年1組の教室の窓からは相変わらずこの町が見えるだけだった


anger

  完備

読めない川の碑
すぐそばの息遣いが
淀むところで光る
黴か苔か
泡だらけの手で
風も抜けない工事中の旧居に
永遠と漢字で書く

屋上のあかるさに耐えかね
浮かぶ竹箸に
洗剤のにおいが移る
静かな怒号 春に
拾った炊飯器で飯を炊く

冷え切った爪先で逃げた
コンクリートを砕く音から
祈るような食事へ
河川敷のおそろしいみどりと
まぼろしのような怒りに
狂いながら暮らすしかないのか


III

  アルフ・O






「止まり木になりたい」が口癖だった
通り雨を待つ明日
針よりも細い月を狙う
春にしがみつく無垢なる身体
ハート型の神経衰弱に
1枚だけ黒が混じる
ざらざらと溢れる
粘液の多くは回収されず
それでもまだ生きることは
許されている


某月某日 快晴
そんな昔の走り書きを見つけた
今日の天気と重なって
そのまま日記に貼り付けようかと思った
よく考えれば自分が
惨めになるのは当然の結果だった
それを無理やり納得せざるを
得ないことも
今 会えたとしたら
あなたは何て言うだろう
どんな言葉だったとしても
多分ちょっと笑って
返すと思う
あなたの何を嫌いになったんだろう
ささくれだった胸の内
それと呼応するように
雨雲が東から伸びてくる
今 会えたとしたら
あなたは何て言うだろう
どんな言葉だったとしても
少しうつむいて
多分ちょっと笑って
「おかえり」って続くのを
ずっと待ってる



“Eli, Eli, Lema Sabachthani”
【^/
扱える武器が足りないと嘆いて久しく
二人の身体の中で暴れないで
救いを求めるだけの業を抱えるか否か
「振り向かないと知ったなら、
 さっさと寄越せよ、って言ったのに
錨は長く冷たく、
記憶は混ざるばかりだ。
愛を与えるだけの血を有するか否か
(偽光に縛られたまま静かに眠れ、
 二度と醒めないように。
そう、過去に呪った。それは憶えている、
(cyanosis,
あぁ、これからは腐敗した記憶が吐き出す、
絶対に私たちに味方しない
事実の氾濫ばかりだ。
(drain away,
役立たずの血を棄ててしまえ。
外来の化学物質が誰にともなく呟く
体温は下がってきて
神経尖らせた方々に噛み付く隙はない
滅菌されるような管理ではないこと、
蛋白質の融ける匂い
生存からあぶれる
式蜘蛛を燃やす
「淫血症、。
灯は虚ろに面を覆い、叶わぬ時を還す。
その記憶。
蜘蛛の記憶、
--.
「根が張る、
「うん。
「石畳の下に根が張る。
「なにが、
「ほとけさくら。
「え、
「この木。ほとけさくらって云うの、
 千年近く此所に%居座り続けてる。
「下には屍体が埋まってるとか、そういう、
「うぅん、いるのは胎児。
 ここの亡骸たちは、
 みんなこのさくらに、みどりごを
 人質に捕られてるの、
「どうして、÷
「知らない。気に入られたの。
「赤ん坊が土の中で育つの、 \5^
「見なさい。
 腹の中/外のちがいはあれど、+
 そこかしこに眠っているわ。
 ──いずれ、あたしも。
「いつさ、
「遠くない将来よ、
#\2>○
 この躰にやどれば、それと違わず
 さくらの根にも。
 そうして、地上の子供から、肉親から、
 思うさま精を奪ってゆくの、
「それを知る君が、気に入られるもんか、
「気に入られたからこそ呪うの、もう遅いのよ、
「そんなら、その呪いに加担する。
「──来て。
   |\^,][::
「君の背中に、みどりごたちが光を放ってる。
「きれいね、
・<>5|.,)$

……ね、
行き過ぎたって
(焼け焦げたって
知ってるでしょう
(知らないでしょう
ただじっと待ってる
(暴れ終わるのを
  眠りに就いたなら
   胸にさしてあげましょう
何よりも正直な
蠱毒の針を深々と
露命の羅針盤を
(反羅針盤を、
夜叉に繋がる鎖を解く
浮かぶ側から沈んでゆく

<-Who may circulate us,->
「愉快犯相手にドコまで本気になる?なっちゃう?」
《……ね、繰り返すけど、そんな貴方の眼の前で街灯を捻り潰した女の子が分裂して、なおかつ両方とも血を吐いて突然死んだわけ。プラスチックな所為だよ、根性入れて拵えたらしいこの通り全面がさ。そんでさ、蘇生法は習得してるのかしら。まさかコロッセオで何も学ばなかったわけじゃないよねそんな場所じゃないなんて言い訳は通用しないよ。そこのジープ乗り回してる4人組からオートマチックの一丁でも分捕っとけば良かったのさ毎回毎回陳腐だ陳腐だってそこから一歩も動かず一ミリも考えずガタガタガタガタ吐かすくらいなら。掌硫酸で焼くぐらいしないと正気に戻らないのかな他人に溜め込ませたヘイトを引っ被る気分はどうよ。ええ。それに貴方の用意した船だってそうだ喫水線がまるで見えやしねぇ。中で泣きながら歌ってるぜ雇われたハーピィ達がバイオリンの声を隠しながら。いずれ気道も塞がれて貴方が仕組んだ子育てゲームが自壊するのもそう遠くないさ。狙ってるんだろ、彼女たちが、銘々積み上げていったスーツケースも一緒になって腐り果てた血の匂いを纏い始めるのを。せめて名前ぐらいつけてやったらどうだったんだよ。どうせ拾う気がないなら最初から手を出すなってんだ。》
(Fool enough to blame yourself, abandoned your head. Fxxk off, you shallow w---.)
『で、改めて問うけど世界をどう解釈するの?』
</-Who may circulate us,->

「今、壁の向こうで
 冬の花火が上がるから、
 逃さずにプリズムに閉じ込めるの。
 貴女の想う何よりも、
 遥かに高い場所で、」

軸を持つ者全てに戒厳令を
決して止まらぬよう号令を
帰らぬ者全てに魔女狩りを
決して残さぬよう声明を
未だ震えて待つ
暴れ終わるのを
そして
眠りに就いたなら、
今度こそ刺してあげましょう。
あげましょう。
あげましょう。
あげまs


●擦過傷●刺創●汚染創●咬傷●挫滅創●広範囲熱傷
 

 


月兎の聴躍 2

  

瘤の有る生物に跨る敦煌の空はカシュガルへ降り立つ古風な仕来りに昇る使い古された月に鮮度を与える魅惑的な道は光を放つ交差点に殺到する足跡に擦れ違う文化は実り多く寛容なオアシスを夢で覆うタリム川の濁りや澄んだ水を押し流す星群を清浄の地の国の山肌へ跳躍する明け方の幻想に銷する肉の希望が言葉遊びに満ち欠ける観念の死に費用を掛けない愛の庭師は魂を先頭にエベレスト山頂を飛翔するアネハヅルの翼に明滅する瑕疵を放棄しながら炎と酸欠と心咎めだけを道連れに硬質な骸の間近に訪れる偉大な子供や遠く離れた老人に生きる理由を尋ねるシャイネスなおっさんのドロドロしたおばはんの時の糸を手繰り凧を浮かべ現実を覆う山脈の麓で瘤の有る生物に跨り天竺より御座ある三蔵法師や玉龍が鳴沙山の砂を踏み鳴らす此処は生首からひょろりとひ弱な足が生えた化け物が呻きながら往来する渋谷のスクランブル交差点のド真ん中に一人立ち止まり指先を空より高く突き上げこの指止まる世界中の孤独をバネに月に向かって杵をぶん投げ46億年分のあいいろはとば(藍色鳩羽)でよいしょー!クラクションが人の間に挟まってぺったーん!信号が青になりました潰れた兎の腸が食み出している。


詩の日めくり 二〇一八年六月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年六月一日 「断章」

断片はそれぞれに、そうしたものの性質に従って形を求めた。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』36、黒丸 尚訳)

二〇一八年六月二日 「断章」

作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

きみはそれを知っている人間のひとりかね?
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

そのとおりであることを祈るよ。
(アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』第一部・4、福島正実訳)

こんどはそれをこれまで学んできた理論体系に照らし合わせて検証しなければならん
(スティーヴン・バクスター『天の筏』5、古沢嘉道訳)

実際にやってみよう
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

二〇一八年六月三日 「断章」

煉瓦はひとりでは建物とはならない。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとI』6、田中 勇・銀林 浩訳)

具体的な形はわれわれがつくりだすのだ
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』28、三田村 裕訳)

形と意味を与えられた苦しみ。
(サミュエル・R・ディレイニー『コロナ』酒井昭伸訳)

きみはこれになるか?
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)

二〇一八年六月四日 「M・W&W・ウェルマン」

マルケスの『百年の孤独』60ページほど読んだが、まったくおもしろくなかった。なので読むのをやめる。かわりに、カヴァーがかわいらしかったので、本棚に残していた、M・W&W・ウェルマンの『シャーロック・ホームズの宇宙戦争』を読み直す。『族長の秋』はよかったけど、『百年の孤独』はダメね。

二〇一八年六月五日 「伊藤浩子さん」

伊藤浩子さんから、詩集『たましずめ/夕波』を送っていただいた。頭注が本文にも匹敵するくらいの変わった構造で、おもしろいものだった。書くということに集中されていることがわかる結構だった。うらやましいとも思った。

二〇一八年六月六日 「断章」

いまだにみんながきみの愛について語ることをしないのは、いったいどうしたことなのだろう。
(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)

二〇一八年六月七日 「断章」

誰もが持っていることさえ拒むような考えを暴き出すのが詩人の務めだ
(ダン・シモンズ『大いなる恋人』嶋田洋一訳)

しかし、だれが彼を才能のゆえに覚えていることができよう?
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第四部・18、山西英一訳)

世間の普通の人は詩など読まない
(ノサック『ドロテーア』神品義雄訳)

誰も詩人のものなんて読みやしない。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

二〇一八年六月八日 「断章」

もちろんそうさ。
(テリー・ビッスン『時間どおりに教会へ』3、中村 融訳)

詩作なんかはすべきでない。
   (ホラティウス『書簡詩』第一巻・七、鈴木一郎訳)

いったいなんのために書くのか?
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)

詩人の不幸ほど甚だしいものはないでしょう。さまざまな災悪によりいっそう深く苦しめられるばかりでなく、それらを解明するという義務も負うているからです
(レイナルド・アレナス『めくるめく世界』34、鼓 直・杉山 晃訳)

詩とは認識への焦慮なのです、それが詩の願いです、
(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳)

二〇一八年六月九日 「ジャック・ヴァンス」

おとついから、ジャック・ヴァンスの『冒険の惑星』シリーズを読んでいる。二日で、第一巻を読み終わった。読んだ記憶があったが、半分くらいまでのところまでだった。つづきを読んだ記憶がないから、きっと半分くらいのところでやめたのだろう。やめたくなった気持ちもわかる程度のSF小説だった。

二〇一八年六月十日 「草野理恵子さん」

草野理恵子さんから、同人詩誌『Rurikarakusa』第11号を送っていただいた。草野さんの作品、「温泉治療」と「うみは馬として」を読んだ。共通する書き方といったものがない。多様な書き方をされる方だなと、あらためて思った。詩でしか表現できない表現なのだなとも思った。

二〇一八年六月十一日 「断章」

たしかに
(ジョン・ブラナー『木偶(でく)』吉田誠一訳)

あらゆる出会いが苦しい試練だ。
(フィリップ・K・ディック『ユービック : スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳)

その傷によって
(ヨシフ・ブロツキー『主の迎接祭(スレーチエニエ)』小平 武訳)

違った状態になる
(チャールズ・オルソン『かわせみ』4、出淵 博訳)

何もかも
(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』上・1、矢野 徹訳)

二〇一八年六月十二日 「断章」

おお
(ボードレール『黄昏』三好達治訳)

愛よ
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第九章、青山隆夫訳)

お前は苦痛が何を受け継いだかを知っている。
(ジェフリー・ヒル『受胎告知』2、富士川義之訳)

それ自身の新しい言葉を持たない恋がどこにあるだろう?
(シオドア・スタージョン『めぐりあい』川村哲郎訳

二〇一八年六月十三日 「断章」

──と、だしぬけに誰かがぼくの太腿の上に手を置いた。ぼくは跳び上がるほど驚いたが、跳び上がる前にいったい誰の手だろう、ひょっとするとリーラ座の時のように女の人が手を出したのだろうかと思ってちらっと見ると、これがなんともばかでかい手だった。(あれが女性のものなら、映画女優か映画スターで、巨大な肉体を誇りにしている女性のものにちがいなかった)。さらに上のほうへ眼を移すと、その手は毛むくじゃらの太い腕につづいていた。ぼくの太腿に毛むくじゃらの手を置いたのは、ばかでかい体&#36544;の老人だったが、なぜ老人がぼくの太腿に手を置いたのか、その理由は説明するまでもないだろう。(…)ぼくは弟に「席を替ろうか?」と言ってみた。(…)ぼくたちは立ち上がって、スクリーンに近い前のほうに席を替った。そのあたりにもやはりおとなしい巨人たちが坐っていた。振り返って老人の顔を見ることなど恐ろしくてできなかったが、とにかくその老人がとてつもなく巨大な体&#36544;をしていたことだけはいまだに忘れることができない。あの男はおそらく、年が若くて繊細なホモの男や中年のおとなしい男を探し求めてあの映画館に通っていたのだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』いつわりの恋、木村榮一訳)

二〇一八年六月十四日 「断章」

中年の男がもうひとりの男のほうにかがみ込んで、『種蒔く人』というミレーの絵に描かれている人物のように敬虔(けいけん)な態度で手をせっせと上下に動かしているのに気がついた。もうひとりのほうはその男よりもずっと小柄だったので、一瞬小人かなと思ったが、よく見ると背が低いのではなくてまだほんの子供だった。当時ぼくは十七歳くらいだったと思う。あの年頃は、自分と同じ年格好でない者を見ると、ああ、まだ子供だなとか、もうおじいさんだとあっさり決めつけてしまうが、そういう意味ではなく、まさしくそこにいたのは十二歳になるかならないかの子供だった。男にマスをかいてもらいながら、その男の子は快楽にひたっていたが、その行為を通してふたりはそれぞれに快感を味わっていたのだ。男は自分でマスをかいていなかったし、もちろんあの男にそれをしてもらってもいなかった。その男にマスをかいてもらっている男の子の顔には恍惚(こうこつ)とした表情が浮かんでいた。前かがみになり懸命になってマスをかいてやっていたので男の顔は見えなかったが、あの男こそ匿名の性犯罪者、盲目の刈り取り人、正真正銘の <切り裂きジャック> だった。その時はじめてラーラ座がどういう映画館なのか分った。あそこは潜水夫、つまり性的な不安を感じているぼくくらいの年齢のものがホモの中でもいちばん危険だと考えていた手合いの集まるところだったのだ。男色家の男たちがもっぱら年若い少年ばかりを狙って出入りするところ、それがあそこだった──もっとも、あの時はぼくの眼の前にいた男色家が女役をつとめ、受身に廻った少年たちのほうが男役をしていたのだが。いずれにしても、ラーラ座はまぎれもなく男色家の専門の小屋だった──倒錯的な性行為を目のあたりにして、傍観者のぼくはそう考えた。それでもぼくは、いい映画が安く見られるのでラーラ座に通い続けた。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』いつわりの恋、木村榮一訳)

二〇一八年六月十五日 「きみの名前は?」

「きみの名前は?」(ジャック・ヴァンス『冒険の惑星 IV/プリュームの地下迷宮』3、中村能三訳)

二〇一八年六月十六日 「明日は、靴を買いに行こう。」

明日は、靴を買いに行こう。

二〇一八年六月十七日 「断章」

「見てごらん」
「なにを?」
「見たらわかるさ!」
あんたは、最初笑っていたが、すぐに消毒剤と小便の、むかっとするような臭いに攻め立てられ、ほんのちょっとだけ穴から覗いて見た。するとそこに歳とった男の手があり、なにやらつぶやいている声が聞こえ、そこから父親の手があんたの腕をつかんでいるのがわかり、もう一度眼を穴に近づけると、ズボンや歳とった男の手を握っている少年の手が、公衆便所の中に見え、あんたはむすっとしてその場を離れたが、ガースンは寂しげに笑っていた。
「あの薄汚いじじいをとっ捕まえるのはこれで三度目だ。がきの方は二度とやってこないけど、じじいのやつはいくらいい聞かせてもわからない」
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

二〇一八年六月十八日 「断章」

あのオルガン奏者(新聞記者のなんとも嘆かわしい、低俗な筆にかかるとあの音楽家も一介のオルガン弾きに変えられてしまうが、それはともかく、以下の話は当時の新聞をもとに書き直したものである)と知り合ったのは恋人たちの公園で、そのときは音楽家のほうから声をかけてきて、生活費を出すから自分の家(つまり部屋のことだが)に来ないか、なんなら小遣いを上げてもいいんだよと誘ったらしい
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)

二〇一八年六月十九日 「断章」

男にもし膣と乳房があれば、世の中の男はひとり残らずホモになっているだろう、とシルビア・リゴールは口癖のように言っていた。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)

二〇一八年六月二十日 「断章」

ヤコービは、彼の数学上の発見の秘密を問われて「つねに逆転させなければならない」といった。
(E・T・ベル『数学をつくった人びと II』21、田中 勇・銀林 浩訳)

二〇一八年六月二十一日 「断章」

みるものが変われば心も変わる。
(シェイクスピア『トライラスとクレシダ』V・〓、玉泉八州男訳)

二〇一八年六月二十二日 「ヴァン・ヴォクト」

ジャック・ヴァンスの『冒険の惑星』シリーズを読み終わった。きょうから、寝るまえの読書は、クリフォード・D・シマックの『都市』に。むかし、『中継ステーション』というタイトルの作品を読んで感銘を受けた記憶がある。表紙もよかったので、本棚に残してある。いつの日にか、読み直そうかと思う。

いや、寝るまえの読書は、シマックの『都市』のまえに、ヴァン・ヴォクトの『宇宙船ビーグル号』を読もう。むかし、ジュブナイルの大型本で読んだ記憶がある。だれかに譲ったみたいで、いま部屋の本棚にはない。シマックのものもそうだが、ヴァン・ヴォクトの『宇宙船ビーグル号』もSFの古典だ。

二〇一八年六月二十三日 「ヴァン・ヴォクト」

ヴァン・ヴォクトの『宇宙船ビーグル号』を読み終わった。ぜんぜん古くない。SFの古典なのに、ぜんぜん古びていないのだ。作者の力量だな。

二〇一八年六月二十四日 「断章」

誰にも永遠を手にする権利はない。だが、ぼくたちの行為の一つ一つが永遠を求める
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)

というのは、瞬間というものしか存在してはいないからであり、そして瞬間はすぐに消え失せてしまうものだからだ
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』25、菅野昭正訳)

きみが生きている限り、きみはまさに瞬間だ、
(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・3、浜野 輝訳)

一切は過ぎ去る。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

愛はたった一度しか訪れない、
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

二〇一八年六月二十五日 「断章」

心のなかに起っているものをめったに知ることはできないものではあるが、
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第三部・10、山西英一訳)

隠れているもので、知られてこないものはない。
(『マタイによる福音書』一〇・二六)

二〇一八年六月二十六日 「断章」

そのような実在は、それがわれわれの思考によって再創造されなければわれわれに存在するものではない
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)

二〇一八年六月二十七日 「あさ、目が覚めたら、」

あさ、目が覚めたら、左手の甲の真ん中に、顔みたいなものができてて、じっと見てたら、そいつが目を開けて突然しゃべりだしたので、びっくりした。どうして、ぼくの手に現れたのって訊いたら、あんたがひととしゃべらないからだよって言った。いつまでいるのって訊いたら、ずっとだって言うから、それは困るよって返事すると、ふだんは目をつむって口も閉じておいてやるからって言った。きみともあんまりしゃべることないよと言うと、気にしない気にしないって言うから、ふうん、そうなんだって思った。でも、なんだか迷惑だなとも思った。

二〇一八年六月二十八日 「あさ、目が覚めたら、」

あさ、目が覚めたら、左手の甲の真ん中に、白い毛が一本生えてて、定規で計ったら3センチくらいあって、手をゆらゆら揺らしたら、毛もゆらゆら揺れたので、これはおもしろいと思って、剃らないことにした。

二〇一八年六月二十九日 「20世紀SF」

シマックの『都市』を読み終わって、河出文庫の『20世紀SF』のシリーズを読み直してるのだけれど、逆年代順に読むことにした。で、第6巻の1990年代。このシリーズは、どれもよかった記憶がある。とくに、第1から3巻のあたりがよかったと記憶している。逆年代順に読むのは、はじめて。三回目の再読。

二〇一八年六月三十日 「断章」

一体どのようにして、だれがわたしたちを目覚ますことができるというのか。
(ノサック『滅亡』神品芳夫訳)

だれがぼくらを目覚ませたのか、
(ギュンター・グラス『ブリキの音楽』高本研一訳)

ことば、ことば、ことば。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

言葉と精神とのあいだの内奥の合一の感をわれわれに与えるのが、詩人の仕事なのであり
(ヴァレリー『詩と抽象的思考』佐藤正彰訳)

これらはことばである
(オクタビオ・パス『白』鼓 直訳)

実際に見たものよりも、欺瞞、神秘、死に彩られた物語に書かれた月のほうが印象に残っているのはどういうわけだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』世界一の美少女、木村榮一訳)

家造りらの捨てた石は
隅のかしら石となった。
(『詩篇』一一八・二二─二三)

「比喩」metaphora は、ギリシア語の「別の所に移す」を意味する動詞metaphereinに由来する。そこから、或る語をその本来の意味から移して、それと何らかの類似性を有する別の意味を表すように用いられた語をメタフォラという。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第I問・第九項・訳註、山田 晶訳)

新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)


二〇一八年六月三十一日 「断章」

きみの中で眠っていたもの、潜んでいたもののすべてが現われるのだ
(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳)

言葉はもはや彼をつなぎとめてはいないのだ。
(ブルース・スターリング『スキズマトリックス』第三部、小川 隆訳)

言葉はそれが表示している対象物以上に現実的な存在なのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)

何もかもがとてもなじみ深く見えながら、しかもとても見慣れないものに思えるのだ。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第三部・11、大西 憲訳)

すべてのものを新たにする。
(『ヨハネの黙示録』二一・五)

すべてが新しくなったのである。
(『コリント人への第二の手紙』五・一七)


『在りし日の歌』 ― 各論

  アンダンテ

・・・・・・・・・・・(二十)湖上

・・・波はヒタヒタ打つでせう。 
・・・風も少しはあるでせう。
・・・・・・・(「湖上」)

・この未来を誘惑する単純な語り口は、私たちを昔話の入り口へと誘い込む。

・・・あなたはなほも、語るでせう、
・・・よしないことや拗言や、
・・・洩らさず私は聽くでせう、
・・・・・・・(「湖上」)

・よそよそしくも秒針時計に近づき反転をうながすようだ。

・・・われら接吻する時に
・・・月は頭上にあるでせう。
・・・・・・・(「湖上」)

・接吻のくだりは、ラムボオの「冬に微睡みし夢」が下敷きになっていると思われる。後に、中也は「湖上」の詩法を用いて訳している。同じ「……でせう」なのだが、「冬の思ひ」では不器用な翻訳ながらも取り留めもない恋の進行に一役買っているのに対し、「湖上」では一向に進行しない恋の軈て洵涕に濡れたエレジーへと移行する。

・・・月は聽き耳立てるでせう。
・・・すこしは降りても來るでせう。
・・・・・・・(「湖上」)

・本来なら気の利いた此の句も、中也の強迫観念とも言える宇宙転変のイメージと重なって不気味な現実性を帯びた句としてある。この強迫観念は、硝子体の中を浮遊する黒い煤のように、恐らく一生拭い去ることの出来ぬまゝあり、どの詩にもその影を落としていた。それは、中也の言う<現實の奇怪性>に違いなかった。

**********
*註解
・拗言:すねごと
・接吻:くちづけ
・「冬に微睡みし夢」:原題は “Reve pour I’hiver”。 ラムボオ自筆原稿の末尾に「70年十月七日、車中にて」と記されている。
・下敷き:大正十五年一月、中也は正岡忠三郎からベリションによるメルキュール・ド・フランス版のランボー『作品集』を貰った。
・訳:「冬の思ひ」と題して訳している。
・軈て:やがて
・現実の奇怪性:昭和十年五月二日の日記に次の様にある。「君等には現實の奇怪性が見えてをらぬ。それ故余は諸君が奇怪に見える。」


・・・・・・・・・・・(二十 一)冬の夜

・・・みなさん今夜は靜です
・・・・・・・(「冬の夜」)

・「春の日の夕暮れ」を彷彿させる書き出しで始まるこの詩は、昭和八年一月三十日付で安原喜弘に送られている。この詩の前半は、泰子が小林の許へ去った大正十四年の春に書かれたと言っても不思議でない程、初期の詩風を引き込んでいる。
・昭和三年四月、中也は小林秀雄に “Me voila”という断片を書き残している。

・・・人がいかにもてなしてくれようとも、それがたゞ暖い色をした影に見え、自分が自分で疑はれるほど、淋しさの中に這入った時、人よ憶
・・ひ出さないか? かの、君が幼な時汽車で通りかゝつた小山の裾の、春雨に打たれてゐたどす〓い草の葉など、また窓の下で打返してゐた海
・・の波などを……

・「俺は此処に居る」そよぐ空気が、そう耳元でさゝやく。
・秋山駿は −『知れざる炎』評伝中原中也 ー の中で、<……それよりも、この Me Voila という言葉が、次のランボオの詩の一節から発想されたものではないか。と考えることに興味をもつ。>と言って、『地獄の季節』の「悪胤」の一節(小林秀雄訳と原文)を引き、<この「te voila」(貴様がさうしてゐる)が、化けて出て来たものではないかと思う。……>と想見している。「悪胤」を読み取ると、ラムボオの詩句には静謐の裡で涕き凍みずく中也の思いの色が内焔として佇む。例えば、”Mon innocence me ferait pleurer.”「罪無くして泣けて来る。」と「老いたる者をして」の <あゝ はてしもなく涕かんことこそ望ましけれ> とは、洵涕する共晶の声である事に気づくだろう。
・昭和十年『日本詩』四月号で発表した決定稿と安原に送った草稿との間に移文が存在する。草稿には <いいえ、それはもう私のこころが淋しさに麻痺したからです?/淋しさ麻痺したからそんなことを云ふのです/(以下略)>という一連が、2の第一連と第二連との間にあった。”Me voila”で語った詩想を色濃く再燃させた一連に出くわし、私たちは今、昇華して空気に埋まる中也の結晶に触れる。

**********
*註解
・”Mon innocence me ferait pleurer.”:Une Saison en Enfer - Mauvais sang
・「罪無くして泣けて来る。」:『地獄の一季』-「悪い血」(アンダンテ訳)
・原文:
・・Sur les routes,par des nuits d’hiver,sans gite.sans habit,sans pain,une voix etreignait mon Coeur gele:≪Faiblesse ou force:te voila,c’est la
・force.Tu ne sais ni ou tu vas ni pourquoi tu vas,entre partout,reponds a tout.On ne te tuera pas plus qu sit u etais cadaver.≫Au matin j'avais le
・regard si perdu et la contenance si morte,que ceux que j'ai rencontres ne m’ont peut-etre pas vu.
・・冬、夜な夜な、衣食に事欠き住むところもなく道々をほっついていると、ひとつの声がして、俺の凍えた心を絞めつけた。『行キダオレルカ、ソレトモ生キ存エ
・ルカダ.オマエハ此処二イル、ソレハ生キ止マッテイルコトジャナイノカ。ワケモワカラズ当所モナクウロツクオマエ、行ク先々デ首ヲ突ッコミ、応エヨ、ナン
・デモカンデモダ。屍モドウゼンノオマエヲ、モハヤ殺シ二カカル奴モアルマイ二。』朝になると俺は、すれ違う者達も多分俺だと気づかぬ程。殆ど死んだ目付をし
・し憔悴仕切った有様だった。


『在りし日の歌』 ― 各論
・・・・・・・・・・・(二十 二)秋の消息

・青山次郎は『眼の哲学』-「知られざる神」で次の様に言っている。

・・・支那の文化は筆の文化である。支那のアノ文字でも言葉でもなかった。
・・・我が国では、少く共そういう風に支那の文化を受けついだ、フシがある。
・・・床の間に「書」を掛けるが、人は画でも見るように書を眺める。だが画でも見るように書を眺めていたのでは決してない。書そのものが
・・言葉だから、人は画でも見るように書かれた言葉を眺めたのである。

・・・・・閑さや岩にしみ入る蝉の声

・・・眼に見えるようだと言うが、眼に見えたのは言葉である。言葉の魅力で「立石寺」が見えるようだと解するなら、俳句ではない。見なけ
・・れば成らないのは十七字の組み合せである。
・・・十七字には、十七字を支えている姿がある。繰返すようだが、書かれた言葉を床の間に飾って、それぞれ形を得た言葉を画でも見るよう
・・に眺めたのが「書」である。この見方は千年来間違ってなかった。能も茶も一つである――結果として、書そのものの内容が、同時に見え
・・る言葉に生まれ変わったのである。

・言葉が論理に支えられているとしたら。私たちは論理の確かさを何をもって識るのだろう。論理という言葉の持つ力に酔いしれているなら、それは論理的とは言えない。
・「秋の消息」。知覚表象を言語化した中也の行為の詩的結実として、この詩は私たちの前にある。

**********
*註解
・青山次郎:明治三十四年六月一日、東京市にて生まれる。昭和五十四年三月二十七日没。昭和十三年四月、中也の詩集『在りし日の歌』(創元社刊)を装丁。


・・・・・・・・・・・(二十 三)骨

・・・實生活は論理的にやるべきだ!實生活にあつて、意味のほか見ない人があつたら、その人は實生活意外にも世界を知つてゐる人だ。即ち
・・科學でも藝術でもない、大事な一事を!
・・・げにわれら死ぬ時に心の杖となるものがあるなら、ありし日がわれらの何かを慄はすかの何か!
・・――生を愛したといふことではないか?
・・・小學の放課の鐘の、あの黄ばんだ時刻をお憶ひ出すとして、タダ物だと思ひきれるか?

・・・(社交家達といふものは理智で笑つて感情で判斷する。即ち意味に忠實でないからだ。――)

・・・・・・*

・・・さうしてよき心の人よ、あれら手際よい技能家や學者等を恐れたまふな。あれら魂が希薄なために、夢が淺いので歯切れが好いばかりだ。
・・――彼等が歯切れの好いことは彼等の人格と無關係だ。

・・・・・*

・・・地上を愛さんために、人は先づ神を愛す必要がある!
・・・・・・・・・・(『Me Voila』―a Cobayashi)

・このなんとも言えず解りずらい散文を読み下すヒントは、約一年後(一九二九・一・二〇の日付の)に書かれた、次の詩の中にあるように思われる。

・・・神よ私をお憐み下さい!

・・・・私は弱いので、
・・・・悲しみに出遭ふごとに自分が支えきれずに。
・・・・生活を言葉に換へてしまひます。
・・・・そして堅くなりすぎるか
・・・・自堕落になりすぎるかしなければ、
・・・・自分を保つすべがないやうな破目になります。

・・・・神よ私をお憐み下さい!
・・・・この私の弱い骨を、暖いトレモロで滿たして下さい。
・・・・ああ神よ、私が先づ、自分自身であれるやう
・・・・日光と仕事とをお與へ下さい!
・・・・・・・・・・(『未刊詩篇』「寒い夜の自我像 3 」)

・言葉で表現され得ない観念というものはない。だが、現象の背後に事物があると思われているようには、言葉で表現され得る観念が実在しているとは言い切れない。「無限」という観念が実在する為には、無限という言葉の意味が「存在」という『場所と形式』に適合するか否か確かめる行為がなされなければならないだろう。<実生活は論理的にやるべきだ!>と中也は言う。論理的に生きるとは、そういうことなのだ。
・<この私の弱い骨を、暖いトレモロで滿たして下さい。>みつばのおひたしを食ったこともある、恰度立札ほどの高さにしらじらととんがった骨は、〓気の底に冷たく沈む青空の中で、小學の放課の鐘の、あの黄ばんだ時刻からヌックと出た骨。
・私たちが棲む空間は実生活以外の世界でもあるのだという大事な一事に、あなたは達は気づいただろうか?

**********
*註解
・〓気:こうき


・・・・・・・・・・・(二十 四)秋日狂亂

・「秋日狂亂」は昭和十年十月『旗』十三輯に発表された。昭和十年は、出版社の依頼もあってランボオ翻訳に専心していた年である。中也は『イルミナシヨン』の「放浪者」を訳していないので推測の域を出ないが、恐らく小林秀雄からこの詩の知識を得ていただろう。両方の詩の終節を並べてみると、二人の詩人の核心が滲み出て愛塗れるイメージが湧いてくる。

・・・「對立」の概念の、去らんことを!
・・・・・・・(「砂漠の渇き‐5」『未刊詩篇』より)

・「空間」を無限なものと見做して実在するという実在論的見地に立とうと、或いは「無限なる空間」を直観形式とする観念論的見地に立とうとも、私たちは有限なる事物の影すら知覚する事はないだろう。無限を有限と対立する肯定として捉える認識がある。無限なる存在を識る事なくして、有限なる存在を識る事はない。それはそうかも知れない。しかしそれなら、それらが対立する概念と識るのは何故かを問わないのは、妙な話ではないか。「存在すると思える事」と「思える事が存在できる事である事」とは、別の話であると私には思われる。
・無限を「有限なるものが数限りなくある」という意味ではなく、「果のない単一なるもの」として捉えるなら、無限には空間は無い。存在の形式としての空間を宥さない場所(内容)として、無限は存在するしかない。空間は存在の形式としてあり、事物は存在の内容としてある。事物は場所(内容)として存在しているのであって、「現象(物の外面的現われ)がそこにある」場所として空間が存在しているのではない。現象がそこにある場所に存在するものは、物(本体)である筈だ。場所は形式ではない、内容だ。「空間は知覚の形式(形態)である」(カント)という言い方は魅力的ではあるけれど、「空間は存在の形式である」に較べて論理的ではない。何故なら、知覚は存在ではない。知覚は存在する(できる)もしくは存在しない(できない)もの、又はものではないもの。
・「存在」とは、内容と形式の総体としてある。言葉の魅力で恰も知覚が内容と形式の総体であるかのように思わせる言い方をするなら、それは論理ではない。いっそう「知覚は存在の形式である」と言った方が潔い。論理を支えるものは言葉だ。言葉は、語の組み合わせからなる形式(言い方)なのだ。
・形式(形態)として存在しているのは空間。ウソのような話だが、「事物には形態はない!」というのは本当の話。


・・・・・・・・・・・・・存・・在
・・・・・・・・・―――――― ――――――
・・・・・・・・/内 容・・・・・・・形 式\
・・・・・・・・・・II・・・・x・・・・・II
・・・・・・・・・場 所・・・⌒・・・形 態
・・・・・・・・・・↓・・・・対・・・・↓
・・・・・・・・・事 物・・・立・・・空 間
・・・・・・・・―― ――
・・・・・・・/無・・有\
・・・・・・・・限・・限


・無限と有限は対立する肯定ではない。対立共存させること自体が矛盾だ。対立するのは、内容(場所)と形式(形態)だ。無限と有限は対立する事なき否定。無限(場所)と空間(形式)は対立する否定。有限(内容)と空間(形式)は対立する肯定だ。有限なる事物が存在できる為には、「存在」の裡にある場所と形態が対立する肯定でなければならない。
・水に浸った蒼い手は、水に触れたのではない。雨に濡れ亙る舗石は、悲しみに触ったのだとしても雨に触れたのではない。事物と事物との間にある隙間。 その隙間は、事物を拡大して見ると現れて来る原子の隙間と繋がっている。そしてこの究極の隙間は、空の奥のその奥の虚無の空へと連なる。私たち有限なる事物は、存在の形式(形態)である究極の隙間を介して宇宙の果と限りなく近くに生きていると言えるかも知れない。

・・・ではあゝ、濃いシロップでも飮まう
・・・冷たくして、太いストローで飮まう
・・・とろとろと、脇見もしないで飮まう
・・・何にも、何にも、求めまい!……
・・・・・・・・・・・・(「秋日狂亂」最終連)

・形態として存在しているのは空間。鏡に映る私の姿は、実はこのなにもない空間の側にある。それは、あたかも太いストローでシロップを飲み干すかのように何もない隙間に囲まれた私という内容(場所)を刳り抜けば、透き通った軌跡が在りし日のように残されるのに似て、そこには私の姿は何処にも見当たらない、それこそ <何にも、何にも、求めまい!……>としか、言いあらわし方(方式)が見出せないのだ。
・あなた達は、水中の天井がじつは水面であるという不可思議な絡巧に気づいただろうか?

**********
*註解
・場所は形式ではない、内容だ。:ラムボオは場所と形式を求めて、さ迷った。『イルミナシオン』の「放浪者」は、次の様な一節で終結する。
・・・俺は、彼奴が太陽の子として原子の居所へ回帰するよう、本気で思いそうしたのだ。―― して俺たちは洞窟の水と道々のビスケットで命を繋ぎ、さ迷った。
・・して俺たちは、場所と形式を解明しようと焦りながら。(アンダンテ訳)
・・・J'avais en effet,en toute sincerite  d’esprit,pris  L’engagement de le rendre a son etat primitif de fils du Soleil,- et nous errions,nourris
・・du vin des cavernes et du biscuit de la route,moi presse de trouver le lieu et la formule.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(『Iluminations』「Vagabonds」 -A.Rimbaud-)
・カント:ドイツの哲学者インマヌエル・カント(1724〜1804)は、彼の哲学の前提の一つとして、「空間と時間は知覚の形態である」を提唱した。
・事物には形態はない!:「おれがいまここにいるというのはとんでもない間違いで、ことによると、おれという人間は全然存在していないのかも知れないぞ」秋山駿は『知れざる炎』で、小林秀雄が中也の「三人姉妹」の中のセリフ(上述)‐副人物の口真似する姿を伝えた、大岡昇平の証言(『在りし日の歌』)を引用している。そして、「おれがいまここにいるというのはとんでもない間違い」――そこに彼のレアリテがある。彼は、もう生活の中にはいないのだ。それにもう、現実の上に自分を出現させようともあまり思っていないのだ。…(中略)…彼のあの「在りし日」が流れ出すのは、この奇妙な「レアリテ」の穴からなのだ。と述べている。
・絡巧:からくり


症例

  鷹枕可

闇が近い 何も見えなくなる
群衆は叫ぶ
今こそが革命の時
旧い遊戯の続きを始める時

退廃は血縁の贄を求め
豫め勃興に滅亡を築く
われらはわれら永続をつかさどり
われらわれらが滅亡をつかさどるもの、われわれなり
今際の際
記憶の水時計を指標として

鏡の縁、縁の、鏡の、その縁に双児の人体有機機関を
狂った婦人が、見据える 
「私、遊園会に招かれたのよ」
「でも」
「私、行かなかったわ」
「ころされるとおもったの」
精神病院の壁に 
実験経済の統計室に
夕の橋梁に消えた
全ての電話機が一斉に繋がらなくなった
鏡像の外に
確かなものは何も勿く

ワルキューレ航海録
あるいは物質と時間の遠近法
逆さ吊り
死青年に蒼褪めた窓
オルフェ
オルフェ
狂婦人が日に二度、橋の欄干から河にむかって叫ぶ、
そして何事も無かったかのように去ってゆく

近頃、姿を見ないって
しらないのか
彼女は
もう
とうの昔に死んだよ


橋人の唄

  キリン堂

わからないので橋になった
 日が水を背負って
人を背負って歩いていく

ひとは私を上沓、下沓、沓座とよび
その上にかけられた木や土、鉄の上をあるく
家路か旅路か欄干を鳥が遊び歩いて

手を繋ぎ歩くひとびと、馬が繋がれて
牛の背中を追って荷が運ばれていけば
糞が、花が臭い、恋慕のため息が泥む

運ばれていくひとも牛馬もかわりなく
わからない、私と裏腹に彼らはあるく
いずこかへ、私はまた支承とも呼ばれ

やがて排気ガスが臭い
時間が伸びたり縮んだり
町はデコボコ、橋から誰か
飛び降りた落日もあった

ただ背負い続けて溢れるように忘れても

川は遡上する鱗にきらめいて
夜を孤独になく虫の声を聴き
蠢く月たちを見上げて流れる

日が水を背負って
また人を背負って
歩き、つづるのを

背中に
 感じ続けた

幾年も幾年も幾年も

億年の彼方にひとの姿もなく
やがて橋も朽ち後には虫の声
玲瓏と、川の流れに棹差して

支承と呼ばれていたものが川を裂いている
それはもうどこにも行く必要などないのだ


雨が降っていなければ

  ナカノソ

桜は今もキレイなままだったのに
とびきりのオシャレをできたのに
日に焼けた彼は溺れなかったのに
捨てた体操着は泥汚れ続けたのに
どこまでも遠く歩いて行けたのに

雨が降っているから
あの座標は変わらないままなのに

* メールアドレスは非公開


空なんてはじめから、はがれてる

  菊西夕座

旅にでるための原動力を。あなたのほほえみに探しもとめるとき。靴よりも蜜を。足にまとうほうがよいにきまっている。からさっそく、この足にぴったりな。黄金色のふりそそぐ。夏空にむかって片方の。膝からつま先を。ロケットのように伸ばすと。なんてきれいな砲身だろうって。見つめた空がわらうから。冴えわたる青い天幕に。このなめらかな脚を吸い込ませ。はちきれそうな砲にたっぷりと。光の蜜をそそぎこむ。それからもう片方のほうも。するとあなたは包装紙。フランスパンでも包むみたいに。シュルシュルシューっと巻きついて。ひとしきり愛撫するから。そのまま全身を浸して。空の奥処へ飛びたつけれど。空気をぬかれた風船そっくり。あっというまに沈んでしまう/こんなはずではなかったと。水槽からとびだして。びしょびしょになりながら。あなたが平静にかえるのを。まじまじとみつめている。せっかく移しかえた空は。どうして愛撫だけのこして。連れていってくれないの。瞳をあげるたびに。あこがれとくやしさで。ますます空はこぼれて。眼窩からあふれてしまう。水面にわたしのしらない。わたしの影が。はがれおちていて。空にいだかれている。もういちどほほえみをもとめて。膝からつま先を。ロケットのように伸ばすと。なんてきれいな砲身だろうって。見つめた影がわらうから。こんどこそは入れ替わろうと。互いに目配せするけれど。号砲をはなつたびに。あっというまに沈んでしまう/なんど裏切れば気がすむの。8の字に脚を交差させ。ふやけた体をパンパンたたき。近くのグラスをひきよせて。たったまま傾けるヤケ酒。夜がすべりおちてきて。あたりが闇に包まれるとき。影も青空ものみほされ。たったひとつだけのこされた半月が。錆びた塗装のはがれのように。鈍い金の裏地をのぞかせて。そこからめくろうと指をのばせば。むきだしの夜空にハッとなる。まぶたで覆ったあなたの笑顔。はじめからすっかり、はがれてた。水面にはった氷のような。固体という名の生存は。やがてくだけて水となり。蒸気となって空に溶け。晴れた日にはせめて。わたしをすくいとってほしい。あなただけの尽きない空槽で。明るい「見ず」をたたえながら。


生きる

  朝顔


夕陽の見える
だらだら坂を下って
新しいパン屋で
食パンを一斤買うこと
花をテーブルに生けること
クーラーのスイッチを切ること
窓を開けて
空気をいれること
友だちの
誕生日を祝うこと
そうめんとトマトと大葉を和えて
冷やした紅茶と
お昼にすること
ドラッグストアーの
シャンプーを抱えて
髪をあらうこと
ノートに日記をつけること
自転車で
ピラティスの教室に通うこと
穏やかな
音楽を聴くこと
夜は
糊のきいたシーツにくるまって
早く寝ること
自分を大切にすること
家族を大事にすること
人を
愛すること


ぷろてすとたん

  ウトイ


強情っ張り電柱 居丈高な 突き刺しも切り
もできない フォーク、反乱たった一本 た
った一本、通り過ぎて 封鎖されて スピー
カー 窓越して放るたとえ曇天でも、デリバ
リー淡いで 淡いで稼ぐ密度、少しく グラ
ウンド 林立する足 また、足 のびていか
ず 踏み込みひとつ、滑って 滑って尚、ア
ップライト 早く、抗議する クイックです 
回ってくるターン 広義に僕の まだ曲げる
には諦めるには早く 早く、でもクイックに
できない


驟雨の豪雨

  イロキセイゴ

輝けないことを気にして
ゼロの今を見つめる
なごめてもなごめなくても
朝はやって来て目覚めの時
南天の花が半分ぐらい咲いて居た
小花の集合が黄色くあるいは
オレンジ色に弾けて
柿の木の近くに有る
科学の世界では獣は排除されて
ドーバー海峡を渡る獣(けもの)
デッキブラシがゼロなのだと思った
濡れて獣の毛は弱弱しい
ゼロの今にデッキブラシを大鎌で
かっさらうもの神より高次に有るもの
美しい雨なのであった


上京する君へ

  うさぎ

クジラと同じ年齢になれば海を許せると思っていた
月の光では髪の毛を洗えなくなっていて、自分がもう処女ではないことを思い出した
透明な神経をつなぎ換えて写真を見ても涙が出ないようにしたい
男たちが涙をこぼすたびに君の砂漠は乾いていく。本当は何がほしいの?
青くて地球みたいな君の眼を見ていると自分が月にいるような気がしてどうしても手が届かない
透明な神経をつなぎ変えて写真を見ても涙が出ないようにしたい
世界中が君に、君の細かな動きに注目している
おやすみ
ニュースにならないようにこっそり寝返りをうってね
何にも縛られない君は地球一周分の長さの鎖につながれた78億人の囚人たちにほほえんだ
暴力団事務所のうえの空にはキリンさんやウサギさんみたいな形の雲が浮かんでいる
僕たちの心臓はとっくに死んでいて天使が一秒に一回手で動かしているんだ
ため息の形のチョコレートは僕が食べてあげるよ。さあ、前を向いて
こんな世の中でも子どもたちは楽しそうにはしゃいでいる
きっと大人の眼には見えないお花畑がそこらじゅうにあるのだろう
そろそろ靴を脱いで君を見せてほしい
東京に行っても数学の先生のモノマネを続けてね


さようなら、なみだ

  なまえをたべたなまえ

瞼から落ちていったものが音を立てない朝と舌に泊まる湿度と言う羽虫が柔らかいからパンを食べる手を伸ばしてどこまでも弔う道を振り向かない横顔。声とライオンの深い谷。鬣と少しの震えが伝わる足もまた伸ばして。鳥のように群生している雨と鉱石、心拍数とベランダから見下ろす人の数。呼吸と孤独は虫と鉱脈に似ているから許さない。体を庭に降ろす神の些細な一手が羊みたいなハンドクリームだね。ここで猫が鳴きます、世界が一度滅びます、敬具。だから、果実を向いてね、台所から繭と麻の世界へ、霧と1回だけね、忘れていたことを思い出して。瞼を落として、床に手を伸ばして、死んだふりをして魂を逃がさない。台所では産卵しないでお母さん。兄弟は皆死ぬ。生きることは辛い。だから、天気予報を裏切りたい。硬質な電話、カタツムリみたいな人、話しても咲かない花と魚。料理はすること、また私みたいな人が出来て、落ちていく視線。きらきらしたら全部ぶっ殺す、だから、列に並んで、手を洗って、また、髪を梳いて、携帯電話が私を着信しない夜は、私を見ないで、機関銃と現代詩、皆、死んで、さようなら、なみだ。


少年よ、卵は鳥だけじゃない

  ゼッケン

世界はおれにすべてを準備した。おれはそれを見ていた。おれはおれも舞台の上に立っていると思っていて、人間のときのおれは観客の役に徹していた。舞台の上のおれもまたあんたがたに見られている。あんたがたの視線をおれの視覚野に接続すると、おれは舞台の上に這いつくばった蜥蜴だった。夢を見たと思う。ありがとう。世界は観察されるために在るのではなく、蜥蜴よ、世界は消化されるためにある。おれは顎を大きく外して、あんたがたの方を向くだろう。細い血管が網のように走る濡れた粘膜で頬張り、咀嚼はしない。少しひんやりとした感触が銀河を覆う。蜥蜴の血は温かくはない。それは冷たさを意味しない。膨らんでいない脳では血は多く要らない。おれはおれの立つ舞台をおれごと丸呑みするために粘膜ごと裏返って痙攣する袋だ。さよなら、三次元の視覚たち。おれには時間が理解できないので音楽が恐ろしい。ちぃ、と袋の中で鳴いてみる。べたべたに濡れた肌の集合がいっせいに揺らいで、あんたがた、おめでとうございます、宇宙は続くのだと、蜥蜴の僧正が託宣を垂れる。ああ、そうかい。おれは痙攣している、卵から次の宇宙が孵る日が来たとしても。


あせび

  玄こう


 天地の雨は さしものもなく いのちのちのりはいのりのり 落陽の青光する輪郭に 乾いた生地が揺れている 風に流れた御影の顔が 水面せせらぐ縁と縁との 友と伴とのうたがいい  ひのひのひとのいのりのみちのり 賢しきもののふ 流れるこぶし 祈りが歌になるとき 歌がコトバになるとき 言葉が馬酔木になるとき 天地の雨は遠ざかり チビて駆ける足裏の 冷たい汗の匂い 歩者の解に解に ひとのひのひは明るくはずむ 声も顔もものみな川床 にて魚の玉石の玉梅の玉 足の下を流れて濡れ落ちた 歩者 はふる 流れる拳の降る雨が怒りに満ちて歌になるとき 歌がコトバになる言葉が馬酔木になるとき 歩者の孤独の背なかにも ほら其処にもあ其処にも やぶれ さばかれた一枚の紙が はふれ ほらあの時もあの時も しそのかわをばせとせに はふれた人の玉 うおの玉 ひしの玉 … … 川床逆さにうつける影が 流れる 

                                 
 


日記

  田中恭平

 
 水を飲んで、けして一杯じゃない。血がうすくなる位、水を飲んで、頭痛がしても水を飲んで、水自体になるくらい水を飲んで、欲望を忘却しようとする、あたらしい依存の形、に、なってしまわないように、気を引き締めながら、水としてマインドフルネス瞑想をして、雑念に塵(ちり)のレッテルを貼り、きらきら光る、これは理解できない、何か物を観ている。苦渋にぎゅっと握った左手。いま解放し、楽にしてやる。左手の小指にもたましいは宿る。歯のいっぽんいっぽんにたましいは宿っている。だから口内はボロボロ。鏡でのぞくときナルシスト。すとん、すとん、と野菜を切って、そのままにして原付に乗って森の入口を目指す。コーラス、何番?水だけ持ってきた。分け入っても分け入っても青い山。種田山頭火。生活に、労働に、つかれきって、水をゴクゴク飲む。地下水の軟水だ。口の中に広がり、思考が自然脱臼される。肩が抜けたようにこころはまだトイレ消臭剤の匂いがこびりついているから、それは捨てる。脱ぎ捨てる。爽やかな風。アメリカでは風は福音の比喩。なのに相も変わらず得るものはなく、こころの内戦は止まらないから、また水を飲み、座する。木々のこすれる音が聞こえる。鳥の啼く音が聞こえる。黙って水晶を採取する。それで何かをするわけではない。家というポケットに入れる為にまずは、汚らしい、汗臭い作業ズボンのポケットに入れる。時が経ち、じぶんは森のポケットのなかにいるのだと考える。跡地にゆく。いつか父がそこにひめしゃらを植えて、それは誰かに抜かれ盗まれてしまった。父が哀しくもなく、もう笑い話に昇華されている話をなんども聞いた。わたしは昇華できないでいる。その話を聞くとただ哀しい。その跡地に向かう。孤独に一軒家で一人暮らししていると、さびしいから、唯一の繋がりであるような、父との、その跡地で座し直す。でもほんとうはさびしいということがどういうことなのか、最近、わからなくなりそうになっている。それが怖い。座すると必ず顕在化する。労働は障がい者雇用で行っている。朝の八時から、午後三時まで。やっぱり馬鹿にされているんだな、とおもいつつ、できることしかしない。できることしかできない。小雨の予感、家へ帰ろう。自分語りにいきがったり、少しだけする弾き語り。すべては無にかえる物語。原付は爽快。している間に何かを忘れたり、失ったりするから、今度は歩いてこよう。中原中也も歩いてから書いたというではないか。そんな話もやっと思い出し、しんじつなのかはわからない。カチャリと鍵を開けて、手を殺菌消毒する。コロナで、もう一生分は手を洗った。ころり、ころな、ころさないで。自然と一になり、パソコンを立ち上げれば無限となるのか。ほんとうか、それは。頭痛したまま、又水を飲む。五時を報せる鐘は、夜への出発の鐘だ。いこう、れっとごー。夜の階層の最上階まで。わたしは水として、架空の青年、リーを癒す。諦めることは明るめて認めること。たぶんそうなんだろうな、と思いつつ、清潔なシーツに横になり、いつもの天井を見つめる。わたしの刃はボロボロだ。研がなくては草を刈ることはできない。にっちもさっちもいかないとき、人は本当に活きている。ニュースは見ない。テレビを疎ましく思うのは病気の性。野菜をもう一度切り、肉がないことに気づく。カチャリと玄関を開け、ふらふらと業務スーパーへ向かう。抱えているのはおさなごころ。業務スーパーの光りは強烈過ぎる。から、その店先で座って、小学生がするように、水を飲む。なんだか月の香りがするよ。

 


無人の駐車場

  絶望太郎

毛布にくるまり
寂しさを紛らわせている
悲しそうな顔をして
無人の駐車場で時間をつぶす
固くなったおにぎりをくわえて
常温のお茶でのみこんだ

二冊の雑誌を片手に
壊れそうな心が寄り添う
少しばかりの優しさが
肌を撫でていてくれる

電気が消えて
今日もそろそろ終わりを迎える
何もしなかったとため息が出る
缶コーヒーでも買ってこようか

爪を噛んで
賑やかな雰囲気
あの店の前を横切る
受け止めきれない感情
いつものように立ち上がる
銀色の柱が力強い

並ぶ石 色んな感情も並ぶ
未だにすっきりしない頭
蛇行する空気 初夏の香り

緑の色で 空が描かれ
金属がぶつかる音
まばたきの度
可能性にかけている

夜の音を聞いている
昨日は少しはしゃぎ過ぎた
統一性のない 息吹の予感と
シワの寄ったTシャツをかき回す

靴は汚れる
映画のような音
色んな音
無人の駐車場で
座り込んだ
肩を鳴らして 帰り支度


衛星

  右左

太陽の下の水面の、その
上澄みだけをうっすらと
すくって
撒いてみたい

水鏡で星を満たして
倒錯的に空を歩きたい


livings: 1, 2, 3

  完備

1.

雨音が血に変わる
ぼくのFaceAppできみに笑ってほしい

  ベランダに山椒の木
  手紙を書き終えた指で
  アゲハチョウの卵を潰していく
  すこし濡れながら

おいでよ
美味しい牛丼を作ってあげるよ


2.

永遠に泣いてた のどが渇いた
百均のエプロンに散った油が
シャツにシミる かたち 繊維のくず
意味ないじゃんって笑えるのか
人といればこんなことも
冷めたインスタントコーヒーをチンして
永遠に泣いてた
トイレに何度も行った
内面 に やさしく刺さる爪 血と粘液
作りかけの料理を二日放置したら
腐ってた から棄てた
コバエの群れに吹きかけた殺虫剤をすい込み
気管支が広がる
からだ が 変わるから分かる
永遠に泣いてた 身動き取れないほど金がなかった
ピカピカになるまで台所を掃除した


3.

死体ひとつない河川敷の
初めて
タバコを吸ったのとおなじ
たぶんおんなじ
茂みに倒れる

あの橋と
この川
名前がわかる鳥
くび細く
自転してた

死ぬまぎわの人の
ためにある景色

ほとんど永遠まで
引き伸ばして見ている


メチオニン

  藤本大輝

小さな小さな点
吸い込まれ
消える
存在って何?
電磁波
ちゃんとどくんどくんしてる
エネルギーみなぎって
栄養は偏らず
病気にならず
潮汐力は今日も体をひきちぎる
けれど無限の宇宙で
1日中横たわって
生きる奴もいる


白痴告解

  鷹枕可

世界が終る時
嫉める者
絶無絶対的なる存在、きさまを
履み
踊ろう
死から醒めた、夢
_

黒い奴隷
賤しめられた誇り、いと高き花の
嫡男よ
彼奴等は黒い酪乳を飲むまい、決して

一箇の暴力
幾多の正統化をされた統率庁
辜の容を刻む
メランコリアの血脈
血統書純粋なるがゆえ
監禁隠匿さる狂‐精神病症例群に疑惑精神を
膚白き
現代文明その前衛白痴
インテリゲンツァの咽が絡む
舌禍
存在の愁嘆場に
営営と
間歇泉を摘む偽青年

或は虐殺史手帖
死と霙の
血痰は含漱にあれ
純粋平和的なる抑圧に
無感覚たれ市民達、奴隷の花を培うとも
死へ邂逅へ
車轍を履み刻み
老婦人
余暇‐生涯を惧れ已まず

或る征服、軽き死を統計機関は秘匿し乍ら
声の歌さえ検閲を受けて
手紙の声は徴集される
そして復
正確な
附録隧坑が椅子に囁く

文学極道

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