#目次

最新情報


2010年08月分

月間優良作品 (投稿日時順)

次点佳作 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


LA LA MEANS I LOVE YOU。

  田中宏輔



●マドル●マドラー●マドラスト●子供たちは●頭をマドラーのようにぐるぐる回している●マドラーは●肩の上でぐるぐる回っている●ぐちゃぐちゃと●血と肉と骨をこねくりまわしている●そうして●子供たちは●真っ赤な金魚たちを●首と肩の隙間から●びちゃびちゃと床の上に落としている●子供たちの足がぐちゃぐちゃと踏みつぶした●子供たちの真っ赤な金魚たちの肉片を●病室の窓の外から●ぼくの目が見つめている●学生時代に●三条河原町に●ビッグ・ボーイ●という名前のジャズ喫茶があった●ぼくは毎日のように通っていた●だいたい●いつも●ホットコーヒーを飲んでいた●そのホットコーヒーの入っていたコーヒーカップは●普通の喫茶店で出すホットコーヒーの量の3倍くらいの量のホットコーヒーが入るものだったから●とても大きくて重たかった●その白くて重たい大きなコーヒーカップでホットコーヒーを飲みながら●いつものように●友だちの退屈な話を聞いていた●突然●ぼくの身体が立ち上がり●ぼくの手といっしょに●その白くて重たい大きなコーヒーカップが●友だちの頭の上に振り下ろされた●友だちの頭が割れて●血まみれのぼくは病院に連れて行かれた●べつにだれでもよかったのだけれど●って言うと●看護婦に頬をぶたれた●窓の外からぼくの目は●首から上のないぼくの身体が病室のベッドの上で本を読んでいるのを見つめていた●ぼくは●本の間に身を潜ませていた神の姿をさがしていた●いったい●自我はどこにあるのだろうか●ページをめくる指の先に自我があると考える●いや●違う●違うな●右の手の人差し指の先にあるに違いない●単に●普段の●普通の●あるがままの●右の手の人差し指の先にあると考える●ママは●人のことを指で差してはだめよ●って言っていた●と●右の手の人差し指の先が記憶をたぐる●でもさあ●人のことを差すから人差し指って言うんじゃんかよ●って●右の手の人差し指の先は考える●自我は互いに直交する4本の直線でできている●1本の直線からでもなく●互いに直交する2本の直線からでもなく●1点において互いに直交する3本の直線からでもなく●1点において互いに直交する4本の直線からできている●と●右の手の人差し指の先が考える●ぼくの目は●窓の外から●それを見ようとして●ぐるぐる回る●病室のなかで●4本の直線がぐるぐる回る●右の手の人差し指以外のぼくの指がばらばらにちぎれる●子供たちの首と肩の隙間から●真っ赤な金魚たちがびちゃびちゃあふれ出る●子供たちは●頭をマドラーのようにぐるぐる回している●マドラーは●肩の上でぐるぐる回っている●ぐちゃぐちゃと●血と肉と骨をこねくりまわしている●そうして●子供たちは●真っ赤な金魚たちを●首と肩の隙間から●びちゃびちゃと床の上に落としている●それでよい●と●右の手の人差し指の先は考えている●45ページと46ページの間に身を潜ませていた神もまた●それでよい●と●考えている●ああ●どうか●世界中の不幸という不幸が●ぼくの右の手の人差し指の先に集まりますように!


道のはた拾遺 7.

  鈴屋

7. 神


日暮れの町はずれ
神がつっ立ってこっちを見ている
ついて来るのだ

むこうへ行け、俺にかかずらうな、と俺はいう
仕事がないのだ、と彼はいう

尾長が一羽、叫びながら森へわたる
舌が尖っている
彼も見あげている

姿は蚊柱、顔は砂、神とはそんなものだ
言葉の要請にすぎぬ
俺がわらう
彼もわらう

風はすずしく、メヒシバがゆれる
道の先は闇にとけ
夕餉はとおい

先をいそぐ俺の背に
おまえは仕事になる、と神はいう 


メシアふたたび。

  田中宏輔




つい、さきほどまで

天国と地獄が

綱引きしてましたのよ。

でも

結局のところ

天国側の負けでしたわ。

だって

あの力自慢のサムソンさまが

アダムさまや、アベルさま、それに、ノアさまや、モーゼさまたちとごいっしょに

辺獄の方まで観光旅行に行ってらっしゃったのですもの。

みなさん、ご自分方がいらしたところが懐かしかったのでしょう。

どなたも、とっても嬉しそうなお顔をなさって出かけられましたもの。

あの方たちがいらっしゃらなかったことが

天国側には完全に不利でしたわ。

それに、もともと筋肉的な力を誇ってらっしゃる方たちは

どちらかといえば

天国よりも地獄の方に

たくさんいらっしゃったようですし……。

まあ、そう考えますと

はじめから天国側に勝ち目はなかったと言えましょう。

地上で活躍なさってる、テレビや雑誌で有名な力持ちのヒーローの方たちは

その不滅の存在性ゆえに

最初から、天国とは無関係なのですもの。

何の足しにもなりません。

そして、これが肝心かなめ。

何といっても、人間の数が圧倒的に違うのですもの。

いえね

べつに、ペテロさまが意地悪をされて

扉の鍵を開けられないってわけじゃないんですよ。

じっさいのところ

天国の門は、いつだって開いているんですから。

ほんとうに

いつだって開いているんですよ。

だって、いつだったかしら。

アベルさまが、ペテロさまからその鍵を預かられて

かつて、カインに埋められた野原で散歩しておられるときに失くされて

もちろん

ペテロさまは、アベルさまとごいっしょに捜しまわられましたわ。

でも、いっこうに見当らず

とうとう出てこなかったらしいんですのよ。

まえに、アベルさまには言っておいたのですけどね。

お着物をかえられたらって。

だって、あの粗末なお着物ったら

イエスさまが地上におられたときに着てらっしゃった

亜麻の巻布ほどにもみすぼらしくって

まともに見られたものではなかったのですもの。

ですから

懐に入れておいた鍵を落とされたってことを耳にしても

ぜんぜん、不思議に思わなかったのです。

ペテロさまは、イエスさまに内緒で

(といっても、イエスさまはじめ天国じゅうのものがみな知っていたのですけれども)

合鍵をつくられたのです。

しかし、これがまた鍛冶屋がへたでへたで

(だって、ヘパイストスって、天国にはいないのですもの)

ペテロさまが、その鍵を使われて

天国の門の錠前に差し込んでまわされると

根元の方で、ポキリってことになりましたの。



それ以来

天国の門は開きっぱなしになっているのです。

ああ、でも、心配なさらないで。

天国にまでたどり着くことができるのは善人だけ。

それに、ペテロさまがしっかり見張ってらっしゃいましたわ。

ある日、ウルトラマンとかと呼ばれる異星の方が

ご自分の星と間違われて

こちらにいらっしゃったとき

その大きなお顔を、むりやり扉に挟んで

その扉の上下についた蝶番をはずしてしまわれたのです。



その壊れた蝶番と蝶番のあいだから

ペテロさまは

毎日、毎日、見張ってらっしゃいましたわ。

さすがに

さきほどは、綱引きに参加しに行かれましたけれどもね。

毎日、しっかりと見張ってらっしゃいましたわ。

ほんとうに

これまで一度だって

悪いひとが天国に入ってきたっていう話は聞きませんものね。

まっ

それも当然かしら。

だって、鍵を失くされてからは

ひとりだって、天国にやってこなかったのですもの。

そうそう

そういえば

何度も、何度も

門のところまでやってきては

追い返されていたひとがいましたわ。

まるで、ユダの砂漠の盗賊のような格好をした

アラシ・カンジュローとかという老人が

自分は、クラマテングとかという

正義の味方であると

喉をつまらせ、つまらせ

よく叫んでいましたわ。

ペテロさまがおっしゃったとおり

あの黒い衣装を脱いで、覆面をとれば

天国に入ることができたかもしれませんのに。

意固地な老人でしたわ。

それがまた、可笑しかったのですけれど。

まあ、ずいぶんと脱線したみたい。

羊の話に戻りましょう。



どうして

天国と地獄が綱引きをすることになったのかってこと

話さなくてはいけませんわね。

それは

わたしが退屈していたからなのです。

いえいえ

もっと正確に言わなくては。

それは

わたしが、ここ千年以上ものあいだ

イエス・キリストさまに無視されつづけてきたから

ずっと、ずっと、無視されつづけてきたからなのです。

もちろん

イエスさまは、わたしが天国に召されたとき

それは、それは、たいそうお喜びになって

わたしの手をお取りになって

イエスさまに向かって膝を折って跪いておりましたわたしをお立たせになられて

祝福なさいましたわ。

イエスさまは

あのゴルゴタの丘で磔になられる前に

上質の外套を身にまとわれ

終始、慈愛に満ちた笑みをそのお顔に浮かべられ

わたしの手をひかれて

わたしより先に天国に召されていたヤコブさまや

その弟のヨハネさまがおられるところに連れて行ってくださって

わたしに会わせてくださいました。

天国でも、イエスさまは地上におられたときのように

そのおふたりのことを

よく「雷の子よ」と呼んでいらっしゃいましたわ。

そして、イエスさまがいちばん信頼なさっておられたペテロさまや

その弟のアンデレさまに、またバルトロマイさまや

フィリポさま

それと、あの嫉妬深く、疑い深いトマスさまや

もと徴税人のマタイさまや

イエスさまのほかのお弟子さま方にも

つぎつぎと会わせてくださいましたわ。

どのお顔も懐かしく

ほんとうに、懐かしく思われました。

きっと天国でお会いすることができますものと信じておりましたが

じっさいに、天国で会わせていただいたときには

なんとも言えないものが

わたしの胸に込み上げました。

そして

イエスさまや

もとのお弟子さま方は

わたしを天国じゅう、いたるところに連れて行ってくださいました。

ところが

やがて

そのうちに

天国の住人の数がどんどん増えてゆきますと

イエスさまや

そのお弟子さま方は

わたしだけのことにかまっていられる時間がなくなってまいりましたの。

当然のことですわね。

なにしろ

イエスさまは

神さまなのです。

天国の主人であって

わたしたちの善き牧者なのです。

ひとびとは牧される羊たち

ぞろぞろ、ぞろぞろついてまわります。

いつまでも

どこまでも

きりがなく

ぞろぞろ、ぞろぞろついてまわるのです。

もちろん

そのお弟子さま方のお気持ちもわからないわけではありませんが。

ひとびとは牧される羊たち

ぞろぞろ、ぞろぞろついてまわります。

いつまでも

どこまでも

きりがなく

ぞろぞろ、ぞろぞろついてまわるのです。

そして

やがて

ついに

イエスさまは

お弟子さま方たちや、信者のみなさんに、こうおっしゃいました。

「わたしはふふたび磔となろう。

 頭には刺すいばら

 苦しめる棘をめぐらせ

 手には釘を貫き通らせ

 足にも釘を貫き通らせて

 いまひとたび、十字架にかかろう。

 それは、あなたたちの罪のあがないのためではなく

 それは、だれの罪のあがないのためでもなく

 ただ、わたしの姿が

 つねに、あなたたちの目の前にあるように。

 つねに、あなたたちの目の前にあるように

 いつまでも

 いつまでも

 ずっと

 ずっと

 磔になっていよう。」



そこで

お弟子さま方は

イエスさまがおっしゃられたとおりに

天国の泉から少し離れた小高い丘を

あのゴルゴタの丘そっくりに造り直されて

イエスさまを磔になさいました。

さあ

それからがたいへんでした。

磔になられたイエスさまを祈る声、祈る声、祈る声。

天国じゅうが

磔になられたイエスさまを祈りはじめたのです。

それらの声は天国じゅうを揺さぶりゆさぶって

あちらこちらに破れ目をこしらえたのです。

その綻びを繕うお弟子さま方は

ここ千年以上も大忙し。

休む暇もなく繕いつくろう毎日でした。

わたしもまた

跪きひざまずいて祈りました。

かつて

あの刑場で

磔になられたイエスさまを見上げながら

お母さまのマリアさまとごいっしょにお祈りをしておりましたときのように

跪きひざまずいて祈りつづけました。

地上にいるときも

マグダラで

わたしにとり憑いた七つの悪霊を追い出していただいてからというもの

ずっと

わたしは、イエスさまのおそばで祈りつづけてきたのです。

天国においても同様でした。

ところが

あるとき

奇妙なことに気がついたのです。

磔になられたイエスさまのお顔が

険しかったお顔が

どこかしら

奇妙に歪んで見えたのでした。

それは

まるで

なにか

喜びを内に隠して

わざと険しい表情をなさっておられるような

そんなお顔に見えたのです。

そして

さらに奇妙なことには

いつの頃からでしたかしら

お弟子さま方が声をかけられても

お返事もなさらないようになられたのです。

また

わたしの声にも

お母さまのお声にも

どなたのお声にも

お返事なさらないようになられたのです。

けれども

お弟子さま方は

そのことを深く追求してお考えになることもなく

ただただ

天の裂け目

天の破れ目を繕うほうに専念なさっておられました。

ああ

祈る声

祈る声

祈る声

天国は

イエスさまを祈る声でいっぱいになりました。

そうして

そして

何年

何十年

何百年の時が

瞬く間に過ぎてゆきました。

イエスさまのお顔には

もう

以前のような輝きはなくなっておりました。

何度、お声をおかけしても

お顔を奇妙に歪められたまま

わたしたちの祈る声には

お返事もなさらず

まるで

目の前のすべての風景が

ご自分とは関係のない

異世界のものであるかのような

虚ろな視線を向けられておられました。

わたしのこころは

わたしの胸は

そんなイエスさまをゆるすことができませんでした。

そして

そんな気持ちになったわたしの目の前に

膝を折り、跪いて祈るわたしの足元に

磔になられたイエスさまのおそばに

天の裂け目が

天の破れ目が口を開いていたのです。

目を落としてみますと

そこには

なにやら

眼光鋭いひとりの男が

カッと目を見開いて

こちらを見上げているではありませんか。

日本の着物を着て

両方の腕を袖まくりして

その腕を組み

じっと

こちらを見上げていたのです。

その顔には見覚えがありました。

天国の図書館にあった

世界文学全集で見た顔でした。

たしか

アクタガワ・リュウノスケという名前の作家でした。

わたしは、そのとき

彼の『クモノイト』とかという作品を思い出したのです。

そのお話は

イエスさまの政敵

ブッダが地獄にクモノイト印の釣り糸を垂らして

亡者どもを釣り上げてゆくというものでありました。

カンダタとかという亡者が一番にのぼってきたことに

シャカは腹を立て

釣り糸を

プツン



切ったのです。

スッドーダナの息子、ブッダは目が悪かったのです。

遠見のカンダタは

シッダルダ好みの野生的な感じがしたのですが

近くで目にしますと

なんだか

ただ薄汚いだけの野蛮そうな男なのでした。

ブッダは

汚れは嫌いなのです。

それで

カンダタの代わりを釣り上げるために

釣り糸をいったん切ったのです。

たしか

このようなお話だったと思います。

仏教においても

顔の醜いものは救われないということでしょうか。

わたしには、たいへん共感するところがございました。

アクタガワの視線の行方を追いますと

そこには

イエスさまが

磔になられたイエスさまのお顔がありました。

わたしは立ち上がり

鉄の鎖があるところに

酒に酔われたサムソンさまを縛りつけるために使われる

あの鉄の鎖が置いてあるところにゆきました。

刑柱の飾りにと、わたしが言うと

お弟子さま方はじめ

大勢の方たちが、それを運んでくださいました。

わたしは

その鎖の一端を磔木(はりぎ)の根元に結びつけ

残るもう一端を

天の裂け目

天の破れ目に投げ落としました。

みな

唖然としたお顔をなさられました。

すると

突然

鎖が引っ張られ

イエスさまの磔になられた刑柱が

ズズッ

ズッ

ズズズズズズズッと

滑り出したのです。

お弟子さま方はじめ天国の住人たちは

みな驚きおどろき

ワッと駆け寄り

その鎖に飛びつきました。

イエスさまは

事情がお分かりになられずに

傾斜した十字架の上で目を瞬いておられました。

わたしは

わたしが鎖を投げ下ろした

天の裂け目

天の破れ目を上から覗いてみました。

無数の亡者たちが鎖を手にして引っ張っておりました。

見るみるうちに

天の鎖が短くなってゆきました。

そして

とうとう

イエスさまが磔から解き放たれる前に

天の鎖が尽きてしまいました。

つまり

イエスさまは

お弟子さまや

天国の住人たちとともに

みなものすごい声を上げて

地獄に落ちてしまわれたのです。

ひとり

ただひとり

天国に残されたわたしは

ナルドの香油がたっぷり入った細口瓶を携え

天の裂け目

天の破れ目に坐して、この文章をしたためております。

こんどは地獄にある

地獄のエルサレムで

地獄のゴルゴタの丘で

イエスさまを祈るため

イエスさまを祈るために

わたしは

この

天の裂け目

天の破れ目に、これから降りてゆきましょう。

地獄でも

きっと

イエスさまは奇跡を起こされて

いえ

地獄だからこそ

こんどもまた

奇跡を起こされて

きっと

ふたたびまた

天に昇られることでしょう。

ですから

このわたしの文章を

お読みになられたお方は

どうして

天国にだれもいないのか

お分かりになられたものと思います。

わたしのしたことは

けっして

あのイヴのように

神に敵(あだ)する

あの年老いた蛇に唆(そそのか)されてしたことではないのです。

わたしの

わたしだけの意志でしたことなのです。

そして

最後に

サムソンさま

ならびに

お弟子さま方はじめ

辺獄にお出かけになられたみなさま方に

お願いがございます。

もしも

天国の門のところで

まだうろうろしている黒装束の老人を見かけられましたら

覆面をしたままでも

もう天国に入られてもよろしいと

お声をかけてあげてください。

よろしくお願いいたします。


では

ごきげんよろしく。

さようなら。


                            マグダラのマリアより



         


●●●●の回帰

  リンネ

 ようやく着いたかと安心していたが、よくよく見れば全く別の場所にいるようなのである。四階建ての白い建物が横一列に四棟並んでいる、というところは同じなのだが、果たしてこんなにツヤのある壁だっただろうか。屋根の色もなんとなく鮮やか過ぎて、印象派画家の描いた絵をそのまま立体化したような見た目である。
 どうもオカシイ。よく知っている気もするし、まるで見覚えがない気もする。キツネに抓まれるというのはこういう気分なのだろうか。たしかに同じ団地内であることは確かなようだが、もう一度辺りを見回してみても、どうにも違和感を感じる。あんな公園はあったろうか。小さな子が砂場で立っているが、あれは見覚えのない子だ。
 だが、その子の着ていた黄色いTシャツが妙に気になる。しばらく心なしに見つめていると、次第にTシャツの輪郭がぼぉっと崩れていく。やがて蛍の光のようにぼんやりと千切れ、夕暮れの薄暗い空気へ染み込んで消えてしまった。……どうも、少し眩暈がする。
 ともかく、ここが私の知る場所であるなら、左から二番目の棟の三階が私の家なはずだった。
 
 『●●●●』
 いや、確かに私の家である。なんとなく表札の名前が他人のもののようにも感じるが、●●●●は私の名前のはずだ。ほっとして家に入ろうとドアを回すが、鍵が閉まっていた。(カギハドコダッケナ) 両手でジーンズのポケットをまさぐるが、何も入っていない。尻側のポケットにもなかった。カバンを開いてしばらく探すと、暗い底の方に落ちていたカギを見つけた。
 しかし、開かなかった。どうやらカギが違うようだ。ということはつまり、ここは私の家ではないのだろうか。だが表札には私の名前がある。ますます様子がおかしい。何度も言うが、キツネに抓まれたような気分である。私はわけが分からず、その場でぼんやりとドアを眺めていた。
 (ドコカラドコヘカエルノカ?)思えば最近、私は帰宅することに強烈な嫌悪感を感じていたように思う。私は、何度となく家に帰る。こうして、どこからきたのかもわからず、ただ家に帰るだけの、なんとも矛盾した行動。痙攣のように繰り返される運動。振動。帰宅する、私は帰宅する。その脊髄反射。(ダカラワタシハ、キタクシナイヨウニ、キタクスルノダ。)

 「こんにちは」
上の階から誰かが降りてきた。「こんにちは」と私は奇妙に腰をかがめて会釈をする。
 「どうなさったんですか?」
私のことを知っているような口の利き方だった。「いや、どうにもないのです」と私は答える。
 「はあ」
といってその人は下の階に下りていく。嗅いだことのある香水の匂いがした。

 私はあの人に聞くべきだろうか。ここはXX町4丁目ですか。私の名は●●●●ですか。あなたは私を知っていますか。このカギはこの家のカギですか。あなたの名前はMさんでしたよね。ええ、おっしゃるとおり私は●●●●です。あの公園にいる子は私の子ですか、それともあなたの子でしたっけ。あなたはどこから来たのですか。え、上から?(ジャア、ワタシハドコカラ?)

 「すいません」
先の人が戻ってきた。
 「私が帰るまでこの子を預かっていてくれませんか」
公園にいた子である。そうだった、この子はMさんの子供だった。「ええ、もちろん」私は笑いながら答える。
 子供を残して、その人はまた階段を下りていった。

 どうやら、はっきりとしてきた。あの人はやはり上の階のMさんで、この子はMさんの子供だ。たしか今年で四歳になるはずだった。いつも黄色いTシャツを着ているので、黄色を見ると必ずその子の顔が浮かんでしまう。そして、やはり私の名前は●●●●なのである。記憶は連想によって甦ってくる。さっきまで感じていた朦朧感が、蒸発するようにじわりと消えていく。おもむろにカギを挿して回してみると、今度は当たり前のように開いた。私は次第にはっきりとしていく意識で玄関に入った。黄色いTシャツが駆け足で家に入っていく。ふと、私は壁に掛かった絵画に目をやる。
 意識ははっきりとしている。記憶は連想によって甦ってくる。しかし、この絵は私の記憶に何も訴えかけてこない。だが無理もなかった、それはフレームだけの絵だったのだ。フレームがあるからそこに絵がある、というわけではないのである。
 「こっち、きて」家の奥で黄色いTシャツの子供が柔らかく手招いていた。私は招かれるまま、一歩一歩とその子の方へ近づきながら、今後自分にはもう何一つ蘇る記憶がないのではないかと、妙な気分に浸りつつあった。それはしかし、思いのほか不安ではなかった。


こいびと

  はなび


こいびとのてのひらがすき
ゆびがすき
つめもすき
てくびのそとがわの
ほねがでてるところもすき

ごはんのたべかたがすき
かいだんをのぼるときの
あしおともすき

あさおきたときの
めのほそめかたがすき
ねむりにおちてゆくときの
こきゅうのしかたもすき

おおきいこえでおこるとこわいからきらい
だまりこんでむずかしいかおでかんがえこんでいるとき
どこかべつのところにきえていってしまいそうにみえる

じてんしゃで
なみきみちをはしるとき
はっぱのかげやみきのかげがうつって
ながれるのはなんてきれいなんだろう

たいせつなひとを
おもいきりたいせつにするには
どうすればいいのかな

たいせつなひとも
はっぱのかげやみきのかげみたいに
ながれているのがわかる

うつろいうつろう
うつりゆくきせつ

ことりがおしえてくれた
なんてきれいなんだろう

こいびとのしんぞうのおとがすき
たいおんもはだのにおいもすき
あたまのつむじのまきかたもすき


喪失入道雲

  百日紅

当面することが無い俺達は
頭の包帯を新しいものに替え
木陰で隠れるベンチを探しながら
公園の中を首輪の無い犬の様に練り歩く

親父が一切の記憶を失った事と
俺がいざこざから職を失った事は
互いに関係が無いとは言え
どちらも真夏に起こった話だ

歩きながら俺は親父にせがまれて
したくもない昔話を語って聞かせる

せっかちな性分のせいか
包まれている熱気のせいか
俺達はだんだんと早足になっていく

親父は盛んに頷きながら俺の話を聞いてはいるが
大部分が嘘だって事に薄々気付き始めている

俺達は互いにラーメン臭い息を吐きながら
そう在りたかった幻の昔話を繰り返す

とんぼがホロホロと交尾しながら
縄張りを巡って消えていく

暑い季節が御似合いな俺達は
今日もベンチの横を足早に通り過ぎる


動物園にて

  yuko

それにしてもここは人が多すぎるかとおもうの、なんていいながらきみは象のおしりを眺めている。日曜日の昼下がり。やわらかい干し草が消えるだけあくびをして、スニーカーのかかとがきれいなきみは、まるで今ここで生まれたみたいに見えるよ。九月の動物園はまだむっと夏のにおいがして、順路を示すたて看板は現在地が剥げていた。揺れるしっぽの先は、たぶん懐かしい匂いがする。気難し屋の女の子、ねえきみがいつだって少しばかり足りない。

夜の果てるところに向かって旅立って行った友達が
知らない人に混じって僕の肩をたたく
こうやって生きてるのもそんなに悪くないよって
どこかで聞いたようなことをいって笑う

はじめてきみと動物園に来たけれど、好きな動物しか見ないなんてことは今までまるで知らなかった。「世界の猿たち」も、「鳥の楽園」もきみは横目に見ただけで、立ち止まるひとたちを尻目に、僕の手を掴んでぐいぐいと歩いていく。ペンギンのケージの前で、ようやく足を止めると、あの皇帝ペンギン卵を抱えてるよ、と歓声を上げた。どうして彼らは飛び降りるのを躊躇するんだろうと、ぼくは思ったけれど、考えてみればぼくたちも、そんなに変わりはなかった。彼らは水槽のなかで自由だ。

少しずつ骨がずれていく感じがするんだって
周りのひとたちがみんな同じ顔に見えて
交差点で信号が明滅すると死にたくなるんだって
そういえば煙草を吸っていない友達を見たことがなかった

順路に沿って坂を下りていくと、そこは開けた平原で、いくつかの動物たちが優雅に木陰で休んでいる。ここにいる全部の動物の名前を、僕はたぶん言えない。焼けたアスファルトの上を、ベビーカーが転げるように走っていく。その後を慌てて追いかける女は、たぶん彼女の母で(ベビーカーはピンクだった)、アイスクリームを持って呆然と眺めているのが、ぼくだ。きみはただキリンの首筋を眺めている。人間の首骨の数と、キリンの首骨の数は一緒だって、ねえきみ知ってた?双眼鏡で見たいの、ときみは一言呟いて、財布の中のコインを探す。

動物園に行こうときみが言って
その足でぼくたちはここへ来た
靴ずれしたかかとを持て余して
それでもどこへでも行けそうな気がする


茶柱が立ったら

  ただならぬおと

祭もないのに賑わしい
街中が吉報を予感してる
茶柱が立った碧ぞらの下
行く店行く店 琴を奏でて
僕も案外ステップなんか踏んで

男の子も女の子も
学校で育てた朝顔の鉢を持ち帰る
途中で落花した赤紫のいくつかの首を
おじいさんが拾ってまわる
そして僕の足下にも
ひとつ
ふたつ
ポケットにしまう

すれちがう香水は
みんな女装してるみたいだな
でも擬人化したら藁人形のように
体中に釘を刺していた

川のほとりに座ってて
土左衛門に無視された僕を
駈けつけてきた藁人形たちが
街の病原だといって笑いやがる
最近は釘を持った人に
僕は何度も
叩かれている

僕が街を出ない訳じゃない
街が僕を出させなかった
出ていこうとした街を
次々に呑み込んじゃうから

でも今日なら
出ていける気がしてる
茶柱がぽろぽろ落ちてく道を
裸足でステップ踏んで
僕は金槌だけど
川だって渡れる気がする

郵便屋さんに会ったら言おう
もうすぐ街は元気になる
気になるあの娘に渡してやれよと
ポケットの朝顔とりだして
郵便屋さんに会ったら僕は言おう
もうすぐ街は元気になると

それから鉄橋を歩いてく僕に
彼は元気な声でこう返すだろう
達者でな! のんきな天使!
おいらもなんだかそんな気がするよ
おいらもなんだかそんな気がする


  リンネ

 目を覚ますと、部屋の中に嗅いだことのある匂いが充満していた。どうやらドアの隙間から流れてきているようで、いつからしていたのかは分からなかった。目が痛くなるような甘い匂いだ。時計を見れば、三時である。きっと妻が菓子でも作り始めたに違いない。私はまだぼんやりとした頭で、妻が何を作っているのかを想像し始めた。
 カシャカシャと小気味よく擦れ合う金属の音が聞こえる。これは小麦粉をタマゴと混ぜて練り上げる音だろうと思う。しばらくすると、まな板をたたく音が聞こえてくる。ミキサーの回転音が響いてきたところで、ほぼ見当がついた。熟したバナナの甘ったるい匂い。妻が作っているのは、どうやらバナナケーキに間違いなさそうだった。
 そう思ったそばから腹が鳴り始めた。どれくらい食べていなかったのだろうか。手元の鏡を見れば私はかなり痩せているようだった。私は伸びをしてベッドから立ち上がり、匂いのするほうへとぼとぼと歩いた。ドアノブがやたらとひんやりしているように感じた。私はゆっくりと部屋を出た。
  
 狭い廊下の突き当たりに、見知らぬ男が立っていた。予期せぬ出来事に無防備な私は、哀れな犬のように後ずさりながら部屋に戻った。震えながらドアを閉じる。
 あいつはだれだ。当然のように疑問に思う。髪は光沢をもって捲し上げられ、男は黒いスーツを着ていた。どこまでも真っ黒のスーツ。その部分だけ空間がそがれたかのように黒かった。しかし、そもそもどうして私はあれが男だと分かったのだろうか。壁のほうに向かってうつむいていたため、顔の様子は分からなかった。それでも、あれは男だろうし、その顔は私よりも整ったものだろうという気もした。あいつはだれだ。
 たとえばあの男は訪問販売員かもしれない。たしかに、あの小奇麗な身のこなしはそういう胡散臭さを感じさせた。しかし、そうだ、なぜあの男は靴を履いていたのだ!人の家に土足ではいる販売員があろうか!いつのまにか男に対する恐怖がどうしようもない怒りに変化しつつあった。ここは私の家ではないか。なぜ私が隠れていなくてはいけないのだ。久しぶりに高揚した鼓動に、半ば新鮮な快感が沸いてくる。
 私は男を怒鳴り散らしてやろうとばかりに、勢い任せでドアを開いた。

 しかし、この家の主人だろうか、向こうの部屋から出てきた男が、顔を歪ませてこちらを睨みつけている。何か言いたいのか、口をもごもごとタコのように滑らかに動かしているが、声がまるで出ていない。真っ赤に高潮した顔を見ていると、こちらまで情けない気持ちになってくる。だが、その男の持つある種の異物感が、この家にフィルターをかけ、家は余計に静かになったような気がした。まるで母親の体中のようにゆっくりとしていて、耳元の血管を流れる血液の音すら聞こえ始めてきた。
 髪の長い女が台所で何かを作っている。尋ねれば、バナナケーキだということだった。甘ったるい匂いが部屋に充満している。家は完全に閉め切られているようだった。もしかすると、匂いをできるだけ満喫しようという意図でもあるのかもしれない。あるいは家に入ったものを逃さないためか。
 いつの間にか日は落ちかかって、西日が部屋に差し込んでいた。
 気がつけば、女の顔に生えた産毛が日の光を受けてきらきらと光っている。女の視線は落ち着きなく私の足元を見ていた。下を見ると、私は靴を履いたまま上がりこんでいるらしかった。申し訳ない気がし、すぐに脱いで謝った。女は非難する様子をまるで見せず、いいんですよと私を許し、バナナケーキを勧めてきた。
 どうして私はここにいるのだろうか。何かを売りにきたのだろうか。きっとそうだろうと思う。しかし、ここは居心地がいいし、女も私を拒む様子はない。もう少しここにいてもいいだろう。私は誘われるがままダイニングの椅子に座り、女の作ったケーキを食べ始めた。バナナケーキは皿の上で山のように積まれている。
 背後では先の男が、今度は全身をタコのように躍らせて何かをしきりに訴えている。


週末

  ゼッケン

おれはおれを誘拐し、身代金要求の電話をかける
部屋の電話が鳴り、左手で受話器を取った もしもし? 
おれは右手に持った携帯電話に向かって言う
黙れ、おれの可愛いおれはいま、
おれのところにいるよ、おれの命が惜しければ

ケーサツには言うな

経済学者も人間が合理的に行動しないことを支持している
誘拐犯にケーサツに言うなと言われれば
言われた人間はケーサツに言うべきかどうかをいちどは考えさせられてしまう
完全な情報を持たない者が考えること自体が合理的ではない
変数の個数より式の数が少ない連立方程式を解こうとする不注意さだ
合理的であれば人間の脳が考えようと考えまいとすべては必然だ
ケーサツに言うのか言わないのか、おれが考えたとする
おれにはおれの主観確率を客観的に予測する方法はない
おれの行動はおれには予想がつかない

おれはケーサツに言うなという台詞を本当に言ってみるにはどうしたらいいのか
を考えた
言われたのがおれだとしたら
それでもおれがケーサツに言わない保証はない、おれは
おれが不利になることをしたことがある、あるいは
おれが有利になることをしなかったことがある
経験はおれをクロだと判定している

しかし、その誰かの言葉をケーサツが信用しないとしたら
たとえばおれが誘拐されましたとおれが言ったとして
その言葉はケーサツが出動するためのなんらの根拠も与えない
自己言及の矛盾があるためだ
誘拐犯であるおれの裏切りを不可避とおれが判断し
ケーサツに通報したとしても
ケーサツはこの誘拐を真とも偽とも区別できず、矛盾は放置するしかない
そうであれば(ケーサツが動かないのであれば)
なんのためにおれは税金を納めていたのか
おれの嵌めこまれているパブリックは
保険会社が運営しているとのことらしい
保険社会主義国家のお客さま方へ
カネとは不安だ
おれがカネを盗むのは、しかし、不安の量をカネ化するためではない
おれはカネ持ちになりたい、カネは嫌いだがカネ持ちは好きだ
盗むというのはつまり
なりたい、ということだ
おれはおれの言葉を待っていた
おれの身代金はいったいいくらだとおれが言うのか
羨望と不安の目隠しを切り開いておれになったおれがおれのまえに姿を現す、存在の興奮、が訪れる
3万円、とおれは言った
納得したおれは受話器を戻し、携帯を閉じた
ATMで3万円を下ろすのは月曜まで待つことにする
そうすれば手数料がかからない


酩酊の夜

  side_water

「あぁ、僕、僕ね。愛。愛を、信じてみよう、とか、考えてみたりするんだ。レストランの窓から漏れる灯りに照らされて、橙色の染み込んだ、木の幹を舐めてみたりする・・・苦くて、甘い。見知らぬカップル、家族さん。暖かい雰囲気のおすそ分け、どうも、ありがと、う―――」



―――右肩を夜空から突き離そうとする、缶ビールの詰め込まれたビニール袋。雨上がりの地面や電柱は両生類の皮膚を想起させる。夜空の体臭。地面と両肩が織り成す角度は微妙な非平行で、恍惚の予感。破裂の時を待ち構えている灰色が、未開栓のアルミ缶だけとは限らない。歩き慣れた緩やかなカーブに曲がり易さを改めて感じ取る。足音が自分の物では無い様な気がする。きっと、月の断頭台に繋がる透明な段差があり、それを昇っていく音だろう。
「水滴・・・切れ目・・・目玉・・・膜・・・蜘蛛・・・の『も』も・・・蜥蜴の尻尾」
行く先々に聳え立つアパートのポストからはみ出ているチラシの一枚一枚が、卑しい舌にしか見えなかった事は、もういい。
「不思議な事に、アルコールはアルミ缶が裏面から飲み干してしまったんだ。唇の端から垂れているのは僕の唾液なんだ、本当さ」いつの間にか、手ぶら。

コンビニで立ち読みしていた漫画雑誌が纏うインクの匂い。店員に背を向けて、麻薬中毒者の後ろめたさで粗い紙面に鼻を押し当てていた。離すと鼻油が点々と紙面に吸われていて。漫画の内容は覚えていない。全ての漫画は突き詰め無くても根底に流れているのは同一の快楽で、快楽の役割は、神経糸が網目状に張り巡らされた脳内に空洞を発見する事だから、漫画を読む事はやめられなくて、神経糸を切断して空洞を膨張させる刃物であるアルコールは、もっとやめられないし、やめてはいけない。
夜行バスの窓から漏れる暖色のぼやけた微光が、夜と朝との境界線としてこの街を通り過ぎていくまで、まだ時間はある。夜を足止める為に、二足のスニーカーを歩道の中央に放置しておこうか。スニーカーは絶対に歩き出さないから、もしも夜がそれを履いたのならば、束の間の静止、まるで、星座の様に隠蔽された動作の静止を得られるはずだから。スニーカーを蹴り飛ばす人影は、依然、どこにも見当たらない。

地上は深海へと変貌し、全ての固形物がその輪郭を喪失していく。遠近を喪失した星月の光る天井に、電灯も等しく加わっていく。影が底無しの沼となり、夜空を遠ざけていく。夜空と海中とその下の地殻が織り成している筈の群青のグラデーションは、いつ感じても絶品。車道の黄色い光線と平行を描く電線に、漏電は青く、短く。
酩酊。振動を続ける分子の群れをすり抜けて得られた軌跡を、唇を用いて沈黙から旋律へと移し変えていく。唾液で溶かせるのはキャンディーだけではないから、呼吸する事が、歌うという事。溶け合いひとつの薄明かりになってしまう前の、奏でられてしまう前の、星月から欠けたばかりの黄色い音符の羅列にも、じっと目を凝らせば、今なら触れられる様な気さえする。夜の黒ずんだ川を懐中電灯で照らせば驚くほど透き通っている様に、この夜空の体積がどこまでも広がっていく様な。そんな気が。

視線を視界の端にぶつける度に鳴り響く鐘の音が、月に波紋を起こして、意識の転落はとどまる事を知らない。歯裏と吐息の衝突が次第に弱々しくなっていくのに合わせて、鐘の音の反響が、僕と夜空とを遮る海面が、遠ざかっていく。
「太鼓は小気味好く叩くもので・・・人肌は優しく撫でるもので・・・酩酊、そう、酩酊だけが、僕の唯一の感情で・・・」
あいこのじゃんけんを延々と続ける信号機には、こちらも、もう構わない。
空も夜、地上も夜、ならばきっと地中も夜だろう。などという詭弁によって生じた僕は、この夜が明けた時、もう生きてはいないから。
「魔法使いがシンデレラに割れ易いガラスの靴を履かせた真の意図は、がさつな物腰を抑えつけて、無理やりに上品さを引き出す為だったんだってね」
ラベルを剥がして中身を排水溝に流したペットボトルに、手帳の一枚を破り取り、『自殺だなんて・・・。』と、一行記しただけの手紙を、丸めて、詰めて、蓋をして。異国の砂浜に漂着する事を祈りながら海原にビンを放り投げる様に、この夜の記憶を失くした自分がいつか拾います様にと、街路樹の根元に立てかけておいた。
「風が震えながら、ある噂を運んできたんだ。その噂が本当なら、僕はそれを悲しめばいいのかな?それとも、真実が伝わった事を、喜べばいいのかな?」
襟を広げて中を覗いてみれば、頑なに口を閉ざす二枚貝の心臓を求めて、毛穴という毛穴から湧き出てきていた白い繊毛が、僕のシャツをざわめかせていた。風は、どこにも吹いてはいなかった。嗚呼。不吉な予感が、僕の爪先を導いていく。僕の背中を押しながら、どこまでも、どこまでも、吹き抜けていく。この。酩酊、の。酩酊の、夜。を―――。


津田さんと僕。それぞれ

  右肩

 私、うつむいて自分の足もとを見た。白い爪を揃えた素足がらららららとサンダルへ透けている。
 脚は膝の少し上まではそのまま脚。でももっと上、私の体は空色のワンピースを着ていたり、白いブラウスに薄桃色のスカートを穿いていたり、突然裸のままだったり。
 私、決定的に乱れている。誰?何?何ひとつ定まらない。
 でも、そのことに不満を持つ私はもういない。

 背中が裂けた。めくれ上がった鋼板の角が皮膚を切った。力ずくで肉を切った。背骨を削った。吹き出した血はいち度空へ上がってから落ちてきた、ゆっくり。
 そのとき。聞こえる全部、言葉の全部、頭の中全部が悲鳴。私は悲鳴。赤く沸騰して輪郭がとんだ。
 すぐ、紫の平板な板、静かな板になった。頬の下のアスファルトと倒れている私。路面と私、存在の様子が似ていた。見たところ、私は半分ねじれて血の中に突っ伏していた。大破した車の中で、お父さんとお母さんが笑って死んでいた。ほんとうに笑っていたかどうかはわからない。そういうふうに見えた。

 お父さんとお母さんと、車と私の体は迅速に片付けられた。色々な工程を踏んで何処かできちんと処分されている。
 るるるるる。歌われて音符のような、私たち。
 人生は神様のアイディア、夏空にかえる。メガネスーパーの看板と入道雲が重なる空。電線。電話線。やはり眩しい。

 今、うつむいて足もとを見ている私。私の、体のようなもの。
 そこから後ずさってみると、背中は割れている。割れ目からむりむりと押し出されてくる、ピンク色の肉塊。血にまみれて柔らかい。路面に落ちてべちゃっと潰れた。私の自己愛というもの。その後から、茶碗の欠片が少し、折れたハサミと髪の毛のからまったヘアーブラシ。古い文庫本とセブンイレブンのビニール袋。片方だけのソックス。どろっとした血と一緒に落ちた。
 振り向いた私。私の顔も笑っている。死んだ人が笑うことに意味はないようだ。

 私が振り返る。別の私、鴉の私は翼を開いて降下した。私の背中に爪を立ててとまる。翼を畳む。背中の断裂に嘴から潜り込む。私が私を啄むため、しきりと首を振りながら。私、食欲旺盛。私は私の貪欲に身を任せる。削り取られる愉楽と。満たされる快美と。
 腐肉、恍惚、腐肉、恍惚、腐肉。
 私はゴミ、めくるめくまでゴミ。
 私を突き抜け、食い破り、鴉の私が突き出した首を捻って見上げると、包まれた瞼の隙間から、私の眼球が、少しだけ覗いている。漆黒の瞳、金色のふちを持つ虹彩。

 雨が降る。鴉は雨の使い。

 私が雨を降らせている。今は私が、風のない町にぱらぱらと降り注いでいるものの正体だ。
 山の稜線に交わり、街路樹の繁茂に重なり、屋並みにしたたり、蜘蛛の巣に絡め取られ、あるいはまた鳥の姿を得て、屹立する電柱の頭でああと鳴く。漆黒の翼は月のない夜と変じ、貪婪な嘴は町に番うものの精気を啜る。お、情欲に腰が震える、背筋から北極星まで一気に震える。雨の水紋を崩し、神社の池の鯉が浮き、墓地裏の沼の鯉が沈みながら、私の食道、私の胃、私の腸管をずるずると時が流動する。両腕で乳房を抱けば発せられないやおよろずの言葉が町に充填される。生垣の根元から百足が這い出し、ピカピカと甲殻を光らせながら足を蠢かすとき、放送局の電波が私の体を抜け、私は参議院議員選挙、山形三区の開票状況について速報する。「続いて自由民主党選挙対策本部からお伝えします。」と唇が動いて地鳴りの音と重なる。発光、雷同。遠いところ、無数の波の跳躍。
 もう私、地霊になってしまった。



 予備校のかえり道、自販機でコーラを飲むときに見た。路側の花束と、横に立つ津田さん、あなたのようなもの。
 あなたは笑っている。口だけ笑っていて、開いた眼に瞳がない。
 僕はあなたが好きでした。僕らのクラスでは木部と杉浦、四組では三浦があなたのことを好きだった。それから僕の知らないでいる何人かも、たぶん。ただ、あなたはもう燃やされて、思い出とか何とか、人ではない、わけのわからないものに還元されている。死とは実体を持たない抽象的な概念だ。そうやってあなたが、どんなに生前の姿を保って立ち続けていても。
 夕闇の中を山から雨が近づき、ライトを点灯したバスがやってくる。あなたを残してバス停へ走り出す僕。
 僕は変容していく。津田さん、あなたも、木部も杉浦も三浦も。死者も生者も変容していく、そのことに変わりはありません。


夏に降る

  ただならぬおと

朝を見にいこう。群れからはぐれた少女が、電線を裸足で歩いている。
ねえ僕と朝を見にいこうよ。少女があかんべえして片足をあげる。
足の裏にマジックで番号が書かれてある。
液体糊を塗られた
胸のあたり、
さすられるのに慣れなくて、
僕は無力になる。
少女は
僕にてのひらを貼り着けると、
案山子になり、一本足を僕の腹に刺す。
突き通された裏側、一面のクリの花から不死鳥の群れが逃げる。

夏空のグレエが、わすれ雪にセメントを混ぜる。薄れゆく細胞膜が裂け、吐血されてきたクラストを、投げて、玉砕する。つめたく映えた紅い唾のあぶくが、僕に向けて自爆する。果てた天上で、あとかたもなく罅割れた稲妻へと、あなたを乗せた龍が巻きつく。あなたの凍りつく背筋では、蜥蜴のように、グラフィティの裸婦が這っている。連なりから途絶えそうな秩序で、生まれはじめた最後の少女たち、の脳内に分泌されるザーメンの雫、地球の化石が、掘り返される。地核を再燃させ、まっすぐな赤道の記憶を曲げていく。方角を失くしても、イドはただ左へと向かう。バランスを歪めた男性の、左手に握られた心臓を、まだ、僕でつなぎとめている条の虹色。冠動脈の彩りが流れてく愛しさに、匂いは尖端を溢れだす。幻影のフォトンが、旭の手前で着発しそう。

蝉は生きているあいだ名無しでも、死んだらちゃんと名付けられるんだって。
蝉の脱け殻に向かって教えながら、案山子の少女が笑った。
脱け殻とは僕の顔で、蝉は感情のこと。
名付け親になるのは、少女の恋した少年だと言う。
 少年とは
 死んだ少女の名
蝉はみな、少年と同じ名になりたい。

電圧に潰され龍は墜落する。真下で、ひかる鮮血を火山が鏤め、青い石綿がちりちり燃えている。焼けた台風が吹きすさび、高架橋の下、空を埋めていく鳩羽鼠の砂。飛ばされて行ったカブトムシの死骸の跡、倒れながら芽吹く若緑の嫩。髪を鷲掴みにされ無理やり上を向かされると、あなたが乳頭から黒々とした熱を垂らしていた。それから顔面を、たくさんの足裏が跨いで行き、折れたカーブミラーの中、少女が左に手を振る。力尽きた龍を浚い波打つ地平線で旭が破裂する。淡い桃色が弱めていく左目の視界、突き抜ける白線、渡る少女たちの列があなたで見えない。


仔犬日記

  ゼッケン

おとうさんはいつも小学校までぼくを迎えに来てくれます
その日の帰り道 ぼくたちは子犬を拾いました
おかあさん、飼ってもいいって言う?
ぼくはおとうさんにたずねます
たぶんね。父さんからもお願いしてみるよ
うん
ただいまー
玄関を開けると、いつものようにおかあさんがエプロンで手を拭きながらスリッパをぱたぱたいわせて出てきます
おかえりなさい。あら、子犬ね
ぼくはちょっとどきどきしながら言います、おかあさん、おねがいがあるんだけど
おいしそう。煮込みがいいかしら?
おかあさん、おねがいがあります、煮込まないでくださいっ!
あら、焼いた方がいいの? お父さんは?
おとうさんはすこし苦笑いしながら
食べずに飼った方がいいんじゃないかな?
まあ! おかあさんは頬をちょっと赤くして
わたしったら、食い意地張っちゃったわ。そうね、もうすこし大きくなったほうが脂ものっておいしいわよね
おかあさん、脂をのせないでください、おねがいします!
もう、この子ったら、なんでも自分の思い通りにしたいのね。かわいくなくなったわ、明日からネグレクト決定
ぼくはもうすこしで泣きそうだとぼくは思いました
おいおい、母さん、ネグレクトだなんて。この子ももう小学生だし、閉じ込めて餓死させるのはたいへんだぞ、いっそ
いっそ、なんですか? 
優等生づらでお父さんにつっこむのね、包茎で童貞のくせに
おかあさん、ぼく小学生です。そこに劣等感はまだありません
じゃあ、どっちかに決めなさい。子犬を食べるの? あなたを食べるの?
いつどこでなぜ、そんな二択になったの?
おとうさんはぼくの肩に大きな手をのせると、言います
おまえが決めなさい
ぼくは逃げられないことを悟りました

子犬、子犬を、子犬を食べましょう、みんなで!

おとうさんとおかあさんは顔を見合わせると、すこし安心したようにうなずき合いました
それから子犬をおかあさんに渡し、ぼくは自分の部屋に入りました
そして、晩ごはんができるまでの間、新しく日記をつけ始めました
はじめまして。ぼくは今日からこの家の子犬になりました
これからみんなと楽しく遊ぶ予定です
おとうさん、おかあさん、小学生のぼくと子犬のぼく、いっしょにいっぱいいっぱい遊びたいです
       わん、
 わん、

    わわん、   

           わん、 

        わん。


   

  原口昇平

 
 
 
肌の
 
濡れた空をつたいおちて渇望するのは夏のカノン
 
盗まれゆく熱のゆくえを知るまではまだ望む波紋
 
もげた翅のあとを愛でる幼虫の聞いた冬の和音
 
ただ
 
脳裏に満ち満ちてはちきれかけるはじまりの あ、
 
 
 


サチコ

  ヒダリテ


真っ赤に燃えさかる火葬炉の中からナースのサチコを呼ぶと、ついたての向こうから、なんだい、はるひこ、と現れる喪服姿の母は純白のウェディングドレスで燃えさかる姉の寝室から逃げ遅れた僕の真っ赤な血に染まったパジャマ姿ですか? 分かりませんねえ、そう言ってカルテに目をやる主治医のてるひこは三年前に死んで以来三年間も死んだままの飼い犬の墓に右手を突っ込む僕の不完全な変態行為によって不完全に熟れた体を僕に押しつけるナースのサチコの顔面のおよそ七割が歯茎で形成されているのですね? もちろんそうよ、サチコは笑いながら今も瀕死で横たわる僕の病室のベッドに安置された僕のこんがりと焼けた体の上をぱっくりと割れたサチコの体が僕の出来損なったしこりのようにゆらゆらと天井は揺れながらさらに僕を病的にしこらせる僕の右手に握られた純白のパンティに見覚えはありませんか? そう言って刑事はポラロイドに納められたいくつかのパンチラ写真を僕に見せつけるのだ「とんでもない僕は勤勉な納税者ですよ」と発する僕の声が震えているのは

弟さんの事は残念でしたねパンチラ写真に納められた僕の弟は僕に僕のパンチラを見せつけながら刑事の目は架空のボールペンの先に詰まった架空の小さなボールをほじくり出そうと試みるように僕の目玉をほじくり出そうと試みながら心のどこかで僕の目玉をほじくり足りない気分でいるのが僕には分かるよサチコ、それはまるで僕の病的なしこりが僕を病的にしこらせているみたいな気分で僕はこの病院内で最も病的にしこっている患者として君臨している僕はいやらしいのね、あなたのココもうこんなに固くなってると言って僕の外くるぶしをなで回すサチコの肘がこんなにもカサカサしているなんて僕は知らなかったんですよ刑事さん、けれど車内で行われる痴漢行為は犯罪ですよと刑事はもはやしこる事もおぼつかない僕の右手に課せられた課外授業の男子生徒たちの引率の女教師の淫夢によって僕は何もかもがもはやすっかり手につかない彼らの粘性を帯びた黄色い液体が僕の全身にからみつくうどんのようです刑事さん勘弁してください刑事さん

あれは、と刑事が指さす先にある押し入れの中だけはサチコ見られてはいけないよ、だって押し入れの段ボール箱に詰まった僕の淫らな夢の中では七対の肩と九つの頭部を持つ主治医のてるひこがカルテに走らせたボールペンの先端からしみ出した僕の膿んだ傷口に出来たかさぶたをはがし続けたその長い年月の間にたっぷりと詰まった段ボール箱の中に収納された僕の弟はその小さな体を僕らしい人間の僕らしく運転する特急列車の下敷きにされたと噂される事もあったわ、けれどそれも今は良い想い出よ人生のベストパートナーはきっとここで見つかるわ、そう語った女の言葉に騙され詐欺まがいの結婚相談所に大金をつぎ込んだ日々を思えば歯茎からの出血なんてたいしたことではないさ、そう言ってサチコに笑いかける僕はサチコの手を握りオペ室へと続く病院の長い廊下を搬送される僕はサチコの手を握り僕の傷口は開きっぱなしのドアから眩しい光が漏れ出す僕のおむつを交換しにやってきたナースのサチコの手を握り僕はオペ室へと続く長いサチコの手を握りその長くいやらしいサチコの手を握り病院の長い廊下を搬送される僕はサチコのサチコの手を握り

例えば快適なコンドミニアムと人類の起源についてたいていの日本人は分かったような顔をしている事を知っている僕は黄色い線の内側でお待ち下さい、あはは、分かりました、当初セーフティバントの構えで3番ホームに突っ込んでくる特急列車を待つ事を約束されたナースのサチコのパンティラインのギリギリ内側で揺れる乗客たちの尻肉のおよそ七割が手すりやつり革にぶら下がりながら左右に揺れるサチコのパンチラする尻肉を遠い目をして眺め、かつてそこをコロコロと転がっていった僕の目玉はほじくり出されたフェアグラウンドのギリギリ内側で魅了される観客たちの期待と乗客たちの死体のなかで僕は極めて正確にコロコロと転がっていった事を覚えているよ、やがて空洞の目玉をした僕の運転する特急列車は猛然とパンチラする乗客たちを乗せて猛然と3番ホームに突っ込みやがて果てた僕らはあの日初めてひとつになったねサチコ赤く腫れ上がった空に赤く腫れ上がった僕らの愛と愛ではないもののおよそ七割が歯茎と歯茎でないもので形成されているんだサチコ、君は美しい、美しく美しい朝に僕が使った新品の検便容器よりも美しいサチコ、いつでも僕のあそこが焦げ臭いのは

「大丈夫きっと弟は助かるよ」手術中の赤いランプが灯り僕は喪服姿で祈る母の粘土のような手を粘土のようにこねくり回しながら優しく語りかける僕が見守るオペ室の扉の向こう側では顔面のおよそ七割が歯茎で形成されたサチコがデリケートな手術だから麻酔はナシよと非情に言い放つサチコはとても良い体をしているくねくねと動く良い体をしているサチコはとてもデリケートで奇妙な良い体をしている良い体をした生き物のように良い体をしている、やがてオペ室の扉が開かれ白い光の中から七対の肩と九つの頭部を持つ主治医のてるひこが七足歩行で現れる今宵ディオニュソス的な執刀医となる主治医のてるひこは訳の分からない格好で訳の分からない事を叫びながら一列に並んだ新人ナースたちの丸い膝頭をハンマーのようなもので粉砕して行くそのたびにパカーン、パカーンと乾いた音で破裂していく僕の肩胛骨とその周辺住民たちによる懸命の捜索の甲斐もなくとうとう弟は見つからなかったよ母さん

炎天下焼けたレールの上で焼かれた僕の飼い犬の焦げた頭部が発見されたあの暑い夏の日母さん僕は家を出るよと僕は母の背中に語りかけ母は振り返りもせずテレビを眺める母の背中はパカーン、パカーンと乾いた爆発を繰り返しながら真っ赤に燃えさかる火葬炉を眺める僕の弟の手の中に握られた僕の目玉の中では毎晩のようにサチコサチコと呼ぶ声が聞こえる隣室の住人の通報によって運び出される干涸らびた僕のあの段ボール箱の中で干涸らびた僕の体の上に突如降り出した冷たい雨粒が落ちる、あら雨ねと急いで洗濯物を取り込むために庭へと出た母はそこにこんもりとした不審な土の盛り上がりに気付くに違いない、そして中から何かをほじくり出そうと土の中に右手を突っ込むに違いないよサチコ、バカね、そんなの杞憂よ、そう言って励ますサチコの肥大した歯茎を眺めるうちにうとうとと眠りについた僕は美しいサチコの手を握り

僕は目覚める白い病室のベッドの上で目覚める僕の手術は成功したよと告げられた僕は今、奇妙な円形をした病院の中庭をぐるりと回る僕は奇妙な円形をぐるりと回るよりも早くぐるりと回るリハビリに専念している僕は健康な成人男性のおよそ七割で埋め尽くされた病院の中庭をぐるりと回りながら本当は僕は不安で気が狂ってしまいそうなんだよサチコ、だってここを出た僕たちを待ち受けているきちんとした日本人たちはみな勤勉な納税者として先天的に眼鏡をかけた日本人たちに違いなくあんなにもきちんとした日本人たちの前ではサチコ、僕や君のあらゆる手違いが既に手遅れに違いないのだから


VAPORISER

  はなび


手をつないで歩いた
名前を忘れてしまった小さな町
舗装された路地の角を曲がり曲がり
靴の革底がやわらかく硬質な音を響かせると
それらはすぐに
洞穴みたいな石造りの
牢獄みたいなちいさな窓に灯る
マッチみたいなろうそくの炎に
気化したように吸い込まれてしまう

深夜は気圧が少し高く感じられて
水の中の空気の音を聞いているみたいね



赤い毛糸の膝掛けをした老婦人が
暖炉の前でまだ何か編んでいる
赤い毛糸は詩人の血管の様に
胸元から腰へ腿を伝い踝足の指へ
ながれながれて床を這いその先の
まるく球体に纏められた塊のその先へ
冒険をする

赤い毛糸はセーターになると週末は旅へ
赤い毛糸はどこかへ行きたいまだ見ぬ場所へ
赤い毛糸は青い魚の潤んだ瞳のその理由を尋ねたい

赤い毛糸はチベットで ピンクの塩を手土産に
ハノイ タンザニア サンフランシスコ

赤い毛糸はまた解かれ纏められ
オルリー空港の陽のよくあたる階段で

ブルガリアからやってきた少女の
民族刺繍の布かばんに詰め込まれ

パリ ソフィア トーキョーへ



2057年

東京辺りの日照時間はだいぶ短くなっていて
沼化した湿地帯からは有毒ガスが放出されていて
大部分の生活者は地下に潜ったまま暮らしていて
地上に残っているのは貧しくて地底通貨が買えなかった人々
病気に侵されて気が違っていて暴力的で危険な人々
笑いながら怒る人 笑いながら泣く人
ゾロゾロ歩きまわるこども 

赤い毛糸はお祈りのかわりに

狂気を鎮め興奮を呼び覚まし

赤い毛糸はお守りのかわりに

硬直をしなやかさへと変化させ

厄介事は

鼻息荒いスペイン牛の如く猛然と突進してくる

様々な火の粉同然であったが

赤い毛糸は優秀なマタドールのように丹念に刺していく

巨大になった残虐な残骸達の隙間をすり抜ける



手をつないで歩いた記憶
名前を忘れられた小さな町
舗装された路地の角を曲がり曲がり
靴の革底がやわらかく硬質な音を響かせると
それらはすぐに洞穴みたいな石造りの
牢獄みたいなちいさな窓に灯る
マッチみたいなろうそくの炎に
気化したように吸い込まれてしまう

深夜は気圧が少し高く感じられて
水の中の空気の音を聞いているみたいね

文学極道

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