花瓶から
あふれた水の
殆どは書き記されて
干上がった
窓辺に立てられた
イーゼル
幼児に
水で手を
洗われるような
3月に画布を
はる
最新情報
2012年02月分
月間優良作品 (投稿日時順)
- 3月 - sample
- 王國の秤。 - 田中宏輔
- 冬の日曜日 - しんたに
- 暗礁 - sample
- "コウノトリララバイ” - 村田麻衣子
- 幽霊たちの舞踏と堤防の会話/2012.02.24. - 泉ムジ
- おい、磯野、野球やろうぜ - New order
- 石榴 - yuko
次点佳作 (投稿日時順)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
王國の秤。
きみの王國と、ぼくの王國を秤に載せてみようよ。
新しい王國のために、頭の上に亀をのっけて
哲学者たちが車座になって議論している。
百の議論よりも、百の戦の方が正しいと
将軍たちは、哲学者たちに訴える。
亀を頭の上にのっけてると憂鬱である。
ソクラテスに似た顔の哲学者が
頭の上の亀を降ろして立ち上がった。
この人の欠点は
この人が歩くと
うんこが歩いているようにしか見えないこと。
『おいしいお店』って
本にのってる中華料理屋さんの前で
子供が叱られてた。
ちゃんとあやまりなさいって言われて。
口をとがらせて言い訳する子供のほっぺた目がけて
ズゴッと一発、
お母さんは、げんこつをくらわせた。
情け容赦のない一撃だった。
喫茶店で隣に腰かけてた高校生ぐらいの男の子が
女性週刊誌に見入っていた。
生理用ナプキンの広告だった。
映画館で映写技師のバイトをしてるヒロくんは
気に入った映画のフィルムをコレクトしてる。
ほんとは、してはいけないことだけど
ちょっとぐらいは、みんなしてるって言ってた。
その小さなフィルムのうつくしいこと。
それで
いろんなところで上映されるたびに
映画が短くなってくってわけね。
銀行で、女性週刊誌を読んだ。
サンフランシスコの病院の話だけど
集中治療室に新しい患者が運ばれてきて
その患者がその日のうちに死ぬかどうか
看護婦たちが賭をしていたという。
「死ぬのはいつも他人」って、だれかの言葉にあったけど
ほんとに、そうなのね。
授業中に質問されて答えられなかった先生が
教室の真ん中で首をくくられて殺された。
腕や足にもロープを巻かれて。
生徒たちが思い思いにロープを引っ張ると
手や足がヒクヒク動く。
ボルヘスの詩に
複数の〈わたし〉という言葉があるけど
それって、わたしたちってことかしら。
それとも、ボルヘスだから、ボルヘスズかしら。
林っちゃんは、
毎年、年賀状を300枚以上も書くって言ってた。
ぼくは、せいぜい50枚しか書かないけど
それでもたいへんで
最後の一枚は、いつも大晦日になってしまう。
いらない平和がやってきて
どぼどぼ涙がこぼれる。
実物大の偽善である。
前に付き合ってたシンジくんが
何か詩を読ませてって言うから
『月下の一群』を渡して、いっしょに読んだ。
ギー・シャルル・クロスの「さびしさ」を読んで
これがいちばん好き
ぼくも、こんな気持ちで人と付き合ってきたの
って言うと
シンジくんが、ぼくに言った。
自分を他人としてしか生きられないんだねって。
うまいこと言うのねって思わず口にしたけど
ほんとのところ、
意味はよくわかんなかった。
扇風機の真ん中のところに鉛筆の先をあてると
たちまち黒くなる。
だれに教えてもらったってわけじゃないけど
友だちの何人かも、したことあるって言ってた。
みんな、すごく叱られたらしい。
子どものときの話を、ノブユキがしてくれた。
団地に住んでた友だちがよくしてた遊びだけど
ほら、あのエア・ダストを送るパイプかなんか
ベランダにある、あのふっといパイプね。
あれをつたって5階や6階から
つるつるつるーって、すべり下りるの。
怖いから、ぼくはしないで見てただけだけど。
団地の子は違うなって、そう思って見てた。
ノブユキの言葉は、ときどき痛かった。
ぼくはノブユキになりたいと思った。
鳥を食らわば鳥籠まで。
住めば鳥籠。
耳に鳥ができる。
人の鳥籠で相撲を取る。
気違いに鳥籠。
鳥を牛と言う。
叩けば鳥が出る。
鳥多くして、鳥籠山に登る。
高校二年のときに、家出したことがあるんだけど
電車の窓から眺めた景色が忘れられない。
真緑の
なだらかな丘の上で
男の子が、とんぼ返りをしてみせてた。
たぶん、お母さんやお姉さんだと思うけど
彼女たちの前で、何度も、とんぼ返りをしてみせてた。
遠かったから、はっきり顔は見えなかったけれど
ほこらしげな感じだけは伝わってきた。
思い出したくなかったけれど
思い出したくなかったのだけれど
ぼくは、むかし
あんな子どもになりたかった。
冬の日曜日
凍り始めたコンクリートの上で、スケート選手の真似をして、スニーカーで滑って転ぶのを僕は見ていた。前の仕事は暑いからとふざけた理由をつけて辞めた。モラトリアムの爆発。料理の腕はみるみる上がっていき、包丁さばきはそこら辺の主婦より上手い自信がある。久しぶりに帰った実家の引き戸はガタついていた。黒服の人達に紛れ込み、見上げた煙突の先から煙が出てきて、その後で雪が降ってきた。新しく見つけたスライスチーズをパンの上に乗せる仕事は、昼休憩の時に頭が痛い気がしてくる。祖母は二十四歳になった僕にお小遣いをくれて、僕はそのお金でエッチな店に行った。相手の女の子は僕を見て同級生に似ていると言った。僕もその子が同級生に似ている気がしてたけど、黙って二つサバを読んだ。上司の顔に熱々のチーズを乗せて、また仕事をなくした。帰り道、口笛を吹いてみようとしたが、あんまり音は出なかった。コンビニに寄ると、レジの女の子が可愛くて、ずっと見つめていると、不審がったその子に目ん玉をくり貫かれた。僕の両目はコンビニの床を転がり、潰れた。右目は自動ドアに挟まり、左目はおばさんに踏まれて。おばさんの履いていた靴はなんだったのか。スニーカーでも、ブーツでもなく、今までに見たことのない不思議な靴だった。まあ、もう目は無いから、これから先、靴なんて見ることもないだろうけど。これでなんにも見なくて済む。なんて、そんなことは無いか。部屋に帰るとコーヒーの匂いがした。僕はそれに牛乳を少し入れて、煙草を吸いながら飲んだ。なにか食べたい、と言われたからパエリアを作った。今では、だいぶ上手くなってきたはずだ。
暗礁
天井から集まる
星屑のめいめつが
頬からこぼれそびれて
睫毛にからまり
目を閉じると
角膜の表面に錨をおろし
浮標のように
ただ揺れている
覚束ない眩しさを
ひとつ摘んで
たやすくつぶし
ひしゃげたおとが
耳から鼻孔へ
すべりこむと
小匙ていどの
くしゃみが生まれ
さそわれるままに
あくびをしてしまった
ほの暗い口腔が開かれて
乳歯から順番に
明かりが点される
うわ唇がめくり上げられ
夜が頭巾のように
被せられる
赤裸々になった
のどちんこに
灯台が建設されて
置き去りにされたゆりかご
漫然と船を漕ぐ
アイロンをかける
母のそばにはいつも
天使がいて
幽霊が描く漫画の線のように
頼りない輪を描いていた
湿った繊維から
蒸気があがるたびに
軌道をそらし
畳に落ちそうで心配だった
また見てしまった
おそろしい夢
回転木馬を模し
貴金属を装飾した
拷問器具に拘束され
あかくらげに触診される
けさ、起きると
乾燥した白い肌に
爪痕があかく
火傷のようにうかんでいて
毛布に身体を埋めても
土踏まずの下みたいに冷たい
母のくすりゆびに
嵌められた指輪は
あの拷問器具の
部品のひとつに似ている
だから手をつないで
海岸を歩いたとき
右手をつかむようにしていた
ふたりで灯台にのぼり
真昼の星座をつないだ
解体された、母の手が
星を真似て
さよなら、していた
"コウノトリララバイ”
声がかすれてかすれてやばいて、それでもいじれてないで
ちゃんとしゃべらないと。指をすり抜けたシールド踏んだ
まま雑踏を歩き出した かき均すともわからない管それは
感情であった、アスファルトに書き殴るみたいに、歩き出
す やたらおっきな声 出してしまって、洩れてしまった
声が、だっさいなーなんて。
放った鳩時計を元通りにして とれたネジ巻くふりしてた
。羽が、日を透かして血潮を温かく散らかした 破れたコ
ラーゲン、骨まで溶けちゃって 祈りから解放されるため
に正気を取り戻す。いのちなんて初めからなかったかのよ
うに翳を追う白と黒の時計仕掛け いくら反回転しても、
見えているあの坂にあなたは転がる 傾斜を、その女性の
美しい曲線をあなたは かき均すななめの前髪から見えて
いるせかいは、バランスよく崩れているから 鳴っている
単音オルゴール歌って、ねえ和音にして二人でのこと、し
ゃがれ声はわたしにだけ聴こえてるだから暗黙。ipod再生
して、早送りし過ぎてひとり取り残された交差点のオルゴ
ールでやや早歩きに 見慣れぬあなたの早起きで。向こう
岸に見つけてから首をもたげて。あたまをぎゅってヘッド
ホンにされて、いとおしさが容量を越え フォルダに分け
そこにはわたしという要素が充填してはっとする シャン
ソンそれはわたしの声量にちっとも相当しない そうやっ
てスタンダート追い越していく 漏洩したヘッドホンから
聴こえるUSインディー 聴き入るあなたがいてここまで孤
独が騒々しいと思わなかった それがわたしにとってのB
GMだから、コウノトリララバイ。第一啼泣に、呼吸が間
に合わなかったこどもたちのあえぎ 音階を、アスファル
トすれすれでこぼしてしまった鳥たちの死骸をひとつだけ
見つけて 何の鳥かわからなくて 進行方向の向こうにい
るんだって、みんな。ここからみんなが泣き始めるってと
こでコード3つ忘れて適当にジャンジャカジャン 鳴らし
ても ヘッドホンでは近すぎてスピーカーは遠く感じてし
まって みんなまるで知らん顔。あのこが転んだ気がして
、立ち上がるまで待っていた そうしたら目が覚めたんだ
って、朝。
泣いている人を籠に入れ、わたしがここからいなくなって
しまいそうだった コンビニガツマンナインジャナイ嗚咽
コラエテこころのなかでわんわん泣いているわたしに気付
いた人が、無糖のコーヒー買うとこ見てた。イナクテモヘ
イキニナレヘイキニナレヘイキニナレ3回唱えても かな
しみを抱えきれなかった思いを、からだから均等に離した
だけ
「静寂…? いや、コウノトリララバイ。」
蹴ったら、ぎりぎり部屋だった ベランダでやっと泣き止
んだあなたは、やっと赤ちゃんになれたみたいで 甘えて
きたから抱きしめて 体が冷たいのがわたしの方だって気
づいた ずぶぬれの質感ある液体で 分離した重圧と軽率
を いとおしさで正気に戻してでも、海は険しくて、脚を
ひっぱられるかんかくが周期的にやってきてまた そのメ
ロディにみんなが絶望して泣いたって人づてに聞いた 漣
は 編みかけの籠の解れを電熱線で伝うようなノイズ そ
の揺れを繊細に、眠りに誘う あなたがどんな姿になって
もわたしには 子守唄が聴こえてるって、耳に手をあてて
いた
幽霊たちの舞踏と堤防の会話/2012.02.24.
波頭に幽霊が踊っていた。報告したいとは大仰で、ほんの世間話を求めたが、見回しても堤防に立つのは私ひとり。ねえ、あそこに何か見えますね。だらしなく寝そべって、私の影は返事をしない。どうも幽霊じゃないかと思うんですが、私は構わずに続けてみる。彼は折り畳んだ腕を枕に、黙ってこちらを見上げている。あるいは顔を背けている。前後を判別するしるしでもあればよいのだが。彼の、幾分長めの胴体は、寝そべっていても支えるのに苦労しそうだった。どうもお疲れのようですね。実らない話を打ち切り、私は波頭の幽霊に向かって携帯電話を構えた。写真が残れば、後に誰かと話せるだろう。実は先日幽霊を見ましてね、いやいや冗談じゃなくって、証拠の写真だってあるんですよ。そんな具合に、話の種にうってつけだ。レンズ越しに見ると、夕陽に透けたシーツのような幽霊は、手のひらサイズの液晶画面の中で覚束ない。しかし拡大してみれば、波から波へと細かく跳躍し、フレームにひと時もおさまらない。ともかくシャッターを切ってみたが、波頭の水飛沫が手ぶれでかすれた写真としか見えなかった。どうにも信憑性にかけるね、君の見間違いでは? 課長のカゲヤマがにこりともせずに言う。いい眼医者を紹介しましょうか。愛想笑いを浮かべたカゲヌマが、いつものお調子者ぶりを発揮する。陰でダブルハゲとあだ名されているのを、彼らは知っているのだろうか。鬱ハゲと躁ハゲ、と。私にはどういう蔑称があるのか。どう思います? ふり向きながら尋ねると、さらに胴体が伸びた影の、首から先が堤防から落ちていた。大丈夫ですか。慌てて私が近寄ると、ずるずると彼の胴体が落ちていった。ああ、いけない、彼の頭がテトラポッドの角でくの字に折れている。急いで引き上げなくては。私は屈み、ぐったりした彼の足首を掴んで後退りするが、どこまでも長い胴体が繰り出されるばかりで、いっこうに頭が見えてこない。どうしよう、このままでは私が堤防の反対側に落ちてしまう。おい、助けてくれ。波頭で踊る幽霊に声をかける。おい、幽霊、手を貸してくれ。叫ぶと、携帯電話にメールが届いた、未登録のアドレスから。幽霊はお前だろ。彼の足首がなくなっていた。ただ胴体だけが限りなく拡大して、堤防どころか海ごと覆い尽くしていた。私の表面すべても彼の一部に過ぎなかったし、内側はもともと彼の一部だったことに気づいた。それに抗えたのは携帯電話の液晶画面だけだった。お調子者のカゲヌマから、一斉送信メール。ユーレイ今日いなかったじゃん。課長に聞いたんだけどあいつ辞めたってさ。ま、いてもいなくても一緒だけどね。一斉送信のグループに、私のアドレスが含まれていることさえ忘れられていた。この先二度と会わないのだから、たいした失敗ではないよ。そうカゲヌマを慰めてやりたかった。むしろグループに登録してくれてありがとう、そんな気持ちだった。私は少し悩んで、マヌケ、とだけ書いたメールをカゲヌマに送信し、携帯電話を海に捨てた。落ち着いて見渡せば、世界をすっぽり覆ったはずの影は、星や月や人間がつくる大小さまざまな光で虫食いだらけだった。それに、ブラジルあたりではまっ昼間なんでしょう、私は巨大な彼に言ったが、耳まで届いたかどうか。波頭には、どこから湧いたのかたくさんの幽霊たちが楽しげに踊っている。だって夜は私たちの時間だ。うまく眠れなければ、そっと暗幕をめくってごらん。私たちの中には、怖がらせたがりもいるし、怖がりもいる。私みたいに世間話に餓えたのもいるんだよ。
おい、磯野、野球やろうぜ
水平線から、
投げ出された、
球体が加速する前に、
内ゲバで、
あらゆる人が、
美しく殺しあうように、
応援する、
映画は、はじまったばかりだというのに、
水に浸されて、
コップは投げ出されたまま、
置かれている、
その下で、
私たちは駆けまわる、
革命は、
きっと、殺し合いだから、
愛のある形で、
皆が殺しあう姿を
八月の雨の晴れの中で、
応援しなくちゃならない、
君の彼氏が、
君の顔面を、
革命の形而上学のために、
ぶん殴るとき、
君は、きっと、1メートルはふっとぶ、
でもそれが、革命のための愛だから、
許さなければならない、
救いのために、殴られることが、
一つの罪なら、
もっと多くの花が咲く、
平原で、裸の人達が、
にこやかに、原初の踊りと
喜びを祝っている人達を、
また強く殴らなければならない、
腕に重みがかかり、
払いのけるように、
鈍さが宿るとき、
貴方の、背後で、
天使が、八月の、
風にのって、
貴方の背中に、
キスをする、
おい、磯野、野球やろうぜ、
この革命の季節に、
誰もが甲子園で、
泣きながら、愛しあう者たちでさえも、
殺し合いをはじめるように、
応援するために、
野球をやろうぜ、
おい、磯野、野球やろうぜ、
世界中の誰も彼もが、
バッターボックスにたって、
俺達を打ちのめそうとする中で、
俺はどこも守らないまま、
お前のボールを受けてやるから、
おい、磯野、お前が燃えているのか、
俺が燃えているのか、
そして、泣いているのか、
笑っているのか、もうわからないまま、
お前はボールを、この夜の球場の明かりの中で、
投げて、観客はだれもいなくなったとしても、
俺が受けてやる、
気でも狂ったか、
いや全然、まだまだま足りない、
だから、
球体は、いつだって、
雨の中、一人で加速して、
遠くへ投げられている、
石榴
真夜中の底に座ったまま、やわらかい悲鳴が澱になって、沈ん
でくるのを見ていた。張られて赤く染まった頬を覆っていた長い
髪が、絡まり合いながら水面に浮かぼうとしている。「あなたが
思うより傷つきやすいんですわたしの、肌は」午前零時、壁掛け
時計の人形たちが一斉に踊りだして、わたしは電子レンジのダイ
ヤルを回し、眠りにつく。あなたは、時間通りに帰ってきたこと
がない。
真四角な部屋の隅で、ゆっくりと服を脱いで。すかすかのクロ
ーゼットに、ふたつ並んだ外套。降り続ける雨の音。「人間と人
間が交わって人間が生まれます」あなたが吊り下げた、糸はまな
ざしに変わり、わたしと、わたしの境目が、くっきりと切り分け
られて。細胞のひとつひとつが名付けなおされるとき、わたしは
ひどくあやふやな生き物でした。流れ出る血の沈黙を呑み込んで、
平板化する部屋のなか、つくりものの心臓が分裂し、肥大してい
く。幾重にも織り上げられたまなざしと、太い血管に突き抜かれ
た位相。
与えられた名前を胸に貼り付けて、右手も左手も差し出したの
は、あなたが好きだったからではなくて、わたしを否定するあな
たが嫌いだったから。金属の嵌めこまれた指の関節が、やわらか
く腐っていくのを、ただじっと見ていた。「あなたは弱いからな
にも聞かなくていい」背中の曲線に沿って、走る電流。リビング
に散乱する硝子の欠片を、ひとつひとつ摘まんで、子宮の壁に埋
め込んでいく。星が降ってくるみたいな、真夜中。最果てから打
ち寄せる暗やみの音が、首筋まで浸していく。
「ねえ、」妊娠したんですと、言わなければ良かった?衛星に
はこうふくが淀んでいて、だからあんなふうに霞がかって見える
んだ。手を繋いで歩いた、ぬかるんだ道の片隅で、頭上から降っ
てくるあなたの声は、まるでひかりみたいで逃げられない。唇を
固く結んで、黙って小さく頭を振ったわたしは、「ひとりきりで
守ればよかった!」「だれを?」まるで嘘みたいな!「わたしを
?」「生まれたかった、」わたしの、腹には石が詰まって
居て
ずっしりと重い
のです。ぱっくりと開ききって、平面化したわたしの躰を、通り
すぎていく人の群れ。目の前の世界が泡でいっぱいになっていく
ので、(見えない!)必死に洗うあなたに「生まれてほしかった
?」だれも望まないだれにも望まれない未分化のせいめいの美し
い瞳を、わたしは舐めとって(赤く錆びついて、)酸性雨に打た
れている。「ねえ、」「生まれなかった、」わたしは(あなたは
、)どこから生まれてきたのだろう。なにもかもがやさしい真夜
中の底辺で、金色に光る砂を浚った。
桜の芽吹く音を背に、山の中へ降りて行ったあなたの斜め後ろ
を連いていったわたしの足音はすこしずつ薄くなり、滝壺に落ち
て死んでしまった携帯電話の目がこちらを向いて震えたのを、覚
えています。ぷちぷちと音をたてて弾けながら虹彩みたいに広が
っていった世界の揺らぎを毒殺する(あなたの汚れた口元を拭う
)そうして何も生まれないわたしのなかはひどく静かでした、ま
るで光の届かない深い海みたいに。
マールボロ。
彼には、入れ墨があった。
革ジャンの下に無地の白いTシャツ。
ぼくを見るな。
ぼくじゃだめだと思った。
若いコなら、ほかにもいる。
ぼくはブサイクだから。
でも、彼は、ぼくを選んだ。
コーヒーでも飲みに行こうか?
彼は、ミルクを入れなかった。
じゃ、オレと同い年なんだ。
彼のタバコを喫う。
たった一週間の禁煙。
ラブホテルの名前は
『グァバの木の下で』だった。
靴下に雨がしみてる。
はやく靴を買い替えればよかった。
いっしょにシャワーを浴びた。
白くて、きれいな、ちんちんだった。
何で、こんなことを詩に書きつけてるんだろう?
一回でおしまい。
一回だけだからいいんだと、だれかが言ってた。
すぐには帰ろうとしなかった。
ふたりとも。
いつまでもぐずぐずしてた。
東京には、七年いた。
ちんちんが降ってきた。
たくさん降ってきた。
人間にも天敵がいればいいね。
東京には、何もなかった。
何もなかったような顔をして
ここにいる。
きれいだったな。
背中を向けて、テーブルの上に置いた
飲みさしの
缶コーラ。
約束
ぼくたちは夕暮れに会うことにしている
空気がちょうど冷え始めて
息遣いの変わる頃
あの角度で日が射してきて
お互いの表情を背景に滲ませる
反転する。
君の顔はもうなかった
溶け出している
飲みかけのペットボトルのお茶の中
赤茶けた光が乱反射して
五本しかない指を飲み込んでいく
もう片方の五本しかない指で
体の半分の方に手を伸ばそうとする
それはからだのはんぶんであって
具体的などこなのかは
ぼくたちには分かるすべも無く
五本しかない指をお互いのからだを
まさぐるためだけに用いている
いつだったか
それを無駄なことだと言った人は
今は老人ホームで暮らしているそうだ
きっとヒゲを生やして
錆びたような肌色に違いない
いや 違いなかったのだ
それでいて 彼には爪を噛む癖があったのだ
唇から溢れ出しているのは
色の出来すぎた紅茶みたいな
水飴状のやつだった
ぼくたちはよくからだを分解しあって遊んでいた
白檀の香りのする匂い袋がいつも胸ポケットにあって
「好きな香りなんだ、嗅ぐ?」といつも君は聞いてきた
それから気がつくとぼくたちは分解をしあった
そこからはあくまで機械的に 規則的に
そして 反射的に
分解しあった
それから一瞬目の前が赤く染まる
それから一瞬目の前が白濁する
天を仰ぎ見ているだけのぼくに対して
君は その鋭い目でこちらを睨みつけていた
(それは昔飼っていた愛犬の
亡くなる前日に一瞬見せた
あの目であった
黒目を限りなく小さくして
その周囲を限りなく白濁させた
模型のような)
君は弟を一緒に分解しようと言って
ぼくらはそれ以来 夕暮れに会うことをやめた
今では 五本だけの指をすっかりうしなって
にんげんに触れることができなくなってしまった
失った指の先は土色になっていた
それは今 あの人がくわえている指だ
それは今 あの人がしゃぶっている指だ
それは今 紛れも無くぼくの指だ
モヒート
禁じられた談合
悪戦苦闘の某中堅ゼネコン
ドボンぎりぎりで
とある山奥の田舎町の
トンネル工事を落札した
どの道この道
赤字なのだが
銀行さんの手前
少しは数字を良くしたい
このパターンの時は
奴隷のような俺達
傘下の協力会社に
ババが廻って来る
ゼネコンは
地元の土建屋を使わず
犬のように聞き分けのいい
俺達を駆り出すのだ
生きぬように
死なぬようにと
奴らの言いなりで
黙々と働く俺達
一方的に体の良い
護衛船団システムが
いつの間にか
出来上がっちまっていた
これじゃぁ全く
地域の為にもならない
仁義もヘッタクレもない
俺達はこの町でも
招かれざる客だった
夜のほうでさえ
バブルの頃なら
クラブに繰り出し
盛大に稼いだ金を
ばら撒いたものだが
せいぜい居酒屋で
時化た酒を飲むのが
このご時世には
お似合い
だけど
そんな中でも俺は
この間テレビで
ヘミィングウエイ特集を
見てからと言うもの
にわかにショットバーに凝り
地方を仕事で巡る度に
店探しを楽しみにしていた
パパ・ヘミィングウエイ
男の中の男
あまりにもいけている
俺はゲイではないが
抱かれてみたいとも思う
キューバ滞在中に
パパが飲んでいた
伝説のカクテル
「モヒート」
ラム酒ベースに
ライムを絞り
フレッシュミントを添え
タンブラーで掻き混ぜる
シンプルかつ強烈な
男の勝負酒だ
糞みたいな穴倉(トンネル)から
今日もなんとか
無事に出て来られた
仲間の誘いを断ち
地元タウン誌で見つけた
この町に一軒だけの
ショットバーへと向かった
ローカル色ゆたかな
「モヒート」が
今夜も俺を待っているのだ
バー・アミーゴ
紫煙の充満した
薄暗い店内に
ボワッと水槽の灯りが
滲んでいる
鬱蒼と茂った
水草の間を縫って
泳いでいるのは
熱帯魚ではなく
中国産のメダカだ
このチョイスの理由は
たぶん
「安い上に丈夫だから。」
だろう
大陸のケミカルな
原色の小川を
生き抜いてきた
筋金入りの
バイオフィッシュだ
ハンティングが好きだった
パパにあやかって
サファリジャケットを
粋に着こなした俺
ややぶっきら棒に
カクテルのオーダーをした
「モヒートを一杯。」
渋いな俺は・・・
自分に惚れる瞬間
「そんなものはない。」
バーテンダーの無情な一言
何だと貴様
俺がゼネコンの一派と知っての
嫌がらせなのか?
「ミントとか、とにかく草がない。」
奴はしゃぁしゃぁと続けた
仮にもショットバーの
看板を上げながら
モヒートの一杯も
出すことができないなんて
もう一刻も早くヤメテシマエ!
「草がなかったら、道端でヨモギでも採って来い。」
俺は怒鳴り上げた
バーテンダーは余裕の表情で
「よし、採ってきてやる、立小便をつけてな。」
下品だなお前
ヘミィングウエイを
バカにしているのか
地元の先客達
クスクス笑っている
どうやら俺は
一本取られたらしい
このままじゃ引き下がれない
芋を引いたままで
何時までも笑っている
そんな俺じゃないのだ!
ムンズと棚に手を伸ばし
邪魔をするバーテンを抑え
ラム酒の瓶を取り出して
おもむろにグラスに注ぐと
傍らの水槽に手を突っ込み
水草を掴んで投げ入れた
「喰らえ、これが俺の藻ヒートだ。」
奴の口めがけてグラスごと
特製カクテルを突っ込んでやった
歯とガラスが当たり
どちらかが割れた音がした
突然の
ハードボイルドな展開
天国のパパも
ビックリしながらも
きっと喜んでくれるはず
地モッピー達は
焼酎の瓶を
カウンターに叩きつけて
武器造りに励んでいる
俺は俺で
奴らを牽制しながら
アイスピックに
舌を絡めている
一触即発
微妙な空気の揺れでも
この場末のバーは
戦場と化すだろう
「ふぁってくれ(待ってくれ)。」
流血のバーテンが
俺達の間に割って入った
「これは旨いよ!ファンタ(あんた)天才だ。」
折れた前歯の間に
紛れ込んだらしい
血まみれのメダカを
ビチャビチャさせながら
奴は言った
「このファクテルの作り方を、
教えくれないか。」
鼻血と一緒に
水草を出し入れしている
バーテンダーの
マジな顔がチャーミングで
俺達は誰彼となく
笑ってしまったんだ
「いいぜ、持っていけよ。
今からこいつは、お前の酒だ。」
イエース
男達の野太い声が
狭い店の中で
歓喜の爆発をした
それから皆で
水槽の水草とメダカが
全部なくなるまで
夜通しカクテルの
踊り飲みをした
雨降って地固まる
地元もよそ者もない
俺達はただ陽気な
モヒートのファンだった
あれから健は
(バーテンダーの名前)
例の踊り食いカクテルで
キューバで開かれた
モヒートコンテストで優勝
一躍スターダムにのしあがった
あのど田舎の町も
「モヒートタウン」として
世界的に有名になり
ちょっとした
観光名所になっている
モヒートせんべいに
野沢菜のモヒート漬けは
モンドセレクションで
金賞を受賞した
カクテルから手足の生えた
ゆるキャラのヘミングちゃんは
恋人のフジコ・へミング共々
グッズの販売で単年度的に
キティちゃんや
リラックマを抜いていた
立派な町おこしだった
今日も観光バスに乗って
俺達の作ったトンネルを通り
日本中いや世界中から
あの町に客が集まっているのだ
俺達ゼネコン旅団はすでに
次の現場に移っていた
今日も何とか
ほら穴から出て来られた
黒い汗をぬぐいながら
血のような夕焼けを見ていた
「パパ、俺もう、いつ死んでも良いよ。」
すると近くの山寺から
陽の終わりを告げる鐘の音が
静かに鳴り響き始めた
それはまるで
天国のヘミングウェイが
俺達なんでもない
その他大勢の者の為に
鳴らしてくれたようだった
節分黄粉
お寺の境内は
豆まきを待ち構える
人びとでごった返している
どっちが鬼だか
わからない形相で
老若男女入り乱れて
撒かれる
煎り大豆をひたすら奪い合う
〈福は内 鬼は外〉
取られず地面に
落ちた豆は
地獄の罪人の如く
情け容赦なく
人びとに踏んづけられる
そのたびに
無慈悲な
野蛮さに抗議するように
癇癪も起こせない
癇癪球のような
豆地雷は
ぽんぽん断末魔をあげ
破裂し合い
ささやかな黄粉になる
星雲の爆跡を
思わせる
豆の成れの果てを
僧侶達は箒で
厄を掃き清めながら
黄粉を集め
後でそれを
花壇に撒いておく
春には綺麗に
花壇が華やぐようにと
祈りながら
「砂の女」造形
黄いろい太陽が辺り一面を照らしている
大気が響かない音叉のように不確かだ
吹雪く砂嵐のなかで
女が造られる
足首までが造られる
砂で眼が開けていられない
膝頭が造られる
ざらつく砂が頬を叩く、ふたたび叩く
風は海の向こうからやってくる
眼すら開けてはいられない
重みのある女の腰までが造られる
砂が体の中に入り込み身体じゅうがひび割れていく
腰のくびれと膨らんだ胸までが形を成してくる
鼓膜に砂を叩きつけて、耳が聞こえなくなる
大きく腰まで波打った髪が創られ
唇から入り込んだ砂は舌にのどに張り付きざらついた嫌な音を立てた
心臓部が埋め込まれる、
レアなステーキのような滴り、
指の先までどす黒い血にまみれている
ぬるぬるした感触が指先の爪の隙間から入り込み、血管を通って身体じゅうを支配していく
突然気味が悪くなって、その心臓部を両手で力一杯握り潰す
赤黒い液体が衣服や顔やわたしの目に飛散する、生まれない者の殺人者だ
首から顔にかけて完成が次第に近付いていく
女の顔がみたい、女の顔がみたい、
ぶつぶつと沼の底から泡が湧く
顔が造られる
眉毛から鼻への輪郭がくっきりと浮かび上がり
砂で溢れかけた夕日が右頬から滑り降りる斜角で照らし出す時
女の顔に、陰影を映しだす
おんなは瞳を映さないしろいデスマスクを顔に貼り付け
ただ、そらを見ている
瞳のないまぶたからそらのいろを映した涙が
次々と滴り溢れ落ちて、波が“ざぶり”と被り
女を壊し、
またもとの砂へとかえすのだ
拡がっていく
+ +
ウミネコが鳴いた
この吹きすさぶ視界を閉ざす激しい風の中
それでも、
もげかけた羽をばたつかせ、逆むいて
きしんだ腕を渾身の力でそらに向かってはばたかせようと
強風に耐え、幾度も海の底に落とされそうになりながら
断崖に突き出た煉瓦色の岩を求め、ただひたすらに求めて鳴く
東のそらから、月がぼんやりと
みえない影を装いながら、差し込んでくる
物の弾み
ほんの少し小器用にはなっても、思い出を数える仕草がいまだ、手指を折り畳む赤ん坊みたいだ。
窓ガラスに映るオヤジと目が合うたび、あたふたしている。カタタタ、
しなやかな舌で何百の恋をさえずり、歳月を軽やかに渡りゆくアラサーとかカッコいいんだっけ。
借りてきた眼鏡を外しては、まだ無邪気に可愛く笑えるだろうかなんて水割りをたまらずロックに変更し、
若さを呼び起こしている相変わらずの日々だったが
とりあえず、パンツの中に押し込めた三十年掛かりの計画がすべてであったのは事実だし、
こねくり回した果ての黒ずんだジョークが、こんな粘土遊びが人生であっても
どのみちお前は飽き足らないのだろうから。今夜はひとまず飲んで忘れるとしよう。カタタ、タン。
「元気な男の子よ」
肉体の維持に努めるため今日も元気に、終始据わった目で夢とか愛とか破壊しながら稼働中。
ほどほどのプログラムを選出し、君が満足するような点数を弾き続ける俺だよ。
受信フォルダをこまめに分ける恒例行事まで、すっかり板についたもんで
明日も『ファッション』の少女が、「愛してる」と小便をひっかけながら言うので、また笑顔で仕分けさ。
ヒラヒラさせた手首の包帯までファッションだって、別にアリなんじゃないの。
弾みで死んでも、それはそれ。すき間に噛ます段ボールが落っこちたぐらいの影響だが
とにかくお前は、代えのストッパーを用意してから死んでくれ。
そんでまた劇的に作用しないための魔法とかこねるのさ。
水割りをお湯割りにしても、解き明かせることなどありはしないのに。誰に、今。タン。タン。
「動いたわ」
時々、俺の手のひらの皺には垢がぎっしりと詰まっていて
君はそれを俺が誤って食べないよう、俺の指を一本ずつ開いていく。
垢がパラパラと払い落とされたあとの手のひらの臭いといったら、
それはもう頭に響く甘さで、飲み干されないグラスのすっかりぬるくなった水割りそっくりに重い。
誰がドアを蹴破って来ようと、屋根がまるごと吹っ飛ぼうと
いまさら何に大騒ぎすることがあるっての。データが無事ならよしとして
お前はただ、パスワードを変更して眠ればいい。
君の膨らんだ腹をさすり布団にもぐり込むと、押し入れの奥で風の音がする。ウィーン。
くぐもった意思のような耳鳴りは、少し酔っているせいだ。天井のシミがズレたのは家が傾いたせいだが
信じる手のひらの粘土臭さにだけは、やっぱり慣れない。
ボコッ
ドッペルゲンガー
高速回転するドリルが、分厚い金属板に穴を穿つ。ギアとハンドルを調整しながら私は、穴から螺旋状に生まれてくる金属片を見詰めていた。工場内では、数人の工員である私が無口に自分の仕事をこなしている。中央では鉄骨を囲む三人の私が、各自右手にベビーサンダー研磨機をかざす。その回転音は波のようなうねりをおびて工場内に反響し、研磨される鉄骨からは夕陽のような色をした鮮やかな火花が迸る。片隅では、アーク溶接の激烈な閃光を受けた防護面を被った私が、幽鬼のごとき青白きシルエットを見せている。休憩を告げるベルが鳴った。ふらりと現われた、明らかにアジア系外国人と思われる私が、穴あけ作業を続けている私に声を掛けた。「ねぇ、コーヒーおごってよ」工場内は静かになり始めているので、はっきりと声がとおる。私は手足が醜く干からびていき、髪が抜け落ちる感覚に包まれた。むき出しになった歯並びの隙間から、ひゅうひゅうと吐息が漏れていく。皮膚が溶けだし、全身の肉が紫やピンクに腐り落ちて、痛烈な吐き気を催す悪臭をかいだ。それでも私は死骸のような身体で喚き散らす。「消えろ! もう、消えろ」――プーッ、ファ〜ンファ〜ンファ〜ンファ〜ン。プーッ、ファ〜ンファ〜ンファ〜ンファ〜ン――。セコムの警報がけたたましく鳴り響く。駆けつけた警備員である私が、逃げようとする私を乱暴に取り押さえた。私に詰問され、怒鳴られ、洗いざらい喋る。工場のこと、穴あけをしたこと。工員の私には、どうすることもできなかった。――ごめんよ――。トイレから、泣きながらメールを送った。もう、私が許されることはない。法律なんぞ関係ない。コーヒーをおごってしまったのだから。メールを受け取った私は血相を変えてガレージに行き、車に掛けられたカバーシートをめくる。両手の震えを止めることができない。それでもなんとか着座し、キーを回す。車検切れの黒いグロリアは頭に突き刺さるような音を上げた後、アクセルに反応して激しく吠えた。凄まじい勢いでガレージを発進した車は、運転席に少年である私を乗せ、悲鳴に似たスリップ音を掻き鳴らして郊外へ逃走した。いつの間にかバックミラーにパトカーが映るようになり、徐々にしかも確実に台数を増やしていく。赤い幾つもの回転ランプが、息の根を追い詰めるように私に付きまとう。しつこく追尾され、一般車の間を縫い、国道を逆走した。死霊の幻影のような対向車が、猛スピードで脇をかすめていく。エンジンの咆哮とサイレン音が憔悴した私を包んだ。グロリアは30分のカーチェイスの末、道路端の電柱に激突。車は滅茶苦茶に壊れた。私の全身からの出血で、車内は赤く染まっていたという。幸い命には別状なく、私は四カ月の入院の末に警察官に採用された。拳銃を素早く正確に分解するにはスライドとフレームを分けなければならない。マガジンを抜き取り、テイクダウンボタンを押したまま、テイクダウンレバーを時計方向に止まるまで回す。フレーム反対側の軸の部分を押し込みながら回すとやりやすくなる。90度回って下を向いたところでレバーは止まる。ハンマーを起こし、両手でグリップを握り、両親指でスライド後端のハンマー両脇の部分を押す。けっこう固いが、かまわずぐいっと押してやると、スライドとフレームの結合が解けて前方に動く。見慣れた教本を机においた私は留置所の鉄柵前に立ち、一頭のふたこぶラクダを見た。毛の生え換わり時期なのだろうか。長い毛が、まだら模様のようになって身体にこびり付いている。短い体毛も、すでに生え揃っていて、長い毛の束は軽く引っ張っただけでずるりと抜け落ちそうだ。ラクダは酷く興奮していた。突飛に身震いを繰り返し、三十坪ほどの檻の中を駆けずり回る。やがて目の前の鉄柵に、顔面を押し付けるようにして汚い歯を剥いた。狂気すら帯びた瞳は虚ろで、熱い吐息とともに涎が滴り落ちる。何が見えているのか。そうだ、ぼたん雪がちらちらと真っ白な空から落ちていた。踏みしめる土は、泥と呼びたいほどにぬかるんでいた。ラクダの荒い息は何を求めているのか。何が見えているのか。私が砂漠の只中にひとり、寂しそうに突っ立っていた。身には何の衣類も纏っていない。強い陽射しが砂に降りそそぎ、影が濃く映る。地平線に浮かんだ陽炎から、長い時間を掛けてラクダはやってきた。私に触れるまで近づくと、唇を震わせて臭い息をぷーっと吹きかけ、私の顔をべろりと舐める。私は涎まみれになった顔をぶるぶると左右に振った。滴が辺りに飛び散る。その様子を気にも掛けず、不意に背を向けたラクダは、何もなかったかのようにゆっくりと砂の曲線の果てに消え去った。やがて砂漠の世界は小さく縮んでいき、鉄柵に顔の左側を押し付けているラクダの大きな瞳だけが意識の暗闇に残る。私の横にいた警官である私の頭が吹っ飛んだ。私が柱の陰からマグナム弾を発射したからだ。飛び跳ねるように倒れたこの男の頭蓋骨は、下顎のみを残して消え去っている。私の頬には私の肉片がこびり付いていた。「ひぃーっ」「おい、逃げるなよ」私が声を掛けた。その言葉を無視して私は駆けだす。――ガッ、タ、タン、タ、タ、タン――。ロビーへの通路出入り口付近にいた私が小銃を掃射した。蹴つまずいたように倒れた私の腹に、命中した痕が赤い染みをつくっている。私は至近距離まで歩み寄ると、無言のまま、こいつの頭に向けてマグナム弾を発射した。さらに、ベルト周りにくくり付けて用意していた手榴弾四個のピンを両手で次々と抜き、署長室前に向かって転がし気味に投げつける。私の群れが動かす足元の只中に、それは消えた。素早く階段まで逃げ込む。私はすでに避難していた。私はすぐさまハードケースを開け、M16自動小銃を取り出す。目の前に立つフリーライター風の私がそれを見ているが、唖然として何の言葉もない。三秒後に爆音と空気振動がきた。私は周囲と同様によろめきながらも立ち直し、冷静に、残酷に、掃射を始める。服を纏った肉体たちに穴をあけていくのは、なかなかの快感かも知れない。――ガッ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ――。全弾三十発を撃ち尽くした後、マガジンを変え、階下から来る私をも狙い撃つ。私は切迫感だけに包まれていた。声もださずに倒れていく相手は、標的以外の何物でもない。私は銃を手にしたまま、立ちすくんでいる。数回も飛び跳ねるように悶絶し、床に崩れた私が、私の目にはわざとらしく映った。「カンフー映画の下っ端か、お前は」と、呟く。太腿に装着したベレッタの扱いは警察学校での訓練ですっかり手に馴染んでいる。正確に素早く組み立てる為には、まずハンマーを起こしておく。そして、フレーム後端のレールに、スライドを前から斜めにはめる。そのままでは、スライド先端が浮いたままになって、フレームと平行にならない。バレル先端の銃口部分を少し押しこんでやると、スライド全体がフレームにカパッとはまる。制帽を廊下の隅に放り捨てた。飲食店が多く入る本庁ビルの7F。メイプル材でこしらえたような、艶やかなドアを開けると、薄暗い店内を天井から蝋燭色に照らすアールデコ風のシンデリアが目に入った。壁にはいくつもの百合の形をした照明が付けられ、ボックス席の照度をおもわくどおりに調整していた。壁には翡翠色で草花模様がデザインされている。二十坪以上ありそうな広い店内。バーカウンター内に栗毛色の髪をアップにした四十女の私が立っていて、私の方を向き、愛想のいい声で「いらっしゃい」と言った。フロアーの真ん中付近に置かれた黒いグランドピアノには、スタインウェイの金文字が刻まれている。挨拶にこたえた私は鍵盤の数カ所を押すようにして、調律が合っているかを確認した。どうやら完璧のようだ。ショパンの『英雄ポロネーズ』を弾き始める。多くの批評家がこの曲を絶賛し、多く演奏家がこの曲は冒険だと言う。変イ長調の調の中にナチュラルやシャープが連発される鬼のような楽譜なので、それを見ながらではとても演奏スピードを確保できない曲だ。澄みわたる大空へ向けて、偉大な栄光を誇るような歓喜に満ちた主題が、聴く者のこころを高揚させる。演奏は軽快な指使いで、繊細に始められた。手を鍵盤から離して、腕全体を使って指を自由に動かす。本能的で、純粋に感情的なようだが、実際には、右手が少しの乱れもなくメロディをかなでているとき、左手の伴奏部は常に確実なテンポをきざんでいた。私は実に堅実なピアニストなのだ。数カ月のブランクはあるが、幼い頃から培った感性や、訓練されつくした技術は鈍ってなどいない。ショパンの祖国ポーランドを独立へと導いた、英雄ナポレオンの勇士が目に浮かぶようなエモーションだ。四十女の私は少し離れた席で目を閉じて聴いた。私が演奏を終えた時、四十女の私の顔は輝いていた。きっとロマンチックなドラマがイメージできたのらしい。抱きしめたいような風で大げさに拍手を送る。そうだ、嘆きなど、とるに足りない。私の言いたいことなども虚しい。皆、何を見ているのだ。滑稽な、寄り添って励まし合う私たち。それぞれの小屋に響く舞曲か。ちんちくりんの世界よ。幼稚な夢よ。ムエタイで45戦、プロボクシングでも14戦無敗の私は、カウント7で立ちあがってきた。燃えるような目をしている。その迫力は私にとって、まるで獣と対峙しているかのようだった。――何だ、この野郎――。チャンスをむざむざと見過ごすほど私はまぬけではない。飛び出すように間合いを詰めて、左からのワン、ツーに右のダブルフックを放つ。ダブルはボディーに命中してからガードされている側頭部にヒットした。確実にダメージを与えているだろう。相手の私の脚がとまり、苦悶の表情を浮かべるのを見た。歓声に私の身体は踊り、己の呼吸リズムで攻撃を勢いづける。一気にロープ際まで追い詰めて連打し、右テンプルに手ごたえのあるパンチを喰らわす。私の瞳から光が消えているのを見る。それでも反撃の強いパンチが私を襲う。目の前に迫った大きな青い拳の影に肝を冷やした。ボクサーはマシーンだ。プロならば、たとえ意識が朦朧としても身体が勝手に反応する。ガードの上から滅多打ちにしようとするが、私はパンチを喰らいながらも、頭を後ろにそらすスウェィバックやウィービングなどでしぶとく逃れきった。私は、相手が目の焦点も虚ろなのに倒せないでいる。自分がステップを踏む、キュッキュッという音が私の耳に残った。この私が今までにくぐった修羅場とは、それほどにも過酷だったのか。焦りからでた大振りのパンチをかわされた後、うまくクリンチされてしまう。抱き合う体勢になるのは屈辱だ。ゴングが鳴らされ、まんまと逃げられた。――くそったれ、倒せないはずはないだろ――。それでもダウンを奪って優位なのには変わらないが、私のその勝利への気負いが、オーバーペースの裏目にでた。息が上がり、私の俊敏だった動きが雑に変わっていく。機を逃さず、老練な私が反撃を開始した。執拗に、意識的に、左右足の付け根、腰骨のすぐ下を打つ。ローブローの反則で二度も減点されたのに、いっこうにやめようとしない。ポイントで負けているのだから、このタイで生まれた戦士の私に判定勝ちはないのだ。ムエタイでは、足の付け根が動きをとめる為の急所だった。4ラウンドぐらいから出始めた、ひりひりとした痺れみたいな感覚は、6ラウンドが始まるときにはコーナーの椅子から立つのに苦心するほどの痛みとなる。私のパンチは確実に挑戦者の顔面をとらえ始め、6、7ラウンドと続けて双方が接戦の打ちあいとなった。私は右瞼を切る。「オォーッ!」7ラウンド終了の鐘を聞き、赤コーナーに戻る私が突如として吼えた。――ぶっ倒す、ぶっ倒す、ぶっ倒す、ぶっ倒す、この野郎――。1分間のインターバル。激しい動悸を収める為に、水を入れたビール瓶をラッパ飲みし、直後に嘔吐する。誰が両肩を揉んでいるんだろうと私は思う。トレーナーの飛ばす檄にエコーが掛かって聞こえる。再開のゴングが鳴らされた。――ちょろちょろと動くんじゃねえぞ、ぼけが――。必死の私は、私の右ストレートをかわすタイミングで、派手な頭突きを喰らわせた。相手の私は顔をおさえ、悶絶してひっくり返ったが、数秒後、またもや立ち上がった。レフリーは激昂し、私にバッティングの反則を言い渡す。私の左瞼はぱっくりと切れてしまい、おびただしい出血が痛ましい。顔の半分ほどが血にまみれた。両者ともワセリンを厚塗りして出血をごまかす。死闘となった8ラウンド。打ちあいのさなかに私の意識がすーっと抜けた。唐突にスイッチは切れたのだ。まるで遭難者が気持ちのよい眠りを受け入れたかのように。間髪いれず私は、燃え尽きそうな身体に残る渾身の力を振り絞ってパンチを放った。「ゴスッ」左フックをまともに顎に食らった時、私はその音を聞いた。ロープに腰を落とすようにして倒れる。仰向けの、ぶざまな大の字となってリングに横たわった。歓声のざわめきが遠く聞こえた。
本体さがし
[I]
生まれたての墓地の生まれたての煙。どこに行くでもなくとどまるように見えた赤子は、黒ずみ、泣き喚き、うねるようにして男の鼻腔に入り浸る。
男の顔。反り返った皺がいくつもの山頂をつくり、その谷間を風が通り抜けていくと男の頭の中に赤子のむせび泣きが木霊した。
空はひどく青く。海は嘲るように真似た色を波間に流し込む。男が気付いた頃には黒く塗りたくられた手が小さく揺れていた。
[II]
空砲の先に見える、生の端、死の端。深淵というものの底が見えはじめる。
樹木の壁を見つめていると孤独が重く倒れかかり、ぬかるみ、赤茶けた地に沈んでいくと。何も見えなくなった。
そうして見つめていると、海ガメの歌が聞こえた(私が海で溺れたときに聞いたことがあるのだ)。
何を言っているのか、言葉も、言語も、分からないけれど、それでも海ガメは何事かを私に聴かせつづけた。空は青い。
[III]
この右手は私のもの。けれど左手は誰かのものになっている。残された右の手指もいずれ私のものではなくなるのだろう。
酔いどれの朝霞が中空を飛ぶ。ほんの少しのため息でそれらはすぐに散ってしまうけれども、誰もそうしようとはしない。
切り取られた輪郭が元通りになるのは、望まれない雄鶏が目覚めの音頭をとりはじめるまでの、もう少し先の話となる。
[IV]
青く澄んだ空へ発砲すると、私の胸は穴ぼこになった。
[V]
山頂から風が吹き下りる。その冷たさにざわめくアブラナ畑。
春の隙間を縫うように、白んだモンシロチョウは中空を飛ぶ。
おとなたちは、その足跡を追いながら、春の谷間をかけ抜けていく。
こりない;
早朝の公園で吸い込む煙は格別だ。
階段の下ではジャージ姿のオヤジが
足元にたくさんの鳩を寄せ、
立ったままパンくずをばらまいている。
「お客さんいっぱいですね」
すれ違いざまに声をかけると
両眉を鳩の羽のようにぐわりと開き、
オヤジは無言で応えた。
無心にパンくずを投げるオヤジを、
俺は信号待ちの横断歩道から
こっそり写真に撮った。
のっぺりと張りついた風景が、
携帯画面の中で手品のような表情を見せる。
カバンの中で散り散りになった書類を探り、
俺は、遥か彼方へ吹っ飛んだUSBデータを呼び起こしていた。
エレベーターは素知らぬ顔で扉をゆっくりと閉じ、
一切の光を呑み込んだ。
やがて体が重々しく上昇する。
『ビニール』
フォトショップで処理した空の、
軋む青に名前を与える。
if($x != ""){
$db = mysql_open("blue_db");
$query = "SELECT blue,blue,blue, FROM sky WHERE vinyl='$x'";
$result = mysql_query($db,$query);
//青を抽出。
$db_name='blue_db';
//青を生成。
「今夜もビニシーで飲んで帰るから」
嫁にメールをする。
「ビニシー? またキャバクラ?」
「ビニールシートの飲み屋だよ。安いんだ」
「わかった。ご飯は?」
昼休みが終わる前に「愛してるよ」と打った。
痩せぎすの俺の足元には
照れくさいパステルトーンが転がり、
思わず我が目を疑ったが
空のペットボトルではなかった。
手のひらから鳩が飛んだかもしれないが、
花びらだったかもしれないほど
パララン
「何。今年は禁煙して」
そうだな。若干盛り上がっていた。
キーボードの入力設定が『かな入力』になっていたため、
すべての「blue」が「こりない」と入力されていたんだから
ほんとどうかしてるよな。ははは(^_^;
「禁煙するかな」
仰いだ空に煙を吐き出すと
//ビニール1を削除
くすぐったい起動音が響く。
//新規レイヤー『ビニール2を追加』
しおれた花に水を差すように
日々の窓をいくつも開き、
何気ないルールを移し替えていく。
青々とけぶい深呼吸をして。
mysql_close($db);
君と僕と君と僕と君
(1)
どんな人生にも本質的な差異はありません、と平気で言う「君」とテニスをしている。
跳ね上がったボールが緑の金網を越え金網の向こう、工務店の建物の二階、その窓の高さまで。落ちる力を蓄えるまでボールは上がり、「君」は半身を捻ってラインまで下がる。
読者よ、次の場面を予想しなさい。たとえ言葉の上であろうと打ち返されたボールをまた打ち返すとすれば、ラケットから腕と肩へ、シューズから足首へ膝へ腰へ、心臓から肺へ筋肉の血流へ、衝撃は伝播する。テニスコートから随分離れた空間に、木星という巨大な質量のガス体がもし実在するのならば、そういう想像力に衝撃は伝播する。予想しなさい。
「君」のガットが黄色いフェルトとゴムに包まれた、一・八気圧の球体を捉える。ボールがポクンと音を発する。世界が再創造される!さあ、来るぞ。
(2)
人間は生命という宿痾の、そのひとつの局面であるようです。と、「君」はアイスクリームの匙を舐めて笑った。金の匙。光るものを舐めることは良いことだ。
僕はとても幸せだ。窓の外は春の日の雪。レストランの閑散とした広い駐車場に柔らかい陽光が射す。高層の強風に流されてここまで来た雪が、今は無風に近い空間をゆっくり降りてくる。
形の崩れた大粒の結晶が、生きるもののように光の中を動き回る喜び。地表の放射熱で瞬く間に消え失せるはずの雪片が、斜めに飛び、微妙に浮き上がり、上下左右に錯綜して音楽を楽しんでいる。暫く音楽を楽しんでいる。
父が死ぬ喜び。母が死ぬ喜び。僕も死ぬ喜び。僕が死んだずっと後、僕の知らない何処かで「君」も死んでしまう喜び。ぽろろん、とピアノが鳴る。
「小さくて温かくてもぞもぞするものが、抱き上げられて胸に眠る喜び。」と「君」は言って、アイスクリームが載るグラスの縁をかちんと匙で叩く、金の匙で。このレストランは冬枯れのブナ林に囲まれている。
読者よ、知っているね。「君」が総ての読み手の核心に言及していることを。胸郭のリボンを解き、ラッピングペーパーを開き、上蓋を持ち上げていることを。その中には無邪気なものがひっそりと鼓動し、或いは今すぐにもぺちゃんと潰れてしまいそうなこと。そのことも。
つまはじきの円環
おとぎの國からかえって来ると、子どもじみた妻の妹が爪切りに缶詰を咬ませている。
円く平べったい銀色の頭頂をきつく脇に抱え込んでねめつけながら
妻がスピンして命を失った第4コーナーあたりのごく浅い溝を咬ませている。
あのとき妻の血はその溝をサークリングして円筒最上面の周縁部を一着で彩った。
派手に振られたゴールフラッグは奇しくも白と黒の市松模様で葬儀にぴったりだった。
缶詰の頭頂部から吹き飛ばされても律儀な回転をやめることなく空に飛んだ妻は、
みっともなく逆走して周回から回収に至るコースをとることもなく未だ還ってこない。
破れたレースのカーテンが窓辺で揺れるたびに妻のレースが呼び込んだ生活費のことを想う。
優勝トロフィーとして贈られた銀色の缶詰を妻の代わりに抱えて俺たちは帰宅した。
骨がないので骨壺の代わりにその缶詰を仏壇にすえて線香をあげることが日課になった。
線香の煙が銀色にすましかえる平べったい頭頂の円周に沿ってゆるやかにたなびくとき、
俺たちは軽く一礼してからレースの開始を告げる椀状の鈴を鳴らして目を瞑り合掌する。
深く祈りを捧げると、俺の前にはおとぎの國が靄をまといながら朧気な輪郭を現してくる。
それは水も涸れ涸れの赤茶けた小川にはまりこんでいる突っ伏したドラム缶のようだった。
蓋はなく、円形の口をだらしなく広げ、筒状になった内奥へとひと筋の汚泥を敷き入れていた。
両岸を覆いつくす丈の長い葦の群れが、ドラム缶の方へと全身で手招きするらしく一様に揺れ動く。
そうやって合掌しながら船をこいでいた俺が目をあけると、缶詰の蓋が掌をみせるようにパッカリと開く。
中からまっすぐな太い煙を思わせる十本のやや透きとおる白い爪がいっせいに迫り上がってくる。
あのときハンドルを切り損ねたのは、俺がまともに妻のことを見てやれていなかったからだろう。
運転にさしつかえるほど長く伸ばしていた爪は、ほったらかしにされた「妻」を示唆する暗喩だったのだ。
おとぎの國からかえってくると、なにも知らない妻の妹が爪切りに缶詰を咬ませている。
姉さんが夢の中で爪をかんで悔し涙をながしていたからと義理の妹も泣いている。
その涙が脇に抱え込んだ缶詰の頭頂を縁取る溝に落ちて銀色に輝きながらゆるやかにサークリングしはじめる。
俺はその終わりなきレースにすっぽり頭がはさまって、未だ缶の中身を詰め切れないでいた。
帰りみち
終業の、チヤイムがなると
慌てて、古びたランドセルに教科書を
ノート、教科書、筆箱、下敷き
あのね、昨日知ったんだけど、みーちゃんち
今月いっぱいで引っ越すんだって
先生からはじめて聞いた
となりで、友達たちが、こっそりと
顔を見合せながら瞬きみたいに合図している
机の下で、わたしは慌ててメールを調べ始める
先生が、黒板の方を向いて文字書きはじめた隙に
机の下で前へ前へと繰って行くけど
私のメールには、入ってなかった
塾が忙しくて、みんなと一緒に下校出来ないのが悪いんかな
それとも昨日のテレビドラマ見かけて寝てしもうて
ストーリーが分からんから相槌しか打てないのが
それがそんなに悪いことなんかな、
お母さんに言われてる、無駄遣いはしちゃいけませんって
プリクラ一回しか撮ったことない
ラーメン一度も食べに連れていって貰ったことない
ボーリングのアベレージは50後半位で
音楽はピアノ曲しか知らない、TVの曲知らない
食べ歩きしたことない
ゴミ路上に捨てたことない
みんなは平気でしてるけど
わたしはどれもやってない
うちの家、少し変わっておるんかなぁ
友達と、ちっとも話が合わんのよ
仲良しの友達とルージュ薬局に買いに行って
お母さんに見つかって取り上げられた
可愛いピーチピンクで頬の色とよく似合ってたのに
リップクリーム付けないと、唇かさかさになっちゃうよ
たまに帰ったお父さんに言うても
お家のことはお母さんに聞いとき、って言われるだけ
お母さんにはそんな悩みはなかったんかな
お母さんにはそういう辛さはなかったんかな
このままやったら、いつか誰かにシカトされそう
明日になったらもうみんなにメールが回ってるよね
○○ちゃんとは、今日から口聞かんとこうって、
/弁当食べるの、禁止、
/一緒に帰るの、禁止、
/休み時間に話しかけるの、禁止、
忘れ物を貸したらあんたもおんなじ、分かっとるよね、
早く入って、一回鍵閉めてから開かないの確認して、走って逃げて行ったら又開けること、
先生来たら、「やってませーん、」ってみんなで言うこと。
+
お母さん、そんなんされ始めても
うち、まだ学校いかんと駄目かなあ?
もう本当にうち、駄目なんかなぁ?
+
あれ、もうこんな時間だ
机にちょっと突っ伏していただけなのに
カーテンを開けると外はまっくら
子機が鳴る、
のろり、とした動作で仕方なく受話器を取ったら
めったに早く帰れないお母さんから
いつもより、ほんの少しやさしい声がきこえた。
経血を、しのばせる
見知らぬ人から、虚構の物語は忘れろと言われ、きみはそれを手放す。ほんの3,4世紀以前の、まざまな年代記や聖人の覚書が忘れられることになるだろう。受難伝、聖人伝、そして教会史。活版印刷術の揺籃期におけるさまざまな挿絵もそこにふくめなければならないだろう。きみに伝えられた記憶は、時間の波にさらされ、いささか伝説めいた言葉で、過去の出来事を飾ろうとしているだろう。水溶性鉱物によってつくられるインクは、羊皮紙に刻まれた瞬間の淡緑色をとどめてはいないだろう。野蛮なルーン文字はトネリコの薄い板に書かれ、ゴティック・アルファベットに喩えられるだろう。だからこそ、オーレ・ウォルムは、畦<Rynner>を起源とする文字をもって反駁したのではなかったか。あるいは垂直軸,輪状部,水平軸のすべてを2本の罫線内に収めた大文字体の衰退について、きみは、速記によりうしなわれる文字の明瞭さと引き換えに、前後の文字のなめらかな接続によって特徴づけられる小文字体の書き手である写字生たちの手付きを、けっしてうらやみはしなかっただろう。だが、きみが犯すこととなる誤写―≪ad basilica≫を≪Abbas Ileca≫―は原本と異なるテクストの出現となって、さまざまな解釈をひきだすだろう。あるいは、そうならなくても構わない。徴税官、そして尚書官が残す手写本の権利証書が、小作人の訴訟、開墾の方法、課せられた領主権のかずかずを書きとどめていれば、それでいい。そうすれば、ゆるやかにたちのぼってくるだろう。万聖節の施与にパンがふるまわれる、刺繍屋にハリネズミの看板が掲げられた、媚薬として初潮の経血をしのばせていた娘のいるきみの村が。あるいは虚構の物語となるための出来事が。
ざりら
ゆんわりとした坂道をのぼるともなく転がっていく、いつかTVで観た指の長い超能力者のスプーン曲げ。あんな風に影がおかしくなって、ざりらはぶっ倒れた。
2012年2月15日。椅子は傾かない。黒いピアノだって、逆さになって海底へ沈んでいったりしない。部屋に差し込んだ陽の光が、遠くへ引いていくのを見たくらいで、海のペンキを体中に塗りたくって、ぐるぐる巻きのダイナマイトに着火しなくたっていい。飛ぶように沈んだ。だだっ広い砂浜へ砂を燃やして。太陽第342号。
風の強い日だった。エンジンがなかなかかからず、嫌がったセルモーターが何度もいなないた。路上でめくれ上がったビニールから、骨組みが何本か飛び出して。細長い銀色の甲殻類が数匹。次から次へガラスを叩く水滴の広がりと一緒に後ろへ流れていく。
ひとけのない体育館は平和だった。ブレーカーが下がっている。道路に木が倒れて、スクールバス来れないんだって。朝の体育館は広くて薄暗い。床に友達の体育シューズが映っている。だむど。だむどと鳴り始めて、その影がたわんで揺れた。続くようにかごのボールに手を伸ばす。指先から離れて浮かんでいくバスケットボール。千の天使と遊ぶのだ。これから、飽きるまで。
住処へ張り巡らされたワイヤーと。ピアノに向かう老人の背中は小さい。厳粛な鍵盤の配列の上で、裸木は活けられている。白、白、黒、白黒白黒白白。遂には裁断される音の断崖を。指は戸惑い、宙をさ迷う。思い出すように。垂直に裂かれていく、この震えをどうか止めずに。指先から記憶を開いて、それから音はひん曲がる。
間違いだ。間違えられた。ポケットからアルニコを取り出して、束になって逃げ出そうとするワイヤーをアンプにぶち込む。膨れ上がった暗箱から幾つもの管がそこらじゅうをのた打って、脳ミソを蹴り上げる。もつれ合う脚の群れ。まだ空は青いのか。赤いのか。入り混じってるのか。ざりら、踏み付けられた靴底の模様と。何色の涙が、最後の目頭を溢れたんだろう。
蝿
なにもきかなくていい日がきて、かげのない広場に咲いた花をゆらし、白地のデッキシューズに蝿がとびうつってくる。ぼくはかかとをへらしてあるく癖がぬけないまま、くるぶしの辺りで染みになった蝿がしずかに目をとじたのをかんじていた。つまり、きみはぼくのひだりてで新緑のベンチに腰をかける。もちろん、きっかり4オンスのチョコレートの包装紙にむきあっていた。それから。
なにもきかなくていい日の為にやらなくちゃいけないことをあらかた片付けたぼくは廃車置場から抜けだしてきたばかりのタクシーをひろい。きみやきみ以外の人も、あさ、ミセス.カリーナの店でたべたマッシュポテトよりいくらかましなチョコレートにむきあっている広場からはなれた。
たぶんきみは、まだあそこにすわり、あたたかい地方のつづりで、カカオは、あなたにとって鼻出血をあっかさせる危険性をたかめます。と書かれた包装紙をにらみつけているはずだ。
それから。僕は。それからのことをおもうんだけど。
きのう、数週間ぶりにたずねてきて、あさになると、家のどこにもみあたらないきみのようななりで、きみやぼくじゃない人はすててしまうデッキシューズの染みになった蝿が、なにもきかなくていい日の主旋律みたいにその羽をやすめている。まだだ。まだきこえてこない。
とてつもなくたいせつなことばがペイントされた看板のまえで。そうぞうもしたことがないまちのそとで。あの花の種子がまかれない土地で。きみのかじるチョコレートがとけない場所で。ぼくはタクシーからおろされる。
なにも聴かなくていい日のまひるをすこしすぎて、染みになった蝿が目をひらく瞬間に、デッキシューズのかかとをすりへらして。
点描
濃淡を、くりかえしながら先割れのスプーンに近づいている朝
演じるということ、やさしさということ、おろし金から飽和する雪
質量をもってしまった画家はもう手のひらを返すようにかなしい
ましかくに凍えるような病棟でビニール傘を写生するひと
引き潮がさらわれてゆく静けさのなかで東京駅に降り立つ
連弾をしているずっと/ひとりきり はると見まごうプラネタリウムで
きゅうくつに体を折り曲げしあわせをちいさく握りしめている、猫
ちょうむすびしている春がこんなにもやさしすぎても誰も責めない
いちめんの菜の花畑で露光する(月光、液体窒素、フラワー)
ひらかれた感光紙には職人の顔をしている知らないあなた
お手数をおかけしますと梅雨入りの午後、ファックスで送信します
雨の日の断片アジサイすきだった ひとをなくしてわたしそらをとぶ
むじゅうりょくのなかでみつめるやわらかな名前、ピアノの上で跳ねるの?
とうめいな打ち上げ花火 ひび、ひびと 身をまかせれば素粒子のうみ
あめであることを忘れる(ハレーション、)はくさい色の虹をみていた
あしあと
とめどなく
とめどなく
降り続くあてどない白い冬
皮膚は体に張り付いて 血管は黒くちぢこまる
色あいや めまぐるしく動き回る生命の欠片もなく
いまはただ
うつむいた雪が
降り積もってゆく
脊髄が 錆びついてくるのを感じる
骨が膠着し 何も言わなくなると
ますます冬は
冷たくよそよそしくなる
寒さが喉で固まり
発する声をも強張らせてしまう
*
重く夜は垂れ下がっていた。
男はまた、穿孔虫をつまみながら自らの年輪を愛撫している。
止む無く 青刈りされた言葉を発し続ける。
生あたたかい薄い刃が 水のように私に入り込む。
ぶるぶると心血は吹き上がり、激しくののしりあう。新月は欲情し、因縁を噴火させ、活動してしまったのだ。ボコリボコリと私と彼の口から生まれる血生臭い赤子は古い家の隅々にみるみる堆積され、目を剥き、口にはやじを蓄え、裂けるような泣き声を残して、直ぐさまぐったりと死亡する。それらの死骸は怪しく光ったかと思うと下面に吸い込まれていった。
煮えた脳液は冷めることがなく、怒りと狂気は果てしなく製造されてゆく。彼は生き物ではないのではないか、そう思った時、私の頭の中のピンが外されたかのような感覚に陥った。
ぼうっとした まだ朝になりきれない三時。
渦巻いて悶々とした吐き気と、乾いた怪しい鼓動が深夜を越え、重い元旦を迎えていた。
血流もまだ馴染んでいない、とらえどころのない空間。胃腑から浮き出てくる悪寒を感じながら闇に嗤う。
凍った月の夜を歩く。
沈黙が重力に沈み まだ夥しい夜が陳列されている。
轟音を蹴散らしながら通り過ぎる除雪車はたくましい。雪を征服し、翻弄している。その傍若無人な力が朝になりきれない夜の闇を打ち砕いている。鉄の意思が雪と組み合っている。運転台には黒く塗りつぶされた顔を持つオペレーターが乗車している。
*
吐く息は、白い
纏わりつく、影、と濡れた光
まぶた、の向こうにある、温かい骨
数えるほどの外灯、の白い道路に
足跡はまだ無い