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2012年10月分

次点佳作 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


call

  紅月

いきものたちの長方形は
どこまでも直角であればいい
といのるそばから
いびつにつづく石畳の久遠に
分化しゆくあわい複眼の滴が砕ける


雨煙のなか
ただ立ち尽くす
(なまあたたかい東西の壁)
水に濡れた枯葉の群れから
数多の挨拶は失われてゆくから
つらぬくような凍えのなかで
かわいた吸気の骨格の
なだらかな勾配のさなかへ
投身する空蝶の両翅/花弁
あざやかなくちびるから垂れる
一条の宿り木のこんじきの蜜が
たわむれるゆいいつの音楽として
罅割れた石畳を叩きつづけるのだから
もうなにもいわなくてよいから
水彩の絵具がふりそそぐ螺旋に濯がれ
他愛もなくふやけてゆく視界は
葉の抜けゆく秋の大樹のように
彼方にたかく枝を拡げたまま


(かたちない独房の
半透明にすけた檻の隙間を
空欄に入る記述だけがすりぬけてゆく)
錆びた蝶番がこつこつと鳴き
打ちつけられる利き腕は骨の/古枝
いびつな石畳のうえに立ち尽くしながら
反響する雨煙の螺旋の
呼び声にうすい鼓膜をかたむける
ひとりでに震えるくちびるが
物言わぬ系譜の勾配をくだりおちて
はなばなの潤いに分化しゆく複眼の
丸い卵塊だけが宙でくるくると廻りつづけている


だいだらさんの沼

  深街ゆか



市営団地
5棟402号室

テーブルの真ん中の野菜炒めを盛った皿をかこむように、弟は茶碗と箸を並べた 、青い箸は父さん、黄色い箸は弟ので、赤い箸はわたしの箸、茶碗も箸も全部プラスチックでできてるから、どれもこれも簡単にぶっ壊せそう。はめごろし窓のすき間から、大きな目玉が覗きこんでいて、すぐにダイダラボッチだとわかった。晩ごはんをたべながら「最近あれをよく見かけるよ」と言うと「この辺りは昔大きな沼地だったからね」と父さん。それっきり会話は途切れてしまった。ねぇ父さん、隣の家から漏れてくる野球中継のほうが賑やかだね。
湯船の中でわたしの体が揺れている、白く、ふやけてゆく、輪郭を失ってゆく、柔らかく張りの無くなった皮膚に、ドジョウが穴を開け入り込んでゆく、17才少女、浴槽で謎の死、体には無数の穴、ふやけた妄想が頭から離れない、とくに、夜は



3棟204号室

もうすぐゆう太が、黒いランドセルを背負って、階段を一段一段登って帰ってくる。ねえ、ゆう太はどうして、ランドセルに石ころを詰めこんでいるの?教科書はどうしたの?筆箱は?ゆう太はうつ向いたまま、体をふらつかせている、窓の外をダイダラボッチが通りすぎた、湿った空気が髪に絡みついて鬱陶しい、きっと今夜は雨だ。
おかあさん、おかあさんがぼくを寝かしつけて、部屋をでていったあと、部屋は、まっ暗で音もなんにもない宇宙になるんだよ、ランドセルの中の石ころは、星くず、部屋の中をとびまわる星くずに、頭をぶつけてしまわないか、ぼくがこわがっているのを、窓から大きな目ん玉が見てるんだ、あれはきっとダイダラボッチだよ、むかし、この辺りは大きな沼地だったんでしょう?
私は黙ってゆう太を抱きしめた、難しい年頃なのだ、ゆう太の黒いランドセル、いじめで自殺をした子どものニュースが胸をよぎった。
おかあさん、おかあさんがぼくを生んでから、ぼくはずっと宇宙でひとりぼっちだよ



6棟103号室

観葉植物にベランダを占領されてしまってからは、洗濯物は部屋で干すようになりました。観葉植物の手入れをしているときには、よくだいだらさんに会いました。
私は3日前に死んでしまいましたが、今日もカルチャー教室へ行って、木炭でリンゴを描いてきたんですよ。カルチャー教室の帰りにはいつもこうやって町を見渡せる丘に登って、わたしが住んでいた団地や、誰かさんたちが住んでいる家の屋根を、眺めてから帰るんです。屋根が、ずらりと並んでいる様子は、見ていて、とっても愉快な気持ちになります。だいだらさん、あなたの姿もここから見えますよ、あなたはどうしていつまでもそこに留まっているんです?そこにあなたの沼は、もう無いんですよ。
だいだらさん、だいだらさん、あなたもこっちへいらっしゃいな


  リンネ

 べっどの端に巨きな猿がぽつねんと腰かけている、屈託に塗れた、しわだらけの顔を赤く燃やし、静かに息をしている、世の中馬鹿なこともあるもので、夜が更けるとともに猿は銭湯へと変化してゆく、そこではさまざまな効能を持つ数多の湯が用意されているが、どれもくつくつと煮えたぎっているために、入浴後、胸から足の先まで赤く焼けただれる羽目となった、そのまま停車した電車に押し入り、いくつかの街を通り過ぎてわたしの部屋に来たのだと言う、わたしは猿に言われるがまま鎧兜を着せられるが、これは線香の匂いがする、厄払いなんて要らないよ、本当はこの時間、文庫を片手に眠り落ちてしまいたいのだと文句を吐いて猿を困らせる、さしあたり他人事のように感じる、猿を見つめてみると、彼もまた巨きな目でこちらを見守っている


 無様にひっくり返ったわたしは、兜虫のように両手両足をもそもそと動かしてべっどから転げ落ちる、が、運悪く仰向けになったままである、感傷に浸る間もなく、わたしは神輿のように担がれてどこかへ連れて行かれる、猿はいつのまにか三匹になっている、道中、彼らの話が聞こえてくる、まもなく地球は水滴のごとく宇宙の底に落ちて、暗く一面に広がって朽ちてしまう、などという他愛のない冗談を、再生機のように繰り返している、毛むくじゃらの手が六本、根のようにわらわらとわたしを支えている、心地良くもある、路上には点々と間隔をあけて、子猫の燃え殻が転がっている、皆、ふらふらしていたところを猿に燃やされてしまったらしい、恋人たちは大事そうにそれを拾い、神妙な面相を向け合って愛を確かめ合う、そんなふりをしている、人は皆愛を知らない生き物だった、焼けた猫の真っ赤な舌が一瞬飛び出してそうつぶやいた、幾分脅迫めいた表情をしている、恋人たちは何も知らずに拾った猫の頭部をもぎ取り、丁寧に鞄に詰める、きりもない


 空っぽの竈のまわりにはぐるりともう数え切れないほどの猿が囲んでいる、巨きな釜の中にぽつねんと座りこんで、煮られるということの恐ろしさに思いを馳せてみる、決して愉快ではない、もうすぐ準備ができますから、と、べっどに居た初めの猿が久々に顔を覗かせて笑う、とたんに、幻覚なのだろうか、一面見渡す限りの雪景色が見える気がする、乱れも冷たさもない、このどこかに猿たちは埋まっているのか、要らぬ心配もする、たまに顔だけ雪の中から覗かせている猿が居る、だれもかれも照り返る光に眩しそうな目をしている、ここに座ったまま、知っている顔を探すが、いざ見つけてしまうのが怖くて変にきょろきょろとしてしまう、大声で呼んでみると、返事はない、皆ただ人のように笑ってこちらを見返してくる


 黒い布で目隠しをされてしまった、わたしはもう押し黙ることを決めた、不安のねじまがりの中に言葉はむしろ邪魔になるだけではないか、次第に暗い視界の中央から巨きな川が流れてくる、猿たちは首尾よく橋を架けて渡り始めるが、こちらは容赦なく激流に呑み込まれた、体が強張る、くるくると天地が回り回り、自分の居所が蒟蒻のごとくまるで掴めない、分かるのは回転の中心にただ自分が居るという事だ、彼方から何者かが接近してくる、どうも怖くなる、そちらに目をやるが、つかのま、わたしの視線は思わず全てを通り越して、自分自身のまっくらな背中に突き刺さる形となった


「きみは狂ったように、哭くことができるか!」
「哭く間もなく、川は走り去った!」
「猿たちは嗤いながらぼくを歌った!」
「きみは空が大地の上に流れることを知っているか!」
「呆れた!空は雲に食べられてしまった!」
「雲は大地に落ちた!」
「きみはこのお話を気に入ったかい?」
「もちろん!ぼくはきみが憎くてたまらない!」
「猿が、竈の火に飛び込んだ!」


 終日、中身が無い、中身が無い、と、嘆く声音はどこから流れてくるのか、きりもなく、ともかくその繰り返しは案外気持ちよくわたしを慰める、朝、だらだらと体中を垂れる汗を、風呂場でしきりに流しながら、一度死んでしまった人間のように、開き直って屈託のない一日に向かおうとする、それは、さて、今日の朝食は何をつくろうかと、食に悩むことからはじまる一日である
 炊飯器が湯気を吹きあげている
 どれ、白飯でも、食べようか


びゃくしんの木

  

ねえ メルヒェン
刺すのと刺されるのと
どっちがいい?

きょうぼくは
花をみてきたよ
きみたちは花をみたことがないだろ?

人間のくちからは
あくびしか出てこないね
美しくうたうのが
花だよ

だから花みたいに
人間もくちなんかなくして
臓器になれば
美しくうたうことができるね


パチンとはじけてみんな終わる

  深街ゆか

缶詰を開けると外は雨降りで賞味期限はとっくに切れていた  婆ちゃんがどこもかしこもこんなものだわよって  母さんも私もそうかもねって  あの頃は確か毎日なんだかんだおかしくて  わたしたち手をつないで笑ってたんだったと思う  でも今は婆ちゃん半分ボケて  貝殻を耳にあてがって暮らしてる
/夜のね海のね波打ち際で/わたしねひとりぼっち/だったんだよ/小さな貝殻拾ってね/耳にあてると/波の音に混じってね/お母さんの声が聞こえるんよ
そう言って涙を流しておんおんと泣く  婆ちゃんの顔は小さなスズエちゃんの顔  スズエちゃんの涙が絶えず吹き込むから家の窓という窓はすべて閉ざされ  母さんはスズエちゃんをおんぶして暮らすようになった
スズエちゃんは母さんのおっぱいを気に入り  夜になると母さんの胸の中にずるりと潜り込んだ  スズエちゃんの涙はまだまだ止みそうになくて  ラジオから流れる台風情報に耳をすますと  聞こえてきたのは遠い日の母さんの声でした
傘をさしスズエちゃんをあやす母さんの影がもう少しで消えそう  私は部屋のすみっこの少し高いところからそんな母さんをただ見てた



  母さんコンビニ行ってくるけど何かいる?
  そう言って私スズエの貝殻をポケットに入れて
  家に帰らなくなって今日で何年経ってしまったんだろう



母さんをおんぶしてスーパーマーケットに行くと  生鮮食品売り場が季節の訪れを教えてくれた  魚が食べたいなと言った母さんのくちに  身をぐずぐずにしてから骨をはじいた魚を運んだ  ゆっくりと咀嚼する母さんを  どんな立場で見つめればよかったのか  今も正解が見つからない  夜  母さんは私の胸のなかで丸くなって眠る  わたしも母さんを包み込むように丸くなる  暗い部屋の一点を見つめていると  視界が狭くなって真っ暗でなんにもない  だだっ広い宇宙に迷いこんでしまった
婆ちゃん母さん  子宮に託した夢が  パチンパチンとはじけ散る音 が からだのなかで響きわたってます こんなところでしょうか こんなものなのかもしれませんわたしたち



缶詰を開けるとあのころのわたし達がゲラゲラと楽しそうに笑っていた


  zero

お前はついに来なかった
その足音をどこかに葬り去ったままで
俺が自分の嘘を屠殺するこの広場まで
稲は刈られ 柿は熟し
だがお前は来なかった
来なかったという銀河を巻き
来なかったという未来を提げ
これらの嘘はすべて
風のように気まぐれな
二人の間のゆがんだ距離を経て
お前に手向けられたものなのに
大気に水が混じり
空の火が淡くなり
俺の嘘はあらゆる方角を経て
嘘の方角はきしんだ欲望へと集まり
欲望の集まりはお前の口の中へ
俺が傾きお前が支え
その下を無数に流れて行った嘘を
それでもお前は見殺しにするのか
俺のすべての嘘はお前のすべての死児
お前の死児への祈りも俺のついた嘘だ
お前はついに来なかった
俺はお前の死児である嘘たちを焼く
焚火を焼くようにのどかに
怒りに身を狂わせながら


あなたにパイを投げる人たち

  debaser



とてつもなく長い椅子がさらにとてつもなく伸ばされようとしている
ホームベーカリーでこんがり焼け上がったフランスパンのまえで
彼女が少しもバターを使おうとしないわけはエゼキエル書25章17節の裏っかわに書いている
テーブルには果肉がたっぷり入ったイチゴジャム
その横にすっかりさめてしまったカボチャのスープ
主人の帰りを待つ美しい妻は、股間あたりをういんのごとくういんして真剣に悶えている


神:あなた投げたパイはこの金のパイ、それともこの銀のパイ?
私:はい、そのエンゼルパイです
神:あなた突然、神に話し掛けられてもちとも動揺しない、見込みちょとあるね
私:失礼ですがどちらの国の?
神:インドの山奥のほ
私:日本語お上手ですね
神:ありがと、日本来て10年だもんな
私:なんでまた?
神:アメリカに大学行くか日本に大学するか迷てんけど、日本来たもんな
私:え、何歳の時に来たんですか?
神:18、ハイスクル出てすぐ
私:なんでまた日本に
神:わたし国、そのときどきで日本人気あったな
私:ほー、それでどちらの学校に
神:おいたの立命館
私:大分ですか
神:あなたおいた知てるのか、ぺぷ温泉あるもんな
私:行ったことはないですけど、有名ですね
神:わたし温泉のバイトしてた、たちばな旅館、べぷの
私:なにやってたんですか
神:風呂場掃除だもんな
私:大変そうな仕事ですね
神:めちゃ大変やん、めちゃ朝はやいだもんな
私:日本に来たときは、日本語はどの程度?
神:いっこもやん、こにちは、と、ぼてぼてでんな、くらい
私:いろんな方言が混じっているような気がするんですが
神:日本のともだち、たくさん作たもんな
私:大分の大学でですか
神:うん、それと、たちばな
私:あ、旅館の
神:そうな、たちばな、みんなやさしかたな
私:家族経営ですね
神:そうな、3人姉妹、みんなめちゃ美人
私:おー
神:わたしの日本での初恋やもんな、ちょじょのほ
私:長女ですね
神:ちょじょ、めちゃ美人やもんな
私:次女は?
神:じじょ、めちゃ美人やもんな
私:じゃ、次女でもいいじゃないですか
神:ちょじょのほが、ちょっと美人やもんな
私:三女は?
神:さじょは、めちゃ美人やもんな
私:じゃ、三女でもいいじゃないですか
神:ぶちゃけ、どれでもよかたな
私:告白したんですか?
神:したもんな、おかみさんに
私:え、なんでまた女将さんに
神:ぶちゃけ、どれでもよかたもんな
私:それで、どうなったんですか
神:そっこでOKでたもんな
私:え、付き合ったの?
神:これは不倫だもんな
私:ばれなかったんですか?
神:付きあて、次の日にそっこでばれたもんな
私:早すぎるでしょ
神:わたしそっこでおいた逃げたもんな
私:学校は?
神:そのときどきでちゅたいしたもんな
私:それで
神:東京きた
私:東京ですか
神:なにも知らないのに、システムエンジニアしたもんな
私:働いたんですね
神:うん、めちゃちっこい会社に、たちばな企画
私:また、たちばなですか?
神:ぐぜんやろ、べぷのたちばなとはかんけなかったやろ
私:そこではちゃんと働いてたんですか
神:しゃちょのひしょ、めちゃ美人やもんな
私:あれ、もしかして
神:そっこでOKやもんな
私:付き合ったんですね
神:付き合って、そっこでばれたもんな
私:逃げた、と
神:わたしそのときどきでそっこだたもんな
私:女癖悪すぎるでしょ
神:ぶちゃけ
私:どれでもいいんでしょ
神:めちゃ美人やもんな
私:女の話以外になにかあります?
神:こないだ、きょとに行てきたもんな、仕事で
私:仕事してるんですね
神:しつこくシステムエンジニアやてるもんな
私:というか神様なんでしょ
神:まぎれないもんな
私:仕事しなくていいでしょ
神:仕事すきなめんは確かにあるな
私:なんか願いとか叶えてくださいよ
神:あなたはどな願い持てる?
私:そうですね、恋人が欲しいです
神:どな、めちゃ美人の?
私:容姿のこだわりはないです
神:そっこでOKやもんな
私:いや、意味わからないです
神:ふつのほやもんな
私:わからないけど、たぶんそれでいいです
神:じゃ、明日家に待てて、じゅしょをこの紙に書いて
私:ありがとうございます
神:楽しみがいこにこふえたもんな


わたしは、紙に嘘の住所を書いたので
本当に次の日にそのふつのほの女性が来たのかどうかわからない
そんなことより、妻がずっと股間をういんういんしてる
気持ちいいのかどうか知らないけど、あれ、なんとかならへんかなと
思いながら、腹式呼吸の夜行虫が空を飛んでった


In The Real World。/どこからも同じくらい遠い場所。

  田中宏輔




 濫読の時期は過ぎた、といえるのかどうか、それはわからないけれど、少なくとも、一日に一冊は読むという習慣はなくなってしまった。ヘミングウェイの作品のタイトルではないが、何を見ても何かを思い出す、とまではいかなくとも、本を読んでいると、だいたい、二、三ページもいかないうちに、まあ、ときには、数行ごとに、まれには、数語ごとに、本を伏せて、あるいは、栞をはさんで本を閉じ、思い出そうとしているものの正体がはっきりするまで、しばしのあいだ、思いをめぐらすことが多くなってきたのである。このとき、目を閉じていることはあまりなくて、おおかたは、目のまえにあるパソコン二台を見つめながらのことが多いのである。手前のパソコンはネットにつねに接続してあって、自分のものや他人のもののブログやツイッターやミクシィやfacebookや文学極道の詩投稿掲示板や文学極道のフォーラムなどのページを開けていることが多く、後ろのパソコンはDVDやCDを再生させるために開けていて、つねに映像か音楽が流れている。起きているあいだに、この二台のパソコンのスイッチが切られることは、まずなくて、寝るまえに、精神安定剤と睡眠導入剤を服用するまでつきっぱなしである。ここ五、六年ばかりのあいだ、処方されるクスリは同じもので、ラボナ、ロヒプノール、ピーゼットシー、ワイパックス、ハルシオンの五錠である。きょうの夜から一錠、ロゼレムが増える。このクスリは大丈夫だろうか。薬局のひとの話では、このロゼレムというクスリは、一年まえに開発されたクスリで、睡眠のリズムを整えるものらしく、ほかの五錠のクスリのように、脳に直接アタックするものではないとのことだった。そうか、ほかの五錠のクスリは、脳に直接アタックするのか、怖い話だなと思ったのだが、六、七年ほどまえのあるときに、睡眠障害がひどくなって、そのとき服用していたクスリでは眠れなくなったので、かかりつけの神経科の医師に相談すると、ジプロヘキサというクスリを処方されてのんでみたのだが、十六時間昏睡してしまった。十六時間も眠っていると、体調がおかしくなるのだとはじめて知った。目がさめたとき、ものすごくしんどくて、まったく身体を動かすこともできず、手でさえ動かすこともむずかしくて、指先に力も入らず、これはどうしたことだろうと思って、さらにはっきり目がさめるまで、おそらくはそれほど時間は経っていなかったのであろうが、自分の感覚的な時間では、一時間以上ものあいだ、指をふるわせて、正常な感覚が戻るのを待っていたのであった。しばらくたって、ようやく指の感覚が戻ってきたときでも、身体はまったく動かせなかった。まるで一挙に体重を何十倍ほども増したかのような感じで、身体が重たくて重たくて仕方なかったのである。じょじょに身体の感覚が戻るのに要した時間がどれほどだったのか、正確にはわからないが、目がさめてから、現実時間で一時間以上は経っていただろう。自分の感覚では、数時間以上だった。ようやく時計を見ることができたときには、驚かされた。眠っていた時間は、どう計算しても、十六時間以上あったのである。新しく処方されたジプロヘキサのせいだと思い、その日のうちに、通っている神経科医院に行き、処方してもらった先生に、この症状を報告すると、先生は、「クスリが合わなかったみたいですね。」とおっしゃるだけで、「あのう、このクスリ、こわいので、捨てておきます。」と、ぼくの方から言わなければならなかった。万が一、変な気を起こして、ぼくがそれを大量にのむことができないようにである。まあ、医院に行くまえに、捨てていたのだけれど。大量のジプロヘキサを服用したら、簡単に死ねるからである。医院に行くまえに、パソコンでジプロヘキサのことを調べたら、血糖値の高い患者が服用すると死ぬことがあって、死亡例が十二例ほどあったのである。ぼくも血糖値が高くて、境界性の糖尿病なのだが、神経科の医師には、ぼくの血糖値が高いことは話してなかったのである。ときどき、捨てなかったらよかったなと思うことがある。いつでも死にたいときに死ねるからだけど、いや、やはり、どんなに身体が痛いときにでも(心臓のあたりがキリキリ痛むことがあるのだ)、神経がピリピリするときにでも(側頭部やこめかみの尋常でない痛みに涙が出ることがあるのだ)、膝が痛くて脚を引きずっているときにも、また、いま嗅覚障害でにおいがほとんどわからないのだが、そういったことにも、意味があると思って、思い直して、自ら死ぬんだなんて、なんていうことを考えるのだろう、この痛みから見えるものの豊かさに思いを馳せろと自分に言うのだが、言い聞かせるのだが、それでも、ときどき揺れ戻しがあるのである。そういうときには、こころが元気になるように、本棚から適当に本を選んで抜き取り、それを読むことにしている。けさ選んで抜き取って手にした本は、岩波文庫から出ているボルヘスの「伝奇集」というタイトルのものだった。買ったときの伝票の裏に、つぎのようなメモをしたためていた。1999年8月14日、土曜日、午後12時27分購入、と。ぼくは、手にしたボルヘスを読むことにして、BGMに、ピンクフロイドの WISH YOU WERE HERE のCDを、後ろのパソコンに入れて再生させた。読みはじめてすぐに、本の2ページ目、プロローグの最後の行、というよりも、そのプロローグが、ボルヘスによって書かれた、つまり、書き終えられた、という、いや、もっと正確に言えば、ボルヘスが書き終えた、と書きつけている日付に目が引きつけられたのであるが、引きつけられて、はた、と思い至り、読んでいたボルヘスの「伝奇集」を伏せた。


一九四一年一月十日、ブエノスアイレスにて


 ぼくの誕生日が、一九六一年の一月十日であることは、以前に、「オラクル」という同人誌に発表した詩のなかに書いたことなので繰り返すのははばかれるのだが、発表される場が違うこと、また、発表される媒体そのものが異なることから、ふたたび、ここで取り上げることにする。ぼくが、ぼくの第一詩集の奥付に書きつけた、ぼくの誕生日の日付が、一九六一年一月十二日であるのは、ぼくの父が、ぼくの出生届を出しに役所に行った際に、その提出した書類に、ぼくが生まれた日付ではなくて、ぼくが生まれた日付を書く欄に、その書類を提出したその日の日付を書いて出したからなのだが、このいきさつについては、何年か前に、実母からぼくに連絡があるようになって、はじめて知ったものであるが、それは、すなわち、ぼくの父が、ぼくを長いあいだ、ずっと欺いてきたということである。そのときには、強い憤りのようなものを感じたものの、その父も少し前に亡くなり、いまぼくも五十一歳になって、あらためて考え直してみると、父が自分の過ちを訂正することなく、そのまま放置していたおいたことも、父が父自身の人生に対して持っていた特別な感情、これをぼくは何と名づければよいのかまだよくわからないのであるが、何か、「あきらめ」といった言葉で表せられるような気がするのであるが、かといって、「あきらめ」という、ただ一つの言葉だけでは書き表わせられないところもあるような気もする父のこころの在り方を思い起こすと、当時、ぼくの胸のなかに噴き上げた、あの怒りの塊は、いまはもう、二度と噴き上げることはない。なくなっている。もしかしたら、ぼく自身のこころの在り方が、いまのぼくのこころの在り方が、生きていたころの、とくに晩年の父のこころの在り方に近づいているからなのかもしれない。いや、きっと、そうなのであろう。いまになって、そう思われるのである。不思議なものだ。ボルヘスの本を取り上げなければ、こんなことなど考えもしなかったであろうに。
 伏せたボルヘスの本に目をやると、それをひっくり返して、ふたたび目を落とした。


一九四一年十一月十日、ブエノスアイレスにて


 一月十日ではなかったのだった。いったい何が、ぼくに、一月十日だと読み誤らせたのであろうか。無意識層のぼくだろうか。それとも、父の霊か、ボルヘスの霊だろうか。まさか。だとすると、ボルヘスの言葉は、霊的に強力なものであることになる。そういう作品をいくつも書いているボルヘスではあるが。
 ふと気がつくと、スピーカーからは、 Shine on Crazy Diamond の Part I の出だしが流れていた、ピンクフロイドのこのアルバムのなかで、ぼくがいちばん好きなところが流れていた。





 きょうは、何だか、あさから、気がそわそわしていた。気持ちが落ち着かなかった。きのう、ことし出す詩集の「The Wasteless Land.VII」の二回目の校正を終えて、出版社に郵送したからかもしれない。やるべきことはやった、という思いからだろうか。読んでいたボルヘスの本に革製のブックカヴァーをかけて、リュックのなかに入れて、出かける用意をした。
 阪急電車のなかで、ボルヘスのつづきを読んでいると、42ページから43ページにかけて、つぎのような文章が書かれていた。


不敬にも彼は父祖伝来のイスラム教を信じていないが、しかし陰暦一月十日の夜も明けるころ、イスラム教徒とヒンズー教徒との争いに巻きこまれる。


 またしても、一月十日である。いや、プロローグのところでは、十一月十日であったので、またしても一月十日ではなかったのであるが、しかし、またしても一月十日である、と思われたのである。プロローグのところでは、はじめに見たときに、一月十日と、見誤っていたのであった。そのため、まるで胸のなかに、ものすごく重たいものが吊り下がったかのように感じられたのであった。
 西院駅から阪急電車に乗り、梅田駅に向かっていたのだが、桂駅を越えてしばらくしたころ、ふたたび、「一月十日」という記述を目にした。


一月十日の二枚の絵が


「一月十日」という言葉がある42ページと50ページの、ページの耳を折り、リュックのなかにしまうと、腕を組んで、すこしのあいだ、眠ることにした。幼いころから、乗り物に乗ると、すぐに居眠りする癖があったあのだが、ただ、子どものころのように、完全に熟睡するということはめったになくなっていて、いまでは、半分眠っていて、半分起きている、といった感じで居眠りすることが多くて、本能的なものなのか、それとも、ただ単に生理的なものなのか、その区別はよくわからないのであるが、目的の駅に着く直前に目が覚めるのである。不思議といえば、不思議なことであるが、このことについては、あまり深く考えたことはない。が、もしかしたら、意識領域のものではなくて、無意識領域のものが関与しているのかもしれない。あるいは、意識領域と無意識領域との遷移状態といったものがあるとすれば、その状態にあるところのものと関与しているのかもしれない。
 電車の揺れは、ほんとうにここちよい。すぐにうとうとしはじめた。





 廊下に立っている連中のなかには、ぼくのタイプはいなかった。体格のいい青年もいたが、好みではなかった。ぽっちゃりとした若い男の子もいたが、やはり好みではなかった。ミックスルームと呼ばれる大部屋に入って、カップルになった男たちがセックスしているところを眺めることにした。二十畳ぐらいの部屋に十四、五組の布団が敷いてあって、その半分くらいの布団のうえで、ほとんど全裸の男たちが絡み合っていた。ほとんど全裸のというのは、ごく少数の者は腰にタオルを巻いていたからである。以前にも目にしたことのある、二十歳過ぎぐらいのマッチョな青年が、中年のハゲデブと、一つの布団のうえで抱き合っていた。あぐらをかいて、じっと見ていると、肩先に触れてくる、かたい指があった。首を曲げて見上げると、背の低い貧弱な身体つきをしたブサイクなおっさんが、薄暗闇のなかで、いやらしそうな笑顔を浮かべていた。ぼくは、おっさんの手を(ニヤニヤしながら、そのおっさんは、ぼくの肩の肉を、エイリアンの幼虫のように骨張った堅い指でつかんでいたのだ)まるで汚らわしいものが触れたかのような感じで振り払うと、立ち上がって、足元で、はげしく抱擁し合うマッチョな青年と中年のハゲデブの二人のそばから離れた。二日前に、友だちのシンちゃんに髪を切ってもらって、短髪にしていたせいもあって、この日も、ぼくはよくモテた。いつだって、ぼくはモテるのだが、髪を切ったばかりのときは、格別なのである。しかも、この日は、ぼくと同じような、短髪のガッチリデブという、自分の好きなタイプとばかりだった。二週間前の土曜日にも、ここに来て、すごくタイプなヤツとデキて、つきあう約束をしたのだが、きょうは、そいつが仕事で会えないというので、ぼくも実家に戻っているよと嘘をついて、連絡をし合わないようにしていた。多少の罪悪感もあるにはあったが、そんなものは、すぐにも吹き飛んで、フロントに行き、券売機で宿泊の券を買って、従業員に手渡した。来たときには、泊まることなど考えてはいなかった。サウナだけのつもりだったのである。
 十年前ほどまえに、同人誌の「オラクル」に、ノブユキとはじめて出会ったときのことを書いた。


ノブユキとは、河原町にある丸善で出会った。二人は同じ本に手を伸ばそうとしたのだ。


 こんな文章を書いていたのだが、じっさいのところは、ここ、梅田にある北欧館というゲイ・サウナのなかで出会っていたのである。「オラクル」を読んだ人のなかには、ノブユキとぼくが丸善で出会って、同じ本に手を伸ばそうとしていた、などという、まるで少女マンガのなかに出てくるような、ぼくの作り話を信じた人もいるかもしれない。祖母は、よく、嘘をついちゃいけないよ、と言っていた。嘘をつくと、死んだら地獄に行くことになると。地獄に行くと、鬼に、長い長い棒を、くちのなかに入れられるよ、とよく言われていた。つぎからつぎにセックスの相手が現われた。夜中の二時をまわっても、部屋だけではなくて、廊下にまであふれて、腰にタオルを巻いただけのほとんど全裸の男たちがたむろしていた。遅くなると、土曜日だからか、酒気を帯びた男たちの割合が増えるのだが、ゲイ・バーによった帰りにでも来たのだろう、ぼくが出会った青年も酒くさかった。廊下に並べて置いてある椅子に座っていたその青年のすぐ隣に腰かけ、股をすこしずつ開いていって、自分の膝が相手の膝に触れるようにしていった。彼は、ぼくの膝が彼の膝に近づいていくのを、眠たそうな目で追っていた。ぼくの膝が彼の膝に触れる直前に、彼は、ぼくの顔を見て、コクリとうなずいて見せた。ためらう必要がなくなったぼくは、彼の膝に自分の膝を強く押しつけながら、彼が伸ばしてきた手をギュッと握った。彼の方もまた、ぼくの手をギュッと握り返してきた。ぼくと同じぐらいに彼も背が高くて、体格もガッチリしていた。訊くと、学生時代にラグビーをやっていたらしくて、いまでも会社のクラブでつづけているという。ぼくたちは、空いている布団を探しに、大部屋のなかに入って行った。土曜の深夜は、愛し合う男たちで、いっぱいだった。布団は、一つも空いていなかった。ぼくたちは、部屋の隅に立って、抱き合いながらキッスをした。セックスが終わってシャワーを浴びに行くカップルが布団から出て行くのを待ちながら。ぼくは青年とキッスした。キッスは、セックスぐらいに、いや、セックスよりも、もしかすると、キッスの方が好きかもしれない。キッスしてるから、すぐに布団が空かなくてもいいと、ぼくは思っていた。しばらくすると、そばにあった一組の布団が空いた。セックスが終わると、身体をパッと離して、タオルを巻きながら薄暗い部屋を出て行く若い二人を見送っていると、彼がぼくの手を引っ張った。彼の方が布団に近かったからであろう。ぼくたちはタオルケットをかぶって抱き合った。主よ、名前はツトムといって、二十四歳だという。年下の彼の方が積極的で、ぼくをリードしようとするので、そのことをヘンだと言って、不満そうな顔をして見せると、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、年下とか、年上とか、そんなん関係ないやろ、と言って、ぼくの両手をつかんで、それをぼくの頭の上にやって、押さえつけると、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください。わが王、わが神よ、ぼくの口のなかに右の手の人差し指と中指を入れ、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、ぼくの両足首を持って、ぼくの身体を二つに折るようにして、ぼくの足を持ち上げると、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、わたしはあなたに祈っています、これまでなかに出されたことなんかないんだけど、ツトムくんならいいよ、と言うと、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、わたしはあなたに祈っています、主よ、オレ、そんなん聞いたら、メチャクチャうれしいやん。えっ、そう? あっ、ああっ、ちょっと痛くなってきた、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、わたしはあなたに祈っています、主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます、もうちょっとでイクから、がまんしてくれよ、おっ、おっ、おおっ、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、私はあなたに祈っています、主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます、わたしは朝ごとにあなたのために、あっ、あっ、いてっ、ててっ、あっ、あっ、あぁ、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、わたしはあなたに祈っています、主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます、わたしは朝ごとにあなたのためにいけにえを備えて待ち望みます、あっ、あっ、ああ、あっ、あぁ、主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、御心をとめてください、わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください、わたしはあなたに祈っています、主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます、わたしは朝ごとにあなたのためにいけにえを備えて待ち望みます、あなたは悪しき事を喜ばれる神ではない、悪人はあなたのもとに身を寄せることはできない、高ぶる者はあなたの目の前に立つことはできない、あなたはすべて悪を行う者を憎まれる、あなたは偽りを言う者を滅ぼされる、主は血を流す者と、人をだます者を忌みきらわれる、しかし、わたしはあなたの豊かないつくしみによって、あなたの家に入り、聖なる宮にむかって、かしこみ伏し拝みます、主よ、わたしのあだのゆえに、あなたの義をもってわたしを導き、わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください、主よ、……






[注記] 終わりに挿入された聖句は、旧約聖書の詩篇・第五篇・第一節─第八節の日本聖書協会の共同訳より引用した。


不可能な交換

  織田和彦



地下室で生物学の実験をするのが私の日課である。

ネズミのあそこにゴム手袋を嵌めた指を突っ込み。コンクリートの塊りを引きずり出すのである。ピンセットで慎重に運河や国道をつまみ出すと、モルタルはあらゆる都市と惑星に繋がり、ロンドンやパリやホーチミンといったものがリアルに出てくるのである。

引きずり出された都市部や惑星の群体は、弁膜の開閉音とともに、例えばホーチミン人民委員会庁舎の銅像は半分に割れて崩落し、ウエストミンスター駅前のビックベンは、南米コスタリカの正午の時報を美しい調べで奏でる。

セーヌ川はむろん太平洋と完璧に接続するのだ。

ネズミの胃袋はバッテリーのように熱を持ち。私の手によって新しいものへと交換される。

今夜私は友人の田村が収容されている留置所をネズミの腹にブチ込む予定である。田村とは中学時代からの友人であり、大学時代には徹マンをした仲間である。田村の嫁と私は週2のペースで不倫をしてる。しかし留置所にいる田村をネズミの腹にブチ込む計画を立てたのは田村の嫁のぶ子である。

のぶ子は私たちが情事を終えたあと、セミダブルのベットサイドでパンツを上げながら留置所にいる田村の身を案じ、私の実験に田村を供することを申し出たのである。

私はネズミのあそこを大きく開き、田村がぶち込まれた留置所を中へ押し込んだ。留置所を中に入れるのは初めてのことだ。

私は額の汗を懸命に拭った。

留置所は何度押し込んでも戻ってきた。私はネズミのあそこに念入りにグリスを塗り込み、鉗子を使いながら無理やり留置所を押し込んだ。のぶ子は田村の名を呼んだ。「浩一!」「聴こえる筈もない・・・」私はニヒリスティックな調子でのぶ子の馬鹿げた言動を鼻で笑った。「グリスが足りないんじゃない?ほら、もっと奥まで!」のぶ子は叫んだ。

      ∞

麦わら帽子のネズミはオリオンビールを片手に自衛隊に封鎖された国道脇のコンビニエンスストア前で、私の目の前に、彼は自分のあそこを大きく開きながら、意味ありげに笑った。

ネズミは明らかに保菌者だ。

私はツナギの防護服のジッパーを首元まで引き上げ、素早くマスクをした。「見てくれや。世界中の留置所はあんたの御蔭でみんなこの中さ」ネズミは大袈裟に首をすくめ、両手を広げてみせた。自衛隊の男が銃をこちらへ向けた。ネズミは皮肉な口元で「鉛の弾もここらじゃ今や信頼の証ってわけさ」と言った。

銃声が一発鳴ると弾丸はネズミの眼球を貫通し、タバコの自販機に当たって跳ね返った。ネズミが血を流すと自衛隊の男は舌打ちしながら向こうへ行った。

私はぐったりとした麦わら帽のネズミを抱え上げると、車の後部座席に彼を押し込んだ。ゴムマットの上にホーチミンの銅像の一部とセーヌ川が勢いよく滴り落ちた。私はそこに田村がいないか探したが、助手席ののぶ子は手鏡でルージュをひきながら、この先のラブホテルに早く行きたがった。

      ∞

ネズミは湯気を立て、便臭のする息を吐き散らしながらオリビアの時報を鳴らし、のぶ子の顔を見つめた。

ネズミは明らかに発病している。

明治通りに面した西早稲田の古い3階建の執務室のテーブルの上で、のぶ子はネズミの腹から半分はみ出た留置所の一部と田村の半分を引きずり出した。田村は白目を剥き仰向けにソファーの中に倒れた。のぶ子は服を脱ぎ捨てると田村に股がった。留置所の先端がのぶ子の中に入る。田村の腰の上でのぶ子はゴマアザラシのように目を瞑った。


ネズミハハツビョウシテイルノダ


      ∞

ネズミの陰嚢の中に挿入されたままの田村の頭を引き抜くとサマルカンドをゆくマラカンダのカールヴァーンと雌ラクダ十数頭が26秒間のストロボで私の中で灼けた。ギンギンの太陽が頭上に昇る頃。8月の日曜日。私はアパートの鍵を閉め、早稲田通りへ出てインド大使館前を通り、映画館の前でタバコに火を点けた。

遅れてのぶ子がやってきた。


「待った?」
「今来たところだよ」
「旦那は出張だから今日は大丈夫」

のぶ子がなんだか浮き浮きして晴れやかな顔をしている。私は地下室に残してきたネズミの干からびた死骸を思い出していた。揮発したホルマリンの匂いが左手についている。その手で私はのぶ子と手を繋いだ。


のぶ子は柔かに笑っている。

ネズミハハツビョウシテイルノダ


せせらぎ

  大ちゃん

 むかし人であった女の幽体が、やはりそのむかし宿と呼ばれていたこの廃墟から、離れられずに留まっている。全ての人はあまりにもあっけなく死に絶えてしまい、幽霊になる者とて稀で、彼女は孤独だった。

 葛などの雑草が生い茂るロビーの、ソファに佇み彼女は思いだしている。家族三人、この宿に旅行に来た日のことを。宿の傍の川で遊んでいた彼女の坊やが、「ママ、パパ、僕、虹色の魚を見つけたんだよ。」と叫んでいたことも。その日の夜は、興奮してなかなか眠れない坊やをまん中に、親子で川の字になり床に就いていた。 

 いつまでも止むことのない、せせらぎを聞きながら。

 人類のいなくなった世界、全てのものは美しさを取り戻している。彼女も早く、記憶などなくしてしまい、なにか光のようなものとひとつになればいいのだけど。


パパはフードル

  大ちゃん

嫁が若い男と逃げた。オッパイを弄るいたいけな息子を残して。年下の嫁に寄生していた、中年の俺は大ピンチ。早速ナマ保に頼りたいが、役所の奴らはどうも苦手だ。ええ!じゃ働けば良いって。今更この俺にどんな仕事が出来るって言うの?

「無理!」

家賃の滞納にキレた大屋が部屋の鍵を変え、今にも追い出しをかけて来る気配。とりあえず当面の軍資金が欲しいけど・・頼りになる親戚、友人、知人、誰一人イメージできない。もう闇金しか相手にしてくれないよ。BUT、それはそれで後がとても面倒だ。

「ギャーギャー。」

腹を減らした息子が、鬼のように泣いている。いくら必須なタンパク質とは言え、息子に息子をくわえさせて、男のミルクを飲ませるってわけにもいかず、本当に困った。ああ情けネエ、そこら辺の中坊の方が俺より金を持っている。

そんな時、ふと昔バイトしていた居酒屋で、先輩に聞いたある都市伝説を思い出した。人間危機に陥ちると、色色な知恵が生まれる。その内容は・・・・

「ホモビデオに出演したら、即金で50万円もらえるよ。」

と言うもの。藁にもすがる気持ちで、俺はこの伝説に賭けて見る事にした。早速新宿のエロビデオ店でリサーチした所、柳生企画という会社が「中年男優を急募」しているのがわかった。意を決し電話をした俺、すんなり面接にまで漕ぎ着けることが出来た。



柳生企画は赤羽の汚いペンシルビルにあった。俺は狭いエレベータに、ガキを載せたベビーカーを押し込むと、自らも隙間に納まり、3Fのボタンを押した。ピーン、扉が開くとそこはダイレクトに事務所で、撮影用の大きなベッドが置いてあった。総白髪のインテリ風な男と、ラガーマン系の筋骨男が、二人並んで立っており、紳士の方が挨拶してきた。

「お待ちしておりました、私は、当柳生企画代表、柳生劣情と申します。して、こちらの男がAD兼男優の柳生チョコ兵衛であります。」

目元涼しげな社長、淀みない口上には知性が溢れていた。反面チョコ兵衛はベビーカーに目をくれると、フンと鼻を鳴らした。見るからに感じの悪い男だ。

「さあでは早速、撮影に入りましょう。この服に着替えてください。」

え!今日は面接だけでは・・・なんか撮影とか言っている、まだ具体的なギャラの話もしてないし、俺は心臓がバクバクしだした。

「お互い、納期に追われるもの、すぐに金の欲しいもの、利害は一致しています。お話は早いに越した事がないのでは?当方ギャラは即金で30万円用意しています。」

社長の言う通りだった、それに30万あれば当座は何とか凌げる。俺は込み上げる胃酸を再び飲み込み、契約書にサインをして、プロダクションの用意した衣装に着替え始めていた。



ビデオのシナリオは
町工場の昼休み、野球に興ずる従業員の打ったボールが、敷地内から道路に飛び出し。某大企業の御曹司の運転する高級外車のボンネットに当たった。事故処理のため、御曹司の家に謝罪に出向いた工場長は示談の話を切り出したのだが・・・ムラムラしてきた御曹司に、突然レイプされてしまう。

大体こんな感じ。その工場長の役が、悲しいかなこの俺なのだ。心底アホらしかったがもうやるしか道はなかった。

イキナリ撮影が開始した、ACT1.工場長のレイプシーンだ。俺は御曹司役のチョコ兵衛に、スーツを破かれ、パンツを脱がされ、ベッドの上であわや犯されそうになった。その時、ベビーカーで寝ていた息子が急に目を覚まし、豪快に泣き出した・・撮影は中断してしまった。

「チッ、だからこんな子連れのじじい、使い物にならねえって、言ったんだよ。」

チョコ兵衛が舌打ちをした。

それは夢でも見ているようだった。社長は机に立掛けていた木刀を手に取ると、何の躊躇もなしにチョコ兵衛の顔面めがけ振り下ろしたのだ。

「パン、ビッシャャ〜。」

「ギャー。」

何と言うことだ、チョコ兵衛の左眼は、爆ぜて潰れてしまった。ベッドにうずくまる彼を上から見下ろしながら、社長はこう叫んでいた。

「たわけが。心は、魂はどこへ置き忘れた。最近のオノレは目に余る。調子こいてたら殺すぞ!」

「父上す、すみません。チョコが、チョコ兵衛が、悪うございました。奢り高ぶっておりました。」

「今頃わかってどうする?お前も柳生なら、一族の跡取りなら、最初からちゃんとしないか。」

ガス ガス。社長は木刀でチョコ兵衛の背中を連打した。

「父上、父上お許しを、何卒お許しを。」

 「こちらのパパさんはなぁ、子供のミルク代を稼ぐ為に、身体を張ってここまで来られたのだ。ノンケのしかも初老の男が、ケツの穴をさらす切ない気持ちが、お前にはわからんのか。」

 手で顔を覆うチョコ兵衛の指の隙間からは、幾筋も血が流れていた。

「おおお、すいません、パパさんすんません。この片目に免じて、もう一度、もう一度だけ撮影をさせて下さい。」

「やりましょう、やりましょうよ柳生さん!」

不思議だ。この光景を見て、俺は強い心意気を感じ始めていた。

「お前も柳生なら見事、止血してみよ。」

社長は自ら〆ていた、白い木綿のふんどしを掴み取ると、チョコ兵衛の顔面に投げつけた。彼はキュキュッとそれで眼の周りを縛ったのだが、みるみる赤フンに変わってしまった。しかし凄いものだ、精神力で流血が少しましになったように見える。とは言え、ベッドの上は血だらけ、泣き叫ぶ我が子、ゾンビ顔のチョコ兵衛、それらの悪条件にもかかわらず撮影は非情にも再開した。

 「音声は無しで、そんなもの後から何とでもなる。」

社長は声が上ずっていた

俺は息子を抱きしめると、自らの乳首をくわえさせ、そのまま血染めのベッドに仰向けに倒れこみ股を広げた。

「どうぞ柳生さん、我ら親子に構わず、早く、早く、始めちゃって下さい。」

「そうだ、チョコ兵衛、覆いかぶさって交尾しろ。子供は後でモザイクでも画けて、消せば済む事じゃないか。見せてみろ、心のファック、魂のファックを。」

シーツに溜まった血を指に絡めて、俺の肛門になすりつけると、チョコ兵衛は怒張したチョモランマをぐいぐいと俺の中に押し込んで来た。

 「痛い!痛い!」

ケツの中に漂白剤をぶち込まれた気分だ。涙が溢れてくる。だけどチョコ兵衛は片目を失ってまで頑張ってくれているんだ。ここで踏ん張らないで、どうすると言うのだ「俺!」

ピストンを続ける内に、再び出血の始まったチョコ兵衛は貧血で気絶しそうになった。俺は彼の肩の逞しい筋肉に噛み付いた。

「起きてくれチョコ兵衛。」

ボロ差し歯をグラグラにして、力一杯に噛み締めていた

「パパさん、ありがとう。」

意識を取り戻した、瀕死のチョコ兵衛の、男らしい感謝の気持ちを俺は体中で受け止めていた。そりゃ痛いさ、痛くて堪らない。だけど俺達、お互いがお互いの気持ちを慈しみ合っている。これぞ心の・魂の性技、柳生活人姦に違いないのだ。

「パパさん、往く。往く。」

チョコ兵衛が喘ぎだした。

「今だ、真空膣外射精!(膣ではない)」

社長が叫んでいる。柳生劣情、彼こそは正真正銘のファックの鬼だ。

チョコ兵衛のうまい棒が、俺のお尻からずり抜けた。俺は目の前で揺れているそれを、両の掌でハッシと挟み止めた。

「おお、神技・真剣まら刃取り。」

劣情が叫んだ次の瞬間、俺はチョコ兵衛の迸る白濁液を、一滴残さず顔面で受け止めていた。アクションが終わった後、俺も息子もチョコ兵衛も、疲れ果ててそのままぐっすりと眠ってしまった。



目覚めると事務所には、俺達親子だけが残っていた。柳生軍団はあの状態で、次の撮影に出かけたとでも言うのか?脇机の上に置き手紙があった、読んでみると。

「パパさん、今日は大変な撮影をこなして頂き、誠にありがとう御座います。チョコ兵衛の慢心を諌めることができ、父としてこれ以上の喜びはありません。御礼の金子を宜しくお納めいただきますよう、切に願います。あなたがた親子に幸多き事を、心より望んでおります。柳生劣情 拝。」

いつの間にか換えられていた、清潔なシーツと枕の間に、札束でふくれた、長封筒が差し込んであった。

「100万円ある!」

俺は泣いた、お尻が痛かったからじゃない。誰かの頑張りが誰かを幸せにする、永劫回帰の幸せリング。こんな俺にも、出来る事があったのだ。

「カサカサ。」

お金を抜き取った後の封筒を逆さまにすると、チリチリにカールしたヘアーが数本落ちてきた。これぞマニア垂涎のDNA「柳生一族の陰毛」に相違ない。家宝にせねばなるまい。

「パパさん、パパさん。」

おお息子よ、大五郎よ、初めて呼んでくれたね。



エピローグ

劣情氏はお金以外にも、新宿の男性専科ソープ「冥府魔道」への紹介状と、さらに男娼として生きていく上でのマストアイテム、「柳生武ゲイ帳」をも用意してくれていた。さっそく、店を訪ねた俺は、ゲイ法指南役=柳生一族の絶大なる威光のおかげで、無事就職する事ができた。源氏名はオガミIKKOに決定。この時から俺の風俗アイドル(フードル)としてのサクセスストーリーが始まった。

俺たちの出演した例のビデオは、異様なカルトムービーとして、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭でレッドメロン賞を受賞し、世界中のホラー映画通の知る所となった。片目を潰された、血染めのゾンビが、華奢な初老の男を犯す。二人の間に挟まって、何やらモザイクで隠された小柄な生命体が蠢いている。このショッキング映像が、専門家の間でフォースカインド(宇宙人との第四種接近遭遇)のドキュメントではないかと噂される様になっていたのだ。あのビデオの男優が店に出ている!と、ネット上で話題沸騰。恐いもの見たさのゲストが殺到して、俺の予約は、2年先までブッキングされていた。

武ゲイ帳を、隅から隅まで暗記した俺は、柳生新カマ流の師範となり、神レベルの性技でお客様を昇天させていた。さらに、グレイ型宇宙人の着ぐるみを着て、未来的なベビーカーに乗った息子が、絶妙のタイミングで発射するバイブミサイル「胴たぬき」は、お客様を狂喜乱舞させ、半端ないリピーター率を産み出す原動力となっていた。

そんな中、どこで噂を聞いてきたのか、嫁が俺たちの元へ帰ってきた。ダイブ苦労したらしい、体のいたるところにアザがあった。俺はそんな嫁を無条件に受け入れてやった。大五郎も本物のオッパイが吸えて嬉しそうだったが、そこには別れた男の名前のタトゥーが刻まれていた・・・まあ、いいか。

俺たちは、ファミリーの誰もが風俗を気軽に楽しめる、家族姦割引と言うオプションを始めたのだが、これがまた大ヒットし、一躍、スマホのCMにも出演するほどの人気者になっていた。今年の夏は家族で、24時間テレビのチャリティーマラソンを走る事も決まっている。

人の世は、重き荷を負うて、長い坂道を歩くが如し。辛い事、悲しい事、数え上げればキリがない。だけど俺たち、苦難に(負けないで)立ち向かうことを誓い合った。さあ、サクラ吹雪の(サライ)の空をめざし、ベビーカーを押しながら登っていこうよ、この栄光の春の坂道を。


ある天使の思ひ出に・・・



参考文献
■柳生武芸帳          五味康祐
■春の坂道           山岡荘八
■子連れ狼           原作 小池一夫 作画 小島剛夕
■コワーイAV撮影現場の話    村西とおる


テクニカルターム解説

■グレイ型宇宙人                           
 身長は小柄な人間ほどで、頭部は大きく灰色の肌を持つ。その顔は大きな黒い目(細く釣りあがった目というものも多い)に、鼻の穴と小さな口が特徴。河童などの妖怪も実はグレイではないかと言われている。

■ゆうばり国際ファンタスティック映画祭
 1990年より北海道タ張市で誕生したゆうばり国際ファンタスティック映画祭(ゆうばりファンタ)は、特別招待作品、国際コンペティション、オマージュ上映、特別企画など、ハリウッド大作から邦画、インディーズ作品まで幅広く上映作品が集められ、 秋の東京国際映画祭と並んで映画界の春のお祭りとして、日本国内でも有数の歴史ある映画祭のひとつになった。  ※レッドメロン賞は私の作ったフェイク。      


OMMADAWN

  もとこ

私は座っている。なぜなら私が、座っている自分自身の姿を心に思い描いているからだ。同様の理由で世界には雨が降り続いている。冷たい雨だ。人がその中に立てば数分で息絶えるほど無慈悲な雨だ。いつから降り始めていつまで降り続くのか。それは私の仕事ではないから分からない。分かりたくもない。ただ、少なくとも私がこの部屋から決して出られないように、この雨も私が世界を認識し続ける間は降り続けることだろう。かつて明日を信じていた子どもは、この薄汚れた鏡の中で飼い殺しの目に遭っている。ある雨の夜、雨垂れの音が永遠に続くことに気付いてしまった時から、私にとって明日という時間は降り続ける雨にすり替えられてしまったのだ。

(呆然とする私を彼らは映画館で観ている)

雨は部屋の中にいる私の身体も、情け容赦なく貫いていく。目に見えず、濡れることもないから普通なら気付かないだろう。そして気付いた時にはすべて手遅れだ。ほとんどの人たちの人生のように。私はたまたま気付いたが、気付いたことに何の意味や価値があるというのか。世界も私もこのまま何ひとつ変わることはない。まるで残酷な数式のように。鼻の奥で何かが焦げる臭いがする。カチャカチャという金属の音が、空耳という結論を先頭に鼓膜を震わせる。

(生まれて来なければ良かったと知るために生まれてきたという結論)

この部屋を訪れる者は滅多にいない。雨は決して止むことがないし、窓の外はガラスに付着しては私を嘲笑いながら流れ落ちる雨粒で歪められ、良く見ることができない。あるいは、すべての存在は最初から歪んでいるのかも知れない。そして窓ガラスだけが誠実なのかも。仮にそうだとしても、吐き出される解答に変わりはない。そんな私に分かることは世界がモノクロームだということくらいだ。この部屋や私自身と同じように。そこまで考えて、私はようやく自分が色彩を失ったことを思い出す。どうせ、またすぐに忘れてしまうだろうが。

(あるはずのない魚の声が聞こえる)

それでも、たまにノックの音がすることがある。雨音に混じった曖昧な音だったり、暴力的なほど大きな音だったりするが、私は決してドアを開けない。かつて私が彼女の部屋を叩き続けた時も、彼女は絶対にドアを開けてはくれなかった。それは正しい判断だったのだと今の私には理解できる。理解できるが、私は彼女を許すことができない。もしも許せたら、どんなに良いだろうか。だが、私にはどうしても手が届かない。それは私と神様との距離よりも遠い。

(視界の隅を鳥が横切っていく)

雨は今日も降り続ける。愛もなく色彩もなく音楽もないこの世界に。この部屋に。中にいる明日を持たない子どもに。私はたまに考えることがある。私のような囚人が世界中には無数にいるのではないかと。いや、この世界には互いの存在を認識することもできない囚人たちしかいないのではないだろうか。そんなことをぼんやりと考えている間にも、雨は私の脳細胞を引き剥がしていく。私は今、何を考えていたのだろう。彼女と一緒にあの家が燃えてしまった時のことか、それとも微妙に揺れ続ける海辺の景色か。雨が降っている。灰色の雨だ。世界に、この部屋に、私自身に降り続いている。この雨は、いつ止むのだろうか。私は待っている。すべてを忘れ果て、上昇と下降の区別もつかなくなり、残酷な平衡状態の中で、それでも私はずっと待っているのだ。決して訪れることのない、あの人を。

(あの人って?)


孤立故の快感

  岸かの子

あの時は雑踏だった
絶えず人の口汚い噂話しと
揉め事の繰り返しとが絶え間なく日が
テレビジョン画面から流れる都会の
交差点の様に
唯一の処女性を保つ精神には
赤いベールの幕がそれらを遮断する為に
自らを覆い匿う
孤立した木の葉を手に取れば
風の匂いが鼻腔へと突き刺さる
自然の香りは都会の雑踏から逃しつつ
時が来れば また現へと誘う
溢れ出る言葉と遊べば思考の渦へ巻き込まれ
人間である事さえも淘汰され
気泡へと変化する
これも生きてきた証ならば
いずれ死んでゆくこの身体さえ
歓喜の産声を誇りに思うだろう
間違いを決して行わなかった亡き母の亡霊の様に
現と未来を交互に生きてゆく
赤いベールを被った私は
交差点の真ん中で立ちすくむのか


棄教。遠足。

  コーリャ

たぶん始めに言葉も行いもあったから、僕たちは踊る。祖母はすこし丸いお腹にたくさんの宝石をつめて死んだ。むしろ僕は悪い宝石のためにお花をささげます。夕空だってきっと、その日は僕らを覆うこともせず、 鳥もカンガルーも厳粛です。地図のここと、人差し指であなたは、僕らを定め、いままでなににも捧げなかった薬指で、私はここ、と鼻の頭をゆび指しました。

右耳のイヤホンからあなたの声。左耳のイヤホンからだれかのお腹が凹んでいく音。どちらもわけ切れない。空色の道路。天気雨のトンネル。やがて僕ら朝霧に溶けて。空の姿見で化粧する海。あるいは望まれない浅い朝。すべてがガスからできた街。遠く、ガラスの海嘯。がらがらと崩れるみたいに景色はすすむ。暁と夕暮れはべつべつの双生児。そして街!文明を僕に光らせてね。メリーゴーランドの馬賊だ。コンクリートにゆっくり沈没するビル群の橙色。地雷を踏んだら虹色につつまれちゃうんですね。虹が沈殿。夜が自作自演した、ちがう夜。財宝。銀貨を噛み砕く野良犬。NPCな人々。本当にいきているの?神様がインストールされてないのだ。まるで不機嫌にうつむいて、ワン、ツー、ワン、ツー、足踏みして、どこにもいけない、いかない二進法。カーテンのように、祀られる神殿の。

振り返らないやさしさ。怒りをこめない雄々しさ。そして僕たちの諍い。逆しまの季節に語られる言葉は、みんな数学の問題みたいに分からない。 なにもないことが本当にあるなら。それはそれで素敵だから、ポカラの湖のことを最後に語らせてください。コップに水をいれます。(なるべく澄明に)ビー玉を落とします。カタン、と底に落ちたときにする音。それであなたの眠りが始まる。あなたは夢をみている。汀に座るあなたが考えることは、湖なんてそもそもなかったこと。古い光が根絶やしにされたら。それはただの大きな穴ではない、間歇ではない、空虚ですらない、火山湖でもない、精霊なんかいない。あなたしかいない。生きる、あるいは生きてないぼくらしかいない。めのまえの闇。静寂の発音。透明すぎる水。裸足の絶望。花の香りが散華するのをまって。心音が定まるのをまって。あなたはおもむろに棄教した。もうすべてがどうでもよくて、その時はなんでもなかったくせに、なぜかそのことばかり思い出しながら。そして、野原に歩いて帰るとき、あの遠方から、あなたに目配せする風車にむかおうとするとき、そしてあなたが目覚めるとき、言葉があったか、それとも行いがあったか、豪奢な光に瞼をけしかけられるとき、はじめて唇をひらくとき、それはまったく、あなたが贈る、祝詞しだいだ。


ヤングタウン

  debaser



気がつくと、きみはぼくに向かって語り始め
語り始めるとすぐにそれをやめてしまう
それをやめてしまう理由を尋ねると
それをやめてしまう理由はそれのせいだときみは言う
でも本当にそんなことだろうと今このしゅんかんにぼくは思った


ぼくたちは同じ顔をしているのに口々に違うことを言いたがる
同じ写真を見てそこに違うものを見たり
違うカメラマンが撮った二枚の写真に同じものが写ったりする
ぼくの名前がきみの名前だったり
ぼくの父親は母親なのかもわからない
ただ不思議なことに解決の糸口がいつまで経ってもみつからない
それでもきみは書いたり書かなかったり
ぼくは読んだり読まなかったりする
ぼくがああやるあいだにもきみはこうやって
マッチいっぽんかじのもととともに
いつだって用心しているきみの家は燃えている
たとえぼくの家が燃えていないにせよ
どっちみち、ぼくたちの用心はたりていないに違いない


紙に書きとめた嘘も
キッチンでだんなについた嘘も
間違って本当になることも
全部がうみのそこに沈んでいる
うみのそこからやってきたはるという名前の女の子が冬になって
冬になってまっしろな雪になる
まっしろな雪は降り積もってはるになる前に溶けて違う女の子になるのは
来年のはるかどうか
わからないけど来年のはるだったら
はるがはるにならなくてもちょうどいいのに


右に綴じられた本の左にならべられることばは
いつもタッチの差で誰にも届かない
指の先になにかをくっつけても
舌の先をのばしても
ことばのならびをひとつくらい変えても
ことばのならびをまるで変えても
誰にも届こうとしない
そのことの謝罪会見は5分遅れで始まって
ぼくたちはただひたすら
鵜呑みにしてすいません、と繰り返す
カメラのフラッシュが人のかたちの点線をなぞり
そこからはみ出そうとするぼくたちもまた
あらためて、鵜呑みにしてしまう
最後に質問をした女性は
マイクを放り投げ、空中できれいに3回転するマイクが


きみの家とぼくの家は決まって留守だった
呼び鈴はどっちの家にもつけられ
片方を押すと片方が鳴る
その仕組みを考えた人間はもうとっくにいない
それに世の中はその前提がなくともどこまでも便利になるのだろう
きみの上手なピンポンダッシュを見届けて
ぼくはへたくそなチョコレートUSAになる
どこの家にも飼い犬などいないということを
新聞は今ごろになって書いている


月曜日、死んだ人が生き返る魔法を習う

火曜日、どんな女の子もどんな男の子を好きになる魔法を習う

水曜日、永遠に若返らない魔法にかかる

木曜日、永遠に年老いない魔法が解ける

金曜日、死んだ人が生き返る

土曜日、どんな女の子もどんな男の子を好きになる

日曜日、ここはヤングタウン


祝福

  紅月

 
 
小夜のしじまのなかに横たわる
あおい亡霊の指から波は生まれ
響いてゆくうねりと水平のほとりに
たくさんの林檎の樹が連なっている
垂れさがる果実に口づけをする紙魚
もうなにもいわなくていい
お前は燃えてなどいないのだから
(ここにはいないのだから)
霊安室は狭まりと
拡散のつめたい痙攣を繰りかえし
かたくなに眠りつづける亡霊のかたわらで
紙魚が流していくあかい果汁は
水平のまどろみのさなかへ飛びこみ
新たな波紋をうみひろげるのだろう
亡霊は亡霊のため
鏡面のうえに舟を浮かべ
亡霊は亡霊をはこぶ
(お前は燃えてなどいないのだから)
その光景をのぞむほとりの
林檎の樹の枝は複雑に分化し
進化のいただきに眠るあかい果実は
おだやかな波間の霊安室に灯される
蝋燭の火のようにただひとつあかるい





抜け落ちたしろい尾羽根
凍結した路肩に散乱する枯葉
罅割れた獣骨を拾いあつめ
小夜の空へ投げる(湿った、)
罅割れたタイル(冬のアルタイル、)
亀裂から漏れる乾いた羽根が
かがんだ水面の静寂に点る
ささやくような産声が山々を濡らし
そのあたたかさへと差しのべられた恍惚の腕の
指先のひとつひとつが腕となって
指先のひとつひとつが腕となって
どこまでも分化してゆくそれはやがて
ほとりに立ち尽くす林檎の樹氷
(お前は燃えてなどいないのだから)
波のみぎわには誰もいない
誰もいないことを告げる誰もが
亡霊と呼ばれ透き通ってゆく
乱立する氷晶、





亡霊が亡霊をはこぶ
ほとりの葬列のさなかで
母が波間へと投げいれたあおい彼岸花は
影を落とす霊安室のなかで狭まり
または拡散しいつまでも反響する
もうなにもいわなくていい
ながく滴る小夜の白昼に
投げこまれたあおい波がうねり
いただきの恍惚を食らう紙魚の
垂れながすあかい果汁がうねり
あわいの紫雲に隠蔽されるようにして
ふかく眠りつづける亡霊の系譜
ここにはいないのだから
充ちてゆく腕は指をひろげ
小舟を葉脈の流れに浮かべる
枝分かれする林檎の樹々の群れ(零下の、)
幹に記された御名を呑む紙魚から
漏れる末梢のしじまの糸をたどり
葬列に新たな亡霊がくわわってゆく
母のながいまどろみの底で
ながいまどろみの底で


 


結婚、とかなんとか

  

 目の前にした風景にはどこまで行っても途切れることのないような海が広がっている、無論水平線によってそれは切り取られているのだが、その切り取り線が余計に永遠と言う観念を頭の中に固定させる。視線を落とすと、砂という言葉の持つ粒子的なイメージがほとんど取り去られた絹のように柔らか気な砂浜が無造作にへこんだり隆起したりして広がっている。
 少しの間――とはいえ時間の感覚などほとんど無いに等しいのだが――が経っただろうか、まるで表情を変えようとしないこの風景を眺めながら男は風が吹いていない事に気付いた、描かれた静物画のような風景にただただ圧倒されながら無意識に右手で額を掻いて下ろすと、丁度腰辺りの高さだろうか、何かにぶつかる、反射的に顔をそちらに向けると、長い黒色の髪の女の子の頭の上に彼の手が置かれていることが判る。
「動きが無くて戸惑っている、そうでしょ?」
「ああ」
 考えていることを読まれたのだろうか、彼は少しく動揺しながら視線をまたもとの方へ戻す、すると砂浜が所々微かに揺れているのがわかる。その砂の揺れの中から、幾つもの光る目が覗いている、赤く、それこそルビーのように煌びやかに。ああこれは、と男は思った、蟹だ、砂の中に隠れていたその生き物の赤い体が砂浜に斑点のように現れる。この時はじめて、砂のその粒子的な特徴も目に入り、視線を上げると、先ほどまではどこまで行っても青いだけだった海に段々に切れ目が走りその頂点が白んでいる。風景が流動を始める。幾らかほっとして、女の子の頭に置かれた右手の感触を確かめようとすると、そこにはただ虚しく空を掴む感触があるばかりだ。
 また、男は額を滴る汗の感触を確認する、これによってそれまで知覚できなかった時間の感触が幾分か現実味を帯びて彼に迫る。焦り、というものを感じていたのだろうか、彼は時間を取り戻してすぐに、額に滴る汗をぬぐうために、そしていつの間にか煌めきはじめた太陽の焦がすような視線から逃れるために、左手を顔に翳す、拭った汗は確かに湿度を帯びて彼に身体の内部もその活動を止めていないことを知らせる。左手を無為に下ろした、再び、腰のあたりだろうか、今度は短かい黒髪の男の子の頭と左手とが柔らかに接触する。
「ここはどこだい?」
「ここはえいえん、そして、こどく、なんてね」
「どういうこと?」
「振り向けばわかるよ」
 今度は、彼は躊躇なく振り向く、そこに広がっているのは先ほどまで目にしていたものとまるで同じ光景だ、太陽までもが。知らぬ間に離してしまった男の子の所在が気になり、視線を落とすとそこにはまたしても男の子の姿は無かった。脚元ではどうやら蟹らしい赤い斑点が体にまとわりつく砂粒を振り解きながら横歩きを始める。
 もう一度振り返る、そしてもう一度、何度か繰り返しただろうか、二つの太陽が網膜の底で重なり合い、波打つ海が四方八方から彼を責め立てるような感慨を呼び起こすのだが、それもいつの間にか慣れてしまった、砂浜では赤く煌めく瞳が無造作に入り乱れている、彼は星空の下でいつだか狂ったように回転してみた時のことを思った。いつだか? それはいつのことだろうか。
 37回目の回転を止めた時、ゆっくりと彼の身体は砂浜に墜落する、はずだったんだけど、しなやかな女のにの腕が彼の腰と首を支えている、しどけなくたわみ落ちる彼の右手と右足、眩い太陽に照らされながら、どうにも不細工なピエタが完成する。女は緩やかに唇を彼の口元に近づける、彼は目を閉じながらも、このロマンスの成就を祈る。

 
 目覚まし時計は本当に鳴っているのだろうか? 予め自分の目を覚まさせるために指し示した7の数字から約2時間、時針が動き続けたことは未だぼんやりとした視界からでも容易に確認することができた。とにかく美里に電話をしなければならない、床に脱ぎ捨てられたままの背広のポケットから携帯を取り出して、発信履歴にずらりと並んだ高木美里という名前をまだ完全には目覚めていない視線で確認して電話をかけた。
「いつもごめんね」
「いえ、部長にはいつもの通り言っておきます」
 美里は丁寧に「失礼します」と告げて電話を切った、つーつー、と耳の中に無機質に鳴り続ける音をぼうっとしながらしばし聞き呆けた。彼女のことだから電話の向こうでも頭を下げているのだろうか、いつの間にか米からパンに変わった朝食を取りながら、ふと気になり寝室に戻って枕に手を当ててみた、もちろん濡れてなどいない。今年の冬の寒さも緩み、開け放しているテラスに続く大窓から、こぞって小学校の朝礼集会にでも出かけるのだろうか、子供たちの甲高い声が静かな居間の中にも響き渡る。子供は嫌いだった、大股で窓の傍まで歩みより思いっきり窓を閉めた、ややもすれば石でも投げつけてしまうほどの動揺を抑え込むように、拳を握りしめて窓の横の壁に自分でも驚くほど激しくそれを叩きつけた、痛みは感じなかった、事実その衝突の激しさに気付いたのはシャツを着る時に確認した手の甲に滲む血の赤さ故で。
 美里とは外で待ち合わせをした、彼女が外回り用の書類を持ってきてくれるのはいつものことだった。会社には居辛かった。
「ごめんね、いつも」
「ちょっとだけ、うんざりしてますよ」
 彼女らしくない台詞だったけれども、彼女が同時にうかべたはにかみが全てを説明しているように思えた。あまり口数の多くない二人はそれきり無言で車に乗り込む。車内でもずっと俯いたまま、流れ過ぎる景色の数々を眺めていた、彼女が時折交差点の赤信号の合間に自分のことをちらりと見ていることには気がついていたけれども。
 真っ暗な画面にぼんやりと浮かび上がるプログラミング言語を前に、狼狽した。これを書いたのが以前の自分だなんてことが信じられないほどだった。結局美里に予め要因の分かっていたのだろう、デバッグを任せて、自分はそれをぼんやりと見つめていた。彼女が自分の直属の部下であることを有難く感じた。彼女は当時のままおどおどした態度は変わらずとも、おそらく技術の伝達には成功したのであろうか、随分と頼れる存在になってくれた。彼女の指導役を始めて一年と半年、ここ三カ月の間に彼女の私に対する態度は驚くほど変わった、ただいきなり親密になったとか、疎遠になったとか、そういうことではなく、彼女は私に対して色々な態度を取り始めた、初めて出来た赤ん坊の対処にどんな母親でも最初は戸惑うかのように。陽が傾きかけていた、上司に業務連絡を送った。
 家でカップラーメンを食べ続けるのにはやはり限界がある、最近一カ月はよく彼女を誘って仕事帰りに蕎麦を食べに行った。しかし、これも最初に誘ったのは意外にも美里の方だった。いつもなら私の蕎麦をすする音だけが響く時間、彼女はとても静かに食べる。
「仕事、出来るようになったね」
「ありがとうございます」
 少々どもりながら答える彼女に少し愛情のようなものを感じたことが私をちょっと動揺させた、その動揺が私を少しだけ自暴自棄にさせたのだろうか。
「美里は彼氏とかいるの?」
 彼女の箸の動きが止まった。
「いませんよ」
 そう答えた彼女に何か決然としたものを感じたけれども、私は気付かないふりをして言ってみた。
「それなら立候補しようかな」
 まるで小説に時折書かれるみたいに彼女の瞳が見開いた、私をじっと見据えて、そして彼女の瞳が一瞬潤んだのを見逃さなかった。私は彼女の心を支配して楽しんでいるのではなかろうか、そんな罪悪感もいまの私には何の効力も無いらしい。
「山村さん…」
 それきり彼女は黙ってしまった。もう夜がそこまで迫ってきていた。私は彼女をアパートまで送って、部屋に戻る彼女をいつも通り見送ろうとしてエンジンを切ったが、彼女は何時まで経っても助手席から離れようとしなかった。
「明日、朝七時に電話します」
 彼女は自分でも思い切ったことを言ってしまったという表情を浮かべながら私を見つめていた。
「ありがとう。だけどわたしも、一応男ですから、そんな甘ったれたことはしてもらえないよ」
 そう言うと、彼女は誰もいない空間に向け少しだけ顎をあげて瞼をゆっくりと結んだ、これが彼女にとっての喜びのしるしだということは一年半の付き合いの中でなんとなく分かっていた。


 目覚めた時に目に映ったのは柔らかな光のシャワー。身を起こすと室の真ん中に設えられたベッドに今まで寝かされていたことに気付く、木でできた部屋、しかし彼はすぐに部屋というよりもむしろ宮殿の中にいるような印象を受け取る、天井には更紗のようなものが穏やかな風にくすぐられて二つの太陽の光をその繊維の表面で踊らせている。彼は眠りに落ちる前に抱かれた女の柔らかいにの腕の感触をもう一度確かめたいかのように両腕で目の前の空気を抱きしめてみせる。すると、四隅にある柱の一つが動いたような気がして、すぐに両腕をほどく、今、太陽は一つしか出ていないのだろうか、動いたのは柱では無く柱の影であることに気付き、さらにその影が軽やかな足取りで自らに近づいていることを確認しながら、その正体はきっと眠りにおちる前に彼を抱きとめた女であろう、と思って少しく後ろめたい気持ちを催したが、すました顔を崩さぬまま迷いのない視線で彼女を見据える。光の加減で足元から緩やかに彼女の身体が現れてゆく、丈は長いが軽そうな素材で出来た黒いスカートの裾が小さく揺れるのに合わせて、肩甲骨まですらりと伸びた黒髪がしなやかに左右している、あの時の女の子に少し似ているような気がする、黒いドレスに身を包んだ身体は自然にすらりと痩せて見える。彼女は穏やかに微笑んでいた、両の手で水の入ったガラスのコップを支えながら、彼がまだ眠っているかどうかを少しだけ顔を傾けて確認しようとしている。宮殿のように設えられたこの室に一条の風が迷い込んで四つある入口にかけられた透明質の布のうちの一つを揺らした、逃げ道を見つけ出したようだ、残りの三つの入口の布が微妙なカーブを描きつつ室の外側に一瞬膨れ上がって、すぐに元通りになった、彼女の視線と彼の視線が重なる。
「喉、渇いていないかしら」
「え、ああ」
 彼は問われると同時に、身体の渇きを感じた、室の外を見やると、やはり砂浜と番った海がどこまでも広がっていて、そこに埋め込まれたようなルビーが太陽からの光を蓄えながら辺り一面に放射している。もう一度女に視線を送る、彼はどこかで見たような気がしたがそれが誰なのかは思い出せない。
「ありがとう」
 そう言って、女の両手からコップが彼の右手に渡る、その際、中の水が少しだけ揺れた。飲み干すとそれは紛れもなく真水であり、彼はこの水がどこから得られるのかという疑問を抱いたが、この砂浜だけの島にそのような疑問を持ちこむようなことはどこか野暮な気がして、何か別の話題を探す。
「子供が、いるのですか?」
「ええ、私の子よ。多分今頃は砂浜で遊んでいるんじゃないかしら」
 視線を反対側に移すと、そこにはあの時の二人の子供が砂浜で屈みあって何やら砂の表面を見つめている。
「もしよろしければ一緒に遊んであげて下さらない?」
「ええ、喜んで」
 彼はベッドから軽く身を躍らせて、砂浜までゆったりと歩いて行く。子供たちは何をしていたのだろうか、と言う疑問は彼らが蟹を中心にして屈んでいることから、すぐに氷解した。
「この赤い生き物の名前は知ってる?」
「知らない。」
 二人は声を揃えて喋った、嬉々とした表情が顔いっぱいに咲いている。彼は「かに」のことを子供たちに教えながら、それが何故ルビーに見えるのかをどうやって説明したらいいのか少々戸惑っていた。
「お好きなんですね、子供が」
「ええ」
 ふと視線をあげると先ほどの女性が日差しに手を翳しながら彼らの方を見つめていた。
「この子がお姉さんで、この子が弟なのよ。あなたにちょっと似ていると思わない?」
 不意の問いに彼は言葉に詰まってしまう、話の途中で突然立ち上がった彼に対して不服を言い表すかのように、二人の子供は彼のズボンを引っ張っている、けれども聞こえる声はとても幸せそうだ。
「私に似ていますか?」
 彼はそう呟いたきり、あたりに散らばるルビーの煌めきのあまりの眩しさの中に自らが永遠に閉じ込められてしまうような錯覚に陥る。


 目覚まし時計は三十秒ほどけたたましい断末魔を上げて、沈黙した。時針はきっちり7の数字を指し示していた。妙な悪戯心が沸いたのだろうか、朝食のパンを取りながら、美里に電話をした、とはいえワンコールで切ったので彼女と話すことは無かったけれども。
 出社した途端、同僚たちが何か驚いたような、労わるような視線を私に投げかけてくる、その中で我知らずと美里の姿を探していた。目が合うと彼女はさっと視線を落としたけれども、彼女が嬉しそうな表情をしていたことは決して見逃さなかった。業務に就く前に、産業医の所によることになっていたので、荷物をデスクに置くとすぐさま足をそちらへ向けた。
「有給休暇はもう残り無いですが、やはり休んだ方がいいのではないでしょうか。」
「会社には迷惑かけてると思ってます。だけど休みたくないんです。」
 私は三カ月前から心療内科にかかっていた、軽い鬱と睡眠障害。そのままデスクに戻ると背広のポケットから煙草を取り出して喫煙室に向かった。同僚は私のこの行為に驚きを感じているかもしれない、というのも私は一年前に煙草をやめたのだった。幸運にも喫煙室には誰もおらず、部屋の真ん中にある灰皿の周りに置かれたパイプ椅子の一つに腰掛けて一年ぶりの煙草に火をつけた。
 知らずと、涙が頬を伝った。一年前の妻との会話がありありと目の前に浮かんでくる。まるで子供のように、嬉しそうに、一年前のその日、私は妻に煙草をやめることを宣言した。「生まれる子供のためにね」と嬉々として私は言ったのだった。「最初の子は女の子がいいね、その次は男の子が欲しいかな」そんな私の無邪気な台詞が今になって痛いほどに自分を絞めつける。白い煙を吐き出しながら、妻がどれほどその言葉に縛りつけられてしまったかを、想像しようとしてみては、それを拒絶するように、眼下に横たわる底の見えぬ断崖のイメージが私を立ち竦ませる、決して、向こう側に行くことなんてできない。四カ月前に、妻は、長女と、子宮を、摘出された。私は、有給休暇を使い果たして毎日病院に通った。けれども退院後、妻は二人の家ではなく、実家で養生することを決めた。「ごめんなさい」妻は私に対してそれしか言わなかった、言えなくなっていた。妻の両親は、実の子のように私に接してくれた、けれども毎日のように見舞いに来ようとする私に、「今はあなたが来ても逆効果だから」と言って、門を閉めた。妻は自殺した。私に宛てた遺書には「ごめんなさい。」で締めくくられた二人の愛の記憶が綴られて、彼女の誕生石のルビーが嵌められた結婚指輪が入っていた。
 喫煙所のドアが開いて、そこには美里がいつもの調子で頼りなく佇んでいた。外回り用の書類を持っているのでおそらく私を呼びに来たのだろうか、だが視線は床の方を見ている、私は涙を裾で拭いながら、美里には私がここで何を思っていたのかわかっているのだろうな、と感じた、美里は涙を拭う私の方は決して見ないようにただただ下を向いていた。
 車内ではいつものように黙っていたが、来年度の配置換えのことを思い出した。もともとは一人でやる仕事だから、指導役もおそらく今年度で終わりだった。
「一年と半年、ありがとうね」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございます」
 そう言うと二人とも黙ってしまった。車窓にゆっくりと白い雪が、風に揺られるようにして落ちて、とけた。そういえば今年一番の冷え込みが、とテレビでやっていた。
「いや、そうじゃなくて、本当にありがとうね」
「いえ…もう大丈夫ですか…ごめんなさい、大丈夫だなんて…」
「大丈夫だよ。ありがとう」
 彼女の言葉を遮るように、私は言葉を吐き出した。隣にいる彼女の様子を窺うことは敢えてしなかった。ただ「大丈夫」という言葉が頭の中でずっと回っていた、視線の先では降り始めた雪が次から次へとアスファルトに突撃して、次から次へととけていった。不思議なことに、妻が死んでから妻の夢を見たことは無かった、今日、一日が終わったら、ベッドに横たわり、たくさん妻の夢を見たい、そう思った。




「もしもし敦子?元気してた?」
「どうしたの、あんた突然」
「あたしゃもう二月は冬だと諦めることにしました。外見てる?雪降ってるでしょう?
 二月になるとさ、気候もあったかくなって、もうすぐ春だなぁ、って思ったりするん
 だけど、やっぱり二月は冬だね。突然雪が降るんだもん」
「はいはい、春は遠いね」
「うん、春は遠いよ」


しがらみ

  19

 絆と書かれた壁面を見るにズタズタのボロ切れを思い、かえってその使い込まれた経緯が赤い塗料に十二分に滲み出ているのだろうかと訝る。
 通例決して見る事の出来ない言葉だ。屋外野ざらしの壁面上には。目にする内のありふれた大半は自己顕示というか、まあマーキングであり、あるいはアート、いずれにしても自らの成功を固く期するところの、自分を恃む地点からの意思の発露であり、ソレを直接的に描いた筆は覚えている限りはそう多くない。これもよくある相合傘や交際記録の類については、思いのままに並べられるのが常であり、今見る絆の一字のような、訴え掛ける風情は刻まれていない。
 ここまで考えを巡らせた事による人情、あるいは義理として、「どのような人物がこれをここに描いたのだろう」と考え掛けて、止める。すぐに遮断されるのだ。これが俺流、などとふざけて自嘲してみるも、他者を想像しない事を自分が自分に課している事は事実であるし、それを作法として遵守してきているのも事実だったりする。大げさに世界に対する作法と称しても、表現上滑稽なだけで当人にとっては誇張でも何でもない程に重々しく、原理的ともいえる程比重の置かれたこの姿勢、が、外なる外界への圧倒的な恐怖の念、の向こう側にある世界との数少ない接点となっているのだ。壁の上の一字を踏まえて言うなら、我が「世界との絆」になっているのだ。
 一期一会、縁また縁の時間軸上に見える誉れに浴した事により、絆の一字は目の前に悲鳴を上げる。怪鳥の鳴くような異質な主張がスプレー殴り書きの赤いフォルムから放たれて、「ほう」と応えるのが礼儀であるかと思わせる。

 AはBと話をしていた。アイドルグループの絆の固さについてのものだった。その結束は、Aを興奮させるものだった。AはテレビやライブVの映像からその絆に接していた。円陣を組むという事の効果と意味を、「トーク」の多層が「絆」の深層に届く希有なる瞬間とそれを可能にする場と舞台とを、AとBは暑く語らっていた。実際暑かった。室温は三十九度だった。うだるような暑さにAの頬から滴が滴り、顎に伝って胡坐をかいた畳に落ちた。共にうだり、共に語勢はうわごとに近く、Aの目は興奮に血走っていたので滴はあるいは涙でも良かったのだが、面と向かうBとしては「『コレ』が涙は無いな。汗の方が良いな」と、Aではなく、染みを作った滴自体を見て思う。


 そうして口角泡を飛ばす。


 白鳥は水面の下で足をばたつかせているというが、壁の「絆」は何を負っているのだろう。
 人間味のあるなしを描き分ける困難を、壁が和らげている。
 絆と書かれた落書きが鳴いているように見え、「ほう」と応えた。と、一行で片付けるのも吝かでない。
 それがアイドルグループの組んだ円陣なら、話は違ってくるのだろうが、
 そんなものはテレビでしか拝む事は出来ない。


 収拾がつかない。
 けれどもそれも、アイドルグループの円陣について終わりの無い長談義するのとはまた違うように思った。


星を食べる

  ズー




十一月のなかは
雪のよに降り積もる人だった
手を繋いで、繋いで、
それでもさしだした
朝や、夜を
ずっと奥へ
奥へとならべていく
ちぎれはじめた日陰を
乾いた猫のにおいと
そうして沈みこんだ雪を
蹴り飛ばしたら
飛び散ったら
手を繋ぐよに
降り積もる人のために


あれから

  山人

もう十年もタバコを吸っていない。
健康のためだったか、タバコを吸う自分との決別であったか、確かそんな理由だった。
今ではタバコも高価な代物となり、止めて良かったんだ、そう思うようにしている。
 エアーギターならぬ、エアータバコをしてみようと外に出る。
散歩は良くする。犬がいるからだが、でも犬は連れて行きたくない。
夕焼けはたしかに美しかった。
これから生まれ変わることができるなら、犬は連れて行かない、そう考えることにした。
 県道の脇には、本来初夏に花をつける雑草が花をつけている。もう、本格的な秋が来るというのに。
その草たちは、初夏の頃、一度刈られ、苦い汁をこぼし車道の横にしなだれた。そしてまた二度目の花をつけようとしている。洋々と秋の風を浴び、草はみずみずしい体に露をたくわえ揺れている。
 あるはずもない、胸ポケットに手をやる。懐かしいセブンスターズのパッケージを取り出し、銀色の帯を解き、香り立つ乾燥葉の甘い匂いと真新しい巻紙の匂いをかぐ。
ゆらゆら揺れる透明な百円ライターの液体燃料が秋の風景を灯す。
呼吸を止め、口の中に息を吸引しながらライターの火をつける。七割の煙をそのまま吐き出し、残りの三割を静かに慎重に肺に送る。
 たしか、タバコを止めたのは二〇〇二年五月二十三日・・・だった。
一度目の煙を吐き出すとその年の事柄を思い出していた。二度目の煙はその次の年のこと、三度目、四度目、久しく吸っていなかった薬物が体内に注入され、顔面が蒼白になるとともに、あらゆる内臓がすべて呼気とともに外に押し出され、ただの薄い皮と空間だけの体になってしまったようだ。
 オニヤンマはしきりに周りをホバリングし、ジジジジッと顔の前で一旦静止し、顔色をうかがうと、すぐさまびゅるりと向きを変え、茜の向こうへと立ち上がっていった。
 夕刻に散歩に出たのだが、日が翳り、闇が訪れるのはすごく早くなった。
フィルター近くまでタバコを吸うと、アスファルトの白線の外側に捨て、サンダルで擦りつけながら踏み潰した。昔は普通にタバコを捨てて踏み潰していた。今はゴミ一つ捨てたりはしない。
ありもしない残像を踏み潰したのだからゴミにはならない。
すると、川の音がし、そこにカワガラスの単発的な声が混ざり、いつしか、草も、草を取り巻く空間と静けさも、すべてが一緒くたに僕の体に再び内臓のように分け入ってくる。
ヤニのついた黄色いはずの指は白く、胸ポケットは失せ、口の中のタールの匂いはなくなっていた。
 もしかすると、あの時にタバコをやめていなかったらどうなっていたんだろう。健康を害し死んでいただろうか。でも、僕はあの時、タバコを吸う自分との決別をし、まるで勢いのなくなったこの秋の夕闇の風のようにもう一つの自分を失ってしまったのかもしれない。
ふと、ポケットから人差し指と中指を暗くなった闇にかかげてみた。

文学極道

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