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2020年03月分

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* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一七年十二月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年十二月一日 「みかんの皮」

こんな時間にどうしたの
そう訊くと彼は
考え事をしていて出てきたんです
こんな時間まで起きて何を考えてたの
ってさらに訊くと彼は
数学です
へえ
きみって学生なの
ええ
京大?
はい
ふうん
発展場として有名な葵橋の下で
冬だったのかな
正確な季節はわかんないけど
朝の5時ころに
河川敷に腰を下ろして川の水を眺めている青年がいた
ふつうの体型だったけれど
素朴な感じの男の子で
ぼくはその日は夜の12時頃から
てきとうにメイクラブできそうな相手をさがして
ぶらぶらしてたんだけど
タイプがいなかった
少し明るくなってきた
朝の5時ころに
ぽつんとひざを折って坐ってる青年の姿を見つけて
近づいていったんだけれど
彼はべつに警戒するわけでもなく
またゲイでもなかったみたいで
ほんとに数学の問題を考えてて
部屋を出てきたみたいだった
ぼくは彼の指先を見て
きみ
みかん食べてたやろ
というと
なんでわかるんですか
って返事
ぼくは
その男の子の手の先を指差して
黄色くなってるからね
っていった
そういえば
ゲイスナックで
むかし
隣に坐ってたひとに
あなたの仕事って印刷関係でしょう?
っていって
びっくりさせたことがある
あたってたのだ
指の先に
黒いインクがちょこっとついてたから
ぼくの指先にもいろんなものがついてた
灰色の合計
猛烈煙ダッシュ
ストロボ・ボックスに
ハトロン紙のような
ミルク・キャラメルの包み紙
別れ際の言葉を忘れてしまった
さよならだったのかな

二〇一七年十二月二日 「トマス・ケイン博士」

きのう、というか、今朝、夢を見た。メモしたのだけれど、メルヘンじみたものだった。SFの要素もある。きょうは、もうヨッパなので、あしたにでも書く。日知庵で考えていたのだが、矛盾がボロボロ出てくるような夢だった。まあ、夢って。そういうものなのだろうけれど。

あるジェル状の物質をくっつけると、それが硬まるにつれて結合しようという働きが生じることをトマス・ケイン博士が発見した。どんなに離れていても結合しようとするのだ。製品化した商品を、ある少年が両親の寝巻のまえにくっつけた。前日に両親が別れ話をしているのをこぼれ聞いてしまったのだった。

二〇一七年十二月三日 「一角獣・多角獣」

きょうから、寝るまえの読書は、シオドア・スタージョン異色作家短篇集の第3巻、『一角獣・多角獣』。ぼくの大好きな作家だけれど、これ、おもしろかったかどうかは、記憶にない。どだろ。読みながら寝るけど。おやすみ。

夢を見た。若いぼくが自衛隊のようなところで試験を受けてた。原爆を使ってもいいかという書き込み欄に、よいと答えた。ぼくに話しかけてくる青年たちは、みな日本語を話していた。冗談のつもりで、ぼくの用紙を奪うヤツがいて喧嘩になったが、現実とは違って、夢のなかのぼくは引き下がらなかった。

二〇一七年十二月四日 「うつの薬の処方はなしに」

パパの頭に火をつけて
ひと吸い
きょうのパパは
あまりおいしくなかった
ぼくの健康状態が悪いのかもしれない
パパの頭を灰皿に圧しつける
パパの頭だけがぽろりとはずれる
思い出したことがあるので
本棚からママを取り出して
開いて見た
ママのにおいがする
顔を近づけた
やっぱりママのにおいが好きだ
ママを本棚に戻すと
灰皿のなかからパパを取り上げて
もう一度
パパに火をつける
どうしてまずいと思ったんだろう
パパの首の先から
ホー
 ホケキョ

きょうは神経科の病院に
うつの薬の処方はなしに
先生がぼくの言うとおりのぼくだと思っているということが
ぼくには怖い
そんなにはやく
うつって治るのかどうか
大丈夫でしょうということだけど
ほんまかいな
と思った

二〇一七年十二月五日 「ミクシィ・ニュースで知った。」

ミクシィ・ニュースで知った。
なぜ子どもも苦しまなければならないのですか
という7歳の女の子の質問に、
法王が、「わたしも、なぜだかは知りません。
でも、その苦痛は無意味なものではありません。」と答えたらしい。
7歳の女の子にわかるかどうかわからないけれど。
なんだか、涙がにじんでしまった。

これから五条大宮の公園に行って、
ロレンスの全詩集のつづきを読んでくるね。
休日の公園の風景に、
初老の詩人が詩を読む風景をつけ加えてあげよう。
こうやって毎週のように、ぼくが風景になってあげると、
公園も喜んでくれるかなあ。
家族連れの賑やかな声とか
犬の散歩にきてる人の優しさに混じって。

二〇一七年十二月六日 「ポール・マッカートニー」

ポール・マッカートニーが好き過ぎて、聴き過ぎて、CDをほとんどぜんぶブックオフに売っぱらっちゃったことがあって、買い直しをしてるんだけど、CDとしていまいちなのが高過ぎて買うのがためらわれるものがある。ブロードウェイのことなんだけどね。なんで、高いのか、よくわからん。というか、ポール・マッカートニーのCDは、ビートルズくらいにすごいんだから、つねに新譜で売れよって気がする。どだろ。本でたとえるなら、シェイクスピアやゲーテくらいにすごいと思うんだけど。あ、時代を考えたら、エズラ・パウンドやジェイムズ・メリルくらいにすごいんだからって思っているけど、どだろ。

「愛するとは受け取ることの極致である。」(シオドア・スタージョン『一角獣の泉』小笠原豊樹訳)

「ウサギたちはまだ隠れていた。」(シオドア・スタージョン『一角獣の泉』小笠原豊樹訳)

「夢はもう終わりかい?」(シオドア・スタージョン『熊人形』小笠原豊樹訳)

二〇一七年十二月七日 「アインシュタインの言葉」

The man who regards his own life and that of his fellow creatures as meaningless is not merely unfortunate but almost disqualified for life.

自分や他人の命を意味が無いと考える人間は、不幸であるだけでなく、ほぼ生きる資格がない。 (ツイートで拾った言葉)

二〇一七年十二月八日 「奇妙な食べ物。」

珈琲キュウリ
麦トマト
時雨れ豆
窓ぜんざい
睡眠納豆
足蹴り餃子
夢遊病アイス
百年スイカ
ブリキ味噌汁
象コロッケ
絵本うどん
カニ牛乳
鸚鵡ソバ
加齢ライス
文句鍋
砂足汁
嘔吐ミルク
福利ゼンマイ
怪談料理
囀りモヤシ
ゴム飴
鋏茶漬け
針豆腐
朗読ソース
路地胡椒
ラブマヨネーズ
地雷ヤキソバ

二〇一七年十二月九日 「ブリかま」

いま日知庵から帰った。ブリのお造りと、かまあげというんだっけ、ブリの背中から首から上の方を炭火で焼いてくれたものがおいしかった。また、30年ぶりかで、バカルディを飲んだ。めっちゃ、あまくて、おいしかった。わかいときにのんだなあって思い出していた。おいしかったあ。かまあげちゃうわ。ブリかまやわ。あれ、またまた違っちゃったっけ? うううん。料理の名前はむずかしい。

きょうも、スタージョンの短篇集を読んで寝よう。きのう読んだ「熊人形」すごくよい。むかし読んだときもよいと思ったけど。残酷な感じとナイーブな感じがちょうどよい感じでブレンドされてて、まったく記憶にはなかったけれど、読んだら数ページで全内容をすぐさま思い出した。スタージョンの傑作だ。

いま、ユーミンを聴いている。「守ってあげたい。」フトシくんとのカラオケの思い出だ。すべては去りゆく。思い出だけが残る。いや、思い出だけが、ぼくたちのことを思い出すのだ。思い出に思い出されないものは、どこにあるのだろう。それもまたぼくたちといっしょにあるのだろうけど思い出されない。でも、まあ、ふと思い出されることもあるので、どんなくっつきかたをしてるのかはわからないけれど、この身にはなれずくっついているのだろう。忘れていたが思い出されたときに、そんなことを考えたことがあった。名前は忘れた。石垣島出身の青年のことだ。

二〇一七年十二月十日 「カラオケ」

日知庵、それからFくんとカラオケに行って、いま帰った。おいしいお酒と肴のあとに、なつかしい、すばらしい曲の数々。お酒とビートルズはやっぱり人生の基本だと思った。きょうも、スタージョンの短篇を読みながら眠ろう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年十二月十一日 「ちょこんとしたものを書いてみた。」

きれいに顎が冷えている。
コンニャク・ツリー。
指を申し上げてみました。

二〇一七年十二月十二日 「義務と権利。」

ひとの頭をおかしくする義務を果たしたら、自分の頭がおかしくなる権利を持てる。みんな義務も果たしてるし、 権利もぜんぜん無視されていないと思う 。

ひとの読んでる本のページをめくる義務を果たしたら、自分の読んでいる本のページをめくる権利を持てる。みんな義務も果たしてるし、 権利もぜんぜん無視されていないと思う 。

ひとが嫌がることをする義務を果たしたら、自分が嫌がることをする権利を持てる。みんな義務も果たしてるし、 権利もぜんぜん無視されていないと思う 。

ひとを幸せにする義務を果たしたら、 自分が幸せになる権利を持てる。 みんな義務も果たしてるし、 権利もぜんぜん無視されていないと思う 。

ひとを悲しくする義務を果たしたら、自分が悲しくなる権利を持てる。みんな義務も果たしてるし、 権利もぜんぜん無視されていないと思う 。

二〇一七年十二月十三日 「2011年3月27日のメモ」

股間に蝙蝠が棲んでいることを、どうして知っているの?

詩のなかに、流れる川の水について書く前に
流れる川の水が詩のなかで囀り流れていたのだった。

まるで道路自体が殺到するかのように
人々は一つの生き物のようにすばやく足を運んでいるのであった。

壁から〜する人々がにじみ出てきた。
いや、わたしのほうが違う部屋に移動したのであった。

二〇一七年十二月十四日 「いまふと思いついて、メモするのが面倒なので、直接書き込む。」

ぼくが書きつけた言葉について、言葉自体が
ぼくが知っていると思っている以上のことを知っている可能性について
思いを馳せること。

それが明らかになるときに、言葉はぼくのこころの目を開かせたことになる。
あるいは、こう言い直すことができる。それが明らかになったとき、ぼくは
新しいこころの目をもつことができるのだ、と。

新しい耳をもつことと同様に、新しい目をもつことはとても難しいし、
とても貴重な体験だ。その体験を得るために、できるかぎりのことを
しなければならない。「ねばならない」というのは、ぼくがいちばん
嫌いな言葉だけれど。

そして新しい声をもつこと。

詩人の役目って、そのどれもだな、きっと。

新しい耳をもち、新しい目をもち、あたらしい声をもつこと。
言葉自体が聞かせてくれる新しい声、
言葉自体が見せてくれる新しい顔、

言葉自体が語ってくれる新しい言葉のように。

二〇一七年十二月十五日 「途中で読むのをやめた本に挟まっていた日付のあるメモ2つ」

ナボコフの『青白い炎』の詩のパートのページにはさまっていた。
気がつかなかったメモ2枚から

2011年2月17日

精神がつくったものは、精神が簡単に壊せるとワイルドは語っていたが
精神がつくったものは、けっして壊せないものなのだ。なかったものと
することなどできないのだ。たとえ、忘却という無意識レベルの相のもの
に移行したとしても、そのつくられたものの影響は必ず残っており、なに
かがきっかけとなってふたたび精神の目の前に姿をあらすことがあるのだ。
隠れているのではない。精神の目が見ていないだけなのだ。精神の目が
自ら目隠しをしているのだ。無意識に。
 ただ、興味深いことに、精神がつくったものは、けっして同じ姿を
見せることはないのである。つねに変化しているのだ。つねにほかの
意味概念との間に与え合い受け取り合うものがあって変化しているのだ。
すべてのものが自ら変化し他のものを変化させるものなのだから。すべて
のものが他のものを変化させ自ら変化するものなのだから。

2011年2月17日

 たくさんの経験から少ししか学べないときもあるし、少しの経験から
たくさん学ぶときもある。しかし、学ぶ機会を少しでも多く持つために
は、やはり、たくさん読んで、たくさんこころに残すために書きうつし、
文字の形をペンでなぞり、手と目という肉体を通して、ぼくのこころに
刷り込まなければならない。学ぶ才能が乏しいぼくかもしれないから、
繰り返し書きうつすことが必要だ。引用のみによる作品をつくっている
ときには、はげしく書きうつしている。
 たくさんの経験から少ししか学べないひとがいる。少しの経験から
たくさんのことを学ぶひとがいる。前者のタイプに、ぼくがいる。
本からも、会話からも、考えることからも、ぼくは学ぶ能力が乏しい。
これは、ぼくが、ぼくよりはるかに学ぶ能力のある友人を持っている
から言うのだ。後者のタイプに、ジミーちゃんがいる。ぼくより読んだ
本の数は少なく、ぼくより友だちが少なく、ぼくよりひとと会ってしゃ
べる機会が少ないのに、ぼくよりずっとたくさんのことを知っている
し、ぼくよりはるかに深く考えているのだ。
 ぼくはもっともっと学ぶ能力がほしい。

二〇一七年十二月十六日 「日付のあるメモいくつか」

2010年9月23日

その本はまだ自らさまざまな打ち明け話をしようと思っていた。

2010年3月28日

その文章のなかには多くの言葉が溺れていたり首を吊ったり電車のホームから飛び降りたりしていた。

2010年9月23日

夢が夢を夢見ながら

二〇一七年十二月十七日 「日付のないメモ」

違いが勝手に脳に生じさせていたのであろう。これではおかしいか。脳が違いを生じさせていたのではないのだろうと推測されたのでそうつづったのだが、ドラッグのせいで、かすかなふつうなら気づかないなにかがおかしかったのだ違いが脳に生じさせていたのだったなにかがおかしかったのだふつうなら気づかないかすかなドラッグのせいで違いが脳を生じさせていたのだった。ドクターを見つけたとき

二〇一七年十二月十八日 「ケネス・レクスロス」

ジュンク堂で、ケネス・レクスロスの翻訳詩集を買った。そのあと病院の待合室で読んでたんだけど、まだ20ページしか読んでいないけれど、訳がすごくいい。原文がいいからなんだろうけれど、いまんところ、W・C・ウィリアムズにささげた詩がいちばん好きだ。

二〇一七年十二月十九日 「日付のないメモ」

街が降る。
雨のなかに降る。
屋根や階段や
バルコニーや廊下が
音を立てて
雨のなかに降る。

二〇一七年十二月二十日 「あなたがここにいて欲しい」

いま日知庵から帰ってきた。帰り道、頭のなかで、ピンク・フロイドの『あなたがここにいて欲しい』がずっと鳴ってた。そいえば、ぼくの詩は、ずっとイエスの『危機』や『リレイヤー』や、ピンク・フロイドの『原子心母』や『狂気』といったアルバムを参考にしてつくってたから、自然なことだったのだなあと思った。

二〇一七年十二月二十一日 「キモノ・マイ・ハウス」

いま日知庵から帰った。帰り道は、頭のなかで、スパークスの『キモノ・マイ・ハウス』のさいしょの2曲が鳴っていた。

二〇一七年十二月二十二日 「月下の一群」

きょうの晩ご飯は、大谷良太くんちで、チゲ鍋をごちそうになった。とてもおいしかった。ありがとね、良ちゃん。で、日知庵に寄って、帰ってきたら、郵便受けに、笹原玉子さんから、ちょっと早いクリスマスプレゼントをいただいた。『玲瓏』の96号と、『よびごえ』の117号である。『玲瓏』を開くと、すてきなブックマークと、メッセージが。こんばんから夢中になって読める短歌が。もちろん、玉子さんの御作品から賞味いたしますとも、ええ、はい。

きょう、ブックオフで、堀口大學の『月下の一群』を手にして、ぱらぱらとめくりながら、欲しいなあと思った。べつの文庫で持ってるのにね。ぱらぱらめくってたら絵がついていて、これって初版の豪華な詩集で見たのといっしょのものかなって思って、よけいに欲しくなった。あした買いに行こうかな? それって、岩波文庫のやつなんだけどね。ぱらぱらめくっていたら、持ってる文庫には入ってないものもあるのかなって思うくらい、初見に近い感覚で読んだ詩があって、ラディゲとコクトーの詩なんだけど、ぼくの記憶違いかなあ。ぼくの持ってるのは、講談社の文芸文庫のやつ。いま開けたらあったわ、笑。

二〇一七年十二月二十三日 「笹原玉子さんの短歌」

シーツの白さで目が覚める、窓をあけるとからさわぎ、なんと麗(うらら)な間氷期

蒲公英が間氷期を横切つてあなたの朝戸でからさわぎ

しんしんと眠るは故宮、降るはときじく、書物のなかはからさわぎ

(『玲瓏』96号、玲瓏賞受賞第一作、「書物のなかはからさわぎ」より)

笹原玉子さんの短歌のよさのひとつに、「いさぎよさ」があると思うんだけど、これらの作品にも、それが如実にあらわれていると思われる。

二〇一七年十二月二十四日 「笹原玉子さんの短歌」

何うしても春のお歌が書けませんるりらりるれろはるらりるれよ

風に刻んだやうな文字だから娘たち「ビリチスの歌」にみんな手をふる

わたくしはきつと答へます。とびきりの問ひをください玲にして瓏な

(『玲瓏』96号、「玲にして瓏」より) https://pic.twitter.com/vPp9QjMpkH

二〇一七年十二月二十五日 「笹原玉子さんの短歌」

なにもかも浮力のせヰですわたくしが長い手紙をしたためる朝

なにもかも浮力のせヰです半島が朝の手指をつぎつぎ放し

歩幅のゆらぎそのささやかな浮力のせヰであなたは朝を跨いでしまふ

(『よびごえ』117号、「朝露を両手(もろて)にいただくその前に(芝公園にて)」より

二〇一七年十二月二十六日 「岡田ユアンさん」

岡田ユアンさんから詩集『水天のうつろい』を送っていただいた。

「ねむりのとなりで」という詩の冒頭2連を引用してみます。詩集中、もっとも共感した詩句でした。

いましがた
生まれた文字が
寝息をたてている

無数の意味が
選ばれることを心待ちにしながら
とり巻いていることも知らず

二〇一七年十二月二十七日 「福田拓也さん」

福田拓也さんから詩集『倭人伝断片』を送っていただいた。

冒頭収載のタイトル作から引用しよう。奇才だと思う。

前を歩く者の見えないくらい丈高い草の生えた道とも言えぬ道を歩くうちにわたしのちぐはぐな身体は四方八方に伸び広がり丹色の土の広場に出るまでもなくそこに刻まれたいくつかの文身の文様を頼りに、しきりに自分の身体に刻まれた傷、あの出来事の痕跡とも言えぬ痕跡、あるいは四通八通する道のりを想うばかり、編んだ草や茎の間から吹き込む風にわたしの睫毛は微かに揺れ、もう思い出すこともできないあの水面の震え、光と影が草の壁に反射して絶えず揺れ動き、やがてかがよい現われて来るものがある、

(詩篇・冒頭・第一連)

読んだばかりのスタージョンの短篇のさいごの場面が思い出されなくて、自分の記憶力の小ささに驚いた。「孤独の円盤」という有名な作品なのだけれど、数日前に読んだのだけれど、かんじんなさいごの場面、なぜ「孤独な円盤」というタイトルになったのかがわかるところが思い出されなかったのだ。残念。これから、もう一度、「孤独の円盤」のさいごのほうの場面を読み直そう。それにしても、部屋にある小説、ほとんどすべて読んだもので、傑作だと思うものばかり本棚に残してあるのだけれど、短篇はほとんど忘れていることに気がついた。このもろくて不確かな記憶力に自分でも驚いてしまう。超残念。

いま日知庵から帰ってきた。帰り道、雨のなか、頭のなかでは、スターキャッスルのセカンドのさいしょの曲が鳴ってた。これぞ、プログレって感じの曲だ。雨が降っている。雨で思い出したけど、琉球泡盛に「春雨(はるさめ)」っていうのがあって、日知庵のカウンターの上に並んでいた酒瓶のひとつなんだけれど、あ、写真は、ぼくの目のまえに置かれたお酒と肴の唐揚げとサラダスパゲッティなんだけど、「春の雨」って書いて、どうして、「春雨(はるさめ)」って読むんだろうって、お店のなかで、バイトしてる男の子に訊いたら、わかんないという返事があって、「どうして子音のSが入ったんだろうね?」って言って、「知ってるひとが、いるとは思うんだけどね。」って言って、こんなふうに子音が入る言葉ってほかにもあるかもしれないねって言ってたら、友だちの池ちゃんが、「それは違うと思う。」と言って、アンドロイドっていう携帯で調べてくれたら、「雨」って、「さめ」とも言って、「小さい雨」のことを「さめ」と言うらしくって、「雨」と書いて「さめ」とも呼ぶらしいと教えてくれた。そいえば、「小雨」のことを「こさめ」と言うものねって、ぼくが返事した。池ちゃんが、ぼくのさいしょの言葉に反応したのは、「秋雨(あきさめ)」という言葉があったからだと言うんだけど、池ちゃんは、ぼくが意見を言ったとき、音便で変化したのでないことは確かだから、調べてみるねって言ってくれたのだけれど、「雨(あめ)」に「雨(さめ)」って読み方があるってこと、「雨(さめ)」には、「小さな雨」っていう意味があることを知れて、ほんとによかった。うれしかった。

寝るまえの読書は、スタージョンの短篇集『一角獣・多角獣』か、ケネス・レクスロスの翻訳詩集にしようっと。うううん。友だちや、知らないひとが送ってくださる詩集を、さきに読んじゃうから、自分の読書計画がちっともはかどらない。まあ、このちっともはかどらないところがぼくの人生っぽいけどね。

二〇一七年十二月二十八日 「右肩さん」

見つかった! なにが? さがしていた詩句が見つかった。レクスロスの詩句で、気になっていたけれど、ルーズリーフには書き写そうとは思わなかったけれど、きょうになって、やっぱり書き写そうと思った詩句だ。

水はおなじことばをかたる。
なにかおしえてくれたにちがいない
これらの年月、これらの場所で
いつもおなじことをいっている。

(ケネス・レクスロス『心の庭/庭の心』II、片桐ユズル訳)

ぼくも、これまで自分の詩や詩論で、「水」を潜在意識にあるもの、或いは、潜在意識そのものとして扱ってきたので、このレクスロスの詩句には、とても共感できたのだった。

よい詩を読むと、いや、すぐれた小説もなんだけど、頭が冴えて、眠れなくなる。つらいなあ。でも、やめれそうにもない。うううん。これから、クスリのんで、レクスロスの翻訳詩集のつづきを読もうっと。いま、64ページ目に入ろうとしているところ。

きょうは、夕方から、京都にこられる右肩さんとお酒をごいっしょする予定だ。きみやに行こうと思っている。右肩さんの詩、初見のときは読みにくかったけれど、数年もすると、とても読みやすいものになっていた。これは、読み手のぼくの進歩もあったのだろうけれど、書き手の進歩でもあったのだろう。

西院駅の駅そば屋「都うどん」に行ってくる。あったかい朝ご飯が欲しかったのだ。小さい掻き揚げ飯と、すそばで、440円。小銭入れを見たら、467円あったので、これで支払える。それでは、行ってきませり。

いま行ってきたら、お店の名前が「都そば」だった。きょうは、お昼から出かけるから、あさにしっかり食べようと思って、「イカ天丼定食」なるものを食べた。イカの天ぷらと掻き揚げが丼ご飯にのっかってるものと、すそばね。590円だった。帰りに、セブイレで、「味わいカルピス」152円を買った。

いま、きみやから帰ってきた。詩人の右肩さんと、ごいっしょしてた。共通の読み物の話とか、俳句や現代美術の話とかしてた。あしたは、右肩さんと、日知庵におじゃまする予定。

二〇一七年十二月二十九日 「右肩さん」

ケネス・レクスロスの翻訳詩集を読み終わった。もう一度、翻訳された詩を読み直そうと思う。しかし、きょうは、もう遅い。読み直しは、あしたから。きょうは、スタージョンの短篇集『一角獣・多角獣』のつづきを読みながら寝よう。

いま日知庵から帰ってきた。ついさきほどまで、詩人の右肩さんと日知庵でごいっしょしてた。きょうも、詩について、詩人について話をしてた。写真に写っているのは、右肩さんの右手だ。きょうも、ぼくはヨッパだった。ロクでもないことをしゃべっていたのではないかと省みる。反省。しゃ〜。恥ずかし。

きょう、寝るまえの読書は、スタージョンの短篇集『一角獣・多角獣』のつづきを読むことにしよう。いま、ヨッパだから、数時間は、クスリをのめない。でも、ようやく、文字を目に通すことができるようになったみたいだ。この半年くらいのあいだだが、病気で、あまり文字を読むことができなかったのだ。

ひとつ思い出した。ぼくの誕生日が1月10日なのだけど、戸籍上は1月12日になっていて、右肩さんの誕生日が1月11日なので、右肩さんが「虚と実のあいだですね。」とおっしゃったことを思い出した。齢は同い年で、ふたりとも、1961年生まれである。きのうは、同学年の者がカウンターに4人も並んだ。

もひとつ、思い出した。右肩さんが、ぼくの詩「高野川」のことを高評価してくださってたのだけれど、もっとも親しいぼくの友だちの大谷良太くんも、ぼくの詩「高野川」を高評価してくれてたことを、ぼくの詩「高野川」がいいと言ってくださった右肩さんに話した。

二〇一七年十二月三十日 「右肩さん」

ツイートに右肩さんが書いてらしたように、ぼくの右横にいた女性客が(ぼくたちは、そのお名前から、さき姉(ねえ)」と読んでいます。)「28歳が(…)」とおっしゃったので、ぼくがすかさず、「28歳というと、文学作品によく出てくるんですよ。ぼくはその部分をルーズリーフに書き写して引用したことがありますよ。」って話しました。28歳って、もう子どものように若くもないし、かといって完璧な大人って感じでもないし、なんなんでしょうねって話をしたことを思い出した。右肩さん、よくぞ憶えていてくださった。こうして記憶がちゃんと収まるところに収まるのは気持ちがいいことなんだなと思った。

そだ、もひとつ思い出した。よく「小学生並みの詩だな。」なんてこと書くやつらがいるけれど、小学生の詩ってすごくって、『せんせい、あのね』って本に載ってる小学生の詩ってすごいですよねって右肩さんに言ったら、右肩さんもそうおっしゃてた。ぼくはひとにあげてもう持っていないんだけど、残念。それで、アマゾンで検索したら、2000円くらいしてて、あちゃ〜、手放さなければよかったと思った。子どもが書いたとてもいい詩がいっぱい入ってた。

いま日地庵から帰ってきた。25歳と26歳の男の子とくっちゃべっていた。彼らは幼馴染で、ふたりとも営業マンだった。企業の顔だねって、ぼくは言った。企業の最先端だねっとも、ぼくは言った。ほんとに、そう思うからだけれど、ふたりからそうおっしゃっていただけてうれしいですと返事してくれた。


二〇一七年十二月三十一日 「死ね、名演奏家、死ね」

これから日知庵に行く。きのう寝るまえに、スタージョンの短篇「死ね、名演奏家、死ね」を読んで寝た。SFではなくて、グロテスクなだけの作品だったのだが、嫉妬というものがよくあらわされている作品なのだとも思った。短篇、あとひとつで、短篇集『一角獣・多角獣』を読み終わる。帰ってから読もう。


表裏

  黒羽 黎斗

起伏の眠る、山は海
(希望は耳を通り過ぎる)
往来の山に、風は吹く
(采の目は続かない)
点橙虫は、導べの成り損ない
(右腕に、留まった)
不意の中で血管は伸ばされて、
繋がらない冬は目を回る。
震源の無くなった道を踏み潰して、
気管肢の湿気は脆くなる。
前転したまま深青を目指す島の群れ、
巻き戻す日々の跳弾を飲み干して、
迷路を作った偶像の、その中心を喰らふ。
酩酊を前にした動物園の、
右端に住まう。

手持ちの金貨と、明後日の銀貨
再度落ちた、鈍色の、繭

底抜けの血溜まりの、深度は一寸
耳に触った、女の爪の、欠けた模様
記しとなった蝶の心臓の、その静謐の音に
少女が一人、手を伸ばす。

無一文になる少年を前にした稜線と、
不義理であることを願おうとするその傲慢と、
虹の境界で会ってはならない。
見えざる手とは、私のことだ。

球は、動かねばならない
球は、留めなければならない
球は、最後を知らなければならない
球は、不文律でなければならない
球は、歩いてはならない
球は、私たちを纏わねばならない
球は、僕たちを忘れねばならない
球は円
球は玉
球は、側面、を拒絶しなければならない
球は、目の前に、
球は、背後の前に、

目の奥の、泡、と呼ばれた、溝の辺り
最後の眠りがやってくる、その門の下
薙ぎ倒される提灯の群れを見た
小さな小さな、供物の子豚

手を引いて、声を連れて、耳は澄む
不死の山を乗り越える

木の一本が、目を閉じる。

立つことが、目の前で、おわる。


ソナチネ

  鷹枕可

そう、その時そして別の時にも いや、止そう、ここらで充分だ 良くやった方さ 存分にやって見せた、いつかは克服さえもできる筈さ 
いつの事、いつの日かは分らなくとも だから安心をして眠ってお呉れ
昔のこと
あのときキミはミルクセーキを頼んでいた 
覚えちゃいないだろうけれどもぼくはスコッチの壜を開けて 
ああこんな日がいつか来るのじゃないかと薄々気付いてはいたのだけれども おくびにもだせないでいたのさ
外は雨、だけれどいつしか雨が止む そして展開図は青方偏移に転じ、素粒子は起源 Big Crunchに帰る 
Before
the
big bang,
そこではぼくもキミも一つになり、天国の様なpeaceを喫うのさ
雨宿りしていこう、キミは柔かく問い 喫茶店の軒先に待っていた そしてその時これまでのすべてが夢なのだと、夢にも気づいた
いつだってその時は遅過ぎて、取り返せやしないのだけれど でもぼくはまた会える、いつでもまた会えると書くのさ sonnetを ポエジーを込めて 
でも、
全部大嘘さ みんなでたらめさ ゴメンね チョットは本気にしたかい
art
it a
life,
life
is a
lie,
どうにかやってのけた、万事は順調さ 多少の傷は大目にみてやってほしい
慌てないでおくれよ ボクラは何だって克服して来たじゃないか
ウラン水素プルトニウムセシウム
1917年7月13日ファティマ第二の予言、
ピウス11世の時代 残虐な戦争が勃発し、昼夜を不思議な光が照らすだろう
そう、すべては過去となり、
Oil shock
YAH、過ぎればいつかは笑い話になるのさ、
もし
もう一日が、残されている、なら


註 *ピウス=カササギ



The
end
of the world
in my self,


わずら ひ、

  湯煙


みくろみちのこ
みちのこみくろ

呼んでは春の
気まぐれ風が
お好み焼き屋の暖簾くぐり
きみに祝福の言葉
おめでとう!
はにかみ笑みを浮かべ
お辞儀をする丁寧な
ありがとう
東京大学に合格を果たした
ミチノコミクロ

 はるはこすり
  はるはすすり


道の子未知の子
呼んでは青白い
ねばつく液
がたらり
鼻から漏れ出す
紺の袖口にこびりつくもの
鼻をすする
鼻の下をこする癖
カナワナイワカラナイ
先生に叱られ
黙ってうつむくきみと
答えられずに
笑い合うぼくらと
答えられないまま
むずむずする春と

遠足
朝礼
整列をして
みえなくなる
きみと授業前のひととき
ジャガイモジャマイカ、
そして
きみの口は天にあり
きみの目は点になり
大きくなる笑い声
ゲラゲラケタケタころげた

ミチノコツチノコ
呼んでは茶髪のおかっぱ
切れ長のあーもんど
白い肌
銭湯にきみは
弟を連れやってくる
つまらないテレビ
アイドルたちの騒がしい夜
煙突の先に更けていく
月の下
湯冷めをする水曜日

  傘を差していた
xとyとの交わりについて
  √アワへんわ
    √あわへんね 
降っては跳ねる
傾いた
教室の雨をなぞりながら
おしゃべりをしながら
閉じては開き
逃してはとらえる
切リ開いた空のあお
おぼえている
おぼえるあまやどり
かえるのあやとり
吸い込む薄紫の
そうして

このみちこのみち
みこのちちのみこ

新大阪駅からのぞみ8号に乗りきみが
弟が向けたスマホに手を振っている10:06
きみの手首は透き通り
こどもたちはいなくなって
おとなたちは見なくなって
ぼくは桜舞うまぶしい春の日を歩く
垂れてくる
づるづると漏れ出してくる
そのたびに鼻をすする
鼻の下をこする
今も

 (リラ
 (薄紫の
 (きみの
 (変わらない、


詩の日めくり 二〇一七年十三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年十三月一日 「日付のないメモ」

 彼は作品のそこここに、過去の自分が遭遇した出来事や情景をはめ込んでいった。あたかもはじめからそれがそこにあって当然と思われるはめ絵のピースのように。さまざまな形や色や音を、いろいろな時間や場所や出来事を、たくさんのピースをはめ込んでいったのだった。そのはめ込まれたピースのなかには、はめ込まれてはじめてはまる類のものもあって、はめ込んだ前とまったく異なるものもあったのである。そういった類のピースが多くある作品には、作者にもつくれるとは思えなかった作品がいくつもあった。

二〇一七年十三月二日 「短詩」

暗闇の一千行
一千行の暗闇

二〇一七年十三月三日 「日付のあるメモ」

2011年1月18日

詩人の役目とは、まず第一に、
言葉自体がその言葉にあるとは思わなかった意味があったことを
その言葉に教えること。
つまり、眠っていた瞼を一つでも多くあけさせること。
数多くの瞼をあげさせ、しっかりと目をひらかせることが詩人の役目である。
言葉が瞼をあける前とは違った己の顔を鏡に見させること。

二〇一七年十三月四日 「THE GATES OF DELIRIUM。」

 詩人のメモのなかには、ぼくやほかの人間が詩人に語った話や、それについての考察や感想だけではなくて、語った人間自体について感じたことや考えたことが書かれたものもあった。つぎのメモは、ぼくのことについて書かれたものであった。

 この青年の自己愛の絶えざる持続ほど滑稽な見物はない。恋愛相手に対する印象が語るたびに変化していることに、本人はまったく気がついていないようである。彼が話してくれたことを、わたしが詩に書き、言葉にしていくと、彼は、その言葉によってつくられたイメージのなかに、かつての恋愛相手のイメージを些かも頓着せずに重ねてしまうのである。たしかに、わたしが詩に使った表現のなかには、彼が口にしなかった言葉はいっさいなかったはずである。わたしは、彼が使った言葉のなかから、ただ言葉を選択し、並べてみせただけだった。たとえ、わたしの作品が、彼の記憶のなかの現実の時間や場所や出来事に、彼がじっさいには体験しなかった文学作品からの引用や歴史的な事柄をまじえてつくった場合であっても、いっさい無頓着であったのだ。その頓着のなさは、この青年の感受性の幅の狭さを示している。感じとれるものの幅が狭いために、詩に使われた言葉がつくりだしたイメージだけに限定して、自分がかつて付き合っていた人間を拵えなおしていることに気がつかないのである。それは、ひとえに、この青年の自己愛の延長線上にしか、この青年の愛したと称している恋愛相手が存在していないからである。人間の存在は、その有り様は、いかなる言葉とも等価ではない。いかに巧みな言葉でも、人間をつくりだしえないのだ。言葉がつくりだせるものというものは、ただのイメージにしかすぎない。この青年は、そのイメージに振り回されていたのだった。もちろん、人間であるならば、だれひとり、自己愛からは逃れようがないものである。しかるに、人間にとって必要なのは、一刻もはやく、自分の自己愛の強さに気がついて、自分がそれに対してどれだけの代償を支払わされているのか、いたのかに気がつくことである。この青年の自己愛の絶えざる持続ほど滑稽な見物はない、と書いたが、もちろん、このことは、人間のひとりであるわたしについても言えることである。人間であるということ。言葉であること。イメージであること。確かなものにしては不確かなものにすること。不確かなものにして確かなものにすること。変化すること。変化させること。変化させ変化するもの。変化し変化させるもの。記憶の選択もまた、イメージによって呼び起こされたものであり、言葉を伴わない思考がないのと同様に、イメージの伴わない記憶の再生もありえず、イメージはつねに主観によって汚染されているからである。

 ぼくは、ぼくの記憶のなかにある恋人の声が、言葉が、恋人とのやりとりが、詩の言葉となって、ぼくに恋人のことを思い出させてくれているように思っていた。詩人が書いていたように、そうではなかった可能性があるということか。詩人が選び取った言葉によって、詩人に並べられた言葉によって、ぼくが、ぼくの恋人のことを、恋人と過ごした時間や場所や出来事をイメージして、ぼくの記憶であると思っているだけで、現実にはそのイメージとは異なるものがあるということか。そうか。たしかに、そうだろう。そうに違いない。しかし、だとしたら、現実を再現することなど、はじめからできないということではないだろうか。そうか。そうなのだ。詩人は、そのことを別の言葉で語っていたのであろう。恋人のイメージが自己愛の延長線上にあるというのは、よく聞くことであったが、詩人のメモによって、あらためて、そうなのだろうなと思われた。彼の声が、言葉が、彼とのことが、詩のなかで、風になり、木になり、流れる川の水となっていたと、そう考えればよいのであろうか。いや、詩のなかの風も木も流れる川の水も、彼の声ではなかった、彼の言葉ではなかった、彼とのことではなかった。なにひとつ? そうだ、そのままでは、なにひとつ、なにひとつも、そうではなかったのだ。では、現実はどこにあるのか。記憶のなかにも、作品のなかのイメージのなかにもないとしたら。いったいどこにあったのか。

二〇一七年十三月五日 「32年目のキッス。スプレンディッド・ホテル。アル・ディメオラ。」

きょうは、風邪をひいていたので
学校が終わったら、まっすぐ帰ろうと思ったのだけれど
職員室で本で読んでいたら、帰りに日知庵に寄るのに
ちょうどいい時間だったので
帰りに日知庵に寄った。
そのまえに、三条京阪のブックオフに行ったら
アル・ディメオラの『スプレンディッド・ホテル』があった。
1250円。
高校2年生のときに
國松毅くんちに行ったら
聴かせてくれたアルバムだった。
國松くんのお母さんが
ぼくを見て
國松くんに
「おまえの友だちに、こんなかわいい子がいたなんて。」
って、おっしゃって
恥ずかしかった。
でも、國松くんのお母さんの言葉があったからなんだろうけど
國松くんの部屋で
ふたりっきりになったときにキスをしたら
抱きしめてくれた。
ぼくはぽっちゃりぎみ
というか、おデブだったけど
体格は國松くんのほうがよかった。
翌日
学校で
國松くんに、こう言われた。
「これからは、ふたりっきりで会うのは、やめような。」
いったい、なにを怖れていたんだろう。
ぼくたちの幼いセックスは。

二〇一七年十三月六日 「わたしとは何か。」

人間が最初に問いかけをしたのは
何だったんだろう
いにしえのヘビにそそのかされたイヴの言葉になかったのだろうか
なかったとすれば
神がアダムに言った
「あなたはどこにいるのか」
という言葉が最初の問いかけになる
園の木の実を食べたアダムとイヴが
神の顔をさけて
園の木のあいだに隠れていたときのことだ
「園のなかであなたの歩まれる音を聞き
わたしは裸だったので
恐れて身を隠したのです」というアダムの言葉が
人間の最初の答えになる
最初の答えは言い訳だったのである
最初の問いかけは
神の言葉だったのか
それともイヴのいにしえのヘビに対するものだったのか
それはわからない
もしもイヴのものが最初の問いかけであったなら
最初の答えはいにしえのヘビによるものだということになる
人間同士のものが
最初の一対の問いかけと答えになっていないというところが面白い
外と中
外から来るもの
中から来るもの
外からくるものが問いかけであることもあるだろうし
外からくるものが答えであることもあるだろう
中からくるものが問いかけであることもあるだろうし
中からくるものが答えであることもあるだろう
いずれにしても
くるのだ
と思う
どこへ
わたしというところへ
わたしという場所に
ふいにやってくるのだ
ふとやってくることが多いのだ
学生時代でも
いまでもそうなのだが
わたしは
わからない数学の問題を
ほっておくことが多かった
答えを見ないでおくのだ
すると数日で
遅くても一週間くらいで
ふいに
解き方がわかるということがよくあったのだ
無意識部分のわたしが
つねに
別の無意識部分のわたしに問いかけているのだろう
無意識部分のわたしが
別の無意識部分のわたしに答えようとしているのだろう
いや
答えているのか
外と中
顕在意識と潜在意識とのあいだの応答も
問いかけと答えに近いところがあるかもしれない
応答といま書いたが
応答と
問いかけと答えでは
ちょっと違うか
ちょっと違うということは
やはり似ているところが
同じようなところがあるのかもしれない
ちょっと違うか
ちょっと違うのは
わたしのパジャマ姿だ
上と下と違うではないか
ちょっと違うどころやない
ぜんぜん違うではないか
ちゃんとそろえて着なきゃ


いま
ジミーちゃんと電話してわかったんだけれど
聖書のなかで
最初に見られる疑問文は
創世記の第三章・第一節の
「園にあるどの木からも取って食べるなと
ほんとうに神が言われたのですか」という
いにしえのヘビの言葉であった
それに対するイヴの言葉が
最初の疑問文に対する
最初の答えである
「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが
ただ園の中央にある木の実については
これを取って食べるな
これに触れるな
死んではいけないからと
神は言われました」
やはり
最初の問いかけと
その答えは
人間同士のものではなかった
ジミーちゃんに
「あなた
ちゃんと聖書読んでんの?」
「あなた
聖書ぜんぶ読んだって言ってたのに 
あまりよくご理解なさってないようね」
と言われた
ああ
恥ずかしい
読んで調べて書いたのやけど
ジミーちゃんに
「一文ずつ読んで調べたって言ってたのに
なぜ
その箇所をとばしたのかな」
「まったく不思議」とまで言われて
さげすまれた
「バカ」とも言われた
「バカなの
わたし?」
と言うと
「褒め言葉だけど」とのこと
「ほんとうに?
なぜなぜ?」
と言うと
「バカって梵語のmohaからきてる
無知という意味の言葉で
「僧侶」の隠語だったからね」
とのこと
ああ
ありがたや
ありがたや

だいぶ横に行ってる感じ
「バカは死ななきゃ治らない」
とまで電話で言われた

また横っとび
最初の問いかけが
いにしえのヘビのものだったのは
象徴的だ

何が象徴的かってのは
よくわからないんだけど

神の最初の問いかけに答えたのはアダムだった
悪魔の問いかけに答えたのがイヴであった
このことも何かを象徴しているはずだ
なんだろう
神の最初の問いかけがアダムになされたことと
悪魔の最初の問いかけがイヴになされたことが何かを象徴していると
そう受け取るのは
ぼくのこころがジェンダーにまみれているからかもしれない
いや
ただ単にジェンダーに原因を置くことは
文化史的な探求を途中で放棄することになる
ちゃんと把握しなければ
神というものを意識の象徴ととり
悪魔というものを無意識の象徴ととると
意識に働きかけるもの
感覚に働きかけるもの
目に見えるもの


手に触れるもの
耳に聞こえるもの
感じられるもの
これらのものが神の象徴するものだとしたら
それに応答する感覚
意識がアダムで
悪魔は
無意識領域の働きかけというふうにとると
イヴはそれに対応する無意識領域の反響あるいは共鳴ということになる
そういえば
聖書的には
男は拒絶する場面がいくつも見られるが
たとえば
カイン
ユダ
ペテロ
女は受け入れるという印象がある
イヴしかり
マリアしかり
じゃないかな
なんて思った
いままたジミーちゃんから電話があって
いま書いたところを読んで聞かせたら
「えっいまなんて言った?」
って訊かれて
「ジェンダー」と答えたら
「ぜんざいと聞こえた」と言われ
「それならぼくのこころがぜんざいにまみれた話になってしまうやんか」と答えた
ふたりで大笑いした

最後まで読んで聞かせて
「どう思う?」って訊いたら
「でも田中さんの場合
よく読み落としがあるから
うかうか鵜呑みにはできないな」
と言われて
「あぎゃ」と声をあげて笑った
信用ないのね
聖書の知識ではジミーちゃんに完全に負けちゃってるものね
でも
意識は拒絶し
無意識は受け入れるというのは興味深い
男を意識領域
女を無意識領域の象徴ととることは
聖書の記述にも合致する
創世記の第二章・第二十二節から第二十三節に
「主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り
人のところへ連れてこられた
そのとき
人は言った
「これこそ
ついにわたしの骨の骨
わたしの肉の肉」
これは面白い
神はアダムが女を欲したので女を造り
アダムに与えたのだが
そのイヴが造られたのは
アダムのあばら骨という
心臓に近い
こころに近い骨からであるにもかかわらず
アダムのところへ連れてこられたというのだから
違った場所で
アダムのそばではないところで
イヴを形成したということになる
無意識領域が
意識領域のものからつくられたのにもかかわらず
つまり
材料は意識領域のものにもかかわらず
違った場所で
形成したというのだ
無意識領域は

意識は
無意識領域のものに出合って
これこそ
わたし自身であると言明したのだ
まあ
無意識領域のものと出合うというのがどういうことなのか
またほんとうに出合ったのが無意識領域のものとであるのかという問題は
そうだね
観照(テオリア)というものと関わっているような気がするので
この観照というものについても
考察しなければ
うううん
考えれば考えるほど
いっぱいいろんなことが関わっていて
面白いにゃあ
ユングのいう男性原理と女性原理だっけ
これも面白いね
さっきまで
男性原理と女性原理と書いてたけど
違ってた
ユングのはアニマとアニムスだった
男性が持っている無意識の女性性がアニマで
女性が持っている無意識の男性性がアニムスだった
アニマ(anima)自体はラテン語で

呼吸
精神
生命

の意味で
アニムス(animus)もラテン語で
生命

精神
記憶力
意識
意見
判断
の意味の言葉で
語彙的にいっても
アニムス(男性性)が「意識」を表わしているというのは面白い
ユングが言うところのアニマ(女性性)が集合的なことに対して
アニムス(男性性)が個別的であるというのも
アダム=意識
イヴ=無意識
という感じでとらえてもいいと思わせられる
しかし
これらはみなジェンダー的な用語の使用という
文化史的な背景をもとにした語彙の履歴を暴露するものであって
男性性とか女性性とかいった言葉遣いのなかに
ミスリードさせてしまうところがあるかもしれない
意識領域のもの
無意識領域のもの
という具合に言えばいいところのものを
男性性
女性性
という言葉でもって
それを意識領域
無意識領域というふうに
言語的に関係付けてしまうことは
文化史的には必然で
文脈を容易に語らしめるものとなるのだろうけれど
本質的なところで
誤解を生じる可能性があるかもしれない
ぼくが考察するとき
比較対照するものが聖書や文学や哲学の文献だったりするので
文化史的な点では
それを無視することはできないし
ましてや
それがなかったものとして語ることもできないのだが
知らず識らずのうちに
ジェンダーであることを忘れてしまわないように
気をつけながら
考察しなければならないと思った
さっき
意識は拒絶し
無意識は受け入れるというのは興味深い
と書いたけれど
逆に
意識が受け入れたかのように感じられ
無意識が拒絶しているというようなことも
ままあるような気がする。
意識としては受け入れなければならない
だから受け入れるぞと踏ん張ってみても
こころの奥底ではそれを拒絶しているので
体調を崩す
なんてことがあるような
あったような気がする
意識領域のものに
無意識領域の力が働きかけているのだろう。
言葉を換えると
意識領域の不具合が
無意識領域の場に影響を与えて
それで無意識領域の場が反応してるってことなのかもしれない
ところで
アニメーションが
一枚一枚断片的な画像によって
それがすばやく場所を移動させることによって
連続的なものに見えるというのも
面白いですね
ラテン語の辞書を引くと
animalには「動物・被造物・生きている物」という意味がありますが
animatioには「生きもの・被造物・存在」
animatusには「魂のある・生命のある・霊化された・定められた・考えを抱いている」
animoには「生命づける・活かす・蘇生さす・変える・ある気持ちにさせる」
と出ていました
語源って調べると楽しいですね
ハイデガーの気持ちがよくわかります
無意識領域を形成するのは
意識領域のものだけではなく
主体が知らないうちに感覚器官が受けた刺激や情報もあって
無意識領域という場を形成しているものが
意識領域のものが形成するロゴスとは異なる力の場であることは
無意識の力というものが存在するように思われるところから容易に想像できるのだが
無意識領域の場の基盤といったものを考えてみよう
タブラ・ラサ
赤ん坊の意識が形成されるまえの
赤ん坊の無意識領域と意識領域の場について考えると
意識領域はまっさらだと思われるので
無意識領域の場が
さきに形成されていくような気がする
あるいは
意識領域の核というのか
断片というのか
大洋になる前の水溜まりというのか
そういったものが形成されているのかもしれないが
無意識領域のものが
少なくとも
遅くとも
それらと同時には形成されているような気がする
なぜこんなことをくどくどと書いているのかというと
このことを文学作品の鑑賞の際に
また自分の作品の解析と
作成に利用できるのではないかと思われたからである
自然に起こる霊感の間歇的な励起に対して
人工的な励起状態をつくりだせないかということである
引用という手段
コラージュという手段については
経験もあり
実験もつづけてしていて
人工的な励起状態をつくる
もっとも有効な手段だと思われる
つねに刺激を受けることがだいじなんだね
本を読み
音楽を聴き
映画を見
そして
日々の生活の上で
他者のやりとりを
他者とのやりとりを
自分のやりとりを
観察すること
はじめて見たかのように
つまびらかに観察すること
しかし
観察という行為においては
自己同化という現象も同時に起こり
おそらく夢中で観察しているときには
自他の区別がなくなってしまうようなところがあって
結局は自我の問題に行き着くようなところがあって
他者を求めて自己に至るという
自己と他者の往還
同一化という
ぼくの好きなプロティノス的な見解に結びついて
面白いなって思う
相互作用
往還
という点で
観察という事象に目を向けて
考察してみたいなって思った
問いかけをやめないこと
より精緻な問いかけをすること
より深淵な問いかけをすること
しかし
それはけっして複雑なものではなく
きわめてシンプルなものであろう
文脈を精緻に
語りかける位置を深くすること
目に見えるもの
耳に聞こえるもの
手で触れられるもの
そういった具体的なものを通して
観察の位置を熟慮して
精緻な文脈で構築すること
具体的であればあるほど
抽象的になることを忘れずに
瑣末なことであればあるほど大切なことに
末端的なことであればあるほど中心的なことに
触れていることを忘れないこと
それを作品で現実化することが
芸術家の
詩人の役目なのでしょうね
体験はひとつ
ふたつ
みっつ
と数えられる
数えられるものは
自然数なのだ
小数の体験や
分数の体験などといったものはないのだ
しかし同時にまた
体験は
ひとつ
ふたつ
みっつと数えられるものものではないのだ
あのときのキス
あのときに抱きしめられた感触
あのときに触れた唇の先の肌のあたたかみ
それらはひとつ
ふたつ
みっつと数えられるものではないのだ
回数を数えれば
一度
二度
三度と
数えられるのだが
体験そのものは数えられるものではないのだ
あのときのキス
あのときに抱きしめられた感触
あのときに触れた唇の先の肌のあたたかみ
それそのものというものは数えられるものではないのだ
あえて数えてみせるとすれば
ただひとつ
ただひとつのもの
いや
ものでもない
ことでもない
それそのもの
ただひとつ
体験は自然数
それもただひとつの数である

凝固点降下
水などの
液体に溶解するものを入れると凝固点が下がるというのが
凝固点降下と呼ばれる現象であったが
以前に書いたことだが
凝固点効果という現象が
記憶が
あるいは想起が
真実だけで形成されることが難しいということ
芸術や他者の経験談や物語による類比によって
すなわち記憶を形成する者
想起する者にとっては
虚偽である事柄によって
確固たる記憶を形成したり
想起なさしめられるという
わたしの見解にアナロジックにつながるように思われる
不純物があると結晶化しやすいということ
化学的にみれば
結晶化する物質と不純物のあいだにエネルギー的な差異があるからなのだが
真実と虚偽のあいだの差異
これがあるために結晶化しやすいというふうに考えると
わたしたちが
芸術や文学や音楽に
たやすくこころ動かされ
感動することが容易に了解されよう
それが
わたしたちが
わたしたち自身の生をより充実したものと感じられる理由ともなっているのだ
引用とコラージュの詩学である
過冷却の液体に
物理的なショックを与えると
たちまち凝固してしまうこと
これもまた想起にたとえられるであろう
プルーストの『失われた時を求めて』の冒頭
マドレーヌと紅茶の話を思い出す
何かがきっかけになって
突発的な想起を生じさせるのだが
無意識領域で
その想起される内容が
十分にたくさん
ひしめきあって
意識領域に遷移しようと
待ち構えていたのであろう
意識領域ではそれを感知できなかったので
突発的な記憶の再生というふうに思えたのであろう
それというのも
マドレーヌと紅茶をいっしょに口にしていたことは
それまでにもたびたびあったのであろうから
なぜ、わたしたちの言述が連続するとあいまいになるのか
言明命題について考える
すべての型の言述について考察することは不可能である
またすべての言述が命題的な言述とはかぎらず
論理で扱える範囲には限界があり
命題的な言述以外のものについては
個々の例で差異がはなはだしく
まとめて語ることは不可能なので
ここでは命題的な言述に限ることにする
また話をもっともシンプルにするため
もっとも論理的な言明命題について考察する
しかも
その命題が真のときに限ることにする
現実の言述は真なるものばかりとは限らないのであるが
真でない命題は現実の会話では始終交わされるのであるが
真でない命題からは矛盾が噴出するので
論理展開には適さないため
ここでは除外する
さて
pならばqという命題が真なるとき
pはqであるための必要条件であり
pという条件を満たす集合をP
qという条件を満たす集合をQとすると
PはQに包含される
このとき
もとの命題の逆
qならばpも真の命題であるなら
P=Qで
PとQは同値なのだが
qならばpが真でないならば
pという条件から出発してqについて言述した場合
qの条件は満たすがpの条件を満たさない事柄について
述べてしまうことになる
例をあげよう
ソクラテスは人間である
この言明命題を連続的に行なうとどうなるか
ソクラテスは人間である
人間は生物である
この二つの命題を合わせると
また一つの真なる言明命題ができあがるのだが
わたしたちが言葉を重ねれば重ねるほど
言述があいまいになるような印象を受けるのは
論理的に当然のことであるのがわかる
精密に語れば語るほど
言述の対象があいまいになるというのは
したがって
ごくあたりまえのことなのである

わたしは
詩をつくるとき
それを利用する
わたしが
言明命題的な言述が
とても好きな理由は
それに尽きると言ってもよい


対偶
それらの否定



対偶
の否定の否定
ヴァリエーションは無限である
もちろん
言明命題的な言述のみに限らず
あらゆる言述の組合せは可能で
それの組合せが
芸術作品を成り立たせているのであるが
この記述は
もっともシンプルな系についてのみ語っている
なぜ
わたしたちの言述は
精密に語ろうとすると
あいまいになるのか
当然なのよ
ということ
言述にあいまいさを与えないでおくには
必要条件かつ十分条件になるように
言述すればいいのだけど
それは同一律を守りながら
ということになるので
結局のところ
同語反復にならざるを得ない
しかし
文学は同語反復でさえ
いや
文学に限らない
視覚芸術も
音楽も
反復が
さまざまな効果をもたらすことは
よく知られている
薔薇は薔薇であり薔薇であり薔薇であり薔薇であり
うううん
まあ
ぼくはいまのところ
ぼく自身を追いつめることにしか興味がないみたいだ
言語実験工房主宰で
京都に
詩人の Michael Farrell 氏を招いたとき
とても基本的なことを彼に訊いてみた
あなたはなぜ詩を書いているのですか
という質問に
詩人がとまどっていた
あるいは
John Mateer 氏だったかしら
あなたはなぜ詩を書いているのですか
という質問に
詩人がとまどっていた
わたしはつねになぜ自分が書いているのか考えて生きているので
とまどう詩人を見て驚いた
わたしとはいったい何か
何がわたしなのか
何がわたしとなるのか
何がわたしを構成しているのか
わたしはどこにいるのか
どこがわたしなのか
どこからわたしなのか
わたしはいつ存在しているのか
いつ存在がわたしになるのか
とても基本的なことを
つねに
わたし自身に問いかけている
絶対的に知りたいのだ
絶対的に知りえないことを
詩で
わたしは
わたし自身に問いかける
わたしはそれに答えることはできないのだけれど
つねに
わたしは
わたし自身に問いかける
わたしとはいったい何か
何がわたしなのか
何がわたしとなるのか
何がわたしを構成しているのか
わたしはどこにいるのか
どこがわたしなのか
どこからわたしなのか
わたしはいつ存在しているのか
いつ存在がわたしになるのか
とても基本的なことを
詩人がなぜ詩を書いているのか
たずねられてとまどう詩人の姿に
わたしのほうがとまどってしまった

二〇一七年十三月七日 「失われた突起を求めて」

クリストファー
フトシ
ムルム
守ってあげたい
マンドレ

ふさわしい
いまわしい

二〇一七年十三月八日 「ドクター」

後頭部を殴られる
気を失う
詩人の経験を経験する
詩人が橋の上から身を投げる
詩人は河川敷のベンチに坐りながら
自分が橋の上から身を投げるシーンを目にする
うつぶせになって自分の死体が上流から流れてくるのを見つめる
橋の上から身を投げる直前に
橋の上からベンチに坐った自分が自分を見つめる自分を見る
上流から流れてくる自分の死体を見る
冷たい水のなかで目をさます
それが詩人の詩の世界であることに気づく
詩人の目を通してものを見ていたことに気づく
橋の上からベンチを見下ろすと
自分自身がベンチの上で
寝かされているのを見る
「こんどは
わたしが介抱してあげよう」
目をあけると以前助けたドクターが
自分の顔を見下ろしていた
「あいつらだよ
きみも狙われたのだね」
後頭部に触れると濡れていた
血だろうか
「その傷の大きさだと縫わなければ
消毒も必要だ
わたしのところにきなさい」
ドクターに支えられて
河川敷の砂利道を歩いた

二〇一七年十三月九日 「詩」

言葉は
形象から形象へ
言葉は
形象から形象へ

詩は
個から個へ
詩は
個から個へ

という
感じだろうか
結局のところね
ほかの芸術はたとえば
舞台や
映画や
演奏会は
ただひとりのために
という感じじゃないけど
詩は
なぜだかしらん
個から個へ
って感じね
対象は
個じゃなくてもね

二〇一七年十三月十日 「父」

今年の4月に
わたしの父が死んだのだが
父は食道楽だった
食い意地がはっていたと言ってもよい
週に一度の外食は
四条河原町の「つくも」という
ニュー・キョートビルと言ったかな
いまはない店で
高島屋の向かいのビルの9階の和食の店や
京極の「キムラ」のすき焼き屋や
「かに道楽」など
そういった庶民的な店ばかりだったのだが
そこらで食事をしたことが思い出される
金魚に目がとまるわたしである

わたしの父親は一生のあいだ
道楽者だったのであるが
なかでも鯉には目がなかった
わたしは父親のことが大嫌いだったので
いかなる生きている動物も嫌いなのであるが
金魚には目がないのである
嫌なことだが遺伝であろうか

二〇一七年十三月十一日 「うんこたれのおじいちゃん」

ふん
また
いやな顔をしくさった
この嫁は
やっぱりあかんわ
わしが
わざとうんこをたれて
ためしてやったのに
やっぱり
あつすけは
カスつかみよったわ
「すまんなあ
 すまんなあ」
けっ
なんや
このブスが
返事ひとつ
でけへんのかいな
鼻の上にしわよせよってからに
ええい
しゃらくせいわい

いっぱつ
ひり出したろかい
ブッ
ブリブリ
ブッスーン
ブリブリ
けへっ
「すまんなあ
 すまんなあ」
けへっ

二〇一七年十三月十二日 「地球を削除する。」

対称変換その他の修正

水面を対称面にして
空と海を変換移動させる

そのとき
空中に存在している鳥だけは動かさない

そのとき
海中に存在している魚だけは動かさない

キルケゴールを対称の中心として
スピノザとニーチェを変換移動させる

『三四郎』を対称の中心ととして
『吾輩は猫である』と『明暗』を
変換移動させる

地上に存在する詩や小説や戯曲に書かれた
すべての形容詞・副詞の意味を反対語に置き換え
肯定文を否定文に書き換え
否定文を疑問文に書き換え
疑問文を肯定文に書き換え
そのほかの文は削除する

それがすべて終わったら
地球を削除する

そしたら
あとは

裸にされて

ほな
さいなら

二〇一七年十三月十三日 「苦痛を排除した世界」

こころのなかにあるわたしではないもの
わたしではないと感じられるもの
わたしではないと思いたいもの
さまざまなものが
わたしのなかにありますが
そのわたしではないと思わせるものが
ときには、わたしそのものであると思われるときがありますね。
苦痛は、もっともはっきりと
人間の意識を振り向かせるものですが
その苦痛の原因があるからこそ
わたしたちには
意識が発生したのではないか
と思われるときがあります。

苦痛を排除した世界は
もしかしたら
意識のない世界かもしれませんね。

二〇一七年十三月十四日 「きょうは、ニュースのカメラマンの方の肩をもんでいました、笑。」

きょうは、ニュースのカメラマンの方の肩をもんでいました、笑。
妻子餅で

妻子持ちで
しかも、友だちと
夜中まで遊びまくっているという
でも、バイでもゲイでもなく
ストレートの人ですが
なんか笑っちゃいます。
ぼくの感覚がおかしいのかなあ。
ぼくなんか
だれとでもできちゃう感覚持ってて
だれとでもいいんだけど、笑。
その人も、セックス抜きなら
だれといっしょにいても楽しいという肩でした。

方ね。
ぼくも、基本がそうね。
だれといても楽しいのね、笑。
これって、おかしいかなあ。
まあ、いいか。
太郎ちゃんのところに原稿送ったし
追い込まれたら、自我が最高度に働くので
いつも、締め切りぎりぎり。
綱渡りの人生だわ。
制御できてるのが不思議だけど。

二〇一七年十三月十五日 「えいちゃん」

画像は生まれたばかりの双子ちゃんと、ひとつきくらい前の画像かな。
かわいいっしょ?

二〇一七年十三月十六日 「雑感」

同じことを語ることで、同じことを頭に思い浮かべることによって
映像が、そのときの記憶よりも鮮明に見えるということを
だれかが書いていたように思います。
同じこと、同じ経験、同じ映像でも
そのときには、見落としていたこともあるでしょうし
いまの自分からみるとそのときの自分からは見えなかったものが
見えたりするということがあると思うのですが
意味の捉えなおし、修正ということもあると思います。

丹念に自分のひとつひとつの記憶をたどること。
これまた、若いとき以上にじっくりと取り組める事柄だと
ぼくなどは、同じ話を何度も語りなおすタイプなので
そう考えています。(我田引水気味でしょうが。)

そういうふうに同じことを語りなおすことによって
思い浮かべなおすことによって
いまの自分が、自分の気持ちが、生活が
新しい目で眺められるようになって
豊かになったような気がすることがあります。

齢をとって、いいことの一つですね。
そういう豊かさを持つことが出来るのは。
時間を隔てて眺める
その時間が必要なのですね。
その時間に自分も変わっていなくてはなりませんが。

自分自身へのご褒美、紙ジャケCD 2枚!
数日前に書いた原稿が2つとも、自分ではよい出来だと思えたので、笑。

あがた森魚ちゃんの「バンドネオンの豹と青猫」
アランパーソンズ・プロジェクトの「運命の切り札」
これまた、むかし、両方とも持ってたのね。
お金に困って売ったCDたちのなかに入ってて
いまもう手に入らないCDもたくさん売ったから
つらいけど
こうして復刻されるってことは
ボーナス・トラックもついてるしね、
いいことかもしれない。
リマスターだから音もいいしね。

しかし、カルメン・マキの
セカンドは、もとの音源に傷がついていて
「閉ざされた町」という傑作が、もうほんとにねえ
状態ですが
まあ、いつか、その傷も修正されたものが復刻されるでしょう。
いま
あがたちゃんのCDを聴いて癒されています。
組曲ね。
なつかしい
しんみり。
森魚ちゃん、天才!

ここで、マイミクの都市魚さんからコメントが。

カルメン・マキはファースト以外は紙ジャケ持ってます。ベースが代わったセカンドからの方が有名なファーストよりカッコいいですよね(笑)。
森魚さんは赤色エレジーが入ったのしかCD持ってないです。もちろん紙ではありません。

ぼくのお返事。

あがたちゃんのこれは、おされです。
カルメン・マキは
ぼくの青春時代の思い出です。
知り合いの方にライブのチケット
ゼロ番のものをもらったことがあります。
東山丸太町、熊野神社の前を東にむかって横断歩道を渡って
数十メートルのところにあるザック・バランでのライブね。
5Xのころかしら。
かっちよかったです。
みんながあまりのってなかったのかしら。
ジンをマキが口に含んで
それを観客の上に
「みんなもっとのれよ!」
といって
プハーッ
って吹き出したこと
いまでも鮮明に覚えています。

二〇一七年十三月十七日 「幸せの上に小幸せをのせたら」

幸せの上に小幸せをのせて
その小幸せの上に微小幸せをのせて
そのまた微小幸せの上に極微小幸せをのせたら
みなこけて、粉々に砕けて、ガラスの破片のように
ギザギザに先のとがった危ない怖い小さな幸せになりましたとさ。

おじさんの上に小さいおじさんをのせて
その小さいおじさんの上にさらに小さいおじさんをのせて
またまたさらにさらに小さいおじさんをのせても
サーカスの演技だったので、まったく普通の拍手ものだったわさ。

おばさんの上に大きいおばさんをのせて
その大きいおばさんの上にさらに大きいおばさんをのせたら
そのさらに大きなおばさんの上にもっともっと大きなおばさんがのる前に
おばさん同士の格闘技がはじまって、髪の毛ひっつかまえて振り回したり
張り倒して蹴り上げたり、壁に押し付けて頭ごんごんしたりしてさ。
血まみれのおばさんたちが大声で罵倒し合いながら喧嘩してたってさ。

ケーキの上に小さいケーキをのせて
その小さいケーキの上にさらに小さいケーキをのせて
そのさらに小さいケーキの上にもっと小さいケーキをのせたって
ふつうのウエディング・ケーキだべさ。
ちっとも面白くねえ。

真ん中の上に端っこをのせて
その端っこの上に小さい真ん中をのせて
その小さい端っこの上にさらに小さな真ん中をのせても
べつにバランスは崩さないかもしんないね。
上手にやればね、まあ、わかんないけど。

やさしさの上に小さいやさしさをのせて
その小さいやさしさの上にさらに小さいやさしさをのせて
そのさらに小さいやさしさの上にもっと小さいやさしさをのせても
だれも気づかないわさ、こんな世間だもの。
どいつもこいつも、感受性、かすれちまってるわさ。

お餅の上に小さいお餅をのせて
その小さいお餅の上にさらに小さいお餅をのせて
そのさらに小さいお餅の上にもっと小さいお餅をのせて
昆布と干し柿とミカンをのせれば正月だわさ。
わたしゃ、嫌でも、48歳になるわさ。
1月生まれだもの。
ああ、でも、ぼくの上にかわいいぼくがのって
そのかわいいぼくの上にさらにかわいいぼくがのって
そのさらにかわいいぼくの上にもっともっとかわいいぼくがのったら
重たくてたまらないでしょ、そんなの。
ぜったいイヤよ。イヤ〜よ。
いくら、自分のことが好きなぼくでもさ。
おやちゅみ。
おやちゅみだけがチン生さ。
ブリブリ。
ピー。
スカスカ。

二〇一七年十三月十八日 「アポリネール」

お風呂につかりながら読むための源氏物語。 
上下巻 105円×2=210円
与謝野さんの訳ね。
風呂場でないと
たぶん一生
読まないと思うから、笑。
それと世界詩集
いろんな全集の世界詩集を集めてる
これまた持ってるのと重複しまくりだろうけれど
重複しないのもあるしね
これは200円やった。

偶然できたしみです。
いま、コーヒー・カップの下の
あ、テーブルの下のほうにメモ代わりにしていた
本から切り取ったもの(白いページをメモ代わりに
本から切り取るのです。)手にしたら
めっちゃきれいだったので
記念に写真を撮りました。
輪郭とか眺めても
とてもうつくしいので、びっくりしています。
作為のまったくないものの線
線のうつくしさに驚いています。

そうそう
きょう買った世界詩集の月報にあった
アポリネールの話は面白かった。
アポリネールが恋人と友だちと食事をしているときに
彼が恋人と口げんかをして
彼が部屋のなかに入って出てこなくなったことがあって
それで、友だちが食事をしていたら
彼が部屋から出てきて
テーブルの上を眺め渡してひとこと
「ぼくの豚のソーセージを食べたな!」
ですって。

二〇一七年十三月十九日 「新型エイリアン侵入」

これまでにも、人間そっくりのエイリアンが多数、人間社会に侵入していたが
今月になって、また別の種類のエイリアンが人間社会に侵入していることが判明した。
特徴は、人間そっくりであることで、他人に対する思いやりに欠け
平気で、人の話をさえぎる自分勝手さも持ち合わせており
猜疑心だけは、ものすごく発達させている、サイコチックなところのあるエイリアン。
人間との見分け方は、匂いにある。 エイリアンの身体は、オーデコロンのエゴイストの香りがする。

二〇一七年十三月二十日 「考えると、」

内部しかないものが存在するか。
いま、膝の痛みをやわらげるために
お風呂に入ってたんだけど
そんなこと考えちゃって
内部しかないもの
外部しかないもの
内部も外部もないもの
なんて考えてた

光量子
なんてものは、どうなんかな
概念もね
宇宙は閉じてるとして見ると
内部だけでできているのですね。
そうであろうか、と自分に問いかけて
答えに窮しています。
うううん。
境界についての議論もできますね。
また数学的には
集合ではなく領域の問題としても
境界について、議論できそうです。
全体集合の補集合が空集合になり
空集合の補集合が全体集合になるというところ
それはそう定義するしかないと思いますが
(そう定義すると、記号処理が簡単になりますから)
ぼくには大いに疑問です。
むかし、同人誌に
そのことについて書いたことがありますが
まだ自己解決しておりません。
膜には内部も外部もないですね。
表と裏
ですね。
しかし、
膜自体の物質性あるいは容積性に着目すると
内部と外部が存在するわけです。
無限に延長された膜を考えるとしても。
ただ無限という概念をつかって
外挿すると、さまざまなものの性質が
概念が、ですが
無限特有のパラドックスを生ぜしめるような気がします。
ううううん。
内部とが部に分けるときに
問題なのは
境界なのですが
境界が存在するかどうかも問題です。
厚みのない幕というものを
概念的に想像することはできます。
あるいは

光量子を幕にした場合
などなど
考えてみると
とても議論の尽きないところにまでいってしまうような気がします。
行ってもいいと思いますが
際限がなく
ああ
しかし
面白い。
つまり境界がなく
外部と内部が存在するか
などなどもですね。
面白い。
どなたか
さまざまな例を挙げて
お話ください。
たぶん
無限の概念を含むものとなるでしょうから
それは知の限界をも示す考察ともなるでしょう。
たぶん、笑。
大袈裟だけどね。
大風呂敷広げて議論するのも
たまにはいいんじゃない?

二〇一七年十三月二十一日 「バロウズ」

バロウズの個展用のカタログ集 PORTS OF ENTRY 到着しました。
きれい。
バロウズはポオが好きだったのね。
ぼくも好き。
あと
セゾン美術館から出てる画集を買えば、コレクション終わりね。
ぼくも
コラージュ絵画や、ふつうの絵を描いていこう。

二〇一七年十三月二十二日 「A・A・ミルン」

A・A・ミルンの「赤い館の秘密」 105円
クマのプーさんのミルンの推理小説。
ユリイカの「クマのプーさん」特集号に
コラージュ詩を書いたんだけど
プーさんをモチーフに
これから、コラージュ詩をたくさん集めて
詩集をつくりたいので
その材料に。

あんまりお目にかからない本なので
ついつい。

これから、インスタントの日清焼そばの晩ご飯を。
ししとうと、おくらを買ってあるので
どちらもサービス品コーナーで
ひとふくろ、20円と30円のものね
それを焼いて
玉子焼きを上にのっける予定。
おいしそう、笑。

二〇一七年十三月二十三日 「人間の基準」

人間の基準は100までなのね。
むかし
ユニクロでズボンを買おうと思って
買いに行ったら
「ヒップが100センチまでのものしかないです。」
と言われて
人間の基準って
ヒップ 100センチ
なのね
って思った。
って
ジミーちゃんに電話で
いま言ったら
「ユニクロの基準でしょ。」
って言われた。
たしかにぃ。
しかし
ズボンって言い方も
ジジイだわ。
アメリカでは
パンツ
でも
パンツって言ったら
アンダーウェアのパンツを思い浮かべちゃうんだけど
若い子が聞いたら
軽蔑されそう。
まっ
軽蔑されてもいいんだけどねえ、笑。

二〇一七年十三月二十四日 「バロウズ」

バロウズの「トルネイド・アレイ」読了しました。
バロウズの詩と、短篇がいくつか。
ときおり光る箇所があるていどの作品集。
しかし、訳者の後書きと
ものすごく長いくだらない解説文は不愉快きわまるものだった。
ゴミのような文章で
ゴミのような論を展開していた。
こんなクズが書き物をしていてもいいのかしら
と思うぐらいくだらなかった。
バロウズの作品だけでいいのよ
収録するのは。
と思った。

二〇一七年十三月二十五日 「浮気」

むかし読んだ詩誌月評かな、それの思い出を、ひとつ。
ある詩人が
名前は忘れちゃったけど
「嫁が家を出て行って
 悲しい〜」
なんて書かれても、だったかな
それとも、ギターを爪弾きながら
叫ぶように歌われても
だったかな
そんなことには、ぜんぜん何も感じないけど
ってなこと書いてたことがあって
ぼくなら、そんな詩?
それとも歌かな
そんなの読んだり聴いたりしたら、めっちゃ喜ぶのに
と思ったことがある。
現実の生活のことが、ぼくには、とても脅威なのだ。
考えられないことが毎日のように起こっているのだ。
そう感じるぼくがいるのだ。
だから、退屈しない。
毎日が綱渡り
驚きの連続なのだ。
嫁が家を出て行く? 
なんて、すごいことなんだ。
ぼくは
自分の食べているご飯の米粒が
テーブルの下に落ちただけでも
ぎょええっ
って驚く人間なのだ。
毎日が脅威と奇跡の連続なのだ。
きょう
ぼくの小人の住んでるところがばれそうになった。
あ、小人と違って
恋人
いや、恋人と違って
浮気相手だから、愛人かな。
気をつけねば。

浮気っていえば
前に務めていた予備校で
浮気をしたことありますか
って女の子に訊かれて
ちょっと躊躇したけど
嘘言うのヤダから
あるよ
と言ったら、それまで
ぼくに好意を寄せてくれていたその子が
それから、ぼくを軽蔑するような目つきで見るようになって
口もきいてくれなくなって
びっくりしたことがある。

二〇一七年十三月二十六日 「ゆりの花のめしべ」

何度も書くけど
少年のものは
ゆりの花のめしべのような
おちんちんだった。
ゆりの花のめしべは
おちんちんのような形をしていて
なめたことがあった
ぬれていた
おんなじような味がした
タカヒロくん
愛人のほうね、笑。
大学院時代に付き合ってた20歳の恋人と同じ名前で
彼は34歳の野球青年だけど。
いやなたとえだけど
演歌歌手の山本譲二(次?)
に似てるんだよね。
男前と言うより
男っぽい感じ。
5年の付き合いになる恋人は
そうね
ぼくにはかわいいけど
出川哲夫みたいなの。
ぼくにはかわいいけど
出川哲夫
うふ〜ん
なんだか、切ないわ〜

二〇一七年十三月二十七日 「地獄」

これ、睡眠薬飲んで書いたみたい。
記憶にないフレーズが入ってる。
何度も書くけど
少年のものは
ゆりの花のめしべのような
おちんちんだった。
ってところ。

少年じゃなくて
青年ね。
豆タンクって呼ばれてることを
あとで知ったのだけれど
メガネをかけた小太りの
かわいい青年だった。
若いころの林家こぶ平そっくりだった。
いまのコブ平は、目がきつくなっちゃったね。
きっとイヤな目にあったんだろうと思う。
人間って、地獄を見ると、顔が変わるもの。

二〇一七年十三月二十八日 「過去のやりとり」

すると、frogriefさんから

あつすけ様

詩語が問題,ですか.

ぼくが40代に入って,ようやく気付いたのは,ぼくは,「シュールレアリスムの手法を
用いた抒情詩」が書きたい,それを書くことが,ぼくのライフワークなのだ,ということ
でした.

今時シュールレアリスム? と言う声があちこちからしてくるのが聞こえるようですが,
ぼくの詩の第1の読者はぼくなのですから,そのVIPのリクエスト,となれば仕方が
ありません.

詩語に溺れていない,「管理された詩語」を,用いて書いている,との自負はあるの
ですが,どうでしょう?

ぼくのお返事です。

frogrietさんへ
ぼくが、詩語という場合
なんだろうなあ

たぶん、こういう意味に使ってると思うんだけど
自分の経験なり、考えたり思ったり感じたりしたことを
言葉にしよとする際に
その経験や考えや感じを表わしてくれる言葉が見つかったとしましょう
その言葉が見つかったのです
しかし
じつは
その言葉は
たくさんの人間の、あなたに似た「経験」や「考え」や「感じ」を
すでに、表わしてきたものなのですね。
したがって
じつは
あなたが
さがしいていた、求めていた、出会いたがっていたその言葉は
あなたとの出会いが、はじめてのものではなかったのですね。
言葉のほうから見ますとね。
言葉のほうから見て
あなたの形成しようとしている言語世界は
はじめて出遭う言語世界ではなかったというわけなのです。
これが
詩語の問題と、ぼくは言っていると思います。

frogrietさん
あなたばかりではなく
ほとんどすべての書き手が
言語のほうから見て
新鮮な出会いをしていないと思います。
シュールレアリスムは
たしかに言語にとって豊穣なものであったでしょう。
過去においては
です。
しかし
シュールが、もはやシュールでなくなったいま
SF的な現実と、仮想社会(来年の6月に日本で発表されるそうです。
きょう、関係者の方に直接、聞きました。現実ともリンクしたもので
そのバーチャルの世界で儲けたお金を、現実世界で換金できるそうです。
日本地図が入っていて、京都にある地下鉄のように地下鉄があって
乗り物に乗ればお金がかかるし、だけど、そこで買った服を
現実世界でも発注できたりするそうです。
またそこでは、たとえば、現実世界では足の不自由なひとが、不自由でなくなって
その不自由さのない生活をして、という仮想社会だそうです。
イーガンの描くSFそのものですね。)
のもとでは
シュールレアリスムは
言語にとって、もはや、それほど新鮮な出遭いではなくなっていると思います。
ぼくも、ぼくのことをモダニストで、シュールレアリストであると思っていますが
同時に、古典主義者でもあり
さまざまな異なる範疇で、さまざまなものであり
さまざまなものでありたいとも思っています。
大事なのは
個人の経験でありますが
個人にとってはね
また人間世界全体としてもね
でも、わたしたちが詩人であるというのなら
個人の経験などは、じつは、どうでもよいのです。
書き手の考えたことや感じたことそのものには
言語自体は興味があるとは思いません。
言語が興味があるのは、個人が経験した経験とともに
それを語る語り方であり
考えたこととともに、それを語る語り方であり
感じたこととともに、それを語る語り方であると思います。
大事なことは、言語にとって
言語自体が目が覚めるような
驚くべき経験をさせることなのであって
そういう経験は
言語の側から見て
語と語が、どういう結びつき方をしているか
言葉たちがどういうふうに使われているか
文脈がどういうふうに形成されているか
作品として、どういうふうにパッケージされているか
によると思います。
(パッケージとは、詩集としてとか、同人誌としてとか、雑誌としてとかです。)
詩語が
拘束するのは
わたしたちの経験ではなくて
わたしたちの経験を語る語り方なのですから
わたしたちが詩人と言うのなら
そのことに気をつけないといけないと思います。
そのことについて十分に配慮できていないということにおいて
ほとんどの詩人は
詩語に拘束されていると言えるでしょう。

ぼくがすぐ上に書いたような内容のことは
象徴派の詩人や思想家が、すでに書いていることですが
たとえば
ポオ、マラルメ、エマソン、などなど
ぼくの詩論詩集にも、何度も繰り返していることですが
彼らの書いているように
言葉がすべてなのですから
いくら言葉に注意しても、し足りないのだと思っています。
それには
現実の経験もさることながら
言語世界での経験も勉強になりますね。
ぼくは
もうじき48歳になります。
頭がぼけるまで
あと数十年しか残されていません。
こんな作品を書いたぞ
っていう作品を
これからも書いていきたいと思っています。
と思って
いまからクスリをのんで寝ます。

二〇一七年十三月二十九日 「雨」

きょう、雨で
大事な本をぬらしてしまった。
リュックのなかにまで
雨がしみるって思ってなかったから。

奇想コレクション イーガンの「TAP」 買いました。かわいい。
表紙がかわいくて
いいね。
イーガンは
大好きなSF作家。
読むのが楽しみ。

きょう、大雨で
リュックに入ってた
バロウズの「ダッチ・シュルツ 最後のことば」が
ぬれてしまった。

リュックにいれてたのに
ずぶぬれ〜。

まあ、よりよい状態のものを本棚に飾ってあるから
そんなにショックじゃないけど
いや
やっぱりショックか

まあ
本の物々交換に
悪い状態だけどって
いうことにして出しますわ。
くやしい。
雨め!

二〇一七年十三月三十日 「ガムラン奏者の方」

いつもの居酒屋さんで、きょうはガムラン奏者の方とおしゃべりを。
料理長の知り合いの方らしく
音楽の話をしていました。
そんなにディープな話ではなかったけれど
むかし
ぼくが付き合っていた作曲家のことを思い出していた。
タンタン
というあだ名を、ぼくがつけたのだけれど
パク・ヨンハそっくりでした、笑。
太った
パク・ヨンハかな、笑。

二〇一七年十三月三十一日 「記憶」

 映画を見たり、本を読んだりしているときに、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じることがある。ときには、その映画や本にこころから共感して、自分の生の実感をより強く感じたりすることがある。自分のじっさいの体験ではないのに、である。これは事実に反している。矛盾している。しかし、この矛盾こそが、意識領域のみならず無意識領域をも含めて、わたしたちの内部にあるさまざまな記憶を刺激し、その感覚や思考を促し、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じさせるほどに想像力を沸き立たせたり、生の実感をより強く感じさせるほどに強烈な感動を与えるものとなっているのであろう。イエス・キリストの言葉が、わたしたちにすさまじい影響力を持っているというのも、イエス・キリストによる復活やいくつもの奇跡が信じ難いことだからこそなのではないだろうか。

 まさに理解不能な世界こそ──その不合理な周縁ばかりでなく、おそらくその中心においても──意志が力を発揮すべき対象であり、成熟に至る力なのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

物がいつ物でなくなるのだろうか?
(R・ゼラズニイ&F・セイバーヘーゲン『コイルズ』10、岡部宏之訳)

人間と結びつくと人間になる。
(川端康成『たんぽぽ』)

物質ではあるが、いつか精神に昇華するもの。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)

書きつけることによって、それが現実のものとなる
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』75、佐宗鈴夫訳)

言葉ができると、言葉にともなつて、その言葉を形や話にあらはすものが、いろいろ生まれて來る
(川端康成『たんぽぽ』)

おかしいわ。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)

どうしてこんなところに?
(コードウェイナー・スミス『西欧科学はすばらしい』伊藤典夫訳)

新しい石を手に入れる。
(R・A・ラファティ『つぎの岩につづく』浅倉久志訳)

それをならべかえる
(カール・ジャコビ『水槽』中村能三訳)


閉塞に慣れ過ぎて

  夢うつつ

                罵倒/の言葉を一文字ずつ参照していく/壁に打ちつけられた私の、声は薄弱で/誰かと会話することが/できたとしたらきっと私を傷つける刃物になっただろう/目が覚めたら棺桶の中/で影が足音だけ響く/【私/は名前に封じ込められている】/貼り出された装飾/は私の番号を伝えて(は、いない)/花形、森の風景にうまく溶け込んでいる/言葉が、反転するような世界なら私/

どうしたらいいの

[Q]刺されたのは
[A]包丁が流通していたせいだ
[Q2]刺したのは
[A2]私のせいだ
[A3]私が、生まれる前にいたかもしれないあの
[A4]母の胎盤をずっと恐れている
[A5]もう行くはずもないのに

「わたし、の辞書に/*/文字はない。いかなる文字も、ないですので誰が/誰か辞書を貸してください。そこまですれば、きっと問題は/ない元から、ないはずだった。さようなら。(できれば、ナポレオン以外の人の方が、良い。) ああ

家族 がいた
小さな子供たち は私を貫通し
しかし 棺桶を貫通するまでには至らない速度で
会話している
眺めていても、いなくても彼らの言葉は
聞き取れない
し、容易に理解ができる
自分を埋めるための穴を掘りながらここまで来た
けど私、一人しかいないから分割して
一つずつ丁寧に埋めた
お墓、立てれば立てるほど私の財布はからっぽに
なっていくから、私もからっぽ/に、なって、仕方ないのだと思う
うそみたいな因果 → 破壊できないもの ・物語の中の詩 ・呼吸に含まれる音 ・最弱、
         → だから、私にはきっと破壊しかできない 転生が終わったら子供たちを探してまずは呼吸を、覚えさせようと思う。津波が起きているから、そのなかで棺桶が漂っていて、はじめて命の比重を知った。手紙は一通も流れていないから、/それだけが/私の言葉であった、鍵がかかっていて、きっと開くことはできない。子供たちはあのなかで今も生活しているのか/なんてもう/どうでもよくなっている/ことに誰も気付けない(私も気づいてなんか、いないよ! 完全に新しい/朝が、来つつある/よ!

完全に新しい日の出
           閉塞に慣れすぎて いないからいつだって怖がったまま、私の言い訳、180度回転して何処かへ行ってしまった。朝焼けは、同時に夕暮れだったし、私は、棺桶だったんじゃ「ないのかって」。埋められることがないし、それはもともと実体がないからで、音、音…………振動、肌に直接、触れるから私はそれを知ることになる。開けた風景、花々の代わりに自生してゆく彼らはきっ/と、どこかから来た広い海まで行って遊んでいるから。
唇の表面で水疱がゆっくりと破裂して
白い蒸気に 初めて光の美しさを知った
割れた砂時計みたいに体が散らばって
初めて自分の微かな煌きを見た

なんて

安直   安直 安直
 安直 安直安直   安直 安直
安直   安直  安直  安直   安直
    安直   安直 安直 安直      俺は詩人じゃねえ
安直      安直     安直 安直安直
  安直 安直    安直
安直    安直 安直
   安直
安直

     ↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
           凡庸


(みち、みち満ちてゆく、ゆうれい溶け込んでいた。またそういう声とは、わたし、原型のやわらかくつもる、あいさなくて、いいよ! 生、うつらうつらする、ここは、水平線は、生まれてきたそのゆれ、さらさらともう、過ぎ去らないでいい、のなら、うかんだ、わたしいのちといのち、通しのそのゆ、とうてい、しんの消えてゆくきみのこうこう、とした、滴りつぶ、おちてゆくつなみの中、追憶、知らなくても、いいことだから

処女のままこどもうませてください

)


日記(2011/11 の頃の )

  玄こう



いつまでたったらあの時やこのときやいま
過去←現在化させ未来の絵空事滅ぼしたいコト

その折り返しの先にたって生きている。そろっと煉獄の途に煮えたぎる熱情を足下の足裏から
ヌルヌルでてくるナニモノか?、を感じる一冊の本を十云年ぶりに読み開いている

 これは私だ!


というその一言が、この本で彼の(宗教的)実存で思い知ったのだが

  死に至る病/キェルケゴール

絶望ひとつとってもホントいえば私にはやはりさっぱりわからない。 
浅く潜り省察しながらも、私にとっての絶望とは、弱い絶望、の階位か?
…にとって絶望とは?と… 頭がつく段階でしか理解できんのだから、
永遠的なるものの…  神の御前、罪を、躓きを、
ホントむつかしい、 キリスト者、彼(…にとっての)キリスト者

…にとって 
最近面白く考え、読みふける。

 ------------

「お前はだいたいお前自身を誇りにしているのだ、それが実にお前の傲慢さだ!」
と誰かに言われてそこに真理が含まれていることを彼は認めるかもしれない、
しかし彼はそこで自分の弱さを包括的に把握しているならば 
「自分の弱さに絶望していることが傲慢であるはずがない」
その熱情がそう言わしむるとき、そのように並外れて強調するそれこそが
実に傲慢にほかならないことに彼は気づかないのである。------------

  岩波文庫  P130,13行
  
あたりの一文が自分の心にあたった。  

 おわり。


(((2011)(((((((10)((((((((11)*************************************************************************************************


   *2011


ポエトリー
裏表紙から君がうつむき歩き出す
誰か私を揺り動かさないの
グレーに赤い裏地のマフラー着膨れ
ほら
私の前ではたと立ち止まりうつむき歩き出す
通り過ぎては社会の窓に寄り掛かる二人
アートにさらば
作品を見間違えたかな
君は絵が好き?
では明日
同じ時間にこの場所でスケッチをしようかね
今日は日曜日
笑って目を閉じてますね
さもなくば空想
細かなエピソードは無知
輪郭は消え去られてるけど
笑って目を閉じてますね



        
  roomaji nikki

watasi ga kokoniarutoki

watasi ha siru ayamati wo

watasi ha kakugosuru ayamati wo

bokuha motanebanaranai kakugosuru beki taido wo

ikirutoiu sekininn taido wo

ikirukoto kanounisuru taido wo

bokuha motteiru? sono taido ima
poem wo kaku
jibunn no sonnzai no ayamati wo siru
ikiru wo siru
ayamati wo siru

 

   詩を携えた人間の詩論とその態度 NO.1

歴史を潜ませ、はたと立ち止まる
過ちを問うことは
人間の作り上げたところの感動を含有する。
罪深き礎に私もまた存在しているということを思い知る
深く生きること
食べる、泣く、笑う、願う、・・・この罪深き実のものたちは
死に向かうことは許されない
なぜなら私もまた罪深き礎に存在していることを知っているから
未来においても事実であり続けるもの=実を生きるということ
そのことを私たちは知っている。
生きることが罪である以上死に向かうことは許されない
そのことを私たちは知っている。
精神もまた死に向かうことは許されない
これは絶えず生きるという詩論である。

学もまたしかり
学が生きるという「する論理」であるならば
人文や倫理や宗教のような似方であっても
感動は
生きる過ちを知るということ。
詩は
生きる過ちを知るということ。
創造は
生きる過ちを知るということ。

しかして芸術や哲学はその態度さえ無関心なくらい
もっと他の感動の有り様を深めてくれるだろうし
自然や科学は全く別の多くの次元のことを教え諭してくれるだろうが
やはり私自身(一個人)が感動するところの中身は書かれてないはず
しかしそこから過ちを問うて初めて学から私が生きてくる。

既にそれは私(一個人)についての過ちでもあるから。
過ちを問うて初めて物事から私が生きてくる。
私でないものから私が生きてくるような。
罪を携え、過ちを知るなかに
そこに厳しく貴少の感動があると呪文。

つまらない話になるがこうした感動は
自己実現、達成の喜びの感動とは違って静かで重たくも感ぜられ
無意識的に自然とである。
過ちが感動の源などと言っているタワケではないのだ
そんなことあってなるものか!
意識操作に屈し、低俗な商品価値を生む為の手段などではない
本当に感動するとはどういうことであるのか問うのみである。
それは過ちを知るということ実を生きるということ
その中に感動が少しある
全く別物であるはず

加えて
前衛作家の父へ、これは私にとって唯一創造されることの許された態度です。
しかしここにある私的行動は脱同一化です
出たところが
言葉の海に流されてかえる
揺られて行方知れず
辿り着くは、何もない海の向こう
ならば考えよう
意味を
本心に迫る対象物が歪みの向こう
覗けば大気にかざる太陽
一つの死
気高い宣告
冷凍保存の地球世界
何も知らされていません
思い知ること十回
不名誉な不明
では実体験を手に
見るものは、何もない山の向こう
時間失格
白むさかずき
指先麻痺
シャッターボタンの伸びきる雪道
ガタガタ歯音
吹きすさむ電線のビーン音
眠りから目覚める世常人
活動隊
行方を知らねば生きない
論理隊
朝まで待てぬ
無形式
寓話に寓話を重ねた被写体
溜まるカス
いたたまれぬ自意識
没落
遠くで眺むれば草

願わくばここで生きていることを

ミルクとアルコールを混ぜ入れた
蓮華味噌汁に落ち葉を添えて
丸ういうつわと少々の漬け菜

こくりこくりと寝んねする
曲げて体を削る鰹節
折りたたまれたフキンの二月半ば
自称、指人形は姫の手足
肩に鳥のつま先
肌身はなさず皮膚骨格
鋳肌模様に内潜む灼熱の証
願わくばここで生きていることを

汚れなく手には汗と銭
足に長靴
襟首タオル
抽象にまみれた頭
水に薬
気管支ミスト
咳き込む彼
労働を見下す人々
あざける主
願わくばここで生きていることを

角を降りた四件となりの白い家
子を育て上げる誉れ
男不要説教ウーマン
精子も卵子もナンバーワン
力を知る one and only
理屈抜きで知らぬことはあっても
出来るということ
願わくばここで生きていること
過去を振り返る事々の刻印に
付属断片素子に
新たな遊戯だとか何だとか
堕落 Du-Du-Du-Du-Du-
なんかのひょうしここで生きていること




野暮な場数

愛ぅしくあられる君に、世界で一人、君に

だからわかれれる情愛は野暮な多数
一つは君やってみなさい
思い描ける詩が実となるよう


人を愛せない男なんて台無しだ
愛されない女なんて台無しだ
だからまたと無い実話、未来、ノンフィクション
願い、過去、をきっと君は雨に染み込ませるだろうから
足元を濡らす路上の街明かりが君を光らせるだろうから
僕の肺もむなしく君を咳き込ませるだろうから
いくつかの駒を机上で動かすつまらぬ博打の中で
重なり重なり生きていった人々
僕らの先進は了解したのです
僕らの景色はここに新しい彩りをそえるつもりです
また吹く口笛
この唄
この景色
この新しい風はなに?






.


冬の花火

  かわせみ

一瞬の瞬きは
黒い海に散っていく
スターマインの残像を
夜の静寂がつつむ

青空に群がっていたカモメも
真っ直ぐに伸びた飛行機雲も
さっきまでの花火も
全て姿を消して
煙が居直っている

闇に溶ける
ここでは
何にも脅かされない
誰にも縛られない
寒さを忘れて
思うがまま漂う

巧みなことばで
人を押しのけ
のし上がろうとする
許せない奴
ありったけの思いを
空(から)になるまで
闇に打ち上げる

宿に帰る人の声に
無の旅から
色も形も
嘘もある道に立つ
灯りが眩しい


テラリウムの夜 /La nuit terrarium

  kale

板張りされた 部屋の窓から

抜け出して 夜行列車に

飛び乗ろう 水銀に満たされた
  (Mer de mercure)※1
ボトルシップに 故郷を浮かべて
 (Mon coeur)※2
何処からいこう 何処までいける
   (Le soleil est plein)※3
 発車確認 指差喚呼 

トリコローレの 空のある

 終着駅を 目指そうか

水よし 星よし 酸素よし

 くぐもる 車掌の鉄道 合図

月光放射の あかるさが

影のない 真冬の夜を

 翻訳していた 摂動 遷移

夜更けの aubeの 進水式

 戒厳令下の 逃避行

みずがね 密度を 瀞くしている ※4



こつりこつこつ灯が点り
ほそい腕木の電柱ばかり
日没からはじまる一日を
球面光素が歪ませている
エスメラルドの駅に寄る
無色のゴーシュが覆う街
枕木の傍に林立している
ぽつりぽつぽつ陽が昇り







※1 Mer de mercure
   水銀の海
※2 Mon coeur
   私の心 (coeurのoeは合字)
※3 Le soleil est plein
   太陽がいっぱい
※4 みずがね 水銀の別名


Alter Ego

  アルフ・O

 
 
 
それこそ機械に考えてもらえ、と戯ける
両立できないなら降りかかる雑務は
並べて悪にしか成り得ないのだと
(汗の量が減らない。
空想の輪郭を二転三転しながら
売り飛ばす手段を何十年も何百年も考え続ける所業、
「さて死んだのは誰なのか」
喧嘩をばら撒くコトすら
たやすく考えがちな少年少女に憑依して
逃げ道を絶ったように見せかける術も堂に入ったもの
「さて死んだのは誰なのか」
恥ずべきとは笑わせる
持って回って馬鹿な手間をかける大人の真似など、しなくて良いのだ
それこそ機械に考えてもらえ、と戯ける
「時は流れた、
君たちが手垢を忌み嫌わずに済むほどに。




*7行目および11行目について、池田晶子「墓碑銘」より引用 
 
 
 


cry so radical

  白犬

涙が流れ無い
意識の醜さを永遠に嫌悪する
肉の器に溢れる
感情をどんな風に料理して良いか判らなくて
難しい
衣服を剥ぐように
銀紙を剥いて
チョコレートを舐める
神様の肉片みたいに
口の中で柔らかくなり始める
舐め尽くして
溶かして
味わう
卑猥に
テレビをつければ
ハイエナ達の顔が映る
ずっと昔に生き別れた姉達、兄達だ
意識がチョコレートのように歪んで 肉が跳ねて 彼/彼らが揺らぐ
時に
意識を出産したいと思う
テレビを消して
暗い画面に
私が映って居る
赤い目
まるで誘うみたいに
おいで
おいでよ


朝、大聖堂の素描を持って。

  NORANEKO

たとえばバングラデシュの女学生が焼死した話をしたとして君は咥えた花の蜜を吸うハチドリのことを気にするだろう。Kindleのタッチパネルを淡々とたんたんと暗澹たるダルメシアンのような面構えで叩く僕のことなんか本当にどうでもいいように緩慢な半とろけの時間のなかで。「どうでもよくなんかないわよ」さくっと柘榴の実を割って君はなんだって千里眼て顔をしてくりくりとつぶらな複眼で僕を胎臓界曼陀羅じみた万華鏡の遍在へと視界する。「そんな顔してたし」眉間に皺寄せ見るニュースによるとどうもノートルダム大聖堂が案外となんとかなりそうな気配に安心し新デザインの公募に君を模した聖母子像を意匠したいと思いつつ言葉にはけして出さない。もうdancyuに夢中で僕なんか眼中にないって風な意識の寒中水泳めいた風情の視線で瞑想風読書に耽る君だってこんなことお見通しなんだもん。メリーアメンラーチキンラーメンだーとなんか今しがた思い付いたエジプト風インスタントラーメンの架空のコマーシャル・ソングをホーミーの複声で歌いながら僕は聖堂の素描を手帖に描く。バラ窓に燃え盛るステンドグラスの君の口にそっと花を挿してみる。ガーゴイルは恋をするのか? 僕にそれはわからないが少なくとも僕は君のガーゴイルだ。「あ」君のはっとした「あ」の発音が撥音で張り詰めた世界がぱんっと割れて裂け目が出来たテーブルから発酵した菌糸様の世界線が伸びる。するとするっとするするっと僕と君の分身をひとつずつひとつずつありとあるあらゆる世界の朝に導く。じゃあまたねと僕はあらゆる世界の可能態の大聖堂の素描のノートをあらゆる形で分有したまま記憶の底に沈み沈んで今迎えてるこの朝。


小さな告白

  たこ吉

私の脳みそは、実はぱっかり割れるんです☆彡
小さな宇宙人さんがハンドル握って操作してるの。

そんな真実を直感したとき、私は
コーラの缶を思いっきり蹴飛し、
アスファルトの道を駆け抜け
勢いあまってすっ転んだ。

小学校低学年だった、あの日。
血のにじむ傷がジンジン沁みた、あの日。

心をジクジクさせて、今
ほろ苦い思い出をかみしめる。

宇宙人は何もなかったように振舞っていた。
あなたは痛くないもんね。
私は……私は.....誰だろう?

宇宙人の脳みそがぱかんと開き、小さな宇宙人が現れる。
その宇宙人の脳みそが開き、もっと小さい宇宙人がこんにちは。
もっと小さい宇宙人がぱかんと、もっともっともっと小さな頭が現れて、
もっともっと小さな宇宙人からこんにちは。もっともっともっと小さな頭が…〜^ ▽ ^#%@〜*♪

天地がぐにゃりと歪んだような気がして、
覚えた痛みのありかを探る。(それは、合わせ鏡を覗き込み、
不思議のウサコを追いかけるのに似ている。)

金魚頭を鉢からかぶって、生活できたらどんなにいいか。
きちんとらえれない世界だから、
元から歪んで見えた方が
少しは正解に近づくんじゃあないかな?


百姓ちょぼくれ節

  ベイトマン

錆色したドラム缶に観音様が微笑んで、女衒に叩き売られる堕胎児が下水道の赤紙と一緒に流される。
狸面した政治家の演説は、歯欠け爺の金玉じゃねえか。
歯欠け爺の金玉じゃねえのか。

銀座にゃ、カルピスなんてハイカラなドブロクがあるんだってな。
おいらにゃ、一生、縁がないだろな。

皺くちゃ婆のセンズリは腐った茄子より始末に悪い。
仏壇拝むおいらのお袋はいつも仏さんに毒を吐く。
八百長で生まれた赤ん坊はカタワもんだったよ。

酒飲みお父のせいでおいらの姉貴は赤線いっちまい、メリケンさんに観音様を拝ませて隣の倅を恋しがっているんだよ。
隣の倅は首をくくって死んだけど。

松の木にぶら下がって、舌をべろりと出してたさ。

舌をべろりと出してたさ。

糞小便たれながしてくたばってたさ。

どす黒い朝焼けの雲に壊れた白いお日様がちょぼくれ、ちょぼくれ、ちょぼくれとサイコロ振ってやがったさ。

おいらの兄貴は二等兵、チャンコロ野郎に背中を打たれて家族残して今じゃ仏様。

おいらの居場所はどこにある。おいらの人生どこにいく。
可愛いあの娘も村長さんのお妾さん。
おいらの居場所はどこにある。おいらの人生どこにいく。

可愛いあの娘の啜り泣き、おいら納屋で貰い泣き、村長さんがあの娘の上に圧し掛かっていたのさ。
辛い、悲しい、辛い、悲しい、泣くしかないおいらとあの娘。
所詮水飲み百姓の倅、おいら逃げたら家族は村八分。

酸っぱくなったドブロクを一杯ずつ引っ掛けて、おいらあの娘の夢を見る。
おいらあの娘を恋しがる。
まぶた閉じれば、ありありと、浮かぶあの娘の横顔が。

色にボケちまった婆さんも兄ちゃん罵るお袋もロクデナシのお父も残していけないおいらなんだ。
おいらの居場所はどこにある。おいらのお天道様はどこにいく。

前を向いても後ろを振り返っても暗い夜道が続くだけ。
どこまでも、どこまでも、暗い夜道が続くだけ。

親父お袋あんたら覚えてるか。あれはおいらが六つの頃だ。水を張った桶の底、小さな赤子が浮かんでた。
ぷかりぷかりと浮かんでいたんだ。産湯に沈められた弟においら駆け寄ることすら出来なかったんだよ。
涙零して黙ってみてた。間引きされちまった弟は沼に捨てられ、魚の餌よ。

なまんだぶ、なまんだぶ唱えても幸せになるわけじゃなし、あの娘が嫁にくるじゃなし、弟戻るわけじゃなし。
お袋、念仏やめてくれ。おいら気が狂いそうだよ。お袋、念仏やめてくれ。おいら気が狂いそうだよ。

ちょぼくれ、ちょんがら、すっペらぽんのぬっペらぽん、ちょぼくれ、ちょんがら、すっペらぽんのぬっペらぽん。
おいらのとこの村長さん、浮世を流す道楽爺、焼酎片手に観音様を拝み倒しの舐め倒し。

すててん、とんしゃん、すててん、とんしゃん。
やれ、やれ、畜生めとその場で殺して、業のごの字の味を知り、悪のあの字の味を知り。
どうじゃないな、どうじゃいな、悪玉踊りはどうじゃないな。
どうじゃないな、どうじゃいな、悪玉踊りはどうじゃないな。
浮世の糸はしがらみで、罪で苦労する行き流し、義理の格子を掻い潜り、おいら娑婆からおさらばするよ。

悪が娑婆からあばよ。


麺麭は一ペンス

  鷹枕可

忘却された投函箱の中で美しく褪せ枯れてゆく一輪の薔薇に、
虐殺された天使達の透明な石の膚に流れる蒼い血に、
穹窿を天蓋を蔽い尽す名だたる星雲像の青銅歌劇場に掛る夢魔花の細緻な鉛の葯の各々に、
巨躯の箱に蹲るティタノスの両肩に担われた礎の苦悶に、
始源の罪として後向きに投げられた石より産まれた人間に、
石や粘土、泥から生まれた
私達が
時に心、を乱されるのは

なぜ,

喀血、
旧い録音盤に乾く飛沫の翳、
赤と黒の矩形の構図に
眠りを降ろす
蒸発した壁
塗り込められ刎ねられたダリアの首
混淆石
鉄筋建築
魘夢の様に美しく旧りゆく
開胸された死を
心臓に柔らかなる容を遺して

総攬衛生学
公衆の華 賑うをわずらわしくも
美しく
在りし日を憶えて
人物像の夢
雑踏に紛れ喪われ
乾いた
薔薇一挿程に
束ねられた抱擁へ
閂を跳ね遁れ行く、そを
振返り
街を出遣れば
彫塑は人は
砂礫風葬に返るなり

    *

ふれていない幾つもの手があるいまだふれていない幾つもの手が
苦渋と断腸にのみ開く桐の花がありそれは造船渠に振われたわれわれの航海録に新しい青写真を刷る檸檬色の少女なのか
変声を終えた咽喉があり道は底より短く延びてやまない報復としての林檎の実をかきむしる意志を具えながら
路に倒された冬の竃よ 逞しく綴られた教条への永訣よ 
おまえは偽りの爲に隠され 代理人が彼らの筆致をぬりつぶした 
真実よ 嘶きに追落とされた二束三文の 擦れからしの市場町に砂の歳月をにれかむ安物の一ペンスよ
わたされていない幾つもの手があるいまだ綯われていない幾つもの道が 常に遠ざかり 来るオリブの花から逃れる伴う声を ふりきって ゆけ


忖度と世論形成について

  深尾貞一郎


不幸な目に遭う賢者はいない。
対価を見いだす愚か者はいない。
大きく開かれた窓は冷気より熱気をより多く与える。
耳、ほお、下くちびる、舌、ペニスなどから血をとる。
お前の労働者にパンを一個やり、彼の肩から二個とるがよい。
仕事をする者にパンを一個やり、命令する者には二個やるがよい。
貴族を侮辱するな。
侮辱が行われると戦いがそれに続く。
戦いが行われると、殺人がそれに続く。
そして殺人は神がご存知なく起こることはない。
神が定め給うことなくして何も起こらない。

「走りつづけてきた者にとって、座ることは快いことだ。
 座りつづけてきた者にとって、立ちあがることは快いことだ。」

神へのそなえ物として皆、自分の血をとってささげる。
男たちが神殿に集まり、ひとりひとりペニスに穴をあけ、
何本も糸を通してみんなひとつなぎになり、こうしてとれた血は神像にそそがれた。
女性は自分の血をささげることはしないで、鳥やけものやさかなの血を偶像に塗った。


刻と私

  黒羽 黎斗

時計の針は盤上を回る。
静かな音を発しながら、青を求めて回る。
埃をかぶった古時計は威風堂々と立ち、
短針が二周したことを鐘をついて知らせる。
歯車の音が、微かに聞こえる。

長針は、彼にとって右腕なのだろう。
前に突き出すために長いのだろう。
私が右腕を使い、右手を使うときは、
たいてい何かを引き寄せ突き放す。
彼もそれを、腕を振り回すことで行っている。
六時を置いて七時を求める。

短針は、彼にとって左腕なのだろう。
ちぎれては困るから短いのだろう。
私が左腕を使い、左手を使うときは、
たいてい私の身に危機が迫ってる。
彼もそれを、腕を振り回すことで表している。
真夜中とは物の怪の領土だ。

時計の針は空論で回る。
ディジタルを前にして音は無力だ。
腕時計は手入れをするから手垢にまみれ、
何も示さず、劣化する太陽を内包する。

歯車の音が、微かに聞こえる。
切り出した薄紙の一枚が、私となって、
白く浮かんで、盤上に乗る。
青と、私を、求めるままに。


四季

  夢うつつ

  ―花びらって、飛んでいるから、いつも私
   の体の中に充満してゆく。そのために口
   を開けっ放しにして、そこからみんな、
   蒸発する前に、すぅって、息を吸って、
   別れの言葉を言える、全てが死んでいる
   この瞬間なら
  ―――春は、何も知らないまま生まれた命
    が、指の先端にくっついている気がす
    るから、体の内側から、何もかも咲い
    てしまって、ひっそりと形を、覗かせ
    ている
  ―――――体の中にまた、少しずつ満ちてゆく
     香りだけのまどろみ。まるで、現世
     のように美しいてんごくが、体だけ
     気化させて、妖精たちを小さく囲い
     ながら眠る
  ―――――存在が、もとからできないから、話
     す言葉ぜんぶが嘘だって気づかれた
     まま、花嵐が、巻きあげているの
     は、ただの春と、ただの私たちの死
     骸と、心情
  ―――声に、ならなかったはずの、すべての
    物が、形を持つ季節、世界の輪廻が、
    ここからはじまって、そしてここで終
    わるような、世界に、してください、
    神さま
  ―花びらって、死んでいるから、いつもこ
   こに流れ着いている。ながい、漂流の果
   てに、彼らここを見つけるから。涙と、
   音楽と、人、全てが死んでいるこの瞬間
   なら、形ないまま愛したって、わたしを
   見つけてくれた


あいす

  湯煙


 いつから だった
 どこで  だった

とけないんだ
あいす

真夏から真夏
真冬から真冬
律儀な 
大気の循環
ああ 何度もだ 

結局 錐のねじこまれていく
みぞおち ここ


とけないんだ
国の魔法

ディズニーからディズニー
ローソンからローソン
5Gな
賽の目の中の賽子 
ああ 何廻りだ 

 フレンチのフルコースたいらげなければ
 おれみたいなまずしいものは
 おっちまう


きりん

  鈴木歯車

海面水位が行けるとこまで行ってしまい
島から出られなくなった
どうぶつ、とりわけ
うみねこの
冷たい輪郭をさがしています、
なんなら小さなきりんでも
草原を歩くひかりの群れなど

輝いていれば何でもいいのです


やぶれているようで実は
閉じてしまっているんです、ここも
線の黒い囲みでしか表せないんですね
こんなところにいられるか、と無理やりに
はみだしていったものの末路をぼくは知りません
いつもはゆるめに縛られているので

なんでもいいのです
外はこんなに明るいから
誰もきりんを探そうとしない


大人システム

  まひる

いつか、あなた、彼方、ゆくえ、しれず。
朝靄が子供を隠している。
いつも、わたし、ことば、えらび、かたる。
満員電車、ソーセージに似てる。
あのひ、見てた、あかね、そらが、もえる。
偽るたびに、むさぼる骨。
あのね、きみの、せかい、おとが、なるの。
周波数0107、正座して聴く。
けれど、ぼくは、きっと、いきる、はずだ。
少年、バットで、空を切る
風が吹いて、世界が揺れる
だから、わたし、いのる、いつか、またね。


go down like a lead balloon

  アンダンテ

(III)

セックスは全人の愛の証しではないのでセックスを愛したとしてもひ弱なわたしにとってセックスは愛し難いものだった。行為は理屈では無いと言っても桃色兎になるのは無理と言うもの。明確な意思が伝わった指先の動きが僕を惑わしたとしても、それはきみの罪ではない。おどんがうつしんだらみちばちゃいけろとおるひとごちはなあぎゅう シムチョンbleuの四角いオブジェを雨あがりの空にあらわれた君の残影に套ねた。天道虫が転んだ。Le vierge,le vivace et le bel aujourd’hui とろりとした金星の影が三日月を犯す。いろいろと並ばれていたをとことをんなたちがつくづく死ぬのがいやになったと冷めかけたお茶をにぎりしめて生きているのでした。冬ざれの空のおもてを鉛の風船がいつも生理中とタンポンの糸を垂らして走っていたのでした。

*註解
・おどんが……:五木の子守唄
・シムチョンブリュ:深青
・套ね:かさね
・Le vierge,le vivace et le bel aujourd’hui;<Mallarme(1842―1898)>生娘で、生一本、今日の今日とて絶世の日(アンダンテ訳)


時の抱擁

  キリン堂

静寂が弾けそうに熟れた夕暮れの部屋が
幾度となく満ちて落ちる 針が落下するより
まだ密かで張り詰めた音が暮れに響き渡る

そんな忍び足の音がふいと消えてしまった

いや、それはすでに風化していて
あの数日前に活けられ枯れ始めた
落下を待つ赤い花弁のように

私の思いがその現実に追いつくのを、ただ
待っていたかのように行くべき所に消えたのだ
窓から差し込む夕陽の向こう側へと消えたのだ


遠く何処かで鳴った鐘の音がやって来る
赤い花弁がひとひら残された足跡のように
音もなく落ちて卓上で時間に抱擁されている

水を捨て、花の遺骸を紙に包み、捨てる
私もいつか行こう、あの鐘のなる場所へ
誰もが何処かへ向かって歩いている

家路を、或いは夜の街に酔う千鳥足
風の吹くままの旅路を、夢路をゆく誰か
眼を閉じても見えるのだ、そして昨日の私が
玄関の戸を開けて軋む廊下をやって来る頃合いだ

そろそろ、と

心に外套を着せてもいいだろう

そして鳥打ち帽と猟銃を肩に沈黙を背負い
有象無象の言葉を避けて今日を撃ち明日を待ち
撃ち落とした二月を抱きしめて解体する
三月という名のあなたを待ちながら


go down like a lead balloon

  アンダンテ

(V)
こ〜うしてトートシューズの旅は終わりました。クレド、いつも後ろの正面にいましたね。黄色と白どちらの水仙がお好きですか。今日も私の命日です。毎週水曜日が定休日ですのでいらして下さい。櫻もちるに嘆き、月はかぎりありて、出でて色道ふたつありまして尽きること無いそうですってよ。思わず欠落したままごとが面白くって詩をかいているのかい。そんな私の乳房をもむ皸まじりの手の豊かさがまだ踏みもせずかかあの金玉を撫でまわしたとしても、それはあなたの罪ではないのですよ。アタイのダーリンを盗んだあんたは悪い奴。悪い奴?対応する事実はどこにもないわよ。語りつくせぬことはしゃべりなさんな。


*註解
・クレド:(そんでも)
・櫻もちるに嘆き、月はかぎりありて:井原西鶴『好色五人男』
・色道:女色、男色
・皸:ひびわれ
・語りつくせぬことはしゃべりなさんな:Ludwig Wittgenstein『Logisch‐Philosophische Abhandlung 7(論理哲学論考)』


打ち下ろす槌に

  天寧

灼熱の闇に 暗赤の泥濘は底無く
揺れる葦を掻き分け、漬かる膝を引き抜く
慄く掌が虚空を掴み、逃れ行く脚に
煌めく針山の底より 噴き出す業火から
群がる
無数の腕、
乾いた亡者らの
骨浮き、皮崩れ、
開け広げた唇に音なく

〈これでもかこれでもか、〉打ち下ろす
〈これでもかこれでもか、〉打ち下ろす

肉断ち、骨砕き、
槌に染まる血汐を被り、骸らの息絶えず
よろめき立ちて、
なお万力に絡み、絞め殺しの根のごとく
引き摺る腕の
剥ぎ、刮ぐ、

明滅する糸の
啜られ朽ちゆく
焔、
火先細り
銀河もろとも拉ぐ重力の滑落に
いましも燃え尽きんと
〈明滅する、明滅する、〉
眼上げれば遠く 連なる山塊の頂に
翻る旗は真白く!
雪崩れる山道の落石に塞がれ
指先は霞む白布を…

〈これでもかこれでもか、〉打ち下ろす
〈これでもかこれでもか、〉打ち下ろす

槌に染まる血汐を被り 絶えぬ骸らの
群がる
無数の腕


窓辺の少女

  陽向

道端を見ながら歩いてると
色んなものが落ちていて
一つ一つのものが
無価値な雰囲気を漂わせている
丸い形の何かの部品を手に取り
少女はポケットに入れた

私は物かもしれない
机の上の本や引き出しの中の文房具は
何も語らない
これらに私は愛情を感じた
物である私と物の一体化

人や自然や動物が
息を吹き込んだ霊的な動く物体に見える
それに比べて物は静かだ
この静けさしか私を理解してくれるものはいない

私は生き物を感じる物はなるべくさける
顔のない身体のない物がいい
私は物なのである
来世は物に生まれたいなどと思う

外の建物の静けさを味わう為に
少女は窓をいとおしいという人間的な感情を抑えながら
いとおしそうに撫でながら窓辺に立つ


  田中恭平

 
こころに
蜜が生成されていて
おや?
と考えたが
アコースティック・ギターは
書斎にしまってあったので
トンボの鉛筆噛んだ

時計
ひとつひとつに意志があり
月はひとつじゃない
と知れた夜
ミルクの国という飴を舐めながら


味わっていた日々も
いい加減にしないとな

わたしは旅をしている。存在している
とぺソアは書いたらしい
おれの息は荒く
この繭
このへやは
こころにできた蜜を
くすぐってくれる
あは
あは
たのしいよ

一度気を失っただけで
人生すべてが滑っていってしまった
親から舐められる日々がつづく
それでもまあ
書くしかないんだ
田中書人
いいペンネームだろ

 


月の道

  かわせみ

夜の海岸線
月を追いかけ
やっと見つけた
真っ直ぐに月へ続く道
さざ波に誘われて
ふんわりふんわり渡っていく

地平線の上に
浮いている月と
ゆったり交信する
「旅はいかがでしたか」
「試されて
 生かされて
 面倒でした
 何を遺せたのか…わかりません」
「お忘れものはございませんか」
「すべて捨ててきました
 もう戻りたくはありません
 これからの旅を楽しみたいです」

わたしの魂は
夜明けに向かって
銀色の道を
潮風に吹かれながら
ふんわりふんわり渡っていく


汚濁

  り霧

僕の睫毛にはショウジョウバエが、
私の鼻頭にはホタルガが止まっている。

羽音が僕の為に鳴り
私を選んで羽を休めている

腐乱臭がするのは生きているからだ
微動だにしないのは死んでいるからだ
誰かの陰口だけが電波を借りて零される

崩壊した繭層を
焼却場の私だけが、見ている。
歪曲する喧騒を
浄水場の僕だけが、殺している。

私の鼻頭にはホタルガが、
僕の睫毛にはショウジョウバエが止まっている。

何者でもない個体を融解させながら
僕と私からは
微かに嘘の味がする


不条理と憤怒

  たこ吉

人が死んだんだって
いうと、
おまえは
薄ら笑いを
浮かべる

アザラシが撃たれた 
アザラシが死んだ

世界が
冷凍保存される日に
おまえは
見て見ぬふりを
決め込むつもりか?

山のように
積み重なった
屍を

燃えさかる
サイロに放り込んで、
恨みごと
焼き尽くす

アザラシが死んだ
痛みだけを
拾いあつめた


―――――――――
この詩は、以下のツイートよりインスピレーションを得て書かれたものです。
「アザラシが撃たれた/痛みだけを/集めていると/されていた」
https://twitter.com/tech_elephants/status/1241611172329091073?s=21


8 1/2

  ローゼ・ノイマン

俺の屍を観ながら 道化のサーカスを観ている
終わりの時 俺がいる所 天国か地獄か
訳の判らぬまま 俺はその祭りを観ている
終わりの時 俺の存る処は天国か地獄

映画の終わりの様に
バックコーラスまで流れてきた
祭りは騒ぎを増してゆく

映画の最後だというのに君がみあたらない
そんな事とは関係無くパレードは続く

俺の屍を観ながら 道化のサーカスを観ている
終わりの時 俺がいる所 天国か地獄か
訳の判らぬまま 俺はその祭りを観ている
終わりの時 俺の存る処は天国か地獄

思い出がシアター状に流れてくる
二十一世紀の夢 トム少佐の追従者

青白い光 それが君だとわかった時
俺の存在(いる)ところの意味を理解した

俺の屍を観ながら 道化のサーカスは行く
終わり時 俺の存るは 天国でも地獄でもない
青白い君と一緒に映画の終わりがやってくる
青白い君と一緒に映画の終わりがやってくる

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注解

*8 1/2
フェデリコ・フェリーニの
同名映画8 1/2('63)のより着想を得る。

*トム少佐
David BowieがSpace Oddityの曲中で演じた宇宙飛行士
Ash to Ashの曲中ではただのヤク中と扱われる。


現金出納帳

  つぐみや

狛犬に麦チョコをあげれば黙ると聞いた
人中を中心に耳骨に点を取り円を書く
卓袱台をひっくり返すように回り続ける
さすれば裸体のコノハチョウ達が一斉に飛び立った
残された歯形の付いたガラスに火を付ける

タイピング音を垂れ流すラジオに爪垢を擦り付ける
拮抗する睡魔と洗濯機の戦いに烏が落ちてくる
精米された延長コードの泣き笑いをカーテンで包みこむ私は
人中に縫い付けられた昆布を
目玉がアメジストのザリガニを焼いた水蒸気にさらしてだしを取る

8ページ先の直下型地震にマネキンたちが喜びのポーズを取り始める
完結するに値しない劣悪なイルカショーに卓袱台をひっくり返す
私の広辞苑はあの春の薬剤師と駆け落ちした時からめくられていない

狛犬さんに麦チョコをあげると歩くのを止めるらしい

文学極道

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