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2015年10月分

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一四年十三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一四年十三月一日 「宝塚」 


18、9のとき
ひとりで見に行ってた
目のグリーンの子供と母親
外国人だった
子供は12、3歳かな
きれいな髪の男の子だった
母親は栗色の髪の毛の、34、5歳かな
宝塚大劇場に、ひとりで行ってたとき
ときどき行ってたんだよ
斜め前の席に坐ってた子供が
自分に近い方に
宝塚の街のことは、隅から隅まで知っていた
いろんなところ、ぶらぶらしてた
あれから何10年経ったろう
もしいま宝塚の街を歩いてみたら
ぼくの傍らをすれちがっていく
笑い声に出会うだろう
それはたぶん
きっと
あの宝塚の街を通りすぎていく
風だったのだろう


二〇一四年十三月二日 「さつき」


22、3のときのことだった
ぼくの住んでいた長屋の斜め向かいの家の
女の子
11歳
(男の子3人と、女の子1人なので、あずかっていた。寝泊りしていた。)
この子と、向かいのスナックのママの娘
12歳
この2人を連れて
あるさつきの季節に
夕方
東山の霊山観音のぐるり
前いっぱいにライトアップされていた
さつきが咲き乱れていた
この光景は、1生忘れないでおこうと、こころに誓った


二〇一四年十三月三日 「靴」 


27のとき
忍び逢い
という名前のスナックを経営していた
そのとき
京都女子大学の女学生と知り合った
その女子学生は
店に聖書を売りにきたのだった
気のいい女の子で、2人で食事をしたり、喫茶店で話をしたり
デートした
この子が、自分の近所の17の女の子を
ある日、連れてきた
その娘も、めちゃくちゃかわいい女の子だった
名前はたしか優ちゃんだった
芦屋に住んでいるのだが、きょうは京都に遊びに来たの、っていう
3人で南禅寺に行った
南禅寺の山門をくぐりぬけて
50メートルほど行くと
お滝に上がる山道がある
山門の入り口に第2疎水のコンクリートの土台があって
(グリーンのレンガ貼り)
ハイヒールの中に入っていた小石をとるのに
片手を、その土台において
立ったまま
ぱっぱっと
その小石を落とした
片方の靴のかかとから
ぼくが見つめているのに気づくと
とても恥ずかしそうな顔をして見せた
そうだ
あの娘の表情も
けっして忘れはしないと
ぼくは、こころに誓ったのだ
優ちゃん
真っ赤な麦藁帽子と
白い薔薇模様のワンピース
だけど、あのときの靴の色は忘れてしまった
真っ赤な麦藁帽子と
白い薔薇模様のワンピース
これは覚えているのに
あの娘の恥ずかしげな顔とともに
だけど、あのときの靴の色は忘れてしまった


二〇一四年十三月四日 「風景は成熟することを拒否する」


皮膚にまといついた言葉を引き剥がそう
詩人に要請されることは、ほかには何もない
皮膚にまといついた言葉を引き剥がすこと以外に
こころみに、ぼくの皮膚についた言葉を引き剥がそう
10歳のときの記憶の1つが、雲を映す影となって地面を這っている
こころもち、雨が降った日の水溜りに似ていないとも言えない
風景は成熟することを拒否する

詩人は自分をその場所に置いて
自分自身を眺めた
まるで物でも眺めるように


二〇一四年十三月五日 「時間と空間」


ぼくたちが時間や空間を所有しているのではなく
時間や空間がぼくたちを所有しているのである
ぼくたちが出来事を所有しているのではなく
出来事がぼくたちを所有しているように。

ぼくたちが過去を思い出すとき
ぼくたちが過去を引き寄せるのではない。
過去がぼくたちを引き寄せるのである。
過去がぼくたちを思い出すために。


二〇一四年十三月六日 「偉大さと、卑小さ」


詩人がなぜ過去の偉大な詩人や作家に
詩人にとって偉大であると思われる詩人や作家に云々しているのか
いぶかしむ人がいるが
そんなことは当たり前で
卑小な人間の魂に学べることは、卑小な人間について学べることだけだからである
偉大な人間の魂の中には、卑小な人間の魂も存在しているのである

詩人は学び尽くさなければならないのだ
生きているあいだに

いや、違うかな。
かつて、親しかった歌人の林 和清ちゃんが
ぼくにこんなことを言った。
「どんなひとからも学べるのが、才能やと思うで。」
「おれは、むしろ、ふつうのひとがすることから、いっぱい学んでるで。」
って。
そうかもしれない。
でも、自分がぜんぜん共感できない詩人や作家の作品から学ぶことなんかできるんやろか。
ほんとうに才能のあるひとにならできるのかもしれないな。
卑小なこと、つまらないことからでも学べるのが才能なのかもしれないな。
だとすると、世のなかには、卑小なことも、つまらないこともないっていうことなのかな。
そういえば、日常のささいなことが
とげのように突き刺さって痛いってことが、しょっちゅうあるものね。
「偉大さと、卑小さ」か。
浅く考えてたな。


二〇一四年十三月七日 「ぼくたちが認め合うことができるのは」 


ぼくたちが認め合うことができるのは
お互いの傷口だけだ
何か普通とは異なっているところ
しかもどこかに隠したがっているような様子が見えるもの
そんなものにしか
ぼくたちの目は惹かれない
それくらい
ぼくたちは疲弊しているのだ


二〇一四年十三月八日 「言葉も、人も」


言葉も
人も
苛まれ
苦しめられて
より豊かになる
まるで折れた骨が太くなるように


二〇一四年十三月九日 「ポスト」 


彼女は
その手紙を書いたあと
投函するために外に出た
ポストのところまで
少し距離があったので
彼女は顔の化粧を整えた
(これは、あくまでも文末の印象の効果のために、あとで付け加えられたものである。
 削除してもよい。)
彼女は
その手紙に似ていなかった
彼女は
その手紙の文字にぜんぜん似ていなかった
その手紙に書かれたいかなる文字にも似ていなかった
点や丸といったものにも
数字や記号にも
彼女がその手紙に書いたいかなるものにも
彼女は似ていなかった
しかし
似ていないことにかけては
ポストも負けてはいなかった
ポストは
彼女に似ていなかった
彼女に似ていないばかりではなく
彼女の妹にも似ていなかった
しかも
4日前に死んだ彼女の祖母にも似ていなかったし
いま彼女に追いつこうとして
スカートも履かずに玄関を走り出てきた
彼女の母親にもまったく似ていなかった
もしかしたら
スカートを履くのを忘れてなければ
少しは似ていたのかもしれないのだけれど
それはだれにもわからないことだった
彼女の母親は
けっしてスカートを履かない植木鉢だったからである
植木鉢は
元来スカートを履かないものだからである
母親の剥き出しの下半身が
ポストのボディに色を添えた
彼女はポストから手を出すと
家に戻るために
外に出た


二〇一四年十三月十日 「ハンカチの笑劇」


オセロウは
イアーゴウがいなくても
デズデモウナを疑ったのではないか?
さまざまな冒険が
その体験が
オセロウをして想像豊かな
極めて想像豊かな人間にしたはずである
「ハンカチの笑劇」
想像はたやすく妄想に変わる

巣に戻った鳥が
水辺の景色を思い出す

愛によって形成されたものは
愛がなくなれば
なくなってしまうものだ
「なにがしかの痕跡を残しはするのだろうけれど。」
そう言うと
この詩人は自分の言葉の後ろに隠れた
隠れたつもりになった


二〇一四年十三日十一日 「死んだあと」


死んだあと
どうするか
動かさなくてはならない
ひとりひとり別の力で
ひとりひとり別の方法で
人間以外のもろもろのものも
動かさなくてはならない
ひとつひとつ別の力で
ひとつひとつ別の方法で
いっしょにではなく
ひとつひとつ別々に
とりわけ両親の死体が問題である
死んだあとも
動かさなくてはならない
そいつは
何度も死んで
すっかり重たくなった死体だが


二〇一四年十三月十二日 「音楽」


すべての芸術が音楽にあこがれると言ったのは
だれだったろうか?
たしかに
音楽には
他の芸術が持たない
純粋性や透明性といったものがある
しかし
ただひとつ
ぼくが音楽について不満なのは
音楽は反省的ではないということだ
じっさい
どんなにすばらしい音楽でも
ぜんぜん反省的ではない
他の芸術には
ぼくたちに
ぼくたちの内面を見るように仕向けさせる作用がある
しかし
それにしても
音楽というものは
それがどんなにすぐれたものであっても
ちっとも反省させてはくれないものである


二〇一四年十三月十三日 「書き改めてなかった」


2、30年くらい前のことだけど
『サッフォーの詩と生涯』という本のなかで
引用されていたエリオットの詩の原文にコンマだったかピリオドが抜けていることと
あきらかにサッフォーの影響のあるバイロンの詩句について
なぜ書かれなかったのですかって
著者の沓掛良彦さんに、直接、手紙を出して訊ねたことがあって
1ヵ月後に、ご本人から丁寧な返事をいただけて
なんとか気を落ち着かせたことがある
再刷りするときに書き改めるということだったけど
きょう、ジュンク堂で見てきたのだけど、書き改めてなかった
執筆中にご病気で
メモでは、そのバイロンの詩句も書いてらっしゃったらしく
外国の研究者で
ぼくが指摘した箇所を指摘した方がいらっしゃって
沓掛さんも書くつもりだったらしいのだけれど
体調を崩されて
書くのを忘れられたとのことだった
「あなたは英文学の研究生ですか。」
と書かれてあったので
「いいえ、工学部出身です。」
と返事を出した
批判したかったら、直接、相手に手紙を出す時代が
ぼくにもあったんやね
いまは
しなくなった


二〇一四年十三月十四日 「ママ」


ぼくが子どもだったころね
よく言われたことがある
あんまり長い時間
ママを見てはいけませんって
ママを見る権利をパパがいるときにはほとんど独り占めしてたから
ぼくが自由にママを見れたのは
パパがいないときに限ってた
お兄ちゃんといっしょになって
ママを見てた
パパがいないときに
ママの鼻をつまんで
ぐにぐに
ぐにぐにひねって
ママのあげる美しい悲鳴を聞いてた
ママの声は
ぼくの耳にとても気持ちよくって
ぼくとお兄ちゃんはママの鼻をぐにぐに
ぐにぐにひねって
ママはぶひぶひ
ぶひぶひ
きれいな声で歌ってくれた
あるとき
ぼくとお兄ちゃんがママの鼻がちぎれるぐらいに
思い切りひねっていたときに
突然
パパが帰ってきたからびっくりしたことがあったのだけれど
ママは
真っ赤になった鼻を押さえて
トイレにかけこんで
鼻がふつうの色に戻るまで出てこなかった
パパには
ママがおなかが痛いって言ってたよ
って
ぼくが言っておいた
パパがはやくママに飽きてくれたらいいのになって
ぼくはいつも思ってた
ぼくが子どもだったときのことね
いま
ぼくは大人になって
ママだけじゃなくて
パパのことも見てる
お兄ちゃんが死んで
ママもパパも
いまじゃ
ぼくだけのものだから
お湯がたまったみたいだ
お風呂から上がったら
ママとパパの鼻をひねって
ママとパパの苦しむ顔を見ようっと
うっちっち
ニコッ


二〇一四年十三月十五日 「うんこ臭い」


クリーニング店に行くの忘れてて
明日はいてくスラックスがない
クリーニング店がもっと近くだったら
よいのに

これから洗濯
うううん
もう預けてて1週間以上になるな
取りに行くのが
うんこ臭い
取りに行くのうんこ臭い
うん国際
うん国際地下シネマ
って
えいちゃん
背中にかいた薔薇の字が
自我
自我んだ
違った
自我った
スクリーン
ひざ






二〇一四年十三月十六日 「本」


本は
本の海の中で育つ
卵から帰った本は
他の本を食べて
だんだん成長する
本は本を食べて
肥え太る
本は
本の父と
本の母の間で生まれた
本は
本の浜辺で生まれてすぐに
本の海を目指す
本能からなんだと思う
自分がどこからきて
どこへ行くべきなのか
知っている
つぎつぎと本の子どもたちが
砂浜から這い出てくる


二〇一四年十三月十七日 「人生は映画のようにすばらしい。」


dioの印刷の途中で
昼ごはんを食べに行ったのだけれど
京大の近くの「東京ラーメン」という
ふつうのラーメンで400円という値段のところで
おいしくて有名らしいのだけれど
そこでご飯を食べて
また京大にもどって印刷の続きをしたのだけれど
帰りに
キャンパスに入ったところで
大谷くんが
綾小路くんに
DX東寺というストリップ劇場の無料招待券を渡した
綾小路くんが「これ、なんですか?」と訊くと
「山本さんが
 それくれたんだけどね。」
「ええ?
 大谷さんが行ったらいいじゃないですか?」
「おれ
 いっつも断ってるねん。」
「大谷さんがもらったんじゃないんですか?」
「違うねん。
 これ
 このあいだのぼんに渡してくれって言われたんや。」
「ぼんて
 ナンですか?」
「「ぼん」て
 若い男のことを
 そう言うんや。
 だれでも
 あのひとは「ぼん」て言うんや。」
「そうなんですか。
 でも
 大谷さんが行けばいいじゃないですか。」
「おれ
 彼女
 いてるし
 行けへんやろ。」
「ええ!
 ぼくが行くんですか?」
綾小路くんの手のなかのチケットを取り上げて
ぼくが「DX東寺・招待券」という文字を確かめてから
綾小路くんの手に戻して
「行ったらええんとちゃう?
 綾小路くん
 行ったら
 綾小路くんの文学や哲学が深くなるで。
 裸で勝負してる人間を見るんや
 きっと
 綾小路くんが大きくなるで
 あそこも
 こころもな。」
「そうですか?」
「そうや。」
「じゃあ、
 もらっておきます。
 でも行かなくてもいいんですよね?」
「そら好きなようにしたら
 ええけどな。
 行ったら
 綾小路くんが
 深くなるで。」
と言ってから
ぼくは
大谷くんに
「ねえ
 ねえ
 大谷くん
 その山本さんて
 何者?」
って訊くと
「いつも行く居酒屋さんでしょっちゅういっしょに飲んでる
 元ヤクザの人なんです」
「へえ
 その人
 いいひとなんやなあ。」
とぼくが言ったら
「いまは
 いいひとですよ。」
「その飲み屋って
 どこにあるの?」
「ぼくの住んでるマンションの前。」
「どんな店?」
「食べ物
 なんでも300円なんですよ。」
「へえ
 おいしいの?」
「おいしいですよ。」
「そやけど
 そのひととの関わりなんて
 なんか
 青春モノの映画みたいやなあ。
 いや
 人生が映画のようにすばらしいのか?
 うん
 人生は映画のようにすばらしい。
 あるいは
 映画は人生のようにすばらしい
 か。
 まあ
 どっちでもええけど
 どっちかのタイトルでミクシィの日記にでも書いとこうっと。」
ってなことを言いながら
印刷の場所にもどって
作業の続きをしていた

印刷は終わってたのか
そうだ
紙を折る作業に入ったのだ
借りていた教室で
総勢7人で
紙折り作業をして
最後にホッチキス止めが終わったのが5時40分くらいで
そこから
みんなで
「リンゴ」という店に行って打ち上げをしたのだった
土曜日のことだった
うん
うんうん
「人生は映画のようにすばらしい。」


二〇一四年十三月十八日 「三日後に死ぬとしたら」



死んだ父親に起こされたから
3日後に死ぬとしたら
どうする?
って
きのう、リンゴで
雪野くんと
荒木くんに訊いたんだけど

この荒木くんは
言語実験工房の荒木くんと違うほうの
小説を書くお医者さんで

その2人は
それぞれ
「ぼく考えたことないです。
 わかりません。」
「ぼくはとりあえず田舎に帰るかなあ。」
やった
ぼくはいつ死んでもいいように
そのときそのとき書けるベストの作品を書いてるつもりだから
「本読んでると思うわ。」
と言った
じっさい
読んでないのが
まだ400冊くらい部屋にあるので
そのなかから
ピックアップして
読んでいくと思う
でも2人とも考えたことがないっていうのは
ぼくには不思議やったなあ


二〇一四年十三月十九日 「すべての人間はソクラテスである」


セックスを愛だと思ってる人は少ないかもしれないけれど
愛をセックスだと思っている人はもっと少ないと思う
セックス=愛
愛=セックス
数式のように書いたら
同じように思えるかもしれないけれど
数式としてもっと厳密に見ると
この2つの式が異なる内容を表わしていることがわかる
1+1=2
だけど
2=1+1
だけじゃないやん
3マイナス1だって2だし
7マイナス5だって2だし
マイナス4プラス6だって2だしねえ
いや
絶対的に
2=1+1だけだったりして



でも
たとえば
考えてみてよ
ソクラテスは人間だけど
人間はソクラテスじゃないものね
うん
いやいや
これも
案外
すべての人間はソクラテスかもしんないぞ
ソクラテスがすべての人間であるように
てか

まあ
ソクラテスって名前の犬とか
ソクラテスって名前のパソコンとかなんてのは
なしにしてね
ふぎゃ


二〇一四年十三月二十日 「Street Life。」


むかし書いた詩があって
それは
ワープロ時代に書いたもので
1時期
自暴自棄になってたときがあって
ワープロに書いたぼくの詩を
『みんな、きみのことが好きだった。』と『Forest。』に
収録したもの以外みんな捨てたんだけど
原稿用紙にして2枚くらいの短い詩で
『Street Life。』というタイトルで書いたものがあって
それは
どちらにも収録するのを忘れてて
でも
とても気に入ってたんだけれど
手元に
それが収録された同人誌がなくて
というのは
ぼくは
自分の書いた詩が載ってる本を
よくひとにあげちゃうからなんだけど
そういうわけで
内容は覚えているんだけど
正確には思い出せなくて

それを思い出す
という作業を
散文スタイルで書いてみようと思っているわけ
「ぼく」と「中国人の青年」の話なんだけど
ソープランドの支配人をしていた26歳の青年と
ぼくとが出会って
彼の初体験(もちろん男)の話と
バイセクシャルである彼のセックスライフにからませて
ぼくが何度も自殺するという内容で
自殺するのだけれど
死ねなくて
水に顔をつけても呼吸しちゃうし
手首を切っても
すぐにもとにもどっちゃうし
飛び降りて
ぐちゃぐちゃになっても
すぐにもとにもどっちゃうし
という感じで現実の彼の話と
シュールな場面が交互につづくんだけど
フレーズが正確に思い出せないのが
ほんとに残念で

今回
書こうと思うのは
「なぜ
 その青年のことを書こうと思ったのか。」
「その青年の話をそのまま書き写しただけなのに
 なぜ
 その青年の存在が、ぼくにとって
 いまだにリアルなのか。」
「ぼくがなぜ何度も死んで生き返るのか。」
「これらふたつのことで何が表現したかったのか。」
といったことを自己分析しながら書こうと思っているのだけれど
うまくいくかどうか


二〇一四年十三月二十一日 「ちょっといい感じ」


さっき聴いた曲がちょっといい感じ
その分厚い胸に頭をもたげて
話をしていた
ヒロくんの言葉を思い出していた
ぼくのおなかをさわりながら
「この腐りかけの肉がええねん。」
「腐りかけの肉って、どういう意味やねん?」
「新鮮な肉の反対や。」
好きなこと言ってるなあって思った
その分厚い胸に頭をもたげて
話をしていた
「背中とか、頭とか
 さわられるのが好きやねん。」
「みんな、そうなんちゃう?」
おなかの肉をつまんだり
さすったりしながら
「こうして、さわってるのが好きかな。」
「ぼくはさわられるのが好きやし
 あっちゃんは、さわってるのが好きなんやから
 ちょうどええな。」
うん? 
そ?
そかな?
「そんなに、このおなかが好き?」
「好きかも。」
「顔もかわいいしな。」
「めっちゃ、生意気!」
もたげてた頭を起こして目を見る
笑ってた。
ぼくも笑った
この生意気さ
ヒロくんと、どっこいどっこいやなあ、って思った
すぐに夢中になっちゃいけないと
こころに向かって言う
まだまだ
ぼくは傷つくことができるのだから
その分厚い胸に頭をもたげて
話をしていた
ぼくと同じように
彼の胸もドキドキしてた
さいしょ
近づくのもこわかったのも
ぼくよりずっと年下なのも
双子座なのも
ヒロくんといっしょ
O型やけど
好きになったら
どうしようって感じ
うまくいきそうになったら
うまくいかなかったときのことが思い起こされる
ぼくの目を見ないようにしゃべってた
ぼくが横を向いたら
ぼくの顔を見てた
たくさんしゃべったのに
まだしゃべりたりないって感じで
でも
決定的なことは
何も言わなかった
何度も顔を見つめ合いながら
離れていった
微妙で不思議な時間だった
はっきり言わない
ううううん
人間の魅力って
ほんと
さまざま


二〇一四年十三月二十二日 「シェイクスピアについて」


エンプソンの『曖昧の七つの型』(岩崎宗治訳)上巻の終わりのほう、372ページの後半から引用すると、

(…)シェイクスピアは、たえず身の危険と戸惑いを感じていたにちがいない。彼自身はこういう政治状況からくるものをうまくかわしていたらしいが、仲間のしくじりのために罰金を払わせられた。ベン・ジョンソンがカトリック信仰と反逆罪の廉で逮捕される少し前、シェイクスピアは宮廷でジョンソン作の『セジェイナス』の上演に俳優として参加していたのである。(…)

好きな詩人や作家について、知らなかったことを知ることのできた喜びは大きい。シェイクスピアが、ペストの流行のせいでロンドンから離れなければならなかったことや、政治的に後ろ盾になっていた人物が反逆罪でつかまったりしたのは知ってたけれど、ベン・ジョンソンとのかかわりについては、それほど知らなかったので、まあ、弔辞を読んだ人だったかな、同時期の作家か先輩の作家だったと思うけれど、追悼の言葉くらいしか知らなかったので、なんだか、得した気分。あるいは、もしかしたら、過去に、ほかで読んでて忘れてることかもしれないけど、笑。忘れてて、思い出すことも喜びだしね。

エンプソンの引用する詩句の多くがシェイクスピアであるのが、うれしい。ときおり混ざる他の作家や詩人の作品の引用も楽しい。上巻、あと少しで終わり。

きょうは、ずっと韓国映画と、韓国ドラマと、エンプソンの詩論集に。

韓国映画とか韓国ドラマとかに、ここまではまるとは思ってなかったので、とても意外で面白い。キム・イングォンの最新作があって、そこでの画像がネットで手に入れられたので、さっそく保存しておいた。どの画像も、ぼくのこころを穏やかにする。イングォンくんって、じっさいには、繊細で、とても傷つきやすいひとであるような気はするけれど、こんどの映画の役柄は、無職のちょっとヤンチャなお兄さんって感じかな。子どもといっしょに映ってる写真なんて、ほんとに、ほっとさせられる。

ひとの気持ちを穏やかにさせる、そんな詩って、めったにないけど、そやなあ。ジャムの詩くらいかな。しかも2つくらいしかあらへんし。エンプソンの詩論、最後の七番目の型、論理学でいうところの矛盾律を利用したもの。しかしこれって、いつも思うのだけれど、排他律と同1律の応用でもある。まあ、エンプソンは、それを「曖昧」という言葉にしているのだけれど。そういえば、対立する意味概念の同時生起って、ぼくが『舞姫。』で書いた「過去時制」と「未来時制」の同時生起に似ていて面白い。孫引きのフロイトの論文に、未開人の言語に、対立する意味概念の1語への圧縮例が出てくるのだけれど、これって、ピポ族の無時制言語に比較できるかなって思った。ただし、エンプソンは、未開という概念ではなく、対立する意味概念の1語への圧縮を「繊細さ」と捉えているようだけど、ぼくも、リゲル星人の言語を「時制のない言語」、「名詞と助詞のみでできている言語(動名詞句を含む)」にするつもりなので、この最後の七番目の章はじっくり読んでいる。英語が苦手なぼくには、ときどきはさまれる引用の原著部分が、ちょっととしんどいかな。そんなに構文は難しくないけど、ああ、詩は、こうやって訳すのねって、勉強にもなるのだけれど。

イングォンくん、勝ちゃんに似てるんだよなあ。だから、画像をながめてると、せつないのかなあ。

エンプソンの詩論集、読み終わった。読んでるときにはそれなりに楽しめたけど、内容は、そんなに得るものがなくて。まあ、いちおう、有名な本だから読んどく必要はあったけど、読んでた時間がもったいなかったかも。さて、つぎは、なにを読もうかな。


二〇一四年十三月二十三日 「きなこ」


きょう
日知庵で飲んでいると
作家の先生と、奥さまがいらっしゃって
それでいっしょに飲むことになって
いっしょに飲んでいたのだけれど
その先生の言葉で
いちばん印象的だったのは
「過去のことを書いていても
 それは単なる思い出ではなくってね。
 いまのことにつながるものなんですよ。」
というものだった。
ぼくがすかさず
「いまのことにつながることというよりも
 いま、そのものですね。
 作家に過去などないでしょう。
 詩人にも過去などありませんから。
 あるいは、すべてが過去。
 いまも過去。
 おそらくは未来も過去でしょう。
 作家や詩人にとっては
 いまのこの瞬間すらも、すでにして過去なのですから。」
と言うと
「さすが理論家のあっちゃんやね。」
というお言葉が。
しかし、ぼくは理論家ではなく
むしろ、いかなる理論をも懐疑的に考えている者と
自分のことを思っていたので
「いや、理論家じゃないですよ。
 先生と同じく、きわめて抒情的な人間です。」
と返事した。
いまはむかし。
むかしはいま。
って大岡さんの詩句にあったけど。
もとは古典にもあったような気がする。
なんやったか忘れたけど。
きなこ。
稀な子。
「あっちゃん、好きやわあ。」
先生にそう言われて、とても恐縮したのだけれど
「ありがとうございます。」
という硬い口調でしか返答できない自分に、ちょっと傷つく。
自分でつけた傷で、鈍い痛みではあったのだけれど
生まれ持った性格に起因するものでもあるように思い
こころのなかで、しゅんとなった。
表情には出していなかったつもりだが、たぶん、出ていただろう。
もちろん
人間的に「好き」ってだけで
ぜんぜん恋愛対象じゃないけれど。
お互いにね、笑。
先生、ノンケだし。
60歳過ぎてるし、笑。
ぼくは、年下のガチムチのやんちゃな感じの子が好きだし、笑。
きなこ。
稀な子。
勝ちゃんの言葉が何度もよみがえる。
しじゅう聞こえる。
「ぼく、疑り深いんやで。」
ぼくは疑り深くない。
むしろ信じやすいような気がする。
「ぼく、疑り深いんやで。」
勝ちゃんは何度もそう口にした。
なんで何度もそう言うんやろうと思うた。
1ヶ月以上も前のことやけど
日知庵で飲んでたら
来てくれて
それから2人はじゃんじゃん飲んで
酔っぱらって
大黒に行って
飲んで
笑って
さらに酔っぱらって

タクシーで帰ろうと思って
木屋町通りにとまってるタクシーのところに近づくと
勝ちゃんが
「もう少しいっしょにいたいんや。
 歩こ。」
と言うので
ぼくもうれしくなって
もちろん
つぎの日
2人とも仕事があったのだけれど
真夜中の2時ごろ
勝ちゃんと
4条通りを東から西へ
木屋町通りから
大宮通りか中新道通りまで
ふたりで
手をつなぎながら歩いた記憶が
ぼくには宝物。
大宮の交差点で
手をつないでるぼくらに
不良っぽい2人組の青年から
「このへんに何々家ってないですか?」
とたずねられた。
不良の2人はいい笑顔やった。
何々がなにか、忘れちゃったけれど
勝ちゃんが
「わからへんわ。
 すまん。」
とか大きな声で言った記憶がある。
大きな声で、というところが
ぼくは大好きだ。
ぼくら、2人ともヨッパのおじさんやったけど
不良の2人に、さわやかに
「ありがとうございます。
 すいませんでした。」
って言われて、面白かった。
なんせ、ぼくら2人とも
ヨッパのおじさんで
大声で笑いながら手をつないで
また歩き出したんやもんな。
べつの日
はじめて2人でいっしょに飲みに行った日
西院の「情熱ホルモン!」やったけど
あんなに、ドキドキして
食べたり飲んだりしたのは
たぶん、生まれてはじめて。
お店いっぱいで
30分くらい
嵐電の路面電車の停留所のところで
タバコして店からの電話を待ってるあいだも
初デートや
と思うて
ぼくはドキドキしてた。
勝ちゃんも、ドキドキしてくれてたかな。
してくれてたと思う。
ほんとに楽しかった。
また行こうね。
きなこ。
稀な子。
ぼくたちは
間違い?
間違ってないよね。
このあいだ
エレベーターのなかで
ふたりっきりのとき
チューしたことも
めっちゃドキドキやったけど
ぼくは
勝ちゃん


二〇一四年十三月二十四日 「世界にはただ1冊の書物しかない。」


「世界にはただ1冊の書物しかない。」
と書いてたのは、マラルメだったと思うんだけど
これって
どの書物に目を通しても
「読み手はただ自分自身をそこに見出すことしかできない。」
ってとると
ぼくたちは無数の書物となった
無数の自分自身に出会うってことだろうか。
しかし、その無数の自分は、同時にただひとりの自分でもあるわけで
したがって、世界には、ただひとりの人間しかいないということになるのかな。
細部を見る目は貧しい。
ありふれた事物が希有なものとなる。
交わされた言葉は、わたしたちよりも永遠に近い。
見慣れたものが見慣れぬものとなる。
それもそのうちに、ありふれた、見慣れたものとなる。
もう愛を求める必要などなくなってしまった。
なぜなら、ぼく自身が愛になってしまったのだから。
愛する理由と、愛そのものとは区別されなければならないわけだけれども。


二〇一四年十三月二十五日 「ダイスをころがせ」


ローリング・ストーンズの「ダイスをころがせ」を聞いたのは
中学1年生の時のことだった
かな
かなかな
同級生の女の子がストーンズが好きで
その子の家に遊びに行ったとき
ダイスをころがせ、がかかってた
ぼくと同じ苗字の女の子だった
名前は、かなちゃんって呼んでたかな
忘れた
たぶん、かなちゃん
で、ストーンズの歌は、ぼくには、へたな歌に聞こえた
だって、家では、ビートルズやカーペンターズや
ザ・ピーナッツとか
つなき&みどりだとか
ロス・アラモスだとか
マロだとか
ミッシェル・ポルナレフだとか
シルビー・バルタンだとか
そんなんばっか
かかってたんだもん
親の趣味のせいにするのは、子供の癖です
パンナコッタ、どんなこった
チチ
マルコはもう迷わないだろう
あらゆる皮膚についた言葉を引き剥がそう
ダイスをころがせは、いまでは、ぼくのマイ・フェバリット・ソングだす
大学のときは、リンダ・ロンシュタットが(ドかな)歌ってた
デスパレイドも歌ってたなあ
ピッ
パンナコッタ、どんなこった
どんなん起こった?
チチ
もうマルコは迷うことはないだろう。
迷ってた?
パンナコッタ、どんなこった
どんなん起こった?
チチ
もうマルコは迷うことはないだろう
迷ってた
3脚台
ガスバーナー
窓ガラス
水滴
水滴に映った教室の風景
窓ガラス

マルコはもう迷うことはないだろう
迷ってたのは、自分のつくった地図の上だ
自分のまわりに木切れで引っかいた傷のような地図の上だ
3脚台
トリポッド
かわいい表紙なので、ついつい買っちまったよ
で、こんなこと考えた
ある日、博士が
(うううん、M博士ってすると、星さんだね)
軽金属でできた3本の棒の端っこを同時に指でつまんだら
それがひょいと持ち上がって
3角錐の形になったんだって
で、博士が指でさわると、その瞬間に歩き出したんだって
さわると、っていうか、さわろうとして手を近づけただけっていうんだけど
で、その3角錐のべき線の形になった3本の棒についていろいろ調べると
その3本の棒の太さと長さの比率がいっしょなら
どんな材質の棒でも、3本あれば、そんな3角錐ができるんだって
て、いうか、もうそれは過去の話です。笑
いまでは、荷物運びに、その3本の棒が大活躍してますし
その3本の棒の上にトレイをのっけると
テーブルの上で
ひょこひょこ動くんです
お肉を上にのっけると
さわろうとするだけで
テーブルの上のホットプレートの上に
お肉を運んで
ジュ
頭を下げて
ジュ
かわいい
ジュ
ペットの代わりに、3本の棒をひょこひょこさせるのが大流行
町中、3本の棒が、たくさんの人のうしろからひょこひょこついてっちゃう
で、ジュ
で、ジュ
パンナコッタ、どんなこった
チチ
マルコはもう迷わないだろう
迷ってた?
迷ってたかも
パンナコッタ、どんなこった


二〇一四年十三月二十六日 「耳遺体」


ダン・シモンズの
『夜更けのエントロピー』をまだ読んでなかったことを思い出した
『愛死』を読んでたから、いいかなって思って、ほっぽらかしてたんだけど
やっぱ読もうかな
ハヤカワ文庫の『幻想と怪奇 3巻』
読み終わってみて、ちと、あれかなって思った
創元のゾンビのアンソロジーの面白さにくらべたら
ちと、かな

通勤のときと
部屋で読むのとは別々にしてるんだけど
マイケル・スワンウィックの『大潮の道』のような作品が読みたい
『ヒーザーン』読めばいいかな
これから、耳のクリーニング
ブラッドベリの『死人使い』というのを読んだ
いろいろなところに引き合いに出される作品なので
内容は知ってたけれど
やっぱりちとエグイ
耳遺体
耳痛い
耳遺体
ブルー・ベルベットや
ぼくの『陽の埋葬』が思い出される
花遺体
じゃない
鼻遺体は、うつくしくないね
鼻より耳の方が
部分として美しいということなのかな
以前に詩に書いたことがあったけど

理由は書いてないか。
小刻みに震える
耳遺体
ハチドリのように
ピキピキ
ピキピキ
メイク・ユー・シック!
愛は僕らをひきよせる
と書いたのは
ジョン・ダン
と言っても
高松雄一さんの訳で
わずらわしいバカでも
わかる詩句だけど
愛する対象が人間たちを動かす
って
言ったのは
ヴァレリーね
って
佐藤昭夫さんの訳だけど
ぼくの知性は天邪鬼で
いつでも
その反対物を想起させる
あらゆる非存在が
存在を想起させるように
通勤電車のなかで思いついた
昨年の2月8日と書いてある
詩は思い出す
かつて自分がひとに必要とされていたことを
詩は思い出す
たくさんのひとたちのこころを慰めてきたことを
詩は思い出す
そのたくさんのひとたちが
やがて小説や音楽や映画に慰めを見出したことを
しかし
それでも
詩は思い出す
ごくわずかなひとだけど
詩に慰めを求めるひとたちがいることを
って
うううん
バカみたいなメモだすなあ
2004年4月15日のメモ
ぼくもしっかり働きに行かなければ!


二〇一四年十三月二十七日 「破壊の喜び」


ダン・シモンズの『死は快楽』のなかにある
「プライドや憎しみや、愛の苦しみ、破壊の喜び」(小梨 直訳)
という言葉を読んで
ぼくの詩集『The Wasteless Land.II』の41ページと42ページにある
「虚栄心のためだった」という言葉に誤りがあったことに気づいた
いや誤りと言うよりは
あれは故意の嘘であったのだ
ぼくのほうから別れを告げたのは
じつは虚栄心のためというよりも
意地の悪い軽率なぼくのこころのなせる仕業だった
冷酷で未熟なぼくの精神のなせる仕業だったのだ
ぼくが別れを告げればどういう表情をするのか
どういう反応を示すのか
子供が昆虫や小動物を痛めつけて
強烈な反応を期待するかのように
幼稚な好奇心を発揮したということなのだ
「破壊の喜び」
ダン・シモンズの言葉は
ときおりこころに突き刺さる
真実の一端に触れるからである
「虚栄心のためだった」というのは虚偽である
ぼく自身に偽る言葉だった
「破壊する喜び」
なんと未熟で幼稚なこころの持ち主だったのだろう
ダン・シモンズのこの言葉を読んだのが
数日前のことだった
あの文章を書いていたときには
「虚栄心のためだった」という言葉で
当時の自分のこころを分析したつもりになっていた
「破壊の喜び」という言葉を読んでしまったいま
あの文章の「虚栄心のためだった」という箇所には
はなはだしい偽りがあると思わざるを得ない
いやこれもまた後付けの印象なのか
「虚栄心のため」というのも偽りではなかったかもしれない
「破壊の喜び」という言葉があまりに強烈に突き刺さったために
その強烈な印象に圧倒されて
より適切な表現を目の当たりにして
自分の言葉に真実らしさを感じられなくなったのかもしれない
とすると
すぐれた作家のすぐれた表現に出合ったということなのであって
自分の文章表現が劣っていたという事実に
驚かされてしまったということなのかもしれない
「破壊の喜び」
未熟で幼稚な
いや
未熟で幼稚な精神の持ち主だけが
「破壊の喜び」を感じるのだろうか
どの恋の瞬間にも
「破壊の喜び」が挟み込まれる可能性があるのではないだろうか
ぼく以外の人間にも
恋のさなかに「破壊の喜び」を見出してしまって
とんでもない結果を招いた者がいるのではないだろうか
1生の間に
恋は1度だけ
ぼくはそう思っている
その1度の恋に
取り返しのつかない傷をつけてしまうというのは
そんなにめずらしいことではないのかもしれない
「破壊の喜び」
未熟で幼稚な精神の

いま言える自分がここにいる
当時の自分をより真実に近い場所から見つめることができたと思う
このことは
どんなに救いようのないこころも
救われる可能性があるということをあらわしているのかもしれない
あつかましいかな


二〇一四年十三月二十八日 「ぼくの脳髄は直線の金魚である」


眠っている間にも、無意識の領域でも、ロゴスが働く
夜になっても、太陽がなくなるわけではない
流れる水が川の形を変える
浮かび漂う雲が空の形を与える
わたし自身が、わたしの1部のなかで生まれる
それでも、まだ1度も光に照らされたことのない闇がある
ぼくたちは、空間がなければ見つめ合うことができない
ぼくたちをつくる、ぼくたちでいっぱいの闇
ぼくの知らないぼくがいる
ぼくではないものが、紛れ込んでいるからであろうか?
語は定義されたとたん、その定義を逸脱しようとする
言葉は自らの進化のために、人間存在を消尽する
輸入食料品店で、蜂蜜の入ったビンを眺める
蜜蜂たちが、花から花の蜜を集めてくる
花の種類によって、集められた蜜の味が異なる
たくさんの巣が、それぞれ、異なる蜜で満たされていく
はてさて
へべれ
けべれ
てべれ
ふびれ
きべれ
うぴけ
ぴぺべ
れぴぴ
れずぴ
ぴぴず
ぴぴぴ
ぴぴぴぴぴ
ぼくの脳髄は直線の金魚である
直線の金魚がぼくの自我である
自我と脳髄は違うと直線の金魚がパクパク
神経質な鼻がクンクン
神経質な人特有の山河
酸が出ている
鼻がクンクン
華麗臭じゃないの
加齢臭ね
セイオン
自我の形を想像する
する
すれ
せよ
自我の形は直線である
ぼくのキーボードがこそこそと逃げ出そうとする
ぼくの指がこそこそとぼくから離れようとする
あるいは
トア・エ・
モア
ふふん
オレンジの空に青い風車だったね
ピンク・フロイドだったね
わが自我の狂風が
わが廃墟に吹きわたる
遠いところなど、どこにもない
空間的配置にさわる
肩のこりは
1等賞
ゴールデンタイムの
テレビ番組で
キャスターがぼくを指差す
ああ、指をぼくに向けたらいけないのに
ママがそういってただろ!
ぼくに指を向けちゃいけないって
死んだパパやママが泳いでる
カティン!
血まみれの森だ


二〇一四年十三月二十九日 「蟻ほどの大きさのひと つぶしたし」


そういえば、きょうは薬の効き目が朝も持続していて
ふらふらしていたらしい
ひとに指摘された
自分ではまっすぐ歩いてるつもりなんだけど
歳かな
たしかに肉体的には
年寄りじゃ
ふがふが
ふがあ
河童の姉妹が花火を見上げてる
ひまわりのそば 洗濯物がよく乾く
夏休み 半分ちびけた色鉛筆
どの猿も 胸に手をあて 夏木マリ
鼻水で 縄とびビュンビュン ヒキガエル
子ら帰る プールのにおい着て
まな落ちて 手ぬぐい落ちる 夏の浜 
アハッ 漱石ちゃん
わが声と偽る蝉の抜け殻
恋人と氷さく音 並び待つ
ファッ
夏枯れの甕の底には猫の骨
これも漱石じゃ
わがコインも 蝉の亡骸のごと落つ
違った
わが恋も蝉の亡骸のごと落つ
わがコインもなけなしのポケットごと落つ
チッチッチ
俳句の会に出る。
1997年の4月から夏にかけて
ばかばかしい
話にもならない
情けない
って
歳寄りは思わないのね
会費1000円は
回避したかった
チッ
蟻ほどの大きさのひと つぶしたし
人ほどの大きさの蟻 つぶしたり
この微妙な感じがわかんないのね
歳寄り連中には
なんとなく 蟻ほどの人 つぶしたし
ヒヒヒ
けり
けれ
けら
けらけらけら
けっ
まなつぶる きみの重たさ ハイ 飛んで
小さきまなに 蟻の 蟻ひく
わが傷は これといいし蟻 蟻をひく
自分と出会って 蟻の顔が迷っている
あれ
前にも書いたかな?
メモ捨てようっと。
ギャピッ
あり地獄 ひとまに あこ みごもりぬ
蟻地獄1室に吾児身ごもりぬ
キラッ
蟻の顔
ピカル
ちひろちゃん
チュ


二〇一四年十三月三十日 「喩をまねる 喩をまげる」 


「無用の存在なのだ。どうして死んでしまわないのだろう?」
(フィリップ・K・ディック『アルファ系衛星の氏族たち』1、友枝康子訳)
おとつい、えいちゃんのところに、赤ちゃんが生まれた
えいちゃんそっくりの、かわいい赤ちゃんだった
つぎのdioは
森鴎外
ひさびさに日本の作家をもとに書きます
斉藤茂吉以来かな
問を待つ答え
問いかけられもしないのに
答えがぽつんと
たたずんでいる
はじめに解答ありき
解答は、問あれ、と言った
すると、問があった
ヴェルレーヌという詩人について
かつて書いたことがありますが
ヴェルレーヌの飲み干した
アブサン酒の、ただのひとしずくも
ぼくの舌は味わったことがなかったのだけれど
ようやく味わえるような気になった
もちろん、アブサン酒なんて飲んじゃいないけど

ようやく原稿ができた
もう1度見直しして脱稿しよう
そうして
ぼくは、ぼくの恋人に会いに行こう
風景が振り返る
あっちゃんブリゲ
手で払うと
ピシャリ

へなって
父親が
壁によろける
手を伸ばすと
ぴしゃり

ヒャッコイ
ヒャッコイ
3000世界の
ニワトリの鳴き声が
わたしの蜂の巣のなかで
コダマする。
時速何100キロだっけ
ホオオオオオ
って
キチキチ
キチキチ
ぼくの鳩の巣のなかで
ぼくのハートの巣のなかで
ニワトリの足だけが
ヒャッコイ
ヒャッコイ
ニードル
セレゲー
エーナフ
ああ
ヒャッコイ
ヒャッコイ
ぼくの
声も
指も
耳も
父親たちの死骸たちも
イチジク、ミミズク、3度のおかわり
会いたいね

合わしたいね
きっと
カット

見返りに
よいと
巻け
やっぱり、声で、聞くノラ
ノーラ
きみが出て行った訳は
訳がわからん
ぼくは
いつまでたっても
自立できない
カーステレオ
年季の入ったホーキです。
毎朝
毎朝
いつまでたっても
ぼくは
高校生で
授業中に居眠りしてた
ダイダラボッチ
ひーとりぼっち
そげなこと言われても
訳、わがんねえ
杉の木立の
夕暮れに
ぼくたちの
記憶を埋めて
すれ違っていくのさ
風と
風のように
そしたら
記憶は渦巻いて
くるくる回ってるのさ
ひょろろん
ひょろろん
って
生きてく糧に
アドバルーン
眺めよろし
マジ決め
マジ切れ
も1度
シティの風は
雲より
ケバイ
そしたら
しっかり生きていけよ、美貌のマロニーよ
ハッケ
ヨイヨイ
よいと
負け
すばらしく詩神に満ちた
廃墟

上で
ぼくは
霧となって
佇んでいる
ただ
澄んでいる


ない
ビニールを
本の表紙に
カヴァーにして


ボタンダウンが
よく臭う
ぼくの欠けた
左の手の指の先の影かな
年に平均
5、6本かな
印刷所で
落ちる指は
ヒロくんはのたまわった
お父さんが
労災関係の弁護士で
そんなこと言ってた
アハッ
なつかしい声が過ぎてく
ぼくの
かわりばんこの
小枝
腕の
皮膚におしつけて
呪文をとなえる
ツバキの木だったかなあ
こするといいにおいがした
したかな
たぶん
こするといいにおいがした
まるで見てきたような嘘を
溜める

貯める
んんん
矯める
矯めるじゃ!
はた迷惑な電話に邪魔されて
無駄な
手足のように
はえてきて
どうして、舞姫は
ぼくがひとりで
金魚と遊んでいたことを知ってるんだろう?
ひゃっこい
ひゃっこい
どうして、舞姫は
ぼくがひとりで
金魚と遊んでいたことを知ってるんだろう?
ひゃっこい
ひゃっこい
ピチッ
ピチッ
もしも、自分が光だってことを知っていたら、バカだね、ともたん
まつげの上を
波に
寄せては
返し
返しては
寄せて
ゴッコさせる
まつげの上に
潮の泡が
ぷかりぷかり
ぼくは
まつげの上の
波の照り返しに
微笑み返し
ポテトチップスばかりたべて
体重が戻ってるじゃん!
せっかく神経衰弱で
10キロ以上やせたのにいいいいい
まつげの上に
波に遊んでもらって
ぼんやり
ぼくは本を読んでる
いくらページをめくっても
物語は進まない。
寄せては返し
返しては
寄せる
ぼくのまつげの上で
波たちが
泡だらけになって
戯れる
きっと忘れてるんじゃないかな
ページはきちんと
めくっていかないと
物語が進まないってこと
ページをめくってはもとに戻す
ぼくのまつげの上の波たち
いまほど
ぼくが、憂鬱であったためしはない
足の裏に力が入らない
波は
まつげの上で
さわさわ
さわさわ
光の数珠が、ああ、おいちかったねえ
まいまいつぶれ!
人間の老いと
光の老いを
食べ始める
純粋な栄光と
不純な縁故を
食べる
人間の栄光の及ばない
不純な光が
書き出していくと
東京だった
幾枚ものスケッチが
食べ始めた。
ごめんね、ともひろ
ごめんね、ともちゃん
幾枚ものスケッチに描かれた
光は
不純な栄光だった
言葉にしてみれば
それは光に阻害された
たんなる影道の
土の
かたまりにすぎないのだけれど
ごめんね
ともちゃん
声は届かないね
みんな死んじゃったもん
もしも、ぼくが
言い出さなかったら

思うと
バカだね
ともたん
もしも
自分が食べてるのが
光だと
知っていたら
あんとき
根が食べ出したら
病気なのね
ペコッ
自分が食べている羊が
食べている草が
食べている土が
食べている光が
おいちいと感じる
1つ1つの事物・形象が
他のさまざまな事物や形象を引き連れてやってくるからだろう
無数の切り子面を見せるのだ
金魚が回転すると
冷たくなるというのは、ほんとうですか?
仮面をつける
絵の具の仮面
筆の仮面
印鑑入れの仮面
掃除機の仮面
ベランダの手すりの仮面
ハサミの仮面
扇風機の仮面
金魚鉢の仮面
輪投げの仮面
潮騒の仮面
夕暮れの仮面
朝の仮面
仕事の仮面
お風呂の仮面
寝ているときの仮面
子供のときの仮面
死んだあとの仮面
夕暮れがなにをもたらすか?
日光をよわめて
ちょうど良い具合に
見えるとき
見えるようになるとき
ぼくは考えた
事物を見ているのではない
光を見ているのだ、と
いや
光が見てるのだ

夕暮れがなにをもたらすか?

お風呂場では
喩をまねる
喩をまげる
曲がった喩につかった賢治は
硫黄との混血児だった
自分で引っかいた皮膚の上で
って、するほうがいいかな
だね
キュルルルルル
パンナコッタ、どんなこった


二〇一四年十三月三十一日 「プチプチ。」


彼が笑うのを見ると、いつもぼくは不安だった
ぼくの話が面白くて笑ったのではなく
ぼくを笑ったのではないかと
ぼくには思われて
表情のない顔に引っ込む
この言葉はまだ、ぼくのものではない
ぼくのものとなるにつれて、物質感を持つようになる
触れることのできるものに
そうすれば変形できる
切断し、結び合わせることができる
せっ、
戦争を純粋に楽しむための再教育プログラム。
あるいは、菓子袋の中のピーナッツがしゃべるのをやめると、
なぜ隣の部屋に住んでいる男が、わたしの部屋の壁を激しく叩くのか?
男の代わりに、柿の種と称するおかきが代弁する。(大便ちゃうで〜。)
あらゆることに意味があると、あなたは、思っていまいまいませんか?
「ぼくらはめいめい自分のなかに天国と地獄をもってるんだ」
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第十三章、西村孝次訳)
「ぼくだけじゃない、みんなだ」
(グレッグ・ベア『天空の劫火』下・第四部・59・岡部宏之訳)
人間は、ひとりひとり自分の好みの地獄に住んでいる
そうかなあ
そうなんかなあ
わからへん
でも、そんな気もするなあ
きょうの昼間の記憶が
そんなことを言いながら
驚くほどなめらかな手つきで
ぼくのことを分解したり組み立てたりしている
ほんのちょっとしたこと、ささいなことが
すべてのはじまりであったことに突然気づく
「ふだん、存在は隠れている」
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)
「そこに、すぐそのそばに」
(ジイド『ジイドの日記』第二巻・一九一〇、カヴァリエール、八月、新庄嘉章訳)
世界が音楽のように美しくなれば、
音楽のほうが美しくなくなるような気がするんやけど、どやろか?
まっ、じっさいのところ、わからんけどねえ。笑。
バリ、行ったことない。中身は、どうでもええ。
風景の伝染病。
恋人たちは、ジタバタしたはる。インド人。
想像のブラやなんて、いやらしい。いつでも、つけてや。笑。
ぶひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。
ある古書のことです
ヤフー・オークションで落札しました
11111円で落札しました
半年以上探しても見つからなかった本でしたので
ようやく手に入って喜んでいたのですが
きのうまで読まずに本棚に置いておりました
きのうは土曜日でしたので
1気に読もうと思って手にとりました
面白いので、集中して読めたのですが
途中、本文の3分の2ぐらいのところで
タバコの葉が埃の塊とともに挟まっていて
おそらくはまだ火をつけていないタバコのさきから
縦1ミリ横3ミリの長方形に刻まれた葉がいくつかこぼれ落ちたのでしょう
タバコの脂がしみて、きれいな紙をだいなしにしておりました
それが挟まれた2ページはもちろん
その前後のページも損傷しておりました
すると、とたんに読む気がうせてしまいました
まあ、結局、寝る前に、最後まで読みましたが
昨年の暮れに買いましたものでしたので
いまさら出品者にクレームをつけるわけにもいかず
最終的には、怒りの矛先が自分自身に向かいました
購入したらすぐに点検すべきだったと
しかし、それにしても
古書を見ておりますと
タバコの葉がはさまれていることがこれまでに2回ありました
これで3回目ですが、故意なのでしょうか
ぱらぱらとまぶしてあることがあって
そのときには、なんちゅうことやろうと思いました
自分が手放すのがいやだったら
売らなければいいのにって思いました
ちなみに、その古書のタイトルは
『解放されたフランケンシュタイン』でした
ぼくがコンプリートに集めてるブライアン・オールディスの本ですけれど
読後感は、あまりよくなかったです
汚れていたことで、楽しめなかったのかもしれません
途中まで面白かったのですが
こんなことで、本の内容に対する印象が異なるものになる可能性もあるのですね
うん?
もしかして
ぼくだけかしらん?
「すべてが現実になる。」
(フレデリック・ポール&C・M・コーンブルース『クエーカー砲』井上一夫訳)
「あらゆるものが現実だ。」
(フィリップ・K・ディック『ユービック:スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳)
ケルンのよかマンボウ。あるいは、神は徘徊する金魚の群れ。
moumou と sousou の金魚たち。
リンゴも赤いし、金魚も赤いわ。
蟹、われと戯れて。 ぼくの詩を読んで死ねます。か。
扇風機、突然、憂鬱な金魚のフリをする。
ざ、が抜けてるわ。金魚、訂正する。
ぼくは金魚に生まれ変わった扇風機になる。
狒狒、非存在たることに気づく、わっしゃあなあ。
2006年6月24日の日記には、こうある
「朝、通勤電車(近鉄奈良線・急行電車)に乗っているときのことだ
新田辺駅で、特急電車の通過待ちのために
乗っている電車が停車していると
車掌のこんなアナウンスが聞こえてきた
「電車が通過します。知らん顔してください。」
「芸術にもっとも必要なものは、勇気である。」
って、だれかの言葉にあったと思うけど
ほんと、勇気いったのよ〜

「思うに、われわれは、眼に見えている世界とは異なった別の世界に住んでいるのではないだろうか。」
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』11、山田和子訳)
「人間は、まったく関連のない二つの世界に生きている」
(トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』4、友枝靖子訳)
「世界はいちどきには一つにしたほうがいい、ちがうかね?」
(ブルース・スターリング『スキズマトリックス』第三部、小川隆訳)
「きみがいま生きているのは現実の世界だ。」
(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)
「精神もひとつの現実ですよ」
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』16、菅野昭正訳)
『図書館の掟。』は、タイトルを思いついたときに
これはいい詩になるぞと思ったのだけれど
書いていくうちに、お腹を壊してしまって
『存在の下痢。』を書くはめになってしまった
『図書館の掟。』は、たしかに、書いているときに
体調を崩してしまって、ひどい目にあったものだけれど
まだまだ続篇は書けそうだし
散文に書き直して小説の場に移してもいいかもしれない
『存在の下痢。』は、哲学的断章として書いたものだけれど
読み手には、ただ純粋に楽しんでもらえればうれしい
『年平均 6本。』は、青春の詩だ
一気に書き下ろしたものだ
「青春」という言葉は死語だけれど
「青春」自体は健在だ
現に、dionysos の同人たちは
いつ会っても、みんな「青春」している
表情が、じつに生き生きとしているのだ
『熊のフリー・ハグ。』以下の作品は
opusculeという感じのものだけれど
これまた書いていて、たいへん楽しいものだった
読者にとっても、楽しいものであればいいと願っている
去年の1月1日の夜に
コンビニで、さんまのつくねのおでんを買った
帰って、1口食べたら
食べたとたんに、げーげー吐いた
口のなかいっぱい、魚の腐った臭いがした
すぐに、コンビニに戻った
「お客さんの口に合わない味だったんですよ。」と
店員に言いくるめられて、お金を返してもらっただけで、帰らされた
くやしかった
たしかに、そのあと、おなかは大丈夫だったけど
1月2日には、アンインストールしてはいけないものをアンインストールして
パソコンを再セットアップしなければならなくなった
ふたたびメールの送受信ができるようになるまで、3日の夜までかかってしまった
作業の途中で、発狂するのでは、と思うことも、しばしばであった
ものすごくしんどかった
パソコンについて無知であることに、あらためて気づかされた
ことしの始まりは、最悪であった
すさまじくむごい正月であった
詩のなかで
「世界中の不幸が、ぼくの右の手の人差し指の先に集まりますように!」
と書いたけど
ほんとうに集まってしまった
こんどは、こう書いておこう
世界中の幸福が、ぼくの右の手の人差し指の先に集まりますように! と
ぼくたちは
おそらく、ひとりでいるとき
考える対象が、何もなければ
だれでもない
ぼくたちでさえないのであろう
「自分が誰なのかまるで分らないのだ。」
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸生訳)
そこにいるのは、ただ
「見も知らぬ、わけの分らぬ自分」
(ブラッドベリ『刺青の男』日付のない夜と朝、小笠原豊樹訳)
であり、その自分という意識すらしないでいるときには
そこにいるのは何なのだろう
自分自身のこころを決めさせているものとして考えられるものをあげていけば
きりがないであろう
たとえば、それは、自分の父親の記憶
ぼくの父親が
ぼくや、ぼくの母親に向かって言った言葉とか
その言葉を口にしていたときに父親の顔に浮かんでいた表情や
そのときのぼくの気分とか
そのときの母親の顔に浮かべられた表情や
母親の思いが全身から滲み出ていたそのときの母親の態度とか
反対に、そのときの思いを必死に隠そうとしていた母親の態度とか
そのときの部屋や、食事に出かけたときのお店のなかでのテーブルの席とか
いっしょに旅行したときの屋外の場面など
その空間全体の空気というか雰囲気とかいったものであったり
本のなかに書かれていた言葉や
本のなかに出てくる登場人物の言葉であったり
恋人や友だちとのやりとりで交わされた言葉であったり
学校や職場などで知り合った人たちとの付き合いで知ったことや言葉であったり
テレビやインターネットで見て知ったことや言葉であったりするのだけれども
だれが、あるいは、どれが、ほんとうに、自分の意志を決定させているのか
わからないことがほとんどだ
というか、そんなことを
日々、時々、分々、秒々、考えて生きているわけではないのだけれど
ときどき考え込んでしまって
自分の思考にぐるぐる巻きになって
まれに昏睡したり
倒れてしまったりすることがある
先週の土曜日のことだ
本屋で
なぜ、ぼくは、詩を書いたり
詩について考えたりしているのだろうと
そんなことを考えていて、突然、めまいがして倒れてしまって
その場で救急車を呼ばれて
そのまま救急病院に運ばれてしまったのである
シュン
点滴打たれて、その日のうちに帰っちゃったけどね
考えつめるのは、あまり身体によくないことなのかもしれない
チーン
『徒然草』のなかに
「筆を持つとしぜんに何か書き、楽器を持つと音を出そうと思う。
 盃を持つと酒を思い、賽(さい)を持つと攤(だ)をうとうと思う。
 心はかならず何かをきっかけとして生ずる。」
(現代語訳=三木紀人)
とか
「主人がいる家には、無関係な人が心まかせに入り込むことはない。
 主人がいない所には、行きずりの人がむやみに立ち入り、
 狐(きつね)やふくろうのような物も、人の気配に妨げられないので、
 わが物顔で入って住み、木の霊などという、奇怪な形の物も出現するものである。
 また、鏡には色や形がないので、あらゆる物の影がそこに現われて映るのである。
 鏡に色や形があれば、物影は映るまい。
 虚空は、その中に存分に物を容(い)れることができる。
 われわれの心にさまざまの思いが気ままに表れて浮かぶのも、
 心という実体がないからであろうか。
 心に主人というものがあれば、胸のうちに、
 これほど多くの思いが入ってくるはずはあるまい。」
(現代語訳=三木紀人)
というのがあるんだけど
最初のものは、第117段からのもので
それにある
「心はかならず何かをきっかけとして生ずる。」
という言葉は
ゲーテの
「人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出して、その崇高な力に私は抵抗することができない。」
(『花崗岩について』小栗 浩訳)
といった言葉を思い出させたし
あとのものは
第235段からのもので
それにある
「鏡には色や形がないので、あらゆる物の影がそこに現われて映るのである。
鏡に色や形があれば、物影は映るまい。」
とか
「虚空は、その中に存分に物を容れることができる。
 われわれの心にさまざまの思いが気ままに表れて浮かぶのも、
 心という実体がないからであろうか。
 心に主人というものがあれば、
 胸のうちに、これほど多くの思いが入ってくるはずはあるまい。」
といった言葉は
「多層的に積み重なっている個々の2層ベン図
 それぞれにある空集合部分が
 じつは、ただ1つの空集合であって
 そのことが、さまざまな概念が結びつく要因にもなっている。」
という、ぼくの2層ベン図の考え方を
髣髴とさせるものであった
この空集合のことを、ぼくは
しばしば、「自我」にたとえてきたのだが
ヴァレリーは、語と語をつなぐものとして
「自我」というものを捉えていた
あるいは、意味を形成する際に
潜在的に働く力として
「自我」というものがあると
ヴァレリーは考えていたし
カイエでは
本来、自我というものなどはなくて
概念と概念が結びついたときに
そのたびごとに生ずるもののようにとらえていたように思えるのだけど
これを思うに、ぼくのいつもの見解は
ヴァレリーに負うところが、多々あるようである
しかし、そういったことを考えていたのは
何も、ヴァレリーが先駆者というわけではない
それは、ぼくのこれまでの詩論からも明らかなように
古代では、プラトン以前の何人もの古代ギリシア哲学者たちや
プラトンその人、ならびに、新プラトン主義者たちや、ストア派の哲学者たち
近代では、汎神論者たちや、象徴派の詩人や作家たちがそうなのだが
彼らの見解とも源流を同じくするものであり
それは、現代とも地続きの19世紀や20世紀の哲学者や思想家たち
詩人や作家たちの考えとも
その根底にあるものは、大筋としては、ほぼ同じところにあるものと思われる
ぼくが、くどいくらいに繰り返すのも
ヴァレリーのいう、「自我」の役割と、その存在が
空集合を下の層としている、ぼくの2層ベン図のモデルと
その2層ベン図が多層的に積み重なっているという
多層ベン図の空間モデルで10分に説明できることが
それが真実であることの証左であると
こころから思っているからである
また、第235段にある
「主人がいる家には、無関係な人が心まかせに入り込むことはない。
 主人がいない所には、行きずりの人がむやみに立ち入り、
 狐やふくろうのような物も、人の気配に妨げられないので、
 わが物顔で入って住み、木の霊などという、奇怪な形の物も出現するものである。」
とか
「虚空は、その中に存分に物を容れることができる。」
とかいった言葉は
ぼくの
「孤独であればあるほど、同化能力が高まるのだろうか。
 真空度が増せば増すほど、まわりのものを吸いつける力が強くなっていくように。」
といった言葉を思い起こさせるものでもあった
このあいだ、『徒然草』を読み直していて
あれっ、兼好ちゃんって
ぼくによく似た考え方してるじゃん
って思ったのだ
チュチュチュ、イーン。パッ
ううぷ
ちゃあってた
Aじゃない
Eだ
リルケは
ちゃはっ
視点を変える
視点を変えるために、目の位置を変えた
両肩のところに目をつけた
像を結ぶのに、すこし時間がかかったが
目は、自然と焦点を結ぶらしく
(あたりまえか。うん? あたりまえかな?)
それほど時間がかからなかった
移動しているときの風景の変化は
顔に目があったときには気がつかなかったのだが
ただ歩くことだけでも、とてもスリリングなものである
身体を回転させたときの景色の動くさまなど
子供の時に乗ったジェットコースターが思い出された
ただ階段を下りていくだけでも、そうとう危険で
まあ、壁との距離がそう思わせるのだろうけれども
顔に目があったときとは比べられない面白さだ
左右の目を、チカチカとつぶったり、あけたり
風景が著しく異なるのである
顔にあったときの目と目の距離と
肩にあるときの目と目の距離の差なんて
頭ふたつ分くらいで
そんなにたいしたもんじゃないけど、目に入る風景の違いは著しい
寝る前に、ちかちかと目をつぶったり、あけたり
1つの部屋にいるのに、異なる2つの部屋にいるような気分になる
目と目のあいだが離れている人のことを「目々はなれ」と言うことがあるけど
そういえば、志賀直哉、じゃなかった、ああ、石川啄木じゃなくて
漱石の知り合いの、ええと、あれは、あれは、だれだっけ?
啄木じゃなくて、ええと
あ、正岡子規だ!
正岡子規がすぐれていたのは、もしかしたら
目と目の間が、あんなに離れていたからかもしれない
人間の顔の限界ぎりぎりに目が離れていたような気がする
すごいことだと思う
こんど、胸と背中に目をつけようと思うんだけど
どんな感じになるかな
あ、それより、3つも4つも
いんや、いっそ、100個くらいの目だまをつけたらどうなるだろう
100もの異なる目で眺める
あ、この文章って、プルーストだったね。
The Wasteless Land.
で、引用してたけど
じっさい、100の異なる目を持ってたら
いろいろなものが違って見えるだろうね
100もの異なる目

100の異なる目でも
頭が1つだから
100の異なる目でも
100の同じ目なのね
考える脳が同じ1つのものだったら
じゃあ
100の目があってもダメじゃん
100の異なる目って
異なる解釈のできる能力のことなのね
あたりまえのことだけれど
違った場所に目があるだけで
違って見える
違って解釈できるかな?
わからないね
でも生態学的に(で、いいのかな?)100もの目を持ってたら?
って考えたら、ひゃー、って思っちゃうね
あ、妖怪で、100目ってのがいたような気がする
いたね
水木しげるのマンガに出てたなあ
でも、100も目があったら、花粉症のぼくは
いまより50倍も嫌な目にあうの?
50倍ってのが単純計算なんだけどね

プチッ
プチ
プチ、プチ
あの包装用の、透明のプチプチ
指でよくつぶすあのプチプチ
プチプチのところに目をつけるのね
で、指でつぶすの
プチプチ
プチプチって

ブブ
ブクブホッ
いつのまにか、ぼくは自分の身体にある目を
プチプチ
プチプチって

ブブ
ブクブホ
って

ひとりひとりが別の宇宙を持っているって書いてたのは
ディックだったかな
リルケだったかな
ふたりとも
カ行の音で終わってる
あつすけ

カ行の音で終わってるね

おそまつ

ところで
早くも、次回作の予告
次回の dio では
失われた詩を再現する試みをするつもりである
その過程も入れて、作品にするつもりである
かつて、『Street Life。』というタイトルで
どこかに出したのだが、それが今、手元にないのだ
よい詩だったのだが、ワープロ時代の詩で
データが残っていないのだ
原稿用紙に2枚ほどのものだったような気がする
覚えているかぎりでは、よい詩だったのだ
ベイビー!
そいつは、LOVE&BEERの
いかしたポエムだったのさ
(いかれたポエムだったかもね、笑。)
フンッ


額縁

  zero

仕事上のトラブルで疲弊した私は、医者の診断書をもらって長めの休暇をとった。しがらみの藪の中で沢山の蔓を引きちぎって、ようやく手にした明るい広場のような休暇だった。この明るい広場には何から何までそろっていた。普段の私の視界など筒状の非常に狭いもので、社会とかいうつくりものの万華鏡をのぞいて全てが分かった気になっていたが、いざ万華鏡を取り下げてみるとそこにはほんものの全てがあった。万華鏡も筒の外側の模様がよく見えたし、何より全方向に向かって自然も人間も社会も世界もその肢体を自由に伸ばしていた。
とりあえず私は実家の農作業を手伝うべく、薪割りを始めた。薪割り機にガソリンを注ぎ、エンジンをかけて薪を一つ一つ割っていく。しばらく薪を割って休みを取りドラム缶に腰を下ろして裏庭から見える風景を眺めていると、私は過去の思い出に襲われた。半農で国家試験の浪人をやっていたとき、同じように薪割りをし、よくこの裏庭の風景を眺めたのだった。古いボイラー室や灌木の数々、右手に見える杉林、遠くに見える山々。私はそこに自分の原風景があると思った。
私の原風景は、試験や恋愛や学校生活に挫折し、ひたすら愛に飢えた傷ついた青春のまなざしが見た風景だった。この自然ととことん混ざっていく労働の途上、四季の移り変わりとともに見える農場の風景、私の傷ついた青春によって血のにじんだ風景、これこそが私の原風景なのだった。私の原風景はいわば彼岸から眺め返された風景だと言ってもいい。もはや人生が終焉したという絶望のまなざしのもと、人生の向こう側から眺め返された、血のにじんだ自然の移り変わりが私の原風景なのだった。
かつて、私の原風景は、子どもの頃によく遊んだ近所の山の風景だった。そこには子どもの頃の記憶が膨大に詰まっていた。だが、原風景とはそもそも唯一ではないのだ。原風景など、展覧会の絵のように無数にある。自分の感情によって強く色づけられ、自分の体験によって長く引き伸ばされた風景は無数にあり、原風景とはそのうちのどれかに額縁がかかったものだと思っていい。これは真に展示すべきものだと、ひときわ豪華な額縁がかかった展覧会の風景、それが原風景だ。
私の人生の展覧会が、この明るい広場で自由にとり行われている。ひときわ豪華な額縁がかかっているのが傷ついた青春の風景であり、それが現在の私の原風景だ。この額縁は近所の山の風景から取り外され、私の激しい苦悶の手つきによりここに取り付けられたわけだ。だが、これだけ目立つようにしても鑑賞者は私一人のみ。私はこれから語り出して行かなければならない。この額縁にふさわしいだけの言葉で、この原風景にまつわる無限のエピソードを。事実か虚構かは問わない。この額縁の豪華さは無限に言説を生み出す豊饒さの記号である。この明るい広場に人は呼べない。私は再び社会という狭い万華鏡の中で、その間隙に無限のエピソードを押し込んでいく。この額縁の威厳にかけて、私の原風景の無限のエピソードを。


#04

  田中恭平

 
 
それは東洋的でない
甘い桃の匂いもせず
渇きと
病に苛まされてきた
西の町から
彼女は船の看板に立ち
哀しい話している間
船と
港とを
カモメは
アルコールのダルさと
薬の副作用とに
苦しんで
笑ったように
飛び交っていた


四月の十四番目の日に
私は生まれておらず
ペンを持つことはできなかったが
十月の一番目の日に
彼女の語ったこと
頭に入ってきたことを書きとめていけば
波へ彼女は乗馬したということ
黄金時代は予告され
黄金時代は予定されていた
神がサイコロを
カップからはじき落としてしまうことは
予告も予定もされていなかった


夜は星が栄えるよう漆黒を増し
そもそも ディザイア
 欲望 とは欠損語を冠した星のことであるが
この夜のお膳立ては
神の落としたサイコロが
悪い数字を出したということだった


海が鋭く船を刺せば刺すほど
人は
とおく在る星の栄光を
確信してしまったのだった
渇き
病気
それらが星の
つめたいあたたたさに癒えるころ
約束の刻は近かった


神は
ゲームのツケを払うために
人をさけながら清算しようと向かっていた
ライトはしかと船の進路の前方を照らしていた
少しおかしなことがおこっても
船は確実終わりへと向かっているので
問題なく滑っていた
ひとは笑いながらいろいろな船の娯楽を愉しみ
神は
金に代わる清算方法を考えざるを得なかった
警備員が神を見かけ驚いたが
警備員は毎晩夢で見ていた神は
神じゃなかった と
勝手に安心してしまったので
また船の中を
にこやか歩みはじめた
オーケストラの指揮棒が止まり
乗客は拍手した


病気と同じ名前の青年が
スケッチブックにデッサンしていると
船が傾斜していることに気づいた
青年は己の眼が傾斜しているのだろうと
勝手に安心してしまったので
デッサンを続けたが
彼のデッサン帖には女性のデッサンがない
これも「つづいていかない」という
警告だったかも知れない
そして神は
ゲームの失敗を金ではなく
ひとの命で清算するしかなくなった
青年は己の眼の傾斜が酷くなり過ぎ
ついに己の心象を書き留めていたが
おかまいなしの騒がしさに眼を開いた
青年は
後甲板から滑り海へ落ちた
後甲板に既に深さ3フィート冷たい水がたまっていた


煙突が倒れた
倒れた煙突の重さは乗客の足をくじきくだいた
船は沈んでいた
沈んだ分だけ漆黒の宇宙は広がった
各廊下の下のライトは安心していた
ライトには命がなかったからだ
しかし鈍く明滅していた
エンジンが爆発した
プロペラははじめるために回る筈だった
プロペラは回りつづけたが嘲っているようであった
過負荷をかけられるボイラー
船の弓が
割れてしまった
乗客はためらったり海に飛び込んだ
はやく
おそく
時間は
人間のものでなかった
神は
それを隠しきるに金が足らなかった


それは東洋的でない
甘い桃の匂いもせず
渇きと
病に苛まされてきた
西の町から
彼女は船の看板に立ち
哀しい話している間
船と
港とを
カモメは
アルコールのダルさと
薬の副作用とに
苦しんで
笑ったように
飛び交っていた


タイタニック号は沈んだが
青年のペンは浮いていた

 


詩の日めくり 二〇一五年一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年一月一日 「初夢はどっち?」


 ようやく解放された。わかい、ふつう体型の霊が、ぼくの横にいたのだ。おもしろいから、ぼくのチンポコさわって、というと、ほんとにさわってきたので、びっくりした。きもちよかった。直接さわって、と言って、チンポコだしたら、霊の存在が感じられなくなって、あ、消えてしまったのだと思うと、からだの自由がとりもどせたのだった。それまで、口しかきけず、からだがほとんどうごかなかったのだ。手だけ、うごかせたのだった。しかし、この部屋とは違う部屋になっていた。その青年の霊が、ぼくのチンポコをさわっているときに、窓に何人もの霊があらわれて、のぞいていたのだけれど、ぼくの部屋に窓はない。ひさしぶりに、霊とまじわった。まあ、悪い霊じゃなくて、よかった。気持ちいいことしてくれる霊なら、いくら出てきてくれてもよい。ただし、タイプじゃなかったので、まえのように、ふとんの上から、重たいからだをおしつけてきてくれるようなオデブちゃんの霊なら、大歓迎である。も一度寝る。はっきり目がさめちゃったけど。寝るまえの読書が原因かな。じつは、ロバート・ブロックの『切り裂きジャックはあなたの友』のつづきを読んでいたのだ。『かぶと虫』というタイトルのエジプトのミイラの呪いの話を読んで寝たのだ。これが原因かもしれない。しかし、ぼくの言うことを聞いてくれた霊だったので、もしもこれが夢だったら、ぼくは夢を操作できるようになったということである。これからは、夢に介入できるという可能性があることになる。怖いけれど、楽しみである。こんど出てきたら、ぼくのタイプになってってお願いしてみようと思う。そしたら、恋人いない状態のぼくだけれど、ぜんぜんいいや。寝るのが楽しみである。お水をちょこっと飲んで、も一度寝る。おやすみ。起きた。すぐに目が覚めてしもた。学校の先生のお弁当の夢を見た。こっちが初夢なのかな? なんのこっちゃ。先生のお弁当の心配だった。「奥さんがつくってくれはりますよ。」とぼくが言ったところで終わり。だけど、あんまり親しくない先生だったのが不思議。


二〇一五年一月二日 「SF短編集・SFアンソロジー」


SFの短篇集やアンソロジーは、おもしろいものが多く、また勉強になるものも多い。
ぼくがもっとも感心したのは、つぎの短篇集とアンソロジー。

1番 ジョディス・メリルの『年間SF傑作選』1〜7(創元推理文庫)
2番 20世紀SF(1)〜(6)(河出文庫)
3番 SFベスト・オブザ・ベスト 上・下巻 創元SF文庫 
4番 ロシア・ソビエトSF傑作集 上・下巻 創元推理文庫
5番 東欧SF傑作集 上・下巻 創元SF文庫
6番 時の種(ジョン・ウィンダム) 創元推理文庫
7番 ふるさと遠く(ウォルター・テヴィス) ハヤカワ文庫
8番 ヴァーミリオン・サンズ(J・G・バラード) ハヤカワ文庫
9番 シティ5からの脱出(バリントン・J・ベイリー) ハヤカワ文庫 
9番 サンドキングズ(ジョージ・R・R・マーティン) ハヤカワ文庫
10番 第十番惑星(ベリャーエフ) 角川文庫
11番 マッド・サイエンティスト(S・D・シフ編) 創元文庫
12番 時間SFコレクション タイム・トラベラー 新潮文庫 
13番 宇宙SFコレクション(1) スペースマン 新潮文庫
14番 宇宙SFコレクション(2) スターシップ 新潮文庫
15番 〈時間SF傑作選〉ここがウィネトカなら、きみはジュディ ハヤカワ文庫
16番 〈ポストヒューマンSF傑作選〉スティーヴ・フィーヴァー ハヤカワ文庫
17番 空は船でいっぱい ハヤカワ文庫
18番 第六ポンプ(パオロ・バチガルピ)ハヤカワ文庫
19番 河出書房新社の「奇想コレクション」全20巻
20番 早川書房の「異色作家短篇集」全20巻
21番 スロー・バード(イアン・ワトスン) ハヤカワ文庫
22番 ショイヨルという名の星(コードウェイナー・スミス) ハヤカワ文庫

 以上、いま本棚をちらほらと眺めて、これらは読んでおもしろく、また勉強になった作品だなと思ったものだけれど、順番をつけて書いたが、その順番には意味がない。ジョディス・メリルの編集したものに、はずれが1つもないことには驚嘆した。とくにSFという枠に収まらないものがあって、その中の1篇の普通小説が特に秀逸だった。ここに怪奇小説の傑作集を入れると、右にあげたSFの傑作集以上の数のものがあるけれど、それにミステリーを加えると、ものすごい数のものになってしまって、短篇集やアンソロジーだけでも、50以上の秀逸なものがあると思う。「読まずに死ねるか」と、だれかが本のタイトルにしていたような気がするけど、ほんと、おもしろい本と出合うことができて、よい人生だなと、ぼくなどは思う。


二〇一五年一月三日 「人間のにおい」


「指で自分の鼻の頭、こすって、その指、におてみ。」と言われて
指で自分の鼻の頭をこすって、その指のにおいをかいでみた。
「くさっ。」と言うと
「それが人間のにおいや。」と言った。
テレビででもやっていたのだろう。
ぼくがまだ中学生のときのことだ。
中学生の同級生とのやりとりだ。
中学生が「人間のにおい」などという言葉を思いつけるとは思えない。
そのとき、友だちに確かめたわけではないけれど。
それから40年以上たつけれど
ときどき鼻の頭のあぶらをティッシュでぬぐって
そのあとティッシュの汚れた部分を見て
そこに鼻を近づけて
そのいやなにおいを嗅ぐことがある。
くさいと思うそのにおいは、ずっと同じようなにおいがする。
「人間のにおい」って言っていたけれど
「人間のにおい」だなんて、いまのぼくには思えない。
「ぼくのにおい」だったのだ。


二〇一五年一月四日 「登場人物と設定状況」


 文学作品を読んでいて、その登場人物のことや、その作品の設定状況などについて考える時間が多いのだが、一日のうち、あんまり多くの時間をそれに費やしていると、頭のなかは、その架空の登場人物や設定状況についての知識と考えにとらわれてしまって、じっさい現実に接している人間についてよりも多くの時間を使っているために、現実の人間についての考察や現実の状況についての考察を、架空の人物や設定状況の考察よりも手薄くしてしまうことがあって、ああ、これは逆転しているなあ、これでは、あべこべだと思って、ふとわれに返ることがある。一日じゅう、文学作品ばかりに接していると、そういった逆転がしょっちゅう起こっているのだった。ところで、これまた、ふと考えた。しかし、現実に接している人間でも、じっさいに接して、その人間の言動を見て、聞いて、触れて、嗅いでいる時間は、その人間といないときよりずっと短いのがふつうである。したがって、現実に接している人間でも、自分がその人間の特性のすべてを知って接しているわけではないことに注意すべきだし、その点に留意すると、現実に接している人間もまた架空の人間と同様に、その人物について知っていることはごくわずかのことであり、それから読み取れることはそれほど多くもないということで、そういう彼らを、自分の人生という劇に登場してくる架空の人物なのだと思うことは、それほどおかしなことではないようにも思われる。ただ、現実の人間のほうが感情の起伏も激しいし、意外な面を見せることも多くて、文学作品のほうが驚きが少ないような気がするが、それは、つくりものがつくりものじみて見えないように配慮してつくってあるためであろう。これはこれでまた一つの逆転であると思われる。皮肉なことだ。


二〇一五年一月五日 「主役と端役」


 日知庵でも、よく口にするのだが、ぼくたちは、それぞれが自分の人生という劇においては主役であり、他人は端役であるが、それと同時に、他人もまた彼もしくは彼女の人生という劇においては主役であり、ぼくたちは彼らの人生においては端役であるのだと。


二〇一五年一月六日 「磔木の記憶」


 木の生命力はすごくて、記憶力もそれに劣らず、ものすごいものであった。イエス・キリストの手のひらと足を貫いて打ち込まれた鉄釘の衝撃を、いまでも覚えているのだった。さまざまな教会の聖遺物箱のなかにばらばらに収められたあとでも。


二〇一五年一月七日 「弟」


 お金ならあり余っている実業家の弟からいま電話があった。「あっちゃん、生活はどうや?」と言うので、「ぎりぎりかな。」と言うと、心配して援助してくれそうな雰囲気になったので、「食べていけるぶんだけはちゃんと稼いでるから、だいじょうぶやで。」と言うと、「なにかあったら電話してや。」とのこと。ありがたい申し出だったのだけれど、25才で芸術家になると宣言して家を出て30年。意地でも自立して生きてきたのだ。いまさらだれにも頼る気はない。人間はまず経済的自立にいたってこそ、自由を獲得できるのだ。芸術はその自由のうえでしか築けるものではないのだ。


二〇一五年一月八日 「少女」


 二日まえから少女と暮らしている。まだ未成年だ。大坂の子らしい。すこしぽっちゃりとして、かわいらしい。肉体関係はない。けさ帰ってしまった。ぼくの夢のなかに現われた少女だったけれど、なぜか、いなくなって、さびしい。いい子だったのだ。高校生だと言っていた。どこかで見た子ではなかった。河原町にいっしょに買い物に行ったけど、「京都って、やっぱり、大阪よりダサイんじゃないかな。」と、ぼくが言うと、「そうかな?」って言って、店のなかに入って行った。けさ、駅まで見送ったけれど、そのまえに、自動販売機でジュースを買って、ふたりで飲んだ。その自動販売機って、おかしくって、買ったひとの名前が表示されるのだけれど、彼女の名前が出て、ふううん、こんな名前だったんだと思ったのだけれど、目がさめたら、忘れてた。おぼえておきたかった。なんていう名前だったのだろう。とてもかわいらしい少女だった。


二〇一五年一月九日 「ちょっとだけカーテン。」


ちょっとだけ台風。
ちょっとだけ腹が立つ。
ちょっとだけ崩れる。
ちょっとだけ助ける。
ちょっとだけ地獄。
ちょっとだけ天国。
ちょっとだけ感傷的。
ちょっとだけノンケ。
ちょっとだけゲイ。
ちょっとだけプログレ。
ちょっとだけアウト。
ちょっとだけ嘔吐。
ちょっとだけ喜劇。
ちょっとだけ一目ぼれ。
ちょっとだけ偉大。
ちょっとだけ四六時中。
ちょっとだけ正当。
ちょっとだけ正解。
ちょっとだけ螺旋。
ちょっとだけ奥。
ちょっとだけ5時間。
ちょっとだけアルデンテ。
ちょっとだけバカ。
ちょっとだけ永遠。
ちょっとだけボブ・ディラン。
ちょっとだけ激しい。
ちょっとだけフンドシ。
ちょっとだけ孤独。
ちょっとだけTV。
ちょっとだけ愛する。
ちょっとだけいい。
ちょっとだけ聞きたくない。
ちょっとだけほんとう。
ちょっとだけカーテン。


二〇一五年一月十日 「頭のおかしい扉」


うちのマンションの入り口の扉、自動ロックなんだけど、変わってて、ぼくがドアの前に立つとロックして、それから勝手に開錠するの。頭おかしいんじゃないのって思う。


二〇一五年一月十一日 「ドブス」


高校時代の
クラスコンパの二次会のあとで
友だち、6、7人といっしょに行った
ポルノ映画館の
好きだった友だちと
膝と膝をくっつけたときの
思い出が
いまでも、ぼくを興奮させる
ドブスってあだ名の
かわいいらしいデブだった

酒に酔った勢いで
生まれてははじめてポルノ映画館に行ったのだけれど
そのときに見たピンク映画の一つに
田んぼのあぜ道で
おっさんが農婆を犯すというのがあった

でもあまり映画に集中できなかった
ドブスに夢中で


二〇一五年一月十二日 「詩人の才能」


 けっきょく、詩人の才能って、ときどき、とんでもないものを発見する才能じゃないのかな、と思う。つまり、遭遇する才能じゃないのかな、と思ったってこと。たとえ、日常のささいなことのなかにでも、目にはしていても、それをまだだれも表現していないものがあって、それを詩句というもののなかに描出できることを才能って言うんじゃないのかなって思ったのだった。このあいだ行った、第2回・京都詩人会・ワークショップ・共同作品に参加してくれた森 悠紀くんの「やおら冷蔵庫を開け/煙と共にしゃがみ込み」という表現にはほんとうに新鮮な驚きがあったのだ。もちろん、観念だけで書かれた作品のなかにも、機知というものがうかがえるものがあるだろう。それも、もちろん才能によって書かれたものだと思う。ぼくも、どちらかといえば、そちらの人間なのだろうけれど、だからよけいに、ごく自然に書かれたふうな風情に強い共感を持ってしまうのかもしれない。若いときには、ぼくは機知だけで書いてきたようなところがあった。これからも多くはそうだろうけれど、そのうち、いずれ、ごく自然なふうに、すぐれた詩句を書いてみたいものだと思わせられたのだ。


二〇一五年一月十三日 「詩語についての覚書。」


 表現を洗練させるということは、詩語を用いてそれらしく仕上げることではない。ふつうに普段使っている日常の言葉を用いて、まるで、かつての詩語のように(その詩語が当初もたらせた、いまはもうもたらせることのない)さまざまな連想を誘い、豊かにその語の来歴を自らに語らしめさせること、それこそ表現を洗練させることであろう。現在、このことを全的に認識している詩人は、日本にはいない。詩語を用いて詩作品をつくるつもりならば、それは反歴史的に、反引用的に用いなければ、文飾効果はないだろう。すなわち、詩語は、もはやパロディー的に用いるほか、まっとうな詩作品など書けやしないであろうということである。ほんとうに、このことを認識していなくては、これから書かれる詩のほとんどのものは、後世の人間に見せられるようなものではなくなるだろう。


二〇一五年一月十四日 「プラスチックの蟻」


 赤色や黄色や青色や緑色や紫色など、さまざまの色のプラスチックの10センチメートルほどの大きさの蟻が、ぼくの頭のうえにのっかっている。で、ぼくの脳みそから、赤色や黄色や青色や緑色や紫色など、さまざまな色のプラスチックのぼくの脳みその欠片をとりだして、カリカリ、カリカリと齧っている。


二〇一五年一月十五日 「ウサギには表情筋がない」


ぼくが孤独を求めているんじゃなくて
孤独のほうが、ぼくを求めているんじゃないかなって思うことがある。
ぼくはそこに行った。
なぜなら、そこが、ぼくにとって、とても親しい場所だったからだ。
Poets eat monkeys, flowers, benches, chocolate, faces, windows ─.
Monkeys change flowers change benches change chocolate change faces change windows change ─
Chocolate のつぎは changes かな?
イーオンに行ったら、 ぼくが探してたボールペンがあった。
黒0.38ミリの本体つきのもの3本と黒インク7本。 赤0.5ミリの本体つきのもの1本と赤インク4本。
合計1370円。 これって、買い占めじゃなくて、買い置きだよね。
書くと嘘になる。
書かなければ、少なくとも嘘にはならないってこと?
嘘でないことと、ほんとうのことは同じ?
老いたる表情筋がぴくぴく。
そだ、きのう読んだ本に、ウサギには表情筋がないって書いてあった。
「兎は顔面筋をほとんど動かせない。」(チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』金子 浩訳、370ページ)
ちょっと違ったね。
近くのうんこと、遠くのケーキ。
知覚のうんこ。
内容が貧しいものほど、表現が大げさなのは、なぜなのだろう?
ちいさいものが かわいらしいと むかしのさいじょは かいたっけ ちいさいことばが かわいらしいと いまのぼくにも よくわかる よくわかる ふむふむふむ〜
あなたの足が、洗面台のうえに、床のうえに、台所のシンクタンクのなかに、ベッドのうえに、テーブルのうえに同時に置いてある風景。
疑問を削除する花粉。
新たな視力を得ること。
理論的に言うと、スイカは電磁波ではなく、球形である。
犬や猿やない 見たらわかるし 見たらわかるし
自分自身をたずさえて、自分自身のなかを潜らなければならない。
人間は自分の皮膚の外で生きている。
人間は、ただ自分の皮膚の外でのみ生きているということを知ること。
ロゴスが自らロゴスの圏外に足を踏み外すことがあるのかしら? と、ふと考えた。


二〇一五年一月十六日 「霊」


 電気消して二度寝してたら幻聴がして、たくさんの人がいる場所の声がして、とつぜん、布団のうえから人が載ってる感じがして、抱きしめられて、怖いけど、なんか愛情みたいなの感じたから、耳なめて、って声に出して言ったら、かすれた声が耳元でして、耳に息を吹きかけられて気持ちよくなって、ええっ? ほんまものの霊? って、思って、ぼくのむかしの彼氏のうちのひとりかなって思ってたら、気持ちよく頭をなでられたので、あれっ、ドアの鍵してなくて、いま付き合ってる子がいたずらしてるのかなって思って、電気のスイッチに手を伸ばして電気つけたら体重もすっとなくなって気配も消えた。こんなに生々しい肉体の感触のある幻覚はひさしぶり。やさしい霊だった。耳元に息を吹きかけられて頭なでられて、声はちょっとかすれてて、ヒロくんかな。どうしちゃったんだろ。もしかしたら、ヒロくんが、むかしの夢を見たのかもしれない。ヒロくんが二十歳で、ぼくが二十代後半だった。電気つけなきゃよかったかな。でも、怖さもちょっとあったしなー。でも、気持ちよかったから、いい霊だったのだと思う。さっきの霊となら、つきあってもいいかな。やさしそうだし、体重は重たかったし、たぶんデブで、かわいいだろうし、声もかすれてセクシーだったし。あしたから二度寝が楽しみだー。


二〇一五年一月十七日 「セックス」


 おじいさんとおじいさんがセックスしても子どもが生まれるわけである。おばあさんとおばあさんがセックスしても子どもが生まれるわけである。体位についても考えた。親指から人差し指から中指から薬指から小指から、ぜんぶ切断して、くっつけ直すような体位。あるいは、すべての指を親指につけ直してまぐわう体位。忘れてた。息子と娘の近親相姦で親も生まれるし、息子と息子の近親相姦でも親は生まれるし、孫とおばあちゃんとのセックスでも親は生まれる。どうしたって親は生まれる。孫が携帯電話とセックスしても生まれる。あたらしい親。キーボードを打つたびに、親が生まれるのだ。体位はさまざま。指の切断、首の切断も、実質は同じだ。交換し合う指と指。交換し合う首と首。さまざまな体位でまぐわり合う言葉たち。言葉と言葉の近親相姦。他人相姦。はじめて出合う言葉と言葉がはげしくまぐわうのだ。体位はさまざま。とりわけ推奨されるのが切断と接合の体位である。すべての指を切断し接合し直すのだ。すべての首を切断し接合し直すのだ。体位はさまざま。言葉と言葉がはげしくまぐわい合うのだ。あ、さっき、り、と書いた。いだ。いいだ。いいいだ。


二〇一五年一月十八日 「小西くん」


 日知庵では、小西くんが隣でコックリ、コックリ居眠りしていて、えいちゃんの、「あっちゃん、お持ち帰りしたら?」という声に反応して、きゅうに頭を起こして、両手でバッテンしたのには笑った。たいへんかわいい小西くんでした。


二〇一五年一月十九日 「なんちゅうことざましょ。」


プルーストの『失われた時を求めて』の「花咲く乙女たちのかげに」のなかで
シャルリュス男爵が言うように
「人生で重要なのは、愛の対象ではありません」(鈴木道彦訳)
「それは愛するということです」(鈴木道彦訳)
そうね。
愛こそが
どのように愛したか
どのように愛していたのかという愛し方が
まさに、愛し方こそが、問題ね。
しかも、
「われわれは愛の周辺にあまりにも狭苦しい境界を引いているけれども、そうなったのも、もとはと言えば、ただもうわれわれが人生を知らないからなのです。」(鈴木道彦訳)
なんちゅうことざましょ。


二〇一五年一月二十日 「真意」


真意はつねに誤解を通して伝わる。
折り曲げた針金をまっすぐにしようとして、折り曲げ戻したもののように。


二〇一五年一月二十一日 「言語意識」


「言語自体が意識を持ちうるか」という点について、文学的な文脈や、比喩的に、ではなく、きちんと科学的に追及されるということが、いままでに一度でもなされたのだろうか。可能なら、追及してみたい。もしも、科学的に追及できないものなのだとしたら、科学的に追及できないということを証明したい。人間が言葉に意味を与えたのだ。その言葉が人間に意味を与えるのだ。言葉が意識を持っている可能性は十分にあると思う。


二〇一五年一月二十二日 「両もものかは」


 ジョン・クロウリーの『リトル、ビッグ』Iの誤植・その2 276ページ上段2行目にある「男は短い両もものかは、ちょこまかとした足取りで」 なんだろう? 「両もものかは」って。いかなる推測もできない誤植である。


二〇一五年一月二十三日 「無意識領域の自我と意識領域の自我」


 クスリをのんで1時間たったので、電気を消して、自分自身と会話してたら、ふたりか三人の自分のうちのひとりが、「これだよこれ。」と言って、自分のうなじを両手でかきあげるしぐさをしたのだが、わけがわからなかった。これは起きて書かなくてはと思った。わけのわからない夢のほうがおもしろいからである。無意識領域の自我が出現間近だったような気がする。それでも、意志の力で、身体を起こして、目を覚まさせ、意識領域の自我にパソコンをつけさせたのだった。そう促せたのは、いくつかのぼくの自我のうちのどれかだったのだろうが、もちろん、それは意識領域の自我か、意識領域に近いほうの自我だったのだと思う。まだ無意識領域の自我にはなっていなかったと思う。いつもなら、こんなふうに無理に起きようとはしないで、その日に見た夢は、その夢の記憶を夜に書きつけて眠るのだけれど、夢の入り口から戻ってすぐにワードに書き込むのは、はじめてかもしれない。夢。限りなく興味深い。その夢をつくっているのは、ぼくなのだろうけれど、起きているときに活動している意識領域の自我ではないと思っている。無意識領域の自我というと、記憶が意識領域とは無関係に結びつける概念やヴィジョンがあって、自我という言葉自体を用いるのが適切ではないのかもしれないけれど、きょうの体験は、その無意識領域の自我と意識領域の自我が、わずかな瞬間にだが、接触したかのような気がして、意味の不明な、つまらない夢なのだけれど、体験としては貴重な体験をしたと思っている。


二〇一五年一月二十四日 「吊り輪」


 ぼくの輪になった腕に男が吊るされる。男は二人の刑務官によって、ぼくの腕のそばに立たされる。男が動くので、なかなか、ぼくの輪になった腕に、男の首がかからない。二人の刑務官ががんばって、ぼくの腕に、男の首をかけた。床が割れて、男の身体がぶら下がる。輪になったぼくの腕に吊るされて。


二〇一五年一月二十五日 「簡単に捨てる」


シンちゃんからひさしぶりに電話があった。
「前に持ってたCD
 ヤフオクで買ったよ。」
「なんで?
 あ、
 また前に売ったヤツ買ったんやな。」
「そだよ。」
「なんでも捨てるクセは
 なおらへんねんな。」
「売ったの。
 飽きたから。」
「いっしょや。
 そうして、人間も
 おまえは捨てるんや。」
「人間の場合は
 ぼくが捨てられてるの。」
「いっしょや。」
「いっしょちがうわ。」
と言ったけど
もしかしたら
いっしょかもしれない。


二〇一五年一月二十六日 「カムフラージュ、ユニコーン、パルナス、モスクワの味」


「あっくんてさあ
 どうして
 そんなに言葉にとらわれてばかりいるの?」
「うん?」
「まるで言葉のドレイじゃん。」
「言葉のドレイ?」
「そだよ
 もっと自分のことにかまったほうがいいと思うよ。」
「自分のことに?
 ううん
 それで
 言葉にかまってるんだと思うんだけどなあ。」
「言葉は
あっくんじゃないでしょ?」
「言葉はぼくだよ。」
「うそつき!」
「うそじゃないよ。
 ほんとだよ。
 シンちゃんは
 そう思わないの?」
「思わないよ。
 まっ
 あっくんのことだから
 ぼくは
 べつにかまわないんだけどね。」
「かまわないんかよ?」
「かまわないんだよ。」
「ふふん。」
「でも
 あっくんは
 言葉じゃないんだからね。」
「言葉かもしんないよ。」
「バーカ。」
カムフラージュ
ユニコーン
パルナス
モスクワの味
あら
しりとりじゃなかったの?


二〇一五年一月二十七日 「いやなヤツ」


しょっちゅう
烏丸のジュンク堂でチラ読みしてたのだけれど

いいなあとは思っていたのだけれど
雑誌のアンケートがきっかけで買った
パウンドの『ピサ詩篇』
やっぱり
とてもいい感じの詩集だった。
ああ
なんでSFみたいなものにこの4、5年を費やしてしまったんやろか。
時間だけやなくて
お金も、そうとう、つぎ込んだけど
あほやった。
歴史に出てくる人物とか
詩人とか
そんなひとの名前は、わからんものも多かったけど
言葉の運び方がいいので
ぜんぜん気にならず
ときおり見せる抒情と
言葉のリフレインに
こころがキュンとつかまれたって感じ。
じつは、きょうは
『消えた微光』も読んでいて
ルーズリーフ作業のついでに
もう一度ね
とてもここちよかったのだ。
ジェイムズ・メリルの場合もそうやった。
ここちよかったのだ。
ただし、メリルのほうは
もう一行もおぼえていないし
ひとことの詩句も出てこないのだ。
パウンドの詩句も、きっと近いうちに忘れるだろう。

それでいいのだ。
ぼくのなかに埋もれて
いいのだ。
「さみしい」は単複同形だ。
どの引き出しにも「さみしい」がぎっしり。
「わっ!」
「うん?」
「びっくりしないんですね。」
「なんで?」
「いや、いままでのひと、みんな、びっくりしたから。」
「ぼくは、反応が遅いのかもしれないね。」
なんでびっくりさせようとしたんやろうか。
あの男の子。
もう20年くらい前のこと火傷。
火傷ねえ、笑。
無名であること。
ぼくの作品や文章には
完全ゼッタイ的に無名な人物がたくさん出てくるのだけれど
それでいいのだ。
と思う。
『マールボロ。』のシンちゃんについて。
とても相性が悪いのだ。
なんかのときだけど
なんのときか忘れたけれど

誕生日かな
違うかもしれないけど

横綱っていうラーメン屋に入って
「きょうは、おごるね。」って言ったら
いちばん高いラーメンを注文して
(1500円!)
しかも
「これ、まずい。」
って言って
ほんのちょっと食べただけで
そのあとずっと
「まずい。」
「まずい。」
って言われつづけて
ぼくはギャフンとなりました。
「ギャフン」というものになったのだ。

それから
ぼくのなかで
シンちゃんは
「とてもいやなヤツ」になったんやけど
「とてもいやなヤツ」というものになったのね。
そのほかに
これまで
ぼくの恋人のことを
やれブサイクだとか
デブだとか
ブスだとか
もっとマシなのにしたらとか
チョーむかつくこと言われてて
電話も
用もないのにかけてくるし
しかも
話をしてるのよりも
沈黙のほうがずっと多いし。
はあ?
って感じの会話が多いし
一度なんて
恋人とのデート前に電話をしてきて
なかなか切ろうとしないし
ほんとにうっとうしかった。
「こんなん読んではるんですか?」
「そだよ。」
なんで、そこで本棚、見つめて
ぼくに背中向けてるんだよ。
「なに?」
「いや、どんなん読んではるんかなあって思って。」
襲われ願望?
「ああ、ぼく襲われるかなって思っちゃった。」
「どっちがですか?」
大笑い。
そかな?
そうかなあ?
これは5、6年以内の思い出かな。
いまの部屋やから、笑。

シンちゃん
本人は
短髪
ガッチリで
モテ系だと思ってて
まあ
じっさいそうなんだけど
モテ系のくせに
性格
暗いし
悪いし
最悪なのに
ぼくの純情な恋人を
ぜったいにほめないし
死ね
とか
キチガイ
とか
平気で
ぼくに言うし
もう
おまえのほうが
死ねよ
って感じ。
しかも
フリートウッドマックちゅう
二流バンドが好きで
趣味が悪いっちゅうの。
まあ
ええ曲もあるけど

これはカヴァーやけど
カヴァーのほうがいい。
あっは〜
あっは〜
「そんなに真剣になって読むものなんですか?」
ムカッ。
「あとで読めばいいっ!」
ムカムカッ。
ここで
シンちゃんから離れて
エイジくんのことを思い出す。
予備校に勤めていたときに
ビックリしたことがある。
静岡から京都に来て
どんな事情か知らないけど
奈良の予備校で教えていた子がいて
エイジくんと
同じようなジャケット。
ニットの帽子。
そういえば
エイジくんのはいてたのもゴアテックス。
その子は
髪を金髪に染めた
ロン毛やったけど。
エイジくんは
短髪
バチムチね、笑。

ガチムチ。
「弟さん、おれとおない齢や。」
そうやったね。
ヒロくんの写真見て
エイジくんが笑いながら
「こんな弟が欲しいなあ。」
もうひとりのエイジくんの記憶もよみがえる。
っていうか
前恋人、笑。
合鍵を持っているから
(いまだにね。)
勝手に部屋に入って
内部調査。
メールも勝手に見るし
でも、自分の携帯はぜったい見せない。
ここで
シンちゃんに戻る。
いつも不機嫌そうな顔をして
ぼくの部屋の玄関のチャイムを鳴らして
ぼくがドアを開けたら
勝手にあがるバカ。

そういえば
エイジくん
ぼくが玄関を開けようとしたら
しょっちゅう
ドアを身体で押さえて
あけさせようとしなかった。
バカ。
バカ。
バカ。
みんな、なんちゅうバカやったの?
ふう
落ち着いた。
友だちの悪口を書くと
けっこう気持ちいいものだね。
もしかして
もしかしなくても
ぼくがいちばん
いやなヤツやね、笑。


二〇一五年一月二十八日 「ひざまずくホッチキス」


 ひざまずくホッチキス。不機嫌なビー玉。気合いの入った無関係。好きになれない壁際。不器用な快楽。霧雨の留守電。趣味の書類。率直な歩道橋。寝る前の雑草。気づまりな三面鏡。粒立ちの苛立ち。無制限の口紅。


二〇一五年一月二十九日 「階段ホットココア。」


階段ホットココア。半分、階段で、半分、ホットココア。
ディラン・ディラン。半分、ボブ・ディランで、半分、ディラン・トマス。
チョコレート・バイク。半分、チョコレートで、半分、バイク。
欺瞞円周率。半分、欺瞞で、半分、円周率。
ひよこマヨネーズ。半分、ひよこで、半分、マヨネーズ。
金魚扇風機。半分、金魚で、半分、扇風機。
シャボン玉ヒキガエル。半分、シャボン玉で、半分、ヒキガエル。


二〇一五年一月三十日 「一羽の悩める鶫のために」


言葉の死体が岸辺に打ち上げられていた。
片手の甲に言葉の波が触れては離れ触れては離れていく
言葉の死体は言葉の砂に顔を埋めながら
言葉でできた過去を思い出している
たくさんの美しい裸体の青年たちのまわりに無数の太陽を撒き散らし
たくさんの太陽のまわりに無数の美しい裸体の青年たちを撒き散らしていた
日が落ちてきて真っ赤に染まった砂浜を
言葉の死体は思い出していた
青年たちの裸体は赤く染まり
岸辺の砂も赤く染まり
あらゆる言葉が赤く染まって輝いていた
言葉の死体はもう十分死んでいたとでもいうように起き上がると
手のひらや腕や肘についた言葉の砂を払い落として
つぎの死に場所を求めて足を踏み出した

言葉の死体はバラバラになった自分の死体を見つめていた。
言葉の死体は
言葉でできた自分の身体を切断し、腑分けしていった
言葉の指を切断し
言葉の目を抉り出し
言葉の舌を抜き
言葉の腹を切り裂いて
言葉の内臓を紙の上に撒き散らした
それから
言葉の死体は
自分の身体をつぶさに見つめながら
口と耳のまわりに指を縫合し
いらなくなった腕を捨てて
膝から下を切断し
腹部に目を縫いつけて
背中の皮膚を裏返しにした。
それでも自分がまだ言葉でできた死体であると
そう思っていたのであった。
言葉の死体は
言葉でできた情景に目をうつした
言葉の死体は
さまざまな情景を
自分の身体のさまざな部分と交換しはじめた
それでもやっぱり
言葉の死体は
自分がまだ言葉でできた死体であると
そう思っていたのであった。
やがて
すべての部分が
自分の身体ではなくなってしまったのだけれど
その新しい身体もまた
言葉でできた死体であると
そう思っていたのであった。


二〇一五年一月三十一日 「服役の記憶」


住んでいた近くのスーパー「大國屋」の

いまは
スーパー「お多福」と名前を替えているところでバイトしていた
リストカットの男の子のことを書いたせいで
10日間、冷蔵庫に服役させられた。
冷蔵庫の二段目の棚
袋詰めの「みそ」の横に
毛布をまとって、凍えていたのだった。
これは、なにかの間違い。
これは、なにかの間違い。
ぼくは、歯をガチガチいわせながら
凍えて、ブルブル震えていたのだった。
20代の半ばから
数年間
塾で講師をしていたのだけれど
27、8才のときかな
ユリイカの投稿欄に載った『高野川』のページをコピーして
高校生の生徒たちに配ったら
ポイポイ
ゴミ箱に捨てられた。
冷蔵庫のなかだから
食べるものは、いっぱいあった。
飲むものも入れておいてよかった。
ただ、明かりがついてなかったので
ぜんぶ手探りだったのだった。
立ち上がると
ケチャップのうえに倒れこんでしまって
トマトケチャップがギャッと叫び声をあげた。
ぼくは全身、ケチャップまみれになってしまった。
そのケチャップをなめながら
納豆のパックをあけて
納豆を一粒とった。
にゅちょっとねばって
ケチャップと納豆のねばりで
すごいことになった。
口を大きく開けて
フットボールぐらいの大きさの納豆にかじりついた。
ゴミ箱に捨てられた詩のことが
ずっとこころに残っていて
詩を子どもに見せるのが
とてもこわくなった。
それ以来
ひとに自分の詩は
ほとんど見せたことがない。
あのとき
子どものひとりが
自分の内臓を口から吐き出して
ベロンと裏返った。
ぼくも自分の真似をするのは大好きで
ボッキしたチンポコを握りながら
自分の肌を
つるんと脱いで脱皮した。
ああ、寒い、寒い。
こんなに寒いのにボッキするなんて
すごいだろ。
自己愛撫は得意なんだ。
いつも自分のことを慰めてるのさ。
痛々しいだろ?
生まれつきの才能なんだと思う。
でも、なんで、ぼくが冷蔵庫に入らなければならなかったのか。
どう考えても、わからない。
ああ、ねばねばも気持ちわるい。
飲み込んだ納豆も気持ち悪い。
こんなところにずっといたいっていう連中の気持ちがわからない。
でも、どうして缶詰まで、ぼくは冷蔵庫のなかにいれているんだろう?
お茶のペットボトルの栓をはずすのは、むずかしかった。
めっちゃ力がいった。
しかも飲むために
ぼくも、ふたのところに飛び降りて
ペットボトルを傾けなくちゃいけなかったのだ。
めんどくさかったし
めちゃくちゃしんどかった。
納豆のねばりで
つるっとすべって
頭からお茶をかぶってしまった。
そういえば
フトシくんは
ぼくが彼のマンションに遊びに行った夜に
「あっちゃんのお尻の穴が見たい。」と言った。
ぼくははずかしくて、ダメだよと言って断ったのだけれど
あれは羞恥プレイやったんやろか。
「肛門見せてほしい。」
だったかもしれない。
どっちだったかなあ。
「肛門見せてほしい。」
ううううん。
「お尻の穴が見たい」というのは
ぼくの記憶の翻訳かな。
ぼくが20代の半ばころの思い出だから
記憶が、少しあいまいだ。
めんどくさい泥棒だ。
冷蔵庫にも心臓があって
つねにドクドク脈打っていた。
それとも、あれは
ぼく自身の鼓動だったのだろうか。
貧乏である。
日和見である。
ああ、こんなところで
ぼくは死んでしまうのか。
書いてはいけないことを書いてしまったからだろうか。
書いてはいけないことだったのだろうか。
ぼくは、見たこと
あったこと
事実をそのまま書いただけなのに。
ああ?
それにしても、寒かった。
冷たかった。
それでもなんとか冷蔵庫のなか
10日間の服役をすまして
出た。
肛門からも
うんちがつるんと出た。
ぼくの詩集には
序文も
後書きもない。
第一詩集は例外で
あれは
出版社にだまされた部分もあるから
ぼくのビブログラフィーからは外しておきたいくらいだ。
ピクルスを食べたあと
ピーナツバターをおなかいっぱい食べて
口のなかで
味覚が、すばらしい舞踏をしていた。
ピクルスっていえば
ぼくがはじめてピクルスを食べたのは
高校一年のときのことで
四条高倉のフジイ大丸の1階にできたマクドナルドだった。
そこで食べたハンバーガーに入ってたんだった。
変な味だなって思って
取り出して捨てたのだった。
それから何回か捨ててたんだけど
めんどくさくなったのかな。
捨てないで食べたのだ。
でも
最初は
やっぱり、あんまりおいしいとは思われなかった。
その味にだんだん慣れていくのだったけれど
味覚って、文化なんだね。
変化するんだね。
コーラも
小学生のときにはじめて飲んだときは
変な味だと思ったし
コーヒーなんて
中学校に上がるまで飲ませられなかったから
はじめて飲んだときのこと
いまだにおぼえてる。
あまりにまずくて、シュガーをめちゃくちゃたくさんいれて飲んだのだ。
ブラックを飲んだのは
高校生になってからだった。
あれは子どもには、わかんない味なんじゃないかな。
ビールといっしょでね。
ビールも
二十歳を過ぎてから飲んだけど
最初はまずいと思った。
こんなもの
どこがいいんだろって思った。
そだ。
冷蔵庫のなかでも雨が降るのだということを知った。
まあ
霧のような細かい雨粒だけど。
毛布もびしょびしょになってしまって
よく風邪をひかなかったなあって思った。
睡眠薬をもって服役していなかったので
10日のあいだ
ずっと起きてたんだけど
冷蔵庫のなかでは
ときどきブーンって音がして
奥のほうに
明るい月が昇るようにして
光が放射する塊が出現して
そのなかから、ゴーストが現われた。
ゴーストは車に乗って現われることもあった。
何人ものゴーストたちがオープンカーに乗って
楽器を演奏しながら冷蔵庫の中を走り去ることもあった。
そんなとき
車のヘッドライトで
冷蔵庫の二段目のぼくのいる棚の惨状を目にすることができたのだった。
せめて、くちゃくちゃできるガムでも入れておけばよかった。
ガムさえあれば
気持ちも落ち着くし
自分のくちゃくちゃする音だったら
ぜんぜん平気だもんね。
ピー!
追いつかれそうになって
冷蔵庫の隅に隠れた。
乳状突起の痛みでひらかれた
意味のない「ひらがな」のこころと
股間にぶら下がった古いタイプの黒電話の受話器を通して
ぼくの冷蔵庫のなかの詩の朗読会に参加しませんか?
ぼくの詩を愛してやまない詩の愛読者に向けて
手紙を書いて
ぼくは冷蔵庫のなかから投函した。
かび臭い。
焼き払わなければならない。
めったにカーテンをあけることがなかった。
窓も。
とりつかれていたのだ。
今夜は月が出ない。
ぼくには罪はない。


道草

  GENKOU


月夜空を翳る雲
草原のなかをひた走る

月夜の午前3時、網目模様のモアレが部屋に白夜のように影を落としながら夜が静かに沈んでいく

眩しすぎるくらいせせら笑いをする背中をひっくり返し、ひとり、畳と雲とを天井の間に射し込む光に寝そべっていた、午前中3時。しけたモクのむくろのお腹に両手に組み


旅がトラベルでツーリズムでオデセウスでトリプルでジャーニでいつもいつもいつまでも空中のチャリンコの帰社に散歩聴きながら

丸目の夜道にたたずんだあ高校生、夜の講堂の壇上にはいつも彼の首吊りがよみがえる

--
道を見つめながら精神を羽交い締めにする4つ隅の画枠を嵌め込んだ色と容姿の伽藍の壁から眼前と襲いかかる威厳の仏心が無言のまま私を睨み見据えていた

下の口をすぼませながら蒼白のお面が滴し込まれた具象の絵の具、お汁の膠はバラバラとひび割れ、ざらざらと情象のかたまりばかりが剥がれ落ちていったベンガラは確かに私のものだった

ふと目覚めるとここにあるものぜんぶあげるからと手に差し出すすべてのものは灰と風に散った

すさむ体に少し怯えた小鳥が電話内で口をあけた、艶消しのネオグリーンのスプレーが窓の外を明るくしていた、朝が塗り替えられていたのだと同時にたった一度きりの蝉の嗚咽がいつもの朝を迎えた、たった一度の私の朝を一度に迎えてくれた

何もかもが一度にやってきたのだ

/


弾けば雨が路を叩いた
歯を咬みながら、コンビニ戸口で、傘をすぼませ
いっぱし暖簾で、置きっぱの傘差し、があった

頬に冷たい柄を押しあて、、歩いていた、、、雨風のリズミカルな足、、と耳と電磁の明かり窓、、、三つ目の側面を振り分けて、後ろを振り向くとそこには誰しも一度は握る背徳の反旗が翻っていた

妄想を恐らく知に変え
知を恐らく想像に変え
想像を恐らくイマに変え
実に変え、実を恐らく
ほうとあほうと


胡蝶蘭の夢物化

書けないものかと、私ひとしきり手袋の中から出てきたひとつの自転車や、帽子。巻き取られたフイルムや、腐った作業着や、殴り書きノートや、ゴッホの手紙や、ポケットの煙草


/


なまくらな俺の雨に斗よは無く、無口なのか、面黒い空よりあけて電柱が傾いていた夜の夜明け、雷の恵みを神が音に聞いた

なまくさい蝉の哭くにほひに任せ蔦の這う女の背鰭胸鰭がのたうちまわる森のなかを駆け巡った

雨のフロント硝子に青く残る君の声と面影は背なかのストリームのクラクション
タバコを吹かし京都460
前車輪のクラッチつなげ
母親が工場の立つ煙突からこぎ出す自転車に子を乗せて


----

ボブディランがイヤホーンから流れた、彼の歌声は静電気で痺れまくっるくらい肘てつをくらわせるくらい雨降るよう耳に流れ落ちる

ジャックナイフの鋒頭に冷たく凍るアイスの溶ける夏の、ハープのブォンフォノンのオープンキィを合わせドライブシートを寝かせながら、ウィンカーを左右に振らせている車はUターンできぬまま、彼の片桐ユズル訳詩集を探しても僕の本棚に消えていた。親に電話した。

あぁ蛙の夜泣きの声に滑り込むように膨らんだ彼のハープ音と嗄れた喉声がアップダウンしていた

*

至極せせこましい眺めではないか
腕のついた両足のぬかが
入れ替わり立ち替わり
音のない地面を揺らしながら走りだす

アーケードを走るな

なまやさしいフラグのネオンが点いては消えていく
囲われた三面鏡を眺めては飛びつく井の蛙が跳ねている

方法を得ずして、卑近の群れの客人はつまらぬものは切って捨ててしまえばいい
名前を消して歩いていればいいのだ

確かに道はあるのだ
閉ざされた門の
屋敷ばかりが建ち並ぶ
アーケードの友禅西陣の街界隈を、ひとり
静かに自転車をこぎ
嘘八百屋の店さきに
ばか高いゴボウや茄子
やハッサクやら
まぶしすぎるくらい
人参や野菜が
照明にならんでいる


星と砂粒

  atsuchan69

満天の星空をつつむ静寂の下
潮騒を聴きながら横たわる身に纏う砂粒
はてしなく投げた仕掛けを海に任せて
ケミカルライトの点る竿先を微かに揺らし、
甘い潮風がコーヒーの苦味を慰める

アタリなく、瞼腫れて
ふたたび巻く糸の手につたう空しさ
針に残る、細かなイソメ
――食逃げしたのは何処のどいつだい! 
無惨な餌の痕に、ひとり愚痴をいう

渚を這うように現れては消える灯光
遥かとおく、明滅する航路標識の夜明かし
つかの間にわが身を曝すかと思えば
やがて水際に足元を濡らしては退く、竿立と椅子

硝子瓶の酒を手にして浅く眠り
ふと目覚めれば水平線に望む曙光
星々は滲み、東空に孤高にかがやく星ひとつ
欲深な釣人が不愉快なのか波音も高鳴る

白濁を集めては崩し、
はやくも海は荒れはじめた


希死

  zero

死にたい、という発語が季節の初めての落葉のように池に浮かんだ。毎日ひげを剃ってはコーヒーを飲んでスーツを着ていつもの道を出勤する、そんな生の周到な殻が静かに割れたかのように。僕は部屋で本やCDが平積みになったテーブルの前に座りながら、小さな蛍光灯の光を斜めに浴びて、己の生が抉られた痕の傷をなぞっていた。この人間の生というものは、心とも命とも魂とも違い、ましてや体とも衝動とも息吹とも違う。どんな比喩からもするするとすり抜けてしまうので、もはや言葉ですらないかのようだ。言葉ではなく体験や流れそのものであり、言葉にすることにより実体が隠蔽されてしまう繊細な基底、それが生である。この滑らかな生はどこまでも届いていくはずだった。太陽の熱と共に伸縮し、夜の闇とともに形を消す自然の一部として、遥かな消失点ですべての存在と共に混じり合うはずだった。この生の殻の内側に何があるのか、僕にはよく分からない。時間や空間の素になるような始原的なものが入っているかのようにも思えるし、空虚であることすら否定する絶対的な空虚が入っているかのようにも思える。ただ今回分かったことは、そんな生の周到な殻が割れたとき、内側からにじみ出てきたものはすぐさま外気と化学変化を起こし、死にたい、という発語に姿を変えるということだ。生の殻の内側にあるものは単純な死ではなく、むしろすべてが始まるときのかすかな音響のようなものが積もっているのかもしれない。死にたい、という発語は、実は、生きたい、を意味しているのではないか。実際、死にたい、という発語には、生きなければ、という意志がすばやく続き、そのあとに、なんでこんな言葉が発されたのか、という驚異が僕を覆い尽くした。死にたい、は漠然と死に向かう人間を生の側に呼び戻す警笛の音であり、死の眠りをまどろんでいる人間を覚醒させる冷水に他ならない。しかしそれは本当だろうか、死にたい、が訪れたときの異様な静けさ、その瞬間に垣間見た何もかもが混然となった真実のようなもの、そして絶望に似た甘い法悦、それらは生とも死とも違う属性を帯びていた。生や死が答えであるのなら問いのようなもの、生や死が方向であるのなら点のようなもの。僕の生の殻はひどく抉られていて、痛みははなはだしく、その抉られて薄くなったところが割れて何かがにじみ出し、それはすぐさま、死にたい、という発語に変わった。僕はバッグに入れて持ち運ぶものが一つ増えた気がした。長旅の際に思いを巡らす中継地点ができた気がした。過去にも未来にも同じだけの傷がたくさんちりばめられた気がした。


水色のやつと、パールホワイトのやつ

  蛾兆ボルカ

風邪をひいて数日間寝ていた。まだ熱はひかない。
寝込んでいた間に二つの事(物かもしれない)について重大な発見をしてしまい、発見したことを書きたいと思った。

ひとつは丸い感じの事で、水色だ。私がまったく独自に思い付いたことであり、非常に面白かった。
そこから派生する認識として、
『青いグラデーションが主体となる絵は、人間の肌の色のグラデーションと交錯させると美しい』
ということなどがあった。美学的な面に限らず他にも色々な真理に届いており、「なるほどなあ」と思うことしきりだった。

携帯のメモ帳機能に打ち込んで置こうとしたところ、「大雨乾燥注意報がでています。」という警告が出た。
そうか、と思って諦めた。そんな警告はたぶん無いのだろうから、これは現実ではないのだ。だからメモはとれない。

§ 夢と色に関する註釈
{私はフルカラーの夢しか見ないし、これまでに私が集めた事例では、『自分はカラーの夢を見たことがない』と私に証言した人間は数人しかいない。誰にでも聞くわけではないが、ごくわずかしかいないと思われる。
にも関わらず、『人間はカラーの夢を見ることが有り得ない』、と主張して、私が夢について書くたび色に関する部分をしつこく否定しつづける馬鹿が一人いる。}

ところで、眼が覚めてもその水色で丸い感じのアイデアはまだあったのだった。しかも非常に興味深いアイデアであった。
私はそれについて考えながらトイレに行き、軽い食事をし、さらに外出もして、本屋で数冊の本を買った。
喫茶店でそれを読んでいたら、速回しで時間が過ぎて夜になった。五分間ばかりの体感時間にに2、3時間が流れたようで、外は真っ暗である。
私はゆっくり歩きながら家に帰り、再び寝込んだ。歩きながら、あるとても素敵な真理を思い付いた。それは立方体でスベスベしており、少し柔らかく、パールホワイトだった。

そのパールホワイトの真理から、私は二つの事を導いてみた。
ひとつは、戦争に反対する根元的かつ論理的な理由である。
もうひとつは、性愛についての事実で、性愛を肯定する根元的かつ論理的な理由である。
この二つは、別々になら、様々な原理から導けるが同時にはなかなか難しい。だが、私が見つけた真理からは容易にそれができたのだった。
なんとか帰りついた私は、身体的にはかなり苦しく、時々は数十秒ほど呼吸ができない状態だったが、気持ち的にはリラックスした愉しい気分で眠りについた。

翌朝は少し楽になっていた。眼に見える変化として、鼻水が透明ではなくコバルトグリーンになったし、わかりやすい頭痛がして、わかりやすい悪寒がする。風邪ごときで大袈裟だが、ここまで回復すれば死ぬことはないだろうというところへ来たとも言えなくはない。峠を越えたのだ。

眼を覚ました私は、布団の中でひとつ悟った。
あの丸くて水色のものの大発見は、真理の発見ではなく幻覚だったのだ、と。
それはもはや言語化できないだけではなく、丸くて水色の真理としても明瞭には思い出すことが出来なかった。
しかし、立方体でパールホワイトの真理は、まだ私の中にハッキリと存在していた。
それを使えば、戦争に反対しなければならない理由と、性愛を愚弄してはならない理由を同時に、しかも明快に説明できることに、私はまだ確信をもっていた。

§言語と思考についての註釈
{私は基本的に言語では思考していない。思考の結果の一部を言語で表現するだけだ。}

不思議な感じだった。
私はそのパールホワイトの立方体を、今は未だ言語化に成功していない概念だと思っていた。
もうすぐ、たぶん数時間でできるだろう、と思っていた。
丸くて水色のとは違い、幻覚ではない、と確信していたが、しかし同時に丸くて水色のほうが幻覚であったことは認めていた。そうであればこそ、パールホワイトの立方体が幻覚ではないことは奇蹟的なことに思えた。
そして、しかしながらそのパールホワイトの立方体は、言語化されずに消えていくのだろう、と、心のどこかで認めつつあった。
私は充たされていた。
私の思考の正しさが、あの四角くてパールホワイトな真理により証明されたことに。
しかし同時に、それを間もなく失うであろうことも私は理解していた。

食事をして、少し外出したが、やはりほとんど歩けないのですぐ帰宅して、それから14時間ほど眠った。

眼が覚めたとき、つまりは先程なのだが、私は四角くてパールホワイトの概念も、幻覚であったことを悟った。

それでも私は微笑んでいる。
良い夢を見た、と思うのだ。

ここは夢の世界ではない。だが、夢の世界で何かが証明されたということは、ボンクラ共が思うほど無意味ではないのだ。

私は謳おう。
夢を見ないものどもよ、永遠に呪われよ。
と。

お前たちの手に未来が握られることは永劫に有り得ない。
そんなことは許さない。
お前たちはただ時間の砂浜で
繰り返し滅びるがよい。

と。


パールホワイトの立方体に基づいて、私はそう謳う。


眠れない女の子のはなし

  熊谷

 
 どうしてか眠れない。きっと夢のなかで数えた羊たちは、この部屋中にあふれかえっているのだろうし、ひたすらに身を寄せあって朝が来ることに怯えるのだろう。鏡に写る自分を見ると、まるで世界中の夜を一気に引き受けてしまったかのような顔をしていた。タイミングも悪く、この部屋には電話もない。携帯電話は先日、水没して壊れていた。眠れない、とつぶやいた声は東京の真ん中で宙に浮いて、そのまま大勢の話し声に消されていった。イルミネーションばかり輝く東京の眩しさは、目の下のくまをよりいっそう目立たせた。



 たとえ遠くが見えなくても、どうせ遠くには行けないのだから、別に遠くなど見えなくても良かったのだと思う。遠くへ行きたい、と歌っていたロックバンドのボーカルは、脱法ハーブを吸ってバンドを解散することになってしまったし、結局は彼も遠くになんか行けなかったのだろう。小さな頃は海を眺めながら、遠くには何があるんだろうと、よくあれこれ想像をしてたけれど、今思えば、その水平線の先の国々で、彼が手を出したハーブの原材料が栽培されていたのだろう。強い近視の目を細めて、左のこめかみを押さえながら、長いドキュメンタリー映画のなかの人物のように、台本通りに朝の仕度を整えた。そして天気予報を確認せず、傘を持って玄関を出た。



 ここ最近は何ひとつ夢を見ることができなかった。自分の部屋だけ時空が歪んでいて、時の流れが遅くなっているように思えた。羊なんて数えてもどうせ眠れないのだから、彼らの毛をすべて刈り取って、今この瞬間自分と同じように眠れない人のために枕を作ってやろうかと思えば、結局何の役にも立たない彼らを一匹残らず首を締めてやろうかとも思った。エスカレーターを全力で反対方向に走って、ようやく今いる場所に留まり続けているような感じだった。そんな何もできない夜に突然電話のベルが鳴った。慌てて受話器を取ると、突然男の声で「殺すぞ!」という声が聞こえた。その瞬間、涙が出た。夢を見ていることが分かったからだ。



 雨が降る前は決まって片頭痛が起きる。傘を閉じたら、左のこめかみがズキズキと痛んだ。壊れていた携帯電話をショップに受け取り、電源を入れてニューストピックスを見ると、解散に追い込まれたバンドのボーカルがソロ活動を始めたニュースが出ていた。それと同時に、母親からのメールも届いた。電車や飛行機に乗ってしまえばいつでも遠くには行けることは分かっていた。そして今いる東京が、あの日思っていたどこか遠くの地だということも知っていた。地方から出て働き始めて数年、コールセンターの主任を任されてプレッシャーを感じていたのかもしれない。怒鳴り声のクレーマーを聞くことは日常茶飯事だったし、それこそ「殺すぞ」と言われることもよくあることだった。家に着くと、隣の住人がゴミ捨てをしていて、ふと開いたドアからお味噌汁の匂いがふわ、と漂ってきた。左のこめかみの痛みが引いてきたので、明日はきっと晴れるのだろう。



 今夜も、もしかしたら眠れないかもしれない。目元にあるくまがもっと濃くなって、電話の男ではなく、自分自身が自分を殺してしまう日がくるのかもしれない。それでも、眠れない、と大きい声で助けを呼ぶこともできるし、次の日会社を休むことも、さらに退職することだってできる。いつだって地元に帰ることも、その海辺の先にある、脱法ハーブを作っているであろう異国の地にだって行けることができる。コンタクトをはずすと、一寸先は何も見えないほどの強い近視だったけれど、それでも目を閉じれば誰もが暗闇を見続けなければいけないことも知っていた。遠くへ行きたい、と歌いながらベッドに入り目を閉じると、いつもの羊が現れた。そういえば彼らに名前がなかったから、今夜はちょっとぐらい眠れなくても、強くてかっこいいあだ名をつけてあげようと思う。


minus

  あやめの花

そうげんに建てた、しろい建造物の、風にはためく繊毛に、眩しさのあまり暗い、まなざしはからめとられ、規則ただしく、満ちる、けれど、喋らないでいる、全体図が、らせんをえがくように、いつしか、とうめいの層になって、うちがわから、消える、わたしは、模写していた、日記帳のさざめきから、よるの、台所のさざめきまで、網羅しておきたい、羽ばたくそぶりで、題名をあたえ、風をすく、草花には、柩がないから、ふしぎなことに、あいすることができない
あるいは、ポケットのなかの、貝がらとか、お家、のようなしろい化石から、猫をつれて、そうげんへ出かける、打ち捨てられた、日傘のしたの、蟻の葬列、それは、たちのぼる、あまい、梨の匂いにも似た、あまい、逃げ水の、その向こうにあるそうげんへ、つづいている


芸術なんてメッタ刺しでんがな

  泥棒

んあ?
そりゃそうでんがな
草木が風にそよいでまんがな
秋ですやん
秋の小道でんがな
んあ?
枯れ葉が
ざらざらって
音たててますやん
やたらめったら感傷的になりまんがな
ありふれた情景が
ぼんやり浮かびまんがな
そりゃそうでんがな
んあ?
自転車で秋の小道
ぐんぐん
駅から離れて
もう
何もないですやん
人なんて
おりまへん
畑でトマト育ててますやん
おじちゃん
んあ?
おばちゃんですやん
どないやねん
フェイントかいな

ぬぬ、
雨上がりですやん
この町
さっきまで雨降ってたんやな
雲が濁ってまんがな
湿気をおびた土の香りしてはりますやん
めっさええやん
地味でもええやん
めちゃんこ抒情的ですやん
ローファイな町
ほどよく死の香り出てまんがな
暗い感じになってますやん
何もない町
二丁目の角にできたんは
新しい喫茶店でんがな
カフェちゃいまんがな
喫茶店ですやん
地元の方しか
お客さんおれへんやん
入りにくいがな
ぬぬ、
髭の店主が
こだわりの珈琲豆を仕入れてますやん
あれ、どっかの国の限定豆でんがな
さっきから焙煎してまんがな
せやのに
この店
めちゃんこ不味い珈琲ですやん
どないなっとんねん
美味しい珈琲のんで
窓から見える景色をやで
めちゃんこ丁寧に描写してやで
芸術なんて
つまりメッタ刺しでんがな
ぬ、
メッタ刺し日和でんがな
めちゃんこ刺したるで
せやのに
あかんて
なんやねん
この店の珈琲
これで一杯600円かいな
しゃあないな
ほな
お会計
どこ行こかな
ぬっ、
また雨降りそやな
どないしよ
ぬぬ、
もう一回、店入ろ
よし
コーラのも
今度はコーラのも
よし
コーラなら不味いとかないやろ
ぬぬぬ、
コーラないんかい
他に何があるっちゅうねん
ぬあ?
メロンソーダやと
誰がのむねん
おじちゃんとおばちゃんしか
この町
おらんやん
原宿ちゃうねんから
メロンソーダって
考えられへん
ぬぬぬぬ、
あのおじちゃんみたいなおばちゃん
入って来たで
何を頼むねん
ぬぬぬぬぬ、
トマトジュースやと?
メニューにないやん
なんや
裏メニューかいな
てか、あれ、レッドアイでんがな
畑仕事の後に
レッドアイのんでるがな
採れたてのトマト絞って
レッドアイのんでるがな
めちゃんこかっこええやん
てか
おばちゃん
よう見たら
逆に、めんこいやん
何気にストライクゾーンでんがな
良く言えば
大人ボーイッシュですやん
ぬあ?
そんなん
どうでもええねん
水でええわ
とりあえず水くれ
ぬぬぬぬぬぬぬ、
麦茶あんの?
アットホームやな
ええやん
家庭的な喫茶店、ほっこりするやん
(麦茶ひとつお願いしまぁす
これのんで
どえりぁ詩を書いたるで
遠慮せえへん
メッタ刺しやで
ちょうど陽も暮れてまんがな
窓から
ええ感じの西陽が入ってますやん
めちゃんこええ抒情詩
これで書けますやん
ぬぬぬぬぬぬぬぬ、
雨かいな
やっぱ雨降ってきたんかいな

んあ?
この店の雨音めちゃんこええやん
抒情詩でんがな
この感じは抒情詩でんがな
もう何も小細工いらんがな
この感じをやで
このまま書いたらええやん
のんびり書いたらええやん
めちゃんこええやん
窓の向こう
雨の町
広がる畑
あんれ?
自転車
盗まれとるやん
のんびりしてる場合ちゃうで
この町
この店
んあ?
よう見たら
髭の店主
刺青してるがな
ぬあ?
そんなんどうでもええがな
お会計や
ぬぎゃ!
麦茶一杯、500円するんかいっ
ぼったくりですやん
二度と来るかいな
店の名前、何やねん
ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ、
喫茶飯店。
んあ?
飯店?
喫茶店ちゃうんかい
ほな
ラーメンとかチャーハンとか
あったんかいな
てか
こんなんが
この抒情詩のオチで、ええんかいな
オチには、ちょいと弱いな
てか
オチって何やねん
落語ちゃうで
これ、抒情詩やで
めちゃんこ抒情詩やで
あのな
この際やから言うとくわ
ギャグなんか書いてへんねん
笑わせる気なんてないねん
こちとら抒情詩書いとんねん
詩に興味ない人にもな
今やで、今、
ちゃんと読んでもらえるようにやな
ユーモアをやな
抒情詩にユーモアをやな
ねじ込んでんねん
ぬあ?
いつ読んでもらえんねん
今やろ
わかっとんのか
詩をこねくりまわしてるわけちゃうで
メッタ刺しやで
芸術なんてメッタ刺しでんがな
ほんでな
ホームラン打つねん
覚せい剤は打たんで
どやさ
すべったやろ
あえてすべる技やねん
最近な
あえてすべる技を身につけたんや
ブラックジョークや
どやさどやさ
ぬあ?
あかん
脱線しすぎや
あかん
こんなん絶対あかん
こんなんじゃ
読者が納得してくれへんがな


忘備の三行詩 3×100

  田中恭平


2015年10月12日(月)


#01

書くということは、記録するということだと
記録しておく為に
キーボードを叩いた。


#02

デイケアで私の画いたイラストに── Why Me?
と画いたら 或る女性は──Way Me? ってどういう意味かと訊ねてこられて
やりくち私?・・・私のやりくち?・・・とにかく卑怯なテクニックをもちいたイラストでした。


#03

或るサイトへ登録するとき、勇気が必要だったから
今日もあの人が私の部屋に来ないで、眠っていたのはよいこと
勇気が必要なとき、私は物を壊すので、あの人が壊れないで済んだ。


#04

椎名林檎の「丸の内サディスティック」を拝聴すると
毎晩寝具で遊戯するだけ、という歌詞が 毎晩シングルで忠義するだけ、と聞こえる。
私にとってはどちらでもさいわいなこと、のように感じられる。



#05

生きているなって常に感じるように、私はできていないけれど
死んでいっているな、というのは常に感じているような気がして
──神は死に、ロックは死に、お前はもう死んでいる、と又、売れない楽曲ができました。


 
#06

コミックスの「ソラニン」の一巻のラストで「ホントに?」って疑問の声が
種田に入ったけれど、これ、もしかしたらロバート・ジョンソンの声か?と思った。
私の中へ「ホントに?」って声は聞こえないけれど、ふさわしい暮しを営んでおります。



#07

日本人のメンタリティーに於いて、その最大公約数=最低水準である、と
自覚したらば、詩でも、詩歌でも、文学でも相当変わっていくと思うのですが
ペスト氏の英詩を読んで、先に行かれたな、と考え、中学生向け英語テキスト眺めた。



#08

0は無である。
−1も又一つ無いのだから無である。
0と−1の違いは、インターネットで調べるよりも、本を読まなければならないだろう。



#09

小学一年生から畑作を教えるべきだと思うのだけれど。
種を蒔く→枝豆が成る、たしか宮沢賢治の「春と修羅」の冒頭で、「因果」という仏教語が効果的に使われている。
そして枝豆をにこにこ食べた夏があって、秋は少しさびしい。

 

#10

詩誌「空想」の同人ということになっていますが、ことし発行予定の「空想」がでない。
しかし、私も「空想」サイト上の投稿板に品載せます、とコメントしつつ載せていない。
ことしは「あいこでしょ・・・」で、暮れるかもしれない。



#11

A5 C5 G5 F5 ×2
F5 C5 F5 C5
F5 C5 D  D



#12

ユース・カルチャーと商業主義とを嗅ぎ分ける、その正確な鼻をもつと
不幸になってしまうような気がするけど
なにもキナ臭くはないよ、という声は、天使のふりをした悪魔だと思う。


#13


あなたの為に生きようと思います。
と、書くことに飽きたので
あなたの為にカロリーを燃やしていくだけです。にしようと、ペンを握り直した。



#14


「今日の夕飯、なに?ラーメン?」 「トンカツ」
「えっ、ラーメンじゃないの」 「トンカツ」
「トンカツのったラーメンがいちばんだな」



#15


itunesで、レート(★)をつける、暇つぶしをしていると
ボブディランの「マギーズ・ファーム」へ、星いくつをつければいいのかわからず
いつも曲名の横が真っ白だけど、それはこの曲にふさわしいような気がする。



#16


愛ゆえパートナーを信頼し、電話をとる。
「田中さ〜ん、わたし、いま、どこにいると思う? 火星です」
万歳! 彼女はついに火星に到達できたんだ。



#17


九日、デイケアでの、Mさんのおはなしの会で、Mさんがその日、私がいないことを確認したらしい。
前回のおはなしの会、私はMさんに宮沢賢治の「やまなし」の朗読をねだったからだ。
「やまなし」は少し手を伸ばせば読めるけれど、Mさんの「やまなし」は二度と聞けない。


#18


パートナー「田中さん、絵本は見つかりませんでしたが、代わりに大量の下着が見つかりました」
私「それ、絵本のお姫様のとちがうか?」
詩と、おっさんギャグの近さよ。



#19


お金がないので、煙草の銘柄は250円のエコーである。しかし460円のマルボロよりもエコーの方がおいしい。
しかし250円のエコーより210円のバットの方がおいしい。
しかし匂いがキツく、要・別売りフィルター。世は、煙草も例外なくフクザツだ。



#20


「アメリカ人がネットで一番検索する単語、GODだって」「ワイアードとヘブンズ・ゲート勘違いしとるわ」
「ヘブンズ・ゲードどころか羅生門だよね」「羅生門、羅生門、醤油なことな」
「君、ネットで堕落したものね」「堕ちきったんや、あとはニュルニュルのぼるだけ」


 
#21
 

「マリアさんが神を生んだんだろう?」「違う、神といっても、神の子や」
「じゃあ、神がマリアさんと」「違う、パワーみたいなもの送ったんちゃう?」
「マリアさんの両親はどういう立場だろう」「だから、神さんとマリアさんの親御さんやろ、複雑なんや、マリアさんとこは」



#22


「言いたくないけど気違いって卑語あるだろう?」「気が違っちゃったってことな、おれや、それ」
「君だけど、キティ・ガイって可愛くしたらどうだろう」「なるほどな、キティちゃんのTシャツ着たおっさんな」
「・・・・・・」「おるな、原宿に、マイケル、西海岸から来た52歳とかな」
 


#23


 今日はよく書いた。さすが体育の日だけあった。パヒュームの「ポリリズム」が流れていて、あなたは踊っていた。
ポリリズムは複合拍子をさし、だから拍子の分だけ、パヒュームのメンバーは増え、あなたもメンバーのひとり。
ゼロ年代の、残響のような夢さめるまで。



#24
 

詩人よりも、芸人の方が、言葉のことわかっている気がする。詩人より劇団員の方が言葉を知っている気がする。
お金とか報酬とは別に、詩人は言葉を使っている。それは言葉に対する侮辱のような気がした。
底辺のとこで、言葉の力を信じていない。胸がさわいで、それがずっとつづいた。


#25


煙草を喫ってしまった所為か、睡眠薬の効きが悪くて、ノートパソコンを開いて、またタイプしている。
空を仰いだら、星は比喩が要らないくらいうつくしい。
ほんとう、比喩の要らないものすべて、それらはうつくしいのかも知れない。



2015年10月13日(火)



#26


「痴れ者夢をみる」というけれど、本当のことなのだろうか。
 しかし病が酷いとき、とても生々しい夢を毎晩見ていて、床に就くのが怖かった。
 今朝、夢をみなかった。



#27


税金を多く納めていた方が、立派だと思っていたけれど
税金を少額でもかえしてもらった方が、賢い、ということになりそうだ。
私は立派と思われるのも賢くあるのも目標にしていないけれど、熱心「軽減税率」について、新聞を眺めた。


#28


今朝はしずかなので、ニルヴァーナの「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」を聞いた。
「十代の魂のような匂い」、嗚呼、うつくしいタイトルだと思っていたけれど
「ティーン・スピリット」っていう制汗剤が存在すると知って、ロックのお家芸で、意図はない歌なんだろう。



#29


どこでもないってことは、あらゆるところで、ってことだ。
なんでもないってことは、たくましい、ってことだ。
英語の歌を聞きはじめて、言葉の裏口を見つけるのが、たやすくなったような気がする。



#30


冷えるので、お気に入りの灰色のカーディガンを出して羽織った。
以前、煙草でやってしまったのか、左の袖に穴が空いていた。
今日、デイケアのメンバーに言われるな、と思っていたら、言われた。普遍性とは、煙草でやったカーディガンの穴だ。



#31


まだデイケアへの出発までに時間があるので、ネットのトランプ占いをしたら
今週を暗示するテーマは「誤解」であって、嫌だな、と思ったけど
私は愚かだけど、めちゃくちゃ賢い人に見られる誤解もあるだろうから、良しとした。



#32


「しかしなぜ、太宰は芥川賞とれなかったのだろう?」「太宰は、或る阿呆の一生、をずっと自己バージョンで書いてたようなものかな」
「いや、でもちょっと明るい作品も書いていたよ」「川端康成に懇願しても、落ちたんだろう?」
「正直、芥川より太宰の方が文章巧いよな」「だから落とされた、というので合点いくな」


#33


きみたちがいて僕がいる
は、チャーリー浜だったろうか?
この詩があって僕がいる  チャーリー浜に勝てない



#34


いただいた命だ
かえすなら命をかえす
そのやり方は、死ぬことでない



#35


墜落は仕方ないけれど墜落はいけません
ダラク ハ シカタナイケレド ダラク ハ イケマセン /ツイラク ハ シカタナイケレド ツイラク ハ イケマセン
ツイラク ハ シカタナイケレド ダラク ハ イケマセン/ダラク ハ シカタナイケレド ツイラク ハ イケマセン



#36


いま、お金があるから、言葉が書けるのだけれど
言語がないから、金(きん)が必要になったのであろう
貨幣制度をばら撒いた英国人が、文献の中で批判されつづけるとは、皮肉が効いているね



#37


マイナンバー宝くじ
紅白歌合戦の途中おこなう
景品は詐欺を考慮して松坂牛など地域特産品にする 紅白が視聴率とりかえし、地域広告になる



#38


考えない方がいいよ、とよくいわれるので
なぜ考えない方がいいのか、と
考えてしまうひとと、今日もすれ違ったのでしょう



#39


二日目にして、三行詩は理屈っぽくなってきていますので
三行目は絶対に モーレツ清掃員 にします
モーレツ清掃員



#40


東海道中膝栗毛も好きだけれど
上方落語の方が好きだ
喜六と清八はどこも旅しなかったから、あらゆるところにいたのだろう



#41


主語を消して詩を書いても、どうしても自分が滲んでしまうので
三行目に主語だけを書き置いてみようと思います




#42


ここです(→「 」)
ここにパソコンのウィンドウの染みがあったのですが
一行書いたらなくなりました 報告終わり



#43


「ムラカミハルキが、もしノーベル賞候補にならず、ネット小説家になっていたら、とか
 やっぱりワイアードの夢は、残酷過ぎるかも知れない」
「現実だってあんがい、こころの中を歩いているようなものだよね」



#44


 もし、あなたがプリンターとライターと水のたっぷり入ったバケツを持っているなら
 この詩をプリントアウトして、一番近くの路上で燃して消火しなさい
 (オノ・ヨーコ、いまいくつ?と思った方は、ウィキペディアでオノヨーコを検索しなさい)



#45


いきつけの床屋の親父さんまで
ゼロ円スマイル・サービスはじめたなら、その代わり
マクドナルドで煙草喫わせてほしい。ゼロ円スマイルが郊外潰しています



#46


明日、職業安定所へ行くと予定していましたので
明日、髪を切りに行くと予定していましたが
明日は十四日、そもそも散髪代が、十五日の年金支給日にならないと頂けないのでした
  

#47


「なんとなく、クリスタル」は最初、読む気が起きなかったが
なんとなく「滝川クリステル」の数枚の画像を眺めるだけで、読了できるという凄い小説だった。
人が読んでいないのに読了できる凄い書籍にほか「ジム・モリスン詩集」がある。


 
#48


 ネット詩人、ペスト氏はベスト氏ではない。
 英語にすれば一目瞭然である。Mr.Pest notequal Mr.Best
 英語にしないと大変に誤解することがこの世にはあるようだ。おやすみなさい。



#49


「望」という漢字を分解すれば、「月」を「亡」くした「王」である。
 欲望を指す英単語 「Desire」は 欠損を指す接頭語「De」を冠した「Star」である。 
 月、星を失った状態が、望むことであった。

 

#50


 煙草を喫うことは絶対忘れない。
 服薬することはときどき忘れるけれど一日通して飲めた。
 でも眠る前になると、何か、忘れている気がすることも、忘れている。


2015年10月14日(水)



#51


携帯電話が、メールを着信した(音)。
目覚めれば、いつもの天井のプリントの(柄)。
携帯電話を開けて、メールを眺めれば(言葉)。



#52

 
中島らもが「大麻より煙草の方が旨い」って言っていたらしい。
不味いものは禁止されて、旨いものは合法化されたのではないか。
2015年、郊外の、朝の空気は不味いから、郊外が禁止されるかもしれない。



#53


2ちゃんねるの「煙草板」のぞいたら、みんなどうやって煙草やめるか書きこんでいる。
詩のサイト、現代詩フォーラムの作品を少しずつ読んでいるけれど、多く「現代詩」でない。
現代詩を書いてほしい。



#54

 
ザ・ビートルズの「ハピネス・イズ・ウォーム・ガン」という曲が好きで
ブローティガンの詩も、読んでいてさいわいになるから、「ハピネス・イズ・ウォーム・ブローティガン」。
あたたかいブローティガンは、お風呂からあがった後か、酔っています。

  
 
#55


日本で「バンバン」というと「ビリー・バンバン」である可能性が高い。
「GOD」の語を反対にすると「DOG」だが、「DOG」が柴犬である可能性は低い。
「神」の語を反対にすると「みか」だが、現在、これが「中島美嘉」である可能性は割と高い。



#56


右翼でも
左翼でも
どちらか翼を失ったヒコーキは飛べない。



#57


ニュースショウを観ているが、芸術を越えているのかもしれない、とすら思う。
「運が悪かったですね」
と表現する為に、CGまで駆使している。



#58


昼は、うがち過ぎる私であった。
 鯛鮓や一門三十五六人 子規
三十五六人、に、勝手、のちの夏目漱石が加えられていないかと。



#59


自動販売機の前に二人
「きみに、缶コーヒーをおごりたいのだけれど
 お金を貸してくれるかな?」



#60


自由ヶ丘の書店でフーコーを立ち読みして、書いてあることを知ったひとと、わかったひと。
知ったひとは自分は 不自由ヶ丘 にいるような気になるかもしれず、
わかったひとは自分は どこにもいる ような気になるかもしれない。



#61


けちであるということは、お金に対して嫉妬しつづけていることか。
断ちきるか、独占した方がいいのか。独占を結婚といいかえるならば
私は生まれる前から、お金と結婚していて、見捨てたり、裏切られたりして、けちしてる。人が虫になるのも無理はない。



#62


三人で会話していて
「大貧民」と「大富豪」が同じゲームだと知って驚いた。
「呼称はどうあれ、人はみんな死んでしまうからね」と言って、知ったかぶった。


 
#63


会話していて、自然
「おれが死んだら、その先には何もない方に命を賭ける」と言ってしまって
 リスク・ゼロだ、失敗した、と思って、どうじ、命がなくなって、かつ命を賭けられた世界があった?できた?


 〇死亡確認の男性、検視直前に覚醒で大混乱に インド

【AFP=時事】インド・ムンバイ(Mumbai)で、死亡が確認されたホームレスの男性が、検視台の上で目を覚まし、検視を始めようとしていた病院の職員らを仰天させる出来事があった。地元当局が13日、明らかにした。

 警察によると、氏名不詳のこの男性は11日午前、意識不明の状態で発見された。さまざまな感染症を患っており、病院に搬送された。

 AFPの取材に応じた地元警察幹部によれば、公立ロクマンヤ・ティラク総合病院(Lokmanya Tilak Municipal General Hospital)の医師が男性の死亡を確認し、「遺体」は検視に回された。だが、「検視を始めようとすると男性が目を覚ましたため、大混乱となった。その後、医師たちは私の部下から死亡証明書を取り上げ、破り捨てた」という。

 一方の病院側は、ミスが起きたのは警察のせいだと述べている。同院の院長によると、警察はナレンドラ・モディ(Narendra Modi)首相の到着に備えた警戒措置に追われており、同病院の医師らは、病院の外の路上で男性を診断するよう頼まれたという。

「警察は一刻も早く、首相の警備に戻りたがっていた。屋内での診療が許されていたら、うちの職員もちゃんと診断できていただろう」と院長は語った。



#64


ポケット・モンスターは発売されて、すぐ買った。お婆ちゃんにねだって。
僕がリザードン、レベル100で、四天王と闘っているとき、みんなトレーナー・バッチ二個位しか手に入れてなかった。
マスターボール、四天王のとこクリアすればするだけ、貰えるものだと思って、テキトーなポケモンに使っちゃったんだよ。



2015年10月15日(木)


#65


文字の入ったTシャツはいまでも需要あるらしい。
助けてほしいひとは助けてって書かれたTシャツ着て、助けたい人は助けますってTシャツを着よう。
──「俺の背中に助けてくれって書いてあるのか?」(映画「グッド・ウィル・ハンティング」より)



#66


図書館の本を返しそびれている。
返却カウンターに本を出して去っても
本は頭の中に置かれたまま。


#67


断酒六年になった。
 酒止めようかどの本能と遊ぼうか 金子兜太
お酒を飲むのは一つの本能であり、業ではないことをわかって、救われた。



2015月10月16日(金)



#68


国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
私は自叙伝を書きたいとずっと思っている。
生前の長い無を抜けると私であった。 でも抜けたときを覚えていない。



#69


良識はけっこうだと思う、
しかし、それをかいくぐるものではなければ
他にかいくぐったものの撒いた、悪を知れない。



#70

 
──温かく見守って頂けたなら最わいです。
──最わい? 私は辞書を開く。
幸い、という字を知らない者同士、付き合っている。



#71


「こころをなににたとえよう」「ねぇ、何で眠らないの?」
「眠らないんじゃなくて、眠れないだけなんだ
 だから薬を含んで、眠れるようにするんだね」


 
2015年10月17日(土)



#72


「今は面白くないけれど、昔
 覚醒剤打たないで、ホームラン打とう ってコピーあったんだって」 
私は、覚醒剤打って、バンバンホームラン打っているひとを想像した。



#73


彼女は、こどもっぽいことを嘆くより
こどものままで
口紅を塗る。



2015年10月18日(日)



#74


露伴を読みながら橋を渡り帰路をいくときも
パートナーとサイゼリヤで安すぎるピザを分けあって食べているときも
こころの桶が コンッ、と鳴る。



#75


「その話は忘れているよ。気にしないで
 感謝したいよ
 忘れることは、一つの幸せだから」



#76


「あっ、かわいい赤ちゃん、赤ちゃんが欲しいな」
「ああ、かわいいな、スーパーで買ってくるか」
 すると、空から天使が下りてきて、女性は受胎告知を受けた。



#77


腕時計を外し、宮沢賢治コレクションをひらく。
第四次延長の中へ腰をおとすとき
時間は無視されなければならない。

 

♯78


夜の縁側に立っていたら
鶏頭の目が、私を見つめていた
私は白い両手で、己の目を覆った



2015年10月20日(火)



#79


カタカナはカタク
ひらがなはひらく
漢字は、日本語の中で、息が詰まりそうになっている。



2015年10月21日(水)



#80


昨晩、ジミヘンみたいな味のカレーを頂いた。
やっぱり、胃が荒れている。
E9thを孕んだまま、秋日の下をふらふら歩く。


 
2015年10月22日(木)



#81


弛緩した身体の波へ
身体は乗り出して、──果て、燃される。
身体は分子となり、秋の夜の中空を更に進んでいく。



2015年10月24日(土)



#82


ギターは死んだ木だが
死んだ木はギターではない。
私は人間だが、人間は私ではない。



#83


汚い言葉、知っているよ──カート・コベイン
汚い言葉、知っているよ、嗚呼、とてもうつくしい言葉。
きれいな言葉を書き連ねようとするのは、虚栄心でしかない。



2015年10月27日(火)



#84


笹のふるえは心臓のふるえ。
急がなければならないか、は竹を見つめていればわかる。
急がなければいけない、と考えつつ、縁側ずっと秋日浴びていた。



#85


読む、という行為は封印をとくこと。
過去 という言葉が過去に書かれ、過去にあるままの
未来 という言葉も過去に書かれ、過去にあるまま。



2015年10月28日(水)



#86


私は毎秒生まれ変わり
年齢は数字でしかない、しかし
亡くした祖母の思い出が、今年も疼く十月の終わり。



#87


「何を読んでいるの?」
「言葉だよ」
「ワイセツな言葉、よね」



#88


神無月になったら
神さんがいなくなるから(このからだからも)
私は、私の言葉を書けるだろう



#89


人間は意味する存在
意味することは生きること
だから、今日も私は、雑巾を絞っている



#90


「野ざらしの」を上五において、俳句、一句創ろうと思ったけれど
野ざらし、なんて見たことがない。
見えないのか、隠されているのか。



#91


High(ハイ)になったまんま
天国までいってしまった奴を知っている。
僕は努力しつづけよう。地に足つけて。


 

#92


文は人なり──マルクス
暗喩に頼る私は、仄暗い言葉の海に於いて
水母に夕餉だと出されたカレーライスへ、日章旗を立てた。


 
#93


サルスベリの花びらと、煙草の灰と
白い陶器の灰皿のなか
お互い、形を失ってしまった



#94


眼は、ただの目だった。
何も、視えていなかった。顔に、はりついていただけだった。
思い出せば、哀しみがやさしく包む。ポケットが一杯だったころ。



#95


不安だったので、てのひらに「デパス」って書いて飲み込んだ。
「理由のない不安、であること」が
不安の原因であることが多く、缶コーヒー握りしめて立つ。すると秋風。



#96


夢は終わった、ってジョン・レノンは歌っていた。
僕は千円札をポケットに突っ込んで、原動機付バイクで急ぐ。
僕たちの夢は、外食産業だよ。平日、ガラガラのサイゼリヤだよ。



#97


これはまことに自惚れるようですが びんぼうなのであります (山之口獏)
という詩が、ブックオフで四百円で、叩き売りされているのは
ふさわしいような、むしろ、グッとくる。


#98


楽しいことは少ない。だから、急がなくちゃならない。
言葉は何度でも読める。だけど、ロック・ショウは一回きり。
このセンテンスを読むのは辞めて、ライヴ・ハウスに電話を掛けて。


#99

ホームズがワトソンに電話を掛けた。ワトソンがホームズに電話を掛けた。
残念なことにお互い、通話中だった。
ホームズはワトソンと通話していたし、ワトソンはホームズと通話していた。



#100


この三行詩も、100回、300行で終わろう。
次に詩を書くときは、もっとやさしいことを書こう。
ごめんね。罪人なんだ。詩じゃなかった。正確な冗談ばっかり、書いてた。


飛べない時代の言葉から―― 森番

  前田ふむふむ

       

    1   街の――

分厚い雲間から腕が伸びるように 
ひかりが アスファルトをかぶった街路に 
照射し
いつも用心のため 雨傘を携帯する 
きみの 体温は 少し 暖かいだろうか
グレーのランニングジャケットを着た
女性が白い息を吐きながら
速足ですれ違う
枝を折るような朝だ

青い蝶が 断崖を越えていく
夢のような景色が
胸のなかを
棘のように通り過ぎることがある
それは 誰もさわっていない
積もった雪のような希望や 
砂漠のような眼窩を
胸に向かって 射抜いていく
あかるい日差しのように見えるが
とても 大切なものが
泥だらけの地面に落ちて
拾い上げても
もとの形状には戻らない
そんな穴が
火を点けて 燃える紙のように
ひろがっていく

だから
ひとに気付かれないように
靄でかすむ胸のおくに
隠し
それを覆う肋骨のカーブで
牢獄のように
しばりつけ
堪えず ことばごと 失わせてしまう
それはとても苦しいので
わたしは
鋭利なナイフをとりだし
氷のような皮膚に
突き刺し
こわばった肉をほぐしていく
カチとドアの鍵があくように
骨を除けていく
やわらかい空気が
堰を切って 
喉元を涼しくぬらし
呼吸をするたびに
傷口は大きく開いていく
それが
暖かいということか

やけに肉好きの良い
カラス一羽が 車道のセンターラインを
彼此 五分以上
越えたり 戻ったりしている
カラスの足に
布切れが絡まっていて
戸惑っているのか
たどたどしい歩きだ

苛ついた わたしは
センターラインめがけて
小石を投げつけた

カラスは
わたしを睨み付けると
勢いよく 
寒空を飛んでいった


   2  森の――

花弁を剥きだしにして 
白い水仙が咲いている
その陽光で汗ばんだ起伏を這うように
父を背負って歩く

父はわたしのなかで 好物の東京庵の手打ち蕎麦が
食べたい 食べたいと まどろみながら
青い空を見ている

「父さん もう笑ってもいいよ」

心臓の穴を舐めるような 苦痛の病身をもてあまして
一九四一年十二月
丙種合格 徴集免除
日本建鉄・三河島工場に勤務した
うしろめたい空と 同じ空を見ている

うすい雲が貼りついた
あの空を落下するように
雲雀が飛ぶあたり
初夏であるのに 父の葬儀は冬を運んでいた
悴んだわたしの手は 繋がれた家族の手は
父の遺骨に触れ 
病のために その子供のような
小さすぎる軟らかさに 一日を彼岸まで
泣いた

白昼が刺さる わたしの背中で
少し動いている父をきつく抱く
あのときと同じ 子供のような軽さが熱を帯びてきて
わたしは いつまでも
父をおぶっていられると思う

ふいに 海を見たい衝動にかられて
生まれたときから 壁に吊るされている
古い額縁に納まった絵画を――
解体のために錨泊地に向う軍艦が浮ぶ海を
撫でるように見つめる
あの夕陽に見えるひかりは
世界を何度も縛りつけていて 
微動もしない
わたしの冷たくなった性器を貫き
その大人びた海に 黄金色の氷のような砂を塗した
静けさが 毛穴から滲み込んでくる

あのひかりのなかに
わたしはあしたを 見ているのだろうか

眼を瞑ると 波のおとが聴こえる
岬からせりだした浜辺は白く
透明なさくら貝に耳を当てれば
溢れるひかりに包まれた わたしの――
度々 隠れながら視線を注ぐ
薄紙のようなわたしが 
日傘を象る木陰で
寂しく蹲っている

動き出したバスは 豪雨で木が倒れて
渋滞に巻き込まれたようだ
世界の果てにある岸壁まで 灰色に染めるほど
憎んだ 意味を断定する行為を
わたしは 胸のなかで
突き刺さる
鋭利な刃物のような直線を引いていた

バスは混んでいて
探る手つきで
困っている少女に忘れかけた傘の所在をおしえてあげる
造花でない笑顔
気がつけば わたしの暗室に閉じこめていた
暖かい鼓動が 全身をめぐって
両手には もえあがる夏を握っていた

いつものように 携帯電話をひらき
見知らぬ友人を見つめる
わずかに 眼から流れるものがいて
四角い光源を湿らせながら
いくつかの文字列のあいだに
抑えきれない固めた声をしまった

天気予報をみる
窓の外は 雨を窄めているが
ながあめの始まりを告げている
わたしは 明日から
雨に煙る森に入らなければならない


ライターがないんだ

  叶 香月

三日風呂に入ってないからかゆくて
まぁ一週間入ってない時よりはかゆくないけどね
どうも農業には興味が湧かない 南瓜とか
夏は蚊がいるんだよ、バッタも
蚊に刺されるのが恐ろしくてね
そういえばもう三年パン食べてない
食感が気持ち悪くて
好きな食べ物は少し食べる分には美味しいけど
美味しいからと沢山食べると嫌になって飽きる
腹一杯食べてもなお食べるまずさ、さ
タバコは火を点ける前が面白い
それと朝女性を食事に誘おうと思ってる
ニンニクの匂いはすばらしいけど、さ
もう歌が下手でどうしようもない
水なんだから
それと冬に風呂へ入るのは厳しい
シャワーで身体を温めてもきつい
子供の頃のぼせるほど風呂に入ったことがあったなぁ
ひげを剃ってる時血が出るのは敵わないよなぁ
合わない歯磨き粉
プールは話にならない、辛すぎる
小説を片付けるのだよ
はだしで小石の上を歩くのは痛いだろう
気味の悪い時計、さ
暗い海岸、虫だらけ
つまみ食いは大体みそ汁だな


離岸流

  

夏終盤の海でクラゲのようにたゆたっていたら、冷たい流れに捉えられた。陸地へと必死に泳いだけれど、押し戻され、押し流されて、同じ場所でもがくのが精一杯だった。
浜辺には色とりどりのパラソルの下で寝ころぶ大人たち。叫ぼうとして泳ぎやめたとたん私は、沖へ奪い去られるに違いない。



     
肺をふいごのように踏む足
心臓をきゅとつかむ手
のど元につかえる頭
胃の腑に座り込んでいる重さのあるもの
不意に内側から突き上げてくる感触は
腹を蹴る胎児に少し似ている
お前の名は「哀しみ」

のどを割いて這い出そうというのか
捨てられまいとしがみついているのか
私には押し殺すことも
吐き出すこともできない
私が胸に孕んだものでありながら
私を蝕む私でないもの
私を呑み込み溺れさせようとする 
 あの日の離岸流 
      押し戻されて
    押し流されて
      いつまで足掻いている
        いつまで溺れている       
     だけど
      助けてと 力をゆるめたら 
   最後  
            呑まれてしまう

      呑まれてしまえば  
     

あの日、あれからどうなったのか、私は覚えていない。何が変わったのか、何一つ変わらなかったのか。生き延びてよかったのかも明言できない。今、哀しみの中にあっては。
力尽きて、誰もいない浜辺に打ち上げられて横たわり、淡くなり始めた陽光に濡れた身体を乾かしてからであれば、何か言おう。
胎児のようなお前を抱いて。


移りゆくものたち

  


松林の間の小道
まん中に緑の下草が列になっているのは
日に何度かは車が通るから
道の脇にはネコジャラシやらヨモギやら
雑多なものたちが生い茂り
乾いた幹の間から収穫の終わった畑と
畑の向こうにある住宅地が見える
友達の家からのいつもの帰り道
ショウリョウバッタを脅かして
僕が歩くのは砂と小石と茶色い松葉の轍
小道は住宅地のアスファルトにさりげなく連結している
僕には入口であり出口なのだが
小高くなった住宅地から振り返ると
黒々と盛られた松林に
カラスが一羽二羽と舞い降りてゆく


やがて松林も、畑も、水色の空へ吸い込まれ、住宅とアスファルトが水が染みるように境界を伸ばしていった。
トンビは公園や行楽地で弁当を狩ることにしたらしい。
カラスは空で輪を描くトンビの真似して遊ぶのをやめ、夜の電線にぎっしり並んでとまり、コンビニの看板灯に油っぽい羽をぎらつかせている。
僕の住んでいた住宅地では子供の声を耳にすることが稀になり、時折、どこかの家で呼んだ救急車のサイレンや、窓から射し込む赤色灯に慣れてきた。
市街地では電柱が抜かれ、電線は地中に埋め込まれ始めている。美観や利便性のためでありカラスへの嫌がらせではない、と思うがあるいは。


低いところに水は流れる
草木も虫も動物も人も 
与えられた場でせめぎ合い
それぞれの速度と方法で
いつの間にやら遷移する
少しずつ 生き難さを分け合って


ゆく

  山人

 小さなザックを背中に背負い、懐かしい山村のバス停で下車した。少年時代を過ごした村である。
すでに稲刈りも終わり、刈り取られた稲の株から新しい新芽が立ち上がり、晩秋の風に晒され微かになびいている。
落穂でも残っているのか、カラスが何羽も行ったり来たりしている。
未だ舗装されていない小道を歩いていくと、深い山容が正面にあった。魔谷山と言われる伝説の山である。名前に魅せられて標高こそ千メートルを少し超える程度だが、多くのハイカーが訪れる山である。
取り憑かれたように突然目を見開き、村人達が山に分け入り、そのまま消息を絶ったと伝えられる魔の山。そんな伝説が登山口の小さなプラスチックの看板に書かれていた。
一歩踏み出すと、別の世界へ踏み込んだような取り返しのつかない感覚に襲われた。私はここを最後の場所として登るのである。
今まで多くの山登りをしてきた私は、幾度も死への恐れを感じたことがあった。その都度生を味わい、安堵したものだった。
幾度となく小さな罪を繰り返し、そしてかけがえのないものを無くしてしまった。私が私自身の存在を受け止めることは許されるべきことではない。泥臭く生きることも可能であり、それが逆に美しいとする考えもあるだろう、しかし、十分すぎるほど泥臭く私は生きた。死んでいく時だけは美しく死んでいきたい。
死を暗示させるような文面も何も残していない。そういうものを残すことは死への恐怖を訴えがたいためのものなのではないか。確かに死は怖い、幾度も危険な目に合い、死の恐怖を感じあの世の使者の舌なめずりを見たこともあった。死は怖いが、私がどのように死に往くのか、そして私の魂はどこに行くのか、それを確かめたい気持ちがあった。それが完結である、そう思いたかった。生を享けた時の記憶がない、だから、生が終わる時は明らかにそれを自覚したい、そう思った。
 
晩秋の気配が漂う山道は、多くの彩られた葉が散乱していた。すでに午後の日差しが差しこみ、夫婦連れの登山者に会った。夫婦と言えども仲が良いとは限らない、だが、夫婦で登るからにはそこに愛があるのは当然だろう、そういう普通の考えを嫌った私だった。
「これからですか」とにこやかに妻君らしい女性が声をかけた。
「ええ・・」、確かにこれから山に登るのだ。だが、違うのは下山しないと言うことだけだが。 
カップル、単独行者、グループ、数組の登山者に会った。山頂に着くと三角点があり、そこにザックを立てかけた。すでに登山者は全て下山しており、登山者によって侵食された山頂には、いくつもの転がった石と生き物の空気が漂っていた。
三角点に腰掛け、五年間止めていたタバコに火を点けた。吸っていた頃の銘柄はすでに発売されていなく、軽めの人気銘柄を買ってきた。気管支や肺の細胞は、五年もの間この時を待っていたかのように煙と毒を堪能していた。毒が満たされ、そのけむっていた想いを晩秋の夕闇に吐き出した。
午後三時を過ぎると明らかに晩秋は駆け足のように夜を急ぐ。山頂を後にした頃にはすでに足元が少し暗くなっていた。
山頂直下の急登を下ると、緩やかな窪地となり、薮を分け入りやすらげる場所を決めた。
最後の晩餐だった。
ヘッドランプを取り出して、湯を沸かした。死ぬつもりが生きるための行為をしているようで滑稽だと思い嗤った。
レトルトカレーとインスタントラーメン、おかずは赤貝の缶詰だ。山でひとりでこんなに贅沢したのは初めてで、自分の存在の終焉に乾杯、と高級な缶ビールを木に優しくぶつけた。
これで眠くなればちょうど良い。
ほどよく眠くなり、しばらく寝たようだ。風の音で目が覚めた。強烈な寒さで星は凍っている、とたんに我慢できない尿意を感じた。死ぬ時もこんなに寒い目にあわなければならないのだろうか、この震えのあとには気持ちの良い眠気が襲ってくるはずだ、そうすれば凍死できる。それにしても我慢できないほどの寒気が体中を刺していた。少し小高いところに立ち、放尿した。尿が風に煽られ飛沫となって左右に揺れ、私の足元もゆらりと揺れた。尿意はまだ納まっていないのに体はバランスを崩し、宙を舞った。暗い闇の中、私は滑落しながらまだ放尿を続けていた。数十?メートル落ちながら尖った岩にバウンドし、私の眼球は頭部から離れ、暗い煌く星空を眺めていた。次のバウンドで頭蓋から飛散した脳漿が体から分離し、新しい闇の空間へ飛び出していった。脳漿の想い、険悪なスラブの岩を滑り落ちながら「あなたは、いつも○○なのよ、お父さんなんて・・・だもの、どうするんだいったい、わかってるよ、そんなこと&%#”!*+<?***」
 ザスッ、鈍い音がやっと平らになった岩棚に落ちた。もはや原型をとどめていない私だった。これで私は間違いなく死んだであろう。心残りは尿意がまだ残っていたことだった。
それと、ずいぶんきたない死に様だ。

                   


ふっかつのじゅもん

  はかいし

『詩をやめる』

ランボー、ランボルギーニ、ごますりの回数だけ、
僕は詩をやめる、僕は詩の部屋から出て行くのだ、
カーライル、ソードマスター、あんたの額には、
かすかな傷跡が残る、腐海の底から泣き出したような、
明暗の地を行くうちに、果てのない海に漕ぎ出した、
ゲームオーバー、そこでだ。

詩ができる、僕っちの勃興を見てくれ、
なんて可愛いんだろう、カーライル、奥さん、
反逆者、そこに詩が生まれる、
詩は生まれてから光のようになり、
辺り一面に積もっていく、
勃起したみたいに、光の山ができる、
そこで伝説の言語は途切れる、
ゲームスタート。


『生きる気力がない』

生きる気力がない
だから眠る
眠ることは死の代補
その深遠なる道を
どこまでも降りていきましょう

秋がやってくる、
亜紀がやってくる、
白亜紀がやってくる、
ライフガード、ライフセービング、
かの男のいかれた頭では、
果たして美人と美人でない人のどちらを先に助けるのか、
しつこいなあ、もう
やめてくれ! もうやめてくれ!
勘弁してくれよもう!
な、感じで書けるぜ、
亜紀が通り過ぎた道のにおいを嗅ぐ、
すると春の雨のにおいがする、
亜紀なのに、秋のにおいじゃない、
亜紀のにおいじゃない、
白亜紀の恐竜たちの休息が解かれ
僕たちとなって前進する、
僕は僕でないものたちに生贄に捧げられ、
春は雨となって前進する、
存在が存在でないものと衝突する、
だが存在でないものとは?

雨は使い古された素材だ
今や語るのにも値しないだろう
プロコフィエフ、プロコフィエフ、
美しいミサイルとともに、
僕らは発射される、
厭う、痛うてならん、
あの闇の中で、ポエニークを掻き分けて、
僕が鎮座した、夢の通路を、
林に例えながら、木々を抜け、
通り雨のように、あるいはまた、
雨のように通り、
ペトルーシュカ、ペトルーシュカ、
存在の彼方に、
その青い目を差し出す、血だらけの目を、
あの人形のことを考える、
そして憂鬱になる、僕は、僕は、
生きる気力がない、
だから眠る、
眠ることは死の代補、
その深遠なる道を、
どこまでも降りていきましょう、

生きる気力がないものたちへ、
僕は君と同じ感情を共有してなどいない、
君はただそのけだもののような感情を、
抑え込まず、ただ吐き出しさえすればよいのだ、
だから眠る、
眠ることは死の代補、
その深遠なる道を、
どこまでも降りていきましょう、
そして夢を見ましょう、
時間と空間が分離せず一緒になった世界の夢
カントを読んで音楽がただの快楽に聞こえるようになる夢
垂れ流しの青い空のような何かを掴み取ろうとする夢
愛と平和と鳩と手品が順番に繰り出される夢

生きる気力がない、
だから眠る、
眠ることは死の代補、
その深遠なる道を、
どこまでも降りていきましょう。


『』
まどかマギカのブレスの音が聞こえる、
アルヴァ・ノトの音楽のように、
あるいは〜のように、と言い表されるすべてのものたちに、
捧げられた愛と愛の無効と、そ
して彼らははかなく閉じた、とい
うことは無効とは思われず、すな
わち伝説は電設となってしまう。

クラフトワークを聞こう、機構のような音楽、
音楽のような機構、アンビエント、電気、機
械屋、村雲、叢雲、雲の村に住んで、わたし
はわたしではなくなる、青の洞窟に入り込ん
で、わたしは瞑想してゆく、心の隅から隅ま
で青くなる、さらに青さへと向かう、アオサ
の茎のように、目も青くなる、顔も青く、
胸の傷を隠したまま(「夜明け生まれくる少女」より引用)

血を、
青く染める、あお、あお、
ああ、おおい、ああ、おおいおおい、
あおいあおいあおい、葵ちゃん、

殿下、電化製品を制圧致しました、電荷を
電解しながら、天下統一へ向かいましょう、
向山先生、むらさきのケムリが暴れていますよ、
返して、返してよ、
ね、ね。

ニーソックスはknee-socksと綴る
膝まで続く星の流れのように、いやこれは比喩ではなく
異次元のように魔界を見渡したのだ、いやこれも比喩ではなく
ではなんなんだ? さあ知らない、さあこれからだ、これから始まるのだ

ロックは死んだ。
神は死んだ。
は死んだ。
ハシンダ、ハシンダ、

ように、ように、
月に向かう髪のように、紙のように、

「のーくにー」
「おお、イイぞぅ」
byドラゴン桜


『Windows』

窓ども
が砕け散る


のように
ノイズを祝う
のい

っと好きだよ
のように
     ばら


ばら。         の

ふらん        したい

     のように
  腐乱

したい。

     あい

  それは    何?

      それは    悲しみ?     憎しみ?
  できれば
遠ざけて     おきたい
                          反射の

ように

       (ように)

               (ように)

夢を
語るとき
いつも
一人だった
僕は
窓ガラスを
粉々に
砕き
その破片で     (飛沫で)
血を
流しながら
       ふく         しゅう
              を
誓うのだった


群像と絞首劇場を巡る蟻の心臓の花言葉について

  鷹枕可

わたしにとって
貧しさは
狂気は
見捨てられた訛りです



此界は常歪んでいて
益々と旋風は柔かく死後をも乞うて尽きない牧神を舐め
角膜の雌雄は曖昧になりながら苗代の絶対詩を鋭角な都市論に線描をした
空中帆船の花粉航海記には知るべくもない電子の核膜が凌霄花を流麗な泥に浸した
私は、
彼方の他人であり
私の恩人である万年筆の書言葉を復る
幾艘ものガレー船を眺望する一把の朝餐の紫水晶に苛々と欹てられた眼だった
今、
今を過った辺縁に一ヶ月の緘黙が唇を弛緩させた
神経は蚯蚓の喚き腫らした固執でしかない

脳髄は鬱蒼鏡に
暫くは聴音せられた万遍ない空気瓶50ccの乾びたスプーンを断腸を指する紙張子の剃刀にもなるからか
大抵が凡俗な遠海に於いての
肘掛椅子と戸籍欄の撞着
そして
海鼠の頭蓋骨に綻ぶ慈愛の搾り滓でしかなかったので
母語や喃語にも限り無く似た洗濯液の沸騰が
総ての感受を触角に拠り執り行うとしてもそれは完膚なきほどの必然に晒された未遂死でしかない

才気などは端から在りはせず 
賑やかな哀しみは漁夫の油膜の花々に
涙液に殻を落した 
狂気の症例
朧ろげな出鱈目が
間抜けな隧道に泳ぐ幾輌ものモーター
つまり蝸牛の食道にあたる火事へ
少なからず談話者たちの電気信号を攪拌室に撃ちながら後悔していたに違いないと諾うか否か

肉声の些事はガソリンの様に匂った
それは薔薇の様に未だ糊塗されてはおらず
朴訥な気候に唾をした青年像の握り緊める鳥撃銃の火薬ですらなかった
あたかも外観的症候群が鏡像的病理の叩き台に擲った
哭き腫らした鐘の舌を収賄する如く
第一ヴァイオリンから第二ヴァイオリン迄の編成は群像列の死の行進を軽んじているのみならず
孤独の指揮、つまり散逸した薄乳色の彫像を空襲する幾多のてのひらへ
慈善の沈船を
一切苦厄の涯に世界を現じる混濁 
つまり狂人は被告であり 医師は批評者であり

或る
莫迦は、
葬送行進曲に
反吐を垂れていた

飛躍がシノプシスに
/
を打ち込む
乾酪に縋らんとする昇降機
「」
が賓客をくつろがせ
瓔珞の花婿は

を沓箆に引掛けていた

ピアニストを撃つな
ピアニストを撃って撃て
新しいダダ、そして蒸気機関車の花々は網膜炎

錆びた襯衣は目も覚める青色の藝術です
青色の襯衣は錆びた藝術の目も覚めるあなたの青色です
襯衣の錆びた青色は目も覚める藝術です
錆びた錆びた青色は藝術です目も覚める襯衣の
襯衣の藝術です青色は目も覚めるあなた

あなたなあなたたなああなたな
あなた

七面鳥の戴冠
青聖母は私です、
くしゃくしゃの新聞紙から白い薔薇薔薇薔薇と落ちた広告紙
散々な夜、迄も
常夜燈に
囁く死語のひとつです

ああ、恰幅の佳さもまるで霰の様
煤煙もやがては少女の庖丁に宛がわれてしまいます
草の眼が傷み
繭の諜報が届くときには
酷く
未明さえもが新しく死ぬのでしょう

ほら 御覧

* メールアドレスは非公開


出稼ぎ人夫

  山人

飯場に着くと、俺たちは襤褸雑巾のようにへたり込んだ。ねばい汗が皮膚に不快に絡みつき、作業着は雑菌と機械油の混合された臭いを放っていた。風呂は順番待ちだし、俺たち人夫は泥のような湯船に浸かるしかない。なんとか汗を流せば飯の時間だ。寝泊りする作業小屋から少し歩くと飯炊き女が居てそこで飯を食う。塩ビで出来たどんぶりにまったく光沢のない飯粒を盛る。葱だけの味噌汁、たくわんと鯖の缶詰をおかずに食うのだ。それぞれが安い焼酎ビンをかかげて、生目で飲りながら飯をかっ込む。あとは、酔いつぶれて寝るだけだ。雑魚寝の飯場は花札をやる者、ひたすら不貞寝を決め込む者の二通りしかいない。夜中に酒が醒めるとうるさい薮蚊が徘徊し眠れない。
 隧道のなかで俺たちはひたすら一輪車を押したり、剣スコップで土をほじくったりする。十時と三時に短い一服があって、ずっきりを出して刻みタバコを吸うのだ。刻みタバコを一塊吹かして、火の塊を手の平にぽんと投げつけまた葉をねじ込む。皆が鬼畜の作業から開放される一時だった。それを二回やるともう作業のサイレンが鳴る。サイレンの後には澱んだ重い吐息と溜息が地の底を這う。
昼飯にはメンツ弁当にびっしり隙間なく飯粒がねじ込まれていて、隅っこにしょっぱいだけの昆布の佃煮と、真ん中には真っ赤な血のような梅干が置かれていた。
 俺たちは出稼ぎ人夫。かかぁの股を風に吹かせても、銭を稼ぎにやってきた道具だ。かかぁの股を掘ることもできず土をほじくっている。夜中には、板張りのからっ風の吹き通る糞山の便所で棒を擦る。腐った泪が糞に纏わりつき、そのまま死んでゆく。このまま俺たちは、かかぁの穴の寂しさを埋めることも出来ず、腹の突き出たじじぃの札束を増やすために死んでいくんだろう。


夜伝わる音

  黒髪

聞こえる、闇の中、列車の音が強く。下り。いくつの駅があったのだっけ。
子供、学生、おばさん。
強いシュートを蹴る方法、風邪の養生は、余裕のない生活から抜け出すためには。
それらいろんな答え。
列車の後部にはたくさん物資を入れたコンテナが運ばれているだろう。
中身はなんなのであろうか。ごーんごーんと夢を運ぶかのような想像することをする。
音はすぐ遠ざかっていった。どこでも光を照らしながら音を立てるのだ。

猫の頭部の光る眼。
夜を越えたい、そうすれば諦めなくてすむだろう。
風がなる音に、不安と期待の入り混じった感情が喚起された。
夜に花びらは散っている、そっと地面に落ちていっている。
幾枚も幾枚も、ふあっと香りいっぱいに。天国のような。
それら人知れず落ちるものと、自分の境遇を重ね合わせ、
その時その場所なのだ、私が全精神を震わせても助けに行くべきなのは。
知らないことを知らないと言い、知っていることを知っていると言うことの、交わることない思考のラインを、
もしかしたら、その行為で、よぎることができ、レールの分岐を動かすかもしれない。
知らないことを知っていると言い、知っていることを知らないと言う。
本線から外れていくレールに、突き進むことだけが与えられる。
嘘と吝嗇が闇を生み、だれも望まないところへも道が続いていることが、とてもとても恥ずかしい。
涙が出そうになった。考えられない愚かさ。誰も救わない労働。
それは、おそらく、日常ならぬ道化の行為であるせいで、その結果も、はかばかしくはならないのである。
なぜそれを考えられるのか、例えば嘘は方便であることもある。しかし、独りぼっちでしゃべることはできず、
ただ慣性力のままに、間違った道を行っているだけだったのである。
散る花を救いたい、と、物事を知らない人間には感情的理由しか見つけられないのであって。
その想像が縁取られた場面となる。孤独な遊戯に答えを見つけようもなく、狂う、心が詰まり。
ぱあっと開いた笑顔が、すべてを許すように、明かりの中に見える。光に錯綜する幻視。
それは、原理的な……。
美しい蜘蛛の巣が張られるべき朝を迎えるために眠ろう。
明日は今日よりもよくなるはずだ。
賢い人間はきっと花の意味をなくすようなことはあるまい。
列車に乗りどこかへ行きたいのだ。
そして最後には、駅に降り立ち穏やかな風を感じられるところで自分の愚かさを恥じ、
またレールの先のほうの彼方へ、消えるところを確かめよう。
感情的な静けさの中で。
やっと得た平和の、閉ざされた空間の中で。
歪んだ夜にふさわしいヒキガエルの王となりたいと思いながら、田んぼの中で立ち尽くしているだろう。
心をかき乱す旋律で全てを燃えたたせる、指揮をとるために。
よこしまな王の偽に歪んだ心こそが開くことのない扉の鍵となるのだ。扉はまだここにある。
少年少女に刀で切りつけられてボロボロになった扉が、まだ誰も見たことがない世界とをつないでいる。
まぶしい光が生まれた予感がする。まだ暗いのであろうかと、扉をくぐった私は今まさに、
目を開き見ようとしている。
悪の全一者は、光線に包まれていなければならない。
レールの上しか行くことのできない不自由なものが、善の全一者となりえる。
服に付着していた花びらが一枚、ひらりと地面に落ちた。
どうやら地面はあるようだと、希望を強くさせられるような靴の下の感触に、希望の光が頭の中を渦巻き、
良き予感が体中を走った。どこまでも静まった夜と、なにがしかの気配のする朝とを、
繰り返してきた過去が、きっと形式を外れ、王冠の主にふさわしいカーニバルを与えられるかのような、
狂騒の熱の中へ、溶けていく。


  蛾兆ボルカ

庭の隅で年若いお母さんが
しゃがみこんで、おもちゃのシャベルで
一心に穴を掘っている
ときどき (自分は何をしているのだろう) と
首をかしげながら

後ろに張り付いた子どもが
背中越しに それを見ている
「お母さん、なにしてるの?」と、子どもが訊くと
「穴を掘っているのよ。」と、お母さんは答える

そうして30年が過ぎたのでした

―――― かつてそこは、穴でした
と、役人は私に言ったのでした

あなたの前のそのあたりは、かつてはひとつの穴だったのです。
わかりますか?すでに穴であることはやめてしまいましたが、
かつては穴だったのです。それは巨大な会議室の真ん中にある日
突然出現したような穴でしたし、学校の廊下の中央にあいたよう
な穴でもありました。
もはや全ては忘れられました。ごらんなさい、一見するとまるで
穴など無かったかのようではありませんか。
ここには久しく訪ねる人もなかったのですが、こうしてあなたに
見つめられて、穴は静かに眠るのだと思います。こうしてあなた
に触られて、穴は初めて眠るのだと思います。

「埋められたのは私でしょうか?それとも、あなたでしょうか?」と、
まだ年若くて少女みたいな、私のお母さんに
小さな子どもの私が、遠く叫ぶ

不意に私は
<私の判断は間違っていたのだろうか>
と、誰かにすがりついて訊きたい

しかしそこに既に穴はなく
平らな野原が続いていて
私は一人 野原に立っているのでした

庭の隅で
柄が緑で本体か赤い、プラスチックのおもちゃのシャベルで
穴を掘っている私の妻が
待っている家へと帰るために
私は振り返って歩き始める

帰ったら
「埋めるの?それとも掘り出すの?」
と、訊いてみようと思いながら


週末はやりきれなくて(2015ver.)

  熊谷


 新宿駅の高架下を通って東口方面へ抜けると、急に雨が強くなっていた。それは版画のなかの雨のように、まっすぐ打ち付けるような降り方で、目の前にあるはずの景色や、聞こえてくるはずの音をすべてかき消していた。日常、消化しきれないものは多々ある。そのうちのひとつとして、先ほど食べた脂っこいボンゴレがそうだった。定規のように強く真っ直ぐ地面を打つ雨は、あらゆる物に線を引く。それは僕の胃にも痛烈に届いて、胃もたれを引き起こしていた。目をつぶって優しくみぞおちを触ると、線は緩やかになり、何とか胃の形に収まろうとしていくのだった。



 ロシア生まれの留学生の彼女は、ボンゴレを得意料理にしていた。そこには、バターやオリーブオイルもたっぷり入れるのだけれど、不思議と彼女の作ったボンゴレは、胃がもたれなかったのを覚えている。いつか彼女が見せてくれた写真に、エジプトの砂漠でラクダに乗った彼女とその母親が写っていた。母親とは全く顔が似ておらず、むしろ日本人の僕の方が彼女に近い顔立ちをしていた。僕らは何でもちょっとずつ似ていて、まるで兄弟みたいだった。彼女は「わたしは日本人みたいな顔だから、きっととても良い日本語教師になれると思うの」と言うのだった。



 伊勢丹の辺りで吐き気を催してあわててトイレに駆け込むと、消化しきれなかった日常のできごとが頭を巡った。会社をかけずり回って靴底が減った革靴が、左だけ転がっていく。飲めないのに無理矢理飲んだコーヒーを、一緒に吐き出しているのを見ていたら、冷や汗がどっと吹き出し、やりきれなくて目をぎゅっとつぶった。今週は仕事でミスをしていた。AとBを間違えるような単純なミスだった。いつか彼女が、「日本語がわからなかったり、嫌なことがあったときは角砂糖にたくさん愚痴を吹き込んで、そうしてコーヒーに溶かして飲んでしまうの。そうしたら、もうそれでサッパリ忘れちゃうのよ」と言っていたことを思い出していた。



 気がついたら、ラクダに乗っている。それも何頭ものラクダ達と共に、暗闇へ向かっていた。ぱっと左を見ると、彼女とその母親もラクダに乗っていた。右を見ると、砂漠の地平線からわずかに太陽が見えている。「急いで陽が昇る方へ行きましょう」と彼女が言うと、ラクダ達はすぐに東へ方向を変えた。どこへ行くのか全くわからなかったけれど、とにかく金曜日を乗り切らなきゃ行けないことはわかっていた。週末はやりきれない。それは僕も彼女も、ラクダ達も一緒だった。誰もが一人でいることを寂しく思うし、砂糖入りのコーヒーを飲まなければいけなかったし、あらゆるものから、必死で逃げなくてはならなかった。ふと見ると、なぜか彼女の手に、履いているはずの僕の左足の靴が握られていた。



 「お兄さん大丈夫?」掃除係のおじさんに声をかけられ目を開けると、便器にしがみついたまま、寝てしまっていた。立ち上がって左足の靴を履こうとした時に、ずいぶん体調が良くなっていることに気がついた。おそらくストレスで胃が弱っているところに、脂物とブラックのコーヒーを飲んでしまったことが原因なのだろう。彼女を思い出すのが悲しくて、砂糖を入れずにコーヒーを飲んでいたのだけれど、やはりブラックでは飲まないほうが良いのかもしれない。あれから、彼女はロシアへと帰って行ってしまった。おそらく僕が口にしていた日本語を、現地で子供たちに教えているのだろう。ポケットから定期を出すと、黄色い砂のようなものがザザーと出てきた。土曜日まであと数時間。きっとすぐに日は昇る。僕らは東に向かって、走っているのだから。

週末はやりきれなくて(http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=78;uniqid=20070410_603_1995p#20070410_603_1995p)再校正分


absolution

  かとり

石灰質の呼吸がひび割れる黄ばんだカーテンと液晶スクリーンのあいだ
彗星について行ってしまったアラームの落としたパンくずを探していた
降り注ぐマヨネーズの空模様が白黒と瞬かせていた静物の気分が悪くなって
肌の柔らかさに突き落としてしまうまでおびただしさは街路を不安にさせていたけれど
手を繋いで歩いてゆこうとしていたふたりそれぞれ微笑していて寂しそうではなかった

食器を手に階段を降りていった影を見送って煙草に火をつけ
後ろめたさに耳を澄ませながら空に向けて吹きかけていた息は
これまでに綴った言葉を流してしまうための嘘だったのだと思う
残された文字が階下で蛇口を開けたのは金木犀の歌う歴史の陰の出来事
お湯が注がれる振動にすべて過ちをまぎれこませた羽化の上映会に
追いかけてきたのか共鳴しているのかアラームは鳴り響く


SODAwater

  uki



ござであそぶでござるよこーざをろくがしてからすうじかんごほーるけーきをたべるゆめがさいほうそうされてもあんまりしちょうしゃはいないところであきのひはばくはつがんぼうばくはつつるべおとしきっくであそぶとんがりぼーしはどこまでものびほーだいかけほーだいのあやまんじゃぱんのふぁんたじすたさくらだだだだだいずむでうんでみましたせんたくきでまわすぺんぎんあらえばどこまでもあおぢゃしんのぎんがこそがすべてだった


山下清に抱きしめられて()今日のところは寝るしかないね
残念ながらこっちには脳はないんだ、
だからきみの脳なしがすき、わたしはわたしの能なしがすき、
作家はみな水着姿で電流を流す
あおみどりの髪に角をかくして
甘いメロンソーダしかない海の家、
ストローがいくつもこまかく準備される、
ストローづくりがここでは作家のしごとだ
(もちろん授産施設の主なしごととかさなって・至極当たりマエ)
くいっと鉤状に曲がるストローに、まっすぐで実直なストロー、エリートぶったト音記号、etc
なんの疑問もなくうみからあがった生物たちは
そのストローで緑の炭酸を吸った


ピリピリッ


ああ。

おいし。





「ありがとう」

作家はそういいながらこころではみんなに詫びていた
誰かが気づいたらどういおうか考えていた
――たとえば。


そうだった、

ここ、きみのゆめだったよね?

だからってぼくはどこへいけばいいんだ、
ぼくを564(コロシ)たりしないよね?

いいえころしません
それどころかわたしたちのせいでここがこれほど赤くなったのでせう

いやいやゆめのそとさん、

いえいえゆめのなかさん、

どっちがどっちか
わからなくなるまで

遠い緑の家ができあがるまで

「おたがいずっと海の家にいませんか?」



そうしてストローづくりが一人増えた海の家に、虹色のTシャツがはためく、

そんな、ゆめ。

がかわいいウエイトレスのお盆に乗せられて、青いテーブルの上にやってくる。


ほんとうの夏はまだ見えない

五月、

じゃなかった、

もういなくなった

十二月の雪の佇まいをしたクリーム・ソーダ。




2015.10.29


世界は冬の夕方

  泥棒

どのような世界に住めば
窓の向こう
詩を書くこともなく
比喩など使う必要もなく
あなたに
花や
歩道の水たまり
そのままに
伝えられるのでしょう。
いつか見た
夕方に降りはじめた雪
おぼえていますか、
あなたの花は
あなたの世界で
まだ咲いていますか、
私は
私の世界でならば
誰よりも速く走れます
お許しください
言葉では
もう何も
伝えられはしないでしょう。
世界の残響は遠すぎて
冬の夕方は冷たすぎて
いちだんと美しいのに
それなのに
私の足は速すぎて
風景が歪んで
もうどこにも
あなたが見えない
雪が
すべてとけて
春が
ゆっくり来たとしても
世界は冬の夕方のままで
きっと私には
もう二度と
あなたが見えないのでしょう。


ちょんちょん丸

  少年B

おやつのあと
毛糸編みでちょんぼ
バカとどなられたから
ふるえる声で
パカ
とつぶやいた

お昼寝のあと
庭の水やりでまたちょんぼ
ボケっとすんなとたたかれたから
ポケットのあめちゃんなめて
いちご味になぐさめられた

バカもボケも
いやなちょんちょん

いちごは
すきなちょんちょん

イヤならまるめてしまえばいい
パカもポケもやさしいひびき
ちょんちょん丸が、やってくる

お夕飯のとき
おかずをぼろぼろこぼして
ついにほっぺたなぐられて
涙がぽろぽろとまらない

ぽろぽろ、これはかなしいひびき
ちょんちょん丸は、やってこない

明日、ぼくはここから逃げる
に/げ/る

る「げ」に

――逃げられないよ
ちょんちょん丸が
まるくおさめようと
追いかけてくる

誰よりも険しい顔で

文学極道

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