二〇一五年八月一日 「恋」
恋については、それが間抜けな誤解から生じたものでも、「うつくしい誤解からはじまったのだ。」と言うべきである。
二〇一五年八月二日 「ディーズ・アイズ。」
お酒を飲んでもいないのに、一日中、作品のことで頭を使っていたためだろうか、めまいがして、キッチンでこけて、ひじを角で擦って、すりむいて血が出てしまった。痛い。子どもみたいや。そいえば、子どものときは、しょっちゅうけがしてた。BGMは60年代ポップス。ゲス・フーとかとっても好き。
二〇一五年八月三日 「うんこのかわりに」
うんこのかわりに、あんこと言ってみる。うんこのかわりに、いんこと言ってみる。
うんこのかわりに、えんこと言ってみる。うんこのかわりに、おんこと言ってみる。
うんこのかわりに、かんこと言ってみる。うんこのかわりに、きんこと言ってみる。
うんこのかわりに、くんこと言ってみる。うんこのかわりに、けんこと言ってみる。
うんこのかわりに、こんこと言ってみる。うんこのかわりに、さんこと言ってみる。
うんこのかわりに、しんこと言ってみる。うんこのかわりに、すんこと言ってみる。
うんこのかわりに、せんこと言ってみる。うんこのかわりに、そんこと言ってみる。
うんこのかわりに、たんこと言ってみる。うんこのかわりに、ちんこと言ってみる。
うんこのかわりに、つんこと言ってみる。うんこのかわりに、てんこと言ってみる。
うんこのかわりに、とんこと言ってみる。うんこのかわりに、なんこと言ってみる。
うんこのかわりに、にんこと言ってみる。うんこのかわりに、ぬんこと言ってみる。
うんこのかわりに、ねんこと言ってみる。うんこのかわりに、のんこと言ってみる。
うんこのかわりに、はんこと言ってみる。うんこのかわりに、ひんこと言ってみる。
うんこのかわりに、ふんこと言ってみる。うんこのかわりに、へんこと言ってみる。
うんこのかわりに、ほんこと言ってみる。うんこのかわりに、まんこと言ってみる。
うんこのかわりに、みんこと言ってみる。うんこのかわりに、むんこと言ってみる。
うんこのかわりに、めんこと言ってみる。うんこのかわりに、もんこと言ってみる。
うんこのかわりに、やんこと言ってみる。うんこのかわりに、ゆんこと言ってみる。
うんこのかわりに、よんこと言ってみる。うんこのかわりに、らんこと言ってみる。
うんこのかわりに、りんこと言ってみる。うんこのかわりに、るんこと言ってみる。
うんこのかわりに、れんこと言ってみる。うんこのかわりに、ろんこと言ってみる。
うんこのかわりに、わんこと言ってみる。うんこのかわりに、んんこと言ってみる。
二〇一五年八月四日 「うんこするかわりに」
うんこするかわりに、あんこする。うんこするかわりに、いんこする。
うんこするかわりに、えんこする。うんこするかわりに、おんこする。
うんこするかわりに、かんこする。うんこするかわりに、きんこする。
うんこするかわりに、くんこする。うんこするかわりに、けんこする。
うんこするかわりに、こんこする。うんこするかわりに、さんこする。
うんこするかわりに、しんこする。うんこするかわりに、すんこする。
うんこするかわりに、せんこする。うんこするかわりに、そんこする。
うんこするかわりに、たんこする。うんこするかわりに、ちんこする。
うんこするかわりに、つんこする。うんこするかわりに、てんこする。
うんこするかわりに、とんこする。うんこするかわりに、なんこする。
うんこするかわりに、にんこする。うんこするかわりに、ぬんこする。
うんこするかわりに、ねんこする。うんこするかわりに、のんこする。
うんこするかわりに、はんこする。うんこするかわりに、ひんこする。
うんこするかわりに、ふんこする。うんこするかわりに、へんこする。
うんこするかわりに、ほんこする。うんこするかわりに、まんこする。
うんこするかわりに、みんこする。うんこするかわりに、むんこする。
うんこするかわりに、めんこする。うんこするかわりに、もんこする。
うんこするかわりに、やんこする。うんこするかわりに、ゆんこする。
うんこするかわりに、よんこする。うんこするかわりに、らんこする。
うんこするかわりに、りんこする。うんこするかわりに、るんこする。
うんこするかわりに、れんこする。うんこするかわりに、ろんこする。
うんこするかわりに、わんこする。うんこするかわりに、んんこする。
二〇一五年八月五日 「こん巻き。」
血糖値が高くて、糖尿病が心配だったのでおしっこをしたあと、チンポコのさきっちょに残ってたおしっこを指につけてなめたけど、あまくなかった。よかった。きょう、きみやさんで隣でお酒を飲んでらっしゃった方が、ときどき彼女から、フェラチオされたときに、「あなた、甘いわよ。」と言われるらしい。笑いながら、そうおっしゃった。その方のお話に出てきた「こん巻き」というのが食べてみたい。スジ肉を昆布に巻いて、両端を竹の皮のひもで縛り、醤油で炊いたものだそうだ。醤油で味付けした煮汁で炊くだったかもしれない。砂糖やみりんを加えていない、甘さのないものだそうだ。お話の仕方から、それが被差別部落特有の食べ物であるようだった。ぼくは知らなかったので、だいたいのところを、昆布でニシンを巻いて甘辛く煮るふつうの昆布巻きを連想した。飲み屋さんでは、もっぱら聞き役で、詩の材料とならないかと思って、聞き耳を立てている。そだ。父親の夢が出てきたけれど、父親のことを作品に書き込もうと思っている。とても苦労したひとなのだ。もらい子といって、親に捨てられて養子に出された身の上だ。ぼくは父親が商売をはじめて成功したときの子だから、貧乏というものを知らないけれど、父親は貧しい家に引き取られたから、苦労したらしい。貧しい被差別部落の方の家に引き取られたらしい。ぼくとは血のつながりのない祖母だけが確実に被差別部落出身者であることがわかっているが、ぼくの実母も被差別部落出身者なので、因縁があるのだろう。ぼくには子どもがいないので、たくさんの遺伝子の連鎖が、ぼくで終わる。実母は精神病者でもあるので、ぼくで終わってよいのかもしれない。人生は恥辱と苦難の連続だもの。ときたま、楽しいときがあったり、うれしいこともあったり、よいこともあるけれど、それに、恥辱や苦難といったものにも意義はあるのだけれど。
二〇一五年八月六日 「夢は」
オレンジ味のタバコを吸う夢を見た。ただそれだけの短い夢だった。また、べつの夢で、二本の長い棒を使って、池の中をひょいひょい移動する夢を見た。竹馬っていうのかな。でも、ものすごく長い棒で、身長の何倍もあって、ぐいんぐいんしなって、顔が水面にくっつきそうになるくらい曲がるんだよね。高校生くらいのぼくだった。身体が体重がないみたいに軽くって、その棒を使って、動きまくって、きれいな景色のなかを移動していた。ぼくの勤め先の学校がある田辺のような、田圃がいっぱいあるようなところだった。友だちとそんなふうにして大きな池のなかを遊びまくってた。ものすごくいい天気の日だった。お昼ご飯を食べに西院のブレッズ・プラスにBLTサンドイッチのランチセットを食べに行った。(中座)けさ見た夢からの知識。夢のなかでも味がわかるということ。五感のうち、嗅覚・味覚・触覚・視覚ははっきり存在していることがわかった。聴覚のことがいまだに謎だ。ぼくの夢の世界に音が存在していないのだ。夢のなかでも、言葉は存在するみたいなのだが、現実世界のように空気を伝って音が伝わるって感じじゃなく、テレパシーのような感じで伝わるのだ。聴覚以外の感覚は、現実世界に近いと思うのだけれど。まあ、いつかもっと明解な夢を見てみよう。夢は知だ、とヴァレリーは書いてたけれど、ぼくもよく詩に使った。さいきん、きょうのような現実感のある夢を見ていなかった。きょうの夢は楽しかった。動きがあった。ぼくが若かった。好きだった友だちも出てきた。田んぼのようなその大きな池で遊んだあと、いっしょに学校へ行く道を走った。なんて清々しい。
二〇一五年八月七日 「脱脂粉乳。」
チャールズ・ストロスの『シンギュラリティ・スカイ』を読み終わった。これで二度目だけれど、また時間をおいて読み直したい小説だった。作品をつくっているあいだの休憩で読んでいたのだが、そのまま最後まで読んでしまった。終わりのほうで、「代用コーヒー」が出てくる。代用ミルクというものを知っているひとなんて、ぼくの世代が最後だと思う。ぼくが小学校1年生のときに給食で出た脱脂粉乳のことである。黄色いアルミの皿に、あたためた状態で出てきたんじゃなかったかな。まずくて飲めたものではなかったが、京都市では、その年で脱脂粉乳の給食での配給が終了したのだった。それから壜牛乳になり、数年後に正四面体の紙パック入り牛乳になったのだった。あと、栄養不足を補うために、小学校の4年くらいまで、肝油ドロップを配ってた。いまでいうところのグミのようなものかな。世代共通の思い出も書き残さなくては、と思ってる。
二〇一五年八月八日 「ひとつの頭のなかに、たくさんの時間や場所や出来事が同居している。」
あさに考えたのだけれど、むかしの記憶が頭のなかにあるということは、さまざまな時間や場所や出来事が、ひとつの頭のなかにあって、その頭が移動しているということは、さまざまな時間や場所や出来事が、頭ごとそっくり移動しているということで、たくさんの人間が移動しているということは、たくさんの頭が移動しているということなので、たくさんの時間や場所や出来事が複雑に交錯しているということなのであると思ったのだった。友だちと二人で同じ部屋のなかにいるときにでも、異なるたくさんの時間や場所や出来事が詰まった頭が二つ存在しているのだ。人間の存在自体、なんだろうなって思う。時間や場所や出来事が詰まったもの。逆に、ひとつの時間や場所や出来事が数多くの人間を包含しているとも考えられるので、逆からの視点で、時間や場所や出来事を、また人間を考えてもおもしろいし、深く考えさせられる。
二〇一五年八月九日 「脳を飼う。」
猫と脳の文字が似ているような気がする。で、脳のかわりに、頭蓋骨のなかに猫を入れて、猫のかわりに、脳を飼うことにした。脳は、みゃ〜んとは鳴かないので、鳴かない脳なのだと思う。帰ってきたら、脳が机のうえで横になっていた。ぼくの姿を見ると、脳は、ゆっくりと机のうえを這ってきた。かわいい。さいきん、トマトが映画に出なくなった。若いころのトマトは、いつもブチブチに潰されては悲鳴をあげて、舞台のうえを転げまわっていた。かわいかった。ひさしぶりにトマトが出る映画を見てる。横にいた脳が、映画の舞台のうえにのぼっていった。トマトが脳に唾を吐きかけた。すべてがそろっているか。すべてがそろっているかどうか心配になってきたので、ペン入れにハサミを垂直に立てた。ハサミというのはやっかいなもので、しょっちゅう勝手に動き回る。気をつけていないと、玄関から出て他人の家に勝手に入っていってしまうのだ。そう思って、ハサミを垂直に立てたのだ。脳が膝元にすりよってきた。脳に名前をつけるのを忘れていた。ベンという名前をつけることにした。そこで、かわりに、ベンのことを脳と呼ぶことにした。ベンが脳に似ているというわけではない。脳がベンに似ているというわけでもない。むしろ舞台のうえでブチブチと潰れるトマトに似ているだろう。いや、垂直に立てたハサミにか。脳の行動半径は、頭蓋骨のなかの猫の行動半径よりも狭い。いちばん遠くにまで行くことができるのはハサミだけれど、ハサミは垂直に立てておけば動くことができない。時間的に遠くまで動くことのできるものはトマトだ。膝と膝のあいだに、たくさんのトマトを置いて、うえから両手で思い切り殴りつける。脳はミャ〜ンとは鳴かない。右手の中指のさきで脳のひだに触れる。やわらかい。さわっていても、脳は陰茎のようには勃起しないようだ。いつまでも、やわらかい。しかし、トマトは、ずっと勃起しっぱなしだ。だから垂直にハサミを立てておかなければならないのだ。容量の少ないトマトは出血量も少ない。ベンに呼ばれて返事すると、ベンが起こっているのがわかった。少しの表情の変化でも、ぼくには、それが起こっているのか起こっていないのか、わかるのだ。現象としてのベンは、きわめて単純で、わかりやすいものなのだ。トマトやハサミよりもわかりやすい。脳もわかりやすいといえば、わかりやすい。しかし、なによりもわかりやすいのは、ぼくの頭蓋骨のなかにいる猫だ。ノブユキは、よくぼくの頭蓋骨のなかの猫と共謀して、ぼくにインチキのじゃんけんをしかけた。まあ、ぼくは笑って負けてやったけれど。横にいる脳のひだのあいだに指を深く差し込んで、ぐにゅぐにゅ回した。とても気持ちよい。ハサミのかわりに、脳をペン立てに垂直に立てた。ハサミで剪定すると、映画の舞台のうえに落ちて、ブチブチに潰れたトマトのように転げ回った。つぎに、ぼくはベンの指を剪定していった。泣いて許しを乞う姿がかわいい。ようやく安心して眠れるような気がした。横になろう。 おやすみ、グッジョブ!
二〇一五年八月十日 「帥」
FBフレンドの画像に、「帥」ってコメントがあったので、自動翻訳機にかけると、「粋です」と出てきた。ぼくに会いに日本に遊びにくるねって書いてきた子の、かわいい顔画像に対するコメントだった。ぼくはたいてい、「可愛」「cute」「handsome」「good looking」って書く。
二〇一五年八月十一日 「2角形」
ふと球面上の2角形が思い出された。目蓋に縁どられた、ぼくらの目は、2角形なのだった。
二〇一五年八月十二日 「ヒロくん。」
ひさしぶりに、ヒロくんの写真を見返してた。クマのプーさんそっくりだった。と思っていたのだけれど、もっとかわいかったのだった。10代の自分の写真も見返してたけれど、どれも笑っていた。笑うようなことはなかったと思うのだけれど、カメラを向けられると、笑わなければならないと思って、笑っていたのだろう。さっき、コンビニに行く途中、雨が降ってきたので、180度回転して、自分の部屋に戻ってきた。食欲より、雨に濡れたくない気持ちの方が強かった。
二〇一五年八月十三日 「存在は自身の質量、体積、時間によって測られる。」
はじまりに終わりがあって、終わりにはじまりがある。寝ているときに、数年前に亡くなった継母と冗談を言い合って、笑っていた。いつも陽気なひとだったけれど、死んでからも陽気なひとだ。これからお風呂に、それから塾に。塾に行くまえに、マクドナルドに行こう。(中座)同一性を保持した自我なるものは存在しない。同一性を保持した精神も存在しない。あえて言えるとすれば、存在するのは、虚構の自我であり、虚構の精神である。存在は自身の質量、体積、時間によって測られる。物質的な存在においてもだし、非物質的な存在においてもだ。
二〇一五年八月十四日 「立方体の六面がウサギだった。」
ことしの1月には、コーヒー一杯で6時間もねばった、ぼくだった。ベローチェ。ことしの1月のなかば、たしか、15日か、16日に、ほんやら洞が焼失したのだった。
二〇一五年八月十五日 「出眠時幻覚」
4回連続で、出眠時幻覚を見た。さいしょ目が覚めたら学生の下宿で3人いた。ここは東京だという。これだけ飲みましたよとボトルを見せられた。つぎに明治時代の通りにいた。着物をきたおじさん、おばさんが目のまえを、行き来してた。つぎが、自分のむかしいた下宿らしい。そんな場所にはいなかったが。さいごに自分のいまの部屋にいてパソコンを立ち上げようとしたら、パソコンの向こう側から覗く顔があって、自分だった。それで、ハッと思って、しっかり覚醒してパソコンのスイッチを入れた。なまなましい夢。途切れる間もなく。発狂したのかと思った。お酒飲み過ぎかな。ずっと二度寝、いや、五度寝くらいしてた。そしてずっと夢を見てたけど、これらの夢は、ツイッターに書こうという強い意志がなかったため、FBとかいろいろ見てたら忘れた。これからマクドナルドにアイス・コーヒーを飲みに行こう。
二〇一五年八月十六日 「わたしは他人のまなざしのなかにも、他人の息のなかにも存在する。」
わたしはあらゆる時間と場所と出来事のなかに存在する。なぜなら、わたし自身があらゆる時間であり、場所であり、出来事であるからである。つまり、あらゆる時間や場所や出来事そのものが、わたしであるからである。
二〇一五年八月十七日 「卵」
彼は毎日、卵を産んでいる。彼はそのことを恥じている。
二〇一五年八月十八日 「On Bended Knee。」
きのう
ひさしぶりにジミーちゃんから電話。
半年ぶり?
2月に会ったのが最後くらいやと思うけど。
じゃあ、4ヶ月ぶりかなあ。
そのくらいちゃう?
元気?
なんとか。
それより、田中さん。
さいきん、変わったことない?
ええ?
べつに。
さいきん、ごにょごにょ。
はっ? なに?
さいきん、こびとをよく見かけるんやけど。
あっそう。
あ
そういえば
ぼくのつぎの詩集
ホムンクルスのこびとが出てくるわ。
あ
リゲル星人のまぶたから踊り出てくるこびとたちもいるし
偶然かな。
世のなかに偶然なんてことあると思う?
それは見方やな。
ぜんぶ偶然って言えるやろうし
ぜんぶ必然やったって言えるやろうし。
あ
これ携帯からやから
あとで家からかけ直すわ。
ええ? いま、どこにいるの?
家の近所。
あっそう。
じゃあ、またあとで。
あとで。
って
ところが
あとで
ジミーちゃんから
電話はなくって
つぎの日のきょう、電話があって
きのう、電話が掛けられなかった理由が自分でもわからないという。
まあ、ぼくも、深く突っこんで訊く気もなかったので
訊かなかったけれど
ひさびさに友だちの元気な声が聞けてよかった。
ジミーちゃんとは15年以上の付き合いなのだけれど
ときどき
途切れる。
理由はべつにないらしいのだけれど
付き合いが途切れる前は
精神状態があまりよろしくないらしい。
それはジミーちゃんのほうね。
ぼくもよくないこともあるんやけど
チャン・ツィイーの出てる『女帝』という映画を見ているところやった。
10本のハミガキチューブをおすと
10本の柱がとび出した。
10本の柱で歯を磨いた。
ぼくを起こしてくれた。
ぼくを立たせてくれた。
ぼくを洗面所まで歩かせてくれた。
ぼくに歯ブラシを持たせてくれた。
ぼくにハミガキチューブを手にとらせてくれた。
ぼくにハミガキチューブをおさせてくれた。
ぼくに歯を磨かせてくれた。
ぼくにシャワーを浴びさせてくれた。
ぼくにからだを拭かせてくれた。
ぼくにパンツをはかせてくれた。
ぼくにオーデコロンをつけさせてくれた。
ぼくに靴下をはかせてくれた。
ぼくにポロシャツを着させてくれた。
ぼくに綿パンをはかせてくれた。
ぼくにリュックを持たせてくれた。
ぼくにドアを開けさせてくれた。
ぼくに仕事に行かせてくれた。
これを順番を入れ換えてみる。
ぼくにリュックを持たせてくれた。
ぼくにドアを開けさせてくれた。
ぼくにパンツをはかせてくれた。
ぼくを立たせてくれた。
ぼくに歯ブラシを持たせてくれた。
ぼくにポロシャツを着させてくれた。
ぼくにからだを拭かせてくれた。
ぼくにシャワーを浴びさせてくれた。
ぼくに靴下をはかせてくれた。
ぼくを起こしてくれた。
ぼくに歯を磨かせてくれた。
ぼくにハミガキチューブをおさせてくれた。
ぼくにハミガキチューブを手にとらせてくれた。
ぼくを洗面所まで歩かせてくれた。
火のなかで微笑むこびとの映像が思い浮かぶ。
火のなかで微笑むのはこびとじゃなくて
預言者のはずなんだけど。
いや、木歩とその友人
ぼくとエイジくんのはずなんやけど。
火のなかでこびとが微笑んでいる。
(2009年7月3日のメモ)
チャン
ツィ
イー
いったい、なにを怖れる必要があるのだろうか?
よぶせよ
二〇一五年八月十九日 「『詩人園』、開園いたします! 入場料無料です。」
まだ「一流」の分類の館内には、だれも入っていませんが
「二流」や「三流」の館内には、たくさんの詩人たちが入っております。
「二流」のところには、みなさまご存じの詩人たちがいるかもしれません。
「もう高齢なんと違う科」の詩人は、ほんとうに多いですね。
彼ら・彼女らのほとんどが生活類と政治類で
一部にアバンギャルドな芸術類がおります。
彼ら・彼女らは、この詩人園の半数近くを占めています。
ほんとうにもうだいぶん高齢なので、近日中に見に行かれないと、
二度と目にすることはできないかもしれませんよ。
えさは与えないでください。
ぼけている詩人もいます。
というか、ほとんどがボケです。
食事の記憶がなく、いくらでも食べる詩人もいますので。
しかし、「三流」館にいる、
「あんたらめちゃくちゃ傲慢なんと違う科」の詩人たちには注意してくださいね。
かつて有していた権威をかさにきて、訪れた観客の前で
自分たちの三流の詩を朗読して聞かせますから。
長時間聞かれますと、耳が腐りますので、十分にご注意ください。
石を投げつけるのは、かまいません。
それが、古代からのならわしです。
「三流」館の詩人たちは、むかしからぜんぜん進歩のない範疇に属しており
「どうにもこうにもならないやん科」が多くを占めていますが
「どうにもこうにもならないやん科」には、若い詩人たちもいますので、
お子さまの遊び相手にはよろしいかと思われます。
子供相手に、自分たちの詩を朗読して、自分たちが詩人であると思いこんでいますが
子供たちは、彼ら・彼女らを「バカなオトナ」として
ただ、バカにして笑っているだけなのですが、
子供たちは、笑うこと、それ自体楽しいので、笑っています。
また「コスプレ・見て見てわたしはかわいいんとちゃう科」や
「どうして奇異な振る舞いをしてしまうのか自分でもわからないのだけれど
だれかわたしに教えてくださらないかしらほんとにもうわたしはそもそもいったい
どこにいるの科」といった分類の詩人も多くいますので
詩人を見て、笑って楽しんで行こうと思われる方はここにおいでください。
注意点
詩人の前で、その詩人以外の詩の朗読はやめてください。
彼ら・彼女らは、他人の詩の朗読が一番嫌いなのです。
そんなことをすると、うんこをつかんで、観客に投げつける詩人もいますので
くれぐれも、彼らの前では、彼らのもの以外の詩は朗読しないでください。
二〇一五年八月二十日 「言葉探偵登場!」
では
あなたが第一発見者なのですね
この言葉が死んだ時間は言葉学者によると
昨夜の11時ごろだそうですが
そのころあなたはどこにいたのですか
ああ
あの詩人のブログのなかにいたのですか
でしたらアリバイはすぐに確認できますね
ちょっと待ってください
はい
確認しました
たしかにあなたはその時間に
この文章のなかに存在していませんでしたね
で
あなたが今朝この言葉を発見したいきさつを述べてください
どういった経路で
この言葉がこの文章のなかで死んでいるのを発見されたのかを
二〇一五年八月二十一日 「『言葉は見ていた。』 第一回」
まあ
あの殺された言葉って
わたし
よく知ってるわ
よくいっしょにある詩人の文章のなかに書き込まれたもの
え?
知らない?
ほら
あの朗読中にぶりぶり、うんこ垂れる詩人よ
ええ
その人よ
その詩人よ
だけど
どうして殺されてしまったのかしらね
あ
あの言葉ね
詩人に悪気はなかったと思うのよ
きっと
何か理由があったのよ
え?
そうよ
じつは
わたし見ちゃったのよ
その詩人が
別の詩人の原稿を剽窃したところ
そこに
あの言葉がいたのよ
偶然ね
いえ
偶然なのかしら
よくわからないけれど
あ
もうじき
コマーシャル
二〇一五年八月二十二日 「言葉平次!」
言葉平次!
言葉だったら
未練が残る♪
シャキ
シャキ
言葉を投げつけて
怠惰な読者たちをやっつける
言葉平次!
二〇一五年八月二十三日 「言葉を飼う」
古い言葉がいらなくなったので、新しい言葉を買いました。
古い言葉がいらなくなったので捨てました
ぼくが生まれたときから使っていた言葉でしたが
最近は、ぼくの文章のどこにも現われなくなっていました
少し前からなんですけれど
使っていても、ぜんぜん効果がなくって
正直言って、いらない言葉でした
で、きょう仕事帰りに
言葉屋さんの前を通ったら
生まれたての新しい言葉と目が合ったのです
その言葉とはきっとうまくやっていける
そう思ったので
言葉屋さんに入って
その新しい言葉を買いました
帰ってきて
さっそく文章に使おうとしたのですが
その新しい言葉は
部屋に入るなり
そこらじゅうを駆け回って
ぜんぜんおとなしくしてくれませんでした
それで
文章を書くこともできず
その言葉を追いかけては捕まえ
追いかけては捕まえ
追いかけっこをして疲れ果てました
きょうは使えませんでしたが
こんど文章を書くときにはぜったい使おうと思っています
古い言葉はいらなくなったので捨てました
でもいったんは捨てましたが
クズ入れのなかから覗く古い言葉を見ていると
なんだかかわいそうになってしまって
いつかまた使うこともあるかもしれないと思って
クズ入れのなかから出してやりました
二〇一五年八月二十四日 「『詩人ダー!』新発売。」
『詩人ダー!』新発売。
なたの味方です。
きっと、お役に立ちます。
いやなひとの家を訪問しなければならないとき
いやな上司と付き合わなければならないときなど
あなたがいっしょにいるのがいやなひとと
どうしてもいっしょにいなければならないとき
この「詩人ダー!」を、シューっと、ひと噴き、自分にかければ
あなたから離れなくても
相手があなたから離れていってくれます。
なぜなら
それまでのあなたのおしとやかで優しい性格が一変して
あつかましく凶暴になり
相手の状況などおかまいなしに
わけのわからない言葉をぷつぷつとつぷやいたり
突然叫び出したり
へんな節回しをつけて詩を朗読したりするからです。
「詩人ダー!」新発売
いっしょにいたくないひとがいるあなた
「詩人ダー!」は、あなたの味方です。
お役に立ちます。
二〇一五年八月二十五日 「『詩人キラー!』新発売。」
『詩人キラー!』新発売。
いやな詩人が出る季節になってきましたね、プシューっとひと噴き。
これでいやな詩人を撃退できます。
この詩人は
ほかの詩人とほとんど付き合いがなかったので
ほかの詩人ほど頻繁に
ほかの詩人から詩集が送られてきたり
詩誌が送られてきたりはしなかったけれど
それでも週に何度か郵便箱に
日本中から詩人が送られてきた
詩人たちは郵便箱のなかで
身体を折り曲げて
この詩人が仕事から帰ってくるのを待っていた
ときには
何人もの詩人たちが
どうやって入ったのかわからないけれど
身体を折り曲げて
郵便箱のなかに入っていた
この詩人は
自分の疲れた身体といっしょに
送られてきたその何人もの詩人たちの身体を
部屋のなかに入れなければならなかった
詩人たちは口々に
自分たちの詩を
自分たちの論考を
自分たちのエッセーを
この詩人に聞かせるのだった
この詩人が食事をしているときにも
お風呂に入っているときにも
睡眠誘導剤を飲んで部屋の電灯のスイッチを消しても
詩人たちは自分たちの詩を論考をエッセーを
この詩人に聞かせるのだった
この詩人は電灯のスイッチを入れると
起き出して
洗面台の前に立った
この詩人は自分の目の下のくまをみて
洗面台の引き出しから
マスクと詩人キラーを取り出して
部屋にもどると
部屋のなかで朗読している詩人たちの顔に振り向けて
シューっとした
すると詩人たちの声が消えた
詩人たちは口をパクパクするだけで
音はまったく聞こえなくなった
この詩人はこれでようやく眠れるや
って思って床に就いた
でも
詩人たちの姿が消えたわけではなかったので
やっぱり眠れなかった
新しいやつ買おうっと
こんどのやつは詩人の姿も消えるんだっけ
そう思ってこの詩人は
きょうも眠れぬ一夜を過ごすのであった
じゃんじゃん
二〇一五年八月二十六日 「詩人ホイホイ。」
詩人ホイホイを組み立てて
部屋の隅に置いておいたら
本物の詩人がいっぱい入ってた
本物の詩人は
死んでも死なないから
どの詩人もみな
とっても元気だった
いつか自分も
だれかが仕掛けた
詩人ホイホイに捕まりたいなあ
なんて
詩人も思っていたのであった
二〇一五年八月二十七日 「『言葉キラー!』新発売。」
『言葉キラー!』新発売。
いやな言葉が出る季節になってきましたね
シュっと ひと噴きで
いやな言葉を撃退します
詩人は夏が一番きらいだった
夏は詩人が一番嫌いな季節だった
考えたくなくても
つぎからつぎに思い出が言葉となって
詩人の頭のなかに生まれてくるからだった
思い出したくなかった思い出が
詩人を苦しめていた
詩人は「言葉キラー!」を買ってきた
ちょっと落ち着いて考えたいことがあるんだ
詩人はそうつぶやいて
部屋中に「言葉キラー!」を振り撒いた
「言葉キラー!」はシューシュー
勢いよく噴き出した
噴き出させすぎたのか
詩人はゲホゲホしながら
窓を開けた
すると
また思い出したくない言葉が
窓の外から
わっと部屋のなかに入ってきた
詩人はあわてて窓を閉めると
詩人は「言葉キラー!」を
下に向けて
軽く振り撒いた
これで今晩はゆっくり眠れるかな
などと思ったのだけれど
詩人は用心のために
睡眠誘導剤を飲んで床に就いたのであった
じゃんじゃん
二〇一五年八月二十八日 「逃げ出した言葉たち。」
もう好きにすれば
詩人は言葉たちに一瞥をくれた
逃げ出した言葉たちは
詩人がもう自分たちを使わないことを知って
詩人の枕元にあつまって
手に手を取り合って
輪になって
踊っていたのであった
らんら
らんら
ら〜
るんる
るんる
る〜
らんら
らんら
ら〜
るんる
るんる
る〜
って
逃げ出した言葉たちは
輪になって踊っていたのであった
詩人は
泣きそうな顔になって
もう寝る
と言って
睡眠誘導剤を飲んで
電灯を消して布団をかぶったのであった
じゃんじゃん
二〇一五年八月二十九日 「逃げ出した言葉を発見!」
偶然に逃げ出した言葉が見つかったのだけれど
どうしてもあきらめきれずに
逃げ出した言葉をさがして
言葉ホイホイまで仕掛けていたのだけれど
詩人は熱しやすくて冷めやすい性格だったし
それに
詩人の頭には
つぎつぎと詩の構想が浮かんでいたので
いつのまにか
逃げ出した言葉のことなど忘れてしまって
言葉ホイホイに捕まった言葉を使って
新しい詩をつくっていた
だから
寝る前に掛け布団を上げたときに
シーツの真ん中に
偶然に逃げ出した言葉を見つけても
もうその言葉を使って
どんな詩をつくるつもりだったのかも
忘れてしまっていたのであった
じゃんじゃん
二〇一五年八月三十日 「言葉ホイホイ。」
詩人は
逃げ出した言葉を
一網打尽にしようとして
言葉ホイホイを買ってきて組み立てた
詩人はそれを
言葉がよく出てくるような
本棚や机の上
枕元に置いていった
何日かして
詩人は言葉ホイホイを見たが
どの言葉ホイホイにも
逃げ出した言葉は捕まっていなかった
言葉ホイホイをあけてみて
詩人はいまさらながら
自分の語彙の少なさに驚くとともに
深い憂鬱にとらわれたのであった
じゃんじゃん
二〇一五年八月三十一日 「言葉の逃亡防止策。」
詩人はスケッチブックをめくると
新しいページの上に
両面テープを全面に貼り付けた
これで言葉が勝手に動けなくなるだろうと思ったからだった
これまでも何度も言葉には逃げられた経験があるのだった
そのたびに詩人はくやしい思いをしてきたのであった
詩人は床の上にいくつかの言葉を並べて
その順番にスケッチブックの上に置いていった
ほとんどの言葉は置かれた場所に貼り付いていたのだけれど
ひとつだけ
置かれた場所が気に入らないのか
どうにかして置かれた場所から離れようとしてもがいていた
詩人は「動くなよ」とつぶやいて
その言葉の端々をおさえて
しっかりと両面テープに貼り付けた
それでもその言葉は
詩人がトイレに行っているあいだに
なんとかしてその貼り付けられた場所から逃げ出したのであった
詩人はトイレからもどってくると
いなくなった言葉をさがした
部屋の隅に置いてある本をどけたり
鞄のなかを見たり
ファイルのメモのなかに隠れていないか
本棚に置いてある本や
ルーズリーフ・ノートをペラペラとめくったりして
はては
CDラックからCDを一枚一枚取り出して
CDの後ろに隠れていないかさがしたり
洗濯物を一枚一枚ひろげたりして
一生懸命さがしたが
逃げ出した言葉はどこにもいなかった
こんなときには「言葉探偵」に頼めばいいんだけど
詩人には「言葉探偵」を雇うお金がなかった
それに「言葉探偵」のところに行ったって
その言葉をさがしているあいだ
いつのまにか
詩人は
その言葉がどんな音をしていたのか
その意味合いやニュアンスがどんなものであったのか
すっかり忘れていたのであった
詩人は
おもむろにスケッチブックから
両面テープを貼り付けたページを破りとって
くしゃくしゃと丸めると
クズ入れのなかに投げ入れた
ああもういやいや
こんどは
両面テープの上に貼り付けたら
その上からセロテープで固定しよう
っと
詩人は
そう思いながら
つくりそこなった作品のことを
いつまでも
ぐずぐずと
ああもったいなかった
もったいなかった
と思いつづけていたのであった
じゃんじゃん
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2016年02月分
月間優良作品 (投稿日時順)
- 詩の日めくり 二〇一五年八月一日─三十一日 - 田中宏輔
- 立ち止まる三つの詩 - 鮎
- 決別2 - 三台目全自動洗濯機
- 長渕 剛 - 湯煙
- 詩の日めくり 二〇一五年九月一日─三十一日 - 田中宏輔
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- 日々の錆 - 渚鳥
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- 鎖 - 湯煙
- #11(インプロヴィゼーション) - 田中恭平
- S氏への敬愛告白に固執した理髪店員の球瓶計に附いて - 鷹枕可
- 夜 - おでん
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
詩の日めくり 二〇一五年八月一日─三十一日
立ち止まる三つの詩
〈屋根から落ちる雪〉
降る雪が、まつ毛の上に留まるも
溶けて消えるのにまかせ
降る雪が、白い蛾のように視界を閉ざすも
ただ前を見て
降る雪が、濡れたアスファルトに消えるのを
思い描いた
爪先はしんしんと冷え
足音もくぐもってゆくのに
気づかないふりをして
歩かなくてもすむ道程を歩いた昨晩
冷えきった身体を横たえた屋根にやはり
雪は、音もなく降り続いていたのか
枕元に置いた携帯電話が畳に滑り落ちた
屋根に積もった雪が落ちる音に似ていた
淡い予感に身を起こし、拾う
雪崩れたのは、私だった
〈雨をしのぐ〉
朝、傘を持って出なかったから
夕方、シャッターの降りた軒下で
雨と、傘をさす人々を遣り過ごす
大きなしずくが ぽたり
ゆっくり と
落ちてきて
水没する
ああ
もういやだ
うずくまって
泣いても
どうにも
逃れられない
暗い
思いにとらわれる
ごめん
ごめんなさいと
もう、許してと
崩れてしまいたくなる
けれど
小雨になったから
傘のあいだを足早に
歩きはじめたら
ひゅ と
背中を射られて
やぁ
さほど痛くない。
背中に突き立った矢羽に
傘の下から
人が息を呑んで振り返るから
手を伸ばして
乱暴に抜く
へぇ
ボーガンってやつ
血がシャツの背中を濡らすから
尚更目立つみたいで
苦笑
朝、
雲行きが怪しいから
傘を持って出る
そんなこと
〈芝生〉
隣の芝生が青く見えるというよりは
自分の芝生に石ころや雑草が目立ち
ところどころ枯れて剥げているのが
ありありとわかるけれども、それは
この場に立って見ている故の必然で
霧吹くようなじめじめとした雨の中
山を登る君が山頂にかかる白雲の中
にいるがごとくなのだと慰められて
納得したような顔して笑ってみせた
けれども荒れ果てているのが真実で
石を拾い雑草を引き抜き植え付けて
肥料と水を適度に与えればよかった
というのに怠ってきた結果だと知り
これから手をかけ世話をしたならば
この芝生も初夏には幾らかは美しく
生き返ると充分わかっているけれど
私はそれをしないのであり代わりに
生え揃う芝生のような詩を書くのだ
決別2
○街
たしか雨が降っていたと思う。梅雨だっただろうか。ぼくは何度もこの空間に戻ってい
く。今だって大して無いけれど、もっとお金を持っていなくて誰にも会いたくない休日を、
その当時住んでいたアパートから二十分程度の、駅前にある街の図書館で本を読んでやり
過ごしていた。縦に並んだベンチの、後方の一つを選んで、その右端に鞄を置く。近くの
海外文学の棚から本を一冊取り出し、ベンチに腰を下ろしてそれを読む。チャールズ・ブ
コウスキーだったかもしれないし、リチャード・パワーズだったかもしれない。アンドレ・
ブルトンでは無かったことはたしかだと思う。それとも、もう少し歩いて雑誌コーナーま
で行きスポーツ雑誌でも読んでいたのだろうか。若い女性の声が聞こえてきて、ぼくは顔
をあげる。ベンチで横になり眠っているおばあさんに図書館員の女性が大丈夫ですか?と
声をかけている。彼女は仕事として声をかけているのだろうが、おばあさんはそれを無償
の善意として受け取る。ええ、大丈夫。ありがとう。そう言って、また眠りに就く。図書
館員の女性は諦めたのか、他の誰かに相談しに行ったのか、おばあさんの元から足早に離
れていく。ぼくはコンビニに寄って買っておいた週刊誌に視線を戻し、袋とじを音を出さ
ないよう静かに破って、そこに写った女性の裸体を眺めて落胆する。
そして現在のぼく。書きたくなるような事柄は少ない。なにもしていないのと変わらな
いような仕事をこなしながら、その合間に文章を書いている。詩ではない。小説でもない
かもしれない、と考えるとぼくは空から街を眺める一羽の鳥になる。鳥はぼくの書いてい
る文章の枝で羽を休める。女の子ともおばさんとも呼べないような女性が話者で、彼女は
あらゆる物事に両面価値感情を抱いている。日の光は彼女の体を暖めながら彼女の影を深
く暗く引き伸ばしていく。月はこれから姿を現そうとしているのと同時に消え去ろうとし
ている。彼女は自分のことを小型の飛行機に喩える。わたしは街を眺めながら墜ちていっ
て崩壊した、と彼女は語る。それなのに生き延びた、と。ぼくにとって彼女は女性であり、
街でもある。彼女が崩壊したとは街が崩壊したということであり、彼女がなにも無くなっ
たと言うのは、ぼくにとって街にはなにも無くなったということだ。彼女は仕事を辞めて
都会を離れ、地方の住宅街にある実家へと戻る。彼女は生まれ育った道をぶらぶらと歩き
ながら、ある男の子のことを思い出す。気取り屋の本ばかり読んでいる彼。彼は作家にな
ったのだろうか。ならなかったんじゃないかなと彼女は想像してみる。彼女は彼について
なにか書いてみたいと思う。でも彼そのものは無理だ、彼にはもう十年以上会っていない。
彼女は彼ではない彼を作り出す。名前を決めなくてはならない。Kというアルファベット
は文学的なんだ、と彼が言っていたことを思い出す。カフカの『城』だっただろうか、『変
態』だっただろうか、思い出せない。カフカですらなかったかもしれない。わたしは文学
についてなにも知らないからKは使えない、と彼女は考える。ぼくだってよく知らない。
なんとなく彼に形が似ているから、と彼女は男の名前にSと付ける。結末はまだ決まって
いない。Sと彼女は彼女の書いている文章の中で出会う。墜ちてしまったのよ、と彼女は
語る。小さいといっても飛行機は飛行機よ。鳥だったら良かったのにね、とSは答える。
そうしたら街を壊すことも無かったし、地に墜ちたところで誰も気付かない。ええ、そう
かもね。そろそろ行こうかな、鳥は空へと飛び立っていく。眺めていた街はもう無くなっ
ている。遠くに海が見える。
ぼくは図書館の中に戻っていく。ある男の姿が目に入ってくる。身長はぼくとそう変わ
らず、百七十センチ程度。季節はずれのダウンコートを着ている。坊主頭で三日か四日分
の無精髭を生やしている。体格は良く、格闘技でもやっていたのだろうかとぼくは考える。
彼は彼にしか聞こえない声でぶつぶつと言葉を呟きながら館内を歩き回っている。なにか
探しているのだろうが。歩くとは片足を過去に残しながら進んでいくことだ、と彼女の想
像したSは言っていた。
○海
男は海岸沿いを歩いている
太陽の位置を確認することで
向かうべき場所の
おおよその方角は理解出来る
あくまで昼の
陽の出ている間に限られるが
砂浜を、波止場を、
街中を、波の上を、
男は歩いていく
女は男の後を歩いていく
気付かれぬよう
距離をとって
声をかけてくる欲望を断りながら
たまに受け止めながら
遠くから、あくまで遠くから、
泣き声が聞こえている
夜の間
男は教室で暴行を受け
仕事場で脳みそを焼かれ
レトルトのコーンスープのように音をたてずに啜られる
銃で撃たれ、耳と鼻を削がれ、
目を刳り貫かれ、頭に頭巾を被せられ、
首をはねられる
血が流れて
海へ混ざっていく
女の屋根は爆撃され
髪は刈り取られ
強姦される
暗闇が女の中に入り込んでくる
壁も天井も清潔に塗られた
五人部屋の端のベットに
女は拘束される
どうせ目は見えないからと
花は無い
雲に隠れたからと
月は無い
男と女はどこかで出会わなければならない
どこだろう?
教えてほしいが声は聞こえない
花屋に寄る
女の子は可愛い
そうだろう?
色だけ決めて後は任せる
盲だからねえ
香りはどう?
花を近づける
わかるよ、良い匂いだ
場所を変え
筆箱の男に会いに行く
謝る
何度も祈るように
陽はまだ出てこない
男は海の上で立ち止まり
(時間というものが存在し)
振り返って
(前へと流れを進めているのなら)
波に腰掛けて待つ
(きっといつか現れるのだろう)
時間の端を両手で掴み引っ張る
背負うように左肩に掛けて歩く
追いつくように
追いつかないように
・決別
まだ海は青いのね、と彼女は受け止めるように手を差し出す。彼は愛しあうかのように
その手を掴む。簡単なことさ、と彼は彼女に言う。ええ、そうかもね。
長渕 剛
俺の人生 どこへ向かうんだろう
俺の国は一体 どうなってゆくんだろう
俺は飯が食いたい
俺は無性に腹が空いている
俺は無性に喉が渇いている
俺の行き着けの
あの場所でいいだろう?
お前の声が聞きたいんだ
お前の一言が今欲しいんだよ!
なあわかってんだろ?
俺たちの国
俺たちの時代
俺たちの世界
誰が築いてんだよ?
誰が守ってんだよ?
黙ってねーでよ
なあ答えてみろよ
決まってんだろー!
焼肉食うなら 長渕剛
好みの焼きなら 長渕剛
タレを選ぶなら 長渕剛
お酒がいいなら 長渕剛
御主人これは? 長渕剛
御主人あれは? 長渕剛
おでんがいいなら 長渕剛
ちびちびやりてー 長渕剛
今夜は死にてー 長渕剛
今夜は果てるぜ 長渕剛
タクシー呼ぶなら 長渕剛
おっぽりだすなら 長渕剛
朝まで最高 長渕剛
明日などないぜ 長渕剛
カラスはいいな 長渕剛
スズメもいいな 長渕剛
ハトはどうかな 長渕剛
ネコならたまに 長渕剛
やっぱイヌかな 長渕剛
愚痴を吐くなら 長渕剛
はしごするなら 長渕剛
叫びたいなら 長渕剛
カラオケ一番 長渕剛
他は知らない 長渕剛
とにかく聴けよ 長渕剛
聴いたら叫べよ 長渕剛
JAPANが一番 長渕剛
順子が十八番 長渕剛
話のつまみに 長渕剛
ビールのあてに 長渕剛
着信ボイス 長渕剛
着信メロディー 長渕剛
ケータイ壁紙 長渕剛
送信画面 長渕剛
受信画面 長渕剛
ハンドルネーム 長渕剛
子供の名前に ○○剛
ペットの呼び名に 長渕剛
オウムに呼ばせる 長渕剛
毎朝毎晩 長渕剛
お出かけ帰宅時 長渕剛
"ダレカガキタヨ" 長渕剛
"イラッシャイマセ" 長渕剛
"イキテイマスカ" 長渕剛
"キイテイマスカ" 長渕剛
"ナカジマミユキジャアナイゾ" 長渕剛
"マツヤマチハルテドイツダ" 長渕剛
"カンチガイシテンジャアネー" 長渕剛
"ロクナモンジャネー" 長渕剛
♪スキデススキデス♪ 長渕剛
♪ピーピーピー ピーピーピー♪ 長渕剛
"オヤスミナサイマセ" 長渕剛
選挙へ行くなら 長渕剛
きみも大人だ 長渕剛
バイトをするなら 長渕剛
趣味の欄には 長渕剛
特技の欄にも 長渕剛
その他希望に 長渕剛
証明写真 長渕剛
にらみつけたら 長渕剛
ときには笑って 長渕剛
そのまま三分 長渕剛
受け取り口から 長渕剛
誰もがみんな 長渕剛
どうぞお入りください 長渕剛
どうぞお掛けください 長渕剛
単刀直入にお聞きしますが 長渕剛
やる気はあるか? 長渕剛
休みはねーぞ 長渕剛
先輩は皆 長渕剛
お客さんも皆 長渕剛
うそじゃねーぞ 長渕剛
目標の欄には 長渕剛
【店長】 長渕剛
本気かきみ? 長渕剛
来てくれんだな? 長渕剛
激烈な競争がきみ 長渕剛
きみを待ってんだぞ! 長渕剛
有給なんてきみ 長渕剛
あるわけないだろー! 長渕剛
ブラックかレッドか 長渕剛
グリーンかホワイトか 長渕剛
うちは、まあ……グレーあたりかな? 長渕剛
世間様の眼が厳しいこの御時世 長渕剛
一度レッテル貼られたりしたなら 長渕剛
1000000再生されたなら 長渕剛
アリさんマークどころではもはやきみ 長渕剛
もはや済まないんだよ! 長渕剛
済まない御時世なんだよー! 長渕剛
風当たりどころじゃーねーんだぞー! 長渕剛
倒れちまうんだぞー! 長渕剛
すげー時代にいるんだぜきみ! 長渕剛
裟婆てのはよ 長渕剛
いつの時代でもよ 長渕剛
所詮はオールナイトなんだよ 長渕剛
そんぐらいわかってんだよな 長渕剛
朝までよ 長渕剛
うとうとしながらでもよ 長渕剛
年に数回あるかないかていう 長渕剛
あの熱き魂こもる相談室 長渕剛
あの熱き魂煮えたぎるお便りコーナー 長渕剛
おれたちそんなヘビーリスナー 長渕剛
時間はないがきみ 長渕剛
最後に一言言わせてくれ 長渕剛
甘ったれんじゃーねーぞー! 長渕剛
大変なんだようちは 長渕剛
だからこうしてきみ 長渕剛
きみのような未経験者の 長渕剛
ただ長渕剛とかいう 長渕剛
その歌手一筋に生きているとかいう 長渕剛
ただそれだけの 長渕剛
他には特になしという 長渕剛
そんな印象的なきみを 長渕剛
いい度胸してんじゃねーか! 長渕剛
採用決定 長渕剛
明日からおいで 長渕剛
ペットを買うなら 長渕剛
レコード買うなら 長渕剛
きりがないから 長渕剛
キラーフレーズ 長渕剛
気づけばいつも 長渕剛
いつでもそばに 長渕剛
タンクトップの 長渕剛
日焼けも決めて 長渕剛
筋骨隆々 長渕剛
そして必ず一頭 長渕剛
一頭の犬が 長渕剛
なぜかいて 長渕剛
なぜかデカイ 長渕剛
みんなだいすき 長渕剛
みんなの憧れ 長渕剛
旅のお供に 長渕剛
どうぞ皆様 長渕剛
どうか達者で 長渕剛
どうか元気で 長渕剛
どうぞ御贔屓に 長渕剛
どうもありがとう 長渕剛
今日からきみも 長渕剛
おれはとっくに 長渕剛
なあ、
俺たち
大丈夫だよな?
詩の日めくり 二〇一五年九月一日─三十一日
二〇一五年九月一日 「明日」
ドボンッて音がして、つづけて、ドボンッドボンッって音がしたので振り返ったら、さっきまでたくさんいた明日たちが、プールの水のなかにつぎつぎと滑り落ちていくのが見えた。明日だらけだった風景から、明日のまったくない風景になった。水面をみやると、数多くの明日たちがもんどりうって泳いでた。
プールサイドには、明日がいっぱい。明日だらけ。たくさんの明日が横たわっている。ひとつの明日がつと起き上がり、プールの水のなかに飛び込んだ。プハーッと息を吐き出して顔をあげる明日。他の明日たちがつと起き上がって、つぎつぎとプールの水のなかに身を滑らせた。ドボッ、ドボッ、ドボッ。
明日には明日があるさ。昨日に昨日があったように? 今日に今日があったように? そだろうか。昨日に今日がまじってたり、今日に明日がまじってたり、明日に昨日がまじってたりもするんじゃないのかな。明日には明日があるなんて、信じちゃいけない。明日には明日がないこともあるかもしれないもの。明日が、ぜんぶ昨日だったり、今日だったりすることもあるかもしれないもの。
明日がプールサイドにいた。プールの水に乱反射した陽の光がまぶしかった。明日がつと駆けるようにしてぼくのほうに近づいてきた。びっくりして、ぼくは、プールに飛び込んだ。プールの水のなかには、さっきのように驚かされて水のなかに飛び込んだ、たくさんのぼくがいた。目をあけたまま沈んでいた。
ホテルの高階の部屋から見下ろしていると、たとえ明日がプールの水のなかに飛び込んで泳ごうとも、飛びこまずにプールサイドに横たわっていようとも、同じことだった。いる場所をわずかに換えるだけで、ほとんど同じ場所にいるのだから。どの明日もひとつの明日だ。どれだけたくさんの明日があっても。
二〇一五年九月二日 「自由」
自由の意味はひとによって異なる。なぜなら何を不自由と感じているかで自由の観念が決まるからである。ひとそれぞれ個人的な事情があるのだ。そこに気がつけば、言葉というものが、ひとによって同じ意味を持つものであるとは限らないことがわかるであろう。むしろ同じ意味にとられるほうが不思議だ。
二〇一五年九月三日 「言葉」
すべての言葉がさいしょは一点に集まっていたのだが、言葉のビッグバン現象によって散らばり、互いに遠ざかり出したのだという。やがて、それらのうちいくつかのものが詩となったり、公的文書となったり、日記となったりしたのだというが、いつの日かまた散らばった言葉が一点に集まる日がくるという。
二〇一五年九月四日 「本の種」
本の種を買ってきた。まだなんの本になるのかはわからない。読んだ本や会話などから言葉を拾ってきて、ぱらぱらと肥料として与えた。あまり言葉をやりすぎると、根腐りするらしい。適度な余白が必要なのだ。言葉と言葉のあいだに、魂が呼吸できるだけの空白が必要だというのだ。わかるような気がする。
二〇一五年九月五日 「ジャガイモ」
『Sudden Fiction 2』のなかで、もっともまだ3篇を読み直していないのだけれど、それらを除くと、もっとも驚かされたのは、バリー・ユアゴローの作品だったが、さっき読んだペルーの作家、フリオ・オルテガの作品『ラス・パパス』にも驚かされた。なにに驚かされたのかというと、中年の男が幼い息子をひとりで育てているのだが、手料理にジャガイモを使うので、ジャガイモを剥きながら、そのジャガイモについて語りながら、世界の様態について、その詳細までをもきっちりと暴露させているのだった。これには驚かされた。たった一個のジャガイモで世界の様態を暴露させることなど、思いつきもしなかったので、びっくりしたわけだが、もしかしたら、これって、部分が全体を含んでいる、などという哲学的な話でもあるわけなのかな。叙述する対象が小さければ小さいほど効果が大きい、というわけでもあるのかな。それとも、これこそが文学の基本なのかな、とも思った。
二〇一五年九月六日 「前世」
田中宏輔さんの前世は
女の
草で
25年間生きてました!!
http://shindanmaker.com/561522
サラダと豆腐を買いにコンビニへ。帰ったら、『Sudden Fiction』のつづきを読もう。ぼくの前世は、女の草で、25年生きたらしい。どうして今世では、女の草ではなかったのだろう。それなら、25年くらいの命であったかもしれないのに。54年も生きてしまった。飽き飽きするほど長い。
本を読むのをやめて、電話をかけようと思って、電話の種を植えた。FBチェックして、10人くらいのFBフレンドの画像に「いいね」して、ツイッターを流し読みした。ピーター・ガブリエルIIIが終わったので、ジェネシスのジェネシスをかけた。電話が生えてきたので手に取って、友だちの番号にかけた。
溺れないとわからないことがある。痛くないとわからないことがある。うれしくないとわからないことがある。おいしくないとわからないことがある。もう失ってしまった感覚もあるだろうとは思うけれど、できるかぎり書き留めて、再想起させることができるように、生活記録詩も書きつづけていこうと思う。
二〇一五年九月七日 「ヴァレリーが『散文を歩行に、詩を舞踏にたとえた話』について」
筑摩世界文學大系56『クローデル ヴァレリー』に『詩話』(佐藤正彰訳)のタイトルで訳されているものに、「散文を歩行に、詩を舞踏に」たとえている言葉があるのだが、ヴァレリーも書いているように、これは、ヴァレリーのオリジナルの言葉ではない。しかし、この言葉は、ヴァレリーの言葉として引用されることが多い。というか、ヴァレリーの言葉として流布しているようだ。その理由として、ひとつは、ヴァレリーの名前があまりにも有名なために、ヴァレリーが引用した詩人の名前が忘れられたということもあるのだろうけれど、より大きな原因として考えられるのが、ヴァレリーが、この言葉をより精緻に分析してみせた、ということにもあるのではなかろうか。ヴァレリーは、「この事について私の言いたいところを一層把握し易くするために、私は私の使いなれている一つの比較に頼ることに致しましょう。或る時私が或る外国の町でやはりこうした事柄を話していた折、ちょうどこの同じ比較を用いましたところ、聴衆の一人から、非常に注目すべき一つの引用を示され、それによって私はこの考えが別に事新しいものではないことを知りました。少なくともそれは、ただ私にとってだけしか新しいものではなかったのです。/その引用というのはこうです。これはラカン〔割注:一五八九─一六七〇。田園詩を得意とし、一六〇五年よりマレルブに師事、師についての記録を残す〕がシャブラン〔割注:一五九五─一六七四。当時の文壇に勢力があったが、詩人としてはボワロー等に冷笑されたので有名である〕へ送った手紙の抜萃で、この手紙を見るとマレルブ〔割注:一五五五─一六二八。古典主義詩の立法者といわれる抒情詩人〕は──ちょうど私がこれからしようとしているように、──散文を歩行に、詩を舞踏に類(たぐ)えていたということを、ラカンはわれわれに伝えています。」と言い、はっきりと、自分よりさきに、「散文を歩行に、詩を舞踏に類(たぐ)えていた」のは、マレルブであったと述べているのである。そして、ラカンがシャブランに送った手紙のなかにつぎのように書いていたところを『詩話』に引用している。「予の散文に対しては優雅とでも素朴とでも、快濶とでも、何なりとお気に召す名前をつけなさるがよい。予は飽くまで我が先師マレルブの訓戒を離れず、自分の文章に決して諧調(ノンブル)や拍子を求めず、予の思想を表現し得る明晰さということ以外の他の装飾を求めない覚悟である。この老師(マレルブ)は散文を通常の歩行に、詩を舞踏に比較しておられ、そしてわれわれがなすを強いられている事柄に対しては、多少の疎漏も容赦すべきであるが、われわれが虚栄心からなすところにおいて、凡庸以上に出でぬということは笑うべき所以であると、常々申された。跛者(ちんば)や痛風患者にしろ歩かざるを得ない。だが、彼らがワルツや五歩踊(スインカベース)〔割注:十六世紀から十九世紀に流行した三拍子の快活な舞踏〕を踊る必要は全然ないのである。」この手紙の引用のあと、ヴァレリーは、「ラカンがマレルブの言ったこととしているこの比較は、私は私でかねて容易に気附いていたところでしたが、これはまことに直接的なものです。次にこれがいかに豊穣なものであるかを諸君に示しましょう。これは不思議な明確さを以って、極めて遠くまで発展されるのであります。おそらくはこれは外観の類比以上の何物かであります。」と述べて、このあと精緻に分析しているのだが、それをすべて引用することは控えておく。いくつかの重要なものと思われる部分を引用しておくにとどめよう。ところで、ヴァレリーは、「散文を歩行に、詩を舞踏に」の順にではなく、「歩行を散文に」、「舞踏を詩に」なぞらえているのであって、「散文を歩行に、詩を舞踏に」たとえているのは、あくまでもマレルブ(の言葉)であったことに注意を促しておく。前述したように、この言葉がヴァレリーの言葉のように流布したのは、ヴァレリーの分析の見事さによるところ大なのであろうと思われるのだが、具体的な記述をいくつかピックアップしていく。「歩行は散文と同じくつねに明確な一対象を有します。それは或る対象に向かって進められる一行為であり、われわれの目的はその対象に辿り着くに在ります。」、「舞踏と言えば全く別物です。それはいかにも一行為体系には違いないが、しかしそれらの行為自体の裡に己が窮極を有するものであります。舞踏はどこにも行きはしませぬ。もし何物かを追求するとしても、それは一の観念的対象、一の状態、一の快楽、一の花の幻影、もしくは或る恍惚、生命の極点、存在の一頂上、一最高点……にすぎませぬ。だがそれが功利的運動といかに異なるにせよ、次の単純極まる、とはいえ本質的な注意に留意せられよ。舞踏は、歩行自体と同じ肢体、同じ器官、骨、筋肉、神経を用いるということに。/散文と同じ語、同じ形式、同じ音色を用いる詩についても、全くこれと同様なのであります。」、「されば散文と詩は、同一の諸要素と諸機構とに適用せられた、運動と機能作用との或る法則もしくは一時的規約間の差異によって、区別せられます。これが散文を論ずるごとくに詩を論ずることは慎まねばならぬ所以であります。一方について真なることも、多くの場合、それを他方に見出そうと欲すると、もはや意味を持たなくなります。」、「われわれの比較を今少し押し進めましょう。これは深く究められるに耐えるものがありますから。一人の人が歩行するとします。彼は一つの道に従って一地点から他の一地点に動くが、その道は常に最小労力の道であります。ここに、もし詩が直線の制度に縛られているとしたら、詩は不可能であろうという事に留意しましょう。」、「再び歩く人の例に帰ります。この人が自分の運動を成し遂げた時、自分の欲する地点とか、書物とか、果物とか、対象とかに到達した時、直ちにこの所有ということは彼の全行為を抹消します。結果が原因を啖(くら)い尽し、目的が手段を吸収してしまいます。そして彼の行為と歩き方の様相がいかなるものであったとしても、ただその結果だけしか残りませぬ。マレルブの言った跛者にせよ痛風患者にせよ、向って行った椅子に一度びどうやら辿り着きさえすれば、敏活軽快な足取りでその席に辿り着いたこの上なく敏活な男とでも、着席していることには何の変りもないのであります。散文の使用にあってもこれとまったく同じです。今私の用いたところの言語、私の意図、私の欲求、私の命令、私の意見、私の問い或いは私の答えを表現し終えた言語、己が職責を果したこの言語は、到達するや否や消滅します。私は自分の言辞がもはや存在せぬというこの顕著な事実によって、自分が理解されたということを識るでありましょう。言辞はその意味によって、或いは少なくとも或る意味によって、換言すれば、話しかけられる人の心像、衝動、反応、もしくは行為によって、要するに、その人の内的変改乃至再組織によって、ことごとく且つ決定的に置き換えられてしまうのであります。しかし、理解しなかった人のほうは、それらの語を保存しそしてその語を繰り返すものです。実験は造作ありません……。」、「他の言葉で申せば、種類上散文であるところの言語の実用的或いは抽象的な使用においては、形式は保存されず、理解の後に残存しない。形式は明晰さのなかに溶解します。形式は働きを済ませたのであり、理解せしめたのであり、生をおえたのであります。」、「ところがこれに反し、詩篇は用を勤めたからといって亡びませぬ。これは明瞭に、己が死灰より甦り、今まで自からが在ったところに無際限に再び成るように、できているのであります。/詩は次の著しい効果によって識別されるのであり、これによってよく詩を定義し得るでもありましょう。すなわち、詩は己が形式の中に己れを再現しようとし、詩はわれわれの精神を促してそれを在るがままに、再建させるようにするということ。仮に敢えて工業上の術語から借りた語を用いるとすれば、詩的形式は自動的に回復されるとでも申しましょう。/これこそすべての中でも特に讃嘆すべき特徴的な一固有性であります。(…)」、「しかし繰り返し申しますが、文学的表現のこの両極端の間には無数の段階、推移形式が存在するのであります。」云々、延々とつづくのである。ヴァレリーのこの追求癖がぼくは大好きなんだけどね。「散文を歩行に、詩を舞踏に」たとえたのが、ほんとうはマレルブが最初なのに、ヴァレリーが最初に述べたかのように多くのひとが誤解しているのも、このヴァレリーのすさまじい分析的知性のせいなのだろうけれど、このような誤解というのも、あまりめずらしいことではないのかもしれない。だって、リンカーンの言葉とされるあの有名な「government of the people, by the people, for the people 人民の、人民による、人民のための政治」っていうのも、じつはリンカーンがはじめてつくった言葉じゃないものね。ぼくの記憶によると、たしか、リンカーンが行った教会で、牧師が説教に使っていた言葉を、リンカーンが書き留めておいて、あとで自分の演説にその言葉を引用したっていう話だったと思うけれど、違うかな。ノートがなかったので、教会の信者席で、持っていた封筒の裏に書き留めた言葉だったように思うのだけれど。
Ainsi, parallèlement à la Marche et à la Danse, se placeront et se distingueront en lui les types divergents de la Prose et de la Poésie.
ここかな。ヴァレリーが「散文を歩行に、詩を舞踏に」たとえたってところは。フランス語ができないので、フランス語ができる方で、どなたか教えてくださらないでしょうか。この原文からコピペした箇所であっているでしょうか。よろしければ、教えてください。
ちなみに、件の箇所が載っているヴァレリーの『詩話』(『詩と抽象的思考』というのが原文のタイトルの直訳です。)の原文がPDFで公開されています。フランス文学界ってすごいですね。ここです。→ http://www.jeuverbal.fr/poesiepensee.pdf
二〇一五年九月八日 「子ども時代の写真」
ぼくは付き合った子には、かならず子ども時代の写真を見せてもらう。
二〇一五年九月九日 「言葉じゃないやろと言ってたけど、」
愛が答えだと思ってたけど、答えが愛だったんだ。愛が問いかけだと思ってたけど、問いかけが愛だったんだ。簡単なことだと思ってたけど、思ってたことが簡単だったんだ。複雑だと思ってたけど、思ってたことが複雑だったんだ。言葉じゃないやろと言ってたけど、言ってたことが言葉じゃなかったんだ。
二〇一五年九月十日 「吐く息がくさくなる言葉」
吐く息がくさいとわかる言葉だ。という言葉を思いついた。
吐く息がくさくなる言葉だ、という言葉を思いついた。
吐く息がくさくなるような言葉だ、という言葉を思いついた。
二〇一五年九月十一日 「おでん」
きょうは塾の時間まで読書。『Sudden Fiction』も、おもしろい。いろんな作家がいて、いろんな書き方があって、というところがアンソロジーを読む楽しみ。詩人だって、いろいろいてほしいし、詩だって、いろいろあったほうが楽しい。トルタから10月に出る、詩のアンソロジーが楽しみ。『現代詩100周年』という詩のアンソロジーだけど、100人近くの詩人の作品が収録されているらしく、ぼくも書いている。ぼくのは、実験的な作品で、見た瞬間、好かれるか、嫌われるかするだろう。
お昼は、ひさしぶりにお米のご飯を食べよう。さっき、まえに付き合ってた子が顔をのぞかせたので、「ダイエットしてるんやけど、足、細くなったやろ。」と言って足を見せたのだけど、「わからへん。」やって。タバコ買っておいてやったのに、この恩知らず。と思った。あ、気が変わった。ひさしぶりにブレッズ・プラスに行って、BLTサンドイッチのランチセットを食べよう。たまにはダイエットをゆるめてもいいやろと思う。足が細くなったような気がするもの。これはほんと。
ああ、おでんが食べたい。そのうちつくろ。ダイエットと矛盾せんおでんはできるやろか。だいこんは必須や。嫌いやけど。油揚げは、ああ、大好物やけど、あかんやろなあ。竹輪はええかな。あかんかな。卵も大好物やけど、あかんな。昆布巻きはええかな。いっそ筑前煮にしたろかな。憎っくきダイエット。涙がにじんでしもたわ。情けない。齢とると、こんなことで悲しなるんやな。身体はボロボロになるし、こころもメタメタ弱ってる。でも、それでええんやと思う。いつまでも最強の状態やったら、弱ったひとの気持ちがわからんまま生きて死ぬんやからな。それでええんや。ゴボ天が大好物やった。忘れてたわ。あと、コロも食べたい。スジ肉も食べたい。巾着も食べたい。タコはいらんわ。あれは外道や。おでんの出しの味が悪くなる。いや、筑前煮にするんやった。おでんのほうが好きやけど。こんにゃくも好き。三角のも、糸こんにゃくも好き。
彼女を筑前煮にしてみた。けっこうおいしかった。鶏肉より豚肉に近かったかな。椎茸とか大根とか人参とかの味がしみておいしかった。ちょっと甘めにしたのがよかったみたい。
二〇一五年九月十二日 「コップのなかの彼女の死体」
コップのなかに彼女の死体が入っていた。全裸だった。ぼくがコップに入れた記憶はないのだけれど。コップをまわして、彼女の死体をさまざまな角度から眺めてみた。生きていたときの美しさと違う美しさをもって、彼女はコップのなかで死んでいた。コップごと持ち上げて、それを傾けて彼女の死体を皿のうえに落とした。彼女の死体は音を立てて皿のうえに落ちた。アイスペールのなかの氷を一つアイストングでつかみ取り、氷を彼女の死体におしあてた。うつ伏せの彼女の肩から背中に、背中から腰に、腰から尻に、尻から太もも、脹脛、踵へとすべらせると、アイストングの背で彼女の死体を仰向けにして、氷を、彼女の顔から肩に、肩から胸に、胸から腹部に、腹部から股に、股から太もも、膝、膝、足首へとすべらせた。彼女の死体のうえでゆっくりと氷が溶けていく。彼女の死体のうえを何度も何度も氷がすべる。小さくなった氷をアイスペールに戻して、彼女の死体にナプキンの先をあてて水気をとっていく。皿に零れ落ちた水もナプキンの先で吸い取る。さあ、食事だ。クレーヴィーソースを彼女の死体にかけて、彼女の死体を切り分けていく。フォークの先で彼女の二の腕を押さえ、ナイフで彼女の肘関節を切断する。ほんとによく切れるナイフだ。思わず笑みがこぼれてしまう。鋭くとがったフォークの先で、切り取った彼女の腕を突き刺して、口元にもっていった。
二〇一五年九月十三日 「彼女の肉、肉の彼女」
買ってきた肉に「彼女」という名前をつけてみた。レジで支払ったお金に「彼女」という名前をつけてみた。部屋に入るときにポケットから出す鍵に「彼女」という名前をつけてみた。ベランダに置いてあるバケツに入れた洗剤をうすめてつけておいた洗濯物の一つ一つに「彼女」という名前をつけてみた。
いま、彼女が洗濯機のなかでくるくる回っている。
二〇一五年九月十四日 「なぜ詩を書くのか」
きょうは学校だけ。しかも午前中で終わり。楽だ〜。帰りにブレッズ・プラスによって、BLTサンドイッチのランチセットを食べよう。はやめに行って、ルーズリーフ作業でもしよう。『Sudden Fiction』に書いている作家たちの「覚え書」に詩論のためになるような、ものの見方が書いてある。とはいっても、70人近くの作家たちのうちの数十人の数十個の覚え書のうち、ルーズリーフに書き写して、ぼくの見解を付け加えるのは、4、5人のものだけど。それでも、この本はそれだけでも価値はあった。「違いがないものを区別する」とか考えさせられる言葉だ。「名前を決めるのは、それへの支配力を唱えるようなものだ」というのだけれど、ここから「言葉を使って詩句にするのは、その対象となっていることをまだ理解できなかったためではないのか。言葉にすることで理解しようとしているのではないだろうか」と思ったのだ。
二〇一五年九月十五日 「ダイエットの結果」
9月は仕事がタイトなのだけれど、その9月も半分近く終わった。すずしくて読書をするにはふさわしい時節だし、大いに読書したい。日知庵でお茶を飲んで、ししゃもとサラダを食べた。えいちゃんが体重計を出してくれたので載ったら82・6キロだった。服の重さを引くと81キロ弱。1か月前と比べると、4キロの減量だから、このまま順調に減量できたら、月に4キロの減量で、20カ月後には体重ゼロだ。帰りに、ジュンク堂で、ジーン・ウルフの短篇集と、ジャック・ヴァンスの短篇集と、池内紀訳のゲーテのファウスト・第二部を買った。第一部はブックオフで買ってた。
二〇一五年九月十六日 「なぜ詩を書くのか」
中学1年のときにはじめてレコードを買った。ポール・マッカートニーの『バンド・オン・ザ・ラン』だ。小学校のときから、ビートルズやプロコムハルムといったポップスやガリ・コスタやマロといったラテンを親の影響で聴いていたが、自分でLPを買ったのははじめてだった。所有するということの喜び。音楽を所有することのできた喜びは、ほかの喜びとは比較にならないくらいに大きかった。25才までに本を読んだことはあった。でも、自分で買った本は1冊もなかった。すべて親が持っていた本を読んでいたからだ。親が純文学だけでなくミステリーとSFも読んでいた。親が外国文学を好きだったので、当時に翻訳されたミステリーやSFはほとんど読んでいた。親のもとを離れて一人暮らしするようになり、小説家を目指して勉強をしないといけないと思い、ギリシア神話や聖書を、また外国の古典的な作品を一通り読んだ。でも、本をいくら買っても所有しているという喜びはなかった。40代になって、不眠症にかかり、鬱状態になってはじめて、SF小説のカヴァーの美しさに気がついた。そこで、手に入るものはすべて手に入れた。ようやくここで、本を所有する喜びにはじめて遭遇したのだった。おそらく、それは病的なまでのものであったのだろう。古書のSFの場合、カヴァーのよい状態のものを手に入れるために、同じ本を5冊買ったりもしたのだった。きのう買ったジーン・ウルフの新刊本にクリアファイルでカヴァーをつくるときに、表紙の角を傷つけてしまって、しゅんとなったのだが、むかしなら新しく買い直したかもしれない。でも、少し変わったのだろう。あきらめのような気持ちが生じていたのだ。表紙は本を所有することの喜びの小さくない部分であったのだが、しゅんとはなったが、なにかが気持ちに変化をもたらせたのだ。年齢からくるものだろうか。若さを失い、見かけが悪くなり、身体自体も健康を損ない、みっともない生きものになってしまったからだろうか。そんなふうに考えてしまった。そして、ここから言葉の話になる。ぼくが作品にしたときに、ぼくが対象としたもの、それは一つの情景であったり、一つの出来事であったり、一つの会話であったり、一つの表情であったり、そういった目にしたこと、耳にしたこと、こころに感じたことを、なんとか言葉にしてみて再現しようとして試みたものであったのだろうか。ぼくの側からの一方的な再構築ではあるし、それはもしかしたら、相手にとっては事実ではないことかもしれないけれど。しかし、言葉にすることで、ぼくは、姿を、態度を、声を、言葉を所有したような気がしたのだ。『高野川』がはじめて書いた詩だと言っている。事実は違っていて、中学の卒業文集に書いた『カサのなか』がはじめて書いたもので、のちにユリイカの1990年の6月号の投稿欄に掲載されたのだが、詩という意識はなく書いたものであった。自分が意識して詩を書いたものとしては、ユリイカの1989年8月号の投稿欄に掲載された『高野川』がはじめてのものであった。この『高野川』は事実だけを書いた。ぼくの初期の詩は、いまでも大部分そうだが、事実のコラージュによってつくったものが多くて、『高野川』は、ぼくが大学3年のときに付き合っていたタカヒロとのときのことを書いたものだった。書いたのは28才のぼくであったので、5年前に終わっていた二人のことを書いたのだが、2才年下の彼の下宿に行くときに、高野川のバス停でバスを待っているあいだのぼくの目が見た川の情景と、その川に投げ捨てたタバコの様子について書いたものだったのだが、この『高野川』を書いたときにはじめて、そのときの自分の気持ちがはっきりとわかったような気になったのだった。言葉を紙のうえに(当時は紙のうえに、なのだ)書いて、詩の形をとらせて言葉を配置して、何度も繰り返して自分で読み直して、完璧なものに仕上げて、はじめて、自分のそのときの気持ちを、その詩のなかに書き写すことができたと思ったのだ。『高野川』を書くことで、自分の過去の一つをようやく所有することができたと思ったのだった。そのことは、タカヒロと付き合ったさまざまな時間と場所と出来事を思い起こすことのできる一つの契機となるものだった。詩を獲得することで、ぼくは自分の時間と場所と出来事を獲得したのである。そういった詩をいくつも所有している。そりゃ、詩を書くことは、ぼくにはやめられないわけだ。実験的な詩は、こういった事情とは異なるが、根本においては変わらないと思う。さまざま音楽や詩や小説を読む喜びに通じるような気がする。『全行引用詩』や『順列 並べ替え詩。3×2×1』や『百行詩。』や『数式の庭。』や『図書館の掟。』や『舞姫。』や『陽の埋葬』などは、じっさいの体験の痕跡はほとんどない。「先駆形」でさえ体験は少ない。では、なぜ詩にするのだろうか。事実とか、じっさいの時間や場所や出来事だけが、ぼくの生の真実を明らかにするものではないからだ。言葉自体をそれとして所有することはできないが、言葉が形成する知や感情というものを所有することはできる。事実とかじっさいの時間や場所や出来事ではないものが、ぼくが気がついていなかった、ぼくが所有するところのものを、ぼくに明らかにしてくれるからなのであった。ぼくは欲が深いのだろうか。おそらくめちゃくちゃ深いのだろうと思う。54才にもなって、まだ自分の知らない自分を知りたいと思うほどに。最終的に、ぼくは言葉を所有することはできないだろう。ぼくは、ぼくの詩を所有するほどには。しかし、それでいいのだ。言葉はそれほどに深く大きなものなのだ。少なくとも、ぼくは言葉によって所有されているだろう。ぼくの詩がぼくを所有しているほどには。いや、それ以上かな。すべてのはじまりの時間と場所と出来事がいつどこでなにであったのか、それはわからないけれど、ぼくがつぎに書こうとしている長篇詩『13の過去(仮題)』は、それを探す作業になるのだなとは思う。すべてのものごとにはじまりがあるとは限らないのだけれど。いや、やはり、すべてのものごとにははじまりがあるような気がする。それは一つの眼差し、一つの影、一つの声であったかもしれない。それを求めて、書くこと。書くことによって、ぼくは、ぼくを獲得しようと目論んでいるのだ。なぜこんなものを書いたのかと言うと、『Sudden Fiction』に収録されているジョン・ルルーの『欲望の分析』に、「私は愛している。でも私は愛に所有されてはいないのだ」(村上春樹訳)という言葉があって、「愛」を「言葉」にしてふと考えたのだった。
二〇一五年九月十七日 「セックスとキス」
セックスがじょうずだと言われるよりも、キスがじょうずだと言われるほうがうれしい。なぜだかわからないけど。
二〇一五年九月十八日 「正常位と後背位」
正常位にしろ、後背位にしろ、どちらにしたって、みっともない。だからこそ、おもしろいのだろうけど。
二〇一五年九月十九日 「動物園」
彼女と動物園に行った。彼女を檻のなかに放り込んだ。檻のなかは彼女たちでいっぱいだった。
二〇一五年九月二十日 「栞」
聖書、イメージ・シンボル事典、ギリシア・ラテン引用語辭典、ビジュアル・ディクショナリーをのけて、府民広報のチラシにはさんでおいた彼女を取り出した。栞にしようと思って、重たい本の下に敷いていたのだった。ぺらぺらになった彼女は、栞のように薄くなっていた。本の隙間から彼女の指先が覗く。
二〇一五年九月二十一日 「写真」
付き合ってた子たちの写真を捨てようと思って、ふと思いついて、ハサミとセロテープを用意した。顔のところをジョキジョキと切っていった。何人かの耳を切り取って一つの顔の横にセロテープで貼りつけた。いまいちおもしろくなかった。ひとつの顔から両眼を切り取って、別の顔のうえに貼りつけてみた。これはおもしろかった。めっちゃたれ目にしたり、つり目にしたりした。そのうちこれにも飽きて、いくつかの首を切り取って首長族みたいにしたりしてみた。こんなんだったら付き合ってないわなとか変なこと考えた。ぼくの恋人たちも、ぼくの写真で遊んだりしたのかな。
二〇一五年九月二十二日 「読んでいるときの自分」
詩や小説で陶然となっているときには、自分ではないものが生成されているような気がする。詩集や本を手にもっているのは、ぼくではないぼくである。ぼくという純粋なものは存在しないとは思うのだけれど、あきらかに、その詩集や本を手にとるまえのぼくとは異なるぼくが存在しているのである。そういった生成変化を経てなお存続つづけるものがあるだろうか。自我はつねに変化を被る。おそらく存続しつづけるものなどは、なにひとつないであろう。おもしろい。むかし、ぼくは30才くらいで詩を書く才能は枯渇すると思っていた。老いたいまとなっては笑い草だ。こんど思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作』上下巻も、来年出す予定の『詩の日めくり』も、齢老いたぼくが書いたものなのだ。上質の文学作品に接するかぎり、よい影響があるであろう。未読の本のなかにどれだけあるかわからないけど、がんばって読もう。
二〇一五年九月二十三日 「平凡な言葉」
ジャック・マクデヴィッドの『探索者』を読み終わった。凡作だった。なんでこんな平凡なものが賞を獲ったのかわからない。ルーズリーフにメモするのも一言だけ。「恋っていうのはいつだってひと目惚れですよ」(金子浩訳)。これまた平凡な言葉だ。きょうからお風呂場で読むのは、フィリップ・クローデルの『ブロデックの報告書』にする。ひさびさに純文学である。絶滅収容所でユダヤ人の裏切り者だったユダヤ人の物語らしい。徹底的に暗い設定である。まあ、ダン・シモンズの『殺戮のチェスゲーム』もえげつなかったけれど、あれはファンンタジーだからねぇ。お風呂に入るまえに、先に読んでいるのだけれど、ユダヤ人を裏切ったというのじゃなくて、ドイツ人に犬のように扱われたから犬として過ごしたということらしい。名誉を重んじたユダヤ人は処刑されたらしい。絶滅収容所、なんちゅうところやろか。20世紀の話である。
二〇一五年九月二十四日 「さいきん流行ってること」
さいきん言葉を飼うのが流行っているらしい。水槽に入れて飼っているひともいれば、鳥籠に入れて飼っているひともいる。ぼくも自分の頭のなかに飼うことにした。餌はじっさいの会話でもいいし、読んだ本でもいいし、たえず言葉をやることに尽きた。ぼくは新鮮な言葉をいつもやれるようにしてやってる。
さいきん感情を飼うのが流行っているらしい。水槽に入れて飼っているひともいれば、鳥籠に入れて飼っているひともいる。ぼくも自分の心の中に飼うことにした。餌はじっさいの体験でもいいし、読んだ本からでもいいし、絶えず感情を喚起させること。ぼくは新鮮な感情をいつでも絶やさないようにしてる。
さいきん知識を飼うのが流行っているらしい。水槽に入れて飼っているひともいれば、鳥籠に入れて飼っているひともいる。ぼくも自分の頭のなかに飼うことにした。餌はじっさいの会話からでもいいし、読んだ本からでもいい。たえず知識を増やすことに尽きた。ぼくは新鮮な知識をいつもやることにしてる。
さいきん父親を飼うのが流行っているらしい。水槽に入れて飼っているひともいれば、鳥籠に入れて飼っているひともいる。ぼくも自分の思い出のなかに飼うことにした。餌はじっさいの思い出でもいいし、空想の思い出でもいいのだ。たえず思い出をやることに尽きた。ぼくは新鮮な思い出をいつもあげてる。
さいきん水を飼うのが流行っているらしい。ふつうに水槽に入れて飼うひともいれば、鳥籠に入れて飼うひともいる。ぼくも頭のなかに水を飼うことにした。頭をゆらすと、たっぷんたぷん音がする。水の餌には水をやればいいだけだから、餌やりは簡単プーだ。ぼくもいつも新鮮な水を自分の頭にやっている。
二〇一五年九月二十五日 「読むことについての覚書」
作品を読んで読み手が自分の思い出を想起させて作品と重ね合わせて読んでしまっていたり、作品とは異なる状況であるところの読み手の思い出に思いを馳せたりしているとき、読み手はいま読んでいる作品を読んでいるのではない。読み手は自分自身を読んでいるのである。
二〇一五年九月二十六日 「表現」
言葉だけの存在ではないものを言葉だけで存在せしめるのが文学における技芸であり、それを表現という。
二〇一五年九月二十七日 「さいごの長篇詩について」
きょうから、『アガサ・クリスティ自伝』上下巻を読む。今朝から読んでいる。上流階級の御嬢さんだったのだね。ぼくん家にも、お手伝いさんがいたのだけれど、クリスティー家には、ばあやのほかに料理人や使用人もいたのだった。ぼくは親に愛されなかったけれど、クリスティーの親は愛情があったみたい。ぼくは、ぼくのほんとのおばあちゃん子だった。うえの弟の乳母の名前はあーちゃんだった。したの弟の乳母は、ぼくは、中島のおばあちゃんと呼んでいた。親もそう呼んでいたと思うけれど、弟たちだけに乳母がいるのは、とても不公平な気がしたものだった。ふたりの乳母は同時期にやとってはいなかった。うえの弟の乳母のほうが、もちろん先で、下の弟が生まれたときにやめてもらって、新しいお手伝いのおばあさんになったのだった。どうしてうえの弟がなついていた乳母をやめさせて新しいお手伝いのおばあさんにしたのかはわからない。うえの弟は、なにかというと、ぼくをバカにしたので大嫌いだった。ぼくのほんとのおばあちゃんは、ぼくだけをかわいがったので、親は弟のために乳母をやとったのかもしれない。だからなのか、ぼくは、うえの弟の乳母のことも嫌いで顔も憶えていない。ただ、したの弟の乳母よりは太っていたような気がする。顔が丸みをおびた正方形だったかなとは思うのだけれど、記憶は定かではない。その目鼻立ちはまったく不明だ。いま、ぼくと弟とは縁が切れているので、弟の写っている写真が手元にはなく、写真では確認できないけれど。ぼくの新しい長篇詩『13の過去(仮題)』は、このような自伝を、引用のコラージュと織り交ぜてつくるつもりだ。現実のぼくの再想起だが、時系列的に述べるつもりはない。あっちこっちの時間を行き来するし、ぼくの過去の作品世界とも出入りするので、幻想小説的でもあり、SF小説的でもあり、ミステリー小説的でもある。『図書館の掟。』、『舞姫。』、『陽の埋葬』の設定世界のあいだに、現実世界の描写を切り貼りしていくのだ。いや、逆かもしれない。現実世界のなかに、それらの設定世界を切り貼りしていくのだ。また、それらの設定世界同士の相互侵入もある。まあ、もともと、ぼくは、ぼくが書いたものをぜんぶ一つの作品の一部分だと思ってきたから、自然とそうなるようなものをつくっていたのだろうけれど。引用だけで自伝をつくる試みも同時にしていくつもりだけれど、そのタイトルは、そのものずばり、『全行引用による自伝詩の試み。』である。『13の過去(仮題)』をつくりながら、楽しんでつくっていこうと思う。これらがぼくに残されたぼくの寿命でぼくが書き切れるぼくのさいごの長篇詩になると思う。10年以上かかるかもしれないけれど、がんばろう。
二〇一五年九月二十八日 「戦時生活」
戦争がはじまって、もう一年以上になる。本土にはまだ攻撃はないけれど、もしかすると、すでに攻撃はされているのかもしれないけれど、情報統制されていて、ぼくたちにはわからないだけなのかもしれない。町内会の掲示板には、日本軍へ入隊しよう! などというポスターが何枚も貼られていた。というか、そんなポスターばかりである。第二次世界大戦のときには、町内会で防火訓練などが行われたらしい。こんどの戦争でも、そんな訓練をするのだろうか。そういえば、祖母が、国防婦人会とかいう腕章をつけた着物姿で何人もの女性たちといっしょに、写真に写っていた。当時の女性たちの顔は、どうしてあんなに平べったいのだろう。ならした土のように平らだ。鼻が小さくて低い。いまの女性たちの鼻よりも小さくて低いのだ。食べ物が違うからだろうか。そういえば、祖父は軍人で戦死したので、天皇陛下から賞状をいただいていた。まあ、戦争のことは、おいておこう。いまのところ、ぼくの生活にはほとんど影響がない。むかしの戦争では、一般市民が食べ物に困るようなことがあったらしい。それに資料によると、戦地では兵士たちがたくさん餓死したという。考えられないことだ。そんな状況なんて。現代の戦争では、兵士はべつに戦地に赴く必要はない。遠隔操作で闘っているからである。戦地では、ロボットたちが敵を殺戮しているのである。それには、ミリ単位以下のナノ・ロボットたちから、30メートル級の巨大ロボットまでが含まれる。ぼくの部屋にはテレビはないし、テレビ自体、もう30年以上も目にしていないのだけれど、チューブにアップされている映像や、ネットのニュースで見る限りでは、日本は負けていないようだ。もう一年以上も戦争がつづいているのだから勝っていると言えるとは思わない。読書に戻ろう。『アガサ・クリスティー自伝』上巻、半分くらい読んだ。メモするべきことはそれほどないのだが、驚くべき記憶力に驚かされている。それと、クリスティーが数学が好きだったこと、小説家になっていなければ数学者になっていただろうという記述があった。数学が好きで、また得意であったらしい。ミステリーの女王らしい記述であった。読書に戻るまえに、お昼ご飯を買いにセブンイレブンに行こう。さいきん、サラダとおにぎりばっかり買っている。このあいだ、ネットのニュースを見ると、平均的サラリーマンの昼食らしい。
二〇一五年九月二十九日 「二十八歳にもなつて」
ブックオフでホイットリー・ストリーバーの『ウルフェン』を108円で買った。ストリーバーは、ぼくのなかでは一流作家ではないけれど、集めていたから、よかった。『ウルフェン』は意外に手に入りにくいものだった。ハヤカワ文庫のモダン・ホラー・コレクションの1冊である。きのう、『アガサ・クリスティー自伝』のルーズリーフ作業をしたあと、塾に行ったのだが、引用したページ数の484が気になっていたら、ふと、484が22の2乗、つまり22×22=484であることに気がついたのであった。でも、そのことはすぐに忘れてしまって、塾で授業をしていたのだった。ところで、けさ、学校に行くために通勤電車に乗っているときに、ふと、147ページとかよく引用するときに目にするページ数があるなあと思ったのであった。147という数字になにか意味はあるだろうかと思って、まずこれは3桁の数であるなと思ったのだった。1と4と7を並べると、3ずつ大きくなっているなと思ったのだが、それではおもしろくない。ふうむと思い、一の位の数と百の位の数を足して2で割ると、銃の位の数になるなと木がついたのであった。そういう数字を考えてメモ帳に書いていった。123、135、159、111。そして、これらの数がすべて3の倍数であることにも気がついたのであった。なぜ3の倍数になっているかといえば、と考えて証明もすぐに思いついたのであった。一の位の数を2m−1、百の位の数を2n−1とすると、十の位の数は(2m−1+2n−1)÷2=m+n−1となり、各位の数を足すと、2m−1+m+n−1+2n−1=3m+3n−3=3(m+n−1)=3×(自然数)=3の倍数となり、各位の数を足して3の倍数になっているので、もとの数は3の倍数であることがわかる。まあ、たった、これだけのことを地下鉄電車のなかで考えていたのだけれど、武田駅に着くと、なぜ147ページという具体的な数字が、ぼくの記憶に強く残っているのかは、わからなかった。いつか解明できる日がくるかもしれないけれど、あまり期待はしていない。数字といえば、きょう、『Sudden Fiction』を読んでいて、333ページに、「死体は五十四歳である。」(ジョー・デイヴィッド・ベラミー『ロスの死体』小川高義訳)という言葉に出合った。ぼくは54才である。そいえば、はじめて詩を書いたのが28才のときのことだったのだが、アポリネールの詩を読んでいたときのことだったかな。『月下の一群』を手に取って調べよう。あった。「やがて私も二十八歳/不満な暮しをしてゐる程に」(アポリネール『二十日鼠』堀口大學訳)これと、だれの詩だったか忘れたけれど、「二十八歳にもなって詩を書いているなんて、きみは恥ずかしいとは思わないかい?」みたいな詩句があって、その二つの詩句に、ぼくが28才のときに出合って、びっくりしたことがある。その二つの詩句は、どこかで引用したことがあるように記憶しているので、過去の作品を探れば出てくると思う。お風呂に入って、塾に行かなければならないので、いま調べられないけれど、帰ってきたら、過去に自分が書いたものを見直してみよう。あまりにも膨大な量の作品を書いているので、きょうじゅうに見つからないかもしれないけれど。
塾から帰った。疲れた。きょう探すのはあきらめた。クスリのんで寝る。あ、333も、一の位の数の奇数と百の位の数の奇数の和を2で割った値が十の位の数になっているもののひとつだった。111、333、555、777、999ね。
すでに二十八歳になった僕は、まだ誰にも知られていないのだ。
(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)
二十八歳にもなつて、詩人だなんて云ふことは
樂しいことだと、讀者よ、君は思ふかい?
(フランシス・ジャム『聞け』堀口大學訳)
やがて私も二十八歳
不満な暮しをしてゐる程に。
(アポリネール『二十日鼠』堀口大學訳)
二〇一五年九月三十日 「吉田くん」
吉田くんは、きょうは、午前5時40分に東から頭をのぞかせてた。午後6時15分に西に沈むことになっている。
吉田くんが治めていたころの邪馬台国では、年100頭の犬を徴税していたという。そのため、吉田くんが治めていた時期の宮殿は犬の鳴き声と糞尿に満ちていたらしい。犬のいなくなった村落では、犬がいなくなったので、子どもたちを犬のかわりに飼っていたという。なぜか、しじゅう手足が欠けたらしい。
吉田くんは太く見えるときは太く見えるし、細く見えるときは細く見える。広口瓶に入れると、太く見える。細口瓶に入れると細く見える。いずれにせよ、肝心なのは、ひとまず瓶の中に入れることである。
吉田くんは空気より軽いので、吉田くんを集めるときは、上方置換法がよい。純粋な吉田くんを集めようとして、水上置換法で集めることはよくない。吉田くんは水によく溶ける性質をもっているので、水上置換法で集めることは困難だからである。
1個のさいころを投げる試行において、偶数の目が出る事象をA、6の約数の目が出る事象をBとする。事象A∩Bが起こったときは吉田くんの脇をくすぐって笑わせ、事象A∪Bが起こったときは吉田くんの足の裏をくすぐって笑わせるとする。このとき、吉田くんがくすぐられても笑わない確率を求めよ。
吉田くんを切断するときは、水中で肩から腹にかけて斜めに切断すると、水に触れる断面積が大きくなるのでよい。水中で切断するのは、空気中では出血した水が飛び散るからである。切断面から水を吸収した吉田くんは、すぐさま元気を取り戻して生き生きとした美しい花をたくさん咲かせていくはずである。
吉田くんは立方体で、上下の面に2本ずつの手がついており、4つの側面に2本ずつの足がついている。顔は各頂点8つに目と鼻と耳と口が対角線上に1組ずつついている。吉田くんを地面に叩きつけると、ポキポキと気持ちのよい音を立てて、よく折れる。
二〇一五年九月三十一日 「ナボコフ全短篇」
チャールズ・ジョンソンの『映画商売』という作品が『Sudden Fiction』に入っていて、それなりにおもしろかったのだけれど、最後のページに、「論理学では必要にして充分とかというのだろうが」(小川高義訳)というところが出てきて、びっくり。高校の数学で出てくる「論理と証明」で、「必要」と「十分」という言葉を習ったと思うのだけれども、「十分」であって、「充分」ではないし、それにそもそも、「十分」と「充分」では意味が異なるのに、この翻訳者には、高校程度の数学の知識もないらしい。翻訳を読む読者にとって、とても不幸なことに思う。
きょうは、お昼に、ジュンク堂に行った。コンプリートにコレクトしてる3人の作家の新刊を買った。イーガンの『ゼンデキ』、R・C・ウィルスンの『楽園炎上』、ブライアン・オールディスの『寄港地のない船』。それと、持っている本の表紙が傷んでいるので、池内紀訳『ファウスト』第一部を買い直した。
大気の恋。偶然機械。
ナボコフの『全短篇集』を読む。獣が自分のねぐらを自分で見つけなければならないように、人間も自分の居場所を自分で見つけなければならない。そもそも、人間は自分が歓迎される場所にいるべきだし、歓迎してくれた場所には敬意を払い感謝すべきものなのである。敬意と感謝の念を湧き起こせないような場所には近寄る必要もないのだ。この言葉は、「さあ、行きなよ、兄弟、自分の茂みを見つけるんだ」(ナボコフ『森の精』沼野充義訳)を読んで思いついたもの。まあ、ふだんから思っていることを、ナボコフの言葉をヒントにして言葉にしてみただけだけど。まだ短篇、ひとつ目。十分に読み応えがある。
世界とは、別々のところに咲いた、ただ一つの花である。
これは、「もはや、樹から花が落ちることもない、」(ナボコフ『言葉』秋草俊一郎訳)を目にして、「花はない。」を前につけて、全行引用詩に使えるなと思ったあとで、ふと思いついた言葉。ちょっとすわりがわるいけれど、まあ、そんなにわるい言葉じゃないかな。
「その湿り気のある甘美な香りは、私が人生で味わったすべての快きものを思い出させた。」(ナボコフ『言葉』秋草俊一郎訳)なんだろう、このプルーストっぽい一文は。初期のナボコフの短篇は修飾語が過多で、ユーモアにも欠けるところがあるようだ。直線的な内容なのにやたらと修飾語がつくのである。偉大な作家の習作時代ということかもしれない。世界的な作家にも、習作時代があるということを知るためだけでも読む価値はあるとは思うけれど、なんで、文系の詩人や作家のものは修飾語が多いのだろうかと、ふと思った。ぼくの作品なんか、構造だけしかないものだ。
天使の顔の描写に、「唯一の奇跡的な顔に、私がかつて愛した顔すべての曲線と輝きと魅力が結晶したかのようだった。」(ナボコフ『言葉』秋草俊一郎訳)というのがあって、ここは、ヘッセの『シッダールタ』のさいごの場面からとってきたのだなと思われた。偉大な作家も、習作時代は、他の詩人や作家の影響がもろに出るのだなと思われた。ホフマンスタールを読んでいるかのような気がした。ナボコフはドイツ文学が好きだったのかな。いま読んだ2篇とも、描写に同性愛的な傾向が見られるのも、そのせいかもしれない。ホフマンスタールがゲイだったかどうかは知らない。ただホフマンスタールの書くものがゲイ・テイストにあふれているような気がするだけだけれど。まあ、ドイツ系の作家って、ゲーテみたいに、バイセクシャルっぽい詩人や作家もいる。ゲオルゲはたしかゲイだったかな。まあ、そんなことは、どうでもよいか。
3篇目の『ロシア語、話します』は完全にナボコフだった。さいしょの2篇は『全短篇集』から外した方がよかったと思われるくらい、出来がよくなかったものね。でも、まあ、ナボコフ好きには、あまり気にならないのかもしれない。ぼくはナボコフの作品を大方集めたけれど、途中で読むのをやめたのが2冊、売りとばしたのが2冊、未読のものが多数といった状態で、この『全短篇集』は、気まぐれで読んでいるだけである。『プニン』『青白い炎』『ロリータ』『ベンドシニスター』『賜物』はおもしろかった。そいえば、書簡集の下も途中で読むのをやめたのだった。
ナボコフの4つ目の短篇『響き』(沼野充義訳)もナボコフ的ではあったが、習作+Aレベルだった。雰囲気はよいのだが、おそらく、このレトリックを使いたいがために、この描写を入れたのだなあ、と思わせられるところが数か所あって、そこでゲンナリさせられたのだった。作品のたたずまいはよかった。しかし、この作品で用いられたレトリックには、思わずルーズリーフ作業をさせるほどのものがあった。自分を森羅万象の写しとしてとらえる感覚と、瞬間の晶出に関する描写である。どちらも、ぼくも常々感得していることなので、はっきりと言葉にされると、うれしい。ルーズリーフ、いま3枚目、いったいどれだけのレトリックを短篇に注ぎ込んでるんじゃとナボコフに言いたい。ぼくが自分の作品に生かすときにどう使うかがポイントやね。ぼくのなかに吸収して消化させて、ぼくの血肉としなければならない。まあ、ルーズリーフに書き写しているときにそうなってるけど。というか、書いて忘れること。書いて自分のなかに吸収して、自分の思想のなか、知識の体系のなかの一部にしちゃって、読んだことすら忘れている状態になればよいのである。100枚以上も書き写してひと言すら覚えていないジェイムズ・メリルもそうして吸収したのだ。
ナボコフの『全短篇集』の4篇目『響き』、習作+Aって思ってたけれど、ルーズリーフを6枚も書き写してみると、習作ではなかったような気がしてきた。佳作と傑作のあいだかな。佳作ではあると思う。傑作といえば、長篇と比較してのことだから、短篇は『ナボコフの1ダース』でしか知らないので、まだよくわからない状態かもしれない。
5つ目の短篇『神々』で、またナボコフの悪い癖が出ている。使いたいレトリックのためだけに描写している。見るべきところはそのレトリックのみという作品。そのレトリックを除けば、くだらないまでに意味のない作品。木を人間に模している部分のことを言っているのだが、とってつけた感じが否めない。
6つ目の短篇『翼の一撃』を読んだ。中途半端な幻想性が眠気を催させた。横になって読んでいたので、じっさいに何度か眠ってしまった。ナボコフはもっと直截的な物語のほうがいいような気がする。読んだ限りだが、幻想小説を長篇小説で書かないでおいたのは、正解だったのだろうな。退屈な作品だった。
まだまだ短篇はたくさんあるのだけれど、きょうは、もう疲れた。クスリをのんで寝る。寝るまえの読書は、R・C・ウィルスンの『楽園炎上』にしよう。ジャック・ヴァンスも、ジーン・ウルフも、オールディスも、今秋中には読みたい。
弛緩する淡湖
※ ※
白鳥は昼夜の距離を測る為の薔薇である頭部を擡げたまま静止している 洗滌槽に四肢末節の建築物が翰墨液の鋼版を拡げ狩猟協会会員の部屋には時報電話の絶無が延展する恰幅を齎した
それは純朴な悪魔の薔薇であり証拠としての偽証である影像に傾く幾多の時計である 内視鏡を咽ぶ山百合の茎髄脈には楕円劇場の継母を貫き通す伝書鳩の両翼がまるで喜歌か悲歌の様に展翅されていた
鈍鉄の交歓は一個の鶏卵殻のなかで黒い殻と赤い蝶番を産み落としている 表象の麗しい懐胎が振舞われていたが機械の美術世紀は錆びた眦の裂罅陶片を細緻に亙り素描し続けた
四旬節は透明となった白薔薇の訃報と誕生を呑み逆円錐形の噴水を掲げた * 墨染の櫻花への物象と興趣 国家勃興樹立記念塔に幽霊達の噂を闡明するひとつの隧道が着眼されるだろう
斜塔建築は林檎の地球儀に拠る叡智の世界像から放逐された白昼の夢遊病の椿事として噂されるだろう 死の軌跡は鏡像を綯う老嬢nより成婚の呵責を遠海に流刑地として擱いた
羊水液胎膜の花々は細胞組織と絹の繊維に抱卵された紫葡萄の収穫期を遂には流し遣った 純粋精神の誤謬は骨肉を麺麭と呼びつつ遂にブド―の濁滓は秘匿された柩にもその食指を壜詰の様に列ねた
書物の自由は人物の想像を頑なに拒み、それは暴風の様に膨張した褐色の腹腔としての萵苣である 泥濘の眼底騎行曲を異端の迫撃者へ帆立殻に拠る世界像としての縮図に閉じ込めた
* *
※ ※
洗面台の胸に開く蝶形の石鹸液は凝膠の嘆願書を受領した労働協会の唯一にして夥多な成果証明である 浮腫結節の脳髄は外世界の暮方 建築家のエスキスを竈か飛蝗か巨躯でもある聖母へ贈与した
橄欖果は生命保険規約に翻って惹起された死の舌鋒を単眼の嬰児に一度ならず繰返し広報紙に拠り梱包した 炸薬は慈善募金箱に巧緻にも貨幣と落花を避ける様に窒素劇場へと充満し靴跡は聯続する時制への懐疑を首肯する
百合根の鱗茎を慈善とも呼称する胸像の溜飲には壜の書簡が滞る 総ては零年の絶無であり 又 濫觴の覆水は豊穣な死を想像力に縁って転覆せしめた
硫酸の雌花は完膚球体の地球儀に蹲る一個の少年期と運命附録を換骨した * 聖霊気息の爾後現代は未来の理想形たる自働昇降室の些事を悪魔の旧約七十人訳聖書へ紛糾の胚種として抱卵した
霜薔薇の頤は溶解する鏡の全貌を果して知悉していたのか 薔薇色の近似つまり大理石を渦巻く鸚鵡貝の積層殻は人間存在へ一週間程の鹹塩と花崗岩の縊死を緘黙させるだろうか
自然史の叫喚が指し示す裂罅蒼穹の五指は黒蜘蛛の採光窓より零落した軍歌-革命歌の数多を篭絡した 網膜の鏡台が倒錯体n´の肉体像を空洞の後悔に宛がう頃 釣鐘の快癒は草案の一過的な鬨の叫喚に過ぎない
前衛運動は幾度と勿く銅鑼を打ち 熔鋼の群像は幾度と勿く青年の朽葉の様な季節を踏み均した 草の棘と天球儀のひとつが等しく麗らかな絞首台に鉛の臓腑を撒く まるで具象主義者の極微-極限の相似への遭遇の様に
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※ ※
白鳥は昼夜の距離を測る為の薔薇である頭部を擡げたまま静止している 洗滌槽に四肢末節の建築物が翰墨液の鋼版を拡げ狩猟協会会員の部屋には時報電話の絶無が延展する恰幅を齎した
それは純朴な悪魔の薔薇であり証拠としての偽証である影像に傾く幾多の時計である 内視鏡を咽ぶ山百合の茎髄脈には楕円劇場の継母を貫き通す伝書鳩の両翼がまるで喜歌か悲歌の様に展翅されていた
鈍鉄の交歓は一個の鶏卵殻のなかで黒い殻と赤い蝶番を産み落としている 表象の麗しい懐胎が振舞われていたが機械の美術世紀は錆びた眦の裂罅陶片を細緻に亙り素描し続けた
四旬節は透明となった白薔薇の訃報と誕生を呑み逆円錐形の噴水を掲げた * 墨染の櫻花への物象と興趣 国家勃興樹立記念塔に幽霊達の噂を闡明するひとつの隧道が着眼されるだろう
斜塔建築は林檎の地球儀に拠る叡智の世界像から放逐された白昼の夢遊病の椿事として噂されるだろう 死の軌跡は鏡像を綯う老嬢nより成婚の呵責を遠海に流刑地として擱いた
羊水液胎膜の花々は細胞組織と絹の繊維に抱卵された紫葡萄の収穫期を遂には流し遣った 純粋精神の誤謬は骨肉を麺麭と呼びつつ遂にブド―の濁滓は秘匿された柩にもその食指を壜詰の様に列ねた
書物の自由は人物の想像を頑なに拒み、それは暴風の様に膨張した褐色の腹腔としての萵苣である 泥濘の眼底騎行曲を異端の迫撃者へ帆立殻に拠る世界像としての縮図に閉じ込めた
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洗面台の胸に開く蝶形の石鹸液は凝膠の嘆願書を受領した労働協会の唯一にして夥多な成果証明である 浮腫結節の脳髄は外世界の暮方 建築家のエスキスを竈か飛蝗か巨躯でもある聖母へ贈与した
橄欖果は生命保険規約に翻って惹起された死の舌鋒を単眼の嬰児に一度ならず繰返し広報紙に拠り梱包した 炸薬は慈善募金箱に巧緻にも貨幣と落花を避ける様に窒素劇場へと充満し靴跡は聯続する時制への懐疑を首肯する
百合根の鱗茎を慈善とも呼称する胸像の溜飲には壜の書簡が滞る 総ては零年の絶無であり 又 濫觴の覆水は豊穣な死を想像力に縁って転覆せしめた
硫酸の雌花は完膚球体の地球儀に蹲る一個の少年期と運命附録を換骨した * 聖霊気息の爾後現代は未来の理想形たる自働昇降室の些事を悪魔の旧約七十人訳聖書へ紛糾の胚種として抱卵した
霜薔薇の頤は溶解する鏡の全貌を果して知悉していたのか 薔薇色の近似つまり大理石を渦巻く鸚鵡貝の積層殻は人間存在へ一週間程の鹹塩と花崗岩の縊死を緘黙させるだろうか
自然史の叫喚が指し示す裂罅蒼穹の五指は黒蜘蛛の採光窓より零落した軍歌-革命歌の数多を篭絡した 網膜の鏡台が倒錯体n´の肉体像を空洞の後悔に宛がう頃 釣鐘の快癒は草案の一過的な鬨の叫喚に過ぎない
前衛運動は幾度と勿く銅鑼を打ち 熔鋼の群像は幾度と勿く青年の朽葉の様な季節を踏み均した 草の棘と天球儀のひとつが等しく麗らかな絞首台に鉛の臓腑を撒く まるで具象主義者の極微-極限の相似への遭遇の様に
D.S.
[「D.S.」はDal Segno,「※」は segno の慣用符。
#10
天井は軋み 脚はしろく弱々しく
その脚を拭う間も 天上は軋み
天井は軋み 初不動の日 花はふるえ
日は削ってしまおうと大工 天井は軋み
+
世に夜が詰まり朝を締めあげている
裸木は巻き込まれている 水を与えてやる
眠気も抜けきっていないのに 丁寧虹のある
デスクの中を確認する 湿度計を確認する
+
午前四時というと やぶれ長屋に闇が漏り
眼をひらく者 闇に眼をやられ
呼吸をのぞむなら 星の発光
その連続 連続を孕みつつ午前四時は過ぐ
+
目覚めは 男は男であると信じさせ
目覚めは 女は女であると信じさせ
ベッドからおりたら 生き方は選べるのに
似合っていない服を着るとこころが軋んでしまいます
+
夢を脳へ押しこむ強さで 何か殺めたい
時間が時刻を譲らない力で 何かを殺めてみてもいい
そして神へ捧げたい 神が喜ぶところ平然と立っていたい
本当はこの貴重な一日きっかり 無駄に捨ててしまってもいい
+
日に命を吹きこんで 立たせてやれば駄目な日で
こんなにグラグラしては あんなにグラグラしたままだ
日はいつか寝小便しやがって 懐かしさの摩擦に燃える
そんなにグラグラしていれば きみの歯のことだよ
+
言葉より退いて預けて 野へと出た
花の女神今日ない と教えて貰う
風は冷たい 火は冷えびえと
案山子が燃やされている
+
言葉は永遠遺るもの
言葉は永遠へかえるもの
言葉はとにかく強いもの 鉈を洗って鉈ひかる
言葉はよわよわしさで沸騰するのに
+
鉢の金魚は沈んでおり 鉢の表面は凍っている
氷は氷らしく黙すばかりだ
花が咲き この言葉不要のさいわいの季節
どうしてペンを握って感じている
+
これはバナナではない そう呼ばれているだけだ
私は私ではない そうのぞんでいるだけだ
頭の中の茸は 畢竟フランスの国旗であるが
さっきのぞきみた茸 そう記述したいだけだ
+
もっと食べるにしてもものがなく
ものがなしく 仕方なく空気をいただく
枯渇しつつ 命の循環の中で
打てば響く 触れれば湿るこの地は何か
+
安定剤で背骨を焼いて ふつつかですか煙を吐いている
会話の芽は開いて 花々が閉じていく
あっけらかんの空で正しくゴミは分別されている
否 何も確認しなかった だいたい眼球のオイルは切れた
+
パンの耳が聞いている朝
昨日の終わりの一片の感光 その響きを
期待して この小さい影は立っていたか
ああ 確かに少年で 見ろ 握りこぶししている
+
よしなにしなさいは反復され
反復された分の喧嘩はよしなにした
熱い風はもう吹かないが ミサイルが飛び
しかし眺め入る空に雲一つなし
+
血は胃袋へ向かい考えられない
善意を御金で示してしまった
まだ眠かった 電話を待っていたのに
電話が夢の中へ流れ落ちていってしまった
+
唯一の枝は折れそうに 枝に葉はない
向こうから前髪まで風が吹いてくる
くさはらを旅人のように眺めつつ 畢竟旅ではなく
鳥のようには歌えない 鳥のように他の地を知らない
+
春をのぞんで児をなでる
花郎がとべば露となり
凶所を知り尽くしつつ もう運は関係はないと
もうまぼろしの蛇と遊ぶ 歌を書き下した
+
火の不知は知っている 火は少しぬけている
雨で舌は洗えない 雨が洗うのは路傍である
画家は瞬間の反応に 時間を経ているのか
彼らに私のフラジャリティを嘲る資格をやる
+
星は日がまぶされて消えたこと 実際
その時をしっかり見ていなかったことは省略しつつ
星は日にまぶされて消えたこと 実際
遺ったものは 言の葉の香り
+
日は絶えて 冬の昼は涼しくなった
益々寒いといえるほど
百に一つのさいわいは蜂蜜の飴玉
もっていると知れても知られなくても構わない
+
ゆるりの音は暖簾をあげて
油に水の われわれは天ぷら蕎麦にサイダーをいただく
預言も未来ももう要らない
油と水の 共通項はそういうことだった
+
赦されつづければ生きていけるのかと はた
それは赦されないことと同等であった
月がきれいですね 月がきれいですね
青空の下 地蔵菩薩を雑巾で拭いつつ
憎しみ
憎しみは
分かち合うことを拒む
吊るされた人影
すぐさま照り返され
いくつもの道を選び損ねる
大きな水たまり
憎しみは転がり
転がっていることさえも
空隙の中に遺失する
自らに対峙することなく
すべてに漠然と対峙する
森のようなもの
憎むことは
美しいものと邂逅すること
苦しみと怒りのただ中に宿る
甘美な生命のいろどりがまぶしく
憎んでいる人間は
いつでも心を打たれている
黒い渦
洗髪後の排水口には頭髪やら陰毛やらが渦巻いている。私を離さなければ、決して絡まり交わらない者たち。日に日に肥大する黒いカタマリは、一人暮らしの私にとって秘密の怪物だった。
小都会の美容室に勤めて半年になる。まだハサミは持てない。ここでも洗髪だ。穴に流れていくのは頭髪だけ。あいつとは違う。寂しかろうと思ってシャワー台に腰かけた。下半身が充血してむずむずしてくる。ぼうっとしていると、店長のAさんから鋭い叱責がとぶ。土方のようなたくましい二の腕に似合わない繊細な技術の持ち主で、でもそんなことはどうでもよくて、私は彼のなみだぼくろが好きなのだ。こんなに好きなのに、ぴんぴんに研磨したコトバで心の贅肉を躊躇なく切断してくる。たまに、やわい表面に突き刺さる。出血すると、さすがに泣いてしまう。その血はどす黒い。ふと、あいつの気配を感じる。
閉店後の深夜、どことなくAさん似のマネキン相手にカットの練習。昨夜、油性ペンで目元に点を打ったら、正面から直視できなくなった。練習前には昼間刺さったものを一本一本ていねいに抜いてシザーケースにしまう。使えもしないが、お守り代わりだ。人工毛の切り心地には慣れない。上達したら俺を練習台にしていいから、とAさんは言った。淡々と課題をこなす。アクリル繊維は淡々と切れる。
仕上がったマネキンを洗髪する。昼間寂しそうに流れていった、名前も覚えていない客の頭髪が気になったのだ。Aさんに見つかったら大目玉だろう。案の定、人毛以外は飲み込まない贅沢な排水管は黒い水を嘔吐した。水を止めると、あいつがいた。私は怖くなって、あらゆる無機物に謝罪を始めた。いつしか足下にはAさん似の生首が転がっていた。<了>
大きな大きな悪い悪い花
1
祖母の家には大きな大きな悪い悪い花が咲いてあって、
僕が小学生の頃、本当に本当に、その花が怖くて怖くて仕方なくて、本当は本当は祖母の家には行きたくなかったのだけれども母に連れられて週に三回くらいは行っていました。
2
祖母の家には大きな大きな悪い悪い花が咲いてあって、
僕が中学生になって、サッカー部に入って毎日毎日部活で部活で土日はほとんど試合で試合で、祖母の家に行くことは年に三回くらいになりましたが、悪い花は年々、見れば見るほど大きく大きくなっていったのです。
3
祖母の家には大きな大きな悪い悪い花が咲いてあって、
僕は高校生になった春に、ひとりで、電車で、祖母の家に遊びに行って、その花の、やや青い花びらを数えてみたら、数え切れなくて、しかも突風が吹いて、大きな大きな悪い悪い花は、その優しい優しい香りを街へばらまいたのです。
9
祖母の家には大きな大きな悪い悪い花が咲いてあって、
それは祖母が死んでからも咲き続けている。それに比べ僕は、今でもたったひとつの花さえ咲かせることができないのです。
4
祖母の家には大きな大きな悪い悪い花が咲いてあって、
いつか僕にも詩を書く日がきたら、僕には僕のやり方で、毎日毎日水をやって、それを最初の一行にして、僕の花を咲かせてやるのです。
5
祖母の家には大きな大きな悪い悪い花が咲いてあって、
6
祖母の家には大きな大きな悪い悪い花が咲いてあって、
8
祖母の家には大きな大きな悪い悪い花が咲いてあって、
7
祖母の家には大きな大きな悪い悪い花が咲いてあって、
10
祖母の家には大きな大きな悪い悪い花が咲いてあって、
僕が死んだら、祖母の家の、この庭に、僕を埋めてほしい。そう願うのです。あなたなら、きっと、花びらを数えられる。いつか、花束にして、あなたの好きな人に届けてください。
0
祖母の家には大きな大きな悪い悪い花が咲いてあって、
100年以上前から毎日毎日その上を透明な電車が走っている。花は潰れることも枯れることもなく咲き続けている。その窓から見える景色が僕にはわからない。けれども、その窓に射し込む光が、最後の最後の一行になればいいと思うのです。もちろん、あなたの。
*****
一つの世界/
縦横、手前、奥のど真ん中
プラスマイナスのゼロ次元
そんな点が必ずあるはずだ
光にかざし手指で点を探し
あて曇りのないまっさらな
透明体のなかに隠れている
音のない暗い暗いかすかに
睡れた細い糸を指でつまみ
針穴に通しチョンチョンと
突き出た先端をそのままに
世界を静止させる
へぇへ
----------- ぁ も ぁ----------------
ぁぁぁ
念力 念力 念力
でいやーそりゃーはかりしれぬ 白熊りりりりりりりり
ゆううぅぅぅぅぅうううう れれれれれれれ
しょんしょんれぼろれぼろれぼろれぼろれぼろれぼろ
白白白白白 キキキキキ モヤモヤモ 霜霜霜霜霜
ベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベ
ベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベ
ベベベベベベベベ ベベベベベベベベベベベ
ベベベベベベベベベベベベベベベベッベベ
傘傘傘傘 ベベベ ビビビビ
ベベベベベベベ 雷雷雷雷
目 弱弱弱
ベベベべべべべべべべべべ 魚魚魚魚
水水水水 遊泳遊泳遊泳
骨骨骨 弱弱弱 雷雷 ビビビビ
ベベベベ べべべべべべべべべべべべ ベベベベベベ 傘傘傘傘 ベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベベ 黒黒黒黒 ベベベベベベベベベベベベベベベベベベ
ベベベベベベベベベベベベベベ
どはーぶはーどいれーどはーぶはーどいれーどはーぶはーどいれーびゃーっとぶらっときゅー
でゃーっとでゃーっとでゃーっとじゃーとじゃーとじゃーっとでいやーそりゃー
どはーぶはーどいれーどはーぶはーどいれーじゃーとじゃーとじゃーっとでゃーっと
でゃーっとでゃーっとじゃーとじゃーとじゃーっとびゃーっとぶらっどきゅーじゃーとじゃーと
じゃーっとびゃーっとぶらっときゅーじゃーとじゃーとじゃーっとぎゃーっとでゃーっとびゃーっと
分断分断分断 決裂決裂決裂
滅多滅多滅多 死物死物死物
邪悶邪悶邪悶 惰愉楽惰愉楽
溺睡溺睡溺睡 拡大拡散塵塵
青い感覚 羽音
<>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<>
子 宮------- 神聖な領海域に浮かぶ陸の小島、 具象に覚醒され 海図は描かれる
世 界------- 沖を遊泳する嬰児 魂の潮汐に順応し
陸に打ち上げられた死物 人間を介した溺者
呪 文-------- 上皮のぬめり 異臭を放つ衣
魚鱗くるめき あえぐ苦悶 息絶え絶えに魚の口から
詩 人-------- 死に急ぐモノたちの
おぼろげにやや茜色した顔 はじまりを使い腐り捨て
<>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<>
れぼろれぼろれぼろ――バルバロイから連記
白熊りりりりり ―――マリリンに逢いたい
<>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<> >もしや君の化合物はあなたがたのために乗るべき衛星たちの軌道を渡る
>一週間での損失の引き出し白人市場目撃者のデペイズマンの長い冬から
>恋人と一緒に戻ってきてよその日のセーフティブーツを履きながら行く
>お祝いを受け入れてほしいの又とくるその戦に壁をぶち壊した私の頭上
>夜に出て来たイブが百回壊していくセメントで固めカンニングしながら
>資材のニーズを分け与えるゆっくりとした足取りで私たちを殺すために
>ブドウの葉の炊飯器の炊けたコルドンブルーがいくつも春を巻きつける
>封じ込められ離反されたその愛は心もと無い最初のクルーアンの血の杯
>臆病者には暴力の使用方法をわからずに奇抜に遠く離された愛の欠陥が
>あなたが話しかてくるから通りの頭上に落ちた千切れた手足を見ている
>西から濃い衰退の途を過ぎる車の数数がわたしたちのしたことの歴史を
>誰しもの全人の踏破を記録した彼らの右手に井戸があり左に住居があり
>彼らの給与が誰しもの耳にする心無い元手のうちにあることを開示せよ
<>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<> >リビドーを保つ文字の痕跡から離れていった櫓歌がひとつとひとつ人の梢に立つ
>水中に射し込むあなたのくきやかな輪郭が紙上を滑り落ちていく沼を土を茶色く
>ひらめいてゆらめいて泳いでいる放電熱した陽光が意識野原へと彷わせる緒遊糸
>透過する硝子戸超しの陽の灯肌色ボッテリとした腿尻踝踵のギザギザとした裸婦
>つかいふるされた壁を塗り直し描き直す消えない記憶を書きたくるワイパー坊や
>描き込むことの布も紙も諸々の部分全体も鷲掴みにし言葉と考えを壁に刷新する
>描き込めるか否か紙も布も部分・全体を透撤しつつ一網打尽に言葉と考を貫ける
>すでに視た感覚は二足の古靴を履きながら私たちの声音の文字の壁をつたい歩く
<>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<><>*<>*<>*<>*<>
絶望
世界中の海から集められた
追いきれない広さと迫りきれない深さ
あるいは群れをなす魚の一匹が発した
どこまでも届く一瞬の輝き
そういうものが
個人のはるか遠くまで開け放たれた
借り物の一室に湿り気を届ける
それが絶望だ
絶望は一つの生命を持ち
個人の生命と交信して渦を分かち合う
絶望から贈られる湿った渦の構造は
極めて難解で飛散していて
個人の人格はそれを収集し解明するために
どこまでも低い沙漠へとさかのぼっていく
絶望はとても明るい海の光
そして人をとても暑い沙漠へと連れていく
その明るさがまぶしくて
その暑さに膨大な汗をかき
個人は雨の日の電柱のように
大きく背を伸ばしては
物思いと覚醒を繰り返す
開け放たれたドアから
誰からともしれない手紙が届くのを待ち続ける
その手紙には一言
また会おうね、と書いてある
大聖堂
両親へ捧ぐ
ウォーホルとカポーティはともに父を知らず
母性のつよい影響下で育ったという
そのいっぽうでブコウスキーは母の存在が薄く
父の打擲と恫喝に苛まれてたという
わたしも母をほとんど
知らないと来る
かの女はつねに父のうしろにいてみえなかった
十歳下の妹できてからはパートタイム労働者になり
さらにみることがなくなった
深夜を弁当屋で過ごし
午はゴルフ場へと
赴く
やがてかの女は自己啓発本や
安手の幸福志向にそまってった
わたしをいちばんむかむかさせたのは
幸運の絵や写真──ブロック・ノイズまるだしの紙頽
そんなものを額に入れて玄関やくそ狭い便所に飾ってた
そのいっぽうでわたしはちゃちなビクトリア幻想の、
父による解体と増築のレッスンがあった
アントンの大聖堂じゃないけれど
幼い時分からその建築
は始まってた
離れは母屋を侵食し
妄想は現実化してしまう
あるときは数字についてのことで
あるときは角材の長さのまちがいで
全人格──存在そのものを否定された
やつのお気に入りの文句はこうだ、──ばかもちょんでもできることもできてない!
長い恫喝ぢみた説教がいやで逃げようとすれば金槌の柄で撲られた
おれにはなんでこんなことばかりなんだろうっておもってた
十六歳の夏、父は母屋の屋根を解体して平屋に二階をつくってた
しかし自身との自己同化を拒絶したわたしにぶち切れた父は
わたしの髪をめちゃめちゃに剪り落としてしまった
それでもわたしは抵抗することができなかった
生野高原というくそったれな田舎には、
逃げ込む場も仲間もなかったんだ
やがて母が帰ってきた
いつものようになんの変わりもなくて
わたしの頭をみてもなんにもなかったかのように
通り過ぎていくだけのことだった
そのさわり、ふとおもいだしたのは
生瀬にあるバレエ教室だった
ひとつうえの姉がそこで
習ってるのを
母は見学し
わたしはおもての
螺旋階段のまえへと
退屈むきだしで抛りされ
まったく見棄てられてしまってた
わが家の王妃たる姉は理知にも容貌にも立場にも恵まれてたけれど、
わたしと来たらなにもかもがでたらめでことばすら満足でなかった
──いまも書いてるからこそ言語を発することができる
ともかく母はいつも半分いて半分いないようだった
日雇い仕事がうまくいかなくなったとき
わたしは次第に母を攻撃する喜びを
アルコール漬けの脳のうちで
知った
金をせびり
料理を床にぶちまけ
おまえと呼ぶ
なんという愉しい虚無なんだろうか!
このために母は存在してたのか!
放埒が去ったいまも
わたしは夢想する
かの女を罵ることをだ
いまも惨めに働きつづけるあいま
父はじぶんだけでスペインやイタリアへと旅をする
神さま、どうかかれの飛行機が消息不明になりますように、だ
角の"Academy Bar"で一杯千円のギムレットでもやりながら
あのくそったれな大聖堂の没落を静かに心地よく聴きたいもんだよ
毒を編む
先生、
私の胸を見てください
毒があります
くるしいのです
先生、
よく見てください
毎日くるしいのです
先生、
先生はいつも
あなたの胸には何もないですよと
優しく言うけれど
私の胸には
毒があります
先生、
みんなが
私の言葉を
きたないと言います
私の胸に
毒があるからです
毒を、ぬいてください。
きれいな花を
しずかに切り取った
きれいな詩さえ
私には
きたなく見えてしまうのです
毒を、ぬいてください
先生、
私には限界があります
それを
数字に表すこともできます
だから急いで
毒を、ぬいてください
先生、
骨が砕ける音がします
あばら骨が
私のあばら骨が砕ける音がします
先生、
きこえますか
毒を、ぬいてください
先生、
ぬいた毒で
それを縫いつけて
空洞になった私は
新しい詩を書きたいのです
それは決して
悲しいものではありません
先生、
私の言葉は
今日もまだ
きたないですか
暗いですか
私の胸を見てください
砕けた骨が
暗い未来に突き刺さる前に
お願いします
毒を、ぬいてください
夕陽に顔面
長い黒髪 風にゆらめかせ
女子高生 夕陽を望む
滑らかな曲線を描くシルエットが
逆光によって赤い校庭に写し出される
女子高生は
ゆっくりと
こちらを向いて
その顔面が落ちる
ストンストンと真っさかさま一直線に落ちる
何枚も落ちる止まることなく地面に落ちる
落ちて入れ替わって落ちてこちらを見つめてくる顔面は無い
落ちる落ちる落ちる奇術のマスクのように落ちる
落ちる落ちる落ちる滝のように目まぐるしく落ちる
静止した胴体と反して次々変わる顔面の状態
周りの風景もいつの間にか激しく変わりだす
空は絶え間なく256色に移り変わり
早送りのよう雲は飛び月陽星々は回り続ける
ついに女子高生のハイソックスの縁から虹色の水が溢れだし
爪はどんどん伸びていって蛇のようとぐろを巻いていく
すべてが落ちて変わって飛んで回って動いて暴れて暴れて暴れて
百面相の顔面は険しい山を盛り積み造りあげているが
ただひとつ女子高生の胴体だけは
静止して
動かない
それ以外の全世界は恐ろしい速度で変化し続ける
天体観測
星座は夜空にあるのではなく
星をさがす瞼の
うちがわにじっと磔にされている
天体観測の距離で
微かに青みがかった
廃墟のような暗がりから
こうやって名まえをとりはずすため
動いている空間そのものを
先端に向かってそっと
押しひろげてゆく
瞬間
窒息しそうなほど
星が炎をあげて笑っていた
おおきな時間の隔たりさえもこえて
それでも肉眼で捉えることのできる
鮮やかな色と明るさで
笑いかけていた
とても小さな炎に見えたけれど
巨大な意味がそこで
燃えているのだとおもう
国益と革命
地下鉄の車内はある種のプレイルームだとぼくは思う
見知らぬ男女が息のかかる距離で密着し
電車が揺れるたびに女の乳房がぼくの腕に押し付けられるのだ
女はそのたびに「あっ、すいません・・(*_*)」などという
気をつけろよボケっ!( *`ω´)
という目つきで女を睨む
こちらにとっては
寧ろ幸運な出来事なのだが・・
エロい目でなごんでしまい(*゚▽゚*)
あるいは冬山よろしく
テントなどを
よもや
おっ立ててしまうと
逆に痴漢に仕立て上げられてしまうのだ
「この人チカンです!」
と言われないための防御策として
電車が揺れるたびに乳房を押し付けられ
こちとら迷惑しているのラァ(´・_・`)
という立場を堅持し続けなければならないのだ
断固として!
ぼくは地下鉄の中の
このような群衆の愛欲と孤独とを
どちらかと言えば愛している
地下鉄の電車が揺れるたび
その揺れが激しければ激しいいほど
群衆の心理は明らかに屈折していく
あるいはこの倒錯と変態性とを
秩序と制度性によって
定刻通り
駅から駅へと
つまり出発点から目的地まで運んでいくものを
我々は
地下鉄の通勤電車と呼んでいるのである
今日も隙間なく詰め込まれる中央線
駅員がサラリーマンを自動扉の中に押し込んでいる谷町4丁目
通勤電車の中に押し込まれてゆく国益と革命
お肉のポエム
わたしがあなたであることを証明しましょう
あなたが目をひらけているときはあなたです
さぁ、次ぎは目をとじてごらんなさい
あなたにとってのわたしが脳裏から歩み出て
あなたの目のまえを支配してゆくのがわかるでしょう
宇宙に空間を歪めてしまった
ゴミだしするのを忘れた日
小さな物語のなかは
些細なことで
一瞬に広がる泉
魚が8の字を描く
広大な海に
一人の若者が
荒れ狂う夜に向かって
漕ぎ出した母の話
静かな言葉だった
本を閉じたあと
いつかあなたの少女も
若者の話をきくでしょう
ああ、ところで人間
そう、おまえだ、そこの人間よ
おまえはどこから来て、どこへ行くのだ
そしておまえは今、どこにいるのだ
結局、私の悲しみも誰かの胸の裡
海の藻屑と消えるわけだ
それは私がそうであるように
悲しみを望むような馬鹿ではないけれど
あいつの死は忘れられないほど美味かった
あいつが死んだおかげで、俺は今もここに立っている
あいつの屍が、俺の足首をガッチリと掴まえている
他人の悲しみより美味いものはない
だから俺が死んだときは大笑いしてくれよ
あのバチ当たりもんが、ようやく腹を満たしたかと
恥ずかしいくらい、喰らいやがったと
繰り返される人生の、スクランブル交差点
鳴り止まぬ轟音、耳鳴りのような空をめがけ
芥子粒は真っ只中で立ち止まり
人目を憚らず立ち止まり
力いっぱい腕を突き上げる
その手のむこう、摂氏0℃の指先に
静寂は真空に集まる
放り出されてしまった
街は人々に幻想と問い掛ける
-ゴウゴウ-
耳鳴りだけが風を切る
わたしと暮れ急ぐ空だけが
見えない糸で繋がれた現実
夕焼け色にオレンジの薫りがした
あの人は来なかった
俺はあやまらないから
あなたもあやまらなくていいよ
黙ったまま、心の牢獄で
背負い続ければいい
ガラクタが散乱する
鍵がかかったままの
閉じられたままの鉛の箱を
女はひらけてはいけない
くびすじにキスをするとき
髪から他の男の臭いがしたので
僕はおもむろに君を殴りつけた
すると君は泣きながら、その匂いは
わたしたちが今、こうしてここに在る理由だと
言って空を指差した
何の変哲もない景色が四角く切り取られ
君はその中に何人も居た
僕は一番幼い君を抱き上げて
やさしく頬にキスをした
ばちゃばちゃばちゃばちゃ ばちゃばちゃばちゃばちゃ
ばちゃばちゃばちゃばちゃ きゃりーぱみゅぱみゅ
みずたまり、この水溜りに
思い出が降っている
雨の如く、波打ち際を
いったりきたり
星から星へ
象が玉乗りしている
世界は多分、他者との総和
しかし、互いに欠如を満していると
誰も知りもせず、誰にも知らされもせず
ばら撒かれている者同士、無関心でいられる間柄
うとましく思うことさへ、許されている間柄
そのように世界が緩やかに、構成されているのはなぜですか?
花が咲いているすぐ近くまで
私の風だったのかもしれない
目にも見えない
耳にも聞こえない
ふと美しいときにだけ
思うことを許された
そんな大きなもの
海に形はありますか?
寄せては引いて
ただそれだけで
老いは裏切らない
空は変化し、命は移り変わる
けれども老いは、俺を裏切らない
人の話に耳などかさぬ
うねうねと迷走する未来へ
黙って一本道を叩きつける
桜の散る春
枯葉舞う秋
奴の背中が
大きく聳え立っている
心は道化師、移り変わる
いったい僕はなにをもって
君に話をしているのだろう
寝ても起きてもいないとき
無心は突然やってきて
ふと僕を黙らせる
地底の薄ら笑み
深々とその浸水
破れた長靴の先に
空の内耳が立ち込める
萎れてしまった午後に
二重の太陽が凍りついている
魂の延命に、白いテーブルが
仮初とあざ笑う
運ばれた肉片の
卑しき爪あとが腹を裂く
午後の雨は鈍い銀の刃
古ぼけた納屋を横切ると
田んぼが、山肌からせり出している
小川のせせらぎの脇にラーメン屋はあった
落ちぶれた人間が
麺の先を辿るように集まるこの店を
人は夜鳴きと呼んだ
暮れ急ぐ竹林に
店主はポロポロ暖簾をだす
罠に捕られたイノブタが
ちぎれそうな足をなげだし命乞い
「わたしの足をスープにしてください!」
店主言う
「足をひき千切りたまえ。」
猪は、「ありがとう!ありがとう!」
涙を流し、その木の根っこのような顔で
鳴り止まぬ横笛の音
愛かどうかは解らない
たんなるひらめきに違いない
ひらけてのひら春のよに
いみもないよな言葉たち
咲かせた花のものがたり
じべたの下で血のような
ぬくもりだけが感覚だ
ならならと、時間の底に横たわる、鉄兜がグシャリ窓から転げ落ち
行く手を見失った戦争の輪郭が、麦の穂にピラピラはためいている
錆びた泉に涌きでる、幾千の爪色の身体を、地に透かした死者の顔が笑う
うなうなうなうなうなうな
うなうなうな殺してくれ〜
眠りを忘れた老い猫の呻き声が廃屋の枯草を潰す
ジリジリと、足跡が焦げつき
電信棒は腰くだけ、返信さえへもままらない
封筒をナイフで裂くと、幽霊の片腕が落ちる
右目を押さえ、耳から鼻へ紐を通す着信音
魔王は古の橋を、過去から未来へ転倒する
カエルの腸管に息を吹き込めば
引き裂かれた国旗に中吊りの人間にぶらさがっている
石畳に壁に瓦礫と倒れ
圧迫された消灯は軍服の隙間から蛆がひちゃひにちゃと青肉を吸う
淋しい歩道に太陽は照り荒み、ミミズが乾いたまま寝むっている
この細い旋律が雨に流されてしまう前に、魔王よ、いまこそ鳴り響く鐘の音を聞け
テロオオオオオオオン!!
しああああああああん!!
斜めに引き裂かれた断面が降り注ぐ
寂しい婦人、 傘もささずにトタン屋根
錘のような子を抱いて、セピアの海に釣糸を垂れ
おお、雨だ!雨だ!!雨雨雨雨だ!!
窓ガラスに雨が張りついた裸体を舐めまわしたように
新緑の輪郭だけを残し、思い出は甦る
さぁ来い、馬に乗った鼓動が大地に響けば
指のあいだの温度を保て!
モダン色したキリンの群れが
煉瓦造りの街を徘徊する
3階建ての窓から朱色の風船が飛んでゆき
お嬢さんはどこですか?
兵隊の列が、ねずみをかきわけ
破裂した女の腹から闇へギコギコと
鼻から口へ黒い血が垂れ流し
この臓物は馬小屋の味がする
青い海、暮れかかった海のうえに鍵盤が波打ち、どす黒い海だ
人の話し声や、行き交う車の地響きや、おまえのうめき声
混ぜこぜになった風に滑空しているカモメだ
いったいどこの誰が、この止まぬメロディを肴に酒を呷っている
どうしてカモメ、おまえは血と汗と宿命を知り得るか
おまえの翼が、おまえの笑い声が、時間を海に変えてしまった
足跡を浚う、繰り返す波の音!
さりげない明日の予感が呑まれてゆく
おお、首をかしげる海亀のように、人生どもが幻聴に浮かんでいる
あたい、魂売った銅貨一枚
季節外れの砂浜だよ
からっぽで、肌は黒い
誰も居なくて、澄んだ空
とっても静かだったよ
電線に打たれた空気が口を歪め
そしらぬ態度は、ビクンと時間を凍り漬け
鼓動は足並みを揃え、頭を抱えて走り出す
輪郭がまるで知恵の輪のようにゴロゴロと回転している
蜘蛛の糸をひく玄関を押せば
薄ら笑みを浮かべた男が寝ている
ねぇ、お客さん、お客さん
わたしの顔をまたいでおくれ
記憶の裏に、深く沈めた腫れ物をしっかりと拝んで
あんたがどこからきたのか、股間をまさぐりながら
思い出しておくれ、ヘソに店主の顔が浮かびあがる
ここはおばけ屋敷だ
道の欠片に根を張った
薄葉の花と蜻蛉は
なべて昨日の大地に積もり
針のような今を落とす
遠ざかる祭りの囃子が雫を垂れる
笛の音は一丁離れた
先の予感でちょうどよい
空っ風が寝静る街路を、知らないあいだに駈けてくる
テンテンと、幼児のように跳ねてくる
詩人が歩いたその後は、名の無い草が生えている
恥ずかしそうな眼差しで、誰もいなくなった空き地の縁で
地面に耳を押し当てて、目隠ししてるの誰ですか?
あなたはこの世から解雇されました
おそらく、歯で終わる話
「歯、は、ハ、が欠けてしまったんです」
ここは電車の中だ。ちなみに地下鉄である。当たり前だが窓の外は真っ黒である。そして、取引先の男と並んで座っている。目の前には女がいて、黙々と化粧をしている。ここは親切された男性専用車両だった。俺と取引先の男と女と、その三人の他に乗客がいなかった。俺たち二人は適当に足を伸ばすと、適当にズボンを脱ぎ、パンツを床に下ろした。女がこちらを全く顧みずにコンパクトに向かって口紅をつけている間、俺たちは今朝のビックで関係ない奴にはまるで関係のない、株価暴落のニュースをオカズにしながら自慰行為でストレスを発散させていた。最近はやりのモーニングショットというやつだ。化粧の段階というものを俺はあまりよく知らないが、女がアイプチをしている所はやはり気味が悪かった。すると何故か取引先の男が、急に昨日みた映画の批評を始めた。だが、その映画を見たこともなければ見る予定もなかった私にとっては正にどうでもいいことだった。私はその映画をみた風に装って適当に話を合わせながら、女を見て適当に通勤時間を潰すことにした。季節は春。段々と日差しが暖かくなってきたその春の兆しを一心に感じ、背負いながら、これから新しく始まる中学高の生活に胸を躍らせつつ、ラン、ランラララン↘ラン↗ラン↘と、まっすぐに伸びる坂を健気にスキップしていく、新一年共の麗らかな笑顔を見ていると、心が安らぎませんかと、隣にいた肩を叩こうとするが、手に当たるのは空気に貼られた不在の新聞広告の裏紙だけだった。私の左腕は文字通り空を掠ってそのままドブに転落し、ついでに左足も突っ込んで、更には右腕に持ったカバンは道路まで転がってトラックに轢かれた。私は四月早々にして、卸たての新品のスーツを台無しにしてしまった。街頭のテレビに流れるニュース速報によれば、一昨日の夜に誰かの母親が何かのワケによって急死したというが、その母親の通夜には誰もこなかったそうだ。僕はその時、回覧板をお隣さん家に届けに行かなければならなかったのだが、玄関を出た時ちょうどに、時馴染みの郵便屋さんが「僕宛に手紙が来ている」と言って速達だかなんだか知らないけど、慌ててハンコとサインを求めてきたので、色々とまぁおかしかったけれど、それを口実にして回すのをやめることにした。勿論親には内緒である。それから次に、カレンダーを通じて親に頼まれたことをすることにした。まず16時ぴったりに家に帰って学校の宿題を済ませる。それが終わったら浴槽を丹念に掃除する。その間にガスコンロで湯を沸かす。そしたら屍体を玄関から引っ張ってきて張っておいた湯船の中に浸し、そのまま放置して適当に臭くなったら緩くなったら肉を削ぎ落とし、むき出しになった骨を一本一本丁寧に洗い、最後に大きな瓶の中に入れて埋葬する。一番肝心なのは埋葬先のホテルに泊まって指定した女と交わり子を設けること、そして生まれた日に海に行って、生まれた子供を二人の間に挟んでゆっくり海岸線を歩いている所を上手く射殺されることだ。そして、僕は海に落とされて魚に食べられることになる。
「歯がかけてしまったんです」
「なんで、どうしてです?」
「天皇を、ちょっとこう、食べちゃいまして」
「そりゃぁ物騒ですね」
取引先の男はラーメンを食べたあとにタバコを吸った。銘柄はわからない。ただ、そこまで癖のある臭いじゃないことは確かだ。普通のタバコという感じである。「普通っていうのは、難しいよね」「定義するのが面倒だから普通なんですよ」割り箸を綺麗に割って、ラーメンを啜る。その後シャワーを浴びる。取引先の男の股間には一物がついておらず、代わりに大きな穴があいていた。これは…一体、なんです? などという野暮な質問はしなかった。多分、これは俺が読んだ小説の中に出てきた女と、同じ理由なんだろうなと思った。双子の姉弟の内、姉が早くに死んでしまったので自分の性器を切り落として代わりに穴をあけることで二つを一つにしようとした。みたいな。感じだったような気がする。それよりも、その本の記述を使って沢山自慰行為をしたことの方が今でもはっきり憶えている。
女が化粧している。男を気にせず化粧している。しかし正確には少しだけ違うものが混じっている。という話を、誰かがどこかでしている気がする。おそらく前後で、隣の車両に繋がる蛇腹状の通路で。通路には沢山の目が媚びり付いている。例えばの話、その視線がトンネルの壁に彫刻された、様々な文明の文様を古ぼけた映写機のように斑に映している。これは広告で、つまり人類の歴史を広告したものだ。歴史とは常に断続的である。その晩、女と取引先の男は性交したというが審議の程は確かではない。私はタバコを吸っている。ビチョビチョになったズボンが乾くまでタバコを吸っている。そして夜通し起きている。隣の部屋からヒソヒソ話や、笑い声が漏れる。私は何もしていないのに壁を叩いてくる。そして「歯が欠けてしまったんですよ」というオチの物語が、いつの間にか感動的な映画に仕上がったことを、取引先の男は熱弁していた。
女は相変わらず化粧をしている。その様子が動画サイトを通じて満員の地下鉄の車窓に流れていく。その光景は正にファインダーを開いたカメラの写真みたいに、天球に尾を引いていく神様の名前を持った星星や星座のように、底はどこにもなかった。星が焼かれている間に、僕や私たちは何れ死んでしまうのでしょう。今日は始発で会社に向かう予定だった。私の勤めている会社の性質は、この際どうだっていいが、ただ話しておきたいことというのはあって、それは僕が奇形児だということだ。割り箸は常に三つに折れる。そしてラーメンの麺は絶対に掴めない。常に日差しの当たらない方の壁に沿って廊下を歩いている。一番問題なのは、取ってつけたような奇形である事だ。腕が中途半端に曲がっている程度の奇形の何が問題か。奇形の中の存在が軽くなる。意識はずっとそこにあるが視線は常にずれていく。同じだが違う。という単純な理由が根底にある。だから、ニキビだらけの男と組体操をすることによって今をどうにか生きている。でも多分、こいつは頭が切れるので高校は、多分別の所になってしまうでしょう。そうしたら僕、どうすればいいんでしょうか? どうしたらいいと思いますか? 深夜ラジオに中高生からの重い質問が突きつけられ。困ったMCが、電波を通じて色々な人に共有してごまかそうとしました。そんな時に限って例外が入り込んでくるのです。「僕の方がもっと悲惨だから頑張って」と、違うそうじゃない。助けて欲しいんだ。誰か助けてください。小説やドラマの正解は僕を救ってくれません。
そして、少年たちが電車に乗り込んでくる。俺は皮に包まれた惨めな陰茎を見せつけながら自慰を続ける。
女はまだ化粧をしている。
「化粧っていうかメイク」
「…」
「おじさん、隣、いいですか」
「いいよ」
「君も一緒にどうだね」
「それじゃぁお言葉に甘えて…」
順番を間違えたのか、もういちど最初から化粧をやり直している。床には大量の丸まったティッシュと大量のメイク落としシートが散乱している、その隙間からそっとお札に付いた沢山の目がこちらを見ている感じがする。株価が暴落して取引先の男は地下鉄に身を投げたということだ、というわけで、最初からオナニーをやり直し。
日々の錆
窓枠から見えた空/まるで昨夜の憂いを抱き留めたよう/な、乱層雲
雨/に昨日/を忘れるよ/そこから始めよう/人々/の歌うような足音/が街へ続く橋を渡る/瀬よ/、誰を癒さんとして流れ続ける/私を追いこしてゆく/一人一人/のビジネススーツ/が風にはためいて/、きれいな黒い鳥みたいに見えた
帰り道/橋の両脇に灯る外灯に/閃きながら落ちていた冷雨/疲れ/、涙と熱が混じる目/歩道に泳いだ視線/靴の先でぱたぱた/、と/瞬きを上回る速度で/咲く/黒い花
湿度をはかる/ように/いちど深呼吸/したら/傘を開いて/もいいですか
重い鞄を支えながら/いつかこの日々が雨に錆びるよう/に壊れるのではないか/と考える/けれど私は/まだ歩いていた/この荷物をおろせば楽になれると/誰もが/そう/知っている/それでもそうしない/のは/理由/が特に見当たらないせいだろう
道路は一瞬の渋滞/整列したカー・ライトがフローアップして/誰かの外した首飾り/のように/一様にきらめいた
区間急行バス/に乗り込めば革命/の予感/コートのポケットに/いつかのチョコレート/を紛れ込ませて
欠け始めた月を/古いカメラに納めて/トンネルから吹いた風に酔う/今日もとりたてて変化はなかった/ついこの間/アクアシトラス/とは何かな/と手に取った消臭剤/はかき氷のシロップにそっくり/な香りだった/今頃その香り/でいっぱいのはず/の私室を思う/ずっと続いている/玉兎の観察ノート/二足跳びのrhythmを記憶に刷り込んだら/家に戻ろう
編み上げたマフラー/に3ヶ所の失敗/白い空を見上げたら春雷/、キャラメルマキアートの呼気が昇ってゆく
さくら
失意のどん底にあって
まさに
失意のその最中に
ふと
見上げた
春の空
見渡す限りに
桜満開
見知らぬ街の見知らぬ桜
僕はこの街と仲良くするつもりはなくて
けれど
どこかなつかしいこの桜並木を
立ち止まり
しばらく眺めていた
夢はどこへ行ってしまったのだろう
肩に掛けたカバンが重たい
上り坂になっている国道のすぐ脇に
その寮はあった
玄関にネズミ取りのカゴが置かれている
そう
僕はネズミ取りのカゴの中へと入っていくのだ
無事に抜け出せるのか
何の保証も無い
一年もそこで暮らすうちに
ゾンビのような風貌に
顔が変わってしまった
まるで
ささくれ立った心が
全身の至るところから噴き出しているかのように
前髪をかき分けて覗く世界は
とても狭いものだった
ようやく迎えたその日その朝
空は隅々まで青く晴れ渡っていた
この日僕は
まばゆいばかりのひかりの集団に
さよならをするために
会場へと急いでいた
ここは別世界
近付いただけで地鳴りがする
歓声と
誇らしげな太鼓の音と
喜びは一瞬で駆け抜けていって
悲しみはしづかに黒く地面に広がっていた
「おめでとう」
そう声をかけられた
用意していた答えを
僕は丸めてポケットへ押し込んだ
あの街へ戻ることはもう二度と無いだろう
あの桜の下に立つことも
あれから季節は何度も巡り
花を気にすることも無くなっていった
まるで
捨てられないポケットの花びらのように
あの日見上げた
満開の桜ほど
美しいさくらを
まだ見たことは無い
※推敲しました
鎖
パンが欲しくてあなたの元を訪れた
焼き上がる芳ばしさに解されたい
乾きかけの羽を風に乗せた
パンならここにあるとあなたは言う
そんなはずはないとわたしは応え
味気なさだけが交わりあう
締め上げるものを相手に
止まない回転に絡めとられる
鎖を手にしたさまよいびとの街
街は血の流れも新たにぶおんぶおん
鎖がアスファルトを跳ね回る
深夜に響き渡る叫びが冷酷者たちの
抉り取られた眼球を突き抜ける時
あなたを訪れる訳がわかる
#11(インプロヴィゼーション)
ストリート・ジーザス
聖か俗か
それを越えてしまった者に
なってしまったあなたは呼ばれている
ストリート・ジーザス
エキスのイエス
私の文章に力を与えて下さい
イエスのエキス
赤ワインは飲めません
私の脳が病んでいる為に
孤高と
吐息は闇を抜けていく
あざやか都市を
墓場からのぞむに汗を拭っている
一体どうしたいんだ
ただ汚れを
タイルの垢をとりつづけて半日終えて
詩を書いてもいいのだが
蒲公英
濁った池の中で
必死気泡を捜して歩行く
しかし美しい気泡でなくていい
芋粥を温めつづけ
熱帯魚
は
しずか元気だ
あなたの手紙を読みかえし
言葉は鈍く頭を打つが
過大に書かれ過大にとらえているだけだろう
風呂屋さんで働く姿が見えるのに
現実に想像しているから嘘だ
風呂屋さんで働く姿が見えるのは
明け方六時の蒲団の中であってほしい
空に映るのはこころか
他人か
自転車をひきつつ坂を下っていく
掃除をしてはうしろをふりかえる必要は消え
春の原っぱを眺めにいける
滴が水に濡れるところを眺めにいける
溜息
薬の匂いがして
コカ・コーラを焦りつつ飲んで
歩行いては汗から薬の匂い
野犬を囃したてたらもうフェスティバル
空気職人の
ブコウスキーな
武骨なロックンロール
空気職人の
ブコウスキーな
向こう見ずなロックンロール
躍れ
牧神パンは華麗に踊り
しかし眼に遺るのは白と黒の顔だけだ
火は伸びやか日になったので
もう文句はないのだが
次のあくがれ
胸に充るまでが苦労する
大体時間が長すぎる
コーンフレークの袋が爆発
そして宇宙ははじまった
ひとは私を若いといい
こころは二〇一六歳
情の壁に指で字を書く
少し笑いつつ溜息をつく
このマスクを外してしまえば
牧神パンになれるだろうか
必ず事件は起こることを知った
妙のない水は流され集落は流されてしまった
全員が無事であったが
数に含まれないアイツの明るい笑顔を覚えているよ
やっと作りあげられようとしている
四季の農婦の偶像も
近く剥奪されるか壊される
畠もマンションへと変わりつづける
村を二つに分けよう
もう私をつくらせない
村を二つに分けよう
もうあなたをつくらせない
こちらからあちらへあなたを眺めつづける
どれだけ神経
削がれていないか知った
死も
芸術もない
デスクの上に領収書が満ちて荒れている春
絶えまなく働く頭に
偽りであっても悟りが必要
ぱっかーんと
大体悟りなんて自己申告制に近いような気がしている
私は冷水を浴びろ
なあ
ストリート・ジーザス
○
電話が鳴らなければ
益々電話を嫌ってしまう
あなたと会う度
益々あなたと会う時間が短くなって当然
朝は
教会の鐘の音に
比喩の花眼は眩む、その
太陽の悠久ゆえ
S氏への敬愛告白に固執した理髪店員の球瓶計に附いて
踝のない婦人と擦れ違った絹製の傘のような容貌はまるで海綿のそれであった
レエスの尺度が薔薇の質問ではない時に、果たして誰が椋鳥の蝶形の両腿を貫き通すのか
時間は浮遊して留まっていた、器官の確実な蕨の無限に接吻するように
夜が夜を呼び昼は昼を呼ぶ、
観念は全てであり前衛の街角を照明したりはしないだろう、
臍の球体が績まれ績むものはみずからなおも
白薔薇色の振子に眠りつづけているあの鐘形を銅貨の確かめられることなき石炭のエネルゲイアに偏移するのか
弔辞を記帖しながら善を韜晦する壜は、蟻の航海録の一時ならず船底に覆る生卵の流布を固着させた
見よ、完全な死体などは無く、未完全な死体としてと言ったのは敬虔な唯物ではあったが、
不確実な私達の綺語はおしなべて孵卵器の美しい少年期の地球室の様でもあった
採光部屋の煤埃が飛花粉の口数を押し隠して行ったのか、それとも
或は別の隠喩としてたちどころには推理され得ない緋の立棺が君達の眼前にあるのか、
構造体としての永続の扉もやはり緋であると言うべきなのか、
閉じた楕円は始源の涙ぐましい長机に、
なおも傾倒しようとする葉花として一包装紙が滴る様に
およそ及ばぬ扁平の秘跡の名辞は、
且ての私達を来る私達の遭遇者へと委託せずには口吻を緩めることすら侭ならなかった
一睡も齎されなかった季節の椅子には鶏頭花が生長する街灯を渦巻く様に並べ置くだろうとしても
黒い遠近鏡は幼時のダヴィデを、まるで受難の過程に返る椿花とプラスティックの闡明に押流しては
静物と呼び、不出来な巻貝の殻にはアリアドネの目覚めのみが運命であった
気体瓶50cc程の、気候試験紙の乾燥は程なくして矩形の帆柱に落ちた窓板を刳り貫くだろう
それは水母の解剖である
*
海綿の容貌
婦人の機関紙諜報係の死
盗聴機械を探す滑稽麗人二千里の邂逅
褪緋の町角、
混淆-涅槃晦冥絡紡錘形は
緋鯛幾何学スゥイートピー懸架腑-翼廊
静物わたし思惑する淡海印璽紋章考現附録
修道寺院アタランテ偶像製造癒着希臘学
目深腿の遅抗隧道鉄路、
無垢無窮体球体テアトル
あなた寄附基金死亡通知、
教会伽藍共同仮構緋扉の受花
神品致命n私製隔絶の機械
翰墨薔薇印字は黒鉛瓦斯炎
霧笛晦瞑鏡天鵞絨劇場
白痴夢としての砂時計と有棘紙片戴冠綱目
置換薔薇徽章
自働琴花の死は今しも
幻想植物図案集
裂罅それは麺麭の肉体
壁龕餐室腐黴切窓、
あなた乾塩塩湖の羅針指巨躯幼時
汝、刻一刻と鉱脈を擱き、汝が私を覚ゆるべし
クロミュウム電解乖離被子、
あなたたち菱十字濁凝眼たる
綺羅綺麗楕球卵臍帯の訃報
畏敬尊厳存在被写静置、虜囚
被子殻鳩舎双嬰児の薔薇蜜縷々のソフィア
死海乾板写真十紙の感光時計
自在律あなたたち
死後濛々たる市街地に縁る長椅子の聴音機よ
蝸牛体-交錯形立方体飛翔する白の球瓶
つまり
吐瀉物の河
指標000自在尊厳の縮痴人工景観都市ヘクトプラズマ
デウスの慈善雨環鉱植物
鎧戸の町燭台樹樹脂プラスティックと嬰児
辺縁遺骸厩の生誕蝕既
関節茎
受肉有翼エピメティウス訃報代理人の致死
存続者鞦韆電球燈の自尊振子
幾多抑留の垂線
自働ナルシス網膜腑炎
受難の建築 創造凱旋車の花綱修飾史
濃乳色、或は電気広告燈の為の十字間歇泉
土地橄欖
わたしたち無窮鏡像相違鑰
昏婚化粧壜液、
第零世紀遺骸櫃の移殖医
少年期地球室明暗法よりたちあらはるるものすなはち錆釘なり
畏敬鋭角美術抽象
わたし空想静物交換魔術劇
グラスモザイコ飛鳩緘黙
ああ 釣鍾草と幽冥鏡の往還装置
人の姿、鐡の人体模型鍾乳形而下の私続
処刑室000に睡眠者を
麻酔液と解剖台の人力飛行機レタトリンの墜落
薔薇茎葉の結節
飽食饗悪の美璽と苦蓬畑、
平面幾何学、構図模像擬似録ベルナルディノルイーニ氏の振子
夜
中学生の頃母の背中を抱きしめたことがある
大きく見えていた背中は一人の小さな女の背中だった
母子家庭で
大黒柱として働いてきた母の背中
俺の腕の中で小さく収まっていた
疲れと睡眠不足が母の奥から感ぜられ
この中の小さな温もりさえ
消え入りそうな微かさで
オンボロ壁の静けさに巻かれていた
幼い頃見た夜空はまだ広かった
打ち上げられた花火の割れる音を聞いてはいた
食卓の上へ味噌ラーメンを並べていくと
親子はそこで向かい合っては厳かに
「いただきます。」と言った
夜のママの店はもう潰れかけていて
ためいきはただ夜よりも深く
シャッターから漏れていた
その頃真夜中の川を
魚が一匹跳んだ