こうなるとフェルナンドの狂的な公理の一つを認めないといけなくなる、偶然などありはしない、あるのは宿命だという。人は探しているものだけを見出すのであり、心のもっとも深く暗いところ、そのどこかに隠れているものを探す。そうでなければ二人の人間が同一人物に会ったとき、どうして二人の心に必ずしも同一の影響を与えるわけではない、そんなことになるのか? どうして革命家に会ったとき一人は革命に参加し、一人は革命に無関心のままでいるというようなことになるのか? それはおそらく人は最後には出会うべき人間に出会うことになっているからに違いない、したがって偶然というものは極めて限られたものとなる。わたしたちの人生においてまったくびっくりするような出会いというものは、たとえばわたしとフェルナンドの再会は、無関心な人間のあいだを通してわたしたちを近づける見知らぬ力の結果にほかならないのであり、それはちょうど鉄の粉が少し離れたところからでも強力な磁石の磁極に向かって引きつけられるようなものであり、仮に鉄の粉が現実を十分に把握しえないまでも自分の行為が少しでも理解できるとしたら、その動きにおそらくびっくりすることになるだろう。
(サバト『英雄たちと墓』IV・3、安藤哲行訳)
偶然なんです。
(カミラ・レックバリ『氷姫』III、原邦史朗訳)
(…)ある未知の展覧会で行きずりの偶然に──というのは彼らはいつもすべてを偶然に見るからだが──出会った、(…)
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)
スタンダールは私の生涯における最も美しい偶然の一つだといえる。──なぜなら、私の生涯において画期的なことはすべて、偶然が私に投げて寄越したのであって、決して誰かの推薦によるのではない。
(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも怜悧なのか・三、西尾幹二訳)
ある古人は、「われわれは偶然にまかせて生きているのだから、偶然がわれわれにたいしてこれほど力を持っているのは驚くにあたらない」と言っている。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第1章、荒木昭太郎訳)
頭のなかに全体のかたちを持っていない者にとっては一片一片を並べあわせることができない。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第10章、荒木昭太郎訳)
哲学は、われわれのうぬぼれと虚栄をたたくときほど、その決断のなさ、力の弱さ、無知を率直に認めるときほど、すぐれた働きをすることはないように、わたしには思われる。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)
りっぱな魂とは、普遍的な、開放的な、すべてのことにたいして用意のできている、教えこまれてはいなくても、少なくとも教育のすることの可能な魂のことだ。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)
ジャスティンは、自分はここには一度も来たことがないという確信めいた印象をもった。それがなにかの意味をもつということではないけれど。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』11、川副智子訳)
きみは生まれてまだ四日目なんだぞ──
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』13、川副智子訳)
その四日だけでもうたくさんだった。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』11、川副智子訳)
四日もあったじゃないですか。
(ナポレオン・ボナパルトの書簡、ジョゼフィーヌ・ボーアルネ宛、1796年3月30日付、平岡 敦訳)
四日間の空白を思うと、
(ナポレオン・ボナパルトの書簡、ジョゼフィーヌ・ボーアルネ宛、1796年3月30日付、平岡 敦訳)
また私です。
(クレマンティーヌ・キュリアルの書簡、スタンダール宛、1824年7月4日付、松本百合子訳)
さあ、アンリ、ロジーヌのところへ行くといいわ。私の大嫌いなロジーヌの腕に飛びこむといいわ。そうすればどんなに私も嬉しいか。だって、あなたの愛は、女の人生に起こりうる、最悪の不幸だもの。もしその女が幸せなら、あなたはその幸せを取りあげる。もしその女が健康なら、その健康を損なわせる。その女があなたを愛せば愛すほど、あなたはつらくあたり、野蛮にふるまう。その女が「大好きよ」とあなたに言った瞬間から、もうお決まりのことが始まるの。つまり、その女が耐えられなくなるまで痛めつけるのよ。
(クレマンティーヌ・キュリアルの書簡、スタンダール宛、1824年7月4日付、松本百合子訳)
四日間の旅、あと二十四時間です。
(ジェイムズ・P・ホーガン『プロテウス・オペレーション』上巻・2、小隅 黎訳)
いつもながら、クロードとかかわりのあるものは、どれもあいまいで、不可解で、疑わしい。アンナのような気性の激しい女性にとって、こうした積みかさねから出てくるものはただ一つ──怒りであった。
(ジェイムズ・P・ホーガン『プロテウス・オペレーション』下巻・29、小隅 黎訳)
きみには、何が見えるんだね?
(フレデリック・ポール『マン・プラス』10、矢野 徹訳)
四日後ではなく、
(フレデリック・ポール『マン・プラス』17、矢野 徹訳)
このつぎで四度めになるが、
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』下巻・第十部・125、酒井昭伸訳)
四日目の朝、わたしたちは眩しい日ざしで目をさました。
(ロバート・シルヴァーバーグ『時の仮面』16、浅倉久志訳)
だが、ジャックはヴォーナンからなんの情報も聞き出してはいなかった。そして、愚かにも、わたしはなにも気づかなかったのだ。
どうしてわたしは気づかなかったのだろう?
(ロバート・シルヴァーバーグ『時の仮面』16、浅倉久志訳)
「いっしょに歩こう」と、彼はいった。
(ロバート・シルヴァーバーグ『時の仮面』17、浅倉久志訳)
(…)アリスは(…)考えたこともなかった。なにもかもひどく面くらうことばかりだった。そしてアリスは、自分が面くらうのが好きだということをわかっていなかった。
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』36、細美遙子訳)
詩人のロン・ブランリスはいいました、「われわれは驚きの泉なのです!」と。
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第3巻、矢野 徹訳)
驚きあってこその人生ではないか。
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』上巻・第三部・32、酒井昭伸訳)
理解は言葉を必要とする。物事のあるものは言葉にまで引き下ろすことができない。言葉なしでしか経験できない物事がある。
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の異端者』第1巻、矢野 徹訳)
そのような仮定の後ろには、言葉による信仰があり、(…)
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の異端者』第1巻、矢野 徹訳)
あなたの考えによると、鳥のいない世界では、人間が飛行機を発明したりしないんだろう! あなたはなんて馬鹿なんだ! 人間は何だって発明できるんだ!
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第3巻、矢野 徹訳)
アリスはいつも二重に裏切られたような気分になるのだった──まず、だまされていたということに、そして次に、最後までちゃんとだましおおせてもらえなかったということに。
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』37、細美遙子訳)
四という数になにか魔術的な意味がこめられていたのだろうか、
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)
(…)歯痛というのは日常茶飯のことなのに、ふしぎと文学ではあまり取り上げられない。歯痛を扱った作品としては『アンナ・カレーニナ』と『さかしま』と『ブッデンブローク家の人々』の三つぐらいしか思い浮かばないが、これらの小説では奥歯の痛みが忌わしい悪として語られている。おそらく歯痛が卑俗なものであるからだと思うが、それにしても上記の三作がいずれも優雅、上品、洗練された小説であるというのも奇妙なことである。それにひきかえ、結核のほうは文学作品の中で、克明に描き出されている。(…)
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)
ベルナンド・イグレシアスは、教会を意味するイグレシアスという名をもちながら、ついにその名に救われることはなかったが、考えてみると教会というものは人を救ったりはしないものだ。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』すべてが愛を打ち破る、木村榮一訳)
いったいあなたは恋をしたことがおありになって?
(ニール・R・ジョーンズ『惑星ゾルの女王』第一部・1、野田昌宏訳)
ぐんにゃりと折れ曲がっている。
(ニール・R・ジョーンズ『惑星ゾルの女王』第三部・1、野田昌宏訳)
大きくなってくる。
(ニール・R・ジョーンズ『双子惑星恐怖の遠心宇宙船』第一部・6、野田昌宏訳)
愛というものはうつくしいと同時に残酷なものです
(ニール・R・ジョーンズ『惑星ゾルの女王』第一部・4、野田昌宏訳)
でも必ず愛は勝つのね、そうでしょ?
(タビサ・キング『スモール・ワールド』14、みき 遙訳)
愛はすべてに打ち勝つ、と人はいう。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』上巻・4、浅井 修訳)
美しさへの愛って、それほど強いものなのか?
(ラリー・ニーヴン『時間外世界』第三章・1、冬川 亘訳)
ラテン語の引用をするのもこれが最後、許してくれ。『愛はすべてに勝利する(アモール・ウインキツト・オムニア)』。ただし例外は不眠症(インソムニア)だけ。
(G・カブレラ=インファンテ『エソルド座の怪人』若島 正訳)
ある日を境にして急にまわりの雰囲気が一変するというのは誰しもが知るところだろう。
(ヒュー・ウォルポール『白猫』佐々木 徹訳)
クレオパトラが言ったように、あの出来事が傷のようにぼくをさいなんだ。その傷が今もなお疼くのは、傷自体の痛みのせいのみならず、そのまわりの組織が健全であるが故なのだ。
(L・P・ハートリー『顔』古谷美登里訳)
もちろん、長期療養の後では、勤務はつらい。しかし、レター氏のあの口笛、突然陽気な気分になっては、また突然に無気力な様子になるあの変わりよう、あの砂色の髪にきたない歯が、わたしの怒りをめざめさせる。とりわけ、会社を出てから時間がたっても、あのメロディが頭の中でぐるぐるまわるときが、まるでレター氏を家に連れて帰るようなもの。
(ミュリエル・スパーク『棄ててきた女』若島 正訳)
きのうの乞食はきょうの名士。ラビの女房は御者になる。馬泥棒は戻ってくれば共同体の長老だ。畜殺人は雄牛になって帰ってくる。
(アイザック・バシュビス・シンガー『死んだバイオリン弾き』4、大崎ふみ子訳)
こんどは何を知ることになるだろう?
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』5、船戸牧子訳)
その物語が、なにかほかの意味だということはないのかね?
(ラリー・ニーヴン『時間外世界』第七章・3、冬川 亘訳)
イノックはポンプを押した。ヒシャクがいっぱいになると、男はそれを、イノックにさしだした。水は冷たかった。それではじめて、イノックは、自分ものどが乾いていたことを知り、ヒシャクの底まで飲みほした。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』6、船戸牧子訳)
もしかしたら、知るということは、こうした事柄のうちでは、いちばん重要な部分とはいえないのかもしれない。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』5、船戸牧子訳)
それほどまでに執着を持ってしがみついているのは、偏狭というものかもしれない。おれは、この偏狭さのために、なにかを失っているのかもしれないな。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』9、船戸牧子訳)
天国が公平なところだってだれがいいました?
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』49、細美遙子訳)
母親がさまざまな狂信者とかかわりあったため、ヘレンは鋭い人間観察家に成長していた。人びとの筋肉には各人の秘めたる歴史が刻まれており、道ですれちがう赤の他人でさえ、(本人が望むと否とにかかわらず)そのもっとも内なる秘密を明かしていることを、ヘレンは知っていた。正しい光のもとで注意深く観察しさえすれば、その人の日常を彩る恐怖や希望や喜びを知り、その人がひた隠しにしている肉体的快楽のよりどころと結果を見抜き、その人に影響を与えた人びとのおぼろげな、しかし長く消えることのない反映を読みとることができるのだ。
(コードウェイナー・スミス『星の海に魂の帆をかけた女』5、伊藤典夫訳)
(…)骨と肉だけが顔を作るのではない──とブルーノは思った──つまり、顔は体に比べればそれほど物理的なものではない、顔は眼の表情、口の動き、皺をはじめとして、魂が肉を通して自らを現すそうした微妙な属性すべてによって特徴づけられるのだ。そのため誰かが死ぬその瞬間、肉体は突然何か別のものに、《同じ人とは思えない》と言いそうになるほど異なったものになるのだが、一瞬まえと、つまり、魂が肉体から離れるあの神秘的な瞬間の一瞬まえと同じ骨、同じ成分なのだ、そして、魂が離れると肉体はちょうど後に残された家のように生気を失くしてしまう。そこに住み、そこで苦しみ、愛しあった人々が永久に離れたあとの家のように。つまり、家を個性づけるものは壁でも天井でも床でもなく、会話を交わし、笑い声をあげ、愛情や憎悪を抱きつつそこで生を営む人間なのだ、非物質的とはいえ深遠な何か、顔に浮かぶ頬笑みのように物質的ではない何かで家を満たす人間なのだ、むろん、それは絨毯とか本、あるいは色といった物質を通して表に現れる。なぜなら、壁に掛けられた絵、ドアや窓に塗られた色、絨毯の模様、部屋に生けられた花、レコードや本といったものはそれが物質であるとはいえ(ちょうど唇や眉が肉体に属しているように)、魂を表明するものだからである。つまり、魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現れることがない、これが魂のもつ一つの脆(もろ)さであり、また、奇妙な精妙さである。
(サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳)
牛についてなにを知っている?
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』8、川副智子訳)
馬鹿な牛たちとは
(マイクル・スワンウィック『大潮の道』9、小川 隆訳)
神聖な牛だ。
(グレッグ・ベア『斜線都市』下巻・第三次サーチ結果・21/、冬川 亘訳)
うるわしき雌牛たちよ!
(イアン・ワトスン『我が魂は金魚鉢の中を泳ぎ』美嚢 透訳)
沈黙がつまりは正式な自白になる瞬間を待ちうけていた。
(マルセル・エイメ『パリ横断』中村真一郎訳)
夕闇がせまっていることに彼は気づいた。そして帰ってきた自宅は、これまで一度も暖炉の火をつけたこともなければ、暗がりに浮かびあがる家具がほほえみかけてもくれないし、だれも涙を流さず、だれも嘘をつかない場所だった。
(ウィリアム・トレヴァー『テーブル』若島 正訳)
あきらめることができたら、きっと目が開かれて、しあわせになれる。くよくよしないで。まだ若いし、何年か苦しんだって損はしないさ。若さっていうのは、すぐ治る病気なんだ。ちがうかい?
(コードウェイナー・スミス『宝石の惑星』4、伊藤典夫訳)
エンダーには、そんな場所を自分の中にみつけることができなかった。
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』4、野口幸夫訳)
もしかすると、それこそが、あなたってひとなんじゃないかしら、あなたが記憶するものが
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』13、野口幸夫訳)
世界は物語でいっぱい
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』15、野口幸夫訳)
思い出というのは、わたしたちにいたずらをするものよ
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』13、野口幸夫訳)
(…)性は渾然一体になることができず、その混淆と自然の潮流へわれわれを同時に連れて行ってはくれないのだから、とあんたに教えたのであった。つまり、その区別があってはじめてわれわれは互いに寄り添い、それを取り戻すために離れ離れになり、そして別人であるが故にまた触れ合いを求める、そのためにこそわれわれはばらばらであることを赦されているのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)
「それに場所よ。どんなところでも、たとえ想像でもいいから、あたしたちがふたたび生まれ変ることができるような場所があるはずだわ」
「場所ね、ドラゴーナ、しっかりと立っていられるようなところ。(…)」
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)
ティムの顔は、さまざまな感情の去来する場だった。
(ブライアン・W・オールディス『神様ごっこ』浅倉久志訳)
(…)永遠の業罰の静けさの中で、わたしはむせび泣いた。わたしの嘆きに比べれば、宇宙は小さなハンカチでしかなかった。
(ブライアン・W・オールディス『ああ、わが麗しの月よ!』浅倉久志訳)
「ああ、心は鳥のよう」と女はゆっくり音楽にあわせて体を揺すりながら、静かに口ずさんだ。「あなたの手にとまるわ」
(マイクル・スワンウィック『大潮の道』5、小川 隆訳)
(…)しかし、そんなことは、彼にはどうでもいいことだった。滅ぶべきジェマーラが崩壊してしまうことさえも、彼にはどうでもいいことだった。彼のなかには、風がたえず埃を撒き散らす乾いた土地、埋もれた宝、人間の体がもぐりこめるような、あの空っぽの水盤などがあった。
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)
アレッサンドロ・サルテが自分一人だと思い、自分を見張っていない稀な瞬間には、彼の真の相貌が素描されて浮かびあがるのである。
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)
彼は存在していたのだろうか?
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)
きみは存在しているの?
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)
気に入りませんな、人間は実際造ることができないんです。すでにあるものを並べ替えるだけでしてね。神のみが創造できるのですよ
(ロジャー・ゼラズニイ『わが名はレジオン』第三部、中俣真知子訳)
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。
(コリント人への第二の手紙五・一七ー一八)
ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。
(ガラテヤ人への手紙六・一五)
ときどきほんとうに、あれは夢にすぎなかったのだと思うことがあります。着ているもの、手の動き、話すときの口つきまで、なにもかもありありと眼前にうかんで見えるからです。こんなに物のかたちが見えるのは夢の中だけですもの。目覚めている昼間には、細かいところに注意するひまがありません。あまりに多くのことが起こりすぎるので、片っぱしから忘れていきます。
(ノサック『ドロテーア』神品芳夫訳)
われわれがいいかげんな存在だからさ。
(ロバート・A・ハインライン『未知の地平線』15、斎藤伯好訳)
恐怖ほど長く持続するものは何一つない。
(J・G・バラード『沈んだ世界』3、峯岸 久訳)
西洋の庭園が多くは均整に造られるのにくらべて、日本の庭園はたいてい不均整に造られますが、不均整は均整よりも、多くのもの、廣いものを象徴出來るからでありませう。
(川端康成『美しい日本の私』)
いかにも動きに富む風景、浜辺に、不揃いな距離を置いて立っている一連の人物たちのおかげで、空間のひろがりがいっそうよく測定できるような風景。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)
一輪の花は百輪の花よりも花やかさを思はせるのです。
(川端康成『美しい日本の私』)
いったんこの世にあらはれた美は、決してほろびない、と詩人高村光太郎(一八八三ー一九五六)は書いた。「美は次ぎ次ぎとうつりかはりながら、前の美が死なない。」民族の興亡常ないが、その興亡のあとに殘るものは、その民族の持つ美である。そのほかのものは皆、傳承と記録のなかに殘るのみである。「美を高める民族は、人間の魂と生命を高める民族である。」
(川端康成『ほろびぬ美』)
「いやあ、これは本当に驚いたなあ」、とギョームは言った。
彼女はひどく早口で言った。
「この画集を買うだけのことはあったでしょ、ね?」
その言葉がどんなに自分を喜ばせてくれたかを隠したいと思って、彼は軽い《ああ》という感嘆詞を抑えつけた。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)
「ねえ、ギョーム」と彼女がふいに言った、ときおり見せるあの萎れたと言ってもいいような微笑みを浮かべながら、「そんなふうにして、火のなかになにを見つめていらっしゃるんですの? ……」
なにを彼が見つめていたか? 解きがたく縺れあった彼の権利と彼のさまざまな過ちを。イレーヌにさまざまなことを説明してもらいたいという望み、というよりはむしろ、イレーヌではなく、《誰か》に、同時に彼女でもあり彼でもあるような誰かに、彼女よりもよく、彼よりもよく、彼ら二人を一緒に合わせたよりもよく理解できるような誰かに、それを待つことで彼が生涯を通してきたあの《同時代人》、そして今日エルサンのために彼ができることならそうなりたいと思っているあの《同時代人》に、さまざまなことを説明してもらいたいという望み。そういう公平な人間を、争う余地のないあの判断を彼はあまりにも当てにしすぎていたのだろうか? 彼は嫌らしいほど純朴だった。そうだ、少なくともこのことだけは彼も理解していた。すなわち、純朴さも嫌らしくなることがあり得るということだけは。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)
ディディは手すりに駆けよって、まるでクジラたちが死のダンスを踊っているところへ手をさしのべようとでもするように、手すりから身を乗りだした。風が顔に吹きよせたが、風などまったく吹いていなかった。波しぶきがあびせかかった、クジラのように大きな波が、しかし海は静まりかえっていた。光がまぶしかったが、あたりはもう夜のやみだった。
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・10、冬川 亘訳)
世俗的な嘘がどうして精神により高度なビジョンをもたらすことができるのか、ルーにはおぼろげに理解できた。芝居や小説は比喩を使ってそれを行っている。そして比喩的な意味としては、今度のハプニングは、単なる事実の達成を期待する文学的叙述より、精神的に真実の本質に近いビジョンを世界に提供するだろう。
(ノーマン・スピンラッド『星々からの歌』デウス・エクス・マーキナ、宇佐川晶子訳)
裏切りは人間の本性ではなかったかな?
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・7、冬川 亘訳)
きみがそう思うのは、そう思いたいからだ。
(ノーマン・スピンラッド『星々からの歌』〈銀河系の道〉、宇佐川晶子訳)
聡明(そうめい)な人生の目的は同じ時代を生きる人たちの教訓になるように失敗してみせることである。なぜなら人は決して勝利からは学ばず、敗北からしか学ばないからである。
(ベルナール・ウェルベル『蟻の時代』第6部、小中陽太郎・森山 隆訳)
愛というのは誰か好きな相手がいて、その相手と会えなくなることだ。そして再会すること
(ベルナール・ウェルベル『蟻の革命』第3部、永田千奈訳)
なんのことはない、子どもの遊びである。そしてぼくたちはふたりともそのことを笑う。とはいえ、彼女は本当には笑わない。それは一つの微笑である。静かな、献身的に──ちょうど同じようにぼく自身も微笑するのだろうと思う。
(エーベルス『蜘蛛(くも)』上田敏郎訳)
不潔きわまる貧民窟にも夕日はさして、人の想像力をかき立てたことだろうし、また、山の尾根で、大きな谷の上で、あるいは崖や山の中腹で、あるいはまた不安と恐怖の美に満ちた海のそばで、人びとは、未来の生のすばらしい姿を心に描いていたにちがいないのだ。花びらの一枚一枚、陽を浴びた木の葉の一枚一枚、あるいは子供たちの生き生きとした動き、また、人間の精神が自己を越えて芸術に高まる幸福な瞬間など、こういうもの全部が、希望の材料となり、努力への刺激となったにちがいない。
(H・G・ウェルズ『神々のような人びと』第一部・七、水嶋正路訳)
「話をすることが」と彼はまた言った、「それが一緒にいるいちばんいいやりかたかどうかよく分りませんけど……」
「話をしないことがですわ……」と彼女はまずそう言った。
「いや、沈黙というものは、そのまわりにある言葉によってしか存在しないものなんですよ、イレーヌ。人生はすべてそういうものですよ……僕たちの人生のどんな瞬間であろうと、僕たちのなかには、発散されることを必要とする力があるものなんです」、彼は勢いこんでそう話しつづけた、「どんな欲求でも、もしそれに逆らうものがあれば、とてつもない強さにまで高まるかもしれない」
「分ってますわ」と彼女は言った、「水を飲みたいとか、道を歩きたいとか、裸になりたいとかいう欲求ね……」
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』9、菅野昭正訳)
人はなぜ本を書いたり、絵を描いたり、歌をうたったりするの? コミュニケートするためじゃない。芸術を作るためよ。魂から魂に、心から心に語りかけるためだわ。分かちあうため……分かちあうためよ……
(ノーマン・スピンラッド『星々からの歌』ひとりの天井は、もうひとりの床、宇佐川晶子訳)
精神とは肉体に拘束されたものではないのだ。知性とは頭(ず)蓋(がい)骨(こつ)の中に閉じ込められているものではないのだ。自分が望みさえすれば、考えは頭の中から外へと飛び出し、まるで輝くレースが広がるように絶え間なく成長してゆく。
(ベルナール・ウェルベル『蟻の革命』第3部、永田千奈訳)
ジュリーは目を閉じ、心の奥にしまった光のレースを取り出そうとする。頭蓋を飛び出した〈精神(エスプリ)〉のレースは大きく広がり、やがて森を包む雲になる。
(ベルナール・ウェルベル『蟻の革命』第3部、永田千奈訳)
いまやわれは独り地上にあって、この大地はわがものなのだ。
草木の根はわがもの、暗くしめった蛇の小道にいたるまでも。
空と鳥の小道の枝々もわがもの。
だが、わが自我の火花はわがものの領域を超えている。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』下巻・21、宮西豊逸訳)
スミザーズさん、二つの悪をお選びなさい
(ウォルター・デ・ラ・メア『シートンのおばさん』大西尹明訳)
わたしを選びたまえ。
(J・G・バラード『アトリエ五号、星地区』宇野利泰訳)
このわたしを
(アイザック・アシモフ『発火点』冬川 亘訳)
最新情報
2016年12月分
月間優良作品 (投稿日時順)
- 全行引用による自伝詩。 - 田中宏輔
- 嵐の中で、抱きしめて、 - 山田太郎
- 残響 - 三台目
- 作業日詩 - シロ
- ある朝冬の車道にて - 芦野 夕狩
- 未女/ロールメロンパンナ複合 - 澤あづさ
- 西田幾太郎の書籍と、親父についての、とりとめのない随筆 - 玄こう
- 詩の日めくり 二〇一六年十一月一日─三十一日 - 田中宏輔
- ダイアローグ - 百均
- explosion - 湯煙
- 三話 - シロ
- 天気雨の詩 - ねむのき
- 駅のホーム - zero
- NO PANTY , NO POEM , CAR SEX ! - 泥棒
- 油壷 - どしゃぶり
次点佳作 (投稿日時順)
- 潜り込んで、冬の道へ - 田中恭平
- 病院と蛇 / Bible - 西木修
- クローン誘拐 - ゼッケン
- 動線 - 園里
- 無限の美術 - 黒髪
- こけし - 祝儀敷
- hana - 田中恭平
- セカンドポジション(既視感に箍められ) - アラメルモ
- 銀行へ行こう! - 泥棒
- 麗しき火星のプリンセス - atsuchan69
- 影役 - おでん
- オルゴール - 鮎
- 星 - ゼッケン
- 冬 - 熊谷
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
全行引用による自伝詩。
嵐の中で、抱きしめて、
1
どしゃぶりの雨のなかを
あなたは傘もささず
自転車で走り
あの 泥と埃の街で
なにかを捜して回っていた
もとめるものなど
みつかるはずもなく
盛夏といえど
ずぶ濡れで帰るあなたの顔は真っ青で
捨てられた猫のように目がへこんでいた
鉢合わせしたあなたに
傘を差し出すと
あなたは哀れむようなわたしの目に気づき
その傘でわたしを叩いた
わたしは恥ずかしさをおぼえて
あなたの気が済むまで雨のなかで叩かれていた
それはむしろ夏の嵐にふさわしい小気味よい打擲だった
雷鳴が遠ざかるころ
わたしはあなたを自転車の後に乗せて
帰っていった
あなたはわたしの背にもたれて半分眠り
前かごには
折れた傘がしずくを垂らしていた
2
もう三十も半ばになるというのに
精神を病んだ彼女は子どものままだった
ねえ、なんて、なんて?
おもしろいとおもうと必ず聞き返してくる
何度でも笑いたがるのだ
ねえ、なんて、なんて?
といいながら、もう笑いころげる準備をしている
気に入ると
少なくとも片手の数ほど同じことをしゃべらされた
なんでおれが、こんな我がままで
エゴのかたまりのようなキチガイ女の相手をしなきゃ
ならんのだ 神さま どういうめぐり合わせなの?
内心腐っても 微笑みをつくる
わたしはふつうに喋っているつもりだが
彼女からすると おかしくてしょうがないらしい
山のような向精神薬を飲む合間に
彼女は
ごはんをたべる
薬が食欲中枢をずたずたにして
彼女の食欲は宙に舞う紙切れのようだ
ガム一枚差し出しても首をふるかとおもうと
とつぜん大食らいする
ラーメンは必ず汁から飲みまして
それもゆっくりと味わいながら飲みまして
器に麺のボタ山が残るのでございます
そのボタ山が時間がたつとなにか膨らんでまんじゅうのようになり
こちらは気が気でなく
できるものなら汁を分け与えてやりたいのですが
ボランティアでやっている
資格もないカウンセラーもどきという立場ではそうもいかず
無理に微笑んでやりますと
当人はふんふんとハミングしながら
ボタ山をくずしはじめ
最後にチャーシュウを惜しそうに口に放り込むのです
すこしずつ減らそう
麻薬のようなものだから
一気にやめるなんてとても無理だし逆効果だから
一日一ミリずつ薬をけずって
そう、
半年から一年かけて薬を減らしていこう
ね?
猫なで声で
いったら
うなづいてくれた
おお! 大工の倅よ 不倫の母親の息子よ
おまえを
信じてもいいような気がしてきたよ
彼女は一年かけてがんばってくれた
途中、断薬の苦しみを断つために
雨のなかへ飛び出し 狂気のように走り回って
だれも救ってくれないのに
なにかに救いをもとめて 半狂乱になったことがあり
嵐のなかを捜しにいったことがあった
(あのとき、なぜ傘でぶたれたのかわかっているか?)
彼女が薬物から脱して元気になっていく姿をみながら
ぽつ、ぽつと、わたしはバイクの面白さを教えた
彼女はバイクの免許をとった
ヤマハのビラーゴを買い
知らぬ間に
北海道を一周してきたよ という
ダルマさんのように着込んでひとりで雪原でポーズをとる
真っ赤な陽を照り返す笑顔
送ってきた写真に なぜか胸が少し痛んだ
わたしは彼女に
指一本触れたことがなかった
数週間後
あまり話したことのない母親から篤報をもらった
九州で事故を起こしたのだという
早朝4時のできごとだった
沖縄へのロングツーリングを誘われたが
断ったことを母親に話した
「いろいろ、ようやってくれたんやてね」
はじめてお礼らしいことばをもらった
ケータイの蓋を閉じて
これでわたしもせいせいするかとおもった
厄介なお荷物といえばお荷物だったじゃないか
じぶんの義務は完璧に果たしたのだから
カウンセラーもどきとしては満点だろ?
いまでは悔いている
映画の一コマのように
強く抱きしめてやればよかった
歳の差で彼女の両親に遠慮することはなかったのだ
シラノ・ド・ベルジュラックのようにせまれば
彼女はくすくす笑ったかもしれない
ねえ、なんて、なんて?
なんていった? もう一度いって?
それからだ 心療内科に駆け込んで
大嫌いな安定剤のお世話にならざるをえなくなったのは
わたしは案外、彼女のエゴ丸出しの我がままに
ずっと ずっと長いあいだ
介護されていたのかもしれなかった
残響
古い伝言を受け取り(続けて
無視したい
彼らに(占領された
楽園へ
階段を下りる(琴じゃないけど
滑って転んで
撥弦楽器だから(軸は消えて
血が流れた
諦めて(時の終わりに
海じゃなくても
西瓜を割ろう(無理か
嘘じゃない
彼らが宣伝を止める頃
地中から(分裂して
あれやこれや
芽生え(拡散して
さあ、川に流された女の子を励まして
作業日詩
八月二十日
土を舐める、ミミズの肌に頬を寄せる
現実とは、そういうものだ、そう言いたげにその日はやってきた
希望は確かにある
廃道の、石ころの隙間にひっそりと生をはぐくむ草たちのそよぎ
ゴールの見えない迷宮の入り口で、これから作業をするのだと山に言う
カビ臭く、廃れた空間に現実のあかりが煌々と灯り始める
作業は発育を繰り返し、やがて鋼鉄となり、やがて皮膚をつたうものが流れる
雨。くぐもった気が結露し、水を降らす
赤く爛れた鉄は水によって冷やされ、やがてしぼんでいく
その日、わたしは踵を返した
八月二十一日
物語づくりは開始された
翌日、空は青く澄み
夏はまだ照りつける光を存分にさらしていた
吐く息と吸う息がわたしをつつみ、一個の不完全な生命体が生を主張する
作業のための準備に勤しんでいるわたしは、作業に従うただの下僕のようだった
作業は再び開始された
脳内には小人の群れが、走り回ったり忙しい
作業の合間の休息が、苔むすまで私は静かに呼吸を整える
午後二時、作業は頂きを最後に終わった
眼下に人造湖が横たわり、わずかだが風もある、静かな初秋だ
確かに頂きは私のためだけにあった
九月三日
作業を行うための用具は重い
さらに作業を行うべく、人体に注入すべく液体とその食物
何よりも作業はすべてわたしという生き物が行うのだ
人体の中を巨大な道が走り、大きく迫り出した建造物や、下水
その中をすべて体液が流れ
あらゆる場所に充填されている
わたしの中の体内都市は密かに、確実に動き出していたのだ
時折吹く風は確かに新しい季節のものである、そう岩はつぶやく
鼓動は狂い、息はあらゆる空気を吸い込もうとあえぐ
初秋の頂きには誰もいない
二つ目の頂きに着き、穏やかな鎮静がわたしを、仕事を包む
九月四日
三つめの頂きに向けて、まだ明けない朝を歩く
作業場は遠い
用具は執拗に重く、それを受け止めるべく私の人体は悲鳴を上げていた
わたしは穏やかに話しかけ、まるでカタツムリのように足を動かす
希望や夢、期待、あらゆる明るい要素は皆無だ
自らを暗黒に向けて歩を進めているかのように、ありあわせの生を貪る
おびただしい汗と、渇いた疲労の後、ようやく作業場に到達
湿気た森の空間を、機械のエンジン音が薄青い煙を吐く
ここは迷宮、昔から得体のしれないもののためにわたしは生きてきたのだろうか
九月一〇日
峠のトンネルは橙色の明かりをともし、広場は漆黒の闇だ
闇と霧が山道にあふれ、荒ぶる作業場へとわたしは向かう
入念に歩を進め、やがて闇は徐々に薄くなり
遠くに人造湖が霧の薄い膜とともに眼下に現れる
日が昇り始めるとともに、作業は開始された
果たしてこの作業に、終わりはあるのだろうか
頂きはまだ遠く見える
このまま終わることのない作業が続いたとしても、それがどうだというのだ
その日、わたしは作業そのものになっていた
作業が雇い主であり、わたしは一介の作業を行う生体にすぎなかった
激しい一日は終わりを迎え、夕暮れ近くなった鞍部の山道に腰を下ろす
作業用具を藪に仕舞い、やり遂げた作業の道筋を背負い、作業場を後にした
九月十一日
一夜を明かした機械類は朝露をかぶり、起動に備えていた
数万年前の爆裂口は霧を生み、山岳作業の最終日の狼煙を上げているかのようであった
頂きへの作業は終わりを迎え、やがて最後のエンジン音とともに見晴らしの良い峰に着く
作業機械の心臓を撫でてやる、その熱い魂は何を思ったのだろう
分岐道の山道にはイワショウブが揺れていた
九月十七日
関節の中に、血液の中に、重いものがいくつも蓄積されている。
荷を背負い、機械を背負い、別な古道への作業へと向かう
作業場まで延々二時間半歩くことに徹する
そういえばどのくらい歩いてきたのだろう
いつもいつも、昔からわたしはひたすら歩くことしかしていなかった
たとえば何百年も前の私も歩いていたのだろうと、思うしかなかった
幾千の小人たちが頭蓋の空間を遊び、動き回る
独りよがりな小人たちを止めることなどできやしない
わたしが来ることを期待していたかのように、作業するべく仕事量は膨大だった
機械を左右に振り分け、空間を選り分けながら作業を進める
そんな時、作業とわたしはいつしか交わっていることを感じてしまう
一つ目の沢を越えた頃、あたりはにわかに曇り始めて夕刻となった
作業機械を藪に仕舞い野を後にした
九月十八日
時間が流れるとき、いつも雨はその区切りをつけにやってくる
むしろ雨はやさしいのではないだろうか?
あらゆるものを濡らし、平易に事柄をなじませて
また新たなる渇きに向けて一滴を与えるのだ
雨の古道を作業する
作業は私の前に忽然と現れ、どんどんそれは成長し、わたしを引くように導いていく
大きく掘り割れた、峠の石標は苔をたくわえ、雨に濡れていた
脳内の小人たちは、もうすっかり眠りについていた
九日間の安堵を、蛞蝓の歩いた足跡をのみ込み、わたしは山を
山並みを一瞥した
ある朝冬の車道にて
きみは風のみちを歩きながら、あまたの黄昏に出会い、錆びついた鉄骨が剥き出しになった橋のしたで綺麗に身体を折りたたんできた、そう、なんども。緩やかにカーブを続ける国道沿いの小高い丘の上で、新しくなったキンポウゲの匂いをかぎ、雲の流れる先のひかりに目を細くしながら、そう、こうやってカーブを続けることにとてつもない意味を発見したのかもしれない。
今日ではない、いつかの夢の中の予感が草のみちを走るきみの背中にはりついているよ。寄り添っているよ。けれども枯れ枝を踏み潰すことなく、そのしなやかでなくなった曲線をも愛するがごとく、きみは、羽のように吹き遊ぶだろうね。それはきみが生前描けなかった軌道なのかもしれないし、いなくなってしまうときの冷たい硬直に対する柔らかな抗いなのかもしれない。
きみは、今や、かつてそう呼ばれていた名前からの逸脱をさだめられた回転体のようにだだっ広い世界に自らを企投し、雲のみちを跳躍するだろう。そのとききみは、あまねく降り注ぐ慈雨のようには、どうか、成り果ててくれるな。その鋭かった歯で、憎悪や後悔や呪詛や妬みをいつまでも噛みしめていてくれ。
きみの、その、旅路の果てに、幸福な夕食は用意されていない
きみの往く道に神なきことを、祈る
ある朝冬の車道に、その祈りを置き去りにさせてくれ
そしてきみは、いくつもの冷たいアスファルトの道を歩き、冬を歩き続け、季節外れの雪に、冷たさに、包み込まるとき、辿り着いたオレンジに染まる民家の、庭先に植えられたアネモネの、弱い毒に、爽やかに、摘み取られるだろう、その魂をも
未女/ロールメロンパンナ複合
『メロンパンは未完成』と『焼きたて!!ジャぱん』で読んだのちコンビニで見た。メロンパンのつらの皮。降って湧いて去りまたもパン屋へ降りたシナモンロールに、凍りついている顔射の聖痕。男根畑へ散種したのが、たしかアクアシティお台場だった。ソニーでQRIOの踊りを見たあと、シナボンでげんなりしたのだから。
「それで、きみ、名前は。」
「ぼくはぼくだ。きみはきみと呼べばいい。」
「しかあれかし。」
所与。処女だったころカラオケで熱唱しながら、渡辺美里の『My Revolution』を男装の麗人と思い込んでいた。人を「きみ」呼ばわりする女を、ベルばらくらいしか知らなかった(アントワネットよりはオスカルのほうがましだ)からだが(マリーは?)『聖体でないならシナボンを食べればよいのに。』ミルクに薔薇を浮かべたような頬。顔射に薔薇のまみれたような化粧。百合から薔薇が咲くような比喩(掛詞)胎児のまま死にQRIO聖(きよら)なる。
「この丸いのがリンゴで、あの長いのがヘビだ。ぼくが名前をあげた。」
「わたしの名前は。」
「きみはきみだ。なにせほかにきみがいない。」
おもむろに、聖母と言えば百合。一世紀のイスラエルに百合はなかった。チューリップなら咲いた咲いたがそのチューリップもあのチューリップではなかったのですべからく。百合たるべきだった。(いま「おもむろに」と「すべからく」は本当に読まれたのか?)知恵の実がバナナでも、フルールドリスがアイリスでも同じく。ありさえすればよかった。ベルばらでは顔射を断れない。フランス人は神を「tu(きみ)」呼ばわりし、聖書は女性同性愛を知らず。
「しかあれかし。」
アダム(つち)に対しハヴァ(いき)の名は、創世記3章20節によれば、失楽園ののちアダムに定義された。同3章19節までかの女は、同2章23節に『人(イシュ)から取られたもの(イシャー)』と書かれた骨肉であった。その息により命は僕(しもべ)と吹き込まれたのである────対立する、と思い込んでいるその他を、踏まねばあたしへ行き着けない。知恵の実を食ったのでいまさら。
「ほかのきみが生まれるのなら、ぼくが名前をあげる。」
「わたしがあげる。」
「ぼくがあげるのはきみのきみじゃない。きみだ。」
女性歌手の「きみ」に違和感もない。なにせ女性歌人が『君がある西の方よりしみじみと憐れむごとく夕日さす時』(与謝野晶子)『も少しを君のかたへに見る海のなにも応へぬ波音を聞く』(寺尾登志子)『君がため散れと育てし花なれど嵐のあとの庭さびしけれ』(松尾まつ枝) 歌い継いでいる「君と僕」パン工場が魔女を焼いたように妹(いも)よ。女の末(創世記3章15節)よ。
妹よおまえが
先に生まれた
「もし世界にきみとぼくしかいないなら、ぼくらに名前は必要ない。地が妻を名づけた辻褄、ふたりではないと知っていただけだ。ジャムおじさんと愛の花の蜜のように、君と僕と。きみ。いきの絶えた対称を。ぼくが君ではないあかしに。」
夢が
ありすぎた
おまえの、めぢからを縁どる
焼き印に
蜜月に似たもろさがあった
剥がされるため化けたい皮の
人為的な弱みが
ロールパンナ(善)「見上げると空に雲が走り、いつどこにでもいる娘を象る。空のもとに海として母が映る。やがてひえびえと、娘が母の手を取るだろう。そのようにすでに、みなそこへ引き上げられた。どこから来ようと川が海へ束ねられるように。そこが息の束だった。」
メロンパンナ(飛行中)「見下ろすと海に波がうねり、いまそこにいる妹を象る。雲を姉として下へ妹が降る。やがてさめざめと、妹が姉の手を採るだろう。そのようにまたも、水底へ引き下ろされる。どこから降ろうとあめがつちへ束ねられるように。それは息の束なのだ。」
ロールパンナ(悪)「書きたいことしか書かれなかったあかしに。」
神から、割愛された
悪心
わたしはおまえの悪阻である
御前、花から生まれ
女からは生まれなかった
「作者よ君が女だとして、きみが生んだと言えるのか。植えつけられた男根から、どこまで行っても父しか来ない。この大根畑にすら花が咲くのだった。十字架様に。犠牲を根深く磔けるためにかつて。火刑の女囚が空を飛ぶという、夢が魔女と呼ばれ狩られた。去勢不安である。働き蜂が夢を飛ぶならそれは去勢不安である。ほうきのように束ねられて羽が、百花蜜から去りますように。様に。」
『美しい飛行の夢を、一般的に性的興奮の夢、勃起の夢として解釈しなければならないことに胸を痛めないでください。』
『女性でも飛行の夢をみるではないかという抗議をなさってはいけません。われわれの夢は願望を充足させたいと望んでいるものであること、しかも男性になりたいという願望は、意識すると意識しないとにかかわらず、女性には非常に多く見られることを思い出してください。』
(フロイト/高橋義孝・下坂幸三郎訳『精神分析学(上)』岩波文庫一九七頁)
『女性のかくも偉大な曖昧さは男性的な明確さや明瞭さの反対物として切望されている』
『彼女の欠点が大部分彼自身の投影から成り立っていることには、幸せなことに彼は気づいていない』
(ユング/林道義訳『元型論』紀伊国屋書店一四〇頁)
『悲劇の意味がますます失われてゆく社会形態の中では、いつまでもその公演のポスターが貼られ続けることはありえないであろう……。いかなる祭典をももっていないのであれば、神話は生命を維持しえない。精神分析はオイディプスの祭典ではないのである。』
(ドゥルーズ、ガタリ/市倉宏祐訳『アンチ・オイディプス』河出書房新社一〇六頁に、ラカンがオイディプス概念(エディプス・コンプレックス)についてのフロイト神話に対して、上記の警告を発したと書かれている。出典は書かれていない。きっと機械状に無意識の引用だった。)
『確かに夢はオイディプス的』
『volerの二重の意味での、飛躍と窃視のあらゆる対象』
(上掲書三七五頁と、河出文庫の宇野邦一訳『アンチ・オイディプス(下)』一八六頁を確認した結果、あたしの都合ですっかり二次創作した。)
百合そのふた重の花被を「男根がなければ愛せませんか?」二冊もろとも原作レイプする。「お姉ちゃんの生地ハァハァ、」妹も母もなく。「ラブメロンジュース顔射!」母も父もすらなく。あたしは男根畑ではない、と言いたいだけならだれでも言えた。どうとでも言えた。無意識って意訳でほんとは「それ」なんだよ。das Ich und das Es、まごころとばいきん、愛と勇気だけが機械状の精神。原罪って誤訳でほんとは「的はずれ」らしいよ。フロイトはユダヤだったみたいだけど、ああ。デリダも。
注1 デリダ/藤本一勇ほか訳『散種』(ソレルス論)法政大学出版局五二一頁
注2 ツェラン/飯吉光夫訳『息のめぐらし』静地社五一頁「歌うことができる残り」終連初行
注3 デリダ/林好雄訳『雄羊』(ツェラン論)ちくま学芸文庫五九頁
注4 新約聖書 新共同訳 コリント信徒への手紙一 一四章三四節
『あなた方に語りかけているのは誰なのか。それは「作者」でも「語り手」でも「機械仕掛けの神」でもなく、スペクタクルの一部をなすと同時にそこに立ち会ってもいる「僕」である。』(注1)『禁治産者の宣告を受けた唇よ、語れ、』(注2)『ある語る口のまわりに、この唇=傷口はくっきりと姿を現わす。』(注3)『婦人たちには語ることが許されていません。』(注4) あたしが歌えば罪だから詩にした。パン工場が魔女を焼いたように。束ねられて息がめぐらされませんように。
西田幾太郎の書籍と、親父についての、とりとめのない随筆
2015・ 11・ 30
風と風とを食む小枝の指に
囁やく互いの血筋の赤い糸
夜空を指さした子が、あっ
わっ綺麗、振り返った私は
庭に飾るクリスマスツリー>お星様とは言ってなかったな
母は、ほんと綺麗ね
子は、母を見上げて
囁いた二人の影と影
歩きながらふと、
あぁ今宵こそは
かの人がくれた
お手紙のお返し
書かなきゃな
銀色した菓子
包み紙が道に
輝いていたな
南天の夜空
つづみ星が
揺らめきつ
2015・ 11・ 25
財布がないから電車賃がない。電車賃がないから家の辺りをうろつく。飼い犬の散歩者らを盗み見しながら通りすぎていく。目映く真っ赤に染めた楓の野木を見上げては、時折たちどまり、赤と黄のグラデーション。斜陽の光沢が樹木の年輪にほとばしっていた。
部屋に帰り無言の文字に移し換えながら、空き腹インプティ胃のなかにインスタント珈琲を流し込む。部屋の枕元に積まれた一冊の本。開いては閉じまた開く。数行読んでは本を閉じ、なにかを心に感じ、また開く。そうしてまた閉じまた開く。心に感じ、また開く。>近年の思想界において著しく目に立つのは、知識の客観性というものが重んぜられなくなったことであると思う。始めから或目的のために、成心を以て組み立てられたような議論が多い。従って他の論説、特に自己の考に反する論説を十分理解し、しかる後これを是非するというのでなくして、徒らに他の論説の一端を捉えてこれを非議するにすぎない、自己批評というものが極めて乏しい。単なる独断的信念とか、他の学説を丸呑みにしたものが多い。私は或動物学者から聞いたことであるが、ダーウィンの「種の起源」という書物は極めて読みづらい、その故はダーウィンという人は、自己の主張に反したような例を非常に沢山挙げる。読み行く中にダーウィン自身の主張が分からなくなる位だというのである。……
↑
西田幾太郎の随筆の一篇「知識の客観性」の冒頭である。
以降の文を簡略化してしまうが以下ように書かれている。
↓>苟も学問に従事するならばこういう心がけが要るだろう。知識の客観性といっても、私は或時代の真理と考えられていたものが、永劫不変だというのでない。何千年来自明の真理と考えられたユークリッドの公理も、一層一般的な幾何学のひとつとなったのである。それぞれの分野がそれとして客観性を有している。単に変ずるのではない。その時代の或目的以外に何らかの意味を持つ。学問的真理を考えるかぎり、永遠なるものに触れることがなければならない。
西田の随筆は、述べている事柄はたいへんわかりがよい。ある一部分の分野を探求する際に必ず陥ってしまうアポリアをも示してくれているように思う。
**
アホかどうかわからんが、そんな父とアホな私との交わす話しはほとんどその辺りでお笑い草である。独断的信念から一方的に展開させていくようなものだから、絵画芸術に関する断片のひとつ覚えの捉えかたが、日々日常の価値観にまで及んでしまうような誤解を与えかねない。そんな気がした。上の西田幾太郎の本の断片の一文を、ある時父に朗読したが、父には納得できるものでないだろう。
長くやっている彼の絵の制作も、現代美術家との交流も、現代美術作品に対する独自の論も、あまりに乏しい言語能力で、論にも満たない論を毎年いくつも郵送してくれる父。
西田幾太郎の思想を父からワカリもしないようなワカルことを、パソコンのワードで印字した論にも満たない論をざっと数十ページ……読めるか!!んなもん。
そんな綴じ物を一冊千円で喫茶店や画廊に置かせてもらい手作りのカンパ箱も置かせてもらっている。画家や芸術家でもない素人に読んでもらいたくて、父は絵の具代の足しにするつもりなのだろう。それだけならまだよいのだがウンチク話しを喧、喧と、2時間3時間画廊で平気でレクチャもするし、よくわからない親父である。
ある時、父と一緒に山を登り山荘で朝まで議論した。
窓の外が明るくなるまで、唾ぜり合いをし
あぁ寝るわ、もうお休み
v(-_-)。
======
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===
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=
***
ちっさな岩波の単行本をよくポケットにしのばせながら、通勤電車で開いては閉じていた。
そんな父は甚だ学問は弱いのである。絵の制作、画論と芸術の独断論を孤独に父は父なりにやってるんだろうけど。
…西田幾太郎、と父、二人の哲学作家・画人は、緒先輩として、私はやはりいつまで経ても惹かれるのである。
が、しかし、惹かれるからといってそうして安穏としてもいられないだろう。文学も(芸術も)私(読者)受け手とが隔絶した状態に陥ることがよくある。その現象のうちに展開させているああした父の物言いは、史的唯物論や物質的弁証法などを若いとき信奉し染み付いていたきらいがあったからかもしれない。
ちょっと間違えれば形骸化した思想に捕らわれ、新たな思想展開が出来ないまま膠着し、終わる可能性は大だ、父よ。
何かもっと違ったカタチでそこでの学びを私は化生させていかなければならないだろう。はて?どうしたらよいものだろうか。西田幾太郎の随筆を読みながら考えあぐねているのである。
****
いかなる時代にいかなる作品が開展したかということは歴史や社会で説明できる。作品を歴史や社会存在のコンテクストと考えられるなら我々の精神的内容を有するはずだ。そしてそれは少なからず表現的である。その意義内容をその独自性を長く歴史存在に残す仕事が批評家のやることであろう。ところが作家は違う。他の作家の作品について述べるのは自らの制作に対し新たな機を生み出し得ることへの期待感があるからであろう。つまりそうした作家の独断的信念は、作家独自に組織された制作の裏付けからであり、少なからず現代社会文化歴史が授与する“仮説状態”にまで論を到達させ、通用させることが必要とされるのではないだろうか。(そもそも現代――*現代美術も、現代思想も、現代文学や現代詩などというのは*―― 仮説の状態であるにちがいないのだ。)
だから一人の独我論から脱却し、現代の仮説へと持っていく作業が要るのだろうと思う。
西田幾太郎の書籍を探り借り、もらった何かを綴りつづけていこうと思う。>我々が現実に生きて、働いている日常の世界というものが最も直接な世界であるから、そこで考えられた世界から考え直すことをはじめなければいけない。常識とはそれを独断的にとらえているにすぎない。日常性を深く考えないままでいることが常識と言っても言い過ぎではない。それは何処までも深く基礎付けなければならない。当たり前とされていたことが或時代や価値の風潮によって変遷されるとするならば、その最下部の基礎が見えていないといえる。
・
ペテルグルス↑ ・
…
・ ・
詩の日めくり 二〇一六年十一月一日─三十一日
二〇一六年十一月一日 「いやならいやって言えばいいのに。」
えっ
まだ高校生なの
そういえば
なんだか
高校生のときに好きだった
友だちに似てる
あんにゃん
って呼んでた
同じ塾に通ってた
あんにゃんが行ってるって聞いて
あとから
ぼくが入ったんだけど
高一の夏休みから高二の夏休みにかけて
昼休みには
高校を抜け出して
何人かの友だちと
パチンコ屋に行って
五時間目にはよく遅刻してた
あんにゃんの自転車の後ろに乗っけられて
ぼくは
あんにゃんの腰につかまってたんだけど
ときどき腕を前にまわして
そしたら
腕の内側で
あんにゃんのお腹の感触を
恥ずかしいぐらいに感じちゃって
服を通してだけど
自転車がガタガタ上下するたびに
あんにゃんのお腹に力が入って
あんにゃんの腹筋がかたくなったことを
ぼくは覚えてる
ああ
むかし
かなわなかった夢が
いまかなう
あんにゃんとは
なにもなくって
でも
奇跡ってあるんだね
あんにゃんとは
なにもなかったからかな
キラキラと輝いてた
たまらなく好きだった
あんにゃんの手は
鉄の臭いがした
体育の時間だった
あんにゃんは鉄棒が得意だった
背はちっさかったけど
筋肉のかたまりだったから
ぼくは逆上がりもできないデブだった
あっ
いまもデブだけど
うん
あっ
でね
あんにゃんは
逆上がりのできないぼくに
手を貸してくれて
できるようにって
いっしょうけんめい手助けしてくれてね
あっ
この公園には
よく来るの
たまに
ふうん
みんな
そう言うけど
どうかなあ
ほんとに
ふうん
あっ
あれ
見て
あのオジン
蹴飛ばされてやんの
誰彼かまわず声かけまくって
ひつこく迫るからだよね
相手がいやがってるの
わかんないのかなあ
きみのさわってもいい
かたくなってきたね
じかにさわっていい
やっぱり
高校生だよね
このかたさ
ヌルヌルしてきたね
どう
イキそう
まだ
目をつぶった顔がまたかわいいね
ほんと
あんにゃんにそっくり
えっ
突然立ち上がって
どしたの
えっ
えっ
どしたの
どこ行くの
二〇一六年十一月二日 「ぼくの詩の英訳」
友だちのジェフリー・アングルスさんが、ぼくの詩を英語に訳して紹介してくださいました。
http://queenmobs.com/2016/11/22392/
思潮社オンデマンドから出した田中宏輔の『ゲイ・ポエムズ』が、きのうあたり1冊、売れたみたいだ。うれしい。ジェフリーが英訳して紹介してくださったおかげだろうと思う。ありがたい。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%82%A8%E3%83%A0%E3%82%BA-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4783734070/ref=sr_1_14?s=books&ie=UTF8&qid=1478327320&sr=1-14&keywords=%E6%80%9D%E6%BD%AE%E7%A4%BE%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%89…
二〇一六年十一月三日 「『フラナリー・オコナー全短篇』上巻」
『フラナリー・オコナー全短篇』上巻を読んでいるのだが、おもしろくなくはないんだけれど、なんか足りない感じがする。いや、足りないんじゃなくて、読んでて共感できない部分が多いって感じかな。でもまあ、読みかけたものだから、きょうは、つづきを読んで寝よう。
二〇一六年十一月四日 「切断」
人間には男性と女性の二つの性があって、どこで人間を切断しても、男性に近いほうの切断面は女性に、女性に近いほうの切断面は男性になる。切断喫茶に行くと、テーブルのうえで指を関節ごとに切断してくれる。指と指はその切断面が男性になったり女性になったり、くるくるとテーブルのうえで回転する。
二〇一六年十一月五日 「悲鳴クレヨン。」
クレヨンにも性別年齢があって、1本1本異なる悲鳴をあげる。さまざまな色を使って絵を描くと、その絵のクレヨンから、小さな男の子の悲鳴や幼い女の子の悲鳴や声変わりしたばかりの男の子の悲鳴や成人女性の悲鳴や齢老いた男の悲鳴や齢とった女性の悲鳴が聞こえてくる。壮絶な悲鳴だ。
二〇一六年十一月六日 「『伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ』」
きょうは、読書が、すいすいと進んだ。読みはじめたばかりの『伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ』も、もうさいごから2番目の作品デイヴィッド・I・マッスンの「旅人の憩い」のさいごのほうである。あとひとつ、ジョン・ブラナーの「思考の谺(こだま)」を読み残すばかり。きょうの寝るまえの読書は、ジョン・ブラナーの『思考の谺(こだま)』 イギリスの作家かなと思えるほど、描写がえげつない。ああ、いま確認すると、イギリス人だった。『伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ』に収録されているものの前半はいかにもアメリカって感じだったけれど。しかも、さいしょのルイス・パジェットの「ボロゴーヴはミムジイ」って、つぎに収録されている、レイモンド・F・ジョーンズの「子どもの部屋」と、ほとんど同じような設定で(ぼくにはね)なんで同時収録したのだろうかと疑問に思えるほどに似た雰囲気の作品だった。ジョン・ブラナーの「思考の谺(こだま)」を読み終わった。ハッピー・エンドでよかった。物語はせめてそうでないと、笑。ほっぽり出してるフラナリー・オコナーの全短篇・上巻をいま手にしてるのだが、まあ、これはほとんど救いのない物語ばかり。
二〇一六年十一月七日 「旧敵との出逢い」
とりあえず、いま、『フラナリー・オコナー全短篇』上巻を読んでいる。ちょうど、半分くらいのところ、「旧敵との出逢い」という短篇。100歳を越えたおじいさんが主人公のよう。語り手は、その孫という設定。いろんなタイプの作品を書いたひとなのだとは思うし、うまいけど、厭な感じが付きまとう。厭な感じって嫌いじゃないんだけどね。というか、好きかもしれないのだけど。アンナ・カヴァンといい、P・D・ジェイムズといい、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアといい、フラナリー・オコナーといい、厭な感じの作品を書くのは、女性作家が多いような気がする。
二〇一六年十一月八日 「死の鳥」
ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』2篇目を読んで、クズだと判断して、本を破って、クズ入れに捨てた。こんなことするの久しぶり。それくらい質が低い短篇集だった。何読もうかな。『フラナリー・オコナー全短篇』下巻にしよう。
二〇一六年十一月九日 「磔台」
ある朝
街のある四つ辻に
磔台が拵えてあった
道行く人はみな知らん顔を装っていたが
それでいて
磔木の影さえ踏まないよう
用心しながら通り過ぎて行った
そして
ある朝
ある見知らぬ人がひとり
磔になっていた
道行く人はみな知らん顔を装っていたが
それでいて
磔木の影さえ踏まないよう
用心しながら通り過ぎて行った
やがて
ある朝
その人が亡くなり
代わりに
ぼくが磔台に上った
道行く人はみな知らん顔を装っていたが
それでいて
磔木の影さえ踏まないよう
用心しながら通り過ぎて行った
二〇一六年十一月十日 「『フラナリー・オコナー全短篇』下巻」
『フラナリー・オコナー全短篇』の下巻を読んでいたのだが、黒人が出てこない作品がほとんどない。まだ差別のある時代に書かれたものだからかもしれないが、それにしても黒人の言及が多い。逆にいえば、モチーフにそれ以外のものを扱うことができなかったのかもしれない。
二〇一六年十一月十一日 「死刑制度に反対する人たちに対する死刑制度賛成論者たちに提言。」
犯罪者を遺族たちに殺させるというもの
被害者がされたことと同じ方法で
いわゆる
『同害報復法』ってヤツ
『仇討ち』とも言うのかな
さらに犯罪抑止力にもなって
被害者の遺族たちの感情も十分考慮されていると思うけど
どうかしら
おまけに
その様子をテレビ中継でもしたら
もっと犯罪抑止力になるってーの
どうかしら
モヒトツ
オマケに
遺族たちが犯人の死体と記念撮影までするってーの
どかしら
二〇一六年十一月十二日 「見ないでブリブリ事件」
これは
ごく最近
シンちゃんが
ぼくに話してくれた話
京極にある八千代館っていうポルノ映画館の前に
小さな公園がある
明け方近くの薄紫色の時間に
その公園のベンチの上で
男が一人
ジーンズを
おろしてしゃがんでいたという
シンちゃんが近寄ると
丸出しのお尻を突き出して
「これ抜いて」と言ったらしい
見ると
ボールペンの先がちょこっと出てたらしい
すると
すごくさわやかな感じのその青年は
もう一度
恥ずかしそうに振り返って
「これ抜いて」って言ったらしい
抜いてやると
「見ないで」って言って
そこに
ブリブリ
うんこをひり出したという
シンちゃんが見てると
また
「見ないで」って言って
また
ブリブリッと
うんこをたれたという
これを
「見ないでブリブリ事件」と名づけて
ぼくは何人かの近しい友人たちに
電話で教えまくった
「見ないで」
ブリブリッ
二〇一六年十一月十三日 「39歳」
『フラナリー・オコナー全短篇」下巻を読み終わった。上巻も通して全篇、黒人問題が絡んでいた。バラエティーが豊かなのだが、狭いとも思われる、奇妙な感触だ。39歳で亡くなったというのだけれど、若くて死ぬ詩人や作家は、ぼくには卑怯な面があると思われる。才能のある時期に死んだという面でだ。
二〇一六年十一月十四日 「白い紙。」
空っぽな階段を
人の形に似せた
長方形の紙に切り目を入れてつくっただけの
白い紙が
ひとの大きさの半分くらいの
一枚の白い紙が
ゆっくりと降りてくるのが見えた
ぼくは
机に向かって坐っていたのだけれど
ドアもしまっていて
見えないはずなのだけれど
なぜだか、ぼくには
階段のところも見えていて
人の形をした白い紙が
階段を降りてくるのが見えた
軽い足取りのはずだけど
しっかり踏み段に足をつけて
白い紙が降りてくる
ぼくは、机の上のカレンダーと
階段の人の形をした紙を同時に見てた
だれでもない
その日
帰りしな
駅のホームのなかで
ひとの大きさの白い紙がたくさん寄って
同じ大きさの一枚の白い紙を囲んで
ゆらゆらゆれているのを見た
二〇一六年十一月十五日 「名前」
ぼくは
ふと
手のひらのなかの小さな声に耳を傾けた
それは名前だった
名前は死んでいた
なぜ
そのひとときを
彼は
ぼくといっしょに過ごしたいと思ったのか。
そして
その疑問は
自分自身にも跳ね返ってくる。
なぜ
そのひとときを
ぼくは
彼といっしょに過ごしたいと思ったのか。
それが愛の行為だったのだろうか。
彼のよろこびは
ぼくのよろこびのためのものではなかった。
ぼくのよろこびもまた
彼のよろこびのためのものではなかった。
彼のよろこびは
彼のためのものだったし、
ぼくのよろこびは
ぼくのためのものであった。
彼は
ぼくのことを愛していると言った。
ぼくはうれしかった
どんなにひどい裏切られ方をするのかと
思いをめぐらせて。
二〇一六年十一月十六日 「見事な牛。」
見蕩れるほどに美しい曲線を描く玉葱と
オレンジ色のまばゆい光沢のすばらしいサーモンを買っていく
見事な牛。
二〇一六年十一月十七日 「死んだ四角だ。」
さあ
きみの手を
夏の夕べの浜辺と取り替えようね。
わたしに吹く風は
きみの吐息のぬくもりに彩られて
あまい眩暈だ。
きみの朝の空は四角い吐息で
窓辺にいくつも落ちていた。
死んだ四角だ。
そうやって
四角は
わたしにいつだって語りかけるのだ。
おばあちゃん子だったぼくは
ドレミファソラシド。
どの家の子とも遊ばせてもらえなかった。
二つの風景が一つのプレパラートの上に置かれる。
しばしば解釈の筋肉が疲労する。
二〇一六年十一月十八日 「まるで悲しむことが悪いことであるかのように」
まるで悲しむことが悪いことであるかのように
πのことを調べていると
ケチャップと卵がパンの上からこぼれて
コーヒーめがけてダイブした
ショパンの曲が流れ出した
世界一つまらないホームページという
ホームページにアクセスすると
3万5540桁あたりで
7という数字がはじめて5つ並んでいるのを
ジミーちゃんが見つけた
あと
28万3970桁あたりと
40万1680桁あたりと
42万7740桁あたりにも
7が5つ並んでて
7が7つ並んでいるのを
45万2700桁あたりに見つけたっていう話だ
ぼくはジミーちゃんを友だちにもてて
たいへんうれぴーのことよ
すてきなことよ
この間なんて
花見小路の場外馬券売り場に行ったら
もう時間が過ぎてたから
生まれてはじめて買うはずの馬券が買えなかった
っていう
すてきなジミーちゃん
花見小路に
造花の桜の花が飾ってあったけど
すぐそばの建仁寺に突き当たったところには
ほんとの桜が咲いていた
という
豚汁がおいしかった
彫刻刃で削ったカツオの削り節が
よくきいていた
ジャンジャンバリバリ
ジャンジャンバリバリ
詩に飽きたころに
小説でオジャン
あれを見たまえ
二〇一六年十一月十九日 「文学ゲーム・シリーズ ギリシア神話2 『アンドロメダ』新発売!」
どうしてわたしが語意につながれて
こんな違和の上に立たされているのかわからない
差異が打ち寄せる違和の上
同意義語が吹きすさび
差異の欠片が比喩となって打ちかかる
きつい差異が打ち寄せるたび
ぐらぐらと違和が揺れる
どうしてわたしが語意につながれて
こんな違和の上に立たされているのかわからない
差異が打ち寄せる違和の上
意味崩壊の前触れか
語意につながれたわたしの脳髄に
垂れ込める語彙が浸透してゆく
わたしはこの違和の上で待つ
わたしの正気を食らおうとする
意味の怪物を退治してくれる
ひとつの文体を
二〇一六年十一月二十日 「地下鉄御池駅の駅員さんにキョトンとされた」
烏丸御池の高木神経科医院に行って
睡眠誘導剤やら精神安定剤を処方してもらって
隣のビルの一階にあるみくら薬局で薬をもらったあと
いつもいく河原町のバルビル近くの居酒屋にいくために
地下鉄御池駅から地下鉄東西線を使って
地下鉄三条に行こうと思って
地下鉄御池駅から切符を買って
改札を入ったんだけど
べつの改札から出てしまって
自動改札機がピーって鳴って
あれっと思って
べつの改札口から出たと自分では思ってなくて
駅員さんに「ここはどこですか?」って
きいたら
キョトンとされてしまって
「すいません、ぼく、病院から出たばかりで
そこの神経科なんですけれど
ここがどこかわからないんですけれど」って言ったら
「御池駅ですよ、どこに行かれるんですか?」
って訊かれて
「あ、すいません、三条なんです
電車って、ここからじゃなかったんですよね」
「改札から改札に出られたんですよ」
ううううん。
たしかに頭がぼうっとしてた
ちょっと涙がにじんでしまった
47歳で
こんなんで生きてるって
とても恥ずかしいことやなって思った
でも
帰ってきたら
とてもうれしいメッセージをいただいていて
ぼくみたいな人間でも
見てくださってる方がおられるのだなって知って
また涙がにじんでしまった
あ
洗濯が終わった
これから干して
たまねぎ切って
スライスにして
食べて
血糖値を下げます
二〇一六年十一月二十一日 「角の家の犬」
きょうは恋人とすれ違ってしまった
さて
どっちに取る?
この家の子
そんな言い方しなくてもいいじゃない
頭が痛いよ
ぼくが悪いの?
この家が悪いの?
ぼくの耳に
きみの言葉が咲いた
咲いたけど
咲いたから
散る
散るけど
散ったから
またいつか
違ったきみになって
咲くだろう
もっときれいな
もっとすてきな
きみは
こんな詩を
いや詩じゃないな
いっぱい
むかし書いてたような気がする
きょう
ふと
そんな時期のぼくに
もどったのかな
角の家の犬
後ろに家の壁があるときは
とてもうるさく吠えるのに
公園の突き出た棒につながれたら
おとなしい
二〇一六年十一月二十二日 「狂気についての引用メモ」
同じ感情がずっと持続することがないように
自我も同じ状態がずっとつづくわけではない
感情が変化するように自我も変化するのだ
同じことを考えつづけるのは狂気だけだと
ショーペンハウアーだったかキルケゴールだったか
だれかが書いてたような気がする
むかしメモした記憶はあるのだけれど
メモを整理したときにそれを捨てたみたいで
だれだったかしっかりと憶えていない
狂気についての引用メモがいっさいなくなっている
これは自衛のために捨てたのかもしれない
そんな気持ちになったことが何度かあって
そのたびに本やメモがなくなっている
安定した精神状態がほしいけれど
そうなったらたぶんぼくはもう詩を書かない
書けないのだろうなあと思う
二〇一六年十一月二十三日 「シロシロとクロクロ」
天国に行きたいなあ
みかんの皮を乾かして漢方薬になるはず
もしだめだったら
東京ディズニー・ランドでもいいわ
千葉だけどね
シロクマ・クロクマ・シロクログマ
シロクログマって、パンダのこと?
ゲーテは、ひとりっきりで天国にいるよりは
みんなといっしょに地獄にいるほうがましだと言ってたけど
経験上、地獄はやっぱり地獄だわ
シロゴマ・クロゴマ・シロクロゴマ
えっ!
シロクロゴマって
そんなん
どこで売ってるの?
みんなといっしょにいても地獄だわ
て
いうか
みんなといると地獄だわ
ひとりでいても地獄だけど
みんなのこと
考えるとね
ディズニー・ランドでひとりっきりで
はしゃいで遊んでも
たしかに
つまらなさそう
みんなのこと
考えるとね
(はしゃいでへんけど)
シラユリ・クロユリ・シロクロユリ。
シロシロはユリで
シロクロやったら
ヘテロだわ
そろそろ睡眠薬と安定剤のんで寝まちゅ
プシュ
二〇一六年十一月二十四日 「立派な批評家」
明瞭に語られるべきものを曖昧に語るのが
おろかな批評家であり
曖昧であるものの輪郭を
読み手が自分のこころのなかに明確に描くことができるようにするのが
立派な批評家であると
わたしは思うのだが
な
に
を
に
を
に
して
立派に批評家であると
わたしは思うのだが
いかがなものであろうか
二〇一六年十一月二十五日 「桜の木の下には」
京大で印刷だった
キャンパスにある桜の木の下で
ちょっとした花見を
桜の木の下には
吉田くんと吉田くんたちが埋まっている
桜の木の下には
たくさんの吉田くんたちがうまっていて
手をつないで
お遊戯してた
ぼくたちは
吉田くんたちは桜の木のしたで
土のなかで盛り上がっていた
地面から
電気のコードをひいてきて
桜の木の下で
コタツに入って
プーカプカ
しめて
しめて
首に食い入るロープのきしむ音が
しめて
しめて
桜の木の下で
ぼくたちは
吉田くんたちはポテトチップを
むしゃむしゃ
むしゃむしゃ
桜の木の下で
ぼくたちは
吉田くんたちは
ぼくたちを見下ろしながら
ぎしぎしと
ぎしぎしと
ひしめきあっていた
この際
二〇一六年十一月二十六日 「セーターの行方」
きょうはぐでんぐでんに酔っ払って帰ってきました
いつも行く居酒屋で
作家の先生といっしょになって
3軒の梯子をしました
いつも行く居酒屋には
俳優の美○○○が女連れでいました
ぼくはカウンターにすわっていたけど
その後ろのテーブル席
ぼくの真後ろに坐っていて
作家の先生の奥さんがおっしゃるまで
気づかなかったのでした
オーラがないわ
という奥さんの言葉に
ぼくも「そうですね」と言いました
この居酒屋には
言語実験工房の荒木くんや湊さん
dioの大谷くんともきたことがあって
料理のおいしいところです
で
奥さんが
セーターを先生に作られたのだけれど
大きすぎたみたいで
田中さんにあげるわ
とおっしゃったので
いただきますと言いました
先生との話で一番印象に残っているのは
「見落としたら終わりやで」
奥さんがそのあと
「タイミングがすべてよ」
でした。
いちご大福を持って
女優の黒○○さんもくるという話だけれど
彼女にはまだ会ってないけれど
この居酒屋さんって
ふつうの居酒屋さんなんだけど
半年前くらい前のとき
アンドリューって名前だったかな
オーストラリアから来た
日系の
すっごいかわいい
20代半ばのカメラマンの青年に
ひざをすりすり
モーションをかけられたことがあって
なんだか
ぐにゃぐにゃ
むにむにむに〜って
感じでした。
そんときは
ぼく
じつは恋人といっしょで
彼には
いい返事ができなかったのだけれど
こんど会ったら
ぼくもひざをすりすりして
チュってしちゃおうって思っています
ああ
薬が効いてきた
もう寝ます。
おやすみなさい
みんな
大好き!
二〇一六年十一月二十七日 「小説家の先生の奥さまのお話」
デザインの専門学校で
その学院の院長先生のお話で
いまもこころに残っている言葉があって
それは
ギョッとさせるものではなくて
ハッとさせるものをつくるべき
っていうものだという
ギョッとさせるものなんて簡単にできるわ
いくらでもつくれるわ
ハッとさせるものはむずかしいのよ
とのことでした
先生のためにつくられたセーターが
先生にはちょっと大きめだったので
田中さん
着てくれないかしら
からし色のセーターなんだけど
ええ
ありがとうございます
着させていただきます
あらそう
じゃあ
こんどお店に持っていっとくわね
預けておきますから着てちょうだいね
合わないと思ったら返してくださっていいのよ
いえいえ
着させていただきます
先生もお勤め人だったことがあるらしく
10年ほど広告会社でコピーを書いてらっしゃったそうで
そのときのお話をうかがっていて
ぼくがやめるときに
あれはバブルの時代でしたね
杉山登志というコピーライターがいましてね
資生堂のコマーシャルとか手がけてた人でね
その彼が自殺したことがショックでした
原因は不明でね
わたしがコピーライターをやめたのはそのすぐあとです
帰ってgoogleしました
ウィッキーに
「本名は、杉山 登志雄(すぎやま・としお)
テレビ草創期から数多くのテレビCMを製作し、
国内外の賞を数多く受賞。
天才の名を欲しいままにしたが、
自らのキャリアの絶頂にあった1973年12月12日、
東京都港区赤坂の自宅マンションで首を吊って自殺。
享年37」
とあった
さらにgoogleで検索してたら
2007年の12月に
このひとのことを題材にしたテレビ番組をやってたらしくって
有名なひとだったのね
分野が違うと
ぜんぜん名前がわからない
はしご一軒目の居酒屋さんでのお話でした
ぼくが二度の自殺未遂の話をすると
奥さまが携帯の番号を書いてくださって
なにかのときには電話してちょうだい
と渡してくださったのですが
たぶん
しないだろうなあと思いながらも
はい
と言いながら
その電話番号に目を落として
書かれた紙を静かに受け取りました
そしたら先生が
わたしが死んだら
この人が追悼文を書いてくれますが
田中さんが亡くなったら
わたしが書きましょう
とおっしゃって
ぼくが
ええー
と言うと
奥さまが
わたしも書くわ
とおっしゃって
またまた
ええー
と
ぼくが言い
大声で笑うと
奥さまが
わたしの追悼文は
だれが書いてくれるのかしら
とおっしゃって
そこでぼくが
奥さまは死なれませんから
というと
そこでまた大笑いになって
(酔ってたら
こんなことで
笑えるのよ)
で
そこでチェックされて
はしご二軒目の
きゅうり
というお店に向かったのでした
誰が変わらぬ愛など欲しがろう?
(このメモ
奥さまが電話番号を書かれるときに
ちらりと見てもらったんですけれど
奥さまは
変わらない愛が
みんな欲しいんじゃないの
と
おっしゃって
ぼくは
首をかしげて
そうでしょうか
と
にやっとして笑い返しました
奥さまの目が
どことなしか
笑っているのに笑ってなかったのが妙に印象的でした
笑)
二〇一六年十一月二十八日 「gossamer くもの糸(草の葉にかかったり空中に浮遊している)」
なめくじ人間の夢を
きのうとおとついの
連続二日見ました
続き物の夢を見るなんて珍しい
乾いた皮膚にはくっつかない
そういう信念があった
夏なのに
冷たい夜だった
さっきまで雨が降っていたのかもしれない
でもいまは雲が切れていて
そこに大きくてまるい白い月がドーンとあって
その月の光が
路面の敷石にきらきらこぼれ落ちていた
事実
半透明のなめくじたちが
街のいたるところからにゅるにゅるじわぁーと湧き出して
そこらじゅうを這い進むあいだ
ぼくはその半透明のなめくじを観察した
ぼくは完全にかわいていたので一瞬触れても大丈夫だったのだ
なめくじたちは夜の街に
月の光を浴びてきれいに輝きながら
家々の壁や戸口に湧き出て
家から出てきた人間たち
歩いている人間たちに触れていったのだ
触れられた人間たちは
たとえ、その触れられた箇所が靴でも
そこから全体に
すうっと半透明になってしまって
なめくじ人間になっていったのだ
なぜなら、彼らはみんな多少とも濡れていたからなのだった
女性のなめくじ人間も少しいた
なぜかしらエプロンをした肉屋の女房だったり
ベイカリーショップの女将さんだったりした
なめくじ人間というのは
人間の大きさのなめくじなのだ
だから時間が経つにつれて
街じゅうはなめくじ人間たちが徘徊する
恐ろしい街になっていったのだ
ぼくはそれを観察していた
危ういところで
半透明のなめくじの体をかわして
逃れていたのだ
半透明になって徘徊するなめくじ人間たち
ぼくは夜の街で唯一の人間だった
街並みは小説や映画に出てくる
ロンドンの街並みだった
夢を見る前の日に
ロボット物のSFを読んだあとで
シャーロックホームズ物のパロディの本を読むことにしていたからかもしれない
なめくじが、どこからきたものかはわからないけれど
もう何十年も目にしていない生き物だ
二〇一六年十一月二十九日 「幽霊がいっぱい。」
マンションでは猫や犬を飼ってはいけないというので
猫や犬の幽霊を飼うひとが増えて
もうたいへん
だって、壁や閉めた窓を素通りして
やってくるのですもの
うちの死んだ祖父が
アルツでいろいろな部屋に行って
迷惑かけてることがあって
文句を言えないんだけど
隣の死んだ和幸ちゃんの幽霊はひどいわ。
どんなに遅くっても必ず起きてて
一晩じゅう
ほたえまくるんですもの
わたしが持ち帰りの仕事を夜中にやっていても
勝手に机の下からにゅ〜って顔を出すし
うちの一番下の子の横に寝て
眠ってるうちの子の腕をさわりまくるし
それで
うちの子が夜泣きしちゃいだすし
ああ
もうこのマンション引っ越そうかしら
あれあれ
おじいいちゃん
勝手に出歩いちゃダメでしょ
生きてるときでも怖がられてたのに
そんな死人のような顔をして
いや
死人なのかしら
幽霊って
死人なのかしら
わかんないわ
わかんないけど
出てかないでよ
せめてこの部屋から出てかないで〜
ひぃ〜
もういや
二〇一六年十一月三十日 「速度が誤る。」
買って来た微小嵐を
コップのなかに入れておいたら
仮死状態のジジイが勝手に散歩につれていきやがって
おのれ
ド
バルザック
完全無欠の夜は調べたか
ああ
なにもかも
ぼくが人間をやめたせいで
頭のなかの鐘が鳴りっぱなし
で
興奮状態の皮膚が
ぴりぴり震えがとまらないのだっちゃ
よかったね
最高傑作
見事に化けて出てくる夜毎の金魚の幽霊が
あ
人間やめますか
ぼくの箱庭
紅はこべ
驚いたふりをして
人間やめました
手には触れるな
速度が誤る
サン・テグジュペリ
二〇一六年十一月三十一日 「レンタル屋さんがつぶれたので、山ほどDVDもらってきました。」
さきに、若い子たちが
有名なものを持って行ったので
ぼくは、あまりもののなかから
ジャケットで
選んで、いただきました。
ラックとか
椅子とか
かごとかも
持って行っていいよというので
かごをいただきました。
ま、それで、DVDを運んだんだけどね。
でも、見るかなあ。
ぼくがもらったのは
サンプルが多くて
サンプルってなんなんだろうね。
何か忘れたけど
一枚手にとって見てたら
店員さんが
それ、掘り出し物ですよって
なんでって訊くと
まだレンタルしちゃいけないことになってますからね
だって。
ううううん。
そんなのわかんないけど
ぜったい、これ、B級じゃん
ってのが多くて
見たら、笑っちゃうかも。
でも、ほんとに怖かったら、やだな。
怖い系のジャケットのもの、たくさんもらったんだけど
怖いから、一人では見れないかも。
とぎれとぎれで見ました。
明日、はやいしね。
いろんなタイプのDVDだから
いろんな感性にさらされて
いい刺激になればいいんですけど。
ヒロヒロくん
近くだったら
いっしょに見れたね。
あ、店員さん
「アダルトはいらないんですか?」
「SMとかこっちにありますけど」
だって。
アダルトはもらってません。
もらってもよかったのだけれど
どうせ見ないしね。
ぼくが帰ったのが
10時すぎでしたが
まだいっぱいありました。
アニメは興味なかったですけれど
知らないアニメがたくさん残っていました。
でも、もうこの時間だし
ラックも
椅子も
たぶん、ないでしょうね。
自宅のCDケースが傷んでるのがあるので
CDケースもらっておけばよかったかなあ。
でも、欲張ると
ロクでもないし
ラッキーだったんだから
これでいいんでしょうね。
ふと
古本を買いに
遠くまででかけたのです。
そしたら
若い子が
ここ、きょうで店じまいですから
これ
何枚でも持って帰っていいみたいですよ
って言ってくれて。
その子
ぼくがゆっくりジャケット見て選んでるのに興味を持ったらしく
みんな、がばっとかごごと持って帰るのに
珍しいですね。
近くにお住まいですか。
一人暮らしですか。
とか
笑顔で訊いてくるので
(魅力的な表情をした若者でした)
ちょっとドキドキしましたが
ときどき
ぼくのこと
不思議に思って興味を持ってくれる子がいるのですが
勘違いしてしまいます。
前に
日知庵で
24才だと言ってた
オーストラリア人のエリックにひざをぐいぐい押し付けられたときは
うれしかったけど
困りました。
恋人といっしょにいたので。
で
きょうの子も
明日はお仕事ですか
とか
早いんですか
とか訊いてきたので
あ、もう帰らなかや
って言って、逃げるようにして帰りました。
いま
ぼくには、大事な恋人がいますからね。
間違いがあっちゃ、いけません、笑。
あってもいいかなあ。
ま、人間のことだもの。
あってもいいかな。
でも、怖くて帰ってきちゃった。
うん。
ひさびさに
若い子から迫られました。
違うかな。
単に
かわったおっさんだから興味を示したのかな。
ま、いっか。
ああ、きょうは、バロウズ本もうれしかったし
DVDもうれしかった。
クスリが効いてきたみたい。
もう寝ます。
おやしゅみ〜
エリック
かわいかったなあ。
ぼくも
恋人にわからないように
ひざでも、ぎゅっとつまんであげればよかったんだけど。
さすがに、ね。
恋人にばれちゃ、怖かったしね。
春の日のクマは好きですか?
きのう、もらったDVDです。
とても単純な物語だったけれど
主人公たちがひじょうに魅力的だったので
最後まで見れました。
詩も
同じかな。
内容がよければ、形式がださくてもいいのかも。
いや、逆に
キャシャーンのように
だれがやっても、設定があんなふうにすごかったら
すごい映画だっただろうからな。
詩も同じかな。
形式がすごかったら
内容なんて、どうでもよくってね。
両方、いいなんてことは
ほとんど奇跡!
ダイアローグ
一人、一人、ポツポツと喋るように
沖縄に雪が降る
嘘
ラジオ越しに聞こえる
北海道はマイナス10度だって
今朝、友達が教えてくれた
それ本当に?
ここも寒いのにな
秋と冬の境目がまるで壊れてしまったようだ
この土地はそういう場所だ
九州、
そして
教会が取り壊される
看板だけ残った
地震残らず無闇に更地になった
風のない日
アパートの隣のビルのアスファルトが一時間で削り取られた
スーパーも、
また、新しい箱が出来る
前より少しだけ小さくなったきれいな箱だ
そして雪は降らない
日の暖かい
トラクターが運んだ土砂はどこに行く
と、
雨が降るとみずたまりがいつもより汚れて見えるんだ
工事の音を聞きながら
そして年末がやってくるとき
カーテンを開けると灰が降ってきた
自転車に降り積もる
音もなく、
洗濯物を取り込め
マクドナルドで喋るように
地震は喋るように
例えば、それは遠い昔の話を
既に忘れてしまった
事柄は切なくない
少しばかり盛ったおとぎ話を
タバコを吸いながら
そしてグレている
当事者も分らない
アパートのひび割れが塗り替えられて
雪かきのように灰を掻き出して
それはアスファルト、
どこかに消えた土砂
本当に?
と、
多分海の色を見れば分かる
ほら、次々と
魚が打ち上げられていく
灰の降る海に
explosion
なんだ?と問いかけても、男は言葉を濁し、口ごもるばかりだった。よく聞くとなにやら買い取ってほしいと言って情けなく飢えた眼をして懇願をする。二度三度その訳を訊ねるも、男はなぜか言葉を濁し口ごもるばかりだった。仕方がないので、その気はなかったが五つだけ買ってやった。しばらくして三つを縦横に張り巡らされている街の血管へ流し込んだ。その日のうちにはずれにまで流れ着き、そこで大量のブツに紛れてさらに仕分けられ、そしてさばかれ、明け方近くにはようやく一つに束ねられることとなる。
手付かずのままの二つについては、親類にあたるガキどもにくれてやれば物珍しさで喜ぶのかもしれないし、祖母や祖父ならば箪笥の奥に丁重に仕舞ったり、仏壇に供えてまた残りの余生を過ごすのだろう。遅かれ早かれポケモンGOも飽きられる頃合いだ。我先にレアものをゲットすべく方々をさまよい求めて歩くも、なぜだと思うまもなく早々にバッテリーが切れてしまい、約束の時間が過ぎてしまう。それは当然だろう。おれが男から買い取ったものにはまだ半年以上の猶予がある。そしてすべては日進月歩だともいうのだし、なにも急ぐこともその理由もない。いずれにしろ上空はあちらこちらドローンが旋回し、コートの内外はいっそうにぎやか。世事に耳目をくれてやれば新世界のドンには"TRUMP"なるものが君臨し、多忙を極めつつある。ヤツはまったくペラペラとよく動く新手てとこなんだな。
瞼を閉じて両手を合わせ、そうしてとりたてて願わなくとも2017(平成二十九年)はやってくる。変わらず厳かなる顔をし、静寂に白い朝をくるみ。そこにふと幻影であるようにしてもう一人の男が、穴の空いたような眼の底をちかちかと青く胡乱な光で満たしてしばし立ちすくみ、そして運んでくる。誘われるがままのぞきこめば声はこだましている。"生き延びる手立てがなかったんだ"
三話
久々に友人宅を訪問することにしたが、手持ちは持たない
既に十一月の末で、もうすぐ今年の最終月、言ってみれば大嫌いな季節だ
冬なのか晩秋なのかさえはっきりせず、グダグダと薄ら寒い風が吹き
みぞれか雪なのかわからない、グズグズ俺のような天候が続くのだ
今ほど友人宅といったが、はたして友人なのかどうか、いつもながら俺には友人という定義すらわからない
ただ、いま、行くべきなのだろう
そして何も語らずとも、その友人のありさまをまざまざと目に焼き付けて、俺は冬を生き抜かなければならないという事だ
車で友人宅の近くまで乗り付け、白い洋館のような建物に続く坂を上る
かなり古い中古物件だという事だが、最近立てつけをよくしたようだ
すんなり戸が開くと、冬のまどろみから一変、部屋の中では吹雪が舞っている
一言二言挨拶の言葉を言うと、彼はふわりと立ち上がり、台所へと向かい酒の肴でも作るつもりなのか消えていった
吹雪の部屋のカーテンはオーロラでできていて、部屋の片隅にはシロクマがぐーすか寝ている
部屋の電気は北斗七星だった
エスキモーから譲り受けたという青い酒を飲むと、俺の体内にもブリザードが吹き荒れ、たちまち器官が凍りついてくるのだった
そそくさと針葉樹に付いたエビのしっぽを平らげ、俺は震えながら今年のことを少し語った
彼も少し語ったが、やがて丸くなり、雪だるまに変態してしまった
既に俺を見送ることもできず、ただただバケツを被り、吹雪からブリザードに変わった部屋の中に座り込んでしまっている
友人ってなんだ?その定義は?
震えながら俺は声を絞り出すと、やっとの思いで長靴を履き真冬化した道路を走っていた
忌々しい、西高東低の貧しい風が吹き始める
久々に別な友人宅を訪問することにしたが、やはり手持ちは持たない
既に町とは言えないほどの人口になってしまったその小さな一角に友人は住んでいる
バイパスから右に折れると、密集した人家が小路脇に立ち並び、その脇の少し広いスペースに車をとめる
友人宅はその小路から百メートル行ったところにぽつねんと立っていた
その百メートルの間は歩くしかなく、名もない草が膝まで被るような小道だ
訪問を告げると、上がれと言う
座敷らしきところに立っていると、おもむろに押入れの戸がガタピシッと動き、ぎょっとすると中から友人が現われた
鼻の下と顎に貧相な薄い髭をたくわえ、目はかすかに笑っている
背筋は曲がり、肩や袖にオブジェのようにカメムシを張り付けている
台所に向かう前に、一滴の焼酎の水割だという液体を濁ったコップに注がれた
その絶妙に気持ち悪い温度と、水まがいの液体が喉を通ることを許した俺自身を呪ってはみたものの、液体は無碍に胃腑に収まってしまった
台所からでてきた彼は、皿の上にちぎったような雑草を並べて持ってきた
取り立てのサラダだよ
そういって醤油を水で薄めた液体をふらりと掛け、石の飯台に載せた
彼は極めて饒舌で、世界の不条理や、世の不条理をとつとつと目を輝かせて語った
まさに彼は「負」を栄養にして生きているかのようだった
「負」はマイナスなのだろうか?
いや、彼のように強大なパワーに変えることだって可能ではないのか
とにかく、饒舌に「負」について語る彼はとても幸福そうではあった
語り終えた彼は、痩せた体躯と透けた毛髪をそよ風になびかせて先に失礼するよ、と言って再び押入れに入ってしまった
たしかにそれらの友人は俺の中でとつとつと生きていたのは確かだった
言えるのは、それらの友人と俺は生涯を共にしなければならないのかという諦めだった
※
久々の休みを利用し、故郷へ帰ることにした
角ばった、新幹線のアナウンスを聞きながらワンカップを一口喉に送り込む
まだ日中にもかかわらず、酒を飲む罪悪感は日々を生真面目に生きる勤務人にとっては破壊的な快楽ですらある
そのアルコール臭を巨大に聳え立つコンクリートの天辺目掛けて吐き出すと、車輌のドアが開いた
布という衣装を身にまとい、あるいは鞄の中に胡散臭い書類が納まり
それらが新幹線の車輌の座席を摩擦する音があちこちに聞こえてくる
それは勝ちと負けに区分けする種を運ぶ売人の様でもあり
皆が金属臭のする体躯を包んでいる異星人の様でもある
こみ上げてくる臓腑からの空隙を、ひそかにアルコール臭とともに外気に散布する
b駅を降り、二十分ほどタクシーで走れば、もうふるさとの山域が見え、すっかり田舎道となる
懐かしいふるさとの話を聞き、その訛りにも触れ
わずか数百円のつり銭を引っ込めて運転手に礼を言い外に出る
ここから家まで数キロあるが、歩くことにした
ガードロープの下には懐かしい小川が流れている
(小川の川上から桃が流れてきて)
などと
新幹線の中で二合の酒を飲み、いささか酔ってしまってはいた
脳内にある奇妙な秘め事をひとつひとつ川に向けて語り始めている私であった
川は歩幅とほぼ同等にゆったりと流れ、家まで続いているはずである
(向こうから赤ん坊が流れてきて)
見ると赤ん坊が私とともに流れている
ぽっかりと浮かび、パクパクとお乳でも飲んでいる夢でも見ているのか、眠っているのに少し笑っている
少し行くと赤ん坊は次第に大きくなり少年になっている
どんどん歩くと少年は青年に
いつの間にか年齢にあわせ、着衣を着けてある
やがて顔の輪郭がはっきりと現れた
どうやら父の若い頃のようだった
父はやがて水から上がり、
「元気そうだな。それが何よりだ」
と、ひとこと言い、立ち去った
家に着くとたくさんの親戚の人がいて、短い挨拶を交わした
兄は私を見つけ、短く小言を言い放つと家に案内した
川から上がった父は、こんなところに静かに納まっている
寒かったろうに
もうすぐ熱くなるからな
そう、話しかけた
※
巨木に棲むのは武骨な大男だった
髪はゴワゴワとして肩まで伸びている
髭の真ん中に口があり、いつも少しだけ笑っている
深夜になると、男は洞を抜け出して森の中に分け入るのだった
たいていは、月の出た明るい夜だ
梟の声に招かれるように、男は大きな錫杖を持ち外に出る
丸い大きな月がいかにも白々と闇夜に立ち上がり
黒い空に浮かんでいる
下腹を突くように夜鷹が鳴けば、呼応するようにホホウと鳴くのは梟だった
草むらにはおびただしい虫が翅をすり合わせ、夜風を楽しんでいる
夜の粒が虫たちの翅に吸い付いて接吻しているのだ
木々の葉がさざなみ、風を生む
男の髪がふわりとし、汗臭い獣のようなにおいがした
なにかに急かされるでもなく、男は錫杖で蜘蛛の巣を払いながら峰を目指した
男の皮膚に葉が触れる
サリッ
峰筋の多くは岩稜で、腐葉土は少なくツツジ類が蔓延っている
藪は失われ、多くの獣たちの通り道となっており、歩きやすい
峰の一角は広くなり、そこに巨大なヒメコマツが立ち
各峰々から十人ほどの大男が集まり始めた
たがいに声を発するでもなく、視線すらも合わせることがない
かといって不自然さもなく、それぞれが他の存在を意識していないのだ
巨大な月のまわりをひしめく星たちは、その峰に向けて光を輝かせている
アーー
オーー
ムーー
と、一人の大男が唱え始めると、つられてそれぞれが声を発する
歌でもなく、呪文のようでもなく
静かな大地のうねりのように重低音が峰から生まれ出る
ちかちかと光る星々から閃光が走り出す
男たちの呻く重低音が峰を下り、四方八方に鋭くさがりはじめ
やがて山岳の裾野を伝い人家のある街々まで光とともに覆っていった
天気雨の詩
下着と、水平線のある浴室
飛行機の残骸のように
肺のなかに墜ちていく
息がすこし
燃えている気がする
ほんとうは、音のしない声で
話しつづけていると
遠くのほうへと連れていかれるから
そのまま
廃墟のような駅の
地下街で買い物をすませた
買い足した卵の
その永遠に眠りにつく格好で
浴室の白にうずもれていく
微熱のあるからだの、手術痕から
摘出された
骨や、落ち葉など
すべてが清潔だった頃のまま
そのままにしておきたい
吐く息は風となり
落ち葉のしたの弦をゆらすけれど
音のしない
卵が白いまま割れている
その空白にも
廃墟の群れが並んでいて
壊れた鏡は
森をあおく映している
すべてがどこか歪んでいた
この背骨のうえにも
青空
ひろげた形の翼が
砕けちって
だしぬけに太陽のひかりがさしてくる
なくな
遮るようにそう告げ
おまえは、もうおまえではない
誰かになってしまって
その声だけが遠く
燃えている
駅のホーム
駅のホームには
ひとつの世界が埋葬されている
それゆえに駅のホームは
世界の墓地であり霊場である
だから今日もそこには
忘れられた眼の光や
捨てられた愛の閃きなど
あらゆる感傷的なものが訪れる
駅のホームでは
幻想がどこまでも濃くなっていき
人の暗い内側では
熱された論理が組み立てられ
人は世界を弔う一つの感傷となる
駅のホームには人が集まり
電車が停車し鳥が羽ばたく
集まってくる日常的なものはすべて
葬られた世界への供花である
NO PANTY , NO POEM , CAR SEX !
車で、
どこへ行っても
同じような街ばかりで、
とりあえず
海岸沿いで、
君は
情景をスルーして
ノーパンで、
水平線を斜めに見ていた。
僕には
君が
君の存在そのものが
世界の比喩に見えはじめたから
とても
一緒にはいられない。
これ以上
ふたり
一緒にいれば
骨まで透けてしまうから
もう
君がノーパンでも関係ないのさ
ほら
そろそろ陽が落ちて
海が
悲しい歌をうたいはじめるだろう
あ!
流れ星
さあ
今ここで、
最後のセックスをしよう
世界に
とり残された気がする君と僕
もちろん
それは錯覚
この惑星は
セックスする場所が多い
なるほどね
どこで、
セックスしても
同じようなセックスになるんだね
不思議だね
不思議じゃないね
星が降る
海に捨てたブラジャーは
クラゲのように漂い
君のパンティは
いつの間にか
あの星よりも小さくなり
同じように
やがて消える
夜
優しいだけのポエムなんていらない
この夜に
骨が砕けるまで
君と僕は抱き合って
それで終わり
新しいね
新しくないね
月の輝かない夜
あ!
差別とキャベツ
似てるね
似てないね
さあ
僕の喉仏を切ってごらん
最初から
自分の言葉なんてないのさ
鋭くない破片
散らばる
効いてないメタファー
いつか
君が一枚の絵になる
それは地図かもしれないね
夜
そんな夜の海岸沿い
誰のために
海は
同じような悲しい歌ばかり
どうして
いつまでも
うたっているのか
選べるなら
僕は
こんな夜も
楽しい歌がいい
あ!
潮騒と詳細
くだらないね
くだらないね
あ!
同じような感覚
また錯覚かな
海岸沿いで、
悲しいね
悲しくないね
あ!
メリークリスマス
メリークリスマス
油壷
親の身体は不思議だ。子どもはえてしてお父さんの穴をみつける。洞穴を覗くと、血をたたえる磯辺。岩場の隙間、ざざん。ざざん。ざ、ざん。ざざ、んぼ。と波を聞くうち、環形動物が血を吐く。吐き出し。吐き、出し。また呑む姿がみえる。でも、おれはみなかったことにしたよ。そうして生きてきたよ。やがて生まれたばかりのおまえ、倦まず、おれによじ登り、首筋を小さな指でつつく。穿つ。ひらかれ、裏返る、おれの身体。
お父さんの穴をたとえるなら理科室脇の階段といえようか。白く脱色した蛇、鼠、鮫のホルマリン漬け、孔雀の剥製、脳、創立百三十周年のラベル(誰の脳髄?)。その奥に階段はある。おれはもう大人なんだから。ふと思い立って降りる。立小便するように。そこは油壺の水族館でした。前庭のタイルはひびわれ、あらゆる飼育員から忘れ去られた、ここは星。あらゆる病を詰め込んだふるさとだよ。腐った水に逼塞する細長い生き物。その一匹と目が合った。
足の親指に疣。紫色した菟葵のような疣。頼りない輪郭線を描くシステムによって、なんとかおれは維持されている。今夜、もののはずみで内破(evolve)。あとからあとから殺到する疣。疣以上の疣。押しのけ押しのけ打ち破る豊穣。末梢から熱帯雨林。繁茂。繁茂。おれが木になる(身体はどこからどこまで?)。おれの、おまえの、皮膚の下。潜む富士壺。
油壺。
潜り込んで、冬の道へ
ポエットの落とした滴に残像が、コカ・コーラのラベリング・カラーに変わって、マッシュ・ポテトのような聖夜が、いつか人間であった聖人をおもいださせてくれます。ピリオドを打てば、人は文明があり、そこに侵入した者、そして手先は、「今」あまねくまま、ピアノをガシャーン、ガシャーン、濁音させます。
冬の花の戯言、聞かないこと。僕とあなたは手をとりあって、どこにでもある、使用の禁止されたブランコで、言ってはいけないことだって言います。
すべては戦時下の日本に於いて、この文章は記し成されます。敵か、味方か、判別のできなくなった私はどうにも、統合失調的足取りで、背中から、影の入ったところ、入り乱れる遊戯性に、骨と化してしまったから、入りやすいのでしょう。
賢い者は語り始めます。口を問わず身体で、進行方向と真逆に向いた風の中に、耳を澄まし、あどけないプリマドンナは、その愛らしい一張羅を、私に見せて下さったのです。
僕は手帳をもって、そこに記します。「dear:〇〇〇〇〇」
あまねく、すべての思想そのままに、しかし思想に満足せぬ餓鬼たる私は、考え過ぎているのでしょう。ただ愛することが励しみ、だった頃よりつづく、飛行機の滑空、に、それを手帳の中に記すとして、私はワイアードの中で、配列の組換えを合法的薬品をもって、受動的になしているのでしょうか。いいえ、私は歩いています。ただ一本のさびしい道を歩いているのです。 どうでもよいことこそ、かつてランボーがめいでたもの、であったとして、あなたにかける明るい想いは命ひとつ。
この一生では足らないのか、とさくっと思えば、涙が両目からほろり流れる。
いつまでもそれらを眺める時間にいる、弥勒に於いて、ライスシャワー、降らずとも確かにのブランコの感触を、赤いテーピングと記録しつつ、忘れてしまうのでしょうか。いいや、そんなことはありませんよ。と、先導者がいることに気づきました。充足なる、充実なる営みの中で、ラッキーやチャンスを製造する者がいるとして、しかしこの身焦がれるわたしたちが互いに過去、毘沙門天祭に於いて一度離れたとして、「今」野遊びに交際している事実、あなたはいつもシャンプーの香りをさせて。先導者とふたりの間をすすっとレモンカラーの自転車に乗った傀儡子が遮りこう述べました。
「この道は、何もないからいけない。この道をいっても何もない。ふたりには愛しかないから。愛に換算できるものがないのだから、この道を行ってはいけない。特にオマエ、なんだその伸ばした髪を切ってみろ」
詩、がふりました。さらさらと詩の頁が、ふりそそいできました。僕の手帖からだって詩がブワッと溢れて、それらがこの冬の日に透かされながら、さらさらさらさらと降り注いで消えていきました。彼女は、先導者は、傀儡子は「今」だけを遺して静かにその詩の中へと納まっていきました。さようなら、さようなら、さようなら。宇宙形をした茸が静かにウン、とそのままに、その茸たる宇宙にいて僕は、やっぱり孤独だったのでしょう。
またクリスマスがやってきて、僕はサンタクロースに電話をかけようと思います。「今年は不勉強なのでプレゼントはいりません」空っぽのコカ・コーラの瓶の前で。
病院と蛇 / Bible
I
もし、私を断罪したいのならば
まずは私を丸ごと飲み込め
それから、吐き出し首を切り落とすといい
それでなければ
地の果てまで這い逃げる
私は蛇 蛇 大蛇
死の匂いと、狂いかけの瞳を抱いた
一つの尿瓶を追いかけよ
僕らの前奏を無視しながら
蛇は進む
名名、老人は咳き込む
とりとめのない口先の方便
車椅子はキュルキュル進む
それは、あらゆる音の始まりのような気さえする
ルーティンの点滴と、
夜中の呻き声は彼等の遠吠えだ
その声は僕を呼んでいる
寸で止めるのは、
あらゆる地獄の門
干からびた希望に、水を一滴落とそう
蛇は恙無く立ち返って来、
病院の体を蔦のように絡めている
II
僕にとってのソドムは
新宿歌舞伎町あたりである
巨大なゴジラの人形が、
手前を上回る虚無と焦燥で、
身をよじているように見える
僕にとってのゴモラは
渋谷センター街あたりである
入口付近の
巨大な電光掲示板が
滅亡の流行りなアンバサダーに見える
僕にとっての聖書とは、
君に会いにいく電車の中での、
醜く小さき、打算のことだ
山手線外回り
ディスプレイに映る路線図が、
円形脱毛症の祖父の頭に見える
硫黄の匂いがして、
僕はひそひそ笑う
此処で
愛はアナクロニズムだと、
気付いてしまったか
総ての地獄とは、
蓋然性を途方も無く信ずる
我々の目の奥に有る
クローン誘拐
男は小さな応接テーブルの上に置かれた紙包みを手に取った
中身は500万円の札束で片手で掴める
重さを量るようにすこし上下に揺らした後、包みを破ることなく傍らのボストンバッグに放り込む
その間、男はおれの目を見ていた
おれも男の目から視線を逸らさない 男は言った
あなたはこれを恐喝だと思っていない
おれは推量が鈍い奴とは組みたくないと言った
男はおれの自宅から出るごみを一週間ほど漁り続けておれの
生きている細胞を見つけ、胚にまで育てた、あなたのクローンです、市販のキットがあれば幹細胞化はアパートの部屋でもできるんです、買いませんか?
あなたが金持ちだってことは知ってますよ
ホテルの一室でおれは男に金を払い、男はこの500万円は自分のビジネスに関する情報料だと言った
つまり、投資の勧誘です、ゴミからクローン
を作って候補者を脅すのは面接の一環です、ふつうの人間は
どうして金を払わなければならないのかさえ理解できませんがある種の
あなたのようなタイプは、私と会って話がしたくなる
男は自分の事業を簡単に説明した、美男美女のゴミクローンを売ります
サウジやナイジェリアの富豪たちに、おれは男を遮って美人のクローンを育てるのかと聞いた、男は
育てるのは彼らです、と言った、
お好み通りに
男は不細工だった、おれは不細工とも組みたくない
妬みをビジネスにするからだ
だが、おれは出資を了承した、条件はいま育っているおれのクローン胚を代理母に出産させること
その費用や医者はおれが用意する、おれは男の事業には一切の興味はないが金を出し、組織化する、その一方で
警備されたゴミ収集サービスは良い事業になる
ゴミから細胞を探し出してクローンをつくる男の執念をおれは軽蔑する
分散化された脳神経のブロックチェーンが意識の同一性を保証するのである、おれはクローンに欲情しない
男がおれのクローンだと称するものはおれのものではない、男がサンプルとして送りつけてきた分割卵のDNAはおれ以外の男だった、
周囲の人間を片端からDNA検査すれば間男はすぐに見つかるが、それはおれの信仰心が許さない
おれが養子として引き取ってきた男の子がだんだん誰かに似てくるとすれば、
妻は恐れるだろうか? 愛おしむだろうか?
おれはどれだけ自分自身を苦しめることになるだろうか?
復讐は罰ではない、愛は善ではない
たいへんに見ものだ
諸君
復讐は時間がかかるほど良い
愛と同じように
動線
そっぽを向いていたスズメの頭がこちらを向く
120度
きみにも首はあった
しかも性能のいいやつが
背骨全体をうねらせていた
またネコの立ち姿を美しいと思う
筆記体で記すNのような
「む」にビーグル犬の横顔を見たこともある
スヌーピー
行書体で書くのなら古代の石像みたいな
スヌーピー
墨汁一滴
書の龍が気圏0.1ミリメートル以下繊維質の
吹き渡る大気を降りていく
「風立ちぬ」と
ヴァレリーからの堀辰雄からの宮崎駿
焼き魚の内部から小骨を引きずりだすワンシーンのことを
考えている
他のすべてを見失いながらの
帝王切開
水をきるのも水かきじゃない
あの曲線
あの蓄積
あの魅惑
無限の美術
澄んだ空気を吸い頭の中の旋律は新しい。
胸を叩き心をよく整える。
過去をだれたまま放る、筋肉の力でねじの緩んだ頭を刷新する。
人が望むものでは恋、ポエジー、平静が、現状では素敵だが、
望むものは争いの元だと子供のころに分かった。
傷ついて心を隠すほどの過度の内気さ。
生まれたときに泣くことを知り、時がたち泣かされてはならないと覚え。
未来に行くにつれ可能性が少なくなっていく。
宇宙の可能態も、心も。
いや、心は、どんどん複雑になっていくのに、なぜ可能性が狭まるというのか。
時間と空間のせめぎ合った状態を「表現空間の有限性」として考えてみても詮がない。
何時もの通り、大事なものがはっきりとわかるときもう手遅れで、
醜態で赤恥の上塗りをするばかりだ。
だが、一度ならず苦渋を味わったあとでは、唯一者となれると確信している。
心が再び甦るよう誰の手助けも拒否して立つ、
無限という普遍性に満ちた概念が、正しくみなされ、居場所が生まれる。
喜びの渦と枯れ枝の落ちることも表裏一体となっていることが、意外で困惑する。
はっきりとしゃべればときには純粋になり、純粋になればうれしいのだが、
はっきりとしゃべるときの全ての場合にうれしいとは限らないのは神の意地悪だ。
自主性と他者性を、隔たった二者の代表例として、モデル化出来る。
小言や不機嫌をやりとりしたりしてきた夫婦が生きていくうち、
純粋は空の傷の裏側にいくつもしまわれ、
そしてそれは忘れ去られていき──
現代美術は反復としてしか見出されないのだと思うと、
時代が進化していく様子をイメージできる。
テレビの砂嵐はいよいよ激しさを増す。
打って蹴って。
緩慢な生にはもう飽きた。
優しい心と剛毅な心持ち、自らの罪を滅ぼすのだ。
論理のごとき美の上に。
こけし
上品に澄ました顔のこけし こけし
ほほえみながら くるくる
軸を中心にしてこけし くるくる
和洋折衷な旅館のロビーで
置物達の中に並んでこけし
くるくる くるくる
かわいいこけし くるくる
小さな男の子がこけしを見る
回る台座にも乗っていないのにこけし くるくる
じっと見つめている
古時計がぼーん ぼーんと鳴った
ロビーに窓はひとつも無く
換気扇も動いていない
ロビー全体をほこりが薄く覆っていて
棒状の蛍光灯がじじじと照るだけ
両端に続く廊下は先が無いかのよう黒くて
その中で非常口の人型だけが浮かんでいる
緑の彼は黙して見張っているかのようで
真っ赤なロビーでこけし くるくる
男の子は他に誰もいないこの中で
回るこけしに目を奪われている
胴体の線模様がゆらりゆれて
細めた瞳とときどき目が合う
それは男の子を誘惑しているかのようで
くるくる くるくる
ひとりでに回るこけし
動力などもちろんない
くるくる こけし
かわいいこけし
くるくる くるくる
棚とこけしの底がすれて僅かに音が
くるくる かわいらしく
ほほえみながら 男の子の前で
回転し続けるこけし
木彫りの熊や市松人形
他の置物達は無機質然として動かないのに
こけしだけはちらちらと男の子を見て
男の子を見入らせて くるくる くるくる
空気は乾燥している
自販機のビールは無視を決めこんでいる
合皮のソファは憐れんでいる
靴箱はもはや目を塞いでいる
こけしはくるくる
誰もいないロビーの中で
男の子の前だけで
踊るように 誘うように
降ってもいないのに雨音が聞こえてくる
くるくる くるくる
かわいいこけし
そして男の子
真っ赤なロビー
くるくる くるくる
くるくる くるくる
くるくる くるくる
お母さんが男の子の名前を呼んだ
我に返って、はーい、と返事をしたときには
こけしはもう回っていなかった
ほほえみだけは男の子に向け続けて
男の子は自分の家族が泊まる部屋へと帰っていった
hana
いってきます。おざなりにされた希望たちへ。一見変哲もなくこころ澄み、過ぎたものたちへ。僕らの春は残酷に富み、越えて夏の渚を夢見、歩きつつ、しかしこころ枯れるは自然ではなく、冬には蜜柑。未・完成のまま孤独を離れ皆の中に帰す。みんななんで物を書こうなんておもったのだろ?
今、放たれたる聖なる言葉の子供の言葉、是は落とされて割らされた陶器の灰皿、そのときも過ぎ去り。
(灰皿をのけようと思えば落葉と灰が一緒になっている)
見つけてほしいよ。お父さん、お母さん、いつのまにかぼくらは病みすぎた夕方の為に
反対、純に澄みすぎてしまって融通が利かぬ。まるで吠えることしか知らない犬のように。
(しかし犬の総ては知れず、なにものの総ても知れず)
そして子供の語る聖なる言葉のように、力なき言葉に、価値なき言葉に、ラアラア、精を出しては恥ずかしいよ。
花は花としていつでも、今、そこに、あるがままにあって。ほほえんで下さるでしょうか。
きみの挑戦に未来、拍手がなされますように、そして今日もテレヴィで黒煙を見るのかな。
ねぇ?読んでいる?未来の子供たち、未来人へ。僕は今をかえりみないから、悪くて、散々悪い文句を書いてきて、仕方がないから、今この記述をラッピングしないそのままに。
嗚呼、枯れていく僕らは今に於いて勝手にしろ、という声も聞いたが、この不条理な今に於いて「さっぱりとした手相だね」という彼女の言葉、彼女も花の、胸に誇らしくいつか空へかえり、土にかえり、川へかえり、海へかえり、いいたかった、おかえりなさい。
セカンドポジション(既視感に箍められ)
美しい駅を探していた
それは木造の西洋風建築ではなく誰もいない改札口
錆びた線路の両端
何処を見渡しても空いっぱいに野原が広がる
足音だけを残した無人駅
いま僕は狭い待合所の片隅に腰を据える
頑丈な木材造りの腰掛け
窓際の薄汚れた白壁には秋祭りのポスターがちぎれ
神輿を担ぐ人々の姿は宙を舞う
「メモリーズ」
ありあまる空は透きとおり
電線にぶら下がった蜘蛛の糸
人々からけものたちが消える黄昏
いまでは人々も携帯を持ちながら旅をする
待合室には時刻表の貼り紙もあった
列車は必ずやって来るだろう
構内を出て駅前の広場を眺めてみた
直線に向き合う商店街のシャッターは閉ざされたまま
街をうろつく人もいない
冷たい日差しに呼び戻され
気になって横に置かれた看板を見やれば
古い指名手配者の顔が貼り紙にくっついていた
通りを見直せば建物の陰から人の気配がして
不精な風の音がひそひそ話しに聞こえてくる
ひとりあたまの中で時間だけが過ぎてゆく
(もうひとつ手前で降りればよかったのに
一歩だけ引いて、群れながら、 遊ぶ )
振り返っても列車は来なかった
わらべ箱は轢かれぬままからが砕け散る
気がつけば山の頂きが蒼く霞み
薄赤い灰色の雲におちてゆく
けものたちは冬の朝陽を浴びてねむり
誰かが水やりをする路辺のすみれ
夕立ちのあと野原に霧が佇む
踏みつぶしたシロツメグサが轍を
辿り着く場所は幼い頃の面影
いつまでもこうして居たかった
「ゾウがいた夏の日」に
罪は小さな傷口から広がる
ふたつめの席がすれ違う回送の先
駅は線路を背負い待っている
あの日僕は予想ばかりして逃げていた
(何処へ向かうの)
それは遠近を逆に狭め続けては
宛てもないひとりの旅が終わり
やがて美しい鳥の鳴き声が聞こえる。
銀行へ行こう!
[福]
雨が降る日は
福沢諭吉に会いに銀行へ行こう
きっと
みんな死んでいるから
傘で
中心を刺しながら銀行へ行こう
[沢]
世界が
平日の昼間に終わるなら
あの太陽は
お金で買えるのかもしれない
行こう
沢のほとりから銀行へ行こう
雨の日に見る太陽は
抽象画のように
銀行の壁に飾ってある
[諭]
君よ
まるで洗練された文章のように
雨が降っているではないか
しかも無料
このまま
もっと濡れてみたい
そんな気分だよ
優れた批評はできないけれど
こんな日は
芸術を買うために銀行へ行こう
月よ
口座番号を照らせ
お金で買えない芸術は
傘の下で
そっと守られているから
比喩の中で
今夜
新たな芸術が生まれるのだろう
ごらん
諭吉の諭が
比喩の喩になり
やがて大金の雨が降るのさ
[吉]
共感という名の闇よ
みんな
それを狂気と呼ぶのか
素晴らしいね
ならば君よ
これから
その狂気の値段について
君と僕と福沢諭吉の3人で
食事でもしながら
ゆっくり話そうではないか
共感だけでは
僕の財布は開かないけれど
今夜は僕がおごるよ
凶とでるか
吉とでるのか
さらば芸術
手数料込みで陽がのぼるまでに
必ず
君の闇を買い取ろう
麗しき火星のプリンセス
は、「蝶」だった。
彼女は、彼の血が殆ど「白い花」であることなど知らなかった。
また猫を被った「砂漠」の似非民主主義の下に隠された
支配と、からくり仕掛けの国体そのものが
火と硫黄の燃えている池の散らばる果てのない苦しみの場所にも劣らぬ
凄まじき呪いの連鎖であることさえ見えていなかった
なぜ彼が激しく殴るのかも、
あたりまえの日本人である彼女には一厘一分すら理解できなかった
下着姿でダンスを踊るときの彼の顔は普通に「△」だったし、
(中断)
「そよ風」の目的は、民族の「郵便番号」に他ならない。
(中断)
覚せい剤麻薬物の製造や販売等の
それらの忌むべき所業を一般的には非合法というが、
しかしながら国家的規模の大がかりな犯罪行為においては
複雑な外交問題も絡んで超法規的視野での検討が司法に促される
事実、「ガラスの仮面」は――
日本人の非戦闘員を虐殺するために
1945年8月、「教室」に原子爆弾を投下したが、
その莫大な威力を知りながら尚、さらに「職員室」にも原子爆弾を投下した
「カスタードプリンを掬った銀のスプーン」は、
もうそのことを半分くらい頭から忘れてしまっている
(中断)
政府が関電の安全対策を承認した9日、枝野氏は記者会見でこういってのけた。
「再稼働基準をおおむね満たしている」
「おおむね」で動かされてはたまらない。あのアホの繰り言「ただちに影響ない」と同じ詐欺的論法である。
【週刊ポスト2012年4月27日号 大飯原発再稼働 “黒幕”の暗躍で急ピッチで進んだとの証言】より抜粋
(中断)
帰国子女の彼女には、騒がしく乱暴なこの世界が
夢を纏った得体の知れない欲望の「お茶漬け海苔」であることや、
非対称ジメチルヒドラジンを燃料として使用した簡易なロケットエンジンの
パーツのひとつひとつに汗ばんだ「夢裡の蛙」が潜んでいるのを‥‥
(中断)
そして漆黒の熊野灘から、火は走り続けた」。
(中断)
悦びを投げ捨てた女の激しい憎しみが、胎を割いて泣き叫ぶ、
夜であるお前たちの背後の壁に褪色しやすいイーストマン・カラーで描かれた美しい時代が
粗い粒子の消滅とともに細かな光をちりばめて色鮮やかに燃えてゆく
あかい口紅をヌリタクッタ、精液と嘘マミレの唇よ!
やがて業火を呼び起こし、紅蓮の炎を吹いて騙し絵の世界を焼き焦がしてしまえ
オマエの母はヘリコプター・マネーをひろう黒い羊だ、
オマエの住処は、当て所なき海の漂泊だ!
(中断)
麗しき火星のプリンセス、
(中断)
は、「声」だった。
影役
水でできたドアに白い花を挿し入れると
丘の上でまぬけな老人が死んでいた
汚れた街路樹の囁きに耳をすましては
タイヤの跡を舐めるように這いずり回り
1+1=5だと思い込みつづけ
間違えている自分にいっさい気づかずに
青空のまんなかで雲にぶつかって死んだのである
しかし彼はそれでよかったのだし
そうしなければならなかった
このまぬけな老人は常に酔い続け
影役に回り
いつまでたっても空を飛ぶ鳥のまねをして
だれもいない海に全力で向かう
そうやってなんもない自分の心を
まるで呪うように這いずり回り
空を飛ぶ鳥の踝を掴むのだ
だが顔面に白い糞をかけられ
ついには街路樹の囁きに踏み潰され
死んでしまった
死んでしまったのである
彼の身体は冬の寒さに張り裂けて
枯葉と水滴と変化して
光のある埃を纏いながら
アスファルトの真下に流れていった
だがアスファルトがそれを嫌がり
真横へ回避してしまった
彼は最後まで気づかないのだろう
そうして彼は最後にこう思いながら
無に還る
“1+1=68だ”
しかし本当は、本当の答えは2でもなくて
彼自身そのものだったのだ
オルゴール
コリリ コリリ
ねじを巻き ひらく蓋
キチチ 押さえが上がり
白鳥の湖 流れ出す
ビロードの小部屋
眠っていた バレリーナ
くる、くるり、くる
鏡張りのステージで
ぎこちなく 踊りだす夕べ
待っている 一度しまった 携帯電話
胸ポケットから 再び出して
ようやく わたしに繋ぐ あなたの声を
薄暗い部屋 うつろに 眼を開いたまま
扉を開ければテレビの音量を下げて立ち上がるわたしを、あなたは目にする。
リビングのオレンジ色のあかりの下で、わたしの時間にあなたの時間が流れ込み、ともに拍をうち始める。
キシリ、缶ビールのふたを開け、途切れ途切れに言葉を交わす。
バラエティー番組のどこか薄い笑い声を聞きながら、いつもの夜が回りだす。
朝起きると あなたは いない
あなたが わたしを 起こさないのは
オルゴールが 再び 鳴り出さぬよう
カチリと 扉を 閉めるため
あなたの バレリーナは 眠る
美しいまま
カーテン越しの 淡い光は
全てを 色褪せたように 見せ
わたしは 眼を開けたまま
こぼれてゆく微かな音を
聴いている
.
星
もしも、彼らがおれに期待していることがあれば、あればの話だが、黙っていろ、ということだけだろう
おれは神様じゃなかったし、論理学も馬鹿は黙ってろと言う、すくなくとも黙っていればお目こぼししてもらえるようだ、黙れない馬鹿が社会を劣化させるのよと天使のような彼らがおれにウインクして言った
上司はおれの予算申請書を見て首を横に振った
これ提出してみて通るんだったら次から見習おうかな、
文章に赤を入れることもなく、机の上の紙の束を向かいに立つおれの方に指先で押し戻す
洗濯機が回っていた
すこしためらってから妻の肩に手を置く
妻は身体を固くした、しかし、おれに振り返った顔は微笑んでいてくれていた
なに?
親身な問いかけにおれは口ごもりながら後ずさった
妻に触れた指先に後ろめたさが残っている
年下の同僚はおれを気遣ってくれる
先輩、なんでもできることがあれば手伝いますよ
おれはありがとうと言う
次は絶対がんばりましょうね
おれはありがとうと言う
妻は子を産む
おれはありがとうとしか言わない
おれの存在は無害だが無罪だと決まったわけじゃない
世界はおれの平凡さを受け入れてくれているが、おれの平凡さは世界をすこし重くしている
おれだけがおれが神様じゃないことを気にしている
すっかり過ぎてしまった
大工のヨセフにメリークリスマスと言いに行く
冬
海のうえに
巨大な女が横たわっている
白い肌は透き通っていて
その向こう岸にある
無人島もぼんやり見えている
近くを漂う漁船は
女があくびをするたびに
ゆらゆらと揺れて
けれど乗っている人達は
それを波の揺れだと思っている
裸にも関わらず
何のいやらしさも感じないのは
この界隈には一年中
霧がまばらにかかっているから
砂浜にはたくさんの穴が空いていて
そこからは動物の
寝息が聞こえている
特別大きないびきをかいている穴を
ヤドカリは覗き込み
しばらく動けずに固まっていた
反対側の浜辺で
焚き木をしている人間がいる
この世界では
人間だけが服をまとっていて
それがとても不自然だった
煙がこちらまで流れてきて
女が不機嫌そうに目を開けた
その瞬間に雲が太陽を隠して
あっという間に
ここにいる全員の身体が冷える
そして焚き木の炎は
きっと消えてしまう
なぜなら今の
季節は冬なのだから
誰もが眠り
誰もが夢を見る
今にも雪が降りそうな空に
女はまた瞼を閉じて
あくびをし
口から白い息を吐いた