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2018年04月分

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* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


引用について。

  田中宏輔



モンテーニュのなかで私が読みとるすべてのものは、彼のなかではなく、私自身のなかで見いだしているのである。
(パスカル『パンセ』断章六四、前田陽一訳)


 確かに、これは、納得し得る言説である。しかし、他の断章から切り離されたこの部分の引用だけでは、文脈が通じにくいところがある。そこで、筆者は、これを、私自身の中で見い出されるすべてのものは、私自身の中にではなく、私の外にあって、私の心に働きかけ、私の心がそれに応えるところのものの中にあるものである、と読み換えてみる。
 また、引用されたこの断章が、その文脈を通じにくくさせている原因の一つに、パスカルがモンテーニュの中から読み取ったものと他の人が読み取ったものとが、同一のものであるという保証がどこにもない、ということがある。というのも、それは、


事物が同一であるのに、(その事物を対象とする)心に差別があるから
(『ヨーガ根本聖典』第四章、松尾義海訳)


であるが、ここで、また、では、なぜ、心というものには違いがあるのだろうか、という疑問が生ずることになる。
 いま、


心はその(事物の)影響に依存するものであるから、事物は(心に影響を与えるときは)知られ、(影響を与えないときは)知られない
(『ヨーガ根本聖典』第四章、松尾義海訳)


ものである、と仮定すると、知識や体験といったものの違いが、心に違いを生ぜしめる要因となっている、ということが結論として得られる。すると、なぜ同じ事物が、ある人には感動をもたらし、ある人にはもたらさないのか、また、同一の人に対しても、ある時には感銘を与え、ある時には与えないのか、といったことの理由が判明するのである。筆者は、先に、モンテーニュの中から読み取られるものが、パスカルと他の人間とでは、同一のものであるという保証はどこにもないと述べたが、その言説の根拠がここにあるのである。勿論、述べるまでもないことではあろうが、このパスカルの断章で言われるところのモンテーニュとは、彼の著作物を指し示す換喩(Metonymy)である。そして、それが、また、さらに、あらゆる事物を指し示す提喩(Synecdoche)となっているのである。
 ところで、また、個性とも呼ばれる、その人をその人たらしめる特質というものは、外因的な要素である事物の他に、内因的な要素である遺伝子という生来のもの、生まれつき備わっているものにも影響されるものであろうから、心に違いを生ぜしめる要因として、遺伝を含めて考察しなければならない。ただ、どちらの方が、より多く心に影響するものであるかということについては、人によって様々に異なるものであろうから、一概にしては言えない。その影響の大部分を、知識や体験といった外因的な要素によって被る場合もあるだろう。しかし、遺伝形質というものも、その人の両親である他の個体によってもたらされるものであるから、それも、また、外からもたらされるものであると考えられるのである。
 では、いったい、


だれがおまえをつくったのか?
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)


誰が私を造ったのか。
(アウグスティヌス『告白』第七巻・第三章、渡辺義雄訳)


 この問いかけは、筆者が冒頭近くでパスカルの一文を読み換えたものと照応する。即ち、外からもたらされたものの取捨選択と集積、そして、それらを組織化するところのものが心に違いを生ぜしめ、私というものを形成するのである。言い換えると、私というものは、すべて外からもたらされたものである、という訳である。『レトリックの本』(別冊宝島25)の中に、ペルシャの神秘主義詩人ルーミーの言葉が引かれている。比喩なしの話を聞きたいと言った人に、「おまえそのものが比喩なのだ。」と答えたという。筆者もまた、その言葉をもじって、「私とは引用そのものである。」と言ってみることにしよう。
 すると、引用というものが、そこで実現された表現とその受容において、いったい、どれほどの効果を持つものとなっているのか、というような問題は別にして、それがもっとも直接的に個性を発現させる技法の一つである、ということが理解されよう。筆者には、ここで、「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう。」という、ブリア・サヴァランのアフォリスムが思い出されるが、如何なものであろうか。(関根秀雄・戸部松実訳『美味礼賛』岩波文庫)
 
 次に、引用という技法が、その極限にまで達して駆使されていると思われる詩作品を例に挙げて、考察していくことにする。但し、この限られた紙幅では、その全文を掲げるわけにはいかないので、その中から一部を抜粋するに留める。


廃星が

 ──羨しいな、絵の君に、と、ささやき掛けた、或る日、夕暮れ
(吉増剛造『廃星の子』、詩集『螺旋歌』所収)


 これが、その詩作品の冒頭部分であるが、作者の名前が明らかにされてなくても、読者は、これだけで、この詩作品の作者名を容易に言い当てることができる。それは、この部分が、吉増氏によってこれまで頻繁に繰り返し用いられてきた言葉で構成されているからである。詩集『スコットランド紀行』の中に、「引用のことを言いますと、自己引用もしますし、引きなおし、引いて、引いて引きなおして、」という作者自身の言葉があるが、これほど激しく自己引用する詩人は、他には見られない。読者は、その作品世界に冒頭から引き込まれることになり、そこで新たに展開されるヴィジョンは、この作者によって形成された過去の作品世界と共振させられることになるのである。自己引用というものは、とりわけこの詩作品の作者である吉増氏によるものは、その作者が形成する作品世界に、さらに多義的な、或は、多層的な解釈をもたらすものとなっているのである。
 この詩作品では、終わりの方で、また、この冒頭部分に類似した詩句が現われる。


廃星が

 ──羨しいな、絵の君は、と、ささやいた
(吉増剛造『廃星の子』、詩集『螺旋歌』所収)


 これは、作者が言うところの「引きなおし」であろうが、一般に一つの詩作品の中で現われる類似した詩句は、反復(Repetition)と呼ばれるものであって、引用(Quotation)とは呼ばれないのであるが、この詩人の場合には、反復もまた、引用であるかのごとき印象を与えるものとなっている。
 
 この詩作品の初出誌は、「ユリイカ」90年12月号であった。その折りには、『月の岩蔭に蹲んでわたしは春を待つ』というタイトルで掲載されたのであるが、詩集収録時には、末行に書かれてあったこのタイトルと同じ詩句が省かれており、また、末尾に附記されてあった文章が省略されている。その文章には、この詩作品が、画家ジョルジオ・モランディー回顧展によせて書かれたものであるという経緯が述べられてあったが、それは、ここに引用された「羨しいな、絵の君に(は)、」という詩句に照応するものであった。


落ちても枯葉に行く処なし
枯葉に行く処なし
行く処なし
処なし
なし
(吉増剛造『廃星の子』、詩集『螺旋歌』所収)


 初出の段階では、この部分には、各行の行間に、一行分の空白が設けられてあったが、詩集に収録された時には取り去られている。この詩作品においては、様々な改稿が施されているが、この部分とタイトルの改変、そして、初出の際に末行にあった元のタイトルと同じ詩句がなくなっていることは、筆者に非常に大きなショックを与えた。このことは、筆者に、詩篇の改稿というものが、読み手のヴィジョンに対して、どれほど大きく影響するものであるのか、ということについて考えさせるものであった。
 この部分は、筆者に、T.S.Eliotの「The Waste Land」 を思い起こさせた。


‘What are you thinking of? What thinking? What?


 これは、II.A Game Of Chess にある詩行であるが、前掲の吉増氏の詩句は、この Eliot の詩行が表わしている意味内容(Sense)の引用ではなく、その詩行が持っている文体(Style)の引用である。吉増氏の詩句は、Eliot の詩句とは、その意味内容において、関連性のまったくないものであったが、その文体の引用がもたらす音調的な効果が著しく類似しているために、Eliot のThe Waste Land のイメージを筆者の心象に喚起させ、筆者のヴィジョンに揺さ振りをかけるものとなったのである。


"わたしは火がほしい"と枯葉が葉裏であれまた嘘ついちゃった
(吉増剛造『廃星の子』、詩集『螺旋歌』所収)


 これが、詩集収録時の末行であるが、引用であることが示される""で括られた「わたしは火がほしい」という詩句から、ニーチェの『ツァラトゥストラ』が思い起こされた。「私は火を欲する。」といった言葉を目にした記憶があったのである。そこで、筆者は、その言葉が書かれてある箇所を確認するために、その本を繙いたのであるが、捜し当てることができなかった。三たび通読してみたのであるが、そのような言葉はどこにもなかったのである。しかし、その再読は、筆者に思いもよらぬ収穫をもたらすものとなったのである。手〓富雄訳(中央文庫)で、幾つか文章を引くことにする。但し、丸括弧内の数字は、その文章が引かれたページ数を表わす。「君は君自身の炎で焼こうと思わざるを得ないだろう。いったん灰になることがなくて、どうして新しく甦ることが望めよう。(100)」「まことに、自分自身の烈火のなかから、自分自身の教えが生まれてくることが、もっと意味のあることなのだ。(143)」「人間たちのあいだにも、灼熱の太陽によって孵されたひながいる。(230)」「そしてまもなくかれらは枯れた草、枯れた野のようになるだろう、そしてまことに、自分自身に倦み、水を求めるよりは、むしろ火を求めてあえぐことだろう。(274)」「万物を焼きつくす太陽の無数の矢に射貫かれて、灼熱しつつ至福にふるえているように!(346)」「精神に火を(373)」「熱い火を与えよ、(407)」。

『ツァラトゥストラ』にある、これらの文章が、筆者に、「私は火を欲する。」といった言葉を思い浮かべさせたのかもしれない。
 
 或は、もしかすると、「わたしは火がほしい」という吉増氏の詩句が、『ツァラトゥストラ』の全内容を、「私は火を欲する。」といった非常に短い言葉で、筆者に要約させたのかもしれない。
 
 また、『ツァラトゥストラ』の中には、「そしてまことに、没落が行なわれ、葉が落ちるとき、そのとき生はおのれを犠牲にしてささげているのだ──力のために。(181)」「おお、ツァラトゥストラよ、木の葉をして落ちるにまかせるがいい。そして嘆かぬがいい。むしろその木の葉を吹き散らす手荒な風を吹き送るがいい。(287)」「そしてわたしは自分自身を保存しようとしない者たちを愛する。没落してゆく者たちを、わたしはわたしの愛の力のすべてをあげて愛する。かれらは、かなたへ渡って行く者たちなのだ。──(320)」といった文章もあり、これはまさに、筆者が前に引いた、吉増氏の詩句である「落ちても枯葉に行く処なし」と呼応するものである。
 
この詩作品における引用の妙については、まだまだ言及するべきところがある。しかし、いまは、紙幅に余裕がない。後日、また、機会があれば、それらについて論じることにしよう。


めんへら。

  田中恭平

 
 摩擦する身体
は、もう耐えられそうにない
と考えていたのに
気がついたら
幸福になっている
この不思議をコップに注いで飲む、
昔の話がしたくなった
もう歳だね
禁煙のはなしはケースワーカーに聞いた
その返答がまだかえってこない間
お目汚しの文章を読んでくれる?
きみに時間がないなら
きみだけのことを精一杯やればいいさ

桜の季節になると想い出す
それは闘争と遁走の桜であった
若くて財はなかった
ロックンロール・バンドのリーダーだったんだ
蛇がうねっているところを観客に幻視、
させることだってできた
ある日部屋に帰ってくると
部屋中の家具がひっくりかえっていた
癇癪持ちの女がやったんだね
当時から煙草以外はクリーンで酒もやらなかった
毎晩サティのジムノペディを聞いて寝た
電気も水道も止まった部屋で。

睡眠嗜好症なんだと思う。
部屋に帰らず、近くの公園の芝生で
寝たことだってある。
終電で眠って最終駅まで行っちゃって
仕方なくタクシーで帰宅したこともある。
御金はそんな風に使っていた。
今じゃ信じられないよ。
そして徐々に脳が弱っていったんだね。

煙草を喫っているとさ
嗚呼、これがドーパミンか、って
脳に意識を向ければわかるんだよね
嗚呼、これは適切な言い方じゃない。
でもまあ、いいか。
ドーパミンが全く出なくなって
鬱で死んでしまったひとのことを知っている。
大事なひとじゃなかった。
でも今じゃ彼をシンボルとして僕の喫煙はつづいている。
きみは煙草やらないの?
やらないにこしたことはない。
ニコチンってのはデビルの別称なんだぜ。

朝が来なかった。
わけのわからないことを口ばしった。
友人がきみは統合失調症じゃないのか?と言った。
僕は疎かったから、何を言ってるのかわからなかったけれど
精神科に連れていかれた。
そのときには完全に自分のことを日本国最初の人体実験被験者、
だと思い込んでいた。主にロケット関係の・・・・・・、
何を言ってるのかわからないだろ?俺だって今わからないよ、
診断は全般性不安障害だった。
最初から適切な診断が下ることはレアリティがあるもんだ。
自分が統合失調症だと診断してもらうなら正確に云えよ
「俺は、今、国家のモルモットにされかけている!」
でも
「クーラーの隙間に鬼の小僧が住んでいて喋りかけてきます!」
その誤診が悪かった、
薬の副作用でぶくぶくと太り始めた。80キロはあったかも知れない。
それでも平然と働いていたんだから面白いよ。
昼間はスタジオで働いて
夜になるとドラゴンと語り合って食事していた。
嗚呼、それは六月の都会の夜!

リーマンブラザーズの件で株価が暴落して
なぜかこのままでは死んでしまう、と思って
新幹線に乗って実家に帰った
それから二日は寝ていたようだ
癇癪女と友人たちとの永遠のさようなら!だ、
新幹線のなかでヤハウェを観た
今じゃ寝室に分厚い聖書が置いてあって
こころのどこかでナザレのイエスがわたくしを
御救いなさってくれる、と信じている、
敬虔な浄土真宗の家なのにね。

いつも思うんだ、物を書いていると。
なんで物を書いているんだろう?と。
ビート作家達だってそうだ、なんで
みんなそろいもそろって物を書いているんだろうか?
一種の個人的ベンチャーみたいなものか?
この日本語おかしい?まあ、別にどうだっていいけど。
もうword三枚分は書いてしまった、
ちょっと付き合ってもらうには長すぎるかな、

俺は、郊外で、ときどき東京の友人とやりとりしながら
よろしくやっている。
朝三時に起床して、Amazonの荷物と格闘している。
最近は財布を盗まれた。中には障がい者手帳が入っていて
そんなものを盗んで見る奴は絶対に地獄にいくと思ってる。
度々幻聴が聞こえる、俺はそれを無視しない
面白いことを聞いてくるからだ、かといって路傍で
笑うなんて絶対にしない。
最近も自失を考えたが、もう俺には大切なひとがいる。
嗚呼、もうめんどくせぇ、
この文章は全体的に失敗している。
俺はそれを知っている。
だが俺は一度書いたことを書き直そうとは思わないし
大体生活がよろしくやってるから、そんなことどうでもいいよ
ってな具合の関係ねぇパワーだ
アジールの向こう側で俺を罵る声が聞こえる
大丈夫だ、きみ、アジールは絶対不可侵だから
雨がふる、雨がふる、彼は風邪をひくだろう


Flatline

  アルフ・O

 
 

(The void,

溢れない、
死なない、
そして誰からも呪われないし
蔑まれない。
彼らの捌け口になる予測を
散大した瞳で見据え返す。
「分かりやすいって?
「そうかもね。でも触らないで、
「エゴで産まれるならせめて
 飾りつけくらいちゃんとしてよね、
「中指、第二関節で刎ねとくから。

shiver,)

飽きさせない保証があるなら
影共と、森に住んでも悪くないかな、
なんて。
星みたいな髪色の彼女が
たん、たたん、たたん、と
踊るから
「だってあたしは、
 喋れば喋るほど退屈するんだもの。

gravel,)

さよなら世界、と
もがく羊に吐き棄てる
もしくは、吐き棄てられる、

(placebo,

バタークラッカーの枚数が
際限なく増えていって、
傷口を圧迫し
「結局出来上がったのが
 その形而上(ゴミ)の山。
善人凡人遍く意識を押しつぶすつもりで
Alligator installationと名付けたそれを
余さず五月雨に溶かした。

(Dear my GREAT dictator,

「ザマァないわね。
「褒めないでほしい、
 これからのあたしを、
「その名前は捨てて。
「いびつに編み込む毛先に魔法を施す、
「触れるくらいが好きなんだよね、
 噛むんじゃなくて。
「輪郭なぞるだけで満足すればいいわ。
「意図の薄れた泉に沈まないように、
「声を、出せないでいる。
 冬が終わる頃から、
「chain,
「散乱する死体の怯えた目を伏せる順序は、
「気にする価値もない。
 だってあたしたちには
 結局害しか及ぼさなかったし。
「暴動だって胸張って言える?
「chain,
「期限切れの呪文を何度繰り返せば気がすむの、
「逆立てた棘を燃やすのに必要な、
 その捻れきった意識を、こっちに寄越しな。
「空想と寝室の堂々巡り、
「自家中毒だから笑ってくれていいよ。
「宿主に振り回されて、
 もう、あたしたちは永久に
 静脈で幾度もすれ違い続け二度と
 結合しない
 
 
tacet.
 
 


Sat In Your Lap。

  田中宏輔



 私の周囲にあったものは、すべて私と同一の素材、惨めな一種の苦しみによってできていた。私の外の世界も、非常に醜かった。テーブルの上のあのきたないコップも、鏡の褐色の汚点も、マドレーヌのエプロンも、マダムの太った恋人の人の好さそうな様子も、すべてみな醜かった。世界の存在そのものが非常に醜くて、そのためにかえって私は、家族に囲まれているような、くつろいだ気分になれた。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)


 詩人の遺稿のなかに、つぎの二つの原稿が見つかった。それらの原稿は、クリップで一つにまとめられていたのだが、上の文章のメモ書きが、一つ目の原稿の上に、セロテープで貼り付けられていた。上の文章が、原稿のどこに差し挟まれるのかは、指示してなかったので、本稿の冒頭に冠することにした。二つの原稿の内容とは微妙にずれるものとも思われたが、詩人の遺稿を取り扱う際に、後から付加されたメモ書きも、できるかぎり取り入れていくという姿勢で原稿を整理しているので、このように処することにした。上のメモ書きの文章が、どこに引用されるべきものだったのか、二つの原稿を何度も読み返してみたが、わからなかった。もしかすると、ただ原稿を書き直すための参考資料にでもしようとしていたのかもしれない。詩人の意向を察することも、読者にとっては、一興かもしれない。試みられても面白かろうと思われる。
 ところで、この二つの原稿は、内容から察すると、どこかの雑誌か、同人誌にでも発表されたものであるらしいのだが、調べてもわからなかった。これらの原稿が掲載された雑誌や同人誌の類は、詩人の遺品のなかにはなかった。もしかすると、出すつもりではあったが、何らかの理由で出さなかったものかもしれない。しかし、もしそうであっても、ここに、あえて収録するのは、この二つの原稿が、詩人の詩論として集大成的なものであり、詩人の詩を理解するためには、けっして見落とせないものだと思われたからである。
 二つの原稿をつづけて紹介し、その後で、詩人が使っている独特な言い回しについて、若干、解説していくことにする。




Sat In Your Lap。I


『イル ポスティーノ』という映画を見ていたら、パブロ・ネルーダの詩の一節が引用されていた。


俺は人間であることにうんざりしている
俺が洋服屋に寄ったり映画館にはいるのは
始原と灰の海に漂うフェルトの白鳥のように
やつれはて かたくなになっているからだ

俺は床屋の臭いに大声をあげて泣く
俺が望むのはただ 石か羊毛のやすらぎ
俺が望むのはただ 建物も 庭も 商品も
眼鏡も エレベーターも 見ないこと

俺は自分の足や爪にも
髪や影にもうんざりしている
俺は人間であることにうんざりしている
(『歩きまわる』桑名一博訳)


 映画のなかで使われていたのは、たしか、第一連から第二連までだったかと思われるのだが、もしかすると、第三連までだったかもしれない。それにしても、この「俺は人間であることにうんざりしている」というフレーズは印象的だった。俳優がこの言葉を口にしていたときの表情とともに。映画には、ほかにも記憶に残る場面がいくつもあったのだが、もっとも印象に残ったのは、このフレーズと、このフレーズについて考えながらしゃべっているような様子をしていた俳優の表情であった。
 ネルーダの名前には記憶があったので、本棚を探してみた。集英社から出ている『世界の文学』シリーズの『現代詩集』の巻に載っていた。持っている詩集は、すべて目を通していたはずなのに、この詩のこのフレーズに目をとめることができなかったことに恥ずかしい思いがした。自分の感受性が劣っているのではないかと思われたのである。もちろん、年齢や経験の違いが、あるいは、読むときの状況とかの違いが、その詩や、そのフレーズに目をとめさせたり、とめさせなかったりするのだから、劣等感を持つ必要などことさらなく、むしろ、いま、ネルーダの詩のこのフレーズに目をとめることができたということに、自分の感受性の変化を感じ取り、それを成長と受けとめ、祝福するべきであるのだろうけれども。


犬は何処へ行くのか?
(ボードレール『善良なる犬』三好達治訳)


 ここで、ふと、こんなことを思いついた。犬が犬であることにうんざりするということはないのだろうかと。それは、自分が犬にならないとわからないことなのかもしれないけれど、もしも、犬に魂があるのなら、魂を持っているものは感じることができるのだし、また考えることもできるのであろうから、犬もまた、自分が犬であることにうんざりするということもあるのかもしれないと思ったのである。ところで、自分が人間であることにうんざりするというのは、人間にとってもかなり複雑な気分であると思われるので、もしかすると、犬には、自分が犬であることにうんざりするというような能力が欠けているのかもしれないけれど、犬を見ている人間が、自分の気持ちをその犬に仮託して、犬が犬であることにうんざりしているように見えることならば、あると思われる。というより、よくあることのように思われる。しかし、そう見えるためには、少なくとも、人間の方が、犬の魂というか、心情とかいったものを、ある程度は理解していなければならないと思うのだが、仮に魂を領土のようなものにたとえれば、理解するためには、まず、その犬の魂に自分の魂の一部分を与えることが必要で、そうして、そのことによって、その犬の魂の領土のなかに踏み込んで行き、その犬の魂の領土のなかに、その犬の魂と自分の魂の一部分が共存する領域を設け、かつまた、同時に、その犬の魂の一部分を自分の魂のなかに取り込み、自分の魂のなかに、自分の魂とその犬の魂の一部分が共存する領域を設けなければならないと思われるのだが、そういうふうに思われないだろうか。

 ここで、また、このようなことを思いついた。犬といった、多少は知恵のありそうな動物だけではなく、海といったものや、言葉といったものも、自分が自分であることにうんざりするというようなこともあるのではないかと。「海が海であることにうんざりしている。」とか、「言葉が言葉であることにうんざりしている。」とか書くと、なんとなく、海や言葉が人間のように考えたり感じたりしているような気がしてくるから不思議だ。これは、もちろん、わたしが、海や言葉といったものに、わたしの気持ちを仮託して感じ取っているのだろうけれど。「快楽が快楽であることにうんざりしている。」というふうに書くと、いささか反語的な響きを帯びた、陳腐な表現になってしまうが、「悲しみが悲しみであることにうんざりしている。」と書くと、状況によっては、象徴的な、まことに的確な表現にもなるであろう。

 ここで、動物だけではなく、あらゆる事物や事象にも魂というものがあるとすれば、言葉といった実体のない概念のようなものにさえ、魂といったものがあるとすれば、ある人間が他の人間や動物を理解するような場合だけではなく、人間が事物や事象を理解したり言葉を理解したりする場合にも、また、ある事物や事象が他の事物や事象を理解したり人間や言葉を理解したりする場合にも、さらにまた、ある言葉が他の言葉を理解したり人間や事物や事象を理解したりする場合にも、互いに魂のやり取りをし合って、他のものの魂のなかに、自分の魂と共有する領域を設け、かつまた、同時に、自分の魂のなかに、他のものの魂と共有する領域を設けていると考えればよいと思われる。

 魂を領土といったものにたとえた場合には、「他のものの魂のなかに、他のものの魂と自分の魂の一部分が共存する領域を設け、かつまた、同時に、自分の魂のなかに、自分の魂と他のものの魂の一部分が共存する領域を設ける」ことと、「他のものの魂のなかに、自分の魂と共有する領域を設け、自分の魂のなかに、他のものの魂と共有する領域を設ける」こととは、同じ内容のものであって、ただ表現が異なるだけのものであるのだが、しかし、このような考え方に違和感を持つ人がいるかもしれない。いや、そもそものところ、魂といったものを領土のようなものにたとえること自体に異議を唱える人がいるかもしれない。魂を領土にたとえたのは、理解するということを、モデルとして目に浮かべやすい形で表現したつもりなのであるが、数学でいうところの集合論において、ベン図という図形を目にしたことがないだろうか。二つの集合の間に交わりがあるとき、その交わった部分を、その二つの集合の交わり、あるいは、共通部分というのだが、それから容易に連想されないであろうか。理解するとは、異なる魂が共存する領域を設けること、あるいは、異なる魂との間に共有する領域を設けることである。こういった考え方が、わたしにはぴったりとくるものなのだが、そうではない人もいるかもしれない。そのような人には、いったい、どのように説明すればよいだろう。
そうだ。リルケが、『ほとんどすべてのものが……』のなかに、


すべての存在をつらぬいてただひとつの(ヽヽヽヽ)空間がひろがっている。
世界内面空間。鳥たちはわたしたちのなかを横ぎって
しずかに飛ぶ。成長を念じてわたしがふと外を見る、
するとわたしの内部に樹が伸び育っている。
(高安国世訳)


と書いているのだが、このなかにある、「世界内面空間」といった言葉を、ベン図において長方形全体で示される全体集合の図形と合わせて思い起こしてもらえれば、「魂の領土」や「魂の領域」といった言葉を、すんなりと受け入れてもらえるかもしれない。
 ところで、ベン図は平面上に描かれる図形なのだが、ここで、いま、ベン図の描かれた平面が数え切れないほどあって、その数え切れないほどある平面が積み重なって空間を構成していると想定してもらえれば、より合理的な説明ができると思われる。というのも、さまざまなものとの間に同時に「魂の領域」を共有させるためには、その「世界内面空間」になぞらえた「魂の領土」が多層的なものであり、そうして、重なり合った層は固定されたものではなく、瞬時に移動できるものであって、どれほど遠く離れた層であっても、一瞬のうちに上下に重なり合うことがある、と考えればよく、そう考えると、自分の頭のなかで、唐突に二つの事柄が結びつくことにも容易に説明がつくからである。
「魂の領土」とか「魂が共存する領域」とか「魂を共有する領域」といった言葉が、どうしても受け入れられない人には、本稿に書かれてある「魂の領土」とか「魂が共存する領域」とか「魂を共有する領域」とかいった言葉を、ただ単に「魂」という言葉に置き換えて読んでもらえばよいと思うのだが、しかし、そもそも、「魂」といったもの自体の存在を否定する人もいるかもしれない。自分には、魂などはないと考えている人もいるかもしれない。だが、たとえ、そういった人であっても、自分には「自我」というものなどはないと考えるような人はほとんどいないであろう。したがって、本稿のなかで、「魂の領土」とか「魂が共存する領域」とか「魂を共有する領域」とかいった言葉が不適切であると思われる人には、それを「魂」という言葉に置き換えて読んでもらえばよいだろうし、「魂」といった言葉でさえも適当ではないと思われる人には、それを「自我」といった言葉に置き換えて読んでもらえばよいと思う。
 最後に、詩人や作家たちのつぎのような詩句を引用して、本稿を終えることにしよう。


古びてゆく屋根の縁さえ
空の明るみを映して、──
感じるものとなり、国となり、
答えとなり、世界となる。
(リルケ『かつて人間がけさほど……』高安国世訳)


自然の事実はすべて何かの精神的事実の象徴だ。
(エマソン『自然』四、酒本雅之訳)


言葉は現実を表わしているのではない。言葉こそ現実なのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)


私はうたはない
短かかつた燿かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
(伊藤静雄『寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ』)


素材が備わりさえすれば
言葉はこちらが招かずとも
自然に出てくるものなのです。
(ホラティウス『書簡詩』第二巻・三、鈴木一郎訳)


自然界の万象は厳密に連関している
(ゲーテ『花崗岩について』小栗 浩訳)


あらゆるものがあらゆるものとともにある
(ホルヘ・ギリェン『ローマの猫』荒井正道訳)


たがいに与えあい、たがいに受け取りあう。
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)


順序を入れかえたり、語をとりかえたりできるので、たえず内容を変える
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)


res ipsa loquitur.
物そのものが語る。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)


そしてこの語りたいという言語衝動こそが、言葉に霊感がある徴(しるし)、わたしの身内で言葉が働いている徴だとしたら?
(ノヴァーリス『対話・独白』今泉文子訳)


万物は語るが、さあ、お前、人間よ、知っているか
何故万物が語るかを? 心して聞け、それは、風も、沼も、焔も、
樹々も蘆も岩根も、すべては生き、すべては魂に満ちているからだ。
(ユゴー『闇の口の語りしこと』入沢康夫訳)


魂は万物をとおして生き、活動しようとひたむきに努力する。たったひとつの事実になろうとする。あらゆるものが魂の属性にならねばならぬ、──権力も、快楽も、知識も、美もだ。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)


魂と無縁なものは何一つ、ただの一片だって存在しないことが分かっている。
(ホイットマン『草の葉』ポーマノクからの旅立ち・12、酒本雅之訳)




Sat In Your Lap。II


あの原稿を送った後のことだ。ジュネの『葬儀』を読んでいたら、こんなことが書いてあって、驚かされた。


とつぜん私は孤独におそわれる、なぜなら空は青く、樹々は緑で、街路は静まりかえり、そして一匹の犬が、同じように孤独に、私の前を歩いて行くからだ。
(生田耕作訳)


しかし、もっと驚かされたのは、このつづきにある、つぎの箇所である。


 私はゆっくり、しかし力づよい足どりで進んでいく。夜になったみたいだ。私の前に展ける風景、その間をぬって私が君主然と通りぬけていく、看板や、広告や、ショーウィンドウをつけた家々は、この本の作中人物たちと同じ素材でできているのだ、また幼時の名残りがそこにみとめられるように思える、青銅(けつ)の眼(あな)の毛のなかに口と下で没頭しているときに、私が見出す幻影とも、それは同じ素材でできている。
(生田耕作訳)


ここのところと、つぎに引用する、デュラスの『北の愛人』のなかにある、


 少女は男をじっと見つめる、そしてはじめて彼女は発見するのである、──これまでいつも自分とこの男とのあいだには孤独が介在していた、この孤独、中国風の孤独こそが、この自分を捉えていた、その孤独はあの中国人のまわりにひろがる、あのひとの領土のようなものだったのだ、と。そして、また同様に、その孤独こそが、自分たちふたりの身体、ふたりの愛の場であったのだ、と。
(清水 徹訳)


といった言葉を合わせると、孤独というものが、心象や概念を形成する原動力である、というだけではなく、まるで場所のようなものでもあって、そこで心象や概念といったものが形成されるのだとも考えられたからである。

バシュラールの『夢みる権利』の第二部に、


深さの原理とは孤独のこと。われわれの存在の深化の原理とは、自然とのますます深い合体のことなのだ。
(渋沢孝輔訳)


とあるが、孤独であればあるほど、同化能力が高まるのだろうか。真空度が増せば増すほど、まわりのものを吸いつける力が強くなっていくように。


ああ、これがあらゆることのもとだったんだ。
(アントニイ・バージェス『ビアドのローマの女たち』7、大社淑子訳)


そうして、そういった能力がますます高くなっていくと、しまいには、


認識する主体と客体は一体となる。
(プロティノス『自然、観照、一者について』8、田之頭安彦訳)


といった境地にまで至ることがあるかもしれない。しかし、それは、あくまでも、そういった境地に至ることがあるというものであって、じっさいに、認識する主体と客体が一体化するということではないのである。


 さもなければ、知性が認識の対象を変えることはできないはずで(……)知性が認識の対象を変えるとは、或る可知的形象によって自己が形成されることをやめて別の可知的形象を受けることであり、このようなことができるためには、可知的形象を受ける主体としての知性の実体と、この実体に受け取られる可知的形象とは、別のものでなければならないからである。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第十四問・第二項・訳註、山田 晶訳)


 やはり、このあいだ、わたしが書いたように、「犬が犬であることにうんざりしているように見える」のは、その犬を見ている人が、「その犬に自分の魂の一部分を与える」からであり、その人が、「自分の魂のなかに、自分の魂とその犬の魂とが共有する領域を設ける」からであろう。

ヤリタ・ミサコの


痛い とわかること は つらい こと
(『態』)


という詩句には、思わずうなずかされてしまった。プルーストの『失われたときを求めて』のなかに、


それのような悲しみは事件ののち長く経ってからしか理解されないものなのである、つまりそれを感じるためには、それを「理解する」ことが必要だったのだ、
(第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)


そのような実在は、それがわれわれの思考によって再想像されなければわれわれに存在するものではない
(第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)


理知がそれを照らしたときに、理知がそれを知性化したときに、はじめて人は、自分が感じたものの形象を見わけるのだが、それはどんなに苦労を伴うことであろう。
(第七篇・見出された時、井上究一郎訳)


悲しいという感じはするが、それがどのような悲しみなのかわからないときがある。漠然としていることがある。しかし、そこに言葉が与えられてはじめて、それがどういう悲しみか、どう悲しいか、つぶさにわかることがある。


ヴァレリーの『ユーパリノス あるいは建築家』に、



観念は視線を向けられたとたんに感覚となる。
(佐藤昭夫訳)


とある。観念といったものも、いったん感覚といったものを通さなければ、それをほんとうに感じとることができないものなのであり、そうしたのちに、ようやく、魂のなかに、精神のなかに、わたしたちは、了解されうる意味を形成してやることができるのであろう。

 ところで、ヴァレリーの『海辺の墓地』に、


さわやかさが、海から湧きおこり、
私に私の魂を返す……おお、塩の香に満ちた力よ!
(粟津則雄訳)


とあるが、


与えよ、さらば与えられん
(ロレンス『ぼくらは伝達者だ』松田幸雄訳)


というように、「それに自分の魂の一部分を与える」からこそ返されるのであろう、もとのものとは同じものではないが、なにものかに触れて変質した「自分の魂の一部分」が……。


私は自然をもっと高い見地から考察したい気持ちにさそわれる。人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出して、その崇高な力に私は抵抗することができない。
(『花崗岩について』小栗 浩訳)


と、ゲーテが述べているが、同じような内容の事柄が違う言葉で言い表わされているように思われないだろうか。人間の精神が万物に生命を与えるのと同時に、また、万物の方も人間の精神に生命を与えているのである、と。そういう意味に、ゲーテの言葉を受けとると、わたしが前の論考に書いた、「人間だけではなく、人間以外の事物や、言葉といった実体のない概念のようなものであっても(……)互いに魂のやり取りをして、それぞれの魂のなかに、互いに魂を共有する領域を設けていると考えればよい」といったところも、よりわかってもらえるものとなると思うのだが、いかがなものであろうか。


エミリ・ブロンテの『わが魂はひるむことを知らない』に、


地球や月が消滅し、
太陽や宇宙が無に帰し、
なんじただひとりあとに残るとも、
ありとあらゆる存在は、なんじにありて存続する。
(松村達雄訳)


とあるが、これなども、まさしく、人が、いったん、「自分の魂のなかに、自分の魂とその事物や事象の魂とが共有する領域を設ける」からこそ、いえることだと思われるのである。かつて自分の魂のなかで、共有する領域を設けたことのある事物や事象を、それがあったときと同じ状態で想起させることができれば、たとえ、それがじっさいには、自分の魂のそとで消滅していたとしても、自分の魂のなかでは、それが、ずっと存続しているといえるのではないだろうか。


ふだん、存在は隠れている。存在はそこに、私たちの周囲に、また私たちの内部にある。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)


無意識に存在する物のみが真の存在を保つ、
(トーマス・マン『ファウスト博士』一四、関 泰祐・関 楠生訳)


永遠の存在とはなにかやっと分かってきそうだ
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第八章、青山隆夫訳)


かつて存在したものは、現在も存在し、これからも永久に存在するのだ。
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)


人間は永遠に生きられる。
(ドナルド・モフィット『創世伝説』下・第二部・12、小野田和子訳)


人間こそがすべてなのだ。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)


しかし、それも、孤独、孤独、孤独、みな、そもそものところ、人間というもの自体が、孤独な存在であるからこそ、である。


窮迫と夜は人を鍛える。
(ヘルダーリン『パンと酒』川村二郎訳)


孤独、偉大な内面的孤独。
(リルケ『若い詩人への手紙』高安国世訳)


おそらく、最も優れたものは孤独の中で作られるものであるらしい。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)


    *


 これら、二つの遺稿に共通するものとして、詩人が、他の原稿のなかで「二層ベン図」なるものについて解説していたことが思い出される。
 
その前に、懐かしいものをお目にかけよう。これは、詩人がもっともよく引用していた言葉である。


全きものと全からざるものとはいっしょにつながっている。行くところの同じものも違うものも、調子の合うものも合わないものもひとつづきだ。万物から一が出てくるし、一から万物も出てくる。
(『ヘラクレイトスの言葉』一〇、田中美知太郎訳)


詩人は、ヘラクレイトスのこの言葉を頻繁に繰り返し引用していたが、ノヴァーリスの


可視のものはみな不可視のものと境を接し──聞き取れるものは聞き取れないものと──触知しうるものは触知しえないものと──ぴったり接している。おそらくは思考しうるものは思考しえないものに──。
(『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)


といった言葉もまた、何度も引用していた。この引用のなかにある、ノヴァーリスのいう「触知しうるもの」を「顕在意識」、あるいは、単に「意識」や「言葉」といった言葉に、「触知しえないもの」を「潜在意識」あるいは「まだ言葉にならないもの、言葉になる以前のもの」といった言葉に置き換えると、この二つの対応する概念が、他の原稿にある、二層ベン図に照らし合わせてみれば、詩人の考えていた、「思考する」ということが、いったいどういうことなのか、といったことを、窺い知ることができるのではないだろうか。

 ところで、二層ベン図とは、ふつうのベン図の下に、空集合の層があるという図であって、第二の層の空集合が浮き出て、第一の層の実集合になる、というのが詩人の考えであったが、その空集合を、「孤独」という言葉に変換すると、二つ目の原稿のなかでいっていることになるのだろう。ジュネの「同じ素材」というのが、詩人のいうところの「空集合」であろうか。
詩人は、「自我」を、どのような実集合にもなり得る空集合に見立てていた。
 
詩人が残したメモのなかに、『徒然草』からの抜粋があって、冒頭に紹介した一つ目の原稿に、セロテープで貼り付けられていた。それをここで引用することにしよう。二箇所から引かれていた。


 筆を執(と)れば物書(か)かれ、楽器を取(と)れば音(ね)をたてんと思ふ。盃を取れば鮭を思ひ、賽(さい)を取れば攤(だ)打(う)たんことを思ふ。心は必ず事に触(ふ)れて来(きた)る。
(第百五十七段)


筆を持つとしぜんに何か書き、楽器を持つと音を出そうと思う。盃を持つと酒を思い、賽(さい)を持つと攤(だ)をうとうと思う。心はかならず何かをきっかけとして生ずる。
(上、現代語訳=三木紀人)


 ぬしある家には、すずろなる人、心のままに入(い)り来る事なし。あるじなき所には、道行き人(びと)みだりに立ち入(い)り、狐(きつね)・ふくろふのやうな物も、人げに塞(せ)かれねば、所得(ところえ)顔に入りすみ、木(こ)霊(だま)などいふ、けしからぬかたちもあらはるるものなり。
また、鏡には色・形(かたち)なきゆゑに、よろづの影(かげ)来(きた)りて映(うつ)る。鏡に色・形あらましかば、映らざらまし。
虚(こ)空(くう)よく物を容(い)る。我等が心に念々のほしきままに来(きた)り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心にぬしあらましかば、胸のうちに、そこばくのことは入(い)り来(きた)らざらまし。
(第二百三十五段)


 主人がいる家には、無関係な人が心まかせに入り込むことはない。主人がいない所には、行きずりの人がむやみに立ち入り、狐(きつね)やふくろうのような物も、人の気配に妨げられないので、わが物顔で入って住み、木の霊などという、奇怪な形の物も出現するものである。
また、鏡には色や形がないので、あらゆる物の影がそこに現われて映るのである。鏡に色や形があれば、物影は映るまい。
虚空は、その中に存分に物を容(い)れることができる。われわれの心にさまざまの思いが気ままに表れて浮かぶのも、心という実体がないからであろうか。心に主人というものがあれば、胸のうちに、これほど多くの思いが入ってくるはずはあるまい。
(上、現代語訳=三木紀人)


 最初のものは、『徒然草』の第百十七段からのもので、それにある「心は必ず事に触(ふ)れて来(きた)る。」という言葉は、詩人が引用していた、ゲーテの「人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出し(……)」といった言葉を思い出させるものであった。あとのものは、『徒然草』の第二百三十五段からのもので、それにある「鏡には色・形(かたち)なきゆゑに、よろづの影(かげ)来(きた)りて映(うつ)る。鏡に色・形あらましかば、映らざらまし。」とか「虚(こ)空(くう)よく物を容(い)る。我等が心に念々のほしきままに来(きた)り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心にぬしあらましかば、胸のうちに、そこばくのことは入(い)り来(きた)らざらまし。」といった言葉は、「多層的に積み重なっている個々の二層ベン図、それぞれにある空集合部分が、じつは、ただ一つの空集合であって、そのことが、さまざまな概念が結びつく要因にもなっている。」という、詩人の考え方を髣髴とさせるものであった。あまり説得力のある考え方であるとはいえないかもしれないが、たしかに、さまざまな概念のもとになっているものが、もとは同じ一つのものであるという考え方には魅力がある。詩人は、この空集合のことを、しばしば、「自我」にたとえていた。また、第二百三十五段にある「ぬしある家には、すずろなる人、心のままに入(い)り来る事なし。あるじなき所には、道行き人(びと)みだりに立ち入(い)り、狐(きつね)・ふくろふのやうな物も、人げに塞(せ)かれねば、所得(ところえ)顔に入りすみ、木(こ)霊(だま)などいふ、けしからぬかたちもあらはるるものなり。」とか「虚(こ)空(くう)よく物を容(い)る。」とかいった言葉は、詩人の「孤独であればあるほど、同化能力が高まるのだろうか。真空度が増せば増すほど、まわりのものを吸いつける力が強くなっていくように。」という言葉を思い起こさせるものであった。

 ただ単に、詩人が書いていたことを追っていただけなのに、こうやって、詩人の原稿やメモを見ながら、言葉をキーボードで打っていると、詩人がどこかに書いていたように、そのうち、自分が言葉を書いているような気がしなくなってきた。しだいに、言葉自体が、ぼくに書かせているような気がしてきた。というよりも、さらに、言葉自体が書いているのではないかとさえ思えてきた──ぼくの目と頭と指を使って。


どちらが原因でどちらが結果なのか、
(アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』一九〇五年六月十日、浅倉久志訳)


原因と結果の同時生起
(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・七、菊盛英夫訳)


詩人が遺したノートにある言葉を使ってみたのだが、この「原因と結果の同時生起」という言葉はまた、詩人が別のノートに書き写していた、マルクス・アウレーリウスのつぎの言葉を思い出させた。


つねにヘーラクレイトスの言葉を覚えていること。
(『自省録』第四章・四六、神谷美恵子訳)


 宇宙の中のあらゆるもののつながりと相互関係についてしばしば考えて見るがよい。ある意味であらゆるものは互いに組み合わされており、したがってあらゆるものは互いに友好関係を持っている。なぜならこれらのものは、[膨張収縮の]運動や共通の呼吸やすべての物質の単一性のゆえに互いに原因となり結果となるのである。
(『自省録』第四章・三八、神谷美恵子訳)


モーニングスター

  


誰もいない食卓につくと
清潔な白磁の器には
電子パーツが盛られている
潮の香りがする朝刊を開けば
たちまち燃えあがって戦争がはじまる

言い訳を舌先で転がしていると
プチッと潰れて意味が溢れる
本来なら生きるという行為は
省略も延長も許されていない
本当のイコールなんて
滅多にあるもんじゃないし
そこにたどり着けたとしても
今さら埋葬された靴たちが
再び歩きはじめるわけでもない

「彼女」がリボンを振るたびに
警告音と共に世界がジャムる
鯨のヒゲで稼働する案山子が
クラウドバスターを空に向けると
スポイトの一滴から始まる連鎖反応が
僕たちを背中から手遅れにしていく
(だから鏡の中で振り向いた猫は
 殺したはずの女の目をしている)

だいじょうぶ、
だいじょうぶ、

「彼女」が母親の声で囁くから
空の半分はママレード色で
まがいものの安心が満ちている
みんなも残り半分から目をそらし
だいじょうぶ、
だいじょうぶ、

笑顔で傾いている

なんて素敵な一日の始まり
なんて言葉を彼らは吐き出す
子どもたちはいまだに
廃園のあちらこちらで
パチパチと音を立てて
燃え続けているというのに


残寒の詩

  霜田明

(本音を書くことは難しい)

みんな似すぎている
どの顔も

それでも、人へ期待する
人に期待することが、
とくにそっくりだ

みんな
自分が余るんだ
数を数えてみるたびに

猫は顔に表情がなくて、
じっと見ていると不安になるけれど
寝ながら目だけで人を追うのを見ていると、
本当に生きているんだな と思う

家を出て、久々に再会した猫が、
思っていたよりずっと小さかったことに
驚いたのを覚えている

猫と過ごしていると
時間の長さを
きりがないということを思う

昨日の夜
眠りにつくには、少し早く床に就いたから
余った時間 好きな曲ばかり聞いていた

サティの「Gymnopedie No.1」に、
ドヴォルザークの「新世界より」
たまの「サーカスの日」、
ピート・シーガーの「My Rainbow Race」
遠藤賢司の「夢よ叫べ」、

どれもが救いをあぶれた曲だった
世界を変えることのなかった曲だ
作者の一時期の浮かれにおさまって、
その間を揺れ動いている曲だった

不死の魂のように、

谷川俊太郎が
詩の言葉は実用書のように、
即座に効果のある言葉ではない
だが気づかないくらいひそかに、
人に作用する言葉だと言っていた

ひそかな作用とは一体なんだろう
ピート・シーガーは死ぬ前に、
「I'm still searching」と歌っていた
吉本隆明は死ぬ前に
本当に性的魅力を感じる女性の現れなかったことが、
未だに心残りだと言っていた

女性の好きな部位を聞かれると、僕は
それは恥じらいだと答える

フェミニストなら怒るだろう、
僕だって、人の精神性を
自分の性的嗜好へ利用する考え方が嫌いだ

あるいはオタクのように、自分の性的嗜好を
それが「女性」を利用することでも、
追求できるのならば、爽やかだと思う

恥じらいはその物事を
自分の方へ引きつけるときにだけ、起こる
あの人が見られていても恥ずかしくないのに、
自分が見られていることは恥ずかしい

自分があの人として生まれていたかもしれない、
あの人と自分の差はなんだろう
それは誤差だ、自分が自分を
割り当てられたという事実、それが自分であることだ

あの人の失敗は恥ずかしくないのに、
自分の失敗は恥ずかしい

高畑勲が死んで、
「人は死ぬものだから」と、思った、
たまたま先月、「平成狸合戦ぽんぽこ」を見たとき、
途中、泣きそうになったシーンがあったけれど、泣かなかった。

「トイ・ストーリー3」でも、
「自転車泥棒」でも、
なんでも泣いてしまう僕の涙には価値がない、

今日は久しぶりに寒かった。
寒いというだけで億劫で、
不幸だとまで思った、

最近は暖かくて、気が抜けて、
何もする気が起きなかった

今日は寒くて、憂鬱で、
何もする気が起きなかった

エアコン暖房を付けることの罪悪感、
地球温暖化のキャンペーンだろうか、
母親の教育の成果だろうか、
その出処がわからないが、
なんとなく罪悪感を感じながら、
暖房をつけたのを覚えている

人を嘲笑うことは本質的に
恥知らずを笑っている

自己否定が恥じらいとしてばかり
訪れることを見るとよく分かる

恥知らずを取り除いたところでは
馬鹿げた行為と高尚な行為には差が存在しない

自分のくだらなさを笑い飛ばそうとするときでさえ
自分を縛る方向へしか働かないように

ピート・シーガーの
「Where have all the flowers gone?」という歌、

サビの最後を締めくくるフレーズが、
この曲を反戦歌に仕立てあげる

「when will they ever learn?」
いつになったら,人びとは学ぶのだろう、

少女が花を摘んでいく、
長い時間が経って、少女は恋人のもとへ、故郷を去り、
その恋人は、戦争へ駆り出されてしまう、
それを切実なものとして振り返りながら、

「when will they ever learn?」
どうして、そんな言葉へ回帰してしまうんだ

母親が、「終わっていくこと」を見て、
心を痛めていたことが印象に残っている
それでも終わっていくということはどこにもなかった

ぼんやりテレビ番組をみていたとき、
こんな番組を楽しんで見ているやつは、
きっと総じて馬鹿だと思った

テレビを消して皿を洗いながら
どんなテレビ番組を見るか、なんてことで
誰も、馬鹿だと見做されるいわれはない と思った

医学者なら、人は死んでいく
それは明らかだと言うだろう
だけど、人は死なないんだ、


けむりとともに

  みどり

私は私を忘れるために
吐き出す煙となる

さっき私に似た犬を叱った
それでも犬は勃起していた
私は、怒っていたのかもしれない

妻は美しい
目に見えるものが全てという幻想を
懸命に信じている
健気さ

私は 立ち昇る煙となる
それしか方法はないのだ
煙は時をなぞる
その浮遊 曖昧さ 空(くう)

さっき私は嘘をついた
泣きたいときに笑った
それでも妻はきっと美しい
寝息を立てて
雨に飲まれている

完璧をなぞる
矛盾の
なんという多さ
なんという傲慢さ

このまますべてを
ゆるしてしまいたい


暴言を吐いて炎上させる奴の髪型について、

  泥棒


うん、
思うんだよね、
暴言を吐いてさ、
やたら炎上させる奴の髪型って、
だいたい変な気がするって。

いや、
根拠なんてないよ、
もちろん証拠もね、
ま、
しいて言うなら
頭ん中が爆発しちゃってるわけだから
髪型も
ま、
それなりに変だろうなって。

暴言を吐いて、
やたら炎上させる奴は
江戸時代にも
きっといただろうね、
頭ん中がアフロで、
斬って斬られて
江戸の町を走っていたんだろうね、
ま、
ネットがなくても
同じだよ、
てか、
紙のほうがよく燃える
なんてね、
おっと、
落語みたいなこと言っちゃった。
ソーリー

あれ、
あれれ、
地球って本当にまわっているのかな
フランス人の友達に
ドラゴンボールの孫悟空の髪型は
爆発してるのか
って、
そう聞かれたことがあるんだけど
その時、
なんて答えたか
もう思いだせないな
つい先週の話しなのに
ね、
なんだか眠くなってきたな。


















あ、









あれ、











君に言いたいことなんて
絶対に
ひとつもないはずなのに









、あ






あれれ、












なんだか
あったような気がするのは
なんでかな、












君、
ひどく寂しい夜に
君の孤独が
誰かに笑われていないように
僕は願うよ
君の頬を撫でるのが
春の風ではなく
誰かが投げて爆破した
あのレモンのように
文学と共に
砕け散ればいいのにね
君の孤独は
今夜も君だけのものだ
誰にもわかりはしないよ
それって、
最高に
すてきなことだと思うんだよね。














あ、







久しぶりに髪でもきろうかな








春だし、ね。














)あ、朝だ、







(おやすみ


ウサギ狩り

  山人

朝、息は白く冷たい
夜雪が降り、ウサギの足跡はついた筈だ
心の中の鉛は骨に入り込んでいる
だが、浮き足立つ朝の輝きは止めることができない
ウサギ狩りだ

猟場に着いた
車の中から銃を下ろす
頼むぞ銃よ
アンバランスな姿勢でカンジキを付け雪に踏み入る
キラキラと雪がダストのように舞う
まぶしい光線に心が躍る
今日はウサギ狩りだ
はらわたを出すための皮剥ぎのナイフは持ったし
ウサギを入れるビニール袋も二枚持った
自分で握った無骨な握り飯も三つ用意してきた
あとは獲物があれば良いだけだ
厭なことはとりあえず何処かに置いていこう
冬枯れの木々には綿のような雪が付いている
僅かな風でそれがふわりと落下する

息が荒くなり汗がにじむ
雪の斜面にウサギの足跡がある
ウサギは夜行性だから今頃は何処かの木の袂に潜んでいる筈だ
時々足を停め意味もなく周りを見る
猟中に無意識に周りを観察する癖だ
ウサギの足跡が途切れている
(カムフラージュ痕)
きっとあの辺にいるのだ
銃に装弾を込め少しづつ近づく
ウサギがいつ出るのか、どう出るのか
張り詰めた空気を手繰り寄せる
ウサギはダッシュする
呼吸を止め照星を合わせる
銃を振る、本能で冷ややかに引く、雪山に銃声が響く
走りながらパタリと落ちる、動かなくなる
ウサギは血を吹き出させ、断末魔に向かい足や手を痙攣させている
近づくと目を見開き、事切れたウサギが雪面に横たわっている
溜息を一つ雪の上に落とす
腹の毛を少し毟る、ナイフを付き立て腹の皮を裂く
温かい臓物が顔を出す
胃袋をしっかりと掌で掴み、腸もろとも雪の上に放り投げる
横隔膜を指で破り、肺に溜まった血を雪の上に撒く
黒く固まりかけた血が雪の上に散らばる
ウサギの腹を雪の上に腹ばいにさせ、しばらく休む
ウサギの命は奪われ、俺は救われた
継続していた緊張感は元に戻り、静かなだけの風景が再び訪れる
ゲームはリセットされたのだ

サクッサクッと雪山をカンジキで歩く
殺されたウサギの死骸の暖かさを背中に感じる
そう自分は罪人
いつまで何処まで歩いた所で罪は消えない
このまま、この白い無垢な雪山と同化出来たならどんなに良いか
不意に魂がふわりとした直後、ウサギはダッシュする
ポンポーンと連発で長閑な銃声を響かせる
やはり長閑だったのだ
ウサギはいとも簡単に逃げて行き、かすりもしない
ウサギは生き延びた
その後もウサギを追っていく
でも心の中で、もうウサギは獲ることは出来ないとの結論を出している
体はだるいし足は重い
雪は腐ってきて重量を増やしたからだ
むなしい猟だった
獲物はあったが冴えない日だった
背中のウサギは硬くなって冷たい
太陽も白い雪山を照らし続け
いささか疲れたように西日を照らしている
ウサギはもういない
頼むからいないで欲しい
重い足取りを引きずる事をもっと楽しみたい


背中のウサギには悪い事をした
もうどんな宗教でも生き返らせることは出来ない
まだ温かみが残るウサギは吊るされて裸んぼうに剥かれた
ズットンガランと鉈で背中や腿をぶち切り鍋に放り込まれる
死んでウサギ鍋になってしまったウサギを齧る
まるで自分を食っているようだ
逃げ場のないウサギを獲って食っている
雪山に自らの逃げ場を失った感情を放り出し
それをただ集めてまた体に戻している


動悸

  山嵐

罪は鉱石の、
様に、
存在の、
暗い、明けない、
鉱山の、
中で、
息をし、
また、柔らかい、
首をしめる手で、
鉱石を洗う、
固くなった、
罪を、
生きてきた、
事実で、
洗っては、
流れる、
水に、みずからを、
流すように、

ごみみたいな、
散文の音には、
神は降りない、
だから、
私たちは、
踊らない、
また、
ごみみたいな、
レトリックには、
魂は降りてこない、
ただ並べられた、
だけ、
の、言葉から遠く、
また、
並べられた、
言葉を、
生きた、こと、
で、繋ぐ、

私は昔絵を描く人だった、
ことから、
私は未だ絵を描いている、
人であることを、
繋ぐ、
長い雨に、
セザンヌや、
モネの、
食卓に、
並んだ、果実の、
腐敗していく、
香りが、
立ち上ぼり、
やがて、
長い雨になるだろう、
と、私は、
1835年11月26日の、
日記に記した、
ペンの、インクに、
混ざる、
殺された、
神のあたたかい、
血がまだ、
乾かない

深い、
存在の、
闇に、
罪の、
功績が、
固く輝き、
掘り出す手が、
きれいだ、

戦争は、
遅い、
生きることは、
あまりにも、
早く、
詩を書くことは、
簡単だ、
死ぬことは、
あまりにも、
かなしく、
優しい、
だから、
生きていく、
ことに、埋め尽くされた、
今に、
今場所を与える、
雨を、花を、
坂を下るような、
足は、
死んでいったものを、
追って、
未だに軽い、

詩を待っている、
あまりにも、つまらない、
作品ばかりで、
くだらなくて、
うんざりしている、

よもつひらさかを、
くだる、
イメージに、囚われている、
きっと、よもつひらさかは、
明るい、

未だに生きていることが、
洗い流される、
ような、
風が吹いていくる、
なびく、髪に、
まとわりつく、
死んでいく事実が、
嬉しくて、
微笑みが


消化

  松本末廣

関東全域に散布された
概要欄に耳介を索条痕として
含ませる
バス停に群がる 知性 知性知性
博識の陳列 が作用する

唐草模様の草食男を
父性の散った双曲線で
意図も簡単に吊り上がり
惰性に一本取りされる
それを 萌葱色のハンガーにかけ
一本取りした その醜い一縷を
チクチクと 気圧によって
感受性を風化させるも
1錠のゾルピデムとして
食前に崇拝される

燃えているのは感情論だ
売女の養殖だ

培養されたその世界をみて
陳列を 現金払いで端から潰す
刺しては払い また食む
点々と 朱を創るのだ

病状を言い訳にし
外のモロトニアムに手を出すと
その余剰を知るはずもなく
只空を切って掴むのは朝の新聞
くしゃりと鳴く 弧状の月を
吐き捨てた唾が 纏われた
揺れるH2Oの波
ウィンドブレーカーに
寒さを置いていく

石油から噴き上げられた
炎の許容を 僕は強いられている


蠍の死の毒

  lalita

凪だ。



一種の激しい沈黙とも呼べるだろう。



死の凪だ。



涅槃の葬送行進曲。



タナトスが意識を黙らせたといってもいい。



大多数にとっては都合のいい世界は終わり、大多数にとっては都合の悪いように見える時代が始まる。



新しい時代が



始まる

  始まる。

 始まるがよい。 来い。   俺の



        正午よ!



すべてを鮮明に見渡せる二時の太陽よ。



青空に狂い咲いた向日葵よ!




ヴィジョン。 物質の海から上昇した太陽の。



   のっぴきならない明らかなる世界。




曖昧さをかき消すものよ。



心身脱落 身心脱落 脱落身心



全身がリラックスして、冷たくなって、死に向かう。



エクスタシーと深い洞察。



成熟した彼女は完全に同性愛を克服しており、健康な異性愛の花を咲かせていた。



あるコミュニティに認められたりすることと悟りは何の関係もない。



わからないならわからないといえば合格なんだよ。




次の日、蠍は死んだ。



蠍自身の毒が回って死んだ。



空はどこまでも青く青く澄み切っていた。


空を指す

  黒髪

私の涙何になる
涙で濡れた指
とても汚くてとてもきれい
感傷の自己愛あるいは錯覚
唾液は飲み込むことはない
どうせこの身一つの私だから
見るものすべてが廻り出し
私の頭を混乱させる
何か変わるかい
君は変わるかい

細い羽根に釣り針を引っかける
そのまま戻ってくるように
黒いインクに染まった指が
愛を食べようと隠されている
フルーツでみなしごを育てる
奥歯の中につまったダイヤモンド
見えないだろう

悲しい音は主調になりえない
限られた時間を統べることだけに私は王
頭は全てを知っている
知っていることだけが証明だから
軽く広げた羽に夢を載せて
好きな方へ行く
好きな星を見つける
好きな人を見つける

もんどりうつ
人間以外は悲しい
人間は人間じゃなくなる時悲しい
保存された音をまるで赤子の様に
区別をわざと失くして
分かること
それがなぜだかは分からないが


ええけつの朝

  kaz.

ええけつの穴に入り込む冬の寒気・一年を通じこのわずかな時期しか食べられない超貴重な牡蠣・私たちの側から少しずつ滝を汲みにいくにつれてdisposeしていくのだ・ちょっと待って・透明な小説を書いているから・水の中に・触れるときに・新しいことばが新生し・飲み込み・排雪するということから生まれるまた生まれる生まれる産まれはる・とても優雅なすっぴんのことばで・桜餅のように包み込んだうつくしい肌・kick assしていく都庁の磁束帯から・開善寺の夕景に先立って突き落とす・荒地の恋・荒地の愛・愛というものは本質では恋と変わりない・なぜならプリズムで分光すればすべて等価だから・カポーティをすすりながら冷たい血の中に灌ぎ込まれる蓬の粉を奥歯で噛む・六千四百万の野間宏が駆け巡る・六千七百万のトランプがバラける・中間選挙の結果次第ではやむおえない政府封鎖・マカロンが食べたいときはだから静かに死んでいかなくてはならない花のことを想う……・ジャスミン茶のぬくもりを黒煙のような蒸気から感じている・……あるいはまた蕎麦屋ですすられる音のような沙汰のなさが求められるのかもしれず・番宣ばかりするチャンネルを切り替えるように死後を想う・どうか私たちの生活がかかやくプリオンとなって・神々の擬餌になりますように、かかやくかかやきになりますように


対岸、あるいは彼岸

  霜田明

   I

 生前評価されないことの悲惨さ、などとのたまう表現を見るたびに、インターネット上で小説、曲、詩、絵、天才的なクオリティのものを上げているのに、コメント0、いいね0、そんな人を大勢見てきたことを思う。歴史は、天才たちが「無化」される流れの象徴だとさえ思う。彼らの何が悪かったのか?それは、媚を売らなかったという一点だ。作品は評価された時点で死ぬ。
 せっかく媚を売らずに育ててきたのに、評価されてしまった時点で、媚を売ったのと同じになってしまう。彼らは突然アカウントを消したり、ツイッターで悪口スプリンクラーと化して大暴れしたり、掲示板に自分のアカウントを貼り付けてフォローしろと言ってみたり。そんなことをして、もし評価されてしまったらどうするつもりなのだろう、せっかく媚を売らずにやってきたんじゃないのか。
 信じなければ裏切られることはないのに、なぜ人は信じるのだろう。

   II

 君と出会ったのは自意識の芽生え始めた高校入学の春、4月9日火曜日の文芸部室だった。僕はもう挨拶を済ませて座っていた。君が物理的には軽すぎる木製の扉をはじめて開けてから、僕らはすぐに友人になった。共通の話題、そんなもの媚を売ることの十分にできない僕らには存在しえなかった。ただ波長が合ったのだ。自分が人との関係の中で、自分の外側で「こういう人物だ」と決められてしまう度合いの想定、言い換えればどの程度媚を売るかについての考え方が近かった。
 創作を試みる人間のほとんどが精神的に不安定なのは、経済的生活を媚を売ることの体系とするならば、創作の本質は媚を売ることと売らないこととの葛藤だからだ。世界に正当化されない闘争ほど疎まれるものはない。そして、疎まれることほど、人間の安定性をおびやかすことはない。
 だから文芸部室は部室棟四階の一番隅へ追いやられていたし、部室の扉を開けると、誰が入ってきたのかと顔をではなく僕の襟元を覗き見るように確認し、そしてかならず一人はいつでも歯に苦笑に似た不可解な照れを被せて「お前か」などと言う。
 わざわざそれまでの会話の流れを打ち切り、単独の声を発することで、部室の閉鎖性の内側へ受け入れてくれる彼の努力によって、他の部員たちの億劫な受け入れ作業は君のを含めて不必要のものと化し、僕は自分の場所へ無事に収まる。
 もちろん僕がいるときにも、扉から入ってくる異邦人を一回一回仲間として受け入れ直すこの方法は変わらずに、僕もたいてい「挨拶」の役を免れる。文芸部では話が絶えなかったし、これほど平穏な人間関係の構造がありえるのかといつでも思っていた。波長が合ったんだろう、挨拶をするだけのことが同じように苦手だったように。
 何を会話しているのか、普段暮らしていることの大部分がそうであるように、ほとんど分からないし、翌日には覚えてもいないが、僕も文芸部の会話に平均的に参加し、こんな風にエッセイとも回顧録とも付かないものを書いては4000字で切り上げ、書いては4000字で切り上げることを繰り返していた。志賀直哉は彼の中の葛藤を媚を売る方へ押しやり力づくで長編小説「暗夜行路」を書き上げたが僕は高校生活の間ずっと、書くことと書かないことの中間を取っていた。

   III

 作品を人に見せることはいい。その作品を絞め殺すことができるから。文芸部に入るまでは、誰にも知られないところで誰にも読まれない独白を、何度も書き直すことの繰り返しだった。果たしてさっきより良くなったのか、悪くなったのかもわからないまま、来る日も来る日もひとつの作品を、それも4000字に満たない作品を、書き直すということを繰り返していた僕は、誰かに読ませることさえできれば、その作品を読んだ者を見下し、見棄てるような心持ちで、その作品を、見下し、見棄てることができる、そして改稿地獄から抜け出すことのできることを知った。
 帰り道、ときどき君と、寄り道したり、しなかったりしたが、いつでもその日書いた4000字を読ませて、その度に君を軽蔑した。かわりに僕は君の書いた小説を読みながら帰る。同じくらいの文量でも、いつでも君はきちんと読み終わり、僕は家についても読み終っていないことがあったが、それは君の用いる三人称での文章が、僕の書く一人称での文章よりも読みにくいからに違いない。読み終えると君は何も言わず丁寧に二つ折りにして自分のカバンの中へしまったあと、恥ずかしそうに笑って僕の表情を伺う。自分が軽蔑されていることを知っているからだ。僕は君の仕草を模して、だから部屋にはきれいに二つ折りにされた君の小説が積み上がっていった。
 君との出会いは「誰が読むのか」という根源的な疑問との別れでもあった。読ませる人もなくただ書き続けた中学時代にあった深淵に覗かれているような感覚は霧消した。それがどのような影響を総体的にもたらしたのか未だに無自覚だが、救いと呼べるような安易に肯定的なものでないことは感覚的には明らかだった。
 もし君が、善行と見なされているような、作者への感謝のフィードバックなどを敢行していたならば、君は途端に深淵と化し僕を覗く具体物へと転化していただろう。だが、君は感想や意見を述べることはあったが、善行は一度もしなかった。もし、あの照れ笑いを善行の滲出と見なすならば、君は既に少しだけ僕にとっての深淵であったのかもしれない。

   IV

 この作者の小説の特徴は終わり方の唐突なことだ、といった評を三島由紀夫が川端康成の小説のあとがきに贈っていたが、僕は川端康成の作品の終わり方を唐突だと思ったことはない。というよりも、どこで終わっても様になると感じていた。川端康成の小説の場合、そこで小説が終わりになること自体が、そこで小説が終わるべきことの根拠になるとすら思っていた。
 でもそれは作品を書き続けることが根源的に無効だったということを意味するのではないだろうか。終わるべき幾度の断層を経ることでしか、続いていくことができないのならば。
 君の小説の特徴は終わり方の唐突なことだった。僕は君にささいな感想を贈ることさえ恐ろしくてできなかった。人生における完成の不可能性を、作品における完成の不可能性として、重ね合わせる方法で扱うことができるのなら、きっと君の小説のように唐突に終わるしかないだろう。完成の信じられていない場所において、いったい評価とは何だろう?
 高校一年の秋、名作と呼ばれる映画を見て、こんな作品で取れるようならもし自分がアカデミー賞をもらっても嬉しくないだろうと心の中で発語してから、それまで持っていた評価への固執、つまりそれにまつわる恐れや恥じらいの危うさを感じた。それは自分の作品を君にどう思われるか、どう見なされるかという不安や期待の延長線上の、それも重要さの減退する方向にしかあらゆる賞や評価は考えられないことを発見したからだ。
 君は主観で判断する個人に過ぎないが、同時に賞や評価の決定性も、集団が擦り合わせの結果として決定する「価値」を重要なものと見なす作者個人の主観によるものに過ぎないことは、それ以前に、もう理解していたことだった。
 高校を卒業してから君に一度も会わなかった。ただ、部誌にも載せなかったまさに塵紙の束が、きれいに二つ折りされてお互いの部屋に眠っていたはずだ。
 僕も君も、二ヶ月に一度発行される部誌に作品を載せたが、井戸に原稿を投げ捨てたのと同じだった。もし僕か君のどちらかが、あの二人きりの鑑賞会のなかで善行を行っていたならば、相手の見る自分という姿に同化して、生まれ落ちたものとしての自分自身をこの場所へ置き去りにしていたのだろうか、それとも開いた深淵が、偶然が、つまり必然がする方法で、ただ、二人を「さりげなく」分かつことになったのだろうか。
 君の創作における葛藤は、読者である僕においてあまりに容易に解消される。それは同時に、もし君が僕の中へ旅立つことを決めない限り、僕は君の葛藤の持続とは関係が持てないことを意味している。僕の葛藤も、君の中であまりに容易に解消されていただろう。だがそれは本当に、無意味なことだと良く分かっていた。
 あるいは関係できることの方が異質なのだ。会話が成立することさえ奇跡と考えていられれば少しは媚を売る気にでもなれたんじゃないだろうか。世界にとって関係が可能性、あるいは存在性であっても、切実なところで、僕にとって関係は、不可能性でしかありえないと感じていた。僕が君に出会ったことも、君が小説を書いていたことも、それから君と一度も会わなかったことも、世界にとって必然であることが、僕にとっては偶然だった。

   V

 君を僕のすべてを見通している存在と想定するならば、今になってこんなことを書くことの意味を弁解しなければならなかっただろう。あるいは、それは僕のひとりよがりだろうか、という僕のこの自嘲の不当性を君なら看破することができただろう。つまり僕のひとりよがりだ、という言葉は前提的に無効だ、なぜなら君も、誰も、何も見ていないのだから。
 見られる、聞かれる、読まれる、ということは無いのだ、 誰も、何も、見ていないということが在る。神が見ている、お天道様が見ている、読者が、観客が、見ているから、書く、作る、行う、という誤魔化しの無効性。あるのは僕が見ているということだけだ。それが遠く旅立ってしまう「可能性」を含めても。僕は読んだ。自分の書いた文章を、君の書いた小説を。僕は見た。君を、僕の書いた文章を読んだ君を、僕の書いた作品の載っていた部誌を。でもその向こう側はない。君を理解するということはもし僕が君を理解することでありえても、世界が君を理解することではありえなかった。
 本当は僕は落ち込んでいたんだ、もう丸二週間、考えることと書くことのすべてを諦めていた。この落胆も反復性のうちに捉えなければならないことの屈辱が僕の不能を持続させていた。ほとんど喪に臥せるということだった。罪悪感にも似ていた。僕が僕の行為を何度も何度も0と掛け合わせ無効性と捉えなおしても寂しさは1として残り続けていることの意味が理解できなかった。不在が在るという人間的矛盾への対処法が見つからなかった。
 僕はそれこそ生を死んでいるかのごとく、あるいは死を生きているかのごとく、頭の中で生じては消えていく絶え間ない自問自答の中で、欲望はそれまで考えていたように、後に行為を引き起こすものとして本質なのではなく、いまここに在ること、存在を、ここに起こしていることの前提だということを発見した。
 生はそれまで前提として、つまり無意識の中でそうと決定し考えていたような、無意味性や無根拠性に触れているものではなかった。なぜなら存在が起こるということが既に「欲望」によって方向づけられたものなのだから。
 「実存は本質に先立つ」という高名な言葉の「実存」という単語に僕は欲望を前提的に方向づけられた存在を見る。部屋へ放り出された無力の赤ん坊ではなく、泣き叫ぶ赤ん坊こそがより根源的なのだ。まるですることを失った僕が一日中街を彷徨っては、頭の中で自問自答を反復していたように。
 欲望は存在に先立っている。不安は人の心がわからないことを根源に持っている。例え一人でいることが不安であると感じているときにも。それが欲望の先立の根拠だ。
 君が読んでくれたということや、君が見ていると感じるということは、視線の方向性によるものではなく、存在に先立つ「欲望という方向性」によるものだった。

   VI

 自らの行為の無効性を言い聞かせることは部屋に帰りつくと、あるいは休日になると、何もすることがないという地点へ不幸を押しやることにすぎなかった。君が僕をもしニヒリストだと見做しても、それを否定する方法はなかっただろう、ただそう見做してくれる人はどこにもいなかった。
 親愛なる退屈から目をそむけ、「自らの行為の無効性を認める」などという言葉遊びの陰で自ら無効と呼ぶ反復行為を結局は繰り返すことが僕の精神的生活の全てだった。自らの存在しない身体を探し求めるように政治行為に参入する人のように僕は自らの行為の無効性へ一致しようとしていた。あるいは誠実な唯物論者が物理法則にそぐわない領域を否認するように無効性の内部性を否認していた。あるいはどの思想家も宗教者ももはや僕を前進させる言葉をもたないことの無効性を非難し、要求し続けていたことの隠蔽に言葉を利用していたにすぎなかったのかもしれなかった。
 「なぜ人は厳密に語ろうとしないのだろうか」
 教養とは、欲望を誤解しない度合いだ。自らの人間性を、裏切られる形式でしか夢見ることができないところへ想定してみればわかるように。
 欲望は有効性の柔らかい内部だ。例えば一日中砂をいじくっていても、それとも大作の執筆に勤しんでいても、みんな同じように有効なのだ。欲望の領域の内部において、つまり全部が同じように無効だと見なすことの、同形異音語のように、薄い皮膚の裏と表で。虚しいと感じることに熱くなったり、熱心に暮らすことに虚しさの匂いを嗅ぐことは。

   VII

 固執とは、誤差を重要視することだ、というより、誤差を重たく感じることだ。誤差とは、君が君であることと、僕が僕であることの違い、あるいは、恋人であることと、友人であることの違い。僕が眺めている、対岸、あるいは彼岸、

   VIII

 他人の不幸が大切だ。たとえば、愛する人の失恋が
 自分の不幸はないのだから




(補遺)

   I/II

 なぜ書くのか?という問には一つの答えが対応する。それは、「自分が空っぽだ」ということだ。書くことは空っぽな自分に自分を積み上げるということにほかならない。それは純粋な自分自身のための行為だ。
 なぜ書いたものを見せるのか?という問には別の答えが対応する。それは、自分を見てもらうためではない。自分を見つけてもらうためだ。
 僕は人に書いたものを見せるが、有象無象に見せているつもりはない。ここがだめだとか、微妙だと言ってくる人の反応などは本質的にどうでもいいものだ。僕はその時時の一番切実なところで書いているから、アドバイスを貰ってどうこうできる次元ではもはや書いていない。精一杯やったから良いものが出来ているなどと言うつもりはさらさらない。それでも自分が生み出しうるものとしては最高のものを作っている以上、それでだめなら巡り合わせなかったというただひとつのことだ。それが商業的な関係でない限り、相互的にどのような要求もまったく無効だ。だから僕は要求するものは無視し、要求のような感想を言ってしまったときにはその無効性を自覚し、無視してもらってどうぞと思っている。創作が純粋に創作者自身のためのものであることを考えれば当然の態度だろう。鑑賞者を主に置く場合に創作者が試されるものであるのに対し、創作者を主に置く限りでは、鑑賞者こそ試されるものである。それは対話は根源的に不可能で刺激を受け合うに過ぎないという発想にも通じるだろう。
 批評家気取りは今直ぐにでも鏡を覗いて商人あるいは普遍的価値と名付けられた仮想の親へ依存する幼児の顔が映っていないか確認するべきだ。
 あるいは自分より下らないものを書いている者が受け入れられているという屈辱的な経験を下敷きに考えるならば、どの水準にも巡り合わせはありうるという言い方になるだろう。二者関係の絶対性に割り込むことができないというのが第三者性の本質である以上、下らない水準で分かり合ってやがるなどと言ってみることは自分自身の空虚さを響かせることに他ならない。
 創作は空洞と感じられる自分自身の探求であり、深淵と感じられる他者の探求であるところで二重性を持っている。

   III/IV

 腹が減って泣き叫ぶことが、猫や乳児自身にとっては偶然、母親へ呼びかけることに繋がったのならば、泣き叫ぶということだけでなく、きっと辛さや苦しみ自体が、呼びかけであると感じられる領域を持つことだろう。
 辛くもないのに泣き叫んでみたときには、(不幸にも成功するかもしれないが、)鬱陶しがられたり、叱られたり、母親の優しさを十分に受け取ることができないという経験は、幼稚園を卒業するころにはもう学習されているはずだから、もし自然な母子関係がそこにあったならば。
 言語に内面性がありうることの根拠はそこで生じているのではないか、また、もしかするとマゾヒズムの根拠をそこに見出すことができるかもしれない。
 恋人関係は、未来へ目を向けないという条件ならば、「触れることの許可」を伴う友人関係なのだと思う。友人関係は「触れることの禁止」を伴う恋人関係だろう。その定義において、どちらがより「深い関係」かは、僕には決めることができない。
 ただ恋人関係の重心は「触れること」よりも「その許可」にあるように思われる。相手の許可を認知することが、恋を認知することであるように。

   V/VI

 猫は腹が減ると僕を呼ぶ。しかし僕が餌をやらないでいると居ない人を呼びはじめる。飼い猫は家の中で自分では餌を取れないから、他にできる行為がない。僕など悪人で「うるさいなあ」と心の中で思うことが多いが、泣き叫ぶのは当然の行為だ。なぜなら他にすることがない。
 人間の「退屈」も、「終わっていくこと」に対しての当然な行為として、無意味な行為あるいは空想的な行為、それでも可能な行為、可能であるということが優しさである行為へ向かう。
 同時に、猫は人を呼んでいて、それはただ鳴き叫んでいることとは違う。呼びかける対象は空想の人とでも呼ばねばならないが、呼びかける行為は本物である、という、そこにギャップが生じている。
 もし見えないところに誰か人がいたら、その人が来るかもしれないという、僅かかもしれないが、可能性を残し続けている。それはほとんど夢みたいな話だが、頭で理解しているとかしていないとかでなく、わずかでも可能性があるということが、例えば当たらないのに宝くじを買うように、その行為を選択する根拠になっているということがある。「僅かな可能性」というものが、可能性と不可能性の間を架け橋している。

   VI/VII

 厳密に語ろうとすることは、否定を畏れること以上のものではない。正しいと見做されることへの構造的依存。それが厳密に語るということの本性だ。
 ひとりで考えつづけていると、自分にしか伝わらない言葉を創出したり、使っている言葉が通用しないところへ根付く、菌糸が日陰で繁殖するように。だれしも、人は自分の頭の中で考え、感じ、覚え、忘れることをしているから、通用しない領域を保持している。
 想定される一般的価値観として、お互いの甘受というところに想定される愛を考えれば、それは分かりあいの不可能性を承認した先にある、つまり二人の誤差の許容として、更に言えば「要求の無効性」への同意として、その意味で愛は深いわけだ。
 でも僕は少し違った形の愛を別に思い浮かべている。それは「ずれ」で一致するということだ。女子高生の会話を聞いていればときどき無造作に出現する、「わかる」という言葉がある。
 「わたし、これ苦手なんだよね、」
 「わかる」、僕はこの言葉を信じていない。
 お互いがお互いに不明瞭な領域を少しでも残していれば、それは構造全体へ浸透する誤解性であり、そのうえ現実の関係は、お互いのほとんどの領域を不可知のものとして保持しているからだ。わかるということはありえない。でも僕はこの「わかる」という言葉が好きだ。相手のことがわかることはありえない、というのと別に、わかった、と真剣に思うことが、「二人」という関係性では起こる。


琥珀の湖

  あおい

握りしめたものは
ただの小さな石ころだった
けれど、石ころは
握りしめれば握りしめるほど
熱くて痛い
心臓のように鼓動している

石ころが握りしめた私の手のひらを
突き破って血を流し
血は私の足のすねを伝って
大地へと還っていく
私の血を吸いこんだ大地が
愛する人のもとへと続いている

その真実が
私の心を一つに束ねて
魂の焔を激しく燃え上がらせる
手のひらのなかの石ころの鼓動が
大きくなりやがてことばを持つ
石ころの声なきことばが
心の奥深くを貫いていく

何故、生きるのか
愛する人のために生きるのか
愛する人とはあなたのはずなのに
真実が掴めない
真実とは何か
抱きしめあったぬくもりのなかにある

そのわずかの真実を信じて
私は歩いていく
太陽が目覚め世界が輝く
その輝きこそがあなたの愛だと
あなたの琥珀の湖が
白い雪のような砂漠の上で教えている


タイトル

  榎本いずみ

束の間の冬眠があるのなら
少し更新させてくれ
      /割り込んでくる青白磁
水底に沈んだ少年の
肺に刻まれたタイトルが思い出せない


循環

  松本末廣

浅黒く笑う卵黄が観察し
取りこぼしていく中で
生命へと還っていく
落葉を私と認識しつつ
独立した自然数 X と密約し
複合された虚数時間に論破を促して
故に君は
量産された設計情報により 濃縮されつづけ
製氷にただいなる純愛を搾取させていたのだ
渇いた恥骨に響く

階段は私の裏へと出現するもの

犯された風の鈍行な眼差しを
一定の座標へと誘導し 自らの背後へと
落ちていく
落ちていく
落ちていく
落ちていく
落ちていく

現象を止めておけば 私は生きてゆけるのです

嬌声が逆光し 病床ひどく
性欲を淫らな左手が
焼死体へと拒絶反応させていく
かさばらせた時間が
私のミトコンドリアから内膜を奪い
法則性を剥離し
撫で揃えられた荒野へと変化させたのは
親愛を結露させる程の惰性だった
愛を告げるその振動で
私は無数の死体を一列に並べ
世界を柔く束縛し 監獄する

銑鉄の一部となった
刹那に触れる存在は
世界の歪みを知る者
歴史となっていく私を視姦し
誘惑させると
殺生に気づかず混入していき
対消滅を引き起こす
後には 衝撃の酸味を残渣として居座らせ
熔解を梗塞し 孕ませていく
投げ出された自らの皮膚片と共存する様を見続け
循環する私を 優しく否定するのだ


Laid back ALF-O

  アルフ・O

 
 明日が今日よりいい日でありますように
 なんて祈る事しか出来ないけれどさ
  ───TRICERATOPS / GOING TO THE MOON


# b

フレッシュを入れ過ぎた
コーヒーが冷めるのを待つ
風のとても強い春の午后
「遠回りどころか
 到達もしないんじゃない?
ハニートーストが品切れになってしまって、
仕方なく時間外手当の使い道を
ガソリン代とかそれ以外で考えることにする
「体のいい逃げ口上ね、
視界をチラチラするのは
切りそびれた前髪だけじゃないんだろう
と、カフェインが効かない
(都合よくそう言い聞かせている)
身体に囁く。
やせ我慢にまた蜂蜜入りの体液を混ぜ込んで
3人掛けソファーに沈み微睡む夢を見る
「ギチギチするのはそれも貴女の
 深層心理とやらの反映?くすくす。
日向が少しも暖かくならない庭で、
どこまで肋骨を切り崩せばいいのかと
誰にともなく問う、
「肩身狭いね。自業自得だけど。
「水も食糧も嗜好品もカテゴライズが遅過ぎた。
「貴女はあたしの夜で、
 あたしの昼で、
 あたしの月。なの。
「見えない左眼、直接回線繋いじゃえば。
「断頭台の刃をそのまま得物に
 使った彼女を見習って。
「いや本人の意思じゃないでしょ。
「ほらまた老人共がアレルギー起こしてる。

いつだって、深い睡りに飛べるよ。
今でも。───多分。
「緑柱石に埋もれない限りは、ね。


# q

鍵穴を閉じる。
居着いた蟲が飛散しないように、
6帖の部屋を満たすソーダ色の香りは
貴女の細胞、身体一式に絶えず濾過され
上塗りされ
抗いようもなく、
気怠く対流している。
「あたしを呼んだのは、そのため?
「1人だと間に合わないもの、解るでしょ?
マーブル化する夢を見る、
貴女の声を聴くと、いつも。
「貴女がアポロンで、あたしがクロノス。
「微妙に対になってないんですケド、
「だって語感で選んだから。
対流しつづけ、幾千度目かの飽和を迎える
合図の紫の雨が降り
あたしたちは、一様におしゃべりをやめ
決してマーブルにはなれないと知りながら
互いに漂白を始める
「この方法しかないのかしらね。
「それ、本当にそう思ってる?
───俯く。「いじわる、

(締め出せばいい。
 なればこそ、彼等のコントロール下から、
 僅かにはみ出していればそれでいい、
叫ぶけれど貴女は応えない。
解ってる。
解ってる───。


# o


(空白)


(空白)

(空白)
 
 
   


春暁

  游凪

月明かりと雪の結晶とスミレの花
無人のプラットフォームに落ちるものを
青白い人が拾い集めていく
少し膨らんだポケットから鳴る金属音
零れたものは何色だったのだろう
消えていくチルチルミチルの足跡
伸びた影にうずくまって
夜と溶け合えば孤独にならない
プリンターが吐き出す犠牲者たちは
偽善の中で何も知らず生活していたのにね
鈍重な亀になってしまわないように
象徴にされた小鳥に絡まった重みを
ハンカチで優しく拭いとり
固くなった肩甲骨を広げていく
川底に足をとられたから
地上に撒き散らされた光に気づいた
見開かれた目に映っている平等な朝は
その足元に沈んでいた

分別された灰色のオタマジャクシたち
劣性は潰してしまえばいいのに
背後から中年女のヒステリックな声がする
キュビスムの直線が裂いていく夜
ぱっくりと口を開いたら銀歯が覗く
これはあなたの北極星だ
頭上から初老の男の囁き声がする
二人は通じているから信用ならない
レモンイエローのカプセルが降り
ビニール傘に弾かれる音で掻き消される
足の生えていない白い子どもを探している
オンラインゲームでフレンド申請しては
見知らぬ人の過敏な内臓をまさぐる
液晶ディスプレイに閉じ込めた快感は
ゆっくりと侵食していき
眠りの浅瀬で二枚貝をこじ開けた
螺旋状に巻かれてどこまでも落下していく
更新されていく数値に止まらない耳鳴り

公園の薄暗い街灯に照らされた
古いブランコは揺れながら傾いていく
左利き用のハサミが大きく開かれて
裂けていた夜は完全に切断された
結ばれていたリボンが飛行機雲のように消えて
朝を迎え入れる準備をする
遠くの恋人と重なろうとして
シャガールの絵をよく眺めている
柔らかくなっていく背骨と明けていく青色
雄鶏が鳴いて花束を飾った
軋んだ音をたてるドアの隙間から入り込んだ
緩やかな朝陽をテーブルに招き
ゆでたての卵をひとつずつ食べる
乳を吸う猫たちをサランラップに包んで
手のひらでまあるくする
少し沈むくらいの重さのある温み
幼い頃のわたしに抱かれて
春が抜け出そうとうごうごしている


超つまんね

  陽向

水を飲む
がぶがぶ飲む
お腹が苦しいよ
水にも飽きてきたところで
一回死ねと叫んでから
コンソメスープを飲む
コップで五杯飲んだ

そんでうなだれる
俺の人生なんとも言えない
幸せなのか辛いのか
同じ日々の繰り返し
友達いない友達いない

死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね

なんか知らんけど幸せで
なんか知らんけど辛くて
僕は真夜中に寝ている
当たり前だ

ビールがさ
憂い顔で
もっと冷やして、って
言っている


夜更けに見た夢見の女の子

  玄こう



 なんだか映画でも見ているような夜道を歩きつも、ふと寝間着姿の女の子が道に立っていた。

 狭い夜路の通りがかりにわたしが坂道を登ると向こうに見知らぬ女の子が立っていた。

 その子は笑いながら声をはしゃげて坂道を降りてくる。両の金網に絡む蔦の葉をつまんだりしては、その子はそのうち蔓を体に絡ませて、ラジオ体操をしているみたいに、くるくると踊りまわりながら、蔦の茎を縄跳びがわりに飛び跳ねていたりもしている。

 坂を降りてくその子は、酔ってるのかな?、、しかしあまりにもその幼い子の面立ちが、懐かしい小学生の時に好きだった子のような、肩にかかる黒髪のショートヘアを風になびかせカールガールのあの子にそっくりだった。

 わたしは、ついつい面食らいながら不思議なその子の姿に見とれてしまった。あんまり話しかけてもいけないが、なんだか楽しそうだから、かけ下りてくるその子についつい手を振ってしまった。その子はまるでわたしの存在など分からない様子だった。


 坂道を足早にかけおりて踏切でいつか下りてくる遮断機を待ちながら、美しく舞っている踊り子さん。

 病院から出てきた女の子だろうか、それとも家から出てきたんだろうか、夜更けに夕涼みに外に飛び出した子なんだろうか。




 砂浜の夏の夜のゆめみし遠退く、通い慣れた道幅狭く行き来たる影の子よ、歩幅は短く我が心は形無し夢みぞわたる子は遠退き、
 子は消え失せ、風をわたり、能わざるものを欲し、与えざるものを抑し、渇きしその子の笑い声も誰一人として人に与えぬ。

 その子は坂道をかけ下りていくとき、とても気持ちのいい風がわたしのこめかみをすり抜けていった。 わたしにはなにも見えていないまるで妖精のようなその姿を、その子もまるでわたしなんかが見えていない君の後ろ姿を、何度も振り返り、わたしは何度も君に手を振った。


夢ムマムマムマムマ魔

  玄こう

五つの星条を模る龍が 夢うつつに
絵画を見るように私を 見つめてる
しずこころなき西方を 向いている
宙をくる巻きくゆらせ 揺れる草葉
折り畳まれた部屋には 天井游ぐ物
ミニマム住む生き物が 眼を開けた
市井にまるかり潜んだ セピアの紋
伽藍の牢獄に仰向けて わたし微か
心愛しこの部屋にいて 繋ぐ夢うつつ
心棚びく風がバタンと バタンと揺れ
わたしは再び眠り落ち かかりながら
再び目を開けたら龍が 天井見下ろし
   ムマムマムマムマムマ
    ムマムマムマムマムマ
   ムマムマムマムマムマ
      ムマムマムマムマムマ
  ムマムマムマムマムマ
   …ムマムマムマムマムマ…ムマ 
   ムマムマムマムマムマ…
     ムマ 
   ムマムマ ムマ (◎)
     〜    〜
    (●) ムマムマムマムマムマ
   ムマムマムマムマムマ
     ムマムマムマムマムマ
    ムマムマムマムマムマ
   ムマムマムマムマムマ
      ムマムマムマムマムマ…
    ムマムマムマムマムマ
地を這う竹の根のベージュの毛織り
草の葉の息を吐いてるくすんだ文字
意識はなだれてその背後にいる文身
向こう夢から降りてきた私を観る龍


石 風 洗濯物 部屋

  山人

道端の石に夢があるのなら
もっと明るくひかるだろう
考えた挙句
石はあんな風に黙り込んでいるのだ

風はいつも姿を見せない
あなたの心のように
風圧を押しつけては
ここにいるよと示すだけ

洗濯物は物憂げに
上空の曇り空を眺め
部屋の
誰も見ていない
テレビを一瞥する

部屋は四角く区切られていて
そこに人が丸く住んでいる
隅には置き去りにされたおもいが
埃となっている


舗装

  ゼッケン

20年ぶりに見たあなたは
休耕田だらけの枯れた雑草の目立つ郊外で
駐車場だけが広々とアスファルトを敷かれたコンビニ
エンスストアのレジ
で、
むくんだ手で
おれが無造作に置いたカウンターのおにぎりを取り、
子供たちが買ってとせがんだ駄菓子の個数を数えた
俯いたまま、おれの顔を見上げることもなかったので、
首の付け根についた肉が目立った

おれは千円ばかりの料金に
国家公務員共済のゴールドカードを差し出して支払いを終えた

クルマに戻ると、運転席に座った妻はサングラスをかけ直し、アクセルを踏む
駄菓子を持った子供たちは広い後部のめいめいの決まった席に座り、シートベルトを締める
あなた、うれしそうね?
ハンドルを握ってクルマを加速させながら、妻が言う
下げた窓から初夏の風が気持ちよく首筋をなでていく
そうなんだ、昔の知り合いなんだけど、すっかりおばさんでさ、笑っちゃうよね
おれはあなたに振られたことを妻に隠した
振られてさえいない、軽蔑とともに拒絶されただけだった

おれは、止めろ!と叫んだ

驚いた妻が急ブレーキを踏み、おれは助手席のドアを蹴りとばすように開け、
丈の高い雑草が伸びた車道の脇を駐車場の広いコンビニエンスストアへ向かって走った
一ヶ月もすれば強い日差しにすこし溶け始めるであろう黒いアスファルトの面積を駆け抜けて
おれはコンビニエンスストアの店内に飛び込む

おまたせ! 迎えにきたよ!

おれはレジ越しにあなたの太くなった手首を掴んで言った
おめえ、気色わりいんだよ! さわんなよ! とあなたは言った
あなたは変わってなかった
奥から亭主だと思われる店長が出てきておれの襟首を締めあげた
また来たら殺すよ?
おれはすみませんと謝って駈けてきた道路をまた走って戻った
クルマはもう止まっていなかった

初夏
片道一車線の道が
果てしなくまっすぐに
空に向かって
伸びていた

車道の脇に立ったおれは息を弾ませ、すがすがしかった


人形/ヒーター

  山井治

人の形をした物体が
目の前に横たわっている
人の形はしているが
動かないので人形かもしれない
しかし熱がこもっているので
ヒーターかもしれない

人の形をして熱を持っているなら
生きている人かもしれないが
動かないのでなんとも言えない
呼吸はしているが
吸排気はロボットでもするし
我が家のエアコンやPCでもする

目の前の物体が人であるか否か
それを自分一人では定義できない
人であるなら知人がいるか
役所に証明書類があるはずだが
目の前の物体を調査するにも
知人や書類の真贋を確かめられない

この物体が人間かどうか
さらに自分が人間であるか
定める物証も証言もない
物体や自分が人間であると
証明しようとするこの意識も
人形やヒーターかもしれない

文学極道

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