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2013年12月分

月間優良作品 (投稿日時順)

次点佳作 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


飛べない時代の言葉から 第一番

  前田ふむふむ

(序奏―――
          




「弦楽奏で
             低音で始まり少しずつ高く

         
一の始まりから――
一の終わりから――
アダージョの笛が
霞のなかからあらわれて
飛び交う梟で埋めつくしている
夜のふところの
世相の有刺鉄線に包まれた街はずれで
花を植え
時間を置かずに
花を摘む子供たちに
生涯を句読点のついた
冷たい断定の刻印をおしている
霧が流れている

  (牛の皮が打ちつけられている
太鼓が連打された――

アダージョの笛は
驟雨が降るなかで 
花にみずをやりつづける少女に 鳴りひびき   
眩しい日差しのなかで
雨傘をさしつづける少年に 鳴りひびき
世界の中心と周縁にむかって鳴りひびき

(言葉のロータリーは迷路になっているから 終わらない

               (間奏――
                  さらにアダージョ
                     ときにアレグロで
                  続ける


「はじめてみる黒い空 
すきまから  
ひかりが放射している草むらのなかを
わたしは 胎児のように包まっていた 」

傍らでは ぼくが焦点のない眼で
スコップをふり
ひたすら穴を掘りつづける
(この穴は きみのチチではない
(無論 ハハではない
(カゾクではない
(きみ自身の生きた証のぶんだけ深く広がるだろう
ぼくは気がついていた
いままで
こころの底から 泣いたことがなかった
こころの底から 笑ったことがなかった
ぼくはふたたび シャベルを持った
(まず きみの一番欲しいものから 埋めていこう
(葬儀場の煙突のなかでは いままでの人生で
(きみが欲した分だけ 燃えていくだろう
(透明な有刺鉄線のなかで 分別ゴミのように
(でも チチが積み木のように伝えてくれた 本当に大切なものは
(あのオーロラのむこうにある 誰もいけない雪原の窪みに隠すのだ
(そっと真夜中に
(誰かがその伝説を捜すまで

気がつかなかったが
いつから眼が見えなくなったのだろう
ぼくは ひたすら見えない眼で 空に向かって何かを叫んでいる
黒い空は その声を聞き取れずに
草むらから 剥きだしになっている 
夕暮れに咲く電波塔を包みながら―――

       太鼓がひとつ打たれた
       そして二つ目
       少しずつ速度を速めて―――

「わたしは 草むらだと思っていたが いつの間にか
揺り篭のようなベットに滑りこんでいた 」

この暖かさ
こうして振り返れば
/ぼくは 喜ばれたのだろうか
/いや 居なくなるのを望まれたのかもしれない
ぼくは親族の死者が行き交う 暗い階段を 
なつかしい顔に見送られながら


           混声合唱
(南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛
(南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛
(南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛
(南無大師遍照金剛



転がりながら落下した
雪原のうえへ――
(湖のように 広々と血で充たした液体の


           管弦楽が鳴りひびき

太鼓が連打されて―――
「アレグロ


ぼくは 見たことのないひかりを浴びて
生まれて始めて
こころの底から泣いた
        /泣いた」泣いた


      連続するフーガ


海鳥が 交錯を描いて舞う 一面 雪原の白
わたしは 河口の岸壁で やさしい姉を待っている
二つあった太陽が 一つ わたしの世界のはてで 燃え落ちた
来ることがない姉を待っている

(失われたプラモデルを
(組み立てるのは止めよう
(部品は 無意識に ぼくが食べてしまっている
(ぼくの好きな赤色は剥がれて
(直すペンキ屋はもういない
(有刺鉄線に絡みついた白鳥は
(飛び去ったのか
(いや 土に返ったのだ

夜明けを見たことがない姉を待っている

(身体を出来るだけ伏せて
(地に耳を当ててみれば
(ぼくが執政官ではなく 夜をさ迷う
(難民であることがわかる

存在しない姉を待っている

(神話のない荒野は
(地の果てまでつづき おびただしい廃墟は
(人もいない 鳥もいない 犬もいない 虫もいない
(そして真夜中で光々としている
(パソコンのなかには
(姉だと名乗る
(偽物の
(新しいすべてがいる

世界のはての 雪原の窪みで
(わずかな欲望の熱が 白い皮膜を這う


遠く
トオク(間奏    )
     「アダージョ


               ―――舌が渇く朝まで


源流から――
世界のはてから――
数えきれない時間を下った
揺り篭のようなボートは
みずを裂きながら
世界の始まりを見て
世界の終わりを 次々と埋葬していった
景色が 目まぐるしく変転する季節を
奏でて
木々が 木々たちのための 混声コーラスを歌いあげ――
小川が
大河を迎えいれて
赤く彩られた血のような午後
ボートに乗ったぼくは
(世界の終わりの空を背景にして
一つ 先端が欠落して鐘のない
百八つの尖塔のある街の桟橋に着く
整列している雨の木たち
アダージョの笛が鳴りひびき――
ぼくは 霞のなかから
白髪を梳かす
よわいハハを連れ添う

       太鼓連打
       「フェルマータ

わたしを見つける――

       「アンダンテ
  
ぼくは わたしは
ハハの手を握りしめる
ハハは笑っている
介護用ベッドから
ゆっくりと体を起こす
もう九十をとっくに過ぎた
やせ細った
冷たい手から脈動が伝わってくる
知らなかったが
太鼓のように
その音には 言葉がある
熱のような言葉だ
そして
水滴のように
自由に身をまかせて
今から詩作を始めるのだ
その言葉を咀嚼するまで

    一時静止


鐘が鳴る
百八つの尖塔の鐘が鳴る


「最初は弱く
     徐々に強く 重々しく
           管弦楽 交響楽がなりひびき
          「アダージョ
         「そして強く

鐘が鳴る
百七つの鐘が鳴っている

耳を劈くように
世界の始まりから
世界の終わりから
               










(音楽用語
アダージョ   ゆっくりと
アレグロ    速く
フェルマータ  長くのばして
アンダンテ   歩く速さで

              


    


展開

  はなび


深夜に泥酔して棚を注文したわたしは
森の中をあるいていました

分かれ道のあるところに
古びた木の看板がたっていたので
わたしはそれを蹴飛ばしました

腐ったところから
古いワインのような匂いがして
木の看板はもろく崩れました

きいろのペンキで
Synapseとかいてあるのが
視界の隅にはいり
わたしは家に帰りたいと思いました

台所ではさまざまな展開が仕組まれていて
しらない人達が黙々と煮炊きをしていました

かまどのまえにすこしだけ泥を盛ったような
変ったかたちの傾斜がありました

そのうえをとおる人達はみな
いったんテンポをくずされているのに
しらん顔をしてはたらいていた

おなべのふたをあけると
もうもうとしろい湯気が
わたしにおそいかかってきて

棚に並べるべきものを
じゅんばんに教えてくれた

なべのふたを片付けてくれた人と
目があった
彼だけ
すこしふざけているみたいだった

こんにちは。

こんにちはの文字が

あめみたいにぐんぐん伸びていった
ぱぱぶぶれの様に


不寝番―みずの瞑り

  前田ふむふむ

      1

夥しいひかりの雨が
みずみずしく 墜落する光景をなぞりながら
わたしは 雛鳥のような
震える心臓の記憶を 柩のなかから眺めている

(越冬する黎明の声)
古い散文の風が舞う 剥き出しの骨を纏う森が
黒いひかりの陰影に晒されて
寒々とした裸体を 横たえる
燃えるように死んでいるのだ
薫りだす過去を 見つめようとして
あのときは
夜が 冠を高々と掲げていただろう
訃報のときに躓いた白鳥は
枯れた掌の温もりを抱えて
忌まわしい傷口を 開いてゆく
こわばった声で鳴きながら

(新しい感傷旅行)
そのとき 
わたしは 咀嚼したはずの安霊室の号哭が
劫火をあたためながら 抒情的に生みだされて
時折 弧を描いて
この胸のなかの 漂白する午後に
いつまでも 立ち会っていることに気付く
降りやまない葬送の星の草々たち
浮かび上がる凛々しいかなしみたち
白い暗闇を帯びて 
わたしは 耳で見つめる

(沸騰するみずの地獄)
そして
真率な夜に置かれた手は 
冬のひかりをくゆらし
小川の浅瀬をくすぐり
鋭利な冷たさに 触れようと試みる
そのとき
わたしは 惰性に身をやつす皮膚が
コップ一杯の過去も飲み干せない
理性の疲労をさらけ出すのだ
暗闇を引き摺るように

蒼白い居間に 逆さまに吊るされた
天秤の絵画がゆれて
轟音をたてて死んでいる夜に
わたしは置き鏡に映った
ひとつの孤独な自画像を
見ることができるだろう
だが 埃のついた こころの瞳孔を反芻しても
ひかる空に戯れる 子供たちの透明な窓に
紙飛行機をたおやかに
飛ばす無垢な過去は 味わえないだろう

子供たちは 過去を知らないから
自由に過去と うねりを打つように戯れて
過去を 歪曲の色紙の上に染めず
静寂の湖面の目次の上に 彫の深い櫂を
差し込むことが出来るだろう
伸び伸びとした櫂の指先のあいだから
ひろがる地平線のない群青の空に
無限の追悼を 描けるだろう

子供たちは わたしを置き去りにして
夏の饒舌な木霊を 午前のみずのなかに
溢れさせていくのだ
わたしは 振り返るように見つめる
あのうすい布がはためく 鳥瞰図のなかの岸を

       2

十二音階の技法によるピアノ伴奏で 老いた両親が わたしに子守
唄を歌う 繰り返されるその調べは 多くの危うさと わずかな真
実があるだろう かつて世界の近視者の堕落が 深夜繰り返される
案山子たちの舞踏会を 演じさせた烙印を知る者にとって 個の良
心によって行われている 偶然は やがて必然となるのだろうか
そして 消してあるテレビの画面の中で 卑屈な歪む顔が浮かぶ危
うさは 今や全くの自由を手にした 鴎の群れが 空の青さを持て
あましている時代の 古い写真の中で遠吠えをする 狼の危うさだ
ろうか 禁煙した者の部屋に置いてある 鼈甲の灰皿には 黴の生
えた古いタバコが 燃えている それは 遺書を読み上げる結婚式
が 行われた夜 壊れかけた 信号機のある無人踏切に 二人で現
れる見知らぬ幽霊が 夜ごと 焚き火をしながら 最後の薄汚れた
口づけに美しく微笑んでいる そんな 幽霊たちの歴史において
行われつづけた欺瞞は 幽霊たちの石棺をあけて 腐乱した屍を
死の祭壇にさらしたのである 細々しい一本の塔を崇拝した者たち
にしてみれば 石棺の上で 乱立した塔を見て 悲しむのだろうか
羨むのだろうか 新しい山々の木霊を 新しい海原のざわめきを
新しい街頭の前衛が かもしだす息吹を ひたすら煌びやかな模様
細工で飾り立てた 栄光の午後に 彼らの遺伝子を継承する子供を
乗せる 白紙の百科事典でできた あたらしい遊園地の観覧車は
熱病に冒されている子供である あたらしい蜘蛛たちを乗せて ガ
ーシュインを聴きながら 今や 悠然と 幾何学模様の円を描く
分娩と堕胎を繰り返しながら
分娩と堕胎を繰り返しながら

       3

不寝番が ふかい森のみずの始まりを
たえず見つめている
    眼を瞑りながら
森のみどりを見つめている
  言葉の廃墟のなかから 火をたぐり寄せるように
おもみを増した森の迷路を抜けると
終わりの岸に出会う
そこを越えれば 懐かしい森の傲岸がせりだす
湧きつづけるみずの声
遠いつぶやき

わたしは 精妙なみずのにおいを ふりわける

不寝番は 閉じた眼をあけると
子供たちの世界が 冬のみずきれを
はぎれよく 広げている
抒情の砂漠を泳いでいるのが見える

わたしは ふたたび 眼を瞑って


 

 


親愛なる、山田太郎さんへ

  森田拓也

仕事帰りに公園でコーヒーを飲みながら休憩していると
公園の片隅でスケボーを練習している
おっさんがいた。

子供を連れている母親達は
おっさんを奇異の表情で見ていたが
おっさんは、ぜんぜん気にする素振りを見せない。

おっさんは、スケボーで高さ3センチ程の石のブロックを
飛び越えようとするが、何度も失敗し、尻餅をついている。

尻餅をつきながら、
おっさんは、照れた表情を浮かべ、頭を掻いている。

おれは、おっさんに声をかけた。

「おい、おっさん。

 スケボーで対象物に入る角度が甘いから
 この程度の高さの石のブロックが飛び越えられねえんだよ。

 スケボーを貸してみろ。
 おれが見本を見せてやるから。」

おれは、おっさんから、スケボーを取り上げ、
軽く助走を付け、対象物の石のブロックの手前でジャンプ、

ジャンプの最高到達点で、おっさんを人差し指で指差し、
自分をさりげなくアピール、

着地。

おっさんが、溢れ出るような感動の表情で、
おれを見ながら、叫ぶ。

「わ、若造!

 おまえ、やるじゃねえか!

 い、今の、凄い技は、なんて言うんだ?」

おれは、右手の煙草に火を点けながら答える。

「今のスケボーの技は、
 おれが、20代の時に発明した技さ。

 このスケボーの技の名前は、

 “世界中の、お父さん、お母さん、息子さん、娘さん、おじいちゃん、おばあちゃん
  
  みなさん、ぼくは、この日本という国で、とても幸福な人生を送っています。”

 だ。

 世界中の、スケートボーダーたちは、おれの、この技の名前を略して

 “日本”って呼んでる。」

おっさんは、おれの言葉を、ひとつひとつ大切にメモりながら、

「おい、若造よ。

 おまえに、相談がある。

 もし、良ければ、おれにスケボーを教えてくれないか?

 もちろん金は払う。

 だから、頼む、おれにスケボーを教えてくれ!」

おれは、おっさんの情熱に心を打たれ、

「金なんて、いらねえよ。

 おれは、毎日、夕方5時に仕事が終わるから、
 この公園で待っててくれたら、おれが、おっさんに
 スケボーの基礎を教えてやるよ。

 ところで、おっさんの名前は?」

おっさんは、歓喜の表情を浮かべながら、

「おれは、山田太郎だ。」

「そうか、山田太郎さんか。

 いい名前じゃないか。

 なんて言うか、生まれたての赤ちゃんでも、
 確実に発音できそうな。

 たぶん、山田太郎という名前の由来は、

 《今だ人類に発見されていない、未知の“山”の中に、常人の目では、決っして、
  
  見ることができない“田”んぼが存在していて、そこで、地球人ではない、

  異星人らしき“太郎”さんという人が、何か、得たいの知れない未知の作物を

  植えておられる》

っていうのが、たぶん、山田太郎という名前の由来じゃないかな。

ところで、太郎さんは、食べ物では何が好きだ?」

「おれは、サバ缶が好きだ。

 ちゃんと、箱買いしてある。

 もし、近未来、核戦争が起きても、生き延びられるように」

 *

その日以来、太郎さんと、おれとの、
スケボーを通しての熱い友情がスタートした。

太郎さんの、スケボーのセンスは、抜群で
おれの少しの指導で、太郎さんのスケボーの腕は上達した。

おれは、太郎さんにスケボーの基礎を一通り教えた。

そんなある日、おれは、太郎さんに言った。

「太郎さん、

 おれは、今日で、この星を去る。

 おれは、この星を離れ、自分の故郷の星に
 帰らないといけない。

 だから、太郎さんに、スケボーを教えてやるのは
 今日で最後だ。

 すまない。」

「そ、そうか。

 実は、おれも、薄々
 気付いてたんだ。

 おまえが、この星の人間ではないということを。」

「た、太郎さん・・・。」

おれは、胸に込み上げて来る
熱い何かを感じながら
太郎さんに、言った。

「よし、太郎さん。

 今日こそ、高さ3センチの
 石のブロックをスケボーで飛び越えてもらうぞ。

 おれとの、練習の成果を見せてくれ。」

「よ、よし!

 今日こそ、必ず飛び越えてやる!

 おまえに、地球人の恐ろしさを見せてやる!」

 *

太郎さんは、今は亡き、島倉千代子の顔面が、一流の匠の手によって、
華麗にペイントされた、通販で、シルバーお値打ち価格で購入した
マイ・スケボーに飛び乗り、やや長めの助走を付け、
そこから一気に、対象物である、高さ3センチの石のブロックに
突進した。

対象物の手前、50センチの地点で、
太郎さんは、ジャンプしようとするも、踏み込み方が甘く、失敗し、
スケボーごと、ふっ飛んだ太郎さんは、

純粋な子供達が夢のような幸福な時間を過ごす場所である公園の横に、
何故か、存在してしまっていた、昨日、組員が、引っ越を終えたばかりの、
指定暴力団、山口組系の、ヤクザ事務所の入り口に、突っ込んでしまった。

一時間後、地獄から生還した、太郎さんの頭部には、
刃渡り1メートル半の日本刀が、突き刺さり、
そして、おそらく、おれの推測だが、ヤクザに落とし前を付けられたのであろう、
太郎さんの、右手の小指が、根元から消滅していた。

頭部から、ぴゅーぴゅーと、鮮血を噴出させながら、
太郎さんは、おれに言った。

「ま、待たして、すまん。

 今日こそ、あの高さ3センチの石のブロックをスケボーで飛び越えないと
 おまえが、故郷の星に安心して、帰れないからな。」

「た、太郎さん・・・」

「よし、次は、おまえの発明したスケボーの必殺技、

 “世界中の、お父さん、お母さん、息子さん、娘さん、おじいちゃん、おばあちゃん、

  みなさん、ぼくは、この日本という国で、とても幸福な人生を送っています。”

  略して、“日本”を決めてやるぜ!」

 *

先程の、惨劇により、太郎さんのスケボーからは、前輪が2個とも消滅し、
もはや、スケボーではなく、単なる、板と化した物体に、太郎さんは、
勢いよく飛び乗り、対象物である、高さ3センチの石のブロックを飛び越えるために
太郎さんは、全力で、地面を蹴った。

太郎さんの前輪が2個とも消滅した、かつては、スケボーであったのであろう板は、
公園の地面の土を抉るように、まるで、ヤンマーのトラクターのように、
飛び越える対象物に向かって突進した。

 山田太郎!/地面を蹴る!

  太郎!/蹴る!

   太郎!/蹴る!

    太郎!/蹴る!

飛び越える対象物の手前、50センチの地点で、
太郎さんは、板ごと、大きく、ジャンプした。

その瞬間、おれは目を見開いた。

「や、やったー!

 た、太郎さん!

 ついに、高さ3センチの石のブロックを
 飛び越えられたじゃないか!

 で、でも、太郎さん?

 ちょ、ちょっと、飛び過ぎじゃね?」

太郎さんのジャンプは、上昇に上昇を重ね、
おれに笑顔で、ピースサインをする、太郎さんの姿は
やがて、空の彼方へと消えた。

 *

山田太郎さんが、

 /人から、

  /鳥になれた日。



 
 

  








 
  



 


形骸

  atsuchan69

荒く乱暴に削られた悲しくも不真面目な凹凸のある石畳は、煌めくルビーがさんざん泣いて叫んだあとのように、まだ温みのある紅い夜の涙でびっしょりと濡れていた。
蒼褪めた馬の首を被った人を殺したおまえたちがせわしく迎える朝、その罪の許しを請うまえに色とりどりの花で飾られた街中の窓という窓はすべて開け放たれ、年若い娼婦や片足のないバイオリン弾き、首にマフラーを巻いた金持ちの酔っ払い、猫を抱いた老婆、飛行帽をかぶったタイロッケンコートの男、真下に皿を投げ落とす憑依障害の女、洟をたらした太っちょの少年、そして葉巻をくわえたスコティッシュ・ディアハウンドだの女装趣味のあるナイフ砥ぎだの、白いエナメルの長靴をはいたミルク売りの少女だの…。
さてさて、一体全体どいつもこいつも美しく淫らな罪の色に染まってやがる。やがて誰かがおまえたちの悪行を償うために死んでしまうなんて、ほんの微塵も考えちゃいなかった。【生贄】は今夜もふたたび必要とされていたが、肝心の生贄たちはすこぶる陽気でお気楽だ。だいいち、穢れた生贄なんて豚も喰わない。たとえ神がどれほど寛容だったとしても、もしも仮に葉巻をくわえたスコティッシュ・ディアハウンドなんかが生贄だったら、きっとその罪を許すどころか激しい怒りのあまり街じゅうを灼熱の火炎によって百年は焼きつづけるにちがいない。しかしだからといって、生贄はいらないという訳でもけしてなかった。人を殺したおまえたちのためには、それ相応の償いは必要だろうし、かけがえのない命以外に大いなる神の許しに匹敵するものなど到底考えられなかったのだから。
そこで人を殺したおまえたちは、なんとなく神の喜んでくれそうな気のする白いエナメルの長靴をはいたミルク売りの少女を生贄に選んで箱詰めにした。すると、――君たち、こんな夜更けになにをやっているのだい? とつぜん、飛行帽をかぶったタイロッケンコートの男がすぐ近くの窓から声をかけたが、人を殺したおまえたちは黙って知らぬふりをきめた。それから、娘がとっくの昔に操を捨てていたとか今も数人の男と関係があるらしい…等ということはぜったい神様には内緒だ。そんなことがバレたりでもしたら、人を殺したおまえたちの命どころか魂は永劫に地獄行きだ。だから箱詰めのあと、生贄の箱を青い水玉模様の包装紙で丁寧につつみ、さらに紅い大きなリボンをかけて広場に置いた。そうして残酷な朝の光が不吉な教会の鐘の音とともに訪れるまえに、人を殺したおまえたちは跪き、箱をまえに神へ祈るふりをした。すると見よ! 夜の涙で濡れた石畳はたちまち地響きとともに崩れて、生贄の箱は底なしの奈落へと沈んだ。
街中の窓という窓からふたたび美しく淫らな罪の色に染まった顔が登場し、――ふん。なんだよ、また生贄ごっこかい。と、口々にそう云った。蒼褪めた馬の首を被った人を殺したおまえたちはそれらの陽気な悪人たちの顔を見あげ、とりあえず今夜も生きながらえているということを、恐るべき深淵の入口を見つめながらも束の間の安堵のうちに、そっと悟った。


夢の中で何度も繰り返しながらその都度忘れてしまう「僕」の体験

  右肩

 四つ辻を過ぎるとどくだみの茂み。花が白い色を放射している。花は重なっている。
その西角、垣根の奥に、土壁の崩れた旧家が建つ。

 この家は、先祖が撲殺した馬に、代々祟られているとのこと。
一族の誰一人として五十歳まで生きた者がいない。しかも、事故死や業病による最期ばかりだ、と。

 先代の当主は五十歳を目前に、浴衣の紐を鴨居に掛けて首をくくった。
生涯独身であった。
家系は絶えるはずであったが、嫁いでから亡くなった妹がいて、その子どもがあとを継いだ。

 数日前、床屋が僕を調髪しながら鏡の中からそう話していた。僕は散髪用の椅子の上、半眼で、うとうとと話を聞いていたのだ。
顔を剃るから首をねじってくれと言われて床を見ると、頭髪の切り屑の広がりの中に血だまりがあった。しかし、すぐにそれは光の反射による誤認だとわかった。
 たぶん誤認だった。

 その時の浅い眠りが未だに心身を蔽い、僕の意識は朦朧としている。

 苦く臭う草むらの向こうの大きな木造平屋建。いつしかそこを垣根の隙から覗いていた。
昼下がりの直射日光。雑草が繁茂する庭と傾いた家に、暗い輝きが宿る。

 風景はエロチックに穢れている。

 建物の手前、人影が中空に表れ、煙のように流れ、消える。
誰でもあってもよさそうな、誰か。繰り返し、現れ、現れる以上の数で、誰かが消える。

 そんな気がする。
 そんなでもない気もする。
 どちらでもない気もする。

 混濁は快感だった。そこへ実在の核心が白い指のように僕を撫でる。眠れよい子よ。
だが、指ではない。指には見えない。

 感覚と感情と思考とが、熱を持って分厚く重なる意識の襞。薄桃色の襞。
 柔らかに襞を押し広げて物語の指が動いてくる。
 隠された記憶の空穴が開かれ、生暖かい恐怖のエッセンスが噴きこぼれてくる喜び。浮かされて視界が濁った。

 「その家、木村さんと言いますね?」と僕は床屋に聞いのだった。瞼の上あたりを剃られながら、「失礼しました。お知り合いでしたか?」と聞き返された。

 二十年ほど前、僕はこの町に住んでいた。陰鬱な谷間の町。幼かった僕はこの家の先代に抱き上げられたのだ。こいつが俺の子だったらなあ。両手で高々と僕をさし上げ、彼は明らかに怒気を含んだ声で言った。僕は泣かなかった。男の顔は記憶にない。僕の背後で母が冷たい笑いを浮かべるのがわかった。この商店街の路上だった。

 ほんとうにそんなことがあったのか。
 僕に母などいるのか
 僕はほんとうに生きてここにいるのか。

 特に何ということもないが不安になる。
 昔、馬を撲殺した棍棒が、血の跡を黒ずんだ染みにして、ごろんと転がる場所がある。
 どこかにある。
血を吸った棍棒は黒ずみ、節々の凹凸は摩耗して滑らかである。握りには朽ちかかった荒縄が巻かれているかも知れない。鵯が留まりにやってくる。棒も飛行の可能性を持っている。
 棒だけではない。記憶も飛行するのだ。

 僕は僕を信用してはいけない。記憶も理性も羽を生やして行ってしまった。

「お先に失礼します」

 僕もまた不信という靴を履き、絶望のバッグを肩に掛けよう。
出掛けるのだ。

この町に長くいてはいけない。

 そんな気がする。
 そんなでもない気もする。
 どちらでもない気もする。


生活

  しんたに

 眠る前に設定しておいた、携帯のアラームで目を覚ます。洗面所に行き、歯を磨き、顔
を洗う。グリルで秋刀魚を焼き、プラスチックの白いまな板の上で野菜を切り、サラダを
作る。それらを皿に盛り、タイマーをセットして炊いておいた白米を茶碗につぎ、食事を
摂る(おいしい)。身支度をし、荷をまとめ、部屋を出る。駅まで歩き、電車の中でイヤ
フォンをつけ、録音しておいたラジオを聴く。死にも慣れる、と男の人が語っている。空
港で手続きをして、飛行機に乗る。遠くなっていく街や山を窓から眺める。ミニチュアみ
たいだなと思う(いつものこと)。仮眠を取るために目を閉じる。


 外には知らない規則が並んでいて、歩を進める度に破れていった。わたしの言葉は白い。
タクシーに乗り込み、予約しておいたホテルへ向かう。途中でコンビニへ寄り、パスタと
飲料水を買う(あと何回、いらっしゃいませとありがとうございましたを繰り返せば救わ
れるのだろうね)。ロビーで鍵を貰い、部屋に入る。真っ白なシーツに黒いスーツのわた
しが溶け込んでいく。遠くで人々が鳴り響いている。わたしはテレビをつけてみた。映し
出された人々が騒ぎ、争っている。映画なのだろうかと思った(映画だったのかも知れな
い)。水圧の弱いシャワーで髪と体を洗う。バスタオルで水を拭き、浴室を出ると、テレ
ビの中では相変わらず、消え去る前にと、保存された過去が現在へと言葉と画を喚き散ら
している。わたしはテレビを消し、ベットに入って眠りに就くことにした。街の喧騒が子
守唄を歌っている。


 スーパーで一本百円の青魚をトングで掴み、備え付けのビニール袋に入れようとすると、
見知らぬおばさんにこっちの方が身が引き締まってるわよ、と声を掛けられる。いや、こ
れで平気ですよ、とわたしが答えると、年を取るとがめつくなって嫌ねぇ、とおばさんは
笑い、去っていった。
 それが、わたしの書きたかった物語のラストシーンだった(それで、詩はどうしたの?)。


悲しくてみたことも(にゃい。)

  明日花ちゃん


並ぶように一人います
二人、三人、いるのですが
小さくなり長い腸の中(あなたとわたしとそのなかのあなたにあるひとつ。なみだ、火曜日のこと。)

あなたと暮らしたい
胃袋の中(紋白蝶を食べ過ぎた失速、百合向けられた胸中(触れすぎた左側(親近より、とびきり苦しい窒息)の外に付随した、肖像画の紙切れ、あなたの美しい鶴。私の?どちらの?どちらでも良かった。)の外部は世間体に触れすぎた私の純情が胞子のように難しく発光する)ため。)

人づてに殺してしまわないように
神経が道を標して脚の中這入る(不格好に歩く雪降りしきる白陽のうつ病患者のように向かって言語を刺し始める(患者のフリをし、仕事であるとそそのく。)私より悲しんでください、そうして井戸水を汲んだ)外気に犯された言葉は使い古され沈んてゆく。正直に差し込むなら愛さないでください。そうして、消えゆくのは加工された色調。透明さだけを残しながら。


粒の中(書きかけの項目(目次の名称は『風騒がしい』(トマトの赤みは明度を増し、幾度白くなる(つむじの奥であなたの消した色目なのかもしれない(船で餌をやる魚を捕獲するためでもなく、魚を売り、求める人の顔を見つめて行為をひと度みたび続ければ良いのだと言い聞かせた)波止場では嘆く不躾の丸みを背骨中央に持たせ)存在は見よがしに泣いている。すると触れすぎて仕舞ったと静かに想い悩んだ躊躇いはその海に沈む日を願いやまず、深く丁寧に並ぶその重みはたとえ目には見えずとも、瞼の上にしっかりとしがみ付いている。重いと考え、ドラッグストアでマスカラを買った。睫毛を立ち上げ、変化の訪れを慈しむように乗せていたラメは東京に舞い始めた。その綺羅星はあなたの前に塞がる雪でしたと言えなくなってしまうひと時)どこに伺えば、あなたを救うことが出来ますか?)どこに連れていけば良いのだろう。幸せはどこですか。幸せの温度はどれ程でしょう。教えてください。

装置のようにイルミネートするなら美しく膨張した弓に沿う地図を破り続けて。
腕が無くても芸術家のように見える。
可笑しいでしょうか(
私をください
。)

降り立つ前
二日辛抱した
三日さまよう
以前、
どうしたら足元を浮かべることが出来るか
ポーチのファスナーを開け閉めしながら
ひたすら考えていたこの中(私は何を入れましょうか。(入浴剤を二つほど(薬を一週分(先日のマスカラ(渡すはずのお菓子(思い出すためのメモ(の中には日付順に並べた脱字をひたすら載せ続けている)傍にある花の名前を書き加え、閉じて)開き)閉じ)開き)ひとしきり確認する)手元に知らない指が変わりに開け閉めしている。悟られたポーチの中(わたし(下腹部(血(なにか(とても悲しいもの(なにかへ(あこがれの(難しい(迷う私達(なぜ(なぜ愛せない(なぜ

愛せていたことにならない)


ひときわ、
上擦る声の先(静かな(雨。(聞き耳を立てながら(深い地が欠けている(コーンクリートに染みたい(願わくば泡に(一つづつ(二つに分裂し(アメーバのように変容し)何者へ)不可解な脊椎動物への)進化論を)説き伏せる(無我の演説を(どこで(外(中でひたすらに聞いている)幸せになりたい(美しいものでありたい(せめて私のおまんこと(おちんちんが(どうしてなの(ショーウインドウを見る(後悔していないのに(幸せ)の分裂)引き裂かれるどこかに。
波止場に心が二つほど見え)知らない間に(存在を感じ始めた)あの人は)見ている(いない(いる)居ない)美しいデコレイトを続けた。
一つまみ
すれ違い共有する筋を
緑葉のシートに感じている。

あなたをください

にゃー
にゃー
にゃーぁああ(にゃ((、、


ねこ
)と知識を交換するため
雨の中横たわる
小さな顔を拾う。
みかん箱は尽くされたように
不死を捧げていたから。()


symbol

  夢野メチタ

魚よりも虫に近い生き物だと知ってかなしんだ、君の背わたをぬいて食べ
ます。これ、いつまで泣いておるんじゃ。わしだって同じ気持ちだ。同じ
気持ちだよ。ミラー。ミラーの中に映る自分。おおきく息を吸いこんで、
吐いて、吸いこんで、吐いて。吸いこんで。背中で語る、わたしの予想の
ななめ後ろで洗濯機が産声を上げて、ほつれたボタンがからからと鳴った
。からから。からから。からから。

共振するラッセル音に合わせておどるサッカーボールです。かたい握りこ
ぶし大のヘリコプターが風を切ってすすむ。肩で息をして、そのまま。放
さないで。足のつかない対岸に置き去りにされたらどんな気持ちだって。
一本の棒になりなさい。そして、マニュアリストとして生きるのです。ふ
み切った抑留がつま先をつたう。サッシに挟まった苦い虫。あざやかな、
サルミアッキ。

すすむったらないって櫛でならしたじゅう毛と、仕切られた側からめぐら
す視線。もしも世界が120パーセントの勾配だったとしたら、いったい
何人が地に足をつけて立っていられるんだい。真剣な顔で傾いでいる彼が
おもむろに立ちあがると、突き立った木杭めがけてむんずとその長柄を。
掃除、洗濯、そのあいだに、まるで昔からの決まりみたいにつめたい水に
唇を噛みしめる。悔しくて、悔しくて。漢字とてにをはは新聞読んで覚え
ました。いずれは中国語や英語にも挑戦し、ヒンドゥー語とウルドゥー語
を、あれ?

隣家の戸板かち割って米びつ漁るうつけもん懲らしめるため開発されたん
が、電子釜やった。科学の発展には犠牲が漬け物や。博士は自論を証明し
ようと自ら戦地におもむき、カカオに撃たれて死んだ。かかるチョコスロ
バキアの国境では今も攪拌機を手に立ちつくす男たちが前掛けを黒く汚し
ている。甘いだけじゃだめだ、甘いだけじゃだめだ。焼けただれたバター
の匂いが一帯に満ちて、

ジェイミー、2本だけ火をつけて。
でもまだ食べちゃダメ。ちゃんと歌をうたってからよ。
ママの焼いたミートローフがなかよく切り分けられてみんなのお皿にのせ
られたちょうどそのとき、付け合わせのマッシュポテトは、俺も映画みた
いな恋がしたい、そう思った。彼のまわりには幼なじみのにんじん、彩り
のレタス、地中海産ブロッコリーが肩をよせて並んでいたが、畑で生まれ
た俺たちが、またぞろ家庭菜園みたいな格好で食卓に花を咲かせている、
うんめいのふしぎなめぐりあわせに、すっかり毒気をぬかれた様子だ。そ
の横では、ちゃんと山盛りのスパゲティがやわらかな湯気を立てて一家の
食欲を刺激しているし、卓の中央、ジェイミーがろうそくを灯した特大の
ホールケーキはケミカルなつゆくさ色で、子どもたちの目を輝かせるには
充分だった。坊やはどのドレッシングがお好みかな? ランチか、イタリ
アンか、それとも……アンド・チーズ! 今日は妹の誕生日だけど、ごち
そうを前に誰よりも楽しめるのは自分なんだとジェイミーは、言わぬばか
りにジェイミーは、興奮した高い声で答えた。そして、こうも思った。今
日がこんなごちそうなら、半年後のぼくの誕生日には、もっとずっとすご
いごちそうとプレゼントが待っているにちがいない……! たまらずジェ
イミーは、いてもたってもいられず、早口言葉よりも早いそそり声で訊い
てみるんだけど、

来年のことを言うと鬼が笑うよって母さんが笑った。

*

少し弱気になっていた
急行の連絡待ちを告げるホームの片側で、ひと月ぶりの声に安心している
元気にしているか、
受話器のむこうに耳をすませば、
ほらこんなに、
聞こえてくる戦隊ヒーローのかけ声が自然と顔をほころばせた
今日は公園に行ったと言う
砂場でどろ団子を作って、アヒルの遊具に食べさせた
3合炊いても足りないくらい、口いっぱいに頬張るの
そうやって日々いろんなものをつめこみながら存在を拡大させていくもの
やわらかな頬が会いたいと、言っている
来年なんて見えないけれど
子どもの成長していく姿だけはありありと思い描くことが

できた!

欠けていたピースに可能性をはめこんだらそれっぽくなってしまい、探す
手間がはぶけたような休日の午後に、一杯の紅茶と読みかけのページのし
おりをはさんで、日が西に傾こうとしている窓のむこうでは、買い物に出
かける人の背中や、忘れられた洗濯物がはたはたと夕日の色を取り込んで
、ありふれた街の景色を作っていた。今日のいい日を誰より永く掴んでい
たい。煙草をつまんで深く息を吐き出すと、ふいに誰かに同意を求めたく
なったんで、とりあえず笑ってみた。

寒いから閉めなよ。

白い煙は寒空をおよいで、言葉も一緒に飲み込んでいく。


Where it's (not) at

  宮下倉庫



プリンス・ロジャーズ・ネルソンは逆算して今年55歳になる。始まりより終わりが気になる。僕は
今年36歳になる。そして、プリンスと僕のだいたい中間にいるのが田島貴男だ。そのような並べ方
をされるのは、みな不本意だろうと思う。僕だってそうだ。しかしプリンスも田島も、もしかする
と僕も、その不本意さの理由を知らないだろう。解き明かすための何かの端緒を得ることさえない
だろう。だから、このままにしておくのもひとつの作法であると考えることにする。拝啓 書く前
から、書き終える時の気持ちやあなたやあなたの面持ちを想像しています。

ひょんなことから、台所のテレビでyoutubeを見られるようになった。そこで僕は早速プリンスの
動画を探してみた。最初に見たのは2013年に行われたMTV AWARDスペシャルライブの模様だった。
ごく最近のプリンスということだ。彼は女性ばかり(皆、彼にとっては娘のような年齢の。らしい
といえばらしい気もする)のバンドを率い、1984年の大ヒットアルバム「PURPLE RAIN」のオープ
ニング・ナンバー「LET'S GO CRAZY」を演奏していた。僕がこの曲を初めて聴いたのさえ、既に20
年以上前のことだ。だから彼も僕も相応に年をとっている。プリンスの顔には小じわが増えたし、
多分スプリット・ダンスはもうやらないんだろう。僕はコカコーラ350ml缶のカロリー量をほぼ正
確に記憶し、翌日には、数字は玉突き式に忘れ去られる。そうそう、プリンスはネットの発達に
よって侵害され続けるアーティストの権利について、ひどく憂慮しているらしい。89年頃は、偶
然か奇跡でもない限り、動くメディアでプリンスを見ることはできなかった。そして今、僕もネ
ットで彼の動く姿を渉猟している。手数料の支払いは、誰だって免れたいし、傍らで娘は早くも
ライブに飽きはじめている。

ビヨンセの髪は真っ直ぐのブロンドだったり、同じブロンドでもウェーブしていたり、茶色がか
った黒であったりする。僕はそれを地毛だと思っていたのだが(ヘアスタイリングにだって無尽
蔵にお金をかけられるだろうし。しかも彼女の夫はJAY-Zだ)、黒人という人たちの地毛は、ど
うやらほぼ例外なく、性別を問わず縮れ毛で、どんなに手を尽くしても真っ直ぐにすることはで
きないらしい。なので、彼女の髪の毛はウィッグなのだ。テレビモニターの中で「BOOTILICIOUS」
を熱唱するビヨンセはブロンド。少しウェーブした黒くて長い髪にドライヤーをあてながら妻は
そう話し、僕はそれなりに驚いた。作り物の割には、余りに精巧に見えたからだ。すごい執念だ
よね。ブーン。なるほど。ということはプリンスも、彼は黒人とそれ以外の人種の血が複雑に混
じりあった人らしいけど、さっき見たライブの時のが、地毛に近いのかもしれない。ギターソロ
を弾く彼の髪は、パルプ・フィクションのジュールスのように見えた。カーリーヘアってやつだ。
89年頃は、日本人のように黒くて真っ直ぐだった。あれもウィッグだったのだろうか?ジュール
スのそれはウィッグだったことが映画の後日談で明かされている。

結語として相応しい言葉はなんだったかと考えてみる。「敬具」でいいはずなのは分かっている。
少なくとも「手数料」ではないだろう。しかしその誰に教わったでもない常識を、なんとなく疑
って確認してみたくなる。書く前には何が生まれるのかよく見えなかった。今書き終えようかな
というタイミングに至ってもなお、何が生まれているのか(あるいはまだ何も生まれていないの
か)よく見えない。「きゃりー」だけで検索してみる。もうじき6歳になる娘にせがまれたから
だ。彼女のどこが好き?全部。なるほど。僕にもプリンスみたいになりたいと思っていた時期が
あった。しかし実際にカーリーヘアにしたのは4歳年上の兄の方だったし、娘の髪質と髪の生え
方は、妻のそれにとてもよく似ていて、やがてTLCのチリみたいなウェーブヘアにするのかもし
れない。僕はもうずっと長いこと髪型を変えていないから、デビューした頃の田島(渋谷系、な
んて呼ばれ方を彼は不本意に感じていたらしい)のように、ポマードでキめるのもいいかもしれ
ない。もちろん不本意だ。敬具 あなたにも句読点を付けず、その浮遊感のまま、少しも高揚感
がない。もちろんきゃりー(手数料)の話じゃなくて、実際には、しかし、僕はもうしばらくこ
のままでいるだろう。日本人のように黒くて真っ直ぐの髪のまま、きっとこれにもそれにも適当
な理由はある。


愛とはからだに投げ込まれた包帯

  村田麻衣子

 
コンビニの駐車場で眠っているとあっちの世
界に連れていかれそうで、いらっしゃいませ
って言われてよかった 有線BGMを聴いて 
悲しい音楽が激しい音楽を、癒すからわたし
歌いながら店先に入ってく。光に迷いこんだ
蝶みたいに心の中で唱えた言葉で誰とも話し
かけられない 飲んだミルクでくらくらする
みたいにからだに撒き散らかし からだの浅
はかなの翳に反比例して。液体は、水族館の
内部みたいに水生動物をはんぶんにして 展
示するかなしみがある固形に鎮められて肌色
に塗り固められた わたしという生臭い自己
があった

変な目立ち方をする若者のファッションショ
ウが始まる。目の前にいるひととおしゃべり
できないから いつも有線の音楽は心地よい
し、いとおしい それなのに触れることがで
きない センスを違えた他人まさに セック
スできない人たちで こころのなかは充たさ
れていた
埋め立てられたアスファルトの下に 希望が
あったでも、得体がしれないわかちあえない 
それに触ることはできない。

胸にふくらみきらないフラスコが胸の中にま
たぶつかって 軋んでしまうから 呼吸がは
やくてくるしそうだし空気が破裂して溺れた
 もう誰か早送りしてくれって心の中にしか
いない 人と話している
 誰 誰 誰もいない内に、朝になりその気
配に負けて冷え切った朝がすごいスピードで
わたしを通り抜けていった

あっちの世界にきみはいる、その曖昧な位置
から飛び降りようと 変な格好をしている 
騒々しい 気配でコンビニのオレンジかグリ
ーンの光に包まれるのは、蝶になったみたい
と肌の色を錯誤するじぶんの事ばかりか じ
ぶんは理解できない対象となり それでもこ
とばでしか扱えないあなたのことを わたし
とすることのない行為でわたしを包むことが
できるのか セックスをしないひとをあいす
ることが生きていく意味なのだ 愛とはから
だに投げ込まれた包帯だ 血塗れになって包
囲されて 言葉で理解されたことだけ 一方
的な表現であった ぐしゃぐしゃのカセット
テープが飛んできて、黒いセンサーは でた
らめな聴覚を愛されて アナウンサーの声は
 愛されていますか 淡々と今年最後の放送
になりますとか、言われるたびにうんざりだ
から


色とりどりのそれを眺めている光に ただれ
そうになりながら、顔についたそれは切り傷
だったり 剥がし切れないティッシュの擦加
傷みたいだった
着ている服をぬがせてやれ、ティッシュで覆
われ 三角巾でつるされるままに浸されるわ
たしたちの水位。たくさんの傷を覆いなおし
て、破れたそれを、後部座席から 助手席を
抱きしめるようにもたれかかり駐車場で待ち
合わせた客にもらったお金をスタッフにわた
し 小銭はもらったことがない札束だけ 子
供のころは、小銭のほうがお金って感じがし
てた 本物を知らずにあつめたおもちゃのコ
インの軽さが気に入って遊んだずっと遊んで
いた そのコインが擦り切れてプラスティッ
クが見
えても使い古びたら、母はほかの遊びもしな
さいって、公園にわたしを放って いなくな
ってしまった

公園のアスファルトは転んだら痛かったでも 
それを誰にも言えなかった 言わなかったん
だ駐車場で目が覚めて映るレジの子のつまん
なそうな顔とか、たまらなくいとおしいとき
が、ありませんか。 温めた方がおいしいで
すと必ず温めてくださいの差に埋められない
 希望みたいなものに埋め尽くされて いま
す そのからだが温かだったとき ヒーター
で温まり過ぎたとき生きているのか死んでい
るかわからない違いを区別され いきてるの
を 明らかにできないよう 会計を済ませた
のに、まだわたしのものにならない感じ
手を停めるレジの彼女の 手持ちぶたさを待
って 沈黙に温め終わるまでの間 「電子レ
ンジ もういいんです 」話したときのはっ
としたような 笑顔。

包囲されているエアコンディションに、愛さ
れてあなたまだ ここにいるね。
わたしまだ 昼休みの常温がわからない 夜
分ここにいる


雨の日、あの日。

  田中宏輔



市松模様の
歩道の敷石の上を
きょうは白、きょうは黒、と選んで
一面ごとに跳び越えてみたりした
幼い頃

雨の日、あの日
ぼくはママといっしょに
歩いてた

カサは一本しかなくって
アーケードが途切れるたびに
ママはぼくの腕をとって
歩いた

ぼくは、ぼくの腕をつかんだ
ママの指の感触がこそばったくて
こそばったくて、恥ずかしかったけど
だけど、とっても、うれしかった

ぼくを産んでくれたひとを追い出した
パパを憎むことよりも
血のつながりのない
ママを憎むほうが容易だった
ぼく
ぼくはパパの代わりにママを憎んでた
パパには憎しみを直接向けることをしないで
容易に憎むことのできたママを憎んでた
そうしてパパを責めてたつもりだった
ぼくはとても卑劣な子供だった

雨の日、あの日
ぼくはママといっしょに
歩いてた

あの日、ぼくは
敷石の上を跳び越えなかった

ぼくは、ぼくが
ママのことを好きだったんだってこと
ずっと前から気がついてたけど
いや、そうじゃないかなって
思ったことがあるだけなんだけど
雨の日、あの日
ぼくにははっきりわかったんだ
ぼくは、ぼくが
ママのことが好きだったんだってこと

雨の日、あの日
ぼくはママといっしょに
歩いた

あの日、ぼくは
なるべく、ゆっくりと歩いた


ヘレスで出会ったロマの女の子におくる詩

  北◆Ui8SfUmIUc


ヘレスで出会ったロマの女の子は、字が読めないから早口なのか、それはわからない。
僕がカテドラルでポケット辞書を眺めていたとき、バサバサッとハトが飛びたったなかから、
突然、君はころがりこんできたんだ。君の澄んだ黒い瞳に、僕のおどろいた顔が映りこんでいたから、
鮮明に覚えているよ。

僕は、「あなたのおなまえは?」と辞書をひらいて指差した。だけども君は、僕を指差して
「Cino!cino!」と、大声でまくしたてたんだ。いったいCinoとはなんだろう?
そう思って調べてみると、中国人という意味だった。「Japon!Japon!」僕は日本人だよ。
地図をひろげて、日本を指差してみせた。すると君は、これはイタリアだと言った。

まわりにいたロマたちが、ゾロゾロと集まってきた。そして僕の顔を見るなり、Cino cochino.
と言って笑った。僕はそのとき、君と一緒にいたロマ達を見て、
君が盗人の一味だって気がついたんだ。それもお尋ね者のヤバイ奴らだってね。

君は僕に、「早く来い!」というような仕草して、僕の手をつかんであるきだした。
ガイドブックには載っていない凸凹道を、他のロマ達も一緒についてきた。
おもちゃのガラクタみたいに、わめいたり、さけんだりしていた。
アンダルシアの太陽は、眩しいだけじゃなかった。日差しは、影も強烈に焦がしていた。

あれは、霜がおりた畑にしなびた大根、春に小川はやわらかに目覚め、
5月、便箋にカミキリ虫がとまっていた。梅雨、あまどいにおちる雨粒のうんめいを占い、
夏はセミにオシッコをかけられた。10月、さつまいもを掘り、はじめて触った
ミミズにおどろいて、母さんに泣きついた。

ああ、母さん、久しく会っていない。
母さん、僕はいま、遠くスペインの地で、泥棒たちと、知らない女の子に手をひかれてあるいているよ。
この女の子も泥棒なんだ。あのとき、ガイドブックに書いてあったとおり、カバンから手をはなさずに、
かたくなに胸におしつけて、女の子のことを無視していたら、こんなことにはならなかった?

君は、僕の手をしっかりと掴んではなさなかった。時折、僕の手のひらが、うわの空になると、
そのたびに、君は僕の手を引っぱった。僕は、反射的に君の手を握り返してしまう。
君とつないだ手のひらのなかから、僕の不安がいまにもこぼれて、落ちてしまいそうだ。
もしも、落っことしてしまったら、僕は音をたてたナイフで、刺されて死ぬんだ。

とうとう、ひとりのロマが、「パスポート!」と騒ぎだした。僕は慎重にバックから、
パスポートと、金目のものを取り出して、りょう手でゆっくりと差し出した。
パスポートを手にしたロマは、僕の顔を見て、「Cino?」(おまえは中国人か?)と聞いてきた。
僕は地図をひろげて、日本を指差してみせた。するとロマは、それはイタリアだと言った。

このあと、僕がどうなったか、君に伝えたいけど、そのまえに、君にとって僕は、「おかしな中国人」
ただそれでよかったんだ。イタリアって言ったのも、君が日本を知らなかったというより、
たまたま君が、イタリアを知っていた、それでよかったんだ。
君たちロマに、国籍なんか、あってないようなものなんだよね?

僕は思い出が、明日を追い越してゆくような、そんな感じがして、
故郷とか日本人とか、どうでもよくなって、生きるって、君は、きっとそんな風なんだろ?


(無題)

  益子



美雪の埋没した雪原の手書きの地図 お知らせの電子音が飢餓の昼に降下していく 「言
語や記号がすべてではなくてもね」 「『映像』となる私たちが置き去りにされていたの
は?」 無数の美雪が埋められている、雪原に広がる楽譜のように あなたは手を拡げる、
拡げて仰向けに倒れる そしてオルガンの音を引きずって雪の中から月が産まれる 「私
の楽譜を唾液の海に浸して、」 「音の群像はすべて同じ海に浮かぶ捨て子のようなもの
なのだ」 そうやって形成されゆく形象の陰に うず高く積まれた酸化しきった廃材 真
っ先に心の空に捨てたよ

そう、捨ててください リップクリームを塗った唇に雪解け水が口づける 「レガート、
レガート」 「ずっと、仰向けの、まま、でも目だけは、出口を探してください。コンセ
ントを、雪の中に差し込んで
             明かりを得るんだ」 彼岸も此岸もなく、美雪が埋もれてる
というだけの場所 冷たい躰が探し当てた場所 弦をひき千切って歩いて、歩いて 己の
ことなど どうでも良かった


 
 
 
 


コインランドリー

  sample

天国のコインランドリーで
布団を洗っている

乾燥機を回しているあいだ
少年紙を読んでいた

しかし、ふきだしはすべて空白で
内容がうまく飲み込めない

明日は傘を買いに行こう
雨の日が楽しみになるような

それにしても
人がどこにもいないや

本当にここ
天国なんだろうか


逆転

  はかいし

――本の上でのあの素晴らしい眠りを与えてくれたサルトルに捧ぐ


 お前は女に出会った。運悪くそこはベッドの上だった、初体験で風俗という、いかにも吐き気がしそうなことをお前は試みていた。もちろんすべての人々がそう感じるとは思わない、しかしお前は感じたのだ、その吐き気を、その初々しさを、おのれの若さを。そしてうんざりした。お前はうんざりする自分を感じた、そう言い直してもいいだろう。お前は真っ直ぐに愛を表現できる相手が見つからなかったために、つまりどこかひねくれたところがあったために、そうなってしまったのだ。お前は暑さの中で、くねくねした路地裏を抜けて、その店へ入っていった。
 そこに夢があった。愛する。これはなんだろうか? ここに乳房がある。ここに谷間がある。鎖骨がある。肩がある。愛する、これは奇妙なものだ。この体のどこに、そんなものがあるのだろう? 股の間には物静かな陰毛しか生えていないし、うなじには甘い汗の一滴もない。これを愛と呼ぶならば、果たして人々は何を味わうのだろう? そんな快い眠りを開かれた目に見続けていた、女の夢だった。お前は愛すると同時に、その体で哲学してしまうのだ。お前が愛しているまさにその体で生き抜いてしまうのだ。
 すべてが終わると、今度はもう来ないぞという気持ちがした。もう来ないぞ。もう二度と。そして、それをいつかまたどこかで言い聞かせてしまうのかもしれないと思ってしまう。お前は愛について数多くの比喩を知っていたが、愛することと愛そのものとの違いについて、深く考えたことはなかった。

 一ヶ月もしないうちに、また別の女のところへ行った。今度はアパートだった。女は姦通の最中に気分が悪くなり、嘔吐した。お前は、それが女のものであるとは思わず、自分のものであると考えた。お前は前回の経験を思い返していたのだ。お前は立ち上がり、吐き出されたものを、まるで自分のものであるかのように扱って、女をますます気分悪くさせた。女は突き刺されたまま、洗面所とベッドの間を行ったり来たりしなければならず、またお前は突き刺したまま、雑巾で床を拭かなければならなかった。お前は、ちょうど直立した女に対して、逆立ちするような体勢でいた、女が動くたびにお前はペニスを軸にしてぶら下がり、女の動きに合わせてどこまでも行ったり来たりすることができた。一通り吐瀉物がなくなると、お前はこう言った。「あのいきのいい魚や野菜が、ゴミになっちまうなんてなあ。俺が持っていくからな」もちろん、お前は冗談のつもりで言ったのだ。しかし、お前は逆さまだった。すべての言葉、お前が口にするすべてのことは、女には反対の意味に受け取れるようだった。女はお前の過剰なユーモアを、自分に別れを告げる深刻なメッセージと勘違いした。「自分よりも魚や野菜の方が大事なの? 信じられない……」また吐いた。仕方なく、お前は自分と女を逆にしてみた。つまりお前は直立し、女が逆立ちするのだ。こんなことをしたらかえって逆効果なのではと思うかもしれない、そしてそれはじっさい逆効果だった。女は吐きまくり、それは止まらなかった。辺り一面が吐瀉物の海になった。その吐瀉物の中の酸のせいで、女は溶けてしまった。お前は吐瀉物に溺れながら女を探したが、見当たらない。ここには乳房もない。ここには谷間もない。鎖骨もない。肩もない。しかしお前は納得した。なるほど、愛が女をとろけさせるとは、このことか。いつの間にやらお前も溶け出した。その日のうちに、アパートの住民たちは異臭のためパニックに陥り、ドアの郵便入れから吐き出される吐瀉物にびっくりして、大家さんまでもが逃げ出す始末だった。直ちにアパートに包囲網が張られ、これを解体するべきかどうかという議論が持ち上がった。多くの人々が反対した。しかし議論している間に、その集会場にも吐瀉物が押し寄せてきているという誤情報が入り、慌てた人々が窓を扉を閉めて隙間を粘着剤で塞ぎ、自分で自分たちが閉じこもる密室を作ってしまった。密室殺人が起こる準備は万全と言えた。外部の様子を確認しようと思ったら窓を割るしかないが、あの異常な酸っぱい匂いを我慢しなければならず、また酸っぱさのために目が潰れてしまうというデマが流布していて、誰にも手のつけようがないのだ。誤情報を流した犯人探しが始まったが、それ以前にどの情報が正しく、どの情報が正しくないのかを、判断できる人間がその場にいなかった。一人が発狂し、一人が何者かに殺害された。やがて、議論は哲学的な方向に進み出した。この極限状態において、そもそも正しさとは何か、と言い出す厄介な輩がいたのだ。「考えてみれば、我々もひょっとすると、もう溶けていて、この世界には存在していないのかもしれないぞ」「いいや、存在することと、存在するものはまったくの別物だ。たとえ我々が溶けてしまったとしても、我々は存在する」こんな調子で、集会場にいた人々は極端なニヒリズムに陥ることになった。「すべては存在しないのだ。すべては無だ。おそらくその言い分が最も我々にとって説得的だろう」吐瀉物が住宅街を埋め、山々を溶かし、マグマと混ざって海を蒸発させ、全世界を浸食しつつあったが、この密室の人々はもはや自分から存在を否定していたので、溶けようが溶けまいが関係なかった。他の家々でも、これと同じことが起き、いくつも密室が生まれていた。人々は閉じこもり、乱交にふけり、殺し合い、それで快楽を増やしていた。世界のあらゆる愛はこうして終わることとなった。どこかに出かけることもなくなったので、「もう来ないぞ」と言うものは誰もいなかった。もちろんこの吐瀉物の大陸に、誰かが出かけて船で近づいてくるなんてことはあり得ないし、その意味でこの愛を邪魔するものはいないのだった。


お墓

  腰越広茂





晴れた今日、
日没すこし後の星星の点点と見え始めた
蒼く透けた空のこちら側で
体と影の連結が解ける
風光のなか雲棚引き
さやさやさーーーふーーー……、と
ほほをなぜる
風が耳元で回って
『ふごうりゆえにわれしんず』
とささやいた。それから
なにも知らぬ指先の墓石はちからなく
宙を指さす
つめたくかわいた風の通りすぎる
家裏の
小道わきの杉林ひとつ奥の闇を見た空っぽの胸に
さっきのささやきがひびく
ひんやりとした指先の墓石の肌にも
夜気はしんめりとそうが
わたし全体も深深と耳元の渦に暮れた
沈黙する墓石である
失われたあの星の光が今に届いた
空っぽの胸の
なきがらはしんとした懐かしい光と黙礼を交わして
この青い星の夜の土に帰る


To: Ineo Yatsuha

  NORANEKO

わたしの頭の中を這い
回る痺れの指の群れに
回されるまともが掻破
される冷や汗が垂れる。
滴る。

鉄の箱は平常運転で
果て無い辺獄の薄暮れを
水平に滑走する。

窓がふるえ、灰色
のシートの微睡みに
君の詩集の断編が
反響する。

『複数形の彼は問う、
「これでもか、これでもか、」と。
単数形の私が答える、
「それでもだ、それでもだ、」と。』*1

題名は、『生きる』だったよな。
なあ、カンパで本出して
ニーチェのパクりは駄目だろう。
等と、なじる術もないのだと、
気付いた、永遠の夕刻。

『僕は信じる、虚構にのみ棲息できる、真実の存在があることを。その表明に代えて、ここに、僕の人生初の詩集を刊行する。』*2

何故、吊革なんて、握ってるんだ。

◆◇◆◇

*:八つ葉 稲雄『不壊、往く。』(扶財出版,2000)より。

1:詩『生きる』より引用。

2:序文より引用。

彼がこの世にないことを、今になって噛みしめている。

◆◇◆◇

ここから、八つ葉 稲雄の来歴を述べる。彼は2013年12月中旬にわたしが思い付いた名前にすぎない。むろん、引用された詩句も、序文も、引用元の詩集も同様だ。が、あなたとわたしの脳裡に灯るクオリアの幻像はそれらを補完してある一種の可能態としての八つ葉 稲雄という人物を思い描き、一冊の詩集『不壊、往く。』を各々に具現せしめたのではなかろうか。より想像力のたくましいあなたならば扶財出版なる非実在出版社の建物と事務所と働く人々を想像したろう、おぼろ気にもイメージを伴って。その淡く綻ぶ輪郭の揺らぎは、まるであの薔薇園に舞う木霊のように、あなたとわたしの通らなかった道を掠めて行く。風が止み、わたしたちの、可能態にすぎないものらが歩く。ありもしない過去の記憶を連ねて、現在を、横切ってゆく。それをわたしたちが眺めているのだとも知らず知らずにそれらは三叉路をそぞろ歩く。歩く。
歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。
歩く。   騒
歩く。 騒      
歩く。  騒 
歩く。 騒
歩く。    騒
歩く。   騒  騒 
歩く。     騒
歩く。       騒 
歩く。      騒 
歩く。         喪、この藍に濡れた文字を身に塗り夜に紛れる。するとほら、わたしはこの帷の何処にでも存在しうる。あなたの認識において、わたしは蓋然性の塊になる。あなたの靴底が擦ると(今や舞台は夜の道だ。)、軽やかな音色を立てる金網の下の空洞を流れる水から、もし、囁きのようなものが聞こえたとしたら、わたしかもしれない。わたしはあなたの夜の靴底を流れる一編の音声詩になったのかもしれない 。もはやこの騙りに意味はない。所詮、神さまごっこにすぎないのかもしれない。だがね、あなたがどう読むかで、わたしの言葉は玉虫色にその価値を輝かせるかもわからない。そのために、わざわざ読めない詩句として開いてるのだから。この帷の隙間、夜の向こうで綾取りをする黒子たち。あれはわたしたちの影だ。あの悪戯なくすくす笑いも。

◆◇◆◇

鉄の箱はふるえながら
非実在のカーブを
曲がりきれない。
座席にうずくまる、わたしの
名前の背中に糸が見える。
疑問符のかたちに、身体を
叫ぶように捻る。


ワイス・クラブのイエローキャブ

  ベイトマン

禁酒法時代より少し前のシカゴじゃ売春宿が最も儲かったもんさ。
それも梅毒病みの女を抱えてる安い宿じゃなくて、奢侈で豪勢な調度品に彩られた王様の気分にさせてくれる店が流行ったんだ。
なんといっても景気がよかったからな。一番有名な高級娼館はエヴァーレイ・クラブだったよ。
そりゃもう良い女たちが揃ってたもんさ、淋病にもかかった事がないような粒揃いの娼婦達だったよ。
で、エド・ワイスって男はな、そのエヴァーレイ・クラブをそっくり真似ることを思いついたんだ。
なんでかって、そりゃ、儲かるからに決まってるさ。女も別嬪さんを集めてたよ。
梅毒病みかどうかは別にしてね。ああ、だからワイス・クラブじゃアレの時に必ずゴムをつけさせたんだ。
そう、エド・ワイスのワイスを取ってワイス・クラブさ。エドって男はしたたかでペテンが利いてたよ。
シカゴ中のイエローキャブに客を運んで来たら手数料を渡すと言い含めてたからね。
アマッ子の尻を欲しがる酔っ払いや、高級娼館目当ての観光客を乗せたイエローキャブがワイス・クラブに殺到したもんさ。
貧乏人は門の前で弾かれたがね。良い時代だったよ。真新しい青いドル札がシャンペン代わりに舞った時代さ。
え、それからエヴァーレイ・クラブとワイス・クラブがどうなったかって?
サツのガサ入れで全てがオジャンさ。何でそんな事を知ってるかっていうのかい。
あんた頭が鈍いな、俺はワイス・クラブに一番客を運んだんだぜ。


ある年表の一節より

  水野 英一

雪だるま。
赤や青のバケツ。
なかにはニット帽をかぶったのもいたり。
けど、ベッドに入るまえにはなかったはず。
チェロの枯葉が庭にいっぱい。
それがいつもの眺め。
パパの、ウィスキー色の眺めとおなじ。
ママはキッチンの窓からの眺めに愛されていた。
鹿の角みたいな木しかみえない窓。
雪だるまの目にはコカ・コーラの空き瓶。
厚いガラスのなかには、煙草の吸殻。
鱒の肌に似てる空には
まだ、朝日はみえない。
寒い日には、映写機を廻す。
自慢気に、新車のムスタングの前でポーズするパパが映る。
僕に向かって声のない声。
でも、これは過去の声、過去のまなざし。
歴史家なら、過去も現在もおなじだというかもしれない。
ロッキングチェアを、チェロの木のそばで焼いたのも過去、いまもパパは同じ目の色をしてるのも。
雪だるま。
朝日に照らされるまえに、なくなって。
枯葉が濡れて見えた。

文学極道

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