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2020年01月分

次点佳作 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一七年八月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年八月一日 「カサのなか」

いま、きみやから帰った。ラーメン食べて寝る。おやすみ。

 文学極道の詩投稿掲示板に、作品「カサのなか」を投稿しました。よろしければ、ごらんください。ぼくの投稿作品中、もっとも短い、6行の詩です。この作品は、14、5歳のときの中学の卒業文集に書いたものの1つ。のちに、27、8歳のときにユリイカに投稿したら、大岡 信さんに選んでいただいて、1990年の5月号「オスカー・ワイルド特集号」の投稿欄に、冒頭から3作同時にぼくの投稿作品が掲載されたのだが、これは、その1つ目の作品。さて、この文学極道の詩投稿欄では、14、5歳のときのぼくが批評されるのだろうか。それとも、その40数年後の56歳のいまのぼくが批評されるのだろうか。興味深い。

二〇一七年八月二日 「死父」

 あした、はやくから仕事なので、きょうは飲みに行かずに帰ってきた。これから晩ご飯。しかし、読みたい本が1冊もない。未読のものは、『巨匠とマルガリータ』と『ドクトル・ジバゴ』だけになってしまった。あ、『ゴーレム』と『ロクスソルス』があるか。『死父』も途中でほっぽり出したままだしなあ。

二〇一七年八月三日 「フローベールの『紋切型辞典』」

 フローベールの『紋切型辞典』(小倉孝誠訳)を読んでいて、いろいろ思ったことをメモしまくった。そのうち、きょう振り返って、書いてみたいと思ったものを以下に書きつけておく。


印刷された の項に

「自分の名前が印刷物に載るのを目にする喜び!」

とあった。
1989年の8月号から1990年の12月号まで、自分の投稿した詩がユリイカの投稿欄に載ったのだが、自分の名前が載るのを目にする喜びはたしかにあった。いまでも印刷物に載っている自分の名前を見ると、うれしい気持ちだ。しかし、よりうれしいのは、自分の作品が印刷されていることで、それを目にする喜びは、自分の名前を目にする喜びよりも大きい。ユリイカに載った自分の投稿した詩を、その号が出た日にユリイカを買ったときなどは、自分の詩を20回くらい繰り返し読んだものだった。このことを、ユリイカの新人に選ばれた1991年に、東京に行ったときに、ユリイカの編集部に訪れたのだが、より詳細に書けば、編集部のあるビルの1階の喫茶店で、そのときの編集長である歌田明弘さんに話したら、「ええ? 変わってらっしゃいますね。」と言われた。気に入った曲を繰り返し何回も聴くぼくには、ぜんぜん不思議なことではなかったのだが。ネットで、自分の名前をしじゅう検索している。自分のことが書かれているのを見るのは楽しいことが多いけれど、ときどき、ムカっとするようなことが書かれていたりして、不愉快になることがある。しかし、自分と同姓同名のひとも何人かいるようで、そういうひとのことを考えると、そういうひとに迷惑になっていないかなと思うことがある。しかし、自分と同姓同名のひとの情報を見るのは、べつに楽しいことではない。だから、たぶん、自分と同姓同名の別人の名前を見ても、たとえ、自分の名前と同じでも、あまりうれしくないのではないだろうか。自分の名前が印刷物に載っているのを見ることが、つねに喜びを与えてくれるものであるとは限らないのではないだろうか。



譲歩[concession] 絶対にしてはならない。譲歩したせいでルイ十六世は破滅した。

と書いてあった。
芸術でも、もちろん、文学でも、そうだと思う。ユリイカに投稿していた
とき、ぼくは、自分が書いたものをすべて送っていた。月に、20〜30作。
選者がどんなものを選ぶのかなんてことは知ったことではなかった。
そもそも、ぼくは、詩などほとんど読んだこともなかったのだった。
新潮文庫から出てるよく名前の知られた詩人のものか
堀口大學の『月下の一群』くらいしか読んでいなかったのだ。
それでも、自分の書くものが、まだだれも書いたことのないものであると
当時は思い込んでいたのだった。
譲歩してはならない。
芸術家は、だれの言葉にも耳を貸してはならない。
自分の内心の声だけにしたがってつくらなければならない。
いまでも、ぼくは、そう思っている。
それで、無視されてもかまわない。
それで破滅してもかまわない。
むしろ、無視され、破滅することが
ぼくにとっては、芸術家そのもののイメージなのである。



男色 の項に

「すべての男性がある程度の年齢になるとかかる病気。」

とあった。
 老人になると、異性愛者でも、同性に性的な関心を寄せると、心理学の本で読んだことがある。
 こだわりがなくなっただけじゃないの、と、ぼくなどは思うのだけれど。でも、もしも、老人になると、というところだけを特徴的にとらえたら、生粋の同性愛者って、子どものときから老人ってことになるね。どだろ。



問い[question] 問いを発することは、すなわちそれを解決するに等しい。

とあった。古くから言われてたんだね。



都市の役人 の項に

「道の舗装をめぐって、彼らを激しく非難すべし。──役人はいったい何を考えているのだ?」

とあった。
これまた、古くからあったのね。国が違い、時代が違っても、役人のすることは変わらないってわけか。
 でも、ほかの分野の人間も、国が違っても、時代が違っても、似たようなことしてるかもね。治世者、警官、農民、物書き、大人、子ども、男、女。



比喩[images] 詩にはいつでも多すぎる。

とあった。
 さいきん、比喩らしい比喩を使ってないなあと思った。でも、そのあとで、ふと、はたして、そうだったかしらと思った。
 ペルシャの詩人、ルーミーの言葉を思い出したからである。ルーミーの講演が終わったあと、聴衆のひとりが、ルーミーに、「あなたの話は比喩だらけだ。」と言ったところ、ルーミーが、こう言い返したのだというのだ。
「おまえそのものが比喩なのだ。」と。
そういえば、イエス・キリストも、こんなことを言ってたと書いてあった。
「わたしはすべてを比喩で語る。」と。
言葉そのものが比喩であると言った詩人もいたかな。どだろ。



分[minute] 「一分がどんなに長いものか、ひとは気づいていない。」

とあった。
 そんなことはないね。齢をとれば、瞬間瞬間がどれだけ大事かわかるものね。その瞬間が二度とふたたび自分のまえに立ち現われることがないということが、痛いほどわかっているのだもの。それでも、人間は、その瞬間というものを、自分の思ったように、思いどおりに過ごすことが難しいものなのだろうけれど。悔いのないように生きようと思うのだけれど、悔いばかりが残ってしまう。ああ、よくやったなあ、という気持ちを持つことはまれだ。まあ、それが人生なのだろうけれど。
 ノブユキとのこと。エイジくんとのこと。タカヒロとのこと。中国人青年とのこと。名前を忘れた子とのこと。名前を聞きもしなかった子とのことが、何度も何度も思い出される。楽しかったこと、こころに残ったさまざまな思い出。

二〇一七年八月四日 「梯子」

朝、ひさしぶりに、マクドナルド行った。えびフィレオがまだやってなかったので、フィレオフィッシュにした。

日知庵→きみや→日知庵→きみやの梯子から帰ってきた。きょうは、これで寝る。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年八月五日 「俳句」

 いま日知庵から帰ってきた。きのうから、ちょこっと、『巨匠とマルガリータ』上巻を読んでる。おやすみ、グッジョブ!

 いまFBで、日本語で俳句を書かれる外国人の方から友だち承認のリクエストが来て、その方のページを見て、すぐに承認した。女性の方のようだが、わかりやすい日本語で作品を書いてらっしゃった。

二〇一七年八月六日 「ムール貝は貧乏人も食べるよ。」


文学極道の詩投稿掲示板に、『アハッ』を投稿しました。よろしければ、ごらんください。

 ひとは、小説や思想書と同じように、また、ひとと同じように、もっとも適切なときに出合っているのだと思います。ぼくは、むかしから知っていた詩人でしたが、一冊で読むことのなかった金子光晴を、ことしの3月でしたか、4月でしたか、岩波文庫で読んで感心しました。

 2017年8月3日のメモ 日知庵にゲイの友だちがきてて、このあいだ大阪のゲイバーで、臭いフェチの話が出て「嗅ぎたい」というと、関東人には「嗅ぎたい」という言葉がわからなかったらしい。「臭いたい」と言わなければ、通じなかったという。ふうん。「嗅ぐ」ってふつうの日本語なのにね。

 2017年8月3日のメモ きょう、日知庵でピーターと出会って、「このあいだのムール貝の話をツイッターに書いたよ。」と言うと、「ムール貝ちがうよ。ロブスターよ。ムール貝は貧乏人も食べるよ。」と言うので、後日、ツイッターで訂正しておくよと返事した。ああ、ぼくの記憶力も落ちたものだわ。ピーター、カナダから日本にやってきて、もう24年らしいのだけれど、俳句をやっているらしく、Hailstone という Haiku Group に属してらっしゃるらしい。主催者の方のお名前は、Stephen Gill という方らしい。

台風だけど、焼肉は決行らしいので、そろそろ起きよう。

 きょうの焼肉、ボスがえいちゃんなのだけれど、くるメンバーが、もう個性、バラバラで、会話が通じるのかどうかもあやぶまれるくらい。まあ、えいちゃんがちゃんと仕切るのだろうけれど。ある意味で、ぼくはお化け屋敷に行くような気分でもある。こう書いてて、いま、ぼくの顔は満面の笑みだ。

さて、これからお風呂に入って、河原町に。焼肉の場所は烏丸御池だけど、そのまえに、えいちゃんと河原町で買い物。

いま、焼肉→居酒屋から帰ってきた。おなか、いっぱい。ありがとうね、えいちゃん。

二〇一七年八月七日 「ヤング夫妻の思い出」

 2017年7月7日のメモ 2012年にはじめてお会いした香港人のヤング夫妻と日知庵でいろいろ話をした。ぼくがはじめてお会いしたときはまだ結婚なさっておられず、2014年に結婚されたのだという。praque で結婚したのだと言われた。「プラ」と発音されたので、どこかわからなかったので、しかも、さいしょのイニシャルが小文字だったので、どこだろうと思ったのだけど、i-phon で Praha の写真を見せてくださったので、日本語では、「プラハ」と言うんですよと言ったら、英語で香港では「プラ」と言うのよと教えてくださった。それって、カフカの生まれたところですねと言うと、おふたりは、うなずいてくださった。「棄我去者、昨日之日不可留」を憶えていますかとヤングさんに訊かれたので、「ええ、ヤングさんのお好きな詩でしたね」と言った。中国語と英語交じりの会話だった。そのあと、彼らの携帯で、お二人のプラハでの結婚式の模様や街の様子を撮られた写真をいくつも見せてくださった。日本には、今回、車を買いに来られたのだが、奥様が国際免許を持ってくるのを忘れられて、international car license というのだそうだが、あした琵琶湖をドライヴするはずだったのだけど、バスで行くしかなくなっちゃたよとのことだった。えいちゃんが、いま何台、車をもってるんですかって訊いたら、すでに2台もってるってお話だった。ぼくが奥様に、国際免許を忘れられたことを、「Oh, big mistakeね!」と日本語交じりの英語で言うと、みんな大笑いだった。お金持ちの余裕というか、寛容さを見たような気がした。

二〇一七年八月八日 「まるちゃん」

 日知庵と、きみやの梯子から帰ってきた。きみやで、何日かまえに出合ったかわいい男の子と再会した。ちょびっとしゃべれて、うれしかった。さいしょ離れた席だったのだけれど、帰りしなには、隣りに坐らせてもらった。それからまた、たっぷりとしゃべれた。うれしかった。まるちゃん、ありがとうね。

二〇一七年八月九日 「恋愛について」

 いま、きみやから帰ってきた。きのう再会した男の子とばったり出くわした。うれしかった。長い時間いっしょにいられなかったけれど。HちゃんとSくんとたくさんディープな話をした。悪について。戦争について。アウシュビッツについて、恋愛について。さいごの話題がいちばん、ぼくにはシビアだった。

二〇一七年八月十日 「韓国人の男の子」

 いま日知庵から帰ってきた。ヨッパ〜。夏休みは毎日、飲みに出るから、毎日ヨッパである。いったい、どれだけ時間を無駄にしているのか。しかし、その無駄な時間があるからこそ、脳みそを休めることができるのである。とは、いうものの、きょうは、ほんとにヨッパ。ゲロゲロ寸前である。ああ情けない。

 隣の隣に坐っていた韓国人の男の子が日本語でしゃべってきたのだが、半分くらいしかわからず、それでも、いやな印象は与えたくはなかったので、にこにこしていたら、帰りに握手された。韓国式の年下の子が左手で右手を握って、ぼくと握手するというもの。まあ、なんちゅうかよくしゃべる男の子だった。34才、既婚。日本人の妻らしい。携帯で見せてもらった。かわいらしい、ちっちゃい女の子。しかし、よくしゃべる男の子だった。ぼくが韓国人だったら、きっと機関銃のように韓国語でしゃべっていたのだろうと思う。そだ。彼の見方だと、アメリカと北朝鮮、もうじき戦争だよねってことだったけど、もし戦争になったら、3日で終わるね、とのことだった。アメリカの原爆の方が北朝鮮よりずっとすごいらしい。でも、原爆を使うかな? ぼくは、そこが疑問だったけど、黙ってた。ぼくは戦争のこと、なにも知らないし。韓国の徴兵制について、ちょっと知識が増した。35歳までだと思っていたけど、40歳までだって。しかも、博士とかは行かなくていいらしい。そうか、学歴はそんなところにも影響があるんだ。でも、35歳を越えていると強制的に連れて行かれるよと言っていたので、ほんと、日本語の出来がいまいちの韓国人青年だった。ぼくのヒアリング能力が低かったとも思えるが。

二〇一七年八月十一日 「2010年11月18日のメモ」

人生においては
快適に眠ることより重要なことはなにもない。
わたしにとっては、だが。

二〇一七年八月十二日 「2010年11月19日のメモ 」

考えたこともないことが
ふと思い浮かぶことがある。
自分のこころにあるものをすべて知っているわけではないことがわる。
いったい、どれだけたくさんのことを知らずにいるのだろうか。
自分が知らないうちに知っていることを。

二〇一七年八月十三日 「梯子ふたたび」

 いま、「日知庵━きみや」の梯子から帰ってきた。きょうは、なにを読んで眠ろうかな。未読の10冊ほどをのぞくと、傑作ばかり、七、八百冊。およそ千冊だ。健忘症が入ってるっぽいから、なに読んでもおもしろそうだけど。古典や古典詩歌もいいけれど、SFやミステリーのアンソロジーもいい。どだろ。

二〇一七年八月十四日 「現代詩集」

 いま日知庵から帰ってきた。きょうも、寝て、飲んで、の一日だった。飲んでるときが、いちばん、おもしろい。さて、寝るまえの読書は? ひさしぶりに、『現代詩集』でも読もうかな。

二〇一七年八月十五日 「リアルな夢」

 現実かと思えるほどリアルな夢を見てた。子どものころなら、現実と思っていただろう。人間は夢からできていると書いていたのはシェイクスピアだった。たぶん、ちょっぴり違った意味の夢だろうけれど。きのう一日の記憶がない。お酒の飲み過ぎで、脳機能が麻痺でもしたのだろう。齢をとったものだ。

二〇一七年八月十六日 「そうめんと、ししゃも」

 いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ。きょうは体調が悪くて、肉類が食べられなかった。そうめんと、ししゃもを食べた。広島からきたという男の子がかわいかった。まあ、なんちゅうか、きょうもヨッパで、ゲロゲロ。帰りにセブイレで、豆乳とかケーキとか買ったので、これいただいて寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年八月十七日 「ほんとかな?」

 数だけが数に換言できる。数以外のものは数に換言できない。言葉もまた、言葉だけが言葉に換言できる。言葉以外のものは、言葉に換言できない。

二〇一七年八月十八日 「あしたから仕事だ。」

 いま日知庵から帰った。セブイレで買ったエクレア2個とミルクをいただいて寝る。おやすみ、グッジョブ! あしたから仕事だ。

二〇一七年八月十九日 「きのうと同じ」

いま日知庵から帰ってきた。帰りにセブイレで麦茶を買って、というところまで、きのうと同じだ。

二〇一七年八月二十日 「トマトジュース」

 いま、きみやから帰った。帰りに自販機で、トマトジュースを買った。終電ギリギリ間に合った。きょうも時間SFのアンソロジーのつづきを読んで寝よう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年八月二十一日 「2010年11月19日のメモ 」

岩波文庫のエリオットの詩を読んでいて
42ページにある最後の一行の解釈が
翻訳者が解説に書いてあるものと
ぼくのものとで、ぜんぜん違っていることに驚かされた。
ぼくの解釈は直解主義的なものだった。
訳者のものは、隠喩としてとったものだった。
まあ、そのほうが高尚なのだろうけれど
おもしろくない。
エリオットの詩は
直解的にとらえたほうが、ずっとおもしろいのに。
ぼくなんか、にたにた笑いながら読んでるのに。
むずかしく考えるのが好きなひともいるのはわかるけど
ぼくの性には合わない。
批評がやたらとりっぱなものを散見するけど
なんだかなあ。
バカみたい。

二〇一七年八月二十二日 「2010年11月20日のメモ 神経科医院に行く途中、五条堀川のブックオフに寄るために、五条大宮の交差点で信号待ちしながら書いたメモ」

きのう、あらちゃんから電話。
そのときに話したことのひとつ。

ぼくたち人間ってさ。
もう、生きてるってだけでも、荷物を背負っちゃってるよね。
知性とか感情っていうものね。
(知性は反省し、感情は自分を傷つけることが多いから)
それ以外にも生きていくうえで耐えなきゃならないものもあるし
だいたい、ひとと合わせて生きるってことが耐えなきゃいけないことをつくるしね。
お互いに荷物を背負ってるんだから
ちょっとでも、ひとの荷物を減らしてあげようとか思わなきゃダメよ。
減らなくても、ちょっとでも楽になる背負い方を教えてあげなきゃね。
自分でも、それは学ぶんだけど。
ひとの荷物、増やすひといるでしょ?
ひとの背負ってる荷物増やして、なに考えてるの?
って感じ。
そだ。
いま『源氏物語』中盤に入って
めっちゃおもしろいの。
「そうなんですか。」
そうなの。
もうね。
矛盾しまくりなの。
人物描写がね、性格描写か。
しかし、『源氏物語』
こんなにおもしろくなるとは思ってもいなかったわ。
物語って、型があるでしょ。
あの長い長い長さが、型を崩してるのね。
で、その型を崩させているところが
作者の制御できてないところでね。
その制御できてないところに、無意識の紡ぎ出すきらめきがあってね。
芸術って、無意識の紡ぎ出すきらめきって
いちばん大事じゃない?
いまのぼくの作風もそうで
もう、計画的につくられた詩や小説なんて
ぜんぜんおもしろくないもの。
よほどの名作はべつだけど。

『源氏物語』のあの長さが、登場人物の性格を
一面的に描きつづけることを不可能にさせてるのかもしれない。

それが、ぼくには、おもしろいの。
それに、多面的でしょ、じっさいの人間なんて。
ふうは、一貫性がなければ、文学作品に矛盾があるって考えちゃうけど
じっさいの人間なんて、一貫性がないでしょ。
一貫性がもとめられるのは、政治家だけね。
政治の場面では、一貫性が信用をつくるから。
たとえば、政党のスローガンね。
でも、もともと、人間って、政治的でしょ?
職場なんて、もろそうだからね。
それは、どんな職場でも、そうだと思うの。
ほら、むかし、3週間ぐらい、警備員してたでしょ?
「ええ、そのときは、ほんとにげっそり痩せてられましたよね。」
でしょ?
まあ、どんなところでも、人間って政治的なのよ。
あ、話を戻すけど
芸術のお仕事って、ひとの背負ってる荷物をちょっとでも減らすか
減らせなけりゃ、すこしでも楽に思える担い方を教えてあげることだ思うんだけど
だから、ぼくは、お笑い芸人って、すごいと思うの。
ぼくがお笑いを、芸術のトップに置く理由なの。
(だいぶ、メモから逸脱してます、でもまた、ここからメモに)
芸人がしていることをくだらないっていうひとがいるけど
見せてくれてることね
そのくだらない芸で、こころが救われるひとがいるんだからね。
フローベールの『紋切型辞典』に
文学の項に、「閑人(ひまじん)のすること。」って書いてあったけど
その閑人がいなけりゃ
人生は、いまとは、ぜんぜん違ったものになってるだろうしね。
世界もね。
きのう、あらちゃんと
自費出版についてディープに話したけど
この日記の記述、だいぶ長くなったので、あとでね。
つぎには、きのうメモした長篇を。
エリオットに影響されたもの。
(ほんとかな。)

二〇一七年八月二十三日 「ナウシカ2回目」

にぬきを食べて
お風呂からあがってから。
いまナウシカ2回目。

二〇一七年八月二十四日 「あなたがここに見えないでほしい。」

とんでもない。
けさのうんこはパープルカラーの
やわらかいうんこだった。
やわらかいうんこ。
やわらかい
軟らかい
うんこ
便
軟らかい
うんこ
軟便(なんべん)
なすびにそっくりな形の
形が
なすびの
やわらかい
うんこ
軟便
なすびにそっくりのパープルカラーが
ぽちゃん

便器に
元気に
落ちたのであった。
わしがケツもふかずに
ひょいと腰を浮かして覗き込むと
水にひろがりつつある軟便も
わしを見上げよったのじゃ。
そいつは水にひろがり
形をくずして
便器がパープルカラーに染まったのじゃった。
ひゃ〜
いかなる病気にわしはあいなりおったのじゃろうかと
不安で不安で
いっぱいになりおったのじゃったが
しっかと
大量の水をもって
パープルカラーの軟便を流し去ってやったのじゃった。
これで不安のもとは立ち去り
「言わせてやれ!」
わしはていねいにケツをふいて
「いてっ、いててててて、いてっ。」
手も洗わず
顔も洗わず
歯も磨かず
目ヤニもとらず
耳アカもとらず
鼻クソもとらず
靴だけを履いて
ステテコのまま
出かける用意をしたのじゃった。
公園に。
「いましかないんじゃない?」
クック、クック
と幸せそうに笑いながら
陽気に地面を突っついておる。
なにがおかしいんじゃろう。
不思議なヤカラじゃ。
不快じゃ。
不愉快じゃ。
ワッ
ワッ
ワッ
あわてて飛び去る鳩ども
じゃが、頭が悪いのじゃろう。
すぐに舞い戻ってきよる。
ワッ
ワッ
ワッ
軟便
違う
なんべんやっても
またすぐに舞い戻ってきよる。
頭が悪いのじゃろう。
わしは疲れた。
ベンチにすわって休んでおったら
マジメそうな女子高校生たちが近寄ってきよったんじゃ。
なんじゃ、なんじゃと思とうったら
女の子たちが
わしを囲んでけりよったんじゃ。
ひゃ〜
「いてっ、いててててて、いてっ。」
「いましかないんじゃない?」
こりゃ、かなわん
と言って逃げようとしても
なかなかゆるしてもらえんかったのじゃが
わしの息子と娘がきて
わしをたすけてくれよったんじゃ。
「お父さん
 机のうえで
 卵たちがうるさく笑っているので
 帰って
 卵たちを黙らせてくれませんか。」
たしかに
机のうえでは
卵たちが
クツクツ笑っておった。
そこで、わしは
原稿用紙から飛び出た卵たちに
「文字にかえれ。
 文字にかえれ。
 文字にかえれ。」
と呪文をかけて
卵たちが笑うのをとめたんじゃ。
わしが書く言葉は
すぐに物質化しよるから
もう、クツクツ笑う卵についての話は書かないことにした。
しかし、クツクツ笑うのは
卵じゃなくって
靴じゃなかったっけ?
とんでもない。
「いましかないんじゃない?」
「問答無用!」
そんなこと言うんだったら
にゃ〜にゃ〜鳴くから
猫のことを
にゃ〜にゃ〜って呼ばなきゃならない。 電話は
リンリンじゃなくって

もうリンリンじゃないか
でんわ、でんわ
って
鳴きゃなきゃならない。
なきゃなきゃならない。
なきゃなきゃ鳴かない。
「くそー!」
原稿用紙に見つめられて
わしの独り言もやみ
「ぎゃあてい、ぎゃあてい、はらぎゃあてい。」
吉野の桜も見ごろじゃろうて。
「なんと酔狂な、お客さん」
あなたがここに見えないでほしい。
「いか。」
「いいかな?」

二〇一七年八月二十五日 「コンディション」

 いま日知庵から帰った。マウスの調子が悪くて、使えなくなってしまった。マウスを買い替えるだけでよかったかな。ちょっと思案中。まえも調子が悪くなったんだけど、いつの間にか使えるようになった経緯もあるしなあと。パソコンの調子が悪いと体調も悪い。きょうは王将で豚肉を吐いた。体調が悪い。1週間後には、仕事に復帰。コンディションを整えておかなければならない。

二〇一七年八月二十六日 「 」

いまナウシカ、3回目。
「このバケモノが!」
「うふふふ。」
「不快がうまれたワケか。
 きみは不思議なことを考えるんだな。」
「あした、みんなに会えばわかるよ。」
引用もと、「風の谷のナウシカ」

二〇一七年八月二十七日 「カラオケでは、だれが、いちばん誇らしいのか?」

あたしが歌おうと思ってたら
つぎの順番だった同僚がマイクをもって歌い出したの。
なぜかしら?
あたしの手元にマイクはあったし
あたしがリクエストした曲だったし
なんと言っても
順番は、あたしだったのに。
なぜかしら?
機嫌よさげに歌ってる同僚の足もとを見ると
ヒールを脱いでたから
こっそりビールを流し入れてやったわ。
「これで、きょうのカラオケは終わりね。」
なぜかしら?
アララットの頂では
縄で縛りあげられた箱舟が
その長い首を糸杉の枝にぶら下げて
「会計は?」
あたしじゃないわよ。
海景はすばらしく
同僚のヒールも死海に溺れて
不愉快そうな顔を、あたしに向けて
「あたしじゃないわよ。」
みんなの視線が痛かった。
「なぜかしら?」
ゆっくり話し合うべきだったのかしら?
「だれかが、あたしを読んでいる。」

二〇一七年八月二十八日 「ぼくのサイズがない」

 ひさしぶりに、西院のブレッズプラスで、チーズハムサンドのランチセットを食べに行こう。きのうは夏バテで、なにも食べていない。きょうも、夏バテ気味で、もしかしたら、食べ残すかもしれないけれど。ついでに、ジョーシンで、マウスを買ってこよう。

 マウスを買ってきた。1266円だった。作動もさせたけれど、スムーズ。ブレッズプラスでは、食べ残さなかった。徐々に、体力をつけていきたい。足を伸ばしただけで膝に痛みが走る。どうすればいいかな。Keen のスリッパをネットで買おうとしたら、ぼくのサイズがなかった。生きにくい世のなかだ。

二〇一七年八月二十九日 「しばし天の祝福より遠ざかり……」

きょうは大谷良太くんと、お昼ご飯を食べた。

そろそろクスリのんで寝よう。きょうも寝るまえに時間SFの短篇を読もう。『スターシップと俳句』というすばらしいB級SFを書いた、ソムトウ・スチャリトクルの「しばし天の祝福より遠ざかり……」である。いま読んでるアンソロジーとは異なるアンソロジーで読んだことがあるが内容はまったく憶えていない。

二〇一七年八月三十日 「書き写し作業」

 きょうは、これからルーズリーフ作業。P・D・ジェイムズの『黒い塔』と、エリオットの詩集からの引用とメモの書き写しを。


読書も楽しい。
引用を書き写すのも楽しい。
いまナウシカ4回目。
ブレードランナーも、ほしかったなあ。
さあ、言葉に戻ろう。
P・D・ジェイムズ
読みにくいって書かれているけれど
ぼくには読みやすい。
才能のある作家の文章を書き写していると
よごれたこころが現われる感じ、笑。

洗われる、ね。

二〇一七年八月三十一日 「謝罪させるひと」

 FBでリクエストしてきたひとのページを見たら、あるひとに謝罪されたことを書いていたので、即行、リクエストから削除した。他人に謝罪を求めたりすることはもちろん、させたりすることで満足するこころが、ぼくには理解できないというか、気持ち悪いので、お断わりしたのだった。ほんと気持ち悪い。


 「右腕より、芽吹く」  

  黒羽 黎斗

 払われた帆船の埃が、
 私を妨げています。

 頬を撫でていた母親の眠りと、
 燃え尽きた雷の轟音が、
 外を知らなければならない理由です。

 一滴の牛乳に、
 喉を拒絶されるのが、嫌なら、
 目はただ、虚ろとなるはずです。

 私の肩に、
 羽を貼り付け、吊し上げた、
 子供のいない父親を、目の前にすることで、
 私の腰が痛むのです。

 柊の葉を、一枚食べて
 公園のパン屑を、食べて
 私は肩から腕をぶら下げ
 もう眠れない夜を歩くのです。

 青の中で、燃えて、繰り上がるのです。


ミネラルショップの片隅で。

  湯煙


手にする、
鯨の耳石、
を、

反りのある姿形、くすんだ黒、
しめやかにつやを帯びた、

横長の、
ずんぐりとした楕円に近く、
内側にカーブする、
刻む、
大小の渦巻き、

掌に包みこむ、
しっかりとした重量、
ひんやりと、
しみこんでくる静謐、

想像の川を、
思考の網を、
ゆるやかにくだり、
ひもとき、
流氷のささやき、
に誘われていく、

  *

大学病院で
精密検査を受けた

遠くでかすかに
断続的に流されている
微細な機械音

手元のボタンを押せば
大きく右側へぶれる
その
機器の針は停止していた

 ーーー現代では不可能です
 ーーー大きな音は避けてください
 ーーー医療は日進月歩ですから

 と医師は
 わたしを見て言った

(残る右耳を大事にしなさい
(可能となる日を待ちなさい
 
 そういうことだった

 ーーーゲンダイイガク  アナタ  ノ   イマス

 ーーースベテノ  サケテ イ クダサ


慰めや同情は
人の脳に備わる働きなのだろう
沈黙がはりついている

言いあらわすことのできない
言いつくすことができないものたち

   *
   
 人の手を離れ、  
 海原をめぐりつづける。  

 止むことを知らない、 
 喧騒のなか。
    

    
      (ーーー治療は不要です












鯨類に属する生き物たちにはエコーロケーションという、超音波による周辺情報の把握や餌の採取、仲間との意思疎通を行う働きが備わっているとされている。音の受動と伝達は骨伝導による。また、耳の穴はふさがり耳殻を持たないという。ーーー wikipediaより


詩の日めくり 二〇一七年九月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年九月一日 「陽の埋葬」

文学極道の詩投稿掲示板に、作品「陽の埋葬」を投稿しました。よろしければ、ごらんください。

二〇一七年九月二日 「2010年11月19日のメモ 」

無意識層の記憶たちが
肉体のそこここのすきまに姿を消していくと
空っぽの肉体に
外界の時間と場所が接触し
肉体の目をさまさせる。
目があいた瞬間に
世界が肉体のなかに流れ込んでくる。
肉体は世界でいっぱいになってから
ようやく、わたしや、あなたになる。
けさ、わたしの肉体に流れ込んできた世界は
少々、混乱していたようだった。
病院に予約の電話を入れたのだが
曜日が違っていたのだった。
きょうは金曜日ではなくて
休診日の木曜日だったのだ。
金曜日だと思い込んでいたのだった。
それとも、わたしのなかに流れ込んできた世界は
あなたに流れ込むはずだったものであったのだろうか。
それとも、理屈から言えば、地球の裏側にいるひと、
曜日の異なる国にいるひとのところに流れ込むはずだった世界だったのだろうか。

二〇一七年九月三日 「いつもの梯子」

いま、日知庵→きみや→日知庵の梯子から帰った。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年九月四日 「陽の埋葬」

文学極道の詩投稿掲示板に、作品「陽の埋葬」を投稿しました。よろしければ、ごらんください。

二〇一七年九月五日 「かつて人間だったウーピー・ウーパー」

マイミクのえいちゃんの日記に

帰ってまた

ってタイトルで

食べてしまったサラダとご飯と豚汁と ヨモギ団子1本あかんな〜 ついつい食べてまうわ でも 幸せやで皆もたまにはガッツリ食べようね 帰りに考えてた ウーパールーパーに似てるって昔いわれた 可愛いさわ認めるけど 見た目は認めないもんね でも こないだテレビでウーパーを食べてたなんか複雑やったなやっぱり認めるかな 俺似てないよねどう思いますか? 素直によろしくお願いします

って、あったから

似てないよ。
目元がくっきりしてるだけやん。

って書いたんだけど、あとで気がついて

ウーピー・ゴールドバーグと間違えてた。
動物のほうか。
かわいらしさが共通してるかな。
共通してると似てるは違うよ。

って書き足したんだけど、そしたら、えいちゃんから返事があって

間違えないで ウーピー食べれないでしょ 間違うのあっちゃんらしいね
目はウーピー・ゴールドバーグに似てるんや これまた 複雑やわ ありがとう

って。なんか、めっちゃおもしろかったから、ここにコピペした。
えいちゃん、ごめりんこ。

ちなみに、えいちゃんの日記やコメントにある絵文字は、コピペできんかった。
どういうわけで?
わからん。
なぜだ?
なぜかしらねえ。

「みんなの病気が治したくて」 by ナウシカ

二〇一七年九月六日 「捨てなさい。」

というタイトルで、寝るまえに
なにか書こうと思った。
これから横になりながら
ルーズリーフ作業を。
なにをしとったんじゃ、おまえは!
って感じ。
だらしないなあ、ぼくは。
だって、おもしろいこと、蟻すぎなんだもの。

追記 2010年11月20日11時02〜14分
   なにも思いつかなかったので、俳句もどきのもの、即席で書いた。

捨ててもまた買っちゃったりする古本かな
なにもかもありすぎる捨てるものなしの国
あのひとはトイレで音だけ捨てる癖がある
目がかゆい目がかゆいこれは人を捨てた罰
捨て台詞誰も拾う者なし拾う者なし者なし
右の手が悪いことをすれば右の手を捨てよ

二〇一七年九月七日 「進野くん」

いま日知庵から帰ってきた。日知庵では、進野くんと1年ぶりに出あって、笑い合った。

二〇一七年九月八日 「ノイローゼ占い。」

ノイローゼにかかっている人だけで
ノイローゼの原因になっていることがらを
お互いに言い当て合うゲームのこと。
気合いが入ったノイローゼの持ち主が言い当てることが多い。
なぜかしら?
で、言い当てた人から抜けていくというもの。
じっさい、最初に言い当てた人は
次の回から参加できないことが多い。
兵隊さんと団栗さん。

二〇一七年九月九日 「若干の小さなメモ。」


2010年11月12日のメモ

読む人間が違えば、本の意味も異なったものになる。


2010年11月12日のメモ

首尾一貫した意見を持つというのは、一見、りっぱなことのように見えるが
個々の状況に即して考えていないということの証左でもある。


2010年11月12日のメモ

書くという行為は、ひじょうに女々しい。
いや、これは現代においては、雄々しいと書く方がいいかもしれない。
意味の逆転が起こっている。
男のほうが潔くないのだ。
美輪明弘の言葉が思い出される。
「わたしはいまだかつて
 強い男と弱い女に出会ったことがありません。」
しかり、しかり、しかり。
ぼくも、そう思う。

あ、フローベールの紋切型辞典って
おもしろいよ。
用語の下に
「よくわからない。」
って、たくさんあるの。
読者を楽しませてくれるよね。
ぼくも
「ここのところ、忘れちゃった〜、ごめんなさい。」
って、何度も書いたけど、笑。

二〇一七年九月十日 「繰り返しの梯子」

いま、日知庵→きみや→日知庵の梯子から帰った。あしたは、大谷良太くんと、喫茶店で待ち合わせをしている。神経科に午前中に行く予定だ。

二〇一七年九月十一日 「チゲ鍋」

大谷良太くんちで、チゲ鍋をご馳走になって帰ってきた。とてもおいしかった。ありがとね。

あしたは雨らしい。洗濯いまやってるの部屋干しだな。きょうは、なにを読んで眠ろうか。文春文庫の『ミステリーゾーン』のシリーズ全4作はすべて傑作で、なにを読んでもおもしろかった記憶がある。それとも、ひさしぶりにジュディス・メリル女史の年間ベストSFにしようかな。

二〇一七年九月十二日 「おじいちゃんの秘密。」

たいてい、ゾウを着る。
ときどき、サルを着る。
ときには、キリンを着る。
おじいちゃんの仕事は
動物園だ。
だれにも言っちゃダメだよって言ってた。
たま〜に、空を着て鳥を飛んだり

鳥を着て空を飛んだりすることもある
って言ってた。
動物園の仕事って
たいへんだけど
楽しいよ
って言ってた。
でも、だれにも言っちゃダメだよって言ってた。
言ったらダメだよって言われたら
よけいに言いたくなるのにね。
きのう、ぶよぶよした白いものが
おじいちゃんを着るところを見てしまった。
博物館にいるミイラみたいだったおじいちゃんが
とつぜん、いつものおじいちゃんになってた。
おじいちゃんと目が合った。
どれぐらいのあいだ見つめ合ってたのか
わからないけれど
おじいちゃんは
杖を着たぼくを手に握ると
部屋を出た。

二〇一七年九月十三日 「ひまわり。」

ひまわりの花がいたよ。
ブンブン、ブンブン
飛び回っていたよ。
黄色い、黄色い
ひまわりの花がいたよ。
お部屋のなかで
ブンブン、ブンブン
飛び回っていたよ。
たくさん、たくさん
飛び回っていたよ。
あははは。
あははは。
ブンブン、ブンブン
飛び回っていたよ。
たくさん、たくさん
飛び回っていたよ。
あははは。
あははは。

二〇一七年九月十四日 「ひさびさに友だちんちに。」

むかし恋人として付き合ってた友だちんちに行くことに。
この友だちもノイローゼ気味で
頭がおかしいのだけれど
まあ、ぼくもおかしいから
べつに、どうってことなくて
彼が住んでいるマンションの8階の部屋から見える学校のグラウンドは
ちょうどスポッと魂が吸い込まれそうになるロケーションで
彼の机のうえに散らばった写真のコラージュが
きょうも見れるかと思うと
たいへんうれしい。
詩集、まだプレゼントしてなかったので
持って行こう。
これからお風呂に。

「フライパンは手を使うよ。」 by 今野浩喜(キングオブコメディ)

二〇一七年九月十五日 「へんな趣味。」

むかし付き合ったことのある子が
すっごいへんな趣味をもつようになって
きょうは、びっくらこいた。
ああ、純情な青年だったのにな〜
って感じ。
そんなことで萌えなわけ?
ええ!
ってことがあって。
写真ね〜。

露出ね〜。
は〜
もう、ぜんぜん純情じゃないじゃん!
まあ、いいか。
なにを、いまさら、ね〜。
でも、ひさしぶりやから、興奮したって
きみね〜
って感じやった。
きょうは、ビールの飲み過ぎで
クスリ、どうかな。
効くかな。



露出といっても
犯罪にはならない程度だから、安心して、笑。

だれもこない、だれもいない、プライベートなところでだから。
しかし、自分の写真見て興奮するのって
ぼくには、わからんわ〜。

趣味がもっと昂じてきたら
ぼくは知らん顔するつもりやけど
ほんと、むかしは純朴な感じの好青年そのものやったのにね。
いまも見かけは純朴な感じで、ぼくの目から見ても
めっちゃもてる感じやのに。
なにが人を孤独にするんやろうか。
孤独でなければ、へんな趣味に走らないと思うんやけど。

二〇一七年九月十六日 「大きな熊のぬいぐるみ。」

P・D・ジェイムズって
クマのプーさんが好きなのかな。
彼女の作品を読んでいると
かならずといっていいほど大きな熊のぬいぐるみが出てくる。
いま、引用だけの長篇詩のためのメモも同時にとっているのだけれど
ジェイムズの本からは、いくつも
「大きな熊のぬいぐるみ」のところをとっている。
ジェイムズの小説は密度が高いから読むのが時間かかるけれど
時間をかけたぶん、得るところはあって
ぼくがまだ知らなかったレトリックや表現を学ぶことができるのだった。
やっぱり、ぼくは勉強が好きなのだなあと思った。
『わが職業は死』読了。
憎しみよりも愛が破壊的であるとは
ぼくは思いもしなかったので
自分の経験をいくつか振り返って考えてみた。
たしかに、そうだったかもしれない。
こわいことだなあ。

二〇一七年九月十七日 「Amazonで、パウンドの『詩学入門』を買った。


2400円+送料250円。
こんな状態の説明があった。

昭和54年初版。経年のヤケ全体濃いです。書き込みなし。そこそこしっかりした新書ですが、やけてます。

ヤケがこわいけれど、まあ、いいかな。一度読んでるので、また全ページ、コピーを取ってるので、ただ、「持ってる」という感覚だけが欲しかったのかも。

これもまた、ジェイムズが書いていた
「愛が破壊的である」ことの一つの証左かもしれない。
コレクションは、余裕のある人がするべきもので
ぼくのような貧乏人が、コレクションしたがるのは
まあ、いろんな作家や詩人のものを集める癖があるのだけれど
身分不相応なことだと思う。
死ぬまで治らないとも思うけれど。

二〇一七年九月十八日 「きょうは、テスト問題つくりに半日を費やす予定。夕方からは塾。あとヤフオク、10冊ほど。」

ヤフオクで入手したい本が10冊ほど。
グラシアンの賢人の智恵、もうほとんど読んだ。
まあ、処世術指南の書ね。
実行できたら、そこそこの地位に行けるってことだろうけど
芸術家は、ひとりで、自分の方法で
自分が行くべき道を歩むべきものだと思うから
他人には無駄に思えるような道草も道草じゃないんだよね。
失敗が失敗じゃないというか。
へたくそな生き方をこそして芸術家だと思うのだけれど
詩人もしかりでね。
生きてるうちに成功してる詩人たちの胡散臭いこと。
外国の詩人に、その胡散臭さがないのは
自分の身を危険にさらしながら生きているからだと思う。
日本の詩人で
「自分の(経済・政治)生活の危険を顧みずに詩を書いてる」ひとって
いるのかしら?


ウラタロウさんのコメント

成功したいなあ。(おそらく一般社会的な成功のことだとおもう。)
そこそこに。
成功しすぎると大変そうだし。(というのは成功なのかわからないけれど。)
成功のほうはとりあえず、暮らしていければいいやと思うけれど、危険は避けたい。
本能に刻まれているんじゃないかというほど避けたい。
成功しなくてもいいですよ、というひとは、きっと一般社会的な成功ではないけれど自分にとっての成功があるのだろうな、と思う。それがどんなことで、それが当人のなかでどのように認識されていて、当人の精神にどのように作用しているのかわからないけれど。
危険は避けたい。大きな成功がまっていても危険は避けたい。危険を顧みないひとは、自分の理想とする成功のためなら危険を冒せるのだろうか。それとも危険を冒しても成功する、もしくはそれなりにでも自身は安泰であるという自信があるのだろうか、と思う。
わたしには怖すぎる。
そもそも、そこまで考えがとどかないのだけれど。
もしかすると、他の人も、そこまで考えがとどかなくて、ごく一般的な成功と安泰を目指すのかな。


ぼくの返事

詩人ならば
安泰とかいったものから遠いところにいないといけないような気がします。
ぼくは、です。
他の書き手に、それを期待してはいません。
まったく期待していないといったほうがいいでしょう。
ぼくの偏見ですが。

もうじき50歳になりますが
独身で
貯蓄がゼロに近く
いつ仕事を失うかもしれない
貧乏な
ゲイだとカムアウトしてる
脅迫神経症で
母親と弟が精神病者で
母親が被差別部落出身者で
父親から愛されたことのない詩人。
けっこう、いいでしょ? 笑。

二〇一七年九月十九日 「夢」

夢を見た。ぼくは仏教の修行僧になり立てで、仏の実になにが書いてあるか高僧に訊かれて答えられなかった。夢のなかで、それは「ジオン」であると言われた。どんな字かまでは教えられなかった。そこで目が覚めたからである。実には文字など書かれていないが、その文字を解き明かすのが仏の弟子の役目であると言われた。

二〇一七年九月二十日 「グッジョブ!」

セブイレで、おでんを4つ買って食べて、お腹いっぱい。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

ノーナの『二十歳の夏』を聴きながらクスリをのむ。二度目のおやすみ、グッジョブ!

二〇一七年九月二十一日 「SFの黄金期」

きょうも、短篇SFをひとつ読んで寝よう。年代別からかな。1950年代か1960年代かな。SFの黄金期やね。おやすみ、グッジョブ!

歯が痛み
湯にはつからぬ
午前かな

セブイレで、おでんを4つ買って帰った。きょうは食べ過ぎかな。

二〇一七年九月二十二日 「蝶を見なくなった。」

それは季節ではない。
季節ならば
あらゆる季節が
ぼくのなかにあるのだから。

それは道ではない。
道ならば
あらゆる道が
ぼくのなかにあるのだから。

それは出合いではない。
出合いならば
あらゆる出合いが
ぼくのなかにあるのだから。

二〇一七年九月二十三日 「夢」

日知庵の帰りに、セブイレで、どん兵衛・天ぷらそば・大盛りを買って食べた。きのう読んだ短篇SFが、途中で寝てしまったから、きょうは、そのつづきを読んで寝ようと思う。夢を一日に、4つか5つ見るようになった。このごろ、だんだん夢と現実の区別がつかなくなりつつある。まだだいじょうぶだけど。

二〇一七年九月二十四日 「おでん」

帰りに、セブイレで、おでん5個買って帰って食べたぼくは化け物だろうか。

二〇一七年九月二十五日 「池ちゃん」

池ちゃん、まだフォロー許可待ちだからね。

二〇一七年九月二十六日 「詩集」

ここ1週間か2週間のあいだに、読み切れないほどの詩集が届く。ありがたいことだと思う。読んだ順に(着いた順に)感想を書いていきたい。きょうは、もう寝るけど。

いま日知庵から帰ってきた。帰りの車内、暖房やった。びっくり。行きしなは冷房やったのに。

二〇一七年九月二十七日 「もうひとつ夢を見た。」

残したくない過去ばかりが残る。

永遠に赤は来い!

もうひとつ夢を見た。修道院での少年たちの話だ。「彼女たちは、どうしてぼくたちのことをきれいだと言うのだろう?」とひとりの少年がつぶやくように訊くのだった。

そして、ワンはフレッドを撃つと
トムを撃って
ジョンを撃って
スウェンを撃って
腰かけて泣きはじめた。

ぼくの見た夢の中の1冊200数十万円もする木彫りの翻訳本の一節。

223万円だと店員が言ったので、本をもとの場所にそっと置いたことを憶えている。

いや、違う。ぼくが裏に書かれた定価を見たのだった。店員は、ぼくが戻した本の位置を正確に戻そうとしただけだったのだ。

二〇一七年九月二十八日 「H・G・ウェルズ」

阪急電車で、いま帰ってきたのだが、送風だけで、とくに冷房も暖房もかかっていなかった。午後10時まえに乗ったときには、蒸し暑かったためにか、冷房がかかっていた。きのう、日知庵からの帰りは暖房だったのにね。気が利いているというのか、切り替えが速い。それはとてもよいことだと思う。

きのうは、H・G・ウェルズの『タイムマシン』の後半を読んで眠った。きょうも、ウェルズの短篇を読んで寝よう。『盗まれた細菌』というタイトル。読んだはずだが、まったく記憶にない。部屋にある本のうち、ぼくの記憶にあるのは、ほんの少しだけなのかな。ほとんど読んだ本たちなのにね。

近いうちに、ラテンアメリカ文学を読み直したい。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年九月二十九日 「けさ見た夢のなかで渡されたカードに書かれた言葉」

京都市役所
花のなかに手紙を入れておきました。
まどかめぐみ
野獣科

二〇一七年九月三十日 「出来事。」

同じ時間の同じ場所の同じ出来事。
同じ時間の同じ場所の異なる出来事。
同じ時間の異なる場所の同じ出来事。
同じ時間の異なる場所の異なる出来事。
異なる時間の同じ場所の同じ出来事。
異なる時間の同じ場所の異なる出来事。
異なる時間の異なる場所の同じ出来事。
異なる時間の異なる場所の異なる出来事。

二〇一七年九月三十一日 「フー?」

いままで出会ったひとのなかで、いちばん深い付き合いをしたひとは、だれ?


Burning petals fall into the huge well

  アルフ・O

 
 
 
君らは直ぐに
裏を取りに奔走する
感情的には間違ってないけどもうたくさんだ

君らは直ぐに
ありもしない施しに縋る
本能的にとても正しいけど
代わりに地獄に落ちた僕はそれなら
とても強いって考えてるんだね

ここからは見えない
幾万幾億もの閉ざされた扉
締め出された動物たちが全て
正気を失ってこの庭まで駆け寄ってくる

撹乱の絶えない土
何度も何度も踏み荒らされた土から
数え切れないほどの月日を経て
数え切れないほどの花が咲いた
今 そして僕は
そのいくつかを抱えてトーチに見立て
羊飼いであることを辞めようとしている

トーチの光をめがけて
動物たちが相変わらず突進してくる
残念だったね
庭から続くこの階段は 今や
人間以外が足を掛けようものなら
もれなく崩れて呑み込んでしまうのさ
施しはもう終わりだ
あとは君らでなんとかしろ

……それでも
最後に敢えて言うよ
這い上がって来い、って
その力があるのなら
そこからでも振り絞って来い、って
優しさを
全て突き放した声で
 
  
 
 


言いなり

  いまり




ねえ頭に思い浮かべた魚とほんとうに存在
する魚とどっちがなまなましいのふたりで
こんなことになって


ねえまた飛び跳ねてるの、なにが飛び散る
はずなの、生まれるまえはえら呼吸だった
し魚みたいな形してたでしょう


あ、あ、何をすればいいの
あ、あ、何て言えばいいの
望まれたことならなんでもしてあげたいけど
思うようにからだが動かない言いなり言いな
り言いなり、そんなとこまでとどかないよ


あなたどんどん賢しくなって
わたしだんだん気化していく
それはどうしても言えないことばだけがある
のにあなたそれを言わせようとする、代わり
に魚になってあげるから許して言いなり言い
なり、


掴んでるのか握ってるのか解いてるのか戻し
たいのか安っぽいのか似せていたいのか突っ
切りたいのかそのまま任せっぱなし


終わったらほうりなげてください
何度もありがとうございます
あなたのよろこぶ声が
聞きたくていつもこんななのです


星言葉

  kale

bird、みんなみんな見えるという青い鳥たちが、空を横切るときの比喩、みたいにしずやかな響きで、貫通爆弾が等高線をshuffle、修飾していくね。神さまを修飾すれば戦争に、なるのだろうか。誤読からはじまる読点を、雨に喩えて問う星言葉。



草原の匂いのする
蹄の跡を残さぬように
誰かの残した目印は
眠りの湿度を
諦めている
柵のない
故郷の土に
探しにいこうよ
虹のひとつを
彼処にうまれる
羊の群れは
まだ丘の途中
谷よ山よと
谺んでいるのは (※)
誰だろう



いっぴきのあおじろいちぎれぐもがアア
そらにもがいてアアしずんでいきます
あれはだれのたましいでしたかアア



耳をふさぐと余計に響く
雨音の切れ間をすり抜けて
垂直に飛び立っていく
彼らは渇いていたのではない
歪みのない垂直もまた
歪みの一種だとは思わないか
そう言い残して姿を消した父さんは
濡れることを嫌って雨のなかへ
雨の構造色が収斂する
環のたもとでいつかのように座りこみ
何やら熱心に観察しているようだと
鳥たちはしきりに噂をしている



しらないの約束のあいだに
いつもさよならはしらない
おろしたての沓でつまずいていたいから
ほらみて父さん自由だよ
呼ぶこえはずっとさえぎっていて欲しい



いまわすれられた角度のなかをのぼるようにくだっていきます結しょうはなつかしいふう景を散らんさせるしゅ嘘くにたくさんくっついてはなれていきます、いま。というわすれられた角度のそとをくだるように飛びたつふくろうたちは夕やけをふぃゆたーじゅみたいねかさねた層のうちにおぼれていましたね肺ほうをもやしていましたとねむっていましたね。いま。かんろがおびただしい水溶せいのあ軽さに逆らっていく力がくと天きゅうを謎らないあのた今つさえもさえぎるのぼるようにのぼらないうそ西ずむようにしずまないてんたいのようにはっ光して。とりたちだった仮しょうをむりやりに剥ぎとってだ遺児なものがてらてらのぞいてなによりもざんこくな希しゃくをざん巨うがほしかったなんてうる刺すぎて粘まくはふさぐあてもないのに駆けていくね欠けていくんだねもうだれよりもうつくしくなれるはずだったのに。いま。わすれられた耳なりはふぃゆたーじゅ。しんでいった卑溶せいのさい胞にかぶさっていく残きょうがわすれないようにさけぶことをおぼれないようにもやせないようにねむれないようにのぼれませんように。どうか。



bird 、や鳥たちが見た、っていう青い青いみんながばらばらに空を横切っていく、ときの比喩みたいだね、しずやかな響きに誤読された読点は、耳を塞げば余計に響く、雨みたいなvogel 、が絶え間なく地面と心中していくから、等高線にshuffle、修飾されていくね、層になっていくよ、uccello 、眠っているんだね、うそが堆積していくんだよ、きらきらだね、じゅうりょくが逆さまだよ、あなたの星座みたいだね、ぼくのじゅうりょくが?そんざいが主張するおもさのことだろう?oiseau、まだ聴くこともできないの?ざんこくだよね、aves、avis、bird ?







(※)谺んでいる
  よんでいる、あるいは、さけんでいる


encore

  霜田明

encore , La timidite de Lacan
優れている詩と優れていない詩の間にはどのような違いがあるのか
文法に対して最大限に気を配ること、神は細部に宿るから

僕の冗語、人は無言に対していつでも言い過ぎる、
必然の冗語だ、存在するということは
創造することをやめよう
カフェで交わされる話し声の奔放さ、
創造することなしに言葉を話すということ、

朦朧としていないと書けない領域がある
朦朧としていないと読めない領域がある
それはダダじゃない
シュルレアリスムでもない
超現実のコミュニケーションがある

シューベルトのピアノ・ソナタのなかで
僕は空想上の冬の山道を歩いていた
小さな山小屋を出て落ち葉を踏みしめた
下ってまた上り大きく一周して
もう一度その山小屋へ帰ってきた
ドアマットを踏み扉に手をかけたところで
音楽は終わり僕の空想が途切れた

歩行というものが存在するようには
室内というものは存在しないんだ
ハマスホイの描いた扉を
エリセの虚構映画のなかで
アントニオ・ロペスが通り抜ける

創造することをやめよう
僕らは天使だから
もう一度、と告げたときの
ラカンのはにかみ


うつしみ うつせみ

  たなべ


わけもなく悲しくなることはもうあんまりない。
最小にちかい生活ではわけを見定めることは容易だ。
だいたいのことにはわけがある。
例外はわけがあると信じない精神の内側だけ。
誰かをいじめてみたくなるのも、
壁に穴があくことも、


腐った死体みたいなあなたの愛情。
町の本屋で料理本を買って順番を鬻ぐ。
神棚のように広い舌、わたしは何を載せよう。
道路の模様をつたう幼い規則を世界中で。
返事をするたびにはい、と捲れる吻と犬歯を
たとえてみました。遮光布と街灯に。
星にたとえられなかったのはわたしの弱さ。それから
あなたのおうちを知っていたせいです露台から見えるあの四つ辻、宇宙ステーションの部品みたいな自販機。


形相が花にまけている
記憶の蠢く片田舎の脳裡で。
いったい幾度すれちがったんだろう?
たったひとつの景色が寒天みたいに、じょじょに固まってゆくまでに、
何度ことばを交わさなかったのだろう?
たちのぼる農道に絡まった右手を振ったら
空にはじかれたたらを踏む。


存在の冬空(VII)

  アンダンテ

雲                               
   
霧芝の山では人が焼かれていた 
うつろな心に刻まれた雲が
文字より先の歌を奏でる
            
花                              

師走の朝が山へはいる                       
鶫が忙しそうに冬のゆくえに花卉を放る               



the poetry of the Japanese,by the Japanese,for the Japanese
なんて浅ましい冬の目覚めだ

調べ                               

自分の中から意味やイメージが取り払われる
他者との出会い                          
そして言葉の素材だけ残る 

雲隠れ




存在の冬

足早に追いついた冬の扉をあける
すべてのものが存在の中で
遠い記憶となる

inscape

空のくちくらを破る
もうひとつの空が落ちてくる
そうだけどちがう祭囃子がちらばって
親水性の生き物の影をおびやかす
 Pourquoi une apparence de soupirail blemirait-elle au coin de la voute? (rimbaud〜)

時間

Time present and time past
Are both perhaps present in time future,
And time future contained in time past.
If all time is eternally present
All time is unredeemable.
[Four Quartets‐Burton Norton 〜 Thomas Sterns Eliot 〜]

ショパン

ショパン嫌いのグールドを嫌う遠山一行のショパン好き
ピアニストたちが好むショパンを好まないピアニスト
ききわけのない耳を持ったあ〜たとあ〜しの円舞曲
濡れ衣を着た聴衆のおべべが乾くまで弾き続けた

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 *註解
・鶫:つぐみ
・花卉:くさばな
・放る:はふる 
・the poetry of the Japanese,by the Japanese,for the Japanese:母国語の、母国語による、母国語のための詩
・雲隠れ:源氏の物語四十一帖
・足速:あしばや
・inscape:interior + landscape(造語です)
・くちくら:検索ワードを入力してください
・Pourquoi une apparence de soupirail blemirait-elle au coin de la voute? 〜rimbaud〜:ひとつの空の片隅に、またひとつの空が蒼ざめてあるのは、如何いうわけだ? 〜ランボー[少年時‐V]
・型:かたち
・Four Quartets‐Burton Norton 〜 Thomas Sterns Eliot 〜 :四つの四重奏‐バ−ント・ノートン 〜トーマス・スターンズ・エリオット〜(訳はご自由に)
・グレン・グールド:1982年(50歳没)
・遠山一行:2014年(92歳没)
       


  いまり

羊を交わした夜
あなたに二秒だけ恋をした
熱が冷えたあとには霧が立ち込めて
なにも見えなくなってしまった


インクの滲んだ手紙のそばで
導火線だけが燃えている
どこにも繋がっていかないのに
やがて爆発するのだろう


コインの裏表は
あなたが当ててください
わたしはもう知っています
あなたが定めてください


あい

  黒羽 黎斗

指先に燃え移った筆先の赤
稜線を伝うままに目が悪くなる。
潜り込んでしまった甥っ子の寝息
その一言が歩けなくなる。
肺の奥、鱗のすき間、
それらは寝床であった
後ろ足の硬直であった

思い出した、水の薫る強風の、瞬き

盲導犬の頬の中
誕生日は縮こまって廊下に立った。
箪笥の裏の埃は温く
山道は緩やかな垂直になる。

内蔵の、一人きりの糸通し
木刀が、大木に巻き付いた

こぼれるまえの ほうきぼし
外さえ、こだまし、舞う雪の様


死んだ目で食べる

  ネン

寝ないと悪いお化けが来る
服を脱いで足を開けと言う
願いは何でも叶えてくれる
少なくとも口ではそう言う

私も遠い昔に人間だったよ
人を愛したし幸せだったよ
でもとうに死んでしまった
だから今は天使らしいのだ

私も誰かを殺そうとしては
唇を噛んで俯いているので
もういいんじゃないかって
神様が涙を溢す度に洪水さ

憎しみにまみれて見えない
翼なんて要らなかったのに
鳥は鳥だし飛びたいのだと
地の底を舐めては笑ってる


降参

  つぐみや

手に少し余るくらいの水槽
そこで泳ぐチーズバーガーにナンパされた少女
めんどくさいとピクルスを引き抜いて警察に突き出した

リップくりーむを買うために出かけたが運が悪かった
今日も帰ろうと歩く
が止まらない口角が道路に転がるベイト・ボールを釣り上げてしまった
逃げる

ラッコが木魚を鳴らせば夜に変わる

一斉に飛び立つペットボトルロケットにしがみつく
会場を盛り上げるアイドル達の嗚咽が見えた
大金で作られたロボットが顔を剥がされるのが見えた
発表された美しい数式が3歳の少女に転ばされるのが見えた

46分後 屋台のラーメン屋の最後尾に不時着した

自宅目の前
キリンの鳴きまねをする二本指

着いた

普段扉には三つも鍵がかかっているのに今日はかかっていない
思い返せばいつも冷たいあいつも今日は絡まってこなかった

ベットの枕元 大好きな蛙のぬいぐるみが
ケチャップたっぷりのオムライスを作って帰りを待っていた

今日はおいしい


  イロキセイゴ

血が辛い
血が足りない
意思が血を吸いすぎて
何時の間にやら
塩を混ぜて居たのは誰

二匹のジンベイザメが
理解する貝二つ
泡は無数に生起して
コナラに生じる団栗を
バケツにつけて居たら
色水になりました
バケツの水に血を混ぜるのに
手がふるえて居たのは誰

辛い血を飲み干して西瓜を食べる
ジンベイザメに西瓜をあげる
城に居る王様に色水を下賜しましたら
普通逆だろうからと
王様の方からくれる色水の数多
「下賜」「くれる」
ガセ情報が徘徊し
色水が撒き散らされ始めるころ
私はジンベイザメの血を欲し始めた


県境

  山人




十数キロ走ると県境となる
トンネルの中心を境に、向こう側にいけるのだった
県境は六十里と呼ばれ、霧があたりを覆いつくしていた
前線に覆われた列島だったが、ここ数日は安定しているという
登山口には誰もいなく、カード入れが少し傾いていた

整った衣服、顔立ちのそれぞれの女たちは車から下車し
あたり障りのない会話を放ち、別れた
なにかに左右されるでもなく、あちらとこちらを見極めた女たち
生活を静かに引き出しに仕舞い、豊かさを綺麗に振り分けて
日々を入念に紡いできたのだろうか
自我を見つめ、誰よりも己を愛し、時間を積み上げてきたのだろう

細身の女たちと鮮やかな雨具をサイドミラーで眺め
大カーブを曲がる
もう後部座席に女たちの気配は失せている


二級国道の脇には大手電力会社の巨大な送電線が連なり
その下には、どうしようもないほどの緑色のススキの群落がひしめいている
かつて、その斜面を初夏の熱波に照りだされ
私たちは無言で労働した場所だった


あの草は私だ、あちらの草の塊も私
あちこちに私のようなものが点在していた
草のように刈られ、再び発芽し、生きているだけだが死んではいない


次第に峠のS字カーブは下降し、直線道路に差し掛かるころ
幾日か続いた雨の影響で川はうっすら濁っていた
間欠ワイパーの間隔を少しだけ広めにとり
濃い、雨で立体的となった緑の彩を
私は眺め、車の律動の中に沈んでいった


幸福な詩人

  紅茶猫

幸福な詩人の見る夢に蟻が一匹溺れていた
幸福な詩人はただそれだけで
足枷のように
誰も知らない幸福を
引きずりながら歩いていた




0.冬七景

鳥が鳴かなくなって広すぎる空


カリン差し出している細い枝

ゴールの文字半分残るアスファルト

雀どっさり屋根の上に載っている

冬薔薇匂いの小箱包む夕

除夜の鐘迷いの森の句読点

春の蝶空の階段かたかたと 


更待月

  ハナビ


髪の影が白い無機質な肌を降りる
蜜一滴、唇に
口角が上がり真ん中へ伝う
皺のひとつひとつに不必要に執拗に
一滴、一滴、どき、どき、
「つまらない遊びならヤメて」
「踏みつけるわよ仔猫ちゃん」
頑なな首の横から覗く、手招き
手解きは私が
「お前ごときが?」
冷笑の前哨戦
ヒトモドキの夜


appel

  霜田明

ずっと抽象的な光がほしい
神様と呼ぶとそれが
神様というイメージにかわってしまう

僕は昨日寝転びながら重大な発見をした
他者を通じなくても僕がそれとの
つまり抽象的なそれとの関係を
直接築くことができるという
重大な可能性を発見した

それとは真に望むもののこと
罪深さとは真に望むものに対するとき
人のあらゆる可能性は無化されてしまうということ
祈りとはあらゆる可能性を剥奪されてまで
真に望むものを追求する姿勢のこと

挫折は可能性の剥奪にはつながらない
ただそれだけが可能性の息の根を止める
どんな命令法も祈りには導かない
あらゆる従順さを追い出すこと

真に望むものでもない
祈りでもない
罪深さでもない
それとの関係を築くこと


切符

  南雲 安晴

控え目に言ったとしても 僕は気を失っていたのだ
その間 切符は軽く風に飛ばされて 僕の手にはすでにない
気づけばそれは遠くまた遠く 線路の上を風に煽られて舞っている

見知らぬ人たちと話すための切符だった
でも 今や僕の意識は覚醒を極めている あんな切符など必要ないくらいに
それに もう 間に合わないかもしれないのだ

行かねばならないのは分かっている
もう間に合わないとしても 僕は確かに到着するだろう
同じ切符を買い直すのだ 金はある

そうだ 思い出した 僕は夢を見ていたのだ
僕は僕の名前を知っていて僕をその名前で呼ぶ女に会った
僕は時間に追われているのを意識していたけれども
快楽からは逃れられなかった
僕は油にまみれてその女を長いこと抱いていた

意識が何だ 時間が何だ それらは快楽の中に埋もれている
しかし快楽は最後には苦痛となるらしい だから
僕は意識を取り戻し 時間の中に帰って来た
実際人間の起き臥しなんぞもそんなものだ

ホームに立ち尽くす僕
見知らぬ人たちと話すためだとて 行く先が社会というものだとて
切符はあまりに小さく軽く
切符はあまりに小さく軽く


展示会

  イロキセイゴ

鎌子と一緒に
大極殿へと行って来た
明示される展示
長椅子から職員が
どすんと床へ自由落下する
書家の私は
石川丈山を展示する
石川丈山の漢詩を
墨書したものを展示する

大極殿を訂正する必要に迫られる
訂正すると言っても小極殿ではないし
分からぬ鎌子は去って行った
私はとりあえず小堀遠州の書画を
家に展示した

団栗を発芽させることは
展示会と同等の意味を持つ
発芽しても中々成長しないし
幻想の中では
矢鱈大きく成長した後の
虚偽ばかりが蔓延って
きつい

遂に私は展示会をあきらめ
団栗の種まきを躊躇して
幻の2006年を迎えた
2003年を迎えた
1984年を迎えた
1985年に死ぬと言う死亡フラグと
対峙する
鎌子が戻って来た
家では座敷童が寝起きを始めた

文学極道

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