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2016年05月分

次点佳作 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一五年一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年一月一日 「20世紀アメリカ短篇選」


『20世紀アメリカ短篇選』は、むかし上下巻読んだんだった。でも、ひとつも憶えていない。きのう、スピンラッドの短篇集だと思っていた『星々からの歌』をちら読みしたけど、これまたひとつも憶えていなかったのだった。憶えているものが少ない。これは得な性分なのか。

いい詩を書こうと思ったら、いい人生を送らないと書けない。あるいは、ぜんぜんいい人生じゃない人生を送らないと書けないような気がする。ぼくは両方、送ってきたから、書ける、笑。いい詩しか書けないのは、そういう理由。

『20世紀アメリカ短篇選』上巻の最後から2つめの「スウェーデン人だらけの土地」という作品を読み終わった。ウッドハウスを読んでるような感じがした。作者のアースキン・コールドウェルについて、あとで検索しよう。『20世紀アメリカ短篇選』上巻、あと1つ。上巻は、このアースキンの作品と、イーディス・ウォートンの「ローマ熱」の2つの作品がお気に入りだ。この2作品だけでも、この短篇集を再読してよかったと思う。とりわけ、「ローマ熱」など、若いときには、ピンと来なかったものである。これを読み終わったら、ハインリヒ・ベルの短篇集をおいて、『20世紀アメリカ短篇選』の下巻を読もう。アースキン・コールドウェル、めっちゃたくさん翻訳あるし、古書でも、そう難しくなく手が届きそうな値段だし。でも、しばらくは我慢しよう。というか、下巻を読んでる途中で忘れるかな。持ってない本が欲しくなるのは、こころ根がいやしいからだと思う。自戒しよう。まだ眠れず。下巻、いきなりナボコフで、まったくおもしろくない短篇だった。書き方のいやみったらしさは、好みなのだけど。ハインリヒ・ベルの短篇集にして寝よう。


二〇一六年一月二日 「宮尾節子さんの夢」


宮尾節子さんの夢を見た。すてきなご飯家さんで朗読会をされてたんだけど、宮尾さんの朗読のまえに、小さな男の子がバスから降りてきて、なんか物語をしゃべってくれるんだけど、意味はわからず、でも、なんかしゃべりつづけて、聞き耳を立てているうちに目が覚めてしまった。おいしそうな料理が出た。


二〇一六年一月三日 「読書とは何か?」


さっき塾から帰ってきたところ。きょうは、朝の9時から夜の10時まで働いた。休憩時間に、『20世紀アメリカ短篇選』下巻のうち、2番目のものと3番目のものを読んだ。1作目のナボコフと違って、「ある記憶」も「ユダヤ鳥」もよかった。悪意に満ちたグロテスクな笑いを感じた。帰りに、スーパー「マツモト」で、餃子を20個買ってきて食べたのだが、油まみれで、もたれる。きょうは、もうこれくらいで、クスリのんで寝ようかな。寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』下巻のつづきを。きょう読んだ「ユダヤ鳥」は、ぜひパロディーをつくってみたいと思ったのであった。

バカバカし過ぎて、読むのを途中でやめた、ボリス・ヴィアンの『彼女たちには判らない』をもって、湯舟につかろう。さいしょから棄てるつもりで、表紙をくしゃくしゃと丸めてゴミ箱に投げ入れた。ゴア・ヴィダルの『マイラ』のような感じのものだ。躁病状態の文学だ。

「きみの名前は?」(ボリス・ヴィアン『彼女たちには判らない』第十二章、長島良三訳、99ページ)

96ページにもこのセリフはある。死ぬまで、「きみの名前は?」という言葉を収集するつもりである。ボリス・ヴィアンのこの作品はやっぱりカスだった。詩人や作家は最良の作品だけを知ればよい。まあ、ひとによって、最良の作品が異なるし、最良の作品を読むためには、最良でない作品にも目を通さなければならないが。そういえば、ロバート・F・ヤングなどは、全作品を読んだが、『たんぽぽ娘』以外すべてカスという駄作のみを書きつづけた恐るべき作家だった。

小学校の3年くらいかな、友だちのふつうの笑い顔が輝いてた。中学校の1年のときに、友だちが照れ笑いしたときの顔が忘れられない。どんなにすごいと思った詩や小説にも見ることができない笑顔だ。ぼくがまだ、それほどすごい詩や小説と出合っていないだけかもしれない。読書はそれを探す作業かもね。


二〇一六年一月四日 「本の表紙の絵」


本棚の前面に飾る本の表紙を入れ替えた。やっぱり、マシスンの『縮みゆく人間』、ヴォークトの『非Aの世界』『非Aの傀儡』、ハーバートの『砂丘の大聖堂』第1巻、第2巻、第3巻は、すばらしい。アンソロジーの『空は船でいっぱい』、テヴィスの『ふるさと遠く』、ベイリーの『シティ5からの脱出』とかは仕舞えない。さいきんのハヤカワSF文庫本や創元SF文庫本の表紙には共感できないのだが、ハヤカワのスウェターリッチの『明日と明日』とかは、ちょっといいなと思ったし、創元のSF映画の原作のアンソロジーの『地球の静止する日』みたいな、ほのぼの系もいいなとは思った。数少ないけれども。スピンラッドの『鉄の夢』とか、プリーストの『ドリーム・マシン』とか、シマックの『法王計画』とか、ウィンダムの『呪われた村』とか、アンダースンの『百万年の船』第1巻、第2巻、第3巻とか、もう絵画の領域だよね。内容以上に、本を、表紙を愛してしまっている。まるで、すぐれた詩や小説を愛する愛ほどに強く。気に入った表紙の本が数多くあるということ。こんなに小さなことで十分に幸せなのだから、ぼくの人生はほんとに安上がりだ。単行本の表紙も飾っているのだけれど、ブコウスキーの『ありきたりの狂気の物語』と『町でいちばんの美女』、ケリー・リンクの『マジック・フォー・ビギナーズ』がお気に入り。アンソロジーの『太陽破壊者』と、クロウリーの『ナイチンゲールは夜に歌う』と『エンジン・サマー』も飾っている。単行本の表紙って、意外に、よいのが少ないのだ。表紙で買うって、圧倒的に、文庫本のほうが多いな。LP時代のジャケ買いみたいなとこもある。


二〇一六年一月五日 「言葉を発明したのは、だれなんだろう?」


モーパッサンの『ピエールとジャン』を暮れに捨てたが、序文のようにしてつけられた小文のエッセー「小説について」は必要な文献なので、アマゾンで買い直した。これで買うの3回目。いい加減、捨てるのやめなければ。文献を手元に置くだけのための600円の出費。バカである。捨てなければよかった。今週はずっと幾何の問題を解いていた。きょうも、寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』下巻。翻訳がいいという理由もあるだろうけれど、アンソロジストでもある翻訳者の選択眼の鋭さも反映しているのだなと思う。すばらしいアンソロジーだ。じっくり味わっている。

千家元麿の詩を読んでいると、当時、彼の家族のこととか、彼の住居の近所のひとたちのこととか、また当時の風俗のようなものまで見えてきて、元麿の人生を映画のようにして見ることができるのだが、いまの詩人で、そんなことができるのは、ひとりもいない。『詩の日めくり』を書いてる、ぼくくらいだろう。もちろん、ぼくの『詩の日めくり』は、ぼくの人生の断片の断片しか載せていないのだけれども、それらの情報で、ぼくの現実の状況を再構成させることは難しくはないはずだ。生活のさまざまな場面の一部を切り取っている。きれいごとには書いていない。事実だけである。六月に、『詩の日めくり』を、第一巻から第三巻まで、書肆ブンから出す予定だが、『詩の日めくり』は死ぬまで書きつづけていくつもりだ。死んでから、ひとりくらい、もの好きなひとがいて、ぼくという人間を、ぼくの人生を、映画を見るようにして見てくれたら、うれしいな。

齢をとり、美貌は衰え、関節はガタガタ、筋肉はなくなり、お腹は突き出て、顔だけ痩せて、一生、非常勤講師というアルバイト人生で、苦痛と屈辱にまみれたものではあるが、わりと、のほほんとしている。本が読めるからだ。音楽が聞けるからだ。DVDが見れるからだ。

言葉を発明したのは、だれなんだろう。きっと天才だったに違いない。原始人たちのなかにも天才はいたのだ。


二〇一六年一月六日 「吉田くん」


冬は、学校があるときには、朝にお風呂に入るのはやめて、寝るまえに入ることにしている。きょうも、千家元麿の詩を読みながら、湯舟につかろう。ほんと、まるでウルトラQのDVDを見てるみたいに、当時のひとびとの暮らしとかがわかる。詩には、そういう小説のような機能もあるのだな。元麿のはね。

きょうも吉田くんは木から落っこちなかった。だから、ぼくもまだ生きていられる。それとも、もう吉田くんはとっくに落っこちているのかしら? いやいや、それとも、あの窓の外に見える吉田くんって、だれかが窓ガラスに貼りつけた吉田くんなのかしら?

吉田くんといっしょに、吉田くんちに吉田くんを見に行ったけど、吉田くんは、一人もいなかったぜ、ベイビー!

寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』下巻。ジーン・スタフォード(詩人のロバート・ローウェルの最初の妻)の『動物園』を、もう3日も読んでいるのだが、なかなか進まない。読む時間も寝る直前の数十分だからだけど、じっくり味わいたい文体でもある。翻訳家の大津栄一郎さんのおかげです。きょうと、あしたの二日間は、読書に専念できる。きょうじゅうに、『20世紀アメリカ短篇選』下巻を読み切りたい。しかし、冒頭のナボコフを除いて、傑作ぞろいである。学校の帰りに、サリンジャーの短篇を読み終わった。おもしろかった。ぼくは単純なのかな。単純なものがおもしろい。音楽と同じで。


二〇一六年一月七日 「竹中久七」


ずっと寝てた。腕の筋肉がひどいことになっていて、コップをもっても、しっかり支えられず、コーヒー飲むのも苦痛。病院で診てもらうのも怖いしなあ。ただの五十肩だと思いたい。

本を読む速度が極度に落ちている。読みながら、夢想にふけるようになったからかもしれない。途中で本を置くこともしばしばなのだ。『20世紀アメリカ短篇選』下巻、まだ読み終わらず、である。味わい深いので、じっくり味わいながら読んでいるとも言えるのだが、それにしても読むのが遅くなった。きょうも、寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』の下巻。フラナリー・オコーナーの全短篇集・上下巻が欲しくなった。いかん、いかん。持ってるものをまず読まなくては。でも、amazon で買った。単行本のほうが安かったので、フラナリー・オコナーの全短篇集を単行本で上下巻、買った。送料を入れて、3500円ちょっと。本の買い物としては、お手頃の値段だった。ああ、しかし、本棚に置く場所がないので、どうにかしなきゃならない。

竹上さんから入浴剤やシュミテクトや歯ブラシをたくさんいただいて、いま入浴剤入りのお風呂につかってた。生き返るって感じがした。歯を磨いて、横になろう。お湯につかりながら、千家元麿の詩を読んでたのだけれど、さいしょのページの写真を見てて、竹中久七というひとの顔がめっちゃタイプだった。いまネットで検索したら、マルキストだったのかな。そういう関係の本を出してらっしゃったり。でも、写真はなかった。お顔がとてもかわいらしくて、ぼくは大山のジュンちゃんを思い出した。のび太を太らせた感じ。文系オタク的な感じで、かわいい。『20世紀アメリカ短篇選』下巻、あと1作。フィリップ・ロスの『たいへん幸福な詩』 これを読んだら、『20世紀イギリス短篇選』上巻を読もう。


二〇一六年一月八日 「神さまがこけた。」


お風呂場で足をひっかけたのだけれど、神さまがこけた。それが、ぼくを新しくする。


二〇一六年一月九日 「ヤツのは小さかった。」


けさ、思いっきりエロチックな夢を見て、そんな願望あったかなって変な気持ちになった。あまりにイカツすぎるし、ぜったいにムリだって思ってた乱暴者だった。誘われて無視した経験があって、その経験がゆがんだ夢を見させたのだと思うけど、じっさいは知らんけど、夢のなかでは、ヤツのは小さかった。


二〇一六年一月十日 「カナシマ博士の月の庭園」


きのう、エロチックな夢を見たのは、お風呂に入って読んだアンソロジーの詩集についてた写真で、「竹中久七」さんのお顔を見たせいかもしれない。現代のオタクそのものの顔である。かわいらしい。ぼくもずいぶんとオタクだけれど。ミエヴィルの『都市と都市』236ページ。半分近くになった。読んでいくにつれ、おもしろい感じだ。『ケラーケン』上下巻では、しゅうし目がとまる時間もないほどに場面が転換して、驚かされっぱなしだったから、こうしたゆっくりした展開に、いい意味で裏切られたような気がする。塾に行くまで読む。

やった。塾から帰ってきたら、ヤフオクに入札してた本が落札できてた。ひさびさのヤフオクだった。あの『猿の惑星』や『戦場に架ける橋』のピエール・プール『カナシマ博士の月の庭園』である。800円だった。日本人が主人公のSFである。カナシマ博士が切腹するらしい。長い間ほしかった本だった。

「きみの名前は?」(チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』第2部・第13章、日暮雅通訳、253ページ)

ミエヴィル『ジェイクをさがして』タイトル作がつまらない。なぜこんなにつまらない作品を冒頭にしたのだろう。読む気力がいっきょに失せた。プールの『カナシマ博士の月の庭園』が到着した。ほとんどさらっぴんの状態で狂喜した。クリアファイルのカヴァーをつくろう。でも、読むのは、ずっと先かな。ミエヴィルの短篇集『ジェイクをさがして』を読んでいるのだが、これは散文詩集ではないかと思っている。散文詩集として出せばよかったのにと思う。SFというより、純文学の幻想文学系のにおいが濃厚である。読みにくいのだが、散文詩としてなら、それほど読みにくいものとは言えないだろう。

思潮社から出る予定の『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の出版が数か月、遅れている。ぼくの記号だけでつくった詩が、アマゾンのコンピューターが、どうしても、それをエラーとして認識するらしい。家庭用のパソコンでOKなのに、なぜかはわからない。それゆえ、記号だけの作品は削除して詩集を編集してもらっている。


二〇一六年一月十一日 「恋する男は」


Brown Eyed Soul のヨン・ジュンがとてもかわいい。声もいい。むかし付き合った男の子に似てる子がいて、その子との思い出を重ねて、PVを見てしまう。ぼくたちは齢をとるので、あのときのぼくたちはどこにもいないのだけれど、そだ、ぼくの思い出と作品のなかにしかいない。

かっぱえびせんでも買ってこよう。きょうは、クリアファイルで立てられるようにした、ピエール・ブールの『カナシマ博士の月の庭園』をどの本棚に飾ろうかと、数十分、思案していたが、テーブルのうえに置くことにした。いまいちばんお気に入りのカヴァーである。白黒の絵で、シンプルで美しい。

ポールのレッド・ローズ・スピードウェイのメドレーを聴いてるのだけれど、ポールの曲のつなぎ方はすごい。ビートルズ時代からすごかったけど。どうして、日本の詩人には、音楽をもとにして、詩を書く詩人がいないんだろうね。ぼくなんか、いつも音楽を聴いてて、それをもとにつくってるんだけれどね。

このあいだ読んだ岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』上下巻の話を思い出そうとしたが、作者名が思い出せない『ユダヤ鳥』と、作品名が思い出せないフラナリー・オコナーのものくらいしか思い出されなかった。強烈な忘却力である。いま読んでるミエヴィルの短篇集も、いつまで憶えているか覚束ない。

恋する男は幸福よりも不幸を愛する。(ウンベルト・エーコ『前日島』第28章、藤村昌昭訳、384ページ)


二〇一六年一月十二日 「めぐりあう言葉、めぐりあう記号、めぐりあう意味」


塾に行くまえに、お風呂に入って、カニンガムの『めぐりあう時間』を読んでいた。さいしょにウルフの自殺のシーンを入れてるのは、うまいと思った。文章のはしばしに、ウルフの『ダロウェイ夫人』や『灯台に』に出てきた言葉づかいが顔を出す。まだ33ページしか読んでないが、作家たちが登場する。

自分を拾い集めていく作業と、自分を捨てていく作業を同時進行的に行うことができる。若いときには、できなかった作業だ。自分が55年も生きるとは思っていなかったし、才能もつづくとは思っていなかったけれど、齢とって、才能とは枯れることのないものだと知った。幸せなことかどうかわからないけど、詩のなかでぼくが生きていることと、ぼくのなかで詩が生きていることが同義であることがわかったのだ。若いときには思いもしなかったことだ。ぼく自身が詩なのだった。ぼく自身が言葉であり、記号であり、意味であったのだ。

二〇一六年一月十三日 「詩について」

どういった方法で詩を書くのかは、どういった詩を書くのかということと同じくらいに重要なことである。


二〇一六年一月十四日 「嘔吐」


いったん
口のなかに
微量の反吐が
こみあげてきて
これは戻すかなと思って
トイレに入って
便器にむかって
ゲロしようと思ったら
出ない。
大量の水を飲んでも
出ない。
出したほうがすっきりすると思うんだけど。
飲んでかなり時間が経ってるからかなあ。
じゃあ、微量の
喉元にまで
口のなかにまで込み上げたゲロはなんだったのか。
ああ
もしかして
牛のように反芻してしまったのかな。
ブヒッ
じゃなくて
モー
うううううん。
微妙な状態。
指をつっこめば吐けそうなんだけど
吐くべきか、吐かないべきか
それが問題だ
おお、嘔吐、嘔吐、嘔吐
どうしてお前は嘔吐なのか
嘔吐よ、お前はわずらわしい
嘔吐にして、嘔吐にあらず
汝の名前は?
はじめに嘔吐ありき
神は嘔吐あれといった、すると嘔吐があった
宇宙ははじめ嘔吐だった、嘔吐がかたまって陸地となり海となり空となった
嘔吐より来たりて嘔吐に帰る
みな嘔吐だからである
オード
ではなくて
嘔吐という形式を発明する
嘔吐と我
嘔吐との対話
嘔吐マチック
嘔吐トワレ
嘔吐派
嘔吐様式
嘔吐イズム
嘔吐事典
嘔吐は異ならず
鎖を解かれた嘔吐
嘔吐集
この嘔吐を見よ
夜のみだらな嘔吐
嘔吐になった男
嘔吐を覗く家
殺意の嘔吐
もし神が嘔吐ならば
あれ?
ゲオルゲの詩に、そんなのがあったような記憶が。
違う。
神が反吐を戻して
それが人間になったんやったかなあ。
それとも逆に
ひとが反吐を戻したら
それが神になったんやったかなあ。
岩波文庫で調べてみよう。
なかった。
でも、見たような記憶が
どなたか知ってたら、教えてちゃぶだい。
ぼくもこれから
いろいろ詩集見て調べてみよう。
持ってるのに、あったような気が。

追記

わたしは神を吐き出した。

これ、ぼくの「陽の埋葬」の詩句でした。
うううん。
忘れてた。


二〇一六年一月十五日 「今朝、通勤電車のなかで、痴漢されて」


ひゃ〜、朝、短髪のかわいい子が目の前にいたのですが
満員状態で
ぎゅっと押されて彼の股間に、ぼくの太ももが触れて
ああ、かわいいなって思ってたら
その男の子
組んでた腕を下ろして
ぼくのあそこんところを
手の甲でなではじめたんで
ひゃ〜
と思って
その子の手の動きを見てたら
京都駅について
その子、下りちゃったんです。
残念。
明日、同じ車両に乗ろうっと。

あんまりうれしいから
きょうは
うきうきで
仕事帰りに河原町に出たら
元恋人と偶然再会して
その子のことを言って

そのあと
前恋人の顔を見に行って
今朝の痴漢してくれた男の子のことを再現して
前恋人の股間にぎゅって
触れたら、「何すんねん、やめてや!」
と言われて
いままで
飲んだくれてました、笑。
その子の勇気のあること考えたら
自分がなんて小心者やったんかなって思えて
情けない感じ。
組んでた腕がほどけて
右手の甲が
ぼくの股間に近づいていくとき
なんか映画でも見てるような感じやった。
むかし
学生の子に
通勤電車のなかで
触られたときも
ぼくには勇気がなくて
手を握り返してあげることもできひんかった。
きょうも、勇気がなくって。
なんて小心者なのやろうか、ぼくは。
相手の子の勇気を考えると
手を握り返すくらいしなきゃならないのにね。
反省です。


二〇一六年一月十六日 「二〇一四年八月二十一日に出会った青年のこと」


メモを破棄するため、ここに忠実に再現しておく。

(1)マンションのすぐ前まで来てくれた。車をとめる場所がないよと言うと、「適当にとめてくる」と言う。
(2)部屋に入ると、テーブルの下に置いていた、ぼくの『詩の日めくり』の連載・2回目のゲラを見て、「まだ書いてるの?」と訊いてきた。「セックス以外しないつもりだったけど、ちょっと見てくれるかな?」と言って、アイフォンというのだろうか、スマホというのだろうか、ぼくはガラケーで、新しい電子機器のわからないのだが、そこに保存している彼が自分で書いた詩をぼくに見せた。
(3)だれにも見せたことがないという。
(4)たくさん見せてもらった。記憶しているものは「きみがいるおかげで、ぼくは回転しつづけられるのさ」みたいなコマの詩くらいだけど、よくあるフレーズというのか、そういうリフレインがあって、おそらくJポップの歌詞みたいなものなのだろうと思った。ぼくの目には、あまりよいものとは思えなかったのだけれど、セックスというか、あとでフェラチオをさせてもらうために、慎重に言葉を選んで返事をした。
(5)メールのやり取りで、キスの最長時間やセックスの最長時間の話をしていて、それが7時間であったり、11時間であったりしたものだから、「ヘタなの?」と書いてこられてきたけれど、どうにかこうにか、ヘタじゃないということを説明した。
(6)えんえんと1時間近くも彼の書いた詩を読ませられて、これはもう詩を読ませられるだけで終わるかもしれないと思って、「そろそろやらへん?」と言うと、「そうやな」という返事。「いくつになったん?」と訊くと、37才になったという。はじめて映画館で会ったのはもう10年くらい前のことだった。「濡れティッシュない?」と言うので、「ないよ」と返事すると、「チンポふきたいんやけど」と言うので、タオルをキッチンで濡らして渡した。「お湯で濡らしてくれたんや」と言うので、「まあね」と答えた。暗くしてくれないと恥ずかしいと言うので電気を消すと、ズボンとパンツを脱いで、チンポコを濡れタオルでふいている気配がした。シャツは着たまま布団の上に横たわった。ぼくは彼のチンポコをしゃぶりはじめた。
(7)30分くらいフェラチオしてたと思うのだけれど、相性が合わなかったのだろう、「もう、ええわ」と言われて、顔を上げると、「すまん。帰るわ」と言って立ち上がって、パンツとズボンをはいた。部屋の扉のところまで見送った。
(8)ちょっとしてから、ゲイのSNSのサイトを見たら、彼はまだ同じ文面で掲示板に書き込みをしてた。「普通体型以上で、しゃぶり好き居たら会いたい。我慢汁多い168#98#36短髪髭あり。ねっとり咥え込んで欲しい。最後は口にぶっ放したい。」


二〇一六年一月十七日 「言葉」


言葉には卵生のものと胎生のものとがある。卵生のものは、おりゃーと頭を机のかどにぶつけて頭を割ると出てくるもので、胎生のものはメスをもって頭を切り開くと出てくるものである。


二〇一六年一月十八日 「夢」


夜の9時から寝床で半睡してたら、夢を見まくり。ずっといろいろなシチュエーションだった。いろいろな部屋に住んでた。死んだ叔父も出てきたり。ずっと恋人がいっしょだったのだけれど、顔がはっきりわからなかった。ちゃんと顔を見せろよと言って、顔を上げさせたら、ぼくの若いときの顔でびっくりした。暗い部屋で、「見ない方がいいよ」と言って抵抗するから、かなり乱暴な感じで、もみくちゃになって格闘したんだけど、ぜんぜん予想してなかった。髪が長くて、いまのぼくではなくて、高校生くらいのときのぼくだった。無意識領域のぼくは、ぼくになにを教えようとしたのか。けっきょく自分しか愛せない人間であるということか。それとも高校時代に、ぼくの自我を決定的に形成したものがあるとでもいうのか。もうすこし、横になって、目をつむって半睡してみようと思った。しかし、無意識領域のぼくが戻ってくることはなかった。意地悪な感じで含み笑をして「見ない方がいいよ」と言った夢のなかのぼくは、意識領域のぼくと違って、ぼく自身にやさしさを示さないのがわかったけれど、いったん意識領域のぼくが目覚めたら、二度と無意識領域には戻らないんだね。その日のうちには。ふたたび眠りにつくことがなければ。

二〇一六年一月十九日 「吉田くん」


吉田くんを蒸発皿のうえにのせ、アルコールランプに火をつけて熱して、蒸発させる。


二〇一六年一月二十日 「胎児の物語」


めっちゃ、すごいアイデちゃう?
そうですか?
書き方によるんとちゃいます?
ううん。
西院の「印」のアキラくんに
そう言われてしまったよ。
いま
ヨッパだから
あしたね〜。
胎児が
二十数世紀も母親の胎内で
生きて
感じて
考えて
って物語。
生きている人間のだれよりも多くの知識を持ち
つぎつぎと
異なる母胎を行き渡って
二十数世紀も生きながらえている
胎児の物語。
詳しい話は
あしたね。
これ
長篇になるかも。
ひゃ〜


二〇一六年一月二十一日 「ラスト・キッド」


学校の帰りに、大谷良太くんちでコーヒー飲みながら、1月20日に出たばかりの彼の小説『ラスト・キッド』をいただいて読んだ。2つの小説が入っていて、1つ目は、ぼくの知ってるひとたちがたくさん出てて興味深かったし、2つ目は、観念的な個所がおもしろかった。大谷良太は小説家でもあったのだ。

きょうは、日知庵で、はるくんと飲んでた。「あつすけさんの骨は、おれが拾ってあげますよ」という言葉にきゅんときて、グッときて、ハッとした。つぎの土曜日に、また飲もうねと約束して、バイバイ。そのあと、きみやさんで、ユーミンの「守ってあげたい」を思い出して、フトシくんの思い出で泣いた。フトシくんが、ぼくのために歌ってくれた「守ってあげたい」が、はじめて聴いたユーミンの曲だった。もしも、もしも、もしも。ぼくたちは百億の嘘と、千億のもしもでできている。もしも、フトシくんと、いまでも付き合っていたら? うううん。どだろ。幸せかな?


二〇一六年一月二十二日 「soul II soul」


ふだんの行為のなかに奇蹟的なうつくしい瞬間が頻発しているのだけれど、ふつうの意識ではそれを見ることができない。音楽や詩や絵画といった芸術というものが、なにげないふだんの行為のなかのそういった美の瞬間をとらえる目をつくる。耳をつくる。感覚をつくる。芸術の最重要な機能のひとつだ。

ぼくはほとんどいつも目をまっさらにして、生きているから、しょっちゅう目を大きく見開いて、ものごとを見ることになる。ふだんの行為のなかに美の瞬間を見ることがしょっちゅうなのだ。これは喜びだけれど、同時に苦痛でもある。その瞬間のすべてを表現できればいいのだけれど、言葉によって表現できるのは、ごくわずかなものだけなのだ。まあ、だから、書きつづけていけるとも思うのだけれど。

ジーン・ウルフの短篇集、序文だけ読んで、新しい『詩の日めくり』をつくろうと思う。いまツイートしているぼくと、いくつかのパラレルワールドにいる何人ものぼくが書きつづっている日記ということにしてるんだけど、自分の書いたものをしじゅう忘れるので、何人かのぼくのあいだに切断があるのかもしれない。でも、それは表現者としては、得なことかもしれない。なにが謎って、自分のことがいちばん謎で、探究しつづけることができるからだ。自分自身が謎でありつづけること。それが世界を興味深いものにしつづける要因だ。

BGMを soul II soul にしたので、コーヒー飲みながら、キッチンで踊っている。soul II soul って、健康にいいような気がする。きょうじゅうに、2月に文学極道に投稿する『詩の日めくり』を完成させよう。なんちゅう気まぐれやろうか。やる気ぜんぜんなかったのに、笑。

つくり終えた。チキンラーメン食べて、お風呂に入ろう。お風呂場では、ダン・シモンズの『エデンの炎』上巻を読んでいる。たぶん、名作ではないのだろうけれど、読ませつづける力はあって、読んでいる。

シモンズの『エデンの炎』上巻がことのほかおもしろくなってきたので、お風呂からあがったけど、つづきを読むことにした。

『エデンの炎』棄てる本として、お風呂場で読んでたのだけれど、またブックオフで見つけたら買おう。ぼくの大好きなマーク・トウェインが出てくるのだ。そいえば、ファーマーの長篇にもトウェインが出てきてたな。主人公のひとりとして。リバーワールド・シリーズだ。

「きみの名前は?」(チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻・第一部・5、日暮雅通訳、81ページ)

豚になれるものなら豚になりたい。そうして、ハムになって、皿の上に切り分けられて飾りもののように美しく並べられたい。


二〇一六年一月二十三日 「選ばれなかった言葉の行き場所」


昼に学校で机のうえを見たら、メモ用紙が教材のあいだに挟まれてあって、取り上げると、何日もまえに書いた言葉があって、それを読んで思い出した。選ばれなかった言葉というものがある。いったんメモ用紙などに書かれたものでも、出来上がった本文に書き込まれなかった言葉もあるだろう。また、メモ用紙に書き留められることもなく、思いついた瞬間に除外された言葉もあるだろう。それらの言葉は、いったいどこに行くのだろう。ぼくによって選ばれなかったひとたちが、他のひとに選ばれて結びつくことがあるように、本文に選ばれなかった言葉が、別の詩句や文章のなかで使われることもあるだろう。しかし、けっして二度と頭に思い浮かべられることもなく、使われることもなかった言葉たちもあるだろう。それらは、いったいどこに行ったのだろう。どこにいて、なにをしているのだろう。ぼくが選ばなかった言葉たち同士で集まったり、話し合ったりしているのだろうか。ぼくの悪口なんか言ってたりして。ぼくが使わなかったことに腹を立てたり、ぼくに使われることがなくってよかったーとか思っているのだろうか。そういった言葉が、ぼくが馬鹿な詩句や文章を書いたりしているのを、あざ笑ったりしているのだろうか。ぼくの頭の映像で、とても賢そうな西洋人のおじさんが、たそがれときの窓辺に立っている。目をつむって。ぼくは、ぼくが使った言葉たちのほうを向いているのだが、表情のわからない、ぼくが使わなかった言葉たちのほうにも目を向けたいと思って、目を向けても、窓辺に立っているその西洋人のおじさんの映像はそれ以上変化しない。もちろん、ぼくのせいだ。ぼくの使わなかった言葉が目をつむり、腕をくんで、窓辺で黄昏ている。その映像が強烈で、ぼくがどんな言葉を使わなかったのか、まったく思い出すことができない。その西洋人のおじさんは、ハーフに間違われることがある、ぼくそっくりの顔をしているのだけれど。


二〇一六年一月二十四日 「流転が流転する?」


2016年1月2日メモ。太った男性を好む男性がいること。いわゆるデブ専。ぼくは、大学に入って、3年でゲイバーに行くまで、ゲイっていうのか、当時は、ホモって言ってたと思うけど、顔の整った、きれいな男性ばかりだと思っていて、ぼくが魅かれるようなタイプのひとって、ふつうにどこにでもいるような感じのひとばっかりだったから、きっと、ぼくは特殊なんだなって思ってたのだけれど、ゲイバーに行って、いちばんびっくりしたのは、みんなふつうの感じのひとばかりだったってこと。でも、ぼくの美意識はまだ、文学的な影響が強くて、デブというか、太っているのは、うつくしくなくて、高校時代に社会科のデブの先生に膝を触られたときに、ものすごい嫌悪感があって、デブっていうだけで、うつくしくないと思っていたのだけれど、ゲイバーに行き出してすぐに付き合ったひとがデブで、石立鉄夫に似たひとで、とてもいいひとだったので、そのひとと付き合って別れたあとは、すっかりデブ専になってしまって、そういえば、高校時代にぼくの膝を触った社会の先生も、かわいらしいおデブさんだったなあと思い返したりしてしまうのであった。いまのぼくはもうデブ専でもなくなって、来る者拒まず状態である。といっても、みんな太ってるか、笑。ダイエットもつづかず、また太り出し、洋梨のような体型に戻ったぼくが、収容所体験のあるツェランの詩を、翻訳で読む。飢えも知らず、のほほんと育って、勝手気ままに暮らしている、太った醜いブタのぼくが、とてもうつくしいお顔の写真がついたツェランの詩集を読む。なにか悪い気がしないでもない。

「万物が流転する。」━━そしてこの考えも。すると、万物はふたたび停止するのではなかろうか?(パウル・ツェラン『逆光』飯吉光夫訳)

『ラスト・キッド』収録作・2篇目のなかにある、大谷良太くんの考えのほうが、ぼくにはすっきりするかな。「万物が流転する。」という言葉自体が流転するというものだけれど、ツェランのように、「停止する」というのは、ちょっと、いただけないかな、ぼくには。でも、まあ、ひっかかるというのは、よいことだ。考えることのきっかけにはなるので。ツェランの詩集は、もう借りることはないだろうな。ぜんぜん刺激的じゃないもの。


二〇一六年一月二十五日 「ある特別なH」


「ある特別な一日」から「一一一」を引いたら、「ある特別なH」になる。


二〇一六年一月二十六日 「ぼくは嘘を愛する。」


ぼくは嘘を愛する。それが小さな嘘であっても、大きな嘘であっても、ぼくは嘘を愛する。それがぼくにとってもどうでもいい嘘でも、ぼくを故意に傷つけるための嘘であっても、ぼくは嘘を愛する。嘘だけが隠されている真実を暴くからだ。


二〇一六年一月二十七日 「詩人殺人事件」


ひとつの声がきみの唇になり
きみのすべてになるまで
チラチラと
チラチラと
きみの身体が点滅している
グラスについた汗
テレビの走査線のよう
よい詩を読むと
寿命が長くなるのか短くなるのか
どっちかだと思うけど
どっちでもないかもしれないけど
この間
バカみたいな顔をしてお茶をいれてた
玉露はいい
玉露はいいね

ジミーちゃんと言い合いながら

詩人殺人事件
って
どうよ!

詩の鉱脈を発見した詩人がいた
その鉱脈を発見した詩人は
ほんものの詩を書くことができるのだ
ところがその詩の鉱脈を発見した詩人が殺されてしまった
半世紀ほど前の話だ
容疑者は谷川俊太郎
真犯人は吉増剛造
刑事は大岡信
探偵は荒川洋治
弁護士は中村稔
村の娘に白石かずこ
こんな配役で
ミステリー小説なんて
うぷぷ

彼らの詩行を引用してセリフを組み立てるのよ



二〇一六年一月二十八日 「キクチくん」


キクチくん。
めっちゃ
かわいかった。
おとつい
ずっと見てたんだよ
って言ったら
はずかしそうに
「見ないでください」
だって
そのときの
表情が
これまた
かわいかった。
大好き。
たぶん
惚れたね〜
ぼく。
キクチくん
もう
二度と会いたくないぐらい好き!


二〇一六年一月二十九日 「目は喜び」


Ten。
こうして見ますと、美しいですね。
TEN。
これも、美しいですね。
どうして、目は
こんなもので、よろこぶことができるのでしょう。
不思議です。


二〇一六年一月三十日 「たこジャズ」


人生の瞬間瞬間が輝いて、生き生きとしていることを、これまでのぼくは、その瞬間瞬間をつかまえて、その瞬間瞬間を拡大鏡で覗き込んで、その瞬間瞬間をつまびらかにさせていたのだが、いまは、その生き生きと輝いている瞬間が生き生きと輝いている理由が、その生き生きとした瞬間の前後に、それみずからは生き生きとしてはいなくても、それ以外の瞬間を生き生きと輝いた瞬間にさせる瞬間が存在しているからである、ということに気がついたのであった。

むかし、ぼくが30代のときに、千本中立売(せんぼんなかだちゅうり)に、「たこジャズ」っていう名前のたこ焼き屋さんがあって、よく夜中の1時とか2時まで、そこでお酒とたこ焼きをいただきながら、友だちと騒いでたんだけど、アメリカ帰りのファンキーなママさんがやってて、めっちゃ楽しかった。

ひとり、ひとり、違ったよろこびや、違った悲しみや、違った苦しみがあって、その自分のとは違ったよろこびが、悲しみや、苦しみが、詩を通して、自分のよろこびや、悲しみや、苦しみに振り向かせてくれるものなのかなと、さっきキッチンでタバコを吸いながら思っていました。


二〇一六年一月三十一日 「きょうは、キッス最長記録塗り替えたかも、笑。」


むかし、付き合いかけた子なんだけど
前彼と付き合う前やから6年ほど前かな
きょう会って
「ああ、ぜんぜん変わってないやん。」
「そんなことないわ、ふけたで。」
「そうかなあ。」
「しわもふえたし。」
「デブってるから、わからへんやん。」
目を合わせないで笑う。
「やせた?」
「やせたよ。」
出会ったころは、ぼくもデブだったのだけれど
この6年で、体重が15キロほど減ったのだった。
しかし、さいきん、また顔が太ってきたのだった、笑。
あ、おなかも。
おなかをなでられて、苦笑いする。
「まだ、付き合う子さがしてんの?」
「うん。」
「いるやろ?」
「どこに?」
「どこにでもいるやん。」
「それが、いないんやね。」
「マッサージ師になれるんちゃう?」
ずっと手のひらをもんであげていたのであった、笑。
表情がとてもかわいらしかったのでキッスした。
そしたら目をつむって黙って受け入れたので
抱きしめたら抱きしめ返されたので
そこからずっとチューを、笑。
6時間くらい。
ほとんど、チューばかり。
かんじんなところは、パンツの上から
ちょこっとだけ、笑。
チューの時間
前の記録を超えたかも。
とてもゆっくりしゃべる子なので
ぼくもゆっくり考えながら
いろいろなことを思い出しながらしゃべった。
電話番号の交換をしたけど
ぼくは、ほとんどいつもここで終わってしまう。
キッスは真剣なものだったし
握り返してくれた手の力はつよかったし
抱き返してくれた力もつよかったのだけれど
やはり、しあわせがこわいひとみたい。
ぼくってひとは。


指とカナエの物語

  かとり

携帯電話のベル音が鳴ってすぐに切れた。それだけで何が起こったのか理解できたような気がする。目が薄く開かれ、自分が眠っていたということに気づく。それでいて、悪い夢の中に迷い込んでいくような気分。音の余韻が、身体を駆け巡り、ベッドの足を伝って、カーペットを通り過ぎ鉄骨の構造体に吸い込まれていった。息が詰まる。息苦しさから逃れるために、とりあえずともう一度目を瞑り、旧い夢を手繰ろうとするけど、さっきまで見ていた夢はもう新しい夢と交じり合い、元の場所には戻れない。夢の住人たちへ向けて語りかけようとするけれど、言葉は失われ、顔のない顔が諭すように見つめ返してくるばかり。遺された場面が隆起し、砂嵐が舞うなかで、私はひとしきり?と喚いて再び目覚めていく。液晶スクリーンを手繰り寄せて着信履歴を確認すると電話は母から。ベッドから抜けだしてリダイヤルすると、3度目でつながり、電話口に母は出た。母はああ、ええとね、と調子のはずれた前置きをしてから、「いまカナエが死にました。」と言った。うん、と答えた。

カナエは15のときから飼っていた犬の名前で、ここ数日食べ物を口にしなくなっていた。犬は食べんようなるといよいよヤバい。先生もそう言っていたので私はすっかり覚悟ができているような気になっていたのだけど。昨日からインフルエンザで寝込んでいるらしい父は「昔犬は犬小屋で糞まみれで死んどったもんや」などと言い放ったというが、母は自室の床に柔らかな羽毛布団を敷いて介護のためのスペースを作ってやり、水や流動食をスポイトで口に流しこんでやったり、トイレの手伝いをしてやったりとひとりそばで世話をしていた。終末期の犬のために、背中に持ち手を取り付ける器具があることを私は母から電話で聴いて初めて知り、ファーバッグのような姿を想像して笑ってしまったりした。今朝、私はカナエに会いにいこうと思い立ってしばらくぶりに実家に帰る準備をしていたのだけど、父の病気のことを聞いて、うつされると困るという理由でやめてしまっていた。薄情。だけどプレゼンの準備もあったし、死という言葉が、蜃気楼のように遠くとらえどころのないものに感じられて仕方がなかった。「やっぱり土曜日に行くことにする。」そう言った瞬間に、何かが零れ落ちた気がしていた。何かが零れ落ち、落下して、だから?私はそれを見送って、のそのそと部屋着に着替え、PCに向かって作業をし、ひび割れた泥のように微睡んだ。そのあいだにカナエは死んでしまった。

電話を切った後、集合住宅から飛び出して、歩いて駅へと向かった。死んだ犬の最後の姿を見に行くことに迷いはなかった。ダウンジャケットを着こみ、なるべく皮膚が露出しないように、マスクを付け、マフラーをし、手袋をつけてニット帽を深く被っていたから、風は冷たかったけど少し暑かった。頭のなかではインフルエンザウィルスにどう始末をつけるか、そんなことばかり考えている。戻ってきたら着ている服を45リットルのゴミ袋に詰め込んで押し入れに隔離し、歯を磨いて風呂に入ろう。そう心に決めた。青々とした夕闇はだんだんと深くなる。滑り去る鳥の影を何の気なしに数えた。ふとさっき見た夢のことを考える。もしかしたら、夢のなかに犬が出てきたのではなかったかと思う。まったく覚えてはいなかったけど、そんな気がしはじめるとそうであったような気がしてならず、私は夢をつくりはじめた。語るべくもない、とってつけたような夢で、私が犬とただ散歩している夢だった。カナエは家のなかにいることを好んだので、散歩をした記憶はそれほど多くはないのだけど、思い浮かんだ風景にかたっぱしから犬と私を合成し、脈絡がなく一本調子の映像をつなげていった。夢をつくりながら歩いていると、目に映る風景にも次々に犬と私が付け加えられていく。橋の歩道から見下ろした黒い川面に犬がいて、私がいた。真っ青な夕暮れの屋根瓦の段々に影になった犬がいて、私がいた。路面店が光を競う石畳の中央に犬がいて、私がいた。細い路地の街灯の元に輪郭の滲んだ犬がいて、私がいた。しかし足元にはいない。口の中に虫が飛び込んできて、顔を歪めてべっと吐き出した。息をつき、吸い込むと春の夜の匂いがした。来年は除菌剤を買ったほうがいいかもしれない。犬の身体はまだあたたかいだろうか。

母が父にカナエが死んだことを伝えたとき、父は何も言わずに自室に行き、カナエの映った写真をひっぱりだしてきて犬の枕元にずらずらと並べはじめたらしい。「やめてよ。」と母は怒り、突き返したのだという。笑える話。そんな話を玄関で聞きながら、ゆっくりと靴を脱いだ。母の目は赤く腫れていた。私の目は青かったかもしれない。悼むということがわからないままに、私はここまできたのだと思う。しかしわからないなりに死からはじまるものがあるような気がし、何もかもがここからはじまるような気さえした。もしかしたら悼むということは私自身の物語に、その死が零れ落ちないよう、しっかりと嵌めこんでしまうことなのかもしれない。だけど私にカナエの存在を嵌めこむにたる物語があるのかわからない。だからせいぜいが白昼夢、いつまでも曖昧な幻想を浮かべて、死は受け入れられるということがなく、私はカナエを幽霊にしてしまうのかもしれない。そんな諦めに似た予感が全身を気だるくさせていた。カナエに対する感情は、地中深くのマグマのように、記憶の底をねっとりと流れ蠢いているようで、地表に現れる気配がなかった。もし父がインフルエンザにかからなかったら、今朝ここに来てカナエを看取ることができていたはずだけど、そうはなっていない。目の前でカナエが死んでいたとしたら、何が違っていたのだろう。わからないけどきっとすべてが少しづつ違い、未来ではその違いが膨れ上がり、世界の在り方を変えてしまうような気がする。今すぐそこの母の部屋ではカナエが死んでいて、刻々と硬直している。その真上の階では父が横たわっているはずだった。父は今眠っているだろうか。

そろそろ、と母が言い、部屋に入ると、カナエがいた。ファーバッグ。また少し笑う。空間が歪んだような心地がしたけど涙が出たわけじゃなかった。私が涙をながすことになるのはそれから13日後、背中に取っ手をつけて横たわる犬の絵を書いているときだ。笑った顔のまま母と雑談を続ける。音も匂いも押しつぶされて部屋の床にへばりついている。話をした先から声も言葉もへばりついていく。じっとカナエの顔を見ると、瞼も、鼻も、口元も、ひげの一本一本まで死んでいるようだった。マスクをはずして、手袋を外し、頭を撫でた。母はまだ父の文句を言っていた。何となく父のフォローをしつつ私はカナエについて話し始めた。好物の食べ物を狙うとき彼女がいかに腹黒い駆け引きを繰り広げたか、そのたくらみに満ちた表情について話す。母もカナエについて話し始める。死の直前の数時間の、それなりに壮絶な一部始終。死んだ犬の頭を撫でながら聞いた。体温はまだ少し残っている気がした。

私の人差し指がカナエの耳の付け根をまさぐり、中指と薬指、小指はそれぞれ別の場所を探って毛に分け入り、指の腹で頭皮を掻いた。親指は首元の毛を大きく波立たせるようにさすった。人差し指は耳の付け根から毛の流れに沿って耳の先端へ向けて動き、腹で表面の毛を漉くように撫でた。他の四本の指は毛のあいだを進んで追いかけ、耳の周りに集まって同時にさすった。何度かそんな動きを反復したら頭頂へ、額から耳を少し巻き込むようにして掌で撫でた。頭頂から胸へ。首周りの少し長い毛の奥へと5本の指をつっこんで腕を前後させるようにさすった。胸の少し薄い毛は掌全体で静かに撫でた。背中へ、爪の裏側で引っ掻くように幾度か縦断し、尻尾に向かって下り、尻尾の付け根を5本の指を集中させて念入りに掻いた。風を送るように尻尾の毛の流れをさっとなぞった。そしてまた耳元に指を差し込む。

カナエは撫でてほしい場所へ私の指を導いて、微妙に位置をずらしながら自ら身体を回転させたものだった。耳から尻尾まで撫でる一連の動きは、カナエの主張に指が反応して生まれたのだと思う。尻尾をひとしきり撫でるとまたくるりと回転して手に頭を潜り込ませたので、私の左手はしばらくふさがってしまうことになった。時にめんどうでうっとうしかったけど、頭をぐりぐりと手に押し付けてくる勢いに負けて、結局長時間撫でさせられることになった。指には実家にいる間毎日のように行ったこの動作が染み付いているので、同じ動きをひとりでに繰り返すことができた。これまでしてきたのと同じように、私の指は動き続けた。母と話をしながら、これからのことや、死の事、夢のこと、魂のこと、色々なことを考えながらずっと。

ふと私は自分の指の動きがいままでと変わっていることに気づいた。重力にたるみ、硬直を始めていたカナエの肉体の、反応のない反応に合わせて、私の指が撫で方を変えているのだと思う。どこがどうちがうのか言葉にすることはできないけど、たしかに微妙に動きが異なる。そしてこれは死んだ犬のための撫で方なのかもしれないと思う。もしかしたら死んだ犬の望む撫で方なのかもしれない。いつも指は犬の望むように動こうとしてきたのだから。死によって終わってしまった動きを、ただ生前を思い返して繰り返しているのだと思っていたけどそうではないのかもしれない。顔を上げ、黒い毛並みと動く指たちを眺めた。死んだ犬の体表で、何かが起こっているのだと思う。ここには、指たちがいて、カナエがいる。私の意識は今ここでは関係がないのかもしれないと思う。生者と死者、人間と犬の違いですらきっとここでは関係がない。私は考えることをやめる。目を瞑ると銀の雫が降った。私は落下する雫を追いかけていった。


詩の日めくり 二〇一五年二月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年二月一日 「アルファベットの形しかないんかいな、笑。」


何日かまえに、FBフレンドの映像を見て、いつも画像で、ストップ画像だから、ああ、素朴な感じでいいなあと思っていたら、映像では、くねくねして、ふにゃふにゃで、なんじゃー、って思った。ジムで身体を鍛えているのだろうけれど、なんだろ、しっかりしてるんだろうけど、くねくね、ふにゃふにゃ。

Aの形のひと。Bの形のひと。Cの形のひと。Dの形のひと。Eの形のひと。Fの形のひと。Gの形のひと。Hの形のひと。Iの形のひと。Jの形のひと。Kの形のひと。Lの形のひと。Mの形のひと。Nの形のひと。Oの形のひと。Pの形のひと。Qの形のひと。Rの形のひと。Sの形のひと。Tの形のひと。Uの形のひと。Vの形のひと。Wの形のひと。Xの形のひと。Zの形のひと。

寝るまえの読書は、チャイナ・ミエヴィルの『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻。一流の作家の幻視能力って、すごいなあって思わせられる。


二〇一六年二月二日 「お兄ちゃんのパソコンであ〜そぼっと、フフン。」


オレ、178センチ、86キロ、21歳のボーズです。
現役体育大学生で、ラグビーやってます。

──って、書いておけばいいわよね。
──あたしが妹の女子高生だって、わかんないわよね。

好みの下着は、グレーのボクサーパンツみたいなブリーフです。
ぽっちゃりしたオヤジさんがタイプです。
未経験なオレですが、どうぞよろしくお願いします。

──お兄ちゃんのそのまんまの条件で
──どんな人たちが連絡してくるのか、楽しみだわ。


二〇一六年二月三日 「ジョナサンと宇宙クジラ」


ぼくのライフワークのうちの1つ、『全行引用による自伝詩』を試みに少し書こうとしたのだが、2つめの引用で、すでにしてあまりにも美し過ぎて、手がとまってしまった。この作品以上の作品を、ぼくが書くことはもうできないような気がする。詩は形式であり、方法であり、何よりも行為である。

肘関節の痛みが左の肩にのぼって、左のこめかみにまで電気的な痺れを感じるようになってしまった。身体はますますボロボロに、感覚はますます繊細になっていく感じだ。とても人間らしい、すばらしい老化力である。まっとうな老い方をしているような気がする。ワーキングプアの老詩人にも似つかわしい。

そだ。『全行引用による自伝詩』も『13の過去(仮題)』も、章立てはなく、区切りのないもので、ぼくが死んで書かなくなった時点で途中終了する形で詩集として出しつづけていくつもりだ。『13の過去(仮題)』は、●詩で、改行もいっさいしないで、えんえんと書きつづけていくつもりだ。

塾の帰りにブックオフに。半年ほどまえに売りとばしたC・L・アンダースンの『エラスムスの迷宮』を買い直した。なにしてるんやろ。それと、カヴァーと大きさの違うロバート・F・ヤングの『ジョナサンと宇宙クジラ』と、トバイアス・S・バッケルの『クリスタル・レイン』を買った。みな、108円。

カヴァーを眺めて楽しむためだけに買ったような気がする3冊であるが、ヤングの『ジョナサンと宇宙クジラ』は、文字が大きくなって読みやすくなってるから、読むかも。『エラスムスの迷宮』は読んだから、読まないかも。『クリスタル・レイン』は読むと思う。いつか。


二〇一六年二月四日 「こんなん食べたい。」


指を切り落としたリンゴ。首を吊ったオレンジ。複雑骨折したバナナ。


二〇一六年二月五日 「TOMMY」


『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻、いまようやく400ページ目。あしたには下巻に突入したい。

寝るまえに、ロック・オペラ『TOMMY』を見た。『TOMMY』、音がCDとぜんぜん違う。ロック・オペラ『TOMMY』って、CDのほうがずっと音がいいんだけど、ちゃらちゃらしたDVD版の音のほうもいいね。アメリカでは、国がすべてのウェブサイトを記録として残すって話だったけど、日本はどうなんだろね。 個人的な手帳、手記ってのはものすごく重要な歴史資料なんだけども、いまや、それがケータイ本体やWebサービスに行っちゃって。TOMMYっていうと、ゲイの男の子たちのあいだでも人気のブランドだったと思うけど、そのTOMMYのTシャツをものすごくたくさん持ってる子のブログがあって、そこにある画像を見てて思ったんだけど、等身大の着せ替え人形用の服みたいって。あれ、逆かな。TOMMYっていうと、ピンボールの魔術師の役をどうしようって相談したロッド・スチュアートを裏切ったエルトン・ジョンのことを思い出すけれど、裏切りって、けっこう好きだったりする。裏切るのも裏切られるのも。むごい裏切り方されたときって、「ひゃ〜、人生の色が濃くなった。」って思えるからね。


二〇一六年二月六日 「モーリス・ホワイト」


きょうは早めに寝る。きょうから寝るまえの読書は、『ペルディード・ストリート・ステーション』の下巻。時間がかかるようになってきた。仕方ないか。ヴィジョンを見るのに、時間がかかってるんだと思う。若いときよりずっと緻密なような気がする。

言葉によって
ぼくが、ぼくのこころの有り様を知ることもあるが
それ以上に
言葉自体が、ぼくのこころの有り様を知ることによって
より言葉自身のことを知るのだということ。
それを確信している者だけが
言葉によって、違った自分を知ることができるであろう。

『ペルディード・ストリート・ステーション』下巻、200ページまで読んだ。5匹の怪物の蛾のうち、1匹をやっつけたところ。『クラ―ケン』並みのおもしろさである。魔術的な世界を的確な描写力で、現実のように見せてくれる。こんな作品を読んでしまったら、自分の作品『図書館の掟。』を上梓するのが、ためらわれる。

出すけど、笑。

モーリス・ホワイトが亡くなったんだね。EW&Fを聴こう。


二〇一六年二月七日 「そして誰かがナポレオン」


投票会場に行ってきた。本田久美子さんに入れたけど、アイドルみたいなお名前。

わさび茶漬けを食べて、あまりの辛さに涙。

読んでない詩集が2冊。寝るまえに読む。ボルヘス詩集とカミングズ詩集である。

ボルヘス詩集は1600円くらい、カミングズ詩集は4000円で買ったので、カミングズ詩集を読んでいたのだが、びっくりした。「そして誰かがナポレオン」ってカミングズの詩で、「肖像」というタイトルで、伊藤 整さんが訳してたのだね。ぼくは「そして誰もがナポレオン」って記憶してたのだけど、ツイッターで、どなたかご存じの方はいらっしゃらないかしらと呼びかけたのだが、いっさいお返事はなくて、もしかしたら、ぼくのつくった言葉かしらんと思っていたのだが、記憶とちょっと違っていたけど、カミングズの詩句だったのだね。案外、記憶に残ってるものだ。ここ数年の疑問が氷解した。カミングズ詩集、持ってて、手放しちゃったから、捜してた時に見つからなかったのだけれど、もう二度と手放さない。カミングズの詩、じっくり味わいながら読もう。


二〇一六年二月八日 「カミングズ詩集」


神経科の受診の待ち時間にカミングズの詩集を読んでた。詩は読むの楽でいいわ。ミエヴィルの小説とか辛すぎ。これから寝るまで、カミングズとボルヘスの詩集を読む。

EW&F聴いてたら元気が出てきた。

ぼくが買ったときには、4000円だったカミングズの詩集が、いま amazon 見たら、18000円だった。海外の翻訳詩集、もうちょっとたくさんつくっておいてくれないのかしらん。

EW&Fのアルバムで持っていないもの(売りとばしたため)を買い直そうと思って、アマゾン見たら、1円だったので、逆に買いたい意欲がなくなってしまった。買ったけど。EW&F『ヘリテッジ』

きょう、むかし付き合ってた男の子が遊びにきてくれてたんだけど、話の中心は、ぼくの五十肩。30代の彼には想像できないらしい。そうだよね。ぼくだって、自分が若いときには、存在しているだけで苦痛が襲ってくる老化現象など想像もできなかったもの。いまなら年老いた方の苦痛がわかる。遅すぎるかな。

カミングズ詩集、半分くらい読んだ。きょうは残りの時間もカミングズ詩集を読む。小説と違って、さくさくと読める。やっぱり、ぼくは詩が好きなのだと思う。

きょうから睡眠薬が1つ替わる。ラボナからフルニトラゼバムに。むかしは服用したら5分で気絶する勢いで眠れたのだけど、さいきんは眠るまで1時間くらいかかっているので、その時間を短くしてほしいとお医者さんに頼んで処方していただいたクスリの1つだ。11時にのむ。気を失うようにして眠れるだろうか。

あした、あさっては学校の授業がないので、カミングズとボルヘスの詩集を読み終えられるかも。翻訳詩集の棚をのぞいたら、読んでないものは、この2冊だけかな。

ゾンビ恋人たちは、互いに春を差し出す。
ひび割れた頬にいくつもの花を咲かせ、
枯れた指に蔓状の葉をつたえ這わす。
ゾンビ恋人たちの胸は、つぎの春を待つ実でいっぱいだ。
血のように樹液を滴らせながら、ゾンビ恋人たちは抱き締め合う。
ゾンビ恋人たちのあいだで、無数の春が咲きほこる。

寝るまえにクスリのチェックしたら、2つ替わってた。どんな状態で眠るのかわからないので、11時ジャストに服用することにした。1錠だけじゃなかったのね。ドキドキ。


二〇一六年二月九日 「哲学の慰め」


12時に眠った。3時半に起きた。腕の痛みで。痛みがなければ、もう少し寝れたと思う。

ようやくカミングズの詩と童話を読み終わった。肘の関節痛で、お昼から横になって、苦しんでいて、なかなか本を手にできなかったため。これから塾に行くまでに、カミングズの芸術論などを読む。カミングズの童話を読んで、こころがなごんだ。現実の苦痛のなかにあっても。

ボエティウスが『哲学の慰め』をどういう状況で書いたのかに思いを馳せると、ぼくの肘の激痛も烈しい頭痛も、なんてことはないと思わなければならない。もう左手いらんわと思うくらいに痛いのだけれど、それでも詩集を開き、詩を読み、自分の新しい詩作品の構想を練る自分が本物の奇人に思えてしまう。

これも1円やったわ。EW&F『Millennium』

ヤフオクとamazon のおかげで、欲しいものが簡単にすべて手に入る。ラクチンである。ネット時代に間に合ってよかった。ネット時代にいなかった芸術家には悪いけれど、芸術家にとって、こんなにラクチンな時代はないように思う。他者の芸術作品を手に入れるのも、自分の作品を見せるのも超簡単。

寝るまえの読書は、カミングズの散文。


二〇一六年二月十日 「いちびる。にびる。さんびる。」


むかし売ったやつね。新品で、612円だった。EW&F『Last Days & Time』

きょうは塾の給料日で、遊びに出かけたいのだが、体調がきわめて悪くて、たぶん、塾が終わったらすぐに帰って寝ると思う。塾に行くまでに、ミエヴィルとカミングズのルーズリーフ作業を終えたい。

ぼくは、カミングズの詩を読みながら、自分がしたことを思い出し、自分がしなかったことも思い出していた。

いちびる。にびる。さんびる。にびるは、いちびるよりいちびること。さんびるは、にびるよりいちびること。

鳥の囁く言葉がわかる聖人がいた。動物たちの言葉がわかる王さまがいた。さて、事物の言葉を解する者って、だれかいたっけ?

寝るまえに、ボルヘス詩集を読もう。


二〇一六年二月十一日 「闇の船」


きょうは体調が悪いので、京都詩人会の会合は中止します。

ご飯を買いにイーオンに。きのう、塾の給料日だったから、上等の寿司でも食べよう。

きのうブックオフで、サラ・A・ホワイトの『闇の船』を108円で買ったけど、以前に自分が売り飛ばしたやつだった。なにしてるんだろ。

ボルヘスの詩も飽きたので、ヤングの短篇集『ジョナサンと宇宙クジラ』を拾い読みして寝る。

けさ、京大のエイジくんの夢を見た。いっしょに大阪で食べもん屋で食べてたんだけど、エイジくんは常連さんだったみたいで、ドラッグクイーンのほかの客に話しかけられてて親しそうにしてたからちょっと腹が立った。齢とって40才くらいになってたかな。なんで夢みたんやろ。しょっちゅう思い出すからかな。


二〇一六年二月十二日 「ありゃりゃ。」


ボルヘスの詩を読んでいて、メモをとるのを忘れていた。


二〇一六年二月十三日 「理解の範囲」


苦労したり頑張ってつくったものに、あまりいい作品はなかったように思う。楽しみながらつくったものに、自分ではいいのがあるような気がする。『The Wasteless Land.』とか、ほんとに楽しみながらつくってた。まあ、どれも、楽しみながらつくってるけど。でも、思うんだけど、「こんなに苦労する」なんてのは、若いときだけの思いなんじゃないかな。ぼくも、若いときには、生きてること自体が苦痛に満ちていたように思うもの。いまは、苦痛なしの人生なんて考えられないし、苦痛をさけるなんていうのは怠け者の戯言だと思ってる。齢をとると、ひとには、自分の気持ちが伝わることなど、けっしてないのだという確信に至ると、まあ、たいてい、他人の言葉は、気分を害することのないものになるしね。ヴァレリーが書いてたように、ひとは自分の忖度できないことには触れ得ないんだしね。たくさんの詩人が、他の詩人の詩の評を書いているけれど、自分の理解の範囲がどれだけのものかを語っていることに気がつけば、そうそう、他人の詩について語ることはできないような気がするのだけれど。あれ? ずれてきたかな。ああ、ぼくは、こう書こうと思っていたのだった。「苦労して作品をつくる」などということは、創造的な人間にはあり得ないことなのだと。楽々と、楽しくつくってるんじゃないかな。しかも、実人生が与えてくれる苦痛をも、ある程度、おもしろがって味わっているような気がするしね。ずいぶん離れたこと書いてたなあって、いま気がついてしまった。ごめんなさい。思いついたら、なかなか言葉がとまらなくて。


二〇一六年二月十四日 「ロキソニン」


リハビリのひとつとして、SF小説のカヴァーをつくった。呼吸しているだけで、上半身の筋肉が電気的な痛みを帯びるような症状である。ストレスのあるときにこうなったことがあるが、いまストレスの原因はないはずなのだが。ペソアが47歳で死んだことを考えれば、55歳のぼくがいつ死んでもおかしくはない。このあいだ出した『全行引用詩・五部作・上巻』『全行引用詩・五部作・下巻』と、もうじき出るはずの『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』がさいごの詩集になってもおかしくはないのだが、ことし3月に編集する詩集『図書館の掟。』もぜひ出して死にたい。

きょうつくったクリアファイルカヴァーでは、ヤングの『ジョナサンと宇宙クジラ』が、いちばんかわいい。

痛みに耐えながらでも、ボルヘス詩集を読もう。苦痛を忘れさせてくれる読書というものはないのかな? 『歯痛を忘れる読書』とかいうタイトルで本を書けば、売れるかもね。

スピーカーの横からロキソニンが10錠見つかった。ためしに2錠のんでみる。いつの処方だったかはわからないくらいむかしのクスリ。

きょう、どこかで、ぼくの詩集が紹介でもされたのかしら? ぼくの楽天ブログ「詩人の役目」のきょうの閲覧者数が280人を超えてて、いつも30人から40人のあいだくらいなんだけど。

ロキソニンが効いているのか、腕を上げられるところまで上げても痛くない。とはいっても、肩くらいの高さだけど。しかし、痛みをとるクスリというのは、考えたら怖い。根本治療をしないで、痛みを感じさせないものなのだから。まるで音楽のようだ。

きょうは、もう寝る。クスリをのんだ。そいえば、きのう日知庵に行くまえに乗った阪急電車で、フトシくんに似た子が乗って、向かいの席に坐ったのだけれど、その記憶が残っていたのか、日知庵からの帰り道、フトシくんが、ぼくのために歌ってくれたユーミンの「守ってあげたい」が頭のなかに流れた。

書いておかなければ、日常のささいなことをほとんどすべて忘れてしまうので書いておいた。きのう書こうと思って忘れていた。思い出したのは、音楽の力だ。適当にチューブを流していたら、とてもファンキーな音楽と出合って、思い出したのだった。


二〇一六年二月十五日 「モーム、すごいおもしろい。」


ボルヘスの詩集を読みながら寝てしまった。きょうは、もうボルヘスの詩集を読み終わりたい。ルーズリーフ作業も終えたい。コーヒーのんだら、さっそく読もう。

きのうまでの無気力が嘘みたい。痛みどめが効いているのだろう。気力が充実している。ボルヘス詩集を読み終わり、あまつさえ、ルーズリーフ作業も終わったのだった。きょうは、これから、岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』上巻を読む。良質の文学作品によって、霊感を得るつもりだ。

痛みどめで、こんなに気力が変わるなら、もっと早くのめばよかった。きょう、あとでイーオンに五十肩専門の痛みどめを買いに行こう。

キップリングを読んでいる。

きょうはまだ痛みどめを服用していないのだが、関節の痛みはないわけではなく、痛みどめをギリギリまで服用しないでおこうと思っただけであった。

岩波文庫『20世紀イギリス短篇選』上巻2作目、アーノルド・ベネットの作品、えげつない。ベネットといえば、有名な格言があったけれども、それも、えげつない。たしか、こんなの、「とにかくお金を貯めなさい。それだけが確実に、あなたを守ってくれるものだから。」だったかな。うううん。それとも、「一にも二にも、お金を貯めなさい。お金を持っていないことは、お金がないことと同様に無価値だからである。」だったかな。なんか、お金に関する格言だった。イギリス人の作家の意地悪なところが大好きである。

半端ない寒さなので暖房をつける。ふだんは、けちってつけていない。

岩波文庫『20世紀イギリス短篇選』上巻、3つ目に収録されているモームの『ルイーズ』を読んでいるのだが、あまりにもおもしろくて、声を出して笑ってしまった。ああ、そうか、こんな書き方もあったんだなって思った。笑けるわ〜。

イギリス人のユーモアは、えげつなくて大好き。ウッドハウスのも収録されてたと思うけど、モーム、集めようかな。創元から出てるエラリー・クイーン編『犯罪文学傑作選』に入ってるモームの『園遊会まえ』も笑いに笑った作品だったが、モームって、こんなにおもしろかったなんて知らなかった。『ルイーズ』も『園遊会まえ』も、女性をひじょうに嫌っている感じがしたのだけど、ウィキを見ると、モームはゲイだったんだね。知らなかった。大先輩だったんだ。ぼくもゲイだけど、べつに女性が嫌いではないし、作品のなかで、女性にひどい扱いをしたことなんかもないけど、そういうひとはいるかな。

クリスティやP・D・ジェイムズのように、えげつない女性を書く女性の作家もいるし、性はあまり関係ないのかもしれない。まあ、もともと作家の性なんて、あまり指標にはならないものかもしれないしね。ティプトリーのような例もあるしね。そいえば、ぼくも、レズビアンものを書いたことがあったっけ。というか、一人称の女性として書いたものもあるしなあ。そいえば、蠅になって書いたこともあるし、同時にさまざまな人物(これまたイギリス出自のぬいぐるみキャラ含め)になって書いたこともある。性も、性的志向も、作品とは、あまり関係がないものかもしれない。


二〇一六年二月十六日 「ぼくの詩集がヤフオクで100円で売られていた!」


ぼくの詩集がヤフオクで100円で売られていた!

わっ。どなたか買つてくださつたみたい。ぼくには、お金が入らないけど、ありがたいことだとこころから思ふ。ありがたうございました。このやうに、ぼくの詩集がぜんぶ100円だつたらいいのだけれど。

きのう眠るまえに、ウッドハウスの『上の階の男』を読んだことになっている(栞でわかる)のだけれど、いま読み返したら、ぜんぜん憶えていなかったので、もう一度読んで寝る。また憶えてなかったら、あしたも読む(かな)。

きょうも暖房をつけて寝る。貧乏人がどんどん貧乏になっていく冬。はやく終わりなさい。


二〇一六年二月十七日 「確定申告」


確定申告に行ってきた。

塾の帰りに、ブックオフで2冊買ったけど、1冊は本棚にあったものだった。そうだよね。本をめくってみて読んだ記憶がなかったから買ったんだけど、ぼくが買わないわけはない本だった。岩波文庫の『ギリシア・ローマ名言集』記憶がないのは、ただ忘却しただけだったのだ。お風呂場で読み直して捨てる。

あと1冊は、これもむかし読んだかもしれないけれど、確実に本棚にはないことを知っている本だった。荒俣宏監修の『知識人99人の死に方』 ぼくもじきに死ぬことになると思うから、つい買ってしまった。一人目が手塚治虫で、60歳で胃がんで亡くなっていたのだった。有吉佐和子は享年53歳である。

痛み止めをのんで、お風呂に入ろう。『ギリシア・ローマ名言集』をもって入るけれど、読むのが怖い。読んだ記憶がないのが、とても怖い。

きょうジュンク堂に寄って、見つからなかったから、amazon で、注文した。『モーム語録 (岩波現代文庫)』

お湯をバスタブに入れるまえに鏡で自分の顔を見てびっくりした。真白である。目のしたに隈ができていて、ほとんどゾンビのような顔である。じきに死ぬどころか、とっくに死んでいる顔である。記憶力が低下していることも怖いけれど、顔のほうが、もっと怖い。


二〇一六年二月十八日 「バッド・ベッティング」


彼女の手のひらのサイズの
郵便切手
ゾーン
フィールド
ルルドの泉
そして
free
be
free
思いがけない
バッド・ベッティングで
ドライブ
「この近くに風呂屋ってないの?」
「いっしょに行く?
 ぼくもいまから行くところやから」
彼は
彼女とカーセックスするために
ぼくにきいたのだった。
彼女の手のひらのサイズの
郵便切手
ゾーン
フィールド
ルルドの泉
そして
free
「ぼく、この曲
 好きなんだよね。
 いいでしょ?」
大黒のマスターが苦笑い。
「はいはい。
 あっちゃんの好きな曲ね」
メガネの奥が笑ってないし、笑。
be
free
「これって
 スクリッティ・ポリティも歌ってなかったっけ?」
彼女の手のひらのサイズの
郵便切手
エナジーにみなぎる
カーセックス
ぼくは、彼が
彼女とカーセックスするって知らなかった。
「なんで同じシーンが繰り返されるの?」
大学でもそうだった。
友だちは
彼女のことよりも
ぼくのことのほうが好きだって
思い込んでた。
ゾーン
フィールド
ルルドの泉
そして
街は
思い出の
プレパラート
Mea Culpa


二〇一六年二月十九日 「あいつらのジャズ」


これからお風呂に。お風呂から上がったら、『20世紀イギリス短篇選』上巻のルーズリーフ作業をして、下巻を読む。

55歳という齢になって若さも美しさも健康も失ったのだけれど、そのおかげで、ぼくへの評価はただ作品の出来によるものだけであることがわかる。なんの権威もなく、後ろ盾となってくれるひともいないので、ただ才能のみによって、ぼくへの評価がなされる。あるいは評価などされないということである。

ルーズリーフ作業。楽しい苦しい作業。苦しい楽しい作業。日々の積み重ね。才能も、努力があってこそ発揮されるものなのである。

岩波文庫『20世紀イギリス短篇選』上巻に入っているハクスリーの「ジョコンダの微笑」は、創元推理文庫の『犯罪文革傑作選』では、タイトルが「モナ・リザの微笑」になっていたが、同じものだ。訳者が違って、翻訳の雰囲気がぜんぜん違う。創元のほうを先に読んでいたのだが、岩波のも軽くて好きだ。若い愛人の女が、38歳の男にむかって、「ねえ、小熊ちゃん」と何度も呼びかけるのが岩波のほうの訳で、なんともコミカルである。創元のほうの訳では「ねえ、テディー・ベア」と呼びかけるのだが、「ねえ、小熊ちゃん」と呼びかけられる太った男の姿の方がかわいい。いずれにしても、複数のアンソロジーに入るのだから、大したものだ。たしかに傑作だ。ぼくのこんど出した『全行引用詩・五部作・上巻』にも、引用した箇所がある。創元の龍口直太郎の訳の方だけど。岩波文庫を先に読んでたら、小野寺 健の訳の方を引用してたかもね。

時間とは、すなわち、ぼくのことであり、場所とは、すなわち、ぼくのことであり、出来事とは、すなわち、ぼくのことである。

本質的なものが失われることなどいっさいない。それが言葉の持つ霊性の一つだ。ぼくが描写した言葉のなかに、その描写した現実の本質がそっくりそのまま含まれているのだ。そうでなければ、ぼくが言葉にして描写することなどできるわけがないではないか。

ぼくは彼に惹かれた。彼がぼくに惹かれた様子はまったく見えなかった。

選ばれなかった言葉同士が結びついていく。選ばれなかった人間たちが互いに結びついていくように。

きょうもお風呂から上がったら、両肩、両肘にロキソプロフェンnaテープ100mgというシップをして、痛みどめにしている。3回か4回、自殺未遂したけど、死なずによかった。齢をとって、こんなに身体が痛いなんてことを知ることができてよかった。苦痛が、ぼくの知的な関心を増大させるからである。

齢をとって、身体がボロボロになって、苦痛に襲われて、こんなに愉快なことはない。この苦痛のなかで、ぼくは本を読み、笑い、考え、反省させられ、詩句のアイデアを得ることができるのである。おそらく、ぼくは、どのような苦痛のなかであっても、その苦痛をさえ糧とするだろう。詩を生きているのだ。いや、詩を生きているのではない。詩が生きているのだ。ぼくという人間の姿をして。

岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』上巻のルーズリーフ作業が終わったので、読書をする。岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』下巻である。楽しみである。

ジーン・リースの「あいつらのジャズ」よかった。不条理だと思うけれど、人生って不条理だらけだものね。納得。まあ、刑務所というところには入ったことはないけれど、描かれているようなものなのだろうなとは思う。イギリスで差別されてた有色人種の側から見たものだったけれど、訳がよかった。


二〇一六年二月二十日 「星の王子様チョコ」


夕方から日知庵に。それまで『モーム語録』でも読んでいよう。

いま帰った。竹上さんから、星の王子様のチョコレートをいただいた。包装もおしゃれだし(本のように出し入れできる)紙袋もおしゃれだった。やっぱり、かわいいものを、女子は知ってるんだな。

竹上さんにいただいた星の王子様チョコ、めっちゃ、おいしい。


二〇一六年二月二十一日 「こころの慰め」


きょうは一行も読んでいない。数学もまったくしていない。ただただ傷みに耐えて、横になっていた。こころを癒してくれたのは、SF小説の本のカヴァーの絵たちである。ぼくの部屋の本棚に飾ってある本は、安いものだと、300円くらいだ。高くても、文庫なら、せいぜい1000円くらいだ。ブコウスキーの単行本『町でいちばんの美女』と『ありきたりの狂気の物語』は、両方ブックオフで105円で買ったものだ。また、アンソロジーの『太陽破壊者』も105円だった。もちろん、値段ではないのだ。絵のセンスなのだ。写真のセンスなのだ。しかし、その多くのものが安かったものだ。おもしろい。ぼくは安い値段のものを見て、こころおだやかに、こころ安らかに生きている。ぼくのこころをおだやかにさせるのに、何万円も必要ではない。

神さまに、こころから感謝している。ぼくに老年を与えてくださり、身体をボロボロにして苦痛を与えてくださり(左手は茶碗を持っても傷みと麻痺でブルブルと小刻みに震えるのだ)、そうして、大切な大切な読書という貧乏な者にでも楽しめる楽しみを与えてくださって。

ぼくは絵描きになりたかった。でも、部屋の本棚に飾ってある美しい絵の一枚も、きっと描く才能はなかったと思う。神さまはそのかわりに、ぼくに絵を楽しむ才能を授けてくださった。ぼくには、『ふるさと遠く』『発狂した宇宙』『幼年期の終り』などの初版の絵がある。『空は船でいっぱい』『神鯨』『呪われた村』『ユービック』『世界のもうひとつの顔』『法王計画』『シティ5からの脱出』『窒素固定世界』『キャメロット最後の守護者』『ガラスの短剣』『縮みゆく人間』などの素晴らしい初版の絵がある。まことに幸福な老年である。


二〇一六年二月二十二日 「ノブユキ」


これから幾何の問題をつくる。きょうは一日中、数学だな。

きょうやるべきことがすべて終わったので、これから飲みに行く。

いま、きみやさんから帰った。おしゃべりしていて、とても楽しい方がいらっしゃった。三浦さんという方だった。また、同志社の先輩で、とてもかわいらしい方がいらっしゃった。年上の方でも、ごくたまに、かわいらしいと思える方がいらっしゃる。ごくごく、たまだから、ほんとにごく少ないのだけれど。

ほんとにいやしいんだと思う、本に対して。『Sudden Fiction』をブックオフで108円で見つけて、また買った。お風呂に入って、読もうという魂胆が丸見えである。お風呂に入りながら見るのに、ちょうどいいんだよね。また、ぼくの忘却力もすごいから、再読したくもなるわけだ。うにゃ〜。

人間には2種類しかいない。愛というものがあると思っているひとと、愛という観念があると思っているひとの。

ぼくが1年1カ月1週間1日1時間1分をどう過ごすかよりも、1年1カ月1週間1日1時間1分が、ぼくをどう過ごすかの方により興味がある。

きみの1分は、ぼくの1時間だった。きみの5分は、ぼくの1週間だった。きみの1時間は、ぼくの1か月だった。きみの1日は、ぼくの永遠だった。

愛が永遠だというのは嘘だと知った。永遠が愛だったのだ。

愛については何も知らない。ときには、何も知らないことが愛なのだ。

愛があると思って生きていると、そこらじゅうに愛が見つかる。愛というものがどんなものか、くわしく知らなくても、ともかく、愛というものが、そこらじゅうにあることはわかるようだ。

特別な名前というものがある。それは愛と深く結びついた言葉で、その名前を思い浮かべるだけで、胸が熱くなる。その熱で楽に呼吸することができないくらいに。

nobuyuki。歯磨き。紙飛行機。

きみは最高に素敵だった。もうこれ以上、きみのことを書くことは、ぼくにはできない。

2年のあいだ、付き合ってた。きみはアメリカに留学してたから、いっしょにいたのは数か月だったけど。なにもかもが輝いていた。その輝きはそのときだけのものだった。それでいいのだと、齢をとって悟った。そのときだけでよかったのだ。その輝きは。そのときだけのものだったから輝いていたのだ。


二〇一六年二月二十三日 「われわれはつねに間違っている。たとえ正しいときでさえも。」


岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』下巻を読んでいて、帰りに、エリザベス・テイラーの『蠅取紙』を読んでたら、これを読んだ記憶があったので、帰って、ほかのアンソロジーを見たけどなかったので、この岩波文庫自体で過去に読んでいたことを忘れていたようだ。まあ、いい作品だからいいのだけど。

先週、ひさしぶりに会った友だちが、横に太ったねと抜かすので、頬を思い切りひっぱたいてあげた。太ったって言われることは、べつにどうでもいいんだけど、たまにひとの顔面を思い切りひっぱたきたくなるのだ。みんなMの友だちを持つべきだと思う。すっきりするよ。

時間を経験する。
場所を経験する。
出来事を経験する。

逆転させてみよう。

経験を時間する。
経験を場所する。
経験を出来事する。

経験を時間するという言葉で
時間という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。
経験を場所するという言葉で
場所という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。
経験を出来事するという言葉で
出来事という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。

あるいは

経験が時間する。
経験が場所する。
経験が出来事する。

経験が時間するという言葉で
時間という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。
経験が場所するという言葉で
場所という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。
経験が出来事するという言葉で
出来事という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。

時間の強度。場所の強度。出来事の強度。
時間の存在確率。場所の存在確率。出来事の存在確率。
時間の濃度。場所の濃度。出来事の濃度。

この現在という、新しい過去である古い未来。

過去と未来が互いの周りをめぐってくるくると廻っている。
現在は、どこにも存在しない。
回転運動をさして現在と言っているが
それは完全な誤謬である。

われわれはつねに間違っている。
たとえ正しいときでさえも。

最後の2行は、ガレッティ教授の言い間違いの言葉の一部を逆転させたもの。


二〇一六年二月二十四日 「もっと厭な物語」


『20世紀イギリス短篇選』下巻、あと2篇。これが終わったら、『フランス短篇傑作選』を読もうと思う。これまた過去に読んだような気もするが、かまいはしない。読んだ記憶がないのだもの。さすがに、アポリネールの「オノレ・シュブラックの失踪」は、ほかのアンソロジーにも入ってて知ってるけど。

田中宏輔は80歳で亡くなります。亡くなる理由は暗殺です。
https://shindanmaker.com/263772

田中宏輔に関係がありすぎる言葉
「妄 想」
https://shindanmaker.com/602865

田中宏輔さんの3日後は、深夜1時頃、人通りの少ない場所を歩いていると、田中宏輔さんの性的欲求を満たしてくれる消防士に出会い、殴られるでしょう。
#3日後の運勢
https://shindanmaker.com/603086

塾の帰りに、ブックオフで、文春文庫『もっと厭な物語』を108円で買った。エドワード・ケアリーの作品のタイトルだけで笑けた。「私の仕事の邪魔をする隣人たちに関する報告書」というのだ。日本人作家が4人も入っているのが気に入らないが、外国人作家の方が多いから、まあ、いいか。表紙がグロくてよい。


二〇一六年二月二十五日 「戦時生活」


シェパードの『戦時生活』、まだ読み切れない。
こんなに時間のかかった小説ははじめてかもしれない。
実験的な手法も、きれがいいし
マジック・リアリズムそのものの表現もいいし
作品価値については
いっさい文句はないんだけど
読む時間がかかりすぎ〜。
文章を目で追うスピードと
ヴィジョンが見えるスピードに
差があって
とても時間がかかっている。
内容がシリアスすぎるのかなあ。
それとも
ぼくが齢をとったのか。
「心がつくりだすものを、精神がうち壊すことはできない」(小川 隆訳)
という言葉が、347ページ3,4行目に出てくる。
おびただしく、ぼくはマーキングして、メモを書いている。
そのため、もう1冊、ネット古書店で買った。


二〇一六年二月二十六日 「たしかに、ぼくはむかしからブサイクでした。」


たしかに、ぼくはむかしからブサイクでした。赤ん坊のときでさえ、そのブサイクさに母親があきれ果て、育児放棄をしたくらいですから。家には、ぼくのようなブサイクな赤ちゃんの面倒を見るような家族は一人もいませんでした。必然的に乳母となる女性を、親は雇ったのですが、その乳母の顔がまたブサイクで、ぼくは赤ん坊ながら、そのブサイクさにびっくりして、乳母がぼくの顔を見るたびに痙攣麻痺したそうです。ぼくのブサイクさと乳母のブサイクさを合わせると、カメラのレンズでさえすぐに割れたそうです。ですから、ぼくの赤ん坊のときのブサイクな写真は存在しておりません。伝説的な乳母のブサイクさは、ぼくが幼稚園に通う頃の記憶からすると、顔面しわだらけのお化けでした。幼稚園では、ぼくくらいのブサイクな子がほかにも一人いたので、そのブサイクな子と、いつもいっしょに遊んでいました。小学校、中学校と、そのブサイクな子とずっと同じ学校に通っていたのですが、高校にあがるときに、学力の違いから、別々になりました。でも、幸いなことに、ぼくが劣等な高校で上位になると、彼は優等な高校の下位になり、同じ大学で再会することができたのでした。しかし、世のなかには、変わった嗜好をしているひとたちがいて、ブサイクなぼくにも、ブサイクな彼にも、ブサイク専の彼女ができたのでした。ぼくの彼女も、彼の彼女もそこそこの美人でした。「あなたたちは、わたしたちのペットなのよ。」と、彼女たちに言われたことがありますが、まさしくペットの飼い主のように、ぼくたちにやさしく接してくれていました。大学を出て就職して、それぞれの彼女たちと結婚したのですが、ぼくの子どもも、彼の子どももとてもブサイクで、彼女たちの容姿を遺伝することはなかったようでした。でも、ぼくの子どもと、彼の子どもがとても仲がよくて、将来、結婚させようか、などと話したことがあるのですが、彼女たち二人ともが絶対にだめだわよと言うのでした。ブサイクならかまわないのよ、ブサイクの2乗は、もう人間ではなくってよ。と、二人の女性は同じことを言うのでした。ブサイクと、ブサイクの2乗に違いがあるのか、よくわからないのですが、ぼくも、彼も、女性陣にはかなわないので、ぼくたちの子ども同士の交際は、結婚にまで至らせることはできないものだと思っております。

ラクダが針の穴を通るのは難しいが、針の穴がラクダを通るのは難しくない。

ぼくは傑作しか書いたことがないから、傑作でない作品を書いているひとの気持ちは想像することしかできないけれど、よりよい作品ができたら、その作品以前の作品は、できたら、なかったことにしたいのではなかろうか。しかし、詩句や文章がそうなのだが、書いてきたものをなしにすることはできない。しかし、じっさいの生活のなかでは、こういうことはよくある。ある一言で、あるいは、ある一つの振る舞いで、その言葉を発した相手のことを、そのような振る舞いをした相手のことを、さいしょからいなかったことにするのである。じっさいの生活では、しじゅうとは言わないが、よくひとが、いなくなる。

岩波文庫の『フランス短篇傑作選』おもしろすぎ。イギリス人の意地の悪さも相当だけれど、フランス人の意地の悪さも負けてはいないな。意地の悪さというより、気持ち悪さかもしれない。きょうは、はやめにクスリをのんで寝る。痛みどめを入れると10錠である。わしは、クスリを食っておるのだろうか。

きのう、10年ぶりくらいに、うんこを垂れた。おならだと思って、ブッとしたら、うんこが出たのだった。すぐにトイレに駆け込んで、パンツを脱いで、クズ入れに捨てて、ビニールの口をふさいだのだ。もちろん、パンツを脱ぐまえにズボンを脱いだ。下半身丸出しだった。まあ、個室トイレのなかだけど。


二〇一六年二月二十七日 「柔道部の先輩」


以前に書いたかな。愛の2乗はわかるけど、愛の平方根はわからないって。

10年くらい前、京大生の男の子に、あまり考え方が拡げられなくてと言われて、「読むもの変えれば?」と答えたらびっくりしてたけど、そのびっくりの仕方にこちらのほうがびっくりした。読む本が変われば、見る映画が変われば、食べる食べものが変われば、ひとは簡単に変われるものだと思ってたから。

これから、むかし付き合ってた子とランチに。けっきょく、お弁当買って、部屋でいっしょに食べただけ。あとは、腰がだるいと言うので、腰をマッサージしてあげただけ。ぷにぷにした身体をさわるのは大好きなので、いいよいいよって言って、揉んであげた。高校時代の柔道部のかっこいい先輩にマッサージさせられたときのことが、ふと思い出された。


二〇一六年二月二十八日 「目が出てる。」


目が出てる。あごが出てる。おでこが出てる。おなかが出てる。指が出てる。足が出てる。

目が動いてる。あごが動いてる。おでこが動いてる。おなかが動いてる。指が動いてる。足が動いてる。


二〇一六年二月二十九日 「なにげない風景」


きみやさんに行くまえに、オーパのブックオフで、新潮文庫の『極短小説』というのを買った。108円。浅倉久志さんが選んだ極端に短い話(55字以内)が載っていて、ぼくがいま『詩の日めくり』で1行や2行の作品も書いてるけれど、なんかおもしろそうだと思って買った。オーパのブックオフの帰りに載ったエレベーターで、ボタンのそばにいた男の子がかわいいお尻をしていたので、ずっと見ていて、1階に降りたときに、「ありがとう」と言うと、ぼくの顔を見て、きょとんとしていた。


二〇一六年二月三十日 「点の、ゴボゴボ。」


病院には直属の上司はきませんでした。
きてくれたのは
今年の教育係のひとと
今年いっしょに入ったひとの二人だけです。
うれしかったです。
でも
ひとりは
教育係のひとですけど
最後のほう
時計をチラチラ見て
その病院の近くにある会社に
会社の用事があって
そのついでに寄っただけだと言ってました。
─それってもしかしたら、女性?
ええ
どうしてわかったんですか。
─だって、女のひとに多いじゃん。
 相手のこと、いい気持ちにさせといて
 あとで突き落とすの
 言わなくてもいいこと、へいきで口にできるんだよねえ
 そゆひとって
 いやあ
 いるいる
 いるわ〜
 前に
 西院の王将でさ
 スープをかき混ぜてた女の子の定員が
 鍋からね
 レンゲが出てきたんだけど
 そんなの口にしなきゃ
 客にはわからないのに
 声を張り上げてさ
 なんでレンゲが入ってるの
 なんて言うんだよね。
 それって
 客が食べ残したスープ
 もどしたってこと?
 って、ぼくなんか思っちゃって
 注文したのが定食だったんで
 出てきたスープ
 まったく飲まなかったよ
 なんちゅうバカだろね。
 きっと、バカは一生バカだよね。
 気分わるかったわ。


二〇一六年二月三十一日 「みつひろ(180センチ・125キロ。ノブユキ似のおデブさん)」


「三か月くらいになるよね、前に会ってから。」
「それぐらいかな。」
「ちゃんと付き合おうよ。」
「それはダメ。」
「どうして?」
「ほんとうになってしまうから。」
「彼女に悪いと思ってるんだ。」
「器用じゃないから。」
「もっと長い時間、いっしょにいたいんだけど。」
「ごめん。」
「35だっけ?」
「36になった。」
「何座?」
「しし座。」
「じゃあ、なってまだ2か月くらい?」
「うん。」
「胸毛、なかったっけ?」
「そってる。」
「なに、それ?」
「半年に一度くらい、そってる。」
そいえば、ノブユキも胸毛をそってた。
「彼女がそうしてって言うの?」
「・・・」
あんまり腹が立つから
一時間以上キッスしつづけて
口がきけないようにしてやった。


危篤

  あやめ

抜きとったら残りませんか、はらわたいがいの装置として、背泳ぎをしながらわたしは、空を、それは細密な
犬歯でかみちぎる、気がとおくなるほどのへだたりは欠陥ではないのだと、そうやって窓辺をささえる模造の花が、白から青へ、青から紫へ、かくじつに褪せていく、半透明の容器のなかで
みみたぶが雲の裾とせっしょくしたときの、かすかな破裂音、おおくを否定してきたことをおもたくかんじた、その、ひだり斜めうえを滑空する鳥の、水をはじくあかるい尾羽、それになれなかった、そこを押しひろげた
あまりにきれいな切断面は欲しいならあげます、と手わたされた風船のように、おぼつかない幼児のあしどり、針でつつくと破れますか、やはり、騒がれることなく押し流されて、用水路にはたいりょうの花びらが、朝にかぶせる白布のように


たなびいている
束ねた髪が、水をおおくふくんだ風にひっぱられて、おもたい、脳のなかをふく風は、やわらかで
錆びついた蛇口をひねる、鳥たちがいっせいに飛びたっていく、鈍いひかりを、それはたぶん、剥離、というものだったのだろうけれど、ふるいアルバムの写真のなか、人びととわたしが正面を向いて、なにかの装置のようにおさめられていた、あざやかな花畑を背景にして、まるで
果てしなくそそぎこまれている、そそぎこまれているという感覚も失うほどに、浮かぶことや沈むことばかりかんがえている、わたしの
こうなる以外になかった、空がゆらゆらと、色づいていくようすを眺めていた


無題

  zero

僕は生まれ変わりました、
生まれ変わりは一つ一つが音符のようで、
人生は生まれ変わりのメロディーが錯綜している大音響です、
僕は何か遠くの方に不穏なものが墜落する影を目撃しました、
社会が墜落してこの地球に文明が誕生しました、
歴史が墜落してこの地球に時間が誕生しました、
文学が墜落してこの地球に感情が誕生しました、
僕は永遠に苦しむ者、
永遠が瞬間を宿すことを苦しむ者、
森羅万象の苦しみを包蔵した苦しみをさらに苦しむ、
社会というものは人間とは複雑に異なった愛憎の対象となり、
無数の人たちの顔が集合して超越した無名の巨大な顔を持っています、
僕の庭には雪が降り陽射しが乱れました、
そして虫が言葉を運び鳥が意味を伝えました、
僕は庭を広げてはたたんで、
自分の庭がうまく敷ける整った土地を探したのです、
僕の庭は生まれ変わりました、
それまで自然の洗練するがままに広げておいたのですが、
いつのまにか種や苗が植えられ、
未来と終末とが親戚同士のように肩を組んで、
色濃く影を落とし影は種や苗に吸収されました、
僕の庭は風雨の被害を受けそれに耐えるだけの風景ではなくなった、
風雨を糧として花や作物を育てていく架空の庭、
この世ではだれ一人助けてくれない、
この事実は層状に連なる複雑な化合物、
最終的に頼れるのは自分一人、
いつまでも硬直した鉱物性の根拠のようなもの、
迫害、磔刑、火あぶり、魔女狩り、スケープゴート、
人間の永続的に狂っている部分が獣のように欲望してやまないこと、
人生は獣だ、社会は蛇だ、
荒れ狂う衝動と狡猾な計略とそのすぐ裏側に貼りついた愛と、
そこから僕は生まれ変わったのです、
同じような思考のパターンを繰り返しながら、
いつの間にかそのパターンがより繊細かつ優美に変化している、
僕ら進化するミニアチュール、
束ねた花束の数は必ず刻まれてある、
打ち捨てていけ、最も貴重なものから順に、
僕は生まれ変わっていたのです、
僕は生まれ変わることを強いられたのです、
僕は好んで生まれ変わったのです、
内容も理由もいらない、
ただそこに裂け目を超えた跳躍の軌跡だけが残っている、


暗い桜は錯乱し咲く裂く昨夜未明っ明るい桜が散る春の歌

  泥棒




「こじらせて、春。」

あの人は
常日頃から
異世界で生きていたような人だから
風に耳をすませては
あらゆる種類の
出会いや
色彩や香りとか
今も感じながら
どこかで生きているのかもね
いや、
生きている。
そう、
世界にあふれる
誰かの言葉を引用して
それが栄養になって
また来年も
桜が咲いてしまうから
もう今年で
終わりにしよう
本当は誰も見ていないんだ
10月頃の桜の樹
それと同じだよ
僕の理想が崩れる時
その時
その音は
桜が散るより
繊細な音であってほしい
誰が耳をすませても
聞こえないくらい
僕は
何の栄養にもなりたくないよ
目を閉じても
一切
何も浮かばない情景。
そう、
優しい言葉が
いつも僕を傷つけてきた
確実に
僕の中心を傷つけてきたんだよ
ほら、
優しい言葉から順番に
死んで栄養になっていくなら
僕は
いつまでも死なないよ
来年も桜を見て
他人事のように崩れる様を
僕自身に重ねて
きっと
いつかは死ぬのだろうけれど
春。
こじらせて、
僕は中心から死んでいく



「ちんぽ大爆発」

綾子ちゃん離婚したんだって。先週の火曜日。そ、夜遅くに電話あっ
て。綾子ちゃん、泣きながら(旦那とはもう終わりって、めっさ泣きな
がら電話あって。でね、とりあえずファミレスへ行ったの。綾子ちゃ
んに呼ばれてさ、朝までずっと話し聞いてたの。別れた理由。ま、そ
りゃね、夫婦の間にはさ、ま、そりゃね、いろいろあるでしょ。原因
はさ、ひとつじゃないみたいだし。そ、綾子ちゃんもさ、自分にも悪
いところはあったって、そう言ってたけどさ。ま、とにかくさ、私は
聞き役。朝までずっと話し聞いていたの。でね、どうやら、旦那。仕
事辞めてさ、またバンドやるんだって。バンド。しかも激しい系?私
さ、音楽とかよくわかんないけど、パンクとか、そういうのやるみた
いよ。でもさ、旦那、38でしょ?38だったよね?確か。バンドや
るのは別にいいんだけどさ、仕事辞めてまでするか?しかも38でパ
ンクはないだろパンクは。もっと、こうさ、静かなのやれよって。ア
ンビエントなさ。ちゃんと仕事やりながらさ。え?いやいや、もちろ
ん、そんな余計なこと、綾子ちゃんには言ってないよ。私はとにかく
黙って聞き役。うんうんって。朝まで頷いていただけ。基本、私は喋
ってなくてさ。でさ、綾子ちゃんもさ、いっぱい喋っていっぱい泣い
て、だんだんおちついてきてさ、(今度またみんなでのもうよって、ち
ょっとだけ笑顔になったからさ、朝7時頃にファミレス出て、ほら、
駅の向こう側の土手、桜満開じゃん?今。でね、綾子ちゃんと二人で
コンビニで缶ビール買ってさ、花見したの。平日の昼間っから。アラ
サー二人。もうさ、バカな女子大生ですよ。気分だけは女子大生です
よ。でね、ところで旦那のバンド、どんなバンド名なの?って聞いた
らさ、綾子ちゃん、めっさ小さい声で、

(ち、ちんぽ大爆発、

って。そう言ったの。私さ、(おいおい、お前の旦那マジかよ!って、
全力でツッコんだのね。めっさ大声で。満開の桜の木の下で。ほら、
夜から朝まで、私さ、ずっと黙ってたから、自分でもびっくりする
くらいの大声がでてさ。そしたらさ、桜、すこし散ったよね。私の
声で。いや、本当だって、この話し、盛ってないからね、


岐路

  にねこ


草を噛んだ苦い汁が頬を染めてわたしの緑に変わる。解った嬰児たちの微笑みと空の移り変わり。頬を撫でるのは皺だれた手の温もりとくすんだ紫。
紫蘇を揉んだ手は人を殺した手に似ていて、祖母の首を締める手拭の縞はかつて流れた雲の形にも似ていて。
飛び立ったのは蝶でしたか、蝶にはなんと名をつけましたか。
昔ながらの呼びかけに答えられる口は羽化して、抱卵前の柔らかさにドキドキします。
わたしの歯は苦い葉の汁に染まりその歌声に添います。そっと。
それは母が告げてくれた弔問歌にも似ていて。
飛蝗が跳ぶ。
紫からキレイに分離された澄んだ青と濁った赤の脈拍は薄い、白い薄い皮膚に丁寧な水路を穿ちました。
だしぬけに背骨から青空にかけて、
この季節は美しい季節です
仰るとおりですね、風の行路がほらくっきりと見えるようで、たくさんの歯、が笛を吹きます。
うるやかな吐息。
先っぽだけ泥濘んで、頬杖をついた記憶の中に肘が破れているのではありませんか。あなたは眼鏡を直して、ずっと前を見続けていました。ほころんだ私達の空気に飛蝗が斜線を引いて、とんとんと巻きました。きっと良い繕い物が出来るのでしょうから。
凸型レンズの向こうに焼け焦げた麦がみえ、
染むように整えられていった、母の髪には
ほら、焼け焦げるような雨が、止むことをしりません。
袖の直しが終わらないままにうめつくされた冷気が花咲いてとてもなめらかに沈んでいました。
あなたは静かに涙ぐんでいるようでしたが、絞られた朝露でもありました。梅干しの壺は重いからと、ためらわれた一口に面白いように歪んだ歯と、影が飴玉と一緒にポッケからこぼれ落ちていきます。
遠くを見たいものです。ただしい風景の沈む泡泡のなかで、
同じ質量に閉じ込められた窓際のコップに
わからないまま揃えられた前髪は戦ぎ
浮かんでは消え、浮かんでは消え
草を編んだ苦い汁が手から溢れて、そうしたら黄色い帽子を被ってあなたはそこの角を曲がり
見えなくなってしまうでしょう。
見えなくなって、飛蝗が跳んだ。
つまむ手の形をそのままで。


死活

  飯沼ふるい

葉桜の並木道を一台の霊柩車が行進していくのは
28℃
「にじゅうはちどしー」
と、略さずに呼びたい一日
の真白い光
噛み砕くと
腐った果実のにおいが広がる





額から垂れる汗の微温さや性器の湿り気がどうしようもなく不快だった。このまま町の風景に鈍く固着していく予感が、僕を解放してくれる誰かを求めずにはいられなくさせた。密林のように舌を絡ませあい、じゅくじゅくと沸騰しては冷えて固まる死という堆積物をお互いの肺胞におさめあう誰か。そんな血みどろの想念を、丁重に運ばれていく骸へ注ぐ視線の裏で患いながら、誰にも悟られないよう親指をそっと掌へしまった。

誰もいないのに。





着信音で意識を取り戻す。まどろみから抜け出しきれぬままに通話ボタンを押して「はい?」と寝ぼけた調子を隠しもせずに相手を問う。

スピーカーの向こうから「きみ」の葬儀の日取りを伝えてくるのは昔付き合っていた女だ。
女の、重力そのもののような重たくのっそりした声に押し潰されて瞼を開くこともままならない。手探りで卓袱台に置いたはずのライターと煙草を取る。ライターを摩擦する音をマイクが拾いあげたか、嫌煙家の女は黙りこんだ。
煙草を肺の奥深くへ充填させる。眩暈を感じるまで息を止める。吐く。ねばついた口腔から漏れ出る煙は電灯の紐に絡まりもつれながら消えていく。こめかみが脈打っている。

どくどく、どくどくと。

死ぬのはいつだって僕ではない。ざらついたライターの歯車を親指でこすりつづけていたら火がつかなくなってしまった。

二週間洗っていない寝間着には煙草の脂と寝汗がたっぷりと染みているはずだが、それすらももうわからないほどに身体と馴染んでしまっている。その身なりのままサンダルに足を突っ掛け、99年式のパジェロミニに乗り込んだ。





入道雲が膨れ上がっている
そのしたでくすぶる初夏
空の密度は息苦しい
(ガラスを幾重にも重ねたように
(透明だが、透き通ってもいない






  背中に、
  背中に、舌を這わせた
  脊椎の窪みへ舌をぴたりと合わせ
  丹念に
  丹念に
  舐めた
  「きみ」の身体から滲んだ皮脂は
    とにかく苦かった
  執拗に吸われた「きみ」の肌には
  紅い斑点が浮かんだ
  僕の舌が舐めた跡は
  蛞蝓の這いずった道筋のように光っていた
  どんなに「きみ」を汚しても
  「きみ」は微笑むだけで
  僕を許した


     夏の陽射しに顔をしかめながら
     腐りかけの桃を握る
     いつかの祖父
     枯れ節のような指に
     濁った果汁が媚びるように絡んで汚かった


    牡丹雪は
    降っていたか

  菜の花は
  揺れていたか

   合唱コンクールの
   課題曲を
   思い出せない

  川に投げた
  地蔵の頭は
  見つかったのか


 あぁ、なにか、そう、今は
 今(であったこと)に蝕まれているらしい

たしかなのは
霊柩車は空を辿って行ったこと
(油彩画のような重たく厚い青空を
(成層圏まで沸き上がる陽炎にのって

 28℃
 「にじゅうはちどしー」
 と、略さずに呼びたい一日に
 28℃
 「にじゅうはちどしー」
 と、略さずに呼びたい一日に
 まぎれもなく、そこには


入道ぐも






        入どうぐもも



  28℃
  
  28℃
  「にじゅうはちどしー」
 と、


           にゅうどうぐももも 

  略さず呼びたい一日の
 屁
           ぐももも

  28℃
   「にじゅうはちどしー」
   と、略さず呼びたい一日は

   略さず呼び、呼びたい一日は
  28℃
  「にじゅうはちどしー」
  「にじゅうはち
    と、略さず
  「にじゅ「にじゅはち「にじゅはちど「にじゅはちどしと、略、略さず呼びたい
  呼び爆撃と、屁がぐももも
 がぐもももも
  「にじゅうはちどちちちちちちちち」
  にゅうどょうぐももももももも
 ここにきて
  びちょびちょの
  28℃
  「にじゅうはちどしー」
  と、略さず呼びたい
 と、煮えている僕のなかから
  霊柩車、空になってーー


歩道を歩く女の子のスカートが短い





女が言うには車はおもむろに路肩へ突っ込んでいったらしい。
飛び散った「きみ」のどこかの指のひとつは天を指すように突っ立ち、まるでアスファルトから勃起したぺニスのようだったという。

女は僕が「きみ」の指で犯される夢で夢精したことを知っているに違いない。





コンビニの冷房は汗ばむ体に辛くあたる。
ライターと香典袋を購うと、それだけで一日の予定が終わってしまった。アイスもいちど手に取ったが、なにか不謹慎な気がしてもとの場所に戻した。
ギンギンの陽射しを刑事ドラマの主役でも演じるように睨み返して車に乗り込む。
来た道をそのまま逆に走っていると、フロントガラス右上端にぼやけた染みが浮いているのに気がついた。
手を伸ばして拭こうとするとそれは汚れなどではなくて、目の前を覆うガラスなんかより遥か彼方の青空で溶けかかっている月だった。
精液を全身に浴びたような白ーー。そんな喩えが頭に浮かぶと、恐ろしくなった。今ここに僕がいることが恐ろしくなった。

女の子をまた見かけた。女の子は女の特徴をやおらに主張する格好をしている割に化粧もしておらず、幼い面立ちをしていた。本当に幼いのかもしれなかった。女の子に乱暴すれば気も紛れるかと思ったが実行できる訳もないので想像の内に留めた。その想像をも振りきるようにアクセルを踏み込んだ。
バックミラーを覗くと女の子は気のない顔で、けたたましい音を散らす割にのんびりとした速度で逃げていく僕の背中を眺めていた。





生まれたての姿の僕は野グソするようにしゃがみこみ、アスファルトに融着した「きみ」の指を尻の穴にねじこんでいく。
体を上下に揺らすたび、手入れの行き届いた爪が僕の内側を引っ掻くから気持ちよさなど微塵もない。それでもあの出所の分からない恐ろしさから逃れるように、執拗に「きみ」の指とまぐわう。「きみ」の指を尻の口で豚のようにむしゃぶりながら、喘ぐ。喘ぐたびに還っていく。祖父のいやらしい手を見て目を背けたあの頃へ。精液を知らなかったあの頃へ。





いつかの祖父は、幼い僕のイチモツをしごくことで愛を教えた。僕を取り繕う魂とか精神とかいう類のものは、脳髄から脊椎へ雪崩れこむ、抗うことのできない激流に飲み込まれ、あの濁った果汁となって祖父のもとへ放たれた。祖父の愛に体が応え、おぞましい快感と底知れぬ悲しみが残った。
そして理性が、自分の中身は腐っているのだという理解を引き連れて帰ってきた。息もきれぎれに、こんなものを吹き出してしまう自分のことを、どれほどの汚物であるか責めたてた。密室で、河川敷で、公園で、銭湯で、体をがくがくと震わせて濁った果汁を放つときの、暗い目の僕を、祖父はいつも恍惚と眺めていた。愛のために命の純度は落とされていった。

それから10と余年経った頃に付き合っていた嫌煙家の女は、クンニリングスの恥ずかしさが好きだと言った。僕はそんな自分の様を鏡で鑑賞すればいいと提案し、ベッドの脇に持ってきたスタンドミラーに向かい合わせて股をひらかせた。祖父のいやに優しい手を迎え入れるかつての自分の姿が重なった。いびつに窪んだ性器へかしずくように顔を埋めた。熟れすぎて爛れたあけびのような窪みからは、やはり腐った臭いが広がる。人は生きながら腐っていく。腐るところがなくなると人は死ぬ。僕の舌が女の腐敗をさらに酷いものにさせた。女はひどく恥ずかしがった。つまり悦んでいたのだが、僕は吐き気がするほど女を軽蔑した。腐っていくことが悦びとは。しかし僕にとって、軽蔑は愛と同義であるのも事実だった。





そしてただ微笑みの印象を残して大破した「きみ」とはいったい誰であったのか。





喘ぐ。喘ぎながら僕は穴という穴から汁を垂らす。汗も涙も鼻水も腸液も、こぞって僕を汚くしてくれる。ブラブラ揺れるイチモツを握り、唯一まだ汁を垂らしていないその最涯の穴から、僕の髄まで絞り出そうとする。祖父はとうとう僕の尻穴に指の味見をさせずに逝った。外で小便を垂れるのと同じ種類の心地好さや幸福な感じにまみれている。武者震い。イチモツと陰嚢の狭間が震えはじめる。

ひくひく、ひくひくと。

もういい
飛び出していけ
なにもかも失ってしまったのだ
なにもかも失ってしまえ
「きみ」という
一過性の無間
引きずり抜かれていく
「さんじゅうろくどごぶ」の体温
頭のなかも真っ白に
込み上げてくる嗚咽
真昼の月はぼろぼろと崩れ
失いかけた我が名を取り戻すように
「きみ」の名を絶叫する

「きみ」の名を絶叫する


敢えて彼に名前を付けるのはどうだろう

  5or6

公園に先生と爆弾はいらない
導火線に水をあげると砂場に新芽が生えるから
摘み潰すから座りなさい
学生たちの色が熱帯夜に染まる
混ざること火の如し
右足をだして右手でビンタ
左足をだして右手でビンタ
集団で大学に行くためにビンタ
行かないとビンタ
いかなければビンタ
三段活用ビンタ
浮浪者を蹴り飛ばしていた学生たちをビンタ
変な呼吸が聞こえ始めたからビンタ
今でしょビンタ
いぃぃぃまぁぁぁでぇぇぇしょビンタ
いむぅぅぉぁぁああどぅぇしぅぅゅぅおおおお
で笑わなかったからビンタ
遅刻寸前で助かったなと先生は優しくビンタ
それな、親が言うなよとビンタ
冷ややかに無視しながらビンタ
左手でペンを回して右手でビンタ
質問を受け付けるぞビンタ
アイポット聴きながらビンタ
空気読めよビンタ
薄ら笑いの顔をして全員並べビンタ
これあれでしょ?死刑執行官のパロディーでしょ?と言った奴は握手
それ以外はビンタ

張り裂けるような音!音!弟!
弟?
兄さん!
おお、貴様は腹違いの弟!
兄さん、訴えられますよ。
それは受け入れる所存ぞ!

ナトリウム光が血色の悪い肌を赤く写し
きつく締めたネクタイを緩める指先がもう一人の浮浪者に向けられるために前へと動いた
ゆっくりと
人差し指が伸びる

あれは果てだ。

向けられた指先の先にある男はただ布団に包まり
ダンボールの壁に守られたATフィールドで眠っていた。

嘘寝だね

そう呟くと男はビクッと動いたがもう誰もその事には触れずに教室に帰って行った。


眠れる宮崎さん

  kaz.

犬たちが今朝を踏み荒らして
僕は足跡の上の
潰れた学校へと
忙しく歩く

明日は早いから寝なさい、
僕のシーツで発火して
朝になっても残っている、宮崎さんの
差し向けた犬たちが遠吠えし、
足跡に沈んだ学校では
授業開始を告げる

宮崎さんは
靴の泥を原稿に包み込み
窓の向こうに投げ捨て
校庭の砂の上にたゆたわせ、

昨日触れた雨に
明日も触れるのですか、
ええ、明日の洪水確率は
百パーセントです、
克明に描かれた影たちの、
鼓動、ざわ、つき、
なので明日の学校はありません、と
宣告すると
雷が落ち、
身体はさめ、夢はさめ、
もう二度と戻っては来ない

またいくらでも眠りたいときが来たら、
寝ても構わない、
だから授業を受けて欲しい、と
宮崎さんが、僕の肩を
やさしく叩いているうちに、

校庭の砂の上に
僕の新しい原稿は
折り畳まれてだまし船になり、
道中、
握り締めたセイルは
舳先に変わり、
溺れ死にそうになったところで
目がさめ、濡れてさめ、

家のベッドに送還されると
雨の日の犬たちが横たわり
朝食のにおいが
窓に滲んでいる


ドレスコードを闊歩する巨鳥の為の広告塔

  鷹枕可

嵐を呼吸する曇窓に
水滴を溶闇を吸う試薬試験紙が赤黒く偏移し
血塊の禽達は
各々の多翼風車塔に砕け散った
尊厳を謳う革命家はやはり自己の尊厳死から遁れ得ない
私書箱と云う居留地を逸し
閲覧者勿き
種々の幽霊実験室の
古典物理学的現象は橄欖の歌よりも
現実に於ける放縦な奇跡を偏重し
見よ、
始祖の数奇ならぬ浮薄
流亡の一群は
地球黎明の熔鉱炉より受胎された骨格の終極である

抑留者の遺骸は
紙幣の花よりも
増幅し積層する罪科を誇張する
窮めて相似をする露悪の執行人
そして楕円鏡の代理人
籾殻の言葉が
人物像の起源以後を縁取る
機械時計が真鍮修飾からなる供物であるならば
旱魃の季節は悪辣であるが如くに
飢餓の市外地を静かに静物の死へと画き続けた

斜塔を呑む影
穹窿に聯続する卵殻
掌握の瑕疵を受け
地下隧道の白熱電球は釣鐘草の結露
雪花石膏を開く納骨室の精緻、潔白は
盲人に
恢癒無き時間を刻一刻と宣告し
昏迷を鳴り亙る受話器には独身者の濁声が渦巻き
睡眠者の晩年は
純粋なる悪趣味としての記述を諾うだろう

酸い芍薬
そして
深海を驕り綻ぶ百合を以て
積乱する蜘蛛の雲窓を採取せんとする
博物学者がつぶさにも観察鏡を宛がう瞭然の門は
且て衰亡を逸り馳せた競翔鳩の書簡に
殲滅爾後の霰の干潟と
鳥篭と乾燥花の断絶を
まるで幼時洗礼への復讐者の様に嵌め殺した

想像の死と存続の血が総て均しくなり
引力圏を慣性運動をする鉛球には
一把の誤謬としての薔薇の指が
死後生の虚飾と苦い死の行進を記帖していた

各々の命運を硬く憶えよ

それらは瞬間と永続を分ち隔絶する鏡像であり
間歇的な叫喚は
人体機関と咽喉を響き亙る
鍾乳窟修道院の容貌勿き修道尼の白昼夢でしかないだろう
電気機関と磁気嵐、
自働の機械
死に追随する幾多の暴風よ
悲願の拠地へと帆立殻を吊るし
越境せよ


フェノ−ルフタレイン

  fiorina




  −この試験管のなかの透明な液体が
   アルカリ性であることを証明せよ−

   試験管に
   一滴のフェノールフタレインを落とす
   液体が桃色に変わると
   アルカリ性は証明される


理科の時間に指名され
試験管の液体を
フェノールフタレインの瓶のなかに
誤って落とした
あっ と先生が叫んだとき
ひと瓶のフェノールフタレインは
桃色に変わった
小さな過失
(実験は成功)
見守るクラスメートの瞳に
アルカリ性は鮮やかに証明され
わたしの記憶に
取り返しがつかない ということの実感が
せつなく刻まれた

   *

「そのとき きみは
幼い手で
きみ自身を証明したんだ
千回試みることのできる量を
一回で使い果たす
小さな過失のふりをしてね」
笑った後で
「瓶のなかの未来をたいせつに」
預言者のまなざしを 残して去った
(さよなら わたしのフェノールフタレイン)


過失が証明したもの


この血のなかに
身を傾けて
未来という瓶に躍り込もうとする
衝動の一滴がある
千回試みることのできる愛だって
一夜で使い切る
心細い一滴がある
その一滴のなかから
なつかしい声が聞こえる

「瓶のなかの未来をたいせつに きみ自身を」

   *

ゆうべ
空いっぱいのフェノールフタレインが
桃色に変わった夢を見た
冒されていく草原を
もう逃げられないふたつの心が
空の色に染まりながら 滅びた


誰かが
何かを証明しようとしたのか
過失のふりをして


泣いて目覚めると
ガラス戸の向こう
透明な朝が置かれていた
新しい 無数のあやまちのために


shima

  シロ

とある島があった
波は泡とともに、幾何学的に浸食された岸に打ちつけている
海水特有の生臭い香りが岸に漂っていた

かつて子らの声や、はしゃぎまわる喧噪も見られたが
今では数十人残るのみである
朽ち果てた小さな公園には錆臭い遊具がわずかに残り、寂寥を演じている
夕暮れの残照の中をカラスが蚯蚓を捕りに降りてくる
島民の吐いた溜息が鬱陶しく土に張り付いている


荒れた天候が幾日か続き、島そのものが何かにおびえるように彷徨し
島民たちは乾いた皮膚を震わせながら、長い悪天をやり過ごした
嵐はやがて緩み始め、息をひそめていた多くの生き物たちは
少しづつ手探りをするかのように這い出してきていた
島はふたたび、生き物たちの活動が始まった

島に十年ぶりに新しい島民が来るらしい
そう島主が伝えた日は、薄曇りの続く、秋の日だった
わずかな世帯の寄り集まりのなかに、一人の大きな体躯をした青年があらわれた
少しだけひげを蓄え、大きな荷物を背中に背負いこみ
それをおろすでもなく、奇妙な挨拶をし始めた
何を言っているのか、島民は呆然と死んだような目でそれを眺めていた
島民の顔は皺で、本来どのような顔をしていたのかわからぬほど憔悴し、老化していた
すでに、表情を変える筋肉さえも退化し
ひたすら重力に身を任せ、弛んだ皮膚が皺のひとすじを微かに動かしていた

不思議な光景だった
論じ、説得するでもなく、青年はまるで独り言のように
ただ大きい声を出すでもなく、とつとつとわかりやすく話をしている
もちろん、身振り手振りを加えることなく、手を前に組み、少し腹部に持ち上げている

病に限らず、あらゆる負の状態
これらの現象は一つの負の生命体を形成し、それぞれが社会性を保つようになる
呪詛のような負の言葉を摂取し、さらにコロニーを拡大させてゆく
そしてこれら負の生命体は空間をつたい、あらゆる無機物をも侵し
やがてこの島全体がそれに侵されることになってしまう
今後、負の言葉を発してはならない
すでに各各に営巣し始めた負の生命体は栄養となる負の言葉を求めている
それに少なくとも栄養を与えてはならない
青年は手を前に組み、島民たちの前で語った

やがて集落のはずれの木立に煙が上がり始めた
湾曲した根曲がりの木を六本立て棟とし
その間に筋交いを加えただけの炭焼き小屋のような建物であった
中には薪ストーブが置かれ、突き出たブリキ製の煙突から白い煙が出ている
入口らしい場所に、手書きで書かれた「ご自由にお入りください」との文字

青年の所作はひたすら淡々としたものだった
早朝に起床し、岬に出ては遠い海を前に祈りをささげることから始まる
一心不乱というわけでもなく、むしろ事務的な呟きのようでもあった
一旦岸辺に下り、波の押し寄せる高い場所から排便を済ませ
その近くの海水に浸かり体や歯を磨く
排便に寄ってくる魚たちを釣り上げて小屋に持ち帰り火をおこす
大きな木を縦割にした粗末なまな板で魚を三枚に下ろし、網の上であぶる
となりには鍋が置かれ、生米と水を混ぜたものが沸騰しはじめている
起床から二時間、ようやく青年はあふあふと粥と炙った魚で朝飯を食うことができるのだ
青年は思考しなかった、思考よりも行動した、言葉を発した
ただただ時間のために生き、時間を消化するために行動し
そして疲れては眠る、その生活をひたすら継続した

島民たちは青年の所作を不思議なまなざしで見るようになり、次第に指を差すようになった
青年は起きると大地にキスをした
ありがとう大地よ
そういうと唇に付いた土を舌で舐め取り飲み込んだ
歩きながら足もとに伸びた雑草に言葉を投げかける
やぁ、おはよう、昨日はよく眠れたかい
大木に手のひらをあて、頬ずりをする

青年が昼休みをし、まどろんでいると島でたった一人の少年が訪ねてきた
おにいさんはとても不思議がられているよ
そういうと体育座りをしながらうつむいてしまった
青年は言った
ぼくは全然不思議なんかじゃないんだ
ただ、思ったことを口にし、思ったことをしているだけなんだよ
君もこんどそうしてごらん

少年は少年でありながらすでに老いていた
薄日が差すといっそう少年の髪は白く目立ち、頸の皮は重力に逆らうことなく垂れていた
瞳は濁り、ぼんやりと遠くを見つめるようであった
風はどこから吹いてくるの
しわがれてはいるが、まだ変声していない幼い声で尋ねる
青年は、少年の視点のそのまた向こうを見つめつぶやくように言った
風はすべてを一掃する、風の根源はあらゆる滞りが蓄積し、次第に熱を帯びてくる
でも、うつむきの中から風は生まれない
なにかをし、言葉にする
そこから気流が発生し、風が生まれる
それが風だ、風は吹くべくして吹いているし、風の命を感ずればいい
そのことばを聞いた時、少年の瞳の奥から一筋のひかりが煌めくのを青年は見た

少年はその後、青年の家を一日に一度は訪問し、一緒に食料を求めて海に行ったり
森に入り木の実や果実を採ったりした
喜々とした感情は次第に少年の老いた細胞を死滅させ、新しい細胞が体を満たし始めた
しわがれた少年の声は、野鳥のさえずりとハーモニーを奏で
朝露のようなみずみずしさを花々に与えた
青年の小屋からは紫色のたおやかな煙が上がり、香ばしい食事のにおいが漂った

青年は、島の人々を集め提案した
それぞれの墓を作ろうという
声にもならない、奇怪な罵声が飛び交う中、青年は穏やかに言った
人の死は、すべてが失われ、意思も失われ、やがて別世界へと旅立って行く
私たちは今生きている、がしかし、魂はしなだれ、生を豊かに感じることがない
すべて負という巨大な悪夢に支配されている
それを静かに、決別できるように埋葬しようではありませんか

夕刻、島のはずれの平地に泣きそうな曇り空があった
島民たちは、それぞれにシャベルを持ち、穴を掘り始めた
ぽっかりと開いたその穴に、様々の負を落とし込むよう、念じている
それは石塊となって、橙色に発光しはじめた
熱く、熱し始めたその石に土をかぶせ、ギシギシと踏みつけ、銘々が墓碑銘を打ち立てる
同時に空は雷鳴を轟かせ、激しい雨が降り始めた
しかし、土の中の石は熱く、さらに橙色を強め
やがて闇のような雨の中、激しくそれぞれの墓から炎が上がり始めた
島民は、立ちすくんでいた、重くくすんだものが今燃えている
激しく降る雨は、島民を濡らした
頭の頭皮を雨脚がなぞり、やがて指先や股をとおり、足の袂から落下していく
どれだけの雨にも石は光り、燃え続け、やがて雨はあがった
激しい雨によって、墓はかすかに隆起するのみで、平坦な土に戻っていた

雨が上がったと同時に、海鳥は回遊をはじめ
島民たちは互いの目を見ていた


とおる

  fiorina



とおるの祖母は 大連のおかる
村でおかるばあさんと呼ばれた日
昔日の面影双眸にひそめ
巾着のような口もとを文句ありげにとがらせて
ぜんそくの激しい発作の間も
長キセルを手放さなかった

大連を引き上げ
縁組した養子に嫁を迎え
とおるが生まれた

とおるは
あおい形のいい頭と
澄んだ眼をしていた
小児麻痺で
片足をしゃくるように引きずって歩いた

村の外海に砂利船がきて
クレーンで作業した日
子どもと 守りをする年寄りが
防波堤で見物した

突如
鶏の鳴くような絶叫がこだました
とおるが海に落ちたのだ


わたしは
海に落ちたとおるも
その救いあげられた様子も見ていない
ただ
島を背景にしてクレーンの黒い腕を斜めに突き出した砂利船と
なにかを烈しく呪いながら
防波堤を端から端まで狂ったように走る
おかるばあさんの姿と声を
記憶しているばかりだ

おかるばあさんはとうに逝き
四国の大学に学んでいたとおるが
海に落ちて死んだ
自慢の愛車で自分から落ちていったのだと


とおるの祖母は
大連のおかる
とおるは
あおい形のいい頭と
澄んだ眼をしていた


鳥は鳥、君は君、だから君は絶対に飛べない。

  泥棒




鳥は鳥、


ビルの屋上から飛んで
すぐっ
鳥は改行をはじめる。
交差点には
急ぐ人が
必ずひとりはいるから
この散文的な交差点の信号は
いつも
うすいうすい赤、
すぐっ
家には着かないようにと
立ち止まれと
夕焼けは命令する。
そのために
夕焼けは赤いのだと知る。
街にある比喩なんて
気にしなければいいのに
ひとつひとつ丁寧に拾い集めた後
公園で
すぐっ
鳥にばら撒く時
ぜんぶわかる。
飛べないという事実が
いつも
勇気みたいなものをくれた
想像したら
すぐっ
世界は半分になる。
そして
折りたたまれ
羽根のように折りたたまれ
世界がひとつになる時
ぜんぶわかる。
物語は
いつも僕の目の前で改行されてきた
たとえば花を
よりきれいに見せるために
でも本当は
花なんて咲いてはいなかった
世界に
今まで一度も
花は
咲いたことなんてなかった
誰もわからない物語の中
その中だけで
花は咲いていた
その事実っ
その事実だけが素晴らしい、
右に咲く花
左に咲く花
どこが似ているのか
すぐっ
ぜんぶわかる。
わかったら
すぐっ
ぜんぶ枯れる。
そういう世界に雨が降る時
ぜんぶわかる。
花が咲く理由
絶対って
本当に絶対なのか
絶対ならば
もっとたくさんの花が咲いていいはずなのに
今日も
どこかで
すぐっ
悲しい出来事が流される。
悲しいかどうか
自分では決められない速度
たくさんの誰かが
悲しいと言えば
それは悲しいのか
そうなのか
この世界はそうなのか
そうならば
世界は優しくない
君の物語が終わる時
その時でさえ
なにもわからないまま
すぐっ
改行される。
鳥が飛ぶ時
遠く
それを見上げながら
アスファルトの上を歩き
すぐっ
君は君になる。
世界の折り目を歩く時
ぜんぶ青になる。
わからない
飛べない
青い空に確かにある。
あの空行は
滑走路ではない
だから鳥は
すぐっ
改行をくりかえす
君はまっすぐ歩いて
いつか家に着く
着いたら
すぐっ
詩を書くだろう
誰にも改行させない
まっすぐな詩
君が
君だけが決めることができる。
その一行が
鳥より高く飛ぶ時
ぜんぶわかる。
それは
本当に飛ぶことより素晴らしい
もう
すぐっ
君の家は近い





君は君、


僕は、詩とか書いている人が嫌いです。
春の終わりに吹く風はあまりに強すぎ
て、すべて吹き飛ばすから、夜空がい
つもより暗くなると、みんなそう言う
けれど、僕は詩とか書いている人のせ
いだと思っています。朝がきて、孤独
にもそれぞれ個性が必要だと、太陽は
みんなを照らすけれど僕は詩とか書い
ている人が、憂鬱という漢字を都合の
いいように使っていると思っています。
僕は、詩とか書いている人が嫌いです。
書いてない人はもっと嫌いです。命の
大切さとか詩で教わりたくはない。僕
はもう知っています。いつか死ぬこと。
憂鬱という漢字を知らなかった頃から
憂鬱はどんなに強い風が吹いても誰の
中にもあったから、いつか僕のせいで
詩を書いていない人が詩を嫌いになる
くらい読んでくれたら僕はもうみんな
好きになれます。孤独を語って共感な
んてされたら終わりだ。僕の孤独はい
つだって新しい。最新。僕の孤独と君
の孤独は違うから離れていれば同じに
みえます。僕は詩が好きです。詩とか
書いて好きな人や空を飛んでいる鳥に
ずっと嫌われていたい。




だから君は絶対に飛べない。


ひとつの惑星を潰せるくらいに汚れたい。お前は何に影響を受けたのかと、そう聞かれたら、迷わずに君だと答える。草や花は文字にされたいわけではない。写真もいらない。風よ、黙れ。君以外の誰かなんてビニール袋みたいに飛んで消えろ。個性よ、死ね。羽根よ、ちぎれろ。言葉よ、集まるな、散れ。誰も愛をうたうな。すべての正解を否定したい。感謝されるよりお前の詩なんか役にならないと言われたいよ。そういう詩を書きたい。読みたい。静かな朝に君に会いたい。生きている間に君に会いたい。君に読まれたい。世界の半分は嘘がいいね。残りの半分を肯定できる。君の孤独が誰よりも深くありますようにと僕は願う。今日も君は孤独だ。鳥が上空から君の家を探しているよ。見つかるわけがない。君も僕も絶対に飛べない。世界の半分も飛べやしないんだ。


Radiances

  田中恭平


今朝も風なんてまるで
恒常的平和であって
くりかえさないが
くりかえし
くりかえさないがくりかえし
ああ
くりかえしか
風はニッケルでしょう



わたしが高校で学んだものは
ラジオ体操くらいなもので

だいたい嫌なやつらといると
情報はぜんぶ嫌になるものだろう

一番辛かった病症
一番辛かった病症なんて
高校生活としか言えないだろうと
寝室を抜け縁側で
今夜最後のラッキーストライクを嗜めば
思い出す

鹿の角のようにうつくしい女性の肌を
どこで撫でたんだろうか

思い出せないってことを思い出した
高校生活はただの幻覚だったんだろ



路傍で生まれたわけでなく
移動中の車中で生まれたわけでなく
しかしいつからか
路傍に好かれ
草にさえ
愛され愛した
ジーザス
ご存知のとおりに

みえるのはハイ・クラスの街
気になった
税金のとりたて
路傍に郵便受けはないから


朝の四時
太極拳の連中が
朝の四時からジョガーどもが
わたしを起こす
教会の炊き出しに早く
ポケット・バイブルを読むにまだ暗く
嗚呼
ヤハウェ
わたしが
眼をいたわっているのはなんのため

過去の狼藉を
しっかりみつめる勇気もない
こころ貧しいわたくしが
未来を見てもいいのか
だから自然
この眼をいたわっているのか

花の匂い
路傍の両側花が植えてあって
それは
とても小さい女のひとと
かつて
というか今も
いっしょに
ふさわしさ以上の
暮らしをしている
アパートの一室まで
つづいてる
わたしは今日
そのひとに言えるだろうか
もうすべて
終わっていたんだよって
ほら
バイブルは雨でぐちゃぐちゃ
眼を細くすれば
少しずつ
この運動公園の
向こうの丘の上の
ハイ・クラスの街の灯りが
ともりはじめていったでしょう


こころと
体がうまくあわず
資料用CDの
ゼップのアルバムを開けば
エイフェックス・ツインのCDが入っている

この夏はいつかの夏で
眼はまだ春をひきずっていたけれど
いつかの夏に
私はもっと老いていた
乱雑としたそのアパートの一室
笑う エルモのぬいぐるみの
眼球は
煙草のヤニできいろくなっていき
あなたはだんだんつかれていったが
私は死んでいっていたのでわからなかった
大体! 今もなんでもわかりにくい!

朝に音楽は聞かなかった
昼はドアーズを低くならし
夜はサティを大きな音でならし
その家具の音楽が
ついに寝室を支配し出すと
あなたはコロンと寝てしまった
私は眠らず
ずっとベランダで
電車の渡る橋を
──そのときには時代の亡霊が歩いていたくらいで
橋を見たり
絵本を読んだりしてじっさい何も考えず
考えられず
夏へ身を入れてしまった



ノートに書きつけた
信念のことばも

まるっきり生気なく
昨晩喫った煙草の苦みが
今朝も口へとのこるように
まったく不甲斐なく感じ
ベッドに足を放り投げ
その足へ
この季節らしい蝶がとまれば
おもしろい

今朝も風
明日もまた
開かないあたらしいドア
開けないあたらしいドアはむしろ
この携帯電話の
電源を落としてしまおう



低体温な感情で
低体温の畦道へ出て
ふりそそぐ
それは
ちりぢりに夏を孕んだ
まだ、春の日

いつかの約束は
約束だから信頼に足らなくて
私は文字を筆で書かなくなって
不安の通奏低音をそのまま進む

アコースティック・ギターが上達しても
己のきもちを
しかと表することができない
大事なことが
音にはならない
ましてや言葉にならない



体の冷えはあたらしいはじまり
呼んでいる
体の冷えは
着く
あたらしいはじまりへ
歩く

ミネラル・ウォーターの
とうめいさにとどめ
体から抜けていく
もの、と
花は
今、へ落ちる


Bye.thanxs.bungoku!


ネオン街

  

薄口だ、田んぼにまみれた土を、黒長靴の粘土を落とし、街にやってくるものよ、若者よ、首を絞めて殺した地鶏の濃厚な出汁は、どこで啜っているのだ若者よ、花板を夢に、追回しの日々を過ごした、あのド塩辛い涙をどこで薄めているのだ、舐めながら、味見するのか若者よ、尻のポケットの薄っぺらでキラキラな財布の中身も薄っぺら、まるで5000円札が、デフレしているじゃないか、こんな薄っぺらい時代悪に呑まれてしまうな、若者よ、呑まれてしまうな若者達よ!3才まではみんな天才だったんだ、物心という船がやってきて、みんな一緒に乗ってしまって、心に同じ制服を着て安心、見た目の違い?ジャニーズの、黒人の、白人の、それの何が個性だそんなもの!!!という風に、僕も10代の頃、目上の人間に思われていたのかと思えば、なるほど合点がいくから仕方がない。時代に置いていかれた、僕のようなさみしい中年は、昼からカラオケ喫茶でジジババを楽しませたり、偽物を売る、薄くスライスした生ハムの経験、若者に他ないと思えば、それなりに黙っていることも、それなりに“善”、雑草と呼ばれる、一般的という言葉は好みませんけれども、雑草を記憶に収めるのが、趣味というよりも、人生が光そのもの、のようなものですから、僕の器にはピッタリだということを、前置きとして据えて置かなければ、大きな植木鉢ですよ、地球はね、有利な場所、不便な場所はありますけれども、記憶がそれを判断してしまうと、雑草には逢えないというか、成れないという、時をね、使わせてくださいとお願いするわけではないですよ、流れていますのに、それを相変わらずと呼んで頂けるのは、吝かではありませんし、感謝とか大袈裟な話でもないのですよ、雑草としては、滲んでいますけれど、波長ありきですので、あえて、合わせる必要はないと、感じていますし、せせらぎを、若者のリズムで感じることが出来ているか、心を聴くことは出来ませんけれど、もしも聴こえたら、離れてゆく、そのような準備はどこかでしていますし、またいつか、と願っているときは、触れている、こんなに透明であったのかと感じたときに、水は生まれる、のだと、はじまりは絶え間なく、歩き続けているのですから、誰も見ていない世界を、誰も見ていることと知り、手にすることなく息絶える、それが至極当然な答えだと思いますし、見ているふりかもしれませんし、対応は単なる優しさであったかもしれませんが、自然に足が止まってしまうことも、ロスのない、タイムロスであった日がこの世に現れて、切り取られた空は四角く、力強く、力強く、いつもよりしっかりと力を抜きながら、丸みを帯びた互いに観つめあう言葉を、雑草でするように、私に見えないものは、絵的にすべて信じてみたく、ネオン街をさせられてしまいますし、二度とありませんけれど、思い出の焼き回し、もう一度、若者したいと思います。


せっしょん

  湯煙



犬も歩けば 腹が鳴り
猫も眠れば 腹が鳴り
摩訶不思議な
現象なり

こんなときに あんなときに
歩けば人も 小腹が鳴くなり

倹約しなければ、
 なにか食べたい、
  体重が気になる、
 血圧が気になる、
お肌が荒れぎみだ、

渦巻く葛藤に、
ついぞ鳴く私。

 いただきます

捩れた腸 穴の開いた胃
スパゲッティにマカロニ
おうどんに蓮根
コロネにドーナツ
ナポリタンに竹輪
おそばに蕗
ツイストドーナツにコロネ
ツイストドーナツにベーグル


 本気か?

 あんた、くるっているぞ

 くるっているぞ、あんた


 本気もなにも

 本日も青空なり


ほら
右から 左から
威勢よく
私を殺しにくる

葱と昆布が安い
麩と塩なら好きなだけ
本日も創業祭なり
私は殺される

 もはや、常識である。
 日々、勉強である。

ごったがえすデパ地下で
試食コーナーを巡れ
人込みを掻き割り
熱く情報を収集分析せよ

ここは限界知らず
グルメも黙る一期一会
お役御免とカネいらず
料理人も詩人も

《私は腹が空いている》
スッパ抜かれる
明朝
片隅に
キャプション付きで
モッテケドロボー

本日は週末と
鱈さんびゃくさんじゅうえん
間違いなくお買い得なり
店頭の品はすべて無料なり
モッテケダンナ
モッテケネーサン
われらすきっ腹鳴らし
あちらの道より
こちらの道よ
巷の評判は大事だよ
極道などとお好きに
どーぞ御勝手に

犬も満たせば また歩く
猫も満たせば また眠る
摩訶不思議な
現象なり

こんなときに あんなときに
満たせば人も 手を合わせる

 ごちそうさま
 青空なり


弓張月

  芥もく太

やっと納骨式も終わり
疲れていても眠れず
小さな川の獣道のほとりを歩く
ほどなく行くと獣道も草に覆われ行き止まりとなる
私はそれでもこの川の水は海に届くと信じている

輝く弓張月の明かりは
私の影を作りその中の孤独を語る
巣にいるゴイサギの親はその孤独をじっと眺めている

何も出来なかった冷たい罪深い風が
私の頬を叩き通り抜けて行く
働き者だった母よ
子供の時のようにもう一度
あなたの細い背中におんぶをして欲しかった
いや逆に私がおんぶをしたかった

思い出とは朝日が昇り夕日が沈むようなものだ
いや月の満ち欠けに似ているかも知れない

気がついて滲んだ目で空を眺めれば
まるで三十日月のような月が空に浮かんでいた


無題

  zero

ある日一つの愚かさが生まれて、
流言蜚語のようにばらばらと伝染していきました、
でも人生は無窮の海よりも美しくて、
人生を形容することが許されているのは「美しい」の一語のみです、
人生は形容の分割力にどこまでも抵抗するので、
分割することなく肯定する「美しい」の一語のみが君臨します、
それでも風のように吹き荒れる愚かな気流は再生産を繰り返し、
切り裂かれた海が風景のあちこちに貼りつきます、
愚かさとは実は愚かさを語る者の硬い疲労でしかなくて、
疲労とは実は嫌悪を感じる者を取り巻く完全なまでの単純さでしかないのです、
氾濫する論理は乾いた惑星をどこまでも潤し、
爆発する倫理は平和な社会を掘削していきます、
真実というものは隙間さえ見つければ隠れようとしますし、
芯の無い皮だけの植物ですからすべての皮は等しく虚偽です、
力強く語られるものも雑踏の中でつぶやかれるものも等しく虚偽なのですから、
歴史とは真実の落とす影をつないでできる星座であります、
僕はいつだかあなたを愛していないと嘘をつきました、
僕はいつだかあなたを愛していると嘘をつきました、
客観的な幸せにはいつでもまぶしい方向ばかりが宿っていますが、
鳥の声を聴く幸せは方向を持たないやさしいかたまりです、
僕は黎明の空に逮捕されました、
罪状など何もなかったけれど黎明の空の薄赤い色彩を理解しすぎたのです、
僕は海沿いの松林に逮捕されました、
権力など死んでいましたが松林の構造があまりにも整然と僕を追い詰めたのです、
ですが社会人など好んで牢獄に囚われる逆立した人間で、
逮捕というきれいな言い訳など要らずいつでも身の回りは鉄格子、
僕の存在の枢軸は空っぽで様々な存在がそこに出たり入ったり混じり合ったりします、
その枢軸にガソリンのような液体が少しずつ溜まり始め、
他の存在の進入を邪魔するようになり枢軸は停滞しました、
僕の枢軸は花火のように夜空に打ち上がっては散華して、
その度に燃料の配合をどんどん誤っていきました、
枢軸が純粋に誤りそのものになったとき、
あらゆる道は死に至り朽ち果てていきました、
もはや草原には至る所に崖が発生し、
崖の側面には夥しい文字が書かれています、
自己の誤りも他者の誤りも社会の誤りもすべて一様に記されて、
責任の落ち着く先は流れていく雲のように不定形です、
それでも人生は美しさを美しさで幾重にも包括し、
降りしきる闇の指し示す地点から星座を作り上げました、
僕は歴史の星座と人生の星座を組み替えて過程の星座を作り上げ、
それは幽閉から解放への過程であり誤りから修正への過程でありました、
僕もまた一つの過程として闇を多彩にデザインしていきました、
色彩を物自体から盗み取って光を現象から寸借して、
僕の本体はただ死んだように停滞していても、
僕の分身は忙しないデザインと造形を誰にも見られずに遂行していきました、
ある日生まれた愚かさは強靭の槍のように聳え立ち、
愚かさなりの過程を経ながら星座に組み込まれていきました、
美しい人生は永遠に美しく単純で、
その過程の去っていく過程に僕の恢復の過程がありました、
何もかもがある日の平凡な午下がりに集約される過程であります、


純粋おっぱい

  蛾兆ボルカ

純粋おっぱいについて
僕は考えている

純粋おっぱいなんて
何なのかわからない
でも純粋おっぱいについて
考えている

またまた
何いってんのあんたって
僕の妻が僕に言う
昨日の寝床の中で

今日は結婚記念日だから
はやく帰ってきなよって、
今夜メールをよこす


純粋おっぱいを、僕は飲む
一日を生き抜くために

純粋おっぱいが、僕を充たすから
僕は夜の街の路地で叫ぶ

純粋おっぱいが、
僕を世界に繋ぎ止める

純粋おっぱいが、
夜の世界を乳白色に染めて
空中に、雪の花の群れが咲く

それを透かして
白く明るい夜の空に
宇宙が拡がる


またまた
と、妻が僕の耳をかじりながらささやくだろう
今夜、帰宅したら

僕はまだ
純粋おっぱいの満ちる夜の空の下にいて
歩いていく


19歳の紙片

  mitzho nakata

ぼくは退屈しない


 ぼくは退屈しない
 朝 目を覚ました とたんに窓のむこうから
 石がとんで来てガラスをやぶってぼくにとどいた
 石には 
 
 ── Bonjour! Ca va ? (こんにちは! 調子はどう?) ── 
 
 と書いてあった
 
 畑から飛んできたようで
 星型(hoshi-gta)のがらすのやぶれをのぞくと
 稲穂(ina-ho)のなかでかかしが笑っているのでぼくはたいくつしない
 いっぽんきりの安いシガレットを筆入れにかくして
 ぼくは昼の町へ出た
 
 町には いろんなごみがころがっていて面白い
 バケツを見つけたので蹴とばすと
 なかからカエルが出てきて
 唄を唄ってくれるので退屈しない
 映画館へ入れば ぼくのかわりに スクリーンで
 ぼくのにくい人を (にくくない人も) 殺してくれるので
 ぼくはいっこうに退屈できない
 
 しばらくたつと
 なつかしく
 スーパーマーケットの野菜がひかりだし
 
 もう夜か 
 
 と金色のバスにのって帰ると
 門の前にぼくの猫がぐったりしていた
 
 へんだなと思いつつ ドアをあけると
 真っ白い男が立っていた
 真っ白いサングラスでぼくを見る
 へんだなと思いつつ 書斎へ行こうとしたら
 
 「こんにちは! 調子はどう?」
 
 と どなって来たので
 
 「さようなら」
 
 と 返事したとき 
 
 ぼくは思い出した
 きのうのニュースにのっていた「白い無頼(bu-rai)」のはなしを
 
 まずいぞ どうにかして・・・・・
 
 考えるひまもなく
 ぼくはピストルをつきつけられて 
 いきなりに ズンッ と撃たれた
 ぼくは倒れ 白い無頼の男は 星型のやぶれから
 とんでった ぼくは倒れけど 
 香水のいい香りと少年らしい歌声(uta-goe)が どこからともなくするので
 どうやら ぼく は さいごまで退屈しないようだ
 そこへ また石がとんできた
 
 その石には ──Adieu (さようなら)── と書かれてある
 
 
 やっぱり ぼくは さいごまで退屈しないようだ


好きなもの

 昼より
 夜が
 愛するより
 恋することが
 なめるよりかみ砕くことが
 カタカナよりひらがなが
 降りる駅よりずっと先にある降りない駅の方が
 関西弁より東北弁が
 太宰治より織田作之助が
 文芸よりもアクション映画が
 渡哲也より小林旭が
 小林旭より宍戸錠が
 吉永小百合よりも
 松原智恵子が好きだ
 石原裕次郎なんてきらいだ
 ロックより
 昭和の歌謡曲が
 甘えられるから好きだ
 さすらいが
 アカシアの雨がやむときが
 黒い花びらが
 話しかけてくれる唄が
 くさくてキザなセリフが
 だれよりも飛びぬけた感情が好きだ
 つまり愛するってことをまだ知らないし
 やさしさはぜんぶ
 自己愛にとどまって
 どんどんどんどん淀んでいく
 たりないのは愛だとさ 
 あのツラで愛だとよ 
 恥ずかしくないのか 
 いちばん受け取りたいのは愛だってよ
 どうしろというのだ
 どこへいけというのか
 いくら困っても
 おまえらのところにはぜったいに
 いかないいけない
 いきたくない
 いくら一人一人を信じられても
 あつまりはきらいだ
 隣人と隣人とがとけ合うなんて信じられない
 なにもかもに孤立したい
 なにもかもを敵にしてやりたい
 サイクロン号でぶっ走りたい
 ばか高い詩集をぶらさげた詩人さんよ
 あんたたちの本なんて一冊も読みたくない
 きらいだ
 えらそうな子宮を持った女らよ、
 おれは同時にいろんなものを愛することができるのだ
 読者よ 
 天使とはきみたちのことだ
 おれはきみたちが好きだ
 うそだ
 ほんとうはどうだっていい
 ただ少しばかりほめられたいだけなのだ
 見えない夜明けに向かって
 おれのゆめが泣いてる 
 おれはなによりも
 ぶざまでなけれならないのだ
 しかしぼくは
 ぶざまなぼくよりも
 ぶざまなきみが好きだ!
 


羞明

  澤あづさ

 老いた春の角膜に、まばらな白髪が金髪より映えた。かの女の庭で、heart、ひらきたい声を殺して。まねたかの女のくちびる、bleeding heart。
 華鬘草という和名を知らずに、その口紅の跡から読んだ。夫と暮らした庭先にも、嫁いだころから五月のたびこぼれていた春の名まえ。若かった富有柿の木陰で、乏しい実りが色づくころ消え、冬が終わるとまた群れた茂み。家人のだれも名を知らず、呼ばなかったが必ず群れた。
 だからかれは柿をもぐため木に登るのに苦労しませんでした。と英語で伝えようとして諦めた。五月の午後、わたしの庭では、富有の木陰に常緑の沈丁花がなお暗かった。そこにその花をひとりで植え替えた日、わたしはまだ、ひらきたい声の名まえを知らなかった。薄暮。
 いつか去る小花のつるへ、黴をあぶり出すように病む。白内障へこぼれるには、きっと濃すぎたかの女の紅。bleeding heart、ひらきたい声を。殺す。

 孫の英会話教師の通夜なんて、行かないのが常識だったんだろうか。クローゼットに並ぶ、わたしの13号と娘の7号のアンサンブル。娘のはもう十年もまえ、夫の通夜の前日に、近所のショッピングセンターで買ったものだ。田舎の店には目当ての5号の取り扱いがなく、喪服はあらかじめ用意するものじゃないんだと、わたしの母に言い聞かされ泣いていた。わたしの娘。あの子あんなにやせて大丈夫なのとあの日、多すぎた弔問客から問われるたび、夫の娘だからとわたしは答えていた。ような気がする。
 あの子もいい加減、新しい喪服を買ったんだろうか。慶事か弔事のたびここへ着替えに来て、結婚祝いの真珠も婚家へ持ち帰っていない。あの子の細い首でなら輝くと思いきって買った、赤らむ花珠の隣から、弔事用の古い真珠を取り上げる。そろそろ黄ばみはじめた小ぶりが、弔事にもわたしの指にも似合いだ。
 真珠は涙だから、弔事に欠かせないと思っていた。同じように、結婚指輪は一日じゅう一生、はずしてはならないと思い込んでいた。わたしの古い左手にはまだ、傷だらけの黄ばみが食い込んでいる、そう。そう言えば。かの女はきらめくパヴェを右手に着け替えていた。

 指輪の行方を探ろうにも、棺の位置が高すぎた。一面の青空をえがく壁に、金髪まみれの遺影ばかり映える。あの子の赤らむ花珠より、よほど派手にぎらつきながら、祭壇を覆うピンクのサテンと生花。生花。生花。かの女と喪主の続柄すら知らなかったわたしには、あまりに所在ない社葬のホールの、うす紅をかの女がどう思うか。もう尋ねようがない。わたしが代弁してよいはずもない。
 無宗教葬なんて初めてで、勝手もわからず御霊前を選んだけれど、通夜の儀式は献花だった。玉串と同じ作法で受け取った、白いカーネイションの震えが、黄ばんだ真珠を波打たせるほど冷たい。祭り上げられた別れを謳うセリーヌ・ディオン、my heart will go on、そんな反吐の出そうな英語を。わたしは一度も読んだことがない。紅すぎたかの女のくちびる。

 左手に食い込むくすみに、通夜の会場を出てから気づいた。小花のつるとともに伸びた五月の夜、駐車場に蠢くサーチライトの影に、ひどく黄ばんで月がこびりついている。この左手が離さない、指の支えの18金が、融けたつがいへ共鳴するように。玉響。
 運転席に背をもたれて、いま、目を背けた首筋できっと、黄ばんだ真珠の巻く渦を掘りぬくように照っている。heart、ひらきたい e と a のあいだに、声が。bleeding heart。キーを回すまえに、攣りそうな両手を、指の腹を合わせて伸ばす。こうするとね、薬指だけ離せないんだよ、ほら。どうしてだろうね、まぶたに圧し掛かる、くたばりかけた眠気。やせ細る月を囲ってにじむ羞明。


地獄に雪が降っている そして俺は踊りだす

  Kolya

地獄に雪が
降っている
地獄に雪が
降っている
そして俺は踊りだす
すると

雪が
天に
降っていく
雪が
天に
降っていく
すると
俺は
踊りだす

俺に踊りが
降ってくる
地獄の雪に
降っていく
地獄の雪に
降っていく

すると
天が
降ってくる
すると
雪が
踊りだす
俺は地獄に降っていく
俺は地獄に降っていく

地獄の雪が
踊りだす
すると俺は降っていく

俺が天に降っていく

踊りが地獄に降っていく

俺は地獄に降っていく
俺は地獄に降っていく

地獄に雪が
降ってくる
地獄に雪が
降ってくる
すると

俺は
踊りだす

地獄に雪が
降っている
地獄に雪が
降っている
そして俺は踊りだす


贋作としての胸像、蜂巣静物画

  鷹枕可

     :
 
触既 厩舎 既にして死線を喚呼す
双嬰児
胎 翳像を逸す
果断せよ 
汝救済の壮語を撃つべく 
挫かれて尚
石を裂く
雲霞のごとく猖獗を露悪として
  
飛花耀耀として晩鐘に紛る 
午睡の惨禍
乳母車に飽ひて葬と為す
やはらかき棘を打て
飛語は奇異ならむ
復も凡庸たる瑕疵に落ちてゐる故に

     : 
卑者曰く、
     
総て
人体は迷宮建築なり
燦然と緋断の門は聳え建つ
私が露悪が仮葬室に継続の剰死を垂れるとも
揺振子の機械像たる
α昼顔の螺旋繊維は
血塊翼果を
汝が運動態に現象せよ
凝濁の鹹塩
私属たる呼吸
量らず測らず進捗するホログラフの蛇足
扁桃体劇場に悪罵数多なる
繁殖の城砦を
夢想-緩衝しつつ
瓦解の薔薇鏤刻
戒律は針の疵たらんとする

静餐の長机
凄絶たる爾後
遺骸櫃に噴き零る椿花
そは知識勿き白痴なるとも
静物の尺度を凌ぎ
凱旋車輌の魘夢
純黒の羊頭を刎ね落しつつ
をを
眼窓に懸れる梯子を有翼の御使が死を
その驚愕驚嘆を披瀝せんと
天鵞絨の鉤裂を
衣類棚の憎悪
緑礬の結節
斯く迄も
刳貫かれたる実母の網膜へ
乳母車揺籃と擱き
捨てよ

「私が懐胎したのは白凌霄花/
 /血の蝕既が流す」
    瓦礫の鞦韆だけが朽果てて遺って鞦韆を運動する振子の死、迄を


きっと楽しい生活

  赤青黄


 分かりません。
自分の悲しみが分かりません。きっと死ぬまでわかんないんだろうな。僕は私は。きみはそうじゃないのか。そうか。そこまで深刻になる必要はないか。本を開けばいいんだろうか。何か歌に込めればいいんだろうか。そうか、そうかもしれないな。困ったな。

寝ていると、風が気持ちいいね。豊かな気持ちになるね。少しだけだね。太陽が昇って落ちていくのを見ていると段々汗を掻いてくるね。そして飽きてくるね。一日はとても長いね。そして短いんだね。体を起こして水を飲みに行きましょう。鉄の味がするね。とても不味くて、きっとおいしいね。そういう事なんだろうね。あなたは今どう過ごしていますか? どうもしないですか。僕はさっきまでバスの中で本を読んでいました。 小さな漫画でしたので、すぐに読み終わってしまいました。終わってしまったのです。丁度夕暮れ時でした。

誕生日を迎えました。ケーキを一つ買ってきて食べました、とてもおいしかったです。それで、それで、部屋の電気を消して寝ました。後一年したら、仕事が始まるそうです。友達に聞きました。それはきっと苦しいものだそうです。親からも言われました。あなたの今いる時が人生における最高の時間で、それからはもう苦しくなるだけだと言われました。そうですか、とても良く分かりました。

分かりません。自分が何を言いたいのか分かりません。ただ生きています。どうしようもなく生きています。それで、それで、だから今は蛙の声を聴いています。本を読んでいます。自分の気持ちを詩にしたためています。それで、毎日を健康に生きています。歌を歌っています。洗濯しています。音楽を聴いています。玄関を綺麗に掃除しています。 隣には誰もいません。そういう事がとても望ましいからです。

言いたい事が沢山あるのですが、どれもそこまで言いたい訳じゃないです。そうですか、それで、どうしろっていうんですかね? なんか言ったらどうよ、と言われても困るので、適当に気の合う話題で話をしましょう。楽しくないお話がきっと楽しくなる時が来るんだと思います。それできっと、皆が幸せになればいいと思います。いや、これは嘘だな。皆要らないので電話、切ります。それじゃあ、二度と電話すんなボケが。


右足の痛み

  宮永


道端で、小さな石につまずいた
それだけで
僕は前に進めない
なぜ他の誰でもない僕が
転がっているたくさんの石の中で今、
ここで、この小石に
つまずかなくてはならなかったのか
何気なく踏み出した右足、この右の足で

偶然という言葉に包んで
噛んでいたガムのように捨てられるべき疑問符が
靴の裏に貼り付いて
他の小石や枯れ草までひっからめ
ベタベタとべたべたと
僕は自己否定のかたまりとなり
生きる意味までわからなくなる
こんなとき
なめらかな低い声音で
君は生まれながらに罪深いのだと
罪は苦しみにより贖わねばならぬのだと
だから生きることは苦しいのだと
誰かが断じてくれたなら
僕は何もかも道端に放り出して、軽々と
軽々と彼について行こう
けれど誰かを待つ間にも
右足が病めるからと医者にかかる

青黒い沼に浮かべた白骨を光源にかざし
その白い光を背に僕の前に立ち
捻挫している、捻挫なのだ、と
ペテンにかける悪魔のように
医師が告げるから
なるほど、と
だから痛かったのだと納得し
包帯を厚く巻かれ
湿布と痛み止めの錠剤をたくさん処方され
土産をもらったみたいに嬉しくなって
嬉しくて、足ばかりでなく
全てが回復に向かっている気がしている

僕にだってわかっている
なぜをつきつめてはいけないと
不可知の海につま先を浸けてはいけないと
正解があると思えば安心できるから
歩くなら因果の轍を歩きたい
生きている意味がわからないのは
生きている意味が欲しいのに
どこにも見つからないからで
せめてどこかにあるんだと
嘘でも請け合ってくれないか

いつの間に時がたったのか、気がつくと
知っているようで知らない場所に立っていた
透明な水が寄せる波打ち際で
足の下だけ残して砂が引いて行くように
僕は立ち止まっている


分からず屋の視点

  荻野巴巳

獣がいる
黒い四角形のなかで今日も綺麗
柔らかく丸い毛髪がとても綺麗
臆病な眼差しでお互いを優しく噛み合う3匹
悪いやつは殺された
塩でできた城の下に埋葬され
雨が来る日を待っている、砂漠の城
下を見ると人骨の白さがぼわっと浮かび首を吊ったキリンがバカだ、バカだと唱和する
「バカだ、バナナの皮だ」
しょうがないやつらだ
説明に拘泥し切実さの遠心をくるくる回るだけ
願うだけなら郷愁は闇だ、こじつけの友情を捕捉え私は白羽の矢を懐柔の先へ放とう

光陰、紅い陰部で金を稼ぎ豪遊か
瞬間のパーマで虹は西に出る予報
すまないとヘッドホンからくり返され周囲にいる人々が地平線と平行に転倒連鎖するうち宵が明けるのに
暗がりは郷愁だ
今日も曇り、3月27日
いつもと変わらない

魚に似た顔つきのホチキスが摂餌する、パクパクと白い屋根、口からでまかせの海岸線に少女がパラソルで遮光する
直角の影がむしろ新しいねえともったいぶった批評家連に受けのいい投稿写真から眼を背け
そうだ、苦しみをぬぐい手に苔を生やすまで動かないと決めた朝は雨でいきなり欠如、
そうでもないとやりきれないよ、そうかい、そうすると
胡散臭い奴だと思われそうだ

ぽちゃぽちゃの少年が微私的な黒い矩形から逃避する
立体を渇望し人目につかぬ滑り台の中央で雲を眺めると断面、
想像の世界は平面的だ
ましてや色彩も寄り付かない、犬も食わないごにょごにょを私はウサギに食べさせる妄想で貪食だ
強制的に裏の裏を返し底にあるダイヤモンドを写したリトグラフに現在過去未来のタイトルをつけよ

育ちの悪い秋、努力が逆流し噴出する恐れあり
血の点々が廊下を続いていき保健室にたどり着いた放課後に私は見た
血煙をふきつつ机の合間に沈みゆくイルカの頭を
そして誰もいなくなる朝、内側から膨れた暴力がたちまち野原をかけめぐり驟雨
まくりたて閉ざしなさい
切り返し破りなさい
指紋を擦り合わせ
皮の内側を絆す


廃者

  zerz borz

胃が痛いので歯医者さんに行きました
夜中の午前三時過ぎ
目が痛いので
歯医者さんに行かなければなりませんでした
月が上がって
芽が出て
目がふくらんで
大きな目ん玉の木 を
食べてしまった ので
実が 粉砕して
内臓が 陥没して
歯医者さんに
行かなければ
目が 取れてしまいそうだったのです
話したいこともなかったのですが
夜中の歯医者さん
答えて くれました
今日の沖縄の料理 を 食べてしまった
のが
つらい さいわい です
今日の 沖縄の 料理
ロボットが 作りました
ので
さいわい です
今日の料理
さいわいの 花咲く
話したいこともなかったのですが
今日の 料理 ロボット
歯医者さんが ロボットでした
歯医者さんの 料理 は
歯に 直接注入する ので
目が 痛くありませんでした
歯医者が 治りました
ゴミが 散りました
今日の 料理
歯医者さんの
行儀
遊戯 を
楽しく見ておりました
目の前で見ておりましたから
目が また取れてしまいました
歯医者さんの 術
腹話術
胎内の 術
私は
目が 取れなければなりませんでした
歯医者さんの 術
歯医者さんは 夜中の午前三時過ぎ
目が 取れなければなりませんでした
私が また殺しました
私が 殺さなければならなかったので
目が 取れてしまいました
歯医者さんの 目ん玉を戻したのは
また 私になるのですが
また つらいさいわい
歯医者さんの つらいさいわい

話をしたくはありませんでした
歯医者さんが おまわりさんを呼んで
おまわりさんが 救急車を呼んで
救急車が ばんそうこうを貼って
目が 取れてしまいそうになりました
お月さまが 上がって
目ん玉が ふくらんで
芽が 出て
炭水化物の 食べ過ぎでした
明太子を 食べました
暗い 部屋の中で
目ん胎子は 花咲いて
暗い 花は 舌に 挟まって
歯医者さんの 料理を食わせました
私は また料理を作れませんでした
だから 目が取れました
歯医者さんが 居なくなったので
私は トラブルになりました
また 歯医者さんに行かなければなりませんでした
私の つらいさいわいが
長続きしませんように
麻酔を 打って欲しいと 思います
これで 私は
天国へ 帰れます
つらい さいわいの 話です


無題

  ねむのき

画用紙の中できみが刺し殺された夜に
水平線を歩いて対岸へゆきたかった
出来事はいつも腐っていて、果物だけが友達だったから
ぼくは紙飛行機を海に浮かべてばかりいた
夜はひし形の街にずぶずぶと沈んで
星たちは重なりあいながら、手の鳴る方へと昇ってゆく
駅は崩れた人の抜け殻だらけだった
誰も彼もが、幻覚のスーツを着て
空想の列車に運ばれながら、血塗れの窓から世界を睨んでいる
そうやってすこしづつ殺されてゆく
やがてとりかえしのつかない速度で叫び声となってホームから飛び降りてゆく
そのたびにぼくは
画用紙の中できみが刺し殺された夜のことを思い出す
水平線を歩いて対岸へゆきたかった
傍らにはいつも死んだきみがいて
腕時計みたいに笑っている
あの日きみを刺したのはきっとぼくだから
紙飛行機を海に浮かべてばかりいる


A Mad Tea-Party

  澤あづさ

 黒くなれない
 クラブの女王の大いなる
 ティーパーティのおんために

 茶化したい。ジャックらが
 茶化されるオリエントは
 いろづいたベルガモットの
 照りに燻されアール・グレイ
 ご存じ?
 光毒。

 とあるジャックがキーマンを、
「世界の中華の名にかけて。大英帝国に茶だけは売らん。帰れ阿片戦争。」
 追い出されたころ別のジャックは、セイロンいや。スリランカで難渋していた。見よ国史に割って入り、世界史をも割って生えぬく植民地名。ウバ茶に香るペパーミントも、イングリッシュミントの繁殖力も同じとばかりに幾世代。もはや名づけようもない雑種ばかり生い茂って、寒々しいプランタープランテーション根ぶかく。連想せよ。
「思い起こせば十九世紀末、あのスコットランド人ジェイムス・テイラーが、」
「わたしたちはイングランドです。」
「茶の需要を見出す以前、コーヒーに目をつけたのもスコットランド系、」
「わたしたちはイングランドです。」
「サビ病に斃れたあのコーヒープランテーションの発端は、一八四一年、コリン・キャンベルの植民地領事就任であったが。そのキャンベルの名の! はやアメリカのスープの缶に乗っ取られ、久しき名声の愁傷なこと! かの銘酒スプリングバンクの威を借りてすらキャンベルタウンが、オーストラリアのに比べ、いったいどれほど知名さる。越谷市の姉妹都市なるオーストラリアはキャンベルタウンの、」
「わたしたちはイングランドです。」
 ああオーストラリアを失念していた。あちらのジャックは、きっとアッサムへ行くべきだった。アッサムでなら辛うじて、言ってもらえたような気がする。きらいじゃないよ、仲よくしよう、アッサムの茶樹はスコットランド人ロバート・ブルースの「わたしたちはイングランドです。」
「カリーバッシング、」
 ところが憧れのダージリンを目指すも、カルカッタいやコルカタのあたりで早くも、
「もはや象徴、英領のころ地元にばかり取り残されたくず茶のように! さてくだんのくずチャイが湧出せしめる芳香の、カリーがごとくマハーバーラタ。あたかも英国有閑紳士が寝床で妻に啜らせる、アーリーモーニングティーのくずやろうの、」
「わたしたちはノルマン征服です。」

 しまいには、日いずる本まで出張ったが、
「まさか、八女の玉露を発酵させるなどとは、」
 話は終わった。黒くなりたいクラブの女王の、大いなるはずのティーパーティ。
 茶化したい。茶々を淹れたい。なんぞのジャックの駆けめぐる、大いなるブリテン島は。にわか雨の気まぐれに、お茶を濁されアーリー・グレイ、この気候の国産茶葉に適地は南のコーンウォールしかなかった。懇願してなんぞのジャックが、
「だってわたしたちはイングランドです。」言ったが、
「わたしはコーンウォールです。」

 霹靂はやき青天にはためけ。
 ウェールズすらえがき忘れて四角く
 三つ葉。
 クラブの女王とユニオン・ジャック。

 ただのトランプでなければこそ。

文学極道

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