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2014年09月分

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* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


WELCOME TO THE WASTELESS LAND。──詩法と実作

  田中宏輔



「私の生涯を通じて、私というのは、空虚な場所、何も描いてない輪郭に過ぎない。しかし、そのために、この空虚
な場所を填(うず)めるという義務と課題とが与えられている。」(ジンメル『日々の断想』66、清水幾太郎訳)「この間隙を、
深淵を、わたしたちは視線と、触れ合いと、言葉とで埋める。」(アーシュラ・K・ル・グィン『所有せざる人々』第十
章、佐藤高子訳)「「存在」は広大な肯定であって、否定を峻拒(しゆんきよ)し、みずから均衡を保ち、関係、部分、時間をことごと
くおのれ自身の内部に吸収しつくす。」(エマソン『償い』酒本雅之訳)「彼、あらゆる精神の中で最も然(しか)りと肯定する
この精神は、一語を語るごとに矛盾している。彼の中ではあらゆる対立が一つの新しい統一に向けて結び合わされてい
る。」(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも良い本を書くのか・ツァラトゥストラかく語りき・六、西尾幹二訳)。

 端的にいえば、詩の作り方には二通りしかない。一つは、あらかじめ作品の構成を決め、言葉の選択と配置に細心
の注意を払って作る方法である。もちろん、それらを吟味していて、構想の途中で、最初に考えた構成を変更したり
することもある。拙詩集の『The Wasteless Land.』(書肆山田、一九九九年)は、出来上がるまで二年近くかかった
のだが、はじめに考えていたものとは、ずいぶん違ったものになった。エリオットの『荒地』(The Waste Land)
を読むと、「ひからびた岩には水の音もない。」「ここは岩ばかりで水がない」「岩があって水がない」「岩の間に水さえ
あれば」「岩間に水溜りでもあったなら。」「だがやはり少しも水がない」(西脇順三郎訳)とあって、こういった言葉に、
主題が表出されているような気がしたのである。「主はわが岩」(詩篇一八・二)と呼ばれており、イエスの弟子のペ
テロという名前は「岩」を意味する(マタイによる福音書一六・一八)言葉である。筆者には、「岩には」「水がない」
というところに信仰の喪失が象徴されているように思われたのである。「一方を思考する者は、やがて他方を思考す
る。」(ヴァレリー『邪念その他』A、佐々木 明訳)。コリント人への第一の手紙一〇・一─四には、「兄弟たちよ。こ
のことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、
モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らに
ついてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。」とあり、ヨハネの第一の手紙四・八に
は、「神は愛である。」とあり、コリント人への第一の手紙一三・八には、「愛はいつまでも絶えることがない。」とある。
たしかに、人は神によって愛されているのだろう。「髪の毛までも、みな数えられている」(マタイによる福音書一〇・
三〇)ぐらいなのだから。「なんらかの愛なしには、熟視ということはありえない。」(ヴェイユ『神を待ちのぞむ』田
辺 保・杉山 毅訳)、「愛するということは見ること」(デュラス『エミリー・L』田中倫郎訳)、「じっと目をはなさぬ
ことは、愛の行為にひとしい。」(ホーフマンスタール『アンドレアス(Nのヴェニスの体験──創作ノートの二)』大
山定一訳)というのだから。そこで、ヴァレリーの「愛がなければ人間は存在しないだろう」(『ユーパリノス あるい
は建築家』佐藤昭夫訳)という言葉をもじって、「人間のいるところ、愛はある。」とすれば、エリオットの『荒地』
のパスティーシュができると考えたのである。「不毛の、荒廃した」という意味の「waste」の反意語に、「使い切れ
ない、無尽蔵の」といった意味の「wasteless」があることから、タイトルを決め、構成と文体を西脇訳の『荒地』に
依拠させて制作することにしたのである。このとき、この作品と同時並行的に考えていたものがあって、それは、ゲ
ーテのファウストを主人公にしたもので、モチーフの繋がり具合があまり良くなかったので途中で投げ出していたの
だが、これと合わせて、『荒地』のパスティーシュに用いるとどうなるか、やってみることにしたのである。出来上が
りはどうであれ、語を吟味する作業によって、筆者が得たものには、計り知れないものがあった。

 あるとき、テレビのニュース番組のなかで、南アフリカ共和国のことだったと思うが、黒人青年を、白人警官が警
棒で殴打している様子が映し出されたのだが、それを見て、その殴打されている黒人青年の経験も、殴打している白
人警官の経験も、ひとしく神の経験ではないかと思ったのである。翌日、サイトの掲示板に、この感想を書き、さら
に、「神とは、あらゆる人間の経験を通して存在するものである。」と付け加えたのであるが、なぜこのようなことを
思いついたのか、よくよく振り返ってみると、本文の45ページよりも長い62ページの注を付けた長篇詩の『The
Wasteless Land.』において、本文の五行の詩句について、35ページにわたって考察したことが、そこではじめて汎
神論というものについて触れたのであるが、また、詩集を上梓した後も、さらに、ボードレールからポオ、スピノザ、
マルクス・アウレーリウス、プロティノス、プラトンにまで遡って読書したことが、筆者をして、「神とは、あらゆる
人間の経験を通して存在するものである。」といった見解に至らしめたと思われるのである。「作品は作者を変える。
/自分から作品を引き出す活動のひとつびとつに、作者は或る変質を受ける。」(ヴァレリー『文学』佐藤正彰訳)。作
者にとって、この「変質」ほど、貴重な心的経験などなかろう。

 神とは、あらゆる人間の経験を通して存在するものである。それゆえ、どのような人間の、どのような経験も欠け
てはならないのである。ただ一人の人間の経験も欠けてはならないのである。どのような経験であっても、けっして
おろそかにしてはならないのである。

 ところで、先に、筆者は、詩の書き方には二通りある、と書いた。もう一つの方法とは、あらかじめ構成を決めな
いで、言葉が自動的に結びつくのを待つ、というものである。偶然を最大限に利用する方法であるが、筆者がよく行
うのは、取っておいたメモが、一気に結びつくまで待つ、というものである。拙詩集の『みんな、きみのことが好き
だった。』(開扇堂、二〇〇一年)に収められた多くの詩が、その方法で作成された。そのうちの二篇を、つぎに紹介
する。


むちゃくちゃ抒情的でごじゃりますがな。


枯れ葉が、自分のいた場所を見上げていた。
木馬は、ぼくか、ぼくは、頭でないところで考えた。
切なくって、さびしくって、
わたしたちは、傷つくことでしか
深くなれないのかもしれない。
あれは、いつの日だったかしら、
岡崎の動物園で、片(かた)角(づの)の鹿を見たのは。
蹄(ひづめ)の間を、小川が流れていた、
ずいぶんと、むかしのことなんですね。
ぼくが、まだ手を引かれて歩いていた頃に
あなたが、建仁寺の境内で
祖母に連れられた、ぼくを待っていたのは。
その日、祖母のしわんだ細い指から
やわらかく、小さかったぼくの手のひらを
あなたは、どんな思いで手にしたのでしょう。
いつの日だったかしら、
樹が、葉っぱを振り落としたのは。
ぼくは、幼稚園には行かなかった。
保育園だったから。
ひとつづきの敷石は、ところどころ縁が欠け、
そばには、白い花を落とした垣根が立ち並び、
板石の端を踏んではつまずく、ぼくの姿は
腰折れた祖母より頭ふたつ小さかったと。
落ち葉が、枯れ葉に変わるとき、
樹が、振り落とした葉っぱの行方をさがしていた。
ひとに見つめられれば、笑顔を向けたあの頃に
ぼくは笑って、あなたの顔を見上げたでしょうか。
そのとき、あなたは、どんな顔をしてみせてくれたのでしょうか。
顔が笑っているときは、顔の骨も笑っているのかしら。
言いたいこと、いっぱい。痛いこと、いっぱい。
ああ、神さま、ぼくは悪い子でした。
メエルシュトレエム。
天国には、お祖母(ばあ)ちゃんがいる。
いつの日か、わたしたち、ふたたび、出会うでしょう。
溜め息ひとつ分、ぼくたちは遠くなってしまった。
近い将来、宇宙を言葉で説明できるかもしれない。
でも、宇宙は言葉でできているわけじゃない。
ぼくに似た本を探しているのですか。
どうして、ここで待っているのですか。
ホヘンブエヘリア・ペタロイデスくんというのが、ぼくのあだ名だった。
母方の先祖は、寺守(てらもり)だと言ってたけど、よく知らない。
樹が、葉っぱの落ちる音に耳を澄ましていた。
いつの日だったかしら、
わたしがここで死んだのは。
わたしのこころは、まだ、どこかにつながれたままだ。
こわいぐらい、静かな家だった。
中庭の池には、毀れた噴水があった。
落ち葉は、自分がいつ落とされたのか忘れてしまった。
缶詰の中でなら、ぼくは思いっ切り泣ける。
樹の洞(ほら)は、むかし、ぼくが捨てた祈りの声を唱えていた。
いつの日だったかしら、
少女が、栞(しおり)の代わりに枯れ葉を挾んでおいたのは。
枯れ葉もまた、自分が挾まれる音に耳を澄ましていた。
わたしを読むのをやめよ!
一頭の牛に似た娘がしゃべりつづける。
山羊座のぼくは、どこまでも倫理的だった。
つくしを摘んで帰ったことがある。
ハンカチに包んで、
四日間、眠り込んでしまった。


 この詩が、先に述べた、「偶然を最大限に利用する方法」でつくった最初のものである。そのせいか、まだ初期の、
思い出をもとに言葉を紡いでいったころの、先に表現したいことがあって、それを言葉にしていったころの名残があ
る。つぎに紹介する「王国の秤。」をつくっていたころには、すでにコラージュという手法にもすっかり慣れていて、
その手法で、できる限りのことを試していたのであるが、それと同時に、コラージュという手法自体を見つめて、「詩
とは、何か。」とか、「言葉とは、何か。」とか、「わたしとは、何か。」とか、「自我とは、何か。」とかいったことも考
えていたのである。

コラージュをしている間、しょっちゅう、こんなふうに思ったものである。「わたしが言葉を通して考えているの
ではなく、言葉がわたしを通して考えているのである。」と。「言葉が、わたしの体験を通して考えたり、わたしの記
憶を通して思い出したり、わたしのこころを通して感じたりするのである。言葉が、わたしの目を通して見たり、わ
たしの耳を通して聞いたりするのである。言葉が、わたしのこころを通して愛したり、憎んだりするのである。言葉
が、わたしのこころを通して喜んだり、悲しんだりするのである。言葉が、わたしのこころを通して楽しんだり、苦
しんだりするのである。」と。

 コラージュをしている最中、しばしば、興に乗ると、数多くのメモのなかにある数多くの言葉たちが、つぎつぎと
勝手に結びついていったように思われたのだが、そんなときには、わたしというものをいっさい通さずに、言葉たち
自身が考えたり、思いついたりしていたような気がしたものである。しかし、これはもちろん、わたしの錯覚に過ぎ
なかったのであろう。たとえ、無意識領域の方のわたしであっても、それもまた、わたしであるのだから、じっさい
には、言葉たちが、無意識領域の方のわたしを通して、無意識領域の方のわたしという場所において、無意識領域の
方のわたしといっしょに考えたり、思いついたりしていたのであろう。ただ、意識的な面からすると、わたしには、
言葉たちが、自分たち自身で考えたり、思いついたりしていたように感じられただけなのであろう。

 つまるところ、言葉が、わたしといっしょに考えたり、思い出したり、感じたりするのである。言葉が、わたしと
いっしょに見たり、聞いたりするのである。言葉が、わたしといっしょに愛したり、憎んだりするのである。言葉が、
わたしといっしょに喜んだり、悲しんだりするのである。言葉が、わたしといっしょに楽しんだり、苦しんだりする
のである。世界が、わたしとともに考え、思い出し、感じるように。世界が、わたしとともに目を見開き、耳を澄ま
すように。世界が、わたしとともに愛し、憎むように。世界が、わたしとともに喜び、悲しむように。世界が、わた
しとともに楽しみ、苦しむように。


王國の秤。


きみの王國と、ぼくの王國を秤に載せてみようよ。
新しい王國のために、頭の上に亀をのっけて
哲学者たちが車座になって議論している。
百の議論よりも、百の戦の方が正しいと
将軍たちは、哲学者たちに訴える。
亀を頭の上にのっけてると憂鬱である。
ソクラテスに似た顔の哲学者が
頭の上の亀を降ろして立ち上がった。
この人の欠点は
この人が歩くと
うんこが歩いているようにしか見えないこと。
『おいしいお店』って
本にのってる中華料理屋さんの前で
子供が叱られてた。
ちゃんとあやまりなさいって言われて。
口をとがらせて言い訳する子供のほっぺた目がけて
ズゴッと一発、
お母さんは、げんこつをくらわせた。
情け容赦のない一撃だった。
喫茶店で隣に腰かけてた高校生ぐらいの男の子が
女性週刊誌に見入っていた。
生理用ナプキンの広告だった。
映画館で映写技師のバイトをしてるヒロくんは
気に入った映画のフィルムをコレクトしてる。
ほんとは、してはいけないことだけど
ちょっとぐらいは、みんなしてるって言ってた。
その小さなフィルムのうつくしいこと。
それで
いろんなところで上映されるたびに
映画が短くなってくってわけね。
銀行で、女性週刊誌を読んだ。
サンフランシスコの病院の話だけど
集中治療室に新しい患者が運ばれてきて
その患者がその日のうちに死ぬかどうか
看護婦たちが賭をしていたという。
「死ぬのはいつも他人」って、だれかの言葉にあったけど
ほんとに、そうなのね。
授業中に質問されて答えられなかった先生が
教室の真ん中で首をくくられて殺された。
腕や足にもロープを巻かれて。
生徒たちが思い思いにロープを引っ張ると
手や足がヒクヒク動く。
ボルヘスの詩に
複数の〈わたし〉という言葉があるけど
それって、わたしたちってことかしら。
それとも、ボルヘスだから、ボルヘスズかしら。
林っちゃんは、
毎年、年賀状を300枚以上も書くって言ってた。
ぼくは、せいぜい50枚しか書かないけど
それでもたいへんで
最後の一枚は、いつも大晦日になってしまう。
いらない平和がやってきて
どぼどぼ涙がこぼれる。
実物大の偽善である。
前に付き合ってたシンジくんが
何か詩を読ませてって言うから
『月下の一群』を渡して、いっしょに読んだ。
ギー・シャルル・クロスの「さびしさ」を読んで
これがいちばん好き
ぼくも、こんな気持ちで人と付き合ってきたの
って言うと
シンジくんが、ぼくに言った。
自分を他人としてしか生きられないんだねって。
うまいこと言うのねって思わず口にしたけど
ほんとのところ、
意味はよくわかんなかった。
扇風機の真ん中のところに鉛筆の先をあてると
たちまち黒くなる。
だれに教えてもらったってわけじゃないけど
友だちの何人かも、したことあるって言ってた。
みんな、すごく叱られたらしい。
子どものときの話を、ノブユキがしてくれた。
団地に住んでた友だちがよくしてた遊びだけど
ほら、あのエア・ダストを送るパイプかなんか
ベランダにある、あのふっといパイプね。
あれをつたって5階や6階から
つるつるつるーって、すべり下りるの。
怖いから、ぼくはしないで見てただけだけど。
団地の子は違うなって、そう思って見てた。
ノブユキの言葉は、ときどき痛かった。
ぼくはノブユキになりたいと思った。
鳥を食らわば鳥籠まで。
住めば鳥籠。
耳に鳥ができる。
人の鳥籠で相撲を取る。
気違いに鳥籠。
鳥を牛と言う。
叩けば鳥が出る。
鳥多くして、鳥籠山に登る。
高校二年のときに、家出したことがあるんだけど
電車の窓から眺めた景色が忘れられない。
真緑の
なだらかな丘の上で
男の子が、とんぼ返りをしてみせてた。
たぶん、お母さんやお姉さんだと思うけど
彼女たちの前で、何度も、とんぼ返りをしてみせてた。
遠かったから、はっきり顔は見えなかったけれど
ほこらしげな感じだけは伝わってきた。
思い出したくなかったけれど
思い出したくなかったのだけれど
ぼくは、むかし
あんな子どもになりたかった。


 目をやるまでは、単なる文字の羅列にしか過ぎなかったメモの塊が、何度か眺めては放置している間に、あるとき、
偶然目にしたものや耳にしたもの、あるいは、ふと思い出したことや頭に浮かんだことがきっかけとなって、つぎつ
ぎと結びついていく。出来上がったものを見ると、結びつけられてはじめてメモとメモの間に関連があることがわか
ったり、関連がなくても、結びつけられていることによって、あたかも関連があるかのような印象が感じられたりす
る。しかも、全体を統一するある種の雰囲気が醸し出されている。出来上がった後は、どのメモも動かせない。一つ
でも動かすと、全体の統一感はもちろん、メモとメモの間に形成された所々の印象の効果もなくなる。「「偶然」は云
はば神意である。」と、芥川龍之介は、『侏儒』に書いている。「偶然即ち神」とも。そういえば、プリニウスの『博物
誌』にも、「偶然こそ、私たちの生の偉大な創造者というべき神である。」(第二十七巻・第二章、澁澤龍彦訳)という
言葉があった。また、「神」といえば「愛」。「神と愛は同義語である。」(ゲーテ『牧師の手紙』小栗 浩訳)、「愛は、す
べてを完全に結ぶ帯である。」(コロサイ人への手紙三・一四)。エンペドクレスは、『自然について』のなかで、「とら
えて離さぬ「愛」」、「「愛」の力により すべては結合して一つとなり」(藤沢令夫訳)と述べている。ヴァレリーの『カ
イエB 一九一〇』には、「精神は偶然である。私がいいたいのは、精神という語意自体のなかに、とりわけ、偶然と
いう語の意義が含まれている、ということなのだ。」(松村 剛訳)とあり、『詩と抽象的思考』には、「詩人は人間の裡
に、思いがけない出来事、外的あるいは内的の小事件によって、目覚めます、一本の木、一つの顔、一つの《主題》、
一つの感動、一語なぞによって。」(佐藤正彰訳)とある。まるで、偶然が、すべてのはじまりであるかのようである。

 ところで、なぜ、メモとメモが結びついたのであろうか。放置されている間に、メモとメモの間隙を埋める新しい
概念が形成されたからであろうか。ショーペンハウアーが、『意志と表象としての世界』第一巻・第九節で、ある概念
が全く異なる概念に移行していく様を、図を用いて説明しているのだが、それというのも、「一つの概念の範囲のなか
には、通常、若干数の他の概念の範囲と重なってくる部分がある。この後者(若干数の他の概念)の領域の一部を自分
の領域上に含むことはもとよりだが、しかし自らはそれ以外になお多くの他の概念を包み込んでいるからであ」り、「概
念の諸範囲がたがいに多種多様に食いこみ合っているので、どの概念から出ようと、別の概念に移行していく勝手気ま
まさに余地を与えている」(西尾幹二訳)からである、というのである。ヴァレリーの『邪念その他』Nには、「見ずに
見ているもの、聞かずに聞いているもの、知らずに心のなかで呟いているもののなかには、視覚と聴覚と思考の無数の
生命を養うのに必要なものがあるだろう。」(清水 徹訳)とあり、マイケル・マーシャル・スミスの『スペアーズ』の
第一部・3には、「決断を下して人生を作り上げているのは目が覚めているときのことだと人は思いがちだが、実はそ
うではない。眠り込んでいるときにこそ、それは起きるのだ。」(嶋田洋一訳)とある。まさに、概念というものは、「創
造者であるとともに被創造物でもある。」(ブライアン・W・オールディス『讃美歌百番』浅倉久志訳)「一つ一つの
ものは自分の意味を持っている。」(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)「その時々、それぞれの場所はその
意味を保っている。」(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)「断片はそれぞれに、そうしたものの性質に従っ
て形を求めた。」(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』36、黒丸 尚訳)。

 精神には夥しい数の概念がある。精神とは、概念と概念が結びつく場所であり、概念と概念を結びつけるのが自我
であるという、ヴァレリーの数多くの考察に基づく、非常にシンプルなモデルを考える。あるいは、逆に、概念と概
念が結びつくことによって、自我が形成されると考えてもよいのだが、これは、いわゆる、「原因と結果の同時生起」
(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・九、菊盛英夫訳)といったものかもしれない。「どちらが原因でどちらが結果なの
か」(アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』一九〇五年五月三日、浅倉久志訳)、ただ、後者のモデルだと、自
我というものは、概念と概念が結びつく瞬間瞬間に、そのつど形成されるものであることになり、結びつかないとき
には、自我というものが存在しなくなるのだが、それは、極端な場合で、シンプルなモデルを考えると、そういった
場合も想定されるのであるが、前節で引用した文章にあるように、意識のない状態でも、概念と概念が結びつくこと
があるとすれば、自我が消失してしまうというようなことはないはずである。もちろん、自我がない状態というのも
あってよいのであるが、また、じっさいに、そのような状態があるのかもしれないが、しかし、それは、わたしには
わからないことである。ところで、また、自我によって強く結びつけられた概念だけが意識の表面に現われるものと
すれば、想起でさえ、何かをきっかけにして現われるものであるのだから、その何かと、すでに精神のなかにあった
概念を、自我が結びつけて、想起される概念を形成したと考えればよいのである。その何かというのは、感覚器官か
らもたらされた情報であったかもしれないし、その情報が、精神のなかに保存されていた概念と結びついたものであ
ったかもしれないが、少なくとも想起された概念を形成する何ものかであったかとは思われる。キルケゴールの『不
安の概念』第二章にある、「人の目が大口を開いている深淵をのぞき込むようなことがあると、彼は目まいをおぼえる。
ところでその原因はどこにあるかといえば、それは彼の目にあるともいえるし、深淵にあるともいえる。」(田淵義三郎
訳)といった言葉に即して考えると、放置されている間に、メモとメモの間隙を埋める新しい概念が形成されて、そ
れがメモにある言葉を自我に結びつかせたのかもしれないし、たまたま、メモにあった言葉が自我に作用し、自我が
メモにある言葉を結びつかせるほど活発に働いたのかもしれない。ヴァレリーの『刻々』に、「善は或る見方にとって
しか悪の反対ではなく、──別の見方は二つを繋ぎ合わせる。」(佐藤正彰訳)という言葉がある。たしかに、「繋ぎ合
わせる」のは自我であるが、かといって、「別の見方」ができるのは、精神のなかに「別の見方」を可能ならしめる概
念があってこそのことかもしれない、とも思われるのである。どちらが原因となっているのか、それはわからない。
メモにある言葉や、そのメモを眺めているときの状況に刺激されて、自我が活発に働いて、メモにある言葉と言葉を
結びつけていったとも考えられるし、放置されている間に、精神のなかに、メモとメモの間隙を埋める新しい概念が
形成されて、それらが自我に作用して、メモにある言葉と言葉を結びつけていったのかもしれない。後者の場合は、
たしかめようがないのである。じっさいのところは、こうである。突然、あるメモにある言葉が目に飛び込んできて、
ほかのメモにある言葉と勝手に結びついたのである。そして、そういった状態が連続して起こったのである。メモと
メモが結びついている間、自我がすこぶる活発に働いていたのは、たしかなことであった。そう、わたしは実感した
のである。モンテーニュの『エセー』の第III巻・第9章に、「わたしの考えはおたがいに続きあっている。しかし、と
きどきは、遠くあいだを置いて続くこともある。」(荒木昭太郎訳)とある。「ぼくたちはいつまでも空間(あいだ)をおいて見つ
め合わなくてはならないのだろうか?」(トム・ガン『へだたり』中川 敏訳)。デカルトの『方法序説』の第2部に、「一
つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達で
きるし、どんなに隠れたものでも発見できる」(谷川多佳子訳)とある。「空間がさまざまな顔に満たされるのだ。」(ジ
ョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』48、澤崎順之助訳)。

 ところで、ボードレールは、「人は想像力豊かであればあるほど、その想像力の冒険に付き随って行って、それが貪
婪に追求する多くの困難を乗り越えるに足るだけの技術を備えている必要がある。」(『一八五九年のサロン』1、高階
秀爾訳)と述べている。結局のところ、「一人の人間が所有する言語表象の数がその人間が更に新しいものをみつける
のに持ちうる機会の回数にたいへん影響をもつ」(ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』山田九朗訳)
はずで、ニーチェは、『ツァラトゥストラ』の第二部に、「断片であり、謎であり、残酷な偶然であるところのものを、
『一つのもの』に凝集し、総合すること、これがわたしの努力と創作の一切なのだ。」(手塚富雄訳)と書いており、ホ
フマンスタールは、「出会いにあってはすべてが可能であり、すべてが動いており、すべてが輪郭をなくして溶けあう」
(『道との出会い』檜山哲彦訳)と書いている。

「なぜ人間には心があり、物事を考えるのだろう?」(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)「心は心
的表象像なしには、決して思惟しない。」(アリストテレス『こころとは何か』第三巻・第七章、桑子敏雄訳)。

「詩人の才能よ、おまえは不断の遭遇の才能なのだ」(ジイド『地の糧』第四の書・一、岡部正孝訳)。「あらゆる好
ましいものとあらゆる嫌なものとを、次々に体験し」(ヴァレリー『我がファウスト』第一幕・第一場、佐藤正彰訳)、
「一つひとつ及びすべてを、一つの心的経験に変化させなければならない」(ワイルド『獄中記』田部重治訳)のだ。


水のない街

  葛西佑也

私達には何も残されていないのだと彼女は言った
水のない街で湿気ってしまったビスケットを頬張りながら
手持無沙汰をやり過ごす君にはすべての理解は容易ではなかったはずだ
消費しつくされてしまった時間を取り戻すのは難しく
忘却されてしまった道徳のかけらも手のひらにはなく
何も持たぬまま それでも たたかっていかねばならなかった
二割がまっとうな仕事で
八割は法には触れないまでも 
とても誇れるようなもんではないと
君がため息交じりにつぶやいたのは 
たしか去年の秋ではなかったか

残されたキャンディーの袋のねじれをほどけば
そこからまた新たな人間関係が始まった
直感的に知っているのだ
その中身の個体が持つ甘さを
餓えとは甘さへの餓えであった
見えない敵に怯えながら自分自身という甘さに怯えながら
避けることのできない不条理とたたかっていかなければならない
それを人生とか生きるということだと一言で済ませるのならば
済ませることができるのならば
私には言葉はいらない 言葉などすでに必要はなかった


彼女はよく喋る人であったし
私はそんなところに惹かれてもいた
くだらないことで悪事を働くのはハイリスクハイリターンで
やるならば本当にやばいことをしろと
君は言った
その日はなかなか夕日が沈まず
足の指先という指先のすべてから
謎の液体がしたたっていた
それを一本ずつ丁寧に君が拭き取ってくれて
それで君の汗が私のその液体と化学反応をおこした
雄弁で饒舌であっても飯は食えぬ

三歩進んで二歩下がるならばまだましで
私たちは何も進歩してはいなかった
体中の水分という水分は失われてしまった すべて
私たちには何も残されていない
すべてが詩的になったり塵のようになったりもするし
明日になれば何があるのかなんて誰にもわからなかった
答えとかそういうものは用意されていないのだ
あるいはすべて消費し尽されてしまったのかもしれない

途方に暮れながらも
また歩き出す
あてもなく


きっとこの先に水のない街がある


箱についての三つの詩

  前田ふむふむ

箱のなか
     
     1

ここは
硬いケヤキで 柱などの構造が 組み立てられていて
天井と横壁と床は 部厚い漆喰で覆われている
そして床の上には
柔らかい布団が一面ひかれている
丁度
二立方メートル位の
立方体の入れ物のようなのだ

入口も出口もない
この入れ物は
正面にわずかに隙間がある
そのせいなのか
正面の壁の方から
決まった時間に
錐のような船の汽笛が鳴る
わたしは 毎日
目覚まし時計のように聞いて
眼を覚ます
でも 何もすることがなく
ぼんやりしていると
ときどき
右の壁からや 左の壁からは
海猫の声ととともに
鋭い岬に 寄せてはかえす
波の砕ける音が聞こえてくる

この物体を外観的に想像するに
四角い箱のようなのだ

    2

わたしは  
体育座りをして
この四角い箱にはいっていると 
ひとの囁く声が 聞える気がした 
幼い頃に聞いた
懐かしい声なので 思わず
父サン 母サンと言ってみた 
わたしのとなりが わずかに空間ができていて 
穏やかなぬくもりを感じながら 毎日をすごした 
箱は狭かったが 夜のセラピックな匂いが
いつも充満していた 

ときおり ひかりが箱の透き間から 刺してくる 
そのひかりがとても羨ましくて 
外の物音がなくなるころを見計らい 
ひかりの方に訪ねて行ったりしたが 
いつも その場所には 
青い半袖のワイシャツが 掛かっている 
そして 小学生でも
解ける
やさしい計算式が書いてあった 
わたしはふくみ笑いをすると 
青い半袖のワイシャツは 不満そうに燃えだして 
使い古しのカッターで 手首を切った 
朝が噴きだしてきて 
全く同じ計算式を
青い空のカンバスに書いた
     

    
   
気が付くと 子供がわたしの横に座っている
しばらく
二人で計算式を眺めてみた
やがて 子供は 悲しそうにして
この部屋は暗いね といって 少し怯えている
だから 優しく子供を抱いて 寝かしつけた
子供の心臓の鼓動が わたしの心臓と共鳴している
もう 数えられないくらい長い間
柔らかい脈を聞きながら 
わたしは 子供と溶け合っていった

子供のいたところは いつの間にか 冷たい壁になった


     3

ある時のことだ
箱の透き間から きらきらとするひかりが入ってくる
楽しそうな笑い声 静寂 罵声
そっと覗くと
テレビで 
バラエティー番組をやっている
とても驚いたが
わたしと全くおなじ
わたしが楽しく 幸せそうに
家族と
食事をしながら
団欒を囲んでいるのだ

柱時計が午後九時を打っている
それを打ち消すように
くりかえし くりかえし
鋭い波の砕ける音が聞こえてくる

訳もなくかなしい
強い衝動が沸きあがり
そういえば
わたしは まだ ここから出たことがない

震える手が
「出てみたい 
「生まれて始めてなんだ 箱を開けようと思うのは」

そとは
雨が降りだしている音がする
突然 船の汽笛が 叫び声のように
正面の壁から響いてくる
出口はどこなのだろう

青い空はまだあるのか
計算式はどうなったのだろう
わたしは 忘れていた少年のような計算式が心配になり
ひかりの方向にむかった


水槽

いつも虐められていたので 
水槽の魚になりたいと思った
水槽の魚は 自由に泳ぎ 気持良さそうだった
そして いつも楽しそうだった
ある夜のことだ
最先端の思想の本を読んでいると 
身体が勝手に動き出して 鰭が生えてきた
気が付くと 手がなくなり 足もなくなっていた
そして 全身が 鱗で覆われていた
夢のような出来事に とても驚いたが 
僕が いつも願っていたことだった
とうとう 魚になれた
そう思うと 身体を縛っていた壁のようなものが 
壊れて
水に凭れかかるように楽になり
しばらくの間 何もかもが幸せに感じた

でも 泳ぐことは出来ても 歩くことは出来なかった
手を使って 物を持つことも出来なかった
だから 冷蔵庫から 食事を取ることも出来なかった

しかし 僕は魚になれたために 
一躍有名になれたので
食べ物は 好奇心いっぱいのファンが 
持ってきてくれた
だから 十分に生きていけたのだけれど
透明な箱には 僕しか居なかった
僕は 自由を獲得したのに とても寂しくなった

水槽のそとから 
毎日のように
僕の知っている顔
知らない顏たちが見ている
最初は優越感に近い感情が湧いてきて 
嬉しかったが 
次第に 冷静になると
まるで 監視されているようで この水槽から出たくなった
でも この箱からでると 自由は失われて
死んでしまうと みんなが言っているようにみえる
不満そうにみえたのか
みんなは 僕を励ますために
歌をうたってくれたが
そのうち 飽きてきたのか 段々とみんなは
ひとり去り 
またひとり去り
ついに誰もいなくなった

言い知れぬ寂しさが 僕を襲い始めた
だから あらたな自由を求めて
体当たりをして 水槽を破ろうとした
何度も何度も

でも 水槽は破れなかった
僕は悶々とした日々を過ごしたが こんな日々がつづくのならば
魚であることをやめようと思った
そして 僕には もともと
足があり 手もあることを思い出した
水槽はなくなり 僕は 水槽からもひとりになった
部屋はうす暗く 単調な日々がつづいた

僕の部屋には ひとつの水槽がある
僕は魚を見ながら 
やはり魚は自由であると思いつづけている
僕の脈が止まるまで 僕には水槽があるのだ
どこにいっても
いつも
なみなみとみずを充たした
水槽がある


箱ひと
     
      1

わたしは 箱である
段ボール箱を被っているわけではない
ある日 雑踏を歩いていると
突然 全身が痙攣して
失神したのが始まりである
それ以来
自分を箱だと思わないと
身体に異変が起きるのだ
発病してからずいぶんとなるが
この十二月の空のもと
わたしは 自分をのっぺりした箱だと信じて
生きている
病状がすすんだためか
他人から 箱ではないと否定されると
全身に痙攣をおこして 気絶するのだ
そのためか
他人とは関わらずに
ほとんど置かれた箱のように
生きている

だから街中で 
四角い箱の形をして 
ひっそりと ひとに知られずに いることが多い 
今日は 一段と寒いような気がするが
ときには一日中 風雨に打たれて
路地端で じっと耐えていることもあった
そして 誰もが
わたしを見て 気づかないでいる
箱だから 息も体臭も気配も 
多分ないのだろう

でも
箱でいると 人格が限りなく 否定され 
その みすぼらしい外観とは 反比例して
世界の外にいるようで
全能の神のように 
他者を見ることが出来ることに気付いた
それは わたしに言い知れぬ快感を与えている

      2

そうだ
新しい時代の文明論的な何者かが芽吹く
境界に出会ったことを話そう

都会の
夜もくれたある日のことである
けばけばしいネオンが一面に点灯している
むせかえる欲望を
吐きつづける 
この賑わう眠らない街で
路行く男と女たちは 
汗ばんだ肌を 際立たせている

客引きが忙しなく動いている
抑揚のない時間の針は
華美で着飾った
剥きだしの歓楽の風景を たんたんと 刻みつづけている
熱気を帯びた男女の
熟し切った声は 夜の窪みに 
唾液のような
みずたまりをつくっている 

この街の薄汚れた裏角に
今まで誰も見たことがない
おそらく だれも育てたことがないだろう
奇形の胎児が捨ててある
その胎児を跨ぎながら ふたりの男女が罵り合っている
左手にスマートホンをもった
茶髪の十代の女が
   「あたしがひきとり たいせつに育てる」
右手に法律書をもった老練な男が
   「いや わたくしが人知れずに葬ろう」

罵り合いは ふたりが疲れきるまで終わらなかった

見知らぬ場末の路地の溜まり場は
煌々と冷たい月が揺らめいていた

     3

わたしは 箱だから 
よそ者のように
世界の外にいるのだから
利害に関係なく
どちらかに判定を下すことができる
そして 自我を擽る満足感を得られるだろう
事実 みずからが文化を作っているかのように
判定を下して
悦に入った
でも どちらかに決めたとしても 
あの当事者のふたりにはいうことができない
わたしがしゃべれば 
箱でないことがわかり
全身に痙攣を起こして
死んでしまうかもしれない

わたしは こうして長い間 箱でいる
寂しいことはない
どうしても言いたいときは
鏡に向かって
自分自身に話すように 
ほんとうの箱にむかって話すのだ
信じられないだろうが
そうすると
わたしと同じ箱でいるひとは
わたしにひそかに話しかけてくる 
そして
箱としての秘密を共有するのだが
そのとき 世の中には
わたしと同じ箱ばかりであるように思えてくる
街のなかには 
意外と思うかもしれないが
同じ病状の
たくさんの箱がいるものだ


ATOM HEART MOTHER。──韻律と、それを破壊するもの/詩歌の技法と、私詩史を通して

  田中宏輔



ころげよといへば裸の子どもらは波うちぎはをころがるころがる

 相馬御風の歌である。それにしても、「この音は何だ」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第一幕、石川重俊訳)。
なんと楽しい歌であろう。これほど人を楽しませる歌は、ほかにはないであろう。愛と喜びに満ちあふれた歌である。
おそらく、「音楽は人間的なことの中でももっとも人間的なことで」(シオドア・スタージョン『夢見る宝石』14、永
井 淳訳)あろう。


街道をきちきちと飛ぶ螇蚸(ばつた)かな                               (村上鬼城)

霧ぼうぼうとうごめくは皆人なりし                            (種田山頭火)

燭(しよく)の火を燭にうつすや春の夕                                (与謝蕪村)

枯蓮のうごく時きてみなうごく                               (西東三鬼)

飛行機となり爆弾となり火となる                              (渡辺白泉)


 一見すると、こういった同音の反復は、短歌よりも音節数の少ない俳句での方が、より音楽的に聞こえるものであ
るが、こうして立てつづけに読んでいくと、いささか単調なものに思われてくる。「どんなものも、くりかえされれば
月並みになる」(R・A・ラファティ『スナッフルズ』1、浅倉久志訳)ということだろうか。つぎに、音調的により
巧妙な技法が施されているものを見てみよう。


春雨や降るともしらず牛の目に                               (小西来山)

何も彼も聞き知つてゐる海鼠(なまこ)かな                              (村上鬼城)

咲き切つて薔薇の容(かたち)を超えけるも                             (中村草田男)

雷落ちしや美しき舌の先                                  (西東三鬼)

憲兵の前で滑つて転んぢやつた                               (渡辺白泉)


 これくらいに音調的に巧みだと、繰り返し読んでも飽きない。じっさい、三度、四度と、つづけて読み返してみて
も、耳に心地よいものである。また、エマソンの言葉に、「ものが美しい調べに変わるさまは、ものが一段高い有機的
な形態に変貌するさまに似ている。」(『詩人』酒本雅之訳)というのがあるが、これらの句のなかに出てくる「牛の目」
や「海鼠」といった言葉から、わたしが思い浮かべるイメージは、これらの句を読む前に思い浮かべていたであろう
イメージとは、まったく違ったものになってしまったように思われる。すでに読んでしまったので、読む前に持って
いたイメージを正確に思い出すことなどできないのだが、それでも、読む前に、「牛の目」や「海鼠」といったものに
対して、それほど神秘的な印象を抱いていなかったのは、たしかである。読んでからなのである。「牛の目」や「海鼠」
といったものに対して、それらの存在に対して、とても神秘的な印象を持つようになったのは。「牛の目」や「海鼠」
といったものに対して、けっして人間には近づくことのできないところ、徹底的に非人間的なところを感じたのは。
しかし、それなのに、同時にまた、よりいっそう人間に近づいたようなところ、よりいっそう身近なものになったよ
うなところも感じられたのである。「画面にひたすら事物だけが描きこまれるときは、事物がまるで人間のように振舞
う。まさに、人間の劇なのだ。」(プルースト『サント=ブーヴに反論する』フロベール論に書き加えること、出口裕弘・
吉川一義訳)「世界は象徴として存在している。語られる言葉の部分部分が隠(いん)喩(ゆ)なのだ。自然全体が人間精神の隠喩だ
からだ。」(エマソン『自然』四、酒本雅之訳)「人間と結びつくと、人間になる。」(川端康成『たんぽぽ』)「人間は万
有に対する類推(アナロギー)の源なのだ。」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)といった言葉が思い起こされる。
また、短歌も俳句も、「多くを言うために少なく言う言いかたで」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』17、菅野
昭正訳)、「とても短い言葉なのに、たくさんの意味がこめられている。」(シオドア・スタージョン『フレミス伯父さん』
大村美根子訳)。ときに、「小さくてつまらないことでも、大きな象徴とおなじように役に立つ。法則が表現される際の
象徴がつまらないものであればあるほど、それだけいっそう強烈な力を帯び、人びとの記憶のなかでそれだけ永続的な
ものとなる。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)。引用した句のなかでいえば、草田男のものが、突出しているだろうか。
正確な目が見つめる、ほんのささいな事柄が、「すべての事象により強い実在感を与えると同時に、世界を、微妙なシ
ンボルの集合体に変えてしまったのである。」(ラングドン・ジョーンズ『時間機械』山田和子訳)「そのひと言でぼく
の精神状態はもちろん、あたりの風景までが一変した。」(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』女戦士(アマゾネス)、
木村榮一訳)「人間はいちど変わってしまうともとには戻れない。これからは何も二度と同じには見えないのだ。」(キ
ム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第三部・11、大西 憲訳)。そして、「世界はもう二度と元の姿にはも
どらないだろう。」(コードウェイナー・スミス『酔いどれ船』伊藤典夫訳)。ところで、「単純になるにつれて、豊かさ
が増す」(ノヴァーリス『対話・独白』今泉文子訳)というのは、「複雑なものより単純なもののほうが、より多くの精
神を必要とする」(ノヴァーリス『花粉』87、今泉文子訳)からであろうか。「人生のあらゆる瞬間はかならずなにか
を物語っている」(ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』四・16、小林宏明訳)。「人生を楽しむ秘訣
は、細部に注意を払うこと。」(シオドア・スタージョン『君微笑めば』大森 望訳)という言葉があるが、細部での方
が、精神がよく働き、よく実感されるからであろうか。たしかに、人間の精神というものは、大きなものよりも小さ
なものに対して、抽象的なものよりも具象的なものに対して、よりよく働くものである。「愛するものは、生き生きし
てる」(フィリップ・K・ディック『凍った旅』浅倉久志訳)という言葉もあるが、それは、具体的なものが、愛する
対象となっているために、精神がよく働かされ、こころがうれしくなるからであろう。エズラ・パウンドの「おまえ
が愛するものはのこる」(『詩章 第八十一章』出淵 博訳)という詩句が思い起こされる。また、愛とくれば、憎しみ
が、憎しみとくれば、苦痛が連想される。ダン・シモンズの「人生ではね、最大の苦しみをもたらすものは、ごくちっ
ぽけなものであることが多いの」(『エンディミオンの覚醒』第一部・10、酒井昭伸訳)といった言葉も思い起こされ
る。

 その形式が、もたらすのであろう。俳句も短歌も、まことに暗示性に富んだ文学形式である。しかし、一般的には、
俳句作品の方が、短歌作品よりも情景を思い浮かべやすいものが多く、短歌作品の方が、俳句作品よりも作り手自身
の情感を読みとりやすいものが多いと思われる。
 作り手自身の情感がよく伝わる、音調的にも美しい歌を、古今と新古今の歌人の作品のなかから、いくつか見てみ
よう。


ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ                     (紀 友則)

筑波嶺(つくば ね)の峰より落つるみなの川(がは)恋ぞつもりて淵(ふち)となりぬる                    (陽成院)

来ぬ人をまつ帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ                 (権中納言定家)

玉の緒よ絶えなば絶えね永らへば忍ぶることの弱りもぞする                 (式子内親王)

つぎの歌は、与謝野晶子の作品である。

わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ


「形式(丶丶)は本質的に反復(丶丶)と結びついている。」(ヴァレリー『文学論』第一部、堀口大學訳)「リズムはいたるところに
あり──いたるところに忍び込む。」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)「音楽がはっきりした形
をとるのが見える。」(ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』第四部・21、黒丸 尚訳)「形式は作品の骨格だ。」
(ヴァレリー『文学論』第三部、堀口大學訳)「韻律とは何か?」(ディラン・トマス『黄昏の明かりに祭壇のごとく』
IV、松田幸雄訳)「霊なのか?」(ディラン・トマス『黄昏の明かりに祭壇のごとく』IV、松田幸雄訳)「霊?」(ラーゲ
ルクヴィスト『巫女』山下泰文訳)「霊である。」(『知恵の書』一・六)「霊が眼前に顕われれば、われわれはたちまち
みずからの霊性に目覚めるだろう。すなわちわれわれは、その霊と同時にみずからをも媒介にして、霊感を吹き込まれ
るだろう。霊感がなければ霊の顕現もない。」(ノヴァーリス『花粉』33、今泉文子訳)。声が発語者の身体の延長であ
るならば、書かれた言葉は、書いた者の魂の延長であろう。「語の運びや拍子や音楽的精神を感じとる繊細な感覚にめ
ぐまれた者、あるいは、言葉の内的本性の繊細な働きを身内に聞きとり、それにあわせて舌や手を動かす者」(ノヴァ
ーリス『対話・独白』今泉文子訳)、「詩人の言葉は一般的な記号ではなく──音の響きであり──自分の周囲に美しい
群れを呼び寄せる呪文なのだ。」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)。
それというのも、人間のうちに音楽があり、意味があるからである。それというのも、人間自体が音楽であり、意
味であるからである。


高野川


底浅の透き通った水の流れが
昨日の雨で嵩を増して随分と濁っていた
川端に立ってバスを待ちながら
ぼくは水面に映った岸辺の草を見ていた
それはゆらゆらと揺れながら
黄土色の画布に黒く染みていた
流れる水は瀬岩にあたって畝となり
棚曇る空がそっくり動いていった
朽ちた木切れは波間を走り
枯れ草は舵を失い沈んでいった

こうしてバスを待っていると
それほど遠くもないきみの下宿が
とても遠く離れたところのように思われて
いろいろ考えてしまう
きみを思えば思うほど
自分に自信が持てなくなって
いつかはすべてが裏目に出る日がやってくると

堰堤の澱みに逆巻く渦が
ぼくの煙草の喫い止しを捕らえた
しばらく円を描いて舞っていたそれは
徐々にほぐれて身を落とし
ただ吸い口のフィルターだけがまわりまわりながら
いつまでも浮標のように浮き沈みしていた


 わたしが生まれてはじめて書いた詩である。初出は、「ユリイカ」一九八九年八月号・投稿欄である。選者は、増
剛造氏である。つぎの詩は、同誌の一九九〇年九月号・投稿欄に掲載されたもので、選者は、大岡 信氏である。「高
野川」を書いていたときには、まだ、詩は、堀口大學氏の訳詩集である『月下の一群』くらいしか読んでいなかった
のであるが、つづけて同誌に投稿していた一年ばかりの間に、北園克衛をはじめとする日本のモダニズム詩人たちの
詩にも接するようになっていた。「夏の思い出」には、その影響が顕著に見受けられる。


夏の思い出



白い夏
思い出の夏
反射光
コンクリート
クラブ
ボックス
きみはバレーボール部だった
きみは輝いて
目にまぶしかった
並んで
腰かけた ぼく
ぼくは 柔道部だった
ぼくらは まだ高校一年生だった

白い夏
夏の思い出
反射光
重なりあった
手と

汗と

白い光
光反射する
コンクリート
濃い影
だれもいなかった
あの日
あの夏
あの夏休み
あの時間は ぼくと きみと
ぼくと きみの
ふたりきりの
時間だった
(ふたりきりだったね)
輝いていた
夏の
白い夏の

あの日
ぼくははじめてだった
ぼくは知らなかった
あんなにこそばったいところだったなんて
唇が
まばらなひげにあたって
(どんなにのばしても、どじょうひげだったね)
唇と
汗と
まぶしかった
一瞬

ことだった

白い夏の
思い出
はじめてのキスだった
(ほんと、汗の味がしたね)
でも
それだけだった
それだけで
あの日
あのとき
あのときのきみの姿が 最後だった
合宿をひかえて
早目に終わったクラブ
きみは
なぜ
泳ぎに出かけたの
きみはなぜ
彼女と
海に
いったの

夏の

白い夏の思い出
永遠に輝く
ぼくの
きみの
夏の

あの夏の日の思い出は
夏がめぐり
めぐり
やってくるたびに
ぼくのこころを
引き裂いて
ぼくの
こころを
引き千切って
風に
飛ばすんだ

白い夏
思い出の夏
反射光
コンクリート
クラブ
ボックス
重ねた
手と
目と
唇と
汗と
光と
影と
夏と



 韻律はリズムを生み、言葉に躍動感を与える。すると、読み手のこころは大いに喜ぶ。それが、愛の本性に適った
ことだからである。「愛とはなにか。/自己をぬけ出そうとする欲求。」(ボードレール『赤裸の心』二五、阿部良雄訳)
「魂の流出は、幸福である、ここには幸福がある」(ホイットマン『大道の歌』8、木島 始訳)。「僕たちの人生のどん
な瞬間であろうと、僕たちのなかには、発散されることを必要とする力がある」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』
9、菅野昭正訳)。「愛はわたしを大きくする。」(ローベルト・ヴァルザー『夢』川村二郎訳)「それにしても、何の光だ
ろう?」(サングィネーティ『イタリア綺想曲』69、河島英昭訳)「この光、」(ルーシャス・シェパード『スペインの教
訓』小川 隆訳)「この音は」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第一幕、石川重俊訳)。「偽りを許さない何か」(ロ
バート・F・ヤング『魔王の窓』伊藤典夫訳)、「あの何か間違ってはいないものの響き、ずっと昔に起こった何かの経
験、正しく光り輝くものであったことの?」(オラフ・ステープルドン『オッド・ジョン』10、矢野 徹訳)「その光は、
途方もなく明るかった」(ラーゲルクヴィスト『巫女』山下泰文訳)。「自分自身を輝かせると同時にそばにいる者を輝
かせる」(レイナルド・アレナス『夜になるまえに』レサマ=リマ、安藤哲行訳)。「なんという強い光!」(カブレラ
=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』昼夜入れ替えなしの興行、木村榮一訳)「それにしても、何の光だろう?」
(サングィネーティ『イタリア綺想曲』69、河島英昭訳)「いったい何なのか、」(コルターサル『石蹴り遊び』向う側
から・21、土岐恒二訳)「輝く光は」(スティーヴン・バクスター『真空ダイヤグラム』第七部・バリオンの支配者たち、
岡部靖史訳)。また、「その光はどこから出てきたものだったのだろう?」(ジュール・ヴェルヌ『カルパチアの城』13、

 安東次男訳)「その光がいったいどこから発しているのか」(アンナ・カヴァン『氷』5、山田和子訳)。そうだ。「あの
光は外から来るものではなく、ぼくの眼から出た光であり、」(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』
すべてが愛を打ち破る、木村榮一訳)「自身の思考から発したものに違いはない」(プルースト『サント=ブーヴに反論
する』サント=ブーヴとバルザック、出口裕弘・吉川一義訳)。愛というものは、つねに見出されるものである。「その
愛が形を変えて」(サバト『英雄たちと墓』第II部・4、安藤哲行訳)、言葉となって、光となり、音となったのである。
言葉となって、わたしのなかに折りたたまれていた光や音が解放されたのである。あの夏の日の日射し、あの真剣な
彼の眼差し、あのまぶしかった彼の面差し、彼という彼のすべてが一つの光だった。声など交わすこともなく手を触
れ合い、黙って唇を重ね合ったあの静けさも一つの声、あの沈黙も一つの音だった。

「美しいことにどのような意味があるのだろうか?」(ジェイムズ・アラン・ガードナー『プラネットハザード』下・
15、関口幸男訳)「自由とは魂がそのなかで美に向かって開かれるものなのか、魂にその自由の予感を与えるものが美
なのか」(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・三、菊盛英夫訳)。「美は、とりわけて可視的なものである。」(ノヴァーリ
ス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)「自然の恵む刺激とは、つまり物象にそなわる美のことで、」(エマソン『詩
人』酒本雅之訳)「魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現れることがない」(サバト『英雄たちと墓』第I部・
2、安藤哲行訳)。「見るというのは明瞭に認識することだ」(ダン・シモンズ『エンディミオンの覚醒』第一部・4、
酒井昭伸訳)。「ある概念を認識するためには、まずそれを視覚化しなければならない。」(ブライアン・オールディス『十
億年の宴』9、浅倉久志訳)「目は心に最も近く位置していて、」(プルタルコス『食卓歓談集』二三、柳沼重綱編訳)「観
念は視線を向けられたとたんに感覚となる。」(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)「われわれ
のあらゆる認識は感覺にはじまる。」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)「人間にとっては、可
感的なことがらを通して可知的なことがらに到達するのがその本性に適合している。われわれの認識はすべて感覚に端
を発するものだからである。」(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第一問・第九項、山田 晶訳)「感じるために
は、それを「理解」することが必要だ。」(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラ、井上究一郎訳)
「どんなに目に見える幸福も/私たちがそれを内部で変身させてはじめて私たちに認められるものとなる」(リルケ『ド
ゥイノの悲歌』第七の悲歌、高安国世訳)。見ることはうれしい。見えることはうれしい。見ることが喜びなのだ。見
えることが喜びなのだ。
「すべては見ること」(ジョン・ベリマン『73 カレサンスイ リョウアンジ』澤崎順之助訳)。


夕(ゆう)星(ずつ)は、
かがやく朝が(八方に)散らしたものを
みな(もとへ)連れかへす。
羊をかへし、
山羊をかへし、
幼(おさ)な子をまた 母の手に
連れかへす。


「なんとも美しい。こんな詩はもうだれにも書けないね。」(デニス・ダンヴァーズ『エンド・オブ・デイズ』下・12、
川副智子訳)。これは、古代ギリシアの女流詩人であるサッフォーの作品である。この詩の原文は、わずか二行ばかり
のものであったのだが、翻訳された呉 茂一氏によって、このように七行に行分けされた。日本語で書かれた詩のなか
で、この詩ほどにすばらしい詩を、わたしはほかに知らない。第一に、空間の把握の仕方がまことにもって見事であ
る。しかも、呉氏が、原文の二行を七行に改めて翻訳されたので、その空間の拡がりがより感じとれるものとなって
いる。しかし、何よりも、繰り返される言葉自体が耳に心地よく、その繰り返す言葉が、繰り返される人間の生の営
みというものを喚起させ、その音調的な美しさと、その情景の美しさのなかに、読み手を瞬時に包み込んでしまうの
である。はじめて目にしたときの感激は、いまでもいっこうに薄れてはいない。そのような詩は稀である。ここには
永遠があるのだ。しかも、それは、呼吸のように繰り返される、運動性を持った永遠なのである。まるで、ポオが『ユ
リイカ』のなかに書いていた「神の心臓の鼓動」(牧野信一・小川和夫訳)のごときものである。「神の心臓の鼓動」
という言葉はまた、ボードレールの「自我の蒸発と集中について。すべてがそこにある。」(『赤裸の心』一、阿部良雄
訳)といった言葉を、ただちに思い起こさせる。サッフォーのこの詩は、わたしが完璧に暗唱している数少ない詩の
一つである。記憶する際に、韻律は実に効果的であった。この韻律は、瞬時に、そして永遠に、わたしをこの情景の
なかに立ち戻らせる。そうなのだ。この詩は、わたしをその情景のなかに瞬時に投げ込み、瞬時に展べ拡げるのであ
る。無限に拡大するのである。その情景のなかに、わたしの「現存在を無限に拡大する」(ノヴァーリス『断章と研究 
一七九八年』今泉文子訳)のである。「存在を作り出すリズム」(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾
芙佐訳)、「人間ひとりひとりを永遠と偏在に参与せしめるリズム」(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』
小尾芙佐訳)。「一秒にも満たない瞬間にすべてが存在し、見つめられ、触れられ、味わわれ、嗅がれるのだ。」(ラング
ドン・ジョーンズ『時間機械』山田和子訳)「すべてがひとときに起こること。それこそが永遠」(グレン・ヴェイジー
『選択』夏来健次訳)。
 
 ここで、ふと、高村光太郎の「ヨタカ」という詩の終わりの三行が思い出された。


自然に在るのは空間ばかりだ。
時間は人間の発明だ。
音楽が人間の発明であるやうに。


 ノヴァーリスの「目だけが空間的(ヽヽヽ)である──他の感覚はすべて時間的である」(ノヴァーリス『青い花』遺稿、青山
隆夫訳)といった言葉も思い起こされる。

「真の始まりは自然詩である。終末は第二の始まり──そしてそれは芸術詩である。」(ノヴァーリス『断章と研究 一
七九八年』今泉文子訳)「事物を離れて観念はない。」(ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ『パターソン』第一巻・
巨人の輪郭・I、沢崎順之助訳)「人間精神の現実的存在を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念に
ほかならない。」(スピノザ『エチカ』第二部・定理一一、工藤喜作・斎藤 博訳)「美はものに密着し、/心は造型の一
義に住する。」(高村光太郎『月にぬれた手』)「自分の作り出すものであって初めて見えもする。」(エマソン『霊の法則』
酒本雅之訳)「自然の中には線も色彩もない。線や色彩を創り出すのは人間である。」(ボードレール『ウージェーヌ・
ドラクロワの作品と生涯』3、高階秀爾訳)「具体的な形はわれわれがつくりだすのだ。」(ロバート・シルヴァーバー
グ『いばらの旅路』25、三田村 裕訳)。ほんとうにはっきりと、ものの形が見えるのは、こころのなかでだけなので
ある。ずいぶん以前のことであった。サッフォーの詩に匹敵するくらいにすばらしい歌が、万葉の歌人によって詠わ
れていたことを知ったのは。そのときには、ほんとうに驚かされた。その歌人もまた、女性であったのだ。つぎの歌
が、狭野茅上娘子によるその歌である。


君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天(あめ)の火もがも


 韻律に気がとられる前に、その情景に圧倒される。狭野茅上娘子のこの空間把握能力のすさまじさには、目を瞠らさ
れる。韻律の妙技が仕掛けられていても、そのあまりに強烈な情念や印象的な情景によって、その片鱗にすら気づか
せられないのである。この作品以上に情念的にすさまじい歌を、わたしは知らない。しかし、「なぜ人間には心があ
り、物事を考えるのだろう?」(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)「生けるものは誰一人、苦しみを味
わうものなかれと願う。」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第一幕、石川重俊訳)「心は、わたしを苦しめる以
外にどんな役にたったというのだろう?」(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三七年四月八日、関 義訳)「それ
は私が孤独だからだろうか?」(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)「われわれを孤独にするのは、まさに人間的なものだ、
ということを理解することを学ばなければならない。」(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)「恐らく人は不幸で
ある。」(ボードレール『描かんとする願望』三好達治訳)「人生には幸福なひとこまもあるが、大体はまちがいなく不
幸である。」(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』1、宇佐川晶子訳)「地上の人生、それは試練にほか
ならない」(アウグスティヌス『告白』第十巻・第二十八章・三九、山田 晶訳)。「すべてのものにこの世の苦痛が混ざ
りあっている。」(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)「あらゆる出会いが苦しい試練だ。」(フ
ィリップ・K・ディック『ユービック:スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳)。それでも、わたしたちは生きている。そ
んな世界のなかで、凛として生きているつもりで歌を詠む。しかし、じつのところ、わたしたちは、まさによそ行き
の顔をして「しあわせを装いながら、生きるはり(丶丶)は嘆きであり、怒りであり、憎しみ、恨み、希望だったのだ!」(コ
ードウェイナー・スミス『老いた大地の底で』2、伊藤典夫訳)「われわれはなぜ、自分で選んだ相手ではなく、稲妻
に撃たれた相手を愛さなければならないのか?」(シオドア・スタージョン『たとえ世界を失っても』大森 望訳)「も
っとも多く愛する者は敗者である、そして苦しまねばならぬ」(トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳)。
「よく愛するがためには、すでにくるしんでいなければならなく、また信じていなければならない」(バルザック『セ
ラフィタ』三、蛯原〓夫訳)。「願望の虐む芸術家は幸いなるかな!」(ボードレール『描かんとする願望』三好達治訳)
「自分の心を苛むものを書き記すこともできれば、そうすることによってそれに耐えることもできるひと、その上さら
に、そんなふうにして後代の人間の心を動かしたい、自らの苦痛に後代の人間の関心を惹きつけたいと望むことができ
るひとは幸いなるかな」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』18、菅野昭正訳)。「これまで世界には多くの苦しみが
生まれなければならなかった、その苦しみがこうした音楽になった」(サバト『英雄たちと墓』第I部・9、安藤哲行
訳)。「苦悩(くるしみ)は祝福されるのだ。」(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第三章、渡辺一夫訳)「創造する者が生まれ出る
ために、苦悩と多くの変身が必要なのである。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)。しかし、苦し
むことに意味があるとしたら、それは、愛することに意味があるときだけである。そう思うと不幸が手放せなくなる。
自分の不幸を手放すのがもったいないとまで思えてくる。「不幸は情熱の糧なのだ。」(ターハル・ベン=ジェルーン『聖
なる夜』9、菊地有子訳)「情熱こそは人間性の全部である。」(バルザック『人間喜劇』序、中島健蔵訳)「おお、ソク
ラテスよ、なんの障害もあなたの進行を妨げないとすると、そもそも進行そのものが不可能になる。」(ヴァレリー『ユ
ーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳) 「そもそも苦しむことなく生きようとするそのこと自体に一つの完全な矛
盾があるのだ」(ショーペンハウアー『意思と表象としての世界』第一巻・第十六節、西尾幹二訳)。「いかなる行動も
営為も思(し)惟(い)も、ひたすら人を生により深くまきこむためにのみあるのだ。」(フィリップ・K・ディック『あなたをつく
ります』7、佐藤龍雄訳)「苦しみは人生で出会いうる最良のものである」(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・
逃げさる女、井上究一郎訳)。「己れの敵を愛せよ(丶丶丶丶丶丶丶丶)。/私は自分を活気づける人たちを愛し、又自分が活気づける人たち
を愛する。われわれの敵はわれわれを活気づける。」(ヴァレリー『文学』佐藤正彰訳)「わたしの敵たちもわたしの至
福の一部なのだ。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)。

 前掲の狭野茅上娘子の歌を読み、その情念の激しさに打たれて、わたしは、これまでの自分が、愛というものに対
して、ずっと誤った視線を投げかけていたのではないかとさえ思われたのである。「世界はすべての人間を痛めつける
が、のちには多くの人がその痛めつけられた場所で、かえって強くなることもある。」(ヘミングウェイ『武器よさらば』
第三四章、鈴木幸夫訳)「多感な心と肉体を捻じり合わせて愛に変えうるのは苦しみだけ」(E・M・フォースター『モ
ーリス』第四部・42、片岡しのぶ訳)。「苦しみは焦点を現在にしぼり、懸命な(ヽヽヽ)闘いを要求する。」(カミュ『手帖』第
四部、高畠正明訳)「苦痛が苦痛の観察を強いる」(ヴァレリー『テスト氏』テスト氏との一夜、村松 剛・菅野昭正訳)。
「苦しむこと、教えられること、変化すること。」(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』不幸、田辺 保訳)「苦痛の深さ
を通して人は神秘的なものに、本質にと、達するのである。」(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・消え去った
アルベルチーヌ、鈴木道彦訳)「人間には魂を鍛えるために、死と苦悩が必要なのだ!」(グレッグ・イーガン『ボーダ
ー・ガード』山岸 真訳)「愛はたった一度しか訪れない」(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)。「一(ヽ)度きり、そ
してふたたびはない、そして私たちもまた一(ヽ)度きり。」(リルケ『ドゥイノの悲歌』第九の悲歌、高安国世訳)「まさに
瞬間だ」(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・3、浜野 輝訳)。「「愛」が覚えている」(シェリー『鎖を解か
れたプロメテウス』第二幕・第三場、石川重俊訳)「一瞬のきらめき。」(フィリップ・ホセ・ファーマー『紫年金の遊
蕩者たち』大和田 始訳)「人生には、まるで芸術の傑作のように整えられている瞬間が、またそういう全生涯があるも
のなのだ」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』21、菅野昭正訳)。「人生というものは閃光の上に築かなければなら
ない」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』9、菅野昭正訳)。「一瞬のうちに無限の快楽を見出し」(ボードレール『け
しからぬ硝子屋』三好達治訳)、「その瞬間を永遠のものとするため」(マイケル・マーシャル・スミス『地獄はみずか
ら大きくなった』嶋田洋一訳)。「すべては同じようにはかなく移ろいやすいものだ。少なくともそのために、束の間の
ものを普遍化するために書く。たぶん、それは愛。」(サバト『英雄たちと墓』第II部・4、安藤哲行訳)「愛だけであ
る」(フィリップ・アーサー・ラーキン『アーンデルの書』澤崎順之助訳)。そして、「ぼくたちの行為の一つ一つが永
遠を求める」(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)。わたしたちの一瞬一瞬が永遠を求める。わたしたちのすべ
ての瞬間という瞬間が、永遠になろうとするのである。それというのも、「瞬間というものしか存在してはいないから
であり、そして瞬間はすぐに消え失せてしまうものだからだ」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンノ浜辺』25、菅野昭正訳)。
「一切は過ぎ去る。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)「たった一度しか訪れない」(フエンテス『脱
皮』第二部、内田吉彦訳)。わたしたちの一瞬一瞬が永遠を求め、わたしたちのすべての瞬間という瞬間が、永遠にな
ろうとするのである。割れガラスの破片のきらめきの一つ一つが太陽を求め、やがて、そのきらめきの一つ一つが太
陽となるように。川面に反射する月の光や星の光のきらめきの一つ一つが太陽を求め、やがて、そのきらめきの一つ
一つが太陽となるように。

「詩とはなにか」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)。その詩に書かれた言葉を目にしたとたん、
わたしはここからいなくなる。その言葉によって誘われた時間に、導かれた場所に行かされる。「思い描ける場所は、
訪れることができる」(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』III、嶋田洋一訳)。「一度見つけた場所には、いつ
でも行けるのだった。」(ジェイムズ・ホワイト『クリスマスの反乱』吉田誠一訳)「わたしたちはそんなふうにして、
このもろい死すべき肉体を通して、永遠を仄かに見ることができるように作られているからである。」(サバト『英雄た
ちと墓』第II部・4、安藤哲行訳)。狭野茅上娘子の歌を読んだ瞬間、それは、わたしの新しい傷となった。振り返れ
ば、いつでも新しい血を流す新しい傷となったのである。

「魂はどこから来たのだろう?」(サバト『英雄たちと墓』第II部・5、安藤哲行訳)「永遠の中のただ一瞬」(ヴァ
ン・ヴォークト『フィルム・ライブラリー』沼沢洽治訳)。「人間脳髄は明らかに「無限なるもの(丶丶丶丶丶丶)」に嗜(し)欲(よく)を持っている」
(ポオ『ユリイカ』牧野信一・小川和夫訳)、「無限を求める心」(ボードレール『アシーシュの詩』一、渡辺一夫・松
室三郎訳)。「われわれは永遠を必要とする。」(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)「どんな悦びも一瞬のあいだ
しかつづかないのではなかろうか?」(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三六年一月二十七日、関 義訳)「それ
はほんの瞬間に過ぎない。しかし」(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)、「瞬間は永遠に繰り返す。」(イアン・
ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)「おそらく唯一の永遠の喜びとは、それが繰り返されることであろう。」(フ
エンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)「存在が、突然、無限に増加するようなものである。」(リルケ『フィレンツェ
だより』森 有正訳)「永遠を避けることはできない。なぜなら、私がそれを見つけたからだ。」(キース・ローマー『明
日より永遠に』5、風見 潤訳)。
つぎに並べた二つの歌は、高安国世の作品と、前川佐美雄の作品である。


浴槽の如く明るき水の中かさなりて静かに豆腐らはあり

生きてゐる証(あかし)にか不意にわが身体割きて飛び出で暗く鳴きけり


 人間とは、天の邪鬼である。感情とは、天の邪鬼である。知性とは、天の邪鬼である。対立した願いを同時に持つ、
矛盾したこころを持っているのである。この二つの歌に響いている子音のkの音は、音調的な美しさをまったく持っ
ていない。むしろ、音調的な美しさを、わざと壊すか、あるいは、無化するようにつくられているような気がする。
この子音のkの音の響きは、ホラー映画やそれに類するテレビ番組のあの不気味な映像とともに流される音楽に似て
いるような気がする。韻律のこのような高度なテクニックには、感心するほかない。人間の耳は、このような音にも
喜びを感じるものなのである。
つぎの詩は、「ユリイカ」一九九一年一月号に掲載されたものである。


水面に浮かぶ果実のように


 いくら きみをひきよせようとしても
きみは 水面に浮かぶ果実のように
 ぼくのほうには ちっとも戻ってこなかった
むしろ かたをすかして 遠く
 さらに遠くへと きみは はなれていった

もいだのは ぼく
 水面になげつけたのも ぼくだけれど


 この詩は、大岡 信氏によって「ユリイカの新人」に選ばれたときのものであるが、これを書いたときは、まだノ
ブユキとは付き合ったばかりのときで、まさかすぐに別れることになるとは思わなかったのだけれど、この詩の発表
の一年後に別れることになった。これまで引用してきたわたしの詩は、すべて、わたしのじっさいの体験が元になっ
たものであるが、「水面に浮かぶ果実のように」という作品は、わたしが学生時代に付き合っていたタカヒロとのこと
を書いたものだったのだが、いまのいままで、この原稿を書くのに、この詩を制作した日付を調べるまで、ここ数年
の間、この詩のことを、ずっと、ノブユキとのことを書いたものだと思い違いをしていたのである。それほど、ノブ
ユキのことを愛していたのだろうか。愛していたのだろう。では、なぜ、わたしの方から別れようと言ったのだろう
か。愛していたのに。きっと、その愛を、ノブユキの方から壊されたくなかったのだ。愛よりも、虚栄心の方が強か
ったのだ。自尊心とはいわない。つまらない虚栄心だったのだ。「多分ぼくは苦しむのが好きなのだろう。これまでも
人をさんざん苦しめてきたし、見聞するところでは、人を苦しめるのが好きな人間は、苦しめられることを無意識に願
っている。」(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが内なる廃墟の断章』9、伊藤典夫訳)。よく考えるのだ。あのとき、
もし、わたしが別れの言葉を口にしなかったら、どうなっていただろうか、と。ありえたかもしれない幸せを、もし
かしたらいまでもつづいていたかもしれない幸せを、なぜ、自分の方から壊すようなことをしたのか、と。すべては、
わたしのつまらない虚栄心のためだった。「幸福とおなじように、おそらく苦悩もまた一種の技能なのではなかろう
か?」(ブライアン・W・オールディス『一種の技能』跋、浅倉久志訳)「人は自分の持つ矛盾によって、われわれの興
味をひき、自分の本當の心のうちを顯わす。」(『ジイドの日記』第五巻・一九二二年十月二十九日、新庄嘉章訳)「矛盾
とはひとつの事実だ。」(ヴァレリー『邪念その他』N、清水 徹訳)「それは矛盾しているためにかえって真実そのもの
に違いなかった。」(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・1、土岐恒二訳)「われわれが矛盾してゐるときほど自
己に真実であることは断じてない」(ワイルド『藝術家としての批評家』西村孝次訳)。「矛盾ほど確実な土台はない」(ジ
ーン・ウルフ『拷問者の影』8、岡部宏之訳)。「すべて詩の中には本質的な矛盾が存在する。」(アントナン・アルトー
『ヘリオガバルス』III、多田智満子訳)「矛盾からは(エクス・コントラデイクテイオネ)、周知のように、何でもあり、なのである。」(スタニスワフ・
レム『虚数』GOLEM XIV、長谷見一雄訳)「不合理な前提からはどんなことでも導きだしうるものだ。」(サバト『英
雄たちと墓』第II部・13、安藤哲行訳)「あらぬ(丶丶丶)もの(非存在)は、ある(丶丶)もの(存在)にすこしも劣らずある(丶丶)。」(『デモ
クリトス断片156』廣川洋一訳)「愛はたえずとびまわらなければならぬ。」(ノヴァーリス『青い花』遺稿、青山隆夫訳)
「存在(丶丶)と存在しないもの(丶丶丶丶丶丶丶)のあいだをたえず揺れ動いているものだ」(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの航星日記』第二
十一回の旅、深見 弾訳)。「なぜ、あらゆることが常に変化しなければいけないのか?」(レイ・ファラデイ・ネルスン
『ブレイクの飛翔』6、矢野 徹訳)「もともとの本質からして愛が永続するはずがない」(リサ・タトル『きず』幹 遙
子訳)。「われわれの本性は絶えまのない変化でしかない」(パスカル『パンセ』第六章・断片三七五、前田陽一訳)。「変
化は嬉しいものなのだ。」(ホラティウス『歌集』第三巻・二九、鈴木一郎訳)「運動は一切の生命の源である。」(『レオ
ナルド・ダ・ヴィンチの手記』「繪の本」から、杉浦明平訳)。
これから紹介する歌は、わたしと同年代か、少し上、あるいは、少し若い人たちが詠ったものである。


あきらめの森が拡がるこの雨に針がまじつて降つてくるまで                   (林 和清)

わが半身うしなふ夜半はとほき世の式部のゆめにみられていたり                 (林 和清)

空函(からばこ)にも天と地がありまんなかは木端微塵(こつぱ み じん)がよいかもしれぬ                  (笹原玉子)

終点でバスを降りると夏だつた、あふれる涙もぬぐはず歩いた                 (笹原玉子)

一秒と一千秒が等しく過ぐる花降る午後の有元利夫                      (和田大象)

憤怒など地中に深く眠らせむ寝言ひとこと「このど蒟蒻!」                  (和田大象)

「蠅はみんな同じ夢を見る」といふ静けき真昼 ひとを待ちをり               (魚村晋太郎)

人間の壊れやすさ、と思ひつつ炙られた海老の頭をしやぶる                 (魚村晋太郎)

誰か飛行機雲につながるイメージでぼくを見てゐる誰なんだろう                (西田政史)

ジーンズがはりつくほどの夕だちに似てゐるきみの人差し指は                 (西田政史)


「現代の芸術、引き裂かれ緊張した芸術は常にわたしたちの不調和、苦悩、不満から生まれてくるものではないか。」
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)「愛によって、芸術によって、貪欲によって、政治によって、労
働によって、遊戯によって、われわれは自分のつらい秘密を言い表わすことを学ぶ。人間であるだけではまだ自分自身
の半分にすぎず、あとの半分が表現なのだ。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)。しかし、それにしても、なんと玲瓏華
美な歌たちであろうか。すさまじいレトリックの塊たちである。彼らの苦悩が、このような音楽となり、意味となっ
たのである。現代歌人たちは、ここまで到達したのである。ここまで追いつめられているのである。

 これまでのわたしの詩作の歴史を、前期と後期の二つに大別すると、たとえば、前期には、「高野川」や「夏の思
い出」や「水面に浮かぶ果実のように」のように、思い出や書きたいことがまずあって、それを言葉に紡いでいくと
いう手法でなされたものが多く、後期には、これから紹介する、「みんな、きみのことが好きだった。」や「頭を叩く
と、泣き出した。」や「マールボロ。」のように、取り掛かる前に、まず言葉の断片があって、それから、それらをつ
なぎ合わせて、一つの情感なり、一つの精神状態のようなものを作り出していくという、コラージュ的な手法でなさ
れたものが多い。手法が変わるきっかけになったのは、やはり、引用のコラージュで制作した第二詩集の『The
Wasteless Land.』(書肆山田、一九九九年)であろうか。前期の詩では、わたしが言葉と出会って、わたしのなかに
折りたたまれていた光や音が解放されていったような気がするのだが、後期の詩では、わたしが言葉と出会った瞬間
に、わたしのなかに折りたたまれていた光や音が自らの光や音を解き放つと同時に、もともとその言葉のなかに折り
たたまれていた光や音をも解放していったような気がする。あるいは、逆に、言葉がわたしと出会った瞬間に、もと
もとその言葉のなかに折りたたまれていた光や音が自らの光や音を解き放つと同時に、わたしのなかに折りたたまれ
ていた光や音をも解放していったのだろうか。いずれにせよ、もちろん、最終的に解放された光や音は、わたしのな
かに折りたたまれていたものでもなかったし、もともとその言葉のなかに折たたまれていたものでもなかった。それ
らが共鳴し合って、新しく生み出された光や音であった。先に引用したノヴァーリスの「真の始まりは自然詩である。
終末は第二の始まり──そしてそれは芸術詩である。」という言葉が思い起こされる。


みんな、きみのことが好きだった。


ちょっといいですか。
あなたは神を信じますか。
牛の声で返事をした。
たしかに、神はいらっしゃいます。
立派に役割を果たしておられます。
ふざけてるんじゃない。
ぼくは大真面目だ。
友だちが死んだんだもの。
ぼくの大切な友だちが死んだんだもの。
without grief/悲しみをこらえて
弔問を済まして
帰ってきたんだもの。
Repeat after me!/復唱しろ!
absinthe/ニガヨモギ
悲しみをこらえて
ぼくは帰ってきたんだもの。
Repeat after me!/復唱しろ!
誕生日に買ってもらった
ヴィジュアル・ディクショナリー、
どのページも、ほんとにきれい。
パピルス、羊皮紙、粘土板。
食用ガエルの精巣について調べてみた。
アルバムを出して、
写真の順番を入れ換えてゆく。
海という海から
木霊が帰ってくる。
声の主など
とうに、いなくなったのに。
Repeat after me!/復唱しろ!
いじめてあげる。
吉田くんは
痛いのに、深爪だった。
電話を先に切ることができなかった。
誰にも、さからわなかった。
みんな、吉田くんのことが好きだった。
Repeat after me!/復唱しろ!
ぼく、忘れないからね。
ぜったい、忘れないからね。
おぼえておいてあげる。
吉田くんは、仮性包茎だった。
勃起したら、ちゃんとむけたから。
ぼくも、こすってあげた。
absinthe/ニガヨモギ
Repeat after me!/復唱しろ!
泣いているのは、牛なのよ。
幼い男の子が
ぼくの頭を叩いて
「ゆるしてあげる」
って言った。
話しかけてはいけないところで
話しかけてはいけない。
Repeat after me!/復唱しろ!
ごめんね、ごめんね。
ぼくだって、包茎だった。
without grief/悲しみをこらえて
absinthe/ニガヨモギ
もっとたくさん。
もうたくさん。


 この詩が、わたしの作品のなかで、もっとも音調的に美しいものだと、また、作品自体の出来としても、もっとも
すぐれたものだと自負しているものである。ところで、この詩のなかに、「アルバムを出して、/写真の順番を入れ換
えてゆく。」という詩句があるが、もちろん、じっさいの人生においては、出来事の順番を替えることなど、できるこ
とではない。ただ記憶の選択と解釈の違いによって、その意味を捉えなおすことができるだけである。後々、あると
き、つぎのような表現を目にして、すごいものだと感心させられた。このような文章が書けるのは、ごく限られた作
家だけであろう。そのすさまじい洞察力が窺い知れる。

 彼の笑顔はこの世にふたつとない笑顔だ。その笑顔を向けられると、人生で出くわすありとあらゆる不幸をそこに
見るような気がする。ところが顔に浮かんだその不幸を、彼はあっという間に順序よく並べ替えてしまう。それを見
ていると、今度は急に「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じるのだ。だから彼と話をするのは楽しい。
その笑顔をしょっちゅう浮かべて、そのたびに「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じさせてくれるか
らだ。
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』31、安原和見訳)


 作品のなかでは、出来事の順番を替えることなど、簡単である。また、替えるごとに、違った作品が出来上がる。
ただ、「時と場所」(アンナ・カヴァン『失われたものの間で』千葉 薫訳)、「それをならべかえる」(カール・ジャコビ
『水槽』中村能三訳)。それだけでよい。まさしく、「好きなように世界が配列できるのだ」(スタニスワフ・レム『天
の声』17、深見 弾訳)。

 つぎに紹介する詩は、わたしの作品のなかで、韻律的にもっとも複雑な仕掛けが施されたものである。韻律の創造
と破壊を交互に繰り返しながら進行していくのだ。内容は、「みんな、きみのことが好きだった。」ほど整ってはいな
いが、そうであるがゆえに、より凝縮した印象を与えるものとなっている。というのも、言葉というものが新たな意
味を獲得するにつれて、よりいっそうその言葉らしさを身につけるように、「外部の多様性が増すに連れて、内部統一
が生み出される」(ノヴァーリス『対話・独白』今泉文子訳)からである。「詩は、火、身振り、血、叫びなどの種々相
をただ一点に集めて互いに鬩(せめ)ぎ合わせるのである。」(アントナン・アルトー『ヘリオガバルス』III、多田智満子訳)「多
様性から力を引き出して」(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)、「多様にちらばっている
ものを綜観して、これをただ一つの本質的な相へまとめること。」(プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳)「人びとは理
解しないのだ、いかにして、拡散するものが(拡散するにもかかわらず)自己のうちに凝集しているかを。」(『ヘラク
レイトス断片51』廣川洋一訳)「多なるものから一なるものになる」(エンペドクレス『自然について』一七、藤沢令夫
訳)。「すべては寄り集まってただ一つのものとなる」(エンペドクレス『自然について』三五、藤沢令夫訳)。


頭を叩くと、泣き出した。


カバ、ひたひたと、たそがれて、
電車、痴漢を乗せて走る。
ヴィオラの稽古の帰り、
落ち葉が、自分の落ちる音に、目を覚ました。
見逃せないオチンチンをしてる、と耳元でささやく
その人は、ポケットに岩塩をしのばせた
横顔のうつくしい神さまだった。
にやにやと笑いながら
ぼくの関節をはずしていった。
さようなら。こんにちは。
音楽のように終わってしまう。
月のきれいな夜だった。
お尻から、鳥が出てきて、歌い出したよ。
ハムレットだって、お尻から生まれたっていうし。
まるでカタイうんこをするときのように痛かったって。
みんな死ねばいいのに、ぐずぐずしてる。
きょうも、ママンは死ななかった。
慈善事業の募金をしに出かけて行った。
むかし、ママンがつくってくれたドーナッツは
大きさの違うコップでつくられていた。
ちゃんとした型抜きがなかったから。
実力テストで一番だった友だちが
大学には行かないよ、って言ってた。
ぼくにつながるすべての人が、ぼくを辱める。
ぼくが、ぼくの道で、道草をしたっていいじゃないか。
ぼくは、歌が好きなんだ。
たくさんの仮面を持っている。
素顔の数と同じ数だけ持っている。
似ているところがいっしょ。
思いつめたふりをして
パパは、聖書に目を落としてた。
雷のひとつでも、落としてやろうかしら。
マッターホルンの山の頂から
ひとすじの絶叫となって落ちてゆく牛。
落ち葉は、自分の落ちる音に耳を澄ましていた。
ぼくもまた、ぼくの歌のひとつなのだ。
今度、神戸で演奏会があるってさ。
どうして、ぼくじゃダメなの?
しっかり手を握っているのに、きみはいない。
ぼくは、きみのことが好きなのにぃ。
くやしいけど、ぼくたちは、ただの友だちだった。
明日は、ピアノの稽古だし。
落ち葉だって、踏まれたくないって思うだろ。
石の声を聞くと、耳がつぶれる。
ぼくの耳は、つぶれてるのさ。
今度の日曜日には、
世界中の日曜日をあつめてあげる。
パパは、ぼくに嘘をついた。
樹は、振り落とした葉っぱのことなんか
かまいやしない。
どうなったって、いいんだ。
まわるよ、まわる。
ジャイロ・スコープ。
また、神さまに会えるかな。
黄金の花束を抱えて降りてゆく。
Nobuyuki°ハミガキ。紙飛行機。
中也が、中原を駈けて行った。


 最後に紹介する詩は、わたしの作品のなかで、わたしがもっとも気に入っているものである。これはまた、わたし
にとって、わたしの詩にとって、もっとも大事なことを教えてくれた作品でもある。


マールボロ。


彼には、入れ墨があった。
革ジャンの下に無地の白いTシャツ。
ぼくを見るな。
ぼくじゃだめだと思った。
若いコなら、ほかにもいる。
ぼくはブサイクだから。
でも、彼は、ぼくを選んだ。
コーヒーでも飲みに行こうか?
彼は、ミルクを入れなかった。
じゃ、オレと同い年なんだ。
彼のタバコを喫う。
たった一週間の禁煙。
ラブホテルの名前は
『グァバの木の下で』だった。
靴下に雨がしみてる。
はやく靴を買い替えればよかった。
いっしょにシャワーを浴びた。
白くて、きれいな、ちんちんだった。
何で、こんなことを詩に書きつけてるんだろう?
一回でおしまい。
一回だけだからいいんだと、だれかが言ってた。
すぐには帰ろうとしなかった。
ふたりとも。
いつまでもぐずぐずしてた。
東京には、七年いた。
ちんちんが降ってきた。
たくさん降ってきた。
人間にも天敵がいればいいね。
東京には、何もなかった。
何もなかったような顔をして
ここにいる。
きれいだったな。
背中を向けて、テーブルの上に置いた
 飲みさしの
缶コーラ。


 これは、わたしの体験ではない。わたしの現実ではない。ゲイの友人に、東京での思い出を、ルーズリーフに書き
出してもらって、その「部分部分を切り貼りして」(デニス・ダンヴァーズ『エンド・オブ・デイズ』上・7、川副智
子訳)つくったコラージュ作品である。しかし、「個人は、自分の人生体験にもとづくイメージや象徴でものを考える
のであり、二人の個人が共通の人生経験をもっていなければ、ふたりが分かちあうすべては混乱となる」(ウィリアム・
テン『脱走兵』中村保男訳)。わたしも似た経験をしているので、友人の体験を、自分の体験に照らし合わせて感じと
ることができたのであろう。そしてまた、出来上がったばかりのこの作品に目を通していると、「急にそれらの言葉が
まったく新しい意味を帯びた」(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』34、大島 豊訳)ような気がしたのであ
る。「マールボロ。」の言葉となってはじめて、ようやく、それらの言葉が、真の意味を獲得したのではないか、とま
で思わせられたのである。そうして、この作品は、いまでは、わたし自身の経験となっているのである。

 それというのも、彼らが浴びたシャワーの湯しぶきのきらめきが、わたしのなかに飛び込んできたからである。わ
たしのなかにある、さまざまな思い出のなかに。なかでもとりわけ、わたしのなかにある、ノブユキとの思い出のな
かに。わたしの全存在が、そのシャワーの湯しぶきのきらめきを見つめる。さまざまな瞬間のわたしが、さまざまな
わたしの、瞬間という瞬間が、その湯しぶきのきらめきを見つめる。あらゆる瞬間のわたしが、その湯しぶきのきら
めきを見つめるのだ。なかでもとりわけ、ノブユキといっしょにシャワーを浴びたわたしの目が、「マールボロ。」の
なかの彼らが浴びたシャワーの湯しぶきのきらめきを見つめるのである。それゆえ、ノブユキとふざけ合いながらい
っしょに浴びたシャワーの湯しぶきのきらめきが、そのときのノブユキの笑い声とともに鮮やかに思い出されたので
ある。「マールボロ。」をつくっているときには、ノブユキといっしょに浴びた、あの湯しぶきのきらめきなど、まっ
たく思い出さなかったのに、出来上がった「マールボロ。」を読んだとたん、すぐにノブユキといっしょに浴びたシャ
ワーの湯しぶきのきらめきが思い出されたのである。しかも、そうしていったん思い出されてしまうと、こんどは、
ノブユキといっしょに浴びたあの湯しぶきのきらめきの方が、「マールボロ。」という作品を、わたしにつくらせたの
ではないか、とまで思われ出したのである。他の言葉もその湯しぶきを浴びる。すべての言葉がその湯しぶきを浴び
て、すべての言葉がノブユキとの愛を語っているように感じられたのである。これは事実に反する。矛盾している。
しかし、印象としては、あるいは、感覚としては、事実に反していないのである。矛盾してはいないのである。また、
そういった印象は、あるいは、感覚は、意識領域のみならず、無意識領域に眠っている記憶をも刺激するのである。
先に、わたしは、「韻律はリズムを生み、言葉に躍動感を与える。すると、読み手のこころは大いに喜ぶ。それが、愛
の本性に適ったことだからである。」と述べた。現実と非現実の間で揺れ動くことの喜びも、矛盾した情感の間で揺れ
動くことの喜びもまた、愛の本性に適ったことなのであろう。

 愛の本性といえば、プラトンの『饗宴』のなかで、ソクラテスに向かって、「愛の奥義に到る正しい道とは(……)
結局美の本質を認識するまでになることを意味する。」「生がここまで到達してこそ、(……)、美そのものを観るに至っ
てこそ、人生は生甲斐があるのです。」(久保 勉訳)と語ったディオティマの話が思い出される。わたしもまた、ノブ
ユキといっしょに浴びたあのシャワーの湯しぶきのきらめき、その飛沫の一粒一粒の光が発するきらめきを通して、
美そのもの、生の本質そのものに辿り着くことができるような気がしたのである。「誰に真実がわかるだろう。」(ダグ
ラス・アダムス『宇宙の果てのレストラン』29、風見 潤訳)。だれに生のすべての真実がわかるだろう。わかりはし
ないだろう。しかし、わかるのではないかと思わせられたのである。わたしたちは、直接の体験だけから、生のすべ
ての真実を知ることができるだろうか。愛そのもの、悲しみそのものが、直接、わたしたちのもとに訪れるわけには
いかない。それらは、ある時間や場所や出来事として、わたしたちの前に姿を現わすだけである。わたしたちにでき
るのは、ただ、そうして訪れた、一つ一つ、別々の時間や場所や出来事に、一つ一つ、別々の愛のさわりを感じとり、
悲しみのさわりを感じとることができるだけである。それだけでも大したことなのだが、やはり、わたしたちは、自
分たちの直接の体験だけから、生のすべての真実を知ることはできないのであろう。他者の体験を見聞きしたり、芸
術作品に接したりしたときに、自己の生のすべての真実を知ったような気になることがあるのだが、それは、そうい
ったものを通して、じっさいに、生の真実が、その真実の一部を、わたしたちに垣間見させてくれるからであろう。
閉じ込められた精神のなかでは、精神そのものが、そのなかをぐるぐると堂々めぐりするしかない。自分の体験のな
かにいるだけでは、その限りにおいては、人間は自分の体験をほんとうに認識することなどできないであろう。それ
に、自己の体験からのみ喚起された感情というものも、じっさいのところ、わたしたちにはないのではなかろうか。
もしあると思われても、それは、自己の体験からのみ喚起された感情ではないのではなかろうか。わたしたちは、他
者の経験との比較によって、ようやく自分のなかに、ほんとうの感情を喚起させられるのではなかろうか。もちろん、
じっさいの体験を通してのものではないどのような感情も、ほんとうの感情ではないのだし、理解するということも、
また同様に、じっさいの体験を経て実感するという経験をしていなければ、けっして、ほんとうの意味では理解する
ということにはならないものである。しかし、ほんとうの感情になるためには、自己の生の真実の一部を虚偽と交換
する必要があるのではないだろうか。じっさいの体験と同様に、そのような経験も必要なのではないだろうか。引用
による詩を数多く書いてきて、わたしはいま、そのことに気づかせられたのである。真実が、よりたしかな真実さを
獲得するためには、その真実の一部を虚偽と交換する必要があると考えられたのである。真実の一部を虚偽に譲り渡
し、虚偽の一部を真実のなかに取り込む必要があると考えられたのである。芸術作品が、それを見たり聞いたりする
者に、その者の生をより切実に実感させることがあるというのも、その者自身の生の真実の一部を、虚偽と交換する
というところからきているのではないだろうか。ノヴァーリスの「活性化とは、わたし自身の譲渡であると同時に、他
の実体を我がものとすること、もしくは自分のものに変成しなおすことである。」(『断章と研究 一七九八年』今泉文
子訳)という言葉が思い起こされる。

 そのとき、彼らが出会ったポルノ映画館には、わたしはいなかった。そのとき、彼らが入ったラブホテルには、わ
たしは行かなかった。そのとき、彼らがいっしょに浴びたシャワーを、わたしは浴びなかった。そのとき、彼が目に
したその青年の背中の入れ墨を、わたしは見なかった。そのとき、その青年がガラスのテーブルの上に置いた缶コー
ラを、わたしは見なかった。しかし、「マールボロ。」という作品が出来上がった瞬間に、その言葉たちを通して、わ
たしは、彼らのいた時間と場所に現われたのである。彼らがいたそのポルノ映画館に、わたしもいたのだ。彼らが入
ったそのラブホテルに、わたしも入ったのだ。彼らがいっしょに浴びたシャワーを、わたしも浴びたのだ。彼が目に
したその青年の背中の入れ墨を、わたしも見たのだ。青年がガラスのテーブルの上に置いたその缶コーラを、わたし
も見たのだ。なぜなら、彼らが出会ったそのポルノ映画館は、わたしがノブユキとはじめて出会ったゲイサウナと同
じ場所だったからであり、彼らが入ったラブホテルの部屋は、ゲイディスコで声をかけられた夜について行ったフト
シの部屋と同じ部屋だったからであり、彼らが浴びたシャワーは、わたしがタカヒロとふざけてかけ合った琵琶湖の
水と同じ水だったからであり、彼が目にした青年の背中の入れ墨は、わたしがエイジの背中に指で書いた薔薇という
文字と同じものだったからであり、その青年がガラスのテーブルの上に置いた缶コーラの側面のラベルは、わたしが
ヤスヒロの手首につけた革ベルトの痕と同じ模様だったからである。

「ああ、ぼくの頭はどうしたんだろう?」(シオドア・スタージョン『人間以上』第三章、矢野 徹訳)「自分自身の
ものではない記憶と感情(……)から成る、めまいのするような渦巻き」(エドモンド・ハミルトン『太陽の炎』中村 融
訳)。「これは叫びだった。」(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)「わたしの世
界の何十という断片が結びつきはじめる。」(グレッグ・イーガン『貸金庫』山岸 真訳)「今まで忘れていたことが
思い出され、頭の中で次から次へと鎖の輪のようにつながっていく。」(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己
訳)「あらゆるものがくっきりと、鮮明に見えるのだ。」(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)「過去に
見たときよりも、はっきりと」(シオドア・スタージョン『人間以上』第二章、矢野 徹訳)。「それはほんの一瞬だった。」
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』3、友枝康子訳)「ばらばらな声が」(フエンテス『脱
皮』第二部、内田吉彦訳)「一つになる」(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)。「突然の認識」(テリ
ー・ビッスン『英国航行中』中村 融訳)。「あらゆるものがあらゆるものと」(ホルヘ・ギリェン『ローマの猫』荒井正道訳)
「たがいに与えあい、たがいに受け取りあう。」(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)「あ
らゆるディテールが相互に結びついたヴィジョン。」(R・A・ラファティ『他人の目』2、浅倉久志訳)。

「あらゆる個人のなかに共通の精神が宿っていて、」(エマソン『霊の法則』酒本雅之訳)「それがまったくちがった
人々や場所、出来事をむすびつけている」(イアン・ワトスン『エンベディング』第一章、山形浩生訳)。「万物を貫ぬ
くその同一性がわれわれすべてをひとつにし、われわれの平常の尺度ではまことに大きなへだたりを、まったくないも
のにしてしまう。」(エマソン『自然』酒本雅之訳)「「貫通するものは一なり。」と芭蕉は言つた。」(川端康成『日本美
の展開』)「この境界線はあらゆる物のなかを貫いて走っている。」(ノサック『クロンツ』神品芳夫訳)「精神が共感し
て振動を起こす/ひとつの場所がある」(リルケ『鎮魂歌』高安国世訳)。「さまざまな世界を同時に存在させることが
できる。」(イアン・ワトスン『知識のミルク』大森 望訳)「これは共在する存在の領域。」(ジャック・ウォマック『テ
ラプレーン』6、黒丸 尚訳)。

「結局、精神構造とは、一個の複雑な出来事ではなかろうか?」(バリントン・J・ベイリー『王様の家来がみんな
寄っても』浅倉久志訳)「ひとができごとを、できごとがひとを作る。」(エマソン『運命』酒本雅之訳)「人生の中で、
お互いに何年も隔たった存在なのに」(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)、「すべての物
事が」(コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』浅倉久志訳)、「すべての場所が一つになる」(ロバー
ト・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)、「たったひとつの事実になろうとする。」(エマソン『償い』酒本雅之訳)。

「マールボロ。」の言葉が、その言葉の輝きが、違った光を、一つに結びつけていくのだ。違った時間のわたしを、
違った場所のわたしを、違ったわたしであったわたしを、ただ一人のわたしにするために。違った光が、一つの光に
なろうとするのだ。そして、それはまた、同時に、一つ一つの光が違ったものであることを、自ら知るために。違っ
た光が、一つの光になろうとするのだ。さまざまな瞬間に、わたしを存在させるために。違った光が、一つの光にな
ろうとするのだ。さまざまな場所に、わたしを存在させるために。違った光が、一つの光になろうとするのだ。さま
ざまなわたしを存在させるために。わたしであったわたしだけではなく、わたしでありたかったわたしや、わたしが
一度としてこうありたいと思い描いたことのなかったわたしをも。

 わたしのなかのいくつもの日の、いくつもの時間が、いくつもの光景の、いくつもの光が、「マールボロ。」とい
う、わたしが体験しなかった体験を通して、わたしの友人の言葉を通して、互いに照射し合い、輝きを増すのである。
光が光を呼ぶのである。瞬間が瞬間を呼んで永遠になるように。それが、実体験以上に実体験であると感じられるの
は、いくつもの体験を、ただ一つの体験として感じられるからであろう。もちろん、意識としては、別々の体験であ
ることを知ってはいても、感覚として、ただ一つの体験であると感じられるからであろう。そして、その感覚は、友
人の体験という、自分の体験ではないものをも自己の体験として組み入れるのであろう。それが、自分のじっさいの
体験ではないと意識の上では知ってはいても。いや、知っているからこそ、そうするのかもしれない。矛盾している、
と。混沌ではなく、混乱でもなく、混雑でもなく、矛盾している、ということを知っているからこそ。そうして、そ
の感覚は、わたしを、さまざまなものの前で開く。わたしを、さまざまな時間に存在させる。わたしを、さまざまな
場所に出現させる。わたしを、さまざまな出来事と遭遇させるのである。そうして、わたしではないものをも、わた
しであるという感じにさせるのである。彼らが入ったラブホテルの、そのシャワーの湯のあたたかさが、わたしの肌
となるように。そのシャワーの湯しぶきのきらめきが、わたしの目となるように。そのシャワーの湯しぶきの蒸気に
満ちたシャワー室そのものが、わたしの息となるように。

 ああ、それにしても、「いまだにみんながきみの愛について語ることをしないのは、いったいどうしたことなのだろ
う。」(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)。どうしてなのだろう。あれらは、愛ではなかったのだろうか。わたしは、
愛を語らなかったのだろうか。あれらは、あのわたしは、愛ではなかったのだろうか。「だれにおまえは嘆こうという
のか、心よ。」(リルケ『嘆き』高安国世訳)「すべては一つの物語なのである。」(アーシュラ・K・ル・グィン『闇の
左手』1、小尾芙佐訳)「詩は喜びに始まり、叡(えい)智(ち)に終わる。」(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』III、嶋田
洋一訳)。


ピーコ

  島中 充

     ピーコ             
ぼくは大切に飼っていたのである
泥川からザリガニを取ってきて 喰わせた
嘴の一突きで赤い頭を割り ピーコは喰った

切り株のうえに 
おとうさんは羽を押さえ ピーコをおさえ
なたの一撃で首を落とした
タッタッター 
首のないそれは二メートルほど駆けた
「くぇー 」
おとうさんは尻もちを着き 鶏の声でさけんだ
小さいとさかを掴み ぼくはごみ箱にすてた
首だけのピーコは薄目を開け 僕をみていた 
いつもの目で

すき焼きは美味しかった
ぼくの誕生日のご馳走であった
「お腹の中から透き通るような白い卵が出てきたわ きっと明日生む分よ」
肉を摘まみながら お母さんが言った

おとうさんとおかあさんは首を伸ばし 頭をくっつけ話していた
「できたらしいわ」
ぼくは鶏のように 首を捻って聞いていた
きっと 赤いとさかのあるものを身籠ったのだ


  zero

あるいは、私は人里から山を一つ越えたところにある渓流の脇を何も考えずに歩いていた。落葉樹が思い思いに枝を伸ばし、太陽は私の上に斑点を作っていた。渓流が川底の段差に応じて流れ落ちる音のほかには、静寂が辺りを包んでいた。静寂ではなく沈黙だったのかもしれない。川の水は硬そうな表面を見せながら小さな波を立ててどんどん流れていき、川の容積はその小さな部分でも人を何人も収容できた。歩きながら不意に私は渓流の沈黙が言わんとしていることに気付いた。この渓流は私の傷である、と。人との交わりから離れたところにひっそりとしかし大きな容積で存在し続け、どこまでも流れることをやめず、私が完全に乾いてしまうことを防いでいる。この渓流は私の傷である、と。

あるいは、私は実家の庭を疲弊した体でうろついていた。古くからの農家なので、竹林や沢山の庭木があり、またぽつぽつと咲いている花もあり、私の疲労を少しずつ置き捨てていくのにちょうどよかった。そんなとき、地面の色と似ていたため初めはそれとわからなかったが、一匹の蛇が目の前の地面にじっとしていた。私は尻尾の方を軽く踏んでみたが、特に動く様子はなかった。だが、私との睨めっこに飽きたのか、するすると木陰に入っていってしまった。そのとき不意に私は思ったのだ。この蛇は私の傷である、と。どこまでも私と同化しようとしながらも、結局は異物として消化を拒み、より深いところへどんどんもぐりこんでいき正体がつかめない。この蛇は私の傷である、と。

あるいは、私は田園地帯の小屋の外に座り満月を眺めていた。月は低めの空に懸り、その光によって逆に天空の闇を広く生み出している根拠のように見えた。月は平板な顔をしながら実は優れた創造力を持ち合わせていて、この天空の闇は見えないながらも限りなく多彩な構造で満ちているかのように思えた。そして、今この私の感慨もまた、月が創りだしているのかもしれない。その月の創りだしたひらめきにより、私は気づいた。この月は私の傷である、と。光を放つことで明確に存在を主張し、周囲に広く闇を創りだしていく。もちろんこの闇は反転して光となりうる豊かな構造によって成立している。あらゆる創造の根拠となる限りない痛み。この月は私の傷である、と。


  zero

稲の規則正しいひしめきの中で
全ての尊いものを押しつぶしていきなさい
そうして全ての卑しいものに隠された
厳しく高貴な天秤でもって
稲は実り稲穂は垂れ
かつて無垢であったという人間の大罪を
赦してくれるから
稲は遠い日の人間たちの共同体を記憶し
明日の社会や明日の国家へと既に根を張り
動かずただ刈り取られるのを
物質として生まれ変わるのを
待っているから
稲はひしめく前に他の稲と名を呼びあい
大きな稲の集団を形成する小さな意志を持ち寄った
稲が等しく低い位置に並ぶのは
稲がとっくに孤独も連帯も捨てているから
ただあずかり知らぬ目的のため
尊厳も平等も捨てて意志を全体で還流させているから
雨と風と戯れ
自らの角度も高度も揺らがせながら
終わっていく日にはきっと
ひとつのひしめく国家を作り
実りは人間たちに
人間たちよりも熟した物質的完成を
気づかれることなく示すだろう


月を仰ぐ

  エルク

まだ湿気を多く含む夜に、薄い膜のような羽は闇夜に溶けこみ身をひそめていた。さきほどまで凪いでいた空。甘い香りを背に乗せたやわらかな風が遥か上空に吹いていた。眉のように伸びた長い二本の触角が今夜の食事のありかを伝えようとわずかに揺れて鼻をくすぐる。ちょっと遠いけど、と囁くような瞳で視線を送れば、長く成長しきる前の触角はうなずく仕草でみじかく二回、上下に揺れて、向かい合った瞳が視線をあわせる。休めた羽をふるわせて、長旅にそなえる深い呼吸。力を込めた柔らかな腹部に赤みが差した直後、最も厚みの薄い雲間から、月明かりを差し込まれた世界は次第に輪郭を思い出していく。夜空に、月が満ちて。



世界の輪郭は甘く立ちあらわれる月夜の静寂。羽を休めて間近に並んだ二羽の蝶が、どこへ遊びにいこうかと羽を揺らして遠くを見ていた。淡い月明かりを受けて羽の模様は本来の色を取り戻す。並んで向かい合う蝶たちは反転しながら夜空に飛び立つ。身を守るための鱗粉を、必要な数だけまとい羽ばたけば、きのうまでは知らなかった月の距離さえ確かめられる。背中の羽には秘密があって、根もとを支えるつけ根から、列をなし枝分かれしていく襞がびっしりと、昼の光を抱えて激しく震える。蓄えた熱を体温に、見上げた角度で飛翔する。背を反らしおおきく弧を描けば、一方の片割れは補うように足りない夜空に弧を描く。もつれながら戯れて、互いに互いを見守るように。夜空に浮かぶふたつの真円。月は重力に惹かれて満ちていく。真夜中を過ぎ、向かい合わせに隣合い、反転していく夜に飛翔する。ゆっくりと欠けはじめるその時刻、二つの月は最も強く惹かれ合う。夜明けは、いまだ遠く。



ほうぼうに散っていく、鱗粉は湿気を含んだひとすじの夜空、列をなし枝分かれして消えていく、やわらかな羽には秘密があって、目線の高さで息をとめ、瞬く間に消えていく、すこしだけ留まる仕草をみせながら、遠ざかる、甘い香りにいざなわれ、帰り道も忘れてしまった、羽をむしれば生きてはいけない、蓄えた熱を体温に、地を這いながら、闇夜を照らし、ただわかるのは月の方角、生まれ変わる間近の魂は、長旅にそなえてちいさくなる、似ている夜空はどこにだって存在するから、いつかは、月の距離も確かめられる、触覚に火をともし、振り払われた鱗分、最も薄い外縁から燃え落ちる、夜、夜が舞いあがり、重力はちいさくなっていく、やがて、青く、落下していく、その途中、背中合わせの前後と左右、双子の蝶が求めたその記号、結ばれた角度を振り払い、淡く、飛翔する、表と裏側、その羽の全身で、重力をかんじている、
その、途中に、



蛾と蝶の違いが何かわかるかい?醜いほうが蛾だというならばそれは区別ではなくて差別だよ。僕ら人間でいったら人種のようなもので、羽の模様は瞳の虹彩。右と左の羽から羽へ、結ぶ谷間のつながった二つのアーチは眉間のかたちで、空をつかんで羽ばたく姿は、ほら、子供たちがかけっこをしているよ。本質的にみな蝶なんだ。完璧な青を湛えるこの子はきっと、遠い遠い海の彼方の国籍で。自力じゃ飛んで帰ることもできやしない。ちょうど故郷を懐かしむ僕の後ろすがたそっくりらしくて、肩甲骨から腰までの青白くてゆるやかな曲線が特に似ているそうなんだ。だから、生まれるはずだった弟がすがたを変えて初めて生まれ落ちてきてくれたんじゃないかって思ってしまうんだ。え、鱗粉が嫌いなのかい?あれは頭から腰にかけてボロボロと落ちる僕らのフケなんだよ。だからどうか、許してくれないか。今日は僕も風呂に入るからさ。青い羽の蝶のため、分厚く積もった鱗粉をしっかりと洗い流すんだ、頭から腰にかけて、しっかりシャンプーするから。どうか無闇に殺さないでほしいんだ。好きになってとは言わないから、さ。



世界は瞬きの数だけその姿を変えていく、
まるで魔法にかかったような星空は、
台詞を忘れた役者のように、
脇役たちとおどけてみせる、
夜明けを嫌い、
照明は踊りつづける、
幕間に、
シャンデリアさながらの、
舞台のすべてに、
帳をおろし、
目蓋をとじる、
幕間を、
今夜という名の演目で、
誰もが羨む、
蝶として、
 
 
 


街に雨ふる、が続くが

  阿ト理恵


休む、があったのか確かめるまでもなく木曜日、水、土を買う。少しばかり角度をあげた目に、つゆのくうはくの月、まち針でとめてみる。あられもなく空気が濃くなりましたね。すきとおる酸素も買いたいとの願いもむなしく、ふ確かなはりとこしがきゃしゃのまんまプラトニックふりかけドンと12段のぼりきったさきのドアをあけた部屋で空となって、空回りするくらいあかるくふるまったら子供っぽい雨粒が、ぽちゃん。ブリキのバケツ、またぎます。またきます。と、ぽちゃん。かわいい音もだちに囲まれているきみの背中に句点をうって、いるような、ぽちゃん。このおとし所に撃たれ、ふるためにやむ。それって、すでに決めてたこと。 きゅうくつたいくつうっくつどうくつそうくつひくつりくつこねくりまわし煮つめたくすりわらうスプーン山盛りいっぱい混ぜるな危険は、ふる(え)方をまちがえて、うらにわのあじさいはみどりからみどりから白どまり。きみをひらがなのようにしあわせにする、と、ほんのひとこと、ほんのりひとりつぶやいたら、うろこがはえてきてしまいました。


続・銀の雨

  はかいし

木の上で生活し始めてからもう三日も経つというのに、兵士たちの姿は消えない。消えた、と思ったときには、また別のところから、姿を見せている。鳥たちの羽ばたき、猿の鳴き声のリズム。私の走りはちょうど重なる。私の木の葉を踏む音を隠してくれる。どうして逃げ出したのか、少しも記憶にない。頭に浮かんでいるのは、脱走兵は射殺される、という指示だけ。どこまで追ってくるのか見当もつかない。追い掛けと逃げの単調な繰り返しではなく、他の音に紛れた足音に対し、照準を合わせるようにして取り囲む準備が、兵士たちには出来ている。

銃を構える音。野生の小動物のリズムにはない足音。その方角から動きを捉える。脳裏に浮かぶ微粒子は、明らかに口を縛っていない袋の形状をなしている(ぶつ切りにした輪ゴムのように世界は広がる)。まだ私の身体の中にも物理学が残っていたのだ。微粒子の動きが波紋を作り、木々がそれを反射しつつ音を伝える(私の耳の中にしか世界はない、すべての音が私の中にある)。正確に彼らを定位する音の群れ。待伏せが銃を構える。前方に微粒子が出現(人)。待伏せを避けて、微粒子の網を潜る方向へ。右という名だったか、左だったかは、とうに忘れた。微粒子のパターンから逃れるのに、できるだけ猿のいる方に向かう。猿は近づくとざわざわと怪しげに動き、兵士たちの気を紛らすのに一役買ってくれる。最後に、木の上から手榴弾を遠方に投げ、爆発を起こす。あとは火が確実に兵士たちを追い払う。

煙の中で、眠っていた。そのときから、夢を見ることを、思い出した。思い出した後は、それが夢という名前だと、名付けるのを忘れた。忘れはしたが、それがそういうものだと知っている。鳥が飛ぶ姿が、私の世界を上空に打ち上げてくれる。先に燃え出した山火事に散水する車の群れ(消防車)。あれが何という名前だったか、もう呼ぶことができない番号を掛けて、そこから連れ出してくれるなら嬉しい。110、119、0120、数の記憶は、それを辿る方向とは常に逆向きに、流れていくのだが、その形だけが浮かび上がり、名称を思い出すことはない。何と呼んでいたか、呼んでいたのは誰だったのか。問いが、失われた記憶を浮き彫りにするが、骨格はなく、意味を与えようとする行為には、喪の作業という、新しい名前を立ち上げることも、ままならない。破り捨ててしまおう。くしゃくしゃにして。夢の描かれた紙片(ゴミ)を収めた、円筒状の金属製容器(くずかご)の表象の、名はどこにも存在しないばかりか、視界を覆う不純物として現れ、それをも片付ける身体の部分(掌)、その名を、どこかへ捨てていく。何も残らない。何も残らないということさえも。

山火事は辺りをすっかり焼いてしまった。炭になったところに、わずかにまだ光っているのは、猿の瞳(または、星たちと呼ぼう)。何と形容したらいいのか、私にはわからないばかりか、むなしく光るばかりの夜の星を目薬にして、あなたは光っているのだと(あるいは、猿の涙の輝きが空に上がっている)。彼らに接吻し、ただ愛に浸る。身体の部分(性器)を、そこに含ませてくれたとき、安堵して、もう胸が張り裂けそうになっていたのを、散々、ぶちまけていた(射精、繰り返される前後運動、ないしは排泄)。その後の記憶は、未来でできている。生き物たちが見ているのは未来ばかり。希望と恐怖に満ちた未来を経て、死に向かって生きているのだと、思ったとき、何かであることをやめていた。何であるかは覚えていない。


日曜日のメモ

  明日花ちゃん

とある近隣住民の火星人は
金星人が“ゆうぐれ”という
とっても素敵な名前のするプレゼントがやって来ることを
今か今かと楽しみにしています。

あ、ちなみに、この詩を紹介しているぼくは金星から火星に繋がるポストです。ぼくというポストは手紙や金星の土や、クレーターに落ちた靴、あるいは人間、どんなものでも、どんな場所でも大丈夫に。安心安全、とっておきの優しさで皆さんのもとにお贈りします。

ある時ご相談にやってきた金星人が言いました。

「ゆうぐれ、を火星人に届けたいの。」

「ゆうぐれかい?」

「そうなの。」

「きみ、ゆうぐれをみたことはある?」

「ないわ。」

「なぜゆうぐれ、なんだい?」

「ゆうぐれを知らないから。」

「知らないのに届けるのかい?」

「知らないから、先に知って欲しいの。」

実はぼくというポストはなかなかの経験豊富でポスト勤務はかれこれ8年になります。それ以前には配達員として地球に、ある程度の魚や、ちょっと厄介な水たまりを宅配して地球人から「地球に過ごすためのオカネ」を貰っていました。ですが途中ぼくはオカネというおっかねえ生き物にほとほと嫌気がさしていたのです。オカネがせんえんからきゅうひゃくにじゅうえんになりいつのまにかにじゅうえんになり、分厚い雲が五月盛りの河原に深々と一礼している様子を伺い、「なにくそ」と手持ちの身体をダボつかせて歩いていた時、キラキラとした優美な雰囲気を放つじゅうえんだまに道端で出会ってしまうと、こいつが妙に意地らしくぼくの額の上で回転し、ぼくは彼女の平等院鳳凰堂を舐め回すように見てしまうのです。ゆえにぼくはそんな自分がとても恥ずかしくて地球人との仕事を辞めにしました。地球人に一通りそれらを話し終えると「君は病院に行ったほうがいい。」と半ば哀れみの眼を振り翳します。ぼくにはちっともいらない涙でしたが、ちょっとだけちりちりとした空気になりました。地球に足元を引っ張られる感覚よりも空が接近しているように見えます。ぼくは地球が全く見えなくなりました。空が近づいているのか、地球が誰かの手によって押し上がり引っ付こうとしているのか、全く検討もつかないまま、地球権を放棄し、現在に至ります。
 
ぼくは金星から火星に繋がるポストです。このポストは手紙や色々な仕掛けで出来た欲望や、あるいは人間、どんなものでも迅速かつ丁寧に対応します。必ず切手はデコピンで貼ってくださいね。切手のほうは「君のこと好きだよ」の言い方で種類の変更が可能です。金星人運営のコンビニ、または銀河管理会社にて販売しております。

そんな訳でぼくは金星に“ゆうぐれ”がなく、地球に“ゆうぐれ”があることに気がついていました。ですがこの自尊心の高そうな、金粉を振り撒く金星人に対して教える心持ちにどうしてもなれませんでした。今が“ゆうぐれ”時ならば、海に沈み佇んだままの青空を見殺しにして、ぼくは“ゆうぐれ”を明け渡してしまうだろう。地球に不法侵入して取ってきてしまおうかな。地球人が“ゆうぐれ”を失って困ることはまずあり得ない。ぼくは暫くの間、金星人の瞳をじっくりと舐め回し、8年ぶりに地球のパスポートを取得しました。

ぼくは8年ぶりのスーツに袖を通し、ポケットの中にしまってあったBB弾を二つ、心がちょうど端に差し掛かったところをセロハンテープでしっかり留め、鏡台にて、地球人の姿形を観察しました。ぼくから向かって右側の棚に飾ってある紫色の棒は、水もやらず、萎びてしまい眼も当てられない有様でしたが、ゆうぐれを盗むためには必要ではないか。と考えました。(ぼくの相棒だか、肉棒だかは知らないが、この生き物に助けてもらったことは幾度となくある。)あとは金星ドリンク一本とあの金星人の連絡先。金星人には地球人でいう姿形がありませんから、とりあえず連絡先を交換したのです。
金星と火星のポストであるぼくには金星人以上の存在さえありませんから、連絡先を交換することは都合良く、存在感覚を鈍らせないように、という文句で度々電話を掛けました。ぼくは自分の肌が地球色に染まらないように気を付けながら、あるときは丁寧に、またあるときは多少怒りっぽく、金星人に事情を伝えました。

「また、地球人になってしまいそうだ。」

「抵抗しているの?」

「違うよ。」

「あなたが誰なのか、わからないの?」

「そうかもしれない。」

「私も、同じよ。
 同じだけれど、あなた以上に分からなくなったの。
 たぶんね。」

金星人でも火星人でもポストでもないそこの君、そう。君だよ。
存在がないことについて不思議に思うのはおかしいだって?
少し離れて見てくれないか。ぼくはいらだっているんだ。


「ぼーっとしていて、それから"なんでもない"と言ったことはありますか?」


ぼくらの存在はそれとよく似ています。地球人にとって"なんでもない"ことは悪い意味かもしれないが、僕らにとって"なんでもない"ことはとても良いこと。だって"なんでも、ない"んだから。ぼくらは、なんでもない世界で生きている。なんでもないことをしている。だからなんだってないってことをよく知っている。ぼくの中にいるうじゃうじゃとしたほころびも小さくまとめて売りつけて、誰かが燃やせばいいと思っている。ぼくはこの詩を読んでいる一人のなんでもないポストだけれども、この詩はほんらい、金星人がゆうぐれを贈るために書いた手紙を綺麗に開いてじっくりと読み、数時間後に書いたメモ書きだ。実際ぼくは、失敗したんだ。ゆうぐれを盗って来れなかった。なぜかって、ゆうぐれをみりゃ分かる。なんでもないからだよ。

ぼくが「無理だった。」と金星人に報告した時、金星にもう戻ることはないだろうと思った。

ぼくが「無理だった」と、どこからも出ない声で叫んだとき

ゆうひが出ていた。久しぶりに戻った地球で、8月31日のゆうぐれどき
しゃがんでずっとゆうぐれを眺める地球人がとつぜん、
となりの瞳を正面にして。

それからずっと、まっすぐが、ぼくをつきさした。








もしもし。そちら金星人ですか?

塞いだ声に連絡する。誰にも見えないように。


想像の生まれ

  Lichida

肌触りの悪い、角ばったこぶし大ほどの岩石に波が立った
気味の悪い波紋を描き出しながら岩石は揺れ、そして表面に少女の顔を作り出した
片方の目は開いておらず、口も完全にはできてはいない
しかし、大きく開かれた右目はしっかりと、確実に前を向いている
固い鉱物同士を擦り合わせるような音を立てながら口を動かし
ひどくもの珍しそうに眼球を独楽のように回転させている
鼻孔はただの飾りのようで、その小さな鼻はとてもかわいらしい
まだ幼いながらもはっきりとしたその顔は
岩石の持つ非生物的な灰色ではなく、しっとりとした肌の色に包まれている
次第に右の眼球の動きがおとなしくなると、左目がゆっくりと開き始めた
左目であるはずのところの岩石が削られ、変異し、溶け出していく
右目の動きが止まった時、左目には深い穴が開いていた
全体の岩石の大きさからは考えられないような、深い穴が開いていた
僕はその穴を覗いてみた
右目を大きく開けて、懐中電灯で照らしてみた
そこは、生命の洞窟であった

少女の左目から生命が噴き出し、僕の右目に食いついた
右目は無機質な岩石と成り果て、削り取られ、溶かされた
僕の右目は生命の住処となった

一瞬の生命の萌芽のにおいを嗅ぎ付けたのか
僕の副鼻腔の奥に潜む、妄想体の塊が暴れ出した
顔を持つ忌々しい妄想が、ついに活動を始めたのだ
この妄想どもは小さな棘のある舌で骨を削り取り、右目の生命に襲いかかる
少女の生命を僕の妄想体が包み始める
血管の拍動に合わせたリズムでどんどんと包み込んでいく
曖昧だったはずの輪郭をはっきりさせつつ、すでに均一化された妄想の集団が生命を包み込む
自立した妄想体は少女の生命を自身の中に生かすことで進化の権利を勝ち取った
この世界で、生命体たりうる可能性を得たのだ

さあ、僕の体はお前らの繭であり、生きる場であり、シャーレに過ぎない
この柔らかな隔壁を一度でも破ってみろ
高濃度の毒素にやられて、お前らは死滅してしまう
さあ、早くこの地獄へ飛び出してゆけ
少女の右目が動き始める前に


詩忘遊戯

  ヌンチャク

己で己に敗けるのは、
男子として最も恥ずべき事である。
一度敗け、二度敗け、
やっぱり三度目も敗けたのである。
自分を信じる事も許す事も出来なくなったら、
もはや廃業するしかあるまい。
男は思った。
男はポエムを書いていた。
嫁と子供にも秘密であった。
ポエムなど、
いい年をした分別のある大人の男の書くものではない。
恥ずかしいものだ。
そうは思っても、書かずにはいられなかった。
沸き立つ血が、捌け口を求めていた。
時折ふと我に返り、
男は、無性に腹立たしくなるのだった。
ポエムなどを書いている自分自身に対してである。
そうして突然、
いてもたってもいられなくなり、
すべてを削除するのである。
これで三度目。
男はもう、自身の意思を信じない。
所詮おれの覚悟など、
この程度のものなのだ。
詩を失い、
ポッカリ胸に穴が開いたよう、
だとは思わなかった。
人間なんてものは皆、
初めから埋められない闇を抱えて、
生まれてきたんじゃなかったのか。
おれの闇には詩が似合う。
ただそれだけの事だ。
けれどもすべてを忘れよう。
昨日は家族で公園に行った。
GWの公園は多くの家族連れで賑わっている。
さあ、メシやメシや。
芝生の一角にミッフィーのレジャーシートを広げ、
男は大きなお握りを頬張る。
娘は早く遊びたくてウズウズしている。
パパ、ナワトビシヨー。
娘に引っ張られるままに、
男はごはん粒のついた指を舐め舐め、
人混みのグラウンドにメシアのごとく悠然と降り立つ。
缶ビールで赤らんだ顔の男は、
二重飛びが二十五回も飛べた自分にうっとりする。
どうだ、と思って振り向くと、
娘はもう遠くまで行っている。
わっちゃー。
男は慌てて追いかける。
危ないから、一人でどっか行ったらあかん!
子供思いの、良いパパなのである。
つまらないポエムさえ書かなければ。
おれがくだらないネットポエマーだからと言って、
娘が苛められたら嫌だな。
有象無象の烏合の衆の一人のくせに、
男は、いつか自分が詩で身を立てた時の、
無用で無意味な心配をしていたのだった。
(男にとって詩で身を立てるとは、
中也賞をもらうことでも文学史に名を刻むことでもない。
ロト6で一攫千金、
仕事を辞めポエムサイトで詩三昧、
無頼派気取りでPCM、
それが男の考える至福のポエムライフだった)
だがしかしそんな杞憂ともこれでおさらば、
父として、いつまでもネットに個人情報をさらけ出しておくわけにはいかん。
調子にのって子供の『携帯写真+詩』まで投稿しちゃった。
あぶないあぶない。
いざ、削除。いざ、退会。
本当に削除してもよろしいですか?
これで、いいのだ。
芸術よりも、子供のしあわせ。
許せ太宰、やはりポエムより桃缶だ。
ザ・小市民。
詩を捨てよ、街へ出よう。
藍沢、ポエムやめるってよ。
さらば、薔薇色のラヴァーソウル。

沈黙の日々は流れ、
雨は降り、風は雲を押し流し、色を変え、
見上げた空をまたひとつ、
虚ろな季節が通り過ぎた。
なんにもない、
なんにもない、
なんにもないからしあわせだ。
男はいつしかそんな歌のようなものを口ずさむのが癖になっていた。
ある夜、
団地の四畳半で電気も付けずに男は一人、
CDラジカセを前にぼんやりしていた。
嫁の自慢の嫁入り道具、電動コブラトップ。
oasisのDon't look back in angerを聴こうと思い、
ボタンを押したがカバーが開かない。
イラッとして力まかせに、
無理矢理こじ開けたらギミック部分がポッキリ折れてはずれてしまった。
カバーを握りしめて佇む男。
台所からは嫁が皿を洗う音が聞こえる。
どうする、おれ。
ポエムどころじゃねえ、
おれにはリアルがどうにもならんのだ。
なんにもない、
なんにもない、
なんにもないからしわよせだ。
ふと足下を見ると、
『燃えよドラゴン』のDVDが落ちている。
男はかつて、
ブルース・リーのポエムを書いた事があった。
反響はまったくと言っていいほどなかったが、
それでも男は満足していた。
世の中には、拳でしか語れない美があるのだ。
(ちなみに男はブルースの熱心なファンではない)
“ I said emotional content , not anger ! ”
ブルースは言った。
“ Don't think ! Feeeel !!!! ”
ブルースは言った。
かつて朔太郎が吠えた前橋の青い月に、
香港島でブルースがそっと人差し指を伸ばす。
それは怒りじゃ、ダメなんだ、と。
そうだ、おれはもうおれにすら敗けたのだ。
今さら恥ずかしがる事は何もない。
感じるままに、書けばいい。
ドス黒く澱み腐っていた血が、
獲物を見つけたウワバミのように静かに、
張り詰めた力を制御しながらゆっくりと流れ始めた。
ドクン。
心臓が、耳元で鳴る。
焼酎ロックをちびりと舐めて、
男は再び、立ち上がる決心をした。
と、その前に腕立て十回。
“ What's your style ? ”
“ My style ?
You can call it the art of fighting without fighting . ”
いそいそとスマホを取りだし、
胸を震わせ、アカウントを再取得する。
自虐とナルシスを鎖で繋ぐ、
我が名は、ヌンチャク。
何度でも削除して、
何度でも晒してやろう。
勢いまかせに振り回し、
自らの股間に当てて悶える姿を。
立ち上がれ、おれ、
ネットだろうとリアルだろうと、
人生なんて、何度でも、
いつからでも、やり直せる。
力強い足取りで、
台所へと続く襖を静かに開ける。
眩しい光がゆっくりとおれを包む。
(背後からのカメラアングル、スローモーション
BGMにDon't look back in anger のピアノイントロが流れ始める)



「‥‥あのー、すみません、ラジカセ壊れました‥‥」


昆虫採集

  葛西佑也

ある夜のことそれは邂逅と言ってよいかもしれない
きっと君はそんな難しい日本語はワカンナイと言うだろうけれど

ぼくは君にはじめての快楽というものを与えた
ぼく自身の手でもって
ぼく自身の口でもって
ぼく自身のこころでもって
それから縫い針でもって君の瞳を突き刺してやることを
欲し 想像し 望み
けれども決してこれを実行に移すことなどなかった
このことをもってして
人はぼくを変態とよぶだろうか
夢に夢中であった 幻想に夢中であった
行動にならないし 言葉にもならない それらを指して
なんと呼ぶことができようか
それらに名前を付けることなど不可能だ
説明はできないけれども
それらは存在している ただ 存在だけがある


カラオケのフリータイムで朝まで歌うことにした
もっとも君はただぼくの横で朝まで寝ていただけだ
君の纏う布の向こう側の毛穴の奥にまで声を届けても
ぐっすりと眠ったままで たまに拍手にならないほどの拍手をする
手と手とゆっくりと合わせるその仕草に対して
ぼくは唾液を何度も飲み込む
無性に喉が渇いてウーロン茶を何杯も飲んでいた
それから隣の部屋からはユーミンだとか尾崎豊だとか
AKBだとかいろいろな歌が聞こえてくるが
今のぼくにとってあらゆる歌詞は単なる記号以下の価値しか持たず
喉を潤し平静を保つことに精いっぱいであった
となりでは「はるよ、こい」という声が響いていた

さて、とある日のこと
ぼくはメモ帳の端きれに連絡先を書きしるして
あの人に渡したのだけれども
いっこうに連絡は来なくて
あれからどのくらいの月日が流れたのかさえも分からない
たまに思い出したふりをしてスマートフォンをいじってみせたりする
画面の上を指がうまく滑ることなど
今までに一度もなかった

閑話休題。

スマートフォンという言葉を使ってしまうことで
このぼくの言葉たちがたとえば数十年後には
古臭いものになってしまうかもしれない
それはそれで構わないと思うのだと
思い出にせよなんにせよ古臭くなって
色褪せていくものだから
そうやって色褪せたり古臭くなってしまうことを
気にかけている時点で
とてもおこがましいのだけれども。


(慇懃無礼って知ってる?
そんな難しい四字熟語、始めて拝見いたしましたですます。
なんとお読みいたしますのでしょうか?)




君には親指の爪を噛む癖があった
だからいつも深爪のような状態である
親指の敏感な部分がいつも湿っている
そこにぼく自身の唇を触れさせるのが
ぼく自身にとっての喜びであった時期もあった
それからどれくらいの月日が流れたのかは忘れてしまったけれども
一緒に見に行くことになっていた映画は
とっくに公開を終えてしまっていることは確かだ
ぼくの手元にはそれとは別の映画のパンフレットが置いてある
「グレート・ビューティー」とある
そういえば君の好きな映画は「甘い生活」ではなかったか


ねぇ、好きな映画は?
「甘い生活」
なぜ?
モノクロだから



説明はできないけれども分かっているということはある
と誰かが言った
君は
説明できなくても分かるってことがあるんだとすれば
分かるってことの意味なんてないも同然だ
と言った
それから分かることと分からない
説明できることと説明できないこと
それらは全部違うんだ
とも君は言った


机が微妙に揺れた
厳密にはスマートフォンのバイブとやらが
机に伝わったようだった
ぼくは硬直した
どうしても画面の上に指を
上手く滑らせることができなくなった
こうしてまた色褪せていく古臭くなっていく
何も覚めない


「とうきょ組曲」

  明日花ちゃん

公衆便所はいつものとおり
主観を置いても臭わない
自慰感土地勘島の草
とうきょはいつでも叩かれる

小さくなっては今の国
国には島から影になり
影の伝にはあなたのみ
砕けてサヨナラ島流し

私せつなく僅かなしぐさ
水打ちかけずにしりぬぐい
眠り続けるきょとうのと
「せかいで一番乗りになれ」

糊付けされたあなたのしぐさ
しどろもどろで動かないわ

さんねんにくみの教室は
28度の設定で
何かいい痛そうな金魚たち
壊されたいと思ってる

セーラー服が着たくても
束ねるための頭がなくて
漫画ばかりの本棚で
スカート捲りを
待ってます少女はしだいに就職し
大人の少女になったのかしら
少女はいつからしまぐにを
自分のものにしなくなる
またまのとうきょが
大事な掃き溜めになって
叩かれ自慰感アンドの血
広げ続けたスカートに
皇居の空気は降りしきる

さようならとうきょげんだいに
ガンダムの様なロボットを
作って壊して粉々の
とうきょを捨てろ
とうきょを捨てろ
ステロイドを塗りたくり
私を捨てろ

さよならとうきょげんだい
のろえ

さんねんにくみの教室で


腐れ外道(憂鬱の愛撫)

  はかいし

もう遅い。君は叫ぶだろう、倒れていく数々の唇を、燃えていく語尾の散らす火花を前にして。辺りに飛び火していく頃、君の眸の向こう側には、死人が出ているのさ。言葉を奪っていった魂が、私の中の無限の回廊を駆け巡って、輪廻をくぐって顔を出す。朝、君の顔は日焼けして、太陽に染み着いた黒点のような黒子が映え渡っている。冴え冴えしい、君の栄光を称えて! 誰もが口々に告げ、夢の中でぶちまけた、罵詈雑言の雨を飲み干す。ああ、喉が渇いた。君のせいだ。最初から、分かっていたんだろう。それなら何故、もっと速く水をよこさない。


夏の断片

  Lisaco

 

ちいさな森のここそこで
寄りあうみたいに
虫たちが
惜しむように夏をうたう、
そんなふうに
きこえる、

**

目を閉じると
風にそよぐ稲田の青さと
やがて黄金色に輝く稲穂が見える
耕作を止めて久しい
葦と背高泡立草に埋め尽くされた
田圃の跡地で、



低い山並に囲まれた
今ではもう人も車も行き交うことのない道の
葦原のずっと向こう
灯るような赤紫色が点在する
広やかな沼地に群生する蓮が
雲ひとつ翳りのない光景に
時の花を咲かせて、



見知らぬ場所で車をUターンさせる
道を戻るということは記憶に似ている、と
何となく思う
もう戻れない時間の道筋にいた
誰かを見つけて、

**

そうしていつも
家路につく、
森に息づく夏の日を
秋風が
さらって行って
しまう前に、


此方側から。

  綿帽子



山が唸っている
黄花コスモスは真っ直ぐ伸びた先で開き
その蝶のような花弁を風に揺らす
その羽音が大気を破ってゆく
カーテンの隙間から手を伸ばしていた陽光は遮られ
掻き乱す雨が来る
急速に羽ばたきは閉じられ
落ちてゆく燕の夢を見ていた

翅。
水底にひかる銀細工みたいな翅
あれは夏の死骸だ
大気の割れ目からまた秋が分け入るから
空は震え身をよじる
落ちる熱が水面に赤く滲んだ
滴る指先が熱い



夜の波間をたくさんの魚の群れ
何処かへ泳いでゆくから
わたしは目を開けて暗いドアの隙間を見つめている

お墓の横の茂みにたったひとつだけ咲いていた薄紫の、
あれは薊だったろうか

わたしの熱がこぼれ落ちて魚になってドアの向こう側に泳いでゆくから
わたしは瞼を閉じる

身体なんて置き去りにして
わたしは魚になりたかった

花弁みたいにはらはら熱が落ちてゆくのに
ひとつまたひとつ指先から熱をわたしに預けるあなた

魚の群れを見送って
わたしはあなたの手を取った


カエルちゃん

  山人


パパはお魚釣りに行ったよ!
君はカエルのような平べったい声で言うと
真っ直ぐ僕を見て、おしっこおしっこと喚いた
汲み取り式の便器が怖くて一人で行けないから
君のママが居るのに僕を便所に連れて行った
なにかぐちゃぐちゃおしゃべりしながらジャーっておしっこすると僕があそこを拭いてあげていた
君は本当にカエルのようで、山の中の一軒家でぴょんぴょん遊んでいたんだ

君はやっぱりカエル顔でメガネをかけていて
顎鬚を蓄えた若い男とパパとママ
今はなんだか書類上はそうでないらしいけど
一応将来の家族でってことでやって来てくれた
カエルはお腹が張ってるけど
君もやっぱりお腹がぷっくり膨らんでて
やっぱりカエルだったんだなぁって思った
なんだか、よその娘さんのようで、僕はあまり話しかけられなかったけれど
帰るときに、カエルちゃんだったっけ?って言うと
君はやっぱりカエル顔になってあの頃の笑顔を向けてくれた
不思議なのかな、自販機にくっ付いたオオミズアオを綺麗だなんて言ってデジカメに撮りこんでいた
パクリっとかしないでよ!
するするっと縦に伸びたカエルちゃん
まだまだあの頃のまんまの心なのかも知れないね
君の家族のことは解らないけど、カエル顔をいつまでもね


病室

  はらし

1.

夢は白く滲んで薄まり
窓辺には 一つの赤い花
月は大きく(夜は一面ガラス張り)透明の明かりで
この寂しさは 慰めの粉末 
それを秋の水と呑み込めば
全身に倦怠が蔓延する
秋風は 銀色の鈴の音と子供の声と
遠くを走る黒塗りバス
それらを総べる静寂とが
連鎖を紡いで この薄暗い
無機質の そして粘体の空気を
吸い込んで 飽和している
暗いインクの苦い香り

2.

乞食には耳がある
目がある口がある
皮膚が覆い尽くしている
蝙蝠傘が破れて横たわる
乞食を照らしているのは
たったひとつの街燈である

 眠りに落ちてはいけないよ
 眠りに落ちてしまえば
 (弱く銀皿が鳴る鳴る……)

眠りは影になって落ちる
だから乞食は眠らない
目は閉じているが
耳は閉じられない
すっかり人気のない街がよく聞こえる
眠りが影になって落ちれば
身体気だるく 夜の空はほのかに青光る
(まるで眠りのようだとしても)
乞食はまるで眠らない

3.

(白い朝の目覚め)
木々が喜びであるように
人々が喜びであるような
(疲れた眼は)
白い朝の目覚め


きせつ (Interlude)

  かとり

よみがえるようにとちを
みすてようとしているのにきれいなまま
よこがおをかさねて
かんすいするふうけいにくっきりとしていく

さかながうかぶきせつ
きせつにさかなはうかんでいる
のこされたうさぎが
はねまわっているようだけどちなまぐさい
くろずんだあしを
つたってははなれ
はなれてはむすばれ
さよならをいうことができない
ねんまくのかんしょくは
したのものだろうかそれともがんきゅうのものだろうか



ゆびをふやすことはゆるされない
へらしてゆくことはできないのだから
かりのなをうたって
ちいさくなっていこうとうそぶく

そうげんのみちがかつて
ひかっているところをみたことがあったころ
そのむかしついに
ひろわれずにすんだほしぼしのねどこへ
つののはえたいきものがなにかと
みつめあっているけしきを
ほおばってとおりすぎてしまうとあさがき
ふっているともなくふりしきりつもりつもってゆく 
ゆめをふみしめてまえあしはかすか
しゃめんはこいしをころがりおちていった
よみがえるようにあなたはきれいなまま
さかなになったならきせつをうかべてみようとおもう

文学極道

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