#目次

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2009年12月分

月間優良作品 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


窓をあければ

  鈴屋


「窓をあければ、港が見える」* 
と、父と母が唄って
この島国は生まれた
1945年、四方を潮のしぶきが洗った

ふたたび日は昇り、日は落ち
タールまみれの群衆が湧きだし
行列し、行進し、ひしめきあい
海にこぼれる者も汽車に轢かれる者もいた

やがてわたしが生まれ
はやりの唄が子守唄
海のむこうの戦争がおとぎ話だった
夕焼けと食い物のほかに人に語るほどの少年時代はなく
大学を出た

通勤電車から見える西日のあたる丘には
牡蠣殻のように屋根がひしめき
身をかがめ、車窓から眺めるたびに
そのひとつに私が棲んでいるとは
なんとふしぎなことだったろう

回る目玉がなかなかそろわず、いつも口紅がはみ出している妻と
三角形の赤いスカートをはいてさかあがりする娘と
四半世紀暮らした
人並みに、思えもして
幸せだった

そして、それから
どうしたものか
近しいことはなにひとつとして思い浮かばず

窓をあければ、電線のうえ
青空のひじょうに高いところ
さらさらとすじ雲はながれ
窓をあければ、生きてゆきたい


 
   * ・・・・・ 「別れのブルース」 淡谷のり子 唄


遺影

  ゼッケン

クイズムリオネア、司会のみのびんたです
スタジオの半周以上を囲む観客席は熱狂した拍手を彼に浴びせた
テレビのクイズショウ司会者は片手を上げて応え、
見計らって手を下ろすと拍手は鎮まった
今夜の回答者は

晩のことだった

ぼくはカップ麺をすすりながらテレビのクイズショウを見ていた
今夜の回答者は、とクイズショウ司会者が言った
こちらのお嬢さん、画面が回答者席に切り替わった
すすったばかりの麺が反転し、上下の唇を割って空中に飛び出した
そのときのぼくは空間に放射状に展開した麺を回収できると思ったらしく、
しかし、勢い込んで吸って入ってきたのは気道に熱い湯気だった
咳き込むぼくの視界は涙で滲んだ
手探りでテーブルに置いた薄いスチロールの容器は熱でやわらかく曲がった
涙で滲んだ回答者の席には姉が座っていた
姉は一年前から行方不明だった
一年ぶりに見る姉の笑顔はテレビ画面の四角い枠に収まっていた
ぼくは咳き込みながら実家の両親に知らせようと
携帯電話をズボンのポケットから引き出した

第一問
量子論的なお嬢さん、あなたは真っ暗闇の箱の中に閉じ込められている
これから二分の一の確率で箱の中に空気かガスが注入される
量子論的なあなたはいま、生きていながら死んでいるのか?

あ、母さん? テレビ、そうそう、見てた、そうそう、姉ちゃんが
はよテレビ局に電話して、あ? おれと電話してるからかけられん?
アハハじゃなか、親父の携帯使ってよ、もう

正解!

あれ? 母さん? ちょっと! おーい!

母親の電話が切れ、テレビ画面には九州の実家が映し出された
さあ、お嬢さんの親御さんからスタジオに応援のメッセージを送ってもらいましょう
観客席からいっせいに拍手が湧き起こった
実家の玄関を照らし出した強いライトの光の中に
黒覆面の男たちに引きずられて
父親と母親が出てきた
戸惑っていた彼らは自分たちに向けられたカメラを見つけると
表情を取り戻して笑顔を浮かべる
あんたはわたしに似て無理ばするけん、身体に気をつけんばよ!
母親が言い終わると黒覆面の男たちは両親に向けて銃を乱射し
父親と母親の身体はくるくる回って玄関に激突、実家爆破、ドカーン

第二問
チューリングテストをするお嬢さん、あなたは壁の向こうにいる何者かに質問している
亀が砂漠でひっくり返っている。手足をばたばたさせているが
ひっくり返った亀は自力では元に戻れない。あなたは助けるか?
何者かは答える
どこの砂漠かを教えてくれなければ助けに行くことができません
この何者かを人間と判定したとき、あなた自身が人間である確率はどの程度あるだろうか?

丸く切り取られた天井が落下してきて
テーブルと
そのテーブルの上に置いた食べかけのカップ麺は下敷きになった
ロープを伝って黒覆面の男たちがぼくの部屋に降りてきた
ひとりはカメラを回していて、ぼくに向けていた
正解!と司会者が言い、弟さん、お姉さんに応援のメッセージをどうぞ
ぼくは言った、姉ちゃん、帰って来い!
覆面のひとりがカメラの前でひざまづかせたぼくの髪の毛をわしづかみにし、
のけぞったぼくの首にナイフを滑らせる
またもやぼくは咳き込み、しかし、咳き込んだと思ったが
血の泡が出たのは切り裂かれた喉の途中からだった
ぼくは喉の裂け目を両手で押さえる
男たちは機材を肩に担ぎ、ぼくを部屋に残して扉から一列になって出て行った

いよいよ最後の問題です

家から出て行くとき、姉は子供を産んで三人で幸せに暮らすつもりだと言っていた
ぼくらが全員反対したのは、相手の男が定職についていなかったからだ

案の定、男に逃げられたお嬢さん、それでもあなたは子供を産みますか?
産みます
ファイナルアンサー?
産みます!
不正解、残念!

テレビのクイズショウ司会者は拳銃を背広の内側から取り出すと
自分のこめかみを撃ち抜いて死んだ
観客席の全員も拳銃を取り出し、銃口を自分たちのこめかみに当てて
いっせいに引き金をひく
熱烈なる拍手で祝福されるなか
姉は出産した

ぼくは静かになった部屋のすみで身体を丸め
切り裂かれた喉からこれ以上こぼれないように両手で押さえていた
地上波デジタル放送に対応したテレビの画面に映った姉に
ぼくはおめでとうと言うべきなのか
迷っていた


CHANT OF THE EVER CIRCLING SKELETAL FAMILY。 

  田中宏輔





     点の誕生と成長、そして死の物語。



   点は点の上に点をつくり
   点は点の下に点をつくり
   点、点、点、、、、

   はじめに点があった
   点は点であった
   
 

ある日
王妃のところに
大点使ミカエルさまがお告げにこられました。
「あなたは点の御子を身ごもられましたよ。」
と。
王妃は
それまで不眠症で
ずっと夜も起きっぱなしで
ただ部屋を暗くさせて
目をつむって床についていたのでした。
暗い部屋で目をつむっていれば
寝ているときの半分くらいの休息にはなると
医学博士でもあり夫でもある王から言われていたのでした。
大点使ミカエルさまの姿はまぶしくて見えませんでしたが
お声だけは、はっきりと聞き取れたのでした。
王妃はすぐに
王の寝室に行き
王の部屋の扉をノックしました。
「わたしです、愛しいあなた。
 起きてください。
 いま、大点使ミカエルさまがいらっしゃって
 わたしに点の御子を授けたとおっしゃるの。」
「なんじゃと。」
王はそういうと布団を跳ね除け
扉を開けて妻である王妃の顔を見た。
王妃の顔は、窓から差し込む月の光にまぶしく輝いていました。
「点の御子じゃと。」
「点の御子だとおっしゃいましたわ。」
「点、点、点、……。」
「ええ、点、点、点と。」
「いったい、どのような子じゃろう?」
「わたしには、わかりませんわ。」
「では、待つのじゃ。
 点の御子が生まれてくるまで。」
そうして
王と王妃は
ひと月
ふた月
み月と
月を数え
日を数えて待っていたのでした。
ところが、いっこうに王妃のお腹はふくれてきません。
「どうしたものかのう。
 なぜ、そなたの腹はふくらまぬのじゃ?」
「わたしには、わかりませんわ。」
「なにしろ、点の御子じゃからのう、
 点のように小さいのかもしれんなあ。
 いや、そもそも、点には大きさがないのであった。
 それゆえ、まったく腹がふくらまないのかもしれんな。」
よ月
いつ月
む月たっても、いっこうに王妃の体型は変わらりませんでした。
ただし、不眠症であった王妃は
大点使ミカエルさまが姿を顕わされたつぎの日から
夜になると
ぐっすりと眠れるようになったのでした。
もう不眠症どころではありません。
ふつうのひとよりずっと多く眠るようになっていたのでした。
なな月
や月
ここのつの月が過ぎ
とうとう
と月目に入りました。
と月とう日目の夜
(TEN月TEN日目の夜)
月の光の明るい夜のことでした。
王妃の部屋から叫び声が聞こえてきました。
王は布団を跳ね除け
ベッドから飛び起き
自分の寝室から
王妃の寝室までダッシュしました。
「どうしたのじゃ?」
「あなた。
 ああ、愛しいお方。
 いま、生まれましたわ。
 わたしの子。
 点の御子が。」
王妃はカーテンをすっかり開けました。
窓から差し込む月の光の下で
ベッドの敷布団の上にあったのは
ただ
ひとこと
点としか言えない
点でした。
王の目と王妃の目が見つめ合いました。

     *

王と王妃は
点のために誕生の祝典をひらく。
点は祝福をもたらすもの。
点は祝福をもたらす。
王宮じゅうが
点の誕生を祝福して
お祭り騒ぎ。
点は祝福をもたらす。
国民は
王と
王妃とともに
祝典をあげる。

     *

点は、国家に興味がない。
点は、王にも興味がない。
点は、王妃にも興味がない。
だれが、どこで、なにをしているのか
だれが、どこで、なにをされているのか
点は、なにものにも、まったく興味を魅かれなかった。
王妃がひそかに主人である王の家来と密通していようと、していまいと
王が馬丁の男と禁じられた恋の行為をしていようと、していまいと
点には、まったく関心がなかった。
点にはできないことはなかった。
あらゆることが可能であるなら
そういった存在は
なにかを望むなどということがありえようか。
点には、あらゆることが可能であった。
点には、自身が点であることすらやめることができたのである。
また点であることをやめたあとに
点になって復帰することも可能であった。
なぜなら、点には時間が作用しないからである。
点は、あらゆる時間のはじまりにも、
あらゆる時間の終わりにも存在していたし、存在していなかった。
点は、あらゆる場所のはじまりにも、
あらゆる場所の終わりにも、存在していたし、存在していなかった。
点は、あらゆる出来事のはじまりにも、
あらゆる出来事の終わりにも、存在していたし、存在していなかった。
あらゆる時間と、あらゆる場所と、あらゆる出来事は、点だった。
点は、存在するものであり、存在しないものである。
点は、あらゆる存在するものでもあり、あらゆる存在しないものでもある。

     *

点は、国家に興味がない。
点は、王にも興味がない。
点は、王妃にも興味がない。
国家のほうが、点に興味を持っていた。
王のほうが、点に興味を持っていた。
王妃のほうが、点に興味を持っていた。
だれもが、いつ、どこでも、どんなときにも、点に興味を持っていた。
だれひとり、点に興味を失うことはなかった。
だれひとり、点に関心を払わないわけにはいかなかった。
その点が、点が点である所以であったのであろう。

     *

点は、王にも、王妃にも、ほかのだれにもできないことができた。
点は、本のなかの物語そのもののなかに入ることができたのであった。
点は、本のなかに描かれた草原で風の声に耳を傾けることもできたし
点は、王に反逆した臣下が捉えられて拷問されているときの悲鳴を聞くこともできたし
点は、さやと流れる川の水の音に耳を澄ますこともできた。
点は、嵐の夜の稲光を目にすることもできたし
点は、畑で働く農民の首に流れる汗に反射する太陽の光の粒に目をとめることもできたし
点は、終業間際の疲れた目をこする会計士の机の上に開かれた帳面の数字に目を落とすこともできた。
点は、氾濫して崩壊した川の濁流に巻き込まれることもできたし
点は、電話口でささやかれる恋人たちの温かい息のなかに入ることもできたし
点は、地球と月の重力がつり合ったラグランジュ点となることもできた。
ただひとつ、点にできなかったのは、音そのものになることだった。
ただひとつ、点にできなかったのは、光そのものになることだった。
ただひとつ、点にできなかったのは、熱やエネルギーや力そのものになることだった。

     *

点は、存在し、かつ、存在しないものである。
存在するものそのものではない。
存在しないものそのものでもない。
点は、物質でもなく、光でもなく、音でもなく、
エネルギーでもなく、力でもない。

あらゆる存在するものが点だった。
あらゆる存在しないものが点だった。
点は、あらゆる存在するものだった。
点は、あらゆる存在しないものだった。

さて
ここで
「あらゆる」という言葉が禁句であったことに思いを馳せよう。
「あらゆる」という時点で、(時と点で)
その書かれた文章は
メタ化された次元で無効となる恐れがあるからである。
間違い。
メタ化された次元から見ると無効となる恐れがあるからである。
(ほんとかな? 笑。)
上に書かれた文章には、穴が、ポコポコと、あいている。
それも、みな点だけれど。
点には大きさがないということは
いくらあいてても
あいてないのか?
笑けるわ。
ぼくは
笑わないけど。
点は、存在し、かつ、存在しないものである。

     *

点は、移動するのか?

点は、自身をも含むいかなる点に関しても対称な位置に座標をもつことができる。
点は、自身をも含むいかなる直線に関しても対称な位置に座標をもつことはできる。
点は、自身をも含むいかなる平面に関しても対称な位置に座標をもつことはできる。
3次元空間の自身を含む、いかなる位置にも転位可能である。

したがって、点は、この条件のもとでは
同時瞬間的に、あらゆる移動によって、点であることをやめることができる。
点であるかぎり、点であることをやめることができるのだ。

これが
点の第一の死の物語であり、
つぎの第二の生誕の物語である。

そのあいだの成長の物語を語り忘れていた。
この語り部の語りには、点のような穴がいっぱいあいている。
この語り部の語りは、点のような穴だけでできているのだった。

点は、移動するのか?

     *

点は
点の物語を語っている作者に不満を持った。
「点のような穴」

この物語を語っている作者は
第一巻の終わりに書いていたのだ。
点は
「ぼく、穴ちゃうし。
 穴が、ぼくともちゃうし。
 ぼく、なににも似てないし。
 なにも、ぼくには似てないし。」
とつぶやいた。

この物語を語っている作者の
頭のなかで。
「そや。
 きみは点やし
 その点で
 きみは
 なにものにも似てないし
 なにものも
 きみには似てへん。
 そやけど
 ふつうに使う比喩やろ?
 使うたら、あかんか?」
「あかん。
 点の名誉にかけても
 あかんわい!」
そか。
点の物語を語っている作者は
さっき
うれしいことがあったので
阪急西院駅のそばにある立ち飲み屋の
「印」に行くつもりだった。
パソコンのスイッチを切ろうとして
マウスに手をのばした。
「ちょっと待て。
 書き直さへんのか?
 さっきアップしたやつ。」
「ごめんちゃいね〜。
 これから、お酒を飲みに
 行ってきま〜ちゅ。」
と言って
この点の物語を語っている作者は
その顔に、いかにも意地悪そうな笑みを浮かべて
この外伝を書き終えたのでした。
ちゃんちゃん。
行ってきま〜ちゅ。

     *

場所が点を欲することがあっても
点が場所を欲することはない。
たとえ、場所が場所を欲することがあっても
点が点を欲することはない。
時間が点を欲することがあっても
点が時間を欲することはない。
たとえ、時間が時間を欲することがあっても
点が点を欲することはない。
出来事が点を欲することがあっても
点が出来事を欲することはない。
たとえ、出来事が出来事を欲することがあっても
点が点を欲することはない。

     *

点は裁かない。
点は殺さない。
点は愛さない。

点は真理でもなく
愛でもなく
道でもない。

しかし
裁くものは点であり
殺すものは点であり
愛するものは点である。

真理は点であり
愛は点であり
道は点である。

     *

点は、自分のことを
作者が、数学概念としての「点」と
横書きの文章に使われるピリオドとしての「点」を
ごちゃまぜにしていることに腹を立てていた。
まったく異なるものだからだ。
「なんで、ごちゃまぜにしてるねん?」
「ええやん。
 そのほうがおもろいねんから。
 あんまり、まじめに考えんでもええんちゃうかな?
 作者も遊んどるんやし
 あんたも遊んどき。」
「なんやて。
 遊ばれとる、わいの身になってみぃ、
 ごっつう気分わるいで!」
「わるいなあ。
 かんにんしてや。
 わるふざけがやめられへん作者なんや。
 ごめんやで。」
点は、目を点にして作者を睨みつけた。
まったく異なる意味概念のものでも
何度も比喩的に同じ詩のなかで扱われていると
やがて、その意味概念がごちゃまぜになってしまって
意味のうえで、明確な区別ができなくなっていくのであった。
「どついたろか
 思うたけど
 わいには、手があらへんし。」
「てん
 て
 てがあるのにね〜、笑。」
「笑。って書くな!
 なんやねん、それ?」
「直接話法に間接話法を取り入れてみたんや、笑。」
「ムカツク。」
「まあ、作者は死ぬまで
 あんたをはなさへんやろな。
 大事に思うてるんやで。」
「そしたら
 もうちょっとていねいに扱え!」
「了解、ラジャーです、笑。」

     *

フランシスコ・ザビエルも、その点について考えたことがある。
フッサールも、その点について考えたことがある。
カントも、その点について考えたことがある。
マキャベリも、その点について考えたことがある。
マーク・トウェインも、その点について考えたことがある。
J・S・バッハも、その点について考えたことがある。
イエス・キリストも、その点について考えたことがある。
ニュートンも、その点について考えたことがある。
コロンブスも、その点について考えたことがある。
ニーチェも、その点について考えたことがある。
シェイクスピアも、その点について考えたことがある。
仏陀も、その点について考えたことがある。
ダ・ヴィンチも、その点について考えたことがある。
ジョン・レノンも、その点について考えたことがある。
シーザーも、その点について考えたことがある。
ゲーテも、その点について考えたことがある。
肖像画に描かれた人物たちも、その点について考えたことがある。
文学作品に登場する架空の人物たちも、その点について考えたことがある。
神話や伝説上の人物たちも、その点について考えたことがある。
だれもが、一度は、その点について考えたことがある。
神も、悪魔も、天使や、聖人たちも、その点について考えたことがある。
点もまた、その点について考えたことがある。

     *

無数と無限は違うということを知っておかなければならない。
しかし、この違いを知ることはできないものである。
無数の点が集まって線ができるのでもなく
無数の点が集まって平面ができるのでもなく
無数の点が集まって空間ができるのでもないということを知ること。

しかし、線は無数の点からできているということ
平面は無数の点からできているということも
空間が無数の点からできているということも知らなければならない。

点と点のあいだの距離は無限である。
いかなる点のあいだにおいてもである。
それが同一の点においてもである。

点と点のあいだの距離はゼロである。
いかなる点のあいだにおいてもである。
それがどれほど遠くにある点においてもである。

     *

点は腐敗することもなく
侵食されることもなく
崩壊することもない。

     *

点にも感覚器官がある。
点にも
目があり
耳があり
舌があり
皮膚がある。

点にも
ときどき
突然死があり
癌もあり
交通事故死もある

点は
感じもし
考えもし
行動もする。

というより
感じるものは、すべて点であり
考えるものは、すべて点であり
行動するものは、すべて点である。

線や面や空間は
感じもしなければ
考えもしないし
行動もしない。

あらゆる線は、点に収縮し
あらゆる面は、点に収縮し
あらゆる空間は、点に収縮する。

点は線となって展開することもなく
面となって展開することもなく
空間となって展開することもない。

ただ点は点であるということにおいてのみ
線と面と空間は一致する。

     *

ある日
点が、王のお気に入りの奴隷の額に転移して離れなかった。
点は、奴隷の額の上から
奴隷が見ているものを見、
奴隷が聞いているものを聞き、
奴隷が嗅いでいるものを嗅ぎ、
奴隷が触れているものに触れていた。
点は、奴隷の額の上から
奴隷が感じたことを感じ、
奴隷が考えたことを考えてみた。
ある日
王は奴隷を縛り首にした。
その後
点は、さまざまのものの上に転移した。
転位するたびに
王は
着物を燃やし
壺を壊し
絵を破りすてた。
点は、さまざまな人間の額の上に転移した。
転位するたびに
王は
弟を殺し
妹を殺し
老父を殺し
妃を殺していった。
しかし
もともと額の上に
厚みのないほくろのある顔と見分けがつかなかったので
王は、額にほくろを持つ人間をつぎつぎに吊るし首にしていった。
ほくろには、厚みのある生きぼくろと、厚みのない死にぼくろがあったのだが
王は、とにかく、額にほくろのある人間をことごとく捕らえては殺していった。
宮殿のなかから、宮殿のそとから
つぎつぎとひとの姿が消えていった。
ある日
王が目覚めて
ひとりの奴隷が、湯を入れたたらいを持って
王の部屋に入ってきた。
その奴隷の叫び声とともに
湯の入った、たらいが、床の上に落ちる大きな音がした。

     *

点外
点内

     *
点も
虚無も
イメージにしかすぎない。

点より先に虚無が存在したのか?
虚無より先に点が存在したのか?

存在することも
存在しないことも
語に付与された意味概念によるのだから
概念規定の問題である。

であるのか?

点と虚無。

それはイメージにしかすぎない。
それに相当する現実の実体は存在しない。

しないのか?

脳髄は存在しないものを考えることができる。

ほんとうに?

脳髄は存在するものを考えることができる。

ほんとうに?





     胎児



   自分は姿を見せずにあらゆる生き物を知る、これぞ神の特権ではなかろうか?
           (ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』榊原晃三・南條郁子訳)

     

神の手にこねられる粘土のように
わたしをこねくりまわしているのは、だれなのか?

いったい、わたしを胎のなかで
数十世紀にもわたって、こねくりまわしているのは、だれなのか?

また、胎のなかで
数十世紀にもわたって、こねくりまわされているわたしは、だれなのか?

それは、わからない。
わたしは、人間ではないのかもしれない。

この胎は
人間のものではないのかもしれない。

しかし、この胎の持ち主は
自分のことを人間だと思っているようだ。

夫というものに、妻と呼ばれ
多くの他人からは、夫人と呼ばれ

親からは、娘と呼ばれ
子たちからは、母と呼ばれているのであった。

しかし、それもみな、言葉だ。
言葉とはなにか?

わたしは、知らない。
この胎の持ち主もよく知らないようだ。

詩人というものらしいこの胎の持ち主は
しじゅう、言葉について考えている。

まるきり言葉だけで考えていると考えているときもあるし
言葉以外のもので考えがまとまるときもあると思っているようだ。

この物語は
数十世紀を胎児の状態で過ごしつづけているわたしの物語であり

数十世紀にわたって、
わたしを胎内に宿しているものの物語であり

言葉と
神の物語である。

     *

時間とは、なにか?
時間とは、この胎の持ち主にとっては
なにかをすることのできるもののある尺度である。
なにかをすることについて考えるときに思い起こされる言葉である。
この胎の持ち主は、しじゅう、時間について考えている。
時間がない。
時間がある。
時間がより多くかかる。
時間が足りない。
時間がきた。
時間がまだある。
時間がたっぷりとある。
いったい、時間とは、なにか?
わたしは知らない。
この胎の持ち主も、時間そのものについて
しばしば思いをめぐらせる。
そして、なんなのだろう? と自問するのだ。
この胎の持ち主にも、わからないらしい。
それでも、時間がないと思い
時間があると思うのだ。
時間とは、なにか?
言葉にしかすぎないものなのではなかろうか?
言葉とは、なにか?
わからないのだけれど。

     *

わたしは、わたしが胎というもののなかにいることを
いつ知ったのか、語ることができない。
そして、わたしのいる場所が
ほんとうに、胎というものであるのかどうか確かめようもない。
そうして、そもそものところ
わたしが存在しているのかどうかさえ確かめようがないのだ。
そういえば、この胎の持ち主は、こんなことを考えたことがある。
意識とは、なにか?
それを意識が知ることはできない、と。
なぜなら、袋の中身が
袋の外から自分自身を眺めることができないからである、と。
しかし、この胎の持ち主は、ときおりこの考え方を自ら否定することがある。
袋の中身が、袋の外から自分自身を眺めることができないと考えることが
たんなる言葉で考えたものの限界であり
言葉そのものの限界にしかすぎないのだ、と。
そして、
言葉でないものについて、
この胎の持ち主は言葉によって考えようとする。
そうして、自分自身を、しじゅう痛めつけているのだ。
言葉とは、なにか?
それは、この胎の持ち主にも、わたしにはわからない。

     *

生きている人間のだれよりも多くのことを知っている
このわたしは、まだ生まれてもいない。
無数の声を聞くことができるわたしは
まだわたしの耳で声そのものを聞いたことがない。
無数のものを見ることができるわたしは
まだわたしの目そのもので、ものを見たことがない。
無数のものに触れてきたわたしなのだが
そのわたしに手があるのかどうかもわからない。
無数の場所に立ち、無数の街を、丘を、森を、海を見下ろし
無数の場所を歩き、走り跳び回ったわたしだが
そのわたしに足があるのかどうかもわからない。
無数の言葉が結ばれ、解かれる時と場所であるわたしだが
そのわたしが存在するのかどうかもわからない。
そもそも、存在というものそのものが
言葉にしかすぎないかもしれないのだが。
その言葉が、なにか?
それも、わたしにはわからないのだが。

     *

数学で扱う「点」とは
その言葉自体は定義できないものである。
他の定義された言葉から
準定義される言葉である。
たとえば線と線の交点のように。
しかし、その線がなにからできているのかを
想像することができるだろうか?

胎児もまた
父と母の交点であると考えることができる。
しかし、その父と、母が、
そもそものところ、なにからできているのかを
想像することができるだろうか?

無限後退していくしかないではないか?
あらゆることについて考えをめぐらせるときと同じように。

     *

この胎の持ち主は、ときどき酩酊する。
そして意識が朦朧としたときに
ときおり閃光のようなものが
その脳髄にきらめくことがあるようだ。
つねづね
意識は、意識そのものを知ることはできない、と。
なぜなら、袋の中身が、袋の外から袋を眺めることができないからであると
この胎の持ち主は考えていたのだけれど
いま床に就き、意識を失う瞬間に
このような考えが、この胎の持ち主の脳髄にひらめいたのである。
地球が丸いと知ったギリシア人がいたわ。
かのギリシア人は、はるか彼方の水平線の向こうから近づいてくる
船が、船の上の部分から徐々に姿を現わすのを見て、そう考えたのよ。
空の星の動きを見て、地球を中心に宇宙が回転しているのではなくて
太陽を中心にして、地球をふくめた諸惑星が回転しているのだと
考えたギリシア人もいたわ。
これらは、意識が、意識について
すべてではないけれど
ある程度の理解ができるということを示唆しているのではないかしら?
わからないわ。
ああ、眠い。
書き留めておかなくてもいいかしら?
忘れないわね。
忘れないわ。
そうしているうちに、この胎の持ち主の頭脳から
言葉と言葉を結びつけていた力がよわまって
つぎつぎと言葉が解けていき
この胎の持ち主は、意識を失ったのであった。

     *

わたしは、つねに逆さまになって考える。
頭が重すぎるのだろうか。
いや、身体のほうが軽すぎるのだ。
しかし、わたしは逆さまになっているというのに
なぜ母胎は逆さまにならないでいるのだろう。
なぜ、倒立して、腕で歩かないのだろうか。
わたしが逆さまになっているのが自然なことであるならば
母胎が逆さまになっていないことは不自然なことである。
違うだろうか。





     卵



ベーコンエッグは
フライパンを火にかけて
サラダオイルをひいて
ベーコンを2枚おいて
タマゴを2個 割り落として
ちょっとおいて
水を入れて
ふたをする
ジュージュー音がする
しばらくすると
火をとめて
ふたをとって
フライパンの中身を
ゴミバケツに捨てる

     *

自分を卵と勘違いした男の話

彼は冷蔵庫の扉を開けて卵を置く場所に
つぎつぎと自分を並べていった。

     *

卵かけご飯
卵かけ冷奴
卵かけバナナ
卵かけイチゴ
卵かけカキ氷
卵かけスイカ
卵かけルイ・ヴィトン
卵かけ自転車
卵かけベンツ
卵かけ駅ビル
玉子かけ宇宙

     *

この卵は
現在、使われておりません。

    *

波の手は
ひくたびに
白い泡の代わりに
白い卵を波打ち際においていく

波打ち際に
びっしりと立ち並んだ
白い卵たち

     *



終日
頭がぼんやりとして
何をしているのか記憶していないことがよくある
河原町で、ふと気がつくと
時計屋の飾り窓に置かれている時計の時間が
みんな違っていることを不思議に思っていた自分に
はっとしたことがある
このあいだ
丸善で
ふと気がつくと
一個の卵を
平積みの本の上に
上手に立てたところだった
ぼくは
それが転がり落ちて
床の上で
カシャンッって割れて
白身と黄身がぐちゃぐちゃになって
みんなが叫び声を上げるシーンを思い浮かべて
ゆっくりと
店のなかから出て行った

     *

みにくい卵の子は
ほんとにみにくかったから
親鳥は
そのみにくい卵があることに気づかなかった
みにくい卵の子は
かえらずに
くさっちゃった

     *

コツコツと
卵の殻を破って
コツコツという音が生まれた
コツコツという音は
元気よく
コツコツ
コツコツ
と鳴いた

     *

卵が、ときどき
殻の外に抜け出したり
また殻のなかに戻ったりしてるって
だれも知らない。

     *

卵に蝶がとまっていると、蝶卵か卵蝶なのか
それを頭にくっつけてる少女は、少女蝶卵か卵蝶少女なのか
その少女が自転車に乗っていると、自転車少女蝶卵か卵蝶少女自転車なのか
ふう、これぐらいで、やめとこ、笑。

     *

吉田くんのお父さんは、たしかにちょっとぼうっとした人だけど
吉田くんのお母さんは、しゃきしゃきとした、しっかりした人なのに
吉田くんちの隣の山本さんが一番下の子のノブユキくんを
吉田くんちの兄弟姉妹のなかに混ぜておいたら
吉田くんちのお父さんとお母さんは
自分のうちの子と間違えて育ててる
もう一ヶ月以上になると思うんだけど
吉田くんも自分に新しい弟ができて喜んでた
そういえば
ぼくんちの新しい妹も
いつごろからいるのか
わからない
ぼくのお父さんやお母さんにたずねても
わからないって言ってた

     *

一本の指が卵の周りをなぞって一周する
一台の飛行機が地球のまわりを一周する

     *

透明なプラスティックケースのなかに残された
最後の一個の卵が汗をびっしょりかいている
汗びっしょりになってがんばっているのだ
その卵は、ほかの卵がしたことがないことに
挑戦しようとしていたのだった
卵は、ぴょこんと
プラケースのなかから跳び出した
カシャッ

     *

湖の上には
卵が一つ浮かんでいる

卵は
自分と瓜二つの卵に見とれて
動けなくなっている

湖面は
卵の美しさに打ち震えている

一個なのに二個である

あらゆるものが
一つなのに二つである

湖面が分裂するたびに
卵の数が増殖していく

二個から四個に
四個から八個に
八個から十六個に

卵は
自分と瓜二つの卵に見とれて
動けなくなっている

無数の湖面が
卵の美しさに打ち震えている

どの湖の上にも
卵が一つ浮かんでいる

     *

卵病

コツコツと
頭のなかから
頭蓋骨をつつく音がした
コツコツ
コツコツ
ベリッ
頭のなかから
ひよこが出てきた
見ると
向かいの席に坐ってた人の頭の横からも
血まみれのひよこが
ひょこんと顔をのぞかせた
あちらこちらの席に坐ってる人たちの頭から
血まみれのひよこが
ひょこんと姿を現わして
つぎつぎと
電車の床の上におりたった

     *

卵をフライパンの上で割ったら
小人が落ちて
フライパンの上に尻餅をついて
「あちっ。」

     *

空の卵

卵を割ると
空がつるりんと
器のなかに落っこちた
白い雲が胎児のように
丸まって眠っていた
ぼくは
お箸を使って
くるくる回すと
雲はくるくる回って
風が吹いて
嵐になって
ゴロゴロ
ゴロゴロ
ピカッ 
ババーン
って
雷が落ちた
ぼくは
怖くなって
お箸をとめた

     *

パパ卵

卵を割ると
つるりんと
中身が
器のなかに落ちた
パパが
胎児のように
丸まって眠っていた
ぼくは
お箸を使って
くるくるかき回した
パパはくるくる回った

     *

ぼく卵

卵を割ると
つるりんと 中身が
器のなかに落ちた
ぼくはちょっとくらくらした
ぼくが胎児のように
丸まって眠っていた
ぼくは
お箸を使って
くるくるかき回した
ぼくはくるくる回った
ものすごいめまいがして
目を開けると
世界がくるくる回っていた

     *

空飛ぶ卵

本日の夕方4時過ぎに
空飛ぶ卵が、京都市の三条大橋の袂に出現したということです。
目撃者の主婦 児玉玉子さん(仮名:43歳)の話によりますと
スターバックスの窓側で、持ってこられたばかりの熱いコーヒーをすすっておられると
とつぜん目の前を、卵が一個、すーっと通り過ぎていったというのです。
驚いて、外に出て、卵が向かったほうに目をやると
その卵が急上昇してヒュ−ンと飛び去っていったというお話でした。
児玉さんのほかにも、大勢の目撃者が証言されておられます。
昨日から日本各地で空飛ぶ卵が目撃されておりますが
これは何かが起こる兆しなのでしょうか。
今晩8時より当局において特別番組『空飛ぶ卵の謎』を放映いたします。
みなさま、ぜひ当局の番組をごらんくださいませ。
スペシャルゲストに
UFO研究家の矢追純一さんと卵評論家の玉木玉夫さんをお呼びいたしております。

     *

卵の日

ある日
卵が空から落ちてきた
片づけるしりから
つぎつぎと卵が落ちてきた
町じゅう
卵で
ツルンツルン

     *

卵は来るよ

卵は来るよ
どこまでも
ぼくについて来るよ
いつまでも
ころんころん
ころがって
卵は来るよ
どこまでも
ぼくについて来るよ
いつまでも
ころんころん
ころがって

     *

二つの卵

二つの卵は
とても仲良し
いつもささやきあっている
二人だけの言葉で
二人だけに聞こえる声で

     *

ナタリーの卵

って、タイトルしか考えなかったのだけれど
なんか、タイトルだけで感じちゃうってのは
根がスケベだからカピラ

     *

ナタリーの卵
ナタリーに卵
ナタリーは卵
ナタリーを卵

     *

卵にしていいですか

     *

猟奇的な卵
溺れる卵
2001年卵の旅
酒と卵の日々
だれにでも卵がある
卵の惑星
ロミオと卵
失われた卵を求めて
行くたびに卵
果てしなき卵
見果てぬ卵
非卵の世界ええっ
卵生活
卵の夜明け
卵の国のアリス
荒れ狂う卵
卵応答なし
卵の海を越えて
宇宙卵
卵の儀式
燃える卵

     *

卵頭

指先で
コツコツすると
ピキキキキ
って

     *

きみもまだまだ卵だからなあ

     *

藪をつついて卵を出す
石の上にも卵
二階から卵
鬼の目にも卵
覆水卵に戻らず
胃のなかの卵

     *


まっ
いいか

卵は卵であり卵であり卵であり卵であり……

     *

霧卵

どんなんかな

     *



この卵か
あの卵かと
思案するけれど
根本的なことを言うと
なにも
卵でなくってもいいのよ
まあね
でも
卵って
なんだかかわいらしいじゃない?

腹筋ボコボコの卵

     *

顔面神経痛の卵
不眠症の卵
よくキレル卵
ホホホと笑う卵

卵って
書くと
みんな
だんだん
卵に見えてくる

     *

お客さん
セット料金 20卵でどうですか
いやあ 20卵はきついよ
じゃあ 15卵でどうですか
よし じゃあ15卵な
ううううん

     *
コツコツと
卵の殻を破って
卵が出てきた

     *

わたしは注意の上にも注意を重ねて玄関のドアをそっと開けた
道路に卵たちはいなかった
わたしは卵が飛んできてもその攻撃をかわすことができる
卵払い傘を左手に持ち
ドアノブから右手を静かにはなして外に出た
すると、隣の家の玄関先に潜んでいた一個の卵が
びゅんっと飛んできた
わたしは
さっと左手から右手に卵払い傘を持ち替えて
それを拡げた
卵は傘の表面をすべって転がり落ちた
わたしは
もうそれ以上
卵が近所にいないことを願って歩きはじめた
こんな緊張を強いられる日がもう何ヶ月もつづいている
あの日
そうだ
あの日から卵が人間に反逆しだしたのだ
それも、わたしのせいで
京都市中央研究所で
魂を物質に与える実験をしていたのだ
一個の卵を実験材料に決定したのは
わたしだったのだ
わたしは知らなかった
そんなことをいえば
だれも知らなかったし
予想すらできなかったのだ
一個の卵に魂を与えたら
その瞬間に世界中の卵が魂を得たのだ
いっせいに世界中にあるすべての卵に魂が宿るなんてことが
いったいだれに予想などできるだろうか
といって
わたしが責任を免れるわけではない
「これで進化論が実証されたぞ。」と
同僚の学者の一人が言っていたが
そんなことよりも
世界中の卵から魂を奪うにはどうしたらいいのか
わたしが考えなければならないことは
さしあたって、このことだけなのだ

     *

きのうは
ジミーちゃんと西院の立ち飲み屋に行った
串は、だいたいのものが80円だった
二人はえび、うずら、ソーセージを頼んだ
どれも80円だった
二人で食べるのに豚の生姜焼きとトマト・スライスを注文したのだが
豚肉はぺらぺらの肉じゃなかった
まるでくじらの肉のように分厚くて固かった
味はおいしかったのだけれど
そもそものところ
しょうゆと砂糖で甘辛くすると
そうそうまずい食べ物はつくれないはずなのであって
まあ、味はよかったのだ
二人はその立ち飲み屋に行く前に
西大路五条の角にある大國屋で
紙パックの日本酒を
バス停のベンチの上に坐りながら
チョコレートをあてにして飲んでいたのであるが
西院の立ち飲み屋では
二人とも生ビールを飲んでいた
にんにくいため
というのがあって
200円だったかな
どんなものか食べたことがなかったので
店員に言ったら
店員はにんにくをひと房取り出して
ようじで、ぶすぶすと穴をあけていき
それを油の中に入れて、そのまま揚げたのである
揚がったにんにくの房の上から塩と胡椒をふりかけると
二人の目の前にそれを置いたのであった
にんにくいためというので
にんにくの薄切りを炒めたものが出てくると思っていたのだが
出てきたそれもおいしかった
やわらかくて香ばしい白くてかわいいにんにくの身が
つるんと、房から、つぎつぎと出てきて
二人の口のなかに入っていったのであった
ぼくの横にいた青年は
背は低かったが
なかなかの好青年で
ぼくの身体に自分の尻の一部をくっつけてくれていて
ときどきそれを意識してしまって
顔を覗いたのだが
知らない顔で
以前に河原町のいつも行く居酒屋さんで
オーストラリア人の26歳のカメラマンの子が
ぼくのひざに自分のひざをぐいぐいとひっつけてきたことを
思い起こさせたのだけれど
あとでジミーちゃんにそう言うと
「あほちゃう? あんな立ち飲み屋で
 いっぱい人が並んでたら
 そら、身体もひっつくがな
 そんなんずっと意識しとったんかいな
 もう、あきれるわ。」
とのことでした

そのあと二人は自転車に乗って
四条大宮の立ち飲み屋「てら」に行ったのであった
そこは以前に
マイミクの詩人の方に連れて行っていただいたところだった

どこだったかなあ

ぼくがうろうろ探してると
ジミーちゃんが
ここ違うの?
と言って、すいすいと
建物の中を入っていくと
そこが「てら」なのであった
「なんで
 ぼくよりよくわかるの?」
って訊いたら
「表に看板で
 立ち飲み
 って書いてあったからね。」
とのことだった
うかつだった
おいしいなって思った「にくすい」がなかった
豚汁を食べた
サーモンの串揚げがおいしかった
生ビール

煮抜きを頼んだら
出てきた卵が爆発した
戦場だった
ジミー中尉の肩に腕を置いて
身体を傾けていた
左の脇腹を銃弾が貫通していた
わたしは痛みに耐え切れずうめき声を上げた
ジミー中尉はわたしの身体を建物の中にまでひきずっていくと
扉を静かに閉めた
部屋が一気に暗くなった
爆音も小さくなった
窓ガラスがはじけ飛んで
卵が部屋のなかで爆発した
時間爆弾だった
場所爆弾ともいい
出来事爆弾ともいうシロモノだった
ぼくは居酒屋のテーブルに肘をついて
シンちゃんの
話に耳を傾けていた
「この喉のところを通る泡っていうのかな。
 ビールが喉を通って胃に行くときに
 喉の上に押し上げる泡
 この泡のこと、わかる?」
「わかるよ
 ゲップじゃないんだよね。
 いや、ゲップかな。 
 まあ、言い方はゲップでよかったと思うんだけど
 それが喉を通るってこと。
 それを感じるってこと。
 それって大事なんだよね。
 そういうことに目をとめて
 こころをとめておくことができる人生って
 すっごい素敵じゃない?」
立ち飲み屋で、ジミーちゃんが
鞄をぼくに預けた
トイレに行くからと言う
ぼくは隣にいる若い男の唇の上のまばらなひげに目をとめた
ぼくはエリックのひざをさわりたかった
エリックはわざとひざを押しつけてきてるんだろうか
シンちゃんがビールのお代わりを頼んだ
ジミーちゃんがトイレから戻ってきた
エリックのひざがぼくのひざに押しつけられている
卵が爆発した
ジミー中尉は
負傷したわたしを部屋のなかに残して建物の外に出て行った
わたしは頭を上げる力もなくて
顔を横に向けた
小学生時代にぼくが好きだった友だちが
ひざをまげて坐ってぼくの顔を見てた
名前を忘れてしまった
なんて名前だったんだろう
ジミーちゃんに鞄を返して
ぼくはビールのお代わりを注文した
ジミーちゃんもビールのお代わりを注文した
脇腹が痛いので
見ると
血まみれだった
ジミーちゃんの顔を見たら
それは壁だった
わたしが最後に覚えているのは
名前を忘れた友だちが
わたしの顔をじっと眺めるようにして
見つめていたことだった

     *

教室に日光が入った
きつい日差しだったから
それまで暗かった教室の一部がきらきらと輝いた
もうお昼前なんだ
そう思って校庭を見た
卵の殻に
その輪郭にそって太陽光線が乱反射してまぶしかった
コの字型の校舎の真ん中に校庭があって
その校庭のなかに
卵があった
卵のした四分の一くらいの部分が
地面の下にうずまっていて
その上に四分の三の部分が出てたんだけど
卵が校庭に現われてからは
ぼくたちは体育の授業ぜんぶ
校舎のなかの体育館でしなければならなかった
終業ベルが鳴った
帰りに吉田くんの家に寄って宿題をする約束をした
吉田くんちには
このあいだ新しい男の子がきて
吉田くんが面倒を見てたんだけど
きょうは吉田くんのお母さんが
親戚の叔母さんのところに
その子を連れて行ってるので
ぼくといっしょに宿題ができるってことだった
吉田くんちに行くときに
通り道に卵があって
ぼくたちは横向きになって
道をふさいでる卵と
建物の隙間に
身体を潜り込ませるようにして
通らなければならなかった
そのとき
吉田くんが
ぼくにチュってしたから
ぼくはとても恥ずかしかった
それ以上にとてもうれしかったのだけれど
でもいつもそうなんだ
ふたりのあいだにそれ以上のことはなくて
しかも
そんなことがあったということさえ
なかったふりをしてた
ぼくたちは道に出ると
吉田くんちに向かって急いだ

     *

桜玉子

近所のスーパーでLサイズの桜玉子が安売りしてるから
買ったら
あのアコギな桜玉子やった
ちょっと赤い色の殻のやつやねんけど
それが透明の赤いパックに入れてあって
ちょっと赤いだけのくせして
だいぶん赤いように見えるようにしてあって
アコギというよりもエレキなことしよるなあって思って
Keffさん的に言うと
えらい「赤福」やなあってことなんやけど
それとも「不二家」かな

両方違うか

それでも安いから買ってしもた
さすがに白い殻の玉子を
あの透明の赤いパックに入れて
桜玉子のフリはさせてへんけど
桜玉子にも
ふつうの透明のパックに入れてもらえる権利はあって
権利を主張することは玉子としてあたりまえのことである
こう電話でジミーちゃんに言うと
ジミーちゃんに
玉子が権利を主張せえへんのがあたりまえやけどなって言われた
ふんっ

    *

視線爆弾
視線卵
声卵
時間卵
場所卵
出来事卵
偶然卵
必然卵
筋肉卵
心臓卵

     *

きみは卵だろう

バスを待っていたら
停留所で
知らないおじさんが ぼくにそう言ってきた
ママは、知らない人と口をきいてはいけないって
いつも言ってたから、ぼくは返事をしないで
ただ、知らないおじさんの顔を見つめた
きみは卵だろう
繰り返し、知らないおじさんが
ぼくにそう言って
ぼくの手をとった
ぼくの手には卵が握らされてた
きみは卵だろう
待っていたバスがきたので
ぼくはバスに乗った
知らないおじさんはバス停から
ぼくを見つめながら
手を振っていた
塾の近くにある停留所に着くまで
ぼくは卵を手に持っていた
卵は
なかから何かが
コツコツつついてた
鶏の卵にしては
へんな色だった
肌色に茶色がまざった
そうだ
まるで惑星の写真みたいだった
木星とか土星とか水星とか
どの惑星か忘れたけど
バスが急停車した
ぼくは思わず卵をぎゅっと握ってしまった
卵の殻のしたに小さな人間の姿が現われた
つぎの停留所が、ぼくの降りなければならない停留所だった
ぼくは
殻ごと
その小人を隣の座席の上に残して立ち上がった
その小人の顔は怖くて見なかった
きみは卵だろう
知らないおじさんの低い声が耳に残っていたから
降りる前に一度けつまずいた
バスが見えなくなってしまうまで
ぼくはバスを後ろから見てた

     *

約束の地

その土地は神が約束した豊かなる土地
地面からつぎつぎと卵が湧いて現われ
白身や黄身が岩間を流れ
樹木には卵がたわわに実って落ちる
約束の地

     *

創卵記

神は鳥や獣や魚たちの卵をつくった
神は人間の卵をつくった
卵は自分だけが番(つがい)でないのに
さびしい思いがした
そこで、神は卵を眠らせて
卵の殻の一部から
もう一つの卵をつくった
卵は目をさまして隣の卵を見てこう言った
「おお、これこそ卵の殻の殻。
 白身もあれば黄身もある。
 わたしから取ったものからつくったのだから 
 そら、わたしに似てるだろうさ。」
それで、卵はみんな卵となったのである

     *

十戒

一 わたしのほかに卵があってはならない。
二 あなたの卵、卵の名をみだりに唱えてはならない。
三 卵の日を心にとどめ、これを聖なる日としなさい。
四 あなたの卵を敬いなさい。
五 卵を用いて殺してはならない。
六 卵を用いて姦淫してはならない。
七 卵を盗んではならない。
八 隣の卵に関して詮索してはならない。
九 隣の卵を欲してはならない。
十 隣の卵のすることは隣の卵にまかせなさい。

     *

モーセ役の卵が、空中に浮かんだ卵の光を
見ないように両手で顔を覆ったら
映画に見入っていた観客の卵たちも
みんな顔を両手で覆った

      *

卵は
四角くなったり
三角になったり
いろいろ姿を変えてみた

卵は
男になったり
女になったり
いろいろ姿を変えてみた

卵は
霧になったり
砂漠になったり
いろいろ姿を変えてみた

     *

卵とハム
卵とチーズ
卵とパン
卵とミルク
卵と檻
卵と梯子
卵と自転車

     *

失卵園
卵曲
老人と卵
少年と卵
白卵
怒りの卵
卵の東
二卵物語
五里卵
千里の道も卵から
急がば卵
善は卵
卵は急げ
帯に短かし、たすきに卵
五十卵百卵
泣いた卵がすぐ笑う
けっこう毛だらけ灰卵
白雪姫と七つの卵
四つの卵
ジャニーズ卵
喉元過ぎれば卵忘れる
田中さん、最近、頭からよく卵抜けへんか? 

     *

ノルウェイの卵
星の玉子様
聖卵
老玉子
源氏物卵
我輩は卵である
デカタマゴ
徒然卵
御伽玉子

     *

11個ある!

ブラッドベリだけど
萩尾望都のマンガの背表紙を見て
思いついた。
ブックオフのマンガのコーナーを見ていて
知らない作者の名前ばかりなのでびっくりしていた
で、本のコーナーに行っても
日本人のところは、ほとんどわからず
まあ、いいかな
それでも
卵らないからね。

     *

卵を使った拷問の仕方を学習する

授業で習ったのだけれど
単純な道具で
十分な痛みと屈辱を与えることができるという話だった
卵を使ったさまざまな拷問の仕方が披露された
一番印象的だったのは
身体を動けないようにして
卵を額の前にずっと置いておくというものだった
額に十分近ければ
頭が痛くなるというもので
ぼくたち生徒たちは
じっさいに授業で
友だち同士で
額に卵を近づけて実験した
たしかに
頭が痛くなった
ただ
ぼくは先生に言わなかったんだけど
べつに卵でなくても
額に指を近づけたって
額が痛くなるんだよね
まあ
そんなこと言ったら
先生に指の一本か二本
切断されていただろうけれど

     *

卵の一部が
人間の顔になる病気がはやっているそうだ
大陸のほうから
海岸線のほうに向かって
一挙に感染区域が拡がっていったそうだ
きのう
冷蔵庫を開けると
卵のケースに入れておいた卵が
みんな
人間の顔になっていた
すぐにぜんぶ捨てたけど
一個の卵を割ってしまったのだけれど
きゃっ
という、小さな叫び声を耳にした気がした
こわくて
それからほかの卵はそっとおいて捨てた

     *

卵病

顔に触れた
頬の一部が卵の殻のようになっている
指先で触れていく
円を描くように
ふくらみの中心に向かって
やはり
卵のふくらみの一部のようだ
きのうお母さんに背中を見てもらったら
左の肩甲骨の辺りにも卵の殻のようになったところがあった
右手を後ろに回して触わったら
たしかに、固くてザラザラしていた
ぼくもお父さんのように
いつか全身が卵の殻のように
固くザラザラした
そのくせ
壊れやすい皮膚になるのだろうか
その卵の殻の下の血と骨と肉は
以前のままなのに
わらのような布団の上で
ただ死ぬのを待つだけの卵となって

     *

戴卵式

12歳になったら
大人の仲間入りだ
頭に卵の殻をかぶせられる
黄身が世の歌を歌わされる
それからの一生を
卵黄さまのために生きていくのだ
ぼくも明日
12歳になる
とても不安だけど
大人といっしょに
ぼくも卵頭になる
ざらざら
まっしろの
美しい卵頭だ

     *

あなたが見つめているその卵は
あなたによって見つめられるのがはじめてではない
あなたにその卵を見つめていた記憶がないのは
それは
あなたがその卵を見つめている前と後で
まったく違う人間になったからである
川にはさまざまなものが流れる
さまざまなものがとどまり変化する
川もまた姿を変え、形を変えていく
その卵が
以前のあなたを
いまのあなたに作り変えたのである
あなたが見つめているその卵は
あなたによって見つめられるのがはじめてではない
あなたにその卵を見つめていた記憶がないだけである

     *

テーブルの上に斜めに立ててある卵があるとしよう
接着剤でとめてあるわけでもなく
テーブルが斜めになっているのでもなく
見ているひとが斜めに立っているのでもないとしたら
卵が斜めに立っている理由が見つからない
しかし、理由が見つからないといって
卵が斜めに立たない理由にはならない
なんとか理由を見つけなければならない
じっさいには目には見えないけれど
想像のなかでなら存在する卵
これなら
テーブルの上に斜めに立たせることができるだろう
接着剤もつかわずに
テーブルを斜めに傾ける必要もなく
見ている者が斜めに身体を傾ける必要もない
テーブルの上に斜めに立ててある卵がある
その卵の上で
小さな天使たちが
やっぱり斜めになって
輪になって
卵の周りを
くるくる回って飛んでいる
美しい音楽が流れ
幸せな気分になってくる

     *

存在の卵

二本の手が突き出している
その二本の手のなかには
ひとつずつ卵があって
手をひらけば
卵は落ちるはずであった
もしも手をひらいても
卵が落ちなければ
手はひらかれなかったのだし
二本の手も突き出されなかったのだし
ピサの斜塔もなかったのだ

     *

万里の長城の城壁の天辺に
卵が一つ置かれている。
卵はとがったほうを上に立てて置かれている。
卵の上に蝶がとまる。
卵は微塵も動かなかった。
しばらくして
蝶が卵の上から飛び立った。
すると
万里の長城が
ことごとく
つぎつぎと崩れ去っていった。
しかし
卵はあった場所にとどまったまま
宙に浮いたまま
微塵も動かなかった。

     *

とても小さな卵に
蝶がとまって
ひらひら翅を動かしていると
卵がくるりんと一回転した。
少女がそれを手にとって
頭につけてくるりんと一回転した。
すると地球もくるりんと一回転した。

     *

卵予報

きょうは、あさからずっとゆで卵でしたが
明日も午前中は固めのゆで卵でしょう。
午後からは半熟のゆで卵になるでしょう。
明後日は一日じゅう、スクランブルエッグでしょう。
明々後日は目玉焼きでしょう。
来週前半は調理卵がつづくと思われます。
来週の終わり頃にようやく生卵でしょう。
でも年内は、ヒヨコになる予定はありません。
では、つぎにイクラ予報です。

     *

窓の外にちらつくものがあったので
目をやった。

     *

卵の幽霊

幽霊の卵

     *

冷蔵庫の卵がなくなってたと思ってたら
いつの間にか
また1パック
まっさらの卵があった
安くなると
ついつい買ってくる癖があって
最近ぼけてきたから
いつ買ったのかもわからなくて
困ったわ


荷札の顔

  鈴屋


電柱がかたむいていて
煙りもかたむいてのぼる田舎の町で
女が荷札の顔して
ひとりくらしてた 
路地には蜆の殻がしいてあって
木のサンダルがばちばち鳴った
晴れた日には
顔がかわいてめくれるから
頬に両手をあててた
雨がふると
蟹が畳にあがってきて
彼女の足うらの垢をけずって食べた
裏庭のむこうをはしる
ディーゼル車の警笛を聴いても
なにもおもわないで
毎日しずかに
くらしてた

ぼくがただ一度きり彼女をみたのは
ディーゼル車の窓からだった
戸口にかたむいてたって
どこかをみてた
そのときも
ちいさな荷札の顔してた


私家版・死者の書

  右肩

 ロードスターのトップをオープンにして走っていると、地上すれすれを飛んでゆく桃色の海月のようなものと擦れ違い、思わず身体をひねって振り返った。だから、僕はカーブを曲がりきれず激突し、死んだ。白いガードレールに車体が突き刺さる。僕の実体が大音響の真ん中で揺すられ、一気に肉体から外れた。最後に見たのは半分黄葉したイチョウの街路樹だった。それが破砕されて広がり、緑と黄色の無限のタイルとなった。タイルは猛スピードで攪拌される。攪拌されつつ視界を満たす赤い雲の懐へ、延々と、音もなく、なだれ込む。その破片の一群は、あれは僕自身なのだ。と、臨死の僕が理解する。子どもの頃神隠しの森で見た夕焼けの匂いがしてきた。激しく変形した車から、僕の動かない片腕が突き出ている。それが見えた。

 僕は、人間の数十分の一ほどしかない大きさの鳥人となって、雑然とした机上に置かれた白いコーヒーカップの縁に、外向きに腰掛けていた。何処の誰の机かはわからない。積まれて崩れ落ちたポストカードの束をすぐ下に見下ろしていたけれど、そこに書かれているのがどの国の言語かすらもわからない。僕にとってそれはもうどうでもよいことだ。コーヒーの匂いのする湯気が背中から全身を包み、僕の体はじっとり濡れている。たたんだ翼では、密生した白い羽毛の先へ、じわじわと滴が流れ始めているようだ。
 やがて女性が飲みかけのコーヒーを飲むため、やってくる。何処の国のどんな人種で、どんな顔をして何を考えているのか、僕は知らない。特に興味もない。ただ、性器の痛ましい乾き具合や、子宮で醸成される重苦しさへの共感だけがある。受胎告知をするにはそれで充分だ。処女が受胎し、僕がそれを告知し、そのあとに何か、大きな、意味の塊がこの世界へ繰り出してくる。それが何かは僕の問題ではない。何だろうそれは?

 部屋の窓から、青紫の山なみや蛇行する川のきらめきが見える。地形の起伏に沿って緩く波打つ麦畑。麦秋。正確に発声されるソプラノの旋律のような、麦の色。所々の立木がひらひらと新緑を翻している。近景は窓枠で唐突に切断されているが、こちらへ向かう径をゆっくり歩いてくるいくつかの微小な影も見える。あれが人間である。これから誕生する何かによって、大きく揺さぶられる群体のかわいそうな一隅だ。あれらもやがて赤い雲へと流れ込むべきものの一部だ。

 あるいは、生まれ来る大きな塊は僕自身なのかも知れないし、来るべき変動の中で真っ先に粉々になる甲虫がその時の僕なのかも知れない。その両方かも知れない。とにかく役割を終えた僕は、翼を開いたまま茫洋たる未来へ向いて変容していく。そのことはわかる。
 今はこの位置から見えない太陽が、おそらく僕なのだ。雲の影が地上を滑らかに這って進む。背後にあるもの。昼を作り、また昼を作ろうとするもの。夜を作り、また夜を作ろうとするもの。


星かごのなかで

  ひろかわ文緒


 (Daybreak)
雨あがりの丘のうえ
土の息づかいさえもうるさく
雲の割れ目から、かすんだ町に
降り立つひかりを
ゆびおり数えた
やがて立ちなおり路をかえりながら
数えたあとの汚れたゆびのまま
伸ばしかけの髪を摘む
ぽろぽろと
星の抜け殻がすべり落ちる

 (Early morning)
忘れていた
小学校の先生はとっくにおなじ世界にいないこと
わたしは机の奥
先生から貰った本を見つけてそれから燃やす
幼い作文や古い新聞も一緒に燃やす
燐寸をつけ焔をともすと
文字はしろくふわりと舞ったり
くろくゆったり沈んだりしながら遊んで
凍る間際の水のように
たのしい

 (Daylight)
軒先の夥しい緑色を刈る
ささやかな花びらのついたものも容赦なくひき抜く
あたらしい軍手はかたく
不乱に緑色を積みかさねている
するとどこからやってきたのか
毛艶のよい三毛猫がふくらはぎにすり寄ってきた
可愛らしい中肉)中肉を爪でなぞる)背に一筋)砂の混じった線がはいる)隣に座り)庭の隅に植わったパンジーの)花びらの揺れるの(を)じっと見ている)
ほぐれた土の面からてらてらしたみみずのあらわれ
わたしは驚きもせず
ほれ、と、少し遠くへ投げた
三毛猫はしっぽを忘れて駆けてゆく
脚から透きとおり消え、なんと淡いのだろう
パンジーがわたしを観察している

 (A swing boat)
星のはじまりもおわりもまだ覚束ないまま、誤った腕をすり抜けてばかりいる

 (Wintering)
目覚めるといつも冬で
こども達より先に霜を踏みあるく
部屋にもどると
すっかり冷えてしまい再び毛布にくるまる
霜が溶け、ランドセルが路を彩る頃には
すでに眠りについて
だからわたし、こども達のことをあまり知らない

 (On time)
丘のうえには仄ぐらい雲が町を押し潰そうとしている
郵便配達夫は口笛を吹きながら、そのひずみに身を投じようと
たくさんの夜明けを抱え走りさってゆく


山岳地帯(マリーノ超特急)

  Canopus(角田寿星)

この地帯では稜線をつよくなぞるように吹きつける風がけして浅く
ない爪痕を至るところに残している。砂混じりのかわいた大気に。
あれた山肌に。つつましい色を放つ丈の低い植生群に。かるくひび
割れたぼくの頬に浅くない爪痕を。それは海から届いた風であると
ぼくはやがて悟るだろう。
かさついた照り返しの激しさに汗で濡れたシャツが背にうっすらと
張りついている。ぼくの或いは岩々のみじかい影。束の間のコント
ラストを一匹の蜥蜴がいそがしく這いまわり時を置かず真昼の陽に
溶けて消える。会話もなく足早に通りすぎるぼくのみじかい影。

尾根をつたう道の眼下にひろがるのは見渡すかぎりの深いみどり。
人の立ち入ることを許さない暴力的な森が生をどこまでも謳歌する
かのようにつよい風を受けてざわざわと波打つ。
いちめんのみどり。
わずかなうねりは驚くほどにその色合いを変えながら幾億もの兎が
みどりのうなばらを走り去っていく。


山岳地帯。ここはいちめんの森に浮かぶ孤島。
視界はこんなに広がっているというのに海はどこにも見えない。


断崖を背にしながらわずかに広がる荒れ地をたどる。ばらばらにな
った材木のかけらと不揃いに並べられた大小の四角い石。それらは
かつて人の住んだぼろ小屋の痕跡だとは当人でなければ判るすべも
ない。
ここにはかつて子どもたちが住んでいた。親に見捨てられた他の世
界を知りようもない兄弟かどうかさえわからない子どもたちが。干
した草の根をかじり雨水をすすり数少ないぼろ布を奪い合ってそし
て弱く幼いものから少しずつ死んでいった。生き残った子どもは死
んだ子どもたちを石の下に埋めその死骸から花は咲かず果実はみの
らなかった。

森のはるか向こう。見えない海を南に縦断する特急列車の噂を旅の
手すさびに幾度も聞いたことがある。或る者はそれは人類に最後に
残された技術の集大成だと語り また或る者はそれはサハリン製の
ラム酒に呑み込まれた愚か者がみたあわれな幻影だと語る。或る者
はそれはあまりに早く通り過ぎるがために肉眼では見ることができ
ないまぼろしの列車だと語り 或る者はそれは真夜中に音さえもた
てず秘められたままに走り去っていくのだと語る。
南へ。南へ。南へ。
ここではないどこかの駅からここではない彼方の駅へ。ぼくは海洋
特急を折にふれて思い ここではないどこかの駅を思う。ここでは
ないぼくのどこかの旅を。

ここは山岳地帯。麓に唯ひとつ横たわるぼくらの駅はみどりに浸蝕
されかけて列車は山を登ることも森を渡ることもかなわず何年も立
ち往生している。
ほそながい雲がつよい風に乗りすごいスピードで頭上を駆け抜けて
いく。雲は山頂近くで渦を巻いて出来損ないの有機物のように拡散
し短い生涯を終える。そしてそれは海から届いた風であるとぼくは
やがて悟るだろう。


ひょっとこ

  がれき


ぽろぽろのゆきあかり
糸をよじったような地方都市のまん中で
僕は只ならぬひよっとこ面を見つける
ときどき誰よりもしんとして
とおくでぶちまける水のおとをきく

まあたらしいひよっとこ面の
人形のような肌のおとろえ
むかむかする唇に手をあてなくても
これはきちがいじみた顔のまま
うすく呼吸しているのがわかる
ぎょろっとしたおどけた眼
―こいつ口づけを待っているな
すばやい身のこなしを自慢に
僕がはたきたおせばぎゃっと大袈裟
見下ろしてもそのままのひよっとこ面だ
半分埋もれた口のすいはき
ゆきが横殴りのようにわり込んできて
僕をゆっくり押しひろげる
僕は恥ずかしくてくるしすぎるのだ

―ゆきはどうして色白なのか
顔に文字をかかれているような気がする
ひげのない自分の頬を
ひたひた鳴らすようにいく
へんに寝静まった地方都市のよるを
僕は全身を線のほそさにして
だんだんに小走りする
よそ者のようにちいさくゆきをとらえ
家は二階だてのかたい都市
家壁に染みをとばす夜半の舗装路で
こける気がする
ライトを切るまあるい水たまり
ばしゃっと指のまたから水をはねあげ
これはまるで獣姦の姿勢
下から てん滅する除雪車を待つとき
平たいなと思う

―ほんとうにセカイはひらたい
―でも これほどに
電柱をひき抜いても同じことだろうか
僕は除雪車のつくる人肌のみちにいて
紅くはれあがるゆき
ぶちまける水のおとをきく
しんとした車道から見あげるだけで
これほどに胸くるしい銀の世界か

―ひっそりといる
―そう さけおちているな
ゆきが人形のように耳もとに立つ
これはひよっとこ面をして口づけを迫るのだ


かききづの

  岩尾忍

枕詞。月、過去、対話、在る、等にかかる。例、「たちまちに手は雪を解くかききづの在ることをなほ解きあへずして」

というように、現実の直視を避ける。それは二畳の独房でも可能だ。まして六畳の子供部屋でなら

(三倍可能だったよ)。


思い出さないで語ろう。嘘が最後まで嘘であるように。たとえば、

あんなに愛されては生きた心地もしない。手になったような気がした。また網膜か脳になったような。すでに一時間以上、あなたが洗い続けてるそれ。それって手じゃなくて私だと思うんですが。(と言うための必要最低限の、

言うたらまあ、暴力。)


またたとえば、そこにいる限り、何を思っても無害であるしかない。そういう場所がある。街を歩いていても、道の両側はたいていそういう場所だ、と。

「私」を含む文すべてが、現実的には偽だと。一人称なんて言語の中にしかないと。そしてまた、

一冊の古語辞典の砦。三十一音の地下室。ココア。(誰も知ろうともしていないことを、秘密にしてどうする。)と。


(そしてまた覚えてもいないことを言うなら、)「それは、

可愛いものだった。言葉は

とても無害だと思った。まるで私のように。」


真夏でも長袖を着ていた、一人の同級生がいた。誰もが知っていた。彼がその下に何を隠しているか。何がまるっきり隠されていないのか。

私は健康で理性的だったので、皮膚をひっかいたりしたことはなかった。つまり存在が長袖。書くならばその下に隠して。

と思うほど馬鹿だった。殴ったりする方が賢い、となかなか気づかなかった。


かききづの

過去 淡雪の袖解けてなほ



*自注:「かききづの」の「きづ」の表記は、正しくは「きず」。しかしいくつかの理由によって、この誤記のままにしておく。


多発性

  ひろかわ文緒

スケジュール手帖の、後ろには知らない都市の路線図がはさまっていて、緩やかなカーヴを描いている。
藤田はオープン・カフェの無駄に鮮やかなパラソルの下で、そのカーヴをなぞった。一昨年、父が肺癌で亡くなったとき、最期に触った鼻の頭の輪郭によく似ている。(母曰く「ちっとも似とりゃせん」そうなのだが。)ふと日の翳り、空を見ると大きな手が、世界を捲ろうとしていた。


夫が浮気している。
小夜子は白昼、台所の三角コーナーを見つめて、思い詰める。昨日の、夕飯の買い物の帰り、街角で指輪の光るショウ・ウインドウを腕を組み覗き込んでいたのは確かに夫と、白葱のような女だった。不幸なことに小夜子は白葱がすきだ、だから余計、嫉妬したどうして白葱なのか、女を憎むに憎めない、何故、よりによって。そうだ、噛んでやれば、いいのか。
そうして直ぐに表情を和らげる。
三角コーナーでぐっすり眠る夫に沸騰させた湯をひっくり返す。


もしも私に臓器があったら、と思う。
考えるだけで恐ろしい。
生物達を分解したり排除したりする乱暴者を体内に飼うなどそれだけでも範疇外なのだがまあそのくらいは大目に見るとして(勝手にやってくれれば良いのだから)、しかし彼らの働きが悪くなればわざわざ医者へ行き切除し半分にしたり若しくは全摘出しなければならないのだと考えると脱力してしまう、とてつもない徒労に違いない。しかもいくら乱暴者でも多少、時間を共にすれば愛着が湧き、手放すときの空虚感ったらないだろう、ない、と、知っている。
体が木彫り細工で良かった、子供の落書きしたマーカーの痕は消えないけれど。


嘘をつきたいという願望も特段ないが、本当のことを話す義理もないため、でたらめであることに執心している政治家の佐藤には今夜もファン・レターが届く、玄関のドアノブを掴みまわしながら封をあけると「顔をあげてみろ」と書いてある、家に入り顔をあげると佐藤の妻が柱に首を吊って垂れていた、佐藤は急いででたらめにダイヤルをまわす、時報が午前三時を知らせる、窓が日光をさんさんと取り込んでいる、妻の脚の爪には赤や緑や銀が塗られてあり(ぎらりと光り)なるほど、でたらめだ、と顔を歪め笑った。


風船ガムを膨らまし、大きくして、更に息を吹き込み、割る。
がら空きの電車の中、男子高生の行為を早紀は首を傾け向かい合い見つめる。口のまわりについたガムを舌で器用に回収し、また膨らます、更に首を傾ける、体ごと傾ける。やがて座席に寝そべる形になりそれでも彼は行為を続けたため早紀は座席にめり込みはじめたやがてまっ逆さまになりやがて持ち上がり再び元に戻る。それ迄でちょうど、一日が経った。次いで二日三日、
七千四百五十三回、元に戻ったとき、路線は廃線となり皆、跡形もなくなった。


「女性は月に一度大量の血液を排出する」
「警察とのいたちごっこはいい加減うんざりさ」
「もう直ぐ衛星が帰還するらしいよ」
「残酷をこのんだのは男性の方でした」
「靴下はいつも左脚から、というジン、クス、」
「あ、アはハ、ゥ、」
「ねえせんたくきほしいわあ」
「あの本なら読んだよおもしろかったまた読むと思う」
「後ろ、鬼、いる、」
「匂…、」


(無題)

  イモコ

考えるのを放棄した各々の髪の毛の考えるにおいのする白紙のページが
耳たぶの一番つめたいところをかすめてとんでいった、のよ

ふでばこの口を三本の指の腹で優しくあけると
むずがるようにきゅとなったあと
すごく気持ちいいみたいにへにゃとなる
あきらめたみたいにもみえる
何を言っているのか分からない

数学の時間 語りかけてくる黒板なんて
丸無視で、夢中になってふでばこの口を
何度も何度も指の腹でなぞっては
三本の指でおしあけるの
ものすごく押し倒すのに似てる、やわらか
確かにあれは夢の中
夢中だった

何度もおしあけてるのに
中に触れないのはあんまりだ、
うずもれた鉛筆が指の先に触れる
エバーミングされた幼い少女みたいな頬
手にとり、力なく
握った

鉛筆からわきでる葉
芽吹いたりめぶかなかったり
数学のノートいっぱいに茎をひろげ葉をひろげ
だけれど決して根ははらない
つなぎとめる根がないから ないから
茎も葉も少しずつ
ヘリウムを入れられるみたく
ふぁふぁとうきあがって
ノートに曲線のかげをおとす

柔らかな
今にも拡散しそうなたよりない、かげ

空気みたいにしゅるっとすする
細い糸の群れが舌の上をかけてゆくのびてゆく


僕と電柱と日食と

  藻朱

 本日は100年に一度の皆既日食であります、と昨日のニュースで言っていた。それはそれはおめでたいと言いながら、僕は目の前に置かれた目玉焼きを眺めていた。本日は100年に一度の皆既日食でありますと今日のニュースでも言っていた。それはそれはおめでたいと言いながら僕は目の前に置かれたトマトジュースを眺めていた。
 昨日と同じところに同じ角度で電信柱が立っていて、こちらをじっと見つめている。実はこの電柱、皆既日食のニュースがとてもうれしかったようで、実は昨日ちょっとだけ動いたのだった。でもそれがばれるとまたいろいろと面倒になるから、黙っていてほしいと僕に頼んできた。無下に断るわけにもいかず、そもそも電信柱がちょっと動こうが、大分動こうが興味なかったので僕は黙っていることを約束した。
 気を良くした電柱は皆既日食の間中ずっと頭を振り回し、ステップを踏みヘッドスピンを繰り返した。僕は電線が絡むから危ないと注意したのだけれど、電柱は皆既日食がうれしくてうれしくてそれどころではないらしく、僕の言葉を無視してそのまま踊り続けた。案の定電線がこんがらがって収集ががつかなくなったのだけれど、やつは涼しい顔をして絡まった電線を傍で遊んでいた月の好転周期と地球の自転軸に巻きつけて力任せに引っ張った。ブチッと言う音がして絡まった電線は切れ、一緒に自転軸と好転周期はへし折れた。粉々になった公転周期と自転軸が、切れた電線に絡まって横たわっていた。その光景があまりにも殺風景だったから、僕は目の前にあったトマトジュースをみんなが横たわっているところにばらまいた。トマトジュースの真っ赤な海の中で公転周期と自転軸と電線は互いに絡み合い、うちあげられていた。
 本日は100年に一度の皆既日食であります、と今日のニュースで言っていた。それはそれはおめでたいと言いながら僕は目の前に置かれたトマトジュースを眺めていた。僕は電柱を見つめ、ため息をついた。電柱は嬉しそうに、同じところに立っていた。


心境変化

  がれき




放浪癖を持つ者にとって、邪魔だてを拒めば野晒しにされる。殺意と、とられても差しつかえない。いかにも唐突な殺意であるが、ぎりぎりまで平板にされたナイフ、と呼ばれるのには耐えがたい。もっとも、これは都市的なものだ。すべての道路は舗装され、工事中の看板もある。

ところで野晒しについては、一体の人形を考えてもらいたい。急勾配の石段に人形が廃棄されている。おそらくは手首に於ける蝶番の弛緩、膝から垂れさがる脚、省略されたゆび、首は圧迫されて折れ上がるだろう。これらを暴力と言い表すのは易しい。そこで名を与える、ペトルゥシカ…。ペトルゥシカはあお向けにされ、夜空のしたにいる。これは野晒しである。もし、同一のペトルゥシカが石段に立ち、ガラス玉の同一の汚れで彼じしんを見下ろすならば、さらに野晒しと言い得るだろう。



まず、私は断崖に下りたのだ。折しも海は大しけで、むしろ私はそれに満足していた。これは我ながら意外だった。そこで私はぎりぎりまで波涛に迫り、暗欝のうちに砕ける波、ひと肌に似た飛沫の落下を、間近に見ていた。海はどちらかといえば魅力のない、女のようにも見えた。何よりもそれが私を安心させた。そんな女を独り占めしてみたかったのだ。

そうして永い間、頬に何度も唾をうけ、ヒステリックな狂暴さへと変貌をつづける海に、飽きず顔を突き合わせていた。断崖に独りでいるという呼吸のあつさが、私をかくも気ながにしたのかも知れない。ついに私は海に共鳴する残忍さで、愉悦からのわらいを漏らした。最初は小さく、そしてヒステリックなまでに狂暴に。フェミニストだったのだ。これは可笑しかった。それから、わらうのにも退屈し、私がだんだん不機嫌になりはじめたとき、ちかくの岩の影に、一人の男の姿を見つけた。この男もわらっていた。私が共鳴していたのは、海とではなくこの見知らぬ男とだった。



次に私は、この国で最もうろんな断崖をはなれ、都市へと帰ってきた。そこに待っていたのは、ある友人からの手紙だった。〈わたしは投獄されて檻のなかにいる。わたしはサーカスの野獣ではない。まず弁護士との面会をした。そこで凶悪な表情になった。それから家族に嫌気がさした。君にも飽き飽きしている〉。思い出されたのは、あるビジョンを伴う記憶だ。タバコの煙に沈殿する教会のステンドグラス、それを黄褐色に塗り替える! ルネッサンスの職人たちのある雄々しい情熱をもって、私たちは二時間以上も煙突崇拝のタバコを吸い続けた。

それから、部屋を出たのは、時刻のはっきりしない白昼と夕暮れとの限界だった。通りにでると三角形の建物の影で、少年たちが野球をしていた。それは特別、奇妙な建物であるというわけでもなかったが(何しろそれは見慣れていたから)、三角形のひとつの頂点に、卵ぐらいのおおきさの太陽が見えた。きみはまえ触れもなく嗚咽をはじめた。ただここで断っておくと、きみとは決して手紙上の人物ではない。ある野晒しな二人称のことだ。ところで私はというと、嫌悪からでなく、きみを置き去りにして、らせんの階段を巻き上がりすぐに自分の部屋へと戻った。



とりあえず私は、部屋を出ることにした。かつてのような旅行ではなく、ひどく乱脈な時間の経緯があって、夜のあいまいな鋳型へと世界が閉じられてからだ。散策と断定してよろしい。黒ずんだ用水路を見下ろすと、(もう何週間も雨がなかったのだが)適度に整然としていた。また、そういえばここは丘陵の上につくられた造成地なのだ。通りの突き当たりを右へ折れると、赤いアーケードの商店街が見えるだろう。おそらくは暗い空のために、それは灰色がかる。用水路ぞいの細い道を抜けると、ふいに大通りへでた。いや、むしろまだ、小さな通りだ。すぐちかくに人だ。三人で話している。狭い道をバスが通る。みじかい照射が騒音に追われる。とおくの道路からクレーン車の音だ。小売り店からライトが洩れる。三人の声は耳元までちかい。ひっそりとした住宅跡地は高度もはっきりしていた。

―この街も、私は知らない。電信ばしらに頬骨を当てると、輪郭が逆三角形をしていた。ゆで卵の臭いにひき寄せられ、私はもっとも高度を強めた。次第に野晒しな状況が、構造物へと高まっていく。すでに空中だ。陰気な銀を伴うが、冬ではない。ここで一言付け加えるなら、それは星座でも、都市でもないということだ。


かもめ

  はかいし

ながすぎたうたが
ながされていった
しぶきゅうふは
かもめになってそらをとぶ
わたしたちのすごしたはまべに

おとこたちのゆうべは
おんなたちのあしたで
くずされたすなが
ふたたびたましいをつくり
たてられたかさがうめつくす

ひとりきりですごした
しおみずのかおりが
おとこたちをかたむけて
おんなたちにそそがれていく
かさはとじられて
やってきたゆうべ

からになったうつわが
すなのなかにくずされて
すなはうみのなかにくずされて
うみはうたのなかにくずされる
うたはおんなたちのむねでねむる

やがてかもめのなきごえがきこえ
おんなたちはおりかさなって
うみにはいりこむかわのながれになり
としおいたおとこたちが
かさをふたたびひろげ
あさひがおぼろげなせなかに
かもめはほほえんでいる


金曜日のフライデー

  りす


遠くで
水を使う音
遠くまで
水を遣わす者
その正体は
もう少し浅く
眠らなければ見えない


フライデー
金曜日の絶壁に立つ野蛮人
孤島に時間は溢れ
過剰な時間はロビンソンが喰う
喰いきれない時間が
フライデーを追いつめる

フライデー
金曜日の資格がない野蛮人
孤島に言葉は溢れ
ロビンソンが食べ残した言葉を
フライデーに教える
頭を抱えたフライデーが
姿勢良く 断崖から飛ぶ


遠くで
水を使う音
近くには
さらさらと病の糸屑が集まる
鳩尾の入口がいつになく涼しい
愁訴が終わった体で
そろそろ何かが始まり
そろそろ何かが終わる


フライデーのからっぽの頭が
浜辺にうちあげられる
太陽光を浴びて
高透明ポリプロピレンのように輝く
この島の海岸では
水でさえも
不純な漂着物にすぎない


そして
四人目のフライデーを
フライデーと名づける
何も教えず 
一緒に暮らす


暴力とタルタルソース

  ヒダ・リテ


もちろんそれがいつもキリンやクジラである必要なんてないし、肩口から入ってくる緩いカーブを打ち返す技術を君が身に付けていようといまいとそんなことは関係ない。君がアナコンダを首に巻き付けることによって誰も君のことを「イシュメイル」と呼んだりしないし、誰の鼻もとれたりしない。そもそも暴力やタルタルソースによって僕らを律する事など不可能なのだ。

戦車を買ったら家を失った、なんて良くある話。世の中には食べられないちくわもあるってことだ。それに土曜日の次の日が毎回決まって日曜日だからってそんなに悲しむことはない。今じゃそれが当たり前のようにトマトがキャベツとして売られる世の中なのだ。偽りのキリンの法則で作り上げた男女共同参画社会が全力で液化するアザラシを食い止めることができたとしても、僕らの不揃いな関係にやたらとチーズを挟みたがるおじいちゃんの治療費を払ってくれるなんてあり得ないし、それにバカだってカバにならない訳じゃない。君の見る鮮明な夢の中で繰り返し出されるチョキみたいにいつまでも同じチョキじゃいられない。もはや僕らに新鮮なチョキの感動なんて存在しないのだ。

たとえば憲法の保障する全てのバスケットボールに意味やメッセージがある、だなんて飛んだダンゴムシも良いところ。のらりくらりとジャブをかわしながら市長が向かって行くその先で困ったパンダが笹を食べ過ぎるからといって、無実のマヨネーズを青く染めあげるなんて事は不可能なのだ。たった一片のイマジネーションもなしに作られる途方もないショッピングセンターのために夜ごと悲しみを樽に注ぎ、優しい手つきでミドリガメをラップに包む、あのゴリラの母親に一体どんな生物的自覚を期待できるだろう? 君や君たちが、黄色いベッドの上で恋人や牛の心配をしている頃、夜空の全ての星座が流産したとしても僕らには僕らの愛があり、愛、そのものはアルカリ性の美しい肝臓のごとき輝きを決して失ったりはしないのだ。

もちろん難聴の目覚まし時計を克服することは難しい。夕暮れ、貯金箱の佇まいで不可能な帽子の可能性を感じながら双子と双子の間にあるべきゴルフクラブの不在を嘆く事ほど愚かなことはない。たとえそれが消費者の購買意欲を掻き立てたとしてもそのシロクマの入れ墨はけっして消えることはないし、限られたシステムキッチンで最大級の冒険をするには痙攣性の発作が不可欠なのだ。

巧みな金歯に惑わされてはいけない。仮に眼鏡をかけずに、その恐竜を倒せたとしてもそれは一時的な右折に過ぎず、本物の混迷状態から抜け出し、誰よりも正確なパスタをゆであげるのは未来を担う君たちなのだ。ありったけの想像力とユーモアで立ち向かえ。世界はおむつを取り替える時期に来ているし、僕らにはまだ語るべき言葉があるはずなのだ。

さあ、もう一度僕らの切り取られた切り取り線をつなぎ合わせて注意深く観察しよう。なんなら僕を強姦してくれても構わない。目下三連勝中の中国人によくありがちな、社交や、筋肉注射について、それが人生で得られた最大の教訓だったとしても、大通りを行くいくつもの傘の下では今も不誠実な舌が乱交目的でニーチェと同じ事を言っているとすれば、それを僕らは演劇的な方法を用いる代わりに、朝食のバターナイフで鮮やかにくりぬくやり方を学んだのだ。できる、できないではなく、やるか、やらないか、だ。君たちが君たちの訳の分からない動物園の訳の分からない殉教者となりはてる前に、もう一度よく考えて欲しい。もはや永遠に機能しない医者の介護に疲れはてた君たちの貴重な棒を棒に振るな。


池で

  荒木時彦


いつまでも
封印しておきたい記憶がある

カワセミの着水を
捕える眼

靴底の泥をはらう


Time is moneyまたは放蕩息子の歌える

  んなこたーない

*朝の歌

Time is money
と知りながら、
I'd spend my whole life sleeping
ねむりつづけた。
夢の中では、
鍵穴越しに稲妻が垂直に走るのが見えた。
盗んできたレズビアンの人魚を犯そうとした。
彼女は抵抗せずに、ただ何かを叫んだが、
その声は雷鳴にかき消され、目覚めたあとになってから、
彼女が唖であることに、突然思い当たるのだった。

9:00 a.m.
寝過した朝は、いつもきまって
底抜けに晴れあがっている。はなだ色。たいらかな空。
どんなにつまらない夢もけっして安価な買い物ではないよ。
Time is moneyである以上、
無償で手にしたものなどひとつもないのだ。
しかし、たとえ一期が夢だとしても、
狂うかわりにまじめくさって、
いまは駅の構内を走り抜けるぜ、
乗り逃がした通勤快速は夢なんかじゃないんだからね。

走れ、走れ、度重なる遅刻が減給対象であろうとなかろうと、
TimeをMoneyに兌換するため、
I've been working like a dog
ステットソン! 犬は人類の忠実な友だよ、
放蕩息子もときには吠えるぜ。
こんにちは、すばらしきパイプカットの広告塔!
吠えないときには、放蕩息子も
利殖のHow to本を手にとるよ、
離職した同僚たちに電話をするよ。
「御機嫌よう! 生きているにしても倒れているにしても――、
 それでも、億万長者になって金の使い道に困るような時があったら、
 いつでも遠慮なく連絡してくれ」
むろん誰からも連絡は来ない。
個人から大企業まで、暇の押し売りなら事欠かないが、
TakeとはGiveするためのいわば消極的な承認にすぎない、
と言ったのは誰か。
誰に言われたわけでもないが、
I spent my whole life guessing
Time is moneyである以上、
人づきあいにも貸し借りは極力避けてきたのだ。
あらかじめ別れは済んでいる……
その原則を律儀に守り通してきたのだ。
おかげでひどく印象の薄い男になったが、
放蕩息子は幽霊のようなものだから、
こうして満員電車で足を踏まれる恐れはないのである。
長生きするさ、人類が幽霊を抹殺するまで。
こんにちは、瑕疵ある新婚生活の貸借表!

*夜の歌

凍てついたケヤキの木が、
十二月の鈍い電飾にさらされている。
まばらになった葉のざわめきは、きらめく結晶となって
氷雨のように地面を濡らしている。
みんな、ここに詩人がいるよ!
それというのも、いまだ書かれていないもの、
それはみずからを不可能にするものであり、
かれはそれを書くことによって、おのずと破滅者の、預言者の、
相貌を帯びてこざるをえないのだ。
ああ、ここには批評家さえいる!
疲れたこころとからだは、あらゆる文学に敵意を燃やす、
暖をとるために。書記形式のモナド、モナド、モナド。
残業明けの感傷的な時刻をやり過ごし、
放蕩息子は家路を急ぐぜ、
I'll spend my whole life sleeping
犯しそこねたレズビアンの人魚に、
まだ別れは済んでいないんだからね。


英国式紅茶

  はなび

 「二重振り子」という名前のお店の階段でわたしたちは出会いました。出会ったというよりすれ違ったというほうが正しいのでしょう。当時なおゆきさんはドラアグクイーンと呼ばれる服装をしていてけばけばしく、南国というより天国からやってきた鳥のように輝いていました。当時わたしはボリス・ヴィアンにかぶれてジュリエット・グレコみたいなブカブカの男物の黒いスーツを着ていました。お店の中は非常に混んでおり、お酒や煙草、体臭と香水、いろんな国の言葉や楽器の音が混ざりあって、まるでごった煮のスープ鍋。朦朧とした視線の先に泳ぐもの、風船のようなあたまで、ここがどこでもどうなってもいいような、そんな心地がしていました。

「いいかげんということについて」わたしはおそらく長いこと考えていた。

 突然、頭の高いなおゆきさんがツカツカと彗星の様に接近してきて「かわいいコ」と言ってわたしのほっぺたにキスをしました。それはほんとうに突然の出来事でした。その途端、パンッと弾けた音がしました。「アッ!惑星の衝突!」と思う間もなく、わたしはそのままハリウッド映画の死体のように手すりから地下のダンスフロアまでまっ逆さまに滑り落ちてゆきました。罵声、叫び声、泣き声、ぶらさがったミラーボール、覗き込む、あるいはよける人波。
 重たい鈍痛とともに耳の奥で高くくぐもった音がキーンと鳴り続け、わたしの視界は白く白く眩しくなり、そうしてだんだん黒く黒く真っ黒になってゆきました。

 目が覚めると、頭が割れそうに痛く、なおゆきさんの白い部屋の大きな窓のわき、天蓋つきの大きなベッドにいて、誰か(とてもおしりのきれいな誰か)が裸でキッチンに立っているのが見えました。アイスノンが20個くらい枕元にちらばっていた。オカマの修羅場に巻き込まれたわたしはスケスケのネグリジェーを脱ぎ散らかして着替えると、首筋を触った。首の骨が「グキ」と鳴ったのだけは鮮明に記憶されていた。

 わたしを殴ったのはモントリオールからやってきた体躯の大きな男で、スキーの選手だったという。おしりのきれいな誰かは、ほんとうに甲斐甲斐しく、立ち働いていた。お父さんの転勤でイギリスでの生活が長かったというその、おしりのきれいな誰かは、曇り空の似合う憂鬱な顔でとてもおいしいミルクティーをいれてくれた。そしてわたしたちのせいであなたには申し訳ないことをしたという旨のことを小さな音楽みたいな声で言った。

 部屋の中にはおかしな機械みたいなものが一見乱雑に、しかしなにか一定の秩序をもっておかれていました。アンティークの香水壜が窓辺にたくさん飾られていて、やけに晴れた冬の日差しが香水をあたため、揮発のスピードと継続をゆるやかに促していました。
 甘く甘く甘ったるく気怠い空気に満ちた部屋の中で、彫刻のようにしずかなうつくしい流線型を描くおしりだけが、何より優雅な存在として許されているおだやかな午後でした。

 おしりのきれいな誰かに「あなたは誰か」と尋ねることはしませんでした。ただこんなひともいるし、あんなこともあるのだ。とだけ思うことにした。そして「二重振り子」では英国式のミルクティーが飲めることも。


小品(抜け落ちているもの)

  破片

 海が見えている。
 くすんだ緑にも見える、という形容を聞いた。その人は、同じように探し物をしている人だったのだろう。そして海は、空を探している。断絶の果てにはきっと鏡があると信じている。動揺は沖の僅かな海流で、少しずつ膨れ上がり、打ち上げられた時に外向という性質を含み、まるでほんものの声であるかのように泡へと、また泡へと砕け溶けていった。これは、海の感情であると。その発露であると。考えることは自然なのだろうけれど、右隣から声が投げつけられた。
 そこに、誰もいなかったはずの空間が埋まり、佇立するひとかげが生まれ、声が波の音に乗り、旋律じみた流れを持つ。
「、感情を描かない。描けない。描けるのは、そうぞうする感情だけ。所詮言語を能動的に持たない何かを言語で表現しようという試み自体が―――」
 まるで筆談しているかのような口調の声は、笑いながらためらった。途切れた言葉、その続き、行方を捜すも灰色に溶け込んでしまったのだろう、欠片も掴ませなかった。
 ひとかげに、質量はなく、それは影なのだから当然なのかもしれないが、とにかく存在していると認識させる要素が希薄で、しかし目か首を右に回せば、ずっと見えている。視認できるということ、最大の認識をおぼえているにも拘わらず、その影は見えているのに、見えなくなりそうで、瞬きを意識するのだがそのひとかげは嘲笑っている。
「、実体がない。、たとえば筆をとることもない。、お前に見えているのか」
 答えようとした。最後の言葉は質問だった。だから応じようとした。海だけを見て。安心させてやるかのように、不安に揺れる海を見ながら、純度の高い綿に抱擁されているような色彩の世界で、わたしは、首を向けた。
 何故、見えなくなったのだろう。ほんの何秒か前までは視野の右隅で、あなたを捕らえていたのに。今では両の目で正面きって見据えようとも、空振りでしかない。ずっと昔に感じられる、空白に、私の右隣の時間は戻ってしまったようだった。けれど、とうめいなひとかげは、確かに存在していたのだと、私の視覚器官が、葛藤し揺れる脳細胞に必死に訴えていた。
 どれほどの時間を、海を見て立ち尽くすという行為に傾けていたのだろう。何時間前かもわからない天気予報では今日いっぱい、雨は降らないまでも、雲は飛んでいかないと伝えていた。しかし、目の前の海には一条、また一条と日が差し始めてきていた。目に見える光線を何本も、数え切れなくなるまで見ていた。背中に通っている道路からも、時速四十、五十キロ程の速度で滑っていく視線を感じた。迂遠に言い回すことも、婉曲に言い並べることも必要なく、ただ、壮絶で荘厳であると。そう呟いていた。
「見ろ、あれほど淀んでいた海の緑が晴れていく。サファイアのような青が光りだしていく」
 声は唐突だった。しかし首はおろか目すらも回すことはなかった。ひとかげは、消えてしまったのだ、行方も掴ませないまま。躊躇ったままに置き去った言葉に倣って。しかし、声は続く。聞こえ続ける。姿が見えていた時よりも饒舌に、かつ色濃く存在して。
「わたしは、かがやくために、あなたを、さがしていたのです」
 私は弾かれたように、首を、目を巡らせた。
“わたしは 輝くために 捜していたのです”
 海は、捜し物が見つかって、凪いでいた。雲は、じきに晴れるだろう。胸を軽く膨らませて、すっと肩を落とす。わたしは、胸ポケットから煙草を取り出した。金色の箱にPeaceとあるパッケージが、遅れて出勤した太陽の寝癖を指摘した。


ドップラー

  ゼッケン

きみは幼稚園の送迎バスの運転手をしている
親戚のつてでつかってもらっているのだが、
きみは子供が好きだから自分では適職なのだと思っている
きみは子供が好きだ
しかし、きみの子供は
きみが金持ちの子供の送り迎えをしている間
きみの妻によって何度も何度もぶたれている
きみはそのことに気づいている
10人の園児を乗せたバスは派手なピンクの塗装で
ハローキティの大きなデコレーションが施されている
ひどい女だ、ときみは思う
きみがいない間にきみの妻は
きみと妻のきみたちの子供を
ひとりでぶっている
ふたりの子供なのに
きみにもぶつ権利はある
しかし、ひどい女は
きみには子供をぶたせない
きみが妻の前で子供をぶつと
妻は金切り声をあげてきみを脅した
ひどい女がきみのいない間、何度も何度も
ぶっている、それは
きみの子供でもある
まさにそのとおり

赤信号

きみはブレーキを脚力の及ぶ限り踏んだ
大腿筋が膨らんできみの腰がすこし浮く
おそるおそるバックミラーをのぞく
ハローキティの可愛いバスは
横断歩道をすこし越えて止まっていた
きみの子供が折檻を受けている間にきみが
無事に届けねばならない大事な子供たちは大丈夫だろうか?
バックミラー越しに驚きに見開かれた大きな瞳に出会う
幼稚園の送迎バスに乗る聡明な子供たちの瞳には
まぶしい光が宿っていることをきみはもう知っていた、しかし、
きみの子供の目には光など宿っていないことをきみはもう残念だとは思っていない
キャー
キャー
キャー
歓声が上がった
ハローキティの合成樹脂製の張りぼてを屋根に載せたバスの車中は
幼い興奮でうきうきと沸き立ち始めた
きみは幼い脳たちに喜びを教えた
きみは脳たちにもっと喜びを教えるべきだ
きみがきみの子供に教えたくても教えられなかった喜びをいますぐ
タイヤが路面を噛み、白煙を上げつつバスは交差点に飛び出す
右からも左からもけたたましいクラクションを浴びる
後方に流れてすぐに聞こえなくなった
ハンドルをいったん左へすかさず右に切り、車体は次の交差点の真ん中で大きくケツを振る
ギリギリとひきしぼる音がする
幼い脳たちが喜びに酔う
きみはくるくるとハンドルを回す
ほら、ケーサツだ! サイレン! 聞こえる? バンザーイ!
きみは環状線に出てそれからETCを突破して高速道路に乗る
その間中、きみの携帯電話は鳴りっぱなしだ
鬼の形相と化したバカヤローキティが報道のヘリに追われながらどこまでも走る
きみは金持ちの子供が大好きだった、
みんな吐いていた、ピクニックは賑やかだった、何人かは座席から落ちて通路に転がっていた
彼らはみな、きみがなりたかった子供だ
きみは、きみの子供は貧乏でみすぼらしいので嫌いだったといまなら正直に言える
アクセルを踏み続けている右足が痛かった、振動はかなり前からずいぶん激しい
パトカーと救急車と消防車が何台も連なってバスを追っていた


A DAY IN THE LIFE。―─だれよりも美しい花であったプイグに捧ぐ。

  田中宏輔


●森川さん●過去の出来事が自分のことのように思えない●って書かれましたが●たしかに人生ってドラマティックですよね●齢をとってもいいことはたくさんありますが●じっさいにそれがわかるのもそのうちのひとつでしょうか●ぼくは●自分の日々の暮らしを●日常を●劇のように思って見ています●いまは悲劇ですが●いつの日か喜劇として見られるようになりたいと思っています●二十年以上つづけていた数学講師を●この2月に辞めて●3月から違う仕事に就きました●こんどは私立高校の守衛所の警備員です●まだ一週間しかしていないのですが●仕事場の洗面所の鏡に映った自分の顔を見て驚きました●まるで死んだ鶏の雛の顔のようでした●小学校時代にクラスで飼っていた鶏の雛が死んだときの顔を思い出しました●鏡に映った顔を見つめていると●気持ちが悪くなって吐き気がしました●別の顔を●新しい仕事がつくったのでしょうか●両手で頬に触れると●頬の肉がなくなっていました●雲をポッケに入れて●ぶらぶらと街のなかを歩いてみたいな●こんな言葉を●過去の自分が書いていたことを知りました●自分の名前を検索すると出てきました●平凡な一行ですが●やさしい●と清水鱗造さんが書いてくださっていて●どれだけ遠いぼくなんだろう●って思いました●仕事から帰ってきて●恋人がむかし書いてくれた置き手紙を読んでいました●やさしい彼の言葉が●ぼくの目をうるうるさせました●最近は●ぼくのほうばかり●幸せにしてもらっているような気がします●あっちゃん●幸せだよ●ずっといっしょだよ●愛してるよ●こんな言葉を●ぼくはふつうに受け取っていました●ぜんぜんふつうのことじゃなかったのに●恋人の言葉に見合うだけの思いをもって恋人に接していたか●いや●接していなかった●恋人はその言葉どおりの思いをもって接してくれていたのに●そう思うと●自分が情けなくて●涙が落ちました●才能とは他人を幸福にする能力のことを言う●恋人の置き手紙のあいだに●こんな言葉が●自分の書いたメモがはさまっていました●もしかすると●才能とは自分を幸福にする能力のことを言うのかもしれません●きょうのお昼●ちひろちゃんの家に行きました●ちひろちゃんママが●いまいっしょにタバコを買いに出ています●と答えてくれたので●通りに出てみると●ちひろちゃんが●ちひろちゃんパパより先に●ぼくを見つけてくれて●おっちゃん●と言って●走り寄ってきて●抱きついてくれました●ぼくは片ひざを地面につけて●ちひろちゃんを抱きしめました●ぼくはとても幸せでした●双子の妹のなつみちゃんと●のぞみちゃんも玄関の外に出してもらって●ぼくはのぞみちゃんを抱かせてもらいました●ちひろちゃんはプラスティックの三輪車に坐って●でもまだちゃんとこげないので●ちひろちゃんパパに後ろを押されて●足をバタバタさせて遊んでいました●わずか十分か十五分の光景でしたが●ものすごく愛しく●せつないのでした●研修三日目のことです●何で嫌がらせをするのかわからないひとがいました●テーブルの上で●コーヒーカップをわざとガチャガチャと横に滑らせて●目の前までもってきて置く事務員の女性です●そんなひと●はじめて見たのですが●顔がものすごく意地悪かったです●びっくりしました●目の前にそっと置くのがふつうだと思います●ぼくが何か気に障ることをしたのなら別でしょうけれど●世のなかには●自分よりも立場の弱い者を●いじめてやろうとする人間がいるのですね●ぼくが研修中の新人なので●何をしてもいいってことなのでしょうか●ぼくは●自分より弱い立場のひとって●身体の具合の悪いひととか●たまたま何かの事情で生活に不自由しているひととか●そんなひとのことしか思いつかず●そんなひとに意地悪をする●嫌がらせをする●なんてこと考えることもできないのですけれど●そんなことをするひとはたいてい顔が不幸なのですね●幸福な顔のひとは●ひとに意地悪をしません●顔をゆがめて嫌がらせをするひとだなんて●なんてかわいそうなひとなのでしょう●哀れとしか言いようがないですね●彼女も救われるのでしょうか●神さま●彼女のようなひとこそ●お救いください●あっちゃん●少しですが食べてね●バナナ置いてくからね●これ食べてモリモリ元気になってね●あつすけがしんどいと●おれもしんどいよ●二人は一心同体だからね●愛しています●なしを●冷蔵庫に入れておいたよ●大好きだよ●お疲れさま●よもぎまんじゅうです●少しですが食べてくだされ●早く抱きしめたいおれです●いつも遅くにごめんね●ごめりんこ●お疲れさま●朝はありがとう●キスの目覚めは最高だよ●愛してるよ●きのうは楽しかったよ●いっぱいそばにいれて幸せだったよ●ゆっくりね●きょうは早めにクスリのんでね●大事なあつすけ●愛しいよ●昨日は会えなくてごめんね●さびしかったんだね●愛は届いているからね●カゼひどくならないように●ハダカにはしないからね●安心してね●笑●言葉●言葉●言葉●これらは言葉だった●でも単なる言葉じゃなかった●言葉以上の言葉だった!


クウキ

  右肩

 八月二十三日、病棟三階。廊下の窓からすぐ下を見ると、向こうは微妙に歪みを持つ木造アパートで、その狭い庭に蓬、茅萱が密生する。

 午後の直射日光から沈む混濁。混濁の草いきれ。

 芙蓉のひと叢は、屋外階段の先、二階の部屋のドア付近へ届こうとしていた。麻の開襟シャツにジーンズ姿の僕がセブンイレブンのレジ袋を持ってそこに立ち、病衣を着た僕と目を合わせる。

 その僕が立つ背後のドアのさらに背後、室内の上がり口には、扉付きの下駄箱があり、その上には丸い金魚鉢。蘭鋳が泳いでいる。

 鉢のガラスを隔てた蘭鋳の視野に衣料メーカーのカレンダーが掛かり、グアム島の海岸に立つ、白いワンピースの少女が八月のグラビアの中にいる。

 麦わら帽子を被り、こちらを見て笑おうとしていた。笑う直前の表情にまだ不安が残っている。

 金魚の視界で、映像は人の形を結ばない。茫洋とした色彩が染みつくだけだ。しかし、その中にも不安は飛散し赤茶色の細かい染みを作っている。既に秋の冷気を持つ点。点々。

 あらかじめ敷かれた軌道を、総ての生物と無生物が滑らかに遅滞なく移動する。

 たとえば病棟の窓へ舞ってくる菓子のビニール袋に書かれた「太子堂」という太文字。それがすすっと表意の役割から離れ、爪先できりきり回転しつつばらばらな言葉の隙間に落ちていく。そして光の裏側、闇の深みに音も無く吸い込まれると、もう戻らない。

 少し前、医者から再検査を言い渡され、ショックを受けた。命の終焉がドラマの形をとって動き出したように思えたのだ。サイドブレーキの故障した2トンほどの積載量を持つトラックが、ゆっくり坂を滑り始めたような気がした。もちろん、運転席には誰もいない。

 病衣の僕は窓に向かったまま、アパートの前に立つもう一人の僕に繋ぎ止められている。

 金魚の視界の中の、白いワンピースの少女が実体を失って世界を浮遊していた。空気の中に溶け込んで、誰にも見えず、感じず、何の影響を及ぼすこともない。それは人間の五感には既に捉えられない存在であった。

文学極道

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