(I)
美は捌かれた。涙が剥がれるほどに視界は断ち切られ、冬の色は雪の欠片がこぼれたままに滲んでゆく。いもりが花の陰にかくれて、倒れた木瓜の木の裂けぎわから一筋に降りた蜘蛛の絲を見つめている。やがて居なくなった雀たちを包んで、おそくなって大抵の夜がふけてゆく。
(II)
冬の日射しはすっかり痩せ衰えた地表をねぎらい、高圧線に触れた糸切れ凧をつまみ損ねて出てゆく。差し詰めな間柄でもないのに、除夜の汽笛を合図に生き物たちが騒ぎだし、曲がった煉瓦を風の温度になじませた幾つもの小さな祠がいちどきに冬ぞらの下に現われた。
(III)
Go to the moon at once! 途切れた太古の吐息がしめ出されて来る。アーキアの確かな足取りを追って迫り来るCO2とN2。燃ゆる海に沈むふたつの月。1兆4600億日のあやまちが搾りたての星空から漏れ始めた。冬枯れのこわれた情念の果実がおどろの道にころがる。
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*註解
・祠:ほこら
・Go to the moon at once! :すぐ月のところに行ってよ!
・アーキア:古細菌
・1兆4600億日:約40億年
・おどろの道:棘の道
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2019年12月分
冬そらの下で
詩の日めくり 二〇一七年六月一日─三十一日
二〇一七年六月一日 「擬態」
ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』ちょっと読んだ。ちょっと読んでも、ヴォクトの2冊の本よりはよいことがわかる。ヴォクト、非Aシリーズが傑作だった印象があるので、さいきん読んだヴォクト本にがっかりしたのは、自分でもずいぶんと驚いている。非Aシリーズを再読しないかも。
人生において重要なのは、下手に勝つことよりも、いかに上手に負けるかである。うまく負けるのに、とびきり上等な頭が必要なわけではない。適度な考える力と、少々の思いやりのこころがありさえすればよい。ただ、この少々の思いやりのこころを持つというのが、人間の大きさと深さを表しているのだが。
休みの日は、だらだらと寝ているか、小説を読んだり、ときには詩集をひもといたりしているか、まあ、自堕落な時の過ごし方をしているが、いま読んでいるジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』は読みごたえがある。ホールドマンの作品は、一作をのぞいて、すべて傑作だったと思う。
その一作って、タイトルも忘れてしまったけれど、ほかの作品は、みな傑作であった。その一作は、文庫にもならなかったもので、といえば、この『さらば ふるさとの惑星』も文庫化していないけれど、その一作も叙述はしっかりしていたし、おもしろくなかったわけでもないけれど、さいごの場面が安易で、ぼくの本棚に残しておく価値はないと判断したのであった。まあ、このあいだ読んでた、二冊のヴァン・ヴォクト本に比べれば、読み応えがあったけれども。いま読んでる『さらば ふるさとの惑星』って上下二段組みなので、字がびっしりって感じで、今週中に読み終えられるかどうかってところ。どだろ。
そろそろクスリをのんで眠りにつく。寝るまえの読書も、ひきつづき、ジョー・ホールドマンにする。サリンジャーの短篇集『倒錯の森』も寝具の横に置いてあるのだけれど、なかなかつづきを読む気が起こらない。まあ、そのうち、SFにまた飽きたら、純文学にも手を出すだろうとは思うのだが。おやすみ。
うわ〜。大雨が突然、降りはじめた。雷も鳴っている。ただ一つ、えいちゃんの仕事帰りが心配。それにしても、きつい雨の音。すさまじい勢いだ。急いでベランダにある干し物を取り入れた。雨は浄罪のシンボルだけれど、さいきん罪を犯した記憶はないので、過去の自分の過失について思いを馳せた。
クスリがまだ効かない。雨が小降りになってきた。ジョー・ホールドマンも、ぼくがコンプリートに集めた作家や詩人のひとりだが、最高傑作は、『終わりなき平和』だろう。ぼくが、手放したホールドマンの本は『擬態』だった。叙述は正確そのものだったのだが、さいごの場面がなぜかしら安易だったのだ。
二〇一七年六月二日 「さらば ふるさとの惑星」
ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』半分くらい読んだ。だんだん政治的な話になっていくところが、ホールドマンらしい。つづきを読もう。
あした午前に仕事があるので、お酒が飲めず、あてだけを食べている、笑。焼き鳥、枝豆、にぎり寿司。
きょうも一日、楽しかった。いろいろあるけれど、ぜんぶのみ込んじゃって、楽しめるようになったかな。これからクスリのんで寝る。といっても、一時間近く、眠れないで読書するだろうけれど。ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』付箋だらけ。やっぱり、ホールドマンの言葉は深い。
二〇一七年六月三日 「さらば ふるさとの惑星」
仕事に。きょうは、夕方から日知庵で飲む予定。
いったん仕事から帰ってきて、読書のつづきをしている。夕方にお風呂に入って、日知庵に飲みに行く予定。
いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパ〜。いまからFB、文学極道の詩投稿掲示板を見に行ってくる。
きょうも、寝るまえの読書は、ジョー・ホールドマン。やっぱり哲学があって、叙述力がある作家だと思う。『擬態』はよくなかったけれどね。叙述力はあっても、さいごの場面が安易すぎた。残念。それ一作以外、みな傑作なのに。
クスリのんで横になる。横になって、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のつづきを読む。これって、Amazon で見たら、200円台で売ってるんだよね。びっくり。よい作品が安い値段で出てるってのは、ぼくはよいことだと思う。
二〇一七年六月四日 「さらば ふるさとの惑星」
きょうは、昼に大谷良太くんとビールを飲んで、夕方から日知庵でビールを飲んで、文学をまったくしていなかったので、きょうは、これから寝るまで、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のつづきを読む。いま199ページ。あと65ページある。読み切れないだろうけれど、がんばる。
二〇一七年六月五日 「さらば ふるさとの惑星」
ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』を読み終わった。あしたの昼に、ルーズリーフ作業をしよう。ぜんぶでメモした箇所が13カ所。あまり、いい数字じゃないな、笑。でも、こころをこめて、ていねいにルーズリーフに書き写すことによって、きっとぼくの潜在自我が吸収してくれると思う。
クスリのんで寝ます。あしたは笹原玉子さんと、笹原玉子さんが連れてこられるゲストの方(まだお名前を教えていただいていない)と、3人で、夕方5時に、きみやで食事をすることになっている。3人の平均年齢が、およそ70歳くらいなのだ。どんな会話になりますことか、チョー楽しみにしています。
寝るまえの読書は、ひさびさに、サリンジャーの短篇集『倒錯の森』のつづきから。
二〇一七年六月六日 「笹原玉子さん」
いま起きた。休みの日は、たいていこの時間くらいに起きだす。さて、コーヒーとサンドイッチでも買ってお昼を食べてから、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のルーズリーフ作業をしよう。夕方からは笹原玉子さんたちと河原町で食事だ。
ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のルーズリーフ作業が終わったので、あと一時間ほど、サリンジャーの短篇集『倒錯の森』のつづきを読もう。まだ2篇目だけれど。
いまから河原町へ。平均年齢70歳の3人が、めっちゃモダンな居酒屋さんへ。きみやヘ、ゴー!
いま、きみやから帰ってきた。笹原玉子さんと、お酒を飲んでいた。もうおひとりの方は来られなかった。文学の話をいっぱいして楽しかった。京都に来られたのが、じつは彼女の玲瓏賞の授賞式だったからだと聞いて、喜んだ。
帰りに、西院駅のまえのビルの2階にある「あおい書店」で、文庫本を3冊買った。ハーラン・エリスンの『死の鳥』と『ヒトラーの描いた薔薇』と、ロバート・F・ヤングの『時をとめた少女』である。エリスンの『死の鳥』は、出たときにも買ったのだが、さいしょの2篇があまりにも駄作だったので、破り捨てたのだけれど、あとで、タイトル作が名作だと聞いて、そのうち、買い直そうと思っていたもの。『ヒトラーの描いた薔薇』は、いま出たとこなのかな。平積みされていたので買った。ヤングはもう仕方ないね。買って読んで捨てるってパターンの作家だな。でも、いちおう全作、読んでるんだな。
きょうは寝るまで、ヤングの短篇集『時をとめた少女』を読もうと思う。
ヤングの短篇集『時をとめた少女』を91ページまで読んだ。わくわく感はない。安定した叙述力は感じるが、ただそれだけだ。しかし、せっかく買った、ひさしぶりの新刊本なのだから、さいごまで読もうとは思う。木曜日までには読み終えて、ハーラン・エリスンの『ヒトラーの描いた薔薇」を読みたい。
二〇一七年六月七日 「時をとめた少女」
ロバート・F・ヤングの短篇集『時をとめた少女』を読み終わった。ヤングらしくないさいごの2篇がよかった。とくに、さいごに収録されている「約束の惑星」はさいごのどんでん返しに感心した。冒頭の「わが愛はひとつ」はいつものヤング節かな。「妖精の棲む樹」と「花崗岩の女神」は同様の設定だったが、こういう方向もあったのだと、ヤングを見直した。短篇集として、『時をとめた少女』は、5点満点で3点というところか。まあ、普通だったかな。でも、一か所、ぼくが死ぬまでコレクションしつづけるであろう詩句を、「花崗岩の女神」IIのなかに見つけた。ひさびさのことで、ちょこっと、うれしい。
「きみの名前は?」(ロバート・F・ヤング『花崗岩の女神』II、岡部宏之訳、短篇集『時をとめた少女』174ページ・5行目)
しかし、このヤングの短篇集の『時をとめた少女』の表紙、どうにかならんか、笑。
いま日知庵から帰ってきた。きょうから、ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』を読む。きょうは、解説だけかな。
二〇一七年六月八日 「ヒトラーの描いた薔薇」
いま起きた。休みの日はこんなもの。読書しよう。ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』。
きょうは、ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』を読んでいた。いま、236ページ。読書疲れだろうか。目がしばしばする。もうちょっと読んだら、クスリのんで寝よう。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年六月九日 「法橋太郎さん」
ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』を読み終わった。5点満点中3点といったところか。まあ、同じ3点でも、ロバート・F・ヤングの短篇集『時をとめた少女』より、おもしろくは思えたけれども。
いま目次見て、どれがおもしろかったか、書こうとして、半分くらい話を憶えていないことに気がついて、すごい忘却力だと思った。まあ、おもしろいと思ったのは、「解消日」、「大理石の上に」、「睡眠時の夢の効用」くらいかな。
きょう、ブックオフで、108円だからという理由だけでほとんどだけど、2冊、買った。創元SF文庫から出てるジェフ・カールソンの『凍りついた空━エウロパ2113━』と、創元推理文庫から出てるピーター・ヘイニング編の短編推理アンソロジー『ディナーで殺人を』下巻。下巻がおもしろかったら、Amazon で上巻を買おう。いくら本を処分しても、本が増えていく。不思議ではないけれど、そういう病気なのだろうと思う。まあ、読書が生きがいだから、仕方ないけどね。
帰ってきたら、郵便受けに、法橋太郎さんから詩集『永遠の塔』を送っていただいていた。表紙の絵がいいなと思ったら、装幀がご本人によるものだった。冒頭の詩「風の記憶」にある「死ぬまで爪を切りつづける。」という詩句に目がとまる。つぎつぎと収録作を読んでいく。「幻の群猿」という詩を読むと、「四方に網を掛けた。執着の網を掛けた。猿の類がかかった。おれもまたそうだったが、執着の曲がった視線でしかものを見られない猿たちがいるのだ。」という冒頭の詩句に目がとまった。「死ぬまで爪を切りつづける。」という詩句の具象性と、「四方に〜」という詩句における抽象性と、詩人というものは両極を行ったり来たりする存在なのだなと思った。現在のぼくは、ひたすら具象性を追求する方向で作品を書いているのだが、法橋太郎さんの書かれた詩句のような抽象性も持たなければいけないなと思った。
二〇一七年六月十日 「武田 肇さん」
日知庵から帰ってきて、郵便受けを見ると、武田 肇さんから、自撰句集『ドミタス第一號』を送っていただいてた。ぼくの好みは、「雲はいつの雲にもあらず雲に似る」、「形あるものみな春ををはりけり」、「足のうら足をはなれてはるのくれ」といった句である。ひとは自分に似たものを好むというアリストテレスの言葉を思い出した。ぼくには、ここまで圧縮できないと思うけれど、自分が考えていることに近いというか、そんな気がする句が好きなようだ。俳句というのは、世界でもっとも短い詩の定型詩だと思うけれど、そこで残るような作品をつくることは、ほんとうにむずかしいことだと思う。むかし集中して俳句を勉強したけれど、いまでも、すっと記憶に出てくるものは10句もない。ルーズリーフに書き写している俳句も200句か300句ほどしかないと思う。武田 肇さんの俳句を味わいつつ、俳句そのものの形式について考えさせられた。ぼくが書くには極めて圧縮された形式でむずかしい。
武田 肇さんの俳句を読み終わったので、きょうの残った時間は、ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』のつづきを読んで寝よう。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年六月十一日 「死の鳥」
ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』を読み終わった。SFって感じがあまりしなかった。どちらかといえば、幻想文学かな。よいなと思った作品は、「ジェフティは五つ」と「ソフト・モンキー」。「ソフト・モンキー」はまったくSFとは無縁の作品。それはもう幻想文学でもない、普通の小説だった。アイデアとしては、未来人との絡みで、ジャック・ザ・リッパーを扱った「世界の縁にたつ都市をさまよう者」が印象的だったかな。あと、「プリティ・マギー・マネーアイズ」も印象に残ったかな。タイトル作の「死の鳥」はまったく意味がわからなかった。「「悔い改めよ、ハーレクイン!」とチクタクマンはいった」と「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」は、以前に読んだ記憶がある。どちらも古いSFを読み直しているような気がしたが、前者がオーウェルの『1984年』や、ザミャーチンの『われら』に通じるものだったという記憶がなかったので、そこは意外だった。後者の記憶はほとんどなかったのだが、なんだか、エリック・F・ラッセルか、クリフォード・シマックの短篇を読んだかのような読後感を持ってしまった。まあ、いずれにしても、50年代のSFって感じだった。でも、いま解説を読むと、前者は1965年に、後者は1967年に発表されたものだった。ぼくの1950年代のSF感が間違っているのかもしれない。河出文庫から出ている年代別の短篇SFアンソロジーで調べてみよう。『20世紀SF(2) 1950年代 初めの終わり』と『20世紀SF(3) 1960年代 砂の檻』の目次を見比べた。そうだな。やはり、エリスンのは50年代のほうに近いかなと思った。1960年代は、SFにおいては、ニュー・ウェイヴの時代だものね。短篇集のタイトル作品がニュー・ウェイヴっぽいかなと思ったけれど、ぼくには意味不明の作品だった。2つの話を一つにしたってだけの感じしかしなかった。幻想文学の諸知識と安楽死というものを無理に一つにした小説だね。
二〇一七年六月十二日 「潜在自我」
きょうはずっと読書している。ときどき、コーヒーを淹れるくらい。ぼくの人生、あとどのくらい本が読めるのだろうか。まだまだたくさんの未読の本が棚にある。それでも、新刊本も買うし、ブックオフで読んでいない古いものも買う。ぼくが本に投資しているのと同様に、本もぼくに投資してくれてのかしら。
まあ、全行引用詩に貢献してくれているし、なにより、ぼくの潜在自我や建材自我の形成に大きく寄与しているだろうから、ぜんぜん無駄ではないね。しかし、傑作は多いけれど、ゲーテの『ファウスト』やシェイクスピア級の傑作は、それほど多くない。とはいっても、SFで20作くらいはありそうだけど。
二〇一七年六月十三日 「凍りついた空━エウロパ2113━」
きょう、一日かかって、ジェフ・カールソンの『凍りついた空━エウロパ2113━』を読んでいたのだが、で、いま読み終わったのだが、26ページの記述から以後の記述とのつながりがいっさいなくて、さいごまで読んだのに、なんだか騙されたかのような気がした。作者のミスだと思うが、話の筋自体に、整合性のないものは、いくらSF小説とはいっても許されるべきものではないと思われるのだが、いかがなものであろうか。不条理小説ではなく、どちらかといえば、ハードSFに分類されるような専門用語と設定で押しまくられて、さいしょの疑問がどこでも解かれていないなんて、ひどい話だと思う。ぼくが読んだ長篇SFのなかで、いちばんひどかったのではないかと思う。ちなみに、ぼくの記憶は都合がよくできていて、ひどいものは忘れるのがはやいので、これ以外に、ひどい長篇SFをいま思い出すことはできないのだけれど。というのも、いま部屋の本棚にあるものは傑作ばかりなので思い出せない。しかし、このSF小説のカヴァーはひどいね。芸術的なところが、いっさいないのだね。まあ、さいきんのハヤカワ、創元のSF文庫の表紙の出来の悪さは、経費削減のためなのか、あまりにシロート臭くてひどいシロモノばかりだ。
今晩から、ピーター・ヘイニング編の短篇ミステリーのアンソロジー『ディナーで殺人を』下巻を読む。でももう、きょうは、だいぶ、遅いね。クスリをのんで横になって読もう。12時半くらいには寝たいのだが、どこまで読めるだろうか。さっき、『凍りついた空』読み直ししたけど、やっぱりひどいわ。
二〇一七年六月十四日 「風邪」
いま学校から帰った。風邪を引いたみたいだ。咳がするし、熱もある。きょうは、このまま横になって寝ておくことにする。
二〇一七年六月十五日 「風邪」
風邪がひどい。風邪クスリのんでずっと寝てる。
二〇一七年六月十六日 「風邪」
風邪がよりひどい。きのう、きょうと、学校の授業がなかったので、ずっと部屋で寝込んでいる。あした午前に、一時間の授業があるので、そこをどうやりくりするかである。声が出なかった場合、どうするか。むずかしい。やっぱり、仕事は体力がいちばん大切だなと実感している。いまも熱で朦朧としている。風邪にはよくないと思いながらも、横になって読書をしていた。ピーター・ヘイニング編の短篇推理小説アンソロジー『ディナーで殺人を』下巻の315ページを読んでいたら、ぼくがコレクトしている言葉にぶちあたった。「きみの名前は?」(レックス・スタウト『ポイズン・ア・ラ・カルト』小尾芙佐訳)
短編推理小説のアンソロジー『ディナーで殺人を』下巻を読み終わった。風邪がひどい状態なので、頭痛がしつつも、痛みが緩慢なときに、ここ数日、読んでいた。つぎには、なにを読もうか。きょうは、もうクスリをのんで寝るけれど、寝るまえの読書はサリンジャーの短篇集『倒錯の森』のつづきにしよう。
二〇一七年六月十七日 「澤 あづささん」
澤 あづささんが、ブログで、拙作『語の受容と解釈の性差について━━ディキンスンとホイットマン』を紹介してくださっています。
二〇一七年六月十八日 「グリーン・マン」
いま日知庵から帰った。きょうは5時から、日知庵に、9時すぎに、きみやに、また10時30分ころに、日知庵に飲みに行ってた。風邪でめまいもしてたけれど、風邪などお酒で吹き飛ばしてやれという気で飲みに行った。いま、めまいがしながらも、いい感じである。風邪はたぶんひどいままだろうけれど。
で、一回目の日知庵では、大谷良太くんと出会い、二回目の日知庵では、東京にいらっしゃってて、京都に来られたとき、たまたま横でお話させていただいただけなのに、目のまえで、Amazon で、ぼくが2014年に思潮社オンデマンドから出した詩集『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』と、『全行引用詩・五部作』上巻を、即、買ってくださった方とお会いしたのであった。大谷良太くんとも、そうだし、その方とも、そうだけど、なにか運命のようなものを感じる。まあ、勝手に感じてろって自分でも思うところはあるのだけれど、笑。出会いと人間関係なんて、どこで、どうなるか、わかんないものね。
きょう、寝るまえの読書は、キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』。どこがSFなのか、まだ26ページ目だけれど、さっぱり、わからない。居酒屋けん宿屋の主人の一人称形式の物語。幽霊の話が出てくるのだけれど、ブライアン・W・オールディスが、この作品をベタ褒めしていた記憶があって、エイミスといえば、サンリオSF文庫の『去勢』や、彼は詩人でもあって、アンソロジストでもあるのだけれど、彼が編んだ『LIGHT VERSE』を思い出す。お酒の本も出してたと思うけれど、手放してしまった。キングズリイ・エイミスもゲイだったのだけれど、『LIGHT VERSE』にも、ゲイの詩人やレズビアンの詩人のもので、おもしろいものがたくさんあったと記憶しているのだけれど、そいえば、さいきん、英詩を翻訳してないな。
あかん。まだ熱がある。咽喉も痛い。クスリのんで横になろう。あしたは、神経科医院に行く日。3時間待ちか。しんどいな。仕方ないけど。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年六月十九日 「自費出版」
いま神経科医院から帰ってきた。きょうは、もう横になって、風邪の治りを待つだけ。エイミスの『グリーン・マン』いま80ページほど。ていねいな描写なので、疲れない。P・D・ジェイムズのようなていねいさではない。彼女のていねいさは狂気の域に達している。まあ、ぼくはぜんぶ読んだけど、天才。
キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』 いま152ページ。これって、SFじゃなくて、幽霊話なんだね。しかも、主人公が人妻と浮気して、自分の妻との3人でのセックスの提案をしつづけていたりという、エロチック・怪奇小説って感じ。エイミスって、一流の作家だと思っていたので、びっくり。まあ、いま書いて自分の意見を否定するのだけれど、そんな題材で小説が書けるのだと、いまさらながら気が付けさせられた。そういう意味では、ぼくも死ぬまでに書きたい小説があって、そろそろ手をつけるときかなって思っているのだけれど、構想だけにすでに数年の時間を費やしている。
チューブで、ホール・マッカートニーのトリビュートを見てたんだけど、まえのアメリカの大統領と同席して、ポール自身が見てたんだけど、ポールが一瞬のあいだも見逃さないようにステージを見つめてたとこに、なんだか、こころにぐっとくるものがあった。音楽で食べてるひとたちもいる。あきらめたひとたちもいる。ぼくも結局、詩集を出すのに1500万円くらいかけたけれど、1円も手にしていない。ほんとうに趣味なのだ。しかも、これからさきも死ぬまで1円も手にしないだろう。永遠のシロートである。しかし、詩人はそんなものであってもよいと思っている。むしろお金を儲けない方がよいとすら思っている。ほかにきちんと仕事を持っているほうが健全だと思っている。賞にもいっさい応募しないので、だれにおもねることもない。献本もしないので、ぼくの詩集を持っているひとは、みな、ぼくの詩集を買ってくださった方だけである。このきわめて健全な状態は、死ぬまで維持していきたいと思っている。
二〇一七年六月二十日 「エヴァが目ざめるとき」
ピーター・ディキンソンの『エヴァが目ざめるとき』を読み終わった。彼の作品にしては、毒がないというか、インパクトがないというか、それほどおもしろい作品ではなかった。亡くなりかけた娘の記憶を猿に記憶させて云々というゲテモノじみた設定の物語ではあるが、児童書のような印象を持った。
二〇一七年六月二十一日 「源氏の気持ち」
源氏の気持ちのなかには、奇妙なところがあって、衛門督の子を産んだ二条の宮にも、また衛門督にも、憎しみよりも愛情をより多くもっていたようである。いや、奇妙なことはないのかもしれない。人間のこころの模様は、このように一様なものではなく、同じ光のもとでも、さまざまな色とよりを見せるものであろうし、まして、違った光のもとでなら、まったく異なった色やよりを見せるものなのであろう。源氏物語の「柏木」における多様な性格描写が、ぼくにそんなことを、ふと思い起こさせた。
二〇一七年六月二十二日 「まだ風邪」
いま日知庵から帰った。風邪、まだ直っていないが、という話を日知庵でしたら、お友だちから、「肝臓がアルコールを先に処理するので、風邪を治すのはあとになるよ。風邪を治すのにお酒はよくないよ。」と言われて、ひゃ〜、そうやったんや。と思うほど、身体の生理機能について無知なぼくやった。Tさん、貴重な情報、ありがとうございました。きょうは焼酎のロック2杯でした。2杯で、ベロンベロンのぼくですが。うううん。寝るまえの読書は、キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』あとちょっと。きょうじゅうか、あしたのうちには読み切れる。さいご、どうなるか楽しみ。幽霊話だけどね。
キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』を読み終わった。読む価値は、あまりなかったようなシロモノだった。ブライアン・オールディスは絶賛していたけれど、どこがよかったのだろう。よくわからず。まあ、さいごまで読めたので、叙述力はあったと思うのだけれど、そこしかなかったような気もする。
ここ連続、あまりおもしろくない本を読んでいたので、ここらで、おもしろい本と出くわしたいのだけれど、どうだろうね。
二〇一七年六月二十三日 「敵」
敵だと思っている
前の職場のやつらと仲直りして
部屋飲みしていた。
膝が痛いので
きょうは雨だなと言うと
やつらのひとりに
もう降っているよと言われて
窓を開けたら
雨が降っていたしみがアスファルトに。
でも雨は降っていなかった。
膝の痛みをやわらげるために
ひざをさすっていると
目が覚めた。
窓を開けると
いまにも降りそうだった。
この日記を書いている途中で
ゆるく雨の降る音がしてきた。
二〇一七年六月二十四日 「双生児」
きょうは、食事をすることも忘れて、一日じゅう読書をしていた。いまから寝るまでも、本を読むつもりだけれど。これまた、ぼくがコンプリートに集めた作家、クリストファー・プリーストの『双生児』本文497ページの、とても分厚い単行本なので、今週ちゅうに読み終えられればいいのだけれど。
二〇一七年六月二十五日 「いっこうに治らない風邪」
いっこうに風邪が治らず、きょうは読書もせず、ずっと寝ていた。あしたは、ちょっとは、ましになってるかな。
二〇一七年六月二十六日 「秋山基夫さん」
秋山基夫さんから『月光浮遊抄』を送っていただいた。いま自分が来年に出す詩集の編集をしていて、『源氏物語』を多々引用しているためか、秋山さんの詩句に『源氏物語』の雰囲気を重ねて読ませていただいていた。そのうえで、送っていただいたご本の第二次世界大戦時の記述が混じって、その違和感がおもしろかった。
二〇一七年六月二十七日 「若菜」
(…)院も時々扇(おうぎ)を鳴らしてお加えになるお声が昔よりもまたおもしろく思われた。すこし無技巧的におなりになったようである。
(紫式部『源氏物語』若菜(下)、与謝野晶子訳)
無技巧的になって、おもしろく思われる。
ではなくて
おもしろく思われるのも、無技巧的になったからか。
というのである。
コクトーも、うまくなってはいけないと書いていた。
コクトーは技巧を凝らした初期の自作を全集からはずしたが
ぼくも、自分の技巧的な作品は、好きじゃない。
自然発生的なものしか、いまのぼくの目にはおもしろくないから。
二〇一七年六月二十八日 「日付のないメモに書いた詩」
職員室で
あれは、夏休みまえだったから
たぶん、ことしの6月あたりだと思うのだけれど
斜め前に坐ってらっしゃった岸田先生が
「先生は、P・D・ジェイムズをお読みになったことがございますか?」
とおっしゃったので、いいえ、とお返事差し上げると
机越しにさっと身を乗り出されて、ぼくに、1冊の文庫本を手渡されたのだった。
「ぜひ、お読みになってください。」
いつもの輝く知性にあふれた笑顔で、そうおっしゃったのだった。
ぼくが受け取った文庫本には、
『ナイチンゲールの屍衣』というタイトルがついていた。
帰りの電車のなかで読みはじめたのだが
情景描写がとにかく細かくて
またそれが的確で鮮明な印象を与えるものだったのだが
J・G・バラードの最良の作品に匹敵するくらいに精密に映像を喚起させる
そのすぐれた描写の連続に、たちまち魅了されていったのであった。
あれから半年近くになるが
きょうも、もう7、8冊めだと思うが
ジェイムズの『皮膚の下の頭蓋骨』を読んでいて
読みすすめるのがもったいないぐらいにすばらしい
情景描写と人物造形の力に圧倒されていたのであった。
彼女の小説は、手に入れるのが、それほど困難ではなく
しかも安く手に入るものが多く、
ぼくもあと1冊でコンプリートである。
いちばん古書値の高いものをまだ入手していないのだが
『神学校の死』というタイトルのもので
それでも、2000円ほどである。
彼女の小説の多くを、100円から200円で手に入れた。
平均しても、せいぜい、300円から400円といったところだろう。
送料のほうが高いことが、しばしばだった。
いちばんうれしかったのは
105円でブックオフで
『策謀と欲望』を手に入れたときだろうか。
それを手に入れる前日か前々日に
居眠りしていて
ヤフオクで落札し忘れていたものだったからである。
そのときの金額が、100円だっただろうか。
いまでは、その金額でヤフオクに出てはいないが
きっと、ぼくが眠っているあいだに、だれかが落札したのだろうけれど
送料なしで、ぼくは、まっさらに近いよい状態の『策謀と欲望』を
105円で手に入れることができて
その日は、上機嫌で、自転車に乗りまわっていたのであった。
6時間近く、通ったことのない道を自転車を走らせながら
何軒かの大型古書店をまわっていたのであった。
きょうは、昼間、長時間にわたって居眠りしていたので
これから読書をしようと思っている。
もちろん、『皮膚の下の頭蓋骨』のつづきを。
岸田先生が、なぜ、ぼくに、ジェイムズの本を紹介してくださったのか
お聞きしたことがあった。
そのとき、こうお返事くださったことを記憶している。
「きっと、お好きになられると思ったのですよ。」
もうじき、50歳にぼくはなるのだけれど
この齢でジェイムズの本に出合ってよかったと思う。
ジェイムズの描写力を味わえるのは
ある年齢を超えないと無理なような気がするのだ。
偶然。
さまざまな偶然が、ぼくを魅了してきた。
これからも、さまざまな偶然が、ぼくを魅了するだろう。
偶然。
さまざまな偶然が、ぼくをつくってきた。
これからも、さまざまな偶然が、ぼくをつくるだろう。
若いときには、齢をとるということは
才能を減少させることだと思い込んでいた。
記憶力が減少して、みじめな思いをすると思っていた。
見かけが悪くなり、もてなくなると思っていた。
どれも間違っていた。
頭はより冴えて
さまざまな記憶を結びつけ
見かけは、もう性欲をものともしないものとなり
やってくる多くの偶然に対して
それを受け止めるだけの能力を身につけることができたのだった。
長く生きること。
むかしは、そのことに意義を見いだせなかった。
いまは
長く生きていくことで
どれだけ多くの偶然を引き寄せ
自分のものにしていくかと
興味しんしんである。
読書を再開しよう。
読書のなかにある偶然もまた
ぼくを変える力があるのだ。
二〇一七年六月二十九日 「『ブヴァールとペキュシェ』フロベール 全3巻 岩波文庫」
欲しい本で、まだ買ってなかったもの。
ヤフオクで、落札価格1900円+送料320円
到着するのが楽しみ。
いま全行引用の長篇の作品をつくろうとしているのだけれど
それを、それの数倍の長さの長篇作品の最後に置くアイデアが
じつは、フロベールの『ブヴァールとペキュシェ』からだった。
全行引用の長篇の作品とは
「不思議の国のアリスとクマのプーさんの物語。」
のことである。
来年度中には完成させたい。
きょうは、ひさびさにエリオットを手にして
寝床につこうと思う。
じゃあ、行こうか、きみとぼくと、
薄暮が空に広がって
手術台の上の麻酔患者のように見えるとき。
(岩崎宗治訳)
後日談
大失敗、かな、笑。
ネットで検索していて
「ブヴァールとペキュシェ」が品切れだったと思って
何日か前にヤフオクで全3巻1900円で買ったのだけれど
きょう、『紋切型辞典』を買いにジュンク堂によって
本棚を見たら、『ブヴァールとペキュシェ』が置いてあったのだった、笑。
ううううん。
560円、500円、460円だから
新品の方が安かったわけね。
日知庵に寄って、バカしたよ〜
と言いまくり。
ネット検索では、品切れだったのにぃ、涙。
ひさびさのフロベール体験。
どきどき。
きょうは、これからお風呂。
あがったら、『紋切型辞典』をパラパラしよう。
で
このあいだ、ヤフオクで買ったの
届いてた。
ヤケあるじゃん!
ショック。
で
いまネットの古書店で見たら
4200円とかになってるしな〜
思い違いするよな〜
もうな〜
足を使って調べるということも
必要なのかな。
ネット万能ではないのですね。
しみじみ。
古書は、しかし、むかしと違って
ほんとうに欲しければ、ほとんどすぐに手に入る時代になりました。
古書好きにとっては、よい時代です。
こんなスカタンなことも
ときには、いいクスリになるのかもしれません、笑。
前向き。
二〇一七年六月三十日 「岡田 響さん」
岡田 響さんから、散文詩集『幼年頌」を送っていただいた。300篇の言葉についての緻密な哲学、といった趣と、言葉にまつわる自身の経験的な非哲学の融合、といったところが、同時に感じられるが、質的にだけではなく、量的にも圧倒される。このような作品を書くことの困難さについて思いを馳せた。
二〇一七年六月三十一日 「杉中昌樹さん」
杉中昌樹さんから、詩論集『野村喜和夫の詩』を送っていただいた。ひとりの詩人による、もうひとりの詩人の詩の詳細な解説である。これは書かれた詩人にとっても書いた詩人にとっても、僥倖なのであろう。しかし、もしも、自分の詩が、ひとりの詩人によって徹底的に解説されたらと思うと、おそろしい。
この世界を離れて
むかし僕は天使だった。
せなかにつくりものの羽をつけ、そでのすこしよごれた白い服を着ていつも母ちゃんのそばにいた。
かがみにうつった母ちゃんの顔はまるでペンキを塗ったように白く、やけにまじめな眼のしぐさで細くあやしいマユを描きながら、
「うちらが旅するのはなんでやの?」
そう、きいた。
「わからへん」
つめたい男爵芋を皮ごとかじりながら僕は言った。
「わからへんか? かんたんやん」
「わからへん」
「さよか。ほな、おしえたろ。オマンマ食うためや」
それで僕は、
「ひゃくしょうは旅しよらんし、医者もお役人もうちらみたいに旅ばかりしよらへん」
と言った。
母ちゃんはマユを描くのをやめて、こんどは紅を口にぬった。
「ええか。うちらは、はみだし者やさかい。ひとつの場所で暮らされへんのや。オマンマ食うためには、ずっと死ぬまで旅まわりせなあかんのやで」
「なんで『はみだし者』にならされてもうたんや?」
「しゃあないやないの。はみだし者は、最初からはみだし者やなんやから」
「父ちゃんのせいか?」
「言わんとき」
「酒呑んであばれるからとちゃう?」
「言わんときいうとるやない」
「なんで母ちゃん、父ちゃんといっしょになったん?」
「しらん。なんでや言われても、なってしもうたもん今さらもとにもどらへんやないの」
「父ちゃんのこと、好きなん?」
「しらん。大切なのは、オマンマ食うて生きてゆくことや」
そして母ちゃんはかつらをかぶって別の女の人になった。
舞台にでた母ちゃんは、おひめさまになりきって父ちゃんの弾くバイオリンの伴奏にあわせておどりだす。客席がわいた。でもたぶん、いちばん見入ってるのは、この僕だった。
おなかがすいた日、母ちゃんは空を見上げて、
「あまい綿菓子みたいな雲がうかんでいるわ」
と言った。
「父ちゃん、ゆうべまた酒飲みにいって帰らへんやん」
「そうや。帰らへんな」
「はらへって死にそうやわ」
「平気や。一日くらい食わんでも死なへん。母ちゃん、七日も食べんときあったで」
「オマンマ食うために旅まわりしとるのとちゃうの?」
「そうやで」
「食われへんやん!」
「がまんしとき。こんな日もあるんやさかい」
そのうち母ちゃんは、どこからか粗末な食べ物をもらってきてこう言った、「やっぱ、食べなあかんな。死んでしまうわ」
そのころはまだテレビもない時代で芝居小屋のない町や村では旅の一座がくると、それは町じゅう村じゅうで大さわぎの人だかりになった。父ちゃんはヨレヨレのいっちょうらの燕尾服を着てじまんのバイオリンを弾きかなでて客をよんだ。その音色は甘くかなしく、くわえて母ちゃんの美しさと芸のふかいおどりが人目をひいた。
緞帳の下りたあと、村長がぶっちょう面でやってきて母ちゃんにご祝儀をわたした。母ちゃんはいつもとかわらず、まんめんの笑みでおじぎし祝儀を受けとったけど、父ちゃんのバイオリンは、とつぜん熱がこもりいつもとちがうメロディーをはじめた。それはジプシーの曲でこれは僕もまだ一度しか聞いていないすばらしい音楽だった。
村長は、
「今夜はうちに泊まりなさい」
と、じっと真顔になって母ちゃんに言った。
するとその夜は海と山の幸、そして見たこともない料理の数々と果物や菓子の山盛りだった。
ふかふかの寝床で母ちゃんは僕に言った、
「おまえ、オマンマ食うだけやったら、ずっとここにいてもええんやで」
「いやや」
「なんでやの?」
「ずっとここやったら、つまらん」
「けど、こんなくらし続けても、ちゃんとしたオマンマ食わな、きっといつか死んでしまうで」
「ほな母ちゃんもずっとここで暮らすん?」
「それはありえへんけど‥‥」
「あかんで。母ちゃんと離ればなれになりとうないわ」
「さよか」
と、母ちゃんは言った。
「あそこの村はな、わたいの生まれそだった所や」
村をだいぶすぎたころ、母ちゃんがぽつんとそう言った。あてのない道の両がわには、ただ土の畑がひろがっていた。
父ちゃんはリュックを背おって、もうかなり先を歩いている。両手には革のかばんと黒いバイオリンケースがあった。
「つぎの町まではかなり遠いが、とちゅうの宿場には夜までに着かないといけない」
思い出したかのようにふりむいてそう言う。「山ごえが夜になるとぶっそうだからな!」
「あいよ」
母ちゃんは、つよく精いっぱいにこたえた。
そして休むことなく歩きつづけ、宿についたのは陽のしずむころだった。
「俺は酒場にゆくが、おまえも来るか?」
なんだかしらないが、父ちゃんは僕にきいた。
「いっておいで。母ちゃんは楽器の番をしとくよ」
母ちゃんもそういうので僕はしたがった。
父ちゃんは居酒屋の席について酒を注文すると、
「はらがへってるだろ、なんでも好きなもんをたのめ」
と、僕に言った。「おやじ、酒をくれ。それとこいつに食いものを」
居酒屋のおやじは、
「かぼちゃと雉肉のだんご汁はどないだ」
いくぶん押売りのはいった言い方をした。
「うまいのか?」
「どやろ? けど、まずかったら金はとらんとこか」
「そうかい、そいつはいい。――ぼうず、うまくてもけしてうまいというなよ」
「あかん。いらんこと言うてもうたわ」
父ちゃんに酒をついだあと、おやじは料理のしたくをはじめた。
客はすくなかったが、ややはなれた席にいるからだのちいさな男がこちらへ来るなり、
「あんた、芸人さんかい」
いきなり父にむかって話しかけた。
父ちゃんは上着のひだりポケットにこぶしをかくして酒をのんでいたが、
「俺に用事か?」
男に対して向きなおって言った。
「とつぜん、すまんの。わてはこの宿場のまとめ役をしている者(もん)だす」
男は親しげな笑みをこぼし、「ここはなんやしらん活気のない町でな。人がおらへんよって、博打場かて死にかけたる。つまらん、そないなことを考えながら酒呑んっどったら、とつぜんあんさん方。つまり燕尾服の男と天使のかっこうのボンが眼のまえにあらわれよった。と、見るなり、そや! これや。この人らを当分ここによんで仕事させたろ。ひょっとしたら、ぎょうさん人があつまってこの町もすこしは活気づくのとちゃうやろか。そないなことを、つい今のいましがた思いつきましてな。さっそく声、かけさしてもろうた次第だす」
父ちゃんは顔つきをおとなしくし、
「親分さんですか。それはけっこうなお話をありがとうございます」
座ったままだったが、ひだりのこぶしと酒をのむ手をひっこめるとていねいにおじぎをした。
親分はかぶりをふった。
「いらんわ。かたくるしいのはきらいですわ。それよりも坊ちゃん、ええ顔しとるがな。とてもこの世のものとは思えんな。ところでにいさん。さて、この話どないでしゃろ?」
「せっかくですが。次の興行が決まっておりましてあいにくと、ここは泊めていただくだけの場所となります。なにとぞご理解のほどをお願いいたします」
「さよか。残念やな」
「ご親切にありがとうございます」
「ほな、せめてもの気持ち。酒代くらいはあずかってもらいまひょ」
「これはどうも。かたじけございません。ありがたくちょうだいいたします」
「ほなまた」
父ちゃんはちいさな男を見送って、
「じゃあ、また呑みなおすとするか」
と言った。
ちょうど僕の料理がはこばれたとき、
「こらあ」
店の扉をいせいよくひらいて男がひとり立っていた。「おやじ! 酒呑まさんかい」
その男は見るからにふてぶてしく、義理も礼節もまるで知らないとみえた。おまけにそいつときたら、父ちゃんの右どなりに座ると、「おまえだれや。見なれん顔しとるやんけ。けったいな格好してくさらしおって」
と言った。「おい。そこの羽のはえたボン、こっちこんかい」
男は、気やすく父ちゃんのせなかに腕をまわした。
おとなしく父ちゃんは酒をのみ、ふたたび器を口にしたとたん相手の顔に酒のしぶきをふきつけてまず眼をころし、つぎにでかい鼻をなぐり、ふっとんだ男をつかまえて首のうしろを押さえ、右ひじで頬を打った。これで相手はたおれたが、まだ眼があかないうちに顔をなんどもふみつけた。とどめ、しばらくは立ち上がることができないよう両の足を椅子をつかって打撲した。
男はうめき、父ちゃんは手なれた動作で手をはらうとふたたび椅子にすわり酒を呑みはじめる。
「まぁ、ゆっくり食え。そいつはうまいか?」
「まずいけど、のこさんへん。ぜんぶ食うたるで」
「それはよかった。ところで食いながら聞け、けんかは感情によっておこなうものではない。楽譜がよめて楽器を演奏する能力のある人間と、ただあばれるだけの男とでは人間としてどちらが高等か言わなくてもわかるはずだ。低脳な人間をおそれる必要はまったくない。害がなければ利用し、害があるなら退治するまでだ。この場合、手段はえらばなくてもよい。猛獣にたいして人はときとして武器をつかうだろ。それとおなじだ」
「うん。わかった」
僕はうなずき言った。
すると急に父ちゃんが椅子からひっくりかえった。
たおれた椅子の足をつかんだまま男はたちあがり、つぶれた顔で床にころがった父ちゃんをにらんだ。
「ころしたる」
そして飛びかかり、おおいかぶさると父ちゃんの首をきつく絞めはじめた。
「やめんかい」
店の入口にふたたび、からだのちいさな男がいた。「喧嘩やったら止(と)めへん。けどこの芸人さんはうちの客人やさかいな。だいいちおまはん、堅気ゆうても始終さわぎおこしてけつかるやないの。おかげでこの町に人おらようになってもうたがな。いままで多少のことはと、このわしも眼つぶってきたで。けど、あかんな。辛抱もここまでや。もうゆるされへん、かくごしときや」
そのうしろから、おおぜいの子分たちがあらわれて男をとりおさえた。
「‥‥ゆうとねん、さいしょに手だしたのはこいつやんかい」
「ほな、さいしょにおまんが座った場所はどこやねん?」
「しらんわい」
「言わんかいや。席ならなんぼでも空(あ)いたるがな。さいしょからちょっかい出そうおもわなんだら芸人さんとこいかんでも酒は呑めたはずや。おう? ずぼしやろ。わしをなめとったらあかんぞ!」ちいさな男は子分たちに命令した。「――いてもうたれや」
片目ををつぶり、首をおさえながら父ちゃんはひとりでおきあがった。
「助けていただき、ありがとうございます」
「こっちこそすまんな。いやな思いさせてもうて。かんにんやで。さっき、あのあと。ついそこの通りでこのあほんだら見かけたよって、もしやと思いもどってみたら‥‥案の定やったわ」
そしてこれは子どもが見るべき光景ではなかったが、
「いっしょに見よう」
と、父ちゃんは言った。
手をつながれて見たのは、つめたい夕日のなかで数人が棒切れをもってうしろ手にされた男をぶつさまだった。そのたたきかたははげしく、たちまち服はやぶれ、からだじゅう血がにじみ、そのうち顔や背中のかわがぺろりとめくれた。
男はうたれるたび、
「ぎぇひぇーぎゅあがぁ」
まるで人とはおもえない声で鳴いた。――いや、それはまちがいなく獣そのもののさけびだった。
やがて春がきてみわたすかぎりのレンゲ畑をたくさんの蝶たちがて舞いとんでいた。父ちゃんがハーモニカをふき、母ちゃんは上機嫌で父ちゃんのつくった芝居の歌をうたっている。それは旅の吟遊詩人がお城からお姫さまをつれだす歌で、じっさい母ちゃんも父ちゃんにつれだされたのは本当だ。ところどころ継ぎは当たっていても、白いドレス服の母ちゃんはまだお姫さまのつもりだった。
そして母ちゃんは夢見るようにうたった。
見てごらん こわくなんかないよ
かんたんさ 一歩だけこっちへすすんでみて
君は君以外のものを棄てればいい
お金もいらないし 失うものも何もない
永遠にかわらぬ愛とひきかえに
ぜんぶ棄ててしまって笑いころげよう
きっと失う哀しみもないままに暮らせるよ
神さま ぼくが君といられますように
どうか 君が君でいられますように
ここにあるのは ただそれだけ
行き先は自由 君とぼくとの何もない世界
見てごらん はじまりの時を
ふるえる大地の 鼓動をかんじるだろ
君に君以外のすべてをあげよう
この星をまるごと ぜんぶ君にあげるよ
地獄までつらぬく愛で君をみたそう
暁にかがやく天使よりもつよく、
夜空の星のすべてが落ちるほどの愛で
神さま ぼくが君といられますように
どうか 君が君でいられますように
ここにあるのは ただそれだけ
行き先は自由 君とぼくとのはじまりの世界
どこからか地響きのような音がちかずいてくる。
僕はレンゲ草の首かざりをこしらえて大好きな母ちゃんにあげた。母ちゃんは笑みをこぼし、すると声にしないで「あっ」という顔をした。そしてぼくの肩をたたいてうしろを見るようにうながす。
ふりむくと鉄橋を蒸気機関車がまっ白いけむりをもくもくとはいて走りわたるところだった。
せなかにある羽をおおきくゆらし、ぼくはよろこんで機関車へむかって駆けだした。
それから、とある町ではおおぜいの役者をひきつれた旅芸人の一座と合流した。
皆で食事をし、
「ぜひうちに来てもらいたいと思っているんだがね」
ぶどう酒をのみ、座長が父ちゃんに言った。
「おこころづかい、ありがとうございます」
「わしらは家族みたいなもんさ。困ったときはいつも助けあい、協力する。病気になっても放っておかないし、めんどうもみる。だいいち旅まわりはしてもじつはちゃんと住むところがあるのだ。そこは海べの村だが、一年じゅうあたたかで食べものもうまい」
「さかなつりもできるわ」
まだまだ子どもらしさのぬけていない、にきび顔の娘がそう言った。
「座長はん、どないですか? そりゃあ旅の生活はきびしいでっしゃろ」
母ちゃんはもうさっそくこの先を見すえた話し方をした。
「たしかに。しかし、しょせん大衆演劇とさげすまれる一座ではあっても、巡業先でどよめく観客からアンコールをさけばれるときほどうれしいと思うことはない」
「へぇ。うちらはな、ちぃと、ちゃいまんねん。お客はんによろこばれようが蔑まれようがいつも同じですわ。オマンマ食べていけたらそれでよろしいのとちゃいますか。まあ、そない思ってやってますよってに。けど、うちの人は芸に対してえらくうるさい方でっしゃろな。どないなときでも一生懸命やります」
かぶら大根と鰯の酢漬けをいったん口にしかけ、座長のおくさんが言った、
「つまり芸術家というわけね」
「どやろ。ドサまわりの芸術家ちゅうのは聞いたことあらしませんけど」
母ちゃんはそう言って大笑いをした。
「いや、わしもじつはうすうす感じているよ。その閃光のようにほとばしる類なき才能と狂気とを」
「もしや‥‥」
と、こんどは素顔の道化役が口をはさんだ。「あなたのバイオリン、音のひびきがちがいますよね」
父ちゃんはすこし心配そうな顔をした。
「まあ安物にしてはいい音だが」
「あなたは昔、高名な音楽家のお弟子さんだったのでは?」
「どうしてそう思う?」
「ふんいきとか‥‥なんとなくですけど」
「あははは。わたしの師はわたしさ」
「そうなんですか」
「この人はな、わたいの通うとった女学校で音楽の教師してましてん。どない思います? みなさん、びっくりでっしゃろ。教師も教師なら生徒も生徒や。つきおうて間もなくさっそく駆け落ちですわ。そこからはもう、必死やったし。あまり覚えてまへん。昔のことやないの、忘れてしもうたわ。そうゆうて笑うこともできます。でも、やっぱ忘れられへん辛い思い出もぎょうさんありますわ。なんせ今夜の寝床もわからへんような毎日やさかいな」
そう言って母ちゃんは、父ちゃんの顔を見た。
父ちゃんは、
「しかしまだ生きている」
と、言った。「君も私も、たぶんあとしばらく生きるだろう」
「あとしばらくでっか」
母ちゃんはすこし首をかしげて笑った。
僕の目のまえには、くしで焼いた殻つきの海老がある。
「とんでもない。あとしばらくなんて言わず、あなたもせめてお孫さんを見るまでは生きてなくては」
座長はそう言って、またぶどう酒を飲んだ。
あれは冬の夜、森のなかの一軒家に住むバイオリン作りのおじさんが炎のゆらめく暖炉のまえでこう言った、
「誰にも言うんじゃないぞ、秘密はコオロギの翅じゃ。一年ほど乾燥させたやつをすりつぶしてニスにまぜるんじゃが、これがまたむつかしい‥‥」
僕は熱いミルクをいれた木の器をくちびるにそっとあてて、
「コオロギの話なんかどうでもいいよ。それより父ちゃんのバイオリンの修理はいつまでかかるの?」
すこしばかり怒ったようにそう訊いた。
「まだかなりかかるかな。ちゃんとかわりのバイオリンを貸してあるから、そんなにあわてんでもいいじゃろ」
「僕はバイオリンがなおるまでここに居なくちゃならないんだ」
「なるほど。そう、たぶん遅くても春にはまた旅に出られると思うがね」
「春まで? 少し長すぎない?」
「いいや。あとでわかる時がくる、冬が長すぎるなんてことはない。あっという間さ」
冬の終わり。ふたたび町から町へと白い服を着た僕が先頭に立って通りを歩く。
次の町では、高い塔のある広場で人をあつめた。
どんよりとした空の下、父ちゃんのバイオリンの伴奏にあわせて母ちゃんがうたった。人だかりの円陣のなか、僕は天使のかっこうでずっと父ちゃんの真横に立っている。
さあさあ おたちあいの方々
わたしはお姫さま お城のかごの鳥
ある日 旅の詩人がお城へ来ました
彼は雪解けの大地のようにあたらしい顔をして
また春を告げるようなすがすがしい声で言いました、
――お姫さま
わたしはあなたの瞳にうつる世界を見ました
なんとそこは美しいのでしょう
どうかわたしもそこへお連れ下さい
お姫さまは言いました、
――はい。あなたもそれを見たのですか
でもわたしはそこへゆく道を知りません
なにしろこの城から
わたしは一歩も外へでたことがないのですから
すると詩人は言いました、
――わたしが来た道をしばらくゆくと
また道がつづいています
そしてその道のむこうにはまた道がつづいています
きっとその先に、そこへつづく道があるはずです
――では行きましょう
それもたった今すぐに
ふたりはたちまちお城を去りました
着のみきのまま 鞄さえ持たずに
そして目指すのは お姫さまの瞳のなか
ああ 美しいお姫さまの瞳
そこに映っていたのは ただ旅の詩人だけでした
そこで父ちゃんの弾くバイオリンの音がはげしくなった。そしてからだを僕の方に大きくかむけて、
「俺の帽子をとれ」
と言った。
僕は言うとおりにし、そのあと父ちゃんの帽子を手に円陣にできた人だかりをまわった。そのあいだに母ちゃんがまたべつの歌をうたう、
世界はだれのものでもなくて
あたりまえのように いつもここにあるけれど
影をのこす まぶしい日差しのあたる真昼の今でなく
真実はひとつぶの星の瞬き、
夜空のちいさな耀きのなかにある
それは遠い夢 叶わぬ思い
でも本当はもっと近くにあるわ
眼をとじると、きっと見えるはず もうひとつの世界が‥‥
誰かが帽子のなかに丸い小麦菓子をいれた。またジャリ銭のほかに紙幣をいれる者もいた。りんごをいれる者もいた。そして帽子はたちまち重くなり、ついには子どもの僕に持ちきれないほどになった。
そして僕は今、母の生まれた村で国語の教師をしている。
父も母もあまりながくは生きなかった。
でも思い出の中では、ふたりはとても幸せそうに笑っている。
だからうれしくて‥‥あの天使だったころの日々を思うと、透明な涙が、なぜかポロポロとこぼれ落ちてとまらないのだ。
もうじきだ。僕もやがて父と母の住む場所へゆくだろう。今ここに見えている――美しくもあえかなる――この世界を離れて。
詩の日めくり 二〇一七年七月一日─三十一日
二〇一七年七月一日 「双生児」
いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパである。寝るまえの読書は、ここ数日間、読みつづけている、クリストファー・プリーストの『双生児』である。いま、ちょうど半分を切った267ページ目に入るところである。作者に騙された感じのあるところである。緻密なトリックを見破れるだろうか。
二〇一七年七月二日 「すごい眠気」
いま日知庵から帰ってきた。きょうはずっと寝てたけど、これから横になって寝るつもり。おやすみ。眠気のすごい時節だ。
二〇一七年七月三日 「双生児」
クリストファー・プリーストの『双生児』を読み終わった。歴史改変SFというか、幻想文学というか、その中間という感じのものだった。プリーストのものも、けっきょく、全作、日本語になったものは読んでしまったことになるのだが、記述が緻密なだけに読みにくく、おもしろさもあまりない。では、なぜ、そんなプリーストのものを読みつづけてきたのかといえば、イギリス作家特有の情景描写の巧みさから、学べるものがあるだろうと思っているからだ。
二〇一七年七月四日 「左まわりのねじ」
いま日知庵から帰ってきた。あしたは台風なんやね。ぼくは夕方からだけ仕事なので、どかな。影響あるかな。きのう、寝るまえに、A・バートラム・チャンドラーの『左まわりのねじ』を、サンリオSF文庫の『ベストSF 1』で読み直した。記憶していたものより複雑なストーリーだった。寝るまえに、スカッとさわやかなものを読もうと思ったのだけれど、けっこう凝ったストーリーだった。記憶していたものは、とても短くて、あっさりした、それでいて、びっくりさせてくれるものだったので、けっこう複雑なストーリーで驚いた。記憶って、頼りにならないものなんだね。びっくり。
きょうも、この『ベストSF 1』のなかから、ひとつ選んで読んで寝よう。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年七月五日 「荒木時彦くん」
荒木時彦くんが『NOTE 001』を送ってくれた。自殺の話のはじまりから死について、それから人生について書かれてあった。さいしょのページを除くと、うなずくところが多くあった。ぼくは自殺を否定しない派の人間だから、さいしょにつまずいた。荒木くんも作品で否定しているだけだろうけれど。完璧な構成だった。唐突なキャラの出現と行動もおもしろい。さいごの場面の建物と歴史のところは、はかない命をもつ人間に対する皮肉というか、その対比も、ひじょうにうまいなと思った。荒木時彦という詩人の書くものが、どこまで進化するのか、見届けてみたいと思う。齢とってるぼくが先に死ぬだろうけど。
きょうから読書は、レムの『宇宙飛行士ピルクス物語』。レムは、おもしろいものと、そうでないものとの差が激しいので、心配なのだが、これは、どうだろう。部屋にある未読の本が少なくなってきた。あと、パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』と、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』と、マイリンクの『ゴーレム』と、ルーセルの『ロクス・ソルス』と、サリンジャーの短篇集の『倒錯の森』のつづきだけになった。これらを、たぶん、ことしじゅうに読み終えられるだろうけれど、そのあとは、再読していいと思っている作品群に手をつける。それが楽しみだ。寝るまえにSFの短篇を読み直しているのだけれど、そういった読書の楽しみと、それと、海外詩の翻訳の読み直しを大いに楽しみたいと思っている。とくに、ディラン・トマスの書簡集の読み直しの期待が大きい。英詩の翻訳も再開したい。ロバート・フロストの単語調べが終わってる英詩が4作ある。なかなか気力がつづかないぼくであった。
そだ。シェイクスピアやゲーテの読み直しもしたいし、長篇SFの再読もしたい。未読の本もまだあった。オールディスの『寄港地のない船』と、グレアム=スミスの『高慢と偏見とゾンビ』と、レムの『ロボット物語』と『宇宙創世記ロボットの旅』(これら2冊は読んだ可能性がある。わからないけれど)。ミステリーは、アンソロジー以外、P・D・ジェイムズの『高慢と偏見と殺人』しか本棚に残していない。詩を除くと、純文学は、岩波文庫以外、ラテンアメリカ文学しか残していない。SFが数多く残っている。これらの再読が楽しみだ。読んで、10年、20年、30年といった本がほとんどだ。読むぼくが変わっているはずだから、傑作として、本棚に残した数多くの本が、また新しい刺激を与えてくれると思う。56歳。若いときとは異なる目で作品を見ることになる。作品もまた、異なる目でぼくを見ることになるということだ。楽しみだ。
二〇一七年七月六日 「ヤング夫妻」
いま日知庵から帰ってきた。学校が終わって、塾が終わって、さあ、きょうはこれから飲むぞと思って日知庵に行ったら、あした、会う約束をしていた香港人ご夫婦のヤング夫妻と出くわしたのだった。きょう、日本に来て京都入りしたそうだ。ご夫妻の話はメモからあした詳しく書く。ご夫妻よりも、帰りの電車で出会った青年のことをいま書く。20代前半から半ばだろうか。ぼくがさいしょに付き合ったノブチンのような感じのおデブちゃんで、河原町駅からぼくは乗ってたのだけど、その子は烏丸から乗ってきて、めっちゃかわいいと思ったら、ぼくの横に坐ってきて、溜息をつきながらぼくを見たのだった。ええっ、ぼくのこと、いけるのって思ったけれど、ぼくもわかいときじゃないし、声をかけてもダメだろうと思って声をかけなかったのだけれど、西院駅で彼も降りたのだった。ぼくは真後ろからついていったのだけれど、駅の改札口から出てちょっと歩いたら、行く方向が違ってて、声をかけなかった。これが、ぼくが20代だったら、声をかけてたと思う。「きみ、かわいいね。ぼくといっしょに、どこか行く?」みたいなこと言ってたと思う。20代で、声をかけて、断られたの2回だけだったから。しかし、いまや、ぼくも50代。考えるよね。声をかけることなく、違う道を歩くふたりなのであった。しかし、息をつきながら、ぼくの目をじっと見つめてた彼の時間のなかで、ほんとうに、ぼくを見た記憶はあるのだろうかってことを考える。ただのオジンじゃんって思って見てただけなのかもしれない。だけど、ぼくはあの溜息に何らかの意味があると思いたい。思って眠る権利は、ぼくにだってあるはずだ。ああ、人生ってなんなんだろう。電車のなかで目が合った瞬間の記憶を、ぼくはいつまで保っていられるのだろう。そういえば、何年かむかし、阪急電車のなかで、仕事帰りに、かわいいなと思った男の子が、ぼくの顔を見てニコッとしてくれたのだけれど、ぼくは塾があったので、知らない顔をしてしまった。いまでも、その男の子の笑い顔が忘れられない。いや、顔自体は忘れてしまったけれど、笑って見つめてくれたことが忘れられない。そうか。ぼくはまだ笑って見つめ返してくれることがあったのだと思うと、人生って、何って思う。ぼくには不可解だ。ぼくはもうだれにも恋をしないと思うのだから、よけい。
あしたは神経科医院に朝に行って、夜は7時に日知庵で、香港人のヤング夫妻とお話をする。いまから睡眠薬のんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 寝るまえの読書はなんだろう。わからん。SFの短篇集を棚から引き出そう。二度目のおやすみ、グッジョブ! ああ、ヤング夫妻にお土産にお茶をいただいた。
PC付け直した。メモしていないこと書いとかなくちゃ忘れる。ヤング夫妻に、どうして、こんな暑い時期に日本に来たの? って尋ねると、香港はもっとウエッティーでホッターだと言ってた。そうか、ぼくは京都だけが、こんなに蒸し暑くてって思ってたから、目から鱗だった。これ、メモしてなかったー。
三度目のおやすみ、グッジョブ! ロバート・シルヴァーバーグの『ホークスビル収容所』ちょこっと読んだ。もうPC消して、ノブチンに似た、きょう阪急電車のなかで出会った男の子のこと考えながら電気決して横になる。あ〜、人生は、あっという間にすぎていく。すぎていく。それでいいのだけれど、涙。
二〇一七年七月七日 「ヤング夫妻」
いま日知庵から帰ってきた。香港人のご夫婦、ヤング夫妻と飲んでた。お金持ちのヤング夫妻にぜんぶおごっていただいて、なんだかなあと言ったら、「友だちだからね。」と言われて、ふうん、そうなのだ、ありがとうねと言った。次は、2020年に京都に来られるらしい。お金持ちの友だちだ。あ〜あ。
郵便受けに2冊の詩集が送られていたけれど、きょうは読むのは無理。あした、開けよう。楽しみだ。ぼくは、わかい人の詩集も読んで楽しいし、ぼくと同じくらいの齢の人の詩集も読んで楽しい。個人的な事柄が記載されてあるとき、とくに、うれしく感じるようだ。日記を盗み見る感じなのかな。どだろう。
曜日を間違えて学校に行くつもりで部屋を出た。駅に着く直前に、きょうは月曜日ではなかったのではと思い、携帯を見たら日曜日だったので帰ったのであった。ボケがきているのかな。短期的なただのボケだったらいいのだけど。
身体がだるくて、日知庵に行くまで、きょうはずっとゴロゴロ横になってただけだった。きょうはなにもする気がなくて、ただただゴロゴロ横になっていただけだった。どうして、やる気が出ないのだろう。もう齢なのかもしれない。2、3週間前に風邪を引いてからずっと気分が低調だ。歯を磨いて、クスリをのんで寝よう。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年七月八日 「数式」
数式においては、数と数を記号が結びつけているように見えるが、記号によって結びつけられているのは、数と数だけではない。数と人間も結びつけられているのであって、より詳細にみると、数と数を、記号と人間の精神が結びつけているのであるが、これをまた、べつの見方をすると、数と数が、記号と人間を結びつけているとも言える。複数の人間が、同じ数式を眺める場合には、数式がその複数の人間を結びつけるとも考えられる。複数の人間の精神を、であるが、これは、数式にかぎらず、言葉だって、そうである。言葉によって、複数の人間の精神が結びつけられる。言葉によって、複数の人間の体験が結びつけられる。音楽や絵画や映画やスポーツ観戦もそうである。ひとが、他人の経験を見ることによって、知ることによって、感じることによって、自分の人生を生き生きとさせることができるのも、この「結びつける作用」が、言葉や映像にあるからであろう。
二〇一七年七月九日 「ノイローゼ」
嗅覚障害で
自分では臭いがしないのだけれど
まわりのひとが臭がっているのではないかと思い
きょうは、ファブリーズみたいなの買ってきました。
靴から服へとかけまくりました。
日光3時間照射より強い殺菌力だそうです。
自分で臭いがわかればいいのだけれど。
日知庵で料理を食べても
味だけで
匂いわからず。
まだ味覚があるだけ
幸せか。
嗅覚障害って
治らないみたい。
まだ味覚障害だったら
食べ物で改善できるみたいだけど。
しかし、齢をとると
けっこう多くなるみたい。
こわいねえ。
機械だって
古くなると傷んでくるよね。
ぼくも、膝とか足とか、つねに痛いし。
いもくんは腰だったよね。
ぼくも100キロあったときは
腰がしじゅう痛かった。
いまは朝起きて
背中が痛い。
なんちゅうことでしょ。
若さって、貴重だね。
その貴重な時間を
有効に使ったかなあ。
ばっかな恋ばっかしてたような気がする。
まあ、それで、いま詩が書けてるからいいかな、笑。
その思い出でね。
二〇一七年七月十日 「You are so beatiful」
いま、きみやから帰ってきた。きょうは、ビール何杯のんだか、わからない。まあ、5時過ぎからこの時間まで飲んでたのだ。飲みながら、考えることもあったのだが、あまり詩にはならないようなことばかり。いや、ぜんぶが詩かな。わからない。人生、ぐっちょぐっちょだわ。いまはもうクスリの時間かな。
ジョー・コッカーの『You are so beatiful』を聴いている。世界は美しい音楽と、すてきな詩と、すばらしい小説でいっぱいだ。それなのに、ぼくは全的に幸せだとは思えない。なぜなのだろう。欲が深いのかな。あしたから文学三昧の予定なのに、それほど期待していない自分がいる。
二〇一七年七月十一日 「鈴虫」
月影は同じ雲井に見えながら
わが宿からの秋ぞ変れる
このお歌は文学的の価値はともかくも、冷泉院のご在位当時と今日とをお
思いくらべになって、さびしくお思いになる六条院のご実感と見えた。
(紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)
同じように見えるものを前にして、自分のなかのなにかが変わっているように感じられる、というふうにもとれる。同じもののように見えるものを目のあたりにすることで、ことさらに、自分のこころのどこかが、以前のものとは違ったもののように思える、ということであろうか。あるいは、もっとぶっ飛ばしてとらえて考えてもよいのかもしれない。同じものを見ているように思っているのだが、じつは、それがまったく異なるものであることにふと気がついた、とでも。というのも、それを眺めている自分が変っているはずなので、同じに見えるということは、それが違ったものであるからである、というふうに。
二〇一七年七月十二日 「ずっと寝てた」
いま日知庵から帰った。きょうは、焼酎のロック2杯。で、ちょっとヨッパ。きょうも、寝るまえは、SF小説を読む予定だけど、シルヴァーバーグの『ホークスビル収容所』か、レムの『宇宙飛行士ピルクス物語』か、どっちかだと思うけれど、このレムのものは退屈だ。
いま日知庵から帰ってきた。きょうは、昼間、ずっと寝てた。暑くて、なにもする気が起きない。
二〇一七年七月十三日 「27度設定」
いま起きた。クーラーをかけないので、部屋がめっちゃ暑い。きょうは休みなので、はやい時間から日知庵に飲みに行こうかな。
いま日知庵から帰った。えいちゃんが、クーラーかけてみたらと言うので、かけてみる。咽喉がすぐにやられるのだが、どだろ。
27度設定にしてみた。かなりすずしい。これならふとんかけて眠れそう。これからは電気代をケチるのをやめて快適に過ごそう。ただし、咽喉がやられないように、咽喉にきたら、すぐにクスリをのもう。
27度は快適なのだが、咳が出てきた。風邪をぶりかえすといけないので、寝るまえにクーラーを消そう。考えものだな。
二〇一七年七月十四日 「芭蕉」
ときどき詐欺の疑いのある雑誌掲載の電話がかかってくる。ぼくがいままで書いた雑誌では、電話での原稿依頼は、一度としてなかった。内容は「芭蕉」の特集だというので、そこまで聞いて断った。芭蕉についてはほとんど知らないからだ。ぼくのことを知っていたら、「芭蕉」で原稿依頼はしないだろう。
二〇一七年七月十五日 「カサのなか/アハッ」
いま日知庵から帰った。8月に文学極道の詩投稿欄に投稿する作品をきめた。両方とも、ぼくが中学卒業のときの文集に書いたものだ。両方とも、その十数年後に、ユリイカの投稿欄に投稿したら、そのまま、他の1作とともに、同時に3作品掲載されたものだ。1990年5月号、オスカー・ワイルド特集号。
カサのなか
カサのなかでは
きみの声がはっきりと聞こえる
雨はフィルターのように
いらないものを取り除いてくれる
ぼくの耳に入ってくるのは
ただきみの声だけ
アハッ
雨のなか、走ってきたよ
出された水をぐっと飲み込んで
プロポーズした
でもきみは
窓の外は目まぐるしく動いているから
せめてわたしたちはこのままでいましょうねって
アハッ
バカだな、オレって
スタニスワフ・レムの『宇宙飛行士ピルクス物語』あまりにたいくつな読み物なので、流し読みしている。ぼくの本棚には残さないつもりだ。
いま日知庵から帰った。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年七月十六日 「葛西佑也さんと橋場仁奈さん」
葛西佑也さんから、詩集『みをつくし』を送っていただいた。まず、散文詩と改行詩がまざったもの、改行詩だけのものと、形式に目がとまった。つぎに、実景の部分がどれくらいあるかと思って読んでみた。意外に多くあるのかもしれないと思った。自分の第一詩集と比較して、より複雑な詩だなと思った。
橋場仁奈さんから、詩集『空と鉄骨』を送っていただいた。すべて改行詩。平均すると、一行が、ぼくが書くものより長い。たぶん、ブレスで切らないで、意味で切っているからだろう。読んでいて意味がいっこうに入ってこなかったが、そういう詩があってもよいと思う。詩は意味だけではないからね。
「Down Beat」 と、「洪水」という詩誌を送っていただいた。ぼくと同じくらいの齢のひとの書くものに共感するし、年上の方の書かれるものにも共感する。若い書き手は、なにを書いてもよい時期なのだろう。意味はよくわからないが、自由でよいと思う。書く気力が、どの作品からも伝わってくる。
二〇一七年七月十七日 「高知から来られたご夫婦」
いま日知庵から帰った。高知から来られたご夫婦の方と、2回目の出合い。オクさんもかわいいのだけれど、ダンナさんがかわいらしくて、そのダンナさんに気に入ってもらって、ツーショットで写真を撮ってもらったりしたのだけれど、こんどひとりで来ますねと意味深な一言が、笑。かわいらしい人だった。
そいえば、ぼくは自分のほうから名前を聞いたりするタイプじゃなかったので、きょうも、かわいいなと思いながらしゃべっていた青年の名前を聞き損ねてしまっていた。まあ、いいか。つぎに会ったときに、聞けばいいから。それにしても、彼も、ぼくのことを気に入ってくれてたので、うれしい。
二〇一七年七月十八日 「J・G・バラード自伝『人生の奇跡』を買ってメモしまくり。」
といっても
バラードの自伝を読んで、ではなく。
朝、西院にあるキャップ書店で、バラードの自伝が
新刊本のところにあったので買った。
財布には1000円札1枚と
ポケットに1500円ほどの硬貨が入っていた。
きのう、小銭を持って出るのを忘れて
近くのスーパー「お多福」で食パンとお菓子を買ったせいで
きょうのポケットは
小銭がいつもより多かったのだった。
バラードの本の値段を見ると
2200円と書いてあったので
ああ、これを買うと昼ごはんは抜きかも
と思いながらも、昼ごはん抜いてもはやく手に入れたい
という気持ちが働いて
レジに持っていくと
「2310円です。」
という店員の女の子の明るい声に
ありゃ〜、税金のこと考えてなかったわ
と思いつつ
1000円札1枚とポケットの小銭を合わせて
ちょうど2310円を支払って
カードは持ち歩かないので、銀行には行かず
本を買って、そのまま阪急西院駅に向かったのだった。
で
電車がくるまで2、3分あったので
本のあいだにはさまれてあった
新刊本の案内のチラシを眺めることにしたのだけれど
そしたら、このあいだ朝に見た
バカボン・パパに似たサラリーマン風のひとが読んでいた
小林泰三の本が載っていた。
タイトルは、『完全・犯罪』だった。
「完全」と「犯罪」のあいだに
「なかてん」があったのであった。
このこと、このチラシを見なかったら
いつまでも気がつかなかったと思う。
日本人の書いた小説を読むことはほとんどないし
日本人の作家のコーナーにも行ったことがなかったし。
古典から近代までのものはべつにしてね。
偶然だなあって思った。
そういえば、このあいだ、小林泰三さんの本について書いたら
ミクシィをなさってらっしゃるみたいで
ご本人が、そのときのぼくの日記をごらんになってて
足跡があったし
で
ぼくがメッセージしたら
お返事くださいました。
おもしろいね。
偶然ってね。
あのバカボン・パパは
その後、見かけないのだけれど
偶然ってあるしね。
いつか、どこか違うところで出会ったりして。
出会いたい
出会いたいなあ
あ
いつも見かけるおばさまには
いまでもいつも出会うのだけれど、笑。
で
たくさんのメモというのは
フローベールの『紋切型辞典』を読んでて取ったメモなんだけど
きょうは、これからテスト問題を考えなきゃならないので
あしたか、あさってか、しあさってにでも大量に書きこみます。
バカボン・パパかあ。
かわいかったなあ、笑。
そうだ。
バラード自伝
解説の巻末に
未訳の長篇2作が
近日発売予定だと書いてあって
小躍りした。
めっちゃ楽しみ。
二〇一七年七月十九日 「倒錯の森」
いま日知庵から帰った。きのう、寝るまえに読んだサリンジャーの短篇集『倒錯の森』の「ブルー・メロディー」が、黒人差別を扱っていて意外な気がした。サリンジャーの小説でこんなにまっすぐに黒人差別に向かった作品を読んだことがなかったので。ジャズを題材の作品でさいごの描写も繊細でよかった。
きょうの寝るまえの読書は、タイトル作品の「倒錯の森」 おもしろいかな。どだろ。
二〇一七年七月二十日 「ベストSF 1」
いま、日知庵から帰った。きょうは、大人の会話がさいごに行き渡った。ちんこ臭と、まんこ臭についてだが、これは、ツイッターに書けないので、と思ったけれど、書く。それが詩人だ。まんこ臭については、ぼくはわからないが、成人男子お二人のご意見によると、すごいらしくて、スカートを履いてても臭うらしい。えげつない臭いらしいが、ぼくは嗅いだことがない。チンコ臭のほうだが、これは成人男子お一人のご意見だが、権威的なお方なので、貴重なご意見だと思って拝聴した。汗の臭いと違って、ちんこの臭いがするらしい。ズボン履いててもね。ぼくには信じられないけれど、権威のご意見だからね。ええ、そうなんだって言ったら、えいちゃんが「そんなこと、ツイッターに書いたら、あかんで。」と言うので、書くことにした。「腋臭の男の子と付き合ったけれど、慣れるよ。」と言ったのだけれど、反対意見の方が多かった。ぼくは腋臭の男の子と10年付き合ってたからね。顔がかわいければいいのだ。
きのう、寝るまえは、サリンジャーの「倒錯の森」ではなくて、サンリオSF文庫の『ベストSF 1』の、ベン・ボーヴァの「十五マイル」と、フレッド・ホイルの「恐喝」を読んだ。SFの短篇の方がおもしろい確率が高いからなのだが、きょうも寝るまえは、やっぱ、SFの短篇にしようかな。と書いた時点で、もう、フレッド・ホイルの「恐喝」の内容を忘れている。ものすごい忘却力だ。
河野聡子さんから詩集『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』を送っていただいた。かわいらしい装丁で、なかのページもカラーリングしてあって、そのデザインと、さまざまな大きさのフォントで書かれている言葉の内容が絶妙にマッチしていると思った。貴重な1冊を、ありがとうございました。
8月に文学極道に投稿する2つの作品は、中学校の卒業文集に書いたものなので、14、5歳のときのぼくのことが批評されるのか、それを56歳になって投稿するぼくのことが批評されるのか興味深い。そう考えると、つくった時期と発表する時期が大幅に違うとき、批評家はどういう態度で挑んでいるのか。
二〇一七年七月二十一日 「ピーターさん」
いま日知庵から帰った。カナダ人の知り合いの話から、お金持ちと小金持ちの違いについて考えた。合気道や空手をなさっている巨漢のカナダ人のピーターさんは、日本に22歳のときにいらして、それから24年のあいだ、日本にいらして、日本文化を学ばれて、今では、日本文化を海外の方たちや日本の人たちに教える仕事をなさっておられるのだけれど、そのピーターさんが11、2歳のころのお話。カナダで、お金持ちの弁護士の家でクリスマスパーティーがあったとき、ムール貝が出てきたので、食べたら、そこの親父さんに叱られたのだそうだ。それは子どもの食べるものではないと言われて。ピーターさんちは小金持ちだったそうで、ムール貝などいくら食べてもよかったらしい。お金持ちほど、子どもに厳しいんだろうね。という話を、きのう日知庵でしたのであった。子どもに厳しいと言うか、大人の領分と、子どもの領分をきっちり分けているということなのだろうね。
いま日知庵から帰った。日知庵に電話があったのだけれど、ワンコールで切れた。「ひととの縁のように、簡単に切れるんやね。」と、ぼくが言うと、えいちゃんと、何人かの客から、「こわ〜。」と同時に返事があった。そだよ。こわいんだよ。とにかく、生きている人間がいちばん。
二〇一七年七月二十二日 「倒錯の森」
サリンジャーの「倒錯の森」の122ページ上段8、9行目に、「詩人は詩を創作するのではないのです━━詩人は見つけるのです」刈田元司訳)という詩人のセリフがあって、ぼくもそんなふうに感じていたので共感した。ぼくのつくり方っていうのも、ほとんどみな、そんな感じだったから。
二〇一七年七月二十三日 「倒錯の森」
いま日知庵から帰った。大きな料亭の店主の鈴木さんから、えいちゃんと、あっちゃんと、カラオケ行きたい。あっちゃんのビートルズが聞きたいと言われて、うれしかった。きょう、昼間、サリンジャーの短篇集『倒錯の森』のタイトル作を読み終わって、やっぱりサリンジャーはうまいなあと思った。ばつぐんに、頭がいいんだよね。
二〇一七年七月二十四日 「朝の忙しい時間にトイレをしていても」
横にあった
ボディー・ソープの容器の
後ろに書いてあった解説書を読んでいて
ふと、ううううん
これはなんやろ
なんちゅう欲求やろかと思った。
読書せずにはいられない。
いや
人間は
知っていることでも
一度読んだ解説でもいいから
読んでいたい
より親しくなりたいと思う動物なんやろか。
それとも、文字が読めるぞということの
自己鼓舞なのか。
自己主張なのか。
いや
無意識層のものの
欲求なのか。
そうだなあ。
無意識に手にとってしまったものね。
二〇一七年七月二十五日 「銀竹」
いま、きみやから帰ってきた。さとしちゃんの友だちのポールが書道を習っていて、「銀竹」って、きょう書いてきたらしいのだけれど、そんな日本語、ぼくは知らないと言うと、さとっちゃんが目のまえで調べてくれて、俳句の季語にあった。夕立のことだって。ああ、でも、いつの季節か忘れちゃった〜。というか、そんな日本語、ぼくも知らないんだから、俳人って、よほど、日本語が好きなんだろうね。というか、漢字が好きなのか。なんだろ。わかんないや。ふつうに使う言葉じゃないことだけは確かだよね。まわりのひと、みんな知らなかったもの。
へきとらのチューブを見てる。へきほうという男の子が、むかし付き合ってた男の子に似ていて。こういうのは、なんていうのかなあ。ぼくももう56歳だし、その男の子も40超えてるし、なんというか、さいきん、ぼくが文学に対して持ってる支持力と近い感じがするかな。意地力というか。意地というか。
二〇一七年七月二十六日 「余生」
いま日知庵から帰ってきた。きょうは、うなぎの丑の日ということで、日知庵で、うな丼を食べた。おいしかった。赤出汁もおいしかった。
未読の本が残り少なくなってきた。また、未読のものを読んでも、おもしろくなくなってきた。たくさん読んできて、ほとんどいかなる言葉の組み合わせにも、これまたほとんどまったく驚かなくなってきた。詩人としては致命的な現象だけれど、人間としては、落ち着いてきた、ということなのかもしれない。まるでひとと競争でもしているように、作品を書いてきたのだけど、もうほかのだれかと競争しているような気分でもないし、余生は読んできたもののなかで、傑作と思った詩や詩集や小説を読んでいられれば、しあわせかなと、ふと思った。
詩をつくることは、なにかいやしいことでもしているかのように思える。
二〇一七年七月二十七日 「読書」
いま日知庵から帰った。おなか、いっぱい。なんか読むものさがして読もうっと。もう読みたいと思わせるものが未読のものでなくなってしまった。読んだもののなかから適当なものを選ぼう。と、こういうような齢になっちゃったんだな。というか、これまでに膨大な読書のし過ぎという感じもする。
その膨大な読書のために、最低の時間ですむ労働を選んだのだけれど、その最低の時間ですむ労働さえも、さいきんは、しんどい。きょうも、塾で、ある先生に、「そうとう疲れておられますね。」と言われた。そんなゾンビな顔をしていたのだろう。まあ、自分でも、そうとう疲れていると思っているものね。
二〇一七年七月二十八日 「犬を飼う」
いま日知庵から帰った。
犬を飼っちゃいけないマンションで犬を飼ってたら、透明になっちゃった。きっと見えないようにって思ってたからなんだろうね。
二〇一七年七月二十九日 「お茶をシバキに」
植木鉢に、四角柱や三角錐やなんかの立体図形を入れて育てている。でも、すぐに大きくなれって念じたら、それぞれの図形が念じた通りに大きくなってくれるから、とても育てがいのある立体図形たちだ。
腕くらいの太さの輪っかを六つ重ねてそれをまた輪っかで結びつける。それを詩の土台として飛び乗ると、膝から直接、床に落ちて、めっちゃ痛かった。
これから大谷良太くんとお茶をシバキに。
いま帰ってきた。これから飲みに行く。
二〇一七年七月三十日 「短時間睡眠」
いま、日知庵→きみやの梯子から帰ってきた。あしたは、一日、ぼけーっとしてるはず。おやすみ、グッジョブ!
いま目がさめた。何時間、寝てたんだろう。時刻をみてびっくりした。わずか2時間。
二〇一七年七月三十一日 「文法」
わたしは文法である。
言葉は、わたしの規則に従って配列しなければならない。
言葉はわたしの規則どおりに並んでいなければならない。
文法も法である。
したがって抜け道もたくさんあるし
そもそも法に従わない言葉もある。
また、時代と場所が変われば、法も違ったものになる。
また、その法に従うもの自体が異なるものであったりするのである。
すべてが変化する。
文法も法である。
したがって、時代や状況に合わなくなってくることもある。
そういう場合は改正されることになる。
しかし、法のなかの法である憲法にあたる
文法のなかの文法は、言葉を発する者の生のままの声である。
生のままの声のまえでは、いかなる文法も沈黙せねばならない。
超法規的な事例があるように
文法から逸脱した言葉の配列がゆるされることもあるが
それがゆるされるのはごくまれで
ことのほか、それがうつくしいものであるか
緊急事態に発せられるもの
あるいは無意識に発せられたと見做されたものに限る。
たとえば、詩、小説、戯曲、夢、死のまえのうわごとなどがそれにあたる。
光
家路はすれ違う人々の、
何気ない仕草へ意味をあたえる。
気持ちがいいね
ぼくは瞳のなかへ溶け込んで
鏡面に出欠確認の合図
窓を叩く翼を欠いた鳥の群れ
蟋蟀は鼓膜の表面で眠る
くらい階段を登って
花壇に乳歯を埋めたら
さびた釘は拳のなかへ
ぼくを見下ろすあかい末路
声はとても高いところから降る
紙の擦れるおと
破かれた答案用紙をまなざして
吹き抜ける風に車が運ばれてゆく
鮮やかな黒鉛筆のやわらかい芯は
花ひらく永久歯に砕かれ
なんとも無関心な洗濯日和がやってきた
太陽を讃えるために歯を磨きます
正面に浮かぶ発光体は
ぼくの動きを真似して
あかるい顔が浮かぶ
密室に泡立つ生命の起源
ぼくを形成する細胞は沸騰し
もういちど影絵にあらわす
壁に凭れるぼくの身体
雨乞いをしたら雨が降ること、
ツツジを咥えてしんだ子供、
砂を噛む苦い舌、
ぼくのすべて。
なくなる
櫻の樹
花うつくしくいき急ぐ
爛れた歴史その傍らに降り散らされつつ
人を乞う、縁の花よ
緑蔭、濠を泛ぶ
花筏に湛えつつうつろえる、一日
そを人間と呼ぶ
「河縁には櫻の樹がズーッとつづいていてさ、凄いんだよ、絶景だった、墓地に枝垂れてて。
雀がいた、水鳥もいた。なつかしいな、エエ、懐かしいあの河は今も」
埋め立てられた、疾うに
「豪雨にいきりたっちゃって、
アリャア凄まじかった、丁度台風が来ててさ、一面が濁流なの。あれより恐ろしい河の貌ってのをみたことないね」
流れる様に、吐く様に
「何が性懲りもないってなら、大晦日ですよ、一本も電車がね、うごいてないの、運休で。雪がドカドカ降ったからさ、駅で立ち往生ですよ。
フザケンジャアねえッて、駅員さんも俺も、雪みどろで。ほんと馬鹿ばっかりしてましたよ、でもさ、若いってのはそう言う事なんだろね。」
肉声を
風こそぎ、仮借なく鈍く挽く
切株に
且て旧きわかもの背を預けつつ
晩鐘を
吾こそを死に駆けて
確められ
今や
一日を孤独に融けゆくごとく
皆迄もを吾は踏み躙り
全て命脈の浅はかなる時を
枯れ枝の
矜持は孰処に、
旧り
降る花かとぞ、
袖振る所縁も所縁ならまし
大樹の陰
午後になり、台風は温帯低気圧に変わった。
夕方、雨の合間を縫って急いで家に帰ろうと、会社の敷地にある広場を斜めに横切る。
暗い雲がミュートで流れ、その上にある濁った空がのぞいては隠れる。鳴り続けているのは黒いシルエットを揺らす松の枝葉。
髪を乱して進む背後から、ひときわ激しい音が被さってきて、はっと首を振り向ける。
ああ、ポプラだ。
広場の隅にある一本のポプラ。会社ができたときに植えられたとしたら樹齢は九十年近いのかもしれない。晴れた日には円柱のような幹が、細かな葉が繁る枝を奔放に、広く高く投げた。
ひときわ背の高いポプラだけが上空の風を拾うのか、松や欅が凪いでいるときも、小さく硬質な葉を震わせた。青空をバックにプラスチックに似た乾いた音を、さざ波のように流した。
今ポプラは、枝も葉も幹も一体となって前後に振れている。間欠的に高波のような咆哮を発して。しゃがみこんで耳を塞いでしまいたくなる。
ポプラは灰色に歪みながらガラガラと笑った。こんな嵐は何度もあった。嵐だけじゃあない。ずっと酷いことも見てきた、と。
ポプラの周りの地面には、人の背丈ほどもある枝が葉ごと折れ落ちていた。これしきの嵐に耐えきれず、幾つも、幾つも。
また大きな枝が、剥がれるように落ちた。
便箋と海
コンクリート敷きの中庭に、海を葬った。
スコール直後の透きとおった日陰、
ホウオウボクの花びらを散らし、小指くらいの珊瑚のかけらを並べ、
水で書いたでたらめな文字で飾りたて、
イモガイの貝殻を目印とした
即席のお墓
の前を這うアフリカマイマイの跡
を撫でる風が、ブロック塀越しの目線のさきに、
海を蘇らせた。
部屋から漏れるローカルCM、冷蔵庫のモーター音、再放送ドラマのセリフなどは
漆喰とベンガラに縁どられた空に広がっては消え、
シダの葉に垂れ下がる水滴に映るのは、
緑の丘が並ぶ半島と、藍と白の貨物船のある海。
その風景をプロペラ機の影がかすめ、
やがて海鳥の舞う岸壁のへりが、太陽を食いつぶすと、
夜空の途方もない高さが
海を吸い尽くし、
星はプラスチックの破片と混じり合い、
月の生き物は廃油の虹模様に酔っている。
改行
解答用紙は、試作品 (木は、実りを得る)
解答用紙に、試作品 (滝の色が赤くなる)
際限のない流星は心臓を照らし、
脈の中で、蒸気を発する。
裂かれた腹の中は、小惑星の欠片
二枚の膜を透かし、人の世渡りに
際限のない誤りは少年を照らし、
卒業式をただ座して待つ
暴風雨は時期尚早であった。
それは見る物を待ったままだった。
覚醒する太陽の中心というものは、
肩を砕いて直感を肯定する。
目の色をまだ、赤く保っている。
(気が付くのは隣の少女ただ一人)
(埋められた骨盤の数を数える)
生者は、行進する。
死者は、飛び上がる。
生者は、右腕を持ち上げ
死者は、生殖器を抉り出す
生者は眠る
死者は眠る
生者は、(二人で)一人になろうとする。
死者は、(四人で)繋がりを求めてしまう。
嫌われるべき農道を知る老夫婦に
典型的な林檎の甘さを、
避けられるべき街道を忍ぶ探偵に
埒外な蜜柑の酸味を、
その布切れの断面図
その紙切れの立体図
声は一人のものであれ、
私は外と繋がっていよう。
緑色に、染まり、和となりなさい。
てんとうむしよ
てんとうむしよ
君はてんとうむしだから
月のない空を渡るのか
それとも
燃えてしまったのか
水玉模様にかくした
おくり羽
彗星の尾っぽを
なびかせて
いつかは居なくなって
しまうからね
僕もいなくなって
しまったら
散らばった黒檀を
拾い集め
銀のススキの上を
歩こうか
僕は夜の列車に乗って
君の軌跡を辿ろうと思う
赤く燃える石炭が
ぶつかりあって
小さくはぜる
冬の気層の
ひかりの底に
花戦争
逆しまの奥行きは螺旋の中心へ不整地の塔から身を投げる。蝶のおおく眠る島にうまれ花の根もとから還っていく。双子の鷺はリュウゼツランの花茎から樹液をすすり、首のほそさを左右にゆすり、存在のおもさに、唖唖、と啼いている。背の高い葦の群生をかき分けてひくく視線をねかせれば、甘い蜜は嗄れるために涸れていく。いっさいの音をうばわれた。白の草原に火を治め水を統べる王はまだいない。湖を取り囲むのはアネモネと無数の猿の群れ、そして彼らを取り囲むさらにおおくの白の蝶たち。白夜の草原に黙(しじま)のおわりを私(ひそ)かに伝える失明は反映さえも水の戯れと。飛白(かすり)は中心を忌避するための旋回を、帆翔するのだから、何処から覗き込んでも正面から見つめ返されているような。『みずふみ陲(ほとり)のやうやう青さ、赤さ、黒さはしんしん白ひ。『アネモネはたしかにそう云ふやうだ。『猿たちもたしかにそう謂ふやうだ。『けれど此処ではなにもきこへない。『葦の舟にながされて。『獣たちはただだまつて『此処にゐる。『 。いさかいに手折れた数だけもたげる馘のとむらいを、ていねいに、へし折れば、其のひとつひとつを互いの額にかざして視線をかくす。かさねるということを存在はゆるしあえない、ということだから。めまいのような白日のそのさなかの中心へ。ひゃくの花をとむらう花をとむらうせんの花ばな、を取りかこむさらにおおくの花ばなはいっそうたかく掲げられ、とかたられた白の罪に蝶葬される。『花は。『アマデウス。『何処からきて。『何処へ征くのか。『あはれ片芽はうばはれた『吃花(※)に属する我ら忌み枝。『花を吸ひ、花を摘み狩り。『花の死に。『花よ眠れ。『花崗(みかげ)の四翅に遊離して。『しづか光糸の束はゆつくりと。『暴露していつた。『飛沫と。『嘆きと。『螺旋のすきまへ。『沈みからまる。『 。
シダの森の奧から奧へ。おおきく廻りながらまっすぐに。もはや座標には意味はなく系だけが時間の高度をおしえてくれた。なにをきこうとしていたの?加工されたもみの葉の先端で、ずいぶんと遠くまで。枝葉をおとせばあしもとにみえてきたのは、雨だった。雨粒と太陽は刺しちがえ、毎日うまれかわって殺しあう。雨が雨でなくなってゆく。太陽が太陽でなくなって。そうして微かにゆっくりと枯葉の裏べりからなにかが、しめった匂いを漂わせてくる。なにをみようとしていたの?痕跡は痕跡を覆いかくすのに、信仰はおびやかされてしまうから。ひっくり返した石はもとに戻して。きのうときょうとあしたの彼らは、おなじではないいつもちがう。流しつする血漿や剥離した肉腥は種子となり芽吹いた花が、外を目指して内がわの中心へ、咲こうとしている。傷ぐちのいたみを白々としらしめる未分化の体液は漏出し、日常は生を撚りあわせた営みに享受される。わたしは森に属し、森を構成していた。奪ったものはいつか奪われる日がやって来る。信仰はいつでもためされているのだから。いつも予感はかろやかに障害を打ちおとす未来ばかりをみせてはくれない。花の匂いを追いかけて太陽の匂いを追いかけていた花の匂いは追いかけられる雨音を追いかけて太陽の匂いが追いかけていた裏べりの背に滑りおちる。かれらは呼び止めるたび、ふりかえり、時間の高度をたしかめている、ふりをしていた。おとをたてることなく獣たちのみちを征けばあしのうらはまだやわらか。ああそうか。約束の場所はもうすぐそこ。
(※)吃花
沈黙する花、もしくは、共食いする花
ありあまる時の聲
黙っているのが正解なのかと
仲間などと称する輩へ問いを投げつけ
致命傷を負わせないよう互いに神経を削って
終わりの見えない唄を絶つ
「ごめんね、
「やっぱり彼等から学ぶコトなんてないや。
「次第に速くなるリムショット、
「そして痙攣、
ありあまる時の聲が反響する
眠気覚ましを摂取し過ぎた水曜日に
鷭は前史の夢を見るから
致命傷を負わせないよう互いに神経を削って
終わりの見えない唄を絶つ
「ごめんね、
「やっぱり彼等から学ぶコトなんてないや。
「次第に速くなるリムショット、
「そして痙攣、
ありあまる時の聲が反響する
虫喰い、虫喰い
回折して惑わす真理を突然変異が嘲笑う
(そっちの水は苦いぞ、
(こっちの水は甘いぞ、
白黒蜂蜜の三点セットで
彼等が二度と到達しない真実をチラつかせて
僕達は次に向かうんだと
「もう、近寄らないでって喚かなくても、
「続けて、
「思い通りに腐っちゃった。脱いじゃお、
「蜘蛛の巣。
「だって残り時間は3倍以上あるんだし。
無視していいよねこのアドバイス?
「抱かれて漏らしてしまった花粉を、
あたしはそのまま、
咀嚼しなければならない。
「生命って感じがするのこの匂い。
「まだ動くの?
お古は視界の外に繋いでてよ、
「漂白。
「漂白。
「必要悪としてのノイズ、
ありあまる時の聲が反響する
木洩日
あの空洞は何だろう
がらんとした投影が
豹斑のように
揺れている
あの光の向こうは
きっと極楽浄土だろう
もう、
死んでしまっているからね
肉の器を明け渡し
光のかけらを踏み渡り
陰なす森を越えてゆく
孤独な暗夜行路の先に
巨体が壮麗な列をなし
極楽浄土より差す
まばゆい後光に輝いて
遠くへ向かう清らな水が
あまねく、世を照らすのか
冬空の窓の下
(IV)
and yes I said yes I will yes (Ulysses 18)
そうよしてっていったわしてって (〜James Joyce〜)
Please do not shoot the Gunman.He is doing his best. (Impressions of America)
あのひとを撃たないで。頑張って私を攻めてるんですもの。(〜Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde〜)
Come in ,come in! (FAIRY TAIMM [THE FISHERMAN AND HIS WIFE])
来て、入ってきて!(JACOB & WILHELM GRIMM)
(V)
結露が付着した指先の跡がはめ殺しに残っている。9度のカノンが止まったまま、発香するマリアの叫びが持続する。小ぶりね。今日はやけに攻撃的だ。
(VI)
血の湿した落とし紙を無造作に畳にほをった。駄目よ!絞めつけながらそう言い放つ。
ちのしめしたおとしかみをむぞうさにたたみにほをっただめよしめつけながらそういいはなつ
隣に坐ったナースのポケットに手をいれたっぷり撫でたのが馴れ初めでした。あいつはそう語ったという。
となりにすわったなーすのぽけっとにてをいれたっぷりなでたのがなれそめでしたあいつはそうかたったという
土砂降りの中で抱き合った。乳首がない。小さな歯がすき間を挟んで並んでいた。ズボンをばくった。
どしゃぶりのなかでだきあったちくびがないちさなはがすきまをはさんでならんでいたずぼんをばくった
五円不足して酒場食堂を出た。女は作業勤帰りの銭湯へ男はそのまま東7下開放病棟へ戻って行った。
ごえんふそくしてさかばしょくどう…をんなはさぎょうきんつとめかえりのせんとうへをとこは…ひがしななした…びょうとうへ…
女は男の■■■■■■■■■そして■■■■■■■■■■男に■■■■■■■やがて女は男を■■■■■■
をんなはをとこの□□□□□□□そして□□□□□□□□□□をとこに□□□□□□□やがてをんなはをとこを□□□□□□
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*註解
・Ulysses 18:ユリシーズ第18挿話
・James Joyce:ジェイムス・ジョイス
・Please do not shoot the Gunman.He is doing his best.: Please do not shoot the Pianist.He is doing his best.
・Impressions of America:アメリカの印象
・Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde:オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド
・FAIRY TAIMM [THE FISHERMAN AND HIS WIFE]:童話集『漁夫とその妻』
・JACOB & WILHELM GRIMM;グリム兄弟
・訳:アンダンテ
・はめ殺し:開かずの窓
・9度のカノン:2段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアと種々の変奏<ゴルトベルク変奏曲> 第27変奏 大バッハ作曲
・ばくる:交換する
・■:□
反顧
(赤色も今日は亦闇や。八卦にして吉、けど、愛想云ふたら堪忍ナ、と。日にわたいの行く所には、雪咲きに楓など有るけれど良いもの、此れお前の好きにし。イヤ、ナンの為にわたいが着込んで、そりゃ暖炉も欲しい位こんな寒いい、)
信号の様に樌々と紅葉に呑み込まれ、其の闇や。自然に佇む此の己が、母様の甘心といふものへ、瞳に自惚れが賢(まさ)るを。
世界に立つ色の付いたビル…お前が見つめもしはったら、たとへば好みやのと懐(おも)う、まして昂けることをよ、夢にも過ぎぬ、人は月に靡き、天を見や、夜でさえ敖(あそ)ぶぞ。
磁場を形成する羽根
ボクにとっての素敵なモノ
それは立っていられないほどの熱
手に入れた魔法を渦にして
無秩序に分配してゆく
半端にモラルを伴った人たちの足元を
かいくぐって
這うように魔法を滑らせ分配してゆく
“Don't worry, you isolated girl,”
磁場を形成する羽根の導く先まで
細部に言及する兆しを振り払う
“Don't worry, you isolated girl,”
もはや追いつけなくなる寸前の循環から手を離して
ボクにとっての素敵なモノ
鋏で短く詰められた時間
どの次元の軸にも属することのないまま
核を失った無い物ねだりは続く
フィクション
住宅街をゆく
ひとの声がない
かわりにきこえてくる
調律狂いのピアノ
割れたリコーダー
あかぎれのゆび奏でる
鍵盤たたく少女は少女のなかで
画面に見切れた自分の姿を見つめる
あれたくちびる奏でる
神経質なほそいゆび動かし
吐息もれる少年は少年のなかで
画面いっぱいの自分の鼻を見つめる
撮影した街の日常
住宅からきえたひとを追って
ぼくはあたえられた役を演じる
台本から台本へ投げかける言葉ひとつ
一字一句誤りはなかった
乱れた呼吸をさいごに
おつかれさま
だれもさよならを知らない
ところできみ、
抜け落ちた音声を
拾ってきてくれないか
映像は問題ない
ただ、音が不自然だから
もっといきものが嘘をついて、
生活をしていると錯覚するくらいに、
あと、光の調整を怠るな
影が実体に憧れると面倒だ
ここが終着
そして、はじまり
整列した墓石を俯瞰する
壁に囲まれたひとつの街
鳥類は退化する
翼を腕に還元(諸説あり)
では、人類はどうする?
とりあえずまあるく、
まあるく、
ころがる、
回転して、
踏みつぶされた
おまえの日常
どうかしてるよ
星狩り
君と星狩りに行ったことを思い出す
空が星で埋め尽くされて、金や銀の星が嫌というほど輝いていた
肩車して虫かごを渡し、小さな手で星をつかんではかごに入れていた
ときおり龍が飛んできて、尾で夜空をあおぐと、星がさざめいた
君の寝床の傍にかごを置いて、彼らの好きな鉱水を与えるとよくひかった
アルチュセールに
夜が平らな底でつまづいている
光が陰で均し続けてきた硬い底
君は夜空より遠くで暮らしている
僕は裸ではそこへ辿り着けない
街路樹が犬のように吠えている
あまりに分かりやすいものが世界を構成している
背後で葉が揺れていた
現実はこの朝ではなくこの朝を迎えた私自身で
記憶が 付近を彷徨っている
あっけなく
死が街並みを徐々に埋めるとき
ぼくは 路上で石を蹴りたい
舗装された道では そんな願いも叶わない
初恋
すぐ隣にいるのに
水平線のように届かない
その届かないものが
今にも飛び出しそうに跳ね回っている
呪いだ
遠く此処にありて
見上げても答えはない
だから空があるのだろう
庭先では
雨があがったようだ
月曜日は何色ですか?
そこには民主主義と国家主義
そして家畜が朝を迎える
病棟には生と死が入れ替わり立ち代わり
生きることは闘うこと
受け入れるべきは血の匂い
陽が沈むまでには道をあけてくれ
誤差
あの人の日記にぼくの名前があった
雲の影
振り返りざま見たものは
帰り支度をしているサーカス団だったか
土手を歩いている少年の私と犬だったか
空地に残された小さな日向さえ
るの視線
回る 回る 回る廻る 廻る廻る廻る転る転る転る転る
転る 回る 回る 登る 登る のぼ る 降る 降る
降る降る降る降る降る 回る 廻る 転る転る 転る
回るまわるまわるまわる回る回る まわ る 止ま る
潮の香りがした
空が青くてすいません
dick
殴られたひとから
電話がある
はんぶんくらい
ききとれないところで
年の瀬だけ
煙草を吸う右手と
体重をのせた左腕が
おとこに掠る
殴られたひとは
殴られたままでいる
なにもないよ
自覚厨だし
レモンサワーの
レモンがきつすぎる
れいぷ&しふぉん
記憶の砂に似ている 白い膚の下に蒼い痣が霞む ゆっくり 首 を 絞める みたいに描く 、 貴方の味
交差点の真ん中で猿が交尾してる 揺れる茶金の毛並み 内密に仕舞われた骨格から赤紫の舌を取り出して
貴方の涙をちろりと舐める 憎悪より なお深い 脳漿の滴り
(欲しい 貴方 を シフォンで 巻いて)
しめる
燃え尽きぬようにと内奥に閉じ込めた インディオの末裔よりも狂暴な夢 彼ら が は・は・は、と (あまりにも どうして xい) 剥き出して笑っている 私の静かな視線
(何度も 熱く 注がれ
喉奥に閉じ込めた 縛られた箇所が痛んだ 振り向かないで欲しかった 絡みつくように手放した 手放すように絡みついた 貴方の単色の夢が 可哀そうだ 暖かかった 氷みたいで 酷く脆くて シフォンより柔く
xxxされたい桃色の歪み 言えない言葉が何度も 引きずり出された子宮に刺さる剃刀みたい、に、777 666 999 000
脈を打つ箇所を抱き締めて噛み締める 記憶の砂だから崩れてゆけば良いと願ってた こそばゆいようななぞり方 いつからか 私には獣の牙が生えて 居て
噛む 噛む 噛む 毛むくじゃらの体 青い痣 嘘と嘘の交尾 殺すための首筋 夢のよう な 衝動 私と貴方 いつか見た 踊る 単純なメロディ へ
貴方の味だった
何故 醜い 未だ目に映る。
貴方の味を繰り返して
私と貴方の残照 が 酷く 。 痛くて 。 嬉しいよ 。
記憶の砂に似ている
三つのもの
タールのチェックが始まると
アスファルトを構成するのか
煙草を構成するのかで
友がワイワイし出した
山廬集の句を読んで居た私も
その輪に加わりこのタールは
アスファルト、あのタールは煙草へと
チェック機器を利用して特定し
小夜を過ごした
私は何回グナを見ただろうか
それらの過程で見てしまうマムシが
グナであるはずもなく
グナのグナたるゆえんはタールとは
全く無関係だったにもかかわらず
グナの支えを必要とした私は
タールをチェックしながら
現れるグナを数えながら
タールとグナは無関係と
ひとりごちた
ひとりごちつつも
ワイワイし出した友を遠巻きに
タールとグナを同時に
見てしまったような気がした
現実界のマムシは
二つの間を取り持つ使者の様にも見え
タールは現実と非現実をのあわいを
漂って居る様にも見えた
グナとタールとマムシの三つが
同時に平等に存在する時が
私の顕現する時だとふと思った