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2011年01月分

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* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


The Wasteless Land.

  田中宏輔




Contents

I.  Those who seek me diligently find me.
II. You do not know what you are asking.
III. You shall love your neighbor as yourself.
IV. It was I who knew you in the wilderness.
V. Behold the man!
Notes on the Wasteless Land.





『オハイオのある蜂蜜(ほうみつ)採りの快美な死にかただ。その男は空洞にな
った樹(き)の股(また)のところに、探し求める蜂蜜がおびただしく貯(たくわ)えられてい
るのを発見し、思わず身を乗り出しすぎて、そのなかへ吸いこまれ、
そのままかぐわしい死を遂げたという。』





より巧みな芸術家
Thomas Stearns Eliotに。





I.  Those who seek me diligently find me.


四月は、もっとも官能的な月だ。
若さを気負い誇る女たちは、我先にと
美しい手足を剥き出しにする。
春の日のまだ肌寒い時節に。
冬には、厚い外套に身を包み
時には、マフラーで首もとまで隠す。
こころの中にまで戒厳令を布いて。
バス・ターミナルに直結した地下鉄の駅で降りると
夏が水の入ったバケツをぶちまけた。
ぼくたちは、待合室で雨宿りしながら
自動販売機(ヴエンディング・マシーン)で缶コーヒーを買って
一時間ほど話をした。
「わたくし、あなたが思っていらっしゃるような女じゃありませんのよ。
こんなこと、ほんとうに、はじめてですのよ。」
どことなく似ていらっしゃいますわ、お父さまに。
幼いころに亡くなったのですけれど、よく憶えておりますのよ。
いつ、書斎に入っても、いつ、お仕事の邪魔をしても
スミュルナ、スミュルナ、わたしの可愛い娘よ
と、おっしゃって、膝の上に抱いて、接吻してくださったわ。
聖書には、お詳しくて? 創世記・第十九章のお話は、ご存じかしら?
たいてい、いつも、夜遅くまで起きていて、手紙を書いたり、本を読んだりしています。

この立ちこめる霧は、何だ。
この視界をさえぎる濃い霧の中で、いったい、如何(いか)なる代物に出交(でくわ)すというのか。
人生の半ばを過ぎて、この暗い森の中に踏み迷い、
岩また岩の険阻(けんそ)な山道を、喘(あえ)ぎにあえぎなが彷徨(さまよ)い歩くおまえ。
いま、おまえは、凄まじい咽喉(のど)の渇きに苛(さいな)まれている。
だが、耳を澄ませば、聞こえるはずだ。
深い泉のさざめきが。
どんなに干からびた岩の下にも、水がある。
さあ、おまえの持つ杖で、その岩の端先(はなさき)を打つがよい。
(すると、その岩の裂け目から、泉が迸(ほとばし)り出る。)
これで、おまえの咽喉(のど)の渇きは癒され
顔の前の濃い霧も、ひと吹きで消え失せる。
もはや視界をさえぎるものは、何もない。
こんどは、その岩の割れ目に、杖を突き立ててみよ。
    かの輝けるゆたかなる宝、
    糸のごと、狭間(はざま)に筋(すじ)ひきて、
    ただ奇(くす)しき知恵の魔杖にのみ、
    己が迷路を解きあかすなり。
『一年前、あなたの写真を、近くの古書店で、手に
入れました。写真の裏には、電話番号が書かれてあり
ぼくは、あなたに、何度も電話をかけました。』
――でも、それは、ずいぶんと昔のことなのですよ。
わたしが、自分の写真を、本のあいだに挾んでおいたのは。
いま、わたしが何歳であるか、それは申しませんが
あなたから、お電話をいただいたときには、もう
お誘いを受けられるような年齢(とし)ではなかったのです。
ことわりもせず、電話番号を変えて、ごめんなさいね――襟懐(きんかい)。
    見出でし泉の奇(くす)しさよ。
この男も、詩人の端くれらしく
つまらぬことを気に病んで
眠れぬ一夜を過ごすことがある。
そんなときには、よく聖書占いをする。
右手に聖書を持って、左手でめくるのだ。
岩から出た蜜によって、あなたを飽(あ)かせるであろう。
(前にも一度、これを指さしたことがある。)
そういえば、ジイドの『地の糧』のなかに
「蜜房は岩の中にある。」という言葉があった。
アンフィダという場所から、そう遠くないところに
灰色と薔薇色の大きな岩があって、その岩の中に
蜜蜂の巣があり、夏になると、暑さのせいで
蜜房が破裂し、蜂蜜が岩にそって
流れ落ちる、というのだ。
動物の死骸や、樹幹の洞の中にも
蜜蜂は巣をつくることがある。
詩のモチーフを得るために、この詩人は
しばしば聖書占いと同じやり方で辞書を開く。
William Burke というのに出会ったのも、それで
詩人の William Blake と名前(ファースト・ネーム)が同じ
この人物は、自分が殺した死体を売っていたという。

無防備都市(ローマ、チツタ・アペルタ)。
夏の夕間暮れ、月の女神の手に、水は落ち
水はみな、手のひらに弾かれて、ほどけた真珠の玉さながら、飛び散らばる。
アルテミスの泉と名づけられた噴水のそばにある
細長いベンチの片端に腰かけながら
彼女は恋人を待っていた。
たいそう、映画の好きな恋人で
きょう、二人で観る約束をしていた映画も
彼のほうから、ぜひ、いっしょに観に行きたいと言い出したものであった。
彼女が坐っているベンチに
彼女と同じ年ごろのカップルが
腰を下ろして、いちゃつきはじめた。
男が一人、近寄ってくると、彼女の隣に腰かけてきて
「ミス・ドローテ」と、耳もとでささやいた。
『どうか、驚かないでください、といっても、無理かもしれませんね。
許してください。しかし、あなたのように、若くて美しい方なら
突然、このように、見知らぬ男から声をかけられることも
それほど、めずらしいことではないでしょう。
これまで、あなたほど、顔立ちの見事に整った、美しい女性には、お目にかかったことがありません。
ほんとうですよ。ところで、わたしがあなたに呼びかけた、ドローテという名前は
ある詩人の作品のなかに出てくる、見目もよく、気立てもやさしい、若い娘の名前なのです。
ですから、そのように、眉間に皺を寄せて、わたしを見つめないでください。
あなたの美を損ねてしまいます。
わたしが、あなたの聖(きよ)らかな泉を汚すことは、けっしてありません。』





II. You do not know what you are asking.


ゴールデン・ウィークを迎えるころになると
授業に出てくる学生の数が激減する。
半減期は一週間、といったところだろうか。
それでも、昔に比べれば、ずいぶんとましになったものだ。
この大きな階段教室に、学生が二人、といったこともあったのだ。
(そのうちの一人は、最初から最後まで、机の上につっぷして眠っていた。)
点が甘いということで、登録する学生の数が非常に多いのだが
出欠をまったく取らないので、出てくる学生の数が見る見る減っていくのである。
出欠を取れば、学生が出てくることはわかっているが、時間が惜しい。
授業内容さえ充実していれば、かならず出てくるはずだ、と
そう思って、授業にも、いろいろと工夫を凝らしてみるのだが
なかなか思いどおりには、いかないものである。
小説のなかに出てくる、ちょっとした小物や、ささいな出来事が
――その場面に、すばらしい表情を与えるものとして
あるいは、作品世界全体をまとめる象徴的なものとして機能することがある
ということは、前の授業で、電話を例に、説明しましたね。
今回は、ハンカチについて見ていくことにしましょう。
まず、電話のときと同様に、ハンカチという言葉の起源と、その用途について調べ
つぎに、いくつか、文学作品を採り上げて、そこで用いられている、さまざまな例を通して
いったい、どのような効果が得られているのか、考えていくことにしましょう。
ハンカチ、すなわち、ハンカチーフという語がはじめて文献に現われるのは
十六世紀、もう少し正確に言いますと、一五三〇年のことですが
じっさいには、それ以前にも用いられていたと思われます。
その原型となるものは、古代エジプトにも存在しておりましたし
ギリシア・ローマ時代にも、顔の汗をふいたりした、スダリウムと呼ばれる布切れや
食事のときに手をふいたりした、マッパと呼ばれる布切れがありました。
また、これらの布切れは、競技のスタートの合図に振られたり、賞賛の印として振られたり
教会で儀式が執り行われる際に、僧侶の手に持たれたりしました。
ハンカチが一般に普及したのは、もちろん
「ハンカチーフ」という語が文献に現われた十六世紀以降のことですが
それはまず、上流階級の間で、装飾品として手に持たれたことにはじまりました。
当時は、手袋や扇と同様に、服装の一部をなすアクセサリーとして重要なものでした。
なかには、宝石が縫いつけられたり、豪華な刺繍が施されたりしたものもありました。
十七世紀になりますと、一般の婦女子のあいだでも用いられるようになりました。
形見の品として譲り渡されたり、愛の印として贈られたりしました。
こういった例を、文学作品のなかから、いくつか採り上げていきましょう。
つぎの文章は、スタンダールの『カストロの尼』において、主人公が、自殺するまえに
手紙とハンカチを、自分の恋人に手渡してくれるように、ひとに頼むところです。

『どうして、あんなに字が汚いのかしら。
ひと文字、ひと文字、大きさもバラバラで、ほんっとに、ヘタクソな字!
それに、どうして、あんなに歩きまわって、黒板のあっちこっち、いろんなとこに書いてくのかしら。
ちゃんと、ノート、取れないじゃない。ったく、もう。あっ、あの字、あれ
  なんて書いてあんの? なんて書いて? なんて?
なんて書いてあんのか、ゼンゼンわかんない。
ちゃんと書いてよね。』

そのひとがふだん身につけていたものを形見にしたりすることは、ごく自然な感情によるものでしょう。
つぎに、愛の印に贈られたハンカチが、たいへん重要な小道具として出てくる作品を紹介しましょう。
『あの黒いものは、なんだろう。』
    キャンキャン吠えながら、尨犬(むくいぬ)が駆け降りてくる。
『だれが教室に入れたのですか? どうして、こんなところに連れてくるのですか?』
     だれも答えない、だれも。
                     『だれも
答えないのですか? だれか、一人くらいは、わたしにこたえられるはずでしょう?
それとも、犬が自分から勝手に入ってきたとでもいうのですか?
自分から勝手に?』

 とうとう、ペットまで、教室のなかに持ち込むようになってしまった。
いやはや、なんという連中だろう。あまりにも馬鹿らしくて、これ以上、叱る気にもなれない。
『おれが、あんなに大事に思って、おまえにやったハンカチを、おまえは、キャスオウにやった。』
                                         これは、あの
シェイクスピアの『オセロウ』にあるセリフですが、苺の刺繍が施された
このハンカチは、オセロウの母親遺した形見の品で、批評家のトマス・ライマーは
このハンカチ一枚に、みなが右往左往する、この作品を批判して、「ハンカチの笑劇」と呼びました。
『午後から、なにか、予定ある?』
『とりあえず、あたしは、髪を切ってもらいに
美容院に行くわ。それから、アルバイトに
行くかどうか、考えるわ。』

                           あと十分で、二講時目終了のチャイムが鳴る。
また、そこの先輩が、意地が悪いのよ。
若い客が、あたしとばかり、話したがるもんだから
嫉妬してんのよ。まわりに、だれもいなくなったりしたら
もう、たいへん。ほんっとに、ひどいのよ。
きのうなんて、のろいわね、とか、グズね、とか言って
あたしの顔を、にらみつけんのよ。
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
入って、まだ二日目よ。
できるわけないじゃない。
することだって、いっぱいあんのに。
あーあ、もっとラクだと思ってたわ、マネキンの仕事って。
あっ、そうそう
それより、マルトの話、聞いた?
新しい恋人ができたの、って言ってたわ。
ねっ、きみも、詩が好きかい?
ぼくは、ボードレールや、ランボーの詩が好きなんだけど。
ですって。
いきなり隣の席にきて、その彼氏、そう言ったんですって。
マルトも、あのとおり、文学少女でしょう。
わたしも、ボードレールや、ヴェルレーヌが好きよ、って返事したらしいわ。
ジャックっていう、高時時代から付き合ってる、れっきとした恋人がいるっていうのにね。
彼って、体育会系でしょ。新しい彼氏は、ゼンゼン違うタイプなんですって。
背が高くて、やせてて、それに、顔が、とってもきれいなんですって。
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
弟のラインハルトが、部屋のなかに閉じこもったまま、出てこないのよ。
お母さんの話だと、一日じゅう、ほとんど閉じこもりっきりで
食事もろくに摂ってないっていうのよ。
たしかに、見るたびに、やせてってるって感じだったわ。
お母さんたら、このままだと、拒食症で死んじゃうかもしれないわ、って言うのよ。
どうやら恋わずらいらしいんだけど
(ところで、一つ年下の弟は、ことし高校を出たばかりの青年だ。)
同い年の幼なじみの女子にふられたっていうのよ。
あたしと同じ、エリーザベトっていう名前の子なんだけど、たしかに、可愛らしい子だったわ。
まあ、あたしの知ってるのは、彼女が中学生ぐらいまでの
ことだけど。(近くに森があって、弟と彼女は、小学生のころ、よくいっしょに、苺狩りに出かけた。
湖水のほとりで、ハンカチを拡げ、そのうえに、採ってきた苺をならべて、二人で食べた。)
その彼女から、ある朝、弟に手紙がきたらしいんだけど
それからなんですって、弟が部屋のなかに閉じこもるようになったのは。
あたしたち、弟が高校に入るときに、こちらに越してきたでしょ。
それでも、弟は、月に一度か、二度くらい、そのこと逢ってたらしいのよ。
お母さんたら、なんでも見てきたことのようにしゃべるんだけど
これは、たしかに、ほんとうのことなんですって。
やっぱり、遠距離恋愛って、むずかしいのよね。
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
えっ、なに? なに? あたってるの? さっきから?
あら、ほんとだわ、どうしましょう。
あなたも、聞いてなかったわよね。
まあ、どうしましょう――
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
ねえ、アガート。ねえ、ジェラール。ねえ、ダルジェロ。
あなたたち、みんな、聞いてなかったの?
どう思いますか、ですって。
なにか言わなくちゃ。
えっ、あの黒板に書いてある言葉をつかって、なにか言いなさいよって?
イヤン、字が汚くて、ゼンゼン読めないわ。





III. You shall love your neighbor as yourself.


この地下鉄は南に行き、南の端の駅に着くと
北に転じて、ふたたび北の端の駅に戻る。
電車、痴漢を乗せて走る。
感覚器官が、感覚器官の対象に向かって働く。
見目美(うるわ)しい乙女たちよ、その身をまかせよ。
わが息の霊の力、尽きるまで。
汝の胸の形、汝の腰の形、汝の尻の形は
その形を見る者の目を捉え
その香料の芳(かんば)しい香りを放つ汝の身体は
その匂いをかぐ者の鼻先を捉える。
感覚器官が、感覚器官の対象に向かって働く。
他人に気づかれないように、こっそりと
ひそかに、感覚器官が、感覚器官の対象に向かって働く。
愚かな女は騒がしい。
自分の唇を制する者には知恵がある……
見目美(うるわ)しい乙女たちよ、その身をまかせよ。
わが息の霊の力、尽きるまで。
見目美(うるわ)しい乙女たちよ、その身をまかせよ。
わが息の霊の力、及ぶうち。
わたしの横に
駆け込み乗車してきたばかりの男が立っている。
噴き出た汗をハンカチでぬぐいながら、男は、すばやく社内を見渡した。
坐れないことがわかると、溜め息をついて
書類の入った袋を、鞄のなかにしまった。
それにしても、この男の表情は陰鬱である。
それは、この男が、これから先、自分がどこへ行き、どんな顔をして
どのように振る舞わなければならないかを知っているからだ。
男が、わたしの身体を透かして、通路の向こう側を見た。
わたしの姿は目に見えず、だれも、わたしを目で見ることはできない。
わたし自身が、ひとの目に触れることを望まないかぎりは。
男の視線の先に、空席を求めて隣の車両からやってきた、一人の妊婦の姿があった。
その表情は苦しげで、またその足取りも重く、なお一歩ごとに、その重みを増していったが
ときおり、他の乗客の背中に手をつきながら、しだいに、こちらに近づいてきた。
男が、ふたたびハンカチを取り出して、額や花の下の汗をぬぐった。
激痛が、彼女の両腕を扉付近の支柱にしがみつかせた。
わたしは首をまわして、わたしの息を車内全体に吹きかけた。
これで、だれ一人、女に自分の席を譲ることができなくなった。
突き出た腹を自ら抱え、女が、その場にしゃがみ込んだ。
わたしは、男の耳もとに、わたしの息を吹きかけた。
男の胸がはげしく波打ちはじめた。
男が足を踏み出した。
フウハ フウハ フウハ
ドックン ドックン ドックン ドックン ドックン ドックン
おのれ自身が創り出した、淫らな映像に惹き寄せられて。

名画座で上映されていたのは
無防備都市(ローマ、チツタ・アペルタ)。
夏の夜、波の模様に敷き詰められた敷石のうえを
溜め息まじりに言葉を交わしながら、恋人たちが通り過ぎて行く。
広場に残っていたカップルたちも、夜が更け、噴水が止まると、ぽつぽつと帰りはじめた。
ひとの動く気配がしたので振り返ると、植え込みの楡の樹の後ろから、丸顔の女の子が顔を覗かせた。
あまりに若すぎると思ったが、そばにまでくると、それほどでもないことがわかった。
たどたどしいフランス語で、あなた、ガブリエル伯父さんでしょ、と訊ねられた。
あらかじめ電話で教えられていたとおりに、そうだよ、きみの伯父さんだよ、と答えると
彼女は微笑んで、地下鉄に乗るのね、と言い、ぼくの腕をとって歩き出した。

すみれ色の時刻。
友だちと大声でしゃべり合う学生たちや
口を開く元気もない、仕事帰りの男や女たちを乗せて
地下鉄は、ゴウゴウ、音を立てて走っている。
わたし、メフィストーフェレスは
馬の足を持ち、贋(にせ)の膨(ふく)ら脛(はぎ)をつけて歩く
つむじ曲がりの霊である。
このすみれ色の時刻。
ジムこと、ジェイムズ・ディリンガム・ヤングは、まだ
二十二歳の貧しい青年であったが、彼の住む安アパートの二階には
鏡のまえで美しい髪を梳きながら、新妻のデラが、彼の帰りを待ちわびていた。
彼の膝のうえには、宝石の縁飾りのある、べっ甲の櫛が入った小さな箱が置かれていた。
その高価なプレゼントを買うために、彼は、父親から譲り受けた
もとは祖父のものであった、上等の金時計を売らなければならなかった。
ミス・マーサ・ミーチャムは四十歳、通りの角で、小さなパン屋を営んでいる。
最近、彼女は、自分の店にくる客の一人に、思いを寄せている。
男は、いつも(新しいパンの半分の値段の)古パンを二個、買って行く。
こんど、彼のすきをみて、古パンのなかに、上等のバターをたっぷり入れてあげましょう。
彼女は、吊革につかまりながら、ジムのまえで、そんなことを考えていた。
馬の足を持つ、このねじくれた霊、メフィストーフェレスなる
わたしには、こうした事情が、すぐにわかるのだ。
二人の耳もとに、わたしは、いまこの電車に乗ってくる、一人の男を待っていたのだ。
あの背の高い、やせた白髪頭(しらがあたま)の
男が乗ってくるのだ。
プロテスタント系の私立大学に勤める、文学部の教授である。
創作科のクラスで、詩や小説の書き方を教えている。
三十代半ばで、はじめて女を知った、この男は
それからの数年間というものを
肉欲の赴くまま、享楽に耽(ふけ)っていたのだが
三十代の終わりに、妻となるべき女と出会って
それまでの淫蕩な生活に、突然、終止符を打ったのである。
彼は、妻のことをいちずに愛し、妻もまた、彼のことをいちずに愛した。
ともに暮らした十年のあいだ、子宝には恵まれず、あえて養子を取ることもしなかったので
彼らの家のなかに、子どもの声が響くことなどはなかったが、それで、さびしくなるということもなかった。
むしろ、二人きりでいることが、相手に対する愛情を、より深いものにしていった。
それゆえ、五年まえに、まだやっと三十を越えたばかりの妻を、交通事故で失くしてからというもの
彼は、妻を慕う気持ちのあまり、あらゆる女性を避ける避けるようになってしまったのである。
通いの家政婦のほかには、彼の家に訪れる女性は、一人もいなかった。
(わたし、メフィストーフェレスが、人間の耳もとに息を吹きかけると
たとえ、どれほど萎えしぼんだ魂の持主でも、情欲の
俘虜(とりこ)となって、生きのいい魂を取り戻すことができるのである。
かつて、あのファウストでさえ誘惑し、その胸のなかに
情欲の泉を迸(ほとばし)らせた、このわたしである。)
背中を押されて入ってきたセヴリヌ・セリジは、通路の真ん中で足を止め、目を凝らして見た。
このがっちりとした体格、この着くずれした背広、それに、この品のない首つきは……
彼女の斜めまえに立っている男に、その男の後ろ姿に見覚えがあったのである。
男が何気なく振り向いた拍子に、自分の知り合いではなかったことがわかって、彼女は、ほっとした。
ふと、彼女は、きょう、マダム・アナイスの家で自分を抱いた中年の男の言葉を思い出した――
『恥ずかしいんだね、ええ、恥ずかしいんだね。でも、いまに嬉しがらせてやるからな。』
美しい女が馬鹿な真似をすると、たちまち破滅する。
それが、夫のある身なら、なおさらである。
わざわざ、彼女の耳もとに、わたしが息を吹きかけてやることもない。
ただ、この体格のいい男の耳もとに、ひと吹きするだけでよい。

『あなたの泉に祝福を。』
電車が停まり、その扉が開くたびに
ひとびとが乗り込み、人々が降りて行く。
すべてのことには季節があり、すべてのわざには時がある。
男と女の出会いにも、時がある。
生涯において、ただ一度、同じ電車のなかに乗り合わせる、ということもある。
どの女も似通ってはいるが、同じと言えるところは、一つもない。
その胸の形、その腰の形、その尻の形のことごとく
その形それぞれに、男の目は捉われる。
さあ、いままた、扉が開いて、女たちが乗り込んできた。

よくよく、おまえに言っておく。
この電車が、つぎの駅に着くまえに
おまえは、三度、痴漢の手をはらいのけるだろう。
だが、恐れるな。この者は、よい痴漢である。
それにしても、この胸は、痴漢の愛する胸、痴漢のこころにかなう胸である。
痴漢がおまえの胸にさわるとき
おまえは、痴漢がすることを、他人に知らせるな。
それは、その行為が隠れてなされるためである。
そうすれば、おまえの胸に触れた手は
さらなる悦びを、おまえにもたらせてくれるであろう。
アハァ アハァ
アハァ アハァ
手はすでに、おまえの胸のうえに置かれている。
もしも、おまえの胸にさわる手が
おまえの胸のボタンをはずそうとするなら
おまえは、おまえのその胸の下着の留め金をはずせ。
そうだ、まことに、おまえの情欲は見上げたものである。
まことに、おまえは情欲の俘虜(とりこ)である。
もしも、痴漢が、おまえの乳房を引っ張って、おまえを
車両の端から端まで引き摺って行こうとするなら
その痴漢の手に、二車両は引き摺られて行け。
さあ、この生き生きとした悦楽にひたれ。
この悦楽の泉にひたれ。
 アハァ アハァ
 アハァ アハァ

「あたし、見てたわよ。
あの痴漢ったら、向こうの端から、こっちに向かって
一人、二人、三人って、つぎつぎに手を出していたでしょ。
あたしで、ちょうど、十人目になるわね。
でも、わたしには近づかないでよ。
ちょっとでも、さわったりしたら、警察に突き出してやるから。」
これまで、あなたのまえに、恋人が現われなかったのは
ただ、あなたの美に、だれも気がつくことができなかったからである。
事実、あなたは、もっとも美しい猿よりも美しい。
諺に、『老女は地獄で猿を引く。』というのがあるのを知っているか。
猿は、だれをも愛さず、だれにも愛されなかった女の、唯一、あの世での連れ合いなのだ。
人間には人間がふさわしく、猿には猿がふさわしいと思わないか。」
「愛を意味するギリシア語のエロースが
ローマに入ると、欲望という意味の言葉、キューピッドとなった。
不死なる神々のなかでも、ならぶ者のない、美しいエロース。
この神は、あらゆる人間の胸のうちの思慮と考え深いこころを打ち砕く。」
 ララ
ここがロドスだ、跳んでみよ。

さわる、さわる、さわる、さわっている。
おお、女よ、たとえ、おまえが、一日に千回、手をはらいのけても
おお、女よ、きっと、おまえは、一日に千五百回、手を出されるだろう。

さわってる。





IV. It was I who knew you in the wilderness.


男に出会ったのは、きのう
地下鉄の駅から出て、大学の構内に入って行くところだった。
男は研究室に立ち寄ると、すぐに教室に向かった。
                                  尨犬(むくいぬ)の姿となって
階段教室の前にいると
遅れてやってきた女子学生が、わたしを拾い上げた。
授業をしながらでも、始終、男は死んだ妻のことを思い出していた。
そのあと、一日じゅう、男のあとをつけまわしてみたが
男は、片時も、妻のことを忘れることがなかった。
何を見ても、何をしても、男は、すべてのことを、死んだ妻とのことに結びつけて考えた。
かつて、わたしが魂を奪い損ねた男と同じ名前を持つ男、あの男こそ
新たなる、神の僕(しもべ)、新たなる、わが獲物!





V. Behold the man!


ひと渉(わた)り、さっと車内に目を走らせると
そのあとは、ひとには目もくれない。
ただ、目をやるものといえば
言葉、言葉、言葉、
広告の。
彼の表情は硬かった。
亡くなった妻のことを思い出すとき以外に
その顔に笑みが浮かぶことなど、まったくなかった。
ここ、何年物あいだ、この詩人の魂に映るものといえば、岩の山、岩の谷、岩と岩ばかりの風景だった。
しかし、どんなにかわいた岩の下にも、水がある。
どれほどかわいた岩地でも、その下には、かならず水が流れているのだ。
もとをたどれば、詩人という言葉は
小石のうえを流れる水の音を表わすアラム語に行きつく。
こころの奥底に、流れる水がなければ、詩など書けるはずもない。
ひとを愛し、人生を愛してこそ、詩人であるのだから。
いまひとたび、そのかわいた岩々の裂け目から水を噴き出させ
その胸のなかに、情欲の泉を溢れ出させてやろう。
悪戯(いたずら)好きのわたしが、ほんとうに好きなのは
神の目に正しい道を歩まんとする者を
その道から踏みはずさせ、わたしの道を歩ませること
その彼の魂を、命の本減から引き離し、わたしのものとすること
その彼を、あの世における、わたしの奴隷、私の僕(しもべ)とすることなのだ
たしかに、かつて、わたしは、あのファウストの魂を奪い取ることができなかった。
それは、わたしが、背中に甲羅を生やした悪魔にしては、あまりにも初心(うぶ)だったからである。
しかし、もう、二度とふたたび、神には騙(だま)されない。けっして、騙(だま)されることはない。
わたしの新しい獲物、このファウストの魂は、わたしのものとなる。
足もとに目を落とし
耳を澄ましてみよ。
聞こえてこないか。
泉の湧く音が。
流れのもとの
深い水のとどろきが。
そら、そこの
その岩の古い肋骨(あばらぼね)を
おまえの持つその杖で打ってみよ。
シュバッ、シュバッ、シュバッ、シュバッ、シュバッ
と岩の割れ目から湧き水が迸(ほとばし)り
たちまち、かわいた岩地が
泉となる。

何者だ、この異形のものは。いま、耳もとでささやいていたのは、こいつなのか。
人間とは思えぬ、その姿。まるで絵に描かれた悪魔のようだ。だが、窓ガラスに、こいつの姿はない。
おかしなことだが、なんだか、自分の顔つきまで、自分のものではないような気がしてきた。
かなり疲れが溜まっているようだ。マルガレーテが生きていたころには、こんなことはなかった。
ああ、グレートヘン。ぼくの可愛いひと。あの唇の赤さ、あの保保の輝きよ。
きみといた十年のあいだ、たしかに、ぼくは、もっとも浄(きよ)らかな幸福を味わうことができた。
ときおり拗ねて、ツンとすまして見せたけれど、それが、またさらに、きみのことを愛しく思わせた。
きみの無邪気な、そんな仕草に、ぼくは、どんなに、こころ惹かれたことか――
きみは、ちっとも知らなかっただろう?

電車が停まって、ファウストのそばの座席が二人ぶん空くと
乗り込んできたばかりのデイヴィッドとキャスリンが、その空いたところに、すかさず腰を下ろした。
褐色に日焼けした二人は、真珠をつないだ短めのネックレスを首に嵌め、レモンイエローの
サマーセーターに、白のジーンズという揃いの出で立ちで、髪をスカンジナヴィア人なみの白っぽい
ブロンドに染め、全体を短く刈り込んで、見かけを、そっくり同じにしていた。
もともと、兄妹のように、よく似た二人であったが、このように
同じ身なりと同じ短い髪型でいると、ひとの目には、まるで双生児(ふたご)の男兄弟のように映った。
ねっ、キスして。女が男の目を見つめながら、そう言うと、男が女の肩に腕をまわして、抱き寄せた。
唇が離れると、女が、男の耳もとで、ねっ、あたしにもキスさせて、と、ささやいた。
すると、男が、わざと驚いたふりをして、ひとが見てるぜ、と言って微笑んだ。
さすがに、ファウストも、このとびきり派手な二人の振る舞いには、目をやらざるを得なかった。
ひとに見られてるの、嫌? 女が坐り直し、男の腰にまわした腕を背中の方に動かした。
いいとも、悪魔め。おれが嫌なわけないだろ? いかにもうれしそうに、男が、そう答えると
メフィストーフェレスが、口の端をゆがめて、ニヤリと笑った。

何を人間が渇望しているのか、それを一番よく知っているのは、悪魔であるこのわたしだ。
この世界の小さな神さまの魂は、わたしのものである。
わたしに不可能なことがあるだろうか。
この脚の長いキリギリスの魂は、かならず、わたしが手に入れてみせる。
さあ、ファウスト先生よ、わたしの言葉をお聞きなさいよ。
そういつまでも、文献ばかりにしがみついていないで、現実をしっかりごらんなさいな。
最近の先生の作品は、生気がなくて、ちっとも、よくありませんよ。
ほんとうの詩なんてものは、先生ご自身の胸のなかから湧き出てこなければ、得られないものでしょう?
ところで、先生、ごらんのこの二人のうち、女の方の名前を、あなたにお教えしましょうか?
それは、先生が、もっとも愛しておられた女性と同じ名前の、グレートヘン、すなわち、マルガレーテ。

なに? グレートヘン? マルガレーテだって? それがこの娘の名前なのか?
そう言われてみれば、ぼくの愛しい妻、マルガレーテに似ているような気がしてきた。
この胸の奥深くに仕舞い込まれた、ぼくの花、ぼくの愛しいマルガレーテの面影に。
色褪せることのない、その面影。すべての花のなかで、もっとも清純で、可愛らしい花よ。
おいおい、悪魔め、その臭い息を、ぼくの耳もとに吹きかけるな。
マルガレーテがいなくなってからというもの、ずっと、ぼくのこころは、枯れた泉のようだった。
ただ、マルガレーテと過ごした日々が、そのすばらしい思い出だけが、ぼくを生かしてきた。
たとえ、どれほど美しい女性を見かけても、こころ惹かれることなどなかった。けっして、なかった。
つねに、ぼくの愛しい妻、マルガレーテの面影が、ぼくのこころを捉えて離さなかったのだから。
しかし、いま、ぼくの目のまえにいる、妻に似た、この娘の、なんと魅力的なことだろう。
よもや、女性というものに、これほど激しく胸が揺さぶられることなど
二度とはあるまい、と思っていたのに。

それにしても、この胸の昂(たかぶ)りは、いったい、どこからやってきたのだろう。
いやいや、どこからでもない。もとより、この胸の昂(たかぶ)りは、ぼく自身のなかにあったものだ。
ぼく自身の胸のなかに、この胸のなかに、もう一つ別の魂が、邪(よこしま)な魂が潜んでいたのだ。
いま、ぼくの傍らにいる、この悪魔の姿も、溢れ出る愛欲にまみれ
からみつく官能をもって現世に執着する、その邪(よこしま)な魂が、ぼくの目に見せた幻に違いない。
ダ!
ジー・ダ! そら、見るがいい。
ねっ、あたしの女になって。うわずった声で、女が男にささやいた。
キャスリンは、おまえだ。そう言い返す男の口もとを、女の手のひらがふさいだ。
いいえ、あたしがデイヴィッドで、あなたが、あたしのすてきなキャスリンよ。
激しく抱擁し合う二人の姿が、その二人の首もとで輝く真珠の光が、ファウストの目を捉えた。
情欲の泉が、ファウストの胸のなかから、その胸のもっとも深いところから湧き上がってきた。
すると、ここぞとばかりに、ひと吹き。メフィストーフェレスが、ファウストの耳もとに息を吹きかけた。
ファウスト先生よ、いま、これより、わたしが、あなたの僕(しもべ)となって、あなたに仕え
これまで、あなたが味わったことのない最高の瞬間を、あなたに味わわせてあげましょう。
ただし、その瞬間を味わった暁(あかつき)には、以後、あなたが、わたしの僕(しもべ)になるという条件と引き換えに。
さあ、ここに神があります。血をひと垂(た)らしつけて、署名していただきましょう。
ダ!
ウンター・ホイチゲム・ダートゥム・! さあ、きょうの日付で。
ああ、この紙も、このペンも、そして、この悪魔の姿も、声も、みな幻なのだろう。
いま、ぼくの目のまえにいる、この二人のやりとりも、また、一つの芝居、一つの幻に違いない。
ならば、なぜ、なにゆえ、この胸の奥深く、情欲の湧き水が、岩の狭間(はざま)に噴き上がるのか。
まことに、愛着(あいぢやく)の道は、その根の深きもの。これを求むること、やむ時なし。
まるで、岩から岩へと激する滝が、欲望に荒れ狂いながら深淵に落ち込むようなものだ。
親指を噛んで、そら、悪魔よ、このひと垂(た)らしの血でいいのか。
グレートヘンが、いや、あの娘が、ハンカチを落とした。
おお、悪魔よ。あのハンカチを、取ってきておくれ。
ダ!
ダ・ニムス! ほら受け取るがいい。
おお、この芳(かぐわ)しい香りよ。
なんたる歓びの戦慄(おのの)きが、ぼくを襲うことだろう。
この胸も張り裂けてしまいそう。
ああ、苦しい、苦しい。心臓が掻きむしられるようだ。
だが、これが、最高の瞬間だ!

                                ファウストの身体が後ろに倒れた。
針が落ちた。事が終わった。
乗客たちの姿が光に包まれ、その光が天使の群れとなって、聖なる歌を唱いはじめた。
おお、なんと胸くその悪い響きだ、この調子はずれの音は。
おや、ファウストの身体が宙に浮くぞ。
だんだん上がっていく。
また、横取りするつもりなのか。
――この死体は、わたしのものだ。
ここに、こいつが自分の血で署名した書付(かきつけ)があるのだ。
おお、天井にぶつかって、ファウストの死体が床のうえに落ちたぞ。
あはははは、そうだ、ここは地下鉄だ。地下鉄の電車のなかだぞ、天使どもめ。
だが、これほどたやすく手に入る魂に、値打ちなどちっともない。おまえたちにくれてやる。
ジー・ダ。ウンター・ホイチゲム・ダートゥム。ダ・ニムス。見るがいい。きょうの日付でくれてやる。
ディー・クライネン、ディー・クライネン。ちび、ちび。












Notes on the Wasteless Land.




 この詩は、題名のみならず、その形式や文体も、また、この詩に引用された詩句のうち、そのいくつかのものも、西脇順三郎によって訳された、T・S・エリオットの『荒地』に依拠して制作されたものである。西脇訳の『荒地』を参照すると、まったく同じ行数でこの詩の本文がつくられていることがわかる。また、この詩の主題は、全面的にゲーテの『ファウスト』に負っている。ほかにも、さまざまな文章や詩句から引用したが、本作の文脈や音調的な効果、あるいは、視覚的な効果のために、それらの言葉をそのまま用いるだけではなく、漢字や仮名遣いなどを改めたところもある。それらの仔細については、以下の注解に逐一述べておいた。ただし、西脇訳の『荒地』からのものは、とくに指摘しておかなかった。じっさいにそのページを開けば、どこから、どう引用しているのか、一目瞭然だからである。それにまた、エリオットの『荒地』のもっともすばらしい翻訳を傍らに置いて、この作品を味わっていただきたいという気持ちからでもある。
 エピグラフは、メルヴィルの『白鯨』78(幾野 宏訳、二重鉤及び読点加筆)より。各章のタイトルは英訳聖書からとった。各章の注解の冒頭に、日本聖書協会による訳文を掲げておいた。




I.  Those who seek me diligently find me.


第I章のタイトルは、PROVERBS 8.17 "those who seek me diligently find me."(箴言八・一七、「わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。」)より。なお、日本聖書協会が訳した聖書からの引用では、訳文に付されたルビを適宜省略した。

第一連・第七行 吉増剛造『<今月の作品>選評17』ユリイカ一九八九年七月号、「今月は選者も、少し心を自在にして(戒厳軍のようにではなくさ、……)」より。

第一連・第九行 三省堂のカレッジクラウン英和辞典、「It rains buckets.(米)どしゃ降りだ。」より。(米)は、アメリカ英語の略。日本語の文を引用する際に、ピリオドを句点に改めた。以下、同様に、横組みの参考文献を用いるときには、日本語の文や語句にあるコンマやピリオドを、それぞれ読点と句点に改めて引用した。

第一連・第一七行 サルトルの『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳、「彼は小さかったときに、母親がときどき、特別な調子で、「お父さま、書斎でお仕事よ」と言ったのを思い出した。」より。

第一連・第一八行 スミュルナを、教養文庫のギリシア神話小事典で引くと、「別名ミュラといい、フェニキアの王女。父のキニュラスに欲情をいだき、酒を飲ませて酔わせ、彼女が自分の娘であることを父に忘れさせた。スミュルナが身ごもると父は父子相姦の恐ろしさに狂い、スミュルナを森の中まで追いかけ、斧で殺した。」とある。呉 茂一の『ギリシア神話』第二章・第六節・ニには、「ズミュルナは、はじめアプロディーテーへの祭りを怠ったため女神の逆鱗(げきりん)にふれ、父に対して道ならぬ劇しい恋を抱くようにされた、そして乳母を仲介として、父を誑(あざむ)き、他所(よそ)の女と思わせて十二夜を共に臥(ふ)したが、ついに露見して激怒した父のために刃を以て追われ、まさに捕えられようとした折、神々に祈って転身し、没薬(ズミユルナ)の木に変じた」とある。

第一連・第二〇行 本文で言及しているお話とは、創世記・第十九章のロトと二人の娘の物語である。妻を失ったロトは、二人の娘とともに人里離れた山の洞穴の中に住んでいたのであるが、娘たちが、前掲のスミュルナと同様に、父に酒を飲ませて酔わせ、ともに寝て、子をはらみ、出産した、という話である。近親相姦といえば、オイディプスの名前が真っ先に思い出されるが、彼が自分の母親と交わってできた娘の数も二人である。また、箴言三〇・一五にも、「蛭にふたりの娘があって、/「与えよ、与えよ」という。」とある。ソポクレスの『コロノスのオイディプス』にも、「二人の娘、二つの呪いは……」(高津春繁訳)とあるが、イメージ・シンボル事典を見ると、2は「不吉な数である。」という。「ローマにおいては2という数は冥界の神プルトンに献ぜられた。そして2月と、各月の第2日がプルトンに献ぜられた。」とある。

第一連・第二一行 ヴァレリーの『我がファウスト』第三幕・第三場に、「何か本がないかしら……。考えないための本が……。」、「何か本が欲しい、自分の声を聞かないための本が……。」(佐藤正彰訳)とある。ふつうは、読むうちに自分のことを忘れてしまうものである。自分のことを忘れるために、と意識して読書するというのは、ふつうではない状況にあるということである。仕事や雑事に多忙な人間ではない。そうとう暇のある人間でなければ、それほど自己に構うことなどできないからである。この連に出てくる女性が、そういった状況にある人間であることは言うまでもない。なんといっても、毎晩のように、返事の来るはずもない手紙を、長い長い手紙を、本のなかの登場人物たちに宛てて、何通も書くことができるくらいなのだから。ちなみに、彼女がこの日の夜に読んでいたのは、シェイクスピアの史劇の一つであった。彼女は、つぎに引用するセリフに、長いあいだ、目をとめていた。「思いすごしの空想は必ず/なにか悲しみがあって生まれるもの、私のはそうではない。/私の胸にある悲しみを生んだものは空なるものにすぎない、/あるいはあるものが私の悲しむ空なるものを生んだのです。/その悲しみはやがて本物となって私のものとなるだろう。/それがなにか、なんと呼べばいいか、私にもわからない、/わかっているのは、名前のない悲しみというにすぎない。」(『リチャード二世』第二幕・第二場、小田島雄志訳)、この言葉が、彼女を魅了するように、筆者をも魅了するのだが、はたして、読書人のなかで、こういった言葉に魅了されないような者が一人でも存在するであろうか。そうして、この日の夜も、彼女は、自分の声を聞きながら、リチャード二世の妃に宛てて、長い長い手紙を書いて、一夜を明かしてしまったのであった。

第二連・第一行 fogは、「(精神の)困惑状態、当惑、混迷」を表わす。in a fog で、「困惑して、困り果てて、途方にくれて」の意となる。以上、三省堂のカレッジクラウン英和事典より。また、「霧があるので一そう暗闇(くらやみ)が濃(こ)くなっているんです。」(ゲーテ『ファウスト』第一部・ワルプルギスの夜・第三九四〇行、相良守峯訳)という文も参照した。なお、ゲーテの『ファウスト』からの引用はすべて相良守峯訳であるので、以下、『ファウスト』の翻訳者の名前は省略した。

第二連・第三行 ダンテの『神曲』地獄・第一曲・第一行、「われ正路を失ひ、覊旅半にあたりてとある暗き林のなかにありき」(山川丙三郎訳)、同じく、ダンテの『神曲物語』地獄篇・序曲・第一歌、「ここはくらやみ(、、、、)の森である。」、「三十五歳を過ぎた中年の詩人ダンテはその頃、人生問題に悩み深い懐疑に陥っていたが、ある日散歩をしているうちに、偶然このくらやみの森の中に迷いこんでしまった。」(野上素一訳)より。

第二連・第四行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第二幕・第七八一三行、「この険阻(けんそ)な岩道」より。

第二連・第七行 カロッサの『古い泉』藤原 定訳、「古い泉のさざめきばかりが」より。

第二連・第九行 出エジプト記・第一七章に、エジプトから逃れて荒野を旅するイスラエル人たちが、飲み水がなくて渇きで死にそうになったとき、神に命じられたモーセが、ナイル川を打った杖でホレブの岩を打つと、そこから水が出た、と記されている。

第二連・第一〇行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第一幕・第四七一六行、「岩の裂目(さけめ)から物凄じくほとばしる」、第二部・第四幕・第一〇七二〇―一〇七二一行、「乾(かわ)いた、禿(は)げた岩場(いわば)に、/豊富な、威勢のいい泉が迸(ほとばし)り出る。」より。

第二連・第一四行 ゲーテの『ファウスト』第一部・ワルプルギスの夜・第三九九五行、「岩の割目(われめ)から呼んでいるのは誰だ。」、講談社学術文庫の『古事記』(次田真幸全訳注)中巻・一八八ページにある、杖は「神霊の依り代(しろ)である。これを突き立てるのは、そこを領有したことを表わす。」という文章より。

第二連・第一五行―一八行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第一幕・第五八九八−五九〇一行。

第二連・第二八行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第一幕・第五九〇七行。

第二連・第三二行 三省堂のカレッジクラウン英和辞典に、「bibliomancy 聖書うらない(聖書を任意に開き、そのページのことばでうらなう)」とある。

第二連・第三四行 詩篇八一・一六、句読点加筆。

第二連・第三六―四二行 「わたしはアンフィダのそばに、美しい女たちが降りてくる井戸があったことを思い出す。ほど遠からぬところには、灰色とばら色の大きな岩があった。そのてっぺんには、蜜蜂が巣くっているといううわさを聞いた。そのとおりだ。そこには無数の蜜蜂がうなっている。彼らの蜜房は岩の中にある。夏になると、その蜜房は暑さのために破裂して、蜜を放り出し、その蜂蜜が岩にそって、流れ落ちる。アンフィダの男たちがやって来て、この蜜を拾いあつめる。」(ジイド『地の糧』第七の書、岡部正孝訳)より。なお、ジイドの『地の糧』からの引用はすべて岡部正孝訳であるので、以下、『地の糧』の翻訳者の名前は省略した。

第二連・第四三―四四行 土師記一四・八、「ししのからだに、はちの群れと、蜜があった。」、ゲーテ『ファウスト』第二部・第三幕・第九五四九行、「洞(ほら)になった木の幹(みき)からは蜂蜜(はちみつ)が滴(したた)る。」より。

第二連・第四七―四九行 筆者の一九九八年七月九日の日記の記述、「三省堂のカレッジクラウン英和辞典を開くと、burail 埋葬、burier 埋葬者、burin 彫刻刀、とあって、そのつぎに、固有名詞の Burke が二つつづき、burke 葬る、押える、とあり、さらに、末尾には、[William Burke (人を窒息死させてその死体を売ったため一八二九年、絞首刑に処せられたアイルランド人。)]と載っていた。」、一九九八年八月二十二日の日記の記述、「岩波文庫の『ことばのロマンス』(ウィークリー著、寺澤芳雄・出淵 博訳)の索引で、Burke を引くと、p.90 に、固有名詞からつくられた動詞の例として、burkeが挙げられていた。本文―→アイルランドのバーク(William Burke)は、死体を医学部の解剖用に売り渡すために多くの人々を窒息死させた廉(かど)で、1829年エディンバラで絞首刑に処せられた。この動詞は、現在では「(議案などを)握りつぶす、もみ消す」の意に限られているが、十九世紀中葉の『インゴルズビー伝説』では、まだ本来の意味「(死体をいためないように)扼殺する」で用いられている。」より。なお、七月九日の日記の余白に、朱色の蛍光サインペンで、「corpus=作品、死体」と書き加えてあったが、いつ書き加えたのか、正確な日付は不明である。しかし、William Burke からWilliam Blake を連想したときのことであろうから、本文の作成に入ったごく初期のころ、だいたい同年七月中旬から八月上旬までの間のことであろうと思われる。死体づくりに励んだ William と、作品づくりに励んだ William。二人が、名前だけではなく、corpus という単語でも結びつくことに、気がついた、ということである。

第三連・第一行 ROMA,CITTA,APERTA(邦題『無防備都市』)は、ロベルト・ロッセリーニ監督による、一九四五年制作のイタリア映画。

第三連・第二―四行 教養文庫の『ギリシア神話小事典』に、アルテミスは「月の女神」とある。また、マラルメが一八六四年十月にアンリ・カザリスに宛てて書いた手紙にある、「月光のもと、噴水の水のように、あえかなせせらぎと共に真珠(たま)となって落下する蒼い宝石だ。」(松室三郎訳)という文も参照した。イメージ・シンボル事典によると、真珠は、「愛および月の女神達の表象物」であるという。ちなみに、本作の第∨章の注解に出てくるヘラクレイトスは、「『自然について』と題する一連の論考から成っている」「書物を、アルテミスを祠(まつ)る神殿に献納した」(岩波書店『ソクラテス以前哲学者断片集』第I分冊第II部・第22章、三浦 要訳)という。

第三連・第五―九行 「「雨でも平気なの?」/「別に、地下鉄まで遠くはありませんし……」/「スーツが濡れるわよ」/「通りにばかりいるわけではありませんわ、私たち、映画にも行くし……」/「誰なの、『私たち』って」」(モーリヤック『夜の終り』I,牛場暁夫訳)より。

第三連・第二一行 ある詩人の作品とは、ボードレールの『美女ドローテ』(三好達治訳)のこと。

第三連・第二四行 呉 茂一の『ギリシア神話』第一章・第五節・一、「いつかもう九つの月がたったある日、アルテミスは森あいの池で、暑さをしずめに自らも沐浴(ゆあみ)し、伴(とも)のニンフたちにも衣を脱いで沐浴させた。そして羞(は)じらいに頬を染める少女も、強いて仲間入りをさせられたのであった。その姿を見ると、(きっと連れのニンフたちが、おそらくは嫉(ねた)みと意地悪と好奇心から、叫び声を立てたであろう)、アルテミスは、美しい眉を険しくひそめて、決然とした語調で叫んだ。「向うへ、遠くへいっておしまい。この聖(きよ)らかな泉を、汚すのは私が許しません。」」より。





II. You do not know what you are asking.


第II章のタイトルは、MATTHEW 20.22 "You do not know what you are asking."(マタイによる福音書二〇・二二、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。」)より。

第一連・第二一―三五行 ハンカチに関する記述は、つぎの文献による。冨山房『英米故事伝説辞典』 handkerchief の項、学習研究社『カラー・アンカー英語大事典』 handkerchief の項、小学館『万有百科大事典』ハンカチーフの項、平凡社『大百科事典』ハンカチーフの項。

第一連・第三七―三八行 本文で言及している、スタンダールの文章とは、「さあ書けたよ。地下道が敵に占領されないか心配だわ。早く机の上にある手紙をもって、ジュリオさまに渡してきておくれ。お前自身がだよ(、、、、、、)、わかって。それから、このハンカチをあのひとに渡して、いっておくれ。わたしはあのひとを、いつのときも愛していました、そして少しも変らず今の瞬間も愛していますって。いつのときも(、、、、、、)だよ、忘れるのじゃないよ!」(『カストロの尼』七、桑原武夫訳)のこと。

第三連・第三―四行 ゲーテの『ファウスト』第一部・市門の前・第一一五六行、「私には黒い尨犬しか何も見えませんが。」より。

第四連・第三行 「おれがあんなに大事に思って、お前にやったハンカチを/おまえはキャシオウにやった。」(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅 泰男訳)より。なお、第II章・第四連の注解では、シェイクスピアの『オセロウ』からの引用はすべて菅 泰男訳であるので、以下、第II章・第四連の注解では、『オセロウ』の翻訳者の名前は省略した。

第四連・第五―七行 シェイクスピアの『オセロウ』第三幕・第三場に、「苺(いちご)の刺繍(ししゆう)をしたハンカチを奥様がおもちになってるのを/ごらんになったことはありませんか?」、第三幕・第四場に、「あのハンカチは/あるエジプトの女から母がもらったのだが、/それは魔法使いで、人の心をたいていは読みとることが出来た。/その女が母に言ったということだ──これをもっている間は、/かわいがられて、父の愛をひとり/ほしいままに出来るが、万一これを失うか、/それとも人に贈るかしたら、父にいとわれ/嫌われて、父の心はよそに移り/新しい慰みを追うようになろうぞ、とな。母はいまわの際(きわ)に、それをおれにくれて、/おれが妻をめとることになったら、それを妻にやれと/言った。おれはその言いつけ通りにしたのだ。」、第五幕・第二場に、「ハンカチです。わたしの父が、その昔、母にやった/古いかたみの品なのです。」とある。一つのハンカチをめぐる二つのセリフのあいだに、ちょっとした矛盾が見られるが、劇の進行上、問題はない。ご愛嬌といったところだろうか。ところで、岩波文庫の『オセロウ』の解説のなかで、菅 泰男は、十七世紀末に、トマス・ライマーが、シェイクスピアの『オセロウ』のことを、「血みどろ笑劇」とか「ハンカチの喜劇」とか言って批判したことを紹介しているが、菅 泰男はまた、英宝社の『綜合研究シェイクスピア』のなかでも、「シェイクスピア批評史・1・十七世紀」のところで、ライマーの批判について、つぎのように言及している。「新古典主義の影響の著しい王政復古期には、イギリスでもシェイクスピアを完全にやっつけたものがあった。トマス・ライマー(Thomas Rymer, 1641-1713)という好古家は1678年と1693年に二つの悲劇論を書いて、イギリス人もギリシャの古典作家の基礎に立つべきであったと論じ、イギリス劇を手ひどく非難した。殊に後の著で『オセロ』をやっつけたのは有名である。この劇は「ハンカチーフの悲劇」だと彼はきめつける。「この芝居には、観客を喜ばせる、いくらかの道化と、いくらかのユーモアと、喜劇的機知のヨタヨタ歩きと、いくらかの見せ場と、いくらかの物真似とがある。が、悲劇的な部分はあきらかに味も素気もない残忍な笑劇にすぎない」と言う。」と。T・S・エリオットも、『ハムレット』という論文の原注に、ライマーの批判について、つぎのように書きつけている。「私はトマス・ライマーの『オセロ』非難にたいする確固たる反駁をまだ見たことがない。」(工藤好美訳)と。アガサ・クリスティーもまた、自分の作品のなかで、主人公のポアロに、シェイクスピアの『オセロウ』について、つぎのように批判させている。「イアーゴは完全殺人者だ。デズデモーナの死も、キャシオーの死も──じつにオセロ自身の死さえも──みなイアーゴによって計画され、実行された犯罪だ。しかも、彼はあくまで局外者であり、疑惑を受けるおそれもない──はずだった。ところがきみの国の偉大なシェイクスピアは、おのれの才能ゆえのジレンマと闘わなければならなかった。イアーゴの仮面を剥ぐために、彼はせっぱつまったすえなんとも稚拙な工夫──例のハンカチ──に頼ったのである。これはイアーゴの全体的な狡智とは相容れない小細工であり、まさかイアーゴほどの切れ者がこんなヘマをしでかすはずがないと、だれしも思うに違いない。」(『カーテン』後記、中村能三訳)と。

第四連・第八―六八行に出てくる人物についての注解 マルト、ジャックは、ラディゲの『肉体の悪魔』(新庄嘉章訳)から。名前の出てこないマルトの新しい恋人も、『肉体の悪魔』の主人公を参考にした。この主人公は、「『悪の華』を愛誦(あいしよう)して」おり、「マルトに『言葉(ル・モ)』紙のコレクションと『地獄の季節』を次の木曜日にもって行こうと約束した」。彼は、マルトが「ボードレールとヴェルレーヌを知っていることをうれしく思い、僕の愛し方とは違うけれども、彼女のボードレールを愛するその愛し方に魅惑された」のだという。シュトルムの『みずうみ』(高橋義孝訳)からは、ラインハルトの名前を拝借した。エリーザベトは、このラインハルトの幼なじみのエリーザベトと、コクトーの『怖るべき子供たち』(東郷青児訳)の主人公の姉、エリザベートから拝借した。アガート、ジェラール、ダンルジェロの三人の名前も、『怖るべき子供たち』から。

第四連・第二三行 「女主人はエリザベートの美しさに驚いた。残念なことに売り子の資格はいろいろの外国語を知っていなければならない。彼女はマネキンの職しか得られなかった。」(コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)より。

第四連・第四七―四八行 シュトルムの『みずうみ』の「森にて」の場面から。苺の下に敷くのに拡げられたハンカチから、シェイクスピアの『オセロウ』に出てくる、イチゴの刺繍が施されたハンカチを連想されたい。ちなみに、イメージ・シンボル事典によると、イチゴは、愛の女神や聖母マリアのエンブレムであるという。





III. You shall love your neighbor as yourself.


第III章のタイトルは、LEVITICUS 19.18 "you shall love your neighbor as yourself:"(レビ記一九・一八、「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」)より。

第一連・第一―二行 伝道の書一・六、「風は南に吹き、また転じて、北に向かい、/めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。」より。イメージ・シンボル事典によると、北は、冬、死、夜、神秘を、南は、夏、生命、太陽、理性を表わすという。この南北間を往復する地下鉄電車は、本作の第V章・第六連・第一―五行の注解で詳述する、人間の魂の「二極性」を象徴させている。

第一連・第三行 「駿馬(しゆんめ)痴漢(ちかん)を駄(の)せて走(はし)る」(大修館書店『故事成語名言大辞典』)より。

第一連・第四行 「感覚器官は感覚器官の対象に向かってはたらく。」(『バガヴァッド・ギーター』第五章、宇野 惇訳)より。

第一連・第七―八行 「眼は、まことに、把捉者である。それは超把捉者としての形によって捉えられる。なぜならば、人は眼によって形を見るからである。」(『ブリハッド・アーラヌヤカ・イパニシャッド』第三章・第二節、服部正明訳)より。

第一連・第九―一〇行 「鼻は、まことに、把捉者である。それは超把捉者としての香りによって捉えられる。なぜならば、人は鼻によって香りを嗅ぐからである。」(『ブリハッド・アーラヌヤカ・イパニシャッド』第三章・第二節、服部正明訳)より。

第一連・第一四行 箴言九・一三、「愚かな女は、騒がしく、みだらで、恥を知らない。」より。

第一連・第一五行 箴言一〇・一九、「自分のくちびるを制する者は知恵がある。」より。

第一連・第二五―二七行 「悪魔が陰鬱なのは、おのれがどこへ向かって行くかを知っているからだ。」(ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』下巻・第七日・深夜課、河島英昭訳)より。

第一連・第二九行 「彼のすがたは目に見えず、だれも彼を目で見ることはできない。彼は心によって、思惟(しい)によって、思考力によって表象される。このことを知る人々は不死となる。」(『カタ・ウパニシャッド』第六章、服部正明訳)より。

第一連・第三一―三三行 「僕はしばらくして一人の妊婦に出会った。彼女は重たい足どりで高い日向(ひなた)の塀に沿うて歩いていた。時々、手を延ばして塀をなでながら歩いた。塀がまだ続いているのを確かめでもするような手つきに見えた。そして、塀はどこまでも長く続いているのだ。」(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)より。

第二連・第三行 須賀敦子の『舗石を敷いた道』(ユリイカ一九九六年八月号に収載)、「雨もよいの空の下、四角い小さな舗石を波の模様にびっしりと敷きつめた道が目のまえにつづいていた。」より。

第三連・第六―一〇行 「ちっちゃな丸顔がとび出して、彼に話しかけた。/「あたしザジよ、ガブリエル伯父さんでしょ」/「さよう」ガブリエルは気取った口調で答える。「そなたの伯父さんじゃよ」小娘はくすくす笑う。」、「「地下鉄に乗るの?」/いいや」/「どうして? なぜ乗らないの?」」(レーモン・クノー『地下鉄のザジ』1、生田耕作訳)より。

第三連・第五―七行 ゲーテの『ファウスト』第一部・魔女の厨・第二四九九行、「馬の足というやつも、無くちゃおれも困るんだが、」、第一部・魔女の厨・第二五〇二行、「贋(にせ)のふくらはぎをつけて出(で)歩(ある)いているのさ。」、第一部・ワルプスギスの夜・第四〇三〇行、「つむじ曲がりの霊だな、君は。」より。イメージ・シンボル事典によると、ゲーテの『ファウスト』に出てくる悪魔のメフィストーフェレスは両性具有者であるという。エリオットの『荒地』に出てくる予言者のティーレシアスも二(ふた)成(な)りである。本作では、ティーレシアスが、エリオットの『荒地』において果たした役割を、メフィストーフェレスに担わせている。

第三連・第九―一四行 オー・ヘンリーの『賢者の贈りもの』(大津栄一郎訳)より。

第三連・第一五―一九行 オー・ヘンリーの『古パン』(大津栄一郎訳)より。

第三連・第三〇―三九行 「もう五年がすぎたのだ!」、「身にしみて感じるひまもなかったほど、それほど速く過ぎさってしまったあの幸せな十年の歳月!」、「若い妻は、やっと三重を迎えるというのに死んでしまった。」(ローデンバック『死都ブリュージュ』I、窪田般彌訳)より。

第三連・第四五―四八行 「セヴリヌは、その男のうしろすがたをちらつと見ただけだが、それには見おぼえがあつたのだ。がつちりとした体格といい、着くずれた背広といい、それに、あの、品のない肩つきといい、首つきといい……」(ケッセル『昼顔』四、桜井成夫訳)より。なお、ケッセルの『昼顔』からの引用はすべて桜井成夫訳であるので、以下、『昼顔』の翻訳者の名前は省略した。

第三連・第四九行 マダム・アナイスは、セヴリヌが春をひさぐ淫売宿の女主人。

第三連・第五〇行 「「恥ずかしいんだね、ええ、恥ずかしいんだね。でも、今に嬉しがらせてやるからな、見ていて御覧」とアドルフさんが、ささやいた。」(ケッセル『昼顔』五)より。このアドルフという人物は、セヴリヌが、マダム・アナイスの淫売宿で最初に寝た客。

第四連・第一行 箴言五・一八、「あなたの泉に祝福を受けさせ、/あなたの若い時の妻を楽しめ。」より。

第四連・第二―三行 「何方(いづかた)より來たりて、何方(いづかた)へか去る。」(鴨 長明『方丈記』一)より。

第四連・第四行 伝道の書三・一、「すべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」より。

第四連・第五行 伝道の書三・八、「愛するには時があり、憎むに時があり、」より。

第四連・第六行 「この生涯において、ただ一度めぐり合った地上の恋人、その名前すら、私は知らなかったし、その後も知ることがなかった。」(ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』下巻・第五日・終課、河島英昭訳)より。

第四連・第七行 「似通ってはいたが、同じといえるものは何一つなかった。」(サバト『英雄たちと墓』第II部・19、安藤哲行訳)より。なお、サバトの『英雄たちと墓』からの引用はすべて安藤哲行訳であるので、以下、『英雄たちと墓』の翻訳者の名前は省略した。

第五連・第一―三行 マタイによる福音書二六・三四、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」より。なお、第五連は、一か所をのぞき、すべて、聖書からの引用で構成した。ちなみに、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』に、つぎのようなセリフがある。「悪魔でも聖書を引くことができる。」(第一幕・第三場、中野好夫訳)。

第五連・第四行 マタイによる福音書二八・一〇、「恐れることはない。」、ヨハネによる福音書一〇・一一、「わたしはよい羊飼である。」より。

第五連・第五行 マタイによる福音書三・一七、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」より。

第五連・第六―一〇行 マタイによる福音書六・三―四、「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」、箴言九・一七、「「盗んだ水は甘く、/ひそかに食べるパンはうまい」」より。しかし、聖書のなかには、「なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。」(マルコによる福音書四・二二)といった言葉もある。

第五連・第一一行 詩篇三五・二一、「彼らはわたしにむかって口をあけひろげ、/「あはぁ、あはぁ、われらの目はそれを見た」と言います。」より。

第五連・第一三行 マタイによる福音書三・一〇、「斧がすでに木の根もとに置かれている。」より。

第五連・第一四―一六行 マタイによる福音書五・四〇、「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には上着をも与えなさい。」より。

第五連・第一七行 マタイによる福音書一五・二八、「女よ、あなたの信仰は見上げたものである。」より。

第五連・第一八行 マルコによる福音書一五・三九、「まことに、この人は神の子であった」より。

第五連・第一九―二一行 マタイによる福音書五・四一、「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。」より。

第五連・第二二行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第三四五行、「この生き生きした豊かな美を楽しむがよい。」より。

第六連・第二―六行 出雲神話の一つ、因幡(いなば)の白兎の話(『古事記』上巻)より。

第六連・第九行 ヘラクレイトスの『断片八二』、「もっとも美しい猿も、人類に比べたら醜い」(ジャン・ブラン『ソクラテス以前の哲学』鈴木幹也訳)より。

第六連・第一〇―一一行 シェイクスピアの『空騒ぎ』第二幕・第一場の、「嫁に行きそこなった女は、子供のためにあの世の道案内が出来ないから、その代り猿の道案内をさせられると言いましょう、だから、私、今のうちに見せ物師から手附けを貰っておいて、死んだらその猿を地獄まで連れて行ってやる積りよ。」(福田恆存訳)というセリフを引いて、「「老嬢は地獄でサルを引く」という諺は、知れ渡っていたようである。」と、イメージ・シンボル事典に書かれている。ただし、この注解で引用したシェイクスピアの件(くだん)のセリフは、イメージ・シンボル事典に掲載されているものではない。また、事典にあるものよりもより広範囲に引用した。ボードレールが、「動物の中で猿だけが、人間以上であると同時に人間以下であるあの巨大な猿だけが、ときに女性に対して人間のような欲望を示すことがある。」(『一八五九年のサロン』9、高階秀爾訳)と述べているのが、たいへん興味深い。なお、ボードレールの『一八五九年のサロン』からの引用はすべて高階秀爾訳であるので、以下、『一八五九年のサロン』の翻訳者の名前は省略した。猿に関しては、何人もの詩人や作家や哲学者たちが面白いことを述べている。以下に、引用しておこう。「コロンビアの大猿は、人間を見ると、すぐさま糞をして、それを手いっぱいに握って人間に投げつけた。これは次のことを証明する。/一、猿がほんとうに人間に似ていること。/二、猿が人間を正しく判断していること。」(ヴァレリー『邪念その他』J、佐々木 明訳)、「simia, quam similis, turpissima bestia, nobis!/最も厭はしき獸なる猿は我々にいかによく似たるぞ。」(Cicero, De Natura Deorum.I,3,5. 『ギリシア・ラテン引用語辭典』収載)、「かつてあなたがたは猿であった。しかも、いまも人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上に猿である。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部・ツァラトゥストラの序説・3、手塚富雄訳)、「猿(さる)の檻(おり)はどこの国でもいちばん人気がある。」(寺田寅彦『あひると猿』)、「純粋に人間的なもの以外に滑稽(コミツク)はない」(『天国の夏』)のである。なお、『ツァラトゥストラ』からの引用はすべて手塚富雄訳であるので、以下、『ツァラトゥストラ』の翻訳者の名前は省略した。

第六連・第一二行 イギリスの博物学者ジョン・レーの「ロバにはロバが美しく、ブタにはブタが美しい。」(金子一雄訳)という言葉より。講談社『[英文対訳]名言は力なり』シリーズの一冊、『悪魔のセリフ』に収められている。

第六連・第一三―一四行 「愛(性愛)あるいは恋を意味するエロースという語は、そのまま神格としてギリシア人の間に認められて来た。ローマでは「欲望」 Cupido クピードーの名をこれにあてている、すなわちキューピッドである。」(呉 茂一『ギリシア神話』第一章・第七節・一)より。

第六連・第一五―一六行 「さらに不死の神々のうちでも並びなく美しいエロースが生じたもうた。/この神は四肢の力を萎(な)えさせ 神々と人間ども よろずの者の/胸のうちの思慮と考え深い心をうち拉(ひし)ぐ。」(ヘシオドス『神統記』原初の生成、廣川洋一訳)より。

第六連・第一八行 「「だが、君、もしそれがほんとうなら、何も君は証人を必要とすまい、ここにロドスがある、さあ、跳んで見給え。」/この話は、事実によって証明することのてっとり早いものについては、言葉は凡て余計なものである、ということを明らかにしています。」(『イソップ寓話集』五一駄法螺吹き、山本光雄訳)より。

第七連・第二―三行 「伊邪那美命言(まを)さく、愛(うつく)しき我(あ)がなせの命かくせば、汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千(ち)頭(かしら)絞(くび)り殺さむ」とまをしき。ここに伊邪那岐命詔りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、汝(いま)然(し)せば、吾(あれ)一日に千五百(ちいほ)の産(うぶ)屋(や)立てむ」とのりたまひき。」(次田真幸全訳注『古事記』上巻・伊邪那(いざな)岐(きの)命(みこと)と伊邪那(いざな)美(みの)命(みこと)・五・黄泉(よみの)国(くに))より。





IV. It was I who knew you in the wilderness.


第IV章のタイトルは、HOSEA 13.5 "It was I who knew you in the wilderness,/in the land of drought;"(ホセア書一三・五、「わたしは荒野で、またかわいた地で、あなたを知った。」)より。

第一連・第四行 ゲーテの『ファウスト』第一部・書斎・第一三二三行、「なんだ、これが尨犬の正体か。」そうだったのである。イメージ・シンボル事典のMephistopheles メフィストフェレスの項に、「独立と真の自己を獲得するため、全なるもの the All から離脱した魂の否定的な側面を表す。」とある。





V. Behold the man!


第V章のタイトルは、JOHN 19.5 ""Behold the man!;""(ヨハネによる福音書一九・五、「「見よ、この人だ」」)より。

第一連・第四行 「ことば、ことば、ことば。」(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)より。

第一連・第一二―一三行 「poet(詩人)という言葉は、もとをたどれば小石の上を流れる水の音を表すアラム語に行きつく。」(ダイアン・アッカーマン『「感覚」の博物誌』第4章、岩崎 徹訳)より。

第一連・第一五行 「人生を愛してこそ詩人だ。」(オネッティ『古井戸』杉山 晃訳)より。

第一連・第一六―一七行 ジイドは、『地の糧』第六の書で、「わたしは唇が渇きをいやした泉を知っているのだ。」と述べているが、第一の書・一には、「しかし泉というものは、むしろ、われわれの欲望がわき出させる場所にあるのだろう。なぜならば、土地というものは、われわれが近寄りながら形づくってゆく以外には、存在はしないし、まわりの風景もわれわれの歩むにしたがって、少しずつ形が整ってゆくからだ。」と書いている。

第一連・第一八行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第三三八―三三九行、「およそ否定を本領とする霊どもの中で、/いちばん荷(に)厄介(やつかい)にならないのは悪戯者(いたずらもの)なのだ。」、天上の序曲・第三二〇行、「わたしのいちばん好きなのは、むっちりした生きのいい頬(ほ)っぺたなんで。」より。

第一連・第一九―二一行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第三二四―三二六行、「あれの魂をそのいのちの本源からひきはなし、/もしお前につかまるものなら、/あれを誘惑してお前の道へ連れこむがよい。」より。

第一連・第二四行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一八三四―一一八三九行、「いい年をして、まんまと騙(だま)されやがった。/自(じ)業(ごう)自(じ)得(とく)というものだが、はてさて景気が悪い。/人に顔向けもならん大失敗だて。/骨折損のくたびれ儲(もう)けとは、いい面(つら)の皮(かわ)だ。/甲(こう)羅(ら)のはえた悪魔のくせに、/卑しい情欲や愚かな色気に負けたとは。」より。

第一連・第三〇行 ニーチェの『ツァラトゥストラ』第四・最終部・晩餐(ばんさん)、「なるほど泉の湧(わ)く音はここにもしている、それはあの知恵のことばと同様に、ゆたかに倦(う)むことなく湧いている。」より。

第一連・第三一行 「御血統の泉が、源が、涸(か)れ果ててしまったのです──流れのもとが止ってしまったのだ。」(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第三場、福田恆存訳)より。

第一連・第三二行 ニーチェの『ツァラトゥストラ』第一部・贈り与える徳・2、「新しい深い水のとどろき、新しい泉の声なのだ。」より。

第一連・第三四行 ゲーテの『のファウスト』第一部・ワルプルギスの夜・第三九三八行、「この岩の古い肋(あばら)骨(ぼね)につかまっていてください。」より。

第二連・第三行 「自分ならぬ別の女を見ているような気がした。」(ケッセル『昼顔』四)より。

第二連・四行 マルガレーテは、ゲーテの『ファウスト』第一部のヒロインの名前である。第二部・第五幕の最後の場面にも登場する。

第二連・第六―一〇行 グレートヘンは、岩波文庫の『ファウスト』第一部の巻末にある第二八一三行の註にあるように、マルガレーテの愛称である。以下、『ファウスト』第一部・庭園・第三一七七行、「可愛いひと。」、第一部・街路・第二六一三行、「あの唇の赤さ、頬の輝き。」、第一部・庭園・三一三六行、「あなたは確かに最も浄(きよ)らかな幸福を味わわれたんです。」、第一部・街路・第二六一一―二六一二行、「躾(しつ)けがよく、慎(つつ)ましやかで、/しかもいくらかつん(、、)としたところもある。」、第一部・庭園・第三一〇二―三一〇三行、「ああ、単純や無邪気というものは、自分自身をも、/自分の神聖な値(ね)打(うち)をも一向知らずにいるのだからなあ。」より。

第三連・第二―七行 デイヴィッド・ボーンは、ヘミングウェイの『エデンの園』(沼澤洽治訳)の主人公の名前。キャスリン・ボーンは、その妻。以下、『エデンの園』第一部・1、「むらなく焼けているのは、遠い浜まで出かけ、二人とも水着を脱ぎ棄てて泳ぐおかげである。」、第三部・9、「スカンジナヴィア人なみのブロンド」、「白いブロンド」、第一部・1、「両横はカットしたので、平たくついた耳がくっきりと出、黄茶色の生え際が頭にすれすれに刈り込まれた滑らかな線となって後ろに流れる。」、第三部・9、「そっくり同じにして」、第一部・1、「夫婦と名乗らずにいると、いつも兄妹に見間違えられた。」、「二人が結婚してから三週間めである。」より。なお、『エデンの園』からの引用はすべて沼澤洽治訳であるので、以下、『エデンの園』の翻訳者の名前は省略した。
 イメージ・シンボル事典を見ると、「対のもの、双子」は、「相反する2つのものを表す。たとえば、生と死、日の出と日没、善と悪、牧羊者と狩猟者、平坦な谷と切り立った山。そしてこの相反するものが結局は、総合し補足しあう働きをする。」とあり、「2」は、「たとえば、積極性と消極性、生と死、男と女、といった両極端の、相違する、二元的な、相反するもの(の結合)を表す。」とある。本作において、対になった二つのものが多く現われるのも、また、さまざまなものが二度現われるのも、偶然ではない。それが、本作のもっとも重要なモチーフを暗示させるからである。

第三連・第八行 ヘミングウェイの『エデンの園』第一部・1、「「ね、キスして」と言った。」より。

第三連・第一二行 ヘミングウェイの『エデンの園』第三部・10、「お揃いで見せびらかすの嫌?」より。

第三連・第一三行 ヘミングウェイの『エデンの園』第三部・10、「「いいとも、悪魔。僕が嫌なわけあるまい?」」より。

第四連・第一行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第四幕・第一〇一九三行、「何を人間が渇望(かつぼう)しているか、君なんかにわかるかね。」より。

第四連・第二行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第二八一―二八二行、「この、地上の小神様はいつも同じ工合にできていて、/天地開闢の日と同じく変ちきりんな存在です。」より。

第四連・第三行 創世記一八・一四行、「主に不可能なことがあろうか。」より。

第四連・第四行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第二九〇行、「脚のながいきりぎりす(、、、、、)」より。

第四連・第六―八行 ゲーテの『ファウスト』第一部・夜・第五六六―五六九行、「あんな古文献などというものが、一口飲みさえすれば/永久に渇(かわ)きを止めてくれる霊泉ででもあるのかね。/爽(さわや)かな生気は、それが君自身の、/魂の中から湧(わ)き出すのでなければ得られはしない。」より。

第四連・第九行 「名前があると、彼女のことが考えやすい。」(ロバート・B・パーカー『ユダの山羊』12、菊池 光訳)ので。ちなみに、ゲーテの『ファウスト』第一部・魔女の厨・第二五六五―二五六六行と、第一部・書斎・第一九九七―一九九九行に、「通例人間というものは、なんでも言葉さえきけば、/そこに何か考えるべき内容があるかのように思うんですね。」、「言葉だけで、立派に議論もできる、/言葉だけで、体系をつくりあげることもできる、/言葉だけで、立派に信仰を示すことができる、」とある。まことに考えさせられる言葉である。また、シェイクスピアの『夏の夜の夢』第五幕・第一場に、「詩人の眼は、恍惚たる霊感のうちに見開き、/天より地を眺め、地より天を望み」(土居光知訳、旧漢字部分を新漢字に改めて引用)、「そして想像力がいまだ人に知られざるものを/思い描くままに、詩人のペンはそれらのものに/たしかな形を与え」(小田島雄志訳)、「現実には在りもせぬ幻に、おのおのの場と名を授けるのだ。」(福田恆存訳、旧漢字部分を新漢字に改めて引用)という、よく知られた言葉もある。このよく知られた言葉を、三人の翻訳者によるものを切り貼りして引用したのは、どの翻訳者のものにも一長一短があって、一人の訳者によるものだと、かならずどこか欠けてしまうところがあると筆者には思われたからである。どの訳がいちばんよいのか、散々、悩んだのであるが、悩んでいるうちに、ふと、こんなことを考えた。選べるから、選択しようとするのである、と。選べない状態では、選択しようがないからである。また、比べることができるから、不満も出るのだ、と。そういえば、ひとむかしも、ふたむかしもまえのことなのだが、田舎に住むゲイ・カップルの交際は長つづきすると言われていた。都会のように、つぎつぎと相手を見つけることができないからだというのだ。簡単に違った相手を見つけられると思うと、いまいる相手にすぐに不満もつのるものなのだろう。たしかに、これを捨てても、あれがある、という選べる状態であったら、いまあるものを簡単に捨ててしまって、ほかのものに乗り換えることに、それほど躊躇はしないものだろう。簡単に捨ててしまうのだ。そういえば、『源氏物語』には、つぎのような言葉があった。「ぜんぜん人を捨ててしまうようなことを、われわれの階級の者はしないものなのだ。」(紫 式部『源氏物語』真木柱、与謝野晶子訳)、「今日になっては完全なものは求めても得がたい、足らぬところを心で補って平凡なものにも満足すべきであるという教訓を、多くの経験から得てしまった自分である」(紫 式部『源氏物語』若菜(上)、与謝野晶子訳)。筆者も、はやくそういった境地に至りたいものである。もうとっくに、そういった境地に達していなければならない年齢になっていると思われるからである。

第五連・第三―四行 ゲーテの『愛するベリンデへ』高橋健二訳、「その時もう私はお前のいとしい姿を/この胸の奥ふかく刻んだのだった。」、ゲーテの『ファウスト』第一部・街路・第二六二九行、「可愛い花は」より。平凡社の世界大百科事典に、マーガレット Margaret (Marguerite)の「語源はギリシア語のマルガリテス margarites ならびにラテン語のマルガリータ margarita で<真珠>の意味である。花の名前としては国によりさす植物がちがい、英語ではモクシュンギク Chrysanthemum frutescena、ドイツ語ではフランスギク、フランス語ではヒナギクをいう。また各国語とも他のキク科植物を含む総称ともされている。」とある。「いずれにしても花びらは白かうす黄色で花の心は金色である。」と、研究社の『英語歳時記/春』にある。花言葉を、柏書房の『図説。花と樹の大事典』で調べると、マーガレットは「誠実」と「正確」、ヒナギクは「無邪気」と「平和」であった。カレッジクラウン英和辞典で、マーガレットの語源である真珠の項を見ると、「精粋、典型:a pearl of woman──女性の中の花」という、語意と成句が載っている。シェイクスピアの『オセロウ』の第五幕・第二場にある、劇のクライマックスで、オセロウは、愛する妻を真珠にたとえて、よく知られている、つぎのようなセリフを口にする。「どうか、いささかもおかばい頂くこともなく、さりとて誣(し)いられることもなく、/ありのままにわたしのことをお伝え下さい。それから、お話し下さい、/懸命に愛するすべは知らなかったが、心の底から愛した男、/嫉妬しやすくはなかったのだが、はかられて/心極度に乱れ、愚かしいインディアンのように/その種族のすべてにもかえられぬ、貴い真珠の玉を/われとわが手から投げうってしまいました、と。」(菅 泰男訳)。シェイクスピアの『オセロウ』のヒロイン、デズデモウナと、ゲーテの『ファウスト』のヒロイン、マルガレーテの二人のヒロインが、真珠という語で結びつくことで、あらためて二つの作品が悲劇であったことに気づかされた。真珠は、美しい女性にたとえられるだけではなく、イメージ・シンボル事典に、「(とくにローマ人に)涙を連想させる。」とあるように、悲しみを象徴するものとしても用いられるのである。

第六連・第一―五行 ゲーテの『ファウスト』第一部・市門の前・第一一一二―一一一七行、「おれの胸には、ああ、二つの魂が住んでいて、/それが互に離れたがっている。/一方のやつは逞(たくま)しい愛慾に燃え、/絡(から)みつく官能をもって現世に執着する。/他のものは無理にも塵(ちり)の世を離れて、崇高な先人の霊界へ昇ってゆく。」より。

 ノエル・コブは、『エロスの炎と誘惑のアルケミー』に、古代ギリシアのパパイラスの、つぎのような言葉を引いている。エロスとは「暗く神秘的で、思慮分別のある要領の良い考えは隠れその代わりに暗く不吉な情熱を吹き込む」「どの魂の潜みにも隠れ住んでいる」(中島達弘訳、ユリイカ一九九八年十二月号)ものである、と。ノエル・コブの引用自体が孫引きであるので、筆者のものは曾孫引きということになる。

 パスカルの『パンセ』第六章(前田陽一訳)にある、断章四一二、断章三七七、断章四一七に、「理性と情念とのあいだの人間の内戦。/もし人間に、情念なしで、理性だけあったら。/もし人間に、理性なしで、情念だけあったら。/ところが、両方ともあるので、一方と戦わないかぎり、他方と平和を得ることがないので、戦いなしにはいられないのである。こうして人間は、常に分裂し、自分自身に反対している。」、「われわれは、嘘(うそ)、二心、矛盾だらけである。」、「人間のこの二重性はあまりに明白なので、われわれには二つの魂があると考えた人たちがあるほどである。」とある。なお、『パンセ』からの引用はすべて前田陽一訳であるので、以下、『パンセ』の翻訳者の名前は省略した。

 ボードレールは、『赤裸の心』(阿部良雄訳)の一一と二四に、「あらゆる人間のうちに、いかなるときも、二つの請願が同時に存在して、一方は神に向かい、他方は悪魔に向かう。神への祈願、すなわち精神性は、向上しようとする欲求だ。悪魔への祈願、すなわち獣性は、下降することのよろこびだ。」、「快楽を好む心は、われわれを現在に結びつける。魂の救いへの関心は、われわれを未来につなぐ」と述べている。なお、ボードレールの『赤裸の心』からの引用はすべて阿部良雄訳であるので、以下、『赤裸の心』の翻訳者の名前は省略した。

 ゲーテの『ファウスト』第一部・夜・第七八四行に、「おれはまた地上のものとなった。」というセリフがある。ボードレールのいう二つの請願というものを、ゲーテの言葉を用いて言い現わすと、「天上的なものに向かうものと、地上的なものに向かうもの」とでもなるであろうか。

 プルーストの『失われた時を求めて』(鈴木道彦訳)の第三篇『ゲルマントの方』や、第五篇『囚われの女』にも、「私たちは、二つある地からのどちらかを選んで、それに身を委ねることができる。一方の力が私たち自身の内部から湧き上がり、私たちの深い印象から発散するものなのに対して、他方の力は外部から私たちにやってくる。」とか、「一方には健康と英知、他方には精神的快楽、常にそのどちらかを選ばなければならない。」とかいった文章がある。なお、プルーストの『失われた時を求めて』からの引用はすべて鈴木道彦訳なので、以下、『失われた時を求めて』の翻訳者の名前は省略した。

 新潮文庫の『ヴェルレーヌ詩集』の解説で、堀口大學は、ヴェルレーヌが、「一つは善良な、他は悪魔的な、二重人格が平行して(、、、、)自分の内に存在すると確認したらしいのだ。善と悪、異質の二つの鍵盤(けんばん)の上を、次々に、または同時に、往来するように自分が運命づけられていると気づいたというわけだ。」と述べているが、ヴェルレーヌ自身、『呪はれた詩人達』の「ポオヴル・レリアン」の項(鈴木信太郎訳、旧漢字を新漢字に改めて引用。ちなみに、ポオヴル・レリアンとは、ヴェルレーヌ自身の子と)に、「一八八〇年以後、彼の作品は、二種類の明瞭に区別される領域に分けられる。そしてなほ将来の著作の予想は、次の事実を明らかにする。即ち、彼は、同時的ではないとしても(且又、この同時的といふことは、偶然の便宜に起因して、議論からは外れるのだ)、尠くとも並行的に、絶対に異つた観念の作品を発表して、この二種類の傾向といふシステムを続けようと決意した事実である。」と書いており、さらに、「信仰」と「官能」という、この二つの領域への志向が、彼のなかでは思想的に統一されていて、「一つの祈りのみによつても、また一つの感覚的印象のみによつても、多くの著作を易々と作り得るし、その反対に、それぞれによつて同時に唯一つの著作を、同じく自在に、作り得るのである。」とまで言うのであるが、これらの言葉には、ヘラクレイトスの「対峙するものが和合するものであり、さまざまに異なったものどもから、最も美しい調和が生じる。」(『断片8』内山勝利訳)や、「万物から一が出てくるし、一から万物が出てくる。」(『ヘラクレイトスの言葉』一〇、田中美知太郎訳)といった思想の影響が如実に表れているように思われる。

 右の引用に見られるような、いわゆる「反対物の一致」という、ヘラクレイトスの考え方が、後世の詩人や作家たちに与えた影響はまことに甚だしく、その大きさには計り知れないものがある。「俺は 傷であつて また 短刀だ。」(『我とわが身を罰する者』鈴木信太郎訳)と書きつけたボードレールや、「心して言葉をえらべ、/「さだかなる」「さだかならぬ」と/うち交る灰いろの歌/何ものかこれにまさらん。」(『詩法』堀口大學訳)と書きつけたヴェルレーヌについては言うまでもなく、「また見附かつた、/何が、永遠が、/海と溶け合ふ太陽が。」(『地獄の季節』錯乱II、小林秀雄訳。海 mer は女性名詞であり、太陽 soleil は男性名詞である。また、海は水を、太陽は火を表わしている。)と書きつけたランボーにおいても、その影響は著しい。また、「異端者の中の異端者だったわたしは、かけ離れた意見や、思想の極端な変化や、考えの相違などに、つねに引きつけられた。」(『地の糧』第一の書・一)というジイドも、『贋金つかい』の第二部・三に、「二つの相容れない要求を頭の中に蔵していて、両者を調和させようとしている」(川口 篤訳)と書きつけている。現実にも、ときには、あるいは、しばしば、この言葉どおりの状況にジイドが直面したであろうことは、想像に難くない。また、プルーストの『失われた時を求めて』の第三篇『ゲルマントの方』にも、「その二つは互いに相容れないように見えるかもしれないが、それが合わさるとはなはだ強力になるものであった。」といった言葉があり、トーマス・マンの『魔の山』(佐藤晃一訳)の第六章にも、「対立するものは」「調和しますよ。調和しないのは中途半端な平凡なものにすぎません。」といった言葉がある。プルーストやトーマス・マンが、ボードレールやジイドらとともに、ヘラクレイトスの系譜に列なる者であることは明らかであろう。なお、ジイドの『贋金つかい』からの引用はすべて川口 篤訳であるので、以下、『贋金つかい』の翻訳者の名前は省略した。

 堀口大學は、前掲の『ヴェルレーヌ詩集』の解説で、「極端に背(はい)馳(ち)する二つの性格間の激しい争闘とも解されるこの詩人の生涯と作品から、一種の偉大さがにじみ出る」などと述べているが、ヴェルレーヌの偉大さなどいっさい認めず、その矛盾に満ちた人生に、なによりも混沌を見て取る者の方が多いのではなかろうか。ヴェルレーヌの『煩悶』に、「私は悪人も善人も同じやうに見る。」(堀口大學訳、旧漢字を新漢字に改めて引用)といった詩句があるが、筆者には、これが、「悪人」とか「善人」とかいったものをきちんと弁別した上で書きつけたものであるとは、とうてい思えないのである。そういえば、犯罪の種類も程度も異なるが、ヴェルレーヌと同様に刑務所に収監されたことのあるヴィヨンもまた、『ヴィヨンがこころとからだの問答歌』に、「美と醜も一つに見えて、見分けがつかぬ。」(佐藤輝夫訳)といった詩句を書きつけていた。ちなみに、これらの詩句と類似したものに、ヘラクレイトスの「上がり道と下り道は同じ一つのものである。」(『断片60』内山勝利訳)や、ゲーテの「では降りてゆきなさい。昇ってゆきなさい、といってもいい。/おなじことなんです。」(『ファウスト』第二部・第一幕・第六二七五―六二七六行)や、シェイクスピアの「きれいは穢(きたな)い、穢いはきれい。」(『マクベス』第一幕・第一場、福田恒存訳)や、ランボーの「ここには誰もいない、しかも誰かがいるのだ、」、「俺は隠されている、しかも隠されていない。」(『地獄の季節』地獄の夜、小林秀雄訳)や、ヴァレリーの「異なるものはすべて同一なり」、「同一なるものはすべて異なる」(『邪念その他』A、佐々木 明訳)といったものがあるが、この類のものは、例を挙げると、枚挙に遑(いとま)がない。ヴェルレーヌのことを考えると、筆者には、サバトの『英雄たちと墓』第I部・13にある、「彼の心は一つの混沌だった。」といった言葉が真っ先に思い浮かんでしまうのだが。

 しかし、ワイルドが、『芸術家としての批評家』の第二部で語った、「われわれが矛盾してゐるときほど自己に真実であることは断じてない」(西村孝次訳、旧漢字を新漢字に改めて引用)というこの言葉に結びつけて、ヴェルレーヌがいかに「自己に真実であ」ったかということを思い起こすと、たしかにその意味では、堀口大学が述べていたように、「この詩人の生涯と作品から、一種の偉大さがにじみ出」ていることを全面的に否定することはできないように思われるのだが、それでもやはり、その生涯の傍若無人ぶりといったものをつぶさに振り返ってみれば、あらためて、先の堀口大學の言説を否定したい、という気持ちにも駆られるのである。なお、ワイルドの作品からの引用はすべて西村孝次訳であるので、以下、ワイルドの作品の翻訳者の名前は省略した。また、それらの引用はみな、旧漢字部分を新漢字に改めた。

「私たち哀れな人間は/善いことも悪いこともできる。/動物であると同時に神々なのだ!」、この詩句が、だれのものであるか、ご存じであろうか。ヴェルレーヌと同じように、一生のあいだ、自己の魂の二極性に苦しめられたヘッセのもの(『平和に向って』高橋健二訳)である。ヴェルレーヌとヘッセとでは、ずいぶんと生きざまが違うように見えるが、魂の二極性に苦しめられたという点では、共通しているのである。ヘッセが、『荒野の狼』(手塚富雄訳)で、主人公のハリー・ハラーについて、「感情において、あるときは狼として、あるときは人間として生活していた」というとき、それがハリーひとりのみならず、自己も含めて、魂の二極性に苦しんだあらゆる人間について語っていることになるのである。じっさい、ヘッセは、『荒野の狼』に、つぎのように書いている。「ハリーのような人間はかなりたくさんある。多くの芸術家は特にそうである。この種類の人間は二つの魂、二つの性質をかねそなえている。彼らのうちには神的なものと悪魔的なもの、父性的な血と母性的な血、幸福を受け入れる能力と悩みを受け入れる能力が対峙したり、ごっちゃになったりして存在している。」と。そして、「なぜ彼が彼の笑止な二元性のためにそんなにひどく苦しんでいるか」というと、「ファウストと同様、二つの魂は一つの胸にはすでに過重のもので、胸はそのために破裂するに違いないと信じている」からであるという。「しかし実は二つの魂ではあまりに軽すぎるのである。」といい、「人間は数百枚の皮からできている玉葱(たまねぎ)であり、多くの糸から織りなされた織り物である。」というのである。つまり、「ハリーが二つの魂や、二つの人格から成り立っていると思うのは彼の空想にすぎない、人間はだれしも十、百、もしくは千の魂から成り立っている」のだというのである。

 プルーストの『失われた時を求めて』の第五篇『囚われの女』にも、「私は一人のアルベヌチーヌのなかに多くのアルベヌチーヌを知っていたから、今も私のかたわらにまだまだ多くの彼女が横たわっているのを見る思いであった。」、「彼女はしばしば私の思いもかけぬ新たな女を創(つく)りだす。たった一人の娘でなく、無数の娘たちを私は所有しているような気がする。」とあるが、たしかに、このような感覚は、ひとが恋愛相手に対して持つ、ある種の戸惑いや躊躇といったものがなぜ生じるのか、と考えれば、不思議でもなんでもない、ごくありふれたふつうの感覚として、たちまち了解されるものであろう。

 ワイルドが、『芸術家としての批評家』の第一部で、「もっとも完璧な芸術とは、人間をその多様性において剰すところなく映し出すところの芸術だ」と述べているが、そういった芸術を創り出すために、これまで芸術家はさまざまな方法を試みてきた。たとえば、ロートレアモンは、フェルボックホーフェンに宛てて送った一八六九年十月二十三日付の手紙に、「ぼくは悪を歌った、ミッキエヴィッチやバイロンやミルトンやスーゼーやミュッセやボードレールなどと同じように。もちろん、ぼくはその調子を些(いささ)か誇張したが、それも、ひたすら読者をいためつけ、その薬として善を熱望させるためにのみ絶望をうたう、このすばらしい文学の方向のなかで新しいものを作りだすためなのだ。」(栗田 勇訳)と書いているが、たしかに、『マルドロールの歌』は、二元的なもののうち、一方のみを強調して描くことによって、他の方をも暗示させるという手法の、そのもっとも成功した例であろう。まさに、「一方を思考する者は、やがて他方を思考する。」(『邪念その他』A、佐々木 明訳)という、ヴァレリーの言葉どおりに。また、「常に悪を欲して、/しかも常に善を成す」(ゲーテ『ファウスト』第一部・書斎・第一三三六―一三三七行)というメフィストーフェレスのセリフに呼応するように、両極の一方での体験がもう一方の境地を導く、その一部始終を描いてみせる、という手法もある。もちろん、ゲーテの『ファウスト』は、その手法のもっとも成功した例であろう。『ファウスト』は、そして、『マルドロールの歌』もまた、結局のところは、同じく、魂のさまざまな要素を、相対立する二つの要素に集約させて二元的に扱い、その両極の狭間で葛藤する人間の姿をドラマチックに描くことによって、人間の魂の多様性というものを表わそうとしたものであって、その目的は見事に達成されており、ただ単に、人間の魂を二元的なものとして扱ってはいないのである。なんとなれば、「われわれの知性は、どんあにすぐれたものであっても、心を形作る要素を残らず認めることはできないもので、そうした要素はたいていの場合すぐ蒸発する状態にあり、何かのことでそれがほかのものから切り離されて固定させられるようなことが起こるまでは、気づかれずに過ぎてしまう」(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・『消え去ったアルベヌチーヌ』)ものだからである。それゆえ、人間の魂といったものを、そのすべての側面を、具体的に列挙して表わすことなどはけっしてできないことなのである。これは、「同一の表現が多様な意味を含み得る」(プルースト『失われた時を求めて』第二篇『花咲く乙女たちのかげに』)といったことを考慮しない場合であっても、である。ヴァレリーが、「ゲーテは、数々の対比の完全な一体系、あらゆる一流の精神を他と区別する希有にして豊饒な結合を、われわれに示しております。」(『ゲーテ』佐藤正彰訳)と述べているように、また、ゲーテの『ファウスト』第一部・夜・第四四七―四四八行にある、「まあどうだ、すべての物が集まって渾一体(こんいつたい)を織り成し、/一物が他の物のなかで作用をしたり活力を得たりしている。」という言葉からもわかるように、「二」すなわち「多数」と、あるいは、「二」すなわち「無数」と、捉えるできものなのである。ヘッセ自身もそう捉えていたからこそ、自分の作品のなかで、あれほど執拗に、「二極性」といったものにこだわりつづけていたのであろう。「二」すなわち「多数」、「二」すなわち「無数」といえば、筆者には、「アダムとイヴ」と「彼らの子孫たち」のことが思い起こされる。二人の人間からはじまった、数えきれないほどの数の人間たち、彼らの子孫たちのことが。

 ランボーは、ポオル・ドゥムニーに宛てて送った一八七一年五月十五日付の手紙と、ジョルジュ・イザンバアルに宛てて送った一八七一年五月十三日付の手紙に、それぞれ、「「詩人」はあらゆる感覚の(、、、、、、、)、長期にわたる、大がかりな、そして理由のある錯乱を通じてヴォワイヤン(、、、、、、)となるのです。」、「凡ゆる感官を放埓奔放に解放することによって未知のものに到達することが必要なのです。」(平井啓之訳)と書いている。しかし、「あらゆる感覚の(、、、、、、、)、長期にわたる、大がかりな、そして理由のある錯乱」とか、「凡ゆる感官を放埓奔放に解放すること」とかいった件(くだり)には、その言葉のままでは容易に把握し難いところがある。よりわかりやすい表現に置き換えてみよう。

 ランボーは、「ヨーロッパで僕の知らない家庭は一つもない。──どこの家庭も、わが家のようにわかっている。」(『地獄の季節』下賤の血に、秋山晴夫訳)という詩句を書いているが、ボードレールの『一八五九年のサロン』5にも、「真の批評家の精神は、真の詩人の精神と同じく、あらゆる美に対して開かれているに相違ない。彼は勝利に輝くカエサルの眩いばかりの偉大さも、神の視線の前に頭をさげる場末の貧しい住人の偉大さも、まったく同じように味わうことができる。」といった文章がある。ランボーの詩句とボードレールの文章とのあいだに、意味内容においてそう大きな隔たりがあるようには思われない。時系列的に、ボードレールの文章とランボーの詩句とのあいだには、と書き直してもよい。ところで、ランボーはまた、先の二つの手紙のなかで、「「われ」とは一個の他者であります。」と語っているのだが、このよく知られた言葉も、ボードレールの「詩人は、思うがままに彼自らであり、また他人であることを得る、比類なき特権を享受する。彼は欲する時に、肉体を求めてさ迷う魂の如く、人の何人たるを問わず、その人格に潜入する。ただ彼一人のために、人はみな空席に外ならない。」(『群衆』三好達治訳)という言葉と、意味概念的には、それほど距離のあるものには思われない。これらはまた、シェイクスピアのように、きわめてすぐれた詩人に当てはめて考えると、なるほど、と首肯される言葉であろう。ジイドの『贋金つかい』第一部・十二に、「他人の気持を自分の気持として感じる妙な自己喪失の能力を私は持っているので、私には、いやでも、オリヴィエの気持、彼が抱いているに違いないと思われる気持を、感じ取ることができた。」とあるが、この「他人の気持を自分の気持ちとして感じる」「自己喪失の能力」といったものも、また、ランボーの「「われ」とは一個の他者であります。」という言葉や、それに照応するボードレールの言葉と、意味のうえにおいては、それほど大きな違いがあるようには思われない。

 あるインタヴューのなかで、エンツェンスベルガーが、「ぼくの過去に対する参照のシステムは、過去に対する理解の射程は、二百年前にまでとどきます。らんぼうな言い方をすれば、フランス革命です。その時代のたとえばディドロとなら、ぼくは膚と膚を接して漢字あうことができる。彼の存在は、ぼくにとってはほとんど生理的な真近かさだ。でも、中世となると、ぼくには分りません。ぼくの歴史的"神経"は、そこまではおよばない。中世の農民がどうだったか、その神経をぼくは持ちあわせない。でもフランス革命期にインテリがどうだったかなら、それをぼくは自分のからだの中で感じることができる。たくさん本を読んでいて、当時の人びとがどんなふうだったか、家や家具がどうだったか、恋愛関係がどうだったか、どの恋人から逃げだしてどの恋人のところへ行ったか、それがまたどのようにしてダメになったか、そのようなスキャンダルだって、まるで身内の者のことのように分る。」(『現代詩の彼方へ6』エンツェンスベルガー宅で2、飯吉光夫訳、ユリイカ一九七六年七月号)と答えているが、このなかで、とりわけ興味深いのは、「たくさん本を読んで」というところである。ジョルジュ・プーレが、『批評意識』(佐々木涼子訳、ユリイカ一九七六年七月号)のなかで、プルーストによってラモン・フェルナンデスに宛てて送られた一九一九年の手紙から、「ある本を読み終えたばかりの時は」、「われわれの内なる声は、長いあいだじゅう、バルザックの、フローベルのリズムに従うように訓練されてしまっていて、彼ら作家と同じように話したがる。」といった一節を引用した後、それにつづけて、「自分の内で他人の思考のリズムを延長しようとするこの意志が、批評的な思考の最初の行為である。ひとつの思考についての思考、それはまず、他者の思考が形成され、はたらき、表現されていく運動に、いわば肉体的になりきることで、自分のものではないあり方に順応してみないことには存在しえない。呼んでいる著者のテンポ(、、、)にあわせて自分自身を調節すること、それはその著者に近づくというより以上のこと、それは彼に入りこんでしまうこと、彼の最も奥深く、最も秘めやかな、考え、感じ、生きる方法に密着するということである。」と書いているが、この「自分のものではないあり方に順応」することができるというのも、プルーストが、ジイドのいう「他人の気持を自分の気持ちとして感じる」「自己喪失の能力」といったものを持ち合わせていたからであろう。もちろん、こういった「他人の気持を自分の気持ちとして感じる」「自己喪失の能力」というものを持ち合わせているのは、なにも、詩人や作家たちばかりとは限らない。だれもが持ち合わせている能力であろう。友だちや恋人とのあいだで、仕草や癖がうつることは、それほどめずらしいことではないし、よく言われることだが、長くいっしょにいる仲の良い夫婦は、表情や顔つきまで似てくるらしいのだが、じっさい、以前に、喫茶店で、ひじょうによく似た兄妹のように見える老夫婦を目にしたことがある。

 しかし、なぜ、「自分のものではないあり方に順応」することができるのであろうか。ラモン・フェルナンデスの『感情の保証と新庄の間歇』IIに、「ニューマンは、事物を理解する二通りの方法があると言う。一つは、概念にもとづく推論による抽象的(、、、)理解。他の一つは、想像力の与える経験、感情、個々の行為の具体的表象にもとづく合意(アサンチマン)による真の(、、)理解である。」(野村圭介訳、ユリイカ一九七六年七月号)とある。カミュは、「理解するとは、まずなによりも、統一することである。」(『シーシュポスの神話』不条理な論証・不条理な壁、清水 徹訳)といい、ボードレールは、『一八五九年のサロン』3に、「想像力、それは分析であり、それは綜合である。」、「それはあらゆる創造物を解体し、その解体された素材を、魂の最も深奥な部分からのみ生まれて来る規矩にしたがって寄せ集め、配置することにより、新しい世界を創り出し、新しいものの感覚を生み出す。」と述べているが、こういった「想像力」によって、ランボーやボードレールやジイドらは、「他人の感情を、まるでそれが自分自身の感情ででもあるかのように想像して」(プルースト『失われた時を求めて』第二篇『花咲く乙女たちのかげに』)、「「われ」とは一個の他者であります。」とか、「思うがままに彼自らであり、また他人であることを得る」とか、「他人の気持を自分の気持ちとして感じる」「自己喪失の能力を私は持っている」とかと書き述べることができたのであろう。まさしく、「想像力」によって、「他人の気持を自分の気持として感じ」、「勝利に輝くカエサルの眩いばかりの偉大さも、神の視線の前に頭をさげる場末の貧しい住人の偉大さも、まったく同じように味わうことができる」のであろう。

 しかし、「想像力の与える経験、感情、個々の行為の具体的表象にもとづく合意(アサンチマン)による真の(、、)理解」とはいっても、ほんとうのところ、じっさいには、現実と想像とのあいだに、なんらかの相違があるのではないだろうか。

 ジイドの『贋金つかい』第一部・八に、「人間は、自分がそう感じると思うものを感じるのだと気づいてから、私は心理分析というものにまったく興味を失ってしまった。そこから、逆に、人間は現に感じているものを、感じていると思うものだとも考えられる……。このことは、私の恋愛について見れば、よくわかる。ローラを愛することと、ローラを愛していると思うこととの間──さほど彼女を愛していないと思うことと、さほど彼女を愛していないこととの間に、どれほどの相違があろう? 感情の領域では、現実と想像との区別はつかない。」とある。感情の領域では、現実と想像とのあいだに相違はない、というのである。「俺は地獄にいると思っている。だから俺は地獄にいるんだ。」(『地獄の一季節』地獄の夜。道宗照夫・中島廣子訳、『フランス名句辞典』大修館書店)という、ランボーの詩句が思い起こされる言葉である。

 ランボーが書きつけた、「あらゆる感覚の(、、、、、、、)、長期にわたる、大がかりな、そして理由のある錯乱を通じて」とか、「凡ゆる感官を放埓奔放に解放することによって」とかいった言葉を、「想像力によって」という言葉に置き換えてみると、それぞれ、「「詩人」は、想像力によって、ヴォワイヤン(、、、、、、)となるのです。」、「想像力によって、未知のものに到達することが必要なのです。」となる。これで、ランボーが書きつけた手紙の言葉がかなり把握しやすいものとなったであろう。

 ワイルドの『芸術家としての批評家』第二部に、「自己について何ごとかを知るためには、他人についてすべてを知らねばならぬ。」という言葉がある。これほどに極端な主張ではないが、ジイドの日記にもこれと似た言葉がある。「己を識ることを学ぶための最善の方法は、他人を理解しようと努めることである。」(『ジイドの日記』第五巻・一九二二年二月十日、新庄嘉章訳、旧漢字部分を新漢字に改めて引用)というのである。ランボーは、「ひとりの人間には、多数の他人(、、)がその生命(いのち)を負うているように僕には思えた。」(地獄の一季)うわごと(その二)・言葉の錬金術、堀口大學訳)と書いており、プルーストの『失われた時を求めて』の第五篇『囚われの女』にも、「ひとりの人間は多くの人物によって形つくられている」といった言葉がある。また、コクトーは、「ぼくたちは半分しか存在していない。」(『ぼく自身あるいは困難な存在』演劇について、秋山和夫訳)と言い、ヴァレリーは、「自分自身になるためには、ひとは他人が必要である。」(『ヴァレリー全集 カイエ篇9』、『人間』岡部正孝訳)と書いており、ボーヴォワールは、「各人がすべての人びとによって作られています。そして各人はすべての人びとを通してはじめて自分を理解するものであり、各人はすべての人びとが彼ら自身について打ちあける事柄を通じて、また彼らによって明らかにされる自分自身を通じて、はじめてその人びとを理解するのです。」(『文学は何ができるか』一九六四年年十二月討論、平井啓之訳)と述べている。T・S・エリオットも、『宗教と文学』という論文のなかで、「私たちはつぎからつぎへと強力な個性に影響されてゆくうちに、一人あるいは少数の特定の個性に支配されないようになります。そこに広い読書の価値があるのです。さまざまのきわめて異なった人生観が私たちの心の中にいっしょに住んでいると、それらは互に影響しあいます。すると私たち自身の個性は自分の権利を主張して、私たち独自の配列に従ってこれらの人生観をそれぞれに位置づけるのです。」(青木雄造訳)と書き述べているのである。もちろん、わたしたちに影響を与えるのは、「書物」を介した体験だけではない。

「民主化直後のモンゴルは、ひどい物不足だった。二年前のモンゴルといまのモンゴルでは比較にならないほど変わっている。まず、モノが多い。店にはいろいろな食料品(お菓子、野菜、魚の缶詰、ジュースなど)や電化製品がいっぱい並び、なんと二十四時間営業のコンビニもある。ドイツのベンツ、BMW、といった高級車やVOLVO、日本製のホンダ、トヨタ、日産の車が、ウランバートルの街を走っている。車全体の数でいえば、二年前の何倍かになっているだろう。街の外観はそう変わらないが、人びとの生活は大きく変化している。モノが増え、いろんな意味で自由になった一方で、以前はほとんどなかった貧富の差が拡大している。/自分はどうだろう。やはり同じではない。いや、以前と同じ自分と同じでない自分が同居している。」と、相撲取りの旭鷲山が、ベースボール・マガジン社から出ている『自伝 旭鷲山』の第5章のなかに書いている。「自分はどうだろう。やはり同じではない。いや、以前と同じ自分と同じでない自分が同居している。」というところに着目されたい。これは、「本」からのものではない。「読書」からのものではない。いわゆる、「経験、感情、個々の行為の具体的表象にもとづく合意(アサンチマン)による真の(、、)理解」といったものによるものであろう。プルーストの『失われた時を求めて』の第一篇『スワン家の方へ』のなかに、先の旭鷲山の言葉と、よく響き合う文章がある。「自分はもはや今までの自分と同じではなく、また自分一人だけでもない、自分とともに新たな存在がそこにいて、自分にぴったりとはりつき、自分と一体になり、彼はその存在を振り払うこともおそらくできないだろうし、今後はまるで主人や病気に対してそうするように、この存在とよろしく折りあっていかねばならないだろう、と。にもかかわらず、一人の新しい人物がこのように自分につけ加わったことを、ついいましがた感じて以来というもの、彼には人生がこれまで以上に興味深いものに思われ出した。」という箇所である。しかし、「以前と同じ自分」、「以前と」「同じでない自分」とは、いったいなんであろうか。ジイドの『贋金つかい』第一部・八に、「私は、自分でこうだと思っている以外の何者でもない。──しかも、それは絶えず変化する。」といった言葉がある。オーデンの『D・H・ロレンス』にも、「あらゆる瞬間に、彼はそれまで自分に起こったすべてのことを加えて、それによってすべてのことを修正する。」(水之江有一訳)といった言葉があり、ヴァレリーの『カイエB一九一〇』にも、「私には完了された姿として、自分を認識することができない。」(村松 剛訳)といった言葉がある。

 ワイルドが、『虚言の衰頽』に、「僕らが見るもの、また僕らのその見方といふのは、僕らに影響を与へたその芸術に依存するのだ。ある物を眺めるといふことは、ある物を見ることとは大違ひなのだよ。ひとは、その物の美を見るまでは何物をも見てはゐないのだ。その美を見たとき、そして、そのときにのみ、物は生れてくるのだ。現在、人々は靄を見るが、それは靄があるからぢやない、詩人や画家たちが、そのやうな効果の神秘な美しさを人々に教へてきたからなのだ。靄なら、何千年来ロンドンにあつたかもしれぬ。あつた、と僕はいふよ。でもね、誰ひとりそれを見なかつたのだ、だから僕らは、それについては何も知らないわけだ。芸術といふものが靄を発見するまで、それは存在しなかつたのだ。」と書いている。指摘されて、はじめてその存在を知ることができる、というのである。ディラン・トマスの『詩について』という詩論のなかにある、「世界は、ひとたびよい詩がそれに加えられるや、けっして同じものではなくなってしまうのです」(松田幸雄訳)といった言葉に通じるものである。そういえば、マイケル・スワンウィックの『大潮の道』11のなかに、指摘されて、はじめてその存在を知ることができる場面がある。夜空を見上げると、輝く星が闇のなかで瞬いている。しかし、相手に闇の方に目を凝らすように言われて、「見えた。二匹の大蛇がからみあっている、一匹は光で、一匹は闇だ。からんだ体がもつれた天球を形作る。頭上で明るい蛇が闇の蛇の尾を口にくわえている。真下では、暗い蛇が明るい蛇の尾を口にくわえている。光を呑みこむ闇を呑みこむ光。パターンが存在するのだ。それは実在し、永遠に続いている。」(小川 隆訳)と、主人公が思い至るのである。パターンを見出す。補助線を自在に引けるような目にとって、高等数学程度の幾何の問題などは、なんでもない。ここで、ランボーの「僕は久しい以前から、可能な一切の風景を掌中に収めていると自負してきた。」(『地獄の一季節』錯乱II・言葉の錬金術、秋山晴夫訳)という詩句を、たとえこれが誇張表現であっても、この言葉どおりの心情をもって書きつけられたものであると仮定したうえで検討してみると、彼のこの詩句に、彼の自負を、いかに多くの知識を得てそれを身につけてきたか、自己の体験からいかに多くのことを学び悟ってきたかという、彼の大いなる自負を、窺い知ることができよう。

『ヘラクレイトスの言葉』三五に、「智を愛し求める人は、実に多くのことを探究しなければならない。」(田中美知太郎訳)とある。スティーヴン・スペンダーが、「最も偉大な詩人とは、非常な記憶をもった人のことであり、その記憶が彼らの最も強い経験を越えて自己以外の世界の観察まで達するのである。」(『詩をつくること』記憶、徳永暢三訳)と述べているが、ボードレールも、『一八四六年のサロン』7に、「記憶が芸術の偉大な基準であることを私はすでに指摘した。芸術は美の記憶術である。」(本城 格・山村嘉己訳)と書いている。カミュの「芸術家は思想家とまったく同じように、作品のなかに踏みこんでいって、作品のなかで自己になる。」(『シーシュポスの神話』不条理な創造・哲学と小説、清水 徹訳)といった言葉に即していえば、芸術家の「非常な記憶」「美の記憶」が、「作品のなかで」一つに結び合わせられる、といったところであろうか。ワイルドの『芸術家としての批評家』第二部に、「かれは多くの形式で、また無数の違つた方法で、自己を実現し、どうかして新しい感覚や新鮮な観点を知りたいとおもふ。たえざる変化を通じて、そしてたえざる変化を通じてのみ、かれは己れの真の統一を発見する。」といった、ランボーの手紙の言葉を彷彿させるような一節があるが、 Mestmacher の「mutando immutabilis. 変化することによりて不変なる。」(旧漢字部分を新漢字に改めて引用)という成句が、『ギリシア・ラテン引用語辭典』にも収載されており、パスカルも、『パンセ』の第六章に、「われわれの本性は絶えまのない変化でしかないことを私は知った。そして、それ以来私は変わらなかった。」(断章三七五)と述べており、ジイドもまた、『贋金つかい』の第三部・十二に、「個人は優れた資質に恵まれ、その可能性が豊かであればあるほど、自在に変身するものであり、自分の過去が未来を決定することを好まないものである。」と書いている。ボルヘスやサルトルは、さらに、「過去を作り変えることはできないが、過去のイメージを変えることはできる」(『エル・アレフ』もうひとつの死、篠田一士訳)、「私は自分の現在をもって、追憶を作りあげる。」(『嘔吐』白井浩司訳)とまで書いている。「現在」が、「過去のイメージを変え」、「追憶を作りあげる」というのである。モーリヤックの『テレーズ・デスケイルゥ』七に、「私たちは、自分で自分を創造する範囲内でしか存在しない」(杉 捷夫訳)という言葉があるが、「自分を創造する範囲」を可能な限り拡大する、といったイメージで、あのランボーの手紙のなかにある、「あらゆる感覚の(、、、、、、、)、長期にわたる、大がかりな、そして理由のある錯乱」とか、「凡ゆる感官を放埓奔放に解放することによって」とかいう言葉を捉えると、難解なところなど、ほとんどなくなってしまうのではなかろうか。

 ところで一方、ウィトゲンシュタインが、『論理哲学論』の5・63で述べている、「私とは、私の世界のことである。」(山本一郎訳)や、彼の一九一五年五月二十三日の日記のなかにある、「私の言語の限界(、、、、、、、)は、私の世界の限界を意味する。」(飯田 隆『現代思想の冒険者たち07・ウィトゲンシュタイン』)といった考えを通して、ジイドが『贋金つかい』の第三部・七に書いた、「最も優れた知性というのは、自己の限界に最も悩む知性のことじゃないのかな」という言葉にあたると、ランボーがなぜ詩を放棄したのか、その理由の一端を推測することができる。ヴァレリーが、ジャン=マリ・カレに宛てて送った一九四三年二月二十三日付の手紙のなかで、ランボーについて、「《諧調的支離滅裂》の力を発明あるいは発見した」といい、「言語の機能をみずから意志的に刺戟して、その刺戟のこうした極限的な激発点へと辿りついてしまったとき、かれとしては、ただ、かれのなしたことをすることしか──つまり逃亡することしかできませんでした。」(菅野昭正・清水 徹訳)と述べている。取り立ててこのヴァレリーの見解に異を唱えるつもりはない。しかし、ランボーが詩を放棄した理由は、これだけではないように筆者には思われるのである。管見ではあろうが、つぎに、筆者が推測するところのものを述べて見よう。

 ジイドの『贋金つかい』第二部・一に、「自分が別人になったような気がする。」とあるが、もし、ほんとうに、「感情の領域では、現実と想像との区別はつかない」のなら、「最高度」にまで「想像力」を働かせると、「自分が別人になったような気がする。」ではなく、「自分は別人になった。」とまで確信するまでに至るはずである。おそらく、これが、「「われ」とは一個の他者であります。」といった言葉を、ランボーが自分の手紙のなかに書きつけた経緯(いきさつ)であろう。ニーチェの『ツァラトゥストラ』の第三部に、「それぞれの魂は、それぞれ別の世界をもっている。」とあるが、もし、ランボーが本心から「ヨーロッパで僕の知らない家庭は一つもない。」と思ってこう書きつけたのだとしたら、彼が、ヨーロッパの家庭のその夥しい数の人間の魂のなかに「潜入」し、その夥しい数の「世界」を知り、その夥しい数の「他者」の思考に同調することができたと、こころからそう思って書きつけたのだとしたら、それは、彼の錯乱したこころが書かせたものに違いない。所詮、ヴァレリーがいうように、「われわれは自分の心中に現われるものしか、他人の心に忖度することができない。」(『雑集』人文学・二、佐藤正彰訳)ものであるのだから。一人の人間が保有できる人格の数について、その限度について、統計的な資料に基づいていうわけではないが、せいぜい、「十、百、もしくは千」といったところではないだろうか。ヨーロッパ中の人間と同じ数というのなら、少なくとも、「十万、百万、もしくは千万」もの人格を弁別する能力が必要なはずである。ランボーならば、そのような能力を有していたとでもいうのだろうか。しかし、それは、人間が持つことのできるぬ力といったものを遥かに超えたものであろう。

 リスペクトールが、『G・Hの受難』で、「神は存在するものであり、あらゆる矛盾するものが神のなかにあり、したがって神は矛盾しないのだ。」(高橋都彦訳)と書いている。仮にそうであるとすると、「ヨーロッパで僕の知らない家庭は一つもない。」と正統に主張することができるのは、唯一、「神」だけであるということになる。もちろん、これは、「神」が存在するとしての話なのであるが。

 たしかに、「わたしは神である。」と、言葉なら書きつけることはできる。口にすることもできる。しかし、「わたしは神である。」と「想像」することは、「わたし神である。」と思うことは、それが「神」自らの思考でなければ、狂人以外の何者の思考でもない。

 したがって、ランボーが採ることのできた道は二つしかなかったことになる。彼が、自分のことを「神」であると主張するか、しないか、である。もし、主張していたとしたら、彼は自分がくるっていることに気がつかなかった、ということになるであろう。しかし、彼は主張しなかった。たしかに、「精神を通して、人は『神』に至る。」(『地獄の季節』不可能、小林秀雄訳)といった詩句を書きはしたが、じっさいには、自分のことを「神」であると主張しなかったのである。それは、おそらく、彼の気が狂っていなかったからであろう。「ヨーロッパで僕の知らない家庭は一つもない。」という彼の言葉が、あくまでも文学表現上のものであり、それが誇張表現であるということを、彼がはっきりと認識していたということである。もし、彼が、彼の手紙に書いていたことを、その言葉どおり、まっとうに推し進めていったならば、そのうちいつか狂気に陥らざるを得なかったであろう。文学的に後退することは、彼のプライドが許さなかったはずである。彼は、プライドを棄てる代わりに、文学を放棄したのである。放棄せざるを得なかったのであろう。

 魂が二つに、あるいは、もっと多くに分裂しているということだけで、苦しみをもたらすということならば、たしかに、それを統合して一つの人格をつくり上げ、苦しみから逃れればよいのであるが、そもそも、じつのところ、人格が分裂しているという現象がなければ、われわれは他者を理解することも、延(ひ)いては、自分自身のことを理解することもできないものなのである。ヴァレリーの『邪念その他』Tに、「毎秒毎秒、われわれの精神には門番や家政婦の考え方がひらめく。/もしかりにそうでないとすれば、われわれはこうした種類の人びとを理解することも、かれらから理解されることもできぬだろう。」(清水 徹訳)とある。「毎秒毎秒」というのは、大袈裟に過ぎよう。「その都度、その都度」といったところであろうか。ところで、モームが、『人間の絆』13に、「生まれたての子供というのは、自分の身体が、自分の一部分だということがよくわからない。周囲の事物と、ほとんど同じように感じている。だから、彼らが、よく自分の拇指を玩(もてあそ)んでいるのを見ても、それは、傍にあるガラガラに対するのと、まったく変らない。はっきり自分の肉体を意識するのは、むしろきわめて徐々であり、しかも苦痛を通して、やっとそうなるのだ。ちょうどそれと同じ経験が、個人が自己を意識するようになる過程でも必要になる。」(中野好夫訳)と書いているが、ブロッホもまた『ウェルギリウスの死』の第I部で、「涙をたたえるときはじめて眼は見えるようになる、苦しみの中ではじめてそれは視力ある眼となり、」(川村二郎訳)と語っている。筆者にも、まさしくこの言葉にあるように、人生においては、「苦しみ」を通してはじめてわかる、といった体験をいくつもしてきた。このブロッホの言葉に、モームの言葉を合わせて考えてみると、人間は苦痛や苦しみといったものを通して自他の区別をつけ、自己を形成していくものであり、さまざまなことを知っていくということになるのだが、プルーストの『失われた時を求めて』の第六篇『消え去ったアルベルチーヌ』に、「苦痛の深さを通して人は神秘的なものに、本質にと、達するのである。」とある。ジュネの『薔薇の奇蹟』にも、「絶望は人をして自分の中から逸脱させます」(堀口大學訳)といった一節がある。ふと、漱石の『吾輩は猫である』十一にある、「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」という言葉とともに、サバトの『英雄たちと墓』の第I部・5にある、「いったい自分自身の物語が結局は悲しいもの、神秘的なものではないような、そんな人間が存在するものだろうか?」といった言葉が思い出される。なにも、ヴェルレーヌやヘッセといった人間だけが、魂の引き裂かれる苦しみや苦痛を味わうわけではないのである。およそあらゆる人間の苦しみであり、苦痛なのである。

 では、いつまでも、人間は、魂が引き裂かれる苦痛や苦しみに耐えなければならないのであろうか。おそらく、耐えなければならないものなのだろう。しかし、その苦しみは軽減させてやることはできるのである。その方策のヒントは、つぎに引用する、シェイクスピアの『リチャード二世』の第五幕・第五場のセリフのなかにある。「私はずっと考えつづけている、どうすれば/私の住(す)み処(か)のこの牢獄(ろうごく)を世界になぞらえられるかと。/けれども世界には数え切れぬ人々が住み、/ここには私以外には人は一人もいないから、/うまくゆかぬ、だが、ともかくやってみよう。/この脳髄(のうずい)は魂(たましい)の妻としてみてはどうだ。/魂は父親だ。この二つが思念の子を生み、/そしてこの思念は次々(つぎつぎ)と子や孫を生みつづけてやむことがない。/つまりはこの思念がこの小さな世界の住人となる。/この住人は現実世界の住人と気(き)質(しつ)を同じくしている。/思念は満足(まんぞく)することがないからだ。立(りつ)派(ぱ)な思念が生まれ、/例(たと)えば信(しん)仰(こう)上(じよう)の問題を考えても、たちまち/懐(かい)疑(ぎ)と混(ま)じりあい、一つの聖句を持ち出して対立させる。/例えば「小さき者らよ、来(きた)れ」という聖句にたいして、/「ラクダが針(はり)の穴(あな)を通るよりも、天国に入ることは難(むずか)しい」と、/別の聖句を対置して心を惑(まど)わせてしまうのだ。」、「こうして私は、一人でさまざまの役(やく)を演(えん)じながら、/どれ一つにも満足(まんぞく)できぬ。ある時は王者となるが、/反(はん)逆(ぎやく)を恐れてむしろ乞(こ)食(じき)になりたいと願い、/そこで乞食となれば、今度は貧(ひん)窮(きゆう)にさいなまれて、/王でいた時のほうがよかったと思い返す。/そこでふたたび王者となれば、たちまちにして/ボリンブルックに王(おう)位(い)を奪(うば)われたことを思い起こし、/今や自分が何者でもないと思い知るのだ。だが、たとえ/何者になろうと、私にしろ誰(だれ)にしろただの人間である限り、/何物によっても満足は得られず、ただ、やがて/何者でもなくなることによって、はじめて安(やす)らぎを得(え)るしかない。」(安西徹雄訳、P・ミルワード『シェイクスピア劇の名台詞』講談社学術文庫)である。このセリフの最後のところにある、「何者でもなくなることによって」という言葉がヒントになるのである。「何者でもなくなる」を、「何者でもある」という言葉に置き換えると、よいのである。「何者でもある」すなわち「何者でもあり得る」と認識することによって、人間は、魂の引き裂かれた苦しみや苦痛を、自ら軽減させることができるのである。では、その認識は、いったい、どのようにしたら得られるものなのであろうか。それには、「別の目を持つこと、一人の他人、いや百人の他人の目で宇宙をながめること、彼ら各人のながめる百の世界、彼ら自身である百の世界をながめることであろう。そして私たちは、一人のエルスチーヌ、一人のヴァントゥイユのおかげで、彼らのような芸術家のおかげでそれが可能になる。」という、プルーストの『失われた時を求めて』の第五篇『囚われの女』のなかにある考え方が、これはまた、ワイルドの『虚言の衰頽』のなかにある、「芸術といふものが靄を発見するまで、それは存在しなかつたのだ。」という考え方に繋がるものであるが、もっともよい方法を示唆しているように思われるのである。「百人の他人の目で宇宙をながめること」、「彼ら自身である百の世界をながめること」というのである。

「百人の他人の目」、「彼ら自身である百の世界」というもののうちには、たとえば、俳句における季語であるとか、短歌における枕詞や、本歌取りに用いられる古歌であるとか、連句や連歌や連詩の連衆たちによってその場で発せられる言葉であるとか、引用される文献であるとか、引喩で用いられる元ネタであるとか、じつにさまざまなものが考えられる。スタール夫人の言葉に、「フランスにおいては人間に学び、ドイツでは書物に学ぶ。」(『ドイツ論』1・13、道宗照夫・中島廣子訳、『フランス名句辞典』大修館書店)というのがある。スタール夫人のこの言葉は、後で引用する、ヴァレリーの自叙伝のなかにある言葉と呼応するものである。

 トーマス・マンが、『魔の山』の第六章に、「思想というものは、闘う機会を持たなければ、死んでしまいます、」と、また、W・C・ウィリアムズが、『パターソン』の第一巻・序詩に、「知識は/伝搬しないと自壊する。」(沢崎順之助訳)と書きつけているが、たしかに、ポワローの述べているように、「批判者をもつことは、優れた本にとって必須である。公表した書物の一番大きな不幸は、多くの人がその悪口を言うことではなくて、誰も何も言わないことである。」(『書簡詩』X・序文、藤井康生訳、『フランス名句辞典』大修館書店)のであろう。ヴァレリーは、「真実は嘘を必要とする──なぜなら……対比なくして、いかに真実を定義しようか。」(『刻々』 HOMO QUASI NOVUS (殆ンド新シキ人)、佐藤正彰訳)と書いている。ヨハネによる福音書一・五にも、「光はやみの中に輝いている。」とある。創世記二・一八で、神が、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」といい、アダムにエバを与えたのも、そのほんとうの理由は、神が自己の存在をより確かなものにしたかったからであろう。ヨハネによる福音書一・一に、「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」とある。ちなみに、ゲーテが、『ファウスト』の第一部・書斎・第一二二四―一二三七行で、この「言(ことば)」について、あれこれとさまざまな翻訳を試みている。「言葉(Wort)」、「意味(Sinn)」、「力(Kraft)」、「業(Tat)」というふうに。三島由紀夫の『禁色』の第三十三章にも、「ソクラテスは問いかつ答えた。問いによって真理に到達するというのが彼の発明した迂(う)遠(えん)な方法だ。」、「私は問いかつ答えるような対象を選ばなかった。問うことが私の運命だ。」、「それでは何のために問うのか? 精神にとっては、何ものかへ問いかけるほかに己れを証明する方法がないからだ。問わない精神の存立は殆(あやう)くなる」といった文章がある。以上のような言葉は、他者との鬩(せめ)ぎ合いのなかで自己の個性が発現するという、大岡 信の『うたげと孤心』の考え方にも通じるものであり、また、『邪念その他』Gのなかで、 「「他人」だけがわれわれから引き出してくれるものがある。われわれが「他人」からしか引き出さないものがある。/それぞれ御自分のためにこうしたサービスの対照表を作ってごらんなさい。/たとえば他人は、われわれから、言い返し、ウィット、感情、欲望、羨望、淫欲、思いつき、よき或いは悪しき仕打ちを引き出す。「他人」というものがその行為によって、あるいはただ存在するというだけのことによってそれらを触発しなかったならば、われわれは何と多くのことを抑制しもせず、なし得もせず、おこないもせず、願いさえもしなかったろう!/だがわれわれの方も「他人」から必要なものをほとんど引き出している。パンも引き出すし言語も引き出す。そして、「他人」の目つき、行動、ことば、沈黙の中に映っている、われわれ自身の多くのイメージを引き出す。/鏡はこうした「他人」のうちの一人だ。」(佐々木 明訳)といい、『自叙伝』のなかで、「わたしは自分の友人や知己には実に無限のものを負っているのである。わたしは常に会話から学んできた。十の言葉は十巻の書物に匹敵するのである。」(恒川邦夫訳)と語っているヴァレリーの「その詩人的本性によって──自分が遭遇し、目ざまし、ふとぶつかり、そして気づいた、──しかじかの語、しかじかの語と語の諧和、しかじかの構文上の抑揚、──しかじかの開始等、言語上の幸いな偶有事がその表現の一部を成すような叡智的な想像し得る統一的理論を探す人は、これ亦詩人である。」(『文学』詩とは、佐藤正彰訳)といった考え方にも通じるものであろう。なお、ヴァレリーに『文学』からの引用はすべて佐藤正彰訳であるので、以下、『文学』の翻訳者の名前は省略した。先のヴァレリーの言葉から、カミュの「理解するとは、まずなによりも、統一することである。」や、ボードレールの「想像力、それは分析であり、それは綜合である。」といった言葉が思い出されるが、相手の繰り出してくる言葉を即時に理解し、それに応えて、自分が拵えた言葉をつぎの者に送らなければならない即興的な連詩を、じっさいに体験したことのある筆者には、よく理解できる言葉である。ヴァレリーはまた、「思考には両性がある。己れを孕ませて、己れ自身を懐胎する。」(『文学』文学)といい、「われわれは、誰も明瞭に作ったものでもなければ、作り得たわけでもなかった数多の慣習或いは発明によって捕えられ、支えられ、制せられている。それらの間に「言語」があり、これこそ最も重要なもので、われわれ自身の最も内奥まで、われわれを支配しているものだ。これなくしては、われわれは秘密すらも持つまい、──われわれの秘密を持つまい。即ち、何世紀もの試みと、語と、形式とを以って、知らず知らずのうちにわれわれを作り上げているこの数百万の他人(、、)なくしては、われわれは自分自身と交通することができず、自分の考えるところを自分に提供することができない。」(『文学』詩人一家言)とも述べているが、まことに説得力のある言葉である。アンドレ・マルローの『侮蔑の時代』にも、「個人は集団と対立しながらも、集団から糧を得るものだ。」(三野博司訳、『フランス名句辞典』大修館書店)といった言葉がある。ヴァレリーが語ったことを要約したようなこの言葉が、ことのほか筆者のこころの琴線に触れたため、住まいの近くにある府立資料館に行って、マルローの『侮蔑の時代』を読むことにした。一九九九年の二月四日のことである。雪が激しく降っていた。しかし、いくら探しても、件(くだん)の言葉は見当たらず、ほとほと困り果てていたところ、ふとなにか思いついたかのように、もう一度、『フランス名句辞典』の解説に目を通して見たのである。すると、そこには、「引用句は「序文」から。」とあって、筆者は、あまりに軽率な自分自身に、しばしのあいだ、呆れてしまったのである。いくら探しても見つかるはずがなかったのである。というのも、筆者が手にした、昭和十一年に第一書房から出され、小松 清によって翻訳された『侮蔑の時代』には、「序文」がついてなかったからである。しかし、何度も読み返していて、よかったなと思えることもいくつかあった。まず、扱われている題材が、筆者好みのものであった。翻訳の文体の、それほど硬くもなく、軟らかくもない、ちょうどよい感じのものであった。また、レトリック的にも、新しい発見がいくつもあった。しかし、なによりも、筆者のこころを惹いたのは、その開いたページのところどころに、文字が削除されたために空白になっていたところがあったことである。それは、昨今の一部の小説によく見られる、会話が多いとか、改行が夥しいとかいったことによる空白ではなくて、伏せ字にあたる個所を削除して、その部分をそのまま空けておいたものである。伏せ字の処理が施してある本など、一度も目にしたことがなかったので、筆者には、なにかめずらしいものを発見したような喜びがあったのである。ふと、「大岡 信」特集号である、『國文學』の一九九四年八月号で、大岡 信が引用していた、松浦寿輝の『とぎれとぎれの午睡を が浸しにやってくる』というタイトルの詩が思い出された。これもまた、「至る所で字が飛んでいる」、「普通の叙述からぽこぽこ字を削ってしまった」(大岡 信による解説)ものであったが、この場合は、マルローのものとは違って、検閲という外的な要請によってなされたものではなく、松浦寿輝の個人的な事情、彼個人の内的な欲求によってなされた文字の削除による字(じ)面(づら)のうえでの空白である。検閲という制度には嫌悪を催すが、検閲という制度によって目にした書物には、なにかしら新鮮な喜びと、そのようなものを目にする機会を持つことができて、うれしく思った記憶がある。雪の降る日ではあったが、資料館から帰る筆者の足は、ずいぶんと軽かったことを憶えている。

 ジョイスが、「ぼくたちが出会うのは常にぼくたち自身。」(『ユリシーズ』9・スキュレーとカリュプディス、高松雄一訳)と書いているが、これは、おそらく、パスカルの『パンセ』第一章の断章一四にある、「自然な談話が、ある情念や現象を描くとき、人は自分が聴いていることの真実を自分自身のなかに発見する。それが自分のなかにあったなどとは知らなかった真実をである。その結果、それをわれわれに感じさせてくれる人を愛するようになる。なぜなら、その人は彼自身の持ちものを見せつけたのではなく、われわれのものを見せてくれたのだからである。」か、あるいは、このパスカルの考え方の源泉にあたるものと筆者には思われる、プラトンの『メノン』にある、「こうして、魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてないのである。だから、徳についても、その他いろいろの事柄についても、いやしくも以前にも知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起すことができるのは、何も不思議なことではない。」(藤沢令夫訳)といった言葉に由来したものであろう。ヴァレリーもまた、『続集』で、「われわれはわれわれの存在によって内包されうるものしか認識できない。/もっとも思い設けない物事でさえ、われわれの構造によって待ち設けられており、そうでなければならない。」(寺田 透訳)と述べている。しかし、はたして、ほんとうにそれは、もともと「自分自身のなかに」、「自分のなかにあった」「もの」なのであろうか。

 梶井基次郎が、『ある心の風景』に、「視ること、それはもうなにか(、、、)なのだ。自分の魂の一部或は全部がそれに乗り移ることなのだ」と書いている。ヴァレリーもまた、「別の人が一人はいってくることは、独りでいた人を即座に無意識のうちに変えてしまう。」(『刻々』備考、佐藤正彰訳)と述べているが、筆者が思うに、パスカルやプラトンらが、もともと「自分自身のなかに」、「自分のなかにあった」「もの」と考えたのは、それが、じつは、「視た」瞬間、「聴いた」瞬間、「知った」瞬間に、即座に彼ら自身のものになったものであるからと、つまり、その一瞬のうちに彼らによって理解されたものであるかたと思われるのであるが、如何であろうか。

 ヴァレリーが「数々の他のもので自分を養うということほど、独創的なものはないし、自分(、、)であるものはない。しかし、それらを消化する必要がある。ライオンは同化された羊からできている。」(『芸術についての断章』二、吉川逸治訳)、「他人の養分をよく消化しきれなかった者は剽窃者である。つまり彼はそれと再認できる食物を吐き出すのだ。/独創性とは胃の問題。」(『文学』)と書きつけているが、まことに示唆に富む比喩である。たとえば、消化されるものの物性と消化する側の胃の状態によって、消化に要する時間や消化の具合が異なると考えると、物事を理解する速度や理解の度合いといったものが、理解される事柄の難易度や理解する方の能力などによって違ったものになるということが、容易に連想されるであろう。

 そうして、極端な場合、自分が、そして、他人が、まるで別人のように豹変することがあるとしても、そのことを驚かずに受け入れるのである。難しいことかもしれない。しかし、とても大切なことである。だから、いつでも受け入れる準備をしておくのである。「それというのも人間は」「私たちとの関係で変化するとともに、彼ら自身のうちにおいても変化するものであるから」(プルースト『失われた時を求めて』第五篇『囚われの女』)、いわば、「各瞬間ごとに」「無数の」「「私」の一人がそこに」(プルースト『失われた時を求めて』第六篇『消え去ったアルベルチーヌ』)いて、「各瞬間ごとに」「無数の」「彼」「の一人がそこに」いると考えればよいのである。「自己の分裂をあらゆる瞬間に感じるからといって、」(モーリヤック『夜の終り』XI、牛場暁夫訳)、そのことで悩んだりして、自分のことを苦しめなくてもよいのである。「mutando immutabilis. 変化することによりて不変なる。」といった、ラテン語の成句でも思い起こせばいであろう。

 ところで、プルーストが、『失われた時を求めて』の第三篇『ゲルマントの方』で、「天候がちょっと変化しただけでも、世界や私たちは作り直される。」と書いているように、たしかに、「各瞬間ごとに」、「あらゆる瞬間に」、わたしたちは変化しているのだろうけれど、しかし、ヴァレリーが、『詩学講義』の第十講で、「もしわれわれが、感性の瞬間的効果によってたえずひきずりまわされているなら、われわれの思考は無秩序以外の何ものでもなくなるでしょう。」(大岡 信・菅野昭正訳)と述べているように、これはとりわけ、決断や選択をしなければならないときに顕著なのだが、決断を下すために、選択するために、思考をめぐらす時間が、もちろん、事と場合によって、ほんの数瞬のこともあれば、数刻もかかることもあるであろうが、その時間においては、変化の停止状態か、あるいは、ほとんど変化のない状態にある必要があるのである。そうでなければ、ごくごく短い時間に、決定とその決定の打ち消しを繰り返すことになるかもしれないからである。そのようなことになれば、他者との関係において、非常に大きな不利益を被らなければならないことになろう。じっさい、筆者は話をしている最中に、よくころころと意見が変わるため、あるときとうとう、友人のひとりに、「おまえは狂っている。」という、使徒行伝二六・二四にある言葉まで引用されて、筆者が精神病院に行って診てもらうまで、友人としての付き合いを控えさせてもらうと宣告されたのである。それからすぐに、一九九八年三月二十七日に、京大病院の医学部附属病院・精神神経科に行くと、医師に、「あなたの場合は、精神というよりも、性分や性格といったものの問題だと思います。」、「さしあたって、精神には異常は見られません。」と言われて、帰らされたのである。その晩、彼に電話を入れて、病院でのやりとりを伝えると、「精神でなくっても、性格に問題があるってのは、まだひっかかるけど、一応、気狂いじゃないんだ。」などと言われはしたが、また友人として付き合ってもらえることになったのである。そのため、それ以来、筆者は、ひとと話をするときには、自分の意見をほとんど口にしなくなったのである。「おまえは狂っている。」などと、二度と言われたくなかったからである。しかし、その代わりに、よく友人たちから、「なにを考えてるのか、さっぱりわからない。」といったことを言われるようになったのであるが。

「一人で交互に犠牲者になったり体刑執行人になったりするのは、快いことかもしれない。」という言葉が、ボードレールの『赤裸の心』一にある。ジイドもまた、『贋金つかい』の第I部・八に、「自分自身からのがれて、だれか他人になるときほど、強烈な生命感を味わうことはない。」と書いている。筆者が、ヴェルレーヌに対する堀口大學の言葉にどうしても首肯できないというのも、彼が自分の魂を二つに引き裂いていたのが、じつは、より強烈な快感を得るためではなかったか、という疑いを拭い去ることができなかったからである。彼の『懺悔録』第二部・六にある、「私の苦悩は本能的に欲求なのだ。」(高畠正明訳)という一文を目にすると、なおさらそう思われるのである。ヴァレリーが、『邪念その他』Gに、「人は他人に聞いてもらうために胸を叩いて懺悔するのだ。」(佐々木 明訳)と書きつけている。ヨブ記二・一二にも、「声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。」とある。かつては、悲しみを表わすのに、大声を上げて泣き叫びながら、自分の着ている衣を引き裂いたり、頭に灰を被ったりすることがあったのである。ヴェルレーヌの振る舞いにも、これに似た印象を受けるのだが、彼の場合は、あくまでも演技的なものであるような気がするのである。ここで思い出した詩句がある。ボードレールの『どこへでも此世の外へ』のなかに、「お前は、もはや苦悩の中でしか、楽しみを覚えないまでに鈍麻してしまったのか?」(三好達治訳)といった言葉であるが、まるでヴェルレーヌのために書かれた詩句のように思われたのである。

 つまるところ、自分が一つの固定した人格の持主であると考えることは、錯覚にしか過ぎないということである。したがって、魂が分裂していることに苦しんだり、苦痛を感じたりすることも、認識に至るまでは、仕方のないことであって、それは悲劇的なことではあるが、同時にまた、人間というものが、その悲劇的な事柄を受け入れることが充分に可能な存在であるということも、知っておく必要があるということである。もしかすると、これは悲劇的なことなどではなくて、一つの恩寵、絶対的な恩寵のようなものとして受け取るべきものなのかもしれない。

 ふと、ヘラクレイトスの「たましいの際限は、どこまで行っても、どの途(みち)をたどって行っても、見つかることはないだろう。計ればそんなに深いものなのだ。」(『ヘラクレイトスの言葉』四五、田中美知太郎訳)といった言葉が思い出された。ランボーの「彼は何処にも行きはしまい。」(『飾画』天才、小林秀雄訳)という詩句とともに。はて、さて、なぜであろうか……。

 ビセンテ・ウィドブロの『赤道儀』のなかにある、「ひとつの星に起きた一切のことをだれが語るのだろうか」(内田吉彦訳)という詩句をもじって、この第六連・第一―五行の注解を締め括ろう。

──一つの魂に起こった一切のことを、いったい、だれが語るというのであろうか、と。

第六連・第六行 博友社の独和辞典、「da そら、それ」より。

第六連・第七行 博友社の独和辞典、「sich da! ごらん」より。

第六連・第八行 ヘミングウェイの『エデンの園』第一部・1、「ね、私の彼女になって、」より。

第六連・第九行 ヘミングウェイの『エデンの園』第一部・1、「「キャスリンは君だ」」より。

第六連・第一〇行 ヘミングウェイの『エデンの園』第一部・1、「いいえ、私はピーターであなたが私のキャスリン、きれいなきれいなキャスリン。」より。

第六連・第一一行 オクタビオ・パスの「むかいあう二つのからだ」(『二つのからだ』桑名一博訳)より。

第六連・第一二行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第一幕・第五九二二行、「泉は深い奈(な)落(らく)から沸(わ)きあがり、」より。

第六連・第一四―一六行 ゲーテの『ファウスト』第一部・書斎・第一六四二―一六四八行、「もしあなたが私といっしょに、/世の中へ足を踏み入れてみようとお考えなら、/私は即座に、甘(あま)んじて、/あなたのものになりますよ。/あなたのお相手になってみて、/もしお気に入ったら、/しもべにでも、奴隷にでもなりまさあ。」、第一部・書斎・第一六五六―一六五九行、「では、この世ではあなたに仕える義務を負(お)いましょう。/お指図に従って、休む間もなくはたらきましょう。/その代りあの世でお目にかかったら、/おなじ勤めをやっていただくんですな。」より。

第六連・第一七行 ゲーテの『ファウスト』第一部・書斎・第一七三六―一七三七行、「どんな紙きれだっていいんですよ。/ちょっと一たらしの血でご署名(しよめい)をねがいます。」より。

第六連・第一九行 博友社の独和辞典、「unter heutigem Datum 今日の日付で」より。

第六連・第二一行 「私が眼の前に見ているものは、一つの痛ましい芝居、身の毛もよだつような芝居だ。」(ニーチェ『アンチクリスト』六、西尾幹二訳)より。

第六連・第二三行 吉田兼好の『徒然草』第九段、「まことに、愛着(あいぢやく)の道、その根ふかく、源(みなもと)とほし。六塵(ろくじん)の楽欲(げうよく)おほしといへども、皆厭(えん)離(り)しつべし。」、第二百四十二段、「楽といふは、このみ愛する事なり。これを求むることやむ時なし。」(西尾 實校注、旧漢字部分を新漢字に改めて引用)より。

第六連・第二四行 ゲーテの『ファウスト』第一部・森林と洞窟・第三三五〇―三三五一行、「例えば岩から岩へと激する滝が、/欲望に荒れ狂いながら深淵に落ち込むようなものだ。」より。

第六連・第二七行 ゲーテの『ファウスト』第一部・街路・第二六五九―二六六二行、「あの可愛い子の身についているものを何か手に入れてくれ。/あの子の休み部屋へつれて行ってくれ。/あれの胸に触れたスカーフでも、靴下留(くつしたどめ)でも、/私の気(き)慰(なぐさ)みのためにとってきてくれ。」より。

第六連・第二九行 博友社の独和辞典、「da nimm’s! そらやるよ(物をさし出す際)」より。

第六連・第三〇行 「おお、このかぐわしい息。正義の剣も/つい折れそうになるほど! もう一度。そら、もう一度。/死んでからもこのとおりであってくれ。さすればお前を殺した後も/お前を愛しつづけていられる。もう一度。これが最後の口づけだ。/これほどにも美しく、これほどにも恐ろしい女はかつてなかった。/泣かずにいられようか。だがこれは残酷な涙だ。この/悲しみは天の悲しみ。天は愛する者をこそ撃つ。」(シェイクスピア『オセロー』第五幕・第二場、安西徹雄訳、P・ミルワード『シェイクスピア劇の名台詞』講談社学術文庫)より。

第六連・第三一行 「おののきがわたしを襲った。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部・教養の国)より。

第六連・第三三行 ゲーテの『ファウスト』第一部・寺院・第三七九四行、「ああ、苦しい、苦しい。」、第一部・夜・第四七七行、「心臓が掻きむしられるようだ。」より。

第六連・第三四行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一五八六行、「おれはいま最高の瞬間を味わうのだ。」より。

第七連・第一行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一五八六行の後に挿入されたト書き、「(ファウスト、うしろに倒れる。死霊たちが彼を抱きとめて、地面に横たえる)」より。

第七連・第二行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一五九四行、「針が落ちた。事は終った。」より。

第七連・第四行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一六八五行、「調子はずれの音が聞えるぞ、胸糞(むなくそ)の悪い響きだ。」より。

第七連・第七行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一六一四―一一六一五行、「ところが困ったことに、近頃では魂を/悪魔から横取りする手段がいろいろできている。」より。

第七連・第八行 「ワーグナーの遺体は私のものだ。」(ジャン・デ・カール『狂王ルードヴィヒ』鳩と鷲、三保 元訳)より。

第七連・第九行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一六一三行、「早速こいつに血で署名した書付を見せてやろう。」より。

第七連・第一四行 博友社の独和辞典、「die Kleinen 子供たち」より




(自 一九九八年六月十日  至 一九九九年三月二十日 加筆修正 二〇一〇年十二月七日―同年同月二十五日)


図書館の掟。

  田中宏輔






     人柱法(抜粋)

     公共施設は、百人収容単位につき一人の人柱を必要とする。
     千人を超える公共施設に関しては、二百人収容単位につき一人の人柱を必要とする。
     人柱には死刑囚をあてること。
     准公共施設については無脳化した手術用クローンをあてること。
     人数に関しては公共施設の場合を適用する。
     一般家屋ではホムンクルス一体でよい。





濡れた手で触れてはいけない
かわいた唇で愛撫するのはよい
かわいた唇で接吻するのはよい
しかし
けっして歯を立ててはいけない
噛んではいけない
乾いた指が奥所をまさぐり
これをいたぶるのはよしとする
死者たちは繊細なので
死者たちの悪口を言ってはいけない
死者たちはつねに耳をそばだてている
死者と生者とのあいだの接触は
一度にひとりずつが決まりである
死者のコピーは司書にあらかじめ申し出ておくこと
死者がたずねられて困ることはたずねてはいけない
死者の安らぎはこれを最優先に遵守する
生者と生者との逢引はこれを禁ずる
死者は生者よりも嫉妬深く傷つきやすいため
隣人が死者の場合
隣人のひざの上に腰掛けないこと
図書館のなかで
生者が死者に変容するとき
死亡確認は司書にまかせること
死者は階級別に並べられている
第一階級は偉大な学者や芸術家たちからなる
第二階級は大貴族からなる
第三階級はその他の特権階級の者たち
大商人や高級官吏たち
第四階級は中流階級の者たち
第五階級は下層階級の者たち
太陽は入れないこと
二度とふたたび死者が受粉できなくなるため
溺れたものを目にした者は
ただちにその場を立ち去ること
死者の身体を乾かしてから
書架に並べ終わるまで
死者の貸し出しは二週間
二週間を過ぎると復活する
復活は死者の記憶を減ずる
貸し出しカードは
死者そのものであるため
取り扱いに注意すること
死者の身体の一部および全体を損なった場合
借り出した本人を死者として供する
常識的な範囲で死者をいたぶることは許されている
常識的な範囲でいたぶられることは
死者たちの幸福の一部である
リクエストは常時受け付けている
あなたの求める死者の名前を
リクエストカードに記入すれば
その死者が死んだばかりで埋葬がまだの場合
三日以内に納入されることになる
ただしリクエストされた名前が生者のものである場合
当図書館に納入されるまで
およそ一ヶ月から半年の期間を要するので
お急ぎの場合は
リクエストされた利用者の手で搬入していただくこととする
書架の死者たちの手首にはナンバーが打たれている
手首のナンバーを取り替えることはこれを禁ずる
この規約を破るものは貸し出しカードの一枚に加えることとする


     *


ガチャリという手錠の音が部屋のなかに響いた
死者を坐らせるときには気をつけなければならなかったのだが
ついぼんやりとしてしまっていた
死者は19世紀末の北アイルランド出身の若くて美しい女性で
うすくひらいた紫色の唇が言葉にできないくらいに艶めかしかったのだ
ぼくは彼女の両の手を自分の両の手で包み
彼女の唇に自分の唇を触れさせた
興奮して噛んだりしないように注意して
ぼくはぼくの上下の唇の先で
彼女の下唇をはさんだ
冷たい唇がゆっくりひらいていった
ぼくは彼女の唇に耳をくっつけて
彼女の声をきいた
死者の声はどうしてこんなに魅力的なのだろうか
声をひそめて語る彼女の言葉を聞いていると
まるで愛撫されているかのようだった
彼女の息がぼくの耳をくすぐる
過去が死者によって語られる
どうして死者の語る過去は
生者の語る現在よりも生き生きとしているのだろうか
彼女は彼女の死の間際に何が起こったのか教えてくれた
どうして理不尽な死が彼女を襲ったのか
静かにゆっくりと語ってくれた
死者の息は冷たい
冷たい息がぼくの耳にかかる
目を閉じて彼女の声を聞いていた
視線を感じて目を開けると
手前の書架と書架の間から
美しい女性の死者の視線を感じた
一度に一人ずつ
というのが図書館の掟だった
ぼくはアイルランド人の貴族の娘を立ち上がらせると
彼女を元の書架に連れいき
手錠をはめて
さきほど目にした女性の死者のところに足を運んだ
彼女の姿はなかった
この図書館にはたくさんの書架があり
見間違うこともあるのだけれど
さきほど目にした女性がいた本棚のところには
びっしりと死者たちが立ち並んでいた
20世紀後半の東南アジア人の死者たちだった
第一階級の死者たちの棚だった
それらの老若男女の死者たちのなかには彼女はいなかった
額の番号を見ても抜けている番号はなかった
見間違いだったのだろうか
その死者は東南アジア系の肌の浅黒い
ちょっぴり丸顔の若い女性だった
後ろにひとのいる気配がしたので振り返った
彼女だった
彼女は死者ではなかったのだ
ぼくの目がみた彼女の瞳は死者のそれではなく
生者のそれだったのだ
ぼくは視力がそれほどよくなかったので見間違えたのだった
ぼくは彼女に一目ぼれした
彼女もそうだった
ふたりは互いに一目ぼれしたのだった
図書館では生者同士の会話が禁じられている
死者たちに嫉妬心を呼び起こすからだというのだが
わずかにひらいたカーテンの隙間から
月の光が射し込んでいた
死者たちの魂を引き剥がす太陽光線をさけるために
その用心のために図書館は夜にしか開いていないのだ
ぼくたちは周りの人間たちや死者たちには
わからないように目で合図して図書館から出て行こうとした
するとこの部屋を監視している図書館員にでも気づかれたのだろうか
ぼくたちの後ろから
ハンドガンを携帯した二人の図書警備員が追いかけてきた
ぼくたちはいくつもの書架と書架の間を抜けて走った
迷路のような部屋のなかを彼らの追跡を振り切るために


     *


だれも借りていないはずなのに
いるはずの場所にはだれもいなかった
しかし垂れ下がった鎖が
そこに彼女がいたことを告げていた
そこには20世紀半ばころに亡くなった
アメリカの女流画家がいるはずだった
図書館には頻繁に足を運んでいるのだが
いつもだれかが彼女を借り出していた
きょう来てみて
だれも借り出してはいないことを知って
よろこんでこの書架の前に来たのに
彼女の姿はなかった
写真で見た彼女は美しかった
60代に入ったばかりのころの彼女の写真だった
きょうこそは彼女の話が聞くことができると思ったのに
司書に訊いても彼女の死体がどこにあるのかわからなかった
だれかが無断で連れ出したのだろうか
無断で死者を連れ出したりすると
どんな罰則が科せられるのか
知らない者はいないはずだけど
ぼくはまだ見ぬ彼女に会いたくて
なんとか探し出せないものかと
書架と書架の間を長い時間さ迷った


     *


死者の身体から
婦人警官が身を離した
生者との接吻で死者は目覚めるのだ
図書館警察管区の一室である
刑事は容疑者の女の前に死者を坐らせた
「死者は嘘をつけないとおっしゃるのね」
「そのとおりです」
刑事は死者の後ろに立って死者の肩に片手をのせて答えた
「死者はそのときに信じたことを事実としてしゃべるだけなのですよ」
「それまたしかりです」
「では彼が述べたことは彼が事実だと思ったことを述べただけじゃないですか」
「おっしゃるとおりです」
「彼が信じたがっていたことと嘘とはどう違うの」
「あなたは死者に感情がないとお思いですか」
刑事の横にいた女が口を開いた
「この女は何者なの」
「死者のひとりです」
容疑者の女は目を瞠った
「自分のほうから口を開いてしゃべる死者なんているの」
「きわめてめずらしいことでしょうね」
刑事は容疑者の女の目をじっと見つめた
「死者に感情なんてあるはずがないわ」
「あるのですよ」
「それと死者が嘘をつくつかないといったこととどういう関係があるの」
「死者にもプライドがあり故意に嘘をつくことができないのです」
「どうどうめぐりだわ」
刑事が口を挟んだ
「わたしたちはあなたが直接彼を殺したとは考えていません」
「当然だわ」
容疑者の女は死者の首を見た
死者の首は異様にねじまがっていた
首を吊った痕がなまなましかった
「しかし故意に他者を自殺に追い込むことは刑罰の対象になるのですよ」
「証拠はあるの」
「死者の証言しかありません」
「起訴は無理ね」
「あなたは法律が変わったことをご存じないようですな」
容疑者の女の表情が一変した
「知らないわ」
「死者の証言は容疑者の自白に勝るというものです」
「そんな・・・」
「わたしたちのような死者が出現して
 より詳しく死者について知られるようになったからよ」
死んだ女が静かに言った
そばにいた婦人警官が容疑者の前に坐っている死者の耳元にささやいた
死者の口から細い消え入りそうな声が漏れる
死者の言葉に容疑者の女は蒼白になり気を失った


     *


老女の死体はバレーを踊る
月の光のもとで
老女の死体はバレーを踊る
月の光のもとで
無声映画時代の映画のように
ぎこちない動きだけれど
老女の死体はバレーを踊る
老人の死者たちは
近い過去よりも
遠い過去について
好んで思い出す
老女は幼い頃に習った
バレーを踊っていた
月の光が
老女の白い肌に反射する
老女の影が地面を動く
老女の足が地面をこする
だれにも見つからない場所で
老女の死体はバレーを踊る
老女は画家になるよりも
ほんとうはバレリーナになりたかったのだ
人間はほんとうになりたいものにはならないものなのだ
老女の死体はバレーを踊る
月の光のもとで
老女の死体はバレーを踊る
月の光のもとで
無声映画時代の映画のように
ぎこちない動きだけれど
老女の死体はバレーを踊る
だれにも見つからない場所で
ひとりの司書が連れ出していたのだ


     *


「それでどちらのウィルスなのですか」
「記憶転写型です」
記憶転写型のウィルスに感染した死者は
その記憶がある一人の死者としだいに似てきて
最終的にはまったく同じ記憶を持つことになるのだった
「記憶欠損型よりも感染力が強くて
 性質が悪いものでしたね」
司書の表情が一段と暗くなった
「もう十年以上も前の話ですが
 東端の都市の中央図書館が
 記憶転写型のウィルスにやられて
 瞬く間に滅びました」
「そうでしたね
 わたしたちの文明は
 死者を中心に発展したもので
 その死者がわれわれを教え導いてきたのですからね
 死者たちが語る言葉に混乱や間違いがあれば
 わたしたちの都市も
 わたしたち自体も生き残ることができませんからね」
「それでどれぐらいの死者たちがウィルスに感染していましたか」
「10名です」
図書館警察の刑事がその死者たちの写真を
テーブルの上に並べていった
「そうですか
 それはよかった
 まだ初期段階でしたね
 ウィルス保菌者の生者を特定するのは難しくないでしょう
 さっそく記録に当たりましょう」
司書はテーブルの上に並べられた写真から目を上げて言った
「それはすでに手配済みです
 しかし特定された人物が存在しないのですよ」
刑事は司書にファイルを手渡した
「記録に間違いがあったとでもおっしゃるのですか」
ファイルを持った司書の手に力が入った
「いえいえそうではありません
 記録は存在するのですが
 その記録にあった人物は生きてはいないのです
 5年ばかり前に死んでいました
 遺体は火葬されていました」
司書は目を瞠った
「それでは
 死者の言葉を耳にした生者はいったいだれなんでしょう」
刑事は声を落として言った
「死者解放運動の者たちの仕業か
 他の都市の謀略か
 そのどちらかでしょう」
司書は表情を失った
「被害が小さなうちに見つかってよかった」
刑事が立ち上がって部屋から出て行った
司書は両の手で頭を抱えてテーブルの上を見つめた
テーブルの上には刑事の置いていったファイルがあった
司書にはファイルをすぐに開ける勇気がなかった


     *


「おぼえているかしらあなたも
 わたしたちがまだ学生で若かったころ
 この図書館でお互いに一目で恋に堕ちて
 図書館警備の者たちに追われて
 逃げ回った日のことを」
「おぼえているとも
 きみといっしょに
 この迷宮のような図書館のなかを
 二人して書架と書架のあいだを走り抜け
 警備の者たちを振りほどこうとして
 逃げ回った日のことを」
「そのあとわたしたちがどうなったか
 おぼえてらっしゃるかしら」
「おぼえているとも
 ぼくの父が政庁の高級役人だったので
 二人ともお咎めなしだったじゃないか
 どんな罰が下されるか
 二人してあんなにビクビクしていたのに」
「それからわたしたちは
 二度とふたたび
 二人いっしょに
 図書館に訪れることはなかったわね」
「そうだった
 訪れる必要があるときは
 かならず別々の日にしていたね」
「子どもたちのことはおぼえてらっしゃるかしら」
「ぼくたち二人の子どものことだね
 どうしてそんな聞き方をするんだい
 デイヴィッドとキャサリンがどうかしたのかい」
「いえ」
「デイヴィッドはぼくに
 キャサリンはきみに似ていたけれど
 二人を並べるとやっぱり双子で
 瓜二つそっくり同じ顔をしていたね」
「わたしたちの子どもたち
 ただふたりきりの兄妹だった
 でも車の事故で二人とも死んでしまったわ
 わたしもそのときに死にかけたのだけれど」
女の目から涙が落ちた
女はしばらくのあいだむせび泣いていた
死者の視線は女の目に注がれたままだった
「ごめんなさい
 あなたに聞かせても
 あなたはあなたが死んでからの出来事は
 何一つ覚えていられないのに」
死者は新しい知識を長時間記憶できないのだった
女は立ち上がって部屋を出た
部屋の外には死者を目覚めさせ
眠らせることのできる死者の女がいた
この死者は自分の方からしゃべることができ
またウィルスに感染しないのだった
その死者の女は生者の女と入れ替わりに部屋に入った
生者の女は隣の部屋に入った
「たしかにわたしの夫の記憶が転写されています
 赤の他人が夫の記憶を持っているなんて耐えられないわ」
係官はうなずきながら
記憶転写ウィルスがどれだけ正確に記憶を転写させているか
チェック項目にしるしをつけていった


     *


オリジナルの死者を含めて
ウィルスに感染した10人の死者が火葬にふされた
つぎつぎと灰と煙と骨にされていく死者たち
眠りのさなかに燃え上がる10人の死者たち
死者たちは痛みを感じない苦痛を感じない
同じ記憶をもった10人の死者たち
つぎつぎと灰と煙と骨になっていく
同じ記憶を持った10人の死者たち


     *


夫の記憶を
ほんとうの夫の記憶を
白紙状態の死者にコピーするというのだけれど
赤の他人が夫の記憶を持っていることには違いはない
もう二度と夫のもとには訪れないわ
いえそれはもう夫ではないのだから
そんな言い方もおかしいわ
夫ではないんですもの
いえいえ違うわ
記憶は夫のものよ
わたしにはあのひとの記憶が必要だわ
わたしにはあのひとの言葉が必要だわ
二人のあいだの思い出を語り合うことが
わたしの慰め
わたしの唯一の慰めですもの
あのひとの顔ではないけれど
あのひとの記憶を持った男のところに
夫の思い出を語る赤の他人のところに
きっとわたしはやってくるでしょう
すぐにとは言わないまでも
遠くない日
いつの日にか
ふたたび
また


     *


「かけたまえ」
男は図書館長の視線から目を離さずに腰掛けた
「カタログは、そのなかかね」
男は持ってきた鞄を図書館長の目の前に置いて開けた
二つ折りのカタログを手に持って
男は唇の端を上げて、図書館長に思わし気な視線を投げかけた
「そのカタログにある死者が、どうして、わたしの興味を強く惹くと考えたのかね」
「電話でもお話ししたと思いますが、それはあなた自身が詩人だからです
 しかも、この詩人の死者の研究家だからですよ」
「わたしの研究分野は、きみが思っているほど狭いものではないのだよ
 それはいったい、だれなんだね。その死者の詩人は」
「あなたは、かねがね、死者による詩の朗読会を催したいと
 いろいろなところで発表なさっていますね
 この死者の詩人は、生前に、あなたのおっしゃったようなことを
 していたのですよ」
図書館長は深く腰掛けていた椅子から身を乗り出すようにして
上体を前に傾けた
「いったい、それは、だれだね」
図書館長の頭のなかに何人かの詩人の顔が浮かんだ
男はエゴン・シーレの絵を見上げた
「あなたの後ろにあるシーレの絵を
 この詩人も生前は大好きだったようですね」
図書館長にはすでにその死者がだれであるのか察しがついていたが
男の態度に怒りを覚えて眉間に皺を寄せた
「もったいぶらないで、はやく教えたまえ
 いまきみを図書警備の者に言って出て行かせることも出来るのだぞ
 あるいは、きみを直接、図書館警察の身に引き渡すこともできるのだ
 死者はオークションに出品しなければならない
 その法律を破った者に、どんな罪が科せられるか知っているだろう」
「いや、あなたは、そんなことはしませんよ
 ぜったいにできませんよ
 このカタログをごらんになればね」
男は図書館長の前にカタログをもって拡げた
図書館長はため息をついた
「これは、わたしが研究している日本の21世紀の詩人じゃないか
 生前に、引用のみからなるポリフォニックな詩を書いていた詩人で
 そうだ
 わたしもこの詩人のように考えたことがあったぞ
 すぐれた詩人たちによる
 すぐれた作家たちによる朗読大合唱なのだ
 大共同制作なのだ
 シェイクスピアが生きていたら
 いや死んでいてもいいのだ
 死者として図書館にいてくれたら
 さまざまなすぐれた詩人や作家が死者として図書館にいてくれたら
 彼ら・彼女らに、どれだけの美しい詩を聞かせてもらえるか
 また組曲のようにして
 合唱のようにして
 彼ら・彼女らの朗読コンサートができるのに
 ああ、シェイクスピアが
 エリオットが
 マラルメが
 ポオが
 図書館のできたときに死者であったならばよかったのに」
図書館長は興奮して一気にしゃべった
男はカタログを閉じた
図書館長は目をすえて、男の目を見た。
「さて、どうなさいますか」
男は、いかにも小ずるそうな表情をして図書館長の顔を見た
図書館長は机の引き出しから小切手帳を取り出した


     *


男は図書館長から小切手を受け取った
死者たちによる合唱だって
死者たちの共同制作だって
たとえすぐれた詩人であろうと
すぐれた作家であろうと
ただ死者たちが持つ記憶を
あの愚かな図書館長がコラージュするだけではないか
それが過去の詩人たちによる
過去の作家たちによる
合唱とか共同制作とかと呼べるようなものになるのか
あの愚かな図書館長のこころのなかでは
そうなのだろう
すぐれた詩人や
すぐれた小説家たちが円陣になって
大傑作を創作している
そんな妄想を
あの愚かな図書館長は
あの頭のなかに描いているのだろう
そしておれの財布のなかには
あの愚かな図書館長の妄想によって
大金が転がり込んできたのだ
歩合はそう悪くない
おれの儲けもけっして小さくはない
なにしろおれの命がかかっているのだからな


     *


図書館長は椅子の背にもたれて
男が去っていくときの表情を思い出していた
他人を小ばかにしたようなあの笑みを
無理解というものが
どれだけ芸術家にとって大切なものか
共感されること以上に
バカにされたり
無視されたりすることが
芸術にとって
どれだけ大切なことなのか
あの男は知らない
そう思って
図書館長はほくそ笑んだ
偶然が生み出す芸術のすばらしさを
いったいどれだけの芸術家がほんとうに知っているのだろうか
他のすぐれた詩人や作家たちが口にする
体験の記憶や作品のフレーズの豊かさを
そしてまた
芸術家ではないが
自己の体験をよく観察し
そこから人生について意義ある事柄を知り
それから語られるべきことを語ることのできる人々の言葉が
どれだけ豊かであるのかということを
そういった死者たちを
図書館がどれだけ抱えているのかを
そういった人々や詩人や作家たちによって
つぎつぎと繰り出される言葉たち
それらが編み出す一篇の巨大なタペストリーが
どれだけ美しいものになることか
それを知らないのだ
わたし以外の者たちは
図書館長は大きくため息をついて
よりいっそう目を細めて笑った
そのタペストリーは随所にきらめきを発することだろう
もちろん
ところどころにある沈み込みは仕方がないであろう
意味もなさず
映像喚起力もないところは随所にあるであろう
しかし
ディラン・トマスのすぐれた詩のように
きっとすごいフレーズが顔を覗かせてくれるだろう
図書館長は机の引き出しから二冊のファイルを取り出した
上のものには
これまでに図書館に収められた
すぐれた詩人や作家たちの写真がファイルされていた
下のものには
図書館長が選んでいた
さまざまな階級や職業の死者たちの写真が並んでいた
貼り付けられた写真の下には
図書館長の細かい字が
びっしりと書き込まれていた


     *


図書館長は自分が翻訳した詩人のメモの訳文に目を通した

 シェイクスピアの自我は彼の作品に残っている
 その影響は後世の人間の自我の形成に寄与している
 とりわけ詩人や作家や批評家に
 
 たくさんの詩人たちのなかに
 たくさんの作家たちのなかに
 それぞれのシェイクスピアがいる
 シェイクスピアの自我がさまざまな姿をもって
 おびただしい数の人間のなかに収まっているのだ
 その表現者の一部となった
 たくさんのシェイクスピアがいるのだ

この詩人の自我もわたしの一部となっているということだ
わたしの思考傾向をつかさどる自我の一部となっているのだ

図書館長は
番号のついたメモの写しをファイルにしまった


     *


図書館長は
詩人のメモのコピーを眺めていた

 作者が作品と同じ深さをもっているとはけっして言えない
 作者が作品と同じ高さをもっているとはけっして言えない
 作者が作品と同じ広さをもっているとはけっして言えない

図書館長は
コピーのページをめくっていった

 作品には未来がある
 解釈はつねに変化するのだ

図書館長は
またべつのメモのコピーに手をとめた

 読み手は作者を想像する
 作者は読み手を創造する

 これを逆にすると
 ただ陳腐なだけだが
 真実はどちらにあるのだろうか
 どちらにもあるのだろうか
 どちらにもないのだろうか

 読み手は作者を創造する
 作者は読み手を想像する

 もしかすると
 こうかもしれない

 読み手は作者を創造する
 作者も読み手を創造する

 しかし
 つぎのような可能性は
 考えるだけでもむなしくなるものだ

 読み手は作者を想像する
 作者も読み手を想像する

図書館長は
このメモのコピーの上で
左の肘をついて
手のひらにあごをのせた
手のひらに
今朝剃り忘れたひげがあたって
ジリリと小さな音を立てた
もう何度も目を通しているコピーであったが
図書館長の
右手の人差し指が
このメモの言葉の下を
ゆっくりとなぞっていった 


     *


図書館長の目が
詩人のメモの上を走る

 現代人は
 現代人であるがゆえに
 個人としてのアイデンティティーが希薄だ
 パソコンメール
 携帯電話
 携帯メール
 人格の浸透が常に行なわれているのだ
 子どもたちの人格の浸透度を考えると
 現代こそ
 一九八四年の世界であるということがわかる
 と考えたこともあるが
 いったい人間が
 まったき個であったことなどあったのだろうか
 どの時代に?
 なかったろう
 つねに
 わたしとは、わたしたちなのだ
 わたしとは、わたしたちなのだった

図書館長は、詩人のメモのコピーをファイルにしまうと
帰り支度をはじめた


     *


図書館長は、連日
詩人の原稿に目を通していた

 書かない人間のほうがよく知っている
 並みの書き手はあまり知らず
 優れた書き手はほとんど知らず
 最良の書き手はまったく知らない
 だから書くことができるのだ
 書かない人間は愛することができる
 愛することについて書く人間は
 真に愛したこともなければ
 真に愛されたこともないのだ
 作家とは恥ずかしい輩だ
 詩人とは恥ずかしい連中だ
 知らないことを書いているのだから

図書館長の口からため息がもれた


     *


目を開くことはできないが感じることはできる
死者たちは感じることができるのだ
手錠につながれた死者たちは感じていた
生者たちが書架と書架のあいだで
睦言をささやいているのを
恋人たちが互いを思いやり
いたわり合って言葉を紡ぎ出しているのを
死者たちは感じるのだ
嫉妬を
死者たちは
もはや特定の個人を愛するということができないので
それができる生者たちに嫉妬を覚えるのだ
生者たちの愛を目の当たりに感じること
それが唯一
死者たちのこころを乱すものなのだ
死者たちにこころがあったとしての話だが
というか
こころと呼んでいいものが死者にもあるとしての話なのだが

死者たちの心理学はまだ解析されはじめたばかりであったが
生きている者と同様に自らの意志で目を開くことのできる死者が出現して以来
それらの死者たちについての分析が急速に進展していることは事実であった
ただそれが
自らの意思では目を開くことのできない死者にも適応できるものなのかどうかは
異論が続出しているのが実態である

生者たちの睦言
そんなものでさえ
死者たちにとっては
致命的なものなのだ

それが
やがて死者たちが
自分の記憶を語ることができないようになる要因のひとつであった

生者と生者との逢引はこれを禁ずる

これは大事な図書館の掟のひとつであった

死者たちは動揺していた
恋人たちの睦言に

大いなる嫉妬の嵐が
死者たちの胸のなかを吹き荒れていた

図書館の天蓋の窓ガラスから落ちる月の光が冴え冴えと
目をつむって眠ったように死んでいる
死者たちの白い死衣にくるまれた身体を照らし出していた


     *


両手が鎌になっている死者が
リングの中央で切りつけ合っている
それを10人ばかりの生者たちが見守っている
生者たちは自分の賭けているほうの死者の名前を
口々に叫んで応援している
一人の死者が相手の死者に肘を切りつけられて
片腕を落とした
切断された肘から
白濁した銀色の体液が滴り落ちる
片腕の死者がよろけたところで
相手の死者が両手の鎌を交差させて
死者の首を挟んで鋏のようにして切断した
首が落ちて
首のない身体がくず折れる
一瞬
静寂が訪れる
その沈黙のベールを破って
扉が開けられた
「動かないで
 あなたたちを逮捕します」
最初に部屋になだれ込んだ刑事が言った
だれも動かなかった
「全員
 死は免れないでしょう
 もちろん
 あなたたちには
 死者になる権利は剥奪されるでしょう
 死と同時に火葬に付されるでしょう」
警察官の手によって
死者のゲームを主催していた者や観客たちが
つぎつぎと手錠につながれていった


     *


「それではつぎに弁護側の死者に証言させてください」

法廷には
弁護側の死者と
検察側の死者が出廷していた

死者は虚偽を口にすることはないので
裁判で証言者として認められることになったのである

証言台のところで
女性の死者に
生者の弁護士助手が近づいて
耳元にささやいた

女性の死者の口から
ぽつぽつと言葉がもれていく
マイクがその声をすべて拾っていった


キューピーと

  右肩

 君と歩くと、皆にこやかな表情でこちらに目配せをして過ぎます。名前も知らない人たちだけどいい人たちだ。僕も軽く頷いたりして挨拶を返す。なぜだろうね。こんにちは。
 君は首のもげた大きなソフトビニール製のキューピーです。肩の間から穴をのぞき込むと、中に油の浮いた水が溜まっていて、陽の加減で虹色の反射が見えてくる。君が何かを話そうとするとちゃぽんと音がする。君、何をいいたいんだろうか。まったくわからなくて僕はつい笑ってしまう。ちゃぷん。しかし僕の笑いは君の笑いです。
 日干し煉瓦を積んだ家が果てもなく続き、狭い路地に日が当たったり翳ったりするけれど、実際仰いでみて空に雲があった試しはない。総ては人の妄想に兆す影なのだ。影。建物の伸ばす影、黒い折り紙を乱雑に重ねる影の輪郭。そこを外れると、太陽がそのまま零れてきて煎餅のように砂地を四角く灼いている。
 影からも光からも、目を離したわずかな隙にたちまちひとつ眼の悪霊が生まれ、溢れる。それは、瑠璃鳥が鳥という形を崩したような声を上げて徘徊する。手の甲や首筋、耳たぶ、鼻、唇。小さいやつらがところかまわず噛み、もぞもぞと下着の中にまで入ってくる。嫌になります。君はキューピーだから煩わされない、そこのところはとても素敵だ。人でなくなったものの美点の一つに数えてもいいと思います。本当だよ。
 忙しく立ち働く人たちもいる。座り込んだり、寝転んだり。思い思いの姿勢で、濡れたものが乾くというただそれだけの時間をやり過ごす人もいる。唐突に走り出し、また突然に笑い出す子供たちと、その手を引っ張る母親たちがいる。ここへ今夜、光るものの破片が大量に降り注ぎ、僕らがみな感情からも想念からも物理からも隔たった、冥い粒子の隙間へ追い落とされるなどとはとても思えない。思えませんね。
 短い腕を明るい空へ逆八の字に開いている君、バンザイ。生きものバンザイ。頭の失われた君が愛しい。ぴたり揃えた脚。もの言えばちゃぷんと水が鳴る。僕は何かを思い出そうとして果たせないのだけれど、君が好き。風景の中で僕はやがて消えてしまう町の風の一部です。青い空を翼もなく飛ぶ、夜の予兆が僕です。それが遙か中間圏の静寂から滅び去った世界を顧みているのです。君、違いますか?
 僕は君の失われてしまった大きな頭を抱きかかえるようにキスをする。有無を言わさずキスをするのは、つまり、皆が何処にもないものを愛せるようにするために神様の仕立てた最初の実験体、それが僕だからです。

 いかがですか?返事はいらない。だから黙っていて。しばらくは黙って。僕にこんなふうに、好きに言わせておいて下さい。


いちじつ

  葛西佑也

もう雨には濡れたくはないのです
弱り切った身体を死に至らしめるには
十分すぎるほどに冷たかったその日の雨
ぼくはごくありきたりの苦悩を抱えて
(生きている意味がぼくにはあるのですか)
梅雨の長雨に打たれて、
知らない街の知らない道を
ただひたすらに歩いていました。

「やまない雨はない」
「雨に宿りがつくと、あま になる」
「……」

「久しぶりだね」を生温かい夜の風に乗せて突き付けてきたあなたに、「久しぶりだね」とそのまま反復して返しました。絡められた指がほどけて、役に立たなくなった電子機械は地面に落下する、その、瞬間。
(音はない)

昨日会ったばかりなのに
「久しぶりだね」なんて
おかしいんじゃないの?
そう思ったのはほんの一瞬で
ぼくたちは
その短いフレーズで
全て了解しあった/のです。

……不在着信二件、先ほどまでそのように表示されていた携帯電話のディスプレイは、今ではすっかり寂しくなった。
たくさんのものを失いすぎたぼくたちは、もう「無」と呼ぶには溢れすぎていて、あふ、れ過ぎて、い、て、なにも始めることのできぬまま、夜が明けるのを何度も何度も待ち続けるだけなのです/でした。(誰かが言ってたんだ、「ぼくたちは待つことをわすれてしまった」って。でもね、断言するよ。忘れてなんかいない。忘れてなんか。ぼくたちはいつだって待っているんだ。ひたすら。ただ、ひたすらに。ほら、たとえば雨がやむのとか、夜が明けるのとか……)

街を歩けば国籍不明の男たちが大声で歌っている、彼らはもうすでに少年ではありません/でした。(いつかの少年は女装をしていた。正確にはもう少年という年齢ではなく、女装をすることによって女装をした少年のように見える青年になっていたんだ)
歌声は音声であり、音色からは色が失われ、切り取られたたくさんの風景があちらこちらにちりばめられてい、る。

もう、いやだよ、

と誰かがつぶやいて、ねぇ/聞こえますか?お電話の向こうのあなた/ねぇ、聞こえますか?どんなに悩んでいたって、眠気には勝てないよ。

男たちは大合唱をやめて、ぼくの前を無言で通り過ぎていくのです/でした。(かれらはぼくを軽蔑するような目線で……ああ……)
ぼくには彼らのことばがわからないけれども、少なくとも彼らの考えていることはわかる。これは通じ合っているということではない/ありません、雲の間から差してくる夕日の、日差しのその光度如何で、ぼくたちの明日が決められてたまるか!

落下したら電子機器からは音声ではなく、声が歌うような声が、ぼくを染める声が、ひびいてい、る。
「負けんな」
「負けんな」
「負けんな」
「負けんな」

役に立たなくなったと思い込んでいたそいつを拾い上げて、電池パックのある面をズボンの太もものあたりに擦りつける、それからぼくは
「久しぶりだね」とひとことだけ言ってみた/る。


I-my-me [pupet makes people]

  村田麻衣子


 仮縫いみたいに 新聞を縫いつけられて
 テディベアはなんさいなの 読んだばか
 りなのに忘れてくのは、360°をまのあ
 たりにしたあらゆる内角だから ちっぽ
 けなこどもは大人に 先に言わないで!
 て 未来を先読みしてる 型紙のまある
 さを、尖った輪郭に触れるみたいになに
 この美しい子はって噛ませてあげて だ
 って熊なんだから。
 
 ここからここが、腕です。ここからこ
 こは、ないぞうよくたべるこで顔の付
 近がきゅうきゅうになるくらい綿をつ
 めこまれて、目が×になっちゃうくら
 い! 
 
 合唱てのは、一斉にみんなで声をだす
 から人体実験みたい 声をそろえてひ
 とつのことをして、いろんな声が聴こ
 えるようにしてくれますか 口を縫わ
 れているからそれはやっぱり内蔵され
 たスピーカーみたいで 衣類の裏地を
 つっきる 今季初めてのコートは、と
 ても暖かいけれどそれだけで ふわふ
 わにはんのうするだけ ちっともかわ
 いくなんかない
 
 わたしに所有格はないので、いちばん
 やわらかい大腿内側だけは剥がされな
 いようにしようって あのこと約束し
 たの ぬいぐるみはわたしのものよ。
 まっくろのボタンの目がとれたら、ひ
 とのせいにしようってもっと黒く塗り
 つぶしてるとこ。どんな色が映ります
 か? って実験は続いてて目をあけろ
  窓をあけろっ 足をひらけって命令
 されて目がとれた 耳もとれた こん
 んなにもろいなら わたし誰の代わり
 にもなれるわってしゅっけつしてたら
 所詮おまえはかわいいあのこのストラ
 ップさ って言われて てもとれた 
 あしもとれた

 おなかがすいても たべるとかたべな
 いとかそうゆう問題ではなく 抱えら
 れるまでもないやさしさばかりがめり
 こむので剥がすのはたいへん 詰め込
 むのは栄養になるまでが待ち遠しい 
 今日また廃棄されます もうしゃべん
 なくていいでしょう内蔵されたスピー
 カーが壊れないうちにオフにして。は
 んぶんは社会のものだからなんて あ
 のこだってぴんときてないって顔して
 るでしょ わたしはかおをかく めを
 くろくして あんな代物、まのあたり
 にして生存してるなんてひとでないか
 ら考えられることすら 労働くらいに
 しか思ってないわ。


アメリカン・ルーレット

  ぎんじょうかもめ

 

「ロシアン・ローレットはもう古い」
この店内にけたたましく響く
1977年、かの英国王室を
血圧あげて馬鹿にするパンク・ロックを遮った
その言葉を、しっかりと聞きとれた。
振り向くとひとりの男が
ワインを口に含み
こちらのカウンターに向かって歩いてくる。
彼の風貌は ただそこらのカーテンをはがし
体にまきつけたような
このつめたいシアトルでは
とても不釣合いなもの。
また彼はとても痩せていて
その体から、卵のくさった臭いがしている。
「ロシアン・ルーレットなんてもう古い
 これからはアメリカン・ルーレットの時代になるんだ」
彼はぼくの皿のポテトを
採ろうと右腕を伸ばしたので
ぼくはその右腕をつかんだ。
腕はつめたく、また湿っていた。
ぼくは彼に尋ねた。
「そのアメリカン・ルーレットって一体なんだい?」
彼は皿から
ポテトをとって口にほおばると
飲み込んで答える。
「それはな
 まず弾を6発
 全部つめこんでから
 ロシアン・ルーレットをやるんだ
 アメリカン・ルーレットのすごいところは
 最初に撃ったやつはかならず死ぬってことさ」
その言葉に
ぼくは目をきらきらさせて思った。
かならず死ぬ。
すごい。
そうだよ。
ひとはかならず死なないと。
彼はつづけてこう言った。
「だけど、死ぬことなんて簡単『だった』
 生きることくらいに
 だからさ
 生きかえることだって
 死ぬことくらい簡単『だった』んだ」
彼は
茨の冠をかぶっていた。



パパ、わたしのクマちゃん、今朝方しんじゃったみたいなの。
だって昨日はあんなにたくさんお話してくれたのに
今朝になってみたら、ぜんぜんおしゃべりしてくれないし、つめたいの。
どうして、昨日はあんなに元気だったのに
今日はひとこともお話してくれないの。
だからこのクマちゃん、もうしんじゃったのかなって思って。
っていうかこれ、単にクマちゃんのシカトかな。
事実だとすればマジ、ムカつくっていうか、ナイよね。
クマちゃんぜんぜん空気読んでナイよね。
だからわたし、こんなメンヘラみたいな遊びはやめる。
パパだってわたしを未来
30代、無職、自称詩人みたいな生き方させたくないでしょ。
パパはわたしをニルヴァーナのカート・コバーンや
リチャード・ブローティガンみたいに、逝っちゃった精神状態で
ついに拳銃で頭を撃ちぬくような人生歩ませたいの。
それって今もクールっていえばクールだけど
第一、ここは日本で
スーパーマーケットで拳銃を購入することさえできないのよ。
お願いパパ
だからわたしにローラーシューズを買ってよ。



かもめの鳴く声はだんだん近くなり
また波の音もだんだんと近くなってゆき
その音はまた意識の向こうへと
すこしずつ、すこしずつ
遠のいてゆきました。

わたしは雪山の一角で
ぎゅっと自分の体を抱きしめながら寒さに震えておりました。
しっかりと握っていたものは、ばらの花に携帯電話。
今日、たしかにこの場所で
わたしは恋人とデートの待ち合わせをしたはずでした。
携帯電話で
現在地を確認しますと
たしかにここ、この場所です。
たしかにわたしはこの場所で、恋人と待ち合わせをしたはずでした。
「しぶやえきはちこうまえ」
しかし携帯上のその地図はずっと更新されておらず
2050年のものと、とても古いものでした。
またわたしはその地図上の、その古いことばを読むことなんて
ほんとうはできなかったのです。

 


白亜紀の終わり

  右肩

 アンモナイトは古生代デボン紀から中生代白亜紀にかけて栄えた後、やがて絶滅した。僕らにも馴染みが深い巻き貝だ。
 「ずいぶん長い期間に渡って栄えたんだけど、白亜紀後期に絶滅する頃には、種としての疲労が溜まっていたんだな。それがこれだよ。」
と、彼は展示されている化石を顎でしゃくった。アンモナイトは通常円盤状に巻いているのだが、その化石は出来損ないのクエスチョンマークのように見える。
 「異常巻き、っていうんだ。絶滅期に特に多く見られる。こりゃレプリカなんだけどな。」
もっとへんな形に巻いたものもあるんだ、と彼は言った。大学の付属博物館でのことだ。
 もう二十年近くも前の話。

 そのことと、彼が死んだこととは特に関係はない。彼は住んでいたマンションのベランダから転落死した。何らかの原因による事故死だとされた。大学を卒業して7年目のことだ。彼は故郷の旭川に帰っていた。葬式に行くには遠すぎる。電話帳の見本文を使って、弔電だけ打った。

 彼の妻が初七日の後、首を吊って自殺したという知らせがあった。
「状況からいって後追いだろうね。」
と僕は麦酒を飲みながら言った。
「今時珍しい話だよ。君は僕が死んだら後を追うか?」
妻は酒が飲めないので、テーブルに両肘を突いてぼんやり枝豆を食べていたが、声を出して愉快そうに笑った。
「ばかね、そんなわけないじゃない。まだやりたいことがたくさんあるから。」
 九月の半ば頃の日曜日。まだ暑かった。彼女の背後に、ダイニングキッチンの南側のサッシが開け放ってあった。雨の上がった後、庭の芝生と、隣家の竹藪の緑がしっとりと濃かった。午後の三時頃だっただろうか。時々涼しい風が入る。姿は見えなかったが雀の鳴き声も聞こえた。彼女は瑠璃色の半袖のシャツを着て、今までになく髪の毛を短くしていた。白い首の長さが目立った。六年間一緒に暮らしたうち、その時の姿が一番印象に残っている。彼女はとりたてていうほどの美人ではなかったが、この時は妙に綺麗だった。僕は、彼女の生涯で最も美しい場面の目撃者になっていたのかも知れない。何ということもないこの瞬間がこれから先記憶にずっと残るとは、その時は考えもしなかった。死んだ友人とアンモナイトを見た時もそうだったが。

 妻はそれから二年後に、交通事故でなくなった。僕のショックは大きかった。加害者である運転手は、向こう側から歩道を歩いてきた彼女がふいに車の前へ飛び出したので避けようがなかった、と主張し続けた。「こちらを見て運転席の私と目を合わせながら、身を躍らせてきたんです。あの人の姿がスローモーションのようにはっきり見えました。」事故の目撃者は居ない。僕の周りの人間は誰もが、運転手の都合の良い作り話だと怒った。彼女はそんな人間ではない、と僕も人にはそう言った。仮に飛び出したのが本当だとしたら、急に目眩でも起こしたとしか思えない。
 だが、信じられないことだが、ひょっとして自分から車の前へ飛び出した可能性が絶対にないとも言えないのだ。それは今となっては確かめようがない。

 そんなことを考えるのは、時々僕自身にも特に強い理由もなく死の誘惑が襲うからだ。三途の川の向こう側には何もない、犬一匹さえいるわけがない、と固く信じているのだが。
 その度に僕は、人類も異常巻きを始めているのだ、と考えてその場をやり過ごすことにしている。そう考えるならば、僕も、死んだ三人も、同じ絶滅の歴史の一部に過ぎない。絶滅の大きな流れの中で、僕らは生まれては消えるミクロの現象である。個体の生死は、白亜紀後期のアンモナイトと同じく、種の衰亡を彩る無数のエピソードの一つに過ぎないのだ。種全体が衰亡すると、死の様相はより内部的要因に特化して、今までよりも多少理解しにくい異常性を帯びるというわけだ。

 どのみち人生に悩むほどの意味なんかない。そのことも素直に納得できるようになった。


HAVEN made in japan

  

暴力の限り娼婦どもを犯せ、天使どもが酒場で酔っ払っている間に!

 冗談じゃない。どいつもこいつも朝からいかれたまま昼を食い散らかしてやがる。俺達の優しい神様の慈悲なる銀行につめこんだままの腐敗が今にもながれだしてきちまいそうだ。この世界は今じゃ、ろくでなしどものに埋もれてボンベなしじゃいきちゃいけない。ここは、高原病の行き着く最果てにちがいない。病人の奴らは、皆祈ってやがるのさ。青白い顔で、私達を救いたまえ、ただ私達は何も背負いたくありませんが、と、そいつらの頭にしょんべんがひっかかる。とうとう、神様もいかれちまったわけだ。手は痙攣し、天国が壮大な密造酒の工場に生まれかわっちまったって寸法なのさ。
 そして、暴力的に俺達は脱獄する。これは一種の美学なんだと、柵を越えるときに、俺達は一列に並んで射精する。綺麗に、明日にじゃなく、俺達の目の前にある希望と言う名の奈落にむけて!奈落から匂って来る腐った香り。希望ってやつは腐った臭いがしやがるんだ。つまり、それに集る蝿どもの多いこと!祈る奴の青ざめた顔は、感情に整形されたくそくだらない面!
 俺達には悪魔も天使も未来も過去も希望も絶望も味方しやがらねぇ!便所は、この世界でもっとも清潔だ。何もかもが渦を巻いて流されていくとき、それは処女の女どもが、目の前で同じ処女の女が犯されるのを見て、苦痛と快楽に引き裂かれながらも最後は、事実に押しつぶされちまうように!
 女の性器を指で開くようにして、地獄を開く。乾ききった死体には蛆もたからないのさ、お前らのじっめぽい魂や感情にはいつも蛆がたかってやがる。
 糞くらえだ!日本製のくだらない天国の中で、特に名指しされた爆発と轟音のど真ん中で、糞をたれる野郎どもを。
 
世界は、
今、必死になって、
肩パットの、
モヒカン連中と
死闘を繰り広げている、
ブイブイ言わす、
バイクの、石油で、
頭を洗われた、
子供の、背中で、
百の、瞳が、
いっせいに、
目を覚ます、


色彩の沈むところ

  久石ソナ

散りばめられた冷たい木漏れ日は
私の首筋にするりと落ちて
指先の感触で静けさと
そのさきの乾いた音を
手探りする。
ぷつりぷつりと潰れていった遊びを
裏返してゆくことが
ぬくもりを生む条件でしたが
私は笑っているので
もし、からだと葛藤の盾すらあどけないなら
熱を孕んだ白昼夢を見続ける作業を
しなくてもいいよ。

また一つ
街灯の明かりに照らされた葉脈は
私の指先から滑り降りた。
道すがら、水面に映える芥子を
握りつぶすことを
さしてわだかまりの匙だとは
思いませんよ。
けれども、私を構築する術の
煮詰まった孔穴を
印すことはありませんから
末永く落ちていてください。
陽に溶けた古びた紙の端の鮮やかな沈殿の

ほのかな目眩が漂い
私にひび割れた感触を与える。
夕映えの錯覚がコップの底で眠り
飲み干そうとするけれど
ままならない指先の冷たさ
木の葉の揺れる音
さつばつとした香りを晒し
風に不確かな温もりを孕ませる。
その輪郭を捻じ曲げて灰となった
寝息に私の耳の裏は
さびしさを浪費する。


僕らのオノマトペ

  藪木二郎

国語の先生輪す時
その牝豚の
嗜好に合わせ
僕らもちょっと
利巧ぶって

ぶっぶぶぶぶうぶぶぶうぶぶぶう

先生ネタの
定番の
浣腸責めの
クライマックス
あの宮賢で
囃せ
囃せ

ぶっぶぶぶぶうぶぶぶうぶぶぶう

僕らも豚だ
僕らは鼻だ

先生だけは
尾籠な箇所で

ぶっぶぶぶぶうぶぶぶうぶぶぶう
ぶっぶぶぶぶうぶぶぶうぶぶぶう


JIGOKU made in japan

  

 やさしいにほんごの、からだからあふれたわたしたちのたましい

 ゆうやみはいくつものよるをたべて、ずっとおおきくなったまま、あしもとでねむって、そしてからだをおこすときに、なる、おとがあっしゅくされてへやにひろがるとき、へやじゅうにちらばったあかるいへいきがわたしたちのことばをこなごなにしていく、これはよみにくいことばだから、このからだはもうずっとむかしに、ことばからうまれた、はずだから、と、ことばがひきさかれて、からだが、うまれる、いっぱいのからだのなかに、あなたのからだや、しらないひとのからだがあって、そのうちいくつかは、もうすでにしんでいる、あなたのからだがことばからたちあがるとき、わたしたちのやさしいにほんご、のからだから、たましいがあふれて、もうとまらないから、たましいの、ない、からだには、ことばがないから、からからになった、ことばに、からだをかえす、たましいは、ことばのなかでねむって、いつまでも、ねむって、ろくにおきないまま、ずっとねむっている


 私達の、やさしい、日本語の、
 身体から、夜があける、
 たましいの、溢れた、ままの、
 からだに、ずっと、
 言葉が眠りますように、
 と、そして、貴方の、身体
 が、やさしい、ことばで、
 みたされたまま、たましいを、
 


 


もしもし

  カモメ7440

箪笥のなかにハンガーが入って行く
(行ったのか、や、敬礼

   でも、そいつが手錠をかけられていることを知っている
犬・猫・鳥たちのように自由でなく、
 一滴の血も流れず、
固いぼくらの皮膚のようにひびわれることもないことを
  まるで扉という扉にすべて鍵をかけたように

 でも夜を投げられた、光の敗北
その時ぼくらは、縫い目がほどけていたことを知ったのだ

 ・・内部は明るくさわやかな破水をしている
もうズボンの脚はと尋ねないー。

    ・・・でも知らないー。知らない よー・・。

そいつにぼくらの臭いブーツや、ネクタイ、スーツが
お誂え向きじゃないか
そいつが死の苦しみを知って、毅然と生き抜くことを覚え、
敷居を跨がせない、とある日誓ったと言ったって
信じられない、そいつが血を舐めずり、喘ぎ、
長い骨のような沈黙を続けていた、と

―――でもある日、トリックを好んだ履歴書のように
語り始めた
晴れ渡って涯てしない壁のあるところでは
 あたたかい掌のなかでしぼむ花
溜息 眼差し、やさしさの意味が、くら い しかない
・・・おやすみ/こちらこそおやすみ

  ね え 赤い舌が が、
あらわれた
     ね え 愛の棘が が、
   またパニックになった

  ・・・蒼褪めた花弁は くらい土へと舞落ちる
樹木が水を含んで膨らみ、鱗の如く葉がぼろぼろと抜け落ちていく
薔薇いろ、薔薇 いろ

 おまえはきっとくろい聡明そうな眼をしている、
たとえそれが突然過ぎ去りし思い出が甦るというー。
走馬灯だとしても

 上くちびるの/探るような鋭い眼つき

  ・・・おまえは炉の息、燠の紅く燃える挨拶をおくる
そしてー。うるおっている 、 うるおっている
雲の上、梯子づたいに
おまえはショウウィンドーのキラキラした嵐ー。対話
を、視点で感じることができる

 おまえの魂は生きていた! 勝て!
そして今日という日の価値を
キャッシュカードで今月分の給料を引き出せ
小さい穴、小さい穴 から
小人など、・・・従順さを要求する社会など
追いだしてしま え
   さあ―――上へ!

 見えない空間へ/すなおなのどけさを

   ぼくらはまるで見えない抽象的な情報、絵の断片を
差出人のない手紙みたいに思ってる
単純で分かりやすくするために、ただ、
何か楽しい物語を、と要求と提案を掲げた

    そのためにー。そのためにー・・・。

 みな、造られたものを、判をおされた紙のように思ってる。
いまも、なだらかな湾曲、殺菌処理されて使い道をうしなった
残酷な想像力を、
出口のない迷宮のようにおもってる

    物として放置して、趣味のよいものに置き換えた
でも見ろ! 心の影、霊魂の奥処のまえでは、あんなに飛翔
   をもとむる海へ!―――息をひそめれば不思議なことってある
われわれは貯えている、世界の果てのファンタジーを
   あわよくば論理や意味を排除―――排斥
ただ、むじゃきに跳び上がり、ぼくたちの眼から舞い上がるさまを

 (や、敬礼
・・飛行機雲ゆずりの
無鉄砲をうちあげたようなぼくの人生に
偽りとか、病むとか、転がり落ちることとが沁みて
   不安を消せない

 真夜中/みしらぬ音楽が鳴り響くみたいに

  まよな か、風船がパンクするように
窓がサッと開いた。

  ビービービー、小さな魂、ちいさなたましい
SOS・・・ 地球人のみんな、ぼくと、話をしようよ
光と埃と、物とに囲まれた暮らしはときにもつれる柔かい脚
たしかにそれは道路わきのどうでもいい花
デモしたい/そう、でも、したい・・
いささか興に欠けても

 知ってるよ、ぼくらが目隠しをしてること
さまようこと、大きな涙が洋梨みたいにぽろりとこぼれおちること

 ・・世界が入り組んでるってこと、専門家じゃないとわからない
記号で、音楽が奏でられているってこと

   煙、ー薫り、足も手もない、意志から、
そう、意志から
秩序と権利の名のもとに
 花がタコ型ウィンナーしている。ー茎がワカメ、
根がかぶら
    そしてピカピカ光っている
滴といいたい。−朝露といいたい
でもそれは残酷な冬のしろい溜息だっていうこと

 でも目覚めた、ふくよかな脱脂綿から
おまえはけばだった、
          唾だった・・・
    きっとおまえは、ハンガーだけれど、トランクなのだ
エプロンをかけられているけれど、角砂糖なのだ
おまえはきっと列車にだって乗る、切符を買い求める
 おまえがぼくの芳香自身であるとみたされていたとき

   一撃を喰わされた動物だったー。共感という親友だった
ハンガーから取り外す服に
            女の髪の毛がついていても、
ゆたかな髪のひと房、
 できうるなら、馬の後ろのふさふさした毛ではないかと
描かれずにいたバルコニーの向こうの夏の川の模様を見た
   雲がフリージアに似ていると、と、

    地平線が脈打つー。おまえのはじめてが宇宙を家にするー・・・。

 ・・・聾 者 よ !
ありとある翼をもて、そして静脈の膚あらき
腕よ! 風 に な れ
、くりかえし燃やされ、身をまかす欲情よ
けむりをあげて、この骨や灰のうそぶみにこそ脈搏て
袖を通す・ 袖を通す・  袖を通す・

  き っ と 秋の湖のように に、
夜の化石
     き っ と 蝸牛が が、
   蝙蝠になった

   (おまえが、姿を変えているように夢見るのだ
日々の裏側へとどまっていく、・・・シャツは哀悼の歌
はためきでも、静けさのなかで陶器となるだろう
 洗濯籠のひときわ派手なトランクスも
網の目の形状でさみしい
           阿弥陀籤をしながら
   見なれざるひとの胸に消えん

、がちぎれる瞬間、汗の沈黙する階段をおりてゆこう
真空のなかでも配列がある
季節のないところでも雲や波が語らう
ああ、そして朽ちてゆく筋よ
おまえの生くる時間のなかに

    もう一度・・・/も 一度 敬礼 。ー・・

   ーいつもぼくのなかにある
  −いつもぼくのなかにある
 −いつもぼくのなかにある

   人を迷わせ、悟らせ
そして、いつもぼくのなかにある
やすぐすりの効能のような台辞《せりふ》

   実にあまりに単純すぎるために、
もう忘れてしまった人が多いようであるが、
尋問する! ―――黙秘する

      ーいつもぼくのなかにある
  −いつもぼくのなかにある
         −いつもぼくのなかにある

マントにくるみこまれた
 エレヴェーターの故障みたいに
なんでか、おまえの足をひきとめる教会音楽がある
   ジャズがある、
         しろい旗が風になびいて る
 絵のような夜が星のなかでかがやいてる
墓石の間をさまよっている
            ああ、ぼくはすねもの!
   つむじまがり! 卑屈だし、根性は悪いし
 でも家庭はもちたいし、マイホームも持ちたい
職業として詩を書きたいし、
            責任!責任!責任!
   ああおまえらうるさいし
 、ああ殺人はなくならないし、
まるで、―――折れた枝  
           欲しいのは・・・葉!

      ーいつもぼくのなかにある
       −いつもぼくのなかにある
 −いつもぼくのなかにある

   ネジ廻しを握って、
 器械のパネルに木ネジをねじこんで
、ハンガーを
      ハンガーを
 ぼくらの人生にまだ生まれぬ子供のように
   、ハンガーを
ハンガーを
 ・・・芝居も見に行かず、妄想ひとつで
一炊の夢。−もう余分な死などいらない
   ハンガーを、
 ハンガーを


(* 二回編集しました。一回目はタイトルのつけ忘れ、
二回目は、些細なミスです。)


strip for you

  いる

さいしょに上着をぬぐの 毛皮の これはあたりまえ
それからつるつるのドレスをいちまい
またいちまい
ほらまたいちまい
だんだんすそがあがって
みじかくなってくのね これもあたりまえ
それからまあ ブラジャーとかパンティとか
そんなようなもの
ちょっといそぐから
じらさずにぬいじゃうね ごめんね
でもあんただってきっとさ
みなれてるよねこんなの

で ここから
みてて ここからが本番
藍色のコンタクトはずして
口紅をぬぐって
シャドーにパウダーにファンデに まあぜんぶ
いっしょにとれちゃうんだけどね
こうやって落として……
え? はじめてみた?
でもこんなもんよ あたしの顔なんて
で マスカラ
落とすついでに ほら
こうやってひっぱって

まぶたをはがしていくの
とちゅうで切れないように 顔ぜんたい
それから首…肩…胸の谷間…… あ
切れちゃった
でもまあこんなかんじで
皮はがしてくのね 全身
そしたらそのあとが脂肪
脂肪 これやなんだなあ べとべと
手がすべっちゃって
いらつくんだけどこうやってこんなかんじで
むしって したら
筋肉とか血管とかあるよね みえる?
こういうのもつまんで
ひっぱって
びぃって
あ あたしこの感じすき
血管 網んなったまま肉から
びぃってはがれるときの
この ぴりぴりってする感じすき
で やっと骨
ちょっとみえてきたかなって
鎖骨とか肋骨とか大腿骨とか
まんなからへん これ内臓ね
ここめくるとあふれだしちゃうから
とりあえずこんなかんじで おいといて
うん
こんなとこかな どう?
うん でさ
あんたにききたいんだけど

ねえ まだすき?
まだあたしのことすき?
だきたいっておもう?

いってみて
いつまで
どこまでならすきだった?
あんたいったよねきみのその目がすき
ほそい指がすき まっしろな肌がすき
ねえ あたしいつまで
どこまで
あんたがあいしてるあたしだったんだろう?

なに黙ってんの
こたえて
さいごに
あたしがこの声をぬぎすてるより先に


小品(オヤドリを埋めるための)

  しりかげる

 
 
りる/りるる/りる
嘴の勾配に沿って過去をゆるすものはコトリではなく、産卵の痛みだけをわかちあういつわりのコトリだから、地面には剃刀の刃だけがひかり、金属のつめたい光沢に安堵する。空はとおく架空の翼では巣立つことができないから、オヤドリはコトリに脚を与えた。濁った血液の流れ。嘴の勾配に沿って過去をゆるすものはコトリではない。この墨に汚れた金貨が溶かされているとしても。
りる/りるる/りる
冬を窓辺から享受して、布越しのひかりでえがく芽吹き。影のおちる室内、病床、古書を枕にしてコトリは眠り、ときおり目覚めてはひどく咳きこむ。やまない鼓動は雨音のように屋根を穿つ(コトリは卵生だから母の鼓動をしらない(花瓶にいけた筆(痛覚の麻痺(書物は答えを教えてはくれない。重力をしたがえた沈黙だけが厚く降り積もり、喉が乾いたコトリは窓の結露を舐める。涸渇による支配がつづき、逃れるための自傷。自傷。自傷≠
りる/りるる/りる
意識が糾弾されることはないから、という点でのみはばたきをゆるされたコトリの、ゆるされるべきさえずりは瞬く間に射撃される。垂らされた宵闇からもたらされた解体。痛覚から画鋲をうみだすさかしまの行為によってコトリは求愛する。(わたし、はこわ、くはない、よ(わた、しはこ、わくはない、よ(おいで、そして、(ひかりの墓地に足跡を記す。


/はねをすてた!
のは、にんげん、で
かれらが“evolution”とよぶ、
それはただしいこと、だと。
“セイカツ”life? に
必要、なものは
ただひとつ、迎合、で。
/迎合/ゲイゴウ
嘴の勾配に沿って、
/さえずりをすてた!
/そらをみあげない!
かれら
に、あらがうため
脚を切り落としたのに
、うばわれた
翼を返して! と
さけぶこのくちはいつしか
にんげんのくちびるにかわっていた

進化。/退化。
をいわうひとびとの
祝祭日、
卵料理がふるまわれた
あさ、そらから
やわらかな羽根が降る
ふぇざーれいん
肉親を棄て、
胎生をこばむコトリは
“イキョウト”とよばれ
この街に宵は
訪れない。どこまでも
均等な/light?
right/それはただしい。
そしてどこまでも
まちがっているのだと


りる/りるる/りる
コトリの翼は重力の影響下から逃れられない。墜落する夢をみて、目覚め、眠り、(書物は眠らない(みちびきのよるはひとにはみえないふちのげんごでえがかれる。燃やされていけ、空(孵化し、産卵の痛みにより生かされてきた。
りる/りるる/りる
りる/りるる/りる
同化することが神秘、だから、
 「異化、させて
五感を共有するとよい
 「それが?
真価なのだ、よ
 「この街に、宵は訪れない


街に拡声器はひとつしかなく、伝達しておなじ進化をたどることだけが至福だった。足跡を空に刻むことはできないから、均等な朝が来たらコトリは翼を棄てなければならない。(ことなった陣痛、(分裂で増殖するかれら(無精卵を抱くことだけがせかいのすべてだった。そしてコトリはもう、これいじょう、嘘をつくこと、ができない

オヤドリをさえずりに埋めた冬の朝。窓の外の街はあまりにも鮮明だから、どれだけ埋めても揺らぐことはない。おなじ声の質感のうえに引かれた絶対的な白線。最後のさえずりを打ち消すために、けたたましい機械音で鳴く拡声器。
りる/りるる/りる
諦観が日差しと共に降り注いでいるこの街に、宵は訪れない。反復をやめない均一な朝は、信仰するひとびとにだけとてもやさしい。
 
 


The eternity is on the stove.

  長押 新


言葉の中を泳いでいた。
やがて小さな言葉に行くほかなくなった。
そこに潜り込まねばならず、感覚でしかないが引き寄せられたのち、言葉は残らず去ってしまった。
目を覚ますと、それでまた言葉の海が、ここに出来ている(彼はおはようの代わりにいつもこう、話しかけてくる)。


私と彼は古い本の中で、探し物をしていました。どのみち他にはしたいこともなく、いつもいつの間にかどっぷりと日が暮れるのです。湿っぽい埃が、寒さで鴇色になった頬をロマンチックに美しく見せました。その埃の様はまるで、ちらちらとして私たちかのようです。
そこでは、昔ながらのものが、湧き出るような、とにかく愛に誘ってくれるようなもの、それが見つかるような気がしたのです。もしくは、それを既に得ているために、うまく言い表せるような言葉、を探しているのかもしれません。とにかく、長い間、私たちはお互いにお互いの中にいるような、そんな気さえしていたのです。
ところが、彼は譫言のように、冒頭の言葉を繰り返すようになりました。私の中にいながら、身近なところから遠ざかるところ、を歩いているかのようなのです。それで、非道く傷がついたという顔で私の顔を見つめるのです。まるで私を贋物みたいな目をして。
ああ、傷口にうじ虫這わせるみたいに女を這わせたら、あなたの焼かれるような痛みのうちに、わたしも焼かれていかなければならないんだわ。女の腹に溜まるのは、本能。固い唾が喉を通らなくて、裂けた皮膚の下、黄色く濁る膿。バルバルバル。果てしない叫び、憂いより呻き。バルバルバル。動かしているのは、あなたの手。手なんて消えて欲しい。手、消えろ。Te quiero.ねえ起きて、私の話を聞いて、さっきからずっと子供の声が聞こえる。Quiero te.紅茶入れるから、ほら、また子供の声、私の話を聞いて。古い本、いえ私、いいえ言葉、言葉に綴じ込められて、言葉を泳ぎ切らないうちに、愛に、愛には届かないんでしょう。This is a my love.ほら、また愛って言ったわ。
あ?
言葉を叩いたら、埃っぽい言葉たちが一斉に飛び出してきてちらちらと、足元に降りました。降ると言えば、随分と外に出ていませんから、もう外では雪が降っているかしれません。永遠に降り積もるかのようです。ストーブの上の永遠?足の裏で散らかした埃を集めようとしながら、器用に会話しました。ストーブの上の永遠?私は利き足が左ですから彼の左足を何度か踏みました。ストーブの上の永遠?埃は私に集められて、塊となりました。ストーブの上の永遠?埃は、嘘をつきます。今はそれが、分かります。このように、綿のように降り積もるのは、雪か嘘からしいですから。審美的な瞳に、私が映ります。その時になって差し出される届、古びた、封筒に入れられた言葉、その契約。紅茶のためのお湯が沸きます。ストーブの上に封筒を置きます。お湯の音、子供の声がする、彼には本当に聞こえないのかしら。ティーカップを温めます。今に私たちは、この本の中に、永遠に、閉じ込められます。

文学極道

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