二〇一五年十二月一日 「毛布」
きのうのうちに終えるべき仕事をいま終えて、これからイーオンに毛布を買いに行く。クローゼットに毛布が1枚もないのだ。捨ててしまったらしい。これまた記憶にないのだが、ないのだから衝動的に捨ててしまったのだろうと思う。
あったかそうな毛布を買ってきた。3200円ちょっとかな。こんなものか。お弁当を買ってきたので、これを食べたら、お風呂に入って塾に行く。
きょう買った毛布、めっちゃぬくい。寝るまえの読書は、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを。塾の帰りに、ブックオフに寄った。日本人のSF作家の短篇のアンソロジーが108円なので買おうかどうか、ちょっと迷ったけれど、さいしょの短篇を読んで、買うのをやめた。
二〇一五年十二月二日 「極光星群」
これから西院のブレッズ・プラスでモーニング食べながら、数学の問題を解く。ランチもブレッズ・プラスで食べようと思う。全部解ければいいんだろうけど、半分くらいかな。
仕事、半分終わった。ちょっと球形して、塾に行くまでに、もう半分しよう。できるかな。がんばろう。
少しずつ、やらなければならない仕事をこなしてる。塾に行くまで、あと3時間、どれだけやれるか。塾から帰ったら、お風呂に入ってすぐに床に就くつもり。時間との闘いだ。
これから塾へ。塾へ行くまえに、ラーメンを食べよう。数か月ぶりにラーメンを食べる。
塾の帰りに、きのう文句を言って買わなかった年刊日本SF傑作選『極光星群』を、五条堀川のブックオフで108円で買った。日本のSFを読むのは、20年ぶりくらいかも。あ、数年前に、山田正紀さんの『チョウたちの時間』を読んだか。ぼくも、来年、思潮社オンデマンドから、長篇のSF詩集を出す。『図書館の掟。』というタイトルだけど、それには、『舞姫。』も同時収録する予定。あと、詩論集『理系の詩学』と、『詩の日めくり』と、『カラカラ帝。』 できれば、4冊を同時に刊行したいと思っている。『カラカラ帝。』をのぞく、3冊になるかもしれないけれど。
きょうするべき仕事をすべて終わった。あした、あさってが超ハードなスケジュールなので、お風呂に入って寝る。あしたの朝は、お風呂に入る時間もとれなさそうなので、寝るまえに入っておく。
あるいは、『理系の詩学』をのぞく3冊になるかもしれないけど。『詩の日めくり』は一年ごとに出したい。何百ページになるかわからないけれど。いまはこわいので考えない。来年の3月に原稿を書き直す(翻訳は権利関係の対応に時間がかかるのではずす)ときに考える。
二〇一五年十二月三日 「マイノリティ・リポート」
これから仕事に。夢を見た。悪い夢じゃなかったような気がする。左腕がまだ痛みで不自由だが、かなりましである。あと二日、もってくれればいい。新しく買った毛布が、ほんとにここちよい。行ってきまする。
これから、仕事帰りにコンビニで買ったサラダを食べたら、お風呂に入って、それから塾に行く。きょうと、あした、超ハード・スケジュールだけど、あさってから、ゆっくり読書する時間がもてそうだ。それも、塾の冬期講習までだと思うけど。
きょうからお風呂場では、ディックの『マイノリティ・リポート』を読む。古いカヴァーのほうの本体が傷んでいるので、古いほうのものをお風呂場で読んで捨てることに。お風呂、ゆっくり浸かろう。
あしたもめっちゃ早いから、クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!
二〇一五年十二月四日 「少年の頃の友達」
完全に目を覚ました。着替えたら、仕事に行く。きょうと、あしたがすめば、ことしは、あとは塾だけだ。きのう、きょうと、かなりのストレスだった。きょうがすめば、あした、あと一日。がんばろう。
結崎 剛さんから、氏の第一歌集『少年の頃の友達』を送っていただいた。とてもかわいらしい、きれいなご本で、氏の短歌にふさわしい、矩形の、はじめて目にする特殊な直方体で、また表紙のデザインもキュートなご本である。きょうから読書と数学ざんまいな日々を送る予定だった。タイミングばつぐん!
ニコニコキングオブコメディ、やってたんだ。きのうは恐ろしくハードなスケジュールだったから知らなかった。これから見る。
ぼく、妊娠したの。えっ。ぼく、妊娠したんだ。さっきまで読んでいた本を見た。本が言ったのか? さっき、テーブルのうえに置いたままだ。変わったところはなかった。ぼく、妊娠したんだよ。またその本から声がした。指の先で、本の真ん中に触れると、かすかに膨れていた。指の腹に鼓動が感じられた。
二〇一五年十二月五日 「ヴェルレーヌ」
ストレスで身体がボロボロだけど、まえに付き合ってた子が、これから部屋に遊びにくると電話が。うれしいし、顔をみたいので、おいでよと言ったが、左腕が動かせないほど痛いのだった。ストレスって怖いね。部屋も片付けてないし、最悪。でも、くるまでに1時間ほどあるから、ちょっと片付けようかな。
晩年のヴェルレーヌの生き方を読んでて、憧れをもってたけれど、才能の話ではなくて、身体がボロボロになっているところまでは自分でも体験していて、ちっとも、よいものではない。ストレスと加齢による身体の痛みが激しすぎて、憧れの「あ」の字にもあたらない感じである。現実とは、そういうものか。
おデブの友だちが帰った。筋肉痛と関節痛でめっちゃつらいぼくに、「リハビリにマッサージさせてあげる。」というので、彼の足や腰をマッサージさせられまくった。「これ、いい曲やろ?」と言って聴かせた曲に、「ふつうかな。」という返事だったので、「ぼくら、感性が違うんやろうなあ。」と言った。
いろんなもの、途中でほっぽって、きょうは、通勤のときに、ディックの短篇集『マイノリティ・リポート』を読んでいた。なんか、これくらいのが、ぼくの頭には、ちょうどいいかな。いまのぼくの頭の状態にはってことだけど。でも、そのうち、ペソア、ミエヴィル、ジーン・ウルフ、ラファティにも戻る。
きょうは、ディック読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!
二〇一五年十二月六日 「辛ラーメン」
朝とお昼兼用のご飯を買いに行く。きょう一日の食事にしよう。やっぱフランスパンかな。肩こりを解消する塗り薬でも買おう。死ぬレベルの肩こりだ。
むかし売りとばしたCDの買い直しをした。2枚。ジェネシス。後期のジェネシスは、ときどき捨てたくなる。しかも売り飛ばした記憶がなくなっているし。
簡単に生えるカツラ。簡単に生えたって、カツラじゃねえ、笑。ぼく自身が坊主頭だから、ハゲには偏見がないけれど、おとついラーメン横綱に行ってラーメン食べてたら、かわいらしいおデブの髪の毛がまばらにすけた二十歳すぎくらいの男の子が思いっきり唐辛子をラーメンに入れてた。そら、ハゲるわな。
バケット半分259円とスライスチーズとヨーグルトとレタスサラダだけでは我慢できないので、これからコンビニに夜食を買いに行く。きのうカップヌードル食べたし、辛ラーメンひさしぶりに食べようかな。あったまりたいし。Brown Eyed Soul いい感じ。CD買うかどうか迷っている。
辛ラーメン、売り切れてた。人間って、考えることがいっしょなのかな。寒いし、あったまろうって。かっぱえびせんと、サラダ買ってきた。
ジャズやボサノバを聴きながら、ディックを読んでいる。違和感がない。むかしはプログレやハードロックがメインやったのだが、さいきん、プログレもハードロックも聴いておらん。あした、ひさびさに聴くか。いや、聴かないやろな。どだろ。齢をとってこころと身体がボロボロになること。大切なことだ。
辛ラーメンがどうしても食べたいので、これからスーパーに買いに行く。ひじょうに寒いのだが、かっぱえびせんで、おなかもふくれたのじゃが、辛ラーメンがどうしても食べたくなったのじゃ。買いに行く。
これから辛ラーメンつくって食べる。
笹原玉子さんから、オラクル用の作品が送られてきた。そうだった。うっかり、ぼくもオラクルのこと、忘れてた。きょう、あしたじゅうにアップしよう。
短篇集『マイノリティ・リポート』のさいごに載ってる『追憶売ります』を読み直した。2回のどんでん返し。さいごのシーンになるまで思い出せなかった。笑えるシチュエーションだったが、これが映画になると、あの『トータル・リコール』のようなものになってしまうのだな。さいしょだけが原作通りだ。
シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読もう。
二〇一五年十二月七日 「なんでもない一日」
シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』の241ページ3行目に脱字を見つけた。「だった違いない。」→「だったに違いない。」有名な作家の作品に誤字や脱字があるのは、ほんとに腹立たしい。創元推理文庫の編集長は、この『なんでもない一日』を担当した校正係をクビにするべきである。
昼ご飯を食べにイーオンに行こう。
ありゃ〜、GはGスポット、FはFuck、Aはキッスでしょうか。そうなると、ほとんどすべてのアルファベットが、笑。そうでもないかもしれませんが、妄想がどんどん。Jはすぐには思いつきませんね。形はそれっぽいのですが。
お昼に、イーオンでラーメンと小さい焼き飯を食べた。これからセブイレにサラダを買いに行こう。きょうの夜食も、サラダと辛ラーメンだな。食べ終わったら、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読もう。
友だちが遊びにきてくれてたんだけど、クスリの時間だからって言ってクスリのんだら、帰ってった。あと1時間くらい起きてると思う。1時間でできることって、やっぱり読書かな。シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読みながら寝よう。
二〇一五年十二月八日 「サンドキングズ」
きょうから、お風呂場では、ジョージ・R・R・マーティンの短篇集『サンドキングズ』を読む。古いほうのカヴァーのほうがよいので、新しいカヴァーのヴァージョンを読む。中身はいっしょかなと思って、いま調べたら、新装版の方が文字が大きくて、ページ数で言うと、40〜50ページくらい増えてた。
塾の帰りにブックオフに寄って、岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』上巻を108円で買った。むかし読んだけど、まったく憶えていなかったのと、お風呂場で読むつぎの本の候補にと思って買った。開けたページ、258ページに栞が挟んであって、「あなた、なにがいやなの?」というセリフがあった。
2週間ほどまえに目をつけていて、ぱら読みして、「あなた、なにがいやなの?」というセリフが引用詩に使えるかなって思って、違うページに挟んであった栞を、そのページに挟み直しておいたのだった。だから、偶然ではないけれど、偶然のように、おもしろかった。それは、自分が2週間まえに、どういった言葉を使おうとして挟んでおいたのかを忘れていたからだし、それよりもっと偶然なのは、だれもその本に挟んであった栞をほかのページに移動させなかったことを思い出させてくれたからであった。ほら、こんなつまらないことにもこころは動かされるって知るのは、楽しいことだし、こんなつまらないことを書きつけて喜ぶことができる自分自身を、なにか、とてもバカな生きもののようにも思えてきて、また、人間というものの、そのはかない存在について考えさせられて、感動すら覚えるのであった。
帰りに、スーパー「マツモト」で買った巻きずし半額140円を食べよう。フィリピン産のバナナも4本で88円だった。「も」は、おかしいな。「は」だ。これから食べて寝よう。ダイエットはしばらく中止しよう。仕事のストレス+ダイエットのストレスで、身体がボロボロになるより食べる方がましだよ。
少なくとも、こういった感慨を催させるのに、2週間という日にちが必要であったのだろうとも思われるし、時間というものに挟み込まれた偶然というか、偶然というものが挟み込んでいる時間というものについても、なにか考えさせられるところがあったのだった。2週間。
メモ代わりに、あしたしなきゃいけないこと書いておこう。genesis の three sides live の代金を郵便局に払いに行かなきゃ。ヤフオクの件。おやすみ。寝るまえは、きょう買った岩波文庫の解説を読んで寝る。それでもまだ起きてたら、シャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』を読んで寝る。
数日まえに、通勤の帰りの電車のなかで、知らないうちに、人間でも食べてそうな感じのひとが隣に坐っていて、悲鳴をあげそうになった。という嘘を思いついた。ただ、人間でも食べてそうなひとというのは、さっきFB見てて、画像に写ってる、FBフレンドじゃないひとの顔を見て、思いついたのだった。うううん。でも、よく考えたら、ふだんから、人間は人間を食べているような気がする。人間に食べられている人間もよく目にするし、人間を食べている人間もよく目にするもの。ぼくだって、しじゅう食べているような気がするし、しじゅう食べられているような気もする。
あ、解説を読んで寝るんだった。おやすみ、グッジョブ! 歯を磨くのも忘れてた〜。
二〇一五年十二月九日 「オムライスとビビンバ」
きのう、寝るまえに読んだ、シャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』の「インディアンはテントで暮らす」をまったく憶えてなかった。そのまえに収録されてた「喫煙室」がとてもおもしろかったので、忘れたのか、寝ぼけてて、忘れてたのだと思うけれど、「喫煙室」から読み直して寝ることにする。
いま起きた。高校の仕事がことしはもうないので、塾だけだから、こんな時間に起きれる。お昼に、大谷良太くんとミスタードーナッツでコーヒー飲みながらくっちゃべる。ぼくはちょこっとルーズリーフ作業をするかな。シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきも読もう。
塾へ。
きのう寝るまえに読んだシャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』所収の「インディアンはテントで暮らす」の内容がさっぱりわからなかった。読み返してもわからないような気がするので、つぎのを読む。読んで意味がわからないものは、ひさしぶり、というか、もしかしたら、はじめてかもしれない。
お昼にオムライスとビビンバを食べたので、晩ご飯はサラダとかっぱえびせんだけにしておこう。お昼からずっとポール・マッカートニーのアルバムを聴いている。天才だけど、芸術家である。天才なのに芸術家でないひととか、芸術家なのに天才でないひととかが多いのに、ひとりポールは、天才で芸術家だ。
二〇一五年十二月十日 「O・ヘンリーのOって?」
シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』を読み終わった。自伝的なエッセーのようなものがいくつか入っていて、そのこまやかな観察力と、ユーモアには、さすがだわと思わせられた。ほかお気に入りの短篇は2作。どちらもユーモアのあるもの。ぼくはユーモアのあるものが好きなようである。
これからセブイレに行って、サラダとかっぱえびせんを買ってこよう。きょうの夜の読書は、ペソアの『不安の書』のつづきを。いま、350ページを過ぎたとこらへん。塾の冬期講習に入るまでに読み終わりたい。ナボコフの全短篇集もできたら、冬休み中に読みたいんだけど、それはぜったい無理っぽいな。
記憶が違っていた。ペソアの『不安の書』350ページあたりだと思っていたのだが、444ページだった。
ほとんど同じものと思われるほどにそっくりに似たものが遠く離れたところにあることもあれば、まったく似ていないものがすぐそばにあることもある。目のそばには耳があるが、目と耳とはまったく異なるものである。手の指の爪と足の指の爪は離れているところにあるものだが、よく似ているものである。
つまらない風景なのに、忘れられないものがある。峠の茶屋で、甘酒を飲んでいる恋人たちの風景。冬だったのだろう。ふたりの息が白く煙っていた。井戸水で冷やした白玉を黒蜜で出す老婆の手。井戸水だったのだろうか。湧き出て零れ落ちていく水玉の輝き。このふたつの風景が二十年以上も木魂している。
お風呂につかりながら本を読むのが趣味のひとつになっているのだが、きょうは、マーティンの短篇集『サンドキングズ』のつづきを読もう。きのう読んだ「龍と十字架の道」は、つまらなかった。表紙がすばらしいので旧装版は手放さないが、タイトル作しか記憶にない。そのタイトル作もおぼろげな記憶だ。
1時間近く入ってたのか。『サンドキングズ』収録2作目の「ビターブルーム」を読んだ。SF(サイエンス・ファンタジー)だった。レズビアンものという点では、ジャネット・A・リンの「アラン史略」三部作(4分冊)と趣向が同じ。ただし、リンの作品の方が描写は細かい。きょうのも及第点に届かず。
寝るまえの読書は、あまり神経を使わなくてすみそうな岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』上巻を読もう。さいしょの作品は、O・ヘンリーの『平安の衣』 さて、O・ヘンリーのOって、54歳になるまで調べなかったけれど、調べたら、これはペンネームで、Oがなにの略か諸説あるらしい。ふううむ。
二〇一五年十二月十一日 「〈蛆の館〉にてって」
セブイレで朝ご飯にサラダとかっぱえびせんを買ってこよう。きのう、ペソアを55ページ読んでた。きょうもそれくらい、いや、それ以上読みたい。ルーズリーフ作業がすごそうだけど。そしたら、ナボコフの全短篇集のつづきに移れる。ジーン・ウルフやラファティやジャック・ヴァンスも読みたいけれど。
寝るまえにお風呂に入りながら、マーティンの『サンドキングズ』収録3作目の「〈蛆の館〉にて」を読んだ。これまた、SF(サイエンス・ファンタジー)であった。むかし読んだ記憶がよみがえった。ウェルズの『タイムマシン』のモーロック族とエロイ族の話をモロにヒントにした気持ち悪い作品だった。
二〇一五年十二月十二日 「開き癖」
ペソアの『不安の書』のページを開けたまま眠っていたら、開き癖がついてしまっていた。朝は、パスタのスープのはねを表紙につけてしまった。きょうは呪われているのかもしれない。どこにも出かけず、読書していよう。きのうは友だちと会って話をしてた。お父さんが脳卒中で入院なさり、毎日、病院に行って、父親の動かなくなった指をもんでいるということだ。丸く固まってしまうからだという。指を伸ばすようにしてもんでいるらしい。ぼくには父親がもういないけれど、動かなくなった父親の指を毎日もむだろうか。考えさせられた。
これからパスタを食べる。朝はペペロンチーノだった。お昼はナポリタン。
晩ご飯はペペロンチーノ。
サラダとかっぱえびせんも買ってきた。
マーティンの短篇集『サンドキングズ』に入っている4作目以降、まったく読むに耐えないものだったので、さいごに収録されてるタイトル作品を読んで、『サンドキングズ』を読むのは終わりにしよう。読み終わったら、ペソアの『不安の書』のつづきを読もう。
「サンドキングズ」読み終わった。「<蛆の館>にて」と同様、えげつない話だった。「フィーヴァードリーム」上下巻は傑作だった記憶があるのだけど、再読するのがためらわれるくらいに、ジョージ・R・R・マーティンの評価が、ぼくのなかで落ちた。『翼人の掟』を高い値段で買って、まだ読んでない。
これからペソアの『不安の書』のつづきを読む。生前に発表した作品は少ないのだが、未発表のものの方がよいような気がする。生前に発表したもののうち、2作品をきのう読んだが、レトリカルなだけで、ぼくが学べることはなにもなかった。新プラトン主義が厭世観と結びついたらそうなるのかもしれない。
きょう見た夢は、大きな塾のCMで、見たことのない人物たちが出ていて、塾長だというおじさんが管楽器を吹くシーンで終わったのだが、笛を口から離すとよだれが落ちて、「汚い」とかいう子どもの声が聞こえたのだが、「仕方ないんじゃない?」とかいう別の子どもの声もした。そこで夢から覚めたのだ。夢は、ぼくの潜在意識がつくっているものだが、これは、ぼくになにを教えようとしたのか、わからない。あるいは、ただ、潜在意識は、こんな夢をつくってみただけで、意識領域のぼくには、なにも伝える気はなかったのかもしれないけれど。それでも、夢がなにを意味しているのかは興味深い。ぼくの不安だろうか。不安を投影させることはよくあると思う。仕事の不安。仕事の内容の困難さもある。3学期は幾何を教えるのだが、代数に比べて幾何は教えるのが難しい分野である。万全の準備をしておくつもりだが不安がないわけではない。物語を物語るように、プリントをつくっておこうと思う。論理を物語る。これは、ぼくが、詩で実践してきたことなので、詩を書くつもりで、プリントをつくろう。もしかしたら、ぼくの幾何のプリントが、ぼくの書いたもっともうつくしい詩になったりして、笑。
思考とイマージュ。比較することでしか思考は生まれないのだが、イマージュは比較対象する複数の事物を必要とはしない。なにものかとべつのなにものか、だれかとべつのだれかを比較検討することで思考は開始され進行される。イマージュは、ただそれそのもの自体を対象として想起すればよいだけである。図形だと補助線をいくつか描き入れるだけで容易に解ける問題が、人間が対象だと容易に補助線が書き込めないために解くことができない。あるいは、不要な補助線だらけで、解けなくなってしまっている。その不要な補助線を取り除いていくと、最後には、思考の対象とするその人間自身も消え去ってしまう。
長く使っていると、自分がその道具のように考えていることに気がつかなくなってしまう。言葉も道具である。思考の幅が狭いのは、同じような言葉の組み合わせ方しかしないで思考しているのだ。それを避けるためには、異なる道具を使うこと。あるいは、異なる道具を扱うように、いつもの道具を扱うこと。
あしたは病院。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!
二〇一五年十二月十三日 「不安の書」
これから病院に。待ち時間にペソアの『不安の書』を読み終えられるような気がする。
神経科に行って、そのあと、大谷良太くんたちとお鍋をして、おしゃべりしてた。病院では、お昼の2時まで待合室で、ペソアの『不安の書』を読んでいた。さいごまで読み切って、読み終わって、20分くらい、待合室に置いてある写真雑誌を見ていた。きょうから、クスリが一錠、増えた。これで眠れる。
きょうから寝るまえの読書は、ケリー・リンクの短篇集『プリティ・モンスターズ』。前作『マジック・フォー・ビギナーズ』が大傑作だったので、楽しみ。ジーン・ウルフ、ラファティ、ミエヴィル、ジャック・ヴァンスらの未読の本を退けて、ケリー・リンクにしたのだけど、どうかな。おもしろいかな。
二〇一五年十二月十四日 「貧乏詩人」
ようやく起きた。詩集制作代金を支払いに銀行に行ってくる。これでまた文無しになるわけである。貧乏な詩人は貧乏なまま一生を終えるというわけである。まあ、それでいいのだけれど。詩人とか芸術家というものは、生きているうちに、その芸術で報われてはいけないと思う派だから。自分のこころのため以外に。編集部の方に、電話で、詩集代の振込完了のお知らせをして、また、来年も思潮社オンデマンドから3冊の詩集を出させていただこうと思っていますと話した。銀行の帰りに、イーオンに寄って、バケット半分、セブイレで、ミルクとサラダを買ってきた。ギャオで、『ウィルス』を見ながら食べよう。
マクドナルドに寄ってコーヒー飲んだら、塾へ。
塾の帰りに、スーパー「マツモト」で、半額になった塩サバのお弁当を買った。寝るまえの読書は、ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』。まださいしょの作品だが、切ない。お墓に行って、一年前に死んだ恋人のお墓を掘って、自分が彼女に捧げた詩篇の束を取り戻そうとした青年の話である。間違った墓をあばいて、違う女性の死体が、「あなた、間違ってるわよ」と言うくだりから、笑えるシチュエーションに移行するのだけれど、まあ、詩を書いて彼女に捧げる男子高校生というのも、いまの日本では考えられないシチュエーションである。寝るまえの読書が楽しみ。楽しみといえば、あさって、塾の忘年会がある。禁酒をやめたので、お酒を飲むけれど、焼酎にしておこう。きのう、お鍋を食べているときに、左手で持った小さなビアグラスを何度か、こかしそうになった。筋肉の状態がかなり悪いみたいだ。
お弁当を食べよう。おやすみ、グッジョブ!
二〇一五年十二月十五日 「負の光輪」
サラダとかっぱえびせんを買いに、セブイレに。
これから、髪の毛を刈る。それからお風呂に。お風呂場では、日本人SF作家の傑作短篇集『極光星群』を読む。
日本人SF作家の傑作短篇集『極光星群』、けっこうおもしろいので、塾に行くまで読む。
ふと思いついて、検索してみたら、20年以上もむかしに、ぼくがはじめて書いたSF小説『負の光輪』が、ネット上に存在していた。引用癖は、ぼくが詩や小説を書きはじめたときからのものであることがわかる。よろしければ、ごらんください。→http://www.asahi-net.or.jp/~cq2k-ktn/fcv/roko/korin/tasf1.html…
soul II soul のアルバムをすべて売っちゃって、また買い戻したけれど、ぼくの詩作と連動しているのかもしれない。それぞれのメロディはしっかりしているのだけれど、ゆるいつくりをしているかのように見せる曲の配列の仕方に共感する。いま、売っちゃったDVDを買い直そうとしている。
レンタル落ちしかなかった。たぶん、ないだろうけれど、自分が売ったブックオフに、あした行ってみよう。
おなかがすいて気が狂いそうなので、セブイレにサラダを買いに行く。こんなにも食欲というものは、ぼくを支配していたのかと、あらためて振り返る。きょう、すでに、サラダ4袋食べてるんだけど。非現実の情報が脳を通過すると満足するように、非現実の食べ物が咽喉を通過すると満足できればいいのに。
ぼくは、食べ物に殺されるような気がする。とりあえず、サラダを買いにコンビニに行こう。
二〇一五年十二月十六日 「中身が入れ替わる」
田中宏輔さんは体操して半袖で走りだし少女とぶつかり事故にあう中身が入れ換わる
https://shindanmaker.com/585407
二〇一五年十二月十七日 「リンゴから木が落ちる。」
『プリティ・モンスターズ』のさいしょの作品「墓違い」は、ケリー・リンクにしては、めずらしく落ちがあった。いま、2つめの「パーフィルの魔法使い」を読んでいるのだが、マジック・リアリズムのパロディのような感じだ。残念なことだが、たくさん本を読んでいると、驚きが少なくなっていくものだ。
場所を替えて読書しよう。マクドナルドでホットコーヒーでも飲みながら、短篇集『プリティ・モンスターズ』のつづきを読もう。
頭のなかでは、リンゴから木が落ちてもよいのである。そして、理論的には、この表現が誤りではないことが、よく考えてみればわかるのである。
玄関におじいちゃんが落ちていた。身体を丸めて震えていた。ぼくは、おじいちゃんを拾うと、玄関のうえを見上げた。たくさんのおじいちゃんたちが巣のそとに顔を突き出して、ぼくの顔を見下ろしていた。おじいちゃんたちは、よく玄関に巣をつくる。ぼくは手をのばして、おじいちゃんを巣に投げ入れた。
目がふたつあるのは、どうして? 見えるものと見えないものを同時に見るため。耳がふたつあるのは、どうして? 聞こえるものと聞こえないものを同時に聞くため。じゃあ、どうして、口はひとつしかないの? 息を吸うことと、息を吐くことが同時にできないようにだよ。
偶然があるというのはおもしろい。2015年11月22日のメモを見る。日知庵で皿洗いのバイトをしていると、ツイッターに書いていたのだが、それを竹上さんが見て、お客さんとして来てくれたのだった。9時半にあがるから、それから、どっかでパフェでも食べない? と言うと、行きましょう、ということになって、10時前にあがって、ふたりでカラフネ屋に行って、くっちゃべりながらパフェを食べたのだが、パフェの代金を支払うときにレシートを見てびっくりした。税込みで、合わせて、1700円だったのだ。竹上さんが日知庵で支払った金額といっしょだった。
2015年11月24日のメモ。きのう、京都詩人会の合評のとき、ぼくの作品を読んでくれた感想のなかで、大谷くんが「雑踏って簡単に書いてあるけど」と言うので、あらためて考えると、そうだね、簡単に書いてあるね、と思った。大谷くんはつづけて「足が‥‥」と言っていたのだが、ぼくの耳は、もう大谷くんの言葉をちゃんと聞くことができずにいて、ぼくの耳と独立して存在しているかのような、ぼくのこころのなかで、ぼくは、「雑踏」という言葉の意味を考えていた。靴の音と靴の音が行き交っていた。スカートをはいた足とズボンをはいた足が行き交っていた。ぼくとケイちゃんは坐っていたからね。そう、坐ってたからね。足が印象的だったのだ。しかし、これもまた、あとから思い出した情景に付け加えた贋の記憶の可能性がある。混じり合う靴の音も、はっきりと何をしゃべっているのかわからない声たちも、贋の記憶である可能性がある。思い出した映像に付け加えた効果音であるかもしれないのだ。思い出した映像すら、それが頭のなかで想起された時点で、贋の記憶である可能性もあるのだ。現実の映像の記憶がいくらかはあるのだろうけれど。大谷くんに、もしも、この考察のあとで、「雑踏って簡単に書いてあるけれど」と言われたら、どう答えるだろうか。ぼくとケイちゃんは坐っていたのだった。足と足の風景。人間が通り過ぎて行く風景。音。リズム。これくらいにしか表現できない。じっさいの四条河原町の風景といっても、むかしのことだしね。
書くということ。記憶を書くということ。記憶していることを書くのではなく、記憶していると思っていることを書くこと。記憶というものは、想起した時点で、そのときにおけるこころの状態や、それまでに獲得した体験や知識によって、あらたに再構築されるものである。
文字に表現する→2次元化 文字から想起する→3次元化 頭のなかでは、もっと多層的な感じで再構築されているような気がする。書くまえのイマージュと、書いたあとのイマージュとの違いもある。@atsusuketanaka
二〇一五年十二月十八日 「塾の忘年会」
2015年11月24日メモ。その日は、雨が降っていなかったので、地面は濡れていなかったし、道のところどころには、水がたまったりもせずに、雨粒を地面が弾き返すこともなかったし、行き交う足たちはその水たまりを避けることもなかったし、地面に弾き返される雨粒のことを考えることもなかった。
きょうは塾の忘年会。楽しみ。
いま帰ってきた。食べた。飲んだ。しゃべった。楽しかった。寝るまえの読書は、きょうは、なし。クスリのんで寝る。寝られるかな。おやすみ、グッジョブ!
あっ、そいえば、思潮社海外文庫の『ボルヘス詩集』ぜんぜん読んでないや。これ読みながら寝よう。二度目のおやすみ、グッジョブ!
二〇一五年十二月十九日 「エイジくん」
Brown Eyed Soul の、ちょっとふくよかな方、むかし付き合ってた恋人に似ていて、チューブで見て、ますます似てると思ったのだけれど、そうだ。もう、自分には、よいときの思い出しかないのだと思うのだけれど、眠っている時間にまた会えるかもしれないのだから、なんてこと思ってる。ぼくは作品にして、その子との思い出をミニチュアのようにして、手で触れることができる。いろんな角度から眺めることができる。もしも、ぼくが詩人でなかったら? それでも、ぼくはその子との思い出を何か作品にしておくと思う。音楽かもしれない。絵かもしれない。
FBで、シェアした。とってもすてき。夢で逢えたらいいなあ。
ぼくに似ていないから好きなんだろうけれど、似ていない顔はいくらでもある。どうして、その顔でなければならないのか。文房具店で定規を選ぶとき、自分にいちばんしっくりくる定規を選ぶ。そんな感じなのかな。文房具といっしょにしたら、ダメかな。https://www.youtube.com/watch?v=9h9SO39XzQ…
その子といっしょだった時間のことは、ほとんどすべて憶えている。その子とのことは、ずいぶん作品にして書いてきた。でも、書いていないこともあった。そのうち、書こうかな。ああ、でも、あのアパートの玄関のドアを押し合いへし合いしたときの、こころのときめきは言葉にはできないような気がする。でも、それでいいのだ。言葉にできないから、ぼくはこころのなかで思い浮かべることができる。ぼくとその子がいっしょにいたときのことを。そのとき、ぼくがどう思ったのか。その子がどう思っていてくれたのかと想像しながら。図書館で偶然に会った。カレーをつくった。9本のSMビデオを見せられた。アパートのしたでいっしょにした雪合戦。玄関の靴箱のうえに置き忘れられた手袋。玄関の靴箱のうえに置き忘れられた帽子。きみがわざと忘れたふりをして置いていったものたちだよ。ゴアテックスの紫色の上下のジャージ。蟹座だった。B型だった。ほら、いっぱい憶えているよ。おやすみ、グッジョブ!
どんなにうつくしい作品を書いても、きみといたどの瞬間のきらめきにも劣る。それが生なんだと思う。それでいいのだとも思う。どんなによい作品を書いても、きみには劣る。それが生なんだと思う。それでいいのだとも思う。というか、それでなければ、ぼくらが人間であるわけはないのだから。
二〇一五年十二月二十日 「違う人生」
これからイーオンのミスタードーナッツに行って、ルーズリーフ作業をしよう。ペソアの『不安の書』の引用と、その引用した言葉に対する感想と批判、その引用文から得たインスピレーションを書き出すのだけれど、読書と同様に、孤独だが、ぼくのしている文学行為でもっとも重要なものだと思っている。
コンビニに、サラダと、かっぱえびせんを買いに行くときに、道路でタクシー待ちをしている青年がとってもカッコよかったのだ。同じ人間でも、カッコよく見える人間と、そうでない人間では、たとえ見かけのことだとわかってはいても、違う人生があるんだろうなあと、ブサイクなぼくは思ったのであった。
二〇一五年十二月二十一日 「月長石」
きょうからお風呂場で読むのは、ウィルキー・コリンズの『月長石』。T・S・エリオットが激賞した推理小説である。どういう意味で激賞したのかは忘れたけれど、数年前に、ブックオフで105円か108円で買ったもの。ものすごく分厚い。750ページ以上もある。びっくり。
コリンズの『月長石』をお風呂につかりながら流し読みした。ひさしぶりに推理小説を読んだ。P・D・ジェイムズのような洗練されたものを読みなれた目からすると、スマートじゃないし、退屈さがおもしろさをはるかに上回っている点で、この作品を、ぼくならだれにもすすめないだろう。
きょうは、これから寝るまで、ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしよう。
なにが時間をつくり、場所をつくり、出来事をつくるのだろう?
子どものときから一生懸命にがんばるというのがみっともないことだと思って斜に構えてきたけど、その自分が意外とものごとに一生懸命だったり、熱中していたりすることを自覚するときほど恥ずかしい瞬間はない。未読の本を少しでも少なくしようとして、いま、一日に1冊、お風呂場で読んで捨てている。
けさ見た夢が象徴的だ。ぼくの現実の部屋ではない部屋にぼくが住んでいて、本棚の隙間に横にして本のうえに本を押し込んでいたのだ。自分の現実の部屋ではないと気がつくと、間もなく目覚めたのだが、その夢が強迫的な感じだったので、きょう、本棚を整理した。
一生懸命と書くとよい意味に思えるけれど、ぼくの場合は病的になるという感じなので、本との闘いは、これからなのだと思う。いまもペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしているけど、これは悪魔祓いなのだ。本を読むことによって、ぼく自身が呼び込んだ悪魔の。
これから、ちょっと距離のあるスーパー「ライフ」に行って、30パーセント引きの弁当でも買ってこよう。きょうは本棚の夢を見ないように、寝るまえの読書はやめよう。クスリをのんで眠くなるまで、ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしよう。30パーセント引き弁当、残ってるかな?
自分のなかに見知らぬ他人が存在しているのと同様に、見知らぬ他人のなかに自分も存在している。
ばかであることもできるばかもいれば、ばかであることしかできないばかもいるし、ばかであることも、ばかでないこともできないばかもいる。ぼく自身は、この三様のばかのあいだをあっちに行ったり、こっちに来たりしている。
二〇一五年十二月二十二日 「いつだって視界に自分の鼻の頭が見えてるはずだろ。」
繰り返し何度も何度も同じような事物や事象に欺かれてきたが、いったいなにが、そういった事物や事象に、そのような特性をもたらしたのだろうか。
あと200ピースほどの引用とメモが残っているが、きょうは、これでクスリをのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! あしたから冬期講習だけど、あした、あさっては、夕方からだけだから、まだ余裕。朝とお昼は、ペソアのルーズリーフ作業に専念しようっと。
セブイレでサラダとかっぱえびせんを買ってきた。これが朝食。お昼はまっとうなものを食べよう。
夢を見るときは、いつでも、夢をつくるときでもある。詩と同じだ。その詩が、ぼくのものであっても、ぼくのものではなくっても。
むかし付き合った子といるときや、友だちといるときや、居酒屋さんや焼き鳥屋さんで飲んでいるときや、生徒といるときや同僚の先生方といるときも、ぼくはみんなと同じ永遠や無限のなかにいる。と同時に、みんなと同じ永遠や無限のなかにいるわけではない。それぞれ個々の永遠や無限があって、その個々の永遠や無限の交わりのなかに、ぼくらがいるだけなのである。こう言い換えてもよいだろう。無数の永遠や無限という紐があって、ぼくたちは、それらの結び目にすぎないと。その結び目は、少しでも紐を引っ張ると、たやすくほどけるものでもあると。
溺れる者がわらでもつかむように、詩に溺れた愚かな者は、しばしば詩語にしがみつく。日常使う言葉をつかんでいれば、溺れることなどなかったであろうに。
自分が歩かないときは、道に歩かせればよい。自分で考えないときは、言葉に考えさせればよい。
聴覚や嗅覚でとらえたものもたちまち視覚化される。記憶とは映像の再構成なのだ。
つまずくたびに賢くなるわけではない。愚かなときにだけつまずくものではないからだ。
私小説批判をけさ読んだが、なにを言ってるのかわからない。私という場所のほかに、どこに文学があるというのだろうか。
二十歳のとき、高知の叔父の養子にならないかという話があった。もしもなっていたら、平日は公務員で、土日は田畑を耕していただろう。詩を書くなどということは思いもしなかったろう。詩は暇があるから書けるのである。暇がなければ書けないものでもないが、ぼくの詩は、確実に暇が書いたものなのだ。
以前に詩に書いたことなのだが、つねに自分の鼻の頭が視界に入っているのに、意識しないと見えないのは、なぜなのだろうか。
じっさいにそうしていなかったことにより、もしもそうしていたならという夢想を生じせしめる。じっさいにそうしていたときよりも、おそらくはここちよい夢想によって。なぜなら、それはその夢想を台無しにする要素が入り込む相手の、彼の意志が入り込む余地がないからである。それは相手の、彼の意志がいっさい介在しないからである。ぼくが思い描くとおりの理想の(これが罠だとぼくは知っているのだが)夢想であるのだから。
ぼくはもう詩を書こうとは思わない。ぼくが書くものがすべて詩になるのだから。
二〇一五年十二月二十三日 「別の現実」
ひぃえ〜、ヤクザに頭割られて、それが治ったら、薔薇の束を抱えさせられて殺される夢を見た。なんちゅう夢。家族全員が殺される夢だった。なんで、こんな夢を見たのだろう?
作品論を読んでいて、作品論なのに、存在する作品について具体的に論じないで、存在していない作品について論じているものがある。現実の風景について述べないで、風景というものは、と述べているものを読ませられているかのような気がするものがある。それがおもしろくない作品論ではないこともある。
リンゴが赤いのは、赤いと言われているからだ。赤いともっと言ってやると、リンゴはいっそう赤くなるだろう。この表現に神経をとがらせるひとには、こう言ってやればよい。リンゴにもっと赤いと言ってやると、リンゴはよりいっそう赤く見えると。リンゴが赤いのは、赤いと言われているからである。
別の現実が、ぼくのなかで目を覚ます。眠りとは、夢とは、このことだったのか。
二〇一五年十二月二十四日 「プリティ・モンスターズ」
ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業が終わった。きょうは、詩集を読むか、小説を読むか、どっちにしようか。ボルヘスとカミングズの思潮社の海外詩文庫を買って、まだ読んでなかった。ボルヘスの全短篇集のつづきか、どれかにしよう。
あんまり寒いので、お風呂につかりながら読書することに。お風呂場では、ひさびさにヘッセ全集を読もう。2、3時間はゆっくり湯船につかろう。
きょうは、ケリー・リンクの短篇集『プリティ・モンスターズ』のつづきを読もう。辛ラーメン3袋入り×3と、カレーのレトルト『メガ盛り』辛口4袋、大辛6袋買ってきた。合計2216円。年末・年始の食糧確保だす。
ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』を読んでいて、読んだことあるなあ、まえの短篇集のタイトルと同じ「マジック・フォー・ビギナーズ」じゃんって思って、解説を読んだら、そうだった。早川書房、なんちゅう商売してるんだろ。もう1作「妖精のハンドバッグ」も、まえのにも収録されていた。まあ、もう1回読んでもいいくらい、ケリー・リンクの小説は味わい深いし、短篇集の『マジック・フォー・ビギナーズ』が好きで、単行本と文庫本を1冊ずつ買ったくらいだけれど。単行本の表紙がいい味しているのだ。文庫で読んだだけで、単行本は読んでいないのだが。
クスリのんで寝よう。おやすみ。グッジョブ! 寝るまえの読書も、ケリー・リンクで。
二〇一五年十二月二十五日 「そんなことがあるんや。」
これから塾へ。ちょっと早いので、マクドナルドでホットコーヒーを飲もう。それからブックオフに行って、塾へ。
詩集が1冊、出るのが遅れているのだが、記号だけでつくったぼくの作品を amazon のコンピューターがエラー認識してしまい、どうしてもそれを入れて製本することができないということが、きょうわかった。その作品ははずしてもらうことにした。その作品はお蔵入りということになる。笑った。
二〇一五年十二月二十六日 「愛の力」
台湾人のFBフレンドが「My boy in my home (灬ºωº灬)」というコメントをつけて、恋びとと向かい合ってプレゼント交換して、クリスマスの食事をしようとしている画像をアップしていて、見ているぼくまでハッピーな気持ちになる。ぼくにも、そんなときがあったんだって思うと。20代同士のかわいいゲイ・カップルだから、見ていて、ほんわかとしたんだと思うけれど、これが、60代同士のおじいちゃんカップルでも、見ていて、ほんわかすると思う。基本、愛し合ってるひとたちを見るのは、こころがなごむ。それも愛の力のひとつなんだろうね。
二〇一五年十二月二十七日 「15分」
起きた。セブイレでサラダとかっぱえびせんの朝ご飯を買いに行こう。きょうは、朝9時から夜9時半までの冬期講習だ。がんばる。
ご飯を買ってきた。15分も湯煎をしないといけないんやね。カレーのレトルトといっしょに温めている。
辛ラーメンもつくってる。おなかいっぱいにして、冬期講習に臨む。
キングオブコメディ、残念。
やっぱり、ケリー・リンクは天才だ! 短篇集『プリティ・モンスターズ』は大傑作だった。彼女のような作家の作品を読んでしまうと、レベルの低いものは読めなくなってしまう。それでいいのだけれど。本棚の未読の本が怖い。あしたは、さいごに収録されてる作品を読んで、ルーズリーフ作業をしよう。
二〇一五年十二月二十八日 「雨に混じって落ちてくるもの」
夕方までには、ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』のルーズリーフ作業が終わるので、そのあとは読書でもするかな。ナボコフの全短篇集のつづきでも読もうかな。お風呂場では、なにを読もうかな。ジョージ・R・R・マーティンの『フィーヴァードリーム』にしよう。ダブって持っていたものだ。
雨に混じって落ちてくるもの。きみの言葉に混じってきみの口から出てくるもの。
人間の声。世界でもっとも美しいもののひとつ。
それとも、ルーズリーフ作業が終わったら、河原町でも行こうかな。欲しい本が2冊出てた。ジーン・ウルフの『ナイト』I、IIの続篇2冊。『ナイト』自体買ったけど、読むの1年後くらいかもしれないけれど。本って、買っておかないとなくなることが多いしね。とくに、ぼくが買う類の本は。大丈夫かな?
10代と、20代と、30代と、40代の経験は、そのまんま、文学的な衣装をいっさいつけずに作品にしたい。体験のうち、いくつかは書いたけど、そのまんまを書くことはできていないような気がする。
虚偽にも真実が必要なように、真実にも虚偽が必要なのである。
病院で配膳のボランティアをしていて、残った食べ物を集めていると、うんこのような臭いがした。それと同じことなのだろうか。ポルノ映画館の座席と座席の間の通路が黒く照り光っているのは。さまざまな風景を拾い集めて、数多くの裸の人間や服を着た人間たちの色彩を集めて、黒く照り光っているのは。
精神病の母から毎日、電話がかかってくる。死ぬまでかけてくるだろう。電話をとるしかないだろう。一日、1分ほどの苦行だ。3日もほっておくと、警察に連絡して、ぼくが無事かどうかの確認をさせるのだ。はじめて派出所から警官が2人で訪れたときはびっくりした。母が精神病であると告げると帰った。
ルーズリーフ作業が終わった。ナボコフの全短篇集を本棚から取り出した。85ページの『復習』というタイトルの作品のところに付箋がしてあった。84ページまで読んだところでやめていたのだろう。字面を見て、本をもとのところに戻した。ぼくの詩集を読んでくれた、ある女性詩人の詩集を手に取った。数字だけのタイトルの詩集である。ぱらぱらとページをめくる。具体と抽象がよいバランスで配置してある。これを読もう。薄い詩集なので、すぐに読み終えるだろう。
何年もまえに思いついた詩のアイデアがあるのだが、いまだに書くことができない。ただ書くのが面倒なだけなのである。とてもシンプルなものなのだが、マクドナルドにでも行って、コーヒーを10杯くらい飲まないと書く気力がわかないタイプのものである。正月まえにミスタードーナツに行って書こう。
イタリアのプログレのアレアのファーストを聴いている。こんなアルバムみたいな詩集をつくりたい。ぼくの詩集はすべてプログレを意識してつくっているのだが、まだ、アレアのファーストのようなものはつくっていないような気がする。来年出す予定の『図書館の掟。』で目指す。『ヨナの手首』を入れる。
ぼくのために、ユーミンの「守ってあげたい」を歌ってくれたや安田太くんのことを思い出してる。そのときのこと思い出しながら寝よう。ぼくのこと好きだったんだろうなって思う。もう30年数年前のことだけど、ラグビーで国体にも出てたカッコイイ男の子だった。そのときの前後のこと書いてなかった。
二〇一五年十二月二十九日 「ローマ熱」
きょう、塾の空き時間に、『20世紀アメリカ短篇選』を読んでいて、2つ目の短篇、「ローマ熱」(作者はイーディス・ウォートン)というのにびっくりした。むかし読んだときは気にもしなかった作品だった。齢をとって、好みが変わったのかもしれない。
再読にはあまり興味がなかったのだが、部屋にある本、読み直すのも、おもしろいかも。あ、そのまえに未読の本を読まなくちゃいけないけれど。うううん。来年は、さらに読書に時間を割こう。未読本をどれだけ減らせるか、新たに買う本をどれだけ少なくできるか、だな。
寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』上巻、3つ目の収録作品。ドイツ系アメリカ人の肉屋の親父とその娘の話。まだ数ページ読んだだけだけど、期待できそう。
二〇一五年十二月三十日 「生きること。感じること。楽しむこと。」
きのう寝るまえに、『20世紀アメリカ短篇選』の2つと、ハインリヒ・ベルの短篇も1つ読んだ。きょうは、部屋にこもって、ナボコフの全短篇集のつづきを読む。どこまで読めるだろう。正月休みに読み切れれば、うれしいのだけれど。
四条に出てジュンク堂で本を買ってきた。ジーン・ウルフの『ウィザード』I、IIと、岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』下巻と、『20世紀イギリス短篇選』上下巻と、『フランス短篇傑作選』である。8600円ほどだったかな。まあ、それくらいの買い物は、いいだろう。本を買わないと書いたけど。
本棚には、もう本を置けないので、押し出し式。捨てる本を決めなければならない。けっこうつらい。あとでほしくならない本を捨てなければならない。カヴァー違いの文庫など捨てればいいんだろうけれど、これがまた惜しくて捨てられない。こころ根がいやしい証拠だな。
とりあえず、タバコ吸って考えよう。
きょうは、チューブラー・ベルズを聴いて寝よう。
ふと高校時代の友だちのことを思い出した。いっしょに映画を見てると、座席が揺れ出したので、あれっと思って、友だち見たら、チンポコいじってたから、「ここ、抜くとこ、ちゃうやん!」と言ったら、「ちょっと待って!」と言って、いっちゃったから、びっくりした。けど、めっちゃ、おもしろかった。
めっちゃかわいかった友だちのこと思い出したから、お酒が欲しくなった。セブイレに買いに行こう。最高におもしろくて、最悪にゲスな高校時代だった。なにしても、おもしろかった。なに見ても、なに聞いても、おもしろかった。お酒は、なに飲もうかな。涙、ポロポロ→
ロング缶のヱビスビールと、かっぱえびせんを買ってきた。すばらしい詩や小説を読んでいると、自分の人生の瞬間瞬間が輝いて見えるけれど、自分の人生の瞬間瞬間が輝いていたからこそ、詩や小説も深い味わいがあるのだとも思う。生きること。感じること。楽しむこと。
二〇一五年十二月三十一日 「プー幸せだった」
これは、ぼくとスーとの約束だった
彼を見て、ぼくは本当に、プー幸せだった
彼が心配しているのは、大晦日に彼女を慰めるためのドライブ
1、2、3は会えないね
それを言ってたのは、ベッドサイドテーブルをはさんで
缶コーヒー
きみは、ぼくに出合った休暇だった
ベイビー
メイ・メイ・スー
もうじき55歳になる。60歳まですぐだ。老人である。残された時間は短い。これからなにが書けるのか、時間との競争でもある。きょうは、だれともしゃべらず。これが正月の3日までつづくのかと思うと、うんざりではあるが、ひとといても、うんざりである。
弟を針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。パパを針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。ママを針で刺しても、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。テーブルを針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。そこらじゅうを針で刺していった。
最新情報
2016年04月分
月間優良作品 (投稿日時順)
- 詩の日めくり 二〇一五年十二月一日─三十一日 - 田中宏輔
- とげ - zero
- 詩の日めくり 二〇一五年十三月一日─三十一日 - 田中宏輔
- 風 - 玄こう
- 供物 - 北
- 帰郷 - zero
- ノウサギとテン - シロ
- a mad broom - mitzho nakata
- 火葬 - ねむのき
- あの街この街その街 - 泥棒
- いくつかの秋の詩篇 - シロ
- 春 - 熊谷
- 血盆経偽典白体和讃 - 澤あづさ
- 手紙 - Migikata
次点佳作 (投稿日時順)
- まどしめお - 北
- 類想 - 鷹枕可
- 【祝エンタメ賞受賞!NCM参加作品】君はポエム。 - ヌンチャク
- 春から夏へ、聴こえくる、 - 鮎
- #14 (B 五十一〜百) - 田中恭平
- 骨董屋で - 湯煙
- 雨の詩 三連 空間工房 - 玄こう
- 木工制作 - ゼッケン
- ちいさな 三つの声 - るるりら
- 誕生日の詩 - ねむのき
- 早漏とか爆弾とか距離とか友達とか時間とか - 泥棒
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
詩の日めくり 二〇一五年十二月一日─三十一日
とげ
世界を構成する元素はとげである
この物質的な世界において
物質とは必ずとげでなければならない
細長い円錐は無限に硬く
割れることも裂けることもない
人も木も鳥も花も
このとげの原子の組み合わせで構成される
どんなに美しい朝の海でも
その波はすべてとげでできているし
どんなに穏やかな夜の森でも
その木の葉はすべてとげでできている
私は何気ない部屋に座りながら
何気ない家具に囲まれ
外は何気ない風景が広がり
しかしそれらはすべてとげであり
私も全くとげでできている
こんな些細な真実に気づくとき
私の心もとげのように苛立つ
詩の日めくり 二〇一五年十三月一日─三十一日
二〇一五年十三月一日 「芸術は自己表現ではない」
自己の表現と、自己表現とは違う。2015年9月29日のメモ「いまだに芸術を自己表現だと思っている連中がいる。きょう、職場で哲学の先生たちがお話されているのを小耳にはさんだのだが、お知り合いの詩人が、詩は自己表現だと言ってたらしい。詩や小説は言語表現だし、音楽は音楽表現だし、映画は映画表現だし、演劇は演劇表現なのだ。それ以外のなにものでもない。自己表現は単なる自己表現であり、それは日常、日ごろに行われる生活の場での、他者とのコミュニケーションにおける表現活動のことである。芸術活動とは、いっさいの関係などないものである。」
二〇一五年十三月二日 「高慢と偏見とゾンビ」
P・D・ジェイムズの『高慢と偏見、そして殺人』を読むために、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』を読み直したのが1年ほどまえで、読み直してよかったと思う。いま本棚にその3冊を並べてあるのだが、ここに、きょう買った、『高慢と偏見とゾンビ』を並べようと思う。パスティーシュ、大好き!
二〇一五年十三月三日 「こんな瞬間の美しさを」
フロイドの『対』を聴きながら、付箋の長さが気になってて、その先っちょをハサミでチョキチョキしていたのだけれど、その切り取ったあとのものが、クリアファイルを取り上げたときに落ちて、その落ち方の美しさにはっとした。こんな瞬間の美しさを作品に定着できたらいいなと思った。いらないものの美しさ。
二〇一五年十三月四日 「隣の数」
2015年10月22日のメモを、これから打ち込んでいく。BGMはナイアガラ・トライアングル1。メモにタイトルをつけてた。めずらしい。「隣の数」整数ならば、隣の数といえば、たとえば、2の隣の数は1と3である。ところが連続した実数においては、2の隣の数というのは存在しない。ある実数を2にもっとも近い数であると仮定しても、その数と2の間の数を無限に分割できるので(分割する数を0以外の実数とする)さきに2にもっとも近い数であると仮定した数よりもさらに2に近い数を求めることができるのである。ここで気がついたひともいるかもしれない。連続する実数においては、「隣の数」というよりも、「隣」という概念自体が無効であるということに。しかしながら、隣り合うことなく、数が無数に連なり合うという風景は、もはや実景をもつ、現実性をもったものでもないことに。このことは、つぎのことを導く。すなわち、実数は、じつは連続などしていないのだと。実数には連続性など、はじめからなかったのだと。というか、そもそものところ、数自体も現実には存在などしていないからである。したがって、連続する実数の隣は空席なのである。すなわち、連続する実数においては、数と数のあいだには、空席が存在するのである。つまり、数と数のあいだには、数ではないものが存在するのである。それを指摘し、それに名前を与えた者はまだいない。ぼくが名づけよう。数と数のあいだの空席を占めるものを「非数」と。ところで、この非数であるが、これは数ではないので個数を数えられるものではない。数に対応させて考えることができるものならば、数ではなくても、個数を数えることができるのだが、この非数は、たとえば、集合論で用いられる空集合Φのように、あるいは、確率論で用いられる空事象Φのように、いくつのΦとかと言ってやることができないものなのである。したがって、たとえば、1という数と2という数のあいだの非数の個数と、1という数と100という数のあいだの非数の個数の比較もできないのである。非数は、いわば、無限(記号∞)のように、状態を表すものとして扱わなければならないのである。この状態というのも比喩である。この非数の概念に相応しい形容辞が存在しないからである。ところで、この非数というものが存在することで、じつは、数というものが存在するとも考えられるのである。この非数というものがあるので、非数と非数のあいだの数を、われわれは取り出してやることができるのである。隙間なくぎゅうぎゅう詰めにされた本棚から本を取り出すことが不可能であるように、もしも実数が隙間なく連続していれば、われわれは実数を取り出すことができないのである。したがって、実数が連続しているというときには、この非数の存在を無視するならば、という前提条件を抜かして言及している、ということになるのである。実数が連続しているなどというのは誤謬である。数学者たちの単なる錯覚である。ところで、話はずぶんと変わるが、1や2や3といった数は、もうどれだけの数の人間たちによって、じっさいに書きつけられたり口にされたことであろうか。数え上げること不可能であろう。それと同時に、まだ人間によって書きつけられたこともなく、口にされたこともない数も無数にあるであろうが、それもまた数え上げることが不可能であろう。永遠に。永遠と言う言葉が辞書通りの意味の永遠であるとしてだが。しかし、その個数は、確実に時代とともに減少していくことだろう。しかし、無数のものから無数のものを引いても無数になることがあるように、無数であるという状態自体は変わらないであろう。といったことを考えたのであるが、無数というのもまた、数ではなく、状態を表す概念なのであった。紫 式部の『源氏物語』の「竹河」のなかに、「無情も情である。」といった言葉があったのだが、無数という概念は、数の概念のうちに入るものではなかったのであった。非数というものの概念が、数の概念のうちに入るものではなかったように。非数という概念について、10月22日は考えていた。おもしろかった。非数を考えることによって、数自体についての考え方も変わった。このように、ぼくはぼくの意識的な領域の自我のなかで、さまざまな事物や事象の意味概念を捉え直していくことだろう。あとのことは、無意識領域の自我のする仕事だ。
二〇一五年十三月五日 「魂を合んだ本」
思潮社海外詩文庫『ペソア詩集』誤植 116ページ下段13行目「魂を合んだ本を」→「魂を含んだ本を」
二〇一五年十三月六日 「ホープのメンソール」
ホープのメンソール、めっちゃきつい。もうじき文学極道に投稿する『詩の日めくり』のことを考えてた。これはアナホリッシュ國文學編集長の牧野十寸穂さんのアイデアからできたものなのだが、ぼくの半分くらいの作品は、ジミーちゃんと、えいちゃんと、牧野十寸穂さんのおかげでつくれたのだと思った。ひととつながっていなければ、ひととかかわっていなければ、ぼくの作品のほとんどすべての作品はつくれなかった。全行引用詩でさえそうだ。孤独がすぐれた作品をつくるとリルケは書いていた。ぼくもそう思っていたけれど、どうやら、それは完全な錯誤であったようだ。ギャオで「あしたのパスタはアルデンテ」を見てる。ゲイだからって、どってことないっしょ? って感じの映画かな。人生は滑稽な芝居だ。ぼくのママも(実母も、継母も)ぼくがゲイだって言っても、信じなかった。父親はわかってくれていたようだが、母親たちは信じなかった。そんなものかもしれない。
くちびるにしたら嫌がられるかもしれないと思って、首筋にキッスしたら、首の後ろにおしゃれなタトゥーが入ってた。一度しか会わなかったけれど、かわいらしい男の子だった。「そこに存在するから」山に登る。山などないのに。一度だけだからいいのだと、むかし、詩に書いた。
完璧な余白を装って、言葉が詩に擬態する。℃の言葉も空白の意味と空白の音をもつ言葉だ。「めっちゃ気持ちいい。」魂から魂のあいだを完全な余白が移動する。魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。「そこに存在するから」℃の言葉もだ。完璧な余白を装って。
PCのCを℃にすること。階段席の一番後ろからトイレットに移動する。空白の意味と空白の音をともなって、ぼくたちは移動する。魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。しゃがみかけたけど、しゃがませないで。首の後ろにキッスした。PCのCを℃にすること。
本にお金を使いすぎたような気がしたので、セブイレでホープのメンソールを買った。きつい。一度しか会わなかったけど、首の後ろのタトゥーがおしゃれだった。PCのCを℃にすること。ぼくたちの魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。ラブズ・マイ・ライフ。
経験は一度だけ。一度だけだから経験だ。階段席の一番後ろからトイレットに。空白の意味と空白の音をともなって、ぼくたちは移動した。人生は滑稽な芝居だ。PCのCを℃にすること。ぼくたちの魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。「そこに存在するから」。
人生は意味である。無意味の意味である。人生は無意味である。意味の無意味である。意味は人生でもある。意味の人生である。無意味は人生でもある。無意味の人生である。意味が無意味であり、無意味が意味なのである。ぼくたちの魂と魂をすっかり満たす意味と無意味。
PICTURE の C を℃にすること。FACT の F を°F にすること。FUTURE の T を°Tにすること。KISS の I を°I にすること。SOUL の S を°S にすること。EVERYWHERE の W を°W にすること。BEATIFUL の B を °B にすること。WE の W を °W にすること。JOY の J を °J にすること。MESSAGE の M を °M にすること。SEX の X を °X にすること。LOVE の L を °L にすること。GOOD の G を °G にすること。GOD の G を °G にすること。
二〇一五年十三月七日 「大量のメモが見つかった。」
晩ご飯は食べない予定だったが、夕ご飯は食べることにする。スーパーに餃子でも買いに行こう。部屋を少し片付けたら、大量のメモが見つかった。
非数について
(メモ)
そもそものところ、数自体が、じっさいに存在するものではないのだ。紙に書かれた数字やワードに書き込まれた数字やエクセルに書き込まれた数字は、現実に存在する数を表現したものではないのだ。ぼくが指に挟んで紙に文字を書き込むペンのことをペンと呼べるもののようには。愛という言葉の意味は広くて深いが、愛という言葉が人間のこころに思い浮かばせる情景というものがある。愛が表象として実感されうるものであるからだ。そういう意味で、愛というものは存在している。しかし、数は表象として人間のこころに実感されうるものだろうか。プラスチックでできた数字をかたどったものがあるとしよう。そういうものがテーブルのうえに置かれたとする。絵のなかに描かれた数字でもいい。そういうものは、数そのものをかたどったものであろうか。数そのものではない。数が表している値を表現したものである。テーブルのうえに置かれた、プラスチック製の2という数字をかたどったオブジェは、2という数そのものをかたどったものではないのだ。数というものもまた、非数と同様に、概念として創出されたものであって、現実の存在する事物ではないのであった。
2015年10月27日のメモから
ひとつの時間はあらゆる時間であり、ひとつの場所はあらゆる場所であり、ひとつの出来事はあらゆる出来事である。また、あらゆる時間がひとつの時間であり、あらゆる場所がひとつの場所であり、あらゆる出来事がひとつの出来事である。
2015年10月20日のメモから
いったん、ぼくのなかに入ってきた事物や事象は、ぼくのなかから消え去ることはない。ぼくが踏み出した足を引っ込めても、その足跡が残るように、それらの事物や事象は必ず、ぼくのなかに痕跡を残す。ときには、焼印のようにしっかりとした跡を残すものもある。額に焼印されたSの文字が、それが押し付けられた瞬間から、それからの一生の生き方を決定することもあるのだ。slave。事物や事象の奴隷であることを示すアルファベットのさいしょの文字だ。ぼくの額のうえには、無数のSの文字が焼きつけられているのだった。
2015年10月24日のメモから
ディキンスンやペソアという詩人の活動とその後の評価を知って、つぎのようなことを考えた。詩人にとって、無名であることは、とても大切なことなのではないか。名声がないということは、名声が傷つけられて、こころが傷むことがない。生きているときに尊敬されていないということは、傲慢になりがちな芸術家としての自我が慢心によって損なわれることがないということだ。生きているときに権威がないのも、じつに好都合だ。権威をもつと、やはり人間のこころには、驕りというものが生ずる可能性があるからだ。生きているときに、名声を得ることもなく、尊敬されることもなく、権威とも無関係であること。これは、詩人にとって、とても大切なことであると思われた。少なくとも、ぼくにとっては、とても大切なことだ。ぼくの場合は、きっと死ぬまで人様に名前が知られることなどないので大丈夫だ。
2015年7月16日のメモから
朝、通勤の途中で、まえを歩いていたおじさんが、道に吸い込まれて片方だけの靴を残して消えた。年平均6人くらい、ぼくの通るこの道で人間が道に巣込まれるらしい。気を付けると言ったって、気の付けようがないことだけれど。
2015年5月28日のメモから
『図書館の掟。』のさいごのシーンのつづき。図書館長が死者である詩人の口から話を聞くところから、『13の過去(仮題)』をはじめてもいい。
2014年12月8日のメモから
詩のアイデア
本来、会話ではないところに「 」をつける。散文詩でやると効果的だろう。
2015年5月28日メモ
詩のアイデア
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
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爆発!
2015年10月20日から27日までにしたと思うメモから
詩のアイデア
さまざまな詩人が詩に用いたオノマトペを抽出、引用して、オノマトペだけの詩をつくる。タイトルは、トッド・ラングレンの曲名、 ONOMATOPEIA からとって、『 ONOMATOPEIA。』にするとよい。
二〇一五年十三月八日 「ユキ」
晩ご飯を食べないつもりだったけど、まえに付き合ってた子といっしょにセブンイレブンで買い物して(「いつもおごってもらってるから、きょうは、ぼくがおごるよ」と言ってくれて)おにぎり一個と、トムヤンクンの即席麺と、肉ジャガコロッケ一個と、おやつを食べながら、二人でギャオの映画を見てた。本を買い過ぎて、金欠ぎみ〜と、ぼくが言うと、タバコ2本を置いていってくれて、やさしい子だ。金欠ぎみと言うか、まあ、基本、ぼくは貧乏なので、貧乏人から見えることというのがあって、それはお金に余裕のあるひとには見えないものだと思う。健康を損なってはじめて見えるものがあるように。生涯、無名で、貧乏でって、まあ、詩人としては、理想的な状態である。寝るまえの読書は、『ペソアと歩くリスボン』じつは、きのうも、きょうも、レックバリの『人魚姫』のつづきを読んでいて、『ペソアと歩くリスボン』をちっとも読んでいなかったのである。きょうは少しは読もうかな。
二〇一五年十三月九日 「オノマトピア」
きょうは、オノマトペだけの引用詩をつくろう。詩集とにらめっこだな。楽しそうだ。いや、きっと楽しい一日を過ごすことになるだろう。きょうも、きのうも、毎日、なんかあって、ジェットコースターのようだ。
オオ ポ ポ イ
オオ パ パイ
おお ポポイ ポポイ
オオ ポポイ
オオ!ポポイ!
(西脇順三郎『野原の夢』)
タンタン タンタン たんたん
オーポポーイ
オーポポーイ
(西脇順三郎『神々の黄昏』)
ゆらゆら
ジヤアジヤア
(北川冬彦『共同便所』)
もくもく
げらげら
(北川冬彦『街裏』)
くるりと
じーんと
ふらふらと
(北川冬彦『昼の月』)
ぽとりと
(北川冬彦『椿』)
ひらひらと
(北川冬彦『秋』)
ゆらり ゆらり ゆらり
ぴんと
ゆらり ゆらり ゆらり
(北川冬彦『呆けた港』)
ぶるると
かーんと
ピキピキ
(北川冬彦『鶏卵』)
がらんとした
(北川冬彦『絶望の歌』)
ははははははは
ははははは
(北川冬彦『腕』)
ぶくぶく
(北川冬彦『風景』)
ぶっつぶっつ
(北川冬彦『春』)
くるりくるりと
(北川冬彦『梢』)
コクリコクリと
(北川冬彦『陽ざし』)
ひよつくり
(北川冬彦『路地』)
ぐるぐる
ぐるぐる
(北川冬彦『スケートの歌』)
ダラリと
(北川冬彦『行列の顔』)
ゲヘラ ゲヘラと
(北川冬彦『大陸風景』)
ボーボーと
めりめりと
(北川冬彦『琵琶湖幻想』)
ばあ ばあ
(北川冬彦『水鏡』)
さらさらと
(北川冬彦『処刑』)
ぱったり
ぱっと
はたと
(北川冬彦『日没』)
ちょっと球形。イーオンに行って、フランスパンでも買って、早めのお昼ご飯にしようかな。オノマトペを取り出しただけで、なにかわかるとは思わなかったけれど、2つばかりのことがわかった。1つめは、個性的なオノマトペはむずかしいということ。2つめは、有名な詩人もオノマトペが凡庸なことが多い。
フランスパンとコーンスープのもとを買ってきた。19世紀、20世紀のフランスの貧乏画家のようだ。まあ、ぼくはあくまでも、21世紀の日本の貧乏詩人だけど。
うつうつと
(安西冬衛『軍艦茉莉』)
グウ
(安西冬衛『青春の書』)
ポカポカ
(安西冬衛『春』)
とつぷりと
(安西冬衛『定六』)
ぼつてりと
(安西冬衛『旧正の旅』)
さらさらと
(安西冬衛『二月の美学』)
ちよこなんと
(安西冬衛『水の上』)
しんしんと
(安西冬衛『秋の封印』)
バリバリ
(北園克衛『スカンポ』)
ハタと
(春山行夫『一年』)
ぽつりと
(竹中 郁『牝鶏』)
ぴいぴいと
(竹中 郁『旅への誘ひ』)
オノマトペの採集作業が退屈なものになってきたので、中断することにした。モダニストの詩だけから抽出したのだけれど、むかしの詩人はオノマトペを多用しなかったようだ。いまの詩人は、金子鉄夫を筆頭に積極的に多用する詩人もいるのだけれど。ぼくも使うほうかな。
二〇一五年十三月十日 「ぼくは言葉なんだ。とても幸せなことなんだ。」
ぼくは言葉なんだけど、ほかの言葉といっしょに、ぎゅーぎゅー詰めにされることがある。たくさんの言葉の意味に拘束されて、ぼくの意味が狭くなる。まばらな場所にぽつんと置かれることもある。隣の言葉がなんて意味かわからないほど遠くに置かれることもある。ぼく自身の意味もぼくにわからないほど。でも、なんといっても、はじめての出会いって、いいものなんだよ。相手の意味も変わるし、ぼくの意味も変わるんだ。出合った瞬間に、なんでいままで、だれもぼくたちを出合わせてくれなかったんだろうなって思うこともよくある。しじゅう顔を合わせる連中とだけなんてぜんぜんおもしろくないよ。出合ったことのない言葉と出合って、ぼくの言葉の意味も深くなるっていうかな、広くなるっていうかな、鋭く、重くなるんだ。ぼく自身が知らなかったぼくの意味を、ぼくに教えてくれるんだ。それは、相手の言葉も同じだと思うよ。同じように感じてるんじゃないかな。ぼくという言葉と出合うまえと出合ったあとで、自分の意味がすっかり変わってるっていうのかな、まるで新しく生まれてきたように感じることだってあるんじゃないかな。ぼくがそう感じるから、そう言うんだけどさ。それはとても幸せなことさ。
二〇一五年十三月十一日 「自動カメラ」
ヒロくんが
自動カメラをセットして
ぼくの横にすわって
ニコ。
ぼくの横腹をもって
ぼくの身体を抱き寄せて
フラッシュがまぶしくって
終わったら、ヒロくんが顔を寄せてきた
ぼくは立ち上ろうとした
ヒロくんは人前でも平気でキッスするから
イノセント
なにもかもがイノセントだった
写真に写っているふたりよりも
賀茂川の向こう側の河川敷に
暮れかけた空の色のほうが
なんだか、かなしい。
二〇一五年十三月十二日 「あるスポンジタオルの悲哀」
わたしはいや。
もういや。
シワだらけのジジイの股間に
なんで、顔をつっこまなけりゃいけないの。
もういや。
ジジイは、わたしの身体を
つぎつぎ
自分の汚れた身体になすりつけていくのよ。
もういや。
死んでしまいたい。
はやく痛んで
ゴミ箱に捨てられたい。
二〇一五年十三月十三日 「洗濯機の夢。」
洗濯機も夢を見るんだろうか。
いっつも汚い
ヨゴレモノを口に突っこまれて
ガランガラン
まわしてヨゴレを落として
ペッと吐き出してやらなきゃならないなんて
損な人生送ってるわ。
あ
人生ちゃうわ。
洗濯機生送ってるわ。
でも
洗濯機のわたしでも
夢は見るのよ。
それは
きれいな洗濯機を口に入れて
ガランガラン
洗ってやること。
いつか
この詩を書いてる詩人の父親が
飼っているプードルをかごに入れて
そのかごをわたしの口の縁にひっかけて
わたしの口のなかの洗濯水を回したことがあるわ。
犬を洗った洗濯機なんて
わたしが最初かしら。
ああ
わたしの夢は
新しい
きれいな洗濯機を
わたしの口に入れて
ガランガランすること。
まっ
それじゃ、
わたしのお口がつぶれてしまいますけどねっ!
フンッ
二〇一五年十三月十四日 「タレこみ上手。」
タレこみ上手。 転んでも、起きない。転んだら、起きない。コロンでも起きない。
二〇一五年十三月十五日 「ストローのなかの金魚。」
ストローのなかを行き来する金魚
小さいときに
ストローのなかを
2,3センチになるように
ジュースを行き来させて
口のなかのちょっとした量の空気を出し入れして
遊んだことがある。
とても小さな食用金魚が
透明なストローのなかを行き来する。
二〇一五年十三月十六日 「食用金魚。」
さまざまな食感の食用金魚がつくられている。
グミより食感が楽しいし、味が何よりもおいしい金魚。
金魚バーグに金魚シェイク
食用金魚の原材料は、不安や恐怖や怒りである。
ひとびとの不安や恐怖や怒りを金魚化させたのである。
金魚処理された不安や恐怖や怒りは
感情浄化作用のある金魚鉢のなかで金魚化する。
金魚化した感情をさまざまな大きさのものにし
さまざまな味のものにし、さまざまな食感のものにして
加工食品として、国営金魚フーズが日々大量に生産している。
国民はただ毎日、不安や恐怖や怒りを
配送されてきた金魚鉢に入れておいて
コンビニから送り返すだけでいいのだ。
すると、その不安や恐怖や怒りの質量に応じた枚数の
金魚券が送られてくるという仕組みである。
その金魚券によって、スーパーやコンビニやレストランなどで
さまざまな食用金魚を手に入れられるのだ。
二〇一五年十三月十七日 「金魚蜂。」
金魚と蜂のキメラである。
水中でも空中でも自由に浮遊することができる。
金魚に刺されないように
注意しましょうね。
転んでも、起きない。
掟たまるもんですか
金魚をすると咳がでませんか。
ぶりぶりっと金魚する。
二〇一五年十三月十八日 「金魚尾行。」
ひとびとが歩いていると
そのあとを、金魚がひゅるひゅると追いかける。
二〇一五年十三月十九日 「近所尾行。」
地下金魚。
金魚サービス。
浮遊する金魚。
金魚爆弾。
近所備考。
近所鼻孔。
近所尾行。
ひとが歩いていると
そのあとを、近所がぞろぞろとついてくるのね。
近所尾行。
ありえる、笑。
二〇一五年十三月二十日 「自由金魚。」
世界最強の顕微鏡が発明されて
金属結晶格子の合間を自由に動く電子の姿が公開された。
これまで、自由電子と思われていたものが
じつは金魚だったのである。
自由金魚は、金魚鉢たる金属結晶格子の合間を通り抜け
いわば、金属全体を金魚鉢とみなして
まるで金魚すくいの網を逃れるようにして
ひょいひょいと泳いでいたのである。
電子密度は、これからは金魚密度と呼ばれることにもなり
物理化学の教科書や参考書がよりカラフルなものになると予想されている。
ベンゼン環の上下にも、金魚がくるくる廻ってるのね。
単純なモデルだとね。
すべて金魚雲の金魚密度なんだけど。
二〇一五年十三月二十一日 「絵本 「トンでもない!」 到着しました。」
一乗寺商店街に
「トン吉」というトンカツ屋さんがあって
下鴨にいたころ
また北山にいたころに
一ヶ月に一、二度は行ってたんだけど
ほんとにおいしかった。
ただ、何年前からかなあ
少しトンカツの質が落ちたような気がする。
カツにジューシーさがない日が何度かつづいて
それで行かなくなったけれど
ときたま
一乗寺商店街の古本屋「荻書房」に行くときとか
おされな書店「啓文社」に行くときとかに
なつかしくって寄ることはあるけれど
やっぱり味は落ちてる。
でも、豚肉の細切れの入った味噌汁はおいしい。
山椒が少し入ってて、鼻にも栄養がいくような気がする。
トン吉のなかには、大将とその息子さん二人と女将さんが働いてらして
ふだんは大将と長男が働いてらして
で
その長男が、チョー・ガチムチで
柔道選手だったらしくって
そうね
007のゴールドフィンガー
に出てくる、あのシルクハットをビュンッって飛ばして
いろんなものを切ってく元プロレスラーの俳優に似ていて
その彼を見に行ってるって感じもあって
トンカツを食べるってだけじゃなくてね。
不純だわ、笑。
次男の男の子も
ぼくがよく行ってたころは
まだ高校生だったのかな
ころころと太って
ほんとにかわいかった。
その高校って
むかし、ぼくが非常勤で教えてたことがある高校で
すごい荒れた高校で
1年契約でしたが
1学期でやめさせていただきました、笑。
だって、授業中に椅子を振り上げて
ほんとにそれを振り下ろして喧嘩してたりしてたんだもん。
身の危険を感じてやめました。
生徒が悪いことしたら、土下座させたりするヘンな学校だったし
日の丸に頭を下げなくてはいけなかったので
アホらしくて
初日にやめようとも思った学校でしたが
つぎの数学の先生が見つかるまで
というのと、紹介してくださった先生の顔もあって
1学期だけ勤めましたが
あの学校にいたら
ぼくの頭、いまよりおかしくなってると思うわ。
生徒は、かわいかったけど。
偏差値の低い学校って
体格がよくて
無防備な子が多いのね。
夏前の授業では
ズボンをおろして
下敷きで下半身を仰ぎながら授業受けてたり。
あ、見えてるんだけれど。
って、思わず口にしてしまった、笑。
ぼくも20代だったから
ガマンのできないひとだったんだろうね。
いまだったら、どうかなあ。
つづけてるかなあ。
二〇一五年十三月二十二日 「おにぎり頭のチキンなチキンが、キチンでキチンと大空を大まばたきする。」
はばたきやないのよ、まばたきなのよ〜!
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
ケケーッと叫びながら紫色の千切れた舌をだして目をグリグリさせる始祖鳥や
六本指を旋回させながら空中を躍りまわる極彩色のシーラカンスたちや
何重にもなった座布団をくるくる回しながら出てくる何人もの桂小枝たちや
何十人もの久米宏たちが着物姿で扇子を仰ぎながら日本舞踊を舞いながら出てくる
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
円は演技し渦状する。
円は縁起し過剰する。
風のなかで回転し
水のなかで回転し
土のなかで回転する
もう大丈夫と笑いながら、かたつむりがワンタンを食べながら葉っぱの上をすべってる
なんだってできるさとうそぶくかわうそが映画館の隅で浮かれてくるくる踊ってる
冬眠中のお母さんクマのお腹のなかの赤ちゃんクマがへその緒をマイク代わりに歌ってる
真冬の繁華街でカラフルなアイスクリームが空中をヒュンヒュン飛び回ってる
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
しかし、あくまでも、じょうずに円をかくことが大事ね。
笑。
二〇一五年十三月二十三日 「追想ね、バカ。」
六波羅小学校。
運動場の
そと
路地だった。
彼は
足が3分の1で
ハハ
小学校だった
のではなかった
中学校だった
そいつも不良だった
ぼくは不良じゃなかったと思うのだけれど
学校や
家では
あ
親のいる前では
バカ
そいつのことが好きだったけど
好きだって言わなかった
そういえば
ぼくは
学校では
だれのことも好きだって言わなかった
中学のとき
塾で
女の子に
告白されたけど
ぼくは好きだって言わなかった
かわいい子だったけど
好きになるかもしれないって思ったけど
3分の1
足
みじけえ
でも
なんか
まるまるとして
でも
ぜんぶ筋肉でできてるみたいな
バカ
ぼくも
デブだったけど、わら
このとき考えたのは
なんだったんだろう。
遡行する光
ぼくの詩は
詩って言っていい? わら
きっと
箱のなかの
頭のなかに
閉じ込められた光
さかのぼる光
箱のなかで
反射し
屈折し
過去に向かって遡行する光
ぼくの見たものは
きっと
ぼくの見たものが
ぼくのなかを遡行する光だったんだ
ぼくのなかで
遡行し
走行し
反射し
屈折する光
考える光
苦しんだ光
笑った光
きみの手が触れた光だった
先輩が触れた
ぼくの手が見てる
ぼくの光
光が光を追いかける
名前も忘れてしまった
ぼくの光
光が回想する
光にも耳があってね
音が耳を思い出すたびに
ぼくは
そこにいて
六波羅小学校の
そばの
路地
きみのシルエットはすてきだった
大好きだった
大好きだったけど
好きだって言わなかった
きみは
遠いところに引っ越したぼくのところに自転車で来てくれて
遡行する光
反射し
屈折する光
光が思い出す
顔
声
道
壁
何度も
光は
遡行し
反射し
屈折し
思い出す。
あんにゃん
一度だけ
きみの腰に手を回した
自転車の後ろに乗って
昼休み
堀川高校
いま
すげえ進学校だけど
ぼくのいたときは
ふつうの高校で
抜け出して
四条大宮で
パチンコ
ありゃ
不良だったのかな、わら
バカ
意味なしに、バカ。
どうして光は思い出すんだろう
どうして光は忘れないのだろう
光はすべてを憶えてる
光はなにひとつ忘れない
なぜなら、光はけっして直進しないからである。
二〇一五年十三月二十四日 「どろどろになる夢を見た。」
焼死と
変死と
飢え死にとだったら
どれがいい?
って、たずねたら
魚人くんが
変死ですね。
って、
と
ぼくも。
と
言うと
アラちゃんが
勝手に
「ぼく安楽死」と名言。
じゃない
明言。
フンッ。
目に入れたら痛いわ。
そこまで考えてへんねんけど
どなると
フェイド・アウト
錯覚します
割れた爪なら
そのうち、もとにもどる
どろどろになる夢を見た
目にさわるひと
耳にさわるひと
鼻にさわるひと
手にさわるひと
足にさわるひと
目にかける
耳にかける
鼻にかける
手にかける
足にかける
満面のお手上げ状態
天空のごぼう抜き
乳は乱してるし
ちゃう
乳
はみだしてるし
そんなに
はみだしてはるんですか
抜きどころじゃないですか?
そんな
いきなり乳首見せられても
なんで電話してきてくれへんの?
やることいっぱいあるもの。
あんまり暇やからって
あんたみたいに飛行機のなかでセックスしたりせえへんちゅうの!
ディッ
ディルド8本?
ちゃうわよ。
ビデオとディルドと同じ金額やのね。
あたし、ほんとに心配したんだから
ワシントン条約でとめられてるのよ
あんたが?
ビデオがよ
ビデオが?
ディルドもよ
ロスから帰るとき
あなたがいなくなってびっくりしたわ
16年前の話を持ち出さないで!
ビデオ7本とディルド1本で
合計16万円の罰金よ
空港の職員ったら
DCまでついてくんのよ
カードで現金引き出すからだけど
なによ
さいしょ、あんたディルド8本で
つかまったのかしらって思ったのよ
は?
8本の種類って
あんた
どんだけド淫乱なのかしらって、わら
大きさとか形とかさ、わら
それはまるで蜜蜂と花が愛し合うよう
それは
必要
かつ
美しいものであった
それは
ほかのものたちに
したたる黄金の輝きと
満たされていないものが
いっぱいになるという
充溢感をもたらせるもの
生き生きとしたライブなものにすることのできる
イマージュ
太字と
細字の
単位は不明の
イマージュ
読みにくいけれど、わら
ふんで
二〇一五年十三月二十五日 「神は一度しか死なない。悪魔は何度も死ぬ。」
創世記で
知恵の木の実を食べたことはわかるけど
その味がどうだったのか書いてなかったね
書いてなかったから
味がしなかったとは言えないけれど
どんな味がしたんやろうか
味覚はなかったのかな
知恵の木の実を味わったあとで
味覚を持ったのかな
二〇一五年十三月二十六日 「こんな詩があったら、いいな。」
内容がなく
意味がなく
音も声もなく
形もない詩。
あるいは
内容があり
意味があり
音も声もあり
形がない詩。
あるいは
内容がなく
意味がなく
音も声もなく
形がある詩。
二〇一五年十三月二十七日 「いっしょに痛い。」
ずっと、いっしょに痛い。
ポンポンと恩をあだで返すひと。
するすると穴があったら入るひと。
サイズが合わない。
靴は大きめに買っておくように言われた。
どもどものとき。
死んだ●と●●するのは恥ずかしい。
誤解を誤解すると
誤解じゃなくなる
なんてことはないね。
すぐに通報します。
二〇一五年十三月二十八日 「詩について。」
詩と散文の違いは
改行とか、改行していないとかだけではなくて
根本的には
詩は
鋭さなのだということを
考えています。
それを
狭さ
という言葉にしてもよいと思います。
ウィリアム・カーロス・ウィリアムズは
具体物
と言いました。
経験を背景としない詩は
まずしい。
しかし、経験だけを背景にした詩も
けっして豊かなわけではないのですね。
才能というものが
たくさん知っていることでもなければ
たくさん知っていることを書くことでもないと思うのですが
たくさん知っていて
そんなところはうっちゃっておいて書く
ということが大事なのかなあって思います。
二〇一五年十三月二十九日 「人間違い」
人間・違い
人・間違い
どっちかな。
後者やろうな。
近所の大国屋で、きのうの夜の10時過ぎに夜食を買いに行ったら
レジ係の女性が、ぼくに話しかけてきた。
「日曜もお仕事なんですね。」
ぼくは、このひと、勘違いしてるなと思ったから
あいまいに、うなずいた。
ぼくと似てるひとと間違えたのかな。
でも、ぼくに似てるひとなんて、いなさそうなのにね。
なぞやあ。
おもろいけど。
こんどは、あのリストカッターの男の子に話かけられたいよう。
あごひごの短髪の体格のいい、童顔の子やった。
二〇一五年十三月三十日 「100人のダリが曲がっている。」
のだ。
を。
連続
べつにこれが
ここ?
お惣菜 眉毛
詩を書く権利を買う。
詩を買う権利を書く。
そんなお茶にしても
また天国から来る
改訂版。
グリーンの
小鉢のなかの小人たち
自転車も
とまります。
ここ?
コロ
ぼくも
「あそこんちって
いつも、お母さんが怒鳴ってるね。」
お土産ですか?
発砲しなさい。
なに?
アッポーしなさい。
なになに?
すごいですね。
なになになに?
神です。
行け!
日曜日には、まっすぐ
タトゥー・サラダ
夜には、まさかの
タトゥー・サラダ
ZZT。
ずずっと。
感情と情感は間違い
てんかんとかんてんは勘違い
ピーッ
トコロテン。
「おれ?
トラックの運転してる。」
毎日もとめてる
公衆の口臭?
公衆は
「5分くらい?」
「おととい?」
ケビン・マルゲッタ。
半分だけのあそ
ピーッ
「八ヶ月、仕事なかったんや。
そんときにできた借金があってな。
いまも返してる。」
「じゃあ、はじめて会うたときは
しんどいときやったんやね。」
たんたんと
だんだん
もうすぐ
だんだんと
たんたん
一面
どろどろになるまで
すり鉢で、こねる。
印象は、かわいい。
「風俗には、金、つこたなあ。
でも、女には、よろこばれたで。
おれのこんなぐらいでな(親指と人差し指で長さをあらわす=小さい)
糖尿で、ぜんぜんかたくならへんから
おれの方が口でしたるねん。
あそ
ピーッ
めっちゃ、じょうずや言われる。」
イエイッ!
とりあえず、かわいい。
マジで?
梅肉がね。
発砲しなさい。
あそ
ピーッ
お土産ですか?
説明いりません。
どれぐらいのスピードで?
前にも
あそ
ピーッ
見えてくる。
「選びなさい。」
曲がろうとしている。
間違おうとしている。
見えてくる。
「選びなさい」
まさかの
トコロテン。
ピーッ
あそ
ピーッ
見えてくる。
「上から
ピーッ
見えてくる
下から。」
のだ。
を。
連続
ピーッ
唇よりも先に
指先が
のだ。
を。
連続
ピーッ
行きます。
「選びなさい。」
「からから。」
「選びなさい」
「からから。」
たまに
そんなん入れたら
なにかもう
ん?
隠れる。
指の幅だけ
ピーッ
真っ先に
あそ
ピーッ
みんな
ネバネバしているね。
バネがね。
蟻がね。
雨が
モモンガ
掲載させていただきました。
二〇一五年十三月三十一日 「正しい書き順で書きましょう。」
電
飛
という漢字が、むかし、へたやった。
で
書き順を間違ってて
マスミちゃんに正しい書き順を教えてもらって
正しい書き順で書いたらきれいに書けるようになった。
でも
電気の電は、あかんねんね。
雲も。
露も。
雪も。
雷も。
って話を
勤め先のお習字の先生に
たまたまランチタイムに
お席が、ぼくの近くに座ってらっしゃって
ご挨拶することになって
そのときに
そういう話をしたら
雨
という字を横に広げて書いてみてくださいと言われて
いま
その通りにしたら
前よりずっときれいに書けるようになった。
ジェイムズ・メリルのルーズリーフ作業中に
何度か
雷とか
電気とか書いて
たしかになあって思った。
さすが
お習字の先生やなあ。
確実に、きれいになるように教えてくださった。
48才で、もしかしたら遅いのかもしれへんけど、笑。
まだまだ上達することがあるのかと思うと
たいへん面白い。
さっき
シンちゃんと電話していて
「いま何してたの?」
って訊かれて
詩の勉強って答えたら
「まだ、あきらめてないの?
あきらめるのも、才能だよ。」
と言われてカチン。
「みんな、きみのことが好きだった。」
の前半を、そのうちに書肆山田さんからと思っている。
あれは、ほとんど認められなかったけれど
ぼくのなかでは、最高に霊的な作品やった。
とてもくやしい思いがいっぱい。
あまりにも洗練されすぎていたのだと自負している。
ほんとにくやしい。
風
*
『お先にー、お疲れ。』、仕事場をあとにする。着替え室で『ズボン』と言ってズボンをはく。『靴下』と言って靴下をはき替える。建屋を出たら外は心地よい風が吹いていたので、ふいに、『風』と声に発した。
冬の吹く風が暖みをましていた。春の到来を告げてくれている。空気の流れを頬に掠めたとき、思わず『風』と発した言葉について歩きながら思い返した。歩きながら少し不思議な気持ちになり考えていた。風という一語を声にした風は、
ひとつの同じ風。
、ふたつは違う風
ふたつは同じ風。
、ひとつの違う風
**
かかとの鳴るブーツが身軽に角を曲がります
ほとほとと花と水とが匂いたつ行路を夜過ぎ
石垣に並んだパイプの口から漏らした水の先
グランドピアノ脇に写る譜面が二つに割れる
トラデルシアトラヴィシア南から吹く風釦釦
***
よろよろよろめいてよろよろと座り込む手にとる一輪の野の花も 土につまずく小さく転がる紫露草の葉がフラワーフープを幾重にも腰に巻きつけ車輪のように浮かせている 花は思わずよろめく手向けた花弁の襞のもうひとつ奥のリム 坎から芯髄を覗かせている
****
山むこうに山がありむこうにもまた山がある
道の先には道がありその先にもまた道がある
花のなかに花がありなかにもひとつ花がある
君の奥には奥があり奥の奥にもまだ君がいる
私を知らない人を知る人を知らない私を知る
..........
.........
........
.......
......
.....
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供物
砂漠でな、雨に殴られながら
明日まで来ちまった
火の玉は魚の群れの
転寝に聴こえて
蜃気楼を消し去るんだ
銃声が日付を飛び越えて
腹と背中を引っ付けちまう
氷河のような目だった
音ひとつしない
何も溶かさない
花のような澄んだ黄昏だった
あることとないことが
ひとつになって生きたり死んだり
血が止まると
心臓が脳みそを鷲掴みにして
がんばろうなんて思う暇なんかない
努力した時点で
オーバーヒートするって魂胆
皿の上で火がのたうちまわって
油を焦がし尽くした頃には
この始末で深い夜のまま
石でも食おうか
生きていた証みたいなもんさ
帰郷
故郷には深さがある
海の深さとは別の種類の
血の深さと記憶の深さ
一人の人間に一つずつ
最も深い故郷が与えられており
人がほんとうに帰っていく極地がある
果樹園に包まれ
たった一度も裏切らなかった生家よりも
もっと深く血を分けた故郷があり
それは子供の頃よく探索し
木々の香気に浸っている近所の山だ
二年間のデスクワークは
私の増殖を大きく偏らせた
私は壊れた天秤で
物事の価値を間違って比較してしまう
間違いのたびに社会から削り取った疲労は
蓄積してとがって私を駆り立てるので
私は再び山へと帰ってきた
ほころび始めた桜のつぼみ
針葉樹に常緑樹に葉の落ちた裸の樹
眼下に一望される住宅地と市街地
冬と春が生温かいアルコールの中で混じり合って
私は頂上で寝転び風を浴びて
己を縛るものをすべて引きちぎった
山において人間と自然はまったく等しい
人間も自然もともに循環する精神的原理
物質の装いとともに精神を清くあふれさせている
ひとつの世界内細胞
まったく同一の世界の遺伝子を共有しながら
ノウサギとテン
夜、雪が降り止んだ頃、夜行性のノウサギはいっせいに跳ねだす
カンガルーのように飛び跳ねる後ろ足の腿の筋肉は巨大で
前足と後ろ足は途中で交差し、雪原を跳躍する
むき出した前歯をそっと樹皮にあてがい、かりかりとかじる
あちらこちらで、かりかりこりこりと瞼をあけたまま
闇夜に放心したままの眼でかじり続ける
ときおり、レーダーのように耳を立てつつ、方角を変えて音を探索する
いたたまれない抑圧を
太い腿や鋭い前歯に詰め込んで、ノウサギは夜をはねる
やがて、雪面を愛撫するように、足跡を擦り付けてゆく
それは自らの存在を柔らかく消滅させるように、入念に雪面に修辞する
命を守るために、存在を形にするために
足跡を痕跡を、カムフラージュする
朝から猟人は、雪原へと踏み入り、ウサギの足跡を追う
パズルのようにカムフラージュされた痕跡を静かに追い
いくつかの狡猾なトレースを残し、残された隙間へとダッシュする
*
尾根を登り切ると視界が広がる
無雪期には田であると思われる地形だ
その畦の近くの堆積した雪のひび割れから
黄色いテンが顔を出している
双眼鏡で覗き込むと
テンはこちらに関心があるらしく
じっとこちらを見ている
私が敵なのか獲物なのかを判断しているのだろうか
それとも、ただ無造作に立ち止まっているだけなのかは解らない
一帯の地域を転々と回り
ウサギを捕食しながら生活しているテンは
雪や雨風をしのぐ、田の畦の雪のひび割れの中で生活を営んでいるのだろう
ウサギが獲れない日は、空腹に耐え
土の中のミミズを吸いこみ
胃腑に収め、雪の隙間の苔を舐めているのだろうか
あるいはもう一歩のところでウサギを取り逃がしたとしても
テンは何食わぬ顔で巣穴に戻り、じっとうずくまって
温かい血肉を想像しながら眠りについたのだろう
あるときは大きなウサギを捕らえ
腹をふくらまらせたとしても
稜線に沈みかける夕日に涙することもない
厳しさと激しさと
子への愛だけにすべてをささげたテン
それは、はかなくも美しい黄色い色合いで
ほどよく白色が顔に混ざり
私をじっとしきりに見
少しだけ小首をかしげていたようだった
a mad broom
かつてぼくは三流誌人として名を成した。けれど詩に倦いてしまった。ぼくはランボーではない。けれどみずからの詩情と、みずからの行いとの乖離が激しいので詩をやめる。もうなにも語る資格を持ってない。いまは知人たちに作品を送るだけだ。
ものすごい速さで猫たちが走る。ハイウェイはもろい。かれらの声によって、いつかすべてが消えてしまうのを待つ。
二宮神社
けれども枯れた木立ちはなにものも慰みはしないだろう
ただ諒解もなしにぼくのうちに列んでるだけだ
夏の盛りをまっすぐにゆく路
むなしさは消えない
対話もなく
寂寥のうちを通り過ぎてったひとたちよ
透き通った茎みたいにその断面は涼しい
ちょうど終の出会い顔みせて
ぼくは手水を唇ちにする
けれども朝になってしまえばすべては失せ
みえなくなったぼくがしたたかにかぜの殴打を受けるだろう
どうぞご勝手に、だ。
Chikatetz No Yotamonotachi
買ったばかりのバスキア画集を手に、死んでしまった姉の墓参りをしようとしたら、母にとめられてしまった。バスキアが縁起でもないというんだ。たしかにかれも若死にだった。猛スピードで現れて消えてしまったものたち。わたしは悪しくもそんなものたちが好きだ。それというのに母にはそれがわからないという。たしかにかれらはいいやつではなかった。ジム・モリソンも、イアン・カーティスも。しかたくわたしは地下鉄に乗っては駅の便所に花束をうち棄ててきてしまった。やがて腐りきった花々が駅員によって処分されるのを承知のうえでだ。わたしは気が狂ってるにちがいない。姉は二十九になるまえに死んだから、わたしよりも年下ということになる。葬儀には呼ばれなかったから、かの女の夫の顔さえ知らない。物理と数学に長けた姉、いっぽう藝術にはいっさい関知しなかった姉、もう幾年も会ってなかった。おぼろげなかの女のふるいまいと顔よ、そうかあなたは墓にまでわたしを拒むのか。砂を噛み、臍を啜っていきてる汚辱の弟よ、おまえ、どうする? おまえ、どうなる? かつて父はルンペンを指さしていった、──おまえはいずれそうなると。けれどそうにはならなかった。ただ恥辱のうちに沈んでっただけだ。地下鉄の階段はいずれ暗がりに降りていく、そこへ四人の青年が立ち現れた。やがてつまらない死に方をするおれ──という韜晦。かれらは若く細かった。まるでアントン・コービンの写真みたいにモノクロームに映り、ひとりだけがわたしに眼をむける。かれもバスキアが好きなんだ、おそらくは。そうおもいながら阪神線の改札をぬけ、大通りはむこうの墓場へと長い坂をのぼる。バスキアをひろげながら、だ。ただ四人の青年の物語はまたいずれ、ということで失敬する。
新神戸駅
赤毛のあの子がみつめる
マッド感のある駅舎
そいつは建ってるだけで美しい
積年の汚れが魔法をかけてくれてる
愛は雨にとけ、あらゆる側溝に光りを打つ
もうじきおれはあの子に道を尋ねるだろう
でたらめな番地を語り、
それが物語となる
いくらぶちのめされても
魂しいのほとりは崩れやしない
さよならを決めて雨に歩きだすんだ
そうきみらがうまくやりおおせたようにね
ああ、
おれのかたわらをひとびとが遠ざかっていく
アニス
たぶん高尿酸血症だ
関節液の尿酸結晶がうちがわから足を突き刺してる
歩けないんだ
躄りみたいに足を地面に擦りつけながら
ラブホテルを抜け
コンビニエンスへとむかう
これがほんの風穴であったらいいとおもう
しかし手遅れだ
生は藁を咥えた犬
地上の塵を日が輝かせ
遠くの角を曖昧なものにみせたがる
自身の性質によって放逐されたもののための幻し
だれとも仲良くはなってはならないとはじめから決められたてたかのよう
酒をひとりで呷り、呷ってはタイピングをつづける
この世には少なくとも四つの救いがあった
絵を描くこと
ものを書くこと
音楽を鳴らすこと
そして手淫すること
公園は猫たちでいっぱい
アニスを喫う
イタリア国旗を模した箱の、
かの国の莨を
月曜日
たえがたいところからきて
そしてたえがたいところにたどり着く
ひとのない発着場で雨に流されながらおもったもの
最初にはみだしてしまったものはなおもはみだしつづけると
家には帰りたくはない
けれどもだれも連れてってはくれない
──こういった無意味な哀傷をなでまわすおれも
──とんだおかまやろうだろうか
けっきょく湿度が高すぎるんだ
バスはバスのまんまだし
通りは通りのまんまだ
けれどもこうした感情は感情ではない
ひとりでいつまでも歩くがいい
かたわらにはだれも?
ああ、そうとも。
平原の火
麦秋はもうじき終わる
そうしてぼくは列車に乗り
窓際の席に着くのに詩論はいらない
群小詩人にとっての車窓は平原のかすかなる火
手のひらや顔をそこへ押しやって熱さや傷みをもってして
次の一行へと乗り換えてしまうんだ
さあいくんだ、
摂氏四〇度の地獄へ
あのムンクが素裸になった自画像の地獄へと
もうみえなくなった連中なんてうっちゃれさ
洗濯屋の伝票みたいなちっぽけでどうしようもない愛惜に背をむけて
走りだすんだ、
青電のアナウンスがいくら愛しかったものたちを炙りだそうとも
ひとりでいけ
ひとりでいけ
ひとりでいい
蔦の帽をかむり、あとの祭りだってかまやしない、
詩なんぞ書かなくたってもういいんだ
平原の火にその身を横たえてろ!
檻
知らない土地から訪ねてきて
知らない土地に帰っていくもの
あるいは留まりつづけるもののために
寝台を仕立てようじゃないか
もし暗い寝床のなかで自身に目醒めることがあったなら
これ幸いという気分でかれらを綿で締め殺すんだ
この人間動物園のうちがわでぼくの学んだこと
それはほんとうの敵を探すこと
でもそれはいまだ姿をみせたことがない
ぶ厚い壁に押し込められ
帰っていくところもない
ほんのちょっとの気まぐれで
きみに会えることができたなら
もうこの壁は無用になる
どうか信じて欲しい
ぼくというぼくが
新しい事実のための
かげだということをだ
きみのための事実
ぼくのためのうそ
そして知らない土地から訪ねてきた、
男たち、女たち、子供たち、老人たちよ
檻に入り給え
不実
不実さよ、そのみのりをぼくにおくれよ
どうか信じて欲しいんだ
列車に乗り遅れたこのぼくが必ずさきにたどり着くことを
お呼びでないのはわかってるつもり
けれど忙しいひとのなかを縫って
ぼくは死に急いでやる
これだけがぼくの復讐だ
遙かさきのシグナルよ、気をつけろ
遙かさきの駅舎よ、気をつけろ
必ずや不実の輝きをもってしてそいつらを倒してやるんだ
不実さよ、
そのみのりをぼくにおくれよ
どうか信じて欲しいんだ
列車に乗り遅れたこのぼくが必ずさきにたどり着くことを
移民局
さみしい季節がやってきて
窓のなかを涙ぐませた
大きな鳥とともに
かれらはやってきて
茫漠の移民どもを
連れ去ってしまうんだ
もうなにをいっていいのかもわからない
ぼくらはかつて善性のために戦ったのに
それは果たしてぼくらの妄想だったなんて
監視委は通知一枚も寄越さなかった
悲しさでいっぱいなった室でおきざりにされた人形
片手がもぎとられ、それでも笑顔を崩さない
まるきっりぼくらそのものじゃないか
移民局の壁のなかでふるえながら待ってるもの
それらも人形とおんなじだった
ぼくらはまたしても知らない土地に帰される
またしても知らない土地の住人にかわる
武装
もってるものが手折れた茎ならば
それがきみの最良の武装だ
たとえきみが素裸であろうとも
そいつがきみの標べ
わらべ唄をうたい
プールサイドに立つきみが羨ましい
きみはいま最良の存在だ
(たとえここに言の葉がなくとも)
七月
またしても雨は降らなくなったし、
またしても夢をみなくなった
あらゆる遊びは赤信号を越え
つぎつぎと死んでしまうもの
放水が高くあがって
なしくずしにこの月も終わりをみせはじめる
ああ七月よ、
ぼくの産まれた月
いったいどうすれば
なにを成し遂げたら
みんなに赦されるだろうか
聴いたことのない訓戒を求めて
燃えあがった道路を歩く
あるところまでいったときだ
光りに射抜かれたもうひとりのぼくが
野良をつれてしずかに川のほとりへと消えてった
訣別
べつにどうってことないってきみたちはいうだろう
でもおれには出会いがないんだ
きみらに会ったのも遠い昔のこと
みずらからを嘖むにはちょうどいい年ごろ
給油所を襲いたいんだ
だれか手伝ってくれ
でもだれもここにはいないんだ
大人になってなにが得になったというんだい?
酒も莨もポルノもすっかり色褪せて
なんでもないというみたいな顔を仕向けてくる
きみらは二枚目だ
だからそうってことないだろ?
おれみたいに醜いやつを
おれは観たことがない
だれか高速の路電にのせくれよ
流線型のすべて
流線型の髪型ですべてを吹っ飛ばせるやつに
手紙なんかもう書かない
黙殺のなかで耐えることはもうできない
だからぼくは自身を葬るよ
もしもきみらが笑ってくれるのならば
拳闘士の休息
試合開始はいつも午前3時だった
父にアメリカ産の安ウォトカを奪われたそのとき
無職のおれはやつを罵りながら
追いまわし
眼鏡をしたつらの左側をぶん撲った
おれの拳で眼鏡が毀れ
おれの拳は眼鏡の縁で切れ、血がシャーツに滴り、
おれはまた親父を罵った
返せ!
酒を返せ!
おまえが勝手に棄てたおれの絵を、おれの本を、おれのギターを!
凋れた草のような母たちが、姉と妹たちがやって来て、
アル中のおれをぢっと眺めてる
おれはかの女らにも叫ぶ
おまえらはおれを助けなかったと
おれが親父になにをされようがやらされようが助けなかった!
だれがおまえらの冷房機を、室外機をと叫んだ
おれは姉にいった、──おれはおまえのタイヤ交換をしたよな?
じぶんの仕事を遅刻させてやったのにありがとうもなかったよな?
照明器具の倉庫をおれは首になってた
おれは姉のつらを撲った
おれの拳がなんとも華麗に決まったその瞬間
いちばんめの妹から階段のしたに突き落とされた
おれの裂傷した後頭部からまたしてもくそいまいましい血が飛び散った
不条理にもおれには血がおれを嗤ってるみたいにみえてならなかった
気がつくとおれは暗がりに立ってて警官ふたりとむかいあってた
おれは──といった、ポリ公はきらいだと
かれらはじぶんたちの仕事を刺激されて少しばかし悦んだ
しかしおれはそれ以上かれらを悦ばす気にならなかった
だから、さっさと寝るふりを決め込んだんだ
そして明くる日おれは町へと流れてった
労働
かの女もおれも労働なんか信じちゃなかった
報われること
贖われることのないのを知ってた
売店でたやすく売り買いされてしまう生活
美しい仕方の勘定をされてしまう生活
週ふつかは仕事をさぼり遊んでた
蝋石でかかれたつたない線の世界でだ
発送伝票の、黒い一点に躓いて
ハンド・リフトの手を放してしまう
おれたちはまだ二十三歳だった
おなじ道場町の落伍者だった
やがてかの女のために仕事を
もっと憶えようともしたりした
なんとか話しをしようとしたりもしたっけ
なんでもないことがどれほど至上かとおもいながら
あるときかの女の退職を知った
おれはかの女にいった
──本をだすんだ、これがゲラさ、あげるよ
そして永遠の別れをみつけたというわけだ
その翌日おれは福知山線を無人駅をめざして乗った
そして解雇された
追い放たれて
潰れたスーパー・マーケットの頽箱で暮らした
何週間も凍えながら
幾度も量販店で盗みをしながら
そこが封鎖されると放浪にでかけた
四年を経てこの室にたどり着くあいま
冷蔵庫の背面パネル
おれは部品配送の運転のために採用されたはずだった
わざわざこんな田舎町へやってきたのは
そういった楽な仕事を望んでたから
そうともおれは世間知らずで
おまけに恥知らず
だのにひと晩あけて寮をでると
流れ作業のおでましだ
歳を喰った男がいった、──だれだ、こんなできそこないを連れてきたのは?
おれはおもった、──こいつは従順な相手にしかそんな口は叩かないと
そうともおれは従順な屠場の羊に過ぎなかった
だから罠を求め、罠にかかるんだ
背面パネルに次々と妙なものを
貼っていって終わりはない
おれはまたしても倒れてしまいたくなる
だってそうだろう?
話しがまるでちがうんだからな!
ようやく昼食がやってきたとき
おれはやめることにした
たった一日で
その通り、寮に帰ってくると
話しがちがうと噛みついて
その日の給料とともに
町へと舞い戻った
けれどもどこにもいきばはなかった
無賃乗車で海を渡ってトルコ風呂の配車係になった
自動車恐怖症のおれにはいったいどうすればぶつけずに済む方法がわからない
夜の休憩時間になっておれは社長からもらった金を握りしめて逃げだした
かれから貰ったネクタイを路上へおきざりにしてだ
そうしてまたしてもからっぽになったおれは、
おれ自身の性質によってまたも放逐される蝗だった
つぎの虫籠はいったいどこに?
ことの終わり
おもってたよりも終わりは早いもの
三十年かかって手にしたぼくの事実
おもいのほか温かくうちがわにそそり立つ
死地というものは花に充ち
あらゆる科白を断ち切ってくれる
どうかためらわないで
頼む
踏みつけにして
ぼくの墓に唾を吐いて欲しいんだ
遠くで鳴ってる警笛
近くでひびいてる信号
だれともかわせなくなった合図がぼくときみたちのあいまを走る
どうかためらわないでいらだちよ、それを蹴れ
ことの終わりはおもったよりも早いもの
黄色で下地を
赤で輪郭を
そして青で中身を塗り込めてしまえ
きみたちにならできるはず
だってきみらはぼくがきらいだもの
なんにもいえなくなるまえにこれだけはいおう
すべてのぼく、ぼくというぼくはうそであるとだ。
隣人
祖母を殺した北海道の少女へ
ある男がいった、──飛びだしてきたかの女をだれも責めることはできないと
着古した上着を裏返してかれは床屋へと去っていく
たしかにおれもかの女を責めることはできない
けれども情けなど感じないし、
また憐れんでもない
そういったことが繰り返されるという、
ありきたりなことに気づかされるだけだった
次第に秋は不覚にも冬に変わって
緑色の研究も枯れ色に発色変化を起こす
性のとぼしさに苛まれながらも
立ちあがる青年たち
手遅れになるまえにみずからを汚し給え、だ
おれは無風の正午を北にむかって歩く
ビールとチーズとナッツのために
まだひと気のない酒場通りで
またしてもおれはかの女についておもう
いったいだれが救ってやれたというのか
うろめたいのか隣人ども
手を触れるのはおまえたちには赦されないんだ
けれどもおれだっておなじようにしただろう
けっきょくはおれも冷たい隣人のひとりなんだからな
やがて夜が来てひとびとが集まり始めた
あまりのどよもしに嫌気が差し
またしてもひとのないところを歩く
しだれ柳の傘が立ってた
ゆっくりと歩み寄り
その樹皮に手を触れる
かつてアルコール専門病院でおれはこんな話しを聞かされたっけ
──あそこに三つの木があるだろう?
──ええ。
──そこで三人が首をくくったんだ
やつは薄笑いでいい放ち、
蒲団に潜りこんだ
くそ、
だれも救われない
飛びだしてったかの女の
星かげのまなざしよ、
どうかおれをおもいきりに
さげすんでおくれ
ラヴ・ソング
おもうにどの女も売春宿からやってきたんだ
けれどもかの女たちに金を払っても
触れさせてもくれない
かつて熱をあげた少女たち
いまは世帯持ちで
男たちから給料を吸いあげて暮らす
どっか東部の町で平凡さを謳歌しながら
ある女は亭主をおっぽりだして同級生だった男らと遊ぶ
けれどそのなかにおれはいない
遊ぶ相手なんかいやしない
だれもない世界の、
その待合室に坐ってひとり遊びに興じるだけ
おれはおもいだしてる
かつて熱をあげた少女たち
好きだということで迫害された過古
自身がすっかり手に負えない代物になった挙げ句
愛し合おうとおれはいう
愛し合おう、
やがて獣性のなかへと
引き込まれてしまおう、ってさ
主題歌
「広告募集」の看板がつづく田舎道
起伏の激しさに咽を焦がしながら
かつて父の自動車で走り回った
いまでもあのあたりを歩けばおもいだす
いとしいひとたち、
あるいはいとしかったものたちをおもいだす
それは一九八四年のピープ・ショウ
あるいは二〇一五年のわるい夢
喪ってしまうだけの暮らしなら
もうとっくにうち棄ててる
懐かしいなどというおもいもなく
葬ってしまうだろう
けれどもそれは望みではなく
抗いですらない
かつて美しかったもののために歌をくれ
あるいはかつて慈しみをくれたものたちに歌を
おもいはぐれてかの地へたどり着く
バスの発着場にひとり立っては
迎えてはくれないもののなまえを叫ぶ
かれらかの女らはなにももっちゃいねえ
ただもうこっから放たれてくんだ
急ぎ走りでも掴まえられない
きっどどっか遠くで歩いてるにちがいねえ
さっきまでとちがうやり方でその身を焼く
「広告募集」の看板がつづく田舎道
起伏の激しさに咽を焦がしながら
もはやおれをいたぶってくれないきみをおもう
両の手の箒がおれを撃つまで待ってやろうなどとはおもいはしない
それは一九八四年のピープ・ショウ
あるいは二〇〇〇年の別れのとき
たくさんの主題歌を憶えた
けれどもそんなことを忘れてぼくこっぴどい幽霊たちから
いっつもどやしつけられてる
ただそれだけだ
成人通知
成人式の日は
薪わりをしてた
父とふたりきりで靄のなか
斧をふっていちにちを過ごした
あたまのなかじゃ
かつての同級生やら好きだった女の子たちが着飾って歩き
やがてはそれぞれのつがいを見つけてしまうだろうのをなるたけ考えないようにしてた
いっぽん、
またいっぽんと
薪をわるたびにおもった
いまごろかれらはおれのことなど忘れて
かの女らはおれから遠くはなれて
歩いてる
笑ってる
愉しんでる
わたしはひとつの木をふたつにしては父のほうへ投げ
早く同窓会の報せが来ないものかとおもった
かの女らの顔、
声、
髪、
うしろ姿が分散する
夜更けてからひとりテレビを眺めてると
それぞれの土地でおなじ歳のやつらが愉しそうにしてた
わたしもそっちへいければよかったのに
けれどもわたしには連れ合うものがない以上、
ひとりで手斧のおもさを感じてるほかはなかった
いまごろ、
どこかの町ではかれらが、
かの女たちが愉しんでるだろうこと
そしてわたしには声をかけてくれるだれもないのをおもった
やがて手斧はおもみを増して
薪をわるだけではすまなくなった
だけれどそんなことはわたしにとってあずかり知らぬもの
好きにしてくれ
わたしは手斧にそう告げた
物置の汚れた寝台にかけていつかはと願った
いつかはタイムカプセルをあける日が来る
さもなければかの女に逢える日は訪れはしない
けれども列をはぐれ、
ひとりになったものにはなにもありはしない
そいつを識るのに一〇年もの歳月をかけた
無意味
きのうの夜
酔っ払ってかつての女友達を罵った
くたばれ
ちび女
と
だって
かの女がおれのことを黙殺したからだ
おれはおなじように何人かを傷つけ
それからマスを掻いて
眠りについた
翌る日
かの女は怒ってた
おれはただただ疲れきってて
手短にあやまった
由美子はいった
あなたの発言に驚きと不快を感じます
あやまってもらわなくともけっこうです
どうせ本心なのでしょう
わたしはあなたの友達になる気はありません
あなたの考えはわたしにはあわない
似たもの同士とつきあうべきです
スベタめ
そうおれはいって
かの女のことをどぶに叩き込んだ
もちろんそんなことは無意味であったし
多くの女たちが消えて去っていくのを
おれは見てるだけでしかなかった
使用人たちの幼年期
つめたい夜にはふるいものごとをおもいだす
さまざまな場所でおなじことがあった
さまざまなことがおなじ場所であった
時代が、
あるいは立場がかたむくにつれ、
大人たちは臆病になり、
それを見せまいと
拳にものをいわせた
父は母を罵り
マグカップを投げつけ
母は隠れたところで父の悪口を
子供にいいふくめた
いやしい女と
いやしい男
だれが生け贄になるかをいつも政治が決める
ひとのかたちをしたひとでないものたちが
知らないうちにみんなを呑みこんで
友だちだったはずのものたちが
友だちだったはずのものへ
石を投げる
子供たちは知らないうちに親のふるまいを身につけ、それぞれの大人を演じる
みんなはみんなの瑕疵を探りあった
棲んでる家が中古といっては嗤い、
身なりが貧しいといって撲った
うわさ噺やかげぐちをいって
たがいの結束を高め、
そのつらなりを友情と呼ぶ
いずれだれかに雇われること
だれかに使われることを
撰びとり、
わたしたちはかれらかの女らの世界から永久に追い放たれる
かつての雨よ
茨は墓を抱いて
おまえをずっと待ってる
さよなら文鳥
永久のこと
甘酸っぱきおもいでもなく過ぎ去りぬ青電車のごと少年期かな
陽ざかりにシロツメ草を摘めばただ少女のような偽りを為す
ぬかるみに棲むごと手足汚してはきみの背中を眼で追うばかり
かのひとのおもざし冬の駅にみて見知らぬ背中ホームへ送る
いくばくを生きんかひとり抗いて風の壁蹴るかもめの質問
われを拒む少女憾みし少年期たとえば塵のむこうに呼びぬ
列をなすひとより遁れひとりのみかいなのうちに枯れ色を抱く
引用せるかの女の科白吟じては落日をみる胸の高さに
みずからに科す戒めよあたらしくゆうぐれひとつふみはずすたび
夕なぎに身を解きつつむなしさを蹴りあげ語る永久のこと
青年記よ
長き夢もらせんの果てに終わりたる階段ひとつ遅れあがれば
けだものとなりしわが身よひとりのみ夫にあらず父にあらずや
童貞のままにさみしく老いたれて草叢のみずみずしき不信
給水塔のかげ窓辺にて抱きしめし囚人の日の陽光淋し
愛を語る唇ちをもたないゆえにいま夾竹桃も暗くなりたり
理れなく追い放たれて群れむれにまぎれゆくのみ幼友だちよ
わかれにて告げそびれたる科白なども老いて薄れん回想に記す
かのひとのうちなる野火に焼かれたき手紙のあまた夜へ棄て来て
三階の窓より小雨眺めつつ世界にひとり尿まりており
中年になりたるわれよ地平にて愛語のすべてふと見喪う
草色のわるあがき
きみのないプールサイドに凭れいるぼくともつかずわたしともつかず
少女らしき非情をうちに育てんとするに両の手淋し
夜ともなればきみのまなこに入りたき不定形なる鰥夫の猫よ
妹らの責めるまなじり背けつつわれは示さん花の不在を
馬を奪え夜半の眼にて燃え尽きぬ納屋の火影よわれはほぐれて
きまぐれにかの女のなまえ忘れいるたやすいまでの過古への冒涜
失いし友のだれかを求めどもすでに遠かりきいずれの姿も
ぼくという一人称をきらうゆえ伐られし枇杷とともに倒れて
だれも救えないだろうふたたびひとを病めみずからに病む
つぐなえることもなきまま生ることを恥ぢ草色の列へ赴く
れいなの歌
野苺の枯れ葉に残る少年期れいなのことをしばし妬まん
うつろなるまなこをなせり馬のごと見棄てられいし少年の日よ
背けつつれいなのうしろゆきしときもはや愛なるものぞなかりき
うちなる野を駈けて帰らん夏の陽に照らされしただ恋しいものら
われをさげすむれいなのまなこ透きとおり射抜かれている羊一匹
拒まれていしやとおもい妬ましき少年の日の野苺を踏む
触れるなかれ虐げられし少年期はげしいまなこして見るがいい
曝されて脅えしわれよ九つの齢は砂をみせて消え失せ
拒絶せしきみのおもざしはげしくて戦くばかし十二の頃は
素裸のれいなおもいし少年のわれは両手に布ひるがえし
さよなら文鳥
けものらの滴り屠夫ら立つかげに喪うきみのための叙情を
車窓より過ぎたる姿マネキンの憤懣充る夜の田園
六月と列車のあいま暮れてゆく喃語ごときかれらの地平
握る手もなくてひとりの遊びのみ世界と云いしいじましいおもい
手のひらに掻く汗われを焦らしつつ自涜のごとく恋は濁れり
さよならだ花粉に抱かれふいに去るひとりのまなこはげしいばかり
茜差すよこがおきょうはだれよりも遅れて帰路をたどり着くかな
ひとよりも遅れて跳びぬ縄跳びの少年みずからのかげを喪う
かみそりの匂いにひとり紛れんと午后訪れぬ床屋の光り
かつてわがものたりし詩などはいずこに帰さんさよなら文鳥
経験
わがうちを去るものかつて分かちえし光りのいくたすでになかりき
指伝うしずくよもはや昔しなる出会いのときを忘れたましめ
過古のひとばかりを追いしわれはいま忘れられゆくひととなりたし
かのひとにうずきはやまずひとひらの手紙の一語かきそんじたり
救いへはむかわぬ歌の一連を示すゆうぐれまたもゆうぐれ
夜をゆけテールランプのかがやきを受け入れてるただの感傷
やさしさはなくてひとりのときにのみ悔やめるものぞ日に戯れる
帰らねばならぬところを喪って遠く御空を剪り墜とすのみ
くやしさを飼い殺すなり灯火のもっとも昏いところみあぐる
決して救われぬわれもて歌う風景のひときれきみのために残さん
ことのはの淡くたなびく唇をして孤立するわれはどろぼう
たかみより種子蒔くひとよ地平にてあわれみなきものすべて滅びよ
たそがれにうつむくひとよ美しき惑いに復讐されてしまえよ
茎を伐るいっぽんの青きささやきよすでに非情なる眼に焼かれき
ひとの世を去ることついにできずただ口吟さめるのはただの麦畑
いっぽんの地平のなかに埋もれたき愛すものなきやもめのものは
友情を知らぬひとりの顔さえもとっぷり暮れる洗面器かな
拒まれて果ての愁いはだれひとり告げずひとりのつらに帰すのみ
中空に立つ石われら頭上にてひかりのごとくあふれだしたり
成熟も病いのひとつ青年の茎はかならず癒やすべからず
花くわえだれを追いしか少年のあやまちいつも知れるところに
耳すすぐ悲鳴を夜のふかぶかにきょうも戯むるぼくのすきまよ
夜ごとすぐバス一台のかなしみを背負いてはきょうの月を浴びるか
地獄のロッカー
いつの日もひとりのときをなごすのみはつなつのわが夜ぞありぬる
昏きわがほほえみありぬぬばたまの夜を過ぎゆく貨車はただ失せ
レコードのノイズは室を充たしつつひとりのものをあざ笑いたり
はらいそを識らずに落ちる御身あり視あぐるのみの劇の中絶
花かんざし落ちていちめん花ばかりどうしてなのかぼくに尋ねる?
吹きあぐる地の塵われの蘆を越えみかどのうえのカミへゆき給もう
うすわらうひとらの若きかげなるを唾棄してなんぞ復讐足りえず
戦いの装いほどく指とゆびわれらの契りもはや枯れ果て
聞きはべりし少女の憂い吊されて血をぬかれゐる兎へのせんちゃく
磔刑の姿に擬せてつくられし洋品店のひとがた発光す
HAPPY END叫びつつあり海邊にてもっとも黒い波を求むる
あまねくを荒れ野に譬え歩みゆくもはやかのひとを呼ぶ声もなし
十五歳──コンビニエンス更けゆかん性よ艶本買いに歩きさまよう
吹かれつつ地下のくらがりさ迷いて拳闘士のような男われ視る
残りなく降る夕立よかえらぬか遺失物なるわれの足址
屠殺女の乳のふさ薄々とくらがりにきょうも牛の唇ちは吸う
教科書のなかに立つてる昔日のきみよもうすでにぼくは穢れた
もはや手遅れといいながら莨をふかす最后のバサラよ
あえかなる地獄のロッカーうきわれをさびしがらせて歩み給えり
インターネットと詩人についての断片(再編集版)
いわば情報社会における人間相互間のスパイである
寺山修司/地平線の起源について(「ぼくが戦争に行くとき」1969)
小雨のおおい頃日、わたしはわたし自身を哀れんでいる。あまりにもそこの浅い、この二十七年の妄執と悪夢。なにもできないうちにすべてがすりきれてしまって、もはや身うごきのとれないところまで来ている。あとすこしで三十になるというのにまともなからだもあたまもなく、職までもないときている。そのうえ、この土地──神戸市中央区にはだれも知り合いすらいない。もっとも故郷である北区にだってつながりのある人物はほとんどない。
わたしが正常だったためしはいちどもないが、日雇い、飯場、病院、どや、救貧院、野宿、避難所──そんなところをうろついているあいまにすっかり人間としての最低限のものすら喪ってしまい、もうなにも残ってはいないような触りだ。ようやくアパートメントに居場所を手にしたが、ここまできて正直をいえばつかれてしまった。回復への路次を探そう。
考えるにインターネットは人間の可能性への刺客──同時に人間関係への挑戦状であって、その接続の安易さによっておおくの創作者をだめにしている。しかも偶然性に乏しいく、なにか出会うとか、現実に反映させることはむずかしい。広告としての機能はすぐれているが、単純に作品を見せるにはあまりにも余剰にすぎるのだ。
無論、巧く立ち回っているものもいるし、もちろん、これは社会生活から、普遍から脱落してしまったわたしの私見に過ぎないのだが、この際限のないまっしろい暗がりのうちでは、なにもかもが無益に成り果てる。作品のあまたがあまりにも安易にひりだされ、推敲はおろそかになり、他人への無関心と過度な自己愛を、悪意をあぶりだされ、あらわにさせる。せいぜいがおあつらえの獲物を探しだし、諜報するぐらいではないのか。創作者のなかには好事家もおおく、無署名でだれそれの噂話しをしているのをみかけた。
そのようなありさまで現実でのあぶれものは、やはり記号のなかでもあぶれるしかないのである。身をよじるような、顎を砕くようなおもいのうちで意識だけが過敏になっていき、あるものはその果てにおのれをさいなむか、他者に鉈をふるうしか余地がなくなってしまうのだ。やはり現実の定まりをいくらか高めたうえで、少しばかり接するほどがいいらしい。
寺山修司は映画「先生」について述べている。曰く《先生という職業は、いわば情報社会における人間相互間のスパイである》と。先生をインターネットにおきかえても、この一言は成り立つだろう。おなじくそれは《さまざまな知識を報道してくれる〈過去(エクスペリエンス)〉の番人であるのに過ぎないのである》。ほんとうはもっとインターネットそのものに敵意を抱くべきなのだ。それは生活から偶然を放逐し、あらゆる伝説やまじないを記録と訂正に変えてしまった。しかし、《実際に起こらなかったことも歴史のうちであり》、記録だけではものごとを解き明かすことできないのである。〈過去(ストーリー)〉のない、この記号と記録の世界にあって真に詩情するというのは、現実と交差するというのはいかなることなのか、これに答えをださないかぎり、ほんとうのインターネット詩人というのものは存在し得ないし、ネット上に──詩壇──くたばれ!──は興り得ないだろう。俗臭の発ちこめる室でしかない。
わたしはあまりにもながいあいまにこの記号的空間にゐすわりつづけた。そのうちで得たものよりは喪ったもののほうがおおい。現実の充足をおろそかにし、生活における人間疎外を増長させたのだ。詩人としての成果といえば、中身の乏しい検索結果のみである。あとは去年いちどきり投稿した作品が三流詩誌に載ったくらいだ。原稿料はなし。
わたしはいやしくとも売文屋や絵売りや音楽屋や映像屋になりたかったのであって、無意味な奉仕に仕えたいわけではなかった。
しかしこの敗因はインターネットだけでなく、わたし自身の現実に対峙する想像力と行動力の欠如にあったとみていいだろう。けっきょくは踊らされていたといわけだ。このむなしさを克服するにはやはり実際との対決、実感の復古が必要だ。想像力を鍛えなおし、歩き、ひとやものにぶっつくことなのだ。そうでなければわたしは起こらなかった過古によってなぶられつづけるだろう。
不在のひびきが聞えてくる。いったいなにが室をあけているのかを考えなければならない。対象の見えないうちでものをつづるのはなんともさむざむしい営為だ。創作者たらんとするものは、すべからく対象を見抜くべきだ。見える場所をみつけるべきなのだ。
わたしのような無学歴のあぶれものにとっては技術よりも手ざわりを、知性よりは野性をもってして作品をうちだしていきたい。というわけでいまはわたし自身による絵葉書を売り歩いているところである。そのつぎは手製の詩集だ。顔となまえのある世界へでていこう。
それははからずもインターネット時代の、都市におけるロビンソン・クルーソーになることだ。──小雨のうち、いま二杯目の珈琲を啜る。午前十時と十三分。ハウリン・ウルフのだみ声を聴きながら。詩人を殺すのはわけないことだ。つまりそのひとのまわりから風景や顔や声を運び去ってしまえばいいのである。そしてすべてを記録=過去(エクスペリエンス)に変えてしまえばいいのだ。文学はつねにもうひとつの体験であり、現在でなければ読み手にとっても書き手にとってもほんものの栄養にはなりえないだろうとわたしは考えているところだ。
夏の怒濤桶に汲まれてしづかなる──という一句があるようにインターネットはあくまでも海という過古をもった桶水の際限なき集合であり、現実や人間の変転への可能性はごくごく乏しいものなのである。
ひらけ、ゴマ!──わたしはでていきたい(スタニラス・ジェジー講師)。
わたしの気分はこれそのものにいえるだろう。まずはネットを半分殺すとして、ぶつぶつとひとのうわさにせわしない、好事家よりもましなものをあみだす必要があるだろう。また紙媒体の急所を突くすべをあみだすことだ。ともかくこれからなにかが始まろうというのだ。最後にもしもインターネットになんらかの曙光があるとすれば、そこにどれだけの野性を持ち込めるかということだろう。
集団や企業によってほぼ直かにいてこまされることが前提となっている、あるいはだれにも読まれないことが決まってる、記号的空間のうちにどれだけ、もうひとつの現実を掴むことが重要な段差として展びていく。──けれどそいつはほかのやろうがひりだしておくれよ。
おれはいま、しがない絵葉書売りに過ぎない。ふるいアパートメントの階段がしっとりのびていき、その半ばへ腰をおろすとき、はじめに見るのはおれの足先だろうか、それとも鉄柵よりながれこむ光りだろうか。
詩人どもに唾をかけろ
ヴィンセント:で、いつまで大地をさすらうつもりだ?
ジュールス:神がここに棲めっていうまでだ。
映画「パルプ・フィクション」
ようやくラブホテルの燈しが消えた。そうして猫どもが眼を醒まし、牛は河を流れて、うちなる納屋がふたたび燃えながら建つというわけだ。
ここ数年は言語表現にばかり眼がいき、ほかの方法を見喪ってきたようにおもう。先日写真集に画集、映画ソフトに漫画を買ってきた。そのなかでも特に高橋恭司「THE MAD BLOOM OF LIFE」と映画「Paris, Texas」はよかった。その監督である、ヴィム・ヴェンダースによる写真集「Places, strange and quiet」もまちがいなくいい。おれはさびれたもの、ひなびたところ、静かで気だるいものが好きだ。原風景とまではいかないまでも、いくつかおもいだされるものがある。見棄てられた貯水タンク、草叢のなかの荒れ果てた市民プール、使用中止になったダムやなんかが。とくべつに愉快というわけでもない、呑みかけのラム酒とか、女ものの、あれとかそれとか、──あとなんだっけ。
けっきょくながいあいだの発語不在を埋めようとする、奪還行為だったのだろう。おれは視ることと、語ることをすりかえて過ごしてきてた。すべてがむだであったとはおもわない。しかし言語によって喪われる領域があるのも、たしかであるようにおもうのだ。ほかのアマチュアが書いたものを読んでみてまずおもうのは、かれらが字面の見栄えに鈍いということ。文、そのものをデザインするということに欠けてる。あるいは整ってるだけで、内容とくれば肉なしのスペアリブ。骨しかない。なんの情景も感情も喚起させないのが、だらだらとつづく。これがかれらにとっての芸術なのだ。
どこへいっても裸の王さまよろしくやってんのがうじゃうじゃいやがって、おもわず眼を伏せて祈りたくなる始末だ、まったく。俗物どもの群れ。「現代詩フォーラム」にしろ、「メビウスリング」にしろ、「文学極道」にしろ、やってることはみなおなじだ。さえない文学の玉袋から生成された薄汚いしろものをまきちらすだけのこと。馴れあいと貶しあい、じつはどっちもたいしてかわらない。──こんなふうに書いていればふたたび石が飛んで来るだろうがかまやしない。ふるい音楽コラムがこんなことをいってた。曰く「同意は出来なくても、好悪の感情だけは万人の共通コードである。(中略)言葉を発する前の余分なコードが多過ぎる。とりあえず不快は不快なのだ(岩見吉朗、一九八九年一月「ロッキング・オン」)」と。つくりかけの音源を聴きながら、徹夜明けの午后にこいつを書いてる。おれはこれまでもさんざ記名とスタイルと作家性について書いてきた。それらがまるで通用しないのは、そもそも言語表現への起点がまるであべこべだからなのだ。話せず、書けず、読めず、伝わらずで長いあいだを生きたじぶんにとって言語行為とは、ぜったいに手に入れられないものだった。そのはずだった。でもいまではこうやってばかばかしいものを幾許と連ねたところでなんの痛みもない、苦しみもない。しかしだ、そのいっぽうで他者へなにも伝えられずに敗れもののときを過ごし、いまや二〇代がおわろうとしてるのも事実だ。そういった道程のなかにいるものにとっては記名すなわち存在、スタイルすなわち書き手としての肉声であり、作家性とは生きかたとその体臭だ。
おれが「文学極道」に出入りしはじめたのはおととしの暮れ。十一年の十一月からだったが、まずおれがはじめたのは文字通りの罵倒だった。そこにいるやつらを全員ひっぱたくみたいなまねをした。そっから少しずつ大人しくなって場馴れしちまったんだが、しかし自身の現実がそうであるようにそこでもけっきょくはよそものでしかない。どこへいったところでじぶんが異物であるという触りから抜けることはできない。ルーマニア出身の狼狂がいったように「ひとは自身のつくりだすもののなかでしか生きられない」。
一月に文藝サイトに作品を投げこむのをやめたのは、十年もインターネット上で書くものや書きかたをだめにしてきたことや、不毛なやりあいに染まってきたこと、そしてじぶんが他者の思考や眼によってものごとをやり過ごしてるのに気づき、みえない群れのなかで「ここよりほかの」場所やひとびとを求めたところでそんなものはどこにもないということへ眼をむけはじめたからだ。もういいかげん、じぶんの居場所くらい、じぶんでつくらなければやってけない。この齢で倉庫の半端仕事しかやれない男にとって、いついつまでも記号と現実とのあいだで板ばさみでは生きてはいけない。
去年になってようやく作品を売りにだすようになった。ちょっとした小遣いほどのものだが、金にはちがいない。表現といったところで賭博みたいなものだ。ちょいと対価というものを考えればいかにインターネット上で完結されていくもろもろがむなしいかがみえてくる。賭けるだけ、賭けてなにもかえってこないのはやりきれない。路上や飯場、病院暮、救貧院ぐらしがあったとはいえ、いつも金がなかったわけじゃない。紙面に載る機会はいくらでもあったというのに、それをおれは呑むことに費やしてきたんだ。膵臓と脳神経を半殺しにしてまで酒にすがってた。酒神は詩神をやっつけた。
おれはおととしの夏、救貧院を追放された。アル中の烙印があるのにもかかわらず、酒を呑んでしまったからだ。居宅生活訓練のさなかだった。おれはいちど実家に帰され、それからまたべつの町へでていった。気がつけば秋、更正センターは午后五時から翌八時まで泊めてくれる。金がなくなるまでそこにいた。呑み喰いですぐにからっぽ。おれは役所にいった。カソリックの教会を紹介されたのは、救済支援というやつで住所や仕事が決まるまで金を貸してくれた。おれは「カプセルホテル神戸三宮」でしばらく過ごしながら──といっても午前中はそとにでなければならない──そなえつけのコンピュータで「文学極道」に書き込み、楽曲をひとつ拵えた、題して「夢は失せ、納屋は燃え、馬はくそをひりだす」、正味三十二分(いま制作してるアルバム内では三十七分に増量)。昼は神経科に通った。もちろん、アル中専門。そこにいる連中の、全員が気にいらなかった。長い時間をかけてくだらない薬や注射のためにわいわい、がやがやしてるのが堪らなかった。おれはよそもの、どこへいっても。そんな昔し噺はどうだっていい。
ただおもうに「文学極道」はその長であるケムリを筆頭に数理な思考のものが多いようにおもう。高等教育によって手に入れた思考にものごとのすべてをなりふりかまわず、投げこんでるというのが、端からみてるおれの感想だ。特にケムリは五感だとか、肉体、肉声、感覚といった語をばかに厭う。どうにもやっこさんは数理や論理で解き明かせないもの、当てはまらないものは棄ててしまうのだ。だからあそこでマスを掻いてる連中、さらに排泄物を評価されてる連中の詩にはちっとも動かされるものがない。せめて葉っぱのフレディーくらい叩き落としてみせろよ!
これではチャールズ・ブコウスキーがいったように「もし諸君に意味がわからなかったら、それは諸君には魂がないとか、感受性が貧しいとか、そういうことになる。だからわかったほうがいい。じゃなかったら諸君はそこに属していない。そしてわからなかったら黙っていること(「空のような目」)」しかできないじゃないか。あまりにもつまらない。頭脳派万歳! 失せろ肉体派!──ではいったいなんのために現代詩手帖を手コキおろしたんだ?
「文学極道」の突起人、ダーザインこと武田聡人はコラムで書いてる、曰く「文学極道は、腐りきって再生の余地のない既成の文壇に作品を投じる気にならないネットの実力者たちが分離派として立ち上げ、発起4年で瞬く間に文学の最高峰といえるメディアへと成長した」。けれどもだ、やってることは矮小化された手帖のそれでしかない。撰考の根拠がみえない優良作、文学の話題しかできないひとびと。おれは詩誌を買わないように、たとえ「文学極道」が紙になっても決して買わない。かれらはなぜ詩が孤立しているのか、その理由がみえてない。おれがおもうに詩人どもが同類どもでしか動こうしないこと、詩や文学のおたわごとしか話せない、書けないこと。ひとえに雑食性が欠けてるんだ。サイトや「月刊──」の表紙をみてみろよ、あいつら視覚表現にまるで触れたことがないんだぜ。詩は退屈、へんちくりんななまえのが文学だのなんだのと、自己賛美をふりかけまわってるのをみてしまうのは、あたまのうえに鳥のくそが落ちてくるよりもつらく、わびしい。そもそも文学極道という名札がかっこつかない。おれなら却下するね。能弁に文学について語ってるやつらを傍目でみてると息がつまってくる。ほんとだ。「えいえんなんてなかった」といってるうちにけつを死に突かれるんだ。ばからしくて屁もでねえ。けっきょく趣きがややちがってるだけというお話し。ならべられてるのはちゃちなガラス細工で、きれいでもなければおもしろくもない。まして引力などというものもないから、一秒で忘れられる、利点といえばそれだけ。
つい先日ひまつぶしにくだらない詩どもにコメントした。すると運営人であるケムリ(名は体を表すっていうよな、でも残念ながら臭いってのはネットワークに乗らないんだぜ)がこうのたまってた。曰く「独善的な言い切りと批評における論理構成が全くのゼロ、という点を差し引けば(とはいえこれを差し引いて批評が存在するか?という疑問はあるが)中田さんの評は割と正しいところを突いてることが多い気がする。こいつに同調するの割とイヤだけど、同調せざるを得ないみたいなこと結構あるわ。もーちょい論理を構築すること覚えろよあんたは。有能なんだからさ、そんだけ文章書けていい感覚してて出来ないなんてないだろ。人の怠慢を批判出来たギリじゃねーけど、もうちょいやれや中田この野郎」とのこと。おれとしてはいいかげんインターネットという桶のなかの海で、理論だのなんだのを唇ちにするのはもうたくさんなんだ。もうよせよ、そのひとを担ぐような半端で腥い言辞をよ。他人の書いたものにあれこれ、長ったらしく書き散らしたところで時間のむだというものだぜ。てめえのヤることであたまがおっぱいだってのに、金にも栄養にもならしねえ与太をやんなきゃねらねえんだ。だからけっきょくひまつぶしにしかならない。鍛錬というのならじぶんひとりで充分できるんだ。けっきょくかれとおれとでは考えがまるでちがってるという、たやすい事実が横たわってるだけだ。おれはじぶんの触覚を頼るほうがいい。時間もかからず、手も汚れない。汚物を素手で掻きまわすなんておれ、やんねえよ。だいたい、じぶんにとってよいものか、わるいものかの区別くらいはかるく眺めるだけで充分じゃないかね。
「感覚や感情や肉体があることが詩の必要条件だとは思わないし、そんなもんゼロでも良い作品は書けると思うけれど」とか「論理構成が全くのゼロ」──そうやつはいうが、しかし疑わしいのはそういった論理や数理的思考からどうやっても洩れだしてしまうものを描くのが文学ではないのかということだ。人間性? まあ人間性などという語は今日日、年中看板磨きにいそがしい人権屋というテキヤどもの挨拶にしか聞えないが、いくらそれがくさりきったしろものにしろ、どこかでそれを露出させなければ、ただの文字列でしかないだろう。独創的かどうかなんてことはおれには興味がない。
右肩の「悲さんノ極み」なんか、それのもっともたるものだ。あれにはなにもない。論理とやらがまだ息をしてるなら、その優れたところを教えて欲しいものだ。──いや、聞きたくもない。どうせまた屁理屈をぶつけられておわり。似たり寄ったりのあたらしい詩とやらには近寄らないことだ。かれらに認められるくらいなら、いくらでも時代遅れになってやるとしよう。
貧しさや痛いめに遭うのを神聖視するつもりはないが、なにをどう表現するにもその表現とそれまでの生とのむすびつきと意味づけ、裏づけをしないのならそれまでだ。高等教育によって文学に目醒めました、なんていうやつをまず信用しない。してはならない。かれらのやりたいのは他人の魂しいカマを掘ることぐらいだ。だからおれとしては文学オタクのためにはいっさいなにも書かないし、かれらを愉しませたいなどとはちっともおもわない。その反対にじぶんの書くもの、読むものは、声があって、音があって、匂いや、手触りがあって、偶然と突発充ち、なんどしゃぶり尽くしても飽きないものを求める。おれがもっとも避けたいのは論理、数理、歴史、思想、流派などといったものでたやすく解説されてしまうもの。おれは自身のやりかたというものがある。それは批評性に頼って書かない、読まないことだ。
「フォルムを重層化させ匿名化した音楽は、日常の雑音と何ら変わらなく聞える。そんなものをわざわざ金を出して、時間を潰して聞く位なら私は静寂を好む(岩見、同)」。詩についていうならば紙にしろ、インターネットにしろ、眼につくのは、すべてにおいて記名を喪った文字列、存在するかしないかのけむりでしかない。だれもかれも書いてるはけっきょくバケツのなかの海水であって海ではない。そとへとでていく詩ではなく、個室にこもるか、さもなくば閂をかけるようなものしかない。「おかのひとみ」というひとの詩がえらくよかったことのほかはなにもない。かの女はたった一篇で姿を消した。それがたったひとつのさえたやりかたかも知れない。
いまおれが欲しいのは増幅装置──他者の眼に頼らず、まったくの独善でありながら伝達するための、むこうがわへ突き抜けるためのものが必要だな。
まったく、ケム公のやろうめ。あんなくだらん、くさった詩人どもの巣窟についての、こんな便所紙の皺みてえな文章にまる一日潰させやがって! 今度からは用心しやがれ、火災報知機を仕掛けておくからな!──この中古PCに!
説教者にはご用心
物知りには要注意。
ご用心
いつも
本を
読んでいる
者には
チャールズ・ブコウスキー「群衆の天賦の才」
からっぽの札入れとからっぽのおしゃべり
雑役仕事と金が尽きて、もうしばらくになる。おかしなもので足りないときほどしたくなるものだ。創作や自涜、どちらも空想と実感を一致させてゆくという点でよく似ている。台所には甘味料、香辛料、油、肉などなし。あるのはしなびた野菜のいくつかと、わずかな麺類。そしてとうとうあいてしまった靴の孔──そこへ公園のベンチがこちらに近寄ってくる。
おかしなものであまっているときはこういった苦痛について、おそろしく鈍感で、まえにも遭った、経験済みの苦痛をまたしてもやらかしてしまう。反復また反復、おそらく精神医学じゃあとっく名札のついた動きなのだろうが、こちらとしてはどうにもならない。それを知ったところで日雇い事務所から電話がかかってくるだとか、自作の絵葉書が売れるわけでも詩が売れるわけでもなかった。
それもやがてはいまはむかし。遠近法にしたがって痛みは小さくなり、ちがった現在がふくれあがってゆく。そのひびきを待ちながら、わたしはこれを書く。
なにものかになろうとするものの、魂しいの餓えは、現在のじぶんと自己実現を達したじぶんとのあいだに接点を見つけられないことによるものだ。それはつまり、おのれの生涯をあまりに連続したもの、巻物のようなものをたどっていっている、あるいは展げられていくように捉えてしまい、つねに現実でも夢想のなかでも「劇的」なるものを見逃してしまっているからではないだろうか。
だからこそ書かれる作品もおのずとそれにしたがって、巻物のようなものになる。たとえば実現実の描写に終始してしまうことや、風景を喪った観念と情報の記述にかたまってしまう。こんなことをいうのもわけがある。わたし自身がつねに過古に囚われ、それを連続したものとして捉えていたために不足──なにも為せなかった年月と余剰──した慾望とにふりまわされ、飲酒癖に落ちこみ、可能性を狭めていたからである。さらに痛苦や屈辱の復讐を記号的体験のなかで晴らそうと躍起になっていたからだ。
ほんとうに「人のサイクルは、いくつかの劇的エポックを核として生まれかわってゆく、不連続の複数の人生の集積である(寺山修司「アメリカ地獄めぐり」1971)」ならば、かつて教室で味わった疎外も、社会での孤立も飯場や病院や旅役者などを介した放浪も、すべてはまたべつの人生たちである。「去りゆく一切」がほんとうに「比喩」であるなら、過古という他国には今後いっさい、渡航しなければよいのだ。それをわたしは反省という名札にすりかえて密航したうえ、おのれを苛み、他人をうらんできてしまっていた。だから森忠明の指摘するように書くものにもおこないにも品性が失われたのである。──話しをすこし戻そう、「だから書かれる作品もおのずとしたがって巻物のようなものになる。たとえば実現実の描写に終始してしまうことや、風景を喪った観念と情報の記述にかたまってしまう」。
インターネット上の詩人きどりの作品と、詩誌における詩人きどりの作品を比較してみるとよくわかるかも知れない。前者の多くは、過古と心情という情報によって書かれ、後者は観念と知識という情報によって書かれているようにわたしにはみえる。かれらはおもうに孤立した密告者たちの横一列の集まりだ。だがそのネタを引き受けるものはほとんどいないのだ。そのなかでやってる、小さな旗振り合戦ときたら、なんとむなしいことか。
生前吉本隆明の発言でたったひとつうなづけるのは「最近の詩人の作品には風景がない」ということばだ。しかし最近とはいわず、ここ数十年はそれでまわしているようなさわりがある。
青森県六ヶ所村について歌いあげる長谷川龍生もアメリカ人夫妻と夕食をともにしたという中上哲夫も、完全にあちらがわをいってる吉増剛造にしろ、ブログで充足ぶりを語ってる城戸朱理にしたってあるのは密告だけだ。
おなじように若いやつらも、久谷(「ほのかに明るくなるほかに」はわるくはないとおもう)、最果、文月、三角──あとは知らない──と密告者ぞろいだ。かれらはそろってあたまがよすぎる。なにもかれら個人のことをわたしはいっているのではない。
かれらのものをみるにつけ、文章技法に問題がないということのほかに誉めようがないし、憶えてもいられず、ましてや強く揺さぶりを起したり、ひっぱたいたり、撲りつけてもこなければ、なにものかを焚きつけもせず、やさしくささやいてもくれない。糞づまってるんだ。つまることは。
おなじことは政治についても社会問題についてもいえる。ひとの見える場所で鼻をほじってるわたしにもひどく露骨に映る。なににおいてもつねに必要なのは想像力だ。しかしそれにしろ、喰わしていくのは容易ではないから、大多数のひとびとは想像力を他人に預けることで日日のわずらわしさをすこしばかり、小銭ほどにやわらげているが、その結果がどこに向かうかについてとても無関心におもえる。べつにだれかをばかにしようってわけではない。じぶんだってそのなかのひとりに過ぎないという話しだ。
そのいっぽうで現実はつねに現実だ。世を忍ぶ仮の──などいうものはない。あたらしい仕事をまわしてもらえないのも、いまポケットに数円しかないのも、作品が売れないのも、世間では底辺にいることも見過ごしてはならない。わたしの現実だからだ。現実にばかり縛られるのは苦痛を伴う。しかし夢想や観念のうちにいれば、いずれはそれに踏みつけにされるだけにほかならない。
すれちがう他人、遠ざかる風景、近づいてくる物体、それらをも含めて現実は、そこに生きる人物は構成されている。だから詩のなかでは本来「他人事」などあってはならない。すべてがじぶんをつくりあげているとおもいこむに至らなければ、ほんとうに詩情することはできないだろう。
どこぞのだれかが書いていたが、その通り、わたしはふるい型の書き手である。いまだにポストモダンなるものがわからないうえに、読む本のほとんども四〇年はふるい。しかしわたしの狙いは時代遅れでいるということではなく、均一なるものに抗いたいということだ。インテリ諸君にいいたいのは、だれもがポストモダン以後を生きているわけではないということである。そんなものは一部の階層のやつらにしか通用しない。きみたちはみずからの内的思想地図とそとから吸った体系をあちらこちらでひりだしているだけだ。塵紙すら使わないまんまでだ。わたしは正直くそを喰わされるのはもうたくさんである。
ますます狭まる世界観、情が失せて詩だけが残った塵塚、そのなかにいて現れて来る、あたらしい詩人はどんなやろうだろう。
少なくともジョン・ウィリアム・コリントンの、「ある意味で、詩は芸術のなかでも野蛮さを持ち合わせた存在でありつづけるだろう。──いや、そうあるべきだ。感動を与えず、美的センスもない詩は、もはや詩とはいえない('Charles Bukowski and the Savage Surfaces' in Northwest Review, 1963)」ということばに適ったやつを望む。ついでに映像を喚起しない、五感を刺激しない詩というのもごめんだ。
余剰と不足が悪であれば、詩はますますたちのわるいごみくずで、悪臭を放ちつづけるだろう。詩人そのひとが、まがいものか、ほんものかの区別をつけるのはだれなのだろうか。それはいまのところ詩人本人以外にはいない。
わたしはなりたいものだ。死んだ詩人のなかで最高の部類に、──息をしたままで。実のところ、ふるくさい書き手といわれるのがことのほかよろこばしい。最新のぴかぴかしたものは苦手で、居心地がわるいから。
カレンダーが
ひびわれの壁で
笑いながらぼくを見る
はがしてしまえばどんなに楽なことか──モップス「夕暮れ」1972
時間と日日は間断なく、わたしを含めひとびとを嘲弄しつづけるだろう。そのおもざしにむかってどれだけの裏切りをやりとおし、既存とはちがう、わたし自身の時間軸によって生き、創作するのかが現在の課題である。情熱と方針のしっかりもつことだ。しっかりと。あとは運をつけること。──そろそろこいつを冷ましに冷蔵庫をあけるとしよう。あともうすこしはたえられるはずだから。
それではsayonara
火葬
駅のホームに
棺が置かれていた
溺れて死んだ山羊が
花に埋まっていた
触れようと手を伸ばすと
棺は燃えあがった
花の匂いと混ざりあう
生きものの焼ける匂い
わたしは知らない少年と手をつないで
うねる炎を見あげている
炎が消えてからもずっと
焼け跡をみつめている
あの街この街その街
「強い風の歌を聴け」
去年の春頃かな
絶望www
君が
そうツイートしてから
僕は
もう一年近く
絶望をストーキングしている
液晶画面に映る文字だけでは
本当の君を知ることができないけれど
僕は本当の君より
やっぱり
本当の絶望を知りたい
絶望www
そこに芸術があるだなんて
そんな考えは持っていないけれど
絶望www
僕は
もしかしたら
絶望より
www
こっちの方が気になっているのかもしれないね
絶望www
ほら、
東京郊外
その上空
wwwに見えなくもない雲が
いや
鳥が、一羽、いる、いた。
戦闘機もミサイルも見えない
鳥が撃ち落とされて
ワイファイが飛んでいる
僕は
誰のフォロワーでもない
絶望www
手軽なショートムービー
僕の詩では
伝わらない情景
いかにもな夕暮れを激写
絶望www
青い黒歴史
もしくは
黒い青歴史
(な、なんて、かわいい街なんだ、
殺伐とした郊外
それでも
だって
君がいるんだぜっ!
行けば
風に吹かれて
強い風に吹かれて
めっさ強い風に吹かれて
あっけなく
僕は泣いてしまうだろう
あの街はかわいい
君がいる
そう思うだけで
あの街はかわいいのです
君が好きすぎて
行くと死にたくなる
それが、あの街なんです。
「ミスター不謹慎」
にぎやかな街
ここで
俺はみんなから
あ、
みんなっつっても
ま、
3人か4人くらいだけど
みんなから
ミスター不謹慎って
そう呼ばれてるんだよね
そ、
詩なんか書いてる場合じゃないっつって
無駄に吠えて
そ、
月には吠えない
で、
海が汚れた春も
詩なんか書いてる場合じゃないっつって
ビルが崩れた夏も
詩なんか書いてる場合じゃないっつって
入院した秋も
詩なんか書いてる場合じゃないっつって
もちろん何かあった気がする冬も
詩なんか書いてる場合じゃないっつって
いつも
お前は逆に不謹慎だと
そう言われながら
生きてきたんだよね
そ、
不謹慎か
不謹慎じゃないかで言ったら
そりゃもう不謹慎
めっさ不謹慎
そ、
だから俺の出番
ね、
芸術は
そもそも不謹慎なものだって
フランスかどっかの哲学者が言ってたじゃないの
え、
知らない?
日本にもいたよね
小説家だっけ
そ、
芸術は弱い者の味方だとかなんとか
そ、
祈るばかり
そ、
役に立つ詩なんか
それ、
もはや詩じゃないよっつって
そんな
ミスター不謹慎な俺が
生まれ育ったのが、
にぎやかな街
そ、
つまり
この街である。
「水槽より浅く海より深く」
比喩禁止令が電線に止まっていた鳥やロータリーにいた人々に発令されたのは夜だった。鳥は消え去り人々は言葉を失い最終電車の窓に映る生きている者は皆、電車から降りられなくなった。そして、その街に限らず、どの街もいずれ編集されるだろう。朝がくる前に様々な出来事が形となり伝えられるだろう。水槽よりも、はるかに深い闇。その表面で静かに折れる光。風はいつものように孤独を奏でながら吹き抜ける。誰のためかは、わからない。街よ、どこが痛む。海は泣いているのか。祈ることしかできない。あの街この街その街。むきだしの街。それが海にかこまれている一夜明けた、その街の姿である。
いくつかの秋の詩篇
ふと 空を見上げると
蒼かったのだと気づく
鼓動も、息も、体温も
みなすべて、海鳥たちの舞う、上方へと回遊している
ふりかえると二つの痕がずっと続いている
一歩づつおもいを埋め込むように
砂のひとつぶひとつぶに
希望を植えつけるように
海は、あたらしい季節のために
つぶやきを開始した
海鳥の尾にしがみつく秋を黙ってみている
そう、海はいつも遠く広い
僕の口から
いくつかの濾過された言葉が生み出されてゆく
君の組織に伝染するように、と
いくらか感じられる
潮のにおい
君の髪のにおいとともに
新しい息をむねに充満させる
*
あらゆる場所にとどまり続けた水気のようなもの
そのちいさなひとつぶひとつぶが
時間とともに蒸散されて
街はおだやかに乾いている
アスファルトからのびあがる高層ビルは
真っ直ぐ天にむかい
万遍のない残照をうけとり
豊かにきらめいている
静かな、
視界、
が私たちの前に広がっている
つかみとりたい感情
忘れてはいけないもの
体の奥の一部を探していたい
その、ふと空虚な
どこか足りない感情が
歩道の街路樹の木の葉を舞い上げる
体のなかを流れる
水の音に耳をすます
数々の小枝や砂粒を通り抜けてきた水が
やがて秋の風に吹かれて
飛び込んできた木の葉一枚
日めくりの上方へと流れてゆく
*
アスファルトの熱がまだ暖かい夜、あたりを散歩する
月は消え、闇が濃く、しかし空には数え切れない星がある
そっと寝転ぶと犬も近寄り、鼻梁を真っ直ぐに向けて夜を楽しんでいる
吐息を幾度と繰り返し、私と犬は少しづつ闇に溶けていく
この夜の、ここ、私と犬だけだ
仰向けに寝転ぶと背中が温かい
太陽と地球の関係
照らした太陽と受けとめた地球
その熱が闇に奪われようとしていた
少しづつ少しづつ闇の中に入っていけるようになる
例えば寝転ぶと夜空は前になる
この夥しい光のしずくが私と犬だけの為にあり、瞬きが繰り広げられている
時折吹く、秋風
その静寂と、闇と星の奏でが、風に乗って、鮮やかな夜を作り上げている
闇は無限に広がり、空間がとてつもなく広い
地球の上に寝そべって、無限の夥しい天体を眺めている
このときこの瞬間、私のあらゆる全てを許すことが出来たのだった
*
何かに怯むでもなく
すべるように過ぎ去る時間の刻々を様々な車達が疾走していく
それぞれが無数の生活の一面を晒しながら、県庁へと向かう一号線を走っている
土手に築かれた車道から傍らをながめれば
すでに刈り取られた田が秋空にまばゆく
どこかに旅立つようにたたずんでいる
パワーウインドウを開ければ、どこからともなく稲藁の香ばしいにおいが入りこみ
午後の日差しは一年を急かすようにまぶしい
住宅の庭から、対向車の車の煽り風によって流れ込んでくるのは
なつかしい金木犀の香りだった
記憶の片隅にある、未熟な果実の酸味のように
とめどなく押しよせる、抑えきれない切なさが
あたり一面に記憶の片隅を押し広げていく
あきらかに、夢は儚く遠いものだと僕たちは知りながら
コーヒーカップに注ぎこまれた苦い味をすすりこみながら語った
夜は車の排気音とまじりあい、犬の理由のない遠吠えを耳に感じながら
僕たちはノアの方舟を論じた
秋もたけなわになるころ、小都市の縁側にたくさんの金木犀が実り
それは僕たちの夢の導火線にひとつづつ点火するように香っていた
思えば、僕は、あれから
あの香りから旅立ちを誓ったのかもしれない
僕はあれからずっと生きている
たぶんこれからも
春
一斉に咲く花のように
わたしたちは
お互いしかわからない合図を使って
その手綱を引く
できたての雲が
くすぐったくて肌寒い
春の雨を降らせて
会えそうで会えない日々を
重ねて折って
鶴にさえなれなかった
似てるようで似てない日々を
重ねて祈って
この時期はまだ
カーディガンが必要で
傘じゃ守れない
未熟なからだはどんどん冷えていく
遠くから聴こえるちいさな声は
いくつかの川を越え
ようやく鼓膜に響いて
だから切ないくらい伸びた運命線は
複雑に絡み合った首都高に乗って
東京を出ようとするけれど
あなたと出会えたこの街を
簡単に捨てることは
どうしてもできなかった
雨ではがれ落ちる花びらは
無意識のうちに沸いた感情と
ともに足の裏にこびりつく
まだつぼみだった頃の
この季節がくる前の
わたしたちが出会うまでの
あなたのこころを
この雨が止んだら
標本にしてしまいたい
翻る駆け引きと
気持ちと裏腹に散っていく花
蘇る冬の寒さに
悪びれもせず変わっていく天気
あいまいに微笑むあなたは
いつだってわたしを
とくべつに不安にさせる
ただ好きということで
握りしめた手綱が
ほどけないように
標本にするはずのあなたが
ちゃんと死んでいるのか
確認をした
ゆっくりと拍を止めて
今日のことを忘れないように
願を懸ける
そしてもうすぐ
雨は止む
血盆経偽典白体和讃
メフィストフェレスが激怒する。おかしの家、雪渓もののあわれ。賽の河原で降誕祭の、レープクーヘンホイスヒェン「またも永遠、」つまり子宮だった。子どもだましの真珠母だった。卵管の口が天井に、欠けないふたつの満月を穿ち、光明として堕ろす黄体ホルモン。真珠麿の床へ落ちこぼれるマーガリン、マルガリーネ、マルガレーテがたま子と和訳され「ヘンゼルは。」ワルプルギスの夜だからね。
たま子は自浄を司る。キリストすら堕ちた道のだ。三途川から昇天し、月にはじかれ逝く雪を、すべて此岸へ掃きもどす。婦は掃くので婦であった。処女は幼女で月経前だ。魔女と聖母の分かれ目は、避妊の知識の有無しかなかった、37度のヘクセンホイス。雪はとろけて水子となり、水子の布団を月水へ剥ぎ。堕とす。乳と蜜そしてハードボイルド「ラインのリープフラウミルヒが恋しい。」みずからを焼くかまどから。
箒も竹冠を脱ぎ捨てて。花盛りのエニシダを束ねて(だって魔女はなんでわざわざ枯れ枝なんかにまたがるの、)フラワーシャワーのヴァージンロードへ。たま子が吐き棄てる。玉子は身ぐるみ剥がされている。きみはいらない白身だけ白砂糖としっかり混ぜて(鳥ノ子と白の袷を氷重と、エデンの極東が名づけたのだ、)アイシング。白無垢に。雪は化かされ水子となり。
花も実もなき鬼灯の
知りもせぬ罪に焦がるる
小娘、とも小僧ともつかぬ
餓鬼どもが、
「そう言えばおれはファウストの
被昇天の際
天使どもに欲情したのだった。」
さめざめジンジャーブレッドマンで
積む、得度の
煉瓦を、摘む
羽掃きと
懸衣翁
糖衣の濡れ衣
しか甘くない
マルガレーテが謳う。
冷やかなる奥津城に *1
小さき妹 *1
我骨を埋めつ。 *1
グレートヒェン
帚木の心を知らで *2
ホイスヒェンの *2
床にあやなく *2
惑いぬるかな。*2
真珠より、まるく
まるく、漂白された
殻
『此こそわが骨の骨わが肉の肉なれ』 *3
に
はめ殺されて
あめの窓をかためる
羽二重にかたまる
卵白の
床に、煮くずれた
仙骨翼から
はね飛んでいる肋骨遺残
「またもご漂着だわレープクーヘンヒェンが。
「ご氾濫だわ。リープフロイラインミルヒが。
「ごきげんよう das Maedchen「ようこそ中性名詞!「ひらいた股から胎をひらかれ「装った、イースターバニーガールの卵殻「豚に真珠、「をカイーナの氷でひとかわ剥いても脱げない定「冠「詞の法を免れないあたしたちは「どうしようもなく娘細胞!
(das Ewig-Weibliche,(es ist vollbracht. *4
「どうしようもなく母細胞!
(das Ewig-Leere,(es ist vorbei.(Da ist's vorbei! *4
「どうしようもなく魔女裁判!
『カインがアベルを殺したので、 *5
神はアベルの代りに、ひとりの子を *5
わたしに授けられました』。 *5
(いらなかったのねカインは、
(いらなかったのねアベルも「兄さん、
『なんてきれいな鳥なんだろ *6
ぼくは!』 *6
「いらない、
『なんてきれいな鳥なのかしら
あたしたちは!』「いらない。
「干されることを拒めば箒も「永遠に花束のまま!「実るらしい煉獄「うらやましい、「火があればなんでも「焼きたい放題だね!「鳥もうさぎもクーヘンヒェンも「焼き入れ知恵りんごの煮びたし「たま子も!「目玉に、「焼かれたい放題だね!
メフィストフェレスが激怒する。
(魔女の厨でならいざ知らず *7
「それは母たちなのですよ。 *8
(なんとしても耳にしたくない言葉だ。 *9
「あの永遠に空虚な遠いところ *10
よりおれとしては「永遠の虚無」の方が結構だね。 *11
『すべて移ろい行くものは *12
永遠なるものの比喩にすぎず。 *12
『永遠に女性なるもの、 *13
我等を引きて往かしむ。 *13
「聞いた事のある詞ばかり聞いていたいのですか。) *14
Zum Augenblicke duerft' ich sagen:
Verweile doch, du bist so schoen!
この玉響へわれぞ告げたき。
揺りをれ、なれこそいつくしけれ。
(J.W.Goethe, "Faust. Der Tragoedie zweiter Teil", 11581-11582 私訳)
□■ 出典 ■□
*1 ゲーテ/森林太郎(鴎外)訳『ファウスト 第一部』4416-4418行
※マルガレーテ(グレートヒェン)が牢獄で歌う歌。出典は*6に同じ。
*2 紫式部『源氏物語』帚木 第三章第四段より
「帚木の心を知らで園原の道にあやなく惑ひぬるかな」
*3 文語訳聖書『創世記』2章23節より
「アダム言ひけるは此こそわが骨の骨わが肉の肉なれ此は男より取たる者なれば之を女と名くべしと」
*4はゲーテ『Faust』原文から引用した。
*das Ewig-Weibliche:12110行、神秘の合唱。
※鴎外訳「永遠に女性なるもの」高橋訳「永遠にして女性的なるもの」
※ユングのアニマや太母の概念に影響を及ぼしたとされる。
*es ist vollbracht:11593行、メフィストフェレス。
※鴎外訳「用は済んだ」高橋訳「片がついた」
※ヨハネ福音書19章30節にあるキリストの末期の言葉であり、多く「事成れり」と訳される。
*das Ewig-Leere:11603行、メフィストフェレス。
※鴎外訳「永遠な虚無」高橋訳「永遠の虚無」
*es ist vorbei:11594行、合唱。
※鴎外訳・高橋訳とも「過ぎ去った」
*Da ist's vorbei!:11600行、メフィストフェレス。
※鴎外訳「今何やらが過ぎ去つた」高橋訳「過ぎ去った」
*5 口語訳聖書『創世記』4章25節より
「アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を産み、その名をセツと名づけて言った、『カインがアベルを殺したので、神はアベルの代りに、ひとりの子をわたしに授けられました』。」
*6 グリム兄弟『Von dem Machandelboom』(百槇の木の話)初版本より
※*1の出典。
*7-12は高橋義孝訳『ファウスト(二)』新潮文庫から引用した。
*7 6229行、ファウスト。
*8 6216行、メフィストーフェレス。
*9 6266行、ファウスト。
*10 6246行より、メフィストーフェレス。
*11 11603行、メフィストーフェレス。
*12 12104-12105行、神秘の合唱。
*13-14は森林太郎(鴎外)訳『ファウスト 第二部』から引用した。
*13 12110-12111行、合唱する神秘の群。
*14 6268行、メフィストフェレス。
まどしめお
-もういいよ
空が呼んでくれるまで
洗いながら考えている
手の中でなくなるか
おなかの中でなくなるか
どうして食べれば美味しいか
どちらにしても答えはひとつ
アライグマは
今がいちばんしあわせだ
-はね
鳥は自由に空を飛ぶ
自在は空よりたかく飛ぶ
自由自在っていったいどこだ?
朝がくるまでコケコッコー
-ねこ
ライオンになったねこは
ほえるたびに思いだす
ぼくがライオンになるのは
なかなかむずかしいニャー
-どこから
風がピュー
ウサギの耳はぴこぴこ
トラの耳もぴこぴこ
こころのほうから
耳に話かけるように
-はな
父さん父さん
おはなが高いのね
そうよ母さんも
高いのよ
-にんげんゆうびん
黄色人種さんからお手紙着いた
黒人さんたら読まずに食べた
仕方がないのでお手紙書いた
さっきの白人ご用事なあに
黒人さんからお手紙着いた
黄色人種さんたら読まずに食べた
仕方がないのでお手紙書いた
さっきの白人ご用事なあに
白人さんからお手紙着いた
黒人さんたら読まずに食べた
仕方がないのでお手紙書いた
さっきの黄色人種ご用事なあに
-あいだなしを
にんげんだったらなんとかせんかい!
-手
手と手をつないだぬくもりが
ふたりの孤独を包んでいる
言葉にならないやさしさで
いつか離してしまうのに
-無
まっ黒けでなにも見えないよ
まっ白けでも何も見えないよ
-鐘
平和という言葉を
必要としない時代が
はやく訪れますように
-願い
ゴーンと
こころいっぱいに
鳴り響けば
それでいいのです
類想
屡々草案は夜の緞帳を延焼し
復と勿く
異物の夢は純粋な黒体放射の降注ぐ
逃れた亡命者達の撒く
始源の胎膜に縁るダリアに
枯死した荒地を延展せしめた
潰滅し、
彌撒曲の骸骨は鬱血した黒森の中で絞首をされた
少年期の、
穹窿建築への復讐に明け暮れた
糜爛と受苦を喚き
酪乳製の回廊には主題勿き残骸の霧鐘が
永続の永続的限界に於いて
一つの告発文を解し
絶対零度への終極、
扁桃腺に拠り膨張を来した護謨の俯瞰者を哂う
地球と謂う橄欖
窒素劇場を心像の映写室が翻って嚥み啜る様に
六芒星形の花の窓、
約款の印璽
禽籠の擦過傷は厖大な議事録の只中に在って
渦巻く泥濘のエネルギイ
その腎臓を開く閂に篭絡され、
縺れ縺れた
青い蝶形骨盤骨の花受に、
垂涎するテアトルの夥多なるオペラグラスは嘱望する
顔覆布の霊安室に於いて
取引は常に流竄の葦茎であり
瓦斯燈と常夜の警邏人
明暗法に拠り受難者の結節に最も近しい
血縁者は
午餐の牡蠣肉に近似した痰を吐き
人物像とは散乱した裂罅の楕鏡に過ぎない、
多者の謗りが流麗な茎に展化され
絹の飛行機、
旧世紀の痴夢は既にプラスティックの季候風土に溶解した
鹸化反応としての脂肪酸、
跳躍勿く、静置勿く即物写真の余命死は改訂され
電離反応槽のプラチニュウムは
確かな現実を刻刻と丸時計に
固着の凝縮液の様に取計った
若し、
誰でも勿く私達の私でもある影像を
洞察した
起源の風洞、
風葬の部屋部屋に
響き亙った鍾乳窟の建築体が
呼吸する炭素繊維を概念下に拘留しなかったならば
一時ならず繰返される
円盤の惑乱は
洗顔室に切窓の牡牛を呵責し
容貌の勿い埋葬人の代理手続を執り
確執の精神は円錐形を辺縁に並べ
歳月の涯に
永続の尊厳死を魘夢の如く陳列したりはしなかっただろう
蜂窩建築の都市に
羊皮紙と
翰墨に拠る
明暗法が地球殻元素の希臘数字を鏤刻し
墨染の鱗茎は
鉈の鈍角にコンクリートを吐瀉し続けるだろう
美少年の成果は周期性機軸の摩擦係数を諳んじる
コンセルヴァトワールよ薔薇の交配は巧緻な骨である
幼時の変貌は止血され、
天球室の命数は幾許も勿い
【祝エンタメ賞受賞!NCM参加作品】君はポエム。
嘘みたいな3月の青空があって、
嘘みたいにたくさんの人が詩んだのに、
相も変わらず、
オワコンネットポエムで、
詩がどうとか、
芸術がどうとか、
もう辞めるとかどうとか喚いてる君。
そんなに詩を書くことが大事なら、
君の信じる詩の中で、
白目を剥いて詩ねばいい。
誰にも届きやしないんだ、
そんな言葉じゃ。
寝言の中で、
月を見たり、花を見たり、
クスリ、と笑ってみたりして、
詩が書けたつもりになってるだけさ。
嘘だと思うなら、今夜、
春爛漫、
君の咲かせた満開の詩の中で、
身震いしながら散るといい。
詩がどうとか言いながら、
今まで君が見殺詩にしてきた、
たくさんの人、
たくさんの言葉、
咲き乱れるはずだったその、
花びらの一枚一枚、
生き様が詩になるんだよ、
あの日あの時、
口をつぐんで言葉を捨てた、
愛すべきすべてのクズポエマーたちよ、
覚えておくがいい、
4月になっても嘘みたいな青空、
比喩でなく、
僕らはいつか言葉に復讐される。
人生は詩だから、
ただ生きろ、
愛も変わらず、
そこに在る。
「あ、ヌンチャクくん、
また目ぇ開けたまま寝てる……。」
春から夏へ、聴こえくる、
〈森〉
蜜蜂の羽音よりも微かな振動が
辺りを震わせています
木々は丸屋根のようにかぶさり
円い水色のレンズのような
空を指しています
わたしは今、
からだを土に埋葬された
一揃いの眼のような
ひとつの意識です
芽吹きのときです
〈木蓮〉
裸の枝に純白の、繻子を纏う花嫁たちの、
花開く、宴の時は短くて、
はたり はたり はた
湿った音をたてて地に落ちて茶色く焦れて、
私の足元を汚します
けれど、許してしまいます
見上げればもう柔らかな、緑の子らが遊び、
つかの間のみずみずしさです
〈清流〉
新緑の木々の陰
滔々と流れる色のない水
角のとれた川底の小石
音もなく水面に載った木の葉
滑るように視界から消えて
水音は止むことがなく
〈夏の駅〉
降り立つと
凛々と鳴る無数の風鈴
くるくると翻るよ青い短冊
売店に並ぶ土産物
荷物を持った人影はまばら
ふわり 夏の風が渡る
並列するホームと錆びた線路
〈海〉
風がやんだ
海が凪いだ
蒼い
*
#14 (B 五十一〜百)
五十一
四月一日 深夜三時
コンビニエンストアへひとり歩いていき
ドリアを買ってチンしてもらい 食べず
布団をドリアのようにあたたかくして睡った
五十二
さくらまじ 麗らか勤めへ
父母にいただいたこの体は
動き汗をかくことを嬉しがる
しかし生まれ落ちたときの衝撃で のち死ぬ
五十三
万愚節は要らない ほんとを見たことがない
ほんとを聞いたことがない
ほんとを味わった あの夜も
いま あなたのなか 朽ちた家の瓦になっている
五十四
山葵田の鐘に日当たる四月かな
分け入る 分け入って 脳が変色し
さっき食べたものは何
私はこの月に埋葬されるだろう
五十五
誰も椿の背景は暗いといわず
鬼子母神の御堂のなか
母胎回帰願望は冷えていく
ああ 風わびしくもあたたかい
五十六
チューリップの目が本気
その目の瞳孔をじっと見つめた
気分が悪くなり
アスピリン、カフェインを含み煙草を喫って整えた
五十七
さくらの枝を折り盗む花泥棒が
私のパートナーを折ってしまった
パートナーの名に「花」があったから
それからはずっとあなたの体を撫でつづけた
五十八
梨の花ながめていると なにか忘れた
菜の花ながめていなくとも なにか忘れている
と思い出して
テレヴィが欠伸を止めるなら上唇を舐めろと伝えていた
五十九
つくづく つくづくし
つくづく つくづくし
半分透明になった父が
夜 泣いているような気がして睡らなかった
六十
花疲れしている路を歩く
疲れた路へ しずみこんでいってしまった
夢の上に起きた
机の上にぬるい缶コーヒーがあった
六十一
束ねたコピー用紙はすべて詩作品
私のセンテンス・スプリング
書き殴られたセンテンス
なんとかやってたブルー・スプリング
六十二
さくらが今年も自刃している
するとゴトーがついに現れた
ああ 後藤さんか
借りた煙草は必ず返します
六十三
日を点火 月へ打ち水
こころ大きくなり
しかしチラチラを憎んでいる チラチラは
服薬に於ける副作用、眼球運動の誤作動をそう呼んでいる
六十四
穢土鈴木がテレヴィに映る
彼はほんとうは ウド鈴木というが
ウド鈴木のウドは独活なのか
そんなことよりよい風の吹く
六十五
うまごやし きみのたましいこゆるまで
うまごやし きみのたましいこゆるまで
摘んで ネックレスを編んであげる
きみの欠損した部分へかけてあげる
六十六
日は白い
太陽は赤い
むかし 私は混同し
日を赤く画いてしまった
六十七
西行は行きつづけている 西へ
ノイズを消そうと 私は
バッハのレコードから針を上げ 泣いてしまった
西行は行きつづけている 西へ
六十八
巷に風のひかり
由比にゆすら しろさのさかり
透明 雀の子へ力込め
放て 世界の中心へ
六十九
清水の手前に濁火
うららか じっと見つめているのは
障子の笹の影
ささい 生死の影
七十
核の子の誕生日
涅槃雪ふる
咳をしなくてもひとり
荒がる声もとおくなった
七十一
接ぎ木見ていた
接ぎ木を見ているのは不安ゆえ
鬱を受け入れられない自衛隊員が
ヘリを操縦している春の終わり
七十二
はなまつり 甘茶年々甘くなる
古い体をじっと感じている
風呂は年々熱く 出ては
星を眺める男になった
七十三
懺悔は平和の水面か
いでて咲くか 平穏の花
燕は知るか 雁は知るか
知っていて 来たり 帰ったりするのか
七十四
辛夷の白い花咲く
今日私はエゴを傷つけた
ひとの為動き ときに泣け
できなければ死んでしまえ
七十五
のどか 喉から手が出るほどほしい
すべての電子音 止め
でも電子音の一音の 純なこころもちで
生きていってもいい
七十六
南無馬頭観世音と猫の塚に唱える
陽炎が脳の内
昼の月はまた 星の内
手に入らないものの比喩で
七十七
何も貫く矛
何も通さない盾
矛は盾を貫き、盾は矛を通さなかった
なんの矛盾もない
七十八
案山子はいないか
いるわけないやろ 長兵衛の家や
そうか 長兵衛はどうだ
花のように死んだわ
七十九
昨日は今日で明日だ
それらは一として人生だ
水平運動に抗うなら 垂直すること
脚立の上で背伸びをした
八十
この車は動かない たましいが抜けているから
この風車はまわらない たましいが抜けているから
あの肩車はもうできない たましいが抜けているから
部屋をぐるり見わたせば たましいの抜けたものばかりだ
八十一
げんげだに げんげ(※)している
※
【げんげ】
嚥下できず吐き戻すこと
八十二
線路を歩く 木瓜の花に
歩いていくたびに ほうけていくよう
かつて理屈を武器にしていた口元
いま 明るい唄をうたっている
八十三
義経がギリギリとまつりの中心で唸る
啄木忌
海の市には何が売られているか
そもそも海市へはどうして行ける
八十四
げんこつ山の狸さん
おっぱい飲んで 寝んねして
次の日の朝
避けきれなかった車に轢かれて死んでしまった
八十五
月も知っているおいらの意気地
その月 朧んで
とても静かに
額のあたりから草の匂いでいっぱいだ
八十六
透明な
その雨ふる
晴れ間のような力で
時という壁へ 自由を書き留めたい
八十七
ローリンしていると甘いので
日がな一日
ローリンしていると冷たくなった
もうローリンはときどきにしておこう
八十八
もうすぐ二十九歳になるけれど
なりたいものが
なにもないことを
新しい自慢としていつまでも動こう
八十九
精神世界の入り口は
そこらへんに沢山ある うんざりするほど
でも出口はないんだ
グルさえ知らないんだって聞いた
九十
さびしいと
感じない為に
十時路で悪魔に魂を売ったのは
世田谷の 春の夜更けでした
九十一
春を売っている
みんな みんな みんな
遺った季節を眺めながら
黒い箸をタクアンに突き立てる!
九十二
自分の愚かな考えを
通す為に
駄目なものを良いと言っていたけれど
わかってしまった 生きるべき人間とそうでない人間と
九十三
カーテンを開き
夜の明るさを確かめると
夜の暗さがわかった
間違っているんだ
九十四
吠えるな
馬鹿
俺は鹿じゃなくて人だ
神のナントカでもなんでもない
九十五
コップに底はある
コップの底に底はない
日 一枚を切符とし
なにかがわからなくなった散策でした
九十六
赦されつづけるということは
けして赦されはしない ということだから
曇った夜のそらへやっと星を見つけ
小さくお祈りをした
九十七
黄色い戦争は今毎年の花粉症の比喩
ララ物資 私はあたたかいコーヒーを飲む
与えられるだけで良かった
勝ちとる必要はなかった
九十八
四月某日は 四月にない
四月某日は いろいろなところから
拾ってきた集積の一日
勿論 死がたっぷりと含まれている
九十九
有名になりたいときもあった
コカ・コーラのように
セブン・スターのボックスのように
この国中に私は供給され 空っぽになって良かった
百
やはり野に置け蓮華草
日本人なのにブルーズを弾いている
清掃員なのに詩を書いている
休日の朝が とてもまぶしい
骨董屋で
おわりから
はじまりへ
ふきぬけていく
おわりが
はじまりが
きえていく
かぜ が みえてくる
かぜのみち が みえてくる
まち を くぐる
わたし を くぐる
ふきならす
かぜのことばよ
/
つつましくも朗々と骨を唄うは習わしの風貌をもち
組みたてた塔の下を行きますと通りでは今朝も
しぼりたての心臓そして山羊座にめぐる蝿
拈華微笑 、 ハネはちぢれ
すっかり浄土もわすれ冬の手つきであざけられ
おもしろいようにして餅を尻でついていたりします
尾っぽをなめあげる青銅の犬の燻された瞳をひとつ
ポケットへとねじこんではあいすをかじりつつ
うつくしいをゆくの時の匂いにまぎれていますと
正午にきっかり赤子たちが一斉に陽をつつき
哺乳瓶へ飛び込む母親と虹を溶かしこむ父親は
オレンジの気球に乗って舞い上がってしまいます
うつくしいをゆくの時の匂いが増していきます
/
/ //
花粉は季節をはずれてCc仕様で届けられるのです
/
。
/ … ……………… //
─────────── °
// °/ // //// °。
────────────────────────
◯ ─────────────────────────────
◯◯ 。
◯
───── (テマネイテイル 、 ((マキツケテ イル。。
(電柱 、───ニ ─── ──
(クロイカミ 、((、ガ
((( (ヲ、、
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°° °。。
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、 (ウマレ 。 。◯°°° る……. (テ、、
(ハバタキ、 (ハバタイテユケ ────◯°◯
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(ハバタイテユケ、 (スイサイノ チョウヨ ◯◯° ・゛.
─── °((ムジャキ ナ。。 ++++ 、
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、(ミトレテ ────(─ ─ ((ホシ (ホシ ((ホシクズ
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(カラ 、 ・・・ ・・** * *
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(ホドカ レ テ ケ、
(バ ラマ °° レ テ・・──、 。 マ
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++ ++ ◯ ′′
(オイタテ 、、 ル、、─── ((モウモク。 ヨ
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。。°°
(ヒカリ
(ヒカリ
ヒカリ
°
°° 。
。 シメセ
。 ° ° °
◯ ◯
°
°。
◯◯ 。
。 /
厳かに聖なる御言葉として路上を雨降りがぽつぽつ ..゛・ ─
.・・・ ・
出征を果たす勇ましい軍人たちを弾くでしょうか
ぐるぐる回る地球儀からぺらぺらはがれおちてくる
くしゃくしゃな紅の大葉を踏みつけながらもなお
さらにはずれの通りへとやってきますと
原野に望むは粛々と煙る煤けた一角
金色に血脈を交わす蜻蛉の日暮れが佇んでいます
描いたその螺旋の時にあり輝かしくもえさかるもの
つま先からくまなくじゅわと染め上げていきます
瞳を取り出し投げ入れますと自動販売機には
ちゃりんという軽量なる音響を含ませ
ころころころころトマトがころげおちてくるのです
/
ふるいばかり が
あたらしい をゆく
立派に
名物の体を成す骨董屋へと
今日もわたしたちはやってきた。
境界を行き交う、
わたしがいる。
あなたがいる。
雨の詩 三連 空間工房
雨の詩 その壱
とてちて トテチテ
あめゆじゆ
話ってなんだい?
僕はつまらないよ
ドタバタ ドタパタ
ジトジト パチパチ
あめゆじゆ
降りはじめは
研ぎ澄まし ピツピツ ピツピツ
そのうち寂しがっては寄り添う雨が トテチテ トテチテ
さらに怖がってはいきなり泣いて バチバチ バタバタ
思わすもらい泣きもしている シクシク シクシク
と 途端に興奮しながら ドシャバシャ ドシャバシャ ドシャフル ドシャ
いよいよ 雄叫び バカラ バカラ バカラ バカラ バカラバカラバカラ
バあぁぁぁぁぁぁぁぁl―――――――
――――――――――――――ああ
ん?
と 不意に フっ と 雨は鳴りやむ
サ サ サ とまた
忍び雨脚がやってくる
サササ ザザザ ザー
ザザザザザザサ
ざあぁぁぁぁぁぁぁぁl―――――――
――――――――――――――ああ
天人の洩らす他人の空耳
僕の心に至ってはね
残念なのだが
つもるもなくて
つまるもないよ
いろんな音を
くれてる
雨がね
つまるもない
僕のお話を
つもらせて
くれてる
雨がね
面白いんだ
あぁ 天人の洩らす他人の空耳
雨の詩 その弐
屋根トタン
ダンダン タカタカ
ダンダン ビシビシ 強く叩いて
いいよ 強く
もっと 強く
もっともっと 強く!
声 おしあげ
吊るしあげ
語尾をね
もっともっと吊るし上げ ろぉぉ!!
語尾をもっと吊るし上げ ろぉぉ!!
ざけぇええ!!!
ってね
さて残念だが
僕の心は
つもるもなくて
つまるもないよ
ハハ
あら?
また ヒトポツ ヒトポツ
雨音落として
僕なんぞ
言葉なんど
もうどうにも
おかしくしよう
さらさらおしまい
このままこのまま
僕の頭上を絶え間なく
駆け抜けていくんがいいよ
雨に載せ
ピツピツビシビシ
トテチテトテチテトテチテ
ジュルジュルジュルジュル
シャバフルシャバフルシャバフル
バチバチバチバチバチバチ
さぁさ高鳴れ 踊れ
ドタドタバタバタ
パラパラパラパラ
ザンカ ザン カザン ザンカザン
ザザザザザ サササササ
ふーん風も一っしょにやってきてね
ザンカ ザンッ パタパタッ ピツピツ
さぁさ 高鳴れ 踊れ
雨風よ
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雨の詩 その参
/雨の
///
吹く
風//
‥ …
‥草、いきれ
、
//(・/)
夢忘る、なら
影、 うつす
ほんとぅの淋しさをね
ほんとぅの厳しさをね
隠し持ってる
ヒトよりの雨風をね
僕も隠し持っている
北方の凍てつく猛吹雪や
大海原の巨きな大時化を
隠し持っている
安堵の心地に
想いを馳せては
人よりの雨風を打たせて
安住な眠りに就いていく
僕は
雨に 風に
かえすがえすも キクノダヨ
人よりの
話す言葉の何倍も
何も言わない 雨音が
ほんとうは 一番
正直なんだ と キコエルヨ
空間工房
くうかんこうぼう
シュリン かんくうかんこう
ピシ ピシ ぼうかんくうかん
シュリン シュリン こうぼうかんくう
ピシ ピシ かんこうぼうかん
コ くうかんこうぼう
カナン かんくうかんこう
カナン ぼうかんくうかん
カナン こうぼうかんくう
カナン かんこうぼうかん
シュリン くうかんこうぼう
シュリン かんくうかんこう
ピシ ピシ ぼうかんくうかん
くうかんこうぼう
カナン カナン かんくうかんこう
カナン ぼうかんくうかん
こうぼうかんくう
かんこうぼうかん
くうかんこうぼう
シュリン シュリン かんくうかんこう
ピシ ピシ ぼうかんくうかん
ピシ くうかんこうぼう
コ かんくうかんこう
ぼうかんくうかん
こうぼうかんくう
シュリン かんこうぼうかん
ピシ くうかんこうぼう
カナン カナン かんくうかんこう
ぼうかんくうかん
シュリン ピシ くうかんこうぼう
ピシ かんくうかんこう
コ ぼうかんくうかん
こうぼうかんくう
カナン かんこうぼうかん
カナン くうかんこうぼう
かんくうかんこう
シュリン ピシ くうかんこうぼう
かんくうかんこう
コ ぼうかんくうかん
こうぼうかんくう
カナン かんこうぼうかん
カナン くうかんこうぼう
かんくうかんこう
ぼうかんくうかん
こうぼうかんくう
『昨日の試合どうなった?』 かんこうぼうかん
くうかんこうぼう
『えぇ? 何てぇ?』 かんくうかんこう
シュリン ぼうかんくうかん
シュリン ピシ コ こうぼうかんくう
シュリン シュリン かんこうぼうかん
カナン ピシ コ くうかんこうぼう
かんくうかんこう
『サッカーよ』 ピシピシ ぼうかんくうかん
シュリン ピシ こうぼうかんくう
コ コ かんこうぼうかん
カナン くうかんこうぼう
カナン かんくうかんこう
『あーぁ、PK』 ピシ ぼうかんくうかん
ピシ コ こうぼうかんくう
カナン かんこうぼうかん
カナン くうかんこうぼう
『えぇ?』 かんくうかんこう
『なぁ? なんって』 ぼうかんくうかん
ピシ ピシ くうかんこうぼう
シュリン かんくうかんこう
カナン ぼうかんくうかん
カナン ピシ こうぼうかんくう
ピシ『あとで 話すわ』 かんこうぼうかん
シュリン シュリン くうかんこうぼう
ピシ『ナニ? 勝った?』 かんくうかんこう
ピシ ピシ コ ぼうかんくうかん
『あ,と,で 』 こうぼうかんくう
『ピーケーよピィー 』ピシ かんこうぼうかん
シュリン ピシピシ コ くうかんこうぼう
カナン カナン シュリン かんくうかんこう
ピシ ピシ ぼうかんくうかん
『聞こえねー 』 シュリン こうぼうかんくう
『……… 』 ピシ ピシ かんこうぼうかん
コ コ くうかんこうぼう
コ かんくうかんこう
シュリン ぼうかんくうかん
コ ピシ こうぼうかんくう
『黙れ! 機械』 かんこうぼうかん
コ ピシ くうかんこうぼう
シュリン シュリン かんくうかんこう
ピシ ピシ ぼうかんくうかん
ピシ くうかんこうぼう
コ かんくうかんこう
コ ぼうかんくうかん
ピシ こうぼうかんくう
シュリン かんこうぼうかん
ピシ くうかんこうぼう
シュリン シュリン かんくうかんこう
ピシ ピシ ぼうかんくうかん
ピシ こうぼうかんくう
コ かんくうかんこう
ぼうかんくうかん
こうぼうかんくう
シュリン かんこうぼうかん
ピシ くうかんこうぼう
カナン カナン かんくうかんこう
シュリン ぼうかんくうかん
シュリン ピシ こうぼうかんくう
ピシ かんこうぼうかん
コ くうかんこうぼう
くうかんこうぼう
かんくうかんこう
コ ぼう かん
くう かん
げん こう
の書くものは全般に
どうにも薄気味悪い
文章ですね
『黙れ! 機械』 ぼう かん くう かん
//(・/) こう ぼう かん くう かん
木工制作
記憶喪失者にも郷愁があった
高い場所から街頭の光がアスファルトを照らしていた
まっすぐに続く夜を歩いて、おれは帰ろうとしていたのだった
輪郭を見定めろ、とおれは路面に向かって吐き捨てたが
路面に貼りついた鴉の艶めいた羽におれ自身の困難が反射する
おれは家族が全員出て行った家を目指していた
おれは足元のアスファルトを疑えなかった
そこにはおれに取り返せるものはなにひとつない
記憶は
出来事では
ない
むかしむかし、
そういうふうに声に出して本を
読んだことがある
むかしむかし、
水たまりの水面から星を掬う
ちいさな 三つの声
【こめる】
ちいさな人が ちいさな声でいった
「あさがおは かさ みたい」
くるくるたたんでいる花は かさみたい
雨の日にひらくと かさみたい
ちいさな傘から
ぬーと わたしのほうに出てきた手のひら
あの おさない手は 傘みたい
【ぺこり】
いつからか心の中で
しかられたときは ぺこりと 言ってきた
おじぎをしながら 二度としませんといいながら
わたしが れんげの花を好きなのは
父さんの つくりかけのブロックの穴に
わたしが根の付いた レンゲのつぼみを 植えても
すこしも しからないで
花が咲くまで 待ってくれたから
ふかぶかと 父さんに おじぎすると
とうさんが「ぺこり」と言って がはがは笑った
今年も田んぼの すみっこで さいている花は
いまでも あまい蜜の匂いがして
おなかのそこまで その香りを吸い込むと
おながが ぺこり
おもわず あのときの父さんみたいに
わたしは笑う
【ともる】
さあ みなもとを て ら せ
うたが そこにあるだろう
まぶたを とじて
はくいきは よせるなみ
すういきは かえすなみ
みな底を照らせ
ゆめのおくの いちばん
尊い場所の こころの
みな底にあるのは ちいさな唄
わたしを照らす ちいさな声
誕生日の詩
うす暗いキッチンの
冷蔵庫を開けて
牛乳をついだ
窓の外から
裂けてゆく蕾の
悲鳴がきこえてくる
ベランダから国道を見おろす
光が河になって、街を流れてゆく
夜はもうつめたくない
三月
訳がわからないまま
また、春がきて
溺れるように僕は
24になった
ねえ、母さん
僕たちが、祈りを捧げるべきひとは
もういなくなってしまったよ
つまりここには、最初から
誰もいなかった
いつも
唇からあふれる
青白い牛乳に、星は
まるで魚のように
ふらふらと漂っていて
7階から墜落しながら
世界はこんなにも透明で
きれいだったと
ちぎれた星座のように
さいごに叫ぶだろう
早漏とか爆弾とか距離とか友達とか時間とか
(早漏のお客さんはありがたいね
って、
マリちゃん
ニコニコしながら喋る
待合室
カーテン閉めたまま
お菓子
食べかけのまま
誰も最後まで食べない
しける
心閉じたまま
何も変わらない
そのまま
待合室
次々に変わる顔
名前なんて
おぼえる前に忘れる
私たち
(しつこい客だったなあ
って、
マリちゃん
うんざりしながら喋る
遠いとこ行きたいね
そうだね
どこがいいかな
いつも
わかんない
行きたいとこがわかんない
私たち
(イクっ
って、
マリちゃん
イってないのに言う
完全にイったみたいに言う
演技派
さすがだなあ
マリちゃん
指名ケタ違いだもん
毎回イクのに
どこにも行けないね
私たち
あ、
爆弾に会ったよ
え、
この前
そ、
駅の反対側
ん、
交差点
あ、
全身入れ墨
怖、
慌てて逃げたよ
そ、
悪いことなんてしてないのに
ね、
そもそもどこに逃げればいいんだろ
ね、
熊みたいな顔してた
笑、
凶暴な熊みたいな顔してた
汗、
生きてる気がしない
ね、
生きてるのに
ね、
死んでるのかな
や、
生きてるよ
そ、
生きてるよ
ね、
痛いし
そ、
ちゃんと痛いし
ね、
こころ
と、
まんこ
そ、
全部痛いし
ね、
お菓子食べる?
や、
食べない
え、
何も食べたくない
そ、
カーテン開けていい?
や、
頭も痛いし
あ、
髪ぺったんこだよ
え、
洗ってる?
ん、
きれいになりたい
ね、
コーヒーのむ?
む、
今日はもう終わりでしょ
ん、
おしゃれな店見つけたよ
お、
一緒に行こ
ん、
すぐ近くだし
え、
最近できたんだって
さ、
カプチーノ
お、
クーポンあるし
さ、
帽子かぶろ
そ、
こっから5分くらい
ね、
5分で行ける場所
そ、
どこへでも行けるよ
ね、
私たち
そ、
(カプチーノ、お待たせ致しました。
マリちゃん
カップの中
かわいいクマさん
5秒見て
スプーンで混ぜた