なんか空っぽの午前四時の町並みになんかいる僕は、夜更かしたせいで滅入って参って合わせて眩暈ってガンガンの頭を抱えて歩いてる。そもそもこの歩いてるっていう表現自体かなり強引なカテゴライズで、より正確かつ擬人法を用いて説明すれば、動くのを拒んでぐずってる右足を、しっかり者の左足お兄ちゃんが説得しつつ引きずってるような状況なわけ。
そんな憂鬱な状況に限って憂鬱なもんに出くわすってのが、まあ、今回のお話。小説みたいだけどあくまで散文詩のカテゴリーだよ。とどこぞの教授の論文の前口上みたいなこと言ってるけどこれは俺の表現実験だよ。このさりげない一人称転換も含めてのメタ演出だ。ん、だからなんだって? そう考えた君の感性は信頼に値するってことさ。 話を戻してまあそんなこんなで今眩暈ってめっぱの僕の目の前には、今一つぱっとしない歩行者道路が味の抜けたガムみたいにのっぺりと続いている。で、これが結構幅が狭い。今回は一匹の猫の話なんだが、まさに、猫の額って表現がしっくりくるんだよ。ああ、なんと素晴らしいこの統一感! うん、統一感こそは作品を作品たらしめるものなり。
さて、また話がずれた。読者諸君、堪忍袋の緒が耐え兼ねているとは思うがもう一縛りして欲しい。先述のとおり、ここから話の本題である、一匹の猫が出て来るよ。
さあ、猫の額ほどの幅の道の右脇に、僕の腰よりやや高いくらいのポストがある。赤い、と安直に形容したくなるけど、それを躊躇わざるを得ないほどに色褪せて黄ばんでいる、そんなポストの、上に。
猫がいる。黒トラの……とまた安直な形容をしそうになった。いや、基本的に面倒くさがりな俺はさっさとそう書いてしまいたいのだが、もはや躊躇わざるを得ないほど、その黒トラは“黒トラでない”。
その猫の黒トラはね、青いんだよ。もう。すっかり生気が抜け切って、もはや『病める青』たる『蒼』なの。おまけに毛はパサパサであばらが浮き出て、骨張った顔から異様に浮き彫りになる二つの灰色の瞳だけが、割れる寸前の硝子細工のような、神経を震わす透明度を持っていて。この子、明らかに長くないなって思った。
僕はこの子を『蒼バラ』って名付けた。蒼くてあばらが浮き出てて、でも顔立ちには品があってその目が綺麗だから。危うげなたたずまいも、この名前に馴染んでる気がした。
で、僕は蒼バラに触れようとしたのだけれど、もう目が合ったその瞬間にポストから飛び降りて、僕の前方、目測およそ3mくらいのとこに着地したの。
ああ、本当に辛酸舐めてきたんだなって僕は思ったね。僕はうさん臭くも優しい人間だから、その哀れな猫に向けて語りかけたね。猫目言語で「大丈夫だよ」って。擬音化すれば“ふにふに”って。
すると向こうも猫目言語で応答したんだ。擬音化すれば“ふにぃ、にぃ〜っ”って感じの。うん、なんだかんだで「わーねこかわいいー」って和々(※1)したよ。
でもね。直後にその猫を襲った鳥がいたんだよ。黒い羽で頭が良くて、とっても素早いあの鳥がね。
そう、意外なことに、ツバメなんだよ。かの有名な童話で黄金の王子の像の使いとしてはたらき、最期は彼と共に天国に登ったあの尊い小鳥の近親者が、電線から二三匹滑空して、死にかけの蒼バラめがけて飛んでくるんだ。スレスレを掠めて、すぐ舞い上がって。苛めてんだよ。
信じがたい光景に唖然愕然呆然とが一瞬の怒涛となって頭蓋を殴ったよ。もう助けてやる間もなく、萎れた蒼い花は、民家の青い軽自動車の下で、その陰に隠れて震えていた。
そして、出て来なかったよ。もう。あの灰色の両目で、僕を凝視するばかりで。僕はただ、それを見つめて……うん、あれは俺にこう言ってたよ。
「オマエモ、コウナンダロウ?」
って。今、思えばね。……さて、賢明な読者たる君は、俺のこれがフィクションであることを前提に読んでいるはずだ。ああ、その通り。
こんなことがあってたまるか。
※1:なごなご。自作形容詞で、意味は字義どおり。
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2010年06月分
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- THE GATES OF DELIRIUM。 - 田中宏輔
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路上格差
THE GATES OF DELIRIUM。
そこに行けば、また詩人に会えるだろう。そう思って、葵公園に向かった。魂にとって真実なものは、滅びることがない。葵公園は、賀茂川と高野川が合流して鴨川になるところに、その河原の河川敷から幅の狭い細長い道路を一つ挟んであった。下鴨本通りと北大路通りの交差点近くにあるぼくの部屋から、その公園に行くには、二通りの行き方があった。北大路通りを西に向かって上賀茂橋まで行き、そこから川沿いに河川敷の砂利道を下って行く行き方と、下鴨本通りを南に向かって普通の歩道を歩いて行く行き方である。
途中、下鴨本通りにあるコンビニに寄って、マールボロのメンソール・ボックス一箱と、コーヒー缶を一つ買った。公園に着いたときにも、陽はまだ落ち切ってはいなかった。しかし、公衆便所の輪郭や、潅木の茂みの形は、すでにぼんやりとしたものになっていた。飲み終わったコーヒー缶をクズかごに入れ、便所の前にあるベンチに腰かけると、タバコに火をつけて、ひとが来るのを待った。詩人を待っているのではなかった。詩人が現われるとしても、それはすっかり夜になってしまってからであった。タバコをつづけて喫っているうちに、便所に明かりが灯った。時間がくると、自動的に電灯がつくのであった。だれも来なかった。
詩人がいつもいたところに行くことにした。詩人はよく、少し上手の河川敷に並べられたベンチの一つに坐っていた。ぼくは、道路を渡って河川敷に向かって下りていった。潅木の生い茂る狭い道を通って石段を下りると、茂った枝葉を覆うようにして張られていた蜘蛛の巣が、顔や腕にくっついた。手でとってこすり合わせ、小さなかたまりにして、横に投げ捨てた。砂利道に下りると、ちらほらと人影があった。腰をおろして川のほうを向いているひとが一人。ぼくより、十歩ほど先にいる、ぼくと同じように、川下から川上に向かって歩いているひとが一人。ぼくとは反対に、川上から川下に向かって歩いてくるひとが一人。その一人の男と目が合った。ぼくたちは値踏みし合った。彼は、ぼくのタイプじゃなかったし、ぼくも、彼のタイプじゃなかった。彼がまだ視界のなかにいるときに、ぼくは視線を、彼のいないところに向けた。彼の方は、すれ違いざまに、ぼくから顔を背けた。ぼくは、目の端にそれを捉えて、あらためて、ぼくたちのことを考えた。ぼくたちは、ただ本能のままに自分たちの愛する対象を選んでいるだけなのだと。ウミガメの子どもたち。つぎつぎと砂のなかから這い出てくる。ウミガメの子どもたち。目も見えないのに、海を目指して。ウミガメの子どもたち。おもちゃのようにかわいらしい、ぎこちない動き方をして。ウミガメの子どもたち。なぜ、卵から孵るのだろう。そのまま生まれてこなければいいのに。ウミガメの子どもたち。詩人の詩に、ウミガメが出てくるものがいくつかあった。以前に、ウミガメが産卵するシーンをテレビで見たことがあって、それを詩人に話したら、詩人がウミガメをモチーフにしたものをいくつか書いたのであった。河川敷に敷かれた丸い石の影が、砂利道の上にポコポコと浮かび出た無数の丸い石の影が、ぼくにウミガメの子どもたちの姿を思い起こさせたのだろう。そんなことを考えながら歩いていると、あっという間に、詩人がいつも坐っていたベンチのところに辿り着いた。ベンチは、少し離れたところに、もう一つあったのだが、そちらのベンチの方には、だれも坐らなかった。坐った瞬間、ひとが消えるという話だった。じっさい、何人か試してみて、すっと消え去るのを目撃されているのだという。川辺の風景が、流れる川の水の上に映っている。流れる川の水が、川辺の風景の上に映っている。もしかすると、流れる川の水の上の風景の方が実在で、川辺の風景の方が幻かもしれなかった。
月の夜だった。満月のきらめきが、川面の流れる水の上で揺らめいている。よく見ると、水鳥が一羽、目の前の川の真ん中辺りの、堆積した土砂とそこに生えた水草のそばで、川面に映った月の光や星の光をくちばしの先でつついていた。その水鳥のそばの水草の間から、もう一羽、水鳥がくちばしをつつきながら姿を現わした。二羽の水鳥は、寄り添いながら川面に映った光をつついていた。しかし、水鳥たちは知っている。ぼくたちと同じだ。いくら孤独が孤独と身をすり寄せ合っても、孤独でなくなるわけではないということを。どれほど孤独と孤独がいっしょにいても、ただ同じ孤独を共有し、交換し合うだけなのだと。どれだけ孤独が集まっても孤独でなくなるわけではないということを。ゼロがどれだけ集まってもゼロであるように。
水鳥が川面のきらめきに何を語っているのか知っているのは、ぼくだけだ。水鳥は、川面に反射する月のきらめきや星のきらめきに向かって、人間の歴史や人間の秘密を語っているのだった。それにしても、繰り返しはげしくくちばしを突き入れている水鳥たち。まるで月の輝きと星の輝きを集めて、早く朝を来させるために太陽をつくりだそうとしているかのようだ。たしかに、そうだ。川面に反射した月明かりや星明りが集まって、一つの太陽となるのだ。あの便所の光や、ぼくのタバコの先の火の色や、川面に反射した、川沿いの家々の軒明かりや、窓々から漏れ出る電灯の光が集まって、一つの太陽となるのだ。しかし、それは別の話。人間のことはすべて知っているのに、ぼくのことだけは知らない水鳥たちが、川の水を曲げている。ぼくのなかに曲がった水が満ちていく。夜はさまざまなものをつくりだす。もともと、すべてのものが夜からつくられたものだった。
事物から事物へと目を移すたびに、魂は事物の持つ特性に彩られる。事物自体も他の事物の特性に彩られながら、ぼくの魂のなかに永遠に存在しようとして侵入してくる。一人の人間、一つの事物、一つの出来事、一つの言葉そのものが、一つの深淵である。そして、ぼくの承認を待つまでもなく、それらの人間や事物たちは、やすやすと、ぼくの魂のなかに侵入し、ぼくの魂のなかで、たしかな存在となる。ときどき、それらの存在こそがたしかなもので、自分などどこにも存在していないのではないか、などと思ってしまう。薬のせいだろうか。いや、違う。ぼくが錯乱しているのではない。現実の方が錯乱しているのだ。どうやら、ぼくの思いつくことや、思い描いたりすることが、詩人の書いた詩やメモに、かなり影響されてきたようだ。詩人がこの世界から姿を消す前に、ぼくの名前で発表させていたいくつもの詩が、ぼくを縛りつけている。詩人と会ってしばらくしてからのことだ。いつものように、ぼくの体験したことや、思いついたことを詩人に話していると、詩人が、ぼくのことを詩にしようと言い出したのである。それが「陽の埋葬」だった。それは、ぼくの体験をもとに、詩人がつくり上げたものだった。ぼくはけっして、ぼく自身になったことがなかった。ぼくはいつも他人になってばかりいた。詩人はそれを見通して、ぼくに対して、もうひとりのわたしよ、と呼びかけていたのだろう。詩人も、ぼくと同じ体質であった。ぼくと詩人が出会ったのは偶然の出来事だったのだろうか。おそらく、偶然の出来事だったのだろう。あらゆることが人を変える。あらゆることが意味を変える。その変化からまぬがれることはできない。出来事がぼくを変える。出来事がぼくをつくる。ぼくというのも、一つの出来事だ。ぼくが偶然を避けても、偶然は、ぼくのことを避けてはくれない。
一つの偶然が、川下からこちらに向かってやってきた。
THE GATES OF DELIRIUM。
世界は、ただ一枚の絵だけ残して滅んだという。いったい、だれの描いた、どの絵として残ったのであろうか? あるいは、世界自身が、世界というもの、それ自体が、ただ一枚の絵になってしまったとでもいうのであろうか? それは、わからない。詩人の遺したメモには、それについては、なにも書かれていなかったのである。しかし、それにしても、なぜ、写真ではなかったのであろうか? 人物であっても、あるいは、風景であっても、なぜ、写真ではなく、絵でなければならなかったのであろうか?
詩人は、絵を見つめていた。しかし、彼は、ほんとうに絵を見つめていたのであろうか? 詩人の生前のことだが、あるとき、詩人が、一冊の本の表紙絵をじっと見つめているときに、わたしが、「女性の頭のところに、死に神がいますね。」といったことがあった。わたしは、その死に神について、詩人が、なにか、しゃべってくれるのではないかと思ったのである。しかし、期待は裏切られた。詩人は、「えっ、なになに?」といって、真顔で、わたしに尋ね返してきたのである。そこで、わたしが、もう一度、同じ言葉を口にすると、詩人は、「ああ、ほんとうだ。」といって、笑いながら、しきりに感心していたのである。わたしには不思議だった。その絵を見て、女性の頭のところにいる死に神の姿に気がつかないことがあるとは、とうてい思えなかったからである。なぜなら、その絵のなかには、その死に神の姿以外に、女性のまわりにあるものなど、なに一つなかったからである。詩人は、いったい、絵のどこを見つめていたのであろうか? 絵のなかのどこを? どこを? いや、なにを? であろうか?
その本のタイトルは、『いまひとたびの生』というもので、詩人が高校生のときに夢中になって読んでいたSF小説のうちの一冊であった。作者のロバート・シルヴァーバーグは、ひじょうに多作な作家ではあるが、生前の詩人の言葉によると、翻訳された作品は、どれも質が高く、つまらない作品は一つもなかったという。ところで、『いまひとたびの生』という作品は、未来の地球が舞台で、そこでは、人間の人格や記憶を、他の人間の脳の内部で甦らせることができるという設定なのだが、論理的に考えると、矛盾するところがいくつかある。小説として面白くするために、作者があえてそうしていると思われるのだが、宿主の人格と、それに寄生する人格との間に、人格の融合という現象があるのに、それぞれの記憶の間には、融合という現象が起こらないのである。しかも、宿主の人間の方は一人でも、寄生する人間の方は一人とは限らず、二人や三人といったこともあり、それらの複数の人格が、宿主の人格と寄生している人格の間でのみならず、寄生している人格同士の間でも、それぞれ相互に他の人格の記憶を、いつでも即座に参照することができるのである。これは、複数の人間の記憶を、それらを互いに矛盾させることなく、一人の人間の記憶として容易に再構成させることができないからでもあろうし、また、物語を読者に面白く読ませる必要があって施された処置でもあろうけれども、しかし、もっとも論理的ではないと思われるところは、宿主となっている人間の内面の声と、寄生している人間の内面の声が、宿主のただ一つの心のなかで問答することができるというところである。まるで複数の人間が、ふつうに会話するような感じで、である。この手法は、ロバート・A・ハインラインの『悪徳なんかこわくない』で、もっとも成功していると思われるのだが、たしかに、物語を面白くさせる手法ではある。また、このヴァリエーションの一つに、シオドア・スタージョンの『障壁』というのがある。これは、一人の人間のある時期までの人格や記憶を装置化し、それを用いて、その人格や記憶の持ち主と会話させる、というものである。これを少しくは、ある意味で、自己との対話といったところのものともいえるかもしれないが、しかし、これを、まったきものとしての、一人の人間の内面における自己との対話とは、けっしていうことはできないであろう。話を『いまひとたびの生』に戻そう。この物語では出てこない設定が一つある。生前の詩人がいっていたのだが、もしも、自分の人格や記憶を自分の脳の内部で甦らせればどうなるのか、というものである。はっきりした記憶は、よりはっきりするかもしれない。その可能性は大きい。しかし、あいまいな記憶が、どうなるのか、といったことはわからない。その記憶があいまいな原因が、なにか、わからないからである。思い出したくないことが、思い出されて仕方がない、ということも、あるのかどうか、わからない。意思と記憶との間の関係が、いまひとつ、はっきりわからないからである。人間というものは、覚えていたいことを忘れてしまったり、忘れてしまいたいことを覚えていたりするのだから。しかし、『いまひとたびの生』の設定に従えば、一人の人間の内面で、一人の人間の心のなかで、自己との対話が、より明瞭に、より滞りなくできるようになるのではないだろうか? 感情の増幅に関しては、それをコントロールする悟性の強化に期待することができるであろう。わたしには、そう思えなかったのであるが、詩人はそのようなことをいっていた。
世界は、ただ一枚の絵だけ残して滅んだという。いったい、だれの描いた、どの絵として残ったのであろうか? あるいは、世界自身が、世界というもの、それ自体が、ただ一枚の絵になってしまったとでもいうのであろうか? それは、わからない。いや、しかし、それは、もしかしたら、詩人の肖像画だったのかもしれない。しかし、現実には、詩人の肖像画などは、存在しない。それどころか、写真でさえ、ただの一枚も残されてはいないのである。ところで、もし、詩人の肖像画が存在していたとしたら? きっと、その瞳には、世界のありとあらゆる光景が絶え間なく映し出されているのであろう。きっと、その耳のなかでは、世界のありとあらゆる音が途切れることなく響き渡っているのであろう。あらゆるすべての光景であるところの詩人の瞳に、あらゆるすべての音であるところの詩人の耳に。ただ一枚の肖像画であるのにもかかわらず、実在するすべての肖像画であるところの、ただ一枚の肖像画! 世界が詩人を笑わせた。世界が詩人とともに笑った。世界が詩人を泣かせた。世界が詩人とともに泣いた。世界が詩人を楽しませた。世界が詩人とともに楽しんだ。世界が詩人を嘆かせた。世界が詩人とともに嘆いた。
そうして、世界は、ただ一枚の絵だけ残して滅んだのかもしれない。
relation
par hasard
今
あなたは 多分
何処かで本を読んでいて
眠れない女の子のためのお話を
書いている途中
そして
ほんの少し休憩したところで
ほんの少しお腹も空いたころ
電話をかけると
疲れたようなかすれ声の
femme de menage は母親の手つきで
soupe de poisson ばかり拵えている
このところ
あなたは電話を切って
また別の電話をかける
話を聞くのが上手なあの子に
小さなテーブルの薄暗いお店
炭化した木製のイスに座って
彼女が細い長い階段を下って来るのを
ほら また本を読みながら待っていて
眠れない女の子のためのお話に出てくる
眠ったままの眠れない女の子の名前を考えてる
あなたはそんな態度を拵える このところ
酔っぱらいみたいにグラグラ煮立った
頭を 支えるのもやっとだって
人差し指をこめかみに当てる
ねえ こっちをむいたらいいのに
ちょっとした清潔な食べ物をを口に運ぶ素振りで
口移しで眠り薬をばら撒いて ほら
今
あなたは多分
何処かで 本
を読んでいて 眠れない女の子のためのお話を 書いて
いる 途中だったわ
お腹を空かせた 酔っぱらいのお膝の上に
からっぽのお腹から 這い出して来た女の子が
くるぶしをブラブラさせて 待ちくたびれてる
彼女がテーブルにつくと あなたが読んできた本の様に
たくさんのページを繰り出すわよ そして
眠らない男の子の眠ったままの冒険が始まる
泣いている様な 笑っている様な おかしな表情で
ほら 今もあなたは多分何処かで本を読んでいて それは
懐かしい とても懐かしい 記憶を手繰る 沢山のお話
あなたは揺りかごで眠っていて遠くの音を聞いている様に
遠くの音は偶然のかさなりあいのようにかさなりなりあって
沈黙のようなフォルムをかたちづくってゆく
眠れない女の子のための眠らない男の子がお話を始めるとやがて
眠れない女の子は眠りに落ちてゆくそれは
あたらしいせかいのはじまり
夕刻
水面を這う燕が、橋の下で金色に反り返る
積み上げられた若草からは
湿った土の生ぬるい温度が
吹き上がる風と混ざり合い、空へ舞っていた
青黒く、東の空に突き抜ける鉄塔
一台、二台、低い音をうねらせ
白のセダンが通り過ぎていく
今や黒点となった鳥の群れは
遥か遠く、ゆるやかに下降を始めている
空の群青に
夜が重なりはじめても尚
残り火に赤く、ひきちぎれた雲が燃えている
手を翳す
そこに無いものを在るものとして
橋の終わりで
生まれはじめた虫の雑踏を散らした風に
下腹部は急速に冷えていく
鐘の音
大気を、割るようにして
帰る場所を伝えるように
どこへも帰れない言葉を
その静けさで
どこまでも響かせてほしい
式日
古ぼけた
街並みは静かで
ここでは
失われたものばかりが
とても美しい
夜のほとりを歩く
わたしは白い服を着て
広場には
踊るひとがいて
その中央には
赤々と火が燃える
わたしは
髪を切り
投げ込む
それが燃えるのを眺めている
ここには
昼がなく
炎のリズムが
いわば時間であった
広場を越え
どこまでも続く街灯が
通り過ぎるたび
消えていく
そして失われたものたちが
ふたたび失われ
それはいつまでも美しかったと
白い髪のわたしは
言うのだろう
ストロウ
それだけ、(よ) ほしいも
のは生みだせるから スト
ロウを分別して頂戴。しゃ
かいの授業でならった で
もわたしの目には噛んだ跡
がそこいらじゅうにあって
、昔いたらしい怪獣の記憶
を裁断したかけら みたい
で材料がほしいから 造花
を葬りかけて やぶれかぶ
れのオゾン層から熱したプ
ラスティックが匂ってく。
集合住宅では、あのこの
ママとこあたしのママが
ゴミの事を罵り合ってい
て
せいほうけい
にしまうと
まあるいビス
ケットがまっ
ぷた つ じ
ゃあ ないほ
うが まし
はなしになんない かわ
りに、勢いよく たべた
いちごをいっきに吐いた
ら 中央線を逸れてって
帰れない 防空壕みたい
って胃を突き上げなが
ら 地につかない足がぬ
いつくようにがっこうか
らはあるいて 帰った。
道端の停留場のわずかな
面積 これじゃ眩しくて
隠れることすらままなら
ないわ せいほうけいに
数字があって あたまが
ぐしゃぐしゃになって
ちょうほうけいになった
朝までバスは来なくて
速度だけが 摩擦で黒
くただれてたのに 疑っ
てやまない 瞬間裏から
かわいい犬がでてきて陽
に焼かれてた 傷をなく
す新しいニスを探してき
てて塗り残したところどこ
ろが ママがくれた乾いているマニキュアは植物に
塗ってあげた ママの肌の感触は とてもわたし
とちがう
ちはみたことがない。わたしは
、うみだせることを疑ってやま
ない
まちがって口の中を噛んだ やわらかい傷
はやわらかい寝床にあるのだと
ははは毎日汚れたシーツを乾かしながら
思わせぶり
胃まで伝わない食物残渣で生き残るわたしたち
それは
ママたちが、たがいちがいに歯で
口の中を噛んで
まちがいを仕向ける戦争なのだと
ストロウを噛んで
口の中にした味 それ
も後になってからのこと
5ねんご
10ねんご
100ねんご
死ぬまで戦争がやってこないでくださいと
わたしは咀嚼したいちごを
飲み込むことすらままならない
せいくらべの
はしっこからちょきんちょきんと
結った跡ばかりが痛いです
おっこちそうな
ようちえんじだとしても
さよならにはんたい
渋谷で
だれかを失ったひとびとが
「さよならに反対」
そう声をあげ
行進している
目を覚ます
こんな夢を、見た夜はもうねむれない
だれかや
なにかを失った者たちは
美しく品よく見えて
それに比べてどうだろう僕は
空を仰いでしまう
いつまでも酷く
とてもみにくいままで
そしてなにかを失った人々は
静かに、やわらかに死んでゆく
だれか
どうか教えてほしい
わたしはどんな風に
死んでゆけばいいのか
つまりどんな風に
生きてゆけばいいのか
おしえてほしい
深夜2時
コーラをなみなみ注いだコップを置き
ポテトチップスの袋を肌身はなさず持った
30はあるテレビのチャンネルをまわしつづける
このさびしい怪物へ
あのひとがくれた造花を手にとって
花占いをする
生きたい 生きたくない 生きたい
生きたくない 生きたくない 生きたくない
携帯できみの画像をだしてキスをする
きみに電話をかけようとしてやめる
きみを失ってしまいそうだと思う
理由なんかなく
つまりわたしのすべてを理由としながら
きみを失ってしまいそうだと思う
テレビに目を向けると
アニメのエンドロールがながれている
わたしはひとり
その音楽にあわせてくるくる廻る
くるくると
くるくる
廻りつづける
床に花が落ちている
花弁のない造花がおちていて
わたしはにっこり笑ってみる
「さよならに はんたい 」 と
静かにつぶやきながら
木々の家々
あなたではない、友達がいます。
そんな当たり前のことを口にすると、彼は手の平でわたしを見るかのようにそっと近づけて、近づけた手の平をそっと引っ込めました。誰でもそんなことを言われたら、さみしくなるでしょう。わたしにはわかりきっていましたが、どうしても彼がしきりにわたしを知りたがることに、うんざりしていたのです。うんざりしていたという言い方はまた、わたし自身にもかなしみを落とします。
それだけやっかいな程、わたしと彼とには年月が流れていたのです。一体全体、何年もの間にひとつの契約も交わさずに、そばにいるということがどうしてできるのでしょうか。実を言うと以前にはわたしたちの間にも契約があったのかもしれません。にもかかわらず、わたしたちは今はじめて契約を交わすかのような、静けさの中にいました。それであなたに、友達というのが他にいるのは、皆さんが知っている事実でしょう。今朝なんか、あなたが生まれてから四ヶ月ばかり過ぎて、こちらに生まれて来た、あなたが決まって、四ヶ月の待ち人と、呼んでいる女性に挨拶をしたところなんです。彼は、自らと、わたしが引き起こした、静寂に、取り付かれないようにと、いつもより早口で喋るのでした。わたしは下を向いていました。本当に伝えたいことを、小鳥の飛ぶように話すのは、真実のところ、このように幾多の木々に小鳥を休ませねばなりません。そのうち休んでいた小鳥の方が、木々で、遊んでみたり、隠れてみたり、はじめるのです。わたしたちは、その小鳥を追うように、歩きはじめました。考えもなしに、向いている方向に、足を動かしながら、並んでみたり、わたしが後ろになったりと、角を何度か曲がり、同じ道を通っていました。向いている方向が、前なのですから、至極まっとうに歩いていたわけです。いつの間にか、他愛のない、話がはじまりました。時にそれは退屈な夕食の話であったり、森の小さな井戸の噺でもありました。わたしが、一際、耳を傾けていたのは、やはり、もっとも広い、草原の匂いのする、お話です。ついつい、互いに、よもや世界中の話をするに至る時です。彼は、足を、ゆっくりと、緩めました。指をとんとん、とわたしは、何か言いたげに、右の角を見つめていた時です。そして、口を、開いたのでした。
そんなことよりも、今は、三月ですから、時間で言うと、まだ、夜明けです。
言われてみれば、確かに、そうなのです。歩いている間に、誰にも、会わなかったのも、そういうことでしょう。わたしたちは、まだ、おやすみ、おやすみ、と言って別れました。それから、それぞれ、家の門をくぐり、おはよう、おはよう、と、ドアを開けて、誰ひとり、起こさないように、ドアを閉めるのでした。小鳥が、やっと、巣の中に、戻っていました。
風紋をかぞえて
垂直に
しろい花弁のうえを
踏んでゆく足
には、どれだけの空
が
あったの
*
血のちった
猫のなきがらを葬る
手はひとしく、やわらかい
猫、きえた
道路にはおもかげが
のこり、けれど
それさえも次第に失われてゆくん、だ、よ
モミジバスズカケから斜めに
こぼれるひかりの、腕
*
幼いころは、大抵
座敷のすみで
たいらな花器にいけられていた
剣山がざくりと
肌を突きぬけ
肉をおし分けてゆくのを
感覚として理解、して
あらかじめ
痛点もないから
ほとんどうつくしく
なかった、と
記憶のそとの、おもいでを捨てた
*
昨夜、さんざんに降った雨が
けぶって、町は
おだやかな
波のなか
しずかに
あらわれている
*
かつてわたしにも
体温があったのだと云う
けれども、うまれてすぐに
みるみるつめたくなったから
気のせい
だったかもしれない、と母は云った
躰のとなりを
まあたらしい子どもたちが
さんざめきながら
学校へゆく
*
ところどころ
ぬかるんだ躰に
染みこんでくるものを
ようやくみとめて
此処にいる
わずか、折れ曲がった嘴の鳥が
飛びたち
かざきりばねの鳴る、空の
底に、いる
しろい花弁のした
わたしは凹凸として
いのちごと蠢く
町の散歩
五月、私は
つねに私であり、歩いていた
電柱は問題なく立ち
道々の薔薇は不完全に美しい
たったいま
道路鏡をよぎったのは私か?
出掛けに
ケイタイは充電すると重くなることを知った
歩きながらの
私の身柄に
赤い液体が満ちているはずもなく
とりどりの内臓など詰め込んでいるはずもなく
抜きつ抜かれつ、左右の靴先が
舗道に滑り出ているはず
切り取りでもしないかぎり
私は、生涯
自分の耳を見ることはできない
天気雨だった
雨女のあの女は
私の濡れた耳のへりを旅していて
粉ガラスのような金色の雨粒を裸にまとい
あまりに自分が好き
女神を気取り
崖上から羽ばたこうとする
私は
つねに私であり、歩いていた
陽射しが町をすばやく乾かしていく
パン屋の店先、一輪のマーガレットから雫が逃げる
空のすみずみまでチャイムがめぐり
郵便配達のバイクが
片足投げだしUターン
小麦粉が焼け
それきりの
静寂に
顔をあげれば、あの女の
息吹が一陣、町を掃く、色彩を刷る
とつぜん私は愛される
せつなの苦しい
幸福
身をふるわし
歯をくいしばる
過ぎれば短い橋が見えてくる
手前の幟旗はたしかクリーニング店のはず
「六月」もしくは「青いポロシャツ」
六月が始まった。覗き見る指の間から指の向こうの景色が生まれ、それはどうしてもやるせない。水に無数の島山が浮かぶ奇景だ。雨の匂いがしてしまう。僕は泣きたくなる。泣きたい、という衝動が連なり、小さな太鼓を鳴らして行進する。
音には緑の蛇が巻き付いていて、死んでしまえと赤い舌を出している。言われなくとも僕は死ぬ。手足二十本の指に二十個のほの白い爪を持つ人間、そんなつまらないものに過ぎないのだから、僕は。六角形の恋が、目の隅の黒い機械から転がりながら出てくる。箱に詰められることもなく、ため息とともに広大な世界に拡散して見えなくなるもの。もしくはそれは、昼餉の後のさびしい空白の時間、後頭部に飛んでくるひらひらした影の気配。昨日、吊られるように跳ね上がり、コッカースパニエルが追いかけていたあれがそれだ。そんなものを追わなくとも、どうせ僕らはばらばらに飛んで散っていく。「僕ら」と僕は言い、突っ伏して言葉をぐいと喉に詰まらせ、後はもう一切何も言えなくなる。目を閉じると六月でも何月でもない空が動かし難く、かつあいまいな色彩で体を覆い始める。色の呼び方を与えられない雲。雲。雲に連なる靄。
家々の屋根で太鼓が鳴っている。
かつては「あらかじめ失われている」という言葉が好きだった。今は痛み以外の何もかもが僕から失われようとしていて、僕以外の人々はみなガラスの目で、空間としかいえない空間を見ている。素敵だ。泣きたいという衝動たちはそれぞれ小さな潜水艇に乗り込んで辛い海底の風景を漂い始める。泥の上にわずかに石が乗るだけの、単調な起伏が続く海底。太鼓の音はそこでつぶつぶとした小さな小さな泡になってしまう。水の中をとりとめなく浮き上がっていくためだけに。それもそれで素敵だ。が、ちっとも美しくない。
「愛は手続きへ解消してゆく。」カフェの窓の下に車が見える。その、ハンドルに被せられていたタオルが言った。タオルの下をくぐり抜けてフロントガラスに居所を移した羽虫も性という手続きを負っている。「では、虫の愛はあらかじめ解消されているのか?」椅子の上で組んだ足の、汚れたスニーカーの先に魂をひっかけておいて、体はひたすら老いる練習を繰り返している僕が聞く。タオルは黙って吸い込んだ汗を咀嚼している。僕のテーブルに置かれたアイスコーヒーのグラスが答えた。「犬に仏性はあるのか、という問題と似たような形式がその質問にはある。それだけだね。」と。車の羽虫がふっと飛ぶ。しかし閉じられた空間に出口はない。今度はカーエアコンの吹き出し口にとまる。フェイスタオルには「I LOVE SPORTS」と書いてある。車の種類は〇二年製の商用ワゴン、トヨタプロボックスだ。目前のアイスコーヒー。グラスは実はほとんど空で、溶けかかった氷がわずかに残る。凝結した水分が玉となって付着している。そんなこんなの辛さ。乾いた涙腺が震えるだけの辛さ。
僕のかわりに誰かが泣く。美しく泣くのは本当に難しい。泣くのは人に任せよう。その人が、今あそこにいる青いポロシャツを着た、腕の太い大柄な男性でも良いし、そうでなくてもよい。いずれにせよ、彼は僕よりもしっかりと、ちゃんと泣けるにきまっている。彼の人生については何も知らないが、そうにきまっている、と考えなければもう僕は生きていけない。
六月の島山が、とうとう光を浴びることのないまま僕の目の裏側で夕闇に沈もうとしている。やるせなさも終わる。午後二時半のこの場とは関係なく、僕は幻視の中の一日を早ばやと閉じてしまう。指を広げる。広げた指をまた閉じる。その指の向こう、ああ、どうにも辛そうな表情で、青いポロシャツの男はトレーに乗せたキャラメルマッキアートを自分のテーブルに運んでいる。辛そうなふうに見えてくるのだ。彼こそが本当の悲しみを泣く。
希望は僕の知らない場所にしかないのだから。
散華
夜を解体するあなたの腕が、こまやかに分たれて腐食していく、長い髪が放射状に散らばった水面に、月がぬらぬらと白く光っている、その胸に穴があいて、ぽこりぽこりと音がする、潮が満ち、その陰でひそやかに花がこぼれだす、ひとつふたつみっつよっつ、とお、
わたしはそこに横たわったまま
浅く目を閉じてそらをみている
死んだ生物が群れて、あなたの下腹部を泳ぎまわり、どうしようもないのに腐臭がする、海は荒くなにかを隠すようで、泳ぐ指さきが熱をもち、震える、壊れはじめた夜の破片が、音もなく沈み、消え、そしてまた花がこぼれる、ふたつみっつよっついつつ、とお、
ほしが墜ちるその
おとをわたしほんとうは聞きたくなんてなかった
銃声のかげで不完全なひとが泣きながら笑っている
べとべとになったわたしの首をそのよごれた手で絞めて
そのまま海に沈めてください、夜は
解体されつづけている、花が咲きそしてこぼれみっつよっついつつむっつ、とお、
わたしの呼吸がとまる
そのときまで眠りにつかないでいて
水面がぼこぼこと沸きあがり、弾ける泡が悲鳴のようだ、あなたの両足はしだいに感覚を失い、もう境目がわからない、その腹は大きくふくれ、空間を時間を圧迫する、欠けた夜はもう夜ではなく、そしてまた花がよっついつつむっつななつやっつ、とお、
息ぐるしさをかかえ
ながら強く祈り続けていたのは
妊娠線がはりめぐらされたからだを、解体された夜が解放する、こぼれつづける花に、ゆっくりと水面が閉じていく、その中心でわたしたちは、つぎつぎにほしを孕む、むっつななつやっつここのつ、花を手向け、とお。
暁
あしたにはあえるのだ
と思ったら
心臓が身構えて
つるべをきりきりと巻き上げ
血はわざとらしくゆっくりと巡りだす
この風なら船脚は速そうだ
でも君の船が港に着くまで
時間は十分にある
今夜はうすのろの野良犬みたいに
たっぷりと眠っておかなくては。
最小限の力で穴をあけるには、錐の要領で押しながらねじ込むこと。夜の鰯雲は雨のきざし。どうにもならんよ、と歌いながら、君は脚漕ぎアヒルボートで傍らをゆく。黒い凪、後の月、銀製スプーンの櫂なんか放り捨ててしまえよ、と君が歌うと、手の中の櫂はとぷん、と気持ちよく沈んでいった。あらら、これでは困るじゃないの。知らないよ、と子供のように歌いながら、君はペダルを踏んでさらに沖へと漕ぎ出していく。おおい、どこ行くの、帰ってくるんじゃなかったの。ええい困った、本当に困った、救助を、できれば至急、と、櫂も帆もない小舟の上でおぼつかない手旗信号を振り回しているうちにサイレンのごとき黎明ブルー、
朝がくる。
朱の空
三角波
消えゆく星
静かな接岸
ひょいと踏み切る
波止場の板がぐわんと揺れる
差し出される手のひら
長距離を泳ぐ魚の背びれ
迎えうつ
抱擁する
消えてなくなれ、
私の体。
船の上では冷凍エダマメばかり、あとは海つばめを釣って食っていたのだそうです。つばめなんてどうやって食うのよ、そりゃ、こうかたはしから羽をむしって素揚げにするんだよ、手羽先みたいでうまいよ、嘘をつけ。ま、いいや、嘘でもなんでも。ほら、日が昇る。空の空色がはるか洋上まで澄みわたる。朝食はイワシの開きと赤カブの塩もみとひじきご飯だよ。え、それだけですか? はい、急だったんだもの。
蜂蜜金のトランペットが鳴っている
吹流しが馬鹿みたいにひるがえる
日に透けているくしゃくしゃの笑顔
これでいいのか、と叩きつけると
これでいいのだ、と跳ねかえり
腹の底へ音もなく着地する
おかえり
昼の月
粉々にこわれた
夢の化石
あたたかく
やわらかな
たいせつなひと。
kimi no yume
わった果実の切断面を
錯覚して、くっつける
ことばかりがほんとう
。 」部屋の隅々か
らくちゅくちゅ」音が
して「くる 、聴こえ
がいいのは夜だけ だ
から きみとわたしが
眠りにつくまで、
わたしはきみではない
似ているだけでべ「つ
べつの「容器に入れら
れ」た かわいそうな
きみ 死ん」ださか
なが溺れるなか きら
めく あれは、
夢だってきめつけた
くっついてからの記憶
が鮮明すぎるから 目
が覚めないように 冷
蔵庫のコンセントは抜
いて 」」あげた
きみの細い手首のよう
なものを握りしめたま
ま日を越えて しょー
みきげん ですが そ
の記憶があるのはわた
しがとても古い映像
を
見ていたから、
みんなテレビのなかのことにすぎな
い 新しい映像はきめが細かくなっ
て たにんの肌みたいに馴染んでし
まって
))
)
いちど切れたものはにどと
くっつかない でんわをか
けたら ははが教えてく
れたのだ おなじおと
が聴こえないきみはで
んわにあなのあいてな
い強く耳をおしあてて
、スピーカーを壊した
わたしだけにあいてい
るあな をこえようと
きみのかおはわたし
の輪郭をおしなべ わ
らわせ わらいがとま
らない
ははに似ている
のはわたしだけなのだから