I
インインと頻(しき)り啼く蝉の声、
夏の樹が蝉の声を啼かせている。
頁の端から覗く一枚の古い写真、
少年の頬笑みに指が触れる。
本は閉じられたまま読まれていった……
II
日向道、帰り道、
水門のかたほとり、睇(めかりう)つ水光(みずびかり)。
すこし道をはずれて、
少年たちは歩いて行った。
だれも来ない楡の木の下蔭、
そこはふたりの秘密の場所だった。
あわてものの象戲(チエス)のように
鞄を抛り投げて坐った。
「きょう、学校でさ、
脈のとり方を習ったよね。」
何気ないふりをして腕に触れる。
脈拍は嘘をつくことができなかった。
III
あれは遠足の日のことだった。
車内に墜ちた陽溜まりを囲んで、
騒ぎ疲れた子どもたちが
みんな、とろとろと居眠りしていた。
ふたりは班が違っていたけれど、
となりどうしに坐って微睡んでいた。
自分たちの頭を傾け合って、
頭と頭をくっつけて、
ふたりは知っていた。
眠ったふりをして息をしていた。
透きとおるものが
車内を満たしていた。
ふたりだけの秘密。
少年の日。
IV
だれが悪戯(いたずら)したのか、
胸像の頬に赤いチョーク。
部屋の後ろに掲げられた
木炭画スケッチ。
変色して剥がれかかっている。
まるで乾反葉(ひそりば)のようだ。
器に盛られた果物たちの匂い、
制服の下にこもった少年たちの匂い。
すでに何人かは
絵の具を水に溶いていた。
眼は椅子の上、
じっと横顔ばかり見つめていた。
叱り声が飛ぶ。
背後に立つ美術教師の影。
はっとする級友たち、
耳を澄ます木炭画たち。
違った絵の具を
絞り出してしまった。
V
あの夏の日も、
あの少年たちの頬笑みも、
束の間の
通り雨のようなものだと思い込もうとして、
ほんとうの気持ちに
気がつかないふりをして
通り過ぎてしまった。
午後の書斎、
風に揺れるカーテン。
インインと頻り啼く蝉の声、
夏の樹が蝉の声を啼かせている。
頁の端から覗く一枚の古い写真、
少年は、いつまでも微笑んでいた。
最新情報
2012年08月分
月間優良作品 (投稿日時順)
- 陽の埋葬 - 田中宏輔
- 生贄 - コーリャ
- 陽の埋葬 ─REMIX─ - 印牧ショウタ
- 私たちもあなたたちも、彼ら彼女らも、みな眼鏡を探す - 右肩
- 電入操作官 - 菊西夕座
次点佳作 (投稿日時順)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
陽の埋葬
生贄
・
きみがほめてくれた鼻梁のさきから
からだは腐りおちていきます
(崖にたつ風車たちがうつろに手をふって
入水自殺をこころみるたぐいの
そうして盲いるときは
たとえ
けつえきが砂鉄で
ざえざえになっても
黒人というよりは
黒曜石(sic)にちかい鳥類として
うみべを警備しようって
こんたん
氷を燃やしたみたいにつめたい火矢を
星空に放ちながら
夜が朝にプロポーズするのを
指さし確認する
というおしごとをします
世界にはいろんなひとがいますからね
なんで生きてるんだろうってひとばっかりですが
みえない精霊と手をつないでぐるぐるダンスしつづけることで
神様にちかづいていく
そんな祈りかたを
いちばんはじめに
祈ったひとをしってますか?
階段の折り返しばしょで
なんとなく
神聖にふるまっているのは
その踊り手へのあこがれからです
・
ヤクの角でできたカヌーが霧の川をくだっていくように
いちばんはじめにこの街の匂いをかいだときみたいに
あるはずもない天国のことをかんがえています
そこにすむ動物の性格
なきごえ
にじの色のかぞえかたや
あらゆるおぞましい地名
ドストエフスキーはそっちでげんきにやってるか
ただ生きてるだけでなにかを盗んでいるきもちになることとか
なにもかも
なにもかもだった
・
「やっぱり許されたいから?」
とカーラジオのCMがいった
やっぱり許されたいから6月
よぞらに
アルミ缶を
星のかずだけ吐きだす自販機と
おなじ声質で
踏み切りの遮断機はうたって
あちら側とこちら側を
すらりとした二の腕でへだてた
助手席になげていたポールモールに手をとる
さいきんは世界中どこでも
悪魔の従者のように喫煙者をあつかうため
失明のげんいんになります
という警告文と
アイスランドでたべるブルーハワイの色をしたひとみのおとこが
異端審問官として
喫煙者たちをへいげいしている
車のハンドルにもたれてなにげなく
めのまえを横断していく
二両編成の列車は
仲良く手をつなぎながら
雑種のしょくぶつがよこしまなことをしているような森の奥へと
いみもなくわらいあいながら
かけこんでいった
そのあいだ
ずうっと
車のラジオは
季節のはなしをしていた
レモンを半分にきります
片方はすてます
のこったほうを
お皿にそえます
はいどうぞ
これが六月です
ということらしかった
・
神様は
ひとびとを
はんぶんこにしちゃったのである
だから私たちはいわば理科準備室の人体模型であり
いきることは
えいえんに放課後をまっていることにほかならず
立たされたままねむる夢のなかで
わたしたちは半身の肌を探しに
いつもたびにでかけているんだよ
と言った
天国では死んだひとたちが
生きてきたなかで
いちばんきれいだった海の話をするそうだけど
海のかわりに僕はいちばんきれいだった女の子のこと
と言った
あなたが死ぬとわたしも死ぬよ
と言った
自殺よくない
と言った
ちがうの
死んだあなたに殺されちゃうんだ
死んだあなたはわたしのすこしのぶぶんを略奪して
しのせかいにつれさってしまうの
と言った
いまも人体模型たちは
せかいじゅうのおおきなまちとちいさなまちを疾走しながら
半身をさがしているんだろうか
とは誰も言わなかった
そのかわり
さよならはちょっとだけ死ぬことだ
と誰かが言った
もしあなたたちのどちらもただしいなら
ぼくたちはさつりくをくりかえすことになり
・
そして、
そして、
とつぶやく接続詞が、
やさしくいだくうちゅうを航跡をひきながら旅団していく、
ながれぼしはいちびょうのあいだになんども死にながら
かつてうつくしかったものをひとつづつていねいに忘れていったのち
ショートケーキでできた地上に
アイシングシュガーとしてふり注いでいた
大気圏を突破したじゅんから
虹色のばくはつをおこす
戦時中にもかかわらず
ひとがしんだりするにもかかわらず
彼女はそんなところからわらいかけてる
流れ星をそのてのひらにうけとるごとに
地平線が歌うみたいに仄かに光る
そう 滅びるってこういうこと!
彼女は駆け出す
もう
うごかないオルゴールみたいな
うごかない遊園地の
うごかないコーヒーカップに
ふたりはのりこむ
聴こえる近さのものでは
みんな気狂いのお祭りのようだったし
聴こえこえないくらい遠くでは
国がホットチョコレートととして溶けながら滅亡した
かれらはまたどうしようもなく諍う
ひとが死んだらどうなるのか?
天国にはいかない
もしあなたが死んだら?
天国にはいかない
さようならは
そしてそしてそして
きみがほめてくれた鼻梁のさきから
崩落がはじまっていったら
すべてのビルがぜつぼうにくずれおちたら
ぜんぶのことばのいみがほどけて
いっぽんのピアノ線になってしまったら
クローゼットのなかには
さんかくすわりの天使がいて
あなたが死ぬまで歌をうたいつづけたら
素敵だなとおもったのですが
たぶん
ビルはおもいのほかくずれませんし
ことばのいみはわりとちゃんとわかってますし
天使とかいない
ピアノもなります
きせきとかもない
それは絶望とすらよんではいけない
魂とかほんとうはわからない
それでも
美しさをぜんぶさしひいたあとの地平に咲いた
なにかを
神聖とかんちがいしながら
生贄でもいいから
生贄でいいから
追伸.
(列車のレールは
水底まで届いていたから
なすがままに列車たちは
みずうみに
音もなくすべりこみ
やっぱり
手をつないだまま浮かんで
空を飛ぶさまざまなものを
みつめながら
くるりくるりと
水没してゆきました
れっしゃは
てんに
のぼっていく
あぶくをはきながら
あおいてんに
のぼりながらぼくのなかでことばがあふれていく
そのしゅんかんに
ころされていれる
ぼくたちはそのままの
ことばになれずに
みずにさいて
さけて
ちりになり
ほのをもしらずに
もえていく
といい
へんじがないと
となりをみると
とっくに水没してしまい
とてもちいさいものになってしまっていて
ひかりさえもぼくらをからめとらない
なめらかなあんこくの
もっとおくで
なる心音に)
陽の埋葬 ─REMIX─
おーい
──子よ。 *01
え?
──わたしの子よ。 *02
ああ、久しぶり
──わたしはここにいる。 *03
うん、わかるよ
──子よ、わたしはここにいます。 *04
うん
──子よ、近寄りなさい。 *05
そうだね
──わたしです。 *06
うん
──わたしがそれである。 *07
うん、わかるよ
──わが子よ、今となっては、あなたのために何ができようか。 *08
そうだね、今度、いろいろ頼もうかな
──あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。 *09
すべては難しいよ
──子よ、わたしの言葉にしたがい、わたしの言うとおりにしなさい。 *10
最近、朝が一番不安なんだ
──目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。 *11
涙が流れるときもある
──信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。 *12
ま、あくびってことにしてるけどね
──新しいいのちに生きるためである。 *13
そういえば、二人で飲んだこと無かったよな
──あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。 *14
ほら、昔、山に家族で遊びに行って
──心のねじけた者は主に憎まれ、まっすぐに道を歩む者は彼に喜ばれる。 *15
兄貴が、川で溺れて流されて、先が滝で
──むちを加えない者はその子を憎むのである。子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。 *16
親父、あん時、泳いで、兄貴の手をつかんで、覚えてる?
──わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。 *17
俺は、覚えてるよ
──わたしの子よ、あなたはイエス・キリストにある恵みによって、強くなりなさい。 *18
あの後スイミングスクールに通ったから、泳ぎは俺の方が上手くなっちゃったけど
──愛する者よ。悪にならわないで、善にならいなさい。 *19
親父の自己流の平泳ぎ、俺は覚えてるよ
──御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。 *20
そうだな、親父はクリスチャンだったよな
──肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。 *21
おばあちゃんも、そうだったな
──あなたは女と寝るように男と寝てはならない。 *22
いつも、アップルパイ買ってきてくれたおばあちゃん
──わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。 *23
高知にフェリーで行ったとき
──子よ、わたしの言葉にしたがい、わたしの言うとおりにしなさい。 *24
七味唐辛子をふりかけと勘違いして、俺
──罪を犯してはならない。 *25
笑顔でうどんに掛けまくってさ、あれ
──ここから出て行きなさい。 *26
親父が8ミリで撮ってたんだよな、音の無い8ミリで
──立ってこの所から出なさい。 *27
この間見たよ
──手を引きなさい。 *28
俺、すっげえピースサインで七味掛けてんの
──それだけでやめなさい。 *29
結構かわいかったのな、子供の頃の俺
──もうじゅうぶんだ。今あなたの手をとどめよ。 *30
親父から見ると、ああ映ってた時もあったんだな
──あなたは愚かなことをした。 *31
すげえ辛かった、あれ残したんだっけ?
──あなたはしてはならぬことをわたしにしたのです。 *32
そうだ、親父が食べたんだ
──自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。 *33
俺が10代の時は、あんまり良い思い出無いね
──どうぞ主がこれをみそなわして罰せられるように。 *34
うん
──あなたは死にます。生きながらえることはできません。 *35
そうだろうね
──神はあなたを滅ぼされるでしょう。 *36
その時が来るまで、しんどいね
──地のおもてから、あなたを滅ぼし去られるであろう。 *37
俺も、誰かにちゃんと伝えるよ
俺も、誰かにちゃんと伝えるよ
──地のおもてから、あなたを滅ぼし去られるであろう。 *37
その時が来るまで、しんどいね
──神はあなたを滅ぼされるでしょう。 *36
そうだろうね
──あなたは死にます。生きながらえることはできません。 *35
うん
──どうぞ主がこれをみそなわして罰せられるように。 *34
俺が10代の時は、あんまり良い思い出無いね
──自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。 *33
そうだ、親父が食べたんだ
──あなたはしてはならぬことをわたしにしたのです。 *32
すげえ辛かった、あれ残したんだっけ?
──あなたは愚かなことをした。 *31
親父から見ると、ああ映ってた時もあったんだな
──もうじゅうぶんだ。今あなたの手をとどめよ。 *30
結構かわいかったのな、子供の頃の俺
──それだけでやめなさい。 *29
俺、すっげえピースサインで七味掛けてんの
──手を引きなさい。 *28
この間見たよ
──立ってこの所から出なさい。 *27
親父が8ミリで撮ってたんだよな、音の無い8ミリで
──ここから出て行きなさい。 *26
笑顔でうどんに掛けまくってさ、あれ
──罪を犯してはならない。 *25
七味唐辛子をふりかけと勘違いして、俺
──子よ、わたしの言葉にしたがい、わたしの言うとおりにしなさい。 *24
高知にフェリーで行ったとき
──わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。 *23
いつも、アップルパイ買ってきてくれたおばあちゃん
──あなたは女と寝るように男と寝てはならない。 *22
おばあちゃんも、そうだったな
──肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。 *21
そうだな、親父はクリスチャンだったよな
──御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。 *20
親父の自己流の平泳ぎ、俺は覚えてるよ
──愛する者よ。悪にならわないで、善にならいなさい。 *19
あの後スイミングスクールに通ったから、泳ぎは俺の方が上手くなっちゃったけど
──わたしの子よ、あなたはイエス・キリストにある恵みによって、強くなりなさい。 *18
俺は、覚えてるよ
──わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。 *17
親父、あん時、泳いで、兄貴の手をつかんで、覚えてる?
──むちを加えない者はその子を憎むのである。子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。 *16
兄貴が、川で溺れて流されて、先が滝で
──心のねじけた者は主に憎まれ、まっすぐに道を歩む者は彼に喜ばれる。 *15
ほら、昔、山に家族で遊びに行って
──あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。 *14
そういえば、二人で飲んだこと無かったよな
──新しいいのちに生きるためである。 *13
ま、あくびってことにしてるけどね
──信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。 *12
涙が流れるときもある
──目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。 *11
最近、朝が一番不安なんだ
──子よ、わたしの言葉にしたがい、わたしの言うとおりにしなさい。 *10
すべては難しいよ
──あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。 *09
そうだね、今度、いろいろ頼もうかな
──わが子よ、今となっては、あなたのために何ができようか。 *08
うん、わかるよ
──わたしがそれである。 *07
うん
──わたしです。 *06
そうだね
──子よ、近寄りなさい。 *05
うん
──子よ、わたしはここにいます。 *04
うん、わかるよ
──わたしはここにいる。 *03
ああ、久しぶり
──わたしの子よ。 *02
え?
──子よ。 *01
おーい
References
*01:創世記二七・一、罫線加筆。
*02:テモテへの第二の手紙二・一、罫線加筆。
*03:創世記二七・一八、罫線加筆。
*04:創世記二二・七、罫線加筆。
*05:創世記二七・二一、罫線加筆。
*06:サムエル記下二・二〇、罫線加筆。
*07:マルコによる福音書一四・六二、罫線加筆。
*08:創世記二七・三七、罫線加筆。
*09:ヨハネの第三の手紙二、罫線加筆。
*10:創世記二七・八、罫線加筆。
*11:コロサイ人への手紙四・二、罫線加筆。
*12:ピリピ人への手紙三・九、罫線加筆。
*13:ローマ人への手紙六・四、罫線加筆。
*14:マルコによる福音書一・一一、罫線加筆。
*15:箴言一一・二〇、罫線加筆。
*16:箴言一三・二四、罫線加筆。
*17:箴言四・二〇、罫線加筆。
*18:テモテ人への第二の手紙二・一、罫線加筆。
*19:ヨハネの第三の手紙一一、罫線加筆。
*20:ガラテヤ人への手紙五・一六、罫線加筆。
*21:ローマ人への手紙一三・一四、罫線加筆。
*22:レビ記一八・二二、罫線加筆。
*23:箴言一・一〇、罫線加筆。
*24:創世記二七・八、罫線加筆。
*25:エペソ人への手紙四・二六、罫線加筆。
*26:ルカによる福音書一三・三一、罫線加筆。
*27:創世記一九・一四、罫線加筆。
*28:サムエル記上一四・一九、罫線加筆。
*29:ルカによる福音書二二・五一、罫線加筆。
*30:歴代志上二一・一五、罫線加筆。
*31:サムエル記上一三・一三、罫線加筆。
*32:創世記二〇・九、罫線加筆。
*33:出エジプト記二一・一七、罫線加筆。
*34:歴代志下二四・二二、罫線加筆。
*35:列王紀下二〇・一、罫線加筆。
*36:歴代志下三五・二一、罫線加筆。
*37:申命記六・一五、罫線加筆。
2011年9月5日に投稿された『陽の埋葬』(田中宏輔)を原典とし、
*01〜*37の引用・罫線加筆部分を全て取り込んでいます。
私たちもあなたたちも、彼ら彼女らも、みな眼鏡を探す
あるはずのない眼鏡を探して手を伸ばしていますね。枕の脇は探しましたか?洗面台の隅、歯ブラシ立ての辺りはもう探ってみたでしょうか?机の上、モニターのすぐ下のところ。昨日着た綿ジャケットの胸ポケット、そこも確かめてみるべきかも知れません。内ポケットにもなかったら、もっと手を伸ばさなければいけなくなります。
長い廊下の向こうの部屋、さらに向こうの部屋。薄暗闇をたどっていくと、夫のような妻のような人物がソファに沈み込んでTVを見ていたり、息子のような娘のような人物が裸で立ち尽くしていたりするかもしれません。その鼻先を掠めるようにして伸びる腕。探される眼鏡。眼鏡は何処にあるのかと、家の庭先の十薬の茂みをかき分けます。処暑の日の太陽がようやく勢いを失い傾いていく。今日の日輪は西に没して死に、もう二度と甦らない。闇がやってきます。密生する草の葉の根元辺りは既に十分に暗く、生まれたての蟋蟀がほの白く蠢いています。湿った土の上に眼鏡はあるでしょうか?ありません。
ここまで描かれた、一枚の絵のような世界に安住していたら眼鏡は見つからない。それはわかる。約束のメモが幾枚も破り捨てられ、あるいはシュレッダーで処分され、もう眼鏡があっても読むときは訪れません。そもそも、約束されたその日はやって来ないのです。粉々になった木や、石やコンクリート。くすぶっている燃えさしや、今まさに燃えているものから黒い煙が立ち登っている。悲鳴が上がっている。言葉がもつれて痙攣している。そういう街の路上ならば、必ず眼鏡は見つかるのです。それもわかっていることでした。
愛し合うときには眼鏡を外します。より官能的なキスのためには鼻も邪魔ですが、それ以上に眼鏡が邪魔になります。息に曇った眼鏡、その蔓が耳からずれて、甘くくぐもった声を聞きながら記憶の深みに落ちていったのでしたね。忘れていたことはすべて、すすり泣きが思い出させてくれます。どんよりとした暗い瞳が、壊れかかった建物の窓やベランダから、いくつも、こちらを眺めていたのでした。すすり泣く声は表に立つ人の背後、部屋の奥に隠れている人たちの、その喉の深いところから漏れてきているに違いありません。でも、こちらは仰向けに斃れてしまっているので、それが何処の誰のものか、ついにわからないままで終わります。
斃れた身体の近くを探ってみても、ほんの数センチくらいの差で眼鏡には届かないはずです。数センチは長い。やがて身体の中に滑り込ませた指は剥き出しになった骨に行き当たるでしょう。眼鏡ではありません。今となっては眼鏡はあるはずのないもの、あってはいけないものなのです。
さて、空の高いところでは凝結した水の粒子が、ようやく目に映るほどの密度で白くもつれあいながら、いくつかの大きな形を描いています。冷温の強風にさらされる大気の高層で、その一部は筆で刷いたように毳立って。この雲の有様が愛というものだ、ということが段々と誰にもわかってくるのでしょう。
「雲を感じるのには、眼鏡も眼球もいらない。肉体のどの部分も必要とされません。」
そういうふうに聞かされると、それはそれでいいような気もしてくるから不思議です。ね?
電入操作官
ケータイ潜入操作官、略してケー官が、いきなりケーッと吹き出した。正面から自分を撮ろうとした矢先のことだった。吹き出した拍子に、ケー官の声があたしの額にモロに突き刺さった。硬い骨片のような声だった。ケー官は、あたしがカメラを向けたとき、メダリスト気分で自分の銀バッジ(正確には、バッジの尻のところだから、バッ尻、噛みつかれたバッジにとっては、とんだとバッチリ、なんちゃって)にかじりついてみせたから、おそらくケーッと吹き出した拍子に、噛み砕かれたバッジの欠片が一緒に吹き飛んだのだろう。あたしは自分にカメラを向けたのに、なんでアイツがポーズをとるんだ? しかも得意げにバッジなんか咥えて? アンテナが7本(通話GO=II+0[輪]+五=7、これがあたしたちの秘密の合図、どう? やかましい?)立っていることを確認してから、この件について、ケー官に電話してみた。すると彼はこう言った。「瞳の蛍が君の光」。
瞳のケーがあたしの光・・・・・・。
あたしは夜通しかけて読了した本を閉じるように、ケータイを静かに折りたたんだ。唇からはかすかに満腹後のようなため息が漏れていた。折りたたんだケータイを綿ジャケットの内ポケットにしまった。そうして、ケー官が潜入に成功したというきらびやかな双眸を閉じた。もう逃がさないぞと誓った。もう一生、『彼』を逃がすもんかと固く決意した。胸が、ふるえている。ヴァイブレーションだ。マナーモードで揺さぶりをかけてくるなんて、感激するほど紳士的。胸のふるえがいっこうに止まらない。官能的な着心音。たっ、たまらないわっ! あたしは内ポケットに手を突っ込んで、『彼』を取り出す。うれしさで身震いしつづける『彼』を両手でつまんで、股間を広げるように、観音開きでウヤウヤしく歓迎する。瞳のほうはまだ閉じたままだ。この幸せな瞬間を写メに残そうと思う。その想いを悟ったかのように、指先の震えがピタリと鎮まる。以心電信。さすがはケータイ操作官。手探りで通信端末をカメラモードに設定する。厳かに内蔵された『彼』を正面に据えて、目蓋を上げる。『彼』が銀バッジの端を咬んでにんまりしている光景が脳裏に浮かぶ。こんどこそ、確実にシャッターを切らなケーッと音がした。シャッター音よりも早く、ケー官が吹き出した。またしても、早撃ちだ。硬い骨のような声がほてった額を突き抜ける。なんでアイツはあたしと正対する途端に吹き出すんだろう? あたしの顔面がそんなにバカみたいにマズイのだろうか? 苛立ちながらじれったく指を動かしてこの一件をケー官に電話してみた。相手はすでに潜入操作を開始したらしく、電話に出ない。代わりに出たのは、あたしの執刀医、オペレーションドクターだった。ドクはこう言った。「今日こそは君の頭にめりこんだ異物を取り除こうじゃないか」
通話接続バッチGOO。バッジGOO? どうやら潜入に成功したらしい。
『彼』はいつかきっと、真のオペレーターが何者かを証明するだろう。
ファミレ
美しいものはそのまま美しく、そんなに美しくないものは、そのように。
すべてのものがそうあったら、いいな、と思ったんだった。
ミミドラファ意味もなく、悪意に敏感なときってある。真実はもう地球の何処にも埋まっていないと、世界地図を広げて思ったりする、子午線をくすり指でなぞる。あなたが考える、いちばん、柔らかな言葉で、あ、あ、あ、って、口のかたちを、壊さないまま、息を、ゆっくりと、吐き出してください。それが宇宙の苦しさですよ。みたいなさ。真空蒸着?シロップがわだかまるアイスコーヒーみたいに。固形で、すこし寒いよ、夏なのに、あんなにも夕暮れの視界は溶けたのに、寒い、子午線が痛いよ。そんなのに比べたらカラスのほうは、いかにもやさしく世界を積み重ねていくんだ。
悪魔!に!さらわれてしまえ!と、おっさんがダッシュしながら、叫んでた、みんなおっさんのことを、残念なひと、あっちの世界のひと、とかいっていたけど、残念なあっちの世界って、どこですか?おっさんは裸で、ときどき踊って、くたびれたハットに、お金を投げ入れてもらう。銀貨ならにっこりする。金貨ならうねうね、踊る。紙幣なら、うねうね、踊りながら、にっこり。おっさんはそれで林檎を贖う。林檎でお腹が一杯になったら。おっさんは街路へ駆け出す。あの教会の鐘の音よりもしなやかに。夜の賑々しさを守るように。おっさんは叫ぶ。罵る。「悪魔に!悪魔に!」影を深く、深く刻みつけていく。でもおっさんは全裸だ。ねえ、おっさん。アーメンなのですよ。残念なあっちの世界に幸があらんことを。あまつさえこちらの世界には、不幸が溢れてる、らしいから。
ミミドラファいつからか、みんな仮面をつけてる、ここは、不思議な街だ。海も、川もないのに。ちょっと沈んでいる。「呪いですか?」と尋ねてみよう。町人はハーモニカで、生きるってことは罰ゲームじゃないです、罪を探したいなら、スペースシャトルにでも乗れば?と答えます。ソソラシドレミソファ。罪と罰。○と×。誰も。ほんとうに誰も。ソソラシ。ドレミファ。悪魔。「どういう風に生きればいいんですか?」と尋ねてみよう。ファミレと答えるだろう。ファミレ?「うん」喋れたのかよ。
雪
初春の滓のかす
交じる祈りの輪の中で
わたしたち家族は
青い空から降りかすれ 春の雪
そして細雪
わたしたち家族は
冷の一酒を獲得した
森林は万象
ペリエの瓶らしく
その名称ラベルを剥がされ
弱々しいまま
白せきの湯へうずいている
こほっ こほっ
今日
獲得した
身の魚の甘いこと
あなたの肌のあさ黒いこと
おまえは未だ
夜を獲得できないと
おまえはもう片恋を獲得していたと
寿醤へ
やきおの尾をひたして
パクつく私の娘
肌を剥がされ
痛々しいまま
白せきの湯へと
うずいている廃家のようやきお
父さん
またあなたともみじを比べ
池へと苔むす私を ボシャンと落としてしまう
紙一枚
いちげんさんって
面倒もなく
したいことをしている
乳糖のような父と母
少し毛筆の匂いがして良かった
そう思い直すこと
期待に触れ
わたしの指は痺れる
わたしの指は 痺れて する
字義と児戯は錯覚されない
雪から緑色の性欲が発露され
白髪たち何もいえない
父さん
またあなたともみじを比べ
池へと苔むす私を ボシャンと落としてしまう
さあっ
もう全部すてたんだぞ
初めて新宅に電源が開通し
夕方
まだわたしは姉という存在を灯す
神はまだ
玄関の前で兎のように跳ね
石から歌を捻り出そうと
ひょうきんな猫のふりで終わらなかった
軽すぎる靴についた傷を
愚者と
呼び止めてもらう程の死もないから
雪で痛んだ車の鏡に
安全守りが揺れている
なにも揺れているのは わたしたちだけでないのだ
首の骨のように痛みは鈍く
しかしこの首は歴史の集積であった
父さん
またあなたともみじを比べ
池へと苔むす私を ボシャンと落としてしまう
治らない指
ついに焼けた首の系り
そこを温かい指で撫でられた
わたしたちはことごとく運ばれてゆく
スッと眼球に 安易に被せられた桃色が好きだ
この街ならば
この空気を夕暮れと呼び
血の管の中へ家族は侵入して 弾ける
ふとぶつかっても
砕かれることのない砂糖菓子みたいな旦那の話を
とろんと舌に溶かしながら かゆとしたいと思った
山葵の香りが あなたのしろい耳の苦味が浮かび
宛名のない手紙のように降りそそぐ
ボシャン
わたしたちの存在 降りそそぐ存在と軽く留められる 小さい髪のおりらしさ
あなたには 忘れないでほしかった
万象は 季節の旅行者でしかないのに 黒い星の終わりから進入した
あなたもいたということ その季節の軽さと あなた自身の重さ その目眩が
つづいていってほしかった
また降り出した 雪
また降り出した家族たち
『グァバの木の下で』というのが、そのホテルの名前だった。
こんなこと、考えたことない?
朝、病院に忍び込んでさ、
まだ眠ってる患者さんたちの、おでこんとこに
ガン、ガン、ガンって、書いてくんだ。
消えないマジック、使ってさ。
ヘンなオマケ。
でも、
やっぱり、かわいそうかもしんないね。
アハッ、おじさんの髪の毛って、
渦、巻いてるう!
ウズッ、ウズッ。
ううんと、忘れ物はない?
ああ、でも、ぼく、
いきなりHOTELだっつうから、
びっくりしちゃったよ。
うん。
あっ、ぼくさ、
つい、こないだまで、ずっと、
「清々しい」って言葉、本の中で、
「きよきよしい」って、読んでたんだ。
こないだ、友だちに、そう言ったら、
何だよ、それって、言われて、
バカにされてさ、
それで、わかったんだ。
あっ、ねっ、お腹、すいてない?
ケンタッキーでも、行こう。
連れてってよ。
ぼく、好きなんだ。
アハッ、そんなに見つめないで。
顔の真ん中に、穴でもあいたら、どうすんの?
あっ、ねっ、ねっ。
胸と、太腿とじゃ、どっちの方が好き?
ぼくは、太腿の方が好き。
食べやすいから。
おじさんには、胸の方、あげるね。
この鳥の幸せって、
ぼくに食べられることだったんだよね。
うん。
あっ、おじさんも、へたなんだ。
胸んとこの肉って、食べにくいでしょ。
こまかい骨がいっぱいで。
ああ、手が、ギトギトになっちゃった。
ねえ、ねえ、ぼくって、
ほんっとに、おじさんのタイプなの?
こんなに太ってんのに?
あっ、やめて、こんなとこで。
人に見えちゃうよ。
乳首って、すごく感じるんだ。
とくに左の方の乳首が感じるんだ。
大きさが違うんだよ。
いじられ過ぎかもしんない。
えっ、
これって、電話番号?
結婚してないの?
ぼくって、頭わるいけど、
顔はカワイイって言われる。
童顔だからさ。
ぼくみたいなタイプを好きな人のこと、
デブ専って言うんだよ。
カワイイ?
アハッ。
子供んときから、ずっと、ブタ、ブタって言われつづけてさ、
すっごくヤだったけど、
おじさんみたいに、
ぼくのこと、カワイイって言ってくれる人がいて
ほんっとによかった。
ぼくも、太ってる人が好きなんだ。
だって、やさしそうじゃない?
おじさんみたいにぃ。
アハッ。
好き。
好きだよ。
ほんっとだよ。
さんすう
孤独は限りなく演算された、
私の部屋、
演算された値は、
私の皮膚を覆って、
この船に乗り込もうとする、
友人達の口を焼け焦がした
灰の一つ、
ところどころ燃え落ちていく、
島の門をくぐるために、
私は錨を、右腕に、
絡ませて、
そのまま海へ引きづり落とされる、
凝固した科学的実証性によって
何も与えられなかった、
「あ」という濁音に混じらない、
人の背後で、蠢いている、
そして囁いている
者
地獄は限りなく、
平均化された
数式上で0の値を
導き出して、
一気に、針を
振り切って
止まった、まま
凍えている
息を吹きかけた
温まるように、
手を合わせるようにして、
開かれた世界に降る雨は、
死体など一度も焼かなかった、
肉が溶け落ちて、
剥き出しになった、憎悪が
固まって、骨になって、
それが、友人達を、
突き刺す夢を見る、
穢れた手など、
どこにも存在しなかった、
ましてや、穢れる前に、
私たちには差し伸べる、
手など初めから無かった、
私たちはただ肥大化しただけの、
グラムに換算されるだけの脂肪
となって、止まるだけの、
静止物、
大げさな身振りで、
手振りで、孤独や愛を、
うたう、友人の、
魂を、いくら捧げても、
誰かを救うことも、
何かも助けることも、
できないことは、
わかりきっている中で、
いまだに、歌だけ歌おうとする人の、
口をふさごうとして、
私は怒りの中で、蠢いている、
千の亡霊の、
首を駆るようにして、
言葉を吐き出す、
魂より、
重い言葉を
捜して、
この世の果て
たとえば こどもが
すこしふるえながら
母に差しだした悲しみのように
だれに教わることもなく
空を見失うことをおぼえてしまう
おもいのままに
鳥たちは飛んでいるのだろうか
そんな幼い問いにさえ
こたえる術をもたない
わたしらは
ただ
積みかさねても
くずれおちても
ひかりのまぶしさに
初めて出会ったときのように
めをとじて
いくばくかの
やさしい歌のなごりや
肌寒い抱擁に身をまかせて
かわいたのどで
あとかたもなく溶けてしまう
たわいもない秘密のように
生まれたことと
生きることの谷間で
苦笑う影をふみながら
見おぼえのない
やけどのあとに首をかしげて
もえさかる
夏の雨にうたれて
だれに教わることもなく
羽根をふるわせる蝉たちが
羽根を失いながら おしみなく
差しだした沈黙
焼け落ちてゆく空のために
手をつながれたわたしらが
この世の果てから
帰ってくる
立冬
うつくしい人の想像をこえた
あなたのかかえているもの
すべては朝だった
*
きもちいいくらいの遠心力で
渡り鳥は群れていて
ふゆ、なんてたった一言で
言っていいことと悪いことがある
*
記憶の底のひまわりの庭で
あおい影と
ひかりが交わり
(虹彩のように見開く)
湖はいつだってしずか
*
ひみつの話をしようよ
そうやっていつだってやさしい
あなたに近づけないほほえみ
相容れない、北極星の
ゆるぎないあかるさがひとつ
駅のかたすみで
駅のかたすみで
女が
古い紙片のように
からだをちいさく折りまげていた
あなたには
ことばはいらなかった
ことばがあなたを使いはたす前に
あなたを見失ったのだから
冬にまみれた衣服のしたで
のこりわずかなはじらいに
暖をとりながら
ざわめく駅のかたすみで
親をなくした子のように
赤切れた手を握りしめている
話も尽きて、どうしようもない沈黙のたゆたいが
話も尽きて、どうしようもない沈黙のたゆたいが、待ち構えていたかのように一瞬のため息の間もなく場に満ちて広がる。女の鈍感さか、あるいは性根からしてこうした雰囲気の冷たさを好むのか、まったく悪びれるともなく、無意識の端に身をほうり出さんばかりに、そちらのほうへ肩の重みを絶えず落としてはその重力にあらがうかのよう、ぎりぎりこちらの表情をうかがって目を現実に泳がす。手前で勝手に身の危機をつくり出すんだからどうしても危なっかしいものだが、そうしている時の表情は反対に湯にでも使っているように平穏なのだから怪しい。そんな女の繰返しを五分十分と眺め続けるうちに、次第に自分も女の放心の姿を鏡映しするかのごとく指先鼻先全身いっぱいに微力を溜め、努めて現実の瀬戸際に居座り続けようとする。私がむやみに人の気をうかがいがちなせいでもあろうが、どうやらこの場合は、ともするとこうした粘りの中に女との皮膚の触れ合いを見つけうるのではないかと俄かに予感する、肉体感覚の当たり前な情動が関与しているのではとも訝る。気づけば女のほうは水を含んだような妙に黒く重いワンピースから剥き出しに伸びた生白い腕を赤く掻き毟りながら、その動きの危うい鋭さを自覚するともなく、時間の流れに紙一重先をゆくかのようにしてふいに静止する。そうして指の動きが止まれば、私がその女の曖昧な時間間隔を捉える間もなく、再び立ち行く生の時間を追うようにして私の目の少し手前を女の視線が動き出す。
「わたし、この頃、右目が重いんです。すごく重くて、もう少しで右足からつんのめってしまいそうなくらい。まるで目の下に憑きものがぶら下がっているように、じわりじわりと視線が右下に沈みかかって、はっと気づいて持ちこたえるんですけど、こうひっきりなしにそんなことが続くと、もう踏ん張りも聞かなくなって、その重みに身を投げ捨ててしまおう、そうすればでんぐり返しをするように、もう一度くるりとまともに戻れるんじゃないかしらって、都合のいい話ですけど、どうもそんな気がするんです」
「それは危険な兆候だな。右目が落ちるなら左目も同じように落とせばいい。問題はつり合いです。もし左目が落ち過ぎたのなら、今度は右目をそれに合わせて落としてゆけばよい。調整がきくんですよ。終わりない不毛な微調整に見えかねませんが、結局私たちは生きて往生するまで常にそうやって右と左の釣り合いをとり続けて過ごしているようなものですから」
まして、人間の生活である。右に傾き一つの生活に落ちついて寄り添えども、そこに踏みとどまろうと右手右足にどっしりと重みを蓄えれば、今度はその重力で生活が弛んでいく。慌てて左半身に重心を傾け、ぐらりと釣り合いを図ろうと前のめりになっても、すでに大量の重みを含んだ右半身にすっかり身体を取られて、あとはきりきりと残りの人生を舞い踊るばかりである。
眠れる森の痴女
CHAPTER 1
痴女と野獣
ヨーロッパの某所
大気汚染による その間を縫って
酸性の雪を浴び続け 一台のクール宅急便
立枯れた針葉樹の森は ヘッドライトはハイで
漆黒の闇を灰色に 林道を飛ばしている
薄化粧していた
飽きるほど長い間
アクセルを踏み続けた
ドライバーの目に
やがて
届け先である
「城」が見えてきた
城の車寄せで停車
彼は素早い動きで
荷物を台車に乗せ運ぶと
白い息を吐きながら
ドアホンを鳴らした
「宅急便です。クールで届いています。」
しばらくすると
ドアが開き
全身毛だらけの
野獣のような男が現れた
男は大きな木箱を
軽々と担ぎ上げると
再び城の中へと消えていった
「ダンケシェーン。毎度おおきに。」
城への配達は初めてなのに
「毎度」などと軽口を叩く
日本の関西人的なノリの
運転手は足早に去って行った
城のインテリアは
貴族趣味で統一されている
まるでルキノ・ヴィスコンティの
幽霊でも漂っているようだ
野獣はテーブルの上に
「痴女の宅急便」と
書かれた木箱を置いて
無造作に板を割り始めた
見ると体格の良い 野獣は
東アジア系の中年女が 痴女を起こすために
全裸で豪快に鼾をかき 説明書通りに
棺桶の様な木箱の中 キスをしてみた
仰向けに収まっていた
すると痴女は
パッチリ目を覚まし
木箱から飛び出すと
野獣に手を回し
激しく舌を入れてきた
[おお、これが痴女か。トテモ良いものだな。」
痴女のデリバリーサービスを
初めて体験した野獣は
夢見心地になった
ねちっこくベロベロと
プレイを楽しむ痴女と野獣
お互いの歯槽膿漏の血膿すら
残らず吸い上げた挙句
急にキスを止めると・・・
CHAPTER 2
東洋の痴女
痴女は野獣の股の間の
鬱蒼と生えた
毛をかき分けて
そそり立つ陽物に
しゃぶりついた
腐らないはずの そんな異臭を放つ
カスピ海ヨーグルトが チンかすフォンデューを
それでもなお腐ったような おいしそうに
舐め尽していた
彼女の口の中はもう
白いものが一杯に
溢れかえっていて
グチャグチャと
泡を吹いていた
汚れていた これを見て痴女は
野獣のマラは 野獣を押し倒し
見る見る 胸に両手をつくと
殻を剥いた 8段もある跳箱を
ライチの実のように 飛び越すような姿勢で
瑞々しく 足を大きく開脚した
艶やかになった
そのまま狙いを定め
黄金の蜜壷を
ドスンと
野獣の道祖神めがけて落とし
騎上位でグラインドを始めた
「うあああああ! 南無妙法蓮華経。」
東洋の御経を唱え
快楽に身悶える痴女は
鼻血を流している
あれあれ?
おやおや?
(不思議、不思議、野獣はみるみる、美しい王子へと変身して行きました。)
薔薇の様に美しい王子
これまた美しい声で
「ありがとう、痴女さん。おかげで元に戻れました。」
感謝を述べたのだが・・・
その時なぜか
王子に被さっていたのは
人間ではなかった
マウントポジションの
いかついメスの大猿が
突然無慈悲にも
左右のパンチを
王子に浴びせ始めたのだ
ワン・ツー
王子失神
スリー・フォー
王子昏睡
ファイヴ・シックス
王子死亡
人外の野蛮な暴力の前
ついに王子は
帰らぬ人となってしまった
人肌の 欲求不満なのか
ぬくもりが消えて行く 不機嫌な顔をして
王子の華奢な身体に 胸でドラミングをすると
不服を感じた大猿は 王子の亡骸をつまみ上げ
ウンチングスタイルでの 首を捻り脊髄ごと
交尾を止めて立ち上がった 引っこ抜いてしまった
ドアを蹴破ると
葉の一枚も残っていない
立ち枯れの森の中へ
雄叫びを上げながら
消え去って行った
ウホウホウホォォォ
CHAPTER 3
奥様は痴女
以上が
私の母のプロフィールです
その後 こちらレイクサイドホテルの
十月ほどたって フロント玄関で
私は生まれました 小さくなった父の
シャレコウべ脊髄ステッキと共に
捨てられていたのです
私としては
誠意を持って
包み隠さず全てを
お話したつもりです
このお見合い
よろしければ前向きに
考えさせて下さい
あれれ?待って
ちょっと
ちょっとどこ行くの
あんた逃がさへんで
レスリング女子超級
元欧州チャンプの私
走り去ろうとする
男の首根っこを掴み
頭上に持ち上げ
ボディプレスで落とすと
神速で馬乗りになった
力が漲ってくる
荒れ狂う私は
無慈悲にも
左右のパンチを
男に浴びせかけた
ワン・ツー
見合い相手失神
スリー・フォー
見合い相手昏睡
ファイヴ・シックス
見合い相手死亡
「ふざけんなよ!若造。」 そのとき
私は叫んだ ホテルのロビーの
四の五の言ってないで アンティックな大鏡には
黙って私と結婚したら良いんだ 怒髪天にも昇りそうなメスの大猿が
こちらを向いて
ガンを垂れていました
ウッホホホホホー
Mr.夏バテ
ほそながい野菜はよく噛んで食べるんだよ
そう、きこえる
ぼくは眠っている
がじゅまるの根元
つる植物が引き倒そうと手を伸ばして
伸ばし果てたんだよ
そう、きこえる
ばあさんの声は母の面影がある
葉を食い破る虫たちが
受話器にへばりついた姉の彼氏たちが
陰毛のように扱われ摘ままれた晩に
口をひらけばアホになる
じいさんはきゅうりをつくる
きゅうりはアホじゃ
だからじいさんは牛蒡の腕を
口癖のように振り上げる
ぼくは眠っている
がじゅまるの根元に
すべて脱ぎすてる
豚足ぐらいしか食べる気がしない
枯れた夢の子供
俺がまだ種だった頃、グァラングァランと樹がなぎ倒され、土が掘られ平坦な平坦な開墾が行われた。眠りを妨げられた赤土は臭うように腸を晒し均されていたのだった。釣られた次男坊共は馬鹿面でこぞって山に篭もった。一山いくらの、夢の種を、肥やしの無い赤土に捲き、月の尖った顎にぶら下がった蝋燭のような甘い夢を肴に泥酔した。夢には苔が生えアレチギクを増産しコンクリにはクロバナエンジュが蔓延った。夢の掃き溜めの中で閉ざされた真冬のうなだれた精液から俺達は生まれた。鶏の糞があたりを埋め尽くし足の踏み場も無い、白熱電球はぼうっと霞み夜は果てしなく長かった。コンクリの牢獄の中で言葉の慈しみを覚え、そこに微かな幸福を自分で演じた。わからないわからない解らない、なぜ生きてきたのかは解らない、極潰しのような生活を送り続けてきたのだ違いない。握り拳の中にはいつだって石が入っていた。殴るように絞めるように俺達は命を懸けて道草を食い遊び生きてきた、だからもう死んでいるのか、死んではいない、あの得体の知れない病で死んだ家畜の乾燥肉を食う日常は決して忘れることは出来ないのだ。俺達は枯れた夢の子供だ、慄きの中の泥濘の間に出来たカタワなのだ、だがまだ死んではいない、土を這いずる重い血を裁断するまで砂利道の泥水を吸い続け、鼓動を止めてはならないのだ。
はるか
うすむらさきの雲の向こうで
夕日がしずむ
水羊羹の表面を
スプーンですくうように
なめらかな冷たさを泳ぐ
信号機が ぱっぽう、と
くりかえし諳んじて
歩道橋はひとの重みにたわむ
みんな きちんと弁えている
(お前はえらいね)
(と、そこにはいない野良猫に呟く)
かつて
湖のほとりで
生まれたものがあった
腕のうちがわの
いつだってしろい部分が覚えている
ねむらない夜は
寝返りをうつたびに
短くなる
紫陽花のリースを
たいせつな人のために買った
帰り道
どうしようもなく鼻歌があふれて
かろかろと
空色の
前庭にちかい場所で
まわり続ける