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2020年05月分

次点佳作 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一八年三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年三月一日 「ぼくは、あなたの大きなおっぱいで終わりました。」

きょうも寝るまえの読書は、チャールズ・ボーモントの短篇集『夜の旅その他の旅』のつづき。なんか40年とか50年まえの小説を読んでいるのだけれど、それなりに楽しい。というか、現代文学を、ぼくは読んでいなくて、どんなのか知らない。詩は知り合いとか友だちのを読んでるから現代詩はわかるけど。

きょうからの読書は、早川書房・異色作家短篇集・第13弾、ジャック・フィニイの『レベル3』。これまた、話を一つも憶えていない。ぼくの再読は初読だな。

ぼくが網野杏子さんにお送りした作品「ぼくは、あなたの大きなおっぱいで終わりました。」は、網野杏子さんはじめとする、ご同人、三人の方ではじめられるフリーペーパー『NEXT』のためのものらしく、『NEXT』は6月に出るらしいです。どのようなフリーペーパーか出来上がるのか、とても楽しみです。


二〇一八年三月二日 「おかきに、ウーロン茶だ」

あれ、なに買ったんだろう。あはは。おかきに、ウーロン茶だ。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年三月三日 「血まみれ」

眉毛のところ、切って、血みどろになっちゃった。あちゃ〜。右手のところ、血まみれ。あした、飲みに行こうかと思ってたけど、顔が血みどろで、えいちゃんになんて言われるか、ドロン。

部屋でこけて、眉毛のところ切って、血まみれになった。この齢で、部屋で血まみれになるなんて珍しいかもね。手のところ、右手のところ血まみれ。こんな57歳。もうじき死ぬね。ああ、はやく死にたい。右手の袖んところ、血まみれ。なんだろ、ぼく。血まみれ。血まみれの右手。57歳。痛いわ〜。

そして、さらに、吉野家からの帰り、ヨッパで、顔と手と膝を切った。手は血まみれ。ひゃ〜。顔も血まみれ。

二〇一八年三月四日 「引用の詩学」

顔がお化けみたいになっているので、近くのコンビニしか行けないけれど、もともとコンビニにしか行かないので同じことか。

きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する作品を決める。40作品以上の未発表作品がある。自分で自分の作品を選ぶ作業は、ある種、詩を書くときに言葉を選ぶ作業に似ているような気がする。楽しみ。

「引用の詩学」っていうのに決めた。ついでに、3月に投稿する2作品も、これから決めようと思う。

3月に投稿する作品も、2作品とも、ごりごりの引用作品である。

いま、『ユリイカ』の5月用の作品をつくってたのだけれど、求められているものの長さの2倍ほどになったので半分に削る。いま神経がとがっているので、あとでつくる。ぼくの場合、詩はこころに余裕がないとつくれない。逆のひとも多そうだなあ。まあね、ひとによって、つくり方が違ってあたりまえか。

ユリイカの作品、いま、がばっと削って、ちょっと足して、改行部分を適切な長さにした。ふう。ようやくヴィジョンが見えた。3分の2くらい整えたところで、物語がクリアになったのだった。ぼくの詩のタイトルでも最短のものにするつもり。一文字だけのタイトル。「つ」

いや、「つ」というタイトルの詩を見たような記憶がある。ぼくが投稿していた時代に、神戸のお医者さんで、会って、共作もしたことのあるひとだった。タイトルを変えよう。すると、詩の中身もちょっといじらなくてはならない。うううん。中途半端な記憶力。

タイトルを「ひとつ。」に変更した。作中の「つ」をすべて「ひとつ」に変更した。へんに、意味が通じやすくなって、その付近の行が意味のある内容になってしまった。意味のあるものにはまったく関心がないので、ちょっとしょぼんだが、作品としてはよくなってるような気もする、笑。あまのじゃくだな。

いま、たまたま、エズラ・パウンドの『ピサ詩篇』を手に取ったので、文学極道に詩を投稿するまで読み直そうかな。いまパラ読みしたら、ビンビンすごさが紙面から伝わってくるのね。ジェイムズ・メリルと並んで、シェイクスピアやゲーテに匹敵する数少ない詩人のひとりだと思う。

二〇一八年三月五日 「お風呂に入りたくない」

さて、20分くらいで、4月に文学極道に投稿する作品2作を、文学極道の詩投稿掲示版の画面用に加工した。きょうできることはみな終えた。これから、ジャック・フィニイの短篇集『レベル3』を読みながら寝る。どの物語もノスタルジックなものばかりで、新鮮味がまったくない。ちょっと苦痛の読書だ。

あしたのあさは、ユリイカに送る詩をもう一度、見直して、送付しようっと。おやすみ、グッジョブ!

知っていることを話すのはたやすい。知らないことを話すのはもっとたやすい。

いままで詩句をいじくりまわしていた。読み直すたびに詩句が変わっていくことはあるけれど、こんどのは、ひどい。すんごい頻度で詩句が変わっていく。元型は3分の2もないんじゃないだろうか。見た目と音を大事に考えているけれど、とりわけ音が詩句をいじくりまわさせてるみたいだ。いまからもまた。

傷口が痛いからお風呂に入りたくないけれど、お風呂に入らなければ不潔だから、これからお風呂に入る。詩句、見るたびにいじりまわしているけれど、さっきは3カ所だけだった。お風呂からあがったら、もう一度、読み直そう。それで、一回寝たら、起きて、もう一度読み直して、ユリイカに送ろうと思う。

いま、ユリイカの明石陽介さんに、出来上がった作品をワード原稿でメールに添付してお送りした。おもしろく思ってくださるとよいのだけれど。ユリイカの5月号で、なんの特集がされるのか知らないけれど、楽しみだ。

鼻の傷口を拭いたら、膿がついた。鼻の穴の横がいちばん痛い。鼻の頭じゃなくて、どうして、低い場所がひどい怪我をしてるんだろう。鼻の頭は無事。ああ、そうか。顔が地面と衝突するとき、本能で顔をそむけたからだな。ぼくは怪我からも学ぶことができるということに気がつくことができて、うれしい。

怖いもの見たさに、自分の顔を鏡で見るなんていう経験もはじめてだ。

雨がうるさくて睡眠薬が効かない。雨は、どうして、こう神経をいらだたせるのだろうか。憂鬱である。まあ、憂鬱ついでに、ジャック・フィニイの短篇集『レベル3』でも読もうか。もう何十時間くらい起きているのだろうか。まだ骨はポキポキいわないけれど。あ、関節ね、ポキポキいうのは。

さっき、セブイレで、はちみつレモンと、豚まん3個買ってきて食べたのだけれど、まだお腹がすいている。どうしよう。コンビニで、甘いものでも買ってこようかな。シュークリームがいいかな。寒いけど、行ってこよう。

味わいカルピスと、サンドイッチと、シュークリームを買ってきた。これで、腹もち、もつかな。

部屋のなかで、クール・ザ・ギャングのセレブレーションを聴きながら踊っている。すばらしい詩作品が2作、1週間のあいだにできたのだった。神さまに感謝して踊っているのである。きょうは疲れるまでディスコ・サウンドで踊るぞよ。EW&FやAWBなんかもいいな。ファンクもいいかな。

二〇一八年三月六日 「ヤン・フス」

いま起きた。自販機でオレンジジュース買ってこよう。

きょう、さいしょのご飯は王将にしようかな。きょうは、なにもする予定がないので、ジャック・フィニイの短篇集『レベル3』のつづきを読もう。新鮮味のない、おもしろくない短篇ばかり。どうして有名なのか、さっぱりわからない。叙述が細かすぎて、うっとうしいのだ。

ランチがまだあったので、日替わりランチにした。焼き飯+ラーメン+餃子一人前だ。おなかいっぱい。だけど、帰りにセブイレで、海鮮おかきと、烏龍茶を買ってきた。ジャズのチューブでもかけながら読書でもしようかな。きょうは、ひまひま。

ヤン・フスが火刑に処せられたときの描写は、カミュの『手帖』の第六部にあった。ぼくの詩集の『Forest。』に引用してあった。まあ、もう、ぼくの詩集自体が辞書って感じのものになりつつあるな。『引用の詩学。』みたいなの、あと10個ほどあるので、文学極道に投稿していくつもり。そのうち詩集に。

これまでもメモ魔だったけれど、忘却力の増した57歳ともなると、これまでにもまして、ささいなこともメモしていかなければ、記憶がちっとも蓄積されないことがわかった。これから読書に戻る。フィニイの言葉でメモはちっともしていないけれど。

『詩の日めくり』のための資料を整理していると、一瞬、重要なファイルが消えてあせった。ちゃんとあったけれど、パソコンって、そういうところがあって、しばしば、あせらせられる。まあ、ぼくが機械に弱いだけかもしれないけれどね。

そういえば、ノブユキは陥没乳だった。乳首のところがへっこんでいたのだ。両方の乳首が陥没してたかどうかは記憶にない。30年ほどむかしのことだからね。どこにも書いたことがなかったかもしれないので書いておく。吸ったら、出てくるんだけどね。デブだったから。デブには多いんだよね、陥没乳。

二〇一八年三月七日 「虹をつかむ男」

朝ご飯でも食べてこようかな。松屋か吉野家か。そのまえに鏡を見よう。こわい。

松屋で豚なんとかか、なんとか豚定食を食べてきた。680円。いまなら、ご飯の大盛りが無料ってので、大盛りにした。帰りに、セブイレで、烏龍茶と、サンライズを買ってきた。サンライズ、大好き。

きのうからきょうにかけて、網野杏子さんに以前にお送りしていた詩篇をいじくりまわしていて、網野杏子さんにはお手数をおかけするけれど、以前の詩篇を破棄していただき、新しい原稿をとっていただくようにお願いした。いじくり癖がなかなか治らない。これはもう病気の領域だな。

いつ原稿依頼があっても、数十分以内に送れるように、原稿用紙4、5枚くらいのものをつくっておこう。ちょっと、ここ10年くらい、長いものばかりつくっていて、ひとつの感覚でもって書くってことしてなかったので、感覚が鈍っていた。もっととぎすまさなければいけないね。普段からね。きょうから。

「ミニ・詩人論 田中宏輔」っていうのを書いてくださっておられる方がいらした。

ジャック・フィニイの短篇集『レベル3』を読み終わった。後半の作品のほうがおもしろかった。順番を替えればよかったのにと思う。前半、ほとんど発想が同じものだった。さいごの作品「死人のポケットの中には」はどきどきするくらいおもしろかった。

きょうから、早川書房の異色作家短篇集・第14弾の、ジェイムズ・サーバーの『虹をつかむ男』を再読する。さてさて、これまた、ぼくは、話を一つも記憶していないのだった。もうね。ほんとにね。ぼくの再読は、新刊本を読むみたいな感じだね。ジャック・フィニイのも、一つも憶えていなかったものね。

お昼ご飯を買いに、セブイレに行こう。

道を歩いていたら、自分の原稿を思い出して、あ、あそこ、こうすればもっとおもしろくなると思って、訂正稿を、お二方にお送りさせていただいた。目のまえに立っていたら顔をぶたれそう。網野杏子さんには、4回目の原稿送付になってしまった。ユリイカの明石陽介さんにも訂正稿を送らせていただいた。

ひゃ〜。いままた自分の詩句のまずいところを思い出してしまって、ユリイカの明石陽介さんに、ほんとうに最後の最終決定稿ですと書いて、いじった原稿をワード添付してお送りさせていただいた。ああ、ぼくの脳は、どうなっているのだろう。病気だな。

二〇一八年三月八日 「FAR EAST MAN」

ああ、いままた、ユリイカの明石陽介さんに、本当の本当に最後の最終稿ですって、メールに添付して、お送りさせていただいた。明石陽介さんにも4回、送らせていただいちゃった。神経がどうにかなっちゃってるんだろうね。無意識にでも詩句のことを考えちゃってるんだろうね。もうこれで終わりにしたい。

ジェイムズ・サーバーの『虹をつかむ男』さいしょ読んで意味がわからなかったけれど、ぼくも似た状況の作品を書いた記憶がよみがえって、ようやく意味がつかめた。もちろん、サーバーのほうが数百倍、上手だけれど。ぼくの脳みそが錆びれたのかな。サーバーの作品、これはこころしてかからねばならぬ。

きょうは雨。どこにも出かける気がないなあ。お腹がすくので、お昼ご飯は食べに出ると思うけれど。一日じゅう読書でもしてよう。

きょうは、夕方から日知庵に行くことに。まだ顔に傷があるけど、なんとか外に出られるくらいにはなったかな。

きょうは、ビートルズ、ジョージ・ハリスン、グランド・ファンク・レイルロードを聴いている。ジョージの FAR EAST MAN を聴くと、京大のエイジくんのことを思い出す。高知は西だからだろうね。

二〇一八年三月九日 「えいちゃん」

いま日知庵から帰ってきた。えいちゃん、やっぱりかわいいよね。京大のえいじくんのつぎに男前。

帰りに、セブイレで、カップラーメンと烏龍茶を買ってきた。食べて、クスリのんで寝ようっと。ウルトラQ見ようかな。

二〇一八年三月十日 「メランコリイの妙薬」

ジェイムズ・サーバーの『虹をつかむ男』を読み終わった。文体になれると、すばやく読めた。きょうからの再読は、早川書房の異色作家短篇集・第15弾の、レイ・ブラッドベリの『メランコリイの妙薬』。これまた物語をひとつも記憶していない。

いま近所のラーメン店から帰って、ひじょうに腹が立っている。ランチが750円って看板に書いてあるのに、950円を取られたのである。理由は、パスをもってないからだという。パスのことなど看板に一言もかいてないのにだ。もう二度と行かない。味は気に入ってたけど、きょうのこと、詐欺じゃんか。

いま日知庵から帰った。コンビニで買った海鮮せんべえと烏龍茶をいただきながら、ブラッドベリの短篇集『メランコリイの妙薬』を読む。15年ぶりくらいの再読だ。楽しみ。新刊本を読むのといっしょ。お得です、笑。記憶力がない人間は。

二〇一八年三月十一日 「メランコリイの妙薬」

ブラッドベリって、長篇も短篇も、ほとんど読んでいて、もう吸収するところなどほとんどないと思って、短篇集『メランコリイの妙薬』を再読していたのだけれど、冒頭の「穏やかな一日」だけでもメモ取りまくり。もう一度はじめからぼくは学び直さなければならないようだ。いま、目に涙がにじんでいる。

いまから、えいちゃんにもらったドリップ式のコーヒーを飲もう。おいしそうだな。

松屋で朝食定食を食べてきた。卵焼き2個のダブルで。で、帰りにセブイレで、クリームパンを買った。洋梨体型のデブなのである。

ふたたび読書に戻る。きょうこそは、一日、読書をしたい。お昼に、ドリップ式のコーヒーのセットを買いにダイソーに行くけど。

二〇一八年三月十二日 「嘲笑う男」

いま日知庵から帰ってきた。きょうは、午後に、ブラッドベリの短篇集『メランコリイの妙薬』を読み切った。これから、早川書房の異色作家短篇集・第16弾のレイ・ラッセルの『嘲笑う男』の再読をする。これまた、一つも作品を覚えていない。ブラッドベリ、なかなかよかった。これはどうかな。どだろ。

レイ・ラッセルといえば、目のまえの本棚に、『インキュバス』がある。これって、高校生のカップルが映画館で××××××××するという設定で、はじめて読んだとき、笑っちゃったけれど、まあ、作者って、すけべだなあって思ったこと憶えている。ぼくが読んだの、高校生のときくらいかな。もう40年ほどか。

道徳の妖精たち。

二〇一八年三月十三日 「嘲笑う男」

ぼくへの偏執ぶりがすごいひとが文学極道にいて、びっくりしている。まあ、ある意味、それは、ぼくの名誉でもあるのかな。

レイ・ラッセルの短篇集『嘲笑う男』に収められている冒頭の「サルドニクス」読んだら記憶がよみがえった。一応、ハッピー・エンドだったけれど、さわやかな終わり方とは言いがたく、後味もよろしくない。でも、さいごまでおもしろく読めた。文章力かな。表現力かな。それはすごいと思った。さすがだ。

きょうは夕方に仕事があるので、昼までしか読書ができない。レイ・ラッセルの短篇集『嘲笑う男』おもしろい。もう半分近く読めた。長篇の『インキュバス』も読み返そうかな。

これからお昼ご飯を食べに、西院のブレッズプラスに行こうと思う。ハムチーズサンドイッチ・セットが食べたくなった。混んでるから坐れなかったら、あきらめて、ほかのところで食べよう。天下一品もいいかな。サンドイッチとラーメンじゃあ、えらい違うけれど。まあ、ぼくは気まぐれだからなあ。

天下一品で唐揚げ定食たべてきました。

さて、これからお風呂に入って、それから仕事に。わずか3時間半の仕事だけれど。

二〇一八年三月十四日 「オノレ・シュブラックの失踪」

いま日知庵から帰った。レイ・ラッセルの『嘲笑う男』おもしろい。後、20ページちょいで再読、終わり、多くても、30ページくらいかな。短篇3つで読み終わる。知識の量と、表現力とが釣り合っている。アイデアがすごいと思わせられるのが、いくつもあった。知能的な読書ができたと思わせられた。

きょうから読書は、早川書房の異色作家短篇集・第17弾の、マルセル・エイメの『壁抜け男』の再読である。これまた話を一つも記憶していない。タイトル作は、なにやらアポリネールっぽい感じがするものだな。壁に消えるときに亡くなったことを示唆する物語だ。なにに入っていたか記憶にない。

アポリネールの作品、「オノレ・シュブラックの失踪」だった。どこで読んだのかな。

岩波文庫の『フランス短篇傑作選』に載ってた。

でも、たぶん、はじめて読んだのは、岩波文庫のじゃなかったような記憶がある。なにでだろう。検索してみよう。

でも、ほんと、はじめに、どれで読んだのか、記憶にない。

二〇一八年三月十五日 「壁抜け男」

いま日知庵から帰ってきた。エイメの短篇集『壁抜け男』のつづきを読みながら寝よう。しかし、エイメの文体、読みにくい。翻訳が悪いのか、もとの文体が悪いのかわからないけれど、読みにくい。

文学極道で、ぼくに偏執的につきまとっているひとがいるって書いたけど、まだ偏執的に固着していてね。これは、ほんとに病気の類だと思う。こわいねえ。

きょうは、エイメの短篇集『壁抜け男』のつづきを読んで寝よう。レイ・ラッセルと違って、読みにくい。原文が読みにくいものなのか、翻訳が悪いのか、どっちかだと思うけど。どっちもだったりして、笑。

二〇一八年三月十六日 「今井義行さん」

今井義行さんから、詩集『Meeting Of The Soul (たましい、し、あわせ)』を送っていただいた。横書きの詩集で、一行が短く、詩句もわかりやすい。散文も収録されていて、実話なんでしょうね。考えさせられることが多くありました。詩集のお写真、とてもすてきだと思いました。すてきな詩集でした。

マルセル・エイメの短篇集『壁抜け男』あと2篇で再読完了。翻訳の文体になれると、読みやすくなっていった。

エイメの短篇集『壁抜け男』を読み終わった。ほんとうに物語を一つも憶えてなかった。きょうから、再読するのは、早川書房・異色作家短篇集・第18弾のアンソロジー/アメリカ篇『狼の一族』だ。これもまたまったく記憶にない。そういえば、エイメの作品ももう半分以上忘れてしまったけれど。

日知庵から帰って、文学極道のフォーラムを見てたら、ぼくのことを呼び捨てに書いてる人物がいて、どうしてかと尋ねると、こんどはクズ呼ばわりされた。ぼくは、その人物のことなんか、ちっとも知らないのだけれど、世のなかには変わった人もいるものだなあと思った。顔も合わせたことないのにねえ。

二〇一八年三月十七日 「ベビーシッター」

松屋でソーセージ・エッグ朝食セットを食べてきた。おなかいっぱい。いまコーヒー淹れたところ。これで、本が読める。きょうは、どこまで読めるかな。

ロバート・クーヴァーの「ベビーシッター」を読んでるんだけど、エリスンよりも読みにくい。 実験小説らしいんだけど まあ 仕方ないか。 お昼ご飯、どうしようかな。 ラーメンでも食べてこようかな。 近所に おおの っていうラーメン屋があって けっこう、おいしいの。

詩の原稿依頼がまたあったので、うれしい。さっそく、いまから書く。

もうつくれた。ちょくちょく手を入れて完成させよう。

ちょっとした思いつきで詩句がつぎつぎと変わっていく。

いま日知庵から帰った。おみやげにもらった金平糖をなめながら、アンソロジーを読んで寝ようと思う。来週、一週間休みなので、きょうつくった詩をいじくりまわそうと思う。おやすみ、グッジョブ!

クスリをのんだので、一時間後くらいに眠るはず。

二〇一八年三月十八日 「棄ててきた女」

二度目の目覚め。読書しかすることがない。

あさからスパークスを聴いている。
コレクションが増えた。

きみの名前は?
(ジョン・スラデック『他の惑星にも死は存在するのか?』柳下毅一郎訳)

きょうからの再読は、早川書房・異色作家短篇集・第19弾のアンソロジー/イギリス篇『棄ててきた女』である。これまた一つも記憶していない。ぼくの部屋には傑作しか残していないけれど、記憶にあるものはわずかなんだな。自分でもびっくりだ。
いま、きみやから帰ってきた。

きょうもヨッパで、寝るまえは、読書。

こんなんでいいのかな、人生。

こんなんでいいのだろうね、人生。

おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年三月十九日 「意地の悪い作家、大好き。」

依頼された詩ができたのだけれど、音がなめらかすぎて、ちょっとしばらくほっておくことにした。音は多少凸凹したほうがおもしろいし。凸凹の音のものを想像するだけで楽しい。北園克衛とかね。

別の詩を思いついたので、依頼された詩は、いまワード添付で送付した。戦争を描いた詩を思いついた。じっさいの戦争を知っているわけではないので、想像だけど。戦争について書くのははじめてだろうな。まず専門用語を調べなくちゃならないな。ひとつも知らないもの。機関銃くらいかな。ミサイルとか。

いま日知庵から帰った。きょうもヨッパである。寝るまえの読書は、イギリス作家のアンソロジー。意地が悪いのがイギリス作家の特徴だけれど、これは、イギリス人が意地が悪いことを示しているのか、イギリス人のサービス精神がすごいことを示しているのか、どっちだろう。意地の悪い作家、大好き。

急いでいるかどうか→急いでいるのかどうか

この変更を検討すること

一文字の挿入

詩篇ぜんたいの音調的バランスとの兼ね合いで。

時間はある。

よくここに気づけたなという自負もある。

一か月以内に決断。

二〇一八年三月二十日 「の」

「の」を入れない方が、音が凸凹しておもしろいからなあ。これは選択するのがむずかしい。音が凸凹している詩行がつづくなかに、なめらかなものにしたものを入れると不調和を起こすからなあ。もっと熟考しなければならない。

何度も読み返している。「の」のないほうがスピード感があるが、「の」のあるほうが日本語として趣きがある。やはり入れようかな。どうしよう。あと何回か、詩篇を読み直そう。それでも、たぶんすぐに判断できないだろうけれど。

ネットで、「しているかどうか」を検索するとすべて「しているかどうか」だった。「しているのかどうか」を検索しても「しているかどうか」がたくさん出てきた。「の」を入れない方が自然なのかしら。ぼくの語感がおかしいのか。やはり「の」は入れない方がよいのか。どだろ。

いま日知庵から帰ってきた。これから寝るまで読書。ちょっとスピードが遅くなっている。アメリカ人作家と比べて、やはりイギリス人作家の方が読みにくい。同じ英語圏の作家なのにね。どうしてだろ。

二〇一八年三月二十一日 「断章」

個性は思い出と習慣によって作られる
(ヴァレリー全集カイエ篇6『自我と個性』滝田文彦訳)

二〇一八年三月二十二日 「バッド・アニマ」

目が覚めたので、コーヒーを淹れて飲んでいる。ちょっと、ぼうっとしている。完全に目が覚めたら、読書のつづきを。

西院のブレッズプラスで朝食を食べてこよう。

基地内でバーベキューしている詩を思いついたのだった。戦争については、こんな感じのものならたくさん書いてきたような気がする。居酒屋と戦地を交互に書いたり、戦地に同僚の先生が行ったりとか、戦争中に避暑地でゆっくりしているような詩を書いてきた。こんどのは基地のなかでのバーベキュー。

お昼ご飯を食べてなかった。王将にでも行くかな。

王将では焼きそばの大盛りと瓶ビールを食べ飲みした。今晩も、日知庵に行くけど、ちょっと遅めに行こうかな。イギリス人作家のアンソロジー『棄ててきた女』に時間をとられている。読み終えるまでに、あと数時間以上かかりそうだ。

BGMは紙ジャケのCDたち。いまかけてるのは、森園勝敏の『バッド・アニマ』ここちよいわ〜。ビールで酔っぱらってるのもあるのかな。

いま日知庵から帰った。これから寝るまで読書。まだイギリス人作家の短篇集『棄てられた女』を読んでいる。あと2篇。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年三月二十三日 「きょうも飲んでた。」

いま日知庵から帰った。きょうは眠いので、読書せず、寝る。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年三月二十四日 「断章」

霊はすべておのれの家を作る。だがやがて家が霊を閉じこめるようになる。
(エマソン『運命』酒本雅之訳)

二〇一八年三月二十五日 「エソルド座の怪人」

いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパであるが、このようなヨッパもきょうで終わりである。あしたからノンアルコールの日々がつづく。寝るまえの読書は、早川書房・異端作家短篇集・第20弾・アンソロジー/世界篇『エソルド座の怪人』のつづき。

二〇一八年三月二十六日 「夜更けのエントロピー」

きょうはお医者さんに行ってきた。大谷良太くんとばったり会って、コンビニのまえのカフェコーナーで話をした。きょうは、これから寝るまで読書。奇想コレクションまで辿り着くかどうか。まあ、とりあえず、お風呂に入ろう。

きょうから再読は、河出書房新社の奇想コレクション、まずは第一弾のダン・シモンズの短篇集『夜更けのエントロピー』。シモンズといえば、ハイペリオンのシリーズ全8巻が圧巻だったけれど、読み直しはしないと思って、友だちに譲った。おもしろかったんだけどね、なにしろ長いしね。読み直しは無理。

柴田 望さんから、詩誌『フラジゃイル』第2号を送っていただいた。吉増剛造さん特集なんですね。初投稿作品をユリイカの1989年8月号の投稿欄に選んでいただいたのが縁で、何度かお会いしたり、書簡のやりとりをした記憶がある。ぼくは忘恩の徒なのでそういったやりとりはすぐになくなったけれど。

活字の大きさかな。奇想コレクションのほうが読みやすい。

二〇一八年三月二十七日 「荒木時彦くんと杉中昌樹さん」

荒木時彦くんから『NOTE 003』を送ってもらった。すごく読みやすく、ここちよい文体で、内容もよかった。この道をどこまで歩むんだろうか。

杉中昌樹さんから、ぼくの詩のゲラを送っていただいて、自分の詩をもう一度、読み直す。何回も詩句を訂正していただいたおかげで完璧なゲラだった。まるで詩のお手本のような作品だった。自分で言うけど、笑。

めっちゃかたいうんこだったので、十分くらいトイレでしゃがんでいた。小さい子どものときにもかたいうんこで、長いことしゃがんでいたことを思い出した。一年ほどまえまでは、やわらかいうんこばかりで、お腹が悪いのかなと思っていたのだけれど、さいきんずっと、うんこがかたい。いいことなのかな。

さいきん阪急電車がしじゅう人身事故でとまっている。ひとが死にたくなる気持ちは、ぼくにもわかる。もっと楽な死に方を選べる社会になればいいのに。安楽死は、いっぱん人にも適応するべきだと思う。

杉中昌樹さんが送ってくださったゲラを読み返していたら、どうも音がおかしいところが2か所あったので、お送りした原稿と比較すると、一文字抜けていたのと、一文字かわっていた場所があって、びっくりした。電子データのやりとりで、こんなことが起こるなんて不思議。いまメールで訂正をお願いした。

きょうは、とてもおいしいお肉が食べれたので、幸福の笑顔で眠りにつくことだろうと思う。57歳にしてようやく傑作が書けたのかと思うと、笑みがこぼれる。齢をとることにも意味があるのだ。顔は醜く、身体からは筋肉が落ちようとも、才能だけは涸れることがないことを知れて、ほんとうにうれしい。

おびただしい痛みどめが部屋のなかにある。おびただしい本が部屋のなかにある。おびただしい思い出が部屋のなかにある。ぼくの写真には傷がない。一か月前にはお岩さんのような傷があったのに。ただたんに、うつくしいことがしたかっただけなのだけれど。どんなにうつくしいことだったのだろうか……。

杉中昌樹さんの詩誌でホラティウス特集をなさるらしくて、ホラティウスにちなんだ作品を書くことになった。ホラティウスは、ぼくの大好きな詩人で、玉川大学出版部から出ている、鈴木一郎さんが訳された全詩集を持っていて、ゲラゲラ笑いながら読んだ記憶がある。他の詩人の悪口詩とかレシピ詩とかね。

二〇一八年三月二十八日 「2足の靴」

新学期にそなえて、2足、靴を買ってきた。

杉中昌樹さんがはじめられる詩誌、世界の詩人をテーマに展開されていくご様子。日本語になった外国の詩人の作品をぼくもほとんど読んでいるので、できるかぎりすべての号で作品を書かせていただくつもりである。さいしょの号の特集はホラティウス。ほとんどあらゆるものを題材に詩を書いた詩人である。

二〇一八年三月二十九日 「人身事故」

きょうも阪急電車、人身事故で遅れてた。ほんとうに、楽に死ねる方法や法律があればいいのになあと思う。電車に飛び込む勇気が、ぼくにはない。ずいぶんむかし、勝手に足が線路の方へ動いたことがあって、びっくりしたことがあるけど。無意識に死を望んでいたのだろうと思う。遠い昔のことだけれど。

でも、そのとき死んでたら、こんど、ユリイカの5月号に掲載される傑作の詩を書くことができなかったのだと思うと、生き延びなければならないのだと、つくづく思う。

二〇一八年三月三十日 「断章」

創造者であるとともに被創造物でもある。
(ブライアン・W・オールディス『讃美歌百番』浅倉久志訳)

二〇一八年三月三十一日 「バンコクに死す」

いま日知庵から帰ってきた。ダン・シモンズの短篇集『夜更けのエントロピー』収録さいごの「バンコクに死す」を読みながら寝る。やっぱり、早川書房の異端作家短篇集より、河出書房新社の奇想コレクションのほうがおもしろい。


サヨナキドリ

  ネン

死ぬ事になったから
俺は幽霊になったから
二度と死ななくていいと
神は冷たく言われたよ
人生を振り返ってみると
恥と後悔しかなかったな
この世を呪っていながら
笑っているのが辛かった
涙の絶えない日溜まり
単なる死体を乗り越えて
新たな草花が芽吹く
世界だけが余りに力強い
とても楽しいジョークを
君に言おうと思ったのに
ちょっと死んでみた所為か
どうしても思い出せない
もっと生きれば良かったか
ピクニックとか遠泳とか
出来た事は一杯あったし
誰かが笑っていてくれた
もう聞こえないその声が
幽霊にはゆかりのない筈が
とても大切だった気がして
行方を春風に尋ねている
誰を愛したかなんて
突き止めたくないのに
鼻の奥でその人から
夜の匂いがするんだ


(無題)

  左神経偽

わたしは
お空に揮発した
子猫のため息を集めようとして
大きなタモを振りまわす

甘いお菓子の匂いを追いかけて
遠ざかる見馴れた町
素足に突っ込んだローファーは
もう泥濘みでギッシリだ
ミルクティーに砂糖は入れず
カップに塗られた青酸カリに
ほんの少し舌先が痺れた

どこかの親猫が
頭一つ分だけ高い塀から
わたしの名前を呼んで
返事をする間も無く

「まー」と鳴く

息を吐いても
白い風船は上がらないから
とにかく今は
お空を目指さなくっちゃ

網を抜けた吐息の塊が
手応えはなくても
確かこの辺りに浮かんでいた
夢中でタモの柄を握りしめて
お空を攪拌した

少しだけ鼻の奥が痺れて
わたしはやっぱり泣いてしまう
ヤレヤレと
ヒョッコリ顔を出さないかしら?
小さな薄い耳を
ティーカップから覗かせて
もう一度
ため息に混ぜてくれないかしら

わたしはお空に揮発した
子猫のため息の
甘いお菓子の匂いを
読みかけの本に挟んで
いつかこの町に
お別れしなくちゃ


ちょっといいですかThis Is Just to Say

  アンダンテ

・it’s・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・くるりと
・may・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・羊羹
・and・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・の
・・・the・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おもて

・・・・・golden-week・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・切っても切らなくても切り口

・peachMan・・・・whistles・・・・・・・・・・・・切り口・・・・・・それはは羊羹でないとしたら
・far・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・羊羹
・and・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は
・wee・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・食えん

実数体の完備性がぶっ飛ぶ。完備ではない隙間 物の成立。


・・・Let us see,is this real.・・・・・・・・・・いくら思考と対象という存在を
・・・Let us see,is this real.・・・・・・・・・・同一のものとみなしても
・・・This life I am living?・・・・・・・・・・・対象という存在は依然として
・・・You,Gods,who dwell everywhere.・・・・・・・自己の外に存在している
・・・Let us see,is this real.・・・・・・・・・・死ぬことによって
・・・This life I am living?・・・・・・・・・・・無に帰したと言ったら
・・・・・・・・・(Indians song)・・・・・・・・・・・・・・・(木乃伊に失礼だ)

対象を存在と見なしたことにより、矛盾を置き去りにして自己と対象をジンテーゼしたヘーゲル。絶対知という神様宣言。残念なことに「神」対「対象」という図式がどこまでも付いて回る。 



・・・Because Icould not stop for Death ―・・・・・・唖者からその夢を奪うように
・・・He kindly stopped for me ―・・・・・・・・・・ 私は言葉をうしなう
・・・The Carriage held but just Curselves ―・・・・どうしてかって、言葉は論理的で
・・・ And Immortality.・・・・・・・・・・・・・・・ないからさ。
・・・・・・・(Emily Dickinson)

いくら言葉を研ぎ澄まそうとも、論理的結末は一つにならない。論理的結末が一つなら言葉など要らない。


・・・I never saw a Purple Cow,・・・・・・・・・・・・・・・嗅ぎ分ける鼻がないわけではない、
・・・・I never hope to see one;・・・・・・・・・・・・・・・・マスクすると自分の口臭が気にならないだろうか
・・・But I can tell you,anyhow,・・・・・・・・・・・・・・鼻にかかったマスクをずらすと
・・・・I’d rather see than be one.・・・・・・・・・・・・・・ヨーグルトを口に含まなくても臭みが消える。
・・・・・・・・(The Purple Cow -- Gelett Burgess)

わたしは鼻呼吸が苦手だ。死ぬほど好きと語りえぬ告白を示されたら、瘋癲のたこ焼きみたいな顔したダノン好きなヴィトゲンシュタインは、それは説明にすぎないと拒否するのかな。

**********
*註解
・it’s:E.E.Cummings(1894-1962)-‘in Just - ‘ 引照
・peachMan:新造語(桃売り)
・羊羹の切り口:大森荘蔵『流れとよどみ』1章「時を刻み切り取る」
・Emily Dickinson:(1830-86)
・Gelett Burgess:(1866-1951)


こわれていくんだよ

  



我がいとしの、プリンセスのために、歩けなくなってしまいました。行きたいところも、なくなりましたので、いかだを作り、漕ぎだすことにしました。たくさんの木を、切り出さなければなりません。デジタルな場所から、たくさん木を調達します。いかだの準備ができたら、海へ向かって漕ぎだします。世界はとても孤独で悲しいので、いちばん好きな場所に行くという考えは、既にあります。わたしはいかだで難破します。わたしはいかだに溺れます。



古い橋のたもとで、季節はふたたび出逢います。風の喜びが、水面いっぱいにひろがって、私たちはこころが歌うのを聞いていました。それは花のとき、恐れをしらない冬のように、息を潜める音や、暗い夜を過ごし、いつか戻れると信じながら、言葉で作りだした月明かり、こころを灯す昔のように。古い橋のアーチをくぐる、ススキ、夜風にふかれ揺れる船。もみじの子ども眠る秋の、夕暮れを浮かべた日々。私たちは、こころが涙ぐむことを波と呼びました。
それは花のとき、素直すぎた冬のように、古い橋のたもとで、季節はわたしの腕を掴み、あなたの声は、わたしの指先の行方、今もずっと天国を信じて渡ってきます。

こわれていくんだよ

夕日の影に隠れていたんだね。年齢のこと、君がずっとこっちを見てるって。美しいから、みんな悲しいんだよ。永遠なんて幸せよりも脆いから。顔のしわを数えてごらんよ、数に限りもあるだろう。
君が眠っているとき、僕は君の代わりに人生。また、その逆も。いつまで待っても、じかん通りにバスは来ない。逢ったことがないんだ。停留所の場所も、あとで聞いたんだ。君じゃない、ほかの誰かに。だから泣いたりしない。わかりきっていたこと。君が生まれたとき、今日みたいな日が来るって、みんな知っていたんだ。他愛もないはなし。なのにどうしてこんなに悲しいのさ。君がまたいつか逢えるなんて、僕の心で夢をみているからだ。永遠なんかないんだよ。だから、よけいに、こわれていくんだよ。


詩の日めくり 二〇一八年四月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年四月一日 「孤独の円盤」

きょうから河出書房新社の奇想コレクションシリーズの第2弾、シオドア・スタージョンの『不思議のひと触れ』憶えているのは、異色作家短篇集の『一角獣・多角獣』にも入ってた「孤独の円盤」くらいかな。

いま日知庵から帰ってきた。あしたはホラティウスにちなんだ詩を書こうと思う。詩作についての詩にしようと思う。ホラティウスは詩法についてたくさん詩を書いたからね。でも、ふつうの詩論になっちゃいけないなと思う。思い切り遊んでつくるつもり。きょうはもう寝る。夕方に起きたのだけれど。

二〇一八年四月二日 「ホラティウス」

ホラティウスに寄せた詩を書いたけど、ちょっと平凡かな。「詩法。」ってタイトルの詩にしたのだけれど、現代ってことで、書いたのだけれど、考え方がオーソドックスのような気がする。書きかえると思うけれど、出来が悪かった。きょうは調子が悪い。

ずっと詩を推敲しているのだけれど、つぎつぎ詩句を取り替えていくから、原型とは違うものになっている。でも、この方向でいいのだという確信めいたものも芽生えてきた。しかし、レトリックの塊のようなものを書いているような気がする。これはいいことなのかな。それともダメな方向なのかな。どだろ。

矛盾律を主軸に展開しているから、詩論じみた詩なのだけど、なにごとかを書いていて、書いてないといった感じのものになっている。その反対でもある。自分でも、もっと楽しみたい気持ちがあるから、最初から最後まで矛盾律で押し通すけど。あまり推敲し過ぎて、原型が半分以下になっている感じがする。

まだ手を入れている。詩論詩としては及第点を超えていると思うのだけど、どこか平凡なシロモノのような印象がある。不遜な書き方だけど、ぼく以外の詩人が書いたとも言えるような叙述になっている。ホラティウスに寄せ過ぎたためかもしれない。ホラティウス自身は非凡な才能の持ち主だったのだけれど。

いま、きみやから帰ってきた。阪急の改札近くで、えいちゃんと遭遇。あしたから、日知庵でバイトする。これから毎週、火曜日、木曜日、土曜日に入ることになっている。あした、ひさしぶりなので緊張する。詩の推敲はあしたするつもりだけど、まったく新しくつくりかえたいような気もしている。どかな。

二〇一八年四月三日 「不思議のひと触れ」

お昼につくっていたホラティウスに寄せた詩を読み直した。2か所に手を入れた。今回は、これでいいかな。平凡な詩になってしまったような気がする。だれでもつくれそうな詩のような気がする。ぼくらしさなど微塵もない感じだ。しかし、そんな詩もあっていいような気もする。ぼくらしくもない平凡な詩。

しかし、つぎには狂ったような詩をつくる。あしたから2行ずつつくっていく。それらを無作為につないでいくことにする。これで、ゴールデンウィークまでに、1作できるはず。きょう寝るまえの読書は、シオドア・スタージョンの短篇集『不思議のひと触れ』の「もうひとりのシーリア」から。

いま杉中昌樹さんに、ホラティウスに寄せた詩をお送りした。きょうは夕方から日知庵でバイトだけど、それまでは、つぎの詩の材料をいじってすごそうかと思う。シオドア・スタージョンの短篇集『不思議のひと触れ』案外、読むのが楽しくない。好きな作家なのだけど。詩句をいじっているほうが楽しい。

これから保険料を払ってくる。およそ200000円。高いわ。

いま30分くらいでつくった詩の方がおもしろい。ホラティウスのしばりは、ぼくにはきつかったようだ。まあ、いまつくったものは推敲していないから、またつぎつぎと詩句がかわっていくだろうけれど。現実の思い出が2つ入っている。ひとつはドライブの、もうひとつは日知庵のバーベキューの思い出だ。

いま見直して、また手を入れた。詩句をいじるのは、ほんとうに楽しい。ホラティウスに寄せた詩でも、手を入れているときはドキドキしていたのだ。よりよい詩句に変化していくさまは、自分でも見ていて気持ちがいい。ああ、そうだ。杉中昌樹さんの詩誌では行数制限があった。縮めなければならない。

いっきょに20行ほど削ったら、ちょうどよい感じになった。53行の詩だ。まだ手を入れるだろうから多少、行数がかわるかもしれないけれど、これ以上には増やさないつもりだ。こんな短い詩は数十年ぶりに書く。字数や行数の指定があっても書ける自分がいて、笑ってしまう。現実生活は不器用なのにね。

気まぐれなので、タイトルを変更することにした。ジェネシスの曲名で『IT'S GONNA GET BETTER。』にしようと思う。詩の内容とまったく関係がないけど、まったく関係がなくても、人間の脳は関係づけてしまうので、それなりに意味合いが出てくるような気がする。まあ、何にでも合う無難なタイトルだしね。

二〇一八年四月四日 「FOR YEARS AND YEARS。」

きょうも、いま1時間ほどで、50行ほどの詩を書いた。タイトルは、フランスのプログレで、タイフォンの曲名から、『FOR YEARS AND YEARS。』にした。今回も2つの事実を入れている。ひとつは糖尿病の話で、もうひとつは、よく飲みに行ったタコジャズの話だ。嘘も入れている。嘘というか架空の話だ。

二〇一八年四月五日 「糸ちゃん」

いま日知庵から帰ってきた。20年来の友だちの糸ちゃんとしゃべくってた。きょうも、いい気分で寝るわ。おやすみ、グッジョブ!

えいちゃんにもらったシップを腰に貼って寝ようっと。

二〇一八年四月六日 「Still Falls The Rain。」

Amazon で、ぼくの新しい詩集を予約下さった方がいらっしゃった。うれしい。Amazon では、5月10日が発売日ですが、発行所の書肆ブンでは、すでに発刊していますので、直接、書肆ブンにお問い合わせください。

さっき、郵便局からヤリタミサコさんに、ぼくの新しい詩集『Still Falls The Rain。』をお送りした。この詩集はヤリタミサコさんの朗読に感激してつくった詩がメインの詩集だったのだ。詩集の表紙は、もちろん、ヤリタミサコさん。

5月に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する作品を決めておこう。詩論詩をまとめて本にしたいので、詩論詩つづきだけど、詩論詩にしようと思う。BGMはプリンス。

BGMはいつの間にか、ジェネシスに。で、いま作業が終わった。未発表原稿にはすべて300番の番号をつけていて、はやく並んでいる詩論詩のほうから2つ選んで、タイトルを変更して、文学極道の詩投稿掲示板用に仕様を改めた。心配なのは、囲い込み文字が無数にあって、それらがどうなるのかだな。

ツイッターのツイートで試したら、囲い込みだけがなくなっていた。文字はぶじだった。

杉中昌樹さんから、『ポスト戦後詩ノート 第12号』「笠井嗣夫 特集」号を送っていただいた。執筆陣の多さ、多彩さに驚かされ、さらに杉中昌樹さんのご記憶力の強靭さにも驚かされた。ぼくも一文を寄稿させていただいた。杉中昌樹さんのお目にとまることができて、ほんとうによかったと思う。

二〇一八年四月七日 「おやすみ、グッジョブ!」

いま日知庵から帰った。寝る。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年四月八日 「ありがたいことです。」

ありがたいことです。

二〇一八年四月九日 「Sat In Your Lap。」

文学極道の詩投稿掲示板に、作品『Sat In Your Lap。』を投稿しました。

きのうから右下の奥歯が痛くて、けさ歯科医院に行ったら、歯槽膿漏だと言われて抜歯された。麻酔を何本も打たれて歯を抜かれたのだけれど、抜歯って、めちゃくちゃ原始的な方法で抜くんだね。びっくりした。ペンチみたいなので、ぐいぐい抜いちゃうんだね。痛かった。怖かった。

二〇一八年四月十日 「ふたりジャネット」

きょうから寝るまえの読書は、河出書房新社の奇想コレクション・第3弾の、テリー・ビッスンの短篇集『ふたりジャネット』の再読をする。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年四月十一日 「推敲」

ユリイカの5月号に掲載される詩のゲラが届いたので、2か所、訂正させていただくことにした。つぎのような個所である。「会社を出たときに→会社を出たときには」、 「急いでいるかどうか→急いでいるのかどうか」 ひとつめの訂正は意味のための、ふたつめの訂正は音のためのものであった。

ユリイカの5月号の作品、いま起きて天啓がひらめいて、メールで、タイトルの変更をお願いした。まだ間に合えばいいのだけれど。きょう電話をして、確認してみる。

朝ご飯を食べに行く。西院かな。ぽちぽちと歩いて。

わ〜い! いまユリイカの明石陽介さんに電話でご連絡して、ユリイカの5月号に掲載される詩のタイトルの訂正がしていただけることになった。ばんざ〜い。これで完璧な詩篇になった。きょうは読書か、新しい詩の制作か、どっちにしよう。

きのうから徹夜だ。少し横になっただけだ。クスリをのんでも眠くならない。脳機能が覚醒しているのかもしれない。よし、詩をつくろう。つぎの詩の材料はぐちゃぐちゃだから、おもしろい。そのまま並べてもいいくらいだが、ベストの配置をさぐるのが詩作だと思っている。選択された言葉が適切ならばだ。

3分の2はつくってあった。あとの3分の1をいまつくった。なんの意味もない詩だ。それでも、ぼくにだけ意味がわかる部分がある。これまたじっさいの記憶を2つ入れている。あとは適当に嘘、笑。きょうは夕方まで、これをいじくりまわそう。いま、53行。短い詩だ。短い詩も、それなりにおもしろい。

何十回も見直しているのに、まだあった。いま、ユリイカの明石陽介さんに訂正のお電話をかけさせていただいたのだけれど、「たわごとと言うなら」→「たわごとと言うのなら」の変更である。音的には後者のほうがすぐれている。なぜ、気がつかなかったのだろう? そして十回以上の訂正とは申し訳ない。

やっぱり12年ぶりのユリイカで緊張しているのだろうな。それにしてもなぜ、音に気がつかなかったのだろう。まあ、「たわごとと言うなら」でも音的にそんなにおかしくなかったためだろうけれど、さらに音的にいいのは、やはり「たわごとと言うのなら」であろう。詰めが甘かったということだろう。

さいきんつくり出している短い詩でも詩句をいじくりまわしているのだけれど、見るたびに詩句をいじるので、もう見ないで、どんどん新しいのをつくっていこうかなって感じだ。そして、じっさい、そのほうが自分のためにもいいかもしれない。あと数個つくったら、また、詩のつくり方を変えようと思っている。

二〇一八年四月十二日 「特集=アーシュラ・K・ル=グウィンの世界」

いま日知庵から帰ってきた。きょうは客で。あした、しあさっては、日知庵でバイトしています。よろしくお願いします。毎週、火曜日、木曜日、土曜日にバイトしています。

ユリイカ2018年5月号 「特集=アーシュラ・K・ル=グウィンの世界 」だそうです。SFマニアのぼくとしても、その号に自分の詩が掲載されるのは、ほんとうに、うれしい。ぼくの詩は、SFというよりも、マジック・リアリズムのほうだけれど。

そいえば、ぼく、ユリイカの1991年1月号「特集=フィリップ・K・ディックの世界」で、ユリイカの新人に選ばれて、3つの詩を掲載していただいた記憶がある。縁なのかなあ、SFとは。

テリー・ビッスンの短篇集『ふたりジャネット』のつづきを読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年四月十三日 「フェッセンデンの宇宙」

いまさっき、日知庵から帰ってきた。きょうはバイト。寝るまえの読書はテリー・ビッスンの短篇集『ふたりジャネット』のつづき。いま半分ちょっと読み終わったところ。といっても、短篇「穴のなかの穴」の途中だけど。

テリー・ビッスンの短篇集、読み終わった。まあまあって感じ。車について詳しく書き過ぎなところが退屈だった。きょうから河出書房新社の奇想コレクションの再読は、エドモンド・ハミルトンの短篇集『フェッセンデンの宇宙』タイトル作品は記憶している。ほかはまったくどんな話だったか覚えていない。

二〇一八年四月十四日 「願い星、叶い星」

ハミルトン、いちばん短い短篇「追放者」がいちばんおもしろかった。きょうから再読する河出書房新社の奇想コレクションは、アルフレッド・ベスターの短篇集『願い星、叶い星』、2作品、覚えてる。めずらしい。「ごきげん目盛り」と「昔を今になすよしもがな」タイトル作も、記憶通りのものなら3作。

学校から帰ってきたら、郵便受けに、「詩の練習 第32号」の『鮎川信夫特集(2)』が送られてきていた。杉中昌樹さんからだ。ぼくも詩を寄稿しているからであろうが、今回も、杉中昌樹さんのご交友の多彩さに驚かされた。また、当然のことながら、杉中昌樹さんの知識の広さ、深さにも驚かされた。

ブックオフの108円のコーナーに、買ってなかった時間SFのアンソロジー『時を生きる種族』(創元SF文庫)があったので、買っておいた。いま、アルフレッド・ベスターの短篇集の読み直しをしているので、いつ読むかわからないけれど。お風呂場で読もうかと思ったけれど、思わぬ傑作が入ってたら、あとで、ぜったい後悔して、また、Amazon で買い直すハメになると思うので、お風呂場で読むのはやめておこうと思う。お風呂場で読んだら、水、じゃないや、お湯びたしになっちゃうからね。

きょうは早めに寝ようと思いながら、淹れたてのコーヒー飲んでる。

回転寿司の皿の上に猿がいる。種類の異なる何匹もの猿が回転している。色とりどりの、やわらかくて、おいしそうな猿たち。

回転寿司の皿の上におじさんがいる。種類の異なる何人ものおじさんたちが回転している。色とりどりの、やわらかくて、おいしそうなおじさんたち。

回転寿司の皿の上に皿がある。種類の異なる幾枚もの皿たちが回転している。色とりどりの、やわらかくて、おいしそうな皿たち。

これからお風呂に。上がったら横になって、本を読みながら寝ます。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年四月十五日 「ダブル仕事の日」

本を手に持って寝ていた。睡眠薬が強烈なんだろうな。3時ころに目が覚めて、それから暗い部屋でまどろんでいた。きょうは、ダブル仕事の日。がんばらなくては。これからコンビニに朝ご飯のパンを買ってくる。コーヒーを淹れて眠気を吹っ飛ばそう。

いま学校から帰ってきて、コーヒーを淹れたところ。きょうは夕方から日知庵でバイト。がんばらなくっちゃ。

二〇一八年四月十六日 「輝く断片」

ベスターの短篇集、おもしろかった。きょうから再読する奇想コレクションは、シオドア・スタージョンの短篇集『輝く断片』タイトルを眺めても、ひとつも物語を思い出せず。アルツかいなと、ふと思ったり。塾に行くまで、読んでみよう。塾のあとは日知庵に飲みに行きます。

むかし、伊藤芳博さんに評していただいた私家版詩集『ふわおちよおれしあ』という詩集があって、それは、ぼくも持っていない詩集で、すべての「陽の埋葬」を収録している。これからも公開する予定のないものも含めてだ。わりと整然としている詩集だったように記憶している。

二〇一八年四月十七日 「日知庵」

スタージョンの短篇集のつづきを読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!

いまさっき日知庵から帰ってきた。きょうはお客。あしたは店員で入っています。よろしくお願いいたします。

二〇一八年四月十八日 「本の虫」

ぼくはやっぱり本の虫なんだな、日知庵から帰って、スタージョンの短篇集にかじりついている。未読の本は2、30冊ばかり。バラ色の人生なのか。無数の詩集の読み直しもしたい。ことしじゅうに、ぜび。

ひゃ〜、もうこんな時間。クスリのんで寝ます。おやすみ。グッジョブ!

とにかく本が好きなのですね。ほしい本はすべて手に入れたし、人生、にっこりして終われるような気がします。貧乏でも悔いなしです。

いま目が覚めて仕事だと思って部屋を出たら、雰囲気が違うので、部屋に戻って時計を見た。朝の5時過ぎだった。通りで、目が覚めても眠気がまだあったから。さいきん、ときどきする失敗である。

二〇一八年四月十九日 「どんがらがん」

いまスタージョンの短篇集を読み終わった。きょうから再読する奇想コレクションは、アヴラム・デイヴィッドスンの短篇集『どんがらがん』記憶してる短篇は2篇だけ。とびっきり変わってるもので、「ゴーレム」と「さもなくば海は牡蠣でいっぱいに」再読、とても楽しみ。ほんと変な発想する作家だもの。

きょうは昼まで寝ていて、そのあとはずっと本を読んでた。これからお風呂に入って寝る。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年四月二十日 「西元直子さん」

西元直子さんから、詩集『くりかえしあらわれる火』(書肆山田)を送っていただいた。そのほとんどが散文詩で、言葉がていねいに織り込まれている。文節のつなぎ方が、ぼくの好みだ。ブレスとブレスのあいだで、ちゃんと息がつける。息をつけさせないところはまったくない。ごく稀なごく自然な文体だ。

デイヴィッドスンの短篇集『どんがらがん』の読み直しも、さいごの短篇「どんがらがん」で終わりだ。それを読み終わったら、つぎの奇想コレクションの読み直しは、ゼナ・ヘンダースンの短篇集『ページをめくれば』にする。収録作で憶えているのは、1作のみ。ああ、情けない記憶力。すさまじい忘却力。

「どんがらがん」を読み終わった。自由の女神の残骸が出てくるところは『猿の惑星』の映画のラストシーンを思い出させる。原作の『猿の惑星』の本には出てこないんだけどね。これからお風呂に。あがったら、ヘンダースンの短篇集『ページをめくれば』を読む。あした早いので、読むのは解説くらいかもしれないけど。

二〇一八年四月二十一日 「シラバス」

昼から夕方にかけて、ひとつの単語がまったく思い出せずに、なんか狂気に陥ったように、その言葉を求めて考え込んでいた。夜になって、日知庵にバイトに行って、そのとき、こられてたお客さんに尋ねたら教えてくださった。女子大生の子に「授業のカリキュラムとか書いてあるもの、なんていいました?」と尋ねたのだけれど、あした一限目からなのよとか話をされてたので、教えてもらえるかもしれないと思って尋ねたのだけれど、その単語って、「シラバスですか?」と言ってくださったので、ようやく自分のさがしていた言葉に辿り着くことができたのだった。こんど、シラバスを書くことになったのだった。

二〇一八年四月二十二日 「ページをめくれば」

ゼナ・ヘンダースンの短篇集『ページをめくれば』のつづきを読みながら寝る。といっても、まだ冒頭の作品のさいしょしか読んでいない。

二〇一八年四月二十三日 「猿」

猿がブランコをこぎながら、うんこをしている。いや、違うかな。猿がうんこをしながら、ブランコをこいでいる。これも違うかな。ブランコが揺れながら、猿とうんこを、ぼろぼろと落っことしている。これかな。ヴィジョンが浮かんだかな。やっぱ、こういうのはヴィジョンが大事なのよね、ヴィジョンが。

二〇一八年四月二十四日 「ぼく」

ぼくはブランコをこぎながら、うんこをしている。いや、違う。ぼくはうんこをしながら、ブランコをこいでいる。これも違う。ブランコが揺れながら、ぼくとうんこを、ぼとぼとと落っことしている。これかな。ヴィジョンが浮かぶ。やっぱ、こういうのはヴィジョンが大事なのよね、ヴィジョンが。

二〇一八年四月二十五日 「不遜」

さいきん、自分がなにごとかを書くことが、とても不遜なことに思えてきた。やっぱり、大詩人や大作家のものばかり読んでいると、そうなるのかもしれない。いま日知庵から帰った。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年四月二十六日 「アーシュラ・K・ル=グウィンの世界」

ユリイカの5月号「アーシュラ・K・ル=グウィンの世界」特集号を送っていただいた。ぼくが書いた詩「いま一度、いま千度、」が掲載されている。1991年の1月号が「P・K・ディックの世界」で、大岡 信さんに、ぼくをユリイカの新人に選んでいただいたので、SF好きのぼくは、とてもうれしい。

二〇一八年四月二十七日 「教材研究」

きょうは5時まで読書しよう。それから日知庵にバイト。月曜日は休みだけど、5月1日の火曜日は授業があるので、その教材研究で月曜日の休日はつぶれるだろうな。ことしは教材研究に時間がかかっている。1枚のプリントをつくるのに1時間以上かかっている。ひさしぶりの違う教科だからかもしれない。

二〇一八年四月二十八日 「先生、知ってる?」

いま日知庵から帰ってきた。寝るまえの読書は、ゼナ・ヘンダースンの短篇集『ページをめくれば』のさいごの短篇「鏡にて見るごとく━━おぼろげに」。でも、5分の2くらいのところに収められてる「先生、知ってる?」を、きょう読み直したら、すっごい名作だったことに気づいたので、これを読むかも。

人間がなぜ詩を読んだり書いたりするのかは知らないけれど、ぼくが詩を読んだり書いたりするのは、頭がすっきりするからだ。こころの目の視力がよくなるからであると言ってもよい。まあ、ぼくがそういう詩を求めているだけで、ほかのひとはこころの平安を得たいと思ってたりするのだろうなあと思う。ぼくの場合は平安ではなく、むしろ不安を求めているのかもしれない。こころの目がよく見えるようになればなるほど、人間についての知見がますますわからなくなっていくからである。

ひとりの人間について100通りの解釈をするほうが、100人の人間について、ひと通りの解釈をするよりもずっと意味のあることだと思う。もしかしたら、これが、ぼくが詩を読んだり書いたりする理由なのかもしれない、と、ふと思った。

クスリのんで寝ます。おやすみ、グッジョブ!

ゼナ・ヘンダースンの短篇集『ページをめくれば』再読終了。おもしろかった。やっぱり奇想コレクションのほうがよい。きょうから再読する奇想コレクションは、ウィル・セルフの『元気なぼくらの元気なおもちゃ』これまた、あれまた物語をひとつも憶えていない。まるで新刊を読むようなものだな、ぼく。

これからお風呂に。それから日知庵に行く。きょうは、客としてね。

二〇一八年四月二十九日 「しんさん」

いま日知庵→きみやの梯子から帰った。帰りに、阪急電車の河原町駅の階段のところで、しんさんと出会った。「また日知庵で。」とおっしゃったので、「はい。」と返事した。あいかわらず、かわいい笑顔だった。かわいいひとは、変わらず、ずっと、かわいいんだね。と思ったのであった。きょうのいい思い出。

二〇一八年四月三十日 「ウィル・セルフ」

ウィル・セルフの短篇集を読んでいるのだが、世界観が不気味で、なかなか読み進められない。不気味系は好きなほうだと自分では思っていたのだけれど、エンターテインメントとして不気味なものが好きだっただけのようだ。生理的に不気味なものには生理的な拒否感が起こるようだ。まあ、わからないけど。

二〇一八年四月三十一日 「断章」

――詩人はよく、こう言っていた。詩人にできるのは、ただ言葉を並び替えることだけだ、と。

人間は実際造ることができないんです。すでにあるものを並び替えるだけでしてね。神のみが創造できるのですよ
(ロジャー・ゼラズニイ『わが名はレジオン』第三部、中俣真知子訳)


『在りし日の歌』 ― 各論

  アンダンテ

私が作品について語るには、先ず、いったんその作品を作者不詳にする必要があるのです。作者を作品解釈の唯一の拠り所にしない事、それが肝心なのです。作者を無視するのではなく距離を置くこと。作品を通じて作者を抽出するのです。ロラン・バルトが言うように《ある作品が「永遠」なのは、不特定多数の人に唯一の意味を植え付けるからではなく、ひとりの人間に多種多様な意味をもたらす(『批評と真実』》からで。また、バルトは言います。《読者とは、あるエクリチュールを構成するありとあらゆる引用が、何一つ失われることなく記入される空間に他ならない(「作者の死」)》と。ダンテの作品がそうであるように、ジョイスの作品が然り、西脇順三郎の作品が然り、そして、田中宏輔氏の作品がそうであるように。

・閑話休題


・・・・・・・・・・(十)春

・この詩は、「悲しき朝」(『山羊の歌』)と同じく「生活者」昭和四年九月号に発表された。制作年次は未詳である。恐らく長谷川泰子が去って行ったのちの春、大正十五年頃の作と思われる。中也はこれより先、長谷川泰子と出逢った頃、『分からないもの』という小説を書いていた。大正十二年末頃、富永太郎とも小林秀雄とも出逢う前の時期のことだ。

・・・グランドに無雜作につまれた材木
・・・――小猫と土橋が話をしてゐた
・・・黄色い壓力!

・これは、その小説の中にある『夏の晝』と題された詩。
・グランド・材木・土橋・小猫――これは単なる叙景詩ではない。ここに表出されている風景は悉く人工的で、猫さえも人に和う獣としてある。そして<黄色い壓力!>という一句が置かれることによって、人の世の地上の模写にすぎなかったこの有り触れた風景は、音無しの狂気を湛えた場面へと一変するのである。昭和三年、河上徹太郎に宛てた手紙の中で、中也は次の様に言っている。<「私は自然を扱ひます。けれども非常にアルティフィシェルにです。主觀が先行します。それで象徴は所を得ます。それで模寫ではなく歌です。……(後略)」。>詩作の初学び期、既にこのような詩観が作品として結実していた。 

・・・大きな猫が頚ふりむけてぶきっちょに
・・・一つの鈴をころばしてゐる
・・・一つの鈴を、ころばして見てゐる
・・・・・・・・・・(「春」より)

・在りし日において見られるこの抒情歌は、紺青となって空から降りかかるしずかな春の、しずかな春の狂気の今日と同時進行している場面として歌われてゆく。

**********
*註解
・和う:あう
・初学び:ういまなび
・紺青:こ あを


・・・・・・・・・・・(十一)春の日の歌

・中也は、衰弱してゆく我が身を見送る。

・・・うわあ うわあと 涕くなるか(「春の日の歌」第三連三行目)
・・・ながれ ながれて ゆくなるか?(「春の日の歌」第四連三行目)

・ここで旌はされている「なる」という断定の助動詞「なり」の活用は、その事を能く愬えている。素より中也は語法にいついて厳明な姿勢で臨み、正鵠を射るように賓辞を配している。中也の詩に見られる破格は、真剣で持って開く刀背打の破調だという事を知らねばならない。

**********
*註解
・旌はされ:あらはされ
・愬え:うったえ
・刀背打:みねうち


・・・・・・・・・・・(十二)夏の夜

・『在りし日の歌』後記に「作ったのは、最も古いのでは大正十四年のもの、最も新しいのでは昭和十二年のものがある。」とある。
・大正十四年下旬、長谷川泰子は中也の許を去る。<「七月中原は山口へ帰った。九月最初の媾児。小林は二十三歳、泰子二十一歳である。」(大岡昇平『朝の歌』)。>中也が富永太郎の紹介で小林秀雄を訪れたのは、四月初旬のことだ。

・・・――疲れた胸の裡を 花辯が通る(「夏の夜」第四連三行目)

・十年の年月を経て、「雨の日」でこの花辯は次の様に夢となって出現する(『在りし日の歌』では「雨の日」は「夏の夜」の前におかれている)。

・・・わたくしは、花辯の夢をみながら目を覺ます。(「雨の日」第一連四行目)

・花辯は泰子を彷彿させる喩えには違いない。この詩は、泰子が去ったのちに書かれたものなのか?私は泰子が去る前だと思いたい。花辯は、
去る前の泰子の顔ではなかったか。恐らく、大正十四年七月から十一月の間の作に違いない。
・この詩は、『在りし日の歌』の流れを先取りしている。

・・・開いた瞳は をいてきぼりだ、(「夏の夜」第三連二行目)

・この<をいてきぼりの瞳>が<〓馬の瞳(「臨終」)>や<動かない瞳(「〓い瞳」)>よりも先の発想である事を、中也は知らずに詠む。
・初節の<あゝ 疲れた胸の裡を/櫻色の 女が通る/女が通る。>から<――疲れた胸の裡を 花辯が通る。//疲れた胸の裡を 花辯が通る>
と振る強引とも思える畳み掛けと、<開いた瞳は をいてきぼりだ、>との取り合わせは何故か『在りし日の歌』の時の流れにそぐわない。燃焼できずにいる中也の生理が、夏の靄の中に暑く徘徊っているようだ。
・空焚き寸前の空間。二人の男と、一人の女が現有している筈の生存空間の中で、中也一人が時差ボケしていた。どちらがの姿が滑稽か。決定的結びつきと思われる瞬間を胸に抱き生きる男と女の姿と、そんな人間現実からいつも取り残される中也の姿。男と女、そこが問題だ。

**********
*註解
・胸の裡: むねのうち
・銅鑼:ごんぐ
・著物:き もの
・徘徊って:たちもとって


・・・・・・・・・・・(十三)幼獣の歌

・昭和十二年八月二十一日の日附を持つ『ランボウ詩集』の後記で、中也は次の様に言う。

・・・所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。
・・勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れ難いものだらう!

・幼獣が抱く星も。なんと受け容れ難い夢であったことだろう。

・・・獣はもはや、なんにも見なかった。
・・・カスタニエットと月光のほか
・・・目覺ますことなき星を懐いて、
・・・壺の中には冒涜を迎へて。

・この第ニ節は、<カスタニエットと月光のほか>が<見なかった>に掛かるか、或いは<目覺ます>に掛かるかによって、獣と星の性格がまるで違ってくる。中村稔は『中也のうた』に於いて、「およそ詩を味讀することと謎解きとは全く関係ない。」と断った上で次の様に言う。

・・・……ここでうたわれているのは、目覺ますことない星をいだき、火消壺の中に冒涜をかかえて、カスタニエットと月光のほか何も見ない、
・・そのために燻りつづけてやまない一匹の獣の心である。……

・<見なかった>に掛かる解釈なのだが、成程そのようにうたう詩人もいるに違いない。しかし、それは中也の歌ではない。詩法に従うのは謎解きではないので、私は<目覺ます>に掛かる熟読を採る。

・・・カスタニエットと月光のほか
・・・目覺ますことなき星を懐いて、

・<目覺ます>は、他動詞「目覺す(めざます)」の連体形であり、中也は自動詞「目覺める(めざめる)」の連体形「目覺める(めざめる)」を用いてはいない。私たちが見ていると思っている星は、火消壺の外に輝く星ではない。実は、私たちは火消壺の中にいて夜空を眺めていたのに相違ないのだ。幼獣が抱く星は、夢からうつつに返る星ではない。それは、カスタニエットによって呼び起こされ、月を弾けて栄える夢の星。カスタニエットは燧石と共振している。燧石を打って造った星の光を浴びて、月は明るむだろう。

・・・獣はもはや、なんにも見なかった。

・正になんにも見ない獣として、中也は句点を打つ。それはカスタニエットと月光だけを見るような中途半端な姿ではない。見るという創造物を知る行為を放逐してしまうほど無防備になって、燧石を打って自ら星を造る営みに没入する幼獣の姿なのだ。
・神もなく認識もない<太古は、獨語も美しかつた!……>と、中也は歌う。そこには、美の発見と創造とが一緒である営みがあった。

**********
*註解
・燧石:ひうちいし
・太古は、獨語も美しかつた!……:「幼獣の歌」終連第四行目


・・・・・・・・・・・(十四)この小兒

・詩集『在りし日の歌』の題名には、「去年の雪」「在りし日の歌」「消えゆきし時」「過ぎゆける時」などが考えられていた。題名『在りし日の歌』、第一パート標題『在りし日の歌』、「含蓄」の副題「在りし日の歌」が付けられた正確のな時期は不詳。清書した原稿を小林秀雄に渡したのは昭和十二年九月二十六日。恐らく、この頃には決定していたものと思われる。長男文也が生まれたのは昭和九年十月十八日、亡くなったのが昭和十一年十一月十日。中也は、上野孝子のお腹にいる時から文也のことを日記に書き、死後「文也の一生」を起こしている。

・・・黒い草むらを
・・・コボルトが行く
・・・・・・・(「シャルルロワ」)

・コボルトは洞窟を番する精霊。黒い草むら、そしてコボルト。この詩句の持つイメージから「この小兒」と「幼獣の歌」は生まれた。

・・・コボルト空に往交へば、

・このコボルトは空高く飛び歩く精霊ではない。黒い草むらをコボルトが行く。揺れる葉先が、この小兒にとって空のすべてなのだ。割れた地球の片方に腰掛け見えた空。それは空高く聳える空ではなく、浜と水平に臨む海の果ての空だった。

・「この小兒」は昭和十年五月頃制作された。
・詩集『在りし日の歌』の扉に添えられた献辞「亡き兒文也の霊に捧ぐ」は、ヴェルレーヌの『言葉なき恋歌』に流れる無人称的抒情の燈火を呼び熾すように、聞こえぬ音を奏で続ける通奏低音となって名辞以前の世界へと誘う。

**********
*註解
・「シャルルロワ」:−ヴェルレーヌ−『言葉なき恋歌』ベルギー風景
・往交へば:ゆきかへば


・・・・・・・・・・・(十五)冬の日の記憶

・この詩の単調な調べは、何故かヴェルレーヌの詩「秋の歌」を呼び起す。

・・・啜り泣きつきなく
・・・ヰ”オロンを弾く
・・・・・秋の一日
・・・打ち沈むたましい
・・・心悲し
・・・・一色の日々。

・・・・・狭まる息かながら
・・・・・そして蒼ざめながら
・・・・・・・時鐘の鳴り響く日々、
・・・・・私は自分を思い出す
・・・・・在りし日のかずかず
・・・・・・・そして私は噎び。

・・・私は吹き立ち上がり
・・・吹き迷う風に乗り
・・・・・ひたすらに漂う
・・・そちこちで
・・・まるで
・・・・・落葉のよう。
・・・・・・・・(ポール・ヴェルレーヌ「秋の歌」:『土星びとの歌』― アンダンテ訳 ―


**********
*註解
・一日:ひとひ
・心悲し:うらかなし
・「秋の歌」:『土星びとの歌』― ポール・ヴェルレーヌ ―
・・・・・・CHANSON D’AUTOMNE
・・・Les sanglots longs
・・・Des violons
・・・・De l’automne
・・・Blessent mon Coeur
・・・D’une langueur
・・・・Monotone.

・・・・・Tout suffocant
・・・・・Et bleme,quand
・・・・・・・Sonne L’heure,
・・・・・Je me souviens
・・・・・Des jours anciens
・・・・・・・Et je pieure.

・・・Et je m’en vais
・・・Au vent mauvais
・・・・Qui m’emporte,
・・・De ca,de la
・・・Pareil a la
・・・・Feuille  morte.
・・・・(Poemes Saturniens,1886 -–Paul Verlaine -)


・・・・・・・・・・・(十六)秋の日

・「秋の日」の脚切は、散らう落葉のように往還を蔽う。そして夏の「夢」は、躍り滑る幾千もの浪の鱗を刷るように水面を圧す。

・・・・・・・夢
・・・一夜 鐡扉の 隙より 見れば、
・・・・海は 轟き、浪は 躍り、 
・・・私の 髪毛の なびくが まゝに、
・・・・炎は 揺れた、炎は 消えた。

・・・私は その燭の 消ゆるが 直前に
・・・・〓い 浪間に 小兒と 母の、
・・・白い 腕の 踠けるを 見た。
・・・・その きえぎえの 聲さへ 聞いた。

・・・一夜 鐡扉の 隙より 見れば、
・・・・海は 轟き、浪は 躍り、
・・・私の 髪毛の なびくが まゝに、
・・・・炎は 揺れた、炎は 消えた。

**********
*註解
・「夢」:『未刊詩篇』の中にある詩。昭和十一年、『鶴』七月号に発表。尚、「秋の日」は『文学界』昭和十一年十月号に発表。
・鐡扉:かねど
・轟き:とどろき
・燭:ひ
・直前:ま え
・腕:かひな
・踠ける:もがける


・・・・・・・・・・・(十七)冷たい夜

・睡魔がさざ鳴き、衰弱が詩人の鼓動と共に前進して行く。昭和十一年、それは雨が色褪せする季節だった。濡れ冠る中也の心はわけもなく錆びつき、いや止処もなく錆びつき、そして風化して行った。

・・・丈夫な扉の向ふに、
・・・古い日は放心してゐる。
・・・・・・・(「冷たい夜」第二連一行、二行目)

・丈夫な扉の向こうでは、絆が足掻き振り棄てられる兒と母が、海老のように反っくり返った目をして、黒い浪間に溺れていた。

・・・おお浪よ、おお船!凡てを飛び越えよ、飛び越えよ!
・・・昔はわが魂は塵を嘗めた。今は此上ない血潮に地を塗れしめる。
・・・《おお季節、おお寨!
・・・如何なる魂が欠点なき?》ジャン・アルチュウル・ランボオ。
・・・・・・・(「鑠けた鍵」より ―三富朽葉 ―)

・ものの数ではない生命の為に、幸福という季節は一体何時やって来るのか。中也は、「幸福」と題してラムボオを次の様に訳す。

・・・季節が流れる、城寨が見える。
・・・無垢な魂なぞ何処にあらう?

**********
*註解
・止処:とめど
・此上:こよ
・寨:とりで
・《おお季節、おお寨!/如何なる魂が欠点なき?》:ラムボオ『地獄の一季』の中の「錯乱II」に出てくる詩句。三富は小林秀雄よりも早くラムボオに触れ『アルチュウル・ランボオ伝』を起こしている。
・・O saisuns,O chateaux
・・Quelle ame est sans defauts?
・季節:とき
・城寨:おしろ
・魂:もの
・「幸福」と題して:「新しい韻文詩と唄」では、無題。尚、『地獄の一季』の反古草稿では、この詩の位置は空白であり”Bonr”と仮題のみ記されている。又、別の草稿の冒頭に散文で”c’et pour dire que ce n’est rien ,la vie ;voila donc les Saisuns.”(生命なんぞ取るに足りぬという事を言う為に…季節が、ほら季節が其処にある。)と一行記されている。


・・・・・・・・・・・(十八)冬の明け方

・「冷たい夜」は『四季』に、「冬の明け方」は『歴程』にそれぞれ発表された。これより先、中也は昭和十年五月『歴程』第一次創作号に「北の海」(『在りし日の歌』)と「寒い!」(『未刊詩篇』)を発表していた。
・地上はやりきれぬほど寒く病み、雨が色褪せする季節に春はない。パンドラの匣にユピテルの電光が通る。失せゆく希望を後びさりしながら眺めている瓦。此処には、とりとめもなく風化してゆく風景があるばかりだ。

・・・空は悲しい衰弱。
・・・・・・・・私の心は悲しい……
・・・・・・・・・(「冬の明け方」第二連五行目)

・気づかぬままに其の一生を終える小兒、或いは自らを知ってでもいるように立ち昇る煙。悲しみは上の上の空へと、道伝いに足を引き摺りながら歩いてゆく。

・・・生きてゐるのは喜びなのか
・・・生きてゐるのは悲しみなのか
・・・どうやら僕には分らなんだが
・・・僕は街なぞ歩いてゐました
・・・・・・・(「春の消息」『未刊詩篇』より)

・殻を失った軟体動物のように無防備な中也の命は燻り、剥き出しになった血は異次元の季節の中へと浸透してゆく。だが其処には、あの黄金時代の城寨は何処にも見当たらなかった。

・・・太古は、鮮やぐ俺の記憶を辿れば、俺の生は心という心が無垢に舞い、酒という酒は溢れ出る饗宴であった。
・・・・・・・(ラムボオ『地獄の一季』***** の中の冒頭の詩節 ― アンダンテ訳 ―)

・・・Jadis,si je me souviens bien,ma vie etait un festin ou s’ouvraient tous les coevrs,ou tous les vins coulaient
・・・・・・・(Une Saison en Enfer *****)

・永遠の春を見出そうとするラムボオの望みが、地獄の一季節への扉を開く序幕であったように、――中也も又、扉の鍵を手にしたのか。否、むしろ補綴の効かない半透明の扉、なにものでもない扉そのものと化した。
・生からの離脱?とんでもない。彼ほど生への密着を苛酷なまでに試みた者はいない。虚無。それは言葉ではない。生を分離させる接着剤なのだ。私のこの表現は間違いだろうか。そうではない。言葉で考えると矛盾に思えるだけの事だ。水中の天井が同時に水面であるように、それは名状しがたい事実なのだ。

・・・さわることでは保証されない
・・・さわることの確かさはどこにあるか。
・・・・・・・・・・(大岡信『さわる』より)

・私たちが小石を拾うとき、それは小石に触れているのではない。さわることができないと知ったとき、私はいのちが目覚めるのを覚えた。Quelle ame est sans defauts? 如何なる魂が疵なく目覚む(アンダンテ訳)。不透明な孤独となって虚無の中へと没入してゆく。この亡念の境に身を置く中也の姿は、昭和二年小林秀雄宛『小詩論』に於いて既に認められる。中也はラムボオを引いて、次の様に結論を下す。

・・・Ah! Que le temps vienne,
・・・Ou les coeurs s’eprennent!
・・・そして僕の血脈を暗くしたものは、
・・・「對人圏の言葉なのです。

・・・Je ne suis dit:Laisse,
・・・Et qu’on ne te voie,!!!

・そして、昭和二年八月二十二日の日記には「ランボオを読んでいるとほんとに好い氣持になれる。なんときれいで時間の要らない陶酔が出来ることか!/茲には形の注意は要らぬ./尊い放縦といふものが可能である!」とある。

・・・なにも
・・・ない
・・・隙間が

・・・渚なみ
・・・と
・・・砂浜に
・・・さわる

・・・さわる
・・・乙張と
・・・さわる

・・・なにも
・・・ない
・・・隙間が
・・・なければ

・・・なにも
・・・ない

・・・渚なみ
・・・も
・・・砂浜
・・・も  

・・・なにも
・・・ない
・・・・・(大岡信「さわる」より)

・虚無の隙間に現象と実像を尋ね探るに似て、物質を現象と実体とに識別する行為は夢魂のざれ事に違いあるまい、何処までも物質を辿り、漁り捲ればいい。もがく指先では、嘗て実体と呼ばれていた虚無の隙間と、そして今もなお現象と言う名の意識対象とが空掴みのまますり抜けている。灰白の闇の中で言葉が呻吟う。あなたは、何時の日か目覚めるのだろうか。

・・・青春が嗄れ
・・・呪縛に囚われた、
・・・優しさ故に憧れ
・・・俺は身を崩した
・・・・・(「最も高い塔の歌」― アンダンテ訳 ―)

・中也は翻す、小難しい意識を吹き飛ばすかのように三観を込めて!!! qu’on ne te voie,!!! そして虚無からの目差しを以て抒情する。

・・・農家の庭が欠伸をし、
・・・道は空へと挨拶する。

・この飛動的風景は、誰の意識にも昇ることなく中也の現身に寄り憑く。それは、現在が虚無の持続と化した者の当然の帰結に違いなかった。何故なら、未来が希望もなく記憶もない過去として立ちはだかる空の奥を覗いてしまった中也にとって、対人圏の言葉に凭れかかり意識したとしても、今私たち見ている風景は在りし日の風景でしかなかったからだ。

・・・天は地を蓋ひ、
・・・そして蛙聲は水面に走る。
・・・・・・・(「蛙聲」第三連『在りし日の歌』)

・・・その聲は水面に走って暗雲に迫る。
・・・・・・・(「蛙聲」最終句)

・空の奥が変転する瞬間の兆し、そんな風景の振る舞いがあった。

・・・qu’on ne te voie!!!

・誰もお前に気づかぬように虚無の隙間に埋まり、空の奥のその奥の虚無の空である現在へと逃脱する事、それが中原中也という詩人の生活空間であり、生活方式だったのだ。

**********
*註解
・Ah! Que le temps vienne,・・・・・・・ああ!絶頂の時は来ぬものか、
・Ou les coeurs s’eprennent!・・・心が酔いしびれる そんな!
・Je ne suis dit:Laisse,・・・・・・我が身に言い掛かった‥埋まれ、
・Et qu’on ne te voie,・・・・・・・誰もお前にきづかぬ様にだ、
・・・(Chanson de la plus haute tour:「最も高い塔の歌」― アンダンテ訳 ―
・意識対象:こ と ば 
・呻吟う:さまよう
・Je ne suis dit:Laisse,/ Et qu’on ne te voie,!!!:中也はラムボオのこの二句を次の様にやくしている。
・・私は思った、亡念しようと、/ 人が私をみないやうに。
・欠伸:あくび
・蛙聲:ぁ せい


・・・・・・・・・・・(十九)老いたる者をして
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・――「空しき秋」第十二

・詩集『在りし日の歌』には、[在りし日の歌]という標題を持った四十二篇と[永訣の歌]という標題を持った十六篇、合わせて五十八篇の詩が収められている。『老いたる者をして』は、その第一部四十二篇の折り返し点に位置する詩のように思える。副題に配された「空しき秋」の二十数篇は、関口隆克・石田五郎と共同生活していた下高井戸の家で一晩の内に書き上げたという。昭和三年十月、中也二十一歳の時だ。関口隆克によると十六篇あったとのことだが、いずれにせよ昭和五年五月『スルヤ』で発表された第十二篇を残して他は散佚したという。

・・・老いたる者をして静謐の裡にあらしめよ (「老いたる者をして」第一連一行目)

・対人圏の言葉の中で生きつづけ老いてゆく者にとって、<静謐の裡にあらしめよ>とは、山奥に幽閉されるに等しく苦痛を強いられる日々に違いない。悔いる事は、人にとっていつの日も非現実的な事柄なのだ。

・・・そは彼等こころゆくまで悔いんためなり (「老いたる者をして」第一連二行目)

・<悔いん>、この「ん(む)」という語り手が非現実な事柄と知りつつも願わずにはいられない助動詞の一語に由って、中也という詩人の生活空間が現実の中に流れ出す。この詩が、単なる諧調の整った抒情とも在来の老いの境地とも異なっているのはその為なのだ。

・・・こころゆくまで悔ゆるは洵に魂を休むればなり(「老いたる者をして」第二連二行目)

・洵に魂を安らかにすれば、必ずこころゆくまで悔ゆる事が出来る。そう、詩人は歌う。虚無の隙間 ―― それは、空に触れ風に触れ小浜に触れ、然も振れることなく静謐の裡に在る。物事は単に物が有るという事実から起こるのではない。虚無の裡に物が存在する事に由って、はじめて物事が起こるのだ。物は意識の有無に関与することなく、虚無の隙間に置かれて在る。意識せねば知れざる物として在り、意識すれば知られる物として在る。

・・・あゝ はてしもなく涕かんことこそ望ましけれ
・・・父も母も兄弟も友も、はた見知らざる人々をも忘れて
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
・・・・・・・・反歌
・・・あゝ 吾等怯懦のために長き間、いとも長き間
・・・徒なることにかゝらひて、涕くことを忘れゐたりしよ、げに忘れゐたりしよ……
・・・・・・・(「老いたる者をして」第三連および反歌)

・「空しき秋」が作られた時と前後して、中也は『生と歌』の中で次の様に言っている。

・・・……辛じて私に言へることは、世界が忘念の善性を失つたといふこと、つまり快活の徳を忘れたといふことである。換言すれば、世界は
・・行為を滅却したのだ。認識が、批評が熾んになつたために、人は知らぬ間に行為を規定することばかりをしだしたのだ。――考へなければ
・・ならぬ、だが考へられたことは忘れなければならぬ。
・・・直覚と、行為とが世界を新しくする。そしてそれは、希望と嘆息の間を上下する魂の或る能力、その能力にのみ関つてゐる。
・・・認識ではない、認識し得る能力が問題なんだ。その能力を拡充するものは希望なんだ。
・・・希望しよう、係累を軽んじよう、寧ろ一切を棄てよう! 愚痴つぽい観察が不可ないんだ。
・・・規定慾――潔癖が不可ないんだ。
・・・行へよ! その中に全てがある。その中に芸術上の諸形式を超えて、生命の叫びを歌ふ能力がある。
・・・……

・「空しき秋」二十数篇はヴェルレーヌの『叡智』を意識して書かれた。理解する事と影響を受ける事とは別物だ。その意味で中也はヴェルレーヌにより憧れ、ラムボオよりも触発されたと言える。

**********
*註解
・静謐:せいひつ
・裡:うち
・在来:ありきたり
・洵に魂を;まことに たまを
・徒なる:あだなる
・熾ん:さかん


4ページくらいで飽きる本

  紅茶猫

1.
規格外の心を留める安全ピンを
誰か下さい
規格外の夢の綻び縫う糸と針を
誰か下さい
その他大勢の
たましい
その行く先は
虹の蒸発する音みたいで
いつも美しい


2.
早馬のようにやって来た雨に打たれて
街しづか

足を引き摺りながら歩く老人の
ビロードの傘
やけに重たそうだった


(無題)

  かみてん

ベースボールは金輪際禁止だというので
選手たちはみな 庭の片隅に蹲っている
なんでも 1人の観客が打球に当たって死んでしまったらしい
翌日には投げ捨てたバットに当たって審判も死んだ
危険なスポーツだからというので もうベースボールは無くなったのだ
週末に投げる予定だったエースナンバーの青年は
顔を蒼白にして草を毟っている
ホームランバッターとして有名だった大男は
昨日 持っていた4本のバットを全て燃やしてしまった
チアリーダーは夜の街へと棲み家を変え
マスコットキャラクターの首はかつてのオーナーが住む家に晒されている
審判たちは仲間の死を厳かに悼んだ
ーそれはなんという皮肉、平然と打者に死を宣告していた者たちが
 物質的な死の宣告にひれ伏すとは!
スポーツライターはフットボールへ宗旨替えしたようだ
(それもフットボールが死者を出さないという偶然を生き延びてこそだが)

ホームベースは
誰も帰らぬあばら屋か
グラウンドには雑草が
この世の春と生い茂り
ナイターゲームの照明は
役者が来るのを待っている
昔ゃ五万の大衆が
ボールパークに押し寄せて
棍棒自慢の一発を
固唾を飲んで見送った
ベースボールがあったとさ
野蛮な遊びがあったとさ


椅子

  朝顔

このひとといると
わたしのこころの中に
小さな部屋があって
そこに
一人の少女が膝を揃えて座っている。

実家には
椅子はひとつもなかった。

あぐらをかいて
鶴見俊輔が
サリンジャーが
モオツアルトがと
談笑していた


ここに
椅子がある。

行儀よく
背筋をはっている。


逆説的な届出のあれこれ

  夜野群青

(レ)確約をとりつけること
保護した紙切れの朱肉は乾くでしょうが

(レ)保険をかけること
光るものだけ見つめてたい眼球には
均等に塗りこめられた椅子四脚の艶
更新には照度五千ルーメンの食卓で
箪笥の木螺子は固く閉められている
外因で外れることは赦されていない
普段使いの茶渋に些かも興味はない
椎間板は刺激すれども充たされない
女共が騒ぎだすと後戻りはできない

(レ)安寧を求めること
欄間から覗く効きすぎた暖房の末の結露
湿気を帯びた布団の上で組まれ重ねた躰
手口と墨痕は温かい重き肌の上を這う蛇
薄紅の被膜の越えられないもどかしさよ
いちにちいちにち違うねこを飼いたいね

(レ)埒外から視ること
色のついた洗濯物を綯い交ぜにしてから
人の不幸を祝ってきたと云うの
書いてきた文字数に比例して跳ねる泥濘
誰の顔にも塗ってきたと云うの

(レ)照会
合わせ鏡の実像に語らぬこと

(レ)意訳
残酷だな
残酷だとも
生とはかようなものだ

( )確認
飼い慣らした舌の色鮮やかな口調を疑おうともしないわたくしに優しい物語など綴れるものか


「詩」と「詩論」

  Migikata

 「詩的真実」に従って溝に水が流れ出し、根元から濡れ始めた棒杭の先に翡翠がとまった。開いた翅が閉じる。水が流れるとせせらぎの音が立ち始め、その静かさが遠い囀りや葉擦れの音を際立たせた。
 「展翅」という語がある。快楽的な死が、感情の浅い流れの底に小石を洗う。そんな語感だ。あの日、ゴミ捨て場に置かれた紙袋の中で、壊れた木製の標本箱がどれだけ傾いても、ピンで留められた蝶たちは落ちることなく翅を大きく開いたまま、死骸として宿命づけられた姿勢を保っている。後ろには父と、僕と同じ年の従弟が立っていた。「もう、行くぞ」と父は言い、一緒に動いた従弟の握る白い捕虫網が、高い位置で揺れた。彼が肩から掛けている布鞄の中には幾つかの毒瓶、殺虫管があり、その中には息絶えた小さな甲虫が何匹か収められているはずだった。虫の生涯は、人からは窺い知れぬ構造を持つ主体の、残酷な詩的遍歴として既に終わっていた。
 標本箱を捨てた夏休みの一日のこと。記憶は澄み渡った健康な尿のように勢いよく迸り、ぴっと切れよく収まった。わずかにアンモニアの臭いがする。
 堆積岩や火成岩が小さく丸く洗われて、浅く澄んだ流れの下から美しい肌理を露わに晒す。翡翠が見下ろす視界の中で、詩の言語は悉く文脈から削り出された石である。
 翻って発話される詩は、人を構成するいくつもの結節を解き開くため、唇から唇へメロディとして流し込まれてくる。音律のない概念としてのメロディが、口の端から零れて滴るほど豊かに。裸身のままの欲情を呼び覚まし、あげくわずかな痙攣が詩人の白々と長大な背を走り抜けるまでに、だ。誰も主体たる地位からは逃れられない。詩は主体と不即不離の関係で、新たな他者による解釈と解釈の間を伝播するより他にない。
 だから翡翠が杭の先から見ているものは詩であって詩ではない。主体の外側にあり、内実を持たない詩の外形なのだ。世の中の表象の表面を流れる「詩的真実」が真実とは名ばかりの、時間軸上の座標点の転変に過ぎない事実を、言葉自体の持つ性質が最初から内包している。
 詩の言語は時間の経過に晒され、洗われているばかりではない。相対的に真実の具現をコントロールしているわけだ。言葉がなければ、時間は経過しないということ。言葉は時間経過の中で自ら表出を全うする仕組みを持つということ。

 初夏だった。川の流れを目で追うと、水際に伸びた若草の先が風に煽られて時々水面に触れ、ぴっと弾かれる様子が見られた。揺れる。収まるところはない。青い臭いがとめどなく放出され、高い密度を形成する間もなく速やかに風に拡散されていく。
 昆虫採集から帰った従弟と僕は、日暮れまでの時間を父と母のダブルベッドの上で過ごした。二人は大抵の日、この別荘の図書室で本を読んでばかりいたので、裸になると互いの体は真っ白だった。父と母が外出先から帰宅するまで、僕らは相手をてんでにいじくり合って過ごすことにした。僕らはずっと無言でいた。総ての言葉が水の底に沈み込み、一つ一つのわずかな重量を光に変えて、ただひたすら表面の雲母をきらめかせているのだった。
 やがて僕は彼の裸身を大の字に仰向かせ馬乗りになっていた。顔を向かい合わせると、瞬きもせず見つめ返してくる。この形が定まった後、彼は力を抜いて、もう自分から動こうとはしなかった。
 僕は目線を逸らし、自分の体の影でいくぶん薄暗くなっている彼の裸身をまじまじと見つめ、何かの花のような、まったく密やかな体臭をかぎ取った。十一歳の体はどこまでも緩みなく張り詰めて、それでいて柔らかい。体を辿っていくと、無毛の性器についてもそれは同じだった。勃起した小さなペニスを包み込む白々とした包皮までもが、やはり緩みなくぴんと張り詰めていた。
 彼も僕も、性愛というものの正体をあらかた知っていたが、それを直ちに自分の肉体に適用することにさほどの興味はなかった。今となっては不思議なことに、漫然と、何の目的もなく彼の性器を見て、淡白な手つきで弄ぶばかりだった。
 この時、僕は既に「展翅」という言葉も知っていた。彼を永遠に動かぬ蝶、詩的遍歴を終えた骸とし、視界を標本箱として、ガラスの向こうに彼の一切を組み敷いた。そのつもりになっていた。
 二人の間に肉体の快楽はなかった。が、発せられぬ言葉をある種の精神的愉悦が洗い、早瀬に乗り上げて激しくなった時間の流れが、僕らをこの場にこうして置いたままで、たちまち世界を最終的な死に導くように思えて息苦しさすら感じた。胸の動悸が高鳴った。
 むろん言うまでもなく、それは一時の未熟で痴〓な思い込みに過ぎなかった。僕はこうして遙かな射程から二人を捉え、言語化することでその時点で試みられた「愛」へのアプローチという遊戯の持つ愚かさに報復を与えているのだ。

 詩は肉体にも精神にも、直接そのところを得ることはない。ただし、その過去への残虐な君臨に対する報いとして、今、僕は当時の僕らに抑えきれぬほど激しく、しかしどこまでも静的な興奮を覚えていることを、告白しなければならない。醜い。
 あの時、射精に至らなかった二人の性器。互いの手の中で緊張と弛緩を繰り返した陰部の形は翼のない鳥に似る。この詩文の全編を通じて、古い杭の先から見つめている翡翠の実在と性器とが、取り合わされて意味を持つということだ。翡翠は夏の季語である。夏という季節の情感が持つドメスティックな記憶もまた、鮮烈な流れとなって迸っているのだ。
 言葉はモノを抽象化し、人の意識の内部へ整頓して収める働きを持つ。また逆に、抽象化された思考の要素を一々具象に引き戻そうと誘惑する。そんな矛盾した性質を持っている。最も抽象化の進んだ数字でさえ、例えば「1」は、隙さえあれば一個の西瓜や一個の如雨露、さらにいえば虫の死骸を内包した一本の殺虫管であろうとするのだ。
 詩は日常生活から隔絶した「書き言葉」を用いることによって、詩とは別の文脈の派生を抑制しようとする。あるいは言語によって構成される事の顛末を著しく特殊化する。そうやって、意識の持つ構造的な自己完結に至る「ありきたりの文脈」の干渉、感染から逃れようと臆病に震える。
 だが、そういう試みに対して、この文では既に明確に否定的見解を示している。「詩の言語は悉く文脈から削り出された石である。」と。
 翡翠は俯瞰する。居ながらにして飛び、居ながらにして水に潜く。
湿潤な風土を陽が巡る。陽樹と陰樹の入り交じった、まだ若い雑木林。日射しが強まると木々の葉叢は膨大な量の光と影を抱え込む。風が抜けると光の葉と影の葉が目まぐるしく入れ替わり、森全体に感情に似た何かが伝播していく。それを下から支える幹の並び。雑草。苔。音がものの隙間を埋めながら形なく、しかも重層的に広がり、やがて聴覚を経て意識の中心で一羽の翡翠となる。


 「私の詩を読めよ」と彼女は言った。「私が書いたお前の詩だよ」
 僕は何のことかと聞いてみたかったが、彼女の素足に右頬から顔を踏みつけられていたので何も言えなかった。彼女の足裏はすべすべしていて皺のひとつもない。膝の関節から僕の頭部を通してペルシャ絨緞の上に力のベクトルが一直線に抜けている。「お前の書きそうな詩なんだよ」と言って僕の頭を蹴り離す。
 あ。単純なベクトルが複雑な動きに絡め取られて作用と反作用の歪な繰り返しの中で拡散していくじゃないか。もったいない。
「舐めさせて下さい」
と自由になった口で僕は言った。「指の先から上の方へ、それからもっと上の方も舐めさせて下さい」
 彼女の足が僕から離れ、すうっと引き上げられるのを僕は這いつくばったまま見ていた。「まったく呆れたねえ」と彼女は実際に呆れた人の多くが示す表情と声音で言っている。
「話を聞いてねえじゃんか。豚野郎。ありがとうございます、って今すぐ読めよ」
「いやだ、足の裏を舐めさせて下さい。それからもっと上を舐めさせて下さい。じゃなきゃ、そんなもの読まない」
僕は彼女に食ってかかる。この人の椅子から垂らした脚の裏側に回り込み、踵からアキレス腱、ふくらはぎから膝裏へ、それからもっと上を舐め進みたい。僕はそれしか考えていない。
 それが僕だ。僕の詩だ。
「馬鹿な男だねえ、お前は。豚以下か?おい?」
「そりゃ、豚以下です。そうですそうです」
 彼女は四つん這いになって起き上がろうとする僕の前に片膝をついて屈み込んできた。僕の頬を両手でやんわりと挟んで斜め上からこちらの目を覗き込んでくる。
「人類の性衝動のトリガーは単純な肉体の刺激や季節変化から脱して脳内に作り出した意識を介在させるようになった。本来はより複雑な判断により生殖機会を逃さないように、性の発動条件を緻密にコントロールするためだったよな。社会的文化的条件。個体の経験、本能の記憶。私らはイメージで発情する。だが、それが目的にすり替わってしまって、人の性欲はフェチシズムに変換されてしまった。まあ、それをなんとか異性の肉体に結びつけて交合に至らせるためにだ、性欲の緻密なコントロールが行われるようになった。それはつまり、性衝動に至るまでの脳内の過程を知性的に批評する必要が生じたということだ。」
 僕は目を閉じた。
「おい、批評に必要なものは何だ?」
「言葉です」
「そうだ、言葉は外界の一切に繋がっている。性的妄想が求心的にではなく、拡散的に世界と相対化されることで自己完結したオナニズムが再び他者の肉体との関係を取り戻していくんだ」
 彼女の台詞は長すぎる。僕の存在はもう持ちこたえられない。
「言葉は人を酔わせる酒であり、同時に気付け薬でもある」
じっと目を閉じたままの僕に、彼女はキスをする。めくれた唇の内側が熱こそ伝えるが、舌は入れない上品なキスだった。むろん僕は上品ではない。
 目を開けた。彼女の目線は少しも動かず僕を貫いたままだった。「私の詩だよ。お前の詩でもある。」
 彼女は立ち上がり、再び放埒な脚の全容を晒してショーツを脱ぎ捨てた。僕は俯いてしまって顔を上げられない。
「陶酔しつつ覚醒する詩。言葉が肉体を模し、言葉で作られた肉体が、同じ言葉によって絶えず批評される詩だ。題名は『「詩」と「詩論」』、下らない詩だぞ。何しろお前の詩だからな」

 「あんたの詩でもあるんだろ」と僕は口の中で呟いた。


一角獣

  菊西夕座


ジョビとジャバとジョブが飛ぶよ、いまにも堰を切って
古い枯れた井戸から、凡庸なる泉が短歌にのせられて
ふてくされた愚王の口元に戯語(けご)の世界がまどろむ
ぼんやりしているだけでもう、空は熟れすぎてありふれた

実名を隠して飛びまわる点滴しらずの仮病たち
落としたものの不渡りさえ通れば、万事が快調
水槽をなめまわして移ろう貝の弛緩した張力
ぞろぞろと帰ろうとするたびに、反転する磁石席


「一語だって無駄にできない」
 一を変えたい。(ジョビ)
 どの位置に?(ジャバ)
 いちばんふさわしい一に。(ジョビ)
 先頭でいいじゃない(ジャバ)
 尖頭なんていや。(ジョビ)
 どうして?(ジャバ)
 だって角みたい。(ジョビ)
 一にしか見えないわ(ジャバ)
   まるで角の暗号よ!(ジョブ)
   ((無視)(ムシ))
 あなた一角獣でしょ(ジャバ)
 でも尖頭じゃない。(ジョビ)
 先頭はなに?(ジャバ)
 角よ。(ジョビ)
 なら「一」ね(ジャバ)
 すり替えないで。(ジョビ)
 どうして?(ジャバ)
 頭の先は角よ。(ジョビ)
 だから一角獣でしょ(ジャバ)
 そうよ。(ジョビ)
 「角」より先に「一」がある(ジャバ)
 それは文字よ。(ジョビ)
 なにが問題?(ジャバ)
 一を変えたいの。(ジョビ)
 どの位置まで(ジャバ)
 どうして一をずらすの。(ジョビ)
 先頭を替えたのはあなたよ(ジャバ)
 だって尖頭じゃないもの。(ジョビ)
 ほら、はじまった(ジャバ)
   そろそろ市場へいきましょう?(ジョブ)
   ((無視)(ムシ))
 だって、頭は丸いの。(ジョビ)
 では〇ね(ジャバ)
 ゼロになっちゃう。(ジョビ)
 一はなに?(ジャバ)
 一つの宿命。(ジョビ)
 「つの」の宿命?(ジャバ)
 一だけを見て。(ジョビ)
 位置を見てるわ(ジャバ)
 どこにある?(ジョビ)
 先頭(ジャバ)
 でも尖頭じゃない。(ジョビ)
 どうして?(ジャバ)
 頭はまるいわ。(ジョビ)
 では〇ね(ジャバ)
 ゼロになっちゃう。(ジョビ)
 一をかえてみたら?(ジャバ)
 どの位置に?(ジョビ)
 「できない」のあたりに(ジャバ)
 それは「できない」。(ジョビ)
 どうして?(ジャバ)
 「できない」だもの。(ジョビ)
 はじめっから、できないの?(ジャバ)
 はじめっからあるのは一よ。(ジョビ)
 一を一度はなれたら?(ジャバ)
 どこまではなれるの。(ジョビ)
   不一致まで!(ジョブ)
   ((無視)(ムシ))
 「無駄」のあたりまで(ジャバ)
 「無駄」よ。(ジョビ)
   無視かい?(ジョブ)
   ((無視)(ムシ))
 「無駄にはできない」とある(ジャバ)
 それは「一語」ね。(ジョビ)
 どの一語?(ジャバ)
 「一」の語よ。(ジョビ)
   後生だから聞いて!(ジョブ)
  ((無視)(ムシ))
 あなたひょっとして(ジャバ)
 なにかしら?(ジョビ)
 一病ね(ジャバ)
 一病とは?(ジョビ)
 一つの病気(ジャバ)
 いちいち気にしてないわ。(ジョビ)
 「一」を気にしすぎてる(ジャバ)
 でも足りないの。(ジョビ)
 一だけでは足りない?(ジャバ)
 もっとたくさん。(ジョビ)
   こんな語託たくさん! たくさん! たくさん!(ジョブ)
   ((無視)(ムシ))
 あなたひょっとして(ジャバ)
 なにかしら?(ジョビ)
 一拡充ね(ジャバ)
   「一」書く獣かも!。(ジョブ)
   ((無視)(ムシ))
 角がとれたわね(ジャバ)
 ありがとう。(ジョビ)
 おめでとう(ジャバ)
 でも一への想いはつのるばかり・・・。(ジョビ)
   語冗談ばっかり!(ジョブ)


ジョビとジャバとジョブが飛ぶよ、いまにも大手をふって
古い枯れた井戸から、凡庸なる泉が担架にのせられて
ふてくされた愚像の口元に不死の世界がまどろむ
ぼんやりしているだけでもう、そらは空きすぎて満ちたりた

実名を隠して飛びまわる天敵しらずの誤用たち
落としたもののすり替えさえしこめば、万事が順調
水槽をなめまわして布教する処女のバブルじみた産卵
やれやれと起きようとするたびに、充溢する夢想癖


 (あなた拡充ね!)
 (でも一への想いはつのるばかり・・・)


  右左

吊りランプが落ちた。  
燕が高々と飛びあがるのを見た、
水鉄砲が水平線のように抜けた。
(足元で蟻が騒いだ)


いつかまた降り注ぐイヌたちへ

  キリン堂

私の砕かれた骨がもういたみもなく
風に乗ってあの雲の巣をすり抜けて
さらさらといつか雨になり雪になり

空を鳴らしているから傘をさし
空から自分を遮っている、まいにち

あの島にいたころ

宇宙にイヌを観ない日はなかった
打ち上げられていく船に乗せられて
小窓からこちらをみているライカ

彼女は十日後に安楽な死を与えられ
今では手紙に貼られて皆がその名を
知っていてもその死は配達されはしない

私もライカの死体を観たわけではないから
島にいた頃から宇宙を泳ぐイヌを観て
無邪気にライカを羨ましく思っていた

いまでは島から遠い座標で

生きていて家にはテレビもなくて
もう、船が打ち上げられたのかも

私にはよくわからないけど
海外の珍しい野菜を炒めて
よくわからないまま生きている

居眠りをする三時ごろにはライカが
遥か頭上を流れ、ベランダに偲びいる
空にはイヌはいない、涙もないけど

いつか砕かれた私の骨が飛散して

宇宙に届き繰り返し死んでいった
ライカとイヌたちとともに宇宙塵となって
痛みもなく漂うなら私も傘を畳めるだろう


崇高な愛なのか気持ちわるいバカなのか

  三浦果実





たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。
また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。
不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びません。しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。
私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです。
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れます。
幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていました。大人になったとき、幼子のような在り方はやめました。
私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。

<引用元>
約名:「聖書協会共同訳」
聖書種類:「新約聖書」
書名:「コリントの信徒への手紙一」13章01節から13節まで


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はじめましてではないけれど

とても嬉しいので、はじめましてと挨拶させてください。

今、駿河湾のサービスエリアに車を停めてこれを書いています。

東京までの道のりはまだ遠い静岡県。

静岡に住んでいるあなたのことを思い出しました。

今夜は満月、いや満月じゃないかもしれませんが

とにかく大きな月がずっとフロントガラスに映っていて

きれいなんで、私は好きな人のことをずっと考えていました。

ごめんなさい、長くなると思います。

なんと言いますか、気持ちが落ち着かないので

書いてしまうのです。

最後まで読まなくてもぜんぜん大丈夫です。

僕は23歳で結婚して24歳の時に娘が生まれて

その娘も昨年結婚して独り立ちしました。僕は50歳になります。

こうやってあなたに手紙を書いていると

好きな人のこと、忘れられるんです。

おかしいと思われるでしょうし、既婚でありながら

好きな人がいるなんてこと、不快に感じられてるかもしれません。

ほんとうに僕は狂っているんだと

自分でもわかっていて、そうわかっているからとても苦しいのです。

自分が老いてきたこと、自分が持っている感情というか

そんな、ぎこちないものが違和感としてずっしりと

身体の中にあってとても苦しい。

ひとりの女性を一生涯ずっと愛し続けることが出来ない人、

そのような人たちが

世の中には想像しているよりもはるかに多くいることを

最近になって知りました。

なんだか少しだけ救われました。

自分が他人と違うことが、いや

そんな他人との差異などにこだわってしまう

中年オヤジがキモ過ぎだと考えてしまい自己嫌悪になるわけで。

このまんま生かされてしまうんだったら

一瞬でよぼよぼのじいさんになってしまい

誰かを好きになる気持ちとかそんなもの

失ってしまえばいいのにって考えてしまう。



とにもかくにも僕はいつも恋をしています。

あなたが教えてくれた青葉市子が歌ってる

サーカスナイトを最近好きになって聴いています。

今も車中でずっと聴いています。

「一生分のことを変えてしまいたいよ」って歌詞が

堪えられなくなります。




長々と自分のことばかり書いてしまったけれど

博愛主義者さんはその後、どうしていますか。

学校なんて行かなくてもいいと僕なんかは思うんだけれども

好きな人とか、そんな人が出来るといいのに、なんて思う。

好きな人が博愛主義者さんに、もしも出来たなら

もっと眠れなくなるかもしれない。眠れなくなっても

そう悪くはない。

博愛主義者さんがうざくて殺してやりたいお父さんにさえ

新しすぎてたまらない、おはようが言えるようになる、気がする。

好きな人にだったら、伝えたいこと、伝えたくなるだろうし。

君が僕に語ってくれたようなこと、

宮沢賢治の雨ニモマケズは

他人に朗読して聞かせるもんじゃないとか、

人は万年筆と紙を使って交信するべきなんだとか、

梶井基次郎をキジロウって読むなとか、あー「檸檬」は

面白かったよ。あれはさ、なんだろうな、

主人公のあの乱れかたが好きだなあ。

「檸檬」はよいね。

で、君は聴いてくれたのかな。DMで送った、

「凡骨の夏」

まあ、君にはわからないだろうなあ。。。

ああいう歌を書きたい。

賢い君が書く素敵な言葉の隅っこで僕も詩を書き続けたい。



とても耐えられない友人達のこと、

わからないところもあるけれど、

よくわかんないところもあるけど、わかる。

みんなが線引きをして

あんたは声が小さいから正しくないよとか

そんなこと言われたら、、、

まあ、止めよう。




中学生の君宛てに初めて手紙を書いた。

勧めてくれたラミーの万年筆の使い心地がとてもいい。

こんなことを書いてしまってるのは

満月みたいで満月じゃないような月のそれのせいだねと

下手糞な詩みたいなことを最後に書いて筆を置きます。

あなたの学校生活が楽しい毎日でありますように。

博愛主義者さんこと遠藤きあらさん

僕を見つけてくれてありがとう。





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おぢさんへ

お前、あいも変わらずばかだな

途中まで良い書きしてたのに。

凡骨の夏、きいた。

おぢさんに愛人がいようがいまいがどうでもいい

おぢさん、詩を書けよ
ちゃんと詩を書け

好きな人?は?
おぢさんしねよ

学校にはもどるかもね

手紙また送ってください

またDMするかもしんない あ

アラベスクの飾り文字の問題
ちゃんと回答しろ


博愛主義者


叫ぶように、ボヤく

  黒羽 黎斗

四月二日の夜、僕らは再会する
鉱脈の中の宝石のように
海を漂う死体たちのように
拍動する夜の中で
再会する

月が天球を支配して
青写真の中に居た釘たちが
一つの船を造る
大きなドッグの中に住み付く
精霊のようにも思えた偶然は
不可視の道を
ほんの一瞬だけ照らし出す

嘲笑え
毛細血管のスケッチ不足を
嘲笑え
汚い字で書かれた文章を

結晶化する体の中心が
どこにあるかという疑問に対して
一つの明快な解答を持とう

削り出された原石たちの
夢が
僕らが吐いた血の中に
流れている。


ずっとみている

  キリン堂

捧げられた声が1オクターブ高くても

乾いたシャツが鳩になり時にかえり
飛び去るのなら見送ってやればいい
サイズの大きな靴がすっかり馴染んで
靴ズレのない快適さがとてもさみしい

この街では
知らない人と椅子を分け合い
高階から落下する涙に悲鳴をあげ
不必要になった長靴達は捨てられる
すべての放物線にひかれて、また
吊りあげられていく視線のさきで

ラムネの瓶が 回転している

受け手もいないのにずっと待っています


魚(な)の話し

  コテ

 あんまり何も意識に埋もれない貴方のように魚(な)は。

貴方は、空を飛ぶと聞きました。
我は先輩に今も二キロのバケツ水を持たされて居て、
もう何年も反抗したっきりで、話をしようとも思いません。
怒られているのを、何故かを理由を敢えて聞かないで居ます。
「みんなが助かるからだよぅ。」貴方に教えて貰い、
「やっぱり!」と思いました。
我が其れについて腹立だしくしても、彼は苦笑いをして長い長い理屈を心から我に語り、我の顔面に問いかけるのです。その時点で全てが完了されたというか(完了されたわけで、)、其れで認めたっぱなしです。


 先輩も我も川を泳ぎます、此れがどんなに濁ってゐても。羽を紡いで服をあつらえる貴方と我は耐性というか身が違って、
貴方は川の水を一吸いすれば嘔吐がするです。我は黙りこくりました、貴方は多分嘔吐をします、言ってる意味わかりますか? 憤らずに理解して頂(くだ)さいな。


 貴方と我はファッション性も違います。
我は水を何層も重ねて、バサッと被るお洒落をします。
貴方は一方、物か何かを観察して、表記(表現)する。
布を切ったり貼ったり、若者はまるで糊付けするような事までして居るのを、
目をまん丸にして息を飲んで見ました。
言葉にしたら、我は朝(あ)の糊が羨ましく、悩んで手に取ってみました。

 それにしても貴方の所には次々となんぼでも料理を出す魚屋があると聞きました。
断らない限りなんぼでも出すのでしょう?

良いですな、ルールも風も。良いですな。
昔は貴方と我も、喧嘩があったようななかったような。こういうの何だったっけ? 守りのテツ、攻めの小太郎…。仲割れですわいな。
我はなんぼ云うても喧嘩が一番苦手で、思うにその時から水に潜って居るのかも知れません、何にせよ、貴方も我も我こそ美しいと思い知ると甲(こう)いうふうに文と形に為って、
もっと我が我を納める事が出来るのです。アングラ(こんにちは)。


(君がこれまで君であったからこそ、今の幸福がある事を疑うなよ。
見てや、わいは自分になど花を言わん。何故ならきっと男の方が花や。対して女は、男の仏様と為り候へて、そして笑え。かっこわるても生きていくのは理由がない。意義、主張に固唾を呑むけれど、辛抱する。
決して木で鼻をくくったつもりはない。例えばどんなにすぐれていると自分が思っても、魂や血などはどうせ成長のお道具ヤ、だからただ続けるのではなく、打って変わり変えるものなんや。且つ「変わらない」と見届けつつ。瓜の弦に茄子はならぬ。泡の恋こそ実らぬけれど、だからこそこの脚があるんや。)


鼻から鼈甲飴

  らどみ

鼻から鼈甲飴が垂れてきました
これで蓄膿症が治るかもしれない

両手でガンガン引っ張っりましたら
牡丹餅くらいの大きさになりました

(棚から牡丹餅

誰かが囁いて教えてくれました

)オヤジギャグで終わりなのか
)けど黄金伝説の終わりなのかも
と、思いうやうやしく扱いたいと
地下室に置いてある独身時代の冷蔵庫で
保管することにいたしました

 


Habitat

  鈴木歯車

 あなたの場合だと
 生息域にそぐわないんですよね
 このままだとちょっと
 お引越しを
されたほうがいいかもしれません
 
おまけに書類の不備も云々、などと


 しぼりたての雑巾みたいだな、
友達はそう言ったっけ 
曇天色のクリアファイルを片手に
宙に浮くような気がしていたよ 


それで
じわじわと湿った砂に侵されていく
ひとりの女の話の続きを
友達は続きを言わないまんまで
故郷の海と並行した 
 新しい国道の
  真下を掘られたドブ川にある
   朽ちそうなブロックに座り
    汚らしい図鑑を片手に

オオハムとか/ウミスズメやら
海鳥をじっと待っているのだっけ

黙っていても彼の中では
過程だけが猛烈な速さで通過するのだろう
だからきっとあの女も
とっくに砂の像になったんだろう

ぼくは生息域を見つける旅の
途中で行き倒れるだろうし
もう友達にも会えない
まして ドブ川近辺の再開発のせいで
あの鳥はもう
二度と来ないなんてとても言えない

髪の毛を抜かれたような別れを
ぬるま湯にひっそりと浮かべると
夏とは思えない涼しい風を感じる

 いくつもの白い紙が
 何も書かれていない紙が
 風に乗って
 紺色の
指輪の沖へ
 流れるうちに砕けていく

ぼくははるか遠くからやってきた
そして誰のものでもない
責任に答えようとしていた


reflux

  完備

帰省する夢 等しいよね
あくまでも川沿いで
生活 立ちあがる所作 ア あなた

発散に目を細める空 収束を聞き違える耳
手触りで不変性を確認して

あなたはわたしよりどれくらい大きいだろう
スケーリング、
       スケーリング、

キラキラ の メロディ の 川面
また溢す子ども 大切な不等式を
ほどくポニーテールが
魔法みたいに絡まる 匂いに呆けた いつか

いつか 瞳でなく
隣り合えたらいいね
たとえば肩と肩 あるいは積分の最果てで
わたしたち に なれたら


半夏生

  紅茶猫


月曜日.

雨の日は言葉と格闘したくなる
勝ったことなど一度もないけれど
祈るように広場が
急速に縮んで来たら
箱庭のピスタチオに
ししゅうを見せたい


火曜日.

人生の大半を
あくびに費やしているという男に出会った
この間はその大きな口で
星を飲み込みそうになって
慌てて吐き出したら
地面の上で
しゅるしゅる回りながら消えていったって
ショートホープの燃えかすみたいだったって


水曜日.

「モナ・リザ」の絵の前に立つと
人はなぜ疑問符を無限に繰り出すのだろう
見知らぬ星のカードが
紛れ混んでいるかのように
誰かの手元に揺らぐ視線
覗くほど遠くなる
瞳の間取り


木曜日.

吊り橋の真ん中に
ノートを下げて
私を待っている。
卵サンドウィッチに
パセリを入れ忘れたような気がする


金曜日.

1キロ四方の青い空をオーダーしたのに
100均で売っているものと
あまり変わらなかったから
何だかとてもがっかりした
レジで会計する時に
108円出してしまって
自分、時が止まっているなって思った。


土曜日.

駅前の百貨店が潰れて
もう何年になるだろう
エントランスのタイルの隙間から
雑草が勢いよく伸びていた
それと
片方だけの青い靴
小鳥がうずくまるように
人の足の形を忘れていく


日曜日.

詩が詩人を不幸にするのか
詩人が詩を不幸にするのか
雨が降り出して
世界が一枚変わるように

花弁ひとひら裏に表に

砂時計の内に
繰り返される永遠


うどん

  朝顔


賞に落ちた日
夕暮れが迫って来る台所で
トマトを手でつぶして
うどんと煮込んで
小葱と
つんとするラー油をかけたのを
泣きながら啜った

ダイニングに置いてある
開きすぎた
チュウリップが

自分の顔を
呑み込みそうだ


小詩集〓

  中田満帆

裸足になりきれなかった恋歌


 とにかくぼくがいこうとしてるのはきみのいない場所
 トム・ヴァーレインにあこがれる女の子のいる場所
 リアルさがぼくをすっかり変えてしまった
 現実の鋭利さ、あるいは極度の譫妄、
 それらの果てで、いままでのあこがれがぜんぶ砕かれたんだ
 きみのことだってもはや小さななにかさ
 終夜営業のガス・スタンド、
 その窓に残された指紋や伝言みたいなものさ
 きみがいる世界、
 あるいは場所、
 それはもうぼくとは関係がない
 繋がってしまうことなんかできないのをわかってる、識ってる
 溶接工が季節のなかでアークを操る
 なにもかもが繋がれてしまうなかでぼくはいつも取り残されてきた
 でもぼくはそんな場所からでていこうとしてるんだ
 なにが将来か、
 なにがアカシアか、
 けっきょくぼくはきみらの世界にはいらないんだ
 けっきょくぼくはこっから去るほかにできることはない
 きみの胸に、どうか朝露を、
 っていうのは感傷?
 それともなりゆきでしかない?
 ぼくには唱える神もなく、
 火のなかで飛ぶ夢を見て、
 はるか胸の奥で、ひとりうなづく
 ハロー、
 ハロー、
 ぼくがもはや、きみに応えないことを信じながら、
 きみがもはや、ぼくに応えないことをおもいながら、
 アデュー、
 アデュー、
 もうじき長距離バスの時刻だ
 荒野がぼくに展がる
 地獄がぼくの手綱を引く
 普遍性よ、
 それがきみのなまえだったっけ?
 初恋よ、
 それもきみのことだったっけ?
 ぼくはもう大丈夫だから、
 ゆっくりと杭を抜いて、
 ふたりしてなにひとつ分かち得るもののなかったことをゆっくりと曝して、
 そしてぼくの月のようにうしろをむいたままで、
 ぼくを罵って、
 ぼくを解き放って、
 欲しい。


それはまるで毛布のなかの両手みたいで


 いまでもこの場面を路上で叫ぶものがいる
 幾晩も眠れない夜を送った
 夜のほどろにはそんな人間ばかりががらくたみたいにいる
 いまのわたしがどうなっていくのかを観察しながら
 燃えあがるスカートを眺める
 水鳥が死んでる
 片手には斧、
 もう片手には愛が咲く
 それはまるで毛布のなかの両手みたいで
 あったかいんだよ、アグネス
 でも追いつめられるんだよ、アグネス
 みんながそれぞれの通信のなかで、
 蛸壺に落ちただけなら、
 技術なんておとぎばなしだ
 光りが歩く
 警笛がたちどまる
 かれらかの女たちは始めたんだよ、アグネス
 けれでも放送が突然に切られて、
 信号が変わる
 表通りで自転車が発狂し始めたのを皮切りにして、
 町のひとびとが凶器に変わった
 いや、それを撰んだといっていい
 エリンは燃えながらワンピースをゆらして踊った
 ケンゾウは新聞記事で家を建て、
 スティーヴンは星狩りの舟に乗り、
 それぞれのちがったおもざしを光らせて、
 第7惑星の空にちらばっていった
 わたしが聴いたのは
 最後の2小節、
 警告と発展だけだった
 ジェーンがキヨコの手を握って、
 なにも形成されないところで起きた、
 現在が発生する磁場の衝撃波がした
 そしていまはもうだれも残っていない
 だけどアグネス、きみは受け入れることができるんだよ


roadman


  映画「ホーリー・モーターズ」に寄せて

 
 横たわってしまいたい
 たとえば毀れたラジオのように
 死を恥じることのない終焉を描きたいとおもう
 自動車がゆっくりと通過してゆくなかで
 なにもかもが意味をなさず、
 だからといって、
 貶められもせずにいる、
 そんな風景を見たい
 かつてわたしは
 入り口のない町にいた
 片足の男がモップを片手に歩いて去る
 濡れたモップの、毛先の痕が通路を光らせる
 やがてなにかが訪れそうで、決して訪れない
 問いかけた貌はやがて漂白されて立ち止まる
 ふたたび夢を建築するためか、
 男たち女たちが倉庫のなかに都市を再現する
 じぶんの人生を再現する
 なにがまちがいで、
 なにが正しいかは役者次第
 きみを演じる他者のためにいったい、
 どんな柩を用意するのか
 ゆっくりと明けてゆく通り
 だれかのおもいを曳航しながら、
 不滅という二字に敗北するだけの生活
 ロードマンはいつ眠る?
 
 もしここにきみがいたなら
 ぜったいに赦しはしないだろう
 きみの代役を射殺すべく、
 狙いを定めるだけだ
 おれは車のなかで衣装に着替える
 だれかの人生を確かめるため
 再現するために着替える
 だれともわかちえず、
 さらに誤解されるための人生
 たとえば腐った果実のように
 死を曝すことに脅えず、
 またこれを善しと見るとき、
 かならずだれかがおれの手を使って、
 舞台をばらまいてゆく
 緞子がかぜにゆれ、
 したたかにいま、
 頬を打つ
 迷いそこねたあまたの男女が
 列をつくって発送窓口にならぶ
 左手の指が3つない男とむかい合い、
 書類に記入する情動
 午から夜にむかって走る馬のようなひと
 夜から朝にむかって眠る草のようなひと
 だれかのおもいが憎たらしくなる
 声のとどかない帯域に沿って、
 ロードマンはいつ眠る?


夢の定着液


 蟻塚によじ登る夢を見た
 じぶんがアリクイになった夢
 過古からやってきてはやがて現在へと定着する夢
 落ちてきた不運をみなスクリプトしつづける夢
 ぜんぶがじぶんの不始末からはじまってる
 それが夢のなかの、
 あらゆる穴に符号する、
 ゆるい神経痛だ

 「ダニエラの日記」をだれか買っておいてくれ
 いつでも悪夢を見られるような、
 仕組みが欲しい、
 つまりはいつでも、
 眼を醒ましてゆっくりと、
 現実を定着できる液体が欲しい

 旧十和田駅、
 製材所があったあたりで泣き声がする
 そうさ、まさしく人間が泣いてる声だった
 しかしその駅すら、もう2年まえのまぼろしだ
 果たしてそれはほんとうに人間だったのか

 アリクイの鼻が鳴る
 定着液が誤って零れたんだ
 ぼくはもう人間には帰れない
 どうか人語で話しかけないでくれ


植物図鑑/最期の戦い


 雨あがりのビル街で待ちくたびれた動画とともにして、
 黄色い茜が
 楠木のもとで啼く
 首に搦むは絞首用の縄
 くるぶしに罠を〆めて
 逆さにされた聖母が証言する、
 嘘だ、
 判事は賽を流れ、雪のなかで蘇る蛙
 しだれ柳が断線した
 傍受された野菊が
 ひとりずつ自裁するのはたぶん、
 過古からやってきた男の断面図のせい
 ひとが詩に、辞が屹立する
 おまえはことばなのか、
 おまえはことばなのか、
 棕櫚の枝で左手が泣いてる
 オープンリールの建築家が愛撫を玄関するようになって、
 もはやだれがことばのかがわからない
 容疑者は3丁名の夕日、
 背丈は6フィート、2インチ、
 仕様はカラーで、ステレオを内蔵とのこと、
 目下、極秘裏にて追跡調査を怠るな
 そしてぼくがまちがって追われる
 最期の、水禽の過ちが、
 桶のなかで融けて、
 乳飲み子たちの、
 箒を切欠に、
 どうしたものか、
 声がいう
 死に絶えたものに声を与えることはできない
 他者におのれの声を語れといってもそれは期待できない
 ただ戦くものらとともにして、繰り返すがいい
 舟に乗った青い山賊とともにしてぼくらは麦を吹く

  枝を洗え
  うろを洗え
  そして畝を洗え

  枝を洗え
  うろを洗え
  そして畝を洗え 

  枝を洗え
  うろを洗え
  そして畝を洗え(*repeat) 


詩論と詩

  なまえをたべたなまえ

世界の魔法が解ける(Die Entzauberung der Welt -Max Weber-)

 手と手に取られていく手を取っては、また、口々に、喉を赤く腫らして、ぶふう、や、ぶはあ、と、はあはあ、と掛け合わせて水を呼ぶような声という声を呼ぶなよ、ヨブ、長く名乗らなかった名前と長く伸びた髪を切っては、切られていく手と手に手を置いて、テテテ、と駆けていくような足。人と葦の、言葉、また、初夏だったものが、まだ、もの、だった頃の懐かしい喪の季節。ポリテイア、ポリテイ、「あ」、の最後の驚き、プラト、「ん」でどもる、あらゆる温められたアスファル、ト。「アスファル」、詩人を追放しなさい、そう記された古い書物と哲学と詩の子供じみた争い。キャキャ、皆、遊んでる、砂と砂と、スナト、一人影を踏み損ねた男の子、と登る、ジャングル、とジム。アメリカとロックンロールと弾丸と、ジム。ジムはまだ、黒人の女の乳房を知らない。白人の名前と、けるあっく、けるあっく、ギンズバーク、けるあっく、ヴォ、ガネット、けるあっく。汗とともに、尿が流されていく唇の中にまだただよっている幼少の頃の記憶が彼女の膝まで垂れていく。手を握って、私が貴方をこぼさない様に溺れている間だけでも、貴方が私の口を、息を、塞いでいる間だけでも、鱒釣りを教えて、詩を書くために、眼球が洗われていく感覚を知っている。貴方が、この日盛りの庭で、私を洗っていくのを、貴方が私を伝って流れていくのを、跪いたままの、溢れた私を貴方が蹴り飛ばして、倒れこむ私を、貴方が、踏みつける、足と人の、葦、の「ケンジ」。ブローディガンと、プー、または、ソクラテスと、マネーの虎、人の、限りがほしい、と、雪とともに、せき込む、妹の、死を長く見ている、目が人のようで、ようで、しゅら、しゅら、シュラトユキ、春と修羅、修羅と雪、雪のように、死んでいく、妹の、修羅と、または、春の、シュラト、異国の名前、死ぬまでの時間、夜に溶けていく、ビタミン剤とプラトン、工場を爆破しろ。


In the night time, keep me out of sight, it’s the poltergeist (ULT Denzel Curry)

幽霊と取っ組み合いのけんかをする、
手もない、あしもない、
もはや、人ですらない、
どのような、あたたかな、
かぜ、どのような、
あたたかな、よる、
どのような、
あなたたかな、あさ、
どのような、あたたかな、
し、

からあるくみち
かるあみるくとこどく、
どくどく、

果実を切る、手の、
批評的な肌触り、
季節と、秋の、
落ちていく眼差しの光度、
影に合わせて、
思想が始まるから走る、
体から血へと、血へと、
神を歌わなくなった、
英雄は全部死んだ、
心しか残らない、
可哀そうな、人の、
心しかない可哀そうな詩ちゃん、
ナンパしたい、
退屈だからそれをやんないだけ、
でも、その前に、
あえてそれをやんないのか、
そもそも、君らはこれができないのか、
その違いは大きいよね、

どのような、あたたかな、かぜ、
どのような、
あたたかな、よる、
どのような、
あたたかな、あさ、
どのような、
あなたの、あたたかさ、
そして、
あたたかな、

透明な死、と
私の、銀行、
白く、スカートと、
料理に包まれて、
雨と、群青、
死んでいく虫たち、
だから皆、やっぱり透明、
お金を預けて、
私も預けて、
引き出されたの、
右胸だけ、
心臓と電車、
東京だから、
喉が渇いて、


即興来駕

  鷹枕可


土地の時計よ
 降頻るひづめの雨垂を
          かえれ
公海より
私物が解き放たれた朝に
       斧堤てわかもの還る

「夢を借りたから
 その夢を今返します、」

 夢が夢ならばこそ
      サテュロスらは宴も闌
   大層酔うた風情にて
空中鞦韆に
    一跳躍

   眉に皺寄せしかめつら
神話のなかの父親たちは 
  皆いかり肩
 鉛白の頬に髭蓄えて
目が二つに鼻口一つ
    いずれにしても  
   ご尊顔には違いない

「ほら、あすこに酔いどれが
  モローの春の鋳物をたがえているよ」

||
黒い昼、葡萄圃の、

旧市庁舎の広場には 
  顰め面のデュオニュソスが
 苛酷な昼をとがめる頃合
 葡萄の白い花こそが
 あなたがたにはふさわしい

雑居ビルには狭い階段
 噂では
  エレベーターで焼死んだ
    雲雀や燕、の宙返りが
     緑の部屋で見られるらしい 

腕時計の縁
 円い銀盤のなかで
   病死した少年が
果敢無くも薔薇園を育む所在


めるひぇん

  kale

ずっとむかしにすんでいたきざ
はしのうえでうまれたひな鳥た
ちにあまれたばかりの庭さきは
かかしにまぎれて見あげていた
いびつなトマトのしたでとおく
ねむっていましたねしずまる寝
いきにおどろかされていつまで
もおもいでをしろいりんかくと
してかくしていたからおとされ
たエレウテリアがらっかしてい
るようにみえていたんだねほら
清けつなフラスはしろくけがさ
れてうまれるはずだったひな鳥
たちの足ゆびはけがをかかとに
あまれた足おとと雪とまざった
かんかくはおどろかされてあち
らとこちらをゆっくりとあむあ
まらしろくすんでしまった庭さ
きはうまれるまえのめるひぇん
とゆっくりうれゆくエレウテリ
アとトマトになってうまれかわ
ればまだとおいきざはしのした
清けつな足ゆびだったひな鳥た
ちのしたをなんどもやわらかく
つかもうとしたずっとむかしに

文学極道

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