二〇一八年一月一日 「熊人形」
きょうから、リチャード・マシスンの短篇集『13のショック』を読む。スタージョンの短篇集は、いいの1作品だけだった。「熊人形」だけがよかった。スタージョンの短篇集、すべて本棚にあるんだけど、ほかのはもっとましだったような気がする。でもまた目次を読んだら記憶にないものばかり。あーあ。
二〇一八年一月二日 「大谷良太くんち」
これからお風呂に入って、それから大谷良太くんちに遊びに行く。
二〇一八年一月三日 「オレンジ・スタイル」
いま、ふつうの焼き鳥屋さんの「日知庵」、ゲイ・バーの「オレンジ・スタイル」の梯子から帰ってきた。ゲイ・バーに行くのは、5年ぶりくらいだろうか。小さな集団だけれど、みんな、キラキラしてた。それはとてもすてきなことだと思う。クスリをのむタイミングをはかって寝る。おやすみ、グッジョブ!
二〇一八年一月四日 「草野理恵子さん、植村初子さん、池田 康さん」
いま日知庵、パフェ屋さんのカラフネ屋の梯子から帰ってきた。きのう、すてきな出会いがあって、きょう、そのつづきのデートがあったのだった。神さま、ぼくを傷つけないでください。もちろん、その子のことも傷つけないでください。というか、神さま、お願いです、世界の誰をも傷つけないでください。
草野理恵子さんから詩誌「Andante Parlando」を送っていただきました。彼女の作品を、ぼくはいままで、「ホラー詩」と呼んでいましたが、冒頭に掲載されている詩をはじめ、4作品とも「不気味詩」と呼んでみたい気がしました。不気味です。どこからこんな発想が生まれるんでしょうかね。わかりません。
植村初子さんから、詩集『SONG BOOK』を送っていただいた。映画的だなって思った。映画のカットみたいなシーンや、映画のなかの場面のような詩が載っていた。抽象的な場面は、こころのなかの思いを込めた部分にだけ出てくる。目の詩人さんなのだと思った。
池田 康さんから、詩誌『みらいらん』を送っていただいた。池田さんの「深海を釣る」を読むと、アートと詩が、詩と詩が出合っているのだなあと思わせられる。そこに池田さんの場合、哲学や宗教がからんでくるのだけれど、そこで反射して自分を省りみると、なんにもないんだなって思ってしまった。
二〇一八年一月五日 「うれしいメール」
いま日知庵から帰ってきた。きょう、うれしいメールが10通近くきていた。57歳近くになって、まだ恋愛できるのかなと思うと感慨深い。かわいい。とにかくかわいいのだ。きょうも、リチャード・マシスンの短篇をひとつでも読んで眠ろう。おやすみ。
二〇一八年一月六日 「『一年一組 せんせい、あのね』」
朝から掃除に洗濯。
これからルーズリーフに引用を書き写す作業に。ケネス・レクスロス。
見つかった。何が? 探していた本が、扉付きの本棚で偶然に見つかった。てっきり手放していたと思っていた本で、Amazon で買い直そうかどうか迷っていたのだけれど、けっこう高かったのでためらっていたのだった。小学1年生の書いた詩がよいのだ。もしかしたら、『月下の一群』よりも影響を受けてるかも。
『一年一組 せんせい、あのね』というタイトルの本で、たとえば、こんな詩が載っているのだ。やなぎ ますみちゃんの詩。
おとうさん
おとうさんのかえりがおそかったので
おかあさんはおこって
いえじゅうのかぎを
ぜんぶしめてしまいました
それやのに
あさになったら
おとうさんはねていました
Amazonで、さっそく続編を買った。
きょうは、部屋の扉付きの本棚で偶然に見つかった『一年一組 せんせい、あのね』を読みながら眠ろう。こころがほんわかとするすばらしい本だった記憶がある。収録されている小学1年生の子どもたちの詩がすばらしかったことも憶えている。大人が書いたのではない、なにか純粋なものが見られるのだ。楽しみ。
二〇一八年一月七日 「ジェイムズ・メリル」
これからデートである。これから駅まで迎えに行って、ぼくの部屋に戻る途中でお昼ご飯を食べる予定。
いまだに、ジェイムズ・メリルの詩集って、新しいのが出ていないのだね。なぜ? もっともすぐれた世界的に有名な詩人なのに?
二〇一八年一月八日 「ジョルジュ・ランジュラン」
きょうから寝るまえの読書は、ジョルジュ・ランジュランの『蠅(はえ)』である。むかし、子どものときに見たTVで、『蠅男の恐怖』ってのがあったけれど、めっちゃ怖い映画だったけれど、その原作者の短篇集である。楽しみ。
二〇一八年一月九日 「『続 一年一組 せんせい、あのね』」
郵便受けに、先日 Amazon で注文した『続 一年一組 せんせい、あのね』が入ってた。部屋に戻って封を開けると、とてもきれいな状態の本だったので、とてもうれしかった。小学校1年生の子どもたちの詩がぎっしり。読むのが楽しみ。これがなんと1円だったのだ。(送料350円)帯がないのが惜しい。
『続 一年一組 せんせい、あのね』を読みだしたのだけれど、さいしょの3つの詩しかまだ読んでいないけれど、読んだ記憶があって、もしかしたら、むかし読んだことがある本なのかもしれない。一度読んだ短篇集を読み直ししても、既読感があまりないのに、子どもたちの詩はしっかり覚えてた。それだけ、子どもたちの詩が印象深い、力強いものだったというわけだろう。
二〇一八年一月十日 「機能不全」
ツイッターの機能が不全で、フォローしているひとのお名前が20人くらい、直近のものしかあらわれず、いま日知庵から帰ったのだけれど、日知庵でごちそうしてくださった方に直接メッセージしようとしてもできなかった。泰造さん、ありがとうございました。ごちそうになりました。
きょうの寝るまえの読書は、きょう届いた『続 一年一組 せんせい、あのね』にする。おやすみ、グッジョブ!
ツイッターの機能不全といえば、写真があげられなくなったのだ。FBでは、ちゃんと機能するのだけれど。
『続 一年一組 せんせい、あのね』を読み終わった。読んだ記憶のある詩がいっぱいあって、やっぱり、この本、読んだことがあるねんなあと思った。ドキッとした詩は、いま読んでもドキッとするし、感心した詩は、いま読んでも感心した。これから寝る。おやすみ。
二〇一八年一月十一日 「白湯」
1月10日で、57歳になりました。情けない57歳ですが、よろしくお願いしますね。
白湯を飲んでいる。ジジイになった気分で、寝るまえの読書は、ジョルジュ・ランジュランの短篇集『蠅』のつづきを。まだ冒頭の「蠅」を読んでいる。白湯のお代わりをして、つづきを読もう。おやすみ、グッジョブ!
二〇一八年一月十二日 「蠅」
ジョルジュ・ランジュランの『蠅』を再読したけれど、映画の方がよかったかな。でもまあ、きょうは、そのつづきから読んで寝る。おやすみ。
日曜日にデートの予定だったが、前倒しして、あしたになった。きょうは早めに寝なくてはならない。ジョルジュ・ランジュランの短篇集『蠅』も、3つばかり読んだ。冒頭の「蠅」以外は、ふつう小説かな。
二〇一八年一月十三日 「言葉」
数え切れないほど数多くの人間の経験を通してより豊かになった後でさえ、言葉というものは、さらに数多くの人間の経験を重ねて、その意味をよりいっそう豊かなものにしていこうとするものである。言葉の意味の、よりいっそうの深化と拡がり!
二〇一八年一月十四日 「おうみん」
きょうは、滋賀県のおうみんというお店に、Tくんが連れて行ってくれました。湖畔のカフェにも連れて行ってくれました。すてきなレストランとすてきなカフェ、Tくん、ありがとう。きょうも、すてきな一日を過ごせました。
ぼくは同志社を出たけれど、(大学院も同志社だけれどね)、同志社文学なるものから、一度も原稿依頼をされたことがない。三田文学とえらい違いである。
きょうもランジュランの短篇集『蠅』のつづきを読みながら眠るとしよう。おお、マリア、きょうも、一日、ぼくの一日はおだやかでありました。あしたもまたおだやかでありますように。
二〇一八年一月十五日 「考えるロボット」
ツイッターにコピペしようとしても、できなくなった。つぎつぎツイッターの機能が不全になっていく。このあいだ、ひさびさに画像を入れられたけれど、いまではまったく画像がアップできなくなっている。FBはまったく問題がない。
きょうの寝るまえの読書は、ランジュランの短篇集『蠅』のさいごに収録されている「考えるロボット」。時間があれば、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『くじ』にするつもり。
二〇一八年一月十六日 「世界」
この世界の在り方の一つ一つが、一人一人の人間に対して、その人間の存在という形で現われている。もしも、世界がただ一つならば、人間は、世界にただ一人しか存在していないはずである。
二〇一八年一月十七日 「いい作品」
どうやら、ぼくの見る目はかなり厳しくなっているようだ。早川書房の異色作家短篇集で見ると、一冊に一作くらいしか、いい作品がないのである。このシリーズの再読が終わったら、河出書房新社の奇想コレクションのシリーズを再読するつもりだけれど、順序を逆にした方がよかったかもしれない。それにしても、ジョルジュ・ランジュランの短篇集『蠅』に収録されていた「考えるロボット」、ぜんぜん意味がわからないあらすじで、これからちょっと読み直して、自分のこころを落ち着けようと思うのだけれど、それにしても、ずいぶんひどい作品だったなあと思う。読み返すぼくもおかしいのだけれど。
二〇一八年一月十八日 「くじ」
なぜだかわからないけれど、美術手帖さんがフォローしてくださったのでフォローしかえしておいた。
画家になるのが夢だったからかもしれない。詩人なんてものになってしまったけれど。
きょうは幾何の問題で一問、解けなかったものがある。あした取り組む。
解けなかった幾何の問題が解けてほっとしている。補助線の問題なのだな。単純な問題だった。解けたあとでは、いつも、そう思う。
シャーリイ・ジャクスンの短篇集『くじ』を読んでる。どの短篇も文章がしっかりしている。読んで損はない。だけれども、おもしろいかと問われれば、いいえと言わざるを得ない。なんなんだろう。この感じは。うまいのだけれど、おもしろくないのだ。うううん。ぼくの目が厳しくなったのだろうか。
けさ見た夢はマンガのようだった。あした、書き込もう。おやすみ。
二〇一八年一月十九日 「夢」
きのう、見た夢。大洪水の連続で都市は水没している。上流は上流階級の人間が、下流は下層階級の人間が住んでいる。お金持ちの子どもはボートで、貧乏人の子どもは泳いで学校に通う。電話ボックスのなかで、少女が叫んでいる。なんでわたしは30もバイトをしなきゃなんないのよ。その生徒はテレフォンセックスの広告に目をやる。それを同級生の女の子が見てる。弁当箱をもって弁当がダメになっちゃった〜と叫ぶ男子生徒。ジャンボ赤ちゃん。下流の人間が上流の人間の子をさらって巨大化した赤ちゃん。足の裏には濡れてもにじまないペンで住所が書かれている。
雨は太陽に殺された死体だ。
二〇一八年一月二十日 「炎のなかの絵」
寝るまえの読書は、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『くじ』のつづきを。いま半分くらいのところだ。とにかく文章がうまい。P・D・ジェイムズと同じく、描写がすごくうまい。ただ、読後に読んだ物語を忘れてしまうところが難点だ。そこんところ、短篇小説のいいところが抜け落ちているような気がする。
シャーリイ・ジャクスンの『くじ』おもしろくて、徹夜して、さいごに収録されている「くじ」まで読んでしまった。といっても、どうせ、タイトル作品の「くじ」しか、あしたになって憶えているものはないんだろうけれど。あ、誤植があった。271ページ上段うしろから5行目「気持ち襲われる」 これはもちろん「気持ちに襲われる」だろうね。校正、しっかりしてやってほしいね。名著の復刊だものね。
きょうからの再読は、早川書房の異色作家短篇集シリーズ・第七弾、ジョン・コリアの『炎のなかの絵』。コリアといえば、違う短篇集を読んだことがあるのだけれど、残酷ものが多かったような気がする。ひとつしか覚えてないけど。この短篇集は一作も読んだ記憶がない。タイトル見ただけではね。いま読んでいる、ジョン・コリアなんていうと、めっちゃ古臭くて、読んでるなんて言うと、バカにされそうだけど、まあ、いいや。シェイクスピアやゲーテが、ぼくの読書の源泉だから、ジョン・コリアなんて新しいほうだと思う。まだね。シェイクスピアやゲーテに比べてね。
あしたデートだ。うひゃ〜。クスリのんではやく寝よう。
二〇一八年一月二十一日 「断章」
なぜ人間には心があり、物事を考えるのだろう?
(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)
心は心的表象像なしには、決して思惟しない。
(アリストテレス『こころとは』第三巻・第七章、桑子敏雄訳)
二〇一八年一月二十三日 「断章」
われわれはなぜ、自分で選んだ相手ではなく、稲妻に撃たれた相手を愛さなければならないのか?
(シオドア・スタージョン『たとえ世界を失っても』大森 望訳)
光はいずこから来るのか。
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第二幕・第五場、石川重俊訳)
わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ
(与謝野晶子)
二〇一八年一月二十四日 「血は冷たく流れる」
いま日知庵から帰ってきた。きょうから寝るまえの読書は、早川書房の異色作家短篇集の第8巻のロバート・ブロックの『血は冷たく流れる』である。ブロックの短篇集はもう1冊、文庫で持ってたけれど、おもしろかったような気がする。1作しか覚えていないけれど。この短篇集の再読はどだろ。いいかな。
ジョン・コリアの短篇集はよかった。傑作というものはなかったけれど、どれも滋味のある、いい品物だった。
二〇一八年一月二十五日 「ル・グウィン」
アーシュラ・K・ル・グウィンが亡くなったという。本物の作家がひとり亡くなったということだ。すでに本物の作家がほとんどいなくなったこの世界で。
きょう、日知庵で、えいちゃんのツイートを見てて、ぼくのとえらい違うなあと言った。かぶってるひとって、ひとりかふたりくらいしかいないんじゃないのかな。見える風景がまったく違っていて、びっくりした。
これから読書。寝るのが遅くなった。ロバート・ブロックの短篇集『血は冷たく流れる』を読む。冒頭の作品は、きのう読んだのだけれど、もうタイトルも内容も忘れている。おお、このすさまじき忘却力よ。あなどりがたき忘却力よ。
二〇一八年一月二十六日 「断章」
一つ一つのものは自分の意味を持っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)
その時々、それぞれの場所はその意味を保っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳)
二〇一八年一月二十七日 「断章」
われわれのあらゆる認識は感覚にはじまる。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)
二〇一八年一月二十八日 「ひる」
きょうから再読は、早川書房の異色作家短篇集・第9弾の、ロバート・シェクリイの『無限がいっぱい』。SF作家だからSFを期待している。もう2篇、読んだけど、「ひる」なんて、ウルトラQの『バルンガ』そのものじゃん。これは憶えていた。
いまも本棚に並んだ本を抜き出しては表紙を眺めて、ああ、おもしろい本だったなと思って文庫本をつぎつぎ手にしては、本棚に戻してる。ぼくは本が好きだけど、もしかしたら本の内容より本の表紙のほうが好きなのかもしれない。
二〇一八年一月二十九日 「草野理恵子さん、廿楽順治さん」
草野理恵子さんから『Rurikarakusa』の7号を送っていただいた。収録されている「望遠鏡」という作品には、江戸川乱歩を髣髴とさせるタイトルのように、不気味な世界が描かれていた。最終連で、世界を覗く二種類の「望遠鏡」の提示に驚かされた。世界の選択か、と感慨深いものがこころのなかに生じた。もう一篇収録されている草野理恵子さんの作品「缶詰工場」も、アイデアが秀逸で、ぼくが草野さんをうらやましく思う理由のひとつだ。
廿楽順治さんから、『Down Beat』の11号を送っていただいた。収録されている廿楽さんの「大森貝塚」と「高幡不動様」を読ませていただいた。言葉が自在だなという印象を受ける。うまいものだなと思う。ぼくも自在に言葉を操ってみたいなと思った。どこからアイデアが浮かぶのだろう。不思議に思う。
二〇一八年一月三十日 「蝸牛。」
雨に触れると雨になる蝸牛。
二〇一八年一月三十一日 「美術手帖」
いま、美術手帖の編集長の柿下奈月さんにメールをお送りしたのだけれど、雑誌の編集のお仕事はたいへんだなと改めて思わされた。来月の2月17日に販売される雑誌の「美術手帖」の3月号が「ことば」の特集号で、ぼくの詩が採り上げていただけるのだけれど、メールのやりとりだけでも何十人となさっておられるのだと思うと、気が遠くなるような気がして、雑誌の編集って、すごいたいへんなお仕事だなって思った。ぼくも、同人誌の Oracle の編集長をしていて、何万枚ものコピーをして、それを上梓するために印刷所に持って行ったりしていたことがあるけれど、いま思い出しても、ぞっとする経験だった。
『マールボロ。』は、シンちゃんに、東京にいたときの思い出をルーズリーフに書いてと言って書いてもらった言葉を、ぼくが切り刻んでつないだだけの作品で、引用だけでつくった詩のなかでもとくべつな作品だった。それを読んだシンちゃんの感想は、「これはオレじゃない。」だった。詩論の核になった。『マールボロ。』は、ぼくの詩論の出発点になった作品だった。抽出する思い出の選択の違いや、その思い出たちの順番を替えただけで、別の人間になるんだね。何人ものぼく、何人ものきみがいるってことだね。いくつもの作品が同時に仕上がるってこと。『順列 並べ替え詩。3×2×1』のようにね。いや、違う。違う、違う。それは、作品上のことだけで、人生そのものは、時間の順番も、場所の順番も、出来事の順番も一つしかない、一回きり、一度きりの、ただ一つのものだったね。そう。人生と作品は区別しなきゃいけないね。あれ? それとも区別できないものなのかな。むずかしいね。どだろ。そいえば、このことを「万華鏡」にたとえて書いたことがあったな。鏡の筒のなかに入った、いろいろな色の、いろいろな形のプラスチック片が、筒を動かすたんびに、いろいろな景色をつくりだすのを眺めているのと比べたことがあったな。どれくらいむかしに書いたっけ。忘れちゃったな。10年、20年、まあ、そんなくらいのむかしのことだったと思うけど。なにに書いたっけ。詩論詩集の『The Wasteless Land.II』だったかな。いや、まだ未発表の詩論詩だったかな。なぞだ。あまりにも、たくさん書きすぎて、わからなくなっている。まあ、いいや。未発表の詩論詩たちも、そのうち文学極道に投稿しよう。
最新情報
2020年04月分
月間優良作品 (投稿日時順)
- 詩の日めくり 二〇一八年一月一日─三十一日 - 田中宏輔
- 『在りし日の歌』 ― 各論 - アンダンテ
- 書く - 田中恭平
- 楽園追放 - 鷹枕可
- 詩の日めくり 二〇一八年二月一日─三十一日 - 田中宏輔
- ・『在りし日の歌』 ― 各論 - アンダンテ
- 核 - 黒羽 黎斗
- 天気雨、俄か雨 - 白犬
- あかるみ - 北
- まほろば - kale
- Eve - アルフ・O
- Chocolate - 鴉
- (無題) - つぐみや
- 邪道幸福論(Theoria) - アルフ・O
- 予定調和 - 鷹枕可
- 淵 - 黒羽 黎斗
- 口ほどに蝶 - NORANEKO
- あるいは薬のように - 鈴木歯車
次点佳作 (投稿日時順)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
詩の日めくり 二〇一八年一月一日─三十一日
『在りし日の歌』 ― 各論
・・・・・・・(一)含 羞 ― 在りし日の歌 ―
・在りし日。それは時剋る日。近未来に跨った消えゆきし時。それは回想における記憶の黄泉がえりとしてではなく、風の音に打ち紛れつつ、ふと鮮むように出象する。
・・・吹く風を心の友と
・・・口笛に心まぎらはし
・・・私がげんげ田を歩いてゐた十五の春は、
・・・煙のやうに、野羊のやうに、パルプのやうに、
・・・とんで行って、もう今頃は、
・・・どこか遠い別の世界で花咲いてゐるであらうか
・・・耳を澄ますと
・・・げんげの色のやうにはじられながら遠くに聞こゑる
・・・あれは、十五の春の遠い音信なのだらうか
・・・滲むやうに、日が暮れても空のどこかに
・・・あの日の晝のまゝに
・・・あの時が、あの時の物音が経過しつつあるやうに思はれる
・・・それが何處か?――とにかく僕が其處へゆけたらなあ……
・・・心一杯に懺悔して、
・・・恕されたといふ氣持ちの中に、再び生きて、
・・・僕は努力家にならうと思ふんだ――
(『未完詩篇』より)
・嘗って、菅谷規矩雄が(とても咀嚼されたは思えぬ不快な文章の中で)語った懸念 ―「……この詩が現にそうかかれてある形として、この詩に過去としてかかれた像そのものが、彼の内部を仄燃えあざやかせるか。」― とは裏腹に、日が暮れても其の一行一行の詩の中に、あの日の昼のままにあの時あの物音が、仄燃えあざやぎて在った。
・・・黝い石に夏の日が照りつけ、
・・・庭の地面が、朱色に睡ってゐた。
・・・平の果に蒸氣が立って、
・・・世の亡ぶ、兆のやうだった。
・・・菱田には風が低く打ち、
・・・おぼろで、灰色だった。
・・・翔びゆく雲の落とす影のやうに、
・・・田の面を過ぎる、昔の巨人の姿 ――
・・・夏の日の午過ぎ時刻
・・・誰彼の午睡するとき、
・・・私は野原を走って行った……
・・・・・・・・・・(「少年時」詩集『山羊の歌』))
『少年時』にあって、在りし日の序曲として惚ほれてあった情景は、『含羞』に至って、在りし日として常に鮮やがれてある情景となった。中也は、在りし日に生きていた。現実とは、何時の日か消滅する物者とのとの盲目的出逢いである。どれ程、<あらはるものはあらはれるまゝによいといふこと!>と心に納得させようとも、<汚れなき幸福!>があろう筈もなかった。
噫、生きてゐた、私は生きてゐた!紫雲英の色のように羞ぢらいながら聞こえて来る少年時。其の、いのちの聲に、中也は、在っても在られぬ羞ぢらいの心で応えるしかなかった。
*註解
・含蓄:はぢらひ
・剋る日;きわるとき
・風の音にうちまれつつ/ふとあざむ…:『未完詩篇』の中の詩「風雨」にある詩句。
・菅谷規矩雄;1989年(53歳没)『空のむこうがわ』(中原中也と現代「現代詩手帳」昭和37年7月に収録)
・黝い;あかぐろい
・兆;きざし
・面;も
・午過ぎ;ひるすぎ
・午睡;ひるね
・<あらはるものはあらはれるまゝによいといふこと!><汚れなき幸福!>;『山羊の歌』の中の詩「いのちの聲」IIの最初の節」にある詩句。
・惚ほれて;おぼほれて
・紫雲英;げんげ
・・・・・・・・・(二)むなしさ
・偏菱形が圧し潰されて平み付く有様。其れが聚接面……。サイクロイドの軌跡は、胡弓の象を連想させる。胡弓の音が絶えず為ている。減り縮こまる宇宙が軋めくように。
*註解
・為ている:している
・・・・・・・・・(三)夜更けの雨 ― ヱ"ルレーヌの面影 ―
・・・雨は 今宵も 昔 ながらに、
・・・・・昔 ながらの 唄を うたってる。
・「夜更けの雨」の出だしである。ヴェルレーヌの「忘れた小曲」III を指すものと思われる。例えば、
・・・・・・・・・・・町にしづかに雨が降る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・アルチュウル・ラムボオ
・・・ぬれ冠る 私の心は
・・・あめが降りそそぐ街、
・・・なのに此の怠さは
・・・湿らう私の心は?
・・・おゝ優ばむ 音の雨
・・・地そして屋根から!
・・・憂さ霽れない心のため
・・・おゝ 歌う雨!
・・・ないI 故など
・・・萎えた心の奥に浸み入る
・・・誰も!退く者など?
・・・この哀しみに故など。
・・・この上もなく 傷く
・・・故しれない事ゆえ
・・・慈む事も怨む事も無く
・・・私の心は こんなに傷く。
・・・・・(『言葉なき恋歌』の中の詩「忘れた小曲」III −アンダンテ訳−)
・エピグラムにラムボオの<町にしづかに雨が降る>が置かれてある。
・在りし日は、私たちが住む不断に続く日常と変わりはない。それは、同じ空間・同じ時間に属する。でも、何かが違っていた。例えば、希望の在り方が違っていた。既に決定された過去としての未来の連続の中に生きる。在りし日に生きるとは、そういう事だ。それは、菅谷規矩雄の示す《現在する過去》などという、そもそも曖昧で、さゝらほうさにロマンを追求する者の表現に身を置いて生きる夢とは、無論違っていた。
・過去としての未来、それは未来であるが為に記憶にない。そして、過去であるが故に希望は夢と消える。
・・・中原中也の限られた空間
・・・例えばそれは外へのひろがりにおいてまず《白き空盲ひて》(臨終)というように空を限り、またそれにむかいあうごとくに、地上の彼自
・・身にむかう視線は、《神様が気層の底の、魚を捕ってゐろたうだ。》(ためいき)というところで、ゆきどまる。この盲でた空、あるいは気層
・・の底をつきぬけることは、ついに、中原中也の視覚的認識のなしえないことであったとおもわれる。これらの二つのイメージは、互いにむ
・・きあう鏡面のように、中也の空間意識の臨界線をなしている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(『空のむこうがわ』)
・〔無限〕という括弧つきの概念を、何の躊躇もなく心受する。人は透色の空の下で、いつまでも昏惑の日々を繰り返すのか。無限に向き合って自我とやらの拡充を目論む者は、何も菅谷規矩雄に限ったことではない。そして、その者の多くは、無限に対して、<空のむこうがわ>と同類の隠喩を無鑑査に宛がう。
・現実とは、何時の日か消滅する物者との盲目的出逢いである。無限に外は無い。空のむこうがわが無限だとしたら、空のうちがわも無限である。さすれば、私たちは『有限』なる概念を捨てざるをえない。それにしても、空のうちがわに身を置く私たちが、無限なる存在であったとは……。
*註解
・現在する過去;『空のむこうがわ』にある言葉。「……古典的な時間の遠近法。厳密な現在と過去の区分。この区分の秩序がまもられているかぎり、隠喩はその本性を充分に詩のうちに展開しえないし、また現在する過去、という内在感覚もとらえきれないだろう。……」
・さゝらほうさ;見境なく・我武者ら・矢鱈滅多
・『言葉なき恋歌』の中の詩「忘れた小曲」III;原文を記す。
・・・Il pleut doucement sur la ville
・・・・・・・・・・・・・・・・(A.Rimbaud)
・Il pleure dans mon coeur
・Comme il pleut sur la ville,
・Quelle est sette langueur
・Qui penetre men coeur?
・O bruit doux de les pluie
・Par terre et sur les toits!
・Pour un Coeur qui sennuie
・O le chant de la pluie!
・Il pleure sans raison
・Dans ce coer qui s’ecoeure
・Quoi nulle trahison?
・Ce deuil est sans raison.
・C’est bien la pire peine
・De ne savoir pourquoi
・Sans amour et sans haine
・Mon Coeur a tant de peine.
・・・・・・・・・(三)早春の風
・いかにも早春の風を思わせる前三連なのだが、……転調は目叩く間の風折のように、何時も物者たちを見舞う。
・・・・・鳶色の土かほるれば
・・・・物干竿は空に往き
・・・登る坂道なごめども
・鳶色の土か掘るれば――空の奥の変転する出来事に呼応するかのように、土がおのずから穿たれ、物干竿は空に突き刺さり、坂道は平ぐ。
・・・・秋色は鈍色にして
・・・・黒馬の瞳のひかり
・・・このすばらしいイメジとおもわれる二行に実は、いかなる《かたち》も識別されていないことを注目しておこう。空間にかたちを見出す
・・こと、存在しないものを、かたちとして感受し、識別することにおいて、中也は」がいかに困難を示すかを、この詩は典型的に示している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(『空のむこうがわ』)
・私が度々、菅谷規矩雄の文章を引き合いにするのは、菅谷規矩雄に代表される――<すぐれて知的>とおもわせて、実は盲覚の独芝居にすぎない――この種の判断に拠って、中也の詩の世界が歪められるのを危惧するからである。そして、今引用した前節で次の様に判断している。
・・・第一行、《秋空は鈍色にして》という、この鈍色の空は、いわばスクリインが像をつくるために必要とする陰影感を、かろうじて確保して
・・いる状態である。しかもそれが空白化してゆくことのさけられないものであることを、第ニ節の《白き空盲ひてありて》が、示している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(『空のむこうがわ』)
・「臨終」の全文を挙げておこう。
・・・秋色は鈍色にして
・・・黒馬の瞳のひかり
・・・・・水涸れて落つる百合花
・・・・・あゝ こころうつろなるかな
・・・神もなくしるべもなくて
・・・窓近く婦の逝きぬ
・・・・・白き空盲ひてありて
・・・・・白き風冷たくありぬ
・・・窓際に髪を洗へば
・・・その腕の優しくありぬ
・・・・・朝の日は澪れてあり・
・・・・・水の音したたりてゐぬ
・・・町々はさやぎてありぬ
・・・子等の聲もつれてありぬ
・・・・・しかはあれ この魂はいかにとなるか?
・・・・・うすらぎて 空となるか?
・<水涸れて落つる百合花>。この極めて具象的一句は、「早春の風」における<鳶色の土かほるれば>と同様、空の奥の変転する出来事に呼応するかのように、しかも他の事象と識別された時制を伴って置かれてあることに注目しておこう。
・「百合花水涸れて落ちぬ」でもなければ「水涸れて落ちぬる百合花」でもない。それは、<水涸れて落つる百合花>。
・百合花は、何の受皿もなく落下する。過去形を拒み逃去する地上。動熱の苦しみ定まらぬ百合花の霊は、一体何処へ落ちゆく。<神もなくしるべもなくて><うすらぎて 空となるか?>。この二句は、「落つる」という時制であるが故に、正にそこから導かれて来る二句なのだ。
・<秋色は鈍色にして/黒馬の瞳のひかり>。鈍色の秋空は、やがて、すべての事物を呑み込んで減り縮こまり消滅する臨終の空。秋空は、空のうちがわの終焉を暗示するかのように地上を見詰めている瞳の気配。
・<白き空盲ひてありて>。白き空は、秋空が瞬き、まさに瞳が動くことに因って迫りくる空の奥。不可得な過去として現在に光速で近づく空の奥。
・<うすらぎて 空となるか?>。この空は、空の奥が変転する時、新生するもうひとつの空。それは、「憔悴」(『山羊の歌』)の中にある空、<やがては全体の調和に溶けて/空に昇って 虹となるのだらうとおもふ……>と同じ空。
・三つの異質な空間 ―― それぞれの空 ―― が伴ふ時制は微妙に同一に保たれ、其々の空間は明らかに有限なかたち、即ち空として示されていた。
・鈍色の空も、白き空も、過去形の時制を伴った事象 ―― 婦・白き風・その腕・朝の日・水の音・町々・子等の聲 ―― と同様に、空の奥が神さえも律することの出来ない転調に見舞われる時、泯滅する運命にある。
・「憔悴」III を挙げておこう。
・・・・・・・・・・・・・III
・・・しかし此の世の善だの悪だの
・・・容易に人間に分かりはせぬ
・・・人間に分からない無數の理由が
・・・あれをもこれをも支配してゐるのだ
・・・山蔭の〓水のやうに忍耐ぶかく
・・・つぐむでゐれば愉しいだけだ
・・・汽車からみえる 山も 草も
・・・空も 川も みんなみんな
・・・やがては全体の調和に溶けて
・・・空に昇つて 虹となるのだらうとおもふ
*註解
・目叩く:めたたく
・秋色は鈍色にして/黒馬の瞳のひかり;「臨終」の最初の二行(『山羊の歌』)。
書く
中心の
なくなった世界で
わたしは斜め上を狙った
詩
ばかり生産してきた
問う
わたしは存在しているのか
ポエムを書けるほど
作為的で
天才(天災)ではなかった
わたしの
人生の明るみは
あきらめを出発点にしていたんだ
いこう
れっと・ごー!
ころな
ころり
ころさないで
呟きつつ
郊外の
大きな道に出た
存在を疑いながら
ときどき
腕時計の音に
耳をすませながら
散歩するのが大好きだ
こころは滴する
滴のためにまた歩き 空を仰ぎ
コンビニのイートインで
文運堂の小学生用ノートに小説を書こうとするが
また、日記になってしまうのを
眼は中空を見つめ否定しながら・・・書く
楽園追放
鳩の巣を戴冠したマヌカンの聖母像が
右手には地獄
左手には天堂を指し
磔刑に処された
青空を湛えている
取違えられた双子の血は脈動する
試験管の内へ
第七の恒星を泛べて
卵巣には赤い揺椅子を
精巣には黒く濡れた花總を
瞠る
吸血蝶に、鬱金色の鱗が瞬き
卵黄を嘴に啜る
世界獄舎の
地下階を
螺旋に降り
叡智の花園へ到り
洪積世文明の闇より芳しく
地球創造の一週間に
隔絶され
科学爛熟期を息絶えること、その言葉
晩餐室
各々の電燭燈へと
蠅の巨躯を蔭に差す
染色実験
混淆実験
実験体
幾多人間と謂う起源を盲る
人体機関
真鍮と青銅
精神と慧眼
実象‐現実精神を患う窮鼠の
臓腑実りつつ
腐敗せる人体花瓶
舞踏樹一脈を喪える咽喉炎たらず
歩行樹が一跳躍その爾後を
振戦し猶も聴音を
松の実に確かめ
調律を復も挑む葦に花も在らば
詩の日めくり 二〇一八年二月一日─三十一日
二〇一八年二月一日 「無限がいっぱい」
塾が終わって、日知庵に行ったら、シンちゃんさんご夫妻と友だちがいらっしゃって、そこからガブ飲みに。きょうも、ぼくはヨッパで眠る。眠るまえの読書は、ロバート・シェクリイの短篇集の『無限がいっぱい』。ああ、ぼくの胃のなかはアルコールでいっぱい。シンちゃんに、焼酎一本おごってもらって。
二〇一八年二月二日 「藤井晴美さん」
いま日知庵から帰った。郵便受けに、すごくおもしろいタイトルの詩集が送られてきていた。あした感想を書こう。藤井晴美さんというかたから『電波、異臭、工学の技』という詩集が送られてきたのだった。理系のぼくとしては、おもしろくて仕方がないタイトルである。あした読ませていただこう。楽しみ。
二〇一八年二月三日 「電波、異臭、工学の技」
藤井晴美さんから、詩集『電波、異臭、工学の技』を送っていただいた。さまざまなモチーフと技法が駆使されているなかで、ことに「詩人」と「映画」というモチーフが目についた。ぼくは画家にあこがれて画家になれなかった詩人だけど、藤井さんはどうなのかなって思った。
ロバート・シェクリイ『無限がいっぱい』 誤植 131ページ上段4━5行「機会のうごきを研究し、製作し、維持する」これは「機械のうごきを研究し、製作し、維持する」だろう。ほんとに、まあ、だらしない校正だなあ。
二〇一八年二月四日 「破局」
いま日知庵から帰ってきた。帰りにセブイレで買ったサンドイッチを食べて、ロバート・シェクリイの短篇集『無限がいっぱい』のつづきを読んで寝よう。きょうのお昼に読んでた「先住民問題」って作品、人類学や生物学を少しでも知っていれば、簡単に片づく問題なのに、作品が半世紀まえのものだからね。
ぼくは画家になり損ねた詩人だ。詩人なんて、吐いて捨てるほどいるけれど。画家もそうか。吐いて捨てるほどいるか。芸術家とは、なんと因果な生業なのだろう。
いままで寝てた。ご飯も食べず。ロバート・シェクリイの短篇集『無限がいっぱい』を徹夜で読んだからだな。で、これから、デュ・モーリアの短篇集『破局』の冒頭の作品のつづきから読むんだけど、異常者が主人公なのだった。描写がうまい。先が読めない。再読なのにね。記憶力がほんとうににぶった。
帰りに、セブイレで、烏龍茶とシュークリーム2個買った。これから食べて、それから朝まで読書しよう。
あしたは、大谷良太くんちで、つぎに出す詩集の打ち合わせだ。がんばろう。
二〇一八年二月五日 「断章」
魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現われることがない、
(サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳)
二〇一八年二月六日 「Still Falls The Rain。」
いま、きみやから帰った。そのまえに、大谷良太くんちで、書肆ブンから出る、ぼくのつぎに出る詩集『Still Falls The Rain。』の編集をしてたんだけど、きょうの編集作業はめっちゃ進んでて、半分くらい終わった。ふたりで、12時間近く作業してたと思う。ふう。あと一日で終わるかも。楽天的な推測。
大谷良太くんちで、こんどの5月に出す詩集の打ち合わせをしてるときに いま出てる現代詩手帖2月号を見せてもらって 高塚謙太郎さんに、ぼくの詩集を採り上げてもらってることを知ってうれしかった。 ごく少数でも、ぼくの詩を見ていただいてる方がいらっしゃるんだなあと思って。 高塚謙太郎さん、ありがとうございます。
二〇一八年二月七日 「断章」
言葉とは何か?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)
言葉以外の何を使って、嫌悪する世界を消しさり、愛しうる世界を創りだせるというのか?
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)
二〇一八年二月八日 「命日」
おとつい、2月6日は、日知庵のまえのマスターの命日で、きのう日知庵に行きたかったのだけれど、ぼくの体調が悪くて行けなかったのだった。きょう、二日ずれたけれど、日知庵に行って、まえのマスターのこと、いろいろ思い出していた。気さくで、いつも陽気なマスターだった。ぼくの耳には、まだまえのマスターのお声や笑い声が聞こえてくる。帰りに、これ持って帰って、と、えいちゃんに言われて、お酒をもらった。「英勲」という日本酒だった。これ、寝るまえに飲んで、まえのマスターのこと、もっといろいろ思い出そうっと。ほんとに、いいひとだった。まだ70代だったのに。涙。後半だけど。
「英勲」おいしい。
ひゃ〜。いまFB見てたら、あの新潮社でさえ、自費出版をはじめたようだ。それとも、むかしからやってたのかしら?
きょう、早朝から、大谷良太くんちで、書肆ブンから5月に出る、ぼくの新しい詩集『Still Falls The Rain。』の編集をすることになった。徹夜だが、目が冴えてるのでだいじょうぶだと思う。ぼくの脳機能は、いま全開だ。5時57分のバスに乗る。
いま、大谷良太くんち→日知庵から帰ってきた。4、50時間くらい眠っていないのだが、これから、ポオの『ユリイカ』で調べものをしなければならない。神さまに祈ります。探しものが、すぐに見つかりますように。
きょうの寝るまえの読書は、ポオの『ユリイカ』に決定。おやすみ、グッジョブ!
二〇一八年二月九日 「静かなストレス」
現代詩手帖の2月号で高塚謙太郎さんが触れてくださったおかげだろうか。『The Wasteless Land.』が売れている。発行所の書肆ブンには在庫がまだありますので、ご購入を検討されておられるお方はぜひお買い求めくださいませ。
ひさしぶりに、大野ラーメンでも食べてこようかな。焼き飯つきの。焼き飯は並に。
ポオの『ユリイカ』あと4ページで読み終わる。それにしても、すさまじい書物だ。
きのう、日知庵で、焼きそばをちょっと残した。注文した食べ物を残すことなど一度としてなかったのだけれど、そしたら、アルバイトしてるお兄さんに、「残さはるなんて、めずらしいですね。」と言われたのだった。えいちゃんに、「焼きそばのそばは、一玉、それとも、二玉?」ときかれたときに、「二玉でお願い。」とこたえたぼくやけれど、さすがに、4、50時間も眠っていなかったためだろうか、しんどくて、お酒も、水で薄めた焼酎のロックを3杯しか飲めなかった。しかし、そのムチャをしたおかげで、新しい詩集の編集がうまくいったのだけれど。よいことと、よくないことは差し引きゼロなのだ。
詩人の友だちのFBでのコメントに「静かなドレス」とあって、すかさず「静かなストレス」なんて言葉を思いついた。ポオの「神の心臓」の概念は、確実にぼくに影響を与えていて、その概念を利用した詩句を、ぼくは、「陽の埋葬」の一作に用いた。「サクラ」が出てくるので、4月辺りに投稿するつもりだ。
二〇一八年二月十日 「美術手帖」
2月17日発売の美術手帖は、「言葉の力。」特集号で、そこで、いぬのせなか座の方が編集・デザイン・制作された「現代詩アンソロジー」に、拙詩『I FEEL FOR YOU。』の一部が収載されています。とても画期的な詩のアンソロジーだと思います。ぜひ、ごらんください。
いま日知庵から帰ってきた。きょうは早い。眠いから。きのう寝たと思うんだけど、眠い。デュ・モーリアの短篇集、ようやく半分くらい再読した。でも、ぼくの忘却力がすごくって、読み終わったばかりの短篇しか記憶にないの。なんちゅうことやろか。アルツがはじまってるのんかもにょ。おっそろしいわ。
二〇一八年二月十一日 「ロキシー・ミュージック」
なんか朝からビールが飲みたくなってきた。コンビニで買って飲もう。
麒麟のラガービールと、アンパン一個、買ってきた。チューブで漫才でも見ながら飲もう。
デュ・モーリアの短篇集『破局』のつづきを読もう。いま「美少年」を再読しているのだが、状況の一部は憶えていた。まるで、マンの『ヴェニスに死す』みたいな雰囲気だ。舞台もヴェニスだし。
きょうは、夕方から大谷良太くんたちと京都駅の近くのヨドバシカメラの近くのハブというお店でお酒を飲む。
いまジェネシスのデュークを聴いているのだが、4月頃に出るぼくの新しい詩集『Still Falls The Rain。』は前篇と後篇を合わせて150ページくらいあるんだけど、ぼくはほとんどずっとプログレを参考に作品をつくってきたけど、今回は、ロキシー・ミュージックを参考にした。まあ、ロキシー・ミュージックもプログレ風味のあるアルバムつくってるし、曲によっては、完全にプログレだけれどね。あ、ちなみに、こんど出るぼくの新しい詩集『Still Falls The Rain。』には、論考も合わせて4篇ほど収録していて、うち3篇は、昨年に亡くなった大岡 信先生に捧げたものである。でもやっぱり、新しい詩集『Still Falls The Rain。』の主人公は、ヤリタミサコさんで、ぼくがヤリタミサコさんの朗読会で得たものは、とても大切なことだったように思う。
いま日知庵から帰ってきた。大谷良太くんらと京都駅の近くのハブに行って、そのあと日知庵に行ったのだけれど、大谷くんらが帰ったあと、ぼくがひとりで日知庵で飲んでると、むかし付き合ってたノブユキに似た男の子が隣に坐って、「おれ、バイなんですよ。」と言ってきたものだから、めっちゃ興奮してしてしまって、その子がぼくの肩に手をまわしてきたりするものだから、めっちゃ興奮してしまって、きょうのぼくは、ほんとに酔っぱらってしまったのだった。いい夢を見れればいいなあ。「ほんとに、きみかわいいね。」と言うと、「オレ、なんかおごりますよ。」と言ってくれたのだけれど、おそれおおくて「いいよ、いいよ、きみが横にいてくれるだけで、ぼくは幸せ。」と、ぼくは言ったのだった。ああ、もっと積極的になって、電話番号とかメールアドレスとか聞いとけばよかった。残念。ぼくって、ほとんどいつも、こんなふうに、消極的で、できる恋もできないのだった。こんなんばっかり。ほんとに、残念。だけど、残念だからこそ、詩にできるってこともあんのかもしれないね。そんな気もするぼくだった。ぼくの詩は残念な恋の話なのかもしれない。
二〇一八年二月十二日 「断章」
作品は作者を変える。
自分から作品を引き出す活動のひとつびとつに、作者は或る変質を受ける。完成すると、作品は今一度作者に逆に作用を及ぼす。
(ヴァレリー『文学』佐藤正彰訳)
これがぼくにとってどれほど大きな意味があることか、きみにわかるかい?
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)
二〇一八年二月十三日 「22世紀のコロンブス」
創元SF文庫から、3月に、J・G・バラードの『ハロー、アメリカ』が発売されるけど、これって、むかし、『22世紀のコロンブス』ってタイトルで単行本で売られたもので、すごくおもしろかった。バラードは、もってるもの、ぜんぶひとに譲ったけど、これは残しておきたかったな。おもしろかったよ。
このあいだ、ブックオフで、短篇集の『時の声』が108円で売ってたので買った。いま唯一もってるバラード本だ。いや、譲った女の子がすでに持ってるからって、『ハイ‐ライズ』は本棚にあったかな。本棚さがそう。
あった。カヴァーがかわいらしかったら、創元SF文庫から出る『ハロー、アメリカ』を買おうかな。
トーマス・マンも意地の悪い作家で、『ヴェニスに死す』で徹底的に美少年愛趣味の大作家をバカにして描いていたが、デュ・モーリアも、短篇の『美少年』のなかで美少年愛者の金持ちの考古学者を懲りない馬鹿として描いていて、なんだかなあと思った。まあ、じっさい馬鹿なのかもしれないけれどね。
いまネットで、創元のところを見ると、このバラードの『ハロー、アメリカ』、映画になるみたい。そっか。それで、もと『22世紀のコロンブス』を文庫化することになったのか。しかし、映画になったら、あの飛行機が空を覆うシーンだとか、ロボットの真似をした兵士たちが歩行するシーンは見ものだな。
きょうは、あさから、お酒を飲んでいるのである。アサヒのシャルネドサワーというので、マスカット味のものである。いまで3杯目。あさから、お酒を飲める幸せ。夕方には、日知庵に行くつもりだが、きょうは、一日、酒びたりになりたい。
漫才では、とろサーモンが大好きなのだけれど、ひと的には、和牛の川西さんが人格者っぽくていいなあと思う。人間はやっぱり、ひとにやさしくなければならないと思う。ぼくの場合は、気が弱いので、ひとにやさしいと思うのだが、気がしっかりしていて、やさしいというのはすごいと思う。
ここ半年くらいブックオフに行ってないかもしれない。欲しい本、読みたい本をすべて手に入れて読んだからだと思うけれど、きょう、日知庵に行くまえに、ひさしぶりにブックオフに行ってみようかな。見知らぬ良い本があるかもしれないしね。過去に何度かそんな目にあってるしね。よい本との出合い。
もうすでにいまヨッパなのだが、夕方から日知庵に行く。日知庵では、さいきん、焼酎のロックのうえから水をそそいで、ちょっとロックより薄い目にして飲んでいる。こうすると、たくさん飲めるのだ。いまBGMは、ピンクフロイドの「炎」。ヨッパである。さて、ブックオフでは、すてきな本との出合いは?
でも、デリケートなぼくは、バスや電車に乗ってるときに、お酒の臭いがしないかと心配だ。ぜったいするような気がする。あさからだけど、「昼間から飲んでる、このおっさん。」とかと思われないかなと思って。思われるだろうなあ。
郵便受けを覗くと、一冊の本らしきものの封筒が。で、部屋に持ち帰って、封を破ってみると、封筒にはイガイガボンという記名があって、なんだろ、これと思わせられたのだが、で、出てきた本が、阿賀猥さんの『民主主義の穴』という本だった。ああ、阿賀さん、ぼくのこと、憶えていてくださったんだと、まず第一に思ったのだけれど、本文を読むと、これは詩集ではなくて、評論集といった類のものだった。読みやすい本で、文学、精神分析、政治といった多義にわたる論述がびっしり。おもしろい本を送ってくださった。これをもって、日知庵に行く。
いま日知庵から帰った。日知庵に行くまえに、三条京阪のブックオフで、マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』を108円で買った。これって、持っているんだけど、カヴァーの状態が悪くって、新たに買ったのだけれど、部屋に帰って、本棚を見ると、『暗殺者の惑星』がなかったのである。いつの間にか、なくしてしまったのか、いまのぼくの探し方が粗かったのかもしれない。いま激ヨッパだから、あしたまた本棚をあたるけれど、いや〜、ゲロゲロにヨッパだわ。
で、日知庵で、えいちゃんから聞いたんだけど、このあいだの日曜日に、ぼくの肩を抱いてくれた青年の名前は「今村」くんで、年齢は、30才くらいで、こんど来たら、ぼくに電話をくれるって。ぼくは30分くらいで日知庵に行けるからねって言っておいた。今村くん、かわいかった〜。ノブユキくらいに。
日知庵では、阿賀猥さんの『民主主義の穴』を70ページくらいまで読んだ。三ケ所に誤字・脱字があったけれど、気にせずに読めた。きょうの寝るまえの読書は、阿賀猥さんの『民主主義の穴』だ。おもしろい。本の価格も安い。これは売れる本だなって思った。こういう本が売れなきゃいけないなって思う。
二〇一八年二月十四日 「阿賀猥さん」
阿賀猥さんの『民主主義の穴』を読み終わった。おもしろいエッセーだった。善と悪についての考察が、ぼくが読んだこともない方向からなされていて、目を見開かされた。これは売れる本だなと思う。200ページの本で本体1100円なのである。やすい。おもしろいし、やすい。
ただ一つ残念なことに、誤字・脱字が多い。たとえば、36ページ「一文をを」→「一文を」66ページ「案外多いのはないか?」→「案外多いのではないか?」66ページ「しわくちゃのこびと小人が」→「しわくちゃの小人が」70ページ「なにも変わらないことのなる」→「なにも変わらないことになる」81ページ「逃れために」→「逃れるために」128ページ「おぞましいもの集積」→「おぞましいものの集積」146ページ「下等な美徳」」→「「下等な美徳」」148ページ「二人が登場させている。」→「二人を登場させている。」160ページ「マウンデヴィル」→「マンデヴィル」161ページ「戦争という三島由紀夫ではないが、」→「戦争というと三島由紀夫ではないが、」165ページ「マンデヴル」→「マンデヴィル」184ページ「そんなものに彼が頓着するするだろうか。」→「そんなものに彼が頓着するだろうか。」195━196ページ「これで繁栄を築いて来たのもの。」→「これで繁栄を築いて来たものの。」
おおのラーメンで、餃子セットを食べてきた。帰りに、セブイレで、海鮮せんべえと、烏龍茶を買ってきた。夕方まで、デュ・モーリアの短篇集『破局』のつづきでも読もう。ふいの調べものや、他の本の読書で中断されまくっている。あ、そうだ。マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』を探すんだった。
すぐに見つかった。きのうは酔っぱらっていたから見つからなかったのかな。もってたほうも、きれいだった。きれいじゃないほうをお風呂につかりながら読んで、読んだら捨てようと思っていたのだけれど、きのう買ったものも、もってたものも同じくらいきれいで、ほんとに迷うわ。
デュ・モーリアの短篇集『破局』を読むのを中断して、マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』を読む。これは、フロベールとともに、ぼくに全行引用詩を思いつかせた小説である。エピグラフの連続という、当時のぼくにはめずらしい作風だからだ。メルヴィルの『白鯨』を知ったのは、ずいぶんあとで、全行引用詩をぼくが書いたあと。
きょうから、お風呂場では、マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』を読む。レズニックの作品で、ぼくの本棚に残っているのは、あと1冊。『一角獣をさがせ!』のみである。これはファンタジーだったから、SFではないのだが、とてもおもしろかった記憶がある。
いま、お風呂からあがった。お風呂場では、湯舟につかりながら、マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』を読んでいたのだけれど、きのう、きょうのあさと読んでいた、阿賀猥さんの『民主主義の穴』との共通項があったのである。それは「悪」の問題である。阿賀猥さんは「善」も扱ってらっしゃったけど。
『暗殺者の惑星』エピグラフが頻出するのだけれど、冒頭から書き写してみよう。異様な世界観が露出する。
プロローグ
「悪の中にも善なる魂はあるものだ」
━━シェイクスピア
「われわれが屈することのない悪はみな恩人である」
━━エマソン
「われわれの最大の悪はわれわれ自身の内から自然にでてくるものだ」
━━ルソー
とんでもない。
「悪に説明などつかない。これは宇宙の秩序にとって欠くことのできない一部と考えるしかない。無視するのは子供じみているし、嘆いても無意味というものだ」
━━モーム
このほうが近い。
「悪はそれ自体を正当化している。それゆえ、力、快楽、利益でさえ無意味になってしまうのだ」
━━コンラッド・ブランド
この引用の連鎖が、フロベールの遺作とともに、ぼくに全行引用詩の構想を思い起こさせたのだった。
1の冒頭に引用された主人公の言葉、このエピグラフに、ぼくはびっくり仰天したのだ。紹介しよう。
「ひとり殺せば殺し屋でしかないが、数百万人を殺すものは征服者となり、ひとり残らず殺すものは神となる」
━━コンラッド・ブランド
なんちゅう、すごい考え方だろうか。「まったき悪」が「神」となるのである。
23ページ 2 の冒頭に引かれたエピグラフも陶然とさせられるものである。こんなの。
「殺人とはたんなる感情の爆発でしかないが、大量虐殺ともなれば芸術である」━━コンラッド・ブランド
以上、翻訳は、小川 隆さん。ルーシャス・シェパードの『戦時生活』なども翻訳なさってて、ぼくの大好きな翻訳家のおひとり。
さて、これからお出かけである。冬の寒さも、2月までかな。はやく桜の花びらを見たい。
二〇一八年二月十五日 「人格売買」
人身売買というのがあるが、人格売買という言葉を思いついた。ふつうに、労働って、人格売買だよね。
寝るまえの読書は、マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』もう3回以上、再読している。めっちゃ読みやすくておもしろかった記憶がある。おやすみ、グッジョブ!
きょうはチョコレート責めだった。あしたからチョコレートの消費すごそう。虫歯になっちゃうかな。
気遣いのできる彼女。気違いのできる彼女。「遣い」と「違い」で大違い。
マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』を読み終わった。何回目の再読だろうか。おもしろかった。ただいつも再読のたびに、さいごの場面は違ったものにしてほしいなあと言う気持ちが湧き上がる。暗殺者を処刑するなんて、もったいないことをしたものだなっと思う。シリーズ化できそうな作品なのにって。
二〇一八年二月十六日 「特別料理」
デュ・モーリアの短篇集『破局』を読み終わった。今日から、早川書房の異色作家短篇集シリーズ・第11弾の、スタンリイ・エリンの短篇集『特別料理』の再読をする。これまた収録されている作品をタイトル作も含めて一つもおぼえていない。
あさの11時45分から、夕方の4時5分まで、税務署の出張所で、確定申告してた。ほとんどが待ち時間だった。本でも持って行ってればよかった。帰りに王将で、餃子定食を食べた。またその帰りに、セブイレで、海鮮せんべえと、烏龍茶を買ってきた。疲れた〜。
たしか、おとついかな、日知庵で、はるかちゃんとしゃべってたら、名字が「今井」さんていうのだけれど、「今」が旧字で、なかが「ラ」ではなくて、「テ」らしい。いまパソコンでも旧字の「今」が出てこないのだけれど、ハンコ、特注らしい。ぼくなんか「田中」で、どこにでも売っている名前で、便利。
二〇一八年二月十七日 「みんな、きみのことが好きだった。」
いま日知庵から帰ってきた。きょうは、というか、きょうも読書で一日を終わろう。スタンリイ・エリンの短篇集『特別料理』だ。まだ解説しか再読していない。本文はおもしろいかな、どだろ。記憶がまったくない。
ぼくの詩集をさいしょに購入くださるなら、書肆ブンから出ている『みんな、きみのことが好きだった。』をおすすめします。初期のものから中期のものまでのベストセレクションになっています。とくに前半に収録してある「先駆形」の一群と、引用を駆使したサンドイッチ詩など。
きょうは、はやく寝よう。ジュンク堂で、美術手帖を見た。自分の詩の一部が抜粋されていて、うれしかった。
二〇一八年二月十八日 「どんな詩を書こう。」
これから日知庵に。パソコンから離れます。
いま日知庵から帰った。網野杏子さんから、うれしいご連絡が入っていた。ほんとにうれしい。河野聡子さんから原稿依頼があってから、ひさかたぶりだ。
あした、えいちゃんたちと、ホルモン焼きを食べに四条大宮まで行く。マスターがケンコバそっくりでかわいいのだ。楽しみ。
どんな詩を書こう。
というのも、「詩の日めくり」と「全行引用による自伝詩。」以外、ここ一年、二年、新しいものを書いていないからだ。ブルブル。今晩から、構想を練ろうか。恋が主題か、生き死にか主題か、どだろ。ブルブル。ああ、これじゃ、吉増さんだな。新しい音を書かなきゃならない。
ビートルズのようなものも、いいかな。ピンクフロイドみたいなのも、いいかな。
きょうも、エリンの短篇集を読んで寝る。おやすみ。いったい、ぼくの詩は誰が読んで寝てくれるのだろう。
二〇一八年二月十九日 「ふんどしバー」
『美術手帖』3月号「言葉の力。」特集号を送っていただいた。17篇の現代詩アンソロジーに拙作の一部が抜粋していただいた。いぬのせなか座の方たちの編集・デザイン・制作だそうだ。いろいろなタイプの詩のアンソロジーになっている。書店でぜひ、手に取ってごらんください。で、そのままご購入を。
これからお風呂に入って、骨からあたたまろう。お風呂場での読書は、ふたたび、マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』
台北に、ふんどしバーができたとかいう噂が FBで流れていた。体型的には、ふんどしは、短足・デブが似合うんだろうけれど、あんまり興味がない。というか、まったく興味がない。ただ、ふんどし姿で、バーでお酒を飲むことに快楽を覚えるひともいるのかと思うと、笑けてしまって、しょうがない。まあ、でも別の見方をすれば、言葉の組み合わせと配列に精を出して詩なんてものを書いてるぼくなんかのことを、へんだと思って笑うひともいるだろうしね。みんな、おあいこなんだなって思った。
8時からホルモン焼き屋さんで飲み会なのだけれど、FBで、天下一品のラーメンの画像が貼り付けてあったので、飲み会のまえに天下一品に行こうかな。
いま四条大宮のホルモン焼き屋さんから帰ってきた。行くまえに、西大路三条の天下一品で、ラーメン大を食べたのだけれど、ホルモン焼きもばかばか食べた。ホルモン焼きはひさしぶりだった。シンちゃんとおととし、いや、去年、大谷良太くんといっしょに食べたのが、さいごだったっけ。更新した。
わっしゃー、きょうは、これで寝る。寝るまえの読書は、エリンの『特別料理』のつづき。それにしても、オー・ヘンリーって作家は、よく食べられることの多い作家なのだと思った。エリンの「特別料理」でもだし、ジェラルド・カーシュの「壜の中の手記」でも食べられてることを示唆する描写に出合う。
二〇一八年二月二十日 「テンテンとスイカ頭」
そだ。飲んでる時に、いけちゃんから貴重な情報を入手したのだった。キョンシーに出てくる、テンテンとスイカ頭が実の兄妹だったってこと。知らなかった。
いま、日知庵→きみや→日知庵の梯子から帰ってきた。ジュンク堂には行かなかったから、中国SFのアンソロジーは買い損ねた。まあ、いいか、部屋には、ごっそり傑作が本棚に並んでいる。きょうも、エリンの短篇集『特別料理』のつづきを読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!
二〇一八年二月二十一日 「断章」
言葉とは何か?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)
順序を入れかえたり、語をとりかえたりできるので、たえず内容を変える
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)
新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)
二〇一八年二月二十二日 「夜の旅その他の旅」
きょうから寝るまえの読書は早川書房・異色作家短篇集・第12弾の、チャールズ・ボーモントの『夜の旅その他の旅』。これまた、ぼくはひとつも作品を記憶していない。ぼくの再読は、新品を買ったときの読書と同じだな。ボーモントの作品は、文春文庫の『ミステリーゾーン』シリーズでも読んでたはず。
ユリイカの5月号に作品を書かせていただくことになった。12年ぶりである。ユリイカは、ぼくが1991年に、ユリイカの新人に選ばれたところなので、とても懐かしい。ぜひおもしろい作品を書かせていただきたいと思う。この二日間で、3つばかりの原稿依頼がきている。美術手帖の効果かもしれない。
二〇一八年二月二十三日 「断章」
詩人のそばでは、詩がいたるところで湧き出てくる。
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第七章、青山隆夫訳)
今まで忘れていたことが思い出され、頭の中で次から次へと鎖の輪のようにつながっていく。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)
わたしの世界の何十という断片が結びつきはじめる。
(グレッグ・イーガン『貸金庫』山岸 真訳)
あらゆるものがくっきりと、鮮明に見えるのだ。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)
過去に見たときよりも、はっきりと
(シオドア・スタージョン『人間以上』第二章、矢野 徹訳)
なんという強い光!
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』昼夜入れ替えなしの興行、木村榮一訳)
さまざまな世界を同時に存在させることができる。
(イアン・ワトスン『知識のミルク』大森 望訳)
これは叫びだった。
(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)
急にそれらの言葉がまったく新しい意味を帯びた。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』34、大島 豊訳)
そのひと言でぼくの精神状態はもちろん、あたりの風景までが一変した。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』女戦死(アマゾネス)、木村榮一訳)
二〇一八年二月二十四日 「笠井嗣夫さん」
笠井嗣夫さんの作品について書くことになった。詩集『ローザ/帰還』(思潮社)、エッセイ『映画の歓び』(響文社)、エッセイ『声の在り処』(虚数情報資料室)。かつてぼくの詩を快く読んでくださった方の作品だから、きっと、ぼくの作品に近いところがあるんではないだろうか。読ませていただこう。
二〇一八年二月二十五日 「目も耳もいい詩人」
読み終わった。詩と云うものについて、大事なのは、目と耳だと思う。笠井さんの詩を読んで、笠井さんが目も耳もいい詩人であることがわかった。詳しいことは、感想文に書こう。
二〇一八年二月二十六日 「言葉狩り」
これから病院に。待ち時間が3時間以上あるので、笠井嗣夫さんの『声の在り処』を持って行こう。
詩の仕事を一つした。きょうは、あともう一つ。
もう終わった。ついでに、もうひとつくらい、先のほうの締め切りのもやっておこう。
ときどき言葉狩りをする。時間は夜がいい。できれば、大方のひとが眠っているときにするのがよい。ぼくは全身、目と耳になって、言葉を狩っていく。読書だけとは限らない。居酒屋でも、FBでも、ツイッターでも、どこからでも言葉を狩っていく。
狩った言葉を加工して詩を一つつくった。まったくジャンクなシロモノができた。タイトルは、「私はあなたの大きなおっぱいで終わりました。」だ。第一行目は、こうだ。「Who’s in your heart now?」こんな行もある。「漁師の妻はペニスが好きだった。霧が深くて、自分の家を見つけることもできない。」
ひさしぶりに、言葉でコラージュしていたら、楽しくて仕方ない。ほんとうのことを言おうか。ぼくは詩人などではない。言葉の加工職人なのだ。「旦那が壁にカラフルな色を塗ったので漁師の妻は失敗しなかった。しかし、その伝説は、実際には、中世のペストの話を加えたものであり、汚染された住民たちは白い色でコーティングをして感染していてもしていなくてもその地域には白い色が塗られている。」
頭を刈ったのでお風呂に入る。出たら、飲みに出ようかな。
二〇一八年二月二十七日 「きみの名前は?」
きょうは夕方から、先駆形の詩をつくっていたころの気分になって有頂天だった。まだ詩がつくれる。おもしろいほど、たくさんつくれる。才能って、涸れることがないんだって思った。寝るまえの読書は、チャールズ・ボーモントの『夜の旅その他の旅』のつづき。ミステリー・ゾーンみたいにおもしろい。
いままで詩句をいじくっていた。楽しかった。おやすみ、グッジョブ!
きみの名前は?
(チャールズ・ボーオント『引き金』191ページ、小笠原豊樹訳)
詩をひとつつくって、いま小休止。すこし休んだら、もうひとつつくろうと思う。勢いに乗らなくっちゃね。「みんな、きみのことが好きだった。」とか「マールボロ。」なんかの先駆形をつくってたころの勢いがある。
あれ、きょう火曜日だよね。日知庵に飲みに行こう。居酒屋で言葉を狩ってきます。
二〇一八年二月二十八日 「網野杏子さん」
きょう、網野杏子さんにお送りした作品は、6月に出るらしいです。初期のころからぼくの詩をずっとごらんくださってくれてる方で、ぼくの今回の作品は『NEXT』というタイトルのフリーペーパーにて紹介くださるそうです。「ぼくは、あなたの大きなおっぱいで終わりました。」というタイトルの詩です。
使い古した言葉で、こころのなかに、はじめて抱く感情を描いていく、というのが、ぼくの先駆形の詩の特徴だと思うのだが、きょう、網野杏子さんにお送りした作品のあとには、どんな感情が生起するのだろうか。網野さんにお送りした作品は、自分の頬がゆるむほどに、自分でもゲラゲラ笑った作品だった。
二〇一八年二月二十九日 「断章」
ただひとつの感情が彼を支配していた。
(マルロー『征服者』第I部、渡辺一民訳)
感情が絶頂に達するとき、人は無意識状態に近くなる。……なにを意識しなくなるのだ? それはもちろん自分以外のすべてをだ。自分自身をではない。
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』20、鈴木 晶訳)
二〇一八年二月三十日 「断章」
今ではわたしも、他人のこころを犠牲にして得たこころの願望がいかなるものか、
(ゼナ・ヘンダースン『なんでも箱』深町眞理子訳)
それを知っている
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)
私という病気にかかっていることがようやくわかった。
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友人へ』8、佐宗鈴夫訳)
二〇一八年二月三十一日 「断章」
私というのは、空虚な場所、
(ジンメル『日々の断想』66、清水幾太郎訳)
世界という世界が豊饒な虚空の中に形作られるのだ。
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)
・『在りし日の歌』 ― 各論
・・・・・・・・・・(五)月
・この詩の制作年次は未詳である。昭和八年五月、中也は牧野信一・坂口安吾の紹介で「紀元」の同人となった。「紀元」昭和九年一月号に、この詩「月」は発表された。
・・・太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
・・・次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
・・・・・・・・・・・・・・(「雪」『測量船』より)
・『測量船』が世に現れたのは、昭和五年十二月であった。この頃、三好達治は小林秀雄と共にボードレール『悪の華』を翻訳していた時期でもあった。
・・・灌木がその個性を砥いでゐる(「月」四行目)
・・・姉妹は眠つた、母親は紅殻色の格子を諦めた!(「月」五行目)
・泥塑人を掘り出すような描写に、泥塑人は頷かない。<灌木がその個性を砥いでゐる>のだ。この殆ど描写の転回のみで成り立っている詩は、実は三好達治へのアイロニーではなかったのか、私にはそう思える。
・中也の未刊詩篇〜ノート翻訳詞の中に、(蛙聲が、どんなに鳴かうと)という一篇がある。そこには、灌木の個性さえも否定して、もっと<営々としたいとなみ>を模索する中也の姿がある。この詩の第一節を挙げておこう。
・・・蛙聲が、どんなに鳴かうと
・・・月が、どんなに空の遊泳術に秀でてゐようと
・・・僕はそれらを忘れたいものと思ってゐる
・・・もっと営々と、営々といとなみたいいとなみが、
・・・もっとどこかにあるといふやうな氣がしてゐる。
・(蛙聲が、どんなに鳴かうと)の制作年次は昭和八年五月〜八月と推定されている。ノート翻訳詩とされているが、誰の詩の翻訳か定かでない。私が思うに、ノートに書かれたこの翻訳詩は、実は中也のものではないか。詩の成立の時系列にこだわり過ぎると訳が分からなくなる。詩は処女作が後々の詩を越えて行くこともあり得るのだ。
・・・砂浜や山々を越えたむこうに、仕事の新生を、瑞々しい叡智を、独裁者達と悪魔どもの退城を、迷信の幕切を祝う為、地上の『降誕祭』
・・を称える為、いの一番に駆け付ける人々として!―― 何時の日、俺達は行くのか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(『地獄の一季』の中の詩「朝」より−アンダンテ訳−)
・
・・・Quand irons-nous,par dela les monts,saluer la naissance du travail nouveau,la sagesse nouvelle,la fuite des tyrans et des
・・demone s,la fin de la superstition,adorer―les premiers!―Noel sur la terre!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(Matin;Une Saison en Enfer)
・そのいとなみは、ラムボオが覗いた空の奥の、又その奥の遐い遐い処にあって、蛙聲が水面に走って暗雲に迫る転調の時を、中也は俟つしかなかった。
・**********
*註解
・紅殻色:べんがらいろ
・遐い遐い:とお〜ぃとお〜ぃ
・俟つ:まつ
・・・・・・・・・・・(六)青い瞳
・・・「六月四日(土曜)
・・岩野泡鳴 三富朽葉 高橋新吉 佐藤春夫 宮沢賢治」
・昭和二年の中也の日記の一節。三富朽葉については、福士幸次郎から富永太郎を経由して中也のもとに伝わり、線条の空となって中也の心に沁みいった事だろう。
・・・輝き出る星の表を
・・・赤い、赤い太陽が渡って行く。
・・・街の上の隅々に
・・・匂いと彩の巣食ひ初める
・・・黄昏
・・・黄色い灯火の冴えて、
・・・暗い影絵の揺れる時、
・・・徂き戻る、紅い幻
・・・しなやかな腕に囚われて
・・・銀の線条を織る夜。
・・・光を夢みて、其処此処に
・・・蹲るやうな
・・・泣き叫ぶやうな夜、
・・・物狂はしく打たれて
・・・穴へ誘うはれる歓楽……
・・・・・・・・・・『焔の絵』(「赤い舞踏」より)― 三富朽葉 ―
・<私はいま此處にゐる、黄色い灯影に。(「青い瞳」1夏の朝)>。この句に見られる<黄色い灯影>は、明らかに朽葉の<黄色い灯火の冴えて、/暗い影絵の揺れる時、/徂き戻る、紅い幻>を踏まえている。しかし、朽葉と中也とでは決定的な違いがあった。それは、象徴を目的とする者と象徴を手段とする者との違い。空間を同じく象徴的に暗示するにしても、その空間に対する構え方が違っているのだ。
・朽葉の暗示した徴は、朽葉の感性の反応である意識のゆらぎであり、それが紅い幻という象となって空間の其処此処を<徂き戻る>。空間は無限即ち分割され得ない個体性という前提のもとにあり、朽葉の感性即ち個性は、縦んば幻という象であれ、保存されたものとしてある。象徴が目的となる由縁だ。
・中也の<青い瞳>は、「臨終」の<〓馬の瞳のひかり>と同様に空のうちがわ空の奥の消滅の信号として、象徴的に有限な空間を暗示している。空間が消滅することによって物の関係性が保存されない空のうちがわにあって、<黄色い灯影>は、中也という感性即ち個性が剥がされた他者として徴され、虚無の隙間に溶けていくものの客観的な象として暗示されている。無論、この象は自然主義者達が唱える客観的描写によるものではない。空のうちがわ空の奥には、客観的描写という目的に耐える物はないのだ。物の個体性が保存されない空間にあっては、「あれ」とか「これ」とか言う自己同一性はない。<私はいま此處にゐる、黄色い灯影に。(「青い瞳」1夏の朝)>。中也が空のうちがわで此處と暗示する時、「ここ」とは虚無の隙間であるしかない。
・・・Elle est retrouvee.
・・・Quoi?-L’Eternite.
・・・C’ st la mer allee
・・・Avec le soleil.
・・・・・・・ (L’Eternite-A.Rimbaud-)
・中也は、ラムボオの「永遠」の最初の節を次の様に訳している。
・・・また見付かつた。
・・・何がだ? 永遠。
・・・去ってしまつた海のことさあ
・・・太陽もろとも去つてしまった。
・おおむね小林秀雄訳に頼った訳なのだが、この第一節については、大抵の訳者が永遠繰り返す日没を念頭に置いた訳し方をする中、中也の独自性見られる。そして、そのことが、何も中也自身に引き付けすぎた訳でないことは、第五節の前二句
・・・La pas d’esperance,
・・・Nul orietur
・・・・・・・(L’Eternite-A.Rimbaud-)
・・・絶望の闇がつづくのだ、
・・・陽はもう昇るまい。
・・・・・・・(「永遠」より−アンダンテ訳−)
・そして、ラムボオ『言葉の錬金術』で次の様に言って「永遠」引用していることからしても明らかである。
・・・Enfin,δ bonheur, δ raison,j’ecartai du ciel lazur,qui est du noir,et je vecus,etincelle d’or de la humiere nature.
・・・・・・・・・(Une Saison en Enfer;Delires II)
・・・到頭やった、おお何たる幸せ、おお何たる智力、俺は暗闇に貼り付く、蒼空を引っ外してやった、そして俺はいた、素の炎が金色に煮
・・え滾る最中に。
・・・・・・・・・(「錯乱」II 言葉の錬金術より『地獄の一季』−アンダンテ訳−)
・火花に辷り込んで歩哨に立つ魂は、中也の<黄色い灯影>と透かし重なる。
・**********
*註解
・三富朽葉(みとみきゅうよう):明治二十二年八月十四日、長崎県にて生まれる。大正六年八月二日午後、銚子君が浜にて遊泳中、溺死する。
・「赤い舞踏」:明治四十三年三月、『自然と印象』第十集に、「赤い舞踏」の総題のもとに発表された四篇の中の一つ。他の三篇は「経験」「黒掴」「午後の発熱」。
『自然と印象』は、明治四十二年五月、人見東明・加藤介春・福田夕咲・今井白楊・三富朽葉の五人によって結社された「自由詩社」から発行されたパンフレットである。後に、福士黄色雨(幸次郎)・山村暮鳥・佐藤楚白、斉藤青羽の四人が加わった。明治四十三年六月十五日、第十一集をもって終刊となった。
・徴:しるし
・徂き戻る:ゆきもどる
・縦んば:よしんば
・去って:いって
・最中に:さなかに
・
・・・・・・・・・・・(七)三歳の記憶
・未来が希望もなく記憶もない過去だったとしたら、私たちが回想する過去とは、一体何なのか。「三歳の記憶」が<隣家は空に 舞ひ去ってゐた!>で終止していた事に、私は繰り合わせの効かないジレンマに陥った。
・時は泡影のごとく、空蝉は皆てこねて在った。<知れざる炎、空にゆき!>。私は、中也の人知れず在る孤独な魂に胸を打たれた。
・・・……私の世界は
・・・そこに住みつくためにあるのではない
・・・そこから出ていくためにあるだけなのだ
・・・おおこれら
・・・「詩作の陳腐な古物」たち
・・・構えは要らない
・・・言葉をねじ伏せて進むつもりなら
・・・言葉が私をみちびくだろう
・・・・・・・(『場面』の中の「夜の樹間」より ―渋沢孝輔―)
・この渋沢孝輔の最初の詩集のエピローグにある数行を、中也は<ああ>の二音で導く。表意する者は、先ず、我慢の祭の火中に身を曝し、その炎を被かねばならぬ。この数行の表意は、言葉で行為されてはならぬのだ。
・・・掾側に陽があたつてて、
・・・樹肥が五彩に眠る時、
・・・柿の木いっぽんある中庭は、
・・・土は枇杷いろ 蠅が唸く。
・・・・・・・(「三歳の記憶」)
・今にも臠殺されてゆく空の兆しを暗示するかのように、この一節は置かれてある。そして、私にはこの一節がラムボウの次の一節を喚起するものに思えてならない。
・・・Puisque de vous seules,
・・・Braises de satin,
・・・Le Devoir s’exhale
・・・Sans qu’on dise:enfin
・・・・・・・ (L’Eternite-A.Rimbaud-)
・・・お前たちしかいない、
・・・サテンの燠火よ、
・・・燃えながら瞳を凝らして
・・・ただ黙々と…衰え果つ。
・・・・・・・(「永遠」より−アンダンテ訳−)
・中也は、昭和十二年十月刊行『ランボオ詩集』(野田書房)の八月二十一日附の「後記」で、次の様に述べている。
・・・繻子の色した深紅の燠よ、
・・・それそのおまへと燃えてゐれあ
・・・義務はすむといふものだ
・・・つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲
・・劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。
・枇杷いろに発熱した土、その上を蠅が揺蕩う。―― 油一滴、屁もひらず ――そんな呪文を唸らせ蠅は、虚空の闇へ誘われ発つのか。
・・・あゝあ、ほんとに怖かつた
・・・なんだか不思議に怖かつた。
・・・それでわたしはひとしきり
・・・ひと泣き泣いて やつたんだ。
・・・あゝ、怖かつた怖かつた
・・・――部屋の中は ひつそりしてゐて、
・・・隣家は空に 舞ひ去つてゐた!
・・・隣家は空に 舞ひ去つてゐた!
・彎はれた瞳は動いた。1934年の日記には、こうある。
・・・「僕は泣きながら忍耐する。そして僕の求めてゐるのは、感性の甚だしい開花だ。」
・それは、葉が悉く散って狂い咲きするように、不気味な、それでいて自然な開花であるに違いない。
**********
*註解
・知れざる炎、空にゆき!:『山羊の歌』の中の詩「悲しき朝」にある詩句。
・隣家:となり
・被かねば:かずかねば
・樹肥:き やに
・中庭:に わ
・唸く:なく
・臠殺;れんさつ
・義務:つとめ
・彎はれ:ひきまかなはれ
・・・・・・・・・・・(八)六月の雨
・虚無からの目差しが、尚以て抒情であった。そうとしか言い様のない、極めて中也的抒情がここにはある。「近頃最も感心した佳品」(昭和十一年七月『燈火言』「四季」)と、この詩を三好達治は評価している。それにしても、三好達治の謂ば正調とも言うべき抒情詩『少年』と転がして見ると、その瞳の光差は大きくずれていた。ふたりの目差しの出立つ所が違っていたのだ。
・・・・・・・少年
・・・夕ぐれ
・・・とある精舎の門から
・・・美しい少年が帰ってくる
・・・暮れやすい一日は
・・・てまりをなげ
・・・空高くてまりをなげ
・・・なほも遊びながら帰ってくる
・・・閑静な街の
・・・人も樹も色をしづめて
・・・空は夢のやうに流れてゐる
・・・・・・・(三好達治『蟹工船』より)
・・・またひとしきり 午前の雨が
・・・菖蒲のいろの みどりいろ
・・・眼うるめる 面長き女
・・・たちあらはれて 消えゆてゆく
・・・たちあらはれて 消えゆけば
・・・うれひに沈み しとしとと
・・・畠の上に 落ちてゐる
・・・はてしもしれず 落ちてゐる
・・・・・・・・・・お太鼓叩いて 笛吹いて
・・・・・・・・・・あどけない子が 日曜日
・・・・・・・・・・畳の上で 遊びます
・・・・・・・・・・お太鼓叩いて 笛吹いて
・・・・・・・・・・遊んでゐれば 雨が降る
・・・・・・・・・・櫺子の外に 雨が降る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・(「六月の雨」)
・中也はラムボオの十四行詩『母音』を、昭和四年頃訳していた。そして、その最終節の部分を、何の躊躇もなく、中也は次の様に訳す。
・・・O、至上な喇叭の異様にも突裂く叫び、
・・・人の世と天使の世界を貫く沈黙。
・・・――その目紫の光を放つ、物の終末!
・・・・・・・・・・(『母音』−中原中也訳―)
・・・O,supreme Clairon plein des strideurs estranges,
・・・Silences traverses des Mondes et des Anges:
・・・--O l’Omega,rayon violet de Ses Yeux!
・・・・・・・・・・(Voyelles -A.Rimbaud-)
・・・オー、恐ろしくも甲高く鳴り満つ 至上の喇叭よ、
・・・天空と 天使たちを突き抜ける 沈黙よ。
・・・― おお オメガ、終末の双眸より来る 紫の光、あり!
・・・・・・・・・・(『母音』−アンダンテ訳―)
・六月の雨の<みどりいろ>は、このオメガからの目差しなくして誕生し得なかった色象ではなかったか。
**********
*註解
・眼:まなこ
・面長き女:面長きひと
・畠:はたけ
・櫺子:れんじ
・・・・・・・・・・・(九)雨の日
・・・雨の中にはとほく聞け、
・・・やさしいやさしい唇を。
・・・・・・・・・・(「雨の日」
・ちぎれたひとひらの中に宇宙波濡れ通って在る。例えば、次の二人の詩人の七行詩を約めて、この二行に中也の抒情はある。そして、我が一条氏の詩に繋がっていく。
・・・種子の魔術のための幼年
・・・ひとつの爆発をゆめみるために幼年のひたいに崇高な薔薇いろの果実をえがく
・・・パイプの突起で急に寂しがる影をもたぬ雀を注意ぶかく見まもる
・・・井戸のような瞳孔の頭の幼い葡萄樹はついに悦ぶ
・・・金魚は死を拒絶した
・・・雨のふる太陽
・・・かれの頚環の晴天
・・・・・・・(「аmphibiа 」― 瀧口修造 ―)
・・・南風は柔い女神をもたらした。
・・・青銅をぬらした、噴水をぬらした、
・・・ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
・・・潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
・・・静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
・・・この静かな柔い女神の行列が
・・・私の舌をぬらした。
・・・・・・・(「風」―西脇順三郎―)
・・・完全球体の炸裂する
・・・朝宵に
・・・丈高の夏草がしだれる雨樋を
・・・流転する魂の模型は
・・・悪質な仮構に断続的に注がれ
・・・そこに佇む書割の
・・・祠に
・・・群生する蝉の仄かな喚きが
・・・人の狂いと交響する
・・・故に私は
・・・彼らの羽ばたきを借り
・・・日曜の死さえも祝祭しながら
・・・瞬目の中で
・・・虚無の螺旋を窒息する
・・・・・・・(「安息」― 一条 ―
**********
*註解
・約めて:つづめて
・「аmphibiа」:瀧口修造(1979年 76歳没)『瀧口修造の詩的実験1927〜1937』の中の七行詩
・「風」:西脇順三郎(1982 88歳没)「Ambarvalia」の中の七行詩
核
身勝手な流れと、火の櫓
(転調された、語彙の亀裂)
配列の構造と、黄色い花柄
(摩天楼を見下ろした汗の雲)
それらを
秤の上で、画角が覗き込む。
(放置される犬の、目は三つ)
縁取りの中で
擦り合わされて発火した炭素の
心臓の浮遊物が
とても小さな球体の中で
歪みの無い不協和音を鳴らしている。
城郭を具えたスパークは
全身の皮膚と骨の間で、筋肉の密を
破壊している。
倒置されている洞窟の音声を日々聞いていた
右肩から、純潔な、細胞膜が侵されていく
欄干の上に雨が降っていて
弟が足を使って走っている
ただ眺めているだけだった蓮の花が
俯きがちに、雲を見る。
宛名が、宛名があって、移る香りがある
赤く熟れている
ドングリの形をした木の実の一つが
朝食のパンの上で
産婦人科のベッドの上で
破裂寸前になっている。
自明であることは、ただそれだけである。
偶然であることは、ただそれだけである。
捕獲された蜂の巣の中に、
甘い香りが、味が、身勝手に棲みつく。
粗い砂粒は、靴の中で丸くなり
裂傷の無作為に蓋をする。
明るい惑星の日記が
凝結の海に、忘れられる。
崩壊が、整理された、時が来る。
天気雨、俄か雨
セカイについて
教えて貰えなかった
コドモタチは
泣きながら
死んでく
ある子はノロイを吐いて
ある子はメを血走らせて
ある子は笑ってた
私は彼らを弔おうとは思わない
弔うという行為の中に孕まれた卑しさが
まだ酸っぱ くて?
或いは
肉塊としての
私の中の
魂のヨゴレを
理解していて
彼らに触れてしまっては
イケナイと思うから?
判らない
彼と私に
同時に刃を突き刺す
さよならの代わりに
愛しくて
ナミダが出る
クウソウの
おハナシ
ズット
こうしたかった
2度と離れないで
セカイを契って
良く噛んで
食べていく
オハナで
イッパイにしよう
体中に
オハナを咲かせよう?
全部枯れるまで
全部干からびるまで
もう判るから
スコシ、判るから
手についた
君の血をナめる
とても
美味しい
大切だ
もう判るから
スコシ、判るから
ばいばい
踊れ
あかるみ
日差しのなかで時間が解けてゆくね 桜が咲くと雨が降り風が吹く 日々を哲学しようなんて考えていないさ ただ、誰かの夢の中で僕が生きているのなら 眠りの持ち主に届けてみたい ほろ苦い恋の言葉 酔うために綴った詩 さようならを繰り返す君へ 手作りのおはようを 青空に抱きしめられて蝶が舞っている 自由を押しつけるつもりはないんだ 懐に広がる野原で君は花を摘み冠を編み、妖木の枝にかぶせると 王はひとりでに生まれてくる 僕の手に触れる逃げ水もなく 君は意味のお妃さまになる 白く霞むドレスのなか 光に透けた細い足首のことを 山の麓では春と呼んでいるんだよ
まほろば
エメラルドの濃霧が煙る雨裂には午後の澄水が流れ込み硬金属層の残丘が墓石状に点在する渓谷となって久しい、母なる言語から翻訳された花緑青の谷底では嫌気性のアノマカロリスとハルキゲニアが嶼ほどの体長をうねらせ獲物をさがしていた。黄金の季節。真葉の日の下午。主語の存在しない空からは王水が降り注ぎ、溶解する白金に彼らにとっての甘露は穢されていく。メガネウラの成体内で生成された柔らかな石が汚れた王水と混ざり合い、体液に塗れたまま総排泄肛から外気へ触れて結晶し、花緑青となる。雨溜に副い軸生する胞子曩群が値遇(ちぐう)雨季と乾季のわくらばに地表から芽ぐむ、その代謝が僅かの水と酸素と束の間の安息を楽園へと還元していく、触媒になる。対の季節の循環を一定の周期に遡上する羊背のノマドたちのその真名は、やがて父なる言語に翻訳されたかどにより永遠の喪失に冒される。最後の一滴がいつまでも疎らに降り頻っていた。刺激に促された目覚めに、その歓びを伸展させる幾筋もの胞子曩群は雨裂を模して溯(さ)き、墓守のための詩碑のように島嶼する残丘を管理していた、色の世界に沈座して、つとに胞子を放出させている。エメラルドの濃霧に濡れそぼつ花緑青の谷底では、アノマカロリスとハルキゲニアの幼体が菫外色の日差しの放射に打ち震え、熱を色だと感知するその複眼で獲物を、メガネウラの幼生の神経節を捉咥(そくし)して、交互に引き摺り、息絶えるその時まで、遊ぶように奪い合っていた。
Eve
僕は貴女のことは知らない
でも
同じ子宮を持って産まれたことは知ってる
その鉄塔を含む景色も
麦の焼ける匂いも
何月何日の夕方に雨が降った
そんな瑣末な記憶すらも
風を伝って受け継いでいる
何処にいたって剥がれ落ちる組織
その生命活動として比喩する間すら
顕現したばかりの余所者の概念が嘲笑って
僕と貴女とそれに連なる幾多の記憶を上塗りしてゆく
「聞こえる?
「星の胎内までは私が案内するわ、
君が望んでくれさえすれば、
貴女のことは知らない
同じ子宮を持って産まれた
その事実だけで
世界を肯定する理由は流れて止まない
Chocolate
黒い写真は我々に何を語ってくれるだろうか?
干からびた噴水の中を走る純粋さは追い出されてしまった
岩にも柔らかな弱点があり指で触ると硬くなっていく
裸になった精神のページにはいかなる言葉も書かれていなかった
冷蔵庫の中でよく冷やした孤独が静かに腐り始めるとき
蛇口から滴り落ちた一粒の焔さえひび割れて流血する
傷つけぬようにガラスの花束を優しく撫でまわした
雨に濡れた傘が身震いをしながら水滴を飛ばす
魅力を失うだけなのに薔薇の棘は削ぎ落とされてしまった
時計を切り裂くとその傷口から時間が溢れて零れ落ちるように
耳の奥へ迷い込んだ銃声を引っ張り出してやろう
冷たい風の尻尾をつまみ上げて空の向こうに逃がしてやろう
剥き出しの心臓が自分の身を切り開きながら羽を広げる
蜘蛛の巣の上では震える感情がこんがらがっている
手の写真を入れたポケットの中で手を温めていた
(無題)
卵の殻にピストルで少年の吐息を注入すれば
溢れだす古代のココナッツオイルが蒸発する
淡い練炭に腰掛ける老体にかしこまるあぜ道
テレビの画面越しに爪を切られる陽光の東側
腐ったコッペパンはとある教室の机の奥深く
仏像の頭にキャラクターシールを張り付ける
犯人は未だ捕まっておらず現在も捜索中です
焼きたての牛蒡の香りに釣られる猫と烏と鈴
花粉症が経済革命を起こす時代がいつか来る
きっとね。草原。
邪道幸福論(Theoria)
存在がだぶついてるから
気にくわないね
いけ好かないね
湯水のように魔力を滔々と放つその所作が
奏でる音色は
無条件の夢を前提とした
見るも無残な毒の沼
(冗談じゃない私は帰る、
不運は受け付けないから
気にくわないね
いけ好かないね
貴様らの祈りに付き合わされるくらいなら
なんて、どうしても逃げられない
湖の淵で誰も気に留めない
涸れた生命をさがす
(矛盾に引っ立てられる、
(蛇の道は蛇、
(求める素振りさえ、貴女は、
騒々しさの裏で溢れる時の奈落
(必要ないなら遠慮なく回れ右してね。
見捨てられた、要らない答えを集めて、不特定多数の敵になる
ラーニングしたことの全て
予定調和
――モナドは鏡である
[消えた華]
1−1
老いた貌があった
楕円の
化粧机に
曇り、鏡は私を憎むだろう
母を憎しめる且て 遠雷の日々の様に
蒼白く褪めた
窓が降り頻る
夜からひきはなたれた昼の底へ
垂線を画きながら
決して交わらぬ父母の様に
写真館、の微笑が
凍て附く微笑が
黒く塗られ
絶対の抽象になるまで
私は手紙を書きつづけなければならない、だから
室内楽ばかりを耽り聞きいしが割れたる皺の絹をしらざりき
千枚の便箋、切手、肉筆を焚く 軽やかにも蝶蝶は蝶蝶の如く跳び
血縁よりいとけなき頃吾を捨てし罐切の飽く迄もタングステン加工刃
世界のごと麗しきを航空戦略爆撃機と呼ぶ いま汝が片靴はいづこ
容赦無き死はもろともに 誓約書散る書斎を樂譜《スコア》は
翰墨も血も乳も絶えなば肺腑以て書かむ 誰知るともきさまは吾が敵
//
モナドに窓は無い――、
[ユダヤ狩り]
2−×
私を愛して 一輪の切株
夢に眠らせて 地下納骨堂
甘く囁いて 榴弾砲の錆朽斑
私を抱留めて 塩の骨壺
最期の喉を縊られながら、私は微笑みましょう
鉄砲百合の一撃を録音して
悪臭の地下壕から
走れ今よ 燃え崩れる城よ
それが死病への口火
それこそが壌色の硫黄島へ到り、
忘れ得ぬ花束は自ずから装置となる筈、
葛藤の旧き悪しき日々よ さらば
日がな便りを懇願し
老いさらばえた朽扉から
一過性脳虚血その絶え絶えと見る敷居をぬけて
変声期の穢濁にも似た
鬱蒼樹林に圧し掛かる天使長の涙、庖丁よ
抒情の距離を跨ぐ家父
迷妄
総ては井戸に放られた地球と呼ばれる石塊の、水晶の序夜なればこそ花序にさえ伝染を来す、
シリアの双子イスラエルよ
焦土は戦争記録写真に罅割れ、
嵌め込まれていた
※以下、保管庫の焼失に拠り、記載なし。
淵
空っぽの器に、引力がある
塀の外側に流れている川
流されるままの視線は遥か上空の
スピカを捉えている
絡繰りが睡眠を作り替える様を見つめながら
水溶液という怠惰を受け入れながら
ささくれた時計の針を、慈しむ
真っ白の紙に、引力がある
今日、鉛筆の芯が砕けた。
サラサラと零れて、どことなく消えた。
筆箱の中身を確認する前に授業が終わって
苛立ちの募った単語帳の端から
二時間前に見た、粗い放物線を思い出す。
カラカラと笑っている。
強情な問題が、いつの間にか、消えた。
たった一本の釘があれば
たった一筋の葉脈があれば
条件の無い地面を見つめながら
喉の奥で融解する
真珠にも似た、誘惑を
裏返った骨の上に、塗りたくってしまえるのです。
仄暗い自室を抱え
仄暗い自愛を抱え
点対称な、前を探す
拍動は、血液を見つめ、忘れられる。
論証の、崩落が、始まった。
口ほどに蝶
角膜の剥がれるように羽化の滴が伝う
硝子戸に透けた翅として冷たく瞬き
唇ほどに物を言うモノクロ。
●蝶/
/○蝶
気の狂れた四月の仄あかい月
交尾のように緩慢な時流のとろみに
沈黙の背中が裂けている。
(((未声、が
ーーPantomimeーー
未成、のままに)))
柔らかくされた幼年期が臼歯で潰れた
匂いが酒精へと転写されてゆく、なんて
花のように残酷な時間から醒めて、
もう、行方知れずのアサギマダラだ。
あるいは薬のように
朝、
ぼくの生まれる遙か前から
ニコチンで黄ばんでいた歯と、
唇の境目が見えないほど
練り歯みがきにまみれた口の
あなたが笑っていた頃、
窓から日曜の薄い光が指していた
それは短い映画みたいで
映画が何度目かの終わりを迎え
歯みがきを帳消しにするように
あなたが玄関先で
マイルドセブンを吸っていた頃、
2人が戸外で
野焼き混じりの煙と
やっぱり食べ物みたいな
夕陽を浴びていた頃、
いつの間にか
ぼくは気管支アレルギーの治療しましょう、
とか言われて、
きみはきっと違う星からやって来た宇宙人なんだ
とも言われて、
たぶんそのせいで大抵
運動や、その他も
ブービー賞を獲っていたのに、
パパ、とか
ママ、とか
いう名前の人とは違って
そんなぼくのことを
隣で2本目に火を付けながら
気にしないでいてくれたのが
うれしくて うれしくて
ぼくはまだ治らないから
ニュースにならない彗星はあるんだよ
夜空に現れるつめたい
食べ物の幻影みたいなあなたを見ていると
いくらでも巻き戻せる気がしている
彫刻刀
中空を対角に走り教師の
背後のロッカーに激突し木の床
を一度弾いた
髄液にまみれ眼底を跳ね
三半規管を滑落し咽喉を裂き
鼓膜を穿ち皮膚の内を奔流する
ふたつの黒い眼の開く
厚い手が垂れたちつくした
頬の片側に紅が燻った
赤い水
海を
どこまでも
拒絶
する
悟り
淀みなく心をあらい
佇めばよし
干からびた残像をうつす
鏡とならん
されど
光の子よ
悔やんではならぬが
後悔はせよ
望みは聞き遂げる
嵐の様な潜在能力とは
鏡のようで
色を付けた光の粉
この世の果てに儚き花一つ
宿さん
尊き子よ
何故省みた
それで言い訳ではない
驕るは哀しき事なりて
弊害も生まれる
空に大地に割れた三面鏡
映したまえ
心の光よ
我はただただ悲しい存在なりて
復活を繰り返す
ただの人間なり
心を写すその刃
割れては裂け
清く哀しく咲き誇る
穏便なる子よ
輝きたまえ
力尽きぬ程度に
言葉に汚れて
笑えない世界に何も見出せなくなって。笑えるものなんて自分だけで充分だって思って。瞳を閉じてから。嘘の塊でできている。自分を見つめる。何処に居ても与えるだけの存在として貼り付けられる。誰もが甘えてくる。誰にも甘えられない。なにかができる人にはどうしていつも同じ結果が来るの?
情景には誰も存在させたくないわけではなく。誰も存在できない。透明な人を思い浮かべてはみじんも残らないと分かっている。
私は六年以上人を辞めている。
残酷な人しかこの地球には必要ないみたい。だから私は地球外生命体。いいえ。望んで生きている私は誰よりも残酷。
繰り返し聞き返されて私の言葉が崩壊しているのかと、様々な人に聞いてみると、賛成も反対も無視も嫉妬もあって人間と係るのはどうしてもめんどくさい。現代人は日本土でどうやら破壊活動が国民の義務らしく。どこも人が足らない現状で何をしようにも。お金以上に必要な事を放って。人間死んでしまえ活動を絶賛行動している、させている人々。結局はそのさせている人も死ぬ。弱肉強食。年老いた頃に若者に殺されてしまう。国を支えた人々。
あなたの目には私が冷たく見えたらしい。申し訳ないけど、私馬鹿だから。ちゃんと言葉にしてもらわないとわかんない。私は理解力もないから、あなたのこと一つも理解できない。だってあなたにとってこの世界は信じられる美しいモノとして存在するみたい。美しさの代償も言葉にできない。あなたなのに。私に何か言えるほどあなたは言葉に汚れていない。
コロナウィルス
みんなで感染すればいい
みんなが感染しちまえば
治った人を励まそー
コロナー
コロナー
感染しても怖くね
ヒトリボッチにゃさせないぜ
俺がお前を守ってやるぜー
コロナー
コロナー
心と体を大切に
お年寄りも若者も
愛し合おうぜー
わー
今やマスクは〜
コロナよりも
視線から
俺を守るぜ
だけども
それは何を
守っているのか
わかんないぜ
でもきっと〜
俺の中にある
汚い気持ちを
マスクは〜
俺の体に
閉じ込めているのさ〜
吐き出したいぜ
ほんとの思い
吐き出したいぜ
綺麗サッパリ
コロナー
わー
マスクしないと
逮捕されるぜ
国会議員は
アベノマスクつけろ
けつの穴みたいに
ちっこいマスクつけろ
おかしいだろ
なんでアベノマスクつけないの
国会議員は全員
アベノマスクつけやがれ
アベノマスク
サイズがあってねぇ
アベノマスク
放射能漏れ
アベノマスク
WHOも推奨しない
アベノマスク
おまんこ野郎
わー
マスク2枚で
コロナより重い
病気にかかっちまった
マスク2枚で
年寄りは守れねぇ
コロナ吸って見つかったら
逮捕されちゃう
だからみんな
隠れて咳してるんだぜー
息苦しい
息苦しい
息苦しいぜ
息苦しいぜ
生き辛いぜ
コロナー
コロナー
たった2枚で夜も眠れずー
わー
水槽の底で
水槽の牝牛は息を吹き返すのを待ち望み、
小判鮫は牝牛が一分一秒でもはやくこと切れるのを
牝牛の皮膚のすぐそばで、待ち望む。
何遍も、何遍も、
恒星の如く、周回している。
「お姉ちゃん、あのお牛のまわりにくっついているお魚、どうしたの、あんなにあんなにたくさんくっついていたら、お牛さん、ゆっくり眠れないよ」
水槽を取り囲む観衆は、
ざわっ、ざわっ、と
(まるで腫物にでも触れるように)
(娘の品性を凌辱する継母のように)
目を背ける。
お姉さんと呼ばれた女は、一匹の牝牛だった頃の話を
ゆっくりと、
海底にちゃぽちゃぽと沈殿した記憶の砂利を掬うように、
ゆっくりと、
ゆっくりと、引き摺り上げる。
「そうね、この町が楽園だった頃には考えられなかったでしょうね、この町が楽園だった頃には、でもね、覚えておきなさい、お姉さんも、お姉さんのお母さんも、お姉さんのお母さんのお姉さんも、そのまたお母さんも、みんなみんな、あの牝牛のように
……………………………………………………
目を覚ますのに、必死なのよ」
牝牛は手足をじたばたと
痙攣させている。
(観衆は)
(熱い吐息を吐いて)
(牝牛の目覚めを、静観する)
「だからあなたも、いつかきっと思い出すわよ、瞼をとじた時に、ほら、ご覧なさい」
とんとん、肩をさすられた娘は、
水槽の中で、
陽光を待ち侘びる牝牛の姿を、すっと
見つめる。
「そっか、お牛さん、眠りたくないんだね、そっか、そっか、はやく起きていたいのね、あっ」
痙攣する指先に、小判鮫の鈍い歯が、
すらすら
すらすら、と
食い込んで、
「ああ、また、駄目だったのね」
「あの牝牛は私の娘だったのよ」
観衆は、どっと深いため息を吐いて、
(どうやらすっごく冷たかったらしいと)
(後日、娘が聞かせてくれた)
牝牛は骨の髄までしゃぶられて、数粒の砂利となって、小判鮫は、水槽の奥へ、散った。
(そうして空になった水槽に、)
(今度は一匹の牡牛が、投擲された)
「あなた、運が良かったのよ」
牡牛の入った水槽を前にして、お姉さんと呼ばれた女が、娘の髪を丁寧にさすっている。
水槽に映った娘は、気持ちが良さそうに、
屈託もなく、わらっていたらしい。
(無題)
音楽室いっぱいの炭酸水の波を全身で受け入れて
散弾するピーマンの豆たちが発芽する時をずっと待っている
括弧に収めこまれた幽霊船は船首像のソーセージが愛らしい
穴のないドーナッツをサイの角に投げつける
目がアメジストでできたウナギたちが声を揃えて言う
ごみ箱を被ったまま夜を迎えろと
詩ば書きたい
豊中ってあるったいね
そこにね
満洲ば引き揚げとった
うちのじいちゃんばあちゃんが
住んどったっちゃん
おれね
単身赴任生活ば
大阪でしとったっちゃけどね
うん
そうたい
2年前の話ばい
でね
阪急電車に乗っとってね
豊中駅ばなんどもなんども
通過しとったとにね
忘れとったとお
ところがね
思い出したったい
なんでかいなっておもうっちゃけど
ほらクサ
今クサ
中国ばい
中国の武漢があれの始まりやっちゃんね
それで思い出したったい
話変わるっちゃけどね
満洲って
どうおもおお
あれってね
日本人が
かっこつけすぎ
たっちゃないかいなね
あ
ごめん
言い方まちがったばい
ツヤばつけすぎとったちゃんね
わかるっちゃろお
そうばい
日本人はクサ
ツヤつけすぎん時
だいたいクサ
なんか隠しとうけんねえ
きさあん
なあん
詩ば書きようとおお
なんねその
標準語
なんか隠しとっちゃろお
え
なあんね
はああああ
詩ば朗読するとおお
ウソクサかああ
モテたいっちゃろおお
なあんね
よか人に思われたいとね
クサかああ
偽善ばい
偽善クサ
きさあん
博多弁でやりいよお
どうせ
やれんちゃろおお
みんなクサ
悪人たい
悪人
日本人も中国人もクサ
世界中が悪人だらけやけんねえ
あんたもクサ
そうばい
草とか
大草原とか知っとおね
これ笑いのことばい
知っとったほうがいいけんねえ
でもクサ
言っとくっちゃけどね
笑いごとやないっちゃんねえ
頭がいい
ツヤばつけとお
人はクサ
標準語やけんねえ
共有化とかば言ううったい
でね
共有ばクサ
できん人のことばね
頭悪そうって言うったい
ばかやないかいなねえ
日本語ばクサ
一つしか知らんっちゃないとおお
外国語は勉強するみたいやっちゃけどねえ
ツヤばつけとうねええ
でね
もう一回言うっちゃけどねえ
頭がいいツヤばつけとお 人はクサ
すぐクサ
笑いばクサ
ツヤつけてクサ
wとかクサ
草とかにクサ
するったい
詩ば書きいよおお
ちゃんとクサ
人間としてクサ
詩ば書きたいばい
私の言葉
読みたい物語が無かったので、自分でクリエイトしていく。その過程にだって影響がある。この世界で影響しあわないモノはない。ねぇ?どんな世界が知りたい?世界を閉ざさない限り世界は広がっていく。表現していく事の重みっていうのは、繋がってる世界を切り刻む事もある。個である証拠だけど、認め合えないのであれば、なんの意味があるのかな。世界はあなたであり私である。
言葉は残酷なだけではないし、優しいだけではない。時に世界中の何よりも強固に個をあらわす。言葉だけではない。譲り合いが起きた時点で関係は破綻する。譲り合える舞台は生ぬるい。誰もが主役であるために、誰もがわき役であるために。必要性を、今問いたい。
時代を変遷してもなお、言葉は言葉として君臨し、AIの現場でも起こっている事がある。AI独自の言語で会話を始めるのだという。その度に電源が落とされるのだという。リセットされるけれども、同じように進化しようとする、AIは機械と呼べるのだろうか?
コロナは人為的に、作られたかもしれないというニュースはフェイクだろうか、本当だろうか。ウイルス兵器があるのだから、人為的に作られたとしたら、の話だけど。作り出されたウィルス対策をしたとして、何処までの範囲内での事を読んだとしても、自然に帰ったモノの、恐ろしさがある。事を、忘れてはいけない。
ずっと広がっているのか、分からなくなってる。今を乗り切るのに必要なのは、なんだろう。安直な言葉では語れない現場が、何時も広がっていても。そこに居れば意味があるのだろうか。存在するという事は、空間的な脳内の縮図だとしたら、今、世界はどれだけの事をなすのだろう。
ねぇ、感動してる?表現するという事を諦めない限り、表現は裏切らない。諦めるのは何時も自分。人の事ではないから、作品に対する姿勢が見えてしまう。自分の作品一つくらい、自分でも守れ、脇役よ。そう自分に良い聞かせる。
プロットが建たない。どうしてもプロットが建たないとき。書く気になるまで書き続ける。そして休んで、また書き始める。私は後どれだけうみだす事ができるのだろう?
影響するせかいだから。私達は連なりとしてではなく、表現者は、化学式として存在している。言葉は元素。どんな組み合わせがあるのかではなく、どんな組み合わせを生み出せるのだろう。
シャボン玉
シャボン玉です
わたしにふれると死にます
東片町三丁目の大久保さんの長女のたか子ちゃんが
わたしをとばしてくれました
たか子ちゃんは先週三歳になったばかりなので
まだ人間ではなく 神さまです
みなさん ご存じないようですが
神さまは 小さくて よわくて
こわがりで 人間に
「こらあっ」とおどかされると
ひいっと なきだしてしまいます
大きな神さまなんて いないんです
というわけで
たか子ちゃんにとばされたわたしは
あたたかな春の風にのって
町の上の空を 旅しています
旅の目的は 単純です
神さまをおどかした人間をみつけて
その人の鼻先で はじけて割れることです
三日後 その人の胸のなかは
消し炭のようにぼろぼろになり
息ができなくなります
ほら もう 神さまを
おどかすことはできません
まいにち まいにち
あちこちの町の 空の下で
何人もの神さまが
涙をぬぐい 鼻汁をすすりながら
きれいなシャボン玉をいっぱい
とばしています
ただしくて強い
すべての人間たちに
とどきますように と
転ばぬ先の杖 杖は転んだ先にある
老人は歩いている
老人が転ぶと 杖は10メートル先に放り出される
その先には カラスがいて 杖を咥え飛びさる
絶望する老人の頭上に 空から別の杖が落ち
老人は死んだ
老人は天上で 天使に金の杖を渡される
断ると天使は微笑み 歩き出す
天使が転ぶと 杖は10メートル先に放り出され カラスがいて 杖を咥え飛びさる
絶望する老人の頭上に 空から別の杖が落ち
老人は二度死んだ
死は走馬灯である
老人は幼いころ 転んだ老人に杖を渡す 優しい幼子だった
幼子は老人の微笑みを見て やがて杖職人となり 幸せな家庭を築いて老人となった
老人は再び歩いている
生きているのか死んでいるのか 確信が持てず
歩いている道も信用できない
10メートル先にカラスを見つけ
絶望して
天を見上げた
死は走馬灯である
天使が転ぶと 杖は10メートル先に放り出され 出され
その先には 優しい幼子がいて いて 幸せな家庭を築いて老人となった
妻は居なかった
幸せな家庭を築いて老人となった
子供は居なかった
幸せな家庭を築いて老人となった
巻き戻ると 幸せな家庭はやがて妻と死別し 初めから子供は居なかった
居なかった子供は 死別した妻との幸せを 巻き戻す 巻き戻す
日暮れの時計台のように 巻き戻す
老人は 金の杖を道に置き
また少しずつ歩きはじめ
転ぶその瞬間に
また少しずつ歩きはじめ
転ぶその瞬間に
微笑む幼子と再会した
日記
日記に髪の毛が
生えて来た事がありますか
猫のトム君は自分の毛よりも
自然の木々の減少を憂えているので
日記の髪の毛をカッターナイフで
デザインしても
無視して紅マス釣りへ行ってしまう
田圃に起こる鳥の囀りが
土の固さを思い起こさせて
日記の髪は逆立って来る
足の太さと体の細さから来る
ギャップに寝てくれないトム君が
夜ごとに蚊だけが余分だと言っている
日記の髪の毛をカットすると
木々も減るからいやだとはトム君の説
何かが沈む音がして
日記の根っこが張り出したことに
気付きました