目の前に一本の道が現われた。
この道を行けば、海に出る。
ほら、かすかに波の音が聞こえる。
見えてきた。
海だ。
だれもいない。
天使の耳が落ちていた。
また、触れるまえに毀れてしまった。
錘のなかに海が沈む。
この海を拵えたのは、天使の耳だ。
忘れては思い出される海の記憶だ。
生まれそこなった波が、一本の道となる。
この道を行けば、ふたたび海に出る。
*
月の夜だった。
わたしは耳をひろった。
月の光を纏った
ひと揃いの美しい耳だった。
月の渚、
しきり波うち寄せる波打ち際。
どこかに耳のない天使がいないか、
わたしはさがし歩いた。
*
──どこからきたの?
海。
──海から?
海から。
──じゃあ、これを返してあげるね。
すると、天使は微笑みを残し、
*
月の渚、
翼をたたんだ天使が、波の声に、耳を傾けていた。
月の渚、
失くした耳を傾けて、天使は、波の声を聴いていた。
月の渚、
波の声は、耳の行方を、耳のない天使に囁いていた。
月の渚、
もう耳はいらない、と、天使が無言で呟いていた。
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2012年01月分
陽の埋葬
キッチン
炊飯器をけりとばし
ビー玉が釜からこぼれ落ちる
冷蔵庫の野菜室から
子どもが飛びだして
線路には気をつけなさいとだけ
忠告をする
透明な硝子のなかに
天の川が流れたような
白い模様のあるビー玉がひとつ
テーブルの陰に転がりこみ
それを追いかけた子どもの
名を呼ぼうとしたが
どんな名だったか
思いだせない
それでも呼びとめなければ
いけない気がして
何かを叫ぼうとして
口を動かし
スリッパを脱ぎ捨てる
やかんの湯が沸騰して
警笛を鳴らす
子どもは立ちどまり
こちらを振り返ろうとしたが
列車が子どもの運動靴を
せわしく脱がせて
隠すようにどこかへ
投げ捨ててしまった
やかんの底はあかく
熱され続けている
裸足のわたしがよく冷える
つめたい台所の床で
鉄道模型が樹脂製の車輪を
こすり合わせている
陽の埋葬
汚れた指で、
鳥を折って飛ばしていました。
虚ろな指輪を覗き込むと、
切り口は鮮やか、琺瑯質の真っ白な雲が
撓みたわみながら流れてゆきました。
飛ばした鳥を拾っては棄て、拾っては棄てた、
正午の日曜日、またきてしまった。
雨ざらしの陽の剥製。
屋根瓦、斑にこびりついた鳥糞。
襤褸を纏った襤褸が、箆棒の先で
鳥糞の塊を、刮ぎ落としていました。
あれは、むかし、家に火をつけ、
首をくくって死んだ、わたくしの父ではなかったろうか……。
手の中の小さな骨、
不思議な形をしている。
羽ばたく鳥が陽に擬態する。
わたしは何も喪失しなかった。
一度だけだという約束の接吻(狡猾な陽よ!)
わたしの息を塞いで(ご褒美は、二千円だった)
頽(くずお)れた空に、陽に溺れた蒼白な雲が絶命する。
──だれが搬び去るのだろうか。
壜の中の水(腹のなかの臓腑(はらわた))
水のなかに浮かび漾う壜の中の水の揺れが
わたしの脳も、わたくしの頭蓋の中で揺れています。
わたしのものでない、
項(うなじ)の上の濃い紫色の痣(その疼きに)
陽の病巣が凝り固まっている。
あの日、あの日曜日。
わたしは陽に温もりながら
市庁舎の前で待っていました。
花時計の周りでは、憑かれたように
ワーグナーの曲が流れていました。
きょうも、軒樋の腐れ、錆の染みが、瘡蓋のように張りついています。
窓枠の桟、窓硝子の四隅に拭き残された埃は
いつまでも拭き残されたまま、ますます厚くつもってゆきます。
陽は揺り駕籠の中に睡る赤ん坊のように
──わたしの腕の中、腕枕の中で睡っていた。
二時間一万六千円の恋人よ、
だれが、おまえの唇を薔薇とすり替えたのか。
だれが、おまえの花瓣に触れたのか。
さはつてしまふ、さつてしまふ。
拭き取られた埃が、空中に抛り投げられた!
陽の光がきらきらと輝きながら舞い降りてきた。
──陽が搬ぶのは、塵と、埃と、飛べない鳥だけだった。
嬰兒(みどりご)は生まれる前から跛(びつこ)だった(この贋物め!)
口に炭火を頬張りながら、ひとり、わたしは、微笑んでいました。
噴き上がる水、散水装置、散りかかる水、
煌めくきらめきに、花壇の花の上に、小さな虹が架かる。
水の届かないところでは、花が死にかけている。
痙攣麻痺した散水装置が象徴を花瓣に刻み込んでいます。
かつて、陽の摘み手が虹色に印ぜられたように
──わたくしも、わたしも、その花の筵の上を、歩いてみました。
垣根越しに骰子が投げられた!
陽は砕け、無数の細片となって降りそそぐ。
、 、 、 、 、 、 、
、 、 、 、 、 、
、 、 、 、 、
貫け、陽の針よ! 貫け、陽の針よ!
陽の針が、わたしを貫いた。
市庁舎の屋根の上に集(すだ)く鳥たちが
一羽ずつ、一羽ずつ、陽に羽ばたきながら
陽に縺れ落ちてゆく。
コンクリートタイルの白い道の上に
骨の欠片、微細片が散りかかる
散りかかる。
陽の初子は死産だった。
わたしは手の中の骨を口に入れた。
わたしは思い出していた。
あの日、あの日曜日、
わたしがはじめて
陽を抱いた
日のこと
を──
そうして、
いま、陽の亡骸を味わいながら
わたしは、わたしの、息を、ゆっくり、と、ふさいで、ゆき、まし、た、
*
三月のある日のことだった。
(オー・ヘンリー『献立表の春』大津栄一郎訳)
死んだばかりの小鳥が一羽、
樫の木の枝の下に落ちていた。
ひろい上げると、わたしの手のひらの上に
その鳥の破けた腹の中から、赤黒い臓腑が滑り出てきました。
わたしは、その鳥の小さな首に、親指をあてて
ゆっくりと、力を込めて、握りつぶしてゆきました。
その手触り……
そのつぶれた肉の温もり……
なぜ、わたしは、誑(たぶら)かされたのか。
うっとりとして陽に温もりつづけた報いなのか。
さやうなら、さやうなら。
粒子が粗くて、きみの姿が見えない。
死んだ鳥が歌いはじめた。
木洩れ日に、骨となって歌いはじめた。
──わたしの口も、また、骨といっしょに歌いはじめた。
三月のある日のことだつた。
(オー・ヘンリー『献立表の春』大津栄一郎訳、歴史的仮名遣変換)
木洩れ日に温もりながら、
縺れほつれしてゐた、わたしの眠り。
葬埋(はふりをさ)めたはずの小鳥たちの死骸が
わたくしの骨立ち痩せた肩に
その鋭い爪を食ひ込ませてゆきました。
その痛みをじつくりと味はつてゐますと、
やがて、その死んだ鳥たちは
わたしの肩の肉を啄みはじめました。
陽に啄ばまれて、わたくしの身体も骨となり、
骨となつて、ぽろぽろと、ぽろぽろ
と、砕け落ちてゆきました。
陽の水子が喘いでゐる(偽りの堕胎!)
隠坊(おんばう)が坩堝の中を覗き見た。
──陽にあたると、死んでしまひました。
言ひそびれた言葉がある。
口にすることなく、この胸にしまひ込んだ言葉がある。
何だつたんだらう、忘れてしまつた、わからない、
……何といふ言葉だつたんだらう。
すつかり忘れてしまつた、
つた。
死んだ鳥も歌ふことができる。
空は喪に服して濃紺色かち染まつてゐた。
煉瓦積みが煉瓦を積んでゆく。
破れ鐘の錆も露な死の地金、虚ろな高窓、透き見ゆる空。
わたしは、わたしの、死んだ声を、聴いて、ゐた。
水甕を象どりながら、口遊んでゐた。
擬死、仮死、擬死、仮死と、しだいに蚕食されてゆく脳組織が
鸚鵡返しに、おまえのことを想ひ出してゐた。
塵泥(ちりひぢ)の凝り、纏足の侏儒。
隠坊が骨学の本を繙きながら
坩堝の中の骨灰をならしてゐました。
灰ならしならしながら、微睡んでゐました。
*
樹にもたれて、手のひらをひらいた。
死んだ鳥の上に、木洩れ陽がちらちらと踊る。
陽の光がちらちらと踊る。
鳥の死骸が、骨となりました。
白い、小さな、骨と、なり、ました。
やがて、木洩れ陽に温もったその骨は
手のひらの上で、から、ころ、から、ころ、
から、から、から、と、ぶつかりあいながら
輪になって舞い踊りはじめました。
わたしは、うっとりとして目をつむり
ただ、うっとりとして
死んだ鳥の歌に、
じっと、耳を、傾けて、いま、した。
*
何を見ているの?
──何を、見て、いたの?
何も。
嘘!
窓の外。
見ちゃだめだよ。
──ぼく、連れてかれちゃうよ。
えっ?
振り返ると、シーツの上には、
残り香の、白い、小さな、骨が、散らばって、いま、した。
*
──羽根があれば、天使になるの?
そうだよ。
でも、いまは、毀れてるんだ。
──その腕に抱えてるのが、翼なんだね。
そう、抱いて、あたためてるんだよ。
つめたくなって、死にかけてるからね。
──でも、ぼく、そのままの、きみがいい。
そのままの、ぼくって?
──優しげな、ただの、少年だよ。
そして、天使は、腕をひろげて
もうひとりの、自分の姿を、抱きしめました。
20120116
いつもと同じで重力があって歩く。そして駅だと思う。監視中なのだと。ホームの端に立って、子供だから、盗んだ液体を舌に届くまで吸った。匂いや味。知っておいた方がいいこと。それからおもむろにストローを引き抜いて、呼気を詰め込んでばかげた球をつくる。これなら確実に浮く。何を言われても返す言葉がない。いやあの、口がふさがってまして。非常な高速で流動する虹色、その合間に製造業が見える。走りだし、走ってきた電車に乗って、その電車が走りすぎるのを見送る。それから私はどうしたかと言いますと、死んでも息だけしつづけていました。と後から報告された。てめえまじめにやれや。
県立図書館の地下一階と一階の間のやる気のない階段通路で、行き交う金属と金属探知機に挟まれ、昨日と明日の雨模様について座学。旅行とはどうすることだろう。365ページ目の後にね、あるんですよ。野球のできそうなだだっぴろい空地が。いまどき珍しく。そして片隅の曲がった木の下には、誰にも言わないでくださいよ、実は・・・ しかし冷静に思い出してみても、だ。パラパラまんがが描かれてたりしたぜ。生物の教科書の、最初のページから最後のページまで。
夕方に帰宅して、米を炊いて食う。幸せだ。
標識がありすぎて、毎日誰かが頭からぶつかって死ぬ。車より人間が多い。「電子レンジにかけないでください」の中で、最も正しいと思うものに○をつけなさい。それから手足のたたみ方を習う。ああきっとあの穴にはいれる、君だってはいれる、と祖父母のグループがテレビで歌っている。墓ならいりませんよ。ごみになるだけだし。ようやく口をあけて言えたが、あいにく私がいない。なんでそう、そんなに、みんな、そうやって地面から生えるの、とひとしきり泣いてもみたが、時間になったので適当に切り上げた。盗んだってってもさ、トイレにあったんだ。そのくらいいいよね、と人生が有意義だ。
あなたが散歩する
日は明るくとも
空は寒い
住宅がならぶ静かな町の
箱の一つ一つに人はひそみ
日溜りの猫の視線にねぶられ
沈丁花の香が生垣をめぐってくる道は
おとなしかった少女のころ
かよったような
二月
いきさつに追われ
あなたはあなたを少々失って
風邪薬に似た
微量の不幸を味わっている
吸殻やほこり玉
舗道に落ちているのは
きたないものばかりだから
有刺線にからむピンクのリボンを
救いあげようとして
手指がない
メタセコイアの梢のあたり
銀ねずのだんだら雲に
あなたの瞳は嵌めこまれ
見つめているのは
公園の広場を横切っていくあなたの背中
唇をなくしたので
鼻唄にしますか?
鼻をなくしたので
そら唄にしますか?
聴いているのははるかな高みの雲の耳
いましがた
あなたは歯医者の角を曲がっていった
最後に残された片方の足の
スニーカーの靴裏が消えない
つづら模様と白い砂つぶが
からの心に
克明すぎて消えない
レモンの花が咲くところ
・クリスチャンでない僕らは上手な祈り方を知らなかった。
日曜日になると、僕とレモンは当たりをつけた家を訪れる。金属製のドアノックを叩く。臆病な小鳥が屋根から飛び立つ。家人は不在だ。そういう決まりになっている。僕たちは頷く。芝刈り機の心臓を揺り起こす。
・時間は掛からない。
小石を取りのぞき、芝を刈り高さをならす、雑種の花はすこし眺めてから毟り取る。窓辺の猫は、その工程を宝石の瞳でみつめつづける。すべて終われば写真を三枚撮る。芝生の写真。レモンの写真。僕の写真。家に帰って日付を書き込み、アルバムに挟む。アルバムを閉じる。パタン。
・名前は呪いのようなものだ。
あなたにいつも寄り添うくせに、それを必ずしも望んだわけではない。レモンという名を始めて耳にしたあなたは、つづりを訊ねてよろしいですか?と言うだろう。L-E-M-O-Nと彼は仕立ての良い楽器のような唇を動かす。当たり前だ。レモンにそれ以外のスペルがあるはずがない。良い名前ですね、とあなたがお世辞を言うと、彼は笑う。彼はかなりスマートに笑う男だった。
・彼はあまり自分のことを話したがらない。
とくに家族のことを口にしたのは一度しかなかった。左胸のポケットをいじる手癖をしながら、父親が病気だ、と彼は言った。それはまるで宣告のようだった。「早く死ねばいい」と彼が言い継いだとき、車のヘッドライトがガードレールに腰掛けた僕たちを舐め、深い影を張りつけにした。はまってしまったらどこにも出ることができない落とし穴みたいだった。自分の影に吸い込まれないように、彼は黙って足元を見張り続けた。
・「私の名前が欲しくないか?」
そう彼は言ったことがある「それなら僕の名前はどうなってしまう?」「紙飛行機を折って空に飛ばすさ。ゴッドファーザーに返すんだよ」名前を交換するというアイディアは馬鹿げていた。僕のそれも使い途がないくらい奇妙だったからだ。「それなら君の名前はなくなってしまうよ」「新しいのをみつけるのさ。もっと良いやつだ」それからレモンは名前を失くした。「どうやらどこかに落としたらしくてね」と彼は言った。ちゃんと探したのか?とたずねると彼はスマートに笑った。
・僕たちは二年かけてたくさんの芝生を刈った。
そろそろ終わりにしようと彼が言った。たしかにアルバムの紙幅も少なくなっていた。僕はゆっくり頷いた。最後の芝生。風の強い日。雲が早送り再生され、さまざまな生物の架空の進化図を示しながら流れていた。裏庭の一番奥には、小さな物置があり、その屋根に老いた果樹の梢が寄りかかっていた。日曜なのに街は無人だった。猫すらいなかった。不気味で静かな庭だった。
・刈り終えたころに天気雨が降りはじめた。
早く済ませてしまおう。彼がカメラを手にとる。そこで彼は凍りついてしまう。訝しんで彼の視線を追うと。芝生の上にレモンの実がひとつ転がっていた。なんだ。僕はおもわず笑って彼をかえりみたが。彼は無表情だった。僕は笑いを手早く隠す。彼をスポットライトで当てるように、水と陽光が手をとり合いながら降った。雪みたいだ、と僕はおもった。彼はそんな場所に凍っていった。もし彼が名前をもたなければ、僕は彼をどう呼びかければいい?君の名前は?花の名前は?国の名前は?そんなことばかり僕は考えた。おもむろに彼はカメラをあげる。ピントを震える指で丁寧にあわせて、シャッターを切った。
・すっかり雪の積もった芝生を彼は歩き始める。
そのたびに、ぼとり、ぼとりと肩から雪塊が落ちる。かがんでレモンを取り上げる。そのまま彼は罰のように雨と光を受けながら、ゆっくりと雪原に沈んでいった。
・その四枚目の写真を僕はアルバムに収めることができなかった。
彼が望んで持ち帰ったからだ。葬式の日。僕は彼にたずねた。まだあの写真は持っているかい?「焼いてしまったんだよ。すごく細かくやぶいてね。焼いてしまった。親父も焼いてやれるとよかったんだけど」この国ではむしろ火葬のほうが高くつくのだ。そういう決まりになっている。夕方。あらかたの光が紫に色を変えながら死んでいく。射光が低いから墓穴はまるで洞窟の入り口のように暗かった。異教の僧侶の呪文が終わると、柩は穴の中へ、やわらかに吸い込まれた。そのまま彼はかがみこみ、闇の深さをはかるように墓穴に手を伸ばした。何も掴むものがないことを知ると、白い花片が彼の手から離れ、それは棺の額に注がれていき、暗闇といっしょに閉じ込められていった。パタン。
・"Do you know the land where the lemons blossom?"
それから彼がどうしたのか? 新しい名前を探しに北半球に渡ったという噂をきいたが、それは誰にも分からない。一度だけ差出人不明の手紙が僕に届いた。消印のスタンプは、いままで誰も見たことがない国名を表記していた。写真が一枚だけそこに入っていた。山の裾まで続く広大な花畑の全景だった。白い花の群れが溢れる光だったころの思い出を懐かしんでいた。まるで世界の始まりの日に盗んできたような情景だ。僕はその花の名前を知らない。裏面には走り書きで。『レモンが花咲く国を知ってる?』 そう書いてあった。馬鹿にしないでほしい。それがレモンの木の花でないことは僕でも分かる。分かるけれど、なるほど。美しい国だ。僕はその絵葉書に書きこみを入れる。名もない花の国。アルバムの最終ページに挟む。アルバムを閉じる。パタン。
*タイトルはゲーテ「ヴィルヘルムマイステルの遍歴時代」第3巻第1章から。原文は"Kennst du das Land, wo die Zitronen bl〓hn"
安らかな生活
首尾よく忘れてきた、普通の一日たちを、思い出そうとすることは、何より苦痛ではないだろうか。めずらしくもない電信柱の根元に、くくり置かれた、古い雑誌の束、その何頁めかに、私と、私の女が、安らかに挟まれている。
+
寝る、と宣言して、女は二度と起きなかった。理屈を好まぬ女に、わけを尋ねることもせず、私はつかの間、片手でくるくると団扇をまわした。それから、女の足首をさすり、時に強く、握りしめてみた。
薄い胸をかすかに上下し、すっかり縁がほつれてしまったお気に入りのタオルを、かよわい腕に抱き、女は寝息をたてている。肘をつき、横たわった私は、片手に持った団扇で蚊を追い払いながら、目を瞑った女の横顔に、しあわせを感じていた。
+
木々が途切れると、乗客たちは顔を上げ、朝の海の眩しさに自ら射抜かれようとする。バスが国道をすべり、ふたたび車窓が木々に覆われると、正気を取り戻した順に、乗客たちは俯いてゆく。
私は未だ、窓を眺めている。あの入江には、イルカが泳ぐのだと、女が言ったことがあった。続けて、イルカは脳を半分ずつ眠らせるのよ、と。
車内をうつす窓の、手が届かぬ向こうで、得意な顔の女が笑う。慌ててその顔を寝顔と差し替えようと試みるが、女は一段と目を開き、口を歪め、愉快極まりないという表情で、私のしあわせを脅かす。
次の停留所でバスを降り、職場に、気分がすぐれないために休ませていただきます、と連絡を入れる。このようなことが度々あり、やがて私は職を失った。
+
眠る女を観察し、少しも飽きない。豪快な寝返りで壁を蹴飛ばしたすぐ後に、ちいさく縮こまり、お気に入りのタオルをおちょぼ口で吸ったり。愛らしい寝顔は、私を魅了して止まなかった。
女が眠ってから、私は一睡もしていない。夜中ずっと団扇を弄び、寝息に耳を澄ませる。私と女が、あわせて一頭のイルカであるなら、そのうち、交代に私が眠り続ける、そのようなことがあるかもしれない。しかし女が、私と同じようにしあわせを感じるかどうか、私には解らない。
+
職を辞す、最後のあいさつを終え、私は海にいた。波うち際には、アルファベットの名称の、用途不明な溶剤の空きボトルたちが、私が生まれるはるか前からたゆたい、そのラベルを泡が曖昧に見せてゆく。
日暮れを迎え、浅瀬に泳ぐ魚は、近すぎる岩肌に身を裂かれ続けるのだ、と、思う。こんなに狭い入江に、イルカが訪れるはずがなかった。私は急ぎ、帰宅した。
交渉
人狼を仕留めるには銀の弾丸が必要だ
おれはコートの襟を立てると顎を深く埋め、
街角に立ち、銀の弾丸を買いに来るきみを待っている
今夜は満月だ、きみは急ぐ必要がある
帽子を目深にかぶったおれの顔は
せわしない街の生活者たちの目には入らないだろう
街角に立つコートと帽子の男からきみは
銀の弾丸を買わなければならない
おれはポケットに突っ込んだ掌のうちで流線型の銀を弄ぶ
1月の日本、きみは人狼と対決するはめに陥っている
受験生たちはいまだに鉢巻きを締めている
それはシステムエラーなどではない
人狼は必然なのだ
だが、人狼と対決するのがなぜきみなのかはきみには
分からない
きみに分かるのはきみには銀の弾丸が必要だということだけだ
月明かりの下に立っているのが人狼だけではないにしても
それが人狼ではないという証拠にはならない
きみは備えるしかない
銀の弾丸をきみに売る男を見つけ出し、リボルバーに弾を込めて待つ
目を細めたような雲の切れ間に
遠吠えが聞こえたら
きみは居酒屋の裏でうずくまっていた人狼に向けて銀の弾丸を発射する
それから死体をつっこんだ青いポリバケツに蓋を下ろす
その後、そしらぬ顔をして仲間内の雑談に戻らねばならない
そのとき、ひとり、戻ってこない人間がいる
それはきみか、おれか
誰が銀の弾丸を買いに来るのか
おれはきみのことを知ることになる
立てたコートの襟の後ろで
おれはにやけた口元を隠している
針と糸
雨傘のとても良い
鳴声を聴きながら
裁ち切られた
耳鳴りをさがしている
砂丘で失くした
二月の誕生石を
さがす女の
袖口からほつれた
生糸に視線を落とし
遠い目をする
仕草のように
路線図のそばで
バスを待つ小学生の
手から吊るされ
打ち鳴らされる
トライアングルの音は細く
しなやかな針金となり
革靴を履いた
標識のような足を縛り
冬の濃い空気もまた
軒下に暗雲を呼んで
乗車券に
黒い染みを付けて行く
未舗装の駐輪場
使い古されたオートバイの
鍵穴は梅色に錆びていて
力強くペダルに蹴りを入れた
白い住人が吐く息に
混ざったオイルの匂いが
部屋に流れて
内鍵をしめた指先は
交換されたばかりの
電球の灯りにさえ
丸みを帯びた
影を差し出す
天井の雨漏りが
うつわの縁に弧を描き
それで安心して
時計の秒針に
耳鳴りを、縫いつける
コーヒータウン
あ、あ、あ、
人通りの多い市街地で、交差点を歩く人のショッピング袋から鳩が。羽根をばたつかせて空へ飛び去っていく。数羽がもつれてぶつかり合いながら空へ昇ると、めいめいに空を滑空。それを見上げ、ぽかんと開いたいくつもの口に
耳障りなクラクションが響き、変わった信号に追い付こうと車が流れ出す。輸送トラックの車体にディスプレイされた「毎日が楽しくなる!ハッピー…」に目を奪われた人の横で、女性が手を上げてタクシーを停めると、ハザードがカチカチと点滅を繰り返すリズムに、通行人のお尻も蛍みたいに光り出す。歩いてる本人は気付かずに。
ケータイに着信したら、ちょっとはしゃいだ声を出して話しかけて。言葉がわかんないからうまく聞き取れないけど。あーとかうーとかでもさ、そこにいる気配を感じるんだよ。元気にしてんの?
もしもし、バスが来たんでまたかけ直します」ドアが閉まると、バス停から人はいなくなった。残された時刻表には不規則に数字が打ってあり、離れ合ったバス停は、見えないバスの運行でようやく一つの星座をなす。これがこの街の神話の一つです。
オープンテラスのパラソルの下で、香ばしい香りを漂わせながら、開かれた本に並べられた活字は飲み込まれ、声になり、会話となって、テーブルの上を飛び交う。顔と顔を合わせて、しわの一つまで黒い瞳に焼き付けるように。
あ、あ、あ、
この声が聞こえますか?
わたしは元気です。
荒浜
がさつな海が人気のない浜に重たげなローラーをかけている
寝静まった街の片隅でいびつな音を引きずりながら清掃車両がゆっくり道を渡るように
整然とした深みを果てしなくひろげながらもその足もとはかき乱されている
なぎ倒された松の防潮林が廃屋に至る小径を荒々しく塗りつぶしている
打ち砕かれた海岸堤防は数キロの距離を一枚の薄い塀となって切り立っている
堤防と防潮林の間を縫うように車輪の跡が長々と刻まれて固まっている
押し戻された漁具や靴や雑貨類の氾濫がいたるところで厚い砂に埋もれかけている
行き場もなく重なり合う星形の消波ブロックには群れを離れた渡り鳥の影
枯れた木立の残骸と流木とわずかな足跡がさびしそうに入り交じる
法線は太陽の沈む彼方まで荒涼とした汀に延びている
越境した辛い水は飛び地に貯留池をかまえて海の版図を広げている
家と仲間を失った家族が臨海線の手前に建てた慰霊碑に祈りを捧げにやって来る
かたわらを通り過ぎる雪まじりの風に波の乱れた息づかいがおしかぶさる
空疎な痛みは重くはかなげに灰色の砂へと足を沈ませた
いまだ乱れを均すことができない浜で海が重たげにローラーをかけている
だれかを探しつづける足跡を辿りながらだれもいない荒地に親しみを寄せていた