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2012年09月分

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* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


petit motet

  浅井康浩

蛮族の世紀から、幾世紀か離れてみる。物語りたいのは、定期市の話にすぎない。ささや
かな。期間にすると、沈黙の交易の世紀から接触の交易の世紀へと移行したあとの幾世期
か。だけれども、忘れてはいけない。これは定期市の物語で、それはつまり人々の交流の
物語でもある。だから、圧政や、戦争や略奪の世紀から離れ、平穏な場所で、平穏な時間
に起こる物語にすぎない。だから、何も物語ることのない、記録にさえ残らない世紀の、
残っていたとしても、その土地のわずかな年貢の帳簿に記された数字だけかもしれない。
そう、平和は交易が盛んにおこなわれるための必須の条件だからだ。蛮族の世紀から、ほ
んの2世紀か3世紀。そうすればもう、ヨーロッパ各地から商人が集まってきて定期市が
開かれる世紀に入る。平和が、交通の安全が確保し、それにともなって陸路で商品を運ぶ
ための施設が整備される。いくつもの条件と偶然が重なり、シャンパーニュでそれは起こ
る。そして、世紀の経済はシャンパーニュを中心に位置付ける。それから幾世紀か飛ぶ。
すると、経済の中心は動いている。どこへ。ブリュージュ、ヴェネツィア、ジェノヴァへ。
これらが港の、つまり貿易を巡ってヨーロッパが足場を固めてゆく世紀の、いくらか前に
位置する定期市の移り変わりを示すことになる



あなたは凌辱されるに違いない。だってあの街の女は、市の期間は洗濯女であれ召使であ
れ娼婦となるのだから。そして、押し寄せる商人の数に見合うだけの女の数は、洗濯女や
召使の女だけでは足りないのだから。女はあなたに近づく。サラダを盛り付けるときの、
玉ねぎやスミレをちぎる手付きを隠したままで。自分が値踏みされる恐れのない無知な男
だという匂いを嗅ぎわけて。だが、安心していい。なぜなら、あなたがこの大市で取引す
る羊毛や香辛料、黒壇の価格や規模を、女たちは想像すらできないのだから。金銭的な痛
手を負う事はない。銀貨という価値を、アナウサギに付けられた5ドゥニエや、野兎に付
けられた12ドゥニエというスケールでしか計ることができない女たちに囲まれて、あなた
は癒しがたい不健康な間違いを犯す。あるいは、そうなるよう願う



定期市が発生する。そこで交わるのは商品だけでない。言語もそのひとつとなる。シャン
パーニュが、11世紀以降フランドルとロンバルディアを陸路で結び、北と南の貿易軸上の
交錯点に位置している、という地理上の大きな括りが、まずある。そこではほとんどすべ
ての商人がフランス語で用を済ませる。ついで、規模が大きくなるにつれて、無数の小さ
な交錯点が発生する。つまり東方との交易が。もちろん、シャンパーニュでの出会いでは
なく、前段階での。ヴェネツィア商人とアラビア商人の交錯は、北緯41度線、東経28度
線の交差する都市で起こる。すると、ヴェネツィア商人の符牒に、新たな単語が生まれる。
砂糖、シナモン、香辛料。見たことのないそれらを名指すための単語が。ヴェネツィア商
人は、それらに高値を付け、そしてすぐにもうひとつの「交易地」をめざし、北上する。
移動が、ナツメグに似た香辛料メ―ス450gの価値を羊3頭分へと高騰させる。それととも
に名指された単語が流入する。イタリアがアラビアとの交易によって吸収した東方の言葉
たちが。douane関税、gabelle間接税、recif暗礁。新しいフランスの言葉が生まれる



オイルランプの燃える音、羽ペンの摩擦音、鐘の音。同室で眠ることとなる男は、勧める
だろう。あなたに眠ることを。せめて明け方のキリエ・エレイソンの祈りが聴こえるまで
は、と。消え入りそうな声で。取引に支障がでてはかなわないから、と申し訳なさそうに。
だがあなたは、筆写しつづけることを選ぶほかない。暗黙の、徒弟としての数々の規則が
あなたを縛りつけ、それは幾世代かあとに反故にされるのだが、いまのところ時代がそれ
を許すことはない。セーヌ川をルーアンまで下り、船底が浅い舟に乗り換え、7月の第一週
までに内陸へと到達する。そのために必要となる荷物を運ぶ家畜が集まらないなかで、あ
なたは羊皮紙を刻みつけるほかない。いままでの経過、そして損失の額。やがてリボンを
挟み、蝋で封印することになる手紙は、アレルヤ唱に至っても中断されることはなく



定期市は衰退する。衰退?時系列の歴史にまとめようとすれば確かに。13世紀の終わりに
徴候が現われる。だが、シャンパーニュの金融システムは衰退の予兆さえ示さない。なぜ
なら、簿記、為替、そして両替によって生み出される利潤が一方的に増殖を続けているの
だから。ここでは、さらなる発展の確信を抱くしかない。衰退があるとすれば、その金融
システムの発展がまねく事態。たとえば、誰もが市へ集まる徒歩の時代が終わり、周辺の
都市に代理人だけが駐在する、そのような自らの首を絞めた形。あるいは14世紀初頭、ヴ
ェネツィアが英仏海峡経由でブリュージュに行くルートを開拓し、陸路交易そのものの衰
退が決定的となるのだが、13世紀の人間は誰一人、衰退の予兆すら抱くことはない



あなたが苦しんでいるのを見つめる。商品の欠陥を目ざとく指摘されて。織物の染料が摩
擦によって色移りしていること。緯糸が、経糸に対して垂直でなく斜行をおこしているこ
と。あるいは、色の境目において濃色部分の染料が淡色部分に滲み出していること。誠実
なあなたは、聖女リディアを引き合いにだす言いがかりともいえる少額の取引にも、根気
強い説明を続ける。どの街も、この大市での信頼を守るために厳しい検査を経て運ばれて
いることを。あるいは、ハンザ17都市から運ばれてきたことを。説明するあなたの額に、
汗が滲みはじめて、わたしは悦びを隠しきれなくなる。わたしはのぞきみる。ブルゴーニ
ュ、ロンバルディア、シシリア。さまざまな言語が飛びかう中で定められた共通語―フラ
ンス語―が拙いために、とぎれとぎれに痙攣するあなたのくちびるを。わたしは想像する。
夜になれば葡萄酒を含んで、そのくちびるからあらゆる卑猥な悪態がとめどなく吐きださ
れることを。罵り声がわたしへと向けられ、昼間、織物を扱っていたあなたの手が唐突に、
わたしの頬をぶつ手に反転することを望みさえする



ナポリ、ジェノヴァ、ブリュージュ。そのいずれの港湾都市も経済の核となることがあっ
ても、定期市の中心となることはない。けっしてなめらかに流れようとしない気まぐれな
うず潮のように、ときにシリアのジュバイルの海洋都市に、ときになにもない空間―ダマ
スカス砂漠の真ん中に、キャラバンが集い、隊商宿がたち、ラバの通り道が地図の上に記
されてゆく。無数の生糸やチーズ、豚の脂身や出来のわるいワインが飛び交う交易をつく
りだしては消えてゆく。正規の商業ルートをはずれたささやかな交易の境界に都市が手を
伸ばすのは自然なことだ。だが、摘みとれば摘み取るほど、ひもとかれてゆくように、と
きの震えよりも淡い、流星のような交流が各地にばらまかれてゆくことになる



わたしは想像する。あなたがゆっくりと言葉を書きはじめることを。その手紙が、幼少期
に村を離れた理由―例年より早く訪れた冬がひきおこす食料の不足―から感傷的に書きだ
されることを、わたしは望まない。僕は汚れてしまいました。そうはじめに綴られること
になる手紙。それぞれの土地に聖女の名が与えられ記憶されるように、みずからの身体に
罪深い女の記憶が残り続けるような、そのような慰めのない余生はまっとうできませんと
でもいうような調子での。そのように書けばいい。文章から意味が失われていくように、
この平原の中央に位置する、キャラバンであふれた、ちいさな橋のかけられた、わたした
ちの街よりも夏のながい、降り注ぐ太陽の光が繊維を柔らかくみせる街での出来事の意味
も、感じなくなるだろう。明日の朝、食卓に供されるパンの味や、澄んだ空気の匂いから
も、よろこびを感じなくなるだろう。わたしの口から吐きだす気遣いに、いつものあたた
かみを感じることができず、その感じなさにたいする自身への痛みもなくなってしまうこ
ろ、わたしはひとり、小さな嗚咽を、とめどなく漏らしはじめるだろう


ロミオとハムレット。

  田中宏輔



プロローグ


  コーラス登場

いにしえより栄えしヴェローナに、
モンタギューとキャピュレットという
互いに栄華を競う、二つの名家がありました。
ヴェローナの領主エスカラスは
己の地位の安泰を考えて、
両家の一人息子と一人娘を婚約させました。
ところが、その婚約披露パーティーの夜、
事もあろうに、モンタギューの息子ロミオは
デンマーク王子のハムレットに一目惚れ。
それでも、婚約者のジュリエットは
ロミオのことを諦めることができませんでした。
得てして、恋はままならぬもの。
観客の皆様も、我が身におかれて
とくと、ご覧なさいませ。



第一幕

  第一場 ヴェローナ。ヴェローナ領主エスカラス家邸宅内、エスカラス夫人の部屋。

  (エスカラス夫人、扇子をパタパタさせて、エスカラスの前に立っている。)

エスカラス夫人 今夜ですわね。

エスカラス あちらを立てれば、こちらが立たず、こちらを立てれば、あちらが立たず。モンタギューとキャピュレットの両家の板挟みとなって、これまでどれだけ神経をすり減らしたかわからん。しかし、それも今夜でおしまいじゃ。わしが取り持って、両家の一人息子と一人娘を結婚させてしまえば、万事はうまくゆく。今夜、キャピュレット家で催される婚約披露パーティーには、ヴェローナ中の有力者たちが招かれる。正念場じゃ。おまえもしっかり頼むぞ。

エスカラス夫人 ご存知ですわね、今夜のためにドレスを新調しましたの。

エスカラス (呆れたように)まあ、せいぜい着飾っておくれ。

エスカラス夫人 それにしても、あのパリスが、もう少ししっかりしてくれていたら、と思わずにはいられませんわ。

エスカラス 言うな、あの女たらしのことは。親戚でなければ、とうにこのヴェローナから追放しておるわ。いったい、何人の女の腹をはらませたことか。それにな、あのパリスがキャピュレット家の娘と結婚したとしても、わしの地位が安泰するというわけではないのじゃ。この街の半分には、モンタギュー家の息がかかっておる。もしも、わしがモンタギュー家よりもキャピュレット家の方に肩入れすることになってみろ、身内となったからには肩入れせんわけにはいくまいし、そうなれば、モンタギュー家から、どのような厭がらせを受けるかわからんぞ。反乱が起こるとまでは言わんが、わしの地位が不安定なものになることは目に見えておる。

エスカラス夫人 政治のことは、わたくしにはわかりませんわ。

エスカラス 身を飾ることのほかは、と言うべきじゃな。

エスカラス夫人 まっ。(と言って、動かしていた扇子を胸にあてて止める。)

エスカラス このイタリアでは、陰謀という名前の犬が歩き回っておる。その犬に咬みつかれんようにするには、己自身が犬になることじゃ。

  (扉をノックする音。エスカラスの返事を待って、召し使い登場。)

召し使い 手紙をお持ちいたしました。(エスカラスに手紙の束を渡す。)

エスカラス (その中から、一通を取り出して)これは、ハムレット殿宛のものじゃな。お持ち差し上げろ。(と言って、召し使いにその手紙を渡す。)

召し使い 承知いたしました。

  (召し使い退場。)

エスカラス夫人 そういえば、ハムレット様とオフィーリア様も、今夜のパーティーにご出席なさるのでしょう?

エスカラス ご身分を隠されてな。それはもう、ぜひに、とのことじゃ。そう申されておられた。いつか、あらためて紹介しなければならんだろうがな。



  第二場 ヴェローナ。エスカラス家邸宅内、賓客用客室。

  (ハムレット、召し使いから手紙を受け取る。召し使い退場。)

ハムレット (差出人の名前を見る。)ホレイショウからか。何、何(封蝋を剥がし、手紙を読み上げる。)『こころよりご敬愛申し上げますハムレット王子殿下へ 殿下がエルシノア城を去られ、故郷であるデンマークを後にされてからもうひと月にもなりましょう。ヴェローナに着かれてすぐに、二人のともの者を帰されて、殿下の叔父上、現国王クローディアス陛下も、殿下の母君、ガートルード王妃様も、ずいぶんと、ご心配なさっておられるご様子です。また、ポローニアス殿も、殿下とごいっしょにデンマークを離れられたオフィーリア嬢のことを心配なさっておいでです。殿下が、亡き父君、先王ハムレット陛下を追想され、悲嘆の念にくれていらっしゃいますことは、先刻承知いたしております。ですが、――あえて、ですが、とご注進させていただきます――いつまでも悲しみの中に沈んでおられてはなりません。王位第一継承者たる王子殿下のなさることではありません。人民より愛され、臣下より慕われておられる殿下であります。オフィーリア嬢とごいっしょに、一刻も早く、デンマークに戻られますようお願い申し上げます。臣下一同、首を長くしてお待ち申し上げております。命ある限り殿下に忠誠を誓いしホレイショウより。』(手紙をテーブルの上に置き、オフィーリアの顔を見て、再び手紙に目を落とす。そして、独り言のように)亡霊のことについては、何も触れていなかったな。

オフィーリア (不安そうに、ハムレットの顔をのぞき込む。)亡霊ですって?

ハムレット あっ、いや、何でもない。それより、今夜のパーティーには、どのドレスを着ていくことにしたのかな?

オフィーリア (ドレスの話を持ち出されて、顔に微笑みが戻る。洋服箪笥の中から、藤色のドレスを選んで、ハムレットに見せる。)これを着て行くことにしましたわ。

ハムレット 紫の仮面に藤色のドレスか。それでは、そなたに合わせて、わたしは紺の服を着て行くことにしよう。

オフィーリア それは、ハムレット様の黒い仮面にも似合っておいでですわ。

ハムレット それにしても、そなたは、お父上のポローニアス殿のことが気にかからないのかい?

オフィーリア わたくしのことなど、心配なさるはずがありませんわ。むしろ、お父様は、わたくしと顔を合わせることがなくって喜んでいらっしゃるでしょう。

ハムレット そんなことを言うものじゃないよ。きっと、心配なさっておられるはずだ。

オフィーリア いいえ。お父様は、わたくしのことが大嫌いなのですわ。そして、わたくしは、その何層倍も、お父様のことが大、大、大嫌いですの。

  (ハムレット、沈痛な面持ちになる。)

オフィーリア (ドレスを置いて、ハムレットのそばに寄る。)ごめんなさい。ハムレット様の前で。ここでは、お父様のことを忘れようとなさって、ずっと陽気に振る舞っていらっしゃったのに……。

ハムレット (首を振りながら)いや、いいんだ。

オフィーリア ほんとうに、ごめんなさい。

ハムレット (さらに沈痛な面持ちになって)いいんだよ。いいんだ。

  (暗転、その刹那、「よくはない!」という野太い叫び声。)



  第三場 回想場面。デンマーク。エルシノア城、城壁の楼台。

  (舞台の隅。胸壁の書き割りを背景に、鎧兜を身に纏った亡霊の姿が浮かび上がる。)

亡霊 よくはないぞ! なぜ、わしの敵(かたき)を打たん?

  (ハムレットの上に、スポット・ライトがあたる。)

ハムレット 敵(かたき)を、ですって?

亡霊 そうじゃとも、ハムレット。昨夜も告げたはず、余は汝の父の霊である。余の妃を手に入れんがため、余の命を奪いし汝が叔父、クローディアスに復讐せよ。

ハムレット そのような話は信じられません。昨夜も、わたしはそう申し上げました。

亡霊 余の言葉を信ぜよ。余の話を最後まで聞け。汝が叔父、クローディアスは、余が庭で午睡をしておる間に、余の耳の中にヘボナの毒液を注ぎ込んだのじゃ。

ハムレット 父上は毒蛇に咬まれたと聞いております。

亡霊 嘘じゃ!

ハムレット 父上が睡っておられたパーゴラで、その毒蛇が見つかっております。

亡霊 罠じゃ!

ハムレット 葬儀の際の、叔父上のあの悲しみの表情、あの涙は真であったと思います。

亡霊 偽りじゃ!

ハムレット 偽りであってもかまいません。

亡霊 何じゃと?

ハムレット よしんば、それが、嘘や偽りであってもよろしいと申し上げたのです。

亡霊 何と。

ハムレット いずれにせよ、父上の命はそう長くはなかったのですから。

亡霊 どういう意味じゃ?

ハムレット ここ、半年の間、梅毒の症状がすっかりひどくなられて、父上は狂われてしまわれたのです。

亡霊 そちは、余が狂っておったと申すのか?

ハムレット 狂っておられたとしか思えません。あれほど父上に忠誠を尽くした臣下たちを、つまらぬことで追放なさったり、処刑なさったりして。

亡霊 余はデンマークの王である。

ハムレット それゆえに恐ろしい。狂気が、王という一人の人間の中に棲まうとき、数多くの罪のない者が犠牲になるのです。

亡霊 どうしても、余のことを気狂い呼ばわりするつもりじゃな。

ハムレット 臣下の中で、ひそかに謀反の声を上げる者がおりました。

亡霊 クローディアスもそう申しておったが、余に刃向かう者などおらんわ。

ハムレット お調べになったのですか?

亡霊 調べるまでもない。そちはクローディアスに騙されておるのじゃ。

ハムレット 騙されてはおりません。反乱が計画されていたことは事実です。

亡霊 余がクローディアスに殺されたことも事実じゃ。

ハムレット それが事実であっても、わたしには叔父上に剣を向けることはできません。

亡霊 余のことを愛してはおらぬのか?

ハムレット 父上を愛する愛よりも、叔父上を愛する愛の方が強いのです。

亡霊 余の耳が聞いておるのは、そちの口から出た言葉か?

ハムレット 正直に申したまでのこと。さらに正直に申すれば、わたしは、父上のことなど、まったく愛してはおりませんでした。

亡霊 何じゃと?

ハムレット 父上は、ご自分がどれだけ自分勝手で傲慢な人間であるか、おわかりにはならないのですね。

亡霊 おお、この世の中には、親子の愛ほど強いものはないと思っておったのに……。

ハムレット いいえ、この世の中には、親子の憎しみほど強いものはないのです。父上の自分勝手で傲慢な振る舞いに、これまでどれだけ厭な思いをしてきたことでしょう。生前は、ただ父上のことが恐ろしくて、おっしゃるとおりにしてきたまでのこと。霊となられたいまは、父上のことなど、ちっとも恐ろしくはありません。なぜなら、わたしの手が父上の躯に触れられないのと同様に、父上もまた、わたしの躯に触れることができないからです。

亡霊 そちもまた、クローディアスの手にかかって死ぬがよい。

ハムレット 叔父上は、前にも増して、わたしに優しくしてくれています。母上もまた叔父上と再婚なさって、この上もなく幸せそうにしておられます。

亡霊 おお、わが息子、わが弟、わが妃よ。汝ら呪われてあれ! 地獄に墜ちるがよい。

  (鶏の鳴く声が聞こえる。一度、二度、三度。)

ハムレット 父上の方こそ、硫黄の炎が噴き出る場所に戻られるべき時でありましょう。

  (舞台の隅から立ち去る亡霊。城壁の書き割りが引っ込み、舞台が明るくなる。)

オフィーリア どうかなさったの?

  (ハムレット、その声に躯をビクンとさせる。)

ハムレット あ、いや、ただの立ちくらみだよ。(机に手をついて、椅子に腰掛ける。)

オフィーリア 夜まで、まだ時間がありますわ。それまでお休みになられてはいかが?

ハムレット そうしよう。



第二幕

  第一場 ヴェローナ。キャピュレット家邸宅内、大広間の舞踏会場。

  (二人の給士、招待された人たちにグラスを渡していく。)

エスカラス あらためて、ここで、モンタギュー家のロミオとキャピュレット家のジュリエットの二人を皆さんに紹介しましょう。(と言い、間に立って、二人の肩に手を置く。そして、ロミオの顔を見て)皆さんもご存知のように、彼はヴェローナでも評判の好青年であり、徳の高い、行いの正しい若者であります。(ジュリエットの顔を見る。)彼女もまた、聞きしに勝る美貌と、その品のあるしとやかな立ち居振る舞いによって、非常に高い人気を博しております。そこで、両家と縁のある、わたくし、ヴェローナの領主エスカラスが二人を引き合わせてみたのです。すると、案の定、二人は相手のことを気に入りました。そして、二人は幾度となく会ううちに、結婚の約束をするまでに至ったのです。今夜は、この二人が、皆さんを前にして誓いの言葉を申し述べます。聞いてやってください。皆さんの耳が証人となります。ではまず、将来の花婿となるロミオの口から誓いの言葉を聞かせてもらいましょう。

ロミオ ここにお集まりの皆さん、わたしは皆さんの前で誓います。わたしは、彼女、ジュリエットと結婚いたします。たとえ空に浮かぶ月が砕けても、わたしたちの愛は決して砕けません。砕けることなどないでしょう。

エスカラス (ジュリエットを見て)そなたの方は?

ジュリエット わたくしも誓います。たとえ太陽が二つに割れても、わたくしたちのこころは一つ、決して二つに割れることはありません。

エスカラス お聞きのとおりです。何とも羨ましい話ではありませんか。まだ恋人のいない若い人の耳には、ほんとうに羨ましい話でしょうな。わたくしのような年老いた者の耳にさえ、そうなのですから。今夜のこの婚約披露パーティーを仮面舞踏会にしたのは、まだ恋人のいない若者が、相手を見つけることができれば、という趣向からです。では、皆さん、存分に楽しんでください。この若い二人の婚約を祝って、そして、キャピュレット家とモンタギュー家の両家の繁栄と、このヴェローナのますますの発展を祈って乾杯しましょう。

  (一同、グラスを上げて乾杯する。楽士たち、演奏。一同、踊り始める。)

パリス (オフィーリアの前に立って)わたしと踊っていただけますか?

  (オフィーリア、傍らにいるハムレットの方を見る。ハムレット、うなずく。)

オフィーリア わたくしでよろしければ。

  (パリス、オフィーリアの手をとって舞台の中央に導く。そこで、二人、踊る。)

モンタギュー夫人 あそこで踊ってらっしゃるのは、確か、エスカラス様のご親戚の方じゃなかったかしら?

ジュリエット ええ、確かに、あの方はパリス様ですわ。

ロミオ いっしょに踊ってらっしゃるご婦人は、エスカラス様のところのお客様ですね。

モンタギュー夫人 お連れの方はどこに?

ジュリエット (窓の外を見つめているハムレットの方に顔を向けて)あそこに。

  (窓の外を亡霊が横切る。ハムレット、扉を開けて外に出る。)

ロミオ 様子を見てきましょう。気分が悪くなられたのかもしれない。

  (ロミオ、ハムレットの後を追って外に出る。暗転。)



  第二場 ヴェローナ。キャピュレット家邸宅内、中庭。

  (仮面を外したハムレットが後ろ向きに立っている。ロミオが背後から近づく。)

ロミオ ご気分でも悪くなられたのですか?

ハムレット (ロミオの声に驚いて)えっ。(と言って振り返る。)

ロミオ 驚かせてすいません。ご気分でも悪くなさったのかと思って声をかけました。

ハムレット ああ、いえ、大丈夫ですよ。

ロミオ でも、お顔の色が月のように真っ白ですよ。

ハムレット 亡くなった父のことを思い出してしまって(と言って、窓明かりを指差し)あそこから逃げ出してきました。

ロミオ そうでしたか……、できることなら、ぼくも逃げ出してしまいたい。

ハムレット どこからですか?

ロミオ ぼくの運命からです。ジュリエットとの婚約、ジュリエットとの結婚という、ぼく自身の運命からです。

ハムレット (笑って)悪い冗談です。

ロミオ 冗談ではありません。

ハムレット (真剣な表情になる。)あなたは、ジュリエット嬢のことを愛していないのですか?

ロミオ 愛しておりません。今夜の婚約披露パーティーは、モンタギュー家とキャピュレット家の名誉と富が一つに合わさったことを、世に示すために催されたようなものなのです。

ハムレット ジュリエット嬢は、あなたのことをどう思っているのでしょうか?

ロミオ 愛してくれているようです。

ハムレット あなたも彼女のことを愛するようになるかもしれません。

ロミオ いいえ。おそらく、ぼくが彼女のことを愛することなどないでしょう。

ハムレット なぜですか?

ロミオ ぼくには、女性を愛することができないからです。異性に対して、性的な興味が、まったくないからです。

ハムレット 女性とは未経験ですか。

ロミオ 未経験です。

ハムレット 未経験であるということが、あなたを女性恐怖症にしているのではないでしょうか。しばしば、そういう若者がいます。経験さえすれば、それまでの女性恐怖症が、嘘のように消し飛んでしまいますよ。

ロミオ 確かに、ぼくは女性恐怖症かもしれません。でも、それとは関係ありません。ぼくは、同性である男性にしか、性的な興味が持てないのです。

ハムレット それもまた、あなたの思い過しであると考えられませんか?

  (ロミオ、突然、ハムレットに抱きつく。ハムレット、とっさのことに驚いて、
ロミオを抱き返してしまう。ジュリエット、扉を開けて、抱き合った二人を見る。)

ロミオ ぼくは臆病です。ぼくは、普段とても臆病なのです。ですが、いまは違います。いまは、勇気を出して、あなたに愛を告白することができます。

ハムレット (ロミオの躯を離して)わたしは、それにこたえることができません。

ロミオ さきほど、はじめてお顔を拝見したとき、ぼくは、ぼくの胸の中に、何か重たいものが吊り下がったような気がしました。そして、こうして、月の光の下であなたとお話しているうちに、それが恋であったということに気がついたのです。

ハムレット わたしは、あなたの恋にこたえることができません。わたしは、婚約者といっしょに、今夜、ここにやってきたのです。

ロミオ もしも、お一人でやってこられたとしたら?

ハムレット それでも、わたしは、あなたの恋にこたえることができません。なぜなら、わたしは同性愛者ではないからです。あなたを愛することはできません。

ロミオ でも、ぼくには、あなたの表情の一つ一つから、あなたが、ぼくに好意をもって、お話しくださっていることがわかります。

ハムレット あなたのように若くて美しい青年から真摯に愛を告白されれば、だれもが悪い気はしないでしょう。わたしが、あなたに好意をもって、何の不思議があるでしょう。しかし、だからと言って、わたしが、あなたの恋にこたえていると早合点してはなりません。

ロミオ (独り言のように、俯いて小さな声で)早合点、ですか……。

ハムレット そろそろ、戻りましょう。

ロミオ その前に、あなたのお名前をお教えください。

ハムレット そう言えば、まだ名乗っておりませんでしたね。ハムレットです。

ロミオ ハムレット様! (と言うやいなや、ハムレットの唇に接吻する。)

  (ハムレット、バランスを崩しかけて、思わずロミオの肩をもってしまう。二人のことをずっと見てきたジュリエット、扉の中に入る。ハムレット、ロミオの躯を押し離す。オフィーリア、ジュリエットとほとんど入れ違いに中から出てくる。)

ハムレット 戻りましょう。(と言って、オフィーリアの方を振り返る。)

  (オフィーリア、ハムレットとロミオの二人に微笑む。)



  第三場 ヴェローナ。キャピュレット家邸宅内、ジュリエットの部屋。

  (ジュリエット、母親のキャピュレット夫人の膝の上に顔を伏せて泣いている。)

キャピュレット なぜ、ロミオが身持ちが堅いと評判だったのか、よくわかった。

キャピュレット夫人 (娘の背中をさすりながら)あなた(と、夫に声をかける。)

キャピュレット よりにもよって、娘の婚約者が同性愛者だとは!

キャピュレット夫人 いっそ、婚約解消いたしましょう。

ジュリエット (顔を上げて)いやです。わたくしはロミオ様をお慕い申しております。

  (と言って、ふたたび顔を伏せて泣く。一際大きな声で。)

キャピュレット (夫人に向かって)婚約解消はだめだ。二人がいずれ結婚するということは、ヴェローナにいる者なら、知らない者はいないのだ。それに、婚約解消ということになれば、たとえロミオのことを公表したとしても皆が皆、それで納得するという保証はないのだ。わがキャピュレット家の支持者も多いが、モンタギュー家の支持者も多い。ジュリエットの方にこそ問題があるのだと、ありもしない理由を作る輩が出てくるに違いない。わが娘が、そのような侮辱を受けてよかろうものか! よかろうはずがあるまい。まして、これは、ジュリエット一人の問題ではない。わが キャピュレット家の名誉にも関わることなのだ。

キャピュレット夫人 (夫に向かって)では、結婚させるのですね。

ジュリエット (母親にすがりついて)お母様……。

キャピュレット 結婚させるにしても(と言って、ひと呼吸置く。)

キャピュレット夫人 (娘を抱き締めて)結婚させるにしても(と、夫の言葉を継ぐ。)

キャピュレット このままでよいのか、それともよくないのか、それが問題だ。



第三幕

  第一場 ヴェローナ。僧ロレンスの庵室。

  (早朝、ロレンスが薬草を薬棚に仕舞っているところ。扉をノックする音。)

ロレンス はい、はい、おりますですよ。(と言って、扉を開ける。)

ロレンス これは、これは、キャピュレット様。

キャピュレット ロレンス殿、今日はぜひお頼みしたいことがあってまいったのですが。

ロレンス はあ、――で、それは、いったいどのようなお頼みごとでございましょう。

キャピュレット 実は、家で飼っている子馬が死にかけておりましてな。

ロレンス (うなずいて)ええ。

キャピュレット 娘がそれを見て、とても悲しんでおるんですよ。

ロレンス そうでしょうな。お可哀相に。――で?

キャピュレット それでですな。親であるわたしには、娘が悲しんどる姿など見ちゃおれん、というわけですわ。(ロレンスの顔を覗き込む。)

ロレンス それは、ごもっともなお話です。お気持ち、お察し申し上げます。――で?

キャピュレット ――で、ですな。その子馬を薬で楽に死なしてやりたいと思いましてな。

ロレンス なるほど、なるほど。それで、ここに、やってこられたというわけですか。

キャピュレット そのとおりです、ロレンス殿。そういった薬を調合する資格のある者は、ここヴェローナでは、ロレンス殿、あなた、ただお一人ですからな。

ロレンス 公式には、ですよ。闇で作っておる者がおりますから。

キャピュレット しかし、ロレンス殿ほどに優秀な調合師はほかにはおらんでしょう。娘には、子馬が自然に死んだと思わせたいのですわ。薬殺したとわかれば、娘の悲しみが倍加するに違いない。餌をやってすぐに死ぬようなことがあっては疑われてしまう。そのようなことがないように薬を調合できるのは、あなたをおいてほかにはいない。作っていただけますかな?

ロレンス お作りするのは造作もないこと。ほかならぬキャピュレット様のことですから、すぐにでもお作りいたしましょう。キャピュレット様なら、安心してお渡しできます。ですが、これだけはお約束ください。その薬は、その死にかけた子馬にだけ使うということを。ほかの目的には絶対に使用しないでください。

キャピュレット お約束しましょう。ほかの目的には一切、使用しません。

ロレンス もう一つ、お約束ください。その子馬を薬殺した後、薬が入っていた壜は、直ちに、こちらに返しにきてください。壜の中に残った薬を、万一、だれかが誤って飲んだりするようなことがあるといけませんから。

キャピュレット お約束しましょう。事が済み次第、すぐに持ってまいりましょう。

ロレンス では、お昼過ぎにおいでください。

  (キャピュレット、うなずいて部屋を出てゆく。)



  第二場 ヴェローナ。キャピュレット家邸宅内、応接間。

  (キャピュレット夫妻、ハムレットとオフィーリアを自宅に招いて談笑している。)

キャピュレット夫人 (ハムレットとオフィーリアの二人に向かって)では、お二人も婚約なさったばかりなのですね?

ハムレット そうです。

キャピュレット わたしの娘とロミオの二人をごらんになって、どうお思いですかな?

ハムレット お似合いのカップルだと思います。お二人とも、花のようにお美しい。

  (キャピュレット夫人、オフィーリアの顔を見る。)

オフィーリア ええ、まさしくジュリエット様は白い百合、ロミオ様は赤い薔薇のようですわ。

キャピュレット (二人に微笑んで)そんなに褒められては、花に申し訳ない。

  (ハムレットとオフィーリアの二人、微笑み返す。)

キャピュレット あとで、娘にも聞かしてやりましょう。先ほども申しましたように、昨夜の疲れが出たのか、いまは部屋で休んでおりますが、そのようなお褒めの言葉を耳にすれば、すぐにでも元気になるでしょう。

ハムレット お大事になさってあげてください。

オフィーリア ご心配ですわね。

キャピュレット (うなずいて)せっかく、お二人におこしいただきながらに……、せめて 挨拶だけでもさせようと思ったのですが、眠っておりましたので。

ハムレット どうぞ、お気兼ねなく、お嬢さんを休ませてあげてください。

キャピュレット夫人 ところで、ハムレット様は、乗馬やフェンシングのほかに、何かご趣味はおありですの?

ハムレット 詩を書いています。

キャピュレット 詩を?

ハムレット ええ。

キャピュレット夫人 ぜひ、お聞かせいただきたいですわ。

ハムレット 拙いものですけれど、よろしかったら。

キャピュレット ぜひ。

ハムレット では、短めのものを、一つ。

  (ハムレット、深呼吸すると、眉間に皺をよせ、目をつむって詩を暗唱し始める。)

     死に
     たかる蟻たち
     夏の羽をもぎ取り
     脚を引きちぎってゆく
     死の解体者
     指の先で抓み上げても
     死を口にくわえて抗わぬ
     殉教者
     死とともに
     首を引き離し
     私は口に入れた
     死の苦味
     擂り潰された
     死の運搬者
     私
     の
     蟻

  (暗唱し終わると、耳を傾けていた三人が拍手する。)

キャピュレット すばらしいですな。

キャピュレット夫人 すばらしかったですわ。

ハムレット そうおっしゃっていただけて光栄です。

キャピュレット夫人 でも、とても怖い感じの詩でしたわね。いつも、そのような詩をお書きになってらっしゃるのかしら?

ハムレット (笑って)人を驚かすのが好きなんですよ。

オフィーリア いつも驚かされていますわ。

キャピュレット夫人 まあ。

キャピュレット 喉が渇かれたでしょう。何か飲み物を持ってこさせましょう。

  (と言って、用意してあった飲み物をもってくるよう、召し使いに言いつける。)

キャピュレット ヴェローナには、いつまでおられるおつもりですかな?

ハムレット まだ、しばらくいるつもりです。

キャピュレット夫人 ごゆっくりなさってください。ヴェローナはいいところですわ。

ハムレット (オフィーリアを見て)彼女の父親のことが心配ですが……。

キャピュレット (ハムレットの顔を見ながら)ハムレット殿は、お優しい方ですな。(と言って微笑み、オフィーリアの方を向く。)親が子を思う気持ちをよくお知りだ。

  (召し使い、銀盆の上に、飲み物を載せて登場。)

キャピュレット (銀盆の上を指差して)わたしと妻にはパープルの方を。ハムレット殿にはブルー、オフィーリア殿にはレッドの方を。

  (四人が飲み物を手にする。)

オフィーリア (ハムレットが手にもったグラスを見て)ブルーの色がとてもきれいね。

ハムレット (キャピュレットの方を向いて)グラスを取り換えてもよろしいですか?

キャピュレット (困惑した面持ちで)え、ええ。もちろん結構ですとも。

  (交換される二つのグラス。キャピュレット、息を呑んで、オフィーリアの口元を見つめる。オフィーリア、ゆっくりとグラスを傾ける。暗転。)



第三場 ヴェローナ。エスカラス家邸宅内、賓客用客室。

  (ハムレット、ベッドの上に横になったオフィーリアの肩を揺さぶっている。)

ハムレット おお、オフィーリアよ、オフィーリアよ! なぜ、そなたは目を覚まさぬのか? なぜ、目を覚まさぬのか、オフィーリアよ!

  (ロミオ登場。その背後から、亡霊の姿が現われる。)

ロミオ ハムレット様、どうなさったのですか?

  (ハムレット、振り向く。)

ハムレット (驚いて叫ぶ。)出ていけ、亡霊よ!

ロミオ わたしです。ロミオです。

  (亡霊、ロミオの背後に隠れる。)

ハムレット おお、ロミオ殿。すまない。オフィーリアが、オフィーリアが目を覚まさないのです。目を覚まさないのですよ。息はあるのですが、かすかに、息は。

ロミオ 一体、何があったのですか?

ハムレット いいえ、何も、何もありません。キャピュレット殿のところから戻ると、急に眠くなったと言ってベッドに横たわったのです。しかし、しばらくして様子を見てみたら、躯が冷たくなっていて、目を覚まさないのですよ。

ロミオ (ベッドに近づきながら)それは大変だ。

  (ハムレットの目が、亡霊の姿を捉える。)

ハムレット おお、亡霊よ、亡霊よ! 立ち去れ、立ち去れ、立ち去るがいい。(と叫んで手を振り上げる。)

ロミオ (振り上げられたハムレットの手をもち)ハムレット様、落ち着いてください。どうか、落ち着いて、よくごらんになってください。(と言って、自分の背後を振り返る。)亡霊などおりません。(ハムレットの手を離す。)

ハムレット (亡霊を指差して)そなたには、その亡霊の姿が見えないのか?

ロミオ (ふたたび、振り返り見る。)見えませぬ。

ハムレット あれは幻ではない。あれは幻ではない。あれが幻なら、このベッドの上に横たわるオフィーリアの姿も幻だ。おお、そして、このわたしの姿も幻だ!

ロミオ しっかりなさってください、ハムレット様。

  (と言って、ロミオは手を伸ばしてハムレットの手を握ろうとするが、ハムレットは、その手を振り払う。)

亡霊 (皮肉っぽく)しっかりなさってください、ハムレット様? 余のことを気狂い呼ばわりしたおまえが、気が狂っておるのじゃ。

ハムレット わたしの気が狂っているというのか?

ロミオ (首を振って)そんなことは申しません。

  (亡霊の躯とロミオの躯を押し退けて、ジュリエット、登場。ハムレットの躯に体当たりする。ハムレットの白いシャツが鮮血に染まって赤くなる。)

ロミオ 何ということを。(と言って、ジュリエットの手からナイフを取り上げて、床の上に投げ捨てる。そして、ハムレットの躯を抱え起こす。)

ジュリエット わたしが愛しているのはロミオ様、ただお一人。ロミオ様も、ただわたくし一人を愛してくださらなければならないのよ。

ロミオ (凄じい形相で)尼寺へ行け! そなたの姿など、二度と目にしたくない。

ジュリエット ロミオ様!

ロミオ 尼寺の道へと急げ! 急がねば、わたしにも罪を犯させることになるだろう。その血に汚れた手を挙げて、神に許しを乞うがいい。もしも、神が、真に慈悲深きものなら、そなたを赦しもしよう。しかし、わたしは赦さない。赦すことなどできはしない。

  (ジュリエット、泣きながら走り去る。亡霊も立ち去る。ロミオ、ハムレットの躯を抱き締める。舞台の上、溶暗しながら、するすると幕が下りてゆく。)





参考文献
シェイクスピア「ハムレット」大山俊一訳
シェイクスピア「ロミオとジュリエット」大山俊子訳


朝を待つ

  コーリャ


 /朝焼けを待つ。そのあいだに。口当たりのいいことばかり。話してしまうのを許してほしい。希望や。理想。その怪物的な言葉たちの。立つ瀬がなくなっていく。冬の夜の海浜の。そこここに。誰にも模写されたことのない。不燃性の生き物たちが身を波に洗わせて。すこしづつ体の色をうすめていく。彼は凍えながらそれを眺めている。吐く息が眼鏡のレンズを。バターでも刷いたようにくもらせるから。動物はみんな機械仕掛けにみえてしまう。ヒトデは。波の白さが。接触しあい。ショートして。エラーを起こしている場所から。気だるげに誕生して。そのままのかたちで。かつえながら死ぬのを待つのだろうし。海岸にしきつめられた岩砂は。いつかの満月よりも。なお人工物らしく。むしろここが月の裏側みたいな。水と砂漠の風物だ。抱きあって無理心中を後悔する海藻たち。砂の小丘に埋まったラジオは。そのまま小規模な音楽をながしながら落城し。無人島みたいに誰もいなかった。海が刺青した箇所をひたすら撫ぜながら。すこし―――。その光を思い出すことがある。暗闇とはいまでもときどき連絡を取り合う仲だ。缶コーヒーはまるで鉄を詰め込んだみたいに冷たい。タバコの匂いがしつこく潮の匂いに付け入る。彼は口当たりよく語りはじめる。例えば。そのあいだに。夜は白という色を。絵画を愛撫するみたいに。すこしづつ繋げていく。薬指はそんなときに役立つ。彼の隣で横たわっている女の髪を耳にかけたり。はずしたり。波のリズムにあわせて。首を緩くゆらしながら遊んでいた。


/その夜がすこし憎い。彼は笑顔のまま凍えている。その暗いことがちょっと怖い。みんなそのまま目を覚まさないかもしれない。その夜が怖い。その夜の廊下が怖い。もうひとりの自分がすぐ後ろにいて。いまにも彼になりすまそうとしている。鳥が眠るのを認めない。ずっと彼を見張れ。白夜のことは好きだけど。実在することは信じていない。その夜になると声がきこえる。その夜の声。頭蓋骨のなかに閉じ込めている。ときどき頭をかしげたときに。その夜が擦過音をたてる。それは砂時計の想像する五分間ににてる。耳馴染みのある夜だった。誰かの声がとどかない場所。その夜の音がたえず命令するので。水滴が水面を打って水紋をつくってなにもなくなるようにたよりない彼は従順に生きてきた。なのに砂時計の砂はなぜか湿って。流れることをしない。なのに。また別の朝はやって来る。その朝は彼らの望んだ朝じゃないのに。彼らの大切なことをなにも知らないくせに。彼らをあまねく照らし救う。そんなのもに捧げたくない。その朝も怖い。夜も怖い。だから彼は口当たりのいい言葉で語り続ける。そうすれば。彼の中だけでは。その夜はちがう夜と連結し。満月を背景に弓なりのシルエットを残しながら。長い列車にでもなってしまう。そんなことを独りで考え。彼は笑った。希望が泣いてる。理想が鳴いてる。などという。口笛もふいていく。


 /そのあいだに朝を待つ。冬の遅い日の出を待つ。さっきから海沿いの舗装道路に整列して彼らを眺めていたマネキンたちは。なにかの合図を待ちきれずにいっせいに汀に駆け込みはじめる。 車の通りがおもむろに増えて戦車がクラクションのかわりに空砲を打ちはじめる。それに驚いた飛行機はウィングをなくしたからそのままの加速度で溶いた雲につっこんでいく。朝の早いキャンディ屋がたくさんの飴を投げ込んで塩飴をつくってる。それをじっと見てるだけで。隠しステージにいけるような模様の空飛ぶ絨毯が。誰かの手紙をばらばらと捨てにくる。 また朝が始まろうとしてる。もう世界とは呼びたくないなにか。ただの生きるという発音では適切じゃないなにか。道すがらに誰かと手をつなぎ。手放すこと。それは。薬指の爪先が離れたとき。風に触れたとき。オブラートを舌で溶かすように。混沌の中のみえない一色になる。彼らはどんな顔をして溶けてゆけばいい?疑いようもない朝の光の幾筋に!そしてそれは嘘のひとりごとでしかない。彼は彼だけの言葉で。恐れていたものをなだめ。光を崇める。ということはできないことを知ってる。それは誰かから教えてもらったことだから。もうどうでもいい。とくに。あなたなんかは。それでいいから。だから。返そうとおもったんだ。言葉のほかで受け取ったものも。言葉も。そろそろだろう。起ち上がる。朝は来たが。朝焼けはみえない。老いた羊の群れのような雲が現れ。間の抜けたスロー再生で雨を降らせる。長いあいだ。女は砂に頬をつけて横たわっていた。 落ちた泥まみれ手首を唇にあてようとして。やめる。冷たい鉄が重く。冷たい。誰かが叫んでいるけど。わざと振り返らないで。進む。いまさらやっと海の匂いがする。灰色の海の光と闇の段々がさね。水平線のはるか遠く。白と青があざやかに手をつないでみえるのは幻想だね。風が朝から逃げていきざま、彼の長い前髪を開け放つ。緑灰色の泡立ち。僕の頭のなかで水滴が水面を打って水紋をつくる。体を捨てたあとの腕の温感。少しだけの眩しさ。なぜ光っている?どこが?海。海。海。と口当たりのいい言葉で。暁で空にかえっていくはずだから。望まれない冷たさと角度で。朝焼けはやってくるから。


一二三

  zero

何を残していくべきか、何を食べなければならないのか、どのような回転数が一番ふさわしいのか、そんな問いたちを浜辺の光の中へそっと解き放つ。浜辺はやがて郊外となり市街地となり事務所となる。そこからさらに遠く、海を隔てた大陸の平民たちの暮らしが目に浮かぶ。自転車、コンクリート、木材、自動車、信号、砂埃、時計、机、星のない空、観葉植物、人のいた形跡。人々はすべて痕跡であり、痕跡同士が呼びかけあい、痕跡のためにいくつもの工業製品が作られ商業が発達する。彼もまた一つの複雑な痕跡として、痕跡として完成するために、今日もまたサービス業の痕跡に身をうずめようとする。ああ、人々の外観はなんて美しいんだ! すべてがわずかに流動する固定性の中で統制されている。統制され、その動きや反応まですべてにおいて制度によって彫り込まれた人々は何もかもが美しい。あいさつの仕方、話すときの所作・態度、すべてにおいて二人称や三人称との闘いの痕が刻まれている! 事務補助職への応募。これもまたあなたであり彼らである官庁との闘いだ。履歴書を筋書き通りに書き、そこに自分の差異を巧妙に取り入れる。「私」の偏差は死滅するために膨張し、彼はそれを殺さない程度に傷害する。彼と社会は彼を傷害するにあたって共犯関係を築いている。知能犯であり愉快犯であり確信犯であり、なにより完全犯罪だ。彼の共犯となる社会は絶対に居場所がわからない。浜辺の波と展望台は結局一人称の砦ではなく、それは居場所のつかめない三人称がいつのまにか造形した作品群に他ならない。彼はその固有性の沃土をなるたけ普遍性のやせた土地へと分け与えた。そのため固有性の作物の一部は死んだが、普遍性と固有性が交配して、彼そのものにも二人称と三人称が植え込まれた。そもそも交わらないはずの「私」と「あなた」と「彼ら」が、言語や振る舞いを通じて共通の回路素子で交信しあうようになる。さて、明日は面接だが、もはや一枚岩となった一・二・三人称が和解の地点を見いだせるのは明白だろう…


塔のためのLesson

  はなび


高い塔が建つ
誰も泳がない浜辺で
波の音を聞いている

海の底で眠りながら
お喋りしている粒子

精霊達の育てた植物の
その小さな葉の先端の
とげとげの針から
溶けてゆく魔法のような色彩

歩く 連れてゆかれる
手足を引っ張られ進んでゆく
空の上で膨らんで沸き立つ
白い雲の中へ飛行機が飛んでゆく

誰もいない島でモーターを回転させながら
変わった形の音楽が自動演奏を始める

閉鎖された工場の歯車が分解され
変わった形の自転車になる

孤独な博士の如き風貌の
やわらかな怪獣が現れて
洗濯バサミで塔を重ねる


独り言

  

俺の親父ってのが酷い奴でよ、酒と煙草と女と博打と暴力の全部で確立変動おこしてやがって、中学の頃かな、俺の預金通帳勝手に作りやがってそのまま親父の会社の下請けで労働フィーバー、笑っちゃうよね、おふくろは頭がパーだから、毎日弁当よこしながら笑顔で「がんばって」と毎朝毎朝、すれ違う小学生の頃の同級生だとか、好きだった女の子だとか、俺の作務衣見て何を思ったんだろうな、なぁ、中学生並みの世界ってあるじゃん?多分、映画で見たような、まだ自分が世界の中心にいて、笑ったりすることが許される類の、消しゴムのカスをさらっと机の上から払いのける類の、なぁ、君がいてくれなかったら俺は居場所なんて一生無いんだと勘違いしたかもしれない、君は俺に逃げ場をくれた、ギターをくれた、参考書をくれた、覚醒剤をくれた、「愛してる」って言葉をくれた、愛してる、多分俺も、確かに今もたまに蛍が光る綺麗な池のほとりで君に宛てた言葉を繰り返し繰り返し喚くこともある、「真っ当に生きて私を幸せにして」って言葉は今でも俺を支えながら縛っているんだ、君がその言葉を自分のためにかそれとも俺のためにか、どういう意図で言ったのかはもういまさらどうだっていい、俺は君のおかげか、君の残酷な慈悲のためか、ゆっくりと歩き始めた、いつだか、道路に引かれた白線をたどって海まで行こうって言ったあのときの笑顔が俺をいつまでもこの白線に戻らせるし、君がいなくなったこの世でも俺はいつでも君の隣を歩いている。なぁそれからだよ、糞みたいな生活が始まって、廊下を歩けば唾を吐きかけられて、あの人がくれた参考書は校庭の真ん中で燃えていた、あああ、それとは別問題かな、授業中誰彼かまわず俺を呼ぶんだわ、名前だけ、たまに憎悪の言葉、「ねえねえよしき?お前の背中に」ああ、わかってるよ、わかってる、何もかもわかってるって気付いたのは、救急車の中?もうちょっと後だったか、医者がリスパダールって薬を処方した瞬間か、ごめんよ、少しだけ遅れるかもしれない、あの人に伝えて、いつか俺も海まで辿り着くからって、そう思ったのは先輩の三十路の彼氏の家の中で二人でギターを弾きながら、歌いながら、スリーピー・ジョン・エステスをさ、やっぱ駄目らしいわ、高校とか、セックスのほうが何万倍も気持ちいいから、わるい、少し遅れる、ところで君のえげつないブルースを聞いて俺はどうやら嬉しかったみたいだ、堕胎手術を今まで3回、それも全部自分の父親の種だって、笑える、あ、プラネタリウム行きたいね、そんで星のことなんてどうでもいいから君の身体をずっと触っていたい、夜はいつだって綺麗だ、かなしい言葉が全部とうめいになって消えて行ってくれるから、今度の君はとてつもなく現世的な翼に乗ってロンドンに行った、なぁ、知っているかい?君が好きだった窒息プレイの最中に俺が何度でもこのままほんとうの翼を手に入れたいと思っていたこと、もっと強く締めてよかったのに、俺はあのあと高校卒業したんだわ、嘘かと思うだろ?模試の全国平均が70越えててさ、単位足りなかったけどうちの高校創立以来始めての旧帝っつーことでどーにかなった、あの人がくれた金を軍資金にして、俺はまた白線の上に立って、どっちの方向にあの人が消えていったのかもう分からなくなって。それで通い始めた大学は予想通り糞で、とりあえず山塚アイに会いたくなって東京行った、わるい、また遠回り、というかもうどうでもいいや、もうずっと前からなんとなく、なんとなくだけど気付いてるんだよね、誰も俺のことなんて待ってやしないし、海なんてどこにもない、適当にバンド組んでさ、なんていうの?ロックでもないしブルースでもないし、ああ、ライブハウス壊す系?それそれ、かなしかったのはさ、バンドメンバー全員で一緒の部屋に住んでたんだけど、全員で貯めた家賃と食費と光熱費と雑費、全部、おんまさんに乗せてみたら、あいつ上がり3ハロン普段よりも3秒も遅く走りやがって、ああああ、そういうことじゃない、俺が誰の子供かってことがさ、そんで追放、馬鹿じゃねぇのか、お前らバンドやってんだろ?だったら許せよ、ジーザスクライストの要領で許せよ、馬鹿じゃねぇの俺、そんで全員死にやがれ、って電話したら、横浜のパチンコ屋で住み込みで働いてた彼女は、ありったけの愛情をこめて、電話を切りやがった、笑える、君のこと結構好きだった、バンド辞めてまじめに働くからいつか一緒に暮らそうって言ってた矢先に飯場の環境に耐え切れなくなって逃げ出した俺みたいな甲斐性なしのクズにはお誂え向きってやつ、煙草ってやっぱ体力無くなるのな、雲の切れ目、さようなら、さようならとーきょー、ばいばい君たち、俺を指し示してくれた君たち、俺の先を指し示してくださったビッチたち、この糞と汚物のミルフィーユみたいな世界に刳り貫いた乳首でできた首飾りをかけてあげよう。なぁ、あの人の指し示した白線はいつの間にか10tトラックのブレーキ跡で消えちゃったみたい、ああ、分かってる、あとはあの人がくれなかった翼を、拵えて、ああ、そのまえに殺しておかないといけない奴がいたな、と思ったらそいつは女と博打のダブルリーチで失踪中、ついてないな、出来れば鈍器がいい、すぐに死ねないから、ああ、俺は楽にいきたいね、親父の話さ、そういえば話すのを忘れてたな、父親が自称画家の先物トレーダーで躁うつ病のクズ、母親は失踪中、高校の頃知り合ったんだ、彼女は一言でいっちゃえばブス、制服の隙間から10日前の体育の授業の汗のにおいを発散させていた、俺が玉砕した多分金平糖一袋よりも多い女の子のうちの1人なんだけど、君のこと話すのを忘れていたよ、君の実家と俺の実家は近くて、俺がフルメタルジャケットで実家帰りしたのに、ハートマン軍曹がいなくて途方にくれてて、とりあえず酒でも飲むかって向かったスーパーで社員として働いていた、初めて知ったよ、君が考古学なんてやってたとか、シルクロードを何度も歩いたんだってな、砂漠の夜に瞬く星の話しをしてくれよ、砂漠の夜も三たび微笑むのかい?俺には三たび微笑んだ後、ふぁっく・ゆーっていう星座になってぐるぐる回っていつのまにか馬鹿にするようなすずめの囀りがふけみたいに降り注いでいるよ、それから砂漠の見えない道をふたりで歩く、なんてことはなくってさ、玉砕、たとえば君はその絹の白い道を歩き続けることはしなかったのかい?こんなスーパーで白髪ばばあをあの道に譬えたりしたのかい?その白線の先に何を見ていたんだい?俺とばっくれる誘いを断ってさ、何も示してくれなかった、シルクロードが夜に輝く乳の川になってあらゆる星がそこに落ちてきてきらきら光る、君は白線を歩いていた、俺は。きっとどこにもいけない、その絹の道にしたって俺の白線にしたって、どっちみちどこにも辿り着けないように出来ているんだよ、って君に話した時、君が言った「わたしがどこかに行っちゃったら誰がお父さんの面倒を見るの?」
シルクロードって相当やばいらしいね、あ、放射線的な意味で、あの人は甲状腺癌で死んだよ、砂漠の夜は一瞬で、きる・ゆーって星座になったってこと、あの人があの時言った言葉が何度もわたしに反響する、なぁ、かなしみってなんだろう、わたしは幾重にも重なった白い道の上でいつまでも佇んでいたんだね、あの人に一つだけ聞きたい、ダルビッシュは今年何勝するかな?じゃない、愛を


カフェイン

  sample

 殴打する中空に指を二本立てたら銀河の果てまですべてはピースだから、水中眼鏡かけて、太陽の目を潰して、苦くて冷めきったブラックコーヒーで夜を水没させる肉体労働をしようよ。喫水線がシンデレラの膝下にとどいてしまったら、かぼちゃの馬車は砂糖で煮詰められ、鍋からロバが逃げ出すとファンファーレが鳴り響く。万馬券を握りしめた僕らのこぶしがささやかに解かれたとき、ガラスの靴を履く夢を見た少女のベッドの下には、口の中のビスケットみたいに、朝が溶けだしている。少女が寝返りをうった寝具は昨夜まで争いなんて知らない地形のように整えられていたはずなのに、いまではすっかり焼け野原で、カーテンの隙間から射しこまれる異国のスラングが、少女のおはよう、になりすまし、こんにちは、で接吻し、おやすみ、で婚約している。そして、くすくす笑いあう六月に招待状がとどいたら、僕らそれを見て争いを猿と蟹だけに任せたことを後悔し、嘆きながら、いちばんの正装に着替えて文鳥のように仄かに赤い唇を尖らせ、おぼえたての祝婚歌を精一杯にさえずるんだ。

 ひと粒のこらず古米を啄ばみながら歩いていった公園。町の隅っこに留められたホッチキスみたいな鉄棒。僕はそれを思いきりつかんで日暮れまで逆上がりをした。鳥かごの中で狂った文鳥みたいだ。って笑われても、何度も地面を蹴って何度もひっくり返ってた。お箸もつかめないほど弱ってしまった手の平をゆっくり開くと、そこには世界地図が広がっていて、いくら眺めても歩けない街や、泳げない海の美しい名前が書かれているばかりで、誰ひとり握手を求める人なんていなかった。僕は豆腐の角が崩れるときの音を聞いた。近くのベンチには髪とひげを伸ばした空腹のグルメ家が夜空を見上げながら顎まで伸ばして「夜中に食べる銀河は驚くほどうまい。」そう言って、口の周りを光であふれさせながら笑っていた。僕は、本当はすぐにでも肉刺だらけの手の平は新しい大陸ができたみたいだって誰かに伝えたかったけれど、痛みを見せることはじゃんけんみたいにこぶしを振り上げることと一緒なんだって、まだ少女だった頃の君が教えてくれたから、今夜もありったけのお湯を沸かそうと思うんだ。飼い犬の背中を撫でながら、僕は今夜、濾過されてゆく。カフェインの成分も知らずに。今夜、僕は。


papilibiotempusolare-loremipsumanniversarium

  葉月二兎


  鯨の背筋に氷が逞しく早贄に馬の響き合い
可愛らしくほほ笑みか(蹴られ)ない
唇が触れる 焔を人質に取られる だっ
たの 激痛すら 言葉の神経節

花々(であるはず
  は影に ぎ(  」
 彼らのものの )

 た僕の右 口から雪解けが崩れ落ちる白昼の中ヒナゲシ
猛禽類の域(息)が、ない 真冬の太陽
黒い子どもの手 黒い子どもの手 それが花々で
  は、影に唇が触れる
 白蝶/蝶

その縫い目の境界を 二つ
川が 穏やかに君の目元を掘り返している
 あなたのもの (は) ない
さんらん が僕にお眠り下さいました

僕と僕を見ることのできない息(閾)に仙人掌
抉れた石を窓越しに見つめながら

蜜蜂に部屋から夕潮に踊り彷徨いだした象牙はアルカロイド
 でした ほほ笑みかけ 差し出す手 (そして)盲いた主旋律
を絡みつけられた沈黙に
を絡みつけられた沈黙に 円形状の静脈

      黒(く) 

 湖面に震えている  /  の。/ ?
蜂の巣に挟まれた鯨の瀬
 あれが、子供たちの手をあやして(く)円錐状に君の内部が 閾(域)して、いく
沈黙を、
花が吸い込んで表されている
   つかの間に、
 花は、時間を離れてゆきます

身体の繋がれたつがいの白蝶 首をしめる
 指が しめる
  羽蟻のしがみついた音声の巣

深夜に見たあの花の名前を誰も知らないあなた

角の欠けた枝の
たたずむ二頭の牡鹿
         であった、時間
夕立
 であった、時間
 が夜とは営みに外された

コップの水に生まれた睡蓮の首
くくれ、指を湿らせて
    腐ってしまえ

私の中に行き届かない黒くの余白 眼差しにまで敷き詰められた北の太陽
喉を裂かれた東京
 にまで敷き詰められた北の太陽

ちぎれたアロエの刺に新宿、反転した十字路には
      黒(く) 
 指が しめる

夏至の静寂に君は
暗転する指先を現さなければ
赤くはぜる

牡鹿の角に植えつけられた白蝶の繭
きみの脚から糸までは追ってまで行きたいな
 立方体まで崩れた鴎が糸をくわえこんで
花が折れた
     瞬間からあな
 たが衛星に揺らめきしておられますのは
黒い子供をした顔
  黒い子供した顔 の/群れ

僕らの暦から特定の日付を削りとられました君/    
時間以上に逃走する人に集まりましたが
 は、夕方にピンクの純粋さを 黒斑の重みで

表された川面(角の突き立てられて氾濫する)に流れた

互いの
  あなたは無言 でも 君はそこに引かれ
さけたからだ と
 たたずむ二頭の牡鹿

蜘蛛の巣の糸に蜜蝋が剥けて閉めだされていきました
ですのに、
 花は、時間を離れてゆきます

花が折れた 花の
首が折れた

特定の日付の静寂の空には

君の水が燃やす
あなたの水が燃やす
         白蝶に襲われた太陽

天皇よ、
走れ




(初出「反射熱」第7号 2011年)


白檀の香り

  深街ゆか



台所で卵を洗っているところ
茹でて殻もまるごと食べられるように
マヨネーズの用意もできてるよ



あなたはトイレのなかに映った自分の顔が
血の気がなくてとても歳をとっているようだと
ひどくおびえているけれど
その必要はないとわたしは思うんだ
だってわたしから見ればあなたは十分若いし
好きな子を自分のものにできる美貌ももっているじゃない
鉄筋コンクリートの壁に熱をあずけて
もういちど一緒に1から数え直しましょう
眠りの先には目覚めがあると決まっているんだから
卵なんて、あんな過去のもの、もう忘れて
ほら、過去のものはこうやって踏み潰すのよ
固い殻の中のやわらかいところ一緒に潰して
お腹がすいてるなら冷蔵庫にヨーグルトがあるよ
冷蔵庫が空っぽなら
スーパーマーケットになんだって売ってるんだから
そんな心配そうな顔をするのはやめて
あなたのその顔、見てるとイラつくわ
ともだちが新人賞を受賞した?
知ったこっちゃないわよそんなこと
それよりあなたの背中、ずいぶん曲がってない?





ばあさんはよく死んだふりをする
息子夫婦がお見舞いにやって来たときも
目を閉じて死んだふりをしていた
お母さん何か足りないものはない?
そんなものはなかった
ただ、夜になって院内の電気がすべて消されると
宇宙にほうり出されたように寂しかった
木星にほうり出されたこともあったから
だからばあさんは無線機が欲しかった
それとメンソールの煙草
だけど
何も言わずに死んだふりをきめこんだ
ばあさんは夜になると
無線機のかわりにナースコールを握る
そんなばあさんに孫のイチタが
誰にも繋がらないおもちゃの携帯電話を持たせた
ばあさんは1から0まですべてのボタンを押してから
ありがとね、帰りに中庭に寄っていくといい
ゼラニウムがとてもきれいだって
看護師さんが言ってたから
そう言ってイチタを帰した





おかえりなさい、わたし考えたんだけど
わたしの誕生日にはビャクダンの香りを贈って
あら、あなたすごく疲れてるみたい
おばあさんが亡くなったの、そう
でも昔からおばあさんて生き物はすぐ死ぬものよ
それにわたしたちだって
ねえ、顔色がとても悪いわ、ベッドで横になりなさい
いやだ、泣いてるの?
だいじょうぶ、あなたのおばあさんは
あなたがおもちゃの携帯電話をほんものだと言ったこと
これっぽっちも気にしてないわよ
だっておばあさんは機械音痴なんだもの
そんなことより、おねがいね
わたしが生まれた日にはビャクダンの香りを贈って
死んだ日よりもわたしが生まれた日のほうを
あなたには知ってほしいのよ
それから今すぐにでも猫背はなおしたほうがいいわね


フォーク

  しんたに

彼女はフォークで
肉片を突き刺し
抉り出す

僕は一つの
どこか中空に設置された
固定カメラに過ぎず

女は年老いていく

クラゲと泳ぐ
男は
いつまでも咲き続ける
花のように

女は待っている
と男は信じている

夕日/海
鳥の羽ばたき/波の音
2/5
の砂浜で
明日には消える
足跡を繋いでいく

男は大きな荷物を担ぎ
歩く
足元には人々の山
(その中には男も居て)

白、黒、茶、黄、
多くの男達、僅かの女達、
男はそれらを
踏みしめて行く

山頂で男は鐘を鳴らす。音が鳴り、横たわった人々は目を覚ます。戸惑いと驚き、その後の歓声。もうパレードは終わったのだと、人々は荷物を降ろし、国の無くなった街へと帰っていく。鐘の音は海を越え、女の元へ。

(彼女はどこか中空に
(設置された一つの肉片
(僕はフォークで
(固定カメラを突き刺し
(抉り出すに過ぎず


ミライ

  右肩

 僕は未来からやって来た。だからこうして歩いている街は廃墟であり、この空間を埋めて流動する人はみな亡霊である。

 建物の間のわずかな更地や、街路の植え込み、狭隘な公園に見えるひと塊の草の密生。そこに鳴くエンマコオロギだけが、僕にとって直接の知己だ。僕の暮らす未来の荒れ地にも、小さなエンマコオロギがまったく同じ音で羽をすりあわせているからだ。黒い外皮が包む体の中に、さらに微細な歯車をぎっしり内蔵し、それらが忙しく噛み合って動作していることも変わらない。

 僕は都市の遺構を破砕し、激しく繁茂する未来の植生を知っている。巨大な葎や茅、蓬の類、太々と肥えた蔦の蔓。草の葉も茎も奇妙に変形し、輪郭は一つとして滑らかな連続を得ない。
 火災の後に繁茂した陽樹と、それを押しのける陰樹の大木。地に潜るかと思えばたちまち跳ね上がって露出する走り根。その根の支える樹皮のただれた幹も、みな傾きねじ曲がっている。甘酸っぱく淀んだ熱気が地表に垂れ込めて、やがて来る凄まじい勢いのスコールを静かに待つのだ。
 そんな夜にもやはり虫が鳴いている。

 この交差点の信号機の信号部分はやがて焼け落ちてなくなるが、鉄柱だけが頑強に生き残り、夜も昼も真っ黒いシルエットとして直立する。今はまだ美しく点灯する青色燈を眺めながら僕は横断歩道を渡る。左右に停止する車列に転覆した車はないし、何よりどの車にも生きた人間が乗っている。

 正面にあるコンサートホールは一階部分が潰れて地下に陥没し、屋根は半分も原型を留めず内部の客席の上へ崩落してしまう。生き埋めになる人々の、泥と血に塗れた呻き声。程なくその上に大粒の雨が降り注ぐ。死んでしまった人たち、いや、これから死んでいく運命にある人たちよ、みんな、すまない。僕はあなたたちのために何もしてあげないのだから。
 しかし、当面は良い。そうなるのは今日明日の差し迫ったことではない。

 待ち合わせてホールの座席に着いても、あなたははっきり僕の方を見なかった。緞帳の下りている正面の舞台をじっと見据えている。昨日僕とあなたは何かの理由で互いに傷つけ合い、それが今日まで尾を引いているのだ。「怒っているの?」と聞くと「別に。」と答えるだけであなたは頑なに押し黙る。「そう。」とだけ僕は返していた。

 未来から飛ばされてくる途次、僕はあなたの死骸を見ているはずだ。変色した皮膚ののっぺりとした広がりの中にあって、両眼も唇も固着した亀裂に過ぎず、瞼の裏から眼球が、唇の裏から歯が僅かに覗く。感情を移入する余地のない、即物的な造型が持つ不思議に、僕は深く打たれたはずなのだ。そして今、怒りを押し殺すという所作において、あなたはあなたの死骸と良く似た相貌を形作りながら、まったく逆に、生気に満ちあふれて見える。辛いことである。

 而ルニ、女遂ニ病重ク成テ死ヌ。其後、定基悲ビ心ニ不堪(たへず)シテ、久ク葬送スル事无クシテ、抱テ臥タリケルニ、日来(ひごろ)ヲ経ルニ、口ヲ吸ケルニ、女ノ口ヨリ奇異(あさまし)キ臭キ香ノ出来タリケルニ、踈ム心出来テ泣々ク葬シテケリ。其後定基、「世ハ踈キ物也ケリ」ト思ヒ取テ、忽ニ道心ヲ發(おこ)シテケリ。
(『今昔物語集』巻十九・二)

 客席の照明が落ちてから、緞帳が開き演奏が始まるまでの間、僕はあなたにキスすることにした。短く、長いキスだった。あなたは何も言わず、僕も何も言わなかった。僕が何も言わなかったのは、自分がひどく混乱し、しかもその混乱は沼の水面を掠める風、そこに立つ波でしかなく、心の本体は膨大な容量の水の、その総体として暗く沈黙するほかなかったからだ。

 ぼやけた月が凄まじい早さで夜空を渡る。雲ばかりでなく濃紺の虚空も遠山の輪郭も足元の暗闇も、どこも歪んで渦巻いている。堆積する土砂の起伏から幾本ものビルディングが立ち、それらもことごとく漆黒のシルエットだった。言葉もない、文字もない。音はあるが音を聞き取る人がいない。風の音、遠雷、ものの崩落する音、断続する天象地象の揺動の間隙を、コオロギの声が充たしている。

 緞帳が上がり始め、ステージの上の様子が見えて来る。最初に目に入ったのは何本かの奏者の足、それから足の間のバスサクソフォンの一部だった。金色に輝いている。


ピエタ

  紅月

わたしが物語をかたりはじめるたびにこの街には長い雨がおとずれ
る、いっそここが翡翠色の海ならばわたしたち鱗をもつ魚で、感傷
じみた肺呼吸をやめられるのですか、浸水した教会の礼拝堂で素足
のまましずかに泳ぐあなたの、白髪は重力に逆らいながら天へと伸
びてゆく、延びてゆく、ひとでなくなったあなたの御名はくちびる
による発音が出来ないから、筆記として、「ゆぐどらしる」と記す
ことにする、記すことにしたわたしたちは腕のない魚だからそれを
記す術がない、(「ゆぐどらしる」は、深海を射抜く幾筋の月光を
受け、銀に蛍光する梢をゆらゆらと細かく震わせる、水底にも風は
やまないって知ってる?)浮力、すなわち重力に隷従する「ゆぐど
らしる」の髪は空へと茂りつづける、こうして物語るあいだにもこ
の街には長い雨がやまない、器は充たされているのに溢れだした水
はどこに留まるというのか、文明の名残である酸性の雨が水面を穿
つ音すら響かないがらんどうのしじまの奥に「ゆぐどらしる」であ
る、ありつづけるあなたを世界樹たらしめるもの、かつて教会と呼
ばれていたはずのほころんだ遺跡にてほほえみを絶やさぬなんらか
の女神の像の、marbleによる肌はどこまでもやわらかな乳白色をし
ていたのに、しだいに象ることを放棄してかんたんな球のかたちに
かわってゆく、黒ずんでゆく、



彼岸、という名のみぎわで、という名のeddaで、という名の腕、腕
を伸ばす、かつてあなたが小指をくぐらせたであろう銀の指輪はす
なわち「ゆぐどらしる」の髪束で、人であったころ、わたしはあな
たのうなじに手をかけた、白線を引けばそこからうみのはじまり、
便宜上父と名付けられたあわい紅珊瑚が海底を埋めつくしている、
鱗をもつ父は鏡台で口紅を塗り、鱗をもつ父はまいにち早朝になる
と死ぬ、夜になっても死ぬ、何度も小指を繋いでは、そのたびにわ
たしは、(礼拝堂で祈る献身的な、)いっぽんの大樹が根をおろし
ている、「ゆぐどらしる」が身を震わすたび、まるで焦点の合って
いないぼやけた視界のなかでこまかい泡が粉雪のように舞う、それ
らはすべてそらへむかう、倣いながら、(誰に?)彼岸で、そらを
指さすなんらかの女神に、



凍えるような青い炎が琥珀色をした魚の鱗を舐めるとき、かたられ
た物語が濁った香油となって水面に浮かぶ、物語がかたられるとき
わたしたちの領空には長い雨が降る、わたしたち魚、浸水した教会
の錆びた鐘は定期的に鳴らされるのだった、しかし重厚なしじまの
なかで、絶える、のは音ではなく(じかん)、つかのま、あなたの
うちがわの耳が震えている、ふるえている「ゆぐどらしる」が身を
ふるわすたび細かい泡々のsnow glode、にいっぽんの大樹が根をお
ろしていた、その、ひとつの球体をわたしは魚類の存在するはずの
ない腕でかかげてみせる、もっと傲慢に記すならばわたしたち、わ
たし、たち、わたしが、わたしが物語をかたりはじめるたびにはじ
められたいくつかの記録的豪雨により浸水したこの街はあなたの御
名とおなじなまえでした、(なぜなら、あなたの、銀の婚約指輪に
その名が彫ってあったから、)しかしわたしは、わたしたちはもう
その単語を思い出せない、魚ですから、ほんとうは、廃鉱に埋もれ
た泥濘の魚ですから、そらをさす女神の、わずかに女神のかたちを
した器はもはや骨格によってのみ原型をたもっていた、その腕は軽
く、(銀の、約束をくぐる、瞼をおとして、)翡翠の水のなか、溢
れんばかりのながい白髪はいまだ重力のことわりを拒みつづける、
(灼かれたはずの父の名が眼前を泳ぎ去っていく、
ちち、ちちち、(雨、の韻、)ふるい鐘が鳴く、高く、)


(水底にも風はやまないって知ってる?)


灼かれている、
あけわたされたほむらの対岸、


今朝、死んだはずの母がふたたび死んだ
 
 
 


青空

  鈴屋


あなたが町のマーケットで買い物を済ませて、自転車で畑中の四つ辻まで戻ってきたころには、曇り空の底も丘をつつむ森も暗さを増して、もう夕方とよんでもよい時刻にさしかかったのだと知れる。

道の端に停めた自転車をおりて、フレアスカートの裾を整えてから胸の前で腕を組んで、風を受けてきたせいで冷たくなった半袖の二の腕を交互に摩ってみる。それから籠の中のペットボトルの水をひと口ふた口含んで、これから上っていかなければならないなだらかな坂道を視線でたどっていく。道がカーブして見えなくなっても半ば木立に埋もれた電柱の列がその在り処を示している。そのさき丘の中腹にあなたの住まいが見える。茶色い屋根と灰色の壁、ひとり住まいのあなたの帰りを待つ二つの窓。

自転車のかたわらに佇んだままあなたの視線はさらに昇っていく。獣の背のような丘の稜線、だんだら雲が空いっぱいに隙なく詰めこまれ、いや、そうではなかった、思いがけなく一ヶ所、布地を裂いたように雲が割れ青空が覗いていた。横長の平行四辺形の澄み切った青空。瞳から体のすみずみまで浸みこんでくる青空。見詰めつづけるあなたの唇がわずかに開いたのは、声というにはおぼつかない呟きのせいかもしれない。
「なにかすてきな意味を誘っているの?」と。
唇の両端がわずかに伸びたのは、それは微笑のせいかもしれない。
「そうね、あと二日三日、生きていてもいいよ」と。

そう遠くない自分の住まいを目指してふたたびペダルを踏みはじめる。もう少しすればあの二つの窓に明かりが灯るだろう、とあなたはかんがえる。ハンドルの前の籠には野菜や調味料といっしょに一枚の動物の肉が入っている。もう少しすれば、ガスコンロに乗せたフライパンの上で一枚の肉が焼けるだろう、とあなたはかんがえる。肉から滲み出た油が肉の縁にまとわりついてピチピチと黄金色の小粒の粒になって小気味よく撥ねていることも。


怪物

  

生まれたての八月を片手でスクラッチしながら、蝉に能う限りのディストーションをかけていたら、いつのまにかの夏が終わった。
空がぶち折れる音がしてとても長い雨が降る、あまりにも長いものだからそれは引き伸ばされた飴細工なのではないかという疑念が中華街のゴミ箱の隣で浮かび上がった。
彼はその飴を掴み、自らの推測が的中したことに幾許かの歓喜をおぼえ、その勢いのまま飴をするするとよじ登っていった。

雨雲の真ん中にマンホールの蓋があり、開けようとしたが徒労に終わったので諦めてこのまま雨になってしまおうかと思ったが、自棄になり思い切り蓋を反対に押してみると、マンホールはずいぶんと呆気なくその中身を披瀝した。
その中身というのは小さな部屋で、絵の具がそこかしこに散乱し産卵し燦爛している。彼は20代前半の美大生を想定して、部屋の片隅に置かれたソファー兼ベッドと思しき場所に悠々と背骨を伸ばした。

美大生はバスタオルを体に巻きつけてシャワーからあがった。寝台に居座る彼を見ても何も動じなかった。
どこから来たの?と聞かれたので、そこのマンホールから、と答えた。
マンホール?そこの?二人は当然アパートの一室と思しきスペースに設置されるはずの無いものに目をやった。
これは確かにマンホールだけど、この間わたしが書いた落書きなんだけどなあ、というのが彼女の答えだった。けれども結果としてこういうことになったわけだからお互い了解してしまうほかに事態を収束させる術はなかったので、マンホールって本当にman holeなんだね、という冗談がどちらからというわけでもなく発せられ、次第にそんなことはどうでもよくなってしまった。

3本脚に支えられたキャンバスには現在進行形の絵画が描かれていた。もっともそれが現在進行形であるということは彼女の指摘を受けるまでは分からなかったのだが。
キャンバスにはピーナツバターの下塗りに正確な円が描かれ、そこかしこにエリック・サティを彷彿させる貝殻と思しき具象が散りばめられていた。
これは抽象画?と彼は聞いたが、彼女はその質問をまるで「般若心経はプログレ?」と聞かれたかのように、イエスともノーともつかない返事をした。

彼は詩人だったので、問題を言語芸術に置き換えて理解しようと努めた。言語は後天的に獲得されるものであるという基盤に立ってこの考察を推し進めると、事態はこのようになる、つまりはじめに獲得される言葉は(この際唯名論やアダムの言語などの議論は忘れて)写実絵画のようなもので言葉と物は素朴に一致する。しかし指し示されるものが「物」ではなくなった時に、人間の言語活動は極めて複雑になる。たとえば「愛」がその対象となるとき、人間は愛の本質をダイレクトに名指しすることはできない。たとえば、「愛とは略奪である」とか「愛とはオレンジジュースの中の氷である」とか、そのようなメタファーによって示されることに留まる、換言すれば、「愛」という抽象は言葉との素朴な照応関係を持ち得ないので、前者の場合「愛とは行為である」といったメタファーが先立っており、その性質に応じて「略奪」のようなメタファーが「愛」という観念を照らすことになる。この系譜には「愛とは贈与である」というような言明も存在し、「愛」という観念の別の側面を照らし出している。一方で「愛とはオレンジジュースの中の氷である」といった言明には、「愛とは物である」というメタファーが先立っており、事態を分かりやすくするためには「愛とは南極大陸である」といった言明を対置することによって、存在する「物」としての「愛」というメタファーをそれぞれ、まったく違った側面から照らし出していることが出来る。抽象絵画とは、結局そのようなメタファーを含有しており、先ほどの自分の質問も、この素朴的命名と、メタファーを介した命名とを分かつという点において必ずしもナンセンスだとは言い切れないのではないか。と彼女に問おうとしたとき、自らがここに辿り着いた経緯を思い出し、もしこの指摘をしたならば、この物語はたちどころに消えてしまうことに気付き、彼は口を閉ざした。

彼女はやおら口を開いた、この絵のタイトルは『怪物』というの、あなたの先の質問は、結局のところ、怪物というものが抽象であるか具象であるかということに尽きると思うのだけれども、もし「怪物」それ自身が具象であるならば、この絵画は抽象画になるわね、というのもわたしは具象を具象で描くということにどうしてもナンセンスだという感情を抱いてしまうの、というか不可能よね。例えば「交差点」という具体的な風景を写実で描くとするでしょ?あなたならどうする?右折待ちの車を描くかしら?だけどそれの「車」という個別的な事象って結局のところ抽象よね。というのも「交差点」という具象を表現するために描かれたその「車」は車自体では有り得ないのよ。だって車っていつも右折待ちをしているわけではないじゃない?具象に合目的に奉仕させられた「物」はその奉仕する対象の具象にそぐわない事象を捨象するという意味において抽象なのよ。だからもし「怪物」という具象を描くならば、抽象を描かなければならないの。今度は仮に「怪物」それ自体が抽象であるとしましょうか、するとこれは写実絵画になるわけね。例えば「スピード」という抽象的概念を抽象的に描こうとしたってやっぱりナンセンスよ。風を描くとするじゃない?今度は風に靡く何かを描かなければならなくなるわよね?さっきとは違って、この「風に靡く何か」というのは具象なのよ。というのもさっきは個別的な対象に奉仕するように具象を描くことが、結局は抽象だと言ったけれども、抽象的な対象を表現するにあたって捨象は起きないの、ここがポイントなんだけど、仮に「風に靡く何か」を「走っている車の窓から出した頭髪」だとして、さっきの論点に戻れば、この「頭髪」もまた合目的に奉仕された物だといえるかしら?言えないわ「交差点」の場合、それは「わたしたち」の経験の中に「了解的」に存在するものだから「合目的」という考えが存在したけれども「スピード」はそうではないわ、「スピード」という抽象的概念は確かに「わたし」の経験の中に存在するけど、それは「了解的」ではないの、つまり「スピード」は「目的」足り得ないということよ。いい?抽象絵画の場合、それを表現しようとする個物は奉仕すべき「目的」を未だ持っていないの、つまり純粋な個物、捨象は起きない。だからもし怪物という抽象を描くならば、具象を描かなければならないのよ。

彼女はそう言って『怪物』を撫でた、
あなたは怪物をどのように理解するかしら?
彼は『怪物』をもう一度見た。
怪物とはつまりそれを「怪物」と了解「した」瞬間に怪物ではなくなり、逆に「怪物」と了解「させられた」瞬間に怪物足りうるものなのか?
と彼は自信なく答えた。
彼女は60点かしらね、といった表情をしながら、歯ブラシで奥歯を磨いていた、いつまにかにパステルオレンジのワンピースに着替えていたのに彼は少し驚いた。
あなたはきっと詩人ね、そういう風にメタファーの方に重きを置きたがるところがなんとなくそういう風に思わせるわ。
彼女はオレンジ色のワンピースのジッパーを探した。
いい?フランスサンボリズムの議論だけれども、その議論において「メタファー」と「アレゴリー」の区別をあなたは今しようとしている、
もちろんワンピースの下には何も着ていなかった。
いい?あなたは感覚器官を持っているわね、あなたが感覚した世界が世界なのよ。あなたはひょっとしたら愛を感覚することは出来ないと思っているかもしれない。
乳首はピンク色で彼が指で触れる前からピンピンに立っていた。
いい?感性と理性だなんて話はやめにして、構造主義者じゃあるまいし、わたしたちが感覚する世界が、わたしたちの世界なの。
言うまでもなく、彼女の割れ目はもうびしょびしょに濡れていた。
いい?これはメタファーでもアレゴリーでもないわ、同時にメタファーでもありアレゴリーでもあるけど。
わーい!パイパン!いただきます!
「愛とは50kgのベンチプレスである」
「50kgのベンチプレスとは愛である」
もちろん後者のセンテンスは文脈が無ければ意味を成さない。即ちこれはわたしたちが「愛」を知らないことの証左なのだ。


(怪物とは怪物である)

生まれたての幼児を片手でスクラッチしていると、あなたの右手はまるでディストーションね、
という聞きようによればとてもえっちな言葉を彼は投げかけられた。
彼女は歪んだ幼児をマリアの笑顔であやしている。
空がぶち折れた音がしたので彼は窓から空を見上げた。
さわやかな風が吹いて絵の具で散々汚れたカーテンが翻り、
光が彼の額に戯れていた。
彼女が彼の隣に席を求めると、彼は快く承諾した。
赤ちゃんを二人で抱いている夫婦に青い空は微笑み、
惜しみなく目映い陽光を差し出した。
『怪物』はまだ文字通り目下進行中だ。


蕎麦っ食い

  山人

暖簾をくぐり、席に着く。
「もり大盛り」
静かに言う。
店員が厚手の湯飲みをことりと置く。
その半分を飲んでいるうちに蕎麦が運ばれてくる。
どんな蕎麦がくるのだろうか、初めて会う人を待つような心地よい緊張がある。
「お待ちどうさまでした」
いやそれほど待ってはいない。
四角いせいろの竹すの上に、細く少し透明感のある蕎麦がぷるぷると震え、体を晒している。
厳かである。
汁徳利から猪口に黒っぽい琥珀色の液体を注ぐ。
カツオの強い風味と、その周辺をおだやかに昆布の香りが満ち引きし、心地よい。
割り箸で適度に蕎麦をすくい、猪口に半分ほど沈み込ませる。
勝負の時だ、ゴングが鳴らされる。
この時に勢い良く蕎麦は啜られていることが戦いのルールとなる。
啜られて口中に侵入した蕎麦と汁は互いに対面し、口中の唾液に挨拶する。
汁のコクと香りが鼻腔を埋め、脳が可か不可かの取りあえずの判断を下す。
総合格闘技で言うならば、組み合った時の相手の強さと言うかそんなものを感じる瞬間でもある。
「うむ、強い」
そう感じ、次に麺を噛むという行為に突入してゆく。
まだ口中には汁の風味が残り、しかもそこに今度は麺の香りが突入し、さらに食感が・・・。
歯を立てるとプツンと切れてはいけない、ある程度の弾力を歯が感じ、そして断腸の思いで麺の断面が千切られてゆく、コシである。
このがっぷり四つ感が、最後まで戦いを続けさせ、残った屑のような麺を箸で丁寧にこそぎ、口へ促すのである。
この壮絶なバトルが終わったあとの清々しさは、まさにスポーツマンシップであり、出された蕎麦と私との間に友情が生まれるのだ。
その戦いを振り返る如くの所作が、湯桶に入った蕎麦湯を飲むことである。
相手の力量を賛辞するべく汁の味をも確かめ、そして麺から溶け出したエキスの蕎麦湯を楽しむのである。
暖簾を出て腹を叩く。
あらためていい戦いだった・・・と、しみじみ蕎麦バトルを振り返るのである。


Haiku

  田中並

 
 
 月のてる庭
日本の庭である為に
目の青さ拒む


 まるでディランの舌
荒れ切ったきみの
黒くなるまで鍬を入れた


 秋の空気ささやく
悲しむなら今の内に
しずくが雨に濡れる


 日本
まだはいはいもできない
でもキスも見た新宿


 きみが欲しかった
季語も知っているし
夕立の中でもきみとわかる


 傘
あじさい これは夏の季語
ほろほろとよつちまちった


 聖書をめくる
わたしに関係ないことばかり
ときどきイエスが死ぬ


 尻から血がでてくる
台風を報せる
尻のことじゃなく 水が貯まっている


銃声を一生
わたしはきくことなく
ブローティガンと里芋くらい離れている


 古池や
おしなべてひかりのさす
入水しているもの 塵


こおろぎや 小さないのち
血という字の皿の上にのっている点くらい


西行
さくらさくらさくら
若者はしろい兎を買う


 ネルシャツ
竹の春 はためくもの
民意


風呂
もう大分時間が経つ
シャワーの音まであたたかい


カメラが瞬く
わたしがもっと小さくしても
きみが大きくしてしまう


プール
プールの銀河
プールの銀河 わたしの顔


合格した
免許証は使えない
秘密は紫のケースで冬を待つ


 マイクになって
夏と秋がこんがらがるまで(季語が)
声の音をきく


痔や
秋が色づくとか
きみが話すけど


終わりかな
最初に書いたことを忘れたし
紙にもこう書いてある 朝寒

 


寝息

  HAL

熱帯雨林の奥深くで
一本の樹が音もなく倒れる
遠い北の冬の海で
雨は海面を音もなく叩きつづける

彼が深夜 唐突に眼を開けるのは
そのどちらかの音を聴いた時だ
その瞬間 眼は闇の漆黒しか捉えることは出来ず
眼を見開いたまま 彼は何も視ていない

しかし 耳はその時はじめて
幹が裂け根元が割れ 土音を響かせて
倒れる一本の樹の断末魔の叫びを
水面を強く叩く滴がぶつかって起こる
無数の水面の悲鳴を聴く

そして ようやく漆黒に眼が慣れ始めた時
傍らで眠る彼女の真っ白な
光と闇が交じりあう白夜の朧美に似た
背中の沢をそっと手を伸ばし撫でる

それが現であっても幻であっても構わない
それは 彼岸へと向おうとする彼の心を
此岸に留める舫い綱になり
暫くのやさしい眠りを齎してくれる

インド洋で啼く鯨の愛の言葉が
太平洋の鯨に聴こえるように
その啼き声を
彼は 彼女の静かな寝息のなかに聴く


(無題)

  debaser


第一景


わたしの街には誰もいなかったので

牛舎に行った 

みんな疲れきった顔をしているけど

なんか楽しくなる歌を歌って最後くらい楽しませてよと牝牛に言われた

わたしが見ている映像には

角砂糖で模造された獅子舞が溶けて

ひょんなとこで半分かもしくはそれ以上になるものが映っている

それに思っていることを口に出す勇気があっても

とっくの昔に親しい恋人にあげたっきり

金庫の中から

XとYにそれぞれ好きな数字を代入して

徴税の法に照らし合わせたりした

工夫のせせら笑いと

ストリップ工場と

そのラフマニノフの娘と

持参金が千円にも満たない強欲な役人と

それがなににも転じなかったという寓話の途中で

異郷から帰ってきた親類が

グリッセリンのキャンディ・キャラメルの布に包まれたという

実はその法則というものが成立するために飼い主の前で

百段の梯子を犬のように上り下りするというのだ

そうとなれば避寒旅行に出かけるしかないと愛人は思ったのだろう

わたしが知っている気象の分野では

羅針盤に新しい方位というものが発見されたのもちょうどその頃だ

抜け目ない大学教授がそれを論文に書き

制服のガードマンが猛烈な歯痛を訴える

そこには二両連結の列車に空気を吹き込む車掌の妻と

止まるあてのない駅から発車する列車の時間に合わせて

やることのすべてを終え寝るしかなかった小説家がいた

しかしこの部屋は彼の書く物語の意に反してどうやら禁煙らしい

しかしこれすらも下着売場で下着を買いあさる女の仕業に違いないという予感があった

小売店で流れる音楽をバックに、そしていいことこれすらも第二景へ続くのよと女の声が言った

もはや受話器にむかって叫ばなければいけないことと

物事の順序について

それはちょっとした推理小説の名探偵が

巧みにあやつる魔術的合体から容易に連想されると言っても差し支えはない

それに若き日のトムは

老いぼれたトムを呼び止めて

もはや事実の証明に時間という概念を援用するのは手遅れだということを知っているので

白スカートがめくれあがる地下鉄の9A出口の付近で

イエスと答えたきり

黙りこくった

けたたましいブレーキの音もしない

これまでのコメディは失速したまま

犯人は先に読者にこんなふうな問いかけをする

新聞売店に明日の朝届くイブニング・ポストの一番小さな広告に

汚い小便をひっかけてしまいたい

答えは、あるヘビー級の選手に

それ相応のパンチをもらい、わたしは力なく倒れた

悪質な主人は玄関先でテレビの取材にこう答えるのですよ

この平板で退屈な哲学を

引退間際の劇場の支配人の財布の紐で

ぐるぐる巻きにすりゃいいんだぐるぐる巻きにって



第二景


兄は本物の口ひげの横に黒子をつけて

お蔵浜州からやってきた女と知り合いそのまま不幸な結婚をした

その新しい方位へ動いた結果がこれだとして

わたしの耳は疑いもなくFMに向いた

こんな最後だけは勘弁して欲しいという

売文が芝刈機のマニュアルに書かれ続ける

大平原に書かれ続ける

まぎれもない平行六面体のすべての面にそれは書かれ続けるとして

それはやすむことなく書かれ続ける


くじら帽子の女

  草野大悟

鯱の泳ぐ
ちいさな海辺の町の
ちいさな家に
海は潜んでいる。

右手で白いツバ広の帽子をおさえ
女は
吹き荒れるちいさな家の海を見つめ
今日も待っている。

気の遠くなるほど待って
気の遠くなるほどの苦痛を重ねても
跳びはねていたあのレオタードの頃には
戻れない、と知った夏
女は
話すことも食べることも立つことも笑うことも捨て
何もかもを捨て
風の鳥になって自分の中の海へと飛び立っていった。

空が笑う青のかなた
女がいつも被っていた帽子が
虹色の潮を吹きながら
鯱を食っている。


ピーク

  ゼッケン

説明されて分かったことはつまり、
つまり、おれはいま生きている
しかし、自分では証明できない、ということだ
男は技師のヤマモトです、と名乗った
いまは視覚だけの入力ですが、
ヤマモトは言った、正確にはおれの再構築された視覚野に書いた、
経過が順調であれば
次は聴覚野の再建にすすみましょう
おれはおれの視覚野に文字を書いた
オト、が聞こえる?
そうですね、オト、として感じられるようになるでしょう
文字が浮いては消える
絵はついてないのか?
おれの質問にヤマモトは言った、いや、書いた
いまのところ、画像情報を入力するには、あなたの脳の残存細胞数が足りません
しばらくすれば培養された細胞が移植されます、すこしずつですが、視れるようになります
おれは白い画面に文字を浮かべる
視野の背景が濃淡のない白一色なのは
眼球も残っていないかららしい
おれの姿を
見たいんだが
上司の許可が必要です、聞いておきましょう
ヤマモトはおれに残された数少ない細胞を温存するために
会話を1日15分に限定していた
それでは
おれはヤマモトと名乗る人物をたぶん男だろう、と思った
しかし、技師などではない、捜査官だ
ヤマモトはおれを幸運な患者だと言っていた
新式の脳-機械接続インターフェイスの被験者に選ばれたのだと言った
おれは信じない、幸運という言葉を使う人間を

表れた画像はモノトーンの粗いものだった
ベッドらしき四角い枠の上にソーセージのような形の、
おれはただの棒だった、
たいへんな事故でした
ヤマモトが言う
奇跡です、
おれは笑った
わ、は、は、
ヤマモトはカメラのレンズをヤマモト自身に向けた
どうしたんですか?
人の顔というのは、人には認識しやすくできている
おれにはヤマモトの顔が分かった
見覚えはない
ヤマモト、嘘がヘタだね
そうですか?
おれの乗ったクルマに爆弾を積んだバイクを突っ込ませたのはこいつらだ
あのね、あなたの組織、壊滅したよ
そんなことより、おれはピザが食いたい
ところが、アレが出てこなくてね
ヤマモトが顔を伏せた、手元の端末を操作しているのだろう
ヤマモトの姿が上からゆっくりと上書きされてあの女の写真に変わる
売春婦だった、それがじつはやんごとなき方面からの家出娘だった、なんてのはよくある話だった
女は金をもって末端のチンピラと逃げようとしたところを捕まって拷問されて死んだ
ふたつの死体の局部は切り取られていた
そのような瑣末なトラブルにおれがいちいち関わっているなどとはあの狂った父親も思っちゃいない
分かっているにも関わらず、おれを爆弾で吹っ飛ばしたのだから、狂人だ
アレは犬にでも喰わせたんだろう、手下が、しかし、娘のアレを取り戻すためなら父親はなんだってする
おれをソーセージにした上で、アレの在り処をソーセージ尋問機を使って聞き出そうとしている
ヤマモト、おれは

ピザを食えるのかな

視ることはできます
ヤマモトはカメラをライブに切り替えた
注文したピザが届いたのだろう、ヤマモトが立ち上がり、病室のドアを開ける
ピザ屋がヤマモトを撃ってヤマモトはよろよろと後退し、カメラの視界から消えた
殺人の宅配だ
おれの組織の中枢は失われたが、末梢の器官はまだ生きている
ただ、末梢に判断能力はない、プログラムを実行するだけだ
ピザ屋はおれに銃口を向ける
えらいぞ、用心深いやつだ、念のためにソーセージも撃っておこうというんだからな
おれの粗い視野の中央でピカリピカリと斑点が浮いた
いまのところ、視覚しか入力が繋がっていなかったので
おれは何も感じなかったが死んだんだろう

文学極道

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