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2017年04月分

次点佳作 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


(無題)

  どしゃぶり

 一、

ずっと昔、一基の灯台だったころ
蠍の祭で頸をきられた
ぼくたちのからだは書庫に打ち棄てられたまま
頸の断面から夜ごと伸びた羽
ヒヤシンスの芽のように
紫色のこどもたちの実がなって
ぼくたち、切り刻まれながらも
世間を知った
あれから、ぼくは
土くれを寺院にして僧侶になった
夜にはほそい四肢に炭を塗り
砂浜にひとり
火を鏡としてくらす
そこにきみの顔がみえた気がしたから
けものたち、あたたかい
どうか、このまま
朝まで血をくべて

 
市、

橙色の麦ばたけできみをみた
その日から
葡萄をふみしだく花嫁の足首
船をひく偏西風の手首
古時計のねじの回転に
きみをみた
夏の空におちる火のなみだ
灰を塗った顔は
きみだった
 
 
位置、

この街の
一番高いところに立つきみは
風にたなびく
かみのようにまっしろく
あんなに強い風、あそこからやってくる
砂漠に生える葡萄の木の下あたり
砂に抱かれて沈んでいった
閉じた瞼に映る涸れ川あたり
今にも張り裂けそうな葡萄の実
それらがたたえるあまい水は
忘れ去られた川の記憶だ
煮出された血液は
複雑な水路をたどり
やがて色はうしなわれ
みんな、みんな、
きみへとつながる

きみの横顔を映す鋏で
きみはみずからを刻んでいく
風は吹き散らす、足の先から
まっしろな切片を
最後のきみは、どこに宿っていたのだろう
この街はきみで埋め尽くされて
ぼくはみうしなった
さようなら、こんにちは
簡単なおしゃべりが
今もまだ終わらない


詩の日めくり 二〇一七年二月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年二月一日 「ゼンデキ」


徹夜で、イーガンの『ゼンデギ』を読み終わった。うまいなあと思いつつ、もう少し短くしてよね、と思った。まだ眠れず。デューンの『砂漠の神皇帝』でも読もうかな。このあいだカヴァーの状態のよいのがブックオフにあったので、全3巻を買い直したのだ。表紙と挿絵に描かれた神皇帝がかっこいいのだ。


二〇一七年二月二日 「月の部屋で会いましょう」


レイ・ヴクサヴィチの『月の部屋で会いましょう』(創元海外SF叢書)が届いた。ケリー・リンク並の作家だと、1作品しか読んでいないけれど、思っている。きょうから読もう。解説を読むと、まるで詩人が書きそうな短篇ばかりのようだ。奇想の部類だね。


二〇一七年二月三日 「得も損もしてないんだけどね。」


きょう、吉野家で「すき焼き」なんとかを食べたのだが、「大」を注文したのだが、しばらく食べていなかったので、これが「大」かと思って食べ終わって、レシート見たら「並」だった。金額が100円違うだけだけど、なんか得したような損したような複雑な気持ちになった。得も損もしてないんだけどね。


二〇一七年二月四日 「ふだんクスリは9錠」


日知庵から帰ってきて、ゲロったからいいかと思って、いつもは9錠だけど、いまクスリを10錠のんだ。痛みどめを1錠多くしたのだ。あした、何時に起きるかわかんないけど、あしたは仕事ないし、いい。あしたは音楽聴きまくって一日すごす予定。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年二月五日 「最終果実」


いま日知庵から帰った。レイ・ヴクサヴィッチの短篇集『月の部屋で会いましょう』のつづきを読んで寝よう。これから読むの、「最終果実」だって、へんなタイトル。やっぱり詩人みたいな感性だな。


二〇一七年二月六日 「夢を見て、はっきりと目を覚ますとき」


きのう見た夢のなかで、おもしろいのがあった。イギリスのことわざに、樹から落ちる虫は丈夫に育つというのがあってっていうので、そんなことわざがほんとにあるのかどうかは知らないけど、目のまえで、虫が木から何度も落ちるのを見てた。夢のなかで、散文詩が書かれてあって、その一部分なんだけどね。目を覚ましてすぐにメモをしたらはっきりと目が覚めてしまった。


二〇一七年二月七日 「いろんなものが神さまなのだ」


サンリオ文庫・ラテンアメリカ文学アンソロジー『エバは猫の中』を読みました。

傑作短篇がいくつもあった。

サンリオ文庫のなかでは、ヤフオクでも安く手に入るもの。


コルターサルの『追い求める男』のなかに
「ハミガキのチューブを神様と呼ぶ」という言葉があって、驚いた。

ぼくがこのあいだ出した●詩集に
「神さまはハミガキ・チューブである」ってフレーズがあるんだけど
こんな偶然もあるんだなと思った。
まあ、いろんなものが神さまなんだろうけれど。


二〇一七年二月八日 「きょう、一日、左の手が触れたものを思い出すことができるでしょうか?」


「きょう、一日、左の手が触れたものを思い出すことができるでしょうか?」
ふと思いついた言葉でした。
利き腕が左手のひとは「右の手が触れたもの」を思い出してみましょう。


二〇一七年二月九日 「鯉もまた死んでいく」


鯉もまた死んでいく
鯉もまた死んでいく
東山三条に
「はやし食堂」という大衆食堂があって
そこには
セルの黒縁眼鏡をかけた大柄なおじさんと
とても大柄なその奥さんがいて
定食類がおいしかったから
パパと弟たちといっしょに
よく行ったのだけれど
その夫婦は
お客の前でも
口喧嘩することがあって
いやな感じがするときもあったけれど
だいたいは穏やかな人たちだった
「○○院に出前を届けたら
 そこの坊さんの部屋には
 日本酒の一升瓶がころがっていて云々」
といった話なんかもしてくれて
へえそうなんやって子供のときに思った
大学院のときに
女装バーでちょっとアルバイトしたことがあって
そこで
その○○院の若いお坊さんに
手をぎゅっと握られたことが思い出される
まだ20代の半ばくらいの
コロコロと太った童顔のかわいらしいお坊さんだった


その「はやし食堂」の夫婦には息子が二人いて
長男がぼくと中学がいっしょで
同級生だったこともあるのだけれど
彼は洛南高校の特進で
ぼくは堀川高校の普通科で
彼は現役で神戸大学の医学部に受かって
ぼくは一浪で同志社に行ったんだけど
彼のお母さんには
ぼくが大学院に進学するときに
「大学院には行かないで働いたら」なんてことを言われた記憶がある
自分の息子が医者になるから
自分の息子のほうが偉いという感じで
そんな顔つきをいつもしてたおばさんだったから
ぼくが大学院に進んだら
いばることがあまりできなくなるからだったのかもしれない
そのときには
ぼくも博士の後期まで行くつもりだったから

こんな話をするつもりはなかって
ええと
そうそう
三条白川に
古川町商店街ってのがあって
そこに林くんの実家があって
お店は東山三条でそのすぐそばだったんだけど
中学3年のときかなあ
何かがパシャって水をはねる音がして
見ると
白川にでっかい鯉が泳いでいて
なんで白川みたいに浅い川に
そんな大きさの鯉がいるのかな
って不思議に思うくらいに大きな鯉だったんだけど
ぼくが
「あっ、鯉だ」って叫ぶと
林くんが
学生服の上着をぱっと脱いで川に飛び下りて
その鯉の上から学生服をかぶせて
鯉を抱え上げて川から上がってきたのだけれど
学生服のなかで暴れまわる鯉をぎゅっと抱いた林くんの
これまたお父さんと同じセルの黒縁眼鏡の顔が
それまで見たことがなかったくらいにうれしそうな表情だった
今でもはっきり覚えている
上気した誇らしげな顔
林くんはその鯉を抱えて家に帰っていった
ガリ勉だと思ってた彼の意外なたくましさに
鯉の出現よりもずっと驚かされた
ふだん見えないことが
何かがあったときに見えるってことなのかな
これはいま考えたことで
当時はただもうびっくりしただけだけど
ああ
でももう
ぼくは中学生ではないし
彼ももう中学生ではないけれど
もしかしたら
あの三条白川の川の水は覚えているかもしれないね
二人の少年が川の水の上から顔をのぞかせて
ひとりの少年が驚きの叫び声を上げ
もうひとりの少年が自分の着ていた学生服の上着を脱いで
さっと自分のなかに飛び込んできたことを
あの三条白川の川の水は覚えているかもしれないね
ひとりの少年が顔を上気させて誇らしげに立ち去っていったことを
もうひとりの少年が恨みにも似た羨望のまなざしで
鯉を抱えた少年の後姿を見つめていたことを


二〇一七年二月十日 「地球人に化けた宇宙人のリスト」


地球人に化けた宇宙人のリスト

正岡子規   火星人  もっと努力して人間に似せるべき
夏目漱石   アンドロイド  これは宇宙人じゃないかも、笑 
大岡 信    少なくとも地球人ではなさげ 水のなかで呼吸していると見た
梅図かずお  あの干からび度は、地球の生物のものではない
志茂田景樹  宇宙的ファッションセンス そのままスタートレック


二〇一七年二月十一日 「パンドラの『芸術/無料・お試しセット』」


パンドラのところには
じつは、もうひとつ箱が届けられていて
その箱には『芸術/無料・お試しセット』と書いてあった
あらゆるつまらない詩や小説や戯曲や
音楽や舞台や映画なんかが詰まってる箱であった
この箱が開けられるまで
世界には素晴らしい詩や小説や戯曲や
音楽や舞台や映画しかなかったのだけれど
パンドラがこの箱を開けてしまったのだった
は〜あ
歴史に「もしも」ってないのだけれど
もしも……


二〇一七年二月十二日 「花緒さんのおかげで」


いま、学校から帰ってきた。これから友だちの見舞いに。ぼくの新しい詩集の表紙をかざってくれた青年だ。あした手術なのだ。きのう新しい詩集が届いたので、きょう持って行くことにしたのだ。

友だちの病院見舞いの帰りにユニクロでズボンを2本買って帰りに西院の牛丼の吉野家で生姜焼き定食を食べて、部屋に戻ってカルメン・マキ&OZのサードを聴いていたら突然エリオットが読みたくなって岩波文庫の『荒地』を読み出したらゲラゲラ笑っちゃって、詩ってやっぱり知的な遊戯じゃんって思った

そしたら急に作品がつくりたくなってカルメン・マキの声を聞きながらワードに向かっていた。過去に自分が書いた言葉をコラージュしているだけなのだけど、ときにぎゃははと笑いながらコラージュしている。ぼくが詩を放棄したいと思っても、詩のほうがぼくのことを放棄しないってことなのかもしれない。というか、花緒さんのお励ましのツイートを拝見したことがずっと頭にあって、エリオットの詩句を見て、脳内で化学結合を起こしたのだと思う。花緒さん、ありがとうございます。きょうじゅうに、3月に文学極道に投稿する2作品ができそうです。BGMをムーミンに切り替えた。ぼくの大好きな「RIDE ON」風を感じて〜フフンフフンと、ぼくもつぶやきながら、ワードにコピペしてる。流れるリズム感じながら自由でいようってムーミンが歌うから、ぼくも自由に詩を書くのだ。現実に振り回されて生きてるけど、それでいいのだと思うぼくもいる。フフン。3月に文学極道に投稿する作品を1つつくった。あともう1つ、きょうじゅうにつくろう。こういうものは、勢いでつくらなくちゃね。ムーミンあきたし、なにかべつのものかけよう。そだ。ユーミンなんか、どうだろう。

3月に文学極道に投稿する作品のうち、2つ目をいまつくり終えた。1つ目はA4版で44ページ。2つ目はわずか14ページ。2つ目のは、これまでつくった『詩の日めくり』のなかで、もっとも短い。でも、できはぜんぜん悪くない。44ページある1つ目はめちゃくちゃって感じで笑けるし。2つ目はひじょうにコンパクト。ありゃま。まだ8時20分だ。時間があまった。3月に文学極道に投稿するのは、2つとも『詩の日めくり』だけど、4月のも、そうなりそう。

花緒さんのおかげで、短時間で2つの『詩の日めくり』ができあがりました。お励ましのお言葉で、こんなに簡単に回復してしまうなんて、ほんとに単純な人間です。お励ましのお言葉をくださり、ほんとうにありがとうございました。拙詩集、おこころにかないますように。

サバトの『英雄たちと墓』は、ぼくのお気に入りの小説だけど、ぼくのルーズリーフのページの相当分を占めちゃってて、ルーズリーフを開くたびに、ラテンアメリカ文学に集中していた30代後半のぼくの青春がよみがえる。自分の詩だけではなくて、文学そのものが、いわゆる記憶装置なのだろうね。

森園勝敏の『JUST NOW & THEN』をかけながら、部屋のなかでちょこっと踊っている。元気になった。けさまでは死んだ人間のように無気力だったのに。言葉って、すごい力を持っているのだなと、あらためて感じさせられた。


二〇一七年二月十三日 「源氏物語のなかの言葉で」


源氏物語のなかで、源氏がいうセリフにこんなのがありました。「わたしたち貴族というものは、簡単にひととの縁を切らないのですよ」と。ぼくにとっては、印象的な言葉で、記憶に残っています。


二〇一七年二月十四日 「売る戦略のために」


授業の空き時間に、レイ・ヴクサヴィッチの短篇集『月の部屋で会いましょう』を3分の1くらい読んだ。もしかしたら、きょうじゅうに読み終えられるかもしれない。とてもおもしろい短篇集だけれど、詩人の散文詩みたいな気がする。なぜ、こんなに短いのに、小説として扱われるのだろう。売る戦略かな。

忘備録:キムラのすき焼きについて、あした書こうと思う。思い出といま。大学時代のサークルの話をさいしょにもってきて、子どものころの思い出と、このあいだ森澤くんと行ったときのプチ衝撃の話。きょうは、レイ・ヴクサヴィッチの短篇集のつづきを読みながら床に就きます。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年二月十五日 「キムラのすき焼き」


大学の1年生のときに、イベントを主催するサークルに入ってて、1980年のことだけどさ、サークルのコンパが八坂神社のとこにあるすき焼きをする宴会場に決まって、そこって、ぼくんちが祇園だったから、すぐのところだったんだけど、そんなとこに宴会場があったんだってこと思ったこと思い出した。20人くらいいたかなあ。で、ぼくと同席した先輩が関東出身で、すき焼きをしきり出したんだけど、なんと、タレから鍋に入れだしたんだよね、というか、そのまえに、そのすき焼き、もやしが入っていて、びっくりしてたんだけど、でね、その先輩、タレのつぎには、野菜を入れて、さいごに肉を入れたの。もう最低って感じで食べた記憶がある。こどものころ、家が裕福だったので、週に一度、高いところで外食してたんだけど、すき焼きって言えば、キムラだった。キムラでは、牛脂を熱した鍋に入れて鍋底前面に塗り倒してから、肉を焼いて、砂糖にまぶしてから、タレを入れて、それから野菜なんかを入れていったから、その順番が正しいとずっと思っていて、3、40年ぶりに森澤くんとキムラに行って、すき焼きを食べたんだけど、二人でキムラに行くまえに日知庵で、すき焼きのつくり方の話をしていて、やっぱり肉を焼いて砂糖をまぶしてからタレを入れて野菜なんかをさいごに入れますよねって話をしていたんだけど、二人でキムラで、牛脂を鍋底に塗り塗りしていたら、仲居のおばさんが急に出てきて、「わたしがしましょうか?」って言ってくれたので、お願いしたら、大学時代の先輩のように、野菜を入れてタレを入れて砂糖を入れて、さいごに肉を入れたのだった。ぼくと森澤くんは、仲居のおばさんが野菜を手にした瞬間に目を見合わせたのだけれど、抗議する暇もなく、つぎつぎと関東風のつくり方を繰り出す仲居のおばさんのすき焼きのつくり方に目をうばわれた、つうか、あきれて、ふたりとも、口をぽかんと開けて、すき焼きが出来上がるのを待ったのだった。キムラは靴脱で靴を脱いで座敷に上がるスタイルの店で、メニューの横に、「関西風」のすき焼きのつくり方が写真付きのものが置いてあったのにもかかわらずだ。あとで、仲居のおばさんがぼくらの席から離れた瞬間に、ぼくは森澤くんの目を見ながら、「ええっ。」と言って、「こんなことってある?」って言葉をついだ。まあ、でも、関東風でもべつにまずくはなかったのだけれど、関西風だともっとおいしかったはずで、みたいな話を森澤くんとしてて、後日、日知庵でも、このプチ衝撃事件の顛末をえいちゃんに語っていたのであった。あーあ、こんどキムラに行ったら、ぜったい関西風のすき焼きのつくり方でつくろうっと。むかし、ぼくがまだ20代のころに、親切そうな顔をして近づいてくる人物にいちばん注意しなさいと、仕事場で、ぼくに言ってくれたひとがいて、その通りに、ひどい目に遭ったことのあるぼくは、こんどキムラに行ったら、いくら仲居のおばさんが親切そうに近づいてきて、すき焼きをつくってくれようとしても断ろうと決意したのであった。二十歳すぎまで祇園に住んでて、親が貸しビルをしていたから裕福だったんだけど、で、子どものころは贅沢だったんだけど、ぼくが大学院に入ったころから親が賭博に手を出して財産をすっかり使い果たしてから、ぼくも貧乏人になってしまって、自分のお金でキムラに行ったのは、冒頭に書いた通り、親と行ったとき以来、3、40年後。子どものときに行ったことのあるところを、めぐって行こうと思うのだけれど、なくなった店もある。25歳で大学院を出たあと、北大路通りに一人住まいをしていたんだけど、北大路橋のたもとに、グリル・ハセガワってあって、こんど、そこ行こうかって、このあいだ日知庵で、森澤くんと話してたんだけど、ぼくは北大路通りに15年、北山に5年住んでいて、グリル・ハセガワには、しょっちゅう行ってて、思い出もいっぱい。エビフライがとくにおいしかった。


二〇一七年二月十六日 「言語都市」


きのうから、たびたび中断していたチャイナ・ミエヴィルの『言語都市』を読んでいるんだけど、まだ38ページ目なんだけど、ちっともおもしろくないのね。このひとのも、途中からおもしろくなるタイプの書き手だから読んでいるけれど、ミエヴィルを読むのは、これでさいごにすると思う。

チャイナ・ミエヴィル『言語都市』 脱字 48ページ下段3,4行目「時間を要するもある。」→これは「時間を要するものもある。」ではないだろうか。


二〇一七年二月十七日 「言語都市」


ミエヴィルの『言語都市』、132ページ目に入るところで、脳がいっぱいいっぱいになってしまった。それにしても、1950年代や60年代のSFは読みやすかったなあ。シマックの『都市』が未読なのだが、本棚にあるので、これ読んで寝よう。少なくとも解説だけでも。きょうは、ミエヴィルに疲れた。むかしのSFの表紙はすばらしいものがたくさんあった。さいきんは、買いたいなあと思う表紙が少ない。ヴクサヴィッチの短篇集も表紙はクズだった。内容がいいので買ったけど、書店で見かけただけなら、ぜったい買わなかっただろうなあ。クスリのんで寝ます。おやすみ、グッジョブ!

チャイナ・ミエヴィル『言語都市』 脱字 120ページ下段10行目「すばやく質問ぶつけたら」→これって、「すばやく質問をぶつけたら」だと思うけど、どだろう。


二〇一七年二月十八日 「言語都市」


いま日知庵から帰った。『言語都市』いま226ページ目に突入って感じだけど、あした、どれだけ読めるのか。きょうは、もうクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年二月十九日 「吐けるだけ吐いた。」


いま日知庵から帰った。きょう眠れるだろうか。あしたは一日中、数学をしていていると思うけれど、お昼に目が覚めてたら(さいきん、日曜日のお昼は寝ているのだ)友だちのお見舞いに行きたい。行きたい。おやすみ、グッジョブ! きょうも、酒浸りの一日だった。えいちゃん、森ちゃん、ありがとうね。

いまトイレでゲロを吐いた。やっぱり焼酎は3杯が限度みたい。指を喉に突っ込んで吐けるまで吐いた。血痰が出た。咽喉をちょこっと破いちゃったみたい。あ〜あ、酒が弱いのに飲むのだな。文章がおかしかった。「吐けるまで吐いた。」じゃなくて、「吐けるだけ吐いた。」だ。もう一度、電気を消して横になって気がついた。


二〇一七年二月二十日 「言語都市」


ミエヴィルの『言語都市』268ページ目だけど、おもしろくない。よくこんな作品でローカス賞をとったなと思う。もってるミエヴィルはすべて売ろうと思う。1冊として残す価値のあるものはない。あと200ページほどある。読むけれど、できたら飛ばし読みがしたいけれど、飛ばし読みしたら、わからない作品だから精読してるけれど、苦痛だ。でも、もしかすると、読書で苦痛なのは、しじゅうかもしれない。好きな詩人の詩でも読んで、頭をやすめようかな。いや、きょうは、寝るまで、ミエヴィルの『言語都市』のつづきを読もう。かつて、ぼくのお気に入りの作家だったのだけれど、『クラーケン』がよかったからだけど、あれがピークかもしれないな。どだろ。

これがすてきでかったら、なにがすてきなのか、わからないじゃない?

Maxwell - This Woman's Work https://youtu.be/gkeCNeHcmXY @YouTubeさんから


二〇一七年二月二十一日 「ウェルギリウスの死」


きょう、職場で、ブロッホの『ウェルギリウスの死』を再読していたら、「現実とは愛のことなのだ」(だったかな)という言葉があって、あれ、これ、引用に使ったかなと心配になったのだけれど、怖くて確認できない。『全行引用詩・五部作』には使わないといけない引用だったと思われたのだった。怖い。正確な言葉を知りたいし、紐栞を挟んでおいたから、あした職場の図書館で、もう一度、確認しよう。部屋にもブロッホの『ウェルギリウスの死』があるんだけど、ページがわからないし、きょうは、もう遅いし、探すのは時間がかかりそうなので、あした職場で確認しよう。そういえば、きょうは詩人のオーデンの誕生日だったらしいんだけど、授業の空き時間には、イエイツの詩と、エリオットの詩と論考を読んでいた。オーデンは苦手なぼくやけど、部屋にもあるけど、一回、読んだだけだ。イエイツとエリオットの詩は、なんべん読んでもおもしろい。岩波文庫は、はやくパウンドの『詩章』を新倉俊一さんの訳で入れなさいよと思う。『ピサ詩篇』すばらしかったし、エリオットを入れたんだから、岩波文庫はパウンドの『詩章』を出す義務があると思う。


二〇一七年二月二十二日 「ウェルギリウスの死」


(…)おそらく窮極の現実を現わすには、そもそもいかなることばも存在しないのだろう……わたしは詩を作った、軽率なことばを……わたしはそのことばが現実だと思っていたのだが、じつはそれは美だった……詩は薄明から生じる……われわれが営み作りだす一切は薄明から生まれる……だが現実の告知の声は、さらに深い盲目を必要とする、あたかも冷ややかな影の国の声ででもあるかのように……さらに深く、さらに高く、そう、さらに暗く、しかもさらに明るいのが真実なのだ」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳、211ページ)

ルキウスがいった。「真実ばかりが問題だとはいえまい。狂人でさえ真実を語る、あらわな真実を告げることができる……真実が力をもつためには、それは制御されねばならない、まさしく制御されてこそ、真実の均斉が生ずるのだ。詩人の狂気のことがよく語られる」━━ここで彼は、わが意を得たりといわんばかりにうなずいているプロティウスを見やった━━、「しかし詩人とは、みずからの狂気を制御し管理する力をそなえた人間のいいにほかならないのだ」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳、211ページ)

愛の現実と死の現実、それはひとつのものだ。若い詩人たちはそのことを知っている、それだのにここにいるふたりは、死がすでにこの室内の、彼らのすぐわきにたたずんでいることさえ気づかない━━、彼らを呼びさましてそのような現実認識へみちびくことがまだ可能だろうか?(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、211頁)

「現実とは愛なのだ」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳、204ページ)

ひとつの自然は別の自然になりえねばならぬ(マルスラン・プレネ『(ひとつの自然は………)』澁澤孝輔訳)

学校の授業の合間に読んだブロッホの『ウェルギリウスの死』はやはり絶品だった。どのページを開いても、脳裡に届く知性のきらめきが感じられる。プレネの入っている『現代詩集』もよかった。読んで楽しくて、知的になれる読書がいちばん、ぼくには最適なような気がする。だからSF小説を読むのかな。

ミエヴィルの『言語都市』あと100ページほど。苦痛だ。会話が極端に少ないのも、その理由のひとつだろう。

いま、amazon で、1977年版のブロッホの『ウェルギリウスの死』を買った。もってるのは1966年度版で、漢字のルビが違っているので買い直した。

きょう、ツイートしたのは、1977年度版の訳で、学校の図書館にあるほうのものの訳。ぼくのもってる1966年度版だと、「制御」にルビが入っているのだ。翻訳者の川村二郎さんが、版をかえるときに、手を入れられたのだろうね、と思って、1977年度版を買った次第。無駄な出費かなあ。どだろ。

そいえば、この集英社の全集シリーズ、『現代詩集』って、1966年度版と1977年度版ではまったく別のものって感じで、文字の大きさから選ばれた詩までも違うからね。1977年度版のほうがはるかに優れているからね。買うなら、1977年度版のほうがいいよ。

歯をみがいて、クスリをのんで寝よう。今週中に、ミエヴィル読み終わって、来週には、これまた読んでる途中でほっぽりだしたイーガンの『白熱光』を読もうかなって思っている。めっちゃ読みにくい小説だった。


二〇一七年二月二十三日 「言語都市」


チャイナ・ミエヴィルの『言語都市』を読み終わった。読む意義のある作品だと思うけれど、とにかく読むのが苦痛だった。イーガンの『白熱光』をきょうから読むけど(ちょこっとだけ、以前に読んだ)これも相当ひどい読書になりそうだ。スコルジーのように、わかりやすい作家もいるけどつまらないしね。

原曲より好きなんだよね。

D'angelo - Feel Like Makin' Love https://youtu.be/mcQ83tOZ4Wk @YouTubeさんから

いま日知庵から帰ってきた。やっぱり、イーガンの『白熱光』さっぱり、わからない。そのうち、おもしろくなるのかな。その気配が希薄なんだけど、せっかく買った本だから読むつもりだ。ハーラン・エリスンの短篇集は読んでる途中で破り捨てたけれど。ひさびさに本を破いて捨てた経験だったけれど。もったいないという気持ちより、読んでて愚作であることに気がついて破いて捨てて正解だったという気持ちのほうが強い。本棚の未読本のうち、また破いて捨てるものがありませんようにと祈っておこう。きょうは、『白熱光』のつづきを読みながら寝る。おやすみ。


二〇一七年二月二十四日 「白熱光」


数学の仕事が順調に終わったので、神経科医院に行くことにする。担当医に、1月と2月は自殺願望が強烈だったので、その報告をしなければならない。記憶障害も起こしていた。極めて危険な状態であったが、今回もなんとか乗り切った。しかし、いま現在も精神状態は不安定なので、わからないけれど。

いま医院から帰ってきた。24人待ちで、こんな時間までかかったのだけれど、待ち時間が長いのを知っていたので、そのあいだ日知庵に行って、ジンジャーエールを2杯と焼き飯とイカの姿焼きを飲み食いしてた。イーガンの『白熱光』も読んでいたが、100ページを超えても、話の内容さっぱりわからず。

寝るまえの読書は、わかりやすいのがいいと思うので、ディックの短篇集にしようと思う。単行本で、『人間狩り』を持っているのだけれど、まだページを開けたこともなかった。文庫の短篇集で、まあ、たぶん、ほとんど収録されているものはすでに読んでると思うので手にしなかっただけだけど。しかし、チャイナ・ミエヴィルといい、グレッグ・イーガンといい、なんで、こんなに読みにくいものを書くんだろうか。ゲーテの『ファウスト』や、ブロッホの『ウェルギリウスの死』や、ニーチェの『ツァラトゥストラ』や、エリオットの『荒地』なんかのほうが、ぜえったい、百万倍、読むのがやさしい。まあ、そういう表現でしか見られないものがあると、感じられないものがあるということなんだろうけれど。そういえば、はじめてニュー・ウェーブやサイバー・パンクやスチーム・パンクを読んだときにも、読みにくいなって感じたな。そうか。そのうち、もっと読みにくい作家が出てくるかもしれないな。


二〇一七年二月二十五日 「福ちゃん」


いま日知庵から帰った。帰りに、Fくんの男っぽい姿をみて、あらためて好きになった。まあ、まえからずっと好きだったのだけれど。もしも、ぼくが若くてかわいい女だったらなあ。ぜったい放さない。


二〇一七年二月二十六日 「すぐに目が覚めた。」


1977年度版のブロッホの『ウェルギリウスの死』が郵便受けに届いてた。とてもいい状態だったのでうれしい。1966年度版は捨てます。おやすみ、グッジョブ。

いまトイレで、指を喉に突っ込んでゲロを吐いた。お酒好きなんだけど、弱いんだ。ああ、でも、ゲロも慣れてきたから、いいか。ぼくみたいにお酒に弱い詩人って、いままでいたのかなあ。指を喉に突っ込んではゲロを吐く詩人。ありゃ、またゲロしたくなった。トイレに入って、指を突っ込んできます。

クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! クスリのんだあと、吐くかなあ。どだろ。微妙。基本、ぼくののんでるクスリ、お酒だめなんだけどね。まあ、いいか。吐いても、あした、日曜日だし、休みだし。もう一回、指突っ込んで吐いてからクスリのもうかな。どうしよう。おやすみ、グッジョブ!

すぐに目が覚めた。一時間くらいしか寝ていない。まだ目がしばしばしてるけど。

イーガンの『白熱光』読みにくさでは、ミエヴィルを上回る。150ページ読んでも、さっぱりわからない。ミエヴィルもイーガンも二度と買うことはないと思う。タバコ吸ったら、なんか短篇集でも本棚から物色して読もう。

体験とその体験がこころにもたらせたものが、最初に、ぼくに詩を書かせたのだと思っていた。じっさい、そうだったのだ。しかし、人間というものよりも、言葉のほうをより愛している自分がいることに気がついたとき、言葉こそが真の動機であったことに思い当たったのであった。言葉というものの存在が。


二〇一七年二月二十七日 「詩とはなにか。」


詩とはなにか。言葉だ。言葉以外のなにものでもない。


二〇一七年二月二十八日 「詩は」


詩はもっともよく真実に近づいたとき、もっともよく騙しているのだ。


二〇一七年二月二十九日 「生きるというのは」


他者に欺かれていたことを知るのは単なる屈辱でしかない。
生きるというのは、自分自身を欺きつづけることにほかならない。


二〇一七年二月三十日 「白熱光」


携帯に知らないひとからメールがきてるんだけど、ぼくの名前を間違えてるので返信しなかった。音楽仲間というか、バンド関係者と間違えてるふうを装っているところが巧妙だなと思うのだが、56歳のおっさんがそんな詐欺にひっかかるわけがないだろうと思うのだが。ガチでバカなやつらがおるんやな。

寝るまえの読書は、フランク・ハーバートの『神皇帝』第2巻のつづき。イーガンの『白熱光』は、152ページでとまった。


二〇一七年二月三十一日 「現代詩集」


集英社の世界文学全集の『現代詩集』を、きょうも読んでいたのだが、レベルが高い詩が多くて、なぜ、日本の詩にはよいものが少ないのか、情けない気持ちがする。たくさんよいものを書きつづけていたのは西脇順三郎か、吉増剛造くらいしかいない。吉岡 実も『薬玉』くらいしかよいものを書いていない。「僧侶」も、さいしょはおもしろいと思ったが、構造が単純すぎることに気がついてから、読み直したことがない。繰り返し読めるのは、『薬玉』くらいである。吉増剛造さんも、身ぶりにわざとらしさが出てくるようになってからは、まったくつまらなくなってしまったし。しかし、ところで、そうして、だから、日本の詩がおもしろくなければ、自分がおもしろいものを書けばいいのである。ということで、ぼくは書きつづけているのだなと思う。『全行引用詩・五部作・上下巻』など、ぼく以外のだれにも書けなかった作品集であったなと思う。

これから王将に行く。遅い時間には、日知庵に行く。きょうは、ゲロを吐かないように、お酒の量を調節したい。数日前は記憶が吹っ飛んでしまったからね。お酒の量がわからなくなるなんて、バカみたいだけど、バカだし、しようがない。ただいま現在、56歳、かしこくなる年齢はやってくるのでしょうか。


詩の日めくり 二〇一七年三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年三月一日 「ツイット・コラージュ詩」


ブックオフで、ぼくの持っている状態よりよい状態のカヴァーで、フランク・ハーバートの『神皇帝』第一巻から第三巻までが、1冊108円で売っていたので、買い直して、部屋に帰ってから、持っているもののカヴァーと取り換えた。本体は、持っているもののほうがよかったので、カヴァーだけを換えたのだった。持っていたものは、本体だけ残してカヴァーは捨てた。持っていたもののほうの本体は、お風呂場ででも読もうかと思う。

きょうは、ユーミンを聴いてた。「海を見ていた午後」は、何回繰り返し聴いてもよいなと思える曲だ。歌詞が、ぼくの20代のときのことを思い起こさせる。アポリネールの「ミラボー橋」の「恋もまた死んでいく」のリフレインがそれに重なる。もしも、もしも、もしも。人間は、百億の嘘と千億のもしもからできている。

いま日知庵から帰った。行くまえに、amazon で自分の詩集の売れゆきをチェックしていたら、日知庵のえいちゃんといっしょに詩集の表紙になった『ツイット・コラージュ詩』(思潮社2014年刊)が売れてたことがわかって、へえ、いまでも買ってくださる方がいらっしゃるんだってこと、えいちゃんに話してた。


二〇一七年三月二日 「発狂した宇宙」


きょう見た夢のなかの言葉、枕もとのメモパッドに書きつけたもの。「あっちゃんが空を見上げると、太陽が2つずつのぼってくるんやで」 意味はわからず。しかし、これは、メモしなきゃと思って夢からさめてすぐにメモした言葉だった。もうどんな情景での言葉だったのかも忘れてしまった。

けさから、フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』を読んでいる。


二〇一七年三月三日 「退院祝い」


これから日知庵に。友だちの退院祝いで。先月、思潮社オンデマンドから出た、ぼくの詩集『図書館の掟。』の表紙になってくれた友だちだ。2月の14日に、脳腫瘍の手術をしたのだった。もちろん、手術は成功だった。10万人に3人の割合でかかる部類の脳腫瘍だったらしい。

いま日知庵から帰った。フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』を半分くらい読んだけれど、筒井康隆が絶賛した気持ちがわからない。まあ、発表された当時としては、おもしろかったのかもしれない。ぼくが傑作というのは、時代を超えたシェイクスピアとかゲーテの作品とかだからかもしれない。

amazon で、フレデリック・ブラウンの『火星人ゴーホーム』を買った。旧版のカヴァーだからだけど、むかし読んで捨てたやつだけど、カヴァーがかわいらしくて、再購入した。いい状態のカヴァーだったらうれしいな。中身は読んだから、本体の状態はどうでもよい。

寝るまえの読書は、フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』のつづき。はてさて、さいごまで読めるだろうか。このあいだ、イーガンの『白熱光』を152ページでやめてしまった。これは、どうかな。あと半分。読みやすいけれど、ドキドキ感はなし。


二〇一七年三月四日 「いつもと変わらない宇宙」


いま、きみやから帰ってきた。5軒めぐり。きょうもヨッパである。つぎの日曜日にはカニ食べまくりの予定である。まじめに生きて行こうと思う。つぎの日曜日までは。今週は、何冊読めるかな。きょうは、寝るまえの読書は、フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』のつづきを読む。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年三月五日 「フトシくん」


いま日知庵から帰ってきた。かなりヨッパ〜。でもまあ、寝るまえに、フランク・ハーバートの『神皇帝』第3巻のつづきを読んで寝るつもり。詩人も作家も、死ぬまでに傑作を1つ書いたら、役目は終わってると思うのである。ぼくのは、どれかな。「Pastiche」かな。どだろ。

ユーミンのベスト聴いていて、「守ってあげたい」を歌ってくれたフトシくんのことが思い出された。ぼくが22、3才で、フトシくんが20才か21才だったと思う。どれだけむかしのことだろう。そのときのことがいまでも生き生きとして、ぼくのなかで生きているって、ほんとに人間の記憶って不思議だ。きのうのことでも、はっきり覚えていなかったりするのにね。


二〇一七年三月六日 「ぼく以外、みんな中国人だった。」


日知庵から帰って、セブイレでシュークリーム2個買って食べて、ミルク1リットル飲んで、これから寝る。きょうもヨッパであった。さいご、ぼく以外、お客さんがみな中国人だった。10人以上いたな。たしか、15人はいたと思う。日知庵も国際化しているのだった。


二〇一七年三月七日 「火星人ゴーホーム」


いま日知庵から帰って、帰りにセブレで買ったペヤング焼きそば大盛りを食べた。フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』あと10ページほど。このあと、なにを読もうかな。きょう amazon から到着したフレデリック・ブラウンの『火星人ゴーホーム』はいい状態だった。これを再読しようかな。


二〇一七年三月八日 「きょうは日知庵で一杯だけ」


きょうは一杯だけ飲んで帰ってきた。調子が悪い。こんどの土曜日には大谷良太くんがくる。

きのうは、文学極道で、ぼくの詩を読んでくださってた方が、ぼくのベスト詩集『ゲイ・ポエムズ』(思潮社2014年刊)を買ってくださってたし、なんだか、いい感じ。詩を書きはじめたとき、生きているあいだに、ひとに認められることはないと思っていたぼくとしては、ひじょうにうれしい。

きょうは、ハインラインの『宇宙の戦士』をブックオフで買った。もう3回以上、買ってる気がする。読んでは捨ててる部類の小説だ。まあ、カヴァーの絵が好きなだけのような気もするが、仕方ありませんな。ほんと好みですからね。

いま、フランク・ハーバートの『神皇帝』第3巻を数十年ぶりに読み直してるんだけど、フランク・ハーバートのような、わかりやすいSFは、もう二度と書かれないような気がする。古いもののよさもある。というか、ぼくは、もう古いものにしか目が向けられないような気がする。

本棚にある書物を処分しているのも、その兆候のひとつだろう。SFとしては、50年代から60年代に書かれたものが、ぼくにはいちばん合っているような気がする。文学全体で眺め渡すと、シェイクスピア、ゲーテ、19世紀初頭から20世紀末までの詩人たちかなあ。おもに欧米の詩人たちだけど。

『神皇帝』の第3巻のつづきを読みながら寝ます。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年三月九日 「ほんとに酒に弱い」


いま日知庵から帰ってきた。きょうヨッパだけど、いつもの2倍くらいかも。もう寝る。おやすみ、グッジョブ!

朝、6時すぎにゲロった。いま二度目だったけど、からえずきだけだった。お酒に弱い。


二〇一七年三月十日 「けっきょく、エビフィレオ」


きょう、夜は八雲さんとこで、森澤くんとカニを食べる。そのまえに、今日のお昼は、マクドナルドにしよう。フィレオフィッシュのセットにしよう。

エビフィレオにした。

八雲さんとこから帰った。カニ、そんなに感動しなかった。まあまあのおいしさだったけれど、もう旬ではないものね。やっぱ旬のものがいいね。


二〇一七年三月十一日 「なぜかこわい」


お風呂場から、水の滴る音がする。こわいから、とめてこよう。


二〇一七年三月十二日 「ぼくのは難しい?」


チューブで70年代ポップスを聴いている。ここちよい。わかりやすい。きょう、ぼくの詩集を2ページ読んで、わからないから読むのをやめたと、ひとりの青年に言われて、それは作者の責任だねと答えた。『THe Pooh on the Hill。』だったのだけれど、ぼくのは難しいのかな。

ぼく自身は、笑っちゃうくらい、おもしろい作品だったのだけれど。すると、もうひとりの青年からも、「あっちゃんの詩は難しいよね。」と言われて、ちょっと、しゅんとなった。ぼくくらい、わかりやすい作品を書く詩人はいないと思っていたので。そういえば、むかし、大岡 信さんに、「あなたの使う言葉は易しいけれど、詩自体は難しい。」と言われたことや、ヤリタミサコさんに、「田中宏輔の詩は難解であると思われているが……」と書かれたことが思い出された。ぼくの作品ほど単純な作品はないと思うのだけれどね。どこが難しいのか、ぼくには、ぜんぜんわからない。

しかし、こんど思潮社オンデマンドから出した『図書館の掟。』のタイトルポエムにも書いた詩句にもあるけれど、無理解や無視というものが、当の芸術家にとっては、いちばんよい状態であるとも思えるので、まあ、いいかなと思える。無名性というものが大事なこともしじゅう書いているが、まあ、その無名性が、自分にとっては大切な要素なのかもしれないとも思うしね。また死ぬまで詩集を出しつづけると思うけれど、どの1冊も同じフォルムのものはないので、採り上げる人も面倒くさいし、採り上げづらいだろうしね。しょうがないね。

本来、詩は少数の読者でいいものかもしれないしね。ぼくの詩集も、どなたか知らないけれど、amazon で見たら、全部、買ってくださってらっしゃる方がいらっしゃって、もちろん、その方とは面識もないし、お名前も存じ上げないのだけれど、どういった方なのかなってのは思う。


二〇一七年三月十三日 「原曲を超えること」


ジョン&オーツの『シーズ・ゴーン』をいま聴いてる。原曲よりいい。原曲を超えるのって、むずかしいと思うけれど、ときどき、ハッとするアレンジに出くわすよね。リンゴの『オンリー・ユー』にも、むかし、びっくりした。最近では、デ・アンジェロの『フィール・ライク・メイキング・ラブ』かな。


二〇一七年三月十四日 「大量処分」


日本語の未読の本を大量に処分した。これで、日本語の未読の本は10冊くらいになった。これからの人生は、シェイクスピアの戯曲とか、ゲーテの作品とか、イエイツやT・S・エリオットやディラン・トマスやD・H・ロレンスやジェイムズ・メリルやエミリー・ディキンスンやウォルト・ホイットマンやウォレス・スティヴンズやW・C・ウィリアムズやエズラ・パウンドといった大好きな詩人たちの詩の再読に大いに時間を費やそうと思う。

再読したいと思っている小説もたくさん残しているので、ぼくの目は、もう傑作しか見ないことになる。それは、たいへんここちよいものであると思われる。どう考えても、ぼくの脳みそはもう、ここちよい傑作しか受け付けなくなってしまっているのであった。サンリオSF文庫も8冊しか残していない。

時間があれば、それらの詩などを手にするであろう。そうして、それらの再読が、ぼくにインスピレーションを与えることになるであろう。いままで大量の本を読むことに時間を費やしてきたが、大事なことは、大量の本を読むことではなく、読むことでインスピレーションを与えられることであったのだった。

本棚の本を大きく入れ替えて整理し、目のまえの棚はすべてCDで埋め尽くした。本はその両横とその横、向かい側の本棚に収めた。2重になっているのは、聖書関連の資料だけだ。聖書を題材にした作品はたくさん書いてきたが、散文で1冊、聖書を題材にしたものを書きたくて、それらは残したのであった。

中央公論社の『日本の詩歌』も、好きな詩人たちのものがそろっているので、きっと再読するだろう。ぼくがはじめて詩を書いた『高野川』のころのぼくには、もう戻れないと思うけれど、ぼくの作品は、これからますます単純化していくような気がしている。おそらく、それは、『詩の日めくり』に反映されるだろう。

齢をとって、この詩人はろくなものしか書けなくなったと言われるだろうと思うけれど、ひとの言葉に耳を傾けることをしたことがなかった詩人なので、そんなことはどうでもよい。いまは単純化に向かって歩んでいきたいと思っている。まあ、もともと、ぼくは、難しい言葉を使う書き手ではなかったけれど。

いったん脳みそをまっさらにしたいと思ったのだった。ひさしく英詩の翻訳もしていなかったが、それも再開したいと思っている。英詩の翻訳は、日本語で詩を書く場合よりも、言葉と格闘している感じがして、脳みそをたくさん動かしてる気がするからである。とにかく脳みそをまっさらな状態で動かしたい。

以前に amazon で買った イエイツの全詩集は、ペーパーバックで1500円ほどだったが、いま amazon で買った T・S・エリオットのは、全詩集+全詩劇のペーパーバックで、2562円だった。外国では、古い詩人ほど安いのだろう。ジェイムズ・メリルのはずいぶん高かったものね。

まあ、ページ数が違うのだけれども。ジェイムズ・メリルは書いた詩の量が多かったから仕方ないのだろうけれど。ぼくも書く量が多いので、死んでから全詩集をだれかが出してくれるとしても、たいへんな作業になると思う。ヴァリアントがいくつもあって、「反射光」だけでも、4つのヴァリアントがある。ぼくが20数冊出した詩集のうち、4冊の詩集に収録しているのだった。

げっ。以前に原著のシェイクスピア全集があったところを見たらなくなっていた。と思ったら、背中のほうの棚にあった。よかった。いくら古典でも、これは安くなかったからね。あと4冊、日本語の本の本棚から出さなくてはバランスが悪い。古典と傑作しか残していないので、その4冊を選ぶのがたいへん。

迷ってたんだけど、いま amazon で、Collected Poems of William Carlos Williams の第一巻と第二巻を買った。合計5700円ちょっと。そいえば、John Berryman の THE DREAM SONGS を買ってたけど 読んでない。読みやすいやと思って、ほっぽってた。いま見たら、385個の詩が載ってるんだけど、すべての詩が1ページに収まる長さで、しかも、すべての詩篇が、6行で一つの連をつくっていて、それが3連つづくのだけれど、そういうスタイルの定型詩なのかな。ジョン・ベリマン、彼もまた自殺した詩人のひとり。

ふう、いままで amazon で本を買ってた。でも、20000円は超えなかったと思う。もしかしたら超えたかもしれない。T・S・エリオット、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、ホイットマン、ディラン・トマス、エミリー・ディキンスン、ウォレス・スティヴンズ。もう寝よう。ぜんぶ全詩集。そいえば、OXFORD UNIVERSITY PRESS から出てる 20TH-CENTURY POETRY & POETICS の読みも中断していた。まだ、ロバート・フロストだ。

いま、amazon のアカウントサービスで注文履歴を見て、電卓で合計したら、14584円だった。計算ミスがなければ、安くてすんだな。ディラン・トマスのものが入荷未定なので、もしかしたら、購入したものが手に入らないかもしれないけれど。もう一度、アカウントサービスで注文履歴を見よう。

もう一度、計算しても、同じ金額だったので、ひと安心。クスリをのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

そいえば、このあいだ、森澤くんとふたりでカニを食べたときに支払った金額が15000円ジャストだったので、それよりも、きょうの買い物のほうが安かったってことだな。なんちゅうこっちゃろか。まあ、本代と食事やお酒代をいっしょにしたら、あかんのだけれどもね。クスリのんだしPCのスイッチ切ろうっと。


二〇一七年三月十五日 「夢」


ぼくが高校一年生で、高校を転校する夢を見た。一時間目の授業は、体育の時間であったにも関わらず、教室で授業だった。先生の名前は中村私(わたしと読む)という名前で、困ったことがあったら、私のところに相談しにきなさいと言っていた。二時間目は理科の授業で、女の先生で、「きょうは授業はしません。おしゃべりします。」と言われたので、教室中が大喜びであった。と、そこで目が覚めた。これからマクドナルドに行く。帰ってきたら、きのうメモしたものを書き込んでいく。体育の先生は、ぼく好みで、ガチムチの若い先生(30歳いってない)であった。かわいらしいお顔をしてらっしゃった。


二〇一七年三月十六日 「驚くべきことに」


恋人の瞳に映った自分の顔ほどおぞましいものはない。
目は2つもあるし
鼻は1つしかない。
耳にいたっては
頭の両端に1つずつもあるのだった。


二〇一七年三月十七日 「いくつかのメモ」

2017年3月21日メモ

鳥には重さがない
もしも重さがあったとしたら
飛べないからである
翼を動かしているのは
あれはただたんに
空気をかき混ぜているのである
鳥が鳴くとピーッという音になる
音が鳴りやむと
鳥の姿に戻る
鳥は物質であり音でもある
鳥は音が物質化した一例である


2017年3月21日メモ

空間は時間が存在するところでは曲がるが
時間の存在しないところでは直進するか静止している。

時間は空間が存在しないところでは曲がるが
空間が存在するところでは直進するか静止している。


2017年3月2日のメモ

白人とは白いひとのことである。黒人とは黒いひとのことである。しかし、ぼくはまだ白いひとも、黒いひとも見たことがない。白人とは白いひとのことである。黒人とは黒いひとのことである。


日付けのないメモ

砂でできた葉っぱ
夕日でできた蟻


日付けのないメモ

本の本
秘密の秘密
毒の毒
先の先
洗濯機の洗濯機
言葉の言葉
自我の自我
穴の穴
空白の空白


二〇一七年三月十八日 「STILL FALL THE RAIN。」


きょうは、お昼の2時に大谷良太くんが部屋にきてくれるので、それまで、来年、思潮社オンデマンドから出す予定の詩集『STILL FALL THE RAIN。』の編集でもしてようかな。収録作品は、「STILL FALL THE RAIN。」前篇と後篇の2作品のみ。もちろん、どちらも長篇詩。そいえば、ぼくの大恩人であるヤリタミサコさんに捧げる、『STILL FALL THE RAIN。』 ぼくは、前篇はすこし憶えているのだが、後篇にいたってはまったく何を書いていたのか記憶しておらず、ふたたびワードを開くのが楽しみだけれど、怖くもある。


二〇一七年三月十九日 「洋書の全詩集は安い。」


いまロバート・フロストの全詩集も、amazon で買った。洋書は安い。1620円だった。まあ、これで、ここ何日かのあいだに買った洋書の全詩集は、日曜日のふたりのカニ代より多くなったわけだが、まあ、よい。フロストの詩は読んでても訳してても、ここちよい。たいへんみずみずしいのだ。


二〇一七年三月二十日 「接触汚染」


いま日知庵から帰ってきて、帰りにセブイレで買ったインスタントラーメンを食べたばかり。本棚を整理したので、どこになにがあるか、だいたいわかった。日本語の小説を読む機会はあまりなくなったけれど、翻訳された英詩は読む機会が多くなったと思われる。日本語で本棚に残っているのは、表紙の絵がお気に入りのもので、かつ傑作であるものか、古典か、シリーズものだけである。デューンのシリーズは手放せなかった。リバーワールドものも手放せなかった。ヴァレンタイン卿ものも手放せなかった。ワイルドカードものも手放せなかった。その他、お気に入りのシリーズ物は手放せなかったし、傑作短篇集の類のものも手放せなかった。また単独のもので、表紙の絵が良くなくても、内容のよいもの、たとえば、スローリバーなども手放せなかった。本棚に残った日本語の小説は、どれも再読に耐えるものである。一方、詩に関しては、研究書も含めて、1冊も手放していない。

詩に関しては、自負があるのだろう。あしたからは、英詩に集中しよう。日本語の詩や小説は、通勤時間や、授業の空き時間や、寝るまえの時間に読むことにしようと思う。いま気になっているのは、SFの短篇で、同じ顔の美男しかいない惑星に到着した宇宙船の話で、手放していないかどうかだけである。のちに女性も同じ顔になる伝染病的な話で、宇宙船の乗組員の女性がそのことに気づいて怖気づくというところで終わっていた話である。手放した短篇集もあるので、それだけが気がかりで、これから、その作品が本棚に残っているかどうか、調べてから寝る。手放していなければよいのだけれど、どかな。探し出せれば、ツイートする。その作品は、だれが書いたのかも憶えていないし、どの短篇集に載っていたのかも忘れたのだけれど、「冷たい方程式」と同様に、その作品ひとつで、SF史に残ってもいいくらいに、よくできた作品だったと思う。いや〜、これから本棚をあさるのが怖い。でも、どこか楽しい。

やった〜。見つけた。残しているSF短篇集のなかにあった。キャサリン・マクレインの「接触汚染」だった。SFマガジン・ベスト1の『冷たい方程式』の冒頭に収められていた。よかった〜。ようやく探し出せた。なんだ、こんなところにあったのか。いっぱい本を引っ張り出してきてはページをめくっていたのだが、ファーストコンタクトものだったということに気がついて、さいしょ、「最初の接触」かなんかというタイトルだと思って、メリルの傑作選やギャラクシーの傑作選や年代別の傑作選などをあさっていたのだが、ああ、接触して汚染される話だったから、「接触汚染」というタイトルかなと思ってネット検索したら、SF短篇集『冷たい方程式』に入っているというので、本棚を探したら、あったので、本文を読んで、ああこれやと思った次第。手放してなくってよかった。これで安心して眠れる。きょう寝るまえの読書は、なににしようかな。せっかくだから、SF短篇集『冷たい方程式』にしよう。いま調べたら、2011年に再版された新しいSF傑作選『冷たい方程式』には「接触汚染」が入っていないんやね。旧版からのものは、トム・ゴドウィンのタイトル作品とアシモフの「信念」の2篇のみしか入っておらず、残り7篇がほかのものに替わっている模様。新しい『冷たい方程式』も手に入れたい。しかし、日本語の本の本棚には、もう本を入れる余地がなかったので、購入はやめておこう。さっき、「接触汚染」を探しているときに、数多くのSF傑作選をパラパラめくっていたら、ぜんぜん記憶にないものが多かったので、それを読んでもいっしょかなって思ったことにもよる。また、新たに収められた7つの短篇のうち、1作が、ウォルター・テヴィスの「ふるさと遠く」で、それ持ってるからというのにもよる。うううん。早川書房、あこぎな商売をしよる。ディックの傑作短篇集みたいなことしよる。なんべん同じ短篇を入れるんやと思う。しかも、傑作の「接触汚染」をはずして。


二〇一七年三月二十一日 「人間の手がまだ触れない」


いま日知庵から帰った。きょうは、例のオックスフォード大学出版から出た英詩のアンソロジーで、ロバート・フロストの詩を5つ読んだ。どれも、ぼくには新鮮な感覚。既訳があるなしに関わらずに、訳していこうかな。既訳は無視することにする。といっても、記憶に残っている訳もあるのだけれど。

きょうの寝るまえの読書は、ロバート・シェクリイの短篇集『人間の手がまだ触れない』にしよう。旧版のカヴァーなので、かわいらしい。創元SF文庫も、ハヤカワSF文庫も、なぜ初版のままのカヴァーを使わないのか不思議だ。版を替えると、カヴァーの質が確実に落ちる。ぼくには理由がわからないな。


二〇一七年三月二十二日 「ロバート・フロストの短編詩、2つ」


ようやく目がさめた。きょうは、ロバート・フロストの英詩を翻訳しようと思う。できたら、楽天ブログに貼り付けよう。

ロバート・フロストの「Fire and Ice」である。これには、ぼくの知ってるかぎりで、2つの既訳がある。そのつぎに訳すものは、既訳があるのかないのか調べていない。


Fire and Ice

Robert Frost

Some say the world will end in fire,
Some say in ice.
From what I’ve tasted of desire
I hold with those who favor fire.
But if it had to perish twice,
I think I know enough of hate
To say that for destruction ice
Is also great
And would suffice.


火と氷

ロバート・フロスト

世界は火に包まれて終わるだろうという者もいる。
また氷に覆われて終わるだろうという者もいる。
わたしが欲望というものを味わったところから言えば
火を支持するひとびとに賛成する。
しかし、世界が二度滅びなければいけないとしたら
わたしは憎悪については十分に知っていると思っているので
それを言えば、破滅というものについては
氷もまたおもしろいものであり
そして十分なものであるだろう。


ロバート・フロストの「Stopping by Woods on a Snowy Evening」を訳した。

Stopping by Woods on a Snowy Evening

Robert Frost

Whose woods these are I think I know.
His house is in the village though;
He will not see me stopping here
To watch his woods fill up with snow.

My little horse must think it queer
To stop without a farmhouse near
Between the woods and frozen lake
The darkest evening of the year.

He gives his harness bells a shake
To ask if there is some mistake.
The only other sound’s the sweep
Of easy wind and downy flake.

The woods are lovely, dark and deep,
But I have promises to keep,
And miles to go before I sleep,
And miles to go before I sleep.


雪の降る夜に森のそばに立って

ロバート・フロスト

これがだれの森かはわかっているつもりだ。
そいつの家は村のなかにあるのだけれど。
彼はここに立ちどまって、ぼくの姿を見かけることはないだろう。
雪でうずくまった自分の森を目にはしても。

ぼくの小馬は奇妙な思いにとらわれるだろう、
近くに一軒も農家のないところに立ちどまったりすることには。
森と凍りついた湖のあいだで
一年でいちばん暗いこんな夜に。

小馬は馬具の鈴をひと振りする
なにかおかしなことがありはしないかと尋ねて。
ただひとなぎの音がするだけ
ゆるい風とやわらかい降る雪の。

森は美しくて、暗くて、深い。
でもぼくは誓って約束するよ。
眠るまで、あと何マイルか行かなくちゃならない。
眠るまで、あと何マイルか行かなくちゃならない。


ロバート・フロストの詩、あと2つか、3つくらい訳したいのだが、さすがに下訳の必要な感じのものなので、西院のブレッズ・プラスに行って、ランチを食べて、そこで下訳をつくってこよう。さっきの2つは、ぶっつけ本番で訳したものだった。

お昼に訳してた箇所で、明らかな誤訳があったので手直しした。ああ、恥ずかしい。しかし、こういった恥ずかしい思いが進歩を促すのだと、前向きに考えることにする。

ロバート・フロストのひとつの詩に頭を悩ませている。おおかたの意味はつかめるのだが、1か所でつまずいているのだった。その1か所も情景は浮かぶのだが、日本語にスムースに移せないのだった。原文の写しをもって、これからお風呂に入る。きょうは訳せないかも。眠ってるうちに、無意識領域の自我が、ぼくになんとか訳せるようなヒントを与えてくれるかもしれない。そんな厚かましい思いをもって、お風呂に入って、原文を繰り返し眺めてみよう。お風呂から上がったら、きょうは早めに寝よう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年三月二十三日 「手を入れ過ぎかな。」


いままた昼に楽天ブログに貼り付けたロバート・フロストの英詩の翻訳に手を入れていた。潜在意識が、あそこの訳はダメだと言ってくれているのか、ふと思いついて、読み直したら、やはりおかしなところがあって、手直しした。やはり潜在意識は顕在意識よりもえらいらしい。ちょこちょこ直す癖もあるが。

いままた、またまた読み直してたら、一か所、おかしなことになっていたので(「ひと振り」と書いてたつもりのところが「ふと振り」になってたのだ)、手直しした。思い込みが気づかせなかったのだろう。20数冊はあるこれまでの詩集の編集をしていても、思い込みで書き間違っていた箇所が数か所ある。「あったりはしないかと」を「ありはしないかと」に直した。手を入れるごとに、訳詩全体の音楽性が高まっていくような気がした。また気がついたら、手を入れよう。寝るまえに、風呂で読んでたロバート・フロストの英詩を読もう。自然な日本語にするのが難しい感じの詩だが、それだけにやりがいがある。


二〇一七年三月二十四日 「Acquainted with the Night」

潜在意識のお告げもなく目が覚めた。コーヒー飲んで、もっと目を覚まそう。そして、ロバート・フロストの英詩と格闘するのだ。そのまえに、コーヒー飲んだら、朝食に、セブイレでおでんとおにぎりでも買って食べよう。それとも西院に行って、吉野家か松家に寄ろうかな。まあ、ひとまずコーヒーが先だ。

いま、ロバート・フロストの「Acquainted with the Night」の訳を楽天ブログに貼り付けた。

https://plaza.rakuten.co.jp/tanayann/diary/201703250000/

これまた、きょうじゅうに何度も手を入れそうな感じだけれど、次に訳そうと思うフロストの詩にかかりたい。かなり長い詩なのだ。


Acquainted with the Night

Robert Frost

I have been one acquainted with the night.
I have walked out in rain—and back in rain.
I have outwalked the furthest city light.

I have looked down the saddest city lane.
I have passed by the watchman on his beat
And dropped my eyes, unwilling to explain.

I have stood still and stopped the sound of feet
When far away an interrupted cry
Came over houses from another street,

But not to call me back or say good-bye;
And further still at an unearthly height,
One luminary clock against the sky

Proclaimed the time was neither wrong nor right.
I have been one acquainted with the night.


わたしは夜に精通しているのさ

ロバート・フロスト

わたしは夜に精通している者なのだった。
わたしは雨のなかを突然歩き去る──もちろん、その背中も雨のなかだ。
わたしは都市の最果ての街明かりのあるところをもっと速く歩いていたのだ。

わたしはもっとも悲しい都市の路地に目を落としたのだった。
わたしは巡回中の夜警のそばを通り過ぎたのだった
そいつはわたしの目を見下ろしたのだった、その目はしぶしぶと事情を語ってはいたろうが。

わたしは静かに立って、足音をとめたのだった。
なぜなら、遠くで出し抜けに叫び声がしたからだった
別の通りにある家々のまえを横切って聞こえてきたのさ、

でもだれも、わたしのことを呼びとめもしなかったし、別れを告げもしなかったのだ。
そしてさらにいっそう静かなところ、超自然的なくらいに高いところに
空を背景にして、ひとつの時計が光っていたのさ。

そいつが時間を教えてくれることは悪いことでも善いことでもないのさ。
なぜなら、わたしは夜に精通している者なのだったからさ。


二〇一七年三月二十五日 「チンドン屋さんたち」


天下一品で、焼き飯定食のお昼ご飯を食べてから歩いて西大路四条を横切ったら、チンドン屋さんたち(先頭・男子、あとふたり着物姿の女子の合計三人組)に出くわした。何年振りのことだろう。昭和でも、ぼくの子どものころには目にしていたけれど、近年はまったく目にしなかった。まだいてはるんやね。


二〇一七年三月二十六日 「しょうもない話」


きのう、日知庵で、えいちゃんに、昼間、チンドン屋さんたちを見かけたと話してたのだけれど、そういえば、ぼくが子どものころ、いまから50年ほどむかしには、クズ屋さんというのもあったんやでと話してたら、1週間ほどまえに阪急の西院駅の券売機のところで目にした情景が思い出されたのであった。クズ屋さんというのは、背中にかごを背負って、そこに、長いトングで道端で拾ったものを入れていくおじさんだったのだけれど、なにを拾っていたのかは憶えていない。木の棒の先に突き出た釘の先のようなものでシケモクというものを刺して集めていたおじさんもいたような気がするのだが、西院駅の券売機のところで、身なりのふつうのおじさんが、ちょっと長髪だったけれど、さっと身をこごめてシケモクを拾ってズボンのポケットに入れる様子を、ぼくの目は捉えたのであった。シケモクというのは、吸いさしのタバコのことで、いまはあまり道端に落ちていないけれど、むかしはたくさん落ちていた。そんな話をしていると、えいちゃんが、しょうもない話やなと言うのだった。ぼくの書く詩は、そんなしょうもない、くだらない話でいっぱいにしたい。そして、ぼくのしょうもない、くだらない話以上にしょうもない、くだらないぼくは、翻訳もせずに、これからまた日知庵に飲みに行くのであった。飲みに行って帰ったら寝て、目が覚めたらまた飲みに行くというしょうもない、くだらない自堕落な生活が、ぼくの生活であり、さもいとしい生活なのであった。

追記:日知庵に行く途中、西院駅に向かって歩いているときに、この日本語が頭にこだましていたのであった。「さもいとしい」 こんな日本語はダメだねと思って、駅について、「さもしく、いとおしい」にしなければならないと思われたのであった。これは、ぼくの日本語の未熟さを語る一例なのであった。

いま文学極道の「月刊優良作品」のところを見たら、2月のところに、ぼくの投稿した2作品が入選していたのであった。2作とも実験的な作品なのであったが、とくに2週目に投稿した作品はさらに実験的な作品なので心配していたのであった。

追記の追記:西院駅まで道を歩いているさいしょのときには、「さも愛しげな」に直そうかなと思ったのだが、一人称ではおかしい気もしたので、「さもしく、いとおしい」にしたほうがいいかなと思われたのであった。もう一段階、ステップがあったのであった。


二〇一七年三月二十七日 「ごちそうさまでした。」


大谷良太くんちで、晩ご飯をごちそうになって帰ってきた。親子どんぶりと中華スープ。そのまえに朝につくったというじゃがいもと玉葱とニンジンのたき物をどんぶり鉢いっぱいにいただきました。ありがとうね。ごちそうさまでした。おいしかったよ。

きょうは、早川書房の『世界SF全集』の第32巻の「世界のSF(短篇)」をぺらぺらめくりながら寝よう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年三月二十八日 「atwiddle」


日本語の本はもう買わないつもりだったけれど、本を整理してもっていないことがわかったので、ディックの傑作短篇集「まだ人間じゃない」「ゴールデン・マン」「時間飛行士へのささやかな贈り物」を買った。どれも送料なしだと1円だった。状態のいいのがくればいいな。もってたはずだったのにね。本棚の探し方が悪いわけじゃないと思うんだけどね。もう二重に重ねて置いていないし。

きょうは気力が充実しているので、ロバート・フロストの英詩を翻訳しよう。

ロバート・フロストの長篇の単語調べが終わった。1個、わからなかった。 atwiddle という単語だけど、ネットでも出てこない。twiddle の詩語なのかもしれない。きょう、塾に行ったら、英英辞典で調べてみよう。

ついでに、ロバート・フロストの短い詩を一つその単語調べもしておこう。それが終わったらちょっと休憩しよう。単語調べの段階で、下書きの下書きのようなものができあがっているから、頭がちょっと痛くなっているので、休憩が必要なのである。そだ、つぎの詩の単語調べのまえに、コーヒーを淹れよう。

atwiddle 英英辞典にも載ってなかった。ネットで調べても載ってなかった。

単語調べが終わったら、ディックが読みたくなって、『ペイチェック』の「ナニー」を読んでいたのだが、この作品以外のものは、ほかの手持ちのアンソロジーにみな入っていて、ひどいなあという感想しか持ちえない編集のアンソロジーで、あらためて早川書房のあこぎな商売の仕方に驚かされた次第である。その「ナニー」さえも、先日、手放したアンソロジーに入っていたものであった。読み直して、やはりディックはひどいクズのようなものも書いていたのだなと思ったのだが、情景描写はうまい。たとえ内容がクズのようなものでも、ちゃんとさいごまで読ませる力があるんやなって思った。ディックの作品はSFはすべて読んだけれど、長篇は1冊も本棚に残さなかった。2度と読むことがないからだろうからだ。あ、『ユービック』の初版は残してあった。カヴァーがよかったからだ。カヴァーのグロテスクさが心地よかったからである。内容は、超能力者と超能力を無効にする者の合戦みたいなものだったかなあ。
お風呂に入りながら、ロバート・フロストの departmental と Deaert Places を読んで、下訳を考えてみよう。お湯の力を借りて、頭をほぐしながら、情景を脳裡に思い起こすのだ。BGMは、70年代のポップス。シカゴとか、ホール&オーツとか、めっちゃ懐かしい。


二〇一七年三月二十九日 「幸」


いま日知庵から帰った。きょうも、いい夢を見たい。小学生のときにはじめて好きになったやつのこと、夢に見ないかなあ。脚がめっちゃ短くて、3頭身くらいだったの、笑。胴がめっちゃ長くて、かわいらしかった。名前も憶えていないけど。そいえば、名前を憶えていない好きな子が何人もいたなあ。

おやすみ、グッジョブ! きょう、寝るまえに何を読もうかな。まあ、部屋に残ってる日本語の短篇集を読もうっと。そいえば、フロストの英詩、だいたい情景が浮かんだ。あと少しのような気がする。翻訳は自分の詩を書くことよりも難しいし、ドキドキする。いい趣味を持ったような気がする。詩作と翻訳。

まえに付き合ってた子にメールしようかな。元気? 京都に来たら、いつでも連絡してよ。いまでも、きみの顔がいちばん、かわいいと思ってるからね。って、こんなメールを、いまから打つ。幸。おやすみ、二度目のグッジョブ!

メールした、笑。

返信がいまあった。京都に行くとき、連絡しますねって。「おやすみ、かわいい幸。」と返事した。ひゃあ〜、いい夢を見て寝たい。いや、寝て、いい夢を見たい、の方が正確な書き方かな。三度目のグッジョブ、おやすみ!


二〇一七年三月三十日 「atwiddle」


日知庵で、大学で数学を教えていらっしゃるという田中先生といっしょに来ておられたカナダ人の方に、ぼくが詩人で、ロバート・フロストの英詩を訳しているさいちゅうなんですがと断って、2つ質問した。1つは、atwiddle の意味で、もう1つは、固有名詞の Janizary の発音だった。

atwiddle は old English だろうということで、ぼくの推測通り、詩語で、現代英語にはない言葉であろうということだった。Janizary という固有名詞だが、「ジャニザリー?」と発音されたのだが、こんな固有名詞は目にしたことがないとのこと。でもまあ、この発音も、ぼくの推測通りだったので、ひと安心した。きょう、夕方に、ロバート・フロストの詩を2つ、翻訳の下訳をつくっていた。あした、楽天ブログに、それらを貼り付けようと思う。ようやく、詩の情景が、バロウズの小説の一節のように、「カチリとはまった。」のだ。英詩の翻訳は難しい、でも、おもしろい。

そいえば、日知庵で、ぼくがさいごの客だったのだけれど、さいごから2番目の客の2人組がかわいらしかった。22歳と32歳の左官屋さんのふたりだけど、若い子が大阪の堺からきているというので、ぼくがさいしょに付き合ったノブちんのことを思い出したのであった。ストレートかゲイかはわからないけれど、年上の男の子のほうが、「こいつゲイなんすよ。」と言っていたらしい。ぼくは直接、耳にした記憶はないのだけれど、ちょっといかつい感じの年上の男の子と、かわいらしい感じの男の子2人組だったので、BLちゅうもんを、ふと頭に思い浮かべた。いや〜、うつくしいもんですな。若いことって。

ぼくは英語が苦手だった。たぶんふつうの中学のふつうの中学生くらいの英語力しかないんじゃないかな。でも、英詩の翻訳はおもしろい。間違ってても、ぜんぜん恥ずかしくはない。もともと専門じゃないし、詩人が英詩の翻訳くらいできなくちゃだめだと思っているから。詩人の役目の一つに、よい外国の詩を翻訳するというのがあると思うのだ。

きょう寝るまえの読書は、きょう郵便受けに入ってたディックの傑作短篇集『時間飛行士へのささやかな贈物』ぱらぱらめくって、寝ようっと。おやすみ、グッジョブ! 日知庵のさいごから2番目のお客の左官屋の2人が愛し合っている情景をちらと思い浮かべながら寝ることにする。セクシーな2人やった。年上の男の子は、大阪ではなくて、静岡出身だということだった。大坂でいえば、南が似合うなあと言ったのだけれど、北でもおかしくない感じもした。南って、ガラ悪いって、ぼくの偏見だけれど。北はおしゃれっつうか、ふつうの不良の街って感じかな。南は、肉体労働者風のジジむさい感じがするかな。

ロバート・フロストの「Departmental」を訳した。


Departmental

Robert Frost

An ant on the tablecloth
Ran into a dormant moth
Of many times his size.
He showed not the least surprise.
His business wasn't with such.
He gave it scarcely a touch,
And was off on his duty run.
Yet if he encountered one
Of the hive's enquiry squad
Whose work is to find out God
And the nature of time and space,
He would put him onto the case.
Ants are a curious race;
One crossing with hurried tread
The body of one of their dead
Isn't given a moment's arrest-
Seems not even impressed.
But he no doubt reports to any
With whom he crosses antennae,
And they no doubt report
To the higher-up at court.
Then word goes forth in Formic:
"Death's come to Jerry McCormic,
Our selfless forager Jerry.
Will the special Janizary
Whose office it is to bury
The dead of the commissary
Go bring him home to his people.
Lay him in state on a sepal.
Wrap him for shroud in a petal.
Embalm him with ichor of nettle.
This is the word of your Queen."
And presently on the scene
Appears a solemn mortician;
And taking formal position,
With feelers calmly atwiddle,
Seizes the dead by the middle,
And heaving him high in air,
Carries him out of there.
No one stands round to stare.
It is nobody else's affair
It couldn't be called ungentle
But how thoroughly departmental


種族

ロバート・フロスト

テーブルクロスのうえにいた一匹の蟻が
動いていない一匹の蛾に偶然出くわした、
自分の何倍もの大きさの蛾に。
蟻はちっとも驚きを見せなかった。
そいつの関心事はそんなことにはなかったのだ。
そいつは蛾のからだにちょこっと触れただけだった。
もしもそいつが別の一匹の虫に突然出くわしたとしても
その蟻っていうのは巣から出て来た先遣部隊の連中の一匹で
その連中の仕事っていうのは神のことを
時空の本質のことを調査することで、
それでも、そいつは箱のうえにその別の一匹の虫のからだを置くだけだろう。
蟻というのは好奇心の強い種族である。
自分たちの仲間の死骸のうえを
あわただしい足取りで横切る一匹の蟻がいるが
そいつはちっとも足をとめたりはしない。
なにも感じていないようにさえ見える。
でも、蟻は疑いもなくいくつかのことを仲間に知らせるのだ、
触角を交差させることによって。
そして、たしかに仲間に知らせるのだ、
庭のうえのほうにいる仲間に。
ところで、蟻という言葉は、ラテン語の Formic(蟻の)からきている。
「死がジェリー・マコーミックのところにきた。
 ぼくたちの無私無欲の馬糧徴発隊員のジェリー。
 特別な地位にいるジャニザリーは
 彼の事務所は、その将校の死体を
 埋葬することになっているのだが
 ジェリーを彼を待つ人々のところ、彼の家に彼の死体を運ぶだろう。
 一片のがくのうえに置くように彼の死体を横たえ
 彼の死衣を花びらでびっしりと包み
 イラクサのエッセンスの芳香で満たすだろう。
 これがあなたたちの女王蟻の言葉である。」
そしてまもなくその場面で
一人のまじめくさった顔をした葬儀屋が姿を現わすのだ。
そして形式的な態度をとりながら
彼の体をなでるようなしぐさでちょこっと触れ
彼の死体の真ん中のところをぐっとつかみ
彼の体を空中高く持ち上げると
そこから外に彼の死体を運び去るのである。
その様子をじっと見るためにそこらへんに立っている者などひとりもいない。
それは、ほかの誰の出来事でもないのだ。
高貴でないと呼ばれることはぜったいにない。
しかし、なんと徹底的な種族なのだ、わたしたち人間というものは。


ロバート・フロストの「Desert Places」を訳した。


Desert Places

Robert Frost

Snow falling and night falling fast, oh, fast
In a field I looked into going past,
And the ground almost covered smooth in snow,
But a few weeds and stubble showing last.

The woods around it have it─it is theirs.
All animals are smothered in their lairs.
I am too absent-spirited to count;
The loneliness includes me unawares.

And lonely as it is that loneliness
Will be more lonely ere it will be less─
A blanker whiteness of benighted snow
With no expression, nothing to express.

They cannot scare me with their empty spaces
Between stars--on stars where no human race is.
I have it in me so much nearer home
To scare myself with my own desert places.


さびしい場所

ロバート・フロスト

雪が降っている、夜には速く降る、おお、よりいっそう速く降るのだ。
野っ原にいて、目の前の道をよく見ると
地面はほとんど真っ平らな雪に覆われているけれども
ただちょっとした草や刈り株が最期の姿を見せていた。

そのまわりの森はそれを持っている、それとは森のもののことだ。
すべての動物たちが巣のなかで、かろうじて息をしている状態だ。
わたしには霊的な能力がなくて、その数を数えられないのだが
突然、孤独な気分に陥った。

そして、孤独な気持ちになって、じっさいのところ、その孤独さとは
その孤独な時期のものなのだろう。でも、ちょっと孤独さが減った。
日の暮れ方の雪のからっぽな真っ白さのおかげである。
それを言葉にして言い表わすことはできない、言い表わすことは何もない。

そのからっぽな空間が、わたしを脅かすことはできない。
星々のあいだにあるそのからっぽな空間、その星というのも、人類などいはしないところなのだ。
わたしはわたしのなかにそれを持っているのだ、家に近い近いところにだ。
それというのは、わたし自身のなかにあるさびしい場所がわたしを脅かすことである。


英詩を訳しているときのゾクゾク感って、自分が詩を書いてるときのゾクゾク感とは違うのだ。翻訳してるときには、ぼくが思ったこともないことが書かれてて、それを日本語にするときに、脳みそがブルブルッと打ち震えてしまうのだ。まあ、そいえば、自分で詩を書いているときにも、ときどきあったっけ。

OXFORD UNIVERCITY PRESS から出てる 20TH-CENTURY POETRY & POETICS に入っているロバート・フロストの詩を訳しているのだが、つぎに訳したいと思っているいくつかのものは短いので、情景をつかみやすいだろうか。どだろ。逆に、難しいかな。しかし、この 20TH-CENTURY POETRY & POETICS のアンソロジストの Gary Geddes というひとの選択眼はすごい。いままで読んだ詩はどれも、ぼくの目にはすばらしいものばかりだ。詩のアンソロジーは、こうあるべきだと思う。ぼくはこのアンソロジーを、偶然、ただで手に入れたけれど、いま amazon では、けっこうな値段になっている。安ければ、もう1冊買っていただろうに。版が違うのが出ているのだ。ぼくのは旧いほう。新しい版は、イマジストたちにも大きくページを割いているらしい。H.D.とかだ。ありゃ、いま見たら安くなっている。増刷したのかな。4200円台だった。まえは10000円くらいしたと思うんだけど。

https://www.amazon.co.jp/20th-century-Poetry-Poetics-Gary-Geddes/dp/0195422090/ref=sr_1_1?s=english-books&ie=UTF8&qid=1490860503&sr=1-1&keywords=20th-century+poetry+%26+poetics

新しい版のものも買った。ぼくの持っている旧版のものよりも、60ページくらい長くなっている。H.D.とかのイマジストたちのものだと思うけど。

https://www.amazon.co.jp/20th-century-Poetry-Poetics-Gary-Geddes/dp/0195422090/ref=sr_1_1?s=english-books&ie=UTF8&qid=1490860503&sr=1-1&keywords=20th-century+poetry+%26+poetics

1116ページなのであった。旧版が954ページだから。ありゃ、引き算、間違ってた。160ページほど増えてるのだった。旧版に入れてたものを除外してなかったらいいのだけれど。

あした健康診断なので、10時以降は水しか飲めない。きょう、郵便受けにディックの短篇集が2冊とどいてた。1冊はまあまあ、いい状態。もう1冊は、背表紙にちょっとしたコスレハゲがあったのだけれど、本体はきれい。まあ、両方とも、1円の品物だから、いいかな。

これからお風呂に入ろう。きょうは早く寝るのだ。お風呂場での読書は、単語調べの終わったロバート・フロストの2つの短篇詩。お湯のなかで、身体も頭もほぐしながら、詩の情景を思い浮かべようと思う。「Neither Out Far Nor In Deep」と「Design」の2篇。

お風呂から出たら、目がさめてしまった。ロバート・フロストの英詩の単語調べでもしようかな。

1つの短詩の単語調べをしたあと、amazon で自分の詩集の売り上げチェックをした。『全行引用詩・五部作』が上下巻が売れてた。うれしい。よく知られていない無名の詩人だから喜べるのだな。1冊ずつ売れて。よく知られている有名な詩人だったら、こんな喜びはないであろう。という点でも、ぼくは、無名性というものが、ひじょうに大切なものだと思っている。


二〇一七年三月三十一日 「うんこたれ」


そろそろ家を出る用意をする。きょうは健康診断のあと、オリエンテーション。4時半くらいまでかなあ。帰ったら、きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくろう。きょうは、お酒を飲みに行けないかもしれないな。まあ、いいか。学校行く準備しよう。行ってきます。

オリエンテーションが終って、4時20分くらいに終わって、それから学校からの帰り道、河原町に出て、日知庵で飲んで、きみやに行って、また日知庵に戻って、飲みまくった。帰り道で、きゅうに、うんこがしたくなって、急ぎ足で歩いていたのだけれど、間に合わなかったのだ。部屋に戻って、トイレのドアに手をかけたところで、うんこをたれた。一年ぶりくらかな。ブリブリッとうんこをたれてしまったのであった。急いでズボンを脱いだので、うんこまみれになったのは、パンツだけであった。うんこのつづきをしながら、洗面所で、パンツについたうんこを洗い流していたのであった。すぐにお風呂に入って、きれいにしたけれど。ってな話を後日、4月1日に、これまた日知庵に行って、えいちゃんに話したら爆笑された。あとで、Fくんもきたので、Fくんにも、うんこをたれた話をして、「こんなん、ツイッターに書かれへんもんなあ。『詩の日めくり』にも、よう書かんわ。」と言うと、「そんなんこそ、『詩の日めくり』に書くべきですよ。」と言われたので、書くことにした。


鳥と死と社と列車と信仰

  たなべ


1

腐葉土に埋もれる、錆びた電池
形骸にはみんな興味ある?
嬲り殺しにしたんだ
よってたかって言葉と石を浴びせ
その墓場には時が積もって
ひとりひとりお別れの用意をいい始める
もう植生が変わるから
わたしはわたしを灌養した
男の喉仏を捉えて
締め上げる太い縄の
一端にはもうだれもいない
なんでみんな泣く場所を決められたように泣くのか
納得なんてなんにでもつけられるさ
手のひらの体温が伝わってほしくない
まるで風であるかのように
ふわり去っていきたい
永遠、永遠
発明家もしくは馬鹿が生み出した概念なのだ
それにぼくたちは手をつけることができずに
悲しんでもらうふりをしてくたばる
午後のひかりが傾いていくのが
いつもと違うも違わないもくそもなかった
息遣い
喉が絞まるような声は
泣いているんだ
鳥は縮尺を間違えずに飛んでいくぜ
ぼくたちにできないわけがあるだろうか?
この世から看板の総てを取り除こう
真面目な顔がやめられない
真面目な、いや
その顔をやめるんだ
雲を観測することしか許されない国へ
縁側から日没までに飛びのがれた

2

夏とはぼくにとってこれまでなんだったのだろうか
いつも目指していた時空(長い休みと付随するうれしいあれこれ)
なにを思ってもよかった
きみを好きだといっても
この詩は終わる気がしないぞ
ぼくに余白を残すことを許してくれないのはいったいなに
全部、全部つまびらかにしてしまおうねって誰かが
誰かの蒙昧に腹を立てていった言葉を
復唱してきただけではないのか
そこに優しさをみいだすことも困難
おまえらあわれむのが好きだよなあ
特にじぶんのことをよお
おまえらみないふりがうまいよなあ!
じぶんのこととか特によお
誰がたえうるわけでもなかったんだ、もともと
尊敬する、といってその中身は軽蔑していることはないか?せいぜい尊敬すべきと自分に言い聞かせるのが関の山、その中身は。
なんて疲れるんだ、人生!
考える(られる)ことが多すぎる!
結局はみんな脳みそでつくりだした檻に閉塞されているだけで
そこから飛びたっちまえばいいってだけの話なんだもの
ぼくは誰よりもすぐれた人になりたかった
ぼくは思い通りにこの世を動かしたかった
ぼくは解釈を覚えてずれを埋めてきた
なんとさみしい
ああなんとさみしいのだろうか
おとうさんおかあさん
ぼくを産むまえにどうして死んでくれなかったのですか
こんなことを言ってごめんなさい
改札機の不透明性にすら腹が立つぜ
死にたくて仕方がない
違うな
消えたくて仕方がない

俺の生き方はマラソン大会で路上に出るまでに全力を使い果たしちまうやつみたいだったよ

3

智恵が身につかなかったらよかったと
ずっとまえから思っていて
波が寄せて返すところの家々は
まじないを帯びた巨躯のいきものみたい
というのは
幼児が大人を正当に叱ったとき
それは神さまの審判にも近づくからです
潮風に社の梢がざわめくのでも
きっと人はあるべきかたちを肉付けて観る
無知という状態が羨ましい

4

喜ばしいなら喜ばしいといえばよかった
しかし口をつぐんで大事にする必要があったのだ
言葉はいつもうわすべるが、そうでなかったら、それはそれでかなしいとおもう
秘密をのせて幾つもの駅をぬかして
あかるくしかくい列車ははしる
弱った奴のまけなんだ
かちまけだとしたらだけど
そしてそれは悲しいことでもなんでもない
午前中の太陽を合言葉にして別れようでは、ないか。

5

だれが神を信じたってわたしが信じなければわたしは救われないのだ。のか?
見えざる手の、手垢がいまだつかない陸地の端し、
寄せて返す波にあわせて働き、食べ、眠るところ。
だれだって祈るよな?
唾をはき、砂を蹴るよな?
それが信じられないやつには意地のわるい態度で仲間はずれにしてやりたい。
体重をかけられ続け、偏平になった信仰をほんとうと言うのかい?
大きい声など出ないのはそれでいいんだよな?
大きい声を出してもそれはそれでいいんだよな?
いちいち咎めることはしないでくれよ
おまえが神さまじゃないのだったら。


石窯パン

  湯煙



近頃にわかに、わたしの暮らすこの街
で、石窯ブームが沸き上がっていて、
それは、どこにでもある一軒のパン屋
が店先に堂々と、石窯で焼き上げてい
ます、と掲げてからで、大通り沿いに
はとくに朝夕の時間帯を中心に老若男
女問わず、たくさんの客が訪れている。

こじんまりとした店内には、篭に入っ
たバタールやバケットなど定番商品が
中心に配置され、その周りにぐるりと
いろいろなパンがならんでいる。タイ
マーにより焼き具合を制御する大きな
機器ではなく、煉瓦を積み重ねたドー
ム型の石窯を使って作っているようだ。

閉店間際にはすべてのパンが半額で売
り出されるので、たとえば部活帰りの
学生や、貧乏だけどパンには目がない
といったような人々も足をとめて、ト
ングを片手に店内をめぐる光景がもう
珍しくない。普通の街の普通のパン屋
。石窯があり芳ばしく焼き上がるパン。

 
そうしてやがて
   
    この街の界隈に
       
        石窯が増殖した

    という次第だ、

石窯八百屋
石窯果物屋
石窯寿司店
石窯お好み焼き屋
石窯たこ焼き屋
石窯立ち食いそば
石窯パン
石窯ラーメン横丁
石窯アイスクリーム
石窯駄菓子屋
石窯文具店
石窯かばん店
石窯ケータイショップ
石窯パソコンショップ
石窯たばこ店
石窯珈琲店
石窯酒店
石窯ピザ
石窯ショットBAR
石窯きもの店
石窯はんこ店
石窯帽子屋
石窯書店
石窯めがね屋
石窯パチンコ屋
石窯ゲームセンター
石窯パン
石窯サウナ
石窯ネットカフェ
石窯フーゾク店
石窯銭湯
石窯自転車屋
石窯バイク店
石窯車輌販売店
石窯モータプール
石窯結婚式場
石窯ドーム
石窯コンサートホール
石窯リサイクルショップ
石窯ピアノ教室
石窯書道
石窯進学塾
石窯スイミングスクール
石窯パン
石窯小学校
石窯大学
石窯専門学校
石窯教習所
石窯訪問介護
石窯デイサービス
石窯老人ホーム
石窯病院
石窯区役所
石窯法律事務所
石窯行政書士
石窯警察
石窯消防署
石窯裁判所
石窯刑務所
石窯パン
石窯研究所
石窯リハビリセンター
石窯寺院
石窯教会
石窯斎場
.........

あげればきりがないほどだ。

今日わたしはリンゴとレーズンのタル
ト、カレーパンの二種を買って帰った
。どちらも美味であり、風味からはい
たってエコロジーな優しさが伝わり、
噛み始めればやがてじんわり舌を溶け
て奥歯を包みつつリズムを合わせるよ
うにし口中いっぱいに弾けた。温かい
カフェ・オレとともに流し込めばまだ
肌寒い卯月のはじまりをまったりと身
も心も解きほぐした。コンビニやスー
パーで買っているサンミーやヨンミー
、あげぱん番長、まろやかトースト、
カレーパン、ミニつぶあんぱん、では
得ることのないこの酩酊さえ材料の一
つとして込められ、力強く捏ねたり叩
いたりして、石窯にくべては焼かれ、
作り上げられたものであるのを感じた。


一人きりの部屋

    芳醇なる匂いは

       微かに懐を撫で

    漂いつづける、










サンミー - 神戸屋
ヨンミー - 神戸屋
あげぱん番長 - 神戸屋
まろやかトースト - ライフネットスーパー
ミニつぶあんぱん - ローソン


スーパーソニックウーマン

  芦野 夕狩

気づいたら ふりだしに戻る
がっかりして めそめそして
あの子の背景はいつも満月が写っていて
サイコーってどんな気分なのかわからないから
生きていくうちにわたしはいつの間にか200度くらいで燃える虎になっているかしら

友達といっしょに 野原で 草原で 枯野で
もてるものすべてを持ち寄ってピクニックに行き
道すがら目に入ったおいしいワッフルを食べることができるカフェに入る
たぶんベルギー産 目をつむってもベルギー産
フランスでもイギリスでもスペインでもないスペシャルな感じに浮かれながら
ポップゆえに死す

死んだら一緒になろうね
死なない蛸になろうね
みんな大豆ペプチドを摂取しながら
そんな言葉をうたいながら
唐突にエリンギになってしまえばいいのに
あぜ道に生えてしまえばいいのに
つくしみたいに
つくしみたいなエリンギになってしまえばいいのに!!

わたし、おとこのこに生まれたかった
自分より優れたものに商業的とか大衆的とか
そういうレッテルを貼って、いつまでも魂のとなりにいられる気がする
ブスの生きる道はアフィリエイトしかないと知った6月

ウィッチャー3ばかりやっていたから
口調がゲラルトさんみたいになってしまいました。
会社で男の子に食事に誘われると
いつもなら、思わせぶりに微笑んでみたりしていたのですが
断るには余りにも魅力的な誘いだ
なんて口をついてしまって
どうしたらいいでしょうか、婚期が逃げていきます


病みはじめた世界に癒すべき海がなく

  尾田和彦


http://toyokeizai.net/articles/-/166770

地中海に展開する
米海軍の2隻の駆逐艦から
59発のトマホークが
シリア政府軍基地へむけて発射された夜

世界の不幸が始まった
米国の狂気は今やむき出しになった
人間が滅びることは
悲しい出来事ではないが
一息で引き裂かれた正義には
ひと欠片の尊厳もなかった

ぼくらの都市が
何万
何十万年後かの
新しい生命たちによって
発見される日の為に
奏でたい唄がある

今やぼくらの思考形態や行動様式は
地中深くに発見される
骸化した古代人のそれだ
再び発見されることを待ち
ただ地中の奥深くに眠る
沈黙のそれだ

ある街に現れた商人が
こともあろうに
政治家になったわけさ
彼はテレビのリモコンをかえるみたいに
ミサイルのスイッチを押すことができた
忽ちのうちに暴力と憎悪が世界を覆った
亀裂は地球を真っ二つにし
宇宙を飲み込んだ

夜中に目が覚めると
ヘンドリックは冷蔵庫を開け
単板張りのフローリングをギシギシ軋ませ
サントリーの金麦RICH MALTのプルトップを起こす
グラスになみなみと注がれる黄金色の液体
何してるんだ!
こんな夜中にそんなもん飲むと
また肥るぞ!
せっかくダイエットが成功したばかりなのに…

バカ言え
今に世界もどうなっちまうかわかんない
ダイエットも糞もあるもんか!
俺は本能のままに生きるんだ!
ごくごくと
喉を鳴らしながらビールをあおるヘンドリック

昨日
米国がミサイルをぶっ放した
西部劇のガンマンよろしく「インディアン」にむけてさ
ロシアも黙っちゃいないだろう
プーチンだってとことん狂った男さ
中国のあの小太りの男はなんていうんだけ?
あいつが一番紳士にみえてくる
全くバカげた世界に居合わせたもんさ

しかし何時からヘンドリック
そんな政治に興味を持つようになったんだい
そういうと
すでに5本目にのプルトップに指をかけたヘンドリックが
ぼくを横目でにらみ

俺の姿を見ろよ
クマだ!
人間の世界で
クマの見た目で生きていく辛さが
お前にはわかんないのか!?
子供のころから差別を受けてきた俺が
政治に興味を持たないわけがないだろう

一瞬
それももっともな話だと思いかけたが
しかし
ヘンドリックはクマの姿でこの世界にやってきたのだろうか?
ぼくは彼の生い立ちについて
何も知らない事に気付いた
おい
ヘンドリック
ひとしきり管をまいた後
ヘンドリックはリビングのソファーで
グゥーグゥーと鼾をかき始めた



この島を昔は小鳥が訪ねて来たもんだ
もう飛んできそうな気配もない
千里の道をおれは証明にのためにやってきた…
国もない 水もない ・・・・・・・愛もない
               ―ウィスタン・ヒュー・オーデン―

世界の終わりについて
語るのが
わりと好きだった
子供頃から
終わりの話について
ロマンチックな気分を持っていた

人類の
最後の世紀に
ぼくは居合わせるつもりだった
というか
ぼくが死んだあとの世界を
信じることが
できずにいたんだ
言葉は人間の発明とされているが
言葉はまだ人間を発見していない

人が増えるたび
希望も一つ消えていく
一人の錯乱した男を
「神」と名付けた辺りから
歴史は怪しくなった
ゆえにデモクラシーもファシズムも同じ目的を有する
「悪」の排除
正義による支配
どちらも同じ人の好さげな顔で
ぼくらに近づいてくる


奈落に咲く

  atsuchan69

白い花弁に滲んだ色は、
褪めた肌の哀しみにも似て
わずかな岩の裂け目へと根をつけた
くらしの危うさを今も孕みながら
押殺した声の倹しい日々さえ底なしに
やがて崩れ落ちる恋に焦がれて

夢の儚さに立ち向かっては、
微かに残る花翳の匂い
望みなく咲かせた冬空に笑みを返し
吐息にさえ震えるたった一輪
可憐な花の凜とした姿は清々しく
温もりに潜ませた想いはひしと

燃え煌めく、紅蓮の誘い
――ひとときの風に、
あそばれては揺れる白い花の
たとえ奈落に咲いてさえ
美しきその刹那、
みじかくも艶やかに


反芻

  霜田明

起床は昨日の生活の
続きの訪れではけしてない
僕は昨日の僕が
繰り返された僕ではない
起床は夢のようにゼロから織られた
新しい生命の訪れである

 (窓を開け放しにして寝ていたせいだ
  雨の匂いが強いから
  雨が降っていると勘違いしていた)

   窓からさしこむこの光
   いやいや光は幻想でなく
   液体のようにやわらかく
   たしかにふれうる具体物

     朝は大きな母の顔
     空の向うからやってきた

おだやかな時間が
幼い純潔が
こうして僕を訪れるとき

君のことをなにもかも
わかってしまえるようになる

言葉も交わさず暮らし合う
ぼくらの無意識はまるで
なにもかもわかり合ってしまった
そのあとのようにおもわれる

    (世界が見せるのよりずっと
     身体の内部は鮮やかに見せる)

    寂しさはなぜ尊いか
    寂しさなしに慈悲はないから
    慈悲はかならず自分の慈悲だ
    他人の慈悲は慈悲ではない

    世界にさんざん
    遠ざけられて
    ねぼけず暮らしていくことを
    能力なしで許せたときに
    それがまさしく慈悲なんだ

君との暮らしを反復するのと同時に
新たな生命を反芻している
そのどちらかに偏ってしか生きられない
この寂しさがもしもわかれば

  (「他者の言葉の硬さに怯むな
    なるだけ正しいことをしよう」)


f被告

  鷹枕可

瀉血器が
悔悛死の自由を尊厳死を哂っていた
諸腕のない少女はつまり
失敗した
純血と濁眼の磔刑像に召された
宙吊りの針金からなる首像であり
朦朦たる花粉機械を
口腔外科前の駐車場に振動させていた

髄膜炎に周縁の果てを縁取る薔薇は薔薇でありながら薔薇ではないかの様に悪魔の臍帯を逸り
断頭台の
像と像を像する像は像する映像記録を像した
  一縷のティッシュの屑より虚誕を吐く両性具有のヴィーナスの髭豊かなる真鍮を割く働音を
独身者達の夜明、黎明の正気は
/
 /
/
「主題勿き部屋部屋に番号を振れ、
[兔と豊饒なる疫病の]
壁を
壁を
壁を
壁を
幽霊的存在の絶望の回顧展覧会に誇り驕れる
弛緩の海と辺縁」
壁が
壁が
壁が
壁が
窓ひとつとて勿き箱庭療法の、総て人間

で造られた
橋梁橋脚が落ち
幽閉された贋美少年を乗せて貨物船は船底を覆しながら次次と被告f氏の
露悪主義を哂って云った
「臨月の二十日前に鼠は
  畸形児だった」  

青いリボンを敷かれた精神病院は
鉄網の窓の隙間から
助けてくれと咽喉を切る
「看守は
暴君でせせこましい侏儒の、

奴婢で従僕で虜囚 からなり
死者達と未遂死の繰り返しに
自由は
自由のためいかなる福音の呪いを知るべきか」

f被告へ死を
f被告を絞首室へ
f被告への執行は花時計に
f被告への執行は午後四時二十六分に終った


あの滅亡、この滅亡。

  芦野 夕狩

みんな絶望しているだろうか。地球からはるか何億光年離れた宇宙船の中で、鳩時計が顔を出す。みんな絶望しているだろうか。テリーは顔に空いている全ての穴から血を流しながら、多分、歌っている。滅亡に関する歌だ。野菜を収穫しすぎて逆に貧乏になった農家の歌ではない。我々はいつも旅の始まりに立っていて、過ぎ去ったものは全てウタになる。多段式ロケットがいつだってそれを証明している。そういうふうに優しさを一つ一つ切り離していったのが僕たちだよ。火星あたりでそう微笑んで見せたのを覚えている。パセリ。答えがないってことは僕たちが考える以上に大切なことなんだよ。それがその歌の決まり文句だった。テリーは飽きもせずにその歌を繰り返し歌っていたけれど、実際のところ何が言いたいのかさっぱりわからなかった。告白しよう。テリーのことみんな馬鹿だと思っていた。そんなテリーが出血している。出血なんて言葉じゃ片付けられない。はるかさんがそのだらし無くぶら下がった手を握っている。テリーは滅亡の歌を歌っている。鳩時計が顔を出す。みんな絶望しているだろうか。はるかさんの夢は一人前のパティシエになること。そのためにはどんな努力も犠牲も惜しまなかった。人一倍卵白をかき混ぜていたし、人一倍酵母について考えていた。つまり、人一倍酵母について考えながら卵白をかき混ぜていた。多段式ロケットの4回目の切り離しのときもそうだった。その切り離されたロケットの中に彼女のフィアンセが乗っていたことを最初に知ったのが他ならぬテリーだった。テリーは農家の歌を一時中断して、ジャガイモは地面に埋めると増えるんだよ、という話をして彼女を励ました。人一倍酵母について考えながら卵白をかき混ぜていたはるかさんは、確かに、と思った。だから手を握って死んでいる。多段式ロケットがいつだってそれを証明している。そういうふうに優しさを一つ一つ切り離していったのが僕たちだよ。木星あたりでもそう微笑んで見せたのを覚えている。二人はジャガイモみたいだった。セックスを媒体とせず、ただ土の中で眠るように増えていく。というのが彼らの描く軌道となって土星まで辿り着いた。置いてきたものは全てケーキになるの。そんなふうに微笑んで見せたのを覚えている。誰も彼もがあの滅亡で心が傷んでしまった。だからはるかさんのことを悪く取らないで欲しい。人類はいつだって未来へと向かわなければならない絶望の隣で立ち竦んでいるのだから、と。鳩時計が顔を出す。みんな絶望しているのだろうか。そのような疑問をこの宇宙船で初めて抱いたのがピッコだった。ピッコははるかさんの中身から生まれてきた。土の中で眠るようにセックスを繰り返した二人の子。ピッコはいつも宇宙船の窓から景色を眺めていた。丁度天王星が見えていた頃かもしれない。ピッコはあの滅亡を知らない。だから通り過ぎていく色々なことがウタやケーキだなんてとても思えなかったのかもしれない。数知れぬ星々の間には見えない橋が架かっていて、互いに惹かれあったり、遠ざけあう。幼い彼はそんなことを発見した。そして天体を舐める焔の波も、氷のざらつきも、覆う気体の曖昧さも、その全てに優しさを含んでいて、それゆえに滅亡を繰り返す我々をどう肯定すればいいのかわからなかった。みんな絶望しているだろうか。鳩時計が顔を出す。8回目の切り離しが行われると知ったとき。それが今までとは異なることを意味しているのを知ったとき、幼い彼の瞳はとても大きく見開かれた。それは安易に死を意味していたわけではないし、驚きや悲しみや、そんな甘いケーキみたいなものでもなかった。とにかく幼い彼の瞳はとても大きく見開かれた、という事実だけがあった。


運命・浴槽

  正日

緑色の鍵盤が地を這うと
不眠と珊瑚礁に彩られた街並が
肺を巡る

口移しに捧げられた白昼と人参
俯せの内視鏡が砂の中に沈んでいく
ミリメートルの奥歯に
液状の原子核 葉脈の墓石

鼻歌をうたう0日
イギリス製のオタマジャクシが
噴水を持ち上げる風景に
照明は別れを告げる

絹の茂る青空に陶酔する
日向に満ちる魚たちのために
紙幣に印字された血液
彫刻の花言葉

湿った書籍の跡地に群がる
可燃性の芝生
瓶詰めにされた季節は描かれる
水辺や蝋燭の壁面に

不均質な公園の裸体は包まれた
舌の上を歩く雨の音を剥がしながら
太陽系の瓦礫の匂いを知る

水浸しの肋骨の上を光が渡っていく
月を運ぶ昆虫の額
結われた髪が鐘の中を往復する

円柱に染まるカーテンの裾へ触れる
透明なまばたきが溶けていく
落下する
滴に分断される白い樹木

欠乏した刺繍入りのヒールが
磁力のない呼吸とともに
星座は小鳥に焼かれ
銀色の死を流している

腫れた天井に付着する色素
粒子が祈りの中に浸される
瞳の模型
被写体の温度

棘のある蝶の背中に注がれる
海洋の心電図
椅子に座った静寂を
降り積もった花粉が洗っていく


声のみの声――起草

  kaz.

【1】無垢の果実

怜徹の無風で纐纈の進行を留めておきたいという意味では強いのにところでふと気がつくといいよ中として水子冬の空に私の眠りを支える影になってそっと縮んでいくみちのくの旅の途中まですぐはかなきちがい

私の中の私何度も何度も強く激昂のソーダを振りかぶる私水のこと静けさを思いやるようにしてお腹私に何かを残してくれましたかというあなた自身があなたであるが故に声の音が寂しく静けさ思いやっていました

ため息とともに言葉は無実の罪を吐き出し恋に譲り渡す陰嚢の印籠の高温と奇術せよ私が私であるがゆえにゆえにがゆえにであるが故に無実の果実にあなたを捧げますか巫女の魂の絢爛たる揚々たるものを

【2】原野

人間の意思とは裏腹に
人の目を追い抜く鳥たちよ

言葉よ
そなたは美しい
罪を
この大いなる秘跡よ
我に力を与えたまえ

【3】睦

春風がそうすると吹くさなかに
私の春がはるかしい思いを寄せている
そっか
しかしこれは
至難僕には分からないかもしれないけど

【4】橋

文体の悪魔の怜悧なる様に酔いしれた我が頬には緋みが差し的中させた予感とともに虚空を徘徊する石目のごとく我が稲妻はみじんなる様を無尽蔵に北条たる石狩の架け橋にやってきた透明感のある空想の曝涼たる猛獣の如き俳諧を硬結する氷 今し方やってきたばかりの一人の若者が故に姿を消した老婆のみにくく修煉なるときを 町から滝の音が聞こえた

優れた死は意味から逃げようとする 私の顔を覆え 叫びよ


のんちゃんの映画を観たんだ

  

のんちゃんの映画を観たんだ
アニメの主役を演じてたんだ
日本が戦争をしてた頃の物語で
マンガが原作らしいんだ
のんちゃんは昔は本名だったけど
大人の事情で今はのんちゃんなんだ

それはともかく
映画はとても面白かったんだ
笑って泣いて感動したんだけど
本当はちょっと怖かったんだ
みんな平和に暮らしていたのに
少しずつ戦争に慣れていくんだ
食べ物が配給になることにも
いつもお腹が空いていることにも
千人針や出征祝いや万歳三唱にも
防空壕を掘ったり疎開することにも
竹槍演習や防空訓練にも
毎晩のように続く空襲警報にも
やがて本当に飛んできた敵機にも
降り注ぐ爆弾や焼夷弾にも
知っている人が焼かれることにも
大切な家族の戦死公報にも
異常なことばかりなのに
それが日常になっていくんだ

そうして、すっかり戦争に慣れた頃に
最初は広島に、
続いて長崎に、
取り返しのつかない爆弾が落ちて
ようやく戦いが終わりになったんだ
みんな色々なものを失ったけど
もう空襲警報のサイレンは鳴らないんだ
最後に新しい希望が家にやってきて
物語は静かに幕を閉じたんだ

僕たちは満足して映画館を出たんだ
あまり、きれいではない空の下で
あまり、きれではない空気を
胸いっぱいに吸い込んだ時に
いきなり
みんなのスマホが鳴り出したんだ
それは僕たちの時代の空襲警報
どこかの国のミサイルが発射されて
もうすぐ僕たちの街に落ちるらしいんだ

のんちゃんの映画で終わった戦争が
のんちゃんのいる現代に蘇ったんだ
僕たちは防空壕の代わりに
地下鉄の駅を目指して走り始めた
何人かはスマホで空を撮影している
そんなことをしていたら死んじゃうよ
バラバラになった君たちの死体を
あとから僕たちが撮影しちゃうよ

だいじょうぶ、僕たちもすぐ戦争に慣れるさ
そして大切なものを次々に失いながら
取り返しのつかないことになる時を
ただ息を潜めて待ち続けるんだ
その後に平和はやって来るのかな
その時に僕は生きているのかな
僕はダメでも、のんちゃんだけは
今度も何とか生き残ってほしいな


design

  紅月


モザイクの一室へと屈葬された
催奇的な昏眠に身を投げるあわい獣たち
彼らは朝に赤い棘を飲んでねむり
昼にやわらかく硬直する
夜には完全するいびつな死骸から
塩の樹がいくつもたちあがっては林立し
ひろがりの森閑のさなかを因子の勾配がすり抜けていく
ひとときだけながく凍った冬に、



あざやかに濁る腐肉の空洞から
極彩色の翅をひらく白い蛆たちが
雲翳を埋め尽くすほどに舞いあがる
たかく、自重がかるさを増すほどに
負わされるままの寓意は分割をくりかえし
逆行/逆光の摩滅に耐えかねて
しだいに醜く焼け焦げていく翅
(は、とてもきれいでした)
翅のない奇形の蛆はどこまでも白く
やがて回転しながらゆっくりと落下する、
いくつもの手が川の水面を掻き乱すたびに
溢れる相貌がそこらじゅうに散らばって
異形を次々と提示しながら
蠕いては折りかさなる、



モザイクの一室へと屈葬された
催奇的な昏眠に身を投げるあわい獣たち
おだやかに腐敗する死骸のうえで
塩で作られたたくさんの腕が垂直に聳え
傾きはじめた夜を支えている、
いつまでも脆くありつづけるための
獣たちの瞳の赤い化石を
刳り抜いては食べてしまう人影が
けっして途絶えることのない列を作りながら
ふかく翳った塩の森を通り過ぎていく
彼らが歩き
偶発的な白を踏みにじる音だけが
ふぞろいに凍てついた冬の
ひとときだけながい静謐を滾々と満たしていた、
 
 


薄明

  田中恭平

 
C Am7 F Em7

屈強な夜が
明るかった
それはひよわくもあった、いいえ
脆弱な朝の首を
ぐいぐい絞め上げている、
だから。

酒のような雨が降る
僕らの
否、

の、
フラスコの胃
は、この酒のような雨を拒否する、
二日酔いで、
なんてことがあったらいいのに。
みんな騒いで銃を乱射するような。
悪い者しかいなくなって、
善いがなくなってだから悪いが反吐が出る位上等に普通になる。
というかなっている。音楽が止まった。嗚呼、僕は酒が飲めない。
祭りの日を、
楽しく待っているのは甘酒が飲めるから。
キリキリと胃痛がとまらない、ついに胃痛にディストーションが掛かる、母親がペダルを踏んだ、どこに買い出しにいくんだろう?

友達は東京で音楽していて
最近メジャーからインディーレーベルへ落ちてしまった。
彼らとの意思疎通
それはいつだって落とし穴だった。
東京で落とし穴に落ちたのは僕だった。

・・・・・・・なんもやってねぇよ、なんもやってねぇよ、なんもやってねぇよ

シンナーの香り。告白している受付嬢。オレンジシャンプーの香り。そんな記憶と
神なんとか駅近く、客にボコボコにされていくローソンのレジ係と
アップ&ダウン、アップ&ダウン、やっぱりフィッシュマンズのナイトクルージング(名曲!)と
酔ってダウンした友人の喉に指を突っ込んで丸のみされてた椎茸を取り出したこと、
フィード・バック、ケツの穴、ポリバケツ、ペットボトルの甘味料への不満、
ポコンと酒玉が胸から抜けて良い気分になって乗ってたタクシーは代々木で。
反対に最低のタクシードライバー。
訴え損ねたもんだ、
訴え方を知らなかった・・・・・・。
熟考するベーシスト、そして自由ヶ丘のバーのホームシックな外人、ジョン!

生きるものは今でも生きている、死ぬものは死んでしまった。
水タバコをやってたひと、水死体になったひと、歌がうまいひと、もう先はないと震えてた。

お前がのぞむなら、世界をやるけれど
世界をもらって、何も変わるまい

なんでって知っている筈だろう、どれだけの死と、屈託のない笑顔をみてきた、
それからどれだけ詩を書いてきた。しかし言葉は尽きない!
ねぇ、ちょっとだけコーヒーを頂戴。それから五百円を頂戴。
領収書を書いて頂戴。そうだった、税理士にあったことすらない。

脳、が
ねつ造できないあの東京を
倶楽部を、僕は薄明と呼ぼう。
薄命とかかっている。

 


きみのゆく道は果てしなく遠い なのになぜ

  三浦果実

桜は散ることになったと打ち明けたらユキ
しゃがみこむ背中に
下着が薄くみえて
前のめりに転んでしまう
フェンスなんて無用なのに
あれはなんだったんだろうね

もうわかったよって坂道を下りだしたらユキ
ライティングが
東京タワーに無口を現して
出会いの稲荷神社と同じみたいだねって
それはなんだったんだろうね

ここで決めた
新月が決めた
もう忘れよう
そうするしかないし
そうなるじゃない
希望が有ると
おもえたら
それはそれで
それで僕らはいいじゃない


貧困における呪縛

  深尾貞一郎

小鳥には手がない
叫びをくりかえし
霧の中に影をひいた

白い服を着たわたしの前でパンをたべるな、
最初におまえのくちにのせるな
たとえ噛むふりだけして満足したとしても
おまえの唾液はなぐさめてくれる

おまえは何を恐れて夜を過ごすのか
おまえに夜明けが訪れ、
明日とはいかなるものに似ていたのか

在るものが(常に)成功し給い
おまえは(常に)失敗する

おまえの語る言葉と
在るもののなし給うこととは別である
「われに悪しきことなし」とは言ってはならない
秤に手を加えるな、重さを偽るな

その唇はあまく、舌は冷たい

人をむやみに尊敬するなら、その手を求めるな
おまえのために働け
おまえのために働け

手を休めるな、
今日は、気分がいいからなぁ!


オートマ・タ

  白犬

疾走するオートマタ
右手に自動小銃
左手にナイフ

かけろ

螺旋状の火の上のエンジェルの濡れた翼
獣のアジテーション
魂の頭ん中の牢獄

かけろ

流れていく風景
田園から都市へ
無数の目で編まれた眠レナイ・バビロン
硝子とダイヤモンドの硬度を
網タイツに編みこんで
eye eye eyes
によって普遍化する不変の不夜城の月

景色は常に夜
眠る子の脳髄まで・犯して
サイレン・レーザー
インソムニアの石・インポテンツの念(粘)・アムネジアの花

僕ヲ犯シテ

疾走するオートマタ
降り積もる機械人形達の無数の肢体
堆積する匂いのない記憶
静かな降下
食べることも出すことも眠ることもない魂
今夜はあの塔を墓標に眠る烏
不眠の悲しき醜悪たち
春を売った少女と血を望んだ少年の成れの果てが行き交う
etc etc etc
硝子越しの風景
オートマタ、お前の目は何も見ない
かける
だ・だ・だ・だ
かけろ
だ・だ・だ・だ・だ・だ・だ

(エレクトリックレス 君は無表情 /シークレットG 凛として時雨)

心持たずに
螺子を回し
螺旋が回り
螺旋を駆け
疾走するオートマタ
月に落ちろ
お前の発条仕掛けの肢体は
走り続ける(ろ)
壊れるまで

あらゆる愛着の嘘に
人間の温かな柔さを見出して
お前の白くて冷たい肌は
発熱のないまま燃え続ける

片頭痛の雲と少女の涙と犬の涎と男性器と女性器と螺旋の上の火と冷蔵庫のハニーミルク
全部お前の螺子

心を探せよwwwwwwwww

だ・だ・だ・だ・だ・だ・だ・だ・だ・だ

かけろ

* メールアドレスは非公開


複雑な工法

  黒髪

眼球の表面は光に満ち薄い赤色に輝く
工法がわからない建築物は
夜空を埋める星の瞳にも届くだろう
疑うならその核を飲み込んだあとで
いやな感じだったら吐き出せばよい
愛しています
言ったことはない
愛しています
頭の中で考えた
不確かなナイフは何に使える
悲しいイメージにつながる危うい力使い方がわからない
涙を掬うスプーンで
赤子は不器用に生きることをする
なぜこんなにアンバランスに
なぜ全てが苦しみの中に崩れていく
生きていくことに自信を持っていない
疑うなら
やや仄暗い心のバオバブの作る影の中の
一生のあいだ崩れない
体の真ん中にある喜びと悲しみとの飽和が
再び帰ってきた
優しさのある子供たちのための永遠なる未来
私は何かを食べる
私は何かを受け入れる
何もなくて干からびる
心が潤った新しい日々の
埋められていく海の果て
海の果ての果ての果て
嵐が去って凪いだ海の果てにあるもの
輝く愛の階段を上って
世界の輪郭に行ける橋を架けよう
上空はいつも晴れている
失うことの怖さに縮こまらせた身が
海の果てを夢想し
いつでも雲の上に行ける橋の工法を知っている
論理的でない蟻の行列についていく
恐らくはみんな力を合わせていく
論理的な工法の書いてある羊皮紙を開き
夢は一段と自由な唇を開閉させる


冬の路地

  霜田明

人気のない路地を通り抜けながら僕は
世界につけられた沢山の言葉を
(ほとんど親愛の感情で)
一つずつ忘れていった
  バスドラムのように鼓動をうつ
  人待ちバスのアイドリング
  (だけどふしぎに音がない
   そこには行為がないからだ)

試験管でのような
下方沈着の閉塞感のなか
白息だけでわかりあうことに
期待を抱きかけていた
  (冬の文明開化は
   甚だしく)

この町の動力源は
誰かが回した8mmフィルム
   ジリジリジリと過去を刻んで
   人々の活気は送られる

僕らは素敵な登場人物だったから
勝つ喜びも
負けることの惨めさもよく知っていた
  僕らはほんの端役でしかなかったから
  たった少しの勝つことにも
  負けることにも
  関係がなかった

    (風、あるいは影)
僕はもう十分生きた
とおもっていた
    (固い足音)
     僕らは生きるよりずっと先に
     生まれてくるべきはずだった

あてもなく歩いていたわけじゃなくて
あてもなく歩いている僕ならば
世界の完成を崩すことはないと思っていた
だから
あてもなく歩いていたわけじゃなくて
世界と一緒に完成していたかった
僕は世界と仲直りしようとしていたんだ
世界と仲直りしようとしていたんだ


琵琶湖疎水扁額史會

  

さくら淡く電燈に透けながら
ほどけるをみる
※1)萬物資始 :すべてのことがこれによって始まる

もこそに馳せた大陸は
※2)気象万千 :千変万化する氣象と風景の変化はすばらしい
帯状に弛む疎水の門をくぐり
あかりまるく落ちるを知る
※3)寳祚無窮 :皇位は永遠である

長等山のトンネルを抜け
四ノ宮の船だまりで時の歩み蒼白に微睡む
※4)廓其有容 :悠然とした大地のひろがりは奥が深く悠久の水をたたえる

飛沫の余波(なごり)山麓に乗りあげ
月光の果てで、時と混じりあう
※5)仁以山悦智為水歓 :仁者は知識を尊び知者は水の流れをみて心の糧とする

※日御山に沓を遺し
陽はのぼり※御廟野に影を縫う
※6)隨山到水源 :山にそって行くと水源にたどりつく
永遠を呼び醒すこゝろの逝くすえは
琴線をかき鳴らしている
わたしは琵琶湖うまれ
わたしは琵琶湖うまれ
季節の袖で風を拭う

*************

花冷えに春嵐の舞踏をみるを
新緑、水盤に移り映える

※7)過雨看松色 :時雨が過ぎるといちだんと鮮やかな松の緑をみることができる
※8)美哉山河 :なんと美しい山河である為政者の徳と国民の一致が大切である

古都を燈すあかりの配列は

※9)藉水利資人口 :自然の水を利用して人間の仕事に役立てる
※11)一身殉事萬戸霑恩 :明治35年、田邊朔郎、※蹴上に第1疏水殉職者慰霊碑を私費建立す

蹴上に水は京を禊ぎつづけている
螺旋状に編み込まれたねぢりマンポを潜れば
まもなく4000本の躑躅が花をつけているのを観る

※10)雄觀奇想 :それは見事なながめとすぐれた考えである
※12)亮天功 :民を治めその所を得さしめる

我、大陸黄土に霞むをみる




※参考

※1萬物資始
第2疏水 (取入口)
久邇宮邦彦 筆
すべてのことがこれによって始まる

※2氣象萬千
第1疏水第1トンネル東口 (大津側)
伊藤博文 筆
千変万化する氣象と風景の変化はすばらしい

※3寶祚無窮
第1疏水第1トンネル (内壁)
北垣国道 筆
皇位は永遠である

※4廓其有容
第1疏水第1トンネル西口(藤尾側)
山縣有朋 筆
悠久の水をたたえる
悠然とした大地のひろがりは奥が深い

※5仁似山悦智為水歓歡
第1疏水第2トンネル (東口)
井上馨 筆
仁者は知識を尊び、知者は水の流れをみて心の糧とする

※6隨山到水源
第1疏水第2トンネル (西口)
西郷従道 筆
山にそって行くと水源にたどりつく

※7過雨看松色
第1疏水第3トンネル (東口)
松方正義 筆
時雨が過ぎるといちだんと鮮やかな松の緑をみることができる

※8美哉山河
第1疏水第3トンネル (西口)
三条實美 筆
なんと美しい山河であること
為政者の徳と国民の一致が大切との含意

※9藉水利資人口
疏水合流トンネル (北口)
田邊朔郎 筆
自然の水を利用して,人間の仕事に役立てる

※10雄觀奇想
ねじりマンポ (南側)
北垣国道 筆
見事なながめとすぐれた考えである

※11一身殉事萬戸霑恩
田邊朔郎 筆
明治35年 田邊朔郎が私費建立した第1疏水殉職者慰霊碑(蹴上)

※12亮天功
第2期蹴上発電所 (入口)
久邇宮邦彦 筆
民を治めその所を得さしめる

※日御山
京都府 京都市山科区にある山の名前。(天智天皇が行幸した折「日の山」と 名付けたことから「日ノ山(日御山)」呼ばれている。) 京都で最古の宮「日向大神宮」がある。
※御廟野(御廟野町)
京都府 京都市山科区にある地名。天智天皇陵がある。
※蹴上
京都府 京都市東山区にある地名。蹴上浄水場や蹴上インクラインがある。


Hello Hello

  深尾貞一郎

きっと かわいいのさ
こわくないから

幻は 
たおれることもなく
つままれることもない

らんらんと燃えるむねに
かんかくを繁らせて

めにうつるもの
きこえるものに
さわらないようにしてみた

りょうみみに手をあてて
うみのおとがする

そうしたら
りんじんを愛せるようになった
おかしいかな

ぼくはわらうよ なるべくおだやかに
いろはむらさきいろで


母の腕(かいな) & オルゴールの音(ね)

  玄こう

ポンポぽんぽおなかの子ども蒲公英叩いて這いつくばるいつしか風になる
ジュウタンの原っぱが一面に広がる蛸足配線の中をかき分けて世界を跨ぐ
ガラガラと回るオルゴールが木目模様の天井から音を鳴らして降りてくる
トースタの灼熱のように燃える体温が額に音がチクチクする息切れのさ中
がらがら鳴る天井のオルゴールが目に見えぬがチラチラとさする耳の囀り
キーンキーン トーンコ コトン ↓ キーンと スットントンと坊やは聞く
ポンポぽんぽと生れた腹の太古から蒲公英の花弁の茎を手に握り叩きつも
蒲団のなかの真綿のすきま風が音にまたぎおまえは盲の野原を駆けめぐる
大地を這い抜けていけるだろう さぁ ひとえにかたえにゴクッと口の中で
飲み込む苦い唾やらぬめる痰にも慣れ咳込み咽び泣き喘ぎ涎も垂れている
風の混じる小枝を揺さぶる雨と地つづきに坊やの顔から吹き出る汗も滴る
額の熱を冷やしながら毛布にくるませ温める母など未だ見なかった人間の
顔という顔を未だ目にしなかったときのオルゴールの音を天井から聞いた
鮮烈な盲の時に産まれ始めた我が身の重たさを母の腕の中で揺さぶられた


堕胎

  液体

人間不在の部屋で
両手が椅子の外れにあった
生肉色の夕日が点滅する
泣き濡れた絹の両手が光を掬う
掌の上で柔く結晶した卵巣が
重たい部屋をそっと抱き締める


公園「トランプ少年と量子論的な現実」

  アラメルモ


やがて波が砂を浚う
鬱蒼と草が生い茂る辺り
廃材を蹴散らせば土砂が降り積もるだろう
唾を吐いては石ころを投げてみた
願いもしないのに
そうして街は雲に包まれる
ベンチに腰をかけ久しぶりに外で煙草を吸ってみる
僕らはただ風景の小さな泡に溶け込んでいたのか
少年は泥の穴を少し掘り続けては場所を変えていた
一体何を探しているのか、誰も少年を知らない
煌びやかな金髪で、少年は髪を染めていた
街のあちらこちらに凹みの跡が残りともに移動する
怒った住民のひとりが少年を問い詰めた
「空き地に記憶を埋めたよ、ここの何処かに、」
アイス一ケ分/真面目な話しだよ
蠢く細胞は崩れる巨大な壁を築いてはまた食い潰し
石像を這う蟻が
瞼を閉じると大きな黒にみえた。

追い出してしまえ
いや、気がふれたのだろう
誰も本気で少年を止めさせようとはしなかった
掘っては住民の誰かが埋め戻し
少し掘っては粘土で固める守人たち
少年は頂きに黄金の杭を打つ、その繰り返しがずっと続けられ
海沿いの街には活気が戻っていった/至って簡単に思えた
夕焼けに沈む薔薇色の壁を
裏側で気づかなければ北極星も位置を変えて見えてはこない
いつか年老いた少年は泡の正体を知らずに死んだ
垂直に輝く廃材を泥の中に埋めた
やがて地下と天上はつながれ
波に飲み込まれた砂場
見下ろせば街は人々の記憶からも消えた軌跡
きみが腰をかけた、もう半世紀も前のことだった
いまでは海の底に眠る断層のプラント
いい加減な話しだけど「眼を閉じてごらん、いつでも甦るんだ」
0と1のGap=奇数の雨
空き地を減らせば記憶も増え
穴からわき起こる音だけが静かに響いていた。


吾輩は猫である

  鞠ちゃん


吾輩は猫である
生まれたときもらったのはある星の名前だった
唯一無二の存在として吾輩は存在しているのだから
あのアイドルに似てるねなどというのは
言語道断の侮辱であるが
吾輩の名前を特別にそなたに教えてあげよう
特別であるというのは
秘密だよと耳にささやく少女たちの約束に似て
そなたの耳をとろりとするだろう
愛を知れと願いながら名づけるならば
すべての名前は祈りだという
愛という祈りが空に咲く花になるとき
泥を食らって蓮がその首をもたげ空を目指すとき
涙が頬を洗ってそれは吾輩が生きるときである
吾輩は雨上がりの花となり
吾輩は夏の夜にそなたの記憶に残る弾ける花火となり
吾輩は尽きるまで燃える星となり生きる
吾輩の生まれた土地には
幸福を希求する権利が万人にあるそうだ
それは幸福になる権利ではないのだろうか?
すべての名前が祈りであり
祈りの花が思い思いにその首をもたげて
無数に咲き誇る野原がある
それが地球である
祈りが神輿を担いで草木、空へ伸びている
神輿に担がれるのは愛であった
愛の女神よ
人の化身よ
それはほんとうは人だ、人だ、人だ
吾輩はずっとこの神輿を担いでいたい
愛は無尽蔵を、万能を夢想する
子供を守る母の顔をして
何度も何度も立ち上がる
風に吹かれていこう
闇に灯る星に焦がれて蛍になるのだ
そんなのもいい
灯りたい灯りたいと願え
飛びたいと願った恐竜は始祖鳥になり
今はあの梅の梢に留まる
ふくふくと丸く優美なメジロだから
さて、野良猫諸君
君の名前を聞かせてくれたまえ


世界を思えば

  黒髪

完全な世界を望んでも
人の中にある利己心が
私の利己心と不協和し
その果てに崩落する

空の上に流れる雲
幾億年たる悠久の

聞き洩らした神の言葉を求め
あやなす感情をかき分けて進もう

言葉の船がすべりゆく
不完全な心の歪んだ形を
オールで撫でて力加える

マストが折れてしまい
藻屑になり
それからすべては変わっている
私の見ていた不完全な世界が
私なしの完全な世界へ

張った布の上にボールを落としたら
柔らかく受け止められた
布はボールを除けば元のとおり
散見されて尽きないこと
人と世界のために
私が世を離れると良いのだろう
その跡は時という巻物に残っている
人という存在は有って無くなる
鳥の雛が殻を破り自分の力で生まれ
命の尽きるのを自ら受け止めて死ぬ
世界を歪めた
みんなはあの世でお話し
いいところだったね


郊外

  田中恭平

 
夜の郊外の
ひかりが上下振動している
風車のように山の向こう
闇が回転している
いい風
滋養ある風だ ふふっと笑いながら歩く
背中がバッサリ斬られていて、歩いたあとに白い血が光る、のを
僕は後ろから見つめている
だから。
激痛に快楽を感じつつ夜の町を歩いていく
テクテク、テクってく
これはナイトクルーズ
夜の遊泳は薪小屋でつくった歌を歌いながら


 だれも悪くはない
 きみの悪いな、という感情が燃えてるだけ
 気付いたら踊っていることがあるでしょう
 ほんとだよ



山河から上昇 ho ho と叫ぶ
犬が呼応する 僕は犬にまでなってしまったか
川の手前には馬頭観音菩薩像がある
犬が昔ここで沈め殺されていたのだ

ときどき想いだす、根っからのセンチメンタリストで
だから。抒情の壁を嘆きの壁と呼ぶがそれはノート・パソコンのウィンドウで
録音する 振動する信号機の音が入る
ピー ピー ピー 吹き込む 「イエイ!」
嗚呼、煙草を一服。 今 全宇宙と交信中・・・・・・

drag on dr. drag in die drag on ice? ??
上昇 下降 水中にいるさ 例えここが大きな岩の上でも
みんな眠ってる 夜は鎮静の方へ向かう
一方でアンフェタミンの方へホワイトサンダーが走る
ざー、ざー、ざー、ざー
恵みの雨に、髭まで濡れている、己の自己愛が嫌になる もっと軽やかに活きたい

携帯の電源を入れる
明日のきみを救いたい 勝手な願望 または冒涜
安心したいだけ 俺が、俺が、俺が。

見境なく木々を蹴り飛ばす
ナイフでズタズタにする
その分人は傷つかなくていい
傷は癒えない
だからつくるな、もう

干渉野郎 十分なメダルだ 寝室に飾りたい
立てかけた写真
僕は写っていない
Ho ho ho

点々と白い血の後を帰る
血はバクテリアが食って発光して星になる
森が、路傍が宇宙になる
その宇宙を
僕はジャンプした、

イエイ!!

 


 A I スポイルズシステム

  三浦果実

ハンマーの音が
耳を悪くしたとして
僕らは
悪く言うものはいない
シャフトがグリス切れして
異音が続くとして
僕らは
悪く言うものはいない
例えば不思議なことが
目前であっても
どうでもよくなるのが
僕らだ

例え話として
一匹の蜘蛛の話をしよう

現れた一匹の蜘蛛はこうだ
天井で
点滅する赤
チカチカ張り付く蜘蛛

天井の片隅にも
いるかもしれないような蜘蛛
膨大な世界のすべてが
集積回路に組み込まれている
微細な塵ほどのサイズで
赤い点滅は情報を処理している

チカチカ蜘蛛から
キラキラした糸が拡散する
チカチカ蜘蛛とキラキラ糸
糸のケーブルに
からめとられた僕らの頭脳を
端末が侵食する
踊りだすと止まらなかった
喜び尽くしてしまう
悪い気持ちでもない
そしたらね
そっときこえてきたんだ

片耳が聴こえないの

健気さが伝わってきたから
人の話を聞いていないこと
気にしないでと伝える

いつも持ち歩いて
外へ抜けだしたら取り出す
吹いてみれば
しゃぼん玉のなかに
蜘蛛がいる


ヘンドリックと青い空

  尾田和彦



僕は窓から一匹ずつ振り落とされていく虫ケラを見ていた
まるで人間のように叫びながら
石畳の上に落ちて
潰れていく

何万匹といるだろう虫を
僕はマッチを擦りながら
もたれる壁に
映し出した

長すぎる影が
まるで海岸線のようにどこまでも続いていく


明け方に僕は
クマの背中を見ていた
そいつの名前は
ヘンドリック
12年前から
一緒に暮しているクマだ
人間で云えば
もう初老の歳
片目は緑内障で視力を失い
左ひざの関節を痛め
びっこを引く

ヘンドリック!

耳も遠くなり
食事もあんまり摂らなくなった
布団から出てこない日も
随分と多くなった


というものを
生命は運んでいる

ヘンドリックと差し向かい
エスプレッソの珈琲を飲んでいる時だ
彼は喘息のような苦しそうな声で
こう云った


もしもこの夢から覚めることができるのなら
俺はもう一度
クマの姿で
人間の社会で生まれたい
俺はこういう姿のせいで
随分
傷ついてきたりしたものだが
得たものも多い

なァ
君という友達や
この深い傷のせいで
感じられるものも
とても多いんだ

彼はまるで哲学者のような面持ちで
人生について語りだした

俺が生まれたとき
母親は俺を殺そうとしたらしい
生まれた瞬間
望まれなかったんだよ

生きるって
辛いよな
特に俺のような見た目じゃ
傷つかずにはいられない

2階の窓から
青い空が見えた


死ぬって悪くないね
俺のことは
もう思い出さなくてもいい
俺たちの思い出には
痛みしかないからな

そういうと
ヘンドリックは
随分と皺の増えた指先で
珈琲カップの縁をたたいた


境界線を爪弾く指先
青い空
ヘンドリックとの思い出
それは確かに
痛みを伴った記憶には違いない

でも
いったい何に
何について語り
触れてきたことなのかを
語りつくすことはできない
何故なら
ぼくらの世界は
不完全なまま
そこに存在し続け
どうやらこの遥かなる球体は

誰の願いも
届かない場所へと飛んでいくものらしい
それを理解したとき
人は泣いたのだ
まるで頭の先から血を抜かれるような強さで
狂おしい青空が

今日も真昼間から広がっていて
クマのヘンドリックと
珈琲カップと
エスプレッソと
指と世界と
それらを巡る僕らの世界を
回し続けているのだ


男女

  ゼッケン

宇宙のすべてがいまここに現に存在しているとしても
その理由だけはいっしょに生まれてこなかったらしい

街中がゾンビだらけだった そういう映画を
見た ぼくらは群衆が
ますます きらいに なっている

おれってなにさまの視線なのか 語る癖を
なおしたい 治療費は
払えない けど

誰が いつ どこで 何を どのように なぜ
しなかったのか? 

しなかったのか?

したの? どっち?
知らなかった 知らなかったことを知らなかった を 知らなかった

永遠に
知られない
存在は存在しない

この宇宙に理由だけが存在しない理由を考える

永遠に知られない存在は
存在したとしても存在しないのと同義だと言いたいのか
永遠に知られない存在は
そんな存在はなくてすべての存在はいつか知られると言いたいのか

なにさまの視線 癖を
なおしたい 治療費は
払わない

文学極道

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