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2020年07月分

月間優良作品 (投稿日時順)

次点佳作 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


Cleanser

  アルフ・O





「雨雲を思うさま吹き飛ばして
 (得られた景色を僕にも見せてよ
 長過ぎる肯定までの道のり
 長過ぎるその先
(...Frightened wizards said,)

そうやって、
彼女が転生の祝詞を仕上げて出て行ってから
キャラメイクは概ねSTRガン振りになった
種族はエルフ
瞳の色は深緋で固定
特にそこに意味はないって悟られぬように

「貴方たちがついてこようとしないからだ、よ。」
【ハロー。
 ハロー。
 ハ、ハ、ハ、ハ、ハローー。】

(理解の果ての果てでスカートを蹴り上げている、
(それはお前のものじゃないと諭す、
(粗雑極まる正当化のメソッドに慎み深い一撃を。
(貴方がたの理論武装よりは継ぎ接ぎ少ないのは確かだね。

……結局いつだって、こいつらにトドメを刺すのはあたし。

さぁ、
掃き出してしまいましょう
救いと嘯き大勢が残していった
唯一のプロトコル、とやらの顛末を
(結局あたしからぶっこ抜いただけだったね、
(ステータスがリアルと連動してること、
 常識になってくれればいいのに。
説明されたところで
彼等は言い訳探しに終始するのはわかっているけれど

「試すか?どっちが先にロストするか、
「交わらぬ世界にいつまでも夢を見た、老いた輩の後始末、
「だからこそ、この特異点は彼等の誰にも見抜けない。そう、誰にも、
「バイバイ、回復魔法。
「バイバイ、補助魔法。
「バイバイ、空間魔法。
「リンクの途切れた朝と夜を幾千繰り返してその心から錨を降ろす、
「試すか?どっちが先にロストするか。
 ……なんて、もう分かりきってるのにね。

次は、次があるなら
運ばれてくる生贄をひたすら生き返らせる
娼婦でありたい、と、

(ね、だからさ、
 的になれよ。あたしの。
((的にしてよ。貴女の。




 


詩の日めくり 二〇一八年七月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年七月一日 「辻征夫詩集」

岩波文庫の『辻征夫詩集』を読んだ。実話なのか、創作なのかわからないものがあった。実話的なもののほうに魅かれた。大谷良太くんも、きっとそこに魅かれたのではないだろうか。寝るまえの読書は、きょう買った、岩波文庫の『草野心平詩集』ちゃんと読むのは、はじめて、とてもめずらしい題材だ。

無限に濃度があるのなら、永遠にも濃度があってもよい。ものすごい薄い永遠。一瞬の永遠。刹那の永遠。

二〇一八年七月二日 「草野心平詩集」

いま、岩波文庫の『草野心平詩集』を読んでいるのだが、「蛙」の詩は定番のものがやはりおもしろかった。また、後半に、いくつもおもしろい詩があった。メモ魔であることがわかる、自分が20年間に栽培してきた野菜の名前が3ページ以上にわたって書き込まれた「百姓といふ言葉」や、じっさいにかわされたとおぼしき「仮想招宴」や、「サッコ・ヴァンゼッチの手紙抄」の焼き鳥屋をしていたころの描写とかよかった。あと、ぼくの記憶ともつながる化石を見て書かれた「石の魚」とかもいいと思う。青年期と晩年によい詩を書いてたのだね。西脇順三郎の悪口を書いた「或る永遠」には微苦笑させられた。なぜかしら、詩集全篇が収録された「富士山」にはまったく共感できなかったけれど。やはり具体的な経験を詩にしたものはよかった。いま、中央公論社版の『日本の詩歌』第21巻におさめられている草野心平の詩を調べたら、岩波文庫の『草野心平詩集』には収められていないものが、いくつもあった。編者によって、詩の選択って、異なるんだよね。コーヒーでも淹れて、心平さんの中央公論社版のアンソロジーに入っているものを読もう。

二〇一八年七月三日 「石垣りん詩集」

近所のスーパー「ライフ」でお弁当でも買ってこよう。帰ってきたら、岩波文庫の『石垣りん』詩集を読もう。「喜び」という詩が入っていないことがさっきわかって残念だけれど、仕方ないね。編者の好みがアンソロジーには反映するものね。

岩波文庫の『石垣りん詩集』いま、半分くらいのところ、具体的な出来事を扱っていることが多いので、きわめて場面が想起されやすい。寝るまでの読書は、ひきつづき、岩波文庫の『石垣りん詩集』それにしても、これには、第四詩集の『やさしい言葉』に入っている「喜び」が収められていない。くやしい。

読んだものがあまり記憶に残らないというのに、読むというのは、読むこと自体が快感だからなのだと、このあいだ、気がついた。

二〇一八年七月四日 「まど・みちお詩集」

きょうは、岩波文庫の『まど・みちお詩集』を読んでいる。すいすい読める。

雨。

岩波文庫の『まど・みちお詩集』を読んだ。ああ、深く物事を考えてらっしゃるなあと思った。「リンゴ」という詩がやっぱり、いちばん好きだ。ちょっと休憩して、岩波文庫の『谷川俊太郎詩集』を読む。思潮社から出てたアンソロジーで、読んだ記憶がある。リレーの詩とかおぼえてる。

そのリレーの詩がなかった。自選だそうだから、自分では入れたくなかったということだね。『石垣りん詩集』には「喜び」という、とびきりおもしろい詩が入ってなかったりとか、そんなん少なくないね。なんでだろう。編者の問題だろうね。

こんなん見つけたんだけど、まあ、詩って、技巧だよって、ぼくなら書きそうだけど、いまのぼくは技巧を捨てたいというところにいて、でも、このあいだユリイカに書いた「いま一度、いま千度、」なんて詩、技巧の塊だったし、むずかしいな。でも、ぼくのルーズリーフ作業、技巧の極みを書き写す作業も含んでいる、というか、ほとんどそればかりだから、やっぱり、詩は、技巧だと思っているところがあるのかもしれない。というか、思ってるか。きっぱり、そう言おうか。詩は技巧である。

岩波文庫の『谷川俊太郎詩集』いま半分くらいのところだけれど、まえに読んだ岩波文庫の『金子光晴詩集』や『大手拓次詩集』に比べると、圧倒的にポエジーが低い。なんかふつうのひとがふつうのことを書いているって感じのものが多い。だから、読者も多いんだろうけれど。つまらない読書になってきた。

気分をかえるために、お風呂に入りながら、ディックの短篇集『悪夢機械』のつづきを読もうかな。

岩波文庫の『谷川俊太郎詩集』250ページあたり、まさに後半に入ったところで、大人の詩句だなあというものに、ようやく出合えた。ここからどうなるかは、きょう寝るまえの読書でわかる。あるいは、あしたの通勤時間の読書で。

二〇一八年七月五日 「谷川俊太郎詩集」

うううん。『谷川俊太郎詩集』いいのは、250ページからわずか270から385ページまでだった。奇跡の一枚ならぬ、奇蹟の詩篇「ふくらはぎ」と「夕焼け」と2、3の詩篇くらいだった。あしたから岩波文庫の『茨木のり子詩集』を読もう。

二〇一八年七月六日 「岡島弘子さん」

岡島弘子さんから、詩集『洋裁師の恋』を送っていただいた。詩句に、落ち着いた雰囲気、貫録のようなものを感じた。ぼくより年下であるかもしれないが、言葉の趣きは、ぼくよりずっと年上だ。題材もだが、詩句の繰り出し方に女性性を感じた。ぼくにはぜったい書けない詩句たち。真似もできないだろう。

二〇一八年七月七日 「岡島弘子さん」

きのう届いた岡島弘子さんの詩集『洋裁師の恋』をさいごまで読んだ。お兄さまが73歳で亡くなられたことから推測するに、やはり、ぼくよりお齢を召された方だと思った。言葉が、言葉と言葉をつなげる仕方が上品なのだ。表紙のカバーをとると美しい本の本体が見える。タイトルとかぶる装幀だと思った。

二〇一八年七月八日 「茨木のり子詩集」

きょうは、ディックの短篇集しか読んでないけど、ひさびさに見つけた言葉がある。ぼくがコレクションしている言葉だ。「きみの名前は?」(フィリップ・K・ディック『超能力世界』II、浅倉久志訳)ぼくのようなマイナー・ポエットには、小さな収穫だが、日々は小さな収穫の積み重ねでしかない。

岩波文庫の『茨木のり子詩集』のつづきを読みながら寝よう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年七月九日 「山之口貘詩集」

ブックファーストから、岩波文庫の『山之口貘詩集』が届きましたとの電話があって、買いに行った。カヴァーのきれいな良品だった。ジュンク堂のは表紙にハゲがあって、丸善のはカヴァーに傷がついていたので買わなかったのだった。本はカヴァーが命と、つくづく思う。

郵便受けから郵便物を部屋に持ち込み、なかを見たら、高橋睦郎さんから、詩集『つい昨日のこと 私のギリシア』と、大木潤子さんから、詩集『私の知らない歌』と、尚 泰二郎さんから、詩集『街中で突然に』を送っていただいていた。いま読んでいる山之口貘さんの詩集をおいて、さきに読もう。

高橋睦郎さんの詩集『つい昨日のこと 私のギリシア』を読み終わった。「青空」というタイトルの詩に、「神神が失せても 人間が滅びても 青空は青空のまま」という詩句があって、いちばん。胸に吊り下がった。それにしても碩学の詩人の詩句はレトリカルであった。このうまさに達することはできない。

二〇一八年七月十日 「大木潤子さん」

大木潤子さんの詩集『私の知らない歌』を読み終わった。右のページがすべて余白で、左のページに書かれた詩句も、一文字であったり、一行であったり、多くても数行のものがほとんどで、空間がこんなにもうつくしかったのかと痛感した。もちろん、詩句があったればこその空間の、余白のうつくしさだが。

二〇一八年七月十一日 「尚 泰二郎さん」

尚 泰二郎さんの詩集『街中で突然に』を読み終わった。さいしょのほうの詩篇は批評的な、皮肉とも言えるユーモアのある詩が収められてあったけれど、途中からお父さまがなくなられたことを題材にされた詩がつづき、終わりのほうに、エッセイのような散文詩が収められていた。おいくつだろうと思って、奥付を見たら、ぼくと同い年か、おひとつ上の方だった。言葉はなめらかで、達者な方だと思った。

二〇一八年七月十二日 「日本の詩歌」

きょうは、一日中、岩波文庫の『茨木のり子詩集』を読んでいた。ずいぶん整った詩句を書くひとだなあと思った。年代的にはずいぶん離れたものもあったと思うのだけれど、言葉があまり違っていないので、素で書いてらっしゃったのだなあと思った。ちょっと休憩してコーヒーを淹れて飲もう。

ダメもとで、ヤフオクに入札した。中央公論新社の『日本の詩歌』全巻揃いで、2000円で入札した。こりゃダメもとでしょうな。9冊すでに欲しいものを持っているのだが、山村暮鳥の詩をもっと読みたくなって入札した。2000円以上は出す気がないので、当然、落札できないだろうけれど、万一、笑。

二〇一八年七月十三日 「山之口貘詩集」

きょうは、一日じゅう、岩波文庫の『山之口貘詩集』を読んでた。

二〇一八年七月十四日 「入眠時幻覚」

いま入眠時幻覚の夢をさぐっていた。薄い青い部屋で、寝転がっていた。じっさいの手を伸ばすと半透明になった。10分くらいつづいた。子どもの声が後ろでした。ポオと言っていた。絵が出現して子どもたちが動いていた。目が覚めた、というよりか、自分で起きようと思い、目をきっと開いて目が覚めた。

二〇一八年七月十五日 「夏になるまえの夏バテ」

自分の意志で入眠時幻覚を見た。喫茶店にいた。透明のゼリーを食べたらオレンジの味がして、目が覚めた。2つめは、さっきと同じ喫茶店でマスターらしきひとに名前を聞かれて名乗ったら目が覚めた。3つめは浅い川のなかを歩いているひとがいっぱい通ってた。

夏になるまえの夏バテだろうか。さっきまで眠っていた。

二〇一八年七月十六日 「山之口貘詩集」

いま、きみやから帰った。きょうは、通勤電車のなかで、仕事の合間に、岩波文庫の『山之口貘詩集』を読んでいた。「何々なのだ」の連発で、バカボンパパの口調を思い出していたのだ。おもしろかったのだ。赤塚さんが口調をぱくったのではないかと思われたのだ。こんなことを思うのは、ぼくだけなのだ。

持ってたんだけど、お風呂場で読んで捨てちゃったので、買い直したのだ。

現代日本文学大系〈41〉千家元麿,山村暮鳥,福士幸次郎,佐藤惣之助,野口米次郎,堀口大学,吉 (1972年)

ヤフオクのオークションで、『日本の詩歌』全31巻を入手できなかったのは、痛かったけれど、よく考えれば、ほしいものはすでに買っていたのだった。それに、31巻もの本を入れる棚がないのだった。そのかわりに、一冊だけ、さっき書き込んだものを買ったのだった。これでよしとするかな。

山村暮鳥の「いちめんのなのはな」のリフレインがすごい、「風景」という詩が読みたかっただけなのだ。ぼくがさっき買ったアンソロジーに入っていたかどうかの記憶はない。なにしろ、お風呂場で読んだのが数年まえだからな、記憶にないのだった。神さま。入っていますように。千家元麿の詩もよかった。

「風景」という詩が入っている『聖三稜玻璃』って、いま調べたら、ネットで60000円くらいで売られていたけど、ヤフオクじゃ、10000円でも、だれも落札してなかったみたい。10000円か。ぼくも買わないなあ。

もっとディープに調べたら、全詩集が1600円でネット古書店で売られていた。「風景」って詩、きょう注文したアンソロジーに入ってなかったら、全詩集を買おう。

きょう寝るまえの読書は、もちろん、岩波文庫の『山之口貘詩集』 薄いのだ。もっと分厚くしても売れるのにね。詩集を読んでて、ゲラゲラ笑ったの、ひさしぶり。ぼくの頭もすっかりバカボンパパなのだ。

二〇一八年七月十七日 「廿楽順治さん」

郵便受けを見に行ったら、廿楽順治さんから、同人詩誌『Down Beat』第12号を送っていただいていた。さきに、こっちを読もう。廿楽順治さんはじめ、お会いしたことのある小川三郎さんや、よく名前の知られた金井雄二さんや柴田千晶さんや中島悦子さんたちが書いてらっしゃる。まさに現代詩である。

金井雄二さんの「食通」読んでると、おなかがすいてくる詩だけど、冒頭一行目にある漢字が読めなかった。魚へんに、有るという漢字が右についているのだが、なんだろう。わからないまま寝るのがイヤだから、ひさしぶりに辞書でもひこうか。日本語の辞書をひくのは10年ぶりくらいである。

マグロだった。辞書を引くのもめんどいと思って、ネットで、魚へんに有る、で検索したら、即、出てきた。フォロワーさんにも教えていただきました。身近な魚なのに、読めないって、ちょっと悲しいね。

また漢字が読めないよ。草かんむりに浦って書いて、どう読むのだろう。柴田千晶さんの詩「ユウレイグモ」のさいごから2行目の詩句にあるんだけど。これもネットで調べてみようかな。IMPパッドで調べたら、蒲は、ブ、ホ、かま、がまの読みがあると出てきたのだけど、「蒲の穂」って、どう読むのかな。

こんどは、言葉自体がわからない。ランブルスコ。谷口鳥子さんの詩「桜」に出てくるのだけど。文脈からお酒だと思うけれど、聞いたことがないものだ。ぼくって、こんなにバカだっけ?

ぼくの知識が少ないのか。今鹿 仙さんの詩「草の中」に「歴人」という言葉が出てくるのだけれど、57歳のぼくがはじめて遭遇する言葉だ。意味もわからないが、こんな言葉、見たことがない。ぼくの知識が少ないのだろうか。うううん。送っていただいた現代詩、ぜんぶ読んだけれど、言葉がむずかしい。

だけど、いままで、漢字が読めなかったり、言葉がわからなかったりすることなんて、ほとんどなかったぞ。どうしたんだろう。ボケかな。

ありゃ、岩波文庫の『山之口貘詩集』の解説を読んでいたら、「鮪の刺身を食いたくなったと」という詩句があることがわかった。貘さん、『鮪に鰯』という詩集を出してて、そのタイトル・ポエムの冒頭の詩句だった。いい加減に読んでるのだな。読めない漢字を調べもせずに。自分の頭を叩いておこう。

二〇一八年七月十八日 「鹿又夏実さん」

きょうから、岩波文庫の『自選 大岡信詩集』を読んでいる。大岡さんには、1991年度のユリイカの新人に選んでいただいて、何度かじっさいにお会いして、言葉を交わしたことがあるけれど、まっすぐに見つめる目をもたれた、器の大きなひとだったという印象が強い。詩もまっすぐで、器が大きい。

鹿又夏実さんから、詩集『リフレイン』を送っていただいた。暗い色の表紙と同様に、暗い色調の詩がつづく。ぼくよりお若い方なのかなって思って奥付を見ると、20才くらいお若い方だった。若いときの詩は、たいていグロテスクに赴く。

いま日知庵から帰ってきた。郵便受けに、一色真理さんから同人詩誌『モノクローム』創刊号を送っていただいていた。一色真理さんはじめ、草野理恵子さんや、葉山美玖さんや、きょうお昼に送っていただいてた、鹿又夏実さんら、15名の詩人の詩が収められている。現代詩だ。楽しんで読ませてもらおう。

寝るまえの読書は、一色真理さんからいただいた詩誌『モノクローム』創刊号。どんな情景を思い浮かべることができるのだろうか。楽しみ。おやすみ。

一色真理さんからいただいた詩誌『モノクローム』を読み終わった。自伝詩から物語詩、はては思想詩まで幅広い書き手たちだった。クスリをのんだ。二度目のおやすみ。寝るまえの読書は、岩波文庫の『自選 大岡信詩集』だ。

二〇一八年七月十九日 「自選 大岡信詩集」

現代日本文學大系・第41巻が届いた。山村暮鳥の「いちめんのなのはな」の詩「風景」が収録されていた。ほっとしている。

まだ岩波文庫の『自選 大岡信詩集』を読んでいるのだが、まだ半分くらい。付箋の数が半端ない。若いときにも読んだ詩が多いのだが、付箋する箇所が違う。ぼくが齢をとって、感じるところが違っているのだろうね。

つい、いましがた(という言葉を、ぼくは生まれてはじめて書いたような気がする)日知庵から帰ってきて、2ちゃんねるのぼくのスレッドを覗いたら、ユリイカの5月号にのっけてもらった、ぼくの詩を読んでくださったという方がいらっしゃって、とてもうれしい。あの作品、ほとんど反応がなかったので。

いま岩波文庫の『自選 大岡信詩集』を読み終わった。つぎは、岩波文庫の『西脇順三郎詩集』だ。すでに別のアンソロジーでほとんど読んだのだか、もう一度読んでも、ポエジーを吸収できるだろうから、買って損はなかったと思う。ほかのアンソロジーには含まれていない作品も数作あったと記憶している。

二〇一八年七月二十日 「西脇順三郎詩集」

やっと詩集が読めるこころがまえができた、というか、いま大野ラーメンで、冷やし担担麺と焼き飯を食べておなかいっぱいになって、部屋に戻ってきたところ。岩波文庫の『西脇順三郎詩集』のつづきを読もうと思っている。やっぱり、おもしろいわ、西脇順三郎さん。やっぱ日本でいちばん好きな詩人かな。

またコレクションが増えた。詩集の読書と並行に、ディックの短篇集も読んでいたのだ。「きみの名前は?」(フィリップ・K・ディック『輪廻の車』浅倉久志訳、247ページ)

ようやく岩波文庫の『西脇順三郎詩集』を読み終わった。なつかしく読む詩が多かったが、はじめて目にする作品もあったような気がする。この数週間、岩波文庫の日本の詩人たちの詩集を読んでいた。楽しい経験だった。そうだ。キーツの詩集も買ったのだった。きょうから『キーツ詩集』を読んでいこう。

二〇一八年七月二十一日 「キーツ詩集」

岩波文庫の『キーツ詩集』を読んでいるけれど、情景描写が繊細なことはわかるが、情景描写が連続するのは、ちょっと退屈かな。しょっちゅう休憩を入れないと読めない。そう思うと、現代詩は、そうとう違う道をゆき、異なる多様な手法を開発してよかったなあと思う。つくづく思う。でも、まあ、読もう。

4、5年前に、三条京阪のブックオフで見かけたときに買いそびれたもの。

次の商品を購入しました:現代日本文学大系〈93〉現代詩集 (1973年) via @amazonJP https://www.amazon.co.jp/dp/B000J99CSS/ref=cm_sw_r_tw_asp_W.VHP.ZC23MP5

死んだ水も生き返る。
生き返った水は二度とふたたび死ぬことはない。

みんなの足を引っ張っているひとがいる。

まあ、そのひとだって
太陽のまんなかにいるひとに
足を引っ張られているのだけど。

二〇一八年七月二十二日 「うつくしいだけでは、退屈なのだな。」

いま日知庵から帰ってきた。きょうは一行の詩句も読んでいなかった。寝るまえに、岩波文庫の『キーツ詩集』のつづきを読もう。おやすみ、グッジョブ!

うつくしいだけでは、退屈なのだな。『キーツ詩集』を読んでいると、そんなことを思った。

二〇一八年七月二十三日 「ルーズリーフ作業」

ここ数週間に読み終えた岩波文庫の日本の詩人たちの詩集のルーズリーフ作業をしている。今回は自分のメモがなく、すべて詩句の引用である。すばらしいと思った詩句を書き写すことは、たいへん楽しい作業である。

岩波文庫の日本の詩人の詩集のルーズリーフ作業が終わったので、これから飲みに出る。

二〇一八年七月二十四日 「現代詩集」

きょうから寝るまえの読書は、筑摩書房の現代日本文學大系の第93巻『現代詩集』 むかし読んだものもあるだろうけれど、この本に載っている詩、どれだけ、ぼくを驚かせてくれるだろう。楽しみ。

二〇一八年七月二十五日 「笠井嗣夫さん」

きょうから塾の夏期講習。帰りに、きみやによって、帰って郵便受けを見たら、笠井嗣夫さんから『デュラスのいた風景』というデュラス論ともいうべき大著を送っていただいていた。デュラスはぼくも全作品集めて読んだくらい好きな作家だったので、送っていただいて、たいへんうれしい。きょうから読む。

いつの間にか政治色が強いツイートが増えてしまっていたので、お笑いの芸人さんたちをバカスカ、フォローした。すこし景色が変わってうれしい。もうすこしお笑い芸人さんたちをフォローしようと思う。

二〇一八年七月二十六日 「きみの名前は?」

読むつもりの本が多すぎて、筑摩書房の現代日本文學大系の第93巻の『現代詩集』ははずしておこうと思った。字が小さくて、漢字がちょっと画数が多いものだと拡大鏡を使わないと読めないからだ。参考文献用に置いておくことにした。タニス・リーの短篇集も途中だし。

またディックだけど、見つけた。「きみの名前は?」(フィリップ・K・ディック『出口はどこかへの入り口』浅倉久志訳、『悪夢機械』372ページ)

二〇一八年七月二十七日 「どくろ杯」

いま日知庵から帰った。2日前に日知庵で文学の、詩の話をディープにさせていただいた方が、金子光晴の自伝『どくろ杯』がおもしろかったですよと勧めてくださったので、帰ってからすぐに Amazon で買ったのだった。きょう到着したのだ。きょうから読むのだ。もうちょびっと読んだのだ。すごくいい。

ぼくはSFやファンタジーやミステリーやホラーも大好きだけど、というかマニアくらいに好きなんだけど、じつは自伝も大好きなのだった。それが金子光晴というのだから楽しみだ。きょう、タニス・リーの短篇集『悪魔の薔薇』のつづき、ちょこっと読んだ。約一か月前の読書のつづきから。まあまあかな。

二〇一八年七月二十八日 「3人の方」

これから髪の毛を刈って、日知庵に飲みに行く。

いま日知庵から帰ってきた。ポケットに、金曜日に日知庵に行ったときのメモが入っていて、3人の方のお名前が書かれてあった。深道省吾さん、細井啓生くん、栗田裕章さん。名前をおぼえるのが、ぼくの仕事だ。(いちおう、SNSに、お名前をあげる許可はとってます。)きんつば食べて麦茶飲んで寝よ。

二〇一八年七月二十九日 「タニス・リー」

タニス・リーの短篇集『悪魔の薔薇』を読み終わった。退屈な読書であった。読み終えるのに、一か月以上かかった。形容語が多くて、修飾語が多くて、読みづらかった。ときにファンタジーやホラーの多くは、このようなものになりがちだ。資質がそうさせるのか、ジャンルがそうさせるのかわからないが。

きょうから再読する奇想コレクションは、シオドア・スタージョンの『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』スタージョンは、ぼくの大好きなSF作家のひとりで、短篇では、コードウェイナー・スミスくらい好きなんだけど、ジェラルド・カーシュもいい短篇を書いてたなあ。いい作家っていっぱいいるな。

二〇一八年七月三十日 「断章」

煉瓦はひとりでは建物とはならない。
(E・T・ベル『数学をつくった人びと I』6、田中 勇・銀林 浩訳)

具体的な形はわれわれがつくりだすのだ
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』28、三田村 裕訳)

形と意味を与えられた苦しみ。
(サミュエル・R・ディレイニー『コロナ』酒井昭伸訳)

きみはこれになるか?
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)

二〇一八年七月三十一日 「断章」

自分自身のものではない記憶と感情 (…) から成る、めまいのするような渦巻き
(エドモンド・ハミルトン『太陽の炎』中村 融訳)

突然の認識
(テリー・ビッスン『英国航行中』中村 融訳)

それはほんの一瞬だった。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』3、友枝康子訳)

ばらばらな声が、ひとつにまとまり
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

すべての場所が一つになる
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)

すべてがひとときに起ること。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)

それこそが永遠
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)


火変わりの歌

  アンダンテ

  『賢治とその詩片たち』(その一)

わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(春と修羅 第一集「序」より― 宮澤賢治)

このプロローグは不要だった。『有明』のように、火を当てて他の追従を宥さない「美」を創出する賢治が、落花生の渋皮のような念仏を唱えるとは甚だ疑問だ。こう言えば、賢治の審美的な詩の世界のみを強調するかのように見えるかも知れないが、そうではない。

起伏の雪は
あかるい桃の漿をそそがれ
青空にとけのこる月は
やさしく天に咽喉を鳴らし
もいちど散亂のひかりを呑む
(「有明」*六行目は略)

いうまでもなく、冬の夜の幽麗なけしきだ。だが、冬の景色を筆でなぞっただけのことなら、詩のこころは浅く、もいちど散亂のひかりを呑むことはないだろう。賢治は「美」を極めようとして美の求道者になったのではない。 

 ……遠くでさぎが鳴いてゐる
 ・・夜どほし赤い眼をして
 ・・つめたい沼に立ち通すのか……
 ・・・・(「業の花びら」*『春と修羅』 第二集から外された部分より)

アインシュタインの一般相対性理論が世に出た時、賢治は二十歳のころだった。それが、この青年にどれほどの衝撃を与えた事件であったかは定かではない。だが、いつしか上気した雫が濡れた窓ガラスの乾く間もなく賢治の心に吸い込まれて行った。かといって、賢治が「四次元」を意識した脳の震盪とこの事とを、ことさら意味づけることは控えよう。人々が色々と異論を唱え、赤い目のさぎを傷つけても青い目のさぎを傷つけても意味はない。 


詩の日めくり 二〇一八年八月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年八月一日 「どくろ杯」

いま日知庵から帰った。帰りに、セブイレで、きんつばと、玄米茶を買った。寝るまえの読書は、なんにしようかな。きょうのお昼には、金子光晴の『どくろ杯』のつづきを読んでいた。日本の作家ではめずらしく付箋をした。キーツ詩集も中途だし、スタージョンの短篇集の再読もまだだし、本が多いと悩む。

二〇一八年八月二日 「年収200万円」

ぼくは、年収200万円くらいですが、自費出版はしていますよ。簡単にお金なんて溜まります。気力があれば。すでに自費出版に、1500万円くらい使いました。

二〇一八年八月三日 「金子光晴と草野心平」

お昼に金子光晴の『どくろ杯』のつづきを読んでいたのだが、草野心平のことが嫌いだったらしく、草野心平って、わりと詩人たちに嫌われていたのだなあと思った。西脇順三郎とも仲が悪かったんじゃなかったかな。

お昼から塾の夏期講習なんだけど、それまで時間があるから、金子光晴の『どくろ杯』のつづきを読もう。会話がほとんどなくて、字がびっしり詰まっているけど、読むのに苦労はしない。なによりも、おもしろいからだろうけれど。日本人の作家の作品で、こんなにおもしろいのは、大岡昇平の『野火』以来かな。

二〇一八年八月四日 「死の姉妹」

堀川五条のブックオフで、吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』を108円で買い直した。むかし読んだけど、だれかに譲ったみたいで、部屋の本棚にはない本だった。M・ジョン・ハリスンの作品が冒頭に置かれていたので、もう一度、買ったのだ。タイトルを見ても、一作も読んだ記憶にないものばかりだった。じっさい、冒頭のM・ジョン・ハリスンの作品「からっぽ」を読んでも記憶になかったものだった。また、再読したのだけど、M・ジョン・ハリスンの「からっぽ」は意味があまりわからない作品だった。長篇の『ライト』(国書刊行会)や『パステル都市』(サンリオSF文庫)はすばらしかったのだけれど。

日知庵の帰りに、きんつばと、麦茶を買ってきた。きょうは、これで終わりだな。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年八月五日 「うんこをもらしてしまった。」

日知庵からの帰り、阪急電車に乗るまえにきゅうにお腹が痛くなってトイレに入ったのだが、間に合わず、ちょっとうんこをもらしてしまった。うんこのついたパンツをクズかごにすてた。濡れたズボンのまま、帰りにセブイレで、きんつばと麦茶を買って帰った。笑。この時間ですけれど、いま洗濯しています。ズボンが濡れたのは、おしっこでだけだったのだけれどね。あーあ、57歳にして、駅のトイレで、おしっこを漏らすとは、笑。あと一秒はやく便座に坐れていたらよかったのだけれど。齢をとると、この、あと一秒というのが意外に多くなるのであった。年に一度は、うんこをもらすぼくであった。

二〇一八年八月六日 「小島きみ子さん」

小島きみ子さんから『エウメニデスIII』第56号を送っていただいた。よく名前の知られた詩人たちが12人もいらっしゃってて、なかのおひとり、杉中昌樹さんは、ご自分の詩とともに、小島きみ子さんの詩集『僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本』についての論考も書いてらっしゃる。最新の現代詩!

きみやで、ファッション・カメラマンのジョンさんを紹介される。ジョンさんからは、西院のジェラート屋さんのカフェラッテを紹介される。人間のつながりって、ほんとに不思議。寝るまえの読書は、きょう、小島きみ子さんにいただいた、『エウメニデスIII』第56号のつづき、海埜今日子さんの作品から。

二〇一八年八月七日 「クーラー全開」

クーラー全開にしたら、熱力学的に、よけい熱が生じると思うのだが。

二〇一八年八月八日 「厭な物語」

ちょっとまえに日知庵から帰ってきた。きょうは、帰りのセブイレで、108円の水もちと、108円の麦茶を買った。あしたは、お昼の1時から塾の夏期講習だから、もう寝る。きのうの寝るまえの読書で、吸血鬼のアンソロジー『死の姉妹』を読んでいたのだが、ああ、こういう視点があるのかと思った。

『エウメニデス III』第56号に収められている詩で、いちばん共感したのは、小笠原鳥類さんの作品「「夜についての詩論」詩論」だった。これまでは、ぼくには苦手な詩人だったのだが、この作品はとても読みやすい、わかりやすい作品だった。ユリイカの5月号に掲載されたぼくの詩に似てるとも思った。

いま再読したけれど、似ていないや。どこが似ていると思わせたのだろう。言葉をリフレインさせているところかな。でも、ぼくのは作品の一部だけリフレインさせているだけだからな。言葉の置き方だろうか。いや違うな。どこだろう。読んでるときのここちよさかな。こんな言葉くらいでしか表現できない。

ぼくには、詩がわからないというひとがわかりません。ただ自分の好みの詩に出合ったことがないだけなのでしょうけれど、また詩が芸術として、いかにすばらしいものか、いかにひとの人生を左右するものなのかということを知るひとが少ないということが、日本の国語という教科の問題でもあると思います。アメリカ人の同僚の先生に訊くと、アメリカでは、現代詩は教養として、当然教えられるものらしいです。ふつうの英語の先生ですが、エズラ・パウンドのことなども詳しく知っておられました。日本の教養人と呼ばれるひとたちは現代詩を読んでいるのでしょうか? むかしは読んでいたような気がしますが。

2時間くらいしか寝てない。もう寝られないや。午後一時から塾なんだけど、それまで吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』のつづきでも読もうかなとおもっている。むかし読んだけど、例のごとく、いっさい記憶にないのであった。

譲った本がまた欲しくなった。『厭な物語』というアンソロジーだ。ただ一作フラナリー・オコナーの作品が再読したかったからだが、このフラナリー・オコナーの全短篇集の上下巻も手放してしまったのであった。まあ、読み直したいのは、『厭な物語』に入っている「善人はなかなかいない」だけだけれど。

二〇一八年八月九日 「ソーリー。」

けさは6時すぎに起きた。隣人が大きな音でテレビをつけてて、その音で目が覚めたのだった。2時間くらいの睡眠だが、もう眠くない。お昼から夜の9時半まで仕事だから、もう起きたまま、これからマクドナルドに行って吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』のつづきを読む。

いま日知庵から帰ってきた。帰りに、河原町のストリートで、二十歳くらいの男の子がゴミ袋を友だちに向けて蹴ったのが、ぼくの右足の爪先にあたったので、その子が「ソーリー。」と言って握手を求めてきたのだけれど、ぼくは笑顔を向けて笑って通り過ぎるだけだった。白人によく間違えられるのだった。

日知庵に行くまえは、お昼から塾で夏期講習のお仕事をしていたのだけれど、塾に行くまえに、五条堀川のブックオフの108円のコーナーに、むかし読んで友人に譲った、文春文庫の、恐怖とエロスの物語IIの短篇集『筋肉男のハロウィーン』の背表紙を見て、なかをパラパラ見て買うことにして買い直した。

さいきん、手放した本の買い直しが多い。ブックオフのせいだ。

きょうは、塾の授業の合間に、吸血鬼のアンソロジー『死の姉妹』のつづきを3篇ほど読んでいたのだが、よかった。とくに、いま、あと数ページで読み終わるという、ジョージ・アレック・エフィンジャーの「マリードと血の臭跡」がよい。エフィンジャーの電脳シリーズ三作は手放してなくて、本棚にある。

二〇一八年八月十日 「コードウェイナー・スミス」

けさの5時くらいに寝たのに、6時過ぎに起こされた。隣人が窓を開けっぱなしにして、大音量でテレビを観だしたからだ。ぼくも洗濯をして対抗してやってる。きょうはお昼から塾の夏期講習だけど、お昼からだから、このまま二度寝せずに、起きて仕事に行くかもしれない。ちきしょう。なんつう隣人だ。

いまコードウェイナー・スミスの全短篇集の三巻本の第三部、さいごの短篇集が出ている。西院のブックファーストに買いに行く。全短篇集が出るまえのものもスミスの作品はすべて持っていて、いまも本棚にある。ひとに譲らなかったのだ。初訳の作品が4篇も入っているらしい。

売っていなかった。訊くと、そもそも入荷していなかったという。トールサイズの長篇の『ノーストリリア』や、全短篇集の第一巻や第二巻はあったのだけれど。売れなかったから、新しいのは入荷しなかったんだな。昼から夕方の塾の夏期講習が終わって、夜に日知庵に行くまえに、ジュンク堂で買おうっと。

いま、日知庵から帰った。行きしなに、ジュンク堂ではなくて、丸善で、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第3巻『三惑星の探究』を買った。1冊しか置いてなかった。

きょうも、せいいっぱい生きた。寝るまえの読書は、吸血鬼アンソロジーの『死の姉妹』のつづきを。ブックオフの108円コーナーは、バカにできないのだ。古本市場では、105円で、単行本の『エミリ・ディキンスン評伝』を手に入れたことがある。いまでも宝物だ。

ノブユキが自転車のカゴのなかから、ぼくのからだを持ち上げると、ぼくはシッポをプルンプルンと振り回した。ノブユキが、「かわいいな、おまえは。」と言ってくれたので、ぼくは4つに割れた唇をのばして、ノブユキの唇にチュッとキッスをした。ノブユキもそれにこたえてチュッとキッスをしてくれた。

二〇一八年八月十一日 「ケビン・シモンズさん」

ケビン・シモンズさんへ、ぼくの友人が出版をしていまして、Collective Brightness の全訳を出版したいと言っているのですが、ケビン・シモンズさんのメールアドレスを教えてもよいでしょうか?

いま日知庵から帰った。あしたも日知庵だけど、ぼくのアルバイトの時間は5時から。

二〇一八年八月十二日 「ジェイムズ・メリル」

ジェイムズ・メリルの「サンドーヴァーの光」三部作がおもしろかったですよ。とりわけ、第二部の『ミラベルの数の書』が、おもしろかったです。あと、英語で読まれるのでしたら、キングズリー・エイミスが編んだアンソロジー「LIGHT VERSE」(Oxford Paperbacks)が笑えるような詩を多く収めています。

いま、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』を読んでいるのだが、なつかしい言葉を見つけた。44ページの5行目の「(…)若さっていうのは、すぐ治る病気なんだ。ちがうかい?」(『宝石の惑星』4、伊藤典夫訳)読んだ記憶のない作品だ。解説を読むと、SFマガジンには訳されている。SFマガジンも、むかしはときどき読んでたから、そこでかな。一九九三年八月号らしい。読んでた時期かもしれない。全短篇集発行以前の本にはなかったと思う。きょうは、ここらでクスリをのもうかな。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年八月十三日 「コードウェイナー・スミス」

きょうも寝るまえの読書は、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』のつづきを。あしたは、夕方に塾。塾の帰りに、日知庵で飲む。そろそろ、つぎに出す詩論集と詩集の準備をしようと思うのだが、こう暑くては精神集中ができない。秋になって、涼しくなってから、と思っている。

コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』のつづきを読んでいるのだが、ところどころに出てくる人間への観察の行き届いたまなざしが、すてきに表現されている。付箋だらけだ。やはり読む価値のある作家だ。再読する短篇もあるだろうけれど、それもまた楽しみだ。なによりも忘れているからね。

二〇一八年八月十四日 「藤井晴美さんと倉石信乃さん」

いま日知庵から帰った。きょうは、塾のあと、帰りに日知庵に寄って、お酒をのんでいたのであった。帰ってきたら、郵便受けに、3冊の本が届いていた。2冊は、Amazon で、ぼくが買ったデュ・モーリアの短篇集『鳥』、もう一冊は文春文庫のホラーとエロスの短篇集『レベッカ・ポールソンのお告げ』だ。古書なのに、デュ・モーリアの短篇集『鳥』が新刊本のようにきれいなので、いま、ぼくの顔は満面の笑みだと思う。ヤケがまったくないのだ。390円だった。送料は257円だった。一方、そんなに傷んでいないけれど、ヤケのある『レベッカ・ポールソーンのお告げ』は51円で、送料が300円だった。あと1冊は、藤井晴美さんから、詩集『大顎』を送っていただいた。たいへん美しい装丁なので、どこからなのだろうと思って、見たら、七月堂からだった。さっそく読みはじめると、そこらじゅうに、ぼくの目をひく詩句があったのだった。

フランク・ハーバートの『砂丘の大聖堂』三部作や、『砂丘の子供たち』三部作、また、ポール・アンダースンの『百万年の船』三部作のように、3冊の表紙を合わせて、一枚の絵になるようなものが、むかしは、ハヤカワSF文庫から出ていたのであった。

ぼくの好きな表紙の本たちは、クリアファイルを細工して箱型にして閉じ込め、本棚の前部に飾れるようにしてあるのだ。ぼくの本棚は、ぼくの好きな本の好きな表紙でいっぱいなのだった。きょう寝るまえの読書は、きょう、送っていただいた藤井晴美さんの詩集『大顎』のつづきを。おやすみ、グッジョブ!

倉石信乃さんから、詩集『使い』を送っていただいた。倉石さんの詩は、もう30年近くむかし、ユリイカの投稿欄で毎月のように目にしていて、おもしろい書き方をされる方だなあと思っていた。1989年のころのことだと記憶している。詩集の奥付に「一九八九年 ユリイカの新人」と書いてあったが、それでは、ぼくの記憶と一年ずれる。ぼくが一九九一年のユリイカの新人に選ばれる一年前のことだから、一九九〇年の新人だと思うのだけれど、まあ、そんなことはいいか、倉石さんの詩集『使い』を読んでいるあいだ、つねにガートルード・スタインの文体を思い出していた。対句的なフレーズの反復とずれの手法が似ていると思ったのだった。倉石さんの実生活がどのようなものであるのかは、この詩集『使い』からは、いっさいわからない。というか、じつは、何を書いてらっしゃるのかもわからないのだが、魅力的なフレーズが随所に出てくるので、読んでいて、ハラハラさせられ通しだったのである。とりわけ、つぎの箇所に、こころひかれた。9ページの4〜7行目、34ページの4行目、63ページのうしろから2行目、71ページの4行目、89ページの3〜5行目、94ページの10行目、96ページの5行目、101ページのうしろから1行目〜102ページ2行目まで、106ページの3、4行目。以上の文章は、クリアファイルのなかにあった、きょう、ふと見つけたメモから書き起こしたものである。もしかしたら、以前にも、倉石信乃さんの詩集『使い』について書いたかもしれない。だとしたら、ごめんなさい。

藤井晴美さんの詩集『大顎』(七月堂)怪物的なおもしろさだった。部分引用をしようと思ったのだけれど、後半部にいたり、全文引用しなければならなくなってしまうほどのおもしろさだったのだ。藤井さん、男性かもしれず。そのような記述もあるのだが、現代のロートレアモン伯爵といった印象を受けた。いずれなんらかの賞を受賞されるだろう。完璧な出来だと思われる。すばらしい詩集である。橘 上さんと同様に、詩壇で重きを置かれる立場になられるだろう。それとも、すでに有名な方で、ぼくが知らなかっただけなのかもしれない。この詩集は確実に最高の評価をされるだろう。後半部分は全文引用しなければならないほど完璧な出来だったので引用しない。前半部分もすばらしい出来だったのだが、まだ部分引用できる気配があったので、詩集の前半部分から、ぼくが感銘を受けた場所を引用してみよう。8ページ「あなたの外部とは、ぼくより軽い、しかも同心の過去なんだ。だから外部さ。」13ページ「神は神ができないこともする。」15ページ「住宅地をゆっくりと、立ち止まりながら犬の散歩をさせる宇宙人あるいは武士または泥棒ではないかもしれない猿のように、原因のない世界が広がっているとしたら、ぼくは法外な電波に煽られて。うずくまる扇風機のような男だった。」同じく15ページ「何もないところから泥仕合の場に持ってきた。ぼくは生まれたのだ。植物として。背中に。」22ページ「こちらも重労働ではなかった。軽いんだよ。量子的私。それでもたどたどしいんだよ。」32ページ「呼び止められて思わぬ濡れ衣を着せられる。はがれていく場面のつぎはぎ。」後半部および前半部のいくつもの詩は、部分引用ができない。完璧な詩句がつづくからだ。数年まえに、橘 上さんというすばらしい詩人を知ったのだが、また新たにものすごくすごい詩人に出合うことができて、うれしい。よくぞ、ぼくのような無名の詩人にご傑作を送っていただいたものだ。実に光栄に思う。

二〇一八年八月十五日 「藤井晴美さん」

クスリのんだ。寝るまえの読書は、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第3巻『三惑星の探究』のつづきを。おやすみ、グッジョブ!

めっちゃすばらしい詩集『大顎』(七月堂)を出された藤井晴美さんのお名前をグーグルで検索したら、たくさんの詩集が出てきた。ベテランの方だったんですね。ぼくが世間知らず、いや、詩壇知らずでした。

二〇一八年八月十六日 「大谷良太くん」

いま日知庵から帰ってきた。大谷良太くんと、ばったりあった。寝るまえの読書は、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第3巻『三惑星の探究』のつづきを。

二〇一八年八月十七日 「太陽パンツ」

いま日知庵から帰ってきた。あしたは、月に一度の、神経科医院に。処方箋だけだから、電話で予約すればよいだけ。クスリがなくなった。これからのむ分で終わり。もう少しきついクスリをとも思うが、クスリをかえて、異変が起こったら怖いし、同じクスリを処方してもらおう。寝るまえの読書は、スミス。

日知庵からの帰り道、河原町通りを歩いていると、男女のカップルの男の子のほうが「太陽パンツが……」という言葉を口にしたのを、ぼくの耳がキャッチした。いまグーグルで検索したら、出てきた。ちょっと、ふんどしテイストのある男性用下着のことだったんだね。まるで詩語のような響きのある言葉だ。

二〇一八年八月十八日 「コードウェイナー・スミス」

いま起きて、病院に電話した。病院に行くまで、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』のつづきを読もう。今で、半分くらい。

二〇一八年八月十九日 「翻訳プロジェクト」

2、30分まえに、日知庵から帰ってきた。イレギュラーで、あしたも日知庵でアルバイト。がんばろう。あした昼間に時間があったら、西院で岩波文庫から出てるロバート・フロストの詩集を買おう。フロストの訳は、いくつか持っているんだけど、かぶらないものもあるだろうからって、期待は大きいのだ。

大がかりな翻訳プロジェクトが始動しそうだ。ぼくも翻訳家として参加する。というか、ぼくと、ある詩人の方とで翻訳するので、共同訳ということになる。数年はかかると思うけれど、がんばろう。また英語づけの日々がやってくると思うと、ちょっと、へた〜ってなるけれど、笑。翻訳って、しんどいしね。

二〇一八年八月二十日 「対訳 フロスト詩集」

西院のブックファーストに行ったら、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』がなかった。これから河原町のジュンク堂に行って買ってくる。

河原町のジュンク堂で、『対訳 フロスト詩集』(岩波文庫)を買ってきた。840円ちょっと。ポイントを使ったので、正確にわからず。名作と呼ばれるものは、だいたい入っているようだ。ぼくも訳したことのある2つの詩、「After Apple-Picking」と「Birches」も入っていたが、ぼくの訳のほうがよい。この詩集は、岩波文庫の対訳詩集にありがちな直訳である。やはり、詩人的な気質をもった翻訳者か、詩人が翻訳者でないと、詩としては、訳が不満足なものになるのだろう。「After Apple-Picking」なんて、どう読んでも、それはあかんやろうという訳出部分があった。と、こう他人を批判したのだから、ぼくが翻訳するときには、神経を研ぎ澄ませて翻訳に取りかかろう。

きのう、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』を読み終わったので、これから岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読む。そのまえに、吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』とスミスの『三惑星の探究』のルーズリーフ作業をしようっと。夕方から日知庵でアルバイトだから、その時間まで作業かも。

吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』と、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』のルーズリーフ作業が終わった。30分くらい時間があるので、麦茶でも飲みながら、きょうジュンク堂で買った岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』の序文でも読もうかな。この分、翻訳に回せと思う。9ページもある。

さきほど日知庵から帰った。帰り道、虎とか鹿とかのコスチュームを着た外国人がカラオケ屋のまえで、おどけてた。日本の、京都の繁華街である、河原町通りでのことである。国際色は豊かだが、なんだか下品に感じた。京都は静かな方が似合っているような気がするのだった。ぼくの偏見かな〜。どうだろ。

きょうから寝るまえの読書は、デュ・モーリアの短篇集『鳥』である。創元推理文庫の評判のよい短篇集なので、ひじょうに楽しみ。

ジャンプ台から本のなかに跳び込む。行と行のあいだを泳ぐ。ページの端に行き着くとターンして、つぎの行間に身をひるがえさせる。そうして、ページのなかをスイスイと泳ぎ渡って行く。なにが書かれているのかは、水が教えてくれる。言葉を浮かべているページのなかの水だ。水がほんとうは言葉なのだ。

二〇一八年八月二十一日 「デュ・モーリア」

創元推理文庫のデュ・モーリアの短篇集『鳥』の冒頭の「恋人」がとてもおもしろかったので、西院に行き、ブックファーストで、デュ・モーリアの短篇集『人形』を買ってきた。新刊本はやっぱりいいな。とてもきれい。『鳥』は古書で買ったけれど、新刊本のようにきれいだった。きれいな本は大好き。で、デュ・モーリアの短篇集をそろえたいと思ったので、きょうブックファーストには置いてなかったデュ・モーリアの短篇集『いま見てはいけない』を予約した。近くのブックファーストに置いてあるのでってことで、22日には届くそう。これもまた楽しみ。

ブックファーストの文春文庫のコーナーに、以前、持ってた短篇集『厭な物語』が置いてあったので、ついでに買った。友人に譲ったのだけれど、収録されている、フラナリー・オコナーの「善人はそういない」が再読したかったからだ。きょうは、財布のひもがゆるかったみたいだ。こころがゆるかったのか。西院のブックファーストはビルの2階にあって、その一階に、ぼくがよく行くブレッズプラスがある。そこでチーズハムサンドイッチとアイスダージリンティーを注文して食べた。50円引きの券付きのチラシをもらったのだけれど、喫茶コーナーのことをイートインスペースって言うんだね、はじめて知った。

帰りに、セブイレで、きんつばを買ってきたので、おやつにこれを食べてから、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読む。翻訳が直訳なので、どうしても批判的に見てしまうぼくがいる。ぼくって、意地が悪いのかな。うううん。ぼく自身が英詩の翻訳をやってなければ、そうでもなかったかもしれないなあ。

岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読んでいるのだけれど、いま半分くらいのとこ、「After Apple-Picking」の訳のとこで、この訳の一部分に不満だったのだけれど、それまでのところの訳はよかった。二度ほど眠気に催されたが、それはロバート・フロストの原作のせいだし、時代のせいだとも思われる。

スーパーで、そうめんを買って、そばつゆを買ってきて、食べよう。そうめんは、水でときほぐすだけのものがよい。もう十年くらい、調理をしていないので、包丁もさわれない。湯を沸かすのも面倒だ。文学では面倒な作品をつくったり、面倒な翻訳はするのだけれど。それでは、スーパーに行ってきま〜す。

そとに出たら歩いてみたくなって、西大路四条のあがったところにある「天下一品」に入って、チャーハン定食880円を食べて、また歩いて帰った。はじめは近所のスーパー「ライフ」に行くつもりだったのだけれど。気まぐれなのである。さて、これからまた、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読もう。

寝っころがって、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読んでいるのだが、右の肩甲骨のあたりに小さな火山ほどの大きさのできものができて、それがつぶれて、着ているものが汚れるうえに、痛くて痛くてたまらないのだけども、これも神さまが、ぼくに与えてくださった試練のひとつかもしれないとも思う。

ぼくも楽天のブログにフロストの詩を翻訳しているけれど、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』の翻訳者の川本皓嗣さんは「Berches」に出てくる ice-storms の訳語を「凍る雨嵐」とされて「アイス・ストーム」というルビを振ってらっしゃるのだけれど、「雪嵐」という訳語のほうが適切ではないだろうか。

なぜ、その訳語に、ぼくがこだわるかというと、ぼく自身が、その訳語に悩んだからだ。親しい先生に相談したら、ice-storms の訳語はありますよ。「雪嵐」ですよと教えてくれたのだった。

いま、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読み終わった。読んだことがあるなと思った詩がいくつもあったが、それはぼくが、つぎに紹介する、ぼくのブログに訳したものだった。それにしても、この「対訳 フロスト詩集」に収められた「Fire and Ice」 の訳はへたくそだった。

https://plaza.rakuten.co.jp/tanayann/diary/201703300000/

いちじくの絵を見て、いちじくが食べたくなった。

二〇一八年八月二十二日 「柴田 望さん」

さっき日知庵から帰ってきた。シャワーを浴び、横になって、デュ・モーリアの短篇集『鳥』のつづきを読んで寝よう。いま、タイトル作品を読んでいるところ。デュ・モーリアは、P・D・ジェイムズばりに描写力が圧倒的で、なおかつ、P・D・ジェイムズほど読むのが苦痛ではない、すばらしい作家である。

ありゃ、ま。デュ・モーリアの作品、すでに読んでたことがわかった。早川書房の異色作家短篇集・第10巻の『破局』である。ことし読み直したシリーズなんだけど、記憶にまったくない。なにが入っていたのかの記憶もない。なにを読んだのかの記憶がまったくない。なんという忘却力。57歳。ジジイだ。

柴田 望さんから、詩誌『フラジャイル』第3号を送っていただいた。柴田 望さんはじめ、10名の方が詩を書いてらっしゃる。吉増剛造さんの詩集『火ノ刺繍』の特集というか、詩集評と、これは、ぼくが漢字が読めないのだが、なんとか談が掲載されている。IPパッドで調べても出てこない漢字だった。

たしか、「けん」と読む漢字だったと思うのだけれど、それでは出てこなかった。ところで、いま、デュ・モーリアの短篇集『鳥』を読んでたところなのだが、さきに、きょう柴田 望さんに送っていただいた詩誌『フラジャイル』第3号を読もう。最新の現代詩が読めるのかと思うと、こころドキドキである。

二〇一八年八月二十三日 「デュ・モーリア」

いま、西院のブックファーストで、注文していたデュ・モーリアの短篇集『いま見てはいけない』を買ってきた。帰りに、ブレッズプラスで、チーズハムサンドイッチとアイスダージリンティーをいただいた。帰りに、セブイレで、きんつばと、麦茶を買った。ああ、なんて単調な生活なこと。きょうは休みだ。

デュ・モーリアの『いま見てはいけない』の表紙をよく見ると、折れて曲がっていた。キーっとなった。もう二度とブックファーストで新刊本を買わないぞと思った。めちゃくちゃ、腹が立つ。ほんとうに、本は、表紙が命なんだぞと思う。うう、ほんとに腹が立つ

いまさっき、日知庵から帰ってきた。きょうは、お客さまに、「ツボ専」という言葉を教わった。「オケ専」という言葉は、棺桶に片足を突っ込んだようなジジイを好む若者のことで、ぼくも目の当たりにしたことがあるのだけれど、「骨壺」に入ったようなジジイを好む若者がいるらしい。90歳越えだよね。

柴田 望さんから送っていただいた詩誌『フラジャイル』第3号を読ませていただいた。林 高辞さんの「詩集だけが残った」がおもしろかった。ぼくも、トイレをしているときや、湯舟に浸かりながら、本とか詩集とかを読むので、トイレをして、うんこを出してるときに、重要なところを読んでることがある。

きょうも寝るまえの読書は、デュ・モーリアの短篇集『鳥』のつづきを。いま200ページだけど、537ページまであるから、5分の2である。デュ・モーリア、優れた描写力だ。イギリスの女性作家、たとえば、P・D・ジェイムズ、アンナ・カヴァン、ヴァージニア・ウルフのようによい作家たちが多い。

二〇一八年八月二十四日 「デュ・モーリア」

デュ・モーリアの短篇集『鳥』を読んでて思ったのだけれど、ぼくって、なにかを食べているかのように、本を味わって読んでいるような気がする。デュ・モーリアの翻訳がいいというのもあるだろう。まことにおいしい食べ物を食べているような気がする。読書において、ぼくはグルメだろうか。どうだろう。

徹夜で、いままで、デュ・モーリアの短篇集『鳥』を読んでた。読み終わった。おもしろかった。ひきつづいて、デュ・モーリアの短篇集『人形』を読む。

不覚にも眠ってしまった。4時間弱。いまから日知庵に飲みに行く。デュ・モーリアの短篇集『人形』の読書は日知庵から帰ってからにする。

二〇一八年八月二十五日 「和田まさ子さん」

和田まさ子さんから、詩集『軸足をずらす』(思潮社)を送っていただいた。第2篇目に収められている「突入する」のなかの詩句に「それだけの理由で脱げすにいるバンプス」という詩句があったのだが、これは、「脱げずにいるバンプス」のまちがいだろう。作者の過ちとともに、編集者の劣化をも感じる。自分の詩句をよく見直しもせずにいる詩人の詩集など、もう読む気は失せたので、デュ・モーリアの短篇集『人形』のつづきを読みながら、床に就こう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年八月二十六日 「野田順子さん」

野田順子さんから、詩集『ただし、物体の大きさは無視できるものとする』を送っていただいた。詩句の運びは、ぼく好みのなめらかさがあって、詩句も何の抵抗もなく、するすると飲み込めるものだった。詩自体のアイデアは学校ネタがほとんどで、ああ、こういうところに目をつけられたのだなと感心した。せっかく送っていただいたのだから、さいごまで読まなくては申し訳がないと思って、和田まさ子さんの詩集『軸足をずらす』をさいごまで読ませていただいた。うまい。すばらしい詩句の展開。見事な詩集だ。たいへんな技巧家だと思った。それだけに、18ページの「脱げすにいる」の誤植が惜しい。

デュ・モーリアの傑作集『人形』を読んでいるのだが、作者の初期の短篇集らしい。叙述も、短篇集『鳥』(創元推理文庫)に比べると、ベテラン作家の初期の作品なんだなと思ってしまう。ちょっと休憩して、また読もう。

なんとも言えない陳腐なタイトルと、下品な表紙絵に魅かれて、五条堀川のブックオフで、16作品収録の短篇集『ラブストーリー、アメリカン』(新潮文庫・柳瀬尚紀訳)108円を買った。キャシー・アッカーマンが入ってなかったら買わなかっただろう。でも、見知らぬよい作家に遭遇するかもしれない。

いま日知庵から帰った。きょうも、お酒と、これから読むデュ・モーリアのすてきな短篇集『人形』で一日が終わる。文学、あってよかった芸術分野だな。ぼくは不器用だから楽器もへただったし、絵もへただったし、詩以外にできることなんて、ひとつもない。その詩も、ぼくが無名のせいで、しゅんとしてる。

二〇一八年八月二十七日 「弟」

うとうとして昼寝をしてしまった。弟の夢を見ていた。弟がかわいらしい子どものときの夢だ。大人になって、発狂して、精神病になってしまって、顔も醜くなってしまったけれど、子どものときは天使のようにかわいらしかったのだ。父と母が甘やかして育てたせいである。ぼくは父母を憎む。もう死んだけれど。

きょうは、うとうとしながら、ずっと、デュ・モーリアの傑作集『人形』のつづきを読んでた。寝るまえの読書もつづきを。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年八月二十八日 「「笠貝」または「あおがい」」

さいきん、お昼ご飯は、イオンのフードコートで、冷たいうどんと、鶏ご飯とのセットを食べている。590円なので、手ごろな価格で、おなかがいっぱいになる。

ケンタッキー・フライド・チキンに行った。680円のセットメニューを食べた。ドリンクはコーラ。糖尿病にとっては毒物である。まあ、うどん屋に行列ができてて、並ぶのが嫌で、だれも並んでいないところに行っただけなのだが。

いま、デュ・モーリアの傑作集『人形』のさいごに収録されている「笠貝」を読んでいるのだが、読んだことのあるような記憶がある。似た設定の小説を読んだのかもしれないけれど。きょうは日知庵にアルバイトだ。行くまでの時間に読み切れると思う。300ページちょっとの本にけっこう時間をとられた。

デュ・モーリアの傑作集『人形』を読み終わった。さいごに収録されてあった「笠貝」は、やはり、以前に読んだものだった。ネットで、なにで読んだのか調べたけれど、傑作集『人形』にしか収められていないようだったので、不思議だ。たしかに以前に読んだ作品だった。もう少し調べてみるかな。

ネットで調べても、ぼくの本棚にある、岩波文庫の『20世紀イギリス短篇集』上下巻、エラリー・クイーン編『犯罪文学傑作選』を見ても、デュ・モーリアの「笠貝」は目次になかった。おかしい。たしかに読んだはずなのに。日知庵に行くまでの時間、さらに調べてみよう。

原題の「The Limpet」で検索した。早川書房の異色作家短篇集の第10巻、ダフネ・デュ・モーリアの短篇集『破局』のさいごに収録されていた、邦題「あおがい」が、そうだった。まったく異なる邦題なので、すぐに探せなかったのである。読んだことがあると思った通りだった。これでひとまず、ひと安心。

肝心の作品「笠貝」または「あおがい」という邦題の短篇だが、サマセット・モームの作品にも似た、にやにやと読んでる途中でも笑けるブラック・ユーモアに満ちたもので、人間のもついやらしさというかあさましさを表していた。

もちろん、こんなにこだわったのは、傑作だと思ったからである。

二〇一八年八月二十九日 「カレッジ・クラウン英和辞典」

ぼくのもっとも信頼している英和辞典、カレッジ・クラウン英和辞典で、limpet を引くと、アオガイ・アミガイの類(海岸の岩石や棒ぐいなどに付着している小さな編みがき状の貝がらを持った節足動物;肉は魚釣のえさになったり中には食用になるものもある)語源は古代英語のlempedu, lamprey とあった。

きょうから寝るまえの読書は、デュ・モーリアの短篇集『いま見てはいけない』だ。西院のブックファーストで買ったのだけれど、部屋に帰ってよく見たら、表紙が曲がっていて、キーって精神状態がもろに悪くなったシロモノだ。交換しろと迫ってもよかったのだけれど、レシートを捨ててたからあきらめた。


そこにも、ここにも、田中がいる。
豊のなかにも、田中がいる。
理のなかにも、田中がいる。
囀りのなかにも、田中がいる。
種のなかにも、田中がいる。
束縛のなかにも、田中がいる。
お重のなかにも、田中がいる。
東のなかにも、田中がいる。
光輪のなかにも、田中がいる。
軸のなかにも、田中がいる。
竹輪のなかにも、田中がいる。
甲虫のなかにも、田中がいる。
横軸のなかにも、田中がいる。 
触のなかにも、田中がいる。


きょう、大谷良太くんと会って、collective BRIGHTNESS の全訳の話をした。ぼくと、もうひとりの詩人との共同の大掛かりな翻訳になるのだけれど、ぼくが訳す詩があと40篇くらいあって、1年から2年はかかると思う。翻訳作業に入ったら、通勤時も寝るまえも翻訳のことで、頭がいっぱいになるだろう。

もう、アメリカの出版社と編集者の許可は取り付けてある。残っているのは、翻訳の実行と日本語全訳の詩集の出版だけである。

出版社は、書肆ブン。

二〇一八年八月三十日 「デュ・モーリア」

デュ・モーリアの傑作集『いま見てはいけない』を読んでたら、おもしろくて眠れず。うううん。おもしろいのにも、ほどがあると思う。眠れなくさせるのは、完全な行き過ぎ。いま2篇目の小説だけど。(5篇収録の短篇集)デュ・モーリアの短篇集『鳥』も、けっきょく、徹夜するくらい、すごくおもしろかったものね。

二〇一八年八月三十一日 「きみの名前は?」

きょうは、夕方からイレギュラーの塾だ。塾が終わったら、日知庵に飲みに行く。塾に行くまで、デュ・モーリアの傑作集『いま見てはいけない』のつづきを読んでいよう。字が詰まっている。読みにくい。ブランチを、西院のブレッズプラスで食べよう。ハムチーズサンドイッチとアイスダージリンティーだ。

ブレッズプラスで、食事後、デュ・モーリアの傑作集『いま見てはいけない』の三作目「ボーダーライン」を読んでいると、ひきつづき捜しつづけていた詩句「きみの名前は?」(ダフネ・デュ・モーリア『ボーダーライン』務台夏子訳、203ページ)と遭遇した。さっそく「HELLO IT'S ME。」に加えよう。


追憶

  鷹枕可

たとえば夢の窓から
銀杏の翼が降り頻るのなら
浅い
浅い海の
満ち引きに
流れて消えた青い乾燥花を
結い解く少女の指がある

たとえば錘の微睡みに
まぶたを伏せて滴るとき
遠く
遠い望郷に
たどり着けない押花が
浚われ泛ぶ星の海がある
百の草原
一つの朽葉
蜉蝣の翅 瀬の花圃
月の抜殻
蘂の粉

  *

帰還兵だった祖父に
人を
どうしたのか
尊厳を問うなんてできなかった
血の夢を
傍らに営むひとりひとりの過日、
その兵銃の重さを知る手が裁鋏を巧みに操り
時間の
幾歳月を経ても癒えない
麻痺もせぬ体験を抱え込んで、
そのままに
町の仕立屋として生き
静かにその息を終えた
かつての
兵卒の
焼場の煙を見上げていた

  *

たとえば風の揺りかごに
呼ぶ幼児のぬくもりが
嵐の窓をなだめるように
梢の花芽は
何処へと到り
何処へと流れゆくのか、
私は私を知らない
禽は籠へ
帰らない

呼びかう声に淋しく呼ばれ
白樺の膚を振返ると
星の鼓膜に
蝶と蝶
茱萸の泪が
青く
満ちて、

  |

理由も無く鐘は鳴り
理由も無くわれわれは問い交わす
そして触れるのだろう
土地の糧、
熟麦の星に声と産まれて
滾るもの
幾千の窪を
逃れ 駈けてゆけ 風廊の丘を


ordinary

  完備

雨もりは茶色い
コップにティッシュ詰めてうけとる
それから
本をビニール袋でつつむ

どうせバレないでしょ
半裸でベランダ
ずぶぬれになってみる
風邪はひかないていどに。なんだ、
無性に
吸いたい、

ぜったい死ねないところ
書きたいことも悔いもないのに
ぜったい溶けないからだ
あと眼鏡
パンツはすこし減ったよ
多分

溝で
絡まっている枯れ葉
髪の毛
アタック詰め替えたあとのやつ


かいてんたい

  ウトイ

道路に一枚だけ落ちていた枯れ葉を
気付かずに
前輪で押しつぶしてしまった、らしい
タイヤにこびりついた枯れ葉が
ペダルをこぐたびに、一定の、リズムで
視界に入っては消えていく
雨が降っている

ともだちが
負けたけど美味しいもの食べたいと言って
銘柄がぜんぶ違う大瓶四本とパックの寿司を
買ってるのを私は写真で見た
これじゃあ祝勝会みたいだねとリプライして
ほんとうの
祝勝会の雰囲気やそこにいる人たちの顔を
想像しようとしたけどできなかったから私も
発泡酒を買って宅配のピザをとった
ちゃんと飲んで、ちゃんと食べた
ともだちもきっと
ちゃんと飲んで、ちゃんと食べた、はず
アルコール、六パーセント
今日の結果、五十五パーセント

ビールとか発泡酒とかの好きなところは
初めて飲んだ時に感じた苦味をいつも新鮮に
思い出しているような気分になれるところ、
最近はやってない親戚の集まりで飲んだ時の
うまく説明する言葉を見つけられない感じを
思い出してまた言葉を探したくなるところ、
それを見つけるまでビールのほんとうの味を
まだぜんぶ分かってはいない
と思えるところ
 
梅雨が明けきる前に
何かで勝ちたいと思って
久しぶりに競馬をやってみたけど、ガミった
ガミるのは買い方がおかしいから、ハナから
やり方が間違ってるから、ちゃんとやったら
勝てなくても、負けはしない
と居酒屋でマスターが言ってた
そうか、ちゃんとやったら負けはしない、
勝てなくてもいいと思って納得したけど、
勝てなかったら、負けてしまう
ことだけが、今日分かった

考えごとをしながら自転車に乗っていると
人がほとんど通らない、小さい信号を見逃す
別に構わないと思うけど、
この前通りすがりの現場系のおじさんに
こどもが真似するだろと言われたことが
すこし、胸にひっかかっていて気が咎める
私の生活を動かす人たちもこどもは真似する
こどもは選べないから真似するしかないから
でも、私は選べる 
選ばないことも、許されてる
何回もやり直せる福引きのくじみたいに
欲しい結果が出るまでしつこく
嫌がられるくらい粘ってみたい

このあたりで一番大きい交差点を
緊急車両がけたたましく走り抜けていく
足をついて、通り過ぎるのを待ってから
追いかけられるところまで追いかけてみる
最近はほとんど運動もしなくなったから
すぐに息切れしてしまった
雨はまだ降っている
もう長いこと、緊急が続いているけど
次の季節、あたらしい結果を見るまで私は
回し続ける


ひと雫のパイロット

  菊西夕座


頭んなかには空港の岩盤じみた駐機場と
恰幅よろしい滑走路が大河のごとくに延びていて
いましもそこに下りてくるジャンボ機の形態は
度肝をぬくずん胴の緑(あお)い鰐そのものであった

   岩盤は海に囲まれ、海底の根もとには藻類が密生する

頭んなかで待ちうける大食漢のひらたい大皿は
不恰好な鰐のありふれた姿態を口腔へとうながし
依然として空港にはがらあきの滑走路をならべ
つぎなる旅客機のアメーバじみた形状を誘導する

   密生した藻類は樹の根のように分岐してたゆたう

わだかまる細胞の変状に悩める微細なひきつり
どのような形へつぎなる触手を伸ばすべきか煩悶し
もぞもぞと動きながら徐々に空から下降してきては
大なる飛行場の飢えに飢えた皿をみたそうとする

   分岐した梯子へと群がる貝類や甲殻類のみなしご

大皿に触れるまぎわに無数の触手がむぞうさに伸びて
思い悩む細胞のアメーバをいたずらに口腔へとはこぶ
あずけた荷物をベルトコンベアーで待ちうける人々の輪に
唐突に鰐が流れてきて下から食い破られる人間の狂気!

   ずん胴の胃袋にも貝類や甲殻類が密入国している

突き破られた駐機場の分厚いコンクリート片が重なり
野薔薇の花弁のようにめくれあがって太陽にあえいでいる
固いうろこ状に罅のはしった藍の滑走路をめがけて
いましも下りてくる船体の機影はあこがれの恋人

   コンクリート塊の裏側には雑草の根が網を張っている

もつれた頭んなかのとりとめもない幻雲を払いのけて
波うつ滑走路の荒廃を癒やすように折り重なる柔肌
どれほど新規な形態をひねりだすよりも尊いことは
ただひとりのあなたという現身にいだかれること

   あたかも太陽光線のように差しこむ異性の侵入

空虚な駐機場に乱反射するまだら模様を遠くはなれて
みたされることのない大食漢の海図からもぬけだし
あなたという枠外の飛来者とともに離陸する刹那
触手をくわえた鰐が身体をひねりながら海へと飛んだ

   はねあがる水滴の窓には不時着をめざす分裂のパイロット


母の一周忌

  朝顔

今日の午前中、お医者さんへ行った。私のことをいじめている臨床心理士さんのカウンセリングは、しばらくお休みします。と言ってキャンセルして、お医者さんと初めて真面目に話をした。

「私は、私なりに頑張って、母のことを愛情持って世話していました。でも、母はどんどんどんどん大きくなって、食虫花になってしまい、私のことも呑み込もうとしたので、私は走って遠くの安全な場所に逃げました。弟も同じこと言っています。『お母さんはカオナシみたいだ』と。私、詩集出して以来、みんなにお母さんのこと受け入れられないの?と言われます。でも、私はまず自分の身を守らないといけないですし、それに私、食虫花あんまり好きじゃありません。」と。

お医者さんは、余計なことを言わないで黙って話を聞いてくれて、来週のお薬を出した。帰り道にスーパーでお豆腐のハンバーグと南瓜のサラダと牛乳みかんかんを買った。夕焼け坂を下りながら、私は自分のことをもう許してあげて、好きになってもいいような気がした。

母は、本当に綺麗で残酷で獰猛な食中花だった。私が、一生懸命に水遣りして育てた花だった。でも、枯れてしまってもう二度と生き返らない。母が死んで一年経った夏至の夜に、私ははじめて膝を抱えて、体を折り曲げるようにして泣きじゃくった。

どうして泣いているのかはよくわからなかった。窓の外は藍色に林立したビルの灯りが消え、いつの間にか白み始めていた。


葬式

  浅海天

君は言った
──偽物なのかもしれないね。
わからない。
でも、
偽物だったらいいと思う。
──どうして?
しあわせになりたいから。
──本物だったらしあわせになれないの?
たぶんね。
──ふーん。そんなに簡単に割りきれるんだったら偽物なんじゃない。
そうかもね。
わたしは言った
君は黙った
わからない
わかりたくないのかもしれない
だって
本物でも偽物でも
変わりはしないのだ
君と
キス
することはないし
一年後
わたしは彼氏と海にでも行って
がんばって育てた胸を
健康的な色をした腕に絡めながら
日傘もささずに
キスをしているでしょう
日焼け止めはとっくに落ちて
海水にすっかり溶けてしまった
大丈夫
今度はちゃんと溶けたから

かみさまは
秘密をかくすために
海をお創りになられた

──本物を見つけたら、教えてよ。
うん、もちろん。
わたしはうなずいた
君はにこりともしなかった
それだけ
たったそれだけで
わたしはうれしくなる
二重跳びを三十回できそうだ
と言ったら
君は変なかおをして
どうしようもないね
ってわらうでしょう
わたし
彼氏ができたら
まっさきに君に報告したい
ああ でも
とつぜんLINEを送るのは
あまりにあけすけだから
回り道をして
やがて君に届くように
ちゃんと計算するけれど
わたし きっと
君の不機嫌なかおを
はやく見たくて見たくて
たまらなくて
ベッドに眠る
彼氏の寝顔
を見つめて
一夜を明かしてしまうかも

──でも理想高すぎて彼氏できなさそう、だけど。
そんなことないし。
わたしはわざと
怒ったような声を出した
君はわらった
から
わたしもわらった
あ、ほんとにできないって思ってるでしょう。
──だって私だったら付き合いたくないもん。
ちょっと、ひどすぎるってば。

(付き合うなんて、思ってもないくせに、どうしてそんなことを言うの。わたしたち、おそろいの制服を着てるじゃない。)

わたしは目を覚ました
──さいきん話してる?
五ヶ月前がさいごかな。
君は呆れたような顔をした

しょうがないじゃん、クラスちがうし、話しかける用事もないし、わたしたちきっと、このままおとなになって、次に会うのはきっとどちらかのお葬式だもの。

白い天井に跳ね返った言い訳が
ひとり
遊んでいる
わからない
肝心なことは
誰も
教えてくれないから
どこまでがともだちで
どこからがイジョウなのか

偽物でありますように。
わたしは言った
君はもういなかった
わたしの記憶の中に
溶けて
ねむっている
ねえ、だんだんと
もたなくなってるでしょう。
返事は返ってこなかった
もうじき死んでしまうのね。

散骨は
瀬戸内海にしようと思う

一年後
浜辺に打ちあげられた
ガラクタの山に
わたしは彼氏を案内して
セックスをしたあと
きつい昇り坂も うすむらさきの日傘も 君のボブも 部活のユニフォームも いつかのプリクラも 嫌いだった制服も
この手で
海の底に沈めるでしょう
目の前の男を
本物にするために


国家

  鷹枕可

俺は、その想像より転落をして行く一艘の国家だった
ポオは言う、明晰な詐術は科学へ擬態をするだろうと
科学は、俺という肉体像を動かしめながら
誤謬なき再現性、その絶対的定義の中で
俺自身を蝕み
心臓という、時間の暗示を
脳髄という、観念の拠点を
俺と言う存在の確証を
もはや重量の孤絶の外にしか発見しないだろう
一体、誰が汚染したのか
集合という、個の観念を
理性の総合体は、俺自身の肉体より、実体としての証左を剥奪し
科学は、唯一の条理を保障する
明らかな
明らかな誤りを証明するその実体を蔽い、
国家の、所属する社会の普遍は、
俺という一つの国家を糾弾し、
個の同一性に帰属する、
凡庸に、
俺を沈め、俺としての約条を攪乱する、
一把の象徴を容易にも呑ませ、調和という承諾を得ようとした
しかし誰が、俺という一つの国家を侵犯し
審級する手筈を調えたのか
俺自身へと退行をした国家が
なお国家である理由には果して定式がなければならないのか
なぜ火炎瓶は投擲され
なぜ報復は実行されたのか
誰が虐殺を指示し
誰が民族を分断したのか
記念像に逃れた廿日鼠が
その礎を齧った爲に押し潰されてゆく
俺からの出口は
俺からの出口は
俺からの出口は
観念を抱えて立ち上がる
シシュポスが自らの岩を両腕に堪えながら、苦役のなかより呻き
国家は、
墜落して行く国家は
俺でもあり
俺ではない獄舎の壁に定式となり記録をされ
記録は、記録自身よりその現実性を把握するだろう

出口が開かれた時、
書かれる前から言葉はあり
俺は俺自身の塩の柱を町に刻んでいたのだ


Pure Acceptance

  kale

いつもなにかを願っていた。あしたの天気のことだとか、つまらないからといって、まだ幼い弟の浅いねむりをさまたげてしまう姪のこと。喉の腫れを放置して痛みをおぼえて、はじめて死に至る病気についてとか死に至らない病気に残されているはずの寿命の早さとか、速さとか、距離、重さ、みたいなものを乗りきるための、両ひざの軟骨成分はプロテオグリカンがいいのか、コンドロイチンがいいのか。さいきんスマホの電池の減りが異様に早いこと。ピエゾと呼ばれる圧力が宝石を振動させていくその変換の出力はちいさくて、アルコール消毒はGel TypeではなくGem Typeになることはけっしてないのか。R-TYPEの超束積高エネルギーの実現可能性のこととか。すきだった俳優の三浦春馬が死ななければならなかった理由とか。あたらしいものはほとんど増えていかないのに、日常はそのすべてを織りこんでしまうこと。ふるいものばかりが増えていく部屋からなにも断捨離できずにいて、こんまりがショッピングをすすめてくる棚のなかで、川端康成集が埃をかぶっている。駅前のおしゃれな食事処で食べた白米がおいしかったこと、選ぶことのなかった十五穀米のことだとか、店員の笑顔とか、上品で、繊さいな語り口が永遠にうしなわれてしまった番組の名まえが「世界はほしいモノにあふれてる」であったこと、のびてきた爪の白い部分を爪先(フリーエッジ)と呼んでみたかったこと。根もとの白いところは爪半月でルヌーラって名まえだってことはしっていた?しらなかったことをしってしまった細胞は、あいかわらず60兆個の細胞でイオンチャネルをひらいているし同時にとじてもいるし、毎日1兆個の細胞が入れかわっているのに、総入れかえは2ヶ月かかるというし、たましいやこころの、神経節のサイクルはその勘定に入れてもらってはいないのだろうし、おそくとも、約1年ですべてが入れかわる脳細胞が「世界はほしいモノにあふれてる」という文節を、ぶんせつ、とひらいてみても、bunnsetuととじてみても、それは共時的におもいだされることも、わすれられることもあるのだろう、という予感さえも織りこんで、細胞の入れかわりに巻きこまれていくマーブルは、層になることもできずにふるいまま。いつもなにも叶わないことをしっていた。


火変わりの歌

  アンダンテ

『賢治とその詩片たち』(その二)

 高村光太郎は「彼の本体から迸出する千のエマナチヨンの一に過ぎない」と評している。賢治の人格がどのようなものであろうとも迸る化学反応は、削られたブロンズの端くれの一つに過ぎないのか。言い得て妙な話は、何も言い得てないに等しい。光太郎の意図を無視して揶揄してるわけではない。立ち入れば訳の分からない言動に惑わされることを危惧している。
 いくら四次元を振りかざしても、知識の偏倚はいかんともしがたい。アインシュタインをして
ようやくミンコフスキー時空(三次元空間と一次元時間からなる四次元時空)に時空の曲がりを導入出来たというのに、なにげに四次元を持ち出し論じるのか。賢治研究家はよほど頭脳明晰らしい。解らぬ熟語を用いて進むはずもない論を進める。頭の中は跡形もない赤嘘のオペラとなったに違いない。

 風が偏倚して過ぎたあとでは
 クレオソートを塗つたばかりの電柱や
 逞しくも起伏する暗黒山稜や
 ・・・(虚空は古めかしい月汞にみち)
 研ぎ澄まされた天河石天盤の半月
 すべてこんなに錯綜した雲やそれらの景觀が
 すきとほつて巨大な過去になる
 (『春と修羅』第一集「風の偏倚」より)

 空気抵抗を避けた達磨が脚を出してぶっ翔ぶものだから、たまげてしまう。この作品に作者の爪痕を探るのは無意味だ。クレオソートを塗つたばかりの電柱が自然景観に埋没する、気の遠くなるような透明度が底のしれない洗いがけの空虚を満たす。それにしても、賢治の詩片には中也と違って句読点がない。句読点は日本に於いては漢詩に句読点や返り点を付けて読みやすくしたのが始まりだろう。詩歌においては句読点を付けないのが基本なのだが。賢治は、律義にも基本を守っている。そうは言っても、賢治作詞作曲の『星めぐりの歌』では句読点を付けているので、遊びこころ有りと言うところか。

 あかいめだまの さそり
 ひろげた鷲の ・つばさ
 あをいめだまの 小いぬ、
 ひかりのへびの とぐろ。


 オリオンは高く うたひ
 つゆとしもとを おとす、
 アンドロメダの くもは
 さかなのくちの かたち。

 大ぐまのあしを きたに
 五つのばした ・ところ。
 小熊のひたいの うへは
 そらのめぐりの めあて。
 ・・(『星めぐりの歌』)

 もひとつ、賢治作詞作曲「イギリス海岸」という詩がある。

 Tertiary the younger Tertiary the younger
 Tertiary the younger Mud-stone
 あをじろ罅破(ひわ)れ あをじろ罅破れ
 あをじろ罅破れに おれのかげ

 Tertiary the younger Tertiary the younger Tertiary the younger
 Tertiary the younger Mud-stone Mud-stone
 なみはあをざめ 支流はそそぎ
 たしかにここは修羅のなぎさ

 実は、私が『火変わりの歌』を起こしたのはこの詩がきっかけだった。ちょうど、私がこの形態の詩を作っていた時、賢治のこの詩に出合った。驚きと烏滸がましいが私自身が誇らしかった。
 この形態の詩は、調べたところ「イギリス海岸」一片だけだった。童話『イギリス海岸』(農学校スケッチ)「イギリス海岸」の中に《日が強く照るときは岩は乾いてまっ白に見え、たて横に走ったひび割れもあり、大きな帽子を冠ってその上をうつむいて歩くなら、影法師は黒く落ちましたし、全くもうイギリスあたりの白堊の海岸を歩いているような気がするのでした。》とあり、文語詩稿〔川しろじろとまじはりて〕ではこうある。引用しよう。

 川しろじろとまじはりて、 うたかたしげきこのほとり、
 病きつかれわが行けば、 ・そらのひかりぞ身を責むる。

 宿世のくるみはんの毬、 ・干割れて青き泥岩に、
 はかなきかなやわが影の、 卑しき鬼をうつすなり。

 蒼茫として夏の風、 ・・・草のみどりをひるがへし、
 ちらばる蘆のひら吹きて、 あやしき文字を織りなしぬ。

 生きんに生きず死になんに、得こそ死なれぬわが影を、
 うら濁る水はてしなく、 ・さゝやきしげく洗ふなり。

 それぞれの作品の時系列が定かでないので、どういう関係かは断定出来ないが、どれかが由来元、それは確かか。
 Tertiary the younger Mud-stone Mud-stone単に、地質学の専門家でなければ発想出来ないわざというだけではなく、賢治自身が発想となって詩の一片として零れ出たとしか言いようがない話。そもそも花巻には海がない。修羅のなぎさ。中也が「汚れつちまつた悲しみに……」で歌った、路に落ちた汚れ小石のように地に平伏する悲しみがある。

 たけにぐさに
 風が吹いてゐるといふことである

 たけにぐさの群落にも
 風が吹いてゐるといふことである
 ・・(『疾中』から「病床」)

 病床にあって書き上げた詩片。だからと言って、手術室に待ち伏せして医師の所見をメモって一体なんになる。医者でもないのに病気を治そうというのか。そうでないとしたら、病人の身体検査は失礼、作品に対する誠実さに欠ける態度ではないか。慟哭は人を驚かす装置ではない。慟哭は人に感銘を呼起こす楽器ではない。
 いふことである 言割りを入れることにより、よりいっそう光景に対する情感が深まる。賢治は、不思議な黄いろになっている月を見る。キリストが見たゴルゴタの丘の上空の黄色い裂け目を見ていたのかも知れない。

 ひとはすでに二千年から
 地面を平らにすることと
 そこを一様夏には青く
 秋には黄いろにすることを
 努力しつゞけて来たのであるが
 何故いまだにわれらの土が
 おのづからなる紺の地平と
 華果とをもたらさぬのであらう
 向ふに青緑ことに沈んで暗いのは
 染汚の象形雲影であり
 高下のしるし窒素の量の過大である
 (『詩ノート』 一〇八四 〔ひとはすでに二千年から〕)      

 ヒデリノトキハナミダヲナガシ(『補遺詩篇』〔雨二モマケズ〕)と記された、花巻市中北万目の地にこの詩碑が建っている。賢治の死後、ようやく念願のダムが出来この地は潤い、田んぼは一様夏には青く秋には黄いろに輝く。

**註解**************
*底のしれない洗いがけの空虚:『春と修羅』第一集「風の偏倚」
*不思議な黄いろになっている月;『春と修羅』第一集「風の偏倚」
*ゴルゴタの丘の上空の黄色い裂け目;サルトル『文学とは何か』加藤周一訳


通学の思い出

  ひとのこ

「人生は、釈明である。僕のあらゆる活動は、結局、釈明を到達点にする。」
(所引:某君日記帳冒頭)

「僕には言いたいことを言い得る事の方が少ないどころか、ほとんどそんなことはないのかもしれない」

と彼は前髪に汗をかきながら言うので、「どうも言いたくないことばかり言わなきゃいけないようだ」というようなことを返す。言葉というひどい欠陥品を人類はいつまでたっても使い続けているという論法の某君ははつらつとして話し続ける。

「もう何も言いたくないよ」という某君の言葉に僕が笑ってしまったのは、彼が何も言いたくないことを熱弁し続けていることに気が付いたからである。何も言いたくないと主張するにも、やはり何か言わなくてはいけないのだ、これを某君に教えてやったら、某君は嬉しそうに笑う。巻きつくみたいに風が吹く。


展翅

  ネン

感じるものだけの世界で
年輪を重ねていく森
柔らかな土の匂いが
耳の聞こえない子を包む
子は初夏の日差しを
掬っては私の口に運ぶ

鈍麻した感情の為に
薬剤で全身を冒している
死体を防腐剤に浸すだけの
やぶ医者しかいない街で
雑踏を啄む片足の鳩
死んでいない、今はまだ

長いこと知らなかった平和が
ある日不意に日常に達して
無暗にチーズを齧りながら
いつから幸せだったのか
果てようとしたのか考える

うつろへといざなう声で
吠える巨躯の哺乳類
人知の及ばない所で
何かの化け物が笑っているのに
天使の羽ばたきは遠い


月兎の聴躍3

  

寂れた町の隅っこに吹き溜まる葉や木屑のスラングに無縁仏が風を発す(おこす露骨な色の衣装を纏い逸れ者は子供のまま大人になって腐れ縁を結えたお父様とお母様に離婚を宣告出来る権利を強請る何も決めていない時間が流れていればそれでよい学校で富国強兵や経済成長を学び行進して歩いたり整列したり前に倣え(ならえしたりした指先の爪はよく研いてあるから何時でも後ろから君の背中を串刺しにできる血まみれの二十歳は社会に徴兵されてしまう浅緋(あさあけいろの雑草をまいにち間引いているけど託児所の根っこは全く機能しない子供は大人の先輩なのに兎の腸がはみ出してしまって四方八方に広がる赤い瞳の裡側に散らばった褪せたビルの谷間に食い下ってでっかい太陽の前で小数点がコロコロ零れる曖昧な人生を隔てなく食べて肥大し続ける真心が眩しくて誰も振り返えられない無縁仏の誰かが名前から脱皮する呼んでいる私は事実の集合体ではない。


月兎の聴躍 4

  

幸福が平和を追い越して月光は鞍に跨って暗雲に燐光を掻き分けて過去は諸手に翼を授け乱反射する星達を散りばめたターフの上で見下ろす街の空に神様の落書きは装うあつあつご飯もゆらゆら揺れる廉直なかつお節も踊りながら水屋に眠る夜に茶碗の夢をみる幸福の為に死ねないけれど幸福だからこそ死ねた御納戸色(おなんどいろに生まれ短冊に育つ言葉を数え切れない今で引き止め詩に綴じ込めた願い溢れる部屋の扉を開け出てゆく大切な思い出の塊が大き過ぎて切れない唯それだけの理由で笹の葉サラサラ今と祈りに挟まって兎の腸がはみ出している明日こそ晴天を探しに一緒に出かけよう。


わたくしでなく

  みどり

目の前に燦燦と降ってくる音粒に
驚いたこと ある?
簡単な喜びならよかった
安易な悲しみならよかった

私たちは複雑に生まれすぎて
心は古生代に還りたがっている

吹きすさぶ嵐の中を
たあだひとり、黄色な傘さえもたず立った

家に帰り
柔らかなタオルを頬にあてがう
部屋は暗く
灯かりをともす気もない

窓から零れた月光のかたひら

目の前に燦燦と降ってくる音粒に
驚いたこと ある?
言葉になる前の ただ
息をしているんだ

わたくしの感性


春と夏

  月屋

葉脈をちぎると太陽がこぼれる。
夏が破壊されていく。
凍っていくアイスクリームと、
小さくなる海。

満月が見えない雨の夜。
靄がかかる自転車には蛹ができていて、
春生まれの君が、
聴力を失っていくようだ。
「夏は嫌い」
そう口にしていた君。
先日海に行ったって聞きました。

君は知らない。
水平線はもう、
海水で出来ていないこと。
君は知らない。
瑠璃鶲はもう、
地面に降り立たないこと。

ちぎれて残るのは、爪の温度だけ。


震度1

  inconnu


ぬいぐるみを抱きながら 夜にくるまって眼を閉じる
まとわりつく夏の風に溶けているのは 喧騒と絶望か
いつか川となる滴 が 夜泣きをする君の身体から零れる
 
君に流れるH2Oが静かに振動している
朽ちた紫陽花から微細な埃が舞っている
色濃いブルーの記憶を 生々しい夏の芳香を
私の肺に捕らえよう 
染まるだろうか 底の見えない留紺に 

夜 今日が死んでいく
光に向かって死んでいく


西瓜の冷やし中華

  atsuchan69

夏が終わるとき、
風呂桶に浮かんだ西瓜を見ても
もう、それほどときめかない
でも冷やし中華を飾る
一切れの西瓜は不思議と美しい
刻んだハムと胡瓜、
錦糸卵と紅ショウガという
いつもながらの顔ぶれに
あ、なんで西瓜なの? っていう、
なんちゃない驚きが嬉しい
――西瓜の冷やし中華、
食べる前に
瞼の裏にしっかり焼き付けよう
雪が降り始めたころ
ああ、
西瓜の冷やし中華が食べたいなあ
なんて たぶん思わないけど、
人生を飾る
嬉しいことのひとつに
たった一切れの西瓜もあるのだから


(無題)

  コテ

釈迦は信じなかった
の眼
姉さんは火星の風情を感じておられる


底抜けの、底抜けに、

  黒羽 黎斗

虹の端から人の甘い言葉は羅列されていく様を飄々と眺める取り巻きの大気は未曾有の永遠というものから切り離されるように輝き始める。
(そうして落下がただの停滞になる点を複数認めることになるのだから13歳の夏へと飛躍する自転車の上での思考というものは止まって見える)
一掃された時間の間にある喜劇的な哀愁の分離は自殺にも似た象徴として理解され続けカラビナに救われる少年少女が身の内に飼う真っ青なオオカミたちと競合するかのように貿易風のように宛もない安定の先を見据えて走り出す。
(空になったことがあるのは目の奥の血流が偽物の絵画たちに証明するからその眼球も視神経も必要であり一冊の本を読み終わる瞬間が訪れないように感じるのは証明が行われているからだ)
夕立が止んだ瞬間に明朗に読み上げる
「                   」
だから秘密は宙に浮く

文学極道

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