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2018年07月分

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* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


Sweet Thing。

  田中宏輔


 いつか、詩人は、わたしに、森 鴎外の『舞姫』のパスティーシュを書きたいと言っていた。


 愛がわたしを知るとき、わたしははじめて、愛が何たるものかを、知ることになるのであろう。言葉の指し示すものが、わたしを知るとき、わたしははじめて、その言葉の指し示すもののほんとうの意味を知ることになるのであろう。あるいは、わたしが愛でいっぱいになるとき、わたしは愛そのものになるともいえるし、愛がわたしでいっぱいになるとき、愛がわたしそのものになるといってもよいであろう。わたしが言葉の指し示すものでいっぱいになれば、その言葉の指し示すものそのものになったり、その言葉の指し示すものがわたしでいっぱいになれば、わたしそのものになったりするように。


ひとつの場がひとつの時間に
(R・A・ラファティ『草の日々、藁の日々』2、浅倉久志訳)


われわれにとって自分の感じていることのみが存在しているので
(プルースト『一九一五年末ごろのプルーストによる小説続篇の解明』、鈴木道彦訳)


匂い同士は知りあいではない。
(ヴァレリー『残肴集(アナレクタ)』一〇〇、寺田 透訳)


認識は存在そのものとはなんの関係もないのだ。
(ロレンス『エドガー・アラン・ポオ』羽矢謙一訳)


わたしは、わたしの新しい顔を見た。
(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三七年五月二十六日、関 義訳)


私は私自身を集めねばならんのだ
(フィリップ・K・ディック『シミュラクラ』14、汀 一弘訳)


自分を取り戻す。
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』4、岡部宏之訳)


自分で自分の巣を作らねばならぬ。
(エマソン『運命』酒本雅之訳)


変身は偽りではない……
(リルケ『月日が逝くと……』高安国世訳)


 ある感覚が ── 略 ── 刺激を受けたのとは異なる感覚器官の感覚に即座に翻訳される場合、それを共感覚というんです。たとえば──音の刺激が同時にはっきりした色感を引き起こすとか、色が味覚を引き起こすとか、光が聴覚を引き起こすといった具合です。味覚、嗅覚、痛覚、圧覚、温覚、その他もろもろの感覚で混乱や短絡があり得るんです。
(アルフレッド・ベスター『ごきげん目盛り』中村 融訳)


複合感覚は人間には非常によく見られるものなんだそうです──一般に考えられているよりも、ずっと多いんですって。たとえば、音を匂いとして感じる人とか、色で味を感じる人とか
(ドナルド・モフィット『第二創世記』第二部・7、小野田和子訳)


 共感覚とか、複合感覚とかと呼ばれるものがある。言葉は、つねにそういった感覚を誘発させてきたのではないだろうか? 詩人のつくったすべての引用のコラージュがそうだとはいえないのだが、詩人のすぐれた引用のコラージュを読んでいると、ふと、そんなことを感じたのであるが、詩人自身も、自分のコラージュのなかには、すぐれたものもあって、そのすぐれたものの特徴に、共感覚、あるいは、複合感覚からもたらされた諸感覚器官の混交を誘発するところがあると言っていた。事物・時間・空間・状況、状態、そういったものが、つぎつぎと結びつき、変質し、混交していくのである。詩は、詩の言葉は、その結びつきと変質、あるいは混交という二つの運動を開始する、一種のスイッチのようなものであるのかもしれない、と。

 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。
 
 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。ピチピチと音を立てて弾け飛んでいた。まるでストロボライトのきらめきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。
 湖面で蒸発する光の中に。


 これは、詩人の詩「反射光」の一部、終わりの方の部分であるが、共感覚、あるいは、複合感覚と呼ばれるものの一例である。しかし、詩人が所有していた自身の詩集のこの詩が書かれてあるページには、ルーズリーフの一枚を半分にして切ったものにメモ書きして、つぎに書き写した文章が挟んであった。


 あの湖面の輝きは、たしかに音を発していた。こころで、はじめピチピチ、プチプチとつぶやいていたら、じっさいにあとになって、まるで湖面の上で光が蒸発しているように見えて、その音がピチピチ、プチプチと聞こえてきたのだが、詩にするとき、へんな常識を働かせて、光だから、チカチカでないとおかしいと思い、詩集では、そう書いたのであるが、正直に、ここに書いたように、ピチピチ、プチプチと書けばよかったと思っている。まあ、しかし、チカチカというきらめきも、じっさい目にしたのだから、正しくなくもないのだけれど、それは、光が蒸発していく音よりも、光自体のきらめきに重点を置いたということになるので、推敲の結果ともいえるのだが、それにしても悔やまれる。なぜ、常識を働かせてしまったのだろう、と。将来、発表し直すことがあれば、ぜひ第一番目に書き直しておきたいところである。


「反射光」は、じっさいに、四回、詩人の詩集に収録されたのであるが、どれもが完全なものではなかったようだ。たとえば、第一詩集である『Pastiche』(花神社・一九九三年)では、


 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。
 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。チカチカと弾け飛んでいた。まるでストロボライトの煌めきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。
 湖面で蒸発する光の中に。


『みんな、きみのことが好きだった。』(開扇堂・二〇〇一年)では、


 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。
 
 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。チカチカと弾け飛んでいた。まるでストロボライトの煌めきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。
 
 湖面で蒸発する光の中に。


『ゲイ・ポエムズ』(思潮社オンデマンド・二〇一四年)では、


 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。

 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。チカチカと音を立てて弾け飛んでいた。まるでスポットライトのきらめきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。
 湖面で蒸発する光の中に。


『みんな、きみのことが好きだった。』(書肆ブン・二〇一六年)では、


 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。

 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。ピチピチと音を立てて弾け飛んでいた。まるでスポットライトのきらめきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。

湖面で蒸発する光の中に


となっている。再度、書き込むが、ここは、詩人のメモにあるように、詩人は、つぎのように書き直したいと思っていたのだろう。


 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。

 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。ピチピチと音を立てて弾け飛んでいた。まるでストロボライトのきらめきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。
 湖面で蒸発する光の中に。


 ところで、詩人には、ほかにもやり遺したことがいっぱいあったようだ。まだまだ発掘していくことになるメモや遺稿の山々から、いったいどのような鉱石が採掘されるのか、たいへん楽しみである。これからも、言葉の切子面のように、詩人の『マールボロ。』という作品をいろいろな角度から眺めて、その魅力について語っていくつもりである。


 しかして、そうして、けっきょく、詩人の願いは果たされなかったのだった。最終決定版の「反射光」が収録されるはずの五冊目の詩集が出なかったのである。さいごに、その最終決定版の「反射光」をつぎに書き留めておこう。




反射光


 幾つものブイが並び浮かんだ沖合、幾つものカラフルなパラソルが立ち並んだ岸辺。その中間に、畳二枚ほどの広さの休憩台がある。金属パイプの支柱に、木でできた幾枚もの細長い板を張って造られた空間。その空間の端に、ぼくは腰かけていた。岸辺の方に目をやりながら、ぼくは、ぼくの足をぶらぶらと遊ばせていた。
 まるで光の帯のように見える、うっすらと引きのばされた白い雲。でも、そんな雲さえ、八月になったばかりの空は、すばやく隅に追いやろうとしていた。
 
きみは、ぼくの傍らで、浮き輪を枕にして、うつ伏せに寝そべっていた。陽に灼けたきみの背。穂膨(ほばら)んだ小麦のように陽に灼けたきみの肌。痛くなるぐらいに強烈な日差し。オイルに塗れ光ったきみの肌。汗の玉が繋がり合い、光の滴となって流れ落ちていった。眩しかった。目をつむっても、その輝きは増すばかり。ぼくの目を離さなかった。短く刈り上げたきみの髪。きみのうなじ。一段と陽に灼き焦げたきみのうなじ。オイルに塗れ光ったきみのうなじ。光の滴。陽に照り輝いて。きみの身体。きみの肩。きみの背。きみの腰。光の滴。みんな、陽に照り輝いて。トランクス。きみの腕。きみの脚。きみの太腿。きみの脹ら脛。光の滴。みんな、みんな、陽に照り輝いて。
 ただ、手のひらと、足裏だけが白かった。
 
おもむろに腰をひねって、ぼくはきみの背中にキッスした。すると、きみは跳ね起きて、ぼくの身体を休憩台の上から突き落とした。なまぬるい水。ぼくは湖面に滑り落ちた。すりむいた腕、きみに向けて、わざと怒った顔をして見せた。きみは口をあけて笑った。その分厚い唇から、白い歯列をこぼしながら、笑っていた。
 きみの衣装は裸だった。

 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。

 ぼくは、きみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは眩しげに目を瞬かせた。振り向くと、湖面に無数の銀色の光が弾け飛んでいた。ピチピチと音を立てて弾け飛んでいた。まるでストロボライトのきらめきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみの身体を抱いて、湖面に飛び込んだ。
 湖面で蒸発する光のなかに。




 そういえば、詩人は、詩集『ゲイ・ポエムズ』に収録していた、中国人青年が出てくる「陽の埋葬」の一作に脱字が一か所あったことも悔いていた。いつか、新しく出す詩集に完全版を収録したいと書いていた。しかし、その願いも果たされなかったのだった。つぎに、その「陽の埋葬」の完全版を書き留めて、本稿を書き終えることにしよう。この論考で、詩人の果されなかった二つの願いが果たされたことになる。二つの詩の完全版を収録したことは、筆者には、ひじょうに意味のあることであると思われる。




陽の埋葬


 高校の嘱託講師から予備校の非常勤講師になってしばらくすると、下鴨から北山に引っ越した。家賃が五万七千円から二万六千円になった。ユニット・バスの代わりに、トイレと風呂が共同になった。コの字型の二階建ての木造建築で、築二十年のオンボロ・アパートである。北山大橋の袂で、しかも、ぼくの部屋は入り口に一番近い部屋だったので、数十秒で賀茂川の河川敷に行くことができた。だから、北山の河川敷を歩いてそのまま下って、発展場の葵公園まで行くことが多かった。その夜は、しかし、仕事から帰って、ふと居眠りしてしまって、気がつくと、夜中の二時になっていた。そんな時間だったのだが、つぎの日が土曜日で、仕事が休みだったので、タクシーに乗って河原町まで行くことにした。千円をすこし超えるくらいの距離だった。四条通りの一つ手前の大通りの新京極通りでタクシーを降りると、交差点を渡って一筋目を下がって西に向かって歩く。数十メートルほど歩けば、八千代館という、昼の十二時から朝の五時までやっている、オールナイトのポルノ映画館がある。食われノンケと呼ばれる若い子たちが、気持ちのいいことをしてもらいにきている発展場だった。ぼくのように二十代で、そういう食われノンケの子を引っかけにきている者は、ほかにはほとんどいなかった。狩猟にたとえると、いわば狩りをするほうの側の人間は、四十代の後半から六十代くらいまでの年配のゲイが多く、なかには、女装した中年の者もいたが、たいていは、サラリーマン風のゲイが多かった。狩られるほうの側は、学生風や、肉体労働者風など、さまざまな風体の者たちがいた。生真面目そうな学生や、髪の毛を染めて、鉢巻をした作業着姿の若い子もいた。
 入口から入ってすぐのところにある扉を開いてなかに入った。映画館に入っても、外の暗さと変わらないので、昼に入ったときとは違って、目が慣れるのに時間がかかるということはなかった。一階の座席の後ろに、よく見かけるブルーの大きなポリバケツのゴミ箱と、ガムテープを貼って傷んだ箇所をつくろってある白いビニール張りのソファーが一つ置いてあるのだが、そのソファーの上に、横になって寝ている振りをしている男がいた。もしかすると、ほんとうに眠っていたのかもしれないが。三十代半ばくらいのサラリーマンだろうか、スーツ姿であった。その男のスラックスの股間部分は、まるで陰茎が硬く勃起しているかのように思わせる盛り上がり方をしていた。男の膝から下は、ソファーの端からはみ出していて、脚が膝のところで、くの字型に折れ曲がっていた。顔を覗き込んだが、ぼくのタイプではなかった。カマキリを太らせたような顔だった。緑色の顔をしていた。ぼくは、ポリバケツのゴミ箱とソファーに対して正三角形を形成するような位置に立って、最後部の座席の後ろから一階席すべてを眺め渡した。この空間自体を、「ハコ」と呼び、「ハコ」のなかで、性的な交渉をすることを「ハコ遊び」と称する連中もいる。「発展場」を英語で、cruising spotsというが、hot spots ともいう。hot には、「暑い」という意味と、「熱い」という意味があるが、どちらも、それほど適切ではないように思われる。むしろ、濡れたところ、べちゃべちゃとしたところ、ぬるぬるとしたところということで、wet spots とか、あるいは、ぺちゃぺちゃとか、ちゅぱちゅぱとかいった音を立てるところとして、damp spots とかと呼ぶほうがいいだろう。しかし、damperには、たしかに、「濡らす人」という意味があって、そこのところはぴったりなのだけれど、「元気を落とさせる人」とか、「希望・熱意・興味などを幻滅させる人」とかいった意味もあるので、発展場に食われにきている男の子や男に対して、陰茎を萎えさせるという意味にもなるから、スラングとしては、あまり適していないかもしれない。オーラル・セックス、いわゆるフェラチオ、もしくは、尺八と呼ばれる口と舌を駆使する性技があるが、ときには、喉の奥にまで勃起した陰茎を呑み込んで、意思では自在にならない間歇的な喉の筋肉の麻痺的な締め付けでヴァギナ的な感触を味合わせる「ディープ・スロート」という、有名なポルノ映画のタイトルにもなった性技もあるが、虫歯のために歯の端っこが欠けてとがっていたり、ただ単にへたくそで、勃起した陰茎に、しかも、それが仮性包茎であったりして亀頭が敏感なものなのに、それに歯の先をあてたりする連中がいて、たしかに、勃起した陰茎を萎えさせる者もいるのだが、ぼくは、自分のものが仮性包茎で、勃起してもようやく亀頭の先の三分の一くらいが露出するようなチンポコで、とても敏感に感じるほうなので、相手のチンポコを口にくわえるときには、とても気をつけている。
 タイプはいなかった。女装が二人いた。三つのブロックに別れた座席群のうち、スクリーンに向かって左側のブロックの最後部の左端の座席に一人と、真ん中のブロックの前のほうに一人。左側の左端にいた、まるでプロレスラーのような巨体の女装は、六十代くらいの小柄な老人と小声で話をしていた。もう性行為は終わったのだろうか。金額はわからないが、その巨体の女装は、お金をもらって、フェラチオをするらしい。直接、本人から聞いた話である。真ん中のブロックの前のほうにいた女装もまた、自分の隣の席に男を坐らせていた。先に坐っていた男の隣の席に、あとから坐りに行ったのか、それとも、後ろに立っていたその男に声をかけて、いっしょに坐ったのだろう。もしかすると、顔なじみの客なのかもしれない。しかし、スクリーンのほうに顔を向けているその客の顔はわからなかった。彼女はとても小柄で、まだ若くて、きれいだった。ノンケの男からすれば、女の子と見まがうくらいであろう。彼女は、わざわざ大阪から、お金を稼ぎにきているという。例の左側のブロックに坐っていたプロレスラーのような巨体の女装から聞いた話である。小柄なほうの女装の彼女は、隣に坐っている若そうな男のその耳元で話をしていたが、やがて、その男の股間に顔を埋めた。ぼくのいた場所からは、彼女が背を丸めて、彼女の座席の背もたれに姿が見えなくなったことから、そう想像しただけなのだが、そうであるに違いなかった。その若そうな男は、後ろから見ただけなので、正面側の顔はわからなかったが、彼がぼく好みの短髪で、若そうで、いかにもがっしりとした体つきをしていたことは、スクリーンの明かりからなぞることができる彼の頭の形や、垣間見える横顔の一部や、首とか肩とか上腕部とかいったものの輪郭や質感などから想像できた。ほかに五人の観客がいたが、どれも中年か老人で、ぼくがいけるような男の子はいなかった。二階にも座席があったので、二階にも行ったが、若い子は一人しかいなかった。ひょろっとした体型の、カマキリのような顔をした男の子だった。顔も緑色だった。ほかにいた五、六人の男たちも、またみんな年老いたカマキリのような顔をしていたので、ぼくは、げんなりとした気分になって、もう一度一階に下りて、真ん中のブロックの真ん中のほうに坐った。そこからだと、かすかだが、先ほどから前でやっていた女装と若そうな男とのやりとりを見ることができたからだ。ときおり、スクリーンが明るくなって、若そうな男が、頭を肯かせているのがわかった。女装の彼女の声は、映画の音に比べるとずいぶんと小さなものなのに、耳を澄ますと、はっきりと聞こえてきた。人間の生の声は、機械から聞こえてくる人間の録音した声と混じっていても、けっして混じることなどないのかもしれない。どんなにかすかな音量の声であっても、ぼくには、それが人間の生の声なのか、録音された声なのか、はっきりと聞き分けることができた。むしろ、かすかであればあるほど、よく聞き分けることができるように思われる。山羊座の耳は地獄耳だと、占星術か何かの本で読んだことがある。「気持ちいい?」と、女装の彼女は尋ねていたのだ。男は訊かれるたびに肯いていた。これ自体、プレイの一部なのだと思う。ぼくもまた、彼女と同じように、くわえたチンポコを口のなかに入れたまま、相手の股間に埋めた自分の顔を上げて、快感に酔いしれたその男の子の恍惚とした表情を見上げながら、おもむろにチンポコから口を放して、「気持ちいい?」と訊くことがあるからだ。ほとんどの男の子は「いい……」と返事をしてくれる。肯くことしかしてくれない者もいるが、たいていの子は返事をしてくれて、それまで声を出さなかった者でも、あえぎ声を出しはじめるのだった。その声は、もちろん、ぼくをもあえがせるものだった。その男の子があえぎ声を出すたびに、ぼくにも、その男の子が亀頭で味わう快感が、その男の子が彼の敏感な亀頭の先で味わう快感の波が打ち寄せるのだった。
 短髪の彼が、突然硬直したように背もたれに身体をあずけた。いくところなのだろう。男は、小刻みに身体を震わせた。しばらくすると、女装の彼女が顔を上げた。すると、音を立てて、乱暴に扉を押し開ける音がした。ぼくは振り返った。
 沈黙が、いつでも跳びかかる機会を狙って、会話のなかに身を潜めているように、記憶の断片もまた、突然、目のなかに飛び込んでいく機会を待っていたのだ。その記憶の断片とは、ぼくの記憶のなかにあった、京大生のエイジくんのものだった。扉を勢いよく押し開けて入ってきたのは、エイジくんの記憶を想起させるほどにたくましい体格の、髪を金髪に染めた短髪の青年だった。二十歳くらいだろうか。ぼくは立ち上がって、最後部の座席のすぐ後ろに立った。その青年のすぐ前に。その青年の視線は、入ってきたときからまっすぐにただスクリーンにだけ向けられていたのだが、ふと思いついたかのように、くるっと横を振り向いてトイレに行くと、ちょうど小便をしたくらいの時間が経ったころに出てきた。すぐに追いかけなくてよかったと思った。出てきた青年は、最初から坐る場所を決めていたかのように、すっと、真ん中のブロックにある中央の座席に坐った。端から三番目で、それは、食われノンケの子がよく坐る位置にあった。端から一つあけて坐る者は、ほぼ確実に食われノンケであったが、端から二つあけて坐る食われノンケの子も多い。その青年は、紺色のスウェットに身を包んで坐っていた。そういえば、エイジくんも、以前にぼくが住んでいた下鴨の部屋に、スウェット姿でよく訪ねてきてくれた。エイジくんのスウェットはよく目立つ紫色のもので、それがまたとてもよく似合っていたのだけれど。一つあけて、ぼくは、青年の横に坐った。青年は、まっすぐスクリーンに顔を向けて、ぼくがそばに坐ったことに気がつかない振りをしていた。傷ついた自我の一部がひとりでに治ることもあるだろう。傷ついた自分の感情の一部が知らないうちに癒されることもあるだろう。しかし、その青年の横顔を見ていると、傷ついた自我の一部や、傷ついた自分の感情の一部が、すみやかに癒されていくのを感じた。そして、胸のなかで自分の心臓が踊り出したかのように激しく鼓動していくのがわかった。ぼくは、自分が坐っていた座席の座部が音を立てないように手で押さえながら、腰を浮かせて、彼の隣の席にゆっくりと移動していった。彼はそれでもまだスクリーンに見入っている振りをしていた。見ると、彼の股間は、その形がわかるくらいに膨らんでいた。ぼくは、自分の左手を、彼の股間に、とてもゆっくりと、そうっと伸ばしていった。中指と人差し指の先が彼の股間に達した。そこは、すでに完全に勃起していた。やわらかい布地を通して、触れているのか触れていないのかわからない程度に、わざとかすかに触れながら、まるで、ふつうに触れると壊れてしまうのではないかというふうに、やさしくなでていくと、勃起したチンポコはさらに硬く硬くなって、ギンギンに勃起していった。青年の顔を見ると、ちょっと困ったような顔をして、ぼくの目を見つめ返してきた。ぼくは、彼のチンポコをパンツのなかから出して、自分の口に含んだ。硬くて太いチンポコだった。巨根と言ってもいいだろう。ぼくは、その巨大なチンポコの先をくわえながら、舌を動かして、鈴口とその周辺をなめまわした。すると、その青年が、「ホテルに行こう。おれがホテル代を出すから。」と言った。そんなふうに、若い子のほうからホテルに行こうなどと誘われるのは、ぼくにははじめてのことだった。しかも、若い子のほうが、ホテル代を出すというのだ。びっくりした。その子は自分のチンポコをしまうと、ぼくの手を引っ張って、座席をさっと立った。彼は手をすぐに離したけれど、ぼくにも立つように目でうながして、扉のほうに向かった。ぼくは、その後ろに着いて行く格好で、彼の後を追った。
 彼は、自分の車を映画館のすぐそばに止めていた。車のことには詳しくないので、ぼくにはその車の名前はわからなかったけれど、それが外車であることくらいはわかった。車は、東山三条を東に進んで左折し、平安神宮のほうに向かってすぐにまた左折した。彼は、「デミアン」という名前のラブホテルの地下の駐車場に車を止めた。車のなかで、彼は自分が中国人であることや、いま二十四才であるとか、中学を出てすぐ水商売の道に入って、いまは風俗店の店長をして、金があるから、ホテル代の心配はしなくていいとか、長いあいだ付き合っている女もいて、その彼女とは同棲もしているのだけれど、その彼女以外にも、女がいるとかといった話をした。月に一度くらい男とやりたくなるらしい。初体験は、十六歳のときだという。白バイにスピード違反で捕まったときに、その白バイに乗っていた警官に、「チンコをいじられた」という。チンポコではなくて、チンコという言い方がかわいいと思った。しかし、顔を見ると、あまりいい思い出ではなさそうだったので、ぼくのほうからは何も訊くようなことはしなかった。初体験については、彼のほうも、それ以上のことは語らなかった。いまにして思えば、彼がしたような体験は、自分がしたことのなかったものなので、もっと具体的に聞いておけばよかったなと思われる。
「このあいだ、大阪の梅田にあるSMクラブに行ったんやけど、おれって、女に対してはSなんやけど、男に対してはMになるんや。そやから、女のときは、おれが責めるほうで、男のときは、おれのほうが責められたいねん。」二人でシャワーを浴びながら、キスをした。キスをしながら、ぼくは、彼の身体を抱きしめて、右手の指先を彼の尻の穴のほうにすべらせた。中指と人差し指の内側の爪のないほうで、穴のまわりを触って、ゆっくりと二本の指を挿入していった。
「おれ、後ろは、半年ぐらいしてへんねん。」すこし顔をしかめて、ぼくの目を見つめる彼。ぼくは、指を抜いて、彼の目を見つめ返した。「痛い?」シャワーの湯しぶきが、風呂場の電灯できらきらと輝いていた。「ちょっと。」と言って、彼は笑った。「痛くないようにするよ。」と言って、彼を安心させるために、ぼくも自分の顔に笑みを浮べた。
 ベッドに仰向けに横たわった彼の両足首を持ち上げて、脚を開かせ、尻の穴がはっきりと見えるように、尻の下に枕を入れて、ぼくは彼の尻の穴をなめまわした。穴を刺激するために、舌の先を穴のなかに入れたり、穴の周辺のあたりを、その粘膜と皮膚の合いの子のようなやわらかい部分を、唇にはさんだり吸ったりして、彼がアナルセックスをしたくなるように、そういう気分になるように刺激しようとして、わざと、ぺちゃぺちゃとか、ちゅっちゅっとか、派手に音を立てながら愛撫した。そうして、じゅうぶんにやわらかくなった尻の穴にクリームを塗ると、勃起したぼくのチンポコをあてがった。痛くないように、かなりゆっくりと入れていった。彼は最初に大きく息を吸って、ぼくのチンポコが彼の尻の穴のなかに入っていくあいだ、その息をじっととめていたようだった。ぼくが彼の足首から手を離して、彼の脇に手をやって腰を動かしはじめると、彼は溜めていた息を一気に吐き出した。それが彼の最初のあえぎ声を導き出した。途中で、バックからもやりたくなった。いったん、チンポコを抜いて、彼を犬のように四つんばいの姿勢にさせて、もう一度入れ直した。チンポコは、つるっとすべるようにして、スムーズに入った。彼は、ぼくの腰の動きに合わせて、頭を振りながら大きな声であえいだ。がっしりとした体格で、盛り上がった尻たぶに、ぼくの腰があたって、濡れた肌と肌がぶつかる、ぴたぴたという音が淫らに聞こえた。「なかに出してもいい?」と、ぼくが訊くと、彼はうんうんと肯いた。ぼくは、彼の引き締まった尻の穴のなかに射精した。
 彼は、北山にあるぼくのアパートの前まで車で送ってくれた。オンボロ・アパートに住んでいることが知られて恥ずかしいという思いが、彼に、また会ってくれるか、と言うことをためらわせた。本来は女が好きで、月に一度くらい男とやりたくなるという彼の言葉もまた、ぼくの気持ちをためらわせた。なにしろ、月に一度だけなのだ。
 人間は自分のことを知ってもらいたい生き物なのだと思った。初対面の相手に、自分が中国人で、自分が小学生のときに家族といっしょに日本に来て、兄弟姉妹が六人もいて、自分は長男で、中学校を出たら働かなくてはいけなくて、それで、学歴がなくても働ける水商売の道に入って、いまは風俗店の店長をしているということや、自分は女が好きで、いっしょに暮している女がいても、ほかにも女をつくって浮気をしているということや、それでも、月に一度くらいは男と寝たくなって、ああいったポルノ映画館に行って、男にやられるなんてことを、はじめて出会った人間に話したりなどするのだから。自分がいったいどういった人間で、自分がほかの人間とどう違っているのかを、はじめて出会ったぼくに話したりなどするのだから。
 車から降りて、別れのあいさつをした。アパートの前で、道路を振り返った。彼はすぐには車を出さずに、ぼくが自分の部屋に戻るまで車をとめていた。できた相手に、車で送ってもらうことは何度もあったけれど、彼のように、ぼくが部屋に入るまで見送ってくれるような子は一人もいなかった。また会えるかなと、口にすればよかったなと思った。
 一ヵ月後に、千本中立売にあるポルノ映画館の千本日活に行った。昼間だったので、入ってすぐにはわからなかったけれど、しばらく後ろに立って目が慣れていくのを待っていると、体格のいい、ぼくのタイプっぽい青年が一人いた。知っているゲイのおじさんが、ぼくの横に来て、「あの子、チンポ、くわえてくれるわよ。ホモよ。」と言った。チンポコとは違って、また、チンコとも違って、チンポという言い方は、なんだかすこし、下品な感じがすると思った。彼の体格は、おじさんの好みではなかったので、彼がぼくの好みであることを知っていて、その彼のことを教えてくれたつもりだったのだ。おじさんは、ジャニーズ系のちゃらちゃらとした、顔のきれいな、すっとした体型の男の子がタイプだった。ぼくとは、好みのタイプがまったく違っていた。だから、ごく気軽に、ぼくのほうに話しかけてきたのだろうけれど。ぼくは、彼が二つあけて坐っている座席のほうに近づいた。彼は紺色のニットの帽子をかぶっていた。横から顔をのぞくと、このあいだ八千代館で出会った髪を金髪に染めた短髪の青年だった。「また会ったね。」と、ぼくが話しかけると、彼はにっこりと笑って肯いた。ぼくは彼の股間をまさぐった。その大きさと硬さを、ぼくの手が覚えていた。ぼくは腰をかがめて彼のチンポコをしゃぶった。彼はなかなかいかなかった。いくら時間をかけてもいきそうになかった。「いかへんかもしれへん。ごめんな。おれ、いまストレスで、頭にハゲができてんねん。」そう言って、ニットの帽子を脱いだ。髪は、相変わらずきれいに刈りそろえられた金髪だったけれど、そこには、たしかに、十円硬貨よりすこし大きめの大きさの円形のハゲができていた。「おれが勤めてた風俗店がつぶれてしもうてん。それでいま仕事してなくて、ストレスになってんねん。」彼が着ている服は、別に安物ではなさそうだったけれど、言葉というものは不思議なもので、そんな言葉を聞くと、彼が着ていた服が、急に安物に見えはじめたのだ。坐っているのが彼だとわかったときには、ぼくは腰を落ち着けて、彼といろいろしゃべろうかなと思ったのだけれど、彼の話を聞いて、仕事をしていないという状況にある彼に、万一、たかられでもしたら嫌だなと思って、彼の太ももの上に置いていた手で、彼の膝頭を、二度ほど軽くたたくと、立ち上がって、彼のそばから離れたのだった。彼は不思議そうな顔をして、ぼくの顔を見ていたが、ぼくの表情のなかにある、そういったぼくの気持ちを知ったのだろう。一瞬困惑したような表情になっていたけれど、すぐに残念そうな顔になり、その顔はまたすぐに険しい目つきのものに変化した。一瞬のことだった。その一瞬に、すべてが変わってしまった。ぼくは、その変化した彼の顔を見て、しまったなと思った。彼は、ぼくにたかるつもりなんて、ぜんぜんなかったのだ。その一瞬の表情の変化が真実を物語っていた。彼がそんな男ではなかったことに気がついて、ぼくは後悔した。でも、もう遅かった。彼はすっくと立ち上がると、ぼくが座席から離れた方向とは逆の方向から座席を離れて、映画館のなかからさっさと出て行った。
 ぼくは彼の後を追うこともできなくて、入り口と反対側の、廊下の奥にあるトイレに小便をしに向かった。


サバンナの光と液

  渡辺八畳@祝儀敷

半粘性の液がとくとくと垂れ流れている
青緑の、今は白反射な広野に透き緑な液が注がれている
心地よく伸びる地平線に赤若い太陽は沈もうとしていて
斜度の低い残光が針としてサバンナを走り抜ける
その針が地を漂白してまぶしい、太陽も地もその日の終わりに輝いている
美しい、上へ下へ広がっていく空間もまったく美しくて
美しくて、美しくて、気持ちがいい

流れる液体は動物たちであった
ゾウもキリンも、今日はもう終わりなので自ら溶けてしまったのだ
それぞれの背丈から湧き出る瑞々しいとろりとしたうるわしい緑の液体
見るだけでもひんやりとしてくるそれが大地を潤していく
太陽がてっぺんのうちはライオンもカバもめいめいに動き回っていたけれど
日が終わるころにはどの動物もその場に立ち止まって
サバンナの荒い木のよう体を溶かし液体に変わって流れていく
とくとくとリズムよくすがすがしい液体翡翠
傾いた太陽からの光がそれを通過して刺さるのも気持ちがいい

目の前にアカシアの木はなく
滑るように心地よく地平線が伸びていてもはや快感そのものだ
上から流れ落ちる液体の中で私は潤っている
たぶんこれはハイエナだった液だ、なめらかに私の縁を流れていき
私が立つ、少し粘りのある緑色な液体が垂れていくこの大地も潤っている
今日はもう白く焼けきった、カラカラな草も潤ってきれい
透きとおる液体に包まれて私もやわらかくなっていく
この中から見る沈みかけた太陽は宝石のようですごくきれい
美しい、美しい、なにもかもが美しくてきれい

太陽が昇れば動物は動き出して
一日がまた始まるのだ


境港

  

濡れる
魂の
再び、
連なるをば
膨張する毛穴ら

おまえの身体は大洋のごとく
無限の
不思議と、
漕ぎだしたかった
撫でるように
蹴りだしたかった

誰にも止めること出来ない
自然の旋律
青をガラス管の中に
心臓6L粘つく1601kcal
を詰める
気圧を熱帯で圧縮する
生命の悪意は
危ない情事
回避不可能の
巨大な好奇心へ
一艘の吸いこまれゆく
おまえの意識はどこへ遠のいてゆく
生死の境港で
泡のある黄いろい情景を
灯台が差し示す
霧笛は頑な心に
カモメ鳴く
なう、なう、なう、
真珠色の炎は、
底知れぬ
波打ち際ではためく
消え失せぬ海面の想いは
破れた旗を繕う熱い雨
いつまでも
降り注ぐ俺は小船
真っ先に死んでみせる
いきり立つ虚栄心
積乱雲の
意地らしさ
何処から湧いてくるのか
誇らしさが
平和に繋がれた鎖を斧で切る

理由は尋ねない
ただほしい
俺の中の俺自身が
俺の心を理解できないでいる!
夜明けが訪れるころ
波音は俺の絶望の歌を
おまえに
聴かせて伝えるだろう

肉の足跡を求め、23tのキャバ嬢


抒物と叛抒情

  鷹枕可


新しいダダの為に、


磔蝶、礫の硬物果実
そは峰を跨がず
隔絶に一縷現実を現象と見紛う
偶然を錆朽硬貨に
遭遇を花に
一家族に拠る円庭噴泉が
死線を牽く
鋭角―鈍角、臓腑の喩、
穢濁たる機械欄干は総じて拇指を踏み留まるもの

雲母の髄、胃腑を犯し
非―概念たる黎明を亙り行く
不朽柩蝶蝶番装置、
そを厩にて奇跡と違えるも
由々し、血の薔薇その人間を誇りつつ

    *

何が攫っていったのか
訪問者の言葉の花を
姦しい花瓶の根が
雷霆の窪が
水滴に拠る鍾を跨ぎ
破壊された横顔と海岸線の靴跡を
天鵞絨の笑いを縫う
観光客よ、誰をも翳めない仮象よ
確実な咽喉に及ぶ
第十週間の霰、
美しく醜い徒競走の傷跡より
隠された修道院よ
今 跳躍筋のなかをひたはしる繊維紙の薔薇窓はひらかれ
総て花總は熟れる時計に遭遇し
瓦斯の球体像を瞋りが撃つ様に
そして人達は人達をより顧るだろう
私達より速く遅く、
過去を流れる葡萄酒醸造槽にぬり込められた
幾多の蠅の季節を

    *


――――暴風雨に震える熟樹時計の様に破壊された地下鉄線隧道と、その火災報知ベルに告ぐ、


花婿の許喀血をするミルテの湖畔に造影機が電気椅子が鈍く礎に打たれる侭
に錆びてゆく牡蠣の楕円は鉄の戦争への憧憬の様に浅慮なる胸像を隠す帆船
標本は理想像を忌避紆余する彫刻物達へ砂糖漬けの百合根を硝酸壜を贈るた
めに刎ね落とされた鍔の無い旋盤に磔刑の樹を平衡に聖母像の咽喉許へ垂下
し愛と逃走に嫌厭されるべく偏執的葛藤を亙る鈍角の架設電流銅線の花の銅
鑼を絶縁体に繋ぐ天球を巡る十二の晩餐室は常に神学者達の反吐の純粋に論
争の終始録音機が噴く銃剣の翅を預け海底裂罅の窓に想像妊娠の時計は熔解
する表現主義建築建築家達の眼底には総ての曲線面を構図とし抽象の愉悦は
棘の死でありながら鎧戸を打つ騎馬の腐蝕窩であり蜂巣と薔薇の背中を滴り
落ちる現象の標識へその臍帯を摸倣し偽科学の二十一世紀に及ぶ進捗或は退
廃を現実−夢魔虚実の万物球儀に娩出をする殉死への違約を粉争飢饉に廃棄
するまで

――――安寧たる死は無きものと思え。


皮留久佐乃皮斯米之刀斯

  山塚愛

守護、天使。東から陽子が差してくる。
宇宙、素粒子。静謐な数学が始まる。
絶対、相対。善悪の幽体みたい。
かたい、らたい、パウロ、
仏、かくかたりきが、かたくりこ。
あくび、しゃっくり、どもりが、
いっせいに妬かれた、ししゃもども。
南は、ちへいせんから、
北は、すいへんせんから、
舟は、ウカベタヒトが櫓を漕ぎ光里となる。
堕天使、ユピテルから、電子が降る感じ。
漢字、ひらがな、万葉仮名。男、女。
皮留久佐乃皮斯米之刀斯
音がみえる、色がきこえる。凡庸。
五臓六腑、御霊降りまくる。腑に落ちれ。
脳に落ちぬ心。全霊に誓ったったれ。
出エジプト記、脳から出る心はレビの子ら。
創世記、レアの子がレビなんです。
民数記、汝、何時、何時間も、むかしのはだし。
ゆれてしまう、誤字れてすまう、すまうことなかれ。
なかれーの悲劇。かれは喜劇王。チャップ。
リン。遺体から抜け出したきみが雨の日の夜に
雨水と反応して光る現象は一般的な人魂説なかれ。
意富比〓(おほひこ)、乎獲居(をわけ)、
当字、熟字訓、草書。男なれ女なれ。
はるくさのはじめのとし、めるくまる。。


contorted

  本当の詩人

m**** m*** z**** m******* k***
k***** o** z**** k******* k***


 音楽
 は
 ひるがえる望遠鏡
 とおく
 まぼろしのような
 場所で笑う女

   確かめたくなるんだ
   それは
   生きていること
   じゃなくて

 ほとんど
 すべてを見間違い
 聞き違う日々に
 夥しいその
 空目
 空耳
 濃淡がなす影のかたち

   じゃあ明日
   河原町でご飯たべよう
   半球でくる?
   うん
   マルイに寄るとおもう

  かつて愛していた女の
  電話ごしの声が
  本当に彼女のそれか
  判らなかった

 聞き違えた
 と
 しても
 
 恋している女の喉は判るし
 何度でも聴くよsayonara
 sayonara 必ず
 自慰して行く
 
   ごめん
 
  すこし遅れた
  そうして

 また見間違う後ろ姿が
 振り返っても
 
  いま
  目の前で笑顔の
  かつて
  愛していた女が
  本当に彼女か
  
  どうしても判らない
  「さりげないまばたき」
  べつにいい

   なんで謝るの?

  べつにいい
  判らなくなるまで生きた
  だけだ


例えば自己確立(黒猫先生)

  コテ

勇気が湧いてきたのは外で働いてからだ。
下手(したて)の接客はこころがこわくてふるえるし
怒られ、冷たくあしらわれ、
それでもうまく廻ってしまってる。その中で笑顔を続ける。

怒鳴られ、悩み、答えを探す。
でも、自分が出した答えの頼りなさ。

例えば自分の答案を丁寧に述べる、受解された草の砕きを。


感情的に思うことや愛されたことは目に見えて美しい。

なぜなら、
自分が置いてる身でしかものは解釈出来ないし
別人の目の中で同じ事が起こるなんて事はあり得ない。
それまでの過程的記憶も違うし、そこでインプットされる言葉の、目の中に起こる事象は人に異なっているはずだ。

「こう見えた。」「こう思う。」そういった枠を超え、世間はだから、そして様々であるようで、身体や精神にの何かに抵抗する努力の美しさに理解が降りるなら、希望だらけだ。
人と自分の考えに差異があるなんて知ったのは一昔だ。その関係するところを世間といって、

そこに立像如来が浮かぶ。人間の中に浮かぶ。そこが素晴らしい。
話し合いの無い、無心である態度。


こんなことがよくある。

解決しない、話が解決しない。

会話って出来るんだろうか。途方もなくそんなふうに思う時。


そして心の奥は暗い。

心の奥の暗さを認めるのは勇気がいるものだ。何も元気は陽気なだけじゃない。

陰気(インキ)とは、それを指してるとも思えない。


だがまだ、奥底で現れる人間性だ。そういったものにドラえもんのように頼られたフィクションではなく転換されない現実の星が顔を出す。

対比し、
元の顔をどこかに留めない2次元性を宇宙に名乗ったあつかましさを、この塵、
それを何かしら許した
甘さがブラックホールだ。厄神。
白いキャンバスに掛かる小ハエ。考えない虫。
ブラックホールは…自分の中に存在する厄であり、
なので、だから、わたしは死精の、或る刑を肯定する。


空が晴れている。
雲も見える。

うたのある景色だった…。工学は創りたかった。
声を失うような孤独を初めて聴く。


自分をキャラと重ねる

画面内であっても精神レベルで事実であっても既に真実に関係がない。と意識的だ。
こういう、人の、人種(ひとだね)の精、考えを扱える、とどこかで断言することだ。
ナノに及ぶ二次元的脳の顕示欲 名の 名の 名の 名の 名の 名の


別に、アニキャラはまるで、いやらしさを美に高める挑戦のようだ、ピンク色に対する果たし状と申上げに思えてならない。

そのようなことはダンスし切ることで果たし、私はそれその行為を「わたしのエゴ」の対象とし、かつて有名だったアイデンティティとしたい。





7月7日 平成30年

毎日が勝手に動いてるようなたらくの日々
連続性といった難しい((do)難航している)世界理解

マリオ、御前に会うのはホリデーだった
ホーリーペンのように光っている。日々





何か脱出するリズムを保っている。気にしたら酷い。
外に出る
でも雨だ
思いに行かない

今日さっき、昔の倉庫からゴールドの額縁を発見した。少女がきっと絵になる
造形大に通ってた頃の倉庫だ。

少年が絵画でパズルを太枠内で考えたんだ。犬みたいな少年あいつが手作りの絵の具で油絵にしたのはながいいち小説だ。儂はむずかしくて読めんのやけど、
日を追うことにパズルが埋まって一枚の絵のピースが成立するんや!日めくり可憐(カレン)ダーみたいなもん。
儂心のむなしさを話せば
お前の絵を見た時、儂の思う明度じゃない、こんなのは偽物だとなんどを聞いてもらった。
調べると重めの貯蔵のものやった。
スタンスがアニメの美少女ってやつに変わり、ひとりひとつ、一人でストーリーを持ちはった。
用事にいったん仕事を切り替えましたのか。
神戸のギャラリー1(当時は一年目で、年毎に箱名の数字が増えるっちゅーやつや)に、訪ねたら
「そりは、全然知らん。」と言われたな。
どんぶらこ
儂が笹に蝋燭を流すのと、つるんとした水面に朱(あか)りを散りばめるのと。
儂はピザみたいにいっちょ上がり、と言って仕上がる一枚をフリカケの袋のパッケージみたいに思た

「すず、ご飯食べてるか?」

お腹が減ってしんだんや

香ばしく味の切ない子供の、遠足に行くような。
あの山道も、自分の歩いてきた道のりは忘れへんし、何がって、感じてきた気持ちや感情が確かにそこにあって、何事に事実ちゃうかなぁ。


図られにしろ、このそばにある縦社と自炊計画を立ててどっこいや。その一緒うや

どんぶらこ




生悦住

マリオ、
おがみが玉にうつすアガスガタだ

阿が羅でけうなら

妾が妾で凪ぐのじゃろ

儂の顔つの出ね和しと

浴びては水に落ちる意識

わっしょいわっしょい聴けてら夜もかろじて聴けてら

アタマを向かえにいくのやな
なっかなっか酔(よる)わ

みどりの五月蝿い葉すっこ椿のね

オッマエ優しいの

表情で何か見抜くゆうのん

儂はどろで正直磁石くるっきー濡れても退けても"冷(め)た"と放っととおいて

私のほうがねたぶん好きやって


定時に於いて。




マリオ、思い出すらしい。酷(こく)摘み、ということば。つらいときの。優しく克つ冷たい字書の昔のチラシや。江戸時代の。
三井住友のセンタアに見た。誰も通らへん。
花のお守りやと、想い想ってひとに勧めはする。


Your Song。

  田中宏輔



当然のことながら、言葉は、場所を換えるだけで、異なる意味を持つ。筆者の詩句を引用する。


ひとりがぼくを孤独にするのか、
ひとりが孤独をぼくにするのか、
孤独がぼくをひとりにするのか、
孤独がひとりをぼくにするのか、
ぼくがひとりを孤独にするのか、
ぼくが孤独をひとりにするのか、

3かける2かける1で、6通りのフレーズができる。
(『千切レタ耳ヲ拾エ。』)

 これは、ただ言葉の置かれる場所を取り換えただけの単純な試みなのだが、このような単純な操作で、これまで知らなかったことを知ることができた。「ひとりがぼくを孤独にする」のも、「ぼくがひとりを孤独にする」のも、ありきたりの表現であり、目につくところは何もない。しかし、「孤独がぼくをひとりにする」とか、「孤独がひとりをぼくにする」とかいった表現には、これまで筆者が知っていたものとは異なるところがあるような気がしたのである。この詩句を書いた時点でも、それは、はっきりとは説明できないものだったのだが、少なくとも、これは、「孤独」という言葉に対する印象として、筆者にとっては目新しい感覚であることだけはわかっていた。ときとして、言葉といったものが、わたしたちについて、わたしたち自身が知らなかったことを知っていたりもするのだが、これは、言葉にとっても、同じことなのかもしれない。言葉が知らなかったことを、わたしたちが教えるということがあるのだから。それとも、これは、同じことを言っているのだろうか。わからない。わかることといえば、このような単純な操作で手に入れた、この「はっきりとは説明できないもの」が、筆者に、新しい感覚を一つもたらしてくれたということだけだ。「ぼくが語りそしてぼくが知らぬそのことがぼくを解放する。」(ジャック・デュパン『蘚苔類』3、多田智満子訳)といった言葉があるが、まさに、このことを指して言っている言葉のような気がする。ただし、その新しい感覚というものは、その詩句を書いた時点では、筆者にはまだ明らかなものではなく、ただ漠としたものに過ぎなかったのだけれど。しかし、いずれ、そのうちに、言葉と、「わたしたちのそれぞれの世界がわたしたちを解放し」(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』2、澤崎順之助訳)、言葉には、その言葉自身が知らなかった意味を筆者が教え、筆者には、筆者が知らなかった筆者自身のことを、その言葉が教えてくれることになるだろうとは思っていたのである。そして、じっさいに、以前には言い表わせなかった、あの「孤独」という言葉がもたらしてくれた、新しい感覚を、新しい意味を、ようやく、ある程度だが、言葉にして言い表わすことができるようになったのである。「Sat In Your Lap°II」のなかで、展開している言葉のなかに。そして、これはまた、いま、筆者自身が考えているところの詩学らしきものの根幹をなすものとさえなっていると思われるものなのである。

 
先生の『額のエスキース』という詩の中に、「女性の中に眠っている/孤独な少年はめざめるのだ」といった詩句がありますが、先生が、ひとやものをじっと見つめられるときには、先生の中にいる少年が目を覚ますのでしょう。そして、その少年が、先生の目を通して、ひとやものをじっと見つめるのだと思います。
やがて、その少年の身体は、少年自身の目に映った、さまざまなものに生まれ変わっていきます。


と、「現代詩手帖」の二〇〇三年・二月号(「大岡信」特集号)に、筆者は、書いたのだが、もちろん、この「少年」は、魂の比喩であり、「孤独」という言葉は、「Sat In Your Lap°II」で考察した意味を持っている。「孤独な魂が、わたしの魂をだれかの魂と取り換える」といった言葉を、「國文學」の二〇〇二年・六月号に掲載された原稿に、筆者は書きつけた。「なるほどこの結論をひき出したのは、わたしだ。だが、いまはこの結論がわたしをひいていくのだ。」(『ツァラトゥストラ』第二部、手〓富雄訳)といったニーチェの言葉があるが、よく実感できる言葉である。「自分では気づいていなかったことも書くとか、自分ではないものになるとか」(ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』追記と余談、山田九朗訳)、「発見してはじめて、自分がなにを探していたのか、わかる」(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』丘沢静也訳)といったことが、ほんとうにあるのである。
   とはいっても、「孤独がひとりをぼくにする」という言葉の意味は、まだ完全に了解されてはいない。似た意味は手に入れた気がするのだが、似てはいても、同じではない。似ているものは同じものではなく、同じものではないかぎり違いがあり、また、その違いが、わたしに考える機会を与え、わたしをまとめあげ、さらに、わたしを、わたし自身にしていくのであろう。言葉は、意味を与えられたとたんに、その意味を逸脱しようとする。そして、それこそが、言葉といったものに生命があるということの証左となるものである。
 
「一つ一つの語はその形態ないし、諧調のなかに語の起源の持つ魅力や語の過去の偉大さをとどめており、われわれの想像力と感受性に対して少なくとも厳格な意味作用の力と同じくらい強大な喚起の力を及ぼすものであ」(プルースト『晦渋性を駁す』鈴木道彦訳)り、また、「言葉は(‥‥‥)個人個人の記憶なり閲歴なりをあからさまに、人それぞれのイメージを呼び起こすものである。」(ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』山田九朗訳)。しかし、「芸術家は、自分がみずから親しく知らない人間や事物の記憶を呼び起す」(ユイスマンス『さかしま』第十四章、澁澤龍彦訳)ことができるのである。しかし、じっさいに、そうできるために、芸術家は、つねにこころがけなければならないのである。「et parvis sua vis./小さきものにもそれ自身の力あり。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)、「地に落ちる一枚のハンカチーフも、詩人には、全宇宙を持ち上げる梃子となりえるのである。」(アポリネール『新精神と詩人たち』窪田般彌訳)。「偉大な事物をつくりたいとのぞむひとは、深く細部を考えるべきである。」(ヴァレリー『邪念その他』S、清水徹訳)、「聡明さとはすべてを使用することだ。」(同前)。「あらゆるものごとのなかにひそむ美を愛でたポオ」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品』3、平井啓之訳)、「すべての対象が美の契機を孕んでいる」(保苅瑞穂『プルースト・印象と比喩』第一部・第二章)。「普遍的想像力とは、あらゆる手段の理解とそれを獲得したいという欲望とを含んでいる」(ボードレール『ウージューヌ・ドラクロワの作品と生涯』3、高階秀爾訳)。「すべてをマスターしたい。だってすべての技術を自分のものにしてなかったら、自分のために作る作品が自分自身の技能によって制限を受けることになるじゃないか」(ブライアン・ステイブルフォード『地を継ぐ者』第一部・2、嶋田洋一訳)。たしかにそうである。ときには失敗するとしても、「われわれはつねに、まったく好便にも、失敗作をもっとも美しいものに近づく一段階として考えることができる」(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)のだから。
  
「verte omnes tete in facies./あらゆる姿に汝を變へよ。あらゆる方法を試みよ。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)より、ウェルギリウスの言葉)。「私はこれまで かつては一度は少年であり 少女であった、/薮であり 鳥であり 海に浮び出る物言わぬ魚であった‥‥‥」(エンペドクレス『自然について』一一七、藤沢令夫訳)。「自分が過去に多くのものであり、多くの場所にいたために、いま一つのものになることが出来るし──また、一つのものに到達することも出来るのだ」(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも良い本を書くのか・反時代的考察・3、西尾幹二訳)。「「我あり」は「多あり」の結果である。」(ヴァレリー『邪念その他』J、佐々木明訳)、「自分以外の何かへの変身」(ラーゲルクヴィスト『巫女』山下泰文訳)、「変身は偽りではない」(リルケ『明日が逝くと……』高安国世訳)。「私の魂は木となり、/動物となり、雲のもつれとなる。」(ヘッセ『折り折り』高橋健二訳)のである。


揺り籠

  田中修子

「こんなに反抗するようになるなら、育てなきゃよかったなぁ」

おとうさんがはなったことばが、夏の台所にさかなのはらわたを置きっぱなしにしたようなにおいをはなっている。
そのまま死神の形相をしてひふの裏にすんなりと沈みこんでゆく。

荒れ狂う風が吹き抜け、からだのなかに街ができた。つねに夜の街。幾千幾万の灰色のビルディングがしずかにたち、ふっとみると、エメラルド色のタワーが明滅している。

あの日以来、怒るとき悲しむとき、この夜の街にいるから、いつだってはんぶん透けているのに。

それなのにおとうさんは、まるでいつだって目の前にいるように、
「そういう不安定なところも、おかあさんにそっくりだ」
あまえたような顔をするのね。

心臓に、さかなのウロコがびっしりと張っていくのがわかる。鼓動のたびにウロコがこすれあい、体のなかに誰もが誰をも無視しあう雑踏のような音を立てる。
夜の街には灰色のどんよりとした雲から黒い雨がポツポツふってきたところだ。妊婦をもつきとばし、幼子を抱きよろけてうめく老女を無視して、我さきへと歩くひとびと。このひとたちのなかにいると、息ができない。息ができなくて、心臓が死にかけた馬の喘鳴。
そうしてからだ全体に、ウロコは細胞として散らばって増殖していく。

きれいなローズピンク色の心臓を取り戻したくて、カッターナイフで左胸を突いた。ひややかな乳房に傷がついただけだった。
雨が降り続き、夜の街のひとびとはすこしいきおいを失ったようだ。深海に白い目のない魚が泳ぐようなひとびと、黒い雨はやがてあのひとたちを白血病にしてしまうだろう。血液のがん、細胞の浸食されていくしずかな音。
傷あとは肉芽になって、えらのような形がすこしのこっている。
えらは、ときたまひきつるように動く。

いつのまにかどこかで知り合って胸をひらいたあなたが、
「これはなに?」
と尋ねた。
「おとうさんよ」
「これは、きみが引き受けるべきものではない」
「おかあさんの身代わりなの」
あなたの手が左胸にすっとはいってきた。はたらき者の熱い大きな手、爪と指のあいだの沈着した色素とささくれ。
カッターナイフは肋骨が受け止めてしまったのに、その手は切れ味のいい刃物よりうんとすんなりと、肉の中にはいりこんでくる。腹をきりひらいたさかなのはらわたをむしるように。
そう、よくはたらく手だからよ。
ペンでもなく絵筆でもなく、際限なくベッドシーツをとりかえし清掃をして仕事終わりに安い石鹸でよく洗われる、がさがさの手だからよ。
その手はうごめく心臓から、血まみれのウロコをとりだした。
むしってすぐの赤いポピーの花びらのよう。
「一枚しかとれなかったな」

それ逆鱗よ。

その瞬間、肉がびちゃびちゃ音を立ててくずれていった。
散乱する内臓、ササミみたいな筋肉、ひろがった肺はプチプチしたのがいっぱいついている。これは腸? 花の塊のよう。
これは脳みそ、白肉色の蛇がとぐろをまいている。あら、目まである。ガラスみたいにころんとして、澄んだ白に黒目。齧ったらどんな音がするんだろう。

青みがかったピンクのマニキュアをほどこした指と爪がハラハラと散らかっている。青い小さな小さなホログラムがひかる。

いまわたしのこの肉をみているこのわたしはだれかしら?

この内臓たち、腐ったさかなのにおいがする。

「もうほんとうはずっと前からこんな感じだったの。ほんとはね。ひとのことだいきらいだと思っていたけど、自分のことがね。ううん、きらいよりうんとひどいの、わたしはね、わたしがないんだわ。だってあの人たちの血を引いているから。知ってるの、だれよりもあの人たちにそっくりだってことを、まわりのひとみんな聞きもしないのに教えてくれるわ。そうなればなるほど、どんどんあのひとたちに似ていって……」

黒い雨をぬって哄笑しながら夜の街に落ちるいなづまのよう。
たぶん白骨になっているわたしがはなっていることば。舌はどこ?
けれど、人であったころよりずうっと素直なようだった。

「ぼくは、生き人形師なんだ。平日には働いて、働いた金を全部つぎ込んで、人間にそっくりの人形を何体も作ってきた。そういうことができる機能もつけたさ。けれど、たいてい作り上げた時点で飽きて、この間けっきょく全部売ってしまった。まあ、気持ち悪いことに、どこかのパーツがぜんぶ自分そっくりなのさ。ものすごい金になったが、なにもする気がおきない。それでぼんやり歩いてたら、人間なのに、人間のふりをしたなにかが歩いているじゃないか」
「それで声をかけたの? あなた、わたしにまけずおとらずとっても気持ち悪い人ね。いきにんぎょうしってなによ」
「……そうして、さっききみのウロコをむしったときにすべて思い出した。きみのつくった夜の街から来たのだよ。排卵とともにぬぐわれた子宮の血を食べ、ゴミを啜り、汚水管にをねぐらに成長して職を得、この街のすきまに少しずつきみの街を作り上げている。きみを作り直そう、ぼくのすべてをかけて。ぼくはあっというまに老いていくから」

口づける。溶岩のようにすべてを飲み込もうじゃない。
あなたは溶けていく。
淡い色をした桜の花びら、いびつな形をした真珠、青い鳥、海岸に打ち上げられて塩漬けになった心臓のような堅く軽いクルミ、母が子に愛を込めて読んだだろうボロボロの絵本、ビー玉、どこかあなたに顔立ちの似た理想的な男の子の裸のお人形、あなたの幼いころの写真、それは、おとうさんの幼いころの写真とそっくりだった。モノクロとカラーの違いはあったが。

あなたがわたしのなかのあの夜の街から来たのならば。
思う間に、内臓はドロドロと混ざり合い、再結合され、わたしの体に這い上がってくる。



つかの間の夢。

ビルディングの一室で白骨と化しているわたしの胸のなかに巣食うこの黒い鴉。
"Never more""Never more""Never more".

暗記してしまったあの短い詩のアルファベットが変化して本から飛び出し、旋回し、肋骨につかの間とまり、そうして錆びた窓枠を抜け嵐のなかに羽ばたいていく。荒れ果てている。

もう二度と取り返しのつかぬこと。もうにどととりかえしの。もうにどと。



めざめると、はちきれんばかりの臨月の腹をして病室にいた。腹のひふは透いて小さな満月を抱いているような、無数にかがやきうごめく卵が見える。混ざり合ったあなたは子宮のなかにいた。

「ようよう子どもを産んでくれる気になったんだね。うれしいなァ」

おとうさんがわらって覗き込んだ。
この収縮する子宮のなかにある卵が孕む無限の可能性。わたしでないわたしが変化し、わたしでないものを産む。

おなかからおとうさんのうめき声が聞こえる。けれどもその根源は、おとうさんにかかった、おかあさんの呪い。三世代にわたるおかあさんのおかあさん、そのおかあさん。
彼女たちのかおはもちろん、わたしとどこかパーツが似ているのだ。

「ママーっ ママーっ」
「痛いーっ!! 痛いーっ!!」
「無限の愛 無限の愛 無限の愛」

海の音のようなこの心音の悲鳴は? だれのもの? あなた?
そうして丸まって分裂をくりかえし、産声を上げる日をまっている。

もうすぐ孵る赤子の声。
オギャア・オギャアと、この世に生を受けた苦痛と驚愕の。そう、わたしたちは手をとりあってそれを乗り越えるの。
そうしてわたしからうまれたあなたたちはあっと言う間に灰色のビルディングになってこの街を作り変える。真夜中、時計がてっぺんをさすと明滅する、あのエメラルド色の塔はあなたたちがからだを結び合わせて作っている。そうしててっぺんのまま時計は静止する。あなたたちは子どもも大人もみさかいなく踏みしだき、やがて黒い雨がふるようになると静かになっていく。そうしてどこかで生まれた子どもがそのうすぐらい街から脱出し、さかなのにおいをはなつ女をとらえ、再生産していく。

でもね、おとうさん、あなたはわたしの子ではないわ。愛する人でも、子どもでもないのに。

白く広い部屋の揺り籠のなかにあなたをいとおしく抱きしめる日を指折り数える。
そう、さいご、この無限の無数の子とともに、おとうさんの耳元にささやこう。

……ママですよ、わたしはね、おとうさん、あなたのママですよ……。


※"Never more" エドガー・アラン・ポー 「大鴉」


不思議だ

  トビラ

ホイップみたいな空気が教室に満ちていて
なめると、頭の芯がジワッとうずく
なんでみんなこんな下らないものをありがたがるんだろう?
わからなくてもとりあえず合わせてみる

この光が清流みたいな渡り廊下は未来まで続いている
そんなことはないことはわかっていたけど
みんなが歩いているからそれに従ってみる
なんで僕だけ崖の底で足の骨を折っているんだろう?

閉めきった体育館で足をひきずっていると、「邪魔」だと視線で告げられる
仕方ないので片隅でうずくまる
なんでみんなそんなどうでもいいことに熱中できるんだろう?

陽炎の立つグラウンドには誰もいない
暑いから? でも、なんて自由なんだ
なにか飲みたいな はは 汗がしたたる


あなたのせいという、陽だまり 二編

  本田憲嵩


   あなたのせいという

あなたのせいという
急速な風に吹かれて
青葉がつぎつぎと落ちるように
暦が落ちてゆきました

あなたのせいという
見えない伝書鳩が
ひと息いれる暇もなく
夏の星座の下を行き交いました

あなたのせいという
メロンクリームソーダ
あなたのせいという
金色の夕映えの中でたしかにつないだ手と手

そして あなたのせいとはいえない
このうすら寒い部屋の窓枠には
季節はずれの風鈴が
まだぶら下がったままで


   陽だまり

静止したレースのカーテンが夕陽をたたえて、切りとられた金色に
染まっているこの寂しさは、切りそろえられて強調されたおかっぱ
のうなじ、森の小径で縫うようにうつろう黄色いニ匹の蝶々、また
そのような視線、そそがれる陽だまりのなか、たしかにつないだ手
と手。きみの知りえない夕映えのわたしの色を帯びて、高い窓から
見おろすミニチュアのまち、観覧車の速度でおだやかな時間がなが
れてゆく、こびとになった恋人たちのはいりこむ、ちいさな街路の
迷路の世界、そして、レコードを回して此処に居てほしかった、や
わらかなみどり色のソファー。


プラネタリウムについて

  芦野 夕狩

プラネタリウムについて 僕が知っていることは あれは偽物の星だ ということだけで
実のところ プラネタリウムの 真ん中には 野一面の 花が咲いていることなんて
知りもしなかった 景色がそっと 息を殺すと 僕の隣では 昨日セックスしたばかりの 
カップルがいちゃついていて なぜそんなことを思ったのかと言うと 僕は昨日セックスをしなかったから
そういうことになるのだ

初老を迎えた とはいえ姿は見えないけれど とりあえずそのくらいの男性の声が プラネタリウムに響き渡る
なにを話しているのだろうか 耳を澄ます こんなところでしたくないよ 甘ったるい吐息が 漏れてくる
じゃなくて 初老を迎えた感じの男性が その声が 無言で 女の股を乱暴にまさぐる ではなくて
花を食べる バッファローの話をしている 花を食べる バッファローは もういないという

それは アメリカの夜空だった たぶん アメリカの片田舎で 花を食べる バッファロー達が
細々と暮らしている夜空だった アメリカの星空は 粘膜のこすれ合う音がする 一発の銃声がきこえる
いや気のせいだった それは隣の女の乳首が弾けた音だった アメリカの星空の ちょうど 蠍座に穴が空く
けどアメリカの星空は 蠍座なんてなくても オープンマインドだった 

(蠍座なんてなくても) カップルの男が 女にささやく それが心地よい響きになって 女は股を広げる
花を食べる キスをする それが愛というものです 初老の男性が呟く 一発の銃声が聞こえる ちがう
正確には僕の脳みそを ひとつの鉛の塊が通過していく音だ ごにゅごにゅ とアメリカの星空の下で 僕の脳みそは1ポンド軽くなる
気が付くと すべての人が 花を食べている キスをする 初老の男性の声で 粘膜がこすれ始める
もうすぐ 夜が明けますよ そんな言葉を 僕はいつまでも待ち続けている


e2.(黒スグリを擦りつけた壁に映える一輪の。

  脈搏



染み出していくたびに抜け落ちていく。吐き出すたびに産まれてくる。飽和した会話のレ、と、ラ、を溶かしこんで、フロアに熱帯魚が泳ぐ。鱗が光を乱反射する。撃ち込まれて息を止めたら負けだ。名前も知らない観葉樹に君をこぼして、口唇を躱すのだ。夏や秋、冬それから春、閉じ込められる事を望むように人工のソラを見上げる。周遊するいくつもの星に願いなんて届かない。トイレで誰かが交尾をしてる。そしてその横で喉奥を中指で犯し続ける。染み出していくたびに抜け落ちていく。吐き出すたびに産まれてくる。G線上を曖昧に通り過ぎるだけ。叫び声ともつかない嬌声が粗雑に僕と君を編み込んでいく。


アイロンを買った。シーツに地図を描くように滑らせる。ベッドの端と端にいる王子さまとお姫さまは出逢わない。知らない背中に押し潰されて、きっと死んでしまうんだね。熱が冷めたら海になる。髪の毛が一本皺に隠れてる。出ておいで、他人のように問いかける。揺らめく植物ように、静かならよかった。


誰もいない駅舎の壁、グラフィティに知っている顔を探す。割れた鏡の肉質に救われて、ようやく切り出した身体。血管には透明な時間が脈を打ち、つま先から耳朶まで窒素を送りこんでゆく。慣れない歌を口ずさみ誰かに似た僕の死を君に捧げたら、先行した言葉を脱ぎ捨てて、靴擦れに絆創膏を貼ろう。


猜疑心にまかせて脳に降りしきる灰色を筆にのせた。暗い収穫に曲げる背。烟る背景に太い線を走らせて、コンビニの光って眩しすぎるって思う。渇きに言い換えたけものを柔らかく追い立てて、甘すぎる言葉を啜ろう。敏感な突起を探りあて、光を灯したら、未分化な僕の舌が先鋭すぎる聴覚を曇らせて、レ、と、ラ、そしてソを溶かし込むだろう。一枚ずつ剥がれて言葉の海に揺蕩う咎、なんてシャワーを浴びて。転がした寂しさを詩人はなんて名付けるのだろうか。


僕と君の企みは未遂のまま夜明けを迎える。弔うほどの明るさに鎖された、遠のいていく騙りにただただ満たされていく。他者性なんて難しい言葉は知らない、ハンバーガーを噛むようにして君を飲み込むんだ。帳が降りるように丁寧に塗りこまれていく黒スグリの香りが、僕から駆け出して、君の亡骸を痕跡へと変えていく。


びしょ濡れ

  甲斐聖子

びゅっびゅちゃべちゃべちゃりろんちゃっちゃ
戸締り戸締り火の用心
ろぎゃっちゅろぎゃっちゅちょりろんちゅびら
開け閉め開け閉め水の音

取り巻き縦巻きおしめの交換
濡れたらバイバイ売買商売
泣いた人から甘やかされる
穴のあいたドーナツ 空洞だらけでどっちらけ

方向音痴がぼやくはず
「どっちに行っても嘘は嘘」
方向音痴がまようはず
「どっちを向いても飴は飴」

蜂蜜ではなくメープルシロップ

びゅっびゅちゃべちゃべちゃりろんちゃっちゃ
ろぎゃっちゅろぎゃっちゅちょりろんちゅびら
嘘に潰された本当が、慣れあいながら歌ってる

* メールアドレスは非公開


かみ、が、ががが、うまれる、

  いかいか

温度計を見る、
神がうまれる、

かみが、
ががが、
うまれる、

またたなく、
またたなく、
はばからず、
いのり、いのる、
はらまさた、
手を、手を、
差し出し、
さしだし、
ししぬく、
はらの、はらの、
ながれ、ながれ、ぬく、
ぬく、ぬく、
何度も、
なみだ、みな、
なみだ、
みな、

血だ、

神が、生まれる、
温度に、
私たちは耐えられない、
ない、ない、
いいい、

やぁやぁ、
やぁやぁ、
しん、の、
さいが、
ま、たなく、
はらきりま、
す、きみ、を、
なん、ず、
なんず、

殺す、

たまたなくま、
またさかしたなく、
下る、下る、
よもつひらさかの、
おうる、おうる、
息を殺して、
つた、つた、
た、た
た、

華氏320
神が唯一、
ゆいいつ、
焼けた、温度に、
1995の、
憂鬱、と、
文体を、

ゆなく、渇いた、
さはた、あまりにも、
なきぬすく、
知ってる、あれも、
知ってる、
まー、さたかな、
はー、さなか、
生きているものに、
宿る、
言葉はかなしい、
だから、わたしたちは、
垂れる、
なー、なー、
死んでいく、ことを、
生きていることに流している、
または、いきていることを、
死んでいくことに、流して、
生まれる、
神は、
穢れる、

またたなく、
またたなく、
今思えば、
永劫の、
時間の、中で、
かさらぬま、
かさらぬま、
こうべを垂れ、
流した、

あやめた


モノクローム

  ネン

目を開けたまま
恋した女の夢を見る
焦げたパンのように
ろくでもない男

飛び降りた拍子に
紐が切れなければ
夢は叶っていた
誰も傷を知らないまま

朝日が注ぐ対岸で
彼らはおいでと呼ぶ
人でない生き物が
魂だけで踊る

致死量の無関心
笑い上戸
虫食いだらけの服を着て
死神と共に行く


群青

  みどり

群青の夜の尊さに
私は思わず息をのんだ
全ての酔いと幻を
あっけらかんと包み捨て
窓の向こう
淡い月光の中
若いセージの赤い花
つつましやかに
揺れて・揺れて・ゆらとして
今この眼(まなこ)の焦点はどこへ行ったか
検討もつかない
この仄かな闇の清らかさに
私は何度も呼吸を失う
そして肺が、空気などではない
群青色に満たされてゆく

再び息を大きく吸う頃
私は生まれ変わっている

そして、あえかな明日を窓に灯す


ばらの蛇と少女

  田中修子

ばらの花びらのふりつもる
わたしの頭の
いちばん外側にちかいところにある


少女の白く重いなきがらを
抱きしめている

たわむれに春をひさぐな
指さされ ささくれて

ばらのとげをのみながら
血を吐きながら
陽射しをさえぎる白い日傘を握りしめた
少女を抱く 冷たすぎる

この子はわたしだろうか

ふたりでこいだ
はだ寒い
小雨の日の
ブランコ

あなたは遂げてしまったのに
わたしはあふれる乳と蜜だ
くちびつりあげ
チロチロとふたつに割れた赤い舌

なだらかに
わたしの眼も閉じよ 閉じよ と
呻きながら
からだをひきずりつづけると

気づけばわたしが
棘をはやして夜をやどし
薄輝く星をたたえた
真っ黒なばらになって

飛び立とうとする白い少女の
のびやかな鳥をかばうように
とぐろをまき
こうべを飾るのだった


誕生

  

工場地帯の外れにある
不自然なほど広い空き地は
意図的に繁栄から切り取られ
放置された偽りの草原だ
腰まで茂った草の下に
いったい何が潜むのか
誰も知らないし
知ろうともしない

私は陰鬱な空の下で
いつしか道に迷ってしまい
雑草の中で途方に暮れている
遠くに見える煙突を頼りに
歩いていけば良いはずなのに
草をかき分け進み続けても
一向に出口が見つからない

溜め息をつきながら
周囲を見回した時
二十メートルほど前方で
草むらの中にしゃがみ込む
白いワンピースの少女を見つけた
風に乗って聞こえてくるのは
彼女の苦しそうな呻き声
よく見ればその顔は苦痛に歪み
脂汗にまみれているようだ
おそらく両の手の指は
草を掻き毟っているのだろう

近づいて声をかけようとした時
突然、少女は絶叫した
アアアアアアアアアアアアアアアア!
その叫びに、
別の叫びが入り混じる
オギャアアアアアアアアアアアアアア!
あまりの凄まじい声に
私はその場から動けなかった

やがて少女は蹲り
身体の大部分が草に隠れた
微かに覗く白い背中が
ゆらゆらと蠢いている
耳に入ってくるのは
絶え間ない泣き声だけだ

しばらくしてから
少女は再び立ちあがった
白いワンピースの裾には
いくつかの赤い染み
彼女は放心した表情で
空の一点を見つめてから
私に背を向けて歩き去る
顔に吹き出た汗を腕で拭い
再び前方を見た時には
もう、
その姿は消えていた

その直後
彼女と入れ違いのように
右手の方から草を揺らして
泣き声のする茂みへと
近づいていくものがいる
威嚇するような唸り声は
間違いなく野犬のそれだ

私は金縛りにあったように
動くことができなかった
早く行って助けなければと
心の中では焦るのだが
得体の知れない恐怖から
どうしても足が進まない
唸り声の主は草の中を
高速で移動しながら
泣き声へと迫っていく

そして、
甲高い悲鳴
それに続き、
肉を裂き、骨を砕く
容赦ない、
音、音、音
それから、
唐突に訪れる、
沈黙

どれくらいの時が過ぎたか
正確にはわからないが
とにかく
再び音が戻ってきた
ピチャピチャと
何かを舐め啜る音の後
再び草をかき分けて
「それ」は
元来た方へと戻っていった

何もかもが終わってから
ようやく縛めから解かれた私は
思わず地面に両膝をついた
数回の深呼吸の後で
何とか再び立ちあがり
(おそらくは半泣き顔で)
声が聞こえていた方へと走る
絡み付く草に足を取られ
何度も転びながら
ようやく
少女がいた場所へどり着く

そこで見たのは
予想を覆す光景だった
あまりにも理解不能な状況に
思考を放棄した私は
蒼い波の中に立ち尽くす
ひとつのオブジェと化した

草が足で踏み倒された
半畳分ほどの場所には
小さな血の池ができており
大小様々な肉塊や骨片が
幼子が放り出した
オモチャのように
散らばっていた
残された皮の断片や
噛み砕かれて
脳を食われた頭部から
あきらかに
野犬のものだとわかる
生の残骸が


X

  紅茶猫




カリフラワーに
空が止まっている
夜明け前のこと


僕は
極上の円卓を
齧りながら

知れていく時間に

暮れていく
円錐形の
雲に流れていた


真夜中に
口をそすぐ
そそぐ
すくす
みすく
みみずく


タスク
リスク
ミスト
ビスコ
エンパシー
さらに、
えのき茸を50g
そこで火を弱めて

ゼリー状に固まるまで
待ちます。


僕の待ち時間は3分
僕の待ち時間は3分
僕の待ち時間は3分 



砂糖大さじ4杯強

エンカウンター。

ラウンド
ラウンド
ラウンド X

休憩を挟んで
お茶して
ゲームして
Round X



だった。
だった?
晴れた。
読めた。
読めた?
分かったのか?




あの日
何か
もう
助からない
重病の空に
別れを告げた

鳥のように
そう、まるで
一面の鳥のようだった。


天と地

  渡辺八畳@祝儀敷

彼女は空へと翔んでいった
僕は地上に残った
生まれながら背に持った白銀の大翼を
避けられぬ己の運命とし
あらん限りの力をそこに込めて
彼女は空高く翔んでいった
僕はそれを地上から見上げているしかなかった

「愛してる」と彼女は言った
「僕も、愛してる」と返した
その言葉は嘘ではないし今だってその通りなはず
だけど、僕は地上に生きるものだ
彼女はただ真っ直ぐに天高く昇っていくなか
澄んだ空気との摩擦を全身に受けることで
磨かれて純化して
余分なものを削いでいき
既に赤々と燃える硬い珠と成っていることだろう
だけど、僕は地を這う虫だ
食べればそれが肉となり
飲めばそれが血となる
羽も無いので湿った土を彷徨い
やっと見つけたそれらを口にするしかない
僕でない様々なものが体の中へ入ってきて
前から次々と異物が押し詰めてきて
僕は変わってしまい
不純になっていく、淀んでいく
オリジナルは失われる
彼女が愛した対象の僕でなくなる

雲一つとして無い新月の夜
あの丘の上から、僕らは最後のキスをして、彼女は翔んでいった
その後の僕は何をしたかわかるだろうか
普通に家に帰って寝て
翌日には古典のテストさ
勉強したはずの助動詞の意味をド忘れして
うんうんと唸っているその間にも
彼女はただ一心に翔び続けているというのに!

彼女は僕だけを想って翔んでいった
僕の目ではもはや追うことのできないほどに
彼女は高いところにいる
今ごろはもう大気圏などとうに越えていて
銀河の中心に辿り着き
そこでもなお、僕のことを想い描いているのだろう
あの頃のままの僕を
彼女の心のままの僕を
実際の当人は日曜日のマクドナルド
窓に面したカウンター席にだらしなく座りながら
ただぼんやりとポテトをつまんでいるだけだというのに

空はまぶしいほどに晴れてどこまでも透き通っている
この青さは彼女がたった一人でいる
限りない闇の世界へと繋がっているのだ
僕はどんな気持ちで見上げればいいのだろう
彼女はどんな気持ちで翔び続けているのだろう
虫にはあまりに遠すぎてわからない
ポテトの塩加減だけが現実だ


(無題)

  ゼンメツ

数えるほどしか履かずに褪せたコンバースが、いまでもくっきりと足跡を残しやがって、また苛々させられる。そもそもコンバースって靴はマジで雑魚だ、どしゃ降りの雨に当たったらそのイチゲキでオシマイだ。なんならいっそ歩きながら土へ還りでもすれば突き抜けてエコってことでタイソー褒められんのに。誰にだ。キミはきっとアレさ、もう一人も話し相手がいないもんだから、退屈と空腹の区別がつかなくなってんだ。なので早速コンビニへ行き、ゼロカロリーのコーラと「ひねり揚」とかいう、屈強な名前に対してあまりにも幸の薄そうな体格をもった菓子を購入した。始めのうちはその語感に割とシメられていた、しかし思ったよりずっと食べ飽きる量が入っていて、逆にその節操のなさに腹が立ってきた。どうしようもなく、結局むしゃくしゃしている。僕は近所の植物ばばあどもに「言い得ぬ不穏」をばら撒いてやろうと、一番でっかい枯れた鉢植えにコンバースをツマ先から半分ぶっ刺してやった。しかし古くなった土がボロボロですぐに倒れたので、わざわざ靴紐を枯れたラベンダーに巻き付けて補強を加えた。そこまでしてやっとバカらしくなった。やっとだ。ラベンダーは一年草じゃなかったらしい。僕はこいつの花々が枯れたあとに木だと知った。そこに木が残ってるんだからそうなんだろう。ただそれが死んでんのか死んでないのかはどれだけ眺めても判らなかった、そこにはまだ「来年フツーに生えてくんじゃないの感」すら残されていた。僕はしばらくのあいだ水をやり続けた。まあ、どこで気付いたのかは忘れたが、結果としてそれは死んでいた。なにも悲しくはないけれど、昔彼女がサガンの話をしていたことを思い出したから、一冊だけ読み直すことに決めた。本当は今でも小説が苦手なんだ。ひとつの同じものが長く続くことを考えると、知らない臓器に違和感を覚える。そんなだから当時読むまでにどれほど掛かったのかは覚えていない。読み終えてからどれほど経ったのかも。彼女と話しながら、数冊の本を買い、それよりずっと多くの名前を、聞いてそのまま忘れてしまった。いつのまにか彼女は彼女じゃなくなっていた。それだけ聞いたらいい意味に取れる場合もあるかなって気付いた。ちなみに例のコンバースは彼女と会うために買っただとか、ベツにそういうもんじゃない、てかコンバースの事はもういいだろ、ほんと、

ほんとね、さっさと死にたいです。


収穫の種

  鷹枕可

今際を立つ
薔薇の露庭に敗れた
鹹海を
運命の滑車達が
墜落していた

鏤められた草花を
額縁の血機械が飲む

驟驟たる季候
花籠へ移り
青紫陽花は
白紫陽花を追随鏡の分身と看做す
終端、血塊に興饗を催す

概念、形而下的物象、
堕落、叡知、立棺遠近
施錠門へと葛藤を繋ぐ死の靴音を

世界腑散乱を縁戚係争が隔絶をされて
叛煽働下を交叉階段は
遭遇の朽花の様に
空間の葡萄畑その婦像柱より、


DEAR FUTURE

  

霊安室で君にプロポーズした夜
僕はまだ彼女の胎内で眠っていて
太古の姿のままで夢を見ていたんだ
それは霊安室で君にプロポーズする夢で
手にした花束は球状星団へと接続され
擬人化された時間は痙攣を続けていた

今なら迷いなく世界に発信できる
生まれる前に彼女を殺すべきだったと
フラットな心電図は神からの暗号通信で
解読に必要な犠牲がまだまだ足りない
いつだって死者たちの忘れ物だけは
意外と簡単に見つかってしまうものだ
それは異臭を放ちつつ周囲を侵食して
不必要なくらい存在を誇示するからだ

※誰か窓を開けてくれないか
※どうしても新しい風が必要だ
※僕は彼女の心臓マッサージで
※両手がふさがっているんだ

新聞記事の不幸を次々に切り抜いては
黄ばんだスクラップブックに貼り付ける人たち
無垢な子どもたちが敷き詰められた路上を
彼らはピカピカ光るハイブリッド・カーで疾走する
コンビニでは手軽に宗教が販売されていて
店員は救済をレンジで温めるか尋ねてくる
こんな一日が明日に繋がるはずがない
まだ気が付かないのか墓場なんだここは

僕の夜明けは永遠に引っ掛かったままで
黄昏はクラスの噂話でしか知らないから
動力としての救済が絶対に必要なんだ
すべての悲しい者たちを中和するために
化石になるのを待っていられないから
僕は霊安室で君にプロポーズするんだ

※誰か窓を開けてくれないか
※どうしても夜の湿度が必要だ
※僕は彼女の首を絞めていて
※両手がふさがっているんだ

僕たちの未来の想い出は未開封のまま
今も過去という薄闇の底で凝っている


密告

  あやめ


これはなんだろう


つきうごかされてようやっとうごいている先端 というかんじ


蝿につきまとわれて


蝿をおいはらうしぐさをゆめの中でもくりかえしている
右手をひらひらさせて、関節を鳴らす、プール している
それは、死んでしまった野鳩の目目のようであるが 食器と食器のぶつかりあう音とはほど遠く まひるの浴室にひってきする静けさをたえまなく滴らせている、くぐもらせている 、から、だから とてもよかった
とても しろい貝の
臓物)とでもいうのだろうか
ひかりに透ける襞を反芻して、そして、長いあいだ密閉されていたため 窓をあけた瞬間 以外のものはみなふき飛ばされてしまった
水にまつわる名前の広場で
いたずらに耳をすまして
ひとかたまりになった感覚たちは
夢やうつつのなかへ投げ落とされる、器
動物の骨でできた器、そのように生きることを強く希望していた
記憶
とおいとおいむかし
遭遇した
赤ちゃんや、友人や、モニュメントなどは今
どこで どうしているのだろう


どうしているのだろう、考える
ここにアーカイブされている文書の、せつないほどひろい平原に浮かぶ、あの、遊覧船のような雲は透きとおる、習慣である、確実に流れていく存在、であるから
滞留している
また そのような場所の


とても長い廊下に佇んでいる
等間隔にならんだ窓はすべて開けはなたれていて、流れこんでくる
もの たちはしなやかな未成熟の月であったし、水際のカーテンでもあった
だから、今が夜であり あれからとてもながい月日が経過したのだと、気づくことができた
気づく ことができて
ここにいるような気がしない
それでいて確実にここにいる
わたしは いつもひとに優しくすることができなかった いつも
月のひかりで明るい
窓の外には、誰もいないなだらかな丘が続いている
性的な夢のように なんの脈絡もなく
始まりがあって、そしてとうとつに終わる
やわらかな、しろい、次の場所、になりながら
とうとつに 終わる。


ーーーーーーーー

2016年(多分)に石川史夫さん主催の賞に投稿した詩を少しいじったものです。


月の花

  あおい

月の花                  あおい満月

さまよえる森のなかに
一軒の古びた洋館を見
つけた洋館のなかには
まだうら若い娘がいた
娘は綺麗な白いドレス
を着て座っていた娘に
は両足がなかった娘の
からだは鎖でがんじが
らめになっていたけれ
ど娘は微笑んでいた自
分のなかには信じるも
のがあるから生きられ
るそのたったひとつの
思いを信じてするとあ
る晩のことだった一羽
の鴉が洋館の窓を突き
破り娘の元にやってき
た娘は黒いものが苦手
だったのではじめは鴉
を毛嫌いしたけれど夜
毎鴉は娘の元にやって
きた鴉は言ったなぜ僕
を毛嫌いするのかと鴉
は言った世の中は白い
ものがすべてではない
黒いもののなかにこそ
本当の白さがあるのだ
とだが娘はなかなか聞
き入れようとはしない
あろうことか娘は自分
の手の甲に止まった鴉
の頸を掴んでねじ伏せ
た鴉は息絶えたそのと
き娘ははじめて自分の
愚かさに気がついたそ
してみるみるうちに涙
がこぼれたその涙が鴉
のからだに落ちたその
瞬間鴉は美しい男性に
なり娘の手をとったす
ると娘のなかったはず
の足があった自分は歩
けるようになったのだ
娘は歓喜し男性に口づ
けをした二人は溶け合
い夜空を照らす月の花
になった花はいつまで
も暗い夜のなかで咲き
風に揺れていた風はあ
たたかく夜を染めた。


随行

  玄こう

 夏の

 窓向こうの夕映えが小道に下りた 二度とあらわれない空の轍を雲が飛行している 時計の針が5時をまわるころに 雑木に隠れた蝉のジリジリと嘆く声が 響きわたる 耳に流れる何度も聞くのに 言葉にならない電流を 逃がしながら 左右を交互に踏む 足の親指と踵とを アースがわりにしながら 雑木のなかを一歩二歩と丘へとのぼる。
 黒いカタマりを口に含んで モグモグしながら 声にならないものの 微かな痺れだけが 足の爪先や 頭髪の毛先にも 木々の天辺や家家の尖った屋根にも 遠くの山山の天辺にも 草木の 枝葉の あらゆる先端部に微弱な電流を蓄えているようだ。
 流れないで踏みとめられて蓄えられた静電気が 無尽蔵に微かな痺れみたいなものが 丘を見渡した雲に覆われていた。
 小さなステンドグラスのように精巧で透明な茶色い二枚の羽が 土の上に落ちていた 蝉の胴体は跡形もなく 涼しげにふく風のように 二枚の羽がゆれていた。 
 人差し指ほどの大きな黒いカタマりを 口のなかでモグモグさせながら わたしは再び 夕映えを背に もと来た道を戻って帰った 少し薄暗くなった雑木の道を下りて帰った。


未然

  霜田明

   三条へ行かなくちゃ 三条堺町のイノダっていう コーヒー屋へね
   あの娘に逢いに なに 好きなコーヒーを 少しばかり
                     (『コーヒーブルース』 高田渡)

屈辱や羞恥を覚えるできごとのあった日には、家に帰ってから、『コーヒーブルース』という歌を聞くことで、それを中和しようとしてきた。
歌い出しの「行かなくちゃ」という言葉に、特別な安心感を感じていた。

『コーヒーブルース』が売れてから、「イノダ」は高田渡のファンにとって、聖地になった。
この歌を聞いていると、カウンターで店の女の子と楽しく話す光景が浮かんでくる。

だが、作者は後に、「あの娘」は店の女の子ではないと語った。
当時付き合っていた彼女との待ち合わせを描いた歌で、「店の商品には手をつけない」と冗談を添えた。

それでもファンやあるいは作者がそう考えていたように、「イノダ」は実在の店ではなかった。
作中では「行かなくちゃ」が繰り返され、結局、最後までその店へ行かなかったから。

「行かなくちゃ」を聞いていると、それが「行く」ことにも「行かない」ことにも
侵すことのできない領域であることに気がつく。

文学極道

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