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2016年01月分

月間優良作品 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一五年六月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年六月一日 「こころに明かりが灯る」


 以前、付き合ってた子が遊びにきてくれて、二人でDVD見たり、音楽聴いたりしてた。世界いち、かわいい顔だと、きょうも言った。「きっと、一週間は、こころに明かりが灯った感じだよ。」と言うと、「ええ?」相変わらず、ぼくの表現は通じにくそうだった、笑。


二〇一五年六月二日 「いっしょに服を買いに行くのだ。」


 きょうは、これから頭を刈って、高木神経科医院に行って、それから、えいちゃんと河原町で待ち合わせ。いっしょに服を買いに行くのだ。きょうは、えいちゃんの誕生日。何着か買ってあげるねと約束したのだった。誕生日を祝ってあげられることっていうのは、ぼくには楽しいことなのだ。しかし、毎日、楽しいことばっかりで、長生きすると、ほんとに人生は楽しいものだと痛感する。若いときは苦しいことばっかりだったのにね。でも苦しかったから、いまが楽しいのかもね。すてきなひと、かわいいひとに囲まれている。付き合いが長くなると、いいところが新しく見つかったりするから、できるかぎり長く生きて、友だちのいいところをいっぱい目にしようと思っている。


二〇一五年六月三日 「複雑なひとって、なにに癒されるのだろう?」


 きょうは、ジュンク堂で、レムの「泰平ヨンの未来学会議』(ハヤカワSF文庫)と、フィリップ・K・ディックの『ヴァルカンの鉄槌』(創元SF文庫)を買った。ディックの未訳の長篇は、これでさいごだったと思う。いつ読むか、わからないけれど。あした早いし、クスリのんで寝よう。きのう寝てないから、きょうは、よく眠れますように。寝るまえに、ウルトラQの本か、怪獣の人形の写真集でも見ようっと。本の表紙の絵とか、怪獣の人形や、その写真集なんかで、こころが癒されるのって、なんだか単純。複雑なひとって、なにに癒されるのだろう?


二〇一五年六月四日 「才能とは辛抱のことだ。」


 本棚を少しでもよい状態にしておきたかったので(いま、ぎゅうぎゅうに並べた本のうえに、本を横にして載せてたりしているので、本には悪い状態だと思う)モーパッサンの『ピエールとジャン』を捨てようと思って(1冊でも少なくしたいので)、でも、念のためにと思って、ふと、ページをめくると、「小説について」という、前書きか、それとも序文なのかわからないけれど、本篇のまえに置かれたものがあって、それを拾い読みしていると、ふむふむとうなずくところがしきりに出てきて、捨てられないことがわかった。フロベールがモーパッサンに言ったという、「才能とは辛抱のことだ。」という言葉が印象的だった。違ったかな。でも、まあ、こういった言葉だった。そして、宮尾節子さんのことが思い浮かんだのだった。正確に引用しておこう。『ピエールとジャン』の本篇のまえに置かれた「小説について」というエッセーのようなもののなかに、つぎのような言葉があるのだ。「その後、フロベールも、ときどき会っているうちに、私に好意を感じてくれるようになった。私は思い切って二、三の試作を彼の手もとにまでさし出した。親切に読んでくれて、こう返事をしてくれた。「きみがいまに才能を持つようになるかどうか、それは私にはわからない。きみが私のところへ持ってきたものはある程度の頭のあることを証明している。だが、若いきみに教えておくが、次の一事を忘れてはいけない。才能とは──ビュフォンの言葉にしたがえば──ながい辛抱にほかならない、ということを。精を出したまえ」」(杉 捷夫訳)。モーパッサンがフロベールに言われた言葉だけれど、フロベールはビュフォンの言葉を引いたみたいだ。ということは、ぼくがここにその言葉を引くと、ひ孫引きということになるのかな。違うかな?


二〇一五年六月五日 「ナボコフ」


 きのう、ナボコフを読んでみたいという知り合いに、『ロリータ』と『青白い炎』をプレゼントした。『ロリータ』は大久保康雄訳の新潮文庫本、『青白い炎』は古いほうの文庫版。たしか、ちくま文庫だったかな。どっちのほうをより好いてくれるか、わからないけれど、どちちも傑作だった。ちょっとまえに買った『文学講義』は最悪だったけれど。ぼくの本棚には、『ロリータ』はまだ2冊ある。カヴァー違い、翻訳者違いのものだ。もちろん、岩波文庫から出た『青白い炎』もある。


二〇一五年六月六日 「セロリ」


身体のためにと思ってセロリを買ってきて食べているのだけれど、気持ち悪くなるくらいに、まずい。


二〇一五年六月七日 「FBフレンド」


 FBフレンドの笑顔がかわいすぐる。きょうは、その男の子の笑顔を思い浮かべながら寝る〜。二度目の、おやすみ、グッジョブ! I go sleep with your smile tonight. って、その男の子の画像にコメントした。三度目の、おやすみ、グッジョブ! その子の返信。LOL! why not sleep with me? そんなこと言われても〜、笑。日本じゃないもの。彼がいるのが。日本だったら会いに行ってる(たぶん)。それぐらいかわいい。because I can't sleep. って、書いておいた。ぶふふ。


二〇一五年六月八日 「殺戮のチェスゲーム」


 ブックオフのポイントが貯まっていたので、使おうと思って、三条京阪のブックオフと四条河原町のオーパ!のブックオフに行った。三条京阪では欲しいものがなかったが、オーパ!のほうでは、ダン・シモンズの『殺戮のチェスゲーム』上・中・下巻が、たいへんよい状態でそろっていたので、買った。『殺戮のチェスゲーム』を上・中・下巻のセットで買うのは、これで4回目だ。本棚にあるほうは、ふたたびお風呂場で読む用にしようと思う。きょう買ったもの以上によい状態のものは、ないと思うので、『殺戮のチェスゲーム』を買うのは、これで終わりにしたいと思う。高い値段で買ったもののほうが、安い値段で買ったものより状態が悪くて(ヤケとシミがあった)腹が立って、『殺戮のチェスゲーム』上・中・下巻、背中をバキバキ折って、捨てた。どれも分厚い本なので、簡単に背割れした。本棚を整理しようと思って、ひとつの本棚の奥を見てびっくりした。もう手元にはないと思っていた私家版の詩集が2冊出てきた。電子データにしていないものも含まれているので、後々、電子データにするつもり。初期の詩だ。それと、捨てたと思っていたぼくや恋人が写っている写真がケースごと発見されたのであった。これは僥倖だった。


二〇一五年六月九日 「聞き違い」


仕事の合い間に読書をしていて、聞き違いをしてしまった。そこで「聞き違い」自体を、つぎのようにしてみた。

聞き違い
効き違い
機器違い
危機違い
き、気違い
kiki chigai

日常、耳にするのは「聞き違い」くらいかな。小説や、マンガなんかには、「き、気違い」もあるかな。


二〇一五年六月十日 「きみの名前は?」


『〈教皇〉ヴァレンタイン』上巻、あと10ページほど。シルヴァーバーグは、ほんとうに物語がうまいなと思う。きょうじゅうに下巻をどれだけ読めるかだけど、楽しみ。シルヴァーバーグが終わったら、フィリップ・ホセ・ファーマーの作品で唯一というか、唯二、読んでいない、『淫獣』シリーズを読む。『淫獣の妖宴』と『淫獣の幻影』だけど、男のペニスにかぶりついて血を吸う女吸血鬼が出てくるらしい。10年以上もむかし、これらを手に入れるために、各々数千円ずつ使ったと記憶しているのだが、いまはもう、これらの古書値は下がってると思う。調べてみようかな。505円と1000円だった。このあいだ復刊した、『泰平ヨンの未来学会議』も、以前は2万円から3万円したのだけれど、いまどうなってるか、ググってみよう。9550円だった。レムのなかでもっともつまらない『浴槽で発見された手記』がまだ5000円だった。これは1円でいいような本だったのだけれど、ネットで調べると、評価が悪くないのだ。ラテンアメリカ文学を読んだあとでは、駄作としか思えないものなんだけどね。さっき、お風呂場で、キングの『呪われた町』の上巻を読んでたら、貴重なエピグラフ「きみの名前は?」があって、俄然、興味が高まったのだけれど、プロローグを読んだら、ゲイ・ネタかしらと思うセリフのやりとりもあって、『〈教皇〉ヴァレンタイン』の下巻より先に読むことにした。走り読みしよう。


二〇一五年六月十一日 「詩論」


 けさの出眠時幻覚は、オブセッションのように何度も見てるもの。偽の記憶だ。30代で記憶障害を起こしたときの記憶である。大学院を出たあと、高校に入り直して生活していたというものだ。当時は記憶が錯綜して、現実が現実でない感じだった。自分が魔術的な世界で生活している感じだったのだ。精神的現実が幻想的だった。ダブルヴィジョンは見るし、ドッペルゲンガーとは遭遇するし、夜中に空中浮遊しながら散歩していると思い込んでいたし、頭のうしろの光景もすべて目にしていたと思い込んでいた、狂った時期の記憶だ。とても生々しくて、まさに悪夢だった。合理主義者なので、それらが無意識領域の自我(あるいは、自我を形成する言葉や言葉以外の事物によって受ける印象や事物から得られる感覚などによって形成されるロゴス=形成原理)が引き起こした脳内の現象であることは、30代後半からの考察によってわかったのだが、いまは、それの分析を通して作品をつくっている。『詩の日めくり』も、そういった類の作品だろう。無意識のロゴスを最大限に利用しようと思っている。「先駆形」ほど過激ではないが(先駆形をつくっているときの精神状態はやばかったと思う。万能感がバリバリで、さまざまなものが、言葉が自動的に結びついていくさまを眺めているのは、自分の正気を疑うほどに、すさまじい感覚を引き起こすものだったのだ)それでも、『詩の日めくり』をつくっているときのこころのどこかは、ここ、いま、という場所と時間を離れた、どこか、いつかに属する、時制の束縛を知らないものになっていたのだった。「詩とはなにか」という問いかけに対するもっとも端的な答えは、「詩とはなにか」という問いかけを無効にしてしまうものであるだろう。なにものであってもよいのだ。詩とはこれこれのものだと言う者がいる。たしかに、そうだとも言えるし、そうでもないものだとも言えるのだ。100の答えに対して、少なくとも、もう100の答えが追加されるのだ。1つの詩の定義がなされるたびに、2つの詩の定義が増えるのだ。


二〇一五年六月十二日 「弟」


 いちばん下のキチガイの弟から電話があった。ぼくが自殺すると思っているらしい。「きみも詩を書きなさいよ、才能があるんだから」「あっちゃんみたいな才能はないよ。」「ぼくとは違う才能があると思うよ。むかし書いてたの、すばらしかったし。あの父親が否定したから書かなくなったんだろうけど。あの父親も、頭がおかしかったんだし、きみと同じでね。でも、きみを否定したのは間違ってたと思うよ。ぼくのことを否定していたことも間違っていたし。芸術をするのは、いつからでも遅くはないよ。才能がある者は書く義務がある。書きなさい。」と言った。弟は詩も書いていたし絵も描いていたのだ。父親に強く否定されて発狂したのだけれど、ぼくは否定されても、すぐに家を出たので、父親の言葉に呪縛されることはなかった。死ぬまで父親と同居していた弟は、ほんとうに可哀想だ。自己否定せざるを得ず発狂までしたのだ。理解力のない親を持って否定された芸術家はたくさんいると思う。子どもの才能を否定する親など見捨てればいいのだ。ぼくが見捨てたように。弟には、好きな詩とか絵を、ふたたびはじめてほしいと思う。頭のねじがどこかおかしい弟なので、すばらしいものを書くと思う。


二〇一五年六月十三日 「愛はただの夢にすぎない。」


「愛はただの夢にすぎない。」(スティーヴン・キング『呪われた町』下巻・第三章・第十四章・30、永井 淳訳、276ページ)ただの夢だから、何度も訪れるのだろう。オブセッションのように。若いときには。齢をとると、愛の諸相について考察するようになるので、ひとつの型にこだわることがなくなった。肉欲のことについて考えていたのだ。54才にもなると、肉欲に振り回されることがなくなるのだ。これはひとつの僥倖であり、自然が人間に与えた大いなる恩恵のひとつである。人生のほとんどすべての時間を、学問や芸術に注ぎ込むことができるのだ。キングの『呪われた町』下巻を読み終わった。二度と読み直さないだろうから上・下巻とも破り捨てた。プログレをやめて、イーグルスを聴いてたら、FBフレンドの恋人同士の仲のいい画像が思い出されて、そこから自分の過去の付き合いとかが思い出されて、ちょっとジーンとして、まだ作品にしてない思い出とかいっぱいあって、これからそれを作品にしていけると思うと、なんか幸せな気分にあふれてきた。齢をとって、自分自身が若さとか美しさから遠くなったために、客観的に見れる若さとか美しさのはかなさがよくわかるような気がする。たとえ若くて美しくても、なんの努力もしていないのに、持ち上げられてちやほやされるというのは、とても愚かしいことだった。そして、それが愚かしいことだったということがわかることが、とても大事なことのように思える。たくさんの文学が、その愚かさについての考察なのではないだろうか。ぼくの作品も例外ではなく、その愚かさについての考察であるような気がする。愚かで愛おしい記憶だ。お酒、買いに行こうっと。あのおっちゃんとは、二度と会ってないけど、ぼくのこと、気に入っちゃったのだろうか。話しかければよかったかなあ〜。なんてことが、わりとある。電車のなかとか、街を歩いてたりしてたら。世のなかには、奇跡がごまんと落ちてるのだった。ただね、拾い損ねてるだけなのね。


二〇一五年六月十四日 「夢は叶う」


 日知庵で、会社のえらいさんとしゃべっていて、そのひとが「プラスなことしゃべっててもマイナスなことしゃべると、口に±で「吐く」になる。プラスなことだけをしゃべってると口に+で「叶う」になるんやで」と言って、ふだん、酒癖悪いのに、いいこと言うじゃんって思った。でも、横からすかさず、「それ金八先生ですか?」って、二人で来てた女性客のうち、そのえらいさんの隣に坐ってた方の子に突っ込まれてた。そかもね〜。たしかに、ぽい。そのえらいさん、聞こえないふりしてたけど、笑。やっぱ、「金八先生」かも。ぼくははじめて聞いて、感心してしまったのだけれど。


二〇一五年六月十五日 「雨なのに、小鳥が泣いている。」


雨なのに、小鳥が泣いている。目が覚めてしまった。


二〇一五年六月十六日 「『淫獣』シリーズ2冊」


『淫獣の妖宴』を含む『淫獣』シリーズだけが、ファーマーのもので唯一、読んでなかったもの。だって、男のチンポコから血を吸う女吸血鬼の話だっていうから、避けてたのね。あまりに痛々しそうでさ。でもないのかな? フィリップ・ホセ・ファーマーは、日本で出版されている翻訳本をコンプリートに収集した何十人かの詩人や作家のうちの一人。『淫獣』シリーズを読むのが、もっとはやければよかった、というような感想がもてる作品であればいいなって思っている。(中座)ファーマーの『淫獣の幻影』を100ページちょっと読んだ。車の出す排気ガスで、街に住む人間がどんどん街から脱出しているという設定のなかでの吸血鬼物語。いまだったら「排気ガスで街を脱出」みたいな設定が馬鹿げてるもののように思えるけれど、作品が書かれた1986年当時はそうではなかったのだろう。ということは、いま問題視されていることも、将来的には馬鹿げているように思えるものもあるのだろう。逆に、当時問題視すべきことで、問題視されなかったものもあるだろうし、同様に、いま問題視しなければならないことで問題視していないものもあるだろう。すごい作品とか、勉強になる作品とか、よいものばっかり読んでいると、よくないものに出合ったときの怒りは中途半端なものではなくなるので、ときには、あまりすごくない作品や、そんなに勉強にならないものも読む必要があるのかもしれない。そうでも思わなかったら、『淫獣の幻影』は破り捨ててるな。いや、最悪のものかもしれない。ファーマーのもののなかで。うううん。でも、最悪なものでも持っておきたいと思うのは、ファンだからかもしれない。というか、ファンだったら、最悪な設定のものこそ、よろこんで受け入れなければならないのかもしれない。(中座)『淫獣の幻影』あと20ページほど。セックス、セックス、セックスの描写が本文の半分くらいあるかもしれない。じっさいは5分の1ほどかもしれないけれど、感覚的に、半分くらい、セックス描写である。うううん。でも、いいかも。と思わせるのは、やっぱり、ぼくが、フィリップ・ホセ・ファーマーのファンだからかもしれない。あの壮大なリヴァー・ワールド・シリーズを読んだときから、ファーマーは、ぼくのアイドルになってしまったのであった。きょうじゅうに『淫獣の妖宴』に突入すると思う。ゲスいわ〜。最低にお下劣。(中座)『淫獣の妖宴』の冒頭で、いきなり、吸血鬼や狼男は、じつは宇宙人だったというのである、笑。笑うしかない。しかも主人公の人間が突如、超能力をもち、ものすごく巨大なペニスをもつことになり、云々というのだ。ある意味、自由だけど、自由すぎるような気がする。(中座)『淫獣の妖宴』を走り読みした。精読する価値がなかったので。これから、このあいだ買ったフィリップ・K・ディックの『ヴァルカンの鉄槌』を読む。これはじっくり読む価値があるだろうか。ディックもまたぼくの大好きな作家で、その作品をすべてコレクションしている詩人や作家のうちの一人だ。


二〇一五年六月十七日 「誤字」


 フィリップ・K・ディック『ヴァルカンの鉄槌』(佐藤龍雄訳)誤字 148ページ8、9行目「勝負をものにしたのだ。」これは「勝利をものにしたのだ。」だと思う。「勝負をものにする」などという日本語にお目にかかったことがない。


二〇一五年六月十八日 「りんご摘みのあとで」


 レムの『泰平ヨンの未来学会議』があまりにも退屈なので、ロバート・フロストの詩の翻訳をしようかな。


After Apple-Picking

Robert Frost

My long two-pointed ladder's sticking through a tree
Toward heaven still,
And there's a barrel that I didn't fill
Beside it, and there may be two or three
Apples I didn't pick upon some bough.
But I am done with apple-picking now.
Essence of winter sleep is on the night,
The scent of apples: I am drowsing off.
I cannot rub the strangeness from my sight
I got from looking through a pane of glass
I skimmed this morning from the drinking trough
And held against the world of hoary grass.
It melted, and I let it fall and break.
But I was well
Upon my way to sleep before it fell,
And I could tell
What form my dreaming was about to take.
Magnified apples appear and disappear,
Stem end and blossom end,
And every fleck of russet showing clear.
My instep arch not only keeps the ache,
It keeps the pressure of a ladder-round.
I feel the ladder sway as the boughs bend.
And I keep hearing from the cellar bin
The rumbling sound
Of load on load of apples coming in.
For I have had too much
Of apple-picking: I am overtired
Of the great harvest I myself desired.
There were ten thousand thousand fruit to touch,
Cherish in hand, lift down, and not let fall.
For all
That struck the earth,
No matter if not bruised or spiked with stubble,
Went surely to the cider-apple heap
As of no worth.
One can see what will trouble
This sleep of mine, whatever sleep it is.
Were he not gone,
The woodchuck could say whether it's like his
Long sleep, as I describe its coming on,
Or just some human sleep.


りんご摘みのあと

ロバート・フロスト

両端の二本の突き出た長い縦木を地面に突き刺したぼくの梯子が木に立てかけてある。
それはまだ天に向けて傾けてある。
そして、そこには一つの樽がある。ぼくがいっぱいにしなかったものだ。
そのそばには、ぼくがいくつかの大ぶりの枝から摘み取り残した
二つか三つのりんごがあるかもしれない。
でも、いまはもう、ぼくのりんご摘みは終わったんだ。
冬の眠りの本質は夜にある。
りんごの香りがする、ぼくはうとうととしている。
ぼくは、ぼくが見た光景の奇妙さを、ぼくの瞳から拭い去ることができない。
それは一枚の窓ガラスを通して見たものから得たものだけど
今朝、飲料用の水桶から水をすくい取って
そうして、涸れかけた草の世界を守ってやろうとしたんだ。
手にした草はへたっとしてたから、そいつを落として、踏みつけて、ばらばらにしてやった。
でも、ぼくは満足だったんだ。
そいつが地面に落っこちるまえまではずっと順調だったんだ。
ぼくにはわかってるんだ。
まさに見ようとしていた夢を、いったい、なにがつくりだすのかって。
巨大なりんごが現われたり消えたりするんだ、
幹の先っちょや花の先っちょでね、
それでいて、赤りんごのどの白い斑点もはっきりくっきりしてるんだ。
ぼくの足の甲のへこんだところは痛みだけでなく、
梯子のあちこちの圧力も感じつづけるんだ。
大きい枝が曲がると、梯子が揺れるのを、ぼくは感じる。
それでいて、ぼくの耳には聞こえずにはいられないんだ、地下室のふたつきの大箱から
ゴロゴロいう音が
ぼくが摘み取って収蔵したりんごの積み荷という積み荷のもののね。
というのも、ぼくが、たくさん摘み取り過ぎちゃったからなんだけどね。
疲れすぎちゃったよ。ぼく自身が望んだ通りのものすごい収穫だったんだけどね。
ぼくの手が摘み取った果実は、1000万個もあったかな。
やさしくていねいに手で摘み取って、降ろすんだ、落とすんじゃない。
というのも、そうしない限り
りんごは地球に激突しちゃうからなんだ。
まあ、たとえ、傷ついちゃったり、刈り株に突き刺さっちゃったりしても
サイダー用のりんごの山のところに運んじゃうだけだけどね。
ほんと、なんの価値もないものだよ。
なにがぼくの眠りを邪魔するものになるか、わかるよね。
そのぼくの眠りがどんなものであってもね。
あいつは行っちゃったのかな、
ウッドチャックのことだけど、そいつはわかってるってさ、その眠りが
自分の長い眠りのようなものかどうかってこと、ぼくがここにきて描写しているようにさ、
それとも、ちょうどちょっとした人間の眠りのようなものなのかな。


二〇一五年六月十九日 「前世の記憶」


 人間はほとんどみな、原始時代からの前世の記憶を連綿と持ちつづけているものなのに、なかには、まれにまったく持たないで生まれてくる者もいるのだ。ぼくがそれで、ぼくには前世の記憶がいっさいないのだ。人間以前の記憶さえ持つ者もいるというのに。だから、ぼくは、こんなにも世渡りが下手なのだ。


二〇一五年六月二十日 「すてきな思い出が待ち構えている」


 かなりのヨッパである。きみやさんに行く途中、阪急でかわいい男の子を見つけたと思ったら、知ってる子だった〜、笑。もう、この齢になったら、街ん中は、かつて好きだった子がいっぱいで、いつ、どこに行っても、すてきな思い出が待ち構えていて、ああ、齢をとるって、こんないいことだったんだって思う。


二〇一五年六月二十一日 「まぎらわしい。」


マンションの部屋にいると、ときどき、車が迫ってくる音と、雨がきつく降ってくる音が似ていて、まぎらわしい。何度か、あわててベランダの窓を開けたことがあった。洗濯物を取り込もうとして。


二〇一五年六月二十二日 「デジャブ感ありだけど。」


 ジュンク堂で、ゲーテの『ファウスト』の第二部といっしょに、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』と、プッツァーティの『七人の使者・神を見た犬』を買った。『シルトの岸辺』はちら読みしたら、文体がとてもよかったので。『七人の使者・神を見た犬』は、表紙がとても好みのものだったので。帰りに、ところてん2つと、卵豆腐2つ買った。ところてんは黒蜜。酢で食べる方が健康なんだろうけれど、だんぜん黒蜜が好き。卵豆腐は、ひとつはエビ。ひとつはカニ。おやつーな晩ご飯である。あ、そだ。レムの『泰平ヨンの未来学会議』50ページあたりからおもしろくなった。デジャブ感ありだけど。


二〇一五年六月二十三日 「どっちだろ? どっちでもないのかな?」


シマウマって、さいしょは白馬だったのか、それとも黒馬だったのか、それともあるいは、もとからシマウマだったのか、わからないけど、そういえば、パンダも……


二〇一五年六月二十四日 「泰平ヨンの未来学会議」


 スタニスワフ・レムの『泰平ヨンの未来学会議』あと20ページほどで読み終わる。グレッグ・イーガンも扱ってたクスリづけの世界。ブライアン・オールディスの未訳の作品にもあったと思うけど、ぼくも短い作品でクスリづけの世界を書いたことがある。オールディスのは幻覚を見る爆弾だった。そいえば、それも、ぼくは書いたことがあった。おそらく、たくさんの詩人や作家が書いているのだろう。レムのは、かなり諧謔的だ。オールディスのはシニカルなものだろう。イーガンのもだ。ぼくのもギャグ的なものとシニカルなものとがあった。塾にいくまでにレムを読みきろう。つぎは、ジュリアン・グラック『シルトの岸辺』を読むか、プッツァーティの『七人の使者・神を見た犬』を読もう。両方、同時に読んでもいい。通勤と授業の空き時間には『シルトの岸辺』を、寝るまえには、『七人の使者・神を見た犬』を読んでもいい。楽しみだ。(中座)ありゃ。レムの『泰平ヨンの未来学会議』読み終わったけど、夢落ちやった。なんだかな〜。塾に行くまで、ルーズリーフ作業をしよう。時間があまったら、読書をする。


二〇一五年六月二十五日 「やっぱり神さまかな。」


 ずっと可愛いと思ってたFBフレンドが、いま、ぼくに会いたくて日本に行きたいとメールをくれたんだけど、ほんとだったら、うれしい。ほんとかな? 今晩、夢で、きみに会えたらうれしいと伝えた。(ずっと拙い英語でだけど) 笑顔のかわいい子。ぼくの年齢はちゃんと教えたけど、かまわないらしい。だれに感謝したらいいのだろう。やっぱり神さまかな。


二〇一五年六月二十六日 「異なる楽器」


同じ言葉でも異なるひとの口を通じて聞かされると、違った意味に聞こえることがある。人間というものは、一つ一つ違った楽器のようなものなのだろうか。


二〇一五年六月二十七日 「同性婚」


友だちのジェフリー・アングルスが彼氏と同性婚した。日本でもはやく同性婚が認められればいいのに。


二〇一五年六月二十八日 「なんで、おばさん好きなの?」


「1杯で帰ろうと思ったとき出会う酒のみ」
ぼくが詩を書いてるって言ったら、いきなりかよ。
「これは、ずれてるよ。」
「ずれてるけど
 ぼくのなかではいっしょ。」
キクチくんとは、あったの2回目だった。
「サイフが不幸。」
これには、ふたりとも笑った。


二〇一五年六月二十九日 「糺の森。」


ぼくが帰るとき
いつも停留所ひとつ抜かして
送ってくれたね。
バスがくるまで
ずっとベンチに腰かけて
ぼくたち、ふたりでいたね。
ぼくの手のなかの
きみの手のぬくもりを
いまでも
ぼくは思い出すことができる。
いつか
近所の神社で
月が雲に隠れるよりはやく
ぼくたち、月から隠れたよね。
形は変わっても
あの日の月は
空に残ったままなのに
あの日のぼくらは
いまはもう
隠れることもなく
現われることもなく
どこにもいない。


二〇一五年六月三十日 「木漏れ日のなか。」


きょうのように晴れた日には
昼休みになると
家に帰って、ご飯を食べる。
食べたら、自転車に乗って
賀茂川沿いの草土手道を通って
学校に戻る。

こうして自転車をこいでいると
木漏れ日に揺すられて
さすられて
なんとも言えない
いい気持になる。

明るくって
あたたかくって
なにか、いいものがいっぱい
ぼくのなかに降りそそいでくる
って
そんな感じがする。

まだ高校生のぼくには
しあわせって、どんなことか
よくわからないけど
たぶん、こんな感じじゃないかな。

行く手の道が
スカスカの木漏れ日に
明るく輝いてる。


二〇一五年六月三十一日 「お母さん譲ります。」


「あのう、すみません。表の貼り紙を見て、来たのですが。」
呼び鈴が壊れていたのか、押しても音がしなかったので、扉を開けて声をかけてみた。
「また、うちの息子の悪戯ですわ。」
不意に後ろから話しかけられた。
女が立っていた。
「悪戯ですか。」
表で見た貼り紙が、くしゃくしゃにされて、女の手のなかで握りつぶされていた。
「どうぞ、上がってください。」
言われるまま、家のなかに入って行った。
「息子さんはいらっしゃるのですか。」
「奥の部屋におりますわ。」
女は、私の履き物を下駄箱に仕舞った。
「会わせていただけますか。」
「よろしいですわよ。」

案内された部屋に行くと、一匹の巨大なヒキガエルがいた。
──ピチョッ、
ヒキガエルの舌先が、私の唇にあたった。
舌先が、私の喉の奥に滑り込んだ。
──おえっ、
──パクッ。
私が吐き出した魂を、ヒキガエルが呑み込んだ。

外は、すっかり日が暮れていた。
「もう何年も雨が降らないですね。」
「雨はみんな、わたくしが食べてしまいましたのよ。」
女はそう言って、新しい貼り紙を私に手渡した。


詩の日めくり 二〇一五年七月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年七月一日 「I made it。」



かるい
ステップで
歩こう


かるい
ステップで
歩くんだ

もう参考書なんか
いらない

問題集も
捨ててやる


かるい
ステップで
歩こう


かるい
ステップで
歩くんだ

もう
偏差値なんか
知らない

四月から
ぼくも大学生

(連作『ぼくのEarly 80’s』のうち)


二〇一五年七月二日 「Siesta。」


siesta
お昼寝の時間

午後の授業は
みんなお昼寝してる

階段教室は
ガラガラの闘牛場

老いた教授は
よぼよぼの闘牛士

ひとり
奮闘してるその姿ったら

笑っちゃうね
もう

(だけど、先生
 いったい何と奮闘してるの)

siesta
お昼寝の時間

午後の授業は
みんなお昼寝してる

チャイムが鳴るまで
お昼寝してる

(連作『ぼくのEarly 80’s』のうち)


二〇一五年七月三日 「First Trip Abroad。」


いつものように
窓際の席にすわって

Tea for One

どこに行こうかな
テーブルのうえに世界を並べて

アメリカ、カナダ
オーストラリア

それとも
アジアか、ヨーロッパがいいかな

それにしても
きれいなパンフレットたち

あっ
そろそろつぎの授業だ

ぼくは世界をリュックに入れて
外に出た

(連作『ぼくのEarly 80’s』のうち)


二〇一五年七月四日 「パタ パタ パタ!」


部屋から 出ようとして
ドア・ノブに触れたら
鳥が くちばしで つっついたの
おどろいて テーブルに 手をついたら
それも ペンギンになって ペタペタ ペタペタッて
部屋の中を 歩きまわるの (カワイイけどね)
で どうしようか とか 思って
でも どうしたらいいのか わからなくって
とりあえず テレビをつけようとしたの
そしたら バサッバサッと 大きな鷲になって
天井にぶつかって また ぶつかって
ギャー なんて 叫ぶの
で こわくなって
コード線を 抜きましょう
とか 思って
て あわてて 思いとどまって (ウフッ)
(だって、これは、ミダス王のパロディにきまってるじゃない?)
って 気づいちゃって (タハハ)
思わず 自分の頭を 叩いてしまったの
パタ パタ パタ!


二〇一五年七月五日 「不思議な話たち。」


ネッシーは、まだネス湖にいるのでしょうか。
あの背中の瘤は、いまでも湖面に現われますか。

雪男は、まだヒマラヤにいるのでしょうか。
あの裸足の大きな足跡に、いまでも遭遇しますか。

ツチノコは、まだ奈良の山にいるのでしょうか。
あの滑稽な姿で、いまでも目撃者が絶えませんか。

かつて、ぼくらが子供だったころ
ぼくらのこころを集めたさまざまな話たち。

いまでも、子供たちのこころを
いっぱい、いっぱい集めていますか。

不思議な話たち、
ひょっこり写真に写ってください。

不思議な話たち、
ひょっこり写真に写ってください。


二〇一五年七月六日 「胡桃。」


きみの手のなかのクルミ
  ──クルミのなかにいるぼく。

きみに軽く振られるだけで
  ──ぼくは、ころころ転げまわる。


二〇一五年七月七日 「月。」


月は夜
ぽつんとひとり
瞬いている。

だから
ぼくもひとり
見つめてあげる。


二〇一五年七月八日 「帽子。」


その帽子は、とっても大きかったから
ふわっと、かぶると、帽子だけになっちゃった。


二〇一五年七月九日 「風車。」


風を食らうのが、おいらの仕事だった。
うんと食らって、籾を搗くのが、おいらの仕事だった。

だれか、おいらの腕を、つないでくれねえかな。
そしたら、また働いてやれんのになあ。


二〇一五年七月十日 「3高。」


「そうね、結婚するんだったら、
ゼッタイ、高学歴、高収入、高身長の人とよね。
そのために、バッチシ、整形までしたんだからさあ。」

あなたの高慢がわたしの耳にはいったため、
わたしはあなたの鼻に輪をつけ、
あなたの口にくつわをはめて、
あなたをもときた道へ引きもどすであろう。
(列王紀下一九・二八)


二〇一五年七月十一日 「缶詰。」


缶詰のなかでなら、ぼくは思い切り泣けると思った。


二〇一五年七月十二日 「オイルサーディン悲歌。」


人生の旅の途中で
みなの行く道を行くわしは
気がついたとき
とあるイワシ網漁の
かぐらき網の目の中にいた。

捕えられたわしを待っていたのは
思いもかけぬ、むごたらしい運命であった。

多くの兄弟姉妹たちとともに
首を切り落とされ
ともに大鍋のなかで煮られて
油まみれの棺桶の中に
横に並べられ
重ねられ

されど
幸いなるかな、小さき者たちよ。
祈れば、たちまち
わしらは、光の中に投げ出されるのだ。

されど、覚悟せよ。
ふたたび火にかけられ
煮られることを。


二〇一五年七月十三日 「コアラのうんち。」


とってもかわいい コアラちゃん
のんびりびりびり コアラちゃん
ユーカリの お枝にとまって
ぶ〜らぶらん ぶ〜らぶらん

とってもかわいい コアラちゃん
うんち ぴっぴりぴ〜の コアラちゃん
まあるいお腹は 調子をくずして
ぴっぴりぴっ ぴっぴりぴっ

こっちを向いて ぶらさがる
ぶ〜らぶらん ぶ〜らぶらん
黄色いお水が お尻のさきから
ぴっぴりぴっ ぴっぴりぴっ

子どもが見てる 笑って見てる
ぴっぴりぴっ ぴっぴりぴっ
子どもが見てる 笑って見てる
ぴっぴりぴっ ぴっぴりぴっ


 2、30年くらいむかし、テレビのニュース番組で、動物園のコアラが、お腹をこわして下痢になった様子を放映していました。日本に来て間もなかったらしく、子どもたちの騒がしい声と、その無遠慮な視線にまだ慣れていなかったために神経症にかかった、と番組のなかで解説していました。


二〇一五年七月十四日 「へびのうんこ。」


へびって どんな うんこ するのかな
へびって どんな うんこ するのかな
まあるいの まんまる〜いの するのかな
ほおそいの ほそなが〜いの するのかな

いつか みた ぞうの うんこ ってね
ぼてっぼてっぼてって ぶっとくて まあるいの
おっきくって とおっても くっさ〜いの

へびって どんな うんこ するのかな
へびって どんな うんこ するのかな
まあるいの まんまる〜いの するのかな
ほおそいの ほそなが〜いの するのかな

いつか みた ねずみの うんこってね
まっくろけの ごはんつぶ みたいなの
ちっちゃくって とおっても くっさ〜いの

ねっ みてみたいでしょ へびの うんこ
ほおそ〜いのか まんまる〜いのか

ねっ みてみたいでしょ へびの うんこ
ほおそ〜いのか まんまる〜いのか


二〇一五年七月十五日 「シャボン玉。」


おおきなものも
                   ちいさなものも
       みなおなじ
                            たくさんの
   ぼくと
                 たくさんの
きみと
       くるくる
                             くるくると
                  うかんでは
かぜにとばされ
                          パチパチ
      パチパチと
                  はじけては
  きえていく
             たくさんの
                        ぼくと
たくさんの
          きみと
                    にじいろ
かがやく
たくさんの
              ぼくと
                       たくさんの
  きみと
          たくさんの
                     ぼくと
  たくさんの
             きみと
                       くるくる
     パチパチ
              くるくる
  パチパチ
         くるくる
                  パチパチ
 くるくる
           パチパチ


二〇一五年七月十六日 「あいつ。」


弥栄中学から醍醐中学へと
街中から田舎へと転校していった
二年のときの十一月。

こいつら、なんて田舎者なんだろうって。

女の子は頬っぺたを真っ赤にして
男の子は休み時間になると校庭に走り出て
制服が汚れるのも構わずに
走り回ってた。

補布(つぎ)のあたった学生服なんて
はじめて見るものだった。

やぼったい連中ばかりだった。

ぼくは連中のなかに溶け込めなかった。

越してきて
まだ一週間もしないとき
休み時間に、ぼくは机の上に顔を突っ伏した。
朝から熱っぽかったのだ。
帰るまでは
もつだろうって思っていたのに……

すると、そのとき、あいつが
ぼくを背中におぶって
保健室まで連れて行ってくれた。

どうして、あいつが、ぼくをおぶることになったのか
それはわからない。
ただ、あいつは、クラスのなかで、身体がいちばん大きかった。

でも、そんなことは、どうでもよくって
あいつが、ぼくをおぶって保健室に連れてってくれて
(保健室には、だれもいなかったから)
あいつが、ぼくをベッドに寝かしつけてくれて
ひと言、
「ぬくうしときや。」
って言ってくれて
先生を呼びに行ってくれた。

もう四十年以上もまえのことなのに
どうして、いまごろ、そんなことが思いだされるのだろう。
あいつの名前すら憶えていないのに。

(そういえば、あいつは、ぼくのことなんか、ちっとも
 知らなかったくせに、ほんとうに心配そうな顔をしてたっけ。)

もしも、ぼくが、そこで卒業してたら
卒業アルバムで、あいつの名前が知れたんだけど
ぼくは、また転校したから……

だけど
名前じゃなくって
あいつって呼んでる

そう呼びながら
あいつの顔を思い出すことが
気に入ってる。

そう呼びながら
そう呼んでる、その呼びかたが
気に入ってる自分がいる。

あれ以来
あいつのように
やさしく声をかけてくれるようなやつなんていなくって
ひとりもいなくって

ぼくは、それを思うと
あの束の間の田舎暮らしがなつかしい。
とてもなつかしい。

やぼったいけれど
とてもあたたかかった
あいつ。
あいつのこと。


二〇一五年七月十七日 「変身。」


 グレゴール・ザムザは、朝、目が覚めると、一匹の甲虫になっていた。ぼくは、この話を何十年もまえに読んでいた。それは、日本語でもなくって、ドイツ語でもなくって、英語で読んだのだった。自分が受験した関西大学工学部の英語の入試問題で読んだのだ。もちろん、そのときは、まだカフカの『変身』なんて知らなかったから、というか、文学作品なんてものを、国語の教科書以外で目にしたことがなかったから、変な話だなあと思いながら読んだのだった。でも、妹がリンゴを投げつけるところまで出てたんだから、あれはきっと、問題をつくったひとがまとめたものだったんだろう。それとも全文だったのだろうか。でも、あとで読んだ翻訳の分量を考えると、いくらなんでも全文ってことはないと思うんだけどね。まあ、いいか。あ、それで、ぼくが、なんで、こんな話からはじめたのかっていうと、受験生だったあのときに疑問に思ったことがあって、あとで翻訳で読んだときにも、やっぱり同じ疑問を感じちゃって、それについて書こうと思ってたんだけど、いったい、あのグレゴール・ザムザは、自分の意志で一匹の甲虫になっちゃんだろうか。それとも、自分の意志とはまったく無関係に一匹の甲虫になっちゃうんだろうか。はっきりとしない。無意識のうちに甲虫になることを願っていたっていう可能性もあるしね。
 でも、ぼくが、けさ目が覚めたときには、はっきりと、自分の意志で虫になりたいと思って、虫になったんだ。べつに頼まなくっても、妹はぼくにリンゴを投げつけてくれるだろうし、無視してくれたり、邪魔者あつかいしてくれる両親もいる。ぶはっ。いま思ったんだけど、投げつける果物がリンゴっていいね。知恵の木の実だよ。ところで、ぼくが目を覚ましたときには、家族はまだだれも起きてはいなかった。五時をすこし回ったところだった。朝に弱いうちの家族は、みなだれもまだ起きてはいなかったのだ。まあ、なにしろ、五時ちょっとだしね。ぼくは、近所のファミリー・マートに行って、スティック糊をあるだけぜんぶ買って帰ってきた。ちょうど10本だった。部屋に戻ると、本棚にある本をビリビリと破いていった。ビリビリに破いて、くしゃくしゃにして、買ってきたスティック糊でくっつけていった。裸になったぼくを中心にして、まずは筒状にしていった。それからあいてるところにもくしゃくしゃにした紙を貼り付けていった。まるで鞘に入ったミノムシのようにして横たわった。だけど、すぐに息苦しくなったから、顔のまえのところを少しだけ破いた。息ができるようになって安心した。安心したら、眠くなってきちゃって、ああ、二度寝しちゃうかもしれないなあって思った。だけど、虫って、どんな夢を見るんだろうね。

二〇一五年七月十八日 「森のシンフォニー。」


ぼくには見える。
ぼくには聴こえる。
ぼくには感じることができる。
だれが指揮するわけじゃないけれど
葉から葉へ、葉から葉へと
睦み合いながら零れ落ちていく
光と露のしずくの響きが
風の手に揺さぶられ、揺さぶられて
枝の手から引き剥がされ落ちていく幾枚もの葉っぱたち。
水面に吸い寄せられた幾枚もの葉っぱたち。
自らの姿に引き寄せられて
くるくると、くるくると
舞い降りていく。
幾枚もの葉っぱたちの響きが
小さな波をいくつもこしらえて
つぎつぎといくつもの同心円を描いていく
揺れる葉っぱたち、震える水面。
樹上を、なにかが動いた。
羽ばたいた。
葉ずれ、羽ばたき、羽ばたく音が
遠ざかる。
遠ざかる。
なにかが水面を跳ねた。
沈んだ。
消えた。
消え失せた。
なにかが草のうえに落ちた。
擦った。
走った。
走り去っていった。
ぼくには見える。
ぼくには聴こえる。
ぼくには感じることができる。
だれが指揮するわけじゃないけれど
ここに、こうして立っていると
はじまるのだ。
森のシンフォニーが。


二〇一五年七月十九日 「輪ゴム。」


輪ゴムが、ひとつ、落ちてた。

白い道、
アスファルト・コンクリート、の、上に。

輪ゴムが、ひとつ、落ちてた。

夏の、きつい、あつさに
くっ、くっ、くねっと、身を、ねじらせて、

輪ゴムが、ひとつ、落ちてた。

ぼ、ぼく、じっと見てたら、
なんだか、悲しくなって、涙が、出てきちゃった。


二〇一五年七月二十日 「タンポポ。」


わたしを摘むのは だれ
やわらかな手 小さくて かわいらしい
こどもの手 こどもたちよ

わたしは 野に咲く タンポポ
どこにでも 咲いています

たとえば 薔薇のように
かぐわしい香りを
放つことをしません

たとえば ユリのように
見目麗しき女性に
たとえられることもありません

けれど わたしを摘むのは 
やわらかな手 小さくて かわいらしい
こどもの手 こどもたちよ

わたしは 野に咲く タンポポ
どこにでも 咲いています

たとえば 夕間暮れ
駅からの帰り道
数多くの疲れた目が
わたしのうえに休んでいきます

たとえば 街路樹の根元
信号待ちで 立ちどまったベビー・カー
無情のよろこびに目を輝かせて
幼な児が手をのばします

わたしは 野に咲く タンポポ
どこにでも 咲いています

わたしを摘むのは やさしい手
小さくて かわいらしい こどもの手

こどもたちよ
わたしを摘みなさい

こどもたちよ
わたしを摘みなさい


二〇一五年七月二十一日 「裸木。」


「あら、裸木(らぎ)?
 それとも、裸(ら)木(ぼく)?」

──裸(はだか)木(ぎ)。

それは、ただいちまいの葉さえまとうことなく立ち尽くしている。

されど
豊かである。

たとえ、いまは裸でも。

陽の光を全身にあびて、深く長い呼吸をしているのだ。

いつの日か
角ぐみ芽ぶくために。

俺も裸だ。

俺にはなにもない。

されど
豊かである。

まことに豊かである。

俺の胸のなかは、おまえを思う気持ちに満ちている。

おまえを思う気持でいっぱいだ。

春になったら
いっしょになろう。


二〇一五年七月二十二日 「片角の鹿。」


ずいぶんと、むかしのことなんですね。
ぼくが、まだ手を引かれて歩いていた頃に
あなたが、建仁寺の境内で
祖母に連れられた、ぼくを待っていたのは。

ひとつづきの敷石は、ところどころ縁が欠け、
そばには、白い花を落とした垣根が立ち並び、
板石の端を踏んではつまずく、ぼくの姿は
腰折れた祖母より頭ふたつ小さかったと。

その日、祖母のしわんだ細い指から
やわらかく、小さかったぼくの手のひらを
あなたは、どんな思いで手にしたのでしょう。

ひとに見つめられれば、笑顔を向けたあの頃に
ぼくは笑って、あなたの顔を見上げたでしょうか。
そのとき、あなたは、どんな顔をしてみせてくれたのでしょうか。

二十歳になったとき、父の許しが出て、実母に会うことができ、幼児のときに建仁寺の境内で会った話を聞かされました。
幼いころ、祖母に連れられて、岡崎の動物園に行ったとき、鹿園で、一つしかない角を振り上げて、他の鹿と戦っている鹿を目にして、なにかとても重たいものが、胸のなかに吊り下がるような思いをしたことがありました。いま考えますと、そのときの鹿の姿を自分の境遇と、自分の境遇がそうであるとは知らないまでも、こころの奥底では感じ取って、重ねていたのではないかと思われます。


二〇一五年七月二十三日 「打網。」


まだ上がってこない。
網裾が、岩の角か、なにかに引っかかっているのだろう。
父の息は長い、あきれるほどに長い。
ぼくは、父の姿が現われるのを待ちながら
バケツのなかからゴリをとって
小枝の先を目に突き入れてやった。
父が獲った魚だ。
父の頭が川面から突き出た。
と思ったら、また潜った。
岩の尖りか、やっかいな針金にでも引っかかっているのだろう。
何度も顔を上げては、父はふたたび水のなかに潜っていった。
生きている魚はきれいだった。
ぼくはいい子だったから
魚獲りが大嫌いだなんて、一度も言わなかった。
ゴリはまだ生きていた。
もしも網が破けてなかったら
団栗橋から葵橋まで
また、鴨川に沿って、ついて行かなくちゃならない。
こんなに夜遅く
友だちは、みんな、もうとっくに眠ってる時間なのに。
宿題もまだやってなかった。
風が冷たい。
父はまだ潜ったままだ。
ぼくは拳よりも大きな石を拾って
魚の頭をつぶした。
父はまだ顔を上げない。
ぼくは川面を見つめた。
川面に落ちた月の光がとてもきれいだった。
うっとりとするくらいきれいだった。
ぼくはこころのなかで思った。
いっそうのこと
父の顔がいつまでも上がらなければいい
と。


二〇一五年七月二十四日 「弟。」


 齢の離れた末の弟が大学受験をする齢になりました。十八才になったのです。いまでも頬は紅くふくれていますが、幼いころは、ほんとうにリンゴのように真っ赤になってふくらんでいました。とてもかわいらしかったのです。
 ある日、近所の餅屋に赤飯を買いに行かせられました。ぼくはまだ小学生でした。四年生のときのことだったと思います。なにかのお祝いだったのでしょう。なんのお祝いかは、おぼえていません。顔なじみの餅屋のおばさんが、ぼくの目を食い入るようにして見つめながら、「ぼん、あんたんとこのお母さん、ほんまは、あんたのお母さんと違うねんよ。知ってたかい?」と言ってきました。ぼくは返事ができませんでした。黙って、お金を渡して、品物と釣り銭を受け取りました。
 家に帰って、買ってきたものと、お釣りをテーブルのうえに置くと、ぼくはさっさと自分の部屋に戻りました。
 その晩、ささいなことで母にきつく叱られたぼくは、まだ赤ん坊だった弟を自分の部屋であやしているときに、とつぜん、魔が差したのでしょう、机のうえにあった電灯の笠をはずして、裸になった白熱電球を弟のおでこにくっつけました。弟は大声で泣き叫びました。そのおでこの赤くふくれたところに、たちまち銀色の細かい皺ができていきました。あわてて電球に笠をかぶせて元に戻すと、ふたたび、ぼくは弟をあやしました。台所にいたお手伝いのおばさんが、弟の声に驚いて、ぼくの部屋にやってきました。あやしているときに畳でおでこをこすってしまったと嘘をつきました。お手伝いのおばさんは、オロナイン軟膏を持ってきて、弟のおでこに塗りました。おばさんの指がおでこに触れると、痛がって、弟はさらに激しく泣きました。
 いまはもうその火傷の痕はあまり目立ちません。目を凝らしてよく見ないと、ほんの少しだけまわりの皮膚よりも皺が多いということはわからないでしょう。でも、ぼくには見えます。はっきりと、くっきりと見えるのです。弟と話をするときに、知らず識らずのうちに、ぼくは、目をそこへやってしまいます。
 自分を罰するために? それとも自分を赦すために?

誰に向かってお前は嘆こうとするのか 心よ
(リルケ『嘆き』富士川英郎訳)


二〇一五年七月二十五日 「青年。」


 沖縄から上京してきたばかりというその青年は、サングラスをかけて坐っていた。父は、彼にそれを外すように言った。青年はテーブルのうえにそれを置いた。父は、青年の目を見た。沖縄からいっしょに出て来たという連れの男が、父の顔を見つめた。ぼくはお茶を運んだ。父は、青年にサングラスをかけ直すように言い、採用はできないと告げて、二人を帰らせた。
 ぼくは、父のことを、なんて残酷な人間なんだろうと思った。鬼のような人間だと思った。そのときのぼくには、そう思えた。後年になって思い返してみると、父の振る舞いが、それほど無慈悲なものではないということに、少なくとも、世間並みの無慈悲さしか持ち合わせていなかったということに気がついた。なんといっても、うちは客商売をしていたのだ。そして、同時に、ぼくは、そのとき、その青年の片方の目の、眼窩のくぼみを、なぜ、目のあるべき場所に目がないのかという単なる興味からだけではなく、自分にはふつうに見える二つの目があるのだという優越感の混じった卑しいこころ持ちでもって見つめていたことに、そのくぼみのように暗い静かなその青年の物腰から想像される彼の歩んできた人生に対しての、ちょっとした好奇心でもって見つめていたことに気がついたのである。振り返ると、いたたまれない気持ちになる。
 おそらく、父の視線よりも、ぼくのものの方が、ずっと冷たいものであったに違いない。


二〇一五年七月二十六日 「息の数。」


 眠るきみの頬の辺(べ)、ぼくがこんなに見つめているのに。ただ息をして、じっと眠りつづけている。でも、ぼくはしあわせで、きみの息の匂いをかいでいたいた。楽園の果実のような香りを食べていた。きみの吐く息と、ぼくの吸う息。きみの吐く息と、ぼくの吸う息。きみの吐く息を吸うぼく。きみの吐く息を吸うぼく。きみとぼくが、ひとつの息でつながっている。きみの息の甘い香りをいつまでもかいでいたい。きみをずっと食べていたい。いつまでも、いつまでも、こうして、ぼくのそばで眠りつづけてほしい。きみの口の辺りの、垂れ落ちたよだれに唇を近づけて。そっと吸ってみると、ぼくの唇の敏感な粘膜部分に、きみの無精ひげがあたって、こそばゆかった。こそばゆかったけど、気持ちよかった。触りごこちよかった。眉毛がかすかに動いた。醒めてるのかな。まだ眠っているのかな。わからない。わからないから、わからないままに、きみの息の数を数えることにした。でも、いったい、息の数って、どう数えるんだろうか。吸う息と吐く息をひと組にして、合わせてひとつとして数えるんだろうか。それとも、吐く息と吸う息を別々にひとつずつ数えるんだろうか。呼吸って言うくらいだから、息の数は、たぶん、吐く息と吸う息のひと組で、ひとつなんだろう。まあ、いずれにしても、どちらかひとつの方を数えればいいかな。ところで、生まれたばかりの赤ん坊って、はじめて泣き声をあげるまえに、そのからっぽの肺のなかに空気を導き入れるっていうから、息のはじめは吸う息ってことになるかな。じゃあ、死ぬときは、どうなんだろう。息を引き取るって言うけど、この引き取るって言うのは、死ぬひとの側からの言葉なんだろうか。それとも、死ぬひとのまわりにいるひとの側からの言葉なんだろうか。ひとの最期って、息を吐いて死ぬのだろうか、それとも、息を吸って死ぬのだろうか。最後のひと吐きか、最後のひと吸いか。うううん。どうなんだろう。なんら、科学的な根拠があるわけではないけれど、ぼくは、最後のひと吐きのような気がするなあ。うん、そうだ。息を引き取るっていうのは、最後のひと吐きの息を、神さまが引き取ってくださるって意味なんじゃないかな。そういえば、人間がさいしょに吸う息って、神さまが吹き込んでくださった息のことだろうしね。違うかな。いや、そうにきまってる。ぼくたちは、神さまの息を吸って、神さまの息を吐いて生きているのだ。神さまを食べて生きているのだ。と、こう考えると、なぜだか、ほっとするところがある。うん。とか、なんとか考えてると、きみの息の数を数えるのを忘れちゃってたよ。数えてみようかな。いや、ぼくももう眠くなってきちゃったよ。きみの息の数を数えようとしたら、きみの息の香りを食べようとしたら、なんだか、うとうとしちゃって、もう、だめだ、寝ちゃうよ、……


二〇一五年七月二十七日 「湖面の揺らめき、
               その小さな揺らめきにさえ、
                 一枚の葉は……」


日の暮れて
小舟のそばに浮かぶ
ぼくの死体よ。

山陰に沈み、重たく沈む
冬にしばられた故郷の湖水よ。

湖面に落ちた一枚の葉が
その揺らめきに舞いはじめる。
その小さな、ちいさな揺らめきにさえ
揺うられゆられている。

湖水は冷たかった。
 その水は苦かった。

いままた、一枚の葉が
山間(やまあい)から吹きおろす風に連れられて
くるくると、くるくると、螺旋に舞いながら
湖面に映った自身の姿に吸い寄せられて。

それは、小舟と、ぼくの死体のあいだに舞い落ちた。

水のなかで揺れる水草のように
手をあげてゆらゆらと揺れる
湖底に沈んだたくさんのひとびと。
そこには父がいた、母がいた、祖母がいた、
生まれそこなったえび足の妹がいた。

風が吹くまえに
ぼくの死体は、ぼくの似姿に引き寄せられて
ゆっくりと沈んでいった。

湖面に張りついた一枚の葉が
──静かに舞いはじめた。

蒼白な月が、一隻の小舟を、じっと見つめていた──


二〇一五年七月二十八日 「思い出。」


振り返ってはいけないと
あなたはおっしゃいました。

顧みてはならないと
あなたはおっしゃいました。

でも振り返らずにはいられないでしょう。
でも顧みずにはいられないでしょう。

あなたも、わたしも
わたしたちのふたりの娘も、みな
あの町で生まれ、あの町で育ちました。

ところが、あなたは
わたしたちに、あの町を捨てていこうと
思い出を捨てていこうと言われました。

いったい
あのふたりの男たちは何者なのですか。
主なる神のみ使いだと称するあの二人の男たちは。

いったい
どうしてわたしたちが街を捨てて
出て行かなければならないのですか。

あのひとたちの言うとおり
主が、あのソドムの町のうえに
ほんとうに火と硫黄を振らせられるのでしょうか。

あなたは忘れたのですか。
わたしたちのこれまでの暮らしぶりを。
わたしたち家族の暮らしぶりを。

主の目に正しい行いをし
正直に真面目に暮らしてきたわたしたちなのですよ。
なぜ、逃れなければならないのでしょう。

ロトよ。
わたしには忘れることができません。
ぜったいに、わたしには忘れることなどできません。

こうして、あのひとたちの言うとおり
あの町を捨てて、出てきたわたしたちですが

振り返り、顧みることが
なぜ、禁じられなければならないのでしょう。

わたしは振り返ることでしょう。
きっと顧みることでしょう。

たとえ、この身が塩の柱となろうとも
振り返り、顧みずにはいられないでしょう。

たとえ、この身が塩のはっ……


二〇一五年七月二十九日 「うんち。」


  中也さん、ごめんなちゃい。

ホラホラ、これがわしのうんちだ、
きばっている時の苦痛にみちた
このきたならしいジジイの肛門を通って、
ものすっごい臭気をともないながら
ヌルッと出た、うんちの尖端(さき)。

これでしまいじゃないぞ、
まだまだつづく、
臭気を放つ、
鼻を曲げる、
おまるからこぼれる。

きばっていた時に、
これが食堂にいるみんなに、
興を添えたこともある、
みつばのおしたしを食ってた時もあった、
と思えばなんとも可笑しい。

ホラホラ、これがわしのうんち──
捨ててくれるのはいつ? 可笑しなことだ。
あふれ出るまで待って、
また、うんちたれだと言って、
なじるのかしら?

そして裏手の疎水べりに、
あの大型ゴミ捨て場に
捨てられるのは、──わし?
ちょうど尻たぶの高さに、
うんちがひたひたにたっしている。


二〇一五年七月三十日 「遺伝。」


  会田綱雄先生、ごめんなちゃい。

湯舟から
ハゲが這いあがってくると
わたしたちはそれが腰かけて
身体を洗って
ひげを剃り
そのツルツル頭を洗うのを見る

ハゲでもシャンプーを使うのだ

身体だけはへんに毛深くて
毛の生えた十本の指で
頭を搔きむしりながら
ハゲは泡となり
わたくしたちはひそかに嘲笑し
湯舟のなかで
楽しく時を過ごさせてもらう

ここは銭湯であり
湯舟はひろく
わたくしたちきょうだいの家からそう遠からぬ

代々ハゲにならないわたくしたちは
わたくしたちのちちそふの面影を
くりかえし
くりかえし
わたしたちのこどもにつたえる
わたくしたちのちちそふも
わたくしたちのように
この銭湯でハゲを見て
湯舟のなかで
ひそかに嘲笑し
わたくしたちのように
楽しく時を過ごしたのだった

わたくしたちはいつまでも
わたくしたちのちちそふのように
黒々とした美しい髪の毛を
ふさふさと
ふさふさとさせるだろう

そしてわたくしたちの美しい髪の毛を
ハゲは羨望の眼差しで見つめるのだろう
むかし
わたくしたちのちちそふの美しい髪の毛を
羨望の眼差しで見つめたように

それはわたくしたちの快感である

よる寝るまえに
わたくしたちは鏡をとって
頭をうつす
頭のうえはふさふさとして
わたくしたちはほほえみながら
てをのばし
くしをとり
髪をすきあう


二〇一五年七月三十一日 「さんたんたる彼処(あそこ)。」


    へんなオジンが俺を見つめてる。    リルケ
              (なあんて、うそ、うそ、うそだぴょ〜ん。)

  村野四郎先生、ごめんなちゃい。

ズボンのまえに手をかけられ
ジッパーを下ろされた
ポルノ映画館のなかの
うすぐらい後部座席
こいつは いったいなんなんだ

見知らぬオジンが寄ってきて
さわりまくり いじりまくって
シコシコシコシコやってくれる この現実
しまいには ブリーフも下ろされて
歯のない口で フェラチオされて
うっ でっ でるっ

なんにも知らない俺の連れが
やっと トイレから戻ってきた
オジンがひょいと席をかわった


農夫

  オダカズヒコ




春になって
おれは新しいゴム長靴を買った
大原の奥の苑で
鍬とスコップとトラクターとを操り
内部に犬の見える
ガラス製の畑に
鍬をくい込ませ

おれはその上にまたがり
力いっぱい
お前を抱きしめるのだ

女よ
おれは貧しさを求めている
海のように孤独で懐かしいものをだ
女よ
おれはお前を抱いているが違う

病んでいる犬に
新しい胴体を与え
鳴かせているのだ
ヴーとかハーとか
獣の痛恨を語らせているのだ
わかるか
女よ

春には種をまく
土は執着のものだ
踏みにじれ激しく
故郷の言葉で
研げる復讐の言葉で空虚感から叫べ
自我という鈍器で
鳴らせない音はないのだ

ロボットが喪失してしまったものはモラルではない
さめざめと泣く女
お前だ
お前の顔の
レリーフのような窪みだ
わかるか女よ

おれは意識によって構成された
悲しい物体を
いま肉体と呼ぶ
道頓堀の橋の上から
細胞が永久の無となる一瞬を死と呼んだりはしない
男の黒いコートの下に隠れている虚ろを信じてみたいのだ

春を
秒針で時間を狂わせる化け物のように見て
コンクリートを
今できたばかりの文明の発明品のように愛で
茶店で紅茶に砂糖を溶かせていくおれの指先は
さっきまで
激しくお前を抱いていたおれの
虚無はどこにもない

ただあるのは

無頼で監獄を破り
有刺鉄線の
非常線の向こう側へ渡った
冒涜を知ったばかりの
お前だ


図形

  Migikata

 飛び散らかる腸を腹の裂け目から戻そうとして、かき集めていた人のこと。
 その人のことを戦争体験者の手記で読んだ。それが忘れられないまま、十数年を過ごした。
 今日は十月二十七日。何の日でもない。広大な時空間に穿たれた任意の一点としての十月二十七日、ここ。起伏のない平野の町、町のホームセンターの駐車場のはずれ。大看板の下、セールの幟の列の横。空を仰ぐと、遠い山脈の裾を下り、雨雲が低く、なお低く近づいてくる。早い。
 タンスの抽斗から溢れるシャツのために、収納ボックスを買いに来た。買わなければ。そうするつもりで大きく開口した店の入り口、ガラス扉へ向けて歩いている。

 そのとき雷光が雲の一角で静かに光を放ち、天上と地上のあり得べからざるものが唐突に照らし出されたのだった。ここの総ては、つまり、あり得べからざるもの。

 湿気た空気の塊が肩を並べて両脇に立つ。視界の中を、ごく小さな蟻の列が、奇妙なほどにゆっくり、通り過ぎようとしている。そして草。アスファルトの裂け目の草。こぼれ出た小石。
 視界を百台ほどの車が取り巻いており、人の気配が何もない。あらゆるものが何かの予兆であるにも関わらず、この先何も起こらないことはわかっている。
 
 すべてはもう起こってしまった。

 今ここは、そのはるか後の時間に位置している。列を作るごく小さな蟻よりも、さらに小さなキューブで構成された、密度の薄い世界が遠くまで広がっている。

 行かなければ。ホームセンターではない場所へ行く。
 だが。
 引き戻されるのだ。世の人は皆、戦場へと。あの、腸をかき集めていた臨終のときに。
 夢でいい、平穏な生活に身を置きたい。そう思った死に際に見せられた今という夢。夢のこの日に、やがて目覚めの時がやって来るだろう。

 その時。のたうち回る戦死者を、つまり我々の最期を、見届ける者がいる。両目が大きく開いている。硝煙にむせながら、メモ帳を取り出す。何かの言語を記す。何かの絵も書き添えるか知れない。

 簡単で不正確な線描だ。

 メモ帳は泥と手垢にまみれている。別の何かに変質している。彼はそれを上着のポケットにねじ込む。やがて歩き始める。
 時間とモノが織りなす非連続的な階調の変化。「歩く」とは彼にとって、そこをあてどもなく漂流することだ。彼は湿気た空気の塊として認識される。だが、漂着したところに、ひとつの次元が創設され、そこにひとつの手記が残されるはずだ。

 彼は我々とは違う。薄い布団にくるまり、夜の寒さを凌ぎながら、退屈な手順でさして快感も伴わぬセックスをし、愛憎の絡み合った子を成し、愛憎の絡み合った育児を成し遂げ、財産を譲って死ぬ。それが彼の為すべきことだ。

 世界は大きく変わる。

 発光からしばらく遅れ、駐車場に雷鳴が轟く。車と車の間に、無数の空気の塊が立ち上がり、ゆらゆらと揺れ始める。
 雷鳴と重なり聞こえにくかったが、合成音声のような声が、
「わたくしたちはみな不死身です」
とアナウンスしていた。そんなことはわかっている。不死身とは、一瞬を永遠として捉える特殊能力に過ぎない。

 頭が痛い。裂けた腹が猛烈に痛い。喉を吹きこぼれる血塊が塞ぎ、悲鳴が上がらない。呼吸も出来ない。何も考えられず目を剥く。黄色く変色した空、牛丼の「すき屋」の建物のやや左。そこに、ひとつだけ赤い星が灯る。

 星の形が不等辺七角形だ。


緋を撒く鳩卵に係る鉛球の死、それら苦艾に附いて

  鷹枕可

――
言葉が嘱目を遁れる、瓦礫の鳥瞰図の様に
                 ――
      *

閉塞の蒼顔が燃焼室にガラス片の祈念を唾する
肺腑の市庁舎前には幌附自動車の、受話器の、蝋管の隠喩が新しく刷られ、錆朽ちて以後始めて破綻を赦された

浅橋桁にチェロの屍骸が舫いながら、水滴の絃を振り翳した
洗面器には三人目の姉妹の頬白い刎首が置かれた

磔刑像を遠く潜望鏡に泛べながら、二十一世紀は酸素罐の気泡を畏敬する蜘蛛の花を置いた
飛躍の無い四大季節、
近代建築家は
滂沱するアルミニウムの夜に積る煤煙の円筒を辺縁に、
歯茎の潤滑液を航海する輸血車輌を採算に宛てたが、
煙草の葉、或は樹脂は
セロファンの侮蔑を灌漑塩湖の死以降である食卓に縹渺と展開をした

      *

――
即物が抽象を遁れる、植物写真家の幾多の指列の様に
                      ――

褪色の雪柳花は瞼の幾何学の残影に
仕事台の焼鏝と、
砂糖漬の
膵臓腑に添えた漿果、迄を被殻に泛ばしめ乍
冬薔薇の主題に拠る
円筒形歌劇の燦爛を嘲笑っていた
眼が禽を追随する様に
或は施錠された
禽舎錆鉛の
格子戸は
水銀液に熔融されたエスキスを起草した
眼はつまり散開を、
若葉色に
蜻蛉の悉く白い唇舌として記述するであろうが
彼等抑留者は、
酸い青紫陽花を、
人間像を咀嚼するべき歯肉より取除いた

倦厭と陰鬱に拠る手仕事は
洞窟修道院の以降、
悔悟する
巨躯の鍾乳円錐形の静置切窓、
その衣類は
凡庸な駅舎広場の凋落でもあった
閑散たる群像に結膜の繊維組織を捩り
黒蝶の被覆された五指は
瓦斯管の塩粒程の堕落は
果して、
死後の精神的存続を絶無へと復すか、

石炭燃焼室と塑像の、つまり
痰壺の房事
真鍮歯車は即物網膜を裂罅の緞帳へ隠匿した
瑠璃青は
死者の様に聖母子像に腐蝕を及ぼし
又、眼球の部屋は
濁流の
既製剥製美術の驚愕へ
一擲程の価値をも否認した
二十世紀は煤煙の第六天体、斯く印象を場所さえも勿く
橄欖色と書簡に移譲し
些末な骨盤骨は
静物の蝶翅であった

巨躯の銅球、
地球儀には盲目の類型が紡錘車を廻し
火薬の趨趨たる沓音は
些かも新聞紙のインクを固着し得ない、
眼底を奔逸する、
彼等の緘黙は
夜々の機械工場に人物的影像を展開するだろう
菱花鏡の口唇は喃語に欹てられ、
蝸牛は粘膜の器官に
包装材の美術に葬礼を執り行うだろう

運命は、死であり
過程は、苦悩の頤を懐疑した

見よ、汝汚濁の神経樹を、

すなわち透澄なゼラチンの血塊が、
総ての咽喉骨を
間断勿く呵責する死海の乾板写真より裂断し、縫綴じる時刻、
亜鉛緑礬に縁る秘跡の懸架を、
抑留の眼へ眼を以て、
復讐の指勿き復讐の様に、科す

      *

――
印象が物象を遁れる、間歇噴泉の様に
               ――

製図の薔薇が硬く、建築家の扁桃腺にアダム氏の眼底骨を投射している、
  鏡の死は鏡を遁れる事は叶わず
    総ての棗樹の影像が貴方たちを愛している訳ではない
  翼の容の花々に
    眼が開戸の死者を燈す様に、
        書簡は鳩の一週間を蹴り遣ったが、凡ての壜乾燥器は緩やかに旋回するべきであり
      彼等の存続は矮小な些事に過ぎず
   一擲の橄欖実は錫の罪科を、のみならず乾花の砂糖へ換骨するに留まらず、
     瓦解した筈であった
        天堂球体に磔像の売却許諾書を認めた、
  それら彼此とも勿く、
 喚き嘆く奴婢や、端正な胸像群に於ける模倣の起源は話言葉の端著な蠅の棲処であり、
   アダム氏の眼窩には
     血盟聖書に基づく卑俗的存在者への呵責が
    聳える水煙の間歇泉の様に傾聴に組織化さるべき群衆を離散せしめた
  拡声器には安易な私語が在り、静穏には瞬膜が在り、
       実存の確かな絶無が
   彼等の襟頚の釦を翳し、逆円錐の建築はペルシャザルの死と等しく、
     曇窓に指されるだろうか

      *

――
条理が条理を覆した、樹々の様に
             ――

鍾舌の確実な悔恨は、
  彼等越境者が死の臨床に安寧を仰臥せしめたことであったが
 それすらも辺縁を置く、
   檸檬の炸薬や、菱の鉄槌に縋る殉教徒達の精神を鵜呑みにはしなかったであろう
       喘息の磨硝子は隔絶された、
  柩の純全たる疱瘡、それらの被膜に拠って
          機械的な聖像礼拝は、又、機械的な破壊者達に縁り批難され、
   潰滅に晒された者達、
      焼夷爆撃機の花束に葬婚の容貌を投影する様に、
        死期は窓を叩き、誕生花は尚も翰墨に在り、麦熟時の髄に有らんとする
     肉叢の眼はすなわち血の鉱脈に凝縮した
  萵苣の裂断を夥多な坩堝群の鉛液に混濁せしめつつ、
          腿の鬱蒼鏡に彼等の醜怪且つ優美な観察眼を投影した
              正義とは趨勢の一過であり、悪は人物像に於いての現実であった
         揺籃期への物象、
   つまり組織繊維の神経は雲迄をも攫む下腕の剰余な俘虜を蔑視し、
      刎頚は青草色の、蛾蘭の茎を吐露したが
 気圏は既に蕨と薇の刎頚を拒み創めていたゆえに、舞踏の両脚は弧線を画かず、
    各世紀を跨ぐ国家論は、
         今絶えた鹹い灌漑の沃野に過ぎない、
            そして亡命者達は夜々の鱗茎蝶を壜詰の真鍮螺旋の器官に、鏡の投身を遂せたのか

      *

――
迷宮建築家の胸倉には砂鉄の聖母が指する既製の薬籠棚が在り、地下霊安所の白熱燈が網膜的即物を謳う
     それらは純粋な緋色の鳩卵である
                  ――


未、未成年の詩

  泥棒




あなたが
手のひらに海をつくる
わたしは
迷わず魚になる
夕方からは
豪雨になるから
花々は
その前に閉じてゆく
わ、わたしは
それを
ゆっくり
こじ開けてゆく
その時のわたしは
魚ではない
きっと
夜の街で
死にかけている
17才



部活帰りの少女たち
コンビニ前は
春の極景
夕方5時から6時までの
巨大な比喩に
誰も気がつかないまま
次々と
ペットボトルは潰されて
誰も主役ではないまま
信号機だけが
規則正しい
ギブスをしたひとりの少女が
ひっそりと
主役になる夕方の終わり
自転車の電気が
揺れながら
消えてゆく先に
それぞれの
物語があるから
そこで
みんな主役になる
ギブスの少女だけが
ここで
このコンビニ前で
朝をむかえる
今日は
ギ、ギブスの少女だけが
17才



死ね、
その言葉だけでつくられた
高層ビルがある
この街は
見上げた場所に
赤い光が
たくさんある
星は
自分でつくらなければならない
それを
集合住宅のように
夜空の
あらゆるところに
できるだけ集め
星座をつくれ
き、きみだけの星座をつくれ
大人になったら
もう
二度とはつくれないよ
まして
詩なんか
いつか書けなくなるかもよ
17才



街が斜めに見えるなら
君は
できるだけはやく
飛べるようになった方がいい
それ以外は
何もできなくていいし
何も知らなくていいし
世界とか
関係ないし
鳥は
青空に
青空そのものになりたくて
でもなれなくて
花になったと
仕方なく花になったと
風のうわさで聞きました
海が
どこにもない
陸も
ひとつもない地図を見て
何か書かなければならない
き、きれいな何かを
書かなければならない
そんな日が
いつかくるよ
17才


#09

  田中恭平

 
百円ライター・
アグニの神を懐に
十四枚の舌で
十四本の煙草を喫った日
火は冷えびえ
白い四角形の隅の所定に私


デカルトじみた硬い眼が
あなたは機械であるという
背骨は
痛みつつ黙す 
吠える者は弱いものだけ
私は弱いが 
猛々しくもダンボール箱を壊しつづけ
つづけるに奥歯へ身を委ね
定刻まで身を崩さず運べ
AからBへ 
BからA’へ 
妙味のない水はながされた


米粒が 
米粒を勘定していた 
そこに米粒は自分を入れた
てのひらが
米粒でいっぱいになった
午後の天気はライス・シャワーになるでしょう
落ちるまでそれは花であって 
落ちたら塵であった
火と水と 
それから米粒と 
血管へカリフォルニアの風が吹く
それは人が言っていた 
カリフォルニアには風が吹くんだよ
私は頷いたけれど
わからないまま運びつづけた
A’からB’へ 
B’からA’’へ 
妙味のない水はながされた


六本百円の棒パンをすべて頂き 
嬉しくなるのは舌先だけ
富士の山を見ていた 
直線の光は眼で少し歪んだ
アグニの神をカチカチ鳴らす 
傍で真剣なはなしがされて
私はシャッターを切ったが 
真剣なはなしが感光しない
リーは行かなければならない 
私はリーを知らない
ボロボロのジーンズで
枯木の林を真っ直ぐに
リーは富士の山へ向かう
私はリーを知らなかった
リーはガソリンをかぶって燃えたと 
会議室のテレビが伝えた


祝祭 がはじまった 
リーがアグニの神より天へおくられ
だから妙味ある水がたらふく獲れた 
ライス・シャワーがふって
ふりつづいて
私はさいわいであったが
おかしかったのは風のこと 
しかし望まれた風でしょう
私はB’’からA’’’へ  
花は塵になった


仕事が終わった 
アンフェタミンを夕日が誘っていたから
鐘の音を知る前に 
私はわかっていた
揺りカゴの車で東名高速を運ばれていった
見えた多くは機械であった
私はグッタリして
シートに身を委ねようと 
アグニの神がポケットから落ちてしまった
 
 


空き家

  オダカズヒコ



古い空き家で
鉄錆びた
ぜんまいの音のする
陸亀を模した柱時計を見ていた

ぼくはそこで
海辺にせり出したデッキに
籐椅子に座って
編み物をする
老婆の姿を想像してみる

白く突き刺さった
漆喰の陰に
記憶の分裂した時間が写し出す
空にも溢れ出していくように
彼女もそこに居た

こうして地上の滅んだあとに
ぼくの愛した恋人は
いったい何者だったのかと問う
ぼくを騙そうとしていた
彼女の眼と
もう少し眺めていたい世界の
景色とが重なる

人間はもう
化け物になっちまったよと
彼女に言う

変なことを言う人ねと
少し眉をひそめ
悲しそうにつぶやく彼女の感情が
ぼくを支える
唯一のものとなる

彼女の悲しみを通して
ぼくはいま世界と繋がっている
きっとそれは無限よりもまだ遥かに大きい
果てなき大きさだろう

ぼくもきっと群衆の中の孤独の一つだ
死にゆく命に憤ったりはしない
裏町にある恋に
花と咲き
実と狂う
そんな野草の習性に
ただ身を寄せている


  zero

風が大気を弦のように鳴らしている
あるいは木管のように
この大気圏という巨大な楽器を吹き鳴らすのは
人間の息ではなく大風や大嵐である
天上の音楽とはあるいは
宇宙線が宇宙空間を吹き鳴らす音なのかもしれない

風が無垢な衝動を募らせている
衝動以前の衝動を生むもの
それが風であり
衝動が解放されるとき
風はぴたりとやむ
風によって昂ぶった大気圏は
その溜め込んだ衝動をもとに
今にも地上を破壊しようとしている

風に始まりはなく
風に終わりはない
風はどこまでも解釈され
どこまでも翻訳される
大気圏の風は人の内側を流れる気流として
人の精神を少しずつ育み
人もまたたくさんの風を吹かせる
何気ない勇気や慈しみ
その捧げられた手には風が吹いている


流星

  本田憲嵩

湿った黒髪の纏わりつく夜
子供のように無邪気な指先
で確かめる暗がりのなか憂
欝な鏡面のように光る素裸
のゼラチン質、顔を埋めて
息も絶え絶えに幾度となく
試みられる潜水、ふと見上
げれば目も眩むばかりの海
面を支配する赤い火の、あ
まい呼吸、その赤い反射光、
そのあとに訪れる打ち寄せ
られる岩礁のような死者の
ねむり、あおじろい浜辺の
うえの星月夜、口紅の広告
の艶やかさで幾重にも背中
に降り積もる顔の見えない
女のくちびるの星のタトゥ


眠りの程度

  黒髪

草を揺らした風が私の頬もなでていった
大きい使命感で高揚してる
理想は私にとって心地よく
雄大な流れがキラキラ光っていた
顔をうつむかせ影の中を凝視していると
何百体もの笑う幽霊が出現した
口を開け暗闇を見せていた

全てのものにはおのおのなりの中心がある
闘うことを忘れてしまっても軍鶏はやはり荒々しい
宇宙船の腹に映る己の顔
どこへ行くのだろうかと考えているようであった
私も孤独だった
遠く広がる海を越えるため船は出港に控え
光と影を交換する使節が通っているが
私の心も影の国の領土だった
光の中から来たらしい人たちが話す明るい言葉で
燭台に火を灯されたように感じる

眠れない
眠りがなく光が溢れ朦朧として
地は叩かれて砕かれる
光は目覚めを待っている
幾時間もの間差し込んできていたのである
光が見える
音が降ってくる
音符の雨が地面を叩いた
割れた破片を私の耳に注いだら
砕ける音は優しく
雨の中の光
音と分離した光が見える
これは何だ
何かがつるされたロープを引っ張ってみたが
引っ張ってみることはできるけど
持ち上げられそうにはない
よほど重い過去が結晶しているのだ

耳を引っ張られて光の中に突き落とされた
眠りのなんと心地よかったことか
繭の中でいつまでも安心していられたら良かったのに

力がわき意識もはっきりとしてる
周りに気配を感じて
私は考える
今日から振り返り昨日の意味や明日の展望
指し示される誤った場所について

コンパスを見て強く念じた
自分で選び自分で変えていかねばならぬのだ


君が、挫折してから、死ぬまで、

  泥棒

ビルが、高いのは、
飛びおりたときに
確実に死ねるためではなくて
夕暮れを前に
君が何もできないクズであること
それを
ちゃんと思い知るためだよ

君が、挫折してから死ぬまで、
そのスピードは
日が暮れるよりはやく
ビルが崩壊するよりおそく
ユーチューブで
何回も再生されている

さあ、逃げなよ、
どんどん加速しなよ
ここには
何もないんだ
平凡を海水に浮かべるために
君は
東京を離れた
ありあまる才能を砂浜に埋めて
いつもひとりで
暗い考えが
その暗い考えだけが
悩んだら
悩んだ分だけ
それが
芸術になると
ずっと信じて
どこまでも逃げなよ

海が、広いのは、
圧倒的な実力の差で
君が負けた時
世界をみせつけるため
そのために広い

いつか、君の咲かせた花が、
いっせいに
すべて枯れる日がくる
叩きつけた言葉が
はね返り
君の首に突き刺さるだろう
勘違いしてはいけない
それは痛みではない
きれいな首飾りにして
君は
何度でも挫折して
何万回でも死んでいい


君、


君は正しい

その正しさで

君には死んでほしい

君が間違っていてくれたら

そう願った夜が

何回もある

僕は

君が好きです

君は芸術です

それだけは譲れない

君が挫折してから死ぬまで

君は芸術だから

その正しさで

そのまま必ず死んでください

海が

うたっている

そんな気がした夜も

数えきれない

君が挫折してから死ぬまで

僕が

君の死を何万回でも描く

あきる事など

ありはしない

東京で

君が死ぬ

それは

今夜かもしれない

ほら

ビルが

いつもより高い


青い鳥

  mitzho nakata


  夜
  かぞえきれない、
  旅
  高架下で眠るルンペンたち
  失踪人たち
  密入国者、
  あるいは逃亡犯
  だれもわれわれのために祈りを捧げはしない
  わたしはだれの友人?
  きみはかれの友人?  
  ずっと西部の町で氷点下を記録した一月、
  荒れ野の渡りものは南へ
  ずいぶんまえに忘れたはずのものを夢のなかに再現する
  それはとても滑稽であり、あるいはやさしいまぼろしだった
  わたしはわたしの内なる友人たちへ手紙を書く
  停留所で、避難所で、留置場で、
  どやで、サービスエリアで、
  発着場で、待合で、
  映画館の坐席で、
  マーケットで、
  飯場で、
  かれらはわたしの友人
  わたしはきみの友人
  世界の果ての駅舎にて毎朝悲鳴が鳴りひびくころ
  男たちの内部をいっせいに青い鳥が飛ぶ


神経

  zero

あの街角にひっそりと立って
待ち合わせの標となっている一体の彫像
あれはむき出しになった街の神経だ
その敏感な裸体をさらしながら
人々の眼差しに貫かれ
あまつさえ人々にじかに触れられる
その度に崩れそうになりながらも
形をとどめ続ける街の神経

山は鬱蒼と神経を生い茂らせている
山に生える草木はむき出しの神経で
山はそれを隠すことを意図的にやめた
だから山は陽射しも風雨も敏感に感じすぎて
いつでも苦痛にあえいでいる
山の巨大な重量は草木の夥しい感受力を支えるためにある
山はいつだって崩れ落ちそうだ

私の神経は至る所に存在する
世界に瀰漫するエーテルのように
繊細に社会の波を伝えていく
遍在する神経は広がり過ぎて
もはや根を張ってしまったので決して回収できない
社会的な出来事その問題その毒
批判的感受力で波を受信しては
今にも世界の淵で濁って流れ落ちてしまいそうだ


たぶん、たぶん、たぶん

  

-死は腹に代えられない-

Youtubeの犬や猫の殺処分の動画を観ていて思ったのですが、それに寄せられたコメントを読んでいると、ペットショップもブリーダーも、悪者扱いにされていたりするわけで、そう思っていると、いやいや、ペットショップやブリーダーを悪者あつかいする人の気が知れないとか、意見は対立していまして、この犬猫殺処分の動画をアップした人は、私のコメントが権力によって削除されたー!と嘆いていました。
処分される犬猫は、きっと雑種がほとんどだろうと思っていたら、意外なことに、血統書付いてるんちゃうん?というような、おぼっちゃまや、お嬢ちゃまな犬猫も多く、驚きましたねー、いやー、今どき血統書付きの犬や猫を買って、それで満たされる人がいるんだーと思ったわけで、それなら殺処分場で、死刑寸前の犬猫を引き取って助けてあげる方が、もっと心も満たされるんじゃね?と思います。
悪者扱いされてるペットショップやブリーダーは、「公益財団法人日本動物愛護協会」のような、被災地の動物保護の為に寄せられた義援金を、投資信託にぶち込んで損失だしてるような愛護団体と手を結び、殺処分場から犬猫を無償で引き取り、そして、和製カリスマドッグトレーナーを捏造し、「うちの躾では上品なお座りが出来るようになりますー。」みたいな教室を演出し、あとは可愛く毛色で分別し、テキトーに新たなブランドとして売ればよいと思うわけです。
それから、マスコミを使い昼ドラを制作し、流行りの年増女優に、「あら、奥さん、どこそこのペットショップの、目利きと躾は最高ざますわよー。」とか、「この子は殺処分ギリギリのところで、どこそこのブリーダーさんに助けられたので、人間に対して恩返してくれるのざますのよー。」みたいな台詞を喋らせて、なんかずれてるけど、とりあえず、死は腹に代えられないので、そういうブームを、起こせばよいのです。
犬猫が売れるまでにかかる経費についてですが、どうせ殺処分場の運営費は税金なのだから、公益財団法人日本動物愛護協会のジジィを、枕営業かなんかで唆し、「動物愛護補助金」基金を政府に作らせ、そこから削ってゆけばよいわけで、悪者呼ばわりされているついでに、ペットショップやブリーダーも、「こんだけ必要費用かかりましたー。」と少し上乗せして、国に請求すればよく、これでペットショップもブリーダーも、犬は売れて儲かり、国から補助金は貰えて儲かり、Wで儲かる上、さらに正義の味方扱いされるわけです。
そのようにして、最終的にまんまと殺処分場が無くなれば、公益財団法人日本動物愛護協会の仕事も減るので、天下りの席も同時に減りますし、動物愛護という胡散臭い言葉も魔力を失い、インターネット外野席から、保護だ愛護だ虐待だと野次り合ってた人々も、「ビールいかがっすかー?」と、別々の売り子から同じ会社のビールを売りつけられ、酔っ払って喧嘩すればするほど、儲かるのは酒屋だけで、消耗するのはふたつ正義だったということに、やっと気が付きます。
少し視点を変えれば、グリーンピースと、遺伝子組換えや農薬作ってるモンサントという会社って、やってること間逆だけど、出資元は同じひとつの財団じゃん、それっておかしくね?と気が付く人も増え、顔本のフィードに流れてくる、「みつばち守ろう by グリーンピース」に、イイネをしただけで、これが私の精一杯みたい感じで、自然を守ることに参加した「つもり気分」に浸るまえに、イイネを押しただけで、これで本当に自然を守ったことになるの?と、なんか、便利すぎて不便じゃね?と、心に少しのわさわさ感を覚えれば、血の通った人間らしく、物事を考えることができるようになります。
仕上げに、殺処分場の跡地に火葬場とペット霊園を建設すれば、ペット専門葬儀会社も、地元住民からペット霊園反対!の抗議に晒されなくてすむようになりますので、様々な宗派の坊主に、お好きな方はどうぞーと、高級ペット用戒名ございますと宣伝活動をさせ、最低一匹50万くらいで販売させれば、ふつうの考えを持っている人は、いつも散歩をしていた公園や、自宅の敷地の庭に、子供の頃のような感覚で、そっと土に埋めて埋葬することになりますので、天国と地獄詐欺も終焉し、死後まで支配されることもなくなります。


-夢と目標-

地球のリセットボタンを押そう!水で走る車に乗り、黄金の価値よりも刷りすぎたお札に乗って、世界中を旅したければ、アラジンの魔法のランプから立ち上る煙を、ぼんやりと眺める日々は、もう終わりにして、職場の上司の顔色を伺いながら、余計な気遣いをすることもなく、時間がきたら仕事を仕舞い、嫌ならNO!それさえ言えればすべてYESでパーフェクトであり、これからは本当の自由の為にそれを言い切るべきであり、良識人はNO!の数を減らしてゆくべきであり、早退の理由が、ベランダのプランタの唐辛子の苗に水をやるのを忘れたから・・でも十分通用するわけで、頭の良い人は、ホームセンターで七輪と炭を買って、それでエリンギを焼き、部屋の窓は開けっぴろげにしたままに、自家製のヨーグルトをゴクゴクと飲みながら、下界を悠々とシエスタしているだけで良いのです。

いまや本当の情勢をテレビから知り得ることは不可能なので、インターネットを駆使して、もう一度、モニターの向こう側に人間が居ることを再確認する必要があり、そこで気の合いそうな仲間を見つけ、様々な情報と考え方の違いについて認め合うべきであり、ああ、9・11も詐欺だったねーとか、第7ビルが崩壊する前にイギリスのアナウンサーが、「ソロモンブラザーズビルが崩壊しています!」とフライング報道していたねーとか、ヒトラーがババザベスの親戚であったことや、坂本竜馬が売国奴であったことを知り、それでも彼らは彼らなりに一生懸命に生きていたことを、その情熱だけをリスペクトし、道の間違いは見落とさず、嫁が車の助手席で、右だ左だと喚いているのを、イライラせずに冷静に見極めながらハンドルを操り、車を降りれば手を繋いで、漂白剤を爆買いするくらいの心に余裕が必要であり、ついでに露中して愛を確かめ合うべきです。

私たち日本には、八方美人か鎖国か、それしか生きてゆく道はないので、京単位の借金を抱えている国とはさっさとオサレに離婚して、今のNO1の国々と再婚とまでは言いませんが、合コンを常にして気を惹いておくべきであり、合気道のように無駄な力に逆らうことなく、ソフトに世を渡って往くべきで、膝を露わにして、戦争を反対!なんてしてはいけませんし、戦争と言う言葉は、そんなんあったぁ??と既に無かったことにするべきであり、そもそも戦争という言葉が、武器屋さんが作った造語であったことを知り、ついでに平和もヘチマも無くしてしまって、戦争共々死語に葬ってしまうべきで、反戦詩のネタが夢の中にしかないことを理解すれば、誰もが便利すぎて不便な理由を実感することになり、スーパーで、「レジ゙袋はけっこうです。」と余裕をコイてる前に、これからの目標を立て、すべて一からエコり直すべきです。


-自然の内なる自然について-

あなたがお望みなら
あなたの愛の人生を変える
ジプシーの魔女になら
幸運と健康と魔法がある 

あなたが心をひらけば、恵まれた海は幸せに満ち
とても美しい女性と、あなたが望む景色のままに
覚醒した魔法に、その力を開放します
ジプシーの魔女は、天国で悲しみを紛らし
すべてのあなたへ心をひらき
人種や肌の色の関係もなく
控えめな詩人や
愛を歌う労働者に
力を与えます
ロマンチストな女王さまよりも
気まぐれなジプシーの魔女に
あなたは、SALUD!
幸運と健康をおくります

ブルドッグの故郷イギリスには、ブルベインティングとよばれる
犬と雄牛を闘わせる「牛攻め」という娯楽がありました
雄牛を倒した犬の飼い主には、賞金が与えられました
そこで、牛攻めをもっと面白くするため強い犬を作ろうと
改良に改良を重ね、誕生した犬種がブルドッグです
ちなみに、ブルドッグ(bulldog) のブル(bull)は、雄牛の意味です
ではブルドッグが、凛々しくブサイクな顔になってしまった理由を説明します
ペチャンコの低い鼻は、雄牛のダブダブの皮膚に
長時間噛みついたままでも、
窒息しないように、鼻は口よりも低くなりました
下顎がしゃくれているのは、下顎が前に出ていることで、
噛む力が強くなったと言われています
シワだらけの顔は、噛みついているときに、
牛や自分の血が、目に入らないように、シワをつたって血が流れるような仕組みになっています
短く太い首は、噛みついたままの状態で雄牛に振り回されても、
鞭打ち症にならないようになっています
体高が低いのは、雄牛の角で体をすくいあげられないようにするためです
現在でも、耳は小さいのですが、
当時は雄牛に耳を噛まれないようにするため、更に断耳をしていました
また、当時のブルドッグは、今よりももっと大型で、体重が60キロくらいありました

さて、電気うなぎを生け捕りにするためには、電気うなぎを探す作業から始めます
まず、長さ5mの棒の先に、電気を感知するセンサーを取り付けてください
電気うなぎは、浅瀬に生息していることが多いので
ゴム製の胴長を着用し、センサー付の棒を水中に入れて捜索してください
センサーが反応すれば、その辺りに電気うなぎがいると推測できます
場所を特定できたら、その辺りに、筒状の罠(ビンドウ)を仕掛けます
このとき、ビンドウ全体を、水に沈めてしまわないようにしてください
なぜなら電気うなぎは、肺呼吸をしますので、ビンドウ全体を沈めてしまうと
罠に掛かった電気うなぎが、窒息死するからです
夜行性なので、夕方から翌朝にかけて罠を仕掛けてください
電気うなぎが罠に掛かっていたら、安全の為ゴム手袋をします
電気うなぎの体の大半は、電気を起こす機関になっているので
案外筋力は弱く、ふつうのうなぎのように暴れることは出来ません

草食動物の中でもっとも視野が広いキリンです
他の草食動物と同様に顔に対して目が真横についています
もちろん背の高さは陸上哺乳類NO1!視野はほぼ360度に近く
また涙の濃度が濃く瞬きの回数が少ないのも特徴です
ならば、あなたの言葉ではっきり明示しましょう 

飼い犬にとって
あなたのお住まいが、群れの縄張りであり
飼い主であるあなたが、
群れのリーダーであることを
犬に示してほしいのです
あなたが犬と一緒に玄関を出入りするとき
犬を先に通してはいけません
どのようなときも、一度「待て」で犬を座らせ
あなたが先に、玄関を通った後、
犬を呼び込むようにしてください
また、無駄吠えをしているときは、
犬の名前を呼んだり、声をあらげ叱ったりしないでください
一度スイッチが入ってしまった犬に、
そのような対処は逆に犬の興奮を助長することになり
まるで逆効果です
そういうときは、犬の敏感な場所である脇をタッチし、
犬の気がそれた瞬間、間髪いれず
どのような言葉でもよいので、
短く一言、「落ち着け」その意思を毅然とした態度で
犬に伝えてください
それでも鳴き止まらない場合は
ひたすら無視、そして落ち着いたら
先に述べた、玄関を使った
トレーニングを繰り返してください
飼い犬は、家族(群れ)の一員です
そして群れの中で飼い犬の順位は
一番下位、でなければいけません
しかし、野生本能は、群れや縄張りを守ろうとするので、
その性質は、群れの中で、順位を上げるようとする行動としてあらわれます
犬は野生本能に従い行動します
群れのリーダーがしっかりしないから、犬の方があなたの代わりに
群れを守ろうとしています
必ず人間が犬の言葉を、理解した上でリーダーシップを発揮してください
常に犬は自然に帰りたいと思っているのです

それにしても、哺乳類の子供はフォルムが丸い
3〜5頭身で、とても可愛いのはなぜかというと
可愛くないと、親が面倒をみなくなるからです
・手に負えそう、(小型犬・ウサギ・ハムスター)
・意思の疎通が出来そう、(イルカ・クジラ・大型犬)
・自分の役に立ちそう、(馬・牛・トナカイ)
このような条件下で可愛いと、母性本能がはたらき
対象を贔屓します
贔屓は、外界とコミュニケーションをはかり種を守ります
生物はDNAを乗せたバスでした

まぁまぁ、きれいのお姫さまが
かなりイケメンの王子さまのもとに
国境を超えて嫁いできました
新聞は「絶世の美男美女結婚」
と賛美絶賛しました
それを読んでお姫さまは、
私ってかなりイケてるんちゃう?
と勘違いしました
王子さまも、そんなん当たり前やん
という素振りで、バラの花の匂いを嗅ぎました
王子さまは、もともと仕事が嫌いでした
お姫さまは、乾燥肌を理由になんにもしません
ぶくぶく太ってゆきました
それでもひとりの立派な男の子が生まれました
息子は成長すると、こんな両親で本当によいのか?
という疑問を抱き、一人で旅に出てしまいました
そして、いろんな国を流浪し
いつのまにか、義勇軍の長になっていました
息子の故郷では、息子の両親である
王子さまとお姫さまの夫婦喧嘩が原因で。
国を二分するような、大きな内乱が起きていました
それを聞きつけた息子は、
内乱を鎮圧するために10万の兵を連れて
国へ帰ってきました
そして息子の軍は、1日もかからないうちに
内乱を平定しました
しかし困ったことに息子には
父か母か、どちらが内乱の首謀者なのか
判断できませんでした
とりあえず息子は、
お城の財宝をすべて没収し、
父親とその一族共々国から追放しました
そして、母親と共に暮らしましたが
正式に息子が王様になったとき、
この国は間もなく、滅びてしまいました

彼らは気づいていない、自分の言葉が内面を蝕んでいること
彼らは東洋の美しい花瓶をみて、その美を主観で論じ合う
彼らは花を生ける方法を知らないので、
花瓶を実用的に使用できない猿のように、頭を抱えている
機能や構造を知ることなく、存在の理由と目的を見落とし
それを内なる美などと呼び合い、幸福を激しく希求している


-ああ、ローレンス!-

破裂寸前の気球ような町
誘拐されたルバーブパイを
空に浮かべた町
乳飲み子を抱いた母の澄みわたる
向日葵のまわり縺れる愛しい雑草の町
胸の前で両手の指を組み
両膝をそれなりに抱え
胎内のカンテラの灯り
忘れるために思い出す
しじまをわし掴み家の扉を軒並み叩き
眠りを巻あげ、がらんがらん転がる
馬に鞭を打つ音は、水面に針先を落とし
ひろがる波紋を見てはいけない
聞きいてはいけない

午後、悪夢を縛りに
兵隊がやってきた
隊長は教会の敷地の草刈を
兵士たちに命じた

「ああ、どっちが勝っても負けても、俺たちに変わりねぇ」
「あいつらが思っているように、俺たちも思っている、あいつらは人じゃない」
「俺は死んでもDixieを歌わない」
「Dixieを歌わされている55連隊はごめんだ」
「Dixie、綿畑を守るのは、俺たちの仕事ではない」
「Dixieに俺たちのリズムはない」
「Dixieを作ったのはダニエル・エメットだ」
「Dixieは作ったんじゃない、俺たちのために作られたんだ」
「軍服なんぞ脱いじまえ、奴らには俺たちが、敵か味方か、見分けがつかない」
「勇気なんて必要ない、俺たちに必要なのは覚悟だ」
「死ぬのも生きるのも同じことだ、さぁ、はやく子供を抱いてカンザス川に飛び込め!!」
「解放という名の下に、すくわれるというなら、金魚と同じじゃないか」
「あのヤンキーは貧乏だから、声をだして罵れと、俺のヤンキーは言っていた」
「誰も信じるな、と言う親でさえ信じるなという」
「今から、すくわれても、また別の今に移されるだけだ」
「ウィリアム・クァントリルは、俺たちをすくいにきたのか」
「あの金ピカの銃はいいな」
「欲しいものはなんだ」
「こんなもん」
「欲しいものはなんだ」
「リンカーンがなんだ!」

ローレンスの町は焼け落ち
唯一プリマス会衆派の教会だけが
その攻撃を免れていた

夕陽は脊髄を伝い
影は地面に瓦礫の刺青を彫る
兵士が踏み付けた黒い土から
死者は這い出し
骨を叩き、血を噴き散らし
鼓笛隊は肉を剥ぎながら
夜を行進する信徒たちは
ドラムカンで、秘密を燃やしている
そのまわりを火の粉が取り囲んでいる

「誰かが混沌の王になるか、
それとも混沌が神になるのか、賭けをしよう」
「月の邪魔をしないように、星は光っていてもいいのかい?」
「明日は新月、公平な賭けを・・」


-即興詩- 13 Noviembre. Improvisado poema para Francia.

ひとりの死が、ひとつの世界の終わりを告げるように
世界の終わりは、ひとりの死を告げています
ひとりでは支えきれない、たくさんの人の死に
心ここに非ず、悲しみの文字を滲ませたとき
出会ったことのない人たちが、背中を後押してくれます
その手の温もりが、だれのものか知りたくて
落日にむかって、孤独を呼んでいるのです
その声は、地球をひとまわりして、また僕の背中を押しています
どうして世界は丸いのに、背中ばかり見せられる
せめて君の顔をみたくて、ひこうきにのって逢いにいきます
ひとりの死は、世界が何万回終わることより悲しいから

君が死んだ理由を仮説せよ
僕が生きる理由を仮説せよ
心が痛んだ理由を仮説せよ
戦争反対の理由を仮説せよ
人はそれぞれ他人を仮説せよ
臆することなく仮説を仮説せよ


吹くようになったやかん

  

 
 やかん、というかコーヒーを淹れるときに湯を沸かす、ステンレス製のドリップポットなんだけれど。数日前の昼下がり、その日ニ度目のコーヒーを淹れようとして空焚きしてしまった。
 朝沸かしたお湯、残ってたよなって、そのままコンロに点火してのんびり本をめくってみたりして、顔を上げたら焼けていた。ポットの底周辺が、馬の蹄鉄を鍛えるみたいに赤く輝いていた。
 そのとき手にしていた本はトールキンの『農夫ジャイルズの冒険』。子供向けの物語なんだけれど、あんな面白い話が書けたらなぁなんて考えていたら、この始末。
 いや、そもそも空焚きしたのがいけない。一度目に沸かしたお湯はポットにたっぷり残っていたのに、熱湯消毒にちょうどいいからって、まな板に全部かけ流したこと、忘れてた。
 コンロにのったまま冷めていったポットは見た目は何も変わらないのに、それ以来、沸騰するなり熱湯をぴゅっぴゅと吹くようになった。
 沸騰したらすぐ火を消すか、こぼれたお湯を拭けばすむから買い換える気はないんだけれど、なんて、今日もキッチンでケチな胸算用している間に、やかんが吹いた。
 やかんは吹いてカンカン音まで立てて騒ぐ。こんなときは妻が低気圧を背負って近づいている。このやかん、嫉妬深かった昔の彼女からのプレゼントだからか、女の気配に敏感なんだ。
 カンカン、カタ、カタ、今日はやけに騒がしい。料理用ミトンを着けた右手で、飛び跳ねるやかんの持ち手を慌ててつかんだそのとたん、やかんは僕を連れたまま妻の面前へ飛び出した。
 僕はシュウシュウ湯気を吹き熱湯をプップと飛ばすやかんで妻を威圧し(たように見え)、まずは妻の隠していたヘソクリをあらかたテーブルに並べさせた。それから家事を僕にばかり押し付けないと約束させた(せめて半々だ)。ついでになんやかやと口を出してくる妻の両親を追い払わせた。こうして僕は晴れてこの家の、真の主となったのだ!
 やかんを「剣」に、妻を「竜」に取り換えれば、おおよそ『農夫ジャイルズの冒険』の粗筋なんだけれど。でも、愚かな犬と賢い雌馬、妬むかじやにナイスな坊さん、役立たずの騎士たちやドケチな王様が怠惰な農夫を取り巻いて。あんな「オードブル各種てんこ盛り」みたいな楽しさはうまく伝えられないな。
 なーんて、ふざけている間に、やかんがお湯を盛んに吹いていた。
 


A tree

  黒髪

ああ、木だね。高くない低くない。僕は背くらべ、君といっしょに。立ってるんだね何にも支えられず。
高いのも幅が広いのも、みんな美しいなあ。
葉をいっぱい茂らせて、あなたは緑色の夢を見るの?それとも茶色の?

童話に出てきた木はいつも、鳥を包み込んで、人を包み込んで、愛を包み込んでいた。
木漏れ日は夏の日よりも長かった。火はずっとずっと、空に放射される神様の手からこぼれた意志の対象を、にらんでいたんだろう。
僕が立たず竦まず、煙の知らせるものを、大きいのか小さいのかと、推測することで、凍り付かない時の対象のいましめを、ふりほどいた。
彼らは大きすぎたらいけなかったんだ、きっと存在から気づかれないだろうから。
つまり存在とは、知ることではなく、知られることでもなく──、気づく能力が、結晶して、方法をふりほどいたときの夢が、
可能的に存在すると言われる時の、影だけから知られる、小さな雰囲気なんだ。
存在に対して可能になるのは、その本質的な言葉を、記すことで、関わり合いが複雑になり、抽出された質量が熱くなって、
速度を増していくことで安心がもたらされるということ、速度に怯えず、常にブレーキが有効に働くことを織り込み済み
であることが、知られることだけに重要な話となって、人を救うということなんだ。
あなたは、僕をその下で、安らげている。僕はいつかしっかりと立って君と同じになるよ。
闇の中大きすぎるダイヤモンドはない、小さなカマキリも鎌をふりあげて、
川より遠くないよ近くないよ、と僕が話す相手もどこにもいないけど、その目の中にはあらゆる個別の事が、ひらめくように、
存在していた、僕はそれを知っていたのに考えなかった。
あったのだ、いつまでも続く時が、渦巻く星たちの力が添えられているから、孤独と競争の最後の結果は、つねにロマンチックだ。
無限に裏拍を数えていくことは、年代記を記すとき必要なルールだ。
答えよ全てを知る者よ。僕の方向を指し示せ、風の中に吹きさらされるこの地において。
どこまでも広がる原野の中で、立ちあがって惑いながらいる僕は、両手を握っているぞ。
手を開けばこの硬貨が、ゆっくりと回転しながら地に落ちて、柔らかく小さな音を立てるだろう。それを合図と考えてもよいか。

地球上はきっと、多くの樹木で彩られる。まだ十分に君たちのことは、理解されてはいない。
その、存在が、地球上の世界の多くの宿泊者を告発する。黙って、言葉なく。
お願いだ、僕を守っていつまでもいつまでも。56憶7千万年後にあなたが僕にキスする人として生まれてくるから、それまでずっと。
もしその時が近づいてきているなら、風をまとって時空を抜ける鏡の、割れた表面にはI love youの字が、サインペンで描かれていると、
教えてくれるのが、合言葉だよね。帰納的にしか知りえないことを、証明したことを、僕はしてきたことのなかで、一番誇りに思っているんだ。
生の裏側でなるシンバルに、言葉を失くした僕は包まれている。迷路を抜けたいなら、気を弱くしちゃだめだ。常に最高の時だと、
思い作り上げるんだ。架空の指切りは、忘れないでいるよ。妄想を現実として生きたのだとしても、心が知っているだけの全ての君を、
僕は受け入れ、許しているんだ。僕が許せないのは、僕が存在しているということだけなんだ。そうだ結局は良心の問題だけだ。
新しい考え方を作り上げたとき、妄想が現実と同じ重みで存在しているのだと、飲み物と一緒に考えて、飛び上がって光に指さして
触れる僕は、あらゆるものより幸福であると信じられるのじゃないか。点々と続く足跡をたどる僕の、振り上げた足に、全ての意識を
預けよう。最初と最後を一致させれば、一つの曲が円環を閉じるのだ。リズムが繰り返しを原理とすることを超える曲を、生み出すことが、
リズム的なリズムを構築するための足掛かりになるだろう。一つも一致しないリズムでできた曲と、一音というリズム出来た曲には、
違いがないだろうと思えるのだから。そのように同一の原理が個別原理と一致して描かれるなら、あらゆる存在は、融合して、
自分と人との序列を気にすることなく、安らかな日々が到来するのだと夢見ることを許される人に僕はなるだろう。


風呂の前の日記

  ゴミ箱

風呂の換気扇のスイッチを付けて今日の日記を書く

ラーメン屋に行きカウンターでラーメンを食べる僕の横に
若い女性が二人座りました 混んでいたのです

本当に本当に久しぶりに女性の近くに寄った気がします

実際はそんなに久しぶりではないけれど
過去の女性との触れあいなんて もうどうでもいい

このラーメンを食べている僕の横に女性が座っている
こんな些細な出来事 しかしこれ以上の心地良さ

おかげで女性が気になりすぎてラーメンは美味しくなかった
女性とは一切話したくなかった 顔も見ていない

発展しないで隣にただいるというこの素晴らしさ
存在をただ感じるという儚さ

今よりさらに若い頃 女性とは発展ばかり望んでた
だが発展しない そのもどかしさが嫌だった

今は発展を知り どうでもよく しかし発展は捨てられず
そんな時 このラーメン屋で思い出したのだ

そろそろ風呂に入ろうと思い入るとお湯を入れることを忘れていた


くちびる、くちびる、スモークサーモンのような……

  リンネ

 ──この国では、年間だぞ、二三万人の人間が自殺をするんだ。

 大学時代、「文化の政治学」と題した講義の中で、在日朝鮮人二世の先生がなにかの話の流れでそんなことを教えてくださりました。たしかそれはワーキングプアだとか現代の貧困に関する授業をしている最中だったかもわかりません。梅雨明けの日差しの強い日でしたが、まだ時期が早く冷房の動き始めていないときで、二百人ほど収容できる中規模の講義室には、不快なぬめりのある空気が満ちていました。学生たちの汗が蒸発してあたりを覆い始めているのでしょうか。買ってきたばかりのスポーツドリンクのペットボトルも汗をかいて白い机の上に露を広げています。 
 毎年二三万の人間が消えていく。まったく、その話をする前に9・11同時多発テロの話題や様々な大量殺人や自然災害に関する死者数のデータを提示されていたので、二三万人、それも毎年毎年それだけの数の人がこの見かけのうえでは平和の保たれた日本のどこかでみずから命を絶っているのかと思うと、その数字の只事でないことが胸に突きつけられるのです。というのもわたしは自殺について決してけっして他人事にはできない事情があったのです。先生はそれを知ってかわたしの目を張り付くように見つめてくるのです。この授業がすべてわたしに対する先生の鮮やかな恋の謀略であると考えると、その弁舌の巧みさに驚嘆の念を感じえませんでした。まだ恋人もいないうぶな少女だったわたしはそのときはじめて、その男性教師に対する憧れのような気分を抱きつつありました。しかし棒のように痩せさらばえた先生のからだがわたしの心を愚鈍にして、それ以上に別のことを考えさせていたのです。

 ──この人は自殺を考えたことがあるんだろうか。

 ああ! わたしは恋の甘さよりも死の崇高さのほうに魅せられていたのでした。よく見れば先生の目はすでにたっぷりの死兆を含んで濁っているのです。四十代にまだ入ったばかりにしては頭髪がだいぶ荒廃していて、眉間には深い皺が断層のように刻まれています。日本の抱える欺瞞的な闇について、いくつかの事例を交えながら小気味良い調子で説明する先生は、講義室の窓から差し込む光のなかに移動すると、まったく木漏れ日を浴びる死にかけた蝉のように乾燥して見えるのです。あるいは使い終わって炭になったマッチ棒のように悲しいのです。若い学生を啓蒙する人間にしては滑稽なほどに使い古された容貌なのです。しかしそれでいてわたしを見るときの目は猛禽のように鋭いのでした。
 先生は講義を終えると、授業のプリントの残りをまとめてベージュの薄ぺらい布製のトートカバンに丁寧にしまっています。そのカバンがまたくたびれた雑巾のように薄汚いものなのです。けれど先生はそれに偏執的の愛着を持っているようで、まったく新品のカバンを取り扱うかのように幸福な眼差しを下ろして布を手で何度も摩るのです。それでその部分だけ手垢がこびりついて紅茶をこぼしたような染みが浮かび上がっているのです。先生の屈託は尋常の域ではないことが窺い知れました。そしてそれだけ深い屈託にまみれた人間が自殺という概念に全く無関係であるはずはありませんでした。
 他の学生たちは倒れたペットボトルの口から流れる清涼飲料水のように教室の外へこぼれて行きました。わたしは熱病にうなされる心持ちで、右に左にふらつきながら先生の方へ歩いていきます。以前授業で紹介された、ヴィクトール・エリセ『エル・スール』の録画したものを先生にお借りしようと思ったのです。ほんの十数メートルの距離が、砂丘三つ分は離れているように感じました。喉が乾こうにも先ほど倒れたペットボトルの中身は一滴のしずくも残さずに干からびています。わたしは一歩一歩足を引きずるようにして前に進みますが、そのたびにからだが縮みあがるような悲鳴をあげています。そうしてようやく教壇で待ち構える先生のところへ辿り着く頃には、わたしは何匹もの蝶に変形していました。

 ──気づいたら生まれてた、きみもそうなんでしょう。

 先生がそう言うと、わたしたちはちょっとしたはにかみのあと、教卓の陰で先生とこもごもに交尾をはじめています。
 終始淡白な情事。みなで力を合わせて先生の洗いざらしの衣服を引っぺがすと、意外にも中身の体には人間らしい屈託がほとんどありませんでした。その代わりに先生には昆虫のような機械的な精力があって、何の感情もなしに興奮しているようなのです。わたしたちは純粋な交尾というそんな人間離れした経験に無感動な歓びを感じるまま、先生の体につぎつぎと口吻を擦り付け始めました。温かみのない体を盲滅法に愛撫していると、先生はディーゼルエンジンのような粗雑な振動音を立てて喜ぶのでした。わたしたちもそれを見て興奮します。とはいえそうした絡み合いにはまったく人間の男女の生み出す情熱のようなものはまるでなく、複雑な機械同士が少々センチメンタルに人間を模倣しているだけのようなものでした。先生は何かぶつぶつと口ごもっています。黙々と空気を食べているのでした。それから存分に精を放つと、先生はあの屈託に塗みれたトートカバンを脇に抱えてどこかへ飛んでいきました。
 教室の中にはどことなくかれの生臭い香りが残っています。そこにたまにブルガリプールオム・オーデトワレの香水の匂いが点滅するように感じられました。一期一会の情事はなんともあっけないもの。わたしたちはさっそく先生の陰嚢にあった星型の痣のことを思い出して悦に浸ります。スモークサーモンのような濃厚な唇。無花果のように赤黒い舌。そしてシリンジのように無機質な突起物。事後的に情欲が湧き出してきたのです。しかし悲しいかな、そんな性的な妄想によって時間を無為にすることはできません。張り詰めたお腹には、いまやたっぷりの子種が植えつけられているのです。喉まで達しているように息苦しい。出しかけたげっぷを飲み込んでしまったような不快感。どうにかして産み落とさなくては収まりがつきません。わたしたちは意気込みました。こんなに力が湧くのは久しぶりだね、いつぶりだろう、楽しいね、幸せだね、気分は悪いのですが、みんなで嬉しそうにささやいています。
 わたしたちはさっそく、授業を抜けて遊びに出かける学生さながらに胸を躍らせながら、窓の隙間から教室の外に飛び立ちました。そのまま大学裏にある市営公園に向かい、産卵に最適な植物を探しはじめましたが、よく考えてみれば、自分たちがどんな種類の蝶か知らないのに、見つけ出せるはずもない。けれど、もはや卵を産み落とす以外、目的といっていいものがまるでないのだから、なにも心配せずに森じゅうを飛び回っていました。おまけに蝶のくせに、のべつ大声をあげて公園じゅうにわらいごえの大合唱を響かせているのです。

 ──くちびる、くちびる、スモークサーモンのような……。

 けれどしばらくして、わたしはすでに何の変哲も無い妊婦に戻っていました。そのとたんに、あの棒のような大学講師と行きずりに交接したことがどうも恐ろしくなってきました。もしあの先生が人間でなかったらこのお腹にあるものは何なのでしょう。歪なからだをした地球外生命体が、人間のからだに卵を植え付ける映画などを何度か見たことがあるので、これは当然の不安でした。とはいえ、わたしの想像力の範疇はその程度のものです。けれど一方で一度イメージしたものは心の核心にしっかりと張り付くだけの信仰心はありました。腹部が地面に吸い寄せられるように重たく、皮膚が薄く張っています。馬蹄形の痣がいくつか浮かび上がっているところからすると、子宮の中に馬型の人間かなにかが眠っているのでしょうか──。
 そういえばこの都営団地に引っ越してきたばかりのある日、隣室から、馬の嘶く音と、甲高い女の喘ぎ声が聞こえてきたことがありました。わたしが掃除洗濯を終えて台所で昼食の豆ご飯をつくる準備をしていると、突然それは聞こえてきたのです。良人は休日でしたので寝室でまだ眠りを貪っていました。わたしははじめぼんやりとかべを伝わってくる音に耳をすませていましたが、ふとそれが獣姦をテーマにした成人映画の音声ではないかと気がついて、顔がいっぺんに熱を帯びました。そしてどうしてか自分がなんと定型的な主婦であるかということに恥じらいを感じていたのです!

 ──くちびる、くちびる、スモークサーモンのような……。

 お前のひやりとした足が、わたしの体のなかでしなやかに動きました。
 寝室の扉の隙間から、良人がこちらを覗いています。
 わたしは横目でそれを確認しました。
 


そどむ

  アルフ・O

きる。
やけどする。
まねする。
とっちらかる。
とれない、ずつう。

こわす、くみたてる。
あざける。
いみないって、うそぶく。
ほんとになる。

しらないふり。
どくそう。
ちが、めぐらない。
きづかないふり。

どくはくでしか、こころをしらない。

しばる。
ふみつける。
ほほをたたく。
もとめる。

ある、どようびの、よふけのこと。


かにに食われたんだよ

  シロ

蚊が喜んで
私の上腕の血を飲んでいる
尿酸値も高く
触れたくないが血糖値も高いかも知れぬ
健康な血ではなく
ちょっとヤバイ
その蚊を見ていると
ふと思い出してしまうんだ
君の事を。

   *
蟹に食われたんだよ!
蟹じゃなくて、蚊だろう?
蟹に、だよ〜〜

君が
覚えたての言葉で
うまく喋れないから

蟹がとても
君は好きだったんだよね

一握りできる
君の上腕に
ぷっくりと赤く腫れた蚊の痕

蚊に食われたんだろう?
蚊にに、だよ〜〜
最後は半泣きしてしまったんだよ
君は。


(無題)

  牧野クズハ

君が裏返しにした愛の
中を覗いて見たら
ピンク色の襞に覆われ
ジェル状の粘液が
そこら中から迸り出ていた
私は一旦愛を元に戻した

君が見せてくれた裏返された愛に
私は戸惑いを隠せなかった
君は言った
一緒にこの愛の中で暮らしていこうと
私は躊躇いながらも
首を縦に振った

愛の口をめくり上げて
私たち二人は愛の中へ飛び込んだ
愛の口が閉じられて
真っ暗闇の中
饐えた臭いのする
胃酸のような分泌液が
襞中から溢れ出てきた
私たちは分泌液を浴びながら
どろどろした愛の中で
口づけを交わし 抱き合った

愛液がじわりじわりと
まず君の両足を溶かした
そして私の脇腹 左足
愛が分泌する消化液は
私たちの細胞を分解していく
不思議なことに痛みはなかった
最後に目だけが残った時
君の身体はばらばらに崩れ去っていた
私たちは肉塊と骨と血液の澱となり
愛液の海の中で浮き沈みしていた

身体を失ったはずなのに
心はとても澄んでいて
心に溜まっていた
憎悪や厭世観
虚無感や絶望は
一つの純粋さに昇華された
そこにはちゃんと君もいた
私と君は一つの純粋な意識となり
言葉など交わさなくとも
私たちが一つの言葉となり
それが表す意味となった

今までになすりつけられた
呪われた汚辱を
削ぎ落とされ 浄化され
私たちは一つの愛となって
誰かが私たちの口をめくり上げて
抱き合って入ってくるのを
待ちながら暮らしていくんだ


コロニー

  シロ

白い平面に産み付けられた
色とりどりの有精卵が
液体の飛沫に刺激され
静かに食いやぶられる

ひかりながら溶液にまみれて息をする
数々のかたちの違う幼生虫が
白い平面を徘徊する
飛散した血や泪を食い
一齢虫から二齢虫へ
そして終齢虫へと成長する

しだいに食欲はおさまり緩慢になる
肥大した体躯をゆっくりと動かし
下面へと移動する
 


裏に据え付けられた蛹
夜 蛹はふるえる
時間を攪拌するたびに蛹はゆれる
思考が液体となり撹拌される
やがて蛹の中は固体化し
ねむる
 


音のない夜
下面を食い破り
完全なる有機体が生まれる
てらてらと金属臭をそなえるもの
軟毛でおおわれ
全身眼球だらけの有機体
あかつきの頃
白い平面に
えらばれし有機体のコロニーが誕生した


近代的人間に拠るポートフォリオ

  鷹枕可

鎧戸の堕落が
一際燦然たる街燈を嘲笑っていた
既に私は、
詩人では勿く
詩人を韜晦した過去に
甘く鹹い縫留の秒針を降した

死を被覆する営為が
遅く、鈍重なバラストの滑稽劇に
喝采の不義を嗜み
脱輪した貨物車の様に
時間は美しい静物としての死を肯った

サン・ジャックの向日葵の黒い影像は
喪われた
過剰凝縮の星々を
総て
人物的な事象の半身である夜に綯い、
或は績む言葉の死、迄も
火薬の慈善修道会である旧世紀へ

蒸気霧の硝壜を置いた

      :

見よ 夜は果ても無く渦巻き
われらの最も確かな靴音を踏み躙る
われわれの為の咽喉が
あの粘液質の時鐘を建築したとき
われわれの時間と 
幾許かの肉声を受話器に奪われたことを
この夜に燻った
曇壜の花は憶えているだろうか

われわれの樹を樹立たらしめる
それは臓腑を吊るした娼婦の痰であり
程良く調味された
呼称さえもひとつの痴夢に
連続する
幽霊の投身の様に
果敢無くも愚かしいものだ

自己と他者の咽喉に
幾許かの相違があるとするならば
それは美しい泥の眼の様に
美しい母親から憎まれた
幼時の濁声を憶えては呵責し已まない

私の時間は
既に
零年の呪わしさのなかで、
柱時計の飛花の印象のなかで、
遂には誰でも無い 
あなたを許しはしないだろう

許された者は何処にもいない、
ただ
許しを必要としない新しい人々を見た
それだけのこと

腐敗した白熱電球の中を飛び
落葉樹林の
幾多の掌を蹂躙した 
あの嵐の窓を越境した者は一人もいない
私はそれでも見ようとするのだ
夥しい裂罅に覆われた
鳩卵の恢癒を
そして水膨の靴を

われわれの樹は
聯続しない残骸の様に暴風の時刻線を謳った
造語と 諸々の季節は
コールタールの添花の様に静物となり
静物は
無機物か有機物の瞳孔に
化学的錯体の構造を非対称とした

見よ 鐘は理由も無く鳴り響き
    われわれはその時を知るだろう

文学極道

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