「足りないわね。
「ええ、勿論、
「全く舐められたものよね、
あたしたちも。
紙袋を抱えて
いつものごとく並ぶ、
マンドリン、クローバー、その他諸々が
きゃあきゃあと折り重なりながら
足元を縦横無尽に駆け抜ける
、14時
「舌に合わないとまでは云わないけどさぁ。
「コームいつの間に変えたの、
「え、それくらい許してよ、
「暑いわね。
「みんな持ってるよね、そのラメ入りの雫、
「貴女も似合うんじゃない、
白くて消えそうな身体だから、ぴったり。
「―――ばか、
口癖は、当然
彼らの意識には、残りもしない
いよいよ母胎の中で
ゆるやかに発酵してゆくだけ、
(でも
人待ちに見えたらしいわよ、って、
うそぶかれる。
まだ新しい内腿の噛み痕に
つと身体を震わせ、記憶が明滅する、
(
「どうしても好みのミュールが見つからなくて。
「おかえりなさい、
「背の高い花は、今日までだったよね。
「水のような開放弦のファズ。
「この石鹸ロシア生まれだって。
「とんだ時間泥棒ね、
「メイクまで面倒見てあげるわ、
「今、虹を吊るしたところ。
それはあまねく、
「深海を漂流する、
「露の匂い。
「イメージは緑。
「シャンプーくらい置いてればいいのに、
「あとレンズ豆ね。
「土に還る植木鉢も欲しいな、
「見抜ける?あたしの思想、
「はぁい、ご給仕いたしまぁす。
「甘いのと、冷たいの、みっつずつ。
「人魚の鱗入りで。
「エスコートお願いね。
「膚の下へ、と、潜る光を見つけて。
「そうね、
貴女だから心配はしてないけど、
待ってるって伝わるよう、祈ってるから。
「またのお越しお待ちしてまぁす、
それはあまねく、
夢も現も、枷と糧。
「せっかく材料全部用意したのにね。
「頼む相手盛大に間違えたのよ、
見破れなかったあたしたちも悪い、
「ねぇ、そんなに感傷っぽかったかしら、
「あの厨房じゃそうなるでしょ。どうしたって、
「あーあ。結局ぜーんぶ、バクテリアの世界。
「それにさ、空調ゆるくなかった?
「せめて今度の雨は砂糖少なめがいいなぁ。
「予報外れてばかりだものね、
少しだけ、脱落したことを
気にも留めずに
荷は詰め替えられてゆく
故に、
故にそれはまた、
何処かで人知れず翻っている、
貴女の唄に帰結してゆくのでしょう。
こうしている間にも
ラクレットのごとく削られて
絶えず意図せぬ地平へ堕ちまいと、
抗っているのは、
もうどうしようもなくて、
ただ、
「さよなら、ね。
「あたしたちこんなだから、
「飛沫のせいで脚見えないね、
「別に消える気はないけど。
「でも、本当に、あと少しでいいの。
「魔法と疑わずに済むのなら。
「だから、薬屋さんによろしくね、
「きっとお互い、いなくて困ると思うわ、
これからずっと、
最新情報
2017年07月分
月間優良作品 (投稿日時順)
- Grimm the Grocer (back to back) - アルフ・O
- 語の受容と解釈の性差について──ディキンスンとホイットマン - 田中宏輔
- 未だかつて文学が知らない言葉で - 選者
- タビラコと仏の座のロゼット - 北
- 詩の日めくり 二〇一七年四月一日─三十一日 - 田中宏輔
- ビーナス - maracas
- 噂 - 无
- 季節は夏を王冠にして - 鞠ちゃん
- 遍在的偏在論 - 森田
- 今は亡き友人F - stereotype2085
- この街の今世紀 - bananamwllow
- 青い繃帯 - 鷹枕可
- 食べる。 - あらかわようこ
- #06 - 田中恭平
- ある祭り。 - NORANEKO
- Unhurt - 玄こう
- あの夜だけが - bananamwllow
- ///ノイズ&CM。 - atsuchan69
- 遺稿集’03-’17 - 中田満帆
- 漆黒論 - kaz.
- 911+311=1222 - kaz.
- 温泉なまタマゴ - アラメルモ
- 2017/07/27/A - VIP KID
次点佳作 (投稿日時順)
- 肺胞 - 霜田明
- Chiffoncake - 朝顔
- (株)鈴木メタル - 阿怪
- 存在確認 - ユズル
- ウィスキー2000年 - ちーちゃん
- 表層と中想 - ある絵のひと
- 女 - 尾田和彦
- coarser - 完備
- 波 - maracas
- 空き地 - 祝儀敷
- あとがき - 阿怪
- Initiation - 朝顔
- 映写機 - 北岡 俊
- (無題) - ねむのき
- オレンジ色のスキー靴 - 山人
- 灯れば瞼あげて - 毬藻
- 無能 - NORANEKO
- 夏/向日葵の道 - atsuchan69
- 喪われた白罌粟の子供達へ - 鷹枕可
- 萌芽(ほうが)するまで - 渚鳥
- 2017/7/25 - VIP KID
- 埋めたてて - 祝儀敷
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
Grimm the Grocer (back to back)
語の受容と解釈の性差について──ディキンスンとホイットマン
あるとき、atom、つまり、「原子」という言葉が、ディキンスンとホイットマンの二人の詩人の詩に使われているのを発見して、これは、おもしろいなと思ったのである。それというのも、当然、この二人の詩人が、「原子」という言葉の意味を知っていたからこそ、その言葉を使ったのであろうから、ある一つの言葉の概念が、二人の異なる性別の人間のあいだで、おおよそ、どのように捉えられていたかを知ることができるし、その言葉に対して、共通して認識されていたところだけではなく、違った受けとめ方をされていたところもあるのではないかと考えられたからである。ディキンスンは、1830年生まれ、1886年没で、ホイットマンは、1819年生まれ、1892年没で、ホイットマンのほうがディキンスンより10年ほどはやく生まれ、5、6年ほどあとに亡くなったのであるが、二人の詩人の詩のなかで、「原子」という意味で用いられている atom という言葉が出てくる箇所を比較してみよう。
まず、ディキンスンから
Of all the Souls that stand create─
I have elected─One─
When Sense from Spirit─files away─
And Subterfuge─is done─
When that which is─and that which was─
Apart─intrinsic─stand─
And this brief Drama in the flesh─
Is shifted─like a Sand─
When Figures show their royal Front─
And Mists─are carved away,
Behold the Atom─I preferred─
To all the lists of Clay!
すべての造られた魂のなかから
ただひとりわたしは選んだ
精神から感覚が立ち去って
ごまかしが終ったとき
いまあるものといままであったものとが
互いに離れてもとになり
この肉体の束の間の悲劇が
砂のように払い除けられたとき
それぞれの形が立派な偉容を示し
霧が晴れたとき
土塊のなかのだれよりもわたしが好んだ
この原子をみて下さい!
(作品六六四番、新倉俊一訳)
ホイットマンの詩では、Leaves of Grass のなかで、もっとも長い詩篇、The Song of Myself の冒頭に出てくる。
I celebrate myself, and sing myself,
And what I assume you shall assume,
For every atom belonging to me as good belongs to you.
I loafe and invite my soul,
I lean and loafe at my ease observing a spear of summer grass.
My tongue, every atom of my blood, form'd from this soil, this air,
Born here of parents born here from parents the same, and their parents the same,
I, now thirty-seven years old in perfect health begin,
Hoping to cease not till death.
Creeds and schools in abeyance,
Retiring back a while sufficed at what they are, but never forgotten,
I harbor for good or bad, I permit to speak at every hazard,
Nature without check with original energy.
ぼくはぼく自身を賛え、ぼく自身を歌う、
そして君だとてきっとぼくの思いが分かってくれる、
ぼくである原子は一つ残らず君のものでもあるからだ。
ぼくはぶらつきながらぼくの魂を招く、
ぼくはゆったりと寄りかかり、ぶらつきながら、萌(も)え出たばかりの夏草を眺めやる。
ぼくの舌も、ぼくの血液のあらゆる原子も、この土、この空気からつくり上げられ、
ぼくを産んだ両親も同様に両親から生まれ、その両親も同様であり、
今ぼく三七歳、いたって健康、
生きているかぎりは途絶(とだ)えぬようにと願いつつ、歌い始めの時を迎える。
あれこれの宗旨や学派には休んでもらい、
今はそのままの姿に満足してしばらくは身を引くが、さりとて忘れてしまうことはなく、
良くも悪くも港に帰来し、ぼくは何がなんでも許してやる、
「自然」が拘束を受けず原初の活力のままに語ることを。
(ウォルト・ホイットマン『草の葉』ぼく自身の歌・1、酒本雅之訳)
こうして二つの詩句を読み比べてみると、ディキンスンの詩においても、ホイットマンの詩においても、“atom”は「原子」であり、語彙そのままに用いられている。引用した箇所について言えば、語の受容と解釈に性差はないようだ。しかし、もしかすると、このことは、“atom”という言葉に、「原子」と「微粒物」といった、わずか二つの語意しかないという理由からかもしれない。この例をもってして、すべての言葉において、「語の受容と解釈には性差がない。」ということは言えないと思われる。したがって、このタイトルの論考は、継続して、他の言葉においても比較検討される必要があるであろう。
追記
atomの古い形は、Old English のatomyであるが、これには、二つの意味があって、一つは、atom と同じく、「原子」や「微粒物」といった意味であるが、もう一つは、「こびと」や「一寸法師」といった意味である。Atomy が、これらの意味に用いられている例を一つずつ、シェイクスピア(1564-1616)の戯曲 Romeo and Juliet と、ポオ(1809-1849)の詩 Fairyland から見てみよう。
まず、シェイクスピアの Romeo and Juliet から引用する。
O, then, I see Queen Mab hath been with you.
She is the fairies’ midwife, and she comes
In shape no bigger than an agate-stone
On the fore-finger of an alderman,
Drawn with a team of little atomies
Athwart men’s noses as they lie asleep;
Her wagon-spokes made of long spinners’ legs,
それじゃあ、きみは夢妖精(クイーン・マブ)といっしょに寝たんだ。
あいつは妖精の女王で妄想を生ませる産婆役、
その小さなことはほら例の参事会の老人の、
指輪に輝く瑪(め)瑙(のう)の玉に負けはせぬ。
牽(ひ)いてゆくのは芥(け)子(し)粒(つぶ)ほどの侏儒(こびと)。
眠った人の鼻づらかすめ通りゆく。
あいつの馬車の輻(や)ときたら長くて細い蜘蛛(くも)の脚、
(シェイクスピア『ロミオとジューリエット』第一幕・第四場、平井正穂訳)
Shorter Oxford English Dictionary によると、atomy が文芸作品にはじめてあらわれるのは、シェイクスピアのこの戯曲らしい。ただし、atomy の複数形のatomies であるが。
つぎに、ポオの Fairyland から引用してみよう。
They use that moon no more
For the same end as before-
Videlicet, a tent-
Which I think extravagant:
Its atomies, however,
Into a shower dissever,
Of which those butterflies
Of Earth, who seek the skies,
And so come down again,
(Never-contented things!)
Have brought a specimen
Upon their quivering wings.
月のそれまでの役目──
つまり 私には
とほうもない贅沢と見えた
天幕の役目は終った──
とはいえ 月の無数の原子は
驟雨となって 微塵にちらばり、
そのささやかなかたみを、
空にあこがれて舞い上り
また舞いおりる地上の蝶が
(常に心充たされぬ その生き物が)
はるばる運んで来たのだった
おののきふるえる翅に載せて。
(ポオ『妖精の国』入沢康夫訳)
追記2
ポオのEUREKA のなかで、atom という言葉が出てくるもののうち、わたしがもっとも関心をもった部分を引用しておく。なぜ、わたしが、atom という言葉にこだわるのか、理解されると思うので。
Does not so evident a brotherhood among the atoms point to a common parentage? Does not a sympathy so omniprevalent, so ineradicable, and so thoroughly irrespective, suggest a common paternity as its source? Does not one extreme impel the reason to the other? Does not the infinitude of division refer to the utterness of individuality? Does not the entireness of the complex hint at the perfection of the simple?
諸原子間のこのように明白な骨肉親和は共通な血統を指示していないでありましょうか。かくもあまねき、かくも根絶しがたき、かくもまったく偏することなき、共鳴は、その源として共通な祖先を暗示しないでしょうか。一の極端は理性をして他の極端を考えさせぬでしょうか。無限の分割とはまったき個弧を思い浮ばせないでしょうか。まったき複雑さは完全な単純さを仄めかしていないでしょうか。
(ポオ『ユリイカ』牧野信一・小川和夫訳)
終わりのほうにある「一の極端は理性をして他の極端を考えさせぬでしょうか。」といった言葉などは、まるでヴァレリーの言葉のようだ。いや、逆だ。反対である。ヴァレリーがポオを、そして、ボードレールを取り込んでいたのだった。この三人の詩人の考え方の根本が似通ったものであることは、2007年に上梓した拙詩集『The Wasteless Land.II』において、筆者がすでに十二分に述べているので、ここでは繰り返さない。
ちなみに、atom という単語が、EUREKA のさいしょに出てくるのは、つぎのところである。
The assumption of absolute Unity in the primordial Particle includes that of infinite divisibility. Let us conceive the Particle, then, to be only not totally exhausted by diffusion into Space. From the one Particle, as a centre, let us suppose to be irradiated spherically ─ in all directions ─ to immeasurable but still to definite distances in the previously vacant space ─ a certain inexpressibly great yet limited number of unimaginably yet not infinitely minute atoms.
原始微粒子における絶対的単一可分性なる仮説を意味することになります。それゆえ空間への拡散によって、微粒子がほとんどまったく消耗しきってしまったと考えてみましょう。唯一の微粒子を中心としてあらゆる方向に──すなわち球状に──先ほどまでは空(くう)であった空間の、測り知れぬ、しかしなお限定された領域内に──言葉につくせぬほど多いがなお限られた数の、想像の許されぬほど微細だがなおいまだ無限に小なりとは言えぬ原子群が、放射されたと想像いたしましょう。
(ポオ『ユリイカ』牧野信一・小川和夫訳)
この訳のなかで、1番目と2番目に出てくる「微粒子」と「単一」、そして、1番目に出てくる「空間」は太字である。1880年に、John H. Ingram によって編集された4巻本の Poe 全集の原文では、その個所が斜体文字になっているわけでもないのだが、訳文において太字になっているのは、翻訳者の気まぐれからだろうか、わからない。
Shorter Oxford English Dictionary で調べたら、Middle English のatom という言葉が文献にはじめて掲載されたのは、科学論文で、1477年のことだった。15世紀の終わりである。原子論の存在は、ギリシア哲学に出てくるものであるから、一部の知識人は、そうとうむかしから知っていただろうが、一般に普及したのは、Shorter Oxford English Dictionary に、In popular use として、A particle of dust, or a mote in the sunbeam (arch.) 1605. と、A very minute portion, a particle, a jot 1630. と、Anything relatively very small; an atomy 1633. の3例が載っていたので、おそらく、17世紀以降であろう。文学作品での初出は、『ガリヴァー旅行記』を書いた、スウィフト(1667ー1745)のつぎの言葉だった。That the universe was formed by a fortuitous concourse of atoms, I will no more believe than that the accidental jumbling of the alphabet would fall into a most ingenious treatise of philosophy. 『ガリヴァー旅行記』の第三篇の第五章に、百科学の完全な体系をつくりだそうとしている学士院の教授と学生たちが、あらゆる単語を書いた紙を機械操作でランダムに並べたものを収集しているシーンが出てくるのだが、この言葉は、『ガリヴァー旅行記』からのものではなかった。A Tritical Essay upon the Faculties of the Mind(精神機能についての陳腐な随想1707年-1711年)というものに書かれたものらしい。ここ → http://t.co/dcqWz7B ポオの生没が 1809年-1849年なので、ポオが生まれる100年ほどまえに、スウィフトが atom という単語を使ったことになる。
Shorter Oxford English Dictionary のatom の項目には、Swift のほかに、 Tyndall と Byron の言葉も載っていた。それぞれ、Atoms are endowed with power of mutual attraction’、Rays of light Peopled with dusty atoms’というものであった。チンダルは、JOHN TYNDALL で、引用した言葉は、http://t.co/OvxVZ9A1 で読めるようだ。科学論文である。バイロンの引用は、Shorter Oxford English Dictionary の記述が間違っていた。辞書に引かれていたものは、The Two Foscari という戯曲の Act III にある言葉を勝手につないだもののようだ。もとのものは、http://t.co/pGBImHbx にあるが、atom を含んで、意味の通じる部分を4行だけ抜いてみよう。But then my heart is sometimes high, and hope/Will stream along those moted rays of light/Peopled with dusty atoms, which affored/Our only day; for, save the gaoler's torch,
しかし、なぜ、わたしは、こんなにも、atom という言葉に魅かれるのか。「原子」という言葉に魅かれるのか。原子と原子が結合する場合、まあ、イオンとイオンでもいいのだけれど、それは話がややこしくなるので、いまは、原子と原子にしておく、原子と原子が結合する場合、この場合も、共有結合なのか、イオン結合か、あるいは、その両結合の配分がどれくらいの比率であるかというのはさておいて、たとえば、A原子とB原子が1:1の比で結合する場合もあれば、それ以外の整数比で結合する場合もあるであろうし、A原子とB原子とC原子・・・という具合に、多数の原子が結合したり、また結合しなかったりするだろう。それは物質のもっているエネルギー(ポテンシャルエネルギー)と物質に与えられるエネルギー(おもに熱エネルギー)によるだろう。また、2個の原子で1個の分子をつくることもあれば、数百万の原子でポリマーのように1個の分子をつくることもあるだろう。すべては、物質それ固有の状態(ポテンシャルエネルギー)と、与えられる条件(おもに熱エネルギー)によるだろう。結びつく場合もあるし、結びつかないこともある。このことは、わたしに、思考に関する、ひじょうにシンプルな1つのモデルを思い起こさせる。わたしは、学部生の4回生と院生のときに、電極反応の実験をしていたのだが、その実験では、まさに、結びつく物質の固有の性質(おもにポテンシャルエネルギーによるもの)と与えられた条件(電位差による電気エネルギー)によって生成される物質が異なっていたのである。もちろん、思考の生成過程というものは、おそらく、このような原子衝突モデルや、イオン衝突モデルよりは、ずっと複雑なものであるとは思われるのだが。ところで、わたしの行っていた実験では、もとの物質と生成物とのあいだに、中間体の存在が確認されていたし、それは遷移状態とも言われていたものであるが、思考もまた、言語化されるまえの状態、あのもやもやとした状態も、これに似た感じのものなのではないだろうか。思考における中間体、遷移状態のようなものがあるとしたら、この状態に励起するものがなになのか考えるとおもしろい。ああ、しかし、ぼくの行った実験では物質と物質の結合である。物質と物質だけの結合であると強調してもよい。では、思考は、ただ言語と言語が結びつくだけのことなのだろうか。思考が言語化され、表現として言い表されたときには、いかにもそのように見えるだろう。だが、表現にいたるまでの過程で、言葉と言葉を結びつけるさいには、おそらく化学結合における条件、すなわち与えられる熱エネルギーや、圧力などの物理条件に照応するようなものがあるであろう。それが、たとえば、色や形といった姿の記憶であったり、匂いや音や味や感触といった感覚器官の記憶であったりすることもあるであろうし、現に、ただいま、思考中に感覚器官を刺激する感覚であったりすることもあるであろう。唐突に思われるかもしれないが、わたしは、ツイッターが大好きである。ひとのツイットを見て、自分の記憶が刺激されたり、詩や論考のちょっとしたきっかけを与えられることがよくあるのである。ツイッター連詩というものに参加したことが何度かあるが、それにも、大いに刺激され、つぎつぎと、わたしも詩句を書きつけていった。楽しかった。なぜなら、そのわたしが打ち込んでいった詩句は、どれもみな、わたしひとりが部屋に閉じこもっていたままでは、けっして書くことのできなかったものであろうからである。自分ひとりでは、けっして思いつくことができなかったであろう詩句を書きつけていくことができたからである。わたしたちは、機械ではないし、ましてや、コンピューターではない。並列につなぎ合わせられるわけではないが、なにか、それに似たようなこと、精神融合のような現象が起こっているのではないかと、わたしには思われたのである。勝手な思い込みであることは重々承知しているのだが、少なくとも、連詩を書いていたわたしたちのあいだでは、ちょっとした思考のもとになるもの、その欠片のようなものが交わされあっていたような気がするのである。このことがさらに促進されると、おそらく、わたしたちは、つぎのようなものになるであろうと思われたのである。わたしたち、ひとりびとりが、花のようなものであり、蜜のようなものであり、蜂のようなものであると。ツールであるネットワークは、気候であり、花畑であり、花であり、蜜であり、蜂であり、蜂の巣であり、それから蜜を採集する遠心分離機に似た機械であり、それを味わう食卓であり、人間であると。ところで、ミツを逆さにつづると、ツミになる。蜜は簡単に罪になるのである。ネットワークが疫病のように害悪となることもある。わたしたちは、つねに、ネットワークを比較衡量できる手段を傍らにもっていなければならない。それが、教養であり、学問であり、知恵である。それらを傍らに手控えさせておかなければならない。ところが、それが、なかなか容易なことではないのである。教養も学問も知恵も、一般に身につけることが困難なもので、しかも身につけたからといって、それが直接の利益をもたらせることも稀なのである。わたしも、わたしのもつ文学的な教養で、利益を得たことなどまったくない。
地に落ちる一枚のハンカチーフも、詩人には、全宇宙を持ち上げる梃子となりえるのである。
(アポリネール『新精神と詩人たち』窪田般彌訳)
偉大な事物をつくりたいとのぞむひとは、深く細部を考えるべきである。
(ヴァレリー『邪念その他』S、清水 徹訳)
聡明さとはすべてを使用することだ。
(ヴァレリー『邪念その他』S、清水 徹訳)
あらゆるものごとのなかにひそむ美を愛でたポオ
(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品』3、平井啓之訳)
すべての対象が美の契機を孕んでいる
(保苅瑞穂『プルースト・印象と比喩』第一部・第二章)
普遍的想像力とは、あらゆる手段の理解とそれを獲得したいという欲望とを含んでいる
(ボードレール『ウージューヌ・ドラクロワの作品と生涯』3、高階秀爾訳)
すべてをマスターしたい。だってすべての技術を自分のものにしてなかったら、自分のために作る作品が自分自身の技能によって制限を受けることになるじゃないか
(ブライアン・ステイブルフォード『地を継ぐ者』第一部・2、嶋田洋一訳)
芸術家は、自分がみずから親しく知らない人間や事物の記憶を呼び起す
(ユイスマンス『さかしま』第十四章、澁澤龍彦訳)
ここで、ふと、ボードレールが、自分の母親宛てに送った手紙の言葉が思い出された。引用してみよう。
僕は、信じ難いほどの共感を僕にひき起こした一アメリカ作家(割注 エドガー・アラン・ポオ)を見つけ、そして僕は彼の生涯と作品とについて二つ記事を書きました。それは熱を込めて書いてあります。だがきっとそこには何行かいくらなんでも異常な興奮過度の個所が見つかるでしょう。それは僕の送っている苦痛に充ち気違いじみた生活の結果です。
(ボードレールの書簡、母宛、一八五二年三月二十七日土曜日午後二時、阿部良雄・豊崎光一訳)
今や何故、僕をとりかこむ怖るべき孤独のただ中で、僕がかくも良くエドガー・ポオの天才を理解したか、また何故僕が彼の忌わしい生活をかくも見事に描いたか、お分りになる筈です。
(ボードレールの書簡、母宛、一八五三年三月二十六日土曜日、阿部良雄・豊崎光一訳)
さらに、ボードレールが、ポオの『モルグ街の殺人』について述べているところを引用してみよう。わたしがポオの『ユリイカ』に魅かれた理由を、その言葉がより適切に語ってくれているように思うからである。
思考の極度の集中により、また悟性によるあらゆる現象の順を追った分析によって、彼は観念の発生の法則をものにすることに成功した。一つの言葉と他の言葉の間、うわべはまったく無縁にみえる二つの観念の間に、彼はその間にひそむ全系列をたてなおすことができ、また表にでておらずほとんど無意識的な諸観念のすき間を眩惑された人々の眼前でみたすことができる。彼は事象のあらゆる可能性とあらゆる蓋然的なつながりとをふかく究めた。彼は帰納から帰納へとさかのぼり、ついに犯罪をおかしたのは猿であることを決定的に立証するにいたる。
(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』3、平井啓之訳)
「ふかい愛憐の気持から発しているものであるがゆえに、私ははばからずに語るのであるが、よっぱらいであり、まずしく、迫害され、のけものであったエドガー・ポオ」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』4、平井啓之訳)「詩人はその思索のはてしない孤独のなかに入ってゆく。」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』2、平井啓之訳)「彼の文体は純粋で、その思想にぴったりしていて、思想のただしい形をつたえている。ポオはつねに精確であった。」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』3、平井啓之訳)「すべての観念が、思いのままになる矢のように、おなじ目的に向って飛んでゆく。」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』3、平井啓之訳)ボードレールがポオに共感したところのものと、わたしがポオに共感したところのものがまったく同じものであるとは言わないが、ほとんど同じものであったような気がする。キーワードは、「孤独」と「思索」である。このように、人間というものは、考えつくすためには、まず孤独であらねばならないのだ。
Let me now repeat the definition of gravity: ─ Every atom, of every body, attracts every other atom, both of its own and of every other body, with a force which varies inversely as the squares of the distances of the attracting and attracted atom. この引用は、ポオの『ユリイカ』からで、罫線のあとのアルファベットは斜体文字である。ここの訳文は、「今一度重力の定義をくり返しておきましょう、──「あらゆる物体の、あらゆる原子は、その原子間の距離の自乗に逆比例して変化する力で、自らと任意の他の物体とを問わず、自己以外の、すべての原子を牽引する」(訳文の鉤括弧内の言葉にはすべて傍点が付加されている。牧野信一・小川和夫訳) Had we discovered, simply, that each atom tended to some one favorite point ─ to some especially attractive atom ─ we should still have fallen upon a discovery which, in itself, would have sufficed to overwhelm the mind: ─ but what is it that we are actually called upon to comprehend? That each atom attracts ─ sympathizes with the most delicate movements of every other atom, and with each and with all at the same time, and forever, and according to a determinate law of which the complexity, even considered by itself solely, is utterly beyond the grasp of the imagination of man. 「単に、各原子が、ある一つの選ばれた地点に、──あるとくに牽引力の強い一つの原子に、引きつけられるという事実を発見したと仮定してさえも、その発見はそれだけで精神を圧倒するに充分だったことでありましょう。──が、私たちがただ今理解せよと命じられていることはいったいいかなることなのか。すなわち、各原子が牽引し──他のすべての原子のこの上なき微妙な運動に共鳴し、それ一つだけを考えてみても人間想像力の把握をまったく許さぬ複雑さを持った法則に従って、他の一つびとつ、あらゆる原子と、同時に、かつ永遠に、共鳴するということです。」(ポオ『ユリイカ』牧野信一・小川和夫訳)そうなのだ、わたしがポオに魅かれる最大の理由が、このさいごに引用したポオの言葉のなかにあるのだ。自我とかロゴス(形成力)とかいったものの源が論理や法則にあるということを、わたしは確信しているのだった。
窮屈な思考の持ち主の魂は、おそらく、自分自身の魂だけでいっぱいなのだろう。あるいは、他者の魂だけでいっぱいなのだろう。事物・事象も、概念も、概念想起する自我やロゴス(形成力)も、魂からできている。それらすべてのものが、魂の属性の顕現であるとも言えるだろう。わたしたちは、わたしたちの魂を事物・事象や観念といったものに与え、事物・事象や観念といったものからそれらの魂を受け取る。いわば、魂を呼吸しているのである。魂は息であり、息は魂である。わたしたちは息をするが、息もまた、わたしたちを吸ったり吐いたりしているのである。息もまた、わたしたちを呼吸しているのである。魂もまた、わたしたちを呼吸しているのである。あるいはまた、呼吸が、わたしたちを魂にしているとも言えよう。息が、わたしたちを魂にしているとも言えよう。貧しい思考の持ち主の魂は、自分自身の魂だけでいっぱいか、他者の魂だけでいっぱいだ。生き生きとした魂は、勢いよく呼吸している。他の事物・事象、観念といったものの魂と元気よく魂のやりとりをしている。他の魂を受け取り、自分の魂を与えているのである。生き生きとした魂は、受動的であると同時に能動的である。さて、これが、連詩ツイットについて、わたしが考えたことである。ツイッター連詩に参加していたときの、あの魂の高揚感は、受動的であると同時に能動的である、あの自我の有り様は、他者の魂とのやりとり、魂の受け取り合いと与え合いによってもたらされたものなのである。言葉が、音の、映像の、観念の、さいしょのひと鎖となし、わたしの魂に、わたしの魂が保存している音を、映像を、観念を想起させ、つぎのひと鎖を解き放させていたのであった。魂が励起状態にあったとも言えるだろう。いつでも、魂の一部を解き放てる状態にあったのである。しかし、それは、魂が吸ったり吐いたりされている、すなわち、呼吸されている状態にあるときに起こったもので、魂が、他の魂に対して受動的であり、かつ能動的な活動状態にあったときのものであり、励起された魂のみが持ちえる状態であったのだと言えよう。ツイッター連詩に参加していたときのわたしの魂の高揚感は、あの興奮は、魂が励起状態にあったから起こったのだと思われる。というか、そうとしか考えられない。能動的であり、かつ受動的な、あの活動的な魂の状態は、わたしの魂がはげしく魂を呼吸していたために起こったものであるとしか考えられないのである。あるいは、あの連詩ツイットの言葉たちが、わたしの魂を呼吸していたのかもしれない。そうだ。あの言葉たちが、わたしの魂を吸い込み、吐き出していたのだ。しばしば、わたしが忘我の状態となるほどにはげしく、あの言葉たちは、わたしを呼吸していたのだった。
長く書いてしまった。もう少し短く表現してみよう。ツイッター連詩が、思考に与える効果について簡潔に説明すると、つぎのようなものになるであろうか。目で見た言葉から、わたしたちは、音を、映像を、観念を想起する。これが連鎖のさいしょのひと鎖だ。そのひと鎖は、そのときのわたしたちの魂が保存していた音や映像や観念を刺激して呼び起こす。それは、意識領域にあるものかもしれないし、無意識領域にあるものかもしれない。いや、いくつもの層があって、その二つだけではないのかもしれない、多数の層に保存されていた音や映像や観念を刺激し、つぎのひと鎖を連ねるように要請するのである。つぎのひと鎖の音を、映像を、観念を打ち出させようとするのである。このとき、脳は受動的な状態にあり、かつ能動的な状態にある。つまり、運動状態にあるということである。これは、いわば、魂が励起された状態であり、わたしが、しばしば歓喜に満ちて詩句を繰り出していたことの証左であろう。いや、逆か、しばしば、わたしが詩句を繰り出しているときに歓喜に満ちた思いをしたのは、魂が励起状態にあったからであろう。おそらく、脳が活発に働いているというのは、こういった状態のことを言うのであろう。受動的であり、かつ能動的な状態にあること、いわゆる運動状態にあるということだろう。もちろん、連詩ツイットには、書かれていた言葉は一つだけではないので、さまざまな言葉が、読み手の目のなかに、こころのなかに飛び込んでくる。穏やかであった魂の海面をいきなり波立たせるのである。いくつもの言葉がつぎつぎと音となり、映像となり、観念となって、読み手の魂を泡立たせるのである。魂は活性化され、波打ち、泡立ち、魂の海面に、そしてその海面の下に保存していた音を、映像を、観念をおもてに現わし、飛び込んできた音や映像や観念と突き合わせ、自らのうちに保存していた音や映像や観念と連鎖的に結びつけていく。魂の海は、活性化され、波打ち、泡立ち、自ら保存していた音や映像や観念たちをも互いに結びつけていく。まるで噴水のようだ。連詩ツイットのもっとも美しいイメージは、この魂の波打ち、泡立ち、活性化されたもの、噴水にも似たきらめきを放つものだ。日の光の踊る波打ち、泡立つ、海の水。日の光がきらめき輝く、波打ち、泡立つ、海の波のしぶき。まるで噴水のようだ。これが魂の海の騒ぎ、活性化された魂の形容だ。励起状態の魂の形容である。連鎖のひと鎖ひと鎖が、日の光であり、海の水のしぶきであり、それを見つめる目なのだ。
ふだんの生活のなかでも、いくつかの拘束原理に引き裂かれながら、わたしたちは生きている。それを自覚しているときもあれば、自覚していないときもある。ツイットされた連詩を目にしたとき、その詩句を目にしたときに、自分とは異なる自我が繰り出した言葉を目にして、自分とは違ったロゴス(構成力)によって結びつけられた言葉を読んで、こころが沸き立ち、自らの自我を、自らのロゴス(構成力)と衝突させたり、混ぜ合わせたりして、同時的に、おびただしい数の複数の自我とロゴス(構成力)を獲得していったのだろう。あの歓喜は、興奮は、そのおびただしい数の複数の自我とロゴス(構成力)によってもたらされたものなのであろう。生成すると同時に消滅しゆく、あのつぎつぎと生まれては死んでいくいくつもの自我とロゴス(構成力)たち。まさしく、あれは噴水のようであった。魂の海を波立たせ、泡立たせた、あの興奮のあとも、あの歓喜の調べは、わたしのなかで、いまも少しくつづいている。そうだ。以前に、ある一人のゲイの詩人の英詩を翻訳しているときに、 water に、「波のような形を刻みつける」という意味があることを知った。たしか、「魂に波のような皺を刻む」と訳したように記憶している。皺は物質そのものではない。形状のことだ。折れ目と同様に。しかし、それは実在し、目に見えるものなのだ。では、魂の皺もまた魂ではないというのであろうか。わたしのこころの声は、それは違うと言う。思考傾向というものを自我やロゴス(構成力)と同一視することはできないが、きわめて近いものであるとは思われる。これは「理系の詩学」にも書いたことだが、鉄の針を、磁石で一方向に何度もなでつけてやると、その鉄の針が磁力をもつことを、わたしに思い起こさせる。わたしたちの自我とかロゴス(構成力)といったものは、そんな針のようなものでできているのだろうか。そんな針をいくつも、たくさん、わたしたちは持っているのだろうか。しかもその針に磁力をもたらせる磁石の磁力の種類は二種類とは限らない。いくつもの、たくさんの種類の磁力が、磁極が存在するのであろう。磁化されたわたしたちの鉄の針もまた、他者の鉄の針を磁化することになるであろう。互いに磁化し、互いに磁化される、そうした、複数の、おびただしい数の針と磁力からなる、わたしたちの魂の層の複雑さに思いを馳せると、認識の眩暈がする。
ところで、無数の針でできた魂といえば、かつて、わたしが書いた、わたしの詩句を思い出す。「わたしとは、棘(きよく)皮(ひ)を逆さに被ったハリネズミである。」しかし、これは真実からほど遠いものであったようだ。真実は、こうだったのだ。
「わたしとは、無数の針である。」
と。
未だかつて文学が知らない言葉で
つま先立つ
弟よ、
お前の、開かれた、腹に、
残った異国の、
黒い肌の、男の
息と、少しだけの、
精液が、
熱い、
白鳥は、
歪な、造形で、
垂らす汗を、
飲む、
口は、
内臓をひっくり返した、
愛は、
日曜の、午後に、
干からびて、
死ぬ
たった一週間の、
破滅的な息子の、
生、
思い出せ、
エイリアンの、
銀色な、青春に、
垂れる、
水銀の、
歌を
雨の、様に、
してほしい、
または、
風のように、
してほしい、
子宮外生命体、
われら、ツチノコ、
私が叫んだ、
ゾワゾワが
ゾワゾワ集まった、
だから、私はモゾモゾした、
モジモジが、
背中を伝って、
つま先立てた、
七日目
足元に出来た、
水溜まりで、
髪を洗う、
はじめて生んだ子を、
初めての、
叫びへ、
呼ぶために、
また、三日目に
はらわたから、
生きている、
ことを、抜く
恐ろしい、
政治を始める、
ために、私は、
獣の、
信仰を、飲んだ、
四つ足は、
獣の、様に、
しか、
顔を、上げられない、
幽霊だ、
亡霊だ、
「ひどい重力だ
「瞼が開かない、
「ほどに、かなしい、
だから、目を捨てる、
見ることを、
書くことに、垂らす、
まるで、涎みたいに、
欲深いね、
涎には紛い物の、
か 神が宿る、
だから、
人類学者は、
祈る、
破滅的な、
息子に、
しご?
私語、
私の語は、
すでに、死んでいる??
いや、私という語、が
すでに、死んでいた、
起源はすでに、
失われ、
文学的に、
純化された、
私や、
言葉だけが生きている、
つまり、神が宿った後の、
言葉に、
悪魔を、呼び込む、
神によって、焼き払われた、
化膿性が、
一つ、
また、一つ、と、
水ぶくれ、て、
弾ける
「人だよ」
「臭うね」
「人の臭いだ」
「神が化膿した、可能性の一つだよ」
「たがら、ひどく臭う」
「重力の、起源は、これだよ、」
「窒息しそうほどの、人の臭い」
「神が焼き払いまた、焼き払われ、焼きただれた 」
「化膿し、膿が」
「人だ」
「恐ろしいほどに、人だ、人の臭いだ」
だから、私は
はらわたから、
生きている、ことを、
抜く
すでに、
わたしは
言葉として死んでいる、
死語だ、
私語、
私の言葉は、
文学的に純化されて、
死んだ、
何度言わせるんだ!!
雨と共に泣くな、
風のように、悲しむな、
火のように、別れて、
雷のように、
出会った、
あの頃を、
「思い出せない、」
砂漠は好きか、
雨に、打たれるのは、好きか、
誰ももう、私、の、言葉を知らない、
ほど、遠くに、
行きたいか、
文明はない、
なぜなら、わたしを、
うしなったからだ、
松明はない、
言葉を、消すように、
私がまだ、灰の様に幼かった頃、
暗い両生類は、
冷たい出来事を、
「襞」と告げ、
私は、
それは
「弟」か、
または、
「雨のように濡れる」と、
言い直した、
生活の様に、
深く浅い場所に
入り浸る時、
「漏れていくもの」を
「僕」とは言わない
あの、夜、
私の、庭を横切った
雨は、
「帝国」
崩れるように、
風は、
頬を切った、
熱い、
季節は、
まるで、血のように、
沸き出て、
「戦争」へ
この、慈悲をめぐる
残虐な、
国家に、
僕は、今おりていく
(死んでいく、
それも、ぼろぼろと、
零れ落ちて、
またさらに、
死んでいく、ことに、
生きて行くことが、沈んでいくのだ
私が、砕かれ散らばる、
神が散らばる、
あちらこちらに
砕かれた私が、
私から、神が同じように砕かれて散らばる)
獣、神から生まれなかった可能性の一つ、
化膿しなかった、傷、
乾いてしまったままの、
私が、
捨てられる、
深い、
溝、
言葉とわたしを唯一投げ捨てられる、
または、隔てる、
谷、
消えてしまえ、
すべての、
悲しみと、と共に、
言葉たち、
いつか死んでしまう、ことから
生きている、ことを、
削り出す、
獣ように、爪で、
私が、貴方を生きられないように、
貴方も私を生きられない、
「人だよ」
「どこまでもひどく人だ」
「言葉に追われて」
「かなしいか」
「あまりにもかなしくて」
「泣くことよりも早く言葉がでる」
「それも、尽き果てることなく」
「私はあまりにも純化されてもうどこにもいない」
「はず、なのに」
「」呼ばれる
「幽霊に?」
「」悪魔に?
「人に?」
「かなしみだけが」
「広がる」
「どこに?」
「魂も同じだよ」
「あまりにも純化されて」
「私たちは所有できない」
「違うよ魂がもはや、私たちを、私を、所有できないんだ」
「」
広がる、
私が再現なく、
際限なく、広がる、
どこに?
どこにも、
だから、かなしい、
政治、
獣のように、
這いずり回りながら、
涎を垂らし、
私を濡らす、
消えないように、
濡れて、滲む
それ以外にない、
生きのべるすべはない、
私はいるだろう、
あまりにも、
悲しみに満ちてしまっているから
中身がなかった私が悲しみに満ちて、
中身が埋められる、
悲しみで埋める、
ようにして、
私を中身に埋める、
私はいるだろう、
いや、いるようでいない、
いないようで、いる
ようにしか、もう
人と言う、
概念は、底が抜けていて
私はいつも、
底から、漏れ落ちる、
だから広がる、
獣が、それを舐める、
乾きを癒し、
また、涎を垂らすために、
尽きない言葉が、
尽きない悲しみにかわる、
人だ、
ひどいくらいに、
人だ、
だから、なに?
なに?なに?
人の焼き焦げる臭いがする、
だから、
人だ、
うるさい
「重力が晴れるね」
「重力が晴れるとどうなるの?」
「人であることも晴れてしまう
それどころか、すべてが飛びさってしまうよ
かなしみも、喜びも何もかもが、空気も山も、
私以外の何もかもが、そして、私自身すらも、
飛び去ってしまう」
「だから、獣になる?」
「それでもなお、しがみつくために、這いつくばるために、
飛び去ってしまわないように、何もかもが飛び去って
失われても」
「獣には何が残るの?」
「輪郭だけが、何もかもが飛び去って、入れ物だけが、
獣として残るの」
「獣は晴れない?」
「決して晴れない」
「人であること、あったことは、そんなにかなしい?」
「かなしいから、獣になる」
「なにもかも忘れて、失って、それでも、しがみつき、這いつくばる
四つ足で、獣になって、叫ぶの?」
「そうだよ」
「だから、政治をする、姉のように、弟のように、妹のように」
「長く人ではあったが、一度も私は私じゃなかった」
「私は私でいられなかった」
「どこ?」
「だれ?」
「あなた?」
「わたし!?」
また、焼け焦げる、
臭いがする、
人だ、
でも、私は、
いつか、
人であることも、
晴れしまう、
その前に、
私は、
神は、
獣は、
政治をしない、
人は、
政治をする、
政治とは、盗まれた、
炎だ、(何から!?)
人であることすらも、
(私であることすらも)
「貴方でないことすらも、
誰かでもないことすらも、
何者でもないかもしれないことすらも、」
焼き払う、
眼も、
耳も、体も、
魂も、心も、
焼き払うための、
炎だ、
「つまり、地獄だ」
人であることが、晴れますように
あらゆる、人々が、
あの、まだ、幼かった灰の頃の様に
つまり、地獄を思い出しますように
だから、「私は、」
タビラコと仏の座のロゼット
早春から、春の七草のひとつタビラコをよく見ます。それはロゼットの状態で冬を越したタビラコが茎や葉を伸ばし花を咲かせている姿です。
(ロゼットの状態で冬を越した)このロゼットとは植物が地面に対し茎は短く葉は這いつくばるような形態で中心から放射状に生えていることをさして云います。語源は八重咲きの薔薇の花の姿「rosette」より連想されたと伝えられています。植物がロゼットを形成する理由は用途によってさまざまですが、身近に見れるものではキク科のタンポポがあります。
合唱曲「タンポポ」の歌詞の中で「雪の下の故郷の夜、冷たい風と土の中で。」と歌われているのは冬越しするタンポポのロゼットのことでありましょう。タンポポのロゼットはこの歌詞のように根は土の中で、葉は(冷たい風)土の上で冬を越します。
又、タンポポの種子についても申しあげませば、種類や固体により差はありますが、カントウタンポポの種子は9月から10月の時期頃に発芽することが多いといわれています。中には種子の状態で冬越しする丈夫な個体もあるかもしれませんが、タンポポにとっては冷たい冬が訪れる前に発芽し、ロゼットの状態で冬越しをする方が何かと都合が良いのかも知れません。
「ロゼットの短所と長所。」
もちろんロゼットにも短所があります。ロゼットの状態では前述したように茎が短く背丈が低いので、他の大型植物との日光争奪戦では影を背負うことになり、光合成を営む上で非常に不利になります。ですのでロゼットの状態では大型植物が生息できない厳しい環境を選ぶ必要があります。その厳しい環境とは人間の暮らしと営みに近接する水田や畑その畦などです。ロゼットが大型植物と生存競争をしないですむ環境を得れば、背丈が低いという短所も長所に成り替わります。茎を伸ばす必要がないので栄養を貯めておくことができます。地面に対して這いつくばるように生える葉は土の温度を利用し冬の外気温から身を守ることができます。放射状に伸びる葉は隣りの個体と葉が重なり合い光合成を妨げることを未然に防ぎます。
これらの条件はタンポポと同じキク科に属する主題のタビラコにも大凡通用するでしょう。
「タビラコと春の七草。」
タンポポやタビラコ以外にもロゼットで冬越しする植物はたくさんあります。その中で身近なところから論うと春の七草のうちの5種類はこのロゼットの状態になっています。セリ、ナズナ、ハハコグサ、ハコベ、そしてホトケノザ(タビラコ)です。 このキク科のタビラコは大きく分けて3種類存在します。そのうち春の七草として一般的に食されるタビラコはコオニタビラコという種類です。その他にはオニタビラコ、ヤブタビラコという種類があります。
「ムラサキ科のミズタビラコとキク科のタビラコとシソ科のホトケノザ。」
キク科のタビラコとは別にミズタビラコと呼ばれる植物があります。これはムラサキ科の植物で容姿はキク科のタビラコとは大きく異なります。このムラサキ科のミズタビラコの名の由来はコオニタビラコと似たような場所に生息し、開花も同じ時期頃だからではないかと思われます。
タビラコを漢字では田平子と書きます。字から見てとれるようにタビラコは水田の畦道など湿った場所に多く見ることができます。
この田平子とはコオニタビラコをさしています。このコオニタビラコは春の七草では仏の座という名で呼ばれており、食品売り場などで春の七草としてその季節に販売されています。通常、仏の座として市場に流通しているのは前述したこのコオニタビラコでありますが、購入後、花が咲くまで待ってみると、それはコオニタビラコではなくオニタビラコだったという話もあるようです。何れにせよタビラコはロゼットの部分を蓮華座に例え仏の座として呼ぶのが通説です。
又、ホトケノザという名の植物にはキク科のタビラコとは別にシソ科のホトケノザが存在しています。分類上ではキク科のタビラコはシソ科のホトケノザにその名を譲ります。従ってキク科のタビラコは春の七草のときには仏の座(ホトケノザ)と呼び、それ以外はタビラコと呼ぶのが相応しいと思います。
「オニタビラコとコオニタビラコ・ヤブタビラコの違いを花径で見分ける。」
これら3種類のタビラコはいったいどのような花を咲かせるのかと申しますと、みなさん花を見ていちばん目につくのは花弁かと思われますが、花弁の色はすべて黄色です。花弁の枚数については個体によって様々ですが、コオニタビラコの花弁が7枚〜9枚に対しコオニタビラコやヤブタビラコの花弁は18枚と記述している図鑑をみたことがあります。しかし実際には観察時に花弁がいくつか散ってしまっている恐れもありますので、花弁の枚数で種類を正確に見分けるのは非常に難しいと思います。
花径(花の直径)の違いではコオニタビラコやヤブタビラコの花径が1センチなのに対しオニタビラコの花径はひとまわり小さく0・8ミリ程度です。しかしオニタビラコの背丈はコオニタビラコやヤブタビラコよりも大きく20センチから1メートルまで成長し葉の(鋸歯)はコオニタビラコやヤブタビラコよりもギザギザと深裂し葉裏は多毛で鋸歯の先に棘が確認できます。又、オニタビラコには、赤鬼と青鬼があり、葉や茎に赤みを帯びたものをアカオニタビラコと呼び、緑色を帯びているものをアオオニタビラコと呼びます。花弁について少し説明を付け加えておきますと、これらの花弁は一枚がひとつの花です。従ってひとつの花が集まり、我々が目にする花の形を形成しています。これを頭状花と呼びます。
「コオニタビラコとヤブタビラコの違いを葉で見分ける。」
コオニタビラコとヤブタビラコの見分け方を説明をする前に、一度おさらいしておきますとオニタビラコの花径は0・8ミリ、コオニタビラコやヤブタビラコの花径は1センチです。
コオニタビラコの背丈は20センチまで伸びます。一方ヤブタビラコの背丈は大きく40センチまで伸びます。花はどちらも似ており見分けがつきにくいので葉の違いで見分けるようにします。
コオニタビラコの葉裏に毛が生えていませんが、ヤブタビラコの葉裏には毛が生えています。ヤブタビラコの葉はコオニタビラコに比べて鋸歯はやんわりと深く裂けコオニタビラコのような丸みが少なく鋸歯の先端に小さな棘が確認できます。
しかし実際に屋外で観察するとこれらヤブタビラコ・コオニタビラコ・オニタビラコは交雑しているのではないだろうかと思ってしまうくらいにコオニタビラとヤブタビラコを見分けるのは難しく感じています。しかし葉の丸み、棘や毛の有無という点に視点を絞り観察すれば多少見分け易くなると思います。
又、オニタビラコとは異なりヤブタビラコとコオニタビラコには綿毛(冠毛)がないという点は見分けるポイントになりましょう。しかしこれも実際に屋外で観察すると綿毛は見受けられないが葉はオニタビラコのように見受けられる個体と遭遇したりすることがありますので、やはりコオニタビラコの葉は丸く毛がなく鋸歯の先に棘がないという点だけで、これは食用に向いているということを想像しながら見分け判断基準にするのがよいと思われます。
「その他の見分け方。」
「オニタビラコ」
・冠毛(綿毛)がある。
・葉や茎を切ると白い乳液がでる。
・花の後、総苞の基部が膨らむ。
※ 総苞とは主にキク科にみられる花序全体の基部を包む苞。萼と似ていますが萼とは呼びません。
「コオニタビラコ」
冠毛(綿毛)がない。
花の後、総苞は円筒形で膨らまない。
花の後、花柄が伸び下に向く。
※ 花柄とは花や実を支える茎のことです。
「ヤブタビラコ」
花の後、総苞が全体的に丸く膨らむ。
花弁の黄色がコオニタビラコに比べやや淡い。
「タビラコと仏の座の名についての様々な意見。」
「〓嚢抄」1446年「運歩色葉集」1548年「連歌至宝抄」1585年では田平子と仏の座が並んで挙げられています。それを「〓嚢抄」に見てみますと、
《或歌には、せりなづな五行たびらく仏座あしなみみなし是や七種》
これには、セリ・ナズナ・ゴギョウ・タビラコ・ホトケノザ・アシナ・ミミナシ、是や7種。とありタビラコ(たびらく)とホトケノザ(仏座)が並んで挙げられているので、ここではタビラコとホトケノザが別種であるように見受けられます。
貝原益軒の「大和本草」1709年に、
《仏の座(ホトケノザ)賤民、飯に加え食う、是れ古に用いし、七種の菜なるべし。一説に仏の座は田平子なり。》
とあります。又、同書には、
《黄瓜菜(たびらこ) 本邦人曰、七草ノ菜ノ内、仏座是ナリ。四五月黄花開く。民俗飯に加ヘ蒸食ス。又アヘモノトス。味美シ、無毒。》
とあります。黄瓜草は4月5月に黄色い花をつけるのですから、この黄瓜菜はキク科のタビラコの仲間のオニタビラコ・コオニタビラコ・ヤブタビラコ、若しくは同じキク科の二ガナ・ハナニガナであると考えられます。しかし、貝原益軒の「大和本草」では、ホトケノザとタビラコという二つの名に対しその見解がどちらも殆ど同じであることに対し、
牧野富太郎「植物記 春の七草」1943年で、
《今日世人が呼ぶ唇形科者のホトケノザを試しに煮て食って見たまえ、ウマク無い者の代表者は正にこの草であるという事が分る、しかし強いて堪えて食えば食えない事は無かろうがマー御免蒙るべきだネ、しかるに貝原の『大和本草』に「賤民飯ニ加エ食ウ」と書いてあるが怪しいもんダ、こんな不味いものを好んで食わなくても外に幾らも味の佳い野草がそこらにザラにあるでは無いか、貝原先生もこれを「正月人日七草ノ一ナリ」と書いていらるるがこれも亦間違いである、そうかと思うと同書タビラコの条に「本邦人日七草ノ菜ノ内仏ノ座是ナリ、四五月黄花開ク、民俗飯ニ加え蒸食ス又アエモノトス味美シ無毒」と書いてあって自家衝突が生じているが、しかしこの第二の方が正説である、同書には更に「一説ニ仏ノ座ハ田平子也ソノ葉蓮華ニ似テ仏ノ座ノ如シソノ葉冬ヨリ生ズ」の文があって、タビラコとホトケノザとが同物であると肯定せられてある、そしてこの正説があるに拘わらず更に唇形科の仏ノ座を春の七種の一つダとしてあるのを観ると貝原先生もちとマゴツイタ所があることが看取せられる》
これを今風に訳しますと、
(現在でいうシソ科のホトケノザを食ってみればわかるだろう、不味い食い物の代表のような植物だ。それでも無理矢理に食べれば食べられないわけでもないけど、これはオススメできないネ。しかし、貝原益軒さんは「大和本草」で、身分の低い人々はこのホトケノザ(シソ科)を飯に混ぜて食うと書いているけれど怪しいもんだ。わざわざこんな不味いものを好んで食べなくても外に出たらこれより美味しい野草がたくさんあるではないか。又、そうかと思うと同書には、ホトケノザ(シソ科)は人日(五節句のひとつ)に食べると書いているけれど、これも間違っている。又、そうかと思うと、同書のタビラコの項に、タビラコは日本の五節句に食べる七草の一つで4月〜5月に黄色い花が咲き、皆はこれを飯に加えて蒸して食べたり、和え物にしても美味しいし毒もないと…。これではホトケノザとタビラコの説明が同じになってしまっているのだが、これは後者のタビラコの方が正しい説明である。又、更に同書には、一説にはホトケノザはタビラコであり、その葉が蓮華座に似ており仏の座のようでその葉は冬から生えている。という文があって、タビラコとホトケノザは同じであると説いているのに、シソ科のホトケノザを春の七草の一つだと言っているなんて、貝原先生も少し迷っておられるようだ。)
牧野富太郎は実際にシソ科のホトケノザを食してみたのでしょう。そして悪列な味を経験しシソ科のホトケノザとキク科のタビラコを区別したうえで、貝原益軒の説に従い黄瓜菜をコオニタビラコと特定しているようです。この特定によるコオニタビラコが春の七草の仏の座として今に伝わっています。
「黄瓜菜とキュウリグサ・ミズタビラコついて。」
音読という視点に立ち返り眺めると、貝原益軒の「大和本草」に登場する「黄瓜菜」は、牧野富太郎が特定したキク科コオニタビラコではなくキュウリグサ(ムラサキ科)と呼ばれる植物であると考えられるでしょう。このキュウリグサは前述したミズタビラコと非常に容姿が類似しておりこれらは同種として扱われることがあります。しかしキュウリグサ(ムラサキ科)とミズタビラ(ムラサキ科)は別種であるという説が私には色濃いです。
「コオニタビラコではなくヤブタビラコ。」
又、牧野富太郎が特定したキク科ホトケノザであるコオニタビラコは、1862年、飯沼慾斎の「草木図説」のコオニタビラコの図に列記されています。しかしこの飯沼慾斎の「草木図説」のコオニタビラコの図はコオニタビラコではなくヤブタビラコのように見受けられます。
「春の七草は12種、ホトケノザとはオオバコである。」
柏崎永似「古今沿革考」1730年で、春の七草は7種類に限らず12種類あり、尋常なのが七草であり、またその七草のホトケノザとは、オオバコ(シソ目オオバコ科)のことだと記しています。オオバコという植物もロゼットを形成します。このオオバコは生薬として著名です。
「タビラコの本名はカワラケナ、そのカワラケナの昔の名がホトケノザである。」
牧野富太郎 「牧野日本植物図鑑」1940年に、
《小野蘭山時代頃よりしてその以後の本草学者は春の七種の中のホトケノザを皆間違えている、これらの人々の云うホトケノザ、更にそれを受継いで今も唱えつつある今日の植物学者流、教育者流の云うホトケノザは決して春の七種中のホトケノザでは無い、右のいわゆるホトケノザは唇形科に属してLamium anplexicaule L.の学名を有し其処此処に生えている普通の一雑草である、欧洲などでも同じく珍しくもない一野草で自家受精を営む閉鎖花の出来る事で最も著名なものである、日本のものも同じく閉鎖花を生じその全株皆悉く閉鎖花のものが多く正花を開くものは割合に少ない、秋に種子から生じ春栄え夏は枯死に就く、従来の本草者流はこれが漢名(支那の事)を元宝草と謂っているが、これは宝蓋草(一名は珍珠蓮)と称するのが本当である、この事が春の七種中のホトケノザでは無いとすると然ればその本物は何んであるのか、即ちそれは正品のタビラコであって今日云うキク科のコオニタビラコ(漢名は稲槎菜、学名はLampsana apogonoides Maxim.である、このコオニタビラコは決してこの様な名で呼ぶ必要は無くこれは単にタビラコでよいのである、現にわが邦諸処で農夫等はこれをタビラコとそう云っているでは無いか、このキク科のタビラコが一名カワラケナであると同時に更に昔のホトケノザである。(即ちコオニタビラコ〔植物学者流の称〕=タビラコ〔本名〕=カワラケナ〔一名〕=ホトケノザ〔古名〕) 》
とあります。常日頃から野草に接し野草と共に生活する人々の目線に立ちタビラコを眺めていることがひしひしと伝わってきます。このひしひし感を失わないよう引用文をわかりやすく今風に書き直ししますと以下のようになります。
「小野蘭山さんの研究以降多くの植物学者達は春の七草の7種を履き違えて捉えている。更にこの研究を引き継ぐ者達、教育者が云うホトケノザを春の七草の7種に入れてしまっている。
このホトケノザとはシソ科に属していて学名はLamium anplexicaule L.である。欧州でもふつうに見ることができる一野草で、開花しなくても自家受精し結実する閉鎖花として有名だ。日本でもふつうに見ることができるし、これもやはり閉鎖花で開花しているものを見ることは少ないそこらへんに生えているふつうの雑草だ。秋に種を落とし春に咲き夏に枯れる。
従来の学者ときたらこのホトケノザ(シソ科)のことを漢字で元宝草(ツキヌキオトギリ)と呼んでいる。これも間違いである。本来ホトケノザ(シソ科)は漢字では宝蓋草(或いは珍珠蓮)と呼ぶ。
ではシソ科のホトケノザが春の七草の7種に入ってないとするならば何をもって真の仏の座と呼ぶかと云うとそれはタビラコである。今日云うキク科のコオニタビラコ(漢名は稲槎菜、学名はLampsana apogonoides Maxim.である。
しかしコオニタビラコをこのような名で呼ぶ必要はなく、タビラコの名にコオニもオニもヤブも必要なく農夫達が呼ぶようにタビラコと呼べば良いのである。コオニタビラコ・オニタビラコ・ヤブタビラコとは植物学者風の呼び方で、そもそもタビラコはタビラコなのである。これらは農夫達にとってはひとえにカワラケナと呼ばれており、これこそがタビラコの本名である。そしてこのカワラケナの古い呼び名がホトケノザなのである。」
となります。
これは上述した(牧野富太郎「植物記 春の七草」1943年)とほぼ同じことを言っているのですが、シソ科のホトケノザのことを更に詳しく学術的に説明し小野蘭山以降の間違いを指摘しています。閉鎖花とは開花することなく自家受精し結実する植物のことです。他の媒介者に頼らないで受精するので純系に近い性質を保ちます。又、学名と漢名を用いて更につよく小野蘭山以降の間違いを指摘しています。そして後半ではひとえにカワラケナと云うのはタビラコの本名であり仏の座という旧名を持つとも述べています。
このカワラケナとはどのような植物達なのか非常に気になります。
「カワラケナからみた仏の座。」
小野蘭山「本草綱目啓蒙」1803年で、小野蘭山は仏の座はムラサキ科のものとみなしています。小野蘭山の見解のムラサキ科とは前述したミズタビラコ或いはキュウリグサのことでしょう。これに対し牧野富太郎は「植物学九十年」1956年で、仏の座はカワラケナつまりキク科のタビラコだと述べています。
又、カワラケナをインターネット検索すると、牧野富太郎の見解である(カワラケナとはコオニタビラコの別名。)という記事が圧倒的に多いのですが、その中にカワラケナはムラサキサギゴケ(ゴマノハグサ科)とするキラ星の如き記事が見つかりました。この少数意見に視点を合わせてみるとムラサキサギゴケ(ゴマノハグサ科)の容姿は、コオニタビラコ(キク科)よりもミズタビラコやキュウリグサ(ムラサキ科)に似ています。
そしてこのムラサキサギゴケもコオニタビラコやミズタビラコ・キュウリグサと同じような水田など湿った場所に生息しロゼットを形成します。
「ふたたび未来に仏の座。」
私は牧野富太郎の
このコオニタビラコは決してこの様な名で呼ぶ必要は無くこれは単にタビラコでよいのである、現にわが邦諸処で農夫等はこれをタビラコとそう云っているでは無いか、
に従い現在のカワラケナの別名はコオニタビラコという通説に
ムラサキサギゴケ(ゴマノハグサ科)
ミズタビラコ(ムラサキ科)
キュウリグサ(ムラサキ科)
オオバコ(シソ科)
オニタビラコ(キク科)
ヤブタビラコ(キク科)
の7種を追加したいと思います。
又、更に春の七草の仏の座であろう植物に
オニタビラコとヤブタビラコ(タビラコの別種として)
カワラケナ・黄瓜草・オオバコ(仏の座の別名として)
を含めようと思います。
するとその名称の総数は10に及びます。
・キク科:コオニタビラコ(黄瓜草/カワラケナ)/オニタビラコ/ヤブタビラコ
・シソ科:ホトケノザ
・ムラサキ科・キュウリグサ/ミズタビラコ(黄瓜草/カワラケナ)
・オオバコ科:オオバコ
・ゴマノハグサ科:ムラサキサギゴケ(カワラケナ/黄瓜草)
人日に七草を食する古よりのしきたりを万民の為に保存しようする問いかけに多くの植物に対する人間の答えはひとつでありましょう。あとはイロイロ食するのみです。
※ 毒草として有名なトリカブトは、ゲンノショウコ(薬草)によく似た葉でロゼットを形成します。他の毒草にもロゼットを形成する種が多くあります。
詩の日めくり 二〇一七年四月一日─三十一日
二〇一七年四月一日 「ある注」
ディラン・トマスの268ページの全詩集のページ数に驚いている。こんなけしか書いてないんやと。散文はのぞいてね。こんなけなんや。ぼくはたくさん書いてるし、これからもたくさん書くだろうけれど。あした、新しい『詩の日めくり』を書いて、文学極道の詩投稿欄に投稿しよう。
左手の指、関節が痛いのだけれど、これって、アルコール中毒の初期症状だったっけ? まあ、いいや。齢をとれば、関節が痛くなったって、あたりまえだものね。いまから日知庵に行ってきませり。
二〇一七年四月二日 「担担麺」
日知庵から帰ってきて、セブイレで買ったカップラーメンの担担麺を食べた。帰りは、えいちゃんと西院駅までいっしょ。日知庵では、きょうも、Fくんと楽しくおしゃべり。さて、いまから、あしたの夜中に文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』の準備をして眠ろう。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年四月三日 「孤独」
チャールズ・シェフィールドのSF短篇連作集『マッカンドルー航宙記』を読んでいたら、眠れなくなった。どうしよう。とりあえず、自販機のところまで行って、ヨーグリーナを買ってこよう。3月になって、毎晩のようにお酒を飲んでいると、夜中に、もう明け方近くだけれど、これが飲みたくなるのだ。
孤独ともあまりにも長いあいだいっしょにいると、さも孤独がいないかのような気分になってしまうもので、孤独の存在を忘れてしまい、自分が孤独といっしょにいたことさえ忘れ去ってしまっていることに、ふと気づかされたりすることがある。音楽と詩と小説というものが、この世界に存在するからだろう。
二〇一七年四月四日 「メモ」
わけのわからないメモが出てきた。日付けはない。夢の記述だろうと思う。走り書きだからだ。「足に段がなくても/階段はのぼれ」と書いてあった。「のぼれる」ではなくて「のぼれ」でとまっているのは、書いてまたすぐに睡眠状態に入った可能性がある。まあ、ここまで書いて、また眠ったということかな。
二〇一七年四月五日 「ミステリー・ゾーン」
いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ。寝るまえの読書は、なににしようかな。きのう、『ミステリー・ゾーン』をぱらぱらめくってた。2つめの話「歩いて行ける距離」が大好き。きょうは、『ミステリー・ゾーン』の2や3や4をぱらぱらめくって楽しもうかな。もう古いものにしか感じなくなっちゃったのだけれど、しばらくしたら、英米の詩人たちやゲーテについて書くために、海外の詩集を読み直そうと思う。すでに書き込みきれないくらいのメモがあるのだけれど、それらは読み直しせずに、新たな目でもって海外の詩人の作品を読み直したいと思う。ぼくはやっぱり海外の詩人が好きなのだな。
二〇一七年四月六日 「大岡 信先生」
いま日知庵から帰った。大岡 信先生が、きのうの4月5日に亡くなっていたということを文学極道の詩投稿欄のコメントで知ったばかりだ。きのうと言っても、いま、6日になったばかりの夜中で、きょうもヨッパであるが、大岡 信先生は、1991年度のユリイカの新人に、ぼくを選んでいただいた選者であり、大恩人である。じっさいに何度かお会いして、お話もさせていただいた方である。これ以上、言葉もない。
二〇一七年四月七日 「ブライトンの怪物」
SF短篇を思い出してネットで検索している。どの短篇集に入っているかわからないのだ。タイムスリップした広島の原爆被害者(入れ墨者)が、化け物扱いされてむかしのイギリスに漂着した話だ。悲惨なSFなのだが、持ってる短篇集にあるのだろうが、あまりに数が多すぎて何を読んだかわからないのだ。
あった。偶然手に取ったジェラルド・カーシュの短篇集『壜の中の手記』に入っていた。「ブライトンの怪物」というタイトルだった。そうそう。気持ち悪いのだ。それでいて、かわいそう。これ読んで寝る。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年四月八日 「遅れている連中」
シェフィールドの『マッカンドルー宙航記』を読み終わった。たいしておもしろくなかった。
文学極道のコメント欄で、ぼくの『詩の日めくり』が日記だから、詩にならないと主張する者が現われた。まあ、しじゅう現われるのだが、詩に多様性を認めるぼくの目から見たら、何十年、いや百年は遅れている連中だなと思う。紙媒体で、そんな批判されたことなどないけれど、ネットのほうが遅れているのかなという印象をもつ。ぼくの『全行引用詩』も、しじゅう、文学極道で、詩ではないと言われる。いったい詩とは何か。ぼくは拡張主義者であるのだが、せまい領域に現代詩の枠をはめておきたい連中がいるのである。遅れているだけでなくて、ぼくのようなものの足を引っ張るのはぜひやめてくれと言いたい。
二〇一七年四月九日 「桜の花びら」
これから朝マックに。きのうは、コンビニの弁当とカップラーメン。弁当、はじめて買ったやつで超まずかった。ロクなもの、食べてないな。
いま大谷良太くんちから帰った。昼はベーコンエッグ、夜はカレーをご馳走になった。ありがとうね。5階のベランダでタバコを吸っていると、桜の花びらが隅に落ちていたので見下ろすと、桜の木のてっぺんが10メートルほど下にあって、ああ、風がこんな上の方にまで運んだのだなと思った。彼が住んでいる棟は、たしか10階まであったと思うんだけど、いったい何階まで風によって桜の花びらがベランダに運ばれているのかなと思った。「きょうは、きのうまでと違って、寒いね。」と言うと、大谷くんが、「花冷えと言うんですよ。」ぼくはうなずきながら、ああ、花冷えねと返事をした。花冷えか。考えると、不思議な言葉だ。花が気温を低くするわけでもないのにね。そういえば、きょう、桜の花が満開だったけれど、明日は雨だそうだから、きっと、たくさんの桜の花びらが散るだろうね。むかし、と言っても15年ほどむかしのことだけど、高瀬川で桜の花びらが、つぎつぎと流れてくるのを目にして、ああ、きれいだなって思ったことがあるんだけど、そのことをミクシィの日記に書いたら、ある方が、「それを花筏と言うんですよ。」と書いて教えてくださった。その経緯については、2014年に思潮社オンデマンドから出したぼくの詩集『ゲイ・ポエムズ』に収録したさいごの詩に書いている。花筏。はないかだ。波打つ川面。つぎつぎと流れ来ては流れ去ってゆく桜の花びら。ぼくが20代のときに真夜中に見た、道路の上を風に巻かれて、大量の桜の花びらがかたまって流れてくるのを見たときほどに、美しい眺めだった。花など、ふだんの生活のなかで見ることはないだけに、ことさら目をひいた。そいえば、おしべとか、めしべとかって、動物にたとえると、生殖器のようなもので、花びらって、そのそとにあるものだから、さしづめ、花のパンツというか、パンティーみたいなものなのだろうか。風に舞う数千枚のパンツやパンティー。川面を流れるカラフルなパンツやパンティーを、ぼくの目は想像した。
きょう、Amazon で販売しているぼくの詩集『詩の日めくり』(2016年・書肆ブン)に、商品説明文がついた。「田中宏輔、晩年のライフワーク。21世紀の京都・四条河原町に出現したイエス・キリスト。『変身』の主人公、グレゴール・ザムザの変身前夜の物語。日本が戦争になっている状況。etc...詩や詩論、翻訳や創作メモを織り混ぜた複数のパラレルワールドからなる、「日記文学」のパロディー。」っていうもの。いまでも、『詩の日めくり』では、いろいろな実験を行っているが、書肆ブンから出された、第一巻から第三巻までのころほど奇想天外なものはなかったと思っている。
きょう、大谷良太くんに見せてもらった小説の冒頭を繰り返し読んでいて、ああ、ぼくもさぼっていないで、書かなくては、という気にさせられた。というわけで、これから5月に文学極道の詩投稿欄に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをする。これって、とても疲れるのね。自由連想で詩を書くほうが百倍も楽ちんだ。打ち込み間違いなく打ち込もうとすると、目が疲れるし、目が疲れると、頭が疲れるし。いいところは、かつてこのようなものをぼくは栄養にしていたのだったと確認できることと、文章の意想外の結びつきに連想される情景がときには尋常ではない美しさを持つこととかかな。
二〇一七年四月十日 「完壁」
奥主 榮さんから、詩集『白くてやわらかいもの、をつくる工場』(モノクローム・プロジェクト発行)を送っていただいた。ぼくははじめ、目次のタイトルをざっと見て、あとがきをはじめに読むタイプなので、いつもどおりに、そうしてみた。目次には、ぼくならつけないようなタイトルが並んでいた。 それはべつに読むときにマイナスなわけではなく、逆に、どんな詩をかいてらっしゃるのだろうかという興味をそそるものだった。詩集全体は、たとえば、「路面」というタイトルの詩にある「誰もが小さな一日を重ねる」だとか、「長く辛い時代を歩かなければならないから」というタイトルの詩にある「誰とも何ものかを分かち合うことなく/群れることなく 毎日の重さに/耐えていくしかなく」といった詩句に見られるような、社会と個人とのあいだの葛藤を描出したものが多く、しかも使われる用語が抽象的なものが多くて、具体的な事柄がほとんど出てこないものだった。いまのぼくは、ことさらに具体的な事柄に傾斜して書くことが多いので、その対照的な点で関心を持った。「風はまだ変わらないのに」といったタイトルの詩のようにレトリカルなものもあるが、「おいわい」というタイトルの詩にあるように、奥主 榮さんの主根はアイロニーにあると思う。とはいっても、「いきもののおはなし」という詩にある「生きるということは/その一つの身体の中で/完結してしまうものではなく/世界とかかわりつづけることなので」という詩句にあるように、向日性のアイロニーといったものをお持ちなのだろう。冒頭に置かれた「昔、僕らは」というタイトルの詩に、「咲き乱れる さくら」という詩句があって、きょうのぼくの目が見た桜の花を思い起こさせたのだった。ついでに、も一つ。3番目に収められた「ぬくぬくぬくとこたつむり」という詩の第一行目に、「紫陽花」という言葉があったのだが、27、8歳まで詩とは無縁だったぼくは、「紫陽花」のことを「しようばな」と音読していたのであった。「紫陽花」が「あじさい」であることを知るには、自分がじっさいに、「あじさい」という言葉を、自分の詩のなかで使わなければならなかったのである。30代半ばであろうか。たしか、シリーズものの「陽の埋葬」のなかの1つに使ったときのことであった。そいえば、ぼくは28歳になるまで、「完璧」の「璧」を、ずっと「壁」だと思っていたのだけれど、という話を、日知庵かどこかでしたことがあって、「ぼくもですよ。それ知ったの社会に出てからですよ。」みたいな言葉を耳にした記憶があって、なんだか、ほっとした思いがしたことがあったのであった。自分の作業(『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込み)に戻るまえに、さいごに、も1つ。詩集『白くてやわらかいもの、をつくる工場』の著者、奥主 榮さんのご年齢が奥付を見てもまったくわからないのだが、語彙の選択から見て、ぼくとそう変わらないような気がしたのだけれど、どうなのだろう?若いときには、ぼくは、作者の年齢などどうでもよいものだと思っていたのだが、56歳にもなると、なぜだか、作者の年齢がむしょうに気になるのであった。理由はあまり深く考えたことはないのだけれど、さいきん、ぼくと同じ齢くらいの方の詩に共感することが多くて、っていうのがあるのかもしれない。
ひとと関わることによって、はじめて見る、聞く、知ることがあるのである。
PCを前にして過ごすことが多くなった。毎晩のように飲みに行ってたけど、あしたからは、そうはいかない。きょうは、これで作業を終えて、PCを切って寝る。おやすみ、グッジョブ! きょう、ワードにさいごに入力したのは、タビサ・キングの『スモール・ワールド』の言葉だった。笑ける作品だった。
二〇一七年四月十一日 「Rurikarakusa」
4時30分くらいに目がさめた。学校が始まる日は、たいてい4時30分起き。緊張してるのかな。部屋を出るまで時間があるので、新しい『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みでもしていよう。それで疲れないように適当に。
5月に文学極道の詩投稿掲示板に投稿するさいしょの『全行引用による自伝詩。』の打ち込みが終わった。さて、これから着替えて、仕事にいく準備だ。めっちゃ緊張する。
仕事から帰ってくると、郵便受けに、あの江戸川乱歩の小説みたいな詩を書いてらっしゃる草野理恵子さんから、同人誌『Rurikarakusa』の4号を送っていただいていた。お便りと、同人誌に掲載されている2つの詩を読ませていただいた。「飲み込んだ緑の馬を吐き出してみたが/半分溶けていたので仕方なくまた飲み込んだ」といった詩句や、「のっぺらぼうに与える/今日の模様は切ったスイカだった」といった詩句で、ぼくを楽しませてくださった。「緑色の馬/スープ」という作品の冒頭3行は、大いに、ぼくも笑った。「緑色の馬が妻と子をのせて部屋の中を回っている/曲芸のつもりなのだろうか/僕を笑わせようとしているのだろうか」こんな光景は現実的ではないが、ぼくの創造の目は、たしかに妻と子をのせた緑色の馬が部屋の中を回っているのだった。草野理恵子さんのは奇譚の部類になるのかな。あるいは、怪奇ものと言ってもいいと思う。そのグロテスクな光景に、なにゆえにかそそられる。
ご同人に、青木由弥子さんという方がいらっしゃって、その方の「現況」という詩のなかの第3連目に大いに考えさせられるところがあった。「空の底にたどりついたら、反響してもどってくるはず、(…)」というところだけれど、短歌や俳句で、ときおり「空の底」という表現に出くわす。「空に沈む」とかもだけれど、「空の底にたどりついたら」という発想は、ぼくにはなかった。これは、ぼくがうかつだという意味でである。考えを徹底させるという訓練が、56歳にしてもまだまだ足りないような気がしたのであった。訓練不足だぞという声掛けをしていただいたようなものだ。貴重な経験だった。すばらしいことだと思う。知識を与えられたということだけではなく、考え方を改めさせられたということに、ぼうは目を見開かされたような気がしたのだった。これから、なにを読んだり、なにかをしたり、見聞きしたときにも、この経験を活かせるように、自己鍛錬したいものだと思った。できるかどうかは、これからの自分の心がけ次第だけれどもね。草野理恵子さんのお便りと同人誌の後書きにも書いてあったのだけれど、草野理恵子さんの息子さんがSF作家らしくて、ご活躍なさっておられるご様子。親子で文学をしているって、まあ、なんという因果なのでしょうね。ぼくも父親の影響をもろにかぶっているけれども。でも、ぼくの父親は書くひとではなくて、読むひとであったのだけれど。ぼくの小学校時代や中学校時代の読み物って、父親の本棚にあるものを読んでいたので、翻訳もののミステリーとかSFでいっぱいだった。ぼくよりずっと先にフィリップ・K・ディックを読んでいるようなひとだった。亡くなって何年になるのだろう。親不孝者のぼくは知らない。たしか亡くなったのは、平成19年だったような気がするのだけれど、『詩の日めくり』のどこかに書いたことがあるような気がするのだけれど、正確に思い出せない。そだ。いくよいく・ごおいちさん。平静19年4月19日の朝5時13分だったような気がする。そだそだ。朝5時15分だったら、「いくよいく・ごお・いこう」になるのに、あと2分長く生きていてくれたらよかったのになって思ったことを思い出した。父親が亡くなったときの印象は、遺体はたいへん臭いというものが第一番目の印象だった。強烈に、すっぱい臭さだった。びっくりしたこと憶えてる。父親の死は何度も詩に書いているけれど、実景にいちばん近いのは、ブラジル大使館の文化部の方からの依頼で書いた、「Then。」だろう。のちに、「魂」と改題して、『詩の日めくり』のさいしょの作品に収めた。その批評を、藤 一紀さんに書いていただいたことがあった。のちに、澤あづささんがもろもろの経緯を含めて、みんなまとめてくださったページがあって、この機会に読み直してみた。よかったら、みなさんも、どうぞ見てくだされ。こちら→http://blog.livedoor.jp/adzwsa/archives/43650543.html…
ありゃ、『Then。』は、『偶然』というタイトルに変更して、『詩の日めくり』のさいしょの作品に収録していたものだった。『魂』は、べっこの作品だった。塾からいま帰ったのだけれど、塾の行きしなに、あれ、間違えたぞってなって、部屋に戻ってたしかめた。藤 一紀さん、澤 あづささん、ごめんなさい。
きょう、学校で、昼間、20冊の問題集と解答をダンボール箱に入れて、2回運んだんだけど、ここ数十年、重いものを持ったことがほとんどなかったので、腰をやられたみたい。痛い。お風呂に入って、クスリを塗ったけれど、まだ痛い。齢だなあ。体重が去年より8キロも増えていることも原因だと思うけれど。
きょう、塾からの帰り道、「ぼくを苦しめるのは、ぼくなんだ。」といった言葉がふいに浮かんだ。「だったら、ぼくを喜ばせるのも、ぼくじゃないか。なんだ。簡単なことかもしれないぞ。やり方によっては。」などと考えながら帰ってきたのだが、どうだろう。やり方など簡単に見つからないだろうな。
腰が痛いので、もう一度、お風呂に入って、あったまって寝よう。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年四月十二日 「現況」
きょう、機会があって、金子光春の詩を読んで、いったい、ぼくは、なんでこんなすごい詩人をもっと読まなかったんだろうなって思った。「ぼくはあなたのうんこになりました」みたいな詩句に出合っていたのに、なぜ見逃していたんだろう。ってなことを考えていた。部屋の本棚にある光春の詩集にはない詩句だ。
きのう、青木由弥子さんという方の「現況」というタイトルの詩の「空の底にたどりついたら、反響してもどってくるはず、(…)」という詩句について書いたが、きょう仕事の行きしなに、その詩句から室生犀星の詩句が(と、このときは思っていた)思い出された。「こぼれた笑みなら、拾えばいいだろう」だったか、「こぼれた笑みなら、拾えるのだ」だったかなと思って、仕事場の図書館で室生犀星の詩集を借りて読んだのだが見つからなかった。仕事から帰り、部屋に戻って、本棚にある室生犀星の詩集を読んだのだが見つからなかった。青木由弥子さんの発想が似ていたような気がして、気になって気になって、部屋の本棚にある日本人の詩集を読み返しているのだが、いまだ見つからず、である。もし、どなたか、だれの詩にあった言葉だったのかご存知でしたら、お教えください。もう、気になって気になって仕方ないのです。部屋にある詩集で目にした記憶はあるのですが見つからないのです。シュンとなってます。
ついでに授業の空き時間に、金子光春の詩集を図書館で読んでいたのだけれど、「わたしはあなたのうんこになりました」だったかな、そんな詩句に出合って、びっくりして、金子光春の詩を、部屋の本棚にある『日本の詩歌』シリーズで読んだのだが、その詩句のある詩は収録されていなかった。とても残念。
きょう、寝るまえの読書は、『日本の詩歌』シリーズ。どこかにあるはずなのだ。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年四月十三日 「空に底があったらたどりつくはず」
いま起きた。PCでも検索したが出てこない。またふたたび偶然出合う僥倖に期待して、きょうは、5月に文学極道に投稿する2番目の『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みに専念しよう。金子光春の「うんこ」の詩を持ってなかったこともショックだったが、図書館でルーズリーフに書き写せばいいかな。
朝に松家で、みそ豚定食を食べたあと、部屋に戻って横になってたら、きゅうに眠気におそわれて、いままで眠ってしまっていた。悪夢の連続で、父親と弟が出てきた。ぼくの夢にはよく家族が出てくるのだが、ぼくは家族がみな嫌いだった。不思議なものだ。嫌いなものがずっと夢に出てくるのだ。
青木由弥子さんの詩句の発想と、ぼくが室生犀星の詩句の(と、思っていた)発想と似ていたと思っていたというのは、言葉が足りていなかった。発想の型が似ていたと思うのである。つまり、言葉を突き詰めて考えるということなのであるが、「空に底があったらたどりつくはず」という発想と、「笑みがこぼれるものなら、こぼれた笑みは、拾うことができるはず」という発想に、ぼくは、詩人の言葉の突き詰め方を見たのだと思う。ぼくの使うレトリックなんて、とても単純なものばかりで、このような突き詰め方をしたことがなかったので、強烈な印象を与えられたのだと思う。できたら、ぼくもしてみたい。
ふと思ったんだけど、人間が写真のように実景とそっくりな絵を描いたら芸術になるのに、機械が写真のように実景とそっくりな絵を描いても芸術と呼ばれるのだろうか。人工知能が発達しているので、現代でも可能だと思うのだけれど。ぼくには機械がすると、芸術ではなくなるような気がするのだけれど。
二〇一七年四月十四日 「うんこの詩、その他」
いま起きた。昼間ずっと寝ていたのに、夜も寝ていたということは、よほど疲れていたのだろう。これが齢か。セブイレでコーヒーを買ってきたので、コーヒーを淹れて飲む。頭の毛を刈って、お風呂に入って仕事に行こう。
きょう、図書館で、思潮社から出てた「現代詩読本」の『金子光晴』を借りて、代表詩50選に入ってた、詩集『人間の悲劇』収録の「もう一篇の詩」というタイトルの詩を手書きで全行写した。あまりにもすばらしいので、全行紹介するね。
恋人よ。
たうとう僕は
あなたのうんこになりました。
そして狭い糞壺のなかで
ほかのうんこといっしょに
蠅がうみつけた幼虫どもに
くすぐられてゐる。
あなたにのこりなく消化され
あなたの滓になって
あなたからおし出されたことに
つゆほどの怨みもありません。
うきながら、しづみながら
あなたをみあげてよびかけても
恋人よ。あなたは、もはや
うんことなった僕に気づくよしなく
ぎい、ばたんと出ていってしまった。
そいえば、10年ほどまえに書肆山田から『The Wasteless Land.IV』を出したのだけれど、そのなかに、「存在の下痢」というタイトルの詩を収めたのだけれど、そのとき、大谷良太くんに、「金子光晴の詩に、うんこの詩がありますよ。」と聞かされたことがあることを思い出した。そのとき、「恋人よ。/たうとう僕は/あなたのうんこになりました。」という詩句を教えてもらったような気もする。すっかり忘れていた。何日かまえに、「こぼれた笑みなら拾えばよい」だったか、「笑みがこぼれたら拾えばよい」だったか、そんな詩句を以前に目にしたことを書いたが、ちゃんとメモしておけばよかったと後悔している。ぼくが生きているうちに、ふたたびその詩句と邂逅できるのかどうかわからないけれど、できればふたたび巡り合いたいと思っている。そのときには、ちゃんとメモっておこう。それにしても、うかつだな、ぼくは。せめて、きょう出合った、すてきな詩句でもメモっておこう。
岡村二一 「愚(ぐ)経(きょう)」
花が美しくて
泥が汚いのは
泥のなかに生き
花のなかに死ぬからだ
岡村二一 「愚(ぐ)経(きょう)」
酒に酔(よ)うものは酒に溺(おぼ)れ
花に酔(よ)うものは花に亡(ほろ)びる
酒にも花にも酔わないものは
生きていても
しょんがいな しょんがいな
吉岡 実 「雷雨の姿を見よ」5
「一度書かれた言葉は消すな!」
吉岡 実 「雷雨の姿を見よ」5
風景に期待してはならない
距離は狂っている
吉岡 実 「楽園」
私はそれを引用する
他人の言葉でも引用されたものは
すでに黄金化す
吉岡 実 「草上の晩餐」
多くの夜は
小さいものから大きくなる
大きいものから小さくなる
西脇順三郎 「あざみの衣(ころも)」
あざみの花の色を
どこかの国の夕(ゆう)陽(ひ)の空に
たとえたのはキイツという人の
思い出であった
この本の中へは夏はもどらない
武村志保 「白い魚」
凍(こお)った夜の空がゆっくり位置をかえる
笹沢美明 「愛」
「愛の方向が判(わか)るだけでも幸福だな」と。
三好達治 「鷗(かもめ)」
彼ら自身が彼らの故郷
彼ら自身が彼らの墳(ふん)墓(ぼ)
鮎川信夫 「なぜぼくの手が」
さりげないぼくの微(び)笑(しよう)も
どうしてきみの涙を
とめることができよう
ぼくのものでもきみのものでもない
さらに多くの涙があるのに
平木二六 「雨季(うき)」
仕事、仕事、仕事、仕事が汝の存在をたしかめる。
田中冬二 「美しき夕暮(ゆうぐれ)」
女はナプキンに美しい夕暮をたたんでいる。
秋谷 豊 「秋の遠方へ」
陽が一日を閉(と)じるように
一つの昼のなかでぼくは静かに
登攀(とうはん)を夢みるのだ
ここまで引用したのは、金子光晴と吉岡 実のもの以外、すべて、土橋重治さんが編んだ詩のアンソロジー、『日本の愛の詩集』 青春のためのアンソロジー 大和書房 1967(銀河選書)に収録されていたもの。ぼくがまったく知らなかった詩人の名前がたくさんあった。田中冬二の詩句は知ってたけど。授業の空き時間が2時間あって、昼休みもあったから、図書館で3冊借りて、それで書き写したってわけだけど、吉岡 実さんのは、たしか、「現代詩人叢書 1」って書いてあったかな。どっから出てるのかメモし忘れたけれど、思潮社からかな。どだろ。帰りに、図書館に返却したので、いまはわからない。
年々、記憶力が落ちてきている気がするので、なるべくメモしなくてはならない。こまかく書かなければ、いったいそのメモのもとがなんであったのかもわからなくなるので、できるかぎり詳しく書いておかなければならない。あ〜あ、20代や30代のころのような記憶力が戻ってこないかな。厚かましいね。ぼくがときどき使っているレトリックは、ヤコービ流の逆にするというもの。たとえば、『陽の埋葬』シリーズの1作に、「錘のなかに落ちる海。」とかあるし、このあいだ思潮社オンデマンドから出た『図書館の掟。』に収録している「Lark's Tongues in Aspic°」には、「蛇をつつけば藪が出るのよ。」といった詩句があるのだが、さっき、ふと思いついた直喩があって、それは、「蠅にたかる、うんこのように」といったものだったのだけれど、いまのところ、どういった詩に使ったらよいのか、自分でも、ぜんぜん思いつかないシロモノなのであった。おそまつ。
もう日本語の本は買わないつもりだったけど、ブックオフに行ったら、108円のコーナーに、まだ読んだことのないものがあったので買ってしまった。きょうから読もう。グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』上下巻である。これで日本語になったベンフォードはコンプリートに読んだことになる。でも、なんか、うんこにたたられてしまったのか、ブックオフからの帰り道、あと10分くらいのところで便意を催したのであった。サークルKだったかな、コンビニのまえを通ったので、そこでトイレを借りればよいものを、ぼくはがまんできる、と思い込んで、急ぎ足で歩いて部屋に無事辿り着き、うんこをしたのであった。あと十秒遅かったら、もらしていたと思う。いや、あと数秒かな。それくらいスリルがあった。3月の終わりに、トイレのドアノブを握った瞬間に、うんこを垂れたくらいに(と言っても、およそ1年ブリだよ)おなかのゆるいぼくなのであった。ほんと、おなか弱いわ。食べ過ぎなのかな。
そだ。きょう通勤電車のなかで、人喰い人種の食べる人肉について考えていたのだけれど、きょうはもう遅いし、あした書き込むことにする。
二〇一七年四月十五日 「西脇順三郎」
50肩になって、片腕・方肩、ほぼ半年ずつ、動かすのも激痛で、痛みどめをのんでも効かず、その痛みで夜中に何度も起きなければならなかったぼくだけれど、これって、腕や肩の筋肉が齢とって硬くなっているってことでしょ? 羊の肉って、子羊だとやわらかくておいしくって、肉の名前まで変わるよね。これって、人喰い人種の方たちの人肉選らびでも同じことが言われるのかしらって、きのう、通勤電車のなかで思ってたんだけど、どうなんだろう。ジジババの肉より若者の肉のほうが、おいしいのかしら? そいえば、ピグミー族のいちばん困っていることって、いちばん食べられるってことらしい。ちいさいことって、食欲をそそるってことだよね。外国のむかし話にもよく子どもを食べる話がでてくるけど、『ヘンゼルとグレーテル』みたいなのね。それって、そういうことなのね。ロシアの殺人鬼で、子どもばっかり100人ほど食べてた方がつかまってらっしゃったけれども、いちおう美食家なのね。ああ、なにを最終的に考えてたかって、ぼくの50肩になった肉って、もうおいしくないんだろうなってこと。50肩って、もう人喰い人種の方たちにとっては、とっくに旬の過ぎてしまった素材なんだろうなって思ったってこと。齢とった鶏の肉もまずいって話を聞いたこともある。牛や羊もなんだろうね。豚はちょっと聞いたことがないなあ。齢とった豚を食べたって話は、戦争ものの話を読んでも出てこなかったな。豚って、齢とったら食べられないくらいまずいってことなのかな。ああ、そうだ。イカって、巨大なイカは、タイヤのように硬くて、しかもアンモニア臭くて食べられないらしい。ホタルイカを八雲さんのお店で、お正月に食べたのだけれど、とっても小さくておいしかった。ひと鉢に20匹くらい入っていて、1400円だけど、2回、頼んだ。ホタルイカも小さい方がおいしい。そいえば、タケノコも若タケノコのほうがおいしいよね。食べ物って、若くて小さいもののほうがおいしいってことかな。
さて、5時30分ちょっとまえだ。5月に文学極道に2週目に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みでもしようかな。きのう寝るまえに、グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ」上巻をすこし読んだけど、やっぱり読みやすい。ベンフォードも物理学者なんだけど、ラテンアメリカ文学のサバトといい、ロシア文学のソルジェニーツィンといい、みんな物理学者だ。共通しているのは、観察力がすごくて、それを情景描写で的確に書き表していることだ。とにかく頭に情景がすっと入ってくるのだ。すっと情景を思い起こされるというわけだ。そんなことを考えて、きのうは眠った。
とにかくコーヒーのもうっと。まだちょっと、頭がぼうっとしてるからね。
きょうは、仕事場に2時間早く着いてしまったので、図書館で、思潮社から出てた現代詩読本『西脇順三郎』、『三好達治』を読んでた。気に入った個所を引用する。
西脇順三郎 「菜園の妖術」
永遠だけが存在するのだ
その他の存在は存在ではない
西脇順三郎 「近代の寓話」
人間の存在は死後にあるのだ
西脇順三郎 「海の微風」
自然の法則はかなしいね
西脇順三郎 「菜園の妖術」
永遠は永遠自身の存在であつて
人間の存在にはふれていない
西脇順三郎 「菜園の妖術」
存在という観念をはなれて
永遠という存在が
いる
西脇順三郎 「菜園の妖術」
永遠を求める必要はない
すでに永遠の中にいるのだ
三好達治 「わが手をとりし友ありき」
ものの音は一つ一つに沈黙す
いま三好達治の本を読んでるんだけど、三好達治の詩集って、5000部とか10000部とか売れていたって書いてあってびっくりした。ぼくの詩集なんて、20数冊出してるけれど、合わせても、せいぜい100部とか200部しか売れていないような気がする。出版社も教えてくれないしわからないけど。
ぼくは帽子が似合わないので帽子はかぶらないことにしている。
去年はじめて、サンマの腹を食べた。日知庵で、炭火で焼いてくれていたからだろう。それまでは、箸でよけてて、食べなかった内臓を、酒の肴にして食べてみたのだ。苦い味だが、けっしてまずくはなかった。自分がジジイになったせいだろう。ふと、サンマの腹が食べたくなったのだった。あの苦味は、なんの味に似ているだろう。いや、何の味にも似ていない。炭火で焼かれたサンマのはらわたの味だ。そいえば、さざえのあの黒いところはまだ食べたことがないけれど、もしかしたら、いまなら食べられるかもしれない。さざえを食べる機会があったら挑戦してみよう。酒の肴にいいかもしれない。わからないけど。しかし、サンマのはらわたの苦みは酒の肴に、ほんとによく合う。ぼくは、酒って、麦焼酎のロックしか飲まないけれど。それも3杯が限度である。それ以上、お酒を飲むときはビールにしている。ビール以外のものを飲むと、(さいしょの麦焼酎のロックはのぞいてね)ほとんどといっていいほどゲロるのだ。
中央公論社の『日本の詩歌』を読んでいるのだが、思潮社から出てた現代詩読本に収録されている詩があまり載っていないことに気がついた。ぼく好みのものが『日本の詩歌』から、はずされているのだった。まあ、西脇順三郎のは、ほるぷ出版から出てるのを持ってるから、これから調べてみる。
よかった。読み直したかった「旅人かへらず」全篇と、「菜園の妖術」が、ちゃんと入ってた。西脇順三郎を読むと、なんだか身体が楽になってくるような気がする。ぼくの体質に合ってるのかもしれない。リズムがいい。ときどき驚かされるような可憐なレトリックも魅力的だ。出てくる固有名詞もユニークだし。
きょうは、体調のためにも、これから寝るまで西脇順三郎を読もうと思う。中央公論社の『日本の詩歌』9冊あるんだけれど、まあ、1冊108円で買ったものだからいいけど、金子光晴の入っている第21巻、あの「うんこ」の詩、入れててほしかったなあ。西脇順三郎が載ってるのも長篇ははしょってるし。室生犀星には、1冊すべて使ってるのに、なんて思っちゃうけれど、出版されたときの状況が、いまとは違うんだろうね。きょうは飲みに行けなかったさみしさがあるけれど、詩を読むさみしさがあるので、差し引きゼロだ。(−1から−1を引くと0になるでしょ?)そんな一日があってもいい。
二〇一七年四月十六日 「西脇順三郎」
金子光晴のあの「うんこ」の詩、「もう一篇の詩」が収められている金子光晴の詩集を手に入れたいと思って調べたら、Amazon で、1円から入手できるんだね。びっくり。朝8時からやってる本屋が西院にあるから、さらっぴんのを買ってもいい。ちくま日本文学全集「金子光晴」に入っているらしい。西院の書店にはなかったので、今日、昼に四条に行って、ジュンク堂で見てこよう。それでなかったら、ネットで買おう。ちくま文庫の棚に行ったら、スティーヴ・エリクソンの『ルビコン・ビーチ』が置いてあって、読みたいなあと思ったけれど買うのはやめた。もう、ほんと、買ってたらきりがないものね。8時に書店が開くので、それまで時間があるからと思って、ひさしぶりに、もう半年ぶりくらいになるだろうか、朝に行くのは、7時30分から開いているブレッズ・プラスでモーニングでも食べようと思って店のまえで舞ってたら、30分になってもローリングのカーテンが下がったままだったから、あれ、どうしちゃったんだろうと思っていたら、自転車で乗り付けたご夫婦の方も、「もう30分ちがうの?」と奥さんのほうが旦那さんに言われたのだけれど、32分になって、ようやくカーテンがくるくると巻かれてつぎつぎと窓ガラスや入口の窓ガラスが透明になっていったので、ほっと安心した。ぼくは、モーニングセットを頼んだんだけど、そのご夫婦(だと思う、ぼくよりご高齢らしい感じ)も、モーニングセットだった。モーニングセットでは飲み物が選べるんだけど、ぼくは、アイスモカにした。パンは食べ放題なのだ。レタスのサラダと、ゆで卵半分と、ウィンナーソーセージ2個がついていた。32分に店内に入ったけれど30分経っても、ぼくのほかにお客さんといえば、その日本人夫婦の方と、10分くらいあとで入ってこられた外国人女性の2人組のカップルだけだった。外国人女性の方たちはモーニングセットじゃなくて、置いてあるパンをチョイスして飲み物を頼んでいらっしゃった。8時くらいまで、ぼくを含めて、その3組の客しかいなかったので、めずらしいなあと思った。日曜日なので、仕事前に来られるお客さんがいらっしゃらなかったというのもあるのだけれど、以前によくお見かけした、60代から80代くらいまでのご高齢の常連の方たちがいらっしゃらなくて、どうしてなのかなと思った。まさか、みなさん、お亡くなりになったわけじゃないだろうし、きっと、きょうが日曜日だからだろうなって思うことにした。以前によく朝に行ってたころ、ときどき、お見かけしなくなる方がぽつりぽつりといらっしゃってて、病院にご入院でもされたのか、お亡くなりになったのかと、いろいろ想像していたことがあったのだけれど、きょうは、そのご常連さんたちがひとりもいらっしゃらなかったので、びっくりしたのであった。なんにでもびっくりするのは愚か者だけであるとヘラクレイトスは書き残していたけれど、ぼくはたいていなんにでも驚くたちなので、きっと愚か者なのだろう。いいけど。
お昼に、ジュンク堂に寄って、それからプレゼント用に付箋を買いに(バレンタイン・チョコのお返しをまだしていない方がいらっしゃって)行って、それから日知庵に行こうっと。それまで、きのう付箋した箇所(西脇順三郎の詩でね)をルーズリーフに書き写そう。それって、1時間くらいで終わっちゃうだろうから、終わったら、それをツイートに書き込んで、それでも時間があまるだろうから、5月の2週目に文学極道に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをしよう。とりあえず、まず、コーヒーを淹れて飲もう。それからだ。西脇順三郎の詩、ほんとおもしろかった。読んでて楽しかった。
西脇順三郎 「道路」
二人は行く
永遠に離れて
永遠に近づいて行くのだ。
西脇順三郎 「第三の神話」
よく見ると帆船の近くに
イカルスの足が見える
いまイカルスが落ちたばかりだ
西脇順三郎 「第三の神話」
美しいものほど悲しいものはない
西脇順三郎 「天国の夏」
もう人間はあまり笑わなくなつた
脳髄しか笑わなくなつた
西脇順三郎 菜園の妖術」
一かけるゼロはゼロだ
だがゼロは唯一の存在だ
無は唯一の存在だ
無は永遠の存在だ
西脇順三郎 豊穣の女神」
幸福もなく不幸もないことは
絶対の幸福である
地獄もなく極楽もないところに
本当の極楽がある
西脇順三郎 「野原の夢」
すべては亡びるために
できているということは
永遠の悲しみの悲しみだ
西脇順三郎 「野原の夢」
これは確かに
すべての音だ
私は私でないものに
私を発見する音だ
西脇順三郎 「大和路」
なぜ人間も繁殖しなければならない
田中冬二 「暮春・ネルの着物」
私はアスパラガスをたべよう
ひゃ〜、2時間まえに、「店のまえで舞ってたら」って書いてた。まあ、「舞ってたら」ハタから見て、おもしろかったんだろうけどね。56歳のハゲのジジイが舞ってたらね。これはもちろん、「店のまえで待ってたら」の打ち込み間違いです。いまさらぜんぶ入れ直すのも面倒なので付け足して書きますね。
愛してもいないのに憎むことはできない。
憎んでもいないのに愛することはできない。
これから四条に。まずジュンク堂に寄って、金子光晴の詩集があるかどうか見て、それからロフトに寄ってプレゼント用の栞を買って、そのあと日知庵に行く。
日知庵から帰ってきた。本好きのご夫婦の方とおしゃべりさせていただいてた。アーサー王の話がでてきて、なつかしかった。ぼくの持ってるのは、リチャード・キャヴェンディッシュの『アーサー王伝説』高市順一郎訳、晶文社刊だった。魚夫王とか出てきて、これって、エリオットの『荒地』につながるね。
きょうは、ベンフォードの『タイムスケープ』上巻のつづきを読みながら床に就こう。きのうも、ちょこっと読んだのだけれど、ベンフォードの文章には教えられることが多い。物理学者が本業なのに、ハードSF作家なのに、なぜにこんなによく人間が描けているのか不思議だ。いや逆に物理学者だからかな。まあ、そんなことはどうでもいいや。よい本が読めるということだけでも、ぼくが幸せなことは確実なのだから。おやすみ、グッジョブ! いつ寝落ちしてもいいようにクスリのんで横になる。
二〇一七年四月十七日 「SFカーニバル」
起きた。きょうは神経科医院に行くので、それまで、5月の2週目に文学極道に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをしよう。
医院の帰りに、大谷良太くんちに行った。コーヒー飲みながら詩の話や小説の話をしていた。「きょう、医院の待合室で、雑誌の『女性自身』を読んでたら、共謀罪の話が載っていてね。」と言ったら、ちょこっと政治の話になった。と、こういうことを書いても警察に捕まる時代になっていくのかなあ。怖い。
そだ。きょう、医院で待つのも長いからということで、ロフトに行って、プレゼント用の付箋を2つ買い、ついでに丸善に寄って、岩波文庫の『金子光晴詩集』を買った。きのう買わなかったのだ。背の緑色がちょっと退色しているのだけれど、ジュンク堂に置いてあったものも退色していたから、まあ、これでいいやと思って買った。奥付を見ると、2015年5月15日 第8刷発行って、なってたんだけど。ということは、背の緑色が退色しているのではなくて、この時期に発行された『金子光晴詩集』すべての本の背の緑色が、ちょっとへんな緑色になっちゃってたって可能性が大なのだなって思った。
部屋に戻ったら、郵便受けに、このあいだ Amazon で買った、フレドリック・ブラウン編のSFアンソロジー『SFカーニバル』が届いていた。旧カヴァーである。表紙の裏にブックオフの値札を剥がした跡があるが、まあ、いいや。150円ほどで買ったものだから。(送料は257円だったかな。)もう本は買わないと思っていたのだけれど、買っちゃうんだな。終活して、蔵書を減らしている最中なのだけど。なんか複雑な気持ち。そだ。「こぼれた笑いなら拾えばいい」だったかな、そんな詩句があってねという話を大谷くんにしたら、大谷くんがネットで調べてくれたんだけど、出てこなかった。生きているうちに、その詩句とふたたび巡り合える日がくるかなあ。どだろ。「詩句のことなら、なんでも知ってるってひとっていないの?」って、大谷くんに訊いたけど、「いないんじゃないですか。」って返事がきて、ありゃりゃと思った。篠田一士みたいなひとって、もういまの時代にはいないのかなあ。
さて、56歳独身男は、これから2回目の洗濯をするぞ。雨だから、部屋干しするけど。
雨の音がすごくって、怖い。どうして、雨の音が怖いのか、わからないけれど。息が詰まってくる怖さだ。
二〇一七年四月十八日 「明滅」
ちょっと早く起きたので、5月の第2週目に文学極道に投稿する、『全行引用に寄る自伝詩。』のワード打ち込みをしよう。
5月の第2週目に文学極道の詩投稿欄に投稿する『全行引用による自伝詩。』あとルーズリーフ2枚分で終わり。2枚ともページいっぱいの長文だから、ワード入力するの、しんどいけど、がんばった分だけ満足感が増すので、詩作はやめられそうにない。きっと一生、無名の詩書きだろうけど。まあ、いいや。
海東セラさんから、個人誌『ピエ』18号と19号を送っていただいた。同時に出されたらしい。セラさんの作品を読んだ。18号に収録されている「混合栓」では、ずばり作品のタイトルの意味をはじめて教えていただいた。お風呂で毎日使っているものなのに、その生を知らずに使っていたのだった。19号に収められている「明滅」では、つぎのようなすてきな詩句に出合った。「わたしは冷たい━━。半ズボンの裾がそうつぶやくので初めて濡れていることに気がつく。」すてきな詩句だ。とてもすてきな詩句だ。きょうもいろいろあったけど、すてきな詩句に出合ったら、みんなチャラだ。吹っ飛んじゃうんだ。海東セラさん、いつもうつくしい詩誌をお送りくださり、ありがとうございます。引用させていただいた詩句、ぼくのなかで繰り返し繰り返し木霊しています。
二〇一七年四月十九日 「クライブ・ジャクスン」
フレドリック・ブラウンが編んだ短篇SFアンソロジー『SFカーニバル』読了。ブラウン自身のがいちばんおもしろかった。また、クライブ・ジャクスンというはじめて読む作家のわずか4ページのスペオペでは、さいごの3行に笑った。それはないやろ的な落ち。ぼくには大好きなタイプの作品だったけど。
で、ここ数日のあいだ、断続的に読んでいるグレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』上巻、ひじょうによい。とてもよい。表現がうまい。描写がすごくいい。なんちゅう物理学者なんだろう。っていうか、ぼくは、これで、ベンフォードを読むのコンプリートになっちゃうんだよね。残念!
きょうは、寝るまえの読書は、『タイムスケープ』上巻のつづきから。まだ138ページ目だけど、傑作の予感がする。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年四月二十日 「 」
風邪を引いたみたい。咽喉が痛くて、熱がある。薬局が開く時間になったら、クスリを買いに行こう。きょうは休みなので、部屋でずっと休んでいよう。
午前中はずっと横になっていた。何もせず。お昼になって、近くのイオンに行って薬局で、クラシアンの漢方薬の風邪薬を買って、ついでに3階のフードコートでまず薬を水でのんで、それから長崎ちゃんぽんのお店でチゲラーメンの並盛を注文して食べた。おいしかった。いま部屋に戻って、ツイートしてる。
ベンフォードの『タイムスケープ』上巻のつづきを読もうか、『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをやるか思案中。そか。両方やっちゃおうか。ワード打ち込みも、ルーズリーフで、あと2枚分だものね。
『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込み作業が終わった。校正は後日、ゴールデン・ウィークにでもしよう。きょうは、これからベンフォードの『タイムスケープ』上巻のつづきを読もう。1年10カ月ぶりに依頼していただいた、現代詩手帖の原稿書きがあるのだが、もう頭のなかに原稿の元型ができているので、あさってからの連休3日間で(ぼくは月曜日も休みなのだ)いっきょに書き上げてしまおうと思っている。それでも数日の余裕があるので、しかも、そのうちの一日は学校が休みなので、十分に見直すことができるものと思う。とにかく、『全行引用による自伝詩。』の打ち込みが終わってよかった。引用文が間違いなく打ち込めているのか、たしかめはするのだが、ときに漢字の変換ミスや、言葉が足りなかったりすることがあるので(「している」を「してる」にしたりする。きっと、自分のふだんの口調が反映されているのだと思う)注意しながら打ち込んでいると、じつに神経に負担がかかるのである。しかし、それが終わって、ほっとしている。きょうは、もうあと読書するだけ。56歳。独身ジジイ。まるで学生のような生活をいまだに送っているのだなと、ふと思った。夕方に風邪薬をのむのを忘れないように、目覚ましでもセットしようかな。でもなんのためにセットしたのか忘れてしまってたりしてね。
BGMは韓国ポップス。韓国語がわからないから、言葉の美しさ、リズムを、音楽とともに耳が楽しんでいるって感じかな。2bicからはじまって、チューブがかけるものをとめないで聴いている。はじめてお見かけするアーティストが出てきたり、というか、そういうのも楽しみなんだよね。
そいえば、まえに付き合ってた子、しょっちゅう携帯をセットしてたなあ。仕事の合間に、ぼくんちに来てたりしてたからな。音楽がそんなことを思い出させたんやろうか。もう2、3年、いや、3、4年まえのことになるのかなあ。いまは神戸に行っちゃって、遊びに来てくれることもなくなっちゃったけど。
ピリョヘー。
いま思い出した。まえに付き合ってた子が携帯に時間をセットしていたの、あれ、「タイマーをセットする」という言い方だったんだね。簡単な言葉なのに、さっき書き込んだときは、思い出されなかった。齢をとると、すさまじい忘却力に驚かされるけれど、だからこそみな書き込まなくちゃならないんだね。
アンニョン。
いま王将で、焼きそば一皿と瓶ビール一本を注文して飲み食いしてきたのだけれど、バックパックの後ろについている袋のチャックを開けて、きょうイオンで買った風邪薬のパッケージを裏返して見たら、製造元の名前が、「クラシアン」じゃなくて、「クラシエ製薬株式会社」だった。クラシアンって、なんだか、住宅会社っぽい名称だね。調べてないけど。調べてみようかな。ぜんぜん、そんな名前の会社がなかったりして、笑。いまググるね。
ありゃ、まあ。水漏れとか、水まわりのトラブルを解消する会社の名前だった。「暮らし安心」からきてるんだって。「クラシアン」なるほどね。ちなみに、ここね。→http://www.qracian.co.jp/
ちなみに、ぼくがクラシエ製薬株式会社から買った風邪薬の名前って、「銀翹散(ぎんぎょうさん)」ってやつで、元彼と付き合ってたとき、ぼくがひどい風邪で苦しんでたときに、彼が買ってきてくれた風邪薬で、服用して5分もしないうちに喉の痛みが消えた風邪薬だった。いまも当時のように効いてるよ。
さて、ベンフォードの『タイムスケープ』の上巻のつづきに戻ろう。読書って、たぶん、人間にしかできないもので、とっても大切な行為だと思うけど、自分がその行為に参加できて、ほんと、幸せだなって思う。ぼくも糖尿病だけど、糖尿病で視力を失くした父のように視力は失くしたくないなって強く思う。
瓶ビール一本で酔っちゃったのかな。気分が、すこぶるよい。きょうは、休みだったのだけれど、朝はゴロ寝で、昼には、5月の第2週目に文学極道の詩投稿欄に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込み作業を終えて、韓国ポップス聴きまくっていたし、夕方からは読書に専念だ。
日本のアーティストの曲で、「a flower of the mystery」だったか、「a mystery of the flower」だったか、そういったタイトルの曲を思い出したんだけど、チューブにはなかった。残念。ああ、もう何でもメモしなきゃ憶えていられない齢になったんだな。というのは、その曲のアーティストの名前が思い出せないからなんだけど、ここさいきん、思い出せないことが多くなっている。いや、ほんとに、なんでもかんでもメモしておかなければならなくなった。情けないことだ。それにしても、なんという名前のアーティストだったんだろう。憶えてなくて、残念。
「どんなに遠く離れていても」っていうのは距離だけのことを言うのじゃない。
hyukoh の新譜が4月下旬に出るというので、Amazon で予約購入した。
二〇一七年四月二十一日 「タイムスケープ」
グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』下巻に突入。上巻に付箋個所10カ所。レトリックと表現がすばらしいと思うところに付箋した。ルーズリーフ作業は、あした以降に。いま、4月28日締め切りの原稿のことで頭いっぱいだから。といっても、きのう、数十分で下書きを書いたのだけれど、完璧なものにするために週末の土日と休みの月曜日を推敲に費やすつもりなので、ルーズリーフ作業は、下巻も含めると、GW中になるかもしれない。といっても、きょうは、グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』の下巻を読めるところまで読もうと思う。ヴァレリーが書いていたように、「同時にいくつもの仕事をするのは、互いによい影響を与え合うのである。」(だいたいこんな訳だったような記憶がある。)きょうは、一日を、読書にあてる。
二〇一七年四月二十二日 「いつでも、少しだけ。」
いま日知庵から帰った。ヨッパである。おやすみ、グッジョブ!
いつでも、少しだけ。
きょうか、きのう、『The Wasteless Land.』が売れてた。うれしい。
https://www.amazon.co.jp/Wasteless-Land-%E6%96%B0%E7%B7%A8%E9%9B%86%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E7%89%88-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788656/ref=la_B004LA45K6_1_4?s=books&ie=UTF8&qid=1492792736&sr=1-4…
グレゴリイ・ベンフォード『タイムスケープ』下巻 誤植 93ページ 1、2行目 「悪戯っぽいい口ぶりでいった。」 「い」が、ひとつ多い。
二〇一七年四月二十三日 「時間とはここ、場所とはいま。」
人間が言葉をつくったのではない。言葉が人間をつくったのだ。
時間とは、ここのことであり、場所とは、いまのことなのである。
時間とはここ、場所とはいま。
グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』下巻を読了した。思弁的なSFだったが、また同時に文学的な表現に見るべき個所がいくつもあって、これから自分が書くことになる文章が大いに影響を与えられることになるのではないだろうかと思えた。トマス・スウェターリッチの『明日と明日』以来である。
これから2敗目のコーヒーを淹れる。コーヒーもアルコールや薬といっしょで、中毒症状を起こすことがある。学生時代に、学部生4回生と院生のときのことだが、1日に10杯以上も飲んでいたときがあった。いま10杯飲んだら、きっと夜は眠れないことだろう。いくら睡眠薬や精神安定剤をのんでいても。
コーヒーを飲んだら、グレゴリイ・ベンフォードのルーズリーフ作業をしようと思う。きのうまでは、GW中にやろうと思っていたのだが、文章のすばらしさをいますぐに吸収して、はやく自分の自我の一部に取り込んでしまいたいと考えたからである。それが終わったら、つぎに読むものを決めよう。
GWは6月の第1週目に文学極道の詩投稿欄に投稿する『詩の日めくり』をつくろうと思う。いつ死んでもよいように、つねに先々のことをしておかなければ気がすまないたちなのである。さいきん、あさの食事がコンビニのおにぎりだ。シャケと昆布のおにぎりだ。シャケを先に食べる。なぜだか、わかる? 昆布の方が味が強いから、昆布の方から先に食べると、シャケの味がはっきりしないからだろう。ぼくが食べ物を好きな方から食べるのも同じ理屈からだ。おいしいものの味をまず味わいたいのだ。あとのものは、味がまざってもかまいはしない。ぼくが古典的な作品を先に読んだのも、同じような理屈からだったような気がする。食べ物の食べ方と、読み物の読書の仕方がよく似ているというのもおもしろい。両方とも、ぼくの生活の大きな部分を占めているものだ。ぼくの一生は、食べることと、読むこととに支配されているものだったというわけだな。それはとってもハッピーなことである。
さっき日知庵から帰ってきた。きょうは体調が悪くて、焼酎ロック1杯と生ビール1杯で帰ってきた。これから床について、本でも読みながら寝ようと思う。ディックの短篇集『ペイチェック』にしよう。タイトル作品以外、ほかの短篇集にぜんぶ入っているというハヤカワSF文庫のあこぎな商売には驚くね。
自分の詩集のところを、Amazon チェックしていたら、書肆ブンから復刊された、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』が、1冊、売れてた。うれしい。これ→
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA-%E3%81%8D%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E5%A5%BD%E3%81%8D%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788664/ref=la_B004LA45K6_1_2/355-1828572-1889417?s=books&ie=UTF8&qid=1492950970&sr=1-2…
二〇一七年四月二十四日 「floccinaucinihilipilification」
グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』の下巻に載ってたんだけど、最長の英単語って、「floccinaucinihilipilification」というものらしい。山高 昭さんが翻訳なさっておられるんだけど、「無価値と判定すること」という意味らしい。
最長の日本語の単語って、なんだろう?
きのう寝るまえに、ハヤカワSF文庫のディックの短篇集『ペイチェック』の悪口を書いたけれど、よい点もあった。活字のポイントが、むかしのものより大きくて、読みやすくなっている。なぜ、『ペイチェック』をあれほど分厚くしなければならなかったかの理由のひとつかな。でも、ほんと、分厚くて重たい。
FBを見ていると、きょうは天気がよくて、洗濯日よりだというので、洗濯をした。ついでに、1週間ほど、薄めた洗剤液の入ったバケツに浸けて置いた上履きを洗った。いまから、ディックの短篇集『ペイチェック』のつづきを読む。冒頭のタイトル作品の途中で眠り込んでしまっていたのであった。
いま解説を読んで気がついた。「ペイチェック」もほかの短篇集に入ってた。未訳のものがひとつもなかったんだね。なんだか悲しい短篇集だったんだね。『ペイチェック』分厚さだけは、ぼくの持っているディックの短篇集のなかで群を抜いて一番だけれど。
Lush の Nothing Natural を聴いている。この曲が大好きだった。だいぶ処分したけど、いま、ぼくの部屋も、大好きな本やCDやDVDでいっぱいだ。いつか、ぼくがこの部屋からいなくなるまで、それらはありつづけるだろうけれど。
Propaganda の Dr. Mabuse を聴いた。1984年の作品だというから、ぼくが院生のころに聴いてたわけだな。いまから30年以上もむかしの話で、まだ詩を読んだこともなかったころのことだ。理系の学生で、連日の実験と、考察&その記述に疲れ果てて家に帰ってたころのことだ。
いま、4月28日締め切りの原稿の手直しをしていたのだけれど、英語でいうところの複文構造をさせていたところをいくつかいじっていたのだけれど、ふだんのぼくの文章の構造は単純なものが多いので、ひさしぶりに複文を使って自分の文章をいじっていると、まるで英語の文章を書いてるような気がした。
ディックの短篇集『ペイチェック』で、「パーキー・パットの日々」を読み終わった。いま、同短篇集収録の「まだ人間じゃない」を読み直しているのだけれど、このあいだも読み直したのに、さいごのところが思い出せなかったので、もう一度、読み直すことにした。つい最近、読み直したはずなのだけれど。
あ、複文じゃなくて、挿入句だ。ぼくのは複文というよりも、挿入句の多い文章だった。複文っぽく感じたのはなぜだろう。自分でもわからない。読み直したら、いじくりまわす癖があるので、きょうは、もう見直さないけれど、あしたか、あさってか、しあさってかに見直して、手を入れるだけ入れまくろう。
とりあえず、8錠の精神安定剤と睡眠導入剤をのんで床に就こう。きょうの昼間は、なぜか神経がピリピリしていた。それが原稿に悪い影響を与えてなければよいのだけれど。いや、原稿をいじくってたので、神経がピリピリしていたのかもしれない。いまもピリピリしている。眠れるだろうか。いくら精神安定剤や睡眠導入剤を服用しても、昼間に神経がピリピリしていたら、まったくクスリが効かないことがある体質なので、きょうは、それが心配。ううん。この心配が、睡眠の邪魔をするのでもある。ぼくの精神というのは、どうしてこのようにもろいのだろうか。神経が太いひとが、うらやましい。
寝るまえの読書は、ディックにしよう。短篇集『ペイチェック』のなかから適当に選んで横になって読もう。あ、もしかすると、ディックの強迫神経症的な作品の影響かもしれないな。でも、ほかに読みたいものは、いまとくにないからな。とりあえず、クスリのんでPCを切ろう。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年四月二十五日 「一生、ひとりでよいのだ。」
これから仕事に。あした、あさっては休みなので、4月28日締め切りの原稿を推敲することができる。もう推敲と言うより、彫琢の段階なのだけど。通勤では、このあいだ買った、岩波文庫の『金子光晴詩集』を読むことにしよう。「もう一篇の詩」のあとに、「さらにもう一篇の詩」ってのがあったよ、笑。それは、うんこの詩でもなくて、ぼくにはおもしろくなかったけれどね。
きょうは、学校が午前で授業が終わりだったので、はやく帰ってこれた。二時間目の授業のまえに時間があったので、一時間はやく職員室についたのだ、岩波文庫の『金子光晴詩集』を読んでいたら、すいすい読めたので、やはり詩集はいいなあと思ったのであった。いま204ページ目に突入するところ。
もう十年くらいむかしの思い出だけど、食べ物の名前が出てこないので書けなかったのだけれど、『金子光晴詩集』を読んでたら、195ページに、「朝は味噌汁にふきのたう。」(「寂しさの歌」二)というのがあって、思い出した。ふきのとうの天ぷら、たしか花だったと思うけれど、それをジミーちゃんのお母さまがてんぷらにしてくださって、そのふきのとうは、ジミーちゃんちの庭で採れたものなのだけど、食べさせてくださって、適度な苦みが、大人の味だなと思わせられる、ご馳走だった。そのジミーちゃんのお母さまも亡くなれて何年たつのだろう。ジミーちゃんが発狂して以来、ジミーちゃんと会っていなかったのだけれど、共通の友人から、ジミーちゃんのお母さまが亡くなったと何年かまえに聞かされたのであった。ジミーちゃんは、ぼくが詩を書くときに、「いま書いてる詩にタイトルつけてよ。さあ、言って!」と言うと、即座にタイトルを言ってくれたり、詩句自体のいくつかも、ジミーちゃんの言動が入っていて、ぼくはそれを逐一、作品のなかで述べていたけど、ジミーちゃんのお母さまも、ぼくの詩作品のなかに何度か登場していただいている。たしか、書肆山田から出した『The Wasteless Land.IV』に収録した詩に書いてたと思う。たしか、こんなセリフだったと思う。「さいしょの雨にあたる者は親不孝者なのよ/わたしがそうだったから/わたしも親から、そう言われたわ。」ぼくって、まだぜんぜんだれにも雨が降っていないのに、さいしょの雨粒が、よく顔にあたったりするんですよねえって言ったときのお返事だったと思うけれど、ふきのとうの天ぷらをつくってくださったときの記憶も目に鮮明に残っている。つぎつぎと揚げていってくださった、ふきのとうの天ぷらを、まだ、あつあつのものを、それに塩をちょこっと振りかけて、ジミーちゃんと、ジミーちゃんのお母さまと、ぼくの三人で食べたのであった。おいしかったなあ。なつかしい記憶だ。
これから夕方まで、『金子光晴詩集』を読む。どんな詩かは、アンソロジーで、だいたい知っているけど、まとめてドバーッと読むのもいい。詩自体に書かれたこともおもしろいところがあるし、そこには付箋をしていて、あとでルーズリーフに書き写すつもりだけれど、自分の記憶にも触れるところが、ふきのとうの天ぷらの記憶のようにね、あると思うので、それも楽しみ。ぼく自体が忘れている記憶が、他者の詩に書かれた言葉から、詩句から、そのイメージから、あるいは、音からさえも、呼び起こされる場合があると思うと、やっぱり、文学って記憶装置だよねって思っちゃう。言葉でできたみんなの記憶装置だ。
4月28日締め切りの原稿の彫琢は、夜にすることにした。いまはとにかく、すいすい読めてる『金子光晴詩集』に集中しようと思う。BGMは Propaganda。Felt。 Lush。Human League。などなど。ポップスにしようっと。
あちゃ〜。引用した金子光晴の詩句に打ち込みミスがあった。「朝は味噌汁にふきのたう。」ではなくて、「朝は味噌汁にふきのたう、」句点ではなくて、読点だった。ミスしてばっかり。まるで、ぼくの人生みたい。あ、そりゃ、そうか。打ち込みミスも人生の一部だものね。ワン、ツー、スリー、フォー!
ぼくはコーヒーをブラックで飲むんだけど、大谷良太くんはいつも牛乳を入れてる。さいきんは砂糖も入れている。『金子光晴詩集』を読んでたら、240−241ページに、「牛乳入珈琲に献ぐ」という詩があったので、ふと大谷良太くんのコーヒーのことを思い出した。ヘリコプターが上空で旋回している。
恋人たちの姿を見て、「あれは泣いているのか/笑っているのか」と詩に書いたのは、たしかリルケだったか。いや、あれは、泣きながら笑っているのだと、笑いながら泣いているのだと、ぼくの胸のなかで、ぼくの過去の恋を思い出しながら思った。
付箋しようかどうか迷った詩句があったのだが、やはり付箋しておこうと思って、『金子光晴詩集』を読んだところを読み直しているのだが、場所が見つからない。女性の肛門のにおいを嗅ぐ詩句なのだが。(「肛門」は金子光晴のほかの詩句でも出てくる。「肛門」は、彼の詩の特徴的な言葉のひとつだな。)
見つけた! 何を? 詩句を。85ページにあった。「彼女の赤い臀(しり)の穴のにほひを私は嗅ぎ」(金子光晴『航海』第四連・第一行目)これで安心して、250ページに戻って行ける。読み直して、ますます理解したことのひとつ。金子光晴は「肛門」や「尿」という言葉が好きだったんだなってこと。
さっきリルケの詩句を(たぶん、リルケだったと思うんだけどね、記憶違いだったら、ごめんね。)思い出したのは、『金子光晴詩集』の249ページに、「泣いてゐるのか、それとも/しのび笑をこらへてゐるのか。」(『死』第二連・第三―四行)という詩句があったからである。(と、ぜったい思うよ。)同じページには(249ページだよ。)「痺肩のいたいたしいうしろつき」(『死』第一連・第四行)といった詩句があって、この一年、五十肩で痛みをこらえるのに必死だった(痛みどめが数時間で切れるくらいの痛みでね、その痛みで睡眠薬で寝てても数時間で目が覚めてたのね)自分の状況を思い出した。この『死』という詩の第三連・一行目に、「ああ、なんたる人間のへだたりのふかさ。」という詩句があるのだけれど、この言葉は、ほんとに深いね。恋人同士でも、こころが通っていないことってあるものね。それも、あとになってから、そのことがわかるっていう怖さ。深さだな。深い一行だなって思った。
『金子光晴詩集』を読む速度が落ちてきた。詩句の中味が違ってきているのかな。この詩集って、出た詩集の順番に詩を収録しているのかな。しだいに詩句にたちどまるようになってきた。『死』の最終連・第一ー二行である。「しつてくれ。いまの僕は/花も実も昔のことで、生きるのが重荷」こころに沁みる二行だ。なにか重たいものが胸のなかに吊り下がる。「花も実も昔のことで、」という詩句が、ことに胸に突き刺さるが、ぼくにも切実な問題で、56歳にもなって、独身で、恋人もいない状態で、ただ小説や詩にすがりつくことしかできない身のうえの自分に、ふと、自己憐憫の情を持ってしまいそうになる。でも、ぼくはとてもわがままで、どれほど愛していると思っている相手に対しても、すぐに癇癪を起こしてしまって、突然、いっさいの感情を失くしてしまうのである。こんな極端な性格をしている人間を、だれが愛するだろうか。ぼくでさえ、自分自身にぞっとしてしまうのだから。一生、ひとりでよいのだ。
二〇一七年四月二十六日 「ぱんぱん」
いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ〜。すこぶる気分がよい。これからクスリのんで寝る。寝るまえの読書は『金子光晴詩集』。付箋しようかどうか迷った箇所を見つけたい。やっぱ、ちょっとでも、脳裡にかすめた個所は付箋しなきゃだめだね。帰りの電車のなかで探したけど、見つからない。ふにゃ〜。
夢を見た。悪夢だった。気の狂った弟がたこ焼き屋さんで順番待ちしている女子高校生たちの順番を無視して割り込んでたこ焼きを注文して文句を言われて、その女子高校生のひとりを殴ったら女子高校生たちにぼこぼこに殴り返されている夢だった。とても現実感のある夢であったので、じつに情けなかった。
きょうも仕事がないので、夕方まで、『金子光晴詩集』を読むことにする。
付箋しようか迷って付箋しなかった箇所の詩句「深みから奈落が浮かび上がってくる」(だったの思う)が、3、4回繰り返し読み直しても見つからなかった。ぼくが勝手にイメージしてつくった言葉なのかな。「僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、」(『寂しさの歌』三)からの。
これから読むのは、岩波文庫の『金子光晴詩集』295ページ。『くらげの唄』から。これはアンソロジーで読んだような気がする。夕方までには最後まで読めるだろうね。夥しい付箋の数。西脇順三郎を読んだときより多いかもしれない。めっちゃ意外。おもしろさの種類がちょこっと違うような気もするけど。
363ページに、「なじみ深いおまんこさんに言ふ」(金子光晴『愛情』46)とあったので、すかさず付箋した。
465ページに、「イヴの末裔はお祖々をかくし」(金子光晴『多勢のイヴに』)という詩句を見つけた。「おそそ」というのは、「おまんこ」のことである。ぼくの父親の世代(いま80歳くらいのひとたち)で使われていた単語だ。めっちゃなつかしい。数十年ぶりに目にした言葉だった。「おそそ」
かといって、同じ詩のさいごの二行はこんなの。
核実験は夢のまたゆめ
どこまでつづくぬかるみぞ。
(金子光晴『多勢のイヴに』最終連・第三―四行)
ようやく、岩波文庫の『金子光晴詩集』が読めた。後半、付箋だらけ。これから、もう一度、読み直す。よいなと思った詩篇を。
先に、コーヒーをもう一杯、淹れよう。
鼻水が出てて、それがどこまで長く伸びるのかなって見てたら、その鼻水の先っちょが『金子光晴詩集』のページの耳のところに落ちてしまって、4、5ページにわたって鼻水が沁み込んでいた。すぐに気がつかなかったからなんだけど、すぐに拭いてても悲惨なことになっていたような気がする。しょんぼり。いったん詩集を閉じて、コーヒーを飲んでいたので沁み込んでいたのだね。いまそこのところを見直してたら、ぼくの表現がおかしいことに気がついた。4、5ページじゃなくて、4、5枚ね。表裏に沁み込んで、その部分波型になっているし。落ちた場所なんて、ひっぺがすときにちょこっと破れかけてたし。ああ、でも、ぼくは、こんなささいな、ちょっとしたことでも、人生においては、大事な成分だと思っているし、そのちょこっと破れかけたページや、波型になってしまったページの耳をみるたびに、自分の失敗を思い出すだろう。以前に、ページのうえにとまった羽虫を手ではらうと、羽虫の身体がつぶれて、ページの本文の詩句のうえを汚してしまったことを、いつまでも憶えているように。たしか、夏に公園で読んでいた岩波文庫の『ジョン・ダン詩集』だったと思う。これは、2度ほど詩に書いたことがある。河野聡子さんが編集なさったご本に、「100人のダリが曲がっている。」というタイトルで掲載していただいたはずなのだけど、ちょっと調べてくるね。(中座)二〇〇九年十二月六日に発行された、『ジャイアントフィールド・ジャイアントブック』という、とてもおしゃれな装丁とカラフルなページのご本でした。ぼくの「100人のダリが曲がっている。」は、26ページに掲載していただいている。
あつかったコーヒーが少しさめてぬるくなった。ちょうどいいぬるさだ。岩波文庫の『金子光晴詩集』の気に入った詩を再読しよう。音楽といっしょで、よいなと思うと、繰り返し読んでしまうタイプの読み手なのだ。小説でも、ジーン・ウルフとか、フランク・ハーバートとか、3回以上、読み直ししている。
そいえば、きのう、日知庵で、ぼくが読んでる『金子光晴詩集』に収録されている詩のなかに出てくる「ぱんぱん」という言葉について、えいちゃんに、「えいちゃん、ぱんぱんって言葉、知ってる?」って訊くと、「えっ、なにそれ。」という返事がすかさず返ってきたのだけれど、カウンターのなかで洗い物をしていた従業員のいさおさんが、「売春婦のことですよ。」と間髪入れずに答えてくれたのだった。すると、えいちゃんも、「思い出した。聞いたことがあるわ。」と言ってたのだけど、ぼくは、「そうか、ぼくが子どものときは、よく耳にする言葉だったけどね。あの女、ぱんぱんみたいって言うと、パン2つでも、おまんこさせるって感じの尻軽女のことを言ってたんだけどね。」と言うと、いさおさんが、「ぼくは違うと思いますよ。パン2つで、じゃなくて、これですよ、これ。」と言って、洗い物をやめて、くぼめた左手に開いた右手をあてて、「パンパン」って音をさせたのであった。「そう? 音なの?」って、ぼくは、自分が聞いた話と違っていた説明に、「なるほどね。セックスのときの音ね。気がつかなかったけれど、なんか納得するわ。」と言った。どちらがほんとうの「ぱんぱん」の説明かは知らないけれど、終戦直後にはよく街角に立っていたらしい。つい最近もツイートで、写真をみたことがある。ぱんぱんと思われる女性が街角に立って、ちょっと背をかがめて、紙巻たばこを口にくわえて、紫煙をくゆらせていたように記憶している。ぱんぱんか。ぼくの父親は昭和11年生まれだったから、じっさいに、ぱんぱんを目にしていたかもしれないな。いや、きっと目にしていただろう。文学は記憶装置だと、きのうか、おとついに書いたけれども、じっさいに自分が目にしていなかったことも、それは写真などで目にしたもの、書物のなかに出てきた言葉として記憶したものをも思い起こさせる記憶装置なのだなって思った。いさおさんが、日本の任侠映画にも出てきますよと言ってたけど、日本の任侠映画って、ぼく、あまり見た記憶がなくって、はっきり思い出せなかったのだけれど、そう聞かされると、数少ない目にした任侠映画に、ぱんぱんという言葉がでてきたかもしれないなあと思った。これって、なんだろう。はっきりした記憶じゃなくて、呼び起こされた記憶ってことかな。わからん。
いま王将に行って、遅い昼ご飯を食べてきたのだけれど、そだ。きのう、日知庵で、金子光晴の詩に「ぱんぱん」という言葉がでてきて、そのこと、きのうしゃべったぞと思い出して、帰ってきたら、ツイートしなきゃって思って、王将でペンとメモ帳を取り出して、記憶のかぎりカリカリ書き出したのだった。いや〜しかし、いさおさんの説明、説得力があったな。「ぱんぱん」という音がセックスのときの音って。音には断然たる説得力があるね。パン2つでという、ぼくの説明が、しゅんと消えちゃった。まあ、そういった音も、ぼくにかぎっては、ここさいきんないのだけれど。さびしい。なんてことも考えてた。まあ、また、いさおさんが、洗い物をした直後で、まだ水に濡れている手で、「ぱんぱん」という音をさせたので、おお、そうか、その音だったのだって思ったこともある。あのいさおさんの手が濡れていなかったら、あまり迫力のない「ぱんぱん」という音だったかもしれないので、状況って、おもしろいね。いま何日かまえに見たという、ぱんぱんの画像をツイッターで調べてみたんだけど、数日まえじゃなくて、10日まえの4月16日の画像だった。記憶ってあてにならないね。あ、あてにならない記憶って、ぼくの記憶のことだけどね。ぴったし正確に憶えていられる脳みその持ち主だって、きっとたくさんいらっしゃるのだろうしね。56歳にもなると、ぼくは、自分の記憶力に自信がすっかりなくなってしまったよ。付箋し損なったと思っていた金子光晴の詩句だと思っていた「海の底から奈落が浮かび上がってくる」も、金子光晴の『鮫』三にある「おいらは、くらやみのそこのそこからはるばると、あがってくるものを待ってゐた。」という詩句か、『寂しさの歌』三にある「僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいてゐることか。」という詩句から、ぼくが勝手につくりだしたものかもしれない。うううん。こんなことがあるあら、ちょっとでも意識にひっかかった個所は、かならず付箋しておかなけりゃいけないね。ほんと、うかつ。これからは、気をつけようっと。
ぼくが金子光晴の詩を、この岩波文庫の『金子光晴詩集』から一篇を選ぶとしたら、まえに引用した、あのうんこの詩「もう一篇の詩」か、つぎに引用する「死」という詩かな。
金子光晴 「死」
━━Sに。
生きてるのが花よ。
さういつて別れたおまへ。
根さがりの銀杏返し
痺肩のいたいたしいうしろつき。
あれから二十年、三十年
女はあつちをむいたままだ。
泣いてゐるのか、それとも
しのび笑をこしらへてゐるのか
ああ、なんたる人間のへだたりのふかさ。
人の騒ぎと、時のうしほのなかで
うつかり手をはなせば互ひに
もう、生死をしる由がない。
しつてくれ。いまの僕は
花も実も昔のことで、生きるのが重荷
心にのこるおまへのほとぼりに
さむざむと手をかざしてゐるのが精一杯。
うんこの詩もすばらしいが、この実存的な詩もすばらしい。岩波文庫の『金子光晴詩集』は、清岡卓行さんの編集が入っているので、その目から逃れた詩篇についてはわからないけれど、「もう一篇の詩」か、「死」のどちらかが、ぼくの選ぶ「金子光晴ベスト」かな。
これからお風呂に入ろう。それからコーヒーを淹れて、ちょっとゆっくりしよう。
コーヒーを先に淹れた。
遅がけに、日知庵に飲みに行くことに。10時くらいに行くと思う。きょうは、自分の鼻水で遊んでいて、岩波文庫の『金子光晴詩集』のページを(耳のところだけどね)傷めてしまって、自分で自分を傷つけたことにショックを受けたけど、いい勉強になった。自分の鼻水では、もうけっして遊ばないこと。
二〇一七年四月二十七日 「金子光晴の詩」
きのう、岩波文庫の『金子光晴詩集』で、付箋した箇所をツイートしてみようかな。こんなの、ぼくは選んでるってことで、ぼくの嗜好がよく出ているんじゃないかな。まあ、いろいろな傾向のものが好きだけどね。きょうは休みだから、ひまなんだ。
金子光晴 「章句」F
落葉は今一度青空に帰らうと思つてゐる
落葉は今一度青空に帰らうと思つてゐる
金子光晴 「渦」
馬券をかふために金のほしいやつと
金がほしいために馬券を買ふやつとの
半分づつの住居なのだ。
金子光晴 「渦」
あゝ渦の渦たる都上海
強力にまきこめ、しぼり、投出す、
しかしその大小無数の渦もやうは
他でもない。世界から計上された
無数の質問とその答だ。
金子光晴 「路傍の愛人」
危い! あんまりそばへ寄ると
君は一枚の鱗(うろこ)を残して、姿を消してしまふかもしれない。
金子光晴 「路傍の愛人」
だが、彼女はしらない。彼女の輝やくうつくしさが、
俺のやうなゆきずりの、張(ちやう)三(さん)李(り)四(し)の、愛慕と讃嘆と、祝福とで、
妖しいまでに、ひときは照りはえたあの瞬間を。
金子光晴 「航海」
彼女の赤い臀(しり)の穴のにほひを私は嗅ぎ
前(ぜん)檣(しやう)トップで、油汗にひたつてゐた。
金子光晴 「南の女におくる」
人は、どんな小さな記憶でも、摑んでゐるわけにゆかない。
金子光晴 「夜の酒場で」
ながれ汚水。だが、どこかへうごいてゐないものはない。私はひとり、頬杖をついて、
金子光晴 「おっとせい」二
(…)やつらは、みるまに放尿の泡(あぶく)で、海水をにごしていった。
金子光晴 「泡」三
(…)らんかんにのって辷りながら、おいらは、くらやみのそこのそこからはるばると、あがってくるものを待ってゐた。
金子光晴 「どぶ」一
━━女ぢゃねえ。いや人間でもねえ。あれは、糞壺なんだ。
金子光晴 「あけがたの歌」序詩 一
どつかへ逃れてゆかうとさまよふ。
僕も、僕のつれあるいてゐる影も、ゆくところがない。
金子光晴 「落下傘」一
おちこんでゆくこの速さは
なにごとだ。
なんのあやまちだ。
金子光晴 「寂しさの歌」三
僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいてゐることか。
金子光晴 「蛾」一
月はない。だが月のあかるさにみちてゐた。
金子光晴 「子供の徴兵検査の日に」
身辺がおし流されて、いつのまにか
おもひもかけないところにじぶんがゐる
金子光晴 「女たちのエレジー」
(…)釦穴にさした一輪。あの女たちの黒い皺。黒い肛門。
金子光晴 「女の顔の横っちょに書いてある詩」
三十年後のいまも猶僕は
顔をまっ赤にして途(と)惑(まど)ふ。
そのときの言訳のことばが
いまだにみつからないので。
金子光晴 「[戦争が終ったその日から]」
ぱんぱんはそばの誰彼を
食ってしまひさうな欠伸をする。
この欠伸ほどふかい穴を
日本では、みたことがない。
金子光晴 「くらげの唄」
僕? 僕とはね、
からっぽのことなのさ。
からっぽが波にゆられ、
また、波にゆりかへされ。
金子光晴 「ある序曲」
すでに、僕らは孤独でさへありえない。死ぬまで生きつづけなければならない。ごろごろいっしょに。
そして、真似なければならない。することも考へることも、誰かにそつくりゆずりわたすために。
金子光晴 「太陽」
濡れた舌で、草つ葉が、僕の手をなめる
……土管と、塀が、一つところに息をあつめる。
暗渠のなかでころがり廻る白髯の太陽の
居どころをしつてゐるのは、僕より他にない。
金子光晴 「太陽」
濡れた舌で、草つ葉が、僕の手をなめる。
……土管と、塀が、一つところに息をあつめる。
暗渠のなかでころがり廻る白髯の太陽の
居どころをしつてゐるのは、僕より他にない。
金子光晴 若葉よ来年は海へゆかう」
海からあがってきたきれいな貝たちが、若葉をとりまくと、
若葉も、貝になってあそぶ。
金子光晴 「愛情」8
なにを申しても、もう
太真はゐない。
あのお尻からもれる
疳高いおならを、
一つ、二つ、三つ、四つと
そばで数取りしてゐた頃の
万歳爺々(くわうてい)のしあわせは
四百余州もかへがたかつた。
金子光晴 「愛情」29
"唇と肛門とは親戚だ"と、
いくら話しても、その男には分らない。
金子光晴 「愛情」46
みんな、ばらばらになるんだね。
もう、洋服もつくつて貰へなくなるね。
ジョーさんよ、いづれは皆さやうならだ。
太陽も、電燈も、コップの水も。
みんな君が愛したものだ。酒も、詩も、
それから、大事なことを忘れてはいけない。
君だけをたよりに生きてきた奥さんの
なじみ深いおまんこさんに言ふ
サンキュー・ベリマッチを。
金子光晴 「海をもう一度」
あくと、あぶらと、小便で濁つた海は
海亀と、鮫と、しびれえひしか住めない。
金子光晴 「女の一生を詩(うた)ふ」
それは、男と女とは、人間であることでは平等だが、
おなじものを別の感性で受けとり、
おなじことばで、別のなかみを喋(しやべ)る。
金子光晴 「雨の唄」
君のからだのどのへんに
君がいるのだ?
君を見失ったというよりも
僕はまだ、君をみつけなかった。
金子光晴 「雨の唄」
僕の胸のなかに這ういたみ
それが、君ではないのか。
たとえ、君ではないにしても
君が投げかける影ではないか。
金子光晴 「雨の唄」
君は単数なのか。複数なのか。
きのうの君ははたして、きょうの君か。
いつともしらず、刻々に蒸発して
君の若さは、交代してしまう。
金子光晴 「短詩(三篇)」B
人間がゐなくなつて、
第一に困るのは、神様と虱だ。
さて、僕がゐなくなるとして、
惜しいのは、この舌で、
なめられなくなることだ。
あのビンもずゐぶん可愛がつて、
口から尻までなめてやつたが、
閉口したことは、ビン奴、
おしゃべりで、七十年間、
つまらぬことをしゃべり通しだ。
金子光晴 「短詩(三篇)」C
そして、僕はしじんになった。
学問があひてにしてくれないので。
ビンに結んだ名札を僕は、
包茎の根元に結びつけた。
金子光晴 「そろそろ近いおれの死に」
詩だって? それこそ世迷ひごとさ。
金子光晴 「反対」
人のいやがるものこそ、僕の好物。
とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ。
金子光晴 「反対」
ぼくは信じる。反対こそ、人生で
唯一つ立派なことだと。
反対こそ、生きてることだ。
反対こそ、じぶんをつかむことだ。
金子光晴 「短章(二十三篇から)」A
枝と枝が支へる沈黙のほか
からんとして、なんにもない。
金子光晴 「短章(二十三篇から)」E
健全な白い歯並。こいつが第一だ。ぬれて光る唇。漆戸棚のやうな黒光りする頑丈な胃。鉄のやうなはらわた。よく締まつた肛門。
さあ。もつてらつしやい。なんでもたべるわ。花でも、葉でも、虫でも、サラダでも、牛でも、らくだでも、男たちでも、あしたにならないうちに、みんな消化して、ふというんこにしておし出してしまふから。
そんな女に僕は、ときどき路傍ですれちがふんだが。
金子光晴 「短章(二十三篇から)」W
冒頭もなく、終もなく、人生はどの頁をひらいてみても人生であるやうに
僕らはいつも、路の途中か、考の途中にゐる。
一人の友としんみり話すまもないうちに生涯は終りさうだ。
そののこり惜しさだけが霧や、こだまや、もやもやとさまよふものとなつてのこり、それを名づけて、人は"詩"とよぶ。
金子光晴 「そ ら」
生きてることは せうことない
肌でよごす肌 ふれればきずつく心
金子光晴 「多勢のイブに」
イブの末裔はお祖々をかくし
棕(しゆ)櫚(ろ)の毛でぼやかしてアダムを釣り
沼辺の虫取りすみれを植ゑて
アダムの塔をHOTHOTさせる。
金子光晴 「わが生の限界の日々」
四十、五十をすぎてからの日々の迅速さ。
メニューを逆さにして下から上へと、
一度抜(ぬ)けたら生え替(かは)らないこの歯ぐきで
人生を味ひ通す望みがあるか、ないか、
炎天下で、垂氷(つらら)の下で。
4月28日締め切りの原稿も彫琢しまくって、ぴったし制限文字数で書いたのだが、 これから王将でお昼ご飯を食べに行って、帰ってきたら、もう一度、原稿に目を通して、思潮社の編集長の高木真史さんにワード原稿をメールに添付して送付しようっと。
もういま、完成した原稿を高木さんに送ったので、きょうはもう、することがない。金子光晴の詩句をルーズリーフに書き写そうかな。それとも、ちょっと休んで、横になって、本でも読むか。まず、とりあえず、コーヒーでも淹れよう。
送った原稿にアラビア数字が漢数字に混入していたので、訂正稿をいま送り直した。どんだけ間抜けなのだろうか。文章の内容ばかりにとらわれて、文字の統一を失念していた。まあ、その日のうちに、気がついてよかったけれど。送ってからでも原稿の見直しをしてよかった。というか、推敲を完璧にすべき!
晩ご飯を食べに出る。イオンで、チゲラーメンでも食べてこよう。
焼き飯も食べた。
ルーズリーフ作業終了。これから寝るまで読書。さて、なにを読もうか。ディックの短篇集『ペイチェック』に入っているものを読もう。さいきん知ったコメディアン二人組「アキナ」がおもしろい。直解主義的な言葉のやりとりが見事。
きょうも文学に捧げた一日であった。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年四月二十八日 「毎日のように日智庵」
これからお風呂。そして仕事に。
あしたも日知庵に行くと思うけど、きょうも、10時くらいに行く予定。飲んでばっかりや。ちゅうても、きょうも授業の空き時間は読書。ディックの短篇の再読。
二〇一七年四月二十九日 「きょうは、ひとりじゃないんだよ。えへへ。」
日智庵に行くまえに、ジュンク堂で、現代詩手帖の5月号の「詩集月評」を見た。ぼくの詩集『図書館の掟。』(思潮社オンデマンド・2017年2月刊行)の評を、時里二郎さんが書いてくださっていた。詩句の一行の引用もなく。というか、詩句のひと言の引用もなく。まあ、いいか。採り上げていただくだけでも。ね。これが無名の詩人のさだめかな。
いま日知庵から帰った。ひとりじゃないんだよ。えへへ。
二〇一七年四月三十日 「ゲイルズバーグの春を愛す」
ジャック・フィニイの短篇を読もうと思う。きのう、フィニイの『ゲイルズバーグの春を愛す』のトールサイズの文庫をブックオフで108円で買ったのだった。ほとんどさらの状態。
フィニイの短篇集、会話がほとんどなくって読みにくいけれど、このあいだ現代日本の作家の小説を開けたら会話ばっかりだったので、それも勘弁してほしいと思った。適当に、まぜまぜしたものが読みたいと思うのだが、極端な作家が多いのかな。
イオンでチゲラーメン食べてきた。これから読書に戻る。フィニイ。
二〇一七年四月三十一日 「ほんとうに文章って、怖い。」
いまも原稿に手を入れていた。いったん高木さんにお送りした原稿なのだけど、書き直しをしているのだ。さっき完璧だと思っていたのに、まださらによい原稿になっていく。怖いなあ、文章って。ちょっと休憩しよう。セブイレに行って、おにぎりでも買ってこようかな。
原稿、まだ手が入る。ほんとうに文章って、怖い。
ちょっと休憩しよう。言葉を切り詰めて切り詰めていると、頭がキリキリと傷む。とても単純なことを書こうとしているのだけれど、それがひじょうにむずかしいのだ。
ビーナス
冷え固まったマグマを、赤く発光するマグマが突き破る
そしてまた、黒く冷え固まりはじめる
冷え固まるのを許そうとしない新しいマグマが、
それを突き破り、冷たいマグマと熱いマグマが混ざり合う
ビーナスが、ゲロゲロと嘔吐している間、
ぼくはまったくすることがなくて、だからといって
何かをしようとも思わなかった
ぼくは、吐瀉物だった
ゲロゲロのリズムのなかに、ぼくが
グルグルまわっていた
ただ、多くのビーナスの、激しく往来する
道のなかにいて、ビーナスのゲロゲロが
降り積もっていくのを見ている
ゲロゲロは地図を描いた
降り積もっていく間に世界地図を描いて、
ぼくが任意の点に指を突き刺すと
ゲロゲロが悲鳴をあげて、
ぼくの指があっさり溶けた
噂
托卵によって
成長した、この星の
片隅の街で
そろそろ
何もかも
あきらめてしまえよと
誰かが
つぶやきながら
空に火を放つ時刻に
先を争って
エジソン電球を
買い求める主婦たちは
みんな鯨のヒゲで
駆動しているし
通り過ぎる
路面電車の窓には
異国のテロで死んだ
友の顔が
べったりと張りついていて
とても遠いところを
見つめているから
ぼくは
昆虫のように
落ち着かないのだ
と、狼の血が濃い犬が
テレビの中から囁く
ので
ビデオラックの
片隅に置かれた
艶やかな骨壺の中で
残り少なくなった
母の骨が
こらえきれずに
小さな、
くしゃみをした
季節は夏を王冠にして
銀ヤンマの複眼
虫眼鏡
太陽を透かし見るビー玉
金木犀の匂う街を
あたらしい恋に付け睫毛してゆく女の
銀ラメのスカートが風に膨らむ
虫眼鏡を手に持って
まだ生ぬるい10月の海辺に腹ばいになれば
砕けた珊瑚に残るのは
太陽が差し込むなか、海草が揺れていた海の記憶
角が丸くなった琥珀色のガラスは
鍵っ子が暑い夏に部屋で一人飲んだ
コカ・コーラの瓶
乾いたドラムが小刻みに午後6時を揺さぶり
ぽつぽつとあかりが灯りはじめたマリーナ沿いの
木目がペパーミントグリーンで塗られた丸テーブルの並ぶ
季節はずれの海の家に僅かに停められた
喧嘩して黙り込む恋人たちの車から流れる
瞳のシャッターを切る
それはどこまでも世界最高最速のカメラだ
取り留めの無い暗い冬に
分厚いコンクリート壁の内側で鉄のパイプ椅子に座っている人
遠くでは真っ白な雪の粒が思い思いの幾何文で
つつましく降っている
触れると束の間
指先で震えて
融けて消えた
記憶のなかの埃を吸った重いカーテンの垂れる山の廃校
古びたピアノの心臓に手を当てる
彼女は泣いているけれど
その、調律が外れて
メロディを乗せればとんちんかんな
こもった音に愛は満ちる
夏草枯れて
冬を迎えても
わたしは夏の気が遠くなるようなあの暑い日に
野遊びする子供の草笛になれたのだから
あなたがわたしを忘れようとも
わたしの夏は永遠だ
遍在的偏在論
遍在的偏在論
鯨に擬態した鳥の一生
あるいは
消えた詩の行方
想像力とはすなわち、物事に対する誤った認識へ、ひとつの寛容的な態度を示しておくための修辞そのものに他ならない。想像力の欠如した犬は、夜空に浮かぶ月の中に、月のもつ白い輝きとその柔らかな形状を記憶している。
<1>
一本の電話線の中を流れるロバの血液量は、アンモニアの含まれたコーヒーカップによって計量される。脳細胞のもつ忘却のメカニズムを鶏の鳴き声が代行しているのであれば、正方形にカットされた衣服の一部を、人は鼻孔と見なすこともできるし、もしくは記念に持ち帰ってみたレントゲン写真と見なすこともできる。ここで最も肝心となるのは、羊の心臓を取り出した外科医がその後、その場所に何を戻すのかという問題である。たとえばここで、一本のボールペンのインクが赤かったとしよう。水槽の中には土が入っていて、そこでは10匹のミミズが飼育されている。便器にはフランス人のサインが記入されているだろう。車は一匹の鉄の蚤で、タクシーのメーターは老人を轢き殺した時にしか止まってくれない。ある男性が道路に落ちていた地図を拾い上げると、それは単にライオンに噛みつかれた鮫の傷跡だったりもする。水道水の中を泳いでいるのは、月の光と同等の虫である。蚊がマラリアで人を殺すのだとすれば、結核で人を殺すのは人なのだろうか。根絶やしにされるべきは美しい言葉と磁石のN極だ。象の糞にはおそらく宇宙が広がっている。穢れた草木の遺伝子と湖面を漂う蛇の大腸は必ず区別されなくてはならない。術後の経過は国営放送によって流されることとなっていた。白い羽をもつ蝶は、鳥にとっては黒い葉だ。光よりも速く這う幼虫が発見されたのであれば、森はもっと静かであっただろうし、人の眼も今ほどよりは大きくなっていなかっただろう。海水に含まれる酸素濃度が年々、上昇し続けている。それに反比例するような形で、図書館における詩集の貸し出し冊数は減少し続けているということだ。けれどもし、あの日、羊の心臓のあった場所へ戻されたものが、赤い字で書かれた一冊の詩集であったならば、決して老人の脳の中でミミズを飼育する必要はなかったし、それを食べる鳥が火の中で夢を見る必要もなかっただろう。
<2>
雨の日を喜ぶものが、自分の涙を隠したがっているとは限らない。それと同じように、鳥の肛門から排泄されたものが、一つの卵ではなく、一羽の鳥だったとしても、人はそれを共食いの結果であるとは思わずに、哺乳類への退化と見なすことだろう。死んだ貝殻には生きた砂が詰まっている。すなわち、25gの砂鉄が蟻たちにとっての致死量だ。雲の上にある水の膜が破れ、そこから海の血が流れ出した瞬間、手帳にひとつだけ残された住所は今日の正午とともに消えていった。空中で開かれた傘は身動きのしかたを忘れ、風の指示に従って飛行機のエンジンへと飛び込んだ。衝突地点で聞こえた爆発音は、3秒後には地球の裏側へまわっている。それを人間の耳が捕らえ、不燃ごみの袋の中へ放出するまでに、猫が二度発情し、鯨が三度の世代交代を果たすだけの猶予が残されている。木の幹にしがみついた高所恐怖症の光を地上にまで降ろすために、総勢39名の年金未納者が命を落とした。川が満たすのは海の自尊心と、そして栄養失調歴18年の瓦屋根だ。公衆衛生維持のため、鳥は街で糞をすることを禁止されているが、それを決めたのは有志で集った3mmの刺繍である。熱せられた鉄板の上を蛇の子どもが這っていく。すぐに皮膚が焼け付いて、蛇は身動きが取れなくなる。そして蛇が焼けて炭になるまで、貧困層の識字率は熊の巣穴の中で夜を明かすのである。胃酸は何故、人体をからだの内側から溶かしてはくれないのだろうか。物質は化学的にその表面から姿を失っていく。林檎の木はその枝先になったいくつかの果実を救うために己の根を枯らしていった。偶数の数は常に奇数の数をひとつ上回っているにもかかわらず、下水管として使用されるパイプの直径は、ちょうど大人一人がその中で生活できるだけの広さになっている。そこから察するに、冬が明けたところで春はこないし、石の中を流れる水が空気との性的接触を果たすこともない。そこにあるのは季節と呼ばれるに値しないだけの景色と、科学的進歩を待ちわびて眠る凍った死体の山々である。
<3>
古びた写真が記録するものは、あの日あの時の一瞬ではなく、あの日から今日までの写真が色あせるのに費やした月日の方である。たとえ月のもつ乾いた体表へと鳥の脳が拡張され、そこで雪の味を覚えることになったとしても、空を満たすのは透明な影であろうし、その光を遮るのは鯨の呼吸である。緑の音は単なる嗜好の問題ではないし、あらかじめ予期された偶発的讃美歌でもない。青の保有する大地は実に広大なもので、そこには芝生が生えていれば、海までもがある。それの与える刺激に鼓膜の粉末は添えられているが、それらのもつ温度と形状はともに共通した塗料を散布している。黴の生えた薔薇の花弁を塩酸に浸してみると、そこに白血球の帯状の沈黙が現れるように、枯れた珊瑚礁に棲む雛鳥たちは、溺死の仕方を忘れて今日も生き続けているのだ。唇の周りに多量の産毛を残して鳥たちは去っていく。その行き先として指定されるのは、三日も前から失踪中の詩の断片であることが37%の割合として算出されている。それはつまり、ガラス製の不眠は血液の抽出には不向きであるし、夢で得た知識を現実で得た知識と混同することは、溶岩の中に浸された蟻の巣穴を眼の虹彩へと移植することに通ずるだろう。葉の裏側に吐き出された牛の背の模様は、空気に触れることで次第に赤く変色していきながら、最終的には地下室の窓のあった場所へ時計の針を置き去りにすることになる。その針が北の方角を指し示しているころ、鳥の尾に刻まれた星座の形は裁判所に一時の休息を与えてくれる。無作為に選び取られた魚の鱗。その鱗が保護していたはずの新鮮な皮膚の中へ、それを必要とする疲労した涙の中へ、犬の乾いた舌の上に残るのは、少量のナトリウムと思春期のもたらす乳房発達の予兆である。拳銃の中には弾丸の代わりに蝶の蛹が詰められている。鳥が深呼吸を始めてから早くも12年が経過した。月が君のもつ青白い頬の記号だとすれば、人は月と言うのに、何の一文字を選び取ればよいのだろうか。
<4>
音楽の本質は考古学的色彩から導き出された絶縁性のパプリカの中に存在している。劣性遺伝によって生み出された赤色のパプリカは、緊急時の赤い信号機のサインとして使用されていた。点滅を始めた青い歩行者用の信号機の拍子に合わせて、博識者の間に同性愛的性質は広がっていく。残酷なのは優しさの補償として。釘打ちにされた湖の大木はいつまでも倒れる方角を決めかねている。この病が言語感染し、街中の人間が隣人のことをこよなく愛することになったとしても、それはゼラチンによって眼を包まれる幸福のため、指先の爪を鳥の羽根で覆うための二義的な自粛であって、その根本的な目的である黒人の陰茎の浴室栽培は、下水道に設置されたダムの年間発電量に相当する、8リットルの蜂蜜を産み出している。銃声の飛沫の中に含まれる文化的流産は、高層ビルの屋上に塩素消毒されたプールを建設し、そこでは土の中から掘り出されたピアノが飼育される計画となっている。嵐は気化熱の要領で、もしくは帯電した羊たちが産卵を始めるときのような具合で、砕け散った白熱灯を身にまといながら小麦畑の中へと消失する。雑巾は雨漏りする屋根を叱りつけた。屋根が叱られて泣くので、雑巾はまた濡れた。液体が重力に逆らいながら空を昇るころ、窓から外を見つめていた牧師は幼少期のことを思い出す。あのとき、神はまだ存在していなかったし、砂場で横たわる犬の死体は、砂場で横たわる犬の死体のままで存在していたと。鼓膜は聞きなれない音に自分の耳を疑った。地球儀を左右のタイヤの代わりにして、故障した車が夜の都会を去っていく。南極で発見された石油は凍っているので持ち運びやすいのだ。蝶はその口の先端を眠っている少女の手首に近づけた。あれはまだ正気を失ったばかりの人間だ。通りで訳の分からない言葉ばかりを話している。
<5>
死からの逃亡を果たした詩は、あるときにはクロスワードパズルの最後の答えに、またあるときには冷蔵庫の中へ撒かれた肥料に、そのまたあるときには発達異常の鯨に扮して、溺死した鳥の子宮の中で卵の殻が割れる日を待っていた。水は不純な酸素として、海から海へパンに挟まれた具材を媒介していたのだ。鯨は焼け焦げた砂糖の黒さを宇宙の黒さと見間違え、その中へと飛び込んでしまった。だから博物館の化石にはよく蟻が集っている。地理的に言えば妊婦は青空の下で牛の餌になる予定であったが、それは洪水のもたらした最後の功績であったため、もう誰も月を信じなくなった。林檎の木は羊とともに暮らしていくだろう。それから魚の群れは、その親である鯨の呼吸から引き剥がされて、墓石に支払われる給与として犬の舌の上に優しく乗せられる。これが今で言う、幸福のシステムである。水は苦かろうと甘かろうと透明だろうと、鏡は言う。何故、磁石のN極が磁石のS極を恋しがるのかといえば、その衣服がいつも濡れているからだ。船はもう行ってしまった。万国旗を君の好きな長さの分だけ用意しよう。象牙が氷の上を滑っていくのを見届けると、そこには青い花が咲いていた。
(1)そこには青い花が咲いていた。
(2)そこには青い花が咲いていた。
(3)そこには青い花が咲いていた。
(4)そこには青い花が咲いていた。
(5)そこには青い花が咲いていた。
草の根が氷の中に根をはったのか、それとも水が草の根の上で凍ったのか。白い食器と砂漠の枯れ木の間は地続きになっていて、足のある動物は皆、そこを通ることができる。しかし、その地続きによって魚の群れの通路は遮断されてしまっていた。剥がれた鱗を太陽の光に掲げると、その中に血液が循環している様が見てとれた。その人は日曜日だけ、靴下を左の足から履くことに決めている。屋根の修理をすると次の日は雨が降る。国民は一人一人、鳥一羽を自分の口の中で飼うよう義務づけることにしよう。
今は亡き友人F
朝から流し込むコーヒーは 喉に炎症を起こしそうで
硬直しきった体で新聞を斜め読み
ネットニュースは淡泊で 事実らしきものだけを切り取って
彼らの進むべきビッグクランチというゴールさえ素通り
「実存主義」なんてもう金にならない過去の金メッキで
役に立たない代物 読み漁った僕に呆れる
膨張する不満と宇宙を秤にかけて 悩みが深いのは
どうやら僕の方らしい
寝袋で二日も眠れずに ただ横になって無為にした日々
こみ上げるものは 満員電車に乗る人々の行き先が天国であればな とだけ
死と生が線引きされる死生観の世の中で
死んだように生きる そんな自分自身も裁かないで
時に祇園に降る油のような 危うげな雨
僕はライターで火を点け 燃やし尽くそうかと考えてみたりして
目に飛び込む窒素と酸素 微細に僕を動かす
失うものは多いけれど 手にするものは少ないらしい
部屋で死んでいた虫の亡骸を ゴミ箱に捨てる
せめて人だけはゴミ箱でなく 行き先は天国へ
俯きがちだが 折れない瞳で 彼がそう言ったのが聴こえた
七年も隔てた 七年も前の 昔の話さ
この街の今世紀
―1999夏から秋、随分とケズり獲ってきただろうおまえの肉体が透けてみえる
偏頭痛は城公園の樹々が散らしていた
「ええ、
前世紀のことですが
脳だけで
いきていける実感しかない。」
―2016初冬、煉瓦造りの図書館から城跡の坂を下っていく途上、薬研堀とかいう堀の茂みに隠れる若い男女の片方がおれだ
女は男のうえに座っている
「産まれるまえからおまえを、
生きるより恐ろしい目に合わした。サザエさんは放映しない。
《家族》がないからな。」
おれは、この街の今世紀に帰ってきたと知った
青い繃帯
菜種花と橄欖の膏薬に縁どられた昼よ
海星をおまえは踏み
海星はおまえを掴む
しかし誰が托鉢箱のなかに濁血の手套をなげ入れたのか
酷薄な街燈の穹窿よ
咽喉はきみたちの告解の価値を報せ
伝令鳩のベルは遅く鈍い採掘夫たちの掠めた鉱石の瞳の様にきみたちを水葬燈に切り開くだろう
巧緻の球体は蔓薔薇の鏤刻に呪われた歳月を確め歳月は煤窓の鍵盤を穿つだろう
酸い嗚咽よ、扁桃に拠り始めて表象と成る肉体を包む希釈液の吐瀉物としての死よ
自由の勿い瑠璃青を滑落してゆく市民達を
飛翔する幌と帆と懸架をされた銃剣の無罪証明は紛れなく別ち乍
建築体を渇く後悔の抜殻は映像機の、死の勿い眠りまでを乾き存在の興味とした
_
柱時計
慈愛の終り
真鍮振動子の悪霊達
陽が堕ちる、地下階へ闡く石の死へ
機械創造家は
機械像の余命を燈の壜詰へ
禽舎の底に
裂開をした
水棲樹を物種として
売地を
終端より終端を
腐敗と偽徽章の季候へ曝す
閾を刻限として
褪褐色の地球像は
今なき鶏頭婦を静めながら
公衆へ
懲役を
檻車を鈍重な秒間延展物象時間へと孵し
青く薬莢の匂いは
死後生の塵程のつかの間を
糜爛し
禍根としての画廊を亙り
自由なき誕生は
死を死と呼慣らすまでの、橋梁と実象、それら構図
穢れた楕鏡を抱えつつ
曠野を亙りゆくものもあり、
鋳物の血と
薔薇の透視法に
遠近を鳴る
緘黙の受肉週間に
経緯を織る岩窟の老姉妹に
第七の旋条門は開かれ、|
アウトマタ
機械耄碌家達の獄舎
蟻走車
橋梁は落ち
死者を喚呼する
ベルが鳴る
その名は
孤絶流刑地二十一世紀「地球」
麗しく
醜くも
終末的季候如何に係る
叛逆天使達の
黎刻肉体時計は
逞しき翼撓骨を引き絞りつつ
建築家を追放し
附記をされた這行類匍匐臓花は
球体矮星を呑む
藍青
乾燥写真を燃焼処置するものどもへ
議事堂の母胎は
現実
つまり
魘夢を
告解室の鏡像へ梳き毛髪の硬き公開衛生博覧会が
死の夢を死の夢を
死の夢を死の夢へと
孵開された叛花殻の
緘黙拇指を麗麗と欹てては
偶像、復 群像を呪わしき影像が履み
弛緩鹹湖の野棲無垢たる
剣百合の鋭角は
鐘塔建築の矮鍾舌を
被創臓物花の鉱体に褪色を及ぼし
別人としてを想像-増幅する
現像機関肉塊樹、オウイディウスの薔薇変容
花婿の死は緑礬の様に
そして花嫁の死は繃帯の様に、
食べる。
どしゃぶりを食べる。
戦争にいって泣きじゃくった彼を食べる
つまり戦争をお腹一杯たべる
火薬と汗の腐った味
それをかみさまと言い換えた
人をたくさんたべる
いかいか死んでください
ぐだぐだいってんじゃない
わたしはいぬのように
いきることをたえずたべる
そしておなかいっぱいなったら
しぬ
飼われていることをたべる
私が世界に切断されたら
傷口から花が咲いてほしい
だから花言葉を覚える
めくるめく小説のように
食べる
鶯を、花を、
母を食べた
死ぬことはまだ食べてない
だから食べたい
物語をあげる犬にはせかいがないからものがたりをあげる私を舐める舌には私を見つめる瞳にはせかいがないでも生きている
ボビー
ナチスドイツにおける最後のカント主義者
こらいかいか出てくるな
ひともたべるよね
たくさんたべた
ボビーはレヴィナスを食べたし
私も食べられた
だから、私も
たべるね
ハイデカ食ったら下痢するぞボビー!!
犬が飼われることを
望んでいる、ことを知る
そうしなければ、私たちと、
家族にはなれない
服従しなければならない、
あの足で、
#06
昨晩の大雨が嘘のように、時計の針の残像も消えてしまった、今朝も僕の魂は病み、潜在的犯罪者にされてしまう僕は、僕らは道路の右を歩くのか、左を歩くのか、ふと考えては忘れようとして、する。政治。反対に生活は静か過ぎるもので、今わたくしの耳にはパソコンのファンと、隣のマンションの幼児が笑う声しか聞こえない、耳が四枚あっても是なのだ、白いビニール袋を溜息のようにデスクへ置き、わたくしというこの充つ蒸留水は、けして曇天と喧嘩しようなどとは思わないし、彼ら雲達も考えてはいないだろう。龍神。の、ことを加味しつつ、あらゆる天災はメッセージなのだろうか。ひとはそうあって欲しいのだろうか。龍神。は、遥か高みにおられ、我々人間のことなど眼中にないのか、ふと考えては忘却しようとして、する。ということを先程書いていた。その間蒼い炎は蛇口を捻じ曲げ「アラーは偉大なり」という言葉と共に消えていった。ほのおを誤って書けば、ほのうとなって歩脳と変換され、脳が歩き出す。その1リットルが歩いているのは砂漠なのか、ニューヨークのセントラル・パークなのか知れない。大体、神は概念であると言える立場にわたくしはまだ滴りと怒りの沸騰を挙げられる立場に、いないのだ。ここ郊外は世紀末をひきずっていて墓ばかりある。我々は残されたものでしかない。それだって生活にはなんら支障のないことだった。筈だった。傷つけることも、自分ならば、死ぬことも、他者ならば、嘲ることができる、けったいさを許してほしい。そう書く己は赦せないけれど。昨晩のこと。昨晩のこと。死神が勤労中にも関わらずかまってきた。死神といえど神なので、幻聴と知れようが、四枚の耳で聞いていた。知り得たのは、私は未来より見られるものだということ。必死の抵抗の末、といっても丹田式腹式呼吸だが、職場で発狂せずにやり過ごし、微熱が言葉に変わる幻覚のなか必死振り払って帰ってきた。帰って寝室の床に尻を落とし煙草を喫った。死神。死神は去った。ざあと梅雨の嵐がやってきた。さもあらん死神も入ぬ梅雨の室、にはならなかった。忘れることのできない幻影は夢のなかに雪とし積もる。眠りに眠った。カラン、と茶の氷が落ちる音で目覚めた。キインとしたその氷音──造語、が耳鳴りのように今も残って、落下傘部隊が落ちていく間に、僕はガムを噛んで苛々を殺している。ざっと90グラム噛んで、腹が緩くなっている。緩くなって、緩くなって、どんどん細くなっていく。そのまま消えてしまうんじゃないか、という光りの中に一人居る。透明なこころ、滴して晴れろ。回覧板で今日も喪報が回ってきた。花は喋らないからうつくしい。ただ生きていますとメッセージしている。また花を捧げなければならないのだろう、と考えていたら今まで実際してきたのか疑問に思った。花の真実も知らないで。人間より植物の方が偉いのに。茶色い戦争、とは言い得ているな、とふと考えて忘れようとする。サーカスの道化師の哀しみよりもっと深い生活の哀しみがある。観客さまは皆鰯なのだ。弱いのだ。アメリカが内実アラーの神を畏怖していることは知っているが、等しくそれはYahwehなのだ、と考えた瞬間、何かのボタンが押された気がする。いとも簡単にあっさりと。亀さえ啼く国に生まれ、獰猛であってならない理屈はない、からここまで書いた。僕は詩をやめようと思う。煙草をやめるより難しそうだけれど。嗚呼、でもこんな戯言、あなたの眼球に映って良かった。
ある祭り。
一粒のシが、挽かれ、練られて
あざやかに色をなくす、朝に
光の膜をはるきみ、ぬられ
いぶく、つちかわれる子らの
泥、すくわれて
凍土となる、えいえんを
島と呼ぶ。たゆたうそれは
夜と呼ばれた。下にはいつも
色とりどりの花、形もなく
つまれてゆくときのせいだった。
(せい、とは何か?)、夏が
かえらせてゆく祖らの木霊のなか
シはかえり、凍土を
さめた花群は咀嚼して、
子どもたちを泥がいざなう
きみへ、夜の火の舌へ
もえあがる色、味わい
回る、姿と影は
境を、とかして。
Unhurt
羽音
しぃぃ [si;]
ささやくささ
つめたきよよ
夜るふるしぐれ
耳明かりくるむ
闇のまたとおく、
胸のおくのおく、
ほつる唇
溌する口
吐息のとげる
吐気 トキ トキ
トキ ともに
ゆきすぎる
胸元ゆれる風
フクカゼ
小夜のよの
ソナタの夜る
溌すれ ハツスレ
ソナタは 掠れ
擦すれ 沿われ
吹き ふるわせ
羽音の 熱れ
ササノ イキレ
まどろみ まどろむ
トキ シドロ
ささめき ささめく
ササヤク シィ ── [si;]
あの夜だけが
―昨日、
ヨシモトリュウメイ
が亡くなりました
いま、文庫の棚
をみてきたのですが
『共同幻想論』
在庫ありません
―人文の棚
にハードカヴァー
幾つかあります
お問い合わせ
あればご案内ください
その日わたしは、
務める書店で
一度も
ヨシモトタカアキ
の問い合わせ
を受けなかった
*
わたしには将来、
いっしょに
こども
を育ててみようか
と約束している
友人がいる
その約束
をするずっと以前
友人の両親
と話す機会
があった
ほら、このひと
ヨシモトリュウメイ
とか 読む人やで
と紹介され
ずっと煙草を
吹かして
黙っていた
友人の父親
がその、瞬間
だけ微笑した
ことを
覚えている
*
まだ、東京
で わたし
が学生だった頃
M先生
の授業に
潜っていた
《ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという確信によって ぼくは廃人であるそうだ》
と、パッセージ
の一語
を読み違えて
先生は
朗読された
その後
わたしは
アパート
の浴槽
に湯を出したまま
寝入ってしまい
管理人
に起こされ
廊下
に積んであった
『初期ノート』
を水浸し
にした
乾かしてみたが
カビが生え
東京
を出るさい
捨てて
しまった
*
先に書いた
友人
の父親は
昨年
他界し
なんで
ヨシモトリュウメイ
よりさきに
うちの
父親が
死なな
あかんねん
と、怒った
いまは
ベナン共和国
に居る
その、
友人に
吉本隆明
が亡くなった
らしい
と告げると
昨年と
おんなじ
ことを云う
*
《もしも おれが呼んだら花輪をもって遺言をきいてくれ》
この、
「花輪」
ということばを わたしは、
ずっと
「かりん」
と読んでいて
その、響き
はたいそう
美しい
と、ずっと思って
いる
///ノイズ&CM。
未来から来たという」あなた
ノースカロライナ州シャーロットから
遙々、次元高速鉄道アムトラックに乗り、
核の冬に埋もれる アパラチア山麓を越えて
ジミー・ロジャースの歌声とともに
揺れる/ゆれる (車窓は巻き戻し)
うーっ、ニャパラムニャーヤー >>>>>>
CM削除。
薄紫の靄に包まれた時間を遡る
オリエント・キャロライニアン号の軋み
(A-69-001)と名乗るあなたは
由緒あるアパッチ族の末裔 そして昔、
縄文人の渡ったアメリカ大陸を後にして
ふるさと日本をめざす 旅の途路
///ノイズ。
20××年×月、夢見る自由が残された日本
暴力的違和感が旅行者を襲う、未来の過去
脳内マシーンの記録から削除される CM
すでに「僕」とあなた (A-69-001)は乖離し‥‥
桜、冨士山、ゲイシャ、ス・キ・ヤ・キ。
美しい日本の言葉たちの散る、東京駅八重洲口
即ち、ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、
彼の名前に因んだ 江戸のど真ん中
日清/日露/大東亜/敗戦/復興/消失
なぜかヤクザの列がならぶ改札を過ぎて
太田胃酸ちがう。救心ちがう、仁丹ちがう
「オー! ト、トイレ ドコデスカ?
声を潜めて しーっ、(下痢を催す、、
「ダレカ、コトバワカリマスカ?
あいはぶ、るーず、♪〜♪♪ うっ、ぶりぶりっ
華麗なるイチモツが鬱金色に染まる
――なんと ‥‥公衆の面前で! で、でも快感 )))
正露丸、もういらんわ
バルチック艦隊ツイニ撃沈セリ
「ソウカ、がっかりしていてはいけない
ワタシハ、ホルモン今日たべました 電動の死デス
皆サン、カルテルを シンジケート染ますか?
それとも時刻は 19:27
まだまだ、夢を見たいですか
バックにCIA憑いてます 人類 皆ヘンタイ
エゴイストです。そして原住民、悪くない
悪いの白人 私、桃色人 オー ゼンゼン関係ないネ
ソレ故、神ノ代理人ヲ信ジ・ナ・サ・イ、デス」
従わないなら 石油価格吊上げます
CM削除。「ブタの胎盤、美しいお肌の‥‥
青いシートを被せた箱が点在する
葉を落とした木々の細い枝から覗く公園に
せめて冬の光は、温かみをおびて降りそそぎ
黄色く枯れた芝生の上には
薄汚れた彼らの衣服が 虫干しされ、
かよわい木漏れ日の光を浴びつ並べ置かれている
――A-69-001、///ノイズ。
あなたはこの国の末路を知っている――
せめて僕たちは その前に
ささやかな夢を、沢山の夢を咲かせよう
恐ろしくリアルな、毒々しいほどの命
わーど/生のコトバを、
漲る憎しみと、より深刻な愛の入り雑じった
かけがえのない存在 そのもの/息吹を
///ノイズ。
(哀れなるかな アイドルタイムの道徳者たち
被支配者たちが偶像のまわりで泣き叫んでいる
醜悪な貌をした機械仕掛けの双頭の鳥像が
マークアップされたユニバーサルコードの呪文を唱え、
やがて総てのコトバたちはXMLDBに呑みこまれた‥‥
合掌。
――A-69-001、
あなたはホルモン今日たべましたか?
オー、ワタシ
本当ハ カルビ焼肉ガ好キデス。 )))
///ノイズ。
20××年×月×日 只今の時刻は‥‥
CM。「世界は希望に満ちている!
懐かしの20××年へ
君もリアルタイムで文学極道に参加しよう
めいびぃ、剥きだしの自由がそこにある。
――過去への旅なら、業界随一
アメリカン・タイムトラベル社です
遺稿集’03-’17
ブロスの下着
だれかおれを連れ去って欲しい
たとえそのだれかが
きみであっても
それはとても素敵なことで
長い孤立からきっと
救ってくれる
おれの人生に勝ちめなんかないのは知ってるとも
まちがってることが多く
ただしいものはあまりなくとも
語りかけてみたい
すべてを
女を知らないやつがこんなものを書いてるんだ
嗤いたければそうするがいいさ
平日のマーケットで
金色の星を浴み
ブラームスのピアノ作品を聴きながら
ブロスの下着を撰びたい
そしてアパートに帰って
シュトラウスのドン・キホーテをかけながら
かの女がくそをしたあとの、
便所の水のながれをずっと聴いてたい
ずっと聴いてたいんだ
それはきっと
美しいにちがいない
清順が死んだ夜
一期の夢やまぼろしのなか
映画音楽というものはおそらく
残り香に過ぎない
フィルムにしたっていつかは滅びて
棄てられる
多くのひとの夢は
おれ自身の夢と拮抗し、
またちがった現実と入れ替わって、
まざりあうだろう
だからなにも悔やむ必要はないんだ
いっときの愉楽のためにこの世界に映画はあるんだから
わるいやつらはみな殺しすればいい
車には火を放てばいい
かわいい女の子たちには悪女としての余生を与えてあげればいい
だれだってほんとうはいいひとにはあきあきなんだから
清順が死んだ夜になって
おれは働いてた酒場で
「殺しの烙印」の音楽をかけた
もしかすれば「くたばれ悪党ども」のほうが
よかったかも知れない
おれだって
できることなら
星ナオミと
チャールストンを踊りたいから
あるいは禰津良子と
死んでしまいたいから
映画には見せ場が必要だ
小津は退屈だ
熊井は社会派という迷妄に終わった
中平は黒い羊だった
蔵原はヌーベル・バーグをプログラム・ピクチャアに灼きつけた
そして清順は「映画なんか娯楽だ、滅びてなくなってしまえばいい」とかぼやき、
倒れた壁のむこうにある、
純白のホリゾントは血の色になって、
なにもかもが伝説として
嘲笑されるのである
清順師、
あなたにいえることはなにもありません
ただ天国などというものはさっさと爆破してしまってくださいませ
調布の撮影所よりもたちのわるい代物を
売れ残った復讐天使たちとともに
いつか
お会いしたいです
では
お元気で
かろうじて
じぶんだらけの身勝手な愛のなかで
クローゼットが倒れ
机が逆さになる
冷たすぎるんだ、
なにもかもがっておれがいった
ぼくはなにもいえなかった
かれはすべて室をめちゃくちゃくに
室のすべてをめちゃくしたにしてった
おれはさもしい
それはぼくだっておなじ
かろうじて掴みとったのはおれのなかの月の光り
月の光りのなかで立ち止まってるぼくの姿だ
トイレット・ペイパーに書かれた最後のラヴポエム
鳥が
落ちる
季節のなかへ落ちる
真昼のスタンドバーでレインコートを脱ぐみたいに
もちろんのこと
かの女らの人生にぼくはなんらかかわりはなく
ぼくの人生にかの女らはなんのかかわりもない
いくつかの断章とともに
燈しを消すだけ
ぼくの雑記帖(03/06/17)──詩の処女作
テレビのなかに新聞記事の荒野が見えた
するとぼくの雑記帖のなかにも
再現された路地裏が貫通した
ぼくの右の耳がぴくぴくと動いてラジオを差したとき
新聞記事の荒野には
ラジオ欄の畑ができて
さらに番組の実がなった
そしてぼくの雑記帖のなかには
ラジオでかかった歌のなまえや
テレビに映ったぼくとおんなじ名前の女の子のことが
下手な字になってざわざわとなびいていました。
12月の旅
どうしてそんなところで
わたしの声がするの?
どこまでいっても
声がするの?
12月たち
ひと知れず死なば真砂の
光りなき峪
ひらいた手のひらで
おまえの、
なかの
もの
に
気づく
旅のおもざしは
冬
しがらみのないからだを解いて
どうしてそんなところで
わたしの声がするの?
どこまでいっても
声がするの?
ハイク・イン・ザ・スロウ
六の花融けてなお見つむる猫
はつゆきや聖人どもは役立たず
きみとまだファックしてない冬ごもり
死ぬときはひとりぼっちだ寒煙
桃の句や口寂しかれひとりみち
弁天の絃切られをる杜の霜
放埒をわびる術なし花曇り
麦秋を待ちてもゆかこ姿なく
走る河亡き妹の冬を充ち
春は死地さくらの国の墓地を見て
死ぬことも思し召しかと若き葉桜
未明聞く狂女の声や雨季近き
花曇り鰥夫暮らしの果てぬまま
だれに打ち明けん桜の幹に棲まう小人を
桜昏し男のくせにパフェを喰う
沖仲師うしろしぐれる波止場かな
春雨の夜や徒寝は寂しかれ
失童の夢見る春の草枕
欠伸して死ぬる天使よ土瀝青
豚
ある夜、おれは夢のなかを歩く
たとえば岡山県美作市下町
祖父の製材屋があったあたりをずっと歩く
かれは養豚場もやってて
どの道もかれの使用人たちが
豚のくそを積んだ荷車で
村道を進んでた
そいつは3歳のおもいでだった
おれはモーテルで、
半分に切り取られた車に乗って
鰯のステアリングを握る
脂が心地よく、
おれの手に馴染む
あるいは、──とおもう、
飜えるかぜのなか
かれらの人間性?
かの女らの人間性?
あるいはおれの人間性がベーコンみたいにわるい臭いを放つ
漆黒論
#
ましろな黒鍵を探している、はじめから見つからなかった、あるいは最初から祭儀にかけられてなかった、蛇の目の中に潜む蜥蜴のようなくろいくろいくろいくろいというよりはこわいこわいこわいこわいという聖(ひじり)を坐しているさまなるを、メニューはマニュアル車とマニキュアの嗅覚における共通点を探し始め、閉じられたときには、すなわちラストオーダーのときには新しく新しく新しく新しく新しくNew Orderになっているピンク色の風呂と井戸。目には目を、歯には歯を、埴輪には埴輪を、新しく新しく新しく、九十九折になった坂巻紙とそれを登っていく輪郭線のたどる指先のような安堵感が、and so on(いって仕舞えばこれは暗騒音なのだ)と続く。
♭
「毒を吐く」という詩行を次の章
へと移す、毒を吐くという詩行が
「毒を吐く」という詩行となって
次の行に現れる、のでよく見てい
「毒を吐く」て欲しい、と思って
「毒を吐く」ならば次の行にもと、
「毒を吐く」という氷結を与えし
める瞬間、胎児からやってきた毒
でわたしは胎盤を腐敗させられ、
子宮ごとごっそり抜き取られる。
##
てんでバラバラになり、てんでバラバラになるてんでバラバラな作法。
てんでバラバラになる、、、でバラバラになる、、、
てんでバラバラになる、バラバラになる、てんでバラ、
バラになる、てんで、バラ、バラ、になる、
て、で、バラバラ、になる、、て、、
バラ、、になる、、、で、
、、、になる、、
、、、
♭♭
混ぜても味はそのまま!
手軽にいつでも食物繊維
魔法の衣装だんすから
真冬の異世界へ――
飲み込まれていく四季は
屁とともに中和される
###
島根県人は夜になると
鳥取砂丘の砂を盗みにくる
軽油タンクが満タンになるまで
砂を盗み取っては突っ込み
それでどこまでもトラクターを走らせる
彼に出会ったときわたしは指差して言った
「あなたは有名人ですよ!」
♭♭♭
ガソリン+キャベツ=キャサリン
⇔ビブラート+オブラート+太陽光=地球寒冷化
⇔人々は二酸化炭素を食べる
⇒キャサリンだけは等しく肥らない
C:O=1:2
であるがゆえに
コバルトブルーの瞳の複数形は
まだ夏色をしていない
####
自炊するといいですよ。まず炊飯器に芯をくり抜いたキャベツを入れます。そしてコンソメを入れて、炊飯ボタンを押します。約40分後、キャベツのコンソメ煮の出来上がりです。たったこれだけ? そうなんです。あとマヨネーズを和えるもよし、ベーコンを炊飯器に一緒に入れて炊くもよし。ベーコンでなくてソーセージでもよし。もちろん、ベーコンとソーセージは人間の肉で。そうでなければ、針葉樹林帯を中心としたツンドラ地帯にかけて、より一層温暖化してしまいます。結果として排出された二酸化炭素、並びにメタンといった温室効果ガスが、さらなる温暖化への推進力となるでしょう。パリ協定は白紙に、京都議定書は無意味になるでしょう。
♭♭♭♭
帰り際にキャサリン、ぶちまけた
『わたしは地球のような目をしていない』
911+311=1222
.
..
.
.
.
.
..
.
.
.
.
.
.
.
.
.
・
・・・時希《トキマレ》
【現代文学地図】
砂の惑星、惑星の砂
ジャンル越境の風
《 《 《 《
》 》 》 》
《 《宮内悠介《
》 》 》 》
宮部みゆきの模倣犯殺人事件
⇒北条時宗の別荘ユリイカ事件
⇒サンシャイン池崎の甘酸っぱい恋の香り事件
⇒ダイナソー竜崎のカ・ル・マ事件
⇒松坂桃李の桃源郷なのに殺戮事件
バビロニアの時代から、ずっとブラがなかった、だからはじめは手ぶらだった、手ぶらではなく手ブラだった。■はじめは最初とは呼ばれなかった、終わりが始まりと呼ばれていた、呼ばれたものが呼ばなかったものを呼んだ、声の洪水が声の洪水を、巻き起こし、じだらくだ、しだらけた、しばらくは、白紙だから、と、黒いインクで■と垂らした、そこが読めなくなった、中心に村上春樹、社会派には村上龍と村上一族が群がる■文字が広がり舞城王太郎まで行き届いた、壊れていくのがよくわかった■青木淳吾が中村文則を踏み倒し、多和田葉子の生い茂る木々に火をつけた『燃え上がる緑の木』で大江健三郎が見え隠れする、裏手に回るは村田沙耶香、いつでも殺人出産しようと待ち構えている■言語派には円城塔が聳えている、だんだん高い城の男と化しつつある■しかしまたこの道はどこまでも続きそうだ■アメリカ最後の実験の日まで|
ポ
ッ
カ
レ
モヤモヤする横澤夏子の結婚
ン
牧場違いな吉
歌 里
檸 吉
檬 里
人
後ろ手で、
草を握り、
話がある、と
呼びかけたとき、
名は、失われ(科)(破れ)
とき、どき、響く、バイオアート(メカニカルブラジャーで逆様の王様を軌道修正する、)
あるいは、また、前の松の向こう側で、
僕の長い長い長い長い、存在しない名が呼ばれ、
僕は(名前なき、なき名前)原題を失われる、あるいは、忘却、ただ、ダダ漏れの思考のみをかき集めて、燦爛する光の中に差し出すこの二の腕で、
【dedifferentiation】
発芽する肉胞が電磁気を帯びて狂気じみた執念を燃やす。やはりそうであったかと思います。すると思ったと同時に私の子宮から放たれた肉片、名付けて破片君が顔を表します。カントの独我論をめぐる戦いの始まりです。破片君はいつしか僕に言いました。現実と妄想の境界線はどこにあるのかって。僕は尊厳死と安楽死の境界ぐらい曖昧なものだと言いました。曖昧なものは死を導きます。確実なものでなければ生き延びることはできません。人体実験でもするか。それが一番だろう。その秋のために。飽和する受肉のときが幸せを運んできます。罅を入れた空き缶がそこら中に転がり、そのカラコロいう音で目が覚めます。泥棒さん、さあ始めなさい! 邪悪な皮膚の肉芽が観察され、今にもそいつは盗まれようとしている。邪悪な眼のように。感情が錆びて砂になってしまったかのような運命で、国道を呼吸する瞬間移動のとき、私は僕はこの破片君になる、肉汁が飽和するときまでに、ああ雨よ、そうしてすぐ雨に頼ってしまう、現代詩の温もりを拭い去るそいつらの鼓動を感じて言う、今日の焼き鳥美味しかった! だがしかしである、今日諸君に集まってもらったのは、他でもない真実を語るためなのだ。なんの? 知らないの? じゃあ教えてあげる。私がここに集まってもらったのは、私が私でなくなるためなのだ。私があなたになり、そのアナロギア関係によって中枢を中断し、三角の在り処を探るためなのだ。そのことがわからないやつは出ていけ! いややめだ、出ていかないでくれ! 狂気の在り処を教えてやるから! 今の一言でお前が隠しもっていた狂気をバラしたな。ああこの手からポロリポロリとこぼれ落ちてゆくこの狂気! なんということだ! 右も左もわからない人間に真理を任せたなんて! どうしようどちらが右でどちらが左だったか思い出せない。利き手の文化史のようなものが立てられるのではないか? だがそれも死滅した! 愛することがわからない、奴は人間失格だ! こんなところに詩情が潜んでいる。どこまでも車が追い抜いて、その果てに衝突するならばいいのに。とか思ってないよ、嘘です、クラッシュした、思考がクラッシュした、詩情がクラッシュした、クラッシック、フラッシュバック。オナニーしてろよと言われたのでオナニーしたらオナニーのしすぎでちんこの皮が腫れた。空が青く晴れている。バタイユのようだ。あのバタイユのようにじわーっと溶け出す世界のことを考えていた。ハレーションを起こした後の焼け爛れた世界のように、感光膜は破損し、美しく悲鳴を上げる、あけましておめでとう、傷口、開くんです、写ルンです、伝染るんです、痺れるぜ、吉田戦車に銃撃されて死んだ男の人体実験というやつは! 性転換したコクワガタの雌における代謝活動を活発化させるホルモンが発見され……ていません。それは死です。死がすべてです。すべてにおいて死が重要なのです。それは静態性が根元性によって破られるように、その皮膜に散種するように、です! です! デスノート? デスノート! 突き上げの築き上げたものを反射させる熱病の愛する声が、透明性の確保に尽力するのです。唾をつけた翼の翼竜の翌日を抑制する欲情の浴場を脱却させ、電気的に回帰させるのです。破片君? 本当にあなたはあなたなのですか? 新詩学だ! アリストテレスに回帰だ! 試しに陰嚢してみよう、間違えた引用だ。引用失敗。間違えたままでいいのか? 委員です。医院です。いいんです。ある種の伝説性に回顧していくようにすれば。そうするしかないのです、私が僕であるためにはそれしか残されていない、道は。私、上、そこ、する。そういうことです。ところでこの一連の流れは切り札の奔流なのです。そこまで書き上げたところで筆を置いた。だが置かない。エクリチュールの零度から始めて、一度、二度、三度と上げていく、二度寝は許さない。そして永遠に、不思議なことに全国から参加者がいるのです、烏合の衆を掻き分けて進む鳥たち、空の雲を掻き分けて進むように、彼らはどこへ行くのでしょう。鳥の肉体美。肉体労働を賛美する讃美歌が聞こえる。気持ち悪い国。ネズミの国のようだ。カミングスのネズミの詩がここには引用されている。どーこだ。探してみやがれ! そこだ! そこにあったんだ! 陰影の鮮やかな色彩の陰が陰る曇り空ですかいそうですかい、スカイブルーは青く青ざめた魚のような表情をしているではありませんか! そらみたことか! 空見たことか! あいつらやっぱり騙してるんだ! 俺たちのことを! 裏切られた! ようやく落ち着いたかいカルメン。ワックスを塗りたくって軌道修正した背格好は不細工で、青空さんはいつも瞳が輝いていた。〓。輝君はどう思う? 本当に輝いていると思う? いつもあそこ、あの瞳に乱反射した光の軍勢が、僕たちに襲いかかってくるようで。コンビニなんか行くと特にそうだ、あそこは光の大軍だ。光軍様はみな鰯。のように泳ぎ出しているんだ、夢みた後で調べてみるといいよ、その調べを。わかった。と思った。調べたんだ。と思った。調べていなかった。と思った。吐き出した。吸った。僕は瞑想している。と思った。タントラ。という言葉。言葉。言葉。シェイクスピア。秘密。そんなことを誰かが言っていた。ような気がした。堂本先生のことが頭に浮かんだ。堂本先生は決して間違ったことは言わなかった。ただ限界があった。と思った。吐き出した。あるのはただ、限界だった。吸った。限界を吸った。堂本先生を吸った。吐き出した。堂本先生を吐き出した。もう、まともではいられなかった。僕は狂ってしまっていた。吸った。発狂した。吐き出した。狂気を。と言った。と言った。と思った。と思ってみた。謝れ、と思った。わけではない、わけではない。と思った。と思ってみた。先生は亡くなった武田先生のことをとても尊敬していただけだ。と思った。と思った。と思った、と思う度、僕の思考が括弧で括られる。エポケー。判断停止。考えない。そうじゃない。エポケーでもない。もっと考えない。いやもっとでもない。ただ考えない。それだけ。それだけ。気づき。それだけ。と思う。煩悩の流れをせき止めるもの。それが気づき。気づき。と気づいた。と思った。と書いた。と思った。と書いた。と思った。と思った。「と思った」を繰り返さなくても、それはすでに気づきなんだ。外に出た。暗雲がかかっていた。階段を下りた。階段には黄金虫がいた。それを無視した。無視したということは無視しなかったということだ。道路を渡った。ワタミについてふと考えた。やめた。文体の統一性。について考えた。やめた。つまり最初から何もなかった。歩くうちに、コンビニに着いた。そこでキラキラした店内を見た。発狂したときと同じだ。オムライスと食パン、それから。少し迷って、パスタサラダを買って店を出た。帰り道、空を見上げた。雨でも降らないかな。降るわけないか。意識の流れを追った。それから庭先に咲いていた、前にコンビニに行ったときに気になっていた植物の写真を撮った。それをツイートした。エレベーターを上がった。家に着いた。手を洗った。まだ手を洗ってない。だが、手を洗うだろう。風呂を掃除し、飯を食べながらケイト・ミレットのことを考えていた。この世界には第二のケイト・ミレット、第三のケイト・ミレットがいるのだろう。次々と現れるケイト・ミレットに、僕はめまいがした。まだ現れてもいないというのに。いや言及された時点で、現れたも同然か。ケイト・ミレット、死んでると思ったら、まだ生きていた。まあそのうち死ぬだろうけど。死ぬ可能性はいつも否定できない。我々と同じように。それでもケイト・ミレットという観念は不滅だろう。だから第二、第三のケイト・ミレットがあり得るわけだ。そうこうしながら弟を起こして、飯を食わせた。「小倉君って学芸員を目指してるんだって」と、僕は昨日会ってきた友だちのことを語った。「古文書の補修とかやるらしいよ」弟は「へー」と言っていた。弟が自分の部屋に去った後、ツイートでさっきの植物はチョウセンアサガオとのメッセージが来た。お礼を言っておいた。翌朝、人間が認識できる最小の文字の大きさについて考えていた。ごま粒ほどの大きさがあれば、認識できるかもしれない。しかしあんパンについているケシの実ほどの大きさならばどうだろう。などと考えている間にメールが来た。マイナビからだった。本当にうんざりする。就職活動が始まったらどんなに大変なことだろう。毎日毎日企業説明会の案内がやってくるのだろうか。なんとかしてくれよ。無理だ。俺にはどうすることもできない。僕なら登録しているアカウントを削除するけどね。俺はそれができない。だからそれをしない。アカパンカビアオパンカビキパンカビ赤巻紙青巻紙黄巻紙ずっと呼吸する間も無く呼吸し続けて(これ一種の矛盾)これ一種の生命生命のあるところに生物学があり生物学者がいるあらゆる環境破壊学学という学のラコムという名の天使がいるわけではあるないどっちだ息を止めて考えてみてくれたっていいだろう心の奥から破壊したい肉片を呼吸の層に置いて堕ちたる天使はラコムという名を、ふうここで一息つくか。僕はこの詩で何をしようとしているのだろう。答えは、あらゆる概念の歴史を創造し、瞬時に破壊するのだ。それって答えになっているのか? あらゆる概念の歴史って、それって哲学史のことじゃないのか? 認識の歴史。空間の歴史。時間の歴史。破片の歴史。破片君の歴史。僕の歴史。君の歴史。私の歴史。俺の歴史。あなたの歴史がそこにある。と私が言った。そこから歴史が始まった。文字数制限を超えて、あなたの投稿を採用します。やった! 嘘だ! 尻滅裂。支離滅裂。とはこのことだ。ダリ。モーパッサン。ギドー。脂肪の塊。肉塊。そのような印象をもった。
低気圧。
スヴィドリガイロフ。
雪、無音、窓辺にて。
ぼくはスイカの続きを食べた。
ドリアン・グレイの肖像。
雨にさらされる人々の傘が次々開いてゆく。
カポジ肉腫。
アロマノカリス。
手の込んだ手抜き。
脱亜論。
金盾。
阿頼耶識。
フェノロジー。
無が無化する。
ゲニステイン。
ポール・マッカートニー。
中原昼夜逆転。
クメン法。
小田原城。
よもぎ団子。
マリンスノー。
サウンドホライズン。
おやじブースター。
心機一転。
ポリメラーゼ連鎖反応。
ザハ・ハディド。
ルミノール反応。
ジブラルタル海峡。
麒麟。
存在の耐えられない軽さ。
ロードポイズン。
ヤッシャ・ハイフェッツ。
アリストテレスのちょうちん。
甘き死よ、来たれ。
毛穴。
マーロシート。
ツムツム。
カラスは暑くはないのだろうか。
ジャーマンポテト。
オープンアセンブリタイム。
ジンジャーエール。
大人びて見えて。
トゥーランガリラ。
オフショア。
カントの心臓。
万延元年のフットボール。
トムとジェリー。
シチューの匂いに誘われて。
ポリトープ。
磯崎新。
デルタ。
言葉のサラダ。
花の名前を覚えられない。
繊維飽和点。
コケティッシュな快楽。
海猿。
浚渫。
コンウェイのチェーン表記。
突然性。
超過数。
水性分散体。
クリオネのクオリア。
ジャック・デリダの腹筋。
モホロビチッチの不連続面。
妊娠線。
宇宙は絶叫したくなる。
原光景。
ピテカントロプス。
孤独な雷。
アナロギア関係。
分封群。
デンデラ神殿。
ヤマダニシキ。
新陳代謝。
福音書の男。
田圃。
輪転機。
再起動。
臨床心理士。
脱分化。
開陳部。
結婚疲労宴。
墓石の幻想郷。
ライ麦畑でつかまえて。
認識と経験の違い。
明るい燐光の列車はルドンの目を進む。
わからないやつにはわかるまい。
チリ沖の地震。
蟻の餌。
ルベーグ積分。
マンゴーの干物。
バジルをバジる。
鏃。
予言詩。
宿業。
カデンツァ。
ヤコビアン。
クメール・ルージュ。
テスタメント。
ヘイノ・カスキ。
あやぱに。
コダーイ。
時間が引き伸ばされていく。
キネマコンプレックス。
ここで終わらない、ここで終われない、追われない、病垂れの病い、〓の
〓の
〓野
〓参
〓算
三水の散水の山水の山水画の
っとここでほうれん草ジュースを飲むから中断だ
新潟生まれの横浜レペゼンフリースタイルダンジョン男女壇上伝説的な猥雑のY座標に「ハムサンド的なものを作ってください」と弟「「や「「「「
お」ひそなさそやりふさか
な そ うさかりかんかめめ
ら か ぞけなまんかひ
う ち ーれ
ん
バリバリなバリ島
バラバラな薔薇島
父島
母島
の出産後に中島」」」
】 【愛は愛より出でて愛より青しという諺の通り呼吸する諧謔心『トマトぐちゃぐちゃだよ』宇宙戦艦大和のぶつかった暗礁のように乗り上げて暗唱した校歌暗唱した国家君が代は千代に八千代に千代田城からぐるぐるとマルクはドイツの通貨単位だからビパップをヒップホップラップサランラップラウンドワンレペゼン会見では問題になりましたその呼吸の【 】文体がすぅ、はぁ、すぅ、はぁ、とポケモンGO儲けもんだぞうこの野郎背景にコンビニが映ったコンビニ人間なんかにはなりたくない消滅世界の芥川賞を超えてノーベル賞を取りに行こうぜベイベーなラップなラップなラップな奈良奈良奈良京都京都京都大阪大阪大阪関西人敵に回しちゃダメね〜指図は受けないさしずめ東京が嫌いなら東京から帰れよ私は東京で頑張るからどうせ故郷喪失の物語を書いて作ってノマドロジーな《蚕種的合理性に敵わない、。
。三俣の槍玉に挙げられた
、モニター募集で安くなる
、。じじじ徐々に叙情を
。。。失う。
炊飯器に気を取られていたら焦げてしまいました申し訳ございませんとパンに謝るトースターはいつも悪者扱い暑い日帰る場所もない道もない未知もない万能感全能感官能感関西人感レペゼン伝記的に半端ないラッキースターちじめてらきすたちじめてらたちぢめてポケモンちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめてちぢめて
あ
あ
あ
嗚呼、ああああ、あああらあ、あ、あひそなゆつかそる「めはらきなめさひたなり
意味を失う
アフリカに意味を求めて旅立つ
コントラストなコントラなコンプラ
な南米の言葉たち
〔ガルシアマルケスが死んだ?〕
〔そんなのどうだっていいじゃない〕
〔なんでショックを受けるんだい?〕
〔僕はショックだ〕
〔東方地霊殿〕
〔睡魔〕
みみず
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ー〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜ー〜〜〜〜〜〜〜〜
土土土土土土土土土土
土土土土土土土土土土
土土土土土土土土土土
土土土土土土土土土土
土土土土土土土土土土
墓
サードインパクト
地響きがして慈悲の心が擦り切れていく
並んだ真っ赤な血のような使途の体液が
《あるいはそれは血なのかもしれない》
二つ目の交差点の前でそのことを思った
ら一つ目の交差点のことを忘れたのだ。
話題の豪雪
そんな話ばかり
歪んだ地平の彼方
彼は何を語ろうとしていたのか
katharsis?
いや、死なない。
父さん、約束違うじゃん。
親父その前に抱っこして。、
句読点で誰が喋ったか識別する記号論
トン・ツー・トントン……ここでは、光が鳴っているな……
トム・ソーヤは焼けソーダ石灰
安置オディプス。
地鳴り。
みかん畑。
ミクシィ。
マクロコスモス。、
、おんさらばーさら
肉眼では、見えない。
さようなら、、、
瀬戸の花嫁。
バーミックスをこっち側のコーナーで使いたいの。
いやああああ!!!
ノイズ。
またアメリカが降り始める。
温泉なまタマゴ
ひとつの料理を覚えるとそればかり作り続ける母親がいる。これは飽きるよね。そうと知りながらも20世紀の母親たちは天国へ逝った。
もともと日替わり定食の好きな人は同じ食事を好まない。毎日が違う材料で味も違う。そのほうが身体にもいいのだ。
21世紀に入ると俯いてばかりで動けない人たちが大勢いた。
動かないのか、動けないのか、よくわからない。だからお腹も空かないと言う。季節は蒸し風呂のような毎日。口にするのはほとんど飲み物ばかり。それも乳酸菌入りの甘いやつ。何か固形物を咀嚼しないとよけいに動けなくなるよ。栄養失調が心配になってくる。21世紀の食べ物を差し出したら、少し噛んではすぐに吐き出した。
なんと傲慢なやつだろう(昼夜を問わず一度歌舞伎町界隈を散策してみたかったのだが、)
彼女、昨日食べたからもう飽きたと言うのだ。この夏は特に蒸し暑いよ。
それならば、と滅多に食べたことのない喉越しのいいタマゴを出してみた。冷たい温泉。白身の固まらない半熟タマゴ。
初日は旨いと言って素直に食べたよ。これで栄養不足も少しは解消できると僕は安堵した。次の日も無表情な面持ちでするすると口に運んだ。旨いとは言わなかった。次の次の日からはすぐに口にはしなくなった。
そうして六日目の夕方、
21世紀の動けない人はとうとう温泉タマゴに飽きてしまう。
あと何日食べないで生きていられるのだろう。目下をうろちょろする蟻さんに聞いてみたいな。死ぬよ、じゃなくて死ねよ、だったら部屋数を譲る。ふたつに割れば溶け出してきた黄色の海。
。生タマゴは古くなれば危ういし、いまは半熟タマゴで相性もいい世の中だから、未来には茹でタマゴだらけの社会になってしまうかも、、なんて、考えているとまたお腹が空いてきた。
不思議だね。蒸し風呂の部屋の中でも汗をかかない人たちが居る。
けれど熱心に蟻さんは動いてる。女王を食べさすために。酸化した身体の持ち主だ。あたまを冷やせよ。
アルバムに写る。季節のない食べ物。番号を探しだす。
動けなくても動かなくても、人は生きていけるんだ。まる。
2017/07/27/A
恋人や、数少ない友人から
調子はどうかと
毎朝、連絡がある。
そして
大学に来いと言われる。
調子は悪くないが
もう
なにかをどうにかする気はない。
昨日は気持ちの良い日だったから
やや遠くの
ドン・キホーテまで
自転車を漕ぎ
500円のmp3プレイヤーを買った。
友人には
「いまどきそんなの使う人いないよ」
と、言われてしまったが
私はいまだ
スマートフォンで音楽を聴くこと
に、馴れない。
A先生から
暑中見舞いが来た。
「そろそろ死のうと
思っています」
と、書くことを
妄想するが
死ぬ気はないのでやめる。
返事を書く気は、起きない。
友人から、大学に来いと
またLINEが来たので
スマートフォンの電源を切る。
寝転び
昨日買ったばかりの
mp3プレイヤーで
アニメソングを聴く。
今日はまだ
昼飯を食べていないため
腹が減って仕方なく
音楽に
まったく集中できないが
そもそも集中するべきなにか
など、とうにないのだった。
肺胞
あなたがそこに生きていたとき
あなたに時間は流れていなかった
あなたがそこにいる光景が
いつでも私に流れていた
あなたがそこに死んでいたとき
あなたにかなう遺書はなかった
わたしの遺書はそこに決められた
もう誰にも開かれることのない
Chiffoncake
したたる音
茶色いメープルシロップの
まだ蒼いバナナの房の
滑り落ちる
ボウルに
バターの傲慢が融けてゆく
白砂糖はよろこび
黄身の唇が歪み
粉々になる
塊
清冽な卵の殻が
罅割れてゆくプライド
卵白の恐れは泡立ち
ハンドミキサーのモーター音がびりびりと響いて
ふるわれた小麦粉は軋み
ホイップクリームは躍り
膨らんでゆく
どろりとした素材が
銀色のステンレスの型に嵌め込まれ
やがてターンテーブルは
回旋曲を重ね
リフレインのように
ラム酒の滴りが欲望をかきたて
チョコレートの破片の混ざり合った
Chiffoncake
が
女が
完成する
蜜の匂いが
キッチンに充満し
私が
壊れる
お
と
甘き香りの扉が開く
(株)鈴木メタル
前は
玉出スーパーへ行くのに
七つほど抜け道があった路地も
都市計画のせいで鈴木メタルの
まえの舗装された道を
まっすぐ北へゆくだけになった。
赤いよだれかけの菩薩の祠に
猫が寝ていて
すこしいくとマキ美容室の
破れた日除けテントがみえる。
BOSSの自販機があって斜め向かいが
アミー珈琲館。
ここも婆さんがやっているが客は一人もいない。
特定非営利活動法人
ほのぼのの家の先に
西成産業会館
公益社団法人西成納税協会
西成税務署とつづく。
隣が、つけ麺ら〜めん一二三。
播州室津直送牡蠣小屋とか。
この辺りにはスーパーが三つあって
イオンにはふつうの主婦
食品館アプロには裕福そうなご婦人
スーパー玉出には、だれがみてもビンボー人が
集まってくる。
無名のスーパー玉出が全国に知られたのは
SMAPの事務所脱退騒動のお陰だった。
みけろん@ゾンビーバー@mikeron2525
スーパー玉出が突然の超全国区に・・・!
2016.01.13 06:20
らなさん厄年が気になる@rana_kkbn
もはやSMAP解散よりスーパー玉出の方が気になる件
2016.01.13 08:01
∠やすゆま@yassmpgap
どさくさに紛れてスーパー玉出トレンド入りてお前
2016.01.13 08:01
ちきんぬ@chikirooooo
SMAP解散マジなん…?てかなんでトレンドに
スーパー玉出ww
2016.01.13 08:22
ロンリーウルフ@まほちむ@mimoda3
SMAP解散の報せを聞いていても立ってもいられず
スーパー玉出に来てしまった…
2016.01.13 08:49
ROBOTDUXi @ROBOTDUXi
スーパー玉出
SUPER TAMADE
を並び替えると
SMAP DE URETA
「スマップで売れた」
になる訳です。
2016.01.13 09:40
「たい焼きが1円!?三ツ矢サイダーが1円!?」
スーパー玉出(tablexxnxさん撮影,flickrより)
https://www.flickr.com/photos/tablexxnx/5605398269/in/photolist-9xk8BK-9xo7HU-h9MV2b-dYLZo5-ogcGgT-ovEhR5-ovEj71-ovEK7m-ozrQez-h9KdSh-hxbL9S-dYFi38-oxtxDQ-ogd9Nj-dg8uC5-oxqcSD-ogcQfY-oxqDER-oxGcd4-79W2MG-oxEjSU-oxGCeM-ogcT8w-5xBvd6-oxFBci-dYVock-ogcAxg-dF5EWL-dEYQCz-pAATqz-oxEmXf-deLR1L-oxqFyF-oxDW2r-oxEuHW-ogcXx4-t4Jzao-oxG9AF-tMpF9P-ogcDJi-oxtwHS-ogcx1u-dW5MpD-oxGe86-ogbVPr-dxH2Fj-dxYKGu-dNpRJq-di3QEp-dMwCRy
このスーパーのレジ係のオネエチャンたちは物凄く美人
とは全然いえなくて、
体型も相撲取りみたくでとてもスマートとはいい難いのだけど
(頭も動きも一見、重鈍そうなのだけど)
わたしは彼女たちが物凄く好きで
このスーパーに入ってオネエチャンたちをみてると深く安心して
しまう。
大げさかもしれないけど世界の未来について。
なんか
オネエチャンたちをみていると。
存在確認
存在確認中の瓶の中
泳ぐうち
出られなくなったのかと
焦りながら
開いたままの蓋位置まで
昇れば
泡と共にまた滑り落ちた
あんたまたそこに居たのと
ハッキリクッキリ人格障害の彼女は
また瓶を割る
何匹の者たち瓶割られたろか
幸せのために
しかし そこを半身の部屋とし
存在確認 空間とした者たちには
割れた破片 だだ悲しき傷む物でしかなく
ある季節の割れた破片
ごっそり出て 彼女共々
踏み潰し あらぬ傷に苛まれる
或る一人は 存在確認の羽をもぎ取られたと
主張して悲しみ怒り
瓶に戻り
泡のなか ちゃぷちゃぷ
リズム取りまた遊びだす
そのリズム感見て
気持ち悪いのよと
包帯解く英国式ジャンキー淑女
笑い怒り気味 自らの瓶の中に戻る
瓶 美しき季節写しながら
そのなかで 語り合う
いくつ瓶 割ろうとしたか
存在確認にもならぬ瓶
羽 広げ 飛び
瓶写す 景の音色先まで辿り着けば
憧れの世界
そこで存在確認 うたいだす
連投は控えて下さいと
ウィスキー2000年
街の喧騒は柵塗れ
あらゆる言葉で埋め尽くされた黒い空
眩く光る血や海や森の奥で
狂い水をくれよ
胸にしまい込んだ引き金を引く位に
いつもここらは笑いの闇さ
同じ形で嚙み合わないそれらフィクション
壁にめり込むジーンズの上半身
抱き抱えて見れば
鮫に食われた抜け殻のようなジーザス
銀ヤンマの複眼を虫眼鏡で焼くには
奴の動きを止めろよ 首ちょんぱで
このやろう くそやろう
銀ラメのスカートをたくし上げ
コカ・コーラの瓶を取り出した彼女
山盛りに注ぐから俺は
コカ・コーラの便をするのさ
そう、誰かが作ったこの世界の中に
自由って物がもしあるのなら
俺は今すぐこの引き金を引いて
ICBMを飛ばしたいって事
雲間から間抜け面が来る
カムチャッカ2000年を連れて
そう、だから正義の為に
引き金を引きまくる
どうだい核弾頭の味は
バラバラになった虫の息
古い古いお前の頭と体が
訳の分からない感想を連れてくるだろう
遍在的偏在論。
拡がりと偏りが持つ思考。
つまり狂気の境目
こんな具合に
表層と中想
「あの○○○○まだ、生きてるの?くたばったのかしら?しぶといわねぇー」
沼地に咲く白い華。ぼんやりと浮き上がって綺麗
「舌の根のかわかぬうちに、また!!」
腐ったような土から、黄色い華が、ほら、綺麗だね
「お前は、俺のものなんだ。はい、と言いなさい。
俺だけのものなんだ。早くはいと言いなさい」
……なれるのだろうか?
「はい。そうですね。」
さて、まってましたとばかりに、hyenaが群れて来た。
女
昨晩
ぼくの中にあったものが
反転した
ちょうど地球ひとつ分の距離で
サザンホテルの
前の道
歩道で見かけた君は
昔のまんまだった
黒髪の
ショートヘア
どこか古風な
昔の日本の女性を思わせるような
身のこなし
「お母さん来てらっしゃるんですか?」
金曜日
5時半の定時にあがる
事務の女の子が
話しかけてきた
「いや・・
夏休みに入ったら
来ると思うけど」
そういったら
彼女の眼の中に
顔の端々に
女の性がにじみ出していた
ぼくはそういうシグナルを
見逃さない
鹿児島県の
甲突町の寂れた裏通りに
ソープランドが軒を連ねる
受付で一万円を支払い
部屋で女の子に1万1千円を払う仕組みだ
詩織って
いった女の子は
ぼくから2万円を受け取ると
9千円のお釣りを
自分の財布から取り出してくれた
ピンクの100角タイル張りの薄暗い部屋
とても清潔とは言えない
「マットプレイする?」
サービスは
どうやら全国共通らしい
ところでぼくは今日
女と会うかどうか
思案している
「運命」というものは
きっとあると思う
それは信じる
という
人の中にある
とても不可思議な行為だ
信じる
ということが
運命につながっていく
良いものと
悪いものとの
境目を
包丁のようなもので
ザクロのように
ザックリと
切り裂きながら
ぼくの体の中から
色んなものが飛び出していく
血
というものは
それはとてもよくできた比喩で
あの甲突町の裏通りで
体を売っていた
詩織なのかもしれないし
例えばスーパーで売られている
鹿児島県産の養殖マグロ398円の
刺身かもしれないのだ
体を売る行為には
それなりの世間の仕組みというものが必要となってくる
スーパーのマグロと
ソープランドの詩織が僕の中で融合していく
血とは
例えばそのような比喩だ
「君を探そう」と
誰かの事を思いはじめる
恋の始まりは
歴史の出発点だ
おそらく言語の始まりも
求愛行為の
唐突な変化によって生まれたに違いない
人間ほど変化を好む動物はいない
「退屈」というものが
人間のもっとも恐れるべき「天敵」である
奇妙なことに
世間では仕事の過労の為に
命を絶つ行為に走るものがいる
悲劇とは
そうした人が作り出した
哀切にまみれた情景である
血が
浴槽の中にあふれ出す
これは一体誰の地(血/知)か?
ぼくか?
彼女か?
マグロか?
ペンギンか?
ペンギン?
そうだ
マジでペンギンだって
飛べない空の上を
見上げているじゃないか
あの冷たい南極の海辺で
まるでテラスでオープンカフェって
おもむきでさ
時代を宿すことは誰にでもできる容易い行為だが
1000年後の未来に
責任を負いたい人間がどのくらい存在するだろうか?
時代を宿すことは
とても容易いことだが
君の眼の中に映っている世界は
もう夏も近いというのに
雨
雨
雨
雨
梅雨の雨空しか
映っていないじゃないか
coarser
かれからの手紙のなか
砂埃のむこうを
夥しい自動車が過ぎて行った
何番目に僕がいたでしょうか
と、かれが問う
直前の
ぐちゃぐちゃと潰された誤字を
読むことはできなかったが
わたしたち、と言えば
規定される範囲が
まだ、あるなら
わたしたちの心象風景は
細部を失っていく
かれもわたしも、きみを、きみと呼ぶ
きみは、ローソンが
固有名詞だと言い張った
この町の大体はローソンの窓に映る
とも、言った
かれからの手紙のなか
砂埃のむこうを過ぎて行く
夥しい自動車、それらが
本当に自動車か
わたしはときどき、判別できない
波
白い波に
くるまっていた
喉のあたりまで
やわらかい水泡が
触っていた
飴色の少年が
砂を踏み
月の光が
足跡を
しずかに消す
桟橋から
消えたばかりの
泣き声
光へ
手を伸ばすと
波の視線が
揺らぎはじめる
手のもとへ
光のもとへ
波は打ち寄せ
少年が
振り返る
時間だけ
月の球体が
生まれた
空き地
家一軒だけが消えた場所は
真四角く切り取られたかのようで
三方は静かな住居に囲まれている
そしてさらに、後ろは山脈
この沈黙は三方どの面も硬直しているからだ
街灯は影を作れども
この場所にだけは屈折して入ろうとしない
残された一方で面した道路さえも
飛び越えていくかのように側を通過するだけだ
ひと気さへも忽然と消えて
地面が露わになったその場所は
掘れば化石が出てくるけれど
やはり蟻さえも入ってこない
月明かりの無い夜に
サンダル履きで忍び込んでみた
場所の中央から少し外れた一帯だけ
土が黒く湿っていて
脈打ち蠢いている
手ですくってみるが
ただの土
あとがき
ぼくは犬のかわりに扇風機を飼っている
ハチと名づけた
家のなかで動くのはハチだけである
いま
ハチは雷が鳴り始めたベランダで首を振っている
頼もしい
ハチに怖いものはない
ある日
ぼくは死んだ
ハチはそんなことを知らない
ベランダで首を振り続けている
嗚呼 忠犬ハチ
扇風機だって犬だ
愛があってなんの不思議があろう
ましてその扇風機が
わたしであったとしても
なんの不思議もない
Initiation
それはまだ夏と言うには早い漆黒の夜
私はとある迷宮に足を踏み入れた
羅針盤は狂っていた
館の真ん中の部屋で目を覚ますと
開かれたいくつもの扉から
あなたの愛人たちが私を凝視している
大理石の上に横たえられた私の躰を
あなたはジャックナイフで何度となく突きさす
私の悲鳴が完璧な円形のこの部屋に反響する
あなたは私に叫べと強いる
「あなたが私の唯一の神です」
「あなたが私の唯一の神です」
「あなたが私の唯一の神です」
逞しい両腕にはあなたの愛人たちが
ひとつずつ花をタトゥーしているかに見え
誇らしげにその刺青を威武しながら
なおも悪鬼のような表情で
あなたは私の胸を切りひらく
私の断末魔のような悲鳴に
女たちは苦悶の嗚咽を押し殺しつつ
沈黙の眼でささやいている
よく透る声は供物
あなたは銀縁の眼鏡を掛けなおし
「これでジ・エンドだ」と
渇いた声で呟く
三角形の月が天窓を照らす
氷点下の初夏が終わらないままに
生贄を求め続けている
映写機
安価なナイフの鈍い銀反射は、男の瞼の何重もの歴史の波の皺を再現する。
右手の人差し指がナイフの刃上部に添えられ、ナイフの刃から男は男を覗き込み、人差し指の左横で頼りなさげな親指がナイフ側面に寄添う。左手は、これから切り落とされるであろう仏麺麭の端を押さえている、刃は素早く引かれ、硬くなってしまった仏麺麭は木製の卓に直に置かれ、マリー・アントワネットの頚椎に食い込んだギロチンのように仏麺麭を切り落とす。
口髭に、一つの縮れた雪に似た白埃が乗っている。男はそれには気がつかず、たった今断首されたマリーアントワネットの頭を口に入れ、ヤニに染色された異様に大きな齧歯類の二本の前歯を主に使いそれを、些か強引に噛み切る。すると、噛んだ衝撃で屑が血液や脂のように、口の端、木製卓の上、髭、に飛散した。髭の上の白埃は、もはやどれがそうであったかは見当もつかない。
白くくすんだ老女が二階の自室の窓に寄りかかり、外を眺めている。すぐ下に見える街路樹の並んだ通りには、幼い兄妹がおり、兄は裾の短い赤い水着だけで、妹は袖のないワンピースに紙のように薄い白い肌の透けるカーディガンを羽織っている、兄は脇に大きなオウム貝の殻を抱え、それを取ろうと手を伸ばす妹を突き飛ばす、その勢いで臀部から地面へと妹は倒れる。妹はすぐには起き上がらず、ヴァギナのように開かれた深いオウム貝の殻の穴を見る。
窓枠は固定されており、内側からも外側からも開閉することはできず、単にその役目は、外を眺める為、陰気な正方形で、ベッド、箪笥、小さな椅子、それと老婆を置いておく為だけの部屋に、日中、花瓶の中に水を注ぐように明かりを差し入れる為だけにある。老婆はその光のせいでくすみ、白髪が星雲のようになっている。口を円に動かし、時々、粘り気のある音を立て、ゆっくりとそのまま眠ってしまうかのような瞬きをする。
部屋の入り口から老婆を眺めていた男は、右手に小さな仏麺麭の切れ端を、左手に常温の水を半分程度いれた小さな洋杯を持っており、老婆に近づくと、老婆は男が、男の手が持っている仏麺麭の切れ端に目を向け、それしか動きができないかのように何度も首を振る。態とらしく溜息をつき、男は老婆の古書の湿気によれた表紙カバーのような唇に仏麺麭を押し付ける、乾いた音がし、老婆は尚も自ら仏麺麭に顔をこすりつけるみたいに首を振る。その反動で男が左手に持っていた洋杯から水が少し溢れた。麺麭屑が辺りに、老婆の口の周り、男の手上、床などに散らばり、男は残った仏麺麭を老婆の白髪目掛けて投げつけ、手を払い、早足で部屋から出ていく。男が出ていくと、老婆はまた窓の外に目を向ける。仏麺麭は床の上、置き去りにされたヘンゼルとグレーテルの表情をし、洋杯から溢れた水を含んだ。
その夜、老婆は箪笥の下着類を仕舞っている上から二段目の奥にあった、サイズの小さい黄緑色のレオタードを引っ張り出すと、それを着て、部屋の、凝縮された太陽系のような裸電球の照明の下、舞踊をしたり、スクワットの真似をしたり、時々、無意味に跳ね上がり奇声を張り上げたりする。
男は庭先から、手にビール瓶を持ち、窓から見える、隔絶されたそれをセピア色に眺める。周囲に明かりは無く、夜が夢をみており、その夢が四角く切り取られ、男を通じ、脳が縦に急回転し、目がレンズとなり一筋の光を伸ばし、映写機の様子で、像を映す。
ビール瓶の中はすぐに空になり、そこを水太りした夜風が通りすがりに、傴僂の低い姿勢で覗き込む。
(無題)
(K.I.へ)
昼の星たちが
こうして語りかけてくる
おまえの存在にどんな意味があるのかも
知らないから
いつか 棺桶のなかで
夜を掌にのせていた
いつか ベッドのうえで
真黒な雨に首を吊っていた
とつぜんの死からにげようとして 烏たちは
私たちの森をとおりぬける
ひとつの記号として生きていくために
ひとつの偶然として生きていくために
この地上で
けっして忘れてはならない秘密を知ってしまった
そのことがやがてきみにも
わかる日がくる
とでもいうのだろうか
毀れたものも
崩れてしまったものも
見えない火に焼かれていく
奇妙な形に
かたどられた星ぞらに
なんども呪文のことばをくりかえして
それは永遠のように
手を繋いで
あなたはきっと
わたしを忘れるだろう
オレンジ色のスキー靴
「こうなって あういてう」 指差す君
「こうなって あういてうぅ」 何回も
「へんな ロボットぉ」 僕に訴える
こうなって・・・
25年前の君の声が
僕がうなずくまでずっと
小さなスキー場のパンフレット
チームの君は得意気にポーズを決めていた
三流の道具に身を包み
オレンジ色のスキー靴を履いて雪を切り刻み
旗門をくぐりぬけていた
君がまぶしく見えた
まわりは華やぎ
嫉妬と憎悪で雪は赤く燃えていた
曇ガラスを爪で引っ掻くような歯がゆさが
赤黒く粘った
君が負けた日
ガタピシと車を揺らし
幾度もタバコをもみ消した
君を踏み潰した風は
揚々と吹き去った
僕は自分に怒り
矛先はオレンジ色のスキー靴に向かっていた
あの時の
君は
もういない
パンフの君を指で触る
君は笑顔で撫でられている
でも何度撫でても同じ顔だ
君のカセットテープの中の声を聞く
君の声をいっぱい録ろうとしたのだけれど
テレビのアニメの声が大きくて
でも君の声が
必死にアピールする声が
指先と顔が僕を行ったり来たりして
君の瞳にはきらきらと確かにアニメが写り輝いていた
僕はただ
自分を差し出し
塊となって
汗や血を流しながら
君の温度を感じなければならなかった
今 君のどこかに
いくつかのおもいが
疼いているのだろうか
僕は君との交叉することにない未来に
ずっと歩くことを誓った
灯れば瞼あげて
ざーと連綿、雨が降って
ぶわぶわと、わら半紙の
水をたっぷり含んだ墨の筆の
ぽとりぽとり…
近くの養魚場が溢れて
用水が溢れて
水溜りに金魚が一匹いた
ゆらり ぶるり
震えて
蛾に変わって飛んでいったよ
ああ
掬われた金タライの
囲いのなかで、ゆら ゆらり
赤く灯っていたおまえよ
無能
予め無かった、という意味をたずねなさいと
あてどなく歩き続けました。着の身着のまま、
何も知らないまま走り続けて、欲しかった、その
うつくしい白さに目を焼いていたかった。と
転びながら、泥のなか、あえぐ私を抱きしめて
いたかったでしょう、と言いたかった。あなたは
至らなかった、道を真っ直ぐ、しいて
清潔な直角を踏みしめて欲しかった。そのまま
乗り越えて行く羽は夢だったと、気づいて
欲しがったのは誰だったのか、わからぬまま
知らぬ間に、失効していた期限を前に
あきらめない、白い道をどこまでも、どこまでも
まるで地につかぬような足取り、あるいは羽が
あるように思えた希望、抱きしめていたのは
私ではない、希望を、あなたは抱きしめて
見えない。私は、見えなかった。黙って
白い言葉に焼かれて、うつくしい灰も
ゆるさなかったね。明日の話をして
ずっと、黙って。欲しかった
始まらない、終わりが
続いてしまう、
夏/向日葵の道
ある日、大切 な 何か
が、 砕け落ち、、
粉々 に 散らばった 欠片 に
蟻 が たくさん 集まって
スイートな 記憶 を
はこぶ、ヒマワリ の みち
蟻の行列は虎ノ門までつづき、
護衛の警察官 機動隊 白バイ パトカー
装甲車 戦車 ブルドーザー 耕運機
沿道に 日の丸の旗、はためき 走るアベベ
ボワァっと、火炎を噴く大道芸人
押し合い、圧し合い バーゲン売り場、
有閑マダムたちの服の奪い合い、
銀座青木、穴子の白焼きにキャビアを載せて
砂浜に無数のビーチパラソルが花開き、
強力な紫外線に晒された夏――
弾ける胸の谷間に木霊する、
抜殻のコンドームたちが渦状に群がり、
さかんに泳ぐ、広大なひかりの海
焼きそばの匂いも香ばしく、
紅生姜と青海苔をトッピングして、
マヨネーズも乱暴にきわどく搾り出し
口元にマヨネーズ、
胸の谷間にマヨネーズ、
顔中、たっぷりマヨネーズ、、
やがて星の夢をはこぶ、小さな蟻たちが
君のへそにも巣をこしらえて
泳ぐコンドームたちへ
ソースの匂いとともに愛を交信する
夏/向日葵の道――
黄色く 宇宙みたいな花の咲く
喪われた白罌粟の子供達へ
_
硬い薔薇が石膏に解けてゆく刻限
頓死したピアニストは橄欖の様に昼の齎す虞れに咀嚼されていった
彼の重篤な切迫を饒舌な昼顔たちは真鍮の喇叭の様に吹聴している
あのユダヤ人達が
絶滅収容所に送られてから幾年月かが経ったのだろうか
無感覚に沈み遺灰の様に蹲っていた
死が罰であり
余命は呪わしく縁戚者の訃報を囁く
私は病み果てた総身を姿見に映す
机上には食べ掛けの無花果が死婚を祝っていた
羸痩の骨と血、
印象は暈み
隠秘されるのみ
肉体像の窪を隆起を誰が知るか
_
疾駆する彫刻家の亡命列車は
白の終りに夜を置く
ケルビムの真鍮花が群像を飲み開いた
錆びた釣鐘は誕生を祝わない
雌雄の威厳は罌粟粒程に矮躯を呈していた
昼に墜ちる
昼を充満する花殻が
火葬台には青い肉親が仰向いていた
骨の灰を
物象として
人物像は斯く鳴き喚き
嗚咽より離れゆく花々は
最後を経つつ
簡潔且つ素焼の骨壺は尚も端正であった
薔薇籠
死の抽象を終焉へと展ばす
秘鑰、劇物の壜乾燥器
それら永続死に
贈るべき埋葬を顕花に祝うとも
_
昏い釣鐘の声が
墓碑を落ちる花崗岩の影像に
血の翳を踏み
慈愛と謂う名の
呪いに縁取られた少年の
傷み続ける咽喉が包帯に渦巻かれ
十字架の影が
昼の葬列を翻って燦爛と
幌附乳母車の様に
縫針を模倣とする植物時計に斃れていた
そして
喪われた白罌粟の子供達へ、
萌芽(ほうが)するまで
(大事なものはどこに?)
的を外すための
散弾レプリカは幾千を唸り
プラスチックの装填は尽きて
悩ましげな春から転がり落ちていった
干からびた一途はことさらに
我が身に呼吸を合わせること自体おのずと
巡り合わせる息吹きのカタチだろうと呻いていた
…私はぽかっと空いた木の虚(うろ)の周囲をキョロキョロと窺い
わたしは知る
自分の血へ浅く深く流れ込む術(すべ)を
そして気づいたときには遮音された月の水底(みなそこ)で
ton ten fuwa… tsu… tsu
と
さまよい歩いていた
既に
上方の高みから覗いている視線を受けて
…ひしめいているおぼろげな夏の供養をあらためてなぞる
それらははじめ
…ポトン…チャポン……と
まばらに水面に投げ落とされ
クウルリ… と踊ってみせては
水の濁りを沸かせながら
すぐにもとの水面(みなも)を目指してしまう
私は彼らがフ… と溜め息を落としたあたりから
…すうと底を離れ始め
やがて …すーっと吸い上げられては
大きなホログラムの指先を
なんら迷いもなしに
…とん と蹴る
あとは太古の木の根の洞(ほら)を抜ける
薄墨(うすずみ)色の道しるべをすぐに見分けて急ぐ一方で
後方から頻りにサヤサヤ… と繁る青葉に続き
あとから
ザワ… とおおきく揺らいで
そして
夏の雨にさらされたあの( あき )がカサカサと
次々に土をめがけることだろう
やがて冷雨が駆ける
そんな予感を抱(いだ)いて
〈 …私は真水に近づくごとに
…ゴボ …リ むせて
いくつかの鱗片を余計に …きらきら と手離した
重たかったはずの鈍色が
今はきらきらと
それはよろこんで光ることだ
脱(だっ)する過程はこんなもの …〉
…
そして顔を覗かせたとき
'しるく'の小枝を
ボウッとくすんだ水海に馴染ませながら
まざまざと口中に捕らえていた
濡れた髪へハラリと差し込んだゆびさきは
カラスのあしあと 笑窪 朝のひかりに透けながら儚げな微笑をこぼすあなた
ああそうだったか
( もう いない 秋 )
刹那
フルッ… と燃え立ってはチラチラ… と消えた火影(ほかげ)を
眼窩に深く …見納めながら〉…
また移ろうのだろう
感覚が指先から足先までとたぱたと敷き詰められるまでの間(あいだ)
鼓動に包まれてゆく感情 …時計の音
そして大きく息を吐(は)いた
わたしを呼び続けていたものたちは
ソッ… と褪めてゆくのだろうな
( すけてゆく'わたし' は)
スラリと長い草の陰
とった
つたっ
と杖をつき あるいは
廊下を孫の手に引かれながら
大輪のアヤメに笑いかける
小さな目の祖母
何もかも消えたあとに蘇る光
生まれた季節を僅かに越えながら
還っていった母親たちの光は
私をやわらかく押し返す
私は
点と点の真ん中へんを
目指してゆこうか
* メールアドレスは非公開
2017/7/25
昨晩、死のうと
思ったが
シャワーを浴びた後
寝てしまった。
今日は、カラオケに行った。
友達がいたことに
改めて驚きつつ
へらへら笑っていることが
われながら、滑稽だと思った。
ある人は椎名林檎、あるいは
東京事変を歌った。
私はいまだに
椎名林檎と東京事変を
区別できない。
恋人は、高校生のころ
東京事変か椎名林檎か
いずれかの
コピーバンドの
ボーカルを務めていた。
以前、ふたりで
当時のDVDを見た。
動画のなかの自分に合わせ
私の隣で
小声で歌う恋人の横顔が
印象に残っている。
私は、『God knows...』と
『ぴゅあぴゅあはーと』
『白金ディスコ』を、歌った。
他にも歌った
はずだが
多めに飲んだ
抗不安薬のせいもあり
意識が判然としていなかったので
あまり、覚えていない。
友達からいろいろ
励まされたはずだが
今更なにを頑張ればいいんや
などと、笑いながら答えた。
ただ
恋人のことを問われると
それだけは、苦しく
とにかく幸せになってほしい
と、思いながら
何も言わず笑っていた、気がする。
埋めたてて
暗く淀む沼があって、
底のない沼があって、
死体でそれを埋めたてて、
若者達の死体で埋めたてて、
死体はどれも血まみれで、
瞳は濁って光が無くて、
なかには首が折れているのもあって、
そんな無残な姿をした死体達で、
それを一体一体(ひとりひとり)沈めていって、
暗い沼に沈めていって、
死体で沼を埋め尽くして、
その上に家を建てて、
家は小さくてかわいくて、
そこに若い夫婦が住んで、
笑顔があふれる夫婦が住んで、
家の床板を外すと骨があって、
埋めた死体の骨があって、
長い年月で真っ白い骨になって、
血まみれの肉は腐り落ちていて、
だけど骨だけは残り続けていて、
その上に夫婦は住み続けて、
いつまでも仲良く住み続けて、